2005年07月11日

『吾妻鏡』の記述は正しいか(EJ1631号)

 今日から久しぶりに歴史のテーマ「源義経」を取り上げること
にします。しかし、まともに義経物語をやろうというのではない
のです。「源義経=成吉思汗論」をやろうというのです。
 実はEJでは一度この問題を取り上げています。私にとってこ
れは、昔から関心のあるテーマであり、次の期間、EJでは、4
回にわたって取り上げているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1999年4月6日/EJ第113号
        〜1999年4月9日/EJ第116号
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、6年も経っておりますし、その頃EJを読んでいない
読者もたくさんおられるので、リニューアルし、内容を大幅に増
強して再び取り上げたいと思います。初期の頃からの読者も、ぜ
ひリニューアル版を読んでいただきたいと存じます。
 それに何よりも今年のNHKの大河ドラマは「義経」ですし、
同時進行すればイメージも湧くと思います。ところで、既に日本
がドイツ行きを決めている「サッカー・ワールドカップ2006
年ドイツ大会」――この応援歌(正確にいうと、ドイツに行くた
めの応援歌)をご存知でしょうか。
 実は「成吉思汗/ジンギスカン〜ドイツに行こう」というので
す。これは、日本代表のドイツ行きをバックアップしようと、日
本代表サポーターであるUTRUSが応援歌に選んだのが、ディ
スコ世代にはおなじみの楽曲「ジンギスカン」のカヴァーなので
す。ちなみにこの歌は、1980年に旧西ドイツのグループ「ジ
ンギスカン」の大ヒット曲です。
 このように直接は関係ないのですが、今年は義経と成吉思汗が
揃っているのです。そういうこともあって、「源義経=成吉思汗
論」を取り上げたいと思います。今日はその予告編のようなこと
からはじめたいと思います。
 源義経は、猜疑心の強い兄頼朝の不興を買って逃げ落ち、奥州
藤原氏に身を寄せます。しかし、義経の理解者である秀衡が亡く
なると、その子泰衡は頼朝のきびしい追及に屈して、自分が匿っ
ている義経とその一族に奇襲をかけるのです。これが世にいうと
ころの「衣川の戦い」です。
 義経とその一族は泰衡の奇襲に破れ、義経は妻子とともに自害
を遂げる――文治5年(1189年)4月30日のことです。こ
れは歴史上動かし難い史実として記述されており、どのような歴
史書もそうなっています。「源義経=成吉思汗論」は、その動か
し難い史実を正面から否定しようというのですから、それは容易
ならざることです。
 正史に反することを唱えるのは異説ということになります。学
問の世界に限らず異説を唱える者に対しては、世間の目は厳しく
なるものです。しかし、正史をアタマから信じ、異説を検証しよ
うともしない学者よりも、正史に疑いを持ち、その疑いを解決す
るために異説を立てる――そういう学者の方が真実をつかめるの
ではないかと考えます。
 義経自殺の根拠は『吾妻鏡』とされています。『吾妻鏡』は、
鎌倉幕府の手によって編纂されたれっきとした正史であり、数多
い史書の中でも一級史料とされているのです。ここに書かれた以
上、それは正しいのだというのが歴史学者の考え方なのです。日
本の学者は公文書に弱いのです。
 『吾妻鏡』は、源頼朝の挙兵から文永3年までの87年間の事
件を日記風に記録しているのです。それでは、文治5年4月30
日はどう書いてあるのでしょうか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 今日、陸奥の国に於いて泰衡が源予州を襲う。予州、持仏堂に
 入り、まず妻(22歳)と子(女子4歳)を害し、ついで自害
 す。                 ――『吾妻鏡』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「予州」とは義経のことです。伊予守だったのでそう呼ばれて
いたのです。義経は「判官」といわれますが、それは彼が検非違
使をしていたからです。検非違使とは、簡単にいうと、現代の裁
判官のような役職と考えればよいと思います。平安初期,嵯峨天
皇のとき設置された令外の官で、京中の治安維持のため置かれた
のが最初です。
 それはさておき、『吾妻鏡』の記述――ばかにあっさりしてい
ると思いませんか。実は、この『吾妻鏡』は、義経の死より80
年のちの文永年間に編纂されているのです。何しろ今から800
年も前の話です。それが本当に信じられる根拠というか、証拠が
あるのでしょうか。
 義経を討ったという報告は、当の泰衡が鎌倉に対して行ってい
ます。泰衡の飛脚は5月22日に鎌倉に着いており、この使者は
次のような泰衡の言葉を鎌倉に届けているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 4月晦日、民部少輔の館に於いて、予州を誅す。その首は追っ
 て送りまいらせます。              藤原泰衡
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 実際に義経の首は6月13日に頼朝のところに届けられていま
す。これについては改めて分析しますが、4月30日に起こった
事件を5月22日に報告し、首が6月13日に届くのは、当時と
しても非常に遅いのです。
 この報告がそれから80年後に編纂された『吾妻鏡』では「民
部少輔の館」が「持仏堂」に変わり、「予州を誅す」が義経自害
に変わってしまっているのです。これは果たして信じられること
なのでしょうか。
 泰衡にとって義経は少年時代に一緒に文武を学んだ仲であり、
亡父秀衡がこよなく敬愛していた人物なのです。しかも、泰衡は
父から、私の死後に鎌倉殿が攻めてくることがあれば、判官殿を
総大将にして戦うべしと遺言を授けられているのです。その泰衡
が果たして義経を裏切るでしょうか。・・・・・・・[義経01]


≪画像および関連情報≫
 ・義経主従が住んでいた衣河館(高館)/前に衣川、東は秀衡
  の屋敷、西は金鶏山に接する城郭構えの居館

1631号.jpg
posted by 平野 浩 at 09:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月12日

基本的条件は成立するか(1632号)

 私が「源義経=成吉思汗論」に興味を持ったのは、高木彬光著
『成吉思汗の秘密』(角川文庫)を読んでからです。この本は推
理小説というスタイルをとっており、名探偵神津恭介が登場する
のですが、そこに何らの殺人事件も起こらないのです。
 この小説は、神津恭介が病気で東大病院に入院し、退院までヒ
マをもてあましているという設定で、「成吉思汗は実は源義経で
あった」ということをヒマつぶしに神津に推理させる――そうい
うかたちをとってかねてからの自らの研究を神津の口を通して発
表しているのです。したがって、内容は真面目そのものです。
 作家高木彬光は、青森中学時代から義経伝説に興味を持ち、研
究を重ねていたのです。そして、当時江戸川乱歩が編集に当って
いた雑誌『宝石』に原稿を持ち込んで連載をはじめたのです。昭
和33年5月号から9月号までの5回にわたる連載です。『成吉
思汗の秘密』はこのようにして完成したのです。
 当時高木彬光は既に人気作家であり、多くの注文原稿を抱えて
いたのですが、この小説だけは持ち込み原稿なのです。それだけ
に意気込みが違うのです。また、この小説は、後から何回も加筆
されており、ある別の作家の小説との結びつきもあるのです。
 私はその小説を当時偶然に読んでおり、驚愕したのを今でもよ
く覚えています。それは次の小説です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    仁科東子著、『針の館』――カッパ・ノベルス
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 今回のテーマも関連する書籍をほとんどすべて集めており、総
合的に書き進めますが、その中心は高木彬光説を中心に述べてい
くつもりです。最近『成吉思汗の秘密』が光文社から復刊されて
いますが、それを読まれるのはEJのこのテーマが終わってから
の方が興味深いと思います。
 そろそろ本題に入っていきましょう。
 「源義経=成吉思汗」が成り立つためには、次の3つの条件が
成立する必要があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.義経と成吉思汗の両者はほとんど同じ年に生まれている
 2.義経が活動しているときは、成吉思汗は活動していない
 3.成吉思汗が活動しているときは、義経は活動していない
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1を検証してみます。
 源義経は平治の乱――すなわち、源平両族の勢力争いの時代に
生まれています。父は源義朝、母は常盤御前であり、3人兄弟の
3男として生まれています。歴史書によると、義経は平治元年の
生まれとされています。西暦では1159年です。
 問題は成吉思汗の方です。当時の蒙古は記録が完備しておらず
学者の推定でしかないのですが、1158年、1161年、11
62年という3つの説があるのです。はっきりしているのは、義
経と同年代であることです。したがって、1については、一応成
立すると考えてよいと思います。
 2と3を検証してみます。
 義経の命日は、文治5年4月30日――衣川の戦いのあった日
とされています。西暦では1189年です。年齢は31歳です。
それでは、成吉思汗はいつごろから活躍しているかについて調べ
る必要があります。
 大蒙古帝国は13世紀に突如として出現したのです。東は中国
全土を支配して元朝を開き、西はイラン、トルコから東ヨーロッ
パまでも呑み込んで世界最大の領土を誇ったのです。それを成し
遂げたのが成吉思汗なのです。
 その間日本では、鎌倉幕府が150年間続き、元弘3年(13
33年)をもって幕を閉じるのですが、幕府が倒れるキッカケに
なったのは、2回にわたる蒙古の来襲――文永の役、弘安の役で
あり、蒙古とは密接な関係があるのです。
 当時のモンゴル地方は、広大な草原地帯に多数の民族が入り乱
れて生活しており、遊牧民として移動するので、そこに統一国家
を築くのは至難のわざであったのです。
 成吉思汗という人物について記述されている書物は極めて限ら
れており、次の3つが根本史料とされています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.『元朝秘史』 ・・・ 13世紀にモンゴル語で編纂
 2.『集史』   ・・・ 14世紀にペルシャ語で編纂
 3.『元史』   ・・・ 中国が明代(14世紀)編纂
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これら3つの史料によると『元朝秘史』には生年月日は明記さ
れておらず、『集史』は1155年生まれとしています。しかし
これは死亡した年とされる1227年/72歳からの逆算であり
死亡年齢がはっきりしていないので、根拠のないものです。
 この1227年の死亡についてははっきりしているのですが、
死亡年齢は『元史』では66歳、『集史』は72歳と相違してい
ます。『元史』の66歳を基にして生年月日を算出すると、66
歳は数え年であるので、生年月日は1162年ということになり
ます。1159年生まれの義経と3年の誤差がありますが、ほぼ
同年代の人物と考えてよいと思います。
 『元朝秘史』は、歴史書というよりも壮大なる叙事詩的物語と
なっており、テムジンが蒙古の諸部族からカン(汗)の位に推さ
れて成吉思汗になる1206年にいたるまでの歴史の記述は伝説
と文学の世界といえます。しかし、ここまでの分析により、「源
義経=成吉思汗」が成立する基本条件はクリアできたようです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

            前半生   後半生
       源 義経  史実    伝説
       成吉思汗  伝説    史実   [義経02]
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


≪画像および関連情報≫
 ・作家/高木彬光について
  1920(大正9)年に青森市で生まれた高木彬光(たかぎ
  ・あきみつ)は、1948(昭和23)年、江戸川乱歩の推
  薦で『刺青殺人事件』を刊行し、推理文壇にデビュー。その
  後、『能面殺人事件』『妖婦の宿』などの傑作長短編を相次
  いで発表し、一躍、本格推理小説の第一人者となる。神津恭
  介をはじめ、百谷泉一郎、近松茂道、霧島三郎、大前田英策
  墨野隴人の名探偵を登場させ、歴史推理小説『成吉思汗の秘
  密』、経済推理小説『人蟻』、法廷推理小説『破戒裁判』
  などの傑作を次々と発表、戦後の日本推理小説界を代表する
  作家として活躍。1995(平成7)年に逝去。

1632号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月13日

最初から偽首とバレていた証拠(EJ1633号)

 殺人事件において犯人を殺人罪で起訴するには、他殺死体が必
要です。鎌倉の頼朝の側から考えてみましょう。秀衡の死後、頼
朝は何回も藤原泰衡に対して「義経を差し出せ」とプレッシャー
をかけています。
 文治5年5月22日にその泰衡から、「4月30日に義経を誅
す」との飛脚が届きます。そして、6月13日、その証拠として
義経の首が酒を浸した黒い漆塗りの桶に納められ、鎌倉に送られ
てきたのです。
 4月30日に義経を殺害し、5月22日に鎌倉にそのことを知
らせる手紙を届ける――これは遅すぎます。そして、義経を殺害
してから43日後にその首を届ける――これも遅いです。
 現在の鉄道の計算では、平泉から鎌倉までは約500キロあり
ます。その内訳は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        東京――鎌倉   48キロ
        東京――平泉  450キロ
        ―――――――――――――
                498キロ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 500キロを里に直すと、130里です。当時の旅は歩くこと
が中心になるので、かなり早く歩いていたのです。平均して1日
8里〜10里は歩けたはずです。1日8里歩いたとして17日、
1日10里なら13日で平泉から鎌倉まで行けるのです。それが
実に43日もかかっている――誰が考えてもこれは遅すぎます。
 それに証拠の義経の首ですが、次の2つの理由によって義経と
判別不能と考えられます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.義経の首は焼き首であったこと
      2.当時は太陰暦/2ヶ月遅いこと
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 泰衡が義経主従を襲ったとき、義経主従は屋敷に火を放ってい
るのです。そのため義経の首は焼き首になったのです。加えて、
当時の暦は太陰暦であり、現在の太陽暦で6月13日は8月の初
めに当るのです。炎暑のなかを43日――果たして焼き首は原型
を保っていられるでしょうか。おそらくそれは不可能であると考
えられます。
 異常に遅い報告と証拠の首のさらなる遅い到着――疑り深い頼
朝がそれをまともに信用するはずがないのです。その証拠に首が
届いてから1ヵ月後には泰衡討伐の大軍を平泉に差し向けている
からです。それは、泰衡による衣川の戦いそのものを偽戦と見抜
いていた証拠といえます。
 これに関して『大日本史』は次のように記述しています。『大
日本史』は、水戸光圀以来、250年にわたって、歴代の水戸藩
主が各時代の大学者だけを集めて編纂した397巻の大著作なの
です。たとえ1行の文章でも多くの学者の目にさらされ、検討を
繰り返して生まれたものであり、重みがあるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 世に伝う。義経は衣川の館に死せず、逃れ蝦夷に至ると。いわ
 ゆる義経の死したる日と、頼朝の使者、その首を検視したる日
 と、その間へだたること43日、かつ天時暑熱の候なるをもっ
 て、たとえ醇酒にひたし、またこれを函(かん)にすといえど
 も、この大暑中、いずくんぞ腐爛壊敗せざらんや。また誰か、
 よくその真偽を弁別せんや。しからばすなわち、義経死したり
 と偽り、しかして逃走せしらんか。
                   ――『大日本史』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 義経の首の検視の状況について、もう少し詳しく述べておくこ
とにします。
 泰衡の使者は新田冠者経衛、6月13日に首の入った桶を2人
の従僕に担がせて、鎌倉・腰越浦に到着したのです。頼朝は、和
田義盛、梶原景時に実検役を命じたので、義盛と景時は兜を着け
郎従20騎を従えて検視におもむいたのです。
 景時は「予州の首ではない。不審の点がある」と難色を示した
のですが、義盛はこれを制して「すでに焼き首となった以上は日
頃とは違って見える」として、それ以上の検視を行わず、その首
を藤沢に送って葬っているのです。
 これは、江戸末期に出た『義経勲功記』という本に出ているの
ですが、これから推察して、頼朝側は最初から偽首と知っていた
と考えられるのです。和田義盛は、智臣として名高い因幡守大江
広元から指示を受けており、偽首であることは想定内の出来事と
して処理したのです。頼朝側としては、目的は奥州平泉を取るこ
とにあったからです。
 私の推測ですが、頼朝としては、義経主従が蝦夷地に逃げて行
くのをあえて見逃したのではないかと考えます。頼朝が最も恐れ
たのは、秀衡が義経と組んで、義経を総大将として鎌倉に攻めて
くることだったのです。秀衡の率いる奥州平泉の財力と兵力に義
経の知略が加わると鎌倉が危ないと考えたのです。
 しかし、秀衡亡き後はたとえ義経が生き延びてもとくに恐れる
ことはないと考えたのです。したがって、首の検視にあえて異議
を唱えず首を葬れば、義経は正式に死んだことになり、鎌倉勢と
してはこれ以上義経を探し回る必要もなくなる――義経の兄とし
ての頼朝の本心はこんなところにあったのではないでしょうか。
 偽首にする以上、身代わりが必要になります。義経の身代わり
は、杉目太郎行信であるとされています。延宝年間の『可足記』
に次の記述があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 九郎判官の身代わりには一家の内、杉目太郎行信が致し、行信
 が首、鎌倉の見参に入候          −−『可足記』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 杉目太郎行信、義経によくも似ていたのです。  [義経03]

≪画像および関連情報≫
 ・藤原秀衡について
  藤原秀衡は、平泉を拠点にした、奥州藤原氏の三代目。後三
  年の役の後、藤原氏繁栄の基礎を築いた初代・清衡。続く二
  代・基衡の後を受け、秀衡の時代に藤原氏の栄華は頂点を極
  めた。幼少期の源義経を育て、長じて源頼朝と不和になって
  からも義経をかくまう。子の泰衡に義経を大将軍とするよう
  遺言を残して没す。東北の王者して奥州に君臨。

1633号.jpg
posted by 平野 浩 at 09:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月14日

衣川の戦いは偽戦である(EJ1634号)

 義経の身代わりといわれた杉田太郎行信についてはこういう話
があるのです。衣川の戦いにおいて、須賀川の城主である須賀川
刑部が手勢200騎を従えて敵を探していたのです。そのとき、
竜頭兜に緋縅の鎧を着た立派な武者が榎堂の方に行くのが見えた
のです。
 これぞ大将判官なりと考えた須賀川刑部が手柄にしようと追い
討ったのです。それほど義経に似ていたからです。しかし、捕え
てみると、杉田太郎行信だったというのです。『大木戸合戦記』
という本に次の記述があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  大将軍の首を頂戴しようとしてよくよく見れば、それは判官
 殿ではなく、母方の従弟である杉目太郎行信である。刑部おお
 いに驚くと同時に、判官殿にかわって討死する覚悟であるのを
 雄々しく思い、太刀を捨てて礼をなし、士卒を従えて引き返し
 た。              ――『大木戸合戦記』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここで、義経を討ったとされる藤原泰衡という人物に注目する
必要があります。この泰衡は次の3つの点において大変評判が良
くないのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.父である秀衡の遺言を守らず、朝廷や鎌倉に屈して義経を
   討っていること
 2.泰衡は義経だけでなく、義経擁護を主張した弟の忠衡まで
   殺していること
 3.頼朝の命を果たしたのに泰衡追討の院宣が出ると頼朝に命
   乞いをしている
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 以上が正しいとされている歴史的事実ですが、よく調べると、
事実はかなり異なるのです。泰衡は父秀衡の遺言を忠実に果たし
ているという説があるのです。
 結論から先にいうと、「衣川偽戦」こそが秀衡の遺言だったの
です。自分の死期を悟った秀衡は一族を集めて次のようにいい遺
しています。なお、この席には源義経を呼んでいます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.自分の死後、必ず鎌倉殿は「判官失い奉れ」といってくる
   が、日本の名将判官殿に叛いてはならない。
 2.鎌倉殿から使者がきたら、まず、和睦をすすめる。それで
   もお許しがないときは、使者を斬り捨てよ。
 3.判官殿を大将軍と仰ぎ、白河、念珠の関を固め、奥州2国
   の大軍をもって一致協力してこれに当たれ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 秀衡はこういうと、全員に起請文を書かせ、血判を押させてい
るのです。さらに秀衡は、錦の袋に納めた遺書2通を出して、1
通は泰衡に、もう1通は義経に渡して、次のように述べているの
です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この錦の袋に納めたものは入道(秀衡)の遺書でござる。進退
 きわまるときに開いて見られよ。卿らの胸中は雲霧を払うがご
 とくひらけるであろう。             ――秀衡
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、秀衡の死後、その子孫たちは秀衡の言いつけ通りにし
ていないのです。最初に義経を主君と仰ぐことに異議を唱えたの
は、長男でありながら側室の子であるということで嫡男になれな
かった国衡です。
 これに対して、三男の忠衡は父の遺言を守ることにこだわった
のです。困ったのは泰衡です。泰衡は兄と弟の板ばさみになって
しまったからです。そこに、朝廷や鎌倉からは何回も「義経を差
し出せ」という矢の催促――窮した泰衡は義経を討つことを決断
したというのが、巷間伝えられている説です。三男の忠衡はこれ
に反発したので、忠衡も討たれたのです。
 確かに話の筋は通っています。しかし、これに反対意見を唱え
ている人がいます。それは、「源義経=成吉思汗説」研究の第一
人者といわれる佐々木勝三という人です。佐々木氏は、同じ研究
家の2人とともに昭和52年に次の本を出しておられますが、こ
れは貴重な文献です。この本は現在では入手不能ですが、幸い私
は入手しております。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  佐々木勝三、大町北造、横田正二/共著
  『成吉思汗は源義経/義経は生きていた』 勁文社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 鍵を握るのは秀衡の遺した遺書です。この遺書の現物は発見さ
れていないのですが、佐々木氏は上掲書の中で、青森県八戸市の
小田八幡宮に秀衡の復元遺書があると述べています。そこには、
次のように書かれているというのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 敵の首を焼け首となして、これを君のニセ首となすべき御心得
 なさしめたまへ。高館を御立ちのきなさしめたまわば、南部大
 崎明神へ御参籠の上、大般若経御書写なされて二世の安楽の御
 為に奉納なさしめたまうべし。(以下、略)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 少し読みにくいですが、秀衡は明らかに偽戦を勧めています。
つまり、衣川の戦いという偽戦を行い、義経を討ったことにして
その焼き首を鎌倉に届けて時間を稼ぎ、義経を落ち延びさせよと
いっているのです。
 おそらく国衡が義経を主君と仰ぐことに反対したのは事実と思
われます。藤原氏として一致結束できないことを悟った泰衡は、
義経とともに遺書を開き、そこに書かれていることを忠実に実行
したものと思われます。
 したがって、泰衡は、義経はもちろんのこと、忠衡も殺してい
ないのです。            ・・・・・ [義経04]


≪画像および関連情報≫
 ・『成吉思汗は源義経/義経は生きていた』序文より
  ――佐々木勝三氏
   従来の日本の歴史は、皇室を中心とした朝廷の歴史、もし
   くは権力者を中心とした支配者側の歴史が絶対とされてき
   た。本書は、成吉思汗という世界史上の一大権力者に焦点
   を当てながらも、悲運の英雄源義経を見守りつづけてきた
   みちのくの庶民から生まれた歴史なのである。

1634号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月15日

金色堂に祀られていた泰衡の首(EJ1635号)

 平泉の金色堂といえば藤原家の廟所です。ここには、藤原家の
三代の将軍――清衡、基衡、秀衡の遺体が祀ってあるのです。し
かし、秀衡の遺言を守れず、藤原家を滅亡に導いた四代将軍泰衡
は、金色堂に祀ってもらえなかったとされています。
 しかし、これら3体の遺体のほかに首桶がひとつ入っているの
です。これは、秀衡の遺言を忠実に守ろうとして兄泰衡に殺され
た秀衡の三男忠衡の首と今までいわれてきたのです。
 明治18年に記述されたという『平泉志』の金色堂の章には次
のように記述されています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 三壇中に藤原氏三代の棺を納む、遺骸各厳然として存在す。中
 央清衡、左基衡、右秀衡の棺側に忠衡の首桶あり。
               ――『平泉志』金色堂の章より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、この事実は、昭和25年までは誰一人疑う者はおらず
信じられてきたのですが、同年、朝日新聞社の学術調査団が、そ
れまで忠衡とされていた首を精査した結果、その首は泰衡である
ことがわかったのです。第四代泰衡はちゃんと金色堂に祀られて
いたのです。
 『吾妻鏡』によると、頼朝は泰衡の首を安倍貞任の例にならっ
て、泰衡の首の眉間部分に長さ八寸の鉄釘を打ちつけ、陣ヶ岡で
さらし首にしていますが、金色堂の中の首にはその傷口があった
のです。
 さらに、歯の消耗などから調べて、30歳程度の男性であるこ
とも判明しています。『吾妻鏡』によると、忠衡は23歳、泰衡
は31歳といわれているのです。したがって、首は泰衡のもので
あることが明らかになったのです。
 それでは、どうして首は忠衡といわれてきたのでしょうか。
 それは頼朝の怒りを恐れたからです。このことからも衣川の戦
いが偽戦であり、泰衡は忠実に父秀衡の命令を守ったということ
がわかります。
 それでは、忠衡はどうしたのでしょうか。
 佐々木勝三氏らの研究家たちは、義経の行方を追跡していく過
程で、藤原忠衡の子孫を発見しているのです。つまり、忠衡は殺
されていなかったのです。
 忠衡の子孫(長男)は久慈市の吉田に城を築いて吉田権之介奉
行と称し、その子孫は泉田を屋号としてきています。現在、岩手
県九戸郡野田村に「中野姓」を名乗っていますが、その屋号は、
「泉田」なのです。
 佐々木氏らは、同家を訪問して、その由緒書きを手に入れてい
るのです。その一部をご紹介しましょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  我が大祖は元平泉の藤原清衡三代之孫秀衡の三男泉三郎忠衡
 なり。文治五年七月源九郎判官義経養匿のため、罪ありとして
 大軍を率いて来るは、鎌倉の兄源右兵衛頼朝なり。忠衡初め出
 羽にあり、のちに花巻に来たり、義経を守護し、死と称して義
 経の郎等の擬首を鎌倉に送った。(以下、省略)
 ――『成吉思汗は源義経/義経は生きていた』 勁文社刊より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これによると、忠衡は義経主従と一緒に平泉から北上し、久慈
地方に来ているのです。中野家には義経の書いたとされる大般若
経が掛け軸となって残っているといいます。やはり、義経は自害
などしていなかったのです。
 泰衡の首が金色堂の秀衡の遺体に寄り添うように置かれている
のは、泰衡が父秀衡の遺言を忠実に果たして義経を最後まで護り
非業の死を遂げたという同情の念が遺族にあったからと考えられ
ます。史実のように、秀衡の遺命に叛いて義経を討ち、頼朝に媚
びようとしてその頼朝に殺され、さらし首になったとしたら、遺
族は金色堂に祀ることを許したでしょうか。
 ひとつ不審なことがあります。
 義経が平泉入りしたのは文治3年秋ですが、それから5年まで
の間、朝廷や鎌倉から何回も使者がやってきて「義経を出せ」と
責めたてているのです。こういう事態に対して義経が何の策も立
てずに高館に潜んでいたとは考えられないことです。
 このまま平泉に居座れば、藤原家にとんでもない迷惑をかけて
しまうと考えたはずです。藤原家は、朝廷や鎌倉の使者が来るた
びに酒食を出して丁重にもてなしたのですが、絶対に屋外には出
さなかったといいます。
 しかし、そのとき実は義経主従は平泉には、いなかったのでは
ないでしょうか。なぜなら、もし、義経を高館にかくまいながら
朝廷や鎌倉の使者を饗応していたのだとしたら、あまりにも大胆
不敵な振る舞いということになると思うからです。そしてそれは
非常にリスクの多い行為です。
 佐々木勝三氏らは、文治4年5月には既に平泉を脱出していた
と考えています。このとき、朝廷より第4回の勅使一行が平泉に
到着していたのです。衣川の戦いよりも一年以上前の話です。
 ところで、自害したことになっている義経は、平泉に隣接した
衣川村の雲際寺という寺院に位牌が祀ってあるといいます。それ
は次のように書かれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  損館通山源公大居士、文治五年閏四月二十八日源之義経
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この死亡日は『吾妻鏡』とは一致していないのです。それにこ
の法名は変わっています。法名には故人に何らかの縁のある文字
が用いられるのが通常ですが、そういうこととは無関係な文字の
羅列です。そこで、次の読み方があるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 館を捨てて(損館)、山を通って(通山)、遁世(居士)す
                 ・・・・・・・[義経05]
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


≪画像および関連情報≫
 ・平泉/中尊寺金色堂
  奥州に覇をとなえた藤原一族の権力の源泉は黄金にあったと
  いわれる。金色堂は天治元年(1124年)の造立で、中尊
  寺創建当初唯一の遺構である。

1635号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月19日

義経北行説はなぜ消えないのか(EJ1636号)

 先週は、衣川の戦いが偽戦であって、源義経は郎党を引き連れ
平泉を後にして、蝦夷地に逃れている――多くの史料があり、こ
のことはもはや動かし難い事実であると考えられます。
 ちなみに「蝦夷地」とは、もともとは「アイヌ人の住む地域」
のことであり、北海道全般を指していたのです。当時北海道は、
まったくの未開の地であり、「蝦夷地に行く」ということは、異
域、異界――死の世界も異界である――に足を踏み入れることと
同意義だったのです。このことから、「義経生存説」は現代にい
たるまで、根強く生き続けることになるのです。
 しかし、この義経北行説を利用して名前を売る学者が横行した
のです。加藤謙斉という学者がいます。享保2年(1717年)
に出版された『義経実記』の著者です。
 この本で加藤謙斉は、義経の平泉脱出について具体的に述べた
あと、次のように書いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 義経平泉脱出の経緯は、雑記小説などに記されているが、信用
 できない。しかし、義経が蝦夷地の方向に向ったことは、異国
 の文献によっても立証できるので確実である。
                     ――『鎌倉実記』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここで「異国の文献」とは、「『金史』列将伝」(『金史』別
本)というのです。金国というのは、中国大陸の北方を支配して
いた実在の王朝なのです。その王朝を確立したのは女真族という
のですが、これも本当のことです。そして、『金史』はその女真
族の歴史書であり、これも実在するのです。
 しかし、『金史』別本というのは存在せず、その後多くの学者
によって、それが実際には存在しないことを指摘されています。
『金史』別本は、完全な捏造だったのです。
 こういうことが起こると、義経北行説そのものが疑わしい目で
見られてしまうのですが、義経北行説をまともに考察した学者も
たくさんいたのです。その中でも有名なのは、儒学者新井白石と
同じ儒学者である安積たん白との間で、享保6年から10年まで
の4年間にわたって行われたやりとりです。
 たん白が、「蝦夷地では内地の兜の鍬形によく似た物をアイヌ
たちが尊崇している」と問うと、新井白石は次のように答えてい
ます。現代ならメールで問答するところです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 鍬形の件、確かに不思議でございます。蝦夷地南方に「ハイ」
 なる場所がございまして、源義経の居館跡が残っているとかい
 ないとか。この地方の人々は蝦夷地中では「ハイグル」と呼ば
 れ、気性が荒く武を好むゆえ恐れられているとか。「グル」と
 は、「党」という意味と聞いております。昔から「智者は死な
 ず」とも申します。案外、義経衣川自害の話より、蝦夷脱出の
 話が本当かも知れません。          ――新井白石
  森村宗冬著、『義経伝説と日本人』より。平凡社新書259
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 どうでしょうか。新井白石は、加藤謙斉のウソを完全に見破っ
ており、その上での議論であることを強調しておきます。そして
加藤謙斉の『鎌倉実記』の出た後は、義経生存説の舞台は中国大
陸の北方に設定されるようになり、その内容も荒唐無稽のものが
多くなっていったのです。
 そして、大きなゆり戻しがきます。明和7年(1770年)に
半田道時は、『伊達秘鑑』の「義経秀衡事跡」の項において、次
のように書いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  源義経、平泉高館で自害のことは『吾妻鏡』『源平盛衰記』
 『義経記』に見えている。近年、義経蝦夷渡海や義経金国入国
 をうたった書が出ているが、これらは皆、牽強付会の妄説であ
 り、信ずるに足りない。         ――『伊達秘鑑』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このほか多くの反対説が出てくるのですが、それでも義経北行
説そのものは消えることはなく、根強く生き残っていくのです。
それは、反対説のほとんどが『吾妻鏡』や『源平盛衰記』などが
正しいと主張するだけで、数多い義経北行説の証拠を明確に否定
できないのにそれは妄論であり異説であると、どちらかというと
感情的な反対に終始したからです。
 江戸時代末期になると、ロシアの脅威が現実のものとなってき
ます。元文4年(1739年)に陸奥・安房の海上にロシア船が
あらわれています。これはおそらく偵察です。ロシアが正式に日
本に接触を求めてきたのは安永7年(1778年)のことです。
ロシア船がクナシリ島にやってきて、松前氏に対して通商を要求
してきたのです。
 ロシアの脅威が高まってくると、幕府にとって蝦夷地は国土防
衛上の重要な拠点となります。そのため、幕府は次の2つの対策
を行っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    1.探検隊による蝦夷地の正確な調査を実施
    2.アイヌを同化させ、蝦夷地を内地化する
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 当時蝦夷地は松前藩の管轄化に入っていたのですが、蝦夷地を
支配していたのはアイヌなのです。アイヌは自由の民であり、だ
からこそ自由に外国との交易に従事していたのです。
 しかし、国土防衛上、蝦夷地を自由の状態にはしておけないの
で、文化4年(1807年)に蝦夷地全体を幕府の直轄地化した
のです。これに伴い、アイヌを説得して和人へ同化させる政策を
実施することにしたのです。
 『義経伝説と日本人』の著者、森村宗冬氏は義経蝦夷渡海説は
アイヌの和人への同化手段として、また、和人の蝦夷地行きを促
すものとして利用されたといっています。・・・・ [義経06]


≪画像および関連情報≫
 ・ロシアの脅威
  天明6年(1786年)  ロシア船蝦夷地に来航
  寛政4年(1792年)  ロシア使節ラスクマン根室来航
  寛政7年(1795年)  ロシア人日本船の貨物強奪
  寛政9年(1797年)  ロシア人エトロフ島強行上陸
  文化元年(1804年)  ロシア通商を要求/レザノフ

1636号.jpg
posted by 平野 浩 at 09:00| Comment(1) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月20日

義経生存説が生まれた論拠(EJ1637号)

 「義経=成吉思汗論」のテーマはスタートしたばかりです。ど
うやら、泰衡の仕掛けた衣川の戦いは偽戦であって、義経主従は
文治5年4月以前に平泉を離れ、蝦夷地に落ち延びている――こ
こまでを実証してきたところです。確かに平泉から北方方面には
数多い義経の足跡が残されているのです。
 しかし、現在の歴史書には源義経は衣川の戦いで自害したこと
になっています。そして、これは史実に基づくものであり、それ
以外のすべての説は妄論であり、異論であるとされています。し
かし、これには長い間にわたって数多くの議論があり、その議論
に現在でも何ら決着がつけられていないのです。
 これから、源義経が成吉思汗であることを多くの証拠を上げて
実証していきますが、その前に義経が平泉を脱出したことさえ認
めない歴史学者がいかに多いかということを知っておくのも無駄
ではないと思うのです。そこで少し脱線しているのです。
 明治38年2月1日――その日付の「読売新聞」に『「アルタ
イ山頭の神鏡」発見』という記事が出たのです。それは、バイカ
ル湖辺アルクスク約50里、アルタイ山頭に近いアラールス・ス
カヤステープの一小村のラマ教の廟から一枚の鏡が発見されたこ
とを報じています。その鏡の裏には高砂の尾上松、爺と姥、鶴亀
の紋、そして、次の文字が書いてあったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          正三位藤原秀衡朝臣謹製
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そして、その記事は少し高揚感をこめて、次のようにしめくく
られているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 神鏡がいかなる理由で彼の地にあるのか。だれもが源義経のこ
 とを想起するであろう。神鏡が発見された以上、近年提唱され
 ている義経=成吉思汗説もまったく事実無根といえないのでは
 ないか。未だ正確な検証をした人はいないが、『決して牽強付
 会の説とはいえない』と或る人は物語っている。
            明治38年2月1日付、読売新聞より
  森村宗・著、『義経伝説と日本人』より。平凡社新書259
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この「読売新聞」の記事に対して鳥居龍蔵という学者が、2月
4日付の「読売新聞」で否定しています。1日と4日では鳥居自
身は、その神鏡を実際に見て検証しているはずはないのに、自信
を持って次のように反論しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 鏡に「正三位藤原秀衡朝臣謹製」と記すのは、江戸時代に盛ん
 に行われたことです。アイヌを仲介とした北方交易によって大
 陸に入り、たび重なる交易によって彼の地に収まったのです。
            明治38年2月4日付、読売新聞より
  森村宗・著、『義経伝説と日本人』より。平凡社新書259
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 鳥居龍蔵をはじめとする、いわゆるアカデミズムの世界の歴史
学者たちは、あくまでも史実中心、文献を駆使して義経生存説の
誤りを指摘します。「文献にはこうある。史実はこうだ。したが
って、義経生存説は間違っている」という論法です。史実の主張
こそ任務と考えているからです。
 ですから、この「アルタイ山頭の神鏡」のように、少しでも義
経生存説を裏づけるものが出てくると、それを十分に検証するこ
となしに直ちに否定するのです。それはほとんどヒステリックな
反対ですらあります。
 確かに2月1日の「読売新聞」の記事には、義経=成吉思汗説
などは史実に基づかない妄論といわれているが、このような神鏡
のようなものが出てくると、一概に妄論とはいえないのではない
かとアカデミズムの頑迷固陋さを挑発するような高揚感があるこ
とは確かです。
 そこで鳥居龍蔵もカチンときて、ろくに検証もせずに即座に否
定したものと考えられます。これでは「ああいえば上佑」的な議
論といわれても仕方がないでしょう。『吾妻鏡』がいかに史実に
基づいているといっても、義経が死んだとされる日よりも80年
もあとで幕府によって編纂されたものなのです。そういうような
書籍に幕府にとって都合の悪いことを書くはずがないのです。
 金田一京助――義経生存説を明確に否定した国文学者です。金
田一も文献は駆使したが、自らアイヌへの実地調査を行い、その
研究を通して、どのようにして義経生存説が誤って伝えられたか
について、検証した学者です。鳥居のように頭ごなしに否定する
のではなしに、問題の根っこを明らかにすることによって、結果
として、義経生存説が間違いであると説いたのです。
 金田一京助は「義経に対する民衆の思いこみが、義経生存説の
勃興に寄与した」といっています。この金田一京助の主張に関連
して、『義経伝説――歴史の虚実』(中公新書)の著者である高
橋富雄氏は、次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 義経の戦いを通して、大衆がみずからの戦いをたたかい、義経
 を守ろうとして、実はみずからも守ることになったのである。
 だとすれば、義経の敗北はみずからの敗北である。義経におけ
 る英雄の挫折は、とりも直さず、大衆みずからにおける英雄へ
 のねがいの挫折とならざるをえない。義経の正当証明が、その
 理念化が、事実を曲げてもまかの通らねばならなかった理由は
 ここにあった。― 高橋富雄著、『義経伝説――歴史の虚実』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 本来、義経生存説が間違いならば、それを裏付ける数多い例証
に対してきちんと反証するべきです。このような抽象的な論拠で
義経生存説は否定できないと考えます。それにしてもアカデミズ
ムは、なぜ頑なに義経生存説を否定しようとするのでしょうか。
 明日から、多くの例証を上げながら、源義経=成吉思汗説につ
いて、さらに深堀りしていきます。 ・・・・・・・[義経07]


≪画像および関連情報蔵
 ・義経生存説が出てくる根源
  義経生存説運動とは、民衆の敗者復活戦であり、自己肥大化
  幻想なのである。絶対多数の敗者である民衆が現実を認める
  ことを拒否し、挫折した弱い義経に己を重ね、義経に想像上
  のサクセスストーリーを歩かせることで自尊心を満足させて
  いた、といえばよかろうか。
  ――森村宗・著、『義経伝説と日本人』(平凡社新書)より

1637号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月21日

藤原家富貴栄華の秘密(EJ1638号)

 藤原一族――奥州一帯を支配し、北の王者といわれていたので
すが、奥州一帯とはどこからどこまでを指すのでしょうか。この
ことをはっきりさせておく必要があります。
 奥州一帯――秀衡の時代には、陸奥国と出羽国を支配していた
のです。この陸奥国と出羽国は、現在の福島県以北青森県までを
指すのです。まさに北の王者です。
 ところで、秀衡は、1170年5月に朝廷から「鎮守府将軍」
に任命されているのです。鎮守府とは、陸奥と出羽、つまり奥州
を治める役所のことです。当時その役所は平泉にあり、秀衡は奥
州を支配する将軍に任命されたのです。EJ第1635号におい
て「四代将軍泰衡」という言葉を使いましたが、泰衡は紛れもな
く四代鎮守府将軍なのです。
 鎌倉の頼朝がどれほど秀衡を恐れていたかを示すエピソードが
あるのです。1184年のことです。奈良の東大寺を復興するさ
いに鎌倉の頼朝は1000両を寄進したのですが、鎮守府将軍の
秀衡は5倍の5000両を出したのです。鎌倉は秀衡の財力に圧
倒されてしまったのです。それにしても、藤原家はどうしてかく
も裕福なのでしょうか。
 藤原三代の栄華は、金色堂に代表されるように、莫大な黄金の
生産があってのことです。その黄金は、一体どこから採れたので
しょうか。
 奥州には大量の砂金を産出する河川があったといううわさはあ
ります。もし、それが本当であれば、その河川の上流には莫大な
量の山金が埋蔵されているはずです。しかし、金山の開発が進歩
した後の時代になっても奥州にそのような金山が発見されたとい
う記録はないのです。
 金山の本格的な開発は、江戸時代になってから、能楽師あがり
の大久保石見守にはじまるといわれます。佐渡の金山、伊豆の金
山、石見の銀山などは有名です。
 藤原家の古い書物によると、秀衡は宋朝の天子に一万五千貫の
黄金を贈り、その見返りとして、大量の経文や仏像を手に入れて
います。一万五千貫の金――これは純金56トンに相当するので
すが、尋常ならざる量です。
 これほどの金を経文や仏像を手に入れるためにポンと投げ出す
ということは、藤原家にはその十倍二十倍の金の蓄積があったと
考えるのが自然であると思います。たとえ豊富な山金が埋蔵され
ていたとしても、当時の原始的な採鉱技術で採取されていたとは
考えにくいことです。
 さらに、もし奥州に金山があったとすれば、奥州を平定した頼
朝はもっと裕福になってもいいはずです。しかし、そういう気配
はないのです。一体藤原氏の黄金はどこから来て、どこに消えて
しまったのでしょうか。
 藤原氏の金に着眼したのは、高木彬光氏なのです。彼は、小説
『成吉思汗の秘密』の中で、神津恭介に次のように語らせている
のです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「それではせっかく奥州を平定した頼朝が、むかし藤原氏の産
 出していた黄金を手に入れることができなかったというという
 のは、どこに原因があるのでしょうか」
 「その理由は、僕にいわせれば、一つしかありませんね。鉱脈
 が枯渇したとも思えない。技術が滅びたとも思えない。原料の
 供給が絶えたとしか解釈はできないのです。これは、僕の大胆
 な推理だけれども、藤原三代の富貴栄華の源泉は、その莫大な
 黄金の原産地は、北海道、樺太――というよりも、大陸のシベ
 リア地方ではなかったかと思うんですよ」。
     ――高木彬光著、『成吉思汗の秘密』(角川文庫)より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは驚くべき推理です。藤原氏は秀衡の時代までに、当時は
まったく未開拓のシベリア方面まで勢力を広げていたという仮定
に立つからです。そのために藤原氏は、津軽海峡、宗谷海峡、間
宮海峡を渡るレベルの航海技術をマスターしていなければならな
いということになります。
 もし、この仮定が事実だとすると、平泉から大陸にいたる北方
ルートがあったことになり、義経主従はそのルートを伝わって大
陸に渡ったことになるのです。秀衡が義経と泰衡に渡した錦の袋
には、その北方ルートを示す地図が入っていたのではないかと考
えられるのです。
 ところで、義経主従が大陸に渡ったという可能性が少しずつ出
てきていますが、そういうことを記述した文献があるのでしょう
か。それとも単なる推測なのでしょうか。
 それがあるのです。実は、『松前福山略記』という文書がある
のです。そこに次のように記述されています。さらに『新撰陸奥
国誌』にも似たような記述があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 文治五年五月十二日に源義経、藤原忠衡、武蔵坊弁慶、常盤坊
 海尊、亀井六郎など主従百人余蝦夷地渡海す・・・韃靼国に渡
 る。                ――『松前福山略記』
 文治五年義経十三壇林寺に来る。主従7人。十三より海に航し
 西蝦夷に住了にヲカムイ岬より満韃の地に渡る。
                 ――『新撰陸奥国誌』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 驚くべきことは、藤原忠衡が入っていることです。「主従百人
余」とありますが、これは奥州藤原氏一族と考えられるのです。
それに『新撰陸奥国誌』にある「十三」というのは、津軽半島の
半ばにある場所であり、ここは安東水軍で有名な安東氏の本拠地
なのです。実は、秀衡の弟の秀栄は十三に福島城を築いて城主に
なっているのです。壇林寺は秀栄が建造した寺なのです。
 「十三より海に航し」とは、安東水軍の船で蝦夷地に送り届け
ていることを示しています。このように大陸へはちゃんとルート
が存在していたのです。       ・・・・・・ [義経08]


≪画像および関連情報≫
 ・十三湖と安東水軍
  鎌倉時代のころ、本州北端に勢力を有していたのは、現在の
  青森県市浦村の十三湖付近を本拠地としていた「安東水軍」
  で有名な安東氏であるが、安東氏は、当時のえぞが島にも、
  えぞ探題として勢力を及ぼしたとみられる。その後、安東氏
  は、八戸方面から進出してきた南部氏との戦いに敗れえぞが
  島に逃れている。また、安東氏を擁した武田信広――武田は
  若狭の国から流れてきたといわれている――は、その蠣崎氏
  の養子となり、後の松前藩の始祖となったといわれている。

1638号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:50| Comment(2) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月22日

一世を風靡した小谷部学説(EJ1639号)

 データを整理して先に進みます。1188年2月21日――文
治4年2月21日に義経追討の院宣が出されています。朝廷はこ
の院宣を出すのは内心反対だったのですが、鎌倉の頼朝に屈する
かたちで出したのです。ここで朝廷はひとつの細工をしているの
です。平泉の藤原泰衡に対して早飛脚で密使を送り、院宣が出た
ことを知らせたのです。
 その一方で朝廷は鎌倉への使者はわざと非常に時間をかけて、
4月9日に鎌倉に到着しているのです。つまり、義経追討の院宣
が出たことを知ったのは、鎌倉の頼朝よりも平泉の泰衡の方が早
かったと思われるのです。
 朝廷の密使から義経追討の院宣が出たことを知った泰衡は、直
ちに義経にそれを知らせ、かねてからの手はずの通り、義経主従
を平泉から脱出させたのです。文治4年4月中旬のことです。こ
れは、文治5年4月30日に義経が持仏堂で自害したことになっ
ている一年以上前のことになります。
 泰衡は忠衡に命じて百名前後の兵を整えさせ、義経主従とは別
に平泉を出発させています。義経主従と行動を共にさせるために
後を追わせたのです。義経と忠衡の向った先は、安東水軍の本拠
地である津軽半島の十三です。義経主従は、十三の壇林寺に文治
5年5月に到着しています。やがて、忠衡の兵も十三に到着し、
安東水軍の船で、十三から蝦夷地に渡っています。
 この文治4年4月から翌年の文治5年4月までの一年間、泰衡
は朝廷や鎌倉の矢面に立って、金品を贈ったり、接待したりと、
のらりくらりと時間稼ぎをやったわけです。その間に義経主従と
忠衡たちは準備を整えて、蝦夷地に向けて無事に出発することが
できたのです。すべては泰衡のお陰でなのです。
 以上の考察により、義経主従が少なくとも文治5年4月には死
んでおらず、北を目指して落ち延び、やがて蝦夷地に渡っている
ことがわかってきました。あとは、具体的に彼らはどこに行って
何をしたかについて考えていきます。
 シベリア地方のウラジオストック市の北部に「ハンガン岬」と
いうところがあります。地名の由来ははっきりとしていませんが
「判官」と結びつけている人もいます。
 このハンガン岬から東北に120キロ離れたところに、「スー
チャン」という場所があります。この「スーチャン」は中国語で
あり、「蘇城」と書くのです。ここには古い城跡があるので、そ
う呼ばれています。シベリア(沿海州)は1858年のネルチンス
ク条約でロシア領になるまでは清国の支配下にあったので、中国
語の地名が残っているのです。
 さて、この「蘇城」はどのような城であったのでしょうか。地
元民の間では次のいい伝えが残っているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 昔、日本の武将が危難を避けて本国を逃れ、この地に城を築い
 た。武将はここで「蘇生した」というところから、「蘇城」と
 命名された。武将はこののち城を娘に任せ、自分は中国本土に
 攻め入って強大な王国を建てた。      ――地元の伝承
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この蘇城について、実際に現地に行って調査し、そのことを本
に書いた人がいます。小谷部全一郎という人です。「源義経=成
吉思汗説」を最も普及させた人物として有名です。
 この本は『成吉思汗は源義経也』のタイトルで、冨山房から大
正13年に発刊され、ベストセラーになったのです。EJを書く
に当ってこの本は不可欠なので、中央区立京橋図書館から借りて
現在手元にあります。(添付ファイル参照)
 小谷部全一郎は、江戸時代初期からの、いわゆる義経生存説を
基本とし、問題によっては独自の解釈を加えて「源義経=成吉思
汗説」を展開しています。自ら現地に足を運んで調査をしている
ので、強い説得力があります。
 初版発行が大正13年(1924年)11月10日で、12日
には再版、12月5日には6版を出すというベストセラーを記録
したのです。
 彼は、同書の中で、次のように述べて、歴史学者たちを挑発し
たのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 成吉思汗が義経の後身でないとする者があれば、それは蛙はお
 たまじゃくしの後身ではすないと主張するようなものである。
 また、成吉思汗を生粋の蒙古人とすることは、蜥蜴を龍なりと
 するようなものである。義経の衣川自害を主張する我が国歴史
 家の見解は、影を以って実体なりと強弁し、或いは形が少しば
 かり似ているからとして、鰌を指して「鯨である」というのと
 同じことである。            ――小谷部全一郎
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これに対して歴史学者は大同団結して反撃に出たのです。国史
学、東洋史学、考古学、民俗学、国文学、国語・言語学の第一級
の研究者がずらりと結集して、次の本によって、さまざまな角度
から小谷部説を批判したのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   『中央史壇』臨時増刊号
   『成吉思汗は源義経にあらず』――国史講習会発行
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 中でも金田一京助と中島利一郎の批判は激しかったのです。金
田一京助は、小谷部説は主観的であり、歴史論文は客観的に論述
されるべきものであるとし、この種の論文は「信仰」であると切
り捨てています。中島利一郎の反論はさらに激しく、小谷部論を
ひとつずつ考証して反論し、最後には、「粗忽屋」「珍説」「滑
稽」「児戯に等しい」という言葉を使って罵倒しています。
 小谷部全一郎は、8ヶ月後に『成吉思汗は源義経也――著実の
動機と再論』を出版し、反対論者たちに反論しています。
 しかし、どうして歴史学者たちはこの問題になると、かくも感
情的になってしまうのでしょうか。   ・・・・・[義経09]


≪画像および関連情報≫
 ・小谷部全一郎は、米国のエール大学に留学し、ドクター・オ
  ブ・フィロソフィーの学位を取得している。米国留学から帰
  国後、北海道でアイヌの子弟教育を行っている。博学で、努
  力家で、冒険家として有名な人である。金田一京助は、アイ
  ヌ語学の研究をしているので、小谷部とは面識があり、親し
  い間柄であるが、その所論はお互いに相容れない。

1639号.jpg
posted by 平野 浩 at 09:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月25日

ホンカイサマとクルムセ国(EJ1640号)

 古くからアイヌ民族のあいだに、次のような伝説が伝わってい
ます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 昔、ホンカイサマは金色の鷲が飛ぶのを見て、その鷲に従い、
 昔先祖が往来した海を渡って、大きな川のあるクルムセ国にお
 行きなされた。             ――アイヌの伝説
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「ホンカイサマ」とは何でしょうか。
 このアイヌの伝説は、佐々木勝三氏の本にも出てきますが、そ
こでは「ホンカンさま」となっていました。アイヌ語に詳しい人
の話によると、アイヌ語には濁音というものはなく、「サ」の音
が出る前に「ン」という音があれば「イ」と発音するのです。し
たがって、「ホンカイサマ」と書いてあっても、発音は「ホンカ
ンサマ」になるのです。
 「ホンカンサマ」は、その読み方からしても「判官様」に通じ
るものがあります。佐々木勝三氏は、平泉から義経主従が北に逃
れたとされる道を実地踏査しているのですが、釜石市の近くで、
「ホンカンサマ」と呼ばれる神社―――「法冠神社」を発見して
います。神社の正確な場所は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     法冠神社 ――― 釜石市大字片岸字室浜
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 法冠神社を建立したのは、室浜に住む山崎久右衛門氏の先祖と
いうことです。神社の由来は、山崎氏の説明によると、次のよう
なものだったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この地は義経一行が、山越えに来て野宿、もしくは休息をした
 ところだと伝えられています。義経さまたちは、この山を越え
 て大槌のほうへ行かれたということです。その跡へ私の先祖が
 お宮を建てたのです。
         ――佐々木勝三、大町北造、横田正二/共著
   『成吉思汗は源義経/義経は生きていた』より。勁文社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 一口にアイヌ民族といっても、次の2つの種族があるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  荒蝦夷(あらえぞ) ・・・ 北海道に留まっている種族
  熱蝦夷(にぎえぞ) ・・・ 北海道を脱出している種族
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「荒蝦夷」というのは、ずっと北海道におり、現在は網走地方
に少し残っているだけです。「熱蝦夷」というのは、もともとは
東北地方に住んでいたのですが、日本民族の勢力が北にのびるに
つれて、しだいに北へと圧迫され、北海道に逃げ込んで、釧路か
ら西の日高地方に住むようになった種族です。この種族は昔は勇
猛さを誇ったのですが、現在は少数民族になっています。
 注目すべきは、ホンカイサマ伝説は熱蝦夷にだけに伝わってい
るという事実です。小谷部全一郎の『成吉思汗は源義経也』に反
論するため、多くの歴史学者は実際にアイヌ種族を調べています
が、そのほとんどは荒蝦夷に会っていたのではないでしょうか。
荒蝦夷をいくら調べても義経の痕跡は出てこないのです。
 明治時代に熱蝦夷の酋長を調べたある学者によると、ホンカイ
サマはアイヌの祖先たちに弓矢の作り方と使い方を教え、それで
鳥獣を捕えたり、網で魚を取る技術を指導したのです。さらに手
工農作のことまで教えたので、ホンカイサマを命の親として神に
祭っているというのです。
 さらにその酋長の話では、やがてホンカイサマは蝦夷地から樺
太へ攻め入り、アイヌに害をなすその土地の酋長を殺し、そこか
ら海を渡ってクルムセの国に入ったというのです。そのさいに、
一族の智者、勇者、若者を動員し、金銀財宝を持って出陣してし
まい、戻ってこなかったために勇猛を誇ったアイヌ族は急速に衰
えたといわれています。
 さて、問題は「クルムセの国」はどこかということです。伝説
の部分をよく見ると、次の2つのヒントがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.昔、先祖が往来したことがある
      2.その国の近くに大きな川がある
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 結論からいうと、義経の時代には「契丹(きったん)」と呼ば
れていた地域ではないかと思われるのです。当時、新羅、高麗、
百済というのは現在の朝鮮半島のことであり、契丹は現在のウラ
ジオストックを中心とするシベリア地方をさします。
 大きな川とは、黒竜江であると思われます。この黒竜江の下流
は、昔から有名な砂金の産地なのです。したがって、秀衡時代の
藤原氏がこのシベリア地方と何らかの関係があるのではないかと
いうことは、あながち荒唐無稽なこととは思われないのです。藤
原氏の所有していたと思われる金は尋常ならざる量だからです。
 ホンカイサマがアイヌの大群を率いて大陸に渡ったとすると、
シベリアの原住民の中には、アイヌ民族と似た風俗が残っている
はずですが、その点はどうなのでしょうか。
 それがあるのです。シベリア西部に住んでいるウオグルという
民族がいるのです。この民族は男は多毛質であり、女は口のまわ
りに入墨をするなど、アイヌ族とよく似た風俗を持っています。
それに住居は丸太の掘立小屋であり、着ている着物の刺繍の模様
も、アイヌのものと酷似しているのです。
 ところで義経は、当時の大陸の状況についてどの程度の知識が
あったかです。推測ですが、私は義経は相当の知識を持っていた
と考えます。NHKの大河ドラマの『義経』の中に、屏風の絵を
前にして平清盛が、まだ幼い牛若に対して海の向こうの話を聞か
せるシーンがあり、印象に残っています。清盛は、都を一時福原
(神戸)に移してまで、海外との交易を考えていたのです。それ
が幼い義経の脳裏に刻み付けられたのです。・・・ [義経10]


≪画像および関連情報≫
 ・シベリア
  シベリアというのは、ロシア連邦のアジア地域、すなわち、
  ウラル山脈以東に広がる広大な地域をいい、シベリアという
  地名は単に地理的範囲を示すものであり、行政単位としては
  意味を持たない。
 ・黒竜江
  現・中国東北地方とソ連邦シベリアの国境を流れる大河。ロ
  シア人はアムール川と称している。全長は4350キロメー
  トルで世界第8位。流域面積は205万1500平方キロメ
  ートルで世界第10位。最上流部はモンゴル高原北東部のヘ
  ンテイ山脈で,ここよりオノン川とケルレン川の二つに分か
  れて流れ出す。オノン川は北東流してシルカ川に注ぎ,ケル
  レン川は東流してアルグン川に注ぎ,アルグン川は、北東流
  して漠河付近でシルカ川と合流する。この合流点より下流を
  黒竜江という。合流点からは大きな狐を描いて南東に流れ,
  松花江などの多くの支流を集めながら小興安嶺の北西端より
  北東流して間宮海峡に注いでいる。

1640号.jpg
posted by 平野 浩 at 13:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月26日

末松謙澄の源義経=成吉思汗説(1641号)

 明治12年(1879年)のことです。英国で日本人の手にな
る次の英文の論文が発表されたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 The Identify of the Great Conqueror Genghis Khan with
 the Japanese Hero Yoshitsune.
 − 大征服者成吉思汗は日本の英雄源義経と同一人なること −
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この論文を書いた人は、末松謙澄――当時、ケンブリッジ大学
で、文学・法学を学ぶかたわら、一等書記官見習としてロンドン
の日本大使館に勤務していた青年なのです。
 この末松謙澄という人物はただ者ではないのです。文学・和歌
・漢詩・芸術などの造詣が深く、世界ではじめて『源氏物語』を
翻訳出版するなど大活躍しています。さらに、明治23年には第
1回の衆議院議員選挙に当選して政治の世界でも活躍し、内務大
臣や逓信大臣を務めているのです。
 さて、「成吉思汗=源義経」の英文論文を末松は師の福沢諭吉
のところに持っていったのです。福沢諭吉はこれを読んで「これ
は面白いので、誰か翻訳して書籍として出版したらどうか」と塾
生たちに勧めたのです。
 それを引き受けたのは塾生の内田弥八です。早速それを翻訳し
『義経再興記』というタイトルで明治18年(1885年)に出版
したのです。しかし、著者は「内田弥八」として出版してしまっ
たのです。タイトルの題字は山岡鉄舟、序文は漢学者の石川鴻齋
と土田淡堂が書いて、立派な本にしたのです。
 『義経再興記』は発売されると、大センセーショナルを巻き起
こし、本は売れに売れたのです。明治20年には7版を印刷、最
終的には10版までいったと思われるのです。
 末松説は、義経が蝦夷から大陸に渡ったという前提に立って、
義経と成吉思汗の類似点を例証しているのです。末松が指摘して
いることの多くは、ことばの類似性です。例えば、「成吉思汗」
という名前は「源義経」からきているというのがあります。「源
義経」は「ゲンギケイ」と読むことができますが、それが「ゲン
ギス」になり、やがて「ジンギス」になったとというのです。蒙
古語では、ゲ、ギ、ジの3字はほとんど明確な区別はないからで
す。「カン」は王位の総称です。
 さらに、成吉思汗は「ニロン族」の出身であること、父は「エ
ゾカイ」もしくは「エスガイ」と称し、母は「ホエルン・イケ」
と呼んでいたことを指摘しています。末松は、ここでいう「ニロ
ン」は「日本」のことであり、「エゾカイ」は「蝦夷の海からき
た」ことを意味しているというのです。
 この末松論文は当然のことながら、学問の世界からは激しい反
論の嵐がさらされたのです。確かに末松論文は内容的に不十分な
ところが多く、牽強付会の説として批判されたのです。牽強付会
とは、自説に都合の良いところだけをピックアップしてつじつま
合わせをするという意味です。
 しかし、この末松論文は決してムダなことではなかったといえ
ます。ひとつは、この論文が下敷きとなって、小谷部全一郎の本
が誕生したからです。小谷部に蒙古の実地踏査を決意させたのも
末松論文だったからです。
 もうひとつは、この末松論文が契機となって巻き起こった義経
生存説ブームに乗って、明治28年に博文館から『新撰日本小歴
史』という歴史教科書が発刊されたことです。同書の79ページ
に次の記述があります。これはまさに前代未聞のことといえるで
しょう。「義経、衣川で自害」という歴史の定説を覆しているの
ですから。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    泰衡終に義経を攻む。義経遁れて蝦夷に入る
            ―――『新撰日本小歴史』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 末松論文で注目すべきは、成吉思汗の母の名前とされる「ホエ
ルン・イケ」です。蒙古語で「イケ」は母、「ホエルン」は雲と
いう意味です。
 これだけでは別にどうということはないのですが、後に成吉思
汗は母親に対して、「センシ皇后」という名前を贈っています。
「センシ」というのは漢字なのですが、字が難しくてメールで送
れないのでカナにします。正しくは「ホエルン・イケ・センシ」
となるのです。
 こうなると連想されるのは「池ノ禅尼」です。池ノ禅尼は、平
清盛の養母です。平治の乱の直後に捕えられた源義朝の男の遺児
は一人残らず、殺されることになっていたのです。ところが、そ
のとき清盛を説得して、頼朝や義経たちの命を助けたのが池の禅
尼です。結果的にそれが平家一門の滅亡を招いたのですが、少な
くとも義経にとって池の禅尼は命の恩人なのです。
 もし、義経が成吉思汗であったとしたら、成吉思汗の母となる
女性は何者かということになりますが、そういう母親的存在の女
性に池ノ禅尼の名前を贈ることは考えられることです。
 しかし、義経=成吉思汗説を証明するのに、単にことばの面か
らだけやろうというのは限界があります。幅広い歴史書の分析に
実地踏査などを加えて、さまざまな情報から総合的に判断すべき
です。しかし、学問の世界の反論はそれを守っているとはいえな
いと思うのです。最初に結論ありきであって、その結論を守るた
めに、必ずしも理をもってせず、馬鹿にしたり、罵倒したりする
など、あまりにも感情的になり過ぎる点があると思います。
 ここまでそういう検討を加えた結果、少なくとも「義経は衣川
で自害」という歴史的定説にはかなりの疑問があり、義経一行は
北へ逃れたというのが事実ではないかと考えられるのです。学問
の世界の反論はあまりにも抽象的であり、実証的とはいい切れな
いからです。海を渡って大陸に入った義経一行はどのようにして
成吉思汗といわれるようになったのでしょうか。明日からこの問
題を考えていきます。        ・・・・・・[義経11]


≪画像および関連情報≫
 ・末松謙澄(1855〜1920)
  安政2(1855)年、行橋市前田生まれ。
  10歳の頃から仏山の私塾で漢学を学び、新聞社で活躍後、
  官界に入る。山縣有朋に文才を認めれて陸軍省へ。明治11
  年ケンブリッジ大学で文学・法学を修め、在学中、英訳「源
  氏物語」を出版。帰国後伊藤博文の次女と結婚。伊藤博文を
  支える要職(逓信大臣など)を歴任すると同時に、多くの著
  作を残している。特に「防長回天史」は維新の貴重な資料と
  されるなど、マルチな才能ぶりに驚かされる。


1641号.jpg
posted by 平野 浩 at 09:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月27日

大河兼任の乱の裏にあるもの(EJ1642号)

 史実によれば、源義経は1189年4月に自害したことになっ
ています。そして成吉思汗が歴史の舞台に登場するのは1206
年なのです。もし、源義経が成吉思汗であるならば、義経はその
17年の間、何をしていたのでしょうか。
 その前に、その当時の中国大陸の状況について知っておく必要
があります。成吉思汗があらわれる以前の大陸は、唐の時代から
五代の乱世を経て宋の時代になっていたのです。その宋の時代の
敵といえば、すべて北からやってきたのです。
 漢民族は自らは「中華」と称して、北方民族を「北狄」と呼ん
で軽蔑しながらも恐れていたのです。物資が乏しく生活が粗野な
北方民族は、物資豊富で文化の高い南方の農耕民族を狙って、絶
えず侵略戦争を繰り返していたのです。鮮卑、契丹、女真などの
民族がそうです。
 しかし、それらの民族の攻撃は、ことごとく撃退され、万里の
長城の外に追い返されていたのです。漢民族は敵を万里の長城の
外に追い出すと、深追いはしなかったのです。そのため、何回負
けても北方民族は生き残り、繰り返し攻めてきたのです。
 さて、義経一行は、現在のサハリン島(樺太)にいったん渡り、
それから、間宮海峡(タタール海峡)を渡ってアムール川の河口付
近に上陸していると考えられます。そして、その一帯を支配して
いた満州女直(女真系)ワンスンと戦闘をしています。1190年
のことです。
 当時の義経軍は義経主従と忠衡率いる100人程度の軍隊にア
イヌ人が加わっていたものと思われます。義経軍はこの満州女直
を打ち破り、沿海州の海岸に沿って南下します。そして、現在の
ウラジオストック近郊に達するのです。
 戦いというものは、勝ち進むにつれて敗者を軍に加えるので、
その人数が増えていくものですが、それに加えて義経軍にはさら
に200人ほどの援軍が加わっていた可能性があります。つまり
義経一行の後を追って、蝦夷地に渡り、義経軍と合流した一団が
あると考えられるのです。
 この、後から義経軍に加わったとされるのは、どういう一団な
のでしょうか。
 結論から先にいうと、それは大河兼任という秋田県北部の平泉
藤原氏直属の豪族であり、南秋田郡五城目町大川付近を本拠地に
して支配していた一族です。
 1189年12月、大河兼任とその一族は、奥州の同志を結集
し、7000騎の兵力で、出羽国海辺荘から河北、秋田城を経て
多賀城方面に向かい、一路鎌倉を目指したのです。1190年1
月のことです。そのとき大河兼任は自らを源義経と称して軍を挙
げているのです。情報が伝わりにくい当時のことであり、鎌倉方
から見れば、義経はまだ生きており、それが軍を率いて攻めてき
たと勘違いすることを見越しての戦略です。
 しかし、途中の八郎潟付近の志賀の渡しで、突然氷が解けると
いう事故により、多くの兵を水死させてしまうのです。それでも
進軍しながら兵を増強させ、約1万騎の軍勢で、鎌倉側と再三に
渡って合戦を行います。
 ところが、鎌倉勢の大軍に破れ、大河兼任は500騎ほど率い
て逃走し、平泉に陣を張って防戦するのです。しかし、衆寡敵せ
ず破れ、敗走します。そして、宮城県栗原郡にある栗原寺に逃げ
込むのですが、大内兼任はそこで討たれています。この栗原寺は
義経ゆかりの寺とされています。
 この大河兼任の乱は『吾妻鏡』に記述されています。大河兼任
が討たれた模様は、『吾妻鏡』の3月10日の項に次のように記
述されています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 大河次郎兼任、ひとり進退に迫り、花山・千福・山本等を歴て
 亀山を超え、栗原寺に出づ。ここに兼任、錦の脛巾を着け、金
 作りの太刀を帯くの間、樵夫等怪しみをなし、数十人これを相
 囲み、斧をもって兼任を討ち殺すの後、事の由を胤正(千葉)以
 下に告ぐ。よってその首を実検す云々。
              ――『吾妻鏡』の3月10日より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このように、大河兼任は殺されています。しかし、この記述に
は不可解なところがあります。それは「錦の脛巾を着け、金作り
の太刀を帯く」の部分です。ずい分目立つ格好であり、逃亡中の
武士はそのような格好をするとは思えないのです。それになぜ樵
夫が登場し、斧で殺されなければならなかったのでしょうか。
 そのことから、これは明らかに大河兼任の替え玉であると思わ
れるのです。斧で殺されたのは、顔を潰してわからなくするため
ではなかったのでしょうか。
 しかし、『吾妻鏡』に「大河兼任死す」とあると、それは歴史
的事実とされてしまうのです。『東日流三郡誌』には次の記述が
残れているといわれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 義経一行が十三湊を離れた一年ほど後に、大河兼任の一族二百
 名が義経一行の後を追って、安東水軍の船で出航した。
                 ――『東日流三郡誌』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 断っておきますが、『東日流三郡誌』には歴史書としては問題
があるといわれています。別説として、栗原寺の僧侶が大河兼任
の頭を丸めさせ、密かに津軽方面に逃がしたという説もあるので
す。大河兼任については諸説があり、これも伝説化されているの
です。いずれにしても、史実上は問題があるのですが、そうかと
いって『吾妻鏡』に書かれていることがすべて真実であるともい
えないのです。
 大河兼任であるかどうかは別として、義経の後を追って200
騎ほどの軍勢が海を渡り、当時西蝦夷にいた義経軍と合流してい
るのです。そして、300騎以上になった義経軍は安東水軍の船
でサハリン島を経て大陸に渡ったのです。・・・・・[義経12]


≪画像および関連情報≫
 ・大河兼任
  極寒の奥州を縦横無尽に駆け抜け、幕府軍を翻弄した豪傑。
  出羽の豪族で、奥州藤原氏に従う。奥州藤原氏が滅亡すると
  旧主の仇を討つと称して、配下の伴党ら7000人を従えて
  橘公業の拠点を襲撃、敵軍を全滅させている。
  次いで由利維平を滅ぼすと、今度は素早く北上し、津軽の宇
  佐美実政を敗っている。しかし、一迫にて源頼朝の命を受け
  千葉常胤、比企能員、足利義兼ら討伐軍と結城朝光ら奥州在
  留の御家人による鎮圧軍が反撃を開始。以後は連敗し、花山
  の栗原寺にて味方の樵夫たち数十人に包囲されて斧で殺され
  ている。

1642号.jpg
posted by 平野 浩 at 05:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月28日

ニコラエフスク/義経公園の亀石(EJ1643号)

 義経と忠衡軍が津軽の十三湊から安東水軍の力を借りて蝦夷地
に渡り、西蝦夷に行ったこと、それに義経の後を追って大河兼任
率いる200騎が同じルートで蝦夷地に渡って義経・忠衡軍と合
流したらしいことは、これまでの分析でわかってきました。
 しかし、そこから先は義経軍がどのルートをたどって進軍した
かについては、当然ですが、ほとんど確かな資料はないのです。
そこで、既にご紹介している小谷部氏の著書2冊、それを解説し
た佐々木勝三氏他2氏の共著に加えて、次の著書を参照し、推理
してみるしかないのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   ドーソン著/佐口透訳、『モンゴル帝国史』全6巻
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 著者のドーソンという人は、アルメニア人のフィンランドの外
交官で、この本は彼が中近東に赴任していたときに『蒙古史』
タイトルで書き上げたものです。内容は公平・正確という評価が
高く、多くの読書人を魅了した名著なのです。この『モンゴル帝
国史』は、その新装版なのです。もちろん、この本の中でも「義
経=成吉思汗説」は、取り上げられています。
 旧版のドーソンの『蒙古史』は上下巻あわせて700ページの
大書ですが、成吉思汗の30歳前後から1193年頃までのこと
に関しては、たったの4ページしか費やしていないのです。それ
は情報がほとんどないことを示しています。
 1203年から1204年にかけて、成吉思汗はモンゴル部族
の長テムジン(鉄木真)として、モンゴル高原の中央部でケレイ
ト部族やタタール部族と戦闘しています。それなのに、1190
年から1202年まではユーラシア大陸の東端において、満州女
直や高麗軍と戦争した記録が残されているのです。なぜ、そんな
ところまで行って戦争しなければならないのでしょうか――これ
は大きな謎だったのです。
 しかし、源義経=成吉思汗と考えるとこの謎は一挙に解消して
しまいます。源義経率いる軍勢が、サハリン島の西北端から、大
陸のアムール川河口付近に上陸し、1190年〜91年にその地
を支配していた満州女直族のワンスンと交戦したと考えれば、話
がぴったり合うのです。
 この「満州女直」というのは、北東アジアの満州(現在の中国
東北地区)に住んでいたツングース系の民族で、「女真」ともい
うのです。この満州女直族を打ち破ったということは、その時点
で義経軍は、既に相当の規模であったことを意味します。
 もともと忠衡が率いていたのは、騎馬軍団で東北騎馬軍団とい
われていたのです。奥州は馬の産地であり、一戸から九戸までの
9つの牧場があったほどです。そういうわけで、藤原家の軍隊は
騎馬軍団なのです。
 この忠衡率いる100騎の騎馬軍団が義経に従っており、後か
ら合流したとみられる大河兼任率いる200騎の騎馬軍団、それ
にアイヌの一団を加えると、約300騎から〜400騎の軍勢に
なるのです。これが後にテムジン騎馬軍団になるのです。
 軍隊の人数は決して多くありませんが、これだけの手駒を持っ
ていれば、平家を相手にしてあれだけ見事な戦いをした義経であ
れば、十分に満州女直軍と戦えたであろうと推測できます。そし
て義経軍は打ち破った満州女直軍も加えて、沿海州(シベリア)
を海岸線に沿って南下し、現在のウラジオストック近郊まで達し
たと考えられるのです。
 ウラジオストック着いた義経軍は、1192年に休む間もなく
高麗チャガン軍と交戦し、これを破っています。その後、義経軍
はウラジオストック近郊に本拠地を築き、ここで兵を訓練し、体
制を整えています。義経軍はここで約10年の月日を過ごしてい
ます。次の飛躍のためには十分の期間です。
 ところで、現在「タタール海峡」といわれる海峡は、間宮林蔵
が樺太探検のさいに発見した海峡であり、日本では「間宮海峡」
と呼ばれています。
 調べによると、間宮林蔵の樺太探検の目的のひとつは義経伝説
の真偽の解明であったといわれているのです。彼は、アムール川
流域に住む人々に義経のことを聞いてまわっているのですが、そ
こに義経のいくつかの足跡を見つけているといわれています。
 間宮林蔵のこのときの実地踏査によって得られた情報は、ドイ
ツ人医師のシーボルトによる義経北行説と義経=成吉思汗説とし
て発表されています。シーボルトと間宮林蔵は友人関係にあり、
情報源は間宮林蔵であったことは間違いないと思われます。
 義経軍がウラジオストック近郊を本拠地にしたことを示す痕跡
は多く見られます。佐々木勝三氏は、ウラジオストックの北方に
あるニコラエフスクという町の商店で買ったという絵葉書を手に
入れています。大正7年に東部シベリアに出兵した人から贈呈さ
れたものであるというのです。
 その絵葉書には、「源義経墓」と書いてある亀形の台石のよう
なものが写っていたというのです。絵葉書の所有者は藤田伝助氏
といい、藤田氏は次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 私は23歳の時、上等兵で伍長勤務、分隊長としてウラジオス
 トックに行きました。そして、ツルキンという地名の所に居り
 ました。ニコラエフスク市に行った時、商店で絵葉書を買いま
 したところ、義経(ぎけい)公園という公園の中に、「源義経
 墓」と書いてある亀形の台石が写真になっていたのです。
         ――佐々木勝三、大町北造、横田正二/共著
   『成吉思汗は源義経/義経は生きていた』より。勁文社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 小谷部氏の本にもニコラエフスクにある義経公園の亀石の写真
が出ています。その亀石の上にかつて石碑が立っており、「源義
経墓」と書いてあったそうです。そのため、ここに居住する日本
人はこの公園のことを「義経公園」呼んでいたのです。帝政ロシ
ア時代にはまだ日本人が住んでいたのです。・・・ [義経13]


≪画像および関連情報≫
 ・小谷部氏の原文
  隻城子(ニコラエフスク)の市邑に、土俗の所謂義将軍の古
  碑と称するものあり、土人はこれを日本の武将の碑とも或は
  支那の将軍の碑とも傳ふ。居留日本人は一般にこれを義経の
  碑と称し、而して其の建てられたる市の公園を、我が居留民
  は現に之を義経公園と呼びて有名なるものなり。
  ――小谷部全一郎著『成吉思汗は源義経也』より 冨山房刊

1643号.jpg
posted by 平野 浩 at 04:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月29日

義経の痕跡残るウラジオストック近郊(EJ1644号)

 義経軍はウラジオストック近郊までやってきて、そこを本拠地
にして約10年間を過ごしていると考えられます。そうであると
すると、ウラジオストック周辺にその痕跡はかなり残っているも
のと思われます。
 その痕跡のひとつが、ウラジオストック北方のニコラエフスク
市にある義経公園です。ここにある亀石についてもう少し補足し
ます。昨日のEJで述べたように、その亀石は台座であって、そ
の上に石碑があり、「源義経墓」と彫られていたというのです。
 この亀石と石碑を目撃した日本人が何人かいるのです。大正7
年――第一次世界大戦の末期の頃ですが、ロシア革命に呼応して
連合軍の要請で日本はシベリアに遠征軍を送っているのです。そ
の中で、東部シベリアに出兵していた人たちの中に目撃者がいる
です。その一人である宮古市の刈屋清右衛門氏は、佐々木勝三氏
に次のように語っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ニコラエフスクの山中の盆地に、15メートルほどの小高い山
 があり、石垣が崩れたところがありました。そこに墓石があり
 竿石の長さは二尺五寸(約76センチ)ありましたが、3枚に
 割れていました。石垣が崩れるとき割れたのでしょうか。その
 3枚を合わせてみましたら、字が竿石いっぱいに彫られてあり
 ました。字は明らかに「大日本源義経墓」というようにつなが
 りました。              ――刈屋清右衛門氏
         ――佐々木勝三、大町北造、横田正二/共著
   『成吉思汗は源義経/義経は生きていた』より。勁文社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ところで、この公園は現存し、亀石はまだあるようですが、石
碑の方は、ロシア側がハバロフスクの博物館に運び去っていると
のことです。この公園を訪れて台石を見た小谷部氏によると、台
石は硬質であり、その磨減の古さから考えて、600〜700年
の星霜を経たものであるとのことです。
 ところで、ハバロフスクの博物館に運ばれたという石碑はどう
なったのでしょうか。
 小谷部氏は、ハバロフスク博物館まで行こうとしたのですが、
治安に問題があるとのことで断念し、当時ウラジオストック派遣
軍司令部の中岡中佐に博物館に行って確認して欲しいと依頼した
のです。その中岡中佐から小谷部氏に対する報告文です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ハバロフスク博物館にある、いわゆる義経の碑と称するものは
 白色を帯びたる花崗岩の一種なり。この石碑の表面には厚くセ
 メントのしっくいを塗り、何物か彫刻しあるものを隠蔽せり。
 土人の言によれば大正10年日本軍がハバロフスク撤退後、過
 激派のなせることなりと。しかし、博物館長はこのしっくいが
 いずれのとき塗られしやおぼえなきと答えき。
               ――佐々木勝三氏の上経書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ロシア人がしっくいを塗って文字を隠したのは明らかで、自国
に不利な文字がそこにあったものと考えられます。そこには「大
日本源義経」と書いてあったのですから。
 この地に義経公園があるということは、それはこの地に古くか
ら居留していた日本人にとって、義経がこの地に来たことを示す
何らかのあかしがあったからと考えられます。そして、おそらく
義経公園は古城跡の一部ではなかったかと思われます。
 それに、このニコラエフスク市は黒竜江のほとりにあり、それ
が、「大きな川のあるクルムセの国」の川ではないかと考えられ
ます。案外ニコラエフスクが「クルムセの国」ということも考え
られるのです。
 もうひとつ義経の城ではないかと思われるものに「蘇城(スー
チャン)」があります。EJ第1639号でご紹介した古城跡の
ことです。スーチャンもナホトカ、ウラジオストック、ニコラエ
フスクを結ぶ線の近くにあるのです。
 この地を支配していたのは、土着民のタモー族というのですが
このタモー族の伝説によると、蘇城は昔、イーポンの武将が築い
た城ということなのです。「イーポン」は「日本」を連想させま
すし、武将の名前はキン・ウ・チィというのですが、これは源義
経であると考えられます。
 さらに重要な痕跡と思われるものがあります。それは、既にご
紹介している「ハンガン岬」です。このハンガン岬――もう少し
正確にいうと、アメリカ湾とオリガーワンの中間にある泊地であ
るらしいのです。ハンガンではなく、「ハングアン」と発音する
そうです。シベリアの海岸には断崖絶壁が多く、船を着けるのに
適当な地点が少ないのですが、そういう意味でこの付近では重要
な泊地になっているのです。
 もっとも現在では名前は変更されているらしく、地図上では確
認できないのですが、シベリア出兵の当時はそういう名前で呼ば
れていたそうです。そういうところから、義経一行はこの泊地か
ら上陸したのではないかといわれているのです。なお、ハンガン
とスーチャンとは約120キロ離れているとのことです。
 これに関連する情報として、大正14年2月1日付の朝日新聞
に、こんな話が出ているのです。シベリア出兵当時、ニコラエフ
スクの近くでタタール人の芝居を見たところ、その巻狩の場面で
役者が笹竜胆(ささりんどう)の紋をつけた日本流の鎧兜であら
われたというのです。わけを尋ねたところ、昔から伝わっている
もので、誰が作ったかについてはわからないという返事だったと
いわれます。
 笹竜胆といえば、源氏の紋章です。それを蒙古武人が着けてい
たことになるのです。この笹竜胆の紋章は、ナホトカの一般住居
にもつけられており、これも義経ゆかりのものではないかと考え
られるのです。
 歴史学者たちは、こうした数々の証拠をどのように考えている
のでしょうか。          ・・・・・・ [義経14]


≪画像および関連情報≫
 ・笹竜胆/ささりんどう
  民家の建物の壁に笹竜胆/400年以上になる古い建物
  向って左はモンゴルの笹竜胆/右は源氏の紋章/笹竜胆

1644号.jpg
posted by 平野 浩 at 05:05| Comment(2) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月01日

義経に似ているテムジンの戦い(EJ1645号)

 果たして源義経は成吉思汗なのか――この一人二役説について
蒙古――モンゴルの側から見ていくことにします。果たしてうま
く繋がるのでしょうか。
 蒙古史によると、1202年からテムジンは部族を統合するた
めの大規模な戦闘を開始しています。この話に入る前に、当時の
モンゴル高原の諸民族について簡単に述べておきます。部族を言
語で分けると、次の2つの系統に分けられます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.モンゴル語系統
    モンゴル部族 ケレイト部族 タタール部族
  2.チュルク語系統 
    ナイマン部族 メルキト部族 オングット部族
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 モンゴル高原において、最も豊かな土地とされる三河地方――
オルコン河、トゥラ河、セレンゲ河――にいたのは、最も強力な
部族といわれるケレイト部族であり、その北東方面を流れるケル
レン河の東岸地帯にはタタール族がいたのです。
 さらに西のアルタイ山脈の方面にいたのがやはり強大な勢力を
誇るナイマン部族であり、バイカル湖の南側にはメルキト部族が
いたのです。テムジンの属していたモンゴル部族はブルカン岳の
麓を流れるオナン河の流域を本拠地としていたのです。
 テムジンの属するモンゴル族は、次の3つの強力な氏族に分け
ることができます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
             1.カタギン 氏族
      ニルン族   2.サルジウト氏族
             3.ボルジギン氏族
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これらの3大氏族は「ニルン族」といわれる格式高い部族なの
です。このニルン族の中で一番力が高く、モンゴル部族を実質的
に支配していたのは、ボルジギン氏族です。このボルジギン氏族
にも多くの氏があり、中心的な氏は「キャト氏」――テムジンは
このキャト氏に属していたのです。
 1202年にテムジンは、タタール部族を攻めることを決意し
ていますが、攻めるに当たって、はじめて「軍律」というものを
定めています。それは、次のような内容です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 敵人に打ち勝つも、財物(たからもの)のところに立ち停まる
 まいぞ。勝ち終うれば、その財物はみなわれらのものなるぞ。
 必ずやわれは分かち合うぞ。     ――『モンゴル秘史』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 当時のモンゴルの戦いでは、敵を打ち負かした氏や氏族の長は
それぞれ略奪した財物を自分のものにできたのです。しかし、こ
れを認めると、戦いのさなかに略奪品の場所に留まって、戦いを
やめてしまうのです。全軍がひとつの目標に立ち向かって戦闘す
ることを求めるテムジンにとって、これを認めるわけにはいかな
かったのです。これにより日本の戦い方に近づいたといえます。
 このタタールとの戦いは、「ダラン・ネムルゲスの戦い」とい
い、この戦いによってタタール族は事実上滅びたのです。テムジ
ンは、この戦いで軍律に違反したアルタン、クチャル、ダリタイ
の略奪物をすべて奪い、処分しています。この軍律は、やがて、
モンゴルの法律の基になっていくのです。
 テムジンにとって次の標的はケレイト部族です。しかし、ケレ
イト部族は強大であり、まともに戦ったら、当時のテムジン率い
るモンゴル軍の兵力では勝てなかったのです。
 1203年、ケレイト部族のワンカン軍が、テントを張って酒
盛りをしているとの報告を受けたテムジンは、夜を徹して騎馬軍
団をそこに走らせます。この騎馬軍団には、その前年に傘下に置
いたタタール族も含まれているのです。
 テムジン騎馬軍団は、酒盛り後のケレイト軍を急襲します。そ
して彼らを山峡にを包囲したのです。テムジンは3日3晩攻撃し
て、ケレイト軍を降伏させてしまうのです。この戦いについて、
『鉄木真用兵論』という本に次のように記述されています。この
本はイワニンというロシア人の書いたものであり、1875年に
刊行されています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 兵力において劣れる鉄木真(テムジン)は尋常の手段をもって
 勝を制するの不可能なるを知り、まず諜者をして敵情を探らし
 む。その報にいわく、敵軍は金帳の内に盛宴を張る、急ぎ侵入
 して討ち給えと。鉄木真直ちにチュルチェ及びアルカイなどの
 武将を先駆となし、疾風のごとくに突進して懸崖を下り、山下
 に陣せる敵軍の不意を襲ってこれをおう殺せり・・・。
                 ――『鉄木真用兵論』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この記述は一の谷の合戦を彷彿させるものがあります。まさに
ひよどり越えの蒙古版といえます。これ以外にもテムジンについ
て伝えられる話を調べていくと、義経を彷彿させる話がたくさん
出てくるのです。例えば、こんな話もあるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 鉄木真は少時父を喪い郎徒らにも見すてられたるにより、つい
 にメルトキ部の人々に捕えられ、敵の長老ワンカンに一身を依
 託せり。            ――『鉄木真用兵論』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これなどは、義経が子供のころ、敵将清盛のために命を助けら
れ、鞍馬山に預けられたこととそっくりの話です。
 話を元に戻しますが、このケレイト軍との戦いによって、テム
ジン率いるモンゴル軍は、モンゴル高原の東半分を傘下に収める
ことに成功したのです。当時、モンゴルの西半分はナイマン部族
が支配していたのです。テムジンにとって、最大の強敵はこのナ
イマン部族なのです。         ・・・・・[義経15]


≪画像および関連情報≫
 ・モンゴル騎馬軍団
  モンゴル騎馬軍団はユーラシア大陸全土にまたがる大規模な
  征服戦争によって、攻略した都市から職人を集め、兵器や甲
  胄を生産している。モンゴル騎馬軍団は軽装騎兵と重装騎兵
  に分かれている。
  ・軽装騎兵 ・・・・ 左
  ・重装騎兵 ・・・・ 中
  火器が発達によって鎧も変化。右に見るように、分厚い棉や
  絹布地の中に鉄の甲片を仕込み、表面に銅の釘で固定した棉
  甲が誕生する。

1645号.jpg
posted by 平野 浩 at 09:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月02日

テムジンの四駿四狗(EJ1646号)

 テムジンの戦いに関する記録(伝記)を読んでいると、テムジ
ンには信頼できる3人の武将がいたというのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
           1.ジャムカ
           2.ムカリ
           3.ボオルチェ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 テムジンとジャムカは宿命のライバルといわれています。テム
ジンとジャムカの部隊は一緒に宿営し、味方として共に戦うこと
を長く繰り返してきたのです。
 しかし、だんだん意見が合わなくなり、ある夜、テムジンは手
勢を連れて、ジャムカの陣営をひそかに去るのです。しかし、次
の朝、テムジン部隊が見たものは、あとに付いてくるかなりの数
の男たちだったのです。
 それは、ジャムカの部隊の兵士たちがテムジンを慕って付いて
きたのです。彼らは、ジャムカとテムジンを比較し、その人物の
違いを見抜いたのです。これにより、テムジンの部隊は労せずし
て、一挙にふくれ上がることになったのです。
 この経験を通じてテムジンは非常に重要な教訓を学ぶことにな
るのです。『モンゴル帝国の戦い』の著者であるロバート・マー
シャルは、この教訓について次のように記述しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 旧来の族長への忠誠心はつねに条件づきであり、信頼できるも
 のではなかった。『秘史』によると、若きチンギス・ハンの人
 生形成においてもっとも重要だったのは、父の死後、家族が父
 の配下に見捨てられてしまった時期の経験だった。独力で生き
 る道を開拓しなければならなくなったチンギス・ハンが学んだ
 のは、唯一信頼できる支持勢力は彼の個人的資質への心酔者の
 なかから生まれる、ということだった。チンギス・ハンの軍事
 支配の、またその結果としての権力のバックボーンになったの
 は、この一団だった。
    ――ロバート・マーシャル著/遠藤利国訳/東洋書林刊
      『モンゴル帝国の戦い/騎馬民族の世界制覇』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ムカリとボオルチェについてはどうでしょうか。
 成吉思汗を支える側近には「四駿四狗」といわれています。四
駿四狗は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    ≪四駿≫ ――― 側近中の側近
     ムカリ ・・・・・・・ ジャライル族
     ボオルチェ ・・・・・  アルラト族
     ボロクル ・・・・・・  フウシン族
     チラウン ・・・・・・  スルドス族
    ≪四狗≫ ――― 忠臣中の猛将
     ジェペ ・・・・・・・   ベスト族
     クビライ ・・・・・・  バルラス族
     ジェルメ ・・・・・・ ウリンカイ族
     スベェディ ・・・・・ ウリンカイ族
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「四駿」はテムジンの側近中の側近であり、テムジンが最も信
頼していた将軍です。とくにムカイとボオルチェは四駿の中でも
とくにテムジンに信頼されていたとされています。
 これに対して「四狗」は、四駿と同様に成吉思汗のために戦っ
た将軍なのですが、主として危険な最前線に立って戦っている猛
将なのです。子供の頃からテムジンと行動を共にしたジェルメ、
かつて敵であり、成吉思汗を狙撃したが、許されて部下になった
ジェベ、特に力があったフビライ、最も若く、後にバトゥの西征
などで活躍するスブタイの4人です。ちなみに、フビライは蒙古
帝国の第6代大汗のフビライとは別人です。
 しかし、四狗は、とくにジェベなど、かつての敵であったため
四駿ほど成吉思汗と親しくはなれなかったようで、そのためいつ
も危険な前線を任されていたという見方もできます。
 東半分の覇権を手に入れたテムジンにとって、もはや最大にし
て最後の敵は、北西部を支配しているナイマン族だったのです。
そのナイマン陣営には、テムジンとの戦いに敗れたジャムカをは
じめとするテムジンに恨みを持つ部族の逃亡兵が大量に集結して
いたのです。
 したがって、人数的にはナイマン軍がテムジン率いるモンゴル
軍よりも圧倒的に上回っていたのです。しかし、テムジンはナイ
マンと戦い、雌雄を決しようと考えていたのです。この一戦に勝
利すれば、部族間の抗争に終止符が打たれ、積年の恨みを水に流
すことができると考えたからです。
 テムジンは戦いに備えて、いくつかの準備を行っています。そ
の1つは、既にタタール戦のときに発令し、定着させてきている
軍律のさらなる強化です。
 タタール戦の前に発令した軍律は、それ以降の2つの戦いで、
違反者への厳正にして厳しい処分に課すことによって定着しつつ
あったのをもう一回引き締めたのです。
 タタール戦のさい、この軍律に違反したアルタン、クチャル、
ダリタイの3人は、テムジンの近親者の有力者であったのです。
彼らは、われわれの協力があってテムジンはカンになれたのであ
り、われわれに命令するのはけしからんとして、戦利品を公然と
私物化したのです。
 しかし、テムジンはこれを知ると、ジェベ、クビライの2将軍
に命じて、彼らが勝手に私物化した馬や略奪品をことごとく没収
させたのです。
 テムジンが軍律を厳格化させたのは、既にこの時点でテムジン
がモンゴル統一を考えていたこと、それに人間にとってもっとも
大切なものの一つが「法」の尊重であることを徹底させたかった
のではないかと思われます。      ・・・・・[義経16]


≪画像および関連情報≫
 ・テムジンを描いたイラスト
  http://www.juno.dti.ne.jp/~tenchi/syokai/S-Mwb1.html

1646号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月03日

酷似している鉄木真と義経の戦法(EJ1647号)

 源義経が果たして成吉思汗に結びつくかどうか――蒙古側から
の検証をしています。
 テムジンがナイマンを攻撃する準備として最初にやったのは、
部族長会議を開き、軍律を改めて厳格させたことです。部族とし
て「決めたことは守る」ことを徹底化させたわけです。これは、
全ての戦利品は後で公平に分配することにし、全軍が一丸となっ
て敵に当たれるような体制にしたことを意味します。
 続いてやったことは、軍事組織を整えたことです。すべての指
揮官はテムジンが任命することとし、指揮官を兵10人に1人、
100人に1人、1000人に1人任命したのです。それぞれ、
十人長、百人長、千人長というようにしたのです。10進法の軍
隊組織です。
 テムジンはこの指揮官の任命をすべて自分の手で行っているの
です。これによってテムジンは、モンゴル軍全体を完全に掌握し
てしまったのです。この10進法の軍隊組織は、誰にも非常に分
かりやすく、コントロールしやすいのです。テムジンは成吉思汗
になってからも、この軍隊組織を継続して採用しています。
 そして、テムジンは、1204年春にナイマン部族攻撃に踏み
切っています。これまでのモンゴル高原における部族間の戦いは
秋に行われるのが常識とされていたのです。なぜかというと、戦
闘の機動力である馬が夏草を食べて十分体力がついた時期が秋で
あるからです。春は馬が痩せているのです。
 ナイマン王のタヤンカンは、テムジンがいずれ攻めてくること
は分かっていたのですが、まさか春に攻めてくることは予想して
いなかったのです。テムジンはまさにその虚を衝いたのです。戦
争のための十分な備えのできていないナイマン軍は、統制がとれ
ないままモンゴル軍を迎え撃つことになります。
 モンゴル高原での戦いでは馬が不可欠です。そのためナイマン
との戦いのように遠征になると、兵士はそれぞれ替え馬を連れて
戦場に赴いたのです。その数は文献によってさまざまですが、1
兵士当たり平均5頭程度といわれます。このように馬だけでも大
変な数になってしまうわけです。
 ナイマン軍には、その替え馬の準備が整わないまま戦闘に入っ
たので、たちまち馬は疲弊してしまいます。それに対してモンゴ
ル軍は、次々と馬を替えながら、繰り返し波状的に攻撃をするの
で、ナイマン軍はあっという間に追い詰められたのです。
 テムジンはモンゴル軍をナイマン軍からよく見える丘陵に展開
し、ここでひとつの仕掛けを行ったのです。夜間に兵士一人ひと
りに5ヶ所ずつの篝火をたかせたのです。そのときのモンゴル軍
は約5千人と考えられるので、2万5千の篝火が一斉にたかれた
ことになります。
 これを見せられたナイマン軍はあまりの大軍に仰天します。そ
して一部の部族は戦線から次々と離脱をはじめたのです。それを
モンゴル軍の先鋒である4狗――ジュベ、クビライ、ジェルメ、
スプタイ率いる軍隊が追撃したのです。そして、オルホン河東岸
にあるナク崖(現在のラク山)にナイマン軍を追い詰め、激戦の
末、ナイマン軍を破ったのです。1204年夏のことです。
 この攻め方は、義経による一の谷の戦いに酷似しています。一
の谷の戦いというと、ひよどり越えの坂落としがあまりにも有名
ですが、これが成功したのは、その前夜に三原山に陣取る平家勢
を義経が策略を用いて蹴散らしたことにあるのです。
 義経は三原山麓の集落の人々をひそかに退去させ、夜になるの
を待って、火矢を放って無人となった集落に火をつけ、いくつも
の鉦や太鼓を鳴らして、「おう!おう!」と大声を上げさせたの
です。このときの義経軍の兵力は約3千人――その何倍かの兵力
に見せかけたのです。
 闇から迫る、炎、鉦、太鼓――てっきり源氏の大軍が攻めてき
たと思った平氏軍は大混乱をきたし、戦闘を交えぬままその夜の
うちに逃走してしまったのです。こうして、ひよどり越えの坂落
としが行われたのです。
 策略を用いて実際の兵力を何倍かの大軍に見せかける――こう
いう戦法を義経は得意としたのです。彼は屋島の戦いでも同じよ
うなことをやっています。
 暴風雨をついて阿波(徳島)勝浦に上陸した義経軍150騎は
起伏の激しい道程を丸一日かけて馬で踏破し、海上からの襲撃に
備えている平氏軍の背後から襲ったのです。しかし、このとき義
経軍はわずかに150騎であり、大軍を擁している平氏には勝て
ない――こう考えた義経は、屋島の周辺の村から極秘のうちに牛
を集め、そこに火を放ったのです。
 驚いた牛は一斉に走り出したのです。義経軍はそれを機に出撃
したのです。そのざわめきを源氏の大軍と勘違いした平氏軍は、
われ先に海上に停泊させていた船に逃げ込んだため、義経軍は少
ない人数で平氏軍に圧勝しているのです。テムジンの戦法は、こ
の義経のそれと酷似しているといえます。
 さて、勢いに乗ったテムジン率いるモンゴル軍は、ナイマンの
本拠のあったアルタイ山麓を攻撃して平定し、秋になるとセレン
ゲ谷のメルキト部族を攻撃して滅ぼしています。1205年には
逃げたメルキトの首領トクトアを追ってイルティシュ河を攻め、
遂にモンゴル高原において、テムジン率いるモンゴル軍にとって
敵はなくなってしまったのです。
 このナイマンとの戦いで捕虜にしたのがタタトンガなのです。
テムジンは征服した部族の中で、学者や職人など特殊技能を持つ
人物を非常に大事に扱い、国づくりに役立てています。テムジン
はタタトンガがウイグル文字に精通していることをよく知ってお
り、彼にモンゴル文字を創らせているのです。
 それまでモンゴル人は文字を持たなかったし、その必要性を感
じていなかったのです。テムジンは中央アジアに住むウイグル族
が使っていた古代文字を基礎にして、タタトンガにモンゴル文字
を考案させたのです。この「文字を書く」ということこそ、成吉
思汗が遺した最大の遺産といえます。  ・・・・・[義経17]


≪画像および関連情報≫
 ・白石典之新潟大学人文文学部助教授は、テムジンの侵略ルー
  トは、敗走者を追ったというよりも、鉱山確保の意味があっ
  たのではないかと推測している。アルタイ山脈、セレンゲ谷
  はいずれも鉄や銅などの鉱山のある場所である。
  図は、白石典之著、『チンギス=カンの考古学』より。同成
  社刊。

1647号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月04日

旗の色と紋所の一致(EJ1648号)

 成吉思汗がきちんとしたかたちで歴史上に登場するのは、テム
ジンがナイマンを打ち破った後の1206年のことです。テムジ
ンは、この年にクリルタイと呼ばれる長老会議を開催し、自らジ
ンギスカンに即位しているのです。このときの模様を『モンゴル
秘史』では、次のように記述しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 かようにして毛氈の幕帳(とばりや)に住まいせる国民をば、
 ことごとく服(まつ)ろわせて、寅の歳、オナン河の源に集い
 して、九つの脚ある白いとくをうち立てて、大クリルタイを開
 き、チンギス・カハンの称号をここにおいて正式に捧げ奉った
 のであった。「将軍」のムカリには、「国王」の名をそのとき
 賜った。
  ――『モンゴル秘史/2ジンギス・カン物語』、村上正二訳
                      東洋文庫209
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここで「寅の歳」とは、丙寅の1206年のことですが、何月
であったかは、はっきりしていないのです。春という説と冬とい
う説があります。
 クリルタイを行った場所は「オナン河の源」とありますが、こ
れにも異説があり、これについては改めて述べます。問題なのは
「九つの脚ある白いとく」の部分です。なお、「とく」の字は非
常に難しい字であり、ウェブでは表示されませんので、かなで表
現しています。
 訳者の村上正二氏によると、「九つ」とはモンゴルの吉数であ
り、「白い」は聖なる色をあらわすそうです。「とく」とは旗と
いうよりも幟のようなもので、その尾が9つに割れている――九
つの吹流しの尾をつけた白い旒旗であると考えられます。つまり
これは「九旒の白旗」を意味しているのです。
 ドーソンの『蒙古史』――その該当部分は現時点でまだ入手で
きていないのですが、高木彬光氏の本では、次のように記述され
ているとあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 (テムジンは)興安嶺上に麾下に従う各種族を呼び集め、総会
 議を召集し、九旒の白旗を嶺の上にひるがえした。
         ――ドーソン著、『蒙古史』上巻/岩波文庫
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 いうまでもなく「白旗」は源氏の旗印であり、「九旒」は九郎
判官を意味するものと考えられます。それに紋所の笹竜胆もから
んできているのです。戦術も同じ、戦い方もそっくり、旗印は九
旒の白旗、紋所は笹竜胆――すべて源義経と一致するのです。
 さらに分析を進めます。それまで将軍であったムカリには国王
の称号を与えたとあります。ムカリは四駿の一人であり、テムジ
ンにとくに重用された武将です。既出の佐々木勝三氏の本では、
次のように記述されています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この即位のとき、功績のあった自分の武将95人をそれぞれ千
 戸の長に任命している。とくに功績の大きかったボオルチェと
 ムカリには万戸の支配権を与えた。十戸の長から、万戸の長ま
 で、ピラミッド型の統一組織がここに完成したのである。
         ――佐々木勝三、大町北造、横田正二/共著
   『成吉思汗は源義経/義経は生きていた』より。勁文社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 既にEJ第1647号で述べたように、テムジンはナイマンを
攻める前に10進法で軍事組織を作っていましたが、このときの
クリルタイではじめて「万人長」を置いたわけです。
 それはさておき、テムジンが「九」という数字を非常に重視し
ていたことは、各書に出ています。『元朝秘史』には次の記述が
あります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 (成吉思汗が)西夏に遠征したとき、敵将ブルカンは成吉思汗
 のもとへ謁見に来て、黄金の仏像をはじめ、金と銀の皿を各九
 個、男児と女児を各九人、去勢馬とラクダを各九頭、九の数に
 合わせて献上した。         ――『元朝秘史』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 さて、万人長に任命されたムカリに関しては、興味ある話があ
るのです。それは「コオンゴアに関する話」です。義経=成吉思
汗説の研究家の一人である丘英夫氏は、その自著において、次の
ように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『元史』の「ムカリ伝」によると、テムジンは、昔、コオンゴ
 アに命を助けられたんだ。ムカリは、テムジンの恩人であるコ
 オンゴアの第三子なんだよ。コオンゴアはムカリの父親なんだ
 ね。ジンキスカンは、ムカリのお陰で帝位につくことができた
 と言ったあと、ムカリを1万戸の長にして、その上にムカリに
 王位を与えたのだよ。―― 丘英夫著、
       『義経はジンギスカンになった! その6つの根拠』 
                アーバンプロ出版センター刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 著者の丘英夫氏は、音韻学を専攻されており、モンゴル文字に
詳しい人です。本書は、2002年に叢文社から『新ジンギスカ
ンの謎』として出版されていますが、修正・増補され2005年
5月にアーバンプロ出版センターから出版されています。本の内
容は何人かの対話形式を採用しており、高木彬光氏の本のスタイ
ルに似ています。
 さて、ムカリという人物は成吉思汗の四駿の中心人物なのです
が、実際にどういう人物なのかについては詳しくわかっていない
のです。しかし、『元史』では、「コオンゴアの息子」であり、
テムジンはそのコオンゴアに命を救われているとしています。
 一体コオンゴアとは何者でしょうか。ムカリとはどういう人物
なのでしょうか。これについての分析は、明日のEJで行いたい
と思います。           ・・・・・・・[義経18]


≪画像および関連情報≫
 ・成吉思汗に即位するテムジン
  成吉思汗を描く画家たちは、モンゴル族が創建した中国やイ
  ランの宮廷風俗のなかに、皇帝やスルタンの姿で王座に座る
  成吉思汗を描くことが多かったのである。
  ――ジャン=ポール・ルー著/杉山正明監修/田辺希久子訳
       『チンギス・カンとモンゴル帝国』創元社刊より

1648号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月05日

コオンゴアとムカリの正体に迫る(EJ1649号)

 コオンゴアの話です。コオンゴアはテムジンの命の恩人です。
ムカリはそのコオンゴアの第3子です。この事実から何かを連想
しないでしょうか。
 そうです。奥州の藤原氏です。源義経の命の恩人といえば、藤
原秀衡しかいないと思うのです。鞍馬山に押し込められていた遮
那王――義経の亡命を受け入れ、父代わりに育てたのは秀衡その
人であったからです。
 そして、義経が頼朝に追われ、奥州に逃げ込んできたとき、そ
れを温かく迎え入れたのも秀衡なのです。もちろん、戦国時代の
ことですから、単なる親切心だけではなく、秀衡なりの緻密な計
算があってのことですが、義経から見れば、秀衡は命の恩人その
ものといえます。
 義経主従が平泉に到着したとき、秀衡は義経を丁重に出迎えて
いるのですが、そのときの模様を『義経記』を基にして描くと次
のようになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「このように零落したわが身を、かくまで丁重にお出迎えいた
 だき、御礼の言葉もございません」。このように義経がいうと
 秀衡は次のように答えている。
 「なんの、なんの。わしは判官殿を主君とも息子とも思ってお
 ります。この秀衡の目の黒いうちは、判官殿に指一本触れさせ
 るものではありません」        ――『義経記』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この時点において、秀衡は平氏を滅ぼした源氏が京都に上がっ
て朝廷に戦勝報告をし、しかるべき官位を得て政治を動かしてい
くに違いないと見ていたのです。つまり、源氏は平氏にとって代
わり、平氏と同じようなことをやると考えていたのです。
 そうであればあわてることはないと秀衡は考えたのです。豊富
な経済力にものをいわせて、朝廷と公家をコントロールして、奥
州の主張を遠隔操作すればよい――それは平氏のときに秀衡自身
がやってきており、成功させてきているからです。
 しかし、その時点で秀衡は頼朝の本心が読めなかったのです。
頼朝は平家を倒しても一向に京都に上る気配を見せず、最初に手
をつけたことは、守護・地頭の全国への配備だったのです。そし
て、義経追討と称して各地で司法警察権と兵糧米の徴収権を行使
したのです。それでいて、本気で義経を捕まえようとしない――
何かおかしいと秀衡は考えたのです。
 つまり、頼朝は武士の支配する新しい世の中を作ろうとしてい
たのです。これに秀衡は気がつかなかったのです。これは知略家
である秀衡としては、千慮の一失というべきでしょう。
 しかし、その時点で頼朝の勢力は東国から北陸の一部ぐらいま
でしか、確かなものになっていなかったのです。そういうときに
義経が尾羽打ち枯らして飛び込んできたのです。
 頼朝の意図を理解した秀衡は、遅まきながら朝廷と連携して頼
朝の勢力が畿内・西国に伸びるのを防ぎ、鎌倉幕府内部にも手を
突っ込むことを考えていたと思われるのです。そのために、名将
義経は使える――秀衡はそう考えていたからこそ、義経を迎え入
れたのです。
 しかし、その肝心の秀衡が不治の病いにかかってしまったので
す。「もはやこれまで」と考えた秀衡は、かねてから、金の運搬
ルートとして確保してあった北方ルートを義経と泰衡に教え、一
族の一部を義経とともに平泉から落ちのびさせ、時期を伺う作戦
に切り換えたのではないかと思われます。
 おそらく当時未開の地であった蝦夷地まで落ちのびることがで
きれば何とかなる――そう考えていたと思います。いくら秀衡で
も、義経一行が大陸に渡って成吉思汗になるとまでは考えていな
かったはずです。
 さて、その秀衡には、長男の国衡、次男の泰衡、三男の忠衡と
いう3人の子供がいるのです。なぜ、泰衡に家督を継がせたかと
いうと、国衡は側室の子であることと、国衡は義経とそりが合わ
なかったからではないかと思います。
 しかし、泰衡は間違いなく父の言いつけを守ると秀衡は信じて
家督を継がせ、すべての計画を義経と泰衡に伝えて、それを忠実
に実行させたのです。
 このように考えると、コオンゴアは秀衡ではないかと思われる
のです。もし、コオンゴアを秀衡と考えると、その第3子は忠衡
ということになります。つまり、ムカリは藤原忠衡ということに
なります。「朕はムカリのお陰で帝位につくことができた」とい
う言葉の意味は、ムカリ=藤原忠衡と考えると、理解できると思
います。
 既に述べているように、忠衡は約100騎を従えて義経につい
て海を渡っていると思われる記録が残っています。そして、義経
一行が落ちのびるまでの時間稼ぎをかねてからの計画にしたがっ
て泰衡は忠実に果たしたのです。
 既に述べたように、藤原家の子孫が、郎従河田次郎に殺され、
頼朝によってさらし首にされた泰衡の首級を忠衡の首と偽って首
桶に収め、平泉金色堂に安置されている秀衡の棺の近くに置いた
のは、父の言いつけを守って立派にその務めを果たした泰衡をね
ぎらってのことと思われます。そして、この藤原家の秘密は、実
に800年以上もの間、守りぬかれたのです。
 国王となったムカリは、金を攻略している最中の1223年に
54歳で亡くなっています。一方、成吉思汗はその4年後の12
27年に66歳で死亡しているのです。そうすると、ムカリが亡
くなったとき成吉思汗は62歳であり、ムカリは成吉思汗よりも
8歳年下ということになります。ところが、これは義経と忠衡の
年齢差と一致するのです。これは、驚くべきことです。
 実はオナン河のクリルタイでムカリとともに1万戸をまかされ
たボオルチェも義経と共に大陸に渡った日本の武将という説もあ
るのですが、こちらは例証に乏しく、追求が困難であるので、あ
きらめることにします。      ・・・・・・・[義経19]

≪画像および関連情報≫
 ・作家・高橋克彦氏のインタビューより
  泰衡という人物が、これまで言われるように凡庸ではなかっ
  たと思われるようになったのは、義経北行伝説からです。こ
  の北行伝説にリアリティが出ると、はっきりしてくるのは、
  泰衡が義経を殺していないという事実なのです。そうなると
  殺していない義経のために、なぜ泰衡は殺したような言動を
  したかが問題となってくるのです。――『歴史読本/奥州藤
           原氏と源平争乱』1994年3月号より

1649号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月08日

なぜ、成吉思汗駅ができたか(EJ1650号)

 1206年に成吉思汗が即位したとき、95人の武将に千人長
を命じています。成吉思汗はこの千人長を非常に重視しており、
任命するさいには、さまざまな情報を集めて慎重に選任したとい
われています。
 もし、成吉思汗が源義経であるとすると、任命された千人長の
中には、日本人やアイヌ人の武将もいたと考えられるのです。大
陸に渡った義経の軍勢には、藤原忠衡、大河兼任率いる軍勢にア
イヌの軍勢も加わっていたからです。
 それらの千人長の集落は、現在のロシア、モンゴル、中国など
に点在していたはずです。これらの集落には、すべてがそうであ
るとは限りませんが、千人長である各武将の名前や出身地などの
名称がつけられるケースは少なくないと思われます。
 かつての北海道の開拓地にも、仙台藩がくれば伊達とか白石と
いう名前がつけられていますし、鳥取とか広島という地名もある
のです。このように、出身地の名前やとくに意味のある名称がつ
けられる可能性は高いといえます。
 現在の中国・黒龍江省の北西部に「チチハル」という都市があ
ります。そのチチハルの北西部に「成吉思汗」という名前の駅が
あるのです。これは、ロシアが東支鉄道を建設したとき、もとも
とあった名前をそのまま駅名にしたというのです。しかし、駅名
の由来などについては、中国の文献にはないそうです。
 小谷部氏は「成吉思汗」という名前がついているので、何かあ
るはずだと考えて、実際に現地を訪問しています。ロシアの案内
地図には城址があると書いてあったからです。
 しかし、現地の住民たちは「成吉思汗」という名前は一切知ら
なかったというのです。城址について尋ねると「クローの城であ
る」と答えているのです。小谷部氏はこれは「九郎判官の城」、
すなわち、義経の城ではないかと考えたのです。
 小谷部氏はこのことを本に次のように書いています。あえて原
文をご紹介します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 此地の住人に成吉思汗と云うも、更に之を知る者なく、其れは
 此処の地名なりと答う。此土地の古城址拠りたる者の武将の名
 を、何というやと、土地の長老に訊うに、クローなりと言う。
 余之を聞き、愕然として驚き、而して又た成吉思汗の都址探検
 の徒爾ならざりしを心に感謝せり。
   ――小谷部全一郎著、『成吉思汗は源義経也』、冨山房刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これに対して歴史学者の中島理一郎氏は、「小谷部氏の愚を憐
まない訳にはいかない」と前置きしたうえで、小谷部氏の聞いた
という「クロー」は部族の長を意味する「グルハン」のなまりに
過ぎないことを強調し、次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 小谷部氏が名も無い一酋長の遺跡の上に立って、その辺を成吉
 思汗の都址と思っていたなどとは、とても他には見られない図
 である。『余之を聞き、愕然として驚き、而して』その後につ
 ぐべき言葉を知らぬ。
                      ――中島利一郎
  ――森村宗冬著、『義経伝説と日本人』(平凡社新書)より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この反論を読んでどのように考えられるでしょうか。頭から相
手を馬鹿にし、加えて小谷部氏の著作のことばである『余之を聞
き、愕然として驚き、而して』と使って反論を結んでいる点は相
手に対して失礼であると考えます。彼はこれ以外にも小谷部氏に
対し、児戯に等しい妄説、珍説、粗忽屋などの言葉を使い、小谷
部氏を罵倒しているのです。
 なぜ、源義経=成吉思汗説になると、歴史学者はかくも熱くな
り、圧力をかけようとするのでしょうか。事実はひとつしかない
のです。中島氏もこのようにアタマから否定せず、小谷部氏のよ
うに実際に現地に行って事実を確かめる――この姿勢が必要であ
ると考えます。
 「源義経=成吉思汗」がウソだというのであれば、それがウソ
であるという証拠を示すべきです。状況証拠を含む証拠を何も示
さず、史書をあくまでも正しいとして、源義経=成吉思汗説をア
タマから否定して、そういう説を唱える者を社会的に抹殺するの
は間違いです。逆に状況証拠を数多く示しているのは、「源義経
=成吉思汗」肯定説の方であると思います。
 ところで「グルハン=酋長」説に関してはこういう意見もあり
ます。「グルハン」を地元民が発音すると「グラン」と聞こえる
というのです。「グラン」と「クロー」を聞き間違えることはな
いというわけです。
 問題は、それではどうしてこの地に「成吉思汗」という名前が
残っているかです。
 小谷部氏は、実際に成吉思汗駅周辺を訪れてみたことにより、
成吉思汗が成吉思汗に即位したのは、『元朝秘史』にあるように
「オノン河の源」ではなく、この成吉思汗駅のあたりではなかっ
たかという説を出しています。
 オノン河の源というのはハタ山の山頂に当たるのです。即位の
さい、成吉思汗は95人の千人長を任命していますが、その何倍
かの人間がそのときその場所に集結したことを意味します。山頂
にそれだけの人が集まれるとは思えないし、当然馬や食料の羊を
伴って行くことになるので、困難を極めるはずです。
 狼が襲ってくる危険もあるし、雨が降って雷が鳴ったとすると
馬や羊は一斉に林の中に逃げ出して探しようがなくなる――とこ
ろが、成吉思汗駅の周辺、とくにクローの城址付近には、それだ
けの人馬や羊が集まれる場所があるのです。そのため、成吉思汗
の即位の場所はここではないかと考えたのです。
 源義経=成吉思汗説をとる人は、非常によく現地踏査を重ねて
います。それに対して反対派の学者は、史書ばかりを重んじ、現
地を調べようともしていないのです。  ・・・・[義経=20]


≪画像および関連情報≫
 ・成吉思汗の即位の場所はどちらか
  ドーソンの『蒙古史』によると、「興安嶺上に麾下に従う各
  種族を呼び集め」とあるが、この場所に合うのは、成吉思汗
  駅の周辺の方である。

1650号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月09日

義経/成吉思汗/その性格と人物(EJ1651号)

 平泉で自害したという義経が大陸に渡り成吉思汗になる――こ
のような壮大なロマンを追って分析してきましたが、今度は源義
経と成吉思汗がそれぞれどのような性格の人物であり、何を好み
何を嫌ったかについて考えていくことにします。
 源義経については、『扶桑見聞私記』にその性格を記述した次
の一文があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 (九郎殿は)第一は才智なり、第二は博学なり、第三は大勇に
 して威あり、第四は奢心ある人なり、第五には威高に見ゆるな
 り、第六にはよく人を被馴、第七には謀計あり、第八にはよく
 諸人の心底を察し知る、第九にはよく勇士の剛臆を知り給ふ、
 第十に剣術の名誉を得られたり、此の十種は皆凡人の及ぶとこ
 ろにあらず・・・
                 ――『扶桑見聞私記』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 成吉思汗については、既出の『鉄木真用兵論』において、ロシ
アの学者イワニンが次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 成吉思汗、己を処するに方正、人を遇するに寛大、かつ臣下を
 愛し厚く勲労を賞せしをもっておおいに名望を博し、彼に心服
 して従う者日にますます多く、兵勢従って奮起するを得たり。
 また成吉思汗は政略と兵力とを並用し、徳義をあつくして同盟
 を結び、勇敢不屈、みずから士卒の標準となり、よく法を守り
 措置公平、号令厳粛をもって強兵を編成し、四隣ついになびか
 ざる者なきに至れり・・・
                 ――『鉄木真用兵論』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 どうでしょうか。きわめてよく似ています。名前を外せば、ど
ちらが義経で、どちらが成吉思汗かわからなくなるほどです。と
くに人心の掌握術においては、義経、成吉思汗ともに天賦の才能
を持っていたようです。
 現在、放送されているNHKの大河ドラマ『義経』において、
頼朝の妻である北条政子が、義経の人の心を掴む不思議な魅力に
は警戒しなければならないと頼朝に告げるシーンが再三出てきま
すが、成吉思汗についても同様の才能があったようです。
 偶然とはいえない一致点はまだあります。成吉思汗は兵士の訓
練の一環として、巻狩りをよく実施しています。成吉思汗の実施
した巻狩りを小谷部氏は次のように書いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 (巻狩りを)挙行する前にはあらかじめ人を派遣して一定の区
 域に野獣を追い込んでおく。当日、武装した者たちが、美しく
 装った馬に乗り、征矢と鏑矢を添えた箙を負い、猟犬多数を引
 き連れて山野におもむく。巻狩りの指揮者は勢子に鳥獣を駆り
 出させ、獲物は必ず一人で射止めなくてはならない。名誉の獲
 物を射止めた者は、それを高く捧げて名のりをあげる・・・。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは鎌倉時代に盛んに行われていた巻狩りそのものといえま
す。NHKの大河ドラマ『義経』において、奥州の藤原秀衡が一
門の武者と義経を伴って巻狩りをするシーンがありますが、まさ
にこの記述と同じことをやっているのです。
 また、成吉思汗は、巻狩りのさい、高い櫓にのぼって将兵の猟
の状況をチェックし、間違って鳥獣を逃がした士卒には罰を与え
たといわれています。
 これなどは、『源平盛衰記』に出てくる宇治川の合戦のさい、
義経が高い櫓の上に上がって、宇治川の先陣と剛者を矢立の筆を
取り寄せて明記するシーンを彷彿させるものがあります。
 相撲についても述べる必要があります。相撲の起源は非常に古
く、『古事記』にも相撲を思わせる記述があり、日本に古来から
伝わるものです。モンゴルで相撲が盛んなのは、改めていうまで
もないことですが、どのように考えても、モンゴルの相撲は日本
から伝わったものと考えるのが自然であると思います。
 しかし、不思議なことにモンゴルに関して書かれたどの本にお
いても、モンゴルの相撲は日本のそれが伝わったものとは一切書
いていないのです。憶測ですが、それをいうとどうして伝わった
かをいわなければならなくなり、義経=成吉思汗説が出てきてし
まうからではないでしょうか。
 それはさておき、相撲は鎌倉時代において武芸の一つとして盛
んに行われていたのです。したがって、当然義経はやっているし
好きであったといわれています。大河ドラマでは、牛若時代の義
経が平家の子供たちと庭先で相撲をとるシーンが登場します。
 モンゴルと日本の相撲の共通点は、武芸のひとつとしてそれが
行われていたことです。鎌倉時代において相撲は武芸のひとつと
して教えられており、勝者には褒美を与える慣わしがあったので
す。『元朝秘史』によると、相撲は成吉思汗とその子オゴタイが
とくに愛好したといわれています。
 さらに、モンゴル人は緑茶を愛好しています。成吉思汗が愛用
し、伝えたとされているのです。もちろん日本では緑茶の起源は
古く、鎌倉時代には茶室、茶会などが流行しており、緑茶の愛好
者が多かったのです。
 また、成吉思汗と義経は酒嫌いであり、成吉思汗は酒好きの従
臣に次のようにいっていたというのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 酒を飲むと、理性を失う。心を平静に保つことができず、まる
 で頭を打たれたようにめまいを感じる。知識も才能も用をなさ
 ぬ。帝王が酒をたしなむときは堂々たる王業をほどこすことが
 できぬ。将軍が酒をたしなむときはその部隊を統御することが
 できぬ。もし酒をやめることができないなら、節酒して一ヶ月
 三回にせよ。一回ならさらによい。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                  ・・・・・・[義経21]


≪画像および関連情報≫
 ・義経が酒嫌いであった証拠
  『義経記』には、山伏姿で北走中、越前国府の代官から酒を
  贈られたが、「酒は下向の間禁酒にて候」としてこれを断っ
  たという記述がある。伊勢三郎が義経の臣下になるときも酒
  をすすめるが、「少しもきこし召し給はず」と記述されてい
  る。しかし、大河ドラマでは何度か義経が酒を飲むシーンは
  出てきている。

1651号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月10日

義経と成吉思汗の容姿を探る(EJ1652号)

ところで、源義経と成吉思汗はどのような容姿をしていたので
しょうか。
 実はこれが意外に難問なのです。現代のようにマスコミがある
わけではないので、いかに著名人といえども実際に会った人以外
は本人の容姿を知る方法はないのです。
 義経はどのような容姿をしていたのか――義経は当時美人の誉
れの高い常盤御前の子供ですから、眉目秀麗の男子と勝手に決め
ていますが、実際にはどのような容姿をしていたのかを知る手段
が乏しいのです。
 そこで見つけてきたのが、添付ファイルの絵画ABCです。い
ずれも源義経なのですが、イメージに合うでしようか。
 一番知られているのはBの絵です。これは平泉の中尊寺にある
ものですが、正直いってこれほど義経のイメージに合わない絵も
ないと思います。この肖像画は俗に義経の「失意の肖像」といわ
れており、沈痛な表情をして肩を落として失意のどん底にいる義
経を描いています。しかし、衣川の戦いで死んでいるとすれば義
経は31歳――肖像画は50歳以上に見えます。
 Aの絵は「義経参着の図」といって、黄瀬川において、義経が
平家打倒の旗揚げをした兄頼朝に初対面するときの緊張の面持ち
の場面を描いたものです。義経22歳のときの肖像とされていま
す。昭和15年の安田靫彦(ゆきひこ)氏の作品で、東京国立近
代美術館が所蔵しています。Bの「失意の肖像」に対してAの方
は「希望の肖像」といわれています。
 義経に関して一般の人が描いているイメージはほとんどが「希
望の肖像」の方であると思います。安田氏によると、義経の顔は
藤原時代の毘沙門天像からヒントを得たということで、あくまで
想像の産物なのです。なお、Cの絵の作者は狩野探幽であり、江
戸時代に描かれた「義経図」です。現在、茨城県立歴史館の所蔵
になっています。
 それでは、成吉思汗の方はどうでしょうか。
 チンギス・カーンの肖像としてわれわれが目にする肖像といえ
ば、Dの肖像画しかありません。成吉思汗に関しては義経以上に
その容姿を伝える情報がないのです。『元朝秘史』などにも容姿
については何も説明されていないのです。
 Dの肖像画は「中国歴代帝后像」に収められているものであり
想像画であって、しかも多分に中国化されています。よく見ると
クビライ像とほとんど同じであることに気がつきます。要するに
実際の容姿を伝えるものでないことは確かです。
 成吉思汗の容姿について唯一伝えている本があります。バント
ルドという人の書いた『モンゴル侵入までのトルキスタン』とい
う書物です。しかし、著者のバントルド氏によると、他の文献か
らの引用であると断っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 成吉思汗は、身長は高くて体格は頑丈。ひたいが広く、ひげは
 長く、人物雄壮である。なお、一般のモンゴル人は、最長のも
 のでも五尺二、三寸を過ぎず、ひげは少なくて、顔すこぶる醜
 なり。    ――『モンゴル侵入までのトルキスタン』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これが正しいとすると、成吉思汗は義経とはまったく似ていな
いことになります。バントルド氏が引用した文献は南宋の趙こう
という人が書いた著作といわれています。彼は北京で成吉思汗の
軍隊と接触していますが、そのとき成吉思汗は西征に出かけてい
て本人には会っていないのです。おそらく将軍ムカリに会って、
成吉思汗のことを聞いて書いたものと思われます。
 源義経は『平家物語』によると、五尺たらずの小男とされてい
るのです。義経、成吉思汗ともにその容姿は想像の産物とはいえ
決定的な違いがあるといえます。
 高木彬光氏は、『成吉思汗の秘密』(光文社刊)において、神
津恭介の主張する義経=成吉思汗説に反論する歴史学者である井
村博士の言葉として次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 それでは絶対にこの一人二役説が成立しえないという証明をし
 てみせよう。成吉思汗は容貌魁偉、身長巨大といわれている。
 もちろん、むかしのことだから身長一メートル何十センチ、体
 重何十キロというような正式な記録は残っていないが、一方源
 義経のほうは、五尺そこそこの小男だったことが、日本の記録
 に残っている。小人国に漂流したガリバーでもあるまいし、五
 尺そこそこの小男では、いくら蒙古人の中にまじっても、身長
 巨大とはいえないだろう。顔の人相なり、体重の変化というこ
 とは当然ありうるとしても、人間の身長が30歳過ぎてから急
 に伸びるということが、いったい医学的にありうるものなのか
 ね。 ――高木彬光著、『成吉思汗の秘密』(光文社刊)より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは源義経=成吉思汗説にとっては、大変な難問と思われる
のですが、決定的なものではないのです。なぜなら、義経が小男
で、成吉思汗が大男であるからです。これが逆――すなわち、義
経が大男で、成吉思汗が小男であったら、完全にお手上げになっ
てしまうのですが、そうでないからです。
 そもそも英雄といわれる人は、その容貌、外見、住居などのあ
らゆる面で人を威圧することを考えていたといわれます。ナポレ
オンは、かなり痩せていたので、服の中に綿を入れて肥満を装っ
ていたし、あのジュリアス・シーザーは禿頭であったので、たえ
ず鬘を使っており、加藤清正は実は小男であったので、つねに長
烏帽子をかぶっていたといわれます。
 成吉思汗がそういう細工をしていたことは考えられるのです。
戦国時代の日本の武将でもそうですが、自分の本当の姿を側近を
除いてみだりに見せないようにしていたからです。だからこそ、
影武者が可能だったのです。本当の義経がどのような顔をしてい
たのかは義経軍にあっても、一部の側近しかわかっていないとい
うことは十分あり得るのです。    ・・・・・・[義経22]


≪画像および関連情報≫
 ・義経/成吉思汗の容姿を示す絵画
   A ・・・ 希望の肖像/義経参着の図
   B ・・・ 失意の肖像
   C ・・・ 狩野探幽の義経図
   D ・・・ 成吉思汗の肖像画

1652号.jpg
posted by 平野 浩 at 10:48| Comment(1) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月11日

義経主従における弁慶の役割(EJ1653号)

 義経が本当に小男であったとして、何らかの方法で大男になり
すます――そんなことが可能でしょうか。
 それよりも可能性があるのは、ある大男が義経の代わりを務め
る――この方がよほど現実的な話ではないかと思います。しかし
その大男は常に義経の身近にいて、秘密の守れる信用ある人物で
なければならないのです。そういう人がいれば、身代わり説は現
実のものとなります。
 義経の場合はそういう条件に当てはまる大男がいたのです。そ
うです。武蔵坊弁慶その人です。弁慶ならば義経の身代わりは十
分務まるのです。考えてみると、京都から平泉への逃避行におい
てもつねに弁慶が主役になっていたのです。
 歌舞伎十八番『勧進帳』――義経一行は、山伏に姿を変えて安
宅の関(石川県小松市安宅町)にさしかかります。ここではあく
まで弁慶が主役で義経は強力に姿を変えています。
 関を越えようとしたその時に、関守富樫泰家に見咎められ、詮
議の問答が始まるのです。勧進帳とは寺院建立などの資金集めの
ためにその趣意をしたためたものであり、弁慶は白紙の勧進帳を
読み上げ、怪しい者ではないことを力説します。
 しかし、富樫は「お顔が似ている」と強力に疑いの目を向ける
のです。そうすると弁慶は、義経に似た貴様が憎いとして、主人
を棒で打ちすえます。そこまでして主君を守ろうとする忠義の心
に感心した富樫は、義経と知りながらも一行を解放し、関を通し
てしまうという話です。このように逃避行ではあくまでも弁慶が
主役であって、義経の出る幕はないのです。
 若干横道にそれますが、富樫が通り過ぎようとする強力を「お
顔が似ている」として引き止めたということには少し疑義がある
のです。なぜなら、富樫が義経の顔を知っているはずがないから
です。当時のことですから、まさか義経の似顔絵が関所に配られ
ていたとは思えないからです。赤穂浪士の討ち入りのときでさえ
大石内蔵助をはじめとする赤穂浪士は、吉良上野介の顔を確認す
るのに大変な苦労をしているのです。名前はよく知られていても
顔までは知らないケースが当時は圧倒的に多かったのです。
 推測ですが、平泉から蝦夷地に落ちのびるときもこの手を使っ
たものと思われます。つまり、成吉思汗は六尺豊かの弁慶がなり
すまし、義経は裏で采配を振るったのではないかと思われるので
す。そうであるとすると、「成吉思汗は容貌魁偉、身長巨大」は
何の不思議もないことになります。
 『成吉思汗伝』を書いたドルジという学者がいます。彼はその
中で、成吉思汗の死について次のように書いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 成吉思汗の崩御の際には、その玉体は漸次縮小した。まことに
 奇異にたえなかったが、古今未曾有の大英雄の最後には、この
 ような奇跡も当然起こりうるとものと信じ、遺体はそのまま黄
 金の棺におさめ・・・。
    ――高木彬光著、『成吉思汗の秘密』(光文社刊)より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「玉体は漸次縮小」とは、裏の成吉思汗である義経が死んだと
考えれぱ、何も不思議はないのです。これについて小谷部全一郎
氏は、面白い推理をしているのです。
 小谷部氏は、成吉思汗がテムジンと名乗っていたときは弁慶が
その役を演じ、成吉思汗になってからは義経に代わったのではな
いかと考えているのです。テムジンのときは、モンゴル軍はそれ
ほど大軍ではなく、兵士と一緒に戦場に出て戦っていたので、テ
ムジンは「容貌魁偉にして身長巨大」というイメージが定着した
のです。しかし、成吉思汗になってからは、義経に代わって、あ
まり人前に姿を現すことはなくなっていたのです。そのときモン
ゴル軍は巨大化しており、そのようにしても誰も不審に思われる
ことはなかったと考えられます。
 実は成吉思汗は、次のように2回にわたって即位しているので
す。これは今まで謎とされていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     第1次即位 ・・・ 不   明
     第2次即位 ・・・ 1206年
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 第1次即位とは、テムジンが諸部族を統一し、部族長に推され
たときをいうのです。そのとき「カン」の位を得たのです。つま
り、各部族がテムジンを長として認めたことを意味します。これ
に対して第2次即位とは、「九旒の白旗」を掲げて、全モンゴル
の王となったときをいうのです。
 『元朝秘史』は、第1次即位の年代を記していないのです。し
かし、一部史料には1189年となっています。今までの分析で
は、義経一行はその1年前に平泉を脱出していますが、第1次即
位のときのテムジンを義経と考えることには無理があります。義
経は八戸や蝦夷において、かなりゆっくりと滞在しており、時間
的に間に合わないと考えられるのです。ここで実は弁慶が問題に
なってくるのです。
 北海道の日本海沿岸に寿都という町があります。その寿都町の
寿都湾の西口に「弁慶岬」というのがあるのです。北海道の地図
で調べていただきたいと思います。強風と日本海に沈む夕日の美
しさで知られるところです。弁慶岬には3.6メートルの弁慶像
が海を向いて立っています。
 なぜ、このようなところに弁慶がいるのでしょうか。ここには
「弁慶別れの宴」という伝説が残っているのです。弁慶は二ツ森
という小高い山の頂上で、秘蔵の金の銚子と金の盃とで別離の宴
を開いています。宴が終わると、弁慶はいつかまたこの町に戻っ
てくると約束して、金の銚子と盃とを白桔梗の根元に埋めたとい
うのです。
 この伝説は何を意味するのでしょうか。ここでは弁慶が主役で
あり、義経は脇に追いやられているのです。別れていく主人公は
なぜか弁慶なのです。          ・・・・[義経23]


≪画像および関連情報≫
 ・寿都に関わる史跡・伝承
  @弁慶の相場場
  A弁慶別離の地/二ツ森
  B弁慶岬

1653号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月12日

テムジン2回の即位の真相(EJ1654号)

 義経一行は、蝦夷地に渡ってからは、松前、函館、乙部浦を経
て、西海岸を北上し、寿都にきています。その足跡は数多く残さ
れているのです。
 義経一行は寿都にはしばらく滞在していたと考えられます。義
経を慰めるため、弁慶がアイヌの人たちと相撲をとった土俵跡が
残されているからです。今では草に覆われていますが、土俵の大
きさは幅20メートル、周囲に30センチの土盛りがされており
あたりには4本の柱の跡、弁慶が力足を踏んだ跡、わらじばきの
足跡や義経の座った物見台まであるのです。
 しかし、寿都では義経よりも弁慶が主役であって、義経は脇に
追いやられているのです。現在でも、毎年8月14〜15日には
「寿都弁慶祭り」が盛大に行われており、依然として弁慶が主役
なのです。そして、なぜか、弁慶別れの宴(儀式)が伝説として
残されているのです。
 問題は、義経一行が寿都を去るときの別れの宴であるのか、弁
慶だけが寿都を離れるさいの別れの宴であるのかがはっきりしな
いことです。この場合、何らかの使命を担って弁慶が寿都を離れ
たと考えると、弁慶の別れの宴の謎は解けるのです。
 小谷部氏は、義経一行が寿都で義経の本隊と弁慶を長とする部
隊に分かれたと考えているのです。そして、弁慶の部隊は、おそ
らく安東水軍の力を借りて、先遣隊として大陸に渡ったのではな
いか――このように推理しているのです。
 この弁慶を長とする先遣隊は、サハリン島の西北端から大陸の
アムール川河口付近に上陸し、満州女直族のワンスン、高麗チャ
ガン軍を破ってウラジオストック近郊に達したと考えられるので
す。つまり、ここまでは、弁慶軍が攻め進んできたのであり、義
経軍は後から合流したのではないかと思われるのです。
 そして、第1次即位の時期は、高麗チャガンを破った1192
年頃ではないかと考えられます。そうであるとすると、第1次即
位のときのテムジンは、弁慶であると考えても不思議はないわけ
です。これがテムジンは「容貌魁偉にして身長巨大」という説を
生んだのです。
 テムジンの軍勢は、この時点でウラジオストック近郊に達して
おり、そこで約10年間を過ごしているのです。かなり長い期間
です。義経の本隊は、この間に合流したものと考えられます。
 10年後の1202年にテムジン軍は動き出し、タタール部族
とケレイト部族の攻略を開始するのです。これらの戦いからは義
経自身が全軍の指揮をとったものと考えられます。そして、ナイ
マン王国を攻略して、1206年にオノン河上流にてクリルタイ
を開催し、成吉思汗に即位するのです。これが第2次即位と呼ば
れるのです。
 問題は、第2次即位以降の成吉思汗が義経であるとして、その
義経が前面に出て指揮をとったのか、それとも依然として弁慶を
前面に立てて、義経は裏で指揮をとったのか――そのことははっ
きりしていないのです。
 しかし、テムジンは「容貌魁偉にして身長巨大」という記述が
残っているのですが、成吉思汗が大男であるという記述はないの
です。成吉思汗が大男であるというのは、テムジンがそうであっ
たからということからきているのです。
 これに関して、興味深い絵があります。添付ファイルを見てく
ださい。中公新書『元朝秘史』(岩村忍著)に出ているものです
が、これはラシードの『集史』から転載されたものであると思わ
れます。何の絵かというと、成吉思汗が降伏させた敵将と謁見し
ている絵なのです。
 5人の人物が描かれていますが、左側に降伏した3人の敵の武
将がうなだれるように立っています。そして、右から2人目の人
物が成吉思汗なのです。絵が鮮明ではないので、はっきりわかり
ませんが、ふっくらとした顔立ちで、口ひげのようなものも見え
ます。しかし、その背丈は敵将よりも明らかに低いのです。
 写真じゃないのだからという意見もありますが、逆に絵である
からこそ、成吉思汗の大きさを強調するのが普通です。このよう
に、成吉思汗が大男であったという説もあまり根拠のあるもので
はないといえます。
 さて、もう一度寿都に話を戻します。弁慶岬には遠く海原を眺
める弁慶の銅像が立っています。この弁慶像は1988年に建て
られたものですが、弁慶は一体何を待っていたのでしょうか。
 弁慶の像の台座には「想望」という文字が刻まれています。こ
の「想望」には次の意味があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 同志を待ちわびる弁慶の心、ここに宿る。奥州を逃れた義経・
 弁慶一行は蝦夷地に渡り、この地に滞在していた。弁慶の舎弟
 ともいうべき常陸坊海尊が、義経再挙の兵を募って蝦夷に向っ
 たという情報を得た弁慶は、毎日毎日、この岬の先端に立って
 海尊の到着を待っていたが、海尊軍団の船影を見ることはでき
 なかった。そんな弁慶の姿を見ていたアイヌたちは、この岬を
 弁慶が同志を待ちわびていた岬ということから、いつしか弁慶
 岬と呼ぶようになったのである。    ――「想望」の由来
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 つまり、義経一行は援軍を待っていたのです。平泉を脱出した
義経一行には藤原忠衡の率いる軍、大河兼任率いる軍など、いろ
いろ挙兵の情報があり、常陸坊海尊の挙兵も、そのひとつである
と考えられます。
 ところでこの常陸坊海尊とは何者でしょうか。
 常陸坊海尊は、園城寺(三井寺)の僧兵で、義経の家臣のひと
りです。しかし、実在の疑われる伝説的な人物であり、その人物
像は明確ではないのです。なお、歴史学者の中には弁慶ですら実
在を疑っているほどです。常陸坊海尊は、衣川合戦当日も、近く
の山寺に参拝したまま戻らず、そのまま逃れて生き延びたとされ
ている人物です。NHKの大河ドラマては、常陸坊海尊は登場し
ていないはずです。        ・・・・・・・[義経24]


≪画像および関連情報≫
 ・サイタボウの碑
  チチハル駅と成吉思汗駅との中間にフラルジという部落があ
  る。ここに、昔、日本からやってきた僧の古碑があり、それ
  を「サイタボウの碑」と称している。「サイタボウ」は「西
  塔坊」であり、武蔵坊西塔弁慶を意味するといわれている。
         ――佐々木勝三、大町北造、横田正二/共著
   『成吉思汗は源義経/義経は生きていた』より。勁文社刊

1654号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月15日

成吉思汗は何を意味するか(EJ1655号)

 7月11日からスタートした「源義経=成吉思汗説」のテーマ
ですが、本日で第25回目となります。そろそろ終りに近づいて
きています。しかし、このテーマで述べなければならないことは
まだ残っています。今週はそういうことに絞って述べていくこと
にします。
 蒙古について書かれている本を調べると、その始祖の成吉思汗
については、カナで「ジンギスカン」か「チンギス・ハーン」な
どと表記され、「成吉思汗」という漢字が使われていないことに
気がつきます。しかし、日本の書物によると、「成吉思汗」の文
字が使われているのです。この「成吉思汗」という漢字は、誰が
つけたのでしょうか。
 1206年の第2次即位のとき、テムジン(鉄木真)は自らを
「成吉思汗」と名乗っています。当時のモンゴルには文字という
ものはなかったのですが、成吉思汗=義経と考えると、義経は自
らの意思で、この名前を選んだと考えてよいと思います。
 義経は京都で検非違使をしていたとき、公卿との付き合いがか
なりあったといわれます。そのため、当時公卿の間で流行してい
た文字遊びにもある程度は通じていたものと思われます。頼朝は
そういう義経の行動を苦々しく思っていたのです。
 文字遊びとは、例えば、在原業平が「かきつばた」という五字
を読み込んだ歌を作れといわれて、即座に次の歌を詠じたという
そういう高雅な遊びのことです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    「か」らころも、「き」つつなれにし、
    「つ」ま(妻)しあれば、「は」るばる来ぬる、
    「た」びをしぞ思う
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 こんな話もあります。保元の乱に敗れて死んだ左大臣、藤原頼
長は、改元のとき問題になった「天保」という年号を「一大人只
十」と分解して、年号にふさわしくないので、止めることを進言
したといわれます。
 義経がそういう知識があったと考えると、自ら選んだ成吉思汗
という称号にはそこに何らかの思いをこめて作ったと考えるのは
不思議なことではないと思うのです。
 問題なのは「汗」という字なのです。「汗」とは王位を指す名
称であり、帝位は「大汗」と称する――この「大汗」の称号は、
成吉思汗が即位してはじめてできたものであり、成吉思汗自らが
創始したものと考えてよいと思います。
 「汗」は分解すると「サンズイに干」――スイカンと読むこと
ができるのです。「スイカン」とは白拍子の衣装です。『平家物
語』の「妓王」の段に次の文章があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 水干に立烏帽子、白鞘巻をさいて舞いければ男舞とぞ申しける
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 したがって、水干は白拍子――すなわち、静御前を指している
のではないかということです。つまり、「成吉思汗」とは漢文読
みをすると、次のように読めるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      「吉」「成」りて「水干」を「思」う
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「吉」とは「吉野山」であり、「水干」を静御前と考えると、
「成吉思汗」という称号は次の意味に取れるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      吉野山の誓い成りて、静(しずか)を思う
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 静に関しては有名な話があります。鶴岡八幡宮の堂が完成した
ときのことです。祝いの儀を執り行うことになって、鎌倉武士の
間から、名高い白拍子の静に祝いの舞を舞ってもらったらどうか
という声が出たのです。
 頼朝は政子に静に舞を披露するよう伝えるよう命じたのです。
政子はおそらく静は断ってくると考えたのですが、静は舞を舞う
ことを了承するのです。
 そのとき静は、この舞を通じて義経にメッセージを伝えたいと
考えたのです。そして、鎌倉若宮堂で、大将軍頼朝の権威に何ら
臆せず、次の自作の歌を詠じながら、舞を舞ったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     しずやしず、しずのおだまきくりかえし、
      むかしを今に なすよしもがな
     吉野山 峰の白雪ふみわけて
      入りにし人の あとぞ恋しき
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは明らかに義経を思う恋の歌だったのです。頼朝は謀反人
を偲ぶ歌を歌うとは・・と露骨に不快感を示したのですが、政子
は「見事!」と褒めたといわれます。
 実は「成吉思汗」という名前は、義経の静の歌に対する返しで
あるといわれているのです。それは「成吉思汗」を万葉仮名とし
て読み下せば、「なすよしもがな」になるからです。
 このように「成吉思汗」という名前は、和漢両様の読み方で、
静御前の歌への見事な「返し」となっているのです。果たして、
これが牽強付会のこじつけといえるでしょうか。
 ところで、今日は8月15日です。毎年8月15日には京都の
鞍馬山では「義経忌」という法要が行われるのです。実は、同じ
8月15日にモンゴルでは「オボー祭」という催しが行われてい
るのです。「オボー」というのは、郡境に立つ小塔という意味で
すが、成吉思汗の命日のお祭りといわれています。こんな偶然が
あるでしょうか。
 「われこの天命をうけたれば、死すとも今は憾みなし。ただ、
故山に帰りたし」――これは成吉思汗の遺言として伝えられてい
ます。「ただ、故山に帰りたし」――まことに意味深なことばで
あると思います。          ・・・・・・[義経25]


≪画像および関連情報≫
 ・「白拍子」
  切り絵作家・宮田雅之氏の作品

1655号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月16日

義経=清朝先祖説というものがある(EJ1656号)

 「源義経=清朝先祖説」というのがあります。「源義経=成吉
思汗説」を述べるに当って、これに言及しないわけにはいかない
と思います。しかし、これは妄説中の妄説といわれるもので、歴
史論争としては既に「そのようなことはありえない」として決着
のついていることだそうです。
 そこで、コトの真偽は読者のご判断に委ねるとして、あえてご
紹介することにします。
 源義経=清朝先祖説は、もちろん、源義経=成吉思汗説をベー
スにしていわれるようになったものであり、源義経=成吉思汗説
の発展系といえます。
 『清国総録』という本があります。英国の公使をしていたデビ
スという人が書いた本です。この本に次のようなことが書いてあ
るのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 成吉思汗の孫、忽必烈(フビライ)の子孫は、明朝のために放
 逐されて、蒙古の故地及び満州にのがれ、長の娘と婚して、諸
 公子を産んだ。彼らは朔地に割拠して勢威をふるい、後に大挙
 して明朝を滅ぼし、国を清と号した。清帝を成吉思汗の孫、忽
 必烈の後裔とするのは、けだし、このためである。
              ――デビス著、『清国総録』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 清国の建国については諸説があり、成吉思汗の誕生や蒙古の建
国と同様に伝説的なヴェールに閉ざされているのです。しかし、
英国の公使までやった人物がそうデタラメを書くとはとても思え
ないのです。
 清国というのは、1616年から1912年まで中国を支配し
た最後の統一王朝であり、満州に存在していた海西女真族(満州
民族)の部族、愛新覚羅氏が作った王朝です。
 1616年、ヌルハチ(太祖)が女真族(満州族)を統一し、
満州に「後金」を立てたのです。そして、1636年に「清」と
改めています。1644年には明の滅亡をきっかけに中国に侵入
し、都を北京とし、支配民族の満州人の八旗軍を中心に、15年
で全土を統一しています。第4代の康熙(こうき)帝から、第6
代の乾隆(けんりゅう)帝までは全盛をきわめています。
 清朝では、人口が急増し、商工業が盛んになって全国が1つの
市場になり、銀の流通が広がったのです。皇帝が学者を優遇する
政策をとり、『康熙字典』をはじめとする多くの書物の編纂が行
われ、絢爛たる文化を誇った王朝なのです。
 中でも『古今図書集成』一万巻は有名であり、中国最大の類書
(百科事典)といわれました。源義経=清朝先祖説はこの書物と
深い関係があるのです。
 さて、天明3年(1783年)に成立したという『国学忘貝』
という本があります。編者は森長見という人です。この書物の中
に次の驚くべき記述があるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 清王朝の編纂による『古今図書集成』一万巻中に『図書輯勘』
 一三○巻がある。清国皇帝は自身で序文を記し、『朕は源義経
 の末裔である。義経が清和源氏の流れをくむため、清和天皇の
 名をとって国号を≪清≫とした』と述べている。私は或る儒者
 の書物を見てこのことを知った。
              ――森長見編、『国学忘貝』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 自分は源義経の末裔であり、そのため「清」という国名は清和
源氏の「清」をとったものであるということを皇帝自身の筆で書
いているとすれば大変なことです。
 確かに、かつて北京の宮殿に「和」という字がついたものが多
いということがあったのです。大和殿、保和殿、中和殿、雍和宮
協和門などです。清朝時代には、日本のことを「和」と呼んでい
たのです。
 そのため中華民国が誕生したとき、袁世凱大総統はその名前を
書きかえるのに苦労したと伝えられています。大和殿は承運殿、
保和殿は建極殿、中和殿は体元殿、協和門は経文門というように
です。なぜ、袁世凱大総統は、ここまで「和」を外すことにこだ
わったのでしょうか。
 歴史学者たちは当然『図書輯勘』の存在を疑ったのです。『古
今図書集成』自体は、日本に八代将軍・吉宗の時代に絵図160
巻のみがきて、宝歴13年(1763年)に全巻がきているはず
なのです。時の老中・田沼意次は書物奉行に諮問したうえで、紅
葉山文庫に収蔵したとされています。
 何人かの歴史学者は、紅葉山文庫所蔵の『古今図書集成』の閲
覧を申し出たのですが、なかなか許可にならなかったのです。そ
の中にあって、閲覧の許可が出たのが桂川中良という人です。彼
の兄が医師・蘭学者にして幕府の医学館教授をしていたことがも
のをいったのです。
 桂川中良は、『古今図書集成』のすべてを閲覧したのです。し
かし、肝心の皇帝の序が出ているという『図書輯勘』はなかった
というのです。総目録にもなかったそうです。そこで、桂川中良
は『図書輯勘』は存在しない書物と決めてしまい、次のように述
べているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 考えてみれば『古今図書集成』という貴重な書物を見たうえに
 真実を知ったことこそ大きな幸福である。義経=清朝先祖説は
 『国学忘貝』に限らず、広く世に喧伝されているが、同好の士
 よ。義経と清朝のことに関しては、永久に懸念を絶つべきであ
 る。                    ――桂川中良
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 桂川中良は、このことばによって、義経は衣川の戦いで自害し
ており、清朝先祖説を含む義経=成吉思汗説などは妄説に過ぎな
いと断定したのです。しかし、最近になって、『図書輯勘』はや
はりあるという説も出てきているのです。  ・・・[義経26]


≪画像および関連情報≫
 ・『古今図書集成』
  中国、清代に編纂された中国最大の百科事典。1万巻からなり
  1725年に完成。のち銅版印刷で60余部が印刷された。図
  は、1884年に上海で重版されたものである。

1656号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:58| Comment(1) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月17日

清国は中国にあらず(EJ1657号)

 清朝のことが出てきたので、若干脱線しますが、清朝と中国の
関係について述べておきます。源義経=成吉思汗説とも関係があ
るからです。
 一般的に清朝は最後の中国王朝であると思われています。した
がって、1894年〜1895年にかけて行われた日清戦争は、
日本が中国と戦った戦争であり、その結果、下関講話条約で日本
が獲得した台湾は、中国から割譲を受けたものである――そう思
い込んでいる人が意外に多いのです。
 しかし、これはとんでもない間違いなのです。清朝は中国では
ありません。日清戦争は日本と清帝国との戦争であり、日本と中
国の戦争ではないのです。なぜなら、中国という国家はその時点
でまだ存在していなかったからです。したがって、台湾について
は、中国の一部ではなく、清帝国の辺境だったのです。
 その理由としては、次の2つを上げることができます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.まず、人種が違うということである。清朝の皇帝は満州人
   であって、中国人(漢人)ではないのである
 2.清朝は中国の外の瀋陽で建国されており、確かに中国を支
   配したが、それ以外の国も支配していること
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 清朝の皇帝は満州族なのです。清という国は、満州族の一部族
である愛新覚羅氏が建てた王朝なのです。考えてみると、テムジ
ンが当初活躍したのは、現在の中国の東北地区に当たる満州の地
域なのです。
 清朝は1636年に瀋陽で建国されており、中国に入って支配
したのは1644年からのことです。それから1912年までの
268年間、清朝は中国を支配したのですが、中国だけではなく
清帝国を構成する五大種族に君臨したのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.満州族 ・・・・・・・・ 八旗の議長
  2.モンゴル族 ・・・・・・ 大ハーン
  3.漢族 ・・・・・・・・・ 明朝の皇帝
  4.チベット族 ・・・・・・ 大施主
  5.東トルキスタン族 ・・・ ジューンガルの支配権
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 清朝の皇帝は満州族に関しては、「八旗」と呼ばれる8部族の
部族長会議の議長であり、モンゴル族に関しては成吉思汗以来の
遊牧民の大ハーン、漢族にに関しては洪武帝以来の明朝の皇帝の
地位を引き継いで皇帝として支配したのです。
 チベット族に関しては、元の世祖フビライ・ハーン以来の、チ
ベット仏教最高の保護者である大施主、東トルキスタン族に対し
ては、最後の遊牧帝国ジューンガルの支配権を引き継いで、オア
シス都市のトルコ語を話すイスラム教徒を支配していたのです。
 これらの五大種族の中で漢族だけはどちらかというと低く扱わ
れていたのです。他の4つの種族は自治が認められていたのに対
し、漢族だけは清朝帝国の使用人である官僚を通して統治されて
いたからです。
 漢族は科挙の試験に合格して官僚にならない限り、中国の行政
には参加できず、辺境の統治にも帝国の経営にも参加することは
認められなかったのです。いわば、漢族は清帝国の二流市民であ
り、中国は清朝の植民地の一つだったのです。
 これに比べてモンゴル族は、清朝の建国に当初から参加した関
係で、新帝国では満州族に準ずる地位を与えられていたのです。
モンゴル人の貴族たちは、清朝の皇族と同じ爵位を与えられ、皇
帝から俸禄を支給されていました。それにモンゴル族の庶民は、
それぞれ自分の領主に治められていて、清朝に税金を払うことは
なかったのです。
 それにもかかわらず、清朝は中国王朝であり、清帝国は中華民
国であったという誤解がはびこっているのです。どうしてこうい
うことになったのでしょうか。
 これに関して、東京外国語大学名誉教授、岡田英弘氏は次の3
つの原因を上げています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.「国家国民」という新しい観念が世界中に広まったこと
 2.20世紀における中国人による政治的宣伝の結果である
 3.ヨーロッパ人やアメリカ人の勘違いがそれに加わること
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 われわれは「国家」という言葉を何気なく使いますが、国家な
どという政治制度は18世紀の末まで、世界中のどこにも存在せ
ず、あったのは君主制と自治都市だけである――岡田氏はこのよ
うにいい、次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 アメリカ独立でも、フランス革命でも、国王の財産を市民が強
 奪して、国家がはじまったのだが、こんどは国家の正当な所有
 権者がだれかが問題になる。国家の所有権は「国民」に帰属す
 る、ということになると、こんどはその国民とはだれかが問題
 になる。そこで、「国土」に住んでいる者が国民だということ
 になる。そうすると、それまでにはなかった「国線」を引いて
 その内側の住民を国民と見なして、同じ「国語」を話し、同じ
 「国史」を共有することを強制するようになる。  
       ――岡田英弘著、『皇帝たちの中国』、原書房刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これに乗じた中国の政治的な宣伝があるのです。中国人の国民
主義(ナショナリズム)は高揚して「大漢族主義」の主張により
満州人も漢人はもともと同じ中華民族であり、その清朝の皇帝に
臣属しているモンゴル人もチベット人も漢族であるという乱暴な
主張をしているのです。
 加えて、ヨーロッパ人やアメリカ人は海路を通って清帝国に入
ったので、清帝国支配権の中国部分しか見ておらず、清国イコー
ルチャイナと誤解してしまったのです。 ・・・・・[義経27]


≪画像および関連情報≫
 ・「八旗」とは何か
  「八旗」とは、清の時代の、清の支配民族である満州族の社
  会組織・軍事組織のことである。8つの旗と呼ばれる社会・
  軍事集団が編成され、全ての満州族がこれに配属された。女
  真族を統一して清を興したヌルハチが、女真族固有の社会組
  織を元に創始した。また、この制度を指して八旗と呼ぶ。
 ・≪軍旗の色≫
   1.黄色の縁取りあり  3.紅色の縁取りあり
     黄色の縁取りなし    紅色の縁取りなし
   2.白色の縁取りあり  4.藍色の縁取りあり
     白色の縁取りなし    藍色の縁取りなし

1657号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月18日

清朝と満州国の関係を探る(EJ1658号)

 清朝を建てた愛新覚羅氏は文化政策――文教の保護政策に大変
力を入れたのです。宮廷に多くの学者を集め、多くの書物を編纂
させています。出版が発達していない封建時代において、一般大
衆にあまりかかわりのない歴史的な記録の集成に力を入れるには
そういう政策が必要であったのです。
 その政策は代々の清朝の皇帝たちにきちんと受け継がれ、歴史
書の編纂は継続されていったのです。既出の『図書輯勘録』30
巻はその中のひとつなのです。この『図書輯勘録』に六代皇帝で
ある乾隆帝の序文があり、そこに皇帝自身が「朕の姓は源、義経
の裔なり」と書いているという言い伝えについては、既に述べた
通りです。
 この『図書輯勘録』という書物は、発見されなかったという事
実をもって、「そんなことはありえない妄説」とされてしまって
います。しかし、この書物は清国にとって秘録であり、門外不出
の文献なのです。
 乾隆帝の子孫の皇族や臣下たちによって、自分たちの大清帝国
の愛新覚羅氏の祖先が、微々たる東方の小国、日本の一武将の裔
などということを広く知られたくはなかったのは当然です。した
がって、それは北京の秘庫に深く収められ、専門の史官によって
厳重にかん口令をしかれたに決まっているのです。
 したがって、簡単に発見されるものではなく、見つからないか
らといって、そういう書物はなかったということにはならないと
思います。清朝の建国者である愛新覚羅家と日本とはいろいろな
つながりがあり、源義経=成吉思汗説とも深いかかわりがあると
いうことができます。
 このことに関連して、愛新覚羅溥儀という人物について少し述
べる必要があります。愛新覚羅溥儀は、ベルナルド・ベルトリッ
チ監督の映画『ラストエンペラー』の主人公その人です。彼は、
戦時中に日本の建設した「傀儡国家」である満州国の皇帝として
国家(中国)に反逆し、中国人民を抑圧したと言う理由で、19
50年に「戦犯」として、中国共産党によって撫順刑務所へ送ら
れています。そこで溥儀は「思想再教育」を受け、1959年に
「特赦」によって出所しています。
 しかし、溥儀が「満州国の皇帝として、国家(中国)に反逆し
中国人民を抑圧した」というのは事実でしょうか。
 結論からいうと、愛新覚羅溥儀は満州人として、日本の協力は
得たものの、自らの故郷である満州に独立国を建てただけのこと
であり、中国には関係がないのです。ここにも満州人も漢民族も
すべて中国にしてしまう中国の戦略があります。
 愛新覚羅溥儀は宣統帝といって、清朝最後の皇帝であることは
事実です。1911年の辛亥革命は大きく広がり、1912年1
月1日に孫文が臨時大総統に就任して、「中華民国」が成立した
のです。その後、袁世凱が清朝と中華民国との仲介をし、宣統帝
・溥儀の「退位」を引き出したのです。しかし、この「退位」は
「条件つき」だったのです。その条件の概要は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1.宣統帝・溥儀は退位後も皇帝の称号は廃止しない
   2.大清皇帝は年金として毎年400万両を受領する
   3.大清皇帝は紫禁城内にそのまま居住し、後日移動
   4.大清皇帝の宗廟・陵は永久に奉祀し、慎重に保護
   5.先帝光緒帝の陵の工事は予定通り続行させること
   6.紫禁城内の各職員は従来通りそのまま使用できる
   7.大清皇帝の私有財産は中華民国が特別に保護する
   8.禁衛軍(皇帝守備軍)は中華民国に下に置かれる
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これによると、宣統帝・溥儀は、退位後も皇帝の称号を名乗る
ことが許され、紫禁城に住むことができ、高額の年金を与えられ
て、側近の職員もそのままという生活を保障されています。溥儀
としては、この協定と引き換えに退位をしたのです。1912年
2月20日、中華民国と清朝との間に「退位協定」が締結され、
宣統帝・溥儀は退位して、清朝は滅亡したのです。
 しかし、袁世凱は大統領に就任すると、1914年に大総統令
を出して、一方的にこの協定を破棄してしまうのです。そして、
溥儀を一国民に格下げし、紫禁城から追い出してしまうのです。
 溥儀は天津租界の日本公使館に保護されたのですが、中華民国
政府は紫禁城から清皇室の財産をことごとく没収し、さらに西太
后をはじめとする清朝歴代諸皇帝の御陵まで軍兵を差し向けて、
副葬品などを掠奪したのです。これは、明らかに契約違反以外の
何ものでもなく、これによって、中華民国は清朝から禅譲された
政権の正当性を自らの意思で放棄したことになるのです。
 その後、1934年に溥儀は、日本軍の力を借りて父祖発祥の
地である満州国の皇帝の地位につくのです。「退位協定」が破ら
れているので、清朝はそのまま残っていると考えれば、満州国は
後清朝というべき性格を持つといえます。
 満州国は古来より一度たりとも中国人によって征服されたこと
はないのです。しかし、満州国皇帝の溥儀は、国家に反逆し、中
国人民の抑圧などで罰せられているのです。これは明らかに冤罪
ということになります。
 もし、中華民国政府が「退位協定」を守っていたら、日本は満
州国など建国しなかったでしょうし、溥儀もその皇帝に就任する
こともなかったのです。
 満州は、日本の北方領土と同じようなものなのです。終戦のど
さくさにまぎれて併合され、中国東北部に改称されています。か
つての満州は歴史のかなたに埋没されつつあるのです。
 源義経=成吉思汗説について書くさいに、「満州」のことが多
く出てくるので、取り上げてみたのです。なぜなら、満州は年月
の経過とともに人々から忘れられ、単なる中国の東北地区になり
つつあるのです。
 このように愛新覚羅家と日本とは、密接なつながりがあるので
す。それは源義経とも密接に関係があるのです。・ [義経28]


≪画像および関連情報≫
 ・満州について
  満州はさして古い地域名ではなく、この地域が清の支配民族
  マンジュ(漢字で「満州」)の居住地域であったことから、
  西欧語で「マンチュリア」と呼ばれるようになり、漢字圏で
  もこれに対応させて、「満州」と呼ぶようになったものであ
  る。中華人民共和国では過去の満州国の記憶を嫌い、地域名
  称としての「満州」はほとんど使われることはなく、抽象的
  な「中国東北地区」が使われる。民族名としての「満州族」
  すら使わせず、「満族」と呼称している。――出典: フリー
  百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

1658号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:52| Comment(1) | TrackBack(1) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月19日

天城山心中と椿山心中(EJ1659号)

 愛新覚羅家といえば、忘れられない出来事があります。それは
昭和32年に起こった天城山心中事件です。当時の新聞が伝える
事件の概要です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 昭和32年12月10日、静岡県伊豆半島の天城山で若い男女
 の死体が発見された。地元警察が現場検証したところ、死体は
 2人ともピストルで頭を撃ち抜かれていた。遺品から男性は学
 習院大学2年生の大久保武道さん(当時20歳)で女性は同級
 生で元満州国皇帝・溥儀氏の姪で愛新覚羅慧生さん(えいせい
 ・当時20歳)であることが判明、2人の関係や状況から心中
 と断定された。            ――当時の新聞より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ピストル心中を遂げた男性の大久保武道さんは、八戸の出身で
あり、地元鉄道会社重役の父を持ち、学習院大学生であり、文京
区森川町の新生学寮に下宿していたのです。
 女性の方は愛新覚羅慧生さん――愛新覚羅溥儀の姪、溥儀の弟
である溥傑の長女です。この愛新覚羅溥傑のことを語るには、そ
の妻である愛新覚羅浩さんについてふれる必要があります。
 愛新覚羅浩さんは激動の昭和史の中での生き証人です。日本の
公家の嵯峨侯爵家に生まれながら、満州国皇帝の弟の愛新覚羅溥
傑氏に嫁ぎ、満州国の興亡を体験しています。敗戦の満州での逃
避行から監獄での生活という辛苦を味わっているのは皇族、華族
のなかでは浩さんと近衛文隆だけだといわれています。
 心中の原因は「叶わぬ恋」――大久保としては、慧生の実家が
嵯峨家という名家であり、慧生との交際が快く思われていないこ
とから、このままいっても恋は成就しないと、心中を決意したも
のと思われます。大久保の一途さに慧生が魅かれ、大久保に引き
ずられる形で慧生も死を選んだというのが実状のようです。
 なぜこの話を取り上げたかというと、そのときから800年も
前に、天城山心中に酷似した事件が起こっているからです。それ
が椿山心中なのです。椿山心中とは、次のような話です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 義経は八戸滞在中、地元の豪族佐藤家の娘と深い仲になり、娘
 は鶴姫を産む。義経が既に北へ旅立った後の話である。歳月が
 流れて、成長した姫が恋に落ちる。相手は地元の阿部七郎とい
 う武士である。しかし、阿部家は頼朝に仕える身であり、義経
 の遺児との結婚など不可能。思い余った2人は、話にだけ聞く
 義経を慕って蝦夷地への逃避行を図ろうとする。そして夏泊ま
 で来たとき、追っ手が迫った。2人は半島の絶壁で胸を刺し違
 えて、海に飛び込んだのである。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 阿部と鶴姫が自決した夏泊半島(青森県東津軽郡)の椿山は、
全山が1万数千本の椿でおおわれ、4月下旬から6月上旬にかけ
て、丘陵一帯が真紅に染まるのです。しかし、白椿は全然ないの
です。それは、阿部と鶴姫の血潮で染まったためであると言い伝
えられているのです。
 そして、冬になれば毎年、浅所海岸にシベリアから白鳥が飛来
し、純白の雪景色の世界に飛翔する白鳥の姿には、生命の輝きが
感じられます。これらの白鳥は、鶴姫の父・義経の霊魂が化した
もので、非業の死をとげた鶴姫をなぐさめるために毎年決まって
飛来するといわれています。
 天城山心中と椿山心中の男性は、いずれも八戸の出身であり、
女性はいずれも源義経につながるのです。愛新覚羅慧生さんは清
国の末裔ですし、鶴姫は義経の忘れ形見です。清朝は成吉思汗に
つながるのです。あまりにも酷似しているのです。しかも、伊豆
の天城山は、源氏のゆかりの土地なのです。
 このことに気が付いたのは、高木彬光氏です。そして『成吉思
汗の秘密』に書いたのです。彼はこれを「輪廻」といっているの
です。ソロモンの『伝道の書』に次の言葉があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 先に有りしものはまた後に有るべし。先に成りし事はまた後に
 成るべし。日の下には新しきものあらざるなり。見よ、これは
 世に新しきものなりとさしていうべきものありや。それは我ら
 の前にありし世に、すべて久しくありたるものなり。
              ――ソロモンの『伝道の書』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 高木彬光氏の『成吉思汗の秘密』――源義経=成吉思汗説を書
くに当たって、この本ほど役に立った本はないのです。ジョセフ
ィン・テイというイギリスの女流作家がいます。その人の書いた
探偵小説に『時の娘』という傑作があるのです。「真理は時の娘
なり」という格言からとった題名ですが、『成吉思汗の秘密』
構想は明らかにこれからとられています。
 この小説の主人公は、ロンドン警視庁の警部――彼は犯人を追
いかけているうちにマンホールに落ちて大怪我をするのです。そ
れで、病院に入っているうちに、退屈でしょうがないものだから
推理を働かせて、いろいろな難問に挑戦するというものです。
 高木彬光氏は、もちろん『時の娘』を読んでいて、その構想の
実現の機会を狙っていたといいます。1957年8月のことです
が、ある易者に先祖のお墓参りをすれば、必ず大作のきっかけが
掴めるといわれたそうです。半信半疑で出発した高木氏は、不思
議な体験をするのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 途中北上川が氾濫して、夜中から朝まで平泉の駅に急行列車が
 立往生してしまったのである。その時、私は妙な夢を見た。白
 鳥の大群が海をわたり、一望千里の広野に飛んで行く光景だっ
 た。いつのまにか、私もその一羽になって空を飛んでいる――
 眼がさめたとき、私は子供の頃聞いていた椿山伝説を思い出し
 て、おやと思ったのである。 ――高木彬光著「前掲書」より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  このシリーズは22日で終了します。  ・・・[義経29]


≪画像および関連情報≫
 ・高木彬光著、『成吉思汗の秘密』についての批評
  ―――――――――――――――――――――――――――
  誰かがやりそうなものと、ひそかに期待していたが、とうと
  う高木さんが、ジョセフィン・テイの『時の娘』の手法を取
  り上げた。病院に臥床中の神津恭介は、ベッド・ディティク
  テヴとなって、「成吉思汗は源義経なり」の史上の大疑問を
  犯罪捜査の手法によって、一々証拠を示しながら、あくまで
  も論理的に解明して行くのである。テイ女史のリチャード・
  三世善玉説は、イギリス史学界の問題にもなった。高木さん
  のこの一篇も、日本史学界に一つの刺戟を与えるのではない
  かと思う。               ――江戸川乱歩
  ―――――――――――――――――――――――――――

1659号.jpg
posted by 平野 浩 at 09:05| Comment(0) | TrackBack(1) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月22日

これからも消えない義経生存説(EJ1660号)

 源義経=成吉思汗説――7月11日から29回にわたって続け
てきましたが、今回の30回で終了します。今回も梅木宗広氏の
協力により、膨大な文献を練馬・中央の両図書館から借りること
ができました。これなくしては、ここまでまとめられなかったと
思います。EJの紙面を借りて梅木氏に感謝の意を捧げます。
 俗にいう「源義経生存説」を信ずる人は、次の2つにわかれる
と思うのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.義経は平泉では死んでいないが、北海道までは逃避行を続
   けたことは間違いないと考えている人
 2.義経は藤原氏の一部の武将と大陸に渡り、成吉思汗になり
   モンゴル帝国を築いたと考えている人
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 私が今まで調べた限りでは、1に関しては、その可能性は80
%程度はあると考えます。それを証明する状況証拠が豊富に存在
するからです。しかし、2に関しては、何しろ大陸の話なので、
状況証拠は限られており、そういう意味からは、その可能性とし
ては20%程度ではないかと思われます。源義経が成吉思汗であ
るという決定的な証拠もない代わりに、そうではないという証拠
もない状況だからです。
 源義経生存説がはじめて登場したのは、江戸時代の中期ですが
それから昭和にかけて大きな話題となったことは、次の6回ほど
あります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.江戸時代/正徳 2年(1712)
   ・義経は蝦夷地に脱出し、アイヌに神として崇められる
 2.江戸時代/享保 2年(1717)
   ・蝦夷地に脱出後、金国に入り、皇帝として厚遇される
 3.江戸時代/天明 3年(1783)
   ・義経は蝦夷地から韃靼に渡り、やがて清国を建国する
 4.明治時代/明治18年(1885)
   ・義経は蝦夷から韃靼を経てモンゴルに入り成吉思汗に
 5.大正時代/大正13年(1924)
   ・小谷部の『成吉思汗は源義経也』がベストセラーズに
 6.昭和時代/昭和33年(1958)
   ・高木彬光『成吉思汗の秘密』のベッドディテクティヴ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 歴史上の出来事が本当にあったことかどうかを調べるにはいく
つかの方法があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.外国も含む史料や歴史文献を調べて、そのように記述され
   ているかどうかを確認する。
 2.実際に現地を実地踏査し、その出来事に関係のある遺跡や
   伝承・伝説などを調査する。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、多くの歴史学者は上記の1しかやっていないのです。
確かに実地踏査するといっても、何百年も前のことですから、調
査には限界があります。伝承・伝説にしてもそれを額面通りには
受け取れない――それはよくわかります。
 そうはいっても、2を省略することは怠慢のそしりを免れない
でしょう。小谷部全一郎氏は、単に歴史書を調べるだけでなく、
平泉から北海道まで、義経一行が逃げたと思われるルートをすべ
て実地踏査し、さらに大陸まで足を伸ばして義経の足跡を探査し
たうえで、『成吉思汗は源義経也』を書いているのです。
 私は、今回のテーマを書くため、必ずしも読みやすくはない小
谷部氏の本を時間をかけて読んでみましたが、彼の示す数多い状
況証拠には説得力があり、よくぞここまで調べたものと感嘆した
しだいです。
 これに対して歴史学者は、あくまで史書に基づいて得られた判
断を歴史的事実としており、実地踏査などだれもやってはいない
と思われます。それでいて、実地踏査に基づく小谷部全一郎氏の
研究に関しても、最初から「そのような事実はない」と決めてか
かり、それでいて何らの証拠も示さず、牽強付会のこじつけとし
て葬り去っているのです。
 歴史学者たちはいったん確定した(と彼らが思っている)歴史
的事実に対して異見を唱える者を容赦なく弾劾します。そのすさ
まじさは、小谷部氏のケースを見れば明らかでしょう。
 それを恐れてか、歴史のウソを数多く指摘しているあの井沢元
彦氏ですら、義経に関しては衣川の戦いで自決したという、ごく
一般的な説を追認しているのです。
 歴史学者たちは「義経生存説」が消えない理由について、日本
人の「判官びいき」のためとしており、その考え方を基調として
あらゆる義経生存に関わる状況証拠を否定しています。
 確かに義経は「悲劇の主人公」といえます。幼くして父親を殺
され、敵将に預けられて、さらに母とも引き離されて鞍馬山に送
られる――親の愛を十分に受けられないで育っています。やがて
兄頼朝と会って、平家討伐という大功績を立てるが、頼朝から一
転逆賊扱いされ、追手に追われたあげく、31歳で自害――「薄
命」を絵に描いたような生涯です。
 こうなると「義経かわいそう」ということになり、判官びいき
が生まれ、「そうあって欲しい」という一念が義経生存説を生み
出したとするのです。そして、各地に残る義経の遺跡や伝説など
のすべては、こうした判官びいきから生まれたものであると学者
たちは考えているようです。
 何はともあれ、義経が衣川の戦いで死亡したという確たる証拠
がないことが生存説を生む原因なのです。それにしても、歴史学
者たちはこの問題になると、なぜ、かくも感情的になってしまう
のでしょうか。
 30回にわたる源義経=成吉思汗説のテーマは、これで終了し
ます。長い間のご愛読感謝します。     ・・・[義経30]


≪画像および関連情報≫
 ・ある推理作家の想像する義経の最後
  ―――――――――――――――――――――――――――
  義経が大陸にわたったのだとしても、私は彼がジンギスカン
  になったのではないだろうと思っている。あるいはジンギス
  カンの軍団と戦って敗れ去ったか。あるいは平泉の滅亡を知
  って、帰るべき地を失った痛手を胸にどこかでのたれ死にし
  たか。いずれ悲運な最後を遂げたような気がしてならない。
  −中津文彦著『義経はどこへ消えた?』(PHP研究所刊)
  ―――――――――――――――――――――――――――

1660号.jpg
posted by 平野 浩 at 09:17| Comment(5) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする