2011年01月17日

●「パリ万国博覧会をめぐる幕府と薩摩藩」(EJ第2976号)

 グラバーと島津久光がいかに親密であったかについて、そのエ
ピソードなどを含め、少し述べることにします。それが龍馬暗殺
へとつながってくるからです。
 慶応2年(1866年)にフランス皇帝ナポレオン3世から幕
府に対し、1867年にパリで開催される万国博覧会への出品要
請と元首の招聘についての書簡が届いたのです。
 これを受けて幕府は、将軍徳川慶喜の弟に当る徳川昭武(14
歳)を名代として派遣することにしたのです。このとき、警護の
ために水戸藩士7名が随行することになったのですが、彼らは強
い攘夷論者であったので、異国でトラブルを起こしてはまずいと
考えてまとめ役として随員に加えられたのが渋沢栄一なのです。
 もっとも渋沢栄一自身もかつては強硬な尊皇攘夷論者であった
のですが、そういう意味で過激な水戸藩士をまとめられるうえに
算数に明るく、理財の念に富んでおり、その有能な実業家的手腕
も期待されていたのです。1867年1月11日、徳川昭武はパ
リ万国博覧会に日本国将軍代理として参加するため、横浜から船
でフランスに向かっています。
 幕府は、油絵、浮世絵、銀象牙細工、磁器、水晶細工などなど
を出品したのです。会場内に日本式お茶屋も作り、芸者3人に接
待させて、評判を呼んだようです。
 しかし、このパリの万博に最初に手を打ったのは実は薩摩藩で
あったのです。グラバーは島津久光の顔を立てるという名目で、
討幕の布石を打ったのです。そのとき、留学生を連れて渡欧中で
あった五代友厚に指示を出し、薩摩藩がパリ万博に出られるよう
手配をさせたのです。
 そのとき活躍したのがあのフランス人のモンブラン伯爵なので
す。モンブランについては、EJ第2962号(2010年12
月20日)を参照願います。
 薩摩藩は、モンブランを代理人として、幕府とは別名義の出展
者として参加し、出品することとなったのです。薩摩藩家老の岩
下方平は薩摩藩および琉球王国(当時、事実上薩摩藩の支配下に
あった)の全権としてパリに派遣され、モンブランとともに万博
の準備を進めたのです。
 幕府はフランスにきて薩摩藩が出展することを聞き大いに驚い
たのです。早速随行してきた外国奉行向山一履などが岩下方平に
抗議したのですが、薩摩藩は聞き入れない──岩下とモンブラン
は幕府と交渉して次のように決着をつけたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 話し合いの結果、出展者名から「琉球」の二文字と島津家の家
 紋の旗章を削ることと、「琉球国陛下松平修理大夫源茂久」の
 名を「松平修理大夫」のみに改めることを求めた。薩摩藩代理
 人のモンブランは岩下とともに交渉し、「薩摩太守の政府」の
 名前は譲れないとして談判し、結局幕府側は「大君政府」、薩
 摩藩側は「薩摩太守の政府」とし、ともに日の丸を掲げること
 で妥協となったのである。
    ──ウィキペディア「シャルル・ド・モンブラン」より
―――――――――――――――――――――――――――――
 万博の会場の中であるとはいえ、世界の人々に日本には幕府側
の「大君政府」と薩摩藩の「薩摩太守の政府」の2つの政府があ
ることを印象づけたことは、薩摩藩の独立性を認めさせたことを
意味しており、薩摩藩としては大成功であったのです。
 しかも、五代友厚は、そのとき、英国で紡績機械を購入し持ち
帰り、鹿児島の磯の地に日本で最初の紡績工場を建設しているの
です。久光は大いに面目を施し、グラバーにますます傾斜してい
くことになるのです。
 これまで述べてきたように、薩摩の島津久光はあくまで武力に
よって幕府を討つ方針を固めてきたのです。そのため、幕府との
戦争に備えるため、グラバー商会から大量の艦船や兵器を買い込
んで莫大な債務をかかえていたのです。
 グラバーはもちろん武力討幕を前提に薩摩藩だけでなく、肥前
肥後、宇和島、土佐などの西南各藩にも、武器、弾薬、艦船を売
り込んで大儲けしていたのです。
 しかし、もし、戦争をしないで幕府と平和的に政権交代が実現
したら、どうなるでしょうか。少なくとも武器、弾薬は不要とな
り、西南各藩の経済は破綻し、グラバー商会としても売掛金は貸
し倒れになる恐れがあったのです。
 ところがです。当初討幕を前提に行動していた龍馬は、薩長同
盟の成立後は極力国内戦争を回避し、幕府に大政奉還を出させて
平和裡に倒幕する方針に変更し、幕府の要人とも頻繁に会うよう
になっていたのです。この龍馬の行動が、とくに薩摩藩のトップ
である久光やグラバーにとっては、甚だ面白くなかったことは容
易に想像されるのです。久光やグラバーが「あいつ(龍馬)は一
体何を考えているのか」という不信感が充満しても不思議はない
のです。
 当時グラバーの財力は、ひとつの大名に匹敵するほど凄いもの
だったのです。薩摩藩の家老によると、グラバーの暮らしぶりは
30万石の大名に匹敵するといったそうです。30万石といえば
上杉家・米沢藩が30万石(後に15万石)です。当時の一つの
国に当たる藩に匹敵するほどの財力だったのです。その財力を利
用してグラバーがやろうとしていたことは、武力による討幕なの
です。そのためか、グラバーは、次のような謎の言葉を残してい
るのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   徳川幕府の反逆人の中には自分が最も反逆人である
               ──トーマス・グラバー
―――――――――――――――――――――――――――――
 これは何を意味しているのでしょうか。
 大政奉還を幕府に勧め、幕府との戦争を回避し、平和裡に討幕
しようとする龍馬は、久光やグラバーにとって邪魔者以外の何物
でもなかったからです。 ──  [新視点からの龍馬論/67]


≪画像および関連情報≫
 ●最初の万国博覧会/幕末から廃藩置県までの有田
  ―――――――――――――――――――――――――――
  有田焼が万国博覧会に出品されたのは一八六七年のパリ博覧
  会が初めてである。フランスから出品を勧誘された幕府は、
  各藩に伝達して参加を求めた。だが、幕府崩壊直前の各藩と
  も藩内政情が動揺している上に、鎖国観念が根強くて、応じ
  たのは僅かに佐賀藩と薩摩藩だけだった。かねてから国産品
  の海外輸出の公然化を望んでいた佐賀藩は、これを絶好の機
  会として直ちに賛意を表したのである。
   http://www47.tok2.com/home/yakimono/honoo/06-03.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

パリ万国博覧会/1867年.jpg
パリ万国博覧会/1867年
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2011年01月18日

●「悲劇の志士/赤松小三郎とは何者か」(EJ第2977号)

 慶応3年(1867年)9月30日のことです。白昼路上で斬
り殺された志士がいます。その志士の名前は次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
            赤松小三郎
―――――――――――――――――――――――――――――
 勝海舟や坂本龍馬は知っていても、赤松小三郎の名前を知る人
は非常に少ないと思います。ところが、ちょうど昨年の1月、こ
の赤松小三郎を小説の形で取り上げ、発表した作家がいます。江
宮隆之氏であり、その書名は次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
            江宮隆之著/河出書房新社
     『龍馬の影──悲劇の志士・赤松小三郎』
―――――――――――――――――――――――――――――
 赤松小三郎とは何者なのでしょうか。
 比較的はっきりしていることは、赤松小三郎は龍馬の作とされ
ている「船中八策」の原作者ではないか──そういわれているこ
とです。その原作書は次の名前で呼ばれています。
―――――――――――――――――――――――――――――
      「御改正之一二端奉申上候口上書」
―――――――――――――――――――――――――――――
 この建白書は、慶応3年(1867年)5月17日に、越前福
井藩主で、幕府の顧問をしていた松平春嶽に対して提出されたも
のです。どういう内容だったのでしょうか。ウィキペディアから
引用します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 議会(赤松の訳語では「議政局」)は、定数30人の上局と定
 数130人の下局からなる二院制であった。上局は貴族院に相
 当し、その議員は、朝廷と幕府と諸藩の融和の象徴として、公
 卿と諸侯と旗本より選出される。下局は衆議院に相当し、その
 議員は、各藩を基礎とした選挙区から「門閥貴賎に拘らず道理
 を明弁し私なく且人望の帰する人」を、入札(選挙)によって
 公平に選ぶべしとされた。これは、身分にとらわれない民主的
 な普通選挙による議会政治を提言した文書として、日本最初の
 ものである。「国事は総て此両局にて決議」とされ、議会は国
 の最高機関と位置付けられている。   ──ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――――
 これはきわめて民主的な議会制度の設立建白書であり、画期的
な内容ですが、ほとんどの歴史書は無視しています。どうしてで
しょうか。
 龍馬が奉じたとされる「船中八策」は、赤松の建白書のレジュ
メのような内容です。そのとき龍馬は長崎におり、5月15日に
いろは丸事件の決着に向けて紀州藩と折衝し、決着後の6月9日
に後藤象二郎と一緒に土佐藩船・夕顔丸に乗って12日には兵庫
に着いています。その船中で「船中八策」が龍馬より後藤に示さ
れたことになっています。
 もし、赤松の建白書が龍馬の船中八策の原本だとしたら、龍馬
と赤松の接点はないのです。ただ、6月12日以降に後藤と龍馬
は京都に入っており、物理的に龍馬と赤松の接点はあるのです。
船中八策とはいうものの、本当に船中で提示された確かな証拠は
ないのです。何らかの理由で赤松小三郎を伏せる意図が働いてい
れば、歴史は勝者によって書かれるといわれ、歴史的事実はどの
ようにでも書き換えられることになります。
 実は「御改正之一二端奉申上候口上書」と「船中八策」は酷似
しており、別々に考えられたものとは思えないのです。史料はな
いのですが、どこかで龍馬と赤松の接点はあった可能性はあると
いえます。
 赤松小三郎は、長崎海軍伝習所の設立から閉鎖までの4年間を
勝海舟と一緒に過ごしています。しかし、身分の低かった小三郎
は、正規の伝習生にはなれず、「組外従士」──つまり、勝海舟
の従者のようなかたちで参加できたといわれます。
 しかし、赤松小三郎のオランダ語能力は勝海舟をはるかにしの
いでおり、勝海舟は赤松をまるで通訳のように使っていたという
のです。
 航海術や測量術などの授業も勝海舟の語学力や知識ではついて
いけず、赤松の数学や科学の知識による補佐によってはじめて理
解することができたというのです。
 赤松小三郎は、長崎にいた4年間でオランダ語の原書を74冊
も読破し、一緒に参加している伝習生のためにテキストの翻訳ま
でやっているのです。明らかに、当時の伝習生は勝海舟も含めて
勝の従者でしかない赤松小三郎におんぶにだっこの状態であった
のです。こういう状況では、勝も含め他の伝習生も赤松の存在を
隠したくなるのは当然で、そういう意味から赤松の存在が伏せら
れたということはいえると思います。
 その後の赤松の活躍について、ウィキペディアの記事を引用し
て示すことにします。
―――――――――――――――――――――――――――――
 慶応2年(1866年)より、京都に私塾「宇宙堂」を開き、
 英国式兵学を教える。門下生には、薩摩・肥後・会津・越前・
 大垣などの各藩士から新選組の隊士までが含まれており、呉越
 同舟状態であった。ついで薩摩藩から兵学教授として招聘され
 京都の薩摩藩邸において中村半次郎、村田新八、篠原国幹、野
 津道貫、東郷平八郎ら約800人に英国式兵学を教え、藩士た
 ちの練兵も行った。薩摩藩の兵制を蘭式から英式へと改変する
 のに指導的役割を果たした。      ──ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――――
 勝海舟は龍馬に関しては、明治に入って多くのことを語ってい
ますが、赤松小三郎についてはほとんど語っていないのです。な
ぜなら、それを語ると自分の恥の部分をさらすことになり、いい
たくなかったのです。  ──  [新視点からの龍馬論/68]


