2011年02月07日

●「明治維新とは何だったのか」(EJ第2991号)

 「新視点からの龍馬伝」をEJのテーマとして取り上げようと
考えたのは、2010年9月に浜松町の書店で、次の本に出会っ
たからです。これはEJ第2910号「新視点からの龍馬伝」の
冒頭に書いたことです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    榊原英資著
    『龍馬伝説の虚実/勝者が書いた維新の歴史』
                  朝日新聞出版刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 この本の序文で榊原英資氏は、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』は
著者の歴史観が色濃く反映され、龍馬の実像を著しく歪曲してと
らえているといっています。
 さらに榊原英資氏は、司馬遼太郎が『坂の上の雲』において、
明治という国家を次のようにとらえていることにも疑問を呈して
います。
―――――――――――――――――――――――――――――
 (明治という時代は)「清廉でリアリズムを持っていた」素晴
 らしい時期だった。
         ──司馬遼太郎著『坂の上の雲』/文春新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 榊原氏は、明治維新から第2次世界大戦にかけては「異常な時
代」であると位置づけています。そのひとつに明治新政府が太政
官布告として発令した「神仏分離令」があります。明治元年(1
868年)のことです。
 神仏分離令は仏教排斥を意図したものではなかったのですが、
これをきっかけにして全国各地で「廃仏毀釈」運動がおこり、各
地の寺院や仏具の破壊が行なわれたのです。
 問題なのは、神仏習合の伝統の中で折衷されてきた宗教が分離
され、それをベースとして成立してきた象徴天皇制が崩壊してし
まったことです。これによって、神道イデオロギーが国家の中心
に据えられることになったのです。つまり、「天皇は神聖にして
侵すべからず」の存在になり、それが第2次世界大戦が終了する
まで続くことになります。
 実はこの神道イデオロギーをベースとして、天皇の守るための
官僚制度が構築されています。つまり、明治の官僚は支配者の一
翼を担っていたのです。しかし、この官僚制度は第2次世界大戦
後の象徴天皇の時代になっても存続し、現代日本の政治に大きな
影響を与えているのです。なぜなら、官僚による支配は象徴天皇
化した現在、日本の事実上の支配者は、官僚ということになるか
らです。これは重大な問題です。
 現在、民主党の菅政権が見るも無残な姿を晒しているのは、政
権運営が稚拙なことに加え、政治主導を唱えながら、明治維新以
来140年間続いてきている官僚制度をコントロールすることが
できずに逆に取り込まれてしまったことに原因があります。一体
明治維新後に何があったのでしょうか。
 一般的日本人は、幕末から明治新政府ができるまでのことにつ
いてはよく知っています。それは多くの文献があることに加えて
NHK大河ドラマや映画や小説などの題材によく取り上げられる
からです。
 しかし、新政府ができて明治14年頃までに何が起こったのか
について知っている人は意外に少ないのです。一般の人の関心は
明治27年(1894年)の日清戦争、それに10年後の日露戦
争へとジャンプしてしまうのです。司馬遼太郎の『坂の上の雲』
(文春新書)はその頃のことを書いているのです。
 明治政府の閣僚は、誰が主導してどのようにして決められたの
か。官僚による政治支配の諸制度は誰が設計したのか。廃藩置県
はどのようにして決められ、どのように実行に移されたのか。明
治6年の政変とは何か。西南戦争はなぜ起こったのか。西郷はな
ぜ自刃したのか、などなど。その詳細について知らない人は案外
が多いと思います。
 そこで、本日からのEJは、明治元年から明治14年頃までに
焦点を当て、明治維新について考えてみることにします。タイト
ルは次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   明治維新について考える/明治維新は「革命」なのか
    ── 官僚による政治支配の構造に迫る ──
―――――――――――――――――――――――――――――
 事実上は「新視点からの龍馬伝」の続編という位置づけになり
ますが、単なる続編ではなく、できる限り現在の日本の政治との
関連において書いていくつもりです。
 明治維新は、江戸時代という旧体制を崩壊させ、近代国家日本
の幕開けになったと後世に評価されています。しかし、明治維新
で実現したのは、薩摩と長州の藩閥政治であり、イデオロギー的
天皇制とそれを支えた薩長の専横的政治であったのです。それも
江戸時代を全否定して、西欧化に邁進したのです。
 榊原英資氏は、歴史家・渡辺京二の名著『逝きし世の面影』の
次の一文を引用して、明治新政府が江戸時代を全否定したことの
誤りを指摘しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ・・・日本近代が経験したドラマをどのように叙述するにせよ
 それがひとつの文明の扼殺と葬送の上にしか始まらなかったド
 ラマだということは銘記されるべきである。扼殺と葬送が必然
 であり、進歩であったことを、万人とともに認めてもいい。だ
 が、いったい何が滅びたのか、いや滅ぼされたのかということ
 を不問に付しておいては、ドラマの意味はもとより、その実質
 さえも問うことができない。        ──渡辺京二著
        『逝きし世の面影』より/平凡社ライブラリー
―――――――――――――――――――――――――――――
          ──  [明治維新について考える/01]


≪画像および関連情報≫
 ●榊原英資氏と「逝きし世の面影」
  ―――――――――――――――――――――――――――
  勝や龍馬のような知性派が明治の改革を仕切っていたら、武
  断派の西郷や桂が引き起こした凄惨な戦いや長引いた混乱は
  起こらなかったかもしれません。歴史にイフ(もしも)はな
  いのですが、少なくとも龍馬をそうした角度から評価し直す
  必要があるのではないでしょうか。龍馬なら、改革を進める
  とともに江戸時代のいい部分を残したかもしれません。彼な
  ら「逝きし世の面影」に多少はこだわったでしょうから。
                      ──榊原英資著
        『龍馬伝説の虚実/勝者が書いた維新の歴史』
                      朝日新聞出版刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

渡辺京二著『逝きし世の面影』.jpg
渡辺 京二著『逝きし世の面影』
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2011年02月08日

●「京都守護職が会津藩である理由」(EJ第2992号)

 現在の菅政権を見てつくづく感ずることがあります。リーダー
たるもの自らの発言がブレたり、言行不一致があると誰も信用し
なくなるということをです。
 「国民の生活が第一」という公約を平然と破り、それでいてテ
ンとして恥じない。政治主導で予算実行の優先順位をつけて重要
なことから実施するという約束を反故にし、いとも簡単に「財源
がない」という財務省の策略に嵌まり、自らを厳しく律すること
なく増税に血道を上げる──これでは何ら自民党と変わらないし
民主党を支持して一票を投じた国民を裏切る行為です。
 中でも不可解なのは、小沢一郎氏の醜悪な追放劇です。三顧の
礼をとって民主党に招聘し、民主党が悲願としていた政権交代を
実現させた最大の功労者を疑惑の渦巻く強制起訴を理由に石もて
追いやろうとする──民主党は仲間を守らない人間の道に欠ける
ことを平気でやる党という認識が定着しつつあります。
 これでは民主党は選挙に勝てるはずはないし、統一地方選は惨
敗を重ねることは必至です。ところが、菅首相をはじめ、岡田幹
事長以下の民主党幹部はそんなことはないと考えています。こう
いうのを「裸の王様」というのです。
 実は、幕府が存亡の危機に立たされていたときの徳川慶喜にも
致命的なブレやリーダーとして欠ける点があったのです。大政奉
還から王政復古を経て鳥羽伏見の戦いに至るプロセスで、それは
あったのです。これでは、選挙ならぬ戦争に勝てるはずはないの
です。まず、王政復古について述べましょう。
 慶応3年(1867年)──龍馬が暗殺された同じ年のことで
す。徳川慶喜の側用人である原市之進が斬殺されたのです。原市
之進は水戸藩士で、文久3年(1863年)に慶喜の側近になり
いろいろな面で慶喜を支えてきていたのです。慶喜は原を信頼し
ており、将軍就任と同時に幕府目付に抜擢していたのです。
 犯人は、攘夷派幕臣の鈴木豊次郎と依田雄太郎の2人であり、
慶喜の政治力を削ぐことに狙いがあったと思われます。2人の黒
幕は、幕臣山岡鉄舟であるとされています。彼は強硬な兵庫開港
反対派なのですが、兵庫開港の勅許を得たのは原の働きであるこ
とを知り、激怒していたといわれます。
 実は慶喜はもうひとりの側用人である平岡円四郎も殺されてい
るのです。元治元年(1864年)、平岡は池田屋事件の終結と
今後の長州藩への対処について協議した帰り道で、水戸浪士の江
幡広光と林忠五郎に暗殺されたのです。
 側近が次々と暗殺されることは、幕臣には慶喜に反対する者が
多いことを意味しています。幕府には依然として攘夷派が非常に
多く、とくに慶喜の出身藩である水戸藩は、攘夷派の巣窟なので
す。福沢諭吉はこれについて次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 徳川政府は行政外交の任に当たっているので、開港説、開国論
 をいわなければならない。けれども幕臣全体の有様はどうだと
 いうと、四方八方、どっちを見ても洋学者が頭をもたげる時代
 ではない。表面は開国をよそおっているが、幕府は真実、自分
 も攘夷をしたくて堪らないのだ。実に愛想が尽きて同情する気
 もない。          ──星 亮一・遠藤由紀子共著
       『最後の将軍/徳川慶喜の無念』より/光人社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 徳川慶喜が自身のボディーガートとしての京都守護職を松平容
保に任命したのは、水戸藩がこのような状態でまったく使い物に
ならないので、会津藩に頼らざるを得なかったのです。
 松平容保の京都守護職就任には会津藩の家臣たちは反対だった
のですが、容保は会津藩と徳川宗家とは他の藩とは違い、どんな
幕命にも従えという藩祖の遺訓があり、徳川宗家と盛衰存亡をと
もにする間柄であることを説いて家臣を納得させたのです。
 しかし、慶喜が大政奉還を決めたことによって、会津藩は藩主
容保に帰国を本気で勧めたのです。京都にとどまることは、出費
も莫大であり、容保の健康に不安を持っていたからです。それに
加えて容保の家臣としては、慶喜の態度に一抹の不安感と不信感
を持っていたのです。果たせるかな、この不安感はまもなく的中
することになるのです。
 しかし、慶喜は絶対に松平容保を離さなかったのです。慶喜と
しては2人の腹心を殺され、相談相手がなくなってしまったこと
と、心底から身の安全に不安を抱えていたからです。
 徳川慶喜は土佐藩が建白した大政奉還を受け入れる決断をし、
慶応3年(1867年)10月13日に在京40藩の重臣を集め
大政奉還を宣言して、翌日政権を朝廷に返還しています。慶喜と
しては、朝廷はいきなり返還されても困るので、当分の間は政権
は自分に託されると考えていたのです。確かに、政権を返還され
た朝廷では、朝議を開き、慶喜の思惑通り、諸候会議で今後の方
針を決めるまで政治は旧幕府が担うことになったのです。
 この状況に危機感を持ったのは西郷隆盛です。こんなに簡単に
慶喜が大政奉還を受け入れるとは思っていなかったからです。こ
の流れによって、慶喜に諸候会議で実権を握られると、新しい国
家体制が慶喜中心に形成される可能性がある──西郷隆盛はこの
ように考えたのです。
 このさい、抱き込むべきは土佐藩であると悟った西郷は後藤象
二郎を説いたのですが、土佐藩としてはあくまで西郷の武力行使
に反対したのです。それが容堂公の命令であったからです。
 西郷は朝廷の中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之の3人に
討幕の密勅の起草を依頼すると同時に、江戸でゲリラ戦を行う手
はずを整えたのです。
 後藤はここにきて西郷の動きを知り、松平春嶽にそれを伝えた
のです。驚いた春嶽は直ちに側用人の中根雪江を二条城に走らせ
慶喜にそれを知らせたのですが、ことの重大性を慶喜は理解しな
かったといいます。慶応3年(1867年)12月6日のことで
す。        ──  [明治維新について考える/02]


≪画像および関連情報≫
 ●原 市之進/「歴史くらぶ」より
  ―――――――――――――――――――――――――――
  徳川家では、征夷大将軍になるには必ず徳川家の当主でなけ
  ればならないという取り決めがあった。世襲制であると同時
  に、徳川家の当主を兼ねた。手続きとしては、まず宗家の当
  主になりその後、朝廷から征夷大将軍の宣下を受けることに
  なる。しかし、徳川家の当主になったときは、たとえ養子で
  もすぐにそのまま征夷大将軍に移行するということが慣行に
  なっていた。ところが徳川慶喜の場合は違った。彼が徳川宗
  家の当主になったのは、1866年(慶応2年)8月のこと
  だが、将軍になったのはこの年12月5日のことだ。約半年
  間、空白期間があるのだ。そうさせたのは慶喜の黒幕だった
  原市之進の画策だ。原はこの頃、慶喜の黒幕としてピタリと
  ついていた。 http://rekishi-club.com/kijin/hara.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

原 市之進.jpg
原 市之進
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2011年02月09日

●「王政復古のクーデターが始まる」(EJ第2993号)

 中根雪江は慶喜に人払いをさせて主人春嶽からの情報を伝えた
のですが、慶喜からは次の言葉が返ってきただけなのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 予は別に驚かざりき。既に政権を返上し、将軍職を辞したれば
 王政復古の御沙汰うるべきは当然にて、王政復古にこれらの職
 を廃せられんこともまた当然なればなり。  ──野口武彦著
  『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した四日間』/中公新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 この反応は実に不可解なのです。何やら達観し、そこには諦観
すら感じられる言葉であるからです。実は後藤象二郎は、朝政一
新後に慶喜は「議定職」になるということを密かに告げていたと
思われるのです。慶喜はこれを信じて泰然自若としていたと推定
されます。達観でも諦観でもないのです。
 それどころか、慶喜は板倉勝静に中根雪江の話を伝えて、次の
ようにいったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 この上は何事も朝命のままに服従せよ。会津、桑名にも聞か
 せるな          ──星 亮一・遠藤由紀子共著
      『最後の将軍/徳川慶喜の無念』より/光人社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、板倉はこの慶喜を命令を守ったがために会津藩は易々
と朝廷警護を外されてしまうことになったのです。
 すべては諸候会議で決まると慶喜は考えていたのです。諸候会
議には越前の松平春嶽、土佐の山内容堂も出るので、それなりに
図らってくれるに違いない──慶喜はそのように楽観していたフ
シがあります。彼は物事をすべて自分に都合の良いように考える
ところがあるのです。
 しかし、討幕派は諸候会議を開かずに、尾張、越前、安芸、土
佐を巻き込んで、朝廷でクーデターを行うつもりでいたのです。
まず、新政権を発足させ、その上で慶喜の罪を問おうと考えてい
たのです。このクーデターが成功するかどうかは土佐藩の説得に
かかっていたといえます。
 西郷隆盛と大久保利通は、最後の手段として後藤象二郎に対し
次の項目を提示したうえで説得をしたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.二条摂政・賀陽宮(朝彦親王)ならびに伝奏・議奏職を
   廃止する。
 2.慶喜から出ている征夷大将軍の辞表を勅許する。
 3.京都守護職・京都所司代なども退職。蛤御門の警衛を免
   除する(排除する)。
 4.幕府の采地を削減して、議事院の給費に当てる。
 5.有栖川親王を大政の総裁とする。議定という職を置く。
 6.土州・薩州・芸州・尾州・越前などの諸藩を諸門御警衛
   とし、当日、異論を起こす者を討つ。
                     ──野口武彦著
 『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した四日間』/中公新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 これは、クーデターの中身なのです。後藤としては、西郷と大
久保がそこまで打ち明けているのに、もし反対すれば殺されかね
ないと考えたのでしょう。結果としてそれを受け入れたのです。
 しかし、後藤はそれを直ちに松平春嶽に知らせ、春嶽はさんざ
ん悩んだ末に中根を通じて慶喜にその情報を知らせたのです。し
かし、その貴重な情報の意味を慶喜は、自分に都合の良いように
解釈したのです。
 慶応3年12月8日の夕刻から御学問所で朝議が開催されたの
です。朝議には、摂政関白二条斉敬、左大臣九条道孝、右大臣大
炊御門家信、内大臣広幡忠礼、前関白鷹司輔煕、前関白近衛忠煕
をはじめ、国事御用掛、議奏、伝奏の全メンバーが出席している
のです。さらに、将軍徳川慶喜、京都守護職松平容保、京都所司
代松平定敬も召集されていたのですが、3人とも病気と称して出
席せず、結果として欠席裁判になったのです。
 朝議の主題は、長州藩関連の名誉復活の決定です。決定事項は
次の3件です。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1.          毛利父子の官位復活と入京許可
  2.「八・一八政変」で追放の五卿の官位復活と入京許可
  3.  岩倉具視ら謹慎中の公卿の蟄居む解除・還俗許可
―――――――――――――――――――――――――――――
 これによって、長州藩関係のすべての名誉回復はなされ、彼ら
は天下晴れて入京できるようになったのです。これで討幕を実施
する体制が整ったことになります。
 翌日の12月9日の午前10時頃のことです。御所北面の乾門
から、西郷隆盛が薩摩藩兵3000人が太鼓を鳴らして入ってき
たのです。これに芸州藩兵1200人が加わり、御所の内外諸門
をがっちり固めたのです。
 夜になって会津藩に、蛤御門と唐御門の警備を土佐藩に引き渡
すよう命令書が出されたのです。会津の指揮官・佐川官兵衛は何
も抵抗せずに土佐藩に2つの門を引き渡します。土佐藩は味方で
あると信用していたのと、板倉勝静より朝命には逆らわないよう
にという指示が出ていたからです。これによって、御所から会津
藩は一掃されたのです。
 そのとき官位復活と入京が認められた長州藩兵は京を目指して
進軍してきており、京には幕府軍や会津藩兵のいる場所は次第に
なくなりつつあったのです。
 そして9日夜には、赦免されたばかりの岩倉具視が衣冠に身を
整えて参内してきたのです。いよいよ小御所会議が開催されるの
です。明治天皇が出御され、これからがクーデターのクライマッ
クスが始まるのです。その内容は実に驚くべきものであったので
す。        ──  [明治維新について考える/03]


≪画像および関連情報≫
 ●「小御所会議」とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  小御所会議は、江戸時代末期の慶応3年年12月9日に京都
  の小御所で行われた国政会議。同日に発せられた王政復古の
  大号令で、新たに設置された三職(総裁・議定・参与)から
  なる最初の会議である。すでに大政奉還していた徳川慶喜の
  官職(内大臣)辞職および徳川家領の削封が決定され、討幕
  派の計画に沿った決議となったため、王政復古の大号令と合
  わせて「王政復古クーデター」と呼ばれることもある。その
  一方で、この時期までにしばしば浮上しては頓挫した、雄藩
  連合による公儀政体路線の一つの到達点という面も持ち合わ
  せていたのである。         ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

再建された京都小御所.jpg
再建された京都小御所
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2011年02月10日

●「徳川慶喜に辞官納地を迫る」(EJ第2994号)

 慶応3年(1867年)12月9日に、16歳の明治天皇も出
席され、小御所会議が行われたのです。明治天皇は、参朝してい
た親王や諸臣に対して「王政復古の大号令」を発令したのです。
そしてそれに続く組織改革は驚くべき内容だったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      1.将軍職辞職を勅許
      2.京都守護職/京都所司代の廃止
      3.江戸幕府の廃止
      4.摂政・関白などの旧官職の全廃
―――――――――――――――――――――――――――――
 このときの組織改革の特徴は、王政に「復古」といいながら、
伝統的な摂政・関白・征夷大将軍・議奏・伝奏・国事御用掛など
を含めて根こそぎ全廃してしまったことです。これによって、旧
来の政府機関は一夜にして吹き飛んでしまったのです。
 岩倉具視に主導される一部の公卿と薩長は、このようにするこ
とによって、今までの上級公家を一掃するとともに、徳川慶喜が
新政府の主体になる芽を完全に摘んだといえます。そういう意味
でこれは「革命」といってもよいと思います。
 そのうえで「総裁」「議定」「参与」の三職を設けて、次の人
事を発表したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ◎総裁
  有栖川宮熾人親王
 ◎議定
  仁和寺宮嘉彰/山階宮晃親王/中山忠能/正親町三条実愛/
  中御門経之/徳川義勝(尾張)/松平春嶽(越前)/浅野茂
  勲(安芸)/山内容堂(土佐)/島津茂久(薩摩)
 ◎参与
  大原重徳/万里小路博房/長谷信篤/岩倉具視/橋本実梁/
  人名未定/尾・越・芸・土・薩5藩から各3人
                      ──野口武彦著
  『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した四日間』/中公新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 続いて、9日の午後9時過ぎから、決まったばかりの三職によ
る朝議が開かれたのです。この席には参与になったばかりの大久
保利通や後藤象二郎もいたのです。
 中山忠能議定が開会を宣言したとたん、大声で次のように発言
した者がいます。土佐の山内容堂その人です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 なぜ、慶喜を呼ばぬのだ。第一、本日の仰々しさはなんだ。徳
 川家の功績は大だ。公家のみで政治を行うことはできぬ。幼い
 天子を擁して権力を盗むつもりか。
               ──星 亮一・遠藤由紀子共著
       『最後の将軍/徳川慶喜の無念』より/光人社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 これに対し、岩倉具視がすぐに反発し、騒然となったのですが
休憩になったとき、西郷隆盛は後藤象二郎に近づき、「短刀一本
で片付くことだということを忘れるな」と恫喝したのです。これ
は「いうことを聞かなければ実力行使してもやるぞ!」という意
味です。これによって山内容堂と後藤は沈黙せざるを得なかった
のです。力づくで屈服させられたというわけです。
 小御所会議では、徳川慶喜について、次の3つのことが決定さ
れたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      1.内大臣の官位辞退・
      2.領地上納
      3.会津・桑名両藩の京都撤退
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかも、朝議では、徳川慶喜を支持する松平春嶽と徳川慶勝に
会議での決定事項を二条城にいる慶喜に伝える厭な役割を割り振
ったのです。この時点でも岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通は、
慶喜が決定に反発して戦争を仕掛けてくることを狙っていたので
す。慶喜は必ず戦を仕掛けてくるし、戦争をしない限り真の政権
移譲は果たされないと考えていたからです。
 次の10日、春嶽と慶勝が朝旨伝達のため二条城に入ったとき
既に朝議の結果をある程度聞いていた城内は、騒然としており、
春嶽と慶勝は思わず身の危険を覚えたといいます。
 新政府は権力こそ確かに幕府から奪ったものの、政府予算はゼ
ロであったのです。そこで、春嶽と慶勝の役割には、当面の政府
費用として徳川家の諸領から、200万石を上納せよという内論
を伝えることも含まれていたのです。
 春嶽と慶勝が事の次第を話したとき、慶喜は顔を一瞬蒼白にし
ましたが、表面上は平静を装っていたといいます。辞官納地に慶
喜はどう出るか、春嶽は慶喜のハラは読めなかったのです。春嶽
の著作である『逸事史補』には次の記述があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 慶喜公、決して兵端を開く存じ(意図)はこれなく候とはいえ
 ど、どうもいささか疑われざる所あり。慶喜公はすこぶる調練
 好きにて、昭徳院様(家茂)以来、兵隊も調練も十分出来、ま
 た藤堂・井伊等もみな兵隊もあり、みな熟練の兵の由。徳川家
 にて今頼む所の練熟の兵隊は十八大隊これある由なり。いっペ
 ん軍をなされたらば必ず勝利なるべしとお考えの御様子あり。
 薩・長・土の兵は、みな熟練はせずとの軽蔑の御様子もあり。
           ──『逸事史補』より/──野口武彦著
  『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した四日間』/中公新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 慶喜は幕府軍には相当の自信を持っていたのです。それをいつ
使うのか。それとも使わないのか。慶喜は難しい判断に迫られる
ことになります。  ──  [明治維新について考える/04]


≪画像および関連情報≫
 ●松平春嶽と徳川慶勝による朝旨伝達
  ―――――――――――――――――――――――――――
  松平春嶽と徳川慶勝(議定)が使者として慶喜のもとへ派遣
  され、新政府の決定を慶喜に通告した。通告を受けて慶喜は
  辞官と領地の返納を謹んで受けながらも配下の気持ちが落ち
  着くまでは不可能という返答をおこなった。実際この通告を
  受けて、「幕府」の旗本や会津藩の過激勢力が暴走しそうに
  なったため、慶喜は彼らに軽挙妄動を慎むように命じ、13
  日には政府に恭順の意思を示すために京都の二条城を出て大
  阪城へ退去している。        ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

徳川慶勝.jpg
徳川 慶勝
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2011年02月14日

●「薩摩藩の江戸における撹乱工作」(EJ第2995号)

 慶応3年(1867年)12月10日の二条城は騒然としてい
たのです。辞官納地の真相を漏れ聞いた将兵は激昂し、老中でさ
え主戦論を唱える者が多数いたほどです。
 「これはまずい」──ここで兵を挙げると薩長の思うつぼに嵌
ると慶喜は考えたのです。そこで慶喜は急遽諸隊長を集め、軍勢
を城中に入れるよう命令したのです。ここで戦を起こしてしまう
と「朝敵」にされる──慶喜はこれが怖かったのです。王政復古
の宣言だけでは薩長は幕府に戦いを仕掛けることはできないので
時を稼ぐ必要があると判断したのです。
 そのとき、京都にいた幕府軍は、総勢約1万人です。その内訳
は次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       旗本兵 ・・・・・ 約5000人
       会津兵 ・・・・・ 約3000人
       桑名兵 ・・・・・ 約1500人
―――――――――――――――――――――――――――――
 これら兵士約1万人を二条城に入れて外出を禁じたので、城内
は含んで膨れ上がったのです。このとき会津藩は薩摩藩攻撃を強
硬に主張していたのです。
 そこで、慶喜は、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬や
会津藩の佐川官兵衛などを呼び出し、次の言葉を伝えるとともに
二条城を去って大阪城に入ることを伝えたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 余に深謀あれども、事密ならざれば敗るるが故に、今は明言せ
 ず               ──『七年史』丁卯記より
−−―――――――――――――――――――――――――――
 そしてその深夜、慶喜は全将兵に隊列を組ませて、整然と二条
城を出て、千本通から鳥羽街道を下り、淀、枚方を経て大阪城に
入ったのです。
 12月14日になって、新政府の出納係である戸田忠至が大阪
城にやってきたのです。新政府には一銭も資金がないので、少し
出金してくれと泣き込んできたのです。新政府は、旧幕府から国
庫を引き継ぐことを忘れていたのです。お粗末な話です。
 慶喜としては、「渡す金などない」といって突き放すことはで
きたのですが、金5万両を渡してやっています。新政府に対して
ここで貸しを作っておいて損はないと考えたからです。
 さらに12月16日に慶喜は、英、仏、蘭、米、伊、プロシア
の6ヶ国代表と謁見し、新しい政体ができるまで、自分が日本国
の代表であり、外国との条約を履行することを宣言しています。
つまり、外交権は自分が持っていることを内外に示したのです。
 これによって、三職会議の雰囲気が変化したのです。議定の容
堂、春嶽、慶勝をはじめ、参与の後藤象二郎、中江雪江などの公
儀政体派が勢力を巻き返し、岩倉具視まで意思がぐらつきはじめ
たのです。
 そして、三職会議は、もし慶喜が自発的に辞官納地をするので
あれば、会津藩を帰国させることを条件に、慶喜の入京参内を許
し、議定職につけるという妥協案を模索しはじめるのです。
 12月24日になって、三職会議は次の案を慶喜に対して示し
たのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1.官位については「前(さきの)内大臣」にする
   2.領地返上は天下の公論をもって継続協議とする
―――――――――――――――――――――――――――――
 これなら慶喜としては、満足すべき案であり、12月28日に
慶喜は「請書」(承諾書)を新政府に提出しています。そして年
が明けてたら、上洛する運びになったのです。これによって慶喜
の復権は約束されたようにみえたのですが、思わぬことが起こり
そうはならなかったのです。
 この事態を深刻に受け止めていたのは西郷隆盛です。そのこと
のために密かに用意させていた作戦を11月頃から、少しずつス
タートさせるよう指示していたのです。
 西郷は、慶応3年10月頃から、関東地方の撹乱工作のための
工作員として、益満休之助と伊弁田尚平の2人を江戸に潜入させ
ていたのです。2人は三田の薩摩屋敷を本拠地として、活動をは
じめたのです。
 2人は「天璋院様御守衛」という名目で諸国の浪人の募集をは
じめたのです。天璋院というのは、第13代家定の未亡人の篤姫
のことです。目標は500人の浪士隊の編成です。一体何のため
の浪士隊なのでしょうか。
 11月の中頃になって、浪士隊は行動をはじめます。狙いはひ
とつです。江戸の治安を少しずつ悪化させることです。主として
豪商の家を選んで押し入り、勤王活動費と称して金銭を奪ったり
押し込み、略奪、強請などなど、何でもやったのです。
 12月に入ると、江戸の治安はますます悪くなり、どうやらそ
の犯人は薩摩藩ではないかという噂が広がったのです。そして、
三職会議が慶喜を議定に任命することの検討をはじめた20日過
ぎに重大な事件が起こったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 十二月二十二日、芝赤羽橋にあった庄内藩の警備屯所に銃弾が
 撃ち込まれた。酒井左衛門尉忠篤(十七万石)の手勢が配下の
 新徴組と共に江戸市中取締りを引き受けていたのを目標にした
 のである。翌二十三日、江戸城二の丸が炎上した。犯人は伊牟
 田尚平だった。天璋院付きの女中に手引きさせてタドンで放火
 したのである。同日、三田同朋町の屯所が銃撃され、居合わせ
 た二人の町人が流れ弾に当たって死んだ。発砲者はまたぞろ近
 くの薩摩屋敷に逃げ込んだ。        ──野口武彦著
  『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した四日間』/中公新書
―――――――――――――――――――――――――――――
          ──  [明治維新について考える/05]


≪画像および関連情報≫
 ●庄内藩とはどういう藩だったか
  ―――――――――――――――――――――――――――
  庄内藩は会津藩と並ぶ佐幕派の双壁と謳われた。混乱が続く
  日本国内治安を守るべく、庄内藩は江戸市中取締り役を勤め
  ている。大政奉還が成された後、倒幕派たちは、倒幕の大義
  名分を失っていた。そこで、西郷ら策士たちによって、江戸
  かく乱を画策し旧幕府側に反乱行動を起こさせようとした。
  京都にいる西郷らの密命を受けた相楽総三ら勤王派の有志た
  ちは、江戸市中にて強盗・放火・辻斬りと専横を尽くした。
  江戸市中の治安を守る大役を担う庄内藩士たちは、このなら
  ず者たちの暴挙に憤慨していた。しかし、相楽たち暴徒は悪
  事を働いては、江戸の薩摩藩邸に戻っていくというあからさ
  まな行動に出た。庄内藩や幕吏らは薩摩藩が後ろ盾になって
  いることを承知しているから下手に手出しができない。相楽
  たちはますます意気盛んに悪逆を尽くす。
http://jpco.sakura.ne.jp/shishitati1/kakuhan-page1/32.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

天璋院篤姫.jpg
天璋院篤姫
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2011年02月15日

●「弊藩は尊藩と戦闘状態にある」(EJ第2996号)

 江戸市中取締りの任に当っていた庄内藩は、幕府老中に薩摩藩
による銃撃の顛末を報告し、直ちに実力行使に踏み切るべきであ
ることを強く訴えたのです。
 薩摩藩の狼藉については、既に何回も庄内藩から幕府老中にま
で報告が上がっていたのですが、老中としてはこれを押えていた
のです。大阪の慶喜から軽挙妄動を慎むよう指示されていたから
です。しかし、今回ばかりは老中も庄内藩の突き上げを押え切れ
なかったのです。それに勘定奉行の小栗忠順や旗本主戦派も実力
行使に同調し、老中も重い腰を上げざるを得なかったのです。
 幕府は薩摩藩に対し、犯人の引き渡しを求めたのですが、拒絶
されると、庄内藩を主力とする上山藩、鯖江藩、岩槻藩からの支
援のもと、約1000人の兵士が薩摩藩邸を包囲したのです。
 このとき、旧幕府軍からフランス陸軍教師団のブリュネによる
作戦を授けられた歩兵隊まで参加し、薩摩藩邸の正門に大砲を撃
ち込んだのです。
 薩摩藩邸は黒煙を上げて燃え上がり、藩内と周辺で激しい市街
戦が繰り拡げられたのです。弾丸が飛び交い、薩摩藩側は約50
人が死亡する惨事になったのです。浪士隊のリーダーである相楽
総三は生き残った浪士隊を引率して品川沖で待っていた薩摩藩の
軍艦まで何とか逃げ込んだのです。そのとき江戸では幕府と薩摩
の両軍は完全な戦闘状態に入っていたのです。
 薩摩藩邸の焼き討ちに成功した旧幕府は、このことを大阪の慶
喜に伝えるため、大目付の滝川具挙を急遽大阪に向かわせたので
す。滝川は、12月25日に幕府軍艦の順動に歩兵200人と一
緒に乗って大阪に向かい、28日に大阪城に入っています。この
とき滝川のもたらしたニュースに大阪城内は沸き返って、一挙に
好戦気分が高まったのです。
 そして、慶応4年(1868年)が明けると、兵庫港での海戦
が始まったのです。そのとき兵庫港には、旧幕府海軍の主力軍艦
が5隻──旗艦の開陽、蟠竜、翔鶴、富士山、そして江戸から到
着したばかりの順動の5隻です。
 旗艦開陽上の艦隊司令官である榎本武揚のもとに江戸での薩摩
藩邸焼き討ち事件の急報が届いたのは、12月28日のことであ
り、脱走者が薩摩藩の船舶に潜んでいる可能性もあるので、薩摩
艦艇への臨検などの手配を依頼してきたのです。
 12月30日になると、まだ事情を知らないとみられる薩摩藩
の軍艦2隻が兵庫港に入港してきます。春日と平運です。旗艦開
陽は早速薩摩艦艇に対し、次の通告を行っています。
―――――――――――――――――――――――――――――
      弊藩はもはや尊藩と戦闘状態にある
―――――――――――――――――――――――――――――
 そこに江戸湾から砲撃を受けながら脱出してきた薩摩軍艦翔嵐
が兵庫港に入港してきたのです。1月4日の朝早くこれら薩摩の
3隻は逃亡しようとしたので、旗艦開陽は砲撃を加えます。3隻
はそのまま遁走し、春日と平運は逃げ切ったものの、翔嵐は兵庫
に来る前に既に損傷を受けており、阿波沖で自ら火をつけて自沈
したのです。海上では既に戦争が始まっていたのです。
 この事態を最も恐れていたのは、徳川慶喜自身と公儀政体派の
議定や参与であったのですが、こうなるともはや誰も止めること
が困難になっていたのです。西郷隆盛の江戸における撹乱作戦が
功を奏したわけです。西郷はこういう事態を予測して、早くから
手を打っていたのです。
 それでも公儀政体派の議定や参与はあきらめず、元旦早々松平
春嶽は、腹心の中根雪江を岩倉具視邸に派遣して、幕府との戦を
避けようと最後の努力をしていたのです。そして1月2日に九条
邸において三職会議が行われたのです。しかし、会津と桑名の扱
いをめぐって紛糾し、結論が出なかったのです。
 実は2日の時点で幕府軍は淀まで進出してきていたのです。そ
して問題の会津兵の主力は、2日夜8時頃には伏見に到着し、市
内の東本願寺別院に入っているのです。
 伏見警護を命ぜられていたのは、他ならぬ薩摩藩なのです。薩
摩藩の責任者は、長州・土佐の責任者と同道し、会津本陣に訪れ
談判したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 会津と桑名両藩は朝命によって京都を引き払うことになって
 いると聞いているが、何故大軍を率いて参られたのか。
―――――――――――――――――――――――――――――
 これに対する会津軍の責任者の返答は、次のようなものであっ
たのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 今般、徳川内府殿、朝廷よりお召しにつき、明3日入京致され
 候先供にて通られ候            ──野口武彦著
  『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した四日間』/中公新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 こういわれてしまうと、現地には決定権限がないので、京都参
与衆に伺いを立てるので、この地にて止まるようにいって、立ち
戻ったのです。
 1月3日になって、総裁の有栖川宮熾人親王は緊急事態に対応
するため、全議定・参与の参朝を命じたのです。そして、慶喜に
対しては「人心が動揺するので、お上より沙汰のあるまで上京を
取りやめて欲しい」と、上京中止を通達したのです。
 しかし、参朝を命じられた議定・参与の集まりは悪かったので
す。彼らはそれぞれの藩邸で固唾を呑んで情勢の推移を伺ってい
たからです。一方慶喜自身の意思かそうでないかは分からないま
ま、旧幕府軍の京への進軍は続いていたのです。
 ここで問題になるのは、徳川慶喜の本心です。ここまで事態が
拡大するまで、慶喜の本心がどこにあるのか、さっぱり見えない
ことです。慶喜はどう考えていたのでしょうか。
          ──  [明治維新について考える/06]


≪画像および関連情報≫
 ●相楽総三とは何者か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  下総相馬郡(茨城県取手市)の郷土小島兵馬の四男として江
  戸・赤坂に生まれる。本名、小島四郎左衛門将満。関東方面
  の各義勇軍に参加し、元治元年(1864年)の天狗の乱に
  も参戦。その後、西郷隆盛、大久保利通らと交流を持ち、慶
  応3年(1867年)、西郷の命を受けて、江戸近辺の倒幕
  運動に加わった。運動とはいえ総三らがやったことは、江戸
  市中への放火や掠奪・暴行などの蛮行の繰り返しであった。
  これは大政奉還によって徳川家を武力討伐するための大義名
  分を失った薩長が、江戸の幕臣達を挑発し、戦端を開く口実
  とするためであった。西郷の策は成功し、屯所を襲撃された
  庄内藩が薩摩藩邸を焼き討ちする。これが、鳥羽・伏見の戦
  いのきっかけとなった。       ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●地図出典/麻布・三田界隈の幕末事変を追う
  http://byp.web.infoseek.co.jp/satuma5.htm

薩摩藩三田藩邸.jpg
薩摩藩三田藩邸
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2011年02月16日

●「徳川慶喜の本心はどこにあったか」(EJ第2997号)

 徳川慶喜は戦争はしたくなかったのです。それは「朝敵になり
たくない」という一心からです。彼は将軍という立場で朝廷とい
うものがイザというとき、どのくらい強大なものかよくわかって
いたからです。
 しかし、二条城から大阪城に移ったとき、積極的対応をしない
慶喜に対し、城内では不満が高まっていたのです。このとき矢面
に立ったのは板倉勝静であり、開戦を求める将兵と慎重姿勢の慶
喜の間に板挟みになり、苦悩していたのです。
 薩摩藩邸焼き討ちの報が届く前に大阪城で、慶喜と板倉の間に
次の問答があったということが、野口武彦氏の本に出ています。
城中の主戦派に突き上げられた板倉勝静が慶喜に挙兵上京を勧め
に行ったときのこと。そのとき慶喜は『孫子』を読んでいたので
すが、板倉の話を黙って聞いていたそうです。その後に2人の間
で、次のやり取りが行われたというのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 「譜代・旗本の中に、西郷吉之助に匹敵すべき人材ありや」
 板倉はしばらく考えて答えた。
 「さる人は候わず」
 「さらば大久保一蔵に匹敵すべき者ありや」
 「さる人物は侯わず」
 「いかにもその通りならん。かく人物の払底せる味方が、薩州
 と開戦すとも、いかでか必勝の策あるべき」
 板倉は不服そうに引き下がったが、最後に一言、「将士らの激
 昂甚だしければ、しよせん制し得べしとも思われず。もしどこ
 までも彼らの請いを拒み給わば、畏れども上様を刺したてまつ
 りても脱走しかねまじき勢いなり」と、不気味な言葉を残して
 去っていった。              ──野口武彦著
  『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した四日間』/中公新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 このときの板倉の捨て台詞は凄い。どうしても慶喜が挙兵反対
を唱えるなら、上様を亡きものにして彼らはやりますよという脅
しをかけたからです。そこまでヒートアップしていたところに薩
摩藩邸焼き打ちのニュースがもたらされたのですから、たまらな
い。城内は一気に挙兵上京の機運が高まったのです。
 慶喜が戦いを避ける狙いははっきりしているのです。慶喜はあ
くまで新政府でのしかるべきポストを求めていたのです。大政奉
還以後の経過を見ていると、慶喜の狙い通り、議定のポストが得
られる一歩手前まできていたのです。
 それに慶喜の本心であるかどうかは別として、慶喜は挙兵上京
を目指す強気の発言もしているのです。事実、鳥羽・伏見の戦い
をする前に慶喜は次のような強気の発言をしているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ことここに至り慙愧にたえない。しかし、たとえ千騎戦没して
 一騎となるとも退くべからず。汝らよろしく力を尽くすべし。
 もし、この地敗れるとも関東あり、関東敗れるとも水戸あり、
 決して中途でやめることはない。─星 亮一・遠藤由紀子共著
       『最後の将軍/徳川慶喜の無念』より/光人社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 もうひとつ「討薩の表」というものがあります。「討薩の表」
は慶応4年の元旦に起草して宣言されています。これには別紙が
付いており、そこには薩摩藩の罪状を5ヵ条にわたって列挙して
いるのです。原文は読みにくいので省略し、その要旨を野口武彦
氏の本から引用します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 十二月九日以来の薩摩藩の振舞いは、朝廷の真意とは考えられ
 ず、島津家の奸臣どもの陰謀である。しかも浮浪の徒を語らっ
 て江戸で押込み強盗を働くなど、『天人共に憎むところ』であ
 る。奸臣の引渡しを要求する。朝廷からその御沙汰がなかった
 ら誅戮を加える。             ──野口武彦著
  『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した四日間』/中公新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 この文面を読むと、慶喜があくまで「君側の奸を除く」という
名目で、薩摩藩に対して宣戦布告するかたちをとっていることが
わかります。朝廷に恭順の意を示しているのです。
 一体慶喜の本心はどこあったのでしょうか。もともと戦争は避
けたかったのは確かですが、あまり反対姿勢を続けていると、自
分が殺されかねない状態であったので、やむを得ずどっちつかず
の姿勢になったのではないか──これについてはあとから究明し
たいと考えます。
 1月3日の朝、大久保利通は岩倉具視に書状を送り、朝廷の犯
した2つのミスを指摘し、3つ目のミスを犯そうとしていると直
言し、即時開戦を訴えたのです。
 朝廷の犯した2つのミスと、これから犯そうとしている3つ目
のミスは次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.王政復古に関して徳川家の領地・官位の召し上げを断行し
   なかったこと
 2.徳川慶喜の二条城引き上げを知りながら、それを黙認して
   しまったこと
 3.もしこのまま徳川慶喜を上洛させると、議定職を得て徳川
   家は復権する
―――――――――――――――――――――――――――――
 大久保利通は、慶喜への議定職付与はそのまま徳川家の復権に
つながり、新しき世の到来は夢のまた夢になると考えていたので
す。そして、この書状によって即時開戦を訴えたのです。
 しかし、既にこの時点で戦いは不可避の状態になっており、徳
川方の信じられない情報連絡錯綜によって圧倒的に有利な徳川勢
は敗走を重ねることになるのです。
          ──  [明治維新について考える/07]


≪画像および関連情報≫
 ●なぜ、戊辰戦争というのか
  ―――――――――――――――――――――――――――
  戊辰戦争、慶応4年/明治元年は、王政復古を経て明治政府
  を樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕
  府勢力及び奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。。名称は慶
  応4年/明治元年の干支が戊辰であったことに由来する。明
  治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅した
  ことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として
  国際的に認められることとなった。  ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

戊辰戦争中の薩摩藩兵士.jpg
戊辰戦争中の薩摩藩兵士
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2011年02月17日

●「慶喜公の先供かそれとも戦争か」(EJ第2998号)

 なぜ、旧幕府軍は無謀な挙兵上京を果たしたのでしょうか。そ
の目的は、あくまで薩摩藩を討つことにあったのです。旧幕府の
討薩の大義名分は江戸における薩摩藩によるテロ行為であり、そ
れを朝廷へ直訴することにあります。
 このとき旧幕府は、上洛の目的としては2つあったのです。三
職会議の決定による「徳川慶喜の軽装による上洛」と、薩摩藩の
不法行為を訴える「討薩の表」を朝廷に提出するためのそれの2
つです。旧幕府側としては、どちらにせよ、徳川慶喜は上洛を命
ぜられているのであるから、あくまでこの目的によって上洛を果
たし、そのさいに「討薩の表」を朝廷に提出すればよいと考えて
いたのです。
 問題は「軽装による上洛」です。本来は「会桑(会津藩・桑名
藩)の帰国のうえで」という附帯条件があったのですが、これは
は決定事項ではないとしてあえて無視することにしたのです。旧
幕府軍にとって、戦いとなったとき、会桑軍はいちばん頼りにな
る存在であったからです。
 「軽装による上洛」についてですが、「軽装」の定義が明確で
ないので、「幕府としては軽装」というように勝手に解釈するこ
とにし、あくまで軍勢は「徳川慶喜上洛の先供(さきとも)」と
して押し切る方針を固めたのです。
 慶応4年1月3日、旧幕府軍は陸軍奉行・竹中重固の率いる本
隊(会津藩、鳥羽藩、新選組など)は伏見街道を進軍し、大目付
の滝川具挙率いる桑名藩、大垣藩、見廻組などは、鳥羽街道を進
んだのです。
 この戦いは「鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)」といわれますが
鳥羽や伏見といえば、古くから和歌の歌枕によく使われる風靡な
場所であり、戦争という風情に合わないところです。『詞花集』
巻三・秋と『千載集』巻四・秋上から次の2つの和歌をご紹介し
ておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
  ◎曾禰好忠/山城の鳥羽田(とばだ)の面を見渡せば
               ほのかに今朝ぞ秋風は吹く
                  『詞花集』巻三・秋
  ◎源 俊頼/何となく物ぞ悲しき菅原や
                 伏見の里の秋の夕暮れ
                 『千載集』巻四・秋上
―――――――――――――――――――――――――――――
 さて、戦争の話に戻りましょう。薩摩藩としていちばん恐れて
いたのは、これが旧幕府と薩摩藩による私的な争いという位置付
けになることだったのです。そうなってしまうと、多くの藩は旧
幕府の味方をするからです。
 旧幕府軍は約1万5千人、薩摩軍は約3千人、長州軍約1千人
であり、芸州藩は出兵に応じず、土佐藩も容堂の反対により出兵
していないので、数のうえでは、旧幕府軍が圧倒的に有利な状況
だったのです。薩摩藩としては、薩長だけの軍勢では果たして新
政府軍といえるかどうかを気にかけていたのです。
 このとき、旧幕府軍は奇妙な錯覚にとらわれていたとしか思え
ないのです。それは慶喜公の先供として、旧幕府の大軍が堂々と
進撃を開始すれば、薩摩軍は戦わずして道をあけるはずであると
思い込んでいたのです。
 にわかには信じられない話ですが、旧幕府軍の先陣の一部の鉄
砲隊は弾丸を装填しておらず、急に薩長軍に攻められて全滅して
しまった部隊もあるのです。旧幕府軍としては、京に入ってまず
薩摩藩邸を攻撃し、そのうえで御所に請願する手はずになってい
たのです。したがって、弾丸を装填するのは、そのときでいいと
考えていたのでしょう。
 実はそのとき京は新政府軍によって封鎖されていたのですが、
旧幕府の高官にはそのことが頭になかったといえます。今までは
幕府の軍隊の行進を止める者など誰もいなかったからです。
 それにこれは、戦争ではなく、慶喜公上洛の先供の進軍に過ぎ
ないという意識もあったと思われます。この挙兵上京の目的の曖
昧さが旧幕府軍の命取りになったといえます。それに加えて、慶
喜からは「洛中に入るまでは穏やかに行動せよ」といわけている
ので、そこに戦闘気分などあまりないのです。
 これに対して、薩長は最初から戦争という意識で周到な備えを
していたのです。とくに会桑の軍勢は手強いことをよく知ってお
り、西郷隆盛の指揮のもとにあらゆる場合を考えて、作戦を練っ
ていたのです。この違いは大きいと思います。
 新政府軍側の陣容は、伏見街道方面担当は長州藩が中心であり
御香宮神社に布陣し、薩摩藩中心の鳥羽街道担当は、鴨川に架か
る小枝橋付近に布陣していたのです。
 これからいよいよ鳥羽・伏見の戦いの火蓋が切って落とされま
すが、戦争そのものの詳細は省略します。鳥羽・伏見の戦いにつ
いて書いた本はたくさんありますし、そちらを参照していただき
たいと思います。
 中でも既出の野口武彦氏の次の本は、新書版でもあり、読みや
すいのでお勧めします。1月3日〜6日までの4日間にわたる戦
闘を章別に分けて記述しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
           野口武彦著/中公新書2040
   『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した4日間』
    第3章 鳥羽街道の開戦   戦闘第1日目
    第4章 俵陣地と酒樽陣地  戦闘第2日目
    第5章 千両松の激戦    戦闘第3日目
    第6章 藤堂家の裏切り   戦闘第4日目
―――――――――――――――――――――――――――――
 EJでは、戦闘の裏側──三職会議の模様などに重点を置いて
記述していきます。
          ──  [明治維新について考える/08]


≪画像および関連情報≫
 ●鳥羽伏見の戦い/幕末日本紀行より
  ―――――――――――――――――――――――――――
  鳥羽伏見の戦いはここで始まったとされています。大阪から
  淀川を上がって竹田街道の京橋で上陸した先遣隊に続き、幕
  府軍本隊が鳥羽街道と伏見街道に分かれて京都に進軍しよう
  とします。これを阻止しようとする新政府軍は、竹田、城南
  宮周辺に布陣し、鳥羽街道を北上する幕府軍とここ小枝橋で
  衝突します。「将軍様が勅命で京に上がるのだから通せ」と
  いう幕府軍と、「勅命ありとは聞いていない、通せない」と
  いう新政府軍の押し問答が続き、幕府軍が強行突破しようと
  すると、薩摩藩がア−ムストロング砲を発射、この砲声を合
  図に幕府軍一万五千人と新政府軍六千人の激しい戦いが始ま
  ります。
  http://www.geocities.jp/edo_jii_4039/nihonkikou_toba.html
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●鳥羽伏見の戦いの絵/出典/ウィキペディア

鳥羽伏見の戦い.jpg
鳥羽伏見の戦い
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2011年02月18日

●「公卿に銃口を向けられた山内容堂」(EJ第2999号)

 徳川慶喜にはずるいところがあったのです。部下には大まかな
指示を与え、最終的にはこうして欲しいと思っているにもかかわ
らず、細部まできちんといわないのです。本能的に自分の責任を
回避するわけです。「あとのことはよきにはからえ」というわけ
です。慶喜に限らず昔の殿様はそういう人が多かったのです。
 辞官納地を求められたときの慶喜の本当のハラは、ここはとり
あえず二条城を退去し、大阪城を本拠地として諸藩に呼び掛け、
外交努力で権力を挽回するというものであったと思われます。大
久保利通は次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 これ必ず大阪を根拠として親藩・譜代を語らい、持重の策をも
 って五藩(薩・土・芸・尾・越)を難問し、薩長を孤立せしめ
 て挽回策を講ずるものならん。  ──「大久保利道伝」より
               野口武彦著/中公新書2040
       『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した4日間』
―――――――――――――――――――――――――――――
 実際に慶喜の読みの通り、事態はそのように動き、一時は慶喜
を議定に任命することが決まっているのです。そして慶喜には、
上洛の命令が下ったのです。ただし、上洛に当っては「軽装」と
「会桑の帰国──会津・桑名藩の帰国」という条件が付いたので
すが、徳川側としてはあえて「会桑の帰国」は無視し、「軽装」
は朝廷から具体的な指示がないことを逆手にとって徳川家の判断
による「軽装」という解釈で、実際には大軍を率いて上洛するこ
とにしたのです。
 江戸時代の大名行列は、その数が多いほど力があることの証明
とされていたので、徳川家ほどの大々名ともなると、軽装といっ
ても相当の人数になるのです。慶喜は具体的指示はしていないも
のの、それなりの陣ぶれで上洛することはわかっていたのです。
それが1万5千人という規模になったのです。
 新政府軍側としては──といっても薩長が中心ですが、何とか
して早く「錦の御旗」を立て、徳川家を「朝敵」にして戦況を有
利に進めたかったのです。そうしないと新政府軍は危ないとみて
いたからです。
 問題になるのには慶喜の意思です。慶喜は勅命による上洛とい
いながら、軍勢を持って再び京を支配する──そういうもくろみ
をもっていたということを薩長としては立証したかったのです。
そういうわけで、緒戦において薩長軍は、さまざまな証拠固めを
しようとして奔走していたのです。
 捕虜になったある会津藩の兵士からの聞き取りによると、鳥羽
街道を強行突破して京に入り、そのうえで慶喜は上洛し、いずれ
薩摩を討って元のごとく盛り返す──つまり、事実上の徳川家の
支配を復活するという趣旨の命を受けていたというのです。こう
いう証拠を集めて、三職会議で徳川家を「朝敵」にしようとして
いたのです。そうしないと、武力や資金では旧幕府軍に勝てない
と薩長軍は考えていたのです。
 旧幕府軍の京への進軍を受けて、有栖川総裁が開催を命じた三
職会議は、議定の大名たちの集まりの悪いなか、旧幕府軍の大軍
が京への進軍を行っており、やがて戦闘が始まったという情報が
伝えられると、公卿たちの間では大きな動揺が広がっていたので
す。そういう時刻に松平春嶽は参朝したのです。
 新政府の議事院は清涼殿のある「公卿の間」に置かれていたの
ですが、身分制度は厳然としてあり、詰所は公卿と大名ではきっ
ちりと区分けされていたのです。公卿の間には、「虎の間」「鶴
の間」「桜の間」の3つがあり、それらの部屋には公卿たちしか
入れなかったのです。
 大名たちの詰所は、ずっと奥にある板敷きの部屋で「仮建所」
と呼ばれていたのです。春嶽が仮建所に入ると、尾張の徳川慶勝
土佐の山内容堂、芸州の浅野茂勲たちは既にきていたのです。し
かしそこに薩摩の島津忠義の姿はなかったのです。
 そのとき御所の雰囲気は険悪そのものであったのです。とくに
山内容堂の怒りは尋常なものではなかったので、公卿たちが怯え
ていたのです。容堂は薩摩の陽動作戦によって戦闘がはじまった
とし、そのような大事なことが事前に三職会議に諮られず、実行
に移されたことは我慢がならないとして議定職は辞職し、藩兵を
引き上げ、帰国すると申し入れたのです。芸州藩の浅野茂勲もこ
れに同調して議定辞任を申し入れたので、これによって公卿たち
は騒然となったのです。
 容堂の意見は乱暴だとし非難する討幕派の公卿たちに対して容
堂は、次のようにいったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 公卿などと申す者は、主殺しの光秀にすら将軍宣下ありたり
               ──野口武彦著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 この容堂の発言に対してある血気盛んな公卿のひとりが懐より
短銃を取り出し、銃口を容堂に向けるというとんでもないことが
起こったのです。これには控えの間にいた後藤象二郎が銃口の前
に立ちはだかって容堂を庇い、他の公卿が短銃を奪ってようやく
事なきを得たのです。まるで明治版松の廊下の騒ぎです。
 既に御所にも砲声の響きが聞こえるようになり、鳥羽伏見の方
面の空が赤く染まっているのが見えると、公卿たちの動揺はます
ます激しくなってきたのです。そのとき、薩長が旧幕府軍に勝つ
とはほとんどの者が考えていなかったといいます。
 したがって、公卿の中には「伏見の戦争は薩長会桑の『私戦』
であって、朝廷の関するところにあらず」という、あとあとの責
任逃れの草案を作っていた者もあったほどです。
 しかし、しばらくして「新政府軍戦況有利」という情報が飛び
込むと雰囲気は一変したのです。明らかに会議の「風向き」が変
わった瞬間だったのです。
          ──  [明治維新について考える/09]


≪画像および関連情報≫
 ●清涼殿とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  清涼殿とは、平安京の内裏における殿舎のひとつ。仁寿殿の
  西、後涼殿の東。紫宸殿が儀式を行う殿舎であるのに対し、
  天皇の日常生活の居所として使用された。ただし平安時代初
  期は仁寿殿や常寧殿が使用されたが、中期頃には清涼殿がも
  っぱら天皇の御殿となった。日常の政務の他、四方拝・叙位
  ・除目などの行事も行われた。内裏は鎌倉時代に火災にあっ
  て以後、再建されることはなかったが、清涼殿は臨時の皇后
  である里内裏で清涼殿代として再建され、現在の京都御所─
  これも元は里内裏である──にも1855年に古式に則って
  再建されたものが伝わっている。   ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

清涼殿.jpg
清涼殿
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2011年02月21日

●「大久保利通の決断/深夜の三職会議」(EJ第3000号)

