2005年10月31日

第0次世界大戦としての日露戦争(EJ1707号)

 本日からはじまる新しいテーマは「日露戦争」です。なぜ、日
露戦争なのかについては、3つほど理由があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.日露戦争は100周年という節目を迎えており、振り返
   ることは懸案諸国との外交を考えるときに役に立つ。
 2.日露戦争は20世紀に入ってはじめての大戦争であり、
   この戦争を第ゼロ次世界大戦と命名する学者もいる。
 3.巷間伝えられている日露戦争には創作部分があり、この
   戦争の真実の姿を追求することには意義があること。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本がロシアとの交渉を打ち切り、軍事行動に移ることを御前
会議で決めたのは、1904年2月4日のことです。それから、
実に101年の歳月が流れており、大きな節目を迎えています。
 現在、日本はロシアとの間に北方領土問題、北朝鮮や韓国、中
国ともさまざまな外交問題を抱えています。日露戦争はこれらの
問題と深い関わりがあり、日露戦争の真実を知ることは、これら
の懸案事項の解決を考えるとき役に立つと思います。
 もうひとつ、20世紀は総力戦と地球規模の紛争の世紀である
といわれますが、日露戦争は20世紀に入ってはじめての大きな
戦争であり、それ以後の戦争に大きな影響を与えたということが
いえると思います。日本のようなアジアの勢力が帝国主義の争い
に加わり、欧州の大国と対峙した、まさに最初の戦争が日露戦争
だったというわけです。
 米ジョージア・サザン大学準教授ジョン・スタインバーグ氏は
日露戦争を「第ゼロ次世界大戦」と命名しているのですが、その
根拠としているのは次の2つです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.この戦争に日露両国は当時としては前例のない水準の兵
   員を動員して戦っていること。
 2.日露戦争は10年後に起こる第1次世界大戦と軍事技術
   において非常に似ていること。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 さらに、スタインバーグ氏は世界大戦という以上、いろいろな
面で他国を巻き込むことになるが、そのひとつに戦費調達という
側面があると指摘しています。
 日露戦争では、日本は戦費を工面するため米国のシンジケート
に多額の資金を借り入れているし、ロシアはフランスやドイツを
頼って資金調達しており、戦争の資金調達をめぐっても国際的な
のです。しかし、軍事資金は戦争が消耗戦の様相を呈するに及ん
で調達が困難になり、日露双方は中途半端な終戦調停を結ぶこと
になったのです。
 軍事技術において第1次大戦に似ている点というのは、当時の
主要な戦闘がすべて行われていることです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
           1.海 上 戦
           2.機動作戦
           3.包 囲 戦
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 当時の国家は将来の海戦に備えて、いわゆる戦艦という名の大
艦を保有していたのですが、実際に大艦による海戦がはじめて行
われたのは日露戦争が最初だったのです。日本海海戦はその代表
的なものです。
 それでは機動作戦とは何でしょうか。機動作戦とは、鉄道、機
関銃、攻城砲などのあらゆる武器を使って戦う戦闘のことをいい
ます。日露戦争における遼東半島をめぐる戦闘は機動作戦そのも
のです。それに旅順攻撃は包囲戦です。このように日露戦争では
その当時の主要な戦闘はすべて行われていたのです。スタインバ
ーグ氏はそういう意味で世界ゼロ次大戦といっているのです。
 もうひとつ重要なことがあります。われわれが知っている日露
戦争には相当の創作部分があるということです。その創作は大正
末期から昭和初期にかけて行われたものです。
 よく国の歴史認識といいますが、国家にとって客観的にして正
しい歴史などというものはありえないのです。というのは、どう
しても自国にとって都合の悪い事実は隠そうとするし、まして戦
史となると、それを書く時点で作戦を続行中ということも少なく
なく、本当のことは書けないのです。
 日本においては、ごく最近まで軍事関係文書はもちろんのこと
公文書全般に関しても公開制度というものがなかったのです。こ
れによって、公開をはばかること、国にとって都合の悪いことは
隠蔽されやすいのです。
 これに関連して不自然なことがあるのです。真実が秘匿された
のとはうらはらに、日露戦争の情報は開戦直後から洪水のごとく
出まわり、小説や映画の題材にまでなったのです。
 「日露海戦史」の編纂に当たった東郷平八郎は次のように述懐
しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 海戦史編纂はすこぶるやりにくいことだ。最も困難な点は、こ
 こにおられる部長をはじめ実戦に当った将官や上司の長官がほ
 とんど現存しておられることで、それぞれ立場を異にし観察を
 異にしていた人達から、色々な苦情が寄せられることがある。
 その人々の意見が一致していれば問題はないが、食い違いでも
 していたら大変である。双方の妥協で解決できる性質の問題で
 はないから、取捨選択が大変だった。    ――東郷平八郎
       加来耕三著『真説/日露戦争』より。出版芸術社
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そこには、情報操作によって国民感情を意図的に1つの方向に
向けようとする狙いがあったと考えざるを得ないのです。それは
かつての日清戦争においても軍部がそれに近いことをやっている
のです。             ・・・・ [日露戦争01]


≪画像および関連情報≫
 ・ジョン・スタインバーグ氏
  米ジョージア・サザン大学準教授
  米ミズーリ州生まれ。オハイオ州立大学で博士号
  専門はロシア軍事史。48歳

1707号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月01日

日露戦争の根は日清戦争にある(EJ1708号)

 なぜ、日本はロシアと戦争することになったのでしょうか。
 20世紀初頭の日本にとって、ロシアは脅威であり、ロシアの
南下は、国の命運を左右する大問題であったのです。何よりも日
本が恐れたのは、ロシアが朝鮮半島に触手を伸ばし、押さえてく
るという事態だったのです。
 日露戦争直前の日本とロシアの国力は、どのくらいあったのか
調べてみることにします。
 まず、国土と人口/歳入の比較です。これはまるで問題にはな
らないでしょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
               国土        人口
   日 本    37万平方KM    4600万人
   ロシア  2500万平方KM  1億3000万人
                         歳入
   日 本             2億5000万円
   ロシア            20億0000万円
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 続いて、軍事力の差です。これはまるで大人と子供というより
子供が巨人に挑むようなものです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
             陸軍兵力      海軍兵力
   日 本    315000人  260000トン
   ロシア   3500000人  800000トン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これを見るとわかるように、当時のロシアの国力は日本の10
倍もあったのです。日本はそんな国に対して、なぜ、戦争を決意
したのでしょうか。
 その原因は、直接的には、日清戦争勝利の後の三国交渉にあっ
たといえるのです。いや、もう少し深い原因を考えると、朝鮮半
島をめぐる情勢の変化にあったと考えるべきでしょう。
 日清戦争の前の話ですが、清国は朝鮮を属国と考えており、ロ
シアは朝鮮に対して強い野心をいだいていたのです。このような
状況に対し日本は、自国の安全保障のために朝鮮半島の中立を望
んでいたのです。そこで、日本は清国と力のバランスを図ろうと
したのですが、清国は日本の思うようにはならず、朝鮮に対し、
宗主権を誇示しようとしていたのです。
 また、帝政ロシアは、シベリアを手中におさめ、沿海州、満州
をその制圧下に置こうとしていたのです。さらにその余勢を駆っ
て、朝鮮をもその影響下に置こうと狙っていたのです。
 当時の日本から見れば、ロシアはもちろんのこと、清国も大国
であり、強い危機感を感じていたのです。もし、朝鮮半島がこれ
ら大国の属国になると、日本は玄界灘を隔てるだけで、強力な帝
国主義国家と対峙することになる――こういう事態だけは絶対に
避けたかったのです。
 1885年、日本は伊藤博文を全権大使として清国に送り、天
津条約を締結するのです。天津条約の要旨は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ≪天津条約≫
 朝鮮国に内乱や重大な変事があった場合、両国もしくはそのど
 ちらが派兵するという必要が起こったとき、互いに公文書を往
 復しあって十分に了解をとること。乱が治まったときは直ちに
 撤兵する。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、この天津条約は、一方において清国の朝鮮に対する宗
主権を黙認するかたちになり、日本の発言力は大幅に封じられる
結果を招いたのです。相変わらずの日本の外交下手の結果です。
 そういう中で朝鮮では東学党が勃興したのです。東学党は「日
本や欧米の列強を退けて義を行う」をスローガンとして掲げ、西
学――キリスト教や儒教に対抗する朝鮮独自の学問を目指す秘密
結社「東学」が政治改革団体化したものといわれています。
 1894年2月に、朝鮮全羅道で東学党のリーダーが指揮する
農民一揆が起こり、あっという間に全羅道一円に拡大し、5月末
には全羅道首府の全州に入場する事態になります。いわゆる甲午
農民戦争と呼ばれる戦争です。
 この戦争は朝鮮南部一帯に広がったので、朝鮮政府は清国に出
兵を要請したのです。これを受けて清国政府は「天津条約」にし
たがい日本には軍を出すことを通告はしてきたものの、3000
人の兵をソウル南方約80キロの牙山まで進出させ、そのまま居
座ったのです。このまま放置すると、朝鮮半島における力関係が
清国からの一方的なものになり、日本にとってきわめて深刻な事
態になると考えられたのです。
 このとき日本政府内には開戦派と慎重派があったのです。これ
に関連して明治のジャーナリストである徳富蘇峰(猪一郎)は、
自著において次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日清戦争は老人が始めたのではない。若者が始めたのだ。内地
 では、川上、北京では小村、それに巧く活機を捉えた所の陸奥
 などが、巧みに伊藤、山縣等の大頭を操って行ったらしいと思
 う。                ――『蘇峰自伝』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これでわかるように、開戦派はときの外務大臣陸奥宗光、川上
操六、小村寿太郎たちであり、慎重派は、ときの総理大臣伊藤博
文、山縣有朋たちであったのです。
 陸奥宗光たち開戦派は、当時「眠れる獅子」といわれていた清
国の実情が「死に体」であることを見破っており、ここは戦争に
よって決着をつけるべきであると考えていたのです。ただ、日清
戦争に関しては明治天皇は終始反対の姿勢を取っていたのです。
しかし、陸奥らの開戦派はそういう天皇の意向を無視して、18
94年7月17日、日清戦争を開始させたのです。朝鮮半島の不
安をなくす――これが目的だったのです。・・ [日露戦争02]


≪画像および関連情報≫
 ・当時の心境を読んだ明治天皇の御歌
  ―――――――――――――――――――――――――――
     ゆくすえはいかになるかと暁の
           ねざめねざめに世をおもふかな
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ・徳富蘇峰(1863〜1957)
  明治から昭和にかけて活躍したジャーナリスト、歴史家、評
  論家。徳富蘆花は弟である。

1708号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月02日

連戦連勝のもたらしたものは何か(EJ1709号)

 日清戦争開戦――開戦後日本軍はトントン拍子に勝ち続けたの
です。宣戦布告前の7月25日、連合艦隊第一遊撃隊による豊島
沖海戦の勝利、同じく陸軍は成歓と牙山へ侵攻、清国軍を平壌に
逃走させています。その平壌も9月16日には陥落しています。
まさに向うところ敵なしです。
 そして9月17日には、黄海において清国が誇る北洋水帥の主
力艦隊――「経遠」「致遠」「超勇」などを次々と撃沈し、制海
権を握ります。これによって、日本軍は陸兵を遼東半島に直接輸
送し、11月21日に旅順口をたった1日の戦闘で陥落させると
いう快挙を成し遂げるのです。
 旅順口は難攻不落の堅陣と世界中に知られており、フランスの
名将クールペー海軍中将は次のようにいっていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 (旅順口は)50隻以上の艦隊と10万の陸軍精兵をもって
 しても、なお攻略に半年を費やさねば落ちまい
                 ――クールペー海軍中将
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本軍が圧倒的に強かったのか、それとも清国軍があまりにも
弱かったのか――たったの1日で旅順口は陥落したのです。清国
軍死者4500人、負傷者無数、捕虜600人、それでいて日本
軍人死傷者280人名という圧倒的な勝利だったのです。
 旅順が落とされると、清国は外交ルート(北京および東京にお
ける米国代表者経由)を通して講話を提唱してきたのです。これ
に対して陸奥外相は、2つの条件をつけて高圧的にこれに返答し
ているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1.清国政府が誠実に和睦を講う意思表明をする
   2.正当な資格を有する全権委員を任命すること
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 こうする間も日本軍はいささかも攻撃を緩めず、台湾西方の澎
湖島を占領してしまうのです。
 ここで、日清戦争がはじまってからの日本国内の様子について
知っておく必要があります。開戦したのが盛夏の7月後半であり
通常であれば、夏休みということもあって、海水浴であるとか避
暑地に出かける人も多い季節です。しかし、戦争が始まると、そ
ういうレジャーを楽しんでいた人は一斉に引き上げ、観光地は閑
散としてしまったのです。
 どうしてかというと、当時の日本人にとって清国と戦うという
ことは大変なことだったのです。なぜなら、はじめての外国との
戦争であり、まして清国は広大な領土を持つ大国であったからで
す。一般国民にとっては、清国の内部が既に崩壊していたなどと
いうことは知るよしもなく、文字通り国運を賭けての大戦争だっ
たわけで、レジャーなど楽しむ状況ではなかったのです。
 また、家屋の新築や修繕、庭の手入れなど、当面急ぐ必要のな
いものは自粛する傾向が強まり、大工、左官、植木屋などが一斉
に失職し、社会経済は大打撃を蒙ったのです。
 こういう時勢にもてはやされたのが「軍夫」になることだった
のです。当時の日雇労働者や人力車夫の日当が20〜30銭のと
きに軍夫になると、1円50銭が支給されたからです。既に国民
皆兵制は施行されていましたが、何しろ急に開戦したために、兵
士は一人でも多く必要であり、志願兵を集めたのです。
 当然のことですが、国民全員が戦況に強い関心を向けたため、
新聞が飛ぶように売れたのです。何しろ、テレビもラジオもない
時代ですから、情報を知るのは新聞のみ――一日一回の新聞を国
民全員が首を長くして待ったのです。ちなみに、当時は夕刊とい
うものもなかったのです。
 日清戦争がはじまってもうひとつ変わったことがあります。そ
れは、明治維新以来くすぶり続けていた反政府運動がピタリと収
まったことです。国内でゴチャゴチャやっているときではない。
何しろ敵はアジア最大の国――清国だからです。
 ところがです。開戦してみると、連戦連勝です。国民が歓喜し
ないはずがないのです。この気持はよくわかります。しかし、半
分崩壊していた清国に連戦連勝してもそれは当たり前のことだっ
たのですが、そういう情報がない国民は、本当の強敵と戦って勝
利したと考えたのは当然です。
 こういうところから、日本国民の間に、次のような困った風潮
が生まれてきたのです。当時の日本政府も逆にそれを利用しよう
としたフシがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.日清戦争は「未開な支那」を覚醒させる義戦である
 2.野蛮な清国や朝鮮を文明国日本が懲罰し、教育する
 3.日本は神の国であり、日本軍は神の軍隊であること
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、日本政府と軍部は、長い期間をかけて清国に打撃を与
えることによって朝鮮半島の利権を独占するための計画を着実に
実行してきたのです。したがって、政府は連戦連勝に心を奪われ
ることなく、冷静に作戦を進め、有利な条件で講話を結ぼうとし
ていたのです。
 清国との講和会議は、清国から李鴻章を全権大臣とする50名
が来朝し、下関市の春帆楼で開催されています。日本の全権大臣
は伊藤博文、陸奥宗光――1895年3月20日のことです。
 この時点でも日本は攻撃の手を緩めず、大陸に侵攻を続けてい
たのです。そこで清国側は休戦を求めてきたのですが、日本側は
これを拒否して強気の交渉をしようとしたのです。清国が望んで
の講話交渉ですから、当然のことです。
 しかし、ここに困った事態が発生するのです。それは、全権大
臣の李鴻章が講和会議会場である春帆楼を出て宿舎に戻ろうとし
たとき狙撃されたのです。李鴻章は左眼窩下に弾丸が当ったもの
の、生命には別状はなかったのですが、これには日本政府は強い
ショックを受けることになるのです。・・・・ [日露戦争03]


≪画像および関連情報≫
 ・陸奥宗光外務大臣
  明治時代の政治家、外交官であり、「カミソリ大臣」と呼ば
  れ、外務大臣として、不平等条約の改正に辣腕を振るったの
  である。日清戦争当時の外相

1709号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月04日

三国干渉で失った遼東半島(EJ1710号)

 清国の全権大臣李鴻章の暗殺未遂事件によって、日本政府は強
硬姿勢を一転させ、清国側が要求した無条件休戦を受け入れるこ
ととし、1895年4月17日に下関講和条約が締結されたので
す。条約の要点は次の6つです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1.清国は朝鮮の完全無欠なる独立を確認すること
   2.清国は、遼東半島、台湾、澎湖島を日本に割譲
   3.清国は日本軍事賠償として2億両を支払うこと
        (2億両――邦貨約3億1000万円)
   4.清国と欧州各国間の条約ベースの新条約を締結
   5.重慶、蘇州、杭州などの開市・開港を実施する
   6.威海衡占領の費用は清国負担/条約履行の担保
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この結果に国民は歓喜します。条約の内容としては、要点の1
と2によって、ほぼ日本の要求する内容になっていたからです。
実は、遼東半島を日本に割譲することを要求に盛り込むべきかど
うか、日本の全権団はかなり迷ったのです。しかし、その要求を
外したら、国内で暴動が起きかねない情勢だったので、あえて遼
東半島の領有を主張したのです。
 伊藤博文や陸奥宗光がそのようなことを考えたのは、日本が清
国と戦争をして間に東アジアにおける国際情勢は大きく変わりつ
つあったからです。日清戦争が始まる前の東アジア海域にいたの
は、最新型戦艦センチュリオンを旗艦とする英国の中国艦隊だけ
だったのですが、日清戦争の結果いかんでは既得権益が侵害され
かねないとの思惑から、各国海軍がこの海域に乗り出してきてい
たのです。
 ロシアは太平洋艦隊の戦艦と巡洋艦を、フランス、ドイツ、米
国、イタリアは巡洋艦を派遣して日清両国のどちらが勝つか監視
をはじめたのです。まるで、獲物を見張るハイエナのようです。
 果たせるかな、日清講和条約調印から6日後、ロシア、ドイツ
フランスの公使が遼東半島を清国に返還することを勧告する文書
をそれぞれ提出してきます。この中でロシアの公使からの勧告は
次のような内容でした。ドイツもフランスもほぼ同趣旨です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 遼東半島を日本にて所有することは常に清国の都を危うくす
 るのみならず、これと同時に朝鮮国の独立を有名無実となす
 ものにして、右はながく極東永久の平和に対し、障害を与え
 るものと認む。        ――ロシア公使からの文書
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これが「三国干渉」です。要するに、遼東半島を日本が領有す
ると、そこが清国と韓国に対する日本の勢力拡張の拠点になるこ
とを警戒したための勧告なのです。
 この三国干渉は単なる勧告というようなものではなく、日本に
対する完全な脅しだったのです。ロシア、ドイツ、フランスは既
に戦艦や巡洋艦を東アジア海域に派遣しており、ロシア陸軍約3
万が臨戦態勢をひき、ロシアとドイツの艦隊が合同演習をするな
ど、日本に対する示威行為は露骨を極めたのです。「勧告を受け
入れないときは日本を攻めるぞ」という脅しです。
 しかもその時、日本の海軍艦隊主力は台湾海峡付近に遠征して
おり、陸軍野戦軍のほとんどはいまだ中国大陸の戦場にあって、
日本国内はガラ空きの状態だったのです。しかし、三国とも本当
は日本と本気で戦端を開く気はなかったのです。
 もともと伊藤博文と陸奥宗光は、日本が遼東半島を領有するの
は無理と考えていたようです。しかし、海軍は台湾、陸軍は遼東
半島の割譲を強く求めていたのです。それに、伊藤博文という人
はかなり弱気の人であり、明治天皇も最初から領土の割譲を求め
ることに反対であったため、早々に三国交渉を受け入れることに
してしまったのです。
 日本政府は、1895年5月4日の閣議で三国干渉受け入れを
了承し、翌日に三国の公使に通告しています。しかし、天皇の詔
は、さらに5日後の5月10日に全国民に伝達されたのです。
 国民の怒り、落胆ぶりは大変なものだったのです。それは、ア
ジアの大国である清国に快勝し、天にも昇る勢いであった日本国
民に冷水を浴びせた格好になったからです。
 日清戦争の推進派である陸奥宗光、小村寿太郎、川上操六らは
この国民の怒りを対ロシア戦争にうまく誘導しようとしたフシが
あるのです。そして、次のスローガンを生み出されるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        臥薪嘗胆(がしんしょうたん)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「臥薪嘗胆」とは、中国の春秋時代、呉王夫差(ふさ)が越王
勾銭(こうせん)を討って父の仇を報じるために薪(たきぎ)の
上に寝て、さらには勾銭が呉を討って恥をすすぐために苦い肝を
嘗めて復讐心を固めたという故事から、仇をはらすために長期間
にわたって苦心、苦労を重ねて自分を励ますことをいうのです。
 ところが、「臥薪嘗胆」のスローガンのもと、「ロシア何する
ものぞ」という風潮が生まれつつあった1895年10月8日―
―朝鮮でとんでもない事件が起きるのです。閔妃(ミンピ)殺害
クーデター(乙未[いつみ]事変)です。
 日清戦争で日本が勝利したことにより、朝鮮半島は清国の属国
になることは阻止されたのですが、韓国宮廷は三国交渉によって
日本がロシアに屈したとみて、王后である閔妃(ミンピ)はロシ
アの保護を得て、独自勢力の温存を図ろうとしたのです。
 これに対して駐韓日本公使の三浦梧楼陸軍中将は、韓国王の父
親を擁立してクーデターを起こし、首都・漢城(ソウル)の王宮
に日本人の浪人を乱入させ、閔妃を殺害してしまったのです。
 ところが、妻を殺され、実父に政権を奪われたかたちの韓国王
は、身の危険を感じて駐韓ロシア公使ウェーバーを頼ってロシア
公使館に逃げ込んでしまったのです。もちろん、このクーデター
は日本政府承知のうえです。    ・・・・ [日露戦争04]


≪画像および関連情報≫
 ・乙未事変について/1895年10月8日
  閔妃は、日本が後ろ盾につく大院君(韓国王の父)と長く対
  立していたが、日清戦争後の三国干渉で復活すると,ロシア
  の勢力をひきいれて反日親露政策を取る。これに対抗して公
  使三浦梧楼は,大院君をかつぎ,日本浪人と朝鮮軍の訓練隊
  を宮中に乱入させ,閔妃を殺させた。三浦は朝鮮軍内部にお
  ける訓練隊と侍衛隊との衝突事件のように装ったが、真相を
  隠せなかった。日本政府は三浦や浪人を本国に召還し,形式
  的な裁判を行ったが,三浦らは証拠不十分で無罪となる。

1710号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月07日

シベリア鉄道と東アジア国際情勢(EJ1711号)

 三国干渉――ロシアは英国にも声をかけたのです。しかし、英
国は、ロシアの南下政策に対する抵抗勢力である日本と敵対する
ことは好まず、断っています。当時世界の制海権は英国が握って
おり、東太平洋と地中海、インド洋などヨーロッパからアジアに
至る海上交通路は英国海軍の手中にあったのです。
 したがって、ヨーロッパ諸国におけるアジア政策は、英国の出
方によって左右されたのです。しかし、ロシアには陸路で東アジ
アに至るシベリア鉄道があり、1901年にバイカル湖の区間を
除いて完成しています。
 ユーラシア大陸を横断するシベリア鉄道は、モスクワとウラジ
オストック間を7泊8日で結んでいますが、これを使うとロシア
は英国に関係なく大勢の兵士を東アジアに短時間で動員できるこ
とになります。ちなみに軍港の「ウラジオストック」という言葉
は、ロシア語で「東方を征服せよ」という意味なのです。
 このようにシベリア鉄道は英国が中国においてそれまで保って
きた通商的権益や外交的優位性を覆すだけではなく、ウラジオス
トックから香港に至る制海権をロシアに取られる可能性を示して
いたのです。したがって、シベリア鉄道の建設は、英国の東アジ
アにおける覇権を脅かすだけではなく、国境を接する中国や朝鮮
さらに日本にとっても直接的で大きな脅威であるといえます。
 しかし、それならなぜロシアは遼東半島や朝鮮半島に触手を伸
ばしてきたのでしょうか。
 それは、冬でも凍らない不凍港が欲しいからです。ウラジオス
トックは冬の間は凍ってしまい、使えないからです。不凍港を手
に入れない限りロシアはいくらシベリア鉄道を持っていても東ア
ジアに勢力を拡大できないのです。
 何としてもロシアに不凍港を与えてはならない――日本政府の
この思いがあの非合法のクーデター――乙未事変を引き起こして
しまったのです。絵に描いたような外交下手の典型です。これを
修復するため、枢密院議員山縣有朋は、1896年5月26日に
開催されたロシア皇帝ニコライ二世の戴冠式のさいにモスクワに
渡り、ロシアの外相ロバノフと会談を行ったのです。そして朝鮮
半島をめぐる日露議定書を作成・調印したのです。
 議定書の内容は次のようなものだったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.朝鮮の財政問題に関しては日露共同で当たること
  2.朝鮮軍が組織されるまでは日露同数の軍隊を置く
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ロシアはしたたかな外交を繰り広げる国ですが、それから考え
ると、乙未事変のあとの日本としてはまずまずの外交成果であっ
たと考えられます。
 しかし、ロシアとしてはその裏でしたたかに計算をしていたの
です。それは次の2つのことです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.満州経由でウラジオストックに鉄道を敷く権利を確保
 2.ハルピンから旅順・大連に南下する鉄道の敷設権確保
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日清戦争終了時点におけるシベリア鉄道は、チタからウラジオ
ストック間は完成しておらず、当初はロシアと清の国境に沿って
敷設される予定だったのです。しかし、日本に遼東半島を返還さ
せた見返りとして、ロシアは清国から満州経由でウラジオストッ
クまで鉄道を敷く権利を得たのです。
 さらに、同時にロシアはハルピンから遼東半島に至る区間の鉄
道敷設権をも得ているのです。これで、ロシアは待望の不凍港を
手にすることができる可能性を得たことになります。そのために
は、日本の関心を朝鮮半島に向けさせておく必要があり、ロシア
としては日本に一歩引いてみせたわけです。
 実際に日露戦争が始まる1904年9月までに上記の「東清鉄
道」2本を含むシベリア鉄道全線が開通しているのです。日本が
日露戦争を急いだ背景にこのシベリア鉄道問題があったことは確
かであるといえます。
 しかし、三国干渉によって日本が遼東半島をあっさりと返還し
たことで、ロシアは「日本は強く出ればどんどん下がる国」と考
えるようになったといいます。
 ロシアが当時いかに日本を馬鹿にしていたかを示す有名なエピ
ソードがあります。ドイツのダルムシュタットに保養のため滞在
していたニコライ二世に、同盟国ドイツのウィルヘルム二世皇帝
が、日本がロシアの強硬なやり方に腹を立て、戦争を準備してい
るとの情報があると伝えたとき、ニコライ二世は次のように答え
たというのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 それはあり得ない。なぜならば、朕は戦を望んでいない。した
 がって、開戦の懸念などない。      ――ニコライ二世
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは、戦争というものはロシアが一方的にそれを望んだとき
にのみ起きるのであって、非力な小国である日本がそれを仕掛け
てくることなど100%あり得ない――こういっているのです。
この姿勢は今も何も変わっていないし、そのような国がいったん
獲った北方領土をかつての日本のように、あっさりと返すことな
ど考えられないことなのです。
 ところで、このニコライ二世は日本に対してある恨みを持って
いたのです。1891年のことです。この年の5月にシベリア鉄
道の起工式がウラジオストックで行われたのですが、そのさい、
24歳のニコライ二世が日本にやってきたのです。
 皇太子が琵琶湖を見物し、大津を通過しようとしたとき、沿道
を警備していた巡査・津田三蔵によって日本刀で切りつけられ、
負傷するというとんでもない事件が起こったのです。ロシアが怒
って日本に攻めてくるのではないか――日本の国民の間ではこの
ときから、いつかロシアとは戦争になることを覚悟する雰囲気が
醸成されていったのです。     ・・・・ [日露戦争05]


≪画像および関連情報≫
 ・大津事件
  シベリア鉄道の式典に出席するため、ニコライは艦隊を率い
  てウラジオストックに向かう途中、日本を訪問した。いまだ
  小国であった日本は政府を挙げてニコライの訪日を接待し、
  京都では季節外れの大文字焼きまで行われた。そして、5月
  11日、琵琶湖からの帰り道、大津を通過中に警備の津田三
  蔵巡査が突然斬かかりニコライを負傷させた。津田は逃げる
  ニコライになおも斬りかかろうとしたが、随伴していた人力
  車夫向畑治三郎に両足を引き倒され、同じく車夫の北賀市市
  太郎に自身の落としたサーベルで斬りつけられた後、警備中
  の巡査に取り押さえられた。ニコライは右側頭部に9センチ
  近くの負傷を負ったが、命に別状はなかつた。後日明治天皇
  自らが神戸港ののロシア軍艦を訪問するとした際に、「拉致
  されてしまう」という重臣達の反対を振り切って療養中のニ
  コライを見舞った。(ウィキペティア「大津事件」より)

1711号.jpg
        (上図をクリックすると拡大します)
posted by 平野 浩 at 08:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月08日

山縣有朋の主権線と利益線(EJ1712号)

 山縣有朋――この人は軍事上の観点から、早くからシベリア鉄
道脅威論を唱えていた人です。当時は、もし東アジアにおいて紛
争が起きるとすれば、それは英国とロシアの戦争であると考えら
れていたのです。
 山縣は、もし、英国とロシアがインドかアフガニスタンで衝突
する事態になれば、ロシアはシベリア鉄道を使って大兵を東アジ
アに送り込み、必ず朝鮮の侵略を始めるに違いないと考えていた
のです。そうなると日本の安全は脅かされる――これが山縣のシ
ベリア鉄道脅威論なのです。
 やがて山縣は政権を握ると、このシベリア鉄道脅威論を前提と
した軍事拡張のための予算計上を行っています。明治24年予算
では、軍事費が予算の30%近くを占めていたのですが、これに
ついて山縣首相は、1890年11月29日の第一帝国議会にお
ける一般演説で次のように説明しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 軍事費が予算の30%近くを占めているのは、それが国家の独
 立と国権の伸張を図るために不可欠なものであるためである。
 国家の安全を保つためには、主権国家として他国の侵害を許さ
 ない国境としての「主権線」を守るだけでは不十分であり、そ
 の主権線の安危と相関係する区域としての「利益線」を守る必
 要がある。その利益線を維持するためには、膨大なる軍事費が
 かかるのである。              ――山縣首相
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 山縣首相は、ここでいう利益線として「わが国の利益線の焦点
は実に朝鮮にあり」と明言しています。つまり、日本の安全保障
は、朝鮮半島の安危に左右されると述べたのです。
 つまり、朝鮮の独立が脅かされ、他の帝国が朝鮮半島を占領す
る事態になると、日本の安全保障が脅かされるというのです。そ
のため、日本としては朝鮮半島の安危を注意深く監視し、すぐ手
が打てる体制をとるべきであると山縣は説いたのです。
 山縣がこういう考え方に立つに至った次の2つの歴史的事件が
あります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
           1.対 馬事件
           2.巨文島事件
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 対馬事件とは何でしょうか。
 1861年3月のことです。ロシアの戦艦ポサドニックがいき
なり対馬に来航し、土地租借などを要求して島の一部を占領する
という事件が起こったのです。困ったのは対馬藩です。
 対馬藩老中安藤信正は英国の東インドシナ艦隊司令官ホープと
交渉した結果、ホープ司令官は英国艦隊2隻を対馬に派遣し、ロ
シア艦を退去させたのです。英国にとってもこのことは看過でき
ない事件だったからです。これが対馬事件です。
 ここで租借とは、条約によって一定年限、貸与国の主権を留保
したまま、租借国に対し、その地域における排他的な管轄権や軍
隊駐留権を認めるものですが、最終的には貸与国が領土を割譲す
るのと同じ効果を持っていたのです。
 それでは、巨文島事件とは何でしょうか。
 既に述べたように、朝鮮では宮廷が2つに分かれて主導権争い
が絶えず、それを理由にして清国がたびたび介入するという事態
が起きていたのです。その一方の勢力がロシアに接近し、ロシア
はそれを口実に朝鮮半島の取り込みを画策していたのです。
 やがてロシアは軍事教育の名のもとに教官を送り込み、その代
償として朝鮮半島の南部の小さな湾である永興湾に軍事施設を建
設しようとしていたのです。
 このことを知った英国は、アフガニスタンで英国とロシアの間
のちょっとした衝突を理由に、朝鮮半島南端沖にある巨文島を占
拠して軍港を築き、ロシアの朝鮮進出を阻止する先制行動に出た
のです。これが巨文島事件です。
 結局、このときは清国が仲裁に入って、「ロシアは朝鮮のいか
なる地域にも占領しない」ことを条件として、英国軍は撤退した
のです。ちなみに巨文島は日本の対馬のすぐ近くであり、2つの
事件とも日本に関わりがあったにもかかわらず、日本としては英
国に頼るだけで何もできなかったのです。
 山縣はこのことを受けて、日本と利害が一致する英国との同盟
を推進するとともに、利益線としての朝鮮半島を守るための軍事
拡張に全力を注ぐ政策を推進することになるのです。
 ここで、三国干渉前後のヨーロッパにおける国際関係について
述べておくことにします。
 まず、1870年のプロイセン・フランス戦争以来、ドイツと
フランスは対立していたのです。また、ヨーロッパにおける農産
物の販売をめぐって、ドイツはロシアとも対立を深めていたので
す。そのロシアはバルカン半島をめぐってオーストリアと反目、
そのオーストリアのバックにはドイツがいたのです。
 フランスはドイツとの対抗上、ロシアと軍事同盟を結んでおり
ロシアが進めるシベリア鉄道にも巨額の資金を援助しているので
す。この仏露軍事同盟は日露戦争のときも有効だったのですが、
あくまでドイツとの戦争に対する同盟であったため、フランスは
中立を保ったのです。
 このようにロシアとフランスに敵対され、苦しい立場に立たさ
れたドイツ皇帝ウィルヘルム二世は、ロシア皇帝のニコライ二世
に日本を中心とする黄色人種の台頭がヨーロッパ全体に損害をも
たらすといういわゆる「黄禍論」を説いて、関心を日本に向けさ
せようとします。この「黄禍論」が日露戦争から第2次世界大戦
まで影響することになるのです。
 その点、世界の海を支配していた英国は、東アジア海域を大陸
の列強から守るという点において、日本と利害が一致する面が少
なくなかったのです。そういうわけで、1902年に日本は日英
同盟を結ぶことになるのです。   ・・・・ [日露戦争06]


≪画像および関連情報≫
 ・山縣有朋について
  明治、大正の軍人、政治家、公爵。川島で出生。
  松下村塾で学び、奇兵隊の軍監となり、高杉晋作挙兵による
  内訌戦などに活躍。戊辰戦争では官軍の参謀として転戦。明
  治以降、陸軍卿、参議、陸軍大将、元帥へと進み、日本陸軍
  の中心的存在として長州陸軍閥を形成、政治家としては内務
  大臣となり、のち二次にわたり内閣を組織し、元老となる。
  大正11年(1922)没。享年85。

1712号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月09日

日露戦争に向けての10年計画(EJ1713号)

 日本は主権線を守るために利益線としての朝鮮半島を保護する
必要がある――これは日清戦争の前の時点での山縣有朋の考え方
です。この山縣の考え方は、次の伊藤内閣になっても継承されて
いくのですが、日清戦争に勝ってからは、利益線を日本が獲得し
た勢力圏の外・に置こうとするようになります。
 つまり、山縣の構想は、あくまで防衛的な視点からの利益線と
して朝鮮半島をとらえるべきであるとの考え方ですが、伊藤政権
になると、利益線は朝鮮半島を飛び越して満州に置かれるように
なります。防衛的な考え方から大陸膨張主義に転換してしまった
わけです。
 そうなると、日本にとってロシアが仮想敵国とみなされるのは
自然のなりゆきです。清国を破ったあとでロシアと覇権を争い、
それに勝って「アジアの盟主」になる――日本の指導者としては
このことがはっきりと意識されるようになっていったのです。
 これは日本にとって大変危険な考え方であり、実際にロシアに
勝利することによって歯止めが利かなくなり、勝算が100%な
い太平洋戦争まで突っ走ることになるのです。
 しかし、日本はロシアと戦うにさいしては、極めて綿密な計画
を立て、10年の歳月を費やして軍備を強化して軍隊を育て、必
勝の体・で戦争に臨んでいるのです。当時日本は国民皆兵で徴兵
・の下で厳しく訓練を積んでおり、士官を含む立派な軍人が育ち
つつあったのです。
 1895年12月に開会した帝国議会において、戦後10年計
画に基づく予算が通族しています。1895年から10年後とい
うと1905年になりますが、この年にはシベリア鉄道が完成す
る予定の年なのです。それまでにロシアと戦えるようにする――
こういう目標が立てられたのです。
 この10年計画には、次の軍備拡張が軸になります。これを達
成するための基幹産業の育成や行政拡張が進められたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 陸軍 ・・・  現7存師団から13存師団への軍事力拡張
 海軍 ・・・  鋼鉄戦闘艦6隻/巡洋艦6隻の六・六艦隊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そのための総予算は7億8105万賊――この金額は日清戦争
開戦前の1893年度総予算の実に9倍に相当するのです。そし
て、国家予算歳遜中に占める軍事費の割合は、1903年までの
平均で42%に及んだのです。
 このような軍事費の突遜する予算では公債の発行と増税は不可
避となります。それに日清戦争の賠償金約3億賊も軍事費に回さ
れたのです。このような厳しい税負担に・えるためにも国民には
「臥薪嘗胆」のスローガンは必要だったのです。
 軍事教練もロシアとの戦いを前提に行われたのです。厳しいロ
シアの寒さに・える・雪演習も繰り返し行われたのですが、これ
があの八甲田山の悲劇を生むのです。
 1902年1月――青森歩兵第5・隊第2大隊は八甲田山で・
雪演習を行ったのですが、参加した210名のうち199名が凍
死するという惨事になったのです。この貴重な経験によって、日
露戦争では凍傷を防ぐいろいろな工夫が重造られたのです。
 さて、1896年5月に山縣有朋がロシアと揃んだ日露議定書
のウラでロシアは清国と秘密協定を締揃していたのです。その要
旨は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 東アジアのロシア領、清国及び朝鮮半島に日本軍が侵入して
 きた場合、露清両国はすべての陸海軍事力をもって、相互に
 援助し合い、これを殲滅する。そのさい、ロシア軍艦の活動
 を助けるため、清国は自国の港湾をことごとく開放する便宜
 を図るものとする。          ――露清密約より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 実に虫のよい話です。表では、日本の立場を若干考慮した議定
書に調印しながら、そのウラではそれを平気で裏切る密約を揃ぶ
――これがロシアのやり方なのです。
 この密約は、駐清ロシア公使カシニーの名前をとって、「カシ
ニー条約」と呼ばれています。ロシアはこのカシニー条約を揃ぶ
と、ロシアのロバノフ外相は駐露韓国公使を呼びつけて、次の3
つの内容の露韓密約を揃んでいます。度重なるロシアの日本への
裏切りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     1臓韓国王はロシアにおいて保護する
     2臓ロシアから軍事・経済顧問を派遣
     3臓日本との有事における武力の援助
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本がこれらのロシアの密約に気が付くのは、1897年7月
漢城(ソウル)にロシアの軍事顧問団13名が到着したときなの
です。日本という国は、「外交は情報戦である」ということがわ
かっていないのです。ドイツなどは、カシニー条約のことを・く
から掴んでしたたかな外交を展開しているのです。
 こういうロシアの後ろ楯を得て、韓国王はロシア公使館を遜て
国名を正式に「大韓帝国」、君主を「皇帝」に改めて清国から独
立を宣言したのです。1897年のことです。
 とにかく日本にとって朝鮮半島は国土防衛上重要であり、つ造
に強い関多を持っていなければならなかったのです。この考え方
は、英国の名提督として名高いキャプテン・ドレイクの考え方に
学んだのです。ドレイクは次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本は朝鮮半島と満州に足場としての港を確保し、大陸・の港
 の背中に国防線を引くべし    ――キャプテン・ドレイク
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、ドレイクのこの提言は朝鮮半島や満州を領有すべしと
はいっていないのです。いずれにしても、昔も今も朝鮮半島情勢
は日本の国防に大きく影響するのです。・・・ [日露戦争07]


