2011年05月24日

●「法的根拠が与えられた榎本政権」(EJ第3061号)

 慶応元年(1868年)12月15日、松前攻略軍総督の土方
歳三が箱館に凱旋したのを受けて、榎本政権は在留の各国領事や
船将、土地の有力者を招き、蝦夷地平定の祝賀会を開催したので
す。箱館港の軍艦には五色の旗が掲げられ、市中では多くの提灯
が掲げられ、箱館の町に彩りを添えたのです。
 蝦夷地での榎本政権、といっても最終目的は徳川家の血脈によ
る蝦夷地の統括であり、それが達成されるまでの暫定政権である
と位置づけています。榎本政権を作るに当って、寄せ集め部隊で
ばらばらであった軍隊の職制を次のように一新したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ≪陸軍≫
  奉行──歩兵頭──歩兵頭並──差図役頭取改役──差図役
  頭取──差図役──差図役並──差図役下役──差図役下役
  並──その他
 ≪海軍≫
  奉行──軍艦頭──軍艦頭並──軍艦役──軍艦役並──士
  官見習一等──士官見習二等──士官見習三等──士官見習
  当分出役──その他
    菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 陸軍の差図役並以上、海軍の士官見習三等以上が士官です。こ
れらの士官以上による入札によって閣僚選挙が行われたのです。
主要閣僚を次に示します。
―――――――――――――――――――――――――――――
  総督 ・・・・・・・・・・・・・・・   榎本武楊
  副総督 ・・・・・・・・・・・・・・   松平太郎
  海軍奉行 ・・・・・・・・・・・・・  荒井郁之助
  陸軍奉行 ・・・・・・・・・・・・・   大鳥圭介
  陸軍奉行並箱館市中取締裁判局 ・・・   土方歳三
  箱館奉行 ・・・・・・・・・・・・・   永井尚志
  箱館奉行並 ・・・・・・・・・・・・  中島三郎助
  江差奉行 ・・・・・・・・・・・・・ 松岡四郎次郎
  江差奉行並 ・・・・・・・・・・・・  小杉雅之進
  松前奉行 ・・・・・・・・・・・・・  人目勝太郎
  開拓奉行 ・・・・・・・・・・・・・ 沢太郎左衛門
  会計奉行 ・・・・・・・・・・・・・   榎本対馬
  ロ会計奉行 ・・・・・・・・・・・・・ 川村録三郎
  菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 全将兵の数がはっきりしませんが、榎本武楊の得票数は156
票でトップであり、第2位は大鳥圭介で86票だったといわれて
います。妥当な結果であると思います。開陽丸が沈没したので、
海軍の編成は、次の4艦編成となったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
         旗艦:回天
         蟠龍、千代田形、高尾
―――――――――――――――――――――――――――――
 これら4艦のうち、高尾丸は秋田藩所有の船舶だったのですが
箱館に入港したところ、回天丸と蟠龍丸に拿捕され、そのまま榎
本政権の軍艦になったのです。
 箱館奉行の永井尚志は、英仏両領事面会し、自分が箱館奉行に
選出されたことを伝え、今まで通りの貿易体制を維持することを
宣言したのです。
 既に英仏両国公使は、榎本軍が箱館市中を占拠し、五稜郭に入
城した時点で、事実上の蝦夷地平定を成し遂げているとして、英
仏「オーソリティーズ・デ・ファクト」──事実上の政権として
認めており、それによって、榎本政権は一定の法的地位を獲得し
たことになります。
 実は英仏両国は、旧幕府艦隊(榎本軍)が箱館に向かった時点
で、その対応について既に協議して、取り決めを行っています。
それは次の4点です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.徳川脱走家来(榎本軍)は交戦団体としての条件を満たし
   ておらず、したがって箱館を封鎖する権利はない。
 2.しかしながら、内戦に関与することのないように、自国商
   船かが箱館で兵員および軍事物資の陸揚げを行わないよう
   にすること。
 3.箱館に対する攻撃があった場合に派遣海軍は抵抗(交戦)
   しないこと。
 4.箱館が脱走家来の手に落ちた場合には居留民の安全を確保
   するための接触のみ許されること。
                       ──石井孝著
                『戊辰戦争論』/吉川弘文館
―――――――――――――――――――――――――――――
 榎本総督は、回天と蟠龍の2艦に「徳川脱艦布告書」を持たせ
て青森港に向かわせ、弘前藩にそれを手渡し、奥羽諸藩に伝達を
依頼したのです。その布告書について、星亮一氏は次のように書
いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 これは松前落と奥羽諸藩に対する榎本の意思表明だった。我ら
 は北門の防衛と蝦夷地の開拓のためにこの地に来た者である。
 このことは朝廷にも嘆願書を出していると述べ、松前藩に対し
 てはなんの恨みもなく、話し合いを望んだが、一方的に攻撃し
 て釆たので、戦闘に入ったまでである。城下の放火、略奪は松
 前藩兵の行為である。その粗暴は見るに堪えないものがあると
 批難した。また奥羽列藩に対して特段の尽力を求め、攻撃して
 くる場合は断固、戦うと表明した。
―――――――――――――――――――――――――――――
           ── [明治維新について考える/71]


≪画像および関連情報≫
 ●蝦夷共和国について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  最初に「共和国(リパブリック)」という表現を使ったのは
  1868年11月、英仏軍艦艦長に随行し、榎本と会見した
  英国公使館書記官アダムズだった。彼が1874年に書いた
  著書 History of Japan において、箱館政庁を "republic"
  と紹介し、その後、アダムズの表現に倣う者が大多数となっ
  た。この政権は単に箱館政権とも称されるが、主権的な独立
  や地方割拠を目論んだわけではないので、この呼称は適切で
  はない。榎本らは「蝦夷共和国」と名乗ったことはなく、ま
  た独立主権国家たると宣言したわけでもない。その目的・内
  実からいえば「蝦夷徳川将軍家遺臣武士団領」と呼ぶべきで
  あるとの説もある。         ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●五稜郭本陣/出典:ウィキペディア

五稜郭本陣.jpg
五稜郭本陣
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2011年05月25日

●「榎本政権に対する諸外国の思惑」(EJ第3062号)

 榎本武楊を中心とする徳川家臣団は実に早い段階から外国との
交渉には気を配っていたのです。その証拠に、彼らは鷲の木に到
着するや開陽丸の艦上から各国代表にあてて声明書を送っている
のです。対外国工作をそれだけ重視していたからです。時期的に
は明治元年10月19日のことです。
 なぜ、徳川家臣団がこれほど国際関係に明るかったかというと
それは開陽丸に同乗していたフランス人士官ブリュネの存在が大
きいといえます。その声明書がフランス語で書かれていたことが
それを物語っています。
 この声明を受けて外国代表は、急遽集まってその対応を協議し
たのです。榎本らの徳川家臣団に「交戦団体権」を与えるかどう
かの問題です。
 それでは「交戦団体権」とは何でしょうか。ウィキペディアの
解説を引用します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 交戦権という言葉には、厳密な定義は存在しない。日本国憲法
 をはじめとして用例はあり、「戦争を行う権利」あるいは「交
 戦国・交戦団体に対して認められる権利」という意味ではない
 かと推測されている。交戦権を「戦争の主体となる立場」と規
 定する場合、交戦権を持つのは、国および交戦団体となる。戦
 争は、一般に国と国との間で行われるものであるため、戦争の
 主体となりうる集団として、まず国を挙げることができる。ほ
 かに、政府の転覆を目指す集団が転覆対象国家に対して戦争を
 起こす場合、あるいは国の一部の分離独立を目指す集団が旧帰
 属国家に対して戦争を起こし、その集団が「交戦団体」と認め
 られた場合には、国に準じて交戦権を付与されるとされる。
                    ──ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――――
 既存国家で、ある団体がクーデターを起こし、国家の転覆を図
り、それが成功したとします。そういう場合に、その団体に「交
戦団体権」を与えるかどうかが国際間で問題になります。国際的
にその団体を国と認めるかどうかの問題です。
 考えてみると、新政府と旧幕府が対立し、内戦が起きている幕
末維新の状況は、外国から見ると、どちらも国として認められな
い状況といってよいと思います。
 しかし、榎本軍が蝦夷地に上陸したときには戊辰戦争の決着は
ほとんどついていたのです。それでも外国の代表が榎本らの蝦夷
地征服を問題にしたのかというと、差し迫って箱館港の封鎖の懸
念があったからです。その顛末について石井孝氏は次のように述
べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 外国代表の問では、徳川家臣に付与すべき権利について意見が
 分裂した。イギリス公使パークスが提出した決議案のなかには
 外国の船舶にたいして「箱館港を封鎖しょうとする徳川脱藩家
 臣のがわからのいかなる要求をも承認することができない」と
 いう形で、徳川家臣団の交戦団体権を否認するような文句が含
 まれていた。これにたいしてプロシャ代理公使フォン=プラン
 トが提出した改訂決議案では、問題のこの部分が、外国の船舶
 にたいする「箱館港の封鎖を承認することができない」と変え
 られた。これによると箱館港の封鎖は、徳川家臣団にたいする
 と同じように、天皇政府にたいしても否認されるわけである。
                       ──石井孝著
                『戊辰戦争論』/吉川弘文館
―――――――――――――――――――――――――――――
 英国公使パークスの慎重な要求の表現と比較すると、プロシャ
代理公使フォン・ブラントはかなり乱暴なことをいっていること
がわかります。パークスの場合は、新政府には交戦団体権を認め
るかわりに、蝦夷の徳川家臣団のそれには制限を設けようとする
ものであるのに対して、フォン・ブラントのそれは新政府の交戦
団体権も認めないといっているのです。いかに日本を低く見てい
たかがわかります。
 各国代表として、フランス公使ウトレイとオランダ公使ファン
・ポルスブルックは英国のパークスに賛成したのですが、米国公
使ヴァン・ヴォールクンバーグとイタリア公使のデ・ラ・トゥー
ルはフォン・ブラントに同調したのです。「3対3」に分かれた
ので、箱館港封鎖問題については結論が出なかったのです。その
結果、英国と仏国は2国についての取り決めを行ったことは、昨
日のEJに書いた通りです。
 このフォン・ブラントとは何者でしょうか。
 フォン・ブラントは、当時プロシャ代理公使(のち北ドイツ連
邦代理公使)でしたが、日本の戊辰戦争の混乱に乗じて蝦夷地を
本格的な植民地にする計画書を本国に提案していたのです。
 フォン・ブラントは、1867年の夏、蝦夷地を旅行して次の
ように感想を書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 この土地はヨーロッパ人の植民地として格別に適していると確
 信することができた。気候は少なくとも島の南部において北欧
 のそれと合致し、地味は肥え、潅漑の便が非常に良く、石炭の
 埋蔵量も多い。・・・主著のアイヌと本土からの移民は数が少
 ないので、ヨーロッパ人の入植に障害となりうるものではない
 し、また、島に置くべき守備隊や駐留地のことは問題とするに
 足りなかった(原潔・永岡敦訳)。
         ──保谷徹著/『戊辰戦争』/吉川弘文館刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 きっかけは、会津・庄内両藩が武器供与の見返りに蝦夷地の土
地を提供するという提案をしてきたことによるのです。しかし、
フォン・ブラントの提案は、ときの宰相ビスマルクが却下したた
め、実現しなかったのですが、プロシャとは他に似たような問題
もあるのです。    ── [明治維新について考える/72]


≪画像および関連情報≫
 ●フォン・ブラント/日晋修好通商条約締結の顛末
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ブラントは移民計画と蝦夷地防衛計画まで書いている。移民
  の出発地はトリエステが良い、そこから船でアレキサンドリ
  アまで3日か5日かかる。スエズ運河が開通すれば時間は、
  もっと短縮する。スエズから箱舘まで平均50日。アメリカ
  やオーストラリアよりも近く、安価である。蝦夷地の防衛は
  5000名の兵力。14ないし17門の大砲。軍艦4〜6隻
  砲艦8隻その他輸送艦があれば十分だ。幕府は果敢な抵抗を
  してくるだろうが、問題ではない。それよりも他のヨーロッ
  パ諸国のどこよりも先に速やかに占領する方が重要だ。(一
  部略)ブラントの1866年のビスマルク宛書簡によれば、
  会津藩・庄内藩の武器売買の決済にその所有地を宛てると言
  う交渉を内々に進めていたと言うが、これ裏付ける日本側の
  史料はない。
     http://blogs.yahoo.co.jp/ikimono01/12944228.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

保谷徹氏の本「戊辰戦争」.jpg
保谷 徹氏の本「戊辰戦争」
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2011年05月26日

●「政治力で勝ち取った局外中立撤廃」(EJ第3063号)

 明治元年12月26日、フランスの軍艦ヴェニュス号が箱館か
ら横浜に帰還したのです。そして、翌27日に外国代表会議が開
催されています。それは、箱館の最新情報に基づいてある決断を
するべく開かれたのです。
 ちょうど一ヵ月前のことです。11月27日に副総裁の岩倉具
視は、英国公使パークスと会談を行っています。この会談の目的
は、外国が戊辰戦争を内戦とみなし「局外中立」の立場を取って
いることに対し、次のように不満を表明することだったです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 現在、局外中立の宣言を維持しているのは、海賊の一派を天皇
 政府と同じ水準におくことであり、友好国の代表にとって演じ
 られるべき役割とは思われない。     ──岩倉具視輔相
                       ──石井孝著
                『戊辰戦争論』/吉川弘文館
―――――――――――――――――――――――――――――
 さらに岩倉具視は、12月3日に横浜で6ヶ国の代表全員と会
見し長口舌をふるって、戊辰戦争の現況から説き起こし、その後
着々と全国統一が進んでいることを強調し、いまだに局外中立が
撤廃されないのは理解できないと訴えたのです。
 そして翌4日には、各国公使に書簡を送り、速やかな局外中立
の撤廃を求めたのです。この書簡を受けて各国代表は6日に局外
中立の撤廃問題について協議し、採決を取ったのですが、賛否が
拮抗し、意見の一致はみなかったのです。
 英国公使のパークスは、その結果を岩倉具視にこう伝えていま
す。自分としては局外中立を撤廃することに賛成であるが、他国
の公使の中には、蝦夷地での戦闘を鳥羽伏見の戦い以来続いてい
る戦争の一部ととらえていて、局外中立の撤廃に反対しているこ
とを伝えたのです。これに関する会議はその後3回開かれたので
すが、賛否は3対3で決着がつかなかったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     イギリス公使 ・・・・・・・ 賛成
     フランス公使 ・・・・・・・ 賛成
     オランダ公使 ・・・・・・・ 賛成
     イタリア公使 ・・・・・・・ 反対
     プロシャ公使 ・・・・・・・ 反対
     アメリカ公使 ・・・・・・・ 反対
―――――――――――――――――――――――――――――
 この結果が3回続いたので、フランス公使ウトレイが、反対し
ている3国の公使の調停に乗り出したのです。ウトレイは、反対
しているアメリカ、イタリア、プロシャの3公使が反対している
のは、蝦夷地の現況がわからないためであると判断し、蝦夷地の
最新情報が入るまで、しばらくの猶予が必要であるとする旨の書
簡を送って結論を先送りしたのです。
 その間榎本武楊は、書簡による外交をさかんに展開していたの
です。榎本は、英仏公使に蝦夷の徳川家臣団と朝廷や新政府の間
を仲介してもらおうとして書簡を送ったのです。完全な筋違いの
嘆願であり、実るはずのない仲介ではあったのですが、榎本とし
ては、そうするよりほかに方法がなかったのです。
 それにフランス公使のウトレイに対しては、別に書簡を送り、
力になってもらうよう嘆願していたのです。なぜ、フランス公使
かというと、前任公使のロッシュが徳川家に同情的であったので
ウトレイも同様であろうと考えたことと、榎本にはフランス人士
官のブリュネがついていたからです。これについて、石井孝氏は
次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 このはかフランス公使ウトレイにたいして、徳川家臣は別に秘
 密書簡を送っている。かれらは、ウトレイが前任者のロッシュ
 と同じく、徳川氏に大きな同情をよせるのを期待して、とくに
 この書簡を送ったのである。ウトレイにあてたものだから、当
 然そこでは、軍事行動においてのみでなく植民・開拓事業にお
 いても指導の任にあたっているフランス人士官、とくにその首
 領ブリユネにたいして、大きな感謝の辞をささげている。フラ
 ンス人士官にたいする謝辞をあてられることは、ウトレイにと
 ってはまことに迷惑であったにちがいない。ウトレイは、かれ
 の忠告に反してフランス軍事使節団を脱走したブリユネらの行
 動に、はなはだしい憤りを感じていたからである。─石井孝著
                『戊辰戦争論』/吉川弘文館
―――――――――――――――――――――――――――――
 岩倉具視は、あくまで執拗に局外中立の撤廃にこだわったので
す。各国公使に何回も会い、「しばらくの猶予期間」の明確化を
求めたのです。その結果、12月15日に各国公使に対し、「2
週間以内」という期日を約束させたのです。これは遅くても12
月29日までに外国代表は撤廃の方針を出すことを確約させられ
たことを意味しています。
 12月26日にフランスの軍艦ヴェニュス号が横浜に帰還した
翌日の27日に外国代表会議が開かれたのです。蝦夷地における
現況について説明があり、その結果、局外中立の撤廃が満場一致
で可決されたのです。これによって、軍艦を交戦団体の一方へ引
き渡すのを阻止する処置も撤廃されています。
 これは基本的には、日本における戦争の終結を意味しているの
です。これによって、蝦夷地の榎本政権は、単なるゲリラ部隊の
反乱になってしまうことになります。つまり、局外中立の撤廃は
新政府による日本全国統一の達成であり、日本における内戦終結
の国際的承認ということになるのです。
 岩倉具視が自らの政治力を全開させ、執念をもって外国代表と
折衝し、それを勝ち取ったのです。また、これによって新政府が
外国の意向に関係なく、榎本軍(徳川家臣団)を攻撃できる状態
になったことを意味しているのです。
           ── [明治維新について考える/73]


≪画像および関連情報≫
 ●「局外中立」とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  対立し合う二者の間で、どちらにも味方せず、いずれにも敵
  対しないで中立の立場をとること。また、対立し合っている
  ものと関わらず、離れていること。戦争に関与しない国家の
  交戦国に対する地位。たんに中立ともいう。交戦国の双方に
  援助を与えてはならないなどの中立義務を生じる。戊辰戦争
  に際し、明治新政府の要請により、英・米・仏・蘭・伊・プ
  ロイセンの6ヶ国が、1868年(明治元年)2月18日局
  外中立を宣言したため江戸幕府がアメリカから購入したスト
  ーンウォール号は一時抑留された。70年の普仏戦争、88
  年の米西戦争などで日本政府は局外中立を宣言。
  http://www.sakanouenokumo.jp/dic/archives/2007/07/post_872.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

岩倉具視輔相.jpg
岩倉具視輔相
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2011年05月27日

●「局外中立撤廃で官軍が入手した甲鉄艦」(EJ第3064号)

 6ヶ国の外国代表による局外中立の撤廃は、新政府にとって国
際的に絶対有利なポジションを占めたことを意味しています。こ
れに対して榎本政権は蝦夷地を平定したものの、武器・弾薬の欠
乏とカネに困窮していたのです。
 そこで榎本政権は、土着の商人から強引に御用金と称して一万
両を超えるカネを徴収したのです。これによって、さらなる強制
徴収を恐れた商人たちは持てるカネをすべて持って箱館を去って
行ったのです。
 実際問題として、商人たちにとってもはや箱館では商売になら
なかったのです。なぜなら、新政府の禁制によって、箱館にはも
のが来なくなったからです。いわゆる経済封鎖です。諸外国も箱
館へは、軍隊や兵器の輸送を阻止する措置をとったのです。
 住民たちの不満も高まったのです。すべての商品価格が高騰し
ているのに、榎本政権では安く買い上げようとし、貧困階級は強
制労働に駆り出され、それでいて、給与もろくに支給されなかっ
たからです。
 もはや戦わずして新政府軍は勝利したのと同然であったといえ
ます。しかし、新政府軍が動き出したのは、明治2年3月になっ
てからのことです。次の2つのことに不安があったからです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.蝦夷地は寒冷地であって、真冬の作戦展開は不利である
 2.新政府軍の海軍力に不安があり、榎本艦隊を恐れたこと
―――――――――――――――――――――――――――――
 2に関しては、薩長新政府軍には主力となる軍艦はなかったの
です。それは旧幕府軍が主力軍艦を引き渡さなかったからです。
それに薩長の海軍力は旧幕府軍をはるかに下回っていたのです。
そのため、榎本艦隊は自由に動くことができたわけです。
 そこで新政府軍が目をつけたのが、そのとき米国が所有してい
たストーンウォール号という軍艦なのです。実はこの軍艦は、南
北戦争(1861年〜65年)において南軍──南部連合がボル
ドーにあったアルマン・ブラザース社造船所に発注したコードネ
ーム「スフィンクス」と呼ばれる装甲艦なのです。ところが、こ
れには北軍──アメリカ北部合衆国からフランス政府へクレーム
が付いて、引渡し契約が破棄されてしまったのです。
 その後この軍艦はデンマーク海軍に譲渡され、南北戦争終結後
にアメリカがデンマークから買い戻したのです。慶応3年(18
67年)に、小野友五郎を代表とする江戸幕府の訪米使節がアメ
リカにおいて、このストーンウォール号の買取を約束していたの
です。つまり、もともと幕府が幕府の軍艦として、買い取ろうと
したわけです。
 しかし、その翌年に戊辰戦争が勃発したので、アメリカはこれ
を日本の内戦としてとらえ、局外中立の立場から、幕府に船を引
き渡すのを拒否したのです。新政府側でもこのストーンウォール
号に目をつけ、買取を希望したのですが、アメリカは戦争に決着
がつくまではどちらにも売らないと宣言したのです。
 岩倉具視は、榎本政権と戦うには、新政府海軍の主力艦として
ストーンウォール号が不可欠であるとして、局外中立の撤廃を求
めたというわけです。とくにアメリカの態度が頑なであったのは
ストーンウォール号の問題があったからです。
 ストーンウォール号は、添付ファイルにあるように、非常に変
わった形状の戦艦なのです。船首の水中に長さ6メートルの「ラ
ム」と呼ばれる衝角を持っているのです。ほとんどの軍艦が木造
船だった当時、大砲を撃ちながら敵艦に舳先から体当たりし、水
面下にある衝角で相手の船腹に大穴を開け沈没させることのでき
る戦闘艦なのです。
 2組あるスクリューは夫々反対方向に回転し、且つ方向舵と共
に独立して運転できたので、操船能力が格段に高く、敵艦に突っ
込む操船を容易にする構造だったのです。
 新政府としては、財政はきわめて厳しかったのですが、戊辰戦
争に決着をつけるため、明治2年(1869年)2月3日、スト
ーンウォール号(甲鉄艦)購入に踏み切ったのです。そのための
岩倉の局外中立撤廃の交渉だったのです。ストーンウォール号は
とりあえず「甲鉄」と名づけられたのです。
 新政府軍がストーンウォール号を入手したことに榎本は、衝撃
を受けたのです。もともと自分が海戦で使う軍艦を敵にとられた
のですから、当然のことです。しかし、榎本は新政府軍がストー
ンウォール号の操艦に慣れないうちに、接舷襲入(アボルダージ
ュ)という冒険的な攻撃で奪取しようと考えたのです。
 明治2年3月9日、遂に新政府軍は、ストーンウォール号を含
む軍艦3隻、輸送艦4隻の艦隊を組んで、品川沖を発進し、浦賀
で軍艦陽春を加えた8隻の船団で3月21日に宮古港に入港した
のです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ≪軍 艦≫
  ・甲鉄(ストーンウォール号)、春日、丁卯、陽春
 ≪輸送船≫
  ・飛竜、豊安、戊辰、晨風(しんぷう)、
―――――――――――――――――――――――――――――
 榎本軍は、海軍奉行荒井郁之助が指揮官となり、回天、蟠龍、
高尾の3艦を率いて、3月20日に箱館を出発し、新政府軍艦隊
が集まっている宮古に向かったのです。それぞれの艦にはフラン
ス人下士官が乗っていたのです。
 しかし、榎本艦隊はとことん天候によって邪魔されるのです。
松島沖では武器弾薬を積んだ輸送船が座礁して沈没し、江差沖で
は、暴風雨のため、旗艦の開陽丸を失うなど致命的な打撃を受け
ているのです。そしてまたしても暴風雨に遭遇し、3艦ばらばら
に分かれてしまい、25日未明、回天丸のみ宮古湾に到着したの
です。艦長の荒井郁之助は単独で甲鉄略奪作戦を敢行することを
決意したのです。   ── [明治維新について考える/74]