≪画像および関連情報≫
 ●赤松小三郎「御改正口上書」と坂本龍馬「船中八策」
  ―――――――――――――――――――――――――――
  この間、赤松小三郎に関する記事を連続して投稿し、赤松小
  三郎が慶応3年5月に越前福井藩の前藩主で幕府顧問の松平
  春嶽に提出した「御改正之一二端奉申上候口上書(以下、御
  改正口上書)」が、坂本龍馬の「船中八策」よりも早い、日
  本で最初の、選挙による民主的議会政治の建白書であり、も
  っと評価されるべきであることを論じてきた。現在、ネット
  で検索しても、赤松の「御改正口上書」を読むことはできな
  い。そこでこのブログに掲載することにした。出所は『上田
  市史』(下巻、1251〜1253頁)である。赤松直筆の原本は失
  われているが、全文が松平春嶽の政治記録書である『続再夢
  紀事』に転載されているので、この文書の存在は確かのもの
  である。
  http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/0aacd076a50028669d253e6bf8dff12a
  ―――――――――――――――――――――――――――

赤松小三郎.jpg

赤松 小三郎
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2011年01月19日

●「赤松小三郎暗殺の下手人は薩摩藩」(EJ第2978号)

 赤松小三郎は信州上田藩士ですが、理数系に強い人だったので
す。江戸に出て数学と科学を学び、蘭学に英語までマスターして
います。その実力はまさに当代随一であり、オランダ人や英国人
と自由に意思疎通ができたというのです。あの勝海舟でさえ、赤
松の語学力や科学の知識にはとうてい及ばなかったことは前回述
べた通りです。
 こんな男を当時の雄藩がほおっておくはずがないのです。そし
て最初に目を付けたのが薩摩藩なのです。薩摩藩は薩英戦争を通
して英国の実力を思い知らされ、英国式軍制を取り入れようとし
たのです。
 そこで薩摩藩は、赤松小三郎を兵学教授として招き、慶応3年
(1867年)に京都の薩摩藩邸で英国式兵学塾を開講したので
す。そのときの門下生には、後の大日本帝国陸軍の少将になった
篠原国幹や日露戦争で活躍した元帥海軍大将・東郷平八郎らの薩
摩藩の次世代を担う多くの若者たちがいたのです。そしてもう一
人、後に人斬り半次郎と呼ばれるようになる中村半次郎もその兵
学塾で学んでいたのです。
 これによって各藩が赤松小三郎に注目するようになり、越前の
松平春嶽は使いを出して小三郎に建白書の提出を求めたのです。
その建白書が前回ご紹介した「御改正之一二端奉申上候口上書」
なのです。
 赤松の主張は次の一言に尽きるのです。しかし、これを薩摩藩
でやったことは赤松にとって不幸なことだったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
            天幕一和
―――――――――――――――――――――――――――――
 「天幕一和」とは、天皇家と幕府を合体させて平和的な政権を
作るという意味です。したがって、薩摩藩が一丸となって進めよ
うとしていた武力による討幕の思想に反するのです。
 そこでは日本人同士が争う愚かさを説き、幕府に大政奉還させ
て、平的的に新体制に移行させる思想に他ならなかったのです。
戦争には必ず勝者と敗者があります。まして日本人同士で戦争を
すると、勝者は奢りたかぶり、敗者を虐げて悲劇が生まれる。そ
して勝者の特定の出自の者たちが国を治める結果になる──そう
いう世の中にならないように平和的に改革を進めるというのが赤
松小三郎の思想なのです。
 考えてみると、この赤松小三郎も坂本龍馬も身分の低い家の出
身であり、そういう立場にならないとわからない苦労を重ねてい
ます。もっとも龍馬は家が裕福であったので、まだ恵まれている
方ですが、それでも相当苦労しています。そういう経験を踏まえ
ての提案であり、後藤象二郎のような上士出身の武士には絶対に
発想できない思想であるといえます。
 薩摩藩はこのようにして赤松を自藩の兵学教授として招きなが
ら、「危険な人物」として考えるようになったのです。そして、
赤松の評判が高くなるにつれて他藩はもちろんのこと、幕府や会
津藩までもが赤松を招こうとするに及んで、薩摩藩は警戒心を強
めたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 他藩はともかくとして、幕府で赤松の力が生かされては困る
―――――――――――――――――――――――――――――
 慶応3年9月3日、赤松小三郎は上田藩からの帰国命令を受け
て帰藩することになったのです。その前日の2日の夜に薩摩藩の
門下生の有志が集まって、送別会が開かれたのです。
 そして9月3日、赤松小三郎は京都市内で知人に帰国の挨拶を
して回っているときに白昼暗殺されたのです。一体誰が暗殺した
のでしょうか。実は下手人は明治時代になってもわからず、それ
が判明したのは、昭和44年(1967年)12月のことであっ
たといわれています。次の日記に記述されていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
          「桐野利秋日記」
―――――――――――――――――――――――――――――
 「桐野利秋」といってもビンとこないと思いますが、薩摩藩士
の中村半次郎のことです。つまり、中村半次郎自身が赤松小三郎
を同僚と2人で暗殺したということを書いているのです。暗殺し
た理由は、赤松小三郎は「佐幕派」であるというものです。
 中村半次郎といえば、赤松が開講していた兵学塾の門下生であ
り、中村は師を斬り捨てたことになるのです。天幕一和は自分と
相い容れない思想だから斬る!──これが当時の薩摩藩の姿勢で
あったといえます。
 赤松小三郎は明らかに薩摩藩上層部の命によって暗殺されてい
ることは明らかです。それは、下手人が薩摩藩であることを隠す
ために次のような工作をしているからです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      1.2種類の斬奸状を出していること
      2.葬儀に関して過大な弔慰金を贈る
―――――――――――――――――――――――――――――
 「斬奸状」は悪者を斬り殺すについて、その理由を書いた文書
のことです。薩摩藩はこれを2種類書いて市中に貼り出している
のです。
 さらに薩摩藩は葬儀に当って150両もの弔慰金を贈り、兵学
塾の門下生全員が葬儀に出席しています。それに加えて薩摩藩は
慶応3年12月に京都金成光明寺に小三郎の墓と碑を建立してい
るのです。
 このように赤松小三郎を暗殺したのが薩摩藩であるとすると、
龍馬を殺したのも薩摩藩ではないかという考え方が出てきます。
しかし、赤松と龍馬では薩摩藩との付き合いの長さが異なるので
す。赤松と違って龍馬の場合は薩摩藩とあまりにも親しかったか
らです。西郷などは龍馬を同志であると考えており、薩摩による
暗殺説は考えにくいのです。─  [新視点からの龍馬論/69]


≪画像および関連情報≫
 ●桐野利秋について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  桐野利秋と言えば、前名を中村半次郎と言い、「人斬り半次
  郎」という異名を持つ人物として非常に有名です。桐野を主
  人公にした小説や講談では、彼は豪放磊落、典型的な薩摩隼
  人を象徴する人物として描かれ、桐野利秋と聞くと、「荒々
  しい武者」というイメージを想像される方が多いのではない
  でしょうか。しかしながら、小説などで描かれる桐野の姿や
  エピソードには、たくさんの虚説が入り交じっているため、
  彼の持つほんとうの実像とは大きくかけ離れた虚像が一人歩
  きし、彼の評価を歪めている現状になっていると私は感じて
  います。http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/kirino1.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

中村半次郎/桐野利秋.jpg
中村 半次郎/桐野 利秋
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2011年01月20日

●「中村半次郎とはどういう人物か」(EJ第2979号)

 赤松小三郎を暗殺したとされる中村半次郎──彼は「人斬り半
次郎」の異名がありますが、彼がどういう人物だったかについて
少し紹介しておきます。中村半次郎について知ることによって、
彼が少なくとも自分の意思で赤松小三郎を斬ったのではないとい
うことがわかると思うからです。
 中村半次郎については映画ができています。俳優の榎木孝明氏
が企画し、主役を演じた次の映画です。
―――――――――――――――――――――――――――――
      映画『半次郎』/2010年10月公開
 企画・主演/榎木孝明/ビーズインターナショナル
―――――――――――――――――――――――――――――
 中村半次郎は薬丸自顕流の使い手であり、幕末には豪剣として
知られた人です。薩摩の剣としては、次の2つの「ジゲン流」が
あります。
―――――――――――――――――――――――――――――
           1.薬丸自顕流
           2.  示現流
―――――――――――――――――――――――――――――
 今から1000年以上前のことです。朝廷の武官に伴兼行とい
う人がいたのです。伴兼行は薩摩に下り、大隅の豪族肝付氏の祖
先になったのです。肝付家というと、あの家老の小松帯刀は肝付
家の出身です。その肝付氏の分家に薬丸家があり、代々家老を務
めたのです。そして、肝付氏が島津氏に服属するにあたり薬丸家
も島津家の家臣になっています。
 後に剣聖と呼ばれた薬丸兼武の代に示現流と分かれ、薬丸家は
「薬丸自顕流(自顕流)」と称するようになったのです。そして
兼武の長男の兼義のときに剣術師範家として藩から認められ、自
顕流は藩士──とくに下級武士の間で普及していくことになるの
です。こういうわけで、中村半次郎も薬丸自顕流を極めることに
なったのです。
 大河ドラマ『龍馬伝』で、庭先で志士たちが十数本の木を束ね
て台の上に載せたもの(横木)を左右交互に打ち続ける練習風景
が何度も出てきましたが、あれは自顕流の練習なのです。
 通常の剣術というものは、「一対一」の戦いを前提にしていま
す。しかし、自顕流は実際の白兵戦を想定しており、「一対多」
を前提とし、一人でいかにして多くの敵を倒せるかという実践的
な剣術なのです。
 「初太刀を外せ」──新選組局長の近藤勇が、よく隊員たちに
いっていた言葉です。自顕流の剣は一撃必殺の剣であり、振り下
ろす剣は、地の底まで叩き斬るほどの気迫を込めたものであった
からです。
 半次郎と同じ鹿児島生まれの榎木孝明氏は、中村半次郎の魅力
は「ぼっけもん(木強者)」そのものといっています。薩摩では
豪放磊落で快活な気性の人のことをそう呼ぶのだそうです。
 中村半次郎の才能は天性のもので、剣術道場に入門しようとす
ると、道場主はひと目見ただけで「お前には教えるものはない」
といって断ったといいますので、相当の達人だったのです。
 それでいて半次郎は、その才能をひけらかすことは絶対にしな
かったのです。半次郎は上級武士から「生意気だ!」といわれ、
何度も喧嘩を売られたのですが、いつも抵抗はしなかったそうで
す。そういう無駄なことには剣術を使わなかったのです。
 それに中村半次郎はとても優しい人だったといいます。榎木孝
明氏は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 半次郎は、援けを求めてきた相手にはすべて手をさしのべてい
 ます。そしてそれは、たとえ自分の立場を悪くする人物に対し
 ても同じでした。たとえば佐賀の乱で敗れた者たちが頼ってく
 ると、政府から罰せられる危険性があるにもかかわらず、彼ら
 を匿っています。西郷が見咎めると、半次郎は「おいの持病ご
 わす。見過ごしてたもんせ」といって彼らを守り通すのです。
 このようにして命を救った人間が何十人もいたのですが、これ
 はなかなかできないことでしょう。     ──榎木孝明著
 『日本人の美しさを伝えたい・・・薩摩の「ぼっけもん」の魅
       力』/「歴史街道」/2010年10月/PHP
―――――――――――――――――――――――――――――
 また、中村半次郎は非常に礼にかなった行動を取る人であった
のです。半次郎についての有名なエピソードがあります。半次郎
には会津攻めの結果、最後まで徹底的に戦い、刀折れ矢尽きて降
伏した会津藩に政府代表として会津城を受け取りに行っているの
です。そのとき、半次郎の作法は非常に礼にかなったものであり
藩主の松平容保への接し方も礼を尽くし、きわめて温情的であっ
たといわれます。
 そのとき、半次郎は、藩主の松平容保と対面したとき、藩主の
心情を察するあまり儀式が行われている間、男泣きに泣いいてい
たといわれます。松平容保は半次郎の温情的な戦後処理に感激し
秘蔵の刀を半次郎に贈っているのです。
 このような半次郎が、いくら思想が相容れないからといって、
自ら師である赤松小三郎を斬るでしょうか。中村半次郎をよく調
べていくと、そういうことは絶対にしない人物であったことがわ
かってくるのです。
 しかし、主命であったとしたら、どうでしょうか。
 これに背くことは当時の武士ではできないことです。しかし、
中村半次郎は、その命令者についてはいっさい明かしていないの
です。ただ、日記において赤松小三郎殺害の事実を記述している
のみです。その命令者は、おそらく西郷隆盛か大久保利道あたり
であろうと思われます。武力による討幕という大きな目的を果た
すためには、その障害となるものはすべて取り除くというのが当
時の薩摩藩の考え方であったからです。
           ――─  [新視点からの龍馬論/70]