 1998年10月15日からスタートしたメールマガジンEJ
は、本日3000号に達しました。スタート以来丸12年が経過
しましたが、多くの読者に支えられてここまできました。これま
でのご支援に感謝いたします。今後いつまで続けられるかわかり
ませんが、これからも書き続けますのでよろしくお願いします。
 慶応4年(1868年)1月3日の三職会議に出席していた朝
廷の公卿たちは、新政府軍と旧幕府軍の戦闘がはじまってからと
いうものは、不安でいっぱいだったのです。
 そのときの三職会議の様子について作家の加来耕三氏は自著で
次のように書いています。加来氏の作家としての特長は、歴史上
正しく評価されない人物を繰り返し取り上げ、可能な限り調査・
分析することで、新たな資料の発掘や新しい解釈が可能になると
いかに売れている書籍でも品切れ・絶版にし、改めて執筆・刊行
するところにある──そういう気骨ある歴史研究家です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 公家のなかには、評定の席で「もし徳川が京へ到着したならば
 このたびの王政復古は薩長のしわざであり、偽の勅命であった
 ということにしてしまいまひょ」などといい出す輩も出るしま
 つ。このとき、末席につらなっていた十九歳の西園寺公望が、
 「それはなりません。すでに徳川をもって逆賊と決めつけ、追
 討の密勅を下しておきながら、いまにおよんで勝敗に左右され
 ては、公家が天下の笑いものとなり、ひいてはお上(天皇)の
 威信に傷がつきます」と発言した。同席していた岩倉がわが意
 を得たりと、「小僧、でかした」の名言を吐いたのは、このと
 きのことである。「死んだふり」を決め込んでいた岩倉も、こ
 とここに至ってはグスグズしていられなかったのだろう。朝廷
 はしばらくして鎮静する。だが、結果的にみて公家たちを安堵
 させたのは、西園寺の言葉でも岩倉の一喝でもなかった。大久
 保の悠揚せまらぬ態度であったと伝えられる。
                      ──加来耕三著
            『大久保利通と官僚機構』/講談社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 戦争はもちろんスポーツでもビジネスでも、勝てるかどうかわ
からない厳しい状況に追い込まれると、人間はリーダーの顔色を
窺うものです。そしてリーダーが泰然自若としていると安心し、
落ち着きがないと心配が強くなるのです。
 そのとき大久保利通は、参与の一人として三職会議に出席して
いたのですが、タバコを悠々とふかしながら、実に落ち着いたも
のであったのです。公卿たちはそういう大久保の様子を見て勝利
を確信していたのです。
 しかし、大久保の心中はというと、勝てるかどうかはまったく
確信が持てなかったのです。ただ、大久保としては打つべき手は
すべて打っており、後は結果を待つだけであったのです。「人事
を尽くして天命を待つ」の心境であったわけです。
 そこに「新政府軍戦況有利」の報が飛び込んできたのです。大
久保は部下に情報の真偽を確かめ、それが間違いがないことを確
かめると、ここがチャンスとばかり、行動を起こしたのです。薩
摩藩主の島津忠義を参内させたのです。大久保はそのタイミング
を祈るような思いで待っていたのです。
 島津忠義が参内すると、公卿たちはほっとした思いで薩摩藩主
を迎えたのです。そこにはつい先ほどまで薩摩藩に対してあった
刺々しい雰囲気は完全に消え去っていたのです。そこで大久保は
かねて用意していたことを実行に移したのです。このときの模様
を野口武彦氏は次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 勢いに乗った大久保は、間髪を容れず次の手を打つ。三条実美
 ・岩倉具視を突き上げて同日の夜半、仁和寺宮嘉彰親王を征討
 大将軍に任じ、錦旗・節刀を賜う。参与の東久世通禧。烏丸光
 徳に軍事参謀の兼職が命じられる。ただちに諸藩へ慶喜征討を
 布告し、これで慶喜は公的に「朝敵」とされた。山内容堂を副
 将軍、松平春嶽・伊達宗城・浅野茂勲を参謀にと依頼があった
 がいずれも辞退。そうやすやすとは勝ち組に乗れるものではな
 い。大久保は宮中で終夜一睡もせず成行きを見守った。容堂・
 春嶽らも割り切れぬ思いでそれぞれの藩邸に引き取り、悶々と
 寝られぬ一夜を過ごした。──野口武彦著/中公新書2040
       『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した4日間』
―――――――――――――――――――――――――――――
 仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に任じ、錦旗を立てる──この
準備は整ったのですが、問題はそのタイミングです。親王を戦場
に出す以上、新政府軍が押していて戦況が落ち着いていることが
必要なのです。しかし、戦闘第2日目はとてもそういう戦況では
なかったのです。
 戦闘第2日目の1月4日の早朝は、鳥羽街道には深い朝霧が立
ち込めていたのです。もともと京都盆地の南部には複数の河川が
流れ込んできているので気候は湿潤であり、とくに冬場には霧が
発生するのです。とくに宇治の川霧は有名であり、百人一首の次
の和歌が有名です。
―――――――――――――――――――――――――――――
    朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに
         あらはれわたる瀬々の網代木
                権中納言定頼
―――――――――――――――――――――――――――――
 深い霧は何も見えないだけに、攻める方には不利であることに
加えて、その日は強い北風が吹いていたのです。午後になって風
はますます強くなり、京都の方に向けては目も明けていられない
ほどの強い風になったのです。
 前日に押されまくった旧幕府軍──とくに会桑軍の士気は高く
2日目は燃えていたのですが、この日は一日中旧幕府軍は風に苦
しめられたのです。 ──  [明治維新について考える/10]


≪画像および関連情報≫
 ●野口武彦著『鳥羽伏見の戦い』についての書評
  ―――――――――――――――――――――――――――
  戊辰戦争については、明治政府側からにせよ、江戸幕府側に
  せよ、多くの場合、比較的簡単に記述されるに留まり、その
  スタートとなった戊辰戦争についてはさらに簡単に触れられ
  るに過ぎなかったはずである。教科書レベルではほんの1行
  2行、名称だけが出てくる程度のものであっただろう。この
  戦いは明治政府側が圧勝に終わるのだが、その理由も、戦い
  のもたらした結果についても、皇国史観側からも、マルクス
  主義史観からも、「歴史の必然」という、殆ど後付けに近い
  説明に終始することが多かった。
http://dainashibekkan.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-61a1.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

野口武彦著『鳥羽伏見の戦い』img537.jpg
野口武彦著『鳥羽伏見の戦い』
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2011年02月22日

●「薩摩密集隊による四列縦隊連続射撃」(EJ第3001号)

 鳥羽伏見の戦い──戦闘2日目の慶応4年(1868年)1月
4日の戦闘では、旧幕府軍は新政府軍を相当押し返しているので
す。しかし、旧幕府軍が優位に立ったのではなく、3日に押し込
まれたところを大変な兵員の犠牲を払って押し戻したに過ぎない
のですが、勢いがついたことは確かなのです。
 少なくとも、なにがなんだかわからずに戦った前日と違って戦
争の焦点が定まったというか、攻める効率がよくなったというか
旧幕府軍らしい力が少し発揮できるようになってきたのです。歴
史に「イフ」はありませんが、もし、強風さえなければ2日目は
旧幕府が圧勝していたかもしれないのです。
 2日目の戦闘で大活躍したのはやはり会津藩の兵士と新選組な
のです。銃などの近代兵器は十分ではないものの、彼らは勇敢で
あり、戦慣れしているのです。したがって戦闘が長期化すると、
ますます強くなるのです。薩長軍が何よりも恐れていたのは、会
桑軍であり、それが本来の実力を発揮はじめたといえます。
 しかし、旧幕府軍の大きな失敗は、現地総大将に人を欠いたこ
とです。現地総大将とは、陸軍奉行竹中丹後守重固(しげかた)
のことです。この人は伏見奉行を守備していたのですが、守りき
れず、司令官でありながら部下に指示を与えず、命からがら淀ま
で逃げ帰っているのです。
 このときの竹中重固の状況について、野口武彦氏は次のように
述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 徳川家の同僚が竹中丹後守に向ける視線はかなり辛辣である。
 伏見に踏みとどまって前線を指揮すべきところなのに、部下が
 止めるのも開かず安全な淀へ引き揚げてしまったと非難の口ぶ
 りだ。おかげで夕方からの戦闘で疲れ切った兵士は睡眠時問も
 取れない。御本人は大得意で明日になったら反攻に出ると変に
 ゆったり構えている。虚勢を張っているのだ。鳥羽の方では簡
 単に引き揚げられないというと「弱いからだ」とにべもない。
 弱かったのではない。緒戦の痛手からどうにか立ち直って薩軍
 の進出を食い止め、こちらからも何度も波状攻撃を仕掛けて、
 戦線を下鳥羽のラインで維持していたのである。
             ──野口武彦著/中公新書2040
       『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した4日間』
―――――――――――――――――――――――――――――
 この鳥羽伏見の戦いは、薩長の大砲や銃を中心とする近代戦と
旧幕府軍の昔ながらの刀と槍による戦いでもあったのです。鳥羽
伏見の戦いでは旧幕府軍の中核となって戦ったのが会桑軍であっ
たので、そういう戦いの構図になったといえます。
 もちろん旧幕府軍も最新装備の「フランス伝習隊」という部隊
を持っていたのですが、その部隊は江戸に置かれており、当然の
ことながら、鳥羽伏見の戦いには参加していないのです。
 このフランス伝習隊には2大隊があり、1大隊は約800人で
あるので、1600人の規模になります。これらの部隊は、シャ
ノアンを筆頭とするフランス人陸軍教官による訓練を十分受けて
いたといわれます。
 さて、鳥羽伏見の戦いにおいて薩摩軍が使っていたのが「前装
ミニエー銃」という銃であり、すべて銃剣が付けられていたので
す。ちなみに旧幕府軍の使っていた銃も前装ミニエー銃です。こ
こで「前装」というのは弾薬も銃口から装填する銃のことなので
す。当時銃というと、前装ミニエー銃が当たり前だったのです。
 ところで、なぜ銃剣を付けているのでしょうか。
 それは銃撃隊──密集隊が敵によって崩されたとき、銃のまま
では対抗できないので、銃剣を装填し、槍として使えるようにし
ているのです。とくに会桑軍は勇敢であり、少しでも銃の発射が
途絶えると、物凄い勢いで、刀や槍で突っ込んでくるので、よほ
どの備えがないと、切り崩されてしまうのです。
 しかし、銃剣が付いていると、前装銃では弾薬が込められない
のです。そこで銃を発射する人と銃剣を外して弾薬を込める人を
分業化しなければならないことになります。しかも、連続して発
射しなければならない──薩摩藩はこれをどのようにして実現し
たかです。
 薩摩藩は、それを「密集隊による四列縦隊方式」という方法に
よって実現し、鳥羽伏見の戦いで実践に移したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      第一列/初弾を発射して膝射ちの姿勢
      第二列/初弾を発射して膝射ちの姿勢
      第三列/発射して第四列と入れ替わる
      第四列/空銃に弾を込め第三列と交代
―――――――――――――――――――――――――――――
 第一列と第二列は初弾を発射したあと、そのまま膝射ちの姿勢
で銃剣による槍ぶすまを作るのです。第三列は発射すると、弾を
装填している第四列と入れ替わるのです。そして、第四列は弾込
めをすると、射ち終った第三列と入れ替わって発射します。
 この構えでは、密集隊の前から飛び込もうとしても、前二列の
膝射兵の銃剣が邪魔になって切り込めないのです。まさに槍ふす
まです。これなら弾込めの時間を短縮すれば、ほぼ連続発射でき
るのです。
 もっと接近戦になった場合には、第二列を発射専門とし、第三
列は第二列から左手で空銃を受け取り、右手で弾が装填されてい
る銃を第二列に渡して連続発射させます。第四列は空銃に弾を込
めて第三列に渡すのが専門です。
 この薩摩藩の密集隊は鳥羽伏見の戦いで一定の成果を上げたの
ですが、それでも会桑軍の刀槍隊に崩されるケースもあり、その
勇猛果敢な攻撃に流石の薩長軍も戦闘2日目には相当な犠牲を積
み重ねたのです。しかし、旧幕府軍の現場の司令官には問題があ
り、十分勝てる戦闘2日目の成果を無駄にしてしまうのです。
          ──  [明治維新について考える/11]


≪画像および関連情報≫
 ●「前装ミニエー銃」について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  広義には「ミニエー弾」と呼ばれるフランス陸軍のクロード
  ・エティエンミニエー大尉によって発明・開発された特殊椎
  実型弾を使用する先込め前装式旋条小銃(鉄砲)の総称で、本
  来は銃器のブランド名ではない。前装式とは弾薬(弾丸と火
  薬)を銃口先端部分から詰め込む方式で先込め式ともいう。
  銃の弾丸は銃身内部の内径とほぼ同じ口径のものを使用して
  いるため、先端から弾薬を詰め込む前装式銃の場合、詰め込
  み時に弾丸が内部に引っ掛かってしまうため、扱いに熟練し
  ていないと装填作業には相当の時間を要した。
   http://www.geocities.jp/satopyon0413/kaisetsu10b.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

前装ミニエー銃.jpg
前装ミニエー銃
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2011年02月23日

●「戦略性のない旧幕府軍の布陣」(EJ第3002号)

 慶応4年(1868年)正月にはじまった鳥羽伏見の戦いの第
1日目(1月3日)と第2日目(1月4日)──旧幕府軍に対し
数や装備においては圧倒的に劣る新政府軍が優勢のまま第3日目
に突入しようとしています。鳥羽伏見の戦いは歴史の教科書では
わずか数行で片づけられ、注目されていませんが、この戦いはま
さに時代を変える重要な4日間の戦いであったといえます。
 新政府軍といってもその中心勢力は薩摩・長州両藩であり、他
藩は朝廷の顔色を見ながらの消極的な参加であったのです。当時
の幕府は大政奉還したとはいえ、莫大な資金と精強な軍隊を有し
ており、まともに戦えば薩長などものの数でもなかったのです。
 それならなぜ旧幕府軍は最初から劣勢だったのでしょうか。そ
れは、両軍の指導者のリーダーシップの差に尽きると思います。
徳川慶喜の曖昧な指令に基づく大軍による上洛とそれを受けての
戦争現場の司令官たちのいい加減な指揮ぶり──ていねいに史料
を読んでみるとそれがよくわかります。
 一方の薩長が仕切る新政府軍には「世の中を一新する」という
戦争の大義があり、その意思は全軍に統一されていたのです。し
かし朝廷も一枚岩ではなく、旧幕府支持でありながら、新政府軍
側についていた諸大名たちもどこかのタイミングで勝ち馬に乗ろ
うとチャンスを窺っていたのです。
 新政府軍の薩長両軍の立場から見ると、本当に勝てるかどうか
わからない背水の戦闘であったのです。資金、戦力、装備などに
ついては旧幕府軍と比較できないほど、差があったのです。何し
ろ徳川家は日本の3分の1に当る800万石の資金を有していた
からです。
 ところが、信じられないいくつもの偶然が重なり、新政府軍が
旧幕府軍を押し気味に2日目を終えたのです。実は2日目を終え
た時点で、この戦争の勝負はついていたのです。
 戦闘の1日目と2日目の戦況において、旧幕府軍にとってチャ
ンスがいくつもあったのです。『鳥羽伏見の戦い』(中公新書)
の著者である野口武彦氏はそれらを「逸機」として、次の3つ指
摘しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.白井五郎太夫率いる大砲隊による薩摩藩伏見藩邸の砲撃
 2.鳥羽街道富ノ森付近の戦闘での会津・大垣槍刀隊の勝利
 3.竹中重固作戦による宇治迂回作戦の実施令と突然の撤回
―――――――――――――――――――――――――――――
 戦闘第1日目のこと。会津藩の白井五郎太夫は、大砲隊を率い
て京都まであと一歩のところに来ていたのです。総勢130名を
超える部隊です。
 京橋より竹田街道を進むと、番所ができており、ストップをか
けられたのです。「勅命によってここから先は入れない」という
のです。しかし、そこを担当していたのは土佐藩であり、土佐藩
はこの戦いを「会桑と薩長の私戦」と位置付けており、中立の立
場をとるよう上層部から指示が出ていたといわれます。
 土佐兵はこういったのです。「ここを通すわけにはいかないが
別の道がある。そこを通るなら、そこは土佐藩の担当ではないの
で黙認する」と。そして、親切にもその別の道をていねいに教え
てくれたのです。
 白井隊は土佐兵に教わった道を半信半疑で進んだのです。しか
し、そこは狭いあぜ道なので、重い大砲を引くのが困難であり、
大砲一門を全員で引いてその道を進んだのです。そのようにして
土佐藩の番所の背後を迂回すると、再び竹田街道に出たのです。
 そうすると、目の前に薩摩藩伏見藩邸がある──チャンスとば
かり、表門に大砲を撃ち込んで破壊し、邸内に突入したのです。
白井隊は会津兵であり、戦闘には自信を持っているのです。とこ
ろが邸内にいたのは薩摩藩士数名だけだったのです。これを討ち
取って、藩邸に火を放ち、さらに先を目指そうとしたのです。
 ところが、白井隊には後続部隊が来る可能性はないのです。陸
軍奉行の竹中丹後守重固による旧幕府軍の布陣は総花的であり、
戦略性はほとんどなかったからです。したがって、後続部隊は考
えられなかったのです。そのため、白井隊としてはそのまま進ん
でも孤立すると考えて引き返しています。
 そのとき、薩摩藩は鳥羽方面の兵員配置に手いっぱいで、竹田
街道には一兵も配置していなかったのです。もし、白井隊がその
まま竹田街道を進んでいたら、薩長軍は完全にウラをかかれたこ
とになり、大混乱に陥っていたと思われます。
 また、惜しむらくは隊長の白井五郎太夫が、土佐兵が別の道を
教えてくれた時点で本営に伝令を出し、竹田街道が通れるという
情報を伝えていたら、第1日目の結果は大きく変わっていたと思
われます。
 「鳥羽街道富ノ森付近の戦闘」と「宇治迂回作戦」については
司令官竹中重固の指揮の戦略性のなさでチャンスを潰しているの
です。そもそも旧幕府軍は本営の設置においても、大きなミスを
犯しているのです。
 旧幕府軍が最初に陣営を構えたのは伏見奉行所なのです。ここ
を本営としたわけではないのでしょうが、1月3日に竹中重固は
そこに入っているのです。対する新政府軍は御香宮に本営を構え
ているのです。添付ファイルの地図でみると、よくわかりますが
御香宮は伏見奉行所を見降ろす位置にあり、奉行所の様子が一目
瞭然なのです。
 しかも新政府軍は、御香宮の境内に5門の大砲を据えて、眼下
の伏見奉行所を射程に収めているのです。さらに桃山台にも2門
を置き、桃山台南端の西運寺に2門の合計9門で東と北に火線を
敷いていたのです。こんな状態で戦闘をはじめれば、負けるに決
まっています。
 実際に第1日目にして、指揮官の竹中重固は伏見奉行所を逃げ
出し、伏見を後にして淀まで兵を引いているのです。こんな大将
なら負けは必至です。──  [明治維新について考える/12]


≪画像および関連情報≫
 ●「御香宮」の由来 
  ―――――――――――――――――――――――――――
  創建の由緒は不詳であるが、貞観4年(862年)に社殿を
  修造した記録がある。伝承によると、この年、境内より良い
  香りの水が湧き出し、その水を飲むと病が治ったので、時の
  清和天皇から「御香宮」の名を賜ったというが、実際には筑
  香推宮をこの地に勧請したという説のほうが有力である。こ
  の湧き出た水は、「御香水」として名水百選に選定されてい
  る。明治元年(1868年)に起こった鳥羽伏見の戦いでは
  伏見町内における官軍(薩摩藩)の本営となったが、本殿等
  は無事であった。          ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●地図の出典/野口武彦著/中公新書2040
  鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した4日間』より

幕末の伏見地図.jpg
幕末の伏見地図
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2011年02月24日

●「愚かな軍司令官/竹中丹後守重固」(EJ第3003号)

 野口武彦氏の指摘する旧幕府軍の「逸機」の話を続けます。戦
闘2日目は、伏見方面での戦闘はほとんどなく、鳥羽方面で激戦
が展開されたのです。
 戦闘の前線は新政府軍優勢のうちにさらに南に下がり、下鳥羽
からさらに2キロ南に下がった旧幕府軍の「富ノ森」陣地をめぐ
る攻防に移っています。京都伏見といえば酒造業が盛んな所であ
り、酒樽がたくさんあるのです。その酒樽に土砂を詰め、畳や戸
板などを積み重ねて頑丈な塹壕を築いたので、「酒樽陣地」と呼
ばれていたのです。
 新政府軍の薩摩軍は、戦闘1日目に旧幕府軍の主力が伏見奉行
所から意外にあっさりと淀方面にまで退却したので、罠ではない
かと追撃には慎重になったそうです。しかし、旧幕府軍としては
罠などではなく、臆病な軍司令官竹中重固が淀城まで命からがら
逃げ戻っただけなのです。明らかに戦いの常識に合わない大幅な
退却であったのです。そのため薩摩軍は富ノ森陣地をやすやすと
占領できたのです。
 しかし、下鳥羽からさらに南に下ったところにある富ノ森陣地
周辺には、精鋭をもって鳴る会津・大垣の槍刀隊が潜んでいたの
です。鳥羽街道の富ノ森付近では、桂川の堤防道であり、大きな
横大路沼もあってびしょびしょの湿地帯なのです。そこに薩摩の
軍隊が通りかかったとき、周辺の湿地帯の茂みに隠れていた会津
・大垣の槍刀隊が一斉に薩摩軍に襲いかかったのです。
 薩摩軍は、槍と刀という古色蒼然たる戦法に翻弄され、押しま
くられて遂に退却をはじめたのです。これにより、会津・大垣の
槍刀隊は昨日奪われた富ノ森陣地を取り戻しています。
 これに乗じて会津・大垣隊は薩摩軍を追撃し、下鳥羽まで追い
つめています。こういう戦勝は大きいのです。たとえ局所での勝
利であっても、それをきっかけにして戦況全体がひっくり返るこ
とがよくあるからです。
 大目付の滝川具挙が、この日の富ノ森陣地の攻防の顛末を大阪
城に書き送った報告書があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 会藩大奮発にて一手打ち出し、必死の大苦戦。ついに手話に相
 成り候ところ、土手下処々に兵を配り置き、場合を見計らい、
 槍を入れ大いに闘い、突き立て突き伏せ、暫時のとき間(に)
 三十人打ち取り、首引っ下げ突っ立ち、大声に鬨を揚げ、追討
 大勝利に相成り候。鳥羽街道の賊兵は大概追い詰め、この大勝
 に乗り候て、なお追撃も出来申すべきところ、日も夕景に及び
 侯につき、強いて追討は致さず候。正月四日。
            (「伏水口戦記」『復古記』第九冊)
             ──野口武彦著/中公新書2040
       『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した4日間』
―――――――――――――――――――――――――――――
 これを見ると、「もう少し追撃しようと思ったが、日も暮れか
かっていたので、やめることにした」と書いてあります。この決
定は大目付の滝川具挙がしたものではなく、司令官の竹中重固が
下したものです。大目付には作戦遂行の権限はないのです。どう
やらこの司令官は退却はうまいのに追撃はきらいのようです。以
上が「鳥羽街道富ノ森付近の戦闘での会津・大垣槍刀隊の勝利」
の逸機です。
 戦闘2日目のこと、旧幕府軍の本営が設けられていた淀城にお
いて、竹中重固を中心に作戦会議が開かれていたのです。そのと
き竹中から提案されたのは、宇治川を回って新政府軍の桃山の陣
営を衝くという作戦なのです。
 竹中重固は、またしてもこれを会津の白井五郎太夫に命令して
いるのです。そのとき新政府軍の主力は鳥羽にいて、伏見の方に
はほとんど兵を回していなかったのであり、成功率の高い作戦と
いえます。しかし、これによって、旧幕府軍がいかに会津軍頼り
であったかがわかります。
 そのとき、会議に参加していた会津藩の軍事奉行である田中八
郎兵衛は、「白井隊への援兵はどうするのか」と聞いたのです。
これに対して重固の答えは「考えていない」というものだったの
です。何度もいうように、この司令官の作戦には戦略というもの
が欠落しています。
 軍事の名言が満載されている『ナポレオン言行録』には次の一
節があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 戦闘の翌日に備えて新鮮な部隊を取っておく将軍はほとんど常
 に敗れる。                ──ナポレオン
           ボナバルト・ナポレオン著/大塚幸男訳
        『ナポレオン言行録』/岩波文庫/435−1
―――――――――――――――――――――――――――――
 竹中重固という司令官は、兵を戦線に分散して配置させるだけ
で、勝機のある場所に一挙に兵を注ぎ込んで確実に勝つという戦
略性がないのです。これは、小沢氏のいない民主党の選挙戦略の
ようなものであり、そこには戦略性がまったく欠如しているので
何回やっても勝てないのです。
 ちなみに白井隊は命令なので宇治方向に出発しようとしていた
のですが、そこに鳥羽方面から大勢の兵が退却してきたのです。
竹中重固は慌てふためき、白井隊に宇治迂回作戦を撤回し、鳥羽
への救援に回るよう指示を変更しています。このように目先のこ
とで簡単に方針を変更する姿勢は、現在の菅政権の執行部と同じ
です。以上が「竹中重固作戦による宇治迂回作戦の実施令と突然
の撤回」の逸機です。
 幕府の存亡を賭けた鳥羽伏見の戦いは、幕府側に最悪の指揮官
が戦況をますます悪化させていきます。当然このような指揮官を
任命した徳川慶喜の任命責任は重大です。それにしても、会津軍
大垣軍、桑名軍は実によく働き、幕府軍を助けているのです。
          ──  [明治維新について考える/13]


≪画像および関連情報≫
 ●「淀城」とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  淀城は、淀藩主稲葉家(家光の乳母春日の局の実家)の居城
  で、石垣が残っている。淀君のために作られた初代淀城跡は
  存在しない。淀藩は譜代で藩主・稲葉正邦は老中であった。
  鳥羽伏見の戦いのとき、稲葉は江戸におり、家老田辺権太夫
  が城を預かっていた。鳥羽伏見で敗走した旧幕軍(会津藩兵
  や新選組が含まれている)は、当然淀城に入ろうとしたが、
  家老は門を閉ざし、彼らを城内に入れなかった。藤堂藩と並
  んで淀藩の「背信」が敗北を決定づけたといわれる所以であ
  る。それでも、戦後、幕軍数人が城内に入った責任を負い、
  家老と弟・治之助は切腹して新政府軍に詫びている。もし最
  終的に旧幕軍が勝っていれば、当然、藩主の許可を得ず、独
  断で城門を閉じたとして、家老は切腹していたことだろう。
 http://bakumatu.727.net/shiseki/shiseki-kyoto-fusimi.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●写真出典/「全国の城(京都6)」
      http://www.eonet.ne.jp/~yorisan/newpage64.htm

京都伏見/淀城址.jpg
京都伏見/淀城址
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2011年02月25日

●「落ち目の徳川慶喜と似ている菅政権」(EJ第3004号)

 鳥羽伏見の戦いにおける竹中丹波守重固は最悪の指揮官だった
のですが、指揮官は生殺与奪の権限を有している存在であり、兵
士は指揮官の命に忠実に従うのです。そのため、優秀な指揮官の
もとでは兵は勇猛果敢になり、質の劣る指揮官が率いる兵は戦闘
意欲が著しく劣るのです。
 したがって、戦場ではまず指揮官を狙撃して倒すことが重要な
戦略であることは今も昔も変わらないのです。とくに当時の戦争
では、指揮官は立派な陣笠をかぶって馬上で指揮杖を振っていた
ので、狙撃手としては狙い易かったといえます。
 ところで、鳥羽伏見の戦いの当時、狙撃隊は存在したのでしょ
うか。野口武彦氏によると、狙撃隊は存在していたといっていま
す。薩摩藩の小銃隊には「狙撃人数」「斥候狙撃」といわれる兵
種があったし、長州藩には奇兵隊に「致人隊」という名前の狙撃
隊が存在したことがわかっています。
 致人隊の人数は15人と決められており、足軽のなかでもっと
も銃技に優れたものを採用したので、その採用基準は厳しく、次
の条件に合致した者のみが選抜されたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 青銅銭を糸で釣り下げて回転させ、表を向いた時に数十間から
 撃って弾を当てた者のみを採用する。
               ──長州藩諸隊「奇兵隊」より
  http://freett.com/sukechika/ishin/sonnoh/set05-2b.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 この致人隊によって、窪田備前守歩兵一大隊長と佐久間近江守
歩兵二大隊長は狙撃されているのです。ターゲットは将校クラス
であり、順位は次のようになっていたといいます。
―――――――――――――――――――――――――――――
     狙撃第一順位 ・・・・・・   指揮官
     狙撃第二順位 ・・・・・・ 砲兵指図役
     狙撃第三順位 ・・・・・・  ラッパ手
―――――――――――――――――――――――――――――
 場所は変わって大阪城の徳川慶喜です。1月3日(戦闘第1日
目)の夜半に「旧幕府軍形勢不利」の報に仰天したといいます。
彼は戦争をはじめたこと自体を知らなかったようなのです。そこ
で、慶喜は重臣を集め、次のように言い渡したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 戦争になっては朝廷に申し訳ない。速やかに兵を引き上げよ。
 京都においてはけっして干戈(かんか)を交えてはならない。
                       ──徳川慶喜
―――――――――――――――――――――――――――――
 この慶喜の命に対して、重臣の一人が次のように異議を唱えた
のです。おおよそ次のような内容です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 滝川具挙が「討薩の表」を携えて京都に入る以上、戦争になる
 のは必定である。確かに戦いは少し早くはじまったが、それは
 時間の問題である。自分は滝川具挙が「討薩の表」を持って京
 都に行くことは上様のご意思と思っていたが、違うのか。
―――――――――――――――――――――――――――――
 つまり、慶喜はここにいたって責任を回避しているように思え
るのです。この人は形勢が不利になると、すぐに責任を回避し、
逃げようとするのです。アジアのどこかの国の宰相と同じです。
慶喜が何よりも恐れていたことは、新政府軍が「錦の御旗」を立
てて攻めてくることです。
 戦闘3日目に慶喜の最も恐れていることがはじまったのです。
1月5日の早朝のことです。新政府軍(薩摩軍)の本営である東
寺で錦の御旗が翻ったのです。征夷大将軍である仁和寺宮嘉彰親
王は戦場の視察に出発したのです。その軍列には、錦の御旗二本
が翻っていたのです。
 将軍宮を中心とする一隊は、鳥羽街道を南下して横大路まで進
み、民家でしばし休息し、あたりを歩行して戦場を視察したので
す。斥候を立てて安全を確認した後、旧幕府軍本営のある淀近く
まで進み、兵士たちに慰労の言葉をかけたのです。そして、伏見
の焼跡を巡見し、夕方になって東寺に帰還したのです。
 その効果は絶大であったのです。
 戦場の新政府軍の士気が向上したことはもちろんですが、これ
によって旧幕府軍の総大将である徳川慶喜がいちばん衝撃を受け
たからです。「徳川慶喜公伝」には次のようにあります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 やがて錦旗の出たるを聞くに及びては、ますます驚かせ給い、
 「あわれ朝廷に対して刃向かうべき意思は露ばかりも持たざり
 しに、誤りて賊名を負うに至りしこそ悲しけれ、最初たとい家
 臣の刃に斃るるとも、命の限り会桑を諭して帰国せしめば、事
 ここに至るまじきを、吾が命令を用いざるが腹立たしさに、い
 かようとも勝手にせよといい放ちしこそ一期の不覚なれ」と、
 悔恨の念に堪えず、いたく憂鬱し給う。
              (『徳川慶喜公伝』第三十一章)
             ──野口武彦著/中公新書2040
       『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した4日間』
―――――――――――――――――――――――――――――
 慶喜のこの発言に会津藩は怒り狂ったのです。すべてを会桑両
藩に責任を押し付け、挙句の果てに会桑藩に「勝手にせよ」とい
った自身の言葉を今になって悔むとは見苦しいというわけです。
しかも、鳥羽伏見の戦場で一番勇敢に戦ったのは会桑両藩なので
す。それなのに味方を非難するとは何事かというわけです。
 これは自ら立てたマニュフェストを簡単に取り下げ、執拗に仲
間であり、党の最大の功労者である小沢一郎氏を切り捨てようと
する菅政権と同じです。そういう意味で菅首相は幕末の徳川慶喜
とよく似ているのです。まさに「裸の王様」そのものです。
          ──  [明治維新について考える/14]


≪画像および関連情報≫
 ●錦の御旗について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  鳥羽伏見の戦いにおいて、薩摩藩の本営でへあった東寺に錦
  旗が掲げられた。この錦旗は、慶応3年10月6日に薩摩藩
  大久保利通と長州藩の品川弥二郎が愛宕郡岩倉村にある中御
  門経之の別邸で岩倉具視と会見した際に調製を委嘱された物
  であった。岩倉の腹心玉松操のデザインを元に大久保が京都
  市中で大和錦と紅白の緞子を調達し、半分を京都薩摩藩邸で
  密造させた。もう半分は、数日後に品川が材料を長州に持ち
  帰って錦旗に仕立てた。その後戊辰戦争の各地の戦いで薩長
  両軍を中心に使用され、官軍の証である錦旗の存在は士気を
  大いに鼓舞すると共に賊軍の立場になった江戸幕府側に非常
  に大きな打撃を与えた。       ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

「錦の御旗」.jpg
「錦の御旗」
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2011年02月28日

●「鳥羽街道の戦いで旧幕府軍の敗退」(EJ第3005号)

 野口武彦著の『鳥羽伏見の戦い』を読んでいると、興味深い事
実が明らかになってきます。EJでは、開国に当って軍隊の近代
化を図るため、幕府は後装式シャスポー銃を持つ「フランス伝習
隊」を作り、フランス人教官による訓練を相当受けていたが、そ
の伝習隊は、鳥羽伏見の戦いには参加していないという前提(E
J第3001号参照)で述べてきています。これが歴史の定説に
なっているといわれるからです。
 「後装式」というのは、銃身の後部から弾丸を装填する方式の
銃であり、1分間に6発以上発射できる、当時としては最先端の
銃なのです。しかし、野口武彦氏によると、歴史の定説は誤って
おり、伝習隊の一部はシャスポー銃を装備して鳥羽伏見の戦いに
参加している主張しているのです。なぜ、そのことに拘るのかと
いうことについて、野口氏は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が負けたのは、銃砲の性能が悪かっ
 たからだという俗説を訂正しておきたいからである。
             ──野口武彦著/中公新書2040
       『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した4日間』
―――――――――――――――――――――――――――――
 さて、戦闘第3日目の慶応4年(1868年)1月5日──新
政府軍は、次の3つに分かれて進撃を開始したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
        1.鳥羽街道
        2.山崎街道──桂川左岸
        3.伏見街道
―――――――――――――――――――――――――――――
 目指すのは淀にある旧幕府軍の本営です。なお、淀には淀城と
いう城があり、そこが旧幕府軍の本営という説があるのですが、
どうやらそれは違うようです。
 淀城は、当時は稲葉美濃守正邦10万2000石の居城であっ
たのです。鳥羽伏見の戦いの当時、城主の稲葉美濃守は老中職に
あるため、江戸に滞在していたのです。現在の京都府京都市伏見
区淀本町にあった城であり、現在は本丸の石垣と堀の一部が残っ
ているだけです。
 ちなみに、安土桃山時代に豊臣秀吉が、側室茶々の産所として
築かせたというあの淀城は、これとは違い、現在の位置より北へ
約500メートルの位置にあったのです。
 戦闘3日目のターゲットは旧幕府軍の淀の本営であり、淀城に
対しては、4日からさまざまな圧力がかけられていたのです。一
つは、正邦の義兄に当る尾張藩の徳川慶勝──三職会議の議定で
すが、淀城に使いを出して「中立を守れ」といってきたのです。
 もう一つは、議定の三条実美からの出頭命令です。早速淀藩目
付の石崎郁蔵がこれに応じて出向こうとすると、その途中で薩摩
藩の島津式部に呼び止められ、「旧幕府軍が退却してきても絶対
に城に入れてはならぬ」と強要されたのです。
 このとき大目付の滝川播磨守具挙が淀城の外の明新館という学
校にいて指揮を執っていたのです。したがって、ここが旧幕府軍
の本営であった可能性があります。
 鳥羽街道、山崎街道、伏見街道の位置関係は、次のURLをク
リックし、「鳥羽伏見の戦い/簡略地図」を見ていただくとわか
ります。これは「総督府資料館雑記帳」というプロクのオーナー
が作成したものです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 「総督府資料館雑記帳」
http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/boshinwar/tobafusimi/tobafushimimap.htm
―――――――――――――――――――――――――――――
 これを見ると、鳥羽街道と伏見街道を南下すると、いずれも淀
城に達することがわかると思います。なお、簡略地図は淀城(旧
幕府軍本営)とありますが、前述したように、本営は淀城そのも
のではなく、城外の明新館であると思われます。
 新政府軍による鳥羽街道の戦闘は、早朝から始ったのです。戦
闘初日の3日に新政府軍がやすやすと手に入れたものの、戦闘2
日目の4日に、旧幕府軍の会津・大垣隊の奮闘によって奪い返さ
れた富ノ森陣地の攻防が展開されたのです。しかし、旧幕府軍は
会津藩の主力であってそう簡単には落ちなかったのです。
 富ノ森陣地では、旧幕府軍と薩長軍によるすさまじい銃撃戦が
行われたのです。しかし、旧幕府軍は数において圧倒的であり、
苦戦を強いられたのです。
 新政府軍は、大砲隊が街道上に陣地を構えて6門による攻撃を
加えたのですが、旧幕府軍の砲火も衰えを見せないのです。しか
も、史料によると、富ノ森村の外れには旧幕府軍の歩兵が集結し
て「躍進出撃」の気配を見せるに及んで、新政府軍側側には緊張
感が走ったとあります。
 ここで「躍進」というのは軍事用語で、敵に向かって前進する
歩兵はひとつの地点に停止して射撃を行い、機を見てさらに前進
して再び停止し、射撃を行うが、そういう動作を「躍進」という
のだそうです。歩兵の数が多い場合、躍進出撃されると連続して
弾が飛んできて危険なのです。もし、この歩兵がシャスポー銃で
装備した伝習兵であったなら、機関銃のように弾が飛んでくるこ
とになります。
 結局勝敗を決したのは、新政府軍の砲撃なのです。20ドイム
臼砲による発射が行われたのです。普通の弾丸はまっすぐ飛ぶの
で頭を低くしていれば頭上を通り過ぎていきますが、臼砲弾は山
なりに落下するので歩兵は四散せざるを得ないのです。
 さらに新政府軍は大砲を敵前36メートルまで前進させ、至近
距離から富ノ森陣地に大砲を撃ち込んだのです。この大砲の威力
はすさまじく、富ノ森陣地はもちろんのこと、その後方にある納
所陣地も吹き飛ばされ、ずるずると淀城までの撤退を余儀なくさ
れたのです。    ──  [明治維新について考える/15]


≪画像および関連情報≫
 ●「シャスポー銃」とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  軍用ライフルの歴史において大きな進歩を残した先発のドラ
  イゼ銃を参考に、第二帝政を象徴する先進的な技術を用いて
  製造され、前装式のミニエー銃を旧式化させて取って替わっ
  たが、紙製薬莢を使用する技術的な限界のために金属薬莢の
  登場で旧式化し、金属薬莢を使用するグラース銃へ改造され
  た。幕末の日本においても、シャスポー銃がナポレオン3世
  から徳川幕府に贈呈され、当時最新鋭の銃器とされた経緯や
  金属薬莢式へ改造されたシャスポー/グラース銃を国産化す
  る計画が進められた結果、日本初の国産小銃となった13年
  式村田銃が誕生した事などから、倒幕派の主力だったエンフ
  ィールド銃・スナイドル銃と並んで、日本とも縁の深い銃で
  ある。               ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

シャスポー銃.jpg
シャスポー銃
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2011年03月01日

●「伏見街道の戦いで旧幕府軍が敗退」(EJ第3006号)

 伏見街道の戦いはどうだったのでしょうか。戦場の特徴を述べ
ておきましょう。
 伏見から淀までは、宇治川沿いの狭い道が長く続いています。
この道は「淀堤」と呼ばれる堤防道なのです。宇治川の左岸には
「巨椋池(おぐらいけ)」という巨大な池が当時あったのです。
この池は、現在「池」と称する最大の湖沼である湖山池よりも広
かったのです。そして右岸には横大路沼をはじめとする大小の沼
がたくさんあるのです。その堤防道を南下すると、「千両松」と
いうところがあります。これについては、昨日の簡略地図を参照
していただきたいと思います。
 新政府軍は、長州兵二中隊を先頭にして、薩摩藩小銃隊が続い
たのです。旧幕府軍は態勢を立て直して淀から進軍し、路上に
大砲を構えて迎撃の体制をとったのです。両軍が激突したのは、
千両松の周辺だったのです。
 これらの沼や池には茂みがいくつもあり、そこに会津兵の槍隊
が潜んでいて近くに来ると突然現れ、一斉に槍を振るって突撃し
てくるのです。何しろ道が堤防道で狭いので、突然攻められると
逃げるところがない──そのため、新政府軍は多くの犠牲者が出
すことになったのです。
 長州兵には大砲が配備されていなかったので、鳥取藩の大砲隊
が支援したのです。しかし、旧幕府軍の砲火もすさまじく、砲車
が被弾して役に立たなくなると、今度はそれに代って薩摩12番
隊が砲撃するという激戦が長時間展開されたのです。
 それに堤防道は狭いので続々と兵士が長い列を作り、次々と繰
り出してきたのです。途中で敵が現れても、後ろがつかえている
ので、逃げることができず、前進するしかないのです。その現場
にいた人物は次のように語っています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 それが淀川堤を往ったのがその時で、その時分はもう因州の兵
 も来ていれば、だいぶ人数が殖えておった。ところがあそこは
 一方が河で、一方が沼やら薮やらで道は一本筋というので長州
 兵も因州兵もドン々鉄砲玉は来る、逃げようというても逃げら
 れぬ、それで仕方がないドシドシ進んだ。石川厚狭介などの殺
 されたのは追い駈ける拍子に薮の小さいのが土手に沢山あって
 その中から槍を突き出されて突き殺された。会津もあの時は非
 常に働いたものでたった一人残してあとはみんな死んでしまっ
 た。沼へ飛び込んで咽を突いたり何かしているのがあった。
       (林友幸「伏見鳥羽方面」『維新戦役実歴談』)
             ──野口武彦著/中公新書2040
       『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した4日間』
―――――――――――――――――――――――――――――
 1月5日午後2時頃になって新政府軍は宇治川にかかっている
淀小橋に達しつつあったのです。この橋を渡ると淀の市街地であ
り、旧幕府軍の本営は目の前です。
 旧政府軍の本営では、滝川播磨守具挙が何とか新政府軍を淀小
橋で食い止め、淀城に入って態勢を立て直すしかないと判断して
いたのです。そこで、滝川播磨守は淀城の大阪口に出向き、城内
に入ろうとしたところ、拒否されてしまったのです。強引に入ろ
うとすると、そこを守っていた兵士が一斉に槍を構えて槍ぶすま
をつくり抵抗したのです。
 そこで滝川播磨守は、大声で次のように叫んで、馬に乗って南
の方に走り去ったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   淀藩我らを裏切ったり。彼らは官軍ぞ。これ敵なり
―――――――――――――――――――――――――――――
 どうやらそれは合図であったようです。旧幕府軍の兵士が淀市
内を駆け巡り、一斉に城下に火を放ったのです。ちょうど西風の
強い日であったので、あっという間に火焔が広がり、城下はこと
ごとく焼け落ちてしまったのです。
 簡略地図を見るとわかるように、宇治川は南下すると木津川に
分かれるのですが、宇治川には淀小橋が、木津川には淀大橋がか
かっています。そこで、滝川播磨守はその両方の橋を焼いて進路
を阻み、さらに南の橋本陣地において陣容を立て直す計画を立て
たのです。
 しかし、いったん崩れた軍はもはや立ち直すことはできなかっ
たのです。新政府軍は淀小橋が焼かれたので、船を使って宇治川
を渡り、大軍で淀城に押し寄せたのです。しかし、淀城側はあっ
さりと開城し、新政府軍側に次のように懇願したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 これより先、淀藩より吾が藩に掛け合い候趣は「淀藩において
 は賊徒に与し候所存さらにこれなく、よって会桑らより城に入
 れ候様再三承り候えども、一人も相入れず候あいだ、城の儀は
 焼き払い相成らざる様相願い候」。 (『平田九十郎日記』)
             ──野口武彦著/中公新書2040
       『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した4日間』
―――――――――――――――――――――――――――――
 その卑屈なぐらいの恭順さに新政府軍は企みはないと判断し、
城には一個小隊を残して引き上げ、他は焼け残った民家に宿泊し
たといいます。そして旧幕府軍は、大混乱のうちに撤退したので
す。これにて、旧幕府軍は鳥羽、伏見ともに敗退したのです。
 鳥羽伏見の戦いにおいて、第3日目は錦の御旗によって旧政府
軍は圧勝したといわれるのですが、戦っている旧幕府軍の兵士は
そんな旗はみていないのです。しかし、新政府軍兵士のモラール
が向上したことは確かであり、その差は極めて大きいものがあっ
たと思います。
 さらにもうひとつ、錦の御旗を立てたことで幕府は朝敵になり
今まで幕府を支えてきた議定や参与がそれ以上幕府に肩入れでき
なくなったことです。淀城の開城も幕府が朝敵になったことで実
現したのです。   ──  [明治維新について考える/16]


≪画像および関連情報≫
 ●淀城について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1723年以降は、春日局の子孫である稲葉氏十万二千石の
  居城となった。稲葉家は西国に睨みを利かせる畿内随一の藩
  として幕府内で要職を占めた。しかしその所領は山城のほか
  に摂津・河内・近江・下総・越後などに分散していて、山城
  にあった所領は2万石にも満たなかったと言われている。こ
  のため、藩政においても財政基盤の脆弱さから財政は苦しか
  った。幕末の12代藩主正邦は老中であり佐幕派とされる。
  そして佐幕急進派の藩主は、第一次・第二次長州征伐への淀
  藩士派兵を決定するが、穏健派の藩首脳部の反対によって断
  念するという事態になった。
          http://www.3kids-cg.com/text/yodo.html
 ●復元「復元・淀城」/チーム・デジタル大工
             http://www.3kids-cg.com/yodo.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

巨椋池/大池.jpg
巨椋池/大池
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2011年03月02日

●「藤堂家による裏切りで旧幕府軍は完敗」(EJ第3007号)

 戦闘第4日目の慶応4年(1868年)1月6日、鳥羽伏見の
戦いの最後の戦いがはじまったのです。最初に簡略地図に基づい
て、まず川について述べておきます。
 宇治川は淀で桂川を合流させて淀川になります。さらに淀川は
その下流で鈴鹿山脈の水源地から北上してきた木津川と合流し、
大河となって京都盆地から大阪平野へ奔流となって流れていくの
です。まず、川の流れを簡略地図で確認してください。
 京都には山崎地区と呼ばれる地域があります。京都と大阪を結
ぶJR線に乗ったことがある人なら、車窓からサントリーの山崎
工場の特徴のある看板を見た人は多いでしょう。新幹線の車窓か
らも見えるかもしれません。あの一帯が山崎地区であり、豊臣秀
吉が明智光秀を討った古戦場なのです。
 山崎地区は、北を西山山系の天王山、東南を生駒山脈系の北端
の男山に挟まれた地峡です。旧幕府軍は、その山頂に石清水八幡
宮が鎮座する男山の東西に分かれて布陣したのです。
 西側の橋本は遊郭のある宿場で、そこには土方歳三率いる新選
組の主力などを擁する幕府軍の本隊が陣を張ったのです。東に男
山、西に淀川を控えた橋本では、地の利は迎え撃つ旧幕府軍の方
にあったといえます。
 1月6日の早朝、新政府軍──第二奇兵隊、第一奇兵隊が中心
──旧幕府軍が木津川にかかる淀大橋を焼き落としているので、
渡河作戦を仕掛けたのです。しかし、旧幕府軍は昨日の敗戦で相
当戦意が低下していたのです。
 新政府軍が川を渡り出すのを何をするでもなく、傍観していた
からです。一般的に渡河作戦は川の中央に来るまでに何か手を打
つのが戦術の常識であるのに何もしなかったのです。明らかに指
揮官不在です。
 新政府軍は渡河を終えると、散兵して攻撃に出たところ、旧幕
府軍は一斉に退却をはじめたのです。そのため八幡方面は簡単に
制圧できたのです。しかし、橋本陣地(簡略地図参照)では、旧
幕府軍の主力が守っており、新政府軍は攻めあぐんだのです。そ
れもそのはずで、ここを落とされると、後は大阪まで引くしか方
法がなく、ここが最後の関門であったからです。
 ところが思ってもみないことが起こり、それから旧幕府軍は総
崩れになってしまうのです。一体何が起こったのでしょうか。
 実は淀川の対岸の山崎関門には津藩藤堂家32万石が守備して
いたのです。藤堂家は外様大名ではあるものの、徳川家の恩顧が
深い大名の一人でもあったのです。そのため、旧幕府軍としては
藤堂軍を最も重要な場所に配備していたのです。簡略地図を見る
とわかるように、山崎関門が堅固であると、橋本陣地は容易には
崩せなかったと思われます。
 ところが、その藤堂家が裏切ったのです。6日の昼頃にいきな
り、その藤堂陣地から次々と砲弾が飛んできたのです。何しろ至
近距離からの砲撃であり、旧幕府軍は愕然としたのです。直ちに
男山からは桑名軍、生駒隊も小浜隊も砲撃で応戦する──これは
敵が迫るなか、同志討ちをやっているのです。これでは勝てるは
ずがないのです。現在の菅政権と同じです。
 ところで藤堂家といえば、藩祖である藤堂高虎の名前が有名で
すが、この高虎は「裏切りの名人」といわれているのです。戦国
時代を生き抜いた人であり、次の言葉が有名です。
―――――――――――――――――――――――――――――
    七度、主君を変えねば侍とはいえぬ/藤堂高虎
―――――――――――――――――――――――――――――
 それはさておき、藤堂家としては、最初から裏切るつもりはな
かったのです。しかし、同家はあくまでこの戦いは「薩長と会桑
の私闘」と位置付け、率先してはことに当らない──つまり、中
間派であったのです。
 しかし、津藩内ではしだいに「徳川家の危機であり、支援する
必要がある」という雰囲気になっていたのです。そこで、3日の
夜に藤堂軍の重役2人が淀の本営で、若年寄塚原但馬守に会い、
相談しているのです。
 そのとき、できた約束は、「旧幕府軍が山崎に向けて進軍され
るのであれば協力する」ということであったのです。3日の段階
ではまさか旧幕府軍が新政府軍に淀本営を突破されるとは藤堂軍
も考えていなかったと思われます。
 しかし、ここまでみてきたように、状況は一変しています。そ
れに新政府軍も藤堂家に対して手を打っていたのです。4日の夜
遅く長州藩から使者が来て、藤堂軍の意思を確かめています。そ
こでかねてからの藤堂家の考え方である「薩長と会桑の私闘」と
いうスタンスを伝えると、「勅命であればどうか」と聞かれたの
で、「勅命であればやむを得ず」と答えているのです。つまり、
この時点で藤堂家のハラは決まっていたのです。勝ち馬に乗ると
いうことです。
 5日に旧幕府軍は淀本営を明け渡し、八幡に後退したのですが
藤堂軍は動かなかったのです。そこで、塚原但馬守が船で山崎関
門に行き、兵を駐屯させて欲しいと申し出たのですが、冷たく断
られてしまったのです。その塚原と入れ替わりに京都から勅使が
やってきたのです。そして勅命が通達されています。その文面は
次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 官兵差し向けられ候あいだ、山崎関門の義、枢要の地に候条、
 官軍救応・守関の大任、勤労仰せ付けられ候こと
             ──野口武彦著/中公新書2040
       『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した4日間』
―――――――――――――――――――――――――――――
 勝負ありということです。もっと早く藤堂家を取り込んでおけ
ば、こういうことにはならなかったはずです。どのように考えて
も大きな戦略ミスであったと思います。
          ──  [明治維新について考える/17]


≪画像および関連情報≫
 ●津藩(藤堂家)について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  戦国時代の津は安濃津と呼ばれ、長野工藤氏の支配下にあっ
  た。永禄11年(1568年)、織田信長の伊勢侵攻で長野
  工藤氏は信長に降伏し、信長の弟・信包を養子に迎えて当主
  とした。信長没後、信包は豊臣秀吉に仕え、文禄3年に2万
  石を削減されて近江に移封された。代わって、富田知信が5
  万石で入る。知信は慶長4年(1599年)に死去し、後を
  子の信高が継いだ。信高は徳川家康に接近し、家康主導によ
  る会津往伐に参加し、石田三成ら西軍が挙兵すると本国に戻
  り、西軍の伊勢侵攻軍である毛利秀元や長束正家と戦い、敗
  れて高野山に逃れた。関ヶ原の戦い後、家康は信高を2万石
  加増の7万石で安濃津城主として復帰させた。慶長13年8
  月24日、信高は伊予宇和島藩に移封された。
                    ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

サントリー/山崎工場.jpg
サントリー/山崎工場 
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2011年03月03日

●「敵前逃亡を図る徳川慶喜」(EJ第3008号)

 藤堂軍の裏切りで新政府軍は奮い立ったのです。そして進撃を
開始したのです。こうなると、崩れるのは早いものです。旧幕府
軍は退却し、難攻不落といわれた橋本陣地はあっという間に落ち
てしまったのです。こうなると、誰も止められないのです。
 慶応4年(1868年)1月6日、午後4時頃に旧幕府軍の司
令官3人が橋本陣地から退却したのです。そして、枚方まで落ち
て、そこで会議を開いています。次の3人の司令官です。
―――――――――――――――――――――――――――――
          1.総督大河内正質
          2.竹中丹波守重固
          3.滝川播磨守具挙
―――――――――――――――――――――――――――――
 会議の目的はここで踏みとどまるべきかどうかの判断です。そ
れを判断するために、竹中重固と滝川具挙は、会津藩の内藤介右
衛門と一緒に山の上に上ったのです。そのとき眼下に見えたのは
おびただしい数の旧幕府軍の敗走兵が守口方面に続々と引き上げ
ている光景です。それは旧幕府軍の敗北を改めて印象付けるもの
だったのです。日は既に暮れていたのです。
 失望落胆して山を降りた竹中重固と滝川具挙は、枚方を後にし
て引き上げる決断をします。そして守口に着いたとき、若年寄の
永井尚志が慶喜の書簡を持って待っていたのです。書簡には次の
ようにあったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  考えていることがある。諸隊すべて大阪に引き揚げよ。
―――――――――――――――――――――――――――――
 「考えていることがある」というのは慶喜の得意の言葉です。
二条城から大阪に引き揚げてくるときも「余に深謀あり」といっ
ています。必ずしも深い考えなどないのに、思わせぶりな発言を
するのです。
 しかし、今回は慶喜として考えていることは本当にあったので
す。しかし、それは今後の徳川家全体の問題というよりも、自分
が助かる策を練っていたのです。こういうところに、このときの
徳川慶喜と現在の内閣総理大臣菅直人氏とを重ね合わせて見てし
まうのです。2人は驚くほどよく似ています。
 その日、若年寄陸軍奉行の浅野美作守氏祐は慶喜の命により、
1月2日に幕府軍艦順動に乗って、6日に大阪に着いたばかりだ
ったのです。航海中に浅野美作守は鳥羽伏見の戦いのことを知ら
され、しかも敗北という情報に仰天したのです。江戸では鳥羽伏
見の戦いの情報は入っていなかったようなのです。
 早速大阪城で慶喜に拝謁を許されると、慶喜は浅野に次のこと
告げたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 委細の事ほ伊賀(板倉)に聞きつらん、時態日々に切迫して、
 過激論者暴威を極め、制御の道もあらばこそ、ついに先供の間
 違いより伏見の開戦となり、錦旗に発砲せりとそしられて、今
 は朝敵の汚名さえ蒙りたれば、余が素志は全く齟齬して、また
 如何ともする能わず。さればとてこの上なお滞城するときは、
 ますます過激輩の余勢を激成して、いかなる大事を牽き出さん
 も計られず、余なくば彼等の激論も鎮まりなん、ゆえに余は速
 やかに東帰して、素志の恭順を貫き、謹みて朝命を待ち奉らん
 と欲するなり、秘めよ、秘めよ。 『徳川慶喜公伝史料編』三
             ──野口武彦著/中公新書2040
       『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した4日間』
―――――――――――――――――――――――――――――
 要するに、慶喜はこういったのです。手違いによって朝敵の汚
名を受けて困惑している。このまま余が大阪城に残っていると、
過激論者を増やして収拾がつかなくなる。自分さえいなければ自
然に収まると思うので、余は江戸に戻り、朝命を受けようと思っ
ている。しかし、このことは絶対に誰にも言ってはならぬぞ。心
して秘めよ、と。
 思いもかけぬことを慶喜にいわれ、困惑して御前を引き下がる
と、浅野美作守は老中の板倉伊賀守に呼び止められ、一通の書類
を渡されたのです。その書状には次の記述があったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   酒井雅楽頭      供  浅野美作守  随意
   板倉伊賀守      供  平山図書頭   供
   松平(大河内)豊前守 残  竹中丹後守   残
   永井主水正      供  塚原但馬守   残
             ──野口武彦著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 この書状の意味することは何でしょうか。「供」は慶喜に供を
して江戸城に戻る人、「残」は大阪城に残る人をあらわしている
のです。そうすると、松平豊前守、竹中丹後守、塚原但馬守の3
人は、鳥羽伏見の戦いに参加しており、そのため「残」となって
いるのです。
 もうひとつはっきりしていることは、慶喜は自分の供をして江
戸に行くメンバーにしか、江戸行きのことはいっていないという
ことです。つまり、慶喜のハラはこういうことです。今回の戦争
を引き起こし、あまつさえ大敗させた人間は、大阪城に残って善
処すべしというわけです。要するに、切腹して責任を取れといっ
ているのです。
 しかし、「残」のマークのついた人間は誰ひとりとして切腹な
どしなかったのです。永井尚志だけは「供」とあるのに大阪城に
残ることを決め、総督の松平豊前守の帰城を待って、伏見の行き
違いなどの真相を確かめ、場合によっては城を枕に切腹するとし
て、慶喜の供を断っているのです。ちなみに「随意」──どちら
でもよいとされた浅野美作守は慶喜の供をして江戸城に行くこと
にしたのです。
          ──  [明治維新について考える/18]