≪画像および関連情報≫
 ●甲鉄(ストーンウォール号)の武装について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  本艦の主砲には大砲技術の本場イギリスのアームストロング
  社の砲を採用している。艦首砲郭部には「アームストロング
  27・9センチ(300ポンド)前装填式滑空砲」を単装砲
  架で1基を配置し、重量136キログラムの砲弾を撃つ事が
  出来た。船体中央砲郭部に「アームストロング27・9セン
  チ(70ポンド)前装填式ライフル砲」を単装砲架で片舷1
  基ずつ計2基を装備し、重量32キログラムの砲弾を撃つ事
  が出来た。しかし、砲弾の性能が良くなく、火薬庫等に命中
  しないかぎり敵艦を大破させるのは難しかった。この事もあ
  ってか、後に米国製のパロット砲に備砲を換装されている。
                    ──ウィキペディア
http://members2.jcom.home.ne.jp/so_bluem0807a/3dcg/kotetsu.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

甲鉄(ストーンウォール).jpg
甲鉄(ストーンウォール)
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2011年05月30日

●「宮古湾海戦で榎本艦隊敗北」(EJ第3065号)

 榎本軍の「甲鉄」分捕り作戦──アボルタージュ。そんなこと
が本当に成功する可能性はあるのでしょうか。
 出動するのは、回天と蟠龍と高尾の3艦です。宮古鍬ヶ崎湾に
停泊中の甲鉄に蟠龍と高尾が接近し、甲鉄の両舷に平行して挟み
込むように接舷します。それと同時に蟠龍と高尾の両艦から陸兵
が甲鉄の甲板に飛び降り、甲板を制圧し、乗員を閉じ込めたまま
甲鉄を箱館まで曳航してしまおうという計画です。
 それでは回天は何をするのでしょうか。回天は両舷の水車を推
進力とする外輪船であり、甲鉄に接舷するのに向いていないので
す。そのため、敵の他艦を牽制し、作戦遂行艦の支援と戦況を監
視する検分艦としての役割を果たすことにしたのです。
 回天と蟠龍と高尾の3艦には、それぞれ次のように士官と兵士
が乗り込んでいます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ◎「回天」/1678トン
  ・艦将/甲賀源吾、海軍奉行/荒井郁之助、陸軍奉行並
   /土方歳三、海軍出身/ニコール、神木隊39人、彰
   義隊15人、新選組数名、その他
 ◎「蟠龍」/370トン
  ・クラトー、彰義隊士15人、遊撃隊5人、その他
 ◎「高尾」/1000トン
  ・コラッシュ、神木隊/26人、その他
―――――――――――――――――――――――――――――
 慶応2年3月22日の夜明け前、回天と蟠龍と高尾の3艦は箱
館港を出航したのです。鮫港(青森県鮫町)に寄港してさらに南
下しようとしたのですが、またしても嵐に遭遇したのです。ここ
で3艦は早くもばらばらになってしまいます。
 蟠龍はわずか370トンと小さいので、嵐を乗り切るのは不可
能と判断して、鮫港に逃げ込んでいます。これで事実上3艦が合
同作戦を組むことは不可能になったのです。しかし、高尾はちょ
うど風の力で宮古沖まで流され、回天は何とか嵐を乗り切ったの
で、24日の明け方には宮古南方大沢港(岩手県山田町)に両艦
とも入港できたのです。
 ところが、高尾は機関に故障が生じたのです。緊急修理を行っ
たのですが、完全には直らなかったのです。しかし、甲鉄攻撃は
25日の午前4時30分前に行う必要があったのです。
 なぜ、午前4時30分前に攻撃を行わなければならないかとい
うと、新政府軍の「総員起こし」──乗務員全員の起床時間──
が午前4時30分であるからです。その30分前には甲鉄の甲板
に兵士を下ろす必要があったのです。
 目標とすべき宮古湾鍬ヶ崎港は、大沢湾より約28キロの距離
です。しかし、回天と高尾は速度が違うのです。まして高尾は機
関を損傷しており、時速はせいぜい3ノット、1時間に5・6キ
ロぐらいしか進めないのです。
 これに対して回天の最高速度は時速12ノットです。キロメー
トルに直すと22・2キロです。平均時速10ノットで進むと、
1時間30分で宮古湾鍬ヶ崎港に着きます。しかしこれでは、高
尾は回天についていけないのです。
 時間は迫っており、事実上回天の単独攻撃になってしまったの
ですが、それでいながら回天が宮古湾鍬ヶ崎港に到着したのは午
前4時30分を過ぎていたのです。既に新政府軍各艦の甲板には
乗員の姿が見えていたのです。すべての計画が狂っています。
 そのとき宮古湾鍬ヶ崎港には、甲鉄の他に新政府軍の艦隊であ
る春日、戊辰、飛龍、豊安、陽春、丁卯、晨風が停泊していたの
です。そのなかの春日には薩摩藩士の東郷平八郎が乗っていたの
です。東郷は当時春日の乗員だったのです。
 回天は米国の軍艦旗である星条旗をつけて宮古湾に入ったので
す。米国の軍艦だと信じている新政府軍の各艦の乗員はどこに錨
を下ろすのか、それをのんびり見物していたといいます。
 しかし、回天は甲鉄を見つけると、直ちに星条旗を下ろし、日
章旗を掲げて甲鉄に突き進んだのです。そのときの模様を菊地明
氏は次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 艦将・甲賀源吾が「アポルダージユ」と叫び、高低差に躊躇し
 ていた陸兵が「甲鉄」の甲板に飛び移る。第一番が海軍一等測
 量の大塚浪次郎、次いで軍監役の矢作沖麿、さらに彰義隊の笹
 間金八郎・加藤作太郎・伊藤弥七、新選組出身で陸軍奉行添役
 介の野村利三郎、軍艦役並の渡辺大造もこれに続いた。これが
 『蝦地追討記』に、「賊(旧幕軍)六、七人、抜刀あるいは銃
 を携え、甲鉄艦へ乗り入り候……」と記録される人々である。
    菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 回天と甲鉄の甲板の高低差は約3メートルもあり、兵士が飛び
降りるのを躊躇したといいます。それに甲鉄の甲板には既に乗員
が出てきており、下から銃撃してきたのです。
 激しい戦闘が約20分間続いたのですが、回天の被害は大きく
引き揚げざるを得なかったのです。榎本軍はこの戦闘の結果、回
天艦将の甲賀源吾を含む13人が戦死し、約30人が負傷してい
ます。新政府軍の戦死者は9人、負傷者は約25人です。
 回天は26日午前10時に箱館に帰還することができましたが
後からついてきた高尾は速度が遅いため、追いつかれて追撃され
箱館へ北上中、宮古の北20キロの羅賀沖で座礁。乗員は艦に火
を放ってボートで脱出したのですが、箱館には戻れず、全員が盛
岡藩に投降しています。
 このようにして、宮古湾海戦は回天こそ孤軍奮戦したものの、
榎本軍の完敗に終わったのです。一方、蟠龍は一時甲鉄に追われ
たものの、辛うじて風に乗って何とか箱館に帰還したのです。こ
のように2艦は何とか守ったものの、榎本軍は新政府軍との最初
の海戦に敗れたのです。── [明治維新について考える/75]


≪画像および関連情報≫
 ●「宮古湾海戦」について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  奇襲には成功したが、外輪船で小回りが利かなかった回天は
  接舷向きではなく、艦長の甲賀源吾の必死の操艦にもかかわ
  らず、回天の船首が甲鉄の船腹に突っ込んで乗り上げる形と
  なり、約3メートルもの高低差が生じてしまった。それでも
  回天からは先発隊が甲鉄の甲板に飛び降り、斬り込んでいっ
  たが、細い船首からでは乗り移る人数が限られ、またガトリ
  ング砲など強力な武器の恰好の標的となってしまう位置だっ
  たため、乗り移る前に回天甲板上で倒れる兵が続出し、ニコ
  ール、相馬主計なども負傷した。春日をはじめ周囲にいた新
  政府軍艦船も次第に戦闘準備が整い、回天は敵艦に包囲され
  て集中砲撃を浴びるに至る。     ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

宮古湾海戦.jpg
宮古湾海戦
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2011年05月31日

●「新政府軍と榎本軍の兵力比較」(EJ第3066号)

 宮古湾海戦での勝利により、新政府軍艦隊は無傷のまま青森港
に結集したのです。慶応2年3月27日のことですが、箱館府判
事・南貞助(長州)の名前で、箱館湾の外国海軍司令宛てに「開
戦予告」が届けられたのです。
 どういう内容かというと、まもなく反逆者への総攻撃をかける
ので、自国の居留民を移動可能な財産と一緒に軍艦上に回収する
か、明治政府が蒸気輸送船を送るのでそれに乗って、青森への避
難を勧めるという内容です。
 これを受けて、3月28日に英仏両艦の司令は居留民に対して
次の4つの指示を出しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1.ミカド政府から、攻撃開始が通告されたこと
   2.軍艦は箱館港から3マイルまで退去すること
   3.居留民は直ちに動産ともども避難してほしい
   4.警告を無視して残存する者は自己責任になる
―――――――――――――――――――――――――――――
 新政府軍は青森に軍を集結させ、渡海の準備を着々と整えてい
たのです。その兵力はどのくらいのものであったかについて、保
谷徹氏の著書には次のように書いてあります。その総勢は、およ
そ5490名であったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 その総勢は、薩摩・長州・備後福山・越後大野・岡山・津・松
 前・津軽・黒石・水戸・久留米の藩兵による総計5490余名
 といわれ、このうち戦闘員は3388人、このほかは夫卒(軍
 夫)であった。上陸地点は松前半島の付け根、江差の北方10
 キロほどの乙部と決し、ここに物資・兵員の陸揚げを行うこと
 になった。大量のはしけ船も準備され、兵員は飛竜に250、
 豊安に300、チャーター船ヤンシーに1500まで輸送する
 ことが可能だった。オオサカには小荷駄を積み込んで、軍艦が
 護衛した。   ──保谷徹著/『戊辰戦争』/吉川弘文館刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 上記のように、新政府軍は、英国艦「オーサカ」と米国艦「ヤ
ンシー」を津軽海峡渡航用にチャーターし、その2艦も青森港に
入港してきたのです。
 それでは、この新政府軍を迎え撃つ榎本軍はその時点でどの程
度の兵力であったかについて、「北州新話」では、3000人を
切る次の兵力であったと伝えています。戦わずしてその勝敗は見
えていたといえます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 五稜郭 ・・・・・ 伝習歩兵隊 杜稜隊 ・・ 500余人
 箱館 ・・・・・・ 伝習士官隊 新選組 ・・ 300余人
 松前 ・・・・・・ 遊撃隊 陸軍隊 ・・・・ 300余人
 江差 ・・・・・・ 一聯隊 ・・・・・・・・ 350余人
 室蘭 ・・・・・・ 開拓方 ・・・・・・・・ 250余人
 鷲ノ木〜尾札部 ・ 衝鋒隊 ・・・・・・・・ 400余人
 湯ノ川〜石崎 ・・ 小彰義隊 ・・・・・・・  80余人
 有川〜吉岡 ・・・ 彰義隊、額兵隊、神木隊
           会津遊撃隊 ・・・・・・ 700余人
    菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 ところで、新政府軍に降伏したはずの仙台藩では、依然として
抗戦派の抵抗がくすぶっていたのです。朝廷による仙台藩の処分
は、領地没収をされたものの、改めて朝廷より28万石が与えら
れ、藩の存続は認められたのです。
 しかし、仙台藩は公称62万石ですが、実質100万石を超え
る裕福な藩だったのです。それが28万石に減らされたのですか
ら藩の財政は最悪です。それにここ数年間にわたる凶作が重なり
藩士たちは経済的に困窮していたのです。
 仙台藩としては、領地半減の対応策としていわゆるリストラ、
陪臣などの人員削減を徹底して行わざるを得なかったのです。こ
の処分内容や藩の態度に不満を覚えた藩士は少なくなく、仙台藩
士・二関源治、旧幕臣・石川欽八郎などが中心になり、仙台藩の
二、三男および浪人者などに呼びかけ、結集して創設したのが見
国隊なのです。
 彼らは石巻周辺を本拠地とし、近辺の富豪より軍用金を徴収す
るなどして、着々と活動準備を行ったのです。もちろん、仙台藩
がこれを放っておくはずがなく、鎮圧しようとするのですが、容
易ではなく、見国隊は追っ手を避けながら気仙沼へと移動したの
です。そこで4月6日に新政府は久我通久を鎮撫総督とし、見国
隊を鎮撫するため、兵600人を仙台藩に派遣したのです。
 対応を迫られた見国隊は武装の必要性に迫られます。そのとき
気仙沼沖に碇泊していた加賀・前田家の船に武器商人の仏人が乗
り合わせていたのです。石川欽八郎が同船乗り込みの許可を得て
横浜に赴き、そこでその仏人の紹介で、英国商船に談判し、兵器
弾薬の買い付けに成功したのです。
 そして、英国蒸気船「ユーレンブラック号」をチャーターし、
その船に兵器弾薬を積載して気仙沼に帰港したのです。そして仲
間350余名を船に乗せると、そのまま石巻港へ移動し、同港に
碇泊していた船5隻に米殼が満載されているのを知ると、これを
奪取して船に移し、箱館の榎本軍と合流するため石巻を出帆した
のです。明治2年4月8日のことです。
 新政府艦隊はすべての準備を整えて、慶応2年4月8日に青森
港を出港したのです。9日午前2時20分、軍艦の甲鉄と春日は
江差北方8キロの乙部沖に出現し、午前4時には1500人の陸
兵を乗せた「ヤンシー」も到着したのです。上陸準備はすべて完
了したのです。そして、一挙に乙部上陸を果たし、そのまま上陸
軍は江差も占有したのです。榎本軍はまったく抵抗せず、全軍が
松前まで引いたのです。
          ─── [明治維新について考える/76]


≪画像および関連情報≫
 ●「見国隊」について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  見国隊は兵力を二つに分けて一方が室蘭方面の防衛に向かい
  もう一方は森大野の守備についた。見国隊隊長の二関源治は
  額兵隊の星恂太郎と面会する為に有川に向かう。しかし、有
  川には星恂太郎は居らず、木古内にいるといわれたので有川
  の額兵隊士・荒井宣行に案内をしてもらって五稜郭の榎本武
  揚総裁を訪ねる。榎本は二関達見国隊に有川の防衛を命じた
  為、森大野に駐屯していた見国隊を有川に移動させ、二関自
  身は単身で木古内の星恂太郎に会いに行った。星と面会した
  二関は今までの仙台藩事情を説明し、木古内で一泊したが翌
  朝には戦闘状態に入った。星恂太郎は二関に「君はここで戦
  うべきではない。見国隊を連れて函館の防備に廻るべきだ」
  と説得され函館へ戻って臨戦態勢をとった。
     http://konn3563.seesaa.net/article/113871767.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

乙部町.jpg
乙部町
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2011年06月01日

●「新政府軍による3ルート攻略作戦」(EJ第3067号)

 明治2年(1869年)4月9日、新政府軍は江差の北約10
キロのところにある魚港、乙部に上陸したのです。そのとき江差
には500人を超える榎本軍がいたので、江差奉行の松岡四郎次
郎は3小隊を率いて乙部に向かったのです。
 しかし、新政府軍の軍艦、とりわけ甲鉄の艦砲射撃はすさまじ
く歯がたたなかったのです。もし、榎本軍に開陽が健在であれば
輸送船はことごとく粉砕できたし、軍艦同志でも甲鉄を除けば、
あとは開陽の敵ではなかったのです。
 新政府軍は、榎本の率いる艦隊には相当警戒していたのです。
しかし、榎本軍の軍艦は3隻しかなく、榎本艦隊は箱館を動けな
いと判断して、あえて乙部に上陸したのです。上陸作戦の部隊は
三軍まであって次の通りです。総兵力は1400人です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 第一軍 参謀/ 山田顕義(長州) 松前、津軽、長州、大野
     大野藩兵
 第二軍 参謀/ 黒田清隆(薩摩) 松前、津軽、薩摩、備前
     長州、水戸、福山藩兵
 第三軍 総督/清水谷公考(箱館府知事、公家) 松前、水戸
     筑後、薩摩、備前、徳山、福山藩兵
              ──星亮一著/中公新書2108
        『大鳥圭介/幕府歩兵奉行、連戦連敗の勝者』
―――――――――――――――――――――――――――――
 これを見ると、どの軍も土地に精通した松前軍が中心になって
いることがわかります。まして彼らは昨年末に榎本軍に攻め込ま
れ、青森まで撤退した悔しさがある。その分、怒涛のように攻め
込んだのです。兵の数も装備も弾薬も士気にも勝る新政府軍に榎
本軍は勝てるはずがないのです。そのため、江差を明け渡し、兵
を松前城まで引いたのです。
 新政府軍は、乙部に上陸してから箱館にいたる作戦として、次
の3つを決めていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
          1. 松前口作戦
          2.木古内口作戦
          3. 二股口作戦
―――――――――――――――――――――――――――――
 最初のうちこそ榎本軍は優勢だったのです。しかし、何といっ
ても多勢に無勢、陸上の銃撃戦では負けないが、それに海上から
の軍艦による艦砲射撃が加わると、勝負にならなかったのです。
 まず、松前口作戦における緒戦の模様について、菊地明氏の本
から紹介します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 松前では地蔵山に陸軍隊、折戸台場に遊撃隊を配し、新政府軍
 を迎撃するため一聯隊五小隊・遊撃隊二小隊・砲兵隊一分隊が
 根部田方面へと出陣した。その夜七時ごろ彼ら拝札前村(松前
 町)に進出していた新政府軍斥候隊と戸長川付近で衝突する。
 新政府軍には援兵があったものの、旧幕軍の優勢のうち、翌早
 暁には小砂子まで撃退し、旧幕軍は砲三門と小銃・弾薬を押収
 したうえ、江長町を回復した。
    菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 それでは木古内(きこない)口ではどうだったでしょうか。
 大島圭介は伝習一小隊と仙台藩額兵隊の三小隊を率いて、箱館
から木古内に出撃したのです。木古内は戦略上の重要拠点であり
ここを落とされると、松前や福島が孤立化してしまうのです。こ
こも緒戦の模様について菊地明氏の本から紹介します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 午前三時三十分、間道警備の彰義隊とのあいだで銃撃戦が始ま
 り、「未明、間道口彰義隊の番兵走り来たり、敵既に近くに攻
 め来たれり、早く兵を出して防ぐべし」との報知が本営にあり
 大鳥は額兵隊二小隊と、伝習歩兵隊一小隊を率いて出陣する。
 「彰義隊は山上に備えたる大砲をしきりに放ちて防戦す」──
 『蝦夷錦』という状況のなか、山上に構築していた胸壁から額
 兵隊が、平地に散開した伝習歩兵隊が銃撃したが、新政府軍は
 迂回して胸壁の額兵隊を攻撃した。待機していた彰義隊は別の
 山に登り、迂回兵を背後から挟撃して撃退したため新政府軍は
 敗走し、一時間余におよんだ戦いは終わった。
    菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 二股口は険しい山間を抜けて五稜郭にいたる重要路であり、土
方歳三は冬の間に、こつこつと防衛のための手を打っていたので
す。箱館戦争でおそらく榎本軍が最も新政府軍と対等に戦ったの
は二股口の攻防戦なのです。この戦闘について、星亮一氏は次の
ように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 江差から箱館に向かうもう一つのルートは二股口だった。土方
 は冬の問にもここに出かけ、胸壁作りに励んで来た。ここには
 土方歳三と大川正次郎が衝鋒二小隊、伝習二小隊を率いて出張
 した。四月十三日、ここに長州、福山、松山、薩摩の兵、数百
 人が押し寄せた。土方は胸壁から峠を登っている敵兵を乱射、
 十六時間に及ぶ戦闘を繰り広げ、敵を撃退した。敵の様子を一
 望できるところに胸壁を築いていた。兵士の中には一人で千発
 も射撃した者もおり、顔は硝煙で真っ黒だった。守備兵の一小
 隊は、昨年十二月末、箱館で募集した兵士で、はたして戦闘に
 耐えられるか疑問もあったが、訓練の結果、勇猛果敢な兵士と
 なっていた。着剣して胸壁を飛び出し、敵兵を二人も刺し殺し
 戦死した兵士もいた。 兵の強弱は、新しいか古いかではなく
 訓練にあると、大鳥は思った。  ──星亮一著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
          ─── [明治維新について考える/77]


≪画像および関連情報≫
 ●新政府軍から見た「二股口の戦い」
  ―――――――――――――――――――――――――――
  4月16日、新政府軍の第二陣2400名が江差に上陸する
  と、二股方面には薩摩・水戸藩兵などからなる援軍が派遣さ
  れ、弾薬と食糧も補給された。一方で、二股の堅塁を抜くこ
  とが容易ではないことを痛感した新政府軍は、4月17日以
  降、厚沢部から山を越えて内浦湾に至る道を山中に切り開き
  始める。ここから兵と銃砲弾薬を送り込んで、旧幕府軍の背
  後から二股口を攻める作戦であったが、この作業も困難を極
  めた。この間、旧幕府軍でも滝川充太郎率いる伝習士官隊2
  個小隊が増強されている。      ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●図出典/二股口の戦いを描いた古地図/ウィキペディア