≪画像および関・情報≫
 ・新田次・著/『八甲田山死の彷徨』 新潮文庫
  明治時代に冬の「八甲田山」で起きた陸軍、青森第五聯隊の
  ”全滅”は当時、大変なニュースであったらしい。”全滅”
  の中から奇跡的に命を取り留めた兵士は、その後暫くの間、
  講演活動などで引く手数・だった。この作品は、その「八甲
  田山」で起きた”事件”を冷徹に描ききった傑作である。な
  造、そういった悲劇が起きたのか。著者は筆を緩めることな
  く、軍人と軍という特殊な世界の遜・事を今に続く人間の組
  織のドラマに仕立て上げている。
  http://j4101122148-a.moovle.net/

1713号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月10日

日本の出番を作った義和団事件(EJ1714号)

 清国が日清戦争で日本に完敗したのを見て、西欧列強は清国が
内外ともに衰退しているのを見てとったのです。しかし、清国か
らは収奪できるものはまだたくさんある――西欧列強は一斉に動
き出したのです。
 1897年11月、何の前触れもなく、ドイツの艦隊3隻が三
東半島(シャントン)に現われ、海兵隊600人を膠州湾に上陸
させ、青島(チンタオ)付近一帯を占領してしまいます。ドイツ
人宣教師が何者かに殺害されたというのがその根拠です。
 このドイツの行動を見てロシアは、同じ年の12月15日、艦
隊6隻で遼東半島の旅順・大連に侵入し、旅順港をそのまま占領
してしまったのです。自分たちの欲しいところは押さえておくと
いう行動です。ロシアを頼りにしていた清国は大きなショックを
受けたのです。
 1898年3月になって、ドイツは清国から正式に膠州湾を租
借することに成功します。あわせて、青島から済南(チーナン)
までの膠州鉄道の敷設権も獲得し、事実上三東半島全域を支配下
に置いたのです。これは、カシニー条約の存在を掴んだドイツが
清国を脅して勝ち取った成果といわれます。
 しかし、ロシアのあくどさはドイツのはるか上を行くものだっ
たのです。清国がドイツに三東半島の租借を認めたことを知ると
ロシアは宰相の李鴻章を呼び出し、脅しをかけると共に巨額のワ
イロを贈って、清国から遼東半島の租借権とハルピンから大連ま
での東清鉄道の敷設権に関するさらなる権利を獲得したのです。
 ロシアの要求は、単に鉄道を敷設するだけでなく、その線路敷
はもとより、線路の両側や駅の周辺付属地の主権も租借地同様に
ロシアに帰属する−−そういう要求を呑ませたのです。
 ドイツやロシアがやれば、英国もフランスも黙ってはいないの
です。英国は三東半島北部の威海衛を租借し、フランスは、ラオ
スやベトナムに近い広州湾を租借するといった具合です。まるで
獲物にたかるハイエナのように、清国から取れるだけ取ろうとい
うわけです。その間、日本はひたすら軍事力の強化――軍隊に磨
きをかけていたのです。
 こういう西欧列強のあまりの非道ぶりを見せつけられた清国の
人々は、いわゆる排外運動――興清滅洋をスローガンとして立ち
上がったのです。1898年4月のことです。
 運動の核となったのは、三東省の貧しい人々の間に広がった宗
教勢力だったのです。彼らは「義和団」と称し、キリスト教に代
表される西欧文明の広がりこそ、庶民の生活を苦しめる災厄の根
源だと説いたのです。
 義和団は、たちまちのうちに三東省、河北省、河南省、山西省
へと勢力を拡大し、1900年6月には20万人を超える勢力と
なって北京に入り、各国公使館を包囲し、日本とドイツの外交官
を殺害する事態になります。
 当初清朝内部では義和団の動きを傍観していましたが、その勢
いが大きくなってくると、清国政府もそれと一体となって行動す
るようになります。事態は戦争の様相を呈してきたのです。
 こうした事態を受けて、英国、ドイツ、ロシア、米国、フラン
ス、イタリア、オーストリア、それに日本の8ヶ国は連合軍を編
成することを決定します。これに対して清国は8ヶ国に宣戦布告
をして戦争――北清事変がはじまったのです。
 しかし、8ヶ国がどのくらいの数の軍隊を出すかという段階に
なってもめたのです。英国はボーア人国家と泥沼の戦争をかかえ
ていたし、米国はフィリピンの独立戦争の鎮圧に躍起となってい
たので、多くの軍隊は出せない状況だったのです。しかし、ドイ
ツ、フランス、イタリアでは本国が遠すぎて、派兵することは困
難だったのです。
 結局大軍が出せるのは、ロシアと日本だけだったのですが、ロ
シアが大軍を出すのは他の国が反対したのです。下手をするとロ
シアに満州全域を取られかねないからです。そこで、期待された
のが日本なのです。そこで、日本は1万人を派兵します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    1.イギリス    ・・・  3000人
    2.アメリカ    ・・・  2000人
    3.フランス    ・・・   800人
    4.ドイツ     ・・・   200人
    5.オーストリア  ・・・    58人
    6.イタリア    ・・・    53人
    7.ロシア     ・・・  4000人
    8.日本      ・・・ 10000人
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このように連合軍は約2万人の軍隊を編成し、軍艦47隻で天
津を攻略したのです。そして、連合軍を先導するかたちの日本軍
は通州を急襲して清国軍を蹴散らし、英国軍は北京に入り、外国
人居留区を開放します。
 この戦争では参加国の軍隊による略奪や清国人に対する虐殺・
暴行・狼藉がとくにひどかったといいます。そのため皇帝を幽閉
して清国軍の指揮を執っていた西大后は、報復を恐れて皇帝を連
れ出して西安に逃亡してしまいます。
 これに対して、米軍と日本軍はよく軍律を守って行動し、きわ
めてマナーが良かったのです。とくに日本軍は指揮官の下に一糸
乱れずに行動し、存分の活躍をし、西欧列強各国を驚かせたとい
います。ここに日本は、はじめて「極東の憲兵」としてその存在
を認められたのです。
 総大将である西大后が逃げてしまったので、8ヶ国は今後の対
応を協議します。西大后を追って西安を攻撃し、清国を分割して
植民地にするか、あくまで清国政府を認めて外交の相手とし、紛
争の終結処理を行うか――協議は各国の思惑がからんで、紛糾し
ます。一番ずるいことを考えていたのはロシアなのです。ロシア
は、旅順に2万人の兵力を温存しており、西大后を支援する振り
をして満州の占領を考えていたのです。・・・ [日露戦争08]


≪画像および関連情報≫
 ・「義和団」とは何か
  義和団の興りは、清の中期に三東省に生まれた義和拳という
  宗教的秘密結社であり、白蓮教の流れを汲んでいた。信者ら
  は拳法の修練によって身体を鍛え上げ、呪文を唱えれば刀や
  鉄砲でも身体が傷つかないと信じていた。また、各集団ごと
  に民間小説のヒーローである諸葛孔明(『三国志演義』)や
  孫悟空(「西遊記」)などを神として祭るなど、その信仰も
  極めて土俗的なものであった。
             ――ウィキペディア「義和団」より

1714号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月11日

日英同盟か日露協調か(EJ1715号)

 清国をどうするか――植民地として割譲するか、主権を認めて
外交交渉をするか――この問題を巡る8ヶ国協議は各国の思惑が
からんで難航したのです。
 ドイツとフランスはあくまで植民地にして分割するべきだと主
張したのです。しかし、米国は清朝を残して「貿易の機会均等に
よる門戸開放」を主張して譲らなかったのです。
 英国はどうだったかというと、米国寄りの姿勢だったのです。
といってもドイツとフランスとは対立したくないと考えていたの
です。英国は世界中に艦隊を展開しており、それぞれの植民地で
の武力抵抗に対処するため、多忙を極めていたのです。
 もし、ドイツとフランスとコトを構えるとなると、世界中に展
開している艦隊を呼び戻す必要がある――それに英国が欲しいの
は、拠点としての港湾都市だけであり、何が何でも植民地にした
いとは思っていなかったのです。
 ところで、ロシアはどうだったのでしょうか。
 ロシアは、英・露・独・仏による清国の割譲などとんでもない
と考えていたのです。そんなことをすれば既に清国との間に締結
している有利な各種条約が宙に浮いてしまう――これでは何にも
ならない。そこで、清国を残すことを前提に、西大后と結託して
満州を占領することを考えていたのです。そのためにロシアは、
大連に2万人の軍隊を温存させていたのです。
 現にロシアはこの話し合いの隙を突いてロシア軍は、1900
年9月に瀋陽(シェンヤン)を占領してしまいます。そして10
月には鉄嶺(ティエリン)も占領するのです。
 これらの都市は、いずれも東清鉄道の鉄道敷設地であり、事実
上既にロシアのものという理屈がついているのです。しかし、こ
れらの都市を押さえられると、ロシアが朝鮮半島を侵攻するさい
の満州側の戦略上の基地になるため、日本にとっては看過できる
ことではなかったのです。
 その頃日本では、大陸強硬派の山縣有朋政権に代わって、大陸
協調派の伊藤博文による第4次内閣になっていたのです。それに
しても日本は戦争にも貢献し、会議に出ていながら、何ら重要な
発言をしていないようなのです。国際舞台への初デビューだった
ので遠慮していたのでしょうか。
 ここで英国の戦略について考えてみる必要があります。英国が
植民地政策を進める場合、総督を置いて支配するかたちをとるの
が一般的なのですが、植民地側にその総督に忠誠を誓う既存勢力
の存在が不可欠なのです。
 しかし、清国の場合、実権支配者である西大后に対抗する勢力
は皆無であり、既に西大后がロシアに押さえられていることから
植民地化は断念したのです。その代わり、朝鮮半島を巡って日本
とロシアが争っているのを利用しようとしたのです。
 英国は巨大な艦隊を持っていましたが、それらは世界中に分散
しており、英国が配置している東洋艦隊だけでロシアの極東艦隊
を制圧するのは難しいと考えていたのです。
 そこで、日本と組んで日本艦隊の力を利用すれば、ロシア極東
艦隊を牽制できると考えたのです。そこで英国にとって「日本と
組む」メリットが生まれたのです。なお、その頃の日本は自国で
軍艦を作ることができず、英国に発注していたのです。
 1900年11月8日、英国で日本の戦艦「三笠」が進水した
のです。この戦艦は全長122メートル、船幅23メートル、最
大速度18ノット、12インチ砲4門、6インチ砲14門を搭載
する当時世界最強の軍艦だったのです。
 1901年7月、駐英公使の林薫から、次の情報が本国にもた
らされます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 英国は皇帝陛下をはじめ、ソールスベリー首相以下、日英同盟
 論者が急増せり
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、時の政権の中枢はこの情報をなぜか黙殺しています。
深い考え方があっての黙殺ではなく、黄禍論が激しい中にあって
あの大英帝国が日本と同盟する意思があるとはとても考えられな
かったからなのです。
 逆にロシアの駐日公使が日本に示したとされる満韓交換論――
韓国を列国の共同保証のもとに中立化する案に伊藤博文をはじめ
山縣有朋までもが関心を示したのです。ちなみに伊藤内閣は19
01年5月に財政方針をめぐる閣内不統一によって総辞職してお
り、6月から桂太郎第1次政権になっていたのです。
 伊藤博文は、英国が本気で日本と同盟を締結しようとしている
のがわかってからも、ロシアとの交渉の考え方を捨てておらず、
桂内閣が正式に日英同盟交渉に入った後の12月にウィッテ蔵相
と日露協商交渉の名目で交渉を行っているのです。そのとき、ロ
シアは、まさか英国が日本と同盟を交渉しているとは考えていな
かったのです。
 しかし、ロシアは伊藤の提案などに聞く耳を持たずという態度
に終始したので、さすがの伊藤もロシアとの交渉の打ち切りを宣
言せざるを得なかったのです。
 ところが日本がロシアと交渉しているのを知って愕然としたの
は英国の方です。なぜなら、日露同盟ができると、英国がアジア
に築いている利権は吹き飛んでしまうからです。
 英国としては、腰を据えて時間をかけて交渉し、少しでも有利
な同盟条件にする気でいたのですが、態度を一変させ、日本の要
望を大幅に取り入れたのです。そういう意味において、伊藤博文
は、日英同盟成立に貢献したといえます。
 そして、1902年1月30日に日英同盟は成立するのです。
これを知ってロシアはあわてます。そして、満州南部の遼河以西
の地域からロシア兵を撤兵させ、続いて、盛京省と吉林省からも
撤兵を行ったのです。ロシアとしては、日本など問題にしてしま
せんが、英国が日本に加担したことを非常に警戒し、恐れていた
のです。             ・・・・ [日露戦争09]


≪画像および関連情報≫
 ・ロシアのウィッテ蔵相は伊藤の提案に前向きに対応
  ―――――――――――――――――――――――――――
  (日本の提案にしたがって、ロシアが)韓国を放棄すれば、
  われわれは日本との常なる誤解のの素を取り去り、いつも攻
  撃で脅かす敵を、同盟国とはいわないまでも、このように苦
  労して得た土地(満州のこと)を再び失わないよう、われわ
  れとの友好関係を維持しようとする隣国に変えることができ
  よう。             ――ロシア蔵相ウイッテ
    横手慎二著『日露戦争史/20世紀最初の大国間戦争』
                     中公新書1792
  ―――――――――――――――――――――――――――

1715号.jpg
posted by 平野 浩 at 22:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月14日

ウィッテはなぜ蔵相になったのか(EJ1716号)

 今回のテーマ「日露戦争の真実」では、戦闘のディテールより
も、戦争にいたる経緯や戦争終了後の処理に重点を置いて記述を
進めようと考えています。そのために、話が少し前後することが
あることをお許し願います。
 そこで、当時のロシアの蔵相ウィッテ(1849〜1915)
について少しお話しする必要があります。ウィッテは、アレクサ
ンドル三世によって任命されたのですが、当時のロシアには首相
職はなく、蔵相は事実上の政府の最高責任者だったのです。
 ソ連時代におけるウィッテの評価は「帝政の腐敗の象徴」だっ
たのですが、ソ連が崩壊すると今度は「経済改革の先駆者」とし
て評価が一変します。各地にはウィッテの名前を冠した通りや記
念像が建てられ、官僚時代の事務書類までを集めた全集が現プー
チン政権によって進められているといった具合です。ウィッテと
はどういう人物だったのでしょうか。
 セルゲイ・ウィッテは、鉄道畑の出身なのです。1890年に
大蔵省鉄道局長、1892年には交通大臣を務めましたが、同じ
年にアレクサンドル三世によって蔵相に抜擢されています。シベ
リア鉄道を推進するためです。
 シベリア鉄道の建設計画は、1882年にアレクサンドル三世
によって決定されたのですが、実際に計画が実行に移されたのは
1891年からなのです。
 なぜ、かくも遅れたかというと、予想される建設経費が巨額で
あって、当時経済的に豊かでなかったロシアの財政を圧迫し、計
画の実現を妨げたからです。時の蔵相はヴィシネグラツキー――
彼は財政の均衡を重視し、終始鉄道建設に難色を示してきたので
す。蔵相であれば、当然のことといえます。
 それでは、なぜ、アレクサンドル三世は全長8000キロメー
トルに及ぶシベリア鉄道を敷こうとしたのでしょうか。
 もともとはヨーロッパのロシア部における人口の稠密状態を改
善するのが目的であり、それに当時清国において勢力を拡大しつ
つあった英国とドイツに対抗するということが加わったのです。
 当時英国は清国内で着々と鉄道利権を獲得しつつあり、それが
ロシア領アムール河とウスリー河沿岸地域に脅威になっていたの
です。もし、英国が清国と結び、ロシアの弱い部分を襲ってきた
らどうするか――ロシアの皇帝は心配したのです。
 それに、満州における清国人の人口増加も気がかりだったので
す。清国人1200万人に対して極東ロシア領の人口はわずかに
7万3000人――この人口格差は将来大きな問題になると皇帝
は考えて、鉄道建設を急ぐべきであると決断します。
 そして、1891年5月――シベリア鉄道は東端のウラジオス
トックから建設が着手されることになり、皇太子のニコライ二世
をその起工式に出席させたのです。このとき、皇太子は日本に立
ち寄り、大津で暴漢に襲われています。
 当時のロシアの経済力は急成長していたものの、経済力として
は、西ヨーロッパ諸国と比べると非常に小さかったのです。した
がって、財政を心配するヴィシネグラツキー蔵相をはじめとする
鉄道建設の抵抗勢力が存在していたのです。中でも最大の抵抗勢
力は、地主貴族たちだったのです。
 地主貴族たちは、ヨーロッパ・ロシア部に土地を持っていたの
ですが、鉄道敷設によって人口の移動が容易になると、地価が下
がることを恐れたのです。
 1902年9月、アレクサンドル三世は抵抗勢力の中心である
ヴィシネグラツキー蔵相を解任し、鉄道建設のプロフェッショナ
ルであるウィッテを蔵相に任命したのです。
 ウィッテは、直ちにシベリア鉄道特別委員会を設けて、そこで
立法を含むすべての事項が決められる体制を敷くと同時に、強力
な政治力によって抵抗勢力を次々と粉砕していったのです。何と
なくどこかの国の首相に似ていますね。
 蔵相ウィッテがシベリア鉄道建設に没頭していた1894年に
日清戦争が起きるのです。そして、日本が勝利します。このとき
既に皇帝は、ニコライ二世になっていたのです。
 ここでロシアには、選択すべき次の2つの道があったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.清国の「弱さ」に着眼する戦略 ・・・ ニコライ二世
 2.日本の「強さ」に着眼する戦略 ・・・ ウィッテ蔵相
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 判断のポイントは、清国が弱いと見るか、それとも日本を強い
と見るかにあるのです。ニコライ二世は日本を過少評価して1の
戦略を取るべしと判断したのですが、ウィッテ蔵相は日本の強さ
を恐れて2の戦略を取ったのです。
 ここで大事なことは、西欧列強は日清戦争まで清国の力を過大
評価してきたということです。作家の司馬遼太郎は、その名著で
ある『坂の上の雲』で清国(シナと呼称)について次のように表
現しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 帝国主義の時代である。(中略)列強は、つねにきばから血を
 したたらせている食肉獣であった。その列強どもは、ここ数十
 年シナというこの死亡寸前の巨獣に対してすさまじい食欲をも
 ちつづけてきた。が、なおもシナの実力を過大に評価した。
 「シナはねむれる獅子である」
 と列強はおもい、もしもその獅子を過度に刺激することによっ
 て、ついに奮いたたせてしまいでもしたら、大けがをするのは
 列強のほうである。というおそれが、かれらの侵略行動をつね
 に制御した。
   ――司馬遼太郎著『坂の上の雲』第2巻より。文藝春秋刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ニコライ二世は当時父の時代から権勢を振るっているウィッテ
には抵抗できなかったのです。つまり、ウィッテに一目置いてい
たわけです。そこで、ウィッテはドイツとフランスと共同で日本
に圧力をかけたのです。       ・・・ [日露戦争10]


≪画像および関連情報≫
 ・司馬遼太郎著、歴史エッセー『ロシアについて』
  日露戦争の相手国ロシアでは司馬遼太郎の『坂の上の雲』
  翻訳はないが、上記の書は1999年に翻訳・出版
  この本の中で東京在住のコンスタンチン・サルキソフ山梨学
  院大学大学院教授は、司馬遼太郎を19世紀のロシアの大作
  家レフ・トルストイにたとえて、『坂の上の雲』によって司
  馬遼太郎は、長編小説『戦争と平和』のような「伝統的な人
  文主義の歴史小説の世界」を描き出したと賞賛している。
   ――読売新聞取材班/『検証・日露戦争』中央公論新社刊

1716号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月15日

遼東半島占領を決めたロシア御前会議(EJ1717号)

 蔵相ウィッテは、日清戦争で日本が勝つと、ニコライ二世が必
ずしも乗り気でなかったにもかかわらず、フランスとドイツに働
きかけ、遼東半島の返還を日本に要求したのです。
これは日本の「強さ」に着眼した戦略なのです。つまり、日清
戦争における日本の勝利は、清国が弱かったのではなく、日本が
強かったためであると考えていたのです。だからこそ、もし、日
本に遼東半島を与えると、満州とモンゴルへの日本の膨張の端緒
となり、やがてロシアを脅かす勢力となる――ウィッテはこのよ
うに分析していたのです。
 司馬遼太郎は『坂の上の雲』において、ウィッテについて次の
ように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ウィッテは大蔵大臣であったが、閣僚中の実力者として外交
 問題に強い発言権をもっていた。このウィッテの終始かわらな
 かった考え方は、極東においてはなるべく日本との衝突を避け
 るというところにあった。要するに日露戦争を回避するという
 ことであり、こういう考え方は、この時期のロシアの大官にお
 いてはきわめてめずらしい。
  むろん、ウィッテは平和主義者ではない。修道院的平和主義
 者が、この時代の本来血なまぐさい大国の大官がつとまるはず
 がない。(中略) (彼は)「日本との戦争はロシアになんの
 利益ももたらさないばかりか、害のみである」という考え方を
 とっている。
   ――司馬遼太郎著『坂の上の雲』第2巻より。文藝春秋刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 既に述べたように、ロシアはドイツとフランスを巻き込んで三
国干渉で遼東半島を日本から清国に返還させています。1895
年5月のことです。これによって清国はロシアに感謝し、満州を
横切る鉄道の敷設権をロシアに与えています。相手に感謝させて
一番欲しいものを得る――ここまではウィッテの巧妙な戦略がも
のをいったのです。
 しかし、1897年12月にロシアは遼東半島を占領してしま
います。ドイツが清国から膠州湾を租借したというそれだけの理
由からです。これを決める御前会議においてウィッテは、これに
猛烈に反対します。1897年11月のことです。
 『坂の上の雲』にもそのシーンは出てきますので、ご紹介して
おきます。御前会議でのウィッテの発言です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  それは清国への背信行為ではないか。露清条約(カシニー条
 約のこと)はどうなるのか。(中略)
  シナはロシアを疑惑する。それによってわが国の極東発展に
 大いなる障害をまねくであろう。眼前の一片の土地のほしさに
 百年の国益をうしなってはならぬ。
  ――司馬遼太郎著、『坂の上の雲』第2巻より。文藝春秋刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この御前会議においてウィッテは、清国の現状維持を図り、友
好関係を維持することが、ロシアの国益になることを説いている
のです。そして、満州において権益を拡大しようとすることは国
際的に反発を招くので、すべきではないとニコライ二世に忠告し
たのです。また、同席していた海軍提督も旅順は海軍基地として
立地上問題があるとして遼東半島の占領に反対したのです。
 しかし、ニコライ二世は、満州において権益を拡大したいとい
う膨張主義にとらわれており、聞く耳を持たなかったのです。外
務大臣ムラヴィヨフは、ニコライ二世がつね日頃から、いつも自
信満々に振る舞う態度の大きいウィッテに不快感を抱いているこ
とを知っていたので、その席ではニコライ二世を支持して旅順の
獲得を提案しているのです。まさに「偉大なるイエスマン」その
ものです。
 このような経過で、ロシアによる遼東半島の占領は、ニコライ
二世が了承して実行されたのです。しかし、これによって、ロシ
アは当事国である清国はもとより、日本までを敵にまわしてしま
うことになります。
 日本から見ると、これによってロシアは旅順に軍港と要塞を築
き、東清鉄道(ハルピン〜大連間)を建設するとともに、ロシア
がすでに朝鮮半島において獲得していた地位を強化し拡大してく
るように思えたのです。これを一番心配していたのは山縣です。
 しかし、ロシアはこのとき、乏しい財源の中から多大なる資金
を捻出して軍港建設費や鉄道敷設費をまかなわざるを得ず、とて
も朝鮮半島までは手がまわらなかったのです。そこで、駐韓ロシ
ア公使のパヴロフは、日韓共同支配を強化する協定の締結を提案
してきたのです。ロシアとしては、この協定以外に日本の朝鮮半
島に対する独占支配を抑える方法はなかったからです。
 このあと義和団事件が起こります。ロシアは連合軍に4000
人しか兵を出しませんでしたが、旅順に2万人の兵を温存してい
たのです。結果的にこの兵が満州に出て行くことになるのです。
 一方の日本も、西欧列強の要請により、1万人の兵を満州に出
しています。実は2万人出せる状況にあったのですが、それを嫌
うロシアに配慮して1万人に削減したのです。それでは、ロシア
は何を理由にして満州に兵を出したかです。
 ロシアとしては、いくらでも理由はあったのです。1900年
6月頃から、東清鉄道の建設でロシア人に不満を持っていた住民
は建設中の鉄道の破壊やロシア人の退去を要求するデモを起こし
ています。そして、この動きの背後には清朝や省レベルでの支配
層が加担していたことがわかっていたのです。
 さらに不幸な出来事が起こります。1900年7月15日――
アムール河でロシアの汽船が突然清国兵の発砲を受けたのです。
さらにこれは、アムール河の岸辺の街ブラゴヴェンチェンスクに
対して、対岸の清国領から砲撃が加わるという事態に発展するの
です。ロシア軍はすぐに反撃を開始し、ブラゴヴェンチェンスク
で多数の清国人を殺害したのです。 ・・・・ [日露戦争11]


≪画像および関連情報≫
 ・アムール河の流血
  北清事変最中である明治33年6月1日、清国兵がロシア領
  ブラゴエシチェンスクを襲撃したことに端を発して、ロシア
  は同地の清国人を捕縛の上、老若男女5000人あまりを黒
  竜江(アムール河)にて虐殺した。この惨劇は清国人のみな
  らず多くの日本人に義憤を巻き起こし、ロシアの非人道的行
  為を糾弾する声が高まった。さらにロシアは東清鉄道の防衛
  を口実にして大軍を送り込み、満州全土を占領した。ついで
  明治33年11月、極東総督アレキシーフは清国に迫りロシ
  アに有利な密約を結び、さらに翌明治34年には列国の反対
  にもかかわらず第2の露清条約を結ぼうとしたが、これは、
  日英両国の反対によってロシアは要求を撤回するにいたった
  のである。
  http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-hokusin.html

1717号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月16日

アムール河の惨劇とロシアの満州占領(EJ1718号)

 ロシアは満州に進出する機会を狙っていたのです。しかし、満
州に進出し、そのまま駐留するにはそれなりの理由が必要です。
一番よく使われた理由が「鉄道権益の保護」なのです。鉄道が破
壊され、鉄道員が殺傷されたりすると、それを理由に出兵し、清
国が鉄道破壊に対する賠償が終わるまで居座るのです。
 ですから、1900年のアムール河事件は、軍需品を満載して
黒龍江(ロシア名:アムール河)を航行中のロシアの船舶に対し
て清国が砲撃してきたのですから、ロシアとしては軍隊を出すこ
れほど正当な理由はなかったのです。
 しかし、このときはブラゴヴェシチェンスク在留の清国人を5
千人虐殺したということで、ロシアの暴虐性が世界中で非難のマ
トになったのです。
 日本では1900年はまだ19世紀ということになるのでしょ
うが、20世紀は「虐殺の世紀」ともいわれるのです。このアム
ール河の流血は、その後のナチスのホロコースト、カンボジアの
ポル・ポト政権による虐殺などの幕開けに位置づけられる痛まし
い事件だったのです。
 詩人の土井晩翠は、このアムール河の流血について「黒龍江上
の悲劇」という詩を書いて次のように歌っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 記せよ――西暦一千九百年、なんじの水は墓なりき、五千の生
 命罪なくて、ここに幽冥の鬼となりぬ     ――土井晩翠
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 さらに1901年になって、旧制第一高等学校東寮の第11回
記念寮歌として作られたのが、『アムール河の流血や』です。塩
田環作詞・栗林宇一作曲です。一番だけを記述しておきますが、
添付ファイルでも紹介します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          アムール河の流血や
          凍りて恨み結びけん
          20世紀の東洋は
          怪雲空にはびこりつ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『アムール河の流血や』のメロディはご存知ですか。
 この歌はその後いろいろな替え歌として歌われたのですが、一
番有名なのがメーデーの歌として知られる「聞け万国の労働者」
――聞け万国の労働者 轟き渡るメーデーの 示威者に起こる足
どりと 未来を告げる鬨の声――というあの歌のメロディが『ア
ムール河の流血や』なのです。
 アムール河でロシアの船舶が清国兵から発砲されると、ロシア
軍の作戦行動は瞬く間に拡大し、1900年8月にはチチハルを
占領、9月後半には満州中部の多くの都市を支配下に置きます。
さらに10月初頭には瀋陽までロシア軍は占領するのです。
 ちょうどこのとき、連合軍――ロシア以外の7ヶ国は北清事変
の後始末をしていたのですが、清国側と協議するうえで、ロシア
のこの軍事行動をどう扱うべきかについて検討したのです。
 ロシアとしては他の国と違って清国と長い国境で接しており、
しかも、満州で大規模な鉄道工事を行う権利を有しているので、
特別な処遇を受けるべきであると主張したのです。また、清国政
府は現在政府の体をなしておらず、治安確保のためにも軍を駐留
させざるを得ないと主張し、そのまま満州に居座ったのです。
 1901年に清国は連合各国に対し、莫大なる賠償金を支払う
条件で講話は成立します。日本を含む各国は、講話が成立すると
速やかに軍隊を引き揚げたのですが、ロシアだけは軍の駐留を続
け、満州全域を占領し続けたのです。
 この事態が続くと満州は事実上ロシアのものになり、日本は満
州への進出の機会が完全に閉ざされてしまうだけでなく、ロシア
が朝鮮半島に進出してくることは確実視されていたのです。
 実際問題としてロシアはそのように考えていたのです。ウィッ
テはもちろん反対したのですが、その頃から極東のことに関する
限り、ウィッテの発言力は弱まっていたのです。その時点でニコ
ライ二世の判断に影響を与えていたのが、ペゾブラゾフという退
役の騎兵大尉なのです。
 『坂の上の雲』にペゾブラゾフの考え方が次のように出ていま
す。ウィッテは、ペゾブラゾフこそ日露戦争の原因を作った男と
非難しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 満州と遼東を占領しただけで朝鮮を残しておいてはなにもなら
 ない。朝鮮は日本が懸命にその勢力下に置こうとしており、将
 来日本はこの半島を足がかりとして、北進の気勢を示すであろ
 う。その日本の野心をあらかじめ砕くには、いちはやく朝鮮を
 とってしまうほかない。         ――ペゾブラゾフ
  ――司馬遼太郎著、『坂の上の雲』第2巻より。文藝春秋刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ペゾブラゾフ――彼は巧みにニコライ二世に取り入っていたの
です。このような人物は帝国主義的膨張期にはどこの国にも必ず
いる右翼の大立者ともいうべき人です。しかし、状況判断力に優
れ、弁舌が立つことによって皇帝のお気に入りだったのです。
 それにニコライ二世は、いわば歴史的虚栄家であって、歴史的
偉業になるものにはすぐ手を出す人物です。このときもペゾブラ
ゾフが提案した朝鮮に国策会社を設立する――こういう構想に飛
びついたのです。
 この国策会社によって、あらゆる事業――産業、都市建設、鉄
道・港湾建設などにロシア資本を投入し、朝鮮人の心を掴んで、
他日機会を掴んで一挙に日本を朝鮮から駆逐するという構想であ
り、実際に「東亜工業会社」の名前で1901年に設立されたの
です。つまり、満州は軍が取る、朝鮮は東亜工業会社が取る――
この戦略に日本はどんどん追い詰められていくことになります。
 しかし、ロシアは経済・財政的に朝鮮半島に巨額の資金を投入
することなどできなかったのです。・・・・・ [日露戦争12]


≪画像および関連情報≫
 ・関連話題
  義和団の乱の第一報が届いた時、ロシア陸相クロパトキンは
  笑みを浮かべて「満州を占領する口実ができた。満州を第二
  のブハラ(1868年に征服した中央アジア)にするつもり
  だ」とウィッテ蔵相に豪語し、さらに皇帝ニコライ二世は、
  満州を占領後は更に朝鮮も占領することを欲しており、ロシ
  アの侵略的野心は止むことはなかった。かくして北清事変後
  に乗じてロシアは虎視眈々としていた満州を軍事占領、その
  矛先は朝鮮に及び、極東の緊張は高まっていったのである。
  http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-hokusin.html

1718号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月17日

伊藤博文はなぜ日露協調をとったか(EJ1719号)

 ロシアの満州居座りに対して、危機感を深めた日本政府内には
次の2つの考え方があったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    1.日露協調 ・・・ 伊藤博文・井上 馨
    2.日英同盟 ・・・ 山縣有朋・桂 太郎
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この場合、「日露協調」を進めようとした伊藤博文らの考え方
はいささかわかりにくいのですが、司馬遼太郎の『坂の上の雲』
には次のように書かれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  要するに日露戦争の原因は、満州と朝鮮である。満州をとっ
 たロシアが、やがて朝鮮をとる。(一部省略)そういうロシア
 の南下による重圧をなんとか外交の方法で回避できはしまいか
 と考え、いっそロシアと攻守同盟を結んでしまったらどうか、
 という結論を思いいたったのは、伊藤博文である。
  飛躍にちがいない。
  隣り村にまで押し込んできている武装盗賊集団に対し、自分
 の村と隣り村だけはなんとか侵さないでもらえまいかと、頭を
 さげて直取引きにゆくようなものであり、盗賊団にすれば虫の
 よすぎるはなしであった。同時に村の者からみれば、腰抜けと
 しかみえない。――司馬遼太郎著、『坂の上の雲』第3巻より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ロシアは既に満州を事実上占領している。しかも、そのやり方
は、これまで見てきた通り、フェアではない。居直り強盗そのも
のである。やがて、朝鮮半島に踏み込んでくることは確実。そう
なると、日本の安全保障が脅かされる。これを回避するためには
戦うしかない――本来ならこうなるはずです。それを当のロシア
と「攻守同盟」を結んで解決しようとする――これが伊藤博文の
考え方だったのです。
 どうして伊藤博文はこのような考え方を持ったのでしょうか。
おそらく彼は次のように考えていたのだと思います。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.英国が日本との同盟に応ずることが信じられなかった
 2.日本が本当にロシアに勝てると考えていなかったこと
 3.現実派であって、ロシアを必要以上に恐れていたこと
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 伊藤博文は、日英同盟が本当に実現するとは考えていなかった
のです。黄渦論が渦巻くヨーロッパの国の中でも最も誇りが高く
それまでどこの国とも同盟を結んでいなかった最強の海軍国であ
る英国が、アジアの弱小国家に過ぎない日本と同盟を結ぶはずが
ない――伊藤はそのように考えていたのです。
 それに英国は日清戦争のときは、中立を宣言しながらも、日本
艦隊の所在を信号で清国に連絡するなど、必ずしも日本の味方と
はいえない行動をとっていたのです。しかし、英国は三国干渉に
は加わらず、その点はドイツやフランスと違っていたのです。当
時の英国はボーア戦争を抱えており、日本を利用するメリットは
十分あったといえます。
 確かに日英同盟が成立しなければ、日本がロシアに勝てるはず
がないと考えても不思議はないのです。それに伊藤は必要以上に
ロシアを恐れていたことも確かなのです。
 こういう伊藤博文の姿勢は、当然世間の批判を浴びます。中で
も駐露日本公使館付武官補佐官であった田中義一少佐は伊藤と直
談判をしたといわれます。歴史研究家の加来耕三氏の著作『真説/
/日露戦争』――出版芸術社刊にはそのシーンが次のように書か
れています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「閣下、ロシアは戦争を承知のうえで満州への侵略をすすめて
 おります。もはや日本には、戦う以外に選択肢はありませぬ。
 満州をロシアに、朝鮮を日本に任すなどといっても、所詮はロ
 シアの時間稼ぎに利用されるだけです。おわかりになりません
 か。この現実が」
  このとき、伊藤は60歳、田中は36歳であった。田中は明
 治29年から4年間、ロシアに留学しており、ロシアをつぶさ
 に見てきた。それをかわれて、日露戦争では満州軍総司令部の
 作戦主任に任命される。だが、伊藤は田中を認めない。
 「なにをいうか、青二才が!」
 激怒した。その伊藤に、なおも田中は食い下がる。
   ――加来耕三著、『真説/日露戦争』より。出版芸術社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、結果として、伊藤の対露交渉は英国を慌てさせること
になって、日英同盟交渉が加速するという皮肉な結果となるので
す。そして1902年1月30日、ロンドンにおいて日英同盟協
約が締結され、即日発効されたのです。協約の骨子は次の3つに
まとめられます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.清国における日英両国の利益と大韓国における日本の政
   治・産業の利益を第三国の侵略的行動や民衆の反乱から
   守るため、日英は適当な措置を講ずる。
 2.日英両国のいずれかが第三国と戦争になったとき一方の
   締結国は厳正に中立を守ることとする。
 3.前項において第三国に他の国が同盟して参戦するときは
   一方の締結国は同盟国と参戦すること。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここで「第三国」とはロシアであることを想定しています。第
三項を見ると攻守軍事同盟であり、もし英国がヨーロッパでドイ
ツやイタリアと戦争を始めると日本は参戦する義務が生じたので
す。しかし、その時点でほぼ確実視される日露戦争においては英
国は参戦しないという点が抜け目のない英国の外交の巧さを感じ
させます。事実英国がそういう戦争をはじめる危険性は十分あっ
たのですから。      ・・・・・・・・ [日露戦争13]