≪画像および関連情報≫
 ●徳川慶喜の敵前逃亡について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  鳥羽伏見の戦いの最中に大坂から江戸へ退去したことは「敵
  前逃亡」と敵味方から大きく非難された。この時、家康以来
  の金扇の馬印は置き忘れたが、お気に入りの愛妾は忘れずに
  同伴していた、と慶喜の惰弱さを揶揄する者もあった。しか
  しこの時、江戸や武蔵での武装一揆に抗する必要があったこ
  とや、慶喜が朝敵となったことによって諸大名の離反が相次
  いでおり、たとえ大坂城を守れても長期戦は必至で、諸外国
  の介入を招きかねなかったことから、やむを得なかったとい
  う意見もある。           ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

大阪城での徳川慶喜.jpg
大阪城での徳川慶喜
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2011年03月04日

●「慶喜が東帰行に同道を命じた9人」(EJ第3009号)

 徳川慶喜がひそかに自分と一緒に江戸への同行を命じ、実際に
連れて行った幕臣は次の9名です。
―――――――――――――――――――――――――――――
   老中・  酒井忠惇     目付・  榎本道章
   老中・  板倉勝静     医師・  戸塚文海
   外国奉行・平山敬忠     会津藩主・松平容保
   大目付・ 戸川忠愛     桑名藩主・松平定敬
   若年寄・ 浅野氏祐
―――――――――――――――――――――――――――――
 この中で慶喜の側近中の側近といわれるのは、老中の酒井忠惇
と板倉勝静の2人です。実は慶喜はこの2人に対しても、江戸に
行くことは告げていますが、江戸で朝廷に恭順するということは
告げていないのです。そのため酒井と板倉は、殿が江戸に戻って
新政府軍に対し、再起を賭ける戦いをすると思っていたのです。
 もうひとつの重要なポイントは、慶喜にとって最大の味方であ
り、頼れる後ろ盾である会津藩と桑名藩の藩主を同道させている
ことです。しかし、この2人に対しても江戸に行くことを最後の
ぎりぎりまで知らせていないのです。
 もし、知らせると、会津藩士から猛烈に反対されるのを恐れた
のです。とくに会津藩の武勇をもって鳴る佐川官兵衛あたりにで
も知られるとうるさいことになる──そういうわけで慶喜は慎重
を期したのです。
 それでもぎりぎりになって、慶喜は桑名藩主松平定敬を通して
松平容保に計画を伝えたのです。顔色を変えた容保は、慶喜に対
し、思いとどまるよう説得したのですが、慶喜は聞く耳を持たず
最後には「主命として東下への陪従を命ずる」と強く命令されて
しまったのです。
 このことを人を介して知らされた会津藩士の浅羽忠之助は、次
のように主君容保に説いたのですが、聞き入れてもらえなかった
といいます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 このたびの鳥羽伏見の戦闘で、わが会津藩の兵士は本当に勇敢
 に戦い、非常に多くの者が死傷しているのです。そういう兵士
 たちを残して、主命とはいえ殿一人が江戸に行かれるのは絶対
 にあってはならないことです。何の顔(かんばせ)あって、将
 士に向き合うおつもりか。
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、容保は「主命である」というだけで、聞き入れなかっ
たのです。このことは会津藩士と一体になって戦った桑名藩士に
とっても同様の思いであったのです。
 本気で鳥羽伏見の戦いを戦った会桑藩士からみると、大阪城は
天下の名城であり、この城を捨てて江戸に退くなどまさに狂気の
沙汰であったのです。
 大阪城は堀は深く、石垣は高く、堅固な大砲陣地を有しており
しかも兵糧は山ほどある──攻める方からすると、難攻不落の城
なのです。しかも、大阪湾には旧幕府軍の軍艦5隻が集結してお
り、既に薩長の軍艦はすべて駆逐しているのです。海戦において
は何も負けていないのです。
 したがって、もしこの城にこもって持久戦に持ち込めば、数ヶ
月は十分耐えられるのです。こうして持ちこたえていると、各藩
は動揺し、天下の情勢はどうなるかわからなかったのです。
 実際に新政府軍も鳥羽伏見の戦いでは勝利したものの、多くの
兵士を失っており、大阪城に籠城されたら簡単には落ちないとい
うことはわかっていたので、大阪までは攻め上らず、兵を休めて
じっくりと作戦を練っていたのです。まさか、慶喜が大阪城を捨
てて逃げるとはまるで考えていなかったのです。
 しかし、それにしても慶喜をはじめとする重役9人はどのよう
にして大阪城を脱出したのでしょうか。何しろ大物10人の脱出
であり、誰にも気づかれずにそれを行うことは極めて困難です。
このことについて書いある史料はないので、想像するしかないの
ですが、おそらく小船で堀を経由して城から脱出できる通路が存
在したのではないでしょうか。
 テレビ映画の『暴れん坊将軍』では、吉宗が井戸から小船で脱
出するシーンを何回も見ていますが、城には万一の場合の脱出に
備えてそういう仕掛けを用意しているものです。なぜなら、実際
に彼らは見事に脱出しており、完全に家臣は出し抜かれてしまっ
ているからです。今後の作戦について慶喜の意向を伺いに参上し
た滝川具挙が誰もいないことに気がつくまで誰一人として慶喜ら
10人の脱出に気がついていないからです。
 組織のリーダーがブレた言動をすると、組織に緊張感がなくな
り、威令が行き届かなくなるものです。それを端的に示したのは
鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍を大敗北に導いた戦犯の3人の責任回
避です。戦犯の3人とは次の人物です。
―――――――――――――――――――――――――――――
         陸軍総督  大河内正質
         陸軍副総督  塚原昌義
         陸軍奉行   竹中重固
―――――――――――――――――――――――――――――
 慶喜としては、これら3人に対し江戸行きの共に加えないこと
によって「責任を取って切腹せよ」としたつもりだったのですが
3人には一向に通じなかったのです。
 通じなかったというより、わかっていて無視したというのが本
当のところでしょう。彼らは切腹どころがさっさと江戸に引き揚
げているからです。
 このあたり選挙に大敗しながら、誰も責任をとらずそれらの戦
犯が依然として要職を占めている民主党とそっくりです。心ある
民主党支持者はこの一事をもって民主党への信頼感を喪失させて
いるはずです。しかし、それが当の本人にはまるでわかっていな
いのです。     ──  [明治維新について考える/19]


≪画像および関連情報≫
 ●大阪城についての情報
  ―――――――――――――――――――――――――――
  江戸時代に入って元和6年(1620)、徳川幕府は大坂城
  の再建にのり出した。10年の歳月と幕府の威信をかけて再
  建された大坂城は、全域にわたる大規模な盛土と石垣の積み
  上げ、堀の掘り下げが行われ、天守閣も15m高くなるなど
  豊臣秀吉が建築したものとは全く異なったものとなった。し
  かし、この天守閣も寛文5年(1665)の落雷で焼失した
  まま再建されず、その他建物も、大手門や多聞櫓などの一部
  を残して明治維新(1868)の際の動乱で焼失してしまっ
  た。   http://www.burari2161.fc2.com/oosakajyou.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

大阪城.jpg
大阪城
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2011年03月07日

●「慶喜主従に占拠された開陽丸」(EJ第3010号)

 徳川慶喜が鳥羽伏見の戦いで敗れ、重臣とともに大阪城から逃
げ出したということは歴史的な事実として有名な話です。ところ
が、その詳細について知る人は少ないと思います。
 しかし、その詳細を知っておくことは、270年間も続いた徳
川幕府がそのとき既にボロボロになっていた事実がよくわかると
思うので、野口武彦氏の著書を中心にご紹介します。
 慶応4年(1868年)1月6日の午後9時頃に慶喜の一行は
八軒家船着場になんとかたどりついたのです。八軒家船着場は、
現在の大阪市中央区の旧淀川(大川)左岸にある船着場のことで
す。慶喜は徳川家の軍艦開陽丸に乗るつもりでこの船着場にやっ
てきたのです。
 その日は大阪湾には、開陽、富士山、蟠竜、順動、翔鶴の5隻
の軍艦が西宮海岸近くに停泊中だったのですが、真っ暗闇なので
どこに船がいるかわからないのです。それにイギリス、アメリカ
フランスの軍艦も大阪湾に入り、天保山沖に集結して錨を下ろし
ていたのです。彼らは重大な関心を持って日本の内戦──鳥羽伏
見の戦いの戦況がどうなるかを見守っていたのです。なぜなら、
どちらが勝利するかによって、イギリス、アメリカ、フランスの
利害が大きく異なってくるからです。
 慶喜たちを乗せて八軒家船着場から漕ぎ出した苫船は、まっす
ぐ天保山沖に向かったのです。そして、アメリカの砲艦イロクォ
イ号に漕ぎ寄せ、彼らはイロクォイ号に乗り込んだのです。
 慶喜が共に命じた9人のなかに外国奉行の平山敬忠がいます。
慶喜はあらかじめ平山に命じ、米国公使のファルケンブルグから
イロクォイ号の艦長への紹介状を入手させていたのです。何とい
う周到な準備でしょうか。こういう点について慶喜はまさに天才
的なのです。自分がどのようにして江戸に帰るか、そのすべてを
計算していたのです。
 1月6日の夜、開陽丸は敵軍の侵入に備えて臨戦態勢にあった
のです。1月7日の午前4時頃、米艦のイロクォイ号のボートが
開陽丸に近づき、次のことを告げたのです。このとき米艦の使い
と応対したのは、副艦長の沢太郎衛門です。艦長の榎本武揚は船
を離れ、大阪城に出かけて留守だったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 今当艦に高貴の方が乗船しておられるので、速やかにこちらに
 お移ししたい。ただちに当艦におこし願いたい。
―――――――――――――――――――――――――――――
 何はともあれ沢副艦長は、水兵12名を連れてイロクォイ号に
行き、艦長室に入って仰天したのです。慶喜公をはじめ、会桑の
両藩主などのえらいさんがズラリといるではないか。
 とりあえず、沢は慶喜主従を開陽丸に移したのです。何しろ狭
い軍艦に10人もの、しかもえらいさんが乗り込んできたから大
変です。艦長室をはじめ士官部屋はすべて占拠され、乗組士官は
すべて蒸気室に追いやられたのです。乗組士官にとって迷惑なこ
とこのうえなしです。
 それだけではないのです。船に乗り込んだのは慶喜ら10人だ
けでなく、後から大阪の川口から売り船でやってきて、開陽丸に
乗り込んだ者がいたのです。側用人室賀伊予守とその他奥向きの
人々(人数は不明)だったのです。その中には慶喜の側室お芳が
いたとされています。それも堂々と乗り込んできたのではなく、
側用人室賀伊予守の付き人のようにして、こっそりと乗り込んだ
ものと思われます。慶喜はここまで段取りを考えて行動している
のですが、側室まで乗船させるとは・・・。慶喜には戦争をして
いるという感覚がまるでないのです。
 しかし、徳川慶喜は旧幕府軍の総司令官らしい一面も少し見せ
ています。せっかく軍艦に乗ったので、「戦争操練」を見せてく
れと沢副艦長にいっています。詳しくはわかりませんが、「戦争
操練」というのは、軍艦が海戦をするに当って準備を整える乗務
員の行動のすべてです。
 沢副艦長は命を受けて戦争操練を約20分間やって見せたので
す。慶喜公と会桑両藩主、老中の面々はそれに見入ったといいま
す。そして、老中の板倉を通じて慶喜の言葉が乗組士官に次のよ
うに伝えられたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 大砲の操練は力強く揃い、敏速であった。満足である。終了
 してよし                 ──徳川慶喜
            ──野口武彦著/中公新書2040
      『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した4日間』
―――――――――――――――――――――――――――――
 慶応4年(1868年)1月8日、午前8時過ぎのことです。
慶喜から厄介な要求が板倉を通じて出されたのです。それは「少
しでも早く江戸に戻りたいので船を出航させよ」というものだっ
たのです。慶喜からみれば当然の要求ですが、沢副艦長としては
とても受け入れられない命令なのです。
 沢としては板倉に対し、恐れ多いことであるが、慶喜公の要求
は次の理由によって受け入れられないと申し出たのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.本艦は幕府艦艇の旗艦で、全艦の指揮を執る立場にある
 2.現在艦長の榎本武揚が艦を離れており、指揮官がいない
 3.旗艦が突然いなくなると、艦隊は混乱し収拾がつかない
―――――――――――――――――――――――――――――
 これに対し、板倉は幕府軍艦・富士山丸の艦長望月大象を開陽
丸に呼び、富士山丸に旗艦を命じ、沢副艦長に対しては開陽丸が
江戸への航海中は艦長代理を命ずると申し渡したのです。何しろ
最高指揮官の慶喜がいるので何でもできるのです。沢は大阪湾を
周回して時間を稼ぎ、艦長の榎本武揚の戻るのを待ったのですが
成功せず、やむなく船首を苫ヶ島海門(大阪湾出口)に向け、開
陽丸を江戸に向けて出航させたのです。
          ──  [明治維新について考える/20]


≪画像および関連情報≫
 ●幕府軍艦「開陽丸」についての情報
  ―――――――――――――――――――――――――――
  開陽丸は、幕末期に江戸幕府が所有していたオランダ製軍艦
  である。開陽丸は江戸大老井伊直弼の意思を継いだ安藤信正
  (信睦)によってオランダより導入された江戸幕府の軍艦で
  ある。オランダで造艦され1867年(慶応3年)3月25
  日に横浜へ帰港した。最新鋭の主力艦として外国勢力に対す
  る抑止力となることが期待されたが、徳川軍艦としてわずか
  1年数ヶ月、1868年(明治元年)11月15日、蝦夷・
  江差沖において暴風雨に遭い、座礁・沈没した。
                    ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●「開陽丸」の写真出典/ウィキペディア

1868年当時の開陽丸.jpg
1868年当時の開陽丸
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2011年03月08日

●「江戸城に入らず浜御殿に籠る慶喜」(EJ第3011号)

 慶応4年(1868年)1月8日の夜、慶喜一行を乗せた開陽
丸が大阪湾を後にして紀州沖に出たとき、慶喜は自分の部屋とし
て占拠した艦長室に板倉を呼んで本心を明かしたのです。『昔夢
会筆記』には次のように出ています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 「江戸に帰著の上は、あくまで恭順謹慎して朝裁を待つの決心
 なれば、汝らもその心得にてあるべし」と語り聞かせたるに、
 伊賀守は「仰せさることながら、関東役人の見込みのほどをも
 承らざれば、いまだにわかにお請けもなりがたし」とあげつら
 いしかど、予は断然として一向恭順を主張したりき。
                 ──『昔夢会筆記』第十四
             ──野口武彦著/中公新書2040
       『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した4日間』
―――――――――――――――――――――――――――――
 「自分は江戸に戻ったら抗戦などはしないで恭順する」──こ
の言葉にさすがの板倉は強硬に反対したのです。しかし、慶喜は
まるで駄々っ子のようになっていうことを聞かないのです。その
うえ側室まで船に連れ込んでいることが発覚し、板倉は困惑して
しまったのです。
 開陽丸は途中に暴風に遭い、遠州灘を漂流し、1月10日の早
朝に八丈島の近くまで達したのです。ここで相模灘へと舵を切り
午後6時40分に浦賀港に投錨したのです。
 浦賀到着に安堵した慶喜は、さすがに悪かったと思ったのだろ
うか、沢副艦長と乗組員に200両を与えてその労をねぎらった
といわれます。
 しかし、慶喜は浦賀では船を降りず、横浜にいるフランス公使
ロッシュに向けて使者を立てたのです。密書を届けるためです。
おそらく善後策を相談するためであろうと思われます。そして、
開陽丸は11日の早朝に浦賀港を出港し、午前8時に品川沖に達
したのです。
 ところが、慶喜が動かないので、ここまで供をしてきた家来た
ちは不審に思ったそうです。普通荒波に揺られて航海すると、一
日も早く陸地に降りたくなるものですが、慶喜は動かず、何かを
待っていたようなのです。
 結局慶喜の意思として、慶喜は12日に上陸し、浜御殿に入る
ということになったのです。なぜか、慶喜は江戸城に直接入ろう
とはしないのです。江戸城に入ることを非常に警戒していたよう
であったのです。
 実は徳川慶喜は、将軍になってからは一度も江戸城に入ってい
ないのです。旗本たちも気心がしれないし、身の安全に関しても
不安を覚えていたといわれます。
 ところで、浜御殿とは何でしょうか。浜御殿は、現在の東京都
港区にある浜離宮のことです。ここは、将軍家鷹狩りの場所だっ
たのですが、その後松平綱重の別邸となり、甲府浜屋敷または海
手屋敷といわれたのです。六代将軍徳川家宣がこれを改め「浜御
殿」と称し、景観を整え茶園・火薬所・織殿が営まれ、幕末には
石造洋館「延遼館」の建設が行われたのです。維新後宮内省所管
となり、園地を復旧し皇室宴遊の地に当てられ、名も「浜離宮」
と改められたのです。
 12日の早朝に慶喜は御庭海岸に上陸したのですが、供廻りが
揃うまで、しばらく松の御茶屋で休息していたのです。この近く
には海軍局があったのです。そのとき慶喜は、朝食を採っていな
いと聞いたので、軍艦奉行木村兵庫喜毅がビスケットを差し上げ
たという記録が残っています。
 やがて慶喜が江戸に戻ったという情報を聞いて、何人かの家臣
が駆け付けたのです。その中に勝海舟がいたのです。慶喜が来る
のを心待ちにしていたのは勝海舟だったといわれるのです。
 勝海舟は、そのときのことを「海舟座談」で次のように書いて
いるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 皆は海軍局の所へ集まって、火を焚いていた。慶喜公は、洋服
 で、刀を肩からコウかけておられた。己(おれ)はお辞儀も何
 もしない。頭から、皆にそう言うた。「アナ夕方、何という事
 だ。これだから、私が言わない事じゃあない。もうこうなって
 から、どうなさるつもりだ」とひどく言った。「上様の前だか
 ら」と、人が注意したが、聞かぬ風をして、十分言った。刀を
 コウ、ワキに抱えて大層罵った。己を切ってでもしまうかと思
 ったら、誰も誰も、青菜のようで、少しも勇気はない。かくま
 で弱っているかと、己は涙のこぼれるほど歎息したよ。
         ──『海舟座談』/野口武彦著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 それまで慶喜は勝海舟を見限り、相当冷遇してきたのですが、
困ったときの海舟頼みで慶喜は海舟に会いたかったのです。海舟
は口は悪いが、徳川家への忠誠心は高かったからです。それに海
舟は、外国との交渉を含めて折衝力が強く、この徳川家の難事に
対応できる最適の人材であったことは確かです。
 浜御殿に入った慶喜に対して、浜御殿側の対応は相当冷たかっ
たようです。その日の夜、布団はないというので、慶喜は2枚の
毛布にくるまって眠ったそうです。その当時その毛布は「フラン
ケン」と呼ばれていたそうです。これは「フランネル」のことで
あるといわれています。
 翌日大奥に「布団を出すよう」と掛け合ったところ、次のよう
な冷たい返事が返ってきたのです。信じられない話ですが、慶喜
に対する江戸城大奥の雰囲気は相当よくなかったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  御倹約を仰せられましたので御用命の夜具はございませぬ
               ──野口武彦著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
          ──  [明治維新について考える/21]


≪画像および関連情報≫
 ●「浜御殿」についての情報
  ―――――――――――――――――――――――――――
  天璋院様の関係では、「天璋院篤姫」の小説中にも、家茂様
  ・和宮様と共に、この浜御殿を訪れた時の事が描かれていま
  すよね。江戸風(武家風)・京風(公家風)で嫁姑の争いも
  天璋院様が病気の和宮様を見舞った辺りから雪解けになり、
  あの七夕の夜に和宮様側からも打ち解けられてその秋には、
  浜御殿へ三人お揃いで清遊に来られたのでした。この時の様
  子は後の時代(明治)になってから、勝海舟がこの日の事を
  伝えており、天璋院様ご一家としてもつかの間の幸せを味わ
  えた時期だったのかも知れません。
        http://tensyouin.fc2web.com/hamagoten.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

浜御殿台場跡.jpg
浜御殿台場跡
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2011年03月09日

●「天璋院と静寛院にすがる慶喜」(EJ第3012号)

 そのとき江戸城にいた者たちは、鳥羽伏見の戦いのことをどの
程度知っていたのでしょうか。
 江戸城に鳥羽伏見の戦いの開戦の報がもたらされたのは6日の
夜のことです。そのとき江戸城はほとんど平静であり、近く終戦
の通知がもたらされるものと考えていたのです。しかし、皮肉な
ことに、その6日の夜には既に決着はついていたのです。
 ところが、慶喜が11日に品川沖に着いたという報は、同日の
夜には早馬で江戸城に伝えられ、江戸城は騒然となったのです。
その時点では、慶喜は凱旋帰省ではなく、大勢の旧幕府軍を大阪
城に置き去りにしたまま、逃げ戻ってきたということが江戸城中
に伝わっていたのです。
 実は慶喜がいきなり江戸城に入らず、浜御殿に籠ったのは、事
前に大奥の天璋院篤姫と対面して事情を報告し、朝廷に取りなし
の労をとってもらうよう懇願することだったのです。大奥には将
軍家茂の正室である静寛院和宮がおり、そのつてを利用すること
を考えていたのです。
 しかし、再々の使いを出したにもかかわらず、天璋院はなかな
か慶喜に会おうとはしなかったのです。作家の宮尾登美子氏はそ
のときの状況を次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 戦いに負け、多くの将兵を残して一人だけ軍艦で逃走とは、と
 篤姫は聞いて憤激に耐えず、居間で女中たちと話しあっていた
 ところ、深更になって、滝山から慶喜の密使という者に引見賜
 わりますように、というすすめがあった。男は慶喜の身辺を護
 衛する者で、御簾の外から声をひそめ、「上さま明朝ご帰城遊
 ばすご予定なれど、それ以前にひそかに天璋院さまにご対面の
 儀お願い申上げたく、お許し賜わればただいまよりこちらにお
 運び参らすべく」と述べるのを終りまで聞かず、篤姫は、「な
 らぬ。対面など思いもよらぬ」とぴしゃりととどめ、「その方
 早々に立ち帰り、この儀申し伝えよ」といいすてるなり立ち上
 り、使者には背を向けた。 ─宮尾登美子著『天璋院篤姫』下
                       講談社文庫刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 慶喜の使者は天璋院が断ったにもかかわらず、その日のうちに
3回やってきたのです。2回まではねつけていた滝山は慶喜の側
近に泣きつかれ、天璋院に対し、「何やら容易ならぬ事態に立ち
到っている様子であり、ぜひ御対面の儀を」と嘆願されるに及ん
で、天璋院は会うことにしたのです。
 天璋院の前にあらわれた徳川慶喜は、羽織袴に威儀を正し、手
をついて敗戦の責任を詫びたのち、天璋院に対し、次のように述
べたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 慶喜の説明は、このたびは薩藩の奸計に乗せられ、幕軍のほう
 から戦端をひらいたために朝廷からは「慶喜の反状明白、始終
 朝廷を欺き大逆無道」と決めつけられ、七日には逆賊追討令が
 出されたというものであったが、事の起りはすべて薩藩にある
 という表現と、また幕府が朝敵の汚名を着せられたという二点
 は、どれほど篤姫を驚かせたことだったろうか。慶喜はさすが
 に日頃の不遜な態度はみじんもなく、言葉も改めて、「就きま
 しては天璋院さまのお力をもって、京都へ朝敵の称をご赦免お
 ん願いありたく、同様の儀、静寛院宮さまにもたのみ上げ願い
 奉ります」と深く頭を下げた。
             ──宮尾登美子著『天璋院篤姫』下
                       講談社文庫刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 慶喜が急ぎ江戸に戻りたかったのは、朝廷とつながりのある静
寛院和宮の力にすがって朝廷に詫びを入れ、ご赦免を願うことに
あったのです。つまり、鳥羽伏見の戦いで徳川家が朝敵となった
時点で慶喜の考えたことは、自らの生き残りのために今何をすべ
きかしか頭になかったのです。
 しかし、慶喜は静寛院和宮に対して不義理をしており、静寛院
は慶喜に不信感を持っていたのです。それは、新将軍になったと
きに、和宮は攘夷を中心とするいくつかの要望を文書にして送り
たびたび催促をしているのですが、慶喜はそれに対して一回も回
答をしていないのです。
 しかし、徳川家を預かる天璋院としては、そのままにしておけ
ず、和宮のもとに唐橋を使いに出し、慶喜との対面を願い出たの
です。しかし、和宮はそれを拒否しています。天璋院は繰り返し
和宮を説得し、自分も同席するので、慶喜と会って欲しいと嘆願
し、ようやく慶喜と静寛院和宮との対面が実現したのです。その
さい慶喜は次の3つのことを依頼しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
       1.現職を退いて隠居する決意
       2.徳川家の後継者を決める件
       3.戦乱を起こしたことの謝罪
―――――――――――――――――――――――――――――
 和宮はそのとき即答を避け、後から天璋院に対し、3について
だけ、直ちに朝廷に伝奏いたしますと返答しているのです。これ
については、1月17日に再度和宮は慶喜と天璋院の3人の席で
次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 かくなる事態ともなれば、上さまの進退と継嗣の件につきまし
 てはもはや天下公のことと存ぜられます故、私の関わるべきこ
 とにあらず、いまはただひたすら恐懼し、お詫び申し上げるの
 が先決と考えられます。   ──宮尾登美子著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 この話し合いの結果、早急に朝廷へ嘆願の使者を立てることに
なり、土御門藤子が慶喜の嘆願書を持って上京することになった
のです。      ──  [明治維新について考える/22]


≪画像および関連情報≫
 ●静寛院和宮について/「今歴史から元気をもらおう」より
  ―――――――――――――――――――――――――――
  昭徳院とおくり名された家茂の遺骸が芝増上寺に葬られたの
  は9月23日である。髪をおろした和宮には天皇から静寛院
  宮という院号を賜った。ところが悲劇はさらに続く。12月
  25日には兄君の孝明天皇が崩御されたのである。こうして
  公武合体の象徴として降嫁した和宮は、ただひとり江戸城に
  取り残された。このとき静寛院に手を差し伸べたのが天璋院
  である。相次いで近親を亡くした者同士の相寄る魂でもあっ
  た。「これからの大奥は私と宮で統べて行く」という天璋院
  の言葉は、静寛院へのなによりの励ましとなったにちがいな
  い。二人に共通していたのは徳川慶喜への反感である。天璋
  院は、以前から慶喜に野心ありとみて陰謀の影を感じていた
  し、和宮は兄の意を受けて攘夷を求める督促状を慶喜に送っ
  ていたがことごとく無視されたことに不快感をもっていた。
   http://www.data-max.co.jp/2008/09/15_7.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

静寛院和宮.jpg
静寛院和宮
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2011年03月10日

●「勝海舟を幕閣のトップに据える」(EJ第3013号)

 はじめのうちこそ慶喜に対して不信感を抱いていた静寛院和宮
でしたが、天璋院の心からの懇願を受けて少しずつ慶喜に同情す
るようになり、1月20日に橋本実麗・実梁父子(さねあきら/
さねやな)に直書を送って、慶喜の謝罪を取りなしてくれたので
す。それが次の文であり、とても有名な一文です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 後世まで当家朝敵の汚名を残し侯こと私身に取り侯ては実に残
 念に存じ参らせ侯。何とぞ私への御憐怒と思し召され、汚名を
 雪(すす)ぎ、家名相立ち侯よう私身命にかえ願い上げ参らせ
 候。ぜひぜひ官軍差し向けられ、御取りつぶしに相成り候わば
 私方も当家滅亡を見つつながらえ居り候も残念に候まま、きっ
 と覚悟致し候所存に侯。私一命は惜しみ申さず候えども、朝敵
 と共に身命を捨て侯ことは朝廷へ恐れ入り侯ことと誠に心痛居
 り侯心中御憐察あらせられ侯わば、私は申すまでもなく、一門
 下僕の者共深く朝恩を仰ぎ侯ことと存じ参らせ侯。
                ──『静寛院宮御日記』より
             ──野口武彦著/中公新書2040
       『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した4日間』
―――――――――――――――――――――――――――――
 静寛院和宮は、こう決意を表明しているのです。私としては、
徳川家に嫁いだ以上はどこまでも婚家に尽くす所存であり、それ
でもお取り潰しになるようであれば、私としても覚悟があるとい
うことをいっているのです。自分の命の保全と徳川家の取り潰し
の回避だけを目的とした慶喜の戦略は成功しつつあるのです。そ
ういう意味で慶喜という人物は天才的なところがあります。
 さて、徳川慶喜が大阪城を投げ出して江戸に逃げ帰ってきたこ
とは、たちまち江戸中に伝わったのです。中でも江戸城内は上を
下への大混乱になったのです。この混乱ぶりについて福沢諭吉が
次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 慶喜さんが京都から江戸に帰って来たというそのときには、サ
 ァ大変。朝野共に物論沸騰して、武家は勿論、長袖の学者も医
 者も坊主も皆、政治論に忙しく、酔えるが如く狂するが如く、
 人が人の顔を見ればただその話ばかりで、幕府の城内に規律も
 なければ礼儀もない。平生なれば大広間、溜の間、雁の間、柳
 の間なんて、大小名のいる所でなかなか喧しいのが、丸で無住
 のお寺をみたようになって、ゴロゴロ箕坐を掻いて怒鳴る者も
 あれば、ソット懐から小さいビンを出してブランデーを飲んで
 いる者もあるというような乱脈になり果てた──。
      ──「福翁自伝」より/星 亮一・遠藤由紀子共著
       『最後の将軍/徳川慶喜の無念』より/光人社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、慶喜はなかなかしたたかな男なのです。裏側では天璋
院の力を借りて静寛院和宮による朝廷工作を仕掛ける一方で、家
臣たちに対しては、恭順するのか反抗するのか、どちらともとれ
るような文書を配付して、例によって慶喜に何か策があるような
印象を与えることに成功しているのです。
 次の文は、家臣に配付した慶喜の一文の最後の部分ですが、実
に見事な説得文といえます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 戦利あらず、この分にては夥多(かた)の人命を損じ侯のみな
 らず、宸襟を寧んじたてまつるべき誠意も相貫かず、紛紜(ふ
 んうん)の際、曲直判然相立たず候ては不本意の至り。ついて
 は深き見込みもこれあり、兵隊引き揚げ、軍艦にて一先ず東帰
 致し侯。追々申し聞け侯儀もこれあるべく候あいだ、銘々同心
 りく力、国家のため忠節を抽(ぬき)んずべきこと
     ──『続徳川実紀』第五篇/野口武彦著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで慶喜のいう「深き見込み」は、二条城を出て大阪城に移
るとき、それに大阪城を捨てて江戸に戻るときに発した「余に深
謀あり」と同じです。しかし、江戸では使っていないので、江戸
の家臣たちには効いたのです。
 この一文は、慶喜の江戸城帰還は何かの策略なのではないかと
いう期待感を抱かせてしまう響きを持っていたのです。そうでな
ければ致命的な敗戦でもないのに大阪を捨てて殿が江戸に戻って
くるはずがないと都合のよいように解釈する者も多く、江戸城で
は反抗論が盛り上がっていたのです。
 事実慶喜は何もしていなかったわけではないのです。とくにフ
ランス公使のロッシュとは頻繁に会い、あらゆる手を尽くして徳
川の生き残りを図ることで一致しています。ロッシュは、慶喜を
東日本を本拠とする徳川政権の最高指導者としてとらえ、薩長新
政府と和解することが日本の混乱を救う最善の策ということで意
見が一致してしていたのです。
 そのとき主戦派を代表していたのは、陸軍奉行並の小栗忠順で
す。彼は兵を箱根峠と碓氷峠に出して官軍を迎撃し、海軍と連携
して新政府軍を殲滅する作戦を提案していたのです。
 慶喜はこういう発言を聞いて強硬派の小栗忠順を罷免し、勝海
舟を海軍奉行並に任命し、陸軍総裁も兼務させたのです。これで
勝海舟は幕閣のトップに立ったことになります。その勝海舟とフ
ランス公使のロッシュの連携によって、無傷の旧幕府海軍をフル
に使って講和を進めるためであり、それをやれる人材は勝海舟し
かいないと慶喜は判断したのです。
 もっともこの時点で慶喜は東日本を本拠とする徳川政権の最高
指導者の地位にこだわっておらず、自分の命と徳川家が存続でき
ればよいと考えていたのです。そして、勝ならばそれをきっと実
現させてくれると信じていたのです。
 ここからが勝海舟の本当の活躍がはじまるのです。期待通り勝
海舟は、慶喜の信頼に見事に応えるのです。
          ──  [明治維新について考える/23]


≪画像および関連情報≫
 ●小栗忠順の提案した戦略の価値
  ―――――――――――――――――――――――――――
  大政奉還後も徹底抗戦を主張し、箱根での陸海共同の挟撃策
  を提案したとされる。これは敵軍(新政府軍)が箱根関内に
  入った所を迎え撃ち、同時に当時日本最強といわれた榎本武
  揚率いる幕府艦隊を駿河湾に突入させて後続部隊を艦砲射撃
  で足止めし、箱根の敵軍を孤立化させて殲滅するというもの
  であった。しかし慶喜は、この策を採用しなかった。後にこ
  の策を聞いた大村益次郎が「その策が実行されていたら今頃
  我々の首はなかったであろう」と懼れるほどの奇策だった。
                    ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

罷免された小栗忠順.jpg
罷免された小栗忠順
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2011年03月11日

●「戊辰のダンケルク作戦」(EJ第3014号)

 慶喜主従が大阪城を脱出した1月6日の深夜のことです。京都
東本願寺の会津藩本営に土佐藩の密使が訪ねてきたのです。容堂
公の命令によって旧幕府軍の意向を探りにきたのです。
 新政府軍の主力はあくまで薩長であるが、今は兵を休めており
しばらく攻めてはこない。それに在京の諸藩は様子見をきめこん
でいて、戦う体制にない。今や京都は手薄であり、大阪城の全軍
で攻めれば戦わずして京都は落とせる。なぜ、やらないのか──
このように勧誘したのです。
 一応新政府軍に組みしている土佐藩ですが、この状態になって
も公儀政体にこだわり、鳥羽伏見の戦いでも消極的な態度をとっ
てきているのです。会津藩が慶喜公は既に東下されたと知らせる
と、密使は驚き、東下のあとは恭順するのか、再旗揚げをするの
か教えて欲しいと会津藩に食い下がったのです。
 この動きは直ちに岩倉具視の耳に入り、岩倉は怒りをもって大
仏の土佐藩本営に乗り込んできて、山内容堂に次のように抗議し
たのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 土佐藩はあまりにも朝旨に不心得である。今にいたってもその
 お気持が変わらないようであれば、速やかに大阪に行かれて、
 慶喜と行動を共にされたらどうですか。こちらは一向に構わな
 いのでぜひそうされることをお勧めする。そうされず、今まで
 のような行動をされるのであれば、土佐藩も朝敵になるお覚悟
 をしていただく必要がある。         ──岩倉具視
―――――――――――――――――――――――――――――
 これまでの土佐藩の煮え切らない態度に心底頭にきていた岩倉
具視は、容堂に対して最後通牒を出したのです。さすがの容堂も
これには屈し、これまでの態度を改め、請書を出して岩倉の要請
を受け入れたのです。
 新政府軍としてはこれまで最大の難物であった土佐藩の抵抗を
封じ込めたことによって意を強くし、まだ腰がふらついている各
藩にも態度を決めるよう促したのです。これによって、尾張、宇
和島、熊本、鳥取などの諸藩は請書を出して、新政府軍に忠誠を
誓ったのです。こうして新政府軍の体制は日を追うにつれて強化
されていったのです。
 一方、不眠不休の戦いに敗れ、やっと大阪にたどり着いた将兵
たちは、約1万人余に及んだのですが、そのほとんどが負傷して
おり、城内の雁木坂病院に収容されたものの、医師が不足してろ
くに治療もされず、放置されていたのです。
 そういう将兵たちに対し、1月7日に紀州を経て江戸に帰れと
いう指令が出されたのです。なぜ、紀州経由かというと、津藩の
藤堂家の裏切りによって、距離的に近く便利な伊賀路回りのコー
スが使えなかったからです。そこで、一応安全が約束されている
紀州を経て軍艦で将兵を江戸に運ぶ方法しかなかったのです。
 この命令が出ると、歩ける兵士たちは続々と大阪城を出て紀州
に向かったのです。しかし、金はもちろんのこと、食べるものも
寝るところもないのです。そのため、武士はその心といわれる刀
を売り払い、馬も売って一夜の宿と食べ物を求めたのです。とに
かく総司令官が一番先に逃げ出したので、大阪中は大混乱になっ
たのです。それでも将兵たちは、全軍江戸へと一斉に引き揚げて
行ったのです。
 このようにして、かなりは混乱があったものの、ほぼ全軍が江
戸に引き揚げたのです。指示があったように、ほとんどは紀州か
らの海路です。戦争として見ると、皮肉な表現ながら、この撤退
は後に「戊辰のダンケルク」と呼ばれるのです。
 ダンケルクとは、第2次世界大戦中の1940年5月に北フラ
ンスのダンケルクでドイツに敗れた英国軍が35万人の将兵をド
ーバー海峡を越えて撤退させたダンケルク作戦のことです。
 こんな話があります。鳥羽伏見の戦いで軍の副総督を務めた塚
原昌義が、責任をとって切腹せよと慶喜から示唆されたにもかか
らず、それを無視して自分も紀州に下り、紀州加太浦から軍艦富
士山に乗ろうとしたところ、たまたま同船で運ばれてきた見廻組
会桑軍の負傷者に次のように罵倒され、すごすごと船を降りたと
いうのです。副総督がこれでは鳥羽伏見の戦いはどうあっても勝
てる戦いではなかったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      敗軍の将、何の面目ありて乗船するや
             ──浅野氏祐談話より
―――――――――――――――――――――――――――――
 ところで慶喜は大阪城を誰に託したのでしょうか。
 慶喜は城の処理を尾張大納言(慶勝)と松平大蔵大輔(春嶽)
に引き渡せと、その処理を目付の妻木多宮頼矩に命じたのです。
早速妻木は両藩の家臣と連絡を取り、処理を進めようとしたので
すが、在京の慶勝と春嶽に連絡が取れないとして、手続きは遅々
として進まなかったのです。
 そのとき京都にいる新政府軍は、既に大阪城が空になっている
ことを知らなかったのです。次々ともたらされる情報は「兵がい
ない」というものばかり。これは全軍で籠城をする作戦と考えて
ひたすら兵を休めていたのです。
 しかし、これをもって新政府軍を非難できないのです。なぜな
ら、この場合、戦いの常識から見て、大阪城に籠って持久戦に出
るのは戦いのいろはであったからです。
 後に西郷隆盛は、もし一ヵ月も大阪城に籠城されると、薩摩軍
の補給は続かないといっているし、大村益次郎がいうように、江
戸において小栗忠順の立てた作戦が実行されていたら、新政府軍
は壊滅していたかもしれないといっているのです。
 しかし、慶喜の考えはそんなことではなく、自分の安全と徳川
家を守ること──それしかなかったのです。しかし、その大阪城
ではそのあと、とんでもないことが起きるのです。
          ──  [明治維新について考える/24]


≪画像および関連情報≫
 ●岩倉具視とは何者か──「近代日本人の肖像」より
  ―――――――――――――――――――――――――――
  京都生まれ。公卿、政治家。父は権中納言堀河康親。岩倉具
  慶の養嗣子。安政元年(1857)孝明天皇の侍従となる。5
  年(1858)日米修好通商条約勅許の奏請に対し、阻止をは
  かる。公武合体派として和宮降嫁を推進、「四奸」の一人と
  して尊皇攘夷派から非難され慶応3年(1867)まで幽居。
  以後、討幕へと転回し、同年12月、大久保利通らと王政復
  古のクーデターを画策。新政府において、参与、議定、大納
  言、右大臣等をつとめる。
        http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/23.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

岩倉具視.jpg
岩倉 具視
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2011年03月14日

●「江戸城はなぜ炎上したのか」(EJ第3015号)

 旧幕府軍の旗艦開陽の艦長で、海軍全軍の指揮官・榎本武楊は
その後どうしたのでしょうか。榎本は慶応4年(1868年)の
新年早々薩摩藩の軍艦と戦って勝利しています。つまり、海軍は
勝っているのに陸軍は何をやっているのか──情報がぜんぜん来
ないので、海軍の戦略について陸軍総督に説明しようとして、1
月5日に軍艦奉行矢田堀讃岐守と一緒に大阪城に大河内正質総督
を訪ねたのです。
 しかし、6日には総督の本営に行ってみると、総督は留守だと
いうので、本営に一泊し、7日の早朝、大阪城に行ってみると、
城門に番兵の姿がなく、誰も部署についていないのです。
 首を傾げながら、城内に入ると、ある一室で永井尚志と平山敬
忠が暗い顔をして何やらヒソヒソ話をしていたのです。この2人
に話を聞いてやっと事情が掴めた榎本武楊は、おまけに開陽を乗
り逃げされ、はじめて自分が岡に上がったカッパ同然であること
がわかり、怒り心頭に達したといいます。そして「徳川家もこれ
までだな」と感じたというのです。
 それでも新政府軍と決戦すべしと考えている榎本は、慶喜の部
屋に行き、散乱している書類や刀剣類を江戸城に持ち帰ろうとま
とめて富士山丸に送らせたのです。
 そのとき勘定奉行の小野広胖(ひろとき)に呼び止められ、金
蔵に古金18万両があるが、どうしたらよいかと相談を受けたの
です。榎本はそのすべてを軍艦富士山に運ばせたのです。この金
18万両は荷台5輌に載せられ、厳重に護衛しながら船に運び込
まれたのです。実はこの資金は、箱館政権を樹立する脱走艦隊の
軍資金として役だったといわれています。
 一方、大阪城の引き渡しを命ぜられた妻木宮頼矩はどうしたの
でしょうか。
 妻木は尾・越両藩と連絡を取り、1月9日に城の引き渡しにつ
いて交渉する手配になっていたのです。そこで7日と8日の2日
間をかけて一人で掃除をし、整理してしていたのです。しかし、
何とか片づけた8日の夜は痛飲し、明け方近くになって、少し仮
眠をとったというのです。実はこの妻木宮頼矩は旧幕府軍が朝敵
になったことを知らず、城も一時的に尾・越両藩に預けて、後で
返してもらうのだと思っていたのです。
 そうしたら、早朝に佐々木四郎五郎が徳山と岩国の兵隊を率い
て大阪城にやってきたのです。何をしているのかと佐々木四郎五
郎が妻木に聞くと、城の受け渡しをするというのです。そうこう
話しているうちに尾・越両藩がやってきたので、妻木と一同が話
していると、突然爆発音がして、火の手が上がったのです。
 火はどんどん広がり、消火は既に不可能になり、長州兵や妻木
は大手門番所に避難し、火薬庫に延焼する恐れもあるので、全員
が逃げ出したのです。
 大阪城はそのまま燃え続けて、全焼してしまったのです。結局
薩長軍の手にわたったのは、城の焼跡だけだったのです。それで
は、一体放火犯人は誰か。当然妻木がいちばん疑われることにな
ります。しかし、妻木は自焼ではないとして、次の3つの可能性
を指摘し、自分がやっていないということを6ヵ条にまとめて、
いいのがれているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.長州兵の発射した砲弾が城内の火薬を誘爆させた可能性
 2.旧幕府軍が人足に化けて火薬を仕掛け爆発させた可能性
 3.長州兵の略奪に怒った黒鍬組が火薬に細工させた可能性
―――――――――――――――――――――――――――――
 慶喜が大阪を逃げ出した噂はすぐに拡がり、この失火騒ぎに先
立つ数日間というもの、目に余る略奪行為が大阪城で繰り広げら
れたのです。つまり、城中のものは取り放題という無秩序ぶりを
呈していたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 無防備になった大坂城では、この出火騒ぎに先立つ数日間、目
 に余る掠奪行為が荒れ狂っていた。「前将軍一橋殿大坂御退去
 ありしゆえ、城中の物は取り次第と誰いうとなく言い触らし、
 さらば行かんとて大坂市中の者はいうに及ばず、三里五里近辺
 お国船手の者までも我も我もと城に入り、思い思いに品を取り
 戻る。結構なる物を拾いたる者多しという。二日の間右の通り
 なり」     ──「真覚寺日記」『讃繁泉州堺烈挙』所収
             ──野口武彦著/中公新書2040
       『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した4日間』
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、城の受取り人の一人に指名されていた松平春嶽は、こ
れは慶喜公の考えであり、城を尾越の使者に引き渡すや、出火す
るよう仕組んだものであるといっています。城を捨てて撤退する
には、敵に拠点を与えないよう焼き払って退却するのが戦争の常
道であり、あくまで恭順を貫く以上公然とはできないので、工作
してやったものとしているのですが、真相は現在もわかっていな
いのです。いずれにせよ、当の妻木は、長州兵に尋問されること
もなく、1月10日に伊賀路経由で江戸に戻っているのです。
 この鳥羽伏見の戦いにおいては、両軍で390人が死亡してい
るのです。新政府軍は112人、旧幕府軍は278人です。兵の
数では旧幕府軍は圧倒的だったにもかかわらず、死者が新政府軍
よりも多いのです。
 しかし、旧幕府軍の軍勢はざっと1万5千人おり、そのほとん
どがそのまま江戸に帰還しています。江戸には、さらに大勢の軍
勢もおり、軍艦がすべて無傷で残っているのです。したがって、
まともに戦えば、新政府軍といえども、そう簡単に江戸城を落と
せなかったことは明白です。
 事実上幕府の運命を託された勝海舟は、こういう無傷の兵と軍
艦をフルに使って、戦争をしないで徳川家と慶喜の命を守る重責
をどのように果たすのでしょうか。
          ──  [明治維新について考える/25]


≪画像および関連情報≫
 ●榎本武楊についての情報
  ――――――――――――――――――――――――――――
  思想は開明、外国語にも通じた。蝦夷島政府樹立の際には、国
  際法の知識を駆使して自分たちのことを「事実上の政権」であ
  るという覚書を現地にいた列強の関係者から入手する(交戦団
  体という認定は受けていない。また、この覚書は本国や大使の
  了解なく作られたものである)という、当時の日本としては画
  期的な手法を採るなど、外交知識と手腕を発揮した。義理・人
  情に厚く、涙もろいという典型的な江戸っ子で明治天皇のお気
  に入りだった。また海外通でありながら極端な洋化政策には批
  判的で、園遊会ではあえて和装で参内するなどしている。
                     ──ウィキペディア
  ――――――――――――――――――――――――――――

幕末の榎本武楊.jpg
幕末の榎本 武楊
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2011年03月15日

●「慶喜の困ったときの勝頼み」(EJ第3016号) 

 ここは勝海舟しかいない──大阪から逃げ戻った徳川慶喜は、
勝を事実上の幕閣のトップに任命し、徳川家の存続と自身の命を
守るすべての工作を勝に任せたことは既に述べた通りです。
 しかし、勝海舟が徳川慶喜から膝を屈するばかりに懇願された
ことは前にも一度あり、そのとき勝は慶喜に煮え湯を飲まされて
いるのです。
 慶応2年(1866年)8月のことです。勝海舟は慶喜から呼
び出され、次のように懇願されたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  長州と講和を結びたい。お前のほかには頼める者がいない
―――――――――――――――――――――――――――――
 第2次長州征伐のときの話です。長州は、第1次長州征伐で幕
府に恭順したものの、高杉晋作の長州政権奪還によって、再び討
幕の旗幟を鮮明にしたため、幕府としては今度こそ長州を壊滅さ
せるつもりで、将軍家茂自らも出陣して長州討伐軍を編成しよう
としたのです。
 しかし、幕府が陣触れしてみると、260年間養ってきた旗本
八万騎はどこへ行ったのやら、ほとんど集まらなかったのです。
第2次長州征伐をやることはわかっていたので、多くの旗本は家
督を息子に譲って隠居し、それを理由に出陣しなかったのです。
 もうひとつは戦いの装備です。長州兵は、筒袖にズボンの洋装
で最新式の旋条ライフルで武装していたのです。いわゆる火縄銃
は、旋条のない滑腔銃身だったのです。旋条銃身から撃ち出され
る弾丸は、旋条に浅く食い込みながら進むことにより、回転運動
を与えられ、ジャイロ効果により滑腔銃よりはるかに高い直進性
を得るため、精密な射撃が可能になるのです。
 これに対して幕府軍は昔ながらの戦国甲冑刀槍か火縄銃であっ
たので、装備がまるで違っていたのです。夏の暑いなか、こんな
恰好で走ったら、とても戦いにならなかったと思われます。
 その結果、戦いは大敗し、その最中に将軍家茂が大阪城で急死
するというアクシデントに見舞われたのです。今にして思えば、
このとき幕府は既に崩壊していたといえます。
 そこで、慶喜は将軍家茂の死を口実にして、第2次長州征伐を
やめて軍を引きたかったのです。しかし、自らが事実上の指揮を
執ったからには面子もあり、弱気は見せられないので、そのあた
りの交渉をまとめる力のある勝海舟に休戦交渉を命じたのです。
 当然勝としては、幕府側も譲るべきは譲って休戦を勝ち取るつ
もりでおり、慶喜はそのことを了解しているものと思われたので
す。そこで、勝海舟は、慶応2年8月25日に芸州宮島に渡って
講和交渉を始めようとしたのです。しかし、長州藩は勝の登場に
殺気立っており、勝の宿泊する旅館に発砲する者もいて、文字通
り命がけの折衝だったのです。
 しかし、慶喜は本当のところ勝海舟に全幅の信頼をおいていな
かったのです。なぜなら、勝が芸州宮島入りした次の日には、慶
喜が手回しした勅書が芸州(広島)藩に届いていたのですが、そ
れは高圧的にして、一方的な通告だったからです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 前将軍家茂逝去につき、しばらく休戦せよ。長州は侵略した土
 地を引き払え。    ──『歴史街道』/2011年4月号
―――――――――――――――――――――――――――――
 会談の予定は9月2日であり、勝が勅書を見たのは8月末日の
ことで、会談2日前だったのです。勝は芸州藩が長州に勅書を渡
さないよう依頼し、交渉せざるをえなかったのです。
 会談に応じた長州藩の代表は広沢兵助と井上聞多の2人。当初
2人は次のように主張したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 長州はあくまで幕府の侵攻に応じただけで、休戦するならば幕
 府が兵を退けばいいだけのことである。
            ──『歴史街道』/2011年4月号
―――――――――――――――――――――――――――――
 勝は外国軍が内乱に応じて攻め込んだアジアの例をひき、日本
人同士が戦争することは控えなければならないとし、将軍家茂の
逝去により、幕府も独善的な政治を改める意思があると告げ、長
州に協力を求めたのです。
 広沢兵助と井上聞多の2人はもとよりそのことはよく理解して
おり、最終的には一時休戦に同意したのです。しかし、交渉から
2週間後に芸州藩から勅書がもたらされると、当然のことながら
長州藩は怒り狂ったのです。不本意ながら、勝はこのようにして
長州人を裏切るかたちになったのです。
 さらに慶喜はももう既に将軍になった気分で、勝の講和条件は
甘いと文句をいいはじめ、蟄居を命ぜられる始末です。勝海舟は
慶喜にはほとほと呆れ、もはや幕府では日本が立ちゆかぬと感じ
て江戸に戻ったのです。そして「長州の処分は公正に行うべし」
という建白書を慶喜に出して蟄居したのです。
 これに比べると、2度目の慶喜から勝への嘆願は、まさに大仕
事であり、それを成し遂げるには勝海舟としても相当の覚悟が必
要であったのです。それについては慶喜もよくわかっていて、そ
れを成し遂げるのに必要な権限もすべて勝に与えています。
 さんざん慶喜には痛い目に遭わされている勝海舟ではあったの
ですが、勝は根っからの徳川家思いの忠臣であり、慶喜の懇願を
受け入れ、乾坤一擲の勝負に出たのです。
 1月17日、慶喜は勝海舟を海軍奉行に就任させ、23日には
陸軍総裁に任命させています。そして、慶喜は、松平春嶽と山内
容堂に追討令に対するこう抗議の文書を送っています。これは勝
の作戦であり、1月18日には今度は勝から松平春嶽に嘆願書を
送ったのです。
 慶喜と勝は、新政府軍の議定である松平春嶽を新政府軍と朝廷
との交渉チャネルに使う方針を立てたのです。
          ──  [明治維新について考える/26]


≪画像および関連情報≫
 ●鳥羽伏見の戦い当時の小銃について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  近代から現代にかけて、歩兵の最も基本的な武器として使用
  されている銃。小銃弾と呼ばれる弾薬を使用し、近距離から
  遠距離まで射撃をこなせる万能性を持つ。小銃をベースとし
  ていても近距離の照準が困難な遠距離用照準器(スコープ)
  取り付けた狙撃銃は小銃として運用されない(小銃に用いら
  れる光学照準器はダットサイトや低倍率スコープなど)。逆
  に近接戦闘用で遠距離射撃をこなせない短機関銃も小銃とは
  呼べない。小銃は基本的に着剣しての白兵戦ができることを
  求められる。現代では近接戦闘能力の高いアサルトライフル
  が登場したことで必要性は落ちているものの、かつては非常
  に重要な要素であった。特に近世では騎兵突撃を防ぐために
  必要不可欠な要素であり、銃剣の発明前は槍隊の護衛が必要
  だった。              ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

旋条銃身.jpg
旋条銃身
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2011年03月16日

●「勝海舟と大久保一翁の絶妙なコンビ」(EJ第3017号)

 慶応4年(1868年)3月14日に勝海舟は西郷隆盛と高輪
薩摩藩邸で会談することになるのですが、この勝海舟に対し、さ
まざまな支援をした人物がいるのです。それは、大久保一翁(大
久保忠寛)です。もし、この大久保一翁なかりせば、勝と西郷の
会談は成功しなかったと思われます。
 大久保忠寛は、慶応元年(1865年)2月11日に49歳に
なったので、隠居の届けを出しています。それ以来、大久保忠寛
を一翁と改め、髪を切って総髪にしたのです。しかし、隠居して
も一翁は難局になるごとに呼び出され、幕府のために尽くすこと
になるのです。
 大久保一翁は、安政の大獄のときにパージにあって一時失脚す
るものの、文久元年(1861年)から、幕府より復帰を許され
て再び幕政に参与するようになります。そして外国奉行・大目付
・側御用取次などの要職を歴任するのです。
 政事総裁職の福井藩主の松平春嶽との交流も深く、第15代将
軍になった徳川慶喜にも大政奉還と雄藩を中心に議会政治や公武
合体を進言したのです。
 大久保一翁は、勝海舟とはとくに親しく、お互いを尊敬してお
り、旧幕府末期の徳川家の存続と慶喜の命の保全には勝に協力し
て全力を尽くしているのです。大久保一翁の人となりというか、
性格について勝海舟は、その座談録「氷川清話」で、次のように
述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 本質的には心がひろく、他人の意見を聞き、真っ直ぐな人であ
 る。ややもすれば厳格すぎて失敗し、そのため小心な人々たち
 から嫌がられやすく、永く一つの職を務めることができなかっ
 た。また質素かつ勤勉を心がけ、左遷されても怠けたようすも
 なかつた。               ──「氷川清話」
  古川愛哲著『勝海舟を動かした男 大久保一翁』/グラフ社
―――――――――――――――――――――――――――――
 京都朝廷が一番心配していたのは、静寛院宮のことですが、既
に1月14日に静寛院宮に対し、次の連絡を入れています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 万一の場合は、大久保一翁、勝義邦(海舟)にご依頼ありて御
 帰京あるべし
  古川愛哲著『勝海舟を動かした男 大久保一翁』/グラフ社
―――――――――――――――――――――――――――――
 これを見ると、京都朝廷側が、大久保一翁と勝海舟をいかに信
頼していたかがよくわかります。実際に静寛院宮の守護依頼状が
先に大久保一翁に届き、その翌日、勝海舟に届いているのです。
大久保の方が一日早いのは、地位が上であることと、信頼感が厚
いことを示しているのです。
 慶応4年(1868年)2月12日、徳川慶喜は上野寛永寺に
蟄居謹慎します。その前日に新しい人事を次のように発表したの
ですが、大久保一翁の名前はちゃんと入っているのです。この中
で隠居の身分は大久保一翁だけです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    陸軍総裁 ・・ 勝安房守/同副 藤沢志摩守
    海軍総裁 ・・ 矢田堀讃岐守/同副榎本武楊
    会計総裁 ・・ 大久保一翁/同副成島大隅守
    外国総裁 ・・ 山口駿河守/同副河津伊豆守
―――――――――――――――――――――――――――――
 そうしている間にも新政府軍は、東海、東山、北陸の三道から
江戸を目指して大挙して進軍してきたのです。慶応4年3月3日
有栖川宮大総督が駿府に到着し、江戸城攻撃の日を3月15日と
定めたのです。
 勝海舟は、鋭意新政府軍の情報収集に努めていたのですが、官
軍参謀が口々に「江戸を焼け野原にしてやる」といっているとい
う情報が入ってきたのです。
 そこで、勝はすぐ手を打ったのです。新門辰五郎を呼び出し、
江戸中の親分とか、顔役といわれる人たちを集めてもらい、いざ
開戦となったら、即座に江戸の町に火を放ってくれと頼み込んだ
のです。勝という男は伝法な口をきくので有名ですが、きっと次
のようにいったものと思われます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 敵に焼かれてしまうぐらいなら、われらの手で焼いてしまおう
 じゃないか。                 ──勝海舟
―――――――――――――――――――――――――――――
 江戸火消しは、一番組から十番組まであったのですが、その十
番「を」組の頭が新門辰五郎であり、厄介な連中の取りまとめに
は最適の人物だったのです。また、新門辰五郎の娘のお芳は慶喜
の側室であり、勝の依頼を一も二もなく受け入れたのです。火消
しが放火するのですから、確実に江戸中は大火事になります。
 次に勝のやったことは、房総沿岸の船を買い上げ、開戦になっ
て江戸が火の海になったとき、ただちに江戸市民を避難させる手
立てを講じたのです。
 さらに勝は、親しい英国公使館付通訳官アーネスト・サトウに
頼んで、パークス英国公使に会い、万一にも慶喜切腹の裁断が下
されたとき、慶喜が英国に亡命できるよう手筈を整えたのです。
 これらの手配については、必要に応じて大久保一翁とも相談し
てきぱきと準備を進めたのです。実際このコンビの連携は見事な
もので、もし、慶喜が早くからこの2人にしかるべき地位を与え
厚遇していたら、この事態にはならなかったと思われるのです。
 しかし、ここにきてひとつ問題が生じたのです。新政府軍と旧
幕府軍との外交関係が断絶しており、折衝の糸口がつかめなかっ
たのです。何としても新政府軍の首脳に会って話し合い、江戸を
火の海にさせないよう折衝する必要があったのです。そのとき、
思いもかけぬ人物があらわれたのです。
          ──  [明治維新について考える/27]


≪画像および関連情報≫
 ●新門辰五郎とは何者か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  寛政12年(1800年)〜明治8年(1875)。江戸時
  代後期の町火消(江戸浅草十番火消の頭取)・鳶職・香具師
  ・浅草寺新門の門番。江戸下谷(現在の東京都台東区)に煙
  管(きせる)職人中村金八の子として生まれました。幼名金
  太郎。金太郎9才のとき、金八の家から失火があり、周辺家
  屋を焼いたため。金八は責任を感じて火中に飛び込んで自殺
  したとも、事故死であったとも伝えられています。金太郎は
  これをきっかけとして、火消になることを決意したといいま
  す。その後、浅草寺新門の門番をしていた町田仁右衛門の娘
  ・錦と養子縁組し、この養父の職も継いだことから新門を名
  乗りました。長じて新門辰五郎(金太郎)24才のとき、江
  戸浅草十番組「を組」の頭取を継ぐこととなります。
http://kyotokawaraban.net/roziurasannsaku/dai12/tatugorou.html
  ――――――――――――――――――――――――――――

新門辰五郎.jpg
新門 辰五郎
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2011年03月17日

●「西郷との会談を買って出た山岡鉄舟」(EJ第3018号)

 可能な限りの準備を整えた勝海舟が悩んでいたのが、新政府軍
首脳との外交交渉です。そのとき、勝の前に現れたのが、山岡鉄
太郎(鉄舟)なのです。山岡鉄舟は、謹慎中の慶喜の警護に当っ
ていた精鋭隊兵頭取格(隊長)であったのです。
 「幕末の三舟」という言葉があります。これは次の3人のこと
をいっているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
            勝 海舟
            山岡鉄舟
            高橋泥舟
―――――――――――――――――――――――――――――
 三舟に共通するのは、剣、禅、書の達人といわれますが、とく
に山岡鉄舟は武術に異常なほどの才能を示す人であったのです。
父親が飛騨郡代になり、飛騨で暮らすようになったことから、剣
については北辰一刀流の井上清虎の指導を受け、書については岩
佐一亭について入木道の書を学んだのです。
 父の死後、江戸に戻ってからも千葉周作を始めとする諸流派に
学び、明治13年(1880年)に独自に無刀流を開き、開祖に
なるほどの腕前であったのです。
 文久3年(1863年)に若死にした槍の名人山岡静山の妹と
結婚して山岡家を継ぐのですが、その静山の弟は高橋家を継いで
おり、泥舟と呼ばれるようになります。つまり、鉄舟と泥舟は義
兄弟なのです。
 さて山岡鉄舟は、徳川慶喜が謹慎している上野寛永寺の守護に
当っていたのですが、心痛のあまりやつれている慶喜を見て、自
分として何とかしたいと思ったのです。そのとき官軍は、東海道
を着々と江戸に向かって進軍していたのです。
 山岡は決意するのです。単身、有栖川宮大総督を訪ね、慶喜が
心から恭順している真情を伝えたいと考えたのです。問題はどの
ようにして有栖川宮大提督に会うかです。たまたま泥舟が海舟を
知っていたので、話をつけてもらい、勝海舟に会うことができた
のです。慶応4年3月5日のことです。
 勝としては、渡りに舟だったのです。しかし、その行動はあま
りにも無謀であったのですが、剣の達人である山岡ならできるか
もしれないと考えたのです。会うべき人物は西郷隆盛ですが、ど
のようにして山岡を西郷に会わせるかです。
 そこで、勝は山岡の道案内人として、薩摩藩士の益満休之助と
いう者をつけたのです。益満休之助はもともと西郷の腹心であっ
たのですが、慶応3年暮れの薩摩藩邸焼き討ちのさい、捕虜にな
り、今では勝海舟に心服しているのです。
 勝は慶喜救済の嘆願書を託し、山岡を益満休之助と一緒に駿府
(静岡)に向かわせたのです。3月6日のことです。当然のこと
ながら、官軍の先鋒隊に誰何されます。そのとき、山岡は次のよ
うに叫び、馬上で一気に駆け抜けたという話が伝わっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
  朝敵徳川慶喜の臣山岡鉄太郎、大総督府へまかり通る!
          ──『歴史街道』/2011年4月号
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、どうやらこれは真実ではなく、薩摩藩士に化けて早打
ち駕籠三挺をつらねて駆け抜けたというのが真相のようです。先
頭の駕籠には薩摩藩士中村半次郎、二番目は山岡鉄舟、最後は益
満休之助であったといわれます。前掲の『歴史街道』4月号に掲
載されている作家・永岡慶之助氏の指摘ですが、中村半次郎(桐
野利秋)がどうして加わったのかは興味のあるところです。
 このようにして山岡鉄舟は、駿府の大総督の本営に達して西郷
に面談を申し入れたのです。西郷は会うことを了承し、3月9日
に西郷対山岡の会談が実現したのです。
 問題は、勝から西郷に宛てた書簡の内容です。これは史料とし
て残っていないのですが、星亮一/遠藤由紀子氏による『徳川慶
喜の無念』(光人社刊)には次のようにあります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 主君慶喜は謹慎し恭順を旨としている。にもかかわらず、大軍
 を向け江戸城総攻撃の勢いを示しているが、これはいかなる見
 込みであるか。徳川家はいまなお12艘の軍艦を持っている。
 2艘は大坂に、2艘を九州、中国に、二艘を東海道に、残る二
 艘を横浜に停泊させれば、われわれは十分に戟える。そうせぬ
 のは天下の大勢を思い、また自分と貴公の友情のためである。
 江戸の人心は湯のように沸騰していて、とても抑えることはで
 きない。いましばらく官軍を箱根の西にとどめおかれたし。
  ──星亮一/遠藤由紀子著『徳川慶喜の無念』(光人社刊)
―――――――――――――――――――――――――――――
 このように勝は西郷に対し、相当きついことをいっています。
確かに旧幕府軍は、鳥羽伏見の戦いに敗れたとはいえ、ほとんど
戦力を損なっておらず、強い指揮官が適切に采配すれば、いかに
官軍といえども簡単には旧幕府軍を破れないし、官軍が采配を誤
ると負けることも考えられるのです。したがって、勝の書簡はあ
る意味において、相当強い脅しをかけたことになります。
 これを読んで西郷がどのように考えたかです。西郷としては、
「もし、慶喜が本当に恭順の意を示すならば、官軍に向かって注
文することなどないはずだ」といっているのです。そこを補った
のは、決死の覚悟で西郷に会いに行った山岡鉄舟であっと思われ
るのです。そのとき、山岡鉄舟は、次のようなきついことを西郷
に問いかけています。
―――――――――――――――――――――――――――――
  先生はどこまで戦いを望まれ、人を殺すを専一とされるか
         ────『歴史街道』/2011年4月号
―――――――――――――――――――――――――――――
 これに対して西郷は「恭順の実効さえ立てばよい」と答えてい
るのです。     ──  [明治維新について考える/28]


≪画像および関連情報≫
 ●「禅と東洋の心」/山岡鉄舟
  ―――――――――――――――――――――――――――
  海舟は鉄舟にさぐりを入れた、「貴殿はどういう手立てをも
  って官軍の陣営中に行くのか」と。鉄舟は、「官軍の陣営に
  到れば、斬るか縛るかの外はないはずである。そのとき両方
  の刀を渡して、縛るのであれば縛られ、斬ろうとするならば
  自分の思いを一言大総督宮(有栖川宮)へ言上する積りであ
  る。もし私のいうことが悪ければ、じきに首を斬ればよい。
  もし言うことがよければ、この処置を自分に任せて頂きたい
  というだけである。是非を問わずに、ただ空しく人を殺すと
  いう理はない、何の難しいことがありましょうか」と言い切
  った。我が身を擲って微動だにしない鉄舟の高邁な決意を見
  て、海舟は俄然同意して鉄舟に一任したのである。
http://rakudo.jp/%E5%B1%B1%E5%B2%A1%E9%89%84%E8%88%9F%EF%BC%88%E4%B8%80%EF%BC%89.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

山岡鉄舟.jpg
山岡 鉄舟
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2011年03月18日

●「勝海舟と西郷隆盛の第1回会談」(EJ第3019号)

 西郷隆盛は、山岡鉄舟と静かに話したあと、一時中座し、しば
らくすると戻ってきて、次の書類を山岡に渡したのです。そこに
は、慶喜を許す条件が7つ書いてあったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 一、慶喜を備前岡山藩へ預けること
 一、江戸城を明け渡すこと
 一、軍艦を残らず引き渡すこと
 一、兵器を一切、引き渡すこと
 一、城内の家臣は向島へ移り、謹慎すること
 一、慶喜の妄挙を助け、暴挙に出る者は厳罰に処する
 一、幕府が鎮撫しきれず暴挙する者があれば、官軍が鎮める
   星亮一/遠藤由紀子著『徳川慶喜の無念』(光人社刊)
―――――――――――――――――――――――――――――
 目を通した山岡鉄舟は、「第一条については承服しかねる」と
反対の意を表明したのです。これに対して西郷は、「勅命でごわ
す」とはねつけたのです。山岡は必死の面持ちで次のように問い
返したのです。『歴史街道』2011年4月号から、そのやりと
りを再現します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 山岡:立場を変えてお考え頂きたい。もし先生が拙者の立場に
    あられたら、黙って主君を差し出されるか
    (しばらく沈黙する西郷)
 西郷:分かり申した。慶喜殿がこと、この吉之助きっと良きよ
    うに計らい申すゆえ、御心痛なきように
           ──『歴史街道』2011年4月号より
―――――――――――――――――――――――――――――
 山岡鉄舟はよくやってくれたのです。これで官軍との外交ルー
トができたからです。山岡が西郷の7ヵ条の条件書を勝に渡すと
勝はそれを読んで「してやったり」と内心喝采を叫んだのです。
「これで慶喜を救える」と。
 既に官軍は3月15日に江戸城総攻撃を決めているのです。勝
海舟は直ちに官軍の西郷隆盛と連絡を取り、3月13日と14日
の2日間にわたって新政府軍、徳川家双方の最高責任者として西
郷と勝が会談をすることになったのです。場所は次のように決め
られたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  慶応4年3月13日 ・・・・・ 高 輪薩摩藩上屋敷
  慶応4年3月14日 ・・・・・ 芝田町薩摩藩下屋敷
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1回会談は、高輪薩摩藩上屋敷で行なわれたのです。そのと
き、勝は従者1人を連れて出かけています。そんなのでは危ない
ので、二大隊ぐらい連れて行くべきだという声があったのですが
勝は断っています。もし、先方がその気であれば二大隊ぐらいで
は効果はないとして、わざと2人で行ったのです。
 勝としては、はじめから第1日目の13日は、挨拶程度で終わ
らせるつもりでいたのです。このときは、勝と西郷の2人だけで
会っているのですが、そのとき話し合われたのは、静寛院宮の処
遇だけであり、その話が終ると勝はさっと引き揚げています。
 勝としては西郷の表情を偵察に行ったのです。静寛院宮につい
て勝は次のように話しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 官軍が砲火をもって江戸城を攻撃すれば、静寛院宮(和宮)、
 天璋院(篤姫)の身の上はどうなる。おふた方とも徳川家の者
 として殉じるとおっしやってる。その他のお話は、いずれ明日
 まかり出で、ゆるゆるいたそう、それまでに貴君もとくとご勘
 考あれ。                 ──古川愛哲著
       『勝海舟を動かした男 大久保一翁』/グラフ社
―――――――――――――――――――――――――――――
 おそらく西郷としては、13日の第1回会談時点では、山岡鉄
舟に渡した7つの条件を勝は飲めないだろうと考えていたと思わ
れます。つまり、15日の江戸城攻めは避けられないと西郷は考
えていたのです。
 西郷自身としては、本当は江戸城攻めをやりたくなかったので
す。しかし、好戦的な板垣退助や長州藩の面々、公家の岩倉具視
や三条実美などは口をそろえて「慶喜切るべし」と「江戸城攻撃
せよ」の一点張りなのです。
 ところが、勝が帰った後の午後2時頃にある情報が西郷にもた
らされたのです。実は13日の朝から、15日の江戸城攻撃のさ
い多数の死傷者が出ることが予想されるので、在邦英国人用の病
院を使わせてもらえないかという交渉を英国大使パークスに次の
2人がしに行ったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   東海道先鋒総督参謀 ・・・ 木梨精一郎/長州藩
   東海道先鋒総督参謀 ・・・  渡辺 清/大村藩
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、それまで薩長軍に対し、何かと協力してきた英国公使
パークスは、人が変わったようにこの要求を拒絶し、逆に次のこ
とを要求したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 慶喜は恭順しているのに死罪にする道理はない。助命して欲し
 い。江戸城も明け渡せば、朝廷の目的は叶い、名目も立つ。西
 洋各国では、たとえ暴悪の人も、政治の大権を一度でも握った
 人物を死罪にする例はない。これが万国公法の道理である。フ
 ランスのナポレオンは敗れたが、流罪で死一等を許している。
 もし戦争するなら横浜居留地の各国領事に通知して、警備兵も
 出さなければならない。それもしない貴国に政府はない。
  古川愛哲著『勝海舟を動かした男 大久保一翁』/グラフ社
―――――――――――――――――――――――――――――
          ──  [明治維新について考える/29]


≪画像および関連情報≫
 ●ブログ「明治という国家」より
  ―――――――――――――――――――――――――――
  勝は小作りの体に羽織袴をつけ、細身の脇差というきりっと
  した姿、これに対してだぶだぶの洋服をつけた大兵肥満の西
  郷が、「やあ勝先生」と、ニコニコ顔で迎えれば、「おお西
  郷さん、久々ぶりで」と、両雄は座についたのでした。西郷
  勝の二人が初めて会ったのは、1864年(元治元年)9月
  11日で、それから4年ぶりの再会でした。その時分から、
  「西郷どんは偉い人物だ」、「勝先生は大人格者だ」と互い
  に尊敬しあった仲でありました。この両雄、すなわち官軍と
  幕府軍の両旗頭が、頭の振り方一つで雨とも風ともなるわけ
  で、幾万の生霊を活殺する鍵を握って相対したのでした。
http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2008/03/post_587.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

勝海舟と西郷隆盛.jpg
勝 海舟と西郷 隆盛
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2011年03月22日

●「一翁が同席してした勝・西郷会談」(EJ第3020号)

 慶応4年(1868年)3月14日、勝海舟と西郷隆盛の第2
回会談が行われたのです。場所は芝田町の薩摩下屋敷です。この
会談の様子を描いた絵画が添付ファイルにあります。
 作家の永岡慶之助氏は、『歴史街道』4月号掲載の論文の中で
そのときの勝と西郷のやりとりを次のように表現しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 翌十四日は芝田町の薩摩屋敷での会見。勝は座敷に通されたが
 西郷の姿はなく、しばらくしてから軍服に下駄履き姿の西郷が
 庭の方から現われ、「遅くなり申した」と詫びて座についた。
 その西郷に勝は、先に山岡が駿府から持ち帰った新政府作成の
 処分案を、更に寛大に修正した案文を手渡した。書面に眼を通
 す西郷の表情がみるみる固く強張るのがわかった。西郷の瞳に
 はおどろきの色があつた。新政府が考えている以上に徳川方は
 強気なのだ。     ──『歴史街道』/2011年4月号
―――――――――――――――――――――――――――――
 実は第2回目の会談には諸説があるのです。第2日目も1対1
で会ったとする根拠は海舟自身の日記の記述なのです。しかし、
「岩倉公実記」と「徳川慶喜公伝」によると、勝海舟と大久保一
翁の2人で会ったと書いてあるのです。さらに新政府軍側も西郷
隆盛一人ではなく、3人で臨んでいるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ≪新政府軍側≫
  西郷吉之助(総大将) 海江田武次(参謀)
  村田新八(隊長)、中村半次郎(隊長)
 ≪旧幕府軍側≫
  勝 海舟 大久保一翁
―――――――――――――――――――――――――――――
 衣装も大きく違っています。官軍側は西郷以下3人は軍服に身
を固めており、勝と大久保は継上下(つぎかみしも)で会議の席
に着いています。継上下というのは、肩衣(かたぎぬ)と袴(は
かま)の地質・色合いが異なる上下であり、江戸時代の武士の略
儀の公服です。添付ファイルの絵画とは大きく異なっています。
 しかし、14日は13日と違って重要事項を決める必要がある
──威儀を正して臨むのが自然であると思われます。
 はっきりしていることは、13日に西郷が勝に突きつけた条件
は、旧幕府としては絶対に飲めない条件であるということです。
そんなことは西郷もよくわかっていることです。
 西郷の条件とは、慶喜を孤立させ、徳川に全面的な武装解除を
迫り、徳川家に協力した旗本や藩は新政府軍が処分するというも
のであり、とても受け入れられるものではなかったのです。
 これに対しては一翁が一方的に官軍に対して異議の申し立てを
行なったのです。それはおおよそ次のようなものであったと考え
られます。史料が残っていないが、およそ次のような内容であっ
たと考えられるのです。
 官軍か旧幕府軍に示された7ヵ条は、われわれとして到底承服
できるものではない。われわれとしてはあくまで恭順を貫く所存
であるが、もし、官軍がこの条件にこだわるのであれば、旧幕府
軍としては、徹底抗戦を覚悟しなければならない。幕府軍は無傷
の12隻の軍艦からなる幕府・諸藩連合艦隊を有しており、官軍
に十分に対抗できる軍事力を駆使できる。
 しかるに諸外国が虎視眈々としてわが国への進出の機会を窺っ
ている現在、日本人同士で戦うことは愚かであり、やるべきでは
ない。もし、江戸で殺し合いをするなら、多くの無辜の民の死を
増大させる──われわれとしてはそのようなことはやりたくない
と考えている。幕府としては大政奉還し、徳川家は一大名になっ
てもよいと決意しているのに、それを潰すのは過酷ではないか。
徳川家はあくまで恭順を貫くつもりである。
 列席者の印象によると、一翁の話は、よく順序立ち、説得力が
あり、見事な反論であったと評価されています。西郷から見ると
勝は早くから幕府には限界を感じており、はじめて西郷にあった
とき次のように告げているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
          幕府はもうダメだよ
―――――――――――――――――――――――――――――
 こういう勝とは違って、大久保は勝よりも高い地位で長きにわ
たり、幕府の中枢にいたのです。少なくとも新政府軍に反論する
役回りとしては勝よりはるかにふさわしかったことは確かです。
 結局、大久保が新政府軍に対して提案した講和条件としては次
のようなものであったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1、慶喜隠居・水戸で謹慎。2、江戸城明け渡し、田安家で管
 理。3、軍艦の一部は保有。4、武器の一部は保有。5、旧幕
 臣の城外撤収。6、佐幕派大名・旗本の寛典(死罪の免除)。
 7、市中治安維持を引受け。        ──古川愛哲著
       『勝海舟を動かした男 大久保一翁』/グラフ社
―――――――――――――――――――――――――――――
 要するに、徳川家は一大名として残るという案なのです。西郷
は思案したのです。こんな案では、官軍の強行派はとても納得せ
ず、強い批判を浴びることはわかっていたのですが、そのときは
英国公使パークスの意向を話して説得するしかない。いや、それ
は十分可能であると考えたのです。そして、勝と大久保に対して
次のようにいったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 分かり申した。しかし自分の一存ではいかぬ点もあるので、こ
 れより総督府へ参って審議のうえ、ご返事いたす。
―――――――――――――――――――――――――――――
 そして隊長の中村半次郎に「明日の総攻撃は中止じゃ。その旨
諸部隊に伝達するよう至急手配せよ」と命じたのです。江戸城攻
撃は中止されたのです。─  [明治維新について考える/30]


≪画像および関連情報≫
 ●「江戸城無血開城」のブログより
  ―――――――――――――――――――――――――――
  よく、考えてみてください。もし、「江戸城無血開城」、の
  ような形にならなかったとしたら。江戸の城中で、幕府軍と
  維新軍の市街戦が始まっていたら。白虎隊なんてものでは、
  すまないですよ。アメリカの南北戦争のように泥沼の状況に
  なっていただろうし、南北朝鮮は今だに、統一さえできてい
  ないわけですよ。文明開化など、実現できたでしょうか(も
  しかしたら、徳川家が絶滅してそれだけかもしれませんが、
  政治の正統性は常にデリケートなわけでね。一つ間違えれば
  日本の戦後だって今のイラクのようになっていたでしょう。
     http://d.hatena.ne.jp/martbm/20080724/1216836433
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●絵画出典/『歴史街道』/2011年4月号

勝・西郷第2回目会談絵画.jpg
勝・西郷第2回目会談絵画
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2011年03月23日

●「タフ・ネゴシエーター/大久保一翁」(EJ第3021号)

 慶応4年(1868年)4月4日のことです。江戸城に勅使を
迎えたのです。勅使側と江戸城側の主要メンバーを上げると、次
のようになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ≪勅使側≫
  先鋒総督・橋本実梁(さねやな)、副総督・柳原前光
  参謀・西郷吉之助以下30名
 ≪江戸城側≫
  徳川家代表・田安慶頼(松平春嶽の弟)
  若年寄・大久保一翁、浅野氏祐、川勝広運、服部綾雄
  前若年寄・牧岡道弘、大目付・織田信重、堀錠之助、河田煕
  梅沢孫太郎、その他目付5〜6人
―――――――――――――――――――――――――――――
 この中には勝海舟はいないのです。江戸城側のことは当時大久
保一翁がすべて仕切っていたのです。勅使は午後1時頃に江戸城
西丸に入り、次のように勅命をいい渡したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 慶喜は死罪一等を許して、水戸で謹慎。徳川家は存続させる。
 江戸城は尾張藩に管理させる。軍艦・武器引き渡し、慶喜の反
 謀を助けた幕臣を処分せよ         ──古川愛哲著
       『勝海舟を動かした男 大久保一翁』/グラフ社
―――――――――――――――――――――――――――――
 この瞬間、慶喜が望んでいたように、自身の身の安全と徳川家
の存続は決まったのです。これは勝と大久保の尽力の賜物です。
そして、江戸城の引き渡しは、4月11日に決まったのです。
 しかし、ことはこれで終りではなかったのです。4月9日にな
って、陸軍副総裁並の白戸石介が、陸海軍一同の嘆願書を持参し
て、勝海舟に対し官軍側と掛け合って欲しいと申し入れてきたの
です。その内容は次の3つです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1.江戸城は田安亀之助にお預け願いたい
  2.徳川家の相続者に尾張家はご勘弁願いたい
  3.軍艦、銃砲は家臣の録高で持てるようにして欲しい
                ──古川愛哲著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 これを受けて、勝と大久保は早速官軍の先鋒軍本営である池上
本門寺に出かけて行ったのです。応対したのは、参謀の海江田武
次と木梨精一郎の2人です。
 冒頭、海江田は、「勅命は天皇の言葉であって、一度出たら変
更はできない」と釘を刺したのです。このやり取りのなかで「徳
川の相続者が尾張家から出るというのは何の根拠もない噂であり
あり得ない」という言質を引き出したのです。何しろ勝と大久保
といえば、交渉の達人──今どきのタフ・ネゴシエーターであり
とても海江田や木梨が勝てる相手ではないのです。
 こういう状況を読んで、勝と大久保は次の3つのことを要求し
たのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
         1.軍艦引き渡しの件
         2.武器引き渡しの件
         3.江戸城の人材の件
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1は「軍艦引き渡しの件」です。
 勅命には「軍艦」と表記してあったのです。勝はこれを逆手に
取り、軍艦でない護送船は返せ!と逆襲したのです。勅命は変え
られないのだからそうすべきだと要求したのです。
 第2は「武器引き渡しの件」です。
 武器はすべて引き渡せということですが、その武器を扱う歩兵
が4000名もいるので、この歩兵を官軍で引き取ってもらいた
いという要望です。武器を取り上げられた歩兵をこちらでは雇う
力はないという理屈です。もし、官軍がこれを拒否すると、彼ら
は生活に困るので、暴徒化して江戸の治安を乱す恐れがある──
このように脅したのです。
 第3は「江戸城の人材の件」です。
 江戸城内には、倉庫、各種工場、木材などの多くの建物と物資
があり、それらを守る守衛が数百人いる──それらの守衛もすべ
て引き取って欲しいという申し入れです。
 敗戦処理なのにムシのよい申し入れではあったのですが、海江
田と木梨は「審議のため一日時間が欲しい」といったので、勝と
大久保は引き揚げたのです。
 翌日の4月10日に勝と大久保が池上本門寺に行ったところ、
江戸城の田安家お預けの件を含む3つの要望はすべてOKという
ことになったのです。勝と大久保の交渉力は驚くべきものである
といえます。官軍はこういうことに慣れておらず、勝と大久保に
手もなくひねられてしまったのです。
 そして、翌4月11日、江戸城引き渡しが行われたのです。こ
の式は大久保一翁が徳川家を代表して行われ、きわめて簡略のう
ちに実施されたのです。勝海舟はこれについて「幕末始末」に次
のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 四月十一日、城地、武器、その他、引き渡しの式終わる。官人
 の入城せし者は、柳原前光、西郷吉之助、その他五、六名。我
 が方、その式に臨むものは、田安中納言、大久保一翁、その他
 五、六名。礼譲謹厳、その式を完うしてやむ
                ──古川愛哲著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 これで徳川260年の幕が一応平穏のうちに下りたのですが、
実は勝海舟にとっては、これからが大変だったのです。しかし、
その勝の苦労はほとんど伝えられていないのです。
        ―――─  [明治維新について考える/31]


≪画像および関連情報≫
 ●大久保一翁について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  低身分から出世した一翁は実力ある官僚と評価され、松平慶
  永や勝海舟ですら敬服したと言われている。勝の出世の方途
  を開いたのが一翁であり、元々は一翁は勝にとって上司に当
  たる。なので、勝にとっては敬服というよりも恩義がまずあ
  り、後は幕末時に共に政局混乱終息に動いた数少ない同志と
  しての思いが強いといえる。勝の方が重要な政局に当たった
  ため、一翁の名は勝ほど知られていない。勝海舟や山岡鉄舟
  らと共に江戸幕府の無血開城に貢献したため、「江戸幕府の
  三本柱」といわれる。        ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

大久保一翁/江戸城無血開城の影の立役者.jpg
大久保一翁/江戸城無血開城の影の立役者
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2011年03月24日

●「天璋院は江戸城開城にどう対応したか」(EJ第3022号)

 江戸城開城──この連絡は江戸城の大奥にはどのように知らさ
れたのでしょうか。大奥を束ねる天璋院の側からこれを見ること
にします。
 慶応4年(1868年)4月8日のことです。大総督の宮から
「11日の夕方までには城内はすべて退去されよ」という指令が
出されたのです。
 江戸城に残っている閣僚たちは鳩首談合し、四院と御台所につ
いてその移転先を次のように決めたのです。閣僚といっても上の
役職の者がすべて逃げ出してしまったので、はるかに低い地位の
者が重要なことを決めなければならなかったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    静寛院/実成院 ・・・・・     清水邸
    天璋院/本寿院 ・・・・・     一橋邸
    慶喜御台所   ・・・・・ 小石川梅の御殿
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで実成院は家茂の生母、本寿院は家定の生母です。ところ
で、慶喜の御台所の一条美賀子は大奥に入っておらず、他の院と
は別の扱いになっています。
 この伝達はすぐ行なわれ、三院──静寛院、実成院、本寿院は
素直に受け入れ、さっそく身の回りの準備をはじめたのですが、
天璋院は頑としてこれを受け入れなかったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 やがて対面の間ではるかな下座に控える用人に向って篤姫は鋭
 く呼びかけた。「そのほうたちに改めてたずねる。主は誰にい
 らせられるか」と聞いた。平伏している用人は、これはいぶか
 しきこと、と少し頭を下げて「は、将軍家にいらせられます」
 と答えるとただちにたたみかけられ、「ならば、城明け渡しは
 その将軍家よりご命令が下されしものか。主なき空城を、むざ
 むざと敵の手に渡せよというご命令がもはや下されたのか」と
 詰め寄られ、用人は冷汗三斗の思いで、「上さまはただいまご
 謹慎中にて、直接のご命令にてはございませぬが」と口ごもる
 と、はげしい叱責が降ってきて「上さまは近々水戸にお移り遊
 ばされるが、ご胸中何か思し召しあるやも知れず、その先途も
 見届け奉らず幕臣が我が手で我が城を敵に明け渡すと申すか。
 いい甲斐もなき者どもなり。徳川譜代の臣ならばいまこそ神君
 以来の恩顧にこたえ、この江戸城だけは死守すべきが武士の道
 というものであろう。女子なれどもこの天璋院、ここに在るか
 らには決して城は明け渡さぬ。そのほう帰りて閣老にこのよし
 伝えよ」といい渡した。
      ──宮尾登美子著『天璋院篤姫』下/講談社文庫刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 江戸城の閣僚たちは、想定外の天璋院の抵抗に遭い、困惑した
のです。しかもいっていることは筋が通っており、正面からは反
論ができないのです。
 4月9日の夜遅くになって、ひとつの結論が出たのです。それ
は「方便を以ってしても移し参らすべし」というものであったの
です。要するにウソをついて移ってもらうしかないという結論で
あったのです。
 10日の朝、天璋院掛りの用人4人と用達6人、計10人が対
面の座にやってきて、滝山を通じて天璋院に拝謁を申し出たので
す。最初のうちは天璋院は目通りを許さなかったのですが、滝山
の説得で拝謁が許されたのです。
 しかし、じきじきの目通りは許さず、一段高い席に座り、御簾
を下ろさせて顔が見えない状態での対面であったのです。そうい
う天璋院に対して、用人の頭である岩佐摂津守はおそるおそる次
のように言上したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 このたびのおん立ち退きは、朝廷からの御旨意を承りし証しと
 して、3日間だけお城をお出遊ばし頂きたく、その後はまたご
 帰城の沙汰を当方よりさし向け奉りますに付き、何とぞ了承願
 い上げ奉ります。             ──岩佐摂津守
      ──宮尾登美子著『天璋院篤姫』下/講談社文庫刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 つまり、「3日のうちに移去」というのを「3日間だけ移去」
に置き換えるウソをついたのです。もちろん天璋院はそれを信じ
たわけではなかったのですが、このウソによって一応振り上げた
拳を下ろすことができたのです。
 実際に天璋院は、自分の荷物については、「3日以内に戻るな
らたくさん持って行く必要はない」として、ほとんどを置いて出
ているのです。天璋院は最初から最後まで慶喜とは波長が合わな
かったといえます。もともと天璋院篤姫は、一橋慶喜を将軍する
ために斉彬の命にしたがって将軍家定に嫁いだのです。
 しかし、篤姫は、慶喜にはじめて会ったときから何となく違和
感があり、むしろ家茂の方がはるかに将軍にふさわしいと感じて
いたのです。その慶喜に最後の最後まで天璋院は翻弄されたこと
になります。
 天璋院は移転の翌日の12日に唐橋を通じて本当のことを聞か
されたときも何の動揺も見せなかったといいます。何もかも承知
の上での演技であったようです。しかし、天璋院はその後、徳川
家歴代の位牌を安置してある部屋に籠り、長い間出てこなかった
といいます。
 「人の長たるもの、かりにも前途の衰退を匂わせる言動はして
はならぬ」とはかつてあの幾島から教えられた基本であって、徳
川家の存続を固く信じてまわりの者にいってきたことを最後の最
後まで守り抜いたのです。
 とくに天璋院は、徳川家を滅ぼした敵の中に、出身の薩摩藩が
入っていることにも悩んでおり、後日その薩摩藩から年に3万両
の資金提供を申し出られたときには断固としてそれを撥ねつけて
いるのです。  ―――─  [明治維新について考える/32]


≪画像および関連情報≫
 ●天璋院の晩年の生活
  ―――――――――――――――――――――――――――
  江戸も名を東京に改められた明治時代。鹿児島に戻らなかっ
  た天璋院は、東京千駄ヶ谷の徳川宗家邸邸で暮らしていた。
  生活費は倒幕運動に参加した島津家からは貰わず、あくまで
  徳川の人間として振舞ったという。規律の厳しかった大奥と
  は違った自由気ままな生活を楽しみ、旧幕臣・勝海舟や静寛
  院宮とも度々会っていたという。また、徳川宗家16代・徳
  川家達に英才教育を受けさせ、海外に留学させるなどしてい
  ていたという。           ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

天璋院篤姫/大河ドラマ.jpg
天璋院篤姫/大河ドラマ
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2011年03月25日

●「彰義隊の発足と渋沢成一郎」(EJ第3023号)

 江戸城開城後もいろいろなことが起こったのです。徳川慶喜が
江戸城を出て上野寛永寺で謹慎に入ったのは、慶応4年(186
8年)2月12日のことです。
 これに不満を持った幕臣の本多敏三郎と伴門五郎が中心になっ
て有志への会合を呼びかけたのです。この呼びかけに応えて2月
12日に雑司ケ谷の酒楼「茗荷屋」に一橋家ゆかりの者が17名
集まったのです。
 12日の会合では、慶喜の復権や助命が話し合われたのです。
この動きは次第に拡大していくのです。2月17日には円応寺で
第2回目の会合が行われ、30名が集まっています。
 2月21日には、一橋家に仕える幕臣の渋沢成一郎を招き、諸
藩の藩士や旧幕府を支持する志士が集まったのです。ここで単な
る会合は組織化され「尊王恭順有志会」が結成されます。ちなみ
に渋沢成一郎は、あの渋沢栄一の親戚に当ります。
 2月23日に会の結成式が浅草の東本願寺で行われ、会の名称
を次のように決めたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     大義を彰(あきら)かにする → 彰義隊
―――――――――――――――――――――――――――――
 頭取には渋沢成一郎、副頭取には天野八郎が投票によって選出
され、この会の発起人である本多敏三郎と伴門五郎は幹事の任務
についたのです。彰義隊の発足です。
 これに頭を抱えたのは、勝や大久保らの旧幕府首脳です。彰義
隊が新政府に対する軍事組織としてとられるのを恐れ、江戸市中
取締りの任を与えたのです。彰義隊は千人を超える規模に達し
4月3日にその本拠を東本願寺から上野寛永寺に移したのです。
 勝と大久保にはもうひとつ頭の痛い問題が生じたのです。それ
は、その時点でも事実上幕府の海軍を率いていた榎本武楊は、開
陽、回天、蟠竜、千代田形、神速丸、美賀丸、咸臨丸、長鯨丸の
8艦から成る旧幕府艦隊を品川沖に集結させ、官軍との交渉結果
を見守っていたからです。
 上野に彰義隊、品川に旧幕府海軍──別に意識してそういう背
景を作ったのではありませんが、勝海舟と大久保一翁はそれを背
景に強気の交渉を行ったのです。とくに無傷の幕府の海軍は、新
政府軍にとって脅威であり、しかも軍艦8隻が品川に集結してい
ることは新政府軍に無言の圧力になったのです。
 ここで当時の軍艦がどの程度の戦闘力を持っていたかについて
知っておく必要があります。旗艦開陽は、幕府がオランダに造船
を依頼した最後の船なのです。当初装備の大砲は26門だったの
ですが、あとから9門追加して35門を持つ当時世界トップクラ
スの戦艦だったのです。
 もし、新政府軍が江戸を攻める場合、品川付近に大軍を配置す
る必要がありますが、それにめがけて開陽をはじめとする旧幕府
海軍の軍艦が艦砲射撃を行うと、多大の犠牲者が出てしまうこと
になるのです。つまりその時点では、旧幕府軍が完全に制海権を
握っていたのです。
 総督府は、たびたび勝と大久保を呼び出し、彰義隊を何とかし
ろと再三にわたって命令してきたのですが、千名をはるかに超え
る組織になっていた彰義隊は、既に旧幕府にはコントロールでき
ない存在だったのです。
 慶応4年4月7日に総督府・大監察使三条実美から次の勅命が
下ったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       徳川家は田安亀之助に相続させる
―――――――――――――――――――――――――――――
 新政府軍は彰義隊の膨張を心配していたのです。なぜなら、そ
の時点で彰義隊は、新政府軍と一戦交えようと各地から脱藩兵が
続々と参加し、3千人ほどに膨れ上がっていたからです。
 そのため、新政府軍としては、徳川家の相続を早く認めること
によって、慶喜を水戸に退去させれば彰義隊は解散させられるの
ではないかと考えたのです。もともと彰義隊は慶喜の身辺警護を
目的として作られたものであったからです。
 徳川慶喜が上野寛永寺から水戸へ向かったときの様子について
『徳川慶喜の無念』の著者は次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 慶喜が上野寛永寺を出て、水戸に向かったのは慶応四年四月十
 一日である。「公は積目の憂苦に顔色憔悴して、髪は増毛(は
 り鼠の毛)のごとく、黒木綿の羽織に小倉の袴を付け、麻裏の
 草履を召されたり。精鋭隊、遊撃隊、彰義隊など二百人ほどが
 護衛せり。拝観の人々、悲涙胸を衝き、鳴咽して仰ぎ見る者な
 かりき」『徳川慶喜公伝』はこの日の模様をこう記している。
 髪が本当にぼさぼさになっていたのか、信じがたい部分もある
 が、敗軍の将の惨めさはいつの世も同じである。江戸城中の金
 も底をついており、新門辰五郎が二万両を持参し、慶喜の当座
 の賄い費に当てる窮乏ぶりであった。
               ──星 亮一・遠藤由紀子共著
       『最後の将軍/徳川慶喜の無念』より/光人社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 彰義隊は慶喜を下総松戸まで護衛して行ったのですが、彰義隊
自体は寛永寺に残ったのです。彰義隊は、寛永寺貫主を兼ね同寺
に在住する日光輪王寺門跡公現入道親王を擁して徳川家霊廟守護
を名目に寛永寺を拠点として江戸に残り続けたのです。
 渋沢成一郎は慶喜が江戸を退去したため、彰義隊も江戸を退去
し、日光へ退く事を提案したのですが、天野八郎は江戸での駐屯
を主張したため分裂します。しかも、天野派の隊士の一部が渋沢
の暗殺を図ったため、渋沢は彰義隊を離脱してしまうのです。勝
海舟は彰義隊に対し、再三解散を要請したのですが、彰義隊は聞
く耳を持たなかったのです。
        ―――─  [明治維新について考える/33]


≪画像および関連情報≫
 ●渋沢成一郎とは何者か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1838年、武蔵国血洗島村(現埼玉県深谷市)の農民・渋
  沢文左衛門(文平)の長男として生まれる。青年に達した成
  一郎は尊皇攘夷の志をもった親戚の篤太夫(後の渋沢栄一)
  らと共に高崎城乗っ取り計画を計画するも頓挫。一旦は江戸
  へ逃れるが、元治元年(1864年)、一橋家当主一橋慶喜
  に仕える。当初は四石一人扶持だったが、一橋家農兵の徴募
  係として各地の農村との交渉役を経て、その功績が認められ
  慶応2年(1866年)に陸軍附調役に昇格して百俵の扶持
  米が与えられた。そして慶応3年(1867年)には、一橋
  家当主だった慶喜が将軍になると奥右筆に任じられ、上京し
  ている。              ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

渋沢成一郎.jpg
渋沢 成一郎
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2011年03月28日

●「新政権はなぜ彰義隊の膨張を許したのか」(EJ第3024号)

 このところ総督府という言葉がたびたび登場します。「総督府
とは何か」──この説明をして先に進みたいと思います。
 総督府とは総督のいる場所をあらわします。総督とは正式には
「東征大総督」といい、鳥羽・伏見の戦いで設置された征討大将
軍職が廃止されたので、その代りに新政府が設置した役職です。
 東征大総督とは、幕末期に旧江戸幕府軍勢力制圧のために明治
新政府が設置した臨時の軍司令官のことです。有栖川宮幟仁親王
は、新政府の総裁に任命されていましたが、朝廷は有栖川宮幟仁
親王を総裁在任のまま東征大総督に任命し、先行して設置されて
いた東海道、東山道、北陸道の鎮撫使を改めて、先鋒総督兼鎮撫
使として東征大総督府の指揮下に置いたのです。
 総督府といわれているものには次の6つがあります。それぞれ
の総督を記載しておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
   東征大総督府   ・・・・・ 有栖川宮幟仁親王
   奥羽鎮撫総督府  ・・・・・     九条道孝
   北陸道鎮撫総督府 ・・・・・ 高倉三位(永祐)
   東山道鎮撫総督府 ・・・・・ 岩倉大夫(具定)
   東海道鎮撫総督府 ・・・・・ 橋本少将(実梁)
   海軍総督府    ・・・・・ 大原侍従(俊実)
  http://www.eonet.ne.jp/~kazusin/meibo/sotokufu.htm
―――――――――――――――――――――――――――――
 それでは、西郷隆盛という人はどういう地位に就いていたので
しょうか。西郷の役職は次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       西郷吉之介 東征大総督府/下参謀
―――――――――――――――――――――――――――――
 東征大総督府の参謀には「上参謀」と「下参謀」があり、西郷
はトップの有栖川宮幟仁親王から数えて4番目に当ります。
 この中で江戸を担当する東海道鎮撫総督府のトップにどういう
人物がいたかを調べてみると、次のようになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
    東海道鎮撫総督府
    総督  ・・・・・ 橋本少将(実梁)
    副総督 ・・・・・ 柳原侍従(前光)
    参謀  ・・・・・ 木梨精一郎/海江田信義
―――――――――――――――――――――――――――――
 この中で実務を仕切っていたのは、参謀の木梨精一郎と海江田
信義の2人なのですが、彼らはどちらかというと、旧幕府寄りの
姿勢であり、勝海舟や大久保一翁とはうまくやっていこうとする
一派なのです。勝の巧妙な工作によって取りこまれた連中といっ
てよいと思います。
 しかし、彰義隊が結成され、慶喜が水戸に行ったあとも上野寛
永寺に居座り、江戸に駐留する新政府軍の兵士たちとのトラブル
が頻発するに及んで、中央政権の明治新政府は東海道鎮撫総督府
に対して強い不信感を募らせるようになったのです。
 とくに彰義隊から渋沢成一郎が去ってからというものは、彰義
隊の横暴は目に余るものがあり、これは勝海舟の策略ではないか
と新政権はますます懸念するようになったのです。
 そのときの彰義隊の隊員は、慶応4年(1868年)2月17
日に円応寺に集まった幕臣や元幕臣ではなく、旧幕府とは何の関
係もない者たちが隊の多数を占めるようになっていたのです。し
かも人数はさらに増えて、総勢3000人を超えるまでに膨張し
ていたのです。
 どうしてこのように彰義隊に人が集まったのかというと、「実
にけしからぬ料見」を持っていたからという説を唱える人もいま
す。その「料見」とは、その頃朝廷が旧幕府に関八州を与えると
いう風評が流れており、彰義隊の人たちはそれを自分たちの行動
の成果だと信じていたというものです。実際にはそんなことがあ
るはずもなく、勝手に夢を膨らませていただけだったのです。渋
沢成一郎は彰義隊のこうした状況を見て、離隊を決意したといわ
れています。
 新政権が彰義隊に対していまひとつ攻めあぐんでいたのは、彼
らが寛永寺貫主・輪王寺宮を奉じていたことです。輪王寺宮は、
伏見宮邦家親王の第9王子で、後の北白川宮能久親王です。
 輪王寺というのは、日光市にある寺院であり、天台宗の門跡寺
院です。創建は奈良時代であり、近世には徳川家の庇護を受けて
繁栄を極めたのです。もともと「日光山」と呼ばれていた「二社
一寺」であり、東照宮、二荒山神社、輪王寺の3つです。北白川
宮能久親王は最後の輪王寺宮なのです。「輪王寺」は日光山中に
ある寺院群の総称なのです。東照宮は徳川家康を「東照大権現」
という「神」として祀る神社として有名であり、日光は徳川家と
深い縁があるのです。
 北白川宮能久親王は、慶応3年(1867年)5月に江戸に下
り、寛永寺貫主・輪王寺門跡を継いだのです。輪王寺宮は、慶応
4年(1868年)3月に旧幕府の依頼を受けて駿府に赴き、有
栖川宮幟仁親王と会い、慶喜の助命嘆願と東征軍の進軍停止を求
めたのです。
 しかし、助命については条件を示されたものの東征中止は熾仁
親王に一蹴されてしまったのです。その対応はとても同じ皇族に
対するものではなく、輪王寺宮に随行していた側近の輪王寺執当
覚王院義観は非常に憤っていたといわれます。
 天野八郎を頭取としながも、この覚王院義観なる人物が事実上
彰義隊を仕切っていたといえるのです。さらに新政権があまり強
く出られない背景には、朝敵とされて新政府に敵対する会津藩や
庄内藩と、それに両藩に対して同情的な東北諸藩が彰義隊と呼応
しかねない情勢にあったからです。そうなると、新政府軍として
も容易ならざる勢力になってしまうのです。
        ―――─  [明治維新について考える/34]


≪画像および関連情報≫
 ●「日光山」について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  日光山内の社寺は、東照宮、二荒山神社、輪王寺の3つに分
  かれ、これらを総称して「二社一寺」と呼ばれている。なか
  でも東照宮は、徳川家康を「東照大権現」という「神」とし
  て祀る神社である。一方、二荒山神社と輪王寺は奈良時代に
  山岳信仰の社寺として創建されたもので、東照宮よりはるか
  に長い歴史をもっている。ただし、「二社一寺」がこのよう
  に明確に分離するのは明治初年の神仏分離令令以後のことで
  あり、近世以前には、山内の仏堂、神社、霊廟等をすべて含
  めて「日光山」あるいは「日光三所権現」と称し、神仏習合
  の信仰が行われていた。       ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●写真出典/ウィキペディア「北白川宮能久親王」

北白川宮能久親王.jpg
北白川宮能久親王
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2011年03月29日

●「3つの柱に支えられた勝海舟の戦略」(EJ第3025号)

 彰義隊を事実上仕切っていた輪王寺執当覚王院義観としては、
輪王寺宮が上野を離れない限り、新政府軍の攻撃を受けることは
ないと読んでいたのです。そのため、新政府としては輪王寺宮に
対していろいろな働きかけをしたのです。
 そのひとつに輪王寺宮の実父である伏見宮邦家を通じて入京を
進言してきたことがあります。とにかく輪王寺宮を上野から引き
離して、彰義隊の大義名分を奪おうとしたのです。しかし、輪王
寺宮はこれを正式に謝絶し、逆に薩摩・長州・土佐・芸州の4藩
を凶賊とする檄を発したのです。
 この時点になると、もはや彰義隊は勝海舟のコントロールの効
く存在ではなくなっていたのですが、もともと勝が描いていたと
思われる戦略について述べておくことにします。
 勝海舟の戦略には次の3つの柱があったのです。
 第1の柱は彰義隊です。既に述べたように彰義隊は単なる烏合
の衆ではなく、旧幕府から正式な組織として承認を与えられてい
るのです。渋沢成一郎は旧幕府に対して彰義隊結成を届けると共
に武器と兵糧の支給を願い出ているのです。
 これに対して徳川慶喜が後事を託した第11代将軍・徳川家斉
の実子で、前津山藩主の松平斉民が渋沢成一郎を呼び出し、粗暴
の行動がないよう十分に諭したうえで、彰義隊はその存在を承認
されているのです。
 第2の柱は元歩兵奉行の大島圭介が、伝習隊などの幕府歩兵隊
を率いて、江戸から脱出したことです。江戸城開城の条件として
旧幕府軍が保有する小銃、大砲、弾薬、軍艦などはすべて新政府
軍に提出することになっていたのですが、それを嫌った大島圭介
は武装した旧幕府歩兵隊を率いて江戸から脱出したのです。その
人数は、実に1000人〜2000人にもなるのです。この旧幕
府陸軍は、一糸乱れず、徳川家の霊山である日光方面を目指して
行進したのです。
 これに対して新政府の東海道軍は追撃する余力はなく、傍観す
るしかなかったのです。大島はそのあたりを十分見越して江戸を
脱出したのです。
 なぜ、江戸に入った東海道軍が少なかったのかというと、小栗
忠順の戦略を警戒したからです。なぜ、これが新政府軍に漏れた
かは不明ですが、東海道軍が警戒していたことは事実です。
 小栗忠順の戦略とは、もともと大軍が通れない最大の難所であ
る箱根峠において東海道軍を迎撃し、その側面を榎本武楊の率い
る旧幕府艦艇によって砲撃する作戦のことです。これを防ぐため
東海道軍は少ない人数で進軍し、江戸に入ったのです。
 第三の柱は榎本奉行率いる海軍の逃走です。江戸城開城の条件
として、軍艦の一部を新政府軍に引き渡すことになっていたので
すが、勝は約束通り、旧幕府艦艇を呼び戻し、その一部を引き渡
しています。しかし、開陽などの主力艦については温存し、榎本
武楊に預けたのです。榎本はこれらの艦隊を率いて江戸を離れ、
独自の航路に進んだのです。
 勝としては、江戸市中に彰義隊を置いて治安を撹乱させ、日光
方面に進む重武装の旧幕府歩兵隊、そして榎本武楊率いる旧幕府
艦隊──これら3つの柱によって手薄の東海道軍を心理的に牽制
し、慶喜の水戸での謹慎解消と一日も早い駿府への赴任を大総督
府に求めたのです。
 さて、ここで彰義隊を離れた渋沢成一郎のその後について述べ
る必要があります。
 渋沢成一郎は、彰義隊を離脱するのにさいして、次の2つのこ
とを約束しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
        1.誓いて官軍とならざる事
        2.  誓いて降伏せざる事
                    ──『彰義隊戦史』
            菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』
―――――――――――――――――――――――――――――
 渋沢がこの誓いを出したのは、彰義隊は離れるが、もともと志
は同じであり、もし彰義隊が新政府軍と戦うときは、援軍として
乗り出すつもりでいたからです。
 渋沢と行動をともにした人数は百人程度といわれていますが、
菊地明氏によると、それほど大勢でなく、せいぜい数十人ぐらい
といっています。しかし、その後、渋沢の同調者の尾高新五郎が
中心になって改めて彰義隊から同志を募った結果、200名近い
人数になったといわれています。
 そこで、渋沢成一郎は、堀之内(東京都杉並区堀之内)にある
「信楽」という茶屋で会合を持つのです。そのとき集まったのは
80人〜90人程度であったといわれています。
 この茶屋で話し合われたことは、江戸から一定距離離れたとこ
ろに本部を置くという方針です。そこで選ばれた場所は「田無」
(現西東京市田無町)──堀之内から12キロ北西にある青梅街
道の宿場町だったのです。
 彼らが田無に姿を現したときは、その軍勢は300人を超えて
いたというのです。そして田無の西光寺を本陣とし、密蔵院、太
子堂、観音寺を宿舎にしたのです。そしてこの軍勢は「振武軍」
と名付けられ、渋沢成一郎を総隊長、尾高新五郎を中軍隊長兼目
付役になったのです。
 実はこの振武軍の尾高新五郎はなかなかちゃっかりしているの
です。尾高新五郎は田無に行く前に、20人ほどの隊員を連れて
飯田町(現在の千代田区)にあった旧幕府の営所に行き、新政府
軍を装って300挺の小銃を手に入れているのです。
 しかし、振武軍が田無に行ってから検討して判明したことがあ
るのです。田無は、その当時の内藤新宿──内藤新宿町は東京都
豊多摩郡にかつて存在した町の一つであり、現在の新宿と考えて
よい──その内藤新宿から16キロほどしかなく、奇襲を受ける
恐れがあったことです。─  [明治維新について考える/35]


≪画像および関連情報≫
 ●幕府伝習隊と大島圭介
  ―――――――――――――――――――――――――――
  江戸開城時に、江戸の旧幕府軍の多くは新政府に帰順したが
  伝習隊の多くは帰順しなかった。1868年(慶応4年)2
  月から4月にかけて、2000人から3000人の幕府歩兵
  隊や新選組などが江戸を脱走した際に、大鳥圭介に同行して
  伝習第一大隊、第二大隊の1100名ほどが脱走した。脱走
  した伝習隊などの約2000人は、4月12日に下総市川の
  国府台に集結して、大島圭介を総督(隊長)、土方歳三を参
  謀として部隊を編成した。その後、北関東に向かい、途中の
  小山で西軍を撃破した。       ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●図の出典/ウィキペディア「幕府陸軍」

幕府伝習隊.jpg
幕府伝習隊
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2011年03月30日

●「天才軍略家大村益次郎の登場」(EJ第3026号)

 田無は、当時の内藤新宿(新宿)から16キロほどしかなく、
新政府軍から奇襲を受ける恐れがあると振武軍の総隊長である渋
沢成一郎は考えたのです。振武軍の本隊は江戸から最低でも40
キロ以上離しておく必要がある、と。
 なぜ、40キロかというと、その当時の一日の移動距離が40
キロだったからです。したがって、40キロ以上あると、必ず途
中で一泊する必要があります。攻めてこられる立場に立つと40
キロ以上離れていると、情報も入ってくるし、対応策もとれるこ
とになる──これが40キロ以上離す理由です。
 そういうわけで選ばれた場所は、日本橋から約45キロ、内藤
新宿から37キロ離れている箱根ヶ崎(西多摩郡瑞穂町)だった
のです。電車でいうと、八高線の「箱根ヶ崎駅」です。日光街道
と青梅街道の合流点の町です。
 なぜ、箱根ヶ崎を選んだのかというと、それは飯能市に近いか
らなのです。飯能は箱根ヶ崎からの距離は約7キロと近く、付近
の諸村が一橋家の諸領であって、渋沢は何度も行ったことがあり
土地勘があるからです。
 しかし、江戸から遠くに離れれば離れるほど、江戸での情報は
入りにくくなります。今のように通信の発達していない時代のこ
とですから、情報を入手する手段を講じておく必要があります。
 そのため、渋沢は田無に一定の軍を配置しておき、ここを中心
に江戸に向けて、淀橋、内藤新宿、四谷、番町に斥候を置き、上
野の彰義隊の動きを監視していたのです。
 ちなみに「淀橋」とは、新宿区と中野区の境の神田川にかかる
橋の名称です。当時淀橋というと、現在の西新宿の5丁目と6丁
目の西半分の地域を指す名称なのです。
 もし、上野に動きがあると、田無に近い拠点に早馬を走らせ、
次々と田無に連絡を入れる仕組みです。勝利するにせよ、負ける
にせよ、上野の彰義隊の兵士は相当数が田無には集積するはずで
あり、田無は一大戦略拠点になると渋沢は考えたのです。しかし
田無から箱根ヶ崎まではかなりの距離があり、結局のところ、上
野戦争には情報の遅れで振武軍は参戦できなかったのです。その
結果、「飯能戦争」が起きることになるのです。
 ここで時計の針を少し戻して、中央政権の明治政府がどう対応
したのかについて考えてみることにします。まず、江戸の実情を
正確に把握する必要がある──こう考えた明治政府は、佐賀藩の
江藤新平を江戸に派遣し、江戸の実情を探らせたのです。
 江藤新平とはどういう人物であったのかについて、渋沢栄一は
次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 人の過ちというものは、それぞれの性質によって違っている。
 ・・西郷は仁愛に過ぎて、過ちを犯した。・・木戸孝允も仁愛
 に傾いた人であるから、過失があったとすれば、仁愛に過ぎた
 ことからきたものであろう。・・これに反し肥前の江藤新平は
 残忍に過ぎる人であった。彼は人に接すれば、何はさておきま
 ずその人の欠点を見破ることに努め、人の長所を見ることは後
 回しにした。佐賀の乱を起こして政府と戦ったが、けっして仁
 愛心から出たものではなかった。      ──渋沢栄一著
   「孔子―人間どこまで大きくなれるか」より/三笠書房刊
  http://www.geocities.jp/kazumihome2004/10-7.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 江藤の調査によると、江戸の総督府が勝海舟や大久保一翁に籠
絡されており、このままでは危ないというものであったのです。
そこで新政府は、彰義隊の討伐と既に戦端が開かれている奥羽越
列藩同盟の戦いの指揮を執る責任者として元長州藩士・大村益次
郎を派遣することにしたのです。肩書きは、軍防事務局判事だっ
たのです。
 大村が江戸に乗り込んでくると、総督府の幹部たちは中央政府
から派遣された大村に対して冷たい態度をとったのです。情報も
上げないし、事実を隠蔽しようとする。現在の官僚とまるで同じ
です。そのため、大村は江戸城で孤立感を深めたのです。
 こういう事情を知った新政府は、直ちに大監察使・三条実美を
江戸に派遣したので、大村の孤立は解消されたのです。三条実美
が大村のバックにつくことによって、物事がスムースに動くよう
になったのです。
 大村は次々と手を打って、勝海舟の戦略を潰しにかかったので
す。勝の戦略の3つの柱──彰義隊、大島率いる旧幕府歩兵隊、
榎本率いる旧幕府艦艇のうち、旧幕府歩兵隊については、東山道
軍を強化して歩兵隊を日光方面に押し込み、旧幕府艦艇に対して
は補給港を封鎖して、戦力のジリ貧化を図り、少なくとも江戸に
は接近させないようにしたのです。そのうえで、彰義隊を一気に
殲滅する作戦を練ったのです。
 軍略の天才といわれる大村からみると、上野の彰義隊などは別
に戦略を練らなくても力でもねじ伏せることは可能であったので
すが、大村にはこの戦いは単に彰義隊を殲滅するだけでなく、次
の3つの目標を果たす必要があったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
        1.勝海舟の野望を粉砕する
        2.一気に彰義隊を殲滅する
        3.新政府軍の力を誇示する
―――――――――――――――――――――――――――――
 第一に3つの柱の1つを潰し、勝海舟の野望を絶つということ
です。そのためには一気に彰義隊を殲滅する必要があります。こ
れが第二です。もたもたしていると、江戸中に放火される恐れが
あるからです。大村は、勝が新門辰五郎に命じて江戸を焼き払う
作戦を知っていたからです。
 そして第三に見事な勝利を収めることによって、江戸市民に新
政府軍の力を見せつけ、新しい時代の来たことを実感させること
です。      ――─  [明治維新について考える/36]


≪画像および関連情報≫
 ●大村益次郎とは何者か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  大村益次郎は文政7年(1824)、周防国鋳銭司村(現、
  山口県山口市)の医者の家に生まれ、はじめ村田蔵六といっ
  た。広瀬淡窓について儒学を、緒方洪庵について蘭学を学び
  嘉永の初め宇和島藩に仕えて、はじめて西洋式軍艦を設計建
  造。さらに江戸に出て私塾『鳩居堂』を開き、幕府の講武所
  教授等を勤め蘭学者、蘭方医、兵学者としてもその名を高め
  た。ついで桂小五郎の推薦により長州藩に仕え、慶応2年、
  第二次長州征伐の折に、石州口の戦いを指揮して幕府軍を破
  り戦術家として脚光を浴びた。
   http://www.geocities.jp/bane2161/oomuramasujirou.html
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●肖像画出典/ウィキペディア「大村益次郎」

大村益次郎/肖像画.jpg
大村 益次郎/肖像画
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2011年03月31日

●「水も漏らさぬ彰義隊殲滅作戦」(EJ第3027号)

 大村益次郎は、江戸の総督府の将校たちにも彰義隊攻撃につい
て意見を聞いています。彼らの多くは彰義隊との戦いそのものに
反対し、もし、攻撃するには2万人の兵が必要であるという意見
を述べる者もいたのです。
 とくに参謀の海江田信義は、大村の意見にことごとく反対し、
2人の人間関係はきわめて険悪になったのですが、これが後の大
村益次郎の暗殺事件の遠因になるのです。
 攻撃するには2万人の兵が必要である──この説はいささか大
袈裟ではありますが、東海道軍の戦力を前提にすると、あながち
誇大な数字ではないのです。とにかく戦力としては、明らかに彰
義隊に劣っていたからです。
 そのため、大村は、佐賀、熊本、久留米、徳島などの西国勢を
江戸に呼び寄せる手を打つと同時に、実戦経験の豊富な鳥取藩兵
を東山軍から外して江戸に集めているのです。なぜ、このような
ことをしたのかというと、西国勢の兵士は実戦経験のない新兵が
多いので、その中にベテランを投入して軍の規律を強化し、戦闘
力を高めようとしたのです。
 しかし、こういうことをやろうとすると、膨大な戦費がかかる
ことになります。その額たるやざっと50万両は必要なのです。
大村はそういう戦費調達まで、すべて自分でやらなければならな
かったのです。
 大村は、米国に建造を依頼した軍艦の支払いのために大隈重信
が用意していた25万両を取り上げ、会計を担当していた由利公
生に命じて20万両の資金をかき集めるとともに、江戸城内の徳
川家の財宝まで売り払って、やっと50万両用意したのです。こ
れで作戦に必要な銃器や弾薬などを揃えて、やっと作戦の実施段
階に入ったのです。ここまでの作戦計画をすべて大村益次郎が一
人で練り上げたのです。
 作戦内容の詳細は省きますが、概要について述べておくことに
します。なお、「上野戦争」の記述については、次のサイトの記
事をベースにして書いています。より、詳細な内容については、
次のサイトを参照願います。
―――――――――――――――――――――――――――――
 「上野戦争」
 http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/boshinwar/ueno/main.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 大村は、全軍を次の2つの部隊に分けて編成し、実戦部隊はさ
らに3つに分かれます。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1.実戦部隊
     ・主攻撃部隊 ・・・ 寛永寺南方黒門口を攻撃
     ・助攻撃部隊 ・・・ 天王寺・谷中門口を攻撃
     ・ 砲撃部隊 ・・・ 不忍池越しに寛永寺攻撃
   2.警戒部隊
―――――――――――――――――――――――――――――
 寛永寺南方黒門口は、城でいうと大手門に当り、これを破るこ
とができると、勝利を手にすることができます。したがって、こ
こには、薩摩藩、鳥取藩、熊本藩の精鋭を配置しているのです。
 大村益次郎は、この作戦書を将兵に見せる前に、西郷隆盛に見
せて意見を聞いています。作戦書を見たときの西郷と大村の有名
な会話です。
―――――――――――――――――――――――――――――
     西郷 隆盛:薩摩兵を皆殺しにする気か
     大村益次郎:さよう
―――――――――――――――――――――――――――――
 ところで、この作戦では北東の根岸方面には部隊がおらず、開
いています。これは上野で徹底抗戦をさせないための処置なので
す。四方を塞いでしまうと、玉砕覚悟の徹底抗戦をしてくる可能
性が強く、そうなると味方の損傷も大きくなるからです。
 しかし、逃げ道を明けているものの、そのまま逃がすというこ
とではないのです。絶対に江戸府中に入れないため、神田川と隅
田川にかかる橋のすべてに警戒部隊を配置しているのです。
 さらに北東に逃走した彰義隊に対しては、再起の芽を摘むため
に、重要な宿場に警戒兵を配置し、さらに佐幕色の強い川越、古
河、忍の諸藩には監視兵を送るなど、まさに水も漏らさぬ配置に
なっているのです。
 作戦実施に先立って大村は、徳川家に委任していた江戸の治安
権を剥奪することを正式に布告しています。これによって、彰義
隊が行っていた治安維持活動は公務ではなくなったのです。
 慶応4年(1868年)5月13日、大村は作戦に参加する諸
藩兵に戦闘準備を布告し、ここで作戦図を配付しています。そし
て15日戦闘を開始することを宣言します。
 それから江戸市民に対し、攻撃前日には、15日には彰義隊を
攻撃するので、外出を控えるよう布告し、さらに15日から3日
間は河川の船の往来を禁止しています。彰義隊の兵士が船を使っ
て逃げることを防止したのです。
 そして徳川家に対しては、15日に攻撃するので、徳川家の財
宝を寛永寺から持ち出すよう通告したのです。これによって15
日の攻撃を知った勝海舟は、彰義隊の覚王院義観に対し、書状を
送り、寛永寺を出るよう勧めたのですが、無視されてしまったの
です。覚王院義観は断固戦い、勝利すると宣言したのです。
 なぜ、覚王院義観が強気だったかについては諸説があります。
そのひとつの説に、会津藩兵が江戸まで援軍を送って来ることを
信じていたというのがあります。
 大村の作戦に関し、せめて夜に攻撃すべきであるという多くの
声があったのですが、大村は白昼の決戦にこだわったのです。そ
れは江戸市民の目に彰義隊の敗北を見せつけたかったのと、夜陰
にまぎれての放火を警戒したからです。
         ――─  [明治維新について考える/37]


≪画像および関連情報≫
 ●戊辰戦争時の海江田信義について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  戊辰戦争では、東海道先鋒総督参謀となる。江戸城明け渡し
  には新政府軍代表として西郷を補佐し、勝海舟らと交渉する
  など活躍するが、長州藩の大村益次郎とは、もとより性格の
  不一致もあることながら意見が合わず、宇都宮の政府軍の庄
  内転戦、江戸城内の宝物の処理、上野戦争における対彰義隊
  作戦などをめぐってことごとく対立し、海江田は周囲の人間
  に「殺してやりたい」などと言うなど憎悪していた。
                    ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●写真出典/ウィキペディア

海江田信義.jpg
海江田 信義
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2011年04月01日

●「上野戦争/黒門口の戦い」(EJ第3028号)

 慶応4年(1868年)5月15日未明に新政府軍の彰義隊へ
の攻撃は開始されたのです。当日は前夜からかなり強い雨だった
といいます。
 大村益次郎が、14日に江戸市民に対し、15日には彰義隊を
攻撃するので、外出を控えるよう呼びかけたのには、別の意図が
あったのです。
 江戸市民に呼び掛ければ、当然彰義隊の兵士にもその情報は伝
わります。大村は、彰義隊は烏合の衆とみていたので、そういう
情報が伝われば、兵士たちの中からは多数の脱落者が出るとみて
いたのです。果たせるかな、多くの兵士が14日中に脱走して、
3000人の兵力は1000人に減ってしまったのです。大村の
狙いは見事に当ったのです。
 既に述べましたが、彰義隊の指揮官である義観や天野八郎は、
こういう事態になってもなぜか楽観していたのです。それは「会
津兵が援軍に駈けつけてくれる」ということを本気で信じていた
からです。しかし、その頃会津藩は自分の藩を守ることで必死で
あり、とても江戸へ救援に出かける余裕などなかったのです。
 さらに不思議なことに、新政府軍が15日に攻めてくるという
情報すら、義観や天野には伝わっていなかったのです。つまり、
彰義隊全体の指揮命令系統が確立されていなかったのです。まさ
に烏合の衆です。天野にいたっては、15日の朝、午前7時頃に
寛永寺山内を巡視していたとき、銃声を聞いてはじめて新政府軍
の攻撃を知ったという有様なのです。敵方の情報収集を何もやっ
ていなかったわけです。
 しかし、体制は整っていなかったものの、黒門口での戦闘にお
いて、彰義隊はなかなか善戦をするのです。といっても刀や槍で
の白兵戦での善戦ではなく、意外なことに、砲撃戦や銃撃戦に強
かったのです。
 その当時東叡山寛永寺は今と違って敷地が36万坪もあり、黒
門とは、東叡山寛永寺の「総門」、いわば「聖域上野山の総門」
のことです。その総門が黒いことから、黒門といわれるようにな
ったのです。上野戦争の戦闘配置図については、添付ファイルを
参照していただきたいと思います。
 彰義隊の砲撃戦の優位は、高いところから低いところへの砲撃
が効果的だったのです。彰義隊は、上野山内の山王台──現在の
西郷隆盛の銅像のある付近に砲台を築き、黒門に攻めかかる新政
府軍に対し、砲撃を加えていたのです。新政府軍も砲撃して応戦
したのですが、高地から低地への砲撃と、低地から高地への砲撃
では、どうしても後者が不利になります。
 もうひとつの戦闘である天王寺・谷中門口には主力の長州藩と
佐賀藩の兵士を中心とする軍勢が攻撃を開始しています。しかし
この団子坂から天王寺と谷中門にいたるまでには、多くの寺院が
あるのですが、彰義隊はそれらの寺院に隠れて銃撃を行ってきた
のです。したがって、新政府軍としては彰義隊の籠る寺院をひと
つずつ攻撃して奪い、進軍するしかなかったのです。
 ところが主力の長州藩兵の動きが今一つなのです。それは彼ら
の持つ銃のせいであったのです。といっても性能の古い銃ではな
いのです。長州藩兵にはこの戦いにさいして最新鋭のスナイドル
銃が配付されていたのです。この銃は銃身の後方から銃弾を装填
して撃てる銃であり、彰義隊の持つ前装銃とは比べものにならな
かったのですが、長州藩兵はこの銃の訓練を受けておらず、うま
く銃を扱えなかったのです。
 そのため、長州藩兵はいったん前線から撤退し、銃の扱い方の
指導を受けることになり、その代りに佐賀藩兵が前線に出て戦っ
たのです。主力が後退したのですから、この方面軍は不利になる
と普通は考えますが、ここは佐賀藩兵が頑張ったのです。
 実はこれも佐賀藩兵の持つ銃──スペンサー銃のせいであった
のです。この銃は後装銃であるだけでなく、ボルトアクションに
よって最大7連発が可能なのです。これを使えばいわゆる弾幕を
張ることが可能なのです。佐賀藩兵は長州藩兵と違い、この銃を
使いこなしていたのです。この佐賀藩兵の活躍により、天王寺・
谷中門口では彰義隊が混乱をはじめたのです。
 この天王寺・谷中門口での新政府軍の優勢の報告を受け、黒門
口の司令官は突破するのは今であるとして、ある作戦を敢行した
のです。その作戦とは、黒門口の東側にあった「雁鍋」という料
理屋の2階から山王台に向けて銃撃が行われたのです。さらにそ
れと前後して、今度は黒門口西側の料理屋「松源」の2階から黒
門口の彰義隊の指揮官の狙撃を行ったことです。
 さらにもうひとつ佐賀藩が活躍するのです。それは本郷台の砲
撃部隊です。佐賀藩砲兵隊はアームストロング砲を2門を使い、
不忍池越えに上野山内に砲撃を試みていたのですが、なかなかう
まく行かなかったのです。しかし、少しずつ着弾点を修正し、正
午頃には山内に届くようになっていったのです。
 そしてさらに命中の精度を高めて、山内の吉祥閣と中堂に命中
させ、炎上させるまでになったのです。この砲撃に彰義隊は動揺
します。さらに「鳥源」の2階から山王台への狙撃が効果を発揮
しはじめるのです。その結果、山王台からの黒門口への砲撃が少
し弱くなったのです。
 そのとき御徒町通りの薩摩藩遊撃一番隊や熊本藩兵とそれに鳥
取藩の山国隊が決死隊として、山王台脇の崖をよじ登り、山王台
に突入したのです。そして激しい銃撃戦の結果、山王台を占拠す
ることに成功します。
 しかし、それでも黒門口は落ちなかったのです。しかし、西郷
の命により、広小路の薩摩藩城下士小銃隊1番隊と2番隊が黒門
口に突撃し、突破します。これに呼応して鳥取藩兵とみられる一
隊が不忍池を回り込み、佐賀藩砲撃隊が砲撃する弾道の下を潜り
穴守稲荷を攻め、これを破って山内への突入に成功します。これ
によって彰義隊は総崩れになったのです。
         ――─  [明治維新について考える/38]


≪画像および関連情報≫
 ●藤井尚夫歴史探訪/上野彰義隊戦争とは
  ―――――――――――――――――――――――――――
  幕末維新期の戦闘で、江戸が戦場になったのは上野彰義隊の
  戦闘である。彰義隊は上野の寛永寺を拠点として新政府軍と
  戦闘した。寛永寺は、三代将軍家光が、江戸城をほぼ現在の
  規模に整備した寛永期に、徳川家の祈願寺として建立してい
  る。寛永寺は、僧天海の願いによって上野忍ヶ岡の地を占地
  したと伝えられる。忍ヶ岡の南西の、本郷台地との間には、
  不忍池があり、東方は隅田川の氾濫原の低地となっている。
  寺の敷地は舌状台地の南端部を広く取り込んだ軍事的要地で
  あり、江戸城の支城的意味も込められた占地となっている。
http://navicon.jp/feature/n-atsuhime/n-atsuhime_03-08.html
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●「上野戦争戦闘配置図」出典
  『彰義隊戦史』/菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』より

上野戦争戦闘配置図.jpg
上野戦争戦闘配置図
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2011年04月04日

●「彰義隊の首謀者はどのように逃亡したか」(EJ第3029号)

 佐賀藩砲兵隊の砲撃の命中精度が上って、山内の吉祥閣に着弾
して炎上すると、その近くにいた義観は動揺し、脱出を図ろうと
するのです。既にそのとき、同じく命惜しさに震え上がっている
輪王寺宮は山内から脱出していたのです。
 輪王寺宮は粗末な衣類に着替えをし、数人の供回りを連れて根
岸から三河島を経て下尾久(荒川区)に逃れています。翌日は浅
草合羽橋の東光院、17日には市ヶ谷の自証院に身を潜めていた
のですが、新政府軍の探索が厳しく、江戸中はどこも安全ではな
かったのです。
 そこで輪王寺宮の側近は旧幕臣の羽倉鋼三郎の通じて品川沖に
いた榎本武楊に宮の乗船を頼み込み、了承されたのです。25日
になって、輪王寺宮の一行は榎本の出迎えを受けて「長鯨丸」に
乗船し、28日には平潟港(北茨城市)に上陸。会津を経て仙台
に入り、7月には白石(宮城県白石市)──今回の大震災での被
害地の1つ──で奥羽越列藩同盟の諸藩に祭り上げられ、軍事総
督に就任することになるのです。奥羽越列藩同盟とは、次の3藩
による同盟のことです。
―――――――――――――――――――――――――――――
         陸奥国 ・・・・・ 奥州
         出羽国 ・・・・・ 羽州
         越後国 ・・・・・ 越州
―――――――――――――――――――――――――――――
 覚王院義観はどうしたのでしょうか。
 義観は輪王寺宮を見失い、上野から日光に逃亡し、日光から会
津に入り、輪王寺宮が仙台に滞在中の6月に再開を果たし、宮に
随行します。
 大村益次郎は、佐賀藩砲兵隊の砲撃が山内に着弾をはじめた正
午頃から、江戸城の富士見櫓に上がって戦況を見守っていたので
す。しかし、なかなか黒門口が落ちず、戦況が一進一退であるの
を見て、もともと戦争に反対し、作戦にも異議を唱えていた海江
田たちが抗議をしにやってきたのです。
 これに対し、大村は懐中時計を取り出し、次のようにいったと
いわれています。
―――――――――――――――――――――――――――――
      もうまもなく上野は落ちます。心配無用
―――――――――――――――――――――――――――――
 大村の言葉通り、それから間もなく上野の方向から黒煙が上が
り、それが猛火にかわると、大村は「これで戦いは終りです」と
いったのです。その大村の言葉を聞いて、江戸城内では歓声が上
がったのです。しかし、一人海江田だけは憮然としていたといい
ます。海江田は完全に恥をかかされたのです。
 それでは、彰義隊の実質的な指揮官である天野八郎はどうした
のでしょうか。
 天野は100人程度の隊員を伴って上野を退出し、根津から三
河島に行ったときに輪王寺宮一行に会っています。天野は同行を
願ったのですが、人数が多過ぎるとして断られ、巣鴨から音羽の
護国寺に入り、そこで再起を図ることを天野は提案したのですが
全員の同意は得られず、同意の隊員80人数を連れて、青山の梅
窓院に逃れたのです。
 そのとき、人数は30人になっていたのです。彼らは再起を期
して江戸市中に散ったのですが、そのほとんどは捕縛されている
のです。天野自身も本所石原町(墨田区)の鉄砲師・炭屋文次郎
方に潜伏しているところを捕縛され、江戸城和田倉門内の糾問所
の獄に繋がれてしまったのです。
 結局、天野八郎は獄中で彰義隊の結成からの顛末をまとめ上げ
11月8日に病死しています。遺体は小塚原(荒川区南千住)の
刑場の片隅に埋められたのです。天野八郎の彰義隊の顛末書の最
後には次の辞世の句があったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
         北にのみ稲妻ありて月暗し
―――――――――――――――――――――――――――――
 ところで、渋沢成一郎の率いる振武軍は、彰義隊敗北にどのよ
うに対応したのでしょうか。
 慶応4年(1868年)5月15日の開戦当日、箱根ヶ崎にい
た渋沢成一郎がそれを早馬で知ったのは、その日の夜のことであ
り、既に上野戦争は終わっていたのです。しかし、そんなに早く
敗れたとは知らない渋沢は深夜に箱根ヶ崎を出発し、16日の朝
小川村(東京都小平市)から田無まできたとき、彰義隊の敗戦を
知ったのです。そこに護国寺で天野八郎と別れた彰義隊の一団が
やってきて振武軍と合流するのです。
 渋沢は、既に上野が陥落した以上、そのまま江戸に行っても意
味がないと判断し、全軍を飯能村(埼玉県飯能市)に移すことに
したのです。田無から28キロの地点です。
 田無を出発した一行は、小川村で2つに分かれます。振武軍は
箱根ヶ崎に戻り、彰義隊の残党は所沢村(埼玉県所沢市)を経て
扇町屋村(埼玉県入間市)に宿陣します。そして次の18日、周
辺の住民には「甲府を目指す」といい、出発しているのです。飯
能からは山越えで甲府に出ることが可能だからです。
 18日は、箱根ヶ崎と入間村からそれぞれ飯能村に向かい、い
ずれも夕方までに飯能村に入り、能仁寺を本陣と定めたのです。
その軍勢は、振武軍と彰義隊合わせて、600人前後といわれて
いますが、諸説があります。
 新政府軍の振武軍の追討は非常に早かったのです。15日に彰
義隊に勝利すると、直ちに、大村、佐賀、久留米、佐土原の4藩
から成る部隊が編成され、岡山藩兵を先発隊として、20日に振
武軍追討軍は出発しているからです。
 21日に川越市に入った先発隊は、振武軍の飯能布陣を知り、
22日には川越藩兵とともに飯能に向けて出陣しています。
         ――─  [明治維新について考える/39]


≪画像および関連情報≫
 ●能仁寺(埼玉県飯能市)について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  暮れなずむ能仁寺の山門前に立つと、この寺の歴史が光とな
  り影となって、叢林の奥深くへ伸びていく。大正十一年(1
  922)埼玉県が初めて指定した名勝としての天覧山を背後
  に控え、門前にはここへ至る長い山道の坂下に名栗川の清冽
  な流れがある。深山からの湧水を庭前に引き、その水で口を
  漱いで潔斎してのち修行したという禅僧と禅宗寺院のあり様
  が、そのままこの寺にも当てはまるような迦藍配置になって
  いる。山門を入ると、杉林の木下に続く砂利道、参詣する人
  の足音が静寂の中で心地よく響く。
             http://noninji.com/introduce.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

能仁寺(埼玉県飯能市).jpg
能仁寺(埼玉県飯能市)
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2011年04月05日

●「上野戦争勝利によって文民統制の確立」(EJ第3030号)

 上野戦争──上野の彰義隊と新政府軍との戦争については知ら
ない人はあまりいないでしょう。西郷隆盛の銅像もあるし、それ
に1日で終わったとはいえ、彰義隊もよく頑張ったからです。
 しかし、「飯能戦争」については知る人はあまり多くないと思
います。場所も埼玉県の奥の方ですし、近くに住む人もまさか戦
争があったとは思わないからです。それに戦争といっても戦力が
比較にならず、ほぼ半日で決着がついているからです。
 慶応4年5月21日、先発隊の岡山藩兵は、追討部隊と扇町屋
(埼玉県入間市)で軍議を開き、次のように4隊に分かれて進軍
することを決めています。
―――――――――――――――――――――――――――――
   佐賀藩兵        ・・・ 直竹村・鹿山村
   川越藩兵        ・・・ 秩父路
   大村・岡山・佐土原藩兵 ・・・ 扇町屋
   佐賀・久留米藩兵    ・・・ 双柳村(飯能市)
                    ──『彰義隊戦史』
            菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』
―――――――――――――――――――――――――――――
 追討部隊はその夜のうちに行動を開始しています。大村・岡山
・佐土原藩兵は入間川を渡った笹井村(狭山市)において振武軍
の銃撃を受けますが、応戦して撃退させています。
 22日午前8時、佐賀藩兵は鹿山村に入り、近くの智観寺に向
けてアームストロング砲で砲撃し、智観寺を占領しています。振
武軍は大砲を持っていないので、銃撃で対抗するしかなく、まっ
たく戦争にならなかったのです。
 午前11時頃、振武軍の本陣である能仁寺に2発の砲弾が着弾
し、本堂の屋根が炎上したのです。こうなると、わずかな銃と刀
槍などの武器では抵抗するすべもなく、退くしか方法はなかった
と渋沢は後で述懐しています。
 この砲撃の結果、飯能村は、能仁寺、智観寺、広渡寺、観音寺
および民家200軒が焼失してしまったのです。振武軍がきたた
めに飯能村としては大損害を被ったことになります。
 このようにして、新政府軍の振武軍の追討はわずか半日で決着
がついたのですが、渋沢は尾高新五郎と一緒に上州伊香保に逃れ
草津に潜んでいたのです。
 上野戦争にしても飯能戦争にしても、戦いそのものは新政府軍
の完勝ではあったのですが、いずれも首謀者を取り逃がしていま
す。上野戦争では天野八郎は捕縛したものの、輪王寺宮や義観を
取り逃がしています。飯能戦争では渋沢成一郎と尾高新五郎を逃
がしています。したがって、いつまで経っても戊辰戦争が終わら
ないのです。
 一方、大村益次郎は上野戦争の決着がつくと、すぐ勝海舟の自
宅に家宅捜査を行わせています。この捜索は何かを調べるための
ものではなく、大村の勝への警告だったのです。もし、これ以上
新政府に逆らうなら、徳川家のことを含めて再考させていただく
という脅しです。勝海舟は流石にこれにはこたえたようで、それ
以降は新政府に対して恭順を誓うようになるのです。
 慶応4年5月19日、新政府は「江戸鎮台」を設置して、江戸
における行政権と裁判権を徳川家から奪い、北町奉行所と南町奉
行所を廃止し、町奉行管轄地を管掌する市政裁判所を旧南町奉行
所に設置しています。これによって、江戸は完全に新政府の管理
下に置かれたのです。
 そのうえで、5月24日に新政府は徳川家に対して駿河70万
石に移封することを通告するのです。勝海舟としては、石高とし
て100万石を狙い、それに加えて慶喜の謹慎を解いて駿府に移
すという目標を大幅に下回るものであったのですが、受け入れざ
るを得なかったのです。
 ここでもう一度「大総督」というものを思い出していただきた
いのです。大総督とは「東征大総督」といい、旧幕府軍勢力を制
圧するために明治新政府によって設置された臨時の軍司令官のこ
となのです。要するに臨時の軍部と考えてよいと思います。
 この大総督は、地域別に置かれ、江戸に関しては、東海道鎮撫
総督府に大総督がいて全権を握っていたのです。もちろん新政府
の支配下にある組織なのですが、軍を握っているため権力が強く
新政府がなかなかコントロールできないでいたのです。
 とくに江戸にあっては、東海道鎮撫総督府が強大な権力を握っ
ていて、半ば新政府から独立した存在になりつつあったのです。
しかし、江戸城開城後の大総督府は勝海舟や大久保一翁に翻弄さ
れ、彰義隊を膨張させるなどのミスを犯したので、新政府は切り
札であるは大村益次郎という軍事官僚を送り込んだのです。そし
てその大村が上野戦争と飯能戦争に勝利して大総督府の権威を失
墜させたのです。そのため、それ以降の戊辰戦争の指揮は、大総
督府ではなく、軍事官僚である大村益次郎が握ることになったの
です。これは文民統制の確立を意味しているのです。
 さて、徳川家は駿府(駿河・遠州)70万石の領主になったの
ですが、その落差は尋常なものではなかったのです。800万石
あったものが、たったの70万石──10分の1です。
 そこで旧幕府の勘定方は、そのまま新政府に横滑りさせたので
す。そこで大久保一翁は次の文書を配ったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 人多くして禄寡(すくな)し、在来の臣下を悉く扶持すること
 はできぬから、この際朝臣となるか、農商に帰するか、またし
 いて藩地へ供せむというものは無禄の覚悟で移住せよ。
                      ──古川愛哲著
       『勝海舟を動かした男 大久保一翁』/グラフ社
―――――――――――――――――――――――――――――
 朝臣になると、録高は維持できるのです。きわめて有利な条件
なのですが、これに応募する者は少なく、旧臣中で千分の一ぐら
いだったのです。 ――─  [明治維新について考える/40]


≪画像および関連情報≫
 ●「最後の江戸奉行」/佐久間信義/新潮社
  ―――――――――――――――――――――――――――
  奉行所役人は有終の美を飾ろうと徹夜で働いた。畳はすべて
  真新しい青畳に替え、障子も張り替え、座敷にも玄関前の敷
  き砂利にも塵一つ落ちていなかった。慶応四年(一八六八)
  五月二十一日の朝、数寄屋橋門内(現JR有楽町駅付近)に
  あった南町奉行所の大門は、午前六時頃から八の字なりに開
  かれ、玄関の広間に与力三十人が正座し、玄関前には同心百
  五十人が左右に分かれて居並んでいた。いずれも羽織袴姿だ
  が粗衣で、謹慎の意を表するために月代は剃らず、髯も伸び
  放題で沈痛な表情だった。それもそのはず、二百五十年にも
  わたって江戸の治安を担っていた町奉行所は、本日をもって
  終焉を迎える運命にあったのである。
    http://www.shinchosha.co.jp/books/html/610156.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

江戸町奉行の引き渡し.jpg
江戸町奉行の引き渡し
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2011年04月06日

●「会津藩追討令の裏にある事情」(EJ第3031号)

 ここから会津藩を中心とする話に入って行きます。会津といえ
ば、現在世界中から注目されている福島原発のある福島県です。
戊辰戦争の第3部は東北を中心として展開されるのです。
 実は新政権が仙台藩伊達慶邦に会津追討令を下したのは、慶応
4年(1868年)1月17日のことです。慶喜に対して追討令
を出したのが1月7日ですから、それに追い打ちをかけるように
会津藩に追討令を出しているのです。
 既にみてきたように、鳥羽・伏見の戦いで会津藩兵は非常に勇
敢に戦い、新政府軍を悩ませたことは確かですが、そうであるか
らといって、この段階で慶喜と同様に会津藩にも追討令を出すの
は少し早過ぎると思うのです。そこに何があるのでしょうか。
 もう少し詳しく調べてみます。新政権は、EJ第3024号で
も述べたように、東征大総督府に「奥羽鎮撫総督府」というもの
を置いています。その組織は次のようになっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
     奥羽鎮撫総督府
     総督  ・・・・・ 左大臣九条道孝
     副総督 ・・・・・ 三位沢為量
     参謀  ・・・・・ 醍醐忠敬
     下参謀 ・・・・・ 大山格之助(薩摩)
     下参謀 ・・・・・ 世良修蔵(長州)
―――――――――――――――――――――――――――――
 他の総督府でもそうですが、実質的な軍務を取り仕切るのは参
謀──とくに下参謀の仕事なのです。奥羽総督府の場合、薩摩の
大山格之助が庄内(山形県)攻撃を担当し、長州の世良修蔵が会
津攻撃の責任者だったのです。
 慶応4年3月2日、九条総督の軍は錦旗を奉じて京都を発して
います。そして大坂より海上を東北に向い、3月18日松島湾に
上陸し、同23日に仙台入りをしているのです。
 会津追討令を受けた会津藩は、慶応4年2月4日に藩主松平容
保は、藩主の地位を養子喜徳に譲り、恭順の意を示しています。
そして容保は2月22日に会津若松に帰国しています。
 それなのに、なぜ、会津追討なのでしょうか。
 新政府軍としては、これから全国制覇を図っていかなければな
らないのです。とくに東北の諸藩は一応新政府に対して恭順の意
思を表明しているものの、機会があれば旧幕府復活の希望を捨て
ておらず、面従腹背の態度をとっている──そういう東北諸藩に
対し強いインパクトを与えるためにも、幕府の象徴的存在であっ
た会津藩を叩く必要があったのです。
 しかし、それは表向きの事情であるという説もあるのです。会
津藩は幕府の命を受け、藩主の松平容保は京都守護職の地位につ
いていたのです。その会津藩を最も信頼していたのが、孝明天皇
なのです。松平容保の京都守護職就任も孝明天皇の強い要望で実
現したものです。
 孝明天皇は徹底した幕府の支持者であり、尊皇攘夷が行き詰ま
り、開国に転じても一貫して幕府を支え続けたのです。この孝明
天皇の存在は、薩長や朝廷内部の討幕派にとっては最もやっかい
な存在であったといえます。
 それにしても孝明天皇は慶応3年(1867年)1月30日に
36歳で亡くなっているのです。死因は疱瘡ということになって
いますが、多くの疑問があります。
 この時期、もうひとつ不可解な死もあります。慶応2年(18
66年)7月20日に将軍徳川家茂が亡くなっているのです。こ
ちらは20歳です。いくら江戸時代といっても幕末のことであり
医学はかなり発達していたのです。20代や30代の時の要人が
そう簡単に亡くなるのはきわめて不可解なことです。
 幕末維新に関する多くの書籍を書いている星亮一氏は、孝明天
皇の死に関する研究で、毒殺説を主張する幕末維新史の権威であ
る石井孝氏を紹介し、次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 石井は従来の諸説を洗い直し、側近たちの日記や典医の伊良子
 光順の記録やメモを検証し、痘瘡による死ではないとしたので
 ある。その著『幕末悲運の人々』によると、正午の薬を服用さ
 れて数時間たった夜七時ごろ、女官が「お上が、お上が」と血
 相変えて医師のところに駆けこんだ。五人の当直医があわてて
 御寝所に走ると、天皇は激しく咳きこんで吐血し、顔も真っ青
 である。間もなく天皇は胸をかきむしりながら意識を失い、息
 を引き取られたというのである。それではいったい、誰がなん
 の目的で天皇の毒殺をはかったのか。実行犯は女官の一人であ
 ろうというのが、一致した見方になつている。
               ──星 亮一・遠藤由紀子共著
       『最後の将軍/徳川慶喜の無念』より/光人社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 それでは、一体誰が孝明天皇毒殺の真犯人なのでしょうか。石
井孝氏は「ずばり黒幕は岩倉具視が濃厚」と指摘しています。確
かに岩倉具視が犯人とすると、その後の展開はよく見えてくるの
です。推理小説の犯人探しではありませんが、少なくとも岩倉具
視は、孝明天皇がいなくなることによって最大の利益を受ける一
人であることは間違いがないのです。
 孝明天皇の死によって不利益を受ける者は実はたくさんいるの
ですが、中でも最大の不利益を受ける人物の一人は、松平容保で
あるといって間違いないでしょう。孝明天皇は松平容保の最大の
後ろ盾であったからです。
 そうであるとすると、孝明天皇崩御の秘密を松平容保が握って
いてもおかしくはないのです。岩倉具視が黒幕であるとすると、
松平容保の存在は相当気になっていたはずです。そのため朝廷は
岩倉具視の意を受けて、会津追討令を早々と出したのではないか
と考えられます。会津藩を討伐することによって疑惑隠しができ
るからです。   ――─  [明治維新について考える/41]


≪画像および関連情報≫
 ●孝明天皇の死と岩倉具視/「阿修羅ブログ」より
  ―――――――――――――――――――――――――――
  孝明帝の死については、痘瘡(天然痘)で新だと発表された
  が、イギリスの外交官のアーネスト・サトウなどは毒殺され
  たという話を聞いたことを語っており、死後、間もない頃か
  ら毒殺説が流されていた。その理由は孝明帝の考えは「断固
  攘夷」これしかない。公武合体で倒してもとにかく神聖なる
  日本に西欧の邪悪な人間を近づけてはいけない。という考え
  なのである。一刻も早く朝幕連合で夷敵を駆逐せねばと思っ
  ていたのである。しかし、世論は倒幕へと流れているため岩
  倉具視などは倒幕の勅令を掲げて幕府を倒してしかるべき外
  交対策をとって、新たな天皇を中心とした国家を作ることを
  望んでいた。そのためには孝明帝が邪魔であった。だから、
  岩倉が孝明帝を殺したというのがもっとも有力だった。実行
  犯は岩倉の異母姉である堀河紀子ではないかといわれる。紀
  子は孝明帝に気に入られており毒物を入れるチャンスはあっ
  たそうな。それに、岩倉の孫である16才の具定もチャンス
  はあった。
  http://www.asyura2.com/0306/tyu2/msg/223.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

星亮一氏の本.jpg
星 亮一氏の本
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2011年04月07日

●「会津追討令に悩む仙台藩」(EJ第3032号)

 九条総督の軍は仙台入りすると、養賢堂を接収し、そこを奥羽
鎮撫総督府としたのです。養賢堂とは正しくは明倫養賢堂といい
仙台藩の藩校です。後にいろいろ改組され、現在は東北大学医学
部になっています。
 いきなり、会津追討令を受けた仙台藩としては、誠に迷惑この
うえもないな話だったのです。仙台藩は、伊達政宗を藩祖とする
東北の雄藩ですが、宮城県と岩手県に広大な領地を有していて、
公称62万石とはいうものの、実質100万石をゆうに超える豊
かな藩であったのです。
 そのためか、仙台藩士は中央の政治にはあまり関心がなく、保
守的な風土に安住して、気がついたら世の中が変わっていたとい
うところがあったのです。
 そのなかにあって、きわめて進歩的な人物がいたのです。玉虫
左太夫です。この人は、万延2年(1861年)に米国の軍艦に
乗って訪米しています。日米修好通商条約締結のための遣米使節
団に加わったのです。帰国するとその報告書を「航米目録」とし
てまとめ、優れた内容であったので、注目を集めたのです。そし
て養賢堂の副学頭を務めていたのです。
 そこに会津追討令がきたのです。仙台藩にとっては寝耳に水の
話です。会津藩は幕府の命令で鳥羽・伏見の戦いに参加したので
あり、会津自身は戦闘を奨励していないのです。その後は恭順し
ており、朝廷による討伐は厳し過ぎると玉虫は考えたのです。
 そこで、玉虫左太夫は何とか水面下で会津を救援したいと考え
たのです。何はともあれ、会津藩首脳の話を聞く必要がある──
玉虫左太夫は、仙台藩の正使として、部下を連れて会津に向かい
ます。会津藩は、前藩主の松平容保以下、梶原平馬らの重臣はす
べて顔を揃えて玉虫たちを迎えたのです。
 忌憚のない意見が相互に交わされ、会談は成功裏に終わったの
です。その会談の成否は次のエピソードによって、それが成功で
あったことを示しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 この会談の記録は『仙台戊辰史』に記載されているが、注目さ
 れるのは会津の主君容保と左太夫の会話である。
 会談が終わって、
 「玉虫、そちはいけるとか、大杯をとらせよう」
  容保がいうと、玉虫は、
 「恐れながら小生、大杯(大敗)を嫌います。小盞(勝算)を
 賜りたい」
 といったので、皆が声をあげて笑ったという件がある。これは
 仙台藩の心意気を示したものであった。
               ──星 亮一・遠藤由紀子共著
       『最後の将軍/徳川慶喜の無念』より/光人社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 会津藩の真意を掴んだ玉虫左太夫は、無駄とはわかっていたが
和平工作を先行させる必要があるとして、仙台、米沢藩が会津の
謝罪嘆願書を取りまとめ、総督府に提出したのですが、参謀の世
良修蔵がこれを一蹴してしまいます。嘆願書などいらぬ、あくま
で戦争だと主張したのです。
 この当時、新しい東北を創るために中心になって動いていたの
は、次の3人です。
―――――――――――――――――――――――――――――
        仙台藩 ・・・ 玉虫左太夫
        会津藩 ・・・ 梶原 平馬
        長岡藩 ・・・ 河井継之助
―――――――――――――――――――――――――――――
 彼らは新政府軍の正体は薩長軍であり、錦の御旗によって官軍
と偽っているということで一致し、これが奥羽越列同盟に発展す
るのです。そして仙台藩は、次のように声明を発して、仙台藩の
手による会津追討に反対を表明したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 王政復古、後一新のおり、会津征討とは合点がゆかぬ。徳川家
 は恭順し、会津も深く悔悟し、嘆願書を提出したと聞く。かつ
 て御所に発砲した長州は、首謀者3人の首級で寛典となったで
 はないか。   ──星 亮一・遠藤由紀子共著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 実は、奥羽鎮撫総督の九条道孝は温和な人物であり、自分が奥
羽に行けば話し合いができると考えていたようです。それに恭順
嘆願書も出ているので、戦争にはさせないというと楽観的に考え
ていたようです。
 しかし、参謀の大山格之助や世良修蔵が受けてきた内命は正反
対のものであったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  奥羽を火の海にして明治政府に反抗する旧権力を叩き潰せ
―――――――――――――――――――――――――――――
 大山や世良にとって九条道孝総督などは飾り物であり、その意
見は完全に無視されたのです。しかし、仙台藩の動きは素早かっ
たのです。仙台藩の家老の但木土佐や坂英力は断を下し、命を受
けた瀬上主膳と姉歯武之進2人は、福島の旅館に泊まっていた世
良修蔵を襲い、殺害してしまうのです。これによって、仙台藩の
意思は明確に示されたのです。
 しかし、その時点での新政府軍の戦力は圧倒的なのです。まし
て、鳥羽伏見の戦い、彰義隊の上野戦争、振武軍の飯能戦争の3
つの戊辰戦争に連戦連勝で勝ち誇っているのです。玉虫、梶原、
河井の3人は、どのように戦略を立て、強大な新政府軍に立ち向
かおうと考えていたのでしょうか。
 実は、彼らの練り上げた北方政権の戦略は戦略としては見事な
ものであったのです。もっと早く着手していたら・・・。これに
ついては、明日以降のEJで詳しく述べて行くことにします。
         ――─  [明治維新について考える/42]


≪画像および関連情報≫
 ●河井継之助とは何者か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  幕末に北越戦争があったのをご存じであろうか。この時の東
  軍・長岡藩総督が河井継之助である.継之助は藩を幕府とは
  離れた一個の文化的・経済的な独立組織と考え,ヨーロッパ
  の公国のように仕立てかえようとした.また,当時アジア圏
  に3門しかないガットリング砲(機関銃のような物)を2門
  手に入れ,当時最新式のミニエール銃の各藩士への払い下げ
  による武装・身分を平均化するなどの改革を行い,軍事的に
  も独立したまさにスイスのような武装中立国を長岡に築こう
  とした.         http://www.nurs.or.jp/~soryu/
  ―――――――――――――――――――――――――――

河井継之助.jpg
河井 継之助
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2011年04月08日

●「世良修蔵はなぜ暗殺されたのか」(EJ第3033号)

 慶応4年4月10日のことです。会津藩と庄内藩(山形県)が
同盟を結びます。会庄同盟です。これら両藩には共通点があるの
です。それは、会津藩は京都守護職、庄内藩は江戸市中取締を命
ぜられ、ともに朝敵とされていたからです。
 庄内藩はその職務として、当時西郷隆盛の作戦により江戸市中
を荒らしまわる薩摩の浪士たちを追い詰め、その巣窟になってい
た薩摩屋敷を砲撃するなどしたので、朝敵とされたのです。これ
は明らかに薩摩藩の庄内藩への私怨であるといえます。
 庄内藩には本間家という大地主が住んでおり、藩に多額の献金
をして、庄内藩の財政を支えていたのです。庄内藩はこの資金を
元に武器商人エドワード・スネルから大量のスナイドル銃を仕入
れ、軍備の近代化を進めていたのです。
 しかし、既に述べたように、後装式のスナイドル銃は最新兵器
ではあったのですが、新政府軍は7発連射のできるスペンサー銃
で武装しており、銃装備の点で大きくリードしていたのです。
 ちなみに本間家に関しては、次の有名な歌が知られています。
―――――――――――――――――――――――――――――
  本間様には及びはせぬが、せめてなりたや殿様に・・・
―――――――――――――――――――――――――――――
 この会庄同盟締結のさい、庄内藩家老の松平権十郎は、もし米
沢藩が同盟に加わるならば、仙台藩も同盟に加わるということを
伝えています。
 奥羽鎮撫総督府から会津藩追討を命じられた仙台藩は、これを
何とか穏便に収めるため、同じく奥州の大藩である米沢藩と戦さ
をしない工作を始めるのです。そのさい、必要なことは「数」で
あり、数で圧力を掛けることこそ、奥羽鎮撫総督府に対する最良
の対抗策と考えて、奥羽諸藩に呼びかけて「奥羽諸藩の総意」と
して総督府に、会津藩に寛大な処分をするように求めたのです。
 しかし、それを一蹴したのは世良修蔵なのです。これによって
仙台藩が世良修蔵を殺害したことについては前回書いた通りです
が、何が仙台藩をそこまで追い込んだのかについては、もう少し
ていねいに述べることにします。
 以下の記述については、主として『「敬天愛人」テーマ随筆』
という次のサイトを参照させていただいています。詳細について
は、このサイトを参照願います。
―――――――――――――――――――――――――――――
 「敬天愛人」テーマ随筆
 第13回「世良修蔵暗殺事件の周辺」
 http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/kakotheme.htm
―――――――――――――――――――――――――――――
 世良修蔵は、奥羽諸藩を訪ねて、何度も会津藩討伐の督戦を促
したのですが、その反応は鈍く、総督府内部でも、九条総督を始
めとする公卿たちは次のような意見に傾き勝ちだったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 奥羽諸藩の総意として出されている嘆願書を京都の太政官に報
 告し、指示を仰ぐべきではないか
―――――――――――――――――――――――――――――
 なぜかというと、こういう事情もあったのです。奥羽鎮撫総督
府自体には軍隊はおらず、単独では会津藩を征伐することは不可
能なのです。もし、仙台藩との交渉がうまくいかないと、仙台藩
や米沢藩が会津藩側に味方し、逆に総督府が攻撃されかねないの
です。したがって何としても仙台藩の力を借りなければならない
のですが、かといって、絶対に弱みを見せることはできない──
それが世良の思いであったのです。
 結局世良としては、頼みになるのは福島藩しかないと判断し、
そのことを大山格之助に伝えようとしたのです。そのとき大山は
羽州(秋田)にいたのです。そこで、世良は投宿していた福島城
下北南町の旅籠「金沢屋」に戻って、時間をかけて大山宛ての書
状を書き上げたのです。
 そして世良は、福島藩の軍事掛を務めていた鈴木六太郎を呼び
出したのです。鈴木は同藩の杉沢覚右衛門、遠藤条之助の2人と
共に金沢屋に出かけて世良に会ったのです。そして、世良は3人
に次のようにいったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ひとつ頼みがある。秋田にいる大山格之助参謀宛に至急の書状
 を届けて欲しいのだ。その使いの者を貴藩で人選して欲しい。
 国家のために尽力してくれ。しかし、使者は2人とし、明日の
 夜明けには出発させるようにしてもらいたい。また、このこと
 は仙台人には決して洩らさぬように。
                ──「敬天愛人」テーマ随筆
―――――――――――――――――――――――――――――
 そのとき、世良の動きを見張るため、仙台藩の瀬上主膳は金沢
屋の斜め向かいの「客自軒」という宿屋に潜んでいたのです。仙
台藩は世良の動きに注目していたのです。
 ところで、世良から密書を送りたいとの依頼を受けた鈴木六太
郎以下3人の福島藩士は、その足で福島藩家老の斎藤十太夫の屋
敷に行き、事情を話して判断を仰いだのです。鈴木から事情を聞
かされた家老の斎藤は次のように指示したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
         仙台藩の意向をはかれ!
―――――――――――――――――――――――――――――
 そこで、鈴木六太郎たちは、仙台藩の姉歯武之進のところに行
き、事情を打ち明けます。話を聞いた姉歯武之進は「客自軒」に
いる上司の瀬上主膳のところに相談に行くのです。
 瀬上主膳は、福島藩は密使の件は引き受けることにし、密書を
受け取ったら、それをここに持って来るように鈴木六太郎たちに
いいます。つまり、瀬上主膳は密書の中身を見る必要があると判
断したのです。密書に書いてあったことはとんでもないことだっ
たのです。    ――─  [明治維新について考える/43]


≪画像および関連情報≫
 ●世良修蔵について/「ド田舎百姓の部屋」ブログ
  ―――――――――――――――――――――――――――
  幕末から明治維新にかけて,様々な傑物が死んでいった。坂
  本龍馬・高杉晋作・久坂玄瑞などなど全て総大将クラスであ
  る。それぞれその後の歴史に相当なる影響を与えている。そ
  の中にあって「暗殺」は「坂本龍馬」と「世良修蔵」が特筆
  される。「世良修蔵」は戊辰戦争の最中にあって、総大将と
  して暗殺、なおかつ「禁門の変」での会津藩への確執などな
  ど、薩摩・長州・への影響は、計り知れないものであった。
         http://www.nishiichi.jp/wordpress/?p=201
  ―――――――――――――――――――――――――――

世良修蔵.jpg
世良 修蔵
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2011年04月11日

●「世良暗殺はどのように行なわれたか」(EJ第3034号)

 世良修蔵はどのような密書を書いたのでしょうか。
 密書は、『仙台戊辰史』の中に全文の記載がありますが、非常
に長文なのです。世良は、仙台の奥羽総督府や福島で現在起きつ
つあることを秋田に滞在する同じ参謀の大山格之助に報告し、今
後どうすべきかについて自分の意見を述べているのです。
 密書の前半部分には、白河にいた世良のところに仙台藩の坂本
大炊なる人物がやってきたということが書かれています。密書に
は書かれていないのですが、坂本大炊が世良に会った本当の理由
が『仙台戊辰史』には書かれています。坂本は仙台藩家老の但木
土佐に次のように訴えているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 会津藩の降伏を総督府が受け入れないのは、世良がそれを拒ん
 でいるからであるということは、奥羽列藩の所見に過ぎない。
 もし、このために暴挙に出る者があっては、さ らにまた時局
 を困難なものとする愚がある。そこで、私が世良の元に出向き
 彼に対して、会津藩の嘆願書を受理して、奥羽列藩を解兵させ
 奥羽鎮撫の実を挙げるように篤と説得してきたい。
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、世良は坂本のその説得に対し、即答を避けて「その件
についてはいずれ九条総督と相談の上、追って沙汰する」とだけ
答え、坂本の説得は結局失敗に終わっているのです。
 世良の密書には、仙台と米沢の両藩主が岩沼の総督府にやって
きて、会津藩の降伏謝罪についての「三通の嘆願書」を九条総督
に渡した経緯について次のように書いてあります。
 なお、ここでは、前回ご紹介した『「敬天愛人」テーマ随筆』
のサイトの現代文訳の要約を示しておきます。原文などの詳細は
同サイトを参照願います。
―――――――――――――――――――――――――――――
 会津藩に関する降伏謝罪嘆願書三通を仙台と米沢の両藩主が岩
 沼の総督府へ持参し、かつ弁舌をふるって陳情に及びました。
 (中略)九条総督におかれましては、一旦三通の嘆願書を差し
 返されたのですが、両藩主は総督相手に、夕方の午後4時から
 夜中の午前0時まで詰め寄ったのです。そのため、ついに九条
 総督はやむを得ず、その嘆願書をお取り上げになられたという
 経緯が白河(の私のところ)へ知らせがありました。
      ──『「敬天愛人」テーマ随筆』のサイトより要約
―――――――――――――――――――――――――――――
 こういう状況に対して、奥羽総督府としてはどのように対処す
べきかについて、世良は自分の意見を述べているのですが、その
中に仙台藩士を憤激させる言葉が入っていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 一旦総督が受理した嘆願書をまた返すわけにもいかず、この上
 は一応京都へ出向き、奥羽の実情をじっくりと申し入れて『奥
 羽皆敵』と見なして逆襲の大策を練りたいと思っております。
 (省略)この書簡は、途中で奪われるのを恐れて、福島藩の足
 軽にそちらに持参するように頼みました。ご覧になった後には
 燃やして頂きますようお願いいたします
      ──『「敬天愛人」テーマ随筆』のサイトより要約
―――――――――――――――――――――――――――――
 世良が暗殺される直接の原因となったのは、彼が密書において
『奥羽皆敵』という言葉を使ったからです。この言葉が、仙台藩
士達を激昂させ、彼らをしてついに世良を暗殺しようと動く大き
なきっかけとなったのです。
 しかし、世良のこの密書は、以後数回にわたって書き換えられ
たという説があるのです。おそらく書き換えたのは実行犯の中心
である仙台藩であると考えられます。なぜなら、世良修蔵暗殺事
件はあとで大問題になり、仙台藩はその責任を追及されることに
なるからです。そのさい、あえて内容を過激に表現し、これなら
暗殺されても仕方がないことであると思わせるための細工をして
内容の一部を書き換えた可能性があるのです。
 しかし、世良が密書において、『奥羽皆敵』という言葉を使っ
たのは真実です。さらにこの『奥羽皆敵』という言葉が、会津藩
の嘆願を受け入れることを否定し、それが逆襲の大策を練る理由
として使われていることによって、仙台藩は世良暗殺の決断を下
したものと思われます。
 慶応4年閏4月19日に世良によって密書が作成され、福島藩
の鈴木六太郎らに密書の秋田までの配達の依頼をし、実際にその
密書を午前0時頃に使者に委託しています。密書を受け取った使
者は、それを「客自軒」にいた浦上主膳に手渡しています。その
とき「客自軒」には、仙台藩の姉歯武之進をはじめとする8名の
仙台藩士と福島藩士3人が集まっていたのです。
 全員で密書の内容を検討した結果、「世良を暗殺するか否か」
の基準としていた「会津藩嘆願の受け入れの可否」について世良
自身は受け入れるつもりはないと判断したのです。それに加えて
金沢屋から世良が20日の午前6時に出発するとの情報を得たの
で、本営の指示を仰ぐことなく、即座に暗殺を決意して、その日
の午前2時頃に世良を襲ったのです。
 世良は重傷を負い、捕縛されたのですが、仙台藩まで連行する
のは無理と判断して、福島で処刑したのです。しかし、その報告
を受けた仙台藩家老の但木土佐は愕然としたのです。但木土佐と
しては、世良を殺害するにしても、それはあくまで会津藩の手に
よってなされたというかたちを取るべきであったのに、瀬上主膳
が、福島藩にも手伝わせて、世良を公然と捕縛し、斬殺したので
会津のすべき仕事を仙台藩が全部背負い込んで、名実ともその責
に任ぜねばならぬことになったことを悔やんだといわれます。
 しかし、この世良の暗殺によって、仙台・米沢藩を中心とする
東北諸藩は、反政府の立場を一段と鮮明にせざるを得なくなった
のです。もはや後には引けなくなったのです。
         ――─  [明治維新について考える/44]


≪画像および関連情報≫
 ●九条道孝についての情報
  ―――――――――――――――――――――――――――
  九条尚忠の長男だったが、九条幸経の養嗣子となった。18
  64年、国事御用掛となる。1867年には左大臣となるが
  父の尚忠と同じく佐幕派であったことから、王政復古の大号
  令が出されたとき、それを追及されて参内停止処分に処せら
  れた。1868年に許されて摂政関白廃止後の藤氏長者に任
  じられ(最後の長者)、戊辰戦争では奥羽鎮撫総督に就任し
  て東北地方を転戦した。明治維新後は明治天皇の相談役とな
  る。また、岩崎弥太郎の勧めで、日本初の海上保険会社であ
  る東京海上保険会社──現在の東京海上日動火災保険の創設
  に関わる。華族制度創設時に旧摂家当主として侯爵に叙され、
  帝国議会創設にともない貴族院に議席を有した。
                    ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

九条道孝.jpg
九条 道孝
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2011年04月12日

●「なぜ仙台藩に会津追討令が出たか」(EJ第3035号)

 日本の歴史を調べるとき、注意しなければならないのが、「閏
月」なのです。明治5年まで使われていた旧暦は、月の満ち欠け
を基準にしていたので、1ヵ月が29日か30日なのです。
 これですと、しだいに季節とずれてきてしまうので、数年毎に
日でなく月を追加して調整していたのです。これが閏月です。世
良修蔵が暗殺されたのは、慶応4年閏4月20日のことですが、
この年は4月の後に閏4月が来るのです。
 さて、どうして仙台藩は、世良修蔵の暗殺にまで踏み込んでし
まったのでしょうか。会津追討令の出された慶応4年1月17日
の時点まで時計の針を戻してみましょう。
 17日に京都に滞在していた仙台藩家老但木土佐は、京都御所
内の政府仮政庁に出頭を命ぜられたのです。そこで但木は一通の
文書を渡されたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 その藩(仙台)一手を以て本城(会津若松城)を襲撃すべきの
 趣出願、武道を失わず憤発の条神妙の至り、御満足に思し召さ
 れ候・・・願いの通仰せ付けられ候間、速やかに追討の功を奉
 すべき旨、御沙汰の事。          ──佐々木克著
       『戊辰戦争/敗者の明治維新』/中公新書455
―――――――――――――――――――――――――――――
 この文面を見ると、仙台藩が会津藩の本城に攻め入ると新政府
に自ら願い出たので、それを差し許すというかたちになっていま
すが、仙台藩は誰もそんな申し出などしていないのです。さらに
同じ日に、秋田藩、盛岡藩、米沢藩には仙台藩を手伝うよう命令
が出されていたのです。
 実は新政府は仙台藩については警戒心を抱いていたのですが、
秋田藩については、信頼していたらしく、「秋田藩は東北の雄藩
であり、深く尊皇の大義を知っている」という内容の内勅を岩倉
具視自ら秋田藩に渡しているのです。
 新政府が仙台藩に対してこういう文書を突き付けたのは、一種
の威嚇であり、それに対する仙台藩の出方を伺うきわめて政治的
なものであったといえます。
 しかし、仙台藩としては、命令が出た以上は、かたちのうえで
も兵を出す必要があったのですが、奥羽鎮撫総督府一行が仙台入
りするまでは動かず、それを待つことにしたのです。そして、一
行が3月23日に仙台に入ってきたので、仙台藩主の伊達慶邦が
九条総督に挨拶に赴いています。
 そして3月27日になって仙台藩は約1000人の将兵を会津
藩境に出向き、4月11日には藩主自ら約5000人の兵を率い
て出兵しています。あくまでかたちだけの偽装出兵です。
 3月25日、会津若松のある旅館で仙台藩と米沢藩の代表が会
談をしていたのです。仙台藩は玉虫佐太夫と若生文十郎、米沢藩
は木滑要人と片山仁二郎であったのです。
 会談の内容は、会津藩に恭順の証しとして具体的に何を提案さ
せるか、そしてそれをいかにして奥羽鎮撫総督府に飲ませるかと
いうことです。実はこういう調停工作はこれまで何度もやってい
るのですが、奥羽鎮撫総督府を納得させる謝罪嘆願の証しは会津
藩からは出てこなかったのです。
 本当は奥羽鎮撫総督府が仙台にやってくるまでに、京都で折衝
すべきだったのですが、結論の出ないまま仙台で協議することに
なってしまったのです。会津処分については、仙台藩主の伊達慶
邦が参謀の世良修蔵に会って、会津藩謝罪の周旋をしたいと話し
謝罪の条件として奥羽鎮撫総督府はどのくらいものを要求するの
かを聞いたのです。
 世良は、何回も征伐命令を出しているのに、周旋工作とは何事
かと怒り、もし、条件を示せというなら、次の3つしかあり得な
いといったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
          1.松平容保の斬首
          2.嗣子若狭の監禁
          3.会津鶴ヶ城開城
―――――――――――――――――――――――――――――
 こんな過酷な条件を会津藩が飲むはずがないのです。また、こ
ういう条件を平気でいう総督府の参謀と交渉してもまとまるはず
がないので、そういうときには京都に使いをたてるしかない──
仙台・米沢両藩は、そのさいには有志列藩が結束してある程度力
をバックにしないと効果はないと考えたのです。
 そこで、仙台・米沢両藩は、会津藩に対して次の3項目の修正
案を提示したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
          1.開城で罪を謝す
          2.削封で罪を奉じ
          3.重臣の首級3つ
                      ──佐々木克著
       『戊辰戦争/敗者の明治維新』/中公新書455
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、会津藩はこの条件に同意しなかったのです。既に庄内
藩と軍事同盟を結んでおり、会津藩はかなり強気になっていたの
です。重臣の首級などは問題にならないとし、開城については何
としても避けたい。何とか削封だけで交渉して欲しいと無理なこ
とをいってきたのです。
 さすがに仙台・米沢藩はこれでは交渉できないといったところ
最終的に前藩主松平容保が城を出て謹慎するという案を出してき
たので、一応それを了としたのです。これ以上会議を重ねても会
津藩は妥協しないと判断したからです。
 そして閏4月1日に、仙台、米沢、会津の3藩で会合を持ち、
交渉条件を確認し、今後の方針について話し合っています。その
とき庄内藩と同盟を結んだ会津藩は非常に強硬だったのです。
         ――─  [明治維新について考える/45]


≪画像および関連情報≫
 ●「鶴ヶ城」についての情報
  ―――――――――――――――――――――――――――
  戦国期には当地に葦名氏の「黒川城」があり、蒲生氏郷が文
  禄元年(1592)に甲州流の縄張を用いて郭を築き、7層
  の天守閣、櫓をたて、馬出を作ったと伝えられる。また地名
  を若松と改め、城を鶴ヶ城と命名した。慶長の大地震(16
  11)で傾き長い間放置されていたが、加藤明成の時代に、
  鶴ヶ城の大改修に着手。大手門を北側、天守閣を5層に改め
  石垣を改修・新築、出丸を拡張、空堀に水をたたえるなど、
  鶴ヶ城を現在のような形態とした。
 http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/yukari/shiseki/tsurugajo.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

鶴ヶ城/会津若松.jpg
鶴ヶ城/会津若松
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2011年04月13日

●「会津藩の強気を支えていたもの」(EJ第3036号)

 仙台藩や米沢藩の説得にもかかわらず、会津藩が強気だったの
は、次の3つの拠りどころがあったからです。
―――――――――――――――――――――――――――――
         1.藩内強硬派突き上げ
         2.会津藩内の軍制改革
         3.庄内藩との軍事同盟
―――――――――――――――――――――――――――――
 会津藩には、佐川官兵衛をはじめとする主戦派が多く、容保に
徹底抗戦を突き上げていたのです。こういう状況では、容保に恭
順を勧める側近は新政府側に通じているとして、疑いの目で見ら
れたのです。その犠牲者の一人が神保修理という人物です。
 松平容保は、会津藩の軍制改革が必要であると感じていて、佐
川官兵衛と神保修理の2人を西洋文明輸入の門戸である長崎に遣
わし、内外を視察させていたのです。
 鳥羽・伏見の敗戦のあと神保修理は長崎から大阪に戻り、容保
に大阪を引いて江戸に帰ることが得策であり、慶喜とともに恭順
を尽くすべきであると説いたのです。しかし、このことを知った
会津藩の主戦派は、修理を西軍のスバイとみなし、攻撃するよう
になったのです。
 容保は、修理が会津に帰ると、主戦派に危害を加えられること
を案じて和田倉門の上屋敷に幽閉したのです。勝海舟はこのこと
を聞き、修理の身を案じて慶喜に話し、公命をもって修理を呼び
寄せようとしたのです。しかし、このことが一層神保修理に対す
る疑いを増幅させ、彼らは容保に対し、修理の切腹を迫ったので
結局、容保は神保に切腹を命ぜざるを得なかったのです。
 容保は、いずれ迎え撃つことになる薩長の戦力をよく知ってい
るので、帰藩すると、直ちに軍制改革に取り組んだのです。その
軍制の最大の特色は、部隊を年齢別に再編したことです。会津軍
制は、「四神」にちなんで師団編成を行っていますが、「四神」
とは、中国・朝鮮・日本で、伝統的に天の四方の方角を司る次の
霊獣のことです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1.朱雀 ・・・ 南 → 朱雀隊  17〜35歳
   2.青竜 ・・・ 東 → 青竜隊  36〜49歳
   3.玄武 ・・・ 北 → 玄武隊   50歳以上
   4.白虎 ・・・ 西 → 白虎隊  16〜 7歳
―――――――――――――――――――――――――――――
 朱雀(すざく)隊は実戦機動部隊、青竜(せいりゅう)隊は封
境守備隊、玄武(げんぶ)隊と白虎隊(びゃっこ)隊は予備部隊
としたのです。これに砲兵隊、遊撃隊を加えて、約3000人で
正規軍を編成しています。これに加えて、町農兵の募集も行い、
3080人が編成され、その他を合わせて全部で7000人ほど
の兵力になったのです。
 軍制改革には銃砲装備とフランス式訓練を取り入れ、旧幕府陸
軍歩兵差図役・畠山五郎七郎、砲兵差図役・布施七郎、騎馬差図
役・梅津金弥らによって日夜訓練が続けられたのです。しかし、
銃砲装備に関しては十分なものが揃えられなかったのです。会津
藩は7年間に及ぶ京都守護職の仕事で財政は底をついており、十
分な銃砲装備ができなかったのです。
 3つ目は庄内藩との軍事同盟です。この同盟がうまく行くかど
うかは、米沢藩を説得できるかどうかにかかっていたのです。い
わゆる「会庄同盟」は次のことを目指していたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 会津・庄内が一致して米沢藩を説得する。米沢藩が同盟に加わ
 れば、仙台もただちに同盟するだろう。仙・米・会・庄の四藩
 の同盟が成ったら、奥羽諸藩は一言にして同盟するにちがいな
 い。そこで、速やかに兵を江戸に出し、江戸城を軍議本営とし
 て諸藩の兵を合せて凶徒を掃い、君側を清める。─『復古記』
                      ──佐々木克著
       『戊辰戦争/敗者の明治維新』/中公新書455
―――――――――――――――――――――――――――――
 ところが、庄内藩は無理やり朝敵とされ、奥羽総督府によって
討伐令を出されることになるのです。慶応4年(1868年)4
月6日に総督府九条道孝は、秋田藩に庄内藩討伐を命じ、津軽藩
に秋田の応援を求めたのです。そして庄内討伐のため、副総督の
沢為量の庄内表への出陣を命じたのです。
 どうしてこんなことになったのでしょうか。既に述べたように
もともと薩長を中心とする新政権は、京都守護職の会津藩と江戸
市中取締りの庄内藩には強い敵意を抱いていたのです。そうであ
るとはいえ、どうして、庄内討伐令が出される事態になったので
しょうか。
 奥羽2州には旧幕府領があり、新政府は3月26日にその領地
の没収を命じています。ところが、その領地の中の羽州村山地方
に7万4千石の領地があるのです。旧幕府は、その領地を3月5
日に庄内藩の預け地にしています。それは、庄内藩の江戸市中取
締りの功労に報いたものと思われます。
 ところが3月26日の新政府による没収とその中に含まれる庄
内藩の部分が重複し、それぞれが管理する代官が鉢合わせになる
事態が生じたのです。しかし、庄内藩としては、その土地の所有
にそれほどこだわっていなかったのです。
 しかし、庄内藩はその代官所に収納してあった前年度の貢租米
2万3千俵は当然庄内藩のものであるとして、それを船で酒田に
廻送したのです。ところが軍資に欠乏していた総督府は、その米
こそが欲しかったのですが、庄内藩の言い分は筋が通っており、
反論できなかったのです。
 こういう経緯で庄内藩討伐令が出されたのですが、新政府に近
いといわれる秋田藩でも庄内藩討伐令の根拠が示されていないと
して、総督府に3つの質問状を突きつける事態になったのです。
         ――─  [明治維新について考える/46]


≪画像および関連情報≫
 ●神保修理についての情報
  −――――――――――――――――――――――――――
  会津内部では、長輝の処罰を容保に迫る動きが加速する。長
  輝の窮地を救おうと親交のあった幕臣の勝海舟は、身柄を幕
  府に引き渡すよう慶喜を通じて画策したが、これが裏目に出
  て抗戦派の怒りを買った。長輝を処断すべしと動いた有志ら
  の陰謀により三田下屋敷に移送された長輝は容保との謁見も
  許されず、弁明の機会も与えられぬまま切腹を命じられた。
  君命と偽った命であると知りながらも、是に従うのが臣であ
  る、と潔く自刃する。        ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

神保修理.jpg
神保 修理
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2011年04月14日

●「庄内討伐令をめぐる青森藩の思惑」(EJ第3037号)

 秋田藩が奥羽鎮撫総督府に庄内藩討伐に関して出した質問とは
次の3つです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     1.       庄内藩討伐の理由は何か
     2.     庄内藩降服の際における処置
     3.会津藩征討応援と庄内藩征討の関係如何
                      ──佐々木克著
       『戊辰戦争/敗者の明治維新』/中公新書455
―――――――――――――――――――――――――――――
 このうち、1と2に関しては、戦いをするときあらかじめ、示
すべき基本事項であり、質問を出されて答えるのはお粗末の極み
です。3については、秋田藩は会津藩討伐の応援の命を既に受け
ているので、それをどうするのか確かめたものです。
 これに対する総督府からの回答は、2と3に関しては次のよう
なものであったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     2の回答/開城して降服した時のみ赦免する
     3の回答/   会津征討の応援は要らない
                ──佐々木克著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 それでは、1に対する回答は何であったのでしょうか。
 表向きは、旧幕府が鳥羽・伏見の戦いに敗れ、関東に逃げたあ
とも庄内藩は徳川家の回復を主張したこととされていますが、庄
内藩が江戸市中取締の任に当っていたときの江戸薩摩邸への砲撃
などが根にあることは明らかで、薩摩藩の私怨です。
 庄内藩処分の罪状については、秋田藩だけでなく、米沢、仙台
などの諸藩からも抗議が次々と奥羽総督府に寄せられたのです。
このように過去の遺恨にこだわって追討令を連発する総督府のや
りかたに対して、東北諸藩は怒りが高まっていたのです。
 奥羽鎮撫総督府・副総督の沢為量を大将とする討庄軍が動いた
のは、慶応4年4月14日のことです。17日に山形城に着き、
20日に天童城下、23日に最上川沿いの新庄まで進み、ここを
本陣としています。
 そして24日の早朝に東北ではじめての戦闘が、清川口ではじ
まったのです。戦闘の詳細は省略しますが、前半は互角、後半は
庄内藩優勢で戦闘が展開され、閏4月4日に庄内軍が天童城を焼
き払ったあと、藩主の命により、撤退したのです。以下は、「酒
井忠宝家記」の記述による戦闘の模様です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 白兵戦が始まってから、庄内藩の弾丸がよく命中しだして敵に
 大打撃を与え、そのうち敵来襲を知った狩川村農民数百人が、
 村中の神社寺院から幕や旗を持ち出し、敵の背後の山に登って
 ときの声をあげ、鶴岡から援兵も馳せつけたら、敵はおそれて
 退却した。庄内軍は大いに意気あがり、勝ちに乗って急襲した
 ら、敵は太鼓を鳴らして潰走した。
              ──「酒井忠宝家記」『復古記』
                ──佐々木克著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 この戦闘で苦しい立場に立たされたのは秋田藩です。庄内藩征
伐令は秋田藩に下っているので、どうしても庄内藩と一戦を交え
る必要があったのです。
 しかし、秋田藩としては、なるべく庄内藩とは戦闘をしたくな
いので、引き延ばしを図ったのですが、閏4月6日に総督より進
軍の厳命が下り、戦端を開かねばならなくなったのです。
 そのさい、秋田藩家老は、庄内軍隊長に対して次のような書面
を送っているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 隣国の親みもあり、干戈を動かさないで鎮撫されたいと副総督
 に陳情したが聞き入れてもらえなかった。しかも重ねて出兵の
 催促があり、この上申し立ては勅命に背くことにもなるので、
 やむを得ず出勢するから、その点御承知ありたい。
         ──『秋田県史』/佐々木克著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 戦闘前にこのような書面を送るのですから、双方とも最初から
本気でやる気はさらさらなかったのです。秋田藩と庄内藩の戦闘
は、閏4月19日から22日まで行われたのですが、せいぜい小
競り合い程度であり、死者は1人も出ていないのです。
 どの藩も戦争などしたくない──これは東北諸藩の思いなので
すが、新政府はどんどん討伐令を出してくるのです。何とかしな
ければ・・・これが「白石列藩会議」を生むのです。閏4月4日
に白石への参集を訴える書状が東北諸藩に回されたのです。米沢
藩家老・竹股美作、同千坂太郎左衛門、仙台藩家老・但木土佐、
同坂英力の4家老の名での呼びかけです。
 白石列藩会議が開かれたのは、閏4月11日です。このとき米
沢藩主・上杉斉憲は、1700の兵を率いて白石会議に乗り込ん
でいます。それは強い意気込みのあらわれであったのです。
 会議はその日の夕刻から開催されています。参加したのは、仙
台・米沢をはじめとする14藩の代表33名です。しかし、仙米
両藩主は会議には参加せず、仙台藩家老・但木土佐が司会を務め
たのです。
 議題になったのは、会津藩に征伐令が出ていることで、同藩か
ら謝罪嘆願書が出ているが、その処理をどうするかです。謝罪嘆
願書の内容に異議がなければ、奥羽総督府へ提出したいという提
案なのです。参加している東北の諸藩は、明日はわが身というこ
ともあるので、異論はなかったのです。
 実は、仙台藩と米沢藩は、狙い目は九条総督その人であり、嘆
願書を直接手渡せば、道は拓けると考えたのです。朝廷と薩長を
分けて考えたわけです。薩長の参謀との交渉は成功しないと考え
たのです。    ――─  [明治維新について考える/47]


≪画像および関連情報≫
 ●佐々木克著『戊辰戦争/敗者の明治維新』/ブログ批評より
  ―――――――――――――――――――――――――――
  戊辰戦争の全貌を、著者の佐々木克は自らの出身地でもある
  東北地方の視点、すなわち敗者の視点から描いた。もっとも
  激烈な戦闘が戦われた東北・新潟の奥羽越列藩同盟による抵
  抗はあまり目立っていないのである。これは新政府が薩長を
  中心とし、天皇・朝廷の権威を利用・独占し朝敵としてこれ
  らの抵抗を圧倒的な軍事力で押しつぶしその後もこの戦争の
  結果を自らの正統性を確立する梃子にしようとしたからであ
  る。東北地方の差別・軽視という感情を拡大あるいは作り出
  すことにもなったのである。
   http://www.honnomushi.com/review/2004_07/0016.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

佐々木克氏の本.jpg
佐々木 克氏の本
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2011年04月15日

●「奥羽列藩同盟はどうして結成されたか」(EJ第3038号)

 白石会議において用意された奥羽鎮撫総督府へ提出する嘆願書
は全部で3つあったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1.        会津藩家老による「嘆願書」
   2.会津藩寛典処分を求める「諸藩重臣副嘆願書」
   3.仙米両藩主連名での「会津藩寛典処分嘆願書」
                      ──佐々木克著
       『戊辰戦争/敗者の明治維新』/中公新書455
―――――――――――――――――――――――――――――
 この東北諸藩の動きをみると、なぜこれほどまでに皆で会津藩
を守ろうとするのか不思議に思う人がいるかもしれません。それ
は、会津藩の処分が会津一国の問題ではなく、奥羽全体の問題で
あるからです。したがって、その寛大な処分を願うのは東北諸藩
の総意であることを新政権に伝えることが3本の嘆願書の狙いで
あったのです。
 慶応4年閏4月12日、仙台藩主の伊達慶邦と米沢藩主の上杉
斉憲の2人は、3通の嘆願書を持って、そのとき、仙台と白石の
中間にある岩沼というところまで出陣していた九条総督をを訪ね
て、3通の嘆願書を渡したのです。
 EJ第3034号で世良修蔵の密書の一部を紹介しましたが、
その中で仙米両藩主が3通の嘆願書を岩沼の本営に持ってきたこ
とについて書いている部分があります。そのときの表現では「夕
方の午後4時から午前0時まで粘って嘆願書を置いていった」と
なっていますが、相当事実と違うようです。
 九条総督は、両藩主の話をじっくりと聞き、嘆願書を受け取っ
ています。しかし、「醍醐をはじめ参謀にも相談する必要がある
ので独断では決められない。したがって、嘆願書は預かりおく」
といったというのです。
 既出の佐々木克氏は、このとき、九条総督はとくに下参謀につ
いて、次のようにいったという事実を指摘しています。これはき
わめて重要な指摘です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 御承知の通り下参謀(世良修蔵、大山格之助)などは何分六ケ
 敷者共に侯得ば、必ず異論を生じ、同意は致間敷存候。依而事
 六ケ敷に至侯節は、自分は三条実美と相成、生て再び西上は不
 致覚悟に付、御両津の御厄介に相成、再び雲霧の晴侯を待侯心
 得である。            ──『山形県史』第四巻
                  佐々木克著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 当時の文章なので読みにくいのですが、「六ケ敷」は「むつか
しい」という意味です。次のようなことをいっているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 下参謀の世良修蔵や大山格之助はなかなか難しい者たちであり
 このような嘆願書を見せると、必ず異論を唱え、まず同意はし
 ないでしょう。かつて若手公卿のリーダーであった三条実美が
 禁門の変で都を追われ、長州藩を頼って落ちて行き、王政復古
 で復活したように、私も仙台・米沢藩を頼り、いずれ青天白日
 の身になるまで待ってもいいと思っている。
―――――――――――――――――――――――――――――
 この九条総督の言葉は、いろいろな意味に解釈できます。当時
の公卿は身分こそ高いものの、実権は薩長の参謀に握られており
完全なお飾りであったのです。とくに九条が仙米両藩主と会った
閏4月12日には、参謀の大山格之助は秋田に、世良修蔵は福島
にいたのです。
 そのため、九条総督の身辺を守護するのは、かたちのうえでは
仙台藩ということになるのです。したがって、総督としては仙米
両藩主にあまりきついことをいいたくはなかったので、上記のよ
うな発言をしたとも考えられるのです。
 また、大山や世良がこのような嘆願を受け入れるとは思えない
ので、それがダメであることを暗に匂わせ、その決定は必ずしも
自分の本意ではないことを事前に仙米両藩主に伝えるつもりでは
なかったともとれるのです。
 果たせるかな、閏4月17日に総督から、仙台藩に対し、会津
藩の寛典については「否」であり、早々に討ち入るべしとの沙汰
があったのです。
 もっとも総督府が拒否してくることは織り込み済みであったの
です。その場合は、会津・庄内のそれぞれの攻口で解兵し、それ
を九条総督に宣言、京都の朝廷に直接嘆願する。さらに、何らか
の方法で九条総督を世良修蔵から引き離し、総督を仙台に移すこ
とを考えていたのです。また、沢副総督と大山格之助を引き離す
工作も行う手はずになっていたのです。
 しかし、ここに予期せざることが起こったのです。閏4月20
日の仙台、福島藩士による世良修蔵の暗殺です。これにより、計
画が大きく狂ってしまったのです。しかし、この世良修蔵の暗殺
劇が、本当に偶発的なものであったか、あらかじめ計画されたも
のであったのかについては不明です。
 閏4月19日に会津藩兵は突如として出撃し、白河(小峰)城
を占拠しています。この城は東北の玄関口といわれる戦略上の重
要拠点であり、これも計画に入っていたものと考えられます。
 この世良の暗殺によって、奥羽諸藩は朝廷に直接建白する方針
を変更することになったのです。そのためには一層結束を強める
必要があるとの判断から、閏4月23日に新たに11藩を加えた
白石盟約書が調印されたのです。
 その後、場所を仙台に移し、いくつかの修正を行い、5月3日
に25藩による盟約書が調印されたのです。同時に会津・庄内両
藩への寛典を要望した太政官建白書も作成されたのです。
 急ごしらえであったというもの、これだけの大盟約が短期間で
結成されたのは奇跡に近いものがあります。それだけ強い危機感
があったわけです。――─  [明治維新について考える/48]


≪画像および関連情報≫
 ●伊達慶邦についての情報
  ―――――――――――――――――――――――――――
  同盟政府の最高機関・列藩同盟公議府が仙台領内の白石に置
  かれたのも、仙台藩主伊達慶邦の影響によるものである。白
  石は仙台城下を「母都市」とする「第二の仙台」であった。
  仙台藩と会津藩には、同盟政府の盟主として擁立した輪王寺
  宮を「東武皇帝」として即位させる計画があった。ただし、
  輪王寺宮の即位については、すでに「即位した」とする説と
  「即位しなかった」とする説があり、はっきりしていない。
  また同盟政府において、伊達慶邦は征夷大将軍に、その「弟
  分」に当たる松平容保は、征夷副将軍に就任する予定であっ
  た。                ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

伊達慶邦/上杉斉憲.jpg
伊達 慶邦/上杉 斉憲
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2011年04月18日

●「北方政権の5つの戦略」(EJ第3039号)

 維新の東北・越後戦争について書いていると、今回の東日本大
震災で被災した重要拠点のほとんどを含んでおり、改めて東北地
方の重要性を思い知らされます。新政府軍が戊辰戦争において最
もその制圧に時間を要したのは、奥羽・北越戦争だったのです。
 奥羽越列藩同盟が早くまとまったのは、仙台藩の玉虫左太夫、
会津藩の梶原平馬、長岡藩の河井継之助らの俊秀が作成した下案
があったからです。列藩同盟の盟約の最初の案は次の8ヵ条であ
り、後から修正が加えられています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 一、大義を天下に伸ばすことを目的とする。
 一、船を同じにして海を渡るごとく、信義をもって行動する
 一、急用あるときは近隣諸藩に速やかに連絡し応援をあおぐ
 一、武力で弱者を犯してはならない。機密を保持し、同盟を
   離間してはならない
 一、みだりに百姓を使役してはならない
 一、大事件は列藩集議し、公平を旨とする
 一、出兵する際は同盟に連絡すること
 一、罪なき者を殺戮したり、金穀を略奪してはならない。
              ──星 亮一・遠藤由紀子共著
      『最後の将軍/徳川慶喜の無念』より/光人社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 この8ヵ条の盟約は、薩長の不正を正し、不義を糾弾し、公正
正義な政治の実現を謳っています。皇国を維持し、天皇のもとに
新生国家をつくる尊皇思想に基づいたものです。奥羽越を母体と
し、北方政権を樹立して、薩長中心の国家ではなく、北方政権の
諸藩が中心となった国家を目指すというものだったのです。
 この北方政権には上記の盟約だけでなく、具体的な戦略もあっ
たのです。戦略は次の5つです。
―――――――――――――――――――――――――――――
            1.白河戦略
            2.越後戦略
            3.庄内戦略
            4.幕府戦略
            5.海外戦略
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1は「白河戦略」です。
 これは白河以北に薩長軍を入れないという戦略です。白河は奥
羽の玄関口であり、戦略的な要地です。会津、仙台、二本松藩が
中心となって白河を守り、薩長軍を排除後南下し、関東方面に侵
攻して、江戸城を押さえることも視野に入れています。
 第2は「越後戦略」です。
 越後は、米沢、長岡、庄内、会津で守備し、信州、上州、甲州
加州、紀州とも連合の道を探る戦略です。新潟港は列藩同盟の共
同管理にすることとしています。
 第3は「庄内戦略」です。
 庄内方面の薩長軍は米沢藩が支援して、庄内藩の免罪を天下に
知らしめる戦略です。
 第4は「幕府戦略」です。
 陸軍は既に北方政権に入っているので、全力を尽くして榎本艦
隊の参戦を求める戦略です。
 第5は「海外戦略」です。
 世論を喚起して、諸外国を味方につける戦略。このほか、プロ
シア領事、アメリカ公使に使者を派遣し貿易を行うことを要請し
ています。
 もともと奥羽越列藩同盟は「会津の救済」から始ったのです。
会津藩としては、最後の最後まで幕府を支えたという自負があり
勝海舟や大久保一翁が何らかのかたちで動いてくれることを期待
していたのです。
 しかし、勝海舟は会津藩の救済には一切動こうとせず、むしろ
薩長の戦意を会津藩に向けさせることによって、旧幕府の安泰を
図ろうとしたフシがあります。そういう旧幕府の冷たい態度が東
北諸藩の結束を急がせたのです。
 この北方政権戦略においてとくに期待されていたのは、榎本艦
隊との連携です。梶原平馬や玉虫左太夫は榎本艦隊を仙台と新潟
に配備し、必要に応じてその一部艦隊を大阪や下関、鹿児島まで
出動させ、後方を攪乱する戦略を考えていたのです。佐渡を基地
としてここに軍艦を配備し、新潟港を守るとともに同盟軍の補給
基地を確保するというものです。
 しかし、その肝心の榎本艦隊は、勝海舟の命令で、品川沖を離
れることができなかったのです。勝としては、榎本艦隊を江戸の
近くに配置することによって、西郷を始めとする新政府軍との交
渉を有利に進めようとしていたのです。しかし、榎本艦隊が動け
ないことが北方政権の命運を決めてしまったのです。
 こうした動きより先に北越方面では既に戦闘が始まっていたの
です。会津と並んで佐幕勢力の両翼をなしていた前桑名藩主・松
平定敬は江戸退去の命令を受けると、その領地の柏崎に来て、新
政府軍と交戦する体制を敷いていたのです。慶応4年(1868
年)2月〜3月にかけて、越後一帯は反政府勢力が結集していた
のです。
 これに対し、新政府軍は、4月19日に高倉永祐を北陸道鎮撫
総督兼会津征討総督に任命し、薩摩藩士・黒田了介(清隆)と長
州藩士・山県狂介(有朋)を参謀として越後に出征させ、閏4月
19日に越前高田に到着していたのです。
 新政府軍は、ここから兵を2つに分けて、山道と海道から越後
平野の要衝である長岡をはさみ撃ちにしようとしたのです。これ
に対応したのは、長岡藩の河井継之助です。河井は若年の藩主牧
野忠訓を擁して藩政の実権を握っていたのです。新政府軍の山道
軍はそのまま北に向かって進軍し、小千谷を占領したのです。
       ――─  [明治維新について考える/49]


≪画像および関連情報≫
 ●奥羽列藩同盟の誕生
  ―――――――――――――――――――――――――――
  会津赦免の嘆願の拒絶と世良の暗殺によって、奥羽諸藩は朝
  廷へ直接建白を行う方針に変更することとなる。そのために
  は奥羽諸藩の結束を強める必要があることから、閏4月23
  日新たに11藩を加えて白石盟約書が調印された。その後、
  仙台において白石盟約書における大国強権の項の修正や同盟
  諸藩の相互協力関係を規定して、5月3日に25藩による盟
  約書が調印され、同時に会津・庄内両藩への寛典を要望した
  太政官建白書も作成された。奥羽列藩同盟成立の月日につい
  ては諸説あるが、仙台にて白河盟約書を加筆修正し、太政官
  建白書の合意がなった5月3日とするのが主流である。
                    ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

列藩同盟旗(会津若松).jpg
列藩同盟旗(会津若松)
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2011年04月19日

●「新政府軍が苦戦した北越戦線」(EJ第3040号)

 小千谷は、現在の新潟県のほぼ中央、越後平野の南端にあり、
中越地方に属している都市です。閏4月21日、新政府軍は、山
道と海道に分かれて進軍していますが、山道軍は小千谷を占領し
そこに総督府を置いたのです。
 長岡藩の河井継之助は新政府軍の進軍に危機感をいだいて、小
千谷の総督府に軍監の岩村精一郎を訪ねて行ったのです。この時
点で長岡藩はまだ奥羽列藩同盟に加盟しておらず、中立を主張し
ていたからです。
 河井継之助は軍監の岩村精一郎に会って、次のように懇願して
いるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 総督府から出兵・献金すべしとの命令をうけながら今だに従わ
 ず誠に謝する所を知らない。しかし、それは藩主に異心があっ
 てのことではなく、藩内の議論が分れて一定しなかったからで
 ある。その上、会津や米沢、桑名の諸藩兵が長岡城下にきて、
 薩長は私心を挟んでおり真の官軍ではないから抵抗すべきであ
 ると迫り、むげに断わればたちまち戦争になる恐れがある。こ
 のようなやむをえない事情があって朝命に応ずることなく今日
 に至ってしまった。だがしばらく時日をかしてもらいたい。そ
 うすれば会津、桑名、米沢の諸藩を説得出来る。だから今直ち
 に軍兵を進めるのを停止してもらいたい。そうでなければたち
 まち大乱となり、人民に塗炭の苦を受けさせることになる。
             ──『河井継之助伝』/佐々木克著
       『戊辰戦争/敗者の明治維新』/中公新書455
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、岩村は聞く耳を持たなかったのです。河井は途中で席
を立とうとする岩村の裾をとらえて懇願したのですが、岩村は応
ぜず、藩主名義の嘆願書すら受け取らなかったのです。仕方なく
河井はすぐに長岡藩に戻り、戦闘の体制をとったのです。
 新政府軍はすぐに兵を起こし、長岡藩の領土に軍を進めてきた
のです。慶応4年(1868年)5月4日、長岡藩は奥羽列藩同
盟に正式に加入し、その後列藩同盟の越後の中核として戦うこと
になるのです。河井は岩村との会談が決裂したときは、このよう
にすることをあらかじめ決めていたのです。これにより長岡藩は
新政府軍にとってやっかいな相手になるのです。
 もともと河井継之助としては、列藩同盟の案づくりに参画はし
たのですが、一藩武装中立の立場を貫く予定であったとされてい
ます。河井継之助とはどういう人物なのでしょうか。
 河井継之助については、司馬遼太郎の長編小説『峠』があまり
にも有名です。この小説は、昭和41年(1966年)11月か
ら昭和43年5月まで「毎日新聞」に連載され、連載終了の年に
新潮社から出版されています。この小説によって、それまでほと
んど無名であった幕末から戊辰戦争時の越後長岡藩の家老・河井
継之助の名を一躍世間に広めることになったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
         司馬遼太郎著
         『峠』上・下巻/新潮文庫
―――――――――――――――――――――――――――――
 河井は、鳥羽・伏見の戦いの前の慶応3年(1867年)に藩
主牧野忠訓とともに藩士60名を従えて大阪に行き、慶喜に出兵
が得策でないことを提案しています。そして、もし武力に訴える
のであれば、大津口と丹波口を固めて敵を包囲し、京都の糧食を
断ち、動いてきたときに2万の大軍で一気に殲滅するという案も
提示したといわれます。
 これらの作戦は、慶喜の優柔不断によって実行されることはな
かったのですが、河井はなかなかの戦略家であったのです。長岡
藩は鳥羽・伏見の戦いで、警護とはいえ参加しているのですが、
処分の対象にはならなかったのです。
 江戸に戻った河井は、慶喜にまったく戦う気がないことを見抜
き、藩主を帰国させています。そして河井は、長岡藩の江戸藩邸
を処分して3万両余りを手に入れ、その金で外国商人から最新式
の銃砲と弾薬を手に入れて、長岡に持ち帰るのです。
 その中には、当時日本には3門しかないといわれた「ガトリン
グ機関砲」2門があるのです。ガトリング機関砲は、外部動力・
多銃身式に分類される構造を持ち、複数の銃身を外部動力(人力
やモーターなど)で回転させながら、給弾・装填・発射・排莢の
サイクルを繰り返して連続射撃を行う機関銃の前身です。
 さて、高田を進発した新政府軍の海道軍は、柏崎を経て、一気
に長岡の西方に出てきたのです。そして5月19日に、朝もやを
ついて信濃川を渡り、背面から長岡城に肉薄してきたのです。長
岡城側は、山道軍と海路軍の両軍の攻撃を受けることになり、河
井は防戦したものの、ピンチに陥ったのです。
 そこで河井は、ここはいったん退くべきだと判断し、藩主父子
を落とした後で、河井は城に火を放って、栃尾(とちお)という
ところに退却したのです。そのさい、河井はほとんどの兵を失わ
ずに退却をし、列藩同盟による援軍の到着を待ったのです。
 調子に乗った新政府軍は、さらに前進を続け、森立峠、浦瀬、
見附、今町まで進み、その先鋒は長岡勢のいる栃尾にまでおよび
信濃川以西では与板・出雲崎を占領したのです。それは破竹の勢
いであり、このままでは越後全域を制圧する勢いだったのです。
 しかし、新政府軍の戦線は80キロに伸び、それを確保するに
は兵力が足りなかったのです。これに対し、米沢藩や庄内藩など
から援軍が到着し、同盟軍の兵力は増強されつつあったのです。
同盟軍は加茂に本営を置き、反撃の機会を窺っていたのです。そ
して、6月2日、新政府軍が本営を置く今町に激しい攻撃を加え
て今町を奪還、政府軍を栃尾から長岡に追い払ったのです。
 このあと、約2ヵ月間にわたり、戦線は膠着状況に陥ってしま
うのです。戊辰戦争において、新政府軍が最大の苦戦をなめさせ
られることになります。─  [明治維新について考える/50]


≪画像および関連情報≫
 ●「ガトリング機関砲」についての情報
  ―――――――――――――――――――――――――――
  日本では戊辰戦争においての佐賀藩や河井継之助が率いた長
  岡藩が、ガトリング砲を実戦で使用した記録がある。河井継
  之助は戊辰戦争における局外中立を目指し、先進的な軍備の
  整備に努めて軍制改革を行い、横浜にあったファーブルブラ
  ンド商社(スネル兄弟とも言われている)からガトリング砲
  を購入したと伝えられている。当時の日本には1865年型
  ガトリング砲が3門しかなく、そのうち2門は河井が購入し
  たものだったと伝えられている。戦場では河井自身もガトリ
  ング砲を撃って応戦したと伝えられており、攻撃を受けた当
  初の新政府軍部隊は大きな損害を出したとされるが、その効
  果は局地的なもので終わり、野戦においてガトリング砲を使
  用した河井の目論見は、極めてコストパフォーマンスの悪い
  結果で終わっている。        ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●写真出典/ウィキペディア「ガトリング機関砲」

ガトリング砲/河井継之助記念館.jpg
ガトリング砲/河井継之助記念館
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2011年04月20日

●「河井継之助と北越戦線の最後」(EJ第3041号)

 「今町の戦い」で勝利した長岡藩の河井継之助を中心とする列
藩同盟軍は、虎視眈々と長岡城奪還を狙っていたのです。河井は
長岡城の奪還だけでは十分ではなく、長岡を落とすと同時に小千
谷も奪還する必要があると考えていたのです。そうしないと、奪
還しても長岡を守り切れないからです。しかし、それにはあまり
にも兵力が不足していたのです。
 それに河井にとってひとつ心配な藩があったことです。それは
新発田藩です。新発田藩は列藩同盟に加盟しているのに派兵を渋
り、協力的ではなかったので、河井としては新政府軍に寝返るこ
とを心配していたのです。結局、新発田藩がしぶしぶ兵を出して
きたのは6月中旬のことだったのです。米沢藩の圧力に新発田藩
が屈したからです。
 新政府軍にも問題があったのです。それは参謀の黒田清隆(薩
摩)と山形有朋(長州)の不仲です。これによって、新政府軍の
作戦の統一がとれなかったのです。しかし、新政府軍内では、北
越戦線をこのままにすると、長岡も小千谷も奪還されるという危
機感が出てきたのです。
 そこで新政府軍は兵員の増強に乗り出します。そして新たに投
入した兵力が3000人を超えた時点で、総攻撃を7月25日に
設定したのです。新政府軍としては今町の奪還が急務であり、軍
を栃尾と今町に集結していたのです。
 これに対し河井継之助を中心とする列藩同盟軍は、あくまで長
岡と小千谷の奪還を目指したのです。そのための決死隊として、
長岡藩の全兵力に当る約700人の兵力を編成し、その決行日を
7月20日と決めたのです。
 しかし、その決行当日は大雨で渡河する予定の大沼沢八丁沖が
増水していたので、決行は24日に変更されたのです。しかし、
新政府軍はこの河井の作戦を予想していなかったのです。
 24日の日没を待って河井率いる決死隊は、長岡城の東北にあ
る大沼沢八丁沖を数時間かけて渡り、一挙に長岡城を急襲したの
です。これを「八丁沖の戦い」と呼んでいます。
 そのとき、新政府軍の兵は、25日の総攻撃に備えて今町・栃
尾方面に集結し、長岡には兵は手薄だったのです。長岡には山形
有朋、西園寺公望、前原一誠らの新政府幹部がいたのですが、急
襲を受けてやっとの思いで、脱出したといいます。
 しかし、列藩同盟軍は、長岡奪還に成功したあと、一気に小千
谷を攻めることはできなかったのです。どうしてかというと、指
揮官である河井継之助が左足に骨折銃創の重傷を負ってしまった
からです。
 既に述べたように、河井継之助は長岡藩の事実上の藩主であり
強いリーダーシップを持っていたのです。軍も河井の命令であれ
ば高い士気でそれに応えていたのです。それだけに、河井の負傷
は、長岡軍全体の士気を大きく奪い、小千谷への追撃戦など到底
できる状態ではなかったのです。
 新政府軍と列藩同盟軍とでは兵力数も装備も違い、軍艦も持っ
ていないのです。つまり、最初から勝てる戦いではなかったので
す。そういう状況において2ヵ月以上も抵抗した北越戦線の粘り
は凄いものであったといえます。しかし、同盟軍の敗戦を加速さ
せたのは、新発田藩の裏切りであったのです。
 列藩同盟軍が長岡を奪還した次の日──7月25日の新政府軍
の動きを歴史学者・保谷徹氏の本から引用します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 七月二十五日、北越戦争を決定づける作戦が決行された。新潟
 の北方10キロ、阿賀野川河口近くの松ケ崎──太夫浜付近に
 新政府軍が上陸したのである。参謀黒田清隆が指揮する約千名
 の部隊は薩摩・長州・芸州兵などが主力で、軍艦摂津(政府)
 ・丁卯(長州)に護衛され、千別丸(柳川)・大鶴丸(筑前)
 に乗船した。錫懐丸(加賀)・万年丸(芸州)が物資運搬にあ
 たったので、参加した蒸気艦は六艦であった。すでに同盟側に
 は艦船はなかったが、用心のため上陸用の漁船などを佐渡で徴
 発し、これを曳航した。上陸地点は新発田藩の海岸で、新発田
 藩の内応は約束済みであった。二十五日早朝に部隊が上陸する
 と、ほとんど抵抗も受けないまま、南下して信濃川をはさんで
 新潟の対岸にあたる沼垂まで進軍した。この地点にあった新発
 田兵はたちまち新政府軍の先鋒部隊となった。 ──保谷徹著
        『戊辰戦争/戦争の日本史18』/吉川弘文館
―――――――――――――――――――――――――――――
 そして7月29日、長岡は再び新政府軍によって再占領された
のです。重傷の河井をはじめ列藩同盟軍は、会津と米沢に落ちて
行ったのです。河井は長岡兵と一緒に八十里峠を越えて駕籠で会
津に落ちて行ったのですが、峠を越えたのはちょうど8月4日の
ことです。その峠で河井はわが身を自嘲しながら、次の有名な歌
を読んでいます。
―――――――――――――――――――――――――――――
        八十里 こしぬけ武士の越す峠
―――――――――――――――――――――――――――――
 八十里峠を越えると、会津藩の只見村なのです。河井は只見村
着くと、会津若松より治療に来た松本良順によって診察を受けた
のですが、きわめて重傷であり、松本の勧めで医療設備の整って
いる会津若松で治療するため、只見村を出発したのです。しかし
塩沢村に着いたとき、容体が悪化し、8月13日にそこで息を引
き取っています。享年43歳の若さであったのです。
 列藩同盟軍は、会津領の加茂での戦闘を最後に全ての戦闘を放
棄して越後から撤退したのです。新発田の北方30キロに位置し
ていた村上城は8月11日に陥落し、越後の同盟軍は完全に一掃
されたのです。もともと列藩同盟は急拵えのに同盟であり、ひと
つが崩れると、あとはあっけなかったのです。北越戦線はこのよ
うにして終ったのです。
          ──  [明治維新について考える/51]


≪画像および関連情報≫
 ●「河井継之助と山本五十六」のブログ
  ―――――――――――――――――――――――――――
  河井継之助と山本五十六は長岡の出身で、深い因縁をもった
  二人であった。長岡を中心とする中越から上越国境の魚沼地
  方は一年の3分の一が雪に閉ざされてしまう。深い雪、長い
  冬、厳しい寒気、そして貧しさ。この風土の越後に育った人
  は律義さと忍耐強さで知られている。ともに忘れてならない
  のは進取の気性にも富んでいることである。長岡人は、常に
  「いっちょ前」の人間になることを目指していた。深い雪に
  長い間閉ざされ、忍従の生活を強いられ,はけ口のないエネ
  ルギーがある一点を目指して蓄積されそして爆発していく。
  河井継之助と山本五十六,更に過去に遡れば上杉謙信と、ス
  トイックに自分の信念を説き、ついには忍耐が切れ、爆発へ
  と向かっていく様は何か共通したものがあるように見える。
  長岡人の血には「なにごとかなさざればやまず。しかも他人
  の手を借りることなく」の熱情が流れているという。
   http://explore525.blog45.fc2.com/blog-entry-110.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

北越戦争の経過.jpg
北越戦争の経過
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2011年04月21日

●「九条総督の仙台脱出と輪王寺宮」(EJ第3042号)

 北越戦局が終ったので、時計の針を戻して奥羽戦局の状況を見
ることにします。閏4月20日、世良修蔵が処刑された日、奥羽
の玄関口である白河城は、東北諸藩軍──会津・仙台藩兵の手に
よって落ちたのです。
 これと同時に、奥羽鎮撫総督の九条道孝と参謀の醍醐忠敬は、
仙台藩重臣の屋敷に移送されたのです。もちろん丁重に扱われて
いたとはいえ、事実上の軟禁状態に置かれたのです。これは仙台
藩の策略であり、九条道孝を手元に擁することによって、列藩同
盟の盟主としての地位を守ろうとしたのです。
 しかし、銃砲において圧倒的に勝る新政府軍は、同盟軍を圧倒
し、5月1日に白河城を奪い返しているのです。この2日後に奥
羽列藩同盟が結成されています。しかし、白河城が落ちても新政
府軍はどちらかというと、守勢に回り、7月下旬までは大きな戦
局の進展はなかったのです。
 なぜなら、大村益次郎は江戸の完全平定までは援軍も軍資金も
白河城に送らなかったからです。そのため、白河城では兵力の補
充がなかなかつかず、防戦一方になったのです。
 そのとき、奥羽鎮撫副総督の沢為量はどこにいたのかというと
庄内征討のため新庄に出張しており、5月1日に秋田に転陣して
いたのです。
 ここで新政府軍と東北諸藩との関係を整理しておく必要があり
ます。このときの新政府軍の敵はあくまで会津藩であって、奥羽
鎮撫総督府が仙台・米沢両藩をはじめとする東北諸藩に会津藩征
討を命じていたのです。
 しかし、奥羽列藩同盟に対して秋田藩は協力的ではなく、副総
督の沢為量が新政府軍兵士と秋田にいることに不安感を持ってい
たのです。そこで、同盟側としては秋田藩に働きかけ、副総督を
秋田に置くのはよいが、その護衛は米沢藩が担当するので、新政
府軍兵士(薩長兵)は秋田から海路帰国させようとしたのですが
こんなことが実現するはずもなかったのです。
 新政府軍としては総督府の九条道孝が仙台藩にいる状態は好ま
しからぬことであると考えたのです。そこで閏4月27日、肥前
藩(佐賀藩)の前山清一郎を参謀とする肥前・小倉藩兵より成る
新政府援兵が仙台に到着したので、この問題を解決するよう前山
に働きかけたのです。
 前山は、九条総督の護衛を名目に肥前・小倉藩兵は仙台城下に
入り、仙台藩に九条道孝との面会を要求し、5月14日に九条道
孝と会っています。そのとき、前山は一案を九条総督に提案して
いるのです。
 この会談後、九条総督は、仙台藩に対し、奥羽鎮撫の実効があ
がっていないので、九条自身が朝廷に出て申し開きがしたいと話
したのです。そのとき東北諸藩の事情を説明したいし、副総督の
沢為量にも会いたいので、盛岡から秋田を経て上京したいと述べ
仙台藩側は基本的に問題なしとして、内諾していたのです。
 しかし、そういう問題は列藩同盟の検討事項とすることになっ
ていたので、5月15日に列藩会議が仙台で開かれたのです。列
藩会議では、九条の上京は認めるべきであるが、秋田経由は危険
であるという意見は多かったのです。したがって、秋田で、薩・
長・筑兵に加えて肥前・小倉藩兵が結集する事態は避け、九条は
奥羽諸藩兵が護衛して、仙台から海路京都に送るべしという意見
が出されたのです。
 しかし、仙台藩としては既に内諾を与えており、九条総督を信
用すべきだと主張して、押し切ったのです。そして、九条は18
日に仙台を立って、盛岡に向かい、秋田で副総督の沢為量と会い
以後、秋田を政府軍の本拠地として、奥羽列藩同盟軍と対決する
ようになります。仙台藩は完全に騙されたのです。
 まんまと九条総督を奪われた列藩同盟軍は、何らかの方法で朝
廷と接点を確保するため、思いついたのは輪王寺宮なのです。そ
のとき、輪王寺宮は、寛永寺を逃れ、旧幕府軍艦・長鯨丸で江戸
を脱出し、5月28日に平潟(茨城県)に上陸、それから陸路を
辿り、会津若松に入っていたのです。
 もともと仙台藩を除く同盟諸藩は、仙台藩が主導権を握ること
を快く思っていなかったのです。そのため、仙台藩が輪王寺宮を
抱え込み、仙台城下に置くことを警戒したのです。そこで、奥羽
諸藩は列藩会議を開き、輪王寺宮の住居を白石城にすることにし
その警備や経費は列藩の負担で行うことを決めたのです。これは
主として、米沢藩の主導によるものです。
 実はこの「白石城」というのは、絶妙な場所に位置していたの
です。白石は仙台藩の領地ではあるものの、福島藩に近く、同盟
の本拠が仙台から白石に移ることは、同盟内における仙台藩の地
位の低下につながるからです。そこで、仙台・会津・米沢の3藩
は、これについて輪王寺宮の意見を聞くことにしたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 仙台・米沢・会津三藩士は、覚王院義観を通じて輪王寺官の意
 向を聞いた。義観が官の意向としてもらしたのは、つぎのよう
 なことである。一部の奸臣が陰謀をもって、先帝の確定した朝
 政を改革し、徳川氏および会津・庄内二藩に朝敵の名を負わせ
 たのは、はなはだ不満であるから、ただ奥羽諸藩に依頼して、
 君側の奸を払うことのみを念願している。自分はいったん仏門
 にはいった身だから、軍事を総裁しようなどとの意向は少しも
 ない。住居については、列藩が白石をよいとするならば、なん
 ら異議をもたない。以上のようなことだったので、三藩士は君
 側の奸を払うという官の決意に満足して引き下がったのであっ
 た。                    ──石井孝著
                『戊辰戦争論』/吉川弘文館
―――――――――――――――――――――――――――――
 そして、7月13日、輪王寺宮は白石城に移り、同盟列藩の推
載を受けて軍事総督と呼ばれたのです。
          ──  [明治維新について考える/52]


≪画像および関連情報≫
 ●「輪王寺」についての情報
  ―――――――――――――――――――――――――――
  創建は奈良時代にさかのぼり、近世には徳川家の庇護を受け
  て繁栄を極めた。明治初年の神仏分離令によって寺院と神社
  が分離されてからは、東照宮、、二荒山神社とあわせて「二
  社一寺」と称されているが、近世まではこれらを総称して、
  「日光山」と呼ばれていた。「輪王寺」は日光山中にある寺
  院群の総称でもあり、堂塔は、広範囲に散在している。国王
  重要文化財、など多数の文化財を所有し、徳川家光をまつっ
  た大猷院霊廟や本堂である三仏堂などの古建築も多い。境内
  は、東照宮、二荒山神社の境内とともに「日光山内」として
  国の史跡に指定され、「日光の社寺」として世界遺産に登録
  されている。            ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

白川能久親王(輪王寺宮)銅像.jpg
白川能久親王(輪王寺宮)銅像
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2011年04月22日

●「旧幕臣が仕切っていた白石城公議府」(EJ第3043号)

 輪王寺宮が同盟列藩に対して出した「令旨(りょうじ)」は2
つあるのです。『戊辰戦争論』の著者、石井孝氏はこれについて
次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 輪王寺官が同盟列藩に下した令旨には、「薩賊」が「幼主」を
 あざむき、廷臣をおびやかして「先帝の遺訓」にそむき、摂関
 ・幕府を廃止したことを「大逆無道、千古この比なし」と、き
 わめて激越な言葉で非難し、これを討伐することを列藩に委嘱
 している。これは、王政復古以降のすべての政治を否認したも
 のといえよう。その文章の調子からいって、義観が起草したも
 のであろう。もう一つの令旨には、「君側の奸臣」の罪をあげ
 奥羽列藩だけでなく、東海・東山・北陸・鎮西の大小諸侯にい
 たるまで「奸臣」征伐の策をめぐらすよう依頼している。なお
 この令旨を欧文に翻訳して各国公使に告げ、世界の公論に訴え
 ることをも希望している。          ──石井孝著
                『戊辰戦争論』/吉川弘文館
―――――――――――――――――――――――――――――
 列藩同盟はこの令旨によって全国を統一することにあり、この
令旨の実行が列藩同盟の任務として与えられたことになります。
輪王寺宮をかつぎ出す前は、、単なる会津・庄内藩の救済であっ
たものが、大きくかたちを変えているのです。輪王寺宮が白石城
に入ったのは7月13日だったのですが、その翌日の14日に白
石城内に公議府が設けられているのです。
 つまり、公議府が列藩同盟の中核になっていたのです。問題な
のは、その公議府を主宰したのが元老中のあの板倉勝静と小笠原
長行だったことです。
 このうち、輪王寺宮の軍事総督就任はあくまでかたちだけのも
のですが、軍事総督の下の軍事総裁──実際の軍事指揮官があの
竹中重固なのです。鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍を敗戦に導いた
司令官です。
 つまり、列藩同盟の中枢機関が白石に移ったことは、同盟の主
導権が板倉勝静と小笠原長行を擁する旧幕臣の手に移ったことを
意味しているのです。これの意味することについて、石井孝氏は
次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 列藩同盟が旧幕臣に指導されるようになったことから、この同
 盟の絶対主義化を結論する見解がある。なるはど、列藩同盟を
 指導する旧幕臣のなかには、かつて徳川幕府の絶対主義化を指
 導した人びとが含まれている。しかし、こうした旧幕臣たちも
 おくれた同盟諸藩に依拠しているかぎり、到底、同盟の絶対主
 義化を推進する基盤をもてない。かえって指導者である旧幕臣
 と諸藩との対立が暴露された。旧幕臣が仙台藩の「因循」を慨
 嘆しても、それを「激発」させることはできなかった。
                 ──石井孝著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 輪王寺宮が白石城に入城した7月13日に、福島の浜通りの要
衝である平城が落ちたのです。福島には、浜通り、中通り、会津
地方の3つがあるのですが、その浜通りの平(いわき市)には、
あの福島原発があるのです。
 それまで新政府軍は、平潟口(北茨木市)から何回も攻撃を仕
掛けたのですが、頑強な抵抗にあってなかなか落ちなかったので
す。しかし、7月13日に折からの風雨を衝いての新政府軍への
猛攻には守り切れず、同盟軍は城を焼いて逃走しています。
 平城が落ちたことによって、同盟軍には不利な状況が次々と出
てきたのです。まず、三春藩(福島県三春町)の裏切りによって
二本松城が落ちたことです。7月29日のことです。
 ちょうどこの29日に北越戦線で河井継之助の率いる同盟軍の
決死隊が奪還した長岡城が新政府軍によって再度奪い返されてい
るのです。これによって、新政府軍は白河口と越後口の双方から
会津を挟撃する態勢ができたことになるのです。
 天下統一という目標を持って最新式の銃砲を有して進撃する新
政府軍と列藩同盟軍の士気の差は歴然としていたのです。福島藩
などは二本松城が落ちたことを聞くと、たちまち戦意を喪失し、
福島藩主の板倉勝尚は家臣を連れて米沢藩に逃れたのです。しか
し米沢藩では、藩主と数人の家臣は受け入れたものの、他の者の
入国を拒否したので、やむをえず福島に戻ったところ、福島はま
だ落ちていなかったといいます。
 とくにひどかったのは、仙台藩のていたらくです。まるで戦意
がなく、白石城にいる輪王寺宮も不安になって「御苦労ながら、
速やかにご出陣、諸隊勉励」というハッパをかける始末です。こ
れについて、佐々木克氏は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 東北戦争の全局面で仙台藩兵の評判がきわめて悪かった。「真
 に惰兵とは是等の者を云なるべし、仙人数兎角用心」(『二本
 松藩史』)と同盟の仲間にまでいわれる始末である。仙台藩の
 兵士は、藩直属の兵士数は約七千と少なく、あとは門閥の家臣
 (二万石から警石の館主)の私兵であった。つまり仙台藩の軍
 団は、それ自体小領主の兵士団による集合体より編成されてい
 るのである。したがって装備の面でもそれぞれ差があり、統一
 的な訓練がなされていなかった。それが実戦に出て、大きな障
 害となったのであった。            佐々木克著
       『戊辰戦争/敗者の明治維新』/中公新書455
―――――――――――――――――――――――――――――
 列藩同盟の中心的存在である仙台藩がこの有様では、勝てる戦
争でも負けてしまうものです。これに比べると、北越戦局の長岡
藩や二本松藩などはよく戦った方であるといえます。
 仙台藩兵が弱かったのは、軍制改革の遅れた純粋な封建的軍隊
であったからであり、最新式の銃砲と近代的な軍隊の新政府軍に
は歯が立たなかったのです。 [明治維新について考える/53]


≪画像および関連情報≫
 ●テクノロジーの差で敗れた奥羽列藩同盟
  ―――――――――――――――――――――――――――
  当時の東北諸藩はまるでテクノロジー音痴であった。新政府
  軍と戦って施条銃の優秀さを知る。あわててスネルより新式
  銃を新潟港より輸入する。それは6月に入ってからである。
  当時の日本では戦時捕虜の概念が存在しなかった。負傷し、
  第一線に残置され、敵方に発見されたらまず首を取られた。
  所持している鉄砲(持っている兵は少なかった)が、旧式で戦
  いにならない現実の中で、生き残りたいという動物的反応を
  行った。すなわち戦場逃亡である。一般的にテクノロジー無
  視の指導部は精神主義に陥る。極論すると精神力は鉄砲の弾
  に勝り(必勝の信念) 戦いで死ぬことを命じた。
  http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/bakuhan/sendaiyonezawa.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●奥羽戦争地図/出典:石井孝著/『戊辰戦争論』
  /吉川弘文館より

奥羽戦争地図.jpg
奥羽戦争地図
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2011年04月25日

●「秋田前線での庄内軍の強さの理由」(EJ第3044号)

 奥羽列藩同盟はどうやらかたちだけの同盟であったようです。
前にも述べたように、日本人は幕末の歴史を有名作家による小説
で読む傾向があり、戊辰戦争の実相が正しくイメージできていな
いようなところがありますが、戊辰戦争は近代戦だったのです。
 東京大学史料編纂所教授の保谷徹氏は、戊辰戦争を次の言葉で
表現しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 戊辰戦争は近代的な兵器が本格的に使用された戦争であったと
 ともに、近世的な戦争がたたかわれた最後の機会でもあった。
         ──保谷徹著/『戊辰戦争』/吉川弘文館刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 奥羽列藩同盟の結束力が弱かった最大の理由は、近代的軍制改
革と最新式銃砲の装備が遅れた藩を中心に同盟に消極的であった
り、最終的に裏切りを行ったことにあるといえます。そのひとつ
の典型が秋田藩です。
 秋田には奥羽鎮撫総督府・沢為量副総督がもともと薩摩兵、長
州兵、筑前兵350名とともに駐留しており、秋田藩はその威圧
を受けて、あまり同盟軍には協力できない状況にあったのです。
 そこに慶応4年(1868年)7月1日に、九条総督率いる軍
勢895名(佐賀兵753、小倉兵142)が仙台藩使節11名
とともに到着し、新政府軍の総勢は、1245名に達し、とても
新政府軍に逆らえる状況ではなくなったのです。
 こういう状況になったことを背景に新政府軍は、秋田藩に対し
同盟を脱退し、庄内討ち入りを求めるプレッシャーをかけたので
す。一方、九条総督に同行してきた仙台藩士11名は、九条総督
が約束を破り、秋田に留まると主張したので、秋田藩に対し、同
じ同盟軍として抗議するよう働きかけたのです。
 同盟軍と新政府軍の両方からプレッシャーを受けた秋田藩は、
重臣会議を開き、同盟離反、庄内討ち入りを決めたのです。そし
て新政府軍にその証しを示すため、秋田に滞在中であった仙台藩
士11名のうち6名を殺害したのです。そして、7月11日に新
政府・秋田連合軍は、庄内藩をめざして進発したのです。
 そして7月12日に庄内藩に入り、戦闘が開始されたのです。
このとき、近代戦に弱い秋田軍は新政府軍をあてにし、新政府軍
は秋田軍の戦力を過大に評価して、主力を九条総督の周辺に配置
していたのです。しかし、庄内軍は強かったのです。
 庄内軍は近代兵器を装備し、訓練された強力な軍隊であり、そ
れに怒りに燃えた仙台藩兵が加わったので実に強かったのです。
そのため、新政府・秋田連合軍は14日に庄内軍に攻め込まれて
から連戦連敗し、7月末日には秋田藩内に押し返されたのです。
庄内軍は、8月11日に横手城を攻略し、秋田領南部を支配下に
収め、9月16日には、秋田城に手の届くところまで進撃して秋
田軍をあと一歩のところまで追い詰めたのです。
 ここに庄内軍側から見た秋田戦線の貴重な記述があります。和
田東吉氏の手になる『戊辰庄内戦争録』の記述を保谷徹氏が現代
語訳にしたものです。当時の庄内軍は一大隊600名の編成であ
り、これは四番大隊の戦闘の記録です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 午後四時過ぎ、中野村の手前、山田村で休息をとっていたとこ
 ろ敵が来襲。・・・激しい銃撃戦になり夜の八時まで続く。も
 はや互いの筒先の発火を目当てに撃ち合うのみとなった。(事
 態を打開するため、中野村に斥候をはなって放火させる)一度
 目は失敗、二度目で火の手が上がり、これに臼砲を打ち込み、
 銃撃を続けたところ、敵兵は火の手を背景に進撃してくる。七
 連発の奇銃で息つく間もなく撃ちたてたが、敵はいささかもひ
 るまない。半隊づつ左右に展開させ、片側に七連発、片側に先
 込の二帯銃を配置したところ、七連発の玉先が鋭かったのであ
 ろう、敵兵は二帯銃の側へ突進したが、隊列を崩さなかったと
 ころ、さすがの精兵もかなわないと思ったか、散り散りに敗走
 した(八月五日、四番大隊)。
         ──保谷徹著/『戊辰戦争』/吉川弘文館刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 この記述でわかることは、庄内軍がスペンサー銃を使っていた
ことが「七連発」の記述からわかります。「二帯銃」というのは
保谷徹氏によると、2つバンドの短エンフィールド銃(前装式)
ということです。
 これに対する秋田軍は、ほとんどときどきしか弾が飛んでこな
いというので、前装式の銃を使っていたものと思われます。秋田
軍はこの装備の遅れがネックになって、秋田城まで押し返されて
しまったのです。
 しかし、秋田に入ってからは新政府軍の主力部隊が投入され、
また秋田の土崎港から武器の補給があり、秋田軍にも新式銃が与
えられたので、庄内軍は簡単には前進できなくなったものの、そ
れでも、明らかに秋田・新政府合同軍を圧倒していたのです。
 しかし、そのように押しまくっていた庄内軍は、9月19日に
なると、突然秋田藩内から姿を消してしまったのです。一体何が
あったのでしょうか。
 それは米沢藩と仙台藩が降伏して、今度は新政府軍として庄内
藩に攻め込んでくる気配を示していたからです。米沢・仙台両藩
といえば、列藩同盟軍の中核を占める藩であり、これが崩れると
いうことは、奥羽列藩同盟の崩壊を意味していたのです。既に同
盟軍で全藩を上げて戦っているのは、会津藩と庄内藩しかいなく
なってしまったのです。
 8月を超えると、もはや戦いの全体像は見えてきており、既に
大勢は決していたのです。後はどのような手順で最終の目的──
会津・庄内攻略を行うかです。基本的には、仙台藩・米沢藩を屈
服させ、そのうえで会津・庄内を孤立させることです。しかし、
この意見に反対する者がいたのです。
           ── [明治維新について考える/54]


≪画像および関連情報≫
 ●「スペンサー銃」についての情報
  ―――――――――――――――――――――――――――
  スペンサー銃は弾を次々と発射できるように、7発入り管状
  弾倉に収納されたリムファイアカートリッジを使用した。空
  になったときには、管状弾倉に新しいカートリッジを落とす
  ことによってか、または、ブレイクスリーカートリッジボッ
  クスと呼ばれる弾薬盒から素早く装填することができた。ブ
  レイクスリーカートリッジボックスには各7発入りのチュー
  ブが入っていた。6本入りと10本入りと13本入りがあっ
  た。ブレイクスリーカートリッジボックスは銃床内の管状弾
  倉を空状態にすることを可能にした。 ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

小銃の発達/試料編纂所jpg.jpg
小銃の発達/試料編纂所
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2011年04月26日

●「新政府軍が会津藩を急襲する」(EJ第3045号)

 新政府軍は、奥羽の玄関口の白河を列藩同盟軍から奪い返し、
そこに白河口総督府を置いています。慶応4年(1868年)8
月の時点において、白河口総督府の方針では、仙台藩と米沢藩を
降伏させ、そのうえで会津・庄内藩の征討を実施することに決め
ていたのです。
 しかし、この方針に反対したのは、白河口総督府の参謀である
板垣退助と伊地知正治の2人です。この2人の作戦内容をご紹介
しておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 奥羽は寒さのきびしい土地で、いまから三、四十日たてば必ず
 降雪をみるにいたるであろう。暖地の兵で厳寒の季節に作戦を
 するのは不利である。もし仙台や米沢のために時日を空費して
 いれば、年内に会津を攻略することはむずかしくなり、明春に
 なるであろう。そうなるとわが兵は戦争にあき、これにひきか
 え敵の防備はいまの十倍にもなるだろう。また時日をのばして
 いるうち、内部に変化が生じないともかぎらない。そもそも会
 津は根本で、仙台・米沢は枝葉にすぎない。いったん根本を抜
 けば、枝葉はおのずと枯れるであろう。    ──石井孝著
                『戊辰戦争論』/吉川弘文館
―――――――――――――――――――――――――――――
 新政府軍は、この2人の参謀の作戦計画にしたがって行動をは
じめます。8月20日に、薩摩、長州、土佐、大垣、大村の諸藩
兵から成る白河口新政府軍は白河口を進発し、簡単に猪苗代城を
落としたのです。8且22日のことです。
 このとき、勇猛を持って鳴る会津藩家老・佐川官兵衛は、官軍
はすぐには攻めてこないと思うが、攻めてきたときは、戸ノ口で
防ぎ、十六橋の東に追い払うとして悠然と構えていたのです。し
かし、実戦経験の豊かな佐川にしては、この状況判断は大間違い
だったのです。
 猪苗代湖から流れ出る川を日橋川というのですが、ここに十六
橋という橋があります。23日の未明のことですが、新政府軍は
日橋川を渡河し、いきなり攻め込んできたのです。
 会津若松軍は、佐川官兵衛の指示通り、戸ノ口原というところ
で食い止めようとしたのですが、新政府軍の勢いは強く、突破さ
れてしまうのです。このとき、戸ノ口原を守っていた会津若松軍
の中に白虎二番隊の20人がいたのです。この20人が後で大変
有名になるのです。
 新政府軍は凄い勢いで滝沢村に向かったのです。そのとき、会
津藩主の松平容保はその滝沢村に陣をはっていたのですが、あま
りにも新政府軍の進撃が早いので、やむなく城下に退却し、単騎
鶴ヶ城に入ります。そして、武士の家族も続々と城中に避難した
のです。
 このとき会津若松にいたのは、400〜500人の兵士であり
しかもその構成員は老人や少年、もしくは、いわゆる文官といわ
れる人たちであり、その抵抗力はきわめて弱かったのです。会津
藩の精鋭は、下野方面や越後方面に出陣しており、城中にはいな
かったのです。
 しかし、戸ノ口から敗走してきた白虎二番隊は、城に入れず、
間道を抜けて飯盛山に登ったのです。後から城に入ろうとしたか
らです。そのとき飯盛山に上がってきたのは、16人だったとい
われています。さすがに新政府軍も飯盛山までは攻め上ってはこ
なかったのです。
 新政府軍はあまりにも早く進攻したので、後続部隊が続いてこ
なかったのです。そこで新政府軍の兵士たちは、街中に火を放っ
て、会津若松の町は黒煙が上がり、大混乱に陥ったのです。
 しかし、会津兵が城に入ってしまうと、新政府軍としてはそれ
以上攻めるすべはなく、ここから約一ヵ月間、戦局は膠着状態に
なるのです。
 ところで、飯盛山に登った白虎隊16人は、しばらくして鶴ヶ
城の方を見ると、黒煙が上がっている──16人は悲嘆の涙にく
れるのです。城は落ちた。きっと主君も自害されたであろう。も
はや生きていても意味はないとして、自刃して果てるのです。
 「南鶴ヶ城を望めば〜」という有名な詩吟があります。これは
そのときの白虎隊16名のことを詠んだ歌なのです。現代語訳を
示しておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 おりしも、南の方鶴ヶ城を見ると城は砲火に包まれ、黒煙がも
 うもうと立ちあがっており、ついに城は落ちた。主君も自刃さ
 れたであろう。少年たちはあまりの無念さに声をあげて泣き涙
 を呑んで丘の樹間をさまよい歩いた。ついに会津藩は亡びた。
 われわれの務めはこれまでである。こうなれば主君に殉ずるの
 が道と16人の少年らは腹をかき切って倒れ、全員若き命を散
 らしたのである。
    http://ameblo.jp/suikogishin/entry-10100110661.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 せっかく会津若松城下まで攻め込みながら、新政府軍の精鋭が
どうして落とすのに1ヵ月も要したのでしょうか。その理由とし
ては次の3つが上げられると思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.鶴ヶ城のような堅固な城は当時の兵器の力では陥落させる
   のは困難である
 2.新政府軍の進撃はあまりにも早過ぎ、後続軍が続かず、城
   を包囲できない
 3.城を出ていた会津藩の精鋭軍が続々と城に帰還し、兵力が
   増強されたこと
―――――――――――――――――――――――――――――
 勝てる可能性がないのに、兵の数も少なく、武器も刀や槍以外
にはほとんどなかった会津藩ですが、この後、徹底的に抵抗する
のです。       ── [明治維新について考える/55]


≪画像および関連情報≫
 ●会津若松城(鶴ヶ城)について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  会津鶴ヶ城は至徳元年(1384)葦名直盛が造った『東黒
  川館』が始まりと云われていて、後に会津領主の葦名盛氏が
  改築し、現在の城郭の原型を築きました。当時の名前は『黒
  川城』でした。文禄2年には蒲生氏郷が本格的な天守閣を築
  城し、名前も『鶴ヶ城』と改められました。この時に積まれ
  た石垣が400年以上経った今でも朽ちることなく、往時の
  姿を忍ばせています。慶長16年(1611)に会津地方を
  大地震が襲い、石垣や天守閣は大きく傾いてしまいました。
  その時に天守閣を改修し、西出丸・北出丸といった出丸を築
  き、ほぼ現在の姿の鶴ヶ城ができたのです。
  http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Renge/9185/tsurugajyo.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

鶴ヶ城.jpg
鶴ヶ城
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2011年04月27日

●「会津藩必死の攻防と米沢藩の投降」(EJ第3046号)

 新政府軍としては、国境に出ていた会津藩の精兵が城に戻る前
に城を落とすか、城に入れない策を講じたいところであったので
すが、そのどちらもできなかったのです。
 しかし、新政府軍としては、城を包囲して精兵を城に入れない
ようにしたかったのですが、それもできなかったのです。城を完
全に包囲するだけの兵を集められなかったからなのです。
 そのため、会津兵は慶応4年(1868年)8月27日までに
は山川大蔵を先頭に入城し、城内の士気は最高に盛り上がったの
です。そして、籠城は次の体制で行うことになったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   家老/  梶原平馬 ・・・・ 本丸で政務を担当
   家老/  山川大蔵 ・・・・ 本丸で軍事を担当
   家老/内藤介右衛門 ・・・・   三の丸を守備
   家老/  原田対馬 ・・・・   西出丸を守備
   家老/ 海老名郡治 ・・・・   北出丸を守備
   家老/ 倉沢右兵衛 ・・・・   二の丸を守備
   家老/ 佐川官兵衛 ・・・・  城外で諸軍統括
                 ──星 亮一著/大和書房
          『偽りの明治維新/会津戊辰戦争の真実』
―――――――――――――――――――――――――――――
 この人事で注目されるのは、すべてが20代の若手であること
です。藩主の松平容保は、このような非常時は老臣では対応不可
能と判断し、すべて若手に切り換えたのです。とくに梶原と山川
は若かったのです。
 この中で注目されるのは山川大蔵です。山川は、会津藩におい
てもっとも洋式の兵術に通じた優秀な部将で、砲兵頭を務めてい
たのです。山川は幕府の使節小出秀実に随行してロシアにも行っ
たことのある優れた人材だったのです。その山川は本丸にあって
軍事のすべてを握ることになったのですが、一番恐れたのは城へ
の砲撃です。日を追うにつれて新政府軍も続々と軍隊が増えてき
て守備にも限界が出てきていたからです。
 8月25日、新政府軍は猛攻をかけて、城外の要地小田山を占
領したのです。これは山川がもっとも恐れていたことのひとつで
す。ここからの敵軍の大砲の砲撃を恐れたのです。
 その恐れは現実のものになったのです。8月27日に新政府軍
は、小田山にアームストロング砲を設置し、連日大砲の速射をは
じめたのです。これだけではなく、他の陣地からも砲撃が行なわ
れ、城内には多くの死傷者が出たのです。
 しかし、城内の会津藩士たちは積極的に城外に出て、刀や槍で
戦ったのです。藩士の妻や娘も武装して直接敵と戦うなど、その
抵抗はすさまじいものであったのです。この戦闘で山川の妻も戦
死しているのです。石井孝氏は次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 政府軍の猛攻にたいして、会津軍はしばしば城外で反撃を展開
 した。わけても八月二九日の反撃は壮烈をきわめた。会津軍は
 銃砲が不足していたため、多く刀槍をひっさげて弾丸雨下のな
 かを突進したが、いたずらに多数の犠牲者を出すにすぎなかっ
 た。この日の戦死者は一七〇人に達したという。(中略)看護
 と炊事は、容保の義姉照姫の指揮のもとに、藩士の妻娘や奥女
 中を動員して行なわれた。かの女らは、黒紋付に白無垢を重ね
 襷をかけ裾を高くかかげ、両刀をおびて、これに従事したとい
 う。敵弾は病室をも遠慮しなかった。しばしば病室にも落下し
 て、少なからぬ死傷者を出すことがあった。  ──石井孝著
                『戊辰戦争論』/吉川弘文館
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで会津藩の話はひとまずおいて、米沢藩の話をする必要が
あります。新政府は、東北諸藩のすべてを力で屈服させようとは
思っていなかったのです。なぜなら、新政府にとって強敵な藩は
味方の陣営に引き込むと、そのまま重要な戦力になるからです。
 そこである一定の時期から、戦闘行為を平和攻勢に切り換える
方針でいたのです。8月18日、それは米沢藩に対して行なわれ
たのです。使節は土佐藩だったのです。なぜなら、土佐藩は米沢
藩と姻戚関係にあったからです。
 18日に土佐藩士の沢木盛弥は人夫に変装して、信夫郡(福島
県北部)庭坂の米沢藩陣営に行き、土佐藩の重職から米沢藩の重
職に宛てた書簡を軍監の杉山盛之進に手渡したのです。そこには
もし悔悟謝罪が行なわれるのであれば「祖先累代の祀りを認め、
藩租(上杉謙信)の英名を取り戻すことができる」と書いてあり
これが米沢藩を動かしたのです。
 米沢藩では、杉山盛之進を二本松の新政府軍陣営に派遣してい
るのです。そして25日に大村藩士で参謀の渡辺清左衛門と会見
できたのです。そのときに新政府軍が米沢藩に提示した条件とは
次の6点です。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1.反乱の首謀者でも降伏すれば殺すようなことはしない
  2.真に悔悟謝罪の道が立てば本領を安堵することもある
  3.会津藩も真に悔悟謝罪すれば祖先の祀りを存続させる
  4.いったん滅亡した藩も降伏すれば多少の領地を与える
  5.奥羽諸藩で降伏内意あれば重臣を通じて申し出るべし
  6.輪王寺宮が入洛のうえ謝罪すれば、寛大な処置をとる
                ──石井孝著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 このまま戦っても滅亡必至の米沢藩にとってこれは悪くない条
件です。8月28日、米沢藩主上杉斉憲は使者を派遣して投降を
申し出たのです。越後口総督府はこれを許したので、9月3日に
藩主は城外に退いて隠居し、その子茂憲は新発田の総督府におも
むき、会津征討の先鋒をつとめたいと申し出て、ゆるされている
のです。このようにして米沢藩は投降し、会津は孤立感を深めて
行ったのです。    ── [明治維新について考える/56]


≪画像および関連情報≫
 ●山川大蔵(浩)についての情報
  ―――――――――――――――――――――――――――
  会津藩家老職の家に生まれる。19歳で京都にいた藩主容保
  の命で上京し奏者番となる。幕府の樺太境界議定に随行、世
  界の体勢を学ぶ。会津戦争では新政府軍に包囲された鶴ヶ城
  を、彼岸獅子舞を奏して入城、総指揮をとる。明治2年松平
  家の家名を再興、翌年斗南藩大参事となり藩務にあたる。廃
  藩後は陸軍省に入り、少将まで進む。この間、東京高等師範
  学校長などを兼務。弟健次郎と共に編集した「京都守護職始
  末」は維新史の新生面を開いた。
 http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/yukari/jinbutsu/yhiroshi.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

山川大蔵(浩).jpg
山川大蔵(浩)
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2011年04月28日

●「奥羽列藩同盟の盟主/仙台藩の投降」(EJ第3047号)

 新政府軍が奥羽列藩の主力藩の降伏条件を比較的緩やかなもの
にしたのは、降伏しない他の有力藩の降伏勧奨をさせるのが狙い
であったのです。とくに米沢藩は、仙台藩や会津藩とつながって
いるので、その降伏勧奨には重きを置いたのです。
 米沢藩の藩主の子息である茂憲が自ら新発田の総督府におもむ
き、会津藩攻めの先鋒を願い出たのは、米沢藩が中に入ることに
よって、会津藩にとってよりよい降伏条件が引き出せるのではな
いかと考えたからです。
 ところが会津藩よりも先に反応したのは、仙台藩であったので
す。というのは、仙台藩は南境の要衝である駒ヶ嶺城を失ってか
らは藩内で和平論が高まっていたからです。駒ヶ嶺というのは、
福島県の相馬市に近く、輪王寺宮のいる白石城にも近いので、列
藩同盟にとってはまさに落としてはならない重要地です。
 慶応4年(1868年)8月26日、米沢藩の使者木滑要人、
堀尾保助の両人が仙台にやってきて、仙台藩の重臣坂英力、石母
田但馬と面会し、米沢藩は降伏のための準備を進めていることを
知らせ、仙台藩にも降伏を勧めています。
 仙台藩は内心ではこの話に乗るつもりで検討をはじめたところ
そこに榎本武楊率いる旧幕府艦隊が松島湾に入港したのです。そ
のため、抗戦派が少し息を吹き返したのです。9月3日に城中で
榎本をはじめとする旧幕臣と仙台藩家老石母田但馬を加えて軍議
が行われたのです。そのとき、フランス人士官ブリュネも参加し
ているのです。
 榎本武楊は、奥羽地方は日本全国の6分の1を占めていてその
兵力を結集すれば5万人の兵力に達する。ここに軍務局を置いて
フランス人を顧問に雇って戦うべきであると説いたのですが、既
にその時点では大勢が決していたのです。そもそも榎本が到着す
るのが遅かったのです。これまで榎本武楊率いる艦隊は、一体何
をしていたのでしょうか。これについてはいずれ述べます。
 9月9日に宇和島藩の使者が仙台藩主宛ての勅書を持ってやっ
てきたのです。何の勅書かというと、仙台藩主伊達慶邦征伐の御
沙汰書です。これで仙台藩は朝敵になったことになります。使者
には家老の石母田但馬が会い、何とか和睦で話をつけられないか
と相談したのですが、使者は朝敵になった以上、降伏謝罪が絶対
条件であると説いたのです。
 石母田但馬は、使者に「1日待って欲しい」と頼み、仙台藩と
して重要会議を開いたのです。しかし、交戦か降伏かを巡って意
見が対立したのです。抗戦論者の松本要人などは、降伏などとん
でもないとして反対し徹底抗戦を主張し、石田正親、遠藤主税は
降伏して領国を保全すべきであると主張したのです。
 結局家老一同が藩主のところに出向き、藩主の裁決を仰ぐこと
になったのです。藩主伊達慶邦は、熟慮のすえ伊達家を存続させ
るために降伏という苦渋の決断をしたのです。
 9月12日に伊達慶邦は藩士に対し、書面で降伏する理由とそ
こにいたった経緯を知らせ、理解を求めたのです。徹底抗戦派か
ら降伏の情報を聞いた榎本武楊は、今度は土方歳三を連れて再び
登城し、奥羽の盟主が降伏するとは何事かということで大議論に
なったのですが、仙台藩の意思は変わらなかったのです。
 かくして9月13日──9月8日に「慶応」から「明治」に元
号が変わっている──降伏の儀式が行われたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 (9月)13日、藩主は一門の伊達将監に正使を、家老の遠藤
 文七郎に副使を命じ、降伏謝罪のため相馬ロに派遣した。正使
 ・副使の一行には石母田但馬および宇和島藩の使者も加わり、
 二九日、今泉の民家で総督府の便番榊原仙蔵と会見した。榊原
 は上席につき、伊達将監以下仙台藩の使者は、麻上下の礼服で
 脱刀して下座についた。正使はうやうやしく、藩主伊達慶邦の
 降伏謝罪書を使番に提出した。そのなかで慶邦は、出先で家来
 が官軍に抵抗したのは「指揮不行届よりの致す所」と陳謝し、
 謹慎の意を示すためすみやかに城外へ退去するむねを述べてい
 る。一七日、正使以下が、総督府参謀の召喚でふたたび今泉浜
 にいったところ、参謀河田左久間(因州藩士)は、慶邦の謝罪
 状を総督が受領したこと、仙台城を没収し慶邦父子に謹慎を命
 ずること、を告げた。            ──石井孝著
                『戊辰戦争論』/吉川弘文館
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、このような急転直下の降伏に不満を持つ仙台藩士は多
くいたのです。その不満分子のひとつが額兵隊を率いる星恂太郎
です。「額兵隊」とは何でしょうか。
 「額兵隊」というのは、慶応4年4月に結成された仙台藩が誇
る唯一の洋式銃隊であり、奥羽列藩同盟中の最精鋭部隊といわれ
ています。藩主の親衛隊として、仙台市中の警護を担当していた
部隊です。隊長は星恂太郎という人物です。
 しかし、額兵隊は仙台藩のいずれの戦役にも参加していないの
です。それは戦争ができるほどの弾丸がないということです。そ
のため、額兵隊はひたすら弾丸を製造していたのです。
 その弾丸の数が揃いつつあったときに、仙台藩に降伏の動きが
出てきたのです。そこで星隊長は、城下で大がかりな調練を行い
降伏帰順派を牽制したのです。この動きを重視した仙台藩主は、
星を9月13日に城中に呼び、降伏帰順が決まったので、みだり
に兵を動かしてはならぬと申し渡したのです。
 星恂太郎はこの制止命令に憤然とし、兵を招集して今まで藩主
に賜った恩に報いるために戦うことを宣言し、隊士たちを扇動し
たのです。そして仙台藩が降伏した9月15日に、星は額兵隊の
兵士800名を率いて岩沼に向かって行進をはじめたのです。
 これにあわてた藩主父子は自ら出向いて星を説諭し、引き返さ
せています。しかし、星の憤懣やるかたなく、兵士250人を連
れて、榎本艦隊に分乗し、蝦夷地に向かったのです。
           ── [明治維新について考える/57]


≪画像および関連情報≫
 ●「北帰行」/星恂太郎と額兵隊/仙台人物史より
  ―――――――――――――――――――――――――――
  額兵隊は慶応四年四月下旬、参政の葦名靱負、松本要人によ
  って組織された仙台藩の正規軍である。母体となったのは但
  木土佐の兵で、士官百人を選抜して城中に置き、楽兵隊と称
  して訓練を行っている。同年閏四月十五日、藩に呼び戻され
  た恂太郎が楽兵隊の教師となり、二大隊に編成して葦名靱負
  が隊長となった。五月になり新潟開港に伴って仙台藩は葦名
  と恂太郎に新潟出張の令を下す。隊の教師不在を嫌った葦名
  は恂太郎を留め置こうとするが、外国事情に精通しているも
  のが少ないため、藩はこれを却下し恂太郎の新潟出張を強行
  した。彼らの不在の間、隊長は但木左近、教師を菅原隼太が
  代行した。
   http://www.geocities.jp/gakuheitai_site/j-hoshi.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

額兵隊の行進.jpg
額兵隊の行進
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2011年05月02日

●「会津藩降伏と庄内・南部両藩問題」(EJ第3048号)

 仙台藩が降伏したのは、慶応4年(明治元年)9月15日のこ
とです。その前日に新政府軍は、会津藩に猛烈な砲撃による総攻
撃を加えてきたのです。その結果、17日には新政府軍は完全に
若松城を包囲し、外部からの補給路は完全に断たれたのです。
 既に米沢藩は降伏し、仙台も降伏しようとしています。こうな
ると、会津藩としては降伏せざるを得ない状況に陥ったのです。
そこで会津藩主の松平容保は、米沢藩に使者を派遣して降伏の意
思を伝え、仲介を依頼したのです。
 米沢藩兵隊長は使者と同道して薩摩藩の陣営を経て、会津征討
軍の本営の土佐藩の陣営に行ったのです。そこで使者は板垣退助
と伊地知正治両参謀に会うことができたのです。両参謀は会津藩
降伏の意思を確認したうえ次の6つの条件を提示したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.22日辰刻(午前八時)を期して、大手門外に降伏と大書
   した白旗をかかげる
 2.松平容保・喜徳父子は政府軍の軍門に来て降伏を請う
 3.家臣の男子は猪苗代に移って謹慎する
 4.14歳以下、60歳以上の男子ならびに女子はどこに居住
   してもよい
 5.城中の傷病者は青木村に退いて引きこもる
 6.銃器・弾薬はとりまとめて、開城の日に政府軍へ引き渡す
                       ──石井孝著
                『戊辰戦争論』/吉川弘文館
―――――――――――――――――――――――――――――
 これを受けて松平容保は、降伏・開城することを重臣たちに告
げ、家臣一同には書状をもって開城の趣旨を伝えたのです。そし
て、慶応4年9月22日に会津藩降伏の式が行われたのです。降
伏の式の模様について、石井孝氏は次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 午前10時すぎごろ、家老梶原平馬・同内藤介右衛門・軍事奉
 行添役秋月悌次郎・大目付清水作右衛門・目付野矢良助は、麻
 上下を着用して草履をはき甲賀町通の降伏式場におもむいた。
 正午ごろ、政府軍の軍監中村半次郎(桐野利秋)・軍曹山県小
 太郎らが式場に来た。ついで松平容保・喜徳父子は、政府軍の
 諸隊が錦旗をかかげて整列するなかを、麻上下を着用し小刀を
 おび草履をはいて式場に臨んだ。大刀は袋に入れて侍臣が携帯
 した。容保は降伏書を軍監中村に提出した。これには、鳥羽伏
 見戦争以来今日にいたるまで「王師に抗敵」したことを「天地
 に容れざるの大罪」とし、それにより「諸兵器悉皆差上げ奉り
 速やかに開城、官軍御陣門に降伏謝罪し奉り候」と述べ、格別
 の寛典に処せられるよう嘆願した。──石井孝著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 松平容保父子は、式が終わると、いったんは若松城に引き揚げ
重臣や最後まで奮戦してくれた軍の隊長を城に呼び、その辛苦を
ねぎらっています。そのうえで容保父子は城を出て、薩摩・土佐
藩兵に守られて、新政府軍が指定した妙国寺に入ります。
 このとき新政府軍は、妙国寺のまわりを土佐・越前兵で固めて
警護し、大砲6門を寺に向けて設置し、毎夜篝火をたいて警戒し
たのです。容保父子は10月19日に東京に護送されるまでこの
妙国寺に完全に監禁されたのです。
 奥羽越列藩同盟は、もともと会津藩を救済するために結成され
た同盟であり、会津藩が投降した以上、新政府軍との東北戦争は
終結したといえます。しかし、まだ決着のつかない藩が2つあっ
たのです。それは庄内藩(山形県)と南部藩(岩手県)です。
 庄内・南部両藩が戦ったのは、新政府軍ではなく、直接的には
久保田藩(秋田藩)なのです。なぜ、そういうことになったのか
について説明する必要があります。
 徳川慶喜の追討令が出された慶応4年1月16日のことです。
その時点で新政府側は、久保田藩に対して同藩を東北の雄と持ち
上げ、その活躍を期待する旨の内勅を出しているのです。はじめ
から久保田藩は新政府軍側につく藩として認識されていたことに
なります。
 これに対して久保田藩は、京都に滞在する家老を通じてその内
勅に対して忠実に応えたいと朝廷に答えたところ、出羽国の触頭
(ふれがしら)を命じられたのです。ここでいう出羽国とは、今
日の山形県と秋田県にほぼ相当し、「羽州(うしゅう)」ともい
われたのです。
 2月16日に久保田藩は、使者を奥羽諸藩に派遣して、朝廷か
ら反徒追討の命を受けたことを知らせています。このような久保
田藩の行動について東北の雄藩は不快感を持ったのです。とくに
出羽国の庄内藩は無視し、米沢藩は久保田藩の使者を冷遇したと
いいます。とくに仙台藩は徳川慶喜の追討令に対して疑問を発し
朝廷に建白の使者を送っていたのです。仙台藩はこの建白を中心
に奥羽諸藩をまとめようとしていたのです。
 そして仙台・米沢両藩を中心に奥羽列藩同盟を結成すると、久
保田藩はその流れに抗しきれず、同盟に加盟するのです。この久
保田藩が政局の表面に出てくるのは、奥羽鎮撫副総督・沢為量が
久保田藩領に入ってからです。目的は、庄内藩征討であり、沢副
総督は、参謀大山格之助率いる薩摩兵を従えて、新庄に到着した
のです。4月23日のことです。
 しかし、庄内藩は非常に強かったのです。そこで沢副総督一行
は新庄から撤収して久保田藩に向かったのです。そして5月9日
に久保田藩の城下に入ったのですが、これに驚いたのは久保田藩
庁なのです。
 というのは、久保田藩は奥羽列藩同盟に加盟してから同盟派の
勢力が強くなっており、奥羽鎮撫副総督に領内に居座られるのは
迷惑だったのです。身の危険を感じた・沢為量副総督は、大館を
経て能代まで行ったのです。5月27日のことです。
           ── [明治維新について考える/58]


≪画像および関連情報≫
 ●石井 孝氏について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  東京生まれ。1933年東京帝国大学文学部国史学科卒業。
  東京大学史料編纂所所員を勤め戦後大阪大学教授、1953
  年横浜市立大学教授、1960年東北大学教授、津田塾大学
  教授。文学博士。孝明天皇の岩倉具視による毒殺説を唱えて
  原口清(当時名城大学商学部教授)と論争した。また大岡昇
  平の、森鴎外「堺事件」批判の論拠となったのが『明治維新
  の国際的環境』である。       ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

石井孝氏の本.jpg
石井 孝氏の本
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2011年05月06日

●「東北戦争終結/庄内・南部両藩降伏」(EJ第3049号)

 沢為量副総督は、庄内軍に追われ、久保田藩にも迷惑がられて
能代まで落ちて行ったのです。久保田藩で沢副総督を支援したの
は、勤皇派だけであったのです。そこに仙台にいる九条総督から
久保田藩に行くという連絡が入ったのです。
 そして7月1日に九条総督は久保田藩に入り、沢為量副総督も
能代から久保田藩に移っています。九条総督と一緒に久保田藩に
は新政府軍の薩摩・長州・筑前・肥前・小倉の5藩兵が入り、総
督府は息を吹き返したのです。そのうえで、九条総督は改めて久
保田藩に庄内追討を命じたのです。
 しかし、それでも久保田藩主は新政府軍側につくことを決断で
きなかったのです。なぜなら、藩主の周囲には同盟派の武士が取
り巻いており、決断の邪魔をしていたのです。この状況を見て仙
台藩は、九条総督に騙されたことを知ったのです。そもそも九条
総督の久保田藩行きの目的は、副総督と醍醐参謀を連れて報告の
ために帰京することであったからです。
 久保田藩のこの様子を見ていた参謀の大山格之助は、仙台藩の
使者を暗殺する計画を立て、7月4日の夜、それを実行していま
すが、このことは既に述べています。これによって、久保田藩は
やっと新政府軍の一員として行動する決断をしたのです。
 しかし、新政府軍と久保田藩の連合軍でも庄内兵を破ることは
できなかったのです。それどころか庄内兵は7月14日に新庄を
奪い、8月に入ると久保田藩領内に攻め込み、要衝の横手を攻略
し、9月のはじめには久保田城に迫ったのです。
 この時点で、南部藩(岩手県)は久保田藩攻撃に参戦したので
す。南部藩も久保田藩と同様に奥羽列藩同盟には距離を置いてい
た藩であり、様子見をしていたのです。ところが、庄内藩の破竹
の進撃を見て、にわかに参戦を決めたのです。
 南部藩は参戦すると、久保田藩をいきなり攻撃したのです。久
保田軍は庄内兵に手を焼いていたところに南部藩から攻撃を受け
たので総崩れになって撤退し、大館を失ったのです。新政府軍は
南部藩が参戦したことを受け、参謀の醍醐らは総督の命令で弘前
におもむき、津軽藩に南部藩の討伐を命じたのです。しかし、津
軽藩も消極的な藩であり、軍は出したものの、ほとんど戦闘らし
い戦闘はしなかったのです。
 しかし、庄内藩の引き際は見事だったのです。米沢藩の降伏の
情報が入ると、9月16日夜半に一挙に全軍の撤退を開始したの
です。既に米沢藩とは降伏についての秘密交渉を済ませており、
降伏の方向性は決まっていたのですが、仙台藩の降伏のニュース
が届いた時点で降伏を決め、米沢藩に降伏の斡旋方を依頼してい
ます。それが9月17日のことであり、いかに素早い対応であっ
たかがわかります。
 9月23日、米沢藩の斡旋によって庄内藩士吉野遊平は、参謀
の黒田了介(清隆)に会い、降伏謝罪書を手渡しています。黒田
は、武器の全ての引き渡しと開城が果たされれば、酒井家の領地
は安堵することを伝えています。
 米沢・庄内攻撃は、黒田了介と西郷隆盛が行っており、この2
人は降伏対応にさいしては、きわめて寛大策をもって臨んでいる
のです。彼らは、実際に戦闘してみて、敵ながらあっぱれな戦闘
をした藩に関しては、それらの藩が降伏の意思の示した場合は、
寛大策をとる方針で臨んでいるのです。自陣に加えれば、新政府
のために役立つと考えているので、寛大策をとるのです。このよ
うにして、9月27日、庄内の鶴岡城を接収してこの方面の戦闘
を終わらせています。
 この庄内藩の処分がいかに寛大であったかについて、石井孝氏
は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 27日、西郷と黒田・大山は、鶴岡城内および武器を点検した
 うえ、銃砲を新発田の総督府に送った。庄内藩の降伏は、きわ
 めて寛大な条件で行なわれた。藩士には依然として両刀をおび
 るのを許し、ただ自宅で謹慎するだけで、用事のあるときは外
 出してもかまわなかった。まことに異例な降伏の条件である。
 このとき、表面に立ったのは黒田であったが、西郷が裏面から
 助言したのを想像すると、この降伏の様式は西郷の発案であろ
 う。                    ──石井孝著
                『戊辰戦争論』/吉川弘文館
―――――――――――――――――――――――――――――
 水際立った庄内藩の降伏処理に比して、最後までごたごたした
のは、南部藩の降伏処理です。9月25日に南部藩は家老の三戸
式部が南部藩藩主の南部利剛の謝罪嘆願書を参謀の前山清一郎の
もとに提出したのですが、嘆願書の中に開城や兵器の引き渡しな
ど具体的なものが入っていないとし、前山清一郎はこれを突き返
しています。
 そこで南部藩藩主の長子である利恭が横手の鎮撫総督府におも
むいて、降伏謝罪の改定文を提出しています。10月9日のこと
です。ところが、この嘆願書も「文中に不敬の部分あり」として
却下されています。
 そこで南部利恭はさらに嘆願書を改定し、はじめて認められた
のです。そこには、責任者の処分、償金の提出、開城などが具体
的に記されており、南部藩の降伏が認められたのです。明治元年
10月11日のことです。
 このとき、他のすべての諸藩は降伏しており、この南部藩の降
伏によって、新政府軍の奥羽越列藩同盟に加盟した諸藩との戦争
──東北戦争はすべて終了したのです。
 降伏した東北諸藩から没収した石高は、約88万石となってい
ますが、これらの石高のほとんどは、鳥羽伏見の戦い以来戦功の
あった個人、諸隊、軍艦に総額75万石が与えられております。
 しかし、戊辰戦争自体はこれをもってしても終らず、このあと
蝦夷地における「箱館戦争」が起こるのです。来週はこれについ
て書きます。     ── [明治維新について考える/59]


≪画像および関連情報≫
 ●庄内藩についての情報
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1859年北方警備のため、幕府から留萌・天塩を譲渡され
  る。元治元年(1864年)江戸市中警護の功により2万7
  千石を加増され石高は16万7千石に達した。幕末、上山藩
  とともに江戸薩摩藩邸の焼討事件を起こし、新政府軍による
  徳川家武力討伐の口実を作った。戊辰戦争では慶応2年、松
  平権十郎を中心とする派閥が公武合体派を攻撃し、逮捕投獄
  による藩論の統一を経て、会津藩とともに奥羽越列藩同盟の
  中心勢力の一つとなった。(中略)当時日本一の大地主と言
  われ庄内藩を財政的に支えた商人本間家の莫大な献金を元に
  商人エドワード・スネルからスナイドル銃など最新式兵器を
  購入し、軍の近代化を行っている。  ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

鶴岡城復元図.jpg
鶴岡城復元図
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2011年05月09日

●「大鳥圭介という兵学者がいる」(EJ第3050号)

 東日本大震災が起きてその惨憺たる被害の状況が広がるなかで
戊辰戦争のことを書いていると、現実のことを書いているような
不思議な気持ちに襲われます。
 山形県出身の評論家の佐高信氏は、現在の政治状況を戊辰戦争
になぞらえて次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 福島を含む東北地方はかつて「白河以北一山百文」といわれ、
 政治から切り捨てられてきました。薩長軍と会津藩の戊辰戦争
 (会津戦争)がきっかけですが、私は今回の復興対策の遅れを
 見ていると、「第2の東北処分」じゃないかと思えてくる。な
 ぜなら、菅首相は自ら「奇兵隊内閣」とか言って長州出身を強
 調しているし、小泉元首相は父親が薩摩出身。さらに安倍元首
 相の地元も長州です。つまり、薩長がいまだにこの国の政治を
 動かし、悪くしている。被災地の住民にしてみれば「テメェら
 本気でヤル気があるのか」と言いたいでしょう。そう思われる
 ような動きをしているのです。        ──佐高信氏
              ──「日刊ゲンダイ」GW特別号
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで、ここまで言及してこなかった大鳥圭介という人物につ
いて述べる必要があります。大鳥圭介とは何者でしょうか。
 普通幕末・維新というと、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、
岩倉具視、伊藤博文、山形有朋など・・・という人物が称賛され
る傾向があります。しかし、これらの人々は幕府を倒して明治政
府を作った人ばかりです。つまり、勝者です。
 しかし、幕府の中にあって開国を進めた阿部正弘、幕政改革を
推進させた小栗忠順、咸臨丸で渡米した勝海舟、個人の力で国防
軍の創設を考えた江川坦庵(たんなん)、そして蘭学を学び世界
の情報を集めた福沢諭吉と、これからお話しする大鳥圭介がいる
のです。歴史というものは勝者によって書かれるのです。
 これらの人たちの中で、小栗忠順や勝海舟、それに福沢諭吉は
誰でも知っていますが、阿部正弘、江川坦庵、大鳥圭介ついては
知らない人が多いのではないかと思います。
 大鳥圭介は、播磨国赤穂の出身であり、代々医師の家系で祖父
も医師だったのです。そのため両親は、医師を継がせるため、近
くの医師・中島意庵に圭介を預けたのです。しかし、圭介は医師
になるつもりはなく、西洋の学問全般に興味を持ったのです。
 中島意庵医師はそういう圭介に対して、単なる医者の実務だけ
でなく、西洋学に関するいろいろな書物を貸し与えて読ませ、勉
強させたのです。
 こういう勉強を通して大鳥圭介は、本格的に西洋学を学ぶには
横文字の原書が読めなければだめだと痛感します。そこで両親に
は医師になるために必要だからと説得して、大阪に出て緒方洪庵
の適塾に入門したのです。嘉永5年(1852年)、大鳥圭介が
20歳のときのことです。
 適塾には長州の大村益次郎が弘化3年(1846年)に入門し
嘉永3年(1850年)に退塾しています。福沢諭吉は安政2年
(1855年)に大鳥と入れ違いに入門しているのです。とにか
くこのようにして、大鳥圭介は原書が読めるようになっていたの
です。当時のことですから、原書が読めると、いろいろな職業に
就くことができたのです。
 嘉永7年(1854年)9月5日、江戸に出た大鳥圭介は、両
親の手前、医師の勉強もしなければならないので、蘭方医の坪井
忠益の塾に入門したのです。ここでは数多くの原書を読むことが
できるので、それが狙いであったのです。
 坪井塾で大鳥は原書が読めるというので、塾長に抜擢されたの
です。それまで西洋学は毛嫌いされていたのですが、幕府が開国
を決断したことによって、西洋学はにわかに注目を集めていたの
です。大鳥のいる坪井塾はそういうわけで繁盛したのです。
 いろいろの原書を読むことによって、大鳥は国防の問題に関心
を持ち、兵学にのめり込んでいったのです。そのとき、大鳥は重
要な人物に会うのです。江川英敏がその人です。江川英敏は、わ
が国屈指の兵学者、江川坦庵(江川太郎左衛門英龍)の子息、後
継者であったのです。
 江川坦庵はどういう人物であったのでしょうか。ウィキペディ
アでは次のように紹介しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 江川 英龍は、江戸時代後期の幕臣で伊豆韮山代官。通称の太
 郎左衛門、または号の坦庵(たんなん)の呼び名のほうでよく
 知られている。地元の韮山では坦庵と書いて「たんあん」と読
 むことが多い。洋学、とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い
 関心を抱き、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させた。地
 方一代官であったが海防の建言を行い、勘定吟味役まで異例の
 昇進を重ね幕閣入を果たし、勘定奉行任命を目前に病死した。
                    ──ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――――
 坪井塾に来てから4年後、大鳥圭介は江川英敏に江川塾で教授
をやって欲しいと依頼され、坪井忠益の了解を得て江川塾に移る
のです。これで医学の道はあきらめ、兵学者として人生を過ごす
ことに決めたのです。
 江川塾に入ってから、大鳥圭介の名前は有名になり、尼崎藩に
召し抱え得られ、江戸藩邸に出かけて講義をするようになったの
です。大鳥はこれで士分に取り立てられたのです。尼崎藩は大鳥
の生地、細念村の領地だったのです。
 さらに徳島藩からも招かれるようになり、大島の名前はさらに
有名になり、やがて幕府の知るところになるのです。大鳥は、単
に各藩に講義をするだけでなく、兵書や砲術の本の翻訳に没頭し
たのです。このとき、大鳥の語学レベルは、オランダ語や英語の
かなり高い水準に達していたといわれています。
           ── [明治維新について考える/60]


≪画像および関連情報≫
 ●「適塾」について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  適塾の開塾25年、その間にどのくらいの入門生があったか
  というと、およそ3000人と伝えられている。緒方洪庵の
  門弟3000人の中で訳文、執筆の教訓を身をもって守った
  ものの、第一は福沢諭吉である『福沢全集緒言』。適塾では
  教える者と学ぶ者が互いに切磋琢磨し合うという制度で学問
  の研究がなされており、明治以降の学校制度とは異なるもの
  であった。これらは慶應義塾大学の「半学半教」にもよく現
  れている。福澤諭吉が在塾中に腸チフスに罹った時、投薬に
  迷った緒方洪庵の苦悩は親の実の子に対するものであったと
  いうほど、塾生間の信頼関係は緊密であった。
                    ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

適塾.jpg
適塾
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2011年05月10日

●「幕府伝習隊を創設した大鳥圭介」(EJ第3051号)

 慶応元年(1865年)3月に幕府はひとつの決断をしたので
す。フランスに勧められて、フランスから資金を提供してもらい
長州勢力に対抗するため、幕府直属歩兵部隊「伝習隊」を編成す
ることに決めたのです。
 最新鋭の後装式施条銃で武装し、フランス式教練を受けた散兵
戦術と臨機応変なゲリラ戦術を駆使展開できる歩兵部隊──それ
が伝習隊です。その事業の総括推進者は勘定奉行の小栗忠順だっ
たのです。
 慶応3年(1867年)1月13日、フランスの軍事顧問団が
指導者訓練のために横浜にやってきたのです。そのことを知った
大鳥圭介は小栗忠順に頼み、参加が許されています。
 中国派遣隊参謀長の経験があるシャノアン以下19人のフラン
ス人教官が来日し、部隊の編成、教練の方法、そして武器の扱い
方、いずれも当時の最新兵器を前提とする軍事戦術が指導された
のです。日本におけるはじめての士官訓練であったといえます。
大鳥はこれが縁でこの事業を手伝うようになります。
 幕府は部隊を編成するため、身長5尺2寸以上(157・56
センチ以上)の男性を500人募集したのです。本当は旗本の参
加を期待したのですが、旗本は鉄砲をかつぐのを嫌うので、全く
応募してこなかったのです。
 このとき大鳥の肩書は、歩兵指図役頭取──歩兵奉行であり、
歩兵隊編成を任されたのです。しかし、応募してきたのは、江戸
の博徒、やくざ、馬丁、火消しなどであったのです。さすがに眉
をひそめる上役に対し、大鳥圭介は「連中も犬猫じゃないんだか
ら、理をつめて話せばわかりますよ」と説き伏せて、部隊を編成
したのです。
 案に相違して、身分意識とプライドばかりが強い武士たちより
も、彼らは肌には刺青をし、背嚢にはサイコロを入れているが、
実に良く働いたのです。もともと柔軟身軽に戦場を縦横に駆けな
ければならない歩兵は、労働者階級職能軍人に向いており、忠誠
心より給料の高さが重要だったのです。それだけに、もし給金支
払いが滞れば、危険な暴徒と化す危険な集団でもあったのです。
 しかし、そのくらいでなければ、兵士としては使いものになら
ず、大鳥はそのあたりのことをよく心得て、彼らをまるで猛獣使
いのように、うまく使いこなしたのです。
 結局、大鳥はその後も募集を続けて4大隊を編成しています。
1大隊の兵数は約800人であるので、4大隊で約3200人で
あり、これを幕府伝習隊と称したのです。
 大鳥圭介と非常に似ているのが長州藩の大村益次郎です。とも
に医者の家系に生まれ、適塾に学び、兵学を極め、戊辰戦争では
敵と味方に分かれて戦ったのです。作家の星亮一氏はこの2人に
ついて近刊書で次のように紹介しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 (大鳥圭介は)慶応2年(1866)幕府の直参に取り立てら
 れ、開成所教授となったが、どうしてもフランス式操練を学び
 たい。幕府勘定奉行の小栗忠順に頼み、横浜太田陣屋で行われ
 たフランス士官による操練の伝習を受けた。それからは出世街
 道をトントン拍子に進んだ。(中略)同じようなタイプの人間
 に長州の大村益次郎がいる。大村も家系は周防国吉敷郡鋳銭司
 村の医者で、やはり緒方洪庵の塾で蘭学を学び、のちに長州藩
 の軍事参謀として活躍する。大村は連戦連勝、靖国神社に銅像
 があるが、大鳥は連戦連敗だった。「また負けたよ」と笑い飛
 ばす不思議な余裕があった。──星亮一著/中公新書2108
        『大鳥圭介/幕府歩兵奉行、連戦連敗の勝者』
―――――――――――――――――――――――――――――
 慶応4年(1868年)1月11日の早朝のことです。大鳥圭
介が小川町の屯所に出ると、江戸城から急使がやってきて、ただ
ちに登城せよと伝えてきたのです。
 この事態を受けて大鳥は、おそらく上方の戦争が劣勢で、伝習
隊を出せという命令だろうとと判断したのです。そこで大鳥は伝
習隊の士官を招集し、すぐにでも上方に出立できるよう準備せよ
との命令を出したうえ、急ぎ江戸城に向かったのです。
 ところが登城してみると、大勢の人がいて、ざわざわしている
のです。何事ならんと思い、陸軍の詰所に行くと、少佐以上の上
級士官が集まって深刻な顔で何やら話しているのです。大阪から
逃げてきた高官たちです。事情を聞くと、殿がお帰りになったの
で、帰ってきたというわけです。
 大鳥はその腑甲斐のなさに呆れてしまい、何であなた方まで江
戸に戻ってくるのかと怒りをぶつけ、このうえは上様に直に拝謁
して今後のことを伺うしかないと閣僚に申し出たのです。しかし
閣僚のいうには、いま上様のところには大名や旗本が大勢つめか
けているので、会えないというのです。
 しかし、大鳥は「会えるまで待つ」と告げ、ひたすらお召しが
あるのを待ったのです。そうしたら、夜中の12時頃になってお
召しがあり、西の丸の小さな居間に通されたのです。
 そのとき徳川慶喜は、疲労困憊の様子で居眠りをしていたとい
います。「圭介まいりました」というと、慶喜は「そうか」と応
じて小姓に酒をもってくるよう命じたのです。大鳥は慶喜に拝謁
したことはなく、初対面なのです。普通では絶対に会えない人で
あるのにこうして会ってくれるし、自分のことを知ってくれてい
る。大鳥は大変感激したのです。
 慶喜は「まずひとつ」と大鳥に酒を勧め、自分も一口含んでこ
う聞いたのです。「何か意見があるのか」と。そこで大鳥は「お
伺いしたいことがあります」といい、「今後どうされるおつもり
ですか」と聞いたのです。そうすると、慶喜は「どうするといっ
てもしょうがないじゃないか。何か考えがあるのか」と逆に聞き
返されたのです。このことは慶喜自身に「何の策もない」ことを
あらわしており、大鳥は愕然としたのです。
           ── [明治維新について考える/61]


≪画像および関連情報≫
 ●星亮一氏について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  東北史学会会員、日本文芸家協会会員、日本ペンクラブ会員
  などの肩書きを持つ日本の作家。戊辰戦争に詳しい人物で、
  幕末の会津藩を舞台にした歴史小説を多く生み出している。
  早乙女貢ほどではないが、基本的に会津寄りの姿勢、薩摩・
  長州を強く非難する姿勢が特徴。05年には、戊辰戦争研究
  会も発足させている。最近刊として『大鳥圭介/幕府歩兵奉
  行、連戦連敗の勝者』/中公新書2108がある。
  http://www.kira-ku.com/category/7013
  ―――――――――――――――――――――――――――

星亮一氏の最新刊書.jpg
星 亮一氏の最新刊書 
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2011年05月11日

●「大鳥伝習隊江戸を脱出」(EJ第3052号)

 疲労困憊の徳川慶喜に深夜に単独拝謁を許された大鳥圭介は、
一回敗れたぐらいで戦争は諦めるべきではなく、会津や庄内など
佐幕派の藩兵を結集すれば相当の軍勢になる。それにわが伝習隊
の2千の兵が加われば、相当有利に戦える。あきらめるのは早過
ぎる──このように説得したのですが、慶喜は次のようにいって
反論したといいます。星亮一氏は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 そういうことをいつでもいわれて騙される。過日の上京の節も
 万一戦争にでもなると天朝に対して恐れ入ることであると言う
 と、いろいろ評議のときに、会津や桑名は手に取るようにいっ
 て、無理やりに兵隊を出発させ、ついに途中において衝突し、
 戦争はやはり旨く行かぬ、お前の論もその流ではないのか。
              ──星亮一著/中公新書2108
        『大鳥圭介/幕府歩兵奉行、連戦連敗の勝者』
―――――――――――――――――――――――――――――
 大鳥はまるでやる気のない慶喜の態度に愕然としたのです。こ
の人は何を考えているかわからない。しかし、大鳥は自分を歩兵
奉行にまで取り立ててくれた幕府には感謝していたのです。
 歩兵奉行といえば、旧陸軍でいえば「少将」、今日の自衛隊な
ら「陸将補」なのです。自分は軍人である。たとえ将軍が恭順姿
勢でも、このまま幕府が終ってしまうのは我慢がならないとして
ある重要な決断をしたのです。それは軍隊を率いて江戸を脱出し
同じ考えを持つ同志と一緒に幕府のために戦うことです。その決
断の日は慶応4年(1868年)4月11日のことです。
 慶応4年4月11日といえば、江戸城開城の日です。その日を
期して大鳥圭介は、伝習第一大隊(大手町大隊)と伝習第2大隊
(小川町大隊)を率いて江戸を脱出したのです。
 大鳥圭介のこの行動について、大鳥の側近である浅田准季(こ
れすえ)が次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 陸軍の将大鳥圭介、憤激報国有志の徒を率い、四月十一日の夜
 都下を脱走し、黒髪山の神廟に拠り、討賊の義旗を挙げて、興
 復を計らんとす、余不肖也といえど、この時、陸軍兵隊指図役
 頭取に抜擢せられ、八十人の長官たり、伝習琴一大隊の官員に
 加わりて、碓氷峠の陣営に在り、大隊の将本多幸七郎、山角膜
 三郎、大川正次郎、山口朴郎、板橋淳次郎ら諸官数十人、兵隊
 四百十一人、死を盟(ちか)いて、ことごとく大鳥圭介に属し
 以て事を計る。    (『北戦日誌』『復古記』第十一冊)
              ──星亮一著/中公新書2108
        『大鳥圭介/幕府歩兵奉行、連戦連敗の勝者』
―――――――――――――――――――――――――――――
 大鳥軍は、現在の千葉県市川市の鴻之台に向かい、そこで土方
歳三以下、志を同じくする同志と合流することになったのです。
近藤勇率いる新選組は甲陽鎮撫隊を編成して甲府に向かっていた
のです。彼らは、幕府から2300両と多量の武器を支給され、
意気揚々と江戸を後にして甲府に向かったのです。
 実はこれは勝海舟の策略だったのです。もともと新選組は江戸
の治安維持に当っていたのですが、彼らが江戸にいてことを起こ
されると慶喜を救うのが困難になるので、金と武器を与えて江戸
を追放したのです。
 しかし、甲州街道の宿場町である勝沼に布陣していた土佐藩兵
と戦闘になり、新選組はボロ負けをしたのです。何しろ甲陽鎮撫
隊は近代兵器を使いこなせず、大砲すら撃ったことのない部隊で
あったので、はじめから勝てる戦闘ではなかったのです。
 甲陽鎮撫隊はバラバラになり、近藤勇は下総流山で捕えられ、
処刑されています。しかし、土方歳三たちは何とか逃れて、鴻之
台で大鳥軍に加わることになったのです。これによって大鳥軍は
総勢2000人を超す軍隊となり、大鳥は総督に任命されたので
す。しかし、しょせんは寄せ集め部隊であり、大鳥も土方には遠
慮があったので、このことがあとで大きな問題になるのです。
 問題はどこを目指すかです。選択肢は、宇都宮か日光かなので
す。軍議の結果、とりあえず徳川の聖地である日光を目指すこと
になったのです。しかし、そのときの軍議で兵站──軍資金や兵
糧、兵器・弾薬の補給についての十分な検討なしに日光に向かう
ことになってしまったことです。
 この方針は土方独自の判断ですぐ変更されるのです。宇都宮城
の守りが手薄であるとの情報を得たからです。このときの先鋒は
秋月登之助が率いる伝習第一大隊と土方歳三が指揮をとる支隊で
あり、東南から宇都宮城を攻略することになったのです。北方に
は会津兵が展開したのです。4月19日のことです。
 この戦いでは伝習隊の銃砲がものをいったのです。兵器の差は
歴然としており、激闘数時間で土方支隊が奮戦して宇都宮城を落
としたのです。
 その頃、日光を目指す大鳥の本隊は4月17日に小山駅近くで
征東部隊と戦闘になり、撃退したものの、そのあと奇襲攻撃を受
け、大量の武器弾薬を失ってしまったのです。これがなかったと
しても、もともと兵器・弾薬は不足しており、これは大鳥軍団に
とって、相当の痛手になったのです。
 日光に進むには、前方に壬生藩が立ちはだかっており、大鳥は
壬生藩と折衝に入ったのですが、壬生藩には、相当の数の官軍が
入っており、なかなか大鳥の思うようにはいかなかったのです。
 結局、大鳥軍は壬生藩が提供した道案内人にしたがって、日光
に向かったのですが、そこに宇都宮城陥落の報が入ったのです。
そこで大鳥軍は急遽宇都宮城に向かったのです。
 しかし、宇都宮は荒廃していたのです。宇都宮城の残兵はすべ
て壬生城に入っており、宇都宮にとどまるか、日光に向かうかに
ついて軍議で激論が交わされたのですが、なかなか軍議はまとま
らず、出撃は翌日になってしまったのです。この遅れが裏目に出
るのです。      ── [明治維新について考える/62]


≪画像および関連情報≫
 ●「宇都宮城攻防戦」
  ―――――――――――――――――――――――――――
  写真は復元された宇都宮城本丸の土塁北西部にあった櫓「清
  明台」で、他の土塁より高く、天守閣の役割を果たしたので
  はと言われている。城は堀・積み上げた土塁・石垣、本丸ま
  での入り組んだ町並みなど北西側からの攻撃に対しては強靱
  な構造になっているが、南東側からの攻撃に弱い。それを知
  ってる旧幕府軍は、簗瀬村方面から攻撃する作戦を選び、僅
  か千名たらずの旧幕府軍は攻め落とした。攻撃にあたって黒
  羽藩(大田原市)の藩士3名を処刑し、意気をあげ「東照大権
  現」幟を立て進軍ラッパを吹き鳴らしながら攻撃であったが
  すんなり落城したわけではなかった。下河原門では新政府軍
  の猛烈な反抗に会い、歳三は怯む味方を斬りすて鼓舞した。
 http://byp.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-2717.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

宇都宮城.jpg
宇都宮城
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2011年05月12日

●「会津入りした大鳥軍の敗戦記録」(EJ第3053号)

 宇都宮城を拠点に壬生城を攻撃するか、それとも日光に撤退す
るか──結局大鳥軍は壬生城攻撃をすることになったのですが、
軍議に時間がかかり過ぎ、既に壬生城は防御を固めてしまったの
です。しかも、攻撃当日は雨であり、大鳥軍は弾薬不足もあって
逆に壬生軍に攻め込まれて、多くの兵を失ったのです。
 この戦闘で土方歳三は足を負傷し、本軍に先立って会津へ護送
されたのです。土方は会津では約3ヶ月間の療養生活を送り、こ
の間に近藤勇の墓を天寧寺に建てたと言われています。
 大鳥軍はいったん宇都宮城に籠って防戦したものの、衆寡敵せ
ず、日光に退却して軍を立て直すことになったのです。日光には
多くの宿坊があり、沿道の領民の協力があったので、宿舎と食糧
は何とか確保できたのです。
 しかし、大鳥軍が日光に立て籠って新政府軍と戦うことについ
ては、日光奉行の新庄右近は反対したのです。東照宮では、最悪
の事態に備えて神体と宝器などを会津に疎開させはじめているほ
どであり、大鳥軍の内部でも日光での戦いに反対する者も多かっ
たのです。日光を離れて、会津領の田島まで引き上げるべきであ
ると主張する者も多かったのです。
 また、大鳥軍を攻める側の新政府軍・土佐藩の板垣退助として
も、土佐藩が幕府恩顧の大名であるだけに、日光を攻めるには躊
躇いがあったのです。そこで板垣は大鳥と連絡を取り、日光を避
けて今市で決戦しようと提案したのです。大鳥は板垣のその提案
を受け入れ、軍を今市まで撤退させたのです。
 結果として板垣退助は日光を戦火から救ったのです。そういう
板垣の功績を称えて板垣退助の銅像が本山白雲の製作で、日光の
大谷川神橋のほとりにに建てられたのです。
 慶応4年(1868年)4月28日、江戸から松平太郎なる人
物が大鳥のところにやってきたのです。松平太郎は、戊辰戦争が
勃発すると、2月には歩兵頭を経て陸軍奉行並に任命され、陸軍
総裁・勝海舟の下で旧幕府軍の官軍への反発を抑える役目を負っ
ていたのですが、もともと主戦論者だった松平は大鳥圭介を何と
か支援したかったのです。
 そこで松平は、大鳥軍の鎮撫という名目で新政府軍の通行証を
手に入れ、大鳥に会いにきたのです。当時の新政府軍は誰が味方
か敵かわからないので、新政府軍の通行証を持っている者は味方
と判断したので、通行証は貴重だったのです。それに加えて松平
は、軍資金3000両を大鳥に届けています。
 松平太郎は、徳川家の移封が駿河70万石に決定すると、ひと
つの決着がついたとして、榎本武楊と共に軍艦にて江戸から脱走
し、仙台で大鳥・土方軍と合流して箱館に渡っています。
 さて、大鳥圭介は今市で戦闘することもあきらめ、会津領に向
かうことにしたのです。今市は戦略拠点であり、本来なら死守す
べきであったのですが、兵力、弾薬、兵糧ともに不足していたの
で、会津領に入ることにしたのです。
 しかし、会津までの山岳地帯を抜けての行進は苦難の連続だっ
たのです。途中でいろいろなことがあったのですが、なんとか閏
4月3日に五十里(いかり)に到着し、本陣で会津藩家老・菅野
権兵衛に会い、以後大鳥軍は会津の部隊との共同作戦で、新政府
軍と戦うことになるのです。
 今市攻略作戦のために、大鳥圭介は、軍の再編成を次のように
行っています。
―――――――――――――――――――――――――――――
  第一大隊(元大手前大隊)/約450人
   ・隊長/隊長秋月登之助、参謀/牧原文吾、内田衛守
  第二大隊(小川町大隊)/ 約350人
   ・隊長/大川正次郎 参謀/沼間慎次郎
  第三大隊(元御料兵/七連隊)/約300人
  第四大隊(草風隊/純義隊)/約200人
   ・隊長/天野花蔭、参謀/村上求馬、渡辺綱之助
              ──星亮一著/中公新書2108
        『大鳥圭介/幕府歩兵奉行、連戦連敗の勝者』
―――――――――――――――――――――――――――――
 この軍団の総督は大鳥圭介、副総督は山川大蔵であり、大鳥は
第二大隊、山川が第三大隊を率いたのです。そしていよいよ閏4
月18日に大鳥会津軍は会津田島を出発したのです。
 そのとき、今市には土佐兵が約800人が守備しており、日光
に彦根兵が700人いたのです。山川は近隣の猟師を20人ほど
集め、前線に配置して射撃させたのです。そのため、最初の段階
では大鳥軍は有利に戦いを進めることができたのです。
 閏4月21日、山川は第三大隊の一小隊を中心とする陽動部隊
を編成し、今市の東に部隊を送り込み、日光街道を分断して敵の
退路を断ち、敵が東に気をとられているうちに西から大鳥の主力
部隊が攻撃するという挟撃作戦を実行します。
 しかし、山川の陽動作戦は敵の準備が整わない最初のうちはき
わめてうまく展開し、陽動作戦としては成功したのですが、肝心
の大鳥の主力部隊の到着が遅れ、結局この作戦は失敗してしまっ
たのです。明らかに大鳥の失策です。大鳥がいくつかに兵に分割
したことが遅れの原因であったといわれています。
 5月6日に第2回の今市攻略作戦が行われたのです。第三大隊
を中心に半ば要塞化した今市守備軍を総攻撃したのです。押し気
味であったので、途中から予備隊として配置していた第二大隊ま
で投入して、敵堡塁50歩のところまで迫ったのですが、それで
も落ちなかったのです。
 そうしているうちに、板垣退助は日光からの増援部隊を大鳥会
津合同軍の背後を衝く作戦を実行し、戦いの流れを転換し、遂に
大鳥会津軍を跳ね返したのです。驚くべき土佐兵による今市守備
隊の粘りです。かくして大鳥軍は今市攻略を二度にわたって失敗
し、会津藩にとって北関東の出入り口である今市の奪還は絶望的
になったのです。   ── [明治維新について考える/63]


≪画像および関連情報≫
 ●土方歳三はどうなったのか
  ―――――――――――――――――――――――――――
  土方歳三の負傷は宇都宮城の攻防戦の際のものだった。あら
  かじめ山川大蔵が手配していたので、城下へ入るとすぐに将
  軍家侍医だった松本良順がやって来て治療してくれた。「か
  なり悪化しているが、骨を外れたのが幸いだ」と良順はいっ
  た。幸運であった。越後長岡の河井継之助は長岡城の攻防戟
  で、左足の中スネに被弾して、歩行困難となり、八十里越え
  の難所を山駕龍で担がれて会津領の只見に至ったものの、化
  膿したのに切断を拒んで死ぬのである。(中略)土方歳三が
  会津で行動を起すのは七月に入ってからである。脚の傷が癒
  え、漸く采配をとれるようになったのだ。流山から同行して
  来た斎藤一は、ここへ来て山口二郎と改名していた。かれが
  隊長となって白河口方面で新選組は戦っていたが、仙台藩が
  薩長側へついたことで、会津は苦戟に陥り、白河口の防衛が
  難しくなったのである。   ──早乙女貢著/NHK出版
        『敗者から見た明治維新/松平容保と新選組』
  ―――――――――――――――――――――――――――

板垣退助.jpg
板垣 退助
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2011年05月13日

●「大鳥・会津軍母成峠の戦いでも敗退」(EJ第3054号)

 会津軍と大鳥軍──軍事同盟というものは、勝ち戦が続いてい
ればよいが、このように敗戦が続くとうまくいかなくなるもので
す。このあと、大鳥軍と会津軍は明らかに波長が合わなくなって
いくのです。
 また、伝習隊の士官の間でも大鳥と意見の合わない者も出てき
たのです。伝習隊の士官で大鳥に反対したのは沼間慎次郎です。
沼間は大鳥の戦いには大胆さがないことを指摘したのです。確か
に大鳥は兵力も弾薬も不足しており、連戦連敗であったので、ど
うしても安全策をとって敗れていたのです。結局沼間慎次郎は、
兵の一部と一緒に伝習隊を離脱し、若松に去ったのです。
 二度にわたる今市の戦いは、会津・大鳥軍、新政府軍ともに多
くの死傷者を出したので、兵力の回復のためにしばらく戦闘はな
かったのです。このとき、山川は五十里に、大鳥は藤原にいて、
その状態が百日ほど続いたのです。
 EJ第3045号では、白河を落とした新政府軍が、仙台・米
沢攻撃を主張する大村益次郎と、会津を先に落とすべきと主張す
る板垣退助と伊地知正治の両参謀の意見が対立したものの、板垣
と伊地知の意見が採用され、新政府軍は会津攻めをはじめること
について述べています。話をその時点の新政府軍に戻します。
 会津攻めを先に行うことを決めた新政府軍でしたが、どのルー
トを通るかについて、今度は板垣と伊地知の意見が次のように対
立したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  伊地知の主張 ・・  母成峠 → 猪苗代 → 若松
  板 垣の主張 ・・ 御霊櫃峠 → 中地三代→ 若松
―――――――――――――――――――――――――――――
 2人はなかなか譲らず、兵を2つに分けて進軍することになっ
たのですが、これには長州の桃山発蔵が反対し、あくまで母成峠
一本に絞るべきであると主張したのです。結局、主力は母成峠、
陽動部隊は御霊櫃峠に進軍することで合意に達したのです。
 一方、大鳥圭介は、二本松に敵兵が集結していることを情報と
して掴み、新政府軍の会津攻撃は近いと読んでいたのです。8月
3日に大鳥は士官を連れて、猪苗代の木地小屋から二本松にいた
る石筵山に登ったのです。
 石筵山は、会津兵、二本松兵、仙台兵約500人が守っていた
のですが、これでは大鳥の兵を加えても700人程度にしかなら
ず、とても守りきれないと大鳥は判断したのです。
 ここを守るには最低でも2000兵は必要であると考えて、会
津軍事局と掛け合ったのですが、白河国境に主力部隊を張りつけ
白河口を警戒し大鳥の意見は無視されたのです。そこで大鳥は会
津藩家老の田中土佐、内藤介右衛門に会い、情勢分析を行ったの
ですが、彼らも次の戦場は仙台国境という考え方にこだわり、大
鳥の意見には耳を傾けなかったのです。
 しかし、事態は大鳥の予測通りになったのです。そのときの模
様を「戊辰戦争百話」のサイトから引用します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 八月二十日、伊地知・板垣両参謀に率いられた薩摩・長州・土
 佐・佐土原・大村・大垣の六藩の兵約三千は、会津攻撃の行動
 に移り、石筵・母成峠を若松に至る六十キロの前進を開始した
 のである。またこれとは別に三百余の別動隊が編成され熱海の
 東方三キロの横川村から中山峠を進撃するかのような陽動作戦
 もとられた。これに対し、石筵・母成峠を守っていたのは大鳥
 圭介の率いる伝習隊(旧幕府歩兵)四百を中心とした会津兵・
 新選組・二本松の残兵など計八百であった。まず会津兵の一部
 は二本松から母成峠にさしかかる伊達路の山入村で迎撃したが
 圧倒的に多数の西軍に追撃されて後退。翌二十一日、西軍は
 早朝より東側の伊達路(土佐・長州)、中央石筵口(土佐・薩
 摩・長州・佐土原・大垣)、西側間道(薩摩・大垣)の三道に
 別れて母成峠の勝軍山頂めがけて進んだ。
 http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/6618/honmon/17.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 勝敗は最初から見えていたのですが、大鳥は伝習隊第二大隊と
二本松兵を率いて奮戦します。しかし、会津兵が真っ先に会津に
向かって逃げ出し、戦争にならなかったのです。結局、新政府軍
は、母成峠を制し、一挙に猪苗代城に向けて進撃してこれを落と
しています。このあとの会津藩の運命は、EJ第3045号〜E
J第3046号に書いた通りです。
 大鳥圭介をこのように紹介していくと、大鳥は戦争がうまくな
いととられがちですが、実戦の指揮官としては問題はあるものの
軍事戦略家としてはすぐれたものを持っていた人物であるといえ
ます。戦況を読むのに優れており、もし、会津藩がこの大鳥と山
川を会津城に置き、会津全軍の指揮を任せていたら、新政府軍は
相当てこずったと思われます。
 とくに大鳥は進軍に当たって占領地の集落に焼き討ちをかけた
り、食糧などを奪う行為を絶対に認めなかったのです。なぜなら
焼き討ちをかけたりすると、その集落の住民の怒りを買い、それ
が味方にとって決定的に不利になるからです。
 ところが会津兵は通過集落でも焼き討ちをかけ、住民から略奪
の限りを尽くしており、非常に嫌われていたのです。新政府軍が
母成峠に進軍したのも、会津兵が石筵の集落を焼き払い、その住
民から情報がもたらされていたからです。大鳥はそういうことを
よく知っており、石筵山から焼き討ちに遭った集落を見て、敵は
必ずここを衝いてくると確信をしたのです。
 さて、母成峠で敗れた大鳥たちはどうしたかというと、母成峠
の山中に逃げ込んだのです。そして山中をさまよっているうちに
いろいろな人物に会うのです。その中には庄内藩に落ちる土方歳
三もいたのです。大鳥は伝習隊の一部の兵や士官とも会い、会津
藩を救うために、米沢藩に向かうことにしたのです。
           ── [明治維新について考える/64]


≪画像および関連情報≫
 ●大鳥圭介について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1868年(慶応4年)1月28日、歩兵頭に昇進。鳥羽・
  伏見の戦い後の江戸城における評定では小栗忠順、水野忠徳
  榎本武揚らと共に交戦継続を強硬に主張する。2月28日に
  は歩兵奉行(将官級)に昇進。江戸開城と同日の4月11日伝
  習隊を率いて江戸を脱走し、本所、市川を経て、小山、宇都
  宮や今市、藤原、会津を松平太郎[2]・土方歳三等と合流し
  つつ転戦し、母成峠の戦いで伝習隊は壊滅的な損害を受けた
  ものの辛うじて全滅は免れ仙台に至る。
                    ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

大鳥圭介.jpg
大鳥 圭介
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2011年05月16日

●「榎本艦隊の動きと咸臨丸事件」(EJ第3055号)

 東北の戦争は新政府軍の勝利に終わり、大名領主のレベルで新
政府に歯向う勢力はいなくなったのです。つまり、内戦としての
戊辰戦争は終結したのです。
 ここで旧幕府艦隊を預かる榎本武楊について述べる必要があり
ます。慶応4年(1868年)7月、榎本武楊の率いる艦隊は、
品川沖にいたのです。勝海舟から徳川家が本当に駿河藩主になれ
るかどうかを見極めるため、足止めを食っていたのです。
 そのときの江戸鎮台(東海道鎮撫総督府)は、軍艦をほとんど
持っておらず、榎本艦隊は相当な脅威だったのです。そのバック
アップの下に、慶応4年6月に徳川家を継いだ徳川亀之助は、蝦
夷地を徳川家で預かり、不毛の地を開拓させることにより、徳川
家臣の生活の道を立てさせたいという陳情書を江戸鎮台に提出し
ていたのですが、新政府から返事をもらっていなかったのです。
 榎本は、この陳情書に関連して、「徳川家家臣大挙告文」とい
う長大な趣意書を起草し、勝海舟を通して新政府に提出したので
す。これについて、石井孝氏は次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 趣意書は、王政復古は一、二強藩の私意より出たもので、主君
 慶喜に朝敵のぬれぎぬを着せ、城と領地を没収して、徳川の家
 臣を路頭に迷わせるにいたったことを非難する。そこで徳川家
 臣を救済するため、かつて蝦夷地の開墾を申請したが、いまだ
 許可が得られず、いよいよ困窮して飢餓に迫ってきた事情を説
 き、この実情を朝廷に訴えようとしても、それが朝廷まで届か
 ないので、あえて一戦を辞さない覚悟をもって、江戸湾を退去
 しようとするものである、とその意図を声明している。
                       ──石井孝著
                『戊辰戦争論』/吉川弘文館
―――――――――――――――――――――――――――――
 要するに、新政府に陳情書を出したが、無視されたので、蝦夷
にて一戦を交えるために江戸を離れるという宣言です。江戸を離
れる榎本艦隊としての表向きの理由の表明です。
 7月19日、徳川慶喜は駿河府中への移転が許されたので、謹
慎先の水戸を出発し、銚子より旧幕府艦「蟠龍」に乗船したので
す。そして23日に慶喜は清水港に着き、宝台院に入って謹慎し
たのです。この謹慎が解けるのは明治2年9月になります。
 これを見届けた榎本武楊は、8月19日深夜に次の8隻の旧幕
府艦隊を率いて品川沖を離れたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    ≪軍 艦≫
     ・「開陽」「回天」「蟠龍」「千代田形」
    ≪運輸船≫
     ・「長鯨」「三嘉保」「神速」「咸臨」
―――――――――――――――――――――――――――――
 艦隊の総員は約1000名だったのです。旗艦の「開陽」には
フランス軍事顧問団として来日中の砲兵大尉・ブリュネと砲兵下
士官・カズヌーブが乗船していたのです。
 しかし、榎本艦隊にとってはさんざんの船出になったのです。
というのは、20日の天候はよかったのですが、21日は大荒れ
になり、23日には艦隊は台風に巻き込まれて、離散してしまっ
たからです。
 それでも目的地の仙台領松島湾に、「長鯨」「千代田形」「回
天」「神速」「開陽」「蟠龍」は18日までに入港したものの、
「三嘉保」は下総黒生沖で座礁して沈没し、「咸臨」は相模灘に
逃れ、清水港にボロボロになって入港したのです。咸臨丸として
は、徳川家が管理する駿河藩の清水港なら安心できるとして、清
水港を目指したのです。
 しかし、駿府藩の幹部は困惑したのです。そのとき駿府藩幹事
役をしていたのが、あの山岡鉄舟です。既に慶喜は駿府の宝台院
に入っており、新政府軍への対応は慎重を期す必要があったので
す。駿府藩としては咸臨丸の乗員は反乱軍であり、どうしても降
伏させ、出航を認めることはできない立場にあります。なぜなら
新政府は次のような厳重な布告を各藩に出していたからです。
―――――――――――――――――――――――――――――
        賊軍に加担する者は断罪に処す
―――――――――――――――――――――――――――――
 咸臨丸の修理には時間がかかり、一ヵ月が過ぎてしまったので
す。咸臨丸のことは新政府軍の知ることになり、富士山丸、武蔵
丸、飛竜丸の3艦が清水港に攻め入り、咸臨丸を砲撃の上、艦に
残っていた副艦長春山弁蔵ら7人を斬殺したのです。砲撃の間に
乗り組んでいた者の大半は、海に飛び込み、近くの三保貝島など
に泳ぎ着いたのですが、新政府軍はそのうち80人を駿府藩に命
じて禁固させたのです。咸臨丸は翌朝、官軍艦によって品川まで
曳航され、新政府軍に引き渡されています。
 無抵抗のまま斬殺された7人の死体は、海中に投棄され、その
ままにされたのです。新政府軍は、死体はそのままにしておくよ
う指示したからです。
 そのとき、新政府軍のやり方を真正面から批判した人物がいま
す。清水の次郎長その人です。「死ねば仏だ。仏に官軍も賊軍も
あるものか」──次郎長はそういって7人の遺体を海から引き揚
げて、丁重に葬ったといいます。
 新政府軍は次郎長の行動はわかっていたのですが、それをとめ
ることはできなかったのです。次郎長の言っていることはまさに
正論であり、咎められなかったのです。これに感動したのは山岡
鉄舟です。次郎長の頭の中には薩長か徳川か、征服者か被征服者
かではなく、人間として正しいか、正しくないかという基準しか
なかったからです。
 このようないきさつで、鉄舟と次郎長との付き合いは、このと
きからはじまり、鉄舟が亡くなる明治21年まで長く続くことに
なるのです。     ── [明治維新について考える/65]


≪画像および関連情報≫
 ●清水次郎長について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  博打を止めた次郎長は、清水港の発展のためには茶の販路を
  拡大するのが重要であると着目。蒸気船が入港できるように
  清水の外港を整備すべしと訴え、また自分でも横浜との定期
  航路線を営業する「静隆社」を立ち上げている。この他にも
  県令・大迫貞清の奨めにより静岡の刑務所にいた囚徒を督励
  して現在の富士市大渕の開墾に携わったり、私塾による英語
  教育の熱心な後援をしたという口碑がある。
                    ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

清水次郎長.jpg
清水 次郎長
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2011年05月17日

●「そのとき蝦夷地はどうなっていたか」(EJ第3056号)

 榎本武楊率いる旧幕府艦隊は慶応4年(1868年)8月19
日に品川沖を出港していますが、なぜ、直接蝦夷に向かわずに、
松島湾に行ったのでしょうか。
 実は榎本は7月のはじめに松平容保に越後方面への出動を要請
されていたのです。そのとき、榎本は8月20日頃には軍艦を率
いて仙台に向かうことを約束しているので、その約束を果たそう
として松島湾を目指したのです。
 しかし、榎本が着くのが遅かったのです。新政府軍の会津攻め
が想定外に早く行われ、仙台藩が降伏する直前に榎本艦隊は着い
たのです。榎本は土方と一緒になって、仙台藩を説得したのです
が、意思は変わらず、9月15日に仙台藩は降伏したのです。そ
して9月下旬には、会津、庄内、南部の諸藩が次々と降伏したの
です。これにより、東北戦争は終結したのです。
 そのとき、大鳥圭介は兵を率いて二本松から安立太良山を縦断
し、福島から白石に出て、そこで榎本艦隊が仙台に来ていること
を知ったのです。大鳥は急遽榎本に会うため、早駕籠で仙台に向
かったのです。仙台で大鳥は榎本の宿舎に行って榎本に会ったの
ですが、榎本は茫然としていたといいます。榎本と大鳥の間で交
わされた対話について、星亮一氏は次のように書いています。9
月15日のことです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 「仙台には主戦派もおるが、恭順派が増えている。いずれ恭順
 は間違いない。そうなればこれ以上仙台にいても仕方がない。
 軍艦の準備が整い次第陸軍を諸艦に乗せ蝦夷地に向かい、天朝
 に嘆願して、脱走の者で彼の地を開拓せん」と榎本はいった。
 大鳥には大勢の部下がいる。大鳥は無言だった。(中略)仙台
 にはフランス人の軍事顧問ブリューネ、カズノフも来ていた。
 3年前、横浜で歩兵の伝習を受けたときの教官である。懐かし
 い顔ぶれだった。大鳥は彼らの滞在先を訪ね、積年の恩義を謝
 した。今市に3千両を運んでくれた松平太郎の姿もあった。大
 鳥は蝦夷地に行くことを決断した。
              ──星亮一著/中公新書2108
        『大鳥圭介/幕府歩兵奉行、連戦連敗の勝者』
―――――――――――――――――――――――――――――
 榎本艦隊には、大鳥圭介の率いる伝習隊の生き残り、彰義隊や
振武軍の残党、新選組の残党、会津遊撃隊、それに榎本率いる旧
幕海軍など約3000人が乗り込んで蝦夷地に向かうのですが、
そのとき、蝦夷地(北海道)はどのようになっていたのかについ
て知る必要があります。
 蝦夷地は、若狭武田氏の流れを汲む武田信広が宝徳3年(14
51年)に若狭から下北半島の蠣崎(青森県むつ市川内)に移り
その後蝦夷地に移住して蠣崎氏を名乗り、その地を治める豪族に
なったのです。
 当時道南には、和人──先住民のアイヌの立場から見たアイヌ
以外の日本人が、独立した道南十二館を築き、そこを拠点として
アイヌと交易を行ってきたのです。
 道南に移住した蠣崎氏は、その十二館のうちの一館である花沢
館主に過ぎなかったのです。この花沢館主は蠣崎季繁といい、武
田信広はそこの客将を務めたのです。
 長禄元年(1457年)に和人とアイヌとの間にトラブルが発
生して、武力闘争に発展したのです。これを「コシャマインの戦
い」といいます。この戦いでは当初アイヌが優勢であり、十二館
のうち、十館までアイヌに落とされてしまったのです。しかし、
武田信広は激戦のうえこれを制したのです。その結果、蝦夷地の
和人社会では、蠣崎氏が支配を強めるようになったのです。武田
信広は蠣崎氏を継ぎ、その子孫は江戸時代から松前の氏を名乗り
代々蝦夷地の南部に支配権を築いたのです。
 蠣崎氏は、豊臣秀吉や徳川家康から蝦夷地の支配権、交易権を
公認され、松前藩となったのです。このとき、北海道太平洋側と
千島を「東蝦夷」と呼び、北海道日本海側と樺太を「西蝦夷」と
呼んでいたのです。
 江戸時代が寛政以降の文化期に入ると、幕府は強力に南下政策
を続けるロシアを警戒して、寛政11年(1799年)には東蝦
夷地、文化4年(1807年)には西蝦夷を天領にして、文化6
年(1809年)にカラフト島を「北蝦夷」と改めたうえで、東
北諸藩に警備のための出兵を命じています。ここで、天領という
のは、江戸幕府の直轄領のことです。
 これが効いたのか、ロシアとの緊張は弱まったので、文政4年
(1821年)には蝦夷地の大半を松前藩に返却しています。し
かし、安政2年(1855年)には情勢が変化したとして、幕府
は再び天領にし、仙台、盛岡、弘前、久保田、松前の東北の大藩
に命じて沿岸の警備義務を渡り当て、会津も庄内も後からそれに
加わったのです。
 江戸時代後期になると、ロシアは領土を広げつつ日本と通商を
求めるようになり、鎖国を維持しようとする日本と北海道近辺で
たびたびトラブルが起きたのです。このトラブルがその後も続き
日露戦争に発展するのです。
 北方防備の必要を強く認識した江戸幕府は、最上徳内、近藤重
蔵、間宮林蔵、伊能忠敬らに蝦夷地を探検させ、地理的な知識を
獲得していったのです。
 榎本武楊が率いる艦隊が、旧幕府軍をかき集めて乗船させ、目
指そうとしていた蝦夷地は、以上のような状況になっていたので
す。蝦夷地に幕府が蝦夷奉行を置いたのは、享和2年(1802
年)のことであり、それが後に箱館奉行、松前奉行と名前を変え
ることになります。
 しかし、蝦夷は京都や江戸から見ると、さいはての地であり、
危機が去ると、警備や開拓がなおざりになり、日本の領土であり
ながら、どうしてもその他の地という扱いになっていたのです。
           ── [明治維新について考える/66]


≪画像および関連情報≫
 ●「蝦夷地」のまとめ
  ―――――――――――――――――――――――――――
  江戸時代、北海道のうち渡島半島(おしまはんとう)南端の
  松前(和人地)を除いた地域をさす呼称。日本の内地からは
  蝦夷人(アイヌ民族)が居住する異域空間として認識されて
  いた。太平洋側は東蝦夷地・下蝦夷地、日本海側は西蝦夷地
  ・上蝦夷地とよばれた。松前藩によるアイヌ交易、場所請負
  制が展開したが、18世紀半ばごろよりロシアが南下してる
  くるのに伴い、幕府は1799(寛政11)に東蝦夷地を、
  1807年(文化4)に西蝦夷地を直轄支配とし、内国に編
  入した。明治2年の北海道の成立により蝦夷地は消滅した。
                    ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

道南十二館.jpg
道南十二館
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2011年05月18日

●「勝海舟と榎本武楊の共同戦略」(EJ第3057号)

 榎本艦隊の船舶に乗って蝦夷地を目指したのは、榎本率いる旧
幕府海軍のほか、次の諸隊です。
―――――――――――――――――――――――――――――
      伝習士官隊 ・・・・・ 160人
      伝習歩兵隊 ・・・・・ 225人
        一聯隊 ・・・・・ 200余人
        衝峰隊 ・・・・・ 400余人
        彰義隊 ・・・・・ 264人
        陸軍隊 ・・・・・ 160人
        砲兵隊 ・・・・・ 170余人
        工兵隊 ・・・・・  70余人
        遊撃隊 ・・・・・ 120余人
         旭隊 ・・・・・  25人
        新選組 ・・・・・ 115人
        額兵隊 ・・・・・ 252人
      会津遊撃隊 ・・・・・  70人
    菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 これら諸隊の総計は2231人余であり、それに榎本の旧幕府
海軍の兵士を加えて約3000人ほどの軍勢が榎本艦隊の船舶に
分乗して蝦夷地に向かったのです。
 彰義隊人は、上野戦争に敗れると、再挙を期して町人などに姿
を変えて時を窺っていたのです。まるで赤穂浪士のようです。彼
らは、「無二諾」という割符を同志の証しとして身につけていた
といいます。
 ところで彰義隊の隊員はどのようにして、榎本武楊とコンタク
トをとったのでしょうか。なぜなら、隊長の天野八郎は新政府軍
に捕らえられ、旧幕府軍の要人とコネクションをとるのが難しく
なっていたはずだからです。
 それは、松平太郎を通してであろうといわれています。松平太
郎とは、大鳥圭介に通行証と軍資金を届けたあの松平太郎のこと
です。隊士の新井鐐太郎ほか数名の隊員が松平太郎に会い、榎本
への紹介状を入手したものと思われます。
 榎本と会って同行を許された彰義隊の隊士は、榎本からひとつ
の条件を突き付けられるのです。そのときの榎本とのやりとりを
菊地明氏の著書『上野彰義隊と箱館戦争史』から、問答スタイル
に直してご紹介します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 榎本武楊:実は君達よりも以前に、君達の同志の渋沢成一郎が
      35人ほど引き連れて来ている。渋沢は何か隔意あ
      って君達と別れたと聞き及ぶが、今日の場合、私怨
      などを持って互いに隔意あるべき場合ではないから
      ちょうど君達も首領(かしら)を失った今日、渋沢
      を首領にしたらよかろう。不承知か。
 彰義隊士:御言葉ですが、それはいけません。渋沢を首領に戴
      くことは御免を蒙ります。
 榎本武楊:それがいけない。君達はどうも頑固で困る。たとえ
      どんなに私怨があったにしても、今こうして我々に
      投じたからには隔意を去って、一致して働いてもら
      わんけりゃならん。マアよく考えて貰いたい。
  菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 彰義隊隊士は、榎本の言葉を無視できず、渋沢成一郎と話し合
い、「天野八郎の志を継いで、天野として尽くして欲しい」とい
う条件を出したところ、渋沢はそれを快く受け入れたのです。こ
こに彰義隊と振武軍は合体し、新彰義隊として、渋沢成一郎を隊
長に戴き、指定された長鯨丸に乗り込んだのです。
 ここで榎本武楊がこれまでの間、何をしていたのかについて考
えてみる必要があります。
 江戸城開城の4月11日夜、旧幕府海軍副総裁の榎本武楊は、
軍艦7隻を率いて館山に脱走したのです。新政府は勝海舟に対し
軍艦を品川に戻すよう要請したのですが、勝は、すぐには動かな
かったのです。榎本は、新政府軍との戦闘を覚悟し、場合によっ
ては、鹿児島、下関を攻撃すべく準備を整えていたのです。
 しかし、4月16日になって、勝は正式に出張というかたちを
とって、館山に出向き、榎本と話し合ったのです。実は勝は新政
府軍から、軍艦取り扱いについて正式に委任されており、しかも
榎本艦隊が品川に戻るならば、脱走の罪として咎めないという約
束を新政府軍から取りつけていたのです。
 勝海舟は榎本に対し、脱走のままでは戦闘になり、徳川家の処
分に悪い影響を与えること、加えて軍艦については自分は委任さ
れており、一部の軍艦しか引き渡さないという約束をしたので、
榎本艦隊は品川沖に戻ったのです。
 榎本は、東北諸藩からの支援の要請について勝と相談したとこ
ろ、勝は次のように榎本を説得したといいます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 勝は東国には人材がいない、そして東北諸藩はただ大国と人衆
 をたのみとしているだけで策略もはなはだ頗であるといい反対
 した。しかも、会津藩は忠あるに似て実はそうではなく、徳川
 氏が今日の状態となったのは会津藩のために誤られたためであ
 る。このことを知らないでみだりに干戈を動かそぅとするのは
 危険きわまりないという。つまり会津藩を信じてはいけないこ
 と、東北諸藩が勝利する見込みがないこと、したがって東北諸
 藩と同調して政府軍と戦う(朝敵行為)は、徳川家の存続が保
 障されたいま、決して徳川家のためにならないと忠告している
 のである。       ──野口武彦著/中公新書2040
       『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した4日間』
―――――――――――――――――――――――――――――
           ── [明治維新について考える/67]


≪画像および関連情報≫
 ●福沢諭吉による榎本武楊の評価
  ―――――――――――――――――――――――――――
  福澤諭吉が評して言うには、「江戸城が無血開城された後も
  降参せず、必敗決死の忠勇で函館に篭もり最後まで戦った天
  晴れの振る舞いは大和魂の手本とすべきであり、新政府側も
  罪を憎んでこの人を憎まず、死罪を免じたことは一美談であ
  る。勝敗は兵家の常で先述のことから元より咎めるべきでは
  ないが、ただ一つ榎本に事故的瑕疵があるとすれば、ただた
  だ榎本を慕って戦い榎本のために死んでいった武士たちの人
  情に照らせば、その榎本が生き残って敵に仕官したとなれば
  もし死者たちに霊があれば、必ず地下に大不平を鳴らすだろ
  う」と「瘠我慢の説」にて述べている。──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

和装の榎本武楊.jpg
和装の榎本 武楊
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2011年05月19日

●「榎本軍団あっさりと五稜郭を占領」(EJ第3058号)

 榎本艦隊は折浜に集結したのです。宮城県石巻市の折浜です。
折浜に集結した7つの船舶のトン数を示しておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
       開陽 ・・・・・ 2817トン
       回天 ・・・・・ 1678トン
       蟠龍 ・・・・・  370トン
       長鯨 ・・・・・  996トン
       神速 ・・・・・  250トン
       大江 ・・・・・  160トン
       鳳凰 ・・・・・  130トン
    菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 これでみると、さすが旗艦だけあって開陽丸がいかに大きいか
わかると思います。このほか、138トンの千代田形丸と341
トンの長崎丸があるのですが、これら両艦は庄内藩からの援軍要
請を受けて酒田(山形県酒田市)に出航していたのです。
 しかし、長崎丸は酒田沖北西の飛島付近で座礁し、沈没してし
まうのです。そこで、千代田形丸は庄内上陸を断念して蝦夷地に
向かうことになります。
 明治元年(1868)9月15日に降伏した仙台藩としては、
榎本艦隊には一刻も早く仙台から立ち去ってもらうことを望んで
いたのです。そこで、餞別代りとして、酒一斗入り1000樽、
沢庵300樽、味噌200樽、塩150俵などを贈って蝦夷地へ
の出立を促したのです。
 明治元年10月12日、榎本艦隊は折浜を出立して、14日に
は宮古港に到着、ここで燃料を積み込み、17日には宮古を発っ
て蝦夷地に向かっています。目指したのは、内浦湾の鷲の木沖で
あり、そこに10月19日に到着して錨を下ろしたのです。
 箱館の五稜郭には旧幕府の箱館奉行所があったのですが、そこ
を新政府は箱館府として使っていたのです。そこに箱館府知事の
清水谷公考がおり、薩長を支持する松前藩が中心の連合軍が五稜
郭を守備していたのです。
 箱館府の新政府軍は、松前、津軽、福山、大野の各藩兵の連合
軍約1500人です。榎本軍が鷲の木に上陸したという報を受け
清水谷知事は防御体制を取れと指示したのです。しかし、府兵の
士気は低く、あまり強い軍隊とはいえなかったのです。
 榎本武楊は、遊撃隊隊長の人見勝太郎と本多幸七郎に五稜郭の
箱館府知事宛ての嘆願書を託したのです。嘆願書の内容は、蝦夷
地を旧幕臣によって開拓し、あわせて警備することの許可を求め
るものです。もちろんそのようなことを箱館府知事が認めるはず
はないのですが、あくまできちんとした手続きを踏むというのが
榎本のやり方なのです。
 使節の人見勝太郎と本多幸七郎は、鷲の木から峠下村を経て七
重村に至り、五稜郭を目指す内陸部本道を進んだのです。使節に
は遊撃隊30人が護衛についたのですが、21日には大鳥圭介が
率いる伝習士官隊と伝習歩兵隊も同じ内陸部本道を進軍し、峠下
村の民家に宿営したのです。五稜郭はここから約28キロ先にが
あるのです。
 箱館府では、津軽・松前藩兵による七小隊を派遣して、峠下村
の大鳥軍に夜襲をかけたのですが、大鳥軍は銃撃戦に撃ち勝って
使節と合流し、五稜郭に向かいます。これが蝦夷地における初戦
なのですが、津軽・松前藩兵はあまり強くなかったのです。
 一方、同じ21日、土方歳三を総督とする額兵隊と陸軍隊は、
海岸沿いの間道を進軍し、川汲峠を越えて五稜郭を目指したので
す。こちらも川汲峠を越えるとき、銃撃を受けたのですが、たち
まち撃退します。そして25日には湯の川にまで達するのです。
五稜郭まで、あとわずか3キロです。
 ところが箱館府は25日に青森に撤退し、五稜郭は無人だった
のです。それを察知した大鳥軍は26日の早朝に五稜郭に入城し
土方軍も同日夕刻までに入っているのです。ここで箱館府軍と銃
撃戦でもあり、それに勝って入城すれば、連敗の大島隊に勝ち星
がひとつ付いたのですが、相手がいなかったので、勝ち星にはカ
ウントされなかったものと思われます。
 ところで、新彰義隊はどうしたのでしょうか。
 新彰義隊は長鯨丸に乗船していたのですが、室蘭に寄港してい
たので、鷲の木上陸が24日になってしまったのです。新彰義隊
は警備の目的でしばらく鷲の木にいたのですが、27日には文月
村まで進軍し、そこに宿営したのです。
 27日に五稜郭から使者がきて、軍議が開かれ、隊長の渋沢成
一郎と大塚雷之丞が出席しています。その軍議で松前攻略軍が編
成され、彰義隊はその先鋒を命じられたのです。総督は土方歳三
に決まったのです。
 ちなみに五稜郭とは、江戸時代末期に現在の函館市に建造され
た西洋様式の城郭のことです。日本の城郭は、銃砲戦を前提とし
ないものであり、居住施設である宮殿と軍事施設である要塞の分
離がほとんど行われていないのです。
 そこで、日米和親条約締結による箱館開港に伴い、防衛力の強
化と役所の移転問題を解決するために徳川家定の命により築造さ
れた城郭が五稜郭なのです。銃砲による戦闘が一般化した後のヨ
ーロッパにおける稜堡式の築城様式を採用し、堡を星型に配置し
ている点に特色があります。
 しかし、資金があまりなかったことや外国の脅威が薄れたこと
などにより、銃砲戦を含む戦闘のための城づくりという目的が忘
れ去られ、単に国家の威信だけが目的の建造物になり、そのため
日本流と西洋流がミックスされた中途半端な城郭になってしまっ
たのです。
 榎本軍が五稜郭を占領すると、直ちにそこは医師の高松凌雲に
よって、たちまち敵味方の重傷者を治療する箱館病院と化したの
です。        ── [明治維新について考える/68]


≪画像および関連情報≫
 ●「鷲の木」についての情報
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「蝦夷富士」との異名を持つ活火山、駒ヶ岳を背にする鷲の
  木は、戸数わずか150軒ながら鰊漁で潤う富裕な漁村であ
  り、兵糧調達面でも適していたし、また函館から小樽へと抜
  ける街道筋の要衝として、戦略的に重要な位置であった。東
  軍を実質的に統率する榎本武揚が、かつて蝦夷を訪れた際に
  得た土地感があったことも理由の一つであろう。また、すで
  に国際都市として外国人の居留が許されていた函館に正面攻
  撃を仕掛ける事は、諸外国の反発を招くだろうという、国際
  政治的配慮もあった。
       http://www.tamahito.com/hakodate/washinok.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●鷲の木から五稜郭の地図
  菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊

鷲の木から五稜郭までの地図.jpg
鷲の木から五稜郭までの地図
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2011年05月20日

●「松前攻防戦は榎本軍が制する」(EJ第3059号)

 五稜郭を落とした後で、榎本は直ちに松前城を攻略しようとは
しなかったのです。榎本は、大鳥圭介や土方らと協議して松前城
に使者を送り、次のメッセージを伝えたのです。その使者とは松
前藩士で、五稜郭での戦闘で捕虜にした人物です。榎本としては
なるべく無駄な戦闘をして戦力を消耗したくなかったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
        ともに蝦夷地開拓に当らん
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、松前藩はその使者を斬り殺し、榎本軍に「ノー」を突
きつけてきたのです。榎本はもう一人使者を送り、翻意を促した
のですが、松前藩はその使者も斬り殺したのです。これで榎本は
松前藩を攻略する決心をしたのです。
 明治元年10月30日、新彰義隊は知内(しりうち)村に進出
し、そこで中軍を務める額兵隊と合流して萩茶里村にまで進んで
全軍の到着を待ったのです。
 その間蟠龍丸は敵情視察の目的で松前に入港し、そこに掲げら
れていた津軽藩旗を日章旗に取り替え、何発か艦砲射撃を行って
箱館に引き返しています。11月1日のことです。榎本としては
陸軍だけでなく、海軍との連携によって松前攻略を進めたかった
のですが、松前兵が戦闘に慣れておらず、ほとんど戦闘にならず
に、一方的に榎本軍が勝ち進んだのです。
 11月2日に新彰義隊と額兵隊は、一ノ渡村に進撃したのです
が、松前軍はほとんど迎撃することなく、そのまま山崎へと退却
してしまったのです。そこで、新彰義隊と額兵隊は二手に分かれ
て、山崎を攻撃し、一時間ほどの銃撃戦で、福島に滞陣していた
松前兵を敗走させ、福島を占領したのです。そして、新彰義隊と
額兵隊はそのまま福島に滞陣し、後続部隊を待ったのです。松前
城はもう目の前にあったのです。
 福島に総督の土方歳三が到着したのは11月4日のことです。
そこで、土方は再び軍を再編成し、次の体制で松前城を攻撃する
ことにしたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  ≪先鋒≫
   ・新彰義隊
  ≪中軍≫
   ・陸軍隊、砲兵隊、工兵隊、守衛新選組
  ≪後軍≫
   ・額兵隊
    菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 4日夜に新彰義隊は松前城まであと2キロの地点である荒谷村
に宿営したのです。ここまでの戦闘はほとんどなく、一方的に押
しまくったのです。
 松前藩兵は、松前城東方1キロのところを流れる及部川を背に
陣地を展開しており、文字通り背水の陣であったのです。松前藩
は、箱崎から青森に避難させていた150人の兵を戻して陣地を
固めていたのですが、その数はせいぜい250人程度しかいなか
ったのです。
 11月5日午前7時に、松前攻略戦が開始されたのです。新彰
義隊は二手に分かれ、松ケ崎の敵陣に銃撃を加えると同時に、及
部川の東土手から対岸の松前軍の本陣に対して銃撃を行ったので
す。この銃撃戦は昼頃まで続いたのですが、遂に松前軍は敗走し
城中に逃げ込んだのです。
 これを追って新彰義隊は及部川を渡り、陸軍隊と額兵隊もこれ
に続いたのです。額兵隊と砲兵隊は、松前城の東300メートル
の高台にある法華寺に大砲を引き上げると、城への砲撃を加えた
のです。新彰義隊はそのまま進軍し、松前城の城門を挟んでの攻
防がはじまったのです。
 幕末の幕臣で、彰義隊隊士である丸毛利恒(まるもとしつね)
の記述した「北州新話」によると、このときの松前軍の戦いにつ
いて次のように記述しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 時に一隊の兵進んで拐手の城門に迫る。敵、門を開き野戦砲を
 もって発砲、また閉塞して装弾す。かくのごとくするもの数回
 我が兵破ることあたわず。        ──「北州新話」
    菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 この「北州新話」の記述は、城門のところに大砲を並べておき
弾を込めて城門を開いて砲撃し、すぐ城門を閉じて同じことを繰
り返す攻撃が一定の効果を上げていることを示しています。
 また、松前湾には援軍として、回天丸と蟠龍丸が進入し、艦砲
射撃を行っているのですが、波が高いために命中精度が落ちて有
効な攻撃にならなかったのです。
 さて、松前軍の必死な攻撃に手こずった榎本軍は、何とか城門
を開けさせようとして、いろいろなことを仕掛けるのです。城門
が開くのを待って一斉に砲撃したり、総督の土方歳三は陸軍隊と
守衛新選組を使って城の裏手に回り、梯子をかけて城中に侵入し
たのです。そして内部から銃撃して城内を混乱させ、内部から城
門を開くことに成功したのです。
 追い詰められた松前軍は、城に火を放つと、既に藩主の松前徳
広を逃がしている江差方面に向けて逃走をはじめたのです。午後
2時頃のことです。敗走する松前軍は城下に放火しながら逃走し
たので、松前市中の4分の3が焼失してしまったのです。
 城内の火災が収まるのを待って、土方歳三は、新彰義隊、衝鋒
隊、守衛新選組を率いて入城したのです。陸軍隊は法華寺、額兵
隊は城下に焼け残った屋敷などに宿泊したのです。そして、榎本
軍は11月10日まで城下に滞在したのです。そして11日には
江差に追討軍を出発させています。
           ── [明治維新について考える/69]


≪画像および関連情報≫
 ●「松前城」についての情報
  ―――――――――――――――――――――――――――
  松前城(まつまえじょう)は北海道渡島総合振興局管内松前
  町にあった平山城で、福山城(ふくやまじょう)とも呼ばれ
  る。石田城と並び日本における最後期の日本式城郭である。
  戊辰戦争の最末期に蝦夷が島(北海道)の独立を目指す旧幕
  府の軍(元新選組の土方歳三が率いていた)との戦いにおい
  て落城した。天守や本丸御門などが現存したが、天守は太平
  洋戦争後に失火により焼失した。旧城内一帯が国の史跡に指
  定されており、また、築城時から現存する本丸御門が国の重
  要文化財に指定されている。2001年には北海道遺産に選
  定された。             ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

松前攻略関係地図.jpg
松前攻略関係地図
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2011年05月23日

●「戦わずして沈没した開陽丸と神速丸」(EJ第3060号)

 慶応元年11月15日に松岡四郎次郎の率いる一聯隊が松前藩
主の松前徳広が避難していた館城を攻撃したのです。既に藩主の
松前徳広は江差を経て青森に逃れており、館城には100人程度
の守備兵だけだったので、簡単に城は落ちたのです。
 これで蝦夷地は平定されたのです。しかし、ここで榎本武楊は
大きな失敗をしているのです。榎本は自分としての近代戦の戦い
方のかたちにこだわるところがあったのです。戦略に基づいて陸
軍が敵の陣地や城を攻略し、海軍は海から艦砲射撃してこれを支
援する──このスタイルにこだわるのです。
 だから、松前城攻撃のさいも回天丸と蟠龍丸を松前湾に進入さ
せたのです。ところが、松前兵は弱く、海軍まで出陣させる必要
などなかったのです。しかし、海軍兵士としては陸軍ばかりが手
柄を立てるのは怪しからんと考えるので、榎本としては海軍も出
動させ、大砲を2〜3発撃たせれば、そういう海軍兵士の不満は
解消できると考えて、江差攻略のときも開陽丸を江差に回してい
るのです。これが結果として大失敗だったわけです。
 榎本は自ら開陽丸に乗って江差に向かったのです。昔から蝦夷
地の西海岸は冬の期間は西北の風が強く、錨を下ろせる港が乏し
いのです。小さい船は弁天島の背後に停泊して風波を凌ぐことが
できますが、開陽丸のような大船にとっては狭く、浅いため座礁
する危険性が高いのです。
 開陽丸が江差に着いたのは、11月15日の早朝のことです。
江差沖に錨を下ろして陸の様子を窺うと、どうやら敵兵はすべて
逃げて誰もいないようなので、榎本は端艇を下ろし、兵隊ととも
に上陸しています。敵は逃げた後だったので、自分は能登屋とい
う旅籠に入り、開陽丸は鴎島の島影に停泊させたまま、その旅籠
で土方が来るのを待つことにしたのです。今にして思えば、これ
が最大の榎本の判断ミスだったのです。
 星亮一氏はそのとき江差沖で起こったことについて、次のよう
に紹介しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 夜6時ごろから突然暴風となり、蒸気を焚いたが、まったく効
 力なく浅瀬に乗り上げてしまった。北の海の恐ろしさである。
 開陽丸を救うため諸士官は、万死を顧みず百万力を尽くしたが
 3日を経てついに全体が破壊し、大砲、弾薬、ガトリング機関
 砲など武器は残らず海底に沈没し、士官水兵は小艇でやっと江
 差に上陸した。このことが箱館へ伝えられると将兵は愕然とし
 ただちに回天、神速を出して救助せんとしたが、神速も大風の
 ために海岸に吹き寄せられ、二重遭難にしてしまった。
              ──星亮一著/中公新書2108
        『大鳥圭介/幕府歩兵奉行、連戦連敗の勝者』
―――――――――――――――――――――――――――――
 回天丸は風浪が強いので、箱館に帰還して無事だったのですが
榎本軍は、主力艦の開陽丸と神速の貴重な2艦を失ったのです。
なかでも開陽丸は2817トンもある大艦であり、1艦で津軽海
峡の制海権を握れるといわれる最新鋭艦なのです。それを戦わず
にして失ったのですから、榎本海軍に壊滅的な打撃を与えたので
す。『義団録』はこれについて次のように表現しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 今これを沈没せしむる、あたかも手足、双眸を失うがごとし
                     ──『義団録』
   菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 開陽丸はなぜ沈没したのでしょうか。
 江差には開陽丸の遭難について、不思議な伝説が伝わっている
のです。開陽丸が風に流されたとき、前方に狐火のようなものが
見えたのです。目をこらして見ると、一人の漁師が小舟に立って
手招きしているのです。
 当時の水先案内人はこのようなかたちで大船を誘導していたの
で怪しまず、きっと安全な場所に誘導してくれるのだと思い込み
その方向に開陽丸を進めると、物凄い音がして暗礁に乗り上げた
というのです。これは江差の奥山にある霊場である笹山稲荷神社
の笹山狐が水先案内人に扮して開陽丸を座礁させたといわれてい
るのです。
 「開陽丸が危ない」という報が入って、榎本は飛び起きて、浜
に駈け寄ると、北国の厳しい高波が傾いた開陽丸を襲っているの
を見て、呆然として立ちすくんでしまったのです。
 このとき、榎本が待っていた土方歳三はどうしていたのでしょ
うか。これについて「幕末維新と江差」というサイトでは次のよ
うに書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 その頃、松前から浜伝いに藩兵を追ってきた土方歳三の軍が、
 予想を超える抵抗に合い、苦戦を続けていました。土方が抵抗
 線を突破して江差に入ったのは翌16日のことでした。血なま
 ぐさい戦闘服姿のままで能登屋に駆け込んだ土方が見たものは
 海に目を凝らして動かない榎本の姿でした。(一部略)能登屋
 を出た二人は、本陣とした順正寺に向かいました。途中、この
 時は無人となっていた檜山奉行所があり、門前まで来た二人は
 そこでまだ3分の1を海面に晒した開陽丸を眺めました。よほ
 ど悔しかったのでしょう。土方は目の前にあった松の幹を何度
 も拳で叩きながら、涙をこぼしました。後年、土方が叩いた松
 の幹に瘤ができ、人々はこれを「歳三のこぶし」と噂し合った
 そうです。
 http://www.hokkaido-esashi.jp/kankou/gunyakusyo/nageki.htm
―――――――――――――――――――――――――――――
 開陽丸がなぜ座礁したかについて、必要以上の大砲を積み、重
装備にしたためにバランスが悪くなったのではないかという、開
陽丸自体に問題があったという説もあるのです。
           ── [明治維新について考える/70]


≪画像および関連情報≫
 ●なぜ、開陽丸が出撃したのか
  ―――――――――――――――――――――――――――
  榎本軍の鷲の木浜上陸以来、箱館府や松前藩との戦闘はほと
  んど陸兵だけで戦い、(海軍としての戦闘は軍艦による陸軍
  の松前城攻略の援護砲撃ぐらい)海軍の出番が無かっため、
  陸軍からだけではなく海軍からも不満の声が上がってきた。
  そこで榎本は、丁度、開陽丸が銚子沖の嵐の時に壊れた舵の
  修理が終わったのを幸いに、開陽丸を江差に向かわせ、海上
  からの砲撃で攻略する事に決めた。しかしすでにこの時の松
  前藩の戦力は弱体化しており、江差攻略は現在江差に向かっ
  ている松前からの土方歳三隊や厚沢部からの松岡四郎次郎隊
  の兵力だけで十分なのでいまさら軍艦を動かす必要は無かっ
  た。http://www.asahi-net.or.jp/~sk6t-ysd/hakosen/hakosen2r.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

土方歳三の嘆きの松.jpg
土方 歳三の嘆きの松
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