2010年10月04日

●「榊原英資氏の坂本龍馬論」(EJ第2910号)

 NHKの大河ドラマ『龍馬伝』を見ておられるでしょうか。私
は内容のいかんに関わらず、習慣としてNHKの大河ドラマは必
ず見ることにしています。もちろん今回も一度も欠かさず、見て
いますが、見れば見るほど坂本龍馬という人間がよくわからなく
なるのです。今回の『龍馬伝』はいささかおかしいのではないで
しょうか。
 別に歴史を忠実に描けというつもりはないのです。ドラマなの
ですから、いろいろな脚色があってよいし、何よりも面白いこと
が一番ですが、それほど面白いわけでもないのです。何よりも問
題なのは、坂本龍馬という人間を意図的にある特定のイメージに
変質させて伝えようとしている──そんな気がするのです。
 私が今回EJのテーマとして、「坂本龍馬」を取り上げる気に
なったのは、まだ猛暑が続く8月のある日に、浜松町のdan文
教堂で次の本を発見して購入してからです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    榊原英資著
    『龍馬伝説の虚実/勝者が書いた維新の歴史』
                  朝日新聞出版刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 著者を見て一瞬間違えではないかと思ったのです。しかし、著
者は紛れもなく、経済学者で「ミスター円」の異名を持つ榊原英
資氏に間違いないのです。榊原氏は本の「はじめに」で次のよう
に述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 現在の国際経済、そのなかの日本経済を理解する上でも、歴史
 特に世界のなかの日本の歴史を理解することはきわめて重要で
 す。なかでも明治維新から第二次世界大戦に至る時代がどのよ
 うな時期だったかについては、かなりの誤解があるようです。
 そしてその誤解には龍馬伝説が深く絡んでいると思われます。
 筆者は、龍馬をめぐる誤解を正すことによって明治という時代
 を再評価し、それを「戦後」を考える一つのよすがにしてみた
 いと考えています。    ──榊原英資著/朝日新聞出版刊
        『龍馬伝説の虚実/勝者が書いた維新の歴史』
―――――――――――――――――――――――――――――
 歴史は勝者が書くのが通常ですが、榊原氏は坂本龍馬を司馬遼
太郎のように勝者である薩長の側から見るのではなく、幕府の側
つまり、横井小楠や勝海舟の側から見ると、かなり違った光景が
見えてくるといっています。
 司馬遼太郎は、そのベストセラー『竜馬がゆく』において龍馬
を薩長同盟を成立させ、幕藩体制を倒して、素晴らしい明治をつ
くった革命児として描いています。しかし、本当に、そうなので
しょうか。
 『竜馬がゆく』は、司馬遼太郎が昭和37年(1962年)〜
41年(1966年)に産経新聞に連載され、その連載完結の2
年後にはNHKの大河ドラマ『竜馬がゆく』が、演出・和田勉、
主演・北大路欣也で放映されています。
 それから約半世紀にわたり、龍馬に関しては、学術的なものか
ら小説のたぐいまで、膨大な書籍で取り上げられ、映画、演劇、
TVドラマ、マンガ、ゲームなど、とても数え切れない大変な数
に達していると思います。
 司馬遼太郎が『竜馬がゆく』を書く以前、というより戦前の日
本では、坂本龍馬の人気は大したことではなかったのです。ちな
みに戦前においては、東京帝国大学の学生新聞が毎年行っていた
「尊敬する人物」のベスト4は次のようになっているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
           1.楠木正成
           2.吉田松陰
           3.西郷隆盛
           4.乃木希典
―――――――――――――――――――――――――――――
 もし、現在であれば、おそらく坂本龍馬はダントツで第1位に
輝くはずです。しかし、現在幅広く伝えられている龍馬像は実際
の龍馬とはかなり違うものではないかと思うのです。
 EJでは、そこを追求したいと思います。しかし、とくに今回
に限らず、今まで何回にもわたるNHKの大河ドラマの伝える龍
馬像は相当インパクトが強いですから、そのイメージを崩すのは
容易ではありませんが、あえて挑戦したいと考えています。ポイ
ントは次の2点です。
―――――――――――――――――――――――――――――
    1.今までとは異なる視点から坂本龍馬を探る
    2.フリーメーソンと龍馬の接点を探ってみる
―――――――――――――――――――――――――――――
 1はともかくとして、なぜここにフリーメーソンが出てくるの
でしょうか。
 それは、世の中を一変させるような大革命の裏では、フリーメ
ーソンは、必ず活躍しているからです。代表的なものを上げると
アメリカの独立戦争、そしてフランス革命があります。これらは
いずれもフリーメーソンと密接な関係があるのです。
 そうであるとすると、日本における最大の政変である明治維新
においても何らかのかたちでフリーメーソンがからんでいると考
えるのは、それほど不思議なことではないのです。
 今までの坂本龍馬に関するドラマなどでは、それがフリーメー
ソンとの関係で演出されることはないでしょう。しかし、明治維
新でもフリーメーソンは裏でからんでいるのです。EJではその
観点からも坂本龍馬にスポットを当てていくつもりです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     『新しい視点から読み解く坂本龍馬論』
      ─ 龍馬は真の姿を明らかにする ─
―――――――――――――――――――――――――――――
             ─── [新視点からの龍馬論/01]


≪画像および関連情報≫
 ●山田雅稔のブログより/榊原英資氏の龍馬論
  ―――――――――――――――――――――――――――
  『龍馬伝説の虚実』(榊原英資著 朝日新聞出版刊)を読み
  ました。『第一章 龍馬伝説は明治一六年に始まった』の中
  の「忘れられていた竜馬」の項から抜粋し、番号を付けて紹
  介します。『@明治維新の直前、1867年11月15日に
  坂本龍馬は暗殺されますが、維新後しばらく龍馬は忘れられ
  た存在でした。龍馬がはじめて注目されるのは、1883年
  (明治16年)。土佐の自由民権運動の新聞、土陽新聞にお
  いてです。A歴史家・加来耕三はその経緯を次のように記し
  ています。「作者は自由民権運動家で文筆家の坂崎紫瀾(し
  らん)であった。(中略)幾度か単行本としても刊行された
  が、人気の高かったことから、後世の人々は、この物語をす
  べて、事実であるかのごとく記憶してしまった。
http://masatoshiyamada.blog108.fc2.com/blog-entry-687.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

榊原英資著『龍馬伝説の虚実』.jpg
榊原 英資著『龍馬伝説の虚実』
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2010年10月05日

●「大河ドラマと実際の龍馬には差がある」(EJ第2911号)

 NHK大河ドラマの「龍馬伝」から始めることにします。これ
については、皇學館大学教授松浦光修氏が『正論』11月号に次
のレポートを投稿しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
     NHK大河「龍馬伝」への大いなる違和感
          ──皇學館大学教授松浦光修氏
―――――――――――――――――――――――――――――
 松浦光修氏によると、大河ドラマの龍馬は龍馬らしくないとい
うのです。ドラマの製作者たちは、龍馬という人物の「考え方の
スジ」を十分掴み切れないまま、かなり行き当たりばったりでド
ラマを書いているのではないかと批判しています。
 8月22日の第34回の放送で、龍馬は高杉晋作に向かって次
のようにいうシーンがあります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ケンカはいかんぜよ。ケンカで世の中が変わるとは、思うちゃ
 せんけんの、ワシは・・・。         ──坂本龍馬
―――――――――――――――――――――――――――――
 龍馬はこの言葉をドラマの中で何回も繰り返しています。これ
では、龍馬は「平和教育に熱心な日教組の先生から覚えがめでた
いクラス委員長」のようなものと松浦氏はいいます。
 坂本龍馬は、大河ドラマでは幕府と長州──「幕長戦争」を回
避し、日本の平和を守るため、薩長同盟成立に奔走するように描
こうといているようですが、これには矛盾があります。
 それなら、なぜ龍馬は、船や武器を長州に売り渡す労をとった
のでしょうか。この龍馬の働きによって薩長同盟は成立するので
すが、それはあくまで薩長が力を合わせて幕府を倒すためと考え
る方がスジが通っています。
 ここでドラマ製作者は、龍馬に「抑止力」と考え方をいわせよ
うとします。何だか沖縄の海兵隊論争のようなものを持ち込んで
くるのです。薩長が同盟を結び圧倒的な勢力を持てば、幕府は大
政奉還に応ずる──こういう理屈です。このように大河ドラマで
は龍馬はあくまで平和主義者で、戦争には反対する人物として型
にはめようとしているのです。
 実際に龍馬は「四境戦争」──第2次の長州征討のこと。また
幕府軍が小倉口、石州口、芸州口、大島口の4方から攻めたため
長州側ではそういわれる──この戦争に龍馬自身は参加している
のです。これはシーンに出てきます。慶応2年(1866年)の
ことです。
 これについて、龍馬は次のように兄の坂本権平に書き送ってい
るのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 蒸気船で、薩摩から長州へ使いに行ったとき、頼まれてよんど
 ころなく、長州の軍艦をひきいて戦争しましたが、これは、な
 んの心配にいらない、面白い出来事でした。
                   ──『正論』11月号
―――――――――――――――――――――――――――――
 本当に龍馬が大河ドラマで描くような平和主義者であったなら
戦争に参加して「面白い出来事でした」というでしょうか。
 龍馬の有名な言葉に「日本を今一度せんたくいたし申し候事に
いたすべく・・」というのがあります。
 この「せんたく/洗濯」という言葉にはひとつの思想があると
松浦氏はいいます。古いものを捨ててすべてをまるごと取り替え
るのが外国風の革命思想であるとすれば、「せんたく」というの
は、古いものを捨てずに、それを洗って一から出直すというのが
日本流の「維新」の思想であるというのです。
 この「せんたく」という言葉の出てくる龍馬の手紙は、姉に宛
てた次の手紙です。史料については松浦光修氏が現代語に訳して
いるものを引用します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 まことに嘆かわしいことは、長州で(外国の軍艦との)戦争が
 はじまり、先月から6回の戦いがありましたが、日本は敗色が
 濃厚です。あきれたことに、長州藩と戦った外国の軍艦を、幕
 府は江戸で修理してやって、それで、また長州藩との戦いに向
 かわせています。これらのことは、すべて幕府の悪い役人たち
 が、外国人どもと内通してやっていることです。役人たちには
 かなりの政治力があり、人数も多くいますが、私は、2つか3
 つの大名家と、緊密に連携し、同志を集め、天皇のもとにある
 朝廷から、まず神国・日本(原文「神州」)を維持する基本政
 策を発表したいと思います、そしてそのあと、江戸にいる心あ
 る人々(旗本とか大名とか、そのほかにも、いろいろな人々)
 と心をあわせて、先に言った幕府の悪い役人たちと戦争し、う
 ち殺して、日本をもう一度洗濯したい・・・、私はそう神さま
 にお願いしています(原文「神願にて候)」(文久3年〔龍馬
 29歳〕6月29日付・坂本乙女宛の書簡)
                   ──『正論』11月号
                  現代語翻訳/松浦光修氏
―――――――――――――――――――――――――――――
 この手紙で龍馬は、外国と通じて、外国の艦隊の方を支援する
幕府の役人への怒りを爆発させています。「幕府の悪い役人たち
と戦争し、うち殺して、日本をもう一度洗濯したい」──とても
平和主義者のいうセリフではないのです。
 坂本龍馬は強い尊王思想を持っています。それは彼の次の和歌
によくあらわれています。
―――――――――――――――――――――――――――――
  月と日と むかしをしのぶ 湊川 流れて清き 菊の下水
―――――――――――――――――――――――――――――
 龍馬は、当時の志士らしい志士と同じように、皇室を尊び、さ
らには、忠臣・楠木正成を敬慕していたことが、この歌から十分
読みとれます。本当の龍馬と大河ドラマの龍馬とはかなり差があ
るようです。       ─── [新視点からの龍馬論/02]


≪画像および関連情報≫
 ●楠木正成について
  ――――――――――――――――――――――――――
  楠木正成は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。
  建武の中興の立役者として足利尊氏らと共に活躍。尊氏の
  反抗後は南朝側の軍の一翼を担い、湊川の戦いで尊氏の軍
  に破れて自害した。鎌倉幕府からは悪党と呼ばれた。明治
  以降は「大楠公」と称され、明治13年(1880年)に
  は正一位を追贈された。      ──ウィキペディア
  ――――――――――――――――――――――――――

松浦光明教授と「正論」11月号.jpg
松浦光明教授と「正論」11月号
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2010年10月06日

●「龍馬の剣術修行にはウラがある」(EJ第2912号)

 ペリーが浦賀に来航したのは嘉永6年(1853年)6月のこ
とです。そのとき龍馬は江戸にいたのです。4月に北辰一刀流・
千葉道場に入門していたのです。
 ここで千葉道場について少し述べておきます。龍馬が入門した
のは、当時桶町にあった千葉定吉の北辰一刀流道場です。ところ
で、剣豪小説に出てくるのは千葉周作であり、北辰一刀流の創始
者です。千葉定吉というのは、千葉周作の実弟であり、周作を補
佐するかたわら、自らも道場を開いていたのです。
 周作の道場が「大千葉」とされたのに対し、定吉の道場は「小
千葉」と呼ばれていたのです。さて、桶町というのは、一丁目と
二丁目があるのです。一丁目が現在の千代田区八重洲二丁目であ
り、二丁目は京橋一・二丁目の一角にあたりますが、千葉定吉の
道場は現在の八重洲二丁目八番地にあったのです。
 ところが実際に龍馬が剣術を習ったのは千葉定吉ではなく、当
時30歳の長男の重太郎だったのです。定吉は因州(鳥取藩)の
江戸屋敷で剣術師範をつとめていて多忙だったからです。
 嘉永6年6月3日にペリーの率いる米国艦隊が浦賀沖に入港し
たのです。「黒船」といわれる蒸気船に乗ったペリーは大統領の
国書を持参し、幕府に対して通商を要求したのです。
 幕府は狼狽し、米艦隊の江戸湾侵入に備えて、6日に湾岸の芝
(港区)、品川(品川区)に藩邸を持つ諸藩に警備の命令を出し
たのです。これを「臨時御用」というのです。
 土佐藩は品川大井村(品川区東大井)の近くに「鮫洲別邸」と
称する下屋敷を持っていたので、幕府より警備の任が下ったので
す。下屋敷は、幕府の命を受けて江戸にいる藩士に動員をかけた
ので、龍馬も呼び出されたのです。
 このように、幕末という時代の扉が開かれる、まさにその現場
に龍馬は居合わせたことになります。これがその後の龍馬の行動
に大きな影響を与えたことは確かです。龍馬は警備を行いながら
練兵を重ねたのです。
 ペリーは来春の来航を告げ、12日には米国に引き上げて行っ
たのですが、龍馬の臨時御用は続けられ、任務を解かれたのは9
月になってからのことです。
 これでわかるように、龍馬は土佐藩から正式に許可をもらって
江戸に来ているのです。確かに龍馬の父である八平は支配筋の藩
家老・福岡宮内に江戸での剣術修行の許可を願い出て、その記録
は残っているのです。
 しかし、坂本家は郷士、すなわち下士であり、藩を出て江戸に
行くなどいう許可は下りないのです。ところで、坂本家は裕福で
あり、藩への貢物もよく行っていたので、許可されたというのが
通説だったのです。
 しかし、それは違うのです。土佐藩は龍馬に特命を果たすこと
を条件に江戸行きを許可したのです。これについて、龍馬研究の
専門家で、フリーメーソンに詳しい作家の加治将一氏はこれにつ
いて次のように述べているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 龍馬の江戸行きは、藩の家老福岡家の『御用日記』にきちんと
 載っている。形こそ龍馬から、剣術習得願いが提出されたとい
 うことになっているが、下級武士の方からそんな大それた願い
 が出せるわけもなく、また受理されるほど、武家社会は甘くは
 ない。断固たる藩の方針があったのだ。それは若者に剣術を習
 わせるというような、コストパフォーマンスの低いことではな
 く、あくまでも西洋砲術の習得と江戸の情報収集にある。若者
 が江戸に出る、ということはそういうことなのだ。
      ──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 加治氏は藩から龍馬への特命のひとつは剣術ではなく、「西洋
砲術」ということになっていますが、龍馬はそれをどこで学んだ
のでしょうか。
 それは当時砲術塾を開いていた佐久間象山なのです。佐久間象
山は、江戸木挽町五丁目(中央区銀座6丁目)で砲術塾を開いて
おり、各藩は競って藩士を入門させていたこともあり、嘉永4年
(1851年)には門人数は120人もいたのです。
 門人には、大洲藩の武田斐三郎、会津藩の山本覚馬、肥後藩の
宮部鼎蔵、幕臣の勝海舟などの名前があったのです。嘉永5年に
は長岡藩の河合継之助、土佐藩の溝淵広之丞が加わり、嘉永6年
には土佐藩は12人の藩士を入熟させており、12月には龍馬も
砲術塾に加わったのです。もちろん龍馬は剣術と砲術の修業を重
ねたのです。
 ところで、龍馬の剣術の腕前は、どの程度のものであったので
しょうか。
 これにはいろいろな説があるのですが、龍馬が千葉道場から与
えられたのは次の目録なのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
         北辰一刀流長刀兵法目録
―――――――――――――――――――――――――――――
 「長刀」とは薙刀(なぎなた)のことです。かつては歩兵や僧
兵が人馬を薙ぎ払う武器だったのですが、当時は武家の女子の武
術だったのです。
 この事実を知ると、龍馬の剣術の腕はたいしたことはないので
はないかと思う向きも多いのですが、少なくとも「中目録免許」
には達していたとみられる証拠があります。それは千葉定吉が龍
馬を塾頭に任命していることからもわかります。
 またよく知られているように、龍馬は千葉定吉の長女佐那と恋
をして結婚することも取り沙汰されており、千葉定吉自身がそれ
を認めていたという事実です。このことは龍馬の剣の実力が相当
のものであったこと物語っています。佐那自身も凄い剣の使い手
であっただけに、剣の実力が低い龍馬と佐那との結婚を千葉定吉
が許すはずがないからです。おそらく龍馬の実力は大目録皆伝直
前であったと思われます。  ── [新視点からの龍馬論/03]


≪画像および関連情報≫
 ●佐久間象山とはどういう人物か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  松代藩の下士佐久間国善の長男として、松代町浦町に生まれ
  る。幼名啓之助。少年時代から秀才の誉れ高く、天保4年江
  戸に出て佐藤一斎に学び、渡辺崋山・藤田東湖などと親交を
  深めた。同10年江戸神田阿玉池に私塾を開く。同13年藩
  主真田幸貫が老中海防掛となると、顧問として海外の事情を
  研究した。弘化元年黒川良安と蘭学・漢学の交換教授を行い
  オランダの百科辞典などによって洋学の知識を身につけた。
  その後嘉永3年深川の藩邸で砲学の教授を始め、勝海舟・橋
  本左内ら多くの人材を集めた。同6年門人吉田松陰のアメリ
  カ密航未遂事件に連座し、松代に蟄居を命じられた。文久2
  年蟄居を許された。
  ―――――――――――――――――――――――――――

佐久間象山.jpg
佐久間 象山
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2010年10月07日

●「土佐藩とはどういう藩だったのか」(EJ第2913号)

 坂本龍馬の出身地の土佐藩──これがどのような藩であったか
について知っておくことは、龍馬を理解するのに役立つと思うの
で土佐藩について考えてみます。
 藩主の山内容堂以下、吉田東洋、その門下生の後藤象二郎、乾
退助(のちの板垣退助)、岩崎弥太郎など幕末からの時代転換に
大きな役割を果たした人材を多く輩出した土佐藩──土佐藩とは
どういう藩だったのでしょうか。
 戦国時代の中頃の土佐は、土佐国(高知県)長岡郡の岡豊──
おこう──の城主、長宗我部氏が支配していたのです。岡豊は、
現在の南国市のことです。
 長宗我部元親は、天正3年(1575年)に土佐一国の統一支
配に成功しています。続いて元親は、阿波(徳島県)、讃岐(香
川県)、伊予(愛媛県)に進出し、10年の年月をかけて四国全
体を制圧したのです。
 ところが、豊臣秀吉は、長宗我部氏が強大になるのを許さず、
天正13年(1585年)に四国征伐の軍隊を送り込み、元親を
降伏させ、土佐一国だけの支配を許したのです。
 元親は大高坂(おおだかさ──高知市)に城をつくって岡豊か
ら移る計画を立てたのですが、低湿地であったため、城下町の建
設に支障をきたしたので、吾川郡の浦戸に城を作って土佐を収め
たのです。これが土佐藩のはじまりです。
 長宗我部元親の後継は四男の盛親です。盛親はついていない藩
主であったといえます。相続の翌年の慶長5年(1600年)に
関ヶ原の戦いが起こったとき、盛親は西軍として参加し、敗れて
います。関ヶ原の戦いは東軍の徳川家康が勝ち、盛親は土佐を奪
われ、浪人して京都に住んでいたのです。
 そして大阪冬・夏の陣のときには、盛親は大阪城に入って戦っ
たのですが、またしても敗れ、京都で処刑されているのです。こ
れによって長期にわたって土佐を支配した長宗我部氏は、ここに
終焉のときを迎えたのです。
 このようにして天下の覇者になった家康は、長宗我部氏のあと
の土佐24万石の領主として山内一豊を配したのです。慶長5年
11月のことです。
 山内一豊はそれまで遠海(静岡県)の掛川で6万石の知行を得
ていた小規模大名だったのです。それが6万石から24万石の大
名になったので、土佐一国の統治は大丈夫なのかという声が当時
高かったといいます。
 まして土佐には長宗我部氏の遺臣──一領具足──が多く残っ
ており、幕府には徹底抗戦の構えだったのです。長宗我部氏が領
主だったとき、土佐の軍勢はごく少数の長宗我部直臣と農村に生
活の根を下ろす郷士によって編成されていたのです。これらの郷
士のことを一領具足というのです。一領具足というのは、次のよ
うな意味なのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 一領具足は、平時には田畑を耕し、農民として生活をしている
 が領主からの動員がかかると、一領(ひとそろい)の具足(武
 器、鎧)を携えて直ちに召集に応じることを期待されていた。
 突然の召集に素早く応じられるように、農作業をしている時も
 常に槍と鎧を田畑の傍らに置いていたため、一領具足と呼称さ
 れた。また正規の武士であれば予備を含めて二領の具足を持っ
 ているが、半農半兵の彼らは予備がなく一領しか具足を持って
 いないので、こう呼ばれていたとも言う。──ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――――
 山内一豊といえば領地を統治する能力に優れ、最初こそ一領具
足の抵抗を受け、苦労したのですが、必要にして有効なな手をひ
とつずつ打って、一豊の次の世代になって、土佐を安定的に支配
することに成功したのです。
 一豊は長宗我部の浦戸城に入ったのですが、ここでの統治は無
理と考え、大高坂山のふもとに新城──高知城──を築いたので
す。奇しくも大高坂は長宗我部元親が最初に居城を考えた場所で
あり、土佐一国を統治するには大高坂が最適であるという考え方
は同じであったのです。
 山内家が土佐を支配した後、一領具足のうちから新しい性格の
郷士──准家臣──を採用する政策を実施しています。郷士の採
用は、正保元年(1644年)の100人、承応2年(1653
年)の100人というように何度かにわたって行われ、元禄10
年(1697年)を最後として800人ほどの郷士が採用されて
いるのです。
 やがてこの800の郷士の資格が「株」として売買の対象とな
り、町人でもこの株を買えば、郷士になることができたのです。
幡多郡の大規模な町人であった才谷家の八平直益が長男直海のた
めに郷士の株を購入しています。明和7年(1770年)のこと
です。郷士坂本家はこうしてはじまったのです。
 藩政の中心は山内系家臣であり、「上士」と呼ばれたのです。
これに対して郷士は「下士」と呼ばれて低い位置づけを強いられ
たのです。長宗我部氏の遺臣の不満を吸収するための制度であっ
たのですが、既出の加治将一氏は、下士の身分のひどさについて
次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 当時の下士に対する差別は、ひどかった。特に土佐藩は顕著で
 ある。住む場所も城下ではなく、商人や職人が住む郊外。登城
 するさいの服装も、こと細かに規定されており、上士は麻の裃
 に絹の鼻緒が許されていたが、下士は紙の着物などと、待遇は
 極端に蔑まれたものである。さらに、二本差しは許されるもの
 の、百姓、町人と同様、「斬り捨て御免」の対象だったという
 から、やはり武士などとは口幅ったくて決して言えるものでは
 ない。どうあがいても、下っ端は下っ端である。
      ──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
             ──[新視点からの龍馬論/04]


≪画像および関連情報≫
 ●山内一豊とはどういう人物か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  山内一豊は、豪傑というわけでもなく、名将智将というわけ
  でもない。強いて言えば、ひどく生真面目で律義だというの
  が取柄の人物であった。律義といえば、婦人にも律義であっ
  た。実子がいない(女の子がいたが地震で死亡)にもかかわ
  らず、当時の武将としては稀有なことに妻のほかに側室を持
  たなかった。妻を愛していたということもあっただろうが、
  若い時から苦労を共にしてきた妻に対して義理を欠くと思っ
  たのであろう。織田、豊臣と2代に仕え、数多くの戦場を駆
  け巡った一豊が得た所領は遠州掛川6万石。その彼が一躍、
  土佐24万石の大大名になるのは関ヶ原合戦の後のことであ
  る。54才である。
  http://oniheru.fc2web.com/jinbutsu/yamanouchi_kazutoyo.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

山内一豊の像.jpg
山内 一豊の像
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2010年10月08日

●「藩の密命を担った龍馬の江戸留学」(EJ第2914号)

 郷士坂本家は八平直海からはじまったのですが、その時点で弟
の八郎兵衛直清に才谷屋を譲っています。ところで、この才谷屋
というのは、農業の延長としての商業──酒造業を中心に質屋や
呉服商などの諸品販売にまで幅広く商売を発展させており、2代
目の八兵衛正禎(まさよし)にいたっては、八代藩主の山内豊敷
に目通りが許されていたほどです。このとき、坂本家は、まだ郷
士の家格も得ていないのですが、それなのに藩主のお目見えが許
されるのは破格なことです。
 その後郷士坂本家は、八蔵直澄に受け継がれ、八蔵の娘の幸に
入り婿として入籍したのが、八平直足なのです。この八平直足と
幸の長男が権平直方であり、次男が龍馬なのです。
 長男の権平直方と龍馬とは実に21歳の年齢差があり、龍馬か
ら見ると、兄というよりは父に近い存在であったと考えられるの
です。龍馬もそのように接しています。
 これに対して三女の乙女は、龍馬と3才差であり、遊び相手で
もあって、また龍馬にとって読み書きの師でもあるなど、龍馬は
いろいろな影響をこの姉から受けているのです。そのため、龍馬
は自分の行動を逐一姉の乙女に報告しているのです。
 こういう事情から郷士坂本家は、800家もある郷士の中でも
土佐藩としては一目置いている存在であったのです。そのため、
その子弟である龍馬を使って土佐藩の密偵に仕立て上げることは
十分あり得ることです。藩の郷士を密偵に仕立てるといっても、
その役目は誰でも務まるものではないからです。
 まして上士であれば、藩の仕事になるので、としてそのための
資金を用意する必要があるが、郷士の場合、藩としては資金を負
担する必要はなく、資金力のある郷士は使いやすかったのです。
 それは、龍馬が嘉永6年(1853年)12月に佐久間象山塾
に入門したことによっても明らかです。これは本人の意思だけで
はなく、藩の方から指示があったと考えるべきです。佐久間象山
は思想家にして哲学者ですが、蘭学者の黒川良安に師事しており
その基本軸は開国論者なのです。
 この当時の各藩は、江戸の中心部で何が起こっているのか情報
に飢えていたのです。そこで藩士や郷士を使っていろいろな角度
から、情報を探らせていたのです
 既に述べたように、佐久間塾の門下生には、中岡慎太郎をはじ
めとする20名を超える土佐藩士がおり、丸亀の土肥大作、長州
の高杉晋作と久坂玄瑞などいたのです。それに、やはりこの塾で
学んだ吉田松陰、勝海舟、河井継之助なども塾に頻繁に出入りし
ており、情報収集の場としては絶好の場所であったのです。
 おそらく龍馬は、そこで得た情報によって、天地がひっくり返
るほどの衝撃を受けたと思われるのです。何しろ一回目の江戸行
きのとき、龍馬は19歳に過ぎなかったからです。
 しかし、大河ドラマにおける龍馬は、第一回目の江戸行きのと
きから、革命的な思想の一端──藩という狭い次元ではなく、日
本として、日本人として何をすべきかなどと話しているのですが
おそらくその時点では、多くの先達たちの話を咀嚼し、自分の意
思を持つまでには達していないと思われるのです。
 佐久間象山の考え方は具体的であり、その提言は理にかなって
いるのです。例えば、幕府は伊豆の下田を開港して、対米交渉の
窓口にしたのですが、象山はこれに反対し、相模(神奈川県)の
横浜を開くべきだとしてその理由を次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 下田はアフリカの喜望峰とおなじ辺陬の地で、攻めるに難く、
 守るに安い天険の要害である。横浜を開港すれば朝に夕に彼ら
 の動静を観察しうる、のみならず、事があれば陸兵を派遣し、
 銃砲による攻撃が可能だ。江戸に近いのを理由に横浜に反対す
 る声があるが、まったく逆である。江戸に近いからこそ彼らは
 勝手な振る舞いができぬ。         ──高野 澄著
           『坂本龍馬/33年の生涯』/三修社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 安政2年(1855年)に龍馬の父である八平が亡くなったの
です。しかし、龍馬はその次の年の安政3年(1856年)に再
び江戸に向かっているのです。
 龍馬の2度目の江戸行きの目的も剣術修行となっていますが、
これは明らかにカモフラージュであり、藩からの命令であると考
えられます。しかし、このときの龍馬は2年前の田舎者の龍馬で
はなく、曲がりなりにも世間の裏を見聞し、世界情勢をある程度
掴みつつあったのです。このあたりから龍馬は、自分が属する藩
に対しても疑問を抱き、日本というものを意識してとらえるよう
になるのです。
 龍馬の2度目の江戸行きの安政3年(1856年)から安政5
年の2年間には天下の情勢は大きく動きつつあったのです。安政
3年には、米国総領事タウンゼント・ハリスが伊豆の下田に着任
し、安政4年10月に江戸城に上り、13代将軍家定に拝謁して
います。龍馬はこの時期江戸にいて、藩から江戸留学を一年延長
されているのです。江戸が騒然としてきているなかでの諜報活動
の重要性を藩が認識した結果と思われます。
 そして安政5年4月、彦根藩主井伊直弼が大老に就任して、日
米通商条約が結ばれるのです。これに反対する強硬な攘夷論者で
ある水戸斉昭らが将軍の継承問題とからめて暗躍し、それがやが
て井伊大老による弾圧──「安政の大獄」へと発展するのです。
 その江戸には、龍馬と同じ土佐の郷士である武市半平太もきて
いたのです。武市半平太は龍馬よりも6歳上であり、しかも坂本
家とは親戚に当るのです。そういうこともあって、江戸で2人は
連絡を取り合い、会っているのです。この武市半平太自身も藩か
ら密命を受けていたものと思われます。
 「幕府を倒し、天皇を戴く」──つまり、幕藩体制から朝藩体
制への移行です。これについては武市と龍馬の意見は一致してお
り、武市半平太は「土佐勤王党」の結成に向けて精力的に動き出
したのです。        ── [新視点からの龍馬論/05]


≪画像および関連情報≫
 ●「安政の大獄」とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  安政の大獄は、1858(安政5年)から1859年(安政
  6年)にかけて、江戸幕府が行なった弾圧である。事件発生
  当時は戌午の大獄とも呼ばれていた。江戸幕府の大老井伊直
  弼や老中間部詮勝らは、勅許を得ないまま日米修好通商条約
  に調印し、また徳川家茂を将軍継嗣に決定した。安政の大獄
  とはこれらの諸策に反対する者たちを弾圧した事件である。
  弾圧されたのは尊王攘夷や一橋派の大名・公家・志士(活動
  家)らで、連座した者は100人以上にのぼった。
                    ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

井伊大老.jpg
井伊大老
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2010年10月11日

●「第5検審議決と新聞報道」(休日特集号/05号)

 本号はEJの「休日特集号」です。休日特集号は、ウィークデ
イの毎日お送りしているテーマとは別に、休日(日曜・祝祭日)
に必要に応じて不定期にお送りする特別号です。
 10月4日に第5検察審査会の第2回目の議決が公表されまし
た。結果は「起訴相当」。この検察審の第1回目の議決も「起訴
相当」であったので、小沢一郎元幹事長は、「強制起訴」される
ことになります。
 しかし、この議決はどのように考えても不可解きわまるもので
あり、疑惑に満ちているので、今回を含めて何回かEJの「休日
特集号」として取り上げていきます。
 何よりも異常なのは、大新聞とテレビの報道です。これまで新
聞やテレビは、小沢氏の資金管理団体「陸山会」をめぐる政治資
金規正法違反事件について、確たる証拠もないのに、検察のリー
ク情報に基づく猛烈な小沢批判を展開し、「小沢=悪人」のイメ
ージづくりに躍起となってきています。それは誠にうんざりする
ほど執拗きわまる感情むき出しの報道であったと思います。
 これはまさに官僚と報道が一体になって共通の敵である小沢一
郎という政治家の政治生命を断とうとして仕組んだ謀略というべ
きものであると思います。
 そして検察審の2度目の「起訴相当」の議決が出ると、まるで
勝利の雄叫びのように、5日の新聞各紙は一斉に小沢の進退を問
う記事で埋まったのです。そこには、今回の検察審の決定の異常
さを指摘する記事はまったくなかったのです。
 ひとつ例を上げます。10月6日の朝日新聞「天声人語」は次
のように書いて、小沢氏に「政治休職」を勧めています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 郵便不正事件で不当逮捕された村木厚子さんは、5ヵ月も自由
 を奪われ、復職までの1年3ヵ月を無駄にした。立法という究
 極の公務に携わる小沢氏も「政治休職」するのが筋だ。
     ──2010年10月6日付、朝日新聞「天声人語」
―――――――――――――――――――――――――――――
 こと小沢氏の問題になると、他の新聞もそうですが、とくに朝
日新聞の論説は冷静さを失い、その論理は支離滅裂になるようで
す。村木氏は、検察の不当な犯罪によって自由を奪われ、休職を
余儀なくされたのです。「天声人語」はこれを引き合いに出し、
だから小沢氏も休職せよと迫っているのです。しかし、小沢氏は
逮捕されていないし、これまでに検察から何回も取り調べを受け
た結果、3回も不起訴になっているのです。
 まして、検察審の「起訴相当」は検察による起訴とはまったく
性格の異なるものなのです。この「天声人語」の論調について、
ジャーナリストの上杉隆氏は、次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 (「天声人語」は)村木さんが酷い目にあったのだから、小沢
 氏も酷い目にあうべきだというに等しい。朝日新聞は村木さん
 の悲劇を繰り返さないために、検察批判をしてきたのではない
 のか。ところが相手が小沢氏になった途端「政治休戦」させる
 すなわち議員辞職させるために全く逆の論理をふりかざしてし
 まっている。「天声人語」は、自ら論理破綻の検証をして、訂
 正文を載せた方がよいのではないか。
     ──『週刊ポスト』10/22/緊急寄稿/上杉隆氏
―――――――――――――――――――――――――――――
 もうひとつ指摘しておきたいことがあります。9月19日付の
朝日新聞の社説です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 市民の力を信じる──ごく当たり前の話なのに、それを軽んず
 る姿勢が社会的立場の高い人の言動に垣間見えることがある。
 裁判員と同じく一般の市民がかかわる検察審査会制度について
 (略)ジャーナリストの鳥越俊太郎氏は新聞のコラムで「『市
 民目線』と持ち上げられてはいるが、しょせん素人の集団」と
 書いた。   ──2010年9月19日付「朝日新聞」社説
―――――――――――――――――――――――――――――
 全国紙が社説において、ジャーナリストの個人名を出して批判
するのは実に珍しいことです。これは、鳥越氏が毎日新聞の自分
のコラム「ニュースの匠」で、朝日新聞を次のように批判したこ
との意趣返しと思われるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 それにしても小沢氏が代表選出馬を表明した翌朝の新聞各紙の
 見出しはひどかったですねぇ。(略)「小沢氏出馬へ」あいた
 口がふさがらない」(朝日新聞)・・・だって、あいた口がふ
 さがらないのはこっちだよ」。 ──『週刊現代』10/23
―――――――――――――――――――――――――――――
 鳥越氏も指摘するように、この検察審制度は不可解なことが多
過ぎるのです。最大の疑問点は「すべてが非公開」であるという
ことです。11人の審査員、審査員の選定経過、審査の内容、審
査日時、議決日時などすべてが非公開なのです。
 いま冤罪が大きな社会問題になっているのに、こういう不可解
な制度を作り、起訴の決定をする。鳥越氏が「市民目線」という
言葉に違和感を持つのは当然です。何しろ秘密裡に選ばれた11
人の審査員が短期間で起訴するかどうかを決めてしまう──恐ろ
しい話です。まるで中世の魔女裁判と同じです。
 裁判員制度の一環といいますが、裁判員の選定はきわめて慎重
行われるのです。先般の押尾裁判では、審査員が押尾のファンか
どうかを慎重に調べていますが、小沢氏については、そういう配
慮はしているのでしょうか。
 新聞やテレビが不起訴になっている小沢氏を徹底的に叩いてイ
メージを落としているなかで、秘密裡に選定された審査員が、国
民の代表の名の下に感情的にかつ予断を持って「起訴相当」を出
している──少なくとも議決書をていねいに見ると、それは明確
に指摘できます。参考までに「起訴相当」の議決書の「まとめ」
を関連情報として掲載しておきます。
 詳細な検討は「休日特集号」第6号以降において述べていくこ
とにします。            ── [休日特集/05]


≪画像および関連情報≫
 ●第5検察審査会/第2回議決書の「まとめ」
  ―――――――――――――――――――――――――――
  以上の証拠に照らし、検察官が小沢氏と3被告との共謀を認
  めるに足りる証拠が存するとは言い難く、結局、本件は嫌疑
  不十分に帰するとして不起訴処分としたことに疑問がある。
  検察官は起訴するためには、的確な証拠により有罪判決を得
  られる高度の見込みがあること、すなわち、刑事裁判におい
  て合理的な疑いの余地がない証明ができるだけの証拠が必要
  になると説明しているが、こうした基準に照らしても、本件
  で嫌疑不十分として不起訴処分とした検察官の判断は首肯し
  難い。      ──2010年10月5日付、産経新聞
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●図出典/『週刊ポスト』10/22号より

「小沢強制起訴」に対する各紙社説.jpg
「小沢強制起訴」に対する各紙社説
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2010年10月12日

●「尊皇開国と佐幕開国の違い」(EJ第2915号)

 ドラマでも映画でも「幕末ものはヒットしない」とよくいわれ
ます。現在放映中のNHKの大河ドラマの『龍馬伝』も最初のう
ちは視聴率は高かったのですが、最終章に入っている現在は視聴
率が下がっているようです。
 ドラマは台本次第といわれますが、それ以外にも幕末のドラマ
には、次の3つのことは間違いなくあると思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
     1.幕末の政治情勢が複雑でわかりにくい
     2.難しい言葉が多く内容がわかりにくい
     3.登場人物の人間関係が入り組んでいる
―――――――――――――――――――――――――――――
 このうち1と3については、このテーマを書き進めるなかで明
らかにしていくつもりです。2については、その前に明確にして
おく必要があります。言葉の問題からはじめましょう。
 坂本龍馬のことを書いた本には、「尊王攘夷」(そんのうじょ
うい)という言葉が出てきます。「攘夷」というのは「夷敵(外
国人)を排斥する」という意味ですが、「尊王」とは何を意味す
るのでしょうか。なお、「尊王」は「尊皇」と書くこともあるの
です。どう違うのでしょうか。
 「尊王」は、中華思想にある概念です。意味は、「王を尊ぶべ
し」ということになります。「尊皇」とは、尊王から派生した日
本独自の概念です。いうまでもなく「天皇を尊ぶべし」というこ
とになります。ですから、日本では「尊皇」になります。
 これに関連して「勤王」という言葉あります。日本でいうと、
「勤皇」ということになります。これは「王(皇)のために勤め
る」という意味であり、「王(皇)のために殉死できる」という
意味を持ちます。
 もうひとつあります。榊原英資氏は「龍馬は佐幕開国派」であ
るといっています。「佐幕」とは何でしょうか。
 「佐幕」とは、「幕府を慕い、補佐する」という意味です。い
うまでもなく、幕府は、武士による政治機関の名称であり、その
代表は天皇により任命される「征夷大将軍」です。よく「尊皇」
と「佐幕」は対立概念といわれていますが、必ずしもそうとはい
えないのです。なぜなら、幕府を尊ぶことは、天皇を尊ぶことに
つながるからです。
 とくに幕末期において、第14代将軍家茂と孝明天皇の妹であ
る和宮との婚姻が成立し、天皇家と幕府の親密な関係が築かれて
いたのです。したがって、佐幕と尊皇は本来相対する概念ではな
いのです。
 しかし、尊皇攘夷はある事件を契機にして、倒幕運動に姿を変
えていくのです。それは、次の2つの武力衝突のことです。
―――――――――――――――――――――――――――――
          1.薩英戦争
          2.下関事件
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1は「薩英戦争」です。1862年9月14日のことです。
薩摩の島津久光が江戸からの帰国途中、相州生麦村(現横浜市鶴
見区)を通過のさい、行列に馬で乗り入れた上海の英国の商人、
C.L.リチャードソンら4人を殺傷するという事件が起こった
のです。これを「生麦事件」といいます。
 「薩英戦争」は、この生麦事件の解決を迫る英国と薩摩藩の間
で戦われた鹿児島湾における砲撃事件のことをいうのです。鹿児
島では「まえんはまいっさ」──前の浜戦と呼ばれています。薩
摩藩は砲撃に関しては相当自信をもっていたのですが、結果は英
国の一方的な勝利だったのです。歯が立たなかったのです。
 第2の「下関事件」とは、幕末に長州藩と英、仏、蘭、米の列
強4国との間に起きた、前後2回にわたる武力衝突事件です。馬
関戦争ともいいます。
 前段は、1863年5月、攘夷実行という大義のもと長州藩が
馬関海峡(現関門海峡)を封鎖し、航行中の米仏商船に対して砲
撃を加えたのです。
 約半月後の6月、報復として米仏軍艦が馬関海峡内に停泊中の
長州軍艦を砲撃し、長州海軍に壊滅的打撃を与えたのです。とこ
ろが長州はひるまず、砲台を修復した上、対岸の小倉藩領の一部
をも占領して、新たな砲台を築き、海峡封鎖を続行したのです。
 後段は、前年からの海峡封鎖で多大な経済的損失を受けていた
英国は、長州に対する懲戒的報復措置をとることを決定し、仏・
蘭・米の3国に参加を呼びかけて、艦船17隻で連合艦隊を編成
し、同艦隊は8月5日〜7日に馬関(現下関市中心部)と彦島の
砲台を徹底的に砲撃して、各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊し
たのです。 長州藩は徹底的に叩き潰されたのです。
 この薩英戦争と下関事件の2つの武力衝突によって、現在の日
本の戦闘力ではとうてい攘夷など不可能であると悟った両藩は、
その矛先を幕府に変えていったのです。つまり、倒幕です。
 さらに単純な攘夷論ではなく、国内統一を優先して、外国との
交易によって富国強兵を図り、諸外国と対等に対峙する力をつけ
たうえで攘夷を行う「大攘夷論」が出てきたのです。
 攘夷運動の主力であった長州藩と薩摩藩は、この大攘夷論の考
え方を受け入れ、事実上開国論へと転向していくのです。しかし
幕府は倒さなければならないとし、「尊皇開国+倒幕」の立場に
立ったのです。
 これに対し「佐幕開国」という考え方があります。あくまで幕
府主導で開国を行うという考え方です。将軍家茂もこの考え方で
あったのです。榊原英資氏は、坂本龍馬はこの「佐幕開国派」で
あったと主張しているのです。
 NHK大河ドラマの龍馬もそれに近い考え方で描かれているよ
うに思います。どちらが正しいのかはこれから検証していくなか
で明らかにしていきます。言葉の問題は、この程度のことを承知
していれば十分であると思います。
              ── [新視点からの龍馬論/06]


≪画像および関連情報≫
 ●『演出に当たって』──大友啓史氏
  ―――――――――――――――――――――――――――
  人が人を惹きつけるのは、決してその人が語る「内容」のみ
  ではないと思います。それは、「誰が発するか」に拠るとこ
  ろが大きい。その人が発する声は、「音」―でもある。その
  人の発する仕草や佇まいは、「匂い」―でもある。龍馬が人
  を惹きつけたのも、彼の「声」や「仕草」、「匂い」ではな
  かったか・・・改めてそう思います。それは、「論理」+ア
  ルファの世界・・・感覚的な、「音楽的な装い」に近かった
  のではないか・・そうも、思います。(一部略)歴史の中に
  いる「龍馬」ではない、現代を生きる「龍馬」。それは、演
  じるまでもない―そこに「福山雅治」がいるだけでいいので
  はないだろうか。演出にとって、そう思えることこそが「最
  大の武器」になります。歴史から解き放たれた「龍馬=福山
  雅治」を、目の前で見てみたい・・・それが、今回の僕の強
  い演出願望につながっています。「創造する現場」を武器に
  福山雅治さんと共に、現代に甦る活き活きとした龍馬像を創
  意工夫を尽くして作り上げたい・・・そう願っています。
   http://www3.nhk.or.jp/drama/html_news_ryouma.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

福山雅治氏.jpg
福山 雅治氏
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2010年10月13日

●「土佐勤王党結成の時代背景を探る」(EJ第2916号)

 ここで武知半平太について述べる必要があります。NHKの大
河ドラマでは大森南朋(なお)が演じていた役柄です。大森南朋
はなかなか人気のある俳優であり、武知半平太が切腹して果てる
シーンのあと、大河ドラマの視聴率が落ちたといわれます。
 それはさておき、武知半平太は通称名であり、正しくは武知瑞
山(ずいざん)というのです。当時の土佐藩における武知瑞山の
家は、上士でも下士でもない中間的地位の「白札」であったので
す。階級を詳しく書くと、次のようになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
  ●「藩主」
   ≪上士(士格)≫
    ・家老/中老/物頭/馬廻/小姓組/留守居組
   ≪白札≫
   ≪下士(軽格)≫
    ・郷士/用人/徒士/組外/足軽/庄屋
   ≪地下浪人≫
―――――――――――――――――――――――――――――
 武知瑞山は、小野派一刀流の剣術指南として名声を博し、嘉永
2年(1849年)には、高知城下の田淵に道場を移し、120
人を超える門弟がいたといわれます。
 その門弟の中には、中岡慎太郎、久松喜代馬、岡田以蔵、五十
嵐文吉などがいたのです。武知瑞山は、安政2年(1856年)
に江戸に出て、弟子の岡田以蔵とともに鏡新明智流の桃井春蔵に
学び、やがて桃井の塾頭になって、剣名を轟かせたのです。
 ときの土佐藩主は、山内豊信──この人は大河ドラマでは近藤
正臣が演じており、ただの酒飲み藩主のように見えますが、幕末
の四賢侯といわれるほど優れた藩主だったのです。そのため、幕
府からも尊皇攘夷派からも大きな期待が寄せられていたのです。
 土佐藩主山内豊信は、吉田東洋を登用して土佐藩の財政立て直
しを進めていたのですが、下の者の意見もよく聞き、武知瑞山も
当初は高く評価していたのです。ちなみに、幕末四賢侯とは次の
4藩主のことをいいます。
―――――――――――――――――――――――――――――
       土佐 藩主 ・・・・ 山内豊信
       福井 藩主 ・・・・ 松平春嶽
       宇和島藩主 ・・・・ 伊達宗城
       薩摩 藩主 ・・・・ 島津斉彬
―――――――――――――――――――――――――――――
 山内豊信は揺れ動く幕末の情勢に土佐藩としてどう動くか判断
を決めかねていたのです。彼は思想としては開明的であったので
すが、その根っこは封建的な藩主であって、公武合体による幕藩
体制の維持を考えていたのです。
 しかし、ときの情勢は予断を許さぬものがあり、幕末の時流に
うまく乗る必要があると考えてもいたのです。そのため、豊信は
「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄されていたといいます。こ
ういう藩主ですから、武知瑞山や龍馬を使って江戸の情勢を探ら
せていたという話は真実であったと思います。
 豊信は佐幕派ではあったのですが、将軍には人を得る必要があ
ると考えていたのです。13代の将軍・徳川家定が病弱で嗣子が
なかったため、豊信をはじめとする四賢侯と水戸藩主である徳川
斉昭たちは一致して徳川慶喜を次期将軍に推していたのです。
 しかし、安政5年(1858年)4月に大老の地位に就いた井
伊直弼は、その強権をもって将軍継嗣問題や条約調印問題などの
懸案事項を強引に解決しようとしたのです。6月19日、日米修
好通商条約に勅許を得ないまま調印するや、6月25日、紀州藩
主である徳川慶福を将軍世嗣とすることを発表し、慶福が第14
代将軍家茂に決まったのです。
 山内豊信はこれに反発し、安政6年(1859年)2月に隠居
願いを幕府に提出し、藩主を息子の豊範に譲っているのです。井
伊大老は、地位を利用してこのさいに政敵を排除しようとして、
同年10月に斉昭・春嶽・宗城らと共に幕府より謹慎の命が下っ
たのです。いわゆる安政の大獄の一環です。
 安政の大獄はその後大きくエスカレートし、その反発は極限に
達し、安政7年(1860年)3月3日、井伊大老は、桃の節句
の祝儀に江戸城に参上する途中、桜田門において、水戸・薩摩の
浪士たちに襲われ、命を落としたのです。享年46歳、最も仕事
のできる年代だったのです。
のちに隠居の身となった豊信は当初、「忍堂」と号したのですが
のちに「容堂」に改めたのです。ところで、井伊直弼が暗殺され
たと同時に、自動的に謹慎を解かれた形になった山内容堂ですが
江戸は品川の屋敷の窓という窓を全部開け放ち、「わしの謹慎は
終わりじゃ!」と叫んだといわれます。それ以後、隠居の身であ
りながら、藩政に影響を与え続けることになるのです。大河ドラ
マでは、藩主豊範はまったく出番が与えられていないのです。
 一方、武市瑞山は、文久元年(1861年)9月に「土佐勤王
党」を結成しています。参加者は瑞山を筆頭として、192名で
あり、当時27歳の坂本龍馬も9番目に署名しています。土佐勤
王党は、土佐藩を尊皇攘夷で統一するという結社であり、長州藩
の桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞らとも連携しながら、結党にこ
ぎつけたのです。この192名という人数ですが、6人を瑞山は
あえて外しています。これらの6名は吉田寅太郎、岡田以蔵など
山内容堂に名簿を提出するさい、問題になりそうな名前をあえて
カットしているのです。
 山内容堂自身は、朝廷という「公」と幕府という「武」の、い
わゆる「公武合体」が日本の求心力になると考えており、武市瑞
山の考え方に必ずしも賛成ではなかったのです。そこで吉田東洋
を参政として藩政を改革しようとしていたのです。しかし、土佐
勤王党の結党を認めています。これによって、土佐勤王党は藩内
に一定の勢力を築いたのです。
            ――─ [新視点からの龍馬論/07]


≪画像および関連情報≫
 ●『龍馬伝』における武市半平太像について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  『龍馬伝』における武市半平太の描かれ方は、非常に特殊で
  あり、常に揺れ動き続けていたと思います。プロデューサー
  ・脚本家・演出家・俳優、すべてが最後まで人物造形につい
  て悩んでいた事が如実に伝わってきます。そしてやはりこの
  大河ドラマにおける武市半平太像は、一言で表現すれば「失
  敗であった」と言わざるを得ません。もちろん見所がまった
  くなかったわけではありませんし、個々のシーンとしては良
  い部分もあった。しかし、全体を見れば、成功しているとは
  言いがたい。以下にその理由を考察します。
   http://mousoutaiga.blog35.fc2.com/blog-entry-400.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

武市瑞山.jpg
武市 瑞山
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2010年10月14日

●「開国から攘夷へ/幕府方針の変更」(EJ第2917号)

 井伊大老が暗殺されたあと、土佐藩では、吉田東洋の進める公
武合体派と武市瑞山の率いる土佐勤王党の内部抗争が一段と激化
するのです。公武合体派のほとんどは藩主を含め上士であり、こ
れに対する土佐勤王党は下士ばかりであったので、期せずして上
士と下士の対決色が強くなったのです。
 そのときの土佐藩主は山内豊範でしたが、豊範は公武合体派で
はあったものの、どちらかというと、武市瑞山の意見に耳を傾け
るところがあったのです。
 しかし、吉田東洋は、武市瑞山の度重なる「一藩攘夷」の献策
にまったく聞く耳を持たず、献策をことごとく退けたのです。い
うところの「門前払い」です。
 武市瑞山から見れば、吉田東洋はいわゆる抵抗勢力であり、そ
れを退けて藩内革命をしないと、コトは進まない──このように
考えるようになっても不思議はなかったのです。龍馬はそういう
武市瑞山に少しずつ距離をおくようになっていったのです。
 文久2年(1862年)4月8日夜、吉田東洋は那須信吾ら3
名の土佐勤王党同志に襲われ、惨殺されてしまいます。もともと
吉田東洋の政治基盤は強固ではなく、前藩主の山内容堂だけが頼
りだったのですが、その容堂はこの時期江戸で謹慎中の身であり
その政治力が弱くなっているときを狙って暗殺は実行されたので
す。容堂としては、土佐勤王党が過激路線を取ることを警戒して
いたのですが、それを防げなかったのです。
 吉田東洋の暗殺を受けて土佐の藩論は大きく変わったのです。
武市瑞山の狙い通り、それまで吉田東洋によって押さえつけられ
ていた藩内の攘夷派は、藩主山内豊範を擁して京都に上がり、朝
廷のもとで国事を尽くすようになったのです。そのとき、警備の
ため、土佐勤王党は藩主に同行しているのです。
 これに加えて、土佐勤王党は、三条実美と姉小路公知が勅使と
して江戸に向かう際にも警備のため同行しています。このときが
武市瑞山と土佐勤王党の絶頂期であったといえます。
 ところで、三条実美と姉小路公知が勅使として江戸に行くとい
う話については少し説明がいると思います。
 井伊大老が暗殺された後、老中の首座には磐城平藩主の安藤信
正、老中には一橋派の関宿藩主の久世広周が就任します。彼らは
井伊大老時代の幕府と朝廷との深刻な対立を何とか解消したいと
考えたのです。
 ときの孝明天皇は、まだ20代の青年で、かなり活発な性格で
あったといわれます。当時の天皇・朝廷は、長崎などを通じて豊
富な情報を有していた幕府と違って、ほとんど情報が入ってこな
い状況にあったのです。そういう状況では若き孝明天皇が攘夷に
傾斜するのは当然であったといえます。
 そこで安藤・久世政権は、一発逆転の提案を朝廷に対して行う
のです。それは、孝明天皇の妹の和宮と第14代将軍家茂を結婚
させ、天皇・朝廷と幕府とを和解させようとしたのです。いわゆ
る「和宮降嫁」です。
 この実現に尽力したのが岩倉具視なのです。安政の大獄によっ
て、それまで権力を握っていた鷹司政通や近藤忠煕が失脚し、岩
倉具視らが台頭していたのです。岩倉は「王政復古」を狙ってい
たのですが、その第1段階として幕府と近くなっておくことは得
策であると考えたのです。
 説得は簡単なことではなかったのですが、結局孝明天皇は、岩
倉具視の建言を受け入れて「和宮降嫁」が決定するのです。しか
し、和宮降嫁には大変な条件が付いていたのです。その条件とは
幕府は7〜8年以内に攘夷を行うというものです。
 幕府は老中首座の阿部正弘から井伊直弼まで一貫して開国政策
を展開してきたのですが、公武合体のためにこの実施困難な条件
を飲んでしまうのです。
 さて、和宮が正式に結婚したのは文久2年(1862年)のこ
とです。1860年代前半は日本では、実にいろいろなことが起
こっているのです。1860年の井伊直弼の暗殺、1861年の
土佐勤王党の結成、1862年の吉田東洋暗殺、そして和宮降嫁
と続くのです。
 それでは、三条実美と姉小路公知が勅使として江戸に行くとい
う話は、何なのでしょうか。
 三条実美とは、急進尊皇攘夷派の公卿の代表であり、条約の勅
許の是非が問題になると、その前面に出てきて内外の注目を集め
た人物です。実美の父の実方の養女、正姫が山内容堂の妻になっ
ていることから、土佐藩とは深い関係にあったのです。姉小路公
知も三条実美と共に尊皇攘夷派の有力な公卿です。
 1862年11月に朝廷は、三条実美と姉小路公知を勅使とし
て江戸に派遣し、幕府に攘夷決行を迫ったのです。そのとき、武
市瑞山は、姉小路家の公卿侍となり、柳川左門と変名して、勅使
一行に随員しているのです。武市瑞山の率いる土佐勤王党の士気
は上がる一方であったのです。
 しかし、安藤・久世政権のこの決断が、その後の幕末の混乱を
一層激しいものにしたといえます。これについて榊原英資氏は次
のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 安藤・久世政権の公武合体策は確かに政治的には望ましいもの
 であったかもしれませんが、それまで幕府が維持してきた、現
 実的かつ開明的な開国政策を犠牲にしたという意味で大変問題
 でした。幕府が孝明天皇や朝廷の非現実的、かつ観念的な壊夷
 論に屈してしまったことが、幕末から維新にかけでの混乱に拍
 車をかけることになります。 ──榊原英資著/朝日新聞出版
        『龍馬伝説の虚実/勝者の書いた維新の歴史』
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここまでの武市瑞山の働きは、土佐藩に対する大きな功績であ
り、1863年に武市瑞山は、白札から「上士格留守居組」への
昇進が決まったのです。しかし、これは山内容堂の策略であった
のです。         ――─ [新視点からの龍馬論/08]


≪画像および関連情報≫
 ●三条実美について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  江戸時代後期、幕末から明治の公卿、政治家である。明治政
  府の太政官では最高官の太政大臣を務めた。内閣制度発足後
  は最初の内大臣を務めている。藤原北家閑院流の嫡流で、太
  政大臣まで昇任できた清華家のひとつ・三条家の生まれ。父
  は贈右大臣・実万、母は土佐藩主・山内豊策の女・紀子。妻
  は関白・鷹司輔煕の九女・治子。「梨堂」と号す。華族制度
  の発足後は本人の功が考慮され、公爵となった。
                    ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

三条実美.jpg
三条 実美
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2010年10月15日

●「青蓮院令旨事件と3人の切腹」(EJ第2918号)

 武市瑞山の率いる土佐勤王党は、尊皇攘夷の追い風に乗って、
土佐藩においてその存在感を拡大してきたのですが、その勢いに
乗ってというか、大失敗を冒してしまうのです。それが「青蓮院
令旨事件」なのです。
 既に述べたように、山内容堂は、過激な改革は望まず、穏健な
改革を志向していたのです。容堂は土佐勤王党のリーダーである
武市瑞山を上士に取り立てその働きに対して評価している一方で
吉田東洋を亡きものにして土佐藩を尊皇攘夷路線に変更させよう
とする強引な動きに不快感を持っていたのです。
 尊皇攘夷路線にするということは、幕府を倒すということが前
提になるからです。倒幕に対する容堂の考え方は次のようなもの
であり、武市瑞山に対してもこの考え方を何回も繰り返して説い
て聞かせていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 いま土佐藩は朝敵でない限り、徳川家に背くことはできない。
 徳川家に対して、長州藩には関ケ原の合戦に敗れて領地を削ら
 れた怨みがある。だが、わが土佐の山内家は6万石から20万
 石に加増されている。徳川家への恩は深い。 ──山本 大著
        『坂本龍馬/知れば知るほど』/実業之日本社
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、武市瑞山はそれでも土佐藩の現状に満足していなかっ
たのです。京都に常駐する機会が多くなった土佐勤王党の党員は
自然に京都の公卿との付き合いも多くなるなかで次のようなこと
が起こったのです。
 土佐勤王党の間崎哲馬、平井収二郎、弘瀬健太の3人は、朝廷
の力を借りて山内容堂を動かそうと画策して、次のような行動を
起こしたのです。
 間崎哲馬らは、尊皇攘夷派の公卿である清蓮院宮(中川宮)朝
彦親王から令旨(りょうじ)を受け、容堂の前の藩主である豊資
を動かそうとしたのです。
 令旨とは、もともとは皇太子と3后──太皇太后、皇太后、皇
后──の命令を伝えるために出した文書のことですが、これ以外
にも皇族──女院、親王、諸王──の出す文書も令旨と呼ぶよう
になったのです。この場合は、清蓮院宮朝彦親王の命令書である
ので、令旨と呼ぶのです。
 文久2年(1862年)12月のこと。清蓮院宮からの令旨を
受け取った間崎たちは、土佐に戻り、それを楯に藩政改革を要請
したのです。
 これに対して山内容堂は激怒したのです。藩主豊範の命を受け
ずに陰謀を企てたといって、間崎哲馬、平井収二郎、弘瀬健太の
3人を投獄したのです。
 これに驚いた武市瑞山は、3人の真情を容堂に訴えたのですが
容堂の怒りは解けず、文久3年(1863年)6月に3人に対し
て切腹を命じたのです。これが青蓮院令旨事件の顛末です。実は
この事件が発端なって、山内容堂による土佐勤王党に対する弾圧
が始まったのです。
 この3人のうち、平井収二郎は龍馬と親しく、その妹加尾は幼
なじみで、龍馬の初恋の人といわれていたのです。大河ドラマで
は、加尾役をやったのは広末涼子です。
 ここで話を坂本龍馬に戻します。坂本龍馬の学問は、人と会っ
て教えを聞いて覚える耳学問であったといわれます。何かが得ら
れると感じたら、どんなに苦労してもその人に会いに行く行動力
が龍馬にあったのです。もし、その人が会うのが困難な人であっ
たときは紹介してもらうことによって、目的を果たしたのです。
それは優秀な営業マンそのものであり、龍馬には生まれながらに
して商人としての資質が備わっていたといえます。
 そういう龍馬が20歳のとき会って、その後の考え方に大きな
影響を与えた人物がいます。河田小龍という人物です。河田小龍
は土佐藩でもっともワールドワイドな知識を持っているといわれ
た人であり、土佐藩のお抱え絵師をしていたのです。
 河田小龍の知識を大きく広げたのは、漂流民として11年間も
米国で過ごし、帰国した中浜万次郎──ジョン万次郎の審問を藩
から命じられたことがきっかけなのです。河田小龍は万次郎の取
り調べに当りながら、彼が持ち帰った世界地図を写し取り、それ
を本にして、ときの藩主山内豊信(容堂)に献じています。
 その河田小龍に会ったとき、龍馬はいきなり「いまの日本の時
勢に対処すべき良い策はあるのでしょうか。ご意見を賜りたい」
と切り込んだのです。龍馬20歳、小龍31歳であったのです。
これに対して河田小龍は自分は世捨て人であり、絵師だといって
かわしますが、龍馬の真剣で、熱心な問いかけに対して、次のよ
うに話したのです。
 攘夷などは日本の国力からして難しい。しかし、開港するにし
ても国防は必要である。この国防──攘夷か開国か──これを一
挙に解決する方法があるといって次のことを教えたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 まず商業を興し、金融を自在にすること。その利益で外国船を
 買い、航海術を学びながら、物資の運送によってさらに利益を
 えて経済力をつけると同時に、国を守る海防力とする。それが
 外国に屈伏しない道だ。          ──山本 大著
        『坂本龍馬/知れば知るほど』/実業之日本社
―――――――――――――――――――――――――――――
 このときの世の中は、「攘夷か開国か」で沸き立っていたので
すが、河田小龍は攘夷か開国の二者択一ではなく、第3の道を龍
馬に説いて聞かせたのです。
 このとき以来龍馬は、現実というものを多角的視点、とくに実
利性からとらえるようになったのです。それも個人的な狭い実利
追求ではなく、大局に立った実利です。
 龍馬は「海」と「船」に着眼したのです。船舶を得ることで国
力をつけ、列強の干渉を排除しうる海防とする──この考え方に
着眼したのです。     ――─ [新視点からの龍馬論/09]


≪画像および関連情報≫
 ●河田小龍伝
  −――――――――――――――――――――――――――
  文政7(1824年)〜明治31年(1898年)。土佐藩
  の絵師。文政7年(1824年)に高知城下・浦戸片町に生
  まれる。幼少より絵の上手かった小龍は、南宋画の画家であ
  る島本蘭渓に入門。その才を磨く。翌年には土佐藩でその名
  を博した儒学者・岡本寧浦に入門。儒学などを学ぶ。岡本寧
  浦と親交があり、以前から小龍に目をかけていた吉田東洋の
  すすめで23歳の時に京都・大阪に遊学。京都では南画、大
  阪では書を学ぶ。京都では狩野派・狩野永岳に入門した。そ
  の後、長崎で蘭学なども学んだ。
      http://www17.ocn.ne.jp/~tosa/kawada/kawada.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

平井収二郎と平井加尾.jpg
平井 収二郎と平井 加尾
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2010年10月17日

●「小沢氏はなぜ行政訴訟を起こしたのか」(休日特集号/06号)

 本号はEJの「休日特集号」です。休日特集号は、ウィークデ
イの毎日お送りしているテーマとは別に、休日(日曜・祝祭日)
に必要に応じて不定期にお送りする特別号です。
 小沢一郎民主党元代表は、2010年10月15日、第5検察
審査会の「起訴相当」議決は「無効」であるとして提訴したので
す。国を相手取って行政訴訟を起こしたのです。
 本来であれば、今回の検察審の「起訴相当」はその容疑事実に
問題があることは明白であり、小沢氏としては裁判で争った方が
早く決着が付くし、後顧の憂いなく政治活動に没頭できるのに、
なぜあえて行政訴訟を起こしたのでしょうか。
 それは、強制起訴された小沢裁判に向けて、東京地裁が検察官
役の「指定弁護士」3人を10月22日までに推薦するよう第2
東京弁護士会に求めたことがひとつの原因です。
 検察審の「強制起訴」は、検察の結論──起訴ないし不起訴に
不服があるときに議決するので、検察官ではなく、弁護士の中か
ら検察官役の指定弁護士を数人選任するのです。指定弁護士が決
まると、検察は起訴ないし不起訴に関わるすべての資料を指定弁
護士に渡すことになっているのです。したがって、東京地裁とし
ては、少しでも早く指定弁護士を決める必要があります。
 今回の小沢弁護団の行政訴訟は、第2回の第5検察審の議決が
無効であるという訴えと、指定弁護士の選任の中止を訴えていま
す。それは、選任されようとしている指定弁護士の候補者に問題
のある人物が上がっていると小沢側は見抜いたからです。
 現在、候補に上がっている指定弁護士は次の3人です。
―――――――――――――――――――――――――――――
         1. 吉田繁実弁護士
         2.五十嵐紀男弁護士
         3. 若狭 勝弁護士
―――――――――――――――――――――――――――――
 吉田繁実弁護士は、第2回の検察審の議決の審査補助員です。
11人の審査員は法律は素人と考えられるので、もし今回の「起
訴相当」の議決に問題があるならば、その責任は吉田繁実弁護士
にあります。
 候補として他の2人の弁護士は、2人とも元東京地検特捜部の
検察官、つまりヤメ検なのです。しかも、ただのヤメ検ではない
のです。五十嵐紀男氏は元東京地検特捜部長、若狭勝氏は同副部
長なのです。
 五十嵐紀男氏は、1992年の東京佐川事件や1993年のゼ
ネコン汚職事件──いずれも金丸信元自民党副総裁が絡んだ事件
を手掛けた検事なのです。小沢氏は、いずれも逮捕・起訴された
田中、金丸の弟子と考えられている──これは大きな間違いであ
る──ので、あえてそれに関連のある弁護士を選ぼうとしている
ものと思われます。若狭勝氏はテレビのコメンテーターとして知
られ、一貫して検察審を擁護している元特捜検事です。
 司法試験に合格すると、合格者は裁判官か検察官か弁護士を選
ぶのですが、裁判官や検察官を辞めても弁護士はできるのです。
したがって、弁護士といってもいろいろあり、最初から弁護士を
している人と検事や裁判官をやってから弁護士になった人もいる
ことになります。
 検察審で強制起訴になるということは、検察の下した結論──
起訴ないし不起訴──に対して問題があるという民意の判断です
から、それを裁く検察官役にヤメ検を任命することは望ましいこ
とではないのです。まして特捜部が立件した事件で、その結論に
関わる検察審の強制起訴の裁判に検察官役として元東京地検特捜
部のヤメ検を担当させることは常識的に避けるべきです。
 まして村木事件で検察の信用が根底から揺らいでいるのですか
ら、そういうことをすれば、国民の信頼をさらに損ねることにな
ります。しかし、第2東京弁護士会はヤメ検を検察官役として選
定しようとしているのです。
 小沢弁護団が行政訴訟に討って出たのは、指定弁護士がヤメ検
では、裁判が公平に行われず、不当に有罪にされかねないとの危
機感からです。そこで、検察審の議決自体が無効であると提訴し
検察審に議決のやり直しを求める提訴を行ったのです。
 もうひとつ気になるのは、反小沢、いや殺小沢の筆頭である仙
谷官房長官の存在です。仙谷氏自身も弁護士であり、法曹界に顔
が効き、日弁連にも強い人脈を持っています。現日弁連会長の宇
都宮健児氏は、仙谷氏や枝野氏に個人献金をしている仲であり、
今や検察にも圧力をかけられる存在です。今回の村木裁判の件で
も、検事総長に民間からの任用──宇都宮健児氏の名前も出てい
る──させるぞとブラフをかけているという噂もあります。その
日弁連が指定弁護士を選ぶのですから、スジが違うと思います。
小沢弁護団はこれに危機感を持っているのです。
 なぜ、元特捜検事出身の弁護士を指定弁護士にするのかについ
ては明白な理由があります。それは、小沢氏の秘書3人を取り調
べた全資料を他の弁護士に見られたくないからです。そこには前
田元検事の作成したものも多く含まれているからです。
 もし、それが公判で公開されたら、東京地検特捜部の威信にも
かかわるし、特捜部全体の解体につながる恐れもあるからです。
だから、指定弁護士は特捜部の意をくんで指揮できる身内である
必要があるのです。
 何度もいうように、小沢氏に対する容疑は、検察の不起訴事実
も第5検察審の第1回の起訴相当議決も、土地の代金支払日と登
記の期日がズレているのを虚偽記載とし、小沢氏はそれを知って
いたはずだという「期ずれ」の共同正犯に過ぎないのです。
 ところが第2回の起訴相当議決には、それに加えて別の容疑ま
で含めているのです。これについては、この問題にとくに詳しい
徳山勝氏の次のブログを読んでいただきたいと思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
  http://www.olive-x.com/news_ex/newsdisp.php?m=0&i=12
―――――――――――――――――――――――――――――
 この小沢氏にかかわる検察審の問題はさらに休日特集号で続け
て論じていきます。         ── [休日特集号/06]


≪画像および関連情報≫
 ●小沢氏の行政訴訟はどうなるか
  ―――――――――――――――――――――――――――
  検察審の議決の無効を求める行政訴訟は、小沢氏のケースが
  はじめてになる。そのため最悪の場合は「門前払い」の可能
  性もある。仙谷長官は刑事裁判の中で公訴棄却を申し立てる
  べきと早速批判。しかし、「検察の起訴権についてチェック
  機能を担うのが検察審ですから、行政訴訟になりうる議論」
  という弁護士もいる。それでも地裁が「門前払い」をした場
  合、小沢弁護団は「刑法172条の虚偽告訴罪──昔の誣告
  罪」で検察審のメンバー全員を相手取った訴訟を行う予定で
  あるという。これは「死闘」である。小沢氏は政治生命を賭
  けて国と戦うつもりである。こんなことで、有能な政治家を
  潰してしまってはいけないと考える。
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●写真出典/日刊ゲンダイ/10月16日発行より

五十嵐弁護士と若狭弁護士.jpg
五十嵐弁護士と若狭弁護士
posted by 平野 浩 at 05:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月18日

●「久坂玄瑞に会って脱藩を決意」(EJ第2919号)

 河田小龍に続いて龍馬が影響を受けた人物は武市瑞山です。龍
馬が22歳のときです。坂本家と武市家は遠いながらも縁戚関係
にあり、武市瑞山としても心を許せるからこそ龍馬に土佐勤王党
への加盟を呼びかけたのです。その武市瑞山を介して龍馬が出会
うことになった人物が久坂玄瑞だったのです。この人物によって
龍馬は武市以上に思想上大きな影響を受けたのです。
 久坂玄瑞は萩城下に住む藩医の次男ですが、藩校の明倫館や医
学所で蘭学を学んでいます。兄の夭逝によって家督を継ぎ、長州
藩士となっています。安政4年(1857年)に吉田松陰の松下
村塾に入ったのですが、1歳年上の高杉晋作と共に吉田松陰門下
の双璧といわれたほどの逸材です。とくに松陰に可愛がられ、松
陰の妹を妻にしています。
 龍馬は、江戸留学から戻った後も剣の道の修業は続けており、
文久3年(1861年)10月には『小栗流和兵法三箇条』を許
されています。この直後に龍馬は讃岐丸亀藩への「剣術詮議」を
藩に願い出て、10月11日許可されています。「詮議」という
のは、「評議して物事を明らかにする」ことですが、そこから転
じて「剣の道を追求して極める」意味に用いられるのです。
 実はこの丸亀行きは、武市瑞山の依頼による密使であったとい
われているのです。その証拠のひとつとされるのが、許可を得て
から3日後に龍馬は柴巻(高知市)の古い友人の田中良助のとこ
ろに行き、金二両を借用しているのです。
 なぜ、龍馬はお金を借りたのでしょうか。この時期の坂本家は
お金に困っておらず、丸亀行きの資金は坂本家から出ているので
この2両は修行とは別枠の、家にはいえない資金であったものと
思われます。
 さらに同年11月になって龍馬は芸州(広島)の坊砂でも修行
を行うという名目で、藩に対し、翌文久2年(1862年)2月
までの延期を申請し、これも認められているのです。この坊砂で
の修業は虚偽で萩行きの時間稼ぎと考えられるのです。
 龍馬は丸亀の矢野市之進の道場を拠点として、丸亀藩の藩情を
探っています。これは土佐藩の密命と考えられます。この使命は
10月中に終り、11月1日から大阪に向かっているのです。
 そして龍馬は大阪で武知瑞山からの連絡を待っていたのです。
そのとき久坂玄瑞は江戸にいたのですが、9月に江戸を出立し、
萩に帰国したのは11月の半ばであったといわれています。
 やがて武市から連絡を受けた龍馬は、大阪から萩に向かったの
です。龍馬が萩に到着したのは文久2年(1862年)1月14
日のことです。
 龍馬は直ちに久坂玄瑞へ用件とともに面会を申し入れ、久坂と
会っています。その面談は、15日、17日、21日の3日間に
わたっているのです。久坂の日記である『江月斉日乗』の11月
14日の条には次の記述があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
       土州坂本龍馬、武市書簡携え来訪
―――――――――――――――――――――――――――――
 武市瑞山としては、その時点で久坂に書状を託すほどの用事が
あったわけではないのです。むしろ龍馬に久坂の話を聞かせて、
久坂の尊皇攘夷の大義を吹き込みたかったのです。というのは、
龍馬は土佐勤王党に加盟はしたものの、何かいまひとつ引いてい
るところが武市には見えていたからです。
 ところが、龍馬は久坂玄瑞が次のように激白したことが強く印
象に残ったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 尊攘貫徹の大義に殉ずるなら、藩候の命を待たずに挙兵上洛
 藩国滅亡するも苦しからず         ──久坂玄瑞
―――――――――――――――――――――――――――――
 龍馬が久坂の話で一番驚いたのは、「藩候の命を待たずに挙兵
上洛」ということなのです。「藩命が不要とは驚嘆すべき奴」と
思ったのです。そして、龍馬はそのときはじめて「藩を超える」
という発想にふれたのです。そのときから龍馬は「藩ではなく、
日本が大事なのだ」と思いいたったのです。
 しかし、武市瑞山の考え方は違っていたのです。武市の考え方
について、作家の広瀬仁紀氏は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 武市の思考は、当時の薩摩藩国父だった島津久光に似ていた。
 薩摩藩前藩主の島津斉彬が死没した翌年の安政6年になって、
 薩摩誠忠組が脱藩突出を企図した時、久光は藩主忠義の自筆で
 誠忠組を制止する論告書を差しだした。その文中で久光は、時
 変到来ノ節ハ国家ヲ以テ忠勤ヲヌキンズベキ心得二候、と忠義
 に書かせた。要するに、勤王は藩主を戴いて為せ、という一藩
 勤王論の展開であった。主従の義理にとらわれている武市にし
 たらば、それこそが勤王の典型といえた。藩庁の意向どころか
 藩侯の威光まで等閑に付して同心の者を糾合し、上洛の強行貫
 徹をいう久坂や高杉らとは、その立場を別にしていた。挙藩勤
 王──が、武市の理想とする体制というものだった。
                      ──広瀬仁紀著
           『坂本龍馬七つの謎』/新人物往来社編
―――――――――――――――――――――――――――――
 武市瑞山は、龍馬を久坂玄瑞に会わせて、攘夷の思想を強く持
たせようとしたのに、龍馬の方は久坂の話から、藩という武市が
絶対的に超えられない枠を超える発想を身につけてしまったので
す。この発想を持ったことが、龍馬を脱藩に駆り立てる原動力に
なったのです。
 長州藩では、開国的な長井雅楽(うた)が公武合体策をとって
藩政を握っており、尊攘派を圧迫していたのです。土佐藩も公武
合体派の吉田東洋が参政となって藩政を改革し、武市瑞山率いる
土佐勤王党の献策を退け続けていたのです。長州、土佐両班とも
に藩命不要の草莽決起か、藩内革命かの袋小路に入ってしまって
いたのです。       ――─ [新視点からの龍馬論/10]


≪画像および関連情報≫
 ●久坂玄瑞について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  玄瑞は松下村塾入門の後、幼な友達の高杉晋作に入門をすす
  め、最初はためらいがちだった晋作も松陰に入門した。二人
  は前述したとうり村塾の双璧と呼ばれ、松陰曰く「暢夫(晋
  作)の識を以って、玄瑞の才を行ふ、気は皆其れ素より有す
  るところ、何おか為して成らざらん。暢夫よ暢夫、天下固よ
  り才多し、然れども唯一の玄瑞失うべからず」(高杉暢夫を
  送る叙)と、二人に互いを認めさせ、協力していくことを促
  している。松陰のこうした導きにより、二人は競い合いつつ
  も「玄瑞の才」、「晋作の識」を互いに認め合うのだった。
http://www.geocities.jp/hirokami1024/sisisyunjyu/genzui.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

久坂玄瑞.jpg
久坂 玄瑞
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2010年10月19日

●「龍馬はなぜ脱藩したのか」(EJ第2920号)

 坂本龍馬が脱藩したのは、文久2年(1862年)3月24日
のことです。龍馬の脱藩に関してはいろいろな意見があります。
一番スタンダードな説をはじめにご紹介します。
 萩で久坂玄瑞と会って大きな衝撃を受けた龍馬は、文久2年2
月29日に土佐に帰ってきています。土佐藩から承認をもらった
ギリギリの日の帰還です。
 そのとき、龍馬は久坂玄瑞から武市瑞山への次のような書簡を
託されているのです。読みやすい文体に訳しておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 草莽(そうもう)の志を糾合して義挙する以外には策はないと
 われわれ同志は意を固めています。坂本君にお願いした書状に
 ある件について熟慮のほどお願いします。   ──久坂玄瑞
―――――――――――――――――――――――――――――
 3月3日に土佐勤王党の沢村惣之丞が脱藩したのです。これに
続き、3月7日に同じ勤王党の吉村寅太郎が、同志の宮地宜蔵と
ともに脱藩しています。なぜ、脱藩したのかというと、武市瑞山
に久坂玄瑞の唱える挙兵に参加するよう求めたのに対し、武市が
これを拒否したからです。
 彼らは下関に渡って土地の豪商白石正一郎宅に集結したのです
が、沢村惣之丞は3月22日に武市瑞山のもとを訪れ、再度挙兵
を説いています。しかし、武市は動かなかったのです。既に述べ
たように、武市はあくまで「一藩勤王」を目指しており、藩に逆
らう挙兵に同意するはずがなかったのです。
 このとき、龍馬は、吉村や沢村から脱藩の誘いを受けますが、
すぐには同意していないのです。というのは、龍馬の様子を見て
脱藩を察した兄の権平が龍馬に金を与えなかったからです。しか
し、龍馬の心は既に土佐になく、親戚の広光左門より金10両を
借り入れると、権平には近村へ旅行することを告げて家を出るの
です。文久2年3月24日のことです。当主の権平をはじめ、家
族全員はすべてわかったうえで龍馬を送り出しているのです。
 脱藩とは、その名の通り、藩の政治力が及ぶ圏内から脱走する
ことであり、重罪なのです。その責めは家族にも及び、士籍を剥
奪され、追放処分に処せられることがあるのです。
 しかし、少なくとも坂本家に関する限り、何の咎めも見られな
いのです。脱藩者を出した危険な家として監視の対象になってい
るわけでもなく、龍馬は家族に多くの手紙を出しているし、家族
はそれを受け取っているのです。
 これに関して数多くの龍馬本の作家である加治将一氏は、龍馬
は土佐藩の密偵であるとして、次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 (脱藩のきっかけはなにか?)ここに、凄味ある第三の形態が
 浮かび上がってくる。不祥事を起こそうとする場合、もしくは
 起こすかもしれないと想定した場合だ。具体的には何を指すか
 というと、オルグ活動である。龍馬は他藩の勤皇派と調整を図
 る任務を帯びていた。直接命じたのは土佐勤王党、党首武市瑞
 瑞山(半平太)。しかしその武市もまた、龍馬の処遇について
 は、藩主、山内豊範ラインの許諾を密かに受けていた、とみる
 べきだ。なぜ上層部は認めたのか〜ここで、龍馬のまた別の顔
 が表われる。つまり龍馬は、勤王党のオルグ活動以外にも、藩
 の耳目の任を拝命していたのではないか。すなわち前回同様、
 密偵の要請を藩から受けていたという推測が鮮明に引き出され
 る。   ──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 龍馬の脱藩について書かれた書籍を読むと、龍馬の脱藩にいた
る道筋というか、心の変化には納得できるものがあります。しか
し、土佐藩の郷士があれほど脱藩したにもかかわらず、それに対
する土佐藩の対応はきわめて緩やかなものがあることは確かなこ
とです。脱藩を見て見ぬふりをする藩も多くなっていたのです。
 それに文久2年当時の武市瑞山と藩主豊範とは比較的近く、密
命を受けていた可能性は否定できないのです。ただ、藩の改革に
ついては、前藩主である山内容堂の命を受けて取り組んでいた公
武合体派の吉田東洋と武市瑞山の間には強い確執があったことは
確かです。
 当時の土佐藩の首脳部は、世の中が尊皇攘夷に進むのか、公武
合体になるのか、見極められないでいたのです。何しろ、テレビ
やラジオはもちろんのこと、新聞もない時代ですから、どの藩も
情報には飢えていたのです。
 龍馬のことは、武市瑞山を通じて藩主豊範の耳に入っていたと
思われます。そういう観点から見ると、龍馬は諜報員には不可欠
な次の3つの能力を持っていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
         1.積極的に人に会う
         2.筆まめであること
         3.資金力のある家格
―――――――――――――――――――――――――――――
 龍馬は自分が何かを知りたいと思うと、その人がどんなに遠く
にいても、どんなに苦労をしても、会いに行く積極性があったの
です。その点龍馬は2度にわたる江戸留学で、千葉定吉、佐久間
象山をはじめ、勤皇派に顔を売っており、多くの志士たちに会っ
ているので、既に多くの人脈を持っていたのです。
 さらに龍馬は非常に筆まめであり、多くの人に送った手紙が残
されています。それも単に近況を伝える手紙だけでなく、誰かに
会いに行ったときの感想などをこと細かく関係者に書き送ってい
るのです。この性格も諜報員に打ってつけなのです。
 藩にとって都合がいいことは坂本龍馬は裕福な下士であること
です。諜報活動には多くの資金がいりますが、坂本家であれば、
それを自己調達できる資金力があります。しかも、下士なので、
何か藩に不都合があれば、脱藩者なんか預かり知らぬこととして
切り捨てることができるのです。藩にとってこんな都合の良い話
はないのです。      ――─ [新視点からの龍馬論/11]


≪画像および関連情報≫
 ●「脱藩」という行為について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  戦国時代では、脱藩は主君を違える行為で一般的に発生して
  いたが、江戸時代に入ると、「脱藩は臣下の身で主を見限る
  ものとして」許されない風潮が高まり、討手が放たれること
  もあった。これは、脱藩者を通じて軍事機密や御家騒動など
  が表沙汰になり、藩にとっては致命的な改易が頻繁に生じた
  ことも一因である。幕末には尊皇攘夷が興隆し、藩にいると
  自由に行動できないので脱藩を行い、江戸や京都など政治的
  中心地のおいて諸藩の同士と交流し、志を立てようとする武
  士が増えた。藩の側も脱藩を黙認することが多かった。
                    ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

加治将一著『あやつられた龍馬』.jpg
加治 将一著『あやつられた龍馬』
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2010年10月20日

●「吉田東洋はどういう人物だったか」(EJ第2921号)

 坂本龍馬の脱藩について武市瑞山は、まるでそれを予想してい
たように次のようにいったといいます。
―――――――――――――――――――――――――――――
     あの男は、土佐にはあだたぬ奴じゃきに
―――――――――――――――――――――――――――――
 「あだたぬ」とは、土佐には「おさまりきれない」という意味
であり、武市は龍馬のスケールの大きさを認めていたのです。で
すから、いずれ脱藩することを覚悟していたと思われます。しか
も、武市は龍馬の脱藩を讃える一文まで書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
         肝胆もとより雄大にして
         奇機おのずから湧出す
         飛潜、誰か識るあらん
         ひとえに龍名に恥じず   ──山本 大著
        『坂本龍馬/知れば知るほど』/実業之日本社
―――――――――――――――――――――――――――――
 武市瑞山は、龍馬の脱藩を待っていたかのように、あることを
決行します。あることとは何か。吉田東洋の暗殺です。当時の武
市にとって藩主の山内豊範とは意見が通じているものの、山内容
堂を後ろ盾にする参政の吉田東洋は、一藩攘夷を進める武市の最
大のカベであったのです。
 ちょうど藩主豊範の参勤出府が近づいていたので、城内で祝い
の宴が開かれたのです。集められた重臣のなかに吉田東洋もいた
のです。文久2年(1862年)4月8日のことです。
 夜も更けたので散会となり、東洋は、由比猪内、市原八郎衛門
後藤象二郎などと一緒に下城したのです。連れは途中で別れ、東
洋は若党と草履取りの2名の供を連れて新築の家の前まできたと
き、3人の刺客に襲われ、落命しています。
 刺客は、武市瑞山の指示を受けた勤王党の那須信吾、大石団蔵
安岡嘉助の3人です。彼らは東洋の首を斬奸状を添えて城下の西
外れの雁切橋にさらし、伊予路に逃れています。
 これによって吉田家は断絶になり、嫡子の源太郎は親戚に引き
取られ、養育されることになったのです。東洋の政権を構成した
面々は次々に解職され、土佐勤王党による東洋暗殺は一定の政治
目的を果たしたかに思われたのです。
 ここで吉田東洋について少し述べておきます。吉田東洋は通称
は官兵衛、名は正秋、東洋は号です。3人の兄がいたのですが、
次々と亡くなったので、吉田家の嫡子となっています。天保13
年(1842年)には船奉行になり、郡奉行に昇進しています。
郡(こおり)奉行というのは、藩全体の年貢の収納、民事、治安
などの行政全般を総括する重要職です。
 しかし、東洋は時の藩主の死に殉じて辞職し、学者や文人と交
際して学問に打ち込んだのです。帯屋町の私邸に閑居して読書と
講学に専念するにつれて、おのずと若い人材が集まってくるよう
になったのです。この東洋の門弟の中に、東洋の義理の甥に当る
後藤象二郎がいるのです。このグループを馬淵嘉平を中心とする
革新的な党派である「おこぜ組」に因んで、「新おこぜ組」と称
するようになります。
 時の藩主山内豊信(山内容堂)は吉田東洋を高く評価し、大目
付に登用し、さらに参政(仕置役)の重役に任用し、それ以後、
容堂の片腕的存在になったのです。山内容堂は、藩内の若手の献
策書に熱心に目を通し、優れていると思う者は目通りを許し、意
見を聞く度量があったのです。その目通りを許された中に、あの
武市瑞山も、岩崎弥太郎もいたのです。このシーンはNHK大河
ドラマでも放映されています。
 アメリカ大統領の親書を持って来日したペリーの開国要求に対
し、東洋は「開国拒否」の一文を示すと、この文書は容堂を通じ
て幕府に提出され、以後土佐藩の公式な姿勢となったのです。容
堂がいかに東洋を買っていたかを示すものです。
 これほど容堂から買われていた吉田東洋ですが、どうやら酒癖
の悪い欠点があったようです。安政元年(1854年)の容堂の
参勤に随行した東洋は、藩邸の酒席で喧嘩口論にまきこまれ、免
職になり、帰国を命ぜられるのです。
 これによって東洋は家禄を没収されたのですが、容堂の格別の
恩恵により、200石の家禄のうち150石は嫡子の源太郎に与
えられ、馬廻格の家柄もそのまま許されたのです。
 井伊大老の安政の大獄によって、山内容堂が隠居を余儀なくさ
れ、豊範が新藩主となったのです。しかし、若い豊範に政務を処
理する能力は乏しく、藩として重要な判断を迫られる時期である
だけに土佐藩は危機に陥ったのです。
 そこで、苦肉の策として、隠居の容堂と吉田東洋の新おこぜ組
との連携によって、危機の土佐藩を運営することにしたのです。
容堂の狙いは、新おこぜ組ならば、従来の政治に未練も利権もな
いので、思う存分改革がやれると考えたところにあります。
 しかし、土佐藩の保守派は東洋や新おこぜ組の復権に批判的で
あり、警戒的であったのです。このあたりに武市瑞山率いる土佐
勤王党のつけいるところがあったといえます。
 新おこぜ組は当然上士のグループであり、土佐勤王党は下士の
それであって、いずれ敵対関係にならざるを得ない状況にあった
といえます。坂本龍馬が世に出たとき、土佐藩はこういう状況に
あったのです。
 脱藩した龍馬は、さまざまなところを経由して文久2年6月頃
に大阪に達しています。ここではじめて龍馬は吉田東洋の暗殺を
知るのです。そのため、大阪ではそのため土佐藩の脱藩者の詮議
が厳しく、大阪入りを避けるよう仲間からアドバイスがあったと
いわれます。ちなみにこの頃大阪は「大坂」と呼ばれているので
すが、これについては関連情報をご覧ください。なお、EJ本文
では「大阪」に統一することにします。
 龍馬は吉田東洋暗殺計画を知っており、脱藩時期はそれより早
くしたと思われます。   ――─ [新視点からの龍馬論/12]


≪画像および関連情報≫
 ●「大坂」はなぜ「大阪」になったのか
  ―――――――――――――――――――――――――――
  大坂は「おおざか」と読んだとされる。江戸時代、商人の伝
  兵衛が海難事故でロシア帝国に漂流したとき、ロシア人には
  「ウザカ」と聞こえたと伝わっている。従来「おさか」と読
  んでいたのを大阪駅の駅員が「おーさか」と延ばして言うよ
  うになったことから、「おおさか」と呼ぶのが広まったとい
  う説もある。漢字の表記は当初「大坂」が一般的であったが
  大坂の「坂」の字を分解すると「土に反る」と読めてしまい
  縁起が悪いということから、江戸時代のころから「大阪」と
  も書くようになり、明治時代には大阪の字が定着する。一説
  に「坂」から「阪」への変更は、明治新政府が「坂」が「士
  が反する」、すなわち武士が叛く(士族の反乱)と読めるこ
  とから「坂」の字を嫌ったとも、単に、役人の書き間違いか
  ら定着したともいう。        ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

吉田東洋役の田中泯.jpg
吉田東洋役の田中 泯
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2010年10月21日

●「大久保忠寛の説く大政奉還論」(EJ第2922号)

 ここでさらに次の2人の人物とその考え方について、知る必要
があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
           1.大久保忠寛
           2. 横井小楠
―――――――――――――――――――――――――――――
 大久保忠寛は幕臣で、時の老中阿部正弘に見い出されて海防掛
に任命された人物です。阿部正弘は福山藩主で、老中に就いたの
は、天保14年(1843年)のことで、これは遠山の金さんこ
と町奉行・遠山景元や、必殺仕事人・中村主水などの時代です。
 天保といえば「天保の改革」が有名ですが、この改革は老中水
野忠邦が主導して、幕政の建て直しを図ろうとしたのですが、失
敗しているのです。阿部正弘は、その水野忠邦の後任として、天
保の改革の後始末をすることを期待されたのです。
 阿部正弘は老中としては大変若かったのですが、この当時老中
の顔ぶれが次々と入れ替えになった時代で、そのため、就任して
すぐに「着任の順番」ということで、老中主座に据えられること
になります。
 そのとき時代はまさにアジアの情勢が急速に展開しつつあり、
阿部はもっとハードな仕事をすることを求められたのですが、こ
の若くして優秀な人材が幕閣にいたことは、日本にとって大変幸
運だったといえます。それほど阿部はよくやったのです。
 阿部正弘は次々と優秀な若手を抜擢し、日本の困難な時代を乗
り切ろうとしたのです。その優秀な人材の一人が大久保忠寛なの
です。大久保は、自身の蘭学の師である勝海舟を阿部に推薦し、
勝海舟は下田取締手付に任命されたのです。
 この大久保忠寛よりも8歳年上の幕末の思想家が横井小楠なの
です。肥後藩士横井時直の次男として生まれ、早くから頭角をあ
らわし、肥後藩の藩校である「時習館」に学び、居寮長に抜擢さ
れたり、江戸留学を命ぜられた秀才です。
 小楠は、「実際に役立つ学問こそ、最も大事」という考え方を
持っており、小楠の教えを受けた人たちのグループを「実学党」
というのです。しかし、当時の熊本(肥後藩)には、実学党に対
して、保守的な「学校党」とか、尊皇攘夷をめざす「勤王党」な
どのグループがあり、幕末から明治にかけて、政争を繰り返して
いたのです。
 横井小楠の考え方は保守的な考えの強かった地元熊本では受け
入れてもらえなかったのです。天保14年(1843年)に横井
小楠は、肥後藩の藩政改革のために「時務策」を書いてを献策し
たのですが、藩の経済行政を批判したという理由で、肥後藩には
受け入れられなかったのです。そのため、横井は主として藩の外
部で活躍することになります。
 この横井小楠に目をつけたのが、越前福井藩主の松平慶永(春
嶽)です。松平春嶽は横井小楠を越前藩の賓客として招き、越前
藩の改革の指導を受けたのです。春嶽は、ペリーが来航したとき
は、強硬な開国拒絶論を展開したのですが、藩士の橋本左内の見
解を容れて、安政年間(1854〜59年)には開国貿易の賛成
に転じていたのです。
 春嶽は横井小楠から、開国通商、殖産興業、国民会議の設置な
ど、日本の根本的な改革を教わり、積極的な開国通商を行うべし
との開明的な政治感覚を持つようになっていたのです。春嶽は、
文久年間(1861〜63年)に政治総裁職を命じられ、京都か
らの勅使(三条実美と姉小路公知)が幕府に突きつけた攘夷決行
要求に苦慮していたのです。そのとき、大久保忠寛は越前屋敷に
おいて次のような重大な発言を行っています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 攘夷の勅諚はお受けすべきではない。強いて承服せよというの
 であれば、大政を朝廷に奉還し、徳川家は以前のとおり、駿河
 ・遠江・三河の三国を領知する一諸侯の地位にもどればよろし
 い。政権を奉還すると、天下がどうなるか。予測はできぬが、
 徳川家の美名は千載の笑いをまねくよりははるかによい。
                      ──大久保寛永
      高野 澄著『坂本龍馬/33年の生涯』/三修社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 そのとき大久保忠寛の話を聞いていたのは、松平春嶽と横井小
楠の2人だったのですが、彼の話には心底驚いたといわれます。
ときは文久2年10月20日──この日は、幕末維新の変革史に
おいて画期的な日になったのです。
 この大久保の啓明は、あの山内容堂も感銘を受けたとされてい
るのです。山内容堂は、10月23日に越前屋敷に松平春嶽を訪
ねて次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 今日、城内で大久保なにがしの「大開国論」をうかがった。い
 ちいち感 服のほかはなかった。       ──山内容堂
―――――――――――――――――――――――――――――
 坂本龍馬は、人づてにこの動きを知っていたのです。この松平
春嶽、大久保忠寛、横井小楠、山内容堂と続く人脈は、坂本龍馬
にとって、何やら魅力的な政策案を実現しつつあるように思えた
のです。そして、その要の松平春嶽にぜひ会いたいと考えたので
す。しかし、龍馬は、脱藩者、春嶽は藩主であり、幕府の重役で
あって、めったに会える相手ではないのです。
 ところが幸運なことに、千葉定吉の子息の重太郎が越前藩の剣
術指南役をしていることを思い出し、千葉重太郎を介して松平春
嶽に目通りがかなったのです。
 そのとき龍馬と同道したのは土佐藩郷士の間崎哲馬です。幼少
より神童の誉れをほしいままにし、16歳で遊学した江戸の安積
良斉門で塾頭も務めている秀才です。また、春嶽は身分を問わず
諸人の意見を聞く「言路洞開」(げんろどうかい)を実践してい
たのです。このとき龍馬は勝海舟と横井小楠への春嶽からの紹介
状を手にしています。   ――─ [新視点からの龍馬論/13]


≪画像および関連情報≫
 ●「翔ぶが如く」の中の一節/司馬遼太郎
  ―――――――――――――――――――――――――――
  関  「言路洞開が殿のご方針である」
  伊地知「(つぶやく)言路洞開?」
  有村 「なんのことじゃ」
  大山 「おいにもわからん(と吉之助を見る)」
  吉之助「(わからんと首を振る)」
  ざわめく若者たちを関はズイと見渡して、
  関  「言路洞開とは、すなわち新しかご政策のためには何
     事も大事である。よろしき意見ある者は、遠慮なく上
     申するようにとの仰せである」どよめく若者たち。
        http://d.hatena.ne.jp/amendou09/20090920/p1
  ―――――――――――――――――――――――――――

松平春嶽.jpg
松平 春嶽/夏八木 勲
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2010年10月22日

●「下田の宝福寺での勝・容堂会談」(EJ第2923号)

 龍馬と岡崎哲馬が松平春嶽と会ったのは、文久2年(1862
年)12月5日のことです。松平春嶽は、当初龍馬と岡崎哲馬を
単なる尊皇攘夷派の若者というイメージで見ていたのですが、2
人は大阪近海の防御策について話し、それが攘夷一辺倒の意見で
はなく、西洋の科学知識を知った上での合理的な提案であったの
で、熱心に聞いたと記録に残されています。春嶽はかねてから勝
海舟から海軍の重要性について聞いており、龍馬らの話はその必
要性を裏付けるものであったので、春嶽の方から勝海舟と横井小
楠に会って直接話を聞いてみてはどうかと持ちかけたのです。
 このようにして、龍馬たちは春嶽から勝海舟と横井小楠への紹
介状を手に入れたのですが、春嶽は勝への紹介状の最後に次のよ
うに書き加えたというのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
         剣客ゆえ、用心するように
―――――――――――――――――――――――――――――
 このことが龍馬は勝海舟を斬りに行って、逆に勝に心服させら
れたという話になって伝わっているのです。しかし、龍馬が勝を
斬る理由はなく、もし少しでもそういう恐れがあれば春嶽が紹介
するはずがないのです。したがって、春嶽が「ご用心」と書いた
のは冗談のつもりであったと考えられます。
 龍馬は兵庫にいる勝海舟に会うため、直ちに千葉重太郎と一緒
に旅立っています。文久2年12月12日のことです。そして、
12月29日に兵庫の勝海舟の家を重太郎と一緒に訪ねて、勝と
面会を果たしています。
 そのとき、勝は龍馬たちに対し、次のように「海軍必要論」を
説いたといいます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 海舟は龍馬に対し、まず、世界の情勢を説き、日本の開国の必
 然性をうち上げた。さらに列強の干渉と植民地化を防ぐために
 海軍≠フ必要性をまくしたてた。海舟は、世界の動向を見据
 えたうえで、日本の活路を旧体制や観念的な考えにとらわれず
 具体的に提示した。それは河田小龍の教えよりもスケールが大
 きく、かつ現実に即応するものであった。海舟のいう「海軍必
 要論」はたんなる心情的な攘夷憂国論を打ち破る説得力があっ
 た。それは外国船を購入し、自国でも造船を興して海運業に力
 を注ぎ、それをベースにして海防問題を解決するというもので
 ある。                  ──山本 大著
        『坂本龍馬/知れば知るほど』/実業之日本社
―――――――――――――――――――――――――――――
 この話を聞いて龍馬は、勝に弟子入りを懇願するのです。薩摩
にしても長州にしても、その基本的な考え方は、鎖国の継続と攘
夷を唱え、天皇親政を錦の御旗にして、幕府を倒すという、しょ
せんは国内の権力闘争に過ぎないものですが、勝海舟の考え方は
そういう権力闘争をはるかに超えていたのです。龍馬は勝のスケ
ールの大きさに圧倒され、弟子入りを懇願したのです。
 ここで、近藤長次郎についてふれておく必要があります。NH
Kの大河ドラマでは、大泉洋が演じていた近藤長次郎です。ドラ
マでは、近藤は既に勝海舟に弟子入りしていて、勝を訪ねてきた
龍馬と偶然会うというストーリーになっていましたが、龍馬と同
行して勝と会い、一緒に弟子入りしたという説や、龍馬が弟子入
りした後で、近藤を誘ったという説もあります。いずれにしても
大きな問題ではないので、ドラマに合わせておくことにします。
 近藤長次郎は高知城下水道町の餅菓子商大里屋の長男として生
まれたのです。大里屋は龍馬の生家に近く、3つ違いの龍馬とよ
く遊んだのです。長次郎は河田小龍の家によく行き、外国の事情
や学問の話を聞くことが楽しみだったといいます。
 しかし、商人の息子である長次郎は龍馬のように江戸にも行け
ないし、会いたい人にも会えなかったのです。しかし、その長次
郎にもチャンスが到来したのです。それは住まいに近い藩士の由
比猪内が江戸勤務になったとき、長次郎は猪内の従者として江戸
に出ることになったからです。
 龍馬が勝海舟の弟子になって以来、龍馬と長次郎はほとんど行
動を共にしているのです。神戸海軍操練所の設立、長崎での亀山
社中、海援隊など、上杉宗次郎と名乗って龍馬に付添い、龍馬を
助けたのです。
 文久3年(1863年)1月25日に龍馬は、大久保忠寛と面
談し、彼の大政奉還論を聞き、そのうえでその年の5月に横井小
楠にも会っています。このようにして、龍馬の考え方は少しずつ
固められていったのです。
 さて、文久3年1月11日に勝海舟は順動丸という船に乗って
江戸に向かっています。この船には龍馬や千葉重太郎、近藤長次
郎も乗っているのです。しかし、順動丸は紀州沖で強風に見舞わ
れたため、15日の午後に下田港に寄稿したのです。
 ところが下田港には肥後藩船である大鵬丸が停泊していたので
す。この大鵬丸は土佐藩が借用したもので、京都に行く山内容堂
を乗せて江戸を発ったものの、悪天候を避けて12日から下田港
に入港していたのです。
 山内容堂が下田に滞在していることを知った勝海舟は、その夜
高松太郎と望月亀弥太を書生として同道させ、容堂の宿泊してい
た宝福寺を訪れたのです。そして容党と会っています。
 ここで海舟は坂本龍馬以下、8、9名の土佐藩の脱藩者がわが
門下生にいるが、日本のための仕事をしているので、赦免して欲
しいと頼んでいるのです。
 このとき、容堂は「彼らのことは君にまかす」といったので、
海舟がその証しを求めると、容堂は自分の扇に次の文を書いて海
舟に渡したといわれます。
―――――――――――――――――――――――――――――
         鯨酔三百六十回、鯨海酔候
―――――――――――――――――――――――――――――
             ――─[新視点からの龍馬論/14]


≪画像および関連情報≫
 ●「鯨酔三百六十回、鯨海酔候」の扇の文字の意味
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「鯨のいる海を持つ土佐の大酒飲みの殿様」という意味であ
  り、酒好きの容堂の自称である。しかし、全面的に脱藩の罪
  が許されたわけではない。「脱藩は問わない」ということで
  あり、容堂の独断で無罪放免となってしまっては、藩法の存
  在意義がなくなる。容堂としては、ぎりぎり許容できる決断
  であったのである。
  ―――――――――――――――――――――――――――

勝海舟/近藤長次郎.jpg
勝海舟/近藤長次郎
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2010年10月24日

●「2回目の検審は本当に開催されたのか」(EJ休日特集号/07)

 本号はEJの「休日特集号」です。休日特集号は、ウィークデ
イの毎日お送りしているテーマとは別に、休日(日曜・祝祭日)
に必要に応じて不定期にお送りする特別号です。
 民主党の小沢一郎元代表(68)の資金管理団体「陸山会」を
めぐる政治資金規正法違反事件で、小沢氏を強制起訴する検察官
役の指定弁護士は次の3氏が選定されています。
―――――――――――――――――――――――――――――
           大室俊三弁護士
           村本道夫弁護士
           山本健一弁護士
―――――――――――――――――――――――――――――
 何はともあれ、17日のEJ「休日特集号」に書いた3人の弁
護士でなかったことはよかったと思います。3人とも検察官の経
験はないようで適切な選定であったと思います。
 報道によると、主任弁護士を務める大室俊三弁護士は、リクル
ート事件で江副浩正氏の弁護団に加わった経験があり、特捜部が
手がけた事件を対峙する被告側の立場から見てきた弁護士である
ということです。今回は逆の検察官役ではありますが・・・。
 村本道夫弁護士はウェブサイトが見つからないので詳細は不明
ですが、政治資金規正法に詳しい弁護士であるということです。
山本健一弁護士は、金融法務、企業買収・合併、その他企業法務
に強く、米国ニューヨーク州の弁護士資格も持っている若手の弁
護士ということです。
 これら3人の弁護士選定に関連して、次のブログには関連情報
が出ているので、参照していただきたいと思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
 http://threechords.blog134.fc2.com/blog-entry-241.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 弁護士選定についてひとつ疑問があります。それは、第5検察
審査会で補助弁護士を務めた吉田繁美弁護士が選定から外された
ことです。報道によると、本人は出たがっていたようですが、な
ぜ外されたのでしょうか。
 既に述べているように、第2回目の第5検察審査会の議決には
多くの瑕疵があり、そうなった事情について一番熟知している吉
田弁護士を外したことには何か意図があると思います。
 現在、ネットでは第5検察審査会議決による小沢氏の「強制起
訴」について多くの疑問が出ており、検察審サイドとしては、2
回目の検察審査会で何があったかを知る唯一の証人を隠すことに
より、議決のすべてを非公開を楯にして闇に葬ろうとしたのでは
ないかと思います。
 第5検察審査会の第2回目の議決は、第1回目の議決内容を大
きく逸脱して議決したという問題点のほかにも、看過できない問
題がいくつもあって、果たして本当に審査会を開き、審査して議
決をしたのかどうか疑わしいのです。具体的に上げると、次の3
つがあります。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1.検察審査会法第28条で定められている会議録がない
  2.審査員の平均年齢が異常に低く、審査員選出が作為的
  3.吉田弁護士が補助弁護士に委嘱された日はいつなのか
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1の問題点について考えます。検察審査会法第28条は次の
ように会議録を作ることを定めています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 検察審査会議の議事については、会議録を作らなければならな
 い。02 会議録は、検察審査会事務官が、これを作る。
―――――――――――――――――――――――――――――
 これについて、元衆議院議員の二見伸明氏は、第5検察審査会
に電話して確認したところ「ない」という返事であったことがわ
かっています。もし本当ならば、法令に明らかに違反しており、
審査会議がなかったといわれても反論できないはずです。これに
ついての詳細は、次のサイトの二見伸明氏のレポートを参照して
いただきたいと思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ≪誇り高き自由人として/二見伸明氏≫
 http://www.the-journal.jp/contents/futami/2010/10/post_29.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 続いて第2の問題点について考えます。これは新聞でも報道さ
れましたが、「30・9」が「33・91」に訂正され、さらに
「34・55」に再々訂正──こんなずさんなことはありえない
と思うのです。
 ちなみに第1回の議決のさいの審査員の平均年齢も34・27
歳──検察審の事務局は偶然というが、こんな偶然がありうるこ
とでしょうか。
 これまでの審査会の平均年齢をみると、JR宝塚線脱線事故の
場合は1回目47歳/2回目53歳、鳩山偽装献金事件52歳な
のです。なぜ、小沢氏のときは30代前半なのでしょうか。
 同じ34歳が2度続けて起こる確率は0・00067%、つま
り、100万回くじを実施すれば7回起こる確率なのです。
 添付ファイルに10月16日付、東京新聞の記事「年齢クルク
ル検察審査『怪』」(「市民が斬る!」ブログ提供)と巻末の関
連情報に数学者で桜美林大学の吉沢光雄教授の意見を付けてある
ので読んでください。
 最後に第3の問題点について考えます。報道によると、吉田弁
護士は9月7日に委嘱されているのです。これが正しいとすると
「強制起訴」の議決はたったの1週間で出したことになります。
しかも、検察審査会法第40条の「その議決後7日間議決の要旨
を掲示する」に大きく違反した疑いがあります。なぜ、発表まで
にそんなに時間がかかったのでしょうか。
 これによって、第5検察審査会の第2回目の審査は、本当は開
催されなかったのではないかという疑惑があるのです。これにつ
いての詳細は、徳山勝氏のサイトを参照してください。今回の特
集号は徳山氏のサイトを参照しています。
                ─ [休日特集号/07]


≪画像および関連情報≫
 ●桜美林大学教授/数学者・芳沢光雄氏の分析
  ―――――――――――――――――――――――――――
  70歳以上には審査員を断る権利があるため、まずは住民基
  本台帳から東京都の20歳から69歳の人(今年元日)を計
  算しました。その合計は881万6990人。平均年齢は、
  43・659歳だった。そこから数学的な定理(中心極限定
  理)を応用し計算すると、小沢氏の審査会1回目で出た平均
  年齢「34・27歳」以下になる確率は「1・28%」。2
  回目の「30・90歳」以下になる確率は「0・12%」し
  かないんです。今回の審査会が、本当に無作為に選ばれたと
  するならば、極めて珍しいことが起こったとしか言いようが
  ありません。──このメモは検察審の事務局が年齢を訂正す
  る前のことです。      ──10/22『週刊朝日』
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●これは検察の【政治への介入】を明らかにする戦いである
                       徳山 勝氏
  http://www.olive-x.com/news_ex/newsdisp.php?n=98304
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●一市民が斬る!!/ブログ
               http://civilopinions.main.jp/
      http://civilopinions.main.jp/2010/10/1019.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

検察審査会.jpg
検察審査会



東京新聞/210年10月16日付.jpg
東京新聞/210年10月16日付
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2010年10月25日

●「文久2年に京都で何が起こったか」(EJ第2924号)