二股口の戦いを描いた地図.jpg
二股口の戦いを描いた地図
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2011年06月02日

●「箱館湾内における矢不来の海戦」(EJ第3068号)

 箱館戦争の緒戦において榎本軍は勝利したものの、新政府軍は
圧倒的な人数であり、守備するだけで手一杯になって、ほとんど
反撃する余裕などなかったのです。
 慶応2年(1869年)4月17日、新政府軍は松前に対して
総攻撃をかけたのです。午前中から甲鉄をはじめとする新政府艦
隊が松前沖に姿をあらわし、江差からは大軍が松前に向けて南下
してきており、それを春日が護衛していたのです。
 榎本軍は、松前城下の西方にある折戸台場から新政府艦隊に砲
撃を加えたのですが、艦隊は台場からの射程圏外に出て相手にな
らなかったのです。艦隊は榎本軍が十分な弾薬を持っていないこ
とがわかっているので、無駄な弾薬を使わせることと、松前に向
かう新政府軍の進撃を待っていたのです。
 午後4時になって、新政府艦隊は一斉に艦砲射撃を行ったのて
す。榎本軍も折戸台場から応戦したものの、艦砲射撃に守られた
新政府軍の攻撃にとうてい勝ち目がなかったのです。
 午後4時40分頃、前線を突破された時点で指揮を執っていた
松岡四郎次郎は、日章旗を下ろし、大砲を爆破して兵を引いたの
です。味方の消耗は激しく、これまでと判断したからです。新政
府軍が松前を占拠したのは、午後6時過ぎのことです。
 松前を退いた榎本軍は、福島、知内、木古内、泉沢──ここは
何とか榎本軍が押えていたのですが、もし、新政府艦隊があらわ
れて艦砲射撃が行われると、榎本軍は一段と箱館に追い詰められ
ることになります。
 4月20日になると、新政府軍は第2次上陸兵を含む勢力を木
古内に投入してきたのです。榎本軍の木古内陣地には激しい銃撃
が浴びせられ、額兵隊と遊撃隊が応戦したものの、そのままずる
ずると泉沢まで退却し、木古内が占領されるところまで追い込ま
れたのです。
 しかし、木古内の戦闘には、会津遊撃隊と神木隊が応援に駆け
付け、それに加えて海上から蟠龍が艦砲射撃を加えて支援したの
で、新政府全軍が笹子屋というところまで引き上げたのです。こ
のように、当時は軍艦による艦砲射撃が攻撃にはきわめて有効で
あったことをあらわしています。
 新政府軍を押し返した榎本軍は、追撃をかけようとしたのです
が、五稜郭から応援に駆け付けた大鳥圭介は、次のようにいって
全軍が、21日午前8時までに茂辺地に引き、兵を少し休ませる
ことにしたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 木古内もとより地利悪しく、今これを保つも我れにおいて益
 なし。                ──『感旧私史』
   菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 木古内を退却したので、榎本軍に残された戦略拠点は、矢不来
(やふらい)しかなくなったのです。添付ファイルを見ていただ
くとわかりますが、ここを押さえておかないと、二股口を守り、
一兵も新政府軍を入れさせていない土方歳三の部隊を見殺しにす
ることになります。
 矢不来は、箱館湾の一角にあり、正面には箱館山が見えます。
現在は北斗市、かつて旧福山街道の関所のあったところであり、
箱館湾を一望できる戦略拠点です。実は矢不来は、大鳥圭介が最
後の防御地として指定した場所でもあるのです。矢不来の守りに
ついて、菊地明氏の記述です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 当初より、大鳥は松前を突破された場合の迎撃地として矢不来
 を想定しており、「天神の森」こと矢不来天満宮に会津遊撃隊
 と、鷲ノ木方面より派遣されてきた衝鋒隊半隊を配すると、す
 でにその北方の山の頂上部と中腹に設けられていた二十六の胸
 壁に大小六門の大砲を備え、伝習歩兵隊・神木隊・砲兵隊・工
 兵隊に守らせると、自身も中腹の胸壁に入った。そして、矢不
 来入口の砲台と海岸沿いの間道を額兵隊の、矢不来正面の胸壁
 を彰義隊の部署とする。           ──菊地明著
        『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 慶応2年(1869年)4月24日、午前5時20分、新政府
艦隊は箱館湾に姿をあらわし、途中茂辺地と矢不来に艦砲射撃を
行い、午前8時10分に港内に入り、榎本軍の回天、蟠龍、千代
田形との間で砲撃戦が始まったのです。
 このときは榎本軍の弁天台場からの砲撃も加わり、正午前には
新政府艦隊は港内からは撤退したのです。しかし、午後になって
再び海戦は再開されたのですが、榎本軍は約2時間後に新政府艦
隊を追い払ったのです。しかし、新政府艦隊の被害は少なく、ほ
とんど無傷で矢不来攻撃に投入されることになったのです。
 榎本軍は矢不来に三重の台場を築いていたのです。海浜、中段
上段の3つです。大鳥圭介はここに兵460人を配置して、敵艦
隊と向き合ったのです。
 新政府軍艦隊は、4月29日午前2時30分、矢不来沖に5隻
の軍艦──朝陽、陽春、甲鉄、春日、丁卯を配置したのです。そ
して、朝陽、陽春は茂辺地に、甲鉄、春日、丁卯は矢不来に艦砲
射撃を行ったのです。
 新政府艦隊は、この攻撃は大型弾を使い、その轟音は耳をつん
ざくばかりであったといいます。『南河紀行』は次のように状況
を伝えています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 軍艦より飛来る大弾(砲弾)雨のごとくにて、或は谷に落ち、
 或は樹を倒し、又胸壁を崩し、土を四方に飛散し、勢甚だ猛烈
 なり。   ──『南河紀行』/星亮一著/中公新書2108
        『大鳥圭介/幕府歩兵奉行、連戦連敗の勝者』
―――――――――――――――――――――――――――――
          ─── [明治維新について考える/78]


≪画像および関連情報≫
 ●矢不来台場について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  矢不来台場(第1台場、第2台場)はすでに町文化財指定され
  ているが、今まで考えられていた以上に縄張りは広大であり
  旧福山街道を中に取り込み、関所の役割を果たしていたらし
  い。重要な施設の付近を通るところでは街道を深く掘込み両
  側が見えないようにしていたと思われる場所もある。第3の
  台場?かつて矢不来天満宮のご神木の松ノ木──JR江差線
  工事で伐採された──があった辺り、国道228号線沿いの
  パーキング向いの張り出し部分が「新政府軍の攻撃を受けて
  土塁もひっくり返る程の被害を受けた」と記録に残る箱館戦
  争激戦地の矢不来台場ではないか。
  http://www.asahi-net.or.jp/~dg8h-nsym/yafurai-daiba.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

箱館戦争地図.jpg
箱館戦争地図
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2011年06月03日

●「新政府軍総攻撃と土方歳三の死」(EJ第3069号)

 矢不来の戦いは榎本軍の惨敗だったのです。隊長が2人とも戦
死し、上等士官6人も負傷、死傷者は70人を超えたのです。そ
のとき七重浜にも敵兵があらわれたとの情報が五稜郭にもたらさ
れます。榎本武楊は二股口を死守していた土方歳三に五稜郭に戻
るよう指示を出したのです。
 七重浜といえば、五稜郭の目と鼻の先であり、榎本軍はいよい
よ追い詰められたことを意味します。そこで榎本は自ら800人
の兵を率いて七重浜に出陣したのです。慶応2年(1869年)
5月8日のことです。そのときの榎本隊の先鋒は、後から箱館に
やってきた仙台の見国隊なのです。
 作戦としては、先鋒を見国隊、側面を伝習隊と衝鋒隊が担当し
て三方から攻め込むというものであったのです。しかし、見国隊
は勇敢に戦ったものの、すさまじい銃撃によって多くの死傷者が
出たのです。とくに士卒がほとんどやられ、敵の呼び掛けに応じ
て投降する者も多数出たのです。この七重浜の敗戦によって榎本
軍は、完全に五稜郭に追い詰められたのです。
 新政府軍は5月11日に五稜郭と箱館市中の総攻撃を決意した
のです。この情報が榎本軍にも入り、榎本軍の幹部は別れの会を
開いています。このときの模様を松前奉行だった人見勝太郎は次
のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 明日は官軍が総攻撃をするということで、別れを告げんために
 箱館の「武蔵野」という妓楼がござりましたが、それに榎本武
 楊、松平太郎、大島圭介を始め将校皆集まって、別れの盃を致
 しました。         ──「史談会速記録」126編
    菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 新政府軍は、午前3時に5隻の軍艦を使って箱館湾に進入し、
陸兵を輸送し、上陸させる作戦です。甲鉄と春日、陽春の3艦は
弁天台場に、朝陽、丁卯は蟠龍に向かってきたのです。ここまで
負け続けであった榎本軍にひとつだけ胸のすく快挙があったので
す。それは蟠龍の健闘です。その模様を星亮一氏の本からご紹介
します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 「蝦夷島の興亡、この一戦にあり」──蟠龍艦長松岡盤吉は、
 捨て身の覚悟で舵を握った。操艦にかけては自信があった。松
 岡は右に左に転舵し、敵の追跡をかわした。すべての水兵は、
 神経を研ぎ澄まして、命令を聞き、おのれの持ち場を守った。
 (中略)海戦はいかに太陽を背負うかにあった。相手は眼が眩
 んで見えなくなる。逆にこちらからは手に取るように見える。
 その瞬間に大砲を放つのだ。キラキラと陽光を浴びて朝陽が近
 づいた。松岡の狙いははじめから朝陽だった。「永倉、弾丸を
 込めろッ」と大声をあげた。永倉伊佐吉は蟠龍丸の二等士官、
 三十二ポンドナポレオン砲の砲手である。永倉は照準を合わせ
 た。目の前に朝陽があった。松岡は充分に狙って発射した。一
 瞬の問があった。「ド、ド、ドーン」、百雷がいっペんに落ち
 たような轟音か、湾内にこだました。     ──星亮一著
   『大鳥圭介/幕府歩兵奉行、連戦連敗の勝者』/中公新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 蟠龍は朝陽を仕留めたのです。朝陽はまるでもがくように沈ん
でいったのです。新政府軍、榎本軍の多くがこの海戦を見守って
いたのですが、朝陽が沈むと榎本軍の将兵は歓喜の叫び声を上げ
たのです。それはこれまでまけ続けてきたせめてもの、うっぷん
晴らしになったと思われます。
 しかし、蟠龍めがけて甲鉄、春日、陽春が襲いかかってきたの
です。とくに甲鉄からの攻撃はすさまじく、蟠龍は70発の砲弾
を受けて船体がばらばらになり、浅瀬に乗り上げて焼失したので
す。歓声を上げるのは、今度は新政府軍の方だったのです。
 そのとき土方歳三も五稜郭で蟠龍の快挙を見ていたのです。土
方は足を痛めて治療していたのです。そこに弁天台場が危ないと
いう情報が入ったのです。そこを守っていたのは新選組隊士島田
魁であり、土方歳三はすぐさま馬に乗り、僅かな兵を率いて出陣
したのです。そのときの模様について、ウィキペディアは次のよ
うに書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 新政府軍艦朝陽が味方の軍艦によって撃沈されたのを見て「こ
 の機会を逃すな!」と大喝、箱館一本木関門にて陸軍奉行添役
 大野右仲に命じて敗走してくる仲間を率いて進軍させ、「我こ
 の柵にありて、退く者を斬る!」と発した。歳三は一本木関門
 を守備し、七重浜より攻め来る新政府軍に応戦、馬上で指揮を
 執った。その乱戦の中、銃弾に腹部を貫かれて落馬、側近が急
 いで駆けつけた時にはもう絶命していたと言う。
                    ──ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――――
 この土方歳三の死は、榎本政権の最後を象徴する出来事であっ
たといえます。この土方の死については別説があるのです。既に
五稜郭では降伏の話は出ていたし、榎本も降伏の時期を探ってい
たといいます。なぜなら、惨敗は必至であるからです。
 しかし、土方は榎本に対し、「降伏は絶対にしない」と明言し
ていたのです。そのため、降伏の妨げになるとして味方に暗殺さ
れたのではないかといわれているのです。土方と榎本の間には少
しずつ亀裂が生じていたのです。辞世の句は次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君やまもらん
―――――――――――――――――――――――――――――
 土方歳三の死を契機に、5月13日から薩摩藩から和議の動き
が頻繁に行われるようになったのです。箱館戦争はいよいよ最終
章終局を迎えることになるのです。
          ─── [明治維新について考える/79]


≪画像および関連情報≫
 ●土方歳三の最後の地
  ―――――――――――――――――――――――――――
  新選組副長として京都の街に勇名をはせた土方歳三は鳥羽伏
  見の戦い後新選組を率いて各地を転戦して北上し仙台で旧幕
  府海軍副総裁榎本武揚が指揮する脱走兵と合流した。明治元
  年10月蝦夷地に上陸した榎本軍は箱館を占拠して新政権を
  樹立したが、明治2年4月新政府軍の総攻撃で榎本軍は敗退
  したが、土方が守ったニ股口だけは最後まで落ちなかった。
  5月11日に箱館も新政府軍に落ちたため、箱館奪回を目指
  し50名の兵を率いて一本木の関門を出て箱館市中に向った
  が、銃弾に当たりこの地で倒れてと言われている。住所/北
  海道函館市若松町
  ―――――――――――――――――――――――――――

土方歳三の最後の地.jpg
土方歳三の最後の地
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2011年06月06日

●「榎本政権の崩壊/無条件降伏」(EJ第3070号)

 箱館戦争は勝敗の決着がついていたのです。問題はどのように
して、この戦争を穏便に終わらせるかです。慶応2年(1869
年)5月13日になると、新政府軍側から和議の働きかけが次々
とはじまっていたのです。
 五稜郭の中で高松凌雲によって開かれている箱館病院に会津藩
遊撃隊長である諏訪常吉が入院していたのです。その諏訪に薩摩
の池田次郎兵衛が見舞いたいという申し出があり、榎本側は了承
したのです。池田次郎兵衛は京都に役人として在勤しているとき
諏訪常吉と親交があったといいます。
 このとき、諏訪は見舞金25両を贈るとともに、榎本軍による
早期謝罪を求め、戦争終結を勧めたのです。そして、池田は、高
松凌雲院長、小野権之丞病院掛と相談し、和議の書を作成して、
五稜郭と弁天台場の双方に書簡を送ったのです。このとき、榎本
軍が支配していた拠点は次の3つになっていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
          1.   五稜郭
          2.千代ヶ岡陣屋
          3. 弁天台台場
―――――――――――――――――――――――――――――
 この和議の書を受け取った榎本武楊は、新政府が蝦夷地の統治
を認めない限り、恭順の意思はないとして断ったのですが、池田
次郎兵衛の尽力には謝意を示したのです。そして、自分がオラン
ダで入手した『万国海律全書』を薩摩の参謀衆に贈るとして、池
田に託したのです。この『万国海律全書』は海事に関する国際法
と外交に関する書物であり、当時貴重なものだったのです。榎本
としては、どうせ戦争になれば、燃えてしまうので、ぜひ日本海
軍のために生かして欲しいと考えたのです。
 このとき新政府軍参謀の黒田清隆は、これによって榎本が国際
法に精通していることに感銘し、その後、その知見を生かそうと
し、榎本の助命嘆願に奔走することになるのです。
 新政府軍の反応は非常に早かったのです。榎本のところに海軍
参謀衆の名前で酒樽数個が送られてきたのです。榎本と大鳥らの
士官はこの酒を飲み、ここは降伏しかないと考えたのです。
 新政府軍は、津軽陣屋の番所に軍監の田島敬蔵を派遣し、黒田
清隆と榎本武楊の面談を申し入れてきたのです。これについて榎
本は了承し、千代ヶ岡の郊外の民家でその会談は実現します。
 民家には黒田清隆が待っていて、2人は酒を酌み交わしながら
和気あいあいと話し、時折笑い声が聞こえたといいます。黒田と
しては、幕臣として戦いを起こし、ここにいたっても戦いを続け
ようとする榎本に感服していたのです。自分がもし幕臣だったら
同じことをしただろうという思いからです。
 戦いの帰趨は明らかであったのですが、榎本は降伏勧告を拒絶
し、五稜郭にいる傷病者の搬送を申し入れ、了承されたのです。
新政府軍は攻撃を中断し、傷病者はその日のうちに湯の川へ送ら
れ、新政府軍の捕虜である松前、津軽藩兵11名も送り返された
のです。
 5月15日に弁天台場は正式に降伏し、籠城兵は20日に市内
の寺院に移送されることになったのです。榎本は千代ヶ岡陣屋を
守る中島三郎助に五稜郭に入るよう説得したのですが、中島は首
を縦に振らず、最後まで陣屋を死守して玉砕しています。
 新政府軍の千代ヶ岡陣屋に攻撃について、菊地明氏は次のよう
に書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 新政府軍の千代ヶ岡陣屋への攻撃は十六日午前三時より開始さ
 れ、わずか一時間で陣屋は陥落し、『函館戦記』には「この日
 暁、敵大挙千代ヶ岡に殺人す。我が伝習士官隊・渋沢隊・陸軍
 隊等、血戦ついに放らる」とある。中島も中島に従っていた二
 人の実子も戦死し、諸隊士二十数人も最期をともにした。「渋
 沢隊」の在陣が記されていたように、そのなかには小彰義隊の
 飯塚吉太郎・萩原次三郎・長谷川鉢三郎の姿もあった。
    菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 これによって、榎本軍の拠点は五稜郭だけになったのです。し
かし、榎本は降伏しようとしなかったのです。榎本を何とか救お
うとした黒田清隆はここでひとつ手を打ったのです。五稜郭に使
者を遣わし、「弾薬や兵糧に不足しているならお届けする」とい
うことを伝えたのです。兵糧ならまだわかりますが、弾薬まで送
るというのは、まさに「敵に塩を送る」行為そのものです。
 どうしても五稜郭を死守するというのなら、正々堂々と戦おう
という意思表示なのです。そのため、食べるものはしっかりと食
べて、十分な弾薬を使って雌雄を決しようではないかという黒田
の好意だったのです。しかし、そのとき五稜郭に籠城する兵士は
約700人、もはや降伏するしかなかったのです。
 慶応2年5月17日、榎本武揚、松平太郎らの榎本政権軍幹部
は、亀田の斥候所に出頭し、陸軍参謀の黒田清隆、海軍参謀の増
田虎之助らと会見したのです。そして、幹部の服罪と引き換えに
兵士たちの寛典を嘆願したのです。
 しかし、黒田清隆はこれを認めなかったのです。なぜかという
と、幹部のみに責任を負わせると榎本を始めとする有能な人材の
助命が困難になるからです。しかし、これ以上の戦闘継続は困難
であった榎本自身が折れ、無条件降伏に同意したのです。そして
榎本は降伏の誓書を亀田八幡宮に奉納して五稜郭へ戻り、夜には
降伏の実行箇条を作成しています。
 慶応2年5月18日の早朝、榎本は全兵士を整列させ、挨拶を
していまいす。ここまで本当にがんばってもらったが、その勤労
に酬いることができなかったことをお詫びするといい、いつの日
か、「青天白日になる日が来る」と訓示したのです。そういうと
榎本は、亀田の屯所に降伏のために改めて出頭し、収監されたの
です。       ─── [明治維新について考える/80]


≪画像および関連情報≫
 ●黒田清隆についての情報
  ―――――――――――――――――――――――――――
  鹿児島生まれ。政治家、元老。父は鹿児島藩士。薩長連合の
  成立に寄与。戊辰戦争では五稜郭の戦いを指揮。敵将榎本武
  揚の助命に奔走。維新後は開拓次官、のちに同長官として北
  海道経営にあたり、札幌農学校の設立、屯田兵制度の導入な
  どを行う。明治9年(1876)特命全権大使として日朝修好
  条規を締結。明治14年の政変により開拓長官を辞任。第1
  次伊藤内閣の農商務相をつとめたのち首相となり、大日本帝
  国憲法の発布式典にかかわった。その後枢密顧問官、枢密院
  議長等を歴任した。        ──近代日本人の肖像
        http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/71.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

黒田清隆.jpg
黒田 清隆
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2011年06月07日

●「大久保利道は何をしていたのか」(EJ第3071号)

 明治2年(1869年)5月18日、榎本武楊が降伏・収監さ
れ、1年5ヵ月にわたる戊辰戦争は終りを遂げたのです。今回の
テーマは、次のタイトルで2011年2月7日(月)から書き始
めたので、戊辰戦争が終って明治新政府の時代に入るこれからが
本番ということになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
   明治維新について考える/明治維新は「革命」なのか
    ── 官僚による政治支配の構造に迫る ──
―――――――――――――――――――――――――――――
 今回のテーマの狙いは上記サブタイトルの「官僚による政治支
配の構造に迫る」にあります。日本政治の背後に横たわる官僚支
配の構造が形成されたのは明治維新であり、それを究明するため
歴史という視点から迫ってみたのです。
 しかし、今回のテーマは、本日で81回です。前回のテーマの
「新視点からの龍馬伝」が85回の連載であり、実際的には今回
テーマと続いているので、166回も歴史ものが続いていること
になります。
 実は多くの読者から、現在の政治状況に関するテーマを取り上
げて欲しいという要望が寄せられているのです。そこで、今回の
テーマは今週中で終了し、6月13日から現在の政治状況につい
て書くことにします。そのタイミングはけっして悪くないと考え
ております。そして、今回のテーマの続編は、その後にさらに資
料を収集して連載することにします。
 大久保利道──実は大久保利道こそ今回のテーマの第2部の主
役なのです。ここまで166回も幕末の出来事を書いてきました
が、大久保利道について書いたのはごくわずかです。これまでの
テーマで「大久保」といえば、旧幕臣の大久保一翁のことです。
まして戊辰戦争ではまったく登場していないのです。いったい彼
は何をしていたのでしょうか。
 大久保利道は、戊辰戦争の終った後の新しい日本のプランニン
グに専念していたのです。そのようにして出来上がったのが官僚
主権国家構想です。彼は壮大なグランドデザインが描ける能力を
持っているのです。この官僚主権制度が明治維新以来140年間
にわたって現在も生き残っているのです。
 これに比べると、現在の菅政権には国のグランドデザインを描
ける人材がいないと思います。だから震災復興が大幅に遅れてい
るのです。西郷隆盛は大久保利道と自分を比べて次のようにいっ
ています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 もし一軒の家をつくろうとした場合、わたしは造築することに
 おいて大久保よりはるかにすぐれている。しかし、建て終わっ
 たあとに、造作をほどこして室内の装飾を整え、家らしく整備
 するのは、大久保の天稟(天性)であって、わたしなどは雪隠
 (トイレ〉の片隅を修理することすらできないだろう。ところ
 が、この家屋をふたたび破壊することになったならば、大久保
 もわたしに及びはしまい。         ──加来耕三著
            『大久保利道と官僚機構』/講談社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 大久保利道は制度の草案を書くなど理屈が必要なときは、佐賀
藩出身の副島種臣の深い漢学素養を借り、法律を定める必要に迫
られると、副島と同じ佐賀藩出身の江藤新平にたのみ、軍事に関
しては、盟友西郷を使ったのです。そういう意味で大久保の周り
には人材が豊富にいたといえます。
 大久保は大局を見る能力に優れていたのです。そして人材の能
力を見抜く力を持っていたのです。こんな話があります。戊辰戦
争の上野戦争のとき、指揮官が西郷ではなく大村益次郎に代った
のですが、薩摩藩の中ではこれに反対する者も多かったのです。
しかし、大久保は次のように大村を支持したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 (上野戦争は)吉之助どんより、大村さのほうがふさわしい
               ──加来耕三著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 なぜ、西郷よりも大村の方がよいかは、上野戦争は局地戦であ
り、大村の方が優れていると判断したのです。西郷のスケールの
大きさは局地戦向きではないと考えたのです。
 確かに大村は大久保の期待に応えて上野戦争に快勝し、東北戦
争では西郷のスケールの大きさが生かされたのです。大久保は軍
事の専門家ではありませんが、司令官を選ぶときなどに実に的確
な人事を行っているのです。
 戊辰戦争についてかなり詳しく書いてきましたが、薩長を中心
とする新政府軍はまさに連戦連勝であり、向うところ敵なしの状
態であったのです。旧幕府軍自体が士気の面で大きく劣っていた
ということもありますが、それにしてもその強さは、半端ではな
かったのです。どうしてこんなに強いのでしょうか。
 これについて加来耕三氏は、次のように興味深い観点からその
ことについて述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 「どうして薩摩藩はあんなに強かったのでしょうかね」と質問
 される。筆者は鹿児島県人ではない。答えは歴史的事実、「郷
 中制度」を語るにとどめるのがつねだった。ところがあるとき
 たぶん伊藤肇氏の著書だったと思うが、企業を「麻疹」にたと
 えたくだりを読んだことをかすかに記憶している。つまり、麻
 疹は人間が一度はかからねばならない病気であるが、企業にも
 麻疹のようなものがあって、これをひと通りやった企業は体質
 が強化され強くなれるという論法だ。企業の麻疹に、「赤字」
 「脱税の摘発」「深刻な労働争議」「お家騒動」の四つをあげ
 て説明していたように思う。  ──加来耕三著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
          ─── [明治維新について考える/81]


≪画像および関連情報≫
 ●大久保利道についてのエピソード
  ―――――――――――――――――――――――――――
  金銭には潔白で私財をなすことをせず、必要だが予算のつか
  なかった公共事業に私財を投じ、国の借金を個人で埋めるよ
  うな有様だったため、死後は8000円もの借金が残った。
  ただし、残った借財の返済を遺族に求める債権者はいなかっ
  た。政府は協議の結果、大久保が生前に鹿児島県庁に学校費
  として寄付した8000円を回収し、さらに8000円の募
  金を集めてこの1万6000円で遺族を養うことにした。寡
  黙であり、他を圧倒する威厳を持ち、かつ冷静な理論家でも
  あったため、面と向かって大久保に意見できる人間は、少な
  かったと言う。桐野利秋も、大久保に対してまともに話がで
  きなかったので、大酒を飲んで酔っ払った上で意見しようと
  したが、大久保に一瞥されただけでその気迫に呑まれ、すぐ
  に引き下がったといわれる。また、若い頃から勇猛で鳴らし
  た山本権兵衛さえも大久保の前ではほとんど意見できなかっ
  たという。             ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

大久保利道.jpg
大久保 利道
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2011年06月08日

●「薩摩藩はなぜ強いのか」(EJ第3072号)

 前回ご紹介した加来耕三氏の「人間と同様に麻疹にかかった企
業は強くなる」という説を詳しくご紹介します。薩摩藩が戊辰戦
争でなぜあれほど強かったのかについてのひとつの説明です。そ
のポイントは次の4つです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      1.大きな「赤字」を経験している
      2.脱税の摘発をかわしてきている
      3.深刻な労働争議を経験している
      4.お家騒動を乗り越えていること
                      ──加来耕三著
          『大久保利道と官僚機構』より/講談社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1は「大きな「赤字」を経験している」です。
 薩摩藩(正しくは鹿児島藩)は、もともと赤字体質なのです。
外様大名でありながら、最高石高は90万石であり、幕府は加賀
藩に次ぐ大藩として扱ってきたのです。しかし、薩摩藩の石高は
「籾(もみ)高」であって、実際は約半分程度なのです。
 しかも、徳川幕府の有力藩弱体化政策の下で、薩摩藩は大規模
な御手伝普請を割り当てられ、とくに1753年(宝暦3年)に
命じられた木曽三川改修工事──宝暦治水の多大な出費により、
藩財政は危機に瀕したのです。
 このような藩財政逼迫のときには、島津斉彬のような革新派の
名君があらわれるものなのです。藩の専売制、琉球貿易、借財一
切切り捨て政策など、大変な努力をして赤字を処理したのです。
その結果、他藩に先駆けて貿易立国に目覚め、備蓄を心がけて赤
字を乗り越えているのです。
 第2は「脱税の摘発をかわしてきている」です。
 薩摩藩が財政を立て直した政策のひとつが琉球貿易です。しか
し、これは「抜け荷」といわれ、禁制なのです。幕府から密貿易
の疑いをかけられ、何度も危ない橋をわたっており、すれすれの
ところで切り抜けてきているのです。しかし、少しずつ幕府の力
も弱まってきたこともあり、しだいに幕府検閲から逃れるすべを
マスターするようになったのです。
 第3は「深刻な労働争議を経験している」です。
 島津家は関ヶ原の戦いで西軍についたことによって、領土を縮
小されたのです。しかし、家臣たちを整理できず、特殊な方法で
士分の者を管理するシステムを構築したのです。
 家臣を「上士」と「下士(城下士)」と「郷士」に分け、行政
上別区分にして家臣を統率したのです。上士は家老になれる家柄
で雲の上の存在です。城下士は城下に居住できましたが、郷士は
外城制といって鹿児島城下に集住させず、領内に分散した外城と
呼ばれる拠点に居住させたのです。
 しかし、城下士と郷士は仲が悪く、つねに対立し、いがみ合い
藩としては困り果てていたのです。これは労働争議そのものであ
ると加来氏はいうのです。
 しかし、薩摩藩の場合、このように反目しても、いったん戦争
などが起きると、一致団結してことに当たるという気風があった
のです。そのため維新後も城下士は近衛将校、郷士は警官となっ
てお互いに頑張っているのです。
 第4は「お家騒動を乗り越えていること」です。
 薩摩藩は上記の3つのポイントをすべて克服したうえで、有名
なお家騒動に巻き込まれているのです。激しいお家騒動を勝ち抜
いて藩主になった島津斉彬は、反射炉、溶鉱炉、洋式帆船の製造
やガラス工芸などの集成館事業と呼ばれる殖産事業によって薩摩
藩の発展の基礎を作りつつあったのですが、斉彬の急死によって
頓挫し、守旧派が復権します。
 しかし、斉彬の死後実権を握った島津久光は、幽閉されていた
西郷隆盛を解放し、西郷をリーダーと仰ぐ若手改革派集団を抜擢
して、一応斉彬路線に戻したのです。久光と西郷の仲は必ずしも
うまくいってはいなかったものの、重要な場面では西郷を立てた
のです。薩摩藩はこのようにしてお家騒動を乗り切ったのです。
 以上のような企業の麻疹の4つのポイントをすべてクリアした
薩摩藩は、とくに戊辰戦争など大事なときには一致団結して戦っ
たので、驚くべき強さを発揮して維新の主導権を握ったというの
が加来氏の見解です。
 王政復古のクーデターともいうべき戊辰戦争の重要性を一貫と
して主張し、一歩も引かなかったのが大久保利通です。土壇場で
土佐の山内容堂や後藤象二郎、それに坂本龍馬、こともあろうに
岩倉具視までが、徳川慶喜が辞官納地に応ずれば、議定に任命し
政府に迎え入れてもよいではないかという考え方に傾きつつあり
朝議で武力倒幕を主張するのは大久保だけになったときがあるの
ですが、大久保は断固として一歩も引かなかったのです。
 クラウゼウィッツ──対ナポレオン戦争にプロイセン軍の将校
として参加し、戦略、戦闘、戦術の研究領域において重要な業績
を示した人物──彼は戦いについて次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 戦いは推測の世界であり条件の4分の3までは不確実である
                  ──クラウゼウィッツ
―――――――――――――――――――――――――――――
 大久保利道も戦いが不確実なものであることはよく知っていた
が、ここは引けないと考えて、次善の策を考えていたのです。も
し、敗れれば、天皇を担いで広島へ、それでもダメなら山口へ、
鹿児島へと最悪の事態に備えた考え方を持っており、そのための
手を打っていたのです。驚くべき男です。こういう人材が危機に
瀕している今の日本になぜいないのでしょうか。
 結果として、大戦争に発展した戊辰戦争をやったことによって
新政府づくりは実にすばやく見事に行われたのです。このことに
ついては明日書くことにします。
           ───[明治維新について考える/82]


≪画像および関連情報≫
 ●何をもって石高とするか
  ―――――――――――――――――――――――――――
  穀物の一種として米穀(べいこく)とも呼び、厚い外皮の籾
  殻を取り去ったものが玄米、玄米の表面を覆う糠層(ぬかそ
  う。主として果皮と糊粉層)を取り去ることを精白(精米、
  搗精)という。糠層も胚芽も取り去った米を白米(精白米、
  精米)といい、糠を除去したものを精米や白米という。収穫
  した稲穂から、種子(穎果)を取り離すことを脱穀(だっこ
  く)という。脱穀によって取り離した種子を籾(籾米)とい
  い、籾の外皮を籾殻(もみがら)という。籾から籾殻を取り
  去ることを籾摺り(もみすり)といい、この籾摺り過程を経
  たものを米という。幕府は島津家の石高が籾高とみとめてい
  たのである。            ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

加来耕三氏の本.jpg
加来 耕三氏の本
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2011年06月09日

●「戊辰戦争とその後の改革の関係」(EJ第3073号)