≪画像および関連情報≫
 ●自顕流について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  八相の構えより剣を天に向かって突き上げ、腰を低く落とし
  た、示現流とは異なる「蜻蛉(トンボ)」の姿勢を基本とし
  「横木打ち」を反復して練習する。ちなみに、時代劇などで
  はよく「蜻蛉の構え」と言うが、「構え」とは防御の型を意
  味する言葉なので薬丸自顕流の修業者はこの呼び方を嫌う。
  薬丸自顕流は先制攻撃を重視する流派であり、万一、敵に先
  制攻撃を仕掛けられた場合には、自分が斬られるより先に一
  瞬の差で相手を斬るか、相手の攻撃を自分の攻撃で叩き落と
  すかで対応する。防御のための技は一切無い。
                    ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

映画『半次郎』.jpg
映画『半次郎』
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2011年01月21日

●「龍馬暗殺に薩摩藩が一枚噛んでいる」(EJ第2980号)

 日本人同士の戦争を回避し、大政奉還させて幕府は解体するが
徳川慶喜をはじめ人材はフルに活用して新しい政府を作る──そ
ういう主張をしていた赤松小三郎が暗殺された以上、同様の主張
をしていた龍馬が暗殺されても不思議はないのです。
 グラバーは島津久光と会ったときに大政奉還によって幕府との
戦争が回避されるか、規模の小さいものに留まることに懸念を示
したものと思われます。大量に武器や艦艇を売りたいグラバーと
戦争に備えて大量の武器を抱え込んでいる島津久光の利害は一致
していたのです。「邪魔者は排除する」──これが薩摩藩の考え
方です。そういうわけで、久光が西郷に「龍馬を処分すべし」と
いう指示を出すことは十分あり得るのです。
 それに龍馬がかなり頻繁に永井玄蕃頭に会っていることもグラ
バーや久光は気に入らなかったのです。「幕府に接近しているの
はけしからん」というわけです。
 しかし、久光はともかくとしてグラバーは、龍馬の才能や行動
力を評価し、自分の手足のように使っていたのではなかったので
しょうか。そして共に武力討幕で動いていたはずです。
 これについて加治将一氏は、グラバーが晩年(龍馬の暗殺後)
自分のことについて語ったインタビューの存在を紹介し、その中
で龍馬について次のように述べている事実を指摘しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 グラバーもまた、ある時期から龍馬を煙たく感じていたようで
 ある。商売を教え込み、自分の下で使いたかったが、竜馬はす
 るりと抜けて、天下国家の方へ駆け出していった。
       ──加治将一著『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 要するに、龍馬はスケールが大きいのです。最初は尊敬する人
の下でいろいろなものを吸収しますが、それによって力がつくと
その人の許を離れ、より大きな目標に向かって突き進んでしまう
のです。グラバーはそういう龍馬に不信感を持ったのではないで
しょうか。
 久光が西郷に「龍馬を処分すべし」と命令したとすると、主命
であるので、反対はできないのです。そして、久光の指示をおそ
らく中村半次郎に伝えたと思われます。
 龍馬暗殺については、大久保利通もハラに決めていたのではな
いかと思われます。作家の岡本好古氏は『歴史スペシャル』(世
界文化社)/2010年12月号において、「情の西郷と冷淡な
大久保交錯する両者の想い」という見出しをつけて次のように述
べています。少し長いが引用します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 官軍には、わが藩で造った大砲、小銃、それに坂本どんが外国
 から仕入れてくれた新規の武器弾薬がふんだんにある。吉どん
 日本を260余年間、自縄自縛させた悪魔の旧体制、徳川の藪
 を根絶しょう。進撃と平定は極力速やかに。下手に戦況が長引
 くと列強の狼たちが立ち入って、清国の二の舞になる。大政奉
 還をして将軍が恭順しても、いぜん徳川の軍事力は健在で、恩
 顧の連中がすんなり降伏恭順するとは思えない。恐れるのは、
 幕府がその軍事力を背景に、瀕死の蛇が鎌首をもたげて、こち
 らの算段が狂うことだ。江戸攻略の前に巧みな折衷案を持ち出
 して、この前の公武合体に逆戻りするような成り行きである。
 そうすると倒幕派と生き残りの幕府高官の合同政体にもなりか
 ねない。この際、塵ほども和平や妥協にも応じてはならない。
 だが、そのように取り運びかねない。また、それをやってのけ
 られるずば抜けた俊才が一人いる。倒幕には火の玉になるが、
 極力血を流したがらない御仁だ。わかってくれ。吉どん、御一
 新成就の前の捨石だ。この際・・・     ──岡本好古著
 『歴史スペシャル』/2010年12月号/『反対する西郷を
    無視して大久保は「龍馬暗殺」を指令した』P31より
                       世界文化社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 もし、この西郷・大久保会談があったとした場合、それは慶応
3年(1867年)10月の中頃と思われます。そのとき、西郷
と大久保は一緒に京都にいたからです。大久保は龍馬の人並みは
ずれたスケールの大きさと行動力を警戒しており、龍馬の活躍に
よって、武力討幕が公武合体に逆戻りするのを恐れたのです。
 それでは実際に龍馬を暗殺したのは誰かということになります
が、岡本好古氏は「伊東甲子太郎とその配下8人」であることを
示唆しています。
 伊東甲子太郎とは何者でしょうか。
 伊東甲子太郎は北辰一刀流の達人であり、元治元年(1864
年)8月末頃、人を介して新選組の近藤勇と会い、新選組に入会
するのです。伊東はかなり激しい尊王攘夷派なのですが、幕府を
守る佐幕の新選組になぜ入ったのかについては諸説があります。
 伊東甲子太郎は新選組に入隊するとすぐ、近藤、土方に次ぐナ
ンバー3の「参謀」の地位を与えられますが、彼は文武両道に優
れ、隊士の人気を集めたといいます。しかし、ことごとく近藤・
土方と対立し、慶応2年9月26日に伊東に心酔する14名の隊
員と一緒に新選組から分離してしまうのです。
 そして伊東たちは、薩長に庇護された「高台寺党」を結成して
活動を続けるのです。それに伊東の本心としては時代の趨勢から
薩摩に身を預けたかったようです。
 ここに薩摩との接点が出てくるのです。伊東の本心を見抜いた
大久保利通は、伊東の「高台寺党」を使い、龍馬暗殺を命じたの
ではないかといわれているのです。これは「高台寺党犯行説」と
いわれますが、決定的な証拠はないのです。しかし、薩摩の影は
濃くなっています。
 この高台寺党については、もう少し詳しく知る必要があるので
来週に取り上げる予定です。
           ――─  [新視点からの龍馬論/71]


≪画像および関連情報≫
 ●伊東甲子太郎とは何者か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  常陸志筑藩士(郷目付)・鈴木専右衛門忠明の長男として生
  まれる。家老との諍いにより父忠明が隠居した後、伊東が家
  督を相続したものの、後に忠明の借財が明らかになったこと
  から追放される。伊東は水戸へ遊学し、水戸藩士・金子健四
  郎に剣(神道無念流剣術)を学び、また、水戸学を学んで勤
  王思想に傾倒する。追放後の忠明は東大橋(現:石岡市)に
  て村塾(俊塾)を主宰し、遊学を終えて帰郷した伊東も教授
  に当たった。のちに深川佐賀町の北辰一刀流剣術伊東道場に
  入門するが、道場主伊東精一に力量を認められて婿養子とな
  り、伊東大蔵と称した。       ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

伊東甲子太郎.jpg
伊東 甲子太郎
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2011年01月24日

●「龍馬と中岡/なぜ2人とも殺されたか」(EJ第2981号)

 いよいよ「新視点からの龍馬伝」の最後の段階──龍馬暗殺の
謎に部分について書きます。
 「龍馬暗殺」の指示は誰が出したのでしょうか。もし、それが
上層部、島津久光あたりから出ていると、その実行は動かし難い
ものになります。主命であるからです。
 グラバー→久光→西郷のルートで命令が来て、西郷はそれを中
村半次郎に指示──こういう情報があるのです。中村はそのこと
を土佐藩と何らかのかたちで相談したといわれます。
 ここで考えなければならないのは、暗殺指示は龍馬だけなのか
中岡慎太郎を含めてかということです。奇しくも龍馬は土佐藩の
海援隊、中岡は陸援隊のそれぞれ隊長であるからです。この2人
が暗殺されたのです。その時点では龍馬も中岡も脱藩を許されて
おり、2人とも土佐藩の正規の藩士なのです。
 しかし、土佐藩はこの2人の暗殺に対してほとんど動きを見せ
ていないのです。そのため、両者の暗殺に土佐藩自体が一枚噛ん
でいるのではないかと疑われても不思議はないのです。この土佐
藩の不思議な沈黙は何を意味しているのでしょうか。
 実は龍馬と中岡の暗殺については、次の3つの可能性が考えら
れるのです。
 第1は、襲撃犯は最初から2人を暗殺するつもりで両者のいる
ところを襲撃したというものです。第2は襲撃犯は龍馬だけを暗
殺するつもりでいたのですが、中岡も一緒にいたので、両者を暗
殺したというものです。第3は、実は中岡が仲間と一緒に龍馬を
暗殺しようとして重傷を負い、死亡したというものです。
 この3つの可能性は、そのそれぞれに矛盾点があり、どちらと
もいえないのです。
 第1の可能性ですが、中岡と龍馬が一緒にいるところを襲うと
いうのは、襲撃する側から考えると、偶然性が強く、成功する可
能性が低いのです。そういう状況ができることを予測するのが困
難であるからです。
 龍馬の襲撃犯は少なくとも6〜7人いたと思われます。この場
合、相手のいる場所がわかっており、いつ実行するかを計画して
臨む必要があります。
 襲撃犯は龍馬が近江屋にいることはわかっており、見張ってい
たと考えられます。そこに中岡がやってくたのです。時間は午後
3時過ぎのことです。2人が近江屋にいる状況が整ったので、急
遽夜に襲撃することにしたと考えられます。しかし、2人は共に
剣術の達人であり、2人とも確実に殺るには襲撃犯はそれを上回
る剣術の達人でなければならないことになります。
 第1の可能性はこういう状況で行われたと思われます。しかし
襲撃犯にもリスクが大きく、失敗する可能性も高く、その場合は
目の前の土佐藩からも応援に駆けつけることが考えられ、確実な
暗殺計画とはいえないと思われます。
 第2の可能性は、あくまで龍馬一人を暗殺する場合です。そう
いう状況は一定期間、龍馬を見張っていれば必ず訪れます。しか
し、そこに偶然中岡がやってきたとします。一般的にこういう場
合は、暗殺の実行を先送りするのが普通です。1人よりも2人の
方がはるかに成功率が低くなるからです。しかし、襲撃犯はあえ
て近江屋に踏み込んでいます。
 第3の可能性は、襲撃犯が中岡慎太郎とその仲間である場合で
す。海援隊と陸援隊の違いは後述しますが、そのときはあまりう
まくいっていなかったことは確かです。このように動機がぜんぜ
んないわけではないのです。
 しかし、龍馬が殺されたのは午後8時を回ってからです。中岡
は5時間もいて、そのうえで龍馬を暗殺するということは普通は
考えられないことです。それに中岡が龍馬を暗殺する方法として
は近江屋を襲うのはもっともリスクの高い方法であり、他にいく
らでも方法があったはずです。しかがって、第3の可能性は限り
なく少ないと思います。
 海援隊と陸援隊の違いについて述べましょう。陸援隊は海援隊
発足後3ヵ月後に結成されています。慶応3年(1867年)の
ことです。海援隊と陸援隊の目的は次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  ◎海援隊/隊長:坂本龍馬
   ・大政奉還による無血クーデターを目的としている
  ◎陸援隊/隊長:中岡慎太郎
   ・討幕の軍事クーデターのを目的として結成される
―――――――――――――――――――――――――――――
 よく海援隊は「海軍」と表記されますが、海軍というよりも貿
易商社がその本質です。しかし、陸援隊は「陸軍」の性格が強い
といえます。実際に薩摩藩から洋式軍学者・鈴木武五郎を招き、
洋式調練を受けるなど、いざというときは自在に動き、敵を破る
べく、実践向けの訓練を行っていたのです。
 といっても、もちろん土佐藩の正式な軍隊ではないのです。あ
くまで討幕戦争が起こったときにゲリラ的軍事行動を起こし、軍
隊を支援するのが役割です。このように考えると、海援隊と陸援
隊は目的がまったく異なるのです。
 このように土佐藩は一枚岩ではなかったのです。後藤象二郎や
龍馬の推進する大政奉還による平和解決派とあくまで武力討幕を
目的として行動する中岡慎太郎と板垣退助の一派──しかし、薩
摩藩はこれをうまく一体化し、一時的ではあったのですが、薩土
盟約を締結したのです。
 それなら、龍馬は一体誰に殺されたのでしょうか。これには多
くの謎がありますが、EJスタイルでその本質に迫ってみたいと
思います。
 龍馬の暗殺のバックには間違いなく薩摩藩がいます。しかし、
土佐藩も一枚噛んでいると思われます。しかし、その犯人がわか
らないよういろいろな工作を施しているのです。そのため、わか
りにくくなっています。――─  [新視点からの龍馬論/72]