 坂本龍馬が脱藩した文久2年(1862年)という年は、世情
が安定しない混乱の年であったのです。いわゆる「和宮降嫁」が
あり、その付帯条件である「攘夷実行」が幕府に突きつけられた
のもこの年のことなのです。
 和宮降嫁は、尊皇派の志士たちの憤激を買い、坂下門外で今度
は老中の安藤信正が襲われるという事件があったのです。しかし
井伊大老のときと違って警備が厳重であったので、襲撃は失敗に
終わったのですが、世の中は騒然となったのです。
 このとき動いたのは、薩摩藩の島津久光なのです。といっても
久光は薩摩藩主ではないのです。実は薩摩藩は深刻なお家騒動が
あって、島津久光は藩主になれず、息子の忠義が藩主になってい
たのですが、実質的な政権は久光が握っていたといえます。
 島津久光は、兄の斉彬と同様に一橋慶喜を将軍に擁立してこの
難局を乗り切るしかないと考えていたのです。いわゆる公武合体
派と同じ考え方です。
 そこで島津久光は、約一千人の藩兵を率いて薩摩を出発し、京
都にやってきたのです。それが文久2年3月のことです。藩主で
もない久光が軍勢を引き連れて上京する──これは多くの人に衝
撃を与えたのです。それほど、幕府の統率力は落ちてしまったの
かという印象が強かったからです。
 この薩摩藩の動きに勇気づけられたのは、そのとき京都に集結
しつつあった尊皇攘夷の急進派たちです。彼らはこのさい、薩摩
軍に合流して一気に倒幕の兵をあげるべきだと考えるようになり
そういう若者たちが京都に集結しはじめたのです。
 久光は、同行してきた西郷隆盛にそういう急進派の鎮撫工作を
命じたのです。その頃西郷は志士たちの間では人気が出ており、
久光はそれを利用しようとしたのです。
 しかし、久光と西郷の波長はかならずしも合っていなかったの
です。西郷の言動には煮え切らないものがあり、急進派と同調し
て挙兵革命に走り出しそうな様子が垣間見えたので、久光は突然
西郷に帰藩を命じ、そのまま喜界ヶ島に流罪人として島流しにし
てしまったのです。それから一年半あまり、西郷にとって失意の
年月が流れることになります。
 京都に入った久光は、急進派を鎮圧しなければならないと考え
たのです。そうしないと、自分の幕政改革に懸ける熱意が反故に
なると考えたからです。
 ちょうどそんなおり、藩主の幕府擁護の姿勢に不満を持つ薩摩
出身の急進派の浪人たちが、密かに京都・伏見の寺田屋という船
宿に集結し、幕府要人の暗殺を協議しているという情報が久光に
もたらされたのです。
 久光は腕の立つ藩士9名に命じ、寺田屋を襲撃させたのです。
この襲撃によって討手側1人、集結していた8名が死亡したので
す。この薩摩者同士の壮絶な斬り合いを見て、攘夷急進派の久光
を挙兵の旗頭に担ごうとする動きは鳴りを潜めたのです。これが
寺田屋事件の概要です。
 久光は朝廷に「難局を乗り切るため、一橋慶喜を将軍補佐とし
て任命し、松平慶永を大老とすべし」という勅諚を出すよう働き
かけ、手に入れています。朝廷は、この寺田屋事件によって久光
に対する信望が高まっていたので、これを受け入れたのです。
 そして、久光はこの勅諚をもった勅使を警備して江戸に向かっ
たのです。軍隊を連れてきたのはこのためだったのです。
 江戸に着いた久光は、朝廷の威光を背景に、幕府に対し、幕政
改革の実行を迫ったのです。そして、一橋慶喜を将軍後見職に、
松平慶永を大老と同格の政事総裁職に就けることに成功したので
す。このとき、久光は得意の絶頂にあったといえます。
 しかし、文久2年9月、目的を果たして京都に戻ってきた久光
は愕然とします。世情は4ヶ月前と一変していたのです。尊皇攘
夷論を唱える急進派が猛烈な勢いで増えており、歯止めが効かな
い状態になっていたのです。
 暗殺が横行し、幕府方の要人や、和宮の降嫁に加担した公卿な
どが手当たりしだいに殺害されていたのです。もはや事態は久光
の手に負えないものになっていたのです。そう考えると、久光は
藩兵を引き連れて薩摩に戻ったのです。
 久光と入れ替わりに京都に出てきたのは、長州藩主の毛利慶親
です。長州藩の場合、高杉晋作らの活発な動きによって、藩全体
が尊皇攘夷で統一されていたのです。あの武知瑞山が希求した一
藩攘夷が長州藩ではできあがっていたのです。
 毛利慶親は朝廷に対し、安政の大獄で処刑された者たちを手厚
く葬るよう幕府に勅命を出すよう要請したのです。彼らの名誉回
復を図り、幕府に誤りを認めさせようとしたのです。
 しかし、これに薩摩藩は反発を強めたのです。なぜなら、その
中には寺田屋事件で討たれた薩摩浪人も含まれていたからです。
これによって、薩長の間はしだいに溝が深まっていったのです。
 その次に京都に出てきたのは土佐藩主の山内豊範です。これに
は武知瑞山が率いる土佐勤王党が護衛に付いてきたのです。土佐
藩の調停工作は、幕府に対して和宮降嫁のさいの条件の「攘夷実
行」を守るよう勅命を出して欲しいと要求したのです。朝廷はい
うがままに勅命を出し続けたのです。
 このように、各藩が勝手なことを主張し、それを勅命という形
で持ち込んでくる事態に、幕府は大混乱に陥ったのです。幕府で
は日夜対策会議が行われたのですが、結局は朝廷の力に押しまく
られ、しかるべき対処策を講じて、上京して詳しくご報告すると
いう返事をせざるを得なかったのです。
 しかし、幕府としても必死の巻き返し策を講じていたのです。
西洋式の将軍親衛隊を結成したり、陸海軍の制度を充実させる体
制を整えています。さらに京都所司代の上に守護職を設けて、京
都の治安維持を強化する対策も図ったのです。京都守護職には、
会津藩主の松平容保(かたもり)が任命されたのです。松平容保
は孝明天皇の信頼も厚く、その後の激動期に大きな働きをするこ
とになるのです。     ――─ [新視点からの龍馬論/15]


≪画像および関連情報≫
 ●「京都守護職」とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  京都守護職は京都所司代・京都町奉行・京都見廻役を傘下に
  置き、見廻役配下で幕臣により結成された京都見廻組も支配
  下となった。しかしながら京都所司代・京都町奉行はあまり
  役に立たなかった。また、会津藩士のみでは手が回りきらな
  かったため、守護職御預かりとして新撰組をその支配下に置
  き、治安の維持に当たらせた。後元治元年(1864年)に
  は京都所司代に容保の実弟である桑名藩主松平定敬が任命さ
  れ、兄弟で京の治安を守る形となる。 ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

寺田屋/京都・伏見.jpg
寺田屋/京都・伏見
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2010年10月26日

●「神戸海軍操練所設立の背景」(EJ第2925号)

 勝海舟から懇願された坂本龍馬の脱藩赦免の件を山内容堂は実
行に移します。下田から京都に戻った容堂は、京都に行く島村寿
之助、望月清平に命じ、坂本龍馬を京都の土佐藩邸に呼び、自首
の形をとって一定期間藩邸にて謹慎のうえ赦免させるよう指示し
たのです。
 文久3年(1863年)2月22日、島村、望月両名は江戸か
ら龍馬を伴って上京し、河原町の藩邸に自首させたのです。そし
て3日間の謹慎のうえで25日に正式に赦免を言い渡しているの
ます。そのうえで7日間の禁足を命じています。
 そのとき、無理やり江戸から京都に連行された龍馬は、島村、
望月両名に対し、恨みがましく愚痴を述べたというのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 足下(そっか)等がよしなく呼び戻して、この龍馬にかく窮屈
 させるぞ。           ──『維新土佐勤王党史』
―――――――――――――――――――――――――――――
 龍馬にとっては、脱藩を許されるよりも海舟のもとで送る日々
のほうが、龍馬には数段重要だったのです。禁足の解けたその日
に龍馬は大阪に下り、海舟のところに戻っています。実際に天下
の情勢は深刻の度合いを一層深めていたからです。
 その同じ文久3年2月に将軍家茂は上洛しています。将軍の上
洛は、3代家光のとき以来200数十年ぶりのことなのです。そ
の目的は、勅使に「攘夷実行の期日は自ら上京して申し上げる」
と約束してしまったので、仕方なく上洛したのです。
 これに合わせて島津久光も薩摩から上京してきています。その
久光と松平慶永、山内容堂、宇和島藩主の伊達宗城の4人を中心
とする集まりが持たれています。彼らは幕府は朝廷と一体化して
政治・外交を行うべきという公武合体派であったのですが、この
ときは意見の一致は見られず、まもなく帰藩してしまうのです。
 一方攘夷の実行を迫る朝廷は、ここにきても抽象論でお茶を濁
そうとする幕府側と将軍家茂を責め立て、その年の5月10日か
ら攘夷を行うという約束を取り付けたのです。
 これはメチャクチャな決定です。幕府は米国と条約を結んで開
国しておきながら、今度は朝廷の言いなりになって攘夷を実行す
る──その行動は矛盾に満ちていたからです。
 もっとも幕府としては、攘夷の実行の布告に次の条件を付けて
いたのです。まるで現代の日本のようです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      外国の方から攻撃したときは打ち払え
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、攘夷実行となると、大阪湾周辺の防備はお粗末そのも
のであり、勝海舟は大阪湾の防備を固める必要があることを将軍
家茂に言上し、家茂の湾内視察を申し出て、家茂はそれを了承し
たのです。
 勝海舟は、家茂を幕艦の順動丸に乗せて、海防と海軍創設の必
要性を説いたのです。家茂は直ちに海舟の建言を受け入れ、その
場で神戸海軍操練所の創設を命じたのです。
 一方龍馬は、海舟の指示を受け、過激な攘夷の旗頭になってい
る姉小路公知に接近し、船に乗せて海防の実態と攘夷の無謀さを
認識してもらおうと視察をさせることに成功しています。そのう
えで、海舟のいる順動丸に案内し、海舟による姉小路公知の説得
を行ったのです。海舟は、日本を守るためには海軍の創設が必要
であることと、外国の力を知らない攘夷論がいかに時代遅れであ
るかを説いたのです。海舟と龍馬は、このように幕府と朝廷の両
方に工作を仕掛けたのです。
 これによって、朝廷は海防の重要性を認めて、軍艦と巨大砲の
建造のために、製鉄所などの設置を幕府に命じています。これに
よって、神戸海軍操練所の設立は順調に進んだのです。
 勝海舟はもうひとつ重要なことを考えていたのです。それは、
力の衰えた幕府が将来海軍操練所を閉鎖することがあっても、そ
の重要性を知る人材を育てる海舟が主宰する私塾「海軍塾」を作
ろうとしたのです。その後実際に海軍操練所は閉鎖されているの
で、いかに海舟が先のことまで考えていたかがわかります。
 問題は資金です。海軍操練所の運営資金は幕府から出ますが、
私塾の資金をどうするかです。海舟はその資金を松平春嶽に頼る
ことにし、それを龍馬に任せたのです。
 文久3年5月、龍馬は越前福井藩主松平春嶽に会い、5000
両の資金を春嶽から引き出したのです。このシーンはNHKの大
河ドラマにありましたが、あんなに簡単には5000両もの大金
を借りることはできなかったと思われます。
 龍馬は越前福井藩の中田靭負、三岡八郎、横井小楠らの間を奔
走し、資金借用を実現させたのです。実際は借金ではなく、それ
を出資資金とし、海軍塾の学生が操船する船による交易で上がっ
た利益を出資金に応じて配分するという構想がそこにあったので
す。これはまさに株式会社の発想そのものです。この考え方が後
の亀山社中や海援隊として具体化するのです。
 こうしているうちの文久3年5月20日、京都で姉小路公知が
暗殺されます。勝海舟などの開国派に接近したというのが理由で
あると思います。その10日前の5月10日、攘夷決行の日に合
わせて、長州藩は下関海峡を通過しようとした米国の商船を砲撃
し、逆に報復攻撃を受けるという事態が発生したのです。
 この事態を憂慮した龍馬は、越前福井藩の村田巳三郎、中田靭
負、大阪町奉行の松平信敏らと会い、次のことを訴えています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 長州などが外国に占領されぬよう、すぐにも外国勢力と談判す
 べきだ。そのためにも、幕閣の改造を図らねばならぬ。
                      ──山本 大著
        『坂本龍馬/知れば知るほど』/実業之日本社
―――――――――――――――――――――――――――――
 幸いなことに、外国勢の方が日本の国情を理解して現実的な解
決策を模索していたのです。 ―─ [新視点からの龍馬論/16]


≪画像および関連情報≫
 ●神戸海軍操練所とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  神戸海軍操練所は、江戸時代の1864年(元治1年1年)
  5月に、軍艦奉行の勝海舟の建言により幕府が神戸に設置し
  た海軍士官養成機関、海軍工廠である。現在の神戸市中央区
  新港町周辺にあった。京橋筋南詰には神戸海軍操練所跡碑が
  ある。幕臣でありながら幕府の瓦解を予見していた勝の元に
  は、倒幕派の志士も多く集っていた。この操練所が神戸に出
  来て以後、漁村であった神戸は港町としての成長を見せ始め
  るようになる。それを見越していた勝は、地元で自分の世話
  をしてくれた者に「今のうちに土地を買っておくがいい」と
  助言したところ、見事に地価が高騰し、その者は大きな利益
  をあげた、というエピソードがある。 ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

海軍操練所跡碑.jpg
海軍操練所跡碑
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2010年10月27日

●「九門締め出しと七卿落ち」(EJ第2926号)

 結果として幕府による攘夷の実行が開国を進める道につながっ
たのです。それは、EJ第2915号で述べた薩英戦争と馬関戦
争(下関事件)です。この2つの戦争の結果、外国艦隊の威力を
まざまざと見せつけられたからです。
 頭の切り替えが早かったのは薩摩藩の方だったのです。外国船
を打ち払うにはあまりにも犠牲が大きく、そうした無益な対応よ
りも、きちんとした付き合いをすべきではないかという論議が高
まったのです。きわめて冷静な判断であるといえます。
 そこで、薩摩藩は英国に賠償金を支払うことで、関係を修復さ
せることにしたのです。これによって薩摩と英国は一転して親密
な関係を築くことになり、それが維新革命に大きく作用すること
になります。
 しかし、長州藩の場合は、馬関戦争で大敗したにもかかわらず
尊皇攘夷派の結束はかえって固くなったのです。京都では尊攘急
進派が宮廷内の尊攘派公卿と結びついて勢力を握り、政局の主導
権を握っていたのです。
 文久3年(1863年)8月13日、天皇を手中にした尊攘派
は、真木和泉や久坂玄瑞らが「攘夷親征」を朝廷に説得し、次の
布告をしたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 主上(孝明天皇)が攘夷祈願のため大和へ行幸し、神武天皇陵
 を拝して親征の軍議を行い、ついで伊勢神宮に参拝する。
                      ──山本 大著
        『坂本龍馬/知れば知るほど』/実業之日本社
―――――――――――――――――――――――――――――
 「攘夷親征」というのは、天皇自ら夷狄(いてき)を征伐する
ことを意味しています。しかし、孝明天皇は、攘夷の意思は強く
ても親征には反対であり、あくまで攘夷は幕府を主体にして行う
考え方だったのです。
 密かに孝明天皇の内旨を受けた中川宮(前青蓮院宮)は、公武
合体派の公卿や大名と組んで、尊攘派を京都から一掃するクーデ
ターを計画するのです。大名では京都守護職の松平容保と島津久
光が連携し、武力行使の面を担当することになったのです。
 そしてさのクーデターは8月18日午前1時に実行に移された
のです。まず、皇居内には中川宮をはじめ、守護職松平容保、京
都所司代稲葉正邦が入り、その後、武装した会津・淀の両藩兵が
入りました。薩摩藩兵は、近衛忠煕の参内を警護して、禁裏の九
門内に入りました。
 午前4時、九門警護配置完了を知らせる砲声と同時に、非番の
尊攘派公卿の参内が拒絶されたのです。長州藩士は九門の外へ完
全に締め出されたのです。三条河原町の藩邸にいた長州藩士が、
九門に駆けつけましたが、どうすることもできませんでした。長
州藩の家老真木和泉も、三条実美邸に駆けつけのですが、こちら
も何もできなかったのです。
 御所の「九門」とは何でしょうか。
 御所は天皇、宮家、公家の居住地。天皇の居住地である禁裏あ
るいは内裏(内構六門内)と宮家・公家の居住地である築地(外
構九門内)に分かれています。ここでいう「九門」とは、外構九
門のことをいうのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     1.今出川門       6.下立売門
     2.石薬師門       7.  蛤門
     3.清和院門       8.中立売門
     4. 寺町門       9.  乾門
     5. 堺町門
―――――――――――――――――――――――――――――
 8月18日夕刻、尊攘派の公卿三条実美や長州藩士ら2600
人は、京都郊外の妙法院に集結し、今後の策について話し合った
のです。その結果、いったんは長州に退いて、再起を図ることに
なったのです。
 19日午前3時、三条実美、三条西季知、東久世通禧、壬生基
修、四条隆謌、錦小路頼徳、沢宣嘉の公卿(七卿)は、やむなく
長州に西下することにしました。これを「七卿落ち」というので
す。この結果、京都は公武合体派が主導権を握ることになったの
です。このクーデターのことを「8・18の変」といいます。
 しかし、こんなことであきらめるような尊皇攘夷派ではなかっ
たのです。8・18の変の後も一部の勢力は京都に残り、密かに
巻き返しを狙っていたのです。
 元治1年(1864年)6月5日夜、京都三条河原町の旅館・
池田屋に長州の桂小五郎、肥後の宮部鼎蔵ら30人ほどの尊攘派
の志士が密かに会合を持っていたのです。会合の目的は、三条木
屋町の馬具商・枡屋喜右衛門が新選組に逮捕されてしまったこと
についての善後策の相談です。
 実は枡屋喜右衛門は借りの名で、古高俊太郎という尊攘派志士
の一人であり、ここにはいつも尊攘派志士が多く集まっていたの
です。そのため新選組から早くから目を付けられていたのです。
古高俊太郎は新選組の拷問に耐え切れず、重大な秘密を吐いてし
まったのです。その秘密とは驚くべきものだったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 来る20日前後、風の烈しい夜を選んで御所の風上から火を放
 ち、禁裏の四方を火で包み、中川宮邸にも放火し、驚いて参内
 する守護職の松平容保を襲って血祭りに上げ、その混乱に乗じ
 て天皇を長州に奪い去る。         ──山本 大著
        『坂本龍馬/知れば知るほど』/実業之日本社
―――――――――――――――――――――――――――――
 その夜は祇園祭の宵宮でしたが、そこに近藤勇をはじめとする
10人の新選組が斬り込んだのです。不意を突かれた志士7人が
殺され、23人が生け捕りにされたのです。しかし、桂小五郎は
危ふく逃れています。これが世にいう「池田屋事件」なのです。
             ――─ [新視点からの龍馬論/17]


≪画像および関連情報≫
 ●池田屋事件の異説
  ―――――――――――――――――――――――――――
  池田屋事件は、尊皇派の陰謀で捏造されたとする説もある。
  「京都大火計画」「松平容保暗殺」「天皇拉致」などの尊攘
  派の陰謀は幕府側の記述にはあるものの尊攘派側の記録には
  一切なく、『木戸孝允日記』にもこのときの池田屋で計画さ
  れていたのは新選組に拉致監禁され拷問されている仲間(古
  高俊太郎)を救うための会合としか記されていない。証拠と
  言えるものは土方に壮絶な拷問を受け、無理矢理自白させら
  れた古高が語ったとされる発言のみで、その古高も早々に処
  刑されており、客観的な証拠が乏しく尊攘派の威信失墜や新
  選組の威信高揚を狙った捏造もしくは瑣末な話を大袈裟に誇
  張した可能性がある。         ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

池田屋(東映セット).jpg
池田屋(東映セット)
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2010年10月28日

●「蛤御門の変と外国連合軍の砲撃」(EJ第2927号)

 池田屋事件は長州藩を憤激させたのです。こうなっては武力で
公武合体派を追放し、朝廷の態度を変更させる必要がある──こ
ういう意見が長州藩内部で高まったのです。
 元治1年(1864年)6月下旬に、長州藩の3家老──益田
右衛門介、国司信濃、福原越後が兵を率いて東上し、これに真木
和泉、久坂玄瑞、来島又兵衛らも遊軍諸隊を率いて上京、京都郊
外の嵯峨、山崎、伏見の三方面に布陣したのです。
 これに対して朝廷・幕府の連合軍側は、会津、桑名、薩摩ほか
の諸藩に命じて洛中洛外および禁裏の警備に当ったのです。幕府
側と長州側では、何回か折衝が行われたのですが、20日間を経
てもまとまらなかったのです。
 元治1年7月19日、遂に戦端が開かれたのです。この戦闘の
ことを「蛤御門の変」(禁門の変)といいますが、蛤門だけで戦
闘が行われたのではなく、蛤門を含む九門すべてで激しく戦闘が
行われたのです。長州勢としては、何としても御所の中に入りた
かったので、攻勢を強めたのですが、圧倒的な幕府軍や諸藩兵の
前にどうしても突破できず、長州側はわずか1日の攻防で敗退を
余儀なくされたのです。しかし、戦闘は1日でも京都市中は3日
3晩戦火で燃え続け、焼け野原になったのです。焼失民家2万8
千余戸、罹災者は加茂川原にあふれたのです。
 実はこの戦争で薩摩藩兵の指揮をとっていたのは、あの西郷隆
盛だったのです。西郷は島津久光に嫌われて沖永良部島に流され
ていたのですが、大久保利通らの尽力によって藩政に復帰してい
たのです。激動する政局には西郷が必要だとして久光を説得し、
藩政復帰が実現したのです。
 西郷はこのとき見事な采配を振るい、長州勢を一人も門の中に
入れなかったのです。蛤門はもちろんのこと、幕府側が苦戦した
堺町門では会津、桑名両軍を助けて、西郷自身も足に負傷してい
るのです。そのため、長州勢の中に西郷隆盛の名前は深く浸透し
たといわれます。
 しかし、長州藩の中にも2つの派があったのです。1つは、武
力に訴えて、実力で入京して天皇を奪取しようとする急進派と時
期を待つべしとする慎重派です。前者は来島又兵衛や久坂玄瑞ら
であり、後者は桂小五郎や高杉晋作たちです。ところが、急進派
は蛤御門の変でほとんどが斃れており、慎重派の意見が強くなり
つつあったのです。
 長州藩は蛤御門の変での敗退によって朝敵の汚名を着せられ、
藩内は統制の取れない混乱に陥ったのです。元治1年8月5日、
京都からの敗残兵が尾羽打ち枯らして長州に逃げ帰った直後のこ
とですが、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの連合軍が
17隻の艦隊を組んで長州を攻撃したのです。
 これについて、中津文彦著の『闇の龍馬』は、次のように書い
ています。長州藩にとっては、まさに泣き面にハチです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 この戦いも長州の一方的な敗北に終わった。新式装備の各国の
 軍艦の前に長州藩の砲台はすべて半日足らずで沈黙させられ、
 続いて二千名を越える陸戦隊が上陸し、徹底的な破壊が行なわ
 れた。このときの四カ国による長州攻撃は、事前に幕府にも通
 報されたが、幕府としてはただ傍観するだけだった。いや、密
 かに長州が叩きのめされることを期待していたきらいもある。
 なぜなら、すでにこのとき幕府は、禁門の変の責任を追及する
 ための長州征討の方針を決めていたからである。これを好機と
 して反幕の牙城である長州を潰してしまおうという思惑があっ
 た。禁門の変の後、長州追討の朝議決定を受けて、幕府は西国
 を中心とした21藩に対して征伐軍への出兵を命じた。
          ──中津文彦著、『闇の龍馬』/光文社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 8・18の政変と蛤御門の変が起き、土佐の山内容堂は動き出
したのです。長州藩が敗れたことによって、尊攘派の勢力が弱体
化し、これを機会に土佐勤王党を潰しにかかったのです。
 既に容堂は文久3年5月に勤王党の解散を命じており、青蓮院
令旨事件を起こした間崎哲馬ら3人は切腹を命じられているので
す。文久3年9月21日、土佐藩庁から土佐勤王党党員に出頭命
令が出たのです。これは、捕縛と投獄を意味していたのです。
 武市瑞山は、帯屋町の南会所の獄舎につながれ、勤王党の主要
メンバーも投獄されたのです。身の危険を感じた勤王党員は相次
いで姿を消し、脱藩したのです。それらの脱藩者の多くは長州に
逃れていますが、その中には中岡慎太郎もいたのです。
 藩主の豊範は、武市瑞山の赦免を願ったが、容堂は耳を貸さな
かったのです。しかし、既に上士になっていた武市については、
獄中生活は比較的自由であったというのです。外部との連絡も許
されていたようです。
 しかし、岡田以蔵が逮捕され、詮議が始まると、武市瑞山への
取り調べも厳しくなったのです。取り調べに当ったのは、いずれ
も吉田東洋を師と仰いだ後藤象二郎や板垣退助なのです。
 やがて岡田以蔵はすべてを告白して処刑され、武市瑞山は慶応
元年(1865年)5月に切腹を命ぜられたのです。享年37歳
であったのです。
 土佐藩の脱藩者は海軍操練所にも多数入所しており、龍馬らは
そういう脱藩者を幅広く受け入れているのです。文久3年の暮れ
には、一度脱藩が許された龍馬にも江戸の土佐藩吏から召喚状が
きたのですが、海舟は修行延長を求めたものの、拒絶され、龍馬
は再び脱藩するのです。もちろん、新宮馬之助、近藤長次郎、千
屋寅之助、高松太郎らも藩の帰還命令を無視したのです。
 また、池田屋事件への関与者にも土佐藩の脱藩者はおり、そう
いうことが、勝海舟自身の失脚と海軍操練所の廃止につながって
くるのです。幕府の密偵は海軍操練所のそういう状況を掴んでお
り、勝としては、そういうことも考えて周到な手を事前に打って
いたのです。       ――─ [新視点からの龍馬論/18]


≪画像および関連情報≫
 ●「蛤御門」の名称の由来
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「禁門」とは「禁裏の御門」の漢名である。蛤御門の名前の
  由来は、1788年の天明の大火の際、それまで閉じられて
  いた門が初めて開放されたので、焼けて口を開ける蛤に例え
  られたためである。蛤御門は現在の京都御苑の西側に位置し
  天明の大火以前は新在家御門と呼ばれていた。禁門の変が蛤
  御門の変とも呼ばれるのは、蛤御門付近が激戦区であったた
  めである。そのため今も門の梁には弾痕が残る。
                    ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

西郷隆盛/岡田以蔵.jpg
西郷隆盛/岡田以蔵
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2010年10月29日

●「幕府は姦人の巣窟/勝海舟」(EJ第2928号)

 神戸の海軍操練所は今にして思えば、不幸なスタートを切った
といえるのです。元治元年(1864年)5月にスタートし、そ
の直後の6月5日に京都で池田屋事件が起こったからです。
 このとき龍馬は、大阪から幕艦・黒竜丸で江戸に向かっていた
のです。船内には尊攘過激派の浪士が200人ほど乗っていたの
です。彼らは龍馬から蝦夷地の開拓を説得され、その気になった
若者たちです。
 海軍操練所にはそうした尊攘過激派の浪士がたくさんおり、そ
のエネルギーを蝦夷地開拓に振り向けようという龍馬のアイデア
が実現したもので、幕府の了解を得て資金も集めていたのです。
 しかし、歴史書ではそうなっているものの、蝦夷地開拓は龍馬
の苦肉の策であったと思われるのです。海軍操練所と海軍塾の人
数は最終的には400人ぐらいには達しているのですが、スター
ト当初はせいぜい200人を少し超える程度であり、そのほとん
どを蝦夷地開拓に投入したことになるからです。そうだとすると
神戸の海軍操練所はガラガラになってしまいます。
 実は海軍操練所の講義はほとんど英語で行われていたのです。
何しろ当時日本には操船術や海外公法などの本はなく、すべて英
語で書かれたものを読まざるを得なかったので、講義も英語で行
われたのです。しかも教科書の中身は難解で、高等数学も使うの
で、ついていけない者が大勢いたはずなのです。
 したがって、龍馬たちは、そのようにして余った人材の活用に
困ったのです。しかし、せっかく集まった人材を散らしたくない
という思いで、苦肉の策で蝦夷地開拓にそれらの人材を当てると
いうことになったのではないかと思います。
 しかし、龍馬が留守をしていた海軍塾から土佐藩の望月亀弥太
が抜け出し、池田屋の謀議に参加していたのです。そして、望月
は斬り込んできた新選組によって闘死してしまったのです。望月
は土佐勤王党に属し、文久2年には藩主を護衛する50人組の一
人として江戸にのぼり、次の年に龍馬の紹介によって勝海舟の門
人なっているのです。
 これによって、勝海舟の率いる海軍操練所と海軍塾は、尊攘過
激派の巣窟ではないかという噂が立てられたのです。既に幕府の
隠密は海軍操練所と海軍塾にそういう尊攘派が多いことを掴んで
いたのです。勝海舟や龍馬は、とっくに藩というエリアを超えて
おり、尊攘派であろうが、脱藩者であろうが、新しい日本を創る
ために何かをしたいと考える若者はすべて海軍操練所や海軍塾に
受け入れたのです。しかし、当時そのように考えて行動を起こす
人間はあまりいなかったのです。
 元治元年10月21日のことです。勝海舟は江戸に召喚され、
11月11日付で軍艦奉行を罷免されたのです。海軍奉行という
のは2000石の大身であり、重職なのです。そういう職にある
者が尊攘派巣窟の主であることは許されないというわけです。そ
して当然のことながら、神戸の海軍操練所は閉鎖され、海軍塾も
立ち消えになってしまったのです。もちろん蝦夷地開拓も中止さ
れています。
 しかし、幸いだったことに元治元年5月の海軍操練所と海軍塾
のスタートから勝が罷免されるまで、約6ヶ月ほどの時間があっ
たのです。勝海舟は周辺の情勢から海軍操練所と海軍塾の運命を
悟っており、龍馬をはじめとする一握りの優秀な人材だけは何と
してもを守らなければならないと考えたのです。
 彼らさえ残っていれば、それが種子となって必ず復元されるこ
とを見抜いていたのです。大きな時代の流れは誰も止めることは
できず、やがて新しい時代が来ると信じていたのです。
 勝海舟は薩摩の西郷隆盛に託すしかないと考えたのです。勝は
西郷隆盛の人物や考え方については人を通じてよく知っていたの
ですが、会ったことはなかったのです。ところが西郷の方も勝に
会うことを望んでいたのです。
 西郷は長州征伐軍の総司令官になることが決まっていたのです
が、肝心の幕府首脳が躊躇しているのを見て、幕府躊躇の真相を
聞きたいと思っていたのです。そこで、幕府首脳の中では才人と
の評判の高い勝海舟に会ってみたいと思ったのです。
 しかし、海軍操練所と海軍塾の今後のことを考えて、勝は龍馬
を先に西郷に会わせることにしたのです。そしてその人物を見た
いと考えたのです。そういうわけで、勝の紹介状を持った龍馬は
勝と会っています。しかし、それがいつであったか史料にははっ
きり載っていないのです。おそらく元治元年8月半ばのことであ
り、場所は京都の薩摩藩邸であったと思われます。西郷隆盛と会
った後の龍馬の西郷の印象は次のようなもであったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 西郷は、わからぬやつだ。すこし叩けばすこしく響く。おおき
 く叩けばおおきく響く            ──坂本龍馬
―――――――――――――――――――――――――――――
 要するに、馬鹿か利口かわからないが、いずれにせよ大きな人
物であることは間違いないということです。この龍馬の感想を聞
いて、勝海舟は西郷隆盛と会うことを決断します。元治元年9月
11日、場所は大阪です。
 このとき、勝海舟は幕府のことを「姦人の巣窟」と表現し、そ
の改革が無理であることを西郷に告げています。それに対して西
郷は「姦人どもを退治する手はないのか」と尋ねたのですが、勝
は「ない」と即答しています。そして、次のような破天荒で明確
な政策を西郷に提示したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 外国人は幕府の官吏を軽侮しておりますから、対等な交渉は不
 可能です。明賢の諸侯が四人五人とあつまって会盟し、外国船
 を打ち破れるだけの軍事力を掌握し、そのうえで兵庫を開港す
 る。こうしなければ皇国の恥となるばかり。  ──高野澄著
           『坂本龍馬/33年の生涯』/三修社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
             ――─ [新視点からの龍馬論/19]


≪画像および関連情報≫
 ●「勝海舟」について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  勝海舟。幕臣として江戸無血開城の任を果たし、明治維新後
  は参議、海軍卿、枢密院顧問として活躍した人です。後に福
  沢諭吉は、勝のことを「両親が病気で死のうとしているとき
  もうダメだと思っても看護の限りを尽くすのが子というもの
  であり、それが節義ではないか」と、幕府の人間でありなが
  ら幕府を見捨ててしまった勝を、強く批判しています。しか
  し勝には、幕府だとか官軍だとかにこだわった視野の狭い考
  えはありませんでした。新しい時代の必要を感じ、日本国と
  いう立場に立って、倒幕のシナリオを描いたのです。
       http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/kaishu.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

勝 海舟.jpg
勝 海舟
posted by 平野 浩 at 04:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月01日

●「薩摩藩に翻弄された西郷隆盛」(EJ第2929号)

 西郷隆盛は、まず、坂本龍馬と会い、次いで勝海舟と会ったの
ですが、二人の話に衝撃を受けたのです。龍馬から大政奉還の話
を聞き、勝からは雄藩連合政権の樹立という具体的な国家構想を
聞いたからです。
 当時西郷は薩摩一国の利益を考えていたので、勝海舟の大胆な
国家構想を聞き、目を開かされたのです。幕府に大政奉還を迫り
幕府がこれに反対すると、薩摩藩は独自に国力を蓄えて「割拠」
し、他の雄藩もそれぞれ割拠することによって連合して幕府に対
抗する──驚くべき構想です。
 西郷隆盛は、海舟と会った後の元治元年9月16日付の大久利
通への書状にその驚きを次のように書いています。これは勝海舟
に対する最大級の賛辞といえます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 勝氏へ初めて面会仕り候ところ、実に驚き入り候人物にて・・
 ・・学問と見識においては、佐久間(象山)抜群の事に御座候
 えども現時に臨み候ては勝先生と、ひどくほ(惚)れ申し候。
     ──菊地明著『追跡!坂本龍馬/旅立ちから暗殺まで
           の足どりを徹底検証』/PHP研究所刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 突然の勝海舟の江戸召喚──この直後に海舟は海軍塾の土佐藩
出身者を引き取って欲しいと西郷に依頼しており、西郷はこれを
受け入れています。これについては、西郷としては、単に勝の申
し入れだけで了承したのではなく、龍馬に会ったときに聞いた彼
の提案に興味を感じたからです。これについては改めて述べるこ
とにします。
 ここで、薩摩藩において西郷隆盛がどういう人物であったかに
ついて簡単に述べておくことにします。西郷ほど期待されたり、
嫌われたりした人間はいないからです。
 ちょうど馬関戦争当時、薩摩藩政の主導権を握りつつあったの
は、西郷隆盛を筆頭にした次の4人です。
―――――――――――――――――――――――――――――
     1.大久保一蔵(利道)  ・・ 36歳
     2.小松 帯刀      ・・ 31歳
     3.五代 才助(友厚)  ・・ 32歳
     4.松木 弘安(寺島宗則)・・ 33歳
―――――――――――――――――――――――――――――
 このとき、西郷隆盛は39歳であり、やや遅咲きの感がありま
すが、彼ほど薩摩藩に翻弄された人物も珍しいのです。
 身分の低い藩士の家に生まれた西郷に目をつけ、取り立てたの
は、薩摩藩第11代藩主の島津斉彬(なりあきら)です。斉彬は
西郷を自分の手元に置き、江戸に同行させ、多くの人物に会わせ
たり、書物を読むように勧めたのです。その能力を見込んで、一
種の英才教育を施したのです。
 しかし、西郷自身がその期待に応える前に斉彬は急死してしま
うのです。ちょうど安政の大獄が始まる寸前のことです。日米通
商条約の違勅調印問題や将軍後継問題で日本が大揺れになってい
たときであり、その急死には毒殺説が根強く囁かれています。
 毒殺説は薩摩藩の御家騒動も絡んでいるのです。斉彬の父であ
る斉興には由良という妾がいたのです。これが久光の母親なので
す。由良は何とかして久光を島津家の跡取りにしようとし、いろ
いろな工作をはじめたのです。そのため、藩内には「斉彬派」と
「久光派」という2つの派閥ができ、深刻な御家騒動に発展した
のです。結局、斉彬の死後、薩摩藩主には久光の子の忠義が就く
ことで騒ぎは一応おさまったのです。
 しかし、斉彬の死は西郷を落胆の淵に沈めたのです。そのため
幕吏に追われていた京都の僧侶、月照とともに入水自殺を図るの
です。このとき西郷が死んでいれば幕末は相当違ったものになっ
たはずですが、月照だけが死に、西郷は助かったのです。
 藩主の父の久光としては、斉彬に心服していた西郷は煙たい存
在であり、西郷を奄美大島(沖永良部島)に流してしまったので
す。西郷が島流しになったことは広く知られていますが、2回流
されていることを知る人は少ないと思います。
 奄美大島に流されたのはその第1回目です。西郷は犯罪人とし
て奄美大島に送られたのではないので、島では比較的自由に暮ら
しています。島の娘と結婚して、子供も生まれているのです。
 西郷が大久保一蔵の奔走によって鹿児島に戻ってきたのは、文
久2年(1862年)のことです。しかし、久光は西郷を本当の
意味で許したのではなく、西郷が志士たちの間で人気があるので
その人気を利用して志士たちの説得役で使おうとしたのです。
 当時尊攘派の志士たちは、久光と一緒に京都に上がってきた薩
摩藩兵に合流して一気に倒幕挙兵をしようと考えていたのです。
しかし、久光としては倒幕する気などはないので、彼らを西郷を
使って説得させようとしたのです。
 しかし、西郷は志士たちの話をじっくりと聴くだけで、とくに
説得しているフシがない。久光はあいつは俺の命令を無視してい
るのではないかと腹を立て、鹿児島へ帰藩を命じ、今度は犯罪人
として、喜界ヶ島に流してしまったのです。奄美大島から戻され
てわずか4ヵ月後のことです。これが第2回目の島流しです。
 西郷は喜界ヶ島では檻の中に入れられた生活だったのです。島
の役人が気の毒がって、外に出てもいいといったのですが、西郷
は出ようとしなかったのです。
 西郷が許されたのは、それから一年半ばかり経過した元治元年
(1864年)のことです。長い牢獄生活で西郷は歩くことがで
きず、港から家まで駕籠を使ったといわれます。
 そこで西郷は斉彬の墓参りをし、3月はじめには鹿児島を発っ
て京都に向かったのです。久光は京都に着いた西郷に後事を託し
て鹿児島に戻っています。かくて京都の薩摩藩士は西郷の掌握下
に入り、その後の池田屋事件、それに続く蛤御門の変が起きるの
ですが、その処理が見事だったとしてはじめて西郷は久光に褒め
られたのです。       ―─ [新視点からの龍馬論/20]


≪画像および関連情報≫
 ●鬼界ヶ島について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  鬼界ヶ島(きかいがしま)とは、1177年(治承元年)の
  鹿ケ谷の陰謀により、俊寛、平康頼、藤原成経が流罪にされ
  た島。薩摩国に属す。『平家物語』によると、島の様子は次
  の通りである。舟はめったに通わず、人も希である。住民は
  色黒で、話す言葉も理解できず、男は烏帽子をかぶらず、女
  は髪を下げない。農夫はおらず穀物の類はなく、衣料品もな
  い。島の中には高い山があり、常時火が燃えており、硫黄が
  たくさんあるので、この島を硫黄島ともいう。
                    ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

喜界ヶ島での西郷隆盛.jpg
喜界ヶ島での西郷 隆盛
posted by 平野 浩 at 04:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月02日

●「龍馬たちを受け入れた薩摩藩の狙い」(EJ第2930号)

 勝海舟が江戸に召喚されたのは元治元年(1864年)10月
22日のことです。勝海舟は海軍操練所に赴任するさい、神戸へ
の土着を命じられていたので、江戸に召喚されるということは、
軍艦奉行の職を解かれる以外にはなかったのです。だからこそ海
軍塾の龍馬を始めとする土佐藩出身の若者を預かってくれと西郷
に依頼したのです。
 命を受けた海舟は、10月23日に大坂に出ると、25日には
伏見から早駕籠で江戸に下ったのです。海路ではなく、陸路での
帰府です。11月2日に江戸に着いた海舟は、10日にお役御免
を申し渡され、無役の寄合旗本にされたのです。そして翌慶応元
年(1865年)3月12日、幕府は正式に海軍操練所の廃止を
布告したのです。
 身の危険を感じた土佐藩出身者は操練所から姿を消し、大阪の
薩摩藩邸に入ったのです。龍馬を筆頭に近藤長次郎、新宮馬之助
高松太郎、千屋寅之助(菅野覚兵衛)、沢村惣之丞、白峰俊馬、
睦奥宗光ら30人です。
 西郷は勝との約束を守ったのです。しかし、土佐藩出身者は脱
藩者であり、いわゆるお尋ね者なのです。これが土佐藩にわかる
と、薩摩藩が彼らを保護するのは、土佐藩に対する敵対行為であ
るとして、糾弾される危険があります。
 いかに勝海舟との約束とはいうものの、何のメリットもないの
であれば、そんな危険なことをするはずがないのです。そういう
観点で探っていくと、薩摩藩家老の小松帯刀が大久保利通に送っ
たとされる次の書簡があるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 小松書簡の日付は元治元年11月26日である。これは『大久
 保利通関係文書』に収録されている。小松の書簡に、龍馬が塾
 の土佐人共用の船を手に入れようとして奔走していることが書
 かれ、それについては小松帯刀も西郷隆盛も知っていると書か
 れている。龍馬は、塾の所有の船ではなく、塾の土佐人共用の
 船を人手しようとしているのである。もしも龍馬の奔走が実現
 すると、塾の土佐人共用の船──操練所の所有でも塾の所有で
 もないというものが出現し、土佐人はこの船を操縦して海運事
 業をおこなう事態になるわけだ。       ──高野澄著
           『坂本龍馬/33年の生涯』/三修社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 いうまでもなく、いかに雄藩といえども、この時代は幕府に関
係なく外国と交易を行うことは禁じられていたのです。幕府が開
国をなぜ恐れたかというと、それを契機にして諸藩が外国と貿易
を行うことによって、その「財力」や「兵力」が拡大することを
強く恐れていたのです。
 しかし、有力な藩であれば、藩船を何隻も持つところは増えて
いたのです。そういう時代に、藩にもどこにも帰属しない船──
脱藩した土佐人共用の船ならそれに該当──が手に入るとしたら
これを利用していろいろな海運事業ができるのです。小松帯刀は
この計画は面白いと考えたのです。
 しかし、龍馬たちによるこの船舶購入は失敗したのです。ほと
んどそれと同時に海舟の罷免と操練所の閉鎖が行われたのです。
そうなると龍馬たちは、危険から身を避けて薩摩藩の庇護を受け
るだけの存在になります。
 しかし、航海技術を持つ人材は限られており、そういう意味で
土佐藩脱藩者の30人は貴重な存在であるといえます。薩摩の手
によって船舶を手に入れ、龍馬に実務をすべて任せる方法もある
のです。いずれにせよ、龍馬たちを薩摩藩として受け入れること
は十分メリットがあると小松は考えたのです。
 慶応元年4月下旬のことです。薩摩藩預かりの土佐藩メンバー
は、薩摩藩船・胡蝶丸で鹿児島に向かっていたのです。この船に
は西郷隆盛と家老の小松帯刀も乗っていたのです。ちょうどその
とき、幕府は確たる見通しもないのに第2次長州征伐に踏み切っ
たのです。
 慶応元年5月、小松帯刀は汽船を購入するため、長崎に向かっ
たのです。そのとき、坂本龍馬は、塾生たちを小松と一緒に長崎
に同道させています。リーダーは近藤長次郎です。このとき、龍
馬は薩摩藩と連携して、次の2つの計画を考えていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1.長崎を拠点として海運・貿易の事業を興す計画
   2.薩摩と長州を和解させて同盟を樹立させる計画
―――――――――――――――――――――――――――――
 長崎に着いた塾生たちは、市外伊良林の亀山というところに落
ち着いたのです。亀山というのは、長崎の港と市街が一望できる
眺めの良い丘の上にあったのです。塾生たちはここを本拠地とし
て活動を開始します。しかし、幕府の直轄の開港場である長崎で
は、薩摩藩預かりの浪士という身分の彼らは、それぞれ変名を使
わざるを得なかったのです。
 薩摩藩は、そういう龍馬たちに毎月一人当たり3両2分を手当
として支給したのです。月3両2分といえば、相当の高給であり
お茶屋や料亭などで飲み食いもできるほどの金額です。大河ドラ
マでも飲み会のシーンが多く出てきましたが、彼らにとってそれ
は支払えるレベルの遊びであったのです。
 しかし、社中を作るには相当の資金がいるのです。問題のこの
資金はどこから出たかです。そのとき長崎には勝海舟と旧知の小
曾根乾堂という豪商がおり、資金はその小曾根乾堂から出された
といわれています。上記の1の計画はこの亀山社中の設立によっ
て達成されたのです。
 2の計画──いわゆる薩長同盟の成立です。この実現のため、
龍馬は一人で大宰府に向かったのです。そこには中岡慎太郎がい
たからです。薩長同盟──犬猿の間柄の同藩をどのようにして同
盟させるか。容易なことでは実現できない。しかし、龍馬にはそ
れを実現させる秘策があったのです。そのための亀山社中設立で
もあったのです。     ―─ [新視点からの龍馬論/21]


≪画像および関連情報≫
 ●小松帯刀とは何者か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  天保6年(1835年)、薩摩国鹿児島城下の喜入屋敷にて
  喜入領主・肝付兼善の三男として生まれる。長崎で西洋水雷
  などを研究した後の文久元年(1861年)、島津久光に才
  能を見出されて側近となり、大久保利通と共に藩政改革に取
  り組んだ。文久2年には久光による上洛に随行し、帰国後は
  家老職に就任した。薩英戦争では、研究した水雷を鹿児島湾
  に配置するなど尽力する。      ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

小松帯刀/薩摩藩家老.jpg
小松 帯刀/薩摩藩家老
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2010年11月04日

●「敗戦処理の下手な長州/上手な薩摩」(EJ第2931号)

 ここで長州藩の事情について知る必要があります。「長州」と
は、長門(ながと)と周防(すおう)の2ヶ国を合わせた毛利領
のことであり、現在の山口県に当ります。長州藩とも毛利藩とも
萩藩とも──居城が萩にあった──呼ばれています。
 戦国時代の名門毛利家は、中国地方の8ヵ国を領有する雄藩で
す。しかし、この藩は外交力がきわめて下手な藩なのです。その
下手さ加減は遺伝的ともいうべきレベルであったのです。まるで
現在の菅内閣のそれと同じです。
 それは、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後の政治折
衝の稚拙さに見ることができます。長州の毛利輝元はこの戦いで
西軍の総大将の地位にあったのです。しかし、その毛利輝元は最
後まで曖昧な態度を取り続け、圧倒的有利であったはずの西軍は
敗北してしまうのです。
 しかし、関ヶ原の戦いで徳川方に勝利をもたらす重要な原因に
なったのは、毛利両川(もうりりょうせん)といわれる筑前36
万石の小早川秀秋と出雲14万石の吉川広家の両家が徳川方に内
応したからであるといえます。
 したがって、毛利本藩としては、これを交渉材料にしてどのよ
うにでも徳川方と強気の交渉ができたはずなのです。しかし、毛
利本藩はひたすら、徳川家康に対して恭順の意を示すだけで、交
渉らしい交渉をせず、やっと断絶を免れているのです。
 それには、吉川広家の献身的な働き掛けがあり、その結果、吉
川家は領地を失い、毛利領内に一領(岩国)を得る準藩に甘んじ
たのです。そして、毛利本家は、中国8ヶ国120万石を領する
大国から、2国一領の36万石に減封されたのです。
 ちなみに小早川は、備前美作51万石を領したものの、秀秋に
は遺子がなく、その死によって1602年に断絶になっているの
です。完全なる外交の失敗です。
 これに対して薩摩藩はどうでしょうか。
 天正15年(1587年)に秀吉の九州・島津討伐軍に降伏し
1600年の関ヶ原の戦いには毛利と同様に西軍に参陣して敗北
しています。しかも、関ヶ原の戦いでは毛利家のように徳川方に
何も貢献していないのです。
 ところが島津家は鎌倉以来の大名家として戦国期を通じて生き
抜いてきており、危機を乗り超えるDNAを受け継いでいるので
す。外交力がしたたかであり、2度にわたる敗戦で、一片の土地
も手放さずに危機を乗り越えているのです。
 しかも、たとえ幕吏といえども、薩摩の土を踏ませないという
独立自尊の態度で幕末を巧妙に生き抜き、幕末の二大雄藩といわ
れる競争相手の長州を二度も敗北に追い込んでいます。
 蛤御門の変に敗北した長州藩に対し、第1次長州征伐が元治元
年(1864年)8月2日に布告されています。3日後の8月5
日に米英仏蘭の連合軍が下関を攻撃し、長州藩は壊滅的打撃を受
けたのです。
 このとき、米英仏蘭の4ヶ国は長州藩を砲撃することを事前に
幕府に伝えており、幕府軍としては米英仏蘭の連合軍が徹底的に
叩いた後で戦争を仕掛ければ長州藩を完全に制圧できると考えて
いたのです。このように幕末の国内戦争には外国軍が何らかのか
たちで、一枚絡んでいたのです。
 とにかく幕府軍が来る前に米英仏蘭の連合軍と休戦協定を結ぶ
必要がある──そこで、こういう外国との交渉に強い人材をかき
集めたのです。そのとき入獄させられていた高杉晋作、それに英
国から急遽帰国させられた伊藤博文と井上聞多が起用され、高杉
・伊藤・井上の3人が機略縦横の策略で、なんとか戦後処理は穏
便に収めたのです。このとき、外国との交渉において英国と長州
藩のパイプができたのです。
 しかし、この長州という藩は、伝統的に若者の政治活動に寛容
なところがあり、既に攘夷が藩レベルで統一──つまり、国是と
なっていたのです。そのため、高杉・伊藤・井上の三人は売国奴
の罵りを浴び、功労者であるのに、藩士全員を敵に回して追われ
る身になってしまったのです。
 こういう長州藩の混乱を見て、第1次征長軍の参謀役の西郷隆
盛は、長州人によって長州を始末させる政策を取り、休戦させる
ことに重点を置き、先のことを考えて長州を救ったのです。
 そこで西郷は、毛利家の分家である吉川家の城下の岩国に乗り
込み、吉川経幹(つねもと)を相手に、長州藩の降伏謝罪の条件
を協議したのです。その条件は次の5つです。
―――――――――――――――――――――――――――――
         1.  藩主親子の蟄居
         2.五卿の他領への移座
         3.  家老3人の切腹
         4.  軍の参謀の斬首
         5.   山口城の破却
―――――――――――――――――――――――――――――
 西郷は吉川経幹に、これを承知すれば征長軍は撤退し、藩士父
子に対するその後の処置が厳格にならぬよう自分が工作するとい
う約束をしたのです。
 長州藩はこの条件を受け入れます。もし、幕府の大軍に攻め込
まれれば、ひとたまりもない長州藩としては、非常に甘い条件で
あったからです。
 講和が実行され、征長軍が撤退、解散されると、果たせるかな
幕府の内部には、長州の措置が寛大すぎるとして、非難がわきお
こったのです。それとは逆に、長州藩幹部の間では、西郷隆盛と
薩摩藩に対する信頼と期待が生じたのです。
 さて、文久3年8月18日の政変で京都から追い出された七卿
(1人が脱走し1人は病死で五卿)は、講和条件にしたがって、
筑前(福岡県)の大宰府に移るのです。この五卿のうち、三条実
美には土佐の中岡慎太郎が付いていたのです。
 こういういきさつから薩摩と長州の仲は少し前進し、やがて薩
長同盟にいたるのです。   ―─ [新視点からの龍馬論/22]


≪画像および関連情報≫
 ●伊藤博文と井上聞多/長州藩/いり豆 歴史談義ブログ
  ―――――――――――――――――――――――――――
  幕末、長州藩は極秘のうちに、5名の留学生をイギリスに送
  っていました。尊攘派の勢いが、最も強かった時期。文久3
  年のことです。この留学生派遣を企画したのは、松下村塾系
  の家老、周布政之助。そして、桂小五郎・久坂玄端でした。
  彼らは、攘夷を主張していた中心人物であるにもかかわらず
  一方では、西洋の進んだ近代文明を取り入れて、列国に対抗
  できる力を持つことが必要である、という認識を持っていま
  した。そして、この留学生の中には、井上聞多(後の外務大
  臣・馨)と伊藤俊輔(後の総理大臣・博文)の2人も入って
  いました。井上と伊藤は、落ちこぼれの放蕩書生という感じ
  で、周布の求める留学生候補には、全く入っていなかったの
  ですが、井上聞多が、どこからか、この話を聞きつけて、半
  分、周布を脅すようにして、強引に留学生にもぐり込んだの
  でした。
  http://plaza.rakuten.co.jp/gundayuu/diary/200706160000/
  ―――――――――――――――――――――――――――

伊藤博文と井上聞多.jpg
伊藤 博文と井上 聞多
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2010年11月05日

●「高杉晋作はどのような人物だったか」(EJ第2932号)

 長州藩の幕末の志士といえば、何といっても高杉晋作と木戸孝
允(桂小五郎)の2人でしょう。
 高杉晋作は、藩校の明倫館で学んだあと、吉田松陰の松下村塾
に転じてからめきめきと頭角をあらわし、久坂玄瑞と並ぶ存在と
されたのです。この高杉晋作を師の吉田松陰は、次の言葉で評価
しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 識見気魄、他人に及ぶなく、人の駕御を受けざる高等の人物
―――――――――――――――――――――――――――――
 文久2年(1862年)に幕府の貿易調査船に乗って中国の上
海に渡航し英国人に浸食される中国の状況を視察しています。こ
の経験から、日本は、攘夷にせよ、開国にせよ、十分に国力をつ
けてからやらないと大変なことになることを実感したのです。
 最初のうちは、過激派の久坂玄瑞とともに外国公使館の焼き討
ちなどに参加していたのですが、そのうちに尊攘派に賛成できな
くなり、藩に10年間の休みをもらって剃髪し、「東行」と号し
て萩に潜居していたのです。
 しかし、馬関(下関)戦争が起こり、戦闘のプロであるはずの
武士団が諸外国のわずかな軍艦の前に大敗北を喫すると、藩主は
たまらず高杉晋作を呼び出し、藩の軍事力を強化する方策を策定
するようを命じたのです。困ったときの高杉晋作です。
 そのとき、高杉は「奇を以って虚をつき敵を制する兵をつくり
たい」と提案し、新しい組織原則に基づく「奇兵隊」を結成し、
自ら総監になったのです。そして奇兵隊を中心として、遊撃、八
幡、集義、義勇の諸隊を編成し、正規軍と対立しながらも藩の軍
事力の中心に育っていったのです。
 新しい組織原則とは何かというと、まず、身分の低い者でも入
隊可能であるということです。さらに、隊内では身分に上下なく
全員が同志という扱いなのです。これは吉田松陰の「草莽崛起」
の理想を実現したものなのです。
 加えて能力主義によって階級を定めたので、能力がないのに門
閥や身分により階級が決まってしまう様な武士軍団と比べ、非常
に合理的な部隊となり、強い戦闘力を持っていたのです。
 一方、下関の市街が諸外国軍の砲火に晒されてしまうに及んで
農民町人たちは「武士はあてにならない。自分たちの故郷や村は
自分たちで守らなければならない」と自覚したため、多くの入隊
希望があったといいます。
 しかし、当然のことながら、正規軍との対立は激しく、高杉は
ささいなことの責任を取らされ、総監を解任されてしまいます。
そのため高杉は脱藩して京都に亡命するのです。
 しかし、京都から尊攘派が追い出されると、亡命していた高杉
は自ら帰藩し、脱藩の罪で投獄されたのです。そのあと、米英仏
蘭の連合軍との休戦協定を結ぶために出獄し、伊藤、井上ととも
に活躍したことは既に述べたとおりです。
 しかし、再び俗論派に追放され、再び博多に亡命するのです。
そして元治元年12月15日に高杉は、功山寺で決起し、クーデ
ターを起こすのです。
 このとき、下関の功山寺に集まったのは、伊藤俊輔(博文)率
いる力士隊と石川小五郎率いる遊撃隊のわずか84人だったので
す。功山寺とは三条実美ら五卿がいた寺なのです。
 高杉は五卿に対し、「これよりは長州男児の腕前お目に懸け申
すべく」と挨拶をし、この挙兵が私利私欲からなるものでないと
断った上で、下関新地会所を襲撃して占拠します。さらに、18
名からなる決死隊は三田尻の海軍局に攻め入り、「丙辰丸」など
軍艦3隻を無血にて奪取することに成功したのです。
 この功山寺挙兵の日、12月15日にはワケがあるのです。当
初は12月14日を挙兵時期に定めていたといわれますが、何ら
かの事情で1日ずれてしまったのです。この日は吉良邸討ち入り
と同じ日であり、高杉の師である吉田松陰が東北遊学のために危
険を冒して脱藩した日でもあるのです。高杉晋作の挙兵はそうい
うやむにやまれぬものであったのです。
 実は12月27日から、長州の藩境を囲んでいた長征軍の諸隊
は撤兵を開始しはじめたのですが、そういう諸隊は長州藩内でま
さかクーデターが起こっていようとは誰も気がついてはいなかっ
たのです。そして年が明けた慶応元年(1865年)1月に次の
2つの戦争が起こるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
           1.絵堂の戦い
           2.大山の決戦
―――――――――――――――――――――――――――――
 慶応元年1月6日に「絵堂の戦い」が起こります。敗戦処理を
終えた毛利親子が蟄居に服したその夜半、高杉軍を殲滅するため
に絵堂に集結していた政府軍1000人に対して、奇兵隊の精鋭
200人が夜襲を仕掛け、これを撃破したのです。
 同年1月14日に「太田の決戦」が起こります。政府軍は最後
の決戦をすべく、絵堂に近い太田に兵を集め、奇兵隊に攻撃を仕
掛けます。しかし、激闘10日間、戦いは政府軍が敗走し、たっ
た2ヶ月で、長州藩の天下は勤王革命派が握ったのです。
 当然のことながら、幕府は、奇兵隊の勝利による政権再交代劇
を苦々しく思ったのです。もともと幕府は西郷の処分は甘すぎる
と思っていたので、それが第2次長州征伐の詔勅を求める動きに
つながったのです。
 しかし、長州征伐の詔勅はそう簡単には下りなかったのです。
それは、第1次長州征伐を事実上仕切った薩摩の西郷の政治力が
働いたからです。
 幕府が待ちに待った第2次長州征伐の詔勅は、大幅に遅れて、
1年あまり経過した慶応2年(1866年)6月7日にようやく
下されたのです。しかし、この詔勅が遅れている間に幕府にとっ
て、とんでもない事件が密かに進行していたのです。それが薩長
同盟なのです。       ―─ [新視点からの龍馬論/23]


≪画像および関連情報≫
 ●高杉晋作・コムより
  ―――――――――――――――――――――――――――
  連合軍との講和談判が整ってすぐ、長州藩内では、幕府寄り
  の政治を推し進める、俗論党が要職を占めることになってし
  まいました。これにより、討幕を推し進めていた高杉晋作の
  仲間たちは、次々に排除されていくことになりました。井上
  門多は襲われ瀕死の重傷を負い、周布政之助は藩政を窮地に
  追い込んだ責任をとり自決、高杉晋作も、自分の身の危険を
  感じはじめていました。このままでは自分の命も狙われると
  悟った晋作は、福岡の平尾山荘に住んでいる、野村望東尼の
  もとに潜伏し、長州の情勢を見守ることにしました。長州藩
  がどんどん幕府寄りになっていく様子を、しばらくみていた
  高杉晋作は、いまこそ行動をおこすときだと判断し、下関に
  戻りました。
       http://www.takasugi-shinsaku.com/taka113.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

高杉晋作/功山寺決起.jpg
高杉 晋作/功山寺決起
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2010年11月08日

●「木戸孝允と久坂玄瑞の行動の違い」(EJ第2933号)

 もう一人の長州藩の幕末の志士は、木戸孝允(たかよし)、旧
名は桂小五郎です。安政年間(1854年〜59年)に孝允と龍
馬は江戸にいたのです。
 龍馬は千葉道場、孝允は斉藤弥九郎の道場で共に剣技を磨いて
いたのです。そしてときどき、鍛冶橋の土佐屋敷で行われた剣術
の試合で2人は顔見知りであったようです。もしかしたら、2人
は手合わせをしたかもしれないのです。
 龍馬は文久2年に脱藩し、専ら藩の外で活躍する道を選んだの
に対し、木戸孝允は龍馬とは対照的な活躍をしているのです。あ
くまで藩の中に身を置き、大検使という地位につき、さらに京都
留守居役という重職に任じられたのです。
 実は、九門からの長州藩兵の締め出し、池田屋事件、蛤御門の
変という一連の長州藩にとっての大事件に関しては、高杉晋作と
木戸孝允の2人はほとんど関与していないのです。ちなみに高杉
晋作は、木戸孝允よりも6歳年下です。
 もっとも池田屋事件のとき、木戸孝允は池田屋に行っているの
ですが、間一髪のところで池田屋を出て助かっています。すべて
において木戸孝允は行動が慎重で、自分の身を大事にして行動し
ており、いずれ自分の出番がくることを自覚していたので、そう
いう行動をとっているのです。実に冷静な男なのです。
 蛤御門の変の前日、木戸孝允は変装して京都に潜伏していたの
ですが、まもなく但馬(兵庫県)に逃れています。そして商人に
変装し、翌年の慶応元年まで但馬の出石(いずし)というところ
に潜伏していたのです。
 一方高杉晋作は、元治元年(1864年)1月に京に積極的、
激烈に出兵を主張していた来島又兵衛の行動を止めようとして失
敗、脱藩して京都に出てきたのです。
 しかし、2月の下旬に木戸孝允は高杉晋作と会い、説得して高
杉を萩に連れ戻しています。3月29日に高杉は脱藩の罪で野山
獄に投ぜられますが、6月21日には出獄を許され、自宅で謹慎
していたのです。その間に池田屋事件、蛤御門の変が起きている
のです。つまり、高杉晋作は池田屋事件や蛤御門の変には何もか
かわっていないことになります。
 そのとき中心になって動いていたのは久坂玄瑞や真木和泉なの
です。久坂は1840年生まれであり、木戸よりは7歳、高杉よ
り1歳年下です。しかし、急進派といわれる久坂玄瑞なのですが
少なくとも突撃派の来島又兵衛と違い、彼の考え方には一本筋が
通っていたのです。
 6月24日に久坂玄瑞は、来島又兵衛や真木和泉らと諸隊を率
いて東上しますが、長州藩の罪の回復を願う「嘆願書」を起草し
朝廷に奉っています。8・18の政変で長州藩が京都から締め出
されたことを何とか解決しようとしたのです。
 そして朝廷から退去命令が出ると、久坂は兵を引こうとし、進
軍すべきと主張する来島又兵衛や真木和泉らと対立します。その
とき久坂玄瑞は次のように彼らを説得しているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 今回の件は、もともと、君主の無実の罪をはらすために、嘆願
 を重ねてみようということであったはずで、我が方から手を出
 して戦闘を開始するのは我々の本来の志ではない。それに世子
 君の来着も近日に迫っているのだから、それを待って進撃をす
 るか否かを決するがよいと思う。今、軍を進めたところで、援
 軍もなく、しかも我が軍の進撃準備も十分ではない。必勝の見
 込みの立つまで暫く戦機の熟するのを待つに如かずと思うが。
                    ──ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、来島又兵衛は久坂を卑怯者呼ばわりをし、真木和泉も
来島を支持したので、戦闘が開始されたのです。しかし、朝廷側
約3万人に対して長州藩はたったの2000人──勝てるはずが
ないのです。しかし、久坂は黙って戦闘に参加したのです。
 この戦闘は後に「禁門の変」とも「蛤御門の変」(EJでは蛤
御門の変)ともいわれるのですが、なぜ蛤御門の変といわれるの
かというと、来島又兵衛の率いる部隊が担当したのが蛤御門であ
り、その戦いぶりは見事なもので、守備する会津藩をあと一歩の
ところまで追い詰めたのです。この戦いでの最大の激戦が展開さ
れた門という意味で「蛤御門の変」と名付けられたのです。
 しかし、西郷隆盛が指揮する薩摩藩が援軍に加わると、来島勢
は一転して劣勢となり、来島が狙撃されて長州軍は総崩れになっ
たのです。
 一方、久坂玄瑞は薩摩兵を破ったのち、鷹司邸の裏門から邸内
に入ることに成功します。玄瑞は一縷の望みを鷹司卿に託そうと
したのです。そして鷹司卿に朝廷への参内のお供をし嘆願をさせ
て欲しいと哀願したのですが、卿は玄瑞を振り切って邸から出て
行ってしまったのです。鷹司邸は火を放たれ、すでに火の海とな
っており、玄瑞は全員に退却を命じ、自らは自刃して果てたので
す。享年25歳だったのです。
 ここでひとつ触れておくべきことがあります。第1次長州征伐
の裁きによって、三条実美ら五卿を他藩に移動させる件です。こ
れについては、当の五卿自身や長州藩の諸隊で反対の声が上がっ
てすぐに実現できなかったのです。
 そこに高杉晋作が兵を上げ、庄屋や豪農豪商の支持を得てクー
デターは成功します。慶応元年(1865年)2月のことです。
ここに登場するのは中岡慎太郎です。中岡は元治元年(1864
年)11月30日に功山寺で三条実美に拝謁しているのです。
 中岡慎太郎は龍馬と同じ土佐藩の志士であり、土佐勤王党にも
入っていたことがあります。文久3年(1863年)に土佐藩を
脱藩し、長州藩内の状況を見てきたのです。自身も蛤御門の変に
出撃して負傷し、外国艦隊との交戦にも加わっています。
 その中岡は、元治元年12月4日に難航している五卿移転問題
の解決のため、西郷隆盛と会っているのです。申し入れたのは西
郷の方です。       ―─ [新視点からの龍馬論/24]


≪画像および関連情報≫
 ●木戸孝允/桂小五郎とは
  ―――――――――――――――――――――――――――
  木戸孝允は、幕末〜明治時代初期に活躍した日本の武士・政
  治家。名の孝允は「こういん」と有職読みのされることもあ
  る。位階勲等はは贈従一位勲一等。長州藩士で、「長州閥」
  の巨頭。幕末期には、桂小五郎として知られていた尊攘攘夷
  派の中心人物で、薩摩の西郷隆盛、大久保利通とともに、維
  新の三傑として並び称せられる。維新十傑の1人でもある。
                    ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

木戸孝允(桂小五郎).jpg
木戸 孝允(桂 小五郎)
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2010年11月09日

●「薩長同盟への中岡慎太郎の努力」(EJ第2934号)

 元治元年(1864年)12月4日に西郷隆盛と中岡慎太郎は
小倉で会ったのです。そのとき中岡は「寺石貫夫」という変名を
使っています。西郷は中岡が五卿に随伴していることを知って、
面会を申し入れてきたのです。中岡は場合によっては西郷を斬る
気で会見に応じたのですが、話し合っているうちに西郷の誠意に
打たれ信用するようになります。そして五卿の移座に協力するこ
とを約束するのです。後に中岡は西郷に会ったときの印象を次の
ようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 西郷ちゅうのは、肥大な人物で後免の要石(ごめんのかなめい
 し)よりでっかい。            ──中岡慎太郎
―――――――――――――――――――――――――――――
 「後免」というのは土佐高知城外の後免町のことで、「要石」
は実在の力士の名前なのです。いずれにしても、これが薩長同盟
の最初の布石につながるのです。
 西郷は続いて同年12月、下関の稲荷町の大坂屋で高杉晋作と
会っています。西郷が馬関(下関)に来るということを知った長
州の激派は「馬関の海は薩摩人にとっての三途の川であり、渡っ
てきたら帰さない」と意気込んでいたといいます。
 西郷の側近は、そういう状況なので、行くことに懸念を示した
のですが、高杉が会うといっているなら行かなければならないと
いって下関に行き、高杉との会見に臨んだのです。そしてこの高
杉との会見によって、征伐軍が撤退した後で、五卿が筑前(福岡
県)に移るという合意がなされたのです。
 慶応元年(1865年)1月4日、五卿は馬関を渡り、大宰府
に向い、五卿の他藩移座が実現したのです。これに中岡慎太郎と
土方久元の2人が随行したのです。
 話はここでEJ第2930号の最後の部分に戻るのです。坂本
龍馬は、鹿児島に渡った海軍塾の塾生たちを小松帯刀に同行させ
て長崎に行かせると、自分は大宰府に向かうのです。中岡慎太郎
に会うためです。
 慶応元年(1865年)5月下旬、坂本龍馬は大宰府で三条実
美ら五卿に謁見し、五卿に薩長同盟を推進することを約束するの
です。問題は、薩長同盟をどうやって成立させるかです。鍵を握
るのは、西郷隆盛と木戸孝允の2人です。両人とも薩長同盟を望
んでいたのです。
 ここまで2つのルートで薩長同盟の実現への努力が進められて
きたのです。1つのルートは、木戸の思いを背負って西郷を説得
する中岡慎太郎の行動と、西郷の承諾を得て木戸を説得する坂本
龍馬の工作の2つです。
 もともと長州藩士の薩摩・会津に対する憎悪は根深いものがあ
るのです。8・18の変でも、蛤御門の変でも、長州は薩摩と会
津に敵味方に分かれて争っていますし、昔から長州人は薩摩・会
津を呼ぶときは次のようにいっていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      討薩賊会奸(とうさつぞくあいかん)
―――――――――――――――――――――――――――――
 つまり、薩摩を「薩賊」と呼び、会奸は「会津の奸物」という
意味であり、長州人はとくに薩摩人は嫌いで、下駄や草履に「薩
賊」と書いて、足の下に踏み歩く人も多かったのです。
 そういう薩摩と長州を同盟させるのは容易なことではなかった
のです。しかし、第1次長州征伐のさいの西郷隆盛の長州に対す
る配慮や五卿の大宰府への移座における中岡慎太郎や西郷隆盛の
尽力、それに薩摩や長州が反目しているときではなく、日本のた
めに雄藩は連合すべきであるということを説く坂本龍馬の説得に
よって、薩摩と長州の溝は少しずつ埋められてきたのです。
 坂本龍馬は、大宰府で長州藩士の小田村素太郎と知り合いにな
り、小田村を通じて山口にいる木戸孝允と会見する道を探ること
になったのです。
 慶応元年5月、龍馬は下関に渡っています。そして白石正一郎
の屋敷で、三条実美の隋人である土方久元に会っています。その
土方は龍馬に、薩長を融和させるために中岡慎太郎が鹿児島へ西
郷隆盛を迎えに行き、自分はこの下関で木戸を説得するために来
ていることを告げたのです。
 これで、これまで同じ目的を持ちながら、2つのルートに分か
れていた薩長同盟実現への工作──木戸の期待を背負って西郷の
説得役の中岡慎太郎と、西郷の意を組んで木戸を説得する龍馬の
ルートがはじめて一本化する可能性が生まれたのです。
 ちょうどそのとき、京都では、第2次長州征伐を積極的に推進
する動きが強まり、薩摩藩としては帰国している西郷を上京させ
て緊急事態に備えることになったのです。絶好の機会が来たので
す。中岡としては上京の途中で西郷を下関に上陸させ、木戸と会
見したうえで薩長融和の策を進めるというのが、中岡や土方の描
いた計画だったのです。
 龍馬はこれを聞いて喜び、木戸や土方とともに西郷の下関到着
を待ったのです。しかし、そうならなかったのです。慶応元年5
月16日、西郷と中岡が乗った胡蝶丸は九州の東岸を北上し、外
浦港(宮崎県)に入港して2泊し、18日には佐賀関(大分市)
へ寄港。ここで中岡慎太郎だけが下船しているのです。
 西郷を乗せた胡蝶丸はそのまま航行を続けて19日には大阪に
到着し、西郷は23日には京都入りしているのです。なぜ、この
ような結果になったのかはわかっていないのです。
 このときの胡蝶丸の航跡を辿ると、そのまま瀬戸内海には入ら
ず、今度は南下して土佐の足摺岬南方を東行し、太平洋コースで
大阪湾に至っているのです。佐賀関まで行けば、瀬戸内海を通過
した方が距離的に無駄はなく、合理的なのです。
 問題は佐賀関になぜ寄港したかなのです。西郷は中岡慎太郎に
下関寄港の計画を出港の寸前に聞かされ、実現不能なので、中岡
を下関に近い佐賀関まで送り届けたのではないかと想定されてい
ます。           ―─ [新視点からの龍馬論/25]


≪画像および関連情報≫
 ●中岡慎太郎の『時勢論』について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  『時勢論』に於ける中岡の先見」──(学研)歴史群像より
  文久三年、九月五日、慎太郎は、土佐を脱藩し、三条実美と
  面会する。倒幕の為の行動を起こす為である。薩長和解を龍
  馬に語り、西郷や長州藩の同志を説き、桂小五郎にも面会す
  るなど、精力的に東奔西走していた慶応元年十一月二十六日
  夜、『時勢論』を書き上げる。何の為の攘夷か、何の為の倒
  幕か、例を古今に求め、薩長の天下を予言した一篇となって
  いる。「今から後、国を盛んにするのは、必ず薩摩と長州で
  ある。自分が思うに、天下が近日のうちに、この二藩の命に
  従うようになるのは、ちょうど鏡にかけて見るようなもので
  ある」と早くも王政復古後の薩長藩閥政権を断言している。
       http://tjhira.web.infoseek.co.jp/nakaoka.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

中岡慎太郎.jpg
中岡 慎太郎
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2010年11月10日

●「自ら話を切り出さない薩摩と長州」(EJ第2935号)

 なぜ、西郷隆盛は下関に降りなかったのでしょうか。大河ドラ
マでは、船内に幕府の隠密が潜んでいたので、秘密が漏れるのを
恐れた西郷が、そのまま胡蝶丸を大阪に直行させたという設定に
なっていたと思いますが、その事実はないと考えます。
 史実に基づいて考えてみます。慶応元年(1865年)、中岡
は京都で西郷と会う予定だったのですが、会えずに鹿児島まで西
郷を追っかけてきたのです。しかし、鹿児島でも会えず、胡蝶丸
の出港直前に会って事情を話したものと思われます。
 胡蝶丸は鹿児島を出港すると、宮崎県の外浦(とのうら)港に
寄港し、なぜか2泊しているのです。推測ですが、中岡はここで
西郷に事情を話し、下関下港を要請したのではないかと思われる
のです。いずれにせよ、西郷は下関での木戸との会談計画を知っ
たうえで、下関を素通りしたのではないということです。これに
ついて、菊地明氏は西郷は下関での木戸との会談を知らなかった
として、次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 会談を承諾したうえで急遽、予定を変更して西郷が下関寄港を
 拒んだのであれば、中岡に桂への謝罪状を託してもいいし、上
 京後に送ってもいい。ところが、その形跡はない。違約に対す
 る罪悪感がないのだ。それは、下関での桂との会談が約束され
 たものではなかったことを示している。だからこそ、西郷の謝
 罪状が存在しないのではないだろうか。『維新土佐勤王史』等
 で語られる西郷の突然の違約は、瓜生との面談での桂の言葉が
 曲解された結果のようである。        ──菊地明著
             『坂本龍馬』より/PHP研究所刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 西郷が下関を素通りしたことを知った木戸は当然のことながら
怒りを隠さなかったのです。「それ見給え、僕は最初からコンナ
ことであろうと思っておったが、果たして薩摩のために一杯喰わ
されたのである。もうよろしい。僕はこれから帰る」──木戸は
このようにいったものの、龍馬と中岡には再会談の条件を告げて
いるのです。その条件とは次の2つです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1.薩摩藩から使者による和解の議を申し入れてくること
  2.外商から艦船の購入に薩摩の名義を借してくれること
―――――――――――――――――――――――――――――
 2の条件がなぜ入ったかについては、そのとき長州藩は朝敵で
あり、幕府が朝敵である長州藩に外国との取引を禁じていたため
なのです。幕府は第2次長州藩征伐を進めているときであり、長
州としては開戦に備えて軍艦の増強が不可欠だったのです。
 慶応元年6月24日、龍馬と中岡は京都の薩摩藩邸で西郷と会
い、薩摩藩名義で汽船を購入する件を申し入れ、諒解を取ること
に成功します。龍馬は直ちに汽船購入の仲介斡旋の件を近藤長次
郎に指示したのです。これは事実上亀山社中の最初のビジネスに
なるのです。
 西郷もひとつ条件を出しています。西郷としては、朝廷が第2
次長州征伐の勅許を出さないよう、大量の薩摩軍を上京・集結さ
せることによって、朝廷を威嚇する必要があったのです。そのた
め薩摩兵の糧米を下関で補給できるよう、取り計らって欲しいと
いう要請です。
 しかし、9月下旬になって、朝廷は幕府の圧力に負けて、長州
再征の勅許を出すのです。こうなると、薩摩としては長州を守る
ためにも長州との同盟は不可欠なものになります。
 龍馬は、京都から西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀の薩摩藩首
脳の意を受けた薩摩藩士の黒田了介とともに下関に乗り込み、木
戸孝允と会見したのです。そのとき、龍馬は木戸孝允に次のよう
にいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 木戸さん、今が決断のときじゃきに、藩の体面や駆け引きは
 忘れて、西郷と会うてつかさい。      ──坂本龍馬
―――――――――――――――――――――――――――――
 木戸はそれでも慎重な姿勢を見せていたのですが、同席した高
杉、伊藤、井上が口をそろえて勧めたので、やっと重い腰を上げ
ることになったのです。
 慶応元年12月26日、木戸孝允は品川弥二郎らを連れて山口
を出発し、京都に向かいます。黒田了介も一緒です。龍馬は別行
動ですが、その後を追うのです。長府藩士・三吉慎蔵、土佐の同
志・池内蔵太を同道し、下関を出港して京都に向かっています。
慶応2年1月10日のことです。
 既に木戸孝允たちは昨年末に出立しているのですから、龍馬た
ちはもっと急ぐべきですが、わざととしか思えないほどゆったり
とした旅を続けているのです。3人は1月17日に神戸に着き、
次の日に大阪に入っています。そして、勝海舟の後の軍艦奉行で
ある大久保一翁(忠寛)に会いに行っています。その大久保一翁
は龍馬らに次のように警告しているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 おめえたちが入京するてぇ情報を、見廻組の探索方が、もう
 掴んでいるよ。市中警戒には新選組や別手組も、昼夜の別な
 く廻っているんだ。用心しな。      ──大久保一翁
―――――――――――――――――――――――――――――
 このとき3人は、薩摩の通行手形を持ち、髪も薩摩風に結い直
し、龍馬は高杉晋作から贈られた、護身用の米国製6連発のピス
トルを懐中にしていたのです。
 3人は夜明け前に薩摩藩の船で淀川をさかのぼり、伏見蓬莱橋
にある薩摩藩の定宿・寺田屋に着いて一泊し、翌日どうにか無事
に京都の薩摩藩邸に入ったのです。そこには10日も前から滞在
していた木戸孝允が、カリカリして龍馬を待っていたのです。話
は龍馬が来てからという木戸の意思で、いっさい何も行われてい
なかったのです。木戸は龍馬を待っていたのです。
             ―─ [新視点からの龍馬論/26]


≪画像および関連情報≫
 ●新選組と見廻組について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  新撰組は、祇園や三条等の歓楽街をテリトリーにしていまし
  た。それに対して見廻組は御所や二条城等の官庁街を見廻っ
  ていました。また本来見廻組は幕府直轄の組織で、反幕過激
  派対策組織でした。これに対して新撰組は、京都守護職松平
  容保の支配下にある非正規組織で、主に不逞浪士の取り締り
  が任務です。従って合同捜査を行ったり、共同戦線を張るよ
  うなことはありませんでした。ですので、今回の放送のよう
  に「怪しい者を捕らえたら見廻組に報告せよ」ということは
  ありません。身分に関しては新撰組は浪士(町人や農民含む)
  で、見廻組は旗本の次男・三男で腕に覚えのある部屋住みが
  選ばれたようです。なので、土佐の上士と下士以上の開きが
  あったことは間違いないようです(後に近藤らは幕臣に取り
  立てられますが)。組員は新撰組が最大で200人、見廻組
  が400人ということになっていますが、通常はその半分も
  いなかったのではないでしょうか?
     http://ryoumadn.seesaa.net/article/161349483.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

京都薩摩藩邸.jpg
京都薩摩藩邸
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2010年11月11日

●「薩長同盟成立と第2の寺田屋事件」(EJ第2936号)

 薩摩藩邸にはそのとき、西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀の3
人が揃っていたのです。そこに木戸孝允がやってきて10日間も
一緒にいたのです。当然、木戸は3人と話をしたのですが、誰も
薩長同盟の話を切り出さないのです。歓待はしてくれるのですが
肝心なことは何も話さないのです。
 こういう状況になったのは、お互いに藩としての体面があるか
らです。自分の方からはいい出したくないのです。そのため西郷
も木戸も龍馬が来るのをひたすら待っていたのです。
 薩長同盟は、龍馬の提案に薩摩と長州が乗ったというかたちに
なっていますが、西郷は最初から薩長同盟ができればベストであ
ると考えていたのです。しかし、薩摩の方から提携を持ちかけて
も成功率は低いのです。
 しかし、西郷ははじめて龍馬に会い、龍馬の話を聞いたときか
ら、龍馬は薩長同盟の代理人として使えると確信したのです。だ
からこそ、西郷は勝海舟から龍馬をはじめ30人もの脱藩浪人を
預かり、まとめて面倒を見ることにしたのです。
 木戸にしてもこの同盟は望むところであり、多少不快なことが
あっても成立させたいと考えていたのです。龍馬が来てから話し
合いは一挙に進み、次の6ヵ条がまとめられたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.長州藩と幕府軍が開戦した場合、薩摩藩は2000人の藩
   兵を上京させ、在京中の藩兵とともに京坂を固めること。
 2.長州藩が戦に勝利したさいは、薩摩藩は朝廷にこれを伝え
   必ず「尽力」すること。
 3.長州藩の敗色が濃厚になっても、1年や半年は持ちこたえ
   るので、薩摩藩はその間に「尽力」すること
 4.再征戦が開戦せず、幕府軍が引き揚げたさいは、朝廷より
   冤罪を免じられるよう薩摩藩は「尽力」すること。
 5.長州藩が上京したさい、一会桑が朝廷を楯として「尽力」
   に抵抗した場合、長州藩は決戦に及ぶほかはないこと。
 6.長州藩の「冤罪」が免じられたさいには、薩摩藩とともに
   国家のために尽力することはもちろん、勝敗いずれにして
   も、両藩は国家のため、皇威回復に尽力すること。
                       ──菊地明著
             『坂本龍馬』より/PHP研究所刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで想定されているのは、長州藩と幕府軍との武力衝突、す
なわち、第2次長州征伐が起こったときの薩摩藩と長州藩の対応
をとりまとめたものなのです。
 第1条は薩摩藩が傍観者とならないことを求めており、第2条
は長州藩の勝利、第3条は幕府軍の勝利、第4章は交戦回避の場
合の対応について定めています。第5条は長州藩の入京が認めら
れた場合の対応についての規定です。
 第6条に出てくる「冤罪」とは、長州藩が朝敵とされたことを
幕府による冤罪ととらえているのであり、名誉を回復するために
薩摩藩が「尽力」することを謳っているのです。
 この6ヵ条を見る限り、この同盟は軍事的なものではなく、長
州藩の名誉回復──すなわち、長州藩が京都から排除された文久
3年(1863年)8月の政変以前の状態への長州藩の復権なの
です。それに薩摩藩が力を貸すという内容なのです。
 なお、ここまで「薩長同盟」と書いてきましたが、「同盟」と
は「攻守同盟」を意味し、軍事同盟的色彩が強いのです。しかし
薩長同盟はそうではないのです。したがって、同盟というより、
「薩長連合」とか「薩長盟約」とか、文書によっていろいろ表現
が異なるのですが、EJでは「薩長同盟」と表記します。
 なお、薩長同盟の6ヵ条は会議の席で合意文書として交わされ
たものではなく、京都から大阪に下った木戸孝允が、慶応2年1
月23日付で龍馬に宛てた手紙に6ヵ条にまとめて記されたもの
です。そして木戸は、薩長和解の内容について、間違いがなけれ
ば「御裏書き御答えひとえに願い上げ奉り候」と龍馬に対して確
認を求めたのです。これを読んだ龍馬は、盟約書の裏書に次のよ
うに記述しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 表記の六ヵ条は、小松帯刀、西郷隆盛の両人と、私・坂本龍馬
 も同席して協議したことに些かも相違なく、将来も変わらぬこ
 とは神明も知るところである。       ──山本 大著
        『坂本龍馬/知れば知るほど』/実業之日本社
―――――――――――――――――――――――――――――
 龍馬が大任を果たして伏見の寺田屋に戻ると、その深夜伏見奉
行所が坂本龍馬を襲ったのです。これを第2の寺田屋事件という
のです。寺田屋事件には次の2つがあるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1.文久2年に発生した薩摩藩による尊皇派の鎮撫事件
  2.慶応2年発生の伏見奉行による坂本龍馬の襲撃事件
―――――――――――――――――――――――――――――
 このとき龍馬はピストルを撃ち尽くし、負傷して動けなくなっ
たのですが、三吉慎蔵とお龍が伏見の薩摩屋敷に救援を求めに行
き、駈けつけた薩摩藩士によって命を救われています。
 事件はただちに西郷に知らされ、西郷は医師と武装兵を伏見に
急行させています。伏見奉行所は、龍馬は薩摩藩邸にいると知り
龍馬の引き渡しを求めたのですが、一蹴されています。
 龍馬は藩邸内で治療を受け、いくらか容体が良くなった2月1
日に、武装した薩摩藩の銃隊に護送され、幕吏の警戒を尻目に、
堂々と、伏見から京都の薩摩藩邸に移っています。
 坂本龍馬は、ここでの治療中に中岡慎太郎を媒酌人にしてお龍
と結婚しているのです。やがて元気を取り戻した龍馬は、お龍と
ともに西郷らの船に同船して鹿児島に行くことになったのです。
慶応2年3月4日のことです。龍馬にとって、この鹿児島行きは
新婚旅行になったといえます。
             ―─ [新視点からの龍馬論/27]


≪画像および関連情報≫
 ●龍馬自筆「薩長同盟裏書」を公開
  ―――――――――――――――――――――――――――
  坂本龍馬が薩長同盟の合意内容を保証する書き込みをした文
  書「薩長同盟裏(うら)書(がき)」など、皇室に伝わる貴
  重な史料を集めた「皇室の文(ふみ)庫(くら)」展が9月
  18日から、皇居・東御苑の三の丸尚蔵館で開かれる。宮内
  庁書陵部によると、「薩長同盟裏書」は1866(慶応2)
  年に薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の桂小五郎(後の木戸孝允)
  らが同盟の密約を交わした後、密約の実効性に不安を覚えた
  桂が、同盟の仲介人である龍馬に内容を確認するよう手紙で
  求め、龍馬が手紙の裏に赤字で間違いないと裏書きしたもの
  である。木戸家から皇室に献上された。
            ──2010.8.2産経ニュース
  ―――――――――――――――――――――――――――

薩長同盟6ヵ条の龍馬の裏書き.jpg
薩長同盟6ヵ条の龍馬の裏書き
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2010年11月12日

●薩摩藩と長州藩の経済連携の中身(EJ第2937号)

 薩長同盟には、いわゆる6ヵ条の取り決めとは別に、薩摩藩と
長州藩の経済提携も含まれているのです。この提携は薩長同盟の
交渉と並行して進められていたのです。しかし、この経済提携を
巡ってユニオン号事件が起こり、その関連で亀山社中の中心人物
である近藤長次郎が切腹することになります。
 ここで「亀山社中」の「社中」の意味について触れておくこと
にします。「社中」は会社や商社を意味する造語と解釈する見解
がありますが、これは龍馬らの造語ではなく、古くから「神社の
氏子仲間」などのグループを指す言葉として用いられている一般
名詞なのです。したがって、亀山社中は「亀山に居を構えた商売
のグループ」、いや政治結社と解釈すべきです。
 さて、薩摩藩と長州藩の経済提携とは、どういう内容だったの
でしょうか。まとめると次の4つになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.薩摩の名義で長州のための武器その他の物質を購入する
 2.上記1の他の物質の調達の中には船舶の購入も含まれる
 3.薩摩藩兵の糧米を下関で補給・調達できるよう配慮する
 4.長州の物産を諸国に販売──実務は亀山社中が担当する
―――――――――――――――――――――――――――――
 この経済提携に基づき、亀山社中が購入した船は、イギリス製
の70馬力、300トン、長さ25間2尺(約46メートル)、
幅3間4尺(約6・7メートル)のユニオン号であり、のちに長
州藩が薩摩藩名義で購入することになります。船の代金は、3万
7700両(約18億8500万円)であり、これが引き渡し価
格であったと考えられます。
 しかし、ユニオン号は軍艦なのです。これに名義を貸すという
ことは相当のリスクがあり、薩摩藩としては相当悩んだものと思
われます。歴史研究家で、フリーライターの竹下倫一氏は自著で
次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 薩摩藩は、長州藩の武器調達に当たって名義を貸してはいるが
 軍艦の購入にまで手を貸してやることは、ためらっていたよう
 だ。その理由は、一つには当時はまだ幕府に対する遠慮があっ
 たこと、もう一つは、長州にそこまで便宜を与えることは、薩
 摩にとっていいことかどうかという迷いがあったことだと思わ
 れる。この頃、幕府の権威は落ちているといえども、まだまだ
 その力は強大だった。幕府が本当に権威を失墜するのは、この
 直後の対長州戦争で敗北してからである。だから、薩摩藩とし
 ては、幕府の機嫌を損ねてまで、長州に軍檻を買ってやること
 には、まだ踏み切れなかったのです。    ──竹下倫一著
         『龍馬の金策日記』より/祥伝社新書038
―――――――――――――――――――――――――――――
 薩摩藩の心配は当然です。しかし、切実なのは長州藩の方なの
です。長州藩は外国との交戦によって海軍が壊滅状態になってい
たので、第2次長州征伐が目の前に迫っているだけに、どんな不
利な条件を飲んでも、軍艦はどうしても欲しかったのです。
 この長州藩の切実な事情と幕府を倒して世の中を変えようとし
ていた西郷ら薩摩藩の目標という双方のエネルギーをうまく調整
したのが龍馬率いる亀山社中であり、それが実現困難と思われて
いた薩長同盟を実らせた力であるといえます。
 この軍艦ユニオン号のほかに大量の銃器も薩摩藩名義で亀山社
中は扱っているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   ミニエール銃など  ・・・・・・・ 4300挺
       7万7400両(約38億7000万円)
   ゲベール銃(中古) ・・・・・・・ 3000挺
       1万5000両(約 7億5000万円)
             ──竹下倫一著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 これを見ると、亀山社中が長州藩との取引ではユニオン号を含
めて、13万100両(約65億500万円)もの金額を扱った
ことになるのです。
 仮に5%の仲介手数料を取ったとすると、6505両(約3億
2525万円)の収入があったことになるのです。それならばま
さに大儲けということになります。
 しかし、亀山社中は儲けていないのです。当時としては進歩的
な龍馬たちといえども、斡旋仲介をするだけで手数料を取るなど
武士としてやるべきではないと考えていたからです。しかし、岩
崎弥太郎だけは違っていたようです。彼だけが、現代の商社の感
覚でビジネスをやっていたのです。
 木戸孝允にしても西郷にしても、龍馬たちが世の中を変えたい
という純粋な気持ちで動いていたことが分かっていたので、龍馬
を仲立ちとして薩長同盟や経済提携が実現したといってよいと思
います。少し意地悪な見方をすれば、薩摩藩と長州藩が直接取引
するのではなく、亀山社中を介在させておくと、最悪の場合、都
合がよいという事情もあったと思われます。
 もともとユニオン号の購入については、長州藩、薩摩藩、亀山
社中の間で三者三得のメリットがあったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 桜島丸条約(薩摩藩の名義で買うのでそういう名称になってい
 る)では、薩摩藩の名義で買い、平時の運用は亀山社中が行う
 ことになっていた。これにより、長州藩は軍艦を手に入れるこ
 とができ、薩摩は名義を貸すことで長州に恩を売ることができ
 亀山社中は運用できる船を手に入れることができるという、三
 者三得となるはずだった。   ──竹下倫一著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、この案は亀山社中の近藤が主導したもので、井上聞多
や木戸は承知していたものの、実際に船を回航する段階になって
長州側からクレームがつき、三者間で紛糾するような事態になっ
たのです。        ―─ [新視点からの龍馬論/28]


≪画像および関連情報≫
 ●ミニエー銃とゲベール銃について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ミニエー銃とは、1849年にフランス陸軍のクロード・エ
  ティエン・ミニエー大尉によって開発されたミニエー弾を使
  用する歩兵銃の総称である。ただし一から製造された物では
  なく、旧来のゲベール銃に照尺を取り付け、ライフリングを
  刻んだものである。ミニエー銃は、滑腔砲であるマスケット
  銃にライフリングを刻んだ銃である。前装式のライフル銃で
  充分な回転と弾丸周囲からのガス漏れを防止できるため、装
  弾の作業効率が向上し、飛距離と命中精度が飛躍的に向上し
  たのである。            ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

ゲベール銃とミニエール銃.jpg
ゲベール銃とミニエール銃
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2010年11月15日

●「トーマス・B・グラバーとは何者か」(EJ第2938号)

 今回からもう一人重要人物が登場します。その人物は「トーマ
ス・ブレイク・グラバー」です。グラバーは幕末に重要な働きを
するのですが、その一面において、謎の人物といわれているので
す。自分の過去を潜め、己の歴史を消しているからです。
 グラバーは、スコットランド北東部、北海に面したアバディー
ンの北にある寒村フレイザーバラで生まれたのです。そして、グ
ラバーが11歳になったときに、アバディーンに移ります。
 なぜ、出生地について詳しく述べるのかというと、アバディー
ンがフリーメーソン密度の濃い街として有名だからです。アバデ
ィーンは、当時16万人に満たない街ですが、フリーメーソンの
ロッジは13もあるのです。この数がいかに多いかは、サンフラ
ンシスコという大都市でもロッジの数が12しかないことを考え
れば、わかるはずです。
 フリーメーソンに詳しい作家の加治将一氏は、アバディーンと
フリーメーソンの関係について次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 公文書に載っている最古のフリーメーソンの記録が発見された
 のも、この地のことだ。1541年、『フリーメーソン・アバ
 ディーン・ロッジ』というシールで封印された訴訟関係文書。
 日本ではちょうど室町幕府第十二代将軍、足利義晴が治めてい
 た時代だが、その当時、フリーメーソン・ロッジがアバディー
 ン市を訴えているのだから、いかに彼らの力が強く、また法律
 が尊重されていたかが垣間見える。
      ──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 1857年(安政5年)の前半にグラバーは上海に向けて出航
しています。そしてその年の5月か6月頃に上海に上陸している
のです。そのときのグラバーの年齢は、18歳〜19歳ぐらいで
あったと思われます。
 上海でグラバーは親戚のつてによって、ジャーディン・マセソ
ン商会に雇われています。ジャーディン・マセソン商会といえば
大商社です。この商会の創業者であるウイリアム・ジャーディン
とジェイムズ・マセソンは、グラバーと同じスコットランドの出
身だったのです。
 1958年(安政5年)に安政の5ヶ国条約が結ばれます。日
米修好通商条約のほか、イギリス、フランス、ロシア、オランダ
の5ヶ国と同様の条約を締結したのです。条文の中には、長崎、
神奈川(横浜)、函館の開港が盛り込まれていたのです。
 しかし、時の大老井伊直弼は朝廷の許可なく条約を批准してお
り、そのことが幕府と朝廷の軋轢を生み、日本国内は安定ならざ
る状態になったのです。
 1859年(安政6年)9月19日、グラバーは長崎に上陸し
たのです。9月16日に上海を出発したP&O汽船会社アゾフ号
に乗って来日したのですが、この船は上海と長崎を結ぶ定期航路
の第1便だったのです。トーマス・B・クラバーが21歳のとき
であり、ジャーディン・マセソン商会から派遣されたのです。
 日本には、ジャーディン・マセソン商会の代理人であるマッケ
ンジーがいたのです。グラバーは親子ほど年の違うマッケンジー
の下で、商人としての基本を叩き込まれたのです。
 しかし、1861年6月にマッケンジーは日本を離れて、開港
されたばかりの清国の漢口に行くことになったのです。それと同
時にグラバーはマッケンジーからジャーディン・マセソン商会の
代理人の地位を引き継ぐことになったのです。
 グラバーはこのチャンスを見逃さなかったのです。これに加え
て、デント商会、サッスーン商会とも代理人契約を結び、発足し
た外国人による長崎商業会議所の代表委員にも選任され、22歳
にして、独立して商売を行うポジションに立ち、責任ある地位を
まかされたのです。
 なぜ、グラバーが20歳代前半の若さでこれほど、責任ある地
位を与えられたかについては謎とされていますが、おそらくグラ
バーがフリーメーソンであったからであると思われます。
 グラバーは、フリーメーソン発祥の地といわれるスコットラン
ドのアバディーンで育ち、そのつてで上海の商社ジャーディン・
マセソン商会に入っています。上海には、英国の「上海ロッジ」
というフリーメーソンの組織があって、ウイリアム・ジャーディ
ンもジェイムズ・マセソンもフリーメーソンといわれています。
もちろん、マッケンジーも同様です。
 しかし、それを証明するものは残っていないのです。なぜなら
清国が共産主義国家になったとたんに「上海ロッジ」は消滅して
しまったからです。
 フリーメーソンに詳しい加治将一氏は、グラバーがフリーメー
ソンであった可能性について次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 徒手空拳の青年が、一人で事業を始めるにあたって「上海ロッ
 ジ」という偉大なる拠点とつながりを持たない理由はない。メ
 ーソンに入れば、絶大なサポートやコネが期待できるのだ。夢
 はロッジにある。馬鹿でないかぎり入会するはずだ。グラバー
 も当たり前のごとく、メンバーになった。だからこそ、長崎の
 丘に建つグラバー邸に、フリーメーソンのマークの入った石柱
 が立ち、おいおい述べるが、彼の人生は実力あるフリーメーソ
 ンたちに囲まれていたのである。
      ──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 加治将一氏によると、グラバー邸内には、現在は撤去されてい
ますが、メーソンマークの付いた石柱があったというのです。加
治氏は実際にそれを確認しています。これは「長崎ロッジ」の存
在を裏付けているというのです。ちなみにフリーメーソンは宗教
組織ではありません。その実体はなかなか表にはでないので、少
しずつ明らかにしていくつもりです。
             ―─ [新視点からの龍馬論/29]


≪画像および関連情報≫
 ●「上海ロッジ」はダークネス・ロッジ化している!?
  ―――――――――――――――――――――――――――
  中国共産党は利口だ。英国ロイヤルファミリーに直結してい
  る「上海ロッジ」の利用価値は充分に認識しており、「ダー
  クネス・ロッジ」として密かに活用しつづけているのだとい
  うのである。実際、商社のジャーディン・マセソンが革命後
  の中国共産党と親密な関係にあり、莫大な利益を得ているこ
  とを考えれば、闇のロッジが存続しているとしてもさほど突
  飛なことではない。
      ──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

グラバーの肖像/長崎県.jpg
グラバーの肖像/長崎県
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2010年11月16日

●「松下村塾は特務機関要請学校」(EJ第2939号)

 グラバーについてはこれから詳しく述べていきますが、龍馬と
の接点から先にお話しします。グラバーと龍馬は深く結びついて
いたからです。
 元治元年(1864年)2月5日、勝海舟に長崎出張の命が出
されるのです。そのとき、勝は龍馬を同伴させます。そして、2
月23日に長崎に着くのです。龍馬にとってはじめての長崎の地
です。不思議なのは、龍馬はこの長崎の地に実に40日間も腰を
落ち着けていることです。
 勝海舟の任務は何であったのでしょうか。
 それは長州藩と外国──英国の動静を探ることです。この当時
外国側としては、日本が進めようとしている尊皇攘夷──とくに
大攘夷がいかに馬鹿げているかを日本人に知らせるのは、外国を
見せることが一番手っ取り早かったのです。
 具体的には、日本の進歩的な俊秀を外国に留学させることであ
り、外国側としてはそれをサポートしてやることです。この役割
を担ったのがグラバーであったのです。
 長州藩は、藩黙認の下で藩の俊秀をグラバー邸に出入りさせ、
外国に密航させていたのです。分かっているのは次の5人です。
彼らは「長州ファイブ」と呼ばれていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       伊藤 博文 ・・・・・ 22歳
       井上  馨 ・・・・・ 28歳
       山尾 庸三 ・・・・・ 26歳
       井上  勝 ・・・・・ 20歳
       遠藤 謹助 ・・・・・ 27歳
―――――――――――――――――――――――――――――
 この5人の中で一番有名なのはおそらく伊藤博文でしょう。旧
千円札の顔として万人が知っている人物ですが、同じ幕末の志士
である坂本龍馬、西郷隆盛、高杉晋作などと比べると、影の薄い
存在です。しかし、後に日本の初代の総理大臣になり、ハルピン
で暗殺されるほどの影響力のある政治家なのです。明治維新にな
ると、急速に長州藩の面々が主流派を形成するのです。その一人
である伊藤博文は、三菱の創始者、岩崎弥太郎に深く肩入れし、
「三菱の伊藤」といわれたほどです。グラバーとも深く付き合い
親密であったといわれます。
 伊藤博文を含め、幕末の志士に影響を与えたのは長州藩士・吉
田松陰です。吉田松陰が幕末においていかに重要な存在であった
かは、2年数か月に凝縮されている彼の松下村塾での功績です。
これは単に長州藩のみならず、日本にとっても大きな功績であっ
たということができます。その塾生を上げてみても、久坂玄瑞、
高杉晋作、品川弥二郎、桂小五郎、山形有朋、伊藤博文というよ
うに続々と出てくるのです。
 加治将一氏は、松下村塾のことを「特務機関員養成学校」であ
るといっています。それは松陰の説く「情報こそ命」という思想
によくあらわれています。
 松下村塾の塾生は、若くして重要な機密に接する諜報部員とし
ての行動のしかたを心得ていたといえるのです。彼らの行動は藩
主ですら正確に把握できないほど多岐にわたっていたのです。加
治氏は、当時の長州藩について次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 虚飾なく言えば、倒幕劇の主役は隠密組織であり、幕末ぐらい
 闇の力を振るい合った歴史はない。長州藩を例にとっても、秘
 密組織は藩主でも正確に把握できないほど強烈に存在した。幕
 府を探る幕府探索組、朝廷探索、外国探索、薩摩藩探索、土佐
 藩探索、会津藩探索、江戸探索、京都探索、長崎探索、大坂探
 索。これ以外にも長州の支藩である清末、長府、徳山、岩国の
 四藩に対するスパイ活動はもとより、自藩内部を監視する組織
 など、隠密綱は縦横無尽に張り巡らされ、情報公開を基本とす
 る我々現代人からは想像がつかないほどの世の中だった。
      ──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで坂本龍馬に話を戻します。元治元年2月、龍馬は長崎に
着き、40日間滞在しているのですが、そのときグラバーと間違
いなく会っていると思われます。
 この年の龍馬の動きを探ると、次のようになっているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  4月 5日:勝海舟一行、島原より熊本に向かい、龍馬は再
        び横井小楠を訪れ、勝塾入門の親族を同行する
  7月19日:京都で禁門の変(蛤御門の変)が勃発。龍馬は
        江戸に滞在。
  8月 中旬:京都で西郷隆盛と会う
                       ──菊地明著
             『坂本龍馬』より/PHP研究所刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 龍馬の消息は、8月末から掴めなくなり、11月に一度姿を現
し、その5ヵ月後の慶応元年4月5日に京都の薩摩藩吉井幸輔邸
に姿を現しているのです。
 この前半3ヵ月、後半の5ヵ月の間に龍馬は外国へ密航してい
ると考えられているのです。問題はどこに行ったか、です。密航
先は地元ではイギリスという説もあるし、上海という説もあるの
ですが、少なくとも2回にわたって外国に密航していることは確
かであると思われます。そのバックにはグラバーがおり、密航を
助けたといわれています。
 もっともグラバーの力を借りれば、龍馬が上海に行くチャンス
はいくらでもあったといわれています。なぜなら、長崎は江戸よ
りも上海の方が近い距離であり、4日もあれば十分です。
 実際にグラバー自身が頻繁に上海や江戸を行き来していたので
すから、龍馬が上海に行く機会はいくらでもあったといえます。
こういう交流を通してグラバーは龍馬を使える男と判断したもの
と思われるのです。    ―─ [新視点からの龍馬論/30]


≪画像および関連情報≫
 ●「長州ファイブ」について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  文久3年5月7日(1863年6月22日)、長州藩士の井
  上馨(聞多)、伊藤博文(俊輔)、山尾庸三、井上勝(野村
  弥吉)、遠藤謹助が、ロンドンへ密航するために、英国商船
  に便乗して横浜を出発しました。<中略>文久3年の時点で
  も、海外渡航は国禁なのですが、密航に失敗した吉田松陰と
  の大きな差は、彼らの場合は藩公認で資金援助も得ていたこ
  とです。また、準備も周到でした。英国領事の紹介でジャー
  ディン・マディソン商会の船に乗って横浜を出発したのでし
  た。この5人は、上海などを経て、英国に到着すると、ロン
  ドン市内に下宿(どちらかというとホーム・ステイ)をし、
  ロンドン大学で物理・化学などを学びました。英国の新聞で
  「長州ファイブ」と紹介された、ちょっとした有名人だった
  ようです。彼らのうち井上と伊藤は元治元年(1864年)
  4月に四国艦隊の下関砲撃計画を知って、途中帰国しますが
  残りの3人は数年間学業を続けました。
  http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1414898
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●長州五傑/長州ファイブ/写真出典:ウィキペディア
  遠藤謹助(上段左)、井上勝(上段中央)、伊藤俊輔(上段
  右)、井上聞多(下段左)、山尾庸三(下段右)

長州ファイブ/五傑.jpg
長州ファイブ/五傑
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2010年11月17日

●「龍馬の力の源泉はグラバーである」(第2940号)

 薩長同盟をもう一度振り返ってみましょう。そのとき京都薩摩
藩邸には龍馬が来るまで、次のメンバーが揃っていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  ≪薩摩藩≫     ≪長州藩≫     ≪立会人≫
   桂久  武     木戸 孝允     坂本 龍馬
   大久保利通
   西郷 隆盛
   小松 帯刀
―――――――――――――――――――――――――――――
 薩摩藩と長州藩の協議参加者を見ると、明らかにバランスを欠
いています。薩摩藩邸で行われたので、薩摩藩の人数が多いのは
わかるとしても、薩摩藩が実務クラスのオールスターキャストで
臨んでいるのに対し、長州藩は木戸孝允一人です。
 それに加えて、薩摩藩が77万石の大藩であるのに対して長州
藩は37万石の有力藩、この有力両藩の仲介をするのが、土佐の
脱藩浪人である坂本龍馬という個人であるというのですから、明
らかにアンバランスな組み合わせであるといえます。
 銀行でいうなら、薩摩藩の面々は実質的な頭取、副頭取、専務
クラスであるのに対して、長州藩はせいぜい平取締役か部長級で
しかないのです。しかも、その仲介をするのは、実績のない中小
商社の社長というのですから、不思議な組合わせです。
 当時の武家社会においては、確かに薩摩・長州両藩は進歩的な
考え方は持っていたとはいえ、格式や面子には、異常なほどこだ
わったのです。しかも、仲介者である龍馬は下級武士の足軽クラ
ス、本来であれば屋敷に上げてさえもらえないクラスなのです。
 そういう両藩の代表が、10日間もの間、肝心の同盟の話し合
いに入れず、龍馬の来るのをひたすら待っていたのです。どうし
てそのような力が龍馬にあったのでしょうか。
 実は龍馬の力の源泉は、トーマス・B・グラバーなのです。こ
のグラバーに関しては薩摩も長州もアタマが上がらないのです。
グラバーのバックには英国という大国が控えているからです。
 この間の薩摩と長州の事情について、既出の加治将一氏は次の
ように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 この時期、薩摩を動かせるのは、英国民間諜報部員グラバーを
 おいて他にいない。その筋の呼びかけだからこそ、桂久武、小
 松帯刀、大久保利通、西郷隆盛という錚々たる武士がそろった
 のである。彼らはしぶしぶであったと思う。できれば、こんな
 間尺に合わない救済同盟などごめんである。グラバーに強く言
 われたが、かわしたかった。桂小五郎を十数日間、酒と肴で接
 待漬けにして、なんとか帰ってもらいたかった、というのが本
 音であろう。だからつれなく放っておかれた。しかし、ギリギ
 リになって、駆けつけた龍馬が一喝した。それはとりもなおさ
 ずグラバーの一喝だった。グラバーを怒らせたら、武器輸入は
 途絶え、英国との関係が崩れる。藩にとっては悪夢だ。薩摩は
 承諾せざるを得なかった。しかし「分かり申した」と口頭にと
 どめた。明文化するまでは約束していなかったのだ。
      ──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 同盟を結ぶのにその場で文書を交わさない。長州藩から見ると
これも失礼な話です。既に述べたように同盟の内容は軍事同盟で
はなく、長州藩救済同盟なのです。したがって、薩摩藩としては
文書など書きたくない。しかし、長州藩としては何らかの同盟の
証が欲しい──当然の話です。
 そこで木戸孝允は薩摩藩邸を離れてから、同盟内容を手紙とし
てしたため、龍馬に保証を求めたのです。それに対して龍馬は自
身で朱筆で保証をしているのです。つまり、薩摩藩も長州藩も龍
馬とグラバーを一体のものとしてとらえています。
 どうしてグラバーはそのような力を持っていたのでしょうか。
彼は何を目指していたのでしょうか。
 グラバーの目的は、薩長同盟を締結させ、幕府を倒し、自由貿
易ができるようにすることです。ここに、グラバーがロンドンに
一時帰国していたパートナーであるグルームに宛てた手紙がある
のです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 薩摩藩の提督というべき人物との長時間の会見を済ませたばか
 りです。彼の注文はアームストロング砲を百門というのです。
 実際、驚きましたね・・・。真面目な注文でしたから。勿論、
 入手できた暁には藩主にそれ相応の大金を払ってもらいます。
 この一件につき、なにか情報を集めて下さいませんか。政府が
 アームストロング砲の販売を許可するものかどうか。
                      ──山口由美著
   『長崎グラバー邸父子二代』/集英社位新書/0559D
―――――――――――――――――――――――――――――
 この時点でイギリスは薩摩藩に対して武力行使をする方向で動
き出していたのです。したがって、もし、グラバーが薩摩藩との
取引を行うと、敵国への武器輸出となってしまいます。
 このとき、グルームはさすがにまずいと思ったので、この情報
を政府筋に伝えたところ、外務大臣のラッセル卿は、翌1863
年2月、買い付けを禁ずる指示を出しています。
 しかし、薩英戦争が終わると、アームストロング砲は輸出再開
OKとなり、グラバーはアームストロング砲の大きな取引に成功
しています。取引相手は幕府で、大砲合計35門、砲弾700ト
ンの受注です。1865年4月のことです。
 このようにして、やがてクラバーは艦船や武器、弾薬などを売
る「死の商人」として、大きな商売をするようになり、日本で地
位を築いていくのです。当時のイギリスは軍事大国であり、先端
の武器や艦船は良く売れたし、大きな商売になったのです。しか
し、次第に幕府はフランス、薩摩・長州はイギリスという棲み分
けをするようになります。 ―─ [新視点からの龍馬論/31]


≪画像および関連情報≫
 ●アームストロング砲とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1858年にイギリス軍の制式砲に採用され、その特許は全
  てイギリス政府の物とされ輸出禁止品に指定されるなど、イ
  ギリスが誇る新兵器として期待されていた。しかし、薩英戦
  争の時に戦闘に参加した21門が合計で365発を発射した
  ところ28回も発射不能に陥り、旗艦ユーリアラスに搭載さ
  れていた1門が爆発して砲員全員が死亡するという事故が起
  こった。その原因は装填の為に可動させる砲筒後部に巨大な
  膨張率を持つ火薬ガスの圧力がかかるため、尾栓が破裂しや
  すかったことにある。そのため信頼性は急速に失われ、イギ
  リスでは注文がキャンセルされ生産は打ち切られ、過渡期の
  兵器として消えていった。      ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

アームストロング砲.jpg
 
アームストロング砲
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2010年11月18日

●「薩英戦争に絡む2人の日本人」(EJ第2941号)

 ここで年代を少し遡って、文久3年(1863年)8月の薩英
戦争について述べる必要があります。薩英戦争はなぜ起こったの
でしょうか。それは後の時代にどのような影響を与えたのでしょ
うか。これについて、歴史の通説とは視点を変えて分析していく
ことにします。
 生麦事件(文久2年8月21日)が起こって一年が経過しよう
としているのに、謝罪や賠償を求める英国に対し、薩摩藩はのら
りくらりと回答を引き延ばし、逃げ回っていたのです。生麦事件
というのは、時の薩摩藩主の父・島津久光の行列に乱入した騎馬
の英国人を、供回りの藩士が殺傷した事件のことです。
 薩摩藩のこの態度に業を煮やした英国側は、7隻の軍艦で日本
列島を南下し、鹿児島沖に向かっていたのです。しかし、英国は
戦争をする気などはなく、あくまで示威行為としてそれを行った
のです。その証拠に旗艦ユーリアラス号には英国公使館員全員を
乗船させていたのです。平和交渉に備えるためです。
 それどころではない。英国側は幕府に対してオブザーバーとし
て乗船して欲しいと要請していたのです。これは戦争なんかしま
せんよというサインです。それに英国は幕府から生麦事件に対す
る日本国としての謝罪として、賠償金11万ポンドを受け取り、
旗艦に積んでいたのです。もし、戦争ということになれば、こう
いう現金は邪魔以外の何ものでもなく、船が沈めばパーになって
しまうので、この点から考えても戦争は想定していなかったと思
われます。しかし、幕府は乗船することは断っています。幕府と
しては、このさい英国が薩摩に対して大きな打撃を与えてくれれ
ば内心ありがたいと思っていたに違いないのです。しかし、英国
のこの思惑は外れるのです。
 やがて、7隻の英国艦は鹿児島湾に入り、停泊したのですが、
薩摩は英国の要求を拒絶したのです。そこで、英国は薩摩藩はコ
トの深刻さがわかっていないと判断し、薩摩船を拿捕することを
決め、それを実行に移したのです。
 その結果、街の北方15キロ付近に停泊させてあった商船、青
応丸、白鳳丸、天佑丸の3隻が英国側に拿捕されたのです。その
さい乗員はすべて下船させられたのですが、次の2名だけが捕虜
になったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
           1.五代友厚
           2.寺島宗則
―――――――――――――――――――――――――――――
 加治将一氏によれば、英国の軍艦が鹿児島に向けて出発しよう
としていたときに、五代友厚と寺島宗則はグラバー邸にいたので
す。その目的は、英国の情報を探りに来たのです。
 こういうグラバーの態度に対して「利敵行為」だと非難する英
国の外交官もいたのです。モリソン外交官です。しかし、英国政
府は、ことグラバーの行動に関しては、比較的寛容であり、問題
にしていないのです。それは、グラバーにもうひとつ大きな役割
が与えられていたと考えることができます。
 そのとき、グラバー邸には、横浜から長崎に立ち寄ったばかり
の英国人の軍医のレニーがいて、グラバーはレニーに対して「五
代と寺島に知恵を貸してやって欲しい」と頼んでいるのです。
 そこで五代はレニーに対して、長崎薩摩藩邸に詰めている簑島
伝兵衛に会って欲しいと要請したのです。なぜ、簑島伝兵衛なの
でしょうか。簑島とは何者でしょうか。
 簑島伝兵衛は島津久光の側近であり、その簑島に対して英国人
の口から話をしてもらえば、戦争することがいかに無謀であるか
がわかるのではないかというアイデアです。レニーはそれを承諾
し、やってくれたのですが、果たしてそれがどれほどの効き目が
あったかはわかっていないのです。
 その後3日間、グラバー、五代、寺島はグラバー邸にいて、何
かを打ち合わせているのです。そして、8月10日に五代は寺島
と一緒に薩摩に戻っています。
 その五代と寺島が鹿児島に着いたのは8月11日であり、英国
の軍艦が鹿児島湾に入ったのも11日なのです。五代たちは藩に
対して報告書を提出して、暗に「賠償金は支払った方がよい」と
進言したのですが、藩は聞き入れなかったのです。
 そこで、五代たちは、それなら英国の攻撃は避けられないので
船を移動させて隠したいと申し出て許されています。そして五代
たちは、3隻の商船を街の中心部から約15キロ北の重富脇元浦
の入り江の入口に隠したのです。
 しかし、この3隻は英国艦に簡単に発見されているのです。英
国艦がどのようにして3隻の商船を発見し、拿捕したかという記
述は一切残っていないのです。英国艦による薩摩藩の商船3隻の
拿捕には次の3つの不審点があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1.拿捕されるとき乗員(武士)が誰も怪我をしていない
  2.船の価格は約30万ドルであり、十分賠償金に値する
  3.なぜ、捕虜になったのは英国に近い五代と寺島なのか
―――――――――――――――――――――――――――――
 拿捕するさいに、乗り込んでいた乗員である武士が何も抵抗し
なかったとは考えられないことです。彼らの中からは死者はおろ
か怪我人も出ていないのです。当時薩摩藩全体が英国との戦いに
備えて燃えており、抵抗しないとは考えられないことです。
 それに英国が薩摩藩に支払いを求めていた賠償金は10万ドル
であり、商船の価値はその3倍であって、賠償金に十分過ぎるほ
ど見合うのです。賠償金を払うのは面子が許さないが、奪われた
のなら面子は保てる──そういう考え方もあるのではないか。
 五代友厚は薩摩藩の御船奉行副役、寺島宗則は英国帰りであり
いずれもグラバーときわめて親しい存在です。その2人だけが捕
虜になるというのは、あまりにも話ができ過ぎているのではない
かというわけです。グルではないかと疑いです。
             ―─ [新視点からの龍馬論/32]


≪画像および関連情報≫
 ●薩英戦争について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  文久3年5月、幕府から生麦事件の賠償金を受け取ったイギ
  リス代理行使ジョン・ニールは、さらに薩摩藩と直接交渉す
  るために、同年6月27日クーパー提督率いるイギリス艦隊
  7隻(旗艦ユーリアラス号2371t)に同行して鹿児島湾
  に遠征しました。薩摩藩に犯人の逮捕処罰と被害者、遺族へ
  の賠償金2万5000ポンドを要求しましたが、薩摩側は拒
  否。交渉は不調に終わります。ニールは強硬手段を行使し、
  7月2日イギリスは薩摩の汽船3隻の拿捕を手始めとし、薩
  英の間で砲戦が開始されました。
http://www.spacelan.ne.jp/~daiman/rekishi/bakumatu05.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

薩英戦争の図.jpg
薩英戦争の図
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2010年11月19日

●「メーソンだけに通じる合図がある」(EJ第2942号)

 英国の艦隊が薩摩の商船を拿捕する計画は、グラバー、五代友
厚、寺島宗則の3人が練ったものと思われます。問題はそれをど
のようにして鹿児島湾に入っている英国艦隊の旗艦ユーリアラス
号に伝えたのでしょうか。
 これには何も残されたものはなく、推定するしかないのですが
夜陰に紛れて五代と寺島は小舟でユーリアラス号に近づき、乗り
込んだものと思われます。しかし、問題は、乗り込んで話ができ
たとしても、それを英国側が信用するでしょうか。おそらく罠だ
と思うことでしょう。
 これに関して、加治将一氏は、次のように興味深いことを述べ
ています。フリーメーソンのメンバー同志には相手にそれと知ら
せる合図があるというのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 もっと円滑にいく方法がある。これはあくまでもうっすらと浮
 かぶ可能性だが、フリーメーソンの秘密の握手だ。五代たちが
 この謎の握手と暗号を知っていたなら、瞬時に英国側の疑惑は
 溶ける。さらにフリーメーソンには、救いを求める重要なサイ
 ンが存在する。自分に危機が迫ったときだけ発することが許さ
 れるサインだ。彼らにはそのサインを確認した場合、たとえ敵
 であろうとも、救助を最優先させなければならないという厳重
 な掟がある。アメリカ独立戦争、フランス革命、アメリカ南北
 戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦、多くの戦場で敵味方
 の区別なく、活躍したサインだ。捕虜はそれによって待遇がよ
 くなった、という話はたくさん伝えられている「切り札」であ
 る。   ──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 二―ル代理大使やユーリアラス号のキューパー提督がフリーメ
ーソンであったことを示す証拠はないが、当時英国でこのクラス
の地位にある人のほとんどはフリーメーソンだったのです。日本
にやってきた英国の軍人の多くがフリーメーソンだったことは、
横浜、長崎にある外人墓地に並ぶ墓石を見れば明らかです。そこ
には、フリーメーソンの独特のマークの入った墓石を多く見るこ
とができるからです。
 五代たちの計画は成功したように見えたのですが、結局戦争を
回避することはできなかったのです。薩摩藩の商船3隻を拿捕し
た後も英国艦隊は鹿児島湾にとどまっていたのです。商船という
担保を取っているので、薩摩藩の方から何らかの話し合いがある
と考えていたのです。
 文久3年(1863年)8月15日の正午に薩摩藩は砲撃を開
始したのです。それもかなり正確であり、あちこちに水柱が立っ
たのです。こうなると、拿捕した商船は邪魔になります。そこで
提督は直ちに船の焼き討ちを命じ、反撃に転じたのです。
 こうなると、英国艦隊の攻撃はすさまじかったのです。そもそ
も薩摩藩の大砲と英国艦隊のそれとは射程距離が違うのです。薩
摩藩の大砲は約1400メートルであるのに対し、英国艦隊のそ
れはその4倍であり、比較にならないのです。
 さらに砲弾も違うのです。薩摩藩のは単なる鉄の球であるが、
英国艦隊のそれは炸裂弾を使用しており、その違いは途方もなく
大きかったのです。
 そのうえ英国艦隊の攻撃は、ますます正確さを増し、帆船、工
場、火薬庫が次々と狙い撃ちされたのです。その正確さに薩摩藩
側では五代と寺島が目標の情報を与えているという噂が広がり始
めたのです。そして、ほぼ1時間ほどで、薩摩藩側は何もできな
くなってしまったのです。
 結局英国艦隊は、8月22日から23日にかけて、さみだれ式
に横浜に帰還しています。横浜で発行されている英字新聞の「ザ
・ジャパン・ヘラルド」では、薩英戦争を取り上げており、それ
は英国に伝わったのです。
 しかし、英国の新聞論調は攻撃を仕掛けた英国艦艇に対する批
判だったのです。攻撃による鹿児島の大火について触れ、非武装
の多くの民家を焼いたことは許されるべきことではないと一斉に
非難したというのです。
 時の英国首相のパーマストンは、二―ル代理大使やキューパー
提督のとった行為を必死に弁護したのですが、英国の貿易拡大と
いう私利私欲のための戦争ではなかったのかとし、二―ル代理大
使はもとより、ラッセル外相の責任問題を追及する声は小さくな
らなかったのです。
 結局英国政府は、鹿児島の街を焼いたことに対して遺憾の意を
表明し、キューパー提督に個人的な責任を負わせて幕引きを図り
薩英戦争は双方にとって痛み分けの結果に終わったのです。しか
し、日本としては改めて外国との戦力の格差を見せつけられ、攘
夷がいかに無謀であるかを悟る結果となったのです。
 しかし、このようにして薩英戦争に深くかかわった五代と寺島
は、薩摩の恥、裏切り者とされ、天誅を口にした刺客が放たれる
ことになるのです。
 そのようにして五代たちを襲ってくる刺客に対しても、けっし
て排除せず、話す可能性があればクッキーと紅茶を振る舞い、次
のように話して説得したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 私も、ついこの間まではあなたと同じ攘夷だった。気持ちは分
 かる。しかし、いくら戦っても、文明にはかなわない。示現流
 だろうが、北辰一刀流だろうが、鏡心明智流だろうが、なさけ
 ないことに百姓の持つ鉄砲にすら歯が立たない。無駄死にする
 だけです。それより、イギリスの技術を学ぶことが先決ではな
 いですか。──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 五代はこのようにして刺客として襲ってくる薩摩藩士に対して
説得を続けたのです。そういう五代や寺島をサポートしたのは、
薩摩藩家老の小松帯刀です。小松は若いが、進取の精神に富んだ
男だったのです。     ―─ [新視点からの龍馬論/33]


≪画像および関連情報≫
 ●フリーメーソンのマークについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  フリーメイソンのシンボルマークの一つ。コンパスと定規が
  かつてこの組織が石工職人のギルドであったことを物語る。
  上向き三角形(コンパス)と下向き三角形(直角定規)の結
  合はダビデの星を形成し、男と女、陽と陰、天と地、精神と
  物質など世界の二元性の融和を表現している。中央の「G」
  は至高存在を意味し、神と幾何学を意味する。フリーメイソ
  ンにおいて個々の建築道具は人間の美徳と対応し、コンパス
  は真理、直角定規は道徳、こては結束と友愛、槌は知識や知
  恵を象徴している。         ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●墓石のフリーメーソンマーク出典/加治将一著、『あやつら
  れた龍馬』/祥伝社刊

フリーメーソンマーク.jpg
フリーメーソンマーク
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2010年11月22日

●「なぜ、英国公使館を焼き打ちしたのか」(EJ第2943号)

 薩摩藩のことは少し離れて、長州藩の伊藤博文の行動にについ
て述べる必要があります。
 「飛耳長目」(ひじちょうもく)という言葉があります。松下
村塾の塾長、吉田松陰が好んで使った言葉です。飛耳長目は直訳
すれば「耳をそばだてて良く聞きなさい。目をしっかり開いてよ
く見なさい。世の中の出来事に常に敏感であれ!」ということで
す。これはそのまま松陰の「情報こそ命」という考え方につなが
り、塾員たちの心に深く根ざした教えです。
 松下村塾は、今でいう小学校、読み書きそろばんを教えたので
すが、吉田松陰はそれと同時に次のことを強調したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日々起こっている時事問題をテキストにしなさい。なぜこんな
 ことが起こるのか。起こることが国のため、国民のために良い
 ことか、悪いことか?問題点があるとすればどうしたら解決で
 きるか。そして良くするためにどうすれば良いかをみんなと考
 えなさい。そして解決のため実行しなさい。
http://www.geocities.jp/ennohana/nandetibatu/tibatu17.htm
―――――――――――――――――――――――――――――
 長州藩においてこの「飛耳長目」──諜報活動の役割を与えら
れたのが次の6人なのです。すべて松下村塾の塾員です。
―――――――――――――――――――――――――――――
       久坂 玄瑞      桂小五郎
       高杉 晋作      山形有朋
       品川弥太郎      伊藤博文
―――――――――――――――――――――――――――――
 安政5年(1858年)7月26日、長州藩はこの6人に「飛
耳長目」の命を与え、京都に潜入させたのです。これらの6人は
いずれも一応は武士ですが、桂小五郎以外は武士としての格は低
いのです。これは他の藩──例えば土佐藩でも龍馬をはじめ、活
躍しているのはいずれも下士なのです。
 次のTVドラマの有名なセリフを覚えているでしょうか。
―――――――――――――――――――――――――――――
 おはよう。〇〇君。・・・そこで今回の君の任務だが、・・・
 である。例によって、君、もしくは君のメンバーが捕えられ、
 あるいは殺されても当局はいっさい関与しないからからそのつ
もりで。成功を祈る。録音部分は5秒以内に消滅する。
               ──スパイ大作戦の指令テープ
―――――――――――――――――――――――――――――
 当時の藩の首脳から見ると、下級武士は使いやすい存在だった
のです。捨て駒として使い捨てができるからです。それに当の本
人にとっても自分がやりたかったことができるので、前向きに藩
の命令を受け入れたのです。
 長州藩は、伊藤博文のリーダーとしてふさわしい資質を見抜い
ており、彼にその任務を与えています。そして、吉田松陰は6人
に対して次のような激励を与えています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 行け6人、まさに飛耳長目が、長州藩から命じられた君たちへ
 の任務だ。君たちそれぞれが、その耳を飛ばし、その目を長く
 し、ことの軽重にかかわらず、意気盛んにして、情報を集め、
 報告するのだ。今こそ、皆の実力がどんなものであるか、藩に
 示すときだ。          ──『六人の者を送る序』
      ──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 実は伊藤博文にはいろいろな謎の部分があるのです。伊藤博文
は、栗原良蔵の手付けとして長崎などに出かけていますが、この
栗原の義兄が桂小五郎(木戸孝允)なのです。そういう縁があっ
て桂は伊藤を栗原の手付けにしたのです。「手付け」というのは
秘書のようなものと考えればよいでしょう。
 伊藤博文は桂小五郎より8歳年下であり、小五郎の指令を受け
て江戸や京都でいろいろな活動をしているのです。ところが伊藤
博文は高杉晋作、井上馨らと共に奇妙な行動に出ているのです。
それは、文久3年(1863年)1月31日に攘夷血盟団に参加
し、御殿山英国公使館に火を放っていることです。
 これは実に奇妙な話です。伊藤の兄貴格の桂は開国派であり、
その指導的地位にいて、薩摩藩の五代などとも密かな付き合いが
あるのです。したがって、その部下の伊藤も間違いなく開国派な
のです。その伊藤が英国公使館を襲撃するはずがないのですが、
実際にやっているのです。
 伊藤博文は、農民の子として生まれ、14歳のとき伊藤家の養
子となって「軽率」という身分になるのです。軽率というのは足
軽の身分であり、農民ではないが、武士でもないという中途半端
な身分なのです。
 その伊藤は、英国公使館襲撃事件の後、藩から「士雇(さむら
いやとい)」という身分が与えられ、武士の身分に引き立てられ
ているのです。明確な証拠はないのですが、その背景には匂うも
のがある──このように加治将一氏は述べています。
 さらに奇妙なことは、伊藤はその4ヵ月後の文久3年6月27
日に敵国英国に密航しているのです。長州藩が藩を上げて攘夷を
実行に移そうとしている時期に、その敵国である英国に密航して
いるのです。これは明らかに奇妙なことです。
 なお、御殿山の英国公使館襲撃には、高杉晋作も襲撃者の一人
として参加しています。しかし、高杉の場合は本気で攘夷に参加
しているのです。加治将一氏によると、伊藤は高杉を開国派に取
り込むため、桂の指示を受けて高杉と一緒になって行動を共にし
たのではないかというのです。
 長州藩はその時点では、尊皇攘夷派が強い力を持っていたので
す。桂と伊藤はそういう状況を変えるため、高等戦術を仕掛けた
と思われるのです。つまり、尊皇攘夷派優位の状況を尊皇開国派
優位のそれに変革させる戦略です。これについては、次のEJで
述べます。        ―─ [新視点からの龍馬論/34]


≪画像および関連情報≫
 ●長州藩による御殿山英国公使館襲撃事件の真実
  ―――――――――――――――――――――――――――
  最初の襲撃目標は横浜のアメリカ公使であった。京より戻っ
  てきたばかりの玄瑞はこの計画を無謀とし、晋作と激論を交
  わす中、晋作は激興し、太刀に手を掛けようとした。その時
  襲撃費用の調達に掻け回っていた志道聞多が帰ってきた。こ
  の言い争いを見た聞多は「わしが血のにじむ思いで百両作っ
  てきたというに、酒をくろうて言い争いなんぞしおって」と
  手当たり次第に徳利、杯、皿を投げつけ大暴れした。これに
  は玄瑞、晋作も聞多をとりおさえることとなり、一件落着の
  形となった。(中略)結局、当初の目標のアメリカ公使襲撃
  は事前に計画が漏れ、次の目標を品川御殿山の英国公使館に
  定めた。彼らは焼玉を使って、幕府が八万両の巨費を投じた
  建築物を一夜にして灰にしてしまった。この建物は引渡し前
  で直接、英国に被害を与えたわけでは無いが、長州尊攘派に
  よる攘夷活動の火蓋を切った事件であった。
                     ──久坂玄瑞より
  ―――――――――――――――――――――――――――

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江戸時代の御殿山での花見風景
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2010年11月24日

●「伊藤と井上に帰国を命じたのは誰か」(EJ第2944号)

 どうして伊藤博文は御殿山の英国公使館の焼き討ちに参加した
のでしょうか。その狙いは何だったのでしょうか。
 長州藩が英国公使館を焼き打ちすれば当然英国は激怒します。
ましてその直後に長州藩は攘夷を実行するため、英国船を含む外
国艦船に砲撃を加えているのです。
 本来であれば、英国艦隊は本気になって長州藩を攻撃するはず
です。そうすると、藩内の攘夷派は壊滅の危機に陥ることになり
ます。実際に強硬派の英国の二―ル代理大使は、長州藩に対する
懲罰的攻撃を本国に具申しているのです。
 といっても英国はとことん長州藩を潰すつもりはないのです。
攘夷派の力が弱まり、開国派の力が強くなった長州藩は、英国に
とって──というより、グラバーにとってかもしれない──重要
な顧客になるからです。
 グラバーや英国公使のオールコックは、その時点で、既に幕府
に見切りをつけており、薩摩や長州などの雄藩が一体となって、
幕府を倒すしかないと考えていたのです。そうして自由貿易がで
きるようにすることを目指そうとしたのです。
 伊藤博文ら5人──長州ファイブは6月にロンドンに留学して
います。この5人の中には、英国公使館の焼き討ちに参加した伊
藤博文と井上馨が含まれているのです。確かに長州藩は藩士の留
学(密航)に寛容な藩だったのですが、この時期に5人もの藩士
の留学を許すとは考えられないのです。
 もともとこの留学の最初のメンバーは、山尾康三、井上馨、井
上勝の3人であり、これは藩としては許可していたものと思われ
るのです。しかし、この話を井上馨から聞いた伊藤博文が遠藤謹
助と一緒に強引に割り込んだというのが真相のようです。つまり
留学追加嘆願書を藩に出したものと思われるのです。
 しかし、この時期長州藩は、尊皇攘夷派を中心にして外国艦隊
の砲撃や幕府の第1次長州征伐に対抗する準備にすったもんだし
ており、5人もの留学をそのまま許可するはずはないのです。こ
れについて、既出の加治将一氏は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 だいたい藩はそんな情況にはない。擾夷を朝廷に誓い、その決
 行目前にして藩全体がいきり立っている時期である。なにを好
 きこのんで留学など許可するだろうか。下っ端の俄か侍が正面
 から密留学を願い出たとしたら、おそらく藩主の目に触れる前
 に、唐竹割りに切り裂かれるのがおちである。
      ──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、彼ら5人は文久3年6月にロンドンに出発しているの
です。そしてその翌年の元治元年7月13日、伊藤博文と井上馨
の2人は他の3人を残してあわてて帰国しているのです。
 この2人の帰国について、11月4日のEJ第2931号では
米英仏蘭4ヶ国連合軍との休戦協定を結ぶため、長州藩が呼び戻
したと書きましたが、それが通説になっているからです。
 しかし、本当のところはよくわからないのです。2人が自らの
意思で戻ったという説もあります。実際に井上馨は次のように述
べているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 我々が外国へ来て、海軍の学術を研究しても、自分の国が滅び
 たらどこでその海軍の学術を応用できようか。この際帰国して
 政府の役人らにも会い、攘夷の方針を転じて尊王開国の方針を
 とらせようではないかというと、伊藤も同意したので、あとの
 三人を残して伊藤と私が帰ることになった。
      ──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、加治将一氏によると、これも違うというのです。伊藤
と井上は帰国させられたのです。といっても長州藩によってでは
ないのです。絶対に反対のできない筋からの帰国命令だったので
す。加治氏は「この期に及んで、じたばたなどとてもできない圧
倒的力」と書いています。
 それは誰のことでしょうか。
 トーマス・グラバーその人です。そもそも5人の密航にしても
すべてはグラバーの計らいで実現しているのです。当時英国公使
館推薦の商社は、ジャーディン・マセソン商会であり、公式の留
学費用は、一人につき1000両というのです。今の金額にして
約5000万円です。これはベラボーな金額であり、藩から正式
に出るお金は約200両(約1000万円)程度なのです。その
5倍の費用を藩が出せたとは思えないのです。
 グラバーはそういう留学費用を負担していたようなのです。グ
ラバーの立場から見ると、留学費用などは、もしその見返りに長
州藩に船を一隻購入してもらうだけで十分見合うというのです。
実際に伊藤や井上などの開国派が主導して長州藩は、1862年
10月にランスフィールド号をジャーディン・マセソン商会から
購入しています。もちろんこれにもグラバーが深く関与している
のです。
 グラバーとしては、一年前の薩英戦争の処理──五代と寺島の
やったことと同じことを伊藤と井上をわざわざロンドンから呼び
戻し、下関の紛争処理をやらせようとしたのです。つまり、あく
まで英国のシナリオに沿って解決に動くのです。
 英国の場合、次の3つの立場はそれぞれ違うのです。1つはグ
ラバーの立場です。これはあくまで薩長連合を軸とする倒幕路線
であり、一貫してその立場で動いています。
 2つは、英国本国の立場です。英国本国が求めているのは、自
由貿易と自由渡航であり、日本の内政には一切干渉しないという
スタンスです。
 3つは、英国領事館の立場です。具体的にはオールコック公使
のスタンスです。彼は、いずれにせよ、長州は一度叩く必要があ
ると考えていたのです。これら三者が納得する解決策を模索する
必要があるのです。    ―─ [新視点からの龍馬論/35]


≪画像および関連情報≫
 ●伊藤博文と井上馨の逸話
  ―――――――――――――――――――――――――――
  大隈重信は伊藤と井上の二人を次のように評している。「伊
  藤氏の長所は理想を立てて組織的に仕組む、特に制度法規を
  立てる才覚は優れていた。準備には非常な手数を要するし、
  道具立ては面倒であった・・井上は道具立ては喧しくない。
  また組織的に、こと功を立てるという風でない。氏の特色は
  出会い頭の働きである。一旦紛糾に処するとたちまち電光石
  火の働きを示し、機に臨み変に応じて縦横の手腕を振るう。
  ともかく如何なる難問題も氏が飛び込むと纏まりがつく。氏
  は臨機応変の才に勇気が備わっている。短気だが飽きっぽく
  ない。伊藤氏は激烈な争いをしなかった。まず勢いに促され
  てすると云うほうだったから、敵に対しても味方に対しても
  態度の鮮明ならぬ事もあった。    ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

伊藤博文/井上馨.jpg
伊藤 博文/井上 馨
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2010年11月25日

●「下関攻撃における和平交渉のウラ」(EJ第2945号)

 グラバーによって伊藤博文と井上馨が帰国させられたのは元治
元年6月10日のことです。グラバーは2人を英国公使館に送り
届けています。それから少なくとも一ヵ月以上2人は英国公使館
にいたことになります。
 その間、オールコック英国公使は、アメリカ、フランス、オラ
ンダの3ヶ国に対して、英国が長州藩との交渉に当ることの了解
を取り付けていたのです。
 7月になって伊藤と井上は、英国軍艦バロッサ号に乗船させら
れています。その船には、次の2人も乗り込んできたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
         1.アーネスト・サトウ
         2.     中沢見作
―――――――――――――――――――――――――――――
 アーネスト・サトウは、生粋の英国人であり、英国公使館付き
の日本語の通訳であるが、フリーメーソンであるといわれていま
す。歴代の英国公使に仕えましたが、後にアーネスト・サトウ自
身も駐日公使を務めています。中沢見作は表向きは、英国公使館
付きの日本語教師となっていますが、アーネスト・サトウととも
に諜報部員と考えられます。
 加治将一氏によると、伊藤と井上は英国の諜報部員として使わ
れていたというのです。ちょうど、薩英戦争のときの五代友厚と
寺島宗則と同様の役割です。しかし、そのとき英国の諜報部員と
して動くことが英国の国益にかなうと同時に長州藩、いや日本の
国益になったということがいえるのです。
 バロッサ号は、もう一隻の軍艦コーモランド号と一緒にゆっく
りと下関に向かっています。そして6日後に下関海峡、本州と九
州の間にある姫島に着いたのです。このときのサトウの日記によ
ると、上関の島の砲台をはじめ、長州側の戦力が詳しく記されて
います。おそらく伊藤と井上から聞き出したものと思われます。
 もうひとつ艦内での作業があったのです。それは、英語、米語
フランス語、オランダ語で書かれた覚書の翻訳です。これには、
伊藤と井上のほか、サトウ、中沢が手伝っています。そこに書か
れていたことは、攘夷の無意味さ、開国のもたらす利益が書かれ
ていたのです。英国公使館の考え方は、伊藤と井上にこれを長州
藩主の毛利敬親にところに持っていかせ、藩主を説得させようと
していたのです。
 しかし、中沢見作はそんなことをすれば、伊藤と井上は殺され
るに行くようなものと考えていたのです。実際タイミングは最悪
だったのです。なぜなら、朝廷の第一次長州征伐が決まり、長州
藩は朝敵になり、その直後に起こった池田屋事件で多くの長州藩
士が殺されたり、捕えられたりしていたからです。長州藩として
は追い詰められていたのです。
 そんなときに米英仏蘭の4ヶ国連合軍に攻め込まれたら、大変
なことになることぐらいは、伊藤と井上にはよくわかっていたの
です。確かに伊藤と井上は藩を捨て、英国に組みしていると見ら
れていますが、逆にいうと長州藩は、伊藤と井上の2人を使うこ
とによって、英国と話し合いができる余地が残されており、伊藤
と井上自身は殺されることないと思っていたのです。
 4ヶ国の覚書を持った伊藤と井上は、姫島に下ろされ、任務を
遂行するよう指示されるのです。10日後に船に戻るという約束
です。そのとき、伊藤と井上が実際に何をやったかはわかってい
ないのですが、彼らは藩主には会えなかったものの、長州藩から
砲撃を仕掛けてはならないとして幹部を説得していることはアー
ネスト・サトウの日記からわかっています。
 船に戻った伊藤と井上は、藩主毛利敬親に会って覚書きを渡し
たが、藩主の攘夷行動は天皇の命令であって、4ヶ国への返事に
は天皇と将軍の許可が必要であってできないと報告しているので
す。しかし、長州藩主は最終段階で連合軍側に書面を提出すると
伝えています。
 8月6日の深夜2時に伊藤と井上は下船させられています。何
らかの指示が与えられての下船と思われます。オールコック公使
はここで話し合いに終止符を打ち、8月28日に米英仏蘭の連合
軍は17隻で横浜を出発し、下関に向かったのです。
 連合軍が姫島に着いたのは9月2日のことです。この大艦隊を
目にした長州藩の上層部は、伊藤と井上の意見に耳を貸すように
なったのです。そしてこの事態になって、藩主毛利敬親は次のよ
うな書状を書いたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      今後は一切、外国船の通行を妨げない
      ──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 残されている資料によると、この藩主の書状は間に合わなかっ
たことにされています。伊藤博文と長州藩海軍局総督松島剛蔵は
藩主の書状を持って船でユーリアス号に行こうとしたのですが、
既に艦隊は下関に移動していて断念して引き返しています。
 長州藩は慌てて今度は井上馨と前田孫右衛門を下関に派遣して
和平交渉を試みています。9月5日に下関に着いた井上たちは、
英語のできる戸田亀之助を停泊中のキューパー提督のところに行
かせ、2時間の攻撃延期を交渉させています。それと同時に井上
は、味方の砲撃隊に「発砲するな」という折衝をしています。
 そのうえで、井上と前田はユーリアス号まで行き、アーネスト
・サトウに書状を渡しています。しかし、サトウは「平和的な交
渉は既に終わっている」とし、彼はこの書状を受け取らないこと
にしているのです。
 オールコックは最初から砲撃する気でいたのです。しかし、薩
英戦争のように砲撃は本国の意向に沿わないのです。そこで、最
後の最後まで、和平に努力したが、敵が聞き入れず、やむなく開
戦したというかたちをとりたかったのです。伊藤博文も井上馨も
それを知っていて、和平交渉のコマとして使われた──これが加
治将一氏の分析なのです。 ―─ [新視点からの龍馬論/36]


≪画像および関連情報≫
 ●アーネスト・サトウについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  天保14年(1843年)スウェーデン人貿易商ハンス・ダ
  ビッド・クリストファーの四男としてロンドンに生まれる。
  父親の商売柄、転々と国籍を変える生活であった。小さい時
  から聡明で学業成績は抜きんでたものがあったが、十四才の
  時、兄が図書館から借りてきた「支那日本訪問見聞録」を読
  んで、大きな衝撃を受ける。東方には僕が知らない文明国が
  ある・・・、おとぎ話に魅入られるが如く未知の日本に興味
  を持ち、外交官を志すこととなる。大学を飛び級で卒業し、
  日本駐在通訳に応募して、念願の来日を果たしたのが文久2
  年(1862年)9月8日のことである。この時、若干19
  才。その後はオールコック、パークスと二代に渡り、通訳と
  して仕える事となるが、その才能は技能者のみに留まらず、
  匿名で英国策論という論文を発表した。
       http://www.k2.dion.ne.jp/~bakumatu/bas12.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

アーネスト・サトウ.jpg
アーネスト・サトウ
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2010年11月26日

●「すべてはグラバーのスキームである」(EJ第2946号)

 4ヶ国の連合艦隊の艦砲射撃はすさまじいものだったのです。
下関の砲台をことごとく吹き飛ばし、1500名の海兵隊と工作
隊が下関に上陸し、戦闘はたったの2日間で終わったのです。
 一体この戦争は何だったのでしょうか。
 ここで再び英国の次の3つの立場に伊藤博文と井上馨の立場を
加えて、何が起こったのかを整理しておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
    1. グラバー
    2. 英国本国 ・・・・   ラッセル外相
    3.英国領事館 ・・・・ オールコック公使
    4.伊藤・井上
―――――――――――――――――――――――――――――
 この馬関戦争の起きる直前の長州藩には尊皇攘夷派が強い力を
持っていたのです。したがって、それを4ヶ国の連合艦隊の力を
借りて打撃を与えることは、長州ファイブを中心とする開国派の
長州藩士にとっては歓迎すべきことであったのです。
 これには、雄藩の連合による倒幕しか解決の道はないことを早
くから見抜き、長州藩や薩摩藩、それに龍馬を中心とする土佐藩
の脱藩浪人を手厚く支援してきたトーマス・グラバーも長州攻撃
には賛成だったのです。
 それに現場を指揮するキューパー提督は実際に長州から砲撃や
海上封鎖を受けているだけに攻撃派の急先鋒であり、その上司の
オールコック大使も長州は一度叩いておく必要があると考えてい
たのです。しかし、英国本国、なかんずくラッセル外相は人道主
義者であり、そういう武力行使は望んでいなかったのです。あく
まで日本の内政には干渉せず、平和裡に自由渡航、自由貿易を勝
ち取るべきであるという考え方であったのです。
 こういう複雑な状況を解決するスキームを案出したのは、グラ
バーだったのです。彼は留学中の伊藤博文と井上馨を日本に帰国
させ、英国の諜報部員として仕事をさせたのです。
 まず、4ヶ国の覚書きを伊藤と井上に持たせてかたちばかりの
藩主説得を行わせています。これは最初から成功しないことを見
越しての交渉です。しかし、2人の説得の間、連合艦隊はいった
ん引き下がり、再び下関に投錨するまで1ヵ月もの時間をかけて
いるのです。
 その間、伊藤と井上が何をしていたかについては、はっきりし
ていない。おそらく攻撃ありきの前提に立って開国派を温存する
工作を行っていたと考えられます。そのための1ヵ月間であると
考えられるのです。
 このようにして、英国本国に向けてのメッセージとして、長州
藩に対して、あくまで誠心誠意、平和を求める交渉を2人の長州
藩士を使って行っているが、それでも相手は聞き入れなかったと
いう既成事実を積み重ねたのです。
 ところが最後の土壇場になって、長州藩は全面降伏という書状
を届けてきたのです。しかし、これはアーネスト・サトウの段階
で握りつぶされ、砲撃が始まったのです。そして2日間で長州藩
は降伏したのです。
 戦闘が終了した9月8日、伊藤博文と井上馨、そしてもう一人
の武士がユーリアス号にやってきたのです。和平交渉をするため
です。もう一人の武士とは長州藩家老の「宍戸刑馬」と名乗った
のです。つまり、長州藩の全権大使の家老、宍戸刑馬が伊藤と井
上という通訳を従えて船に乗り込んできたのです。
 しかし、サトウは首を傾げたのです。彼が入手している長州藩
の幹部の名簿には宍戸刑馬という名前はなかったからです。諜報
部員のサトウは、そういう名簿を手に入れていたのです。
 それもそのはずで、「宍戸刑馬」は高杉晋作の偽名であったか
らです。高杉はこのほか、谷 潜蔵、谷 梅之助、備後屋助一郎、
三谷和助、祝部太郎などの偽名を使っています。
 なぜ、高杉晋作なのでしょうか。それは高杉が伊藤たちと思想
が同じ同志であることと、家柄の関係があるからです。伊藤と井
上はいわゆる下級武士であったのに対し、高杉は長州藩士・高杉
小忠太(大組・200石)という上級武士の長男として生まれて
おり、全権大使になれたのです。しかし、名前は偽名でもちゃん
と長州藩主の公認した大使だったのです。
 和平交渉は簡単ではなかったのですが、約1ヵ月かけて何とか
交渉は成立したのです。しかし、その結果、長州藩の尊攘派から
は、彼ら3人は英国の手先として、命を狙われることになるので
す。そのため、高杉、伊藤、井上は潜伏場所を転々とし、井上に
至っては襲われて瀕死の重傷を負っています。
しかし、藩にとって伊藤博文たちは、今や重要な英国担当窓口で
あり、重要な任務を担わせざるを得なかったのです。そしてその
年(元治元年12月)の15日、高杉晋作が功山寺で決起したと
きに伊藤博文は駈けつけているのです。実際問題として、4ヶ国
連合艦隊の長州攻撃による尊攘派潰しがなかったら、高杉晋作の
クーデターは成功していなかったと思われます。
 以上は、既出の加治将一氏による英国サイドの視点に立った馬
関戦争の顛末をご紹介したものです。一般にいわれているものに
比べると、はるかに説得力があると思います。いずれにせよ、こ
のようにして、トーマス・グラバーによる下関紛争解決スキーム
──長州藩は潰さず、倒幕派に組み込む──は成功したのです。
 薩英戦争と馬関戦争──これは外国軍隊の力を借りての藩内の
尊攘派潰しの工作としてとらえると、わかりやすいと思います。
このようにしてグラバーは開国派の力を強くしていったのです。
 後日譚ですが、突然オールコック公使に帰国命令が出されたの
です。あれほど、慎重に進めたはずの下関攻撃だったのに、いた
く英国本国──ラッセル外相を刺激してしまったのです。つまり
彼は事実上解任されたのです。
 それにしてもグラバーとは何者でしょうか。彼の本当の狙いは
何なのでしょうか。これについては来週以降少しずつ明らかにし
ていくつもりです。    ―─ [新視点からの龍馬論/37]


≪画像および関連情報≫
 ●下関戦争(馬関戦争)について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  長州藩は攘夷の姿勢を崩さず、下関海峡は通航不能となって
  いた。これは日本と貿易を行う諸外国にとって非常な不都合
  を生じていた。アジアにおいて最も有力な戦力を有するのは
  イギリスだが、対日貿易ではイギリスは順調に利益を上げて
  おり、海峡封鎖でもイギリス船が直接被害を受けていないこ
  ともあって、本国では多額の戦費のかかる武力行使には消極
  的で、下関海峡封鎖の問題については静観の構えだった。だ
  が、駐日公使ラザフォード・オールコックは下関海峡封鎖に
  よって、横浜に次いで重要な長崎での貿易が麻痺状態になっ
  ていることを問題視し、さらに長州藩による攘夷が継続して
  いることにより幕府の開国政策が後退する恐れに危機感を持
  っていた。元治元年(1864年)2月に幕府は横浜鎖港を
  諸外国に持ち出してきていた。    ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

4ヶ国連合軍による下関攻撃の図.jpg
4ヶ国連合軍による下関攻撃の図
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2010年11月29日

●「近藤長次郎はなぜ自決したのか」(EJ第2947号)

 亀山社中というのは、日本で最初の商社といわれています。そ
の最も有名な取引は、第2次長州征伐の直前に行われたグラバー
商会から長州藩への武器の斡旋です。この取引は慶応元年暮れに
行われています。
 これについては、EJ第2937号で取り上げていますが、軍
艦ユニオン号と鉄砲7300挺の取引で、総額で13万100両
(約65億5000万円)に及ぶ巨額な取引なのです。
 しかし、既に述べたように亀山社中はこういう仲介行為で手数
料を取るのは、武士にあるまじき行為であるとして受け取ってい
ないのです。それでは何で儲けるのかというと、社中の狙いは船
なのです。何らかの方法で船を手に入れ、それを交易の手段とし
て使って儲けるというものです。
 当時西洋帆船なら1万両出せば手に入ったのです。したがって
20万両の取引で5%の手数料を取れば1万両になり、十分自前
の帆船が持てたのですが、亀山社中はそれをしなかったのです。
その代り、社中は長州藩とユニオン号との取引では、その船を平
時には使える条件を入れていたのです。
 300トンの蒸気船・軍艦ユニオン号の購入においては、薩摩
藩の名義で長州藩が買い、平時の運用は亀山社中が行うという取
り決め──「桜島丸条約」になっていたのです。これによって、
薩摩藩は長州藩に名義を貸すことによって恩を売り、長州藩は軍
艦を手に入れることができる。そして仲介した亀山社中は平時に
その船を交易のために使えるという三者三得になるはずだったの
ですが、そううまくはいかなかったのです。
 しかし、肝心の船が下関に回航される段階になって条約の内容
に関して長州藩から反対の声が上がったのです。その原因は条約
の内容に関して関係者の詰めが甘かったことです。
 長州藩としては、名義は薩摩藩でも実質は長州藩の船であり、
船名は「乙丑丸」、船長は中島四郎と決めていたのです。それに
平時に船は亀山社中が運用し、長州藩は使えない。しかも、社中
の仕事の大半は薩摩藩の仕事なのです。これではあまりにも長州
藩に不利であるというわけです。
 しかし、この仕事のために奔走した社中の近藤長次郎としては
「今さら何をいうか。それなら船を引き揚げる」といって一歩も
引かなかったのです。これに関して木戸孝允(桂小五郎)は龍馬
に次の手紙を送っています。
―――――――――――――――――――――――――――――
(現代文訳)
 乙丑丸(ユニオン号)のことは小さいこと(現在の混迷状況に
 比べれば)といえども、あなたも御存知のように、毛利家(長
 州藩)の身にとっては非常に大変なことです。この件は、(長
 州藩の)海軍の興廃に関係することです。あなたは、全部事情
 を知っていらっしゃるのだから、わが藩の海軍も成り立つよう
 にしていただけるようくれぐれもお願いします。なにぶんにも
 小松大夫(薩摩藩家老小松帯刀)がこれを承知していただけな
 いことは、非常に困っています。      ──竹下倫一著
         『龍馬の金策日記』より/祥伝社新書038
―――――――――――――――――――――――――――――
 そのとき京都にいた龍馬はこの手紙を読んで、この問題がこじ
れると現在進めている薩長同盟が瓦解しかねないと危機感を持っ
たのです。そこで龍馬は近藤を説得して、条約内容を長州藩の権
限を強化する内容に改め、この取引は成立したのです。慶応元年
(1865年)12月29日のことです。しかし、これによって
亀山社中には使える船がなくなったのです。
 また、これが結果として近藤長次郎が自決する原因になってし
まったのです。近藤といえば、龍馬の片腕であり、社中の運営は
事実上近藤に委ねられていたのです。近藤の自決の原因は、社中
の同志に内緒で、長州藩から資金援助を受け、英国に密航を企て
て発覚し、仲間に問い詰められて切腹──これが通説になってお
り、大河ドラマでもその通説にしたがって描かれています。しか
し、これは事実とは思えないのです。
 長州藩は、ユニオン号の問題が近藤の意に沿わないかたちで決
着したことを心苦しく感じていたのです。それは、近藤がいなけ
ればこの船は手に入らなかったからです。そのぐらい近藤はよく
やってくれたと長州藩は内々感謝していたのです。そのため、近
藤に対して相当の謝礼金を積んだと思われるのです。
 通説では、近藤はこの謝礼金のことを仲間に隠し、グラバーに
その金で英国への密航を依頼しているのです。しかし、慶応2年
(1866年)1月、近藤はグラバーの汽船に乗船したのですが
天候が悪く出航は翌日に延期され、近藤は船を下りたのです。と
ころが、その晩に密航が社中の仲間に発覚し、社中の別邸になっ
ていた小曾根家に連行されたのです。そして問い詰められ、1月
23日に小曾根邸の庭先で切腹して果てたのです。
 この通説が正しくないと思う根拠は多くあります。まず、亀山
社中の規律はそれほど厳格なものではなかったということです。
少し問題なことが起こっても、それまでは必ずしも厳格に対処し
てきていないからです。
 それに社中の人間が外国に密航することは、それほど珍しいこ
とではなかったのです。近藤の場合、社中の仕事を仕切っていて
忙しいため、密航できないでいたので、社中の仲間は近藤に対し
外国に行くことをむしろ勧めていたほどなのです。
 それに何よりもおかしいのは、切腹が龍馬のいないときに行わ
れたことです。たとえ仲間が切腹に値すると決めても、龍馬の来
るまでなぜ待てなかったのか、それほど緊急性があったとは思え
ないことです。
 もうひとつ、近藤に対して、長州藩がなにがしかの金を支払う
べきであるということを述べた証拠の文書(関連情報参照)はあ
るのですが、その金を近藤が授受したという証拠は何もないので
す。そういうわけで、この通説は信憑性が薄いということになり
ます。          ―─ [新視点からの龍馬論/38]


≪画像および関連情報≫
 ●伊藤博文から木戸孝允への書状
  ―――――――――――――――――――――――――――
  (現代文訳)薩摩藩の長崎役人はかなり無茶なことをいって
  おり、上杉(近藤のこと)は非常に苦心して事にあたってく
  れています。彼はイギリスに行く志があったのですが、我が
  藩のために予定が3ヵ月も遅延していますので、藩政府から
  必ずお礼をしてください。金なれば、100金なり200金
  くらいは、進呈してやってもいいのじゃないかと思います。
                      ──竹下倫一著
         『龍馬の金策日記』より/祥伝社新書038
  ―――――――――――――――――――――――――――

近藤長次郎.jpg
近藤 長次郎
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2010年11月30日

●「次々と不幸が襲う亀山社中」(EJ第2948号)

 「藤岡屋日記」という史料があります。古本業を営む藤岡屋由
蔵という人が、幕末のことを詳しく書き記している文書です。こ
れによると、近藤長次郎の自刃について、通説とは違う説が述べ
られているのです。
 藤岡屋日記によると、ユニオン号の購入価格は、3万7700
両ですが、2000両の未払い金があったというのです。どうし
て未払い金が生じたかについては資料がなく、わかっていないの
ですが、あったことは間違いがないようです。
 グラバー商会が亀山社中に支払いを求めたところ、社中側は既
に払っていると答えたというのです。責任者の近藤長次郎に聞い
たがはっきりせず、疑惑が高まったのです。それからもうひとつ
近藤はそのユニオン号(桜島丸)を下関に回航させ、それに長州
人を乗せて英国に密航しようとしていたというのです。
 どうして未払い金が生じたのかについて不明ですが、船に乗せ
ようとしていた長州人とは高杉晋作であり、これには伊藤博文と
井上馨が何らかのかたちでからんでいると、藤岡屋日記には書か
れているのです。
 もし、それが事実であるとしたら、薩長同盟には少なからず影
響することは確かです。近藤がそれを苦にして自刃した可能性が
高いのです。注目すべきは、龍馬の妻のお龍が、次のようにいっ
ていることです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 長次さん(近藤長次郎)は一人で罪を引き受けて死んだので、
 龍馬は俺がいたら殺しはしないのに残念だといっていました。
 あの伊藤俊助さん(伊藤博文)や井上聞多(井上馨)さんは社
 中の人ではありませんが、長次さんのことには関係があったよ
 うです。筑前の大藤太郎という人は伊藤さんや井上さんは薄情
 だとさかんにいっていました。──千里駒後日譚より、口語訳
―――――――――――――――――――――――――――――
 ユニオン号をめぐる長州藩とのトラブルが発生したことによっ
て、龍馬たち亀山社中には次々と不幸な出来事が降りかかってき
たのです。まず、ユニオン号を社中が使えなくなっただけでなく
それが原因で近藤長次郎を死なせる結果になってしまったことで
す。近藤は社中にとって貴重な人材だったからです。
 しかし、龍馬はめげなかったのです。龍馬は薩摩藩に7800
両の金を借り、ワイルウェフ号という帆船を長崎のグラバー商会
から購入したのです。ちょうどそのとき、ユニオン号(乙丑丸)
が薩摩兵の糧米を積んで長崎に寄港したのです。ユニオン号の行
き先はもちろん鹿児島です。
 ちょうど亀山社中も装備のため、ワイルウェフ号を鹿児島へ回
航するところだったので、ユニオン号にワイルウェフ号の曳航を
頼んだのです。そこで社中は、黒木小太郎を船長とし、士官池内
蔵太と浦田運次郎を含む水夫12人がワイルウェフ号に乗り込ん
で鹿児島に向かったのです。
 ところがユニオン号とワイルウェフ号が五島沖にさしかかった
とき、にわかに天候が崩れ、烈しい風雨と波浪に見舞われて、両
船とも衝突と沈没の危険にさらされたのです。このままでは両船
とも沈没すると判断したユニオン号の船長は両船を繋ぐ索縄を切
断したのです。
 索縄はワイルウェフ号の命綱です。たちまちワイルウェフ号は
激浪にもまれて転覆沈没し、黒木店長、池士官、水夫の9人が水
中の藻屑と消えたのです。このようにして、大変な借金をして手
に入れた亀山社中念願の帆船は、その最初の航海であっけなくそ
れを失ってしまったのです。
 龍馬にとっては、船を失ったことよりも、それに乗船していた
9人の貴重な人材を失ったことを嘆いたのです。中でも士官とし
て乗船していた池内蔵太は元土佐勤王党員であり、龍馬と同様に
土佐藩の保守的体質に失望して龍馬を追うようにして脱藩し、長
州藩に身を投じたのです。亀山社中のメンバーではないものの、
龍馬は池内蔵太をとても可愛がっており、メンバー同様の扱いを
していたのです。
 龍馬は、この池を失った心境を姉の乙女宛ての手紙で、次のよ
うに述べているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 可哀想なのは、地蔵太(池内蔵太のこと)。これまで九度、い
 つも指揮官として戦場に出て、一度も弾丸に当たらなかったの
 で、自分を幸運だといっていたのに、私たちが購入したワイル
 ウェフ号に一度乗ったところ、五島の近海で遭難して船が大破
 し、五月二日未明に死んでしまいました。人間の一生は、本当
 に夢のようなものだと思ってしまいました。杉山(池内蔵太の
 実家)へもこのことを話してください。彼が死んだ岡には印を
 付けています。              ──竹下倫一著
         『龍馬の金策日記』より/祥伝社新書038
―――――――――――――――――――――――――――――
 慶応2年(1866年)6月4日、龍馬は鹿児島に到着したユ
ニオン号(乙丑丸)にお龍と一緒に乗って長崎に行き、そこでお
龍を小曾根家に預かってもらい、社中の同志を連れて五島に渡り
塩谷岬の海浜にワイルウェフ号遭難者の慰霊碑を建立して、彼ら
の冥福を祈っています。
 そして、再びユニオン号に乗って下関に向かったのです。その
とき、第2次長州征伐は既に始まっていたのです。6月7日、幕
府の軍艦が周防の大島(屋代島)を砲撃したことから、両軍の間
に戦端が開かれ、翌日8日、幕府は長州征伐の勅定を諸軍に伝達
し、長州藩に正式に宣戦布告をしているのです。
 この第2次長州征伐で幕府軍は、次の4方面から長州を攻めて
いるので「四境戦争」といわれるのです。芸州口、石州口、小倉
口、大島口の4つです。
 幕府は大軍で長州藩を攻めたのですが、亀山社中によって十分
な武装をした長州藩は、第1次長州征伐のときと違って見違える
ほど強くなっていたのです。―─ [新視点からの龍馬論/39]


≪画像および関連情報≫
 ●四境戦争/幕府軍本当は5方面からの攻撃を予定
  ―――――――――――――――――――――――――――
  14代将軍徳川家茂は大阪城へ入り、再び長州征討を決定す
  る。四境戦争とも呼ばれている戦争であるが、幕府は当初5
  方面から長州へ攻め入る計画だった。しかし萩口を命じられ
  た薩摩藩は、土佐藩の坂本龍馬を仲介とした薩長同盟で密か
  に長州と結びついており、出兵を拒否する。そのため萩口か
  ら長州を攻めることができず4方から攻めることになった。
  幕府は大目付永井尚志が長州代表を尋問して処分案を確定さ
  せ、老中小笠原長行を全権に内容を伝達して最後通牒を行う
  が、長州は回答を引き延ばして迎撃の準備を行う。
                    ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

四境戦争(第2次長州征伐).jpg
四境戦争(第2次長州征伐)
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2010年12月01日

●「四境戦争に幕府軍はなぜ敗れたか」(EJ第2949号)

 第2次長州征伐──四境戦争は、幕府軍の士気や軍備や準備な
ど、すべての面において長州藩に劣っており、いかに大軍をもっ
て立ち向かっても勝てるはずがなかったのです。
 幕府軍の装備は、和製の火縄銃が中心であり、ゲベール銃はご
く一部であったのに対し、長州軍は農民兵まで新式のゲベール銃
で武装していたのです。
 幕府は、まず「大島口」を攻撃し、あっという間に周防大島を
占領したのです。大島口の攻撃には、幕府陸軍と松山藩が担当し
たのです。宇和島藩は幕府の出兵命令を拒否し、参加していない
のです。幕府陸軍は、まだ不十分ながら、この戦争ではフランス
式の装備をした洋式歩兵隊で出撃したのです。
 長州藩としては、兵力分散を避けるために最初から大島は重視
しておらず、大島守備兵は地元民で構成された少数の練度の低い
部隊が守っていたのです。しかし、占領した松山藩兵が住民に暴
行・略奪・虐殺の限りを尽くしたので、大島住民の敵意が高まり
大島奪還論が藩内で盛り上がったのです。
 そこで小倉口を守っていた高杉晋作や芸州口の対処のため柳井
に駐留していた世良修蔵部隊が大島に救援に駆けつけたのです。
そして幕府海軍と高杉晋作が率いる艦隊が激突する海戦が展開さ
れたのです。しかし、高杉の夜間奇襲戦法の成功により、長州藩
は大島の奪還を果たしたのです。
 芸州口では、長州藩と岩国藩の両藩と幕府歩兵隊と紀州藩兵の
戦いになったのです。芸州藩は幕府の出兵命令を拒んでいます。
しかし、長州側は井上聞多(馨)がしぶとく抵抗し、こう着状態
に陥ったのです。
 石州口では長州側は大村益次郎が指揮し、中立的立場をとった
津和野藩内を通過して、徳川慶喜の実弟である松平武聰が藩主を
していた浜田藩に侵攻し、浜田城を陥落させたのです。
 それでは小倉口はどうだったでしょうか。
 小倉口では、大島口の応援から戻った高杉晋作が指揮をとり、
幕府への忠誠心が強い小倉藩との戦いが繰り広げられたのです。
途中、坂本龍馬が乗船するユニオン号(乙丑丸)も戦闘に加わり
最後は小倉城陥落で長州藩の勝利になったのです。
 慶応2年7月20日、四境戦争の最中に徳川家茂が亡くなって
います。さすがの徳川慶喜も小倉城陥落の報に衝撃を受けて休戦
を決断し、家茂の死を公にした上で朝廷に働きかけ、休戦の御沙
汰書を発してもらったのです。この慶喜の意を受けた勝海舟と長
州の広沢真臣と井上馨が宮島で会見し、停戦が結ばれます。慶応
2年9月2日のことです。
 慶応2年(1866年)12月5日、徳川慶喜は第15代将軍
に就任します。何よりも幕府軍を立て直す必要がある──慶喜は
親幕派のフランス公使レオン・ロッシュの意見を聞いています。
そして12月25日には孝明天皇が崩御。慶喜にとってさらなる
ショックが襲ったのです。佐幕派の孝明天皇の死は幕府勢力の巻
き返しを狙う慶喜にとって大きな痛手だったからです。
 しかし、改革は急いで進める必要があると考えた慶喜は、勘定
奉行の小栗上野介に改革を担当させるのです。小栗上野介は幕吏
きっての英才といわれ、郡県制による徳川統一政権を目標として
洋式の武器や火薬、製鉄所の建設も進めてきたのです。
 さらに慶喜は、旗本以下の家臣はすべて銃隊とし、洋服を正式
の軍服に改めているのです。そのうえで、フランスから軍事教官
として、シャノアン、ブリュネーを招き、横浜伝習所で3兵──
歩兵・騎兵・砲兵──の教育訓練を行い、積極的に軍隊の改革を
進めたのです。
 しかし、軍制改革には莫大な資金がかかるのですが、これにつ
いては、小栗上野介がフランスの経済使節であるクーレーと協議
して、600万ドルの借款契約を結ぶことに成功したのです。
 こうした軍制改革とあわせて、徳川慶喜は幕府機構の改革にも
着手しているのです。
 当時「老中月番制」というものがあったのです。老中は複数が
任命されていたのですが、1人が月番として任に当たり、ほかの
老中は非番となったのです。それを慶喜は「五局五総裁制」に改
める改革をしているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
           I── 国内事務局総裁─ 内務大臣
           I   外国事務局総裁─ 外務大臣
 首班(内閣総理大臣)I     会計局総裁─ 大蔵大臣
           I     陸軍局総裁─ 陸軍大臣
           I──   海軍局総裁─ 海軍大臣
―――――――――――――――――――――――――――――
 この幕府機構は現在の体制に近いものになっています。この慶
喜の改革は、薩摩藩や長州藩、あるいは朝廷内の倒幕派には脅威
としてそれが映りはじめてきたのです。この慶喜の改革を評して
木戸孝允、岩倉具視、坂本龍馬は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ◎幕府の政治が一新し、兵馬の制も大変革した。一橋慶喜の胆
  略はあなどれない。家康の再生を見るようだ。──木戸孝允
 ◎将軍の行動は果断、勇決、その志は小ではない。軽視すべか
  らざる勁敵(強敵)だ。          ──岩倉具視
 ◎慶喜は近ごろ大奮闘している。油断がならない。─坂本龍馬
                      ──山本 大著
        『坂本龍馬/知れば知るほど』/実業之日本社
―――――――――――――――――――――――――――――
 大河ドラマの徳川慶喜を見ていると、そこに閃きは感じられま
せんが、かつては島津斉彬たち開明派の大名たちが将軍に担ごう
とした英傑だけのことはあるのです。将軍に着任するや矢継ぎ早
に改革の実行をはじめたのです。元首相は大違いです。
 この慶喜の改革を驚きを持って、強い警戒心を持って注視した
のは、薩摩藩と長州藩なのです。このままでは徳川の世に逆戻り
すると警戒したのです。  ―─ [新視点からの龍馬論/40]


≪画像および関連情報≫
 ●徳川慶喜という人
  ―――――――――――――――――――――――――――
  幕末期にはあまたの魅力的な人物が出現しているが,徳川幕
  府第15代将軍徳川(一橋)慶喜ほど評価の難しい人物はな
  いであろう。英明なのか愚鈍なのか,一本気なのか優柔不断
  なのか,見る視線によって評価が180度変わってしまうか
  らである。徳川慶喜の大坂城脱出が戊辰戦争のターニングポ
  イントだったというのは有力な説であろう。錦の御旗がひる
  がえり,緒戦に敗れたとはいえ,この段階ではまだ旧幕府側
  にも十分勝機があったはずだ。地上部隊の総合的な装備では
  薩長側が勝っていたといっても,後に新政府軍の主力となる
  肥前鍋島藩のアームストロング砲などの近代的火器はまだ登
  場していないし,幕府にも最新装備の伝習隊がある。さらに
  海軍力では圧倒的に幕府側が有利だった.
      http://homepage3.nifty.com/mihara/yoshinobu.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

徳川慶喜/第15代将軍.jpg
徳川 慶喜/第15代将軍
posted by 平野 浩 at 04:07| Comment(1) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月02日

●「慶喜の粘りと四候会議の失敗」(EJ第2950号)

 徳川慶喜は将軍の地位に就くと、幕府勢力立て直しのために矢
継ぎ早に改革を行ったのです。幕府機構の改革に続き、フランス
公使ロッシュの助言を入れ、英仏米蘭の4ヶ国代表を大阪城に招
いて公式会見を行ったのです。
 この公式会見の意図するところは、外国の代表に対して日本の
主権者は幕府であることを改めて認識させるとともに、国内に幕
府と将軍の権威を高めることにあったのです。
 この席で薩長支持派の英国公使のパークスは、実行されていな
い兵庫の開港を迫ったのです。兵庫の開港については勅許は得ら
れておらず、しかも開港の期日は幕府が締結したロンドン覚書で
5年延長され、慶応3年(1867年)12月7日になっていた
のです。
 しかし、慶喜は12月5日に将軍になったばかりであり、あと
1年しか日がなかったのですが、勅許を得ていないにもかかわら
ず、次のように宣言し、開港を約束したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  国法にしたがい、祖宗以来の全権をもって条約を履行する
                      ──山本 大著
        『坂本龍馬/知れば知るほど』/実業之日本社
―――――――――――――――――――――――――――――
 現在の菅政権はすべて八方塞がりで何もできないように見えま
すが、国政のトップとしての首相の権限は大きく、その気になれ
ばリーダーシップを発揮して何でもやれるはずです。慶喜は将軍
後見職のときから、将軍としてはいま何を成すべきかをつねに考
えて行動してきたので、将軍に就くや否や直ちに改革に着手でき
たのです。菅氏も鳩山前政権のときは副総理であったのですから
それを考えることはできたはずです。
 慶喜の公式会見は成功し、幕府は外交面でも大いに権威を高め
たのです。この慶喜の水際立った采配を見て、薩摩を中心とする
倒幕派は焦ったのです。このままでは再び徳川の天下に戻りかね
ないからです。
 そこで、西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀、それに倒幕派の公
卿の岩倉具視が動いて仕掛けたのが、四候会議なのです。会議開
催の目的は、そこで長州寛大処置と兵庫開港を討議して時局を収
拾することです。しかし、それは建前であり、勅命を無視した慶
喜の罪を問責し、将軍職を奪って一大名に追い込むという計画で
あったのです。この四候会議の四候とは次の4人です。
―――――――――――――――――――――――――――――
          山内容堂(土 佐)
          伊達宗城(宇和島)
          島津久光(薩 摩)
          松平春嶽(福 井)
―――――――――――――――――――――――――――――
 西郷隆盛が山内容堂と伊達宗城を誘い、小松帯刀が松平春嶽を
説得したのです。これは薩摩藩の思惑によって開かれた会議であ
るといえます。
 慶応3年5月14日、二条城で四候会議は行われたのです。そ
こで慶喜は「開港勅許にご協力願いたい」と要請したのです。し
かし、薩摩の島津久光は「開港よりも長州処置が先である」とい
い、反対したのです。
 薩摩藩の作戦としては、兵庫開港勅許を遅らせ、幕府を苦境に
追い込み、裏で大久保利通と岩倉具視がそのための朝廷工作を受
け持っていたのです。
 しかし、このように強引な薩摩のやり方に山内容堂と松平春嶽
はついて行かず、四候会議は何も決められないまま、5月末に事
実上解散してしまったのです。
 「してやったり」と慶喜は次の手を打ったのです。老中や京都
所司代を連れて宮中に参内し、兵庫開港と長州寛大処置を奏請し
たのです。とくに兵庫開港に関しては、諸外国からは開港半年前
(6月7日)までに国内にその旨を告知することが求められてお
り、何としても5月中の勅許が必要であったため、慶喜は強い決
意をもって朝議に臨んだのです。
 本来朝議は、朝命によって召集されたはずの四侯も全員が列席
すべき立場であったのですが、すでに半ば諦め気味の雰囲気が漂
い、結局松平春嶽と伊達宗城の2人が参席しただけです。しかし
慶喜の意気込みにもかかわらず、朝廷側の抵抗も激しく、「先帝
の御遺志」を盾に兵庫開港許可を拒んだのです。
 朝議の進行を司る二条摂政は結論の先延ばしを画策しようとし
ますが、夜半の休憩中にも慶喜は春嶽に「今回ばかりは議決する
まで何昼夜かかっても退去しない覚悟である」とその決意のほど
を示し、驚異的な粘りを見せて勅許を求めたのです。
 そして、翌日未明に至り、あまりの会議の長さに散会しようと
した二条摂政が大納言鷹司輔政に次のようにいわれるに及んで、
流れが変わったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 天皇も将軍も良しとする勅許をこの会議で決められないようで
 は天下は乱れ、朝廷も今日限りである。 ──大納言鷹司輔政
―――――――――――――――――――――――――――――
 これを機に朝臣らも二条摂政の優柔不断を責める流れとなり、
ついに明け方摂政が折れ、兵庫開港および長州寛典論を奏請し、
明治天皇の勅許を得ることが決定したのです。これは慶喜の粘り
勝ちといえます。
 慶喜が主導して徹夜の朝議で勅許を勝ち取ったことは、一連の
政局における慶喜の完全勝利と四侯会議側の敗北を意味していた
のです。これに敗北した薩摩藩は戦略の変更を余儀なくされ、そ
の後ますます倒幕に傾斜していくのですが、土佐藩の山内容堂は
薩摩との距離を置きはじめたのです。
 薩摩、長州、土佐──維新革命の先陣を切っているこれら3藩
はその後、維新後の主導権を巡って激しく争っていくことになる
のです。         ―─ [新視点からの龍馬論/41]


≪画像および関連情報≫
 ●兵庫開港と徳川慶喜
  ―――――――――――――――――――――――――――
  慶応3年12月7日、各国の艦隊が停泊する中、神戸は無事
  開港した。その直後の慶応4年1月3日(1868年)、鳥
  羽・伏見の戦いが勃発した。戦いに敗れた徳川慶喜は1月6
  日夜(1月30日)、開港したばかりの兵庫沖に停泊中の米
  国軍艦イロコイに一旦避難、その後幕府軍艦開陽丸で江戸に
  脱出した。また、その直後の慶応4年1月11日、備前藩と
  神戸停泊中の各国の兵士との銃撃戦となった神戸事件が発生
  している。             ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

四候会議の四候.jpg
四候会議の四候
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2010年12月03日

●「後藤はなぜ龍馬を受け入れたか」(EJ第2951号)

 慶応2年(1866年)3月のことです。高知城下の九反田に
土佐藩の開成館が建てられたのです。ここでいう「開成」という
言葉は、「易経」に出てくる「開物成務」からきており、人知を
開発し、事業を成し遂げさせることをいうのです。つまり、開成
館とは、殖産興業と富国強兵をめざす土佐藩の技術教育の機関な
のです。
 もともとこの構想は、かつて土佐藩を一手に動かしていた吉田
東洋の考え方なのですが、吉田東洋が暗殺されたため、構想が宙
に浮いていたのです。それを前土佐藩主の山内容堂が取り上げて
開成館ができたのです。開成館発足に当って山内容堂は次のよう
に述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 われらの南海捕鯨の事業は大きな利益をあげてはいるが、術を
 尽くしたとはいいがたい段階にある。このたび、新しい術を開
 拓するために、大海に船を出し、南海諸島にも航海させて島民
 をやとい、捕鯨の術を伝授することにした。いずれは藩外の開
 拓をもめざすつもりである。        ──山本 大著
        『坂本龍馬/知れば知るほど』/実業之日本社
―――――――――――――――――――――――――――――
 この案を作ったのは、後藤象二郎をはじめ、村田仁右衛門、堀
部佐助、森権次、百々茂猪、由比猪内の6人です。これら6人は
開成館の奉行に任命され、それを総括するのは後藤象二郎です。
 後藤象二郎は、殺された吉田東洋の甥であり、東洋亡きあと大
監察役も務めているのです。開成館の本部は高知にありますが、
何をするにも長崎を窓口にしないと成果が上がらない時代である
ので、長崎に進出し、出張所を設けることにしたのです。この出
張所は「土佐商会」と通称されるのです。
 長崎に出張所を設けるのは難しいことではありませんが、長崎
貿易を推進するには、出張所を運営する組織を作り、スタッフを
配置することは容易ならざることなのです。
 しかし、後藤象二郎には内心密かに期するひとつの案があった
のです。それは坂本龍馬の率いる亀山社中と組むことです。なぜ
なら、亀山社中の持つ海運経験は十分信頼に値するものであり、
それに加えて現時点で、彼らの事業がうまくいっていないことを
後藤は知っていたからです。
 問題は、亀山社中のスタッフの多くは土佐勤王党の党員であり
後藤は土佐勤王党を弾圧した頭目であることです。後藤は慶応2
年(1866年)7月頃から長崎にやってくるようになったので
すが、亀山社中の面々は「後藤斬るべし」と主張する者が多くい
たのです。しかし、後藤は龍馬であれば、過去にとらわれず、未
来志向で対応のできる度量があり、社中の反発は龍馬のリーダー
シップでまとめられると考えていたのです。
 龍馬に話をもってきたのは、土佐藩の九州探索方を務める溝淵
広之丞。溝淵は龍馬がはじめて江戸に出たときの幼友達であり、
一緒に剣術を修行した仲間だったのです。このとき溝淵は龍馬に
次のように説いたといわれています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 貴殿は何故に脱藩者の境遇を続けているのか。土佐藩のことを
 思わないのか。父母の国のために尽力するのが正義の道という
 べきものではないか。            ──高野澄著
           『坂本龍馬/33年の生涯』/三修社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 この溝淵の言葉に対して龍馬はどういう返事をしたかについて
は「関連情報」を参照していただきたいが、溝淵は、後藤象二郎
が龍馬に会って話したいという意向を伝えたのです。期日は慶応
3年1月某日、場所は長崎の料亭の清風亭においてです。社中の
スタッフは罠だといい、危険だと反対したのですが、龍馬は「会
う」と返事をしているのです。
 後藤としては龍馬の航海術を使って土佐藩の貿易を推進させた
かったし、龍馬としても一人で天下国家に立ち向かうよりも、土
佐藩24万石をバックに持った方が有利だと考えたからです。も
ちろん、上士の後藤と下士の龍馬は、それまで一度も会ったこと
はなかったのです。
 しかも土佐藩の重役の後藤が下士の龍馬を料亭に招待するなど
ということは当時はとても考えられないことなのです。大河ドラ
マの『龍馬伝』の後藤象二郎役の青木崇高の演技は態度が尊大で
あり、あまり知性は感じられなかったように思います。土佐尊皇
党を弾圧していたときの後藤のイメージのままです。
 清風亭会談の結果について、龍馬の研究家である菊地明氏は次
のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 後藤は弾圧当時の後藤ではなかった。過去は過去として水に流
 し、龍馬の長崎での愛妾・お元までも席に呼んで龍馬をもてな
 した。無条件で龍馬と社中を迎え入れようとしたのだ。翌日の
 朝まで続いた会談の内容は伝わっていないが、社中のメンバー
 が「後藤は如何に」と問うと、龍馬は「近頃、土佐の上士中に
 珍しき人物ぞ」(『維新土佐勤王史』)と評し、後藤があえて
 過去の出来事については触れずに大局のみを語ったこと、酒席
 での話術に才気を感じたことをその理由としてあげたという。
     ──菊地明著『追跡!坂本龍馬/旅立ちから暗殺まで
           の足どりを徹底検証』/PHP研究所刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 慶応3年(1867年)4月、長崎の小曾根家の別邸を本部と
して、亀山社中が改組されるかたちで海援隊が発足したのです。
後藤は無条件で龍馬たちを受け入れたのです。
 亀山社中のほか、長岡謙吉、野村辰太郎、吉井源馬、佐々木栄
などが加わり、さらに水夫が増員され、50人規模の人数で発足
したのです。海援隊隊長はもちろん坂本龍馬です。これで龍馬は
隊員たちの給与を工面する苦労から解放されたのです。
             ―─ [新視点からの龍馬論/42]


≪画像および関連情報≫
 ●溝淵広之丞の疑義に対する龍馬の返答
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「情のために道に惇り、宿志の踵蹟を恐るるなり。志願はた
  して就ずんば、後何為にか君顔を拝せんや」
  (口語訳)
  君父の国、父母の国とは情の次元の問題だである。情に引か
  れて志願を成就できなくなるのが怖いから、あえておのれは
  脱藩の境遇を続けている。         ──高野澄著
           『坂本龍馬/33年の生涯』/三修社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

後藤象二郎.jpg
後藤 象二郎
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2010年12月06日

●「いろは丸沈没の顛末」(EJ第2952号)

 坂本龍馬という人物は、剣術の腕は今いちだったものの、集金
力(というより借金力)には優れたものを持っており、対人折衝
力に長けた人物だったようです。その凄さと冴えを示した事件の
ひとつに「いろは丸事件」があります。
 亀山社中のときに何とか船を手に入れようとしていた龍馬は、
薩摩藩の小松帯刀に泣きつき、太極丸という西洋帆船を入手して
います。薩摩藩に保証人になってもらい、資金を調達して購入し
たと思われます。その資金の総額は、船価が7800両とそれま
での経費500両です。
 ところが、龍馬が土佐藩と組んで海援隊を結成したので、この
船は土佐藩が金を払って引き取ったのです。それに加えて後藤象
二郎は、大洲藩(愛媛県)に大坂往復の一航海について500両
の賃借料を提示し、同藩所有のいろは丸を借りる交渉を成立させ
ています。海援隊の活動を活発化させるためです。
 このように龍馬は、薩長同盟を成立させるまでは、薩長両藩を
資金的なバックとして活用し、海援隊結成後には土佐商会の責任
者である岩崎弥太郎を金づるにしたのです。大河ドラマでも描か
れていましたが、後藤象二郎は早くから岩崎弥太郎の商才に注目
し、岩崎を上士に引き上げ、開成館の長崎進出のさい、岩崎弥太
郎を会計責任者に起用したのです。したがって、土佐商会が海援
隊の会計を担当していたからです。
 こんな話が伝えられています。慶応3年(1867年)4月に
海援隊が結成され、初めての給料日のことです。海援隊は、一人
当たり毎月5両を土佐藩からもらうことになっていたのです。
 給料を受け取りにきた海援隊士に岩崎は全員分の100両を渡
したのです。このときの海援隊士は16人であり、100両は十
分な金額です。
 しかし、龍馬は「俺の給料はどうした?」という使いを岩崎の
ところに出しているのです。隊長の給与は違うはずだというわけ
です。仕方がないので岩崎は、自分からの餞別として50両を持
参して龍馬を訪ねたのです。岩崎弥太郎の日記には、そのときの
模様が次のように書かれています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 才谷(龍馬の変名)喜悦し、酒を出し、かつ飲みかつ談じ、当
 時人物条理の論を発し、日すでに黄昏に迫りて辞去す。
                      ──竹下倫一著
         『龍馬の金策日記』より/祥伝社新書038
―――――――――――――――――――――――――――――
 大河ドラマでは、龍馬と岩崎は幼馴染みで、岩崎は龍馬に嫉妬
して仲が悪いように描かれていましたが、実際はそうではないの
です。長崎までは、同じ土佐出身ではあったのですが、ほとんど
2人の接触はなかったからです。
 慶応3年4月19日深夜いろは丸は長崎港を出港したのです。
海援隊初の航海です。小谷耕蔵を船長とし、龍馬をはじめ、渡辺
剛八、佐柳高次、腰越次郎、長岡謙吉、それに入隊して間もない
小曾根乾堂の弟、小曾根英四郎を含めた隊員35名が乗っていた
のです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 関門海峡を通過して瀬戸内海に入ったいろは丸は東進を続け、
 23日午後11時ごろに備後灘の六島(岡山県笠岡市)の2キ
 ロほど手前に達したとき、船体に大きな衝撃を受ける。紀州塩
 津港(和歌山県海南市下津町)から瀬戸内海を西進する紀州藩
 船・明光丸と衝突したのだった。       ──菊地明著
             『坂本龍馬』より/PHP研究所刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 いろは丸は160トン、それに対する紀州藩船・明光丸は、実
に880トン、いろは丸の5倍です。いろは丸はそのような巨船
に2度もぶつけられ、沈没してしまったのです。
 龍馬たち、いろは丸の乗員35名は明光丸に乗り移り、全員無
事だったのです。このとき明光丸の船長は、高柳楠之助という紀
州藩士だったのです。龍馬は高柳船長に対し、鞆(とも)の港に
寄港させ、そこで事後処理をするよう求めたのです。
 高柳船長は鞆の港までは龍馬を乗せていったのですが、主用が
あるといって龍馬たちを置いたまま長崎に行こうとしたのです。
龍馬は当座の事故処理費用として1万両を求めたのですが、明光
丸側は見舞金の金一封で済まそうとしたので、話し合いは崩れた
のです。そこで龍馬は、小曾根英四郎と水夫の市太郎を長崎に連
れていくよう求め、高柳はこれを引き受けます。そしてこの2人
を乗せた明光丸は、4月29日に長崎に到着したのです。
 紀州藩はただちに長崎奉行に事故届を提出し、あくまで幕府の
裁定を求めたのです。一方、龍馬の指示にしたがい、市太郎は土
佐商会に事故を報告し、龍馬たちは後より早舟にて戻ることを伝
えるとともに小曾根英四郎は大洲藩邸に行き、事故の報告に行っ
ているのです。
 龍馬たちは、4月29日に船便を得て鞆を発し、30日に芸予
諸島の大崎下島の御手洗(広島県呉市)に寄港しています。そこ
で、旧知の因州(鳥取)藩士・河田左久馬の乗る船に出会い、5
月1日か2日に下関に到着しています。そのとき、龍馬は河田に
事故について話し、紀州藩から6万両の賠償金を獲得する決意を
語っています。この時点でしたたかな計算をしていたのです。
 龍馬は事故の顛末を海援隊士に手紙で知らせていますが、その
口語訳は「関連情報」を参照してください。龍馬は、事故の記録
を西郷隆盛と小松帯刀、中岡慎太郎に知らせています。なぜ、こ
のようなことをしたかというと、幕府にプレッシャーをかけるた
めなのです。紀州藩が最終的には幕府に裁定を委ねることを見越
しての処置です。なぜなら、薩摩藩は、その当時幕府が最も気を
遣っていた藩であるからです。
 中岡慎太郎は各藩の有力者とつながりをもっていたので、事故
の様子を世間に知らせようとしたのです。そして、これからが龍
馬の本領発揮です。    ―─ [新視点からの龍馬論/43]


≪画像および関連情報≫
 ●龍馬から海援隊士に宛てた手紙の一部
  ―――――――――――――――――――――――――――
  このたび、イロハ丸を借りて、大坂まで荷物を送っていたと
  ころ4月23日夜11時頃、備後の輌の近くの箱の岬という
  ところで、紀州蒲の船に横から衝突され、わが船は沈没し、
  今から長崎に帰るところです。紀州藩の船員たちは、我々は
  荷物も何も失ったにもかかわらず、ただ輌の港に投げ上げて
  用があるといって長崎に行ってしまいました。輌の港で待っ
  ておれとのことです。この恨みは晴らさないわけにはいきま
  せん。〜中略〜、応接記録は、西郷隆盛に送ろうと思ってい
  ます。諸君が見た後は、すぐに西郷と小松帯刀などに廻し、
  中岡慎太郎などにも見せてください。   ──竹下倫一著
         『龍馬の金策日記』より/祥伝社新書038
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●「すろは丸想像図」出典
  http://homepage3.nifty.com/kaientaidesu/html/ziken7.htm

いろは丸想像図.jpg
いろは丸想像図
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2010年12月07日

●「海援隊の大勝利/いろは丸事件」(EJ第2953号)

 いろは丸沈没の第1回談判は、慶応3年5月15日に行われた
のです。場所は不明です。紀州藩からは高柳船長ら11人、海援
隊からは龍馬のほか5人、それに土佐商会から2人が参加してい
るのです。なぜ、土佐商会が参加したのかというと、紀州藩対海
援隊ではなく、紀州藩対土佐藩の問題として対応する姿勢を見せ
る狙いで、後藤象二郎が指示したものです。
 第1回談判は、両者の航海日記を提出して、互いの立場から事
故の経緯を明らかにしようとしたのです。しかし、龍馬の次の主
張を紀州藩は受け入れ、終了しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 今、航海のことを互いに相弁論するとも、海上に証拠なければ
 ついに決せざるべし。しばらくこれを置け。
               ──伊呂波丸航海日記抜書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 最初の談判では、紀州藩は鷹揚に構えていたのです。紀州藩は
徳川御三家の一つであり、大藩です。浪人集団の海援隊(紀州藩
は当初そのように考えていたと思われる)の勝てる相手ではない
のです。しかし、そこに油断があったのです。
 この第1回談判の前後から龍馬は海援隊の隊士に命じて、丸山
の妓楼などで次の俗謡を流行らせたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 船を沈めたその償いは金を取らずに国を取る。国を取ってみか
 んを食う。           ──航海日記付録草稿より
―――――――――――――――――――――――――――――
 この俗謡は丸山だけでなく、長崎の街中に広がったのです。こ
れは、幕威の低下を物語る一方、被害者と加害者の関係を刷り込
む効果があったのです。龍馬の狙いは、世論を味方につけること
にあったのです。第2回の談判は、翌16日に行われたのです。
第2回からは後藤象二郎が出席しています。第2回で海援隊側が
強く主張したのは、次の2点です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ・事故当時、明光丸には見張りの士官がいなかったことを海援
  隊員が確認。注意義務を怠っている。
 ・船が沈没したのは、明光丸が船の操縦を誤り、二度にわたっ
  て、いろは丸に衝突したからである。
―――――――――――――――――――――――――――――
 これによって紀州藩側は防戦一方になりましたが、衝突原因は
いろは丸側の回避行動の欠如にあるとして反論したのです。龍馬
はここで一芝居打っています。会議に出席している海援隊士が龍
馬に向かって次のようにいったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 隊長、あなたの交渉は生ぬるくていけません。談判はすぐ打ち
 切って戦うべきです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 紀州藩は御三家であり、長州征伐戦で敗北を重ねた紀州藩の弱
みにつけ込んだ龍馬独特の脅しです。これが巷で流行らせた俗謡
とうまくリンクして、紀州藩にダメージを与えたのです。その上
で龍馬は、蒸気船同士の衝突という国内初の事例であり、海外の
事例をもって解決しようという提案をしたのです。
 第3回談判は、5月22日に行われたのです。この会合にも後
藤は出席しています。そのとき、いろは丸側が徹底的に責めたの
が次のポイントです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ・事故の処理を行わず、龍馬をはじめ海援隊乗組員を鞆の港に
  置き去りにし、長崎に向かっている。
―――――――――――――――――――――――――――――
 さらにこの席で後藤象二郎は、長崎に入港した明光丸が土佐藩
に報告せず、長崎奉行に事故責任がいろは丸にあるとの届けを提
出した事実を責めたのです。
 これについて明光丸に乗船していた紀州藩・勘定奉行茂田一次
郎は、一方的な報告書提出の非を認めて謝罪し、入港中の英国艦
提督より世界の事故の例を問い、それを参考にして解決したいと
提案し、いろは丸側はこれを受け入れたのです。
 この時点で紀州藩は完全に敗れています。しかも、それをさら
に決定的にしたのは、茂田がこういうことに詳しい薩摩藩士の五
代友厚に調停を頼んだことです。茂田は龍馬と五代が近い関係に
あることを知らなかったのです。
 そして、賠償額は「8万3500両」というとんでもない高額
になったのです。この数字の根拠について、加治将一氏は次のよ
うに述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 なぜべらぼうかというと、まず賠償金額の算出方法だ。「いろ
 は丸」の値段は4万2500両だと言っているが、それ自体怪
 しい。「いろは丸」は大洲藩がグラバーの影響下にあった五代
 から買ったもので、価格操作などいくらでも可能である。なお
 かつ、沈んだ積荷価格を上乗せしている。上乗せはいいが、問
 題はその積荷値の算出方法だ。その数字をあわただしくはじき
 出したのは、土佐藩の豪腕番頭、岩崎弥太郎(後の三菱財閥オ
 ーナー)だ。龍馬、後藤、五代、岩崎、役者がそろいすぎてい
 る。   ──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 紀州藩がいろは丸側の要求を一方的に飲まされたのは、賠償金
額が提示された時点で次の不気味なつながり──龍馬=五代=薩
摩=グラバー=英国──が判明したからです。これは下手をする
と英国に攻められるという恐怖です。
 8万3500両は現在の価格で41億円ぐらいになります。船
は約18億円程度であり、あまりにも巨額です。それは船の積み
荷の中に「金」があったという主張で20億円ぐらいが上乗せさ
れているからです。最終的に賠償金は7万両でけっちゃしている
のです。         ―─ [新視点からの龍馬論/44]


≪画像および関連情報≫
 ●龍馬が妻のお龍に宛てた手紙
  ―――――――――――――――――――――――――――
  先日から、たびたび紀州藩の奉行、船将などに会って議論し
  たところ、先方は女のいい逃れのようなことばかりをいって
  おりました。この頃は病気などといって会わないようになっ
  ていたのだけど、後藤象二郎と二人で、紀州奉行に出かけ、
  十分にやりつけ、また、昨夜、今井妄岡謙吉)、中島(作太
  郎)、小田小太郎なども押しかけ、うるさくやりつけて、夜
  九つ過ぎに帰って来ました。昨日の朝は、私が紀州溝の船将
  に会って十分に論じ、また後藤象二郎が紀州の奉行に行き、
  うるさくやりつけたので、「もうたまらん」ということにな
  ったと見えて、紀州藩はどうにか解決を計らってくれと、薩
  摩藩に頼んだとのことです。       ──竹下倫一著
         『龍馬の金策日記』より/祥伝社新書038
  ―――――――――――――――――――――――――――

紀州藩勘定奉行/茂田一次郎役.jpg
紀州藩勘定奉行/茂田一次郎役
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2010年12月08日

●「いろは丸事件を巡る大洲藩と紀州藩」(EJ第2954号)

 沈没したいろは丸で土佐藩は大変な大儲けをしたのですが、そ
の裏でひどい目に遭った藩があるのです。といっても、莫大な賠
償金を支払わされた紀州藩ではないのです。
 それはいろは丸を土佐藩に貸し出した四国の小藩、伊予大洲藩
なのです。しかし、大洲藩はいろは丸が沈没した場合は、代わり
の船を土佐藩からもらえる約束になっており、実際にその約束は
履行されているのです。
 それではなぜ大洲藩はひどい目に遭ったのでしょうか。
 それを明らかにするには、そもそも大洲藩がどうしていろは丸
を手に入れたかについて知る必要があります。実は大洲藩のいろ
は丸の購入には、坂本龍馬と五代友厚がからんでいるのです。
 慶応2年(1866年)といえば、各藩は時局に対応するため
軍備に余念がなかったのです。6万石の小藩である大洲藩も、軍
備拡張のため、小銃300挺を購入するため、長崎に専門家の藩
士を派遣したのです。それが砲術の専門家である国島六左衛門な
のです。慶応2年6月のことです。
 国島は長崎で龍馬や五代に知り合うのです。龍馬と五代は小銃
など購入しても真の軍備にはならないので、船を購入すべきであ
ると説いたのです。実は龍馬と五代のあたまの中には、斡旋すべ
き船があり、それがいろは丸だったのです。
 もともといろは丸は薩摩藩が所有していた船であり、亀山社中
が運航していたのですが、オランダ人のボードウィンに売却した
のです。おそらく国島は「蒸気船を買っても動かせない」といっ
て反対したはずです。それに対して龍馬は亀山社中から人を出し
運航するので心配はないし、大洲藩には賃貸料が入るということ
で納得させたと思われるのです。
 国島は2人の説得に乗せられてしまい、いろは丸を購入するこ
とを独断で決め、藩から持ってきたお金を手付け金として支払っ
てしまったのです。
 しかし、国島はその越権行為によって自害することになるので
す。いろは丸購入の残金が自身では調達できず、いろは丸の出港
の前日に長崎で自害してしまうのです。大洲藩としては手付け金
が支払われているので、やむなく残金を支払い、船は大洲藩のも
のになったのですが、国島が切腹したことで、船の運航を亀山社
中がするという話は実現しなかったのです。
 大洲藩としては、計画にない船を購入し、国島六左衛門という
有能な砲術士を失ったことで大きな損害を受けています。ところ
が船を手に入れてみると、思っていたより素晴らしい船であった
ので、これを自藩で運航しようという気になったのです。
 しかし、海援隊が発足することになり、土佐藩との船の借り上
げ交渉によって、半年後に龍馬の願いがかない、海援隊がいろは
丸を運航することになったのです。そして、最初の航海で沈没し
てしまうのです。どこまでもついていない船です。
 土佐藩はいろは丸の代わりにセイボルンという英国船を大洲藩
に提供します。この船は大洲藩によって「洪福丸」と名づけられ
たのですが、結局運航は土佐藩の海援隊にまかされ、海援隊は、
「横笛丸」として運航することになったのです。
 しかし、大洲藩としては賃貸料は入るものの、船はずっと海援
隊が使っているので、藩で引き取ろうということになり、土佐藩
と交渉して引き取る予定になっていたのです。
 ところが横笛丸は官軍に押収されてしまうのです。北越戊辰戦
争に向かう官軍の「東北遊撃軍」を輸送するために押収されたの
です。長崎に残っていた海援隊士も、横笛丸に乗って東北遊撃軍
に参加しているのです。
 戊辰戦争が終了すると、横笛丸は現状のままで大洲藩に返還さ
れたのですが、それはボロボロの状態であり、とても使える状態
ではなかったのです。このようにして、大洲藩はいろは丸を購入
したことで、散々な目に遭ったというわけです。
 もうひとつ、いろは丸を沈没させて大損をさせられた紀州藩に
ついて、同藩が海援隊のお陰で救われた事件があります。龍馬の
死後のことであり、いろは丸事件の一年後のことです。
 慶応4年(1868年)1月のことです。鳥羽伏見の戦いで幕
府軍は敗北しますが、その敗残兵の一部が和歌山に逃げ込んでき
たのです。紀州藩は徳川家のひとつであり、それらの敗残兵を受
け入れ、いろは丸を沈没させた明光丸を使って彼らを江戸に送還
したのです。紀州藩としては当然のことをしたのです。
 しかし、朝敵に加担したということでこれが新政府から問題に
されることになります。ちょうど鳥羽伏見の戦いで官軍になった
新政府軍は東征を開始していたのですが、紀州藩には重い軍役が
科せられたのです。軍隊を参加させるとともに軍資金15万両の
献納を命ぜられたのです。しかし、当時の紀州藩の財政では15
万両などとても出せず、とりあえず3万両を献納したのです。困
り果てた紀州藩は、ある海援隊士に新政府への陳情を依頼するの
です。その海援隊士とは陸奥宗光のことなのです。
 陸奥宗光は、紀州藩の要人伊達宗広の六男だったのです。しか
し、陸奥が10歳のときに父が政争に敗れて失脚し、蟄居させら
れるのです。そして、300石の知行も召し上げられ、城下から
追い出されたのです。
 その後、陸奥は15歳で単身江戸に向かい、苦学の末に龍馬と
出会うのです。そして神戸海軍塾の頃から龍馬と行動を共にし、
やがて海援隊の幹部に昇進するのです。紀州藩としては今更救い
を求める相手ではなかったものの、他には誰もいなかったので、
恥をしのんで陸奥に頼ったのです。
 陸奥は自分は土佐藩士であり、紀州藩には恨みしかないといっ
て断ったのですが、結局一肌脱ぐことになったのです。陸奥は新
政府軍と折衝し、既に支払った3万両を紀州藩に返却させ、精鋭
5000名を送るということで決着させたのです。
 このように紀州藩は海援隊との関係があったので、藩として危
ないところで救われることになったのです。運命とは不思議なも
のであると思います。   ―─ [新視点からの龍馬論/45]


≪画像および関連情報≫
 ●陸奥宗光の思想を考える
  ―――――――――――――――――――――――――――
  司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」は何度も読んだことを話して
  いたが、私の中の陸奥宗光像はもっぱらこの本によって形成
  されたものである。本の中での陸奥宗光は龍馬の作った「海
  援隊」の一員であり、その中でも優秀な人物の一人だった。
  龍馬に心酔して行動を共にしていた若者であったと記憶して
  いる。日清戦争の時に優秀な外務大臣として活躍した陸奥の
  姿との共通点はあまり見出せないでいたので、もっぱら自分
  の中の陸奥像は、海援隊員としてのそれだったような気がす
  る。http://homepage2.nifty.com/kumando/mj/mj031123.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

陸奥宗光.jpg
陸奥 宗光
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2010年12月09日

●「船中八策の原案は誰が作ったか」(EJ第2955号)

 いろは丸の始末がついたので、後藤象二郎と龍馬は土佐藩船・
夕顔丸に乗って京都に向かっています。山内容堂公に命ぜられて
の上京です。ちょうどそのとき京都ではあの四候会議が開かれて
いたのです。龍馬が同道したのは、後藤からそれを求められたか
らです。慶応3年(1867年)6月9日のことです。
 夕顔丸は10日に下関に寄港し、明石沖で船腹が暗礁に触れて
浸水するという事故に遭いながらも12日の朝に兵庫に到着して
います。この航海中に龍馬が後藤象二郎に示したとされるのが、
後に「船中八策」といわれるものです。
 しかし、この「八策」は船に乗るのを待って提示されたわけで
はないのです。それ以前から龍馬は後藤に基本的なプランを示し
2人で意見交換をした結果、後藤は容堂公の意向や藩の動向に合
わせて内容の修正をさせています。そのうえで、後藤は龍馬に京
都への同道を求めたのです。
 「船中八策」という言葉が使われたのは、昭和元年(1926
年)刊行の『坂本龍馬関係文書』(編者/岩崎鏡川)からであり
それ以前はこの表現は使われていないのです。
 しかし、その時点で後藤と龍馬の間には大きな思想的な違いが
存在したのです。後藤は、あくまで幕府との武力衝突を避け、将
軍自ら大政を奉還し、天皇の下に列藩会議を開いて、議長に将軍
を据えるという考え方です。
 これに対して龍馬は、近代的国家を目指していて、中心に据え
る議長を特定しておらず、その実現のためには「和」も「戦」も
ない、大所高所から八策を練り上げているのです。
 しかし、八策の文面上は後藤、龍馬どちらの考え方も入ってい
るので、意見がまとまったものと思われます。容堂公が後藤に上
京を命じたのは、京都における土佐藩の不利な政局を何とか打開
させるためであり、後藤はそれに八策を使おうとしたのです。し
たがって、2人が夕顔丸の船中で議論し、まとまったものを海援
隊士で龍馬の秘書をしていた長岡謙吉がまとめたので、「船中八
策」と称せられたとも考えられます。
 船中八策の全文は、添付ファイルを参照していただくとして、
それをまとめると次のようになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
    1.政権を朝廷に返す
    2.上、下院を設ける
    3.人材はいろいろな階層から広く募集する
    4.外交を確立する
    5.新たに憲法、法律を作る
    6.海軍の強化
    7.首都防衛の近衛兵の設置
    8.通貨の整備
      ──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 問題はこの八策の原案モデルを提供したのは誰かということで
す。まさかあの時代において龍馬がこれだけの知見を有し、これ
ら八策のすべてを考え出したとはとても思えないのです。
 しかし、八策を提言したのは紛れもなく龍馬自身であり、その
ウラには何かがあります。加治将一氏によると、原案はグラバー
とアーネスト・サトウであるというのです。すなわち、英国様式
がそのまま原案になっているからです。
 当時の日本が維新のモデルにすべき国といえばフランスと英国
があります。幕府は軍事体制などはフランスを参考にし、薩長や
土佐は英国の影響を強く受けています。しかし、天皇のいる日本
としては、共和制と帝政を繰り返すフランスよりも、王室の伝統
が続く英国の方がよりなじめるといえます。
 記録によれば、後藤象二郎や西郷隆盛はアーネスト・サトウを
たびたび訪ねて議会政治の話に耳を傾けていたといわれます。当
時としては、そのようにして外国人の指導を受けなければ何もわ
からなかったのです。龍馬はその点グラバーや彼を通してアーネ
スト・サトウとも何回も会い、そういう情報を受けていたと思わ
れるのです。
 ところで、アーネスト・サトウといえば、彼が当時の英字新聞
「ジャパン・タイムズ」に寄稿したとされる論文『英国策論』が
あるのです。その骨子は次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.将軍は主権者ではなく諸侯連合の首席にすぎず、現行の条
   約はその将軍とだけ結ばれたものである。したがって現行
   条約のほとんどの条項は主権者ではない将軍には実行でき
   ないものである。
 2.独立大名たちは外国との貿易に大きな関心をもっている。
 3.現行条約を廃し、新たに天皇及び連合諸大名と条約を結び
   日本の政権を将軍から諸侯連合に移すべきである。
                    ──ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――――
 これは明らかに革命論です。このアーネスト・サトウと思われ
る一文に対し、グラバーは横浜の日本語新聞『横浜新報』に次の
ように書いて、その思想を煽っています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 『ジャパン・タイムズ』の中に大君(将軍)一人と条約を結ぶ
 代わりに諸大名と新たに結約せんとの説を称挙せる箇条あり。
 この箇条はすでに翻訳を経て高貴な人の間に流布し、その人々
 も大いにこの説を喜べるのは世人の知るところとなるべし。
       ──1866年8月27日付、『横浜新報』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 革命を語った『英国策論』に日本中が諸手をあげて歓迎してい
るという記事になっています。明らかにグラバーもサトウも維新
後の日本の体制に影響を与えようとしています。なお、『英国策
論』はサトウが書いたとされていますが、寄稿は匿名であり、本
人かどうかは不明です。  ―─ [新視点からの龍馬論/46]


≪画像および関連情報≫
 ●「船中八策」作成に坂本龍馬が関与していない可能性
  ―――――――――――――――――――――――――――
  幕末史あるいは坂本龍馬に興味のある方ならば、慶応3年6
  月に、長崎から京都に上京する船の中で、坂本龍馬が土佐藩
  重役の後藤象二郎に提示したと言われる「船中八策」という
  政治綱領の存在はご存じでしょう。1965年には、「船中
  八策」について次のような記述があります。長崎から上京す
  る船中で、龍馬は後藤に、新しい国家の体制について意見を
  のべた。もはや、幕府を従来のまま存続させることはできな
  い。天皇を中心にした国内の統一こそが必要であるというの
  だ。こうして新しい国家の体制についての八ヵ条の要項を、
  長岡謙吉に書かせたのが、世に有名な「船中八策」である。
http://tosa-toad.cocolog-nifty.com/blog/2006/08/post_1daa.html
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●図表出典/山本 大著/『坂本龍馬/知れば知るほど』/実
  業之日本社

「船中八策」.jpg
「船中八策」
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2010年12月10日

●「戦前における3回の龍馬ブーム」(EJ第2956号)

 坂本龍馬といえば、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』(全5巻/文
芸春秋)をまるで教科書のように語る人が多く、それによって龍
馬の一定のイメージが出来上がっています。
 『竜馬がゆく』は小説であり、小説としてはこれほど面白い本
はありませんが、その内容を歴史としてとらえると、大きな問題
がいくつもあるのです。
 戦前において「龍馬ブーム」は3回あるのです。年代を示すと
次のようになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
           1.1883年
           2.1904年
           3.1926年
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1回は「1883年」です。
 龍馬は1867年11月15日に暗殺されたのですが、維新後
しばらく忘れられた存在になるのです。はじめて龍馬が注目され
るのは、1883年(明治16年)なのです。自由民権運動の新
聞──「土陽新聞」上の連載小説においてです。
 この小説は「鳴々道人」という著者名で連載されたのですが、
この人は自由民権運動家の文筆家の坂崎紫瀾という人で、坂本龍
馬をテーマにして68回の連載を書いたのです。このようにして
維新後、龍馬は薩長の独裁的支配に不満を持つ反薩長の人たちか
ら注目を浴びることになったのです。
 第2回は「1904年」です。
 1904年(明治37年)2月、ちょうど日露戦争の直前だっ
たのです。福沢諭吉が創刊した日刊新聞である「時事新報」は、
昭憲皇太后(明治天皇の皇后)が葉山の御用邸で龍馬の夢を見た
と報じたのです。作家で歴史家の加来耕三氏は、このことを次の
ように伝えています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 臣は維新前、国事のために身を致したる坂本龍馬と申す者にて
 候。海軍の事は当時より熱心に心掛けたる所に候へば、魂魄は
 御国の海軍に宿りて忠勇義烈なる我軍人を保護仕らん覚悟にて
 候。武士はここで「かき消す如く失せ」てしまうのだが、その
 翌日の夜も、再び皇后の夢枕に立ったという。皇后は不思議に
 思って、側近の者に下問したところ、龍馬の写真を見せられ、
 この男でしょうかと聞かれた。(皇后)容貌風采ともに、この
 写真に寸分の違いなし。          ──榊原英資著
 『龍馬伝説の虚実/勝者の書いた維新の歴史』/朝日新聞出版
―――――――――――――――――――――――――――――
 このブームの中で、京都にある龍馬の墓には新たな石碑が建立
され、にわかに坂本龍馬が注目されたのです。何しろ無敵艦隊と
いわれたロシアのバルチック艦隊に立ち向かうので、日本海軍を
創設した龍馬に祈るような思いが集まったのです。そして、日露
戦争に勝利するに及んで、龍馬ブームは一層高まったのです。
 第3回は「1926年」です。
 大正末期から昭和初期──いわゆる大正デモクラシーの中で、
龍馬の船中八策が注目されたのです。つまり、龍馬は、デモクラ
シーの元祖として注目されるようになったのです。あの「広く会
議を興し万機公論に決すべし」のモデルとしてもてはやされるこ
とになったのです。「船中八策=坂本龍馬」の考え方からきたも
のと思われます。
 ちょうどそのとき、1928年8月、新国劇によって帝国劇場
で大ヒットした真山青果の戯曲『坂本龍馬』によってブームは頂
点に達するのです。何しろ30日間にわたって帝国劇場を大入り
満員にしたのですから、大変なブームです。
 加来耕三氏はこの戯曲について次のように記しています。少し
長いが、引用します。
―――――――――――――――――――――――――――――
  劇中、クライマックス近くで、龍馬と中岡慎太郎の二人が、
 激しくいい争うシーンがある。龍馬は口をきわめていう。
 「天下を王政に復古する。もちろんそうあるべきだ。しかし、
 同時にまた、それは国家を全国民の関心のもとに置く意味でな
 ければならない。天皇の国民であって国民の陛下だ。二にして
 一、一にして二、到底分裂を許さないのだ」。
  さらに龍馬は反論できない中岡に向って「真理」を説いた。
 「−−天地を始終し、古今を貫徹して動かざるものはただ理の
 一字だ。われ等の待ち望む人間平等の世界とは、また平等の政
 治とは、四民をして理によっで存在せしむることだ。人は理に
 よって生き、理によって殺され、与うるも奪うも、ただ道理の
 支配をうけることだ。法も権も理をはなれては存在し得ないの
 だ。既に王法に復古せる以上、王法もまた理によって立たねば
 ならぬ。而して理は常に公衆とのみ存在する。僕が代議政治を
 主張し憲法の創定を急務とするも、眼目はただこの理の一つに
 あるのだ」。この龍馬=和平革命論者の像は、第二次世界大戦
 後、アメリカ風の民主主義が導入されても、いっこう色褪せる
 ことなく、明治維新百年前後の時期を迎え、第三の大きな波と
 も連なった。               ──榊原英資著
 『龍馬伝説の虚実/勝者の書いた維新の歴史』/朝日新聞出版
―――――――――――――――――――――――――――――
 どうでしょうか。佐久間象山や横井小楠ならともかく、龍馬の
いうセリフではないと思います。坂本龍馬という男は、こういう
理論的なことをいう人ではないのです。大河ドラマでも龍馬をそ
ういうように描いていないのです。しかし、「船中八策=龍馬」
という考え方によってイメージがつくられてしまうのです。
 榊原英資氏によると、坂本龍馬は思想家でも政治家でもなく、
商人としての才能を持って、勝海舟の弟子として時代を超スピー
ドで駆け抜けた風雲児だったといえるのではないでしょうか。
 われわれは少しイメージを修正して、龍馬を見直すことが必要
であると思います。    ―─ [新視点からの龍馬論/47]


≪画像および関連情報≫
 ●大正デモクラシーとは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  何をもって「大正デモクラシー」とするかについては諸説あ
  る。政治面においては普通選挙制度を求める普選運動や言論
  ・集会・結社の自由に関しての運動、外交面においては生活
  に困窮した国民への負担が大きい海外派兵の停止を求めた運
  動、社会面においては男女平等、部落差別解放運動、団結権
  ストライキ権などの獲得運動、文化面においては自由教育の
  獲得、大学の自治権獲得運動、美術団体の文部省支配からの
  独立など、様々な方面から様々な自主的集団による運動が展
  開された。             ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

坂本龍馬/中岡慎太郎.jpg
坂本 龍馬/中岡 慎太郎
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2010年12月13日

●「一種の解放区になっていたグラバー邸」(EJ第2957号)

 今回のテーマで、トーマス・グラバーがはじめて登場したのは
EJ第2938号からです。ここからしばらくグラバーに絞って
彼のやったことを見ていくことにします。
 グラバーは20歳の前半の若さで長崎に上陸し、それ以来、彼
がやったことは日本の革命──明治維新において主導的な働きを
果たしたことです。そんなことが、日本から見て一介の外国人の
青年に過ぎないグラバーになぜできたのでしょうか。
 それは英国政府と結びついたある強力な組織がグラバーをバッ
クアップしなければできることではないのです。これについて、
加治将一氏は次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 革命などと一口に言いますが、むやみやたらに企画できるもの
 ではありません。それなりの土壌があり、ちゃんとした革命思
 想と冷静な情勢分析が必要になつてきます。幕府はどうなって
 いるのか?対抗勢力はだれで、力はどのくらいあるのか?こう
 した情報収集能力がなければならず、その辺の、ちゃらちゃら
 した兄ちゃんではとうてい無理な話なのです。日本語のできな
 いグラバーに、なぜもろもろのことが可能だったのか?英国の
 青年が、なぜ倒幕を画策し、実行するだけの思想と力がそなわ
 っていたのか?考えれば考えるほど、グラバー単独での行為と
 は、にわかに信じられないことが分かってきます。
                      ──加治将一著
    『石の扉/フリーメーソンで読み解く歴史』/新潮社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 グラバーがまずこだわったのは、自身の住居にするための土地
の購入です。幸いグラバーの前任者であるジャーディン・マゼソ
ン商会のケネス・ロス・マッケンジーが海岸沿いの大浦二番とい
う、一等地を手に入れてくれていたので、グラバーはそれを引き
継いでそこに屋敷を建てたのです。それがグラバー邸です。これ
は自宅というよりも、グラバーの商売上の接待所ならびに工作の
拠点として位置づけられていたのです。
 グラバー邸の眺望は素晴らしく、真正面には長崎港、90度右
には長崎の市街が一望できます。もし、兵が陣を築くには絶好の
立地であり、ここで武装されると、容易には攻め込むことが困難
な場所なのです。
 長崎奉行所としては外国人を敵として扱い、海岸縁の狭い居留
地に押し込めたいところであるのに、このような自然の要害のよ
うな場所を英国人に提供せざるを得なかったのは、それだけ英国
の力が強く、ほとんど奪われるに等しい状態で占有されたものと
思われるのです。
 マッケンジー自身は、ジャーディン・マゼソン商会に対して次
のような書状を送っているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ・・長らく待たされ、さんざん苦労した末に、私はかなり好条
 件の年間借地料と引き換えに広大かつ景観に恵まれた山腹の土
 地を手に入れることができましをが、それについてはグラバー
 氏が今後責任をもち、その地に800ドルの費用をかけて近々
 バンガロー(ベランダ付きの平屋)を普請することになりまし
 ょう。                  ──山口由美著
     『長崎グラバー邸父子二代』/集英社新書0559D
―――――――――――――――――――――――――――――
 グラバー邸は、1863年(文久3年)の建築です。日本人大
工による擬洋風建築ですが、これは南方の植民地に展開したコロ
ニアル建築の系譜です。これについて、建築家の藤森照信氏は、
グラバー邸について次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 アジアで誕生したヴュランダがイギリスに紹介された時、かの
 地の人々は、軽さ、明るさ、光と風、豊かな自然、といった南
 方的なイメージを感じとり、イギリス南部の保養地の住宅に小
 さなヴュランダ状の張り出しを設けてまだ見ぬ南方をしのんだ
 りしたものだが、そうしたイギリス人の南方ロマンチシズムを
 現地においてグラバー邸くらいきれいに形にしてみせた例はな
 い。             ──山口由美著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 当時のグラバー邸の庭には大砲がすらりと並び、長崎の市街と
航路を睨んでいたといわれています。さらに「鳥撃ち」と称する
銃を持った警備兵が巡回し、一個小隊に匹敵する軍事力を備えて
いたので、何かが起こっても、長崎奉行所が容易には踏み込めな
かったといわれています。
 さらに頻繁に接岸する英国の軍船に乗っている兵隊を外国人居
留地の背後に広がるグラバー邸敷地までテントを張って駐留させ
るなど警備は厳重だったのです。それでいて、長崎奉行所には土
産と称して十分な金品を与えていたので、グラバー邸は幕府の力
の及ばない一種の解放区のようになっていたのです。
 このため、反カトリックの運動家や維新の志士たちがグラバー
邸を隠れ家として利用するようになったのです。たとえグラバー
邸に志士たちが集まっているとわかっていても、長崎奉行所とし
ては、よほどのことがない限り、邸内に入ることはきわめて困難
であったといえます。
 ところで、EJ第2938号では、グラバー邸内の庭園には、
フリーメーソンのマークの付いた石碑があったことを述べたが、
これについてウィキペディアでも次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 貿易商であり、グラバー商会を設立したトーマス・ブレーク・
 ラバーが住んでいた日本最古の木造洋風建築。1863年の建
 築。裏手には馬小屋や貯蔵庫なども残っている。フリーメイソ
 ンのマークもある。          ──ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――――
             ―─ [新視点からの龍馬論/48]


≪画像および関連情報≫
 ●グラバー園に移されたフリー・メイソンロッジの石柱?
 ――――――――――――――――――――――――――――
  「フリーメーソン・ロッジの石柱」とありますが、説明には
  この門が「ロッジ=支部」の門であることは謳われていませ
  ん。ボランティアのガイドのおじさんが「リンガーはフリー
  メーソンだった」と言われていましたが、門柱は1966年
  に長崎市に寄贈されてリンガー邸の隣に移されただけなので
  これもまた根拠がないように思えます。グラバーがフリーメ
  ーソンという説もまた根拠がなく、グラバーが援助した三菱
  財閥がフリーメーソンの影響下にあるとか、三菱グループ首
  脳が今も秘密裡に品川の開東閣でメーソンの儀式を行ってい
  るという話もまた「都市伝説」なのでしょう。
http://blog.goo.ne.jp/tomotubby/e/e3f44a0794c0eb4b0ac34c39895053e0
  ―――――――――――――――――――――――――――

グラバー邸とメーソンの石碑.jpg
グラバー邸とメーソンの石碑
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2010年12月14日

●「隠し部屋はそのために増築されたもの」(EJ第2958号)

 グラバー邸には、隠し部屋があるといわれています。加治将一
氏は次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 グラバーのサポートは資金だけではなく、もっと実践的で細や
 かなものでした。その一つが、隠し部屋の設置です。グラバー
 邸の隠し部屋は、今でも天井裏に残っています。ここで五代、
 高杉など長期にわたって匿いました。邸内の壁に貼ってある観
 光説明によると、身を潜めたり、秘密の会合のために使用した
 とされています。登場人物は桂小五郎はじめ、維新のオールス
 ターキャストです。            ──加治将一著
    『石の扉/フリーメーソンで読み解く歴史』/新潮社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 「隠し部屋」といえば天井裏と相場が決まっており、実際にそ
うだったのでしょうが、そこに匿われていた志士たちの人数はわ
れわれが想像していたよりもはるかに多く、また、そこに滞在し
た期間も相当長期にわたっていたのです。
 そうであるとすると、狭い天井裏に大勢の志士たちが長期間に
わたって潜んでいることは困難です。前回も述べたように、グラ
バー邸は当時ほぼ要塞化しており、よほどのことがない限り、長
崎奉行所が立ち入ることが困難であったということから、平時は
比較的自由に生活していたものと思われるのです。
 グラバーはそういう志士たちのために部屋を増築し、万一の場
合に備えて屋根裏部屋も用意していたと思われます。それは、グ
ラバー邸の4次にわたる増築設計図を見るとよくわかるのです。
 添付ファイルを見ていただきたいと思います。これは、山口由
美氏の著書である『長崎グラバー邸父子二代』(集英社新書)に
出ている貴重な資料です。
 建築当初の1863年当時の間取りを見ると、隠し部屋を疑わ
せるものはまったくないといえます。もっともこの時点でのグラ
バーのビジネスの中心は茶葉の再生であり、政治とは無縁であっ
たので、当然のことです。
 重要なのは、1865年〜1868年(慶応元年〜慶応4年)
の2次の増築です。この時期はまさに革命の中心的時期であり、
志士たちの出入りが一番多かった時期であるといえます。
 この時期にグラバーは隠し部屋を作っているのですが、それは
今まであった場所を転用したものではなく、わざわざそのために
金をかけて増築したものだったのです。それが中二階の2つの小
部屋です。食堂の左側にそれはあります。
 それらの小部屋は、1877年(明治10年)には完全になく
なり、大食堂になっています。3次の増築です。それが1887
年(明治20年)には、さらにさまざまな増改築が行われていま
す。第4次の増築です。
 一体グラバーは志士たちのためのこのような隠し部屋まで作っ
て何をしようとしていたのでしょうか。
 最初にやったのは「密航の手引き」なのです。徳川幕府の時代
は、海外への渡航はもちろん国禁です。たとえ漂流してもいった
ん海外に出た者は帰国すると死罪になったほどです。そんな時代
に密航を手引きする行為は、幕府の掟を犯す行為なのです。
 しかし、グラバーは「逃がす」ための密航ではなく、見聞を広
め、海外の進んだ知識を学ばせるための密航──つまり、密航留
学生の派遣を助けたのです。
 幕末における密航留学生の代表的なものは、長州藩の5人──
「長州ファイブ」と薩摩藩の19人──「薩摩スチューデント」
がよく知られています。
 この長州ファイブと薩摩スチューデントには大きな違いがある
のです。長州ファイブが藩ではなく、個人の熱意によって実現し
たものであり、それを藩が黙認したものです。当時長州藩として
は、攘夷論を支持していたからです。長州ファイブの詳細につい
ては、既に述べています。
 薩摩スチューデントについては、藩の全面的支援を受けてのも
のです。もともと薩摩藩は、安政4年(1857年)の時点で藩
主、島津斉彬公による留学生派遣構想があったのです。領地であ
った琉球を経由地とする壮大な構想だったのです。
 しかし、島津斉彬公の急逝によって計画は頓挫してしまったの
です。しかし、それから8年後にこの計画は復活するのです。そ
れを仕掛けたのは、五代友厚です。
 グラバーと五代友厚は、文久4年(1864年)に五代が長崎
に潜入していたときに知り合い、親密になっていたのです。大塚
孝明氏の論文に次の記述があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 グラヴァーは、五代のすぐれた才覚と日本人としての比類のな
 いその開明理論に驚嘆すると同時に、この一徹な若い青年武士
 に特別の好意をもって接したらしい。いわば、お互いにウマが
 合ったのであろう。(中略)おそらくグラヴァーの邸にたびた
 び出入りするうちに、毎日のようにグラヴァーのもとに入って
 くる国際情報を聞くにつけ、五代はじっとしておれない心境に
 たたされたのであろう。          ──大塚孝明著
           『薩摩藩英国留学生』/──山口由美著
     『長崎グラバー邸父子二代』/集英社新書0559D
―――――――――――――――――――――――――――――
 1865年に五代友厚は、当時の薩摩藩の事実上の藩主である
久光に「留学生派遣」の計画書を提出したのです。久光は亡き斉
彬の遺志であり、承認を与えて直ちに実行に移されたのです。
 五代から話を聞いたグラバーは、留学生派遣に関わる一切の実
務を引き受けたのです。選ばれたメンバーは19人──留学生は
15人、その他外交使節としてプロジェクトの首謀者である五代
友厚のほか、松木公安、新納久脩、それに通訳であったのです。
海外渡航は重罪の時代であり、全員が変名を名乗るなど、計画は
密かに入念に準備されたのです。 [新視点からの龍馬論/49]


≪画像および関連情報≫
 ●五代友厚上申書に関するブログ
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「五代才助上申書」は薩摩藩英国留学生計画の元になったと
  いわれるもので、『薩藩海軍史 中』(公爵島津家編輯所編
  昭和3)に全文が掲載されています。この上申書では、富国
  強兵の方法を上申していますが、留学費用の捻出方法や購入
  する軍備や機械などについても細かく言及されています。上
  海への渡航経験があり、文久遣欧使節として渡欧経験のある
  寺島宗則と親交があり、グラバーなどから欧米の情報を入手
  していたとはいえ、「上申書」を読んでみると五代という人
  の見識の高さに驚かされます。
http://satsuma-student.potika.net/blog/23.html?AC=e0c21a13b8852fce7a37dbf03932cb38
  ―――――――――――――――――――――――――――

グラバー邸増改築の変遷.jpg
グラバー邸増改築の変遷
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2010年12月15日

●「グラバーの目的とは何か」(EJ第2959号)

 グラバーという人物は、幕末の各藩の軍艦や大砲、鉄砲などの
武器の斡旋などで大儲けをした英国の「死の商人」という評価が
定着しているようです。
 留学生の密航の手配についても、それによって藩の信認を得て
武器斡旋などにつなぐためのビジネスと見ることもできますし、
わざわざ自分の邸を増築してまで大勢の志士を自身の屋敷に匿い
便宜を図ったのも、維新革命の成就の暁には大きなビジネスに結
び付くと考えてやったことといえると思います。確かにそういう
面も少なからずあるのです。
 しかし、グラバーのやった行動はビジネスのソロバン勘定に合
わない面もたくさんあるのです。加治将一氏はそういうグラバー
を評して次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 江戸末期の殺伐とした人命軽視の時代背景。その中でグラバー
 のやったことは、国禁を犯す命懸けの行為でした。どんな気持
 ちで取り組んだのでしょうか?単なる金銭目当てということだ
 けでは、とても解明できるものではありません。なぜなら、彼
 はもうすでに充分富を築いていたからです。豪邸に住み、なに
 不自由ない暮らしに浸っていられる状態でした。危ない橋を渡
 ってまでの金儲けは必要なかったのです。事実彼は、奉行所に
 危険分子として徹底的にマークされており、おりあらば何度も
 取調べを受け、あまつさえ撰夷派の浪士に襲撃まで受けている
 のです。そんな中で、彼のやったことは、けっしてソロバン勘
 定だけではないということです。私はその行為の中にグラバー
 の封建社会打倒という正義感と伸びやかな発想、そして冒険を
 面白がる好奇心を垣間見るのです。     ──加治将一著
    『石の扉/フリーメーソンで読み解く歴史』/新潮社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 ソロバン勘定に合わないグラバーの活動の中で見えるものは、
「封建社会打倒という正義感」──このように加治氏はいってい
ますが、それは「自由」というものに深い関係があります。どこ
かの国で起きる大きな政変のときには、必ずといってよいほど、
フリーメーソンがそのバックで大きな働きをしていることが多い
という事実は歴史が証明するところです。
 誰でも知っている有名な例を上げると、米国独立戦争とフラン
ス革命があります。これら2つの政変にはフリーメーソンが深く
関与しています。そのように考えると、明治維新は日本における
最大の政変であり、フリーメーソンが関与しても何も不思議はな
いといえます。
 米国の独立戦争はフリーメーソンが深くかかわる「ボストン茶
会事件」を契機にして起こっています。ボストン茶会事件(ボス
トン・ティーパーティー)は1773年12月16日に、米国マ
サチューセッツ州ボストンで、英国本国議会の植民地政策に憤慨
した植民地人の組織が、アメリカ・インディアンに扮装して、港
に停泊中のイギリス船に侵入し、英国東インド会社の船荷の紅茶
箱342箱をボストン湾に投棄した事件です。
 米民主党が大敗した今年の米国中間選挙において、保守系の草
の根運動「ティーパーティー(茶会運動)」の存在が注目を集め
ましたが、このネーミングは明らかにボストン茶会事件を意識し
ていると思います。つまり、何かを大きく変えたいとき、フリー
メーソンが何らかのかたちで絡んでくるのです。
 これまでも述べてきたようにグラバーがフリーメーソンであっ
たことは、まず間違いがないと思われます。既に述べたように、
グラバーが入会したのは英国の「上海ロッジ」ですが、清国が共
産主義国家に変わった瞬間に「上海ロッジ」は消滅し、記録も消
滅してしまっています。
 欧米の軍は伝統的にフリーメーソンの牙城であるといわれてお
り、とくに英国軍はメーソンでなければ上級軍人にあらずという
風潮があるのです。軍の内部にロッジを置いているケースも多く
上級軍人のほとんどはフリーメーソンであるといっても過言では
ないほどです。
 上海ロッジには、ユダヤ系財閥、政治家、政府高官、上級軍人
それに冒険商人たちがつねに集っていたのです。いわば情報のす
べてが上海ロッジに集まっており、上海で何かをしようと思った
ら、メーソンになっていないと何もできなかったのです。
 それにジャーディン・マセソン商会は、ロスチャイルド系の財
閥であり、フリーメーソンを金銭面で支援していたものと思われ
ます。グラバーはグラバー商会として、日本の革命のためにフリ
ーメーソンの力を結集し、それをジャーディン・マセソン商会が
資金面で支えるという構図だったのです。
 しかし、明治維新は日本の革命であり、日本の志士たちが主導
的に動く必要があります。グラバーはそういう志士たちの中で使
える人間をピックアップしてスタッフとして使い、彼らを中心と
する活動を物心両面で支援したのです。志士を匿うための自宅の
増築もそのためのものです。
 もうひとつグラバーはビジネスの勘定に合わないことをやって
います。グラバー商会は革命を進めている雄藩に信用貸しをして
いるのです。幕府は倒れて、新政府になれば藩が消滅するのは自
明の理であり、その藩のために信用貸しをするのは自殺行為に等
しいことですが、それをあえてやったのです。実際にグラバー商
会はそのために明治になってから、実際に倒産の憂き目にあって
いるのです。
 さて、グラバーのスタッフの一人が五代友厚であり、坂本龍馬
もそうであることはわかっています。しかし、五代友厚の活動に
ついてはある程度把握できていますが、龍馬についてはグラバー
との接点があまり見えないのです。龍馬はグラバーについて一切
話していないからです。しかし、グラバーとの接点が相当あった
ことは、龍馬の行動や発言のいろいろな面において数多く見られ
るのです。     ――――― [新視点からの龍馬論/50]


≪画像および関連情報≫
 ●ティーパーティ運動はアメリカ保守の逆襲か/若林秀樹氏
  ―――――――――――――――――――――――――――
  アメリカ人にとって、「ティーパーティ」とは、政治的抗議
  の象徴である。これは言うまでもなく、1773年12月、
  イギリス政府が押し付けた茶税に反対し、植民地の住人がボ
  ストン湾に停泊中の東インド会社船の積荷である茶を海に投
  げ捨てた「ボストン・ティー・パーティ」に由来するもので
  あり、この事件が発端で後にアメリカ独立戦争が勃発した。
   http://opinion.infoseek.co.jp/article/755
  ―――――――――――――――――――――――――――

ティーパーティー運動のシンボル旗.jpg
ティーパーティー運動のシンボル旗
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2010年12月16日

●「幕府にもいたフリーメーソン」(EJ第2960号)

 「日本をもう一度洗濯したい・・・」──坂本龍馬が姉の乙女
へ宛てた手紙の中の有名な言葉です。加治将一氏はこの言葉に注
目します。幕末の日本語表現は限定的なのです。よく「悪いこと
を一掃したい」といいますが、ここでいう「一掃する」というの
は「掃除してきれいにする」という意味です。したがって、「日
本を掃除したい」という表現ならばまだわかりますが、「洗濯し
たい」という表現は、あまり使わないのです。
 加治将一氏によると、英語では、何か「よくないこと」を「よ
くする」ことを「掃除」とはいわず、「洗濯」という単語をよく
使うのです。
 「マネーロンダリング」という言葉があります。脱税した裏金
を表金に変えるときに使う言葉です。「現金を洗濯する」という
意味です。何かを退治するとき、「ロンダリング/洗濯」という
言葉をよく使うのです。
 龍馬がそういう言葉を知っていたとは思えず、そこに外国人で
あるグラバーの影響を強く感じるのです。つまり、こういう言葉
が自然に出てくるということは、龍馬はグラバーとの間に相当い
ろいろなやり取りがあったと感じさせられるのです。
 加治将一氏はもうひとつ取り上げています。それは薩長同盟で
の取り決めを記した木戸孝允の書状に龍馬が朱筆で裏書きした次
の文章です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 表に御記入しなされ候六条は小・西両氏および老兄龍等も御同
 席にて談合せし所にて、毛も相違これなく候。従来といえども
 決して変わり候事はこれなきは神明の知る所に御座候。
 ≪加治将一氏の口語訳≫
 表にある六ケ条は、薩摩藩の小松帯刀、西郷隆盛、長州藩の桂
 小五郎、そして竜馬が談判して決めたことに少しも相違ありま
 せん。この六ケ条が変わらないのは、神の知るところです。
                      ──加治将一著
    『石の扉/フリーメーソンで読み解く歴史』/新潮社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 加治氏は龍馬の裏書きの「神の知るところ」という部分に着目
するのです。この当時の武士はこういう表現で「神」という言葉
は使わないものです。もし、それをいうならば、「天の知るとこ
ろ」というようになるのではないかというわけです。加治氏は次
のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 (裏書きの「神」について)私はグラバーを指している、と推
 測しているのです。当然小松、西郷、桂ともに大スポンサーで
 あるグラバーと直結しており、「神」の単なる「名代」として
 龍馬が保証人におさまった、と考えているのです。
                ──加治将一著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 グラバーは、一貫して長州藩や薩摩藩などの雄藩を支援し、倒
幕の動きを加速させていたように思えます。しかし、グラバーは
幕府にも手を伸ばしていたのです。それも徳川慶喜の側近に手を
打っていたのです。それは西周(にしあまね)という人物です。
 西周は、江戸の蕃書調所の教授をやっていたのです。蕃書調所
というのは、安政3年(1856年)に発足した江戸幕府直轄の
洋学教育研究機関です。開成所の前身で、東京大学の源流諸機関
のひとつであり、現代でいうと、西は東京大学の教授といったと
ころです。
 西は文久3年(1862年)に幕府の研修生としてオランダに
留学しています。留学先はライデン大学です。学んだのは、自然
科学、国際法、国内法、政治学および統計学です。
 その西周は、ライデン大学から近くにある「ラ・ベルトゥ・ロ
ッジ ナンバー7」に加盟し、フリーメーソンになっています。
現在記録に残っているという意味では、日本人最初のフリーメー
ソンということになります。同ロッジに残されている入会記録は
次のようになっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1864年、10月20日。第一階級として入会。日本国、津
 和野生まれ、35歳、日本国官吏としてライデンに在住の西周
 助(本名)署名・       ──加治将一著の前掲書より
――――――――――――――――――――――――――――−
 この西周とグラバーとの接点を示す記録は何もありませんが、
何らかの交流があった可能性があるのです。というのは、このラ
イデン大学には、若きグラバーの写真が残されているからです。
ということは、ライデン大学とグラバーとは何らかのつながりが
あったことを示しています。この大学の日本学科には今でも多く
の学生が在籍し、日本語研究にかけては、ヨーロッパでもトップ
クラスの力の入れようなのです。当時日本のことを熟知していた
グラバーと関わりがあっても不思議はないのです。
 おそらく西はグラバーと面識があったと思われます。蘭学を志
していた西が、長崎のオランダ人を通じて西と知り合う可能性は
高いと思われるからです。
 推測ですが、事前にグラバーは西と会い、フリーメーソンの基
礎知識を教えたのではないかと考えられます。そして、グラバー
は、ライデン大学のフィッセリング教授を紹介したと思われるの
です。まフィッセリング教授はもちろんグラバーとフリーメーソ
ン仲間なのです。
 グラバーとしては、幕府の中枢にいる前途有望な若手スタッフ
が同じフリーメーソン仲間になけば、何かと気脈を通じやすくな
るので、フリーメーソンに入会することは歓迎なのです。
 それからもう一人西よりも一ヵ月遅れてフリーメーソンに入会
した幕臣がいたのです。津田真道がそうです。西と同じロッジに
入会したのです。このあたりのことはほとんど知られていない出
来事です。     ――――― [新視点からの龍馬論/51]


≪画像および関連情報≫
 ●西周とは何者か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  文政12年(1829年)2月3日石見国津和野藩医の子に
  生まれる。旧名周助。藩校養老館で儒学を学んだ後、嘉永6
  年(1853年)に江戸に出て蘭学を学ぶ。翌7年脱藩して
  蘭学修業に専念し、手塚律蔵の門に入る。安政4年(185
  7年)手塚の推薦で蕃書調所教授手伝並に任命され、文久2
  年(1862年)には幕府オランダ留学生のひとりとして渡
  欧した。オランダでは、津田真道とともに、ライデン大学の
  フィセリング教授から法理学・国際公法学・国法学・経済学
  ・統計学を学んだ。慶応元年帰国し、翌2年には幕臣にとり
  立てられ、開成所教授となった。徳川慶喜の諮問に応え、大
  政奉還後の政権構想として「議題草案」を起草した。
             http://daigikan.daa.jp/nisi.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

ライデン大学.jpg
ライデン大学
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2010年12月17日

●「西周が将軍の側近に抜擢される」(EJ第2961号)

 西周と津田真道──2人は幕府の蕃書調所で一緒に働き、2人
一緒にオランダに留学しているのです。津田がフリーメーソンに
入会したのは1864年(文久4年)11月のことです。西の入
会が10月ですから、1ヵ月遅れの入会ということになります。
 津田真道は津山藩(岡山県)の出身ですが、嘉永3年(185
0年)に江戸に遊学して、箕作阮甫、伊東玄朴らに蘭学を、また
佐久間象山に兵学を学んでいます。藩籍を脱して苦学しましたが
1857年に幕府の蕃書調所に採用され、西と一緒に仕事をする
ようになったのです。彼らはれっきとした幕府の人間です。
 西と津田がオランダに留学した前後の出来事を時系列にメモし
ておくことにします。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1862年 西周と津田真道がオランダに留学
 1863年 長州藩、伊藤博文、井上馨ら5名がイギリス留学
 1864年 西周(10月)、津田真道(11月)がフリーメ
       ーソンに入会。
       竜馬行方不明(10月〜65年4月)
 1865年 薩摩藩、五代友厚、森有礼、寺島宗則など17名
       がイギリス留学、西と津田が帰国
 1866年 薩長同盟 (徳川慶喜将軍に就任/12月)
 1867年 津田真道『泰西国法論』発表、船中八策、大政奉
       還、竜馬暗殺
 1868年 明治維新           ──加治将一著
    『石の扉/フリーメーソンで読み解く歴史』/新潮社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 上記メモでわかるように、西と津田がオランダにいたとき、五
代友厚、寺島宗則は英国にいたことがわかります。そしてもうひ
とつ上記のメモに書き加えるべきことは、1866年の徳川慶喜
の将軍就任です。( )でメモしておきます。
 1865年(慶応元年)に西と津田は帰国しますが、幕府から
開成所の教授に任命されます。勤務地は江戸です。開成所は幕府
が創設した洋学教育機関です。
 1865年9月のことですが、西は徳川慶喜の重要ブレーンと
して抜擢されます。西の役割は、徳川慶喜に西欧の事情を詳しく
レクチャーすることにあったようです。
 ここで重要なことは、フリーメーソンが徳川慶喜の側近として
張り付いている事実です。これは大変なことであるといえます。
何か大きな力が働かないと、こういう人事は実現しないのです。
 前回述べたように、記録は残っていないものの、西とグラバー
とは接点があると思われます。仲介者はライデン大学のフィッセ
リング教授です。西も津田もこの教授の説得によってフリーメー
ソンに入会しているのです。
 ここで注目すべき人物はまたしても五代友厚なのです。五代は
グラバーから最も信頼されていた人物であり、さまざまな指令を
グラバーから受けているはずです。グラバーにとっては、幕府の
要人である西と津田は、日本で革命を起こすさいの重要な手駒に
なるはずです。
 当然グラバーとしては、自分の腹心である五代と西と津田に会
わせたいと考えても不思議はないのです。まして、五代、西、津
山はいずれもフリーメーソンであり、彼らが会って話したとして
も他に漏れることはあり得なかったのです。
 この話は少し置き、五代友厚についてもう少し述べることにし
ます。五代は薩摩藩士ですが、倒幕の志士としての五代友厚の知
名度はきわめて低いのです。鹿児島の出身ですが、鹿児島に墓は
なく、大阪にあるのです。
 鹿児島市の歴史資料館においても、西郷隆盛の人気が突出して
おり、島津斉彬、大久保利道などがそれに続いて五代友厚は完全
に脇役に位置づけられているのです。
 しかし、明治新政府になって五代は初代の大阪商工会議所会頭
を務めており、大阪実業界のトップに君臨しています。ちなみに
当時の大阪は日本一の商業都市であり、東京よりも数段上であり
一時日本の首都を大阪にすることが検討されたほど、大阪は大都
市だったのです。造幣局なども大阪に設置されているのです。
 しかし、故郷の鹿児島での五代の評判は今ひとつパッとしない
のです。それは「五代友厚は裏切り者。外国のスパイだ」という
風評があるからと考えられます。
 ここまで述べてきたことでもわかるように、五代友厚は闇の部
分を持つ志士であったことは明らかです。そういう身辺の暗さが
五代の評判を落としていると考えられるのです。
 ここにひとつの論文があります。国会図書館で加治将一氏が発
見したものです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 『パリのめぐり合い』──神戸大学法学部蓮沼啓介教授論文
 『神戸法学雑誌』第32巻第2号(1982年9月)
     ──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 『パリのめぐり合い』とは、まるで映画の題名です。この論文
について、加治将一氏は次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 なぜこの資料が20年以上も国会図書館に埋もれていたのかは
 不思議だが、これは、歴史を塗り替えるほどのものと言ってい
 い。闇に葬られていた事実が、とつぜん目の前に現われ、ざわ
 りと鳥肌が立った。幕府と倒幕側に、極秘ルートが存在してい
 たのである。いったいこんなことがあっていいのか?
      ──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 『パリのめぐり合い』には、一体どのようなことが書かれてい
るのでしょうか。この内容については、来週に詳しく述べること
にします。     ――――― [新視点からの龍馬論/52]


≪画像および関連情報≫
 ●五代友厚について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  薩摩藩儒者の家に生まれる。通称は徳助、才助。十三歳のと
  き藩主島津斉彬から世界地図を模写するよういわれて2枚模
  写し、1枚は斉彬に献上、もう1枚は自分の部屋に飾って毎
  日のように眺めた。23歳で長崎の海軍伝習所に学び、2年
  後、長州の高杉晋作とともに上海に渡航、ドイツ汽船を購入
  して帰国する。留学生の欧州派遣を建議、英国商人グラバー
  の斡旋で計18人で渡欧。帰国後は藩の通商貿易に貢献し、
  長崎で龍馬と出会った。大洲薄から海援隊へチャーターした
  いろは丸が、紀伊藩の明光丸と衝突・沈没すると、紀伊藩の
  依頼で事件を仲裁、龍馬らの主張を認めた。維新後は外国官
  判事をつとめ、実業界に転じた。     ──山本 大著
        『坂本龍馬/知れば知るほど』/実業之日本社
  ―――――――――――――――――――――――――――

五代友厚の像.jpg
五代 友厚の像
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2010年12月20日

●「シャルル・モンブランとは何者か」(EJ第2962号)

 西周と津田真道──記録が残っている日本人初のフリーメーソ
ンの2人はパリに急いでいたのです。2人はライデン大学での留
学が終了し、帰国の途についていなければならないのにパリに向
かっていたのです。
 パリで目指す場所は「カラント・ホテル」です。そのホテルで
は、五代友厚と寺島宗則が2人の到着を待っていたのです。その
出会いの機会を作ったのは、おそらくフェセリング教授であり、
そのバックにはグラバーがいるはずです。
 1865年(慶応元年)12月4日に西と津田はパリに入り、
カラント・ホテルで五代と寺島に会っています。それから12日
間、この4人は何回も会い、何かを話し合っています。何を話し
たかの資料はいっさいないのです。そして、同年12月15日に
西と津田はパリを離れ、帰国の途についています。
 この4人会談にもう一人加わっていた人物がいます。それは、
シャルル・ド・モンブランというフランス人です。この人物は何
者なのでしょうか。モンブランと五代友厚の関わりについては少
し詳しく述べる必要があると思います。
 このシャルル・ド・モンブランについて、フランス文学の翻訳
家である高橋邦太郎氏は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 モンブラン伯は、1832年、ベルギーに生れ、国籍はフラン
 ス、容貌風采まことに優れ、挙措優雅、弁舌をよくし、文筆の
 才があり、人類学、考古学、史学、地理学、語学に造詣深く、
 少壮学者として相当に認められていた。日本研究については、
 実情を調べるため渡航、帰国後、薩摩藩の実力者五代友厚と提
 携、討幕の一翼を買い、パリ万国博において、幕府代表を打倒
 し、その功によって日本総領事兼代理公使を命ぜられるに至る
 のであるが、それは後の話で、ともかく、一種の風雲児である
 のは否定出来ない。           ──高橋邦太郎著
                『幕・薩パリで火花す』より
      新人物往来社『歴史読本』の昭和45年6月号記事
―――――――――――――――――――――――――――――
 由緒ある裕福な伯爵家に生まれ、日本に関心を持つ冒険を好む
気性と若干の自己顕示欲を持つフランスの青年貴族で、それでい
て金銭欲の強い人物──それがモンブランなのです。
 モンブランは、日本への興味に駈られて、自費で日本に来遊し
ています。文久元年(1861年)のことです。そのとき、横浜
で、斉藤健次郎なる青年と知り合い、意気投合してパリに連れて
帰っています。どちらにせよ、日本人の秘書が一人欲しかったの
で、そうしたのです。そのとき、モンブランは自身を「白川」と
称しており、斉藤もそれに合わせて「白川健次郎」か「白川賢」
と称していたのです。
 元治元年(1864年)3月に、池田長発を中心とする幕府遣
欧使節の一行が来仏したのです。そのときモンブランはひと儲け
してやろうと幕府一行に近づき、池田長発に対し、次のようなこ
とを吹き込むのです。要するに、幕府の役人が喜びそうなことを
いって気を引いたわけです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 幕府がとるべき道は、諸藩を廃して徳川絶対君主制を確立する
 以外にない。               ──モンブラン
―――――――――――――――――――――――――――――
 池田長発はこの意見に賛成して帰国し、続いてフランスに行く
ことになった外国奉行柴田日向守(柴田剛中)にモンブラン宛て
の書状を持たせたのです。柴田はこれを無視して、モンブランを
訪ねず、会いたいといって訪ねてきたモンブランにも会おうとし
なかったのです。
 このあたりの事情について、前出の高橋邦太郎氏は次のように
述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 モンブラン伯は、日本からの外交使節団が来る度に、健次郎を
 手先きに使って、しきりにアプローチを行った。だが、その都
 度、物の見事に失敗した。これは相手の心理を理解しない結果
 であった。何といっても、遣欧使節達は封建日本のサムライの
 こと、大切な御用向きを持ってきているとあれば、責任上、た
 とえ、相手が貴族といっても、やはり、官職を持った政府当路
 の役人ではない。これと交際するのは、役目柄、絶対に出来な
 いという訳である。     ──高橋邦太郎著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 幕府使節に相手にされなかったモンブランは、幕府をあきらめ
て今度は薩摩藩の留学生に接近しようとするのです。ちょうどそ
のとき五代友厚をはじめとする留学生たちがロンドンに滞在して
いたのです。
 そこでモンブランは、「白川健次郎」を伴ってロンドンに出向
き、一行に面会を申し入れたのです。そしてモンブランは、リー
ダーの五代友厚と話し会ったのですが、幕府の人間と違い、非常
に洗練された対応に意気投合し、胸襟を開いて話し合うことがで
きたとモンブランはいっているのです。
 その後、五代友厚はモンブランをパートナーとしていろいろな
行動を起こしています。しかし、モンブランの狙いは金儲けであ
り、幕府と薩摩藩を両天秤にかけているような人間であり、怪し
げな外人なのです。そういうモンブランに五代友厚ほどの人物が
易々と心を許したのはなぜなのかという疑問が当然あります。
 その謎を解くカギはフリーメーソンにあります。五代もモンブ
ランもフリーメーソンだったとすると、五代がモンブランに心を
開くことはあり得ることです。
 モンブランがメーソンであった可能性は高いのです。貴族とい
う身分、有力者への顔の広さからみても、その可能性はきわめて
高いといえます。それでは、五代友厚はいつメーソンになったの
でしょうか。    ――――― [新視点からの龍馬論/53]


≪画像および関連情報≫
 ●「外国奉行」とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1858年、日本修好通商条約締結の際、海防掛を廃止し設
  置された。主な仕事は、対外交渉などの実務。人数は不定で
  一時期、神奈川奉行を兼任していた。1867年にはこれを
  統括する外国総奉行が設置された。1868年廃止。役高は
  2000石、1年の給金は200両で、席次は遠国奉行の上
  であった。外国奉行の配下には支配組頭、支配調役、支配調
  役並、定役、同心といった役職があり、奉行とそれらの配下
  により「外国方」という部局を形成していた。また、「外国
  方」の優れた人物で形成される「御書翰掛」という重要機関
  があり、そこでは調役、通弁方、翻訳方、書物方といった役
  職が置かれ、外国からの文書の翻訳、外国との交渉案・外国
  へ送る文書の文章案の作成などに当たっていた。
                    ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

外国奉行/柴田剛中.jpg
外国奉行/柴田剛中
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2010年12月21日

●「五代友厚とグラントリアンの関係」(EJ第2963号)

 五代友厚とシャルル・ド・モンブラン──2人はフリーメーソ
ンなのでしょうか。モンブランについてはフリーメーンと考えて
間違いないと思います。
 問題は五代友厚です。証拠はありませんが、彼もフリーメーソ
ンであったことは間違いないと考えられます。五代だけでなく、
寺島宗則もメーソンであったと思われるのです。
 ここまでの話の展開における薩英戦争のさいの五代と寺島の活
躍もメーソンであれば、さもありなんと頷けるのです。五代友厚
はグラバーが一番信頼していたスタッフであり、そのグラバーの
紹介で早くからフリーメーソンに入会していたものと思われるの
です。少なくとも、パリのカラント・ホテルで五代が西と津田に
会った時点で、五代と寺島は、フリーメーソンであったと考える
方が自然であるといえます。
 そう考えると、幕臣である西と津田が、なぜ倒幕を進めようと
している薩摩藩の五代や寺島と会ったのかという謎も解けてくる
のです。お互いがフリーメーソン同士であれば、その属している
組織に関係なく会っても不思議はないからです。
 これに関して加治将一氏は、五代友厚は、いわゆるパリの会合
の直前にフリーメーソンになっているのではないかという仮説を
立てているのです。
 慶応元年(1865年)10月7日のことですが、五代友厚と
モンブランは、ベルギーのブリュッセルへ行き、6日間滞在して
います。モンブランはベルギー生まれのフランス人であり、モン
ブランが案内したことは確かですが、何のためのベルギー行きか
については明確ではないのです。
 10月11日の五代の日記を見ると、「午前より病院に行く」
と記されています。当日の五代の金銭「出入書」には「案内人へ
の謝礼」と書かれてあるのみです。病院代の支払いではないので
あり、病院行きは偽装である疑いがあります。その後五代は、モ
ンブランの紹介によって、ベルギーの皇族などに会う機会を得て
ロンドンに戻っています。
 ところが、五代は10月27日にアムステルダムに行き、11
月5日にもう一度ブリュッセルに入っています。20日あまりで
再び行くとしては、ロンドンとブリュッセルはかなりの距離であ
り、20日前に行ったときには、果たせなかった用事があったと
いうことになります。
 そして11月8日に何かがあったのです。そのために五代はわ
ざわざブリュッセルに行ったのです。一体何があったのでしょう
か。五代の日記によると「水曜日」とあるだけです。それが終る
と五代はパリのカラント・ホテルに向かい、西と津田に会ってい
るのです。
 西と津田がパリを離れたのは12月15日のことです。しかし
五代はそのままカラント・ホテルに4日宿泊し、12月18日に
ある会合に出席しているのです。五代の日記によると、「地理学
会に出席」と書いています。
 この五代友厚の行動について、加治将一氏は、フリーメーソン
入会手続きではないかとして、次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 10月11日、モンブランに連れられてブリュッセルのロッジ
 に入る。その時は面接と入会申込書の提出だけだ。そして翌月
 の定例会、すなわち11月8日に入会の儀式を受けたのではあ
 るまいか?そのために五代はわざわざブリュッセルに戻ってき
 たのである。晴れてメーソンとなった五代は、パリの会合に顔
 を出す。参加人数、数10名。モンブランもー緒である。それ
 は表向き「地理学会」と名がついているものの、多くはフリー
 メーソンで占められている。日本でも、よく「歌会」「茶会」
 などと偽っては集まり、その実、謀議の場であることは少なく
 なかった。それと同じだ。
      ──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 加治将一氏の説によると、五代友厚はフランス系の「グラント
リアン」に加入した可能性が高いとしています。1773年にフ
ランスでは、フリーメーソンが英米系とグラントリアンの2つに
大分裂を起こしているのです。
 グラントリアン(大東社)というのは、政治的なスローガンを
掲げることを厭わないフリーメーソンの組織なのです。その点が
政治活動を名目上禁止している米英系のフリーメーソン──正規
派──とは全く性格が異なり、「非正規派」と呼ばれているので
す。モンブランはそのグラントリアンに入会しているフリーメー
ソンであり、五代友厚も同じグラントリアンに加入した可能性が
高いといえます。
 フリーメーソンには、厳粛な儀式があり、多かれ少なかれ一種
の掟に縛られるのです。現在ではそのほとんどは形式的なものに
なっていますが、当時としてはその掟が現実味のあるものであり
会員を縛ったのです。当時の武家社会でも掟はあったのです。
 そのため、五代友厚は帰国後苦しむことになります。加治将一
氏はこれについて、次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 薩摩藩の貿易窓口は自分一人だ、としつこく付きまとうモンブ
 ランと、それに対して激怒するグラバーと薩摩藩。だがどうに
 もならない。あれほどクールだった五代が、悩み、苦しみ、板
 ばさみになってもなお、ぐうの音も出ず、モンブランを切れな
 かった異常さは、なにかの掟が居座っていたとしたら納得でき
 るものがある。
      ──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 五代友厚がフリーメーソンであるとして考えると、パリでの西
や津田とは何を話し合ったのでしょうか。それはその後の西の行
動を見るとわかります。―――― [新視点からの龍馬論/54]


≪画像および関連情報≫
 ●フリーメーソンと日本グランド・ロッジ
  ―――――――――――――――――――――――――――
  渋谷から霞ヶ関に向かう高速道路の下を通る六本木通りは、
  六本木交差点で環状3号線、通称外堀東通りと交差していま
  す。その外堀東通りを東京タワーに向い、飯倉片町交差点を
  抜けると、町の様子は六本木の喧騒とは打って変わって落ち
  着いてきます。左手に、外国の賓客を接待するための瀟洒な
  外務省飯倉公館、後の電電公社、NTTとなる逓信省通信院
  のあった古風なビル。右手のロシア大使館を通り過ぎて、飯
  倉の交差点に来ると東京タワーが目の前にそびえています。
  飯倉交差点の右前方に、そのあたりでは比較的大型の部類に
  入る、白い二つのビル、メソニック38MTビル、メソニッ
  ク39MTビルが目に入ります。日本におけるフリーメイソ
  ンの本拠地、日本グランド・ロッジはこの二つのビルに挟ま
  れた東京メソニックビルの中にあります。
    http://realwave.blog70.fc2.com/blog-entry-170.html
  −――――――――――――――――――――――――――

東京メソニックビルのメーソン・マーク.jpg
東京メソニックビルのメーソン・マーク
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2010年12月22日

●「五代と西は何を話し合ったのか」(EJ第2694号)

 薩摩藩の五代友厚と寺島宗則の2人と幕臣の西周と津田真道の
2人、それにアドバイザーらしき役割を担うシャルル・ド・モン
ブラン──彼らは何を話し合ったのでしょうか。資料は一切あり
ませんが、推測してみることにします。
 会談が行われたのは、慶応元年(1865年)12月4日のこ
とです。この時期は薩長同盟は成立しておらず、龍馬はその工作
をしている時期です。将軍家茂は元気であり、まさか次の年に病
没することなど、誰も想定していないのです。もちろん大政奉還
も船中八策も出ていない時期です。
 そもそもこのパリ会談を実現させたのは誰でしょうか。それは
グラバーしかいないと思われます。しかし、グラバーの誤算は、
モンブランが五代に近づき、同席したことです。これが後で問題
になるからです。同じフリーメーソンでも、米英系のグラバーと
グラントリアンのモンブランでは考え方が相当違うことは既に述
べた通りです。
 五代友厚の立場から考えると、西と津田の両人は蕃書調所の教
授として働いている実績から、幕府が次の体制において期待して
いる優秀な人材であり、そのためのオランダ留学なので、実際に
話し合って意見を交換しておく価値があると考えたのでしょう。
 それに西と津田はフリーメーソンであり、そういう意味で薩摩
藩とか幕府とかの所属を超えた話し合いができる──そこに五代
としては期待をしたものと思われます。
 西周の立場からいうと、幕府対薩摩・長州両藩のせめぎ合いの
中で、幕府としてどのように活路を見出すべきかについて徳川慶
喜は悩んでおり、この時期に薩摩藩の俊秀と話ができることは絶
好のチャンスであると考えたと思われます。
 意見交換されたのは、薩摩藩と長州藩の今後の動きがまず考え
られます。薩長同盟はまだ成立していないものの、その動きのあ
ることについて五代は、グラバーや龍馬を通しておそらく知って
おり、そういうことも話に出たと思われます。それにこの時点で
も明確に態度を表明していない土佐藩の動向も話題になっている
と思われます。
 それに薩英戦争(文久3年/1863年)の話も出ています。
これについては、後年西が五代より話を聞いたと書き残している
ので間違いないことです。モンブランも会議に加わっており、当
然のことながら、英仏米蘭の考え方や動きも話に出ているはずで
す。そのためのオランダ留学でもあるのです。ちなみに、西と津
田は、文久2年(1862年)に勝海舟と一緒に咸臨丸で米国に
行っており、米国とオランダの事情には通じています。
 したがって、西と津田は、五代から英国の情報を知りたかった
と思われるのです。それにモンブランからフランスの情報を得る
こともでき、2人としては有意義な会談であったと思われます。
 ところで、この西周と津田真道の2人ですが、会談だけでなく
いろいろなところに行っているのです。焼物製作所見学、ヴェル
サイユ宮殿、ブローニュの森を見学し、夜にはオペラの鑑賞まで
しているのです。
 帰国後の西と津田の動きを追ってみることにします。慶応元年
(1865年)12月28日、西と津田は横浜港に帰朝し、すぐ
江戸に向かっています。しばらくは何もなく、2人は開成所の教
授をしながら、幕命による「万国公法」の翻訳を続けながら、ひ
たすら慶喜の命令を待っていたのです。
 慶応2年(1866年)9月19日に慶喜の命がきて、西と津
田は、勘定奉行小栗上野介と一緒に幕府の軍艦に乗って上京した
のです。しかし、大した指示もなく、ほぼ完成していた「万国公
法」のチェックをしていたというのです。
 一ヵ月ほど経過したとき、津田真道については、御用なしとし
て江戸に戻されています。実はこのとき、6月に第2次征長戦が
はじまり、そのさなかに将軍家茂が大阪城内で病死しており、大
騒ぎになっていたのです。
 慶応2年(1866年)12月5日に慶喜は、第15代将軍宣
下を受けたのです。慶応3年になると、39歳になった西周は、
四条大宮の更雀寺において集まって来る500人もの会津・桑名
・津・福井藩士や幕臣たちに対し、西洋法学などを教えていたの
です。そして、5月21日には奥詰を命ぜられ、将軍慶喜にも二
条城に呼び出されることが多くなったのです。
 しかし、その内容は、フランス語の基礎の講義であったり、外
国事情についての説明など、西として献策したいことは何ひとつ
聞かれることはなかったのです。
 そして、慶応3年(1867年)10月13日、突然西は慶喜
の使者から登城するよう召命を受けたのです。実はこの日の午前
10時に慶喜は二条城二の丸御殿大広間にて10万石以上の在京
諸藩40藩の重臣60〜70人を集め、午後2時頃大政奉還を宣
言したのです。
 西周は、この大広間に呼び出されたのです。このとき、薩摩藩
の小松帯刀が慶喜を前にして何やら言上していたのです。両側に
は、少し離れて諸臣列座しており、その一人設楽備中守から、西
は、小松の口上の書き取りを命じられたのです。
 この日の夕方になって、西は慶喜より、登城し大広間への召命
を受けたのです。大広間に出向くと、慶喜は大広間の脇の廊下に
障子屏風で囲った一角があり、中に入れと西を誘ったのです。そ
こで慶喜は西に対し、英国議院のこと三権の分別のことなどを諮
問したのです。西はこの瞬間を待っていたのです。
 早速概略を慶喜に説明し、帰宅後、深夜までかかって、その説
明内容を書面にまとめ、「西洋官制略考」という表題をつけて、
翌朝に慶喜側近の平山敬忠に提出しているのです。
 それにしても1866年8月の将軍家茂の病死、1867年の
孝明天皇の崩御は、開国派の慶喜にとって都合の良い出来事であ
り、疑問の残ることであったといえます。
           ―――― [新視点からの龍馬論/55]


≪画像および関連情報≫
 ●西周(にし・あまね)
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「西家には困ったあほうが生まれたものだ」津和野の人々は
  こうささやきあったという。世に「西周の油買いと米つき」
  と評判されるほど、周の勉強は度はずれて猛烈なもので、一
  般の人の目には、変人のように映ったのである。油買いに行
  く時は、油徳利をぶらさげ、書物を読みながら歩いた。しか
  も、片足は下駄、もう一方は木履ぼくりという変な格好でも
  いっこう平気だった。米をつかせると、書物を読みふけるの
  で、気が付いたときには粉米になっていたという。少年時代
  のこの猛勉強が、後年の大学者西周を生むのである。
  http://www2.pref.shimane.jp/kouhou/esque/18/18_06a.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

西周.jpg
西周
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2010年12月24日

●「西周による大政奉還後の政体案」(EJ第2965号)

 西周は「西洋官制略考」に続き、慶喜が大政奉還を宣言した慶
応3年(1867年)10月13日の約1ヵ月後に次の2つの論
文を慶喜側近の平山敬忠に提出しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
         1.  「議題草案」
         2.「別紙議題草案」
―――――――――――――――――――――――――――――
 「議題草案」というのは、公議政体の樹立が求められるなか、
大政奉還に引き続き、幕府が取り組む政策として、会議制度の創
設を提案した意見書です。
 「別紙 議題草案」は、「議題草案」に基づき作成された、徳
川家中心の政体案です。西洋の官制に倣う三権分立を取り入れ、
行政権を将軍が、司法権を便宜上各藩が、立法権を各藩大名およ
び藩士により構成される議政院がもつこととしており、天皇は象
徴的地位に置かれています。添付ファイルに全体図があります。
 しかし、西周は幕府にとって相当危険な次の提案もその中に入
れているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    世禄を減らし、門閥をなくし、兵制を整える
―――――――――――――――――――――――――――――
 これは武士社会の廃止を説いています。武士を解体し、身分制
度によらない軍隊を作るべきであるという主張です。すなわち、
徴兵制のことをいっています。
 しかし、これはきわめて危険な思想といえます。なぜなら、西
の周りは武士ばかりであり、そのようなことが少しでも漏れたら
殺されかねないからです。倒幕派というのは幕府を倒すけれども
武士社会は温存させるという考え方であり、「幕藩体制」を「朝
藩体制」に移行させるだけです。西は、なぜそのような提案がで
きたのでしょうか。
 それはフリーメーソンというきわめて強力な味方がいたからで
す。その一人は英国のパークス公使です。彼はちょうどその時期
において、西と同じ趣旨のことを述べているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 徴兵制をしいて、農民からも兵隊を取れば、間違いなく武家社
 会は壊れる。            ──パークス英国公使
      ──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 一方において、「別紙 議題草案」を見ると、徳川慶喜が大政
奉還をして天皇中心の体制を築く気持ちなど最初からなかったこ
とがよくわかるのです。西としては本来あるべき姿はよくわかっ
ていたのですが、当時は幕臣としてどうしても超えることのでき
ない壁──徳川家がそこに存在したのです。
 慶喜の大政奉還の上表文には、「朝・幕同心協力」とあるので
す。これは慶喜の本心であり、これを前提として新体制を考えよ
と西に指示したのです。もし、慶喜が本当に大政奉還をする気で
あったなら、新体制の構築自体を朝廷に委ねるのが筋であるのに
自らそれをやろうとしているのです。
 そうなると、西として採るべき方策は限られてきます。幕藩体
制はこれを維持し、現況の追認の中で、天皇の権限も組み込んで
三権分立を明文化し、体制内改革を図って少しでも進んだ議会制
度を構築する──これしかなかったのです。
 この慶喜の考え方は、君主の家政(家の行政)と国政とを分離
しないで、国政を君主の家政の拡大と考える「家産国家」の構想
であり、幕臣西としてはそれによらざるを得なかったのです。
 西のいう三権分立とは次のようなものであったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1.禁裏之権(天皇の権)
   2.政府之権 ・・・ 行政権
   3.大名の権(議政院之権) ・・・ 全国立法権
―――――――――――――――――――――――――――――
 西は西洋の立法、行政、司法の三権分立をすぐわが国に取り入
れるのは難しいとして、「守法之権(司法権)」はしばらくの間
各国行法(地方政府)に兼ねるとしています。したがって、禁裏
之権を別類として考えると、実質二権分立なのです。
 これは幕藩体制の維持そのものです。行政権はことごとく政府
之権に属し、その政府において慶喜は元首であり、大君であり、
さらに議政院上院の議長であり、下院の解散権も有するのです。
それに対して天皇の権は、元号や尺度量衡、神仏の長、叙爵など
に限られており、法度に対しても拒否権もなく、政治的権限はゼ
ロに等しいのです。
 西周について書かれたあるブログの記事を紹介します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 西は学問と実践を分離して捕えている。西洋の最新の政事・政
 体を学び、その理論に理想を定めたとしても、現実の日本では
 一気にそれを導入し得ない。学問は学問として、現実の中で国
 家機構を整備する。これが西の性(さが)としての手法であっ
 た。だからこそ、西洋の学問上では過去のものである「家産国
 家」に拘泥し、君臣の道の理を守ったのである。思えば、遠く
 花の都パリにて五代友厚の、天皇を擁しての革命を視野に入れ
 ての理想と実践とを一体化した熱弁に接した時、いわば敵であ
 る筈の五代に、西は内心羨望さえ懐いたことだろう。朱子学の
 呪縛から逃れ得ない幕臣西はこのとき決断したに違いない・・
 自分は、時の君主慶喜を立て君臣の道を守る。パリの冬空の下
 12日間にも亙って西は五代と、共に語り、共に食し、共にパ
 リ見物をした。「なんじ敵する者はこれを愛せよ」(「新約聖
 書」「マタイ伝」第五章)――後年西は「明六雑誌」への投稿
 文「愛敵論」の冒頭で引用している。   西周/解説4より
―――――――――――――――――――――――――――――
             ―― [新視点からの龍馬論/56]


≪画像および関連情報≫
 ●「家産国家」とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  家産国家とは、国家を封建制君主の私的な世襲財産と見る国
  家観。19世紀ののドイツの貴族・政治学者であるカール・
  ルードヴィヒ・ハラーの提唱した atrimonialstaatの訳。
  ハラーは著書『国家学の復興』の中において、家産国家の中
  では国内の一切の関係は君主の私的な関係とみなされ、領土
  と人民は君主の所有物であり、財産は君主の私的収入で、戦
  争もまた君主の私的紛争とされる。そのために国家が君主の
  世襲財産のように扱われ、国家の統治権(支配権)と君主個
  人の所有権(財産権)との区別が存在しないような状況に置
  かれていると説いた(国政と家政の未分離)。
                    ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

徳川慶喜の政権構想.jpg
徳川 慶喜の政権構想
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2010年12月27日

●腹の探り合い/薩土盟約(EJ第2966号)

 2010年もあと一週間で終了します。EJは28日までお届
けし、新年は4日から再開します。現在のテーマ「新視点からの
龍馬論」は、まだ肝心な部分が残っていますので、新年も引き続
きこのテーマを継続することにします。
 このところ龍馬の話から相当遠ざかっています。12月10日
のEJ第2956号からです。龍馬が暗殺されたのは、慶応3年
(1867年)11月15日です。一体なぜ龍馬は殺されること
になったのでしょうか。
 本日から若干前後しながら、龍馬がなぜ殺されることになった
のかを探っていくことにします。龍馬暗殺の犯人は今もって特定
されていないのです。
 慶応3年6月9日、後藤象二郎と坂本龍馬は藩船の夕顔丸に乗
船し、京都に向かっていたのです。有名な「船中八策」は、この
船の中で示されたことになっていますが、実際にはその内容は後
藤と龍馬の間で何回も協議され、意見が一致したものであったこ
とは既に述べた通りです。その船中八策の大前提は、何といって
も「大政奉還」なのです。
 実はそのとき土佐藩は苦しい立場に置かれていたのです。山内
容堂が煮え切らず、四候会議にも病気と称して出席したり、しな
かったりで、とくに薩摩藩は相当頭にきていたのです。そのため
薩摩藩の一部には「幕府より先に土佐を討て」という声も高まっ
ていたのです。といって、徳川家に恩顧のある土佐藩としては、
簡単に倒幕に組みするわけにはいかなかったのです。
 この事態を深刻に考えた中岡慎太郎は、板垣退助を京都に呼び
薩摩の西郷隆盛、小松帯刀、吉井幸輔が小松の別邸に集まり、両
藩の間に倒幕の密約が交わされたのです。慶応3年5月21日の
ことです。このとき、板垣退助は官を辞して江戸に遊学中だった
のですが、中岡とは意気投合して倒幕を約した仲だったのです。
しかし、これはあくまで密約であり、土佐藩がそれでまとまった
というわけではないのです。西郷にそのことを問われると、板垣
は次のようにいったというのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 いまから一月の猶予をくれたら、容堂公と土佐に戻り、藩論の
 いかんを問わず、同志と倒幕に参戦しよう。それができなけれ
 ば切腹して、お詫びする。         ──山本 大著
        『坂本龍馬/知れば知るほど』/実業之日本社
―――――――――――――――――――――――――――――
 これに対して中岡慎太郎も、自分は西郷氏の人質になり、もし
板垣が約束を果たさなかったら、自分も腹を切るとまでいったの
で、西郷隆盛は納得したというのです。そして、板垣退助は27
日に容堂公にしたがって、土佐に帰国したのです。容堂公はその
とき、四候会議のため、京都に滞在していたのです。
 そういうときに龍馬の提案として「大政奉還論」が打ち出され
後藤はこれに乗ったのです。京都に着いた後藤は、精力的に藩の
重臣たちに大政奉還論を説いてまわったのです。
 このとき重臣たちの考え方としては、倒幕には賛成できないが
そうかといって、公武合体論の焼き直し程度では問題にならない
ことは承知していたのです。そういうときに折衷案ともいうべき
大政奉還論が出てきたので、大方の賛同を得たのです。
 しかし、そのためには、土佐の藩論を大政奉還の建白に導くこ
とに決したという意味で、山内容堂公の了解を得る必要があった
ことは、いうまでもないことなのです。
 これを聞いて驚いたのは、中岡慎太郎です。後藤から大政奉還
論の話を聞いた中岡は、6月16日に西郷隆盛と吉井幸輔を訪ね
ています。倒幕で密約した薩摩藩と大政奉還論で果たして同意が
得られるかが微妙なところだったからです。
 一方後藤は、宇和島藩主・伊達宗城に拝謁して大政奉還論を説
き、薩摩藩の田中幸助とも会い、基本的に賛意を得るなど、根回
しには全力を上げていたのです。そして、6月20日に後藤は、
小松帯刀を訪ね、改めて大政奉還論を説き、「明後日」に会談す
る約束を取り付けることに成功したのです。
 そして6月22日に、三本木の料亭「吉田屋」で薩摩藩との会
談を行ったのです。出席者は、薩摩からは小松帯刀、西郷隆盛、
大久保一蔵の3人で、土佐からは後藤象二郎、福岡藤次、真辺栄
三郎、寺村左膳、坂本龍馬、中岡慎太郎です。巻末にNHKの大
河ドラマ『龍馬伝』での薩土盟約の動画が見られます。
 既に根回しができていた薩摩と土佐の両藩は、危惧された反対
はなく、その席で素案がまとめられています。このようにして成
立したのが「薩土盟約」です。それは、基本4箇条に続いて7条
からなるものですが、そこには倒幕論の入り込む余地はまったく
ないものです。それでも薩摩藩は同意して盟約は成立しているの
です。これについて、高知大学名誉教授である山本大氏は次のよ
うに述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 薩摩も土佐も、藩内になお根強い反対派を抱えて、藩論を一つ
 に絞り切れない弱みがあり、そこが倒幕一本の長州とちがい、
 どちらに転んでも遅れを取らぬよう、王政復古に妥協点を見出
 したのだ。だが龍馬には、和(大政奉還)でも戦(討幕)でも
 よかった。和も戦も新しい統一国家を樹立する手技に過ぎず、
 個々の藩屏などに龍馬はこだわっていなかった。だから龍馬は
 薩・長・土3藩の盟約をにらんで、まず長州と土佐の提携を画
 策した。しかし、こちらは実現を見ないうちに大政奉還を迎え
 た。                   ──山本 大著
        『坂本龍馬/知れば知るほど』/実業之日本社
―――――――――――――――――――――――――――――
 後で判明したことですが、幕府にしても大政奉還を本気でする
気はなかったし、薩摩藩としては、どういう状態になろうとも倒
幕は不可欠と考えていたのです。真の改革には流血がどうしても
避けられないのです。   ―― [新視点からの龍馬論/57]


≪画像および関連情報≫
 ●「薩土盟約」とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  薩土盟約は、江戸時代末期(幕末)の慶応3年6月下旬から
  同年9月上旬まで結ばれていた薩摩藩と土佐藩の間の政治的
  提携である。「薩土同盟」「薩土提携」などとも。幕府崩壊
  寸前の時期になおも政局を主導する15代将軍徳川慶喜と、
  倒幕路線をとり始めた薩摩藩が対立する中で、土佐藩が大政
  奉還・王政復古を通じて、平和的手段で公儀政体へ移行すべ
  く提起した連携案に薩摩藩が同調したものであるが、両藩の
  思惑の違いにより実行に移されることなく2ヶ月半で解消さ
  れた。               ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●NHK大河ドラマ「薩土盟約の場」──動画
http://video.fc2.com/content/%E8%96%A9%E5%9C%9F%E7%9B%9F%E7%B4%84/20101029GY6JXFz5/

大河ドラマでの「薩土盟約」の場面.jpg
大河ドラマでの「薩土盟約」の場面
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2010年12月28日

●「大政奉還の建白書が固まる」/年内最終号(EJ第2967号)

 薩土盟約は「大政奉還」を前提としています。したがって、土
佐藩として大政奉還の建白書草稿を作る必要があります。後藤象
二郎は部下を指揮して直ちにこの仕事に取り組んだのです。
 後藤としては、最も同意を取ることが難しいと考えられていた
薩摩藩と基本的な同意ができたので、あとは藩内の説得──それ
も山内容堂公のそれであったのです。しかし、後藤はその説得に
には成算があったのです。
 慶応3年6月26日に後藤は大政奉還の建白書の草稿を作り上
げ、薩摩藩と協力を仰ぐ芸州(広島)藩に届けています。27日
には、芸州藩の家老・辻将曹が後藤と、28日には佐々木三四郎
と面談を重ね、7月1日には伊達宗城のもとを辻が訪れ、芸州藩
が土佐藩の建白書に同調する方針であることを伝えたのです。
 この土佐藩の建白書草稿について薩摩藩は同意の意向を伝えて
きたのですが、もちろん本心からのものではないことは後藤もよ
くわかっていたのです。
 薩摩藩の同意について、土佐藩上士の佐々木三四郎(高行)は
『保古飛呂比』に次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 このたびの事は、吾が藩を主人となし、一本打たせ、後に大い
 になさん目的なり。(中略)一本参りたりとさけんで、後太刀
 は十二分占める覚悟ならん。         ──菊地明著
             『坂本龍馬』より/PHP研究所刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 薩摩・芸州両藩の同意を得た後藤たちは早速帰国の途についた
のです。土佐藩が正式に大政奉還の建白を行うには、山内容堂以
下の藩上層部の了承が必要だったからです。
 後藤らの一行は7月3日に大阪を発し、7日に海路で高知に向
かったのです。しかし、龍馬はこの一行には加わらず、しばらく
大阪に滞在し、そのあと京都に帰っています。したがって、大河
ドラマのように後藤と龍馬が一緒に容堂公に大政奉還を説いたと
いうのは作り話であるということになります。
 7月7日の夜に浦戸港に上陸した後藤は、直ちに城下の散田屋
敷で山内容堂に拝謁し、大政奉還を説いたのです。容堂は感服し
て、満面に喜色を浮かべて後藤を中心として、寺村左膳、真辺栄
三郎、神山左多衛らを召して建白の準備を命じたのです。後藤が
考えていたように容堂公は大政奉還の建白に同意したのです。
 しかし、このとき長崎では海援隊にとってとんでもない事件が
勃発していたのです。慶応3年7月6日の夜──その日長崎では
「星祭り」が行われていたのですが、丸山遊郭のある寄合町で、
英国軍艦イカルス号の水兵2人が殺害されるという事件が起きた
のです。水夫の名前は、ロバート・フォードとジョン・ホッチン
グスといい、酒に酔って路上で寝ているところを何者かに斬り殺
されたのです。
 当時の列強で日本に強い影響力を持っていたのは、フランスと
英国です。その図式を添付ファイルで示しておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1.幕府支持派 ・・・・ ロッシュフランス公使
   2.薩長支持派 ・・・・ パークスイギリス公使
―――――――――――――――――――――――――――――
 海援隊に強い嫌疑がかかっていたのです。その根拠は服装なの
です。「白木綿筒袖、襠高袴を着て帯刀」という目撃証人の言に
よって海援隊の服装と同じだということになったのです。
 しかし、当時の船員はほとんど同じような服装をしており、そ
れが海援隊の仕業と極め付けるには無理があったのです。英国領
事は長崎奉行所に犯人の捕縛を強く要求したのですが、長崎には
諸藩の船乗りが多数出入りしており、犯人を特定できなかったの
です。そのとき、英国公使のパークスは長崎に滞在していたので
すが、パークスに新しい情報がもたらされたのです。
 犯行時間の深夜3時に海援隊の帆船「横笛」が長崎港を離れて
おり、しかも、その2時間後に同じく土佐藩船「南海丸」が動い
ているのです。
 そこでパークスは次のように推理したのです。犯人は海援隊の
隊員で、英国人水夫2人を殺すと、「横笛」に乗って逃走してい
る。そして沖合で後から出航した「南海丸」に犯人は乗り移り、
土佐に逃亡する──この論法でパークス公使は長崎奉行所にかけ
あったのですが、証拠がないので、長崎奉行所はがんとして動か
なかったのです。
 パークス公使は、これでは埒があかないと見るや、ただちに長
崎を離れ、大阪に向かったのです。大阪には、徳川慶喜がいたか
らです。応対に出てきた老中の板倉勝静へパークスは次のように
烈しく抗議したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 長崎奉行が怠慢だから治安が乱れ、狼藉が起こったのである
―――――――――――――――――――――――――――――
 パークス公使の物凄い剣幕に押され、板倉は2人の長崎奉行を
罷免し、それに加えて長崎外国人居留地護衛のために、500人
の警備兵を送ることを約束したのです。
 それでもパークス公使の怒りは収まらず、土佐に乗り込むこと
を明言したのです。英国の公使が直接土佐に乗り込むとは異例の
事態です。幕府としてはこれを止める力はなかったのです。
 パークス公使は、バジリスク号で大阪を出港し、土佐に向かう
のです。この動きに土佐藩は緊張します。しかし、英国艦隊は思
いもかけぬところに立ち寄ったのです。それは徳島藩です。一体
どんなつながりがあるのでしょうか。
 実は、アーネスト・サトウ配下の諜報部員に、徳島藩士、沼田
寅三郎がいたのです。沼田はサトウの『英国策論』日本語訳を手
伝ったサトウの片腕で、根回しができていたと見えて、盛大な歓
迎演出が行われたのです。英国は徳島藩も倒閣の一翼を担うこと
を土佐藩に示したのです。    [新視点からの龍馬論/58]


≪画像および関連情報≫
 ●「イカルス号水兵殺害事件」について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  イギリス人水兵殺害事件とも云い、当時はあまり大きな関心
  を持たれなかった事件だが、坂本龍馬や土佐藩が此の事件の
  処理に手間取り、結果的には土佐藩による大政奉還と云う大
  事業を、二ヶ月も遅らせてしまったのである。
  事件はいろは丸沈没事件が解決して間もない、慶応三年(1
  867)七月六日の夜更けに発生した。イギリス軍艦イカル
  ス号の乗り組み水夫ロバート・フィードと、ジョン・ホッチ
  ングスの両名が、長崎の花街・丸山で何者かに惨殺された。
  当時の長崎では外人殺傷事件が相次いで発生して、在留外人
  を恐怖に陥れ、しかも何れの事件も加害者の逮捕にいたらず
  警備当局の長崎奉行所への批判が厳しくなっていた。
  http://homepage3.nifty.com/kaientaidesu/html/ziken8.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●図表出典/山本 大著/『坂本龍馬/知れば知るほど』/実
  業之日本社

列強の対日政策.jpg
列強の対日政策
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2011年01月01日

「新年ご挨拶」(EJ新年特集号)

 EJ読者の皆様、明けましておめでとうございます。EJをい
つもご愛読いただき心より御礼申し上げます。本年もよろしくお
願いいたします。
 2010年のEJは、2010年1月4日の第2725号から
12月28日の第2967号までの243本をウィークデイの毎
日一日も欠かさず、お届けしました。その間、同じ内容のコンテ
ンツをEJ/ブログに投稿しております。2010年のテーマは
次の4つですが、『新視点からの龍馬伝』は継続執筆中です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.小沢一郎論 ・・・・・・・・・・・・・・・ 72回
 2.ジャーナリズム論 ・・・・・・・・・・・・ 65回
 3.メディア覇権戦争 ・・・・・・・・・・・・ 48回
 4.新視点からの龍馬伝(未完) ・・・・・・・ 58回
 ―――――――――――――――――――――――――――
                        243本
―――――――――――――――――――――――――――――
 昨年は最初のテーマとして「小沢一郎論」を取り上げたところ
当の小沢一郎氏にさまざまな問題が起こり、読者の要望もあって
72回というEJとして最長の長さになってしまいました。その
結果、テーマはまたしても4つになり、しかも、年をまたいで継
続することになっています。
 今年のテーマに対する評価はどうだったでしょうか。ブログへ
の毎日の平均来訪者数(毎日の来訪者数の合計を月の日数で割っ
て算出)を調べることによって、大体の傾向がわかります。
 正味来訪者数(ユニーク来訪者数)は、同じアドレスの来訪者
が一日に何回アクセスしてきても、あくまで1としかカウントし
ないので、ページビューよりも信頼性が高いといえます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ≪小沢一郎論≫       ≪メディア覇権戦争≫
  1月 ・・ 1325人    8月 ・・ 1851人
  2月 ・・ 1629人    9月 ・・ 1902人
  3月 ・・ 1866人   10月 ・・ 1758人
  4月 ・・ 2079人   ≪新視点からの龍馬論≫
 ≪ジャーナリズム論≫     11月 ・・ 1557人
  5月 ・・ 2092人   12月 ・・ 1613人
  6月 ・・ 2380人       ── 未完 ──
  7月 ・・ 2280人
―――――――――――――――――――――――――――――
 スタートは、1325人でした。EJ/ブログの1日の正味平
均来訪者数が1000人を超えたのは2008年12月のことで
あり、それから2年で325人程度しか増えていないことを示し
ています。問題はこれが評価に値するかどうかです。
 EJ/ブログは、メルマガのEJのコンテンツをそのまま載せ
るだけであり、325人は増えた方だと思っています。平均値で
すから、大きく減少することはなく、安定した数字を確保できた
と思っています。
 しかし、小沢氏の元秘書3人が逮捕されてから来訪者数は伸び
始め、4月には2079人と平均値ではじめて2000人を突破
しました。ブログが多くのサイトで紹介され、評判になったから
であると思います。とくに4月の後半は、来訪者が2500人を
超える日が多くなり、この傾向はテーマが「ジャーナリズム論」
になっても変わらず、6月の平均来訪者数は最高の2380人に
まで達したのです。
 しかし、テーマが「メディア覇権戦争」になると、来訪者数は
減少しはじめ、1700人台になったのです。さらにテーマが変
わって「新視点からの龍馬論」になると、1500人台にまで下
がり、12月は1613人になったのです。それでも年初の13
25人よりも288人増えたことになります。ウェブサイトの来
訪者はなかなか増えないものであり、平均値としては、EJ/ブ
ログはよく増えた方だと思っております。
 もうひとつ昨年は新しいことに挑戦しました。それは「ツイッ
ター」です。EJと同じく1月4日からツィート(つぶやき)を
書き始めたのですが、このツールがいかに強力なものかについて
改めて驚いております。
 ツィートの内容はさまざまですが、EJでは書けないことを中
心に書いています。とくに小沢問題関連では多くの情報を持って
いるので、どうしてもそれが中心になりますが、非常に関心が高
いようです。
 2010年の私のツイッター関連の成果は次の通りです。自分
としては信じられない結果が出たと思っております。2010年
12月31日、午後11時55分現在の数値です。
―――――――――――――――――――――――――――――
    ツィート数 ・・・・・・・・・・ 2083
    フォローしている人 ・・・・・・   10
    フォローされている人 ・・・・・ 6714
    リスト数 ・・・・・・・・・・・ 1112
―――――――――――――――――――――――――――――
 ツィートについては種々の評価ポイントがありますが、今まで
発信したツィートで私がどのような人物としてツイッター仲間に
とらえられているかがわかる「ツイコレ!」は参考になります。
次のURLをクリックしていただきたいと思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
   「ツイコレ!」  http://twkr.in/tag/journalist
―――――――――――――――――――――――――――――
 これは「ジャーナリスト」であると、ツイッター仲間から思わ
れている人の順位です。私の順位は第35位(「EJ」のアイコ
ンが私です)になっています。前後にプロが多くおりますので、
私にとっては分不相応に高い順位だと思っております。
 今年もがんばってEJを書いていきます。EJの2011年の
スタートは1月4日です。本年もご愛読のほどお願いします。第
3000号の達成は2月21日(月)の予定です。


≪画像および関連情報≫
 ●ツイッターは誰でも見ることができる!
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ツイッターには2つのページ──タイムラインとマイページ
  が用意されており、マイページはツイッターのアカウントを
  持っていない人も見ることができます。私の「マイページ」
  のURLは次の通りです。興味があれば、覗いてみていただ
  きたいと思います。
  ―――――――――――――――――――――――――――
        http://twitter.com/h_hirano
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ツイッタのアカウントは簡単にとれます。持っていれば役に
  たちます。ツイッターをはじめてみませんか。
  ―――――――――――――――――――――――――――

新年挨拶/2011.jpg
新年挨拶/2011年
posted by 平野 浩 at 03:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月04日

●「イカルス号事件における龍馬の役割」(EJ第2968号)

本年はじめてのEJです。今年もよろしくお願いします。
 「新視点からの龍馬論」──いよいよ最終章です。ここから、
なぜ龍馬が殺されたのか、犯人は誰かに迫っていきます。
 ここまで書いてきたことでわかったことは、龍馬は表舞台では
あまり活躍していないことです。しかし、暗殺されるということ
は、龍馬が生きて活躍されると困る向きがあるからです。その理
由とは何なのでしょうか。そもそも龍馬とは何者であり、幕末に
おいて彼は何をしたのでしょうか。謎は深まる一方です。
 既出の加治将一氏は、大胆な仮説を立てて坂本龍馬論を展開し
ています。
―――――――――――――――――――――――――――――
   加治将一氏の仮説: 坂本龍馬 = 英国の諜報員
―――――――――――――――――――――――――――――
 この仮説に立ってイカルス号事件を整理してみましょう。この
事件が起こったのは、慶応3年(1867年)7月6日のことで
す。ちょうどそのとき、英国の公使パークスは長崎におり、当然
のことですが、龍馬も長崎にいたのです。
 パークス英国公使は、長崎奉行に談判したのですが、埒が明か
ないと判断すると、徳川慶喜のいる大阪に向かったのです。そし
て老中の板倉勝静と談判します。そのとき当事者である土佐藩が
立ち会っています。土佐藩大目付の佐々木三四郎です。そのとき
龍馬はどこにいたのでしょうか。
 実は、龍馬も大阪に出てきているのです。海援隊が犯人と疑わ
れているのですから、隊長である龍馬は当事者になるので大阪に
出てきても不思議ではないのですが、龍馬はつねに主役ではなく
裏役に徹しているのです。
 パークス公使が取り調べは直接土佐藩とやるといったので、幕
府としては捨てておけず、若年寄・平山敬忠以下を土佐藩に派遣
することにしたのです。そのさい佐々木三四郎と仕置役の由比猪
内にも乗船を勧めたのですが、佐々木らは乗船を断っています。
 佐々木らは、土佐藩船が大阪周辺にいなかったので、兵庫に停
泊していた薩摩藩船「三邦丸」を借りて土佐に向かったのです。
実はその「三邦丸」には龍馬も乗船し、佐々木らと一緒に土佐ま
できているのです。
 なぜ、龍馬が「三邦丸」に乗ることになったのかには理由があ
るのです。というのは、龍馬はそのとき、佐々木らと土佐まで行
く予定ではなかったからです。
 慶応3年8月1日、佐々木らが兵庫で「三邦丸」に乗船すると
後からボートで龍馬が追いかけてきたのです。用事は事実上の土
佐藩主・山内容堂公に宛てた松平春嶽の書状を佐々木三四郎に渡
しにきたのです。問題の紛糾を恐れた松平春嶽が「パークス公使
には逆らわない方が良い」とアドバイスしたものと思われます。
 別説として、この書状は徳川慶喜の親書であるとしている史書
もあります。いずれにせよ、イカルス号事件は突発的に起こった
ものであり、その後のテンポの早い展開にもかかわらず、こうい
う書状を持って龍馬が現れるのは不思議な話です。電話のない時
代にどのようにして情報を交換したのでしょうか。この場合、龍
馬を英国の諜報員と考えると、その謎は解けてくるのです。
 それはさておき、なぜ龍馬が「三邦丸」で土佐まで行くことに
なったかですが、龍馬が「三邦丸」に乗船して、佐々木らと話し
合っていると、船が出港してしまったからです。つまり、龍馬は
土佐に行く予定はなかったのですが、自分のミスで土佐に行くこ
とになってしまったのです。
 さて、パークス公使は、アーネスト・サトウを伴い、バジリス
ク号で大阪を出港し、途中で徳島藩に立ち寄っていることは既に
述べた通りです。
 佐々木三四郎と龍馬はそのまま土佐まで「三邦丸」できたので
すが、高知ではなく須崎という港町で船を下りています。
慶応3年8月2日のことです。なぜ、高知ではなく須崎かという
と、英国側とそういう約束になっていたものと思われます。須崎
で下船した佐々木らは藩庁に報告に向かい、龍馬はそこに停泊中
の土佐藩船「夕顔丸」に乗船して身を潜めたのです。
 なぜ、龍馬は身を隠したのでしょうか。
 それは土佐藩で、龍馬は英国のスパイではないかという情報が
流れていたからです。英国の公使が直接土佐に乗り込んでくるこ
とになったのも龍馬の策略であると思われていたのです。
 平山敬忠らを乗せた幕船「回天丸」は3日に須崎港に入ってい
ます。しかし、徳島藩に寄ったバジリスク号は6日に須崎港に入
港し、8日に後藤象二郎が参加してバジリスク号の船内で談判が
行われたのです。藩内には依然として公武合体派の力が強く、何
が起こっても不思議はなかったのです。そのため、大事をとって
会議場として予定していた須崎大善寺を変更したのです。
 ところが談判そのものは簡単に終わったのです。疑惑が晴れた
わけではないのですが、パークス公使の立てた推理が崩壊したか
らです。パークス公使によると犯人は「横笛丸」に乗って逃走し
後から出航した「南海丸」に乗り継ぎ、そのまま土佐方面に逃走
したというものです。
 これに対して後藤象二郎は、「横笛丸」の出港は7月7日の未
明であるが、正午頃帰港しており、「南海丸」の出港はその日の
夜であるとする証拠を提示したのです。
 ここでパークス公使は、全権をあっさりとアーネスト・サトウ
に譲り、以後の談判は長崎にて行うこととして、9日には兵庫に
戻っています。
 そこで、幕府の平山敬忠らは10日に長崎に向かい、佐々木三
四郎と龍馬、そしてサトウは「夕顔丸」に乗って12日に須崎を
出航しています。しかし、このイカルス号事件によって、土佐藩
による大政奉還の建白はストップしてしまったのです。この事件
の解決が何よりの先決事項であったからです。
            ──  [新視点からの龍馬論/59]


≪画像および関連情報≫
 ●パークス英国公使について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1865年、前年の四国艦隊下関事件に際しての行動が英国
  政府の意に沿わないとして解任されたオールコックの後任公
  使に任命され、横浜に到着した。幕府との交渉を開始するが
  当時将軍など幕閣の大半が第一次長州討伐で江戸を留守にし
  ていたため、パークスは仏・蘭とともに連合艦隊(米国は代
  理公使のみの派遣)を兵庫沖に派遣し、威圧的に幕府・朝廷
  と交渉、その結果孝明天皇は条約勅許と関税率の改正は認め
  たが、兵庫開港は不許可とした(兵庫開港要求事件)。家族
  を迎えるために上海に向かう途上、下関で長州藩の高杉晋作
  ・伊藤博文と会談した。       ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●写真出典/ウィキペディア「ハリーパークス」

ハリー・パークス英国公使.jpg
ハリー・パークス英国公使
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2011年01月05日

●「パークス公使はなぜ土佐藩に出向いたのか」(EJ第2969号)

 イカルス号事件は、長崎で談判が続けられたのですが、慶応3
年(1867年)9月10日に事実上決着しています。全権をま
かされたアーネスト・サトウにとっては、納得のいかないもので
あったのですが、状況証拠のみであり、長崎奉行所は罪に問うこ
とはできないという決定を下したのです。しかし、その経緯につ
いては省略することにします。
 この事件の犯人は実は海援隊ではなく、金子才吉という福岡藩
士だったことが後で判明しています。そのとき、福岡藩士数名が
長崎に留学しており、その中に金子才吉がいたのです。
 7月6日夜──当時はこの日が七夕だったといわれる──彼ら
は宿舎を出て丸山遊郭に向かったのですが、金子才吉だけ少し遅
れて宿舎を出たのです。
 丸山遊郭の寄合町引田屋の門先に、英国軍艦イカルス号の水夫
2人が酔いつぶれ、道に寝ていたのですが、店ではどうすること
もできず、明かりをともして見守っていたのです。そのとき、金
子才吉がやってきて、何を思ったか水兵2人に斬りかかり、殺害
して逃走したのです。その金子の服装が「白木綿筒袖、襠高袴」
だったというわけです。
 しかし、金子は8日になって水ノ浦の屯営所(福岡藩の兵舎)
を訪れ、藩の重役に犯人は自分であることを告白し、外交問題に
なって藩に迷惑をかけないよう割腹自殺してしまったのです。
 これについての詳細は、「ヤフージャパン知恵袋」に出ている
ので参照していただきたいと思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
≪「ヤフージャパン知恵袋」≫
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1149642631
―――――――――――――――――――――――――――――
 当時英米仏蘭の列強は、後進国の体制には重大な関心を持って
おり、体制転覆の動きが少しでもあれば、その反権力に力を貸し
体制転覆を支援する動きを加速させていたのです。日本などはそ
の格好のターゲットになっていたわけです。なぜなら、もし支援
した反権力が体制転覆に成功すると、列強には武器売買などの交
易などによって莫大な利益がもたらされるからです。
 英米仏蘭4ヶ国の中で一番熱心だったのは英国です。そのやり
方は巧妙であり、その体制転覆のスキームは精緻をきわめていた
のです。その先兵というべき人物がグラバーです。
 英国本国の外務省は、武力による圧力を全面的に禁じているの
です。したがって、たとえ威嚇にせよ軍艦などを使うにはそれな
りの明確な理由が必要です。つまり、日本側が英国に対して敵対
行為をしてくるのを我慢強く待ち、それを理由にして英国として
の威嚇行為を行うのです。
 既出の加治将一氏は、日本側が英国に対して行った敵対行為と
して次の3つを上げています。
―――――――――――――――――――――――――――――
      1.1863年 「薩英戦争」
      2.1864年 「下関攻撃」
      3.1867年 「イカルス号事件」
      ──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 「薩英戦争」の引き金になったのは、文久2年(1862年)
8月21日に起こった生麦事件です。武蔵国生麦村付近において
薩摩藩主の父・島津久光の行列に乱入した騎馬の英国人を供回り
の藩士が殺傷した事件です。
 この問題をめぐる賠償問題がこじれて薩英戦争が起こり、その
裏側で五代友厚らが活躍した話は既に述べた通りです。しかし、
この戦争によって、英国と薩摩藩との関係は相互理解が深まり、
親密な関係になったのです。あくまで倒幕を目指す英国から見る
と、有力な雄藩である薩摩藩を落としたことになるのです。
 「下関攻撃」に関しては、長州藩が英米仏蘭の船を砲撃したの
ですから、これほど明白な敵対行為はありません。そこで英米仏
蘭4ヶ国が連合艦隊を編成し、下関を砲撃して力で長州藩を屈服
させたのです。しかし、実力の差を知った長州藩は攘夷の無謀さ
を身をもって知り、英国と以後連携を図ることになります。英国
はこのようにして長州藩をも落としたのです。
 それでは「イカルス号事件」は、どういうメリットを英国側に
もたらしたのでしょうか。この事件の結末は英国にとって、犯人
を逮捕できないという不本意な結果に終っています。しかし、加
治将一氏によると、パークス公使の土佐藩訪問のさい、事件の処
理を託されたサトウが山内容堂公に会っているという事実を自著
で明らかにしています。
 パークス公使がサトウと一緒に須崎港に入ったのは慶応3年8
月6日のことです。8日にバジリスク船内での会議に後藤が参加
しています。会談は短時間で終り、後の談判は長崎で続けること
にして、パークス公使は須崎港を離れ、9日には兵庫に戻ってい
るのです。わざわざ土佐藩に乗り込みながら、本気で事件の決着
をつける気はパークス公使にはなかったようです。
 しかし、土佐藩に行く意義はあったのです。その証拠に幕府の
平山らが9日に長崎に向かったのに対し、龍馬の潜む「夕顔丸」
に移ったサトウが須崎を出航したのは12日なのです。つまり、
そこに3日間の空白があるのです。
 加治氏はその3日間の間にサトウは後藤の計らいで容堂公に面
会しているというのです。そこで何が話し合われたかはわかりま
せんが、後藤の推す大政奉還路線について意見交換が行われたこ
とは確かであると思われます。
 容堂公はかねてから英国がどう出るかを懸念しており、後藤に
対し、それを確かめるよう求めていたといわれます。そこで後藤
は、容堂公に直接サトウを会わせることによって、その不安を払
拭しようとしたのです。つまり、イカルス号事件の究明などどう
でもよかったのです。  ──  [新視点からの龍馬論/60]


≪画像および関連情報≫
 ●山内容堂と後藤象二郎との対話
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「倒幕に立ち上がれば、英国は土佐に味方します」
  後藤が容堂ににじり寄る。
  「イギリスを信用できるか〜」
  容堂が訝しげに開く。
  「おまえがイギリスを動かせるというのなら、一度連れてき
  てもらいたいものだ。そうしたら、信じょう」
  「いずれお連れします」
      ──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●写真出典/ウィキペディア

後藤象二郎/土佐藩.jpg
後藤象二郎/土佐藩
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2011年01月06日

●「幅広い人脈を持つ龍馬に対する警戒心」(EJ第2970号)

 イカルス号事件から解放された後藤象二郎と龍馬のその後の行
動を追ってみましょう。後藤が上京してみると、京都の雰囲気が
変わっており、武力倒幕派の動きが活発化していたのです。
 後藤は薩摩屋敷に行き、西郷隆盛と会談したのですが、西郷の
態度はすこぶる冷淡であり、慶応3年6月に締結した薩土盟約の
破棄を意味するほど厳しいものであったのです。
 実はこの頃幕府側は、土佐藩から大政奉還の建白書が提出され
ることを情報として掴んでいたフシがあります。作家の楠戸義昭
氏は『歴史街道』12月号(PHP)にこんなエピソードを紹介
しています。京都守護職の松平容保が祇園での親睦会に後藤象二
郎を招き、そのとき同席した幕府若年寄格の永井尚之(玄蕃頭)
は、後藤に建白書を早く提出するよう促したというのです。幕府
としてはその時点で建白書が出れば、それを受け入れるハラは決
まっていたものと思われます。
 薩摩藩としては、幕府が大政奉還の建白書の受け入れを拒否す
ることを想定して、それを口実に武力行使に踏み切るつもりで薩
土盟約を締結したのです。しかし、土佐藩がイカルス号事件に手
こずってタイミングが外れてしまったため、事情が変化し、幕府
がそれを受託する可能性が高まっていたのです。もし、建白書を
幕府が受諾すると、武力行使の大義名分が失われてしまうので、
西郷は不機嫌だったわけです。
 ところで、必ずしも厳密に使われていないのですが、次の言葉
はそれぞれ分けて使う必要があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
    倒幕 ・・・・・ 平和裡に幕府を解体させる
    討幕 ・・・・・ 武 力で幕府を消滅させる
    保幕 ・・・・・ あくまで幕権の維持させる
―――――――――――――――――――――――――――――
 「倒幕」とは、基本的には平和裡に幕府を解体させようとする
もので、「大政奉還」はそれを促すものです。土佐藩や坂本龍馬
はこの考え方に立っています。これに対して「討幕」は武力(戦
争)によって幕府を消滅させるもので、薩摩、長州両藩はこの考
え方に立脚しています。
 もうひとつ「討幕」という以上、朝廷による勅許が必要になり
ますが、正確に使い分けられていないのです。もっとも「倒幕」
と「討幕」も厳密に使い分けられておらず、「討幕」といわず、
「武力倒幕」といったりもしているのです。
 長州藩というのは、江戸時代では「討幕」が国是のようになっ
ており、新年には、次のような行事が行われているほどそれは徹
底していたのです。
 新年拝賀の儀において家老が「今年は討幕の機はいかに」と藩
主に伺いを立てるのです。そうすると、藩主は毎年「時期尚早」
と答えるのが慣例になっていたそうです。また、藩士は江戸に足
を向けて寝るということもしていたといわれます。それほど幕府
に不信感を抱いていたわけです。
 「保幕」という言葉もあります。これはあくまで幕府体制を維
持するという考え方であり、佐幕ともいいます。幕末においてこ
れを貫いていた藩には会津藩と桑名藩があります。この中で会津
藩は、陸奥国会津郡にあって現在の福島県西部を治めた藩ですが
幕末の藩主は松平容保、文久2年(1862年)から京都守護職
を務めたのです。この京都守護職の下に見廻組と新選組が置かれ
ており、龍馬の暗殺と深い関係があります。
 さて、龍馬は、倒幕、討幕、保幕のどれに属するかというと、
「倒幕」ということになります。武力はできる限り使いたくない
──これが龍馬の考え方ですが、それは、このような時期に日本
人同士で大規模な戦争をやって国力を弱めると、英国やフランス
などの列強の侵略を許すことになることを恐れたのです。
 しかし、龍馬は必ずしも平和主義者ではないのです。和戦両様
──これが龍馬のスタンスです。その証拠に、イカルス号事件で
大政奉還の建白書提出のタイミングが遅れたことで、討幕機運が
高まったときは、土佐藩の武装を強化するため、武器の買い付け
を行っているのです。龍馬は、陸奥宗光に命じてハットマン商会
から小銃1300挺を購入させています。まさに和戦両様の構え
です。慶応3年(1867年)9月14日のことです。
 ここまで見てきたように、龍馬は自分が会いたいと思う人物に
はどんなに遠いところでも出かけて行き、意見を交換して相互に
信頼を深め、知己を増やしています。土佐藩は当然のこととして
薩長両藩のキーパーソン──西郷隆盛、小松帯刀、大久保利道、
五代友厚、木戸孝允、伊藤博文などに加えて、旧幕府方の勝海舟
大久保一翁、松平春嶽といった大物とも、いきなり出かけて行っ
て会える存在になっていたのです。しかも、英国という非常に強
力な後ろ盾も有しているのです。当時これほどの幅広い人脈を持
つ人物はいなかったのです。非常に役に立つ人物なのですが、敵
に回すと危険な存在でもあったわけです。
 一方において龍馬は、海援隊結成後は土佐藩から脱藩の罪は許
されていたものの、もともと藩という枠にとらわれない自由な発
言や行動をとっていたので、それを藩側の人間から見ると、格下
なのに勝手なことをする人物という怒りも買っていたのです。
 慶応3年10月3日、大政奉還の建白書を提出され、14日に
二条城において大政奉還が行われています。しかし、その頃龍馬
は幕府に代わる新政府をどうするかに思いを馳せており、近江屋
に小沢庄次(尾崎三良)、中島作太郎、岡内俊太郎が集めて、次
の名称で呼ばれる新政府の職制案を協議しているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
          「新官制擬定書」
―――――――――――――――――――――――――――――
 この文書は完成すると、土佐藩の後藤象二郎、薩摩藩の西郷隆
盛らに届けられたのですが、その内容は衝撃的であり、大きな波
紋を呼ぶことになります。──  [新視点からの龍馬論/61]


≪画像および関連情報≫
 ●京都守護職の松平容保について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  会津藩主。文久2年(1862年9月24日)京都守護職に
  就任する。はじめ容保や家老の西郷頼母ら家臣は、京都守護
  職就任反対の姿勢を取った。しかし政事総裁職・松平春嶽が
  会津藩祖・保科正之が記した『会津家訓十五箇条』の第一条
  「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在である」との家訓を
  引き合いに出すと、押し切られる形で就任を決意。最後まで
  この遺訓を守り、佐幕派の中心的存在として戦い、江戸幕府
  と運命を共にした。         ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

松平容保/京都守護職.jpg
松平 容保/京都守護職
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2011年01月07日

●「○○○は『慶喜公』をあらわしている」(EJ第2971号)

 龍馬の手になる「新官制擬定書」の草案は、慶応3年(186
7年)10月中旬にまとめられたものといわれています。これと
同時平行に進められたとみられる次の「新政府綱領八策」は、薩
摩藩を始めとする諸藩に示されているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 第一義
 天下有名の人材を招致し、顧問に供う
 第二義
 有材の諸侯を撰用し朝廷の官爵を賜い現今有名無実の官を除く
 第三義
 外国の交際を議定す
 第四義
 律令を撰し、新たに無窮の大典を定む。律令すでに定まれば、
 諸侯伯皆みれを奉じて部下を率ゆ
 第五義
 上下議政所
 第六義
 海陸軍局
 第七義
  親兵
 第八義
 皇国今日の金銀物価を外国と平均す。右あらかじめ二、三の明
 眼士と議定し、諸侯会盟の日を待って云々。〇〇〇自ら盟主と
 なり、これをもって朝廷に奉り、始めて天下万民に公布云々。
 強抗非礼、公議に違う者は断然征討す。権門貴族も貸(仮)借
 することなし
  慶応丁卯十一月                坂本直柔
                       ──菊地明著
           『坂本龍馬』より/PHP研究所刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 これは「船中八策」と酷似していますが、これが龍馬から後藤
象二郎に示された八策の原案ではないかといわれているのです。
問題は、文中の「○○○」の部分ですが、ここに入る個人名は誰
かということです。その謎を解くカギが「新官制擬定書」の草案
なのです。4つの役職があり、次のように定義されています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ◎関白     1人
  公卿中、最も徳望智識兼備の人をもってこれに充つ
  上一人を輔弼し、万機を関白し、大政を総督す
 ◎内大臣    1人
  公卿、諸侯中、徳望智識兼備の人をもってこれに充つ
 ◎議奏    若干人
  親王、諸王、公卿、諸侯のうち、最も徳望智識ある者をもっ
  てこれに充つ。可否を献替し、大政を議定敷奏し、兼て諸官
  の長を分掌す。
 ◎参議    若干人
  公卿、諸侯、大夫、士庶人の才徳ある者をもってこれに充つ
  大政に参与し、兼て諸官の次官を分掌す。  ──菊地明著
           『坂本龍馬』より/PHP研究所刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 実はこの草案は「史談会速記録」に出ていたものであり、それ
には「関白」「内大臣」「議奏」「参議」の4つの官制には実名
が入っていたのです。読みやすいように、上記からはあえて除い
てあります。その実名を入れると、次のようになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ◎関白     1人
  三条実美
 ◎内大臣    1人
  徳川慶喜
 ◎議奏    若干人
  宮方:有栖川宮、仁和寺宮
  諸侯:島津忠義、毛利広封、松平春嶽、山内容堂、鍋島閑叟
  公卿:正親町三条実愛、中山忠能、中御門経之
 ◎参議    若干人
     岩倉具視、東久世通禮、大原重徳、長岡良之助、西郷
     隆盛、小松帯刀、大久保利道、木戸孝允、広沢真臣、
     横井小楠、三岡八郎、後藤象二郎、福岡孝弟、坂本龍
     馬           ──「史談会速記録」より
―――――――――――――――――――――――――――――
 この「新官制擬定書」によると、「内大臣」には「徳川慶喜」
の名前があります。「内大臣」とは現在でいえば、内閣総理大臣
と考えてよいでしょう。したがって、「新政府綱領八策」の「○
○○」は、「慶喜公」か「大樹公」か「大将軍」という文字が入
るものと思われます。
 この草案の「参議」には坂本龍馬の名前があるのですが、他の
史書には龍馬の名前のないものが多いのです。こんな話がありま
す。龍馬はこの「新官制擬定書」草案を小沢庄次(尾崎三良)と
一緒に西郷のところを訪れ提示したところ、龍馬の名前がないこ
とに気が付いた西郷がその理由を龍馬に尋ねたのです。そうする
と龍馬は、自分は時間に縛られる役人は性に合わないと答えたの
です。それでは何をするのかと重ねて尋ねた西郷に対し、龍馬は
次のように答えています。
―――――――――――――――――――――――――――――
        世界の海援隊でもやらんかな
―――――――――――――――――――――――――――――
 それはそれとして、徳川慶喜の名前が明記されている職制案を
見て西郷は内心穏やかではなかったものと思われます。
            ──  [新視点からの龍馬論/62]


≪画像および関連情報≫
 ●後藤に裏切られた龍馬/幕末忘備録より
  ―――――――――――――――――――――――――――
  容堂の賛同を得て後藤が幕府に提出した大政奉還建白書には
  薩土盟約で合意した将軍職廃絶及び将軍辞職の条項が無いば
  かりか、船中八策の「有名無実ノ官ヲ除クベキ事」の条項さ
  え無いのである。しかも後藤の話の節々には、容堂の考えと
  して、諸侯会議の議長に慶喜を据えるという策さえ読み取れ
  るのである。龍馬の真意を後藤は全く理解していない。否、
  表面的に理解していたとしても、慶喜に将軍辞職を逼ること
  が最大の目的である船中八策を自分の都合の良い様に曲解し
  その後藤が容堂に説いたのだから、基本的なところで龍馬の
  方策と食い違うことは当然であった。
  http://www2.odn.ne.jp/kasumi-so/bakumatu/jiken/hassaku.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

新政府綱領八策.jpg
新政府綱領八策
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2011年01月11日

●「微妙になっていた後藤と龍馬の仲」(EJ第2972号)

 慶応3年(1867年)10月13日、龍馬は、京都河原町の
運命の近江屋に移っています。奇しくもちょうど次の日、将軍慶
喜は二条城で大政奉還を決めています。ところが、その同じ日に
朝廷より「討幕の密勅」が薩長両藩に下っているのです。
 薩摩藩としてはあくまで幕府は拒否してくるものと考えて、そ
の線で動いていたのです。10月6日、薩摩の大久保利通は岩倉
具視から「錦旗」の作成を命ぜられています。岩倉具視は、大久
保利道、土佐の後藤象二郎、公卿の中御門経之、中山忠能、正親
町三条実愛らと討幕を計画していたのです。「錦旗」とは、天皇
の軍である官軍の旗印であり、これに敵対する勢力は賊軍とみな
されるのです。
 大久保利通は8日に中御門経之と中山忠能に拝謁し、薩長芸三
藩の出兵同盟を示して、討幕の「官旨」の降下を願い出ているの
です。官旨というのは、天皇の命令を伝える公文書ですが、「詔
勅」よりは手続きが簡単なのです。この官旨が将軍慶喜が大政奉
還を上奏した同じ日に朝廷から出されているのです。
 そのとき龍馬は何をしていたのでしょうか。
 実は10月12日に後藤象二郎のもとには幕府は「大政奉還受
託の内意」が伝えられていたのですが、龍馬はそのことを知らな
いので、13日に登城する後藤象二郎に対して重大な決意を知ら
せているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 御相談遣わされ候建白の儀、万一行われざれば固より必死の御
 覚悟故、御下城これなきときは、海援隊一手をもって大樹(将
 軍)参内の道路に待ち受け、社しょくのため不(倶)戴天の讐
 を報じ、事の成否に論なく、先生に地下に御面会仕り候。
                       ──菊地明著
             『坂本龍馬』より/PHP研究所刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 龍馬は非常に激しいことをいっているのです。あなた(後藤象
二郎)が登城して、もし幕府が大政奉還を拒否するようなことが
あれば、あなたのことですから、きっと抗議の切腹をされること
しょう。そのときは、私が海援隊を指揮して将軍慶喜を襲撃し、
その成否にかかわらず、自分も腹を切るつもりである──このよ
うにいっているのです。
 これは龍馬が後藤象二郎に対して「死を覚悟して臨め」とはっ
ぱをかけているといえます。後藤が龍馬を無礼な奴だと考えても
不思議はないといえます。
 しかし、何のことはない。後藤象二郎には12日に幕府の内意
(奉還の受諾)が伝えられていたのです。同じ京都にいて、龍馬
の宿舎まで知っている後藤がそれほど重要なこと(幕府の内意)
をなぜ龍馬に知らせなかったのでしょうか。ちなみに近江屋とい
うのは土佐藩邸の前にあり、5メートルと離れていないのです。
いずれにせよ、その時点で後藤と龍馬の情報交換が不十分なもの
になっていたことは確かなのです。
 これを後藤象二郎の変心と考えると、その裏側には何があるの
でしょうか。
 龍馬暗殺説には「後藤象二郎説」というのがあります。後藤象
二郎が犯人だという説です。もちろん実行犯は別です。その動機
としては、船中八策を含む大政奉還の発案者が実は龍馬であるこ
とが明らかになることであるといわれます。
 NHKの大河ドラマの『龍馬伝』では、船中八策は龍馬の案で
あることを後藤は容堂公に明らかにし、龍馬から直接容堂公に説
明させていますが、史実とは異なります。
 後藤は龍馬の案を下敷きにして内容を一部変更して、容堂公を
はじめ土佐藩幹部には、あくまで発案者は自分であるというスタ
ンスを取っています。ところが大政奉還が実現してしまったので
その発案者が実は龍馬であることがわかってしまうと困る──そ
れが殺害動機であるというのです。
 しかし、これは殺害動機としては非常に弱いと思います。船中
八策を含む大政奉還の提案には、龍馬だけでなく、多くの者がか
かわっており、龍馬だけを殺害しても後藤はそれが自分の案とは
主張出来ないからです。
 それに後藤象二郎はそれほど狭量の人物ではないのです。そう
でなければ、下士で脱藩者の龍馬と組んで、海援隊など作らない
はずです。後藤としては、大政奉還後の土佐藩の対応について、
非常に幅広い人脈を持つ龍馬は余人をもって代えがたい人物であ
ると評価しており、殺害などするはずがないのです。
 しかし、その後藤もけっして逆らえないのが山内容堂公です。
もし、容堂公から「龍馬を殺れ!」といわれたら、断ることはほ
とんど不可能です。主命であり、脱藩を許された以上龍馬も土佐
藩の人間だからです。
 それでは、容堂公は、なぜ龍馬を亡きものにしようとしたので
しょうか。容堂公にとって龍馬など問題にすべき存在でも何でも
ないからです。もし、本当に龍馬が土佐藩のためにならないこと
をやったのなら、武市瑞山に切腹を命じたように、龍馬にも切腹
させれば済むことです。
 しかし、それには罪状が必要です。おそらくそれはないはずで
す。そのとき、龍馬の率いる海援隊と中岡慎太郎の率いる陸援隊
がゴタゴタしていたことは確かですが、これを収めるのは後藤の
役割であり、殺害──偶然2人とも殺害されている──してしま
うほどのことではないのです。
 このように容堂公にも積極的な龍馬殺害動機はないのです。そ
うであるとすると、その本当の動機は何でしょうか。
 確かなことは、山内容堂公も後藤象二郎も龍馬殺害の犯人を熟
知しています。これに関して2人は完全に口を閉ざしていますし
文書の類いは一切残されていないのです。しかし、2人が龍馬暗
殺事件の関与者であることは確かなことです。
            ──  [新視点からの龍馬論/63]


≪画像および関連情報≫
 ●岩倉具視とはどういう人物か/「近代日本人の肖像」より
  ―――――――――――――――――――――――――――
  京都生まれ。公卿、政治家。父は権中納言堀河康親。岩倉具
  慶の養嗣子。安政元年(1854)孝明天皇の侍従となる。5
  年(1858)日米修好通商条約勅許の奏請に対し、阻止をは
  かる。公武合体派として和宮降嫁を推進、「四奸」の一人と
  して尊皇攘夷派から非難され慶応3年(1867)まで幽居。
  以後、討幕へと転回し、同年12月、大久保利通らと王政復
  古のクーデターを画策。新政府において、参与、議定、大納
  言、右大臣等をつとめる。
        http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/23.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

岩倉具視.jpg
岩倉 具視
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2011年01月12日

●「徳川慶喜の実力を評価していた龍馬」(EJ第2973号)

 土佐藩が龍馬暗殺にどのように関与したかについては、少し置
くとして、「新官制擬定書」の職制の内大臣に「徳川慶喜」と書
いた龍馬の真意を考えてみることにします。
 この職制案は龍馬自身が小沢庄次(尾崎三良)と一緒に西郷隆
盛と後藤象二郎に届けています。反応を見る意図があったからで
す。後藤はそれを岩倉具視のところに持っていっています。岩倉
具視の名前は「参議」の一人として記してあります。
 職制案の「内大臣(現代の総理大臣)」に徳川慶喜の名前があ
ることを見て、単に草案であっても、西郷は内心穏やかならざる
ものがあったと考えられます。龍馬はその反応を確かめにわざわ
ざ薩摩屋敷に西郷を訪ねたのです。
 しかし、ここで考えてみるべきことがあります。ここは徳川慶
喜の名前しか書けないのです。これについて、菊地明氏は次のよ
うに解説しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 慶喜以外に「盟主」となりうる人物はいない。島津久光や山内
 容堂、あるいは松平春嶽であったとしたら、久光であれば薩摩
 藩以外が、容堂であれば土佐藩以外が、たとえ春嶽であっても
 他藩が認めるはずがない。すべての藩が納得せざるをえないの
 が、大政奉還によって将軍の座を下りた慶喜なのだ。ここで慶
 喜の存在を無視してしまえば、徳川家や譜代大名が新政府に背
 を向けてしまう。そうなれば、新政府の構想など吹き飛んでし
 まい、討幕戦の危機が迫ってくることは目に見えている。だか
 らこそ、慶喜なのである。          ──菊地明著
             『坂本龍馬』より/PHP研究所刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 西郷隆盛や大久保利通が、なぜ性急に武力討幕を急ごうとした
のかというと、もたもたしていると、徳川慶喜の強力な政治力に
よって巻き返されてしまう恐れがあったからです。
 なぜなら、大政奉還し、その力は衰えたとはいえ旧幕府の勢力
は強大なものであったからです。大政奉還をした時点でも旧幕府
はおよそ800万石──日本全土の3分の1──であり、規模的
には、とても薩長芸の敵ではなかったのです。
 もうひとつ龍馬は徳川慶喜という人物を見直していたのです。
徳川慶喜は龍馬がそれまでに会ったどの人物とも違う優れた改革
者であったからです。とくに将軍の宣下を受けた後の慶喜による
幕府の機構改革や軍制改革の進め方の素早さとその的確さには舌
を巻いたのです。それに小栗上野介や西周などの優秀な若手人材
の使い方にも感服していたのです。「慶喜恐るべし」──これが
龍馬の率直な慶喜に対する感想だったのです。
 そういうこともあったので、龍馬は慶喜について情報を集める
目的もあって、幕府の若年寄である永井玄蕃頭尚志に接近するの
です。永井についてこんな話があります。
 幕府が大政奉還を受け入れる前に永井に会ったとき、龍馬は次
のように聞いたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   「幕府の兵力で薩長の兵に勝てるとお思いか?」
―――――――――――――――――――――――――――――
 これに対する永井の返事は「勝算はない」であったのです。そ
うすると、龍馬は幕府に大政奉還建白書を受け入れることを勧め
永井はその場で頷いたといわれています。龍馬は大政奉還建白書
の幕府受け入れの感触を探っていたのです。
 龍馬と永井はうまが合ったのです。そのため何回も会っていま
す。それは永井が長崎海軍伝習所の総監督をしていたからである
と思われます。このときの生徒の1人に勝海舟がいたのです。も
ともと勝海舟の弟子である龍馬としては、永井に一層親しみを感
じたのでしょう。
 その後、永井は外国奉行や軍艦奉行を歴任し、幕府海軍の強化
に尽力し、また松平春嶽に呼応して一橋慶喜の将軍擁立に協力す
るのです。しかし、井伊直弼が大老に就任すると安政の大獄が始
まり、開国派の永井は、家禄没収、隠居、差控の重い処分を受け
て失脚してしまいます。
 その後、井伊直弼が暗殺され、松平春嶽が政治総裁に就任する
と永井も復職して京都町奉行に任命され、開国派の永井は京都の
攘夷運動を抑えることに辣腕を振るうのです。そして安政元年に
長崎海軍伝習所総監督に就任します。
 一年後、永井尚志は江戸へ呼び戻され、築地の軍艦教授所の開
設を任されます。その後、外国奉行や軍艦奉行を歴任し、幕府海
軍の強化に尽力し、再び松平春嶽に呼応して一橋慶喜の将軍擁立
に尽力したのです。
 こういう永井の経歴を見ると、慶喜についての情報を集めるに
は格好の人物であったことがわかります。しかし、このように幕
府の要職にある永井玄蕃頭に会うことは人に知られるようになり
龍馬は幕府要人に密着しているという噂が立つようになったので
す。実は暗殺される前日も龍馬は永井に会っていたのです。
 永井玄蕃頭から龍馬のことを聞いていた将軍慶喜は、新選組と
見廻組に対して「捕えてはならない」という命令を出し、龍馬を
守っていたといわれます。このことは、おそらく永井から伝えら
れ、龍馬はそのことを知っていたものと思われます。
 こういう龍馬の行動は、あくまで武力討幕を目指す薩長藩とそ
のバックにいる英国──パークス公使、アーネスト・サトウ、グ
ラバーたちに目の敵にされたのです。「龍馬は幕府に肩入れして
いるのではないか」と強く疑われたのです。
 しかし、土佐藩はもともと武力討幕には及び腰であり、幕府の
存続には異存はなかったので、龍馬の行動はとくに問題にしてい
なかったのですが、後藤象二郎との関係は疎遠になりつつあった
のです。とくに幕府が大政奉還の建白書を受け入れてからは、後
藤と龍馬の関係には溝ができつつあったのです。
            ──  [新視点からの龍馬論/64]


≪画像および関連情報≫
 ●徳川慶喜について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  生前の慶喜を知る人によると、慶喜本人は「けいき様」と呼
  ばれるのを好んだらしく、弟・徳川昭武に当てた電報にも自
  分のことを「けいき」と名乗っている。慶喜の後を継いだ七
  男・慶久も慶喜と同様に周囲の人々から「けいきゅう様」と
  呼ばれていたといわれる。「けいき様」と「けいきさん」の
  2つの呼び方が確認でき、現代においても少なくなりつつあ
  ると思われるが「けいきさん」の呼び方が静岡に限らず各地
  で確認できる。司馬遼太郎は「『けいき』と呼ぶ人は旧幕臣
  関係者の家系に多い」とするが、倒幕に動いた肥後藩関係者
  でも使用が確認できる。       ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

徳川慶喜/最後の将軍.jpg
徳川 慶喜/最後の将軍
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2011年01月13日

●「日本の分割危機を守った徳川慶喜」(EJ第2974号)

 龍馬暗殺の裏側には英仏両国の影がちらつくのです。万延元年
(1860年)というと、井伊大老が暗殺された年に当りますが
その同じ年に第2次アヘン戦争──清帝国と英仏連合軍の間の戦
争で英仏連合軍が勝利──が終結しているのです。
 アヘン戦争に勝利した英仏両国が次に狙いを定めてきたのは他
ならぬ日本です。当時の幕府の識者も英仏にいいように嬲られた
清国の惨状を知っていたので、十分に警戒していたのです。
 英仏両国は、既に日本と通商条約を締結していた米国と同じ条
件の通商条約を締結しています。このとき、英国の目指す目標は
自由貿易と国際金本位制に参加させて、日本を純粋な市場経済に
することにあったのです。
 これに対してフランスは別の思惑を持っていたのですが、当面
は英国と同一歩調をとっていたのです。しかし、元治元年(18
64年)にレオン・ロシュが公使として赴任すると、フランスは
英国と距離を取り、幕府内のタカ派と連携して、幕府のバックに
つく体制を執りはじめるのです。その結果、ハト派である勝海舟
は遠ざけられたのです。
 一方英国は長州のバックにつき、慶応元年(1865年)に日
本に赴任したパークス公使は薩長両藩を支援する体制を築くので
すが、このあたりのことは既に述べてきた通りです。もちろん、
アーネスト・サトウやグラバーの存在も無視できないのです。
 考えてみると、当時の日本はやり方を誤ると、英仏両国によっ
て東西に2分割され、植民地化される危機にあったのです。慶応
2年12月に将軍になった徳川慶喜にフランス公使ロッシュは強
いリーダーの資質を認め、慶喜にいろいろ指導しているのです。
 ロッシュ公使は、幕府も藩も解体し、中央集権的な官僚体制を
作り、統一的な強力な軍隊を作ることを提言し、大きな期待を寄
せたのです。龍馬が舌を巻いたように、将軍就任後の慶喜が次々
と改革を断行できたのには、このロッシュ公使のアドバイスが大
きく影響しているのです。
 徳川慶喜はこう考えていたのです。大政奉還してもいきなり全
国を治められる人材は自分しかいない。したがって、当面政権は
自分に任せられる。その間に必要な工作を施し、朝廷から大政を
再委任されるようにする──こういう考えです。
 実際に大政奉還後、慶喜は朝廷から政権を当面担当するよう命
じられているのです。つまり、この時点で慶喜は当面とはいえ内
大臣に就任しているのです。薩長両藩が一番恐れたのは、こうい
う事態なのです。大政奉還をすると、こういう事態が必ず起きる
──そうなると、新体制の要職は旧幕府勢力で占められ、実質的
に旧体制と変わらなくなるというわけです。ここまではロッシュ
公使の構想であるといえます。ですから、薩長両藩は、どうして
も討幕という形にしなければならなかったのです。
 しかし、ロッシュ公使は武力討幕は必ず起こると見ていたフシ
があります。そしてそのときこそフランスが軍事介入するチャン
スと見ていたのです。
 ところで、大政奉還が行われた同じ日に出された島津久光・茂
久父子への討幕の官旨と錦旗のその後の経過について触れておき
ます。この官旨に署名しているのは、中御門経之、中山忠能、正
親町三条実愛の3名であり、それ以外にこの官旨の存在を知って
いるのは、岩倉具視しかいないのです。つまり、これは正規のも
のではなく、討幕のための「偽勅」に過ぎなかったのです。
 しかし、思いもかけず大政奉還が成立したので、中山忠能は官
旨の実行中止を命じ、中御門経之、中山忠能、正親町三条実愛の
連名による沙汰書が出されているのです。
 話は龍馬の暗殺後のことになるのですが、慶応3年(1867
年)11月29日に大久保利通は正親町三条実愛にクーデターの
決行を宣言し、12月1日には大久保は岩倉具視と一緒に中山忠
能を説得しています。
 この時点で慶喜は薩摩のクーデター計画を知り、旧幕府勢力は
反クーデターを朝廷に働きかけます。朝廷を中心に薩摩藩と旧幕
府方の激しい工作が行われたのですが、結局朝廷が選んだのが、
薩摩藩だったのです。そして、薩摩、安芸、尾張、越前、土佐の
五藩が御所を固める中で、王政復古の大号令が発せられることに
なったのです。
 12月9日夜に「小御所会議」が行われたのです。明治天皇が
出席され、総裁、議定、参与と、クーデターに参加した五藩の重
臣によって会議がもたれたのです。
 小御所会議は大荒れに荒れたのです。そして薩摩は、慶喜に対
し、内大臣の辞職と幕領の返上を迫ったのです。これに対し、議
定の山内容堂と参与の岩倉具視が対立して、罵り合うなど会議は
混乱に陥ったのです。
 薩摩の狙いとしては、ここで慶喜を挑発し、武力で幕府を潰す
ことが狙いであったのです。王政復古だけでは、既に大政奉還を
している慶喜を討つ名目にはならなかったからです。
 しかし、慶喜は挑発には乗らなかったのです。小御所会議を切
り抜けると、慶喜は12月11日に薩摩を討つべしと気勢を上げ
る旧幕府軍五千、会津三千の外出を禁じ、次の日の夜、京都から
大阪城に移ったのです。つまり、討幕の大義名分を与えず、挽回
のチャンスを待ったのです。
 そのときの慶喜の思いとしては、ここで事を起こすと、英仏両
国が介入して日本の東西分割が起こりかねない──慶喜はこのこ
とを心配したのです。このあたりがつねに日本というポジション
でものごとを考えてきた慶喜には日本の置かれた現状と英仏米蘭
の列強の動きがよく見えていたのです。
 この小御所会議を境にして、もともとクーデターに難色を示し
ていた土佐や越前を中心として他藩もあまりに強引な薩摩に対し
非難が集中したのです。そこで慶喜は間髪を入れず、英仏米蘭伊
独の大使と引見し、日本国の主権は自分にあると宣言し、王政復
古を批判したのです。  ──  [新視点からの龍馬論/65]


≪画像および関連情報≫
 ●小御所会議とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  小御所会議は、江戸時代末期(幕末)の慶応3年12月9日
  に京都のの小御所で行われた国政会議。同日に発せられた王
  政復古の大号令で、新たに設置された三職(総裁・議定・参
  与)からなる最初の会議である。すでに大政奉還していた徳
  川慶喜の官職(内大臣)辞職および徳川家領領の削封が決定
  され、倒幕派のの計画に沿った決議となったため、王政復古
  の大号令と合わせて「王政復古クーデター」と呼ばれること
  もある。その一方で、この時期までにしばしば浮上しては頓
  挫した、雄藩連合による公儀政体線の一つの到達点という面
  も持ち合わせていた。        ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●写真出典:ウィキペディア

レオン・ロッシュ公使.jpg
レオン・ロッシュ公使
posted by 平野 浩 at 04:12| Comment(0) | TrackBack(1) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月14日

●「薩長同盟の陰の立役者グラバー」(EJ第2975号)

 そもそも龍馬が「大政奉還」を口にしたときから、薩摩藩の幹
部──西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀らは強く懸念を表明して
いたのです。もっとも当初彼らは「大政奉還など幕府が受け入れ
るはずがない」と考えており、そのときは土佐藩も討幕に立ち上
がると後藤象二郎がいうので、薩土盟約を結んだのです。
 龍馬は日本の国力を弱める幕府との大戦争をやることには一貫
して反対であり、大政奉還の提案はその考え方がベースになって
いたのです。もしその時点で戦争をすると、英仏軍の介入に口実
を与えかねなかったからです。
 それに龍馬は、土佐藩が大政奉還の建白書を出せば、慶喜はそ
れを受け入れると確信していたのです。それは永井玄蕃頭からも
慶喜について情報を得ていたからです。それに幕府から見ると、
土佐藩は幕府恩顧の有力大名のひとつであって親幕府であり、そ
れまでの四候会議などでの山内容堂公の発言からもそれははっき
りしていたのです。
 それだけに、その土佐藩から建白書が出ると幕府は大きなショ
ックを受けるはずであると龍馬は考えたのです。そして最終的に
「土佐藩の提案ならやむなし」として、大政奉還を受け入れると
予測したのです。しかし、薩摩とはまったく違う予測をしていた
ことになります。
 薩摩の予測を大きく裏切り、幕府は大政奉還をあっさりと受け
入れてしまったのです。しかし、このあたりから後藤と龍馬との
情報連絡がうまくいかなくなっていたのです。ちょうどその頃か
ら「坂本龍馬は危険な人物である」──薩摩藩を中心にそういう
声が巻き起こってきたのです。
 もちろん幕府が大政奉還を受け入れると同時に出された討幕の
密勅のことなど龍馬は一切知らないのです。そういう変化の裏に
何があるのか。明確な史料はありませんが、EJは学術論文では
ないので、推理も交えて探っていくことにします。
 ここでもう一度トーマス・ブレイク・グラバーについて考えて
みる必要があります。幕末の日本は、幕府をバックアップしたフ
ランスのレオン・ロッシュ公使と、薩長両藩の後ろ盾になった英
国のハリー・パークス公使が対立し、最終的には英国が勝利した
のですが、その裏側で働いたのがグラバーです。
 グラバーは、外国人として初めて勲二等旭日重光章を授与され
た人物であり、日本の発展に大きく貢献しているのです。このグ
ラバーは後日、次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 私が日本のため一番役に立ったと思うことは、ハリー・パーク
 スと薩摩・長州の間にあった壁をブチ壊してやったということ
 です。                ──「阿修羅」より
    http://www.asyura2.com/0401/idletalk7/msg/632.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 グラバーは、自分の腹心として薩摩藩の五代友厚と土佐藩を脱
藩した坂本龍馬を使い、薩長同盟を成立させ、薩長両藩主導で日
本を明治維新に導いた陰の立役者であるといえます。
 しかし、その薩長同盟によってグラバーは薩長両藩に大量の武
器や軍艦を売りつけ、巨万の富を手にしたのです。そのため、グ
ラバーは幕末史において次のように位置づけられているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   グラバーは幕末の動乱に乗じた『死の商人』である
―――――――――――――――――――――――――――――
 グラバーは最初から「死の商人」たらんとしたわけではないの
です。長崎に上陸したグラバーは、最初は茶葉、生糸、海産物な
どの商品を扱っていたのですが、当時日本において外国人は居留
地以外の行動が制限され、大きな商売ができなかったのです。
 ときあたかも日本は幕末の動乱期にあり、そういうときに母国
である英国の武器や艦船を輸入して各藩に売る商売は、危険性は
あるものの、成功したときの利益は莫大なものにある、良い商売
だったのです。まして当時の英国は軍事大国であり、最先端の兵
器や艦船の入手は比較的容易だったのです。
 当時日本では尊皇攘夷の嵐が吹き荒れており、攘夷派か公武合
体派のどちらかにつく必要があったのですが、グラバーの本拠地
が長崎であったことから、薩摩との接点ができたのです。そのキ
ーパーソンが五代友厚のです。
 グラバーが五代といつ会ったかについては諸説がありますが、
五代友厚が長崎海軍伝習所で学んでいた頃であったとするのが正
しいようです。おそらく安政4年(1857年)前後であったと
思われます。
 長崎海軍伝習所は、幕府が海軍士官養成のための教育機関であ
り、幕臣や雄藩藩士から選抜した俊秀に対し、オランダ軍人を教
師として、蘭学(蘭方医学)、航海術などを指導したのです。五
代は、薩摩藩から選抜されて、21歳から23歳までここで学ん
でいますが、その時期に五代はグラバーに会っているのです。
 この長崎海軍伝習所は幕府の意向で安政6年(1859年)に
廃止されたので、五代は薩摩に戻ったのですが、一年後に藩命を
受けて、再び長崎のグラバー邸を訪れています。目的は外国船の
調達であり、薩摩藩は2隻の外国船を購入しています。
 これを契機に五代は、島津久光にグラバーのことを話し、藩に
留学生派遣の上申書を出したのです。五代の提案はすぐに受け入
れられ、実現することになったのは既に述べた通りです。久光は
兄の島津斉彬を尊敬しており、その斉彬が高く評価していた五代
を信用していたからです。
 留学生は16人選抜されたのですが、1人が死亡したので15
名に五代友厚ほか2名と通訳1名の計19人が英国に留学するこ
とになったのです。その留学生派遣に関わる一切の実務を取り仕
切ったのが、グラバーです。このようにして、グラバーは薩摩藩
と親しくなり、やがてグラバーは島津久光と会うようになるので
す。          ──  [新視点からの龍馬論/66]


≪画像および関連情報≫
 ●長崎海軍伝習所について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  黒船来航後、海防体制強化のため西洋式軍艦の輸入などを決
  めた江戸幕府は、オランダ商館長の勧めにより幕府海軍の士
  官を養成する機関の設立を決めた。オランダ海軍からの教師
  派遣などが約束され、ベルス・ライケン以下の第一次教師団
  後にヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ以下の
  第二次教師団が派遣された。さらに練習艦として蒸気船「観
  光丸」の寄贈を受けた。       ──ウィキペディア
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 ●「長崎海軍伝習所」絵図出典/ウィキペディア

長崎海軍伝習所絵図.jpg
長崎海軍伝習所絵図
posted by 平野 浩 at 04:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする