歳三が箱館に凱旋したのを受けて、榎本政権は在留の各国領事や
船将、土地の有力者を招き、蝦夷地平定の祝賀会を開催したので
す。箱館港の軍艦には五色の旗が掲げられ、市中では多くの提灯
が掲げられ、箱館の町に彩りを添えたのです。
蝦夷地での榎本政権、といっても最終目的は徳川家の血脈によ
る蝦夷地の統括であり、それが達成されるまでの暫定政権である
と位置づけています。榎本政権を作るに当って、寄せ集め部隊で
ばらばらであった軍隊の職制を次のように一新したのです。
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≪陸軍≫
奉行──歩兵頭──歩兵頭並──差図役頭取改役──差図役
頭取──差図役──差図役並──差図役下役──差図役下役
並──その他
≪海軍≫
奉行──軍艦頭──軍艦頭並──軍艦役──軍艦役並──士
官見習一等──士官見習二等──士官見習三等──士官見習
当分出役──その他
菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊
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陸軍の差図役並以上、海軍の士官見習三等以上が士官です。こ
れらの士官以上による入札によって閣僚選挙が行われたのです。
主要閣僚を次に示します。
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総督 ・・・・・・・・・・・・・・・ 榎本武楊
副総督 ・・・・・・・・・・・・・・ 松平太郎
海軍奉行 ・・・・・・・・・・・・・ 荒井郁之助
陸軍奉行 ・・・・・・・・・・・・・ 大鳥圭介
陸軍奉行並箱館市中取締裁判局 ・・・ 土方歳三
箱館奉行 ・・・・・・・・・・・・・ 永井尚志
箱館奉行並 ・・・・・・・・・・・・ 中島三郎助
江差奉行 ・・・・・・・・・・・・・ 松岡四郎次郎
江差奉行並 ・・・・・・・・・・・・ 小杉雅之進
松前奉行 ・・・・・・・・・・・・・ 人目勝太郎
開拓奉行 ・・・・・・・・・・・・・ 沢太郎左衛門
会計奉行 ・・・・・・・・・・・・・ 榎本対馬
ロ会計奉行 ・・・・・・・・・・・・・ 川村録三郎
菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊
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全将兵の数がはっきりしませんが、榎本武楊の得票数は156
票でトップであり、第2位は大鳥圭介で86票だったといわれて
います。妥当な結果であると思います。開陽丸が沈没したので、
海軍の編成は、次の4艦編成となったのです。
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旗艦:回天
蟠龍、千代田形、高尾
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これら4艦のうち、高尾丸は秋田藩所有の船舶だったのですが
箱館に入港したところ、回天丸と蟠龍丸に拿捕され、そのまま榎
本政権の軍艦になったのです。
箱館奉行の永井尚志は、英仏両領事面会し、自分が箱館奉行に
選出されたことを伝え、今まで通りの貿易体制を維持することを
宣言したのです。
既に英仏両国公使は、榎本軍が箱館市中を占拠し、五稜郭に入
城した時点で、事実上の蝦夷地平定を成し遂げているとして、英
仏「オーソリティーズ・デ・ファクト」──事実上の政権として
認めており、それによって、榎本政権は一定の法的地位を獲得し
たことになります。
実は英仏両国は、旧幕府艦隊(榎本軍)が箱館に向かった時点
で、その対応について既に協議して、取り決めを行っています。
それは次の4点です。
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1.徳川脱走家来(榎本軍)は交戦団体としての条件を満たし
ておらず、したがって箱館を封鎖する権利はない。
2.しかしながら、内戦に関与することのないように、自国商
船かが箱館で兵員および軍事物資の陸揚げを行わないよう
にすること。
3.箱館に対する攻撃があった場合に派遣海軍は抵抗(交戦)
しないこと。
4.箱館が脱走家来の手に落ちた場合には居留民の安全を確保
するための接触のみ許されること。
──石井孝著
『戊辰戦争論』/吉川弘文館
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榎本総督は、回天と蟠龍の2艦に「徳川脱艦布告書」を持たせ
て青森港に向かわせ、弘前藩にそれを手渡し、奥羽諸藩に伝達を
依頼したのです。その布告書について、星亮一氏は次のように書
いています。
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これは松前落と奥羽諸藩に対する榎本の意思表明だった。我ら
は北門の防衛と蝦夷地の開拓のためにこの地に来た者である。
このことは朝廷にも嘆願書を出していると述べ、松前藩に対し
てはなんの恨みもなく、話し合いを望んだが、一方的に攻撃し
て釆たので、戦闘に入ったまでである。城下の放火、略奪は松
前藩兵の行為である。その粗暴は見るに堪えないものがあると
批難した。また奥羽列藩に対して特段の尽力を求め、攻撃して
くる場合は断固、戦うと表明した。
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── [明治維新について考える/71]
≪画像および関連情報≫
●蝦夷共和国について
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最初に「共和国(リパブリック)」という表現を使ったのは
1868年11月、英仏軍艦艦長に随行し、榎本と会見した
英国公使館書記官アダムズだった。彼が1874年に書いた
著書 History of Japan において、箱館政庁を "republic"
と紹介し、その後、アダムズの表現に倣う者が大多数となっ
た。この政権は単に箱館政権とも称されるが、主権的な独立
や地方割拠を目論んだわけではないので、この呼称は適切で
はない。榎本らは「蝦夷共和国」と名乗ったことはなく、ま
た独立主権国家たると宣言したわけでもない。その目的・内
実からいえば「蝦夷徳川将軍家遺臣武士団領」と呼ぶべきで
あるとの説もある。 ──ウィキペディア
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●五稜郭本陣/出典:ウィキペディア
五稜郭本陣


