2018年11月22日

●「全日空機に航空法違反の疑いあり」(EJ第4896号)

 千歳空港を出発するに当たって、58便の川西機長が、運輸省
千歳空港事務所に提出した飛行計画書には次のルートにしたがっ
て飛ぶことが明記されています。
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 13時15分千歳離陸(予定)
 J10L → 函館NDB → J11L → 大子NDB 
 → J25L → 佐倉NDB → 木更津NDB → 14
 時35分羽田着          ──佐藤守著/青林堂刊
          『自衛隊の「犯罪」/雫石事件の真相!』
─────────────────────────────
 専門的なので詳しい説明を省略しますが、「J××L」という
のは、ジェットルートといい、計器飛行で無線施設間を飛ぶ一本
のライン(直行経路)のことです。24000フィート以上で飛
ぶルールになっています。
 しかし、このように飛行計画書を出しても、少なくとも当時は
必ずしも飛行計画書通り飛ぶとは限らないのです。昨日のEJの
コックピット内における機長と副操縦士の対話を思い出していた
だきたいのです。再現します。
─────────────────────────────
機長:こんなに良く見える日は航法に気を使うことはないよ。今
 日は大分遅れたたから、仙台のVORで、気楽に近道と行こう
 じゃないか。
副操縦士:そうします。ところでキャプテン、おなかの方は?
機長:ペコペコだよ。千歳じゃ食べている暇はなかったからな。
 “ジョージ”(自動操縦装置)におまかせして、昼食にすると
 しよう。            ──佐藤守著の前掲書より
─────────────────────────────
 このやり取りで重大なのは、「今日は大分遅れたたから、仙台
のVORで気楽に近道と行こう」という部分です。飛行計画書で
は函館NBDから「J11L」というジェットルートに乗ると書
かれているのです。当然自衛隊側もそのことを知っています。そ
のため、それを避けて訓練空域が設定されています。なお当時は
函館NBDから、仙台VORルートに乗るジェットルートは開設
されておりません。なお、墜落して破壊された58便の機長側の
ルート指示機には「仙台VOR」にセットされた状態になってお
り、このルートを飛行しようとしたことは間違いないのです。
 飛行方式には、次の2つがあります。
─────────────────────────────
       1.有視界飛行方式(VFR)
       2.計 器飛行方式(IFR)
─────────────────────────────
 有視界飛行方式とは、パイロットの責任において飛行する方式
です。これに対して計器飛行方式とは、飛行コースを申請し、承
認されたコースと高度を計器に従って逸脱しないように飛行する
方式のことです。当時の飛行方式は、このVFRとIFRの両方
を使っていたのです。
 それとは別に、当時は「VMCオントップ」という飛行方式も
認められていたのです。これについて、佐藤守氏は、次のように
述べています。
─────────────────────────────
 「VMCオントップ」というのは、通常「雲上有視界飛行」と
いっていましたが、使用飛行場が計器飛行状態(IMC)である
場合、計器飛行方式による出発を予定して申請し、航路などの指
定を受け、離陸して雲上に出て、「VMC(有視界飛行状態)」
が確保できると判断される場合には、地上管制官に「VMCオン
トップ」と報告してIFRをキャンセルし、VFRで飛行するも
ので、この時点で管制官の仕事は軽減されます。
 我々もよく使用していたものですが、その条件は雲の頂上(ト
ップ)から1000フィート(約300メートル)以上離れて飛
行することが出来ること、及びVFR同様、高度をIFRの高度
と500フィート差をつけることでした。その基準を守れば、管
制指示を受けなくとも自由に飛行できるから、民間機パイロット
も重宝していたのです。しかしこれは雫石事故の後、ニアミスの
可能性があると運輸省が禁止しました。
                 ──佐藤守著の前掲書より
─────────────────────────────
 もし、飛行計画書に届けていた「J11L」というコースを飛
行せず、断りもなく、仙台VORに向けて飛行した場合、明らか
に「航空法違反」になります。しかし、当時は、こんなことは日
常茶飯事に行われていたのです。とくに全日空機は、申請した航
空路を恒常的に無視するという重大な航空法違反を繰り返す常習
犯だったといわれています。
 背景として、この全日空の運行にみられるように、操縦クルー
の過密なスケジュールがあります。既に述べているように、事故
機は1日に、千歳と羽田を3回往復しているのです。これでは食
事をするヒマすらないのです。そのため、操縦クルーは少しでも
時間を節約しようと、計画書とは異なる仙台VORを通るショー
トカットを行っていたものと思われます。したがって、千歳から
羽田に向う50便でも、羽田から千歳に戻る57便でも、おそら
く、このコースを通っていたはずです。
 そのため、再び千歳から羽田に向う58便でもこのコースを使
い、仙台VORの進路を取り、28000フィートの巡航速度に
到達して水平飛行に移った後、自動操縦装置に切り換えて、操縦
クルーは3人一緒に昼食をとったものと思われます。もし、一人
でも見張りをしていれば事故は防げたはずです。
 しかし、添付ファイルにあるように、そこは自衛隊の訓練空域
であり、「A」のところで、自衛隊機と接触したのです。時刻は
14時2分31秒。なお、事故調は衝突場所を「B」としており
時刻は14時2分39秒です。
         ──[日航機123便墜落の真相/066]

≪画像および関連情報≫
 ●計器飛行方式と有視界飛行方式
  ───────────────────────────
   計器飛行とは読んで字のごとく、各種の計器から得られる
  情報だけを頼りにして行う飛行のこと。計器によって機体の
  状態や現在位置を把握して、進むべき針路を決めたり、上昇
  ・下降したりする飛行の形態を指す。ちなみに航空法では、
  「航空機の姿勢、高度、位置および針路の測定を計器のみに
  依存して行う飛行をいう」とある(第一章「総則」の「第二
  条(定義)」以下、第16項)。
   計器飛行を行うためには、所定の訓練を受けて試験に合格
  して、計器飛行証明という名の免許を取得する必要がある。
  計器に頼って飛ぶということは、計器の読み方・使い方を正
  しく知っていなければならないということだからそうなる。
   ずいぶん昔の話だが、日本航空のパイロット訓練生が計器
  飛行の訓練を行うために、外が見えないように頭の上からバ
  イザーを被って操縦している写真を見たことがあった。上半
  分はまるごと覆われた状態で目の前の計器盤だけが見える。
  その計器盤に並んだ計器だけを頼りにしなければならない状
  態を物理的に作り出しているわけだ。ややこしいことに、計
  器飛行に加えて計器飛行方式(IFR)という言葉があって
  この両者は別物である。計器飛行方式のキモは、「事前に飛
  行計画書を提出して」「航空管制官の指示に従いながら飛行
  する」点にある。        https://bit.ly/2DxMHSV
  ───────────────────────────

58便は自衛隊機とどこで衝突したか.jpg
58便は自衛隊機とどこで衝突したか
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2018年11月21日

●「58便コックピットの中での対話」(EJ第4895号)

 佐藤守氏の本にコックピットでの次の会話が出ています。これ
は元海軍パイロットの須藤朔氏と阪本太朗氏の著作に出ていたも
のです。58便が千歳を離陸してから上昇し、28000フィー
トで水平飛行に移るまでの間のコックピットの状況を推定して、
それを「再現」しています。そのときの全日空機のコックピット
内の雰囲気がわかるので、少し長いが引用します。
─────────────────────────────
 操縦席の辻副操縦士が、隣の席(左席)の機長に声を掛ける。
「キャプテン、機首方位が安定しませんね。風向の違い(高度に
よって)が大きいようです」
 川西機長がうなずく。
「うん、速度も落ち着かないね。だが、この程度では酔っ払うお
客さんはいないだろうよ。まあ、シートベルトを、もうしばらく
着けていてもらうことにしようか」
 機は函館まで、後約30マイルの地点に来ていた。
「千歳レーダー、こちら全日空58便。高度1万5000フィー
トを越えた」
 管制通信は副操縦士の仕事である。すぐに管制塔のレーダー担
当から応答がある。
「全日空58便、諒解。2万8000フィートまで上昇、その高
度を維持せよ。現在位置は函館ラジオ・ビーコンの北東30哩。
レーダー応答機の識別符号は分類2300を使え。レーダー管制
空域は終わった。管制通信電波周波数を135・9メガヘルツに
切り替えて札幌管制部と連絡を取れ」
「58便、諒解、札幌管制部と連絡する」
 ここで全日空58便は、千歳空港管制塔の管制下をはなれた。
管制交信記録によると、全日空58便は、13時46分に高度2
万2000フィートで函館上空を通過したこと、ついで約4分後
の13時50分11秒には高度2万8000フィートに達したこ
とを札幌管制部に報告している。
 58便が巡航速度に達して水平飛行に入ったのは、青森県下北
半島の西岸上空で、陸奥湾へ後12、3キロの地点だった。
 機長が副操に声をかける。
「今日は往復とも天気には恵まれたね。もう80哩(約150キ
ロ)先の岩手山が見えているよ」
 このときの機首方位は185度(真南より5度西寄り)真対気
速度は400ノットから刻々上昇しつつあった。
「これほどの視界はめったにありませんな。風は右正横からで約
40ノット(秒速約21メートル)、偏流(風下側に流される角
度)は現在約6度です」
「巡航速度になれば(偏流は)4度半から5度というところだろ
うな」と機長。
「十和田湖と岩手山の位置から見ると4、5キロ。ルートから右
にはずれているようですが・・・」
「こんなに良く見える日は、航法に気を使うことはないよ。今日
は大分おくれたから、仙台のVORで、気楽に近道と行こうじゃ
ないか」
「そうします。ところでキャプテン、おなかの方は?」
「ペコペコだよ。千歳じゃ食べている暇はないからな。“ジョー
ジ”(自動操縦装置)におまかせして昼食にしよう」
              ──須藤朔/阪本太朗著/圭文社
        『恐怖の空中接触事故=空の旅は安全か!?』
                  ──佐藤守著/青林堂刊
          『自衛隊の「犯罪」/雫石事件の真相!』
─────────────────────────────
 なぜ、このような仮想対話になってしまうのかというと、衝突
した全日空機、B727─200型機(JA8329)には、ボ
イスレコーダー装備されていなかったのです。
 「そんな馬鹿な!」と誰しも思うはずです。確かに、これはお
かしいです。この事故機であるB727─200型機(JA83
29)は、製造10日後の昭和46年3月12日に、全日空社に
納入されたばかりで、ボイスレコーダーが付いていないはずがな
いからです。
 確かに1960年代後半の航空機には、必ずボイスレコーダー
が付いているという状況ではなかったのですが、昭和41年に起
きた全日空の次の2つの飛行機事故を契機として、ボイスレコー
ダーの設置が義務付けられるようになっていたからです。
─────────────────────────────
   ◎全日空羽田沖事故/B727─100型
    1966年 2月 4日/133人全員死亡
   ◎全日空松山沖事故/YS─11機
    1966年11月13日/50人全員死亡
─────────────────────────────
 これら2つの事故の原因は不明です。ボイスレコーダー(CV
R)が装備されていなかったからです。元航空庁長官で、日本航
空に天下りしていた大庭哲夫氏は、1966年の全日空の2つの
事故があった直後からボイスレコーダーの装備の必要性を説いて
いたのです。その大庭氏は1967年に事故続きの全日空の立て
直しのために全日空の副社長に就任しています。その4年後に雫
石事故が起きているのですが、その全日空機にボイスレコーダー
が装備されていないはずがないからです。
 全日空は1966年に2回墜落事故を起こした後、1971年
7月に雫石事故を起こしたことになります。いずれも乗客乗員全
員が死亡しています。そういう意味でも雫石事故だけは、国とし
て全日空犯人説はとれなかったのでしょう。
 事故機にはボイスレコーダーは装備されていたはずですが、そ
れを公開すると、自衛隊犯人説が崩れてしまうので、装備されて
いなかったということにしたのではないかと思われます。どうし
て、こうも自衛隊犯人説にこだわるのでしょうか。
         ──[日航機123便墜落の真相/065]

≪画像および関連情報≫
 ●昼間の大空で空中衝突が起こった日/雫石空中衝突事故
  ───────────────────────────
   岩手県は雫石町の上空で自衛隊機と全日空機が空中衝突し
  た「全日空機雫石衝突事故」は、1971年(46年)のこ
  の日に発生しました。旅客機と航空自衛隊の戦闘機が飛行中
  に接触し、共に墜落。機体を損傷した旅客機は空中分解し、
  乗客155名と乗員7名の計162名の全員が亡くなるとい
  う日本の航空史上に残る大事故でした。
   その日、北海道の千歳空港発の羽田行の全日空58便(ボ
  ―イング727)は、機材の遅れにより、午後1時33分に
  離陸します。その乗客の多くは団体旅行客の静岡県富士市か
  らの一行でした。58便は函館を過ぎたあたりから、高度を
  28000フィートに上昇し、宮城県の松島上空を目指して
  自動操縦で飛行していました。航空自衛隊のF86F戦闘機
  の2機は、編隊飛行訓練のため「有視界飛行方式」による飛
  行計画で、基地を午後1時28分頃に離陸しました。離陸前
  に教官は訓練生に対して訓練空域は盛岡であることを示し、
  訓練後は松島飛行場へ向かって自動方向探知機よる着陸訓練
  を行う予定であることを伝えていました。そして、午後2時
  過ぎ、事故が発生します。当時「雫石町上空は視界は良好」
  という環境下で、下層に雲が少しある程度だったそうです。
                  https://bit.ly/2DxTH22
  ───────────────────────────

大庭哲夫元航空庁長官.jpg
大庭哲夫元航空庁長官
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2018年11月20日

●「全日空58便の30日の乗務状況」(EJ第4894号)

 繰り返しますが、雫石空中衝突事故は、自衛隊機の“暴走”と
いうことで、裁判では決着がついていますが、事実はまったく逆
です。全日空機が自衛隊の訓練空域に入り込み、自衛隊の市川機
に追突して起きたのです。これは、詳しく事実をフォローしてみ
ると、正しいことがわかります。
 もし、これが本当であるとすると、自衛隊はなぜ黙っているの
でしょうか。なぜ、抵抗しないのでしょうか。もちろん自衛隊は
反論していますが、それは弱々しいものです。そこに国の判断が
入っているからです。
 なぜ、国は全日空に配慮したのでしょうか。
 ここがポイントです。当時は、第3次佐藤改造内閣でしたが、
その翌年に田中角栄内閣が誕生し、政界を巻き込むあのロッキー
ド事件が起きています。そのとき、全日空は疑惑の中心にいたの
です。国の決定はこういう時代背景と無関係ではないのです。
 この雫石空中衝突事故の起きた日、全日空機に何があったのか
について調べてみることにします。
 昭和46年(1971年)7月30日の朝、川西機長、辻副操
縦士、カーペンター航空機関士のクルーと4人のスチュワーデス
は千歳空港にいたのです。この朝一番の便である千歳発午前8時
40分、羽田着午前10時の50便の乗務をするためです。
 この羽田行きの50便で、クルーは午前9時過ぎに、盛岡付近
上空で、自衛隊の二機編隊を目撃しています。
─────────────────────────────
 当時の乗客の話によると、辻副操縦士が飛行機の速度、高度な
どを客室にアナウンスしていた時である、突然声が途切れた。5
秒ほどしてから「左手に自衛隊機の編隊飛行が見えます」といっ
て終わった。後でスチュワーデスがこの時の模様を尋ねたところ
辻副操縦士は「自衛隊機にヒヤッとしたんだ」と答えている。
   ──足立東著『追突/雫石航空事故の真実』日本評論社
                  ──佐藤守著/青林堂刊
          『自衛隊の「犯罪」/雫石事件の真相!』
─────────────────────────────
 佐藤守氏が調べたところによると、このとき2機編隊飛行をし
ていたのは、浜松から松島派遣隊に異動してきた小野寺康充教官
と訓練生機だったのです。その小野寺教官は、訓練生機の下を通
る全日空機をみて、訓練生に注意しています。
 さて、全日空50便として羽田に到着すると、同じクルーで、
今度は羽田発57便として、午前10時50分に羽田を離陸し、
千歳に引き返すことになっています。しかし、50便の羽田到着
は午前10時であったので、時間は50分しか余裕がないことに
なります。乗客の降り乗り、機内の掃除、荷物の搬出と搬入、機
体の点検整備を50分でやることは神業です。すべてのことをき
ちんとやることが困難な時間といえます。
 操縦クルーは、その短い時間で、デイ・ブリーフィング(飛行
後の打ち合わせ)、千歳行きのための気象ブリーフィング、ディ
スパッチャー(運行担当者)との打ち合わせ、クルーの確認、機
長ブリーフィングと、トイレに行く時間もない忙しさです。
 しかし、そのときは、コックピットの防氷装置の不具合が発見
されたので、出発は39分遅れ、午前11時29分発になってし
まったのです。
 この全日空57便がいつ千歳に着いたのかについては不明なの
で推察するしかないですが、飛行計画から1時間20分の飛行時
間がかかるとして、午後12時50分になるはずです。機長の飛
行計画によると、この機は全日空58便として再び羽田に向うの
です。出発予定時刻は午後1時15分になっています。
 上記の足立東著『追突/雫石航空事故の真実』によると、午後
1時25分に駐機場から地上滑走を開始し、午後1時33分頃離
陸したことになっています。もし、千歳着が12時50分とする
と、準備には30分しか時間がなかったことになります。この時
間で必要なことをすべてやるのは不可能であり、操縦クルーやス
チュワーデスは、食事をするヒマなどなかったと思われます。
 この全日空58便が、実際にどのように羽田に向い、雫石町上
空で、自衛隊機と衝突したか、衝突までの状況を佐藤守氏の本か
ら引用します。
─────────────────────────────
 7月30日午後1時33分に、川西機長が提出した飛行計画よ
り18分、出発予定時刻の午後零時40分より53分も遅れて、
千歳空港を離陸した58便は、千歳のレーダー管制を受けつつ上
昇し、札幌管制所の管制下に移行、午後1時46分に函館NDB
を高度22000フィートで通過、そこで次の松島NDB通過予
定時刻は、午後2時11分であると通報しました。
 そして函館NDB通過後の1時50分に、高度28000フィ
ート(約8500メートル)に到達したことを札幌管制所に通報
し、この時点で機長は自動操縦に切り替え、以後計画書どおりに
「松島NDB」に向けて、高度28000フィートで南下したこ
とになっています。
 事故後に公表されたフライト・データ・レコーダー(FDR)
の記録によれば、以後、計器速度310〜318ノット(マッハ
0・79)、機首磁方位は189〜190度、垂直加速度がほぼ
1Gという水平定常飛行が、衝突時まで続き、好天に恵まれた穏
やかなフライトだったことを窺わせますが、進路維持には疑問を
抱かざるを得ません。       ──佐藤守著の前掲書より
─────────────────────────────
 これを見ると、操縦クルーは少なくとも午後1時50分までは
食事がとれなかったと思われます。このクルーの30日のフライ
トは58便で3回目であり、スチュワーデスの4人を含めて心身
ともに疲れ切っていたものと思われます。そこで高度28000
フィートに達したところで、自動操縦に切り換え、食事をとった
のではないかと推察されるのです。
         ──[日航機123便墜落の真相/064]

≪画像および関連情報≫
 ●予定便変更で生死を分けた42人と25人/朝日新聞
  ───────────────────────────
   飛行機の遅れがひどいため、たまりかねて一便予定を早め
  て命拾いした42人と「みんな一緒の飛行機で帰ろう」と一
  便遅らせて遭難した25人と──空中衝突した全日空58便
  の53分の遅れの離陸が団体客の「生」と「死」を分けた。
  日本旅行高知営業所などが募集した北海道観光旅行団に参加
  した高知県土佐市の高岡農協の42人は、運命≠フ全日空
  58便(千歳発予定午後12時40分)で東京へ向かう予定
  だった。
   ところが、この日は羽田空港上空の慢性ラッシュ″や、
  飛行機の整備などのため、千歳発の便が軒並み20分から1
  時間あまりも遅れており、58便も相当遅れる見込みになっ
  たため乗り継ぐ予定の大阪行き29便に間に合わなくなる、
  と、急ぎ一便前の82便に乗り換え、危機一髪で難をまぬか
  れた。一方、遭難した静岡県の吉原遺族会の一行125人の
  うち、100人はもともと58便に乗ることになっていたが
  25人は58便の席が取れなかったため、82便で一足先に
  東京へ向かうことにしていた。ところが、飛行機の遅れで、
  高知の団体のほか、一般客の中にも予定を変更して早い便に
  乗る人が続出して粥便の席が空いたため、「楽しい旅だから
  みんないっしょに帰ろう」と、25人はわざわざ一便遅らせ
  て、53分後に出発した58便に乗ったという。
           ──1971年7月31日付、朝日新聞
  ───────────────────────────

全日空/B727.jpg
全日空/B727
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2018年11月19日

●「航空路と訓練空域の錯綜のリスク」(EJ第4893号)

 雫石空中衝突事故の全日空側58便のクルーをご紹介しておき
ます。これらの操縦士は全員墜落死しています。
─────────────────────────────
        機長 ・・・ 川西三郎
      副操縦士 ・・・ 辻 和彦
     航空機関士 ・・・ D・M・カーペンター
─────────────────────────────
 川西機長について、操縦経歴をご紹介します。
 機長の川西三郎氏は、関西学院大経済学部卒業後、昭和30年
4月に陸上自衛隊幹部候補生学校に入校し、基本操縦課程を経て
第3、第10航空隊などで、主として小型機を操縦し、約6年間
陸自に勤務した後、昭和36年4月に退職、5ヶ月後に全日空に
入社しています。
 全日空での操縦歴は、ダグラスDC3、コンベアCV440、
フォッカーF27の機長を務めた後、B727に移り、事故直前
の昭和46年6月7日に機長資格を取っています。自衛隊時代か
らの総飛行時間は8033時間であるものの、B727について
は、242時間5分と短いのです。6月にB727の機長の資格
をとって次の月の7月の事故ですから、やはり慣れていない面が
あったことは否定できなないと思います。
 雫石空中衝突事故では、「航空路」とか「訓練空域」に関係す
る事故なので、「航空路」について知る必要があります。
─────────────────────────────
 航空路とは、航空機が飛行していく方向や飛行する高度を決め
て、安全に航行できるようにした「空の道」を指す。航路とも表
記する。航空機は、出発空港から到着空港までの間を一直線に飛
ぶのではなく、自動車や鉄道と同様に、決められたルートが存在
する。     ──ウィキペディア https://bit.ly/2FmVoBY
─────────────────────────────
 よく「民間航空路」とか「民間機専用航空路」とかいわれます
が、厳密には「航空路」ないし、「ジェット・ルート」と呼ばれ
ています。少し専門的になりますが、航空路には無線標識によっ
て、次の2つがあります。
─────────────────────────────
  1.NDB/Non-Directional (Radio) Beacon
       無指向性無線標識
  2.VOR/VHF Omnidirectional Range
    超短波全方向式無線標識
─────────────────────────────
 「1」の「NDB」というのは、主に中波を使って、航空機の
航法援助を行う無線標識です。2つの無線標識局を探知すること
により、三角測量によって現在位置を知ることができます。しか
し、NDBには誤差が大きい欠点があります。
 「2」の「VOR」というのは、VHF帯(超短波帯)を用い
る航空機用無線標識です。標識局を中心として、航空機がどの方
向にいるか知ることができます。
 現在では、より精度の高いVORを結んだ航空路が主流となっ
ており、これを「ヴィクター航空路」といいます。ヴィクター航
空路は、具体的にいうと、次のようなものです。
─────────────────────────────
 ヴィクタールートは、各VOR施設間を結ぶ通路で、中心線か
ら左右それぞれ最小7・2キロメートル、したがって全幅14・
4キロメートルを持つ通路です。VORよりも精度の落ちるND
Bを結んだ通路は、片側9キロメートル、したがって全幅18キ
ロメートルに設定されていました。これら、航空路を飛行する場
合は、その直線経路上を飛ぶのが原則ですが、上空の風などの影
響によって進路がずれた場合に備え、全幅10マイル幅をとって
対処しているのです。        ──佐藤守著/青林堂刊
          『自衛隊の「犯罪」/雫石事件の真相!』
─────────────────────────────
 佐藤守氏によると、空自の「訓練空域」はこれらの航空路を避
けたところ設定されますが、訓練の種類、たとえば、他基地への
連絡飛行や、航法訓練(クロスカントリー)などでは、当然のこ
とながら、航空路を使います。したがって、「民間航空路」のよ
うなものはなく、航空路はいわば「官民共用」なのです。
 しかし、飛行計画は事前に提出されるので、それを守っていれ
ば、空中衝突などは起こり得ないのです。問題は、民間機のジェ
ット化が当たり前になり、高度にしても、自衛隊機が使う空域に
似てきていることです。それに計器飛行と有視界飛行が同時に飛
ぶ危険性です。
 朝日新聞主催の「空中衝突危険いっぱい」という座談会で、司
会者と、渡辺正元空自総司令官、小山昌夫運輸省航空局東京空港
羽田主任管制官、関川栄一郎航空評論家とのとのやり取りに次の
ようなものがあります。
─────────────────────────────
司会:訓練空域が、空路に挟まれているのは問題ではないのか。
渡辺:航空路の”あき”はだんだん狭くなっている。関東も大坂
 も北九州周辺も、その例に漏れず、三角形の空路のスキ間を訓
 練空域に採用せざるを得なくなっている。高度も民間機がジェ
 ット化されてきている結果、航路と訓練空域が重なっている。
小山:空路と訓練空域の間に緩衝地帯を設ける必要がある。ジェ
 ット機時代になり、使用高度も2万〜3万フィートと自衛隊と
 よく似てきた。空には、道路のように、はっきりとした区分が
 あるわけではないので、自衛隊機が民間航路に入り込むおそれ
 は十分ある。
関川:計器飛行と有視界飛行が同時に飛ぶのは、航空路を横切る
 のにも無警告でいいなど現行法には不備がある。
                 ──佐藤守著の前掲書より
─────────────────────────────
         ──[日航機123便墜落の真相/063]

≪画像および関連情報≫
 ●上田晋也のニッポンの過去問/雫石空中衝突事故
  ───────────────────────────
   1971年7月30日、全日空機と航空自衛隊の戦闘機が
  岩手県雫石町上空で空中衝突しました。戦闘機を操縦してい
  た自衛隊の訓練生はパラシュートを使い脱出しましたが、全
  日空機の乗客乗員162人は全員死亡しました。衝突してし
  まった原因は自衛隊側の「ずさんな飛行訓練計画」「教官機
  の誘導ミス」「パイロットの操縦の未熟さ」の3点と考えら
  れ、自衛隊には大きな批判が寄せられました。
   一方、全日空機側には「ボイスレコーダーが装備されてい
  なかった」「訓練機を視認していたと推定されるが直前まで
  回避操作が行われなかった」などといったことも事故原因と
  して挙げられました。
   この事故により空の安全対策が急がれ、空域内を飛行する
  全ての航空機に官制を受けることを義務付ける「特別官制空
  域の拡充」「フライトレコーダーやボイスレコーダーなどの
  装置の義務化」やトランスポンダと呼ばれる「空中衝突予防
  装置の搭載」も義務付けられました。
   さらには自衛隊・米軍・民間の空路の完全分離など雫石衝
  突事故を教訓に数々の安全対策が設けられ、この事故の反省
  により空の安全は大きな進歩をとげたのでした。
                  https://bit.ly/2Bcyjhp
  ───────────────────────────

上田晋也のニッポンの過去問.jpg
上田晋也のニッポンの過去問
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2018年11月16日

●「なぜ、新証拠の審理をしないのか」(EJ第4892号)

 雫石空中衝突事故──この事故のことを知っている人は、民間
航空路上で訓練していた自衛隊機が、その航空路を飛行してきた
全日空58便に衝突し、自衛隊機のパイロットはパラシュートで
脱出して助かったものの、全日空機は空中分解、乗客乗員162
人は全員が死亡するという痛ましい航空機事故であると認識して
いるはずです。
 つまり、自衛隊側が一方的に悪いのです。自衛隊は責任を認め
増原恵吉防衛庁長官が引責辞任しています。その後、民間航空路
と自衛隊の訓練空域は完全に分離されたのです。当然のことが尊
い犠牲を払って実現したことになります。
 しかし、元自衛隊空将南西航空混成団司令の佐藤守氏によると
これらは全く事実に反するというのです。真相は、全日空機の方
が自衛隊の訓練空域に入り込んで来て衝突したのです。したがっ
て、執行猶予付きとはいえ、実刑になった隈一尉は無罪であり、
冤罪であると主張しています。佐藤守氏は、その理由について、
次のように述べています。
─────────────────────────────
 それは─────
 @非科学的分析を多々抱える政府事故調査報告書に基づき、
 A3次元空間における航空機の相対的な動きなどの理解能力に
欠ける裁判官が、
 B反自衛隊感情をむき出しにしたマスコミが誘導した風潮と
 C直後に明らかになったロッキード事件にまつわる政治がらみ
の圧力に押されて、無理やり判決を急いだものだからです。
 さらに付け加えるならば、全日空社が事故の補償を負担するこ
とになれば、昭和60年8月12日にB747が御巣鷹山に墜落
して、520名もの犠牲者を出した日本航空のように倒産の危機
にさらされる。これは同社に天下りしている運輸官僚達にとって
は是が非でも防がねばならない喫緊の課題でしたから政治家の力
を借りて、防衛庁(当時)航空自衛隊側の一方的な責任にさせ、
国に全額補償させて生き延びる、そんな陰謀がめぐらされた事
件≠セったといえるでしょう。         ──佐藤守著
          『自衛隊の「犯罪」/雫石事件の真相!』
                         青林堂刊
─────────────────────────────
 刑事事件としての決着については、昨日のEJでも書きました
が、詳しく書くと、次のようになります。
─────────────────────────────
  ●罪状/業務上過失致死罪/航空法違反
  ◎一審判決「盛岡地裁」/1975年 3月11日
    隈 被告 ・・・   禁固4年
    市川被告 ・・・ 禁固2年8月
  ◎二審判決「仙台高裁」/1978年 5月 9日
    隈 被告 ・・・ 控訴棄却/禁固4年
    市川被告 ・・・ 無罪
  ◎最高裁判決     /1983年 9月22日
    隈 被告 ・・・ 禁固3年/執行猶予3年
    市川被告 ・・・ 無罪
─────────────────────────────
 二審の仙台高裁の判決の後、58便の乗客が撮影したと見られ
る8ミリフィルムが証拠として提出されたのです。ところが、そ
のフィルムの分析の結果、その場所は空自が定めていた「臨時訓
練空域内」であることが判明されたのです。
 そうであるとすると、ジェット・ルートを逸脱して空自の訓練
空域に侵入したのは、全日空機ということになります。この場合
本来であれば、最高裁は二審の仙台高裁に差し戻し、そこで新証
拠を含めた審理を行うのが普通です。
 ところが、最高裁は、一審の盛岡地裁判決と二審の仙台高裁判
決を破棄し、「自判」で上記の判決を出したのです。これは何を
意味するかというと、新証拠を改めて審理しないということを意
味します。しかし、隈被告が「再審請求」をすれば、審理が行わ
れますが、隈被告は再審請求をしなかったので、刑事事件として
は、これで結審になったのです。
 はっきりしていることがあります。それは、新証拠の分析では
全日空機は、明らかに自衛隊の訓練空域に入り込んでいるという
ことです。この8ミリフィルムは、全日空側から提出されたもの
ですが、逆に全日空側を不利にする結果に終っています。
 どうやら、この航空機事故は、最初から自衛隊側の敗訴を前提
としていたものと思われます。「禁固3年/執行猶予3年」の判
決の理由について、1983年9月22日付、読売新聞夕刊は、
次のように書いています。
─────────────────────────────
 最高裁判決は、最大の争点になつた@全日空機と自衛隊機の位
置関係、A接触地点、B自衛隊機から見えたかどうか(視認可能
性)──などの事実認定については、二審判決を大筋において認
めた。そして、隈被告に教官として事故を起こした訓練機(市川
機)に対する見張り注意義務はあった、と認定した。しかし「義
務を十分果たすのは難度の高い作業だ」とし、本件事故の場合、
訓練機と全日空機の両機を見つけ、訓練機に的確な指示を与えて
事故を回避できた可能性は「ごく限られたものであつたといわざ
るを得ない」とした。
 こうした事故を避けるためには、民間機の常用ルート付近の空
域での訓練事態はできるだけ避けるべきであった、との見解を示
した。その上で判決は、隈被告に結果的に民間航空機のルートを
侵犯″した義務違反があったとしたものの、こうした空域侵犯
には訓練計画を作成した第一航空団松島派遣隊にも大きな責任が
あると指摘した。           ──佐藤守著/青林堂
          『自衛隊の「犯罪」/雫石事件の真相!』
─────────────────────────────
         ──[日航機123便墜落の真相/062]

≪画像および関連情報≫
 ●空から降った「人の雨」 雫石とウクライナ
  ───────────────────────────
   「空から人の雨が降ってきた」
   英デーリー・エクスプレス紙が報じた、7月17日発生の
  ウクライナ東部におけるマレーシア航空機ボーイング777
  撃墜の目撃者証言。昭和46(1971)年7月30日と同
  じだ、と思った。この日午後2時過ぎ、北海道・千歳を離れ
  東京・羽田を目指していた全日空ボーイング727が、航空
  自衛隊訓練機に岩手県雫石町上空で追突した。追突されたは
  ずの自衛隊機の《一方的過失》をメディアが創り出し、刑事
  裁判も3次元空間を理解できないなど、問題をはらんだ大惨
  事を取材したとき、似たような目撃証言を聴いたのだ。
   「天から人が降ってきた」
  といっても、リアルタイムの取材ではなく、事故を検証した
  産経新聞の大型長期連載《戦後史開封》を執筆するためだっ
  た。取材ノートの表紙には、《平成7年9月13日〜》とあ
  る。陸上自衛隊第二十二普通科連隊第一中隊長・S一尉以下
  130人は当日夜、宮城県多賀城市の駐屯地を出発し、雫石
  に翌日未明に到着。他の中隊とともに乗客・乗員の遺体収容
  に向け、山中に分け入った。S一尉らが見たのは、「戦場」
  だった。隊員は早々に金縛りに遭う。木という木に、おびた
  だしい数のストッキングや、下着、衣類、着物の帯が引っ掛
  かっていた。S一尉は回想した。「不謹慎だが、夏に見慣れ
  た仙台の七夕まつりの短冊のようだった」
                  https://bit.ly/2PXlFeb
  ───────────────────────────

F86F戦闘機.jpg
 
F86F戦闘機
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2018年11月15日

●「雫石衝突事故の結論には異議あり」(EJ第4891号)