≪画像および関連情報≫
 ・日英同盟に一役買った新渡戸稲造の英文『武士道』
  加来氏の上掲の本に次の一節がある。
  ―――――――――――――――――――――――――――
   義和団の蜂起、北清事変で事実上、連合国最大兵力を負担
  した日本はこの事変を通じて列強にその実力のほどを見直さ
  れ、とりわけイギリスに強い印象を与えることに成功した。
  「日本には騎士道同様の武士道がある」
   すでに国際的ベストセラーになっていた新渡戸稲造の英文
  『武士道』の影響力も手伝って、イギリスは日本との同盟を
  考えはじめる。
   ――加来耕三著、『真説/日露戦争』より。出版芸術社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

1719号.jpg
   『真説/日露戦争』
posted by 平野 浩 at 23:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月18日

絶対に譲れぬ一線とは何か(EJ1720号)

 日英同盟が成立すると、さすがのロシアも国際的非難をかわす
ためにも満州から兵を引いてみせる必要があったのです。これを
巡ってロシア政府内部には次の3つの案があったといわれます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.満州を一時的に清国に返還することによって、英国の警戒
   心を解き、日英同盟を実質的に無効にさせて、しかる後、
   再度満州に兵を入れる。
 2.装備や軍需物資はそのままに残しておき、とりあえず兵員
   8万人を撤退させる。必要になれば、兵員のみを輸送すれ
   ば直ちに戦力化できる。
 3.清国と協約を結び、計画にしたがって撤退するが、情勢の
   変化に合わせて撤退をコントロールする。そして、瀋陽付
   近に兵員を集結させる。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1の案は、蔵相ウィッテ、陸相クロパトキン、外相ラムズドル
フの3人が主張したものです。ロシアは全軍を満州から撤兵し、
国策会社の利権を外国商社に売り、東清鉄道を露清銀行を使って
準民営化させ、ロシアの信用を回復させる――そのうえでシベリ
ア鉄道を早期に完成させ、動員力を確保し、再び満州に兵を入れ
それから朝鮮半島にも進出するという案です。
 もし、この案をロシアが採用していたら、おそらく日本は開戦
の機会を失い、朝鮮半島も獲られていたかも知れないのです。し
かし、ウィッテ、クロパトキン、ラムズドルフの3人は、こと極
東政策に関しては既に発言権はなかったのです。
 極東関係の主導権は、ニコライ二世が寵愛していたベゾブラゾ
フとアレクセーエフ海軍大将に移っていたのです。とくに国策会
社――鴨緑江木材株式会社はベゾブラゾフが作ったものであり、
これを外国商社に売ることなど承知するはずがなかったのです。
結局、彼らの採用したのは3の案なのです。
 そこでロシアは、1902年4月8日に、10月18日までに
満州南部の遼河以西の地域から撤兵すると発表し、本当に撤兵す
したのです。続いて、1903年4月8日までに、盛京省と吉林
省からも撤兵すると発表したのです。
 しかし、第2次の撤兵は行われなかったのです。それどころか
シベリア鉄道の未完部分の建設と警護を理由に多くの将兵を満州
に送り込み、満州と朝鮮半島で戦えるだけの兵力を着実に蓄積し
ていったのです。
 ある国との間に外交の懸案事項があるとします。どこの国の政
治家も戦争などやりたくないと考えているので、何とか妥協点を
探ろうとします。しかし、あることを妥協すると、相手はその妥
協点を出発点とする新しい要求を出してきます。これを繰り返す
と、妥協する方がどんどん不利になっていくのです。
 優れた政治家というものは、いくら妥協を繰り返しても「絶対
に譲れない一線」というものを明確に持っています。それを冒さ
れたときは敢然と実力行使――つまり、軍事力の行使を行い、そ
の一線を守り、妥協しないのです。
 その点、明治の政治家は、その「絶対に譲れない一線」という
ものをきちんと持っていたといえます。その譲れない一線とは何
でしょうか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      ロシアが朝鮮を保護国にしないこと
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これを具体的にいうと、ロシアが満州を支配下に置くことを意
味するのです。こういう点は、穏健派であって、最後まで戦争を
避けるため、日露協調を探った伊藤博文でもきちんとそれを持っ
ていたのです。
 それに比べて、現在の日本の政治家は「絶対に譲れない一線」
を持っているでしょうか。
 1954年に韓国の警察隊(事実上は軍隊)に竹島を占拠され
ても具体的には何もせず、百名を超える自国民が不当にも拉致さ
れても経済制裁ひとつできない――ずるずると妥協を積み重ねて
いたずらに相手を利する結果を招いています。
 現在の国際社会では、「既成事実の原則」というものがありま
す。例えば、ある島が武力の行使によって主権が奪われたとき、
その主権を持つ国がその島の奪回のための闘争を続けていかない
限り、奪われた主権は既成事実によって相手国の主権に組み込ま
れてしまうことになっているのです。
 こういう時代に、戦争はもちろんのこと、敵から攻撃されても
十分な反撃もできない憲法を持つ日本は、今後やっていけるので
しょうか。
 当時の日本政府が一番恐れたのは、ロシアが満州に居座り、占
領という既成事実を作り上げてしまうことだったのです。なぜな
ら、当時の清国の力ではロシアに対して奪回のための抵抗ができ
ないことがわかっていたからです。
 稀代の戦略家といわれるナポレオンの名言に次のようなものが
あります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 軍隊は敵軍を撃破するためにある。よほどのことがないかぎり
 敵国を占領するのに軍隊を使用するな。それは軍隊運用の限界
 を越えている。              ――ナポレオン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 確かにこれは名言です。軍隊は占領統治をするためのものでは
ないのです。成吉思汗は敵軍を撃破し、相手の国王を倒すと、即
座に兵を引いたのです。その国を再建するのは敗者の仕事である
というのです。そして、もし、そこに反成吉思汗政権が出来ると
再び来襲して殲滅したのです。こうして、成吉思汗はわずか25
万の兵力でモンゴル大帝国を築いたのです。
 そういう意味で当時のロシアや韓国を併合した日本は明らかに
間違っていたといえます。講和条約なき戦争終結は、侵略戦争そ
のものだからです。    ・・・・・・・・ [日露戦争14]


≪画像および関連情報≫
 ・松村 劭氏の本
  陸上自衛隊出身で、米国デビュイ戦略研究所東アジア代表
  ―――――――――――――――――――――――――――
      ――松村 劭著、『教科書が教えない/日露戦争』
                       文春ネスコ刊
  ―――――――――――――――――――――――――――
  軍事理論を日露戦争に適用して考察し、そこから得られる教
  訓をもって現代の諸問題を観察する好著である。今回のテー
  マでもいろいろな面で活用させていただいている。

1720号.jpg
『教科書が教えない/日露戦争』
posted by 平野 浩 at 12:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月21日

クロパトキンの来日(EJ1721号)

 1903年6月10日にロシアの陸相クロパトキン大将が来日
したのです。ロシアの大物の来日です。時期が時期であり、人物
が人物です。日本から見れば、日露和解のための使者と考えても
不思議はないのです。
 しかし、クロパトキン大将の訪日は事前に予定が組まれていた
のです。しかし、クロパトキンは4月末にペテルブルグを出発し
ながら、わざとゆっくりと満州、遼東半島、沿海州などを査察し
なかなか日本に近寄ろうとはしなかったのです。
 クロパトキンは、ニコライ二世からの指示を待っていたのだと
いわれています。その皇帝からの指示は、クロパトキンが日本に
到着する直前に届いたのです。
 皇帝からクロパトキン大将に届いた指示は次のようなものだっ
といわれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.ロシアに対して配慮を払う条件において、日本は今後極東
   諸国の中で枢要の地位を占めることを強調すること。
 2.日本は英国と組んで武器を振り回わしてロシアを威嚇する
   ようなことをすればそれは逆効果を生むということ。
 3.ロシアが極東方面でとった一連の行動は、他国のためでも
   あって正当性のあるものであることを強調すること。
 4.日本における諸会談では、たとえ日本から話を向けられて
   も朝鮮半島についてコメントすることは控えること。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 クロパトキンとしては、なるべく戦争は避けたいと考えており
そのためには日本が最大の関心を持っている朝鮮半島の扱いにつ
いて討議したかったのですが、これを皇帝から封じられてしまっ
たので、積極的な発言ができなくなってしまったのです。
 皇帝の指示はともかくとして、日本政府としては、この時期に
クロパトキンが日本に来る狙いは、日本が本当に戦争を準備して
いるかどうかを探ることにあると考えていたのです。
 これに対して日本政府は、戦争の準備なんかしていないふりを
することにして、クロパトキンが会いたい人物、行きたい場所は
すべてを見せる方針でクロパトキンに接したのです。
 これはクロパトキンが後日に語ったことですが、近衛師団長の
長谷川好道中将と後に第一軍を率いることになる黒木為訛臂Cヒ
はすさまじい威圧感を覚えたことから、日本はロシアとの戦争も
辞さないと考えていることを悟ったというのです。
 そのため、桂太郎首相との会談において、クロパトキンは次の
ようにいったといわれます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 私個人としてはあくまで戦争を望むものではありませんが、も
 し、日本がわが帝国に挑戦してくれば、われらは300万人の
 ロシア常備軍を出動させ、東京を占拠してお目にかける。
      ――アレクセイ・ニコライヴィッチ・クロパトキン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 クロパトキンの接待には村田淳少将が当ったのですが、村田少
将は、クロパトキンとの雑談を通して、日本はロシアとの戦争は
やりたくないと考えているが、国内には戦争も辞さずという考え
方が根強くあることを率直に伝えたといっています。
 既に述べたように、クロパトキン陸相は、ウィッテ蔵相、ラム
ズドルフ外相の3人は対日妥協派として知られていますが、皇帝
の寵臣ペゾブラゾフは、アレクセーエフ海軍大将をはじめとして
極東外交に関わる次の人物をすべて押さえていたのです。驚くべ
き政治力といえます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    レッサー駐清ロシア公使
    パブロフ駐韓ロシア公使
    チチャーコフ・ハルピン中将/駐屯軍司令官
    マドリトフ中佐/鴨緑江木材の現地指揮官
    ウォーガタル少将/駐日公使官付武官
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 彼らは対日妥協派の3人の失策をつねに画策しており、極東政
策の主導権を獲ろうと皇帝に働きかけていたのです。
 さて、日本側は、クロパトキンがまだ日本に滞在している6月
23日に御前会議を開いています。そして、日本としては韓国に
おける優勢地位については譲らず、満州についてはロシアに、鉄
道経営の利権のみ擁護を認めるという方針を決めています。そし
て、それをそれとなくクロパトキンにメッセージとして伝えたの
です。クロパトキンが離日したのは6月28日のことです。
 日本の基本的な考え方を理解したとみられるクロパトキンは、
日本を離れるとすぐ日露和解に向けて行動を開始したのです。そ
の結果開催されたのが旅順会議です。
 1903年7月1日から10日まで、ロシアは皇帝の命により
旅順において、クロパトキンをはじめとして、アレクセーエフ、
ベゾブラゾフ、北京駐在公使、東京駐在公使などの実力者を集め
てロシアの極東政策について会議を行ったのです。
 この旅順会議においては、満州におけるロシアの権益と鴨緑江
の事業が中心に討議されたのですが、終始クロパトキンが主導権
をとっていたのです。
 クロパトキンは、鴨緑江の事業については、日本の対露認識に
悪い影響を与えているので、事業の中身を縮小し、満州と遼東半
島の権益を守るべきであると説いたのです。これに対して、ペゾ
ブラゾフは、日本は満州も朝鮮半島も狙っているので、鴨緑江沿
岸だけ譲っても意味がないとして、正面から反対したのです。
 結局、アレクセーエフがどちらにつくかに注目が集まったので
すが、このとき彼はクロパトキン側の意見に賛成したのです。な
ぜなら、アレクセーエフはかねてより遼東半島を中心とする満州
の権益を重視していたことと、この時点でベゾブラゾフに対して
不信感を抱いていたからです。しかし、ニコライ二世の考え方は
少し違っていたようです。 ・・・・・・・・ [日露戦争15]


≪画像および関連情報≫
 ・アレクセイ・ニコライヴィッチ・クロパトキンについて
  クロパトキンは日露戦争の前年(!)、陸軍大臣として来日
  している。極東視察の一環という名目だ。日本側は、儀礼的
  な笑顔の奥で相当に身構えながらこれを迎えたわけだが、ご
  当人はかなり物見遊山だったようで、みやげ物をごっそり買
  い込んでいる。東京で純銀製花瓶、置物、指輪、かんざし、
  腕輪、財布、煙草入れなど六十余点三千五百余円、京都で象
  牙細工三百余円、ビロード額地、絹織物四百余円、扇子数百
  本といった具合だ。彼はのち、ロシア陸軍の総大将として、
  日本軍に勝利をごっそりプレゼントしてくれる。実に気前の
  いい人物ではあるようだ。
           ――http://www.c20.jp/p/kuropa_a.html

1721号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月22日

アレクセーエフ極東全権を握る(EJ1722号)

 EJは、現在、日露戦争開戦1年前の出来事を記述しておりま
す。しかし、どうして日本がロシアと戦争する事態になったのか
についてなるべく詳細に書こうと考えております。このあと、日
付を記載するとき、それが何年の話であるか、わからなくなると
いけないので、次の年月をあらかじめ示しておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1904年(明治37年)2月 6日  ロシアと国交断絶
 1904年(明治37年)2月10日  ロシアに宣戦布告
 1905年(明治38年)9月 5日  日露講和条約調印
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1903年当時、日露交渉に当った日本の政府首脳は、桂太郎
首相と小村寿太郎外相です。桂も小村も「ロシアとの戦争はやむ
なし」と心に決めていたものの、ぎりぎりまで戦争を避けるため
の日露交渉に全力を尽くしたのです。
 この時点で日本の政界に大きな影響力を持つ山縣有朋と伊藤博
文も対露交渉については桂−小村ラインに完全にまかせていたと
思われます。1903年7月に伊藤は枢密院議長に就任し、彼の
有する政友会総裁の地位を西園寺公望に譲っています。これによ
って、日露交渉の全権は桂−小村ラインに委ねられたのです。
 山縣有朋も桂−小村ラインの考え方を支持しており、彼も「ロ
シアとの戦争はやむなし」と考えていたのです。伊藤にしても山
縣にしても、桂−小村ラインが戦争を決意すればそれに従うハラ
は固めていたのです。
 1903年7月28日、小村外相はモスクワ駐在の粟野公使に
ラムズドルフ外相に対して交渉の申し入れをするよう命令してい
ます。これに対するロシア側の了承は得られたので、小村は8月
3日に目指すべき協定の基本線を粟野公使に示しています。この
提案の要旨は次の通りですが、この小村提案は、かなり強気の提
案だったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.清国と韓国の独立と領土保全を尊重し、各国のあらゆる商
   業活動を妨げてはならないこと。
 2.ロシアは日本の韓国における、また日本はロシアの満州に
   おける商工業活動を妨害しない。
 3.ロシアは韓国において日本が軍事上の援助を含めて助言を
   与える権限を持つことを認める。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これを見るとわかるように、ロシアの権限を明確に制限し、ロ
シアが韓国に有していた権限を放棄させ、日本の韓国における独
占的な権限を与える内容になっています。小村としてもこの案を
ロシアが認めるはずはないとは考えていましたが、交渉は最初は
強気に出る作戦で提案したのです。
 しかし、ロシアのラムズドルフ外相は多忙を理由として、粟野
公使に会うことを拒否し、8月12日にはじめて日本の提案を受
け取ったのです。
 ところがその12日にロシア皇帝は、極東大宰府を新設し、そ
の長にアレクセーエフ提督を任命すると発表したのです。これに
よってアレクセーエフはいわゆる極東総督になり、太平洋艦隊と
この極東地域に配備されたロシアの全軍を指揮し、極東地域でロ
シアと隣接する国家との外交関係を左右する権限を手に入れたの
です。もちろん対日窓口の最高責任者もアレクセーエフというこ
とになります。
 アレクセーエフ極東総督は、日本との交渉は駐日ロシア公使の
ローゼンと東京で行うべしと命令しているのです。これは、領土
を含む重要な国家間交渉を日本政府はロシアの出先機関との間で
行うことを意味しており、日本にとってきわめて屈辱的なことで
あったのです。
 とにかくロシアは日本をなめ切っていたのです。とくにベラブ
ラゾフらの対日強硬派はそうだったのです。3年間駐日ロシア公
使館付陸軍武官ワンノフスキー大佐や海軍のグランマッチコフ艦
長は、日本の軍隊について次のようにいっていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ・日本陸軍がヨーロッパ最弱の軍隊と同一の水準に達するのに
  はあと100年かかる。     ――ワンノフスキー大佐
 ・日本海軍は物的装備はまあまあだが、海軍軍人の精神を持っ
  ていない。軍艦の操法、運用などは幼稚というほかない。
                 ――グランマッチコフ艦長
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ロシアの返事は遅れに遅れ、10月3日に返事がきたのです。
内容は日本にとってひどいものだったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.日本の韓国における優越な利益は承認するが、韓国の領土
   は軍略上の目的で使用してはならない。
 2.満州およびその沿岸は日本の利益の完全なる範囲外である
   ことを日本は承認しなければならない。
 3.韓国領土の中で、北緯39度以北にある部分は、中立地帯
   とし、両国は軍隊を引き入れないこと。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 つまり、韓国における日本の優越な利益は条件付で認めるが、
そこを軍略的に使うことを禁ずるなど種々の制約を加えているの
に対し、満州は日本には関係ないから、一切はロシアが清国と相
談して自由に使うことを日本は承認すべしといっています。
 しかも、3については、韓国の北緯39度以北――現在の平壌
と元山を結ぶ線の中立地帯を除くと、ロシア側は韓国国境の鴨緑
江と豆満江を確保し、日本軍が満州や遼東半島に向かうのを阻止
できるなど、日本が到底承服できない内容だったのです。
 しかし、桂−小村ラインは交渉を継続すべしとして山縣、伊藤
とも連携して、日本は修正案をまとめ、10月末にロシアのロー
ゼン公使に手交しています。それは朝鮮半島の中立地帯のライン
の変更提案だったのです。   ・・・・・・ [日露戦争16]


≪画像および関連情報≫
 ・エフゲニー・イワノヴィッチ・アレクセーエフ
  ロシアの東方進出を推進した中心的人物で、皇帝の信任も厚
  く、しばしば国政を壟断した。海軍大将であったが、極東地
  区の内政・外政・軍事の三権を掌握し対日政策では日本の戦
  力を過小評価し強硬路線を取った人物である。

1722号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月24日

ロシアとの最終交渉と戦争準備(EJ1723号)

 日露戦争直前の日本とロシアの外交交渉を調べてみると、外交
交渉というものは難しいものだなと感じます。小村寿太郎外相は
ロシアに対して相当強気の案をぶつけてロシアの反応を見ていま
す。ロシアは日本の譲れない一線というものを熟知しています。
そういう強気の案に対して、どういう対案をロシアは出してくる
か――それによってロシアの本音が透けて見えるのです。
 果たせるかな、ロシアは日本の強気の案に対して、やはり強気
の対案をぶつけてきたのです。ロシアは満州を独占し、韓国――
現在の韓国ではなく、現在の北朝鮮を含む朝鮮とロシアの国境の
拠点を確保して、いつでもロシア軍が朝鮮半島に攻め入ることが
できる案を提示してきたのです。
 これは明らかにアレクセーエフ極東総督の考え方であると考え
てよいと思います。アレクセーエフ極東総督は、9月28日のニ
コニイ二世に宛てた書簡で、次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本との来るべき交渉では、日本政府にこの上なく明瞭に、ロ
 シアは満州における自己の権利と利益を、必要とあれば武器を
 使ってまで守るつもりであるとわからせるように、ローゼン公
 使に行動させることによってのみ、その成功を期待することが
 できる。           ――アレクセーエフ極東総督
 横手慎二著、『日露戦争史/20世紀最初の大国間戦争』より
                     中公新書1792
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 こういう場合、時を置くと、その状態を黙認したことになって
しまいます。そのためには交渉を継続する必要があるのです。こ
こにきて日本としては、ロシアの満州の支配を認めざるを得ない
と考えたのです。しかし、韓国と満州の国境付近にまで何とか日
本の影響力を残したい――日本政府はこれを目標として次の提案
を行ったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 中立地帯を韓国と満州の両側各50キロメートルと変更せよ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この日本の主張は、簡単にいってしまうと、「ロシアの満州の
権益は認めるが、韓国は日本が支配する」という「満韓交換論」
に通じる考え方といえると思います。
 その頃日本国内の状況はどうだったのでしょうか。
 早期開戦の急先鋒に立っていたのは参謀本部です。1903年
6月22日の時点で、大山巌陸軍参謀総長は明治天皇に対して次
の趣旨の書簡を意見書として提出しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 不幸にして開戦するならば、ロシアの軍事力が整わないこの好
 機を逸してはなりませぬ。          ――大山 巌
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 桂−小村ラインは、交渉の継続を強調して参謀本部の行動を抑
制しています。ところが、10月1日に田村参謀本部次長が急死
したのですが、政府はその後任に児玉源太郎を任命しています。
児玉といえば、早期開戦論の急先鋒であり、当然戦争のことを考
えての起用なのです。
 桂−小村ラインは、児玉を任命するさいに「日露の交渉は平和
に傾きつつある」と思わせているのです。つまり、このとき参謀
本部は、政策の決定から完全に切り離されていたといえます。
 しかし、そこは児玉源太郎です。彼は戦争は不可避と考えて、
参謀本部の権限でできる範囲内でひそかに開戦の準備をはじめて
いたのです。
 児玉源太郎参謀本部次長は、就任直後の10月20日と21日
に会議を開いて朝鮮半島上陸作戦を検討しているのです。馬山、
鎮南浦、そして仁川に上陸する作戦を検討して作戦計画書を練っ
ています。そして、27日、その計画書を寺内正毅陸相に提出し
ているのです。
 それでは海軍はどうだったでしょうか。
 海軍もその権限内で開戦準備をしています。山本権兵衛海軍大
臣は、10月19日に、当時舞鶴鎮守府司令長官をしていた東郷
平八郎中将を常備艦隊司令長官に抜擢しています。この常備艦隊
司令長官というポストは戦争になると、連合艦隊司令長官になる
のです。明らかに戦争に備えた任命といえます。
 ロシアの返答は、12月11日にきたのですが、その内容はき
わめて冷たい内容だったのです。満州については何もなく、これ
は満州については日本と一切協議するつもりはないということを
改めて伝えたものと思います。
 日本側が具体的に提案した韓国と満州の境界の両側50キロメ
ートルの中立地帯については、ロシアの主張に変更はなく、前回
と同様北緯39度以北の韓国領に設置するという主張を繰り返す
だけであったのです。
 桂首相と小村外相は、ロシアからの返事を見て、もはやロシア
は妥協する気はないと考えたのです。このまま交渉を継続すると
ロシアに開戦準備の時間を与えるだけだと判断したのです。
 ロシアの回答を受け取った次の日、12月12日に児玉源太郎
は大山参謀総長邸に呼ばれています。そこには寺内陸相もきてお
り、ロシアの再回答は日本の希望を一切入れないものであること
を告げられたのです。直ちにこの内容は参謀本部の全部長たちに
知らされたのです。
 しかし、ロシアの内部では戦争に関して一枚岩ではなかったの
です。それは、アレクセーエフに代表される楽観派とクロパトキ
ンに代表される慎重派の2派です。
 極東大宰府の上層部は、日本軍の上陸作戦はほとんどうまく行
かないだろうと考えていたのです。それはこの地域に存在してい
る強力なロシア艦隊によって妨害されるからだと考えていたので
す。朝鮮半島への上陸は行われるとしても南部に限られると見て
いたのです。ロシアはまさか制海権が奪われるという状況を考え
てもみなかったのです。    ・・・・・・ [日露戦争17]


≪画像および関連情報≫
 ・児玉源太郎について
  明治期の日本陸軍における代表的な人物です。戊辰・西南戦
  争で功績をたてた後、参謀本部第一局長や陸軍大学校校長、
  台湾総督、陸軍大臣などを歴任しました。日露戦争において
  ては、満州軍総参謀長として従軍しています。1906年に
  現役のまま、54歳で没。
  http://www.jacar.go.jp/cloud_kodama.htm

1723号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月25日

モルトケの影響を受けた参謀本部(EJ1724号)

 ここで参謀本部について知っておく必要があります。1874
(明治7)年6月18日に陸軍省の外局として「参謀局」が設置
され、それが1878(明治11)年に陸軍省から独立して参謀
本部となったのです。
 その後、参謀本部には陸軍部と海軍部ができ、それが発展して
参軍(皇族)の下に、陸軍参謀本部と海軍参謀本部が設置された
のです。1889(明治22)年になると、陸軍の軍令を管轄す
るのは参謀本部の仕事になり、海軍の場合は、海軍大臣の下に海
軍参謀本部が置かれたのです。旧日本軍では、陸軍は参謀本部、
海軍は軍令部と呼ばれていたのです。
 そもそも参謀本部とは、国防および用兵に関する事項を管轄す
る機関のことです。局地的な戦略や作戦に関しては、師団や艦隊
に参謀が所属するかたちをとります。
 幕末に国政を担当した幕府は、海軍は英国式を採用したのです
が、陸軍はフランス式にこだわっていたのです。何しろナポレオ
ンの活躍がすばらしく憧れてしまったからです。そして、これが
そのまま明治政府に引き継がれます。
 しかし、1870(明治3)年にヨーロッパで「普仏戦争」―
プロシア(ドイツ)対フランス戦争が起こり、フランスが負けて
しまったのです。当時、桂太郎はフランス留学中であったのです
が、プロシアの強さを目の当たりに見て仰天します。そして、こ
のことが日本の軍隊作りに大きな影響を与えることになります。
 当時プロシアは無名の小国だったのですが、鉄血宰相といわれ
るビスマルクと参謀総長のモルトケが作り上げた軍隊が、ナポレ
オン3世が率いるフランス軍を縦横に蹴散らしたのです。
 当時、事実上の日本の宰相であった大久保利通はこのビスマル
クに会い、その感化を受けて、軍隊をフランス式からプロシア式
に切り換えたのです。プロシアの軍隊は、その組織作りが優れて
いたからです。実は参謀本部という組織もこのプロシアから真似
をしたものなのです。
 プロシア軍の強さの秘密は参謀総長のモルトケにあります。こ
のモルトケという人物――アレキサンダー大王、フリードリッヒ
大王、ナポレオンと並び称される欧州きっての戦略家なのです。
 やっかいなことに、モルトケは2人いるのです。区別して、大
モルトケと小モルトケといわれますが、ここで述べているのは大
モルトケの方です。小モルトケは大モルトケの甥に当るのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ≪大モルトケ≫
  ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ
  ≪小モルトケ≫
  ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 モルトケは、およそ軍人向きではないタイプの人であったとい
われています。文学に通じ、モーツァルトの音楽を葉巻をくゆら
せながら聴くのが趣味であるというどちらかというと学者といっ
たタイプの人です。
 近代戦を指揮する参謀というと一定のイメージがありますが、
モルトケはどちらかというと、中国古代の諸葛孔明、豊臣秀吉の
軍師である竹中半兵衛といったタイプといえます。
 モルトケは、上司に恵まれていたのです。プロシア参謀総長の
クラウセヴィッツから軍事戦略全般についていろいろ学んでいる
からです。このクラウセヴィッツは、ナポレオン戦争では実体験
を積み、参謀総長としての経験も豊富であり、著書に有名な『戦
争論』があります。このクラウセヴィッツの有名な教えに次のこ
とばがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  戦争は他の手段をもってする政治の継続にほかならない
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「戦争は政治である」というのです。この考え方は今では当た
り前であるかも知れませんが、当時としては目から鱗が落ちるほ
ど画期的な発想だったのです。後で述べますが、とくに日本はこ
れが実践できなかったのです。
 モルトケはこういう優れた上司の下で戦略を研究したのです。
そして、当時のプロシアの生き残る道は「武装国家」しかないと
いう結論に達したのです。
 1858年にモルトケは参謀総長に就任し、その後に続く戦争
に次々と勝利していくことになります。1866年のオーストリ
アとの普墺戦争、1870年の普仏戦争がそれです。大久保利道
や若き桂太郎が注目したのは、普仏戦争におけるプロシアの鮮や
かな勝利です。
 モルトケの戦法を簡単にまとめると、次の3つになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.主戦場に可能な限り多数の軍を集中させるには、分散進撃
   方式がベストな方法である。
 2.大量の兵員を短期間に移動させるための鉄道や電信などの
   最先端技術を軍に導入する。
 3.各部隊の指揮能力の質的向上を図り、分散進撃のあと即包
   囲攻撃ができるようにする。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 まず、主戦場はどこかを見極めて、主力決戦の戦略構想を立て
るのです。そのうえで、主戦場に向けて長大な陣をはりめぐらせ
それにほとんどの兵を投入するのです。普墺戦争においてモルト
ケは、プロシア陸軍の7分の6をこれに投入しています。これが
分散前進です。
 そして、主戦場に向けて、敵と遭遇するまでしだいに環をせば
めていくのです。そして、主戦場に一気に突入して包囲殲滅する
という考え方です。
 日本は、日清戦争でも、日露戦争でも、このモルトケの戦法を
取り入れ、勝利しています。しかし、クラウセヴィッツの説く戦
略は取り入れていないのです。 ・・・・・・ [日露戦争18]


≪画像および関連情報≫
 ・大モルトケについて
  1800〜1891 ドイツの軍人。メクレンブルクのパル
  ヒムの生まれ。デンマーク軍人であった父のあとを継いで、
  デンマーク陸軍に入ったが,のちプロイセン軍に奉職した。
  クラウセヴィッツの影響を受け、主として参謀勤務となり,
  1855年プロイセン(プロシア)参謀総長になった。18
  64年の対デンマーク戦争で名声を博し,1866年の普墺
  戦争7週間戦争で終了させた。ビスクルクとは衝突しながら
  協力し,陸相ローンとともに軍備の近代化と拡充につとめ,
  その成果を普仏戦争で発揮した。ドイツ帝国成立とともにド
  イツ軍参謀総長となり,1888年に辞任した。陸軍の近代
  的編成や補給を重視した用兵の基礎を築いた。
  ――http://www.tabiken.com/history/doc/S/S167L200.HTM

1724号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月28日

内戦型の軍隊を外征型に転換(EJ1725号)

 モルトケについてもう少しお話ししたいと思います。モルトケ
の作戦というのはとにかく大作戦であって、その実行に当って味
方の意見が割れていては絶対に成功はおぼつかないのです。
 しかし、当時宰相のビスマルク、軍事大臣のローン――モルト
ケはこの2人とは何かと意見が合わなかったのです。そこでモル
トケが考え出したのが、帷幕上奏権の確立なのです。
 モルトケは、国王に意見具申を行い、国王の一声でモルトケ主
導の作戦に異論をはさませないようにしたのです。これが帷幕上
奏権の確立です。国王はモルトケを信頼しており、それを認めた
のです。これによって、モルトケは思うままに作戦を遂行できた
のです。これもプロシア軍の強さの秘密です。
 このモルトケとあまり仲がよくなかったビスマルクもクラウゼ
ヴィッツの教えを守る優れた政治家であったのです。彼は186
6年5月のオーストリアとの戦争において、モルトケ戦法で次々
とオーストリア軍を打ち破り、ウィーンに進撃したのですが、首
都ウィーンより60キロのニコルスブルグで兵を止め、オースト
リアに、無割譲、無賠償、即時講和を働きかけたのです。
 ビスマルクにはドイツ統一という政治目標があり、それに伴う
フランスとの一戦を考慮したうえでの提案であったのです。ビス
マルクとしては、あくまで政治の目的を果たすための戦争であり
その政治目的達成のための提案だったのですが、国王をはじめ、
全プロシア軍の将兵はビスマルクを批判したのです。彼らには、
あくまで戦争続行、完全勝利しかなかったからです。
 ビスマルクはこのために一時は自殺を考えるまで思い詰めるの
ですが、最終的に所期の目標を遂げたのです。そういう意味にお
いて、プロシアには宰相のビスマルクと稀代の戦略家モルトケが
いたからこそ、プロシア軍は圧倒的に強かったといえます。
 このモルトケの戦法――分散前進・包囲集中攻撃に惚れ込んだ
のは山縣有朋です。彼は当時の桂太郎からモルトケ戦法を聞いて
これを採用することに決め、川上操六に対清戦争の準備を進めさ
せたのです。山縣はそれまで内戦用の軍編成・用兵をモルトケ戦
法を取り入れて、外征用の軍編成・運用に切り換えようとしたの
です。
 日本の軍備を内戦用の軍編成から外征型に切り換える――これ
に反対した人は多かったのです。たとえロシアが南下してきても
水際で迎え撃てばよいと考える人はたくさんいたのです。
 しかし、既に述べたように山縣は国境としての主権線を守るだ
けでは不十分であり、主権線の安否に影響する利益線を確保する
必要があるという考え方を持っていたのです。そして、日本の利
益線としては朝鮮半島がそれに当るとしていたのです。結果とし
てこの考え方が日本の大陸進出につながったのです。
 国防に関するこれら二つの論議は、現在の憲法下における防衛
論議と似たところがあります。軍備はあくまで日本を攻めてきた
とき、水際で食い止めればよいとして、航続距離の長い戦闘機な
どは認められていないのです。
 また、敵陣に反撃を加える火力にしてもあくまで水際まで攻め
てきたときのことを想定して、ミサイルなどは認められていない
――しかも、あくまで相手が攻撃をしてくるまでは、こちらから
攻撃はできない――そういう装備しか、日本の自衛隊は持ってい
ないのです。ミサイル時代の現代戦では、そういう発想がいかに
ナンセンスであるか明らかです。
 本当に国土防衛に徹するなら、ミサイルはもちろんのこと、敵
陣に反撃を加えるに足る能力を持つ航空機や艦艇、場合によって
は、航空母艦も必要です。しかし、日本からは絶対に他国を侵略
しないようにすればよいのです。他国だって、下手に攻撃を加え
ると、厳しい反撃がくることがわかっていれば、それが抑止力に
なって攻撃を仕掛けることはしないはずです。
 さて、外征型への改革を急いでいた山縣有朋以下の軍部主流派
は、プロシア陸軍に即効性のある戦術の伝授を求めたのです。明
治16(1883)年に陸軍のスタッフが渡欧したとき、ドイツ
の陸軍大臣シュレンドルフ中将に対して、陸軍大学校教官の派遣
を要請したのです。
 シュレンドルフはモルトケに対して日本の要請を伝え、フォン
・デル・ゴルツ参謀大尉ではどうかと伺いを立てたのです。この
ときモルトケは、熟慮のすえシュレンドルフが推薦するゴルツで
はなく、ヤコブ・メッケルを選んでいます。
 モルトケは、日本が即効性のある戦術の伝授を望んでいること
をよく知っていて、メッケルを選んだのです。メッケルは戦略よ
りも戦術に優れたものを持っていたからです。しかし、後にゴル
ツこそモルトケの正当な後継者とみなされるようになるのです。
 明治18(1885)年、メッケルは日本の陸軍大学校に教官
として着任します。メッケルは、最初の授業で、次のようにいっ
たといわれます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 私にプロシア陸軍の1個連隊があれば、全日本陸軍を殲滅して
 みせるであろう。              ――メッケル
   ――加来耕三著、『真説/日露戦争』より。出版芸術社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このとき、学生としてメッケルの話を聞いた学生は、ついこの
間まで尊王攘夷をやっていた国の士族の子弟10人であり、後に
日本陸軍を代表する俊秀が揃っていたのです。彼らは主としてフ
ランス式の軍事教練に通じていたのです。
 彼らはメッケルの話を聞くや、ふざけるな、そんな馬鹿にこと
があるかと血相を変えたといいます。
 メッケルは少しも騒がず、「それでは、諸君の使っている『操
典』――軍隊運動の基礎教練を基に検討してみよう」と話し、講
義をはじめたのです。
 メッケルが話しはじめて約1時間ほど経つと、学生たちの顔面
は蒼白となり、真剣にメッケルの話に耳を傾けるようになったと
いうのです。          ・・・・・ [日露戦争19]


≪画像および関連情報≫
 ・ヤコブ・メッケルと陸軍大学校
  次のサイトに詳細な「陸軍大学校の沿革」がある。参照され
  たい。メッケル少佐のことも出てくる。

  http://imperialarmy.hp.infoseek.co.jp/kangun/school/rikudai.html

 ・川上操六――近代日本人の肖像より
  http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/61.html?c=0

1725号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月29日

戦略を忘れた参謀本部の暴走(EJ1726号)

