ピソードなどを含め、少し述べることにします。それが龍馬暗殺
へとつながってくるからです。
慶応2年(1866年)にフランス皇帝ナポレオン3世から幕
府に対し、1867年にパリで開催される万国博覧会への出品要
請と元首の招聘についての書簡が届いたのです。
これを受けて幕府は、将軍徳川慶喜の弟に当る徳川昭武(14
歳)を名代として派遣することにしたのです。このとき、警護の
ために水戸藩士7名が随行することになったのですが、彼らは強
い攘夷論者であったので、異国でトラブルを起こしてはまずいと
考えてまとめ役として随員に加えられたのが渋沢栄一なのです。
もっとも渋沢栄一自身もかつては強硬な尊皇攘夷論者であった
のですが、そういう意味で過激な水戸藩士をまとめられるうえに
算数に明るく、理財の念に富んでおり、その有能な実業家的手腕
も期待されていたのです。1867年1月11日、徳川昭武はパ
リ万国博覧会に日本国将軍代理として参加するため、横浜から船
でフランスに向かっています。
幕府は、油絵、浮世絵、銀象牙細工、磁器、水晶細工などなど
を出品したのです。会場内に日本式お茶屋も作り、芸者3人に接
待させて、評判を呼んだようです。
しかし、このパリの万博に最初に手を打ったのは実は薩摩藩で
あったのです。グラバーは島津久光の顔を立てるという名目で、
討幕の布石を打ったのです。そのとき、留学生を連れて渡欧中で
あった五代友厚に指示を出し、薩摩藩がパリ万博に出られるよう
手配をさせたのです。
そのとき活躍したのがあのフランス人のモンブラン伯爵なので
す。モンブランについては、EJ第2962号(2010年12
月20日)を参照願います。
薩摩藩は、モンブランを代理人として、幕府とは別名義の出展
者として参加し、出品することとなったのです。薩摩藩家老の岩
下方平は薩摩藩および琉球王国(当時、事実上薩摩藩の支配下に
あった)の全権としてパリに派遣され、モンブランとともに万博
の準備を進めたのです。
幕府はフランスにきて薩摩藩が出展することを聞き大いに驚い
たのです。早速随行してきた外国奉行向山一履などが岩下方平に
抗議したのですが、薩摩藩は聞き入れない──岩下とモンブラン
は幕府と交渉して次のように決着をつけたのです。
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話し合いの結果、出展者名から「琉球」の二文字と島津家の家
紋の旗章を削ることと、「琉球国陛下松平修理大夫源茂久」の
名を「松平修理大夫」のみに改めることを求めた。薩摩藩代理
人のモンブランは岩下とともに交渉し、「薩摩太守の政府」の
名前は譲れないとして談判し、結局幕府側は「大君政府」、薩
摩藩側は「薩摩太守の政府」とし、ともに日の丸を掲げること
で妥協となったのである。
──ウィキペディア「シャルル・ド・モンブラン」より
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万博の会場の中であるとはいえ、世界の人々に日本には幕府側
の「大君政府」と薩摩藩の「薩摩太守の政府」の2つの政府があ
ることを印象づけたことは、薩摩藩の独立性を認めさせたことを
意味しており、薩摩藩としては大成功であったのです。
しかも、五代友厚は、そのとき、英国で紡績機械を購入し持ち
帰り、鹿児島の磯の地に日本で最初の紡績工場を建設しているの
です。久光は大いに面目を施し、グラバーにますます傾斜してい
くことになるのです。
これまで述べてきたように、薩摩の島津久光はあくまで武力に
よって幕府を討つ方針を固めてきたのです。そのため、幕府との
戦争に備えるため、グラバー商会から大量の艦船や兵器を買い込
んで莫大な債務をかかえていたのです。
グラバーはもちろん武力討幕を前提に薩摩藩だけでなく、肥前
肥後、宇和島、土佐などの西南各藩にも、武器、弾薬、艦船を売
り込んで大儲けしていたのです。
しかし、もし、戦争をしないで幕府と平和的に政権交代が実現
したら、どうなるでしょうか。少なくとも武器、弾薬は不要とな
り、西南各藩の経済は破綻し、グラバー商会としても売掛金は貸
し倒れになる恐れがあったのです。
ところがです。当初討幕を前提に行動していた龍馬は、薩長同
盟の成立後は極力国内戦争を回避し、幕府に大政奉還を出させて
平和裡に倒幕する方針に変更し、幕府の要人とも頻繁に会うよう
になっていたのです。この龍馬の行動が、とくに薩摩藩のトップ
である久光やグラバーにとっては、甚だ面白くなかったことは容
易に想像されるのです。久光やグラバーが「あいつ(龍馬)は一
体何を考えているのか」という不信感が充満しても不思議はない
のです。
当時グラバーの財力は、ひとつの大名に匹敵するほど凄いもの
だったのです。薩摩藩の家老によると、グラバーの暮らしぶりは
30万石の大名に匹敵するといったそうです。30万石といえば
上杉家・米沢藩が30万石(後に15万石)です。当時の一つの
国に当たる藩に匹敵するほどの財力だったのです。その財力を利
用してグラバーがやろうとしていたことは、武力による討幕なの
です。そのためか、グラバーは、次のような謎の言葉を残してい
るのです。
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徳川幕府の反逆人の中には自分が最も反逆人である
──トーマス・グラバー
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これは何を意味しているのでしょうか。
大政奉還を幕府に勧め、幕府との戦争を回避し、平和裡に討幕
しようとする龍馬は、久光やグラバーにとって邪魔者以外の何物
でもなかったからです。 ── [新視点からの龍馬論/67]
≪画像および関連情報≫
●最初の万国博覧会/幕末から廃藩置県までの有田
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有田焼が万国博覧会に出品されたのは一八六七年のパリ博覧
会が初めてである。フランスから出品を勧誘された幕府は、
各藩に伝達して参加を求めた。だが、幕府崩壊直前の各藩と
も藩内政情が動揺している上に、鎖国観念が根強くて、応じ
たのは僅かに佐賀藩と薩摩藩だけだった。かねてから国産品
の海外輸出の公然化を望んでいた佐賀藩は、これを絶好の機
会として直ちに賛意を表したのである。
http://www47.tok2.com/home/yakimono/honoo/06-03.htm
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パリ万国博覧会/1867年