 自衛隊出身の機長が民間航空機を操縦し、自衛隊機と空中で衝
突する事故としては、1971年7月30日の「全日空機雫石衝
突事故」があります。このとき、乗客乗員162人が亡くなって
います。JAL123便墜落事件の14年前のことです。
 この雫石衝突事故のことをこのテーマの最後に取り上げるのは
2つの事件に共通性があるからです。まずは、雫石衝突事故とは
どんな事故であったかについては、次をご覧ください。
─────────────────────────────
 「ばんだい号」墜落から間もない(1971年/昭和46年)
7月30日、午後2時過ぎ、今度は岩手県雫石町上空で、乗員乗
客162人を乗せた千歳発羽田行き全日空ボーイング727型機
(以下、B727)に、訓練飛行中の航空自衛隊のジェット戦闘
機が衝突した。自衛隊機の操縦士はパラシュートで脱出して無事
だったが、全日空機は空中分解して乗員乗客全員が死亡し、遺体
が広範囲に飛散する大惨事となった。当時としては、世界航空機
史上最大規模の事故だった。
 原因は自衛隊機が民間航空路上で訓練をしていたことで、しか
もその危険性は十年前から行政管理庁が指摘しており、明らかな
人災であった。当然、自衛隊への批判が沸騰、自衛隊も責任を認
め、増原恵吉防衛庁長官は引責辞任した。以後、民間航空路と自
衛隊の訓練空域は分離された。尊い犠牲を払ってようやく改善が
実現したのである。乗客のうち123人は、北海道への団体観光
旅行から帰る途中の静岡県富士市の軍人遺族会の老人たちであっ
た。彼らにとっては、戦争につづき、2度も国家によって災厄を
こうむったことになる。           ──古川隆久著
  『歴史エンタテインメント=昭和戦後史(下)』/講談社刊
─────────────────────────────
 雫石衝突事故と123便事故は3つの点で共通性があります。
─────────────────────────────
 1.民間航空路上に自衛隊の飛翔体が入り込んで、民間航空
  機に衝突したこと。
 2.自衛隊機はもちろんのこと、民間航空機の機長も自衛隊
  出身の機長である。
 3.ともに世界航空機史上、最大にして最悪の大規模な航空
  機事故であること。
─────────────────────────────
 どういう状況での衝突事故かというと、自衛隊は2機のF86
F戦闘機で、1機に隅太茂津一尉教官、もう1機に訓練を受ける
市川良美二曹が搭乗していたのです。訓練空域では、基本隊形、
疎開隊形、機動隊形および単縦陣隊形の訓練と、教官機が予告な
しに左右の急旋回を繰り返すのを市川二層が等間隔で追尾する訓
練などを行っていたのです。
─────────────────────────────
      教官機 ・・・・・・ 隅太茂津一尉
      訓練機 ・・・・・・ 市川良美二曹
─────────────────────────────
 これら2機の戦闘機は、航空自衛隊第1航空団松島派遣隊の所
属であり、訓練空域は、秋田県横手市付近で、横手訓練空域の北
部をその一部に含む臨時の空域であったといわれています。
 14時02分、教官機を追って、市川二曹の訓練機が羽田に機
首を向けて飛行している全日空機に接近し、回避する間もなく訓
練機(時速840キロ)に全日空機(時速900キロ)が追いつく形
で衝突が起きたのです。
 この衝突事故については、裁判で刑事と民事で最高裁まで争わ
れ、最終的に次の判決が出ています。昭和58年(1983年)
9月22日の最高裁判決です。
─────────────────────────────
  隅太茂津一(教 官) ・・・ 禁固3年執行猶予3年
  市川良美二(訓練生) ・・・ 無罪
─────────────────────────────
 実はこの裁判は「自判」というかたちで決着がついたのです。
この裁判では、昭和50年(1975年)3月11日に、第1審
で教官は禁固4年、訓練生は2年8月の実刑判決が言い渡された
のですが、控訴審では、教官は控訴棄却、訓練生は無罪が言い渡
されています。
 しかし、最高裁では、この1、2審判決を破棄し、裁判長自ら
が「自判」し、上記の判決で決着をつけたのです。これはきわめ
て異例のことです。通常では、1、2判決を破棄し、第1審に差
し戻すのですが、差し戻してまで審理することはないという裁判
官の判断で、「自判」したのです。
 この雫石衝突事件に対して、異論を唱えている人がいます。軍
事評論家の佐藤守氏です。雫石事故の真相は、別にあるというの
です。佐藤守氏は、防衛大学航空工学科を卒業し、航空自衛隊に
入隊、戦闘機パイロットとして、総飛行時間3800時間を記録
しています。岡崎研究所の理事・研究員を務めています。
 佐藤守氏は、この雫石衝突事故について、「事実に反する」と
して次のように主張しています。
─────────────────────────────
 これは全く事実に反します。既に事故直後にはB727の左水
平尾翼が、86Fの右主翼をはば真後ろから切断したことを示す
明確な証拠が発見されていたので、B727が86Fに「追突」
したことは歴然としていたのですが、盛岡地裁の第一審でなぜか
自衛隊が有罪にされたのです。間違った事故調査によって、2人
の自衛隊パイロットが裁判にかけられましたが、追突され、パラ
シュート降下して生還した訓練生は仙台高裁で無罪が確定したも
のの、奇妙なことに離れた位置で指導していた教官が有罪になっ
たのです。              ──佐藤守著/青林堂
          『自衛隊の「犯罪」/雫石事件の真相!』
─────────────────────────────
         ──[日航機123便墜落の真相/061]

≪画像および関連情報≫
 ●実刑を主張する裁判官中村治朗の反対意見
  ───────────────────────────
   航空機の空中衝突は、瞬時にして多数の人命を奪う結果に
  つながる重大かつ悲惨な事故であり、これを防止するために
  は万全の措置と配慮が施されなければならず、殊に、具体的
  な飛行の進路及び態様の決定につき最終的な判断権を委ねら
  れた航空機の操縦者の責任は、極めて重大である。
   このような見地から本件をみると、被告人は、飛行訓練空
  域として指定された空域内に本件ジエツト・ルートJ11L
  が存在していることを漠然と意識していながらも、その位置
  を確認したうえ、衝突の危険を回避するような具体的な訓練
  飛行計画を樹てることをせず、また、絶えず自機及び追随機
  の進路と右ジエツト・ルートとの位置関係を確かめながら訓
  練飛行を実施する等の配慮を施すこともなく、漠然と右ジエ
  ット・ルートは実際のそれよりもかなり東方の盛岡市上空附
  近を通つているものと誤信したまま、漫然と本件ジエツト・
  ルート空域に進入して本件訓練飛行を実施したものであつて
  被告人のこのような不注意については、たとえこれに関連し
  て多数意見の指摘するような諸般の事情が存在することを考
  慮に入れても、なおそれ自体として責められるべき点が少な
  くない。そして現に、その結果として本件衝突事故が発生し
  162名の多数の生命が失われた。禁錮2年の実刑をもって
  臨むのが相当であると考える。  https://bit.ly/2RRoRoS
  ───────────────────────────

全日空機雫石衝突事故犠牲者慰霊碑.jpg
全日空機雫石衝突事故犠牲者慰霊碑
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●「雫石衝突事故の結論には意義あり」(EJ第4891号)

 自衛隊出身の機長が民間航空機を操縦し、自衛隊機と空中で衝
突する事故としては、1971年7月30日の「全日空機雫石衝
突事故」があります。このとき、乗客乗員162人が亡くなって
います。JAL123便墜落事件の14年前のことです。
 この雫石衝突事故のことをこのテーマの最後に取り上げるのは
2つの事件に共通性があるからです。まずは、雫石衝突事故とは
どんな事故であったかについては、次をご覧ください。
─────────────────────────────
 「ばんだい号」墜落から間もない(1971年/昭和46年)
7月30日、午後2時過ぎ、今度は岩手県雫石町上空で、乗員乗
客162人を乗せた千歳発羽田行き全日空ボーイング727型機
(以下、B727)に、訓練飛行中の航空自衛隊のジェット戦闘
機が衝突した。自衛隊機の操縦士はパラシュートで脱出して無事
だったが、全日空機は空中分解して乗員乗客全員が死亡し、遺体
が広範囲に飛散する大惨事となった。当時としては、世界航空機
史上最大規模の事故だった。
 原因は自衛隊機が民間航空路上で訓練をしていたことで、しか
もその危険性は十年前から行政管理庁が指摘しており、明らかな
人災であった。当然、自衛隊への批判が沸騰、自衛隊も責任を認
め、増原恵吉防衛庁長官は引責辞任した。以後、民間航空路と自
衛隊の訓練空域は分離された。尊い犠牲を払ってようやく改善が
実現したのである。乗客のうち123人は、北海道への団体観光
旅行から帰る途中の静岡県富士市の軍人遺族会の老人たちであっ
た。彼らにとっては、戦争につづき、2度も国家によって災厄を
こうむったことになる。           ──古川隆久著
  『歴史エンタテインメント=昭和戦後史(下)』/講談社刊
─────────────────────────────
 雫石衝突事故と123便事故は3つの点で共通性があります。
─────────────────────────────
 1.民間航空路上に自衛隊の飛翔体が入り込んで、民間航空
  機に衝突したこと。
 2.自衛隊機はもちろんのこと、民間航空機の機長も自衛隊
  出身の機長である。
 3.ともに世界航空機史上、最大にして最悪の大規模な航空
  機事故であること。
─────────────────────────────
 どういう状況での衝突事故かというと、自衛隊は2機のF86
F戦闘機で、1機に隅太茂津一尉教官、もう1機に訓練を受ける
市川良美二曹が搭乗していたのです。訓練空域では、基本隊形、
疎開隊形、機動隊形および単縦陣隊形の訓練と、教官機が予告な
しに左右の急旋回を繰り返すのを市川二層が等間隔で追尾する訓
練などを行っていたのです。
─────────────────────────────
      教官機 ・・・・・・ 隅太茂津一尉
      訓練機 ・・・・・・ 市川良美二曹
─────────────────────────────
 これら2機の戦闘機は、航空自衛隊第1航空団松島派遣隊の所
属であり、訓練空域は、秋田県横手市付近で、横手訓練空域の北
部をその一部に含む臨時の空域であったといわれています。
 14時02分、教官機を追って、市川二曹の訓練機が羽田に機
首を向けて飛行している全日空機に接近し、回避する間もなく訓
練機(時速840キロ)に全日空機(時速900キロ)が追いつく形
で衝突が起きたのです。
 この衝突事故については、裁判で刑事と民事で最高裁まで争わ
れ、最終的に次の判決が出ています。昭和58年(1983年)
9月22日の最高裁判決です。
─────────────────────────────
  隅太茂津一(教 官) ・・・ 禁固3年執行猶予3年
  市川良美二(訓練生) ・・・ 無罪
─────────────────────────────
 実はこの裁判は「自判」というかたちで決着がついたのです。
この裁判では、昭和50年(1975年)3月11日に、第1審
で教官は禁固4年、訓練生は2年8月の実刑判決が言い渡された
のですが、控訴審では、教官は控訴棄却、訓練生は無罪が言い渡
されています。
 しかし、最高裁では、この1、2審判決を破棄し、裁判長自ら
が「自判」し、上記の判決で決着をつけたのです。これはきわめ
て異例のことです。通常では、1、2判決を破棄し、第1審に差
し戻すのですが、差し戻してまで審理することはないという裁判
官の判断で、「自判」したのです。
 この雫石衝突事件に対して、異論を唱えている人がいます。軍
事評論家の佐藤守氏です。雫石事故の真相は、別にあるというの
です。佐藤守氏は、防衛大学航空工学科を卒業し、航空自衛隊に
入隊、戦闘機パイロットとして、総飛行時間3800時間を記録
しています。岡崎研究所の理事・研究員を務めています。
 佐藤守氏は、この雫石衝突事故について、「事実に反する」と
して次のように主張しています。
─────────────────────────────
 これは全く事実に反します。既に事故直後にはB727の左水
平尾翼が、86Fの右主翼をはば真後ろから切断したことを示す
明確な証拠が発見されていたので、B727が86Fに「追突」
したことは歴然としていたのですが、盛岡地裁の第一審でなぜか
自衛隊が有罪にされたのです。間違った事故調査によって、2人
の自衛隊パイロットが裁判にかけられましたが、追突され、パラ
シュート降下して生還した訓練生は仙台高裁で無罪が確定したも
のの、奇妙なことに離れた位置で指導していた教官が有罪になっ
たのです。              ──佐藤守著/青林堂
          『自衛隊の「犯罪」/雫石事件の真相!』
─────────────────────────────
         ──[日航機123便墜落の真相/061]

≪画像および関連情報≫
 ●実刑を主張する裁判官中村治朗の反対意見
  ───────────────────────────
   航空機の空中衝突は、瞬時にして多数の人命を奪う結果に
  つながる重大かつ悲惨な事故であり、これを防止するために
  は万全の措置と配慮が施されなければならず、殊に、具体的
  な飛行の進路及び態様の決定につき最終的な判断権を委ねら
  れた航空機の操縦者の責任は、極めて重大である。
   このような見地から本件をみると、被告人は、飛行訓練空
  域として指定された空域内に本件ジエツト・ルートJ11L
  が存在していることを漠然と意識していながらも、その位置
  を確認したうえ、衝突の危険を回避するような具体的な訓練
  飛行計画を樹てることをせず、また、絶えず自機及び追随機
  の進路と右ジエツト・ルートとの位置関係を確かめながら訓
  練飛行を実施する等の配慮を施すこともなく、漠然と右ジエ
  ット・ルートは実際のそれよりもかなり東方の盛岡市上空附
  近を通つているものと誤信したまま、漫然と本件ジエツト・
  ルート空域に進入して本件訓練飛行を実施したものであつて
  被告人のこのような不注意については、たとえこれに関連し
  て多数意見の指摘するような諸般の事情が存在することを考
  慮に入れても、なおそれ自体として責められるべき点が少な
  くない。そして現に、その結果として本件衝突事故が発生し
  162名の多数の生命が失われた。禁錮2年の実刑をもって
  臨むのが相当であると考える。  https://bit.ly/2RRoRoS
  ───────────────────────────

全日空機雫石衝突事故犠牲者慰霊碑.jpg
全日空機雫石衝突事故犠牲者慰霊碑
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2018年11月14日

●「大きな航空機事故にはウラがある」(EJ第4890号)

 8月20日から続けてきている今回のテーマは、そろそろ終了
します。EJでは、このテーマを3回にわたって取り上げました
が、基本的なことに変化はありません。ただ、青山透子氏の本に
よって、多くのことが裏付けられたといえます。そこで起きた6
つのことを再現します。
─────────────────────────────
 1.護衛艦「まつゆき」から発進したとみられるミサイル標
  的機が、JAL123便の垂直尾翼を破壊する。
 2.JAL123便の高濱機長は、操縦困難の飛行機をコン
  トロールし、横田基地へ緊急着陸しようとする。
 3.浜松基地から発進し、123便を追尾していた2機の戦
  闘機が横田着陸を阻止し、山の方向に誘導する。
 4.123便はなおも不時着を試みようとするので、戦闘機
  2機は123便にミサイルを発射し、撃墜する。
 5.自衛隊は墜落場所が特定されないようニセの情報を流し
  その間に特殊部隊が現場から証拠物を搬出する。
 6.自衛隊特殊部隊が現場から立ち去るさい、火炎放射器を
  使って、墜落現場を万遍なく焼き尽くしている。
─────────────────────────────
 この「事件」、政府はあくまで「事故」といっていますが、こ
れは「事件」です。33年経っても解決していないからです。こ
の事件で、政府関係者、日本航空関係者、自衛隊関係者は、誰ひ
とり責任をとっていません。裁判も全員不起訴で、時効が成立し
ています。しかし、520人もの人が死亡しているのです。
 ただ、事件はけっして風化していないのです。だからこそ33
年も経っているのに、青山透子氏の本をはじめとして、多くの新
事実が続々と出てきています。しかるにこの青山氏の主張を「陰
謀論」扱いし、葬り去ろうとする動きもあります。
 この事件のキーは、羽田空港に戻ろうとしたJAL123便を
追尾した2機のファントム戦闘機の存在です。自衛隊はこの事実
を完全否定しています。自衛隊は、ファントム戦闘機の発進につ
いて、次のように述べています。
─────────────────────────────
 1985年8月12日、19時01分、大中一佐、松永空将の
了解にて、スクランブル発信命令。空自百里F−4EJファント
ム戦闘機2機(第305飛行機、式地豊二将ら発進)。この時間
より以前、自衛隊はファントム機、ヘリなど発進させていない。
               ──青山透子著/河出書房新社
  『日航123便/撃墜の新事実/目撃証言から真相に迫る』
─────────────────────────────
 しかし、2機のファントムについては、青山透子氏をはじめと
して、角田四郎氏の本などでも明らかにされている多くの目撃情
報があり、否定のしようがないのです。しかも、かなりの低空で
123便の後を2機の戦闘機が追尾しているのです。まだ、夜に
なっておらず、大きな旅客機を追尾する2機の戦闘機はよく見え
たといっています。同じ情景を多くの人が目撃しているのです。
もし、それが自衛隊機ではないとしたら、どこの国の戦闘機だと
いうのでしょうか。
 しかし、自衛隊としては、この2機のファントムの存在を認め
てしまうと、「自衛隊は関わっていない」という主張がすべて崩
れてしまうので、完全否定です。
 青山透子氏は、とくに上記「6」について、あくまで客観的に
詳細極まる分析をしています。これを否定することは、本を読ん
だ人にはできないと思います。それほど詳しいし、それが正しい
ことを示す証拠はたくさんあるからです。政府事故調は、遺体に
ついては、あまり力を入れて調べておらず、青山氏の分析は、そ
れを補って余りある貴重なものです。
 この墜落事件のことを詳しく知らない人たちは、「自衛隊がそ
んなひどいことをするはずがない」といって、あたまから信じよ
うとはしません。ここでいう「自衛隊」とは、正確には国、政府
を意味します。
 護衛艦「まつゆき」から発進した標的機は偶然とはいえ、乗客
乗員524人が乗る旅客機の垂直尾翼を破壊し、操縦不能の状態
に陥れたのです。しかし、機長は4つのエンジンをコントロール
して、機首を立て直し、横田基地への緊急着陸態勢に入ったとこ
ろ、2機の自衛隊機にスクランブルをかけられ、御巣鷹山方向に
誘導されます。それでも、2機のファントムは、何とか不時着し
ようとする123便にミサイルを発射し、撃墜させたのです。そ
して、直ちに墜落現場に入ってミサイルなどの証拠品を回収し、
最後に生存者を含め、墜落現場を火炎放射器で焼き尽くしている
のです。あってはならないことですし、そんなことがあったと思
いたくはありません。しかし、墜落現場の状況、遺体の状況を詳
しく分析した結果は、それを裏付けているのです。
 この事件のすべてが明るみに出るチャンスは、昨日のEJで述
べたように、民主党が政権を奪取したときです。しかし、そのと
き、最高責任者である中曽根康弘氏と当時の防衛庁長官の加藤紘
一氏は生存しており、それが公開のネックになったのではないか
と思われます。なお、中曽根元首相は、現在も健在であり、この
事件については、「墓場まで持って行く」といっています。
 なお、自衛隊と民間航空機のからむ事件といえば「雫石事件」
があります。1971年(昭和46年)7月30日、午後2時に
発生した航空機事故です。自衛隊機と全日空の航空機の空中衝突
事件です。自衛隊機が民間航空路上で訓練していたことが原因で
乗客乗員162人を乗せた千歳発羽田行き全日空ボーイング72
7型機に自衛隊機が衝突したのです。明らかに、自衛隊側に非が
あります。自衛隊機の操縦士はパラシュートで脱出して無事でし
たが、乗客乗員162人は全員死亡したのです。
 実は、この航空事故にはウラがあります。このテーマの最後に
この「事件」について明らかにすることにします。
         ──[日航機123便墜落の真相/060]

≪画像および関連情報≫
 ●ネットで語り継がれる機長の言葉、事故の記憶
  ───────────────────────────
   コントロールを失った飛行機は、右旋回や左旋回を繰り返
  しながら不安定な飛行を続けていた。それでも機内には、懸
  命な操縦を続ける機長や副操縦士たちがいた。緊張の続く現
  場の会話の中で、やがて機長は誰にいうともなくつぶやく。
  「これはだめかも分からんね」
   1985年8月12日、日本航空123便は御巣鷹の尾根
  に墜落した。今年はそれからちょうど20年目にあたる。墜
  落による犠牲者は520人に上り、日本航空史上では最悪の
  事故だと言われている。
   年月が過ぎたとはいえ、いまウェブ上で検索すれば事故の
  情報をいくらでも収集できる。ネット上では当時の事件を報
  じる新聞画像、墜落現場の写真などが見つかる。たった4人
  の生存者のうちの1人による証言なども読むことができる。
   そんな中に、操縦席の会話を記録したとされるボイスレコ
  ーダーの音声を公開しているサイトがある。異常発生から墜
  落まで約30分の音声を短くまとめて再生したもので、ウェ
  ブでは事故機の飛行ルートも重ねて表示している。
   ボイスレコーダーの記録自体は、事故後15年を経過した
  時点で報道向けに公開された。サイト運営者はこうした音声
  ファイルをもとに、コンテンツを編集したようだ。会話内容
  は当時新聞などに掲載されたものとぴったり符号している。
                  https://bit.ly/2DeYKEk
  ───────────────────────────

全日空雫石事故.jpg
全日空雫石事故
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2018年11月13日

●「日航機墜落事件と秘密保護法制定」(EJ第4889号)

 昨日のEJでご紹介したDNA型鑑定の第一人者である押田茂
實氏が、大学での法医学教室での講義に使うため、藤岡体育館の
遺体安置所での検視風景や身元確認状況を撮影した8ミリとビデ
オについて再度取り上げます。この事実は重要だからです。
 押田茂實氏はこれらを任意で群馬県警に提出しています。とこ
ろが、群馬県警は33年間も経過しているのに一向に返却してく
れないのです。その経過を青山透子氏の本から引用します。
─────────────────────────────
◎2017年 5月22日
  押田茂實氏が群馬県警察本部長「山本和毅」殿あてに手紙を
 出す。内容は、日航123便遺体安置所の学術用ビデオ返却の
 依頼である。
◎2017年 5月24日
  午前中、捜査一課長補佐、U氏より電話あり。今後の窓口と
 なるとの説明。若干の時間的猶予をくださいとのこと。
◎2017年 8月10日
  電話があり、折り返し午前10時08分にコールバック。8
 月23日(水)の午後1時に神楽坂法医学研究所に訪問予定と
 の連絡。
◎2017年 8月23日
  午後1時、群馬県警察本部より3名が押田氏の事務所に訪問
 してきた。警察は「お返しできない」と主張。押田氏の「文書
 で回答願いたい」について、警察は「はい」と答えて帰った。
◎2017年11月 1日
  電話連絡14時21〜26分。県警より「返却不可。書類回
 答できない」との返答。
◎2017年12月 4日
  16時40分。電話にて刑事部理事官Sと名乗る人物から、
 「例のビデオは返却できません」との返答。押田氏の「警察の
 最終結論ですか?書類でいただけませんか」との問いに対して
 「そういうことはできません。では・・」と電話を切られる。
              ──青山透子著/河出書房新社刊
          『遺物は真相を語る/日航123便墜落』
─────────────────────────────
 警察とは、とくに法令順守を一番に心がけて仕事をしなければ
ならない役所です。それなのに、任意で提出した個人の所有物を
没収して返却しないのです。どういう法律で警察にはそれが許さ
れているのでしょうか。
 そういう法律はありません。したがって、もし押田氏が法的手
段に訴えたら、群馬県警は敗訴することになります。だからこそ
そのときに不利になる文書は絶対に出さないのです。しかし、法
医学者は、警察と関係の深い仕事であり、まさか法的手段にまで
出ないと考えているフシがあります。
 このことに関係する情報がネット上にあります。以下はそのブ
ログに基づいて記述します。
 2009年に念願の政権交代を成し遂げた民主党は、自民党が
長期政権の間に国民に隠していた重大な事実を暴くことに意欲を
燃やしていたのです。
 しかし、民主党政権下で行われた日米密約に関する調査は、日
本への核持ち込み密約(1960年1月の討論記録)への評価に
見られるように、日米の合意文書そのものの存在は認めつつ「密
約ではない」として本質をゆがめ、国民をだましてきた国家的犯
罪を見逃しました。
 沖縄核密約(合意議事録)に関して民主党政権は、調査期間中
に張本人である佐藤栄作元首相の自宅から原文が発見されたにも
かかわらず、存在そのものを否定するという異様な姿勢です。し
かし、沖縄返還交渉の米側担当官であるハルペリン氏がその存在
と有効性を証言したことは重大です。
 実は民主党政権は、JAL123便墜落事件についても真相究
明に取り組んでいるのです。2010年8月、JAL123便墜
落事件の再調査を、当時国土交通大臣である前原誠司氏が中心に
なって行っています。それは、日本航空が会社更生法を申請し、
社長に京セラの稲盛和夫氏が就いたことに関係があります、稲盛
氏は前原誠司氏の支援者です。稲森氏は、JAL123便墜落事
故に政治犯罪が隠されていることに気が付き、再調査をやるよう
前原氏にアドバイスしたといわれています。
 思えば、JAL123便墜落事件の真相解明は、このときが最
大のチャンスだったといえます。なぜなら、政権が交代し、日本
航空の社長が国土交通大臣前原誠司氏の支援者、稲盛和夫氏だっ
たからです。
 しかし、どうしたことか、前原国土交通大臣は、2011年7
月に123便の事故解説書を公開し、あろうことか、事故原因は
後部圧力隔壁の損傷であると結論づけたのです。この頃はこの説
が生存者の証言などからありえないことがわかっていたにもかか
らわず、平然とこの説を主張したのです。
 この前原誠司氏の結論は、密約文書が佐藤栄作元総理の家から
発見されたにもかかわらず、明文化された密約文書は存在しない
という岡田克也氏の生煮えの結論と同じであり、国民を大いに失
望させたのです。一体何を守ろうとしたのか、それとも脅された
のか。現在の民主党の残党の政党が国民の支持を得られないのは
自民党では絶対にできなかったこれらの調査を実行して欲しいと
いう国民の期待を裏切ったからです。
 法律を冒してまでビデオを返そうとしない群馬県警のケースの
ように国家には絶対に国民に秘匿しなければならない政治犯罪が
あるということからなのか、2011年12月に野田佳彦前首相
は「秘密保護法」を策定するのです。何もかも民主党です。これ
によって野田佳彦氏率いる民主党は、これら戦後2つの政治犯罪
をいったんはパンドラの箱を空けながらも、再びそれらを闇から
闇に葬り封印したのです。これらの首謀者たちは「無所属の会」
にいます。    ──[日航機123便墜落の真相/059]

≪画像および関連情報≫
 ●日本航空123便墜落事故を検証する
  ───────────────────────────
   このように特定秘密保護法案が策定された経緯を知れば、
  この法案の弱点がわかる。そう、日本航空123便墜落事故
  の事故原因である。事故原因が後部圧力壁ではないことは、
  世界の航空関係者が知っている。事故の生存者の証言でも機
  内の圧力は下がっていないのだ。
   しかし、重要なポイントは、中曽根政権がこの事故を死人
  に口無しとばかりに、人命救助をしないばかりか生存者を殺
  害したことである。これを問題とさせないために、事故原因
  の究明に遺族や関係者の目を向けさていることに気がつかな
  かればならない。
   日航機123便墜落事故は、航空機事故というよりも、証
  拠隠滅のための殺戮という事件であり、国際刑事裁判が審査
  する事案であるのだ。日本側が主張する後部圧力壁の損壊を
  事故原因とするために、当時の中曽根政権は、外交ルートを
  通して、ボーイング社と後部圧力隔壁を事故原因とする口裏
  合わせを要請しているはずだ。この外交文書が、米国の公文
  書の公開で明らかになれば、国際刑事裁判所も動かざるをえ
  なくなるだろう。日航123便墜落事故の政治犯罪の首謀者
  である中曽根康弘は存命中である。かれは、この事件の真相
  を墓場まで持っていくと公言している。この法案を成立をほ
  くそ笑んでいるのは中曽根康弘なのだ。(中略)法案が成立
  した現在、日航123便墜落事故を調査をした者は逮捕され
  てしまう。この政治犯罪を証明するのは、特定秘密保護法が
  適用されない日本国外の日本国籍以外の人たちに託すしかな
  い。              https://bit.ly/1DMzYqT
  ───────────────────────────

佐藤栄作/非核三原則.jpg
佐藤栄作/非核三原則
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2018年11月12日

●「任意提出のビデオを返さない警察」(EJ第4888号)

 JAL123便墜落事件に関する真相について、国(政府)は
徹底的に隠す方針です。ここで「国」というのは、政府(自民党
政権)、行政機関、日本航空が一体になった概念です。それにし
ても、国と行政機関はわかるとしても、加害者の日本航空まで完
全に政府と一体化して、真相解明を阻んでいるのは理解に苦しむ
ところです。
 現在、生のボイスレコーダーは日本航空が管理しています。事
故調査委員会は、刑事事件は不起訴決定となったため、日本航空
に返却したのです。したがって、それを公開するかどうかは、日
本航空の判断でできることになります。遺族会としては公開を求
めていますが、日本航空は、今度は機長、副操縦士、航空機関士
の遺族の手前もあるという理由で公開を拒んでいます。拒む理由
になっていません。
 公開するかしないかは一応日本航空の判断としているものの、
おそらく政府(自民党)から「絶対公開するな」という強い指示
が出ているはずです。実際に当時の運輸省は、情報公開法の施行
前に、日航123便墜落事件関連の資料をおよそ1トン分を破棄
しています。森友問題で日本の行政機関は、自分たちの都合で、
重要な文書を平気で廃棄してしまうことを知ってがくせんとした
ものですが、ここでもやっているのです。これに関して、青山透
子氏は、次のように述べています。
─────────────────────────────
 前橋地検の検事正が遺族への報告会で、「時効はないのだから
すべての資料は永久保存する」という話をしており、遺族側もそ
れを望み、将来公開してくれ、と言っている。それを無視して廃
棄した当時の運輸省の公務員としての重い責任も問わなければな
らない。つまり、誰もが聞くことができ、誰もが閲覧できるよう
にしてこそ、それが真実であると言えるのであり、本物を聞かせ
ていない、見せていない、その閉鎖的な現状からは、調査した側
にとって都合の良い部分だけ抜き取った改ざん資料と言われても
仕方がない。
 今もなお森友・加計問題同様、脈々とその「伝統的な方法」で
仕事を続けているとすれば、時の政府に迎合し、恣意的な仕事を
する国家公務員に信頼性などないと断言されるのは当然である。
それとも、政治家からの強い圧力に屈したということなのだろう
か。            ──青山透子著/河出書房新社刊
          『遺物は真相を語る/日航123便墜落』
─────────────────────────────
 青山透子氏は、JAL123便の垂直尾翼を回収した海上自衛
隊護衛艦「まつゆき」が、相模湾でどのような訓練をしていたの
か、防衛省に、ダメもとで、情報開示の法律に基づいて、行政文
書開示請求をしてみたのです。
 そうしたところ、防衛省の事務局から電話があり、次のように
いってきたそうです。
─────────────────────────────
 これに関する文書はない可能性があるので、請求されても見つ
かりませんから、請求を取り下げたらどうですか。
               ──青山透子著/河出書房新社
   「日航123便墜落/疑惑のはじまり/天空の星たちへ」
─────────────────────────────
 これもまことにヘンな話です。わざわざ電話してくるのもヘン
ですが、はじめからないと決めつけているのです。もっとも演習
内容などは国家機密であるといわれてしまえば、それまでのこと
ですが、請求者がどういう人物か知ったうえで、電話をしてきた
ものと考えられます。
 もっとひどい話があります。押田茂實氏という人がいます。D
NA型鑑定第一人者として、法医学の世界で活躍してきた人で、
123便墜落事件でも、群馬県藤岡市民体育館における遺体の確
認作業も参加し手伝っています。そのとき、学術的な研究のため
身元確認状況を撮影した8ミリフィルムとビデオを少しでも役立
てばと警察に任意提出したのです。
 ところが、その8ミリフィルムとビデオがいつまで経っても返
却されないのです。そこで押田茂實氏は、2017年5月22日
付で群馬県警警察本部長宛てに手紙を出し、すべてを返却するよ
う催促したのです。
 そうしたら、群馬県警から3人の警察官が押田氏の家にやって
きて次のようにいったというのです。
─────────────────────────────
 ビデオは、はい、あります。8ミリ3本とベータ2本ですね。
見ました。あまりに凄すぎて、お返しできない。
              ──青山透子著/河出書房新社刊
          『遺物は真相を語る/日航123便墜落』
─────────────────────────────
 任意提出された物品を警察が没収し返却しない。あり得ないこ
とです。警察としては無理は承知でそういっている感じです。返
却して、それが公開されるのを明らかに恐れているのです。これ
について、青山氏は次のように怒りをぶつけています。
─────────────────────────────
 それは33年も経って刑事事件の資料でもない上に、所有者が
明確にわかり、学術的に大学で使用する目的で撮影したものであ
る。任意提出であるにもかかわらず、何の権限があって返さない
と言えるのかと呆れてしまった。それはまるで、「警察に自分の
財布を預けてくれと言われて預けておき、あとで返却してくれと
いったら、財布の中身がお金でいつぱいで凄すぎて返せない」に
等しい強弁である。いつから日本の警察は勝手に他人のものを没
収できるようになったのか。これは明らかに業務上横領罪であっ
て、他の警察官を呼んできて、3人を逮捕してもらわなければな
らない事件である。        ──青山透子著前掲書より
─────────────────────────────
         ──[日航機123便墜落の真相/058]

≪画像および関連情報≫
 ●群馬県警と東京新聞の不思議な関係/青山透子氏
  ───────────────────────────
   群馬県警が自分たちが著作権者の捜査資料を、このタイミ
  ングで東京新聞に提供したようですが、記事にはどこから入
  手と書いていない不思議な記事です。恐らく群馬県警自ら開
  示したのでしょう。ご遺族には「実は内々で、群馬県警から
  こういう資料を入手しましてこれに対するコメントを」と東
  京新聞記者が持って行ったのでしょう。だから、コメントの
  冒頭から、群馬県警はよくやってくれたという会話に繋がっ
  たと容易に想像出来ます。
   しかしながら、この書類を前橋地検に渡していたのであれ
  ば、起訴可能だったはずだと弁護士も語っているように「予
  見可能性出来たので起訴すべきだった」というコメント通り
  起訴出来たはずです。群馬県警が今回、わざわざ出したこと
  が裏目に出たと思います。そして起訴出来なかった理由が他
  にある、と思われても仕方がありません。
   恐らく、この記事によって日航と運輸省の無責任さを前面
  に出して、過去を正当化する方向付けをしたかったのだろう
  と推定されます。さらに拙著にて、当時の河村本部長に関す
  ることや群馬県警が当時の学術ビデオを今でも返還しない、
  という、業務上横領的な発言をしたことに対する罰の悪さと
  も言えます。メンツを優先させたのか、自分たちの正当性を
  言いすぎると、逆におかしいことが明らかになるものです。
                  https://bit.ly/2QvQVhF
  ───────────────────────────

藤岡体育館に集められた遺体.jpg
藤岡体育館に集められた遺体
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2018年11月09日

●「上官の命令には絶対服従すべきか」(EJ第4887号)

 青山透子氏が123便墜落事件の一連の著書において、一番強
調しているのは「遺体の損傷度のひどさ」です。あまり文章にし
たくない表現ですが、青山氏の表現によると、「遺体はベンゼン
と硫黄の含まれたタール系の燃料で二度焼きされている」という
ことになります。何度も引用させていただいていますが、遺体と
遺物だけで、次の一冊の本にまとめられているのです。
─────────────────────────────
           青山透子著/河出書房新社刊
     『遺物は真相を語る/日航123便墜落』
─────────────────────────────
 この本のなかで青山氏は、今なお事件を隠蔽しようとする関係
者に対して、次のように強い怒りをぶつけています。
─────────────────────────────
 一般人が手に入るはずもない武器燃料で焼かれた可能性をどう
説明すればよいのだろうか。成分分析の結果とこれらの写真を見
比べながら、私は心の底から湧き出てくる激しい怒りを覚えた。
こういう実態を直視せずに、33年間もこれを放置し続けてきた
ことへの強い憤りと当時の関係者への怒り、そして人間性への失
望である。何も知らなかった私たちは、この事実が捻じ曲げられ
て気付かなかったことで、結果的に隠し通してきた人間の思う壷
になっていたことは否めない。
 事故だとしても「二度も焼かれる」必然性はなく、乗客のみな
らず15人の社員も焼かれた日航はこれをどう受け止めるのか。
何もせずに、このまま見て見ぬふりをするのであれば、日航も加
担したと言われても仕方があるまい。それほどまで生データの開
示をしないのであれば、逆に生のボイスレコーダーに真相が記録
されていることが明白となる。政府が隠蔽し、その指示であるか
らといって、いつまでも情報を開示できないことで大きな罪を背
負っていることを自覚しなければならないのである。
 日航123便が墜落したきっかけは過失であったかもしれない
が、その後の対応で早急な救助ができたにもかかわらず、意図的
にしなかったのは重大な不作為の犯罪である。さらにべンゼンと
硫黄の含まれたタール系の燃料を使って現場を燃やしたとなれば
少なくとも死体損壊罪ともなる。もしも殺人事件であれば、時効
は成立していない。       ──青山透子著の前掲書より
─────────────────────────────
 それが事実であるかどうかは別として、飛行機の推進力を失い
つつも、一人でも多くの生存者を出そうとして、なおかつ不時着
を試みるJAL123便に、追尾するファントム戦闘機に対して
「ミサイルを発射せよ」という命令が出されたとします。血も涙
もない命令であり、明らかに犯罪です。この場合、ファントムの
操縦者は、その命令を拒否することはできないのでしょうか。
 池田昌昭氏による「仮説による対話」に、上官からミサイル発
射の命令を出されたファントム内における上官と部下の対話の一
部を再現します。ファントム機内における上官と部下の対話です
が、部下は命令の実行に抵抗しています。
─────────────────────────────
・自衛隊は国家機関の背骨であり、自衛隊は弱みを国民に見せて
 はならない。自衛隊がガタつけば今の支配者にとっても国民の
 批判が集中し、今までの特権や権益が失われる。今までやって
 きたことが無駄になる。
・相手は、民間機です。戦争用の飛行機ではない。多数の民間人
 が搭乗しています。
・だから、極秘に作戟を行うのである。
・「天網恢恢疎にして漏らさず」のことわざの通り、悪事は必ず
 露呈することなのです。
・「天知る、地知る、吾知る」のことわざの通りなのです。分か
 らなければ良いのである。
・現に標的機の訓練のことは誰も知らない。知っているのは一部
 の幹部だけである。
・そのためには、秘密裏にことを運ばなければならない。「蟻の
 一穴」のことわぎがある。情報が漏れないように、しかも情報
 をコントロールし、国民の目を真実から逸らすのである。
             ──池田昌昭著『御巣鷹山ファイル
       /JAL123便墜落事故真相解明』/文芸社刊
─────────────────────────────
 軍隊では、上官の命令には絶対服従しなければならないことに
なっています。自衛隊では、自衛隊法第57条に次のように定め
られています。
─────────────────────────────
(上官の命令に服従する義務)
 第57条:隊員は、その職務の遂行に当っては、上官の職務上
の命令に忠実に従わなければならない。
─────────────────────────────
 しかし、ドイツでは、「軍人法」という法律の第11条に「服
従」という規定があり、次のように定められています。
─────────────────────────────
(1)兵士は上官に従わなければならない。兵士は最大限の力で
   命令を完全に良心的に、かつ遅滞なく実行しなければなら
   ない。ただし、命令が人間の尊厳を侵し、勤務目的のため
   に、与えられたものでない場合は、それに従わなくても、
   不服従とはならない。
(2)命令は、それによって、犯罪が行われるであろう場合には
   兵士は命令には従ってはならない。
   ──ドイツ「軍人法」第11条/青山透子著の前掲書より
─────────────────────────────
 どうでしょうか。自衛隊法の規定は、あまりにも簡単過ぎ、ど
のようにでも解釈ができます。こういうところから、パラハラが
生まれてくるのではないかと思います。
         ──[日航機123便墜落の真相/057]

≪画像および関連情報≫
 ●軍隊では上官の命令に絶対服従か/ヤフー知恵袋
  ───────────────────────────
  【質問】
  「兵士」は上官の命令に絶対服従ですか ?
  もしそうだとすると、自分の良心に反することも「命令」に
  よってはしなくてはならないのでしょうか、だとすればある
  意味「奴隷」に近いです。そこであらためて、最初の質問で
  す。「兵士」は上官の命令に絶対服従ですか ?
  【回答】
  ID非公開さん
  先生から聞いた話。先生は戦時中陸軍の下士官でした。ある
  日士官学校を出たての少尉と電車に乗ったところ、目の前に
  座っていた男が洋書を読んでいたそうです。上官はいきなり
  その男の首を掴んで往復ビンタをして「この戦時下に敵性国
  家の本を読みやがってー」と怒鳴ったそうです。
  ところがその本はドイツ語で、殴った相手は海軍大佐だった
  からさあ大変。次の駅でおろされて上官はボコボコに。「陸
  軍の少尉がいつから海軍の大佐より偉くなったんだ。判るま
  で立っておれ」と命令され、結局上官の上官が海軍に謝りに
  行き「陸軍ではドイツ語と英語の差が判らんらしい」とかさ
  んざん嫌みを言われ許して貰うまで立っていたそうです。上
  官は帰隊後上官からボコボコにされ、以来すっかり借りてき
  た猫みたいにおとなしくなったそうです。「上官の命令は天
  皇陛下の命令と思え」なんて言って、突っ走るのも怖いです
  よね。             https://bit.ly/2D9eloU
  ───────────────────────────

中曽根康弘元首相/加藤紘一元防衛庁長官.jpg
中曽根康弘元首相/加藤紘一元防衛庁長官
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2018年11月08日

●「それは自衛隊の仕組まれた計画か」(EJ第4886号)

 EJでは、自衛隊の標的機がJAL123便の尾翼に衝突した
のは、あくまでアクシデントであると考えています。しかし、青
山透子氏は、もしかすると、123便にぶつけるつもりはなくて
も、123便を一応の標的として狙ったのではないかと考えてい
るようです。これは青山透子氏の仮説です。
 青山氏がそうではないかと考える根拠は、JAL123便には
次の3つの要素が揃っていることです。
─────────────────────────────
      1.機長の制服が完全に消えている
      2.JA8119には事故歴がある
      3.機長が自衛隊出身のパイロット
─────────────────────────────
 つまり、こういうことです。護衛艦「まつゆき」では、JAL
123便を敵機と想定し、国産ミサイル開発の誘導プログラムを
使って標的機を誘導しますが、すれすれのところで衝突は避ける
よう誘導して、データを収集します。データ収集が護衛艦「まつ
ゆき」の重要任務なのです。
 しかし、万が一衝突という事態になったとき、自衛隊として、
なんらかの保険が必要である──それが上記の3つの要素に適合
する飛行機であるというわけです。青山透子さんは、これについ
て、次のように書いています。
─────────────────────────────
 修理の事故歴のある飛行機が、飛行中の夕刻から夜にかかる時
間に突発的事態が発生した。その前日の8月11日まで防衛庁発
表では、国産ミサイルの開発研究で洋上訓練を行っており、護衛
艦「まつゆき」も試験運転の最中というのは紛れもない事実であ
る。これらをつなぎ合わせて考えてみると、何が見えてくるのだ
ろうか。
 試運転中に国産ミサイル開発の誘導プログラムのデータ取りが
必要であったとすれば、何かあった場合の保険として飛行機に事
故歴のあることが絶対の必要条件であったのではないだろうか。
そして、民間出身のパイロットではなく、自衛隊出身のパイロッ
トならばもみ消せるかもしれないという点が十分条件とすれば、
両者が揃うことが必要十分条件であると言える。さらに、万が一
の場合も考えると、日中よりも夕刻から夜にかけての暗さが好都
合であった、とも考えられる。 ──青山透子著/河出書房新社
          『遺物は真相を語る/日航123便墜落』
─────────────────────────────
 この場合、過去に事故歴のある飛行機と自衛隊出身のパイロッ
トという2つの条件は絶対に揃う必要があります。しかし、パイ
ロットは変更になることがよくあります。
 日本航空の場合、JA8119に高濱機長が乗務するというス
ケジュールが決まるのは、通常は1か月前です。しかし、よほど
のことがない限り、この日の高濱機長の乗務の変更はあり得ない
のです。どうしてかというと、この日の高濱機長の乗務は、佐々
木副操縦士の機長昇格実技審査を兼ねていたからです。
 そうであるとすると、対象として選ぶ飛行機は、JA8119
(日本航空123便)しかあり得ないということになります。自
衛隊がそのような計画を本当に実施するとは常識では考えられな
いことですが、仮説としては成立します。青山透子氏は、その仮
説を立証するためにも、墜落現場にある遺物の鑑定や分析をはじ
めたと自著に書いています。
─────────────────────────────
 全体の安定性を優先する裏に、実は隠したい何かが潜んでおり
その究極の理由は、他者のためでも国益のためでもなく、自己満
足や保身である場合が多い。隠したい側の人間は、特に自覚する
ほどの小心さに支配され、あらゆるプレッシャーに耐えて組織と
の折り合いをつけて生きる術を身につけてきた人間とも言える。
そういう人は異論や違和感のあるものは受け入れ難い。おそらく
この仮説についてもそうであろう。
 もし少数者が主流となり得る方法があるとすれば、それは絶対
的証拠物の提示である。それが出てこないと多数者は異論を支持
することに安心できないのである。そこで、御巣鷹の尾根に残さ
れた遺物から、科学的方法によって推定の裏付けができないだろ
うかと考えて、その証拠物を分析することにしたのである。
                ──青山透子著の前掲書より
─────────────────────────────
 もうひとつ、青山氏の本でないとわからない関連情報がありま
す。それは1978年に大阪空港で起きた日航機のしりもち事故
を担当した検査官の自殺です。1987年3月17日付の夕刊各
紙が伝える報道は次の通りです。
─────────────────────────────
 1987年3月17日の各紙夕刊報道によれば、17日の早朝
午前五時頃、機械電子検査検定協力職員で元運輸省東京航空局羽
田駐在航空機検査長のS・Tさん(57歳)が、浴室で殺虫剤を
飲んで死んでいるのを家族が見つけた、とある。遺書もあったた
め、日航ジャンボ機墜落事故で群馬県警から事情聴取を受けたこ
とに気落ちしての自殺とみている。Tさんは、1978年に大阪
空港で起きた日航機しりもち事故当時、検査官をしていた。事実
上の飛行許可である耐空証明を出していたことから、同月10日
から群馬県警特捜本部より参考人として事情聴取を受けていた。
運輸省航空局は、大変なショックを受けている、しりもち事故担
当の検査員の年長者であり、非常にまじめでおとなしい人だった
と語っている、とある。     ──青山透子著の前掲書より
─────────────────────────────
 JAL123便墜落事件で、520人が亡くなっただけではな
く、自衛隊にも日本航空にも複数の自殺者が出ています。そう考
えると、この事件の真相を明らかにする責務が関係者全員にある
と思います。このまま幕引きはできないのです。
         ──[日航機123便墜落の真相/056]

≪画像および関連情報≫
 ●安倍首相と中曽根元首相の発言の類似性
  ───────────────────────────
   先日、あるジャーナリストと会談をした際、彼は思わず、
  「まさか自衛隊がそんなことするはずないじゃないですか」
  とおっしゃった。その根拠を尋ねるとうーんと沈黙された。
  つまり、誰でも心の中に、まさか、という思いがあって、ど
  うしてもその現状を受け入れがたいという心理が働く。私が
  ヒューマン・リソース、人的資源戦略や顧客心理の授業をし
  ていた時に、よく学生たちと一緒に考えてきた心理である。
   「まさか、そんな事は起きないと思っていた」は、重大な
  事態が何か起きてからでは、特にプロならば言い訳にはなら
  ない。一般的なニュースを見ても、例えば「いつもおとなし
  いあの人がまさか殺人者とは」、「一家で仲が良さそうだっ
  たのにまさか親子で殺し合いとは」とか・・よくある近隣関
  係者へのインタビューの会話である。まさかという「魔の棲
  む坂」を登って冷静に上から見てみると、下からでは見えて
  こない何かが見えてくるのである。
   さて今回は、第一章で重点的に読んでほしい部分を取り上
  げる。今日において防衛費が膨張し続けている中で、現在の
  安倍首相は長距離巡航ミサイルと一基約1千億円の陸上配備
  型弾道ミサイル迎撃システム「イージス・アショア」2基導
  入を検討しているそうだが、この話は実は1985年8月7
  日の中曽根康弘元総理大臣の言動と非常に似ている。日航1
  23便墜落の5日前、防衛庁(当時)は地対艦ミサイル部隊
  新設と地対空ミサイル部隊の新型パトリオットミサイルへの
  切り替えを国防会議で公式に報告した。
                  https://bit.ly/2OrFdTl
  ───────────────────────────

JA8119/JAL123便.jpg
JA8119/JAL123便
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2018年11月07日

●「123便墜落事故と日本航空倒産」(EJ第4885号)

 JAL123便墜落事件の最も重要な関係者の1人である加藤
紘一防衛庁長官(当時)は何をしていたのでしょうか。加藤長官
に関しては、さっぱり情報が出てこないのです。ちなみに、加藤
紘一氏は、2016年9月9日に亡くなっています。
 調べてみると、123便墜落事件から1週間後の8月20日の
閣議において、加藤長官は、自衛隊の救出活動について報告して
います。通常自衛隊の活動を閣議で報告するのは極めて珍しいこ
とです。当時墜落場所の特定の遅れに世間の批判が高まっていた
ので、それを払拭するために「自衛隊はこんなに頑張っている」
ことを示すために行ったのではないかと思います。
 加藤紘一防衛庁長官について、青山透子氏は次のようにコメン
トしています。
─────────────────────────────
 加藤紘一防衛庁長官は、この時46歳。なんと今の私よりも若
い。自分を顧みるに、この時、どれほどまでの決断が出来たので
あろうか。今でこそ御実家に放火という理不尽なことを経験され
ても、真に国民を思う政治理念を曲げない意志をお持ちのようだ
が・・・。今回の事故対応を情緒的な面から物事をとらえるので
はなく、科学的に分析して、万が一次に起きた場合にどうすべき
なのかを考えるのが政治家としての務めであるはずだ。
 なぜならば、10年後の元米空軍中尉の証言通り、はっきりと
墜落地点は分かっていたのであり、それを日本側に伝えて日本側
が今救助に向かっていると言ったのを聞いているのだから、防衛
庁長官として情報がなかったとは言えない立場である。
 それにもかかわらず、墜落現場が翌朝まで特定されず、救助が
遅れたという事実・・・。なぜ分からなかったのか。また、なぜ
分からないと言ったのか、そのことを重要視すべきであろう。
 520名の命よりも優先させた何かがあった・・・。その事実
が1995年に各新聞に報道された、米軍側からの証言で明らか
にされたのだった。      ──青山透子著/河出書房新社
   「日航123便墜落/疑惑のはじまり/天空の星たちへ」
─────────────────────────────
 青山氏の文中に出てくる「10年後の元米空軍中尉の証言」と
いうのは、9月21日のEJ第4854号でご紹介した当時横田
基地所属のアントヌーチ航空士の証言のことです。
 ところで、2010年1月19日(火)の夕刻に何が起きたか
ご存知ですか。
 この日、日本航空株式会社、日本航空インターナショナル、ジ
ャパンキャピタルの3社が、東京地方裁判所に会社更生法の適用
を申請したのです。青山透子氏は11月19日の「119」が気
になったといいます。なぜなら、それは、墜落機の個別認識記号
だからです。
─────────────────────────────
           JA8119号機
─────────────────────────────
 「JA」は日本国籍、「8」はジェット機をあらわし、次の3
桁の数字「119」が個別の番号です。個別識別番号と同じ日に
倒産とは、奇妙な偶然です。まさか、倒産するとは考えられない
大企業の倒産ですが、実は、JAL123便墜落事件の全貌が明
らかにされる可能性があったのです。それは、当時の政権が民主
党政権であったからです。おそらく中曽根康弘氏と加藤紘一氏は
肝を冷やしたのではないでしょうか。これについては、このテー
マの最後に明らかにします。
 2兆3221億円の負債総額。かつて同じ会社に籍を置いてい
た人間として、青山透子氏は、時の前原国土交通大臣の更生のや
り方について次のように疑問を呈しています。
─────────────────────────────
 前原国土交通大臣は、公共交通機関である飛行機を止めない事
ばかりを強調した。それによって、ある日突然の倒産ではなく、
事前調整型の倒産は、2月20日に株式が上場廃止となったもの
の、多額の債権放棄やマイレージ保護などの報道の中で、実際に
そこで働く人々に対して、何の危機感も持たせないまま毎日の延
長上でその日を迎えさせた。これは、これから始まる企業更生に
不可欠な従業員たちの自己洞察力と自己改革、そして現実の重さ
を認識する最大のチャンスを失ったことになる。
 人間とは所詮、お金が入ってこない(お給料が人らない)現実
や解雇、さらにロビーのシャッターが朝突然閉じることや、燃料
をストップされて飛行機が飛ばない、乗客がひとりもいないなど
を経験し、崖っぷちに立たされないとどうしても倒産という現実
を受け入れられないものだからである。
                ──青山透子著の前掲書より
─────────────────────────────
 JAL123便墜落事件の加害者である日本航空に関しては、
多くの疑問があります。墜落現場に自衛隊の特殊部隊(?)と一
緒に日本航空のスタッフが相当数入っていたとの情報は多くあり
間違いないと思います。これがもし、本当であるとすると、加害
者が警察よりも早く墜落現場に入るのは、証拠隠滅もできること
になり、絶対にあってはならないことです。
 しかし、日本航空は、この事件では、政府、自衛隊とまるで一
体です。そして、山下悠介検事正が明かしているように、検察の
捜査に関しては、徹底的に非協力であったといいます。何か大き
な秘密を背負っているように見えます。
 そして、事故調が解散した後、ほとんどの関係書類は破棄され
てしまいましたが、ボイスレコーダーやフライトレコーダーは日
本航空が現在も管理しています。遺族側の代表は、繰り返しそれ
らの公開を求めていますが、日本航空は頑なに応じようとはして
いないのです。一体何を隠そうとしているのでしょうか。
 だからこそ、日本航空が倒産したとき、ここが最大のチャンス
だったのです。民主党政権は、これらをどのように処理したので
しょうか。    ──[日航機123便墜落の真相/055]

≪画像および関連情報≫
 ●JALはなぜ破綻したのか
  ───────────────────────────
   JAL破綻の直接の引き金となったのは2008年のリー
  マン・ショックだった。しかし、そうしたショックに耐える
  ことのできない脆弱な企業体質が長年にわたって形成されて
  きたことがより大きな原因だといえよう。例えば効率の悪い
  大型機材を大量に保有せざるを得なかったこと。ここでいう
  「効率が悪い」とは、供給座席が需要に対して過剰になりが
  ちであり、安売りをしてもなお空席が生じる便が多く見られ
  ることである。ただ、これは主に、日本の航空市場の特殊性
  に起因するものである。日本では、国内線の基幹空港である
  羽田空港が非常に混雑しており、大量輸送によって需要に対
  応していかなければならない状況が続いてきた。そのため、
  大型機材での運航が推奨されてきた事情がある。しかし、多
  くの地方空港が建設されていく中で、需要の大きさも多様化
  し、必ずしも大型機が望ましいとはいえなくなってきた。
   投資の失敗も大きい。ホテルなどの関連企業を増やし、総
  合的なサービスの提供による競争力の強化を図ったが、採算
  性の見通しの甘さから、採算性を見込めないものが本業の足
  を引っ張る結果となった。また、過去における長期にわたる
  為替差損も、JALの放漫経営の象徴としてよく取り上げら
  れている。労働組合の問題もある。複数の労働組合が存在し
  ているため、複雑な労使関係だけでなく、労々関係も企業経
  営を極めて難しいものとしてきた。https://bit.ly/2DkYTad
  ───────────────────────────

前原国土交通大臣(当時).jpg
前原国土交通大臣(当時)
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2018年11月06日

●「123墜落事件関係者は全員無罪」(EJ第4884号)

 JAL123便墜落事故関連の訴訟スケジュールを以下にまと
めてみることにします。
─────────────────────────────
◎1988年12月01日
 ・群馬県警が、日本航空12名、運輸省4名、ボーイング社4
 名の合計20名を書類送検。
◎1989年01月23日
 ・前橋地検と東京地検が合同捜査開始。東京地検が米司法省を
 通じ、ボーイング社への事情聴取を求めたが、拒否される。
◎1989年09月15日
 ・前橋地検、20名全員を不起訴にする方針を固める。
◎1989年11月22日
 ・不起訴処分決定。
◎1990年04月25日
 ・遺族は、前橋地検の不起訴を不服として、前橋検察審査会に
 審査を申し出たが、前橋検察審査会が「不起訴相当」を決定。
◎1990年07月17日
 ・この事件担当の前橋地検検事正・山口悠介氏が異例の説明会
 を実施。
◎1990年08月12日
 ・公訴時効成立。
─────────────────────────────
 ここで強調しておきたいことは、JAL123便墜落事件の関
係者は、誰ひとり罪に問われることなく、公訴時効を迎えている
ことです。520名がそれによって亡くなっているにもかかわら
ず、誰も罪に問われていないのです。
 そもそも、この「検察不起訴決定」→「不服として検察審査会
での審査申し立て」→「不起訴相当決定」──これはいつもお定
まりのコースのようになっています。とくに安倍政権になってか
らは、政治家や官僚のどんな不祥事でも、この定例コースに乗っ
て不起訴になっています。検察に大きな問題があるからです。
 しかし、JAL123便墜落事件の場合は、遺族側からの強い
要望により、1990年07月17日に担当検事である前橋地検
検事正・山口悠介氏が説明会を開いています。このような説明会
を開くこと自体が異例であるうえに、その説明内容もかなり大胆
なものだったのです。
─────────────────────────────
 私が検事正になったとたん、すでにマスコミが「検察、不起訴
か」などと報道し始めた。いったい、どうなっているのかと驚い
た。さらに捜査会議を開いたら、部下の検事はだれもこの事件は
起訴出来ないと言った。それでも私は様々な角度から捜査した。
 捜査の結果、わかったことは修理ミスかどうか相当疑わしいと
いうことだ。事故原因には色々な説がある。タイ航空機の時には
乗客の耳がキーンとしたという声があったが、今回はない。圧力
隔壁破壊がいっぺんに起きたかどうかも疑わしい。
 まず、ボーイング社が修理ミスを認めたが、この方が簡単だか
らだ。落ちた飛行機だけの原因ならいいが、全世界に飛ぶ飛行機
の欠陥となると売れ行きも悪くなり、打撃も大きくなる。そこで
いち早く修理ミスとした。事故調査委員会の報告もあいまいだ。
(膨大な書類を指して)これを見ても真の原因はわからない。事
故後の機体や遺体の写真、ボーイング社、日航、運輸省関連調書
何をみても事故の報告書でしかなく、それからは本当の原因など
は何もわからない。皆さんはわれわれが何か特別に大切なものを
持っているように思っているかもしれないが、本当に原因は不明
なのです。         ──前橋地検検事正・山口悠介氏
               ──青山透子著/河出書房新社
   「日航123便墜落/疑惑のはじまり/天空の星たちへ」
─────────────────────────────
 この山口悠介検事正は大変立派な方であると思います。事故調
の最終報告に対して疑問を呈しているからです。こういう正義感
を持っている検事は今どき珍しい。事故調のメンバーは政府が決
めており、そのメンバーの出した結論に疑問を呈することはなか
なかできないことです。
 しかし、この山口検事正の勇気ある発言を遺族は悪くとったよ
うです。遺族から見ると、政府(事故調)も日航も検察もすべて
一体と考えているからです。したがって、次のようなことをいう
遺族もあったようです。
─────────────────────────────
 何をいまさら!言い逃れか!それは、あなたたち検察が十分調
査しなかった、自分の仕事をしなかったからなのではないか。
                ──青山透子著の前掲書より
─────────────────────────────
 また、山口検事正は日本航空の対応についても「整備陣もやる
べきことをやっていなかった事実もある」という鋭い批判をして
います。それに加えて、日航関係者が一貫して取り調べに関して
非協力的であったことをその会見で明かしています。
 山口検事正によると、日航関係者を任意で呼んで調べると、質
問されたことを逐一メモにとり、それ以後呼ぶ人は、まるで判を
押したように同じ答えをするというのです。例えば、検事が答え
方に苛立って机をたたくと、「×時○分、△△氏机をたたく」と
いうようにメモに書くというのです。これについて、青山透子氏
は、次のように日航を批判しています。
─────────────────────────────
 同じ会社の社員だった者として、これは許せない態度である。
彼らは整備士という仕事に人生を懸けたプロの集団だったのでは
ないか。自ら責務をもって仕事をしていたのではないか。これが
ナショナルフラッグキャリアの看板を背負って昼夜問わず働いた
仲間のすることだろうか。    ──青山透子著の前掲書より
─────────────────────────────
         ──[日航機123便墜落の真相/054]

≪画像および関連情報≫
 ●坂本九さんの死は飛行機による事故死!
  ───────────────────────────
   2015年8月15日に日本航空123便墜落事故で、坂
  本九さんの没後30周年の追悼番組がBSにて放送されまし
  た。また坂本九の奥さんが、徹子の部屋に出演したとして、
  ニュースになりました。坂本九は飛行機事故で遺体も大変な
  状況になったということです。
   坂本九さんが亡くなられたのは、日本航空123便墜落事
  故の時。事故が発生した日は夏休みの時期であり、「お盆の
  入り(1985年8月12日)」の前日であったため、当日
  の日本航空や全日本空輸、東亜国内航空の各便には出張帰り
  のビジネスマンのほか、帰省客や観光客が多く搭乗していた
  そうです。最終便が満席で乗れない客が発生することを防ぐ
  理由もあり、最終便1本前である当便はほぼ満席の状態だ。
  このため、仕事を終えて帰宅しようとした全日空の社員も自
  社便が利用できず、数名が当便に搭乗していたと記録されて
  います。この飛行機事故では4名の生存者があったことで有
  名です。
  日本航空123便墜落事故は、1985年8月12日、東京
  (羽田)発大阪(伊丹)行同社定期123便ボーイング74
  7SR−46が、ボーイング社の不適切な修理が原因とされ
  る後部圧力隔壁の破損によって、垂直尾翼と補助動力装置が
  破損し油圧操縦システムも全喪失しました。
                  https://bit.ly/2AJU0F6
  ───────────────────────────

故坂本九氏.jpg
故坂本九氏
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2018年11月05日

●「機長の制服はなぜなくなったのか」(EJ第4883号)

 青山透子氏の本では、JAL123便墜落事件についての知ら
れざる事実が明らかにされてきています。それらを一つずつご紹
介していくことにします。
 JAL123便墜落事件に対して、最高の責任者であるばずの
当時の中曽根首相と加藤紘一防衛庁長官が、いかに緊張感のない
対応をしていたかを示す出来事があります。
 1985年8月13日のことです。123便事故の翌日です。
何しろ墜落現場が特定されたのが13日の朝のことですから、日
本中が騒然となっていたときです。520人の死者が確定してい
るのです。その時点では、中曽根首相も加藤防衛庁長官も地上か
らはもちろん、ヘリコプターでの墜落現場の空中視察すらしてい
ないのです。そのとき、2人がやったことについて、青山透子氏
は次のように述べています。
─────────────────────────────
 1985年8月14日のジャパンタイムズ紙によると、事故発
生の翌日、13日に中曽根首相と加藤紘一防衛庁長官が、マンス
フィールド大使同席のもとで、米軍のクラフ米太平洋軍とティッ
シュ在日米軍司令官に会い、加藤紘一防衛庁長官からクラフ氏に
勲章を渡している。その勲章は
     The First Class Order of the Rising Sun
というものであったと記載されている。そして米空母ミッドウェ
ー艦載機の発着訓練基地の確保、自衛隊の継戦能力の充実、防衛
協力に関する首相の努力等について語り合っていたという。
 (中略)しかしながら、12日に墜落事故が起きて、今まさに
現場で遺体を収容している翌日に勲章を渡すとはどういうことな
のだろうか。このようなおめでたい話には緊急性がなく、通常は
お互いに配慮して延期することも可能なはずである。
 アントヌッチ氏の証言によると「墜落上空でいち早く駆け付け
た米海兵隊を帰還させて他言無用の支持を出した」在日米軍の最
高責任者に、墜落現場にまだ行っていない首相が、何に対して勲
章を授けて上げたのだろうか。 ──青山透子著/河出書房新社
  『日航123便/撃墜の新事実/目撃証言から真相に迫る』
─────────────────────────────
 このことからわかるように、時の中曽根首相の123便事故に
対する対応は非常に冷たいものです。この事件には、米軍も少な
からず関与しているにもかかわらず、こともあろうに勲章の授与
式をやるとは何事でしょうか。ここは、延期すべきであり、延期
しても米軍に対して失礼にあたらないはずです。
 次の事実は「高濱機長」の制服の紛失事件です。これについて
は、10月25日のEJ第4876号でも事実を指摘しています
が、機長だけ制服がなくなっている事実です。
 123便のコックピットでは、左に高濱機長、右に佐々木副操
縦士、後方には福田航空機関士が座っていたのです。比較的狭い
場所であり、本来であれば、3人とも遺体は同じような状況であ
るはずです。しかし、高濱機長の遺体だけが異常であり、制服も
なくなっています。
 次は、3人の検視番号です。番号が若いほど、早く確認された
ことを意味しています。
─────────────────────────────
        高濱機長 ・・・・ 125番
     佐々木副操縦士 ・・・・  80番
     福田航空機関士 ・・・・ 461番
─────────────────────────────
 一番早く見つかったのは佐々木副操縦士の遺体です。着衣、す
なわち制服は残っていて、それで身元確認が行われています。し
かし、遺体は炭化していたのです。福田航空機関士については、
発見は遅かったのですが、服装で身元確認が行われています。制
服は残っていたのです。遺体は副操縦士と同様炭化していたので
す。しかし、高濱機長の遺体は炭化しておらず、制服がないので
す。機長だけ制服がないのは明らかに異常です。誰かが密かに持
ち去ったとしか考えられません。
 整理してみます。狭いコックピット内の3人は同じ状況である
ので、制服については、3人とも着ているか、3人とも着ていな
いかであればわかるし、遺体の状況についても、3人とも炭化し
ていないか、3人全員が炭化していないのであれば理解できるの
です。しかし、機長だけ、制服がなく、炭化していないのです。
なぜ、機長だけ状況が異なるのでしょうか。
 横田基地への着陸を自衛隊機に阻止されて、ベテランの高濱機
長は、何が起きているか悟ったものと思われます。それについて
機長は何らかのメモを書き、制服のポケットに入れたのではない
かと疑心暗鬼になったのです。そこで、最初に現場に入った特殊
部隊が機長の制服を探し、おそらく持ち去ったのではないかと思
われます。青山氏は次のように述べています。
─────────────────────────────
 あの時、機内では墜落を悟った乗客たちはそれぞれ遺書を書い
ていた。胸ポケットに忍ばせたり、社用の封筒に書き残したり、
時刻表に書いたり、様々であった。もし、機長だけがなんらかの
事実を知り、それを書き記していたとしたらと考えてみても、必
死の操縦で機体をたてなおしていた最中に遺書のようなものを書
き残すことは不可能に近い。
 あくまでも想像の範囲だが、一つの可能性として考えられるこ
とは、機長の制服の中に「何かがある」ことを恐れた人が、墜落
後に回収したのではないだろうかということだ。つまり、副操縦
士や航空機関士とは全く関係がないが、機長だけが「知った」何
か、である。そして万が一、それが表に出ては困ると考えた人が
いるのではないだろうか、としか制服の行方がわからない理由が
思い当たらないのである。   ──青山透子著/河出書房新社
          『遺物は真相を語る/日航123便墜落』
─────────────────────────────
         ──[日航機123便墜落の真相/053]

≪画像および関連情報≫
 ●遺物から迫る123便事件/隠蔽、捏造、改ざんの連鎖
  ───────────────────────────
   「朝まで燻り、炎まで上がっている現場状況、消防団の臭
  いや目撃証言を総合的に見ていくと、遺体状況の比較を加味
  して考えれば、ケロシンではそこまでならない。ジェット燃
  料のケロシンは、不時着や突発的事態によって燃料を空中に
  捨て去ることも多いために引火点も高く、きわめて安全性が
  高い」と青山さんは書く(79頁)。123便は国内線であ
  るから、残り燃料は1時間半分だけで、上野村の住民が大き
  な飛行機がくるくる回っている状況を「燃料でも捨てている
  のではないだろうか」と語っていることから、青山さんは、
  高浜機長が不時着に備えて燃料を減らしていた可能性も否定
  できないという。そうだとすれば、なおさら燃料は減るわけ
  だし、何より、夏の山は木々の繁った湿度の高い環境で10
  時間以上も炎を出してケロシンが燃え続けるというのは説明
  がつかない、とも。山火事を経験した消防団の人たちも、乾
  燥している冬山ならまだしも、夏でここまで真っ黒に燃える
  ことに疑問をもっていたという(79〜80頁)。
   今回の本の白眉は、御巣鷹の尾根から回収された遺物の科
  学鑑定である(128〜143頁)。上野村の住民たちは、
  様々な遺物を尾根から拾い集めて大切に保存していた。それ
  を青山さんが入手して、T大学(現段階ではあえて名前を伏
  せられている)の金属化学研究機関に、学術研究の一環とし
  て分析依頼を行った。      https://bit.ly/2AJHhCh
  ───────────────────────────


日本航空機長の制服.jpg
日本航空機長の制服
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2018年11月02日

●「日航社長はすべてを知っていたか」(EJ第4882号)

 JAL123便墜落事件に対する中曽根首相の対応は、明らか
に一歩引いた姿勢であるといわざるを得ません。同様にもう一人
の当事者である加藤紘一防衛庁長官も事件後ぜんぜん姿を現して
いません。国家(自衛隊)が加害者であると仮定すると、その姿
勢はとてもよく理解できます。しかし、当時墜落事故の政府の対
応を批判する報道はあまりなかったように記憶しています。まさ
か政府が加害者であるとは誰も思わないからです。
 一方、加害者側である日本航空はどういう対応をしたかについ
て考えてみます。当時日本航空は半官半民で、歴代社長はすべて
経済界か運輸省からの天下りだったのです。したがって、日本航
空も政府側ということになります。
 JAL123便の遺族に、吉備素子氏(現在74歳)という人
がいます。ご主人の吉備雅男氏(当時45歳)は、塩野義製薬次
長として出張中に事故に遭遇しています。吉備素子氏は、遺体安
置所で部分遺体となった夫の遺体と対面しています。
 9月28日から49日の法要をはじめ、一連の追悼行事が行わ
れましたが、そんな慌ただしいなか、吉備素子氏は、日航本社に
高木養根社長を訪ねています。そのいきさつについて、吉備素子
氏は次のように話しています。
─────────────────────────────
 9月頃に遺族に対して日航のほうから、身元不明の部分遺体や
炭化が著しいもの、骨粉など10月中にすべてを茶毘に付すとの
連絡があってね。検視の困難さも見ていたから、それもしかたが
ない、やむを得んなあと思っていたけど。10月4日に群馬入り
したら、血液検査を頼んでいた主人の足と思われる右大腿部の大
きなものまで、茶毘に付されていて、アッ無くなっているって驚
いたんです。事前の連絡とちがう。ひどいって、私は警察ともめ
だした。世話役が間に入って、警察と掛け合ってくれたけど、日
航は警察の検視現場に入るなと言われていたのを見てたしね。現
場責任者の日航重役の人も「僕らは何もできない」と、私らと一
緒に泣いて、泣いて・・・でも、泣いていたって、こんな状態で
10月中に全部茶毘に付すのはいかん、あんたらができんのなら
ば、直接、高木社長に会いに行きましょう、本社に行きましょう
と言って東京に行ったんです。 ──青山透子著/河出書房新社
  『日航123便/撃墜の新事実/目撃証言から真相に迫る』
─────────────────────────────
 そういうわけで吉備氏は日航の本社に乗り込み、高木養根社長
に会っています。高木社長は運輸省の出身ではなく、日航生え抜
きの社長です。それにしても、いきなり日航へ乗り込んで、よく
社長に会えたものですが、当然のことながら、日航としては遺族
には気を遣っていて、最優先に会ったものと思われます。その社
長との面接で、高木社長は意外なことを言い出したのです。
─────────────────────────────
 日航本社の社長室に通されて、高木社長と実際に会って話をす
ると、山中の墜落現場にも行っていない、黒焦げの遺体も見てい
ない、彼はまったく現場を見ていない様子だった。
 そこで「あのような状態で、遺体を茶毘に付しては520名が
浮かばれない。私と一緒に中曽根首相のところに行って直訴しま
しょう。あんたの命をかけても首相官邸に行ってください。そう
言ったんです。そしたら、急に高木さんはブルブルと震えだして
『そうしたら私は殺される』そない言うて殺されるってね。何っ
て思ったら、隣に座っていた女性的な世話役も、震え上がってい
る。なんで?と思った。一緒になってフルフルしている。本当に
怯えていた。殺されるって、命かけての意味がわからんのか、お
かしい、これはもうどうしようもない状態だった」と語る。
                ──青山透子著の前掲書より
─────────────────────────────
 日本航空はこの事件の加害者の立場です。したがって、遺体の
処理に関する一切の業務をすべて担っています。したがって、ど
の時点で遺体を荼毘に付すかの判断も日本航空が決めています。
 そもそも吉備氏が日本航空に乗り込んだ目的は、遺体をもっと
調べてから荼毘に付して欲しいということです。あきれたことに
高木社長は吉備氏に事故を起こしたことについて詫びてすらいな
いのです。それに加害者のトップが墜落現場はもちろん、遺体安
置所に運ばれてくる黒焦げの遺体をすらも目にしていない。だか
ら、吉備氏が要求していることも理解できないのです。
 この時点では、既に後部圧力隔壁の修理ミスとの報道があり、
日航だけの責任ではないということになっていたし、まして自衛
隊の標的機による尾翼への激突の事実まで社長が知っていたとす
ると、ますます「オレたちのせいではない」という気持ちが強く
なります。したがって、吉備氏に会ったとき、とっさに詫びの言
葉がでなかったのでしょうか。それにしてもお粗末なことです。
 まして、吉備氏が社長が決められないなら、一緒に中曽根首相
に会いに行こうと迫ると、「そんなことをしたら殺される」と発
言しているのです。首相に会いに行こうというと、「殺される」
とはどういうことなのでしょうか。
 123便が墜落した12日の午後10時過ぎの羽田空港での出
来事です。人だかりができて、中央に中年の紳士が乗客の遺族に
胸倉をつかまれていたのです。「はっきり言え、飛行機はどうし
たんだ。どこへ行ったのか」と問い詰められています。
 中年の紳士がそれに明確に答えられないと、「お前じゃ、ラチ
があかん。社長を出せ!」という話になったのです。そうしたら
その紳士は、真っ赤に顔を紅潮させ、次のようにいったのです。
─────────────────────────────
 うちの機は、北朝鮮のミサイルに撃ち落とされたんだ。今は
 それしかわからん!!
─────────────────────────────
 この紳士は誰かというと、後に日本航空の町田副社長だったこ
とがわかっています。ここにミサイルという言葉が出てくるのは
違和感があります。──[日航機123便墜落の真相/052]

≪画像および関連情報≫
 ●死神から間一髪逃れた「キャンセル・リスト」の後半生
  ───────────────────────────
   間一髪で事故を免れた人もいる。シャープ元副社長の佐々
  木正もその1人である。今年100歳を迎えた彼が、当時の
  記憶をたぐり寄せる。昭和60年、佐々木はシャープの副社
  長兼東京支社長の職にあった。12日は自宅のある大阪に帰
  るため当便を予約していた。
   ところが前日のこと、佐々木に「明日、会えないか」と連
  絡をしてきた人物がいた。フィリップス社の東京支社長であ
  る。「オランダ本社の社長が会いたがっているというんだ。
  フィリップスとは、(CDプレーヤーなどに不可欠な)半導
  体レーザーを共同で開発したり、液晶の生産拠点を設立しよ
  うとしたりして、関係が深かった。それで年末に、社長が来
  日して食事を共にするというのが恒例だったんだが、その年
  に限ってお盆のその日になってね。だから飛行機の予約を変
  更してもらったんです」
   日航機事故のことを知ったのは、ホテルニューオータニの
  レストランで会食しているときだった。ちょうど同じ頃、大
  阪では悲鳴があがっていた。淨子(じょうこ)夫人は、夫が
  123便をキャンセルしたことを知らされておらず、いつも
  のように、伊丹空港まで迎えに来ていたのである。そこにも
  たらされたのが事故の一報。「家内は、かなり遅くまで待っ
  ていたようだ。いったんは私が亡くなったものとあきらめた
  らしいですがね。ところが東京に残って仕事をしていること
  を誰かが伝えてくれて、安心して帰宅したようです」
                  https://bit.ly/2CVRDRp
  ───────────────────────────

日航高木養根社長.jpg
日航高木養根社長
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2018年11月01日

●「日航機事故に政府は何をしたのか」(EJ第4881号)

 JAL123便用の800個の棺を用意したのは、東京都多摩
地域西部にある町、日の出町平井にある共和木工株式会社という
企業です。この企業は、お墓に立てる卒塔婆の生産では、実に全
国の7割を占めているし、折り畳み式棺桶では、トップクラスの
シェアを誇る日の出町のエース企業です。
 しかし、日ノ出町といえば、この場所に別荘「日の出山荘」を
持つ中曽根康弘元総理大臣を思い出します。あのレーガン元米大
統領を招いた日の出山荘です。中曽根氏は、JAL123便墜落
事件のときの総理大臣です。
 これは、あくまで推測ですが、中曽根元首相ほどの人が、自分
の別荘のある日ノ出町のエース企業と付き合いがないとは考えら
れないことです。そうであるとしたら、棺の発注が中曽根氏の意
向で、藤岡の葬儀社から共和木工株式会社に変更になったことは
十分考えられます。なぜなら、日本航空が共和木工株式会社とい
う特殊な企業を知っていたとはとうてい考えられないからです。
 そうであるとしたら、500人を超える死者が出ている最悪の
航空機事故が起きているのに見舞いにも行かず、すべて山下徳夫
運輸大臣にまかせ切りにしているくせに、棺の注文に対しては関
わっていたとなると、釈然としないものが残ってしまいます。
 対照的なのは、当時の英国のサッチャー首相の対応です。奇し
くも、同じ1985年8月22日、英国のマンチェスター空港で
ブリティッシュ・エアツアーズ28M便が、離陸直前にトラブル
が起きて炎上し、乗員・乗客55名が亡くなった事故のさい、当
時サッチャー首相は、出張先のオーストラリアからそれ以降のス
ケジュールを全部キャンセルして急遽帰国し、事故現場に直行し
ています。何という対応の違いでしょうか。
 JAL123便の墜落場所の管理を警察の司法権を超えるかた
ちで自衛隊(防衛庁)が行っていたとなると、そこには、日本国
という国家が関わってくることになります。それは、時の総理大
臣の指揮が行われたことを意味します。これほどのことをして、
時の総理大臣が何も関与していないとは、とうてい考えられない
ことです。600ページを超える中曽根氏の大著『中曽根康弘が
語る/戦後日本外交』(新潮社)によると、事故現場が二転三転
したことについては、次の記述があるのみです。
─────────────────────────────
 実際、静岡に落ちたとか、群馬に落ちたとか、情報がずいぶん
迷走していました。米軍もレーダーで監視していたから、当然事
故については知っていました。あの時は官邸から米軍に連絡はと
らなかった。しかし、恐らく防衛庁と米軍でやり取りがあったの
だろう。            ──中曽根康弘著/新潮社刊
            『中曽根康弘が語る/戦後日本外交』
─────────────────────────────
 驚くべきことに、中曽根氏は、123墜落事故のことを他人事
のようにご書いています。自分の国の旅客機が乗客乗員524人
を乗せて墜落事故を起こしたのです。本来であれは、首相として
その救難体制について、先頭に立って陣頭指揮を行う立場にある
のです。あまりにも他人事のような対応で怒りを覚えます。
 結局、直接対応に当たったのは山下徳夫運輸相です。8月12
日夜、政府は持ち回り閣議で、総理府内に運輸大臣の山下徳夫氏
を本部長とする日本航空機事故対策本部を設置し、23時に第1
回対策会議を開いています。
 実は、山下徳夫氏の場合、事故直前に福岡発東京行き366便
に偶然乗っていたのです。福岡発15時30分発〜17時00分
羽田着にです。この366便がJAL123便になるのです。
 1985年8月12日、JA8119号機は、次の5つのフラ
イトを行う予定になっていたのですが、5番目のフライトで、事
故が起きたことになります。
─────────────────────────────
  東京─札幌 503便/07時55分〜09時20分
  札幌─東京 504便/10時20分〜11時50分
  東京─福岡 363便/12時55分〜14時35分
  福岡─東京 366便/15時30分〜17時00分
  東京─大坂 123便/18時00分〜19時00分 事故
─────────────────────────────
 青山透子氏は、山下大臣の偶然の乗り合わせについて、次のよ
うに述べています。
─────────────────────────────
 事故直前に同じ飛行機による福岡発東京行き366便に偶然乗
り合わせていた。午後3時半福岡出発で午後5時羽田着のこの便
は、墜落した123便と同じ客室乗務員が乗務していた。山下氏
が座った二階席を担当したのは木原ASで、三光汽船会社更生法
申請問題で疲れ果てていた山下大臣を温かくもてなした。「お孫
さんにどうぞ」と、機内搭載のジャンボ機のおもちゃ3個を茶色
の機内用袋に入れてプレゼントした。空港から官邸に入り、その
紙袋を持ったままの山下氏は「本当に何があったんだろうね。あ
んなにやさしい気立てのよいスチュワーデスがこんな事故にあう
なんて」と、思わず涙ぐんでいた。
               ──青山透子著/河出書房新社
          『遺物は真相を語る/日航123便墜落』
─────────────────────────────
 13日に山下運輸相は、遺族の待機場所になっている群馬県藤
岡市内の小、中学校を回り、「担当大臣として責任を痛感してい
る」と陳謝の言葉を述べています。そして、自衛隊のヘリで、上
空から墜落現場の様子を視察しています。本来であれば、この役
割こそ中曽根首相が担うべきであったと思います。
 こうした動きのなかでもう一人の主役であるべき加藤紘一防衛
庁長官が登場してこないのは異常です。この事件の主役を務めた
のは、あくまでも自衛隊(防衛庁)だからです。加藤長官は墜落
直後に自衛隊のヘリで現場上空に密かに行っているという情報も
あるのです。   ──[日航機123便墜落の真相/051]

≪画像および関連情報≫
 ●過去のEJの記述を引用しているブログ
  ───────────────────────────
   もう一つ中曽根元総理の別荘における盗聴されたとされる
  発言があります。それが真実であるか否かは闇の中。その中
  の言葉に官邸からの矢の催促の撃墜命令要請に対して・・・
   「私はこんな事のために総理大臣になったわけじゃない」
  総理がみぞうの都市部墜落の大惨事を恐れて許可する条件と
  して言い出した。
  「国民に撃墜を知られないようにできるなら許可しよう」、
  目撃者が出たらどうしますかに対して「何とかしろ」「殺せ
  という意味ですか」に対して、「私をこれ以上人殺しにする
  つもりか」と怒鳴り、「何とかしろは何とかしろという意味
  だと」怒鳴っていた。<引用終わり> 以下、EJ
   JAL123便墜落事故が起こった8月12日、中曽根首
  相は身内と一緒に軽井沢で休暇を過ごしていたのです。そし
  て軽井沢駅を17時11分に発車する特急「あさま22号」
  に乗り、東京に向っています。大宮着18時52分、上野着
  は19時15分でした。この時点では首相はまだ事故を知り
  ません。18時52分といえば、JAL123便がレーダー
  から消える2分前です。
   18時24分40秒には緊急信号を発信しているのですか
  ら、大宮駅で「日航機が迷走中」という情報を首相に知らせ
  ることはできたはずですが、首相の耳には届いていなかった
  のです。上野に到着した19時15分には事故発生は確実で
  「行方不明」になっているのに、ここでも中曽根首相には報
  告されていないのです。     https://amba.to/2JponDv
  ───────────────────────────

山下徳夫運輸大臣.jpg
山下徳夫運輸大臣
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2018年10月31日

●「墜落場所は直後から判明していた」(EJ第4880号)

 結局のところ、JAL123便の墜落現場に事故日の12日の
夜に入り込み、以来テントを張って長期間にわたり泊り込んで、
墜落現場全体を仕切っていたのは、間違いなく自衛隊であると思
われます。
 墜落現場の山頂に行く途中で気分が悪くなった角田氏の友人が
テントで休ませてもらったとき、そこにいた隊員の一人から次の
言葉を聞いています。
─────────────────────────────
 明日で一週間ですが、我々は一度も入れ替えなしですよ。13
日に山に来てからそのまま今も働いています。
      ──角田四郎著/『疑惑/JAL123便墜落事故
      /このままでは520柱は瞑れない』/早稲田出版
─────────────────────────────
 これはおかしな話です。炎天下の作業で、多くの遺体が散乱し
ている場所での重労働です。気分が悪くなる隊員も出てくると思
われます。それでも隊員を交代させないのは、何かウラがありま
す。それは、秘密の保持とも考えられます。ある秘密を守るため
には、それを知る人数は少なければ少ないほど守れるというのが
鉄則です。
 しかし、不思議なことに、角田四郎氏と友人のような一般人が
墜落現場に立ち入ろうとしても、止めるどころか、逆に現場に行
けるよう支援すらしています。うがった見方かもしれませんが、
その方が、かえって疑われないので、そうしているのではないか
と思われます。
 そのためなのでしょうか。よく見ると、全員が同じ服装ではな
く、群馬県警の服を着ていたり、テントも来ているはずのない神
奈川県警のものであったりと、全体がチグハグであると、角田氏
と友人は証言しています。
 角田四郎氏が友人と一緒に墜落現場を訪れたさい、世話になっ
たという2人の群馬県警の機動隊員の幹部も、「機」のマークの
入った群馬県警の服を着ていたといいます。だからこそ、角田氏
らは群馬県警の人であると信じたのです。しかし、現場にいた新
聞記者たちによると、彼らは墜落現場の自衛隊員に命令をしてい
るようにみえたといっています。群馬県警の幹部が自衛隊を指揮
することなどはありえないことです。
 角田四郎氏は、墜落現場に行って、JAL123便の墜落事件
には多くの不可解なものがあると感じたと述べています。墜落現
場の特定にしても、墜落現場での救難活動にしても、本気で取り
組んでいるとは思えないことが多々あります。「下手に生きてい
てもらっては困る事情」でもあったかのようにさえ思える行動な
のです。本気で生存者を救難させるつもりであれば、とったであ
ろう措置をとっていないとして、次のように述べています。
─────────────────────────────
 その疑惑はまだある。
 実は地図上で見れば一目瞭然であるが、墜落現場は群馬県であ
るが、人間が住んでいる村が近いのは断然長野県側である。車が
入る林道が近いのも同じだ。陸上自衛隊松本師団の小川隊のとっ
たルートは歩行時間2時間20分に対し、行先やルートが判って
いた上野村消防団の歩行時間は約4時間である点からも明白であ
る。この墜落現場のある高天原山(御巣鷹山ではない。長野県側
は神立山と呼ぶ)や三国山は、その東側は険しく山が深い(前山
が幾重にも連なる)が、西側は緩斜面が広がり、野辺山台地へと
続く。しかも、川上村には広大なグラウンドや畑があり、救難活
動の拠点作りに打ってつけである。それだけではない。道路も広
く野辺山や清里といった宿泊施設の多い観光地にも隣接し、中央
高速道経由で都市にも交通の便が良い。一体なぜこのルートが救
援活動に一度も使われなかったのであろうか。あまり語られてい
ないが、私は大変不可解なことの一つと思う。ヘリなら5分とか
からない村である。       ──角田四郎著の前掲書より
─────────────────────────────
 123便の墜落場所が、自衛隊(防衛庁)は最初からわかって
いたことを示す語られざる話があります。12日、つまり123
便が墜落した夜のこと。群馬県藤岡市内のある葬儀社に一本の電
話が入ったのです。かけたのは地元の警察です。
─────────────────────────────
  警 察:突然のことだけど、棺はどのくらい用意できる?
  葬儀社:500ぐらいなら、なんとか。
                ──角田四郎著の前掲書より
─────────────────────────────
 123便の遭難で騒然となっていたときのことですから、葬儀
社はピンときたのです。その葬儀社は、藤岡市内や周辺地区の組
合に相談のうえ、棺をどのくらい調達できるか調査して「500
でも1000でも大丈夫」と警察に連絡したそうです。しかし、
翌朝以降、葬儀社には何の連絡もこなかったそうです。
 この棺の見積もりをさせたのは防衛庁であると思われます。地
元警察に命じて藤岡市の業者に棺を見積もらせたのは、墜落場所
を12日夜の墜落直後から把握していたことを意味しています。
そして、この時点で全員死亡を前提にしていたようです。実際に
藤岡市には、霊柩車70台、棺は800個用意されています。ど
こが用意したのかについて「週刊新潮」が書いています。
─────────────────────────────
 東京周辺の葬儀社から800近くを用意し、藤岡市へピストン
輸送した。「800も用意したのは、遺体がバラバラなので、予
備が必要と考えたわけです。現地で注文しなかったのは、統一の
規格のものが用意出来なかったためと思います」(日航関係者)
         ──「週刊新潮」/1985年8月29日号
─────────────────────────────
 800個の棺を用意したのは、東京西部日の出町平井にある共
和木工(株)という企業です。この企業については、明日のEJ
取り上げます。  ──[日航機123便墜落の真相/050]

≪画像および関連情報≫
 ●衝撃的な光景/JAL123便墜落事件
  ───────────────────────────
   昼前、捜索に向かう陸上自衛隊第13普通科連隊(長野県
  松本駐屯地)の部隊と合流した。「これで助かった」と思っ
  た。彼らは地図も強力な無線機も備えており、ついて行けば
  現場に着けるに違いない。缶ジュースもなくなり、のども渇
  き切っていた。水ももらえるだろう。
   昼になると部隊は前進を止め、木の根元に座って、休憩と
  なった。隊員はほとんど10代と思われるような若者で、年
  長者は少なかった。若い人たちは水筒の水を飲ませてくれた
  が、食料はだめだった。部隊は非常時の出動であり、もらえ
  ないのは当然だが、腹が減っていたのでこたえた。
   前進を再開して間もなく、樹林が切れて尾根のピークのよ
  うな所に出た。ヘリの音からすると、そこから北東方向に分
  かれた尾根のどこかに墜落現場はあるようだ。岩場に近いよ
  うな場所もあり、登山経験のない2人は恐怖を感じることも
  あった。
   尾根のピークには、別ルートでやって来た複数の報道機関
  の記者がいた。安達はその中に名古屋支社時代に知り合った
  朝日新聞のS記者を見つけた。驚いて声を掛けたが、その後
  どこに行ったのか姿は見えなくなった。そこから先は下りに
  入った。原生林のような樹林が続いて薄暗く、斜面は湿って
  いてかなりの勾配がある。足元は腐植土で不安定だ。部隊か
  ら遅れないようにしなければならなかったが、慌てて腐った
  切り株に足を乗せると崩れて滑落する恐れがある。木の枝や
  幹をつかんで下らざるを得ず、手は傷だらけになった。
                  https://bit.ly/2zaPmhz
  ───────────────────────────

検死場の藤岡市民体育館.jpg
検死場の藤岡市民体育館
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2018年10月30日

●「墜落現場は自衛隊の支配下にある」(EJ第4879号)

 JAL123便墜落事件について書かれている本はたくさんあ
りますが、青山透子氏の本は別として、EJがここまで何回も取
り上げている本に次の優れた著作があります。
─────────────────────────────
     角田四郎著/『疑惑/JAL123便墜落事故
   /このままでは520柱は瞑れない』/早稲田出版
─────────────────────────────
 角田四郎氏はどういう人なのでしょうか。
 角田四郎氏は、サラリーマン生活を経て、フリーのプランナー
として独立していますが、ライフワークとして山岳歩行記、山岳
酪農の研究、日本古代史の研究を志し、雑誌などに投稿していま
す。つまり、登山は専門家なのです。
 角田四郎氏は、1985年8月19日に御巣鷹山の墜落現場に
行っています。墜落してから7日後のことです。それは、角田氏
の友人K氏から、「一緒に御巣鷹山に行ってくれないか」と頼ま
れたからです。どうしてかというと、K氏の恋人がJAL123
便にスチュワーデスとして乗務しており、墜落事件で、亡くなっ
ているからです。
 しかし、彼女は親には自分(K)のことはいっていないため、
日航は「乗客家族同等」の扱いをしてくれず、仮に遺体安置所の
ある藤岡に行ったとしても、遺体確認もできないし、待合所にも
入れない。もちろん、泊まるところもないそうです。だから、何
とか墜落現場に行って慰霊をしたいというのです。それは途方も
なく困難なことであることはわかっているが、角田氏なら登山の
経験が豊富であるので、何とか墜落現場に行けるのではないかと
懇願されたのです。
 実は、角田氏は、友人のK氏から、深夜に六本木のバーに呼び
出され、その話を聞かされています。角田氏は簡単には返事がで
きなかったそうです。危険だからです。しかし、角田氏はJAL
123便墜落事件について何となくもやもやした気持ちを抱いて
いたのです。釈然としなかったからです。
 角田氏は迷いに迷ったそうです。角田氏は、そのときの思いを
次のように述べています。
─────────────────────────────
 16日の朝刊に現場を訪れた乗客遺族のことが大きく報道され
ていたのも知っていた。藤岡でじっと待つこともできなくなった
両親のことである。少年を一人で日航機に乗せたそうだ。友人は
その藤岡へすら行けないのである。同情だけで危険を冒してよい
ものであろうか。警察などにより入山を拒否されるではないか。
社会的道義的に見てどうなのだろうか。それにわけもなく恐ろし
くもあった。500人以上が亡くなった所である。
 一方で友人の想いはいかばかりであろうと考えてしまう。愛す
る者を想う気持ちは御両親の思いと、どれ程の違いがあろう。比
較するべきものでもないし、できるものでもない。にもかかわら
ず、社会的にはまったく問題にされない部外者なのである。(中
略)朝、いつの間にか10時を過ぎていた。もう限界であった。
「角田さん、行ける所まででも行かない限り、この人は一生悔い
を残しますよ。生きていた人がいたのに、彼女は何故生き残れな
かったのか・・・ってね!」   ──角田四郎著の前掲書より
─────────────────────────────
 結局、角田氏は、この店主の言葉でK氏の申し出を引き受ける
ことにしたのです。しかし、登山の経験のないK氏は、途中で高
山病特有の症状に襲われ、あと5分というところで、墜落現場ま
で行くことはできなかったのです。結局、角田氏だけが墜落現場
に登り、K氏に代わって恋人の慰霊を果したのです。
 角田氏には、この決死の登山でわかったことがたくさんあると
いいます。理解できないこともいくつもあり、それが『疑惑』と
いう本の執筆につながることになるのです。それが何であるのか
について述べることは、この事件の解明にもつながるので、それ
をまとめると、次の4つになります。
─────────────────────────────
 1.角田氏と友人は、墜落事故現場に行く途中で、2人の年配
  の群馬県警機動隊員に会っている。親切に対応してくれたが
  本当に機動隊員であったかどうかは不明である。
 2.そのとき、墜落現場周辺にいた自衛隊員は、19日現在、
  13日に山に入ってから、一度も入れ替えなしでそのまま働
  き続けていることが隊員の口から判明している。
 3.隊員たちのテントには「神奈川県警機動隊」と書かれてい
  るが、ナイフのケースや水筒のヒモには「〇〇師団」と書い
  てあり、靴は軍靴であったことがわかっている。
 4.事故調最終報告書の救援活動の項目に、各協力団体が記載
  されているが、警察庁・群馬県警が協力を要請した県警のな
  かに神奈川県警の名前は入っていないのである。
─────────────────────────────
 墜落後一週間が経過しているので、いろいろな団体が墜落現場
に立ち入っています。角田氏のような一般人も入ることはできて
います。しかし、現場の支配権は、群馬県警ではなく、自衛隊が
握っているのです。角田氏は次のように述べています。
─────────────────────────────
 墜落場所。そこは戦場でもなければ自衛隊演習所でもない。群
馬県内国有林の司法権は群馬県警にあって自衛隊にはない。しか
し、この山の支配者は自衛隊であり、全てが自衛隊によって動か
され、牛耳られていたのである。U字接触点の嶺に向かう沢にも
自衛隊員が配備され、入域を押さえていたのである。墜落後6日
目の話である。1日、2日は県警の配備が遅れても理解できるが
一週間にならんとするのに立入禁止域を自衛隊が勝手に作り、勝
手に隊員を配備している。しかも、同じ自衛隊のほかの部隊です
ら、入山させていないのである。 ──角田四郎著の前掲書より
─────────────────────────────
         ──[日航機123便墜落の真相/049]

≪画像および関連情報≫
 ●JAL123便墜落事故の真相/地球情報局
  ───────────────────────────
   青山透子氏(元日航客室乗務員)ブログ:「あの事件をう
  まく隠ぺいした人は異例の昇進をし、それを追及した人は辞
  職を強要されたそうです。正直な人が辞めさせられて、ずる
  い人が残るとすると、本当にひどいですね。」
   あの日1985年(昭和60年)8月12日、JAL12
  3便に、一体何が起こったのか?事件の背景は?それを知る
  ことは、大きな目覚めになる。「我々は高度にマインドコン
  トロールされ、慣れ親しんだ現実は、全て幻想だったのだ」
  と。この世界の現実について予備知識の全く無い人が、この
  JAL123便事件の真実をいきなり知ってしまうと、一時
  的に精神のバランスを失うかもしれない。価値観はひっくり
  返り、後生大事に持っていた常識は崩壊する。コメント欄に
  は、そんな人達からのdesperate comment が山ほど寄せられ
  る。中には工作員らしき人物からの撹乱メッセージも。(彼
  らのコメントを公開することは益々混乱を招くと思われるの
  で、現在は公開を控えている。)
  今まで通り「自身の『常識』という殻の中で幸せに生きて行
  きたい」という人はここから先は読まない方が良い。ご自身
  に人生がひっくり返るような事件が起きたとき初めて、この
  JAL123便事件の真実を受け入れられるかもしれない。
  そして『自身の殻を打ち破る大きな努力』の後、本当に幸福
  な人生とは?この世界から争いが消え、真の平和を築くには
  どうすれば良いのか?その答えが見つかる。
                  https://bit.ly/2OcewBT
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角田四郎氏.jpg
角田四郎氏
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(0) | 日航機123便墜落の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月29日

●「在日米軍が現場に投入されている」(EJ第4878号)

 1985年8月12日、JAL123便が墜落し、その墜落現
場の特定が二転三転していたときのことです。NHK速報で次の
ニュースが流れたのです。
─────────────────────────────
 ただいま長野県警から入ったニュースです。待機命令を無視し
て、現場に救助に向った自衛隊員数名が、何者かに銃撃され、死
者、負傷者数名が出ている模様です。新しい続報が入り次第お伝
えします。              ──NHKテレビ速報
─────────────────────────────
 このニュースは後に誤報として取り消されるのですが、ギョッ
とするニュースであり、しかも、NHKの報道です。それがきち
んとした説明のないままに取り消されたのです。
 われわれの頭のなかには、自衛隊は、こういう事故や災害が起
きたとき、救助に向うのが任務であるという先入観があります。
救助に向うというのに、なぜ射殺されるのか。そもそも誰が射殺
したのかと考えてしまいます。
 しかし、自衛隊の本質は、日本という国を守ること、すなわち
国防であり、軍隊なのです。昨今世界を震撼させているサウジア
ラビアのカショギ記者が、トルコのサウジアラビア領事館で殺害
された事件のように、それがサウジアラビアという国家にとって
重要不可欠なことであれば、軍隊が動いて本人を抹殺することは
あり得ることです。それに、軍隊という組織は、上官の命令には
絶対服従する組織なのです。
 最大の疑問は、JAL123便が墜落した数時間後に一番乗り
で墜落現場に入り、多くの生存者には目もくれず、何かを捜索し
それをヘリで運び出していた自衛隊とみられる70〜80人近い
一団の正体は何かということです。
 彼らは、13日以降も現場に残って、生存者救出や、遺体の処
理のために現場に入った正規の自衛隊員や消防団、群馬県警など
に交じって、何かをやっていたことは確かです。
 これは、オフバイクで12日の夜に墜落現場に入ったM氏の証
言ですが、自衛隊とみられる隊員は、それぞれ大型アーミーナイ
フを持ち、暗視スコープを装着していたといいます。
 ある国際軍事評論家B氏によると、大型アーミーナイフは当時
自衛隊の装備品ではなく、また非常に高価なので、自衛隊は採用
していなかったといいます。
 また、暗視スコープは、当時の自衛隊レンジャー部隊が使って
いたものの、少量しかなく、とても100個近い数を揃えられる
とは考えにくいのです。しかし、在日米軍であればそういう装備
は十分整っています。
 ここで出てきたのは、在日米軍が参加しているのではないかと
いうことです。しかし、添付ファイルを見るとわかるように、ど
うみても日本人です。これについて、先ほどの国際軍事評論家B
氏は、次のような驚くべき事実を指摘しています。
─────────────────────────────
・公にはされていないが、在日米軍には在日朝鮮人を集めた部隊
 が存在する。
・通常は基地のガードなどを担当するが、優秀な人物を集めて急
 遽200人位の部隊を編成するなど造作もないことだ。
・日本語もできるし、外見は日本人と区別がつかない。逆にそれ
 が狙い目である。
・ガード任務において白人が日本人を撃てば国際問題だし、日本
 人によるガードでは、相手が日本人の時に発砲できない可能性
 がある。そこで、在日の彼らが上手く利用される。このような
 処置は駐留する国の事情に合わせ当然のように行われている。
・在韓米軍内にも韓国籍だけでなく在日朝鮮人籍の人員が採用さ
 れており、彼らは朝鮮半島の緊張の中で実戦を経験している戦
 闘プロ集団だ。          https://bit.ly/2qf4si6
─────────────────────────────
 つまり、外見からは日本人と全く区別のつかない、米軍所属の
朝鮮人部隊が投入された可能性があるというのです。自衛隊では
同じ日本人として、生存者を無視して命ぜられた仕事をしたり、
生存者を何らかの方法で殺害するなどということは、なかなかで
きないことです。しかし、自衛隊の偽装をした米軍兵士であれば
それが可能というわけです。これは驚くべき指摘です。このよう
に、この事件は、日本の自衛隊と在日米軍が組んでいることは確
かです。もうひとつ、軍事評論家のB氏は、「軍夫制度」にも言
及して次のように述べています。
─────────────────────────────
 軍夫とは、辞書によると「軍隊に所属して雑役に従う人夫」と
ありますが、この軍夫の存在は先の世界大戦の敗戦とともに、日
本では死語になったと思われるかもしれません。しかし、B氏に
よると、戦後から今に至るまで、軍夫と同じ役割を担う組織が存
在し続けているとのことです。彼らは、多くの死体が出る事故現
場、放射能など有害物質の汚染が危惧される現場での危険作業な
ど、いわゆる重度の汚れ仕事を公務員に代わって行う組織なので
す。公式の軍夫制度がない以上、それに取って代わる組織は、部
落・在日・土建関係者(現場職)など、どちらかというと日本社会
で被差別的な扱いをうける人々で、なおかつ、国の重要機密に関
る可能性があることから、秘密を守れる組織、別の言い方をすれ
ば統率者の下、組織として統制することが可能な一団であること
が求められます。          https://bit.ly/2qf4si6
─────────────────────────────
 ところで、添付ファイルの下の写真の男の子とみられる子供は
明らかに生きていると思われます。自分の意思で、手で顔を隠し
ているように見えるからです。しかし、この男の子は生存者のな
かに含まれていません。どこに消えたのでしょうか。
 このように考えると、このJAL123便墜落事件は、謎ばか
りということになります。墜落現場で指揮をとっていたのは何者
なのでしょうか。 ──[日航機123便墜落の真相/048]

≪画像および関連情報≫
 ●真実の共有/フェイスブック
  ───────────────────────────
   さらに7歳〜8歳くらいの小さな男の子が13日午前「走
  り回っている」ところを自衛隊員に発見されている。報告は
  無線で直ちに流された。報道関係者もこの無線を傍受。「男
  の子発見」のニュースは流れた。フジテレビの「ニュースレ
  ポート」では、マイクを握ったフジの山口氏が『現場は惨憺
  たる状況です。まもなく、担架に乗せられた7、8歳の少年
  が運ばれてきます・・』と生中継。しかし、この「男の子」
  に関する情報が途絶。以後、まるで神隠しにでも遭ったよう
  に、その後の「7歳〜8歳くらいの小さな男の子」の消息は
  杳として知れない。       https://bit.ly/2z8FBR2
  ───────────────────────────

救助に入った自衛隊員のなかに特殊部隊がいる.jpg
救助に入った自衛隊員のなかに特殊部隊がいる
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(1) | 日航機123便墜落の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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