 メッケルが陸軍大学校にやってくるまでは、フランス陸軍の戦
略の専門家、ベルトー大尉が『戦略原理』というテキストにした
がって、戦略論を教えていたのです。
 しかし、メッケルが教えたのは主として戦術論であり、話が具
体的で面白いので、誰も戦略の重要性にはあまり重きを置かなく
なってしまったのです。そして、任期切れのベルトー大尉を二度
と招かなかったのです。
 しかし、これは大きな間違いであったといえます。確かに対清
国、対ロシアとの戦争が迫っていたという事情があり、具体的な
戦術論が役立つという背景はあったといえます。
 とはいえ、つねに情報を収集して時流の分析を行い、国家とし
ての的確な判断を行うため、戦史の研究などをもっと力を入れて
やるべきであったのです。
 もちろんメッケルは戦略の重要性についても力説したのですが
具体的な図上演習、参謀旅行など、実地に即した戦術論の面白さ
に学生たちは目を奪われてしまったのです。これが、日露戦争以
降の日本の重要な判断ミスにつながっていくのです。
 戦略的に判断していれば、アジア諸国および太平洋上の島々に
おいて、2000万人を超える人々の命を奪い、日本人にも31
0万人という犠牲を出して惨めな敗戦を迎えることはなかったは
ずです。国家としての戦略が完全に欠落していたのです。
 もともと参謀が重要視されたのは、ナポレオン率いるフランス
軍がプロシア軍に敗れたからです。ナポレオンという軍事戦術の
天才ですらも、大規模な組織を動かすには能力の限界があったこ
とを示しているのです。
 近代戦においては指揮官の能力は、個人の把握できる限界を超
えており、そのために参謀本部が必要になったのです。しかし、
その参謀本部が天皇に直属するというプロシア式統帥権を採用し
ていたために、参謀本部がそれを利用して日清戦争に突き進むこ
とを許したのです。
 日清戦争において、戦略なき参謀本部の暴走があったことは事
実なのです。その中心人物は、当時参謀本部次長に過ぎなかった
川上操六その人なのです。
 今回のテーマの第2回目に、徳富蘇峰の次の一文を紹介してい
ますが、再現しておきましょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日清戦争は老人が始めたのではない。若者が始めたのだ。内地
 では、川上、北京では小村、それに巧く活機を捉えた所の陸奥
 などが、巧みに伊藤、山縣等の大頭を操って行ったらしいと思
 う。                ――『蘇峰自伝』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この中の川上、小村、陸奥の3人のうち重要な役割を演じたの
は、川上操六なのです。川上は何とか清国と戦争する口実が欲し
かったのです。そこで、彼は朝鮮(李王朝)内部の内乱鎮圧を利
用しようと考えたのです。
 閣議で清国と共同で朝鮮から出兵要請を受けることを決めたと
き、川上は1個旅団を送ることを政府に報告しています。伊藤は
「もっと削れ」と命令したのですが、川上はこれを拒否していま
す。参謀本部の次長に過ぎない川上が首相の命令を拒否したので
す。川上は「兵数はじめ、出兵に関するすべては内閣の権限外で
ある」として、1個旅団を送ることを決めています。
 しかも、伊藤総理は1個旅団は2000人であると勘違いして
いたのですが、2000人は平時の人数であって、戦時には80
00人ほどにふくれあがるのです。にもかかわらず、川上はそれ
を総理に報告していないのです。
 伊藤首相としては、朝鮮半島における日清両国の勢力のバラン
スをうまくとって、平和裡にことを収めようとしていたのですが
川上はいうことをきかなかったのです。
 陸軍大将の大山巌も膨大な数の朝鮮出兵に不安を感じていたの
です。アジアにおいて列強の侵略を阻んでいる勢力は日本と清国
であり、この両国が戦争をすれば喜ぶのは欧州の列強である――
戦争をしてはならない。勢力均衡の埒外に出るなと戒めたのです
が、参謀本部は聞く耳を持たなかったのです。
 川上をはじめとする開戦派のアタマにあるのは、戦争をすれば
勝てる――それだけしかなかったのです。その判断は戦術として
は間違っていませんでしたが、戦略的思考に欠けていたのです。
 そういう意味において、日清戦争は純軍事的に見れば、明らか
に侵略戦争そのものだったといえます。参謀本部の暴走を時の総
理が抑えきれなかったのです。明らかにモルトケの戦略・戦術を
はきちがえているのです。
 とにかく日清戦争にはいろいろと疑惑があるのです。奈良女子
大学名誉教授中塚明氏の著書に『歴史の偽造をただす』という大
変興味深い本があります。その本の「はしがき」に次の記述があ
ります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 いま「国民的作家」としてひときわその名が高い司馬遼太郎を
 はじめ、日清・日露戦争までの日本は指導者もしっかりしてい
 て国を誤らなかったのに、満州事変以降、太平洋戦争の時期に
 は、指導者の能力は極端に落ちて、無能な指導者によって敗戦
 の憂き目を見たのだと、考えている人が大勢いる。太平洋戦争
 における破たんは「明治の遺産」ではなく、「良き時代であっ
 た明治」への「背信」の結果であると考えているのである。
    ――中塚明著、『歴史の偽造をただす』より。高文研刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは違うと思います。明治の日本には数多くの問題があって
この遺産が大正、昭和に受け継がれていることを中塚氏は述べて
いるのです。具体的には日本軍の「朝鮮王宮占領」です。これは
明らかに当時の参謀本部の暴走なのです。
 これは、非常に面白いテーマですので、現在のテーマとは別の
EJのテーマとして取り上げます。・・・・・ [日露戦争20]


≪画像および関連情報≫
 ・中塚明氏の前掲書より
  ―――――――――――――――――――――――――――
  朝鮮王宮占拠の事実が、参謀本部の手によっていったんは詳
  細に書かれながら、その同じ参謀本部によって、ウソの「作
  り話」に書き変えられたのである。日本陸軍の参謀本部とい
  う公権力によって「歴史の偽造」が行われていたことが、ほ
  かならぬ参謀本部の記録で立証されたのである。
    ――中塚明著、『歴史の偽造をただす』より。高文研刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

1726号.jpg
  『歴史の偽造をただす』
posted by 平野 浩 at 08:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月30日

セキュリティジレンマの日本とロシア(EJ1727号)

 1903年12月16日――日本では元老会議が開催され、ロ
シア案が検討されています。しかし、この時点で日本政府は、ロ
シアと話し合いで解決する可能性が薄いとして、陸海軍に対して
いつ開戦になっても出兵に差し支えないよう準備せよとの指示を
出していたのです。
 日本政府としては、満州についてはロシアの支配はやむなしと
考えて、朝鮮半島に絞って交渉することにしたのです。ロシアは
朝鮮半島については次の3つを主張してきています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.韓国における日本の優越な権益は認めること
  2.韓国の領土は軍略上の目的に使うことは不可
  3.韓国内の指定場所に中立地帯を設置すること
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本としては、上記第2項は承服し難いとし、中立地帯につい
ては、韓国と満州の両側50キロメートルに設ける日本案をロシ
アは拒否したので、2項と3項をすべて削除せよという強硬案を
ロシアに返すことにしたのです。
 そのロシアでは、戻ってきた日本案を検討するため12月29
日に御前会議を開いています。このとき、なぜか、アレクセーエ
フ極東総督は欠席し、代理としてアバザ海軍少将が出席している
のです。
 この会議でクロパトキンは、日本の希望を入れて、満州を協定
の中に含めるよう主張しています。これに対してアバザ海軍少将
は、ロシアは満州に多大なる人的、物的犠牲を払ってきており、
この問題で他国を介入させることはできないと反論したのです。
これは、アレクセーエフの主張を代弁したものです。
 しかし、このときの会議では、アバザの意見は採用されず、ク
ロパトキンの意見を一部取り入れた次のような趣旨のロシア案と
してまとめられたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.満州およびその沿岸には、ロシアは多大の投資をしてきて
   おり、日本の利益範囲外であることを日本は認める
 2.しかし、満州の区域内において、清国との条約の下に獲得
   した他国の権利や特権についてロシアは干渉しない
 3.ただし、韓国問題に関して日本は、ロシアのかねてからの
   要求――中立地帯、領土利用条件を承認し従うこと
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このロシア案は、1904年1月6日に小村外相に手渡された
のです。ほんの少しの譲歩ではありますが、ロシアは満州につい
て譲ってきたのです。しかし、日本が強く求める朝鮮半島につい
てロシアは、頑なにこれまでの主張にこだわったのです。
 ロシアとしては、日本だけではなく満州における他国の権益を
認めることによって、日本以外の国がこれに賛同することを期待
して、日本に圧力をかけたわけです。
 しかし、日本としては、朝鮮半島についての日本の主張が通ら
ないのでは交渉を続けても意味がないとし、開戦やむなしと決断
します。しかし、海軍については、運送船の準備が佐世保に集中
するのが20日頃になるという事情から、それまでは交渉を継続
して時間稼ぎをすることにしたのです。
 そこで、1月16日に従来の日本側の主張である朝鮮半島の権
利を要求するとともに、ロシア側のいう領土の利用条件と中立地
帯の規定についての撤廃を求め、さらに満州については、「満州
の領土保全を尊重する」という文言を協定に盛り込むよう要求し
素早い回答を求めたのです。
 これに対するロシア側の回答がきたのは、1904年2月7日
だったのです。しかし、日本は、2月5日にロシアとの国交断絶
をロシア側に通告しています。この公文は6日午後にロシア外相
に送付されたのです。日露戦争の開始です。
 本来ならば、日本にとって絶対に勝ち目のない戦争だったので
す。当のロシアはもちろんのこと、他の国においても日本が勝つ
とは考えていなかったはずです。
 しかし、当時のロシアはアフガンや黒海方面で英国と対峙して
おり、極東に膨大な軍事力を割けない事情があったのです。日本
における対ロシア開戦派は、この点を見抜いており、戦争を仕掛
けるなら、今しかないと判断していたのです。
 そういう意味で、ロシアの対日外交は稚拙すぎたといえます。
朝鮮半島問題で多少でも日本に譲っていたら、日本は戦争をする
ことはなかったといえます。『日露戦争史/20世紀最初の大国
間戦争』(中公新書1792)の著者、横手慎二氏によると、国
際政治学には「セキュリティジレンマ」ということばがあるそう
です。対立する2国間において、一方が自国の安全を拡大させよ
うとすると、他方はそれに対して不安を増大させ、それに備える
行動をとるようになる――これが繰り返されると、悪循環に陥り
最後は戦争になってしまうのです。こういう状況を「セキュリテ
ィジレンマ」というのです。
 当時の日本とロシアの間はこのセキュリティジレンマに陥って
しまったのです。ロシア軍が大挙して満州に兵を出してきて、居
座ったとき、これに対して日本は朝鮮半島にロシア軍が入ってく
ることを恐れ、朝鮮半島に理由を作って出兵し、ロシアに備えよ
うとする。これがロシアを不安にさせるというジレンマです。
 ロシアのニコライ二世には、満州と朝鮮半島を一体化し、当時
英国が支配していたインドのようにするというようなビジョンを
持っていなかったのです。単にウィッテを中心とした官僚の勢力
が台頭することが専制君主制の下では好ましくないと考えたに過
ぎないのです。
 それが日本を追い詰め、戦争に走らせるという全体の構図が読
めなかったのです。まさにセキュリティジレンマが「窮鼠猫を噛
む」結果になることを予測できなかったといえます。ロシアも戦
争など望んではいなかったのです。日本もそうですが、財政的に
も戦争は困難だったのです。  ・・・・・・ [日露戦争21]


≪画像および関連情報≫
 ・ニコライ二世に関する情報

  http://ww1.m78.com/hito/nicholas%202.html

1727号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月01日

戦争回避に動いたニコライ二世(EJ1728号)

 11月30日のEJ第1727号で、日本に対するロシア側の
回答が届いたのは2月7日のことである――このように述べてい
ます。しかし、その回答がどのような内容であったかについては
今まで公表されてこなかったのです。
 なぜなら、日本政府は2月5日にロシアに国交断絶を伝え、ロ
シアには6日に正式に届いています。そのうえで日本は直ちに戦
争状態に入ったので、ロシアからの回答の内容など、もはやどう
でもよかったからです。
 しかし、最近になっていろいろな史料からそのときのロシア側
の回答の内容が明らかになったのです。その内容は次のような意
外なものだったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本が朝鮮半島を軍事上の目的で使用しなければ、朝鮮半島に
 おける日本の勢力圏を認める。中立地帯に関する条件について
 は撤廃する。      ――2月7日のロシア側回答の要旨
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 その前のロシア側からの回答と比べると、驚くべき変化です。
確かに「朝鮮半島を軍事上の目的で使用しなければ」という条件
は入っていますが、朝鮮半島を事実上、日本が支配することを認
めるという内容です。
 新しい史料によると、ニコライ二世は1月27日にアレクセー
エフ極東総督に対して「朝鮮半島全域を日本の支配にまかせよ」
という電報を打っているのです。しかも、29日には「予のメッ
セージを即刻日本政府に通告せよ」という内容の電訓を重ねてア
レクセーエフ総督に送っているのです。
 しかし、アレクセーエフ総督はニコライ二世の指示をわざと自
分の手元に据え置き、皇帝のメッセージがロシア側回答として駐
日公使のローゼンに届いたのは、日本の国交断絶宣言の翌日の7
日になってしまったのです。時既に遅しです。
 それにしてもニコライ二世はなぜ心変わりしたのでしょうか。
 実はニコライ二世としては、本気で日本と戦争する意思などな
かったのです。また、満州におけるロシアの権益については鉄道
建設ということもあってわかっていたものの、朝鮮半島のロシア
における重要性などはよくわかっていなかったのです。
 したがって、皇帝としては、日本の朝鮮半島の権益とロシアの
満州におけるそれを交換してもよいとかなり前から考えていたの
です。しかし、小国日本が生意気にも強気の要求を突きつけてき
たので皇帝はアタマにきて、それがロシア側の強硬回答となって
日本に突き返えされたのです。
 それに加えて、ニコライ二世はウイッテやクロパトキンが苦手
であり、ベゾブラゾフにそそのかされたということもあり、アレ
クセーエフを極東総督に選んでしまったのです。アレクセーエフ
は十分な情報もないまま、日本をなめ切っており、日本が大国ロ
シアに戦争を仕掛けてくることなど、100に1つもないと考え
ていたのです。
 しかし、ニコライ二世は少しずつ不安になっていたのです。そ
れはなかなか日本が折れてこないからです。それに1904年が
明けると、満州各地から日本人が続々と引き上げはじめていると
いう情報も耳にしており、もしかすると、本当に日本は戦争を仕
掛けてくるかもしれない――つまり、皇帝も疑心暗鬼に陥ってい
たのです。皇帝というのは、現体制に対して保守的であり、軍人
と違って戦争は可能な限り、避けようとするものなのです。
 しかし、ウィッテやクロパトキンを冷遇し、アレクセーエフを
極東総督に選んだのは、皇帝としては失敗だったのです。なぜな
ら、アレクセーエフによる皇帝のメッセージを日本に伝える遅れ
――故意であるとも考えられる――によって日本が開戦に踏み切
る結果を招いたことと、日露戦争に突入した後からもアレクセー
エフとクロパトキンの対立は解けず、作戦の乱れから、そこを日
本軍に攻め込まれるという二重の失敗を重ねたからです。
 こんな話があります。1904年2月6日、日本から日露外交
関係の断絶が告げられると、ロシア政府は直ちにそれを旅順にい
たアレクセーエフ極東総督に伝えています。当然のことです。
 しかし、アレクセーエフはごく内輪の者にしかこのことを知ら
せていないのです。彼は、2月9日に要塞司令官などの幹部を集
めた会議を予定しており、そのときに日本との外交関係の断絶を
伝えようとしたものと思われます。しかし、9日を待つまでもな
く、旅順のロシア艦隊は攻撃を受けているのです。これをみても
アレクセーエフがいかに日本を低く見ていたかがわかります。
 アレクセーエフがどのような人物であり、とくにウィッテがど
のようにアレクセーエフを見ていたかを示す興味深い逸話が司馬
良太郎の『坂の上の雲』にあります。
 将軍クロパトキンは、野戦軍の司令官として戦地に赴くときに
挨拶のためウィッテの邸を訪れています。そのとき、ウイッテに
自分の戦略・戦術について話したところ、ウィッテは全面的にク
ロパトキンの戦略・戦術を支持してくれたというのです。
 クロパトキンは邸を去るに当って「何か工夫があればこのさい
漏らして欲しい」と頼んだところ、「ひとつある」といって次の
ようなことをウィッテは話したというのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 アレクセーエフは、いま奉天にいる。君はむろん着任の挨拶を
 すべく奉天に直行するだろう。そこでもし僕が君の立場なら、
 部下の士官数人をアレクセーエフのもとに派遣し、有無をいわ
 さず逮捕する。その捕縛したアレクセーエフに厳重な監視をつ
 け、君が乗ってきた列車にほうりこみ、そのまま本国にかえし
 てしまうのだ。同時に陛下に電報する。――このように。
    ――司馬遼太郎著、『坂の上の雲』第3巻、文藝春秋刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ウィッテはアレクセーエフがロシアのがんであることを見抜い
ていたのです。実際は逮捕などできなかったのですが、ウイッテ
の予想通り、ロシアは敗れたのです。 ・・・ [日露戦争22]


≪画像および関連情報≫
 ・ウイッテがクロパトキンに対して陛下に打てといった電報の
  中身は次のようなものである。
  ―――――――――――――――――――――――――――
  陛下が私に命じられた重大任務を完全に遂行するために、私
  は当地に到着してただちに総督を捕縛しました。なぜならば
  この処置なくして戦勝はおもいもよらないからであります。
  陛下がもし私の専断を罰せられるならば、私を銃殺する命を
  下されよ。しからずんば、国家のためにしばらく私を許され
  んことを請う。
    ――司馬遼太郎著、『坂の上の雲』第3巻、文藝春秋刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

1728号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月02日

金子と末松/戦時広報を担った2人(EJ1729号)

 1904(明治37)年2月4日の午後6時頃のことです。時
の貴族院議員をしていた金子堅太郎男爵の家に、1本の電話がか
かってきたのです。電話は枢密院議長の伊藤博文からであり、今
から家に来て欲しいというものだったのです。
 30分後に伊藤邸に着いた金子は書斎に通されたのです。しば
らくして伊藤は用件を次のように切り出したのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 突然であるが、これからアメリカに行ってある使命を果たして
 もらいたい。                ――伊藤博文
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 驚く金子に伊藤は、「米国に行ってルーズベルト大統領をはじ
めとする米国の要人に会って、米国国民に対して日本への理解を
深めるもらうよう工作し、適当な時期に米国に日露両国の講和の
調停役を務めてもらうよう働きかけて欲しい」といったのです。
 金子堅太郎は福岡藩士の家に生まれ、1871(明治4)年の
岩倉具視使節団と一緒に渡米して以来、全部で4回の渡米歴があ
り、ルーズベルト大統領とも面識がある米国通として知られてい
るのです。大臣の経験もあり、伊藤の懐刀ともいわれています。
 しかし、最初金子はこの伊藤の依頼を断っています。「それは
不可能である」というのです。金子が指摘した理由には、次の4
つがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.ロシアは大事なときに米国を援助し米国は感謝している
 2.ロシア大使カシニー伯爵は実力者、政財界に通じている
 3.米国の大企業はロシア政府と親密、ロシアは有力な市場
 4.米国の富豪はロシアの名門貴族と姻戚関係多く親ロシア
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、伊藤は熱心に金子をくどいたのです。その場での即答
を避けた金子は2日間熟慮して伊藤の要請を引き受けます。しか
し、官職は持たず独力でやるという条件付きです。そして、19
04年2月24日、金子は随行員2人を連れて、横浜港を出発し
3月11日にサンフランシスコに到着しています。
 金子堅太郎と同じ役割を担って欧州に派遣された男がもう一人
います。末松謙澄その人です。末松謙澄といえば、「源義経」の
テーマのときご紹介しています。2005年7月26日(火)付
EJ第1641号がそうです。
 末松謙澄は、旧豊前国前田村――福岡県行橋市の出身であり、
19歳のときに『東京日日新聞』(現在の『毎日新聞』)の記者
になり、その縁で伊藤博文と知り合うのです。8年間の英国留学
の後、伊藤博文の次女と結婚。35歳で第1回衆議院議員選挙に
初当選し、法制局長官、逓信相、内務相を歴任。また、『源氏物
語』の英訳を行い、日本最初の文学博士にもなるきわめて有能な
文化教養人です。
 日露開戦の一ヶ月前のこと、末松は伊藤博文と山縣有朋に手紙
を書いて、日露戦争になったら、関係国への戦時広報をやらせて
欲しいと申し出ているのです。末松の申し出の意義を悟った伊藤
と山縣は、これを政府に働きかけ、政府はこれを受けて1904
年2月10日に末松を英国に派遣したのです。
 金子のケースからご紹介しましょう。米国は金子の一行がサン
フランシスコに到着する3月11日の1日前に、ルーズベルト大
統領が、局外中立宣言をしているのです。これは日本にとっては
マイナス材料です。
 それに、金子としては当初シカゴを工作拠点として考えていた
のですが、既にロシアの工作が相当進んでいたので、急遽ニュー
ヨークを工作拠点にすることに決めたのです。それほど、ロシア
の対米工作は進んでいたのです。
 ロシアは米国の新聞社を買収してロシアに都合が良いことを中
心に報道すると共に、あわせて新聞記者の接待に大金を投じてお
り、米国の世論はロシアに傾きつつあったのです。
 ロシアの米国のメディア工作のポイントは、次の2つがあった
のです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.日本は宣戦布告をしないで国交断絶だけで戦争を開始した
   卑怯にして、野蛮な国であること。
 2.日露戦争は白人と黄人の戦争であり、あわせてキリスト教
   対非キリスト教の宗教戦争である。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 宣戦布告をする前に国交断絶だけで戦争に入る――これはモル
トケの考え方なのです。敵の態勢の整わないうちに相手に一大痛
撃を与え、その後はそのダメージを回復させないうちに先手先手
を打って敵を弱めながら、包囲して殲滅する――これがモルトケ
の戦法なのです。これは、国際法上も違反ではないのです。
 まして、日本は国交断絶の通告に加えて、次の文言を付けてい
たのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本はこれをもって最良と思惟する独立の行動を取ることの
 権利を保留する。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 金子は米国の知人を通じて、あるいはマスメディアを徹底的に
利用して、チャンスあるごとに日本の正しさを語る作戦を地道に
続けたのです。
 金子の主張は一部では同情を買ったが、他方、多くの脅迫状や
投書が舞い込んだので、ニューヨーク市警は護衛を付けることを
提案したのです。しかし、金子はこれを丁重に断っています。そ
して、金子はこういったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 私が暗殺されれば、一億数千万のアメリカ人の、半分くらいは
 私へ、日本へ同情を寄せてくれるだろう。ならば、自分は喜ん
 で死のう。                ――金子堅太郎
−−−−−−−−−−−−−−−−− ・・・ [日露戦争23]


≪画像および関連情報≫
 ・金子堅太郎について
  福岡生まれ。官僚、政治家。父は福岡藩士。藩校修猷館で学
  ぶ。明治4年(1871)藩主黒田長知に随行し渡米。ハーバ
  ード大学で法律学を修める。13年(1880)元老院に出仕
  する。権大書記官、首相秘書官等をつとめる。明治憲法の草
  案起草に参画し、諸法典の整備にも尽力。23年(1890)
  貴族院書記官長、貴族院勅選議員。第3次伊藤内閣農商務相
  第4次伊藤内閣司法相を歴任。日露開戦時米国に派遣され、
  外交工作にあたる。39年(1906)枢密顧問官。晩年は臨
  時帝室編修局総裁、維新史料編纂会総裁として史料編纂にあ
  たったのである。
  http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/57.html?c=0

1729号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月05日

米国における金子の働きと大統領の協力(EJ1730号)

 金子堅太郎とセオドア・ルーズベルトは、ハーバード大学の同
窓生なのです。それもかなり親しかったといいます。しかし、ル
ーズベルトは、金子が米国に着く前に局外中立宣言を布告してい
るのです。局外中立とは次のような趣旨です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ロシアも日本も米国にとっては友好国である。ゆえに、どちら
 の味方もしない。いずれか一方に加担するような言論はこれを
 禁止する。          ――セオドア・ルーズベルト
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 金子は内心大統領のこの措置に少し怒っていました。大統領は
大変な日本ファンであったからです。3月26日に金子はワシン
トンに入り、ルーズベルトに会いにホワイトハウスを訪ねたので
す。大統領は金子が来たと聞くと、執務室から駈け足でホールま
で出てきて金子と握手したのです。
 挨拶が終わると金子は早速「局外中立はけしからん」と大統領
に抗議したといいます。これに対してルーズベルトは次のように
答えたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 まあ、聞いてくれ。日露戦争が始まってすぐ、アメリカの若い
 軍人が『自分たちはアメリカ軍を予備役になって、日本軍に身
 を投じたい』と騒ぎだした。これはまずいのでああした布告を
 出した。しかし、金子、安心しろ。私が命じて調べさせたとこ
 ろによると、ロシアの軍備、日本の軍備、その実情を精査した
 ら、日本は勝つと出た。
    ――瀧澤中著、『10倍の大国に日本はなぜ勝ったか/
         日露戦争が遺した9つの戦略』、中経出版刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 金子の相手はロシアの駐米大使のカシニーです。しかし、この
ロシア人は、「リトル・イエロー・モンキーはわれわれ白人の共
通の敵である」というようなきたない表現で日本の悪口をいい、
それがよく新聞に掲載されていたのです。
 当時のことです。根強い人種差別のあった米国ではそれが受け
入れられたりしたのです。一部の上流階級にはそういう風潮が存
在したのです。それを金子はひとつひとつ上品に反論し、多くの
米国人の共感を呼んだのです。
 米国には「アンダー・ドッグの味方をする」という風潮があり
大国のロシアに小国の日本が戦っているということで日本を応援
する米国人は多かったといいます。
 そんなとき、旅順にいたロシア太平洋艦隊司令長官・マカロフ
中将が、日本軍の敷設した機雷によって戦死したのです。これに
対して金子は次の談話を出したのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 マカロフ大将(戦死後昇進)は、世界有数の戦術家である。わ
 が国は今ロシアと戦っている。しかし、一個人としては誠にそ
 の戦死を悲しむ。私はここに哀悼の意を表し、もって大将の霊
 を慰める。                ――金子堅太郎
                 ――瀧澤中氏の前掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この談話は多くの米国の新聞に載ったのです。敵将に対して畏
敬の念を忘れないとは立派なことである――として金子の評判は
一気に上がり、米国各地から講演依頼が殺到したといいます。こ
のようにして米国における金子の評判、すなわち日本の評価はど
んどん上がっていったのです。
 局外中立宣言をしたルーズベルト大統領も、日本側から頼まれ
たわけでもないのに、日本に対して側面から支援をしてくれたの
です。これは大統領でないとできない支援です。
 ルーズベルト大統領は、英国とフランスの外務大臣に対して、
次の書状を送っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ≪対英国外務大臣≫
 イギリスは日本の同盟国でありながら、日本の敵であるロジェ
 ストヴェンスキーの艦隊(バルチック艦隊)に、イギリスの商
 人がイギリスのカーディフの石炭を売り込むことを黙認してい
 るではないか。なんたることか。それでも日本の同盟国か。
 ≪対仏国外務大臣≫
 日本の敵であるロシアの艦隊をフランス政府のドックに入れて
 修繕をし、食料品その他を供給するとは、日本に対してあまり
 に不公平な仕業ではないか。
               ――――瀧澤中氏の前掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 どうして、ルーズベルト大統領をはじめとして、米国民は日本
を応援してくれたのでしょうか。
 これは一にも二にも金子堅太郎の米国における人脈と活躍によ
るものです。伊藤博文の狙いは当ったのです。同時に、次の3つ
の背景があったことも事実なのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.米国としてロシアの行為に不快感を持っていたこと
  2.日本軍の行動が武士道の精神にのっとっていること
  3.大国ロシアに連戦連勝を続ける日本に感心したこと
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 米国はロシアの満州における行動について苦々しい思いをもっ
ていたのです。まして、三国干渉で日本から取り上げた遼東半島
を横取りするようなことはあってはならぬと考えていたのです。
 それに米国人は金子の言動を見て、新渡戸稲造の『武士道』
はこういうものかと納得したということです。英文『武士道』
ルーズベルト大統領の愛読書なのです。
 最後に、明治以後の日本のめざましい発展と日本軍の強さに感
嘆したことがあります。あんな小さな国なのに大国ロシアと戦い
連戦連勝している――ここでは国土が小さいことが日本に幸いし
ています。             ・・・ [日露戦争24]


≪画像および関連情報≫
 ・セオドア・ルーズベルト
  セオドア・ルーズベルト(1858――1919)は、米国
  合衆国の第25代副大統領および第26代大統領。フランク
  リン・デラノ・ルーズベルトは彼のいとこに当たる。愛称は
  テディ(Teedie)、成人したからはTeddy → テディベア
                    ――ウィキペディア

1730号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月06日

金子成功/末松不成功という司馬評(EJ1731号)

 昨日のEJで金子堅太郎とルーズベルトはハーバート大学の同
窓生であると書きましたが、加来耕三氏は自著で別の説を唱えて
おられるので紹介します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  よく二人(金子とルーズベルト)はハーバード大学の同窓生
 だと述べたものをみかけるが、それは正しくない。
  金子とルーズベルトは、確かに明治9年(1876)にハー
 バートに入学している。が、金子がロー・スクール(2年制)
 であったのに対して、大統領はカレッジ(4年制の教育学部)
 に入学したのであって、卒業年次が異なる。また、二人は学生
 時代、出会っていない。
   ――加来耕三著、『真説/日露戦争』より。出版芸術社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 加来氏によると、金子が大統領に会ったのは、ルーズベルトの
親友のビゲローという日本美術愛好家が来日したおり、金子と会
い、ルーズベルトに紹介状を書いてくれたことによるそうです。
2人がはじめて会ったのは、明治23(1890)年4月のこと
であり、以来交際が続いていたのです。
 それから金子は、広報外交のため米国に行き、大統領に会った
さい、新渡戸稲造の英文著書『武士道』と英国人イーストレイキ
の著作である『ヒロイック・ジャパン』を贈呈したという説もあ
るのです。しかし、新渡戸稲造の『武士道』は当時米国ではかな
り有名になっており、ルーズベルト大統領は金子から贈呈を受け
る前からこの本は持っていたはずです。
 さて、金子堅太郎と並んでヨーロッパの広報外交を担当した末
松謙澄の活躍についてお話ししましょう。
 末松に期待されたのは、ロシアに隣接する欧州の主要各国の世
論を「黄渦論」から隔離させることだったのです。ロシアとして
は、現実に黄渦によって戦争を強いられていると被害者的立場を
PRし、日本はその勢いを駈って仏領インドシナの占領を狙って
いるという根も葉もないことを吹きまくっていたからです。末松
の戦略は次のようなものだったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1.できるだけ講演をする機会を持つよう努力
   2.論文を書いて英仏両国の雑誌に掲載させる
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 末松はもともと新聞記者であり、講演をしたり、論文を寄稿す
るのはお手のものであったのです。それに末松は『源氏物語』の
最初の英訳者として欧州では名前を知られており、当時の著名な
英国外交官の記録には「末松は欧州中で有名だった」と記されて
いるのです。
 末松がヨーロッパにいたのは2年ほどでしたが、その間に4回
の大きな講演会に招かれ、執筆した論文のうち英仏両国で掲載さ
れたものだけで20本を超えているのです。いずれも大きな反響
を呼んでおり、広報外交は成功したと考えてよいといえます。
 末松が講演や論文で訴えた内容としては、次のような項目が上
げられるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.日露戦争の原因とロシアの野望
      2.ロシア兵捕虜の処遇と扱い方法
      3.ロシアのデマ報道に対する反論
      4.日本人の性格論とものの考え方
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 まず、日露戦争の原因は、あくまでロシアの極東進出の野望に
あると説き、日本は目下勝ち進んでいるが、ロシア兵の捕虜は国
際法にのっとり人道的な待遇をしていることを強調――さらにロ
シアが盛んに吹聴している仏領インドシナへの占領など日本は考
えていないし、デマであると斬り捨てています。
 その一方で日本人と欧米人は文化的に異なるが、日本人は伝統
に裏打ちされた道徳と知性を持っている民族であると説く日本人
性格論は、当時の欧州世論を主導する英仏の知識階級の要求に応
える時宣にかなったテーマだったのです。
 しかし、この末松謙澄のヨーロッパ工作――とくに英国工作は
失敗であったという人もいます。司馬遼太郎がそうです。彼は金
子については成功を収めたと書いていますが、末松についてはか
なり厳しいことを書いているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  英国に行った末松謙澄の場合は、成功といえるような成果は
 えられなかったといっていい。
  末松は、幕末における長州藩の革命史である「防長回天史」
 の著者として知られている。明治型のはばのひろい教養人で、
 文学博士と法学博士のふたつの学位をもっている。
  かれは「源氏物語」を英訳してはじめて日本の古典文学を海
 外に紹介したことで知られ、さらには新聞記者時代に多くの名
 文章を書き、つづいて官界に転じ、伊藤博文に見こまれてその
 娘むこになり、つづいて衆議院に出、のちに逓信大臣や内務大
 臣にも任じたといういわば一筋縄ではとらえがたい生涯をもっ
 ているが、外交をやる上での最大の欠点はその容姿が貧相すぎ
 ることであった。
  さらにはこの小男が説くところが誇大すぎるという印象を英
 国の指導者や大衆にあたえた。末松は「昇る旭日」といったふ
 うの日本宣伝をぶってまわった。不幸なことに英国人は日本が
 「昇る旭日」のごとく成長することを好まなかった。末松はそ
 の講演速記を本にして刊行した。(一部略)英国人はかれの無
 邪気さを冷笑し、ほとんど黙殺した。
   ――司馬遼太郎著、『坂の上の雲』第7巻より。文春文庫
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 末松謙澄、気の毒なくらいけちょんけちょんです。しかし、高
く評価している向きもあるのです。司馬遼太郎の人物描写には問
題があり、末松は犠牲者といえます。 ・・・ [日露戦争25]


≪画像および関連情報≫
 ・司馬遼太郎の末松酷評について
  日露戦争を通して「明治の栄光」を活写した小説「坂の上の
  雲」は、作品発表から30年以上たった今も評価は高いが、
  人物描写では、作者の司馬遼太郎の思いこみや過度の単純か
  による偏りも指摘されている。末松謙澄もその被害者といっ
  てよい。――源氏物語の最初の英訳者。モーツァルトを日本
  に紹介した「たぶん最初の評論家」。末松の業績は探求する
  ほど面白い。
   ―――読売新聞2004.6.28朝刊「肖像」より抜粋

1731号.jpg
  末松謙澄
posted by 平野 浩 at 08:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月07日

資金不足の中での重点投資(EJ1732号)

 ドワイト・D・アイゼンハワー――第2次世界大戦中にヨーロ
ッパ方面の連合軍総司令官で後に米国の大統領になった人ですが
彼がこんなことをいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 兵力と武器弾薬が滞りなく戦場に送り込まれるならば、誰が指
 揮しても戦争は勝てる。 ――ドワイト・D・アイゼンハワー
    ――瀧澤中著、『10倍の大国に日本はなぜ勝ったか/
         日露戦争が遺した9つの戦略』、中経出版刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 アイゼンハワーは経済(兵站)という立場から戦争を見ている
のですが、軍人としては優れた考え方であるといえます。だから
こそ大統領になれたのでしょう。
 日露戦争当時の日本は超貧乏国家であり、どのようにして日本
は戦費を調達したのでしょうか。この面から少し日露戦争を分析
していきたいと思います。
 最初に当時の日本がどのくらい貧乏であったかをアタマに入れ
ておく必要があると思います。
 日本海海戦で大活躍した日本の連合艦隊の旗艦である戦艦「三
笠」は英国から購入したものです。英国の西海岸にあるバーロー
という港にあるヴィッカース社で製造されたのです。
 当時日本は軍艦を作る能力はなく、すべて輸入によって艦艇を
手に入れていたのです。戦艦「三笠」の建造費は880万ポンド
だったのです。当時、1ポンドは9.7円――したがって、日本
円にして8500万円になりますが、当時の国家予算が3億円の
時代ですから、途方もない価格だったのです。
 ですから、そんなお金は日本にはなかったのです。このとき資
金の調達で大活躍したのは、海軍大臣の山本権兵衛です。山本は
内務大臣であった西郷従道に頼んで内務省からお金を回してもら
うなど、お金をかき集めて戦艦「三笠」だけでなく、巡洋艦「日
進」「春日」を購入しています。これは、アルゼンチンがイタリ
アに発注していたものを日本に回してもらったのです。ぼんやり
していると、ロシアに買われてしまっては大変――山本のアタマ
にはそれしかなかったのです。
 日露戦争で使ったお金と明治37年度の国家予算を次に示して
おきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   日露戦争費用総計 ・・・ 19億8000万円
   明治37国家予算 ・・・  2億5000万円
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 国家予算が3億円足らずのときに、どうやって19億円もの資
金を調達することができたのでしょうか。
 結論からいうと、19億円という戦費の多くが外国から借りる
かたちで調達されたのです。とかく日露戦争というと、乃木将軍
であるとか、東郷連合艦隊司令長官といった軍人が英雄として焦
点を浴びてしまいますが、戦費の調達という面はほとんど注目さ
れていないし、そのために活躍した人のことは知られていないと
思うのです。EJはそこに重点を置いて書いていきます。
 明治政府ができたとき、政府にはお金がぜんぜんなかったので
す。戊辰戦争――王政復古で成立した明治新政府が幕府の勢力を
一掃するための内戦――のとき、官軍の動きを分析すると、官軍
はときどき、その進軍スピードを落としているのがわかります。
これは、お金が足りなくなって動けなかったためです。
 記録によると、慶応3(1867)年12月から明治元(18
68)年12月までの間に、明治新政府は383万両のお金を調
達しています。どこから調達したのかというと、当時の金持ちた
ちから借りたのです。東京、京都、大阪、大津などの富豪から、
いろいろな名目で資金をかき集めたのです。
 そういう資金を調達しながら戦争をやっていたのですから、と
きどき資金不足になって進軍が止まってしまったのです。しかし
そのような金欠病であったにもかかわらず、明治新政府は徳川幕
府の頃から建設を進めていた横浜製鉄所に40万両もの大金をつ
ぎ込んで完成させているのです。横浜製鉄所は後の横須賀造船所
のことであり、日露戦争で重要な役割を担うのです。
 この造船所の計画責任者は小栗忠順という幕臣です。彼は当時
としてはきわめて先進的な考え方を持っており、造船所の必要性
を時の幕府に説いて建設を進めたのです。
 当時の海戦は、軍艦ですべてが決まるのです。お金が極度に不
足する中で、一方においては輸入で軍艦を導入し、他方船舶を補
修し、整備し、修繕するために造船所を建設する――こういう手
を打っていたために日露戦争後に船舶の国産化が進んだのです。
 日本海海戦の前、日本海軍は横須賀造船所で軍艦を整備して出
撃しています。そのとき、船底にこびりついた貝殻をきれいに落
としているのです。
 船底にこびりついた貝殻は船足を遅くするのだそうです。海戦
では艦隊が敏速に動く必要があり、スピードが出ないと命取りに
なってしまうのです。連合艦隊司令長官の東郷平八郎という人は
船舶の整備にも詳しい人で、自ら指示して、貝殻落としを徹底さ
せたそうです。
 日露戦争のあとで東郷は、小栗忠順の子孫を招いて次のように
感謝の言葉を述べて、「仁義礼智信」の五文字の書を贈ったとい
われます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 今度の海戦で勝てたのは、あなた方の父上が横須賀造船所を日
 本のために建設しておいてくれたおかげです。――東郷平八郎
    ――瀧澤中著、『10倍の大国に日本はなぜ勝ったか/
         日露戦争が遺した9つの戦略』、中経出版刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 逼迫した財政ではあるが、重要なものには思い切った大金を重
点投資する――現在の小泉政権もぜひ見習って欲しいものだと思
います。             ・・・・ [日露戦争26]


≪画像および関連情報≫
 ・小栗忠順(おぐりただまさ)
  1827年(文政10年)、江戸駿河台邸に誕生。徳川家に
  仕え、旗本だった。8歳の頃から文武両道に興味を持ち、抜
  き出た才能を発揮していた。17歳で登城し将軍直属の親衛
  隊となる。アメリカへ修好通商条約交換のため、咸臨丸で他
  の遣米使とアメリカへ行った帰路、彼は日本人で初めての世
  界一周を果たす。帰国後、1860年から1868年(慶応
  四年)までの八年の間に外国奉行、陸軍奉行、海軍奉行など
  を歴任。慶応元年(1865)にはフランスから240万ド
  ルを借款し、フランス公使ロッシュと組んで横須賀海軍工廠
  (製鉄所・造船所・修船所)の建設を開始する。翌年にはさ
  らに600万の借款契約を結ぶが、その後幕府は瓦解。戊辰
  戦争での混乱による暴徒が村へ押し寄せてきたのを追い返し
  たことが東山道総督府に抵抗の意志ありと誤解されたため、
  同年4月6日に烏川ほとりにて斬首。享年42歳。
  http://contest.thinkquest.jp/tqj2000/30061/oguri.htm