≪画像および関連情報≫
 ●陸援隊/中岡慎太郎/ブログ『読書日記』より
  ―――――――――――――――――――――――――――
  幕末維新のヒーローといえば、海援隊を率いた坂本竜馬が有
  名だが、その対極にあるのが同じ土佐出身で陸援隊を率いた
  中岡慎太郎である。小説の主人公としては坂本竜馬の方が大
  衆受けがしやすく、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』によって薩
  長同盟の立役者は竜馬と思いこんでしまうが、あくまでもそ
  れは小説の中でのこと。実際は、筑前太宰府に西下した三条
  実美公に従った土方楠左衛門や中岡慎太郎の尽力が大きいが
  薩長和解のシナリオを考えていた筑前の月形洗蔵などは斬殺
  されたために影が薄くなっている。
        http://uraji.paslog.jp/article/1188445.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

中岡慎太郎像.jpg
中岡 慎太郎像
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2011年01月25日

●「龍馬は土佐藩邸に入れなかったのか」(EJ第2982号)

 龍馬暗殺のバックには薩摩藩がいることはほぼ間違いないこと
ですが、問題は土佐藩と龍馬の関係です。そこで暗殺直前の龍馬
の行動を追ってみることにします。
 慶応3年(1867年)10月10日、龍馬は、中島作太郎と
一緒に大阪より京都に出てきています。中島作太郎は、亀山社中
以来龍馬と行動を共にしている若手であり、温厚にして学問がよ
くできて実務がこなせるので、しばしば龍馬の代理を務めること
が多かったのです。
 そのとき、龍馬が宿をとったのは、河原町三条下ルの「酢屋」
だったのです。酢屋は土佐藩吏官舎が近くにあり、多くの土佐藩
の知り合いが住んでおり、土佐京都藩邸にも近かったので、龍馬
はよく利用していたのです。
 しかし、龍馬は中島と別れ、10月13日に酢屋から近江屋に
宿を変更しているのです。近江屋は、河原町通り蛸薬師下ルにあ
り、目の前に土佐藩邸があるのです。ここから土佐藩邸までは約
5メートルほどしかなく、何かがあればすぐに駈けつけることが
できる距離にあります。
 酢屋から近江屋へ──龍馬のこの宿舎変更は何を意味している
のでしょうか。
 宿舎の変更は、龍馬自身が表面上の磊落さとは裏腹に内心相当
の危機感を当時抱いていたために行われたと考えられるのです。
しかし、京都に入った龍馬に対し、薩摩藩の吉井幸輔は、薩摩藩
邸に入れと勧めたのですが、龍馬はこれを断っています。それは
既に薩摩藩は武力討幕に完全に傾いており、龍馬とは意見が対立
していたからです。
 一方、龍馬は寺田屋の女将のお登勢からも京都は危険なので、
土佐藩邸に入ることを勧める手紙を受け取っています。お登勢は
宿泊客の会話から龍馬が狙われていることを聞き、知らせたので
す。これに対し、龍馬は永井玄蕃頭から身の安全については保証
されているから安心せよとお登勢に返事をしています。
 しかし、龍馬の本心は土佐藩邸に入りたかったのではないかと
思われるのです。龍馬の暗殺について書かれた本を読むと、龍馬
は土佐藩邸の堅苦しさを嫌っており、後藤象二郎も龍馬に対し、
危険だから土佐藩邸に入れと勧めていたにもかかわらず、龍馬は
それを断ったとあります。
 しかし、実際には、土佐藩邸に入れてもらえなかったのではな
いかと思われるのです。このとき龍馬は海援隊の隊長を務め、脱
藩も許されていて、正規の土佐藩士であったので土佐藩邸に入る
資格はあるにもかかわらず、何らかの事情で入れてもらえなかっ
たのではないかと推測されるのです。
 そのため龍馬は、土佐藩邸の目の前にある近江屋に宿をとった
のではないかと思われるのです。近江屋であれば大声を上げるだ
けで藩邸から応援が呼べると考えたのでしょう。
 確かにその時点で龍馬は、新選組や見廻組に対しては警戒心を
解いていたと思われます。史料はないものの、龍馬は永井玄蕃頭
だけでなく、永井の紹介で会津肥後守(松平容保)にも会ったと
いわれており、徳川慶喜の指示で身の安全が保証されていること
を聞いていたからです。
 しかし、龍馬がそういう幕府方の重鎮にたびたび会っているこ
とを快く思わない勢力があったのです。それは、英国公使パーク
スとその書記官のアーネスト・サトウ、それと一体になって動い
ている薩摩藩の首脳たちです。
 龍馬の理解では、パークス英国公使は本国英国の指示もあり、
できるだけ国内戦争は控える方針であることを確信していたので
す。薩英戦争のさい、当時のニール代理大使とキューパー提督が
下関を砲撃して大火災を起こしたことによって解任されているこ
とを知っていたからです。したがって、最悪の場合、国内戦争に
発展する事態になれば、パークス公使はそれを止める働きをする
はずだと考えたのです。
 しかし、パークスは実にしたたかな外交官であり、龍馬はそれ
を読み誤ったのではないかと思われます。パークスは、表面的に
は平和路線を取りながら、裏側ではサトウに、武力討幕路線の薩
長──この時点で動けたのは薩摩藩のみ──と組んで討幕を推進
させていたのです。つまり、サトウはパークス公使の指示によっ
て英国の別働隊として行動していたのです。
 そういうサトウからみると、幕府の重鎮に頻繁に会う龍馬の行
動は討幕路線を阻む抵抗勢力にみえたのです。そこでその排除に
乗り出したとしても不思議はないのです。
 しかし、サトウが薩摩藩と組んで龍馬排除をやると、土佐藩が
離反し、討幕体制が弱体化することになります。そのため、何ら
かのかたちで土佐藩にも手を打ったと考えられるのです。土佐藩
も相手が英国であるため、それを受け入れざるを得なかったもの
と思われます。
 しかし、土佐藩はもともと討幕には反対の立場であり、その平
和路線で行動している龍馬を暗殺するのは忍びなかったと思われ
ます。そのため、消極的な対応をとったのです。消極的な対応と
は、次の2つのことを意味しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.龍馬とは意見の異なる中岡慎太郎を実行犯として使う
 2.薩摩藩がコントロールできる暗殺グループを活用する
―――――――――――――――――――――――――――――
 前回も述べたように、土佐藩は海援隊と陸援隊の2人の隊長が
暗殺されたのに目立った動きをしていないのです。これは龍馬が
暗殺されることを土佐藩は事前に知っていた証拠であると思われ
るのです。
 しかし、そういうことが明らかになると、土佐藩としては大き
なダメ―ジを受けることになります。そのため、龍馬暗殺の犯人
が特定されないよう、さまざまな工作をしてその真相を覆い隠し
てしまったのです。  ――─  [新視点からの龍馬論/73]


≪画像および関連情報≫
 ●幕末の京都/「近江屋」跡
  ―――――――――――――――――――――――――――
  京都の繁華街のど真中、四条河原町。今は旅行社になってい
  るのですが、ここが龍馬と中岡慎太郎が刺客に暗殺された醤
  油商「近江屋」があったところ。前出の「酢屋」が危険とい
  うことで海援隊の長岡健吉の薦めでここに移ったのである。
  1867年11月13日、新選組を脱退した伊東甲子太郎が
  訪ねてきて「新選組や見廻組が狙っている。龍馬と慎太郎は
  速やかに土佐藩邸に移れ」忠告したが移らなかった。14日
  には寺田屋のお登勢が同じく危険と言う情報を持って訪問し
  た。そして、15日午後9時頃に刺客に襲われることになっ
  たのである。この時中岡慎太郎も一緒にいたのである。
  http://web1.kcn.jp/sendo/jinbutsu/sakamotoryouma/shiryou/shiryou1.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

近江屋と土佐藩邸の位置関係.jpg
近江屋と土佐藩邸の位置関係
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2011年01月26日

●「龍馬暗殺を知っていた福岡孝弟」(EJ第2983号)

 土佐藩の人間が龍馬を暗殺する──そんなことはあり得ないと
いう人は多いでしょう。NHKの大河ドラマ『龍馬伝』を観た人
はとくにそういうでしょう。
 大河ドラマでは、土佐藩の事実上の藩主である山内容堂が龍馬
に説得され、大政奉還の建白書を書くという筋書きになっていま
すが、事実と異なります。容堂は龍馬に会っていないし、龍馬な
ど眼中になかったはずです。大政奉還のアイデアは後藤象二郎に
よるものと最初から信じて疑っていないのです。
 なぜかというと、龍馬が下士のその下の郷士という身分であっ
たからです。容堂から見ると、人間以下の存在なのです。まして
郷士などは虫けらの類いなのです。容堂が人間を見る基準を士分
以上と考えていたからです。
 そういう容堂に薩摩藩筋から「最近の龍馬の動きは度を過ぎて
いる。龍馬は処分すべきだ」という相談があったとすると、躊躇
なく後藤象二郎に対し「龍馬を殺れ!」という命令を出したと思
うのです。後藤としてはこの命令に困惑したと思いますが、主命
であって拒否は絶対にできないのです。
 薩摩藩にしても土佐藩にしても、大政奉還前後に気になってい
たのは、龍馬の驚くべき説得力なのです。龍馬によって両藩の武
力討幕派が次々と説得されつつあったからです。
 龍馬はどのような人に対しても会う価値があると考えると、積
極的に会おうとし、新しい日本のあり方を説いて同意を求めるの
ですが、龍馬の話に心を動かされる人が増えてきたのです。これ
は武力討幕派である薩摩藩にとっては深刻な事態といえます。
 土佐藩が龍馬暗殺に加担したことを示唆するある人物の行動が
あります。福岡孝弟(たかちか)がその人です。福岡は土佐藩士
で、実家の禄高は180石であり、上士の中では中くらいに位置
していました。いいとこの御曹司です。福岡は次男でしたが、兄
が病弱のため、家督を継いだのです。
 安政2年(1855年)4月、吉田東洋が長浜で少林塾を開く
と孝弟は入門し、東洋から学問を学ぶことになります。このとき
この吉田東洋の私塾には神山左多衛や松岡七助、そして後藤象二
郎らが学んでいたのです。
 福岡孝弟が龍馬と親交を深めるのは、薩長同盟成立以後のこと
です。福岡は慶応3年3月、長崎へ出張したときに龍馬と会談し
龍馬の考え方や人となりを知るのです。その結果、龍馬や中岡慎
太郎は土佐藩に必要な人材と判断して、後藤象二郎と独断で2人
の脱藩の罪を赦免するのです。
 龍馬はそういう福岡孝弟を非常に頼りにしていたのです。龍馬
の暗殺日当日のことです。午後に龍馬は福岡の宿舎を訪ねている
のです。そのとき福岡の宿舎は大和屋といって、近江屋の三軒隣
りにあったのです。
 しかし、福岡孝弟は土佐藩の重役であり、藩が用意した邸宅を
持っていたのです。大和屋というのは、芸者のいる料亭のような
ところだったようです。どうしてそのようなところに福岡は住ん
でいたのでしょうか。
 龍馬が大和屋を訪ねたとき、福岡は留守だったのです。これに
ついては、居留守であったという説があるのです。留守番をして
いたおかよ(後に福岡の妻になる)が応対しています。
 ところが、それからしばらくして龍馬はもう一度大和屋を訪ね
ているのです。しかし、そのときも福岡は帰宅していなかったの
です。最初に居留守を使っていればいないのは当然のことです。
よほど家にきてもらいたかったのでしょう。そのとき、おかよに
対して次のように誘っているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    福岡は帰りが遅くなるから、うちに来なさい
     ──磯田道史著『龍馬史』/文藝春秋社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 福岡は龍馬と仲がよかったのです。お互いに家を訪ね、酒を飲
みながら、いろいろなことを話し合っています。それなのに福岡
はなぜ龍馬の誘いに乗らなかったのでしょうか。
 福岡はおそらく龍馬がいずれ殺されることを知っていたのでは
ないかと思われます。ちょうどその日に暗殺が実行されることは
知らなかったと思いますが、近いうちに暗殺が実行されることは
わかっていたのです。そのため、危険なので、うっかり龍馬の誘
いに乗れなかったのでしょう。
 もうひとつ不思議なことがあるのです。福岡は龍馬の葬式に出
なかったのです。これについては龍馬と親交のあった土佐藩の友
人たちは、福岡のことを強く批判しています。
 龍馬暗殺に土佐藩はどのようにかかわったのでしょうか。
 龍馬暗殺に直接にかかわったのは、新選組と見廻組であるとい
うのが通説です。しかし、もし新選組と見廻組が犯人であるなら
なぜ犯行声明をしないのかということです。
 当時の新選組は警察で、見廻組は検察に該当します。建前では
彼らは幕府を守るために龍馬を狙っているのではなく、龍馬が犯
罪を犯しているので、追っているのです。龍馬は寺田屋事件のさ
い、ピストルで幕府方の役人を何人か殺傷しており、指名手配犯
人なのです。逮捕するのは当然であるし、当時のことですから、
龍馬を殺害したとしてもそれは公務なのです。
 したがって、新選組と見廻組がそれをやり遂げたのであれば、
堂々と犯行声明をするはずですが、それをしていない──これは
新選組と見廻組の犯行ではないということを示唆しています。そ
れに加えて、徳川慶喜は「龍馬を捕えてはならない」という指示
まで出しているのです。
 推理ドラマにおける犯人は、最も怪しくない人が犯人であるこ
とが多いですが、龍馬暗殺の場合もそれはいえると思います。こ
こまでEJでは、背後に英国と薩摩藩がいて、それにプラス土佐
藩と実行犯がいるというところまで、推理してきています。
           ――─  [新視点からの龍馬論/74]


≪画像および関連情報≫
 ●福岡孝弟とは何者か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  天保6年(1835年)、土佐藩士・福岡孝順の次男として
  生まれる。安政元年(1854年)、吉田東洋の門下生とし
  て後藤象二郎や板垣退助らと共に師事しその薫陶をうけた。
  安政5年(1858年)、吉田の藩政復帰に伴なって大監察
  に登用され、後藤らと若手革新グループ「新おこぜ組」を結
  成して藩政改革に取り組む。     ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●写真出典/ウィキペディア

福岡孝弟.jpg
福岡 孝弟
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2011年01月27日

●「中岡慎太郎犯人説の信憑性」(EJ第2984号)

 EJ第2981号で龍馬と中岡の暗殺について、3つの可能性
を上げましたが、その中で最も可能性が低いと思われる仮説は、
おそらく「中岡慎太郎が仲間と一緒に龍馬を暗殺しようとして重
傷を負い、2人とも死亡した」という第3の可能性ではないかと
思います。
 この説を取るのは、『あやつられた龍馬』(祥伝社刊)の著者
加治将一氏です。龍馬が暗殺の3日前に陸奥宗光に宛てた謎の手
紙を分析し、そこからこの結論に至る壮大な推理はなかなか読み
ごたえがあります。
 詳細は同書を参照していただくとして、加治氏の記述に沿って
第3の可能性に至る推理を辿ってみることにします。犯行が行わ
れた慶応3年11月15日の夜は、非常に冷え込み、かなり雨が
降っていたのです。
 まず、考えてみるべきは、暗殺事件直後に現場に駆け付けた人
物です。加治将一氏によると、次の7人です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 事件直後、現場に駆けつけたと言われているのは、谷干城(土
 佐藩)、毛利恭助(土佐藩)、田中光顕(土佐藩、陸援隊)、
 白峰駿馬(海援隊)、川村盈進(土佐藩医)、そして吉井幸輔
 (薩摩藩)。他には龍馬の使いから戻ったという本屋の倅、峯
 吉がいた。                ──加治将一著
             『あやつられた龍馬』(祥伝社刊)
―――――――――――――――――――――――――――――
 亡くなったのは、坂本龍馬、中岡慎太郎、龍馬のボディーガー
ドをしていた藤吉の3人です。土佐藩の人間が多いのは目の前が
土佐藩邸なので不思議はないといえます。
 しかし、一人だけ薩摩藩の吉井幸輔がいます。なぜ、薩摩藩の
吉井幸輔が現場に現れたのでしょうか。これには2つの説がある
のです。1つは、本屋の倅、峯吉が事件を陸援隊に知らせに走り
田中光顕が現場に駆け付ける途中で薩摩藩邸に寄って、吉井幸輔
に知らせたという説です。もう1つは、そのとき土佐藩邸にいた
田中光顕が事件を知らされ、自ら薩摩藩邸まで行き、吉井幸輔に
知らせたという説です。
 この本屋「菊屋」の倅の峯吉は、龍馬の暗殺にからんで重要な
役割をしているのです。15日の午後3時頃中岡慎太郎がかつて
下宿していた菊屋を訪れ、峯吉に同志への手紙を託し、返事を近
江屋に届けて欲しいと依頼しています。
 午後7時頃に峯吉は近江屋に訪れ、手紙の返書を中岡に渡して
います。その後峯吉は龍馬に軍鶏を買ってくるよう頼まれ、「鳥
新」に行くのですが、軍鶏をつぶすまで約30分待たされ、近江
屋に戻ったところ既に暗殺事件は終っていたというのです。
 そこで、峯吉は事件を知らせに陸援隊本部まで走ったと供述し
ているのです。しかし、目の前の薩摩藩邸でもなく、5分ほど離
れた場所にある海援隊詰所でもなく、約1時間もかかる陸援隊ま
で冷たい雨のなか、走ったというのです。しかし、この峯吉の供
述は疑わしいのです。そうであるとすると、陸援隊の田中光顕が
吉井幸輔に知らせたという話もウソということになります。
 それなら、吉井幸輔はどうして事件を知ったのでしょうか。吉
井幸輔といえば、龍馬が京都に入ったとき、危ないので薩摩藩邸
に入れと龍馬に提案し、断られています。吉井幸輔は、薩長同盟
を結んだあと、寺田屋で伏見奉行所の捕り手に取り囲まれ、負傷
した龍馬を、薩摩藩邸に避難させて介抱し、助けた一人です。
 しかし、加治将一氏は、吉井幸輔をアーネスト・サトウの配下
のエージェントであるとしています。そうなると、この吉井幸輔
も龍馬暗殺に一役買っているということになります。
 さて、龍馬暗殺が行われたあと駆けつけたとされる吉井以外の
土佐藩の5人は、瀕死の重傷を負いながらも生きていた中岡慎太
郎から暗殺犯に関する情報を聞き出したとされているのです。そ
れでいながら、それら一人ひとりの供述を聞きとると、どのよう
な人物が何人で近江屋を襲撃したのか──そういうディテールが
さっばりと見えてこないのです。何人かがウソをついて事実を隠
していることは明らかです。
 加治将一氏はここで実に大胆な推論を展開しています。一見突
飛なようですが、全414ページに及ぶ加治氏の本を読むと、そ
の推論が強い説得力を持って迫ってきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 当夜、集まったという連中は、事件後に駆けつけたのではなく
 事件の前から現場にいたのである。怪しまれるから、峯吉を持
 ってきただけの話だ。推測すれば目的を持って近江屋に乗り込
 んだのは中岡慎太郎、谷干城(土佐藩)、毛利恭介(土佐藩)
 田中光顕(土佐藩、陸援隊)、白峰駿馬(海援隊)。斬りつけ
 たのは中岡だった。物事に動じない胆の据わった中岡だったが
 さすがに龍馬の心がしみていた。真正直で柔和。しかしこの時
 龍馬にあったのは頑とした厳しさである。てこでも譲らない。
 無念だった。しかし、陸援隊隊長としてけじめをつけなければ
 ならない。武士としての魂が中岡を突き動かしたが、刹那、一
 瞬の迷いが生じた。その時だった、龍馬がとっさに応戦。中岡
 は傷を負って倒れるが、他の者が龍馬を斬り捨てた。田中が近
 江屋から薩摩藩邸に走った。結果を待つ吉井幸輔に、テロ完了
 を知らせに行ったのだ。「無事終わった」  ──加治将一著
             『あやつられた龍馬』(祥伝社刊)
―――――――――――――――――――――――――――――
 驚くべき推論であると思います。龍馬に斬りかかったのは、な
んと中岡慎太郎であり、事件後駆けつけたとされる中川をのぞく
6人は最初から襲撃犯として現場にいたというのです。
 もし、陸援隊の隊長が惨殺され、その知らせが陸援隊本部に届
いたのであれば、総勢300人を超える陸援隊の隊員が駆けつけ
たと思われ、現場は騒然としたと思われるのですが、現場は静か
だったのです。    ――─  [新視点からの龍馬論/75]


≪画像および関連情報≫
 ●アーネスト・メーソン・サトウについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  アーネスト・メーソン・サトウは、ミドルネームのメーソン
  が表しているように、正真正銘の石工の家系です。彼はイギ
  リスの外交官で、駐日領総事ラザフォード・オールコックや
  駐日公使ハリー・パークスの下で活躍し、明治維新に大きな
  貢献をした人物です。それは、22歳のサトウが「ジャパン
  タイムズ」に書いた「English Policy(英国策論)」に「徳
  川幕府を倒し、天皇と大名連合体が日本を支配しなければな
  らない」とあり、徳川が約束した兵庫開港の期日が遅れるよ
  うなことがあれば「イギリス政府は強制と流血に訴えると」
  したもので、この期日が2年後の1868年元旦であり、明
  治維新の年でした。この「英国策論」の翻訳が出回り、徳川
  についていた大名たちは浮き足立ち、維新勢力は勢いづき、
  明治維新という革命は成し遂げられ、1868年に明治新政
  府が発足しています
    http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/629.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

近江屋のシーン.jpg
近江屋のシーン
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2011年01月28日

●「龍馬不逮捕の保証は本当にあったのか」(EJ第2985号)

 前号でご紹介した中岡慎太郎犯人説──大胆な推理ではありま
すが、両者が倒れていた状況を考えると無理があると思います。
それに殺そうと思っている相手を前にして5時間も会話をすると
いうのも不自然です。
 龍馬が暗殺された慶応3年(1867年)11月15日の翌日
のことですが、越前藩の前藩主・松平春嶽は国元への書簡の中で
次の事実を伝えています。松平春嶽は龍馬の能力を買っており、
龍馬と連絡を取り合っていたので、相当の情報を握っていたと思
われます。
―――――――――――――――――――――――――――――
      龍馬を殺害したのは芋侍の仕業である
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで「芋侍」とは薩摩藩士を指しています。それほど薩摩藩
は疑われていたのですが、それに土佐藩も一枚噛んでいたのは間
違いないと思われます。
 龍馬がたびたび松平春嶽のもとを訪れていたのは、春嶽の側近
には優秀な人物が多くいたからです。慶応3年10月の終わりに
も龍馬は福井に行っています。後藤象二郎に頼まれて山内容堂の
書簡を松平春嶽へ渡すためです。そのとき、龍馬は春嶽の側近の
一人である三岡八郎(のちの由利公正)に会っています。
 龍馬は、慶喜が大政奉還で投げ出した政権を何とかスムーズに
新政府が引き継いで軌道に乗せることについて、誰よりも先んじ
て考えていたのです。
 そのひとつに「通貨発行権」の問題があります。大政奉還をし
たとはいえ、徳川慶喜は通貨発行権を保有していたのです。お金
を作れる権利ですから、これを使えば軍隊を強化し、幕府が息を
吹き返しかねないと龍馬は考えたのです。
 三岡三郎は通貨政策について誰よりも詳しく、現代風にいえば
「ミスター両」と呼ばれる存在だったのです。そのため三岡に教
わりに行ったのです。三岡は龍馬に対し、新政府にとって大切な
ことは、国民の人気を集めることであり、そのために新政府は、
通貨を発行して、経済をしっかりさせることであって、軍備はそ
の後のことであると説いたのです。
 こういう先を見て行動する龍馬に松平春嶽のように高く評価す
る人物もいる一方で、下級武士のくせに出過ぎた奴だと非難する
向きも多くあったのです。
 それにしても、暗殺される前の10日間ほどの龍馬の行動はあ
まりにも大胆過ぎるのです。それは徳川慶喜から出されていると
いう龍馬不逮捕命令を永井玄蕃頭から聞いていたからなのでしょ
うか。本当に龍馬不逮捕命令などあったのでしょうか。
 それには永井尚志(玄蕃頭)という人物に迫ってみる必要があ
ります。永井尚志は、龍馬に会ったときの印象を次のように述べ
ています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 (坂本龍馬は)象二郎(後藤)とはまた一層高大にて、説も面
 白くこれあり。               ──菊地明著
             『坂本龍馬』より/PHP研究所刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで重要なことは、龍馬は寺田屋で幕府方の人間を何人か殺
傷しており、いわば「お尋ね者」なのです。そのお尋ね者が幕府
方の重臣である永井尚志のもとにたびたび訪ねており、永井の方
も龍馬に会っているのです。
 これをもってしても少なくとも永井は龍馬をもはやお尋ね者と
見ていないし、龍馬としてはその件は許されていると考えても不
思議はないといえます。それどころではないのです。京都守護職
をしていた会津藩主・松平容保にも龍馬は永井同席のもとに会っ
ているといわれています。
 これについては、史料としては『伏見寺田屋の覚書』の中に記
述があるそうですが、2006年11月1日夜に放映されたNH
Kの番組『その時、歴史が動いた』の「歴史の選択」で、会津藩
主の松平容保が永井尚志と共に龍馬に会ったことがあるというこ
とを伝えているので、本当のことなのでしょう。
 龍馬は楽天的な性格であり、人のいうことをすぐ信じてしまう
傾向があります。とくに自分の意見を聞いてくれる人には感謝し
心を開いてしまうところがあります。実際に永井は熱心に龍馬の
意見を聞き、質問にも率直に答えています。龍馬は永井について
次のようにいっているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
        あの玄蕃頭はヒタ同心にて候
                       ──菊地明著
             『坂本龍馬』より/PHP研究所刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで「ヒタ」とは「ぴったり」という意味であり、お互いの
意見が通じていたことをあらわしています。しかし、永井自身は
そうであっても、永井の部下やその周辺にいる見廻組の幹部たち
はどう思っていたかはわからないのです。
 ちなみにそのときの永井尚志の宿舎は、二条城から200メー
トル北の日暮通り下立売下ル(現在の上京区)にあった元大和郡
山藩邸であり、このあたりは京都見廻組の警備区域になっていた
のです。そんな危険地域に龍馬は毎日のように永井を訪ねている
のです。福岡孝弟と一緒に行って会ったこともあります。
 龍馬はもともと楽天的な性格ですが、そういう危険なところに
行ってもちゃんと永井に会えるので、少し油断してしまったとい
うところもあると思うのです。
 もっとも永井も、この龍馬の頻繁な訪問には少し困ったとみえ
て、人目につきやすい昼間に来るのではなく、来るなら夜分にし
てくれと注文を出しているのです。永井としても痛くないハラは
探られたくなかったのでしょう。
           ――─  [新視点からの龍馬論/76]


≪画像および関連情報≫
 ●永井尚志(玄蕃頭)とは何者か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  文化13年(1816年)11月3日、三河奥殿藩の第5代
  藩主・松平乗尹とその側室の間に生まれた。父の乗尹の晩年
  に生まれた息子で、すでに家督は養子に譲っていたことから
  藩主にはなれなかった。このため25歳の頃、旗本の永井尚
  徳の養子となった。嘉永6年(1853年)、目付として幕
  府から登用される。安政元年(1854年)には長崎海軍伝
  習所総監理(所長)として長崎に赴き、長崎製鉄所の創設に
  着手するなど活躍。         ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●写真出典/ウィキペディア

永井玄蕃頭.jpg
永井玄蕃頭
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2011年01月31日

●「龍馬襲撃犯人は本当に見廻組なのか」(EJ第2986号)

 永井玄蕃頭の宿舎である大和郡山藩邸の道路を挟んだ目の前に
松林寺というお寺があります。現在は石段しか残っていませんが
そこは、見廻組組頭・佐々木只三郎の宿舎だったのです。
 坂本龍馬は、永井尚志のところに頻繁に訪ねているのですが、
彼はほとんど警戒していないので、その姿を当然佐々木らに見ら
れていた可能性は十分あります。
 龍馬が大政奉還後の政局について、永井の意見を求めていたの
は確かですが、もうひとつ交渉事があったのです。それは、宮川
助五郎という土佐藩上士の男の釈放問題です。
 このとき宮川助五郎は、大政奉還後に三条大橋に建てられてい
た幕府の高札を引き抜いて川に捨てたとして、見廻組に身柄を拘
束されていたのです。これに対して京都守護職より土佐藩邸に対
して事情の問い合わせがきていたのです。
 この問い合わせについて土佐藩の重役大目付福岡孝弟、留守居
役中村禎助は、後々の面倒を恐れて宮川を脱藩者扱いにして、そ
のような者は知らぬ存ぜぬと逃げ切りを図ったのです。
 この事実を掴んだ中岡慎太郎はその件を龍馬に相談したところ
龍馬は永井と交渉し、穏便に済ませるよう取り計らったのです。
しかし、かたちの上では正式に土佐藩が対応する必要があるので
龍馬は嫌がる福岡孝弟と同道して永井に会いに行き、宮川釈放の
約束を取り付けたのです。
 龍馬と中岡が暗殺された当日、中岡が龍馬のいる近江屋に行っ
たのは、宮川の釈放についての相談であったと思われるのです。
そのため、龍馬は何回も福岡孝弟を誘いに行ったのです。宮川の
釈放後のことについて3人で相談したかったからです。しかし、
福岡は居留守を使って会おうとしなかったのです。
 このことが事実であるとすると、福岡孝弟は問題のある人物と
いうことになります。なぜなら、龍馬と中岡暗殺後、福岡はすぐ
近くにいながら近江屋に駈けつけるわけでもなく、葬儀にも出席
せず、土佐藩の仲間たちからもその冷淡な態度について非難を浴
びたからです。ちなみに龍馬と中岡が暗殺された翌日、宮川助五
郎の身柄は約束通り釈放されているのです。
 さて、こういう状況下において永井は佐々木に指示して龍馬の
暗殺を行わせるでしょうか。「龍馬を捕えてはならない」という
命令は本当に出ていたのでしょうか。
 そういう指令が慶喜から出ていたかどうかはわかりませんが、
事実上龍馬はその時点で「お尋ね者」ではなくなっていたはずで
す。なぜなら、大政奉還が行われたとはいえ幕府機関はまだ機能
しており、上から不逮捕命令が出ていない限り、永井や見廻組は
職務上龍馬を逮捕しなければならないからです。
 それをしていないということは、龍馬はその時点でお尋ね者で
はなくなっていることを意味しています。まして京都守護職の松
平容保までが龍馬と会っているということは、それはより上から
の命令が出ているということであり、見廻組の組頭である佐々木
只三郎が単独で部下を率いて龍馬を暗殺することなど考えられな
いことなのです。しかし、もっと下のクラスの人間が「あの野郎
けしからん」といって、龍馬を襲う可能性は十分あるでしょう。
 ところが現在の通説では、龍馬と中岡の暗殺は、京都見廻組の
犯行ということになっています。果たしてこれが正しいのかどう
か、犯行の現場から考えてみることにします。
 龍馬が暗殺される直前の近江屋には誰がいたのでしょうか。通
説としては次の6人です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ≪2階≫
  ・坂本龍馬/中岡慎太郎/龍馬の下僕の藤吉
 ≪1階≫
  ・近江屋の主人夫婦/使用人1人
―――――――――――――――――――――――――――――
 直前まで本屋「菊屋」の息子の峯吉がいたのですが、龍馬に頼
まれて、軍鶏肉を買いに「鳥新」に行っており、近江屋を離れて
いるのです。そのとき書生が3人が2階にいたという説もあるの
ですが、真偽のほどはわかっていないのです。なお、藤吉は1階
にいたという説もあります。
 夜9時を過ぎた頃、「十津川郷士」と名乗る男が龍馬を訪ねて
きます。2階にいた藤吉が1階に下りて応対します。こういうこ
とはよくあることであり、藤吉は怪しまなかったのです。藤吉は
名札を受け取り、2階に上ると、3人の男がそれに従い、藤吉が
階段を上がり切ったところで、背中から斬りつけたのです。
 悲鳴を上げて倒れる藤吉の物音を聞いた龍馬は、誰かがふざけ
ているのだと思い、「ホタエナ(静かにしろ)」と一喝します。
その瞬間、抜刀した2人の男が部屋に乱入し、いきなり龍馬と中
岡に斬りかかったのです。そのとき一人は「コナクソ」と叫んで
斬りつけてきたというのです。
 最初の一撃で龍馬は深手を負い、それでも何とか刀を取ろうと
したところを右肩から背中を斬られてしまいます。ほとんど即死
の状態です。一方、中岡は刀を屏風の後ろに置いていたので、脇
差で応戦したのですが、両手足を斬られ意識を失って倒れます。
1人がとどめを刺そうとすると、もう一人は「もうよい」といっ
て引き上げたというのです。
 抜刀して斬りつけたのは3人、龍馬と中岡には2人が襲い、2
階の階段の上に藤吉を斬った男が1人、階段の下にももう1人い
て、さらに1人が1階にいたのです。階段の下にいた男がリーダ
ーと思われ、もう1人は近江屋の主人夫婦と使用人を見張り、さ
らに戸口の外に3人が見張りに立っていたと思われます。
 階下の5人は、物音を聞いて目の前の土佐藩の藩士が駆けつけ
てきたときの備えと思われます。全部で8人が龍馬暗殺を実行し
たと思われます。まさに水も漏らさぬ必殺の刺客の配置です。
 そのため、このような体制を組めるのは、京都見廻組か新選組
しかいないと思われたのです。  [新視点からの龍馬論/77]


≪画像および関連情報≫
 ●佐々木只三郎とは何者か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1834(天保4年)〜1868年(慶応4年)会津藩士・
  佐々木源八の三男として会津で生まれる長兄は、会津公用人
  の手代木直右衛門である。佐々木只三郎は、龍馬暗殺者の候
  補の一人にあげられているが、その真相はまだ、謎である。
  「武骨で、真面目で、男の可愛さがある」。私は、只三郎を
  そんな風に見ている。ちょうど、近藤勇とよく似ているのか
  も知れない。外見も、色浅黒く、笑うと両頬にエクボができ
  たというところも、勇と同じ。
         http://www.toshizo.com/thema/sasaki.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

佐々木只三郎.jpg
佐々木 只三郎
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2011年02月01日

●「龍馬暗殺犯は新選組ではありえない」(EJ第2987号)

 龍馬と中岡の暗殺現場には、次の2つの遺留品が残されていた
のです。
―――――――――――――――――――――――――――――
            1.刀の鞘
            2. 下駄
―――――――――――――――――――――――――――――
 「刀の鞘」について考えましょう。部屋が狭いので、あらかじ
め刀の鞘は抜いて攻めるというのは合理的な考え方です。しかし
ことが終ったあとでそれを忘れていくでしょうか。
 鞘を忘れるというのは、事態が切迫している場合です。土佐藩
邸から応援に駆けつけてくるなど急いで立ち去る事態が発生した
ときです。しかし、暗殺は一瞬にして終り、中岡にとどめを刺そ
うとした男にもう一人の男が「もうよい」といってゆうゆうと立
ち去っているのです。そんなとき、鞘を忘れるでしょうか。
 それに鞘を忘れるということは抜き身、しかも血刀を剥き出し
にして帰るということです。時刻はまだ午後10時頃であり、雨
は降っていたとはいえ、途中で人に会う可能性はゼロではないの
です。そんな危険なことをするでしょうか。
 したがって鞘はあらかじめ近江屋に持ち込み、わざと放置して
いったものと考えられます。襲撃犯を偽装するためです。しかも
その鞘は非常に特徴のあるものであったのですが、これについて
は改めて述べます。
 もうひとつの物証は「下駄」です。それもただの下駄ではない
のです。「瓢亭」の焼き印のある下駄なのです。「瓢亭」は、新
選組御用達の料亭であり、その料亭の下駄を忘れるということは
下手人は新選組であることを示す証拠になります。これも明らか
に偽装でしょう。ちなみに下駄は左右一足です。これが片方なら
かえってリアリティが感じられるのですが・・・。
 暗殺の翌日、近江屋の主人の新助は瓢亭まで行って、瓢亭から
昨夜新選組の人に下駄を貸したという証言を引き出しています。
しかし、単に龍馬に宿を提供していたに過ぎない新助がなぜそこ
までするのかという点に違和感を感じます。どうも近江屋も龍馬
の暗殺に一枚噛んでいた可能性が高いのです。
 ここに注目すべきことがあります。高台寺党の伊東甲子太郎は
事件後、かなり早い時点で近江屋を訪れ、鞘は新選組の原田左之
助のものであると証言しているのです。そのとき、中岡はまだ息
があり、襲撃犯が「コナクソ」と叫んだという話を土佐藩の谷干
城が聞き出していたところであったというのです。
 「コナクソ」というのは、「このやろう」とか「こん畜生」と
いう意味の「伊予松山の方言」なのです。実は鞘の持ち主の原田
左之助は四国の伊予松山の出身なのです。この伊東甲子太郎は事
件の3日前にも近江屋に龍馬を訪ね、新選組が龍馬を狙っている
から注意せよと龍馬に警告しているのです。彼は早くから龍馬の
居所を知っていたことになります。
 このように見ていくと、遺留品や瀕死の中岡が発した言葉が、
いかにも襲撃犯人が新選組であることを指向しています。犯人が
中岡のとどめを刺さなかったのは、中岡に「コナクソ」などとい
う言葉を喋らせる狙いがあったのではないかとも思われます。
 龍馬と中岡の暗殺現場にいち早く駆けつけたのは谷干城です。
谷干城は、自らが土佐藩の上士でありながら、郷士の坂本龍馬を
尊敬し、生涯をかけて龍馬の暗殺犯を追ったのです。そして、谷
が一番疑ったのは新選組であったのです。
 そのため、谷干城が戊辰戦争で流山で捕えた新撰組局長の近藤
勇を尋問し、斬首、獄門という重罪で処刑したのは、龍馬の仇を
とったつもりだったのでしょう。しかし、龍馬の暗殺犯は新選組
ではないことがはっきりしているのです。
 龍馬が暗殺された慶応3年(1867年)11月15日夜、近
藤勇をはじめとする新選組幹部は島原の角屋という料亭で会合を
開いており、そのような日に龍馬を暗殺するはずがないのです。
つまり、近藤勇には当夜アリバイがあったのです。
 また、伊東甲子太郎が証言した現場に残された鞘の持ち主が、
新選組の原田左之助のものであるということについても他の史料
によると「新選組のもの」とはいったが、原田左之助のものとま
ではいっていないようなのです。
 さらに谷干城が瀕死の中岡から聞き出したという「コナクソ」
については、事件当時谷は、まったく口にしておらず、事件から
40年が経過した明治39年(1906年)に谷が行った講演の
さいにはじめて口にしたものなのです。出血多量で意識が途絶え
勝ちの中岡がどこまで話しているのか確証がないのです。
 もうひとつ述べておくことがあります。近江屋についてです。
通説では、龍馬は近江屋にきたとき、しばらく土蔵に身を隠して
いたといわれています。しかし、龍馬は風邪を引いて体調を崩し
近江屋の2階に移動したということになっています。
 しかし、これについては疑問があります。当時龍馬は強い警戒
心を持っておらず、不便な土蔵に入るはずもないし、龍馬が土蔵
にいたことを示す史料は一切ないのです。これについて、菊池明
氏は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 実は、近江屋では11月15日に事件が発生するまで、龍馬を
 ただの「一下宿人」として遇していたのみで、格別の対応はし
 ていなかったのではないだろうか。しかし、明治期になって龍
 馬の評価を知り、「土蔵」という「セキュリティーシステム」
 を設けていたことを、誰に対してということもなく、申し立て
 たのではないだろうか。そこには、龍馬を救えなかった無念さ
 といくらかの保身があったのかもしれない。  ──菊地明著
             『坂本龍馬』より/PHP研究所刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 近江屋が龍馬暗殺の状況について必ずしも正確に述べていない
ことは明らかなのです。それが謎を一層濃くさせたことも確かな
ことです。       ──  [新視点からの龍馬論/78]


≪画像および関連情報≫
 ●土佐の人物伝/谷干城とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1837年、高知城下に土佐藩士・谷万七(まんしち)の第
  4子として生まれ、1859年、江戸に出て安井息軒の弟子
  となって学びました。その後、土佐に帰国して藩校・致道館
  で史学助教授となりました。このとき武市半平太と知り合っ
  て友人となり、尊王攘夷運動に傾倒します。しかし1866
  年、藩命で長崎を視察したとき、ここで後藤象二郎や坂本龍
  馬と交わって、攘夷の不可なるを悟り、次第に倒幕へ傾いて
  いったといわれています。
        http://www17.ocn.ne.jp/~tosa/tani/tani.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

谷干城.jpg
谷干城
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2011年02月02日

●「龍馬暗殺/高台寺党犯行説」(EJ第2988号)

 龍馬暗殺犯が新選組ではないとすると、一体だれが犯人なので
しょうか。有力なのは次の2つです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     1.伊東甲子太郎による高台寺党犯行説
     2.今井信郎の証言による見廻組犯行説
―――――――――――――――――――――――――――――
 「伊東甲子太郎による高台寺党犯行説」の背景には薩摩藩──
とくに大久保利通の影があります。ところで、高台寺党とは何で
しょうか。これには少し説明がいります。
 新選組の一般的理解は、京都において反幕府勢力の取り締まり
のための警察行動に従事した浪士の一団というものです。つまり
幕府を守るための佐幕派の部隊です。
 しかし、新選組はもともとは尊皇攘夷の旗の下に集まった集団
なのです。したがって、そこから発展して勤皇勢力と通じ、天皇
を守るための軍事部隊にしようとする動きも生まれたのです。こ
のように、時間が経過するとともに、新選組内部は必ずしも一枚
岩ではなくなり、さまざまな対立が生まれたのです。
 伊東甲子太郎は常陸国(現在の茨城県)の出身ですが、水戸に
遊学したときに、勤皇思想に傾斜し、皇室の信奉者──国粋主義
者になっていたのです。元治元年(1864年)に近藤勇の勧誘
を受けて伊東は新選組に入隊しますが、その決断をしたのは、近
藤から次の言葉を聞いたからです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  「御陵衛士」を集めている。その仕事を手伝って欲しい
―――――――――――――――――――――――――――――
 御陵衛士(ごりょうえじ)というのは、天皇のお墓を守るため
の衛士のことです。当時幕府は朝廷を取り込むため、各地の天皇
陵の修復を各藩に命じており、その修復後の天皇陵の管理を行う
衛士を募っていたのです。
 しかし、入隊してみると、近藤は御陵衛士の話をしなくなり、
新選組はますます佐幕活動に傾斜していったのです。近藤と土方
の狙いは、新選組が幕府の直参になる──つまり、正式の幕臣に
なるというところにあったのです。
 これに不満を持つ伊東はそのことを近藤や土方と話し合うとと
もに、各方面にさまざまな働き掛けをしたのです。そういう最中
に慶応2年12月25日に孝明天皇が36歳という若さで崩御さ
れ、伊東はその御陵を守る衛士を拝命します。ここで伊東は近藤
に次の提案をするのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 われわれと新選組を表面上分離して、われわれを新選組の別働
 隊にして欲しい。あくまで新選組のために尽くすので、人数を
 分けて欲しい。しかし、志は新選組と一緒である。
―――――――――――――――――――――――――――――
 近藤と土方は分離には基本的に反対なのですが、このことで伊
東と争うことは得策でないと判断し、伊東の分離を了承したので
す。慶応3年(1867年)3月25日のことです。伊東は文武
に優れ、リーダーシップもあり、なかなか魅力的な人物だったの
で、もし、分離を巡って争うと、新選組は分裂してしまう恐れが
あったからです。
 このとき、伊東とともに新選組を出たのは、藤堂平助、篠原泰
之助、新井忠雄、加納道之助、安部十郎、内海二郎、中西登、橋
本皆助、清原清、毛内有之助、服部武雄、富山弥平衛、斎藤一ら
13人なのです。しかし、双方とも、スパイの役割を担うメン
バーを潜り込ませていたのです。この中では、斉藤一は新選組の
スパイであり、伊東の行動を監視して逐一近藤や土方に知らせる
役割を担っていたのです。
 このようにして分離した伊東一派は、高台寺の塔頭月真寺に屯
所を置いたので、「高台寺党」と呼ばれるようになったのです。
このとき、伊東は何とかして薩摩藩に加わりたいと考えており、
大久保利通に接近したのです。伊東としては、既に幕府はもたな
いと考えていたからです。大久保としては伊東の本心を見抜くと
ともに、伊東一派が幕府と討幕派の双方から無理なく情報収集で
きるポジションにいることを高く評価したのです。
 龍馬の暗殺に薩摩藩が何らかのかたちで関わっていることは確
かですが、その実行犯は京都見廻組であるという説を唱える人た
ちがいます。しかし、薩摩藩と見廻組は水と油であり、どう考え
ても結びつかないのです。
 しかし、伊東率いる高台寺党であったらどうでしょうか。御陵
衛士であって朝廷に近いし、しかも、薩摩藩と行動をともにしよ
うとしている──大久保利通としてはモチベーションしやすいし
使いやすいのです。大久保が「龍馬を殺れ!」と命じたら、高台
寺党は進んで実行に移す可能性は十分あります。刺客としてはき
わめて使いやすいからです。
 しかし、新選組の近藤はそういう高台寺党の動きをスパイを通
じて掴んでいたのです。慶応3年11月18日、龍馬が殺害され
た3日後のことです。近藤は、七条醒ヶ井の妾宅へ伊東を一人を
招いて酒宴を開いたのです。
 何の警戒心もなくそれに応じた伊東甲子太郎は、したたか飲ん
で宿舎に帰る途中、新選組の大石鍬次郎ら4名によって惨殺され
てしまいます。そして大石らは伊東の死骸をおとりとして油小路
に放置して、新選組隊士20名で待ち伏せたのです。
 事態を知った高台寺党の7人は、罠と分かってはいたのですが
遺体を引き取りに油小路に向かったのです。しかし、衆寡敵せず
3人が殺され、4人は薩摩藩に逃げ込んで助かっています。これ
によっても高台寺党と薩摩藩はつながっていたといえます。
 これが「伊東甲子太郎による高台寺党犯行説」なのですが、確
たる証拠はないのです。ここがこの説の最大の弱点であるといえ
ます。もう一つの「今井信郎の証言による見廻組犯行説」は明日
のEJで述べます。   ──  [新視点からの龍馬論/79]


≪画像および関連情報≫
 ●「油小路事件」について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  新選組は油小路七条の辻に伊東の遺骸を放置し、その周りに
  伏せ、遺体を引き取りにきた同志をまとめて粛清しようとし
  た。遺骸を引き取りにきた同志は、藤堂平助、篠原泰之進、
  鈴木三樹三郎、服部武雄、毛内有之助、富山弥平衛の7名で
  あった。この待ち伏せによって、新選組結盟以来の生え抜き
  隊士で元八番隊組長を務めた藤堂平助のほかに、服部武雄・
  毛内有之助の3名が討死した。(一部略)伊東ら4名の遺体
  は、慶応4年2月、鈴木三樹三郎らによって泉涌寺塔頭戒光
  寺に改葬された。この葬儀は大名にも珍しいほど盛大で、雨
  天の中、生き残りの衛士7名は騎乗、その他150人ほどが
  野辺送りをし、その費用は新政府参与の役所から出されたと
  いうことである。 ──ウィキペディア「油小路事件」より
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伊東甲子太郎暗殺現場.jpg
伊東 甲子太郎暗殺現場
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2011年02月03日

●「龍馬暗殺は史料から見て見廻組である」(EJ第2989号)

 「今井信郎の証言による見廻組犯行説」──これは現在通説に
なっています。これについて概略を述べることにします。明治3
年(1870年)2月のことです。
 元京都見廻組の今井信郎は、新政府の取り調べに対し、見廻組
が坂本龍馬を殺害したことを認めています。その理由としては、
慶応2年(1866年)1月に伏見奉行所の手勢が寺田屋で龍馬
を襲ったとき、龍馬がピストルで捕り方2名を殺害したことを上
げています。命令を出したのは、京都守護職の松平容保であり、
これは見廻組の公務なのです。
 今井信郎の供述調書によると、実行犯は見廻組組頭の佐々木只
三郎を含む7人であり、近江屋の2階に上がったのは、佐々木只
三郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂早之助の4人であり、階下の
見張り役が土肥仲蔵、櫻井大三郎、そして今井信郎なのです。
 しかし、その後今井の証言は二転三転するのです。実行犯7人
のうち、佐々木只三郎と今井信郎以外は供述した当時には鳥羽・
伏見の戦いで既に死亡していた人の名前を恣意的に使った疑いが
あるのです。
 つまり、供述時点で生存している人がいるので、その人たちに
何らかの累が及ぶことを心配した今井の配慮だったとされている
のです。つまり、今井が供述した実行犯の中には、ダミーの氏名
が含まれているというのです。また、今井信郎は、最初自分は見
張り役だったと述べていたにもかかわらず、後に龍馬を斬ったの
は自分であると供述を変更しています。
 今井信郎が供述した当時生存していた一人が渡辺篤という人物
であることが分かっています。渡辺篤は、明治44年(1911
年)に次の文書を著し、そこで佐々木只三郎の命を受け、龍馬暗
殺に加わったことを書いているのです。こういう証言が出てくる
と、今井信郎の供述の正しさが証明されるといえます。
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        「渡辺家由緒歴代系図履歴書」
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 渡辺篤は、今井信郎が『近畿評論』に書いた「渡辺が六畳へ鞘
を置いて帰って・・・」の記述には誤りがあるとして、鞘を現場
に忘れたのは、世良敏郎であると「渡辺家由緒歴代系図履歴書」
に書いています。
 この世良敏郎は実在の人物であり、桑名藩士・小林甚七の次男
なのです。慶応3年(1867年)5月に見廻組の世良家の養子
になり、敏郎と名乗ったことが、同家の系図書によって明らかに
なっているのです。
 しかし、佐々木只三郎をリーダーとする京都見廻組による龍馬
暗殺が、今井信郎が述べているように、寺田屋騒動における捕り
方2名の殺害犯の逮捕という見廻組の公務とは明らかに異なるも
のであることが分かっているのです。
 これについて、あの『武士の家計簿』(新潮新書)の著者であ
り、茨城大学人文学部准教授の磯田道史氏は自著において、上記
の渡辺篤の証言として、次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 もう一人の襲撃メンバーの渡辺篤も証言を遺しています。「潜
 (ひそかに)に徳川将軍をくつがえさんと謀り、其連累(れん
 るい)四方に多々ある故に」要するに、龍馬が徳川幕府を覆そ
 うと企んでいる。その上、福井まで行って松平春獄も味方にし
 幕府の重鎮である永井玄蕃まで取り込もうとしている。こうい
 う人間を放置していたら、どんどん幕府骨抜き派が増えてしま
 って危険だ。そういう認識があった。そして「見廻組頭取佐々
 木只三郎の命により」と命令者も書いてあります。
           ──磯田道史著『龍馬史』/文藝春秋刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 既に述べているように、幕府内において龍馬の評価が大きく異
なるようです。これは映画もテレビもない時代ですから、当然の
ことであるといえます。実際に龍馬に会って話を聞いた人は龍馬
のスケールの大きい発想に魅了されるのですが、そうでない人は
龍馬は討幕派の先鋒であると間違ってとらえてしまうのです。と
くに土佐藩に大政奉還を建白させ、討幕派に変えたことは許せな
いと考えている幕臣は多いのです。
 それでは龍馬暗殺の計画を立てたのは誰でしょうか。既出の磯
田道史氏によると、佐々木只三郎の兄、手代木勝任(てしろきか
つとう)であるといっています。佐々木只三郎は会津藩士の佐々
木源八の三男なのです。
 手代木勝任は、明治37年(1904年)6月に岡山で亡くな
るのですが、死の直前まで隠していた龍馬暗殺について家族に話
したのです。家族たちはそれを「手代木直右衛門伝」としてまと
め、出版しています。そこには次のような驚くべきことが書いて
あったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 手代木翁死に先立つこと数日、人に語りて曰く坂本を殺したる
 は実弟只三郎なり。薩長の連合を謀り、又土佐の藩論を覆して
 討幕に一致せしめたるを以って深く幕府の嫌忌を買ひたり。其
 諸侯の命を受け、壮士二人を率い、蛸薬師なる坂本の隠れを襲
 ひ之を斬殺したり。 ──磯田道史著『龍馬史』/文藝春秋刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 そして、佐々木只三郎に指示を与えた「其諸侯」とは、会津容
保公の弟である桑名公──桑名藩主・松平定敬であると推測して
いますが、磯田道史氏によると、それは松平容保をかばっての配
慮であり、命令者はあくまで松平容保であるとしています。
 谷干城などは、今井信郎が「龍馬を暗殺したのは俺だ」といっ
たとき、「お前ごとき売名の徒に坂本さんが斬られるものか」と
非難していますが、今井だけでなく、複数の人物が龍馬暗殺を証
言し、記録に残っているところを見ると、どうやら龍馬暗殺犯は
見廻組のようです。   ──  [新視点からの龍馬論/80]


≪画像および関連情報≫
 ●磯田道史氏について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1970年岡山市生れ。2002年、慶應義塾大学文学研究
  科博士課程修了。博士(史学)。2004年より茨城大学人
  文学部准教授。2008年から国際日本文化研究センター客
  員准教授も務める。専攻は日本社会経済史。加賀藩の御算用
  者・猪山家の幕末から明治に亘る家計を記した古文書を発見
  し、これを大きな時代の波を乗り越える家の記録として読み
  解いた『武士の家計簿』を2003年に発表。同書は専門家
  だけでなく一般の歴史ファンにまで幅広く話題を呼び、新潮
  ドキュメント賞を受賞した。他の著書に『殿様の通信簿』、
  『近世大名家臣団の社会構造』、『龍馬史』などがある。
  ―――――――――――――――――――――――――――

磯田道史氏と著書.jpg
磯田 道史氏と著書
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2011年02月04日

●「龍馬暗殺犯はI会津藩の佐々木只三郎」(EJ第2990号)

 2010年10月4日から80回にわたって書いてきた「新視
点からの龍馬伝」は本日で終了します。果たして新視点だったか
どうかはわかりませんが、歴史的な流れはできる限り忠実にして
そのうえで今まであまり取り上げられていない新視点からの記述
を試みたつもりです。
 ここまで龍馬の暗殺犯を追ってきましたが、どうやら実行犯は
見廻組ということになりそうです。その流れを整理してみます。
 ことの発端は今井信郎の告白なのです。明治30年(1879
年)に今井は「甲斐新聞」の記者結城礼一郎に請われて、自分が
龍馬を斬ったと告白したのです。
 結城礼一郎はその今井の談話を「甲斐新聞」に発表したのです
が、その記事が明治33年(1900年)に次の雑誌に転載され
てから一般的に知られるようになったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       「近畿評論」──今井信郎氏実歴談
           ──『歴史街道』/2010年12月号
                  /菊池明氏論文/PHP
―――――――――――――――――――――――――――――
 これに加えて、今井信郎は明治42年(1909年)にも「大
阪時事新報」に連載された「隠れたる豪傑今井信郎翁」において
次のように告白しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
      坂本氏を斬りたるはかく申す拙者なり
                 ──上掲『歴史街道』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、今井は明治3年(1870年)の新政府の取り調べで
供述した内容から、「甲斐新聞」、「近畿評論」、「大阪時事新
報」とメディアが変わるにしたがって、その内容が自分を誇示す
るものに大きく変わっており、今井犯人説は信用できないとされ
てきたのです。
 このままであったなら、今井犯人説は信用されないままになっ
たと思われます。しかし、今井の「近畿評論」の記事を読んで、
渡辺篤が明治44年(1911年)に「渡辺家由緒歴代系図履歴
書」をあらわし、前号でご紹介したように、今井の発表した内容
を裏づける事実を公表したのです。
 さらにダメ押しになったのは、佐々木只三郎の兄である手代木
勝任の「手代木直衛門伝」なのです。ここでは、佐々木只三郎が
リーダーとなって今井信郎、渡辺篤志らとともに龍馬を襲撃した
事実が明らかにされているのです。佐々木只三郎は死の間際に兄
の手代木勝任に事実を打ち明け、兄の勝任も死にさいしてその事
実を告白しているのです。
 今井信郎、渡辺篤、佐々木只三郎の3人がばらばらに龍馬襲撃
の事実を認めているのです。3人とも龍馬を襲撃し、殺害したこ
とは一致しているのです。しかもいずれも文書のかたちで残され
ているので、疑いようがないといえます。そういう意味で龍馬襲
撃犯は京都見廻組ということになります。
 しかし、なぜ佐々木只三郎は事実を伏せていたのでしょうか。
龍馬には捕り方2人の殺傷の罪があり、そういう意味で龍馬を補
殺するのは、京都見廻組の公務のはずです。そうであるなら、な
ぜ、佐々木只三郎は死の間際まで沈黙を貫いたのでしょうか。守
護職の松平容保から指示を受けて龍馬補殺を実行したのであれば
それが成就した以上、なぜそれを公表しないのでしょうか。これ
は京都見廻組の成果であり、胸を張っていうべきことであるのに
なぜ秘匿するのでしょうか。
 問題は誰が佐々木只三郎に指示を出したかです。前回の終わり
にも触れたように、手代木勝任は桑名藩主松平定敬(容保の弟)
であるといっていますが、磯田道史氏は松平容保であるとしてい
ます。なぜなら、見廻組は京都守護職の配下であるのに対し、松
平定敬は京都所司代であって命令系統が異なるからです。
 幕末の京都の治安維持組織を整理すると、幕府の下に京都守護
職がおり、その直轄下に反幕府過激派対策特別班があり、新選組
と見廻組に分かれるのです。職制上は新選組も見廻組も同列です
が、見廻組は現在の検察のように政治犯などの大物の補殺を職務
としていたのです。
 これに対して京都所司代は京都守護職の配下であり、その下に
は町奉行や目明しがいて、一般犯罪の捜査に当るのです。京都所
司代が見廻組を指揮できないのは明らかです。指揮・命令系統が
違うからです。
 それでは、京都守護職の松平容保が直接命令して、龍馬を暗殺
させたのでしょうか。
 龍馬と後藤が提案した大政奉還は幕府の幹部によって、賛否が
分かれるのです。討幕派が力を強めるなかで徳川慶喜や永井尚志
は龍馬に救いを見出し、「龍馬を捕えてはならぬ」と指示を出し
ていたことは間違いないと思われます。したがって、その時点で
捕り方の殺傷犯としての龍馬は許されていたと考えます。だから
龍馬は永井をはじめ、松平容保にまで会えたのです。
 こういう状況を見て危機感を強めたのは会津藩と桑名藩です。
彼らは慶喜や永井と違って、龍馬を危険な男としてとらえており
会津藩の佐々木只三郎は京都守護職の松平容保に直訴したのでは
ないかと思うのです。しかし、慶喜からは龍馬の不逮捕命令が出
ており、公然と殺害はできないのです。そこで佐々木只三郎の一
存で龍馬を暗殺し、それを公表しなかったと思われます。
 一方において薩摩藩──とくに大久保利通は伊東甲子太郎に龍
馬暗殺の指示をそれとなく出していたと思います。薩摩藩は英国
式兵学教授の指南を受けていた赤松小三郎ですら中村半次郎に命
じて暗殺させています。幕府方に赤松の知識が伝授されるのを恐
れたからです。龍馬が狙われても不思議はないのです。
 4ヵ月にわたる長編にもかかららず、ご愛読を心より感謝いた
します。    ──  [新視点からの龍馬論/81/最終回]


≪画像および関連情報≫
 ●兵学教授の赤松小三郎を斬った薩摩藩の事情
  ―――――――――――――――――――――――――――
  (中村)半次郎には、元々顔に険があった。その険が酒でさ
  らに際だっていた。「赤松先生、これでお別れですな。そこ
  でお願いがあります」。「何でしょうか」。「先生が薩摩塾
  をお辞めになるということは、私たちとは子弟の縁が切れる
  ということでよろしいでしょうか」。「うん。そういうこと
  になりますね」。「ならば、私から子弟の盃を返すことをお
  許し下さい」。半次郎は、盃を小三郎に渡して、徳利から酒
  を注いだ。それを小三郎が飲み干したのを見て、自らその盃
  で飲み、そのまま盃を割った。
  「先生、私がお送りしましょう」。不穏な空気を察したので
  あろう。(小松)帯刀が立ち上がって小三郎を階下まで送り
  さらに途中までを護衛した。帯刀は藩内の不穏さを知って最
  後まで小三郎を守ろうとした人物である。 ──江宮隆之著
   『龍馬の影/悲劇の志士・赤松小三郎』/河出書房新社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

手代木勝任.jpg
手代木勝任
posted by 平野 浩 at 04:09| Comment(4) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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