 明治維新は、世界にも類を見ない、幅の広い、きわめて短期間
で実現された構造改革であるといえます。外国が一番驚き、理解
できないといっているのが、版籍奉還と廃藩置県であり、その実
施の異常な早さなのです。
 版籍奉還というのは、明治2年(1869年)7月25日に日
本の明治政府により行われた中央集権化事業のひとつです。諸大
名から天皇への領地(版図)と領民(戸籍)の返還するというも
のです。発案者は姫路藩主酒井忠邦であるといわれます。それと
藩を廃止し、県に置き換える改革が廃藩置県です。
 これは藩主という権力者が自分の権力を投げ出し、その基盤ま
で解体してしまうことを意味しています。西洋の改革では、権力
者が自分からそういうことをするのはあり得ないことであり、そ
のため、明治維新は理解できないというのです。
 これについて、元参議院議員の小島慶三氏は自著で次のように
述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 フランス人のマーシャルという評論家が書いたものを見ると、
 これはハッピー・デスパッチ(腹切り)であるというふうに理
 解している。それしか理解のしようがない。また『自死の日本
 史』という本を書いているパンゲも同様の考えで、明治一〇年
 の西郷南洲の西南戦争も、別に新政府を滅ぼすとかということ
 ではなく、やほり武士としての儀式であるというふうに見てい
 る。それくらい西洋人には明治維新の改革は理解しにくい点が
 ある(林屋辰三郎『文明開化の研究』)。
             ──小島慶三著/中公新書1316
       『戊辰戦争から西南戦争へ/明治維新を考える』
―――――――――――――――――――――――――――――
 実は、そのあり得ないことを可能にしたのが戊辰戦争だったの
です。いろいろの要件がありますが、戊辰戦争によって次の3つ
のことが従来の藩体制に大きな影響を与えたのです。
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    1.戦争参加により藩の財政が破綻したこと
    2.君臣主従のイデオロギーが転換したこと
    3.農民が強くなり、従来の身分制度が崩壊
―――――――――――――――――――――――――――――
 明治維新を「無血革命」という表現をする人がいますが、そん
なことはないのです。戊辰戦争という大変大きな戦争をやってい
るからです。諸説がありますが、両軍の戦死者は約1万人、動員
されたのは新政府軍が12万人、旧幕府軍が5万人で、合わせて
17万人です。日清戦争のときの動員数である12万人を上回っ
ているのです。
 藩体制に影響を与えた第1は「戦争参加により藩の財政が破綻
したこと」です。
 藩財政はもともと逼迫しており、それが戦費の支出によって極
度に悪化したのです。それは、朝敵側に回った藩も新政府側の藩
も同様であったのです。それぞれの藩が自立してやっていくこと
が難しくなったのです。
 この藩の極度の財政逼迫が、版籍奉還と廃藩置県をスムーズに
進ませる原因になったのです。その結果、中央集権化が進行し、
有司専制という政治が行われるようになります。
 藩体制に影響を与えた第2は「君臣主従のイデオロギーが転換
したこと」です。
 戊辰戦争ではいわゆる1対1の構造のチャンバラは役に立たず
鉄砲を扱う兵隊が大活躍したのです。刀尊忠剣の考え方に立つ武
士たちは鉄砲を扱う兵を蔑視したのです。しかし、実際の戦闘で
は刀や剣や槍はほとんど役に立たなかったのです。戦死者のほと
んどが砲弾や銃弾による死者であったことからも、それは明らか
なことです。
 戦争では身分の上下があると、どちらが先に行くかというつま
らないことが問題になり、横列展開の近代戦ができないのです。
そこで兵には最下級の身分の者が選ばれ、大活躍したのです。全
員参戦の戦闘様式でなければ、外国に対抗できる軍隊は創設でき
ないということで、後に徴兵制が出てくることになります。
 その結果、従来の君臣主従のイデオロギーが崩れ、封建武士団
の特権が消滅したのです。
 藩体制に影響を与えた第3は「農民が強くなり、従来の身分制
度が崩壊」したことです。
 軍隊には農民が動員され、活躍したことによって農民が力を得
ることになります。その結果、明治10年(1877年)頃まで
は百姓一揆が頻発し、国内は乱れたのです。百姓一揆の数は幕末
よりも明治初期の方がはるかに多かったといわれます。
 このように戊辰戦争は、明治以後の世界に劇的な変化をもたら
したのです。このテーマの第2部に書くことですが、明治維新の
三大改革といわれるものがあります。
―――――――――――――――――――――――――――――
           1.徴兵制度
           2.地租改正
           3.学制改革
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 「徴兵制度」は軍隊の近代化の必要性から生まれてきたもので
す。「地租改正」は、武士社会の解体に伴い、社会福祉政策とし
ての秩録処分──武士という職業を離れることによる失業手当の
ようなもの──によってその資金が新政府財政の34%を占める
にいたり、財政上の必要性から実施されたのです。「学制改革」
は、天皇を中心とする体制についての思想教育を徹底させる必要
性から生まれた学制の導入を意味しています。
 このように戊辰戦争をやることによって、維新の改革がまるで
雪崩を打つように巻き起こったのです。詳細はテーマの第2部で
ご紹介します。   ─── [明治維新について考える/83]


≪画像および関連情報≫
 ●「藩」について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  藩というと幕藩体制というように江戸幕府下の制度と思われ
  がちだが、厳密には江戸幕府下の体制で公式に「藩」という
  呼称はなかった(一部の学者などが書などで使用するのみで
  あった)。ただし、幕末になると大名領を「藩」と俗称する
  ことが多くなった。「藩」という名称は中国史による。明治
  維新後、初めて藩という呼称が公式に使用されたが廃藩置県
  で藩が消失するまでのわずか2年程度の行政区名称である。
                    ──ウィキペディア
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小島慶三氏の本.jpg
小島 慶三氏の本
posted by 平野 浩 at 04:08| Comment(1) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月10日

●「有司専制政治は今でも続いている」(EJ第3074号)

 既に予告しているように、今回のテーマは本日で終了します。
長い間のご愛読に感謝いたします。既にテーマの第1部で書くべ
きことは、昨日のEJで終っているので、本号は次のテーマとの
つながりについて書くことにします。6月13日から新しいテー
マになりますが、今回のテーマとは密接に関連しているのです。
 もともと「明治維新について考える」をテーマに選んだのは、
昨年の暮れに植草一秀氏の次の著作を読んだからなのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
                       植草一秀著
 『日本の独立/主権者国民と「米・官・業・政・電」利益複
                合体の死闘』/飛鳥新社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 この本は、500ページを超える大書ですが、その中で次の一
文を見つけてハッと思ったのです。現在の日本の政治状況を解く
カギがここにあると・・・。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本の官僚機構が備える全体主義的傾向、権威主義的性格は、
 第二次大戦後も払拭されずに現代まで引き継がれている。これ
 らの基本性格が定着した原点が、「明治六年政変」であり、そ
 の延長上に成立した大久保利通「有司専制」政治であると私は
 判断する。歴史に仮定を持ちこんでも意味がないが、明治六年
 政変が異なる方向に転がったのなら、日本の歴史は恐らく異な
 る方向に進んだと考えられるのだ。それほどに、明治六年政変
 の意味は大きかった。     ──植草一秀著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 ところで、「有司専制」とは何でしょうか。
 「有司」とは政府官僚を指している言葉です。具体的にいえば
事務次官クラスの官僚と考えればよいと思います。したがって、
有司専制とは、議員による議会政治によらずに官僚のトップの合
議だけで国家の方針を決めることを意味しているのです。
 この有司専制政治を作り上げたのが大久保利通なのです。その
政治体制が現在まで続いているというわけです。
 一体大久保利通はどういう経緯でそういう政治体制を作るにい
たったのでしょうか。それについては、幕末の歴史をていねいに
調べる必要がある──そう考えて、「明治維新について考える」
のテーマに挑んだのです。振り返ってみると、慶応4年(186
8年/9月7日から明治元年)1月から明治2年5月まで、83
回にわたり、ほとんど月と日を追うように、ていねいに書いたつ
もりです。
 しかし、既に述べているように、大久保利通はごくわずかしか
登場してこないのです。したがって、大久保利通は、戊辰戦争が
終るや否や、電光石火でいろいろな改革を行い、明治維新を成し
遂げているのです。そして明治6年(1873年)に有司専制政
治の基礎を作っています。そして、それを契機に西郷隆盛は政府
を去り、やがて西南戦争の悲劇が起きるのです。
 現在の日本の政治は何かおかしいと思いませんか。せっかく大
変な苦労をして政権交代を成し遂げた民主党は、今やボロボロの
状態です。どうしてこうなってしまったのでしょうか。
 これは民主党の議員が与党政治に慣れていないとか、経験不足
であるとか、やり方がよくないとかという以上の何かがあるとし
か思えないのです。どうしても民主党の進めようとする「国民の
生活が第一」に基づく政策を何としてもやめさせるという圧倒的
な力が働いている──そのように考えられます。
 政権交代の推進力となった小沢一郎元代表は、政権奪取の前か
らいきなり事務所に強制捜査を受け、秘書が逮捕されるという、
ほとんど選挙妨害のような仕打ちを受けます。誰でも事務所の秘
書が逮捕されれば主である小沢代表に問題があると考えます。選
挙直前のことですから、民主党にとって大打撃です。
 そこで小沢氏は代表を辞任し、選挙に専念して2009年の衆
院選に臨み、政権交代が成し遂げられたのです。しかし、政権交
代を成し遂げて幹事長に就任した小沢氏に対して攻撃はさらに続
き、今度は元秘書の石川氏らまでもが逮捕され、小沢氏も事情聴
取を何回も受けたのです。それでも小沢氏自身は不起訴にはなっ
たものの、秘書たちは起訴されています。
 この一連の小沢叩きは、マスコミの執拗きわまりないリークに
よって増幅され、「小沢=悪者」のイメージが完全に定着した感
があります。これによって小沢氏は評判を落とし、結局鳩山前首
相と共に辞任を余儀なくされるにいたったのです。
 そして鳩山氏の後継の菅政権はというと、いきなり消費税増税
を掲げて2010年の参議院選で惨敗し、衆参のねじれを作り上
げ、民主党政権の前途を暗くしています。
 さらに菅政権は、信じられないことに「国民の生活が第一」の
スローガンを下ろし、公約を次々と撤回しつつあります。そして
政権交代の最大の功労者である小沢氏とそのグループに対し、陰
湿きわまる「小沢切り」を行い、党内を混乱させているのです。
そして党勢を立て直そうと代表選に立候補した小沢氏を破った菅
政権は、ますます独裁の度を高めています。実は代表選にもウラ
があるのですが、これは機会を見て述べることにします。
 その小沢氏にとどめをさすように、不可解きわまる検察審査会
による強制起訴が行われるに及んだのです。あまりにも異常な政
治状況であるといえます。
 この国を動かしている者は何か。それは小沢一郎という政治家
を非常に恐れ、警戒しているようにみえます。どうして小沢氏を
恐れるのでしょうか。それには何か理由があるはずです。
 秘書たちを逮捕、起訴され、自らも強制起訴され、それを理由
に菅政権から党員資格停止を受けてもなお、菅政権は小沢氏を警
戒しています。依然として小沢氏を中心とする政治情勢が続いて
いるからです。小沢氏の見据えている敵とは何か。13日から探
っていきます。   ─── [明治維新について考える/84]


≪画像および関連情報≫
 ●愚樵空論/官僚専制国家
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「有司」とはすなわち官僚のことです。学校での歴史の学習
  では、この官僚専制批判が立憲の大きな要因になったように
  思い込まされてしまいますが、実際の所はどうか?明治憲法
  を立案したのは伊藤博文ら「有司」でしたし、その「有司」
  たちが作った憲法は天皇を玉として頂きながらも、実質的に
  は権限を与えない有司専制国家を形作るものだったと言って
  いいかもしれません。帝国議会という国政機関が設けられは
  しましたが、選挙で選ばれる衆議院より貴族院の方が上位に
  あったのは学習したとおりですし、さらには枢密院などいっ
  た機関もありました。
        http://gushou.blog51.fc2.com/?mode=m&no=231
  ―――――――――――――――――――――――――――

植草一秀氏の本.jpg
植草 一秀氏の本
posted by 平野 浩 at 04:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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