1732号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月08日

明治政府初期の財政・経済政策(EJ1733号)

 「次の3人の人物に共通するものは何ですか」と聞かれたら、
あなたはどのように答えるでしょうか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          1.由利公正
          2.大隈重信
          3.松方正義
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 いずれも明治政府の財政の担当大臣、かつては大蔵卿(大蔵大
臣)、現在なら財務大臣をやった人である――これが正解です。
 ここで明治のはじめから日清戦争までの明治政府の経済・財政
政策についてごく簡単に振り返っておくことにします。
 由利公正という人は越前藩の出身であり、越前藩の財政再建に
辣腕を振るって成功させています。その由利公正が初期の明治政
府で財政を担当したのです。由利の前の大蔵卿はあの大久保利通
だったのです。しかし、由利財政は破綻してしまいます。
 当時の紙幣には、次の2つの種類があったのです。由利公正は
不換紙幣を使って富国強兵を図る政策をとったのです。何しろ当
時の日本は金も銀も極度に不足している貧乏国だったからです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.兌換紙幣 ・・・ 金または銀との交換ができる
  2.不換紙幣 ・・・ 金・銀との裏づけがない紙幣
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 できたばかりの政府で、金や銀との裏づけのない不換紙幣を普
及させようとしても誰も信用しないのは当たり前です。結局、由
利財政は破綻するのですが、後に良い教訓を残したのです。その
教訓とは次の3つです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.結局政府に信用がなければ不換紙幣は使えない
  2.まだ貨幣制度そのものが整っていなかったこと
  3.政府財政の基礎となる税金徴収が整っていない
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 由利財政の後の大蔵卿は大隈重信です。明治6年のことです。
大隈重信といえば、早稲田大学の創始者としてあまりにも有名で
すが、由利公正に代わって明治政府の大蔵卿を務めたのです。と
ころで、当時の主要な役所と大臣は次の3つです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        1.大蔵省 ・・・ 大蔵卿
        2.内務省 ・・・ 内務卿
        3.工部省 ・・・ 工部卿
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 大蔵省は現在の財務省、内務省は殖産興業と地方行政、それに
警察組織を含む巨大な役所であり、工部省は鉱山・製鉄から電信
機械工場などを管轄する役所です。明治6年頃はこれら3つの役
所で政府の役人の53%を占めたというのです。
 大隈重信を大蔵卿に任命したのは大久保利通であり、大久保は
当時内務卿、伊藤博文が工部卿を務めていたのです。大隈は大久
保派といってよい存在であり、大久保派が政界を牛耳っていたと
いえます。これを明治6年体制ともいいます。
 しかし、大隈自身は、財政は専門ではないといっています。肥
前、すなわち佐賀の出身で、役人としての最初の仕事は外交官だ
ったのです。大隈は大変な秀才であり、外交と財政という困難に
して異質な仕事を両方とも見事にこなしたのです。
 大隈重信がまずやったのが「地租改正」です。廃藩置県が行わ
れる前は、各藩ごとに税率はすべて異なったのですが、大隈は日
本全国一律で税金を土地の3%と決めたのです。これによって、
不安定だった税収が一応安定したのです。
 しかし、この税制は国としては都合が良いのですが、税金を収
める側は厳しいのです。今までは収穫に応じて支払っていたのに
この改正では収穫高の高低に関係なく、税金を納めなければなら
ないからです。全国的に「地租改正反対一揆」が続発し、結局地
租は2.5%に下げられたのです。
 続いて大隈は「殖産興業」に着手しています。これは次の2本
建てで進めたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       1.国営企業を積極運営する
       2.民間企業を保護育成する
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 民間企業を保護育成するとは助成金を出すことであり、お金が
かかるのです。大隈はそれを不換紙幣を発行してやろうとしたの
です。由利と同じ手法ですが、地租改正によって財政基盤は安定
していたので、成功すると考えたのです。
 しかし、事態はそう甘くはなかったのです。結局物価が上昇し
て、景気は悪化したのです。それに追い討ちをかけたのは、明治
10(1877)年に起こった西南戦争です。西南戦争は西郷隆
盛を盟主として起こった士族による武力反乱です。
 景気が悪いうえに、西南戦争による出費がかさみ、財政状況は
さらに悪化したのです。大隈は増税と官営工場の払い下げによっ
て何とかしのごうとします。現代風にいえば、規制緩和と公社・
公団の民営化によって財政赤字の補填を狙ったのですが、成功し
なかったのです。
 結局、大隈財政は破綻し、明治14(1881)年に、大隈は
大蔵卿を辞任します。インフレに対して有効な手だてがとれなか
ったことが、失敗の原因です。これを「明治14年の政変」と呼
んでいます。
 大隈重信に代わって大蔵卿に就任したのは、松方正義です。松
方正義は西郷隆盛と同じ薩摩人であり、一見すると鷹揚で細事は
気にしない雰囲気があるのですが、実に数字は強く、合理的な考
え方をする人だったのです。日本政府にとっては松方は、最も望
ましい大蔵卿の登場といってよいのです。松方財政については明
日のEJで述べます。        ・・・ [日露戦争27]


≪画像および関連情報≫
 ・大隈重信について
  佐賀生まれ。政治家。父は佐賀藩士。尊皇攘夷派志士として
  活躍。維新後、外国事務局判事などを経て、明治3年 (18
  70)参議となる。明治6年 (1873)大蔵省事務総裁、つ
  いで大蔵卿に就任。征韓論争後、財政の責任者として大久保
  利通を補佐した。明治14年の政変で失脚。15年 (188
  2) 立憲改進党を組織、東京専門学校(早稲田大学の前身)を
  創立。第1次伊藤、黒田両内閣の外相として、条約改正に関
  与。第2次松方内閣の外相兼農商務相。31年(1898)憲政党を
  組織、首相に就任した。40年(1907)政界を引退したが、のち
  復帰。大正3年(1914)再び首相となる。
  http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/33.html?c=2

1733号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月09日

松方財政による日本の財政基盤(EJ1734号)

 由利公正と大隈重信の財政政策の目的は、ともに富国強兵を実
現することにありました。国が豊かになるには何よりもその前提
として国民が豊かになる必要があります。そのためには国に産業
を興して輸出主導の国家にし、国力を養って軍備を強化する――
この点においては、由利も大隈も同じことを考えていたのです。
 この殖産興業という考え方は、松方正義も同じように考えてい
たのです。しかし、由利と大隈が不換紙幣の大量発行でインフレ
を起こしており、松方としてはこれを何とか修復する必要があっ
たのです。
 松方は「財政が健全化しない限り、景気はよくならない」と考
えていたのです。そこで、超緊縮財政を敷き、無駄な出費は極力
抑える政策――つまり、デフレ政策を実行したのです。そして、
紙幣は銀の裏づけのある兌換紙幣を発行することにしたのです。
 金や銀に交換できない不換紙幣を発行すると、国民としてはい
つそれが紙切れになってしまうかわからないので、できる限り急
いでモノに換えようとします。お金で持っているよりも、モノで
持っていた方が安心だからです。
 もし、多くの国民がそのように考えて行動すると、モノの値段
が上昇し、インフレ状態になります。由利や大隈の場合はこれで
失敗したのです。そこで、松方は銀の裏づけのある兌換紙幣だけ
を発行し、発行済みの不換紙幣の償却を行ったのです。兌換紙幣
であれば、紙切れになることはないので、モノで持っている必要
はない――したがって、物価の上昇は起きないのです。
 加えて、松方は増税を行っています。酒税、タバコ税、地方税
を増税し、徹底的なシブチン政策で4年間で4000万円の剰余
金をつくることができたのです。明治14年度の歳入は、およそ
6400万円でしたから、この剰余金4000万円確保は、とて
も大きかったのです。
 松方はここで会社設立ブームを起こし、殖産興業政策を推進し
ようと考えたのです。デフレ政策によって物価は下落しており、
落ち着いてきていたので、「安い金利でお金を借りることができ
る」と奨励するとともに官営工場の払い下げを推進したので、狙
い通りの会社設立ブームが起きてきたのです。
 そして、輸出増加を図って国内産業の成長を促し、松方が大蔵
卿に就任した一年後の明治15(1882)年には、日本銀行を
開業します。これによって、150行を超えていた国立銀行が普
通銀行になり、由利、大隈時代に発行した銀行券の償却も着実に
進められていったのです。
 このように文章で書くと、松方財政になってからは何もかもう
まくいったようにみえてしまいますが、厳しい緊縮財政と徹底的
紙幣縮減は、当然のことながら、国民経済に強いデフレを引き起
こし、コメ相場は1881年〜1884年にかけて5割も下落す
るという事態が発生しているのです。
 しかし、由利、大隈、松方という3人の大蔵卿がその手法こそ
それぞれ違っていたものの、殖産興業という目的が一致していた
ことにより、結果として、それ以後の民間産業発展のための基盤
を提供することになったのです。とくに松方正義の作った近代的
財政金融制度は後の日本の発展にとても役立ったのです。
 銀行、鉄道などの近代産業、紡績、生糸、鉱物、雑貨などの輸
出産業、食品などの消費財産業が、在来企業のすそ野を拡大する
かたちで発展し、日本の経済を牽引する役割を果たしたのです。
 松方財政によって少しずつ国内産業が立ち上がりつつあったそ
の矢先に日清戦争が起きたのです。しかし、その当時の日本の財
政は、明治初期と比べものにならないくらいに安定しており、戦
争によって、すぐに経済が崩壊するような事態にはならなかった
のです。
 しかし、軍事力は脆弱そのものだったのです。そのために、戦
争には勝ったものの、ロシア、ドイツ、フランスによる三国干渉
を跳ね返す力がなかっのです。そのため、政府の目標は軍事力増
強に一点に絞られたのです。
 さいわいにして、日清戦争では、台湾と澎湖島という土地、2
億テール(当時の日本円で3億1000万円)の賠償金を手に入れ
ています。そのため、この3億円を超える賠償金はすべてが軍備
拡充に当てられたのです。
 その結果として陸軍と海軍は次のように目標を立て、実際に増
強されていったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ≪陸軍≫
   常備 7個師団・平時兵員 5万人/戦時20万人
  →常備13個師団・平時兵員15万人/戦時60万人
 ≪海軍≫
  →20万トン超の艦艇保有
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、国の経済基盤がようやく安定してきたとはいえ、ロシ
アを相手に戦えるほど日本は豊かになったわけではないのです。
既に述べたように、日露戦争には19億8600億円かかってい
ます。これに対して、明治36年度の国家予算は2億5000万
円しかなかったのです。どのようにして、この莫大なる戦費を捻
出したのでしょうか。
 ほとんどは借金で賄うしかないですが、国内で調達できたお金
は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     手持ちの資金 ・・・ 5億0000万円
     国内向け国債 ・・・ 4億7000万円
     臨時事件公債 ・・・ 1億9900万円
    ――――――――――――――――――――
               11億6900万円
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 あと8億円強不足しています。日本はこの8億円もの資金をど
のようにして調達したのでしょうか。 ・・・ [日露戦争28]


≪画像および関連情報≫
 ・松方正義について
  鹿児島生まれ。政治家、財政指導者、元老。父鹿児島藩士。
  日田県知事、租税頭、大蔵大輔などを経て、明治13年 (1
  880) 内務卿となる。翌年大隈重信が政変で追放されると
  参議兼大蔵卿に就任。いわゆる「松方デフレ」と呼ばれる緊
  縮財政を実施。第1次伊藤、黒田、第1次山縣、第2次伊藤
  第2次山県各内閣の蔵相。この間首相として2度組閣し、蔵
  相を兼任した。のち日本赤十字社社長、枢密顧問官、議定官
  貴族院侯爵議員、内大臣を歴任。日本銀行の創立、金本位制
  度の確立など、財政指導者として功績を残す。元老としても
  重きをなした。
  http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/194.html?c=0

1734号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月12日

高橋是清に託された戦費調達(EJ1735号)

 不足する8億円は「外債」で集めるしかなかったのです。外債
とは、国債と仕組みは同じものであり、額面いくらという国債を
発行して外国に買ってもらい、期限がきたら利子をつけて返すと
いうものです。
 しかし、平時ではなく戦時なのです。ロシアも外債でお金を集
めようとしていたのです。超大国のロシアと小国の日本が戦争を
はじめて、外国向けの国債を出したとします。自国民なら話は別
ですが、戦争に関係のない外国はどちらの国債を買うと思います
か。どうみても日本がロシアに勝てるとは思えない時点でです。
 元老会議の席上、松方正義は次のようにいったそうです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   「この任を果たせるのは彼をおいてほかにいない」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここで「彼」とは、時の日銀副総裁・高橋是清のことです。松
方は大蔵卿の頃から高橋を評価しており、高橋の意見をよく聞い
ていたといわれます。
 高橋是清は、明治37(1904)年2月24日に後に日銀総
裁になる秘書役の深井英五と一緒に日本を出発しているのです。
成算があっての外国行きではないのです。やってみなければわか
らない困難な仕事だったのです。
 松方財政によって日本の財政はかなり立ち直ってはきたものの
ロシアと戦争するとなると、大変なお金がかかるのです。実際問
題として、戦争がはじまってからは、毎月1000万円くらいの
お金が武器購入などで外国に支払われていたのです。時間をかけ
てじっくりやる仕事ではないのです。すぐに成果を上げる必要が
あったのです。
 この高橋是清という人は実に波乱万丈の人生を送った人です。
彼は幕府御用絵師の川村庄右衛門の子として生まれ、仙台藩士の
高橋是忠の養子となったのです。高橋是清は12歳の時に英学修
行の生徒に選ばれ、横浜のヘボン夫妻のところへ送られたのです
が、その後、慶応3年に米国のサンフランシスコに給費学生とし
て渡りました。ところが、英語がよくわからないままにうっかり
サインしてしまったために、なんとオークランドの農園主に3年
契約でボーイ(奴隷)として50ドルで売り飛ばされてしまった
のです。こんな経験をした日本人は少ないと思いますが、結果と
して、この異常な経験が高橋の英語力を磨いたのです。
 さて、高橋一行は最初米国に行ったのですが、まったく相手に
されなかったといいます。その当時の米国は、自国の産業を発展
させるためにはむしろ、外国資本を誘致しなければならない状況
にあり、米国内で外国公債を発行するなどということは実現性に
乏しかったのです。
 高橋はそういう状況を悟ったので、米国には4、5日いただけ
で、英国に向ったのです。当時、世界の金融センターはロンドン
であり、まして英国は日本の同盟国ですから、英国の方が可能性
としては大きかったからです。
 高橋是清に課せられた当面の要請は、英国のお金で1000万
ポンド――当時の日本円で1億円、現在の貨幣価値に直すと35
00億円の外債を募集することだったのです。
 高橋は大富豪のロスチャイルドに会って話をしますが、話は聞
いてくれるものの手ごたえがないのです。何のことはない、同盟
国の英国でさえ、日本が勝つとは露ほども考えていなかったので
す。しかし、こんなことでめげる高橋ではないのです。
 彼はパース銀行ロンドン支店長のアレクサンダー・シャンドに
会いに行くのです。パース銀行は横浜正金銀行の取引銀行であっ
たことと、シャンドは高橋のかつての雇い主でもあるということ
で高橋が内心あてにしていた人物だったからです。
 シャンドは横浜で、バンキング・コーポレーション・オブ・ロ
ンドン・インディア・アンド・チャイナの支配人をしており、高
橋は英語の勉強のため、シャンドの使用人として働いていたこと
があったのです。
 高橋はシャンドの紹介で、パース銀行頭取のバー、本店支店長
のダン、香港=上海銀行の取締役支配人サー・ユウエン・カメロ
ン、仲買商パンミュール・ゴールデン商会のコッホ、レビタらと
会見したのです。
 しかし、彼らは口々に日本公債の発行は難しいというのです。
それは、日露戦争開始以来、パリやロンドンでのロシア公債の下
落幅が小さいのに比べて、日本の公債は暴落しているという点に
あります。それに加えて英国の王室はロシアの帝室と縁戚関係に
あるため、英国が単独で日本の軍費調達に動くことに内心、心苦
しく感じているということもあったと思われます。
 しかし、ここにきて日本に順風が吹いてきたのです。それは次
の2つのことです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.マカロフ司令官戦死に関する金子堅太郎の追悼コメントが
   大評判を呼び、日本びいきが増えてきた。
 2.日本軍の緒戦の連戦連勝によって、日本絶対不利の風向き
   が少しずつ変化する兆しが出てきたこと。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここにきて金子の工作が高橋による外債引き受けに効いてきた
のです。高橋は、この戦争は自衛のための戦争であり、日本国民
は確固たる信念に基づく覚悟をもって臨んでいるなどと力説した
のです。この高橋の説得によって、英国の銀行団の姿勢が変わっ
てきたのです。
 資金力に余裕のなかった日本は、戦争に踏み切っても最初のう
ちに戦勝を重ね、なるべく早く講和に持ち込む戦略を立てていた
のです。戦争というと、どうしても軍隊の動きにばかり焦点が当
たってしまいますが、その裏で戦時広報として金子堅太郎を米国
に、末松謙澄をヨーロッパに派遣し、最も重要な戦費調達は高橋
是清に託すというように、明治政府は適切な手を打っていること
は評価できると思います。      ・・・ [日露戦争29]


≪画像および関連情報≫
 ・高橋是清について
  幕府御用絵師川村庄右衛門の不義の子として生まれ、仙台藩
  士高橋是忠の養子となる。1867(慶応3)年に藩留学生と
  して渡米、意味も分からずサインをし奴隷となる。翌年脱出
  し帰国。本場仕込みの語学力が認められ、16歳で開成学校
  (東大)の教師。しかし、酒と芸者遊びに溺れ教師をクビにな
  り、幇間になる。その後1887年に初代特許局長に就任。
  1889年、一攫千金を狙いペルーの銀山開発にのりだした
  が失敗し失意の底に沈んだ。1892年、才覚を認められ日
  本銀行へ。日露戦争中13億円の外債募集成功。1905年
  貴院議員。1907年男爵。1911年日銀総裁を経て、
  7度の大蔵大臣・農商務大臣・内閣総理大臣などを歴任。し
  かし、2.26事件で暗殺。その後、高橋是清邸宅は「仁翁
  閣」は多磨霊園休憩所として活躍。
  http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/takahashi_ko.html

1735号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月13日

ジェイコブ・シフとの出会い(EJ1736号)

 1000万ポンドの公債発行という高橋是清の要請に対して、
銀行団は次の条件を提示してきたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.発行公債はポンド公債とする
  2.関税収入を抵当とする。
  3.利子は年6分(6%)とする
  4.期限は5ヶ年とする
  5.発行価格は92ポンドとする
  6.発行額の最高限度を300万ポンドとする
         ――田畑則重著、『日露戦争に投資した男/
        ユダヤ人銀行家の日記』より 新潮文庫143
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 英国の銀行団は2の「関税収入を抵当とする」に対して「サー
・ロバート・ハートのような処置を取る」という付帯条件を付け
てきたのです。
 この条件に対して高橋は本気で怒ったそうです。「サー・ロバ
ート・ハートのような処置を取る」というのは、ロバート・ハー
トは清国の総税務司で、40年あまりにわたって清朝の海関行政
を支配した人です。銀行団としては、サー・ロバート・ハートの
ような英国人を派遣して、利子がちゃんと支払われるよう日本の
税関を管理するという意味です。
 高橋是清は、次のように述べて絶対に譲らず、ついに抵当権を
名目だけのものにしてしまったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 冗談じゃない。日本政府は外債のみならず、内国債でも利払い
 を怠ったことはない。            ――高橋是清
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 高橋が不満だったのは6の「発行額の最高限度を300万ポン
ドとする」という項目です。しかし、日本政府の命令である10
00万ポンドは開きがあり過ぎてまとまりそうもないので、本国
と連絡をとって半分の500万ポンドとし、その代わり期限を7
年に、発行価格92ポンドを93ポンドとするよう申し入れ、強
引に銀行団を承知させたのです。高橋は大変なタフ・ネゴシエー
タといっていいでしょう。
 しかし、あと500万ポンド足りない。これをどうするか――
高橋は悩んでいたのです。しかし、残りの500万ポンドは思い
もかけない人の申し出によってできてしまうのです。
 1904年4月23日と24日の両日にわたって、銀行団との
仮契約を結んだときのこと。高橋の友人でニューヨークの投資銀
行スパイヤーズのロンドン支店長アーサー・ヒルがお祝いにと、
晩餐会を開いてくれたのです。
 高橋はヒル邸で行われた晩餐会において、ジェイコブ・シフと
いうユダヤ系米国人と知り合いになるのです。シフはニューヨー
クの投資銀行クーン・ロープ商会の首席代表であり、毎年恒例の
ヨーロッパ旅行のさい、たまたまロンドンに立ち寄ったところ、
ヒルから晩餐会に招待を受けたと高橋に伝えていたのです。
 晩餐会でシフなる人物は高橋の隣に座って、しきりに日本経済
の状態、生産の状況、開戦後の人心はどうかなど、細かに質問を
してきたというのです。
 その話の中で高橋は、本当は1000万ポンドを募集するよう
国から命令を受けていたのだが、500万ポンドしか契約できず
困っているという話をしています。
 晩餐会の翌日、例のアレクサンダー・シャンドが高橋のところ
にやってきて、シフが今回の日本公債の残額の500万ポンドは
自分が引き受けて、米国で発行したいといっていることを告げた
のです。とにかく高橋は昨夜までシフという人物を知らなかった
ので、ロンドンの銀行団と相談したのです。
 そうすると、銀行団は異存はないということで、シフの申し入
れを受け入れることにしたのです。何はともあれ、高橋は本国か
ら命じられた1000万ポンドの起債はクリアしたのです。それ
にしてもシフはどうして起債に応じてくれたのでしょうか。
 本当のところははっきりしないのですが、どうやらシフは晩餐
会で高橋に偶然に会ったのではないようなのです。そこには、英
国側のシフに対する周到なる根回しがあったのです。
 実は日露戦争の起きる4〜5年前から、ペテルブルグの銀行家
が蔵相ウイッテの命を受けてシフのところにロシアの中期国債の
発行を頼みにやってきていたのです。しかし、シフはこれを断っ
ています。シフはユダヤの同胞を虐待するロシア政府は許さない
という姿勢からです。
 シフの親友の英国人にアーネスト・カッセルという人物がいる
のです。このアーネスト・カッセル――当時、ロンドンではあの
ロスチャイルド家を凌駕するほどの信望を得ていたといわれるの
です。日本に投資してもよいというシフに対し、カッセルは日本
に理解のある説明をしてくれているのです。カッセルは日本の事
情に通じていたのです。
 のちにシフはカッセルと一緒に国王エドワード7世から午餐に
招かれているのですが、その席上国王は、シフが日本国債発行に
参加する決断をしたことをとても喜んでいたというのです。
 これでわかることは、英国としては日本からの申し入れ通り、
1000万ポンドの公債を引き受けたいが、ロシア帝室との関係
もあって、英国があまり日本に肩入れするのはきわめて問題があ
る。そこで、とりあえず英国銀行団が半分を引き受け、あとの半
分は英国が根回ししてシフにやらせる――こういう筋書きではな
かったかと思います。
 ロシアは日露戦争開戦後も、内相プレーヴェを使って、執拗に
シフに対して働きかけていますが、シフは頑としてこれを拒んで
いるのです。このような意味において、ジェイコブ・シフは、日
露戦争に大きな影響を与える活躍をしたのです。高橋是清の交渉
――銃や剣こそ使いませんが、これも紛れもなく戦争そのもので
あるといえます。          ・・・ [日露戦争30]


≪画像および関連情報≫
 ・1904年4月にシフがロスチャイルド卿に宛てた手紙
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「過去4、5年にわたりロシア政府はアメリカ市場での起債
  に向けて努力を続けてきたが、それを私(シフ)が無に帰せ
  しめてきたことを誇りに思う」   ――ジェイコブ・シフ
         ――田畑則重著、『日露戦争に投資した男/
        ユダヤ人銀行家の日記』より 新潮文庫143
  ―――――――――――――――――――――――――――

1736号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:44| Comment(1) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月14日

第1回戦時公債の成功/1904(EJ1737号)

 日本の第1回戦時外債(1000万ポンド)は、1904(明
治37)年5月1日にロンドンとニューヨークで売り出されたの
ですが、購入希望者が募集額を上回ったのです。
 逆に開戦当初は高値を呼んでいたロシア公債の人気は急落した
のです。開戦前の1月の時点で額面の97%であったものが、5
月には額面の89%まで下がってしまったのです。
 そのため、ロシアはさらに多額の戦時公債を売り出すことが困
難になったのです。なぜなら、それをすれば、金融市場に混乱を
引き起こす恐れがあると、ロシアの最大の債権国フランスが反対
したからです。
 どうしてこういう結果になったかというと、5月1日に陸軍大
将黒木為禎率いる第一軍が、鴨緑江の渡河作戦を成功させたから
なのです。実にタイミングがよかったのです。少し戦局のことを
書きましょう。
 宣戦布告した日本軍がまず目指したのは、朝鮮半島上陸作戦で
あり、戦略拠点のソウル(京城)の確保だったのです。2月6日
に先遣隊が佐世保で輸送船に乗り込み、朝鮮半島に向ったのです
が、途中抵抗らしい抵抗に遭わずに8日にあっさりと仁川に上陸
し、そのままソウルに入っています。
 その日の午後、瓜生外吉の率いる第2艦隊とロシアの砲艦「コ
レーエッツ」と「ワリャーク」の2隻が遭遇したのですが、ロシ
ア艦は仁川港口に逃げ込んでしまいます。しかし、次の日に港か
ら出てきたところを瓜生艦艇に攻撃され、被弾の後、自沈してし
まいます。
 この戦況によって、大本営は、先遣隊に続いて第12師団が上
陸する予定地であった朝鮮半島の南端の馬山を変更し、中央部の
仁川にしたのです。第12師団は2月半ばから10日間かけて、
仁川に無事上陸し、朝鮮半島のソウル以南を日本の支配下に置い
たのです。ここまでは実に順調に進んだのです。
 これは黄海における制海権の確保が予想を上回るスムーズさで
確保できたことによるのです。制海権の確保には、ロシア太平洋
艦隊と相当激しい戦闘を予想していたのです。しかし、ロシア艦
隊は黄海には出てこないので、2月8日に連合艦隊はロシアの主
力艦が集結する旅順港に接近し、旅順港外に停泊中のロシア太平
洋艦隊を攻撃しています。
 続く9日も連合艦隊は旅順港を攻撃したのですが、その攻撃が
すさまじかったので、ロシア艦隊は旅順港に閉じこもり、出てこ
なくなってしまったのです。このとき、マカロフ司令官は旅順に
おらず、その着任をひたすら待っていたようなのです。
 このようにして、不十分ではあるが、一応黄海の制海権は日本
の手に落ちたのです。当初の作戦計画では黄海にロシアの太平洋
艦隊が出てくることを予想し、第12師団は朝鮮半島の南端に上
陸して北上する予定でいたのですが、制海権を得たので、作戦は
急ピッチで進み、次の目標値は平壌に絞られたのです。
 このとき、鴨緑江左岸の昌城、義州方面からロシア軍が南下し
平壌北方付近まで達しているとの情報が入ったのです。大本営は
第12師団長の井上中将に直ちに平壌占領の命を下したのです。
当時平壌には在留邦人が300人ほどいたのです。
 大本営の命を受けて、小泉義男大尉を中隊長とする先遣隊は、
仁川港を軍艦で出港し、海州に上陸、そのまま北上して2月24
日に平壌入りを果たしています。以下、続々と第12師団司令部
をはじめ、残る各部隊も平壌入りし、3月18日までに防御を固
め、第一軍主力の上陸を待ったのです。そして、主力の近衛師団
と第2師団は3月29日までに第12師団と合流したのです。
 黒木大将率いる第一軍は、韓国内に残るロシア軍を掃討しなが
ら北進を続け、4月21日までに全部隊が鴨緑江右岸の義州一帯
に兵を展開させたのです。その目の前には鴨緑江が横たわり、対
岸にはロシア軍が守る九連城――国境線随一の名城が見えていた
のです。ロシア軍2万6000の兵力を率いる将軍は、ワルシャ
ワから着任したウラジミール・ザスリッチ中将だったのです。
 ザスリッチ中将は着任前にクロパトキン大将と参謀長のサハロ
フ中将から、次のように指示されていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 優勢な敵との不利な戦いを避けて、敵の編成、配備および前進
 方向を確かめながら、できるかぎり徐々に退却して敵との接触
 を保つように。           ――クロパトキン大将
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、ザスリッチは「彼ら(クロパトキンとサハロフ)は、
日本軍を欧州諸国の軍隊と同一視している」として日本軍をみく
びり、クロパトキンの指示を無視して、2万6000の兵力を、
275キロにおよぶ鴨緑江岸に分散配置してしまったのです。日
本軍の力を過小評価したからです。
 これに対して黒木大将率いる第一軍は3個師団を集中配置して
いたのですから、日本軍の優勢は誰の目にも明らかです。なお、
1個師団は約1万1600名ほどの兵力です。
 4月29日午後2時、渡河一番手を担う第12師団は架橋作業
に着手します。この作業は30日の午前3時に終了し、第12師
団部隊は渡河を開始し、夜明け前には全軍渡河したのです。
 これと平行して近衛師団と第2師団は鴨緑江本流の架橋作業に
着手、九連城のロシア砲兵隊はこれを阻止しようとして攻撃を加
えてきたのですが、架橋作業は午後8時に終了し、5月1日午前
5時に全軍が渡河を完了し、敵と対峙したのです。
 集中した日本軍と分散したロシア軍――その差は歴然としてい
ました。日本軍の総攻撃にロシア軍は総崩れになり、5月1日、
午後5時39分に黒木軍は九連城を占領したのです。
 九連城を落とした日本軍は直ちに追撃戦に入り、5月6日、先
陣の近衛師団はほとんど無抵抗のまま鳳凰城を占領したのです。
旅順の極東総督府から「退却せよ」との命を受けたからです。ま
さにこういうときに、ロンドンとニューヨークで日本の戦時公債
が売り出されたのです。       ・・・ [日露戦争31]


≪画像および関連情報≫
 ・1904年5月1日に黒木大将の大本営への報告
  ―――――――――――――――――――――――――――
  軍は予定のごとく天明をもって砲戦を開始し、午前7時5分
  楡樹溝西方高地に在る敵の砲兵を沈黙せしめ、同7時30分
  より各師団は攻撃前進に移り、8時15分より9時の間にお
  いて、九連城より馬溝、楡樹溝北方にわたる高地線を占領せ
  り。委細は後より。            ――黒木為禎
  ――平塚柾緒著、『図説/日露戦争』より。河出書房新社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

1737号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月15日

明石元二郎大佐の役割(EJ1738号)

 日露戦争開戦前後に、軍人とは別に特命を帯びて諸外国で活躍
した人をここまで追ってきました。戦時におけるメディア工作の
ため米国に行った金子堅太郎、同じ目的でヨーロッパに派遣され
た末松謙澄、それに戦費の調達の重要任務を担って英国と米国で
活躍したた高橋是清――こうした人たちの縁の下の活躍がなけれ
ば、とても日露戦争は勝てなかったはずです。
 また、そういう人物の才能を見込んでを選抜し、それぞれ任務
を与えて必要にして適切な手を打った元老の山縣有朋と伊藤博文
は、やはり優れた政治家といえると思います。
 実はこれら3人のほかに軍人でありながら戦場に赴かず、日露
戦争の日本勝利に多大なる貢献をした人物がもうひとりいるので
す。それは、明石元二郎という人物です。
 宰相ビスマルクを退けて自ら権力をふるって拡張政策を進めた
ドイツ皇帝ウィルヘルム二世は、明石元二郎のことを次のように
いって称えたといいます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上
 げている。             ――ウィルヘルム二世
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 明石元二郎とはいかなる人物なのでしょうか。しばらく明石に
ついて書くことにします。
 1902年――日露開戦より1年半くらい前の夏のことですが
陸軍大佐・明石元二郎は、帝政ロシアの首都サンクトペテルブル
グの駐公使館付武官に任命されているのです。彼には次の3つの
指令が出ていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     1.ロシアの兵力はどのぐらいの規模か
     2.シベリア鉄道の輸送能力のチェック
     3.開戦になったときの鉄道の破壊工作
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そうです。明石の仕事とは「軍事情報の収集」、すなわち諜報
活動だったのです。当時ロシアは世界無敵の陸軍国です。その陸
軍の主力は、首都サンクトペテルブルグに結集しています。この
兵力が大挙して満州に進出してくると、日本はひとたまりもなく
蹴散らされてしまうでしょう。
 したがって、ロシア陸軍の主力を満州まで出てこれないように
すればよいのです。そのためには、ロシア内部や周辺にくすぶっ
ている反ロシア勢力(革命勢力)と連携してテロや騒動を起こさ
せる――そうすれば軍隊が対応せざるを得ないから、とても満州
などに兵を派遣できなくなるはずです。
 それでも少しは兵を満州に送ってくることは考えられる――そ
の輸送手段であるシベリア鉄道の能力はどのレベルのものかを調
査し、可能であれば破壊工作をせよ。これが明石に課せられた仕
事なのです。実に重大な任務です。
 結果として明石はこの大仕事をやり遂げているのです。実際に
明石のやった工作が契機になってロシア革命が起こり、ロシア帝
国は崩壊しているのです。後のソ連邦の創始者であるレーニンは
次のようにいっているほどです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本の明石大佐には本当に感謝している。感謝状を出したい
 ほどである。               ――レーニン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ところで、この大仕事をやり遂げた明石について、司馬遼太郎
は、例によって毒舌を浴びせています。彼は明石を「一種異様な
人物」とまえおきして、次のように表現しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  軍人のくせに運動神経に欠けていて、走らせてもびりっこだ
 ったし、器械体操はまるでできなかったし、その上、服装とい
 う感覚においてはまるで鈍感で、自分の姿(なり)というもの
 を自分で統御するあたまがまるでなかった。(中略)
  ポケットの底はみなやぶれていたし、ときどきボタンがちぎ
 れており、軍服のところどころがやぶれていて、サーベルの鞘
 などはたいていさびていた。
  ――司馬遼太郎著、『坂の上の雲』第6巻より。文春文庫刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 実際の明石大佐に会っていないので、この表現が正しいかどう
かはわかりませんが、少なくとも外交官向きの人ではなかったよ
うに思います。
 しかし、その司馬遼太郎でも褒めていたのは、彼の語学力なの
です。明石の士官学校の成績を見ると、フランス語の成績が27
人中のトップであり、語学の修得にかけては大変な努力家であっ
たということです。彼は、赴任した国の言葉を一心不乱に、寝食
を忘れて没頭し、マスターしてしまう――そのさまはまさに「異
様」であり、司馬遼太郎は「語学狂」と命名しています。
 そんなわけで、フランス語、ドイツ語、ロシア語・・・何でも
マスターしてしまったのです。あるパーティの席でこんなことが
あったそうです。その席にはドイツとロシアの士官がいたのです
が、ドイツの士官が明石にフランス語で「貴官はドイツ語ができ
ますか」と聞いてきたのです。
 明石は「フランス語がやっとです」とわざと下手なフランス語
で答えたのです。そうすると、たちまちそのドイツの士官は明石
を無視して、ドイツ語でロシアの士官と重要な機密について話し
始めたというのです。ドイツの士官にすれば、まったく風采の上
がらない明石を見て、こんな男にドイツ語がわかるはずはないと
きっと考えたのでしょう。
 しかし、明石はドイツ語は完全にマスターしていて、その機密
をすべて聞いてしまったというのです。見た目が利口に見えない
というのもスパイの重要な資質なのです。そのせいか、日本の陸
軍内部でも明石の能力を見抜けない人が大勢いたのです。しかし
その明石の能力を買った男がいるのです。・・ [日露戦争32]


≪画像および関連情報≫
 ・日露関係が険悪になった頃の明石元二郎の詩
  ――――――――――――――――――――
   耳をおおう他家の和戦論
   門を鎖(とざ)してただ読書の人となる
   おもむろに期す大業晩成の日
   先ず祝す今年四十の春
  ――――――――――――――――――――

1738号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月16日

明石大佐の能力を買った男(EJ1739号)

 明石元二郎を見出したのは、児玉源太郎なのです。児玉源太郎
は、実は士官学校を出ていないのです。戊辰戦争に藩の献功隊士
として参加します。のちに陸軍に入り、佐賀の乱、神風連の乱、
西南戦争に従軍、戦争によって武勲を立て、大本営参謀本部第一
局長、陸軍大将にまで昇りつめた人です。
 児玉は陸軍大学校の校長をしていた時期がありますが、そのと
き教官としてきていたメッケルの講義を聴講し、意見を交わした
ことがあるのです。のちにメッケルは「あなたが日本で教えた者
たちの中で、これはと思った者がおりますか」と聞かれたとき、
即座に「コダマ」と答えているのです。
 その児玉は一風変わっていた明石元二郎の才能を早くから見抜
いており、使える男であると考えていたのです。しかし、周りは
そうではなかったようです。
 明石の上司に当るペテルブルグ時代の駐露公使の栗野慎一郎で
さえ、彼の能力を見抜けず、開戦の直前に外務省に「優秀な間諜
が欲しい」と要請したほどだったのです。いつも一緒にいる明石
の能力に気づいていなかったわけです。
 しかし、児玉は、明石がつねづねロシアという国を次のように
とらえていることを知っていたのです。明石は外国に赴任すると
語学と同時にその国の歴史を冷静に把握することを怠らず、その
国の現状を誰よりも正確に把握していたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ロシアの国土を掠奪し、ロシア国民を虐げているのは、ロシア
 皇帝とその宮廷である。ロシアにおけるすべての政治悪はここ
 に根源している。             ――明石元二郎
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 児玉は、戦場が満州である以上、清国を味方につけ、ロシアの
革命煽動が必要であると考えていたのです。そして、清国工作は
青木宣純、ロシア工作は明石元二郎が適任と考えて、素早く手を
打ったのです。
 当時清国では、袁世凱が清朝において有力な勢力を形成してい
たので、袁世凱を味方に引き入れる必要があったのですが、その
袁世凱に信用されていたのが青木宣純という宮崎県出身の砲兵大
佐だったのです。青木は北京の公使館付武官をしていたことがあ
り、そのとき袁世凱と親交が生まれたのです。
 話を明石に戻します。児玉は決断すると、参謀本部の留守役を
担当していた長岡外史少将に工作資金として明石に100万円を
送らせたのです。当時の100万円について、明石工作の詳細に
ついて書かれている水木楊氏の著作に、次のように記述されてい
ます。大変面白い本です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 陸軍が明石一人に自由に任せた資金は当時の資金で百万円。そ
 のときの米の値段と現在のそれとを比較すると、およそ七千二
 百倍。単純にいっても、百万円は七十二億円の米を買う購買力
 を持っていた。一九○五年の国家予算が現在の十二万分の一だ
 から、予算金額上の百万円は千二百億円という莫大な金額にな
 る。明治政府がいかに明石工作に力を入れたか分かろうという
 ものだ。 ――水木楊著、『動乱はわが掌中にあり/情報将校
           明石元二郎の日露戦争』より。新潮社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 水木氏の本には明石のお金の扱い方について面白いことが書い
てあります。明石の家は貧乏でお金に困っていたそうです。小学
校時代は教科書も他人のものを借りて写して使わなければならな
いほど困っていたそうです。
 それだけに母親の躾けは厳しく、お金のために性根を曲げない
よう育てられたのです。そのためか、明石は終生お金には恬淡と
しており、俸給は副官が明石ではなく夫人に渡すことにしていた
といわれます。本人に渡すと、それを無造作にポケットにねじ込
み、なくしてしまうことが多かったからです。
 しかし、明石は公金にはそれほどまでしなくてもというほど、
几帳面に扱ったのです。例の工作資金の百万円は、帰国後、上司
が舌を巻くほど細かな使途報告書を提出し、残金27万円を返却
したのです。仕事の性格から使途明細も返却もいらないお金だっ
たのですが、彼はきちんと返却したのです。
 英国のノンフィクション・ライターのリチャード・ディーコン
は、その著作『日本の情報機関』において、次のように書いて明
石を賞賛しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 工作資金を残し、しかも明細を付けて返した、珍しいスパイ・
 マスター           ――リチャード・ディーコン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 明治37(1904)年2月8日、ペテルブルグの日本公使館
が日露開戦によって公使以下引き上げることになり、一行は一路
ストックホルムを目指したのです。交戦中はストックホルムに公
使館を移すというのが栗野の考え方だったのです。ストックホル
ムなら、ロシアの情報は入ると考えたのですが、市内にはロシア
の官憲がストックホルムの政府機関に目を光らせており、まして
日本人の諜報行為など許さないという状況だったのです。
 一行を乗せた列車がストックホルム駅についたとき、ホームに
は多数の紳士や軍人が集まっていたのです。これは、ロシアを引
き上げてきた日本の公使館一行を歓迎するスウェーデンの人たち
だったのです。
 スウェーデンにとってロシアは歴史的に絶えざる恐怖そのもの
だったのです。いつ北境から攻め込んでくるかわからない――こ
のことが悩みの種だったのです。その強敵ロシアに極東の日本と
いう小国が果敢にも立ち向かう――その日本の勇気に感動して、
密かに支持しようとして、公使館一行を駅頭に出迎えたというわ
けです。スウェーデンは、ロシアの恐ろしさを知り尽くしている
国であるだけに日本の行くすえを他人事とは思えない――何とか
がんばって欲しいと激励に来たのです。 ・・ [日露戦争33]


≪画像および関連情報≫
 ・ビタリー・グザーノフ氏/ロシアの歴史作家
  ―――――――――――――――――――――――――――
  満州の前線における諜報戦が戦術的とすれば、欧州を舞台に
  した明石工作は戦略的・政治的謀略活動だった。ロシア国内
  でインテリゲンツィア(知識層)を中心に国民の間に革命気
  運が高まっていた状況で、日本との戦争に反対の声を上げさ
  せ、加えて、革命諸政党をロシアの敗北に向け活動するよう
  に仕向けた明石元二郎の役割は非常に重要だ。
       ――読売新聞取材班著、『検証/日露戦争』より
                      中央公論新社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

1739号.jpg
『動乱はわが掌中にあり/
 情報将校明石元二郎の日露戦争』
posted by 平野 浩 at 08:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月19日

フィンランド地下組織への工作(EJ1740号)

 日露戦争開戦直後の1904年2月のある日、場所はストック
ホルムのホテル・リード・ベリイの前に平服の明石元二郎はたた
ずんでいたのです。雪が激しく降っており、濃い霧も発生してい
て見通しがきかなかったのです。
 午前11時30分頃、一台の馬車が霧をかいくぐって明石に近
づいてきたのです。ドアがわずかに開いています。馬車が止まる
と、素早く明石は馬車に乗り込んだのです。馬車はすぐに走り出
し、霧の中に消えていったのです。
 馬車の中で明石は、乗っていたある人物と固く握手をしたので
す。その人物はフィンランド人革命家のコンニ・シリアクスだっ
たのです。フィンランドは当時ロシアの支配下にあり、シリアク
スは、フィンランド独立を目標に過激な地下活動を展開し、ロシ
アの秘密警察に追われていたのです。
 明石はその日、フィンランド憲法党の党首、カストレンに会う
ことができたのです。そこは事務所のような部屋だったのですが
何よりも明石を驚かせたのは、壁に明治天皇の肖像が飾ってあっ
たことです。
 壁にはもうひとつ、ロシア皇帝ニコライ二世の署名入りのカス
トレンの追放状が貼ってあったのです。おそらく、カストレンは
毎日それを見て、ニコライ皇帝への憎悪を再生産していたものと
思われます。
 カストレンは、明治天皇の肖像を見つめる明石に対して次のよ
うにいったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この日本の皇帝がわれわれを救ってくれることを信じている
                     ――カストレン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 明石はこの席でカストレンとシリアスクに対して次の2つのこ
とを頼んだのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  お願いが二つあります。第一はフィンランド、ポーランド、
 コーカサス、ウクライナなど、ロシアの支配下に置かれた国々
 にはどのような革命グループがあり、実際にどれくらいの力を
 有し、どのような活動をしようとしているかが知りたい。第二
 は、ロシア政府はどのような軍事行動を起こそうとしているか
 把握したい。この二点について情報をいただけないかというこ
 とです。 ――水木楊著、『動乱はわが掌中にあり/情報将校
           明石元二郎の日露戦争』より。新潮社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 明石のこの第一の要望についてシリアスクは承諾したのですが
第二の要望については拒否しています。しかし、カストレンは、
その場で電話を取り上げ、スウェーデンの陸軍に電話をかけたの
です。そして、イヴァン・アミノフというスウェーデン参謀大尉
と電話で協議をはじめたのです。その結果、ベルゲンという名の
参謀少尉をペテルブルグに派遣することになったのです。
 カストレンのいうのは、もし、自分たちがロシアのスパイをや
ると、フィンランドはロシアに併合されているので、形式的には
反逆ということになり、ロシア秘密警察の取締りが一層強くなる
――だから、この役割はスウェーデン人にやらせた方がよいとい
うものだったのです。
 このように、フィンランドの革命分子とスウェーデン陸軍とは
つながっていたのです。それはスウェーデンがロシアに対してい
かに強い恐れと反感を持っていたかを十分に物語るものです。実
際にベルゲン少尉はロシア国内にスパイ網を拡大し、それが日本
に貴重な情報をもたらすことになるのです。
 このコンニ・シリアクスと同世代のフィンランドの有名な作曲
家に、ヤン・シベリウスがいます。そのシベリウスの作品に交響
『フィンランディア』というのがあります。この曲は当時のフ
ィンランドの政情と深い関係があるのです。
 ロシア皇帝ニコライ2世によりフィンランドは自治権を取り上
げられ、民衆はロシア軍の傍若無人な圧力に日々苦しんでいたの
です。そんな中で祖国を愛する人々の間から、フィンランドの歴
史を描いた演劇『いにしえからの歩み』の上演の話が持ち上がっ
たのです。この演劇のための付帯音楽として書かれたのが、交響
『フィンランディア』の原曲になる6つの音楽なのです。
 1899年11月に、この劇と共に全6曲の付随音楽がヘルシ
ンキで初演され、感動を呼ぶ終曲が特に大好評でした。そして観
る側も演る側も、皆祖国への熱き想いを新たにしたのです。この
終曲は「スオミ」――これはフィン語で「フィンランド」を意味
する――と名付けられたのです。そして、1900年のパリの万
国博覧会で独立したひとつの曲――交響詩『フィンランディア』
として初演されています。これは大成功だったのです。
 ニコライ二世は直ちに弾圧を加えて演劇は中止に追い込まれま
す。しかし、フィンランド国民はひるまず、タイトルを変更して
同じ曲を演奏し、また弾圧。さらに名を変えて上演。そのたびに
フィンランドの独立運動は一層盛り上がっていったのです。
 そしてこの曲の中間部にある美しい旋律にはいつの間にか歌詞
が付き、「フィンランディア(フィンランド賛歌)」として合い
言葉のように歌われるまでになったのです。そして、1917年
フィンランドは独立を勝ち取ったのです。
 このことを知って交響詩『フィンランディア』を聴くと、すぐ
気が付くことがあります。曲は低音楽器によるうめくような和音
で始まりますが、これはロシアの圧制をあらわしています。そし
て、ロシア軍の銃撃や爆撃を思わせる金管楽器のリズムや低弦の
うねりが示されます。しかし、軽快な主部に入り、中間部は木管
と弦のコラール。ここが歌詞のついた部分です。主部が再現した
のち、全員で先ほどのコラールを高らかに奏して力強く終結する
――この曲は当時のフィンランドのことを描いた作品なのです。
そのフィンランドのカストレンとシリアスクと明石――ロシアは
大変な強敵を誕生させてしまったのです。・・ [日露戦争34]


≪画像および関連情報≫
 ・ヤン・シベリウス/交響詩『フィンランディア』
  この曲を改めて聴くときは、カラヤン/ベルリン・フィルの
  演奏をお勧めしたい。実にわかりやすく素晴らしい演奏だか
  らである。これを含めて、この曲のCDは次のアドレスをク
  リックすると参考になる。
  ―――――――――――――――――――――――――――
    http://www.kapelle.jp/classic/sibelius.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

1740号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月20日

ポーランド兵士戦線離脱作戦(EJ1741号)

 明石がシリアスクに会って、2人のロシアへの諜報戦争が開始
された頃のこと、明石は東京の参謀本部次長、長岡外史に対して
ポーランドからひとつの小包を送っています。
 小包を解くと、中から銅板が出てきたのです。銅板には一人の
将校が石碑の前で泣き崩れる図が彫ってあったのです。送ってき
たものはそれだけであり、手紙一本入っていなかったのです。
 しかし、これを見て、長岡外史はすぐピンときたのです。当時
ポーランドはロシアに併合されており、ポーランドの将校がロシ
ア当局に身内を殺されて嘆いている構図だと判断したのです。日
本もぼんやりしているとこんな目に遭いますよという明石の訴え
である――長岡は受け取ったのです。
 もし、日本がロシアに敗れると、一体どうなるでしょうか。こ
れについて『坂の上の雲』には次のように書いてあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  朝鮮半島は、ロシアの領土になるだろう。日本は属邦になる
 ことは間違いない。ロシア帝国はその威容を示すためにヘルシ
 ンキでやったと同様、壮大な総督官邸を東京に建てるだろう。
 さらに太平洋に港をもちたかったというながい願望をはたすた
 めに横須賀港と佐世保港に一大軍港を建設するにちがいない。
  憲法は停止し、国会議事堂を高等警察の本部にするに相違な
 く、さらに幕末以来、ロシアがほしかった対馬を日本海の玄関
 のまもりにすべく大要塞を築き、島内に政治犯の監獄をつくる
 であろう。銃殺刑の執行所をもうけるであろう。
  いまひとつ、東京には壮麗な建物ができるにちがいない。ロ
 シア帝国はその国教であるギリシャ正教をその軍隊同様、専制
 の重要な道具にしており、げんにヘルシンキの中央広場にこの
 異教の大殿堂がつくられているように、日比谷公園に東洋一の
 壮麗な伽藍をつくるであろう。
        ――司馬遼太郎著、『坂の上の雲』第6巻より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 明石がカストレンとシリアスクにストックホルムの隠れ家で会
ったとき、シリアスクはある具体的な提案をしているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 満州ではロシア兵に混ざってポーランド人が徴兵されて戦場に
 送り出されている。しかし、ロシアのためには血を流したくな
 いと考えているポーランド人は多い。そこで、このポーランド
 人の兵隊を戦線から離脱させる工作をしようではないか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 確かにポーランドでは、大量の徴兵が行われており、それもロ
シアに楯突く屈強な若者や医者、科学者などを重点的に狙って徴
兵していたのです。シリアスクはこのことを新聞の報道で知った
のです。
 シリアスクは、ポーランド国民民主党党首であるロマン・ドム
スキーに手紙を書き、ロシアを揺さぶる陰謀に加担しないかと説
得したのです。ドムスキーからはすぐに「賛成」の返信が届いた
のです。ちょうどそのようなときに、シリアスクは明石と会うこ
とになったのです。
 ロシア兵に加わっているポーランド兵を戦線から離脱させる計
画について明石は日本の参謀本部から了解を取りつけ、この計画
は明石の指示により、ドムスキーが東京で準備をすることになっ
たのです。日本側の担当者は、明石の上司である参謀本部主任部
長、福島安正だったのです。
 ドムスキーは、数万部の反戦ビラを印刷して、ポーランドから
徴兵される兵士にひそかに持たせ、戦場で配らせる案を福島に説
明し、その文案を示したのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ロシア皇帝はロツ、ジラルドフ、ドムブロワなどでポーランド
 労働者を惨殺した。その皇帝のために諸君は戦うのか。日本は
 強い。その背後には、英国、米国がついている。ロシアは負け
 る。日本軍を見たら投降せよ。日本軍は諸君の名誉を重んじて
 身柄を取り扱うだろう。その約束は日本政府との間ですでにで
 きている。――水木楊著、『動乱はわが掌中にあり/情報将校
           明石元二郎の日露戦争』より。新潮社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ポーランド兵士の戦線離脱作戦は、実は鴨緑江の渡河作戦で見
事に花開いたのです。明石のところに届いた暗号報告によると、
前線で降伏を勧告する大量のビラが撒かれ、ポーランド兵士が動
揺し、ロシア人上官の命に従わず、大量脱落したと報じていたの
です。さらに、ポーランド国内でも、ロシアからのさらなる徴兵
要求に対して抗議デモが発生し、流血騒ぎが起こっているという
のです。ドムスキーの作戦は成功したのです。
 しかし、ロシアもさるものです。ドムスキーの作成したビラを
発見し、ポーランド兵士を分散させたり、後方に回したりしたの
で、さらなる効果は期待できなくなったからです。
 明石は、このほかにシベリア鉄道破壊作戦にも挑んだのですが
こちらは警戒が厳重であり、ほとんど戦果らしい戦果は挙げるこ
とができなかったのです。
 明石は少し焦っていたのです。日本軍は鴨緑江渡河作戦は成功
したものの、5月になって日本軍のミスで多くの軍艦を沈めるな
どの作戦の不手際が露呈してきたからです。
 巡洋艦・吉野は戦艦・春日と衝突して沈没し、戦艦・初瀬が水
雷に触れて轟沈するなど、貴重な船を沈めたのです。国際市場は
正直なもので、ロンドンの金融市場では日本の公債の価格が下落
をはじめたのです。このままでは戦費の調達が苦しくなる。何と
かしなければと、明石はストックホルムで焦っていたのです。
 もっと大きな工作をする必要がある――そのためには、レーニ
ンを動かす必要がある。しかし、外交官の役職が邪魔になる。明
石は自分をもっと自由に動けるようにして欲しいと参謀本部に要
求したのです。参謀本部はそれに応えて、「欧州移動武官」のよ
うな役職を与えたのです。     ・・・・ [日露戦争35]


≪画像および関連情報≫
 ・明石元二郎とシリアスク
  シリアスクの写真は入手が非常に困難。次の本に掲載されて
  いたものを発見。
  デー・ペー・パブロフ+エス・アー・ペトロフ著、左近毅訳
  『ロシア側史料で明るみに出た諜報戦の内幕/日露戦争の秘
  密』、成分社刊

1741号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月21日

帝政ロシアの革命グループに接近(EJ1742号)

 ここで帝政ロシアの革命グループについての知識が必要になっ
てきます。革命グループは大別すると次の2つになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     1.帝政ロシア本国から発生したグループ
     2.支配された小国から発生したグループ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 第1のグループは、帝政ロシアそのものを理想のかたちに変え
たいと考えているグループです。その実現手段によって次の4つ
に分かれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     1.社会革命党 ・・・ 過激集団
     2.社会民主党 ・・・ 穏健路線
     3.自 由 党 ・・・ 段階移行
     4.ブ ン ト ・・・ ユダヤ人
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 社会革命党は、農村や地方を基盤とするグループで、皇室の廃
止、土地の国有化、農民の開放などの実現を目指す過激路線をと
るグループです。
 社会民主党は、工場労働者を基盤とし、比較的穏健な路線をと
るグループです。レーニンはこのグループに属していたのです。
 自由党は、社会民主党よりも穏健であり、帝政ロシアを段階的
に立憲政治に移行させようとするグループです。
 ブントは、ユダヤ人の集団であり、正式な名称としては、次の
長い名前を持っていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  リトワニア・ポーランド・ロシア・ユダヤ人労働者総同盟
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これに対して第2グループは、帝政ロシアの支配下にある小国
で発生したグループです。傘下には、次のような集団が含まれて
いるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.ポーランド国民民主党 ・・・ ドムスキー党首
  2.ポーランド国民進歩党
  3.フィンランド過激反抗党    シリアスク党首
  4.フィンランド憲法党 ・・・・ カストレン党首
  5.アルメニア革命連合
  6.小ロシア党
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これ以外にも小さい集団はたくさんあるのです。既にEJで取
り上げているシリアスクはフィンランド過激反抗党の党首であり
カストレンはフィンランド憲法党の党首、ポーランド兵士戦線離
脱作戦の実施担当のドムスキーは、ポーランド国民民主党の党首
なのです。
 しかし、これら大小さまざまの集団はお互いに反目し合ってい
て、ひとつにまとまるという考え方はなかったのです。本来の敵
である帝政ロシアを協力して倒すという考え方はまったくなかっ
たといえます。それをひとつにまとめる――そのためにはその前
提として秘密統一集会を開催する必要がある――シリアスクと明
石はこの作戦をストックホルムで、練りに練ったのです。そして
シリアスクは、スイスに向ったのです。
 この当時本国から追われた革命分子は、スイスのジュネーヴに
集まっていたのです。余談ですが、スイスには次の面白い悪口が
あるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 スイスにスイス人がいなかったらとても良い国になるだろう
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 スイスは風光明媚な土地です。しかし、そこに住むスイス人は
自分の生活基盤を脅かす参入者に対しては断固排除するところが
あるのです。つまり、排他的なのです。
 しかし、そうではない一時的な滞在者に対しては、驚くほど寛
容なところがあるのです。そのため、革命者やスパイなど、一時
的に滞在しようとする者には便利な国なのです。お金についても
スイスの銀行は、どのような性格のお金でも詮索をしないで預か
るし、どんなに圧力をかけても顧客の口座については秘密を守っ
てくれるのです。これがスイスの特徴といえます。
 明石とシリアスクは、統合の鍵を握っているのは第1グループ
の社会民主党であると考えたのです。社会革命党は統一集会を提
案すれば、一も二もなく乗ってくると考えたのです。そして、ス
イスにいた社会民主党の党首であるプレハーノフに会いに行った
のです。
 プレハーノフに会ってシリアクスは、秘密統一集会のことを提
案します。しかし、プレハーノフは、シリアスクの説明には耳を
傾けたのですが、「参加する」というと返事はなかったのです。
 かつて社会民主党には、ウラジミール・ウリヤーノフ――つま
り、若きレーニンがいたのですが、プレハーノフと意見が合わず
既に党を脱退していたのです。
 シリアスクは、続いて自由党の党首、ストルーベに会っていま
す。彼は積極的な人間ではないのですが、秘密統一集会には賛同
したのです。
 続いて、社会革命党、ブント、ポーランド国民民主党などの党
首に次々と会って、秘密統一集会を説いたのです。最も積極的に
賛成したのは、社会革命党の党首、チョルノフだったのです。彼
は、秘密統一集会だけではなく、デモも敢行すべきであるという
過激な提案をしてきたのです。
 レーニンは、一時危険分子として逮捕され、シベリアに流刑に
なっています。しかし、3年後の1900年7月にヨーロッパに
きて、1904年3月にはジュネーヴに落ち着いたのです。やが
て、レーニンは、本拠地をジュネーヴからチューリッヒに移し、
ボリシェヴィキを結成したのです。明石はどのようにして、レー
ニンに会ったのでしょうか。   ・・・・・ [日露戦争36]


≪画像および関連情報≫
 ・ウラジミール・レーニン
  ウラジミール・レーニンは、本名はウラジーミル・イリイチ
  ・ウリヤノフ。「レーニン」は「レナ川の人」の意である。
  レーニンの名を用いるまで、地下活動の間に約150もの偽
  名を用いていた――カルポフ、ヤーコプ・リヒテル、フレイ
  バシル、ニコライ・レーニンなど。  ――ウィキペディア

1742号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月22日

明石/レーニン会談(EJ1743号)

 社会民主党の機関誌に「イスクラ」というのがあります。この
機関誌はヨーロッパの社会主義者や反ロシア運動、抵抗運動に従
事する人たちの間で圧倒的に売れ、社会民主党の有力な資金源と
なっていたのです。
 レーニンは、この機関紙に力を入れており、社会民主党のプレ
ハーノフ党首との間に意見の違いが起こった出獄以後の時期にお
いても「イスクラ」には書いていたのです。
 ちょうどその頃、明石はパリにいたのですが、シリアスクとカ
ストレンの紹介で、レーニンに会っています。
 明石がレーニンに会った場所は、レーニンのジュネーブの自宅
なのです。その頃、レーニンは、イワン・イリーチ・ウリヤーノ
フと本名を名乗っていたのです。
 当時、レーニンは35歳、明石は40歳です。自宅に招き入れ
られた明石は、パリから持ってきた上等のコニャックを出すと、
レーニンは「いや、私は酒はやりませんので・・」と断ったので
明石は自分で栓を抜くと、手酌で飲み出したのです。
 レーニンが率いる社会主義運動に日本政府が資金援助する話で
あるということは、あらかじめシリアスクからレーニンに伝えら
れていたのですが、レーニンはそれを断ってきたのです。
 レーニンが日本政府の資金援助は受けられないという理由は、
次のような根拠に基づいていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.日本政府が社会主義運動に理解があるとは考えられない
 2.日本はロシアの敵国、敵国から資金援助は受けられない
 3.資金援助を受けて革命が成就したとき自分は非難される
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 明石はきっとそうくると考えていたのです。ここから先の対話
は、豊田穣氏の著書から引用させていただきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「レーニンさん、あなたはまた肝心のところで、大きな認識の
 間違いを冒していますぞ!」
 「認識の間違いだと?」
 レーニンは眼を大きくして明石をにらんだ。そのいくらか茶色
 を帯びた黒い瞳をみて、
 ――この男はやはり東洋人だ・・・と明石は考えた。
 「レーニン君、君の祖国は果たしてどこなのかね?」
 「・・・・」
 「君は祖国を裏切ることは、革命の同志やロシア人に具合が悪
 いというようなことをいう。しかし、君はロシア人ではない。
 タタール人ではないのか? タタール人の君が、ロシア人の大
 首長であるロマノフを倒すのに、日本の力を借りたからといっ
 て、何が裏切りなのかね?」――豊田穣著、『ロシアを倒した
 スパイ大将の生涯/情報将校/明石元二郎』より  光人社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここで、明石はレーニンにロシア史をぶつのです。そして、次
のようにレーニンに迫ったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「レーニン君、君がどこかの国の援助を受けて、イワン雷帝の
 子孫であるロシアの宮廷を倒しても、それは当然の権利回復で
 あって、なんら道義にもとるものではない。かつてフランス、
 ドイツ、デンマーク、スウェーデンは、みな失地回復の戦争を
 やっている。それはすべて正義の戦いなのだ。力を奪われたも
 のは、力を取り戻す・・・それが国際紛争解決の法則なのだ。
 そうではないかね。レーニン君?」    ―― 上掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 レーニンは驚いたのです。彼はこれほどまでに率直にものをい
う人間に会ったことがなかったからです。やがて、レーニンは明
石の申し入れを理解し、次のようにいって、この歴史的会談が終
わったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「とにかくムッシュー・アカシ、よくきてくれたよ。われわれ
 は社会主義運動、君は国家のために金をつかう・・・キブ・ア
 ンド・テイクでゆこうじゃないか」。   ―― 上掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このように、革命家たちのスイスでの活動が盛んになると、ロ
シアの秘密警察組織――オフラーナの活動は一段と激しいものに
なっていったのです。このオフラーナの頂点にいた人物が内務大
臣プレーヴェなのです。
 プレーヴェは、歴代内務大臣の中でも際立ったタカ派であり、
1902年に大臣になると、強硬な方法で農民蜂起などを取り締
まったのです。彼は、あのペゾブラゾフと結託して、国民の間に
高まりつつある革命機運を弾圧するためには「小さな、さして金
もかからぬ戦争」――日露戦争のこと――を起こし、これに圧勝
して皇帝の威信を示せばよいという考え方で、ウィッテなどと反
対の立場をとってロシアを戦争に導いた張本人でもあるのです。
 もともとロシアの秘密警察――オフラーナは、イワン四世がリ
ボニア(現在のラトヴィアとエストニアの一部)を併合したとき
1200人あまりで組織する「秘密調査隊」を編成したときに始
まるのです。
 このイワン四世の死後、摂政になったのが、オペラで有名なボ
リス・ゴドノフなのです。彼は、秘密調査隊を1万人以上に増強
して、モスクワに本部を移し、外国でのスパイ活動に力を入れる
ようになったのです。
 このプレーヴェ内相――革命組織から見ると、目の上のタンコ
ブであり、なにかとうるさい存在なのです。そこで、プレーヴェ
を暗殺しようという計画が持ち上がったのです。中心になって動
いたのは、社会革命党です。
 周到な計画が練られ、実行に移されたのです。1904年7月
28日――内相プレーヴェの乗った馬車はダイナマイトで爆破さ
れ、暗殺は成功したのです。   ・・・・・ [日露戦争37]


≪画像および関連情報≫
 ・歌劇『ボリス・ゴドノフ』とは・・・
  ―――――――――――――――――――――――――――
   16世紀末、イワン雷帝なき後のロシアの帝位についたの
  は重臣ボリス・ゴドノフだった。しかし、ボリスの皇座には
  血に塗られた秘密が隠されていた。イワン雷帝の子、ドミト
  リー皇太子を暗殺していたのである。
   ボリスは、権力保持の欲望と良心の呵責にさいなまれる。
  一方、ロシア史の編纂に携わる老修道僧ピーメンに仕えるグ
  リゴリーは、ドミトリーの復讐を決意する。彼は、自らをド
  ミトリー皇太子と名乗って、リトアニアの国境近くへと向か
  う。やがて、偽ドミトリー皇太子は、ポーランドの支持を得
  て叛乱軍を組織しモスクワへと進軍してくる。ボリスの苦悩
  は、クレムリンを錯乱と狂気にかりたてていくのだった。
  http://www002.upp.so-net.ne.jp/kolvinus/Douran/rosia1.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

1743号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月26日

ロシア革命の前奏曲/血の日曜日(EJ1744号)

 アレクセイ・キリチェンコ氏という人がいます。日露戦争にお
ける日露の諜報機関の対決を描いたテレビドキュメンタリーフィ
ルムの台本を書いた人です。
 キリチェンコ氏は、明石元二郎が金を使って反政府勢力を操っ
たことには批判的ですが、明石が「民族問題こそがロシア帝国の
脆弱な部分である」と見抜いていたことを高く評価して、次のよ
うにいっているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 明石はレーニンより早く、民族問題の重要性に目を向けた。レ
 ーニンは後になってこれを理解し、民族自決権をスローガンに
 掲げてロシア革命を遂行したと指摘し、明石はレーニンの師に
 なったというのである。 ―― 読売新聞取材班著、『検証日
               露戦争』より。中央公論新社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、レーニンの狡猾なところは、彼自身は民族自決権を理
解したもののそれを誰にも与えなかったという点です。その結果
が、後年ソ連の崩壊を招いたのです。
 1904年の日露開戦から11ヶ月後の1905年1月2日、
乃木将軍の第3軍は、多くの犠牲を積み重ねて旅順の203高地
を落としたのです。
 ニコライ二世は日記をきちんとつける人だったそうですが、そ
の1月3日の日記を紹介しましょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  未明、ステッセルから日本に旅順を明け渡したとの衝撃的な
 報告を受けた。甚大な(将兵の)損失、守備隊内部の病的な状
 態、弾丸の枯渇のためだ!・・・つらく悲しい。――読売新聞
      取材班著、『検証日露戦争』より。中央公論新社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日露戦争当時は、日本もロシアも戦況の報告はウソや誇張がな
かったのです。したがって、日本国民は旅順で苦戦していること
はよく知っており、それだけに旅順陥落のときは日本中が沸いた
のです。街には提灯行列が出ましたし、旅順開港と白旗を掲げた
敵の将軍ステッセルをテーマにした歌まで流行ったのです。ロシ
アの将軍たちも、戦況に関しては逐一正確に皇帝に電報を打って
いたようです。
 ニコライ二世が旅順陥落の原因を「弾丸の枯渇のため」といっ
ているのは、ロシアも日本と同様にその頃は戦費の調達がままな
らなかったからです。日本軍は各会戦でロシアを打ち破っていま
すが、全般的に弾丸が不足しており、そのため追撃できず、決定
的な勝利が勝ち取れなかったといわれます。
 さて、旅順は落としたものの、1904年10月5日には世界
最強といわれるロシアの誇るバルチック艦隊はバルト海のリバウ
を出発し、一路日本に向っていたのです。旅順攻略で浮かれてい
るときではなかったのです。
 実は、旅順陥落後、米国大統領ルーズベルトは日本の依頼を受
けて、フランス大統領エミール・ルーペを通してロシア皇帝に和
議を打診しているのです。しかし、瀋陽(奉天)にはロシア軍が
集結してきているし、バルチック艦隊もやってくる――負けるは
ずがないと、皇帝は和議を拒否したのです。
 そういうとき、ロシアでは明石の仕掛けていた謀略のひとつが
炸裂したのです。その中心人物はゲオルギー・アポロヴィッチ・
ガボンという若き僧侶です。
 旅順陥落のニュースが伝わると、ロシア国内ではあちらこちら
で、ストが発生したのです。このストは明石がパリにいる革命グ
ループを扇動して起こさせたものなのです。
 1月19日にキリスト洗礼式の式典が冬宮殿であり、ニコライ
二世が出席していたのです。式典の最中に礼砲が上がったのです
が、故意か偶然か1発の実弾が冬宮殿を襲ったのです。空砲であ
るべき礼砲の中に1発だけ、実弾が入っていたためです。
 1905年1月22日――ある一団が冬宮を目指して行進をし
ていたのです。その先頭に立っていたのは、若き僧侶ガボンだっ
たのです。何のために冬宮殿を目指していたのかというと、皇帝
に請願するためです。
 ロシアでは、ストが起きると、工場労働者は先頭に僧侶を立て
て冬宮で皇帝に請願し、あこぎな雇い主に労働条件の改善をして
もらうことがならわしとなっていたのです。したがって、ガボン
が先頭に立って冬宮殿に向っても、とくに異例のことではなかっ
たのです。僧侶はロシアでは影響力は大きく、国民の味方である
と考えられていたのです。皇帝に請願すれば何とかなる――皇帝
の権威はまだ辛うじて保たれていたのです。
 しかし、この日は皇帝側の様子はいつもと少し違っていたので
す。冬宮殿の門の前には、歩兵1万2千人のほか、コザック騎兵
も3千人出動しており、物々しく守りを固めていたのです。
 実はこの日の冬宮請願をあのウィッテは事前に知っており、皇
帝に対して「群集は門の中に入れ、請願書だけを受け取る。皇帝
は自ら姿を現すことを避け、追って適切な措置を取ることをメッ
セージとして与える」案を示しています。しかし、ウイッテはそ
の後の会議から外され、この案は無視されてしまったのです。
 やがて冬宮殿の門に到着したガボン率いる群集は停止命令を受
け、押し問答がはじまったのです。そこで連隊長は、群集に叫ぶ
のです。「帰れ!命令にしたがわないと撃つぞ!」――しかし、
群集の力は凄く、門を押し破って入ろうとします。
 「撃ち方はじめ!」――連隊長は命令すると、ラッパの音とと
もに100梃以上の鉄砲が一斉射撃を行ったのです。しかし、最
初は空砲でした。それがかえっていけなかったのです。撃つ気が
ないと誤解した群衆は一斉に前進しようとしたのです。ところが
本当に銃が発射され、大勢の人が血にまみれて死んだのです。こ
れが「血の日曜日」と呼ばれ、5ヵ月後の戦艦ポチョムキンの叛
乱とともにロシア革命の前奏曲として、長く歴史に刻まれること
になるのです。         ・・・・・ [日露戦争38]


≪画像および関連情報≫
 ・血の日曜日の翌日労働者の歌った歌
  ―――――――――――――――――――
  極東で征服されたロシアの上の勝利者よ
  呪われてあれ、血で染まった
  残忍なツァー(皇帝)よ
  ―――――――――――――――――――
 ・サンクトペテルブルグ「冬宮殿」

1744号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月27日

血の日曜日は明石工作の一環(EJ1745号)

 血の日曜日の仕掛けが明石の工作であったかどうかには諸説が
あるのです。実は、ゲオルギー・アポロヴィッチ・ガボンという
僧侶の正体に次の2説あるからです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ≪第1の見方≫
  労働者の味方であり、立派な宗教家として宗教のみならず、
  新しい共済制度を政府に採用させ、労働者の地位と経済的な
  力を向上させようと尽力した若い僧侶
 ≪第2の見方≫
  非常に腹黒く、自己顕示欲が強いところがあり、弁舌さわや
  かである。強いカリスマ性があり、人を扇動してひとつの方
  向に向わせる能力を有している革命家
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 興味深いことは、既にご紹介済みの『動乱はわが掌中にあり』
の著者である水木楊氏は第1の見方を取り、『情報将校/明石元
二郎』の著者、豊田穣氏は第2の見方を取っていることです。
 水木楊氏の描くガボンは、冬宮殿のロシア軍の襲撃によって負
傷し、パリに逃れているのです。後にシリアスクを介して明石に
会い、ロシア大衆の一斉蜂起を手伝うようになるというのです。
 これに対して、豊田氏は血の日曜日のデモ自体に明石の工作が
あったという説を取っているのです。話の筋からいうと、豊田氏
の説の方がいろいろな点でつじつまが合うのです。そこで、ここ
では、豊田氏の説に沿って解説することにします。
 1905年の正月に旅順が陥落すると、明石は直ちにペテルブ
ルグに侵入するのです。この頃「ムッシュー・アカシ」の名はロ
シアのオフラーナには知れ渡っており、この潜行は非常に危険な
ものだったのです。
 ペテルブルグのネフスキー通りの裏小路にある酒場で、明石は
社会革命党の幹部とガボンに会っているのです。豊田氏はガボン
のことを「一種異様な風貌とムードを持った怪僧」と表現してい
ます。しかし、これが水木氏の手にかかると「深い神秘的な瞳を
持つ、背筋の伸びた、髭の濃い美しい僧」となるので、まるで別
人のようです。
 怪僧ガボンは明石に会うと、次のようにいったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 革命は成功する。そのためには犠牲が必要ですぞ。私は予言す
 る。神は私に民衆の犠牲になるようお命じになった。まさにイ
 エスキリストのように・・・その日取りは神のお告げによると
 1月9日(新暦の22日)なのだ。
              ――豊田穣著、『ロシアを倒した
 スパイ大将の生涯/情報将校/明石元二郎』より  光人社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このとき、社会革命党の幹部は明石に対して、次のようにいっ
たのです。1月19日に冬宮殿でキリスト洗礼祭があり、皇帝が
出席する。そのさい、21発の礼砲が上がるが、その内の1発に
実弾を仕込んで冬宮殿上で爆発させるというのです。砲兵隊員の
中に社会革命党員がおり、それは可能であるというのです。
 これをやると、宮廷側は軍部のなかの不穏分子の仕業であると
考えて疑心暗鬼になる――そこにガボン率いる大規模な民衆のデ
モ隊を突入させ、宮廷側の心胆を寒からしめる作戦であるという
のです。そのとき、民衆側と宮廷側の軍隊がぶつかって流血騒ぎ
が起きると、皇帝の信用は一挙に地に落ちるというのです。
 ガボンがいう「民衆の犠牲」とはこれを指しているものと考え
られます。実際に宮廷側は冬宮殿を厳重に軍隊で囲み、民衆に向
って発砲したのです。そのため、多くの死者が出て、ガボン自身
も負傷するのですが、それは革命を成就させる犠牲であるという
わけです。
 確かに事態はガボンのいう通りになったのです。これによって
皇帝の権威は失墜したからです。民衆から最後の拠りどころにさ
れていた皇帝は雇い主と何ら変わらない存在であることを思い知
らされたからです。
 このことを独自の情報網から事前に知っていたのがあのウィッ
テなのです。だからこそ、彼はニコライ皇帝に会って民衆を冬宮
殿に入れて、しかるべき人物が請願書を受け取るべきであると忠
告したのですが、受け入れられなかったのです。
 既に何度も述べているように、宮廷内には反ウィッテ派がたく
さんいて、ウイッテと皇帝とを遮断しようとしたのです。そのた
め、21日に開かれた政府首脳の会議にはウイッテに声がかから
なかったのです。ニコライ二世という人は、他人の意見に左右さ
れやすく、ましてウイッテ自身は煙たい存在だったのです。その
ため、ウイッテの申し出は採用されなかったのです。
 水木氏の本によると、21日の夜、ウイッテの家にある訪問者
があったと記述されています。訪問者は、作家マクシム・ゴーリ
キーを含む一団だったのです。ゴーリキーには、名作「どん底」
という作品があります。
 彼らのウイッテに対する頼みというのは、このままでは流血の
惨事になるので、皇帝を何とか労働者に会わせるように計らって
欲しいというものだったのです。
 しかし、ウイッテは自分は閑職に追いやられていて、主要な会
議に呼ばれていないので、皇帝に伝えるすべはないと悲しそうに
答えたというのです。
 1月2日の旅順陥落に引き続き、19日の冬宮殿での銃弾の爆
発騒ぎ、そして22日の冬宮殿でのデモ隊の大量の流血事件――
このように事件が続いたのです。これはロシア皇室にとって、相
当なショックであったはずです。明石元二郎の工作がどんなに恐
るべきものかわかると思います。
 それにこの一連の事件がムッシュー・アカシの仕業であること
が当のペテルブルグのその筋では既に知られていたのです。いま
や明石はパリはもちろんのこと、ペテルブルグでもスコットラン
ドでも有名人になっていたのです。 ・・・・ [日露戦争39]


≪画像および関連情報≫
 ・社会革命党の元老の言葉/明石の評価
  ―――――――――――――――――――――――――――
  私たちはロシア民族のために、現ロシア政府という悪魔と数
  十年戦ってきたが、何一つ満足な打撃を敵にあたえたことが
  ない。それなのに、ロシアの敵であるはずの日本人が、われ
  われに力をかして、悪魔退治の応援をしてくれている。まこ
  とに恥ずかしい話だ。
              ――豊田穣著、『ロシアを倒した
  スパイ大将の生涯/情報将校/明石元二郎』より 光人社刊

 ――――――――――――――――――――――――――――

1745号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月28日

われに一大隊の日本軍があれば(EJ1746号)

 本号は今年最後のEJとなります。例年ですと、一つのテーマ
が年を越すことはなかったのですが、今年の場合は現在のテーマ
は年を越します。日露戦争については、まだ書くべきことが多く
残っているからです。来年は5日から配信します。来年もEJを
よろしくお願いします。
 ここまで日露戦争を独自の角度から追求してきましたが、今ま
で考えられていた以上にロシアという国が、傷んでいたことがわ
かってきました。ある意味において、日本が勝ったのは当然であ
るとさえいえるのです。
 水木楊氏の著書に驚くべきことが書いてあります。本当に目を
疑う記述です。血の日曜日の中におけるの記述です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  国際世論は、ロシア政府の暴挙を激しく批判した。この地獄
 絵を取材した欧州の新聞記者が、死にかけた労働者の残した言
 葉を報じた。
  「我に一大隊の日本軍があればこんなことはさせないのに」
      ――水木楊著、『動乱はわが掌中にあり/情報将校
           明石元二郎の日露戦争』より。新潮社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 私はこれを読んだとき、ミスプリントではないかと思ったので
す。なぜかというと、死にかけているのはロシアの労働者であり
そのロシアが戦っている国は日本であるからです。それなのに、
この労働者は「我に日本軍があれば・・・」といっているからで
す。これについて、水木楊氏は次のように解説しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「我に一大隊の日本軍があれば、こんなことはさせないのに」
 という言葉が、民衆の怒りを如実に反映している。日本軍はロ
 シアの敵であるはずだが、その日本軍がいれば皇帝の軍隊を倒
 すことができたのではないか、というのだ。 ――上掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 実は日露開戦後一年が経過した段階で、いわゆる「日本加担―
―日本の力を借りて専制政治を崩壊させる」は、レーニンなどの
職業的革命家の間だけではなく、革命に共感を寄せる民衆、とく
にロシア帝国内の多数の民族が住む周辺地域において大きな広が
りを見せていたのです。
 ロシア側の史料で諜報戦の内幕を描いた本の中に、次の記述が
あります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「極東におけるツァーリズム苦戦の報に住民は歓喜」と記して
 いる。ヴィチェブスクのある中学校の生徒たちは「日本ばんざ
 い!」と歓呼し、また、ペテルブルグ鉄道大学の学生たちは首
 都の学生層の大半がそうした風潮に「無条件に反対だった」に
 もかかわらず、日本の天皇にエールを送ろうとしたほどであっ
 たという。  ――デー・ペー・パブロフ+エス・アー・ペト
  ロフ著、左近毅訳、『ロシア側史料で明るみに出た諜報戦の
             内幕/日露戦争の秘密』、成分社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これを見るとわかるように、既にロシアは部分的には崩壊しつ
つあったのです。明石は巧みにそこを衝いて工作を仕掛けること
によって、実際の戦闘による勝利をより増幅させることに成功し
たのです。
 さて、EJでは日露戦争を取り上げながら、鴨緑江の渡河作戦
以外はほとんど戦闘そのものは取り上げていません。そういうも
のを記述した書物は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』をはじめとし
て、たくさんあるからです。
 しかし、乃木将軍率いる第3軍による旅順攻略に関しては、触
れておきたいことがあります。それは、乃木希典という人物の評
価に関してです。
 現代人による乃木希典の一般的評価は「乃木は愚将である」と
いうものではないかと思います。確かに、乃木将軍の指揮した旅
順要塞作戦は、半年間に死傷者6万人という多大な犠牲を出して
います。その犠牲は、工夫のない単純攻撃の繰り返しによって生
まれたものであり、その功績はむしろ一時的に指揮権を代行した
満州軍参謀総長、児玉源太郎に帰すべきであるという意見が支配
的なのです。
 乃木将軍に対して、こういうイメージを作り上げることに力が
あったのは、やはり『坂の上の雲』であると思います。しかし、
本当に乃木将軍は愚将なのでしょうか。
 乃木将軍に同情的な点は、もともと旅順の203高地の攻略は
海軍の立てた作戦であって、第3軍は準備不足・情報不足のまま
この作戦をやらざるを得なかったことです。日露戦争史に詳しい
防衛大学校田中宏巳教授は、次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 旅順要塞攻撃は、旅順港に逃げ込んだロシア艦隊を陸からの砲
 撃でたたくため、海軍の要請で踏み切ったという面が強い。敵
 陣についての十分な情報もなかったわけで、その点、乃木には
 同情すべき点が多い。  ―― 読売新聞取材班著、『検証日
               露戦争』より。中央公論新社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 乃木がとった方法は「強襲法」といって、砲兵の火力で敵陣を
徹底的にたたいてから、歩兵が突撃する戦法ですが、旅順の要塞
の位置と周囲の状況から決して間違っていないのです。むしろ、
事前に行う火力そのものが不足していたのです。当時は極度の弾
丸不足で十分な火力でたたけなかったのです。
 軍事の専門家によると、こういう状況において6万人の犠牲で
落とせたのは、むしろ乃木の戦略が成功していると述べているの
です。勝典と保典という2人の息子を失いながらも、悲哀を表に
出さないで戦い続けた老将軍を再評価すべきであると考えます。
 今年のEJはこれで終わります。どうか、良いお年をお迎えく
ださい。             ・・・・ [日露戦争40]


≪画像および関連情報≫
 ・乃木希典について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  東京生まれ。陸軍軍人。父は長府藩士。第2次長州征討に参
  加。1871年に陸軍少佐に任官。萩の乱、西南戦争に従軍
  する。1887年に戦術研究のため川上操六とドイツ留学。
  日清戦争では歩兵第1旅団長として従軍し旅順を占領。18
  96年第3代台湾総督に就任。1904年大将へ昇進。日露
  戦争では第3軍司令官として旅順攻略を指揮するも、困難を
  極めた。戦後、軍事参議官となるが、1907年から明治天
  皇の意を受けて学習院の院長を兼任。明治天皇大喪の日、妻
  静子とともに殉死。
  http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/160.html?c=0
  ―――――――――――――――――――――――――――

1746号.jpg
posted by 平野 浩 at 12:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月05日

戦争継続か講和か(EJ1747号)

 日本は、日露戦争を開始した時点からいつ幕引きをやるかを窺
いながら戦争をやってきたのです。そういう意味で旅順の陥落は
ひとつの大きな節目であったことは確かです。
 旅順陥落は国際的にも知れ渡り、日露講和の可能性が各地で議
論されるようになってきたのです。これまでに戦争の継続につい
て終始あいまいな態度を取ってきたドイツ皇帝ヴィルヘルム二世
も、米国のルーズベルト大統領に対して領土の割譲を前提としな
い講和を働きかけるべきであると伝えています。
 しかし、本音はドイツも米国もあまり日本が領土を取り過ぎる
ことは危険であると考えて、講和を調停しようとしたのです。と
ころが、当の日本の満州軍総司令部は、戦争継続で一致していま
した。それには、次の3つの理由があったからです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.兵力が充実していたこと
   ・旅順が陥落したため、乃木将軍率いる第3軍が使えるよ
    うになったことと、機関銃などは日本がロシアを上回っ
    ていたこと
 2.作戦に対する自信がある
   ・参謀本部としてはクロパトキン将軍の中途半端な采配を
    打ち破り、奉天(瀋陽)攻略に対して相当の勝算を持っ
    ていたこと
 3.両軍の士気の差が大きい
   ・開戦以来連戦連勝の日本軍と連敗と失敗を重ねたロシア
    軍との士気の差は大きく、ロシア軍には厭戦気分が満ち
    ていたこと
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 クロパトキン将軍は奉天を日本軍から守るには、100万人の
兵が必要であるとして、本国に兵の増派を要求していたのです。
しかし、1905年の1月22日に「血の日曜日」が起きて、軍
の増派どころではなかったのです。こういうところに明石工作が
効いているのです。
 結局、奉天の戦いは日本軍の勝利に終わるのですが、クロパト
キンは、異常に乃木の第3軍が背後に回られるのを恐れ、鉄嶺に
向って総退却をはじめたのです。しかし、日本軍はその時点で既
に弾薬の補給が底をついており、決定的勝利を勝ち取れなかった
のです。これが講和条件に大きく響いたのです。
 奉天陥落の報を聞いたニコライ二世は、直ちにクロパトキンを
解任し、リネウィッチ将軍を任命するのです。リネウィッチ将軍
は、攻撃型の勇将として知られ、直ちに日本軍に反転攻勢をかけ
るために、欧州の一流師団を中心にハルピンに50師団を集結さ
せはじめたのです。この頃には、シベリア鉄道の輸送能力は開戦
当時の倍近くになっていたのです。
 「これはいかん!ここが限界だ」――参謀長の児玉源太郎は、
このようにつぶやくと、3月22日に奉天を出発し、大連を経由
して東京に向かったのです。そして、児玉は3月30日に明治天
皇に会い、満州の現状を報告、それを受けて次の31日に大本営
で会談が行われたのです。
 この会談の名目は作戦会議だったのですが、次のことが話し合
われ、もはや戦争継続は困難であることが確認されたのです。そ
して、水面下で講和に向けて努力する方針が決定されたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.ハルピン会戦をやるには、さらに戦費が9億円必要である
 2.46歳までの日本男子を動員して、13万人の新兵を作る
 3.6ヶ月以内に戦わなければならないので、準備が不足する
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、ロシアが講和に応じなければ戦争を続けざるを得ず、
あくまで、表面上は、ハルピン、ウラジオストック、カムチャッ
カ半島の3点を奪取するという方針で臨むことになったのです。
 しかし、あくまで戦争継続の考え方を変えないニコライ二世も
開戦以来の負け戦の連続と国内の革命運動の懸念もあってかなり
弱気になっており、条件さえ整えば講和してもよいと考えはじめ
ていたことは事実です。
 しかし、皇后のアレクサンドラが戦争継続を主張して譲らない
のです。彼女はバルチック艦隊が極東に到着すれば、戦局は一変
すると主張しているのです。確かにアレクサンドラのいうように
もし、日本海軍がバルチック艦隊に破れれば、一挙に戦局が変わ
ることは間違いなかったのです。そういうわけで、戦争継続か講
和かの判断は、日本海海戦の結果に委ねられたのです。
 ロジェストヴェンスキー海軍中将に率いられた艦隊は、マダカ
スカルに着いたときに旅順陥落の報を受け取ったのです。ロシア
にとってそれは明らかに、来るべき海戦の意義を問い直す出来事
であったはずですが、ニコライ二世はこの海戦で日本に勝つこと
によって戦局を逆転させることしか頭になかったのです。
 こうしてバルチック艦隊は、4月初頭にマラッカ海峡に入り、
4月末にフランス領インドシナ(ヴェトナム)のカムラン湾に艦
隊を停泊させようとしたのです。しかし、フランスはこれを拒否
したので、やむを得ず、カムラン湾の北方ワン・フォン港周辺海
域に艦隊を停泊させたのです。なぜ、カムラン湾が使えなかった
のか――それは日本がフランスに対し、猛烈な抗議をしたからで
す。カムラン湾はフランス領であり、中立国が日本の交戦国であ
るロシアのために自国領の港湾を利用させることは許されないと
主張したのです。英国との関係改善を進めていたフランスは、こ
の日本の抗議を無視できなかったのです。
 5月14日、バルチック艦隊は航海を再開します。このように
この艦隊は非常にスローペースで日本に近づいてきたのです。そ
の間、日本の連合艦隊はさまざまな作戦とその演習にたっぷりと
時間をかけることができたのです。
 バルチック艦隊の目的地はウラジオストック、航路には3つの
選択肢があったのです。対馬海峡か、宗谷海峡か、津軽海峡か、
このどれかです。       ・・・・・・ [日露戦争41]


≪画像および関連情報≫
 ・奉天会戦
  奉天会戦はは、1905年3月1日から10日にかけて行わ
  れた、日露戦争最後の会戦。参加兵力は日本軍25万人、ロ
  シア軍37万人。司令官は日本側大山巌、ロシア側アレクセ
  イ・クロパトキン。奉天は現中国遼寧省の瀋陽。クロパトキ
  ンを総司令官とするロシア軍は100万に動員令をだしてい
  たが、ロシア国内は血の日曜日事件のように革命前夜の状況
  であった。ニコライ二世への国民の忠誠心は後退していた。
  一般的には、奉天を占拠しロシア軍を敗走させた日本軍の勝
  利と認識されているが、十分な追撃を行えなかったために、
  日本側の優勢的な引き分けに近いと評する者も多い。
                    ――ウィキペディア

1747号.jpg
posted by 平野 浩 at 05:44| Comment(1) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月06日

日本海海戦の完全勝利(EJ1748号)

 ロジェストヴェンスキー中将率いるバルチック艦隊――ここま
で、このように記述してきましたが、「バルチック艦隊」とは実
は正しい名称ではなく、日本が日露戦争について記述するときに
独自に付けた名前なのです。
 正しくは「バルト(海)艦隊」というのです。ロシア海軍のバ
ルト海に展開する艦隊を意味しています。ニコライ二世は、この
バルト艦隊から主力の戦力を引き抜いて日本と戦うための艦隊を
編成したのです。これが第2艦隊です。
 当初はこの第2艦隊と旅順艦隊を合流させる作戦だったのです
が、旅順艦隊が全滅してしまったので、皇帝は急遽第3艦隊を編
成して、第2艦隊の後を追わせたのです。
 第2艦隊と第3艦隊は現在のヴェトナム周辺の海域で合流し、
1905年5月14日に極東に向けて出発したのです。この第2
艦隊と第3艦隊が合流した艦隊が日本の連合艦隊と戦ったのです
が、日本ではこの艦隊――輸送船を含めて38隻――をバルチッ
ク艦隊と呼んでいるのです。
 さて、日本海海戦については、それが講和の引き金になっただ
けに、少し詳しく記述することにします。日本の連合艦隊の推測
では、バルチック艦隊には次の2つの作戦が考えられたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.戦闘を覚悟の上で1日も早くウラジオストック軍港に直航
   し、ここを拠点に反転作戦を開始する。
 2.台湾か清国南岸またはさらに南方に根拠地を獲得し、日本
   の背後を脅かし、時期を見て反撃する。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、第2の作戦は実現が困難であり、ロシアは第1の作戦
を取ることが考えられたのです。
 ここで、当時のバルチック艦隊の内情について説明しておく必
要があります。結論からいうと、バルチック艦隊の将兵はあまり
にもスローペースな長旅に疲れ切っていたのです。というのは、
バルチック艦隊の航路の大半は英国海軍の勢力下にあって、港に
停泊することはもちろんのこと、燃料や食料の補給ですらままな
らない状態だったのです。辛うじて得た補給も洋上補給という困
難にして疲弊する作業をしなければならなかったのです。
 しかし、フランス領マダガスカル島北岸のノシベ泊地とインド
シナ半島カムラン湾だけが、40数隻、1万2000名の将兵か
ら成る大遠征軍の休養・補給地であり、バルチック艦隊はここを
目指してあえぐようにしてやってきたのです。
 しかし、昨日のEJで述べたように、フランスは英国に対する
配慮と日本からの抗議を考慮して、バルチック艦隊に対してカム
ラン湾は利用させず、食料や石炭の補給までも拒否したのです。
そこで、ロジェストヴェンスキー中将率いる第2艦隊は、第3艦
隊が到着する間、カムラン湾北方のワン・フォン港周辺海域を彷
徨しながら、洋上で約20日待っていたわけです。
 このため、将兵の健康状態は急速に悪化、軍紀は極端に緩んで
しまったのです。しかも、アフリカ海岸沿いの海図は不正確なも
のが多く、艦船の故障も相次いだのですが、補修もできない状態
だったのです。寒さには強いロシア人も灼熱の地は耐えがたいも
のがあり、運送船「マライア」では暴動まで起こったのです。
 このように疲れ切って士気が落ちているバルチック艦隊が対馬
海峡を通ってくることは明らかだっのです。なぜなら、一刻も早
くウラジオストックに入るには、最短距離である対馬海峡を通過
するのが一番早いからです。連合艦隊司令長官東郷平八郎は、そ
のように考えて、対馬海峡で待機していたのです。
 長旅で極端に将兵の士気が落ちていたバルチック艦隊と、長期
間にわたる訓練を重ねて手ぐすねをひいて待っていた日本の連合
艦隊との差はあまりにも大きいものだったのです。戦いは、午後
2時8分のロシア戦艦スワロフの砲撃開始から、たったの30分
で連合艦隊の勝利は動かないものになったのです。東郷は、後に
次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 10年かかって築いた艦隊は、海戦当初の30分の決戦に用い
 るためだった。             ―――東郷平八郎
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 バルチック艦隊の戦艦11隻のうち7隻が撃沈され、1隻が自
沈、4隻が拿捕。巡洋艦は8隻のうち4隻が撃沈され、1隻が自
沈、3隻はマニラで抑留されたのです。駆逐艦は7隻のうち、2
隻がウラジオストックに逃げ込んだものの、4隻が撃沈され、1
隻が上海で抑留されています。
 ロシアは、兵員は戦死4830人、捕虜7000人、中立国抑
留1862人であったのに対し、日本艦隊は水雷艇3隻の損失、
戦死が107名という日本の完全勝利であったのです。
 司令長官であるロジェストヴェンスキー中将は、頭部に重症を
負い、参謀長コロン大佐、セミョーノフ中佐以下の幕僚とともに
駆逐艦「ベドーヴィイ」の降伏に伴い捕虜となり、直ちに佐世保
海軍病院特等室に入院しています。衣食ともに日本海軍の将官級
よりもはるかに高待遇をしたといわれています。
 東郷は、敗北した敵軍人に武人としての名誉を尊重し、ロジェ
ストヴェンスキー中将とネボガトフ少将に対してロシア皇帝への
戦況報告の打診を許可しているのです。これは戦時下にあって極
めて異例のことなのです。また捕虜に対する待遇も人道的なもの
であり、ここでも武士道精神が発揮されたといえるでしょう。
 造船技術水準が高く、新鋭戦艦を続々と自国で進水させている
世界一流の海軍国ロシアが、主要軍艦の多くを外国に発注してい
る技術後進国日本に大敗したという事実――これは世界を驚愕さ
せるものだったのです。ここにきてはじめて、日本が旅順や奉天
で勝利したことが本物であったことを世界は認めたのです。
 日本の同盟国である英国や米国のプレスは「20世紀のうちに
日本は、間違いなく世界のトップに立つだろう」と報道し、絶賛
したのです。         ・・・・・・ [日露戦争42]


≪画像および関連情報≫
 ・東郷平八郎について
  明治期の日本海軍の司令官として、日清・日露戦争の勝利に
  大きく貢献し、日本の国際的地位を引き上げた。日露戦争に
  おける日本海海戦でロシア海軍を破り、「黄色人種が初めて
  白色人種に勝利した」として世界の注目を集め「東洋のネル
  ソン」と賞賛された。日本海海戦での敵前回頭戦法(丁字戦
  法)により日本を勝利に導いた世界的な名提督と評価され、
  日露戦争の英雄として乃木希典と並び称された。
                    ――ウィキペディア

1748号.jpg
posted by 平野 浩 at 10:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月10日

樺太(サハリン)占領作戦(EJ1749号)

 「ツシマ」――これはロシア側で日本海海戦のことをあらわす
言葉です。今でもバルチック艦隊の悲劇としてこの言葉は年配の
ロシア人には記憶されているのです。
 さて、日本海海戦に歴史的大勝利を遂げた日本はその後どのよ
うに行動したでしょうか。
 ロシアの惨めな敗北によって国際世論は、ロシアは講和を受け
入れるべきであるとの声が強くなったのです。それは、開戦以来
の戦闘でロシア軍はことごとく日本軍に敗れていたからです。
 しかし、ロシアは次のように主張して戦争継続の強い意思を示
そうとしたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ロシアは戦争に敗れていない。なぜなら、「極東に張り出した
 軍事力プレゼンス」を一時的に失っただけだからである。ロシ
 アは現時点でも50万人を超える陸軍力を保有している。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 要するに、ロシア固有の領土は取られておらず、したがって負
けていないという理屈です。しかし、このロシアの主張は世界に
通用するものではなかったのです。
 ロシアは日本と戦争をしているのです。ロシアが島国の日本を
降伏させるには、日本周辺の海域の制海権を握ることが必要条件
となりますが、その制海権をロシアは完全に日本に奪われてしま
っています。したがって、ロシアは日本を降伏させることはでき
ないのです。
 そのような状況の下でいくら陸軍が健在だといっても通らない
のです。現にその陸軍もことごとく日本軍に破れており、一度も
勝っていないのですから、著しく説得力に欠けています。
 6月5日、日本の要請を受けたルーズベルト米大統領は、駐ロ
シア大使マイヤーを通じて、日露講和交渉の件で直接ロシア側に
米国政府の意向を伝えるよう命じています。
 ニコライ二世は、6月6日に重臣たちを集めて御前会議を開い
たのです。会議ではリネウィッチ総司令官が戦争継続を主張して
歩兵13万5000人の増派を要求しましたが、アレクサンドロ
ヴィッチ大公は早期講和交渉をすべきであると強硬に主張したの
です。大公は、このまま、ずるずると事態を引きずっていると、
ウラジオストックやアムール河口、さらにカムチャッカ半島まで
日本軍に占領されることになると警告したので、会議は一気に早
期講和に傾いたのです。
 確かに、バルチック艦隊は全滅し、日本が制海権を握っている
ので、日本軍がその気になれば、ウラジオストックやアムール河
口の占領は十分可能だったといえます。
 6月7日、ニコライ二世はマイヤー大使にルーズベルト大統領
の申し出を受け入れることを伝えています。6月9日、ルーズベ
ルト大統領は、正式に日露両政府に対して、戦争を終結させ、講
和交渉をはじめるよう勧告したのです。
 実はこのとき、日本の首脳陣はある計画を実行に移そうと考え
ていたのです。それを勧めたのはなんとルーズベルト大統領だっ
たのです。日本が制海権を取った時点で、金子堅太郎を通して提
案しています。それは樺太占領計画です。
 なぜ、樺太占領なのでしょうか。
 それは樺太が疑義はあるものの一応ロシア固有の領土であるか
らです。ロシアはつねづね「ロシアは固有の領土は奪われていな
い」といい続けていたからです。つまり、講和交渉を有利に進め
るために、樺太を占領するわけです。占領の対象がウラジオスト
ックやアムール河口ではなかったのは、それらを占領すると講和
交渉そのものが壊れかねないと考えたからでしょう。
 しかし、日本政府は、ひとまず樺太占領は一時延期することに
したのです。せっかく手に入れかけている終戦の機会を失いたく
なかったからです。そして、ひたすら、ロシアが講和交渉勧告を
受け入れるときを待ったのです。
 6月12日、ロシア政府は正式にルーズベルト大統領の勧告を
受け入れることを米国に伝えています。しかし、この時点では戦
争は継続されています。時は来れりです。
 そこで7月4日、樺太南部上陸部隊を青森から出発させている
のです。実は3日にロシア側が密かに休戦協定の提案を米国側に
しており、日本は情報としてその事実を知っていたのですが、ロ
シア側がロシアから休戦協定を求めるのではなく、ルーズベルト
大統領から日本へ提案するかたちをとって欲しいということを求
めていたので、日本側はロシア側の意向を無視することにして、
樺太上陸作戦を進めたのです。
 7月11日、ルーズベルト大統領から休戦協定の締結が望まし
いという提案があったのです。高平公使はかつてロシアが清国に
やった前例を上げて、休戦を軍事的に利用する恐れがあるので、
これを受け入れることはできないと拒否したのです。
 ロシア側は、もし屈辱的な条件なら交渉決裂だと述べるばかり
で、休戦協定の提案を日本に一切してこなかったので、これを逆
手にとって、日本側は樺太占領作戦をどんどん進めたのです。
 7月9日、新設第13師団の部隊から成る最初の上陸部隊が進
撃して、27日までにアレクサンドロフスクとルイコフを占領し
たのです。そして、8月1日までに樺太全土が日本軍によって占
領されたのです。そして、休戦協定が締結されたのは、講和条約
直前の9月1日のことだったのです。
 休戦協定が結ばれていない以上、これは国際法上合法なのです
が、ロシアはこのときの屈辱をよく覚えていて、太平洋戦争終結
時に、日本は利息をつけたかたちでソ連軍によって仕返しをされ
ているのです。それが現在も解決していない北方領土問題です。
 しかし、このソ連軍の行為は、日ソ不可侵条約を破っての行為
であり、日露戦争時の日本軍の行為と同一視すべきではないと考
えます。ちなみに、日露講和交渉は休戦協定のないまま、8月9
日から、米国のニューハンプシャー州の小都市、ポーツマスにお
いてはじまったのです。    ・・・・・・ [日露戦争43]


≪画像および関連情報≫
 ・樺太について
  樺太(からふと)の名は、アイヌ語でこの島を「カムイ・カ
  ラ・ブト・ヤ・モシリ」と呼んだことに因んでいる。この名
  前は、アイヌ語で「神が河口に造った島」を意味し、黒龍江
  の河口からみて、その先に位置することに由来する。江戸時
  代は、北海道を指す「蝦夷地」に対して、「北蝦夷(地)」
  と呼ばれていた。後に、明治政府が北海道開拓使を設置する
  にあたり、北蝦夷地を「樺太」に改称、日本語に樺太の地名
  が定着した。近年、日本の報道機関各社は樺太という名称を
  使わず、「サハリン」という名称を使っている。
                    ――ウィキペディア

1749号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月11日

賠償金と領土割譲で日露激突(EJ1750号)

 1905年8月9日、米国の東海岸ニューハンプシャー州の小
都市、ポーツマス――ここで日露講和会議の予備会議がはじまっ
たのです。日本側の全権大使は小村寿太郎、ロシア側のそれはあ
のセルゲイ・ウィッテだったのです。
 小村寿太郎は1901年から外務大臣を務め、日露戦争の開戦
時から日本の外交を取り仕切ってきた人物です。おそらく当時に
おいて、この全権大使が務まる人物は小村しかいなかったと思う
のです。
 これに対してセルゲイ・ウィッテは、1903年8月に蔵相を
解任され、その後閑職にあったはずですが、どうして全権大使に
なることができたのでしょうか。
 ニコライ二世は当初別の外交官2人を指名したのですが、彼ら
が大役に怯えて固辞したので、ウィッテ以外にロシアを代表でき
るほどの人物がいなくなったのです。
 ポーツマスという都市は、米国の建国の祖である清教徒たちが
初めて降り立ったニューイングランドの伝統をたたえる美しい街
並みといかめしい軍港という2つの顔を持っているところです。
 両国の代表団と100人を超える新聞記者たちの宿舎はホテル
「ウエントワース・バイ・ザ・シー」、講和交渉の場は、そのホ
テルから数キロ離れた海軍工廠の中にある会議室がセットされた
のです。
 ウイッテは、ポーツマスへの出発に当たって、ニコライ皇帝か
ら、次の指示を受けていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    1コペイカも、一寸の土地も譲ってはならない
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは、無賠償、無割譲で講和をまとめてこいというものであ
り、厳しい内容です。しかし、ウィッテ自身が真に講和が必要と
考えていたので、講和交渉の前途はかなり期待できるものだった
といえます。
 日本側としては、賠償金の獲得はかなり厳しいと考えて、合意
が得られ易い要求項目と可能であれば勝ち取りたい要求項目に分
けて提案したのです。
 合意が得られ易い要求項目とは、次の4項目です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.韓国を日本の自由処分に任せることをロシアは応諾する
 2.ロシアの軍隊と日本の軍隊は、速やかに満州へ撤退する
 3.遼東半島においてロシアが有する租借権の日本への譲渡
 4.旅順からハルピンまでの鉄道に関する権利を日本へ譲渡
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 結論からいうと、これらの4項目は、意外にも10日足らずの
交渉で決着をみたのです。
 韓国についての項目は、もともとこの戦争がこれが原因で始ま
っただけに、日本としては絶対に譲れない線だったのです。その
点はウィッテもよく理解しており、日本の指導による韓国の保護
国化は合意に達したのです。
 日本軍とロシア軍が満州から撤兵し、さらにこの地を清国に還
付することも合意されたのです。これら2つの合意によって日本
の安全保障はかなり確固たるものになったわけです。
 遼東半島の租借権と東清鉄道の支線の譲渡についても、日本側
が旅順からハルピンまでと要求しているところを日本が実効支配
をしている旅順から長春までの鉄道を譲渡するということで合意
に達したのです。交渉相手がウイッテであったからこそできた合
意であるといえます。
 しかし、可能であれば勝ち取りたい要求項目については大変難
航し、一時は交渉決裂寸前まで行ったのです。それは次の3項目
なのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.ロシアは極東の海で5万トンを超える海軍力を持たない
 2.賠償金の支払いと中立国に逃げたロシア艦艇を引き渡す
 3.樺太(サハリン)の割譲と沿海州沿岸での漁業権の獲得
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 東アジアの海域におけるロシア海軍力の制限については最初か
ら難しいことはわかっていたのです。この項目は小村が駆け引き
として入れていたものであり、ほとんど意味を持たなかったので
す。また、中立国に逃げたロシア艦艇を引き渡しもとくにこだわ
る必要のないことであったのです。どちらもロシアの威厳を傷つ
けるものであって、ロシア側が飲むはずはなかったのです。
 このとき、小村寿太郎は、ポーツマスにおける講和交渉の間、
対米工作に関わっていた金子堅太郎とその随行員である阪井徳太
郎をニューヨークに滞在させ、ルーズベルト大統領の意向をつね
に探りながら交渉するという作戦をとったのです。それほど、こ
の講和交渉におけるルーズベルト大統領の意向の影響力はとても
大きかったのです。
 ロシア全権団は、オホーツク海、ベーリング海での漁業権は認
める意向は示したものの、賠償金と樺太割譲に関しては強硬に反
対したのです。
 賠償金を協議した8月17日の会議では、小村とウイッテの間
に次のやりとりがあったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 小村  :あなたの言は、あたかも戦勝国を代表するもののよ
      うに聞こえますね。
 ウイッテ:待ってもらいたい。ここには戦勝国なんかない。し
      たがって、戦敗国もないのだ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 こうして講和交渉は完全に行き詰まったのです。8月22日に
ウイッテはラムズヘルド外相から、日本の要求に屈せず、交渉を
打ち切るようニコライ皇帝が命じているとの電報を受け取ったの
です。交渉決裂の危機と感じたルーズベルト大統領は、日本に賠
償金と領土割譲の断念を迫ったのです。・・・ [日露戦争44]


≪画像および関連情報≫
 ・ポーツマス会議での小村寿太郎に関するエピソード
  ポーツマス会議でのこんなエピソードがあります。ロシア側
  は会議中フランス語を使用していました。もちろん、日本側
  が誰もフランス語を習得していないからであろうという推測
  からでした。しかし、勉強熱心な寿太郎はフランス語を習得
  していたのです。もちろん、ポーツマス会議でフランス語が
  必要になるとは彼自身、その当時予想しえなかったことでし
  ょう。常日頃から勉学に勤しんでいた寿太郎だからこそ成し
  得た奇蹟です。寿太郎は敵の戦略などを得て会議を有利に進
  めるため、最後までフランス語を使用しませんでした。会議
  の数日後、ロシア全権ウィッテがフランス語で挨拶した際、
  初めて通訳を介さずに、流暢なフランス語で話をし、ロシア
  側を驚かせたそうです。
  http://www.miyazaki-cci.or.jp/nichinan/ijin.htm

1750号.jpg
posted by 平野 浩 at 12:08| Comment(0) | TrackBack(1) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月12日

メディア戦略でロシアに完敗(EJ1751号)

 講和交渉――日本は戦争については、列強が舌を巻くほど相当
上手になったのですが、国際会議とか交渉などの外交面はとにか
く慣れていないというか下手だったのです。
 日清戦争とその講和交渉――これははじめてにもかかわらず、
比較的うまくいったのですが、三国干渉でせっかく獲得した遼東
半島を後から返還させられている。成功とはいえないのです。
 三国干渉といっても中心はロシア、今回はその狡猾なロシアが
相手なのです。ロシアは戦争と講和については何回もやっており
経験豊富です。したがって、日露の講和交渉は、まるで、大学生
と小学生の対決のようなものだったといえます。
 ロシアの全権ウイッテは、まず、メディアを味方につける戦略
をとったのです。ホテルに詰めかけた報道陣はゆうに100人は
超えていたのです。この報道陣に対し、日露の代表団の対応はあ
まりにも対称的だったのです。
 『検証/日露戦争』では、そのときのウイッテの対応について
次のように伝えています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ウイッテは報道陣の前に積極的に現われ、よくしゃべって愛
 想を振りまいた。情報に飢えた記者たちにとっては、「一種の
 スーパースター」になった。
  ホテルの従業員たちとも気さくに握手し、子供を見れば抱き
 上げる。皇帝が支配する専制国家ロシアの政府高官という印象
 はなかった。――読売新聞取材班編、『検証/日露戦争』より
                      中央公論新社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これに対し、日本の小村全権は寡黙に徹し、報道陣に対し、話
しかけることをしないばかりかニコリともしなかったのです。作
家の吉村昭氏はその著書『ポーツマスの旗』で、日本の外交姿勢
について次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  多様な欧米列強の外交政策に対して、日本の外交姿勢はどの
 ようなものであるべきかを小村は常に考えつづけてきた。結論
 は、一つしかなかった。歴史の浅い日本の外交は、誠実さを基
 本方針として貫くことだ、と思っていた。列強の外交関係者か
 らは愚直と蔑笑されても、それを唯一の武器とする以外に対抗
 できる手段はなさそうだった。
      ――吉村昭著、『ポーツマスの旗』より。新潮社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 小村はウイッテとの最初の会談で、交渉にかかわる秘密の厳守
を申し入れているのですが、ロシア側は一応それを了承したもの
の、全般的にはそれを守らなかったのです。
 記者団としては、少しでも情報は欲しいのです。しかし、日本
側は完黙するのに対し、ウイッテはそれを少しずつ漏らすことに
よって、記者たちをロシアの味方につけようとし、それはある程
度成功を収めているのです。
 気さくで愛想がいい――これを米国人は好むのです。そのこと
をよく知っていたウイッテは、ひたすらそれを装い、教会の礼拝
に住民と一緒に参加したり、慈善の会に顔を出すなど、ロシア人
は英米人と同じ欧米人で、日本人とは違うのだということを意識
的に印象づけようとしたのです。
 また、ウイッテはホテルの従業員には連日50ドルのチップを
ばら撒き、記者たちとも積極的に飲食を共にしたというのです。
当時50ドルは大金です。あまりの露骨さに批判する向きもあっ
たものの、講和交渉開始時点で80%は親日といわれた世論の風
向きが少しずつ変ってきたのです。
 その成果が、地元紙『ポーツマス・ヘラルド』には次の記事と
なってあらわれたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ロシア人が人々との交流を続け、日本人が厳格に仕事にこだ
 わっていれば、日露戦争に関するニューハンプシャーの世論は
 大きく変わるだろう。両国の代表団がホテルに入ってもう30
 時間たつが、日本側が通常の仕事以外のことをしているのを見
 た人はいない。(ホテルには)有名人と知り合いになりたくて
 たまらない。避暑の若い女性たちが大勢いる。ロシアの代表団
 の一行はすでに多くの女性たちと親しくなっている。
       ――読売新聞取材班編、『検証/日露戦争』より
                      中央公論新社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ロシア代表団が、最初から地元メディアを味方につける戦略を
練っていたのは明らかです。彼らはニューヨークに「カイザー1
号」という船できたのですが、そこにはロシアのプレスの他に英
国、フランス、イタリアなどの有名紙の記者を満載してポーツマ
スにやってきたのです。世論工作のためです。
 その工作は成功しているのです。「ニューヨーク・タイムズ」
紙は、ウイッテについて次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ウイッテは人気者になっている。ニューヨーク、オイスター・
 ベイ、ニューポート、ボストン、そしてここポーツマスやニュ
 ーキャッスルでも、彼は温かく受け入れられている。ポーツマ
 スでは歓呼で迎えられた。
       ――読売新聞取材班編、『検証/日露戦争』より
                      中央公論新社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 こういうロシアの「顔のある外交」に対して、小村寿太郎を中
心とする日本の全権団は「顔のない外交」に終始したのです。こ
の姿勢は100年が経過した現在でも何も変わっていない日本外
交のスタイルなのです。
 このようにして、米国世論の一部がロシアに少し傾きかけたこ
とは事実です。そして、この世論の変化は仲介役であるルーズベ
ルトに大きな影響を与えたのです。・・・・・ [日露戦争45]


≪画像および関連情報≫
 ・吉村昭著、『ポーツマスの旗』、新潮社の書評
  ―――――――――――――――――――――――――――
  本書は小村寿太郎とポーツマス講和会議の様子を描いたもの
  である。日露戦争の終結にあたって、小村寿太郎の国益をか
  けた闘いが始まった。講和会議では、小村とロシア全権ウィ
  ッテとの外交駆け引きが見ものである。随所に駆け引きの妙
  が描かれている。両者の交渉術、米国世論操作などを読みと
  りながら、それぞれの長所、短所を自分なりに検証するのも
  面白く、大変勉強になるところだ。
  以下は ⇒    http://www.bk1.co.jp/product/257161
  ―――――――――――――――――――――――――――

1751号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月13日

イェール大学と日本の講和条件案(EJ1752号)

 日本はロシアとの開戦直後からひたすら講和の道を探ってきた
のです。そのため、日本の講和条件というものはなるべく早くか
ら確立しておくべきであると考えていたのです。
 ポーツマスにおいて小村がロシアに提示して交渉した日本の講
和条件は、実は旅順要塞203高地が落ちるはるか前である19
04年10月3日の時点で検討がはじめられていたのです。
 メディア工作のため米国に派遣されていた金子堅太郎は、本国
の意向により、随行員である阪井徳太郎の友人の米国人に依頼し
て講和条件の検討をさせているのです。その米国人とは、次の人
物であり、阪井徳太郎とは旧知の間柄の人物なのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       イェール大学事務局長
       アンソン・フェルプス・ストークス
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このように書くと、多くの人は「そんな馬鹿な」と首を傾げる
と思います。そもそも日本国の講和条件をなぜ無名の米国人に依
頼するのでしょうか。それもなぜ、イェール大学の事務局長なの
でしょうか。日本とイェール大学とは、どういう関係があるので
しょうか。
 これらの疑問に答える前に、当の金子堅太郎が回想録で書いて
いる逸話をご紹介することにします。金子が米国でメディア工作
をはじめたとき、イェール大学から日露戦争についての講演を依
頼されたのです。
 講演のあとの晩餐会で4人の国際法学者から次のような申し出
を受けたというのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 今度の講和談判に際し、日本は連戦連勝だから、これだけの条
 件は提出してもよろしかろうと、我々が国際法学者として思う
 意見を書いて貴下に提出したいが、お受けくださるか。
        ――清水美和著、『「驕る日本」と戦った男/
        日露条約の舞台裏と朝河貫一』より。講談社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 金子は「喜んで読ませていただく」というと、彼らは協議して
レポートを作ってくれたというのです。読むと、随分思い切った
ことが書いてあるが、納得できる部分もあるので、それをルーズ
ベルトにも見せて意見を聞いて本国に送ったというのです。
 それからしばらく経って、講和交渉のために小村がニューヨー
クにやってきたとき、小村は金子に対して、こういう案で会議に
臨むつもりだといって携えてきた案を見せてくれたのです。とこ
ろがその案は、明らかにイェール大学の学者が作ってくれた案を
元にして作成されていたというのです。
 この回想録は、日露戦争から33年後に書かれているのですが
とても真実とは思えない部分があるのです。だいいち頼みもしな
いのに、他国の戦争の講和条件をわざわざ作成するヒマな教授な
どいるでしょうか。
 しかも、その案を米国大統領に見せて意見を聞き、国の命運を
賭けた戦争の講和条件の下敷きする――そんなことが本当にあり
得ることでしょうか。
 確かに金子の記述には大きなウソがあるのですが、次の3つの
ことは本当のことなのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.講和条件の原案は確かにイェール大学で作成されている
 2.金子は日本の原案をルーズベルト米大統領に見せている
 3.この原案をベースにポーツマス交渉の日本の原案を作成
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 違っていることは、講和条件づくりは、日本政府がイェール大
学に依頼したという点です。依頼したのは、冒頭に述べたように
金子の随行員の阪井徳太郎なのです。
 阪井から重要な依頼を受けたストークスは、イェール大学の次
の2人に協力を呼びかけています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  セオドア・S・ウールジィ
   ・国際法の専門家で権威。ウールジィ学長子息
  フレデリック・ウェルズ・ウィリアムス
   ・「東洋のビル」の愛称を持つ東洋史の助教授
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ストークが阪井から講和条件づくりを依頼されたのは、10月
3日ですが、同じ月の14日には阪井に対して返信を送っている
のです。その中にはウールジィの筆による、ウィリアムスと共同
で作成した講和条件案が同封されていたのです。
 イェール大学の教授たちによる日本の講和条件の覚書は、実際
の講和条件にきわめてよく似ていたのです。とくに似ていたのは
実現すべき条件とそうでない条件に二分しており、「賠償金」と
「領土割譲」は実現すべき条件には入れていないことです。
 実際の日本の講和条件についてはそうなっていたし、ひとつひ
とつの条件もとてもよく似ていたのです。
 ちなみに、この覚書は、「ロシアとの講和条約で日本の最大要
求を決定するための原則」と称して、次の前書きで始まっている
のです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 まず「ロシアが過去、国際上の義務に対して誠実さを欠いてい
 る」ため、日本はロシアの将来の行動について他の国々に対す
 るより「大きな保証」を要求することができる。また、今回の
 戦争は日本の「純然たる正当防衛」から始まっているため、日
 本は将来のロシアによる侵略に対して、「十分な保護と再度の
 戦火を避ける措置」を求めることが可能だ。
                ――清水美和著の前掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、どうしてもわからないことは、なぜ、イェール大学な
のかということです。      ・・・・・ [日露戦争46]


≪画像および関連情報≫
 ・イェール大学について
  イェール大学は、アメリカ合衆国の北東部、コネチカット州
  ニューヘイブン市にある名門私立大学であり、1701年に
  に創立された。アメリカの大学としては3番目に古い。アイ
  ヴィ・リーグに所属する8大学のうちの1校である。世界で
  も最高の名声を得ている大学の一つである。自然科学分野で
  も多くの専攻で全米ランキング及び世界ランキングの最上位
  を占めるのは言うまでもないが、人文科学、社会科学分野で
  の評価がとりわけ高い。大学院レベルでは、特にロー・スク
  ール(法学大学院)が全米最難関として知られる。
                    ――ウィキペディア

1752号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月16日

朝河貫一を知っていますか(EJ1753号)

 なぜ、イェール大学の学者が日露戦争の日本の講和条件の原案
をまとめたのか――今週はその謎を解いていきましょう。
 イェール大学は、ニューヨークからボストンまでの長距離列車
アムトラックに乗ると、ちょうど中間にニューヘイブンという街
があるのですが、そこにイェール大学があります。この街のダウ
ンタウンは、イェール大学のキャンパスそのものといってよい大
学都市なのです。
 この大学は、ブッシュ父子大統領、クリントン元大統領、ヒラ
リー上院議員など、著名な政治家の母校でもあり、ハーバード大
学、プリンストン大学とともにBIG3を形成する名門大学とし
て知られているのです。
 大学のキャンパスの中でもひときわ重厚な趣のゴシック建築の
尖塔を持つ建物が有名なスターリング図書館です。このスターリ
ング図書館の中に研修室を持ち、終生学問の研鑽を重ね、この大
学で一生を終えた日本人の歴史学の教授がいたのです。その名前
は朝河貫一といいます。ご存知でしょうか。
 彼の墓は故郷の二本松にも分骨されてはいますが、本体はイェ
ール大学の墓地にあるのです。この教授の名前を知っている日本
人は、ほとんどいないと思いますが、彼は学術メディアの面で日
露戦争に重要な関わりを持つ人物であり、米国におけるアジア研
究の創始者とまでいわれる高名な学者だったのです。
 それでは、このことと日本の講和条件をイェール大学の学者が
作ったこととはどのように関係するのでしょうか。
 これには朝河が米国で何をやったのかについて、少し詳しく知
る必要があります。朝河は1896年にダートマス大学の1年に
編入し、夢であった米国留学を実現しています。そして、日露戦
争の講和交渉が行われた1905年には、米国において将来を嘱
望される31歳の青年学者になっていたのです。
 そのとき、朝河は1903年にイェール大学大学院を卒業し、
母校であるダートマス大学の講師として東洋史を教えていたので
す。イェール大学の大学院では、学位論文「大化の改新の研究」
を書き、日本人ではじめて博士号を授与されていたのです。
 朝河はダートマス大学の学生の頃から、日本はロシアと戦わざ
るを得ない運命にあり、ロシアの満州への進出を食い止めない限
り日本の発展はありえないとする外交論文を多く書いていたので
す。これらの論文はもちろん巧みな英語で記述され、当時の米国
のインテリ層に日本の置かれたポジションを理解させるのに大い
に貢献したのです。
 そして、1904年11月、朝河は米国のインテリ層を中心に
大きな反響を巻き起こした英文による次の書籍を表したのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    朝河貫一著 『日露衝突――その原因と問題点』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この本が出版された頃、日本は旅順の203高地要塞攻略にし
のぎを削っていたのです。戦争の最中に交戦国の一方である日本
の学者が米国においてその戦争そのものを取り上げ、その原因と
問題点を分析した本を出すのは異例であり、米国のインテリ層の
間では大きな話題となったのです。この本の序説には、次の記述
があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 もしロシアが勝つならば、韓国と満州だけでなく、モンゴルも
 ロシアの属国になるか、あるいは保護国になるかであろう。日
 本の発展は阻止され、その国勢は衰退しよう。ロシアは東洋の
 すべての国家権力に対して支配する立場をとる。世界の貿易国
 は、アジアの重要な経済分野から大部分か、あるいは完全に排
 除される。
   ――朝河貫一著 『日露衝突――その原因と問題点』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 当時は工業化、大量生産の時代になりつつあったのです。問題
はその市場をどこに求めるかです。それは当然のこととして、東
洋に公開市場を求めることになります。この意味において、日本
と欧米諸国の利害は一致していたのです。とくに日本にとって韓
国は重要であったのです。
 しかし、朝河は「ロシアは例外である」というのです。なぜか
というと、ロシアは工業生産の発展がきわめて遅れていた国だっ
たからです。
 そのようなロシアが軍事的進出で手に入れた満州の未開発の資
源を生かすには、工業生産の発達した米国や日本などのライバル
国を追い出して、貿易を独占する必要があり、そのため、ロシア
は排他政策に依存する――朝河はこう指摘します。
 つまり、ロシアは多くの製品を輸入して少ししか輸出しない貿
易システムであるので、競争を軍事的に排除し、陸への巨大なる
拡張を続けるしかないといっているのです。
 さらに朝河は、ロシアは経済的利害というよりも「偉大な拡張
する帝国の栄光」のために軍事的に進出する可能性を指摘してい
るのです。これは大変危険なことです。
 ロシアは旅順を手にすることによって、首都北京への水路を確
保し、やがて北京の陥落や清国の大分割という事態をもたらすこ
とになる危険性を強調します。
 さらにロシアは満州を領有すれば韓国占領も容易であって、韓
国南海岸に不凍港を確保し、海軍基地を建設する――その結果、
ロシアは満州を安全に確保し、韓国・清国を併合する極東構想を
実現してインドに向うであろうと、ロシアの危険な体質を批判し
たのです。
 このように朝河貫一は、米国において日露戦争の世界史的意義
を説き、日本という国家をバックアップするために全力を尽くし
たのです。しかし、朝河の名はなぜか歴史の闇の中に埋没され、
多くの日本人は朝河貫一の名を知らないでいます。私自身も東京
新聞・編集局編集委員の清水美和氏の著書によって、はじめて知
ったのです。          ・・・・・ [日露戦争47]


≪画像および関連情報≫
 ・清水美和著、『「驕る日本」と闘った男/日本講和条約の舞
  台裏と朝河貫一』、講談社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――
  日露戦争勝利で増長する日本を批判、さらには日米衝突と敗
  戦を予見し、正史から抹殺された青年学者がいた。日米現地
  取材によってその歴史の舞台裏に追る。現代日本のあり方に
  一石を投じる一冊。        ――ビーケーワンより
  ―――――――――――――――――――――――――――

1753号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月17日

ポーツマスでの朝河の言動(EJ1754号)

 日露講和交渉の全権大使として、桂首相が最初に打診したのは
伊藤博文だったのです。伊藤は全権を引き受けてもよいと考えた
ようですが、側近が猛反対したため断ったといいます。
 どうしてかというと、ロシアとの戦争に勝った栄誉は桂が握り
講和交渉の結果によって起こる国民の不満は伊藤が引き受けるの
は馬鹿げているというのが伊藤の側近の意見だったのです。
 それほど、日露講和交渉は日本にとって不本意なものになるこ
とは最初からわかっていることだったのです。講和交渉がはじま
る時点での日本国民は戦勝気分に浮かれていたのです。
 とくに「主戦7博士」といわれ、対露強硬論を唱えた東京帝国
大学法科大学の富井政章、金井延、寺尾亨、中村進午、小野塚喜
平、高橋作衛、戸水寛人は新聞に現実的ではない講和の最低条件
などを書き立てていたのです。
 とくに戸水寛人は、ローマ法の教授として碩学の名が高かった
学者であったため、日本国民が浮かれ気分になるのも無理からぬ
ものがあったといえます。
 そのとき、新聞に書き立てられた絶対譲れない講和の条件とは
次のようなものだったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  樺太・カムチャッカ、沿海州全部の割譲と償金30億円
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 桂首相としては、その本心は償金など取れる自信はなかったの
ですが、だめもとで入れたといわれています。これを知った児玉
源太郎は「桂の馬鹿が償金を取る気になっている」と語ったとい
う話はあまりにも有名です。
 そういう難しい講和交渉を引き受けた小村寿太郎は駐米公使の
高平小五郎と随員8人を引き連れ、米国に向かう船に乗るために
新橋を横浜に出発したとき、新橋停留場には大勢の人々が集まり
「万歳!」の大歓声で見送ったのです。そのとき、小村全権は次
のようにいったといわれます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    新橋駅頭の人気は、帰るときは反対でしょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 実は講和交渉に同行した記者団にしても国民と同じ期待を持っ
ていたのです。案の定講和交渉が「償金」と「領土割譲」で行き
詰ると、全権団と記者団との間にはとげとげしい雰囲気になって
いったのです。
 そういうときに全権団の宿舎のホテルに詰めていた日本の記者
団と同じホテルに滞在していた見事な英語をしゃべる怪しい日本
人の男とのトラブルが起こったのです。東京朝日新聞の通信員福
富は、そのときの模様を次のように振り返っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 われわれ同士の中には大いに憤慨し、彼をののしり、腕力に訴
 えんとまでに及びしも、いかんせん彼は日本語を一言もつかわ
 ざるを以ってののしり合えば、多数の外人に内部を知られ、か
 えって恥となるを以って、余らは紳士の体面も保ちて、腕力に
 は訴えざりしも両三時(二、三回)彼を戒めたることあり。
  ――清水美和著、『「驕る日本」と闘った男/日本講和条約
              の舞台裏と朝河貫一』、講談社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 実はこの怪しい日本人こそ朝河貫一だったのです。彼はウエン
トワース・バイ・ザ・シーに宿を取り、しきりと外国の記者団に
対して流暢な英語で次のように話していたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本は決して償金を望まず。償金は必ず撤回すべし。しかして
 償金を撤回するについては国民の意見と全然反対なりとの説を
 なすものあるも、かかる大問題の際、国民の意志うんぬんを問
 うの要なし。政府は思う通り断行すべきのみ。必ずわが政府は
 余の言のごとく断行すべしと。
                ――清水美和著の前掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そのとき朝河は絶対に日本語をしゃべらなかったのです。ただ
ひたすら外人記者に訴えていたのです。確かにこれを日本の記者
団から見ると、あいつは何者だ、政府の回し者ではないかと疑わ
れるのに十分であったのです。それに当時ウエントワース・バイ
・ザ・シーの宿泊料は一日につき5ドルもかかり、夏季に避暑が
できる身分とは思えない日本人に疑惑が広がったのも当然である
と思います。
 要するに朝河は、いわゆる黄禍論によって偏見をもたれている
日本という国家を学者らしい客観的な事実に基づいて日本に対す
る偏見を欧米の記者団に訴えようとしたといえます。
 清水美和氏は、こうした朝河と日本人記者団との関係をあたか
も現在の小泉政権とメディアの関係を皮肉るように次のように述
べています。ちなみに、清水氏の本は2005年9月に出版され
ています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、賠償金と領土との要求で頭に血が上った日本の記者た
 ちの目には、(朝河は)日本の立場を弱めかねない、許せない
 言説と映ったようだ。いつの時代にも、マスコミで力を得るの
 は事実に基づく冷静な言論よりも、敵味方を図式的に分ける感
 情論であり、朝河をののしる福富(東京朝日新聞)の姿は現代
 のメディアで踊る一部「言論人」の姿に重なる。
                ――清水美和著の前掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このように、ロシアに勝利したという興奮に国内世論のみなら
ず、ポーツマス現地の全権団や記者団までがとらわれる中で、弱
冠31歳の青年学者朝河一人が冷静に事態を見つめ、日本のため
にがんばったといえます。  ・・・・・・・ [日露戦争48]


≪画像および関連情報≫
 ・朝河貫一(1873〜1948)について
  1948年8月11日、朝河死去。AP電,UPI電も「現
  代日本が持った最も高名な世界的学者朝河貫一博士が・・」
  と弔意を世界に知らせ,横須賀米軍基地では弔旗をかかげら
  れたのである。これに反し,日本の新聞は片隅に訃報電文を
  3,4行割いて知らせたものの、名前の綴りかたすら知らな
  かったという。朝河は書いている。
 ――――――――――――――――――――――――――――
  「国家はその国民が人間性をもっているかぎりにおいてのみ
  自由な独立国である。しかし,その政治体制が民主主義の組
  織をそなえているというそれだけでは,自由な独立国とはい
  えない.自由主義にあっては,その国民が世界における人間
  の立場を、すべてにわたって意識するまでに進歩しているか
  どうか、それこそが重要である」と。
  http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/6030940/top.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

1754号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月18日

講和条件作りへの朝河の関与(EJ1755号)

 朝河貫一は『日露衝突』の刊行に先立って、そのエッセンスを
イェール大学の季刊の論文集『イェール評論』の1904年の春
号(5月)と夏号(8月)の2回に分けて発表しています。
 この『イェール評論』は大学発行の機関誌の中でも非常に権威
が高く、読者はインテリ層に限られてはいるものの、その社会的
影響力はきわめて大きかったのです。とくに5月の論文は「ニュ
ーヨーク・タイムズ」の社説に取り上げられ、両論文ともドイツ
語とイタリー語に翻訳されたのです。
 また、これらの論文は確認されているだけでも、1紙6誌の書
評に取り上げられ、一部には批判もあったが、その多くは交戦国
民であるにもかかわらず、公正な立場で資料を精査して記述して
いると高く評価しているのです。
 朝河はこれらの論文で、この戦いは日本が代表する「新しい文
明」とロシアが代表する「古い文明」の戦いであり、その結果は
世界に大きな違いをもたらし、両国だけではなく、世界が岐路に
立っていることをまず強調しています。
 さらに、そのためにはロシアの南下を阻止することによって、
清国と韓国の「領土保全」と市場の「門戸開放」を確保する必要
がある−−そのために日本はロシアと闘っているという日本の立
場を正当化しています。
 この考え方が、日本はロシアの満州からの撤兵、韓国の「領土
保全」のみを要求すべきであって、まして賠償金など求めるべき
ではないという主張につながるのです。
 1904年5月と8月の『イェール評論』、11月の『日露衝
突』の発刊――これらの朝河の論文がポーツマス講和交渉に少な
からず影響を与えたことは確かなのです。
 さて、ここでなぜイェール大学がポーツマス講和交渉の原案を
作ることになったのかの話に戻ります。直接的には、金子堅太郎
の随行員である阪井徳太郎が旧知の間柄であるイェール大学のス
トーク事務局長に手紙を出したことがきっかけですが、阪井は次
のようにストークに手紙を書いたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 戦場から(日本軍勝利の)良いニュースが続いている。しかし
 早期に解決するという、わずかな希望さえもない。ニューヘイ
 ブンにいる学識の深い学者たちの間ではどんな雰囲気なのか。
 日本はどのような条件で講和すべきなのか。君自身はどう思う
 か。いつか、君からそれについて聞きたい。
  ――清水美和著、『「驕る日本」と闘った男/日本講和条約
              の舞台裏と朝河貫一』、講談社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 問題は、イェール大学による日露戦争の講和条件作りに朝河が
参加していたかどうかです。はっきりしていることはこの原案が
作成された時点においては、朝河はイェール大学を離れて、ダー
トマス大学の講師をやっていたということです。
 講和交渉の原案作りに携わった学者は次の3人ですが、彼らは
朝河貫一とどういう関係にあるのでしょうか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        1.ストークス事務局長
        2.ウールジィ教授
        3.ウィリアムス助教授
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これらの3人はいずれもイェール大学の職員であり、朝河貫一
をよく知っています。まして、2回にわたる『イェール評論』に
よって、朝河が日露戦争に対して、どのような考え方を持ってい
るのかを熟知していたはずです。
 朝河が博士号を取得したのはイェール大学大学院です。博士論
文のテーマは「六四五年の改革(大化改新)の研究」だったので
すが、上記のウィリアムス助教授がその指導を担当したのです。
 フレデリック・ウェルズ・ウィリアムスは、彼の父親がサミュ
エル・ウェルズ・ウィリアムスといって、日本に門戸開放を迫っ
たあのペリー提督の通訳を務めた人物なのです。したがって、そ
の息子のフレデリック・ウィリアムスが大学で東洋史を担当し、
大化改新を扱った朝河の博士論文の指導を担当していることは不
思議ではないのです。
 さらにウィリアムスは、朝河の『日露の衝突』に序文を寄せて
おり、これを見る限り、朝河の日露戦争観に非常に近い考え方を
持っていたといえます。ウィリアムスはその序文の中で日露戦争
について次のように述べているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「アメリカの人々の(戦争に対する)態度はロシアに対する偏
 見に大きく影響されているわけではない」と断りながら、日本
 はロシアの東アジアに対する圧力を軽減する「世界のための仕
 事」をしていると認める。日本は中国が「その弱さが、西洋列
 強の恥ずべき軍事的野心を誘う国々のリスト」にある状態から
 目覚める手助けをしているのだ。――清水美和著の前掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ウールジィ教授については、朝河と直接の付き合いはないと考
えられます。しかし、ウールジィ教授は国際法の権威ではあるが
東アジア問題には素人であり、講和条件の内容に関しては、ウィ
リアムスの意見が大きな影響を与えたことは確かであるといえま
す。それはともりなおさず朝河の考え方が反映されたということ
になるのです。
 しかし、朝河はその後日露戦争当時の自分の言動についてはほ
とんど語ることはなかったのです。朝河は日露戦争は、ロシアと
いう「古い文明」と日本が代表する「新しい文明」の戦いである
ことを全米を講演して訴えたのです。その主張は祖国日本によっ
て裏切られたからです。日露戦争後の日本は、「新しい文明」ど
ころか、古い帝国主義そのものになり、韓国併合から中国侵略へ
とのめりこんでいったからです。そして、米国世論は期待を裏切
られた分、反日に傾いたのです。・・・・・・ [日露戦争49]


≪画像および関連情報≫
 ・ダートマス大学について
  ダートマス大学は、ニューハンプシャー州ハノーヴァー市に
  あるアメリカの私立大学である。1769年に設立された全
  米で9番目に古い大学である。アイヴィー・リーグの一つに
  数えられる名門校だが、小規模な大学である。そのために、
  現在でも「ユニバーシティ」という呼称を用いず、「カレッ
  ジ」と名乗っている。        ――ウィキペディア

1755号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月19日

小村全権の真意は戦争継続か(EJ1756号)

 日露講和交渉の小村寿太郎全権は、交渉が賠償金と領土割譲を
めぐって行き詰ると、会談ではかなりイライラしてミスを冒して
いたことがわかっています。
 彼は対清国にしても対ロシアについても、名うての主戦論者で
あっただけに、最初から勝ち取ることが困難であることがわかっ
ていた賠償金と領土割譲に執拗にこだわったのです。
 ロシアの全権ウィッテは、何としても戦争は終結させなければ
ならないと考えており、どうしても決着がつかないときは、最後
の譲歩プランともいうべきものを用意していたのです。それが、
「樺太南半分の割譲」です。しかし、「賠償金なし」は絶対に譲
れない条件であると考えていたのです。
 「樺太南半分の割譲/賠償金なし」はロシア側から妥協案とし
て示唆されたものですが、小村は首を縦に振らなかったのです。
ウィッテは、ニコライ皇帝に樺太南半分はかつて日本領であった
歴史もあり、これは譲るべきだと説得し、暗黙の了承を得ていた
のです。ロシアとしては、これが譲れる最後の線だったのです。
 読売新聞取材班による『検証/日露戦争』には講和交渉の席上
の小村とウイッテのやり取りが紹介されています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ウイッテ:ロシアがもしサハリン全島を譲渡するといったら、
      日本は賠償金要求を撤回するか。
 小村全権:日本がサハリン全島返還に同意することの困難さは
      賠償金放棄の困難さと同じだ。
 ウィッテ:当方の質問の意味がわかっているのか。
 小村全権:わかっている。
 ウィッテ:それでは日本は賠償金抜きの提案では、絶対に承知
      しないということか。
 小村全権:その通り。
       ――読売新聞取材班編、『検証/日露戦争』より
                      中央公論新社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ウイッテは、日本側の腹を探る目的で「サハリン全島譲渡」の
話をしたのです。しかし、それに対する小村の応対は明らかに意
味不明です。だから、ウイッテは「わかっているのか」と聞き返
しているのです。
 小村はこれを肯定し、そのあと「日本は賠償金抜きの提案では
絶対に承知しない」というメッセージをロシア側に与えてしまっ
ているのです。これは賠償金獲得と領土分割については絶対条件
にしないという本国の訓令にも背いているのです。
 決着3日前の8月26日のことです。ロシア側は小村があまり
に強硬なので、もう一人の全権である高平公使に非公式面談を申
し入れ、その席で「樺太南半分の割譲、賠償金なし」でなんとか
まとめて欲しいと申し入れているのですが、小村は「ロシアはい
ささかも譲歩せず」という電報を東京に打っています。どうやら
小村はロシアの本心を探れなかったようなのです。
 そのため、政府としては、賠償金も領土割譲もあきらめて講和
交渉をまとめるよう小村に指示したのですが、そのあとなぜか、
「樺太南半分の割譲、賠償金なし」を改めて要求に盛り込んで提
案しています。これは一体どういうことでしょうか。
 それは、当時外務省の通商局長をしていた石井菊次郎が駐日英
国公使に呼び出され、公使から、8月23日の時点でロシア皇帝
ニコライ二世は、マイヤー駐ロシア米公使に対し、樺太の南半分
の割譲は、かつて日本領であった歴史を考慮して認めてもよいと
いったという情報を知らされるのです。
 それにしても小村はどうしてこう頑なだったのでしょうか。い
ろいろな説がある中で、外交評論家の岡崎久彦氏は、次のように
いっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 小村は早く交渉をつぶし、戦争継続にもっていきたかったの
 であろう。               ――岡崎久彦氏
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 小村が全権に選ばれたとき、政府関係者の一部には小村の強硬
姿勢を懸念する人もいたのです。しかし、この岡崎氏の主張には
反対する人も多く、真相はよくわからないのです。
 もうひとつ不可解なのは、この情報がなぜ米国からもたらされ
なかったということです。実は米国に滞在してメディア工作に当
たっていた金子堅太郎と随行員の阪井徳太郎は、交渉経過を逐一
ルーズベルト大統領に打ち明け、いわば手の内をすべてさらして
相談に乗ってもらっていたのです。
 日本海軍がバルチック艦隊を破ったとき、金子に「万歳!」と
いう電報を打ち、この機に樺太を占領せよというアドバイスをす
るなど、ロシア側からも「日本の弁護人」とまでいわれたルーズ
ベルト大統領は、なぜか肝心の8月23日のマイヤー駐ロシア米
公使とニコライ二世との会見の中の一番重要なことを金子に話し
ていなかったのです。
 ルーズベルト大統領は金子に次のように話したのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 2時間以上面談したるも、終わりに露帝は曰く、かの妥協案
 に到底賛成するを得ず。これに同意するよりは、むしろ露国
 人民全体に訴え、みずから陣頭に立ちて満州に出陣すべしと
 して、痛くせられたり。
 ――清水美和著、『「驕る日本」と闘った男/日本講和条約
              の舞台裏と朝河貫一』、講談社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このことばによれば、ロシア皇帝は全面拒否であるように見え
ます。しかし、ロシア皇帝は樺太南半分の割譲はやむを得ないと
いっていたのです。後でこのことを知った金子はルーズベルトに
対し、非常に怒ったといわれます。ルーズベルト大統領はなぜ日
本に対し、情報を隠したのでしょうか。これは後でルーズベルト
の裏切りとして伝えられることになります。・ [日露戦争50]


≪画像および関連情報≫
 ・小村寿太郎について
  宮崎県日南市飫肥出身。藩校振徳堂に学び、大学南校・現東
  京大学卒業後、文部省留学生として米国ハーバード大学に留
  学。帰国後司法省を経て外務省に入り翻訳局長、清国代理公
  使、外務次官を歴任しさらに、米、露、清の公使となる。
  1901年(46歳)、桂内閣の外務大臣に就任。1905
  年、首席全権大使として米国ポーツマス市で日露講和条約を
  結び日本に平和をもたらす。1908年(53歳)外務大臣
  に再任。1911年、米英独仏と、幕末以来の不平等条約を
  改正し関税自主権を回復。以後、わが国は諸外国と対等な国
  際関係になる。勲功により侯爵位を授けられる。同年、神奈
  川県葉山町にて永眠(56歳)。
                ――日南市ホームページより
  http://www.city-nichinan.jp/kyoutsu/nichinan-ijin.asp

1756号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:41| Comment(1) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月20日

不本意な妥結/日露講和交渉(EJ1757号)

 1905年8月28日、日本政府はポーツマスの全権団に対し
経済的理由から、償金、割地の2問題を放棄して講和をさせよと
いう訓令を打電しています。しかし、この電報を打って1時間後
に外務省の石井通商局長が英国大使からの情報――ニコライ二世
は樺太の南半分の割譲は認める意思ありという情報――を入手し
てきたのです。あわていたのは外務省です。
 外務省電信課長の幣原喜重郎はとりあえず独断で次の電文を小
村に送っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   前の電信の執行は次の電信が着くまで延期されたい
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 幣原といえば後に外務大臣、首相になった人物ですが、彼は改
めて桂首相以下の指示を仰ぎ、決定をもらって樺太南部を要求す
る訓令を再び打電し、翌29日、遂に日露講和交渉は妥結にいた
るのです。しかし、この経緯は非常にわかりにくいのです。
 小村としてはウイッテから樺太南部の割譲の提案は何度も受け
ていたのです。しかし、小村はそれに加えて、どうしても償金を
獲得したかったのです。小村としては出発のさい、新橋停留場の
多数の国民の万歳による見送りを思い浮かべていたのでしょう。
 「樺太南部割譲」はロシアから見たいい方ですが、既に樺太は
日本が合法的に占領しているのです。したがって、日本から見る
と、「樺太北部返還」になるわけです。この違いはとても大きい
ものがあります。
 小村としては、日本が樺太北部を返還するにはそれなりの金銭
が必要であるとして、それを強く求めていたのです。そのため、
ロシアの提案を本国に伝えていなかったのでしょう。しかし、本
国は全権団ではなく、英国大使から情報を得て「樺太南部割譲/
償金なし」で同意するよう求めてきたのです。これを受けて小村
はやむなく講和を妥結させるしかなかったわけです。
 しかし、国民は納得しなかったのです。新聞各紙には次のよう
な記事が載ったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  大阪毎日新聞 ・・・
   ・軍事費弁済の要求放棄/樺太北部も捨てられる
  万朝報
   ・千古の大屈辱に弔旗を
  大阪朝日新聞
   ・陛下の聖意にあらざる和約の破棄を
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 考えてみれば、日清戦争では三国干渉で国民は悔しい思いをし
ているのです。そして、軍備拡張のための増税や公債の割り当て
などの重い負担に耐えた結果がこれではと一気に政府に対する怒
りが燃え上がったのです。その結果、条約破棄を要求する国民大
会がを日比谷公園で開催され首都は大混乱となったのです。19
05年9月5日のことです。結局、近衛師団などから歩兵3個中
隊が出動し鎮圧に当るという騒ぎとなったのです。
 民衆は警官隊とは戦いましたが、軍隊が出動すると一斉に抵抗
をやめ、「万歳」を叫んでやまなかったといいます。大国ロシア
を相手に戦って連戦連勝を積み重ね、帝国の光栄を輝かせた軍隊
とは対決したくなかったのでしょう。怒りは政府に対してのみ向
けられたのです。
 講和条件を検討し、日本に提案したイェール大学のストークス
は、ポーツマス条約に「清国の領土保全」、「列強の機会均等」
「償金支払いや領土割譲を避ける」というイェール大学の提案が
ほぼ盛り込まれた点を高く評価しています。しかし、提案に掲げ
た「満州と韓国における商業的な機会均等」においては、条約で
は満州での機会均等を明記したものの、韓国については触れられ
ていない点に懸念を表明しています。
 ストークスのこの懸念は、1910年の日本の韓国併合という
かたちに立ってあらわれるのです。韓国についても清国と同じよ
うに「領土保全」と「機会均等」を貫くべきだったのです。
 朝河貫一は、韓国の扱いについては、次のように述べて、日露
戦争後の祖国に一抹の不安を抱いていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本は韓国を効率的な前進部隊とすることによって外国の攻撃
 に対し、日本の立場を強化しようとするのか、それとも韓国は
 弱く、頼りにならないので韓国を日本帝国の一部であるかのご
 とく武装し統治するのか。(一部略)いずれが改革の指導原則
 になるかによって政策の実際の差異は、長い間には巨大な差異
 になるであろう。
  ――清水美和著、『「驕る日本」と闘った男/日本講和条約
              の舞台裏と朝河貫一』、講談社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 朝河の懸念は不幸にして的中するのです。日本はポーツマス条
約で賠償金も領土割譲も得られなかったことの反動から、朝鮮、
中国大陸の権益獲得にのめり込んでいき、米国との関係が緊迫の
度を増していったからです。
 朝河は、この日本の動きを国運の危機と称して次のように述べ
ています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 東洋の平和と進歩とを担保して、人類の文明に貢献し、正当の
 優勢を持して永く世の畏敬を受くべき日本国が、かえって東洋
 の平和を攪乱し、世界憎悪の府となり、国勢とみに逆運に陥る
 べきことこれなり。(中略)日本もし不幸にして清国と戦い、
 また米国と争うに至らば、その戦争は明治37、8年のごとく
 世の文明と自己の利害との合わせる点にて戦うにあらず、実に
 世に孤立せる私曲の国、文明の敵として戦うものならざるべか
 らず。            ――清水美和著、前掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 朝河貫一、まさに慧眼であるといえます。・ [日露戦争51]


≪画像および関連情報≫
 ・「私曲」とは何か。
  朝河貫一の文中の「私曲」とは、よこしまで不正なる態度と
  いう意味である。

1757号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月23日

米英両国を敵に回した原因(EJ1758号)

 2005年10月31日から書いてきた「日露戦争の真実」の
テーマは、本日が最終回(全52回)になります。過去に取上げ
たEJのテーマとしては最長記録です。
 19世紀の末、米英両国は西洋列強が争奪戦を演じる中国(清
国)に対して2つの原則を確立しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        第1原則:中国の領土保全
        第2原則:商業機会の均等
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 朝河貫一は、東洋政策に関して「旧外交」と「新外交」を次の
ように対比させています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ≪旧外交≫
  ・列強が中国を苦しめながら相争って自利を計る政策を展開
 ≪新外交≫
  ・中国の主権を尊重し、機会均等に各国が経済的競争をする
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日露戦争において日本が米英の協力を得られたのは、ロシアが
満州で旧外交を展開したのに対し、日本が東洋の正義を掲げて戦
いを挑んだからなのです。
 しかし、戦後日本は基本的にはロシアと同じことをやっている
のです。朝河の言葉でいうと、次のようになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 満州に新外交を強制したる日本が、同じ戦勝の功により、同じ
 満州において自ら旧式の利権を作為し、また自ら請いて露国よ
 り旧外交の遺物を相続したること
  ――清水美和著、『「驕る日本」と闘った男/日本講和条約
              の舞台裏と朝河貫一』、講談社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 米英両国は、日本が戦前に公言していたことは一時世を欺くこ
とばに過ぎず、ひとたび戦いに勝利すると、満州および韓国にお
いて、私意をたくましくしている――といって厳しく日本を批判
したのです。
 日本が戦前と考え方を変えた具体的な例を上げるとしたら、米
国の鉄道王エドワード・ハリマンが、日本に提案した南満州鉄道
共同経営計画の中止があります。この計画については桂首相自身
は前向きだったのですが、小村外相の強硬なる反対によって頓挫
したのです。せっかく苦労して手に入れた経営権を米国などに渡
してなるものかという小村の偏狭な考え方が原因です。
 さらに日本は満州で軍政を継続し、日本企業を優遇して米英両
国から非難されるという一幕もあったのです。軍政は桂内閣が代
わる1906年まで続いたのです。
 このようにして、日本はしだいに米英両国から距離を置くよう
になり、その関係はだんだん悪化していくのです。これについて
朝河は自分の米国留学を支援してくれた大隈重信に対し、次の手
紙を送っています。朝河の母校は東京専門学校(現早稲田大学)
であり、大隈重信は彼が最も期待した政治家だったからです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 米国将来の対清利益は、清国が独立富強、自ら主権を遂行する
 を得るに至りて、始めて最も増進すべし。故に清国の開進独立
 を妨ぐるものは、米国の利益を害するものなれば、(中略)清
 国を助けて侵害者(日本のこと)に抗せざるべからず。
              1909年9月27日、朝河貫一
                ――清水美和著の前掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 朝河が頼りにしていた大隈重信は、第2次内閣を組閣後、第1
次世界大戦が起こると強引に参戦し、敵の備えのないことに乗じ
て、かつてドイツが清国から強引に99年間租借した膠州湾を占
領してしまい、朝河の期待を大きく裏切るのです。
 朝河は「膠州湾を中国に返してやることによって日本は大きな
利益を得る」と大隈に説いたのですが、大隈は聞く耳を持たなか
ったのです。本当に当時は日本全体がおかしくなっていた暗黒の
時代であったといえます。かくして朝河のいうように日本は「東
洋平和を乱す張本人」になっていったのです。
 このように、日露戦争の勃発前の時期から戦争終了までの日本
の動きを逐一追ってみると、太平洋戦争が起こった原因、現在の
日本とロシア、中国、韓国との関係が見えてきます。
 それにしても朝河貫一は、日本から遠く離れた米国の地にあっ
て、ひたすら祖国日本のために研究生活のかたわら講演や論文に
よって日本の進むべき正しい道を説き続けたのです。
 1948年8月11日、朝河はバーモント州の静養先で心臓発
作を起こし他界しています。朝河の訃報はAPやUPIなど外国
通信社がわざわざ「現代日本で最も高名なる世界的学者」と紹介
して世界に打電したのに対し、当の日本のプレスは、外電として
片隅に小さく報道しただけだったのです。それも「朝河」を「浅
川」と姓を間違って伝えたのです。日本人がいかに朝河について
何も知らなかったかを物語っています。
 当時の政治家で朝河を知り、比較的その意見を買っていたのは
伊藤博文です。伊藤は1901年にニューヘイブンを訪れ、朝河
に会っているのです。イェール大学から名誉法学博士号を受賞し
たときのことです。しかし、その伊藤も韓国併合を結局は推し進
め、ハルピンの駅頭で暗殺されてしまったのです。そのとき、伊
藤は朝河の著書『日本之禍機』を持っていたといわれています。
 日露戦争のテーマで書き出した途中の時点で、何回も引用させ
ていただいた清水美和氏の著作『「驕る日本」と闘った男/日本
講和条約の舞台裏と朝河貫一』(講談社刊)を入手し、読めたこ
とは幸いであったと思っています。EJの読者にぜひ一読をお勧
めするしだいです。
 50回にわたる長期連載にもかかわらず、最後まで読んでいた
だいた読者に感謝の意を捧げます。 ・・・・ [日露戦争52]


≪画像および関連情報≫
 ・エピローグ――1905年12月28日・・・
  一人のみすぼらしい男が、新橋の駅に降り立った。くたびれ
  た外套、つぶれたような帽子、時代遅れのトランクを提げた
  男は、懐かしそうにあたりを見回した後、改札を出ようとし
  た。そのとき、声をかけた男がいる。
  「明石さん、お帰り・・・」
  「おう、田中君か・・・満州では大変だったろう」
  「いや、明石さんこそ縁の下の力持ちで・・・」
   そういったのは明石より2期後輩の田中義一中佐である。
  田中は明石の前に参謀本部からヨーロッパ担当の諜報将校と
  して、活躍した敏腕の若手参謀である。――豊田穣著『情報
  将校/明石元二郎――ロシアを倒したスパイ大将の生涯』
  り。光人社刊
   ビックプロジェクトには、明石、金子、阪井、末松、朝河
  など、縁の下の人たちのたくましい活躍があって、はじめて
  実を結ぶものである。

1758号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:45| Comment(1) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする