にします。しかし、まともに義経物語をやろうというのではない
のです。「源義経=成吉思汗論」をやろうというのです。
実はEJでは一度この問題を取り上げています。私にとってこ
れは、昔から関心のあるテーマであり、次の期間、EJでは、4
回にわたって取り上げているのです。
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1999年4月6日/EJ第113号
〜1999年4月9日/EJ第116号
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しかし、6年も経っておりますし、その頃EJを読んでいない
読者もたくさんおられるので、リニューアルし、内容を大幅に増
強して再び取り上げたいと思います。初期の頃からの読者も、ぜ
ひリニューアル版を読んでいただきたいと存じます。
それに何よりも今年のNHKの大河ドラマは「義経」ですし、
同時進行すればイメージも湧くと思います。ところで、既に日本
がドイツ行きを決めている「サッカー・ワールドカップ2006
年ドイツ大会」――この応援歌(正確にいうと、ドイツに行くた
めの応援歌)をご存知でしょうか。
実は「成吉思汗/ジンギスカン〜ドイツに行こう」というので
す。これは、日本代表のドイツ行きをバックアップしようと、日
本代表サポーターであるUTRUSが応援歌に選んだのが、ディ
スコ世代にはおなじみの楽曲「ジンギスカン」のカヴァーなので
す。ちなみにこの歌は、1980年に旧西ドイツのグループ「ジ
ンギスカン」の大ヒット曲です。
このように直接は関係ないのですが、今年は義経と成吉思汗が
揃っているのです。そういうこともあって、「源義経=成吉思汗
論」を取り上げたいと思います。今日はその予告編のようなこと
からはじめたいと思います。
源義経は、猜疑心の強い兄頼朝の不興を買って逃げ落ち、奥州
藤原氏に身を寄せます。しかし、義経の理解者である秀衡が亡く
なると、その子泰衡は頼朝のきびしい追及に屈して、自分が匿っ
ている義経とその一族に奇襲をかけるのです。これが世にいうと
ころの「衣川の戦い」です。
義経とその一族は泰衡の奇襲に破れ、義経は妻子とともに自害
を遂げる――文治5年(1189年)4月30日のことです。こ
れは歴史上動かし難い史実として記述されており、どのような歴
史書もそうなっています。「源義経=成吉思汗論」は、その動か
し難い史実を正面から否定しようというのですから、それは容易
ならざることです。
正史に反することを唱えるのは異説ということになります。学
問の世界に限らず異説を唱える者に対しては、世間の目は厳しく
なるものです。しかし、正史をアタマから信じ、異説を検証しよ
うともしない学者よりも、正史に疑いを持ち、その疑いを解決す
るために異説を立てる――そういう学者の方が真実をつかめるの
ではないかと考えます。
義経自殺の根拠は『吾妻鏡』とされています。『吾妻鏡』は、
鎌倉幕府の手によって編纂されたれっきとした正史であり、数多
い史書の中でも一級史料とされているのです。ここに書かれた以
上、それは正しいのだというのが歴史学者の考え方なのです。日
本の学者は公文書に弱いのです。
『吾妻鏡』は、源頼朝の挙兵から文永3年までの87年間の事
件を日記風に記録しているのです。それでは、文治5年4月30
日はどう書いてあるのでしょうか。
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今日、陸奥の国に於いて泰衡が源予州を襲う。予州、持仏堂に
入り、まず妻(22歳)と子(女子4歳)を害し、ついで自害
す。 ――『吾妻鏡』より
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「予州」とは義経のことです。伊予守だったのでそう呼ばれて
いたのです。義経は「判官」といわれますが、それは彼が検非違
使をしていたからです。検非違使とは、簡単にいうと、現代の裁
判官のような役職と考えればよいと思います。平安初期,嵯峨天
皇のとき設置された令外の官で、京中の治安維持のため置かれた
のが最初です。
それはさておき、『吾妻鏡』の記述――ばかにあっさりしてい
ると思いませんか。実は、この『吾妻鏡』は、義経の死より80
年のちの文永年間に編纂されているのです。何しろ今から800
年も前の話です。それが本当に信じられる根拠というか、証拠が
あるのでしょうか。
義経を討ったという報告は、当の泰衡が鎌倉に対して行ってい
ます。泰衡の飛脚は5月22日に鎌倉に着いており、この使者は
次のような泰衡の言葉を鎌倉に届けているのです。
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4月晦日、民部少輔の館に於いて、予州を誅す。その首は追っ
て送りまいらせます。 藤原泰衡
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実際に義経の首は6月13日に頼朝のところに届けられていま
す。これについては改めて分析しますが、4月30日に起こった
事件を5月22日に報告し、首が6月13日に届くのは、当時と
しても非常に遅いのです。
この報告がそれから80年後に編纂された『吾妻鏡』では「民
部少輔の館」が「持仏堂」に変わり、「予州を誅す」が義経自害
に変わってしまっているのです。これは果たして信じられること
なのでしょうか。
泰衡にとって義経は少年時代に一緒に文武を学んだ仲であり、
亡父秀衡がこよなく敬愛していた人物なのです。しかも、泰衡は
父から、私の死後に鎌倉殿が攻めてくることがあれば、判官殿を
総大将にして戦うべしと遺言を授けられているのです。その泰衡
が果たして義経を裏切るでしょうか。・・・・・・・[義経01]
≪画像および関連情報≫
・義経主従が住んでいた衣河館(高館)/前に衣川、東は秀衡
の屋敷、西は金鶏山に接する城郭構えの居館