2007年03月07日

1969年にすべてがはじまっている(EJ第2034号)

 今日からはじまる新しいテーマは、次の通りです。昨日までの
通信戦争とも関係のあるテーマです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ≪日本におけるインターネットの歴史≫
 ――日本では、だれが、いつ、どのようにしてインターネット
 をはじめたか。日本のインターネット技術は、世界において、
 どの程度のレベルに達しているかを探る――
―――――――――――――――――――――――――――――
 EJでは、2005年8月23日から、46回にわたり「イン
ターネットの歴史」をメルマガとブログで同時連載しましたが、
地味なテーマにもかかわらず、ブログでは現在でも毎日多くの方
からのアクセスがあるのです。連載データを次に示しておきます
ので、ブログをあわせて読んでいただきたいと思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
   ≪インターネットの歴史≫
    2005年 8月23日/EJ第1661号
    2005年1O月28日/EJ第1706号
http://electronic-journal.seesaa.net/category/618340-1.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 私は、現在顧問をしているあるIT企業で、3年以上にわたっ
て、CCNA資格受験者に対してネットワークの基礎の指導を担
当しています。そのとき、受講者に必ず次の質問をします。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本のインターネットの発展に貢献した人を知っていますか
―――――――――――――――――――――――――――――
 実は現在のところ、この質問に正解をした人は一人もいないの
です。あわせて、IT業界以外の人にも聞くチャンスのあるとき
に尋ねてみるのですが、本当に誰も正解してくれないのです。
 これに関連して、次の質問もしてみるのですが、これについて
も誰も正解してくれないのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 インターネットは複数の人によって開発されたネットワーク
 ですが、その開発者を一人でもいいですからあげてください
―――――――――――――――――――――――――――――
 現在の社会は、インターネット抜きでは何もできないほど、イ
ンターネットに依存しています。PCが故障してネットワークに
つながらないと、まるで世の中から取り残されたように感ずるほ
ど、インターネットは身近なものになっています。
 それほど、浸透しているインターネットの開発者の名前がどう
して出てこないのでしょうか。われわれがインターネットを非常
に低コストで使えるのは、インターネットの開発者たちが誰一人
として特許を申請していないからなのです。
 そうであるとすると、そのユーザであるわれわれは、せめて開
発者の名前ぐらいは認識にとどめ、その功績に対して感謝するこ
とがあってもいいのではないでしょうか。
 私が前作「インターネットの歴史」をまとめ、今回さらに「日
本におけるインターネットの歴史」をテーマとして取り上げたの
は、そういう理由からです。専門知識がなくてもわかるようにや
さしく書きますので、気軽に読んでいただきたいと思います。
 インターネットの歴史を調べるときに覚えておくべき年号は、
1969年がそうです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    1969年12月5日/ARPANET運用開始
―――――――――――――――――――――――――――――
 この日は次の4つの大学や研究所でネットワークがつながり、
イーネットの原型ともいえるARPANETの運用が開始された
日なのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    1.カリフォルニア大学ロスアンゼルス校
    2.スタンフォード研究所
    3.カリフォルニア大学サンタバーバラ校
    4.ユタ大学
―――――――――――――――――――――――――――――
 このARPANETというネットワークは、離れた場所にある
それぞれ仕様の異なる大型コンピュータ間で、ファイルの転送を
したり、ソフトウェアを開発するための情報を共有・交換するこ
とが初期の目的として使われたのです。
 ARPANETがスタートした1969年において、日本は何
をしていたのでしょうか。
 この1969年における日本のIT分野での出来事を並べると
次のようになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1969年・・・・・
    2月 ・・・ 日立HITAC10発表
    3月 ・・・ 富士通FACOM−R発表
    5月 ・・・ 三菱電機MELCOM−83発表
   11月 ・・・ 第1回情報処理技術者認定制度開始
   11月 ・・・ NHK「コンピュータ講座」開始
―――――――――――――――――――――――――――――
 1969年という年は日本ではNHKテレビで「コンピュータ
講座」(FORTRAN講座)が開始されるなど、一般人にとっ
ても、コンピュータに関心が高まった年なのです。そして、この
年の11月にネットワークに関わりの深いミニコン用OSである
UNIXがベル研究所によって開発されているのです。
 しかし、ネットワークに向けた動きは、日本においては皆無と
いってよいのです。
 付け加えると、1969年5月には東名高速道路が全線開通し
7月には人間を乗せたアポロ11号が月面着陸しているのです。
この1969年を契機として、インターネットがスタートしたと
いえます。 ・・・ [インターネットの歴史 Part2/01]


≪画像および関連情報≫
 ・ARPANET(アルパネット)とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  アメリカ国防総省高等研究計画局(ARPA)が構築し、1
  969年から運用を開始した学術的な先進コンピュータ・ネ
  ットワーク。運用開始時は、図のように、UCLA(カリフ
  ォルニア大学ロサンゼルス校)UCSB(カリフォルニア大
  学サンタバーバラ校)、ユタ大学、SRI(スタンフォード
  研究所)の4拠点が相互接続され、インターネットの基盤技
  術の研究開発・普及と技術検証に大きく貢献しました。
   http://dictionary.rbbtoday.com/Details/term1027.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

ARPANET.jpg
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2007年03月08日

1971年にPARCを訪れた相磯視察団(EJ第2035号)

 ARPANETがスタートした1969年の前後に日本におい
て、ネットワークに関わる研究やプロジェクトがあるかどうか調
べてみたのですが、全くないのです。その時点で日本は、大型コ
ンピュータの開発を行っているだけであり、ネットワークまでは
研究が進んでいなかったと思われます。
 ただひとつ、当時慶応義塾大学教授の相磯秀夫氏が、日本人と
してはじめて、パロアルト研究所(PARC)を訪問しているこ
とです。1971年夏のことです。
 PARCといえば、次の3人の人物が有名なのです。いずれも
ネットワークに関係があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
         1.ロバート・テイラー
         2.アラン・ケイ
         3.ロバート・メトカフ
―――――――――――――――――――――――――――――
 PARCが設立されたのは1970年のことですが、初代の責
任者がロバート・テイラーです。ロバート・テイラーは、国防総
省のARPA(高等研究計画局)の中のIPTO(情報処理技術
部)の3代目の部長を務めたのです。
 IPTOは、ARPANETに取り組んだチームであり、その
3代目の部長は、まぎれもなくインターネットの開発者の一人と
いってよいでしょう。インターネットの開発者の一人として、こ
のロバート・テイラーの名前が出てくれば正解なのです。
 アラン・ケイは早くから「ダイナブック」という現在のPCの
ようなコンピュータを提唱した学者ですが、PARCには、この
「ダイナブック」がベースになって開発された「アルト」という
小型コンピュータがたくさんあったのです。
 「アルト」は小型の石油ストーブぐらいの大きさの本体の上に
ディスプレーが付き、画面は現在のウインドウズのようなGUI
――グラフィカル・ユーザ・インタフェースで、マウスまで付い
ていたのです。当時としては、信じられほど小型のコンピュータ
だったのです。
 ロバート・メトカフは、テイラーによってPARCに招聘され
た俊英の一人で、PARC内の「アルト」をつないで、LANを
構築した人物です。これがイーサネットです。メトカフはイーサ
ネットの開発者として有名です。
 70年代のPARCによって研究・開発された設計思想やテク
ノロジーは、その後のPCの開発やネットワークに大きく貢献す
ることになるのですが、これについては「ネットワークの歴史」
に詳しく書いてあります。
 1971年夏――相磯秀夫慶応義塾大学教授を団長とする視察
団――富士通、日立、NECなどの若手研究者10人はPARC
を訪問しているのです。当初のスケジュールでは、PARCに行
く予定はなかったのですが、カリフォルニア大学バークレー校に
いる相磯の友人から勧められ、PARCを視察したのです。
 そのときロバート・テイラーの指示を受けて、相磯の率いる視
察団を受け入れ、説明役を務めたのが、アラン・ケイだったので
す。そのときの模様は、滝田誠一郎著、『電脳創世記/インター
ネットにかけた男たちの軌跡』に次のように描かれています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 (アラン・ケイ)は、ポロシャツにスニーカーといった格好で
 現われて、今だったら別に驚くことはないですけど、そのとき
 は『何て格好してるんだ、この人は・・・』と思ったのを覚え
 ている。このとき、アラン・ケイはパソコンのプラモデルのよ
 うなものを手に持ち、『これからは、こういうパーソナル・コ
 ンピュータを使うようになる』と自信たっぷりに説明したとい
 う。また、ネットワークにつながった「アルト」の原型のよう
 なワークステーション2台を使い、ファイル転送や電子メール
 のデモを見せてくれたりもしたそうだ。
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 何しろ1971年の話です。これは、現代のLANそのもので
あり、LAN――すなわち、イーサネットはインターネットの重
要な部分を構成するものであり、相磯視察団は大変貴重なデモを
見たことになります。
 しかし、後に相磯教授が述懐したところによると、アラン・ケ
イのデモを実際に目にした視察団のほとんどは、それが、やがて
「オフィス・オートメーション」のようなものになるのだろうと
いう感想を持っただけで、それが現代のインターネットの原型に
なるとは誰一人として考えなかったというのです。これでは日本
が大きく遅れを取るのは当然のことだったのです。
 それでは、大型コンピュータ開発の分野で日本はどうだったの
でしょうか。
 敗戦直後の日本の電子技術は、先進国からはゆうに10年以上
遅れていたのです。そょうど、その頃米国では、世界最初のコン
ピュータ「ENIAC」が完成しているのです。これを受けて日
本でもコンピュータ開発のプロジェクトが動き出すのです。大阪
大学の城研究室、東芝と東京大学のTACプロジェクトがそれに
当たります。
 とくにTACプロジェクトは、当時のお金にして1011万円
という巨額の予算がつき、開発メンバーには当代有数の学者たち
が名を連ねて、鳴りもの入りでスタートしています。日本はよく
こういうやり方をしますが、そういうプロジェクトは成功したた
めしがないのです。
 しかし、米国のENIACからちょうど10年後の1956年
に日本で動き出したのは、「FUJIC」というコンピュータだ
ったのです。TACのメンバーではない一般企業で働くエンジニ
ア岡崎文次氏の手によって、初の国産コンピュータは開発された
のです。  ・・・ [インターネットの歴史 Part2/02]


≪画像および関連情報≫
 ・「FUJIC」とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  富士写真フイルムにおいて開発された真空管式電子計算機。
  レンズ設計に使用することを目的として岡崎文次により開発
  された.岡崎は1949年から研究を開始し,1952年3
  月からメモリ関係の研究と並行して、全体の組立てが行われ
  た.1955年11月に電子通信学会電子計算機研究専門委
  員会の見学会で,動作のデモンストレーションが行われた。
 http://www.ipsj.or.jp/katsudou/museum/computer/0110.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

鋳AEPC.jpg

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2007年03月09日

歴史の片隅に埋没されているFUJIC(EJ第2036号)

 初の国産コンピュータ「FUJIC」が開発された1956年
という年は、どんな年だったのでしょうか。
 敗戦直後にいったんはどん底に沈んだ日本経済は、1950年
の朝鮮戦争の特需景気をきっかけに回復基調に転じ、電子技術に
ついても、ラジオや電子部品の輸出を足がかりに独り立ちしはじ
めていたのです。
 ちょうどこの年の7月に発刊された『経済白書』には、あの有
名な一文「もはや戦後ではない」と書かれていたのです。そのよ
うな年に、岡崎文次氏が7年かけて開発した「FUJIC」は動
きはじめたのです。
 1950年代前半にコンピュータを開発するということは、大
変なことです。なぜなら、当時世界中でもまともに動いているコ
ンピュータは数台しかなかったからです。電子技術においてもア
ナログが主流の時代にデジタル回路のコンピュータを作るのは、
大変なことだったのです。
 そんな時代に富士写真フィルムに勤めるエンジニアである岡崎
文次氏はほとんど独力でコツコツとコンピュータを作ってしまっ
たのです。その一方で、高名な学者を多数結集し、莫大な予算を
投入した国家プロジェクトによるコンピュータは、満足に動いて
いなかったのです。
 この事実を知ると、FUJICは日本初の栄誉だけでなく、世
界のコンピュータ開発史上に燦然と輝いていても不思議はないの
ですが、皆さんは、FUJICとその開発者岡崎文次氏の名前を
今まで聞いたことがあるでしょうか。
 ほとんどの人は知らないと思います。コンピュータの業界に詳
しい人でさえ、また、コンピュータの歴史を伝える文献において
も、FUJICのことはきちんと記述されていないのです。どう
してこのようなことになるのでしょうか。
 理由はほとんど明らかです。それは意図的に隠されたと考えら
れるのです。なぜなら、FUJICの開発と同時期に、国家プロ
ジェクトが走っており、その国家プロジェクトのコンピュータが
動かなかったからです。科学技術、医学、建設などの研究・開発
においも、同じようなことは日本に多いのです。
 素直に岡崎氏の功績を認めていれば、米国のENIACととも
にFUJICの名前も世界的に有名になり、日本のコンピュータ
の開発力が高く評価されたはずです。
 FUJICをここで取り上げたのは、日本ではインターネット
の普及功績などもあまり高く評価しようといないところがあり、
それとよく似ているからです。当の岡崎文次氏は、FUJIC開
発の目的や経緯について次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1945年当時、私は富士写真フィルムでカメラレンズの設計
 課長をしていました。カメラレンズの設計には、複雑な計算が
 大量に必要となります。何枚ものレンズの中を進んで行く10
 00本から2000本もの光線を5〜6桁の精度で追跡して、
 収差を求める計算をしなくてはならないんですから、高級レン
 ズになると計算だけで数ヶ月かかったものでした。当時あった
 アナログ計算機では、2〜3桁の精度しか望めなかった。必要
 な三角関数の計算なんか、数十人の人間が数表などで計算して
 たわけです。その作業の効率アップに、僕は海外で作られてき
 たコンピュータが有効だと思ったのです。
 ――遠藤諭著、『新装版/計算機屋かく戦えり』 ASCII
―――――――――――――――――――――――――――――
 インターネットに話を戻しましょう。69年末に4つの大学間
ではじまったARPANETのその後の動きを追ってみます。
―――――――――――――――――――――――――――――
      1969年12月        4
      1974年 6月       62
      1977年 3月      111
      1981年 8月      213
―――――――――――――――――――――――――――――
 このように、ARPANETに接続する大学は少しずつ拡大し
ていったのですが、ARPANETに接続するには審査があり、
小さい大学は接続が許可されなかったのです。また、大きい大学
であっても、大学側で軍のネットワークには加わりたくないとい
うところもあったのです。
 そういう背景もあって、1979年にUSENETが誕生する
のです。USENETに加入する条件はただひとつ、UNIXユ
ーザーであることだけであり、民間人でも誰でも入ることができ
たのです。そのため、USENETの加入者は民間人が中心だっ
たのです。このネットワークはUNIXを開発したベル研究所の
関係者が構築したネットワークですが、これが現在のネットニュ
ースになっていくのです。
 1981年になると、全米科学基金(NSF)が、学術目的で
ネットワークを立ち上げます。コンピュータ・サイエンティスト
を集めて情報交換を密にしようというのが目的です。ネットワー
クはCSNETと名付けられたのです。
 さらに、同じ年の3月にIBMがサポートするBITNETが
はじまったのです。BITNETは、ニューヨーク州立大学とエ
ール大学を専用線で結んだのがはじまりです。これは、1981
年中に25の大学が接続されたのです。
 煩雑なので、整理しておきましょう。これらがインターネット
と呼ばれるのはいつからなのでしょうか。
―――――――――――――――――――――――――――――
  ARPANET ・・・・・ 審査にパスした大学
  USENET  ・・・・・ 民間UNIXユーザ
  CSNET   ・・・・・ 学術研究目的NET
  BITNET  ・・・・・ IBMユーザが中心
―――――――――――――――――――――――――――――
       ・・・ [インターネットの歴史 Part2/03]


≪画像および関連情報≫
 ・USENETとネットニュース
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ネットニュースとは、インターネット上の複数のサーバで主
  にテキストデータを配布・保存するシステムである。電子掲
  示板システムと類比されることが多いが、後者とはサーバに
  より保持するメッセージが異なり、メッセージ群の内容が一
  意に定まらない点で相違がある。英語の発音上から、ネット
  ニューズと濁らせて言う場合や、単にニュース、ニューズと
  言うこともある。USENETとネットニュースを同義と取
  るかどうかについては議論が分かれる。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年03月12日

電子メールが使えなかったN1ネットワーク(EJ第2037号)

 前回、米国で、ARPANET、USENET、CSNET、
BITNETが設立されたという話をしました。一般的に、イン
ターネットの原型はARPANETといわれており、それは間違
いではないのですが、いつから「インターネット」といわれるよ
うになったかについては、諸説があるのです。
 1983年1月1日に、ARPANETのプロトコルが現在の
インターネットのプロトコルである「TCP/IP」になったの
です。その時点で、ARPANETから軍事部門は「MILNE
T」として分離し、残りの部分とCSNETが相互接続を果たし
たのです。実はこれがインターネットの原型になるのです。
 それはさておき、日本では何をしていたのかという話に戻りま
す。相磯調査団がPARCを訪問したのが1971年の夏のこと
です。この相磯調査団とは直接関係がないのですが、1974年
に「N1ネットワーク」というネットワークの開発が行われてい
るのです。東京大学と京都大学の大型コンピュータを電電公社が
そのとき開発を進めていたDDX網(パケット通信サービス/完
成は1979年)を使って接続しようという試みなのです。なお
以下、敬称略とさせていただきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 東京大学側の責任者 ・・・・・・・ 猪瀬 博/石田晴久
               プロトコル担当/浅野正一郎
 京都大学側の責任者 ・・・・・・・ 坂井利之
               プロトコル担当/ 金出武雄
―――――――――――――――――――――――――――――
 当時は国産コンピュータの全盛時代だったのです。東大には日
立のマシン、京大には富士通のマシンが入っていたのですが、と
もにネットワーク機能は組み込まれていなかったのです。そもそ
もOSにネットワーク機能を組み込むという発想が、メーカにな
かったので、浅野と金出が苦労することになったのです。
 この時点でARPANET用のプロトコルとして開発中のTC
P/IPの情報も浅野と金出には入っていたのですが、それを超
えるものを作ろうとがんばって「N1」を開発したのです。それ
はTCP/IPの日本版というべきものだったのです。
 「N1」は、「日本1号」という意味であり、世界に負けない
品質の高い通信ができるプロトコル――それを目指すという強い
自負心があったのですが、その時点ではARPANETが現在の
インターネットのようなネットワークになることを想像もしてい
なかったのです。
 問題は通信網なのです。米国では、その時点で1秒間に50キ
ロビットの通信速度――50Kbps の通信網を使っていることは
わかっていたのですが、当時の日本にはそのような高速通信網は
なく、電電公社がパケット通信網に着手していたので、その実験
をさせてやると説得して、電電公社をプロジェクトに引っ張り込
んで、東京・京都間の通信回線を引っ張ってもらったのです。そ
して、1975年にN1ネットワークは稼動したのです。
 ネットワークの目的からすれば、ARPANETと何ら変わら
ない意義のあるプロジェクトの成功といえるのですが、どうも周
囲はあまり盛り上がらなかったようなのです。東大側でプロトコ
ルを担当した浅野正一郎はつぎのように述懐しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 実際に働いたのは京都は金出さんで、東京はぼくを含めて2、
 3人。大型計算機センターが総力を挙げたという感じではなく
 ごく個人的プロジェクトという感じだった。
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 N1ネットワークは、その後、パケット交換網の整備拡充とと
もに東北大学、九州大学、北海道大学など、旧帝大から順に他の
公立大学、さらに私学へと広がっていったのです。1980年に
なると、国立大学の計算センターの大型コンピュータにはほとん
どN1機能が組み込まれ、接続はスムーズに行われるようになっ
ていったのです。
 このN1ネットワークに東京大学大型計算機センター(現東京
大学情報基盤センター)の助教授時代にかかわり、その後、日本
インターネット協会の初代会長を務めた石田晴久(現東京大学名
誉教授)は、最初からN1ネットワークの大きな欠陥を見抜いて
いたのです。それは、N1ネットワークでは電子メールが使えな
かったことです。技術的にできなかったわけではないのです。法
律によって禁止されていたのです。これについて、石田は次のよ
うに述懐しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 当時の電機通信法だと、メッセージ交換はやっちゃいけないこ
 とになっていた。そんなことをしたら、郵便事業の妨げになる
 ということで、電子メールは許されなかったのです。私は、電
 子メールの交換ができないようなネットワークはネットワーク
 じゃないと思っていましたから、N1とはほどほどのおつき合
 いはしましたけど、あまり真面目じゃなくて・・。
               ――滝田誠一郎著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 ARPANETではもちろん電子メールは使えたのです。もっ
とも最初のうちに副次的なおまけ機能だったのですが、使ってい
ると、これはとても便利だということになって、ネットワークは
飛躍的に拡大したのです。
 郵政事業を守るための電気通信法――これが技術の発展を阻害
していたのです。ARPANETと同じレベルの機能を持ちなが
ら、法的規制によって電子メールが使えなかったことによって、
日本のN1ネットワークの利用者は何年経っても、ごく一部の専
門家に絞られていたのです。この事実を専門家ではなく、そうい
う法律を作り、死守してきた人たちにこそ知ってもらいたいもの
だと考えます。・・・ [インターネットの歴史 Part2/04]


≪画像および関連情報≫
 ・石田晴久氏は語る
  ―――――――――――――――――――――――――――
  まず、1975年に通信を始めた当時は「電話回線に電話以
  外の端末を電気的につないではいけない」という規制があり
  そのため電話回線でパソコン通信を行なおうとすると、音響
  カプラで通信を行なうしかなかったという。また、それに先
  立つ1974年には「ARPANETをまねして」(同氏)
  国内の大学間を当時の電電公社が運営していDDX網(パケ
  ット通信網)で結びネットワークを構築したが、この際にも
  「電子メールの交換は郵便事業に差し支える」という理由で
  複数ホスト間を結ぶ電子メールの利用が認められなかったと
  いう(単一ホスト内における電子メールならOKだった)。
  http://internet.watch.impress.co.jp/cda/event/2004/07/01/3725.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

EΓc.jpg

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2007年03月13日

日本からARPANETに接続した高校生(EJ第2038号)

 N1ネットワークとARPANETのその後の発展を分けたの
は、電子メールが使えるかどうかの差であり、それによって勝負
は決まったのです。なぜなら、電子メールは専門家の間だけで使
われるものではなく、一般人も大きな関心を示したからです。
 N1ネットワーク作りで中心的な開発を担当した浅野正一郎氏
(現国立情報学研究所所長)は、次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 N1というのは極端な話、実際に進めているのは東大ひとり、
 京大ひとりで、関心をもっているは、各大学の大型計算機セン
 ターの関係者だけだ、と。それに対してTCP/IP(ARP
 ANET)のほうは、アメリカの大学の多くの人たちが関心を
 持っていた。関心を持っている人がたくさんいるということは
 それだけプロダクトを開発する人がたくさんいるということで
 す。通信機能、アプリケーション、セキュリティ等々、そうい
 うものを大勢の人で寄ってたかって作り上げることができた。
 だから、TCP/IPは成功したんです。
                     ――浅野正一郎氏
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、ARPANETにおいても電子メールは当初重視され
ていなかったです。もともとARPANETの目的は次の2つの
ことだったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.ファイル転送(FTP) ・・・・・・ RFC 33
 2.遠隔ログイン(TELNET) ・・・ RFC137
―――――――――――――――――――――――――――――
 固くならない程度で多少説明すると、「ファイル転送」とは、
文字通り離れたコンピュータにファイルを送ることをいい、「遠
隔ログイン」とは、離れたコンピュータを直接接続されているコ
ンピュータと同じように利用するための仕組みです。各大学間で
これができると大変便利です。
 最初のうち電子メールは、ファイル転送の特殊な例として位置
づけられていたのですが、利用者があまりにも多かったため、国
防総省のIPTO(情報処理技術部)のロバーツ部長が1967
年に学会で発表したARPANETの目的に、ファイル転送、遠
隔ログインと並んで、電子メールもちゃんと目的のひとつとして
入っていたのです。結果として、目的に電子メールが入ることに
よって、ARPANETがインターネットの名の下に、世界中で
使われるようになる原動力となったのです。
 ところがいくら電子メールを使いたくても、ARPANETに
アクセスできるのは、大学関係者などのごく一部の層に限られて
いたし、大学にしても接続許可のための審査まであったのです。
 しかし、世界には凄い人もいるのです。いわゆる「ハッカー」
と呼ばれる人たちです。彼らはプロバイダーが登場する前から自
由にARPANETにアクセスし、電子メールも使っていたので
す。日本にも伊藤穣一という人物――インターネットの寵児とい
われている――がいます。現在、ネオテニーの代表取締役社長や
ブログで有名なシックス・アパートの会長などを務めるネット界
での著名人です。
 この伊藤氏が高校生の頃、自宅からARPANETにアクセス
していたというのです。どのようにしてやったのでしょうか。
 MIT(マサチューセッツ工科大学)に伊藤氏の友人がいて、
もし、MITのコンピュータにアクセスできたらアカウントをあ
げるといわれたのがきっかけなのです。MITはARPANET
につながっていたので、何とかやってみようと思ったそうです。
 伊藤氏が当時持っていたPCは「マッキントッシュ」であり、
モデムは300bps だったのです。最初にやったことは、英国の
エセックス大学のコンピュータにログインすることです。ここは
ゲーム好きのハッカーのたまり場だったのです。
 まず、自宅の電話をKDDの「ビーナスP」につないで、それ
を介してエセックス大学のコンピュータと接続したのです。「ビ
ーナスP」というのは、1982年にKDDが開始したパケット
交換式による国際公衆データ伝送サービスのことです。
 さて、エセックス大学のコンピュータに接続した後は、JAN
ETという英国の学術ネットワーク、ヨーク大学、ダムハム大学
を経由して、ロンドン大学のコンピュータにログインすることに
成功したのです。
 ロンドン大学はARPANETの接続ポイントになっていたの
で、ARPANETを経由してMITのカオスネットに侵入する
ことができ、約束のアカウントをもらうことができたのです。そ
こで、コンピュータやネットワークについてMITの教授や学生
に教えてもらったり、自分の学校の宿題の答えを解いてもらった
りと、やりたい放題をやったのです。掲示板に「この問題の解き
方を教えて!」と書き込むと、MITの教授が親切に教えてくれ
たというから驚きです。
 しかし、毎日長時間PCの前に座り続け、世界中をアクセスし
て回ったのですから、電話代がものすごくかかったのです。「ビ
ーナスP」の料金は月に40万円以上かかり、母親から大目玉を
食ったといいます。ちなみに、伊藤氏がこれをやったのは、19
84年のことなのです。驚くべきことです。日本でインターネッ
トが使われはじめる10年以上前の話です。
 さて、日本のN1ネットワーク――この発想を立てたのは、猪
瀬でも、浅野でも、金出でもないのです。国立大学の計算機セン
ターと図書館の両方を主管する文部省図書館情報課の田保橋とい
う課長だったのです。
 田保橋課長は、「将来の図書管理はデータベースの倉庫業にな
るべき」という持論を早くからもっていて、そのためにネットワ
ーク環境を整える必要があると説いたのです。彼こそN1ネット
ワークの発案者なのです。
        ・・ [インターネットの歴史 Part2/05]


≪画像および関連情報≫
 ・伊藤穣一氏の話から・・
  ―――――――――――――――――――――――――――
  10年前には、インターネットがうまくいかないと思ってい
  た人たちがたくさんいました。それが今の若い人たちは、イ
  ンターネットがなかったことを知らない人さえいるのです。
  10年前には想像できないことがたくさんありましたが、今
  の若い人たちはきっと10年後がかなり想像できているので
  はないでしょうか。インターネットや携帯電話が発展し、普
  及するにつれて、生活もどんどん便利になっていくことを実
  感していますから。それが、今の大人にはわかっていない人
  もいますね。そこにギャップが生まれつつあります。「クリ
  エイティブクラス」といって、ネットを完全に理解して使っ
  ている人たちと、使っていない人たちのギャップが発生し、
  デジタルデバイドが世代間で起きているのです。これは、今
  後どうすべきか考えていかないといけないでしょうね。
 http://japan.cnet.com/interview/story/0,2000055954,20086834,00.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年03月14日

日本でも78年にイーサネットは稼働している(EJ第2039号)

 日本において「インターネットの父」といわれる人は、村井純
という人物であることで衆目は一致しています。慶応義塾大学教
授(常任理事)の村井純氏です。
 しかし、この村井純氏――これまでインターネットのために尽
くした業績が素晴らしいにもかかわらず、一般的にはそれほど有
名ではないのです。テレビにあまり登場しないからでしょうか。
テレビ局も積極的に出演を求めていないようです。しかし、マス
コミ嫌いではなく、IT系の雑誌にはよく登場しています。
 少なくとも慶応義塾大学教授といって真っ先に名前の出てくる
人でないことは確かです。今や慶応義塾大学教授といえば、浅野
史郎氏や竹中平蔵氏――これらの人々は有名人を教授にした感が
あるので例外としても、経済学の池尾和人氏、朝鮮問題の小此木
政夫氏ぐらいしか名前が浮んでこないのです。しかし、電子・通
信技術に関する政府系のプロジェクトなどには、必ずといってよ
いほど、メンバーに名前を連ねている人です。
 今回のテーマは、結局は村井教授がインターネットで何をやっ
たかについて書くことになるのですが、その前に、「日本のイン
ターネットの祖父」について述べる必要があります。
 インターネットの祖父――これを自称するのは所眞理雄なる人
物です。現在、ソニー株式会社上席常務IT研究所長をされてい
る方です。1976年――この所氏が慶応義塾大学院の電気工学
専攻の博士課程を修了して、同大学工学部の助手をして、相磯秀
夫教授の下で働いていたときの話です。
 あるとき所氏は、米国で発行されているコンピュータの学会誌
である「COMUNICATION OF THE ACM」 に掲載された次の論
文を読んで愕然としたといいます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ロバート・メトカフ/デビット・ボックス共著
 「イーサネット:ローカル・コンピュータネットワークにおけ
 る分散パケット交換」
―――――――――――――――――――――――――――――
 この論文は、イーサネット――LANの主流の形態――の開発
者として名高いPARCのロバート・メトカフとデビット・ボッ
グスが書いた最初の論文です。所氏は、主としてLANや複数の
CPUを搭載したシステム――マルチプロセッサ関係の研究をし
ていたので興味を持ったのです。
 それなら、なぜ、愕然としたのでしょうか。これについて所氏
は次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ネットワークというのは、代わり番こに誰が話すかを決めた上
 で会話をするようなもんなんですね、普通は。ところがイーサ
 ネットというのは、みんなが好き勝手にディスカッションして
 いるのと同じで、自分がしゃべりたくなったらパッとしゃべれ
 ばいい。うまくいけばそのまましゃべることができるし、ほか
 の誰かが喋っていたらそれを察知して黙る、と。そういう方式
 なんです。論文にそういうことが書いてあった。これはもの凄
 く画期的なものだと感じられたんですね、ぼくには。これから
 はイーサネットがLANの主流になると直感した。
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 ちなみに、これはデータ通信の話であって、電話のようにしゃ
べるという意味ではないのです。現在、われわれがやっているよ
うに、好きなときにメールを出したり、受信したりする――そう
いう環境をイーサネットでは実現できるといっているのです。
 所氏のいう「ネットワークというのは代わり番こに誰が話すか
を決めた上で会話をするようなもの」という表現は、確かに通信
技術のポイントを衝いています。
 LANのネットワークは、ネットワークに接続しているどれか
のコンピュータが電気信号――以下、パケットを流している間は
他のコンピュータはパケットを発信できないからです。もし、何
かのタイミングで回線上に複数のパケットがのると、衝突(コリ
ジョン)が発生し、データは消失してしまうのです。
 ところがメトカフの論文によると、イーサネットの場合、ネッ
トワークに多くのコンピュータが接続され、それぞれのコンピュ
ータが自由にパケットを流してコミュニケーションがとれると書
いてあったので、愕然としたというわけです。
 どうして、そのようなことができたのでしょうか。
 メトカフは、パケットのコリジョンそのものは避けられないと
判断し、次の2つの方法をとったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    1.衝突が起こったら早くそれを知る
    2.衝突を知ったら直ちに再送信する
―――――――――――――――――――――――――――――
 イーサネットで一番困るのは、衝突が起こったとき、コンピュ
ータはパケットの再送信を行うのですが、その再送信のタイミン
グが合ってしまい、再び衝突が起こることなのです。
 これを防ぐ方法をメトカフは、ALOHAシステムの開発者で
あるエブラムソンから得ているのです。それはパケットの衝突が
起こったコンピュータが行う再送信のタイミングを乱数を発生さ
せることによってそれぞれずらす方法です。これを「バックオフ
アルゴリズム」といっています。
 この論文を読んで所氏はすぐ相磯教授に報告し、実験をしてみ
ようということになったのです。そこで、相磯教授は通信に強い
所眞理雄とハードに強い小田徹(現豊田工業大学助教授)という
2人の助手でチームを組ませて、実際にイーサネットの構築に成
功しています。日本初のイーサネットの誕生です。
 しかも、所氏はパケットの衝突そのものを起こさない技術をそ
れに取り入れています。これを「アクノレッジング・イーサネッ
ト」と命名しています。 
       ・・ [インターネットの歴史 Part2/06]


≪画像および関連情報≫
 ・ALOHAシステムとイーサネット
  ―――――――――――――――――――――――――――
  イーサネットの起源は,ハワイ大学のノーマン・エブラムソ
  ン教授が開発した「ALOHAシステム」といわれます。ノ
  ーマン氏はハワイ諸島をつなぐ軍用無線通信システムを使い
  複数のコンピュータが任意のコンピュータと同時に通信する
  手段として「ALOHAシステム」を開発したのです。この
  「ALOHAシステム」では,同じ周波数の電波を使って,
  ハワイのそれぞれの島にあるコンピュータ同士が通信してい
  ました。無線という一つの空間を通して,複数の人間が同時
  に会話をしていたようなものでした。
  ―――――――――――――――――――――――――――
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20060414/235337/?ST=nettech

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2007年03月15日

それは小さな実験からはじまった(EJ第2040号)

 所眞理雄氏によるアクノレッジング・イーサネットは1976
年に稼動しています。メトカフなどによる「イーサネットの発明
記録」がゼロックスの法務関係部局に提出されたのが1973年
6月28日のことですから、日本で1976年にイーサネットが
動いていたということは、日本の通信技術は米国に対してそう遅
れていなかったことを意味しています。
 アクノレッジング・イーサネットが具体的にどういうものであ
るかはよくわかっていませんが、メトカフのイーサネットがパケ
ットのコリジョン(衝突)の発生を不可避であるとしていたのに
対し、所氏のアクノレッジング・イーサネットは、コリジョンそ
のものを起こさないようにした点において画期的です。それは、
パケットが届いたことを即座に確認できる独自の工夫がしてある
ことにあるのです。
 所氏は、アクノレッジング・イーサネットを論文にまとめて発
表したのですが、この論文は、注目を集め、カナダのウォーター
ルー大学から客員助教授として声がかかったのです。所氏は迷わ
ず、そのチャンスを受け入れたのです。
 なぜなら、70年代後半の日本では、通信にかかわる実験は、
ほとんどやることはできなかったのです。電電公社(現NTT)
が通信に関しては他の業者にやらせなかったからです。しかし、
米国では、どのような実験も自由にすることができたので、所氏
にとっては魅力的だったのです。
 所氏は、1979年1月から1年半にわたってウォータールー
大学の計算機科学科で教鞭をとったのです。これが終わると、今
度は、カーネギーメロン大学からも客員助教授として招聘され、
80年の残りの半年間はこの大学で教鞭をとっています。そして
1981年に帰国したのです。
 慶応義塾大学に戻った所氏は、直ちに学内LANの構築に着手
したのです。そして、このLANの名前を「S&Tネット」と命
名しました。「S&T」とは、理工学部の英語名称であるサイエ
ンス&テクノロジを意味していたのです。
 このS&Tネットの構築において所氏を手伝ったのは、当時慶
応義塾大学大学院博士課程(工学研究科数理工学専攻)に在籍中
であった20代半ばの青年だったのです。この青年こそ若き日の
村井純氏なのです。村井氏は、数理工学科の斉藤信男教授の下で
研究を行っていたのです。
 S&Tネットの目的は、相磯研究室、斉藤研究室、それに計算
機センターの3ヶ所に2台ずつ設置されているミニコン――PD
P11・23をつなぐことでした。
 アクノレッジング・イーサネット・インタフェースのユニット
は、かつて相磯研究室で制作したものを使うことになったのです
が、問題はソフトウェアだったのです。UNIXには、UUCP
というネットワーク機能が付いていたのですが、LANの機能は
なかったので、自作する必要があったのです。これについて、所
氏は次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 まず、LAN上で使いたいアプリケーションを特定する。電子
 メールが使いたいとか、離れた場所にあるコンピュータにログ
 インできなければいけないとか、そういうアプリケーションを
 実現することを前提にして、ソフトウェアを設計していく。今
 ならTCP/IPを使えばそれで済むわけですが、81年当時
 は現在のようなTCP/IPはありませんでしたから、ゼロか
 ら独自に設計しなければいけなかったのです。その作業で中心
 的な役割を果たしたのは村井さんです。
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 当時相磯研究室と斉藤研究室は別の建物に入っていて、建物間
は300メートルも離れていたのです。その間を同軸ケーブルで
結んだのです。幸い地中に電線などを通す配管が埋めてあったの
で、それを利用することができたのです。
 そのうえで通信実験がはじまったのです。斉藤研究室と電話連
絡を取りながら、パケットを送るのです。うまく送れないと、村
井氏がソフトウェアを修正して、LPレコードよりも大きいディ
スクに収録して、若い助手に斉藤研究室まで走らせる――これの
繰り返しです。このように何回も繰り返して、遂にパケットを送
ることに成功したのです。
 S&Tネットが動き出したのは1981年のことであり、これ
は画期的なことだったのです。このS&Tネットについて、所氏
は次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1EEE(米国電気電子学会)で、イーサネットの標準規格が
 決まったのが83年、TCP/IPが実際に動き始めるのは、
 85年です。それまではアメリカもまた研究開発段階で、われ
 われ同様いろいろと試行錯誤を続けていた。そういう意味では
 日本は決してコンピュータ・ネットワークの研究開発で遅れて
 いたわけじゃなくて、81、82年当時はアメリカと肩を並べ
 るくらいの水準にあったのです。
               ――滝田誠一郎著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 1983年にIEEEでイーサネットが標準規格になり、所氏
のアクノレッジング・イーサネットは標準外規格となってしまっ
たのです。日本製イーサネットは一敗地にまみれるのです。
 さらに同じ年に、本格的ネットワーク機能を追加したUNIX
――カルフォルニア大学バークレー校開発によるBSDバージョ
ン4.2が登場して、米国が完全に優位に立ったのです。
 とくにソフトウェアの開発力において、日米に大きな格差が生
じたといえるのです。能力的にはともかく、人数的には完全に米
国が勝っていたのです。しかし、日本はネットワークの分野では
結構頑張っていたのです。
       ・・・ [インターネットの歴史 Part2/07]


≪画像および関連情報≫
 ・ドキュメンタリー映像作品「インターネットの夜明け」
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「1981年、慶應義塾大学の研究室では小さな実験が行な
  われようとしていた」というナレーションで始まったドキュ
  メンタリー映像作品「インターネットの夜明け」の試写イベ
  ント。この作品の企画・制作を担当したヤフーとブロードバ
  ンドタワーの両社が6日、共同制作発表会を兼ねて慶應義塾
  大学で開催した。
    ――http://yoake.yahoo.co.jp/characters/index2.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年03月16日

日本版USENET/JUNETの誕生(EJ第2041号)

 慶応義塾大学理工学部の所眞理雄と村井純が苦心のすえに完成
させた学内LAN――S&Tネットは,その後、ひょっとしたこ
とから、大きな発展を遂げることになります。
 それは、村井純氏が慶応義塾大学大学院博士課程(工学研究科
数理工学専攻)を修了し、東京工業大学総合情報処理センターに
助手として勤務することになったことが、そもそものきっかけに
なったのです。
 慶応義塾大学理工学部矢上キャンパスは、横浜市港北区日吉に
あり、東京工業大学のキャンパスは目黒区大岡山にあるのです。
つまり、村井氏は、東急東横線の日吉駅から同じ東急大井町線の
大岡山駅に移動したことになります。
 村井氏は長年にわたって日吉の矢上キャンパスにおり、彼が研
究に使うファイルやプログラムは、当然のことながら、矢上キャ
ンパスのコンピュータに入っていたのです。
 東工大の大岡山キャンパスに移った村井氏は、仕事に必要にな
ると、矢上キャンパスに電話をしてきて、「あのファイルを持っ
てこい!」とか「新しいソフトをやるから取りに来い!」とか、
いってくるわけです。そのたびに矢上キャンパスの若手が村井氏
に要求されたファイルを収録したテープを持って大岡山キャンパ
スに駆けつけるということが月に何回もあったのです。
 このとき、日吉と大岡山を往復させられたのは、慶応義塾大学
理工学部の中村修と砂原秀樹の両氏です。村井氏は、この2人を
いつも自分の子分のように扱っており、2人は村井氏によって、
いつも振り回されていたのです。
 そこで、中村と砂原両氏は、村井氏に矢上キャンパスと大岡山
キャンパスのコンピュータを接続してファイルの交換をしたらど
うかという提案をしたのです。その提案に対し、村井氏は「やろ
う!」とすぐ賛成したのです。そうすれば、東工大にいて慶応大
のコンピュータが使えるからです。
 そのとき、慶応大の斉藤研究室と村井氏のいる東工大の総合情
報処理センターには、ともにDEC製のミニコンVAXが入って
いたのです。このマシンはUNIXベースで動いており、電話回
線を通じてファイル交換を行うことができるUUCPというネッ
トワーク機能を持っていたからです。
 しかし、問題は2つあったのです。モデムが必要であることと
モデムを電電公社に断らないで電話線に勝手につなぐことはでき
ないきまりになっていたことです。
 1984年9月になって、村井氏はモデムを調達し、接続実験
がはじまったのです。300bps のモデムです。電電公社には断
らないでモデムを電話線につないでしまったのです。そして、何
回かの実験のすえ接続に成功したのです。
 慶応大の矢上キャンパスのVAXと東工大のVAXは、このよ
うにして接続されたのです。村井氏にこの接続を提案した砂原秀
樹氏――現奈良先端科学技術大学院大学情報科学センター長は、
接続が成功したとき、次のように述懐しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 アメリカにはすでにUUCPでつながっているUSENETが
 あって、どうして日本ではできないんだろうと前から思ってい
 た。そういう意味でやっとアメリカに追いついたと思った。
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 USENETについては既に述べましたが、米国のデューク大
学のトム・トラスコットとノースカロライナ大学のスティーブ・
ベロバンという大学院生が両大学のコンピュータををUUCPで
つなぎ、USENETと命名したのです。USENETは、UN
IXユーザであれば、誰でも参加できたため多くの民間人が加入
したのです。1979年の暮れのことです。
 さて、村井氏は慶応大と東工大のコンピュータをUUCP接続
したとき、当時東京大学大型計算機センターの所長をしていた石
田晴久教授に会い、次のようにいわれているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 村井君。ふたつの地点でデータのやりとりをしているだけでは
 ネットワークとはいえない。ネットワークというからには三角
 形、少なくとも3点をつなげなければだめだ。だから、東大の
 センターもメール交換に付き合うよ。   ――石田晴久教授
               ――滝田誠一郎著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 当時東大の計算機センターには、日本で最大のUNIXマシン
――VAX780があったのです。村井氏が石田教授の提案を喜
んで受入れたことはいうまでもないことです。そして、慶応大と
東工大と東大の3点を結ぶネットワークが完成したのです。そし
て、石田教授が名付け親になって、「JUNET」と命名された
のです。1984年10月のことです。
 実は、このネットワークに東京大学が加わったということの意
義は大きいのです。というのは、慶応大と東工大のコンピュータ
がつながったといっても、その中心人物が助手になったばかりの
無名の村井氏では、なかなかオーソライズされないのです。そこ
に東大が加わると重みが違ってくるのです。とくに、石田晴久教
授は既に著名であり、JUNETは大いに注目されたのです。
 しかし、日本版USENETといわれるJUNETは、プロト
コルにUUCPを使っており、電子メールやファイルの転送がで
きるという点ではインターネット的ではあったのですが、TCP
/IPを使っていなかったので、現在のインターネットとはほど
遠い存在だったのです。
 さて、このJUNET――多くの人は村井純の「純」をとった
ものと思っているようです。しかし、そうではなく、単に次の頭
文字――Japan University Network――をとったものに過ぎない
のです。しかし、それがウソに思えるほど、このネットワークは
村井のネットワークなのです。
          [インターネットの歴史 Part2/08]


≪画像および関連情報≫
 ・砂原秀樹氏の談話より
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1982年の3月、村井純氏に出会いました。この時慶應義
  塾大学の4年生だった私は研究室に配属されたばかりで、研
  究室の最初の教育プログラムの中でUNIXやCプログラミ
  ングを教えてくれたのが先輩であった村井氏だったのです。
  並行してアセンブラプログラミングやハードウェア制作の演
  習が行われていました。これら一見関係のなさそうなことが
  今の日本のインターネットにつながっていきます。実は私自
  身は、大学ではデータフローマシンというスーパーコンピュ
  ータの仕組みに興味を持ち、その研究を行います。しかし、
  ここから始まる人と人との関係が、後にJUNET誕生、そして
  現在の日本のインターネットへとつながる大きな波となって
  いくのです。
     http://www.nic.ad.jp/ja/newsletter/No29/060.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年03月19日

UUCP接続からSLIP接続へ(EJ第2042号)

 慶応大の理工学部の学内LAN――S&Tネットの設計者であ
る所眞理雄氏――彼が自分のことを「インターネットの祖父」と
いっているという話をしました。
 なぜ、祖父なのかというと、所氏が、後に「インターネットの
父」といわれるようになる村井純氏をネットワークの世界に引っ
張り込んだのは自分であり、村井氏の参加によって、日本のイン
ターネットが大きく前進したからであるというのです。「父」を
引っ張ったのだから「祖父」というわけです。
 所氏によると、村井氏は当時UNIX――1969年にベル研
究所が開発したコンピュータのOS――に凝っていて、ネットワ
ークそのものはあまり関心がなかったそうです。
 さて、JUNETというネットワークは、慶応大、東工大、そ
して東大のコンピュータがUUCPでつながっているのです。と
ころで、この「UUCP」とは何でしょうか。これから先の話を
進めやすくするために簡単に説明しておくことにします。といっ
ても、誰でもわかる話ですから、逃げないで読んでください。
 まず、言葉の意味ですが、UUCPというのは、次の頭文字を
とったものです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       UUCP → Unix to Unix CoPy
―――――――――――――――――――――――――――――
 つまり、UUCPとは、「UNIXマシンからUNIXマシン
へのコピー」という意味であり、UNIXマシン――UNIXと
いうOSを搭載しているコンピュータ間のデータ転送のための命
令(通信プロトコル)なのです。
 UUCPはダイヤルアップ――電話線接続を前提とし、ファイ
ルを宛先のコンピュータまで、その間にあるコンピュータ間をバ
ケツリレーのように運んで行く極めて原始的な通信の仕組みなの
です。もう少し正確にいうと、コンピュータからコンピュータへ
ファイルをコピーしていくのがUUCPです。
 ところで、村井氏が助手として東工大にいたとき、東工大の大
学院で情報工学を専攻していた篠田陽一――現・北陸先端科学技
術大学院大学教授――という人物がいたのです。
 たまたま篠田氏が村井氏の研究室をのぞいたところ、SUNの
ワークステーションが置いてあったのです。篠田氏も同じマシン
を持っていたので、声をかけたのです。通信の話で意気投合し、
とりあえずお互いのマシンをつなごうという話になり、UUCP
で接続したのです。
 ちょうど篠田氏の隣の研究室では、KDDと共同研究をやって
おり、専用線が引いてあったので、KDD経由で海外と接続する
ことができたのです。篠田氏はこの方法で海外のネット――つま
り、ネットニューズ(インターネットの掲示板のようなもの)な
どにつないで、いろいろな情報を集めていたのです。何しろ19
85年頃のことであり、大変先進的なことなのです。
 篠田氏は、ネットニューズから「SLIP」というソフトウェ
アを見つけて、入手しています。UUCPの場合は、まさにバケ
ツリレーのように、途切れ途切れの断続的な通信になってしまう
のに対して、SLIPを使うと通信が一気に連続的になるメリッ
トがあったのです。
 SLIPを入手した篠田氏は、その日のうちに村井氏と連絡を
取り、すぐ接続実験を開始したのです。接続実験はあっけないほ
ど簡単に成功し、その夜、2人はビールで乾杯したといいます。
誰も知らない2人だけの日本初のインターネット接続――まさに
快挙というべきでしょう。
 SLIPは、IP接続を可能にし、SLIPの採用はJUNE
Tがインターネットに接続することを意味していたのです。IP
接続とは電話線や専用線を通じてTCP/IPネットワーク――
つまり、インターネットに接続するということです。
 この頃から東工大の村井氏の研究室には、昼となく夜となく研
究者や学生がやってきて、たまり場になっていったのです。そこ
で、夜を徹して議論をしたり、ハードやソフトの情報を交換した
り、村井氏からUNIXを教わったりしていたのです。
 この村井研究室に集まっていた連中の中心メンバーは、同じ東
工大の篠田陽一、加藤朗、慶応大の砂原秀樹、中村修などであり
その他、コンピュータやネットワークに関心を持つ多くの学生が
集まっていたのです。村井氏はそのメンバーのつねに中心におり
全員を一つの方向に導いていったのです。それがやがて1988
年の「WIDEプロジェクト」に発展するのです。
 村井氏の大学院の恩師、斉藤信男教授はその頃の村井氏を評し
て次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 体が大きくて、キーボードからはみ出しちゃうんじゃないかと
 思うようなでかい手をしていてね。能力はあるんだろうけど、
 成績はあまり良くなかった(笑)。あまり勉強していなかった
 から。青白い秀才というタイプではなくて、田中角栄タイプ。
 もの凄い馬力で走っていくブルドーザーといった感じ。
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 そして、斉藤教授は「村井君はコンピュータのネットワークづ
くりもうまいが、ヒューマン・ネットワークづくりはもっとうま
い」と絶賛しているのです。
 確かに、村井氏は先読みが鋭く、ひとつの目標を決めると、周
りにいる者――上司も含む――全員をその方向に引きずっていっ
てしまう馬力が凄かったのです。それがなければ、JUNETも
後のWIDEプロジェクトも実現しなかったと思われます。いみ
じくも斉藤教授が「もの凄い馬力で走っていくブルドーザー」と
名づけた点は当たっているのです。
 とくにインターネットの研究では、「鋭い先読み」は不可欠の
要件なのです。 ―― [インターネットの歴史 Part2/09]


≪画像および関連情報≫
 ・佐々木俊尚のITジャーナルより/篠田陽一教授について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  コンピュータソフトウェア著作権協会(ACCS)を舞台に
  した不正アクセス事件の第5回公判が11月下旬にあった。
  専門家の意見ということで、北陸先端科学技術大学院大学の
  篠田陽一教授が弁護側の証人として出廷した。
http://blog.goo.ne.jp/hwj-sasaki/e/03037e24c2e9ff2c3920394c8133e46b
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年03月20日

目的は広域ネットワークである(EJ第2043号)

 インターネットというのは、専用線を使った常時接続というの
がその本質なのです。TCP/IPというプロトコル自体が常時
接続を前提としていたことも知っておく必要があると思います。
専門的になって恐縮ですが、一番身近なEメールの送信に使うS
MTPプロトコル、受信に使うPOPプロトコル、ネットニュー
ズを見るためのNNTPプロトコルは、いずれも常時接続を前提
としたプロトコルなのです。
 したがって、学術研究が目的であれば、JUNETも専用線を
使って常時接続でやればよかったのです。しかし、それでもあえ
て電話線を使ってのUUCP接続にしたのは、決して満足のいく
選択肢ではなかったのですが、何よりも少しでも早く広域ネット
ワークを作りたかったからなのです。
 村井氏たちのこの狙いは当たり、東工大、慶応大、東大の3校
ではじめたJUNETは、やがて7OOを超える大学や民間の研
究機関をつなぐ一大ネットワークに発展するのです。
 これは、村井氏を中心とする若手研究者たちの手弁当による営
業努力の賜物なのです。彼らは次のような話法でJUNETの加
入大学・研究機関を増やしていったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 分散しているコンピュータのリソースを共通に使う時代がいず
 れ来ますから、来るべき時代に備えた研究をぜひ一緒にやりま
 しょう、と。      ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 電電公社が民営化され、1985年から施行された電気通信事
業法によって、電気通信事業に参入することができるようになっ
ています。しかし、この法律の趣旨はかたちのうえでは新規参入
を認めていますが、その一方でそれに強くブレーキをかける内容
にもなっているのです。
 通信のビジネスをはじめるのはよいが、通信はきわめて公共性
の高いものであり、もし何かあった場合はそれ相応の責任はとっ
てもらうという趣旨のことが書いてあるのです。要するにいやい
や電気通信事業の参入を認めているのです。
 こういう状況では、企業は通信事業をはじめるのを逡巡してし
まうのです。その例をソフトバンクがADSL事業に乗り出すと
きにNTTから受けた露骨ないやがらせに見ることができます。
 ADSL事業をはじめるには、電話局にそのための装置(ルー
ターなど)を設置しなければなりませんが、NTTはそのための
場所を局舎内に用意することが法律によって義務付けられている
のです。しかるに、NTTはそのための工事を意識的に引き伸ば
し、これが原因でADSL事業の開始が大幅に遅れたのです。世
間はソフトバンクの責任であると思っていますが・・・。
 村井氏のグループが各大学や研究機関にJUNETへの接続を
呼びかけるさい、一番聞かされた質問は「それは政府公認の研究
なのですか」という質問なのです。何しろスタート当初のJUN
ETは政府公認どころか、まだ大学の助手でしかない村井氏を中
心とする若手研究者のアンダーグラウンド的な研究に過ぎず、十
分相手を納得させられなかったといいます。
 とにかく最初のうちは、電話を通話という本来の目的以外に使
うことにかなり心理的な抵抗感があったのです。かつて永い間に
わたって法律的に認められなかったことであり、その心理的な影
響は大きかったのです。
 JUNETの拡大に実際に携わって2年後の1987年、村井
氏は東工大から東大大型計算機センター助手に転じたのです。や
はり東大は他の大学に比べて権威があり、ネットワークの拡大に
も好都合と考えたからなのです。
 さて、昨日のEJの最後に、村井氏の「鋭い先読み」について
ふれましたが、篠田陽一氏は村井氏のことを次のように述べてい
ます。篠田氏は村井氏よりも4つ年下であるにもかかわらず、村
井氏のことを「純」と呼び捨てにするのがつねだったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ぼくはコンピュータのネットワークを作ること、コンピュータ
 とコンピュータをつなぐこと自体が面白くて、それを夢中でや
 っていた。そういう連中が多いんですよ。ハードを作ること、
 ソフトを作ること自体が面白くてネットワークに首を突っ込ん
 でいる連中が。でも、純は違う。コンピュータをつないだら何
 ができるのか、そういう環境が整ったら何ができるのか、それ
 を一番真剣に考えてきたのが村井純なんです。そういう視点か
 ら、彼はネットワーク全体のプランニングとかマネジメントと
 かを考えてきた。だからこそ、「日本のインターネットの父」
 といわれるんですよ、純は。
               ――滝田誠一郎著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 その村井氏は、このネットワークの分野に入り込むきっかけと
なったのは「コンピュータが嫌いであり、コンピュータをやって
いるヤツも嫌いだったから」――そういうように話し、次のよう
に述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 なぜかというと、コンピュータに人が群がっていたから。機械
 に人が群がるとは何ごとだと。機械は人間を支えるための道具
 なんだから、コンピュータも道具として人間を支えるべきだ、
 と。直感的に思った。    ――滝田誠一郎著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 このように村井氏はつねに先をみつめ、手を打っていったこと
がわかります。あえて専用線を使わず、UNIXマシンさえあれ
ば、コンピュータ同士をつなげるUUCPを採用し、多くの大学
や研究機関につなぎやすい環境を提供したのも、広域ネットワー
クを構築するという目的があったからです。それが、1984年
にJUNETとして結実し、4年後にWIDEプロジェクトとし
て実るのです。 ―― [インターネットの歴史 Part2/10]


≪画像および関連情報≫
 ・ネットニューズとは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ネットニューズはコンピュータネットワークでの情報交換に
  使われるシステムのうち、広範に用いられたものとしては、
  Eメールとともに、最も古いシステムの1つである。インタ
  ーネットやWWWが一般的に普及する前から存在している。
  初期のネットニューズはEメールと同様に、IPによらず、
  UUCPで配送された。現在では、やはりEメールと同様に
  ほぼ全てのネットニュースのトラフィックはIPにより配送
  されている。通信プロトコルは、今日ではNNTPが多く使
  われるが、もともとはUUCPで配送されていた。
                    ――ウィキぺディア
  ―――――――――――――――――――――――――――
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2007年03月22日

WIDEプロジェクトの誕生と意義(EJ第2044号)

 電話線を使い、UUCPを使って多くの大学や民間の研究機関
をつないだJUNET――これは本物のインターネットではない
のです。TCP/IPを使っていないからです。しかし、TCP
/IPを使うには専用線を引く必要があるのです。
 当時は専用線には凄くお金がかかったのです。東工大と東大の
間なら月に15〜6万円、東大と慶応大の間は月に50万円近く
必要だったのです。
 それだけではありません。コンピュータの買い替え費用、専用
線につなぐための周辺機器の購入などを含めると、東大、東工大
慶応大をつなぐだけで年間1000万円はかかるのです。さらに
JUNETの主要拠点を専用線でつなぐ場合、年間5000万円
ほどの費用が見込まれたのです。
 本来なら国家を上げてのプロジェクトです。文部省に研究費の
助成を申請するところでしょう。しかし、村井氏たちはそれをし
なかったのです。それはなぜでしょうか。
 彼らにとって「国は敵だ」というコンセンサスがあって、国の
お金で何かをするということに強い抵抗感があったのです。もし
税金を使えば、国はいろいろな厳しい条件を付けてくるに決まっ
ている――それでは本当にやりたいことができないと彼らは考え
たのです。だから、絶対に税金を使うのはやめようと彼らは考え
たのです。
 それでは、どうして、お金を調達するのでしょうか。村井氏は
いったのです。「共同制作費という名目で、企業からお金を出し
てもらおう」、と。JUNETのコアメンバーの中から、ここは
と思う企業1O社を選んで、年間500万円ずつ出してもらおう
と村井氏は提案したのです。
 村井氏は積極的に企業訪問をはじめたのです。アスキー、岩波
書店、CSK、ソニー、SRA、大川財団など――次々と説得し
て、年間5000万円のメドをつけてしまったのです。JUNE
Tの実績があるので、この資金集めはうまくいったのです。
 こういう村井氏の活躍について、上司の石井晴久教授は次のよ
うにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 私みたいに国立大学でずっと育っちゃうと、企業からお金をも
 らうということに、ちょっと抵抗があるんです。自分から出向
 いていって、頭を下げてお金をもらってくるようなことは、私
 などには到底できない。         ――石井晴久教授
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 1988年に村井氏は日本版インターネットともいうべき「W
IDEプロジェクト」を立ち上げたのです。これは、JUNET
のコアメンバーの企業10社からの共同研究費によって、JUN
ETの主要拠点を専用線で結び、TCP/IPによる日本発の本
格的なインターネットの立ち上げといえます。
 「WIDEプロジェクト」という言葉の意味は次の通りです。
−――――――――――――――――――――――――――――
  Widely Integrated Distributed Environment Project
  大規模広域分散型コンピューティング環境プロジェクト
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで考えなければならないことがあります。それは、日本初
のインターネット環境構築の大事業に国が一銭の助成金も出して
いないことです。米国がARPANETの構築を国家の事業とし
てやったのに比べると、考えられないことであるといえます。
 もちろん、村井氏とその仲間たちが政府の助成を望まなかった
ことが原因ですが、村井氏の本心は申請してもおそらく認められ
ないか、僅かな金額で口を出されることを懸念していたものと思
われます。要するに国を信頼していないのです。
 1988年の時点で日本政府がインターネットがどのようなも
のであるかわかるはずがないのです。学会にしてもネットワーク
の面では大きく遅れており、ネットワークはNTTにまかせてお
けばいいという風潮すらあったのです。それに加えて、これから
述べることになる猪瀬博氏の存在があったのです。
 というのは、学会としては一連の村井氏とその仲間の行動に非
難の目を向けていたのです。ちょうどWIDEプロジェクトが始
動した時期に、日本政府は「OSI」の採用を決め、OSIによ
るコンピュータ・ネットワークを推進しようとしていたのです。
OSIについては、わかりにくい話であり、後から詳しく述べま
すが、当時国の情報処理を牛耳っていたのは「学情」――学術情
報センターであり、その学情の所長をしていた故猪瀬博氏なので
す。猪瀬氏は「情報処理分野のドン」といわれ、文部省や大学に
対して絶大な影響力を持っていたのです。
 TCP/IPが開発されたのは1978年、ARPANETに
搭載され、運用が始まったのが1983年です。ちょうどあの大
韓航空機撃墜事件が起こった年といえばピンとくるでしょう。
 そして、村井氏らが電話線を使うJUNETを立ち上げたのが
1984年、TCP/IPを取り入れた専用線によるWIDEプ
ロジェクトをスタートさせたのが1988年です。日本はほとん
ど米国に負けていないのです。
 その一方において、ARPANETをはじめとして、ゼロック
ス社、IBM社など、多くの企業が独自ネットワークを構築しは
じめ、収拾がつかない状況になってきたのです。
 こういう状況を受けて、国際標準化機構――ISOはその統一
に乗り出したのです。そして主にヨーロッパ諸国の支持を得て、
1978年にOSI参照モデルが発表されています。ちょうど、
米国では、TCP/IPの開発が発表された年です。
 日本政府はその動きに乗り、OSIの推進役として指名された
のが猪瀬博氏なのです。そしてOSIによるコンピュータ・ネッ
トワークを推進しようとしたのです。1988年、WIDEプロ
ジェクト発進と同時期です。
         ― [インターネットの歴史 Part2/11]


≪画像および関連情報≫
 ・WIDEプロジェクトについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  WIDEプロジェクトは、広域に及ぶ分散型コンピューティ
  ング環境に関する、産学共同の研究プロジェクトです。19
  88年に発足して以降、ネットワーク技術を始めとする幅広
  い分野の「研究活動」と「運用活動」の両面に取り組んでい
  ます。大学や企業から800名を超える研究者が参加してお
  り、約150の組織が共同研究及び研究協力、約20の海外
  の大学などの組織がプロジェクトのパートナーになっていま
  す。              http://www.wide.ad.jp/
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年03月23日

OSIとは一体何なのか(EJ第2045号)

 日本におけるOSI推進の第1人者である猪瀬博とTCP/I
Pの推進者である村井純――このように書くと、「OSI」とい
うのは一体何なのかと思う人が多いと思うのです。
 通信・ネットワークについて少しでも勉強したことのある人は
嫌でも「OSI」という専門用語に向き合うことになります。と
ころがこのOSI――なかなか分かりにくいのです。
 中には「OSIは神学である」という人までいます。神学に失
礼ですが、何をいっているのかわからないということから、そう
いわれるのでしょう。OSIが分からないと、猪瀬対村井の対決
構図もわかりにくいので、ここでOSIについて少し考えてみた
いと思うのです。
 OSIは定義からしてわかりにくいのです。OSIとは次のよ
うにいわれています。
―――――――――――――――――――――――――――――
      OSI=Open System Interconnection
      開放型システム間相互接続
―――――――――――――――――――――――――――――
 「開放型システム間相互接続」といわれてピンとくる人は少な
いと思います。しかし、冒頭に「オープン(開放型)」という言
葉が置かれていることによって、OSIが提案されるまでのネッ
トワークは企業間、団体間で「クローズド(閉鎖型)」であった
ことがわかると思います。
 しかし、ネットワークが閉鎖型では広域ネットワークができな
いので、開放型にしようじゃないかという提案がOSIだという
わけです。
 それでは、OSIはどう定義されているのでしょうか。通信の
事典には次の説明があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 OSI――「開放型システム間相互接続」と訳される。異なる
 ベンダーの製品を組み合わせて使用した際の相互運用性を確保
 するため、ISOがコンピュータ間の通信に関する方法を体系
化したもの。―秀和システム『通信ネットワーク用語事典』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 現在、書店のコンピュータ関係書籍の棚には「TCP/IP」
のタイトルを冠する本がたくさんあります。技術の指導書で、同
じタイトルの本がたくさんあるということは、それが売れている
ことを意味しています。それは、1冊読んだだけでは、TCP/
IPを理解できないので、他のTCP/IPの本を買う人が多い
ことを物語っているのです。
 そういうTCP/IPの本の中で、OSIに関する説明は、ほ
とんどの本が上記の事典と同じ説明になっています。そこだけは
著者の言葉ではなく、事典とほとんど同じなのです。
 その中で、若林宏氏の著書のOSIの解説は他の本のそれとは
少し違っています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 国際標準化機構ISOでは、異なるコンピュータメーカーのコ
 ンピュータ間でも通信できるようにするため、ネットワークプ
 ロトコルの標準を作成しようとOSIを考案、OSIの検討会
 には各メーカーの代表者が参加して話し合いが行われました。
 ISOからOSIが発表されると、各メーカーは自社製の汎用
 大型コンピュータに、このOSIを導入、OSIが導入された
 ことで、異なるメーカーのコンピュータ間でも情報通信ができ
 るようになりました。
    ――若林宏著、『最新TCP/IPハンドブック』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 若林氏によるOSIは、ISOの主導の下で異なるコンピュー
タ間で相互接続して使える国際的なプロトコル――そのようにと
らえることができます。要するに、ISOは国際的に標準のプロ
トコルを作り、それを現在のPCのウインドウズのように、あら
ゆるコンピュータに実装させ、異機種コンピュータ間で通信がで
きるようにしたかったのです。
 これならよくわかるのです。実際に若林氏は上記の記述の後に
次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 OSIは次世代のネットワークプロトコルとして大いに期待さ
 れました。しかし、たいへん複雑で大きなシステムであったた
 め、結果的には。パソコンに不向きなネットワークプロトコル
 であると判断され、市場での普及は見ませんでした。
                 ――若林宏著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 若林氏は、ここではっきりと「OSIはネットワークプロトコ
ルである」といっています。そしてそれは市場では普及しなかっ
たと述べています。
 ところが、前掲の通信ネットワーク事典のOSIの説明――ほ
とんどの通信ネットワークの本の説明と同じ――とは、合ってい
ないのです。それらの本には「OSIとは何か」という項目さえ
ないのです。
 結論からいうと、事典ではOSIではなく、「OSI参照モデ
ル」の説明をしているのです。なぜ、「OSI参照モデル」なの
でしょうか。「OSI参照モデル」とは何でしょうか。
 現在、どのコンピュータにも搭載され、国際的に通用している
通信プロトコルとしては、TCP/IPがあります。通信ネット
ワークの本には、TCP/IPとこのOSI参照モデルを結び付
けて説明されています。だから、余計に混乱するのです。
 コンピュータメーカ−各社の独自のプロトコル、TCP/IP
それにOSIとOSI参照モデル――これらの関係は歴史的考察
をしない限りわからないのです。TCP/IPの著者たちはそう
いう歴史的考察をしないで書こうとするので、自分でもよくわか
らなくなっているのです。猪瀬対村井の対決は標準化とデファク
ト・スタンダードのそれです。
          [インターネットの歴史 Part2/12]


≪画像および関連情報≫
 ・OSI関するスラング
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ネットワーク技術者の間のスラングでは、第8層――政治層
  社内政治やビジネスなど。第0層――土建層、有線ネットワ
  ークを敷設する建物の構造などがある。また、米国では、第
  8層――ユーザ層、第9層――財務層、第10層――政治層
  とか、第8層――お金層、第9層――政治層、第10層――
  宗教層と比喩することもある。ネットワークに関わる人間の
  問題を比喩して「第8層問題」と言うこともある。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年03月26日

TCP/IPとOSIの関係を探る(EJ第2046号)

 TCP/IP、OSI、OSI参照モデル――これら3つの関
係を整理しておきましょう。
 TCP/IPというのは、われわれが日常使っているインター
ネットのプロトコルの名称です。現在、PCには標準で実装され
直ちにインターネットが使えるようになっています。
 先行したのは、TCP/IPだったのです。これはLAN――
イーサネットを開発したゼロックス社のPARC(パロアルト研
究所)で開発されています。イーサネットの開発者であるロバー
ト・メトカフとデビット・ボックスが1974年にTCP/IP
の基礎理論を完成させたのです。
 しかし、同じ年の9月にIBM社は「SNA」という大型コン
ピュータ用の通信プロトコルを完成させており、他にも独自通信
プロトコルは雨後の竹の子のようにたくさん出てきたのです。
 そんな中で、TCP/IPは1978年にRFC化され、完成
度を高めていったのです。このRFCという言葉はこれからも出
てくるので、説明しておきます。
 RFCとは、次の言葉の省略形です。
―――――――――――――――――――――――――――――
      RFC = Request For Comment
―――――――――――――――――――――――――――――
 RFCとは、インターネットに関する技術の標準を定める団体
であるIETFが正式に発行する文書のことです。通信プロトコ
ルやインターネットに関わるさまざまな技術の仕様・要件を、通
し番号をつけて公開しています。インターネット関係の有名なプ
ロトコルのRFC番号は次のようになっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
    IP ・・・・・・・・ RFC 791
    TCP ・・・・・・・ RFC 793
    HTTP ・・・・・・ RFC2616
―――――――――――――――――――――――――――――
 当時、フランスを中心としたヨーロッパでは、ネットワークの
方式を巡って次の2つの方式が対立していたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
        1.  データグラム方式
        2.ヴァーチャル回線方式
―――――――――――――――――――――――――――――
 これら2つの方式がどういうものであり、なぜ対立していたか
は大変興味深いのですが、内容が一層専門化してしまうので、説
明を省略します。内容に興味のある方は、EJブログを参照して
いただきたいと思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
 EJ第1698号〜第1700号
http://electronic-journal.seesaa.net/category/618340-1.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 こうしたネットワークの方式の対立を受けて、1976年に米
英仏代表による共同執筆論文として「世界標準プロトコル」が提
案されたのです。論文の執筆者は次の4人です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ヴィントン・サーフ ・・・・・ 米ARPANET
 アレックス・マッケンジー ・・ 米ARPANET
 スカントルベリー ・・・・・・ 英国立物理学研究所
 ツィンマーマン ・・・・・・・ 仏CYCLADES代表
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、これがそのまま国際標準になることはなかったのです
が、これがベースとなって、ISOが1977年に「OSI」を
発表することになったのです。
 ISOは、1978年に米、英、仏、カナダ、日本から委員を
集めて、OSI参照モデルを打ち出しています。世界標準プロト
コルは断念して、参照モデルを打ち出したのです。そして、19
84年にOSI参照モデルは、国際電信電話諮問委員会(CCI
TT/現ITU−TS)によって承認されています。
 その一方において、TCP/IPは、1983年にARPAN
ETで運用が開始されたのです。というのは、米国防総省がTC
P/IPが軍事用のネットワーク・プロトコルとして有効である
ことを認識し、セキュリティ管理の甘い研究指向の大学の接続拠
点(ノード)と機密情報を扱う軍関係のノードとを分離したから
です。こうして誕生したのがMILNETです。
 この切り離しによって米政府は軍の標準として採用したTCP
/IPを広く産業界に普及させようとします。具体的には、20
00万ドルの予算をつけて、コンピュータ製造会社にTCP/I
Pを搭載するよう奨励したのです。狙いはTCP/IPに準拠し
た通信関連製品を民間から調達しようとしたのです。こういう政
府の積極的な普及活動によって、TCP/IPは急速に普及をは
じめたのは当然のことです。
 しかし、日本の学術情報センター(学情)の猪瀬博氏はOSI
参照モデルに基づいて、新たに大学間ネットワークのインフラを
作ろうとしたのです。しかし、その時点でWIDEプロジェクト
(以下、WIDE)はTCP/IPを搭載してスタートし、企業
の協力を得てネットワークは実用化されつつあったのです。
 村井氏らは、ARPANETサイドの情報をほとんど把握して
おり、TCP/IPが事実上の標準――デファクト・スタンダー
ドになることを確信していたのです。したがって、学情からのさ
まざまな圧力に屈することなく、着実にWIDEネットワークを
拡大していったのです。
 猪瀬教授としても、米国においてTCP/IPが当時どの程度
普及しているか知らなかったわけではないと思うのです。しかし
あえてOSI参照モデルに基づく独自のインフラを一から作ろう
としたのです。考えてみると、日本という国は通信の世界におい
てNTTを中心にしてこのようなことを今までに何回もやってき
ているのです。・・・ [インターネットの歴史 Part2/13]


≪画像および関連情報≫
 ・ヴィントン・サーフについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ヴィントン・グレイ・サーフは、アメリカ合衆国の情報工学
  者であり、インターネットとTCP/IPプロトコルの創生
  重要な役割を演じた「インターネットの父」の一人。サーフ
  は1992年にインターネット協会(ISOC)を設立。I
  SOCは、インターネットの一般ユーザーへの普及促進を図
  るとともに、各種関連技術団体(IETFなど)のまとめ役
  にもなっている。サーフはISOCの初代会長を1999年
  まで務めた。            ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年03月27日

猪瀬対村井の対決−−勝者は?(EJ第2047号)

 猪瀬所長が率いる学情は、OSIに基づく大学間新ネットワー
ク構築のため、各大学に対してヒアリングを行ったのです。多く
の大学がネットワーク環境を整備するための予算を計上してきて
いたので、そのためのヒアリングです。
 ところが、予算申請してきている大学のほとんどがWIDEに
つなぐための予算であり、新しい通信インフラなど必要ではない
というのです。猪瀬所長が怒ったのは当然です。そして、その怒
りは村井氏の上司である相磯秀夫氏にぶつけられたのです。これ
について相磯氏は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 猪瀬先生は国際標準化が進んでいるOSIを強烈に推す。村井
 君はデファクト・スタンダードになっているTCP/IPで行
 くべきだといって譲らない。そこで意見が対立し、衝突を繰り
 返すわけですね。そういうことがあるたびに私が猪瀬先生から
 呼び出されるんです。で、行くと「君のところの村井君に苛め
 られている」とこぼすんです。
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 村井氏の述懐によると、猪瀬先生は流石に一番痛いところを衝
いてきたといっています。それは「公共のインフラは官がやるべ
きである」ということです。これは否定のしようがないのです。
これを認めると、「公共のインフラなんだから、国が推し進めて
いるOSIを採用すべきである」とくるわけです。そして、最後
にこうくるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 村井君が風邪をひいたら、それでストップしてしまうようなイ
 ンフラじゃ困るんだよ。  ――猪瀬博学術情報センター所長
―――――――――――――――――――――――――――――
 そこで、村井氏たちは、次のように理論武装し、学情のインフ
ラを否定しない代わりに、WIDEを引っ込めることは、絶対に
しなかったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 WIDEはあくまでも研究のためのプロジェクトであり、した
 がって研究のためであれば、サービスを一晩止めることもある
 し、新しい技術を試すためにサービスが不安定になることもあ
 るかも知れない。したがって、実際のサービスに関しては学情
 のサポートをしていく。           ――村井純氏
―――――――――――――――――――――――――――――
 つまり、村井氏は学情と正面から対立をすることを避け、国の
通信インフラとの棲み分けを狙ったわけです。しかし、最初から
村井氏が予測していた通り、学情が進めるOSIに基づく通信イ
ンフラは遅々として進まなかったのです。そうこうしているうち
に、インターネットは急速に普及し、TCP/IPのデファクト
・スタンダードとしての立場は磐石のものとなったのです。
 こうした村井氏たちの努力について、相磯秀夫氏は次のように
いっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 もし、村井君が自分のやっていることに自信が持てず、学情セ
 ンターのいいなりになってWIDEプロジェクトを引っ込めた
 りしていたら、日本のインターネットのあり方は随分変わって
 いたでしょうね。インターネットの普及、発展が数年遅れてい
 たと思います。逆にOSIみたいなものがなかったら、WID
 Eプロジェクトが自由に活動できていたら、インターネットの
 普及、発展は数年早かったのではないでしょうか。
               ――滝田誠一郎著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 TCP/IPの急速な普及によって、ISO側はTCP/IP
とは別に、世界標準プロトコルを作るという構想を変更せざるを
得なくなったのです。そこで、TCP/IPとOSIを融合させ
る作業に取りかかったのです。
 この作業はちょっと考えると難しい作業のように思われますが
対立している方式のいずれもがARPANETからスタートして
おり、同じ源流から発していることを考えると理論的には十分可
能なことだったのです。
 1977年までのARPANETのプロトコルは、次の3層構
造をとっていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
           アプリケーション層
                ホスト層
                 通信層
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここでいう「ホスト層」は現在の「トランスポート層」であり
TCP/IPの「TCP」というプロトコルが機能するいわばT
CP/IP通信の司令塔的な部分です。このとき、TCPという
プロトコルは「IP」の機能も併せて持っていたのです。
 しかし、米国防総省は軍事的事情から「IP」の機能を重視す
るようになったこと、それにヨーロッパ方式との整合性を図るた
めに、ホスト層の下位に「インターネット層(IP層)」を設け
ることにしたのです。これによって、現在のTCP/IPの4階
層が確立し、事実上の国際標準になっていくことになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
           アプリケーション層
            トランスポート層
            インターネット層
             データリンク層
―――――――――――――――――――――――――――――
 村井氏の凄いところは、多くの情報から先の先まで読んでいる
ことであり、その洞察力があったから、TCP/IPが標準にな
ることを確信していたのです。
          [インターネットの歴史 Part2/14]


≪画像および関連情報≫
 ・OSI7層に関係するサイトから・・・
  ―――――――――――――――――――――――――――
  今までメールやWebを使っていて、「何で、ADSL・無線
  ・光ファイバーなど色々別の回線を使って通信出来ているの
  だろう?」と思った事はないでしょうか?もし、何気なくイ
  ンターネットを使っていてそのような疑問を持てたら、貴方
  はすごいです。目の付け所が良いです。ただ、思ったことが
  なかったとしても、今、この瞬間思ってください(笑)。
    http://www.geekpage.jp/technology/ip-base/osi7.php
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年03月28日

先読みの村井の読めなかったものとは(EJ第2048号)

 村井純氏の先を読む考え方を知るエピソードがあります。WI
DEがスタートした頃の話です。WIDEのために引いた専用線
は、64Kbps――1秒間に64キロビットの情報を送る速度でし
かなかつたのです。ある日、村井氏の研究室で、その専用線で画
像を送るにはどうしたらよいかという議論をしていたのです。
 そのときの話を砂原秀樹――現・奈良先端科学技術大学院大学
教授は、次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 当時は64Kbps の専用線だったので、文字や絵はともかく、
 音声を送るのはきついし、ビデオなんてもってのほかだった。
 だったら、「文字や絵と切り離して、ビデオは別の線で送ると
 いう手もある。受信した側で文字や絵とビデオがひとつの情報
 として扱えるようにすればいい」というようなことを、ぼくが
 いったら、村井が「バーカ」というわけです。「おまえ、ネッ
 トワークをやっているんだから、全部デジタルで送れなきゃ困
 るだろうと」と。    ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 砂原氏は「でも現実には送れないんだから仕方がないじゃあり
ませんか」と反論すると、村井氏は絶対に譲らない――そういう
ことでよく喧嘩したと砂原氏は述懐しています。
 普通の人であれば、こういう場合、現実的な解決策を模索する
ものです。しかし、村井氏は、全部デジタルで送れなければ困る
んだから、デジタルを前提としてものを考えろというのです。そ
こで妥協してはならんというわけです。
 確かに現実的な解決策はネックが解決すると不要のものになり
ますが、ネックのある状態の現在の時点で、ネックのなくなった
先のことを考えておくと、そういうときがきたら即座に手を打つ
ことができるわけです。村井氏はそういう先読みの感覚に優れて
いたというのです。
 そういう先読み感覚の優れている村井氏にも先読みができない
ことがひとつあったのです。それは、接続したネットワークの環
境で日本語が使えないということだったのです。
 コンピュータを計算処理などで使っているときは、日本語が使
えなくても別に不自由はしていなかったのです。なぜなら、当時
のコンピュータは計算機そのものであり、日本語が使えるかどう
かは関係なかったからです。
 しかし、コンピュータ同士がネットワークにつながれた途端、
それはコミュニケーションの道具となったので、言語の問題の不
満が出てきたのです。なんで、日本語が使えないのか、と。
 インターネットの技術的な決り事を定めたRFCによると、電
子メールに使える文字は「ASCII」に限定されている――つ
まり、アルファベットしか使えないようになっていたのです。
 JUNETをはじめた1984年、日本語が使えないという批
判が出たのですが、村井氏はとくに気にしなかったといいます。
なぜなら、JUNETを使うのは大学や研究所の学者やコンピュ
ータサイエンスを学ぶ学生たちであり、英語ぐらい使えるだろう
と思っていたのです。それどころか、村井氏は、電子メールでは
英語を公用語にしたら良いとまで考えていたのです。
 いかに先読みの村井氏でも、JUNETをはじめた時点では、
それからわずか15年〜20年後に、すべての人がネットワーク
につながるようになるということまでは読めなかったようです。
 JUNETでメール交換をやってわかったことは、村井氏の考
え方の甘さだったのです。こんなに英語が書けないヤツが多いと
は・・・。村井氏は次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 コンピュータ・サイエンスの専門家は日頃から英語の論文やマ
 ニュアルを読んだりしているわけですから、英語の読み書きが
 できない人はいないとぼくは勝手に思いこんでいた。だから、
 英語しか使えなくても別にいいじゃん、と。ところが、いざス
 タートしたら、英語のできないヤツばっかしなわけ。何が書い
 てあるのかさっぱりわからない。そのうちみんな英語を使わな
 くなって、ローマ字を使いはじめた。これじゃダメというので
 日本語化に取り組みはじめたわけです。
             ――――滝田誠一郎著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 英語の原書が読めても、そこそこ日常会話が喋れても、ちょっ
としたメッセージを素早く英語で書くことは案外難しいものなの
です。かつて私は米国人と一緒に仕事をしたことがあり、電話の
伝言などのちょっとしたメモは英語で書いてもらっていましたが
実に見事な文章を書くのです。難しい単語を使わず誰でも知って
いる言葉で書かれているので、読みやすい。これはなかなか日本
人にはできないなと思ったものです。しかし、村井氏にはそう苦
労することなくそれができたのでしょう。
 実は、コンピュータで日本語が使えるようになるまでには大変
な苦労があったのです。しかし、この苦労話はほとんど伝えられ
ていないのです。
 PCを開発したのは米国ですが、日本語の面倒までは見てくれ
ないのです。日本語が使えなくて困るのは日本人だけであり、米
国人は困らないのですから、日本人が本気になって取り組まなけ
ればならなかったのです。
 もともと言語を担当するのはOSの仕事です。しかし、初期の
UNIXやMS−DOSでは、当然のことながら日本語は無視さ
れ、その日本語化については、NECや富士通などのメーカーや
研究機関が中心となってその作業に当たったのです。
 村井純氏は、通信の分野――とくにUNIXの日本語化につい
て大変な努力をされているのです。しかし、このことを知ってい
る日本人はあまりにも少ないのです。われわれがネットワークで
日本語が使えるのは村井氏の努力があってのことといっても過言
ではないでしょう。   
        ―― [インターネットの歴史 Part2/15]


≪画像および関連情報≫
 ・慶応義塾大学/SFCでの村井純
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「夢を追いかけている人っていうのは、だいたい子供になっ
  ている。夢を追いかけて、一見、不可能に思えても諦めない
  のが子供の良さなんです」それは研究室の門下生も同感だ。
  SFCの村井研究室出身で現在、慶應大学環境情報学部助手
  の南政樹が証言する。「基本的に負けず嫌いで、新しもの好
  き。研究のことだろうと古いアニメのことだろうと、学生と
  張り合うんです。敵が強くなればなるほど自分もがんばっち
  ゃうタイプですね。ある意味でとても子供のような面があり
  ます。とてもミーハーだし(笑)。
      http://www.president.co.jp/pre/20001016/02.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

u.jpg

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2007年03月29日

JUNETの日本語化のもたらしたもの(EJ第2049号)

 JUNETの日本語表示の問題――これを村井氏は1986年
までに解決しています。その結果、JUNETでは1986年か
らは漢字が使われるようになったのです。
 それでは、どのようにして漢字で文字を表示させることができ
たのでしょうか。
 1986年という年は、16ビットCPUの時代であり、PC
はMS−DOSというOSの環境で動いていました。NECの9
8シリーズが一番人気で売れていた時代です。しかし、PCはま
だ高価であり、50万円前後はしていたと思います。
 当時のPCの日本語処理は、CPUの力がまだ弱いため、日本
語を表示させるために漢字ROMを備えていたのです。漢字のか
たち(フォント)をROM(読み出し専用メモリ)化して、PC
に装備していたのです。PCが高価だったのはそのためです。な
お、プリンタにも漢字ROMが装備されており、プリンタも数十
万円もしたのです。
 ところで、NECはこの98用の漢字ROMを別売していたの
です。村井氏はこれを手に入れ、何とか利用できないかと考えた
のです。これは、漢字コードを入力すると、漢字が画面に表示さ
れる仕組みになっていたのです。
 さいわい頭のよい学生がいて、その漢字ROMを読み取って画
面に#記号で漢字を表示させるソフトウェアを開発したのです。
それを使ってメールを送ると、受信した側のコンピュータの画面
に#記号で作られた日本語がちょうど電光ニュースのように流れ
て表示されるというわけです。
 このとき使っていたディスプレイは、英字専用の「キャラクタ
ディスプレイ」だったので1文字ずつ文字が流れたのですが、こ
れに代わって「ビットマップディスプレイ」が一般化すると、#
記号を使うまでもなく、漢字もきれいに表示されるようになった
のです。
 このJUNETの日本語対応に関連して、どうしても述べなけ
ればならないことがあります。それは「fj(エフ・ジェイ)」
というものに関してです。
 既に述べたように、JUNETは、UNIXのUUCPで接続
されているネットワークです。同じようにして、UUCPで接続
されていたのが米国のUSENETです。
 その当時米国では、「ネットニューズ」というものが流行しつ
つあったのです。「ネットニューズ」はインターネットの複数の
サーバで主にテキストを配布・保存するシステムであり、掲示板
のような働きをします。一応ルールはありますが、誰でも自由に
書き込むことができ、いろいろなテーマについて議論できます。
しかし、WWW上にある掲示板とはぜんぜん別ものです。
 ネットニューズには、当時次の2つがあったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    fa  ・・・・・ from arpanet
    net ・・・・・ from  usenet
―――――――――――――――――――――――――――――
 ネットニューズの中には、さまざまな話題やテーマから成る多
くのニューズグループというものがあり、興味のあるニューズグ
ループに入って書き込みによる議論ができるのです。そういう書
き込みの文書は、UUCPによってそのニューズグループ加入者
全員に届けられる仕組みです。
 ARPANETの接続拠点の大学関係者は、これを使ってさま
ざまな意見交換をやったものと思われます。その情報がnet、
すなわち、USENETに流れていたのです。faとnetは、
相互乗り入れをしていたからです。その情報はKDDの研究所を
通して、日本のJUNETにも流れており、JUNETの一部の
関係者はこれを貴重な情報源であり、極めて興味深いものとして
受け入れていたのです。
 そういう関係から、JUNETでの電子メールのやりとりは、
USENETと同じUUCPによるネットワークであり、日本語
でやり取りができるネットニューズに発展していったのです。こ
れが「fj」なのです。もちろん「fj」とは、次の意味になり
ます。くれぐれも「フジ・ツウ」と間違えないように。
―――――――――――――――――――――――――――――
    fj ・・・・・ from japan
―――――――――――――――――――――――――――――
 fjはJUNETが閉鎖されるまではJUNETの通信そのも
のだったのですが、以後独立して現在も続いています。しかし、
2007年3月1日、fjは、ニュースグループ管理委員会委員
の第13期委員の投票において、選任が有効となる50票以上の
投票に達せず、同管理委員会が不在の状態が発生しています。
 JUNETによる日本語通信の恩恵を受けていた人はたくさん
いるのです。現・慶応義塾大学環境情報学部の徳田英幸教授もそ
の一人です。徳田氏がCMU――カーネギーメロン大学の研究員
をしていたとき、毎日、日本から送られてくる、その日のプロ野
球の結果や大相撲の勝敗を大学の研究室にあったSUNのワーク
ステーションで見るのが楽しみだったといっています。
 当時、徳田氏の研究室と東工大の村井氏の研究室はUUCPで
つながっていたのです。1日数回、徳田氏の方から電話をかけて
東工大のコンピュータを呼び出して、電子メールなどの送受信を
行っていたのですが、その中にプロ野球や大相撲の結果を書いた
メールも含まれていたというわけです。
 このようにして、JUNETの日本語化はうまくいったのです
が、ある専門家からNECのPC用のフォントをそのまま使って
いるのはまずいということになったのです。そこで、フォントを
作っている会社を回って、「フォントを寄付してくれ」といった
ら、すべて断られてしまったそうです。おそらくいっていること
の意味が先方に通じなかったためと思われます。
 その報告を聞いた村井氏は「それならフォントを作ろうよ」と
いい出したのです。 
       ―― [インターネットの歴史 Part2/16]


≪画像および関連情報≫
 ・ネットニュース(ネットニューズ)
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ネットニュースはコンピュータネットワークでの情報交換に
  使われるシステムのうち、広範に用いられたものとしては、
  Eメールとともに、最も古いシステムの1つである。インタ
  ーネットやWWWが一般的に普及する前から存在している。
  初期のネットニュースはEメールと同様に、IPによらず、
  UUCPで配送された。現在では、やはりEメールと同様に
  ほぼ全てのネットニュースのトラフィックはIPにより配送
  されている。            ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年03月30日

UNIX用日本語フォントが完成(EJ第2050号)

 1995年の話です。第4回「フリーソフトウェア大賞」授賞
式の席上、選考委員会委員長の石田晴久氏は次のように挨拶をし
ています。
 「フリーソフトウェア大賞」は、財団法人インターネット協会
が主催し、フリーソフトウェアの中から社会に貢献した優秀な作
品を毎年表彰しているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 今回から新しくインターネット関連のフリーソフトも選考対象
 とした。各賞受賞の3作品は、過去、そして現在の日本のイン
 ターネットを支えてきたものである。日本のインターネットが
 大きな脚光を浴びる今、こういったソフトを選ぶことができて
 よかったと思う。      ――石田晴久選考委員会委員長
      http://www.nmda.or.jp/enc/fsp/jis/commt95.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 この受賞3作品の中のひとつが、今回のテーマにも関係する次
の作品なのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
           橘浩志「K14」
―――――――――――――――――――――――――――――
 橘浩志氏は、当時村井氏を中心とするJUNET研究会に顔を
出していた常連で、タイポグラフィーとかレタリングに興味があ
り、中、高校時代はそういうことに熱を上げていた人物です。橘
氏は、東工大の工学部・情報工学科を卒業し、アステックという
ソフトウェア開発会社に当時在籍していたのです。
 JUNETの日本語化に使ったNECの漢字ROMをドネーシ
ョン(寄付)させるのに失敗した村井グループは、自分たちで作
ろうということになって、村井氏が目をつけたのが橘浩志氏なの
です。「彼ならやれる」、と。
 村井氏の考え方はこうです。橘がいくつかのサンプルとガイド
ライン――フォントデザインの統一基準を作成する。そうすれば
そのガイドラインに沿って文字をデザインする作業はJUNET
関連の大学の学生を総動員し、人海戦術で処理すればできると考
えたのです。
 しかし、ことは村井氏の考え通りには進まなかったのです。対
象となる文字は、JIS漢字コードに定められている約6000
字を超える日本語フォントです。
 橘氏がサンプル作りに着手してわかったことは、文字をデザイ
ンすることは思ったより早くできるが、それをガイドラインとし
てまとめるのは相当時間がかかる――しかも、人海戦術でやった
場合、最後にすべてをチェックする必要がある。この作業が大変
だということです。こういう仕事は分散すればするほど、かえっ
て手間がかかるのです。
 そこで、橘氏は自分ひとりでこの作業をやった方が早いと考え
て、敢然とそれに着手したのです。そのとき、橘氏の勤務先は渋
谷にあり、自宅は学生時代から同じ東工大の裏のアパートだった
のです。作業に使ったマシンは東工大の研究室にあったワークス
テーション「SUNU/Xウインドウ付き」です。
 橘氏は、仕事が終わって自宅に戻る途中に大学の研究室に寄り
遅くまでフォントをデザインし、休みの日は一日研究室にこもっ
て作業に没頭したのです。もちろん一銭にもならない仕事です。
しかし、橘氏はこれが日本のコンピュータ・ネットワークに大き
く寄与することになるという意識で最後までやり遂げたのです。
 1987年7月にJIS漢字第一水準、同年12月に第二水準
を完成します。これが「K14」として、1995年のFSP大
賞に結び付いたのです。
 受賞に当たって、橘浩志氏はつぎのように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 UNIX上で漢字を取り扱うのに大変苦労していたものです。
 デザインの統一を図るために、とりあえず私がガイドラインを
 作成をすることになったのですが、いくつか試しに作ってみる
 と意外と簡単だったので、これなら一人で使った方が早いしク
 オリティの高いものができるだろうという安易な気持ちでスタ
 ートしました。しかし6000字を越えるものを一人で作るの
 はなかなかしんどい作業で、嫌になった時期もありましたが、
 ひたすら根性だけで、一年ぐらいかかって何とか作り上げまし
 た。表彰していただけるということで、大変恐縮しています。
                       ――橘浩志氏
―――――――――――――――――――――――――――――
 ところで「K14」というのは、Kは「漢字」、14は「14
ドット」を意味しているのです。したがって、14ドットの漢字
フォントという意味になります。ちなみにこのフォントは、「橘
フォント」といわれ有名です。
 このようにして、JUNETの日本語化については、1987
年には、橘フォントの完成で一応ケリがついたのですが、問題は
UNIXの日本語化が残っています。これは、日本語の国際化の
問題でもあります。
 村井氏は、UNIXの開発元であるベル研究所を動かさなけれ
ばダメだと考えたのです。しかし、彼らはこの問題――UNIX
の日本語化にはぜんぜん興味がないのです。なぜなら、彼らは英
語だけでも何も苦労しないからです。
 そこで、UNIXの日本語化ではなく、UNIXの国際語化で
いこうと考えたのです。具体的にいうと、電子メールの多言語化
――つまり、マルチランゲージ化です。この分野で先んじると、
ビジネスの範囲は拡大する――そのように連中に訴えれば、やつ
らはあわてて取り組むに違いないと考えたのです。
 村井氏は、1986年にベル研究所に招かれて、講演をする機
会あったのですが、そのときUNIXの国際語化について、熱心
に訴えたのです。村井氏はUNIXの国際語化はあなたたちには
興味がないでしょうから、こちらに任せて欲しいとまでいったの
です。     ―― [インターネットの歴史 Part2/17]


≪画像および関連情報≫
 ・ベル研究所について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ベル研究所はもともとベル・システム社の研究開発部門とし
  て設立された研究所である。ベル電話研究所とも。電話交換
  機から、電話線のカバー、トランジスタまであらゆるものの
  開発を行っている。ベル研究所の名前は、電話の発明者グレ
  アム・ベルに由来するといわれている。1970年代にUN
  IXとC言語の開発を行っている。
                    ――ウィキぺデイア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年04月02日

ネットで日本語が使えなかった理由(EJ第2051号)

 UNIXの国際語化――1984年以降、WIDEプロジェク
トの初期の頃ですが、村井氏はこの問題に没頭していたのです。
村井氏のこの努力が現在のインターネットの日本語化に結びつい
たといえます。インターネットは米国が開発したものであり、当
然のことながら、最初のうちは日本語が扱えなかったのです。
 そこで、村井氏が何をしたかを知っていただくために、少し面
倒な話をしなければならないのです。知っておくと後でいろいろ
なことに役立つので、ぜひ読んでいただきたいと思います。
 コンピュータの内部では、文字を数値として扱います。例えば
「A」という文字は「65」(16進数では「Ox41」)というコ
ードが割り当てられています。これを「文字コード」と呼んでい
るのです。
 コンピュータの黎明期においては、多くのメーカが独自の規格
でコンピュータを作っており、コンピュータ同士の互換性はまっ
たくなかったのです。
 しかし、それらのコンピュータが一つの企業、一つの大学、一
つの研究所で使われているうちは何も問題はなかったのですが、
それらのコンピュータをそれぞれ繋いで、企業間、大学間、研究
所間でデータを交換しようとすると、文字コードの互換性がない
ため、それはできなかったのです。
 こういう事態を受けて、米国の工業基準を定めているANSI
(アンシ)が乗り出し、データ交換用の標準的な文字コードとし
て定めたのが、ASCII(アスキー)です。
―――――――――――――――――――――――――――――
      ASCII
      American National Standard Code for
      Information Interchange
―――――――――――――――――――――――――――――
 ASCIIは本来はデータ交換時に使われる目的で作られたの
です。そのこと、ASCIIの最後の2文字――IIは「データ
交換用」という意味であることから明らかですが、多くの米国の
コンピュータメーカーは、データ交換時だけでなく、コンピュー
タ内部で文字を処理するさいの文字コードして採用したのです。
ASCIIは文字コードの中心的存在となのです。
 ここで、「ビット」と「バイト」の関係を知っておく必要があ
ります。「ビット」というのは情報の最小単位であり、具体的に
は「0」と「1」です。コンピュータではこの「0」と「1」し
か扱えないのです。コンピュータは2進数でできているのです。
 この「0」と「1」を8個集めた単位を「バイト」というので
す。つまり、次の式が成り立ちます。
―――――――――――――――――――――――――――――
          1バイト=8ビット
―――――――――――――――――――――――――――――
 この8ビット、これは10進数で2の8乗(0〜255)をあ
らわしています。すなわち、256個の数字を文字コードとして
使うと、欧米の文字は、種類が少ないので、それで間に合ってし
まうのです。これを「シングルバイト(1バイト)文字」という
のです。
 これに対して、日本をはじめとするアジアの国の言葉――例え
ば漢字などは8ビットではとても足りないので、8ビットの倍の
16ビット――2バイトを使うのです。2バイトは10進法では
2の16乗(0〜65535)ですから、これだけあれば十分で
す。これを「マルチバイト(2バイト)文字」というのです。
 しかし、欧米の文字は8ビットですべてあらわせるのですが、
英語に限ると、もっと少ない数で足りてしまうのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    アルファベット大文字 ・・・・・ 26個
    アルファベット小文字 ・・・・・ 26個
    数字 ・・・・・・・・・・・・・ 10個
    記号その他 ・・・・・・・・・・ 30個
    ――――――――――――――――――――
                     92個
―――――――――――――――――――――――――――――
 92個の文字であれば、2の7乗(128個)で足りることに
なります。そこで、米国ではシングルバイト(1バイト)文字は
使うのですが、文字そのものは7ビットで済ませてしまい、残り
1バイトは別の目的で使うことにして、ASCIIコードを決め
てしまったのです。これがマルチバイト文字を使う国々にとって
は、大きな障害となるのです。
 もっとも8ビット目に特別な意味を持たせなければ問題はない
のですが、世界の多くのソフトウェアは文字を表すのに7ビット
を使い、8ビット目に固有な意味を持たせているのです。とくに
UNIXというOSでは、この8ビット目を使うソフトウェアが
多くあり、これにマルチバイト文字を通そうとすると、エラーに
なってしまうのです。
 UNIXというOSは、ここまで見てきたように、通信ネット
ワークに深い関わりのあるOSであり、これがインターネットで
日本語が使えない原因だったといえます。村井氏はこのOSを開
発したベル研究所に働きかける必要があると考えたのです。
 それではどのようにしたら解決できるでしょうか。村井氏は解
決策としては次の2つしかないと考えたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.すべてのソフトウェアにおいて、8ビット目に特別な意味
   を持たせないようにする
 2.日本語が7ビットを基準とした2バイトでも通るように何
   らかの工夫をこらすこと
―――――――――――――――――――――――――――――
 村井氏は、上記1についてはひたすら声を大にして世界に主張
するが、完全解決は難しいと考えて、とりあえず2に重点を絞る
ことにしたのです。   
        ―― [インターネットの歴史 Part2/18]


≪画像および関連情報≫
 ・文字コードの解説サイトから・・
  ―――――――――――――――――――――――――――
  文字コードは、間違いなく情報を交換するための「決まりご
  と」なので,正確を期すため厳密な仕様が規定されている。
  だが,その仕様そのものを実装するプログラムを作る場合を
  除けば,プログラマが仕様の詳細を隅々まで理解している必
  要はない。六法全書を読んでいなくても問題なく普段の生活
  ができるようなものだ。
  http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20061122/254626/
・ASCIIコード
  http://dennou.gaia.h.kyoto-u.ac.jp/arch/zz1998/mozi/zengaku.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

@.jpg
posted by 平野 浩 at 04:36| Comment(0) | TrackBack(0) | インターネットの歴史 Part2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月03日

ISO−2022−JP符号化方法(EJ第2052号)

 PCを使う日本人ユーザがぜんぜん気にしていないことですが
コンピュータにおける日本語化は実にやっかいな問題なのです。
いろいろな工夫が施されて現在に至っていますが、その結果とし
て現在でも文字化けを完全には防ぐことができないでいます。
 このあたりのことを勉強しようとして、文字コードやフォント
に関する書籍を読んでみると、これが実に難解で、何度読んでも
わからないのです。
 現在、コンピュータで日本語を表示させるための文字コードと
して普及しているものには、次の3種類があるのです。これを名
前だけでもまず頭に入れておいてください。
―――――――――――――――――――――――――――――
         1.JISコード
         2.シフトJISコード
         3.EUC
―――――――――――――――――――――――――――――
 コンピュータを最初に開発し、ASCIIを定めた米国――そ
のため、インターネット・メールでは、7ビットのASCII文
字だけが文字化けしないできちんと送受信できる保証が与えられ
ているのが現状です。
 村井氏は、この事実を踏まえてJUNETコードを7ビットに
変換して送る方法を検討したのです。メールの中のASCII文
字はそのままにし、日本語――漢字とひらがなについてはすべて
7ビットのASCII文字に変換して送信する方法です。この変
換のことを専門的に「符号化(エンコード)」というのです。
 この村井氏の考案した方法は、次のように正式にRFC化され
ています。
―――――――――――――――――――――――――――――
     ISO−2022−JP符号化方法
     RFC−1468/1993年
―――――――――――――――――――――――――――――
 実は、このISO−2022−JPによって7ビット化された
文字コードが上記1の「JISコード」なのです。現在、インタ
ーネット・メールのほとんどが、このJISコードなのです。
 それを確認するために実験をしてみましょう。本文を次のよう
に書き、タイトルを「テスト」として、自分宛にメールを送って
いただきたいのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
          タイトル:テスト
          本  文:ASCII漢字
―――――――――――――――――――――――――――――
 メールが着信した状態でそれをクリックして選択します。メー
ルを開かない状態でです。その上にマウスのポインタを置いて右
クリック。そうするとプルダウンメニューが出てきますので、一
番下にある「プロパティ(R)」をクリックします。
 そうすると「テスト」のウインドウが表示されます。ウインド
ウの「詳細」のタグをクリックし、「メッセージのソース(M)」
をさらにクリックし、画面を拡大してください。下の方に次のよ
うなメッセージが出てくるはずです。
―――――――――――――――――――――――――――――
        Content-Type: text/plain;
         format=flowed;
         charset="iso-2022-jp";
         reply-type=original
   ⇒    Content-Transfer-Encoding: 7bit
―――――――――――――――――――――――――――――
 この中に「7ビットで内容をエンコードしている」というメッ
セージがあるのを確認できると思います。ISO−2022−J
Pという文字も見えると思います。
 着信した他のメールでも同じ操作をやってください。7ビット
でエンコードのメッセージがないものもありますが、これはあま
りにも当然なこととして省略されているのです。
 さらにひとつ付け加えると、「テスト」文書の表示されたメッ
セージの一番下に、次のようなわけのわからない文字列が出てい
るはずです。
―――――――――――――――――――――――――――――
         $B!! (BASCII $B4A;z (B
―――――――――――――――――――――――――――――
 これは「ASCII漢字」がエンコードされた状態なのです。この
ようなかたちで送信され、着信時にデコードされ、メールの本文
に「ASCII漢字」として表示されるのです。
 しかし、JISコードの仕組みを簡単にいうと、漢字のコード
はASCIIとは別の場所に置いてあって、漢字が必要になると
きは、「エスケープ・シーケンス」という制御文字で切り替える
という方法をとっているのです。
 メールは上から順番に読んで行くものであり、エスケープ・シ
ーケンスで切り替える方法でもかまわないのですが、OSの内部
処理ということになると、メールのように順番に読むとは限らず
ランダムにデータをアクセスすることが多いのです。
 その場合、そのコードの並びが、1バイト文字なのか2バイト
文字なのかOSにはわからないので、直前のエスケープ・シーケ
ンスまで戻って確認するという面倒なことをしなければならない
のです。
 そこで、ちょうどMS−DOSの日本語化作業を行っていたア
スキー・マイクロソフト社では、MS−DOSの内部処理用コー
ドとして、ひらがなや漢字などの2バイト文字を1バイト文字と
重複しないコード領域にシフトさせた方法を採用したのです。こ
れが「シフトJIS」といわれるものなのです。
 「シフトJIS」は、現在のOSであるウインドウズでも使わ
れており、文書作成はシフトJIS、メールはJISコードが共
存しているのです。   
        ―― [インターネットの歴史 Part2/19]


≪画像および関連情報≫
 ・ISO−2022−JPについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ISO−2022−JPは7ビットで表現されており、AS
  CII文字と漢字など、文字の切り換えには、エスケープ・
  シーケンスを用いている。2000年版では漢字が2ヶ所に
  分かれており、これもエスケープ・シーケンスで区別する。
  ISO−2022−JPは7ビットで表現されているため、
  欧米などで開発された8ビット目を無視する電子メールシス
  テムでも問題なく使用することができる。このため、電子メ
  ールでの日本語送受信はISO−2022−JPによって行
  なうことが事実上の標準となっている。
                     ――IT用語辞典
           http://e-words.jp/w/ISO-2022-JP.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

R[h{.jpg
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2007年04月04日

バイトとオクテットの違いは何か(EJ第2052号)

 ISO−2022−JPは、村井氏とその仲間が中心となって
開発したものであるので、JUNETコードといわれています。
これは1バイト(8ビット)のうち、7ビットの部分しか利用で
きないようにしているのです。
 電子メールを送信するとき、メール自体はシフトJISで作成
されているので、メール送信時には日本語部分はシフトJISか
らJISコードに変換されて送信されます。
 このメールを受信した側のメールソフトは、メール中に埋め込
まれているエスケープ・シーケンスに基づいて、それ以降の文字
コードの種類を判断します。ASCIIの部分はそのままの英数
字として、JISコードの部分はシフトJISに変換したうえ画
面に表示されるのです。
 日本語を表示させる文字コードのうち、JISコードとシフト
JISについては説明を終わっていますが、もうひとつ残ってい
ます。それは「EUC」です。EUCは漢字EUCともいわれま
すが、次の省略形です。
―――――――――――――――――――――――――――――
       EUC = Extended Unix Code
―――――――――――――――――――――――――――――
 EUCはUNIXの環境下で主として使われます。ASCII
とは違って8ビット文字です。日本語だけではなく、韓国語版、
中国語版なども存在する国際語対応です。
 村井氏は、ISO−2022−JPの開発のかたわらUNIX
の国際語化についての基本的な解決努力をしています。1バイト
――8ビットのうちの8ビット目に特別な意味を持たせないよう
にベル研究所に訴えることです。
 1986年に村井氏はベル研究所で講演をしています。そのと
き、村井氏は日本では電子メールの多言語化、マルチランゲージ
化に取り組んでいる――そのためには8ビット目を何かに使わな
いようにして欲しいと訴えたのです。
 それから半年後に村井氏はもう一度ベル研究所から講演を依頼
されます。そのときのことを村井氏は次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 半年後にもう一度講演に呼ばれてベル研究所を訪れたら、驚い
 たことにケン・トンプソンをはじめとする一流のコンピュータ
 ・サイエンティストたちが夢中になってビット・マップ・ディ
 スプレイに日本語を表示する研究をやっていました。
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 ケン・トンプソンといえばUNIXの開発者です。それを助け
たのはC言語の開発者であるデニス・リッチです。そのケン・ト
ンプソンとデニス・リッチが、村井純氏の講演を聞き、UNIX
の国際語化をやらないと、日本に先を越されると考えたのです。
 それ以降、ベル研究所の中で、米国においてUNIXの国際語
化の取り組みが本格化するようになり、やがて彼らの手によって
実現します。それがEUCです。
 これは、JISコードとは異なり、8ビットです。また、シフ
トJISに似ていますが、それとも異なります。このように、ベ
ル研究所を動かしたのは村井純その人なのです。
 インターネットの歴史に関連して、ビットやバイトの話をせざ
るを得ないので、逡巡しながらもあえて取り上げています。なぜ
なら、この話をすると、とくに中高年層は嫌うのです。大して難
しくないのに難しいと考える人が多いからです。
 私は、EJと同じ内容の記事を2年前からブログに掲載してい
ますが、このテーマになる前は一日平均450人――一日平均ア
クセス1200回――の来訪者があり、未踏の一日500人来訪
の直前まで来ていたのです。
 しかし、このテーマになると来訪者は減りはじめ、現時点では
150人ほど減って300人前後――一日平均1000回アクセ
スになっています。メルマガとしてのEJも届いているのに、こ
のテーマに関しては読んでいない人が多いと思います。これは大
変残念なことです。
 興味のないテーマまで読むことはない――こういう意見を持つ
人は多いです。それが正しいと思っています。しかし、この考え
方に立つと、知識が限定され、判断できること、理解できること
が限られてしまうのです。これは大変残念なことです。
 しかし、コンピュータやインターネットの話をするのに、この
話を避けては通れないのです。したがって、これからもひるむこ
となく続けていきます。
 繰り返しになりますが、8ビットは1バイトです。これはコン
ピュータにおいて情報の大きさをあらわす単位です。しかし、既
に見てきたように、1バイトには8ビットの場合も7ビットの場
合もあるのです。
 しかし、通信ネットワークの世界では8ビットは8ビットとし
て扱うので、バイトという単位を使わないのです。それは次の別
の名前で呼ばれるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
          8bit = 1 Byte
          8bit = 1 Octet
          Octet = Octopus
―――――――――――――――――――――――――――――
 オクテット――これはオクトパス(蛸)という意味であり、蛸は
8本足があるので、そう呼ばれます。
 文字コードにはもうひとつ「ユニコード」というものがありま
す。しかし、ユニコードについては、日本のインターネットの歴
史と離れるので、別の機会に取り上げることにします。
 とにかくインターネット上で日本語が使えるところまで話はき
ました。村井純氏とその仲間――もし、彼らの努力がなければ、
ここまできていないのです。
        ― [インターネットの歴史 Part2/20]


≪画像および関連情報≫
 ・オクテットとは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  情報通信の分野で、8ビット単位の情報。バイトの大きさが
  対象となる情報系に依存する(すなわち8ビットの場合もあ
  ればそうでない場合もある)のに対し、「オクテット」は常
  に8ビットを意味する。特に通信関係でよく使われる。なお
  音楽の世界で8人の奏者による重奏、またはその曲。メンデ
  ルスゾーン作曲の『弦楽八重奏曲』が有名である。
                    ――ウィキぺディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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posted by 平野 浩 at 04:46| Comment(1) | TrackBack(0) | インターネットの歴史 Part2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月05日

日本初のプロバイダIIJの誕生(EJ第2054号)

 JUNETにおいて村井氏とその仲間が、電子メールを日本語
で送受信できるようにした1987年のことです。米国では世界
初の商用プロバイダUUNETが発足して、UUCP接続サービ
スを開始しています。
 1990年代のはじめ、村井氏が創設したWIDEプロジェク
トには加入希望が殺到して、さばき切れない状態になっていたの
です。なぜなら、WIDEは村井氏を中心とする若手研究者が手
弁当で支えていたのですが、既に限界を超えていたからです。
 この事態に、日本初のインターネット・プロバイダを創設する
必要がある――村井氏はそう考えたのです。しかし、資金をどう
するか、社長を誰にするか――難問山積です。
 プロバイダになるには、電気通信事業法に定められている特別
第2種通信事業者のライセンスを取得することが必要なのです。
通信事業者は次の2つに分けることができます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 自ら設備を持って通信サービスを提供――第1種通信事業者
 諸設備を借用して通信サービスを提供――第2種通信事業者
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1種通信事業者はNTTのように通信設備を持っている業者
であり、第2種通信事業者は第1種通信事業者から諸設備を借り
て通信サービスを提供する事業者のことをいうのです。
 プロバイダになるには、その第2種通信事業者の中で、一定規
模以上の事業者、特別第2種通信事業者になる必要があります。
ここで「一定規模以上」というのは、通信回線が500回線以上
といった条件です。
 何はともあれ会社を設立する必要があります。しかし、そのた
めには、最低資本金1000万円を用意する必要があります。こ
のお金をどうして作るかです。
 結局そのお金は、WIDEの主要メンバーに出してもらうしか
なかったのです。20人近いWIDEのメンバーを村井氏が訪ね
て会社設立の趣旨を説明し、一人20万円から100万円の資金
を出してもらい、総額1800万円の資本金が集まったのです。
 問題は実際に会社を設立する実務を誰にやらせるかです。村井
氏の仲間には優秀なエンジニアはたくさんいたのですが、法律な
どを含めて会社の実務のわかる人間などいなかったのです。
 そういうメンバーの中に一人だけ株式投資を趣味にしていた男
がいたのです。楠本博之という人物です。楠本氏は当時通産省工
業技術院電子技術総合研究所に勤務する公務員だったのです。
 もっとも楠本氏は単に株式投資を趣味として少しやっているだ
けであって、それは会社の実務がわかるということとは無関係の
ことだったのです。しかし、村井氏は、楠本は株をやっているか
ら経済がわかる、それに公務員だから法律のことがわかる、だか
ら、会社の実務がわかるはずである――こういう発想で楠本氏に
会社のことをすべてまかせたのです。
 最大の難問は社長を誰にするかです。こればかりは楠本氏にま
かせるわけにはいかなかったので、村井氏が乗り出したのですが
なかなか引き受け手はいなかったのです。いろいろな曲折を経て
深瀬弘泰氏が引き受けることになったのです。
 1951生まれ、埼玉大学物理学科卒、金融系のソフトウェア
会社を経てアスキーに入社、順調に栄進して、技術企画部長まで
昇りつめた人物です。村井氏が最初に深瀬氏に社長就任を要請し
て一度断られているのです。しかし、一通り候補者に当たってみ
て、すべて断られて、再度村井氏は深瀬氏に頼み込み、社長を引
き受けてもらうことになったのです。
 このようにして1992年12月3日、国産初のインターネッ
ト・プロバイダ、インターネット・イニシアティブ企画――II
J( アイ・アイ・ジェイ)が誕生したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    IIJ = Internet Initiative Japan
―――――――――――――――――――――――――――――
 IIJの意味は、「インターネットにおいてイニシアティブを
取り続ける」という気持ちを込めて付けた名前なのです。元祖と
しての気概がそこに込められているのです。
 ところがIIJはスタートしたものの、特別第2種通信事業者
のライセンスがなかなか取れなかったのです。申請書類を出すと
「書類不備」ということで突き返される――書き直して提出する
とまた突き返される。これの繰り返してです。
 100回以上これを繰り返して、やっとあることがわかったの
です。本当の原因は書類が不備なことではないということを、で
す。一体何が原因だったのでしょうか。
 1994年に深瀬弘泰氏から社長を要請されて引き受けた鈴木
幸一氏は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 通信事業というのは公共性の高い事業なので、不特定多数の人
 にサービスを提供しなければいけないとか、サービスを止めて
 はいけないとか、そういうルールがあるんですよ。それだけの
 基盤があるかどうかをきちんと申請書類に書け、とそれが郵政
 省の言い分ですよ。その基盤は何かといえば、はっきりいえば
 金ですよ。その金がなかったからライセンスがもらえなかった
 のですよ。大難航するわけですよ。
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 要するに、数億円ないし数十億円の資金力がなければ、特別第
2種通信事業者のライセンスがとれないということです。鈴木社
長が銀行と折衝し、IIJは郵政省が許容するぎりぎりの融資を
引き出し、1994年2月にやっと特別第2種通信事業者のライ
センスを取得します。会社設立後、1年3ヶ月かけて、やっとプ
ロバイダのライセンスを獲得したのです。IIJの事業はやっと
スタートしたのです。  
       ―― [インターネットの歴史 Part2/21]


≪画像および関連情報≫
 ・IIJについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  IIJは、1992年、日本で初めてインターネットの商用
  化を目的とした会社として設立されました。 以来、ネット
  ワーク技術の分野においてイニシアティブを取り続け、日本
  のインターネット業界をリードしてきました。日本のインタ
  ーネットの歴史は、IIJの歴史でもあります。
        http://www.iij.ad.jp/info/point/index.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年04月06日

IIJに対抗するプロバイダ事業設立の動き(EJ第2055号)

 1992年2月――特別第2種通信事業者のライセンスを取得
したIIJは、日本初のプロバイダ事業を開始したのです。同年
6月に資本金を6億円に増やし、10月にはIIJ東海、12月
にはIIJ九州を設立して、順調に事業を拡大しています。
 経営はすこぶる順調で、3年目に単年度黒字を達成し、4年目
には累積赤字を一掃するという快進撃を続けたのです。そして、
7年目の1999年8月に米国ナスダック市場に上場し、株式を
公開しています。
 そのときIIJの株価は、実に額面の500倍になったといわ
れます。村井氏が頭を下げて出資を募ったとき、100万円を出
していた人は、その時点で持ち株の評価は5億円になっていたこ
とになります。驚くべきことです。
 しかし、IIJの接続サービスは、次のようにかなり高めの料
金設定が行われていたのです。一番安いサービスで、「1秒間に
64キロビットの速度で月額料金50万円」という高めの料金設
定であったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     64Kbps ・・・・・ 月額  500000円
    256Kbps ・・・・・ 月額 1005000円
     1Mbps ・・・・・ 月額 1750000円
―――――――――――――――――――――――――――――
 なにしろやっているところが1社しかないので、高くなっても
仕方がないですが、それにしてもこの金額は高過ぎるのです。こ
れについてIIJは、使っている機器がコンピュータであるため
高くなると説明しています。
 旧来の通信に使われている機器の償却期間は10年〜15年で
すが、コンピュータは3年も経つとマシンが陳腐化してしまい、
3年ごとに設備償却が必要になる――それを前提に料金を計算す
ると、上記の価格になってしまうというわけです。
 このIIJの料金の高さに着目して、IIJに対抗するプロバ
イダを立ち上げることを考えた人がいます。東條巌氏――後の東
京めたりっく通信社長です。ADSLの先駆けとして有名になっ
た会社(既に消滅)です。
 東條氏は最初IIJの第2次プロバイダとして、限られた地域
で料金の安いサービスを提供できないかと考えて、何回もIIJ
に提案したのですが、IIJにことごとく断られたのです。
 IIJよりも安くサービスするプロバイダ――この話に乗って
きた企業があるのです。セコムがそうです。セコムは全国展開を
条件として、数十億円出資してもよいといってきたのです。しか
し、話が大きくなってきたので、東條氏は自らは社長をやらず、
当時、日本インターネット協会(JAS)の事務局長を務めてい
た高橋徹氏に社長の話を持って行ったのです。
 この時期インターネットを巡って多くの事業が立ち上がるので
すが、いずれも一番苦労するのは社長選びなのです。そこで少し
でもふさわしい人がいると、その人に社長就任の要請が集中する
ことになります。その一人が高橋徹氏であり、彼にはその経歴か
ら複数の社長の話が舞い込んできたのです。
 ところが高橋徹氏は技術畑の人ではなく、東北大学文学部哲学
科出身で、美術史を専攻するというITの世界とは何も関係のな
い人物であり、異色の存在といえるのです。
 高橋氏はある出版社の仕事の関係でニューメディアのことを調
べはじめるのです。そして、高橋氏は未知の情報技術に関心を持
ち、その関係からDCL(デジタルコンピュータ)社に転職し、
UNIXのワークステーションとルータという通信機器を扱うよ
うになるのです。1986年のことです。
 DCL社に移った高橋氏は、ある日UNIXのセミナーに出席
したところ、たまたまそのときのセミナーの講師が村井純氏であ
り、それが縁で村井氏と付き合うようになるのです。当時、村井
氏は、東京大学大型計算機センター助手をしていたのです。
 そういう1987年のある日、高橋氏は、東京大学大型計算機
センターに村井氏を訪ねます。そして、自分はルータ(プロテオ
ン社製)の担当であると話したところ、村井氏は目を輝かせたと
いいます。そして、次のようにいったというのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 これで日本のインターネットができる。高橋さん、一緒に日本
 のインターネットを作ろうよ!
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 そして、1988年の村井氏はWIDEを立ち上げるのですが
そんなある日、村井氏は高橋氏を訪ねてきて、いきなり次のよう
に切り出したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    高橋さん、お願いだからルータをちょうだい。
               ――滝田誠一郎著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 さすがの高橋氏もこれには絶句したといいます。何しろルータ
は当時1000万円はする高級品なのです。したがって、ちょう
だいといわれても困るのです。しかし、何とかしてやりたい――
高橋氏は本気でそう思ったといいます。村井氏の人柄がそうさせ
たのでしょう。
 さいわい、DCL社は、販売用とは別に研究開発用のルータを
扱っており、このルータは一年で減価償却されるのです。そこで
減価償却されたことにして新しいルータを仕入れ、余ったルータ
を村井氏に回す――これを何度か繰り返したのです。
 1992年、高橋氏に2つの大きなスカウト話が舞い込んでき
たのです。一つは、インターネットの国際見本市「INTERO
P」を運営しているINTEROPカンパニーからのオファーで
あり、もう一つは、村井氏からのIIJへの社長就任の要請なの
です。     ―― [インターネットの歴史 Part2/22]


≪画像および関連情報≫
 ・INTERROP(インターロップ)とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ネットワーク機器と情報通信サービスをテーマにした世界最
  大級の会議および展示会。展示会ではネットワークのシステ
  ム構築、情報通信関連企業が、多様化する企業の情報通信シ
  ステム・ニーズに対してさまざまなアイディアを提案する。
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ・高橋徹氏の経歴
        http://www.riis.jp/jp/takahashi/index.html

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posted by 平野 浩 at 04:37| Comment(0) | TrackBack(0) | インターネットの歴史 Part2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月09日

東京インターネットの設立(EJ第2056号)

 1992年に村井純氏は高橋徹氏にIIJの社長就任を要請し
たのですが、高橋氏はこれを断っています。なぜ、断ったのかに
ついて高橋氏は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 WIDEのメンバーを中心に、みんなでお金を出し合って日本
 初のプロバイダを作ろうということになったときに、村井さん
 から「社長をやってもらえない?」という話があった。だけど
 残念なことにお金がなかった。みんながお金を出すというとき
 に、自分はお金を出さないで社長になるなんてあまりにも図々
 しい話だから、それで断った。        ――高橋徹氏
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 こういう経緯があって、高橋氏はIIJの社長を断り、INT
EROP(インターロップ)カンパニーに転身を決めたのです。
もちろん村井氏にそのことを話し、了解を得ています。村井氏と
してもINTEROPが日本で開催されれば、インターネットの
普及に拍車のかかることであり、賛成したのです。
 当時デジタル・ハイテク技術の見本市といえば、コムデックス
――春・秋開催――が有名であり、とくに秋に米ラスベガスで開
催されるコムデックス・フォールは文字通り、世界最大の見本市
だったのです。世界中のメーカによるPCやそのOS、それらに
関連するソフトウェアを中心とする見本市には、世界各国から多
くの人がラスベガスに集まったのです。
 しかし、そのコムデックスは2003年を最後に休止されてお
り、現在ではインターネットをはじめとするネットワーク技術の
見本市、INTEROPの方が盛んになっているのです。高橋氏
への話は、INTEROPの日本開催が行われる前のことです。
 このようにして高橋氏はINTEROPカンパニーに移ったの
ですが、その直後にINTEROPカンパニーが米コンピュータ
関連最大手のジフ・デービスのグループ会社に買収され、高橋氏
は、ジフ・デービス・ジャパンに移って日本初のINTEROP
開催に尽力することになったのです。
 そして、1994年7月に日本初のINTEROPは、次の名
称で開催され、期間中5万人近い入場者を集めたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
         NewWorld+Interop94 Tokyo
―――――――――――――――――――――――――――――
 ちなみに、INTEROP東京は今年も幕張メッセで次のよう
に行われるので、お知らせしておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 Interop Tokyo 2007/幕張メッセ
 2007年6月13日(水)〜6月15日(金)
 主催:Interop Tokyo 2007 実行委員会/運営:財団法人
 インターネット協会・CMPテクノロジジャパン株式会社
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本初のINTEROPが終わって一息ついている1994年
9月に、既出の東條巌氏から高橋氏にIIJの対抗プロバイダ会
社の社長にならないかという話があったというわけです。
 高橋氏によれば、東條氏の話は面白いし、IIJの料金の高さ
にも疑問があったので、やるなら今しかない――正直そう考えた
といいます。しかし、自らは村井グループ――IIJのシンパで
ある自分が、そのIIJの対抗会社の社長になったら、村井氏ら
に対して弓を引くことになるのではないかと悩んだのです。
 そこで、高橋氏はそのことを正直にIIJの株主でもある村井
純氏と中村修氏に話して意見を聞いたのです。そのやりとりを、
他に本が一切ないのでたびたび引用させていただいている滝田誠
一郎氏の本からご紹介します。なお、この本は絶版です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 村井純と中村修を前にして、IIJのひとり勝ちではうまくい
 かない。健全な競争原理が働いてこそ市場は活性化するという
 ような話をした。(中略)私が話し終わったら、村井純は「ち
 ょっと考えさせてよ」といって、3分くらい考えて「それやっ
 てよ」といった。オサムちゃんは「IIJはどうなっちゃうの
 ?」なんて驚いていたけど、村井純のそのひと言で決まった。
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで、その時点のインターネット市場についてもう少し詳し
く述べる必要があると思います。IIJを日本初のプロバイダと
書いてきましたが、正確には「国内企業初」あるいは「国産初」
とすべきかもしれないのです。というのは、1993年10月に
「インターSPIN」という名称でAT&TJensが、インタ
ーネット接続サービスを始めているからです。したがって、II
Jはプロバイダとしては2番目になるのであって、日本初ではな
いことになります。
 AT&TJensは、1985年の通信自由化を踏まえて、A
T&Tが日本市場開発の尖兵として、1994年に設立した会社
なのです。もともとVANサービス――大型コンピュータを活用
したネットワーク・サービス――の会社としてスタートしたので
すが、1993年に新規事業開発要員として同社に入社した松本
敏文という新人の提案によって、インターネット・プロバイダ事
業に踏み切ったのです。しかし、AT&Jensの経営陣は、イ
ンターネットの効用を十分に理解していなかったようです。
 もちろんこのSPINもIIJも料金は馬鹿高かったのです。
高橋氏はそこを衝けば十分商機はある――そう考えて、1994
年12月に「東京インターネット」を立ち上げたのです。資本金
は2億4000万円、セコムが51%出資し、残りの49%はU
BA(ユニックス・ビジネス・アソシエーション)加盟のソフト
ハウス35社が出したのです。
          [インターネットの歴史 Part2/23]


≪画像および関連情報≫
 ・COMDEX(コムデックス)とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  毎年アメリカで春と秋の2回開催される世界最大規模のコン
  ピュータ展示会。春季の展示会をコムデックス/スプリング
  秋季の展示会をコムデックス/フォールと呼び、前者は例年
  ジョージア州アトランタで、後者は例年ネバダ州ラスベガス
  で開かれる。1995年にソフトバンクがコムデックスの運
  営会社のイベント事業部門を買収し、傘下に収めたこともあ
  る。1993年を最後に現在休止中。
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年04月10日

東京インターネットの挑戦と失敗(EJ第2057号)

 高橋徹氏を社長とする東京インターネットが設立されたのは、
1994年12月――その頃一般人の間でインターネットを知っ
ている人はほとんどいなかったと思います。しかし、一部の先進
的なビジネスパーソンの間では、企業内LANによる電子メール
やニフティ・サーブなどによるパソコン通信がかなり普及してお
り、その便利さは知られていたのです。
 ところで、東京インターネットは日本で4番目のプロバイダに
なるのです。というのは、1993年10月に富士通が、「イン
フォウェブ(InfoWeb)」 を立ち上げ、法人向けのサービスを始
めているからです。
 東京インターネットの高橋社長は、次の3つの方針を掲げて、
先行するAT&TJensとIIJ、それにインフォウェブに対
して、猛アタックをはじめたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       1.オープン経営を心がける
       2.高品質なサービスを実施
       3.価格破壊し安い料金実現
―――――――――――――――――――――――――――――
 高橋社長は、価格をIIJとAT&TJensの約半分で提供
することにし、顧客数を増やして利益を上げる、いわゆる薄利多
売の戦略をとったのです。
 これを可能にするために、東京インターネットの営業に特化し
た新会社、セコム・インターネット・サービスを設立しているの
です。先行3社を上回る圧倒的な営業力で、3社の保有顧客数を
超えようとしたのです。
 しかし、AT&TJensの顧客はかなり切り崩すことができ
たものの、IIJの顧客――大手の大口ユーザについては攻め落
とすことは困難を極めたと高橋氏はいっています。IIJの鈴木
社長の政治力、人脈は強固であり、マーケティング戦略も巧妙で
あったということです。
 営業力を強化しただけあって、東京インターネットの顧客数は
9ヶ月後にIIJのそれを抜き、初年度の売上高は7億7000
万円、2年目は33億円、3年目は67億円と数字上は順調に売
上げは伸びています。しかし、利益が伸びなかったのです。
 その原因はNTTに支払う回線料の高さです。何しろ東京イン
ターネットの場合、回線料は売上げの58%を占めていたので、
いかにコストを切り詰めても、なかなか赤字から脱却することは
できなかったのです。
 赤字が嵩んで、セコムから借りる。それでも間に合わないと増
資をする。その繰り返しで東京インターネットの黒字化は一向に
見通しが立たない状況が続いていたのです。
 この東京インターネットに比べると、先行の理はあるとはいえ
IIJは3年で単年度黒字、4年目で累損を一掃しており、経営
としては、はるかに堅実であるといえます。IIJの財務戦略は
初代社長の深瀬弘泰氏が見ていたのですが、NTTの回線料の高
さを十分考えて価格を決めていたと思われます。だからこそ価格
を高く設定したのです。そうしないと、経営が厳しくなると考え
ていたのです。
 AT&TJensは、スタート当初は松本敏文氏を含めて営業
3人、技術7人の体制だったのです。商用インターネットがまっ
たくないときにビジネスをはじめたので、そもそもインターネッ
トがどういうものであるかをわかってもらうのが大変だったとい
います。そのため数百人規模の無料セミナーを何度も行い、イン
ターネットの教育・PRに務めたのです。
 松本敏文氏はそのときのことを次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本のインターネット史のなかに「SPIN」を位置付けると
 したら、インターネットの黎明期に、ビジネスの世界にインタ
 ーネットという言葉、仕組み、それからインターネットの持つ
 効果を広くあまねく伝えたということが一番大きいのではない
 かと思っています。            ――松本敏文氏
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 東京インターネットの苦境が続くなかで、1997年春からN
TT系のOCN、KDD系のODNもプロバイダ事業に参入して
きたのです。しかも、他のプロバイダの3分の1から7分の1の
低料金を武器にしてです。自前の回線を使うキャリアに対して、
薄利多売は通用せず、東京インターネットの経営は一層深刻化す
ることになります。
 結局、価格破壊を掲げてインターネット市場に参入した東京イ
ンターネットは、1998年10月にPSINetに経営権が委
譲される事態になります。
 これに伴い、高橋徹氏は上級顧問に祭り上げられ、東京インタ
ーネットの経営から完全に退くことになったのです。経営権がP
SINetに委譲される日に高橋氏は次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 東京インターネットの創設に関わったものとして、今回の米P
 SINet社傘下入りは、非常に重たいものがある。独立系の
 ISP事業者がNTTのOCNサービスに対抗するには、グロ
 ーバル化せざるをえなかった。現在ISP事業者が、NTTに
 支払っている回線使用料は、実に売り上げの60パーセントに
 至っており、この費用負担は国内市場だけではカバーしきれな
 い。NTTという独占的な企業が、OCNという採算を度外視
 したサービスを開始すれば、独立系のISPはたちうちできな
 い。米PSINeT社の傘下にはいることで、OCNに次ぐ第
 2のプロバイダーになりたい。     ――高橋徹上級顧問
http://ascii24.com/news/i/mrkt/article/1998/10/06/613043-000.html
―――――――――――――――――――――――――――――
        ――[インターネットの歴史 Part2/24]


≪画像および関連情報≫
 ・PSINeT倒産!!/2001年
  ―――――――――――――――――――――――――――
  業者向けのインターネットサービス事業のパイオニアである
  PSINeTは、ニューヨーク南部地区連邦破産裁判所に、
  資産保護のため連邦破産法に基づく再建手続きの適用を申請
  した。負債総額は43億ドル。PSINeTはこの4年間精
  力的に企業買収を展開していた。米国内に24社ある同社傘
  下の子会社も、今回の申請に含まれている。
    http://japan.internet.com/busnews/20010602/12.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年04月11日

『月刊アスキー』の果した役割(EJ第2058号)

 株式会社アスキーという会社があります。とくにPCとかイン
ターネットに興味がない人でも「アスキー(ASCII)」の名
前を聞いたことがないという人はあまりいないと考えられます。
 現在でも書店に行くと、『週刊アスキー』をはじめとする「ア
スキー」の名を冠した雑誌や書籍が並んでいます。最近ではIT
だけでなく、ビジネスのテーマも取り上げる『ascii』とい
う月刊誌まであります。かつての『月刊アスキー』を新装改訂し
たものです。意外に知られていない雑誌ですが、実に良い記事を
出しており、私の熟読する雑誌のひとつです。
 この株式会社アスキーに関連して知っておくべき人物として、
次の3人がいます。役職はいずれも当時のものです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    郡司 明郎 ・・・・・ 代表取締役 社長
    西  和彦 ・・・・・ 代表取締役副社長
    塚本慶一郎 ・・・・・ 代表取締役副社長
―――――――――――――――――――――――――――――
 この株式会社アスキー――正確には「アスキー出版」は、もと
もとは1977年に西和彦氏が月刊アスキーを発刊するために設
立した会社なのです。1978年にビル・ゲイツが率いるマイク
ロソフトと提携して、社名を「アスキー・マイクロソフト」とし
て、同社のOS、MS−DOSの普及に尽力したのです。
 西和彦氏は、破格の条件でビル・ゲイツにマイクロソフトに誘
われますが、西氏はこれを断り、社名を株式会社アスキーと改め
たのです。
 月刊アスキーをはじめとするアスキーの出版物は、PCやソフ
トウェアに関する情報が乏しかった時代を反映してよく売れ、一
時はあの孫正義氏の率いるソフトバンク(当時は出版物中心)と
並ぶ存在だったのです。
 西和彦氏が初期の月刊アスキーを普及させるための苦労話を何
かの雑誌で読んだことがあります。月刊アスキーの創刊号を作っ
たものの、それを売る手段がない。雑誌を売るには取次店を通す
必要があるのですが、西氏にはそんなコネクションはゼロです。
仕方がないので、書店を一軒ずつ訪ねて直接交渉したのです。
 雑誌を数冊持って書店を訪ねるのですが、実は3人で行くので
す。西氏は書店の主人と交渉するときに雑誌をさりげなくそばの
棚に置くのですが、これが仕掛けなのです。いかにも他の雑誌と
同様に売り物のように見せるわけです。
 書店の主人はヒマですから、話相手にはなってくれるのですが
なかなかウンといってもらえない。そうしているうちにサクラの
2人のうち1人が、月刊アスキーを売り物と間違えて手にし、い
かにも興味深そうにページをめくりはじめるのです。そうすると
もう1人のサクラがまた、アスキーを手にする――このような芝
居をすると、置いてくれる書店が10店中2〜3店はあるという
のです。実際そういう書店での売れ行きは好調だったのです。
 このようなウソのような本当のような話が伝わっているのです
が、とにかく月刊アスキーはよく売れたのです。何しろPCやソ
トウェアに関する情報に飢えている若者が大勢いたからです。
 株式会社アスキーは、郡司、西、塚本の3人体制――トロイカ
体制といえば格好が良いが、3人てんでバラバラで好きなことを
やっていたのです。
 このなかで唯一ネットワークに関心を持っていたのは、塚本慶
一郎氏だけだったのです。塚本氏がネットワークに興味を持った
のは、1984年9月にニューヨークに出張していたときのこと
なのです。偶然ですが、9月14日に長野県西部でマグニチュー
ド6.8の地震が起きたのです。
 そのとき、ニューヨークに在住している塚本氏の友人は、タン
ディのハンドヘルドコンピュータを使って、パソコン通信にアク
セスし、詳細を聞き出してくれたのです。そのとき、塚本氏は、
これこそ新しい時代の知のあり方であり、パソコン通信は新しい
時代のメディアになると確信したといいます。
 帰国して塚本氏はそのことを郡司、西両氏に話したのですが、
2人はまるで興味がなかったようです。塚本氏はそのときのこと
を次のように話しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 トロイカ体制といっても、それぞれ好き勝手なことをやってい
 ましたから、よくいえばお互いを信じていたというか(笑)。
 もちろん郡司さんや西さんにも話はしましたけど、いくら話し
 てもぼくがニューヨークで体験した感動は伝わらない。「フー
 ン」とかいっておしまい。郡司さんはソフト寄り、西さんはハ
 ード寄りで、それぞれ別の関心を持っていましたから。
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 当時塚本氏は株式会社アスキーの出版局長をしていたのですが
出版局のスタッフは、ほぼ全員ネットワークが中心となるという
塚本氏の考え方を支持したのです。彼らは、雑誌の記事の反響に
よって読者が何を望んでいるかをよく知っていたからです。
 塚本氏は、そういう出版局の若手を中心にパソコン通信を事業
化しようとしたのです。そして、1985年5月、「アスキーネ
ット」の無料実験サービスを開始したのです。それを待ちかねて
いたのは、パソコン・オタクたち、彼らは一斉にそれに飛びつい
たのです。その結果、モデムが溶けて壊れてしまうというアクシ
デントが次々と起こったほどのフィーバーになったのです。
 ところで、このパソコン通信なるもの――一時期一世を風靡し
たのです。ところで、パソコン通信とは何でしょうか。インター
ネットとはどう違うのでしょうか。
 ここまで取り上げてきたJUNETやWIDEが、大学や企業
の専門家を相手とするものであったのに対し、パソコン通信は個
人を対象とするネットワークであったということは、重要なこと
であると思います。   
        ―― [インターネットの歴史 Part2/25]


≪画像および関連情報≫
 ・西和彦氏の2005年の講演から
  ―――――――――――――――――――――――――――
  パソコンに搭載されるプロセッサはいよいよ64ビットとな
  る。64ビット時代はUNIX系のGUIが主流となる。U
  NIX−PCによるアップサイジングの時代であり、ワーク
  ステーションの定義が変わる――と西氏はいう。パソコンの
  性能向上は、PCサーバを大量に接続し、大型コンピュータ
  と同等の機能を実現させようとするパソコンのアップサイジ
  ングという動きを引き起す。グリッド・コンピューティング
  はこのような動きの具体例だろう。
    http://www.atmarkit.co.jp/news/200507/14/west.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年04月12日

NIF/ニフティ・サーブの誕生(EJ第2059号)

 1985年3月に株式会社アスキーはある本を出したところ、
空前の大ヒットになったのです。書名は次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       『パソコン通信ハンドブック』
            株式会社アスキー刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 どういう内容かというと、パソコン通信はどういうものか、モ
デムとは何か、なぜ、シフトJISなのかなど――パソコン通信
の基礎知識についてまとめたものです。「パソコン通信」の情報
がほとんどないときであり、この本は、当時の価格で2500円
――現在でもかなり高額の本ですが、発売と同時に売り切れ、初
版3万5000円はたちまち売り切れ、増刷になったというので
す。そして何回か増刷されたのです。
 実はこの本を熱心に読んで、あるプロジェクトを決断した企業
があります。当時電気通信事業への進出について意欲を燃やして
いた日商岩井と富士通の2社です。
 そのプロジェクトとは、両社の役員同士の合意を受けて、19
85年の5月の連休に、両社の情報システム担当者が富士通の沼
津研修所に集まって合宿し、特命テーマについて検討を行ったの
です。その特命テーマとは次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  個人向けのサービス――パソコン通信の事業化の可能性
―――――――――――――――――――――――――――――
 この合宿は夜を徹して行われ、その結論は数十ページに及ぶ報
告書にまとめられたのです。そこには、パソコン通信は個人向け
サービスとして最適であるが、そのためには既にこの事業で16
万人を超える会員を集めている米コンピュサーブと提携すること
が不可欠であると書いてあったのです。
 この報告書は両社の役員会で検討され、日商岩井と富士通の共
同提案というかたちでコンピュサーブに対する提案書が作成され
たのです。そして両社の担当者がオハイオ州コロンバスにあるコ
ンピュサーブの本社に行って提案書を提出したのです。このよう
にいうと、まるで役所に書類を提出するようですが、既に日本の
商社や出版社数社が先に提案書を出していたので、そういうかた
ちになったわけです。
 競合会社の中で最大の強敵は三井物産だったのです。しかし、
1985年8月12日――待ちに待ったコンピュサーブから「交
渉したい」というメッセージが届いたのです。これは、三井物産
の提携にはまだ結論が出ていないというサインです。
 結局、コンピュサーブと三井物産の交渉はもの別れに終わるの
です。理由は、ライセンス料が折り合わなかったものと思われま
す。事実コンピュサーブ側のライセンス料は、あまりにも高額で
あったからです。
 しかし、日商岩井と富士通はコンピュサーブ側の要求をすべて
飲んだのです。何としてもパソコン通信事業をやり遂げるという
強い意思が働いたからです。そのライセンス料の高さについて、
当時現地でコンピュサーブと交渉に当たった日商岩井情報通信プ
ロジェクト室の山川隆氏は次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 契約上ライセンス料がいくらかということはいえないんですが
 一社で負担するのは躊躇せざるを得ない金額でした。日商岩井
 と富士通で折半するにしても決して軽い負担じゃない。だけど
 やると決めた以上はライセンス料やロイヤリティを値切るよう
 なことはしないで、向うの要求を全部飲もうと、われわれはそ
 ういう方針で臨んだ。            ――山川隆氏
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、日商岩井と富士通については「神風」が吹くのです。
それは1985年9月の「プラザ合意」なのです。これによって
急ピッチな円高が進み、実際に支払うライセンス料が半分ぐらい
で済んだことになります。日商岩井と富士通は非常に幸運であっ
たといえます。
 1986年2月4日、日商岩井、富士通、コンピュサーブの各
社長が合同で帝国ホテルに集まって、エヌ、アイ、エフ――NI
F/現ニフティの設立を発表したのです。NI=日商岩井、F=
富士通の頭文字をとっての命名です。
 NIFは、資本金は4億8000万円。社員は14名。日商岩
井と富士通の折半出資、社員の出向でスタートしています。既出
の山川隆氏は企画部長に就任したのです。
 NIFのスタートまでには、この新規事業に対する反対意見が
山ほどあったのです。一番多かったのは、パソコン通信のような
消費者マーケットを相手にするサービスに多額の資金を注ぎ込ん
で本当に採算が取れるのかという懸念です。
 この懸念はこの企画を検討した沼津研修所におけるプロジェク
トで問題になり、あらゆる角度から検討した結果、やってみなけ
ればわからないが、努力すれば十分いけるという結論に達してい
たのです。
 もうひとつは、とくに富士通サイドに強かった反対意見ですが
コンピュサーブという海外の企業と組むことに対する反対意見な
のです。富士通という企業は、国産技術、自前の技術にこだわり
があり、高いライセンス料を支払うことに対する強い抵抗感を感
じていたのです。
 しかし、日商岩井と富士通はこうした様々な課題を乗り切り、
1986年2月にNIFを設立、一年後の1987年4月15日
には満を持して、パソコン通信サービス「ニフティ・サーブ」を
立ち上げたのです。ニフティ・サーブは、スタート以来、倍々ゲ
ームで会員を増やし、日本のパソコン通信サービスのナンバーワ
ン企業に踊り出るのです。しかし、そのニフティ・サーブは現在
は存在しないのです。  
        −― [インターネットの歴史 Part2/26]


≪画像および関連情報≫
 ・パソコン通信について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  パソコン通信は、専用ソフト等を用いてパソコンやワープロ
専用機、その他携帯端末を一般加入回線経由でホスト局に接
続し、サーバ(またはノード、ホスト)との「直接の通信を
  確立」して文字を中心としたデータ通信を行う手法及びそれ
  によるサービス。パソコン通信全盛期は一般にモデム等を使
  い一般加入者回線を用いてダイヤル接続していたが、ホスト
  局に接続するために入会登録を必要としたところもあった。
  インターネットが世界中のネットワーク同士を結ぶ開かれた
  ネットワークであるのに比べると、パソコン通信は原則とし
  て特定の参加者(会員)同士のネットワークで、閉じたネッ
  トワークということになる。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年04月13日

パソコン通信が中心のMSN(EJ第2060号)

 日本最初のパソコン通信会社/ニフティ・サーブは、2006
年3月31日まで続いたのです。実に19年間――インターネッ
トが普及するなか、よく続いたものです。
 これに対して、マイクロソフト社のMSN(マイクロソフト・
ネットワーク)は、1995年にパソコン通信会社としてスター
トしたものの、次の年の1996年にパソコン通信を中止しイン
ターネット・サービス・プロバイダ(ISP)としてスタートし
ています。あまりにも対照的です。
 MSNの場合、明らかに方針転換なのです。つまり、マイクロ
ソフト社は、ウインドウズ95を発売する時点ではインターネッ
トはあまり念頭になく、パソコン通信事業を継続していくつもり
だったということです。
 1996年1月に私がウインドウズ95について書いた本があ
ります。当時日本のビジネスパーソンの間ではパソコン通信がか
なり普及していたのです。この本のなかでMSNについて書いた
部分があるので、以下に引用します。その当時マイクロソフト社
がMSNについてどのように考えていたかわかるからです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  ウインドウス95の波紋として、もうひとつ見逃せないもの
 があります。それは、ウインドウズ95の発売と同時にサービ
 ス開始したパソコン通信事業、MSN(マイクロソフト・ネッ
 トワーク)です。
  第1は、MSNはGUI(グラフィカル・ユーザ・インター
 フェイス)を前提としたサービスであり、従来のパソコン通信
 のイメージを破っていることです。(一部略)
  第2は、MSNにはウインドウズ95に標準で装備されてい
 る専用の通信ソフトウェアしかアクセスできないことです。こ
 の通信ソフトはウインドウズ95と操作性が統合されており、
 ウインドウズ95に標準でついています。MSNへのアクセス
 はこの通信ソフトがないとできないのです。(一部略)
  第3は、MSNはごく簡単な操作でアクセスでき、インター
 ネットにも簡単に接続できるということです。
  ウインドウズ95のユーザは、まるでハードディスクのなか
 をのぞく気軽さでMSNにアクセスできます。そして、簡単な
 登録手続きでMSNのサービスを利用できます。まさに、ウイ
 ンドウズ95の拡張機能なのです。どこまでが、ウインドウズ
 95でどれがMSNなのかわからないユーザも多いはずです。
 ――平野浩著、『ウインドウズ95パソコンらくらく修得法』
               KOSAIDO BOOKS/廣済堂出版刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、結果としてこのやり方は成功していないのです。当時
世界一のパソコン通信会社AOL社から独占禁止法(反トラスト
法)訴訟を起こされ、以後長期間にわたってマイクロソフト社に
とって重い足かせになったからです。
 上記文中に「MSNはごく簡単な操作でアクセスでき、インタ
ーネットにも簡単に接続できる」というところがあります。これ
を見ると、明らかにパソコン通信が中心で、インターネットはそ
の他的扱いになっています。
 この傾向は、ウインドウズ95の発売の時点で、WWWにアク
セスするブラウザ――インターネット・エクスプローラは標準装
備されていなかったことでもみられることです。それほど、マイ
クロソフト社はインターネットに無関心であったのです。
 なぜ、マイクロソフト社は、その時点でも怒涛のように襲いか
かりつつあったインターネットの波に、十分対処しなかったので
しょうか。
 最大の原因は、マイクロソフト社の総帥であるビル・ゲイツ自
身がインターネットに無関心だったからです。これについて、東
京電機大学の脇英世教授が面白いことをいっておられます。ビル
・ゲイツは、インターネットはゴールドラッシュであると考えて
いたというのです。だから、出遅れた、と。
 ゴールドラッシュで一攫千金の夢を果たした金鉱掘りはほとん
どいなくて、結局儲けたのは全米から集まった人々に食料などの
生活必需品を売った人々といわれているのです。ビル・ゲイツが
とりわけ好きなのは、ゴールドラッシュの3年後に食料品を売り
はじめ、20年後にリーバイのジーンズを売って財をなしたドイ
ツ移民のリーバイ・シュトラウスなのです。
 したがって、ゴールドラッシュのようなインターネットに手を
出さず、まっとうな仕事に精を出すべきだと考えたのです。その
まっとうな仕事というのが、パソコン通信事業だったというわけ
です。しかし、それは結果として間違えていたのです。
 もうひとついえることは、マイクロソフト社はインターネット
の技術に弱いことがあげられます。これについては、次回に詳し
く述べますが、ビル・ゲイツは密かにこのことに不安を持ってい
たのではないかと思われます。それは、ビル・ゲイツ自身の伝記
に出ている次の文章からもそれとわかります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 これは考えると恐ろしいことだが、コンピュータ技術の進展の
 なかで、ある時期の業界リーダーは、けっして次の時期のリー
 ダーになれなかったという事実もある。マイクロソフトは「パ
 ソコン期」のリーダーだった。ということは、歴史的見地から
 すれば、情報時代の「ハイウェー期」のリーダーとしてはマイ
 クロソフトは不適格なのかもしれない。わたしはそのジンクス
 に挑戦したい。             ――ビル・ゲイツ
       ――西 和彦著、『ビルゲイツ未来を語る』より
                      アスキー出版刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、インターネットに乗り遅れる危機には、ビル・ゲイツ
は見事な采配によって乗り切っています。ところがウェブ2.0
時代の現代、次のニューウェーブにマイクロソフト社は乗り切れ
ないでいます。 −― [インターネットの歴史 Part2/26]


≪画像および関連情報≫
 ・MSNとは
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ウインドウズ95の発売と共にサービスを開始した。当初は
  いわゆるパソコン通信的なサービスであり、マイクロソフト
  は、当時関心の高まっていたインターネットには否定的だっ
  た。しかしユーザーにおけるインターネットへの関心が無視
  できないとわかると、急遽路線を変更してインターネットの
  接続サービスに転換、さらに情報系コンテンツを充実させ、
  MSNをインターネットのポータルサイトへと位置付けた。
  現在は日本をはじめ接続サービスからは撤退している国が多
  い。                ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年04月16日

なぜ、インターネットを軽視したのか(EJ第2061号)

 マイクロソフト社がインターネットに乗り遅れかけたという話
は、「インターネットの歴史」(EJ第1661号〜EJ第17
06号)のEJ第1705号で簡単に取り上げています。しかし
これは「インターネットの歴史/日本編」にも多少関係するので
若干重複しますが、少し詳しく述べたいと思います。
 ビル・ゲイツがMSNを立ち上げた日――1994年11月2
日まで、彼がインターネットではなく、本気でパソコン通信事業
をやるつもりでいたのにはちゃんとした理由があります。ちなみ
に米国では、日本でいうパソコン通信のことをオンライン・サー
ビスと呼んでいたのです。
 実は、同年11月1日――つまり、MSN立ち上げの1日前に
私は米ラスベガスのコンベンションセンターで、ビル・ゲイツの
基調講演(COMDEX/1994)を聞いていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      Information At Your Fingertips 2005
       ――指先で情報を/2005年――
―――――――――――――――――――――――――――――
 このときの講演内容は、私の英語力では正直いって細部まで聞
き取れなかったので、脇英世氏の本から引用します。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1994年当時のマイクロソフトはひどく保守化していた。
 たとえば、11月1日に開かれたパソコン関係で有名な展示会
 COMDEX/94におけるビル・ゲイツの基調講演「指先で
 情報を/2005年」はその頂点にあったように感じた。20
 05年の技術予想がこの程度のものとはとても納得できないと
 いうのが私の率直な感想だった。
  ビル・ゲイツはマイクロソフトの戦略は、新技術の展開に期
 待するよりも、既存技術を活用することに重点があると言った
 のである。インターネットは不要で、28・8Kbps モデムも
 不要と言い切った。高速過ぎるというのである。「何を馬鹿な
 ことを」とラスベガスの会場で聞いていた私はびっくりした。
    ――脇英世著、『インターネットを創った人たち』より
                         青土社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 ビル・ゲイツほどの人物が、なぜこのような判断ミスをしたの
か、単なる「ゴールドラッシュには手を出すな」という教訓にし
たがっただけとは思えないものがあります。
 実は、これには次の3人の人物のそれぞれの人間関係と、マイ
クロソフト社の社内風土にかかわりがあるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
         ラッセル・シーゲルマン
         ブラッド・シルバーバーグ
         ジェームス・アラード
―――――――――――――――――――――――――――――
 ラッセル・シーゲルマン――1984年にMITを卒業し、一
時人工知能(AI)の仕事をした後、1989年にハーバード大
学で経営学修士号を取得して、1989年9月にマイクロソフト
社に入社しています。
 最初に配属されたのは、ネットワーク・ビジネス・ユニットで
ボスはマイク・マーレーだったのです。1990年にシーゲルマ
ンは、マーレーの命により、ブラッド・シルバーバーグのグルー
プに異動となり、WFW(ウインドウズ・フォー・ワークグルー
プス)のプロダクト・マネジャーになったのです。
 WFWは、ウインドウズとLANマネジャーを組み合わせて、
ウインドウズをピアー・ツー・ピアの環境で使わせようと意図し
たもの――少しわかりにくいですが、そういうソフトウェアなの
です。しかし、WFWは競合商品である「LANタスティック」
に完敗し、事業は失敗に終ったのです。
 1992年にシーゲルマンは突如WFWチームをやめて、アメ
リカ・オンライン――AOLに対抗するMSNの計画を練ること
になったのです。このシーゲルマンのWFWチーム脱退の経緯は
問題があったようで、その後シーゲルマンとシルバーバーグの仲
は険悪なものになったのです。
 シルバーバーグのチームは、WFWの開発打ち切り後、ウイン
ドウズ95の開発を担当するのですが、シーゲルマンとシルバー
バーグの仲が悪いので、MSNの開発チームとウインドウズ95
の開発チームの間にはすきま風が吹く事態となったのです。
 1993年5月11日にシーゲルマンは正式にMSNの担当に
任命されたのです。問題は、シーゲルマンがMSNの性格をあく
まで、AOL型のオンライン・サービス事業と考えており、どち
らかというと、インターネットを軽視していたのです。
 しかし、これはひとりシーゲルマンだけを責めるわけにはいか
ないのです。当時のマイクロソフト社内では、ビル・ゲイツをは
じめとして、インターネットの評価を低く考えていたフシがあり
ます。その証拠に、インターネットの基本的なプロトコルである
TCP/IPのわかる技術者がほとんどいなかったのです。
 しかし、1991年9月1日入社のジェームス・アラードは、
TCP/IPに詳しく、入社後彼はTCP/IPの担当になった
のです。しかし、これといった実績がないため、マイクロソフト
社内でのアラードの発言力は低く、誰もまともにアラードの意見
を受け入れなかったといいます。
 MSNの開発においても、アラードはシーゲルマンに対し、マ
イクロソフト独自のプロトコルではなく、TCP/IPを使うべ
きだと主張したのですが、シーゲルマンは、まったく聞き入れな
かったのです。
 1991年当時のマイクロソフト社内では、TCP/IPのこ
とを「TCピップ」と呼んでいたという話があります。これは、
ITを「イット」と呼ぶのと同次元の話です。信じられない話で
すが、マイクロソフトはそれほどTCP/IPという技術を苦手
としていたのです。   
       −― [インターネットの歴史 Part2/27]


≪画像および関連情報≫
 ・WFW(Windows for Workgroups)とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ウインドウズ3.1にピア・ツー・ピアネットワーク機能を
  拡張したOS。『仮想ネットワークドライブ』という32ビ
  ット化された機能で、ネットウェアやウインドウズNTサー
  バーにアクセスする、WFWの初期バージョン。その後,フ
  ァイルアクセスやネットワークアクセスをプロテクトモード
  から行えるように改良したバージョン3.11が発表され,
  アメリカでは多くのPCメーカーがこれをバンドリングして
  いるが、日本語版は未発売。
        http://www2.nsknet.or.jp/~azuma/w/w0021.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年04月17日

マイクロソフトの専用ブラウザ誕生(EJ第2062号)

 ブラッド・シルバーバークをマイクロソフトに入社させたのは
ビル・ゲイツその人です。シルバーバークの専門はデータベース
であり、当時マイクロソフトが製作していたコードネーム「オメ
ガ」というデータベース製品の開発にシルバーバークの力が必要
だったからです。このような経緯で1990年5月にシルバーバ
ークはマイクロソフトに入社するのです。
 シルバーバークはマイクロソフトに入社するや、ウインドウズ
3・1、DOS6、DOS6・2などを手がけて、マイクロソフ
ト期待のOS、コードネーム「シカゴ」に着手するのです。「シ
カゴ」というのは、ウインドウズ95のことです。
 マイクロソフトにとって不幸だったことは、昨日のEJで述べ
たシルバーバークとシーゲルマンの諍いです。これがあったから
こそシルバーバークは、MSNとは関係なく、ウインドウズ95
のブラウザ技術を開発することにしたのです。
 そのブラウザ技術の開発に当たったのは、ベン・スリフカとい
う人物です。スリフカは、イリノイ州のノースウェスタン大学で
ダブル・メジャー――コンピュータ科学科と応用数学科の2つの
専門科目を専攻しています。
 スリフカは、一時IBM社に入ったのですが、すぐに肌に合わ
ないとして退社し、1984年にマイクロソフトの公募にしたが
い、採用されたのです。入社後、DOS6、DOS6・2の開発
においてシルバーバークと一緒に仕事をするようになり、彼がウ
インドウズ95のブラウザ開発に当たるのです。
 ちなみに、ウインドウズ95のコードネームは「シカゴ」なの
ですが、そのブラウザのコードネームは「オヘア」――オヘアと
は、シカゴ近郊の空港の名前なのです。これに関連するコードネ
ームの傑作は「カポネ」――ギャングの名前ですが、これはウイ
ンドウズ95用の電子メールのコードネームなのです。
 スリフカが具体的にブラウザの製作に着手したのは、1994
年の後半のことであり、かなり遅いのです。なぜなら、マイクロ
ソフト社内では、ネットワークに関しては公式にMSNが走って
おり、何も問題ではなかったからです。しかし、スリフカは、次
の3社のブラウザの買収を検討していたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
        ネットスケープのブラウザ
        スパイグラス のブラウザ
        ブックリンク のブラウザ
―――――――――――――――――――――――――――――
 スリフカは、1994年8月からスパイグラス社と折衝を開始
します。一方、MSNを担当するシーゲルマンはブックリンク社
との提携を考えていたのです。
 しかし、1994年11月にブックリンク社はAOLに買収さ
れてしまうのです。これを受けてシーゲルマンはブラウザの独自
開発を決意し着手したのです。コードネームは「ブラック・バー
ド」――しかし、このブラック・バードは日の目を見ることはな
かったのです。飛べなかったからです。
 このスパイグラス社は、現在のブラウザの元になる「MOSA
IC/モザイク」のライセンス供与について実権を有していたの
です。MOSAICは、イリノイ大学内の研究機関NCSAが開
発したブラウザなのです。
 NCSAは次の言葉の略ですが、イリノイ大学ではコンピュー
タ科学選考の学生を雇って、アプリケーションなどの開発を行っ
ていたのです。MOSAICはこのNCSAで生まれたのです。
このブラウザは、希望者にはインターネット上で無償で配布され
大変な評判となったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  National Center for Super Computiong Applications
―――――――――――――――――――――――――――――
 MOSAICのライセンスについての窓口は、最初のうちはN
CSAが行っていたのですが、あまりにも問い合わせが殺到した
ので、スパイグラス社にマスターライセンスを供与し、全てのラ
イセンス契約を委ねたのです。
 スリフカはあくまでNCSA系のブラウザの権利を買い、それ
を改良するのが一番早いと考えていたのです。NCSA系のブラ
ウザは、その時点でスパイグラス社のMOSAICか、マーク・
アンドリーセン開発によるネットスケープしかなかったのです。
 しかし、MOSAICには大きな欠点があったのです。それは
ウェブページを全部読み込むまでは、画面上に何も表示されない
ということです。マーク・アンドリーセンは、この欠陥を改良し
ストリーミング機能を取り入れ、読み込んだ部分を順次表示させ
るブラウザを開発したのです。これが「ネットスケープ」です。
そして、これを1994年10月に公表しているのです。アンド
リーセンは、NCSAのエンジニアを6人引き抜き、会社を設立
します。これがMCC社――モザイク・コミュニケーションズ・
コーポレーションですが、これが、ジム・クラークが率いるネッ
トスケープ・コミュニケーションズ社になるのです。
 マイクロソフト社は、スパイグラス社とMCC社の2社と交渉
したのですが、MCC社は煮えきらず、マイクロソフト社はスパ
イグラス社を相手に絞って、本腰を入れて交渉したのです。
 交渉は難航をきわめます。マイクロソフトは、スパイグラス社
の求める1本につき1ドルのライセンスフィーに首を縦に振らな
かったのです。交渉は12月まで続き、ロイヤリティは支払うが
200万ドルを上限とするという契約を結んだのです。この契約
では、スパイグラス社は、マイクロソフトのブラウザが200万
本以上売れても、200万ドル以上は受け取ることができないも
のであり、明らかにスパイグラス社にとって不利です。
 これでマイクロソフト社はMOSAICのソースコードを手に
入れ、スリフカのチームは1995年8月にブラウザを完成させ
るのです。これが「インターネット・エクスプローラ1・0」な
のです。    −― [インターネットの歴史 Part2/28]


≪画像および関連情報≫
 ・ブラウザに関するサイトより/ブラウザの歴史
  ―――――――――――――――――――――――――――
  今でこそブラウザ(インターネット閲覧ソフト)の種類は数
  え切れないくらいたくさんあり、そのどれもがグラフィック
  や動画、音声をサポートした華やかなものです。しかしわず
  か10数年前には考えられないことだったのです。Webの
  誕生から今日にいたるまでのブラウザの果たしてきた役割は
  非常に多かったといえるでしょう。
     http://www.scollabo.com/banban/tips/browser.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年04月18日

力でネスケを駆逐したマイクロソフト(EJ第2063号)

 1994年11月にMSNは立ち上げられたのですが、その時
点でビル・ゲイツは自分の失敗に気がついていたのです。そして
早くもMSNの見切りを決断したのです。
 ウインドウズ95の追い風に乗ってMSNは、AOLについで
業界2位になったものの世の中は既にオンライン・サービス――
パソコン通信の時代ではなかったのです。シーゲルマンは閑職に
異動させられ、間もなくマイクロソフトを退社しています。
 ビル・ゲイツは、マイクロソフトの役員・幹部に対して明確に
方針転換を伝え、猛烈な勢いで普及している「ネットスケープ・
ナビゲータ」に対して、自分が先頭に立って戦いを挑むことを宣
言しているのです。
 ビル・ゲイツは、ネットスケープ・コミュニケーション社(以
下、ネットスケープ社)に対して、公式の反攻宣言も行っている
のです。それは、1995年12月7日、ワシントン州シアトル
での記者団向けのブリーフィングにおいてです。
 このときのビル・ゲイツの演説は、日本人にも無関係ではない
ので、脇英世氏の本から引用します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 おはようございます。今朝、私、12月7日は大変有名な日で
 あることに気がつきました。54年前またその頃のことです。
 私は今ここで起こっていることと似たことがなかったかを思い
 起こそうと努力しました。本当に何も思いつきません。とうと
 う思い当たったのは、今日という日についての最も知的なコメ
 ントは、ウォール・ストリートについてでもなく、いかなる種
 類のアナリストのコメントでもありません。眠れぬ巨人を起こ
 してしまったことに脅えている自分を見つけた提督山本五十六
 元帥でありました。           ――ビル・ゲイツ
    ――脇英世著、『インターネットを創った人たち』より
                         青土社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 ちょっと読むと何をいっているのかわかりませんが、要するに
マイクロソフト社をアメリカ合衆国、ネットスケープ社を54年
前の同じ日に真珠湾を攻撃した山本五十六元帥になぞらえて、い
るのです。「お前たちは眠れる巨人マイクロソフト社を起こして
しまった。覚悟しておけよ」というメッセージなのです。
 確かに後に「ブラウザ戦争」といわれるほど、マイクロソフト
社のネットスケープ社への攻撃は容赦のないものだったのです。
 ビル・ゲイツは、当時のネット市場を冷静に分析したのです。
当時インターネット・サービス・プロバイダは約1000社――
しかし、そのアクセスの75%は、上位10社のISPで占めら
れていたのです。
 マイクロソフト社は、これらISPの10社に対してインター
ネット・エクスプローラ(以下、IE)を無償で提供し、その見
返りとして排他契約――ネットスケープ・ナビゲータ(以下、ネ
ットスケープ)を使わない――を要求したのです。さらに広告費
の名称で何らかの金銭供与も行ったという情報もあります。
 さらにPCメーカに対しては、IEのプリ・インストールを要
求し、ISPに対するのと同様の排他契約を締結することを条件
にIEは無償で提供したのです。さらにPCメーカに対しては、
ウインドウズなどのOSを大幅ディスカウントして提供するとい
う特典も与えています。PCメーカとしては、もし、これを拒否
すると、マイクロソフト社からOSの供給を絶たれるかもしれな
いという恐怖感があって、とても拒否できなかったのです。
 ウインドウズ95は好調であり、OSにおいて圧倒的なシェア
を持つマイクロソフト社にこれだけのことをされると、ネットス
ケープ社は完全に販路を絶たれてしまったのです。そして、19
98年11月にネットスケープ社はAOLに42億ドルで買収さ
れてしまうのです。
 ブラウザに関する日本での動きを調べると、1994年に国産
初のブラウザが登場しているのです。1994年といえば、日本
でインターネットがブームになる1年半も前のことであり、意外
に早いという印象があります。
 1994年6月7日――富士通は、東京・丸の内の本社でマス
コミ関係者向けの商品紹介とそのプレゼンテーションが行ってい
ます。その商品は次の2つです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      『インフォモザイク(InfoMosaic)』
      『FIND2』
―――――――――――――――――――――――――――――
 『インフォモザイク』は、NCSAでアンドリーセンたちが開
発したMOSAICの日本語版であり、『FIND2』は、イン
ターネットの技術を取り込んだ世界初の企業内ネットワークシス
テム――すなわち、イントラネットなのです。
 『インフォモザイク』の方は当初4万円で売る予定だったそう
ですが、結局5000円で販売したところ、予想以上に売れて、
何とかペイできたそうです。しかし、その寿命はわずかに3ヶ月
だったのです。1994年10月にネットスケープ・ナビゲータ
が公開され、無料頒布がはじまったからです。
 『FIND2』は、当時の富士通の情報システム関係者間の情
報交換の必要性に迫られて開発されたものであり、最初から販売
することを予定したものではなかったのです。
 当時富士通本体に9000人のSEがおり、それに全国35社
の協力システムハウスに勤務する1万数千人のSEが富士通のシ
ステム開発に関係していたのです。こういうSE相互の技術情報
交換を目的として『FIND2』が構築されたのです。
 さて、日本での「ニフティ・サーブ」立ち上げの話から米国に
飛んで、マイクロソフトの方針転換、ブラウザ戦争の話までして
しまいましたが、明日からは、もう一度話を日本に戻して、19
95年からの日本におけるインターネットブームまでにいたる動
きを追うことにします。 
        −― [インターネットの歴史 Part2/29]


≪画像および関連情報≫
 ・イントラネットとは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  イントラネットとは、社内等、限定された範囲でのコンピュ
  ータ・ネットワークを構築する時に、インターネットの標準
  的な技術を利用することで低コスト化とベンダー独立性を高
  めようとするとりくみ。また、そのようにして構築されたネ
  ットワークを指す。たとえばインターネットで普及している
  通信プロトコルを用いて社内の情報共有システムを構築する
  ことで、広く普及しているインターネット用のソフトウェア
  やハードウェアをそのまま利用でき、また標準化された技術
  を使うため、他社と協力してエクストラネットに拡張したり
  することが容易になる。       ――ウィキぺディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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posted by 平野 浩 at 08:36| Comment(1) | TrackBack(0) | インターネットの歴史 Part2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月19日

ベッコアメ・インターネットの設立(EJ第2064号)

 1994年7月――日本初のNewWorld+Interop94 Tokyo が幕
張メッセで開かれていたのです。米国でネットスケープ社が新し
いブラウザを発表する3ヶ月前のことです。
 東芝に入社して4年目になる尾崎憲一氏もそのINTEROP
の会場にいたのです。しかし、尾崎氏にとってそこに展示されて
いるものは目新しいものは何もなかったのです。
 ソニーのブースでも松下のブースでも、MOSAICを使って
ホームページを表示しており、大勢の人がびっくりしたようにそ
のデモを見ていましたが、彼はとっくにそれを体験していたから
です。目玉の一つであったIIJのブースも彼にとっては何ら新
しいものはなかったのです。
 しかし、IIJのブースに黒山のような人が集まっているのを
見ているうちに、ネットにつないだ体験を持つ人がいかに少ない
かが尾崎氏にはわかってきたのです。当時のインターネットは、
つなぐことに関心の重点があり、それをどのように活用するかま
でコトは進んでいなかったのです。
 このとき尾崎憲一氏は大衆のためのプロバイダが必要だと考え
たといいます。IIJは料金は高過ぎる――もっと安くしなけれ
ば普及しないと尾崎氏は考えたのです。
 尾崎氏は、1985年に草の根BBS「だんぼネット」を立ち
上げて続けていたのです。BBSというのは、電子掲示板システ
ムのことです。尾崎氏は、IIJにもWIDEにも足を運んで、
接続を要請したのですが、まるで相手にされなかったといういき
さつがあるのです。
 尾崎氏はIIJに出かけて交渉したときの感想を次のように述
べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 営業の担当者のほかに、もうひとり、変なオヤジが隣りに座っ
 てて「お前ら、何やるつもりだ」というから、UUCP接続を
 して、ダンボネットの会員がインターネットでメール交換でき
 るようにしたいんだといったら、急にそのオヤジが説教を垂れ
 はじめた。「やるのは自由だけど、お前らが勝手にやって、質
 の悪いサービスを提供して、プロバイダの品質はこんなものか
 と思われると、こっちが困るんだよな」とか。それが深瀬(弘
 泰)さんだったんですけど。
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本初のINTERROPの会場を歩きまわりながら、尾崎氏
は日本一料金が安く、しかもサービス品質の高いプロバイダ事業
を立ち上げようと考えたのです。IIJでいわれた一言「お前ら
が勝手にやって、質の悪いサービスを提供して、プロバイダの品
質はこんなものかと思われると、こっちが困るんだよな」がよほ
ど腹に据えかねたのです。
 料金は、とくに根拠もなく年会費3万円の定額制――使い放題
に決めていたのです。これならきっと飛びついてくると考えたの
です。この時代に定額制を考えるとは大変なことです。最初から
従量制を捨てたのは、1994年当時にインターネットに接続し
ようとする人種は通信オタク以外は考えられなかったからです。
 何しろIE(インターネット・エクスプローラ)もネスケ(ネ
ットスケープ)もなかった時代なのです。したがって、かなり複
雑きわまる設定をしなければネットに接続できない――これがや
れるのは通信オタクだけです。かくいう尾崎氏もオタクであり、
オタクの気持はオタクが一番わかっていると考えたのです。
 問題はそれをどのように宣伝するか、です。
 尾崎氏は、その宣伝媒体をINTEROPの会場で無料で頒布
されていた『インターネットマガジン/創刊準備号』を見て、こ
れにしようと考えたのです。『インターネットマガジン』の創刊
は、9月17日であり、まだ時間がある――そう決めると、早速
幕張メッセの会場を飛び出し、その足で千代田区三番町にあった
インプレスに駆けつけて、広告掲載の申し入れをしたのです。
 その時点では、ISP事業の新会社は尾崎氏の頭のなかにあり
存在していないのです。しかし、会社名は「株式会社ベッコアメ
・インターネット」に決めていたのです。
 インプレスの広告営業の担当と長い時間折衝して、やっと『イ
ンターネットマガジン』創刊号に広告を入れることに同意しても
らったのです。
 『インターネットマガジン』創刊号は実によく売れたのです。
印刷した3万5000部は10日で売り切れ、増刷した7000
部もたちまち完売。おそらく当時多少なりともインターネットに
興味を持っていた人はすべて買ったのではないかと考えるほど売
れに売れたのです。
 創刊号の好調の効果は、そこに広告を出した尾崎氏の「3万円
定額インターネット」にそのまま跳ね返り、まだ会社ができてい
ないのに、尾崎氏の個人口座には続々と3万円の入金があったと
いうのです。
 3万円の振込みを確認すると、スタッフがそれを引き出し、モ
デムを買いに走るという繰り返しで、ベッコアメは会員を増やし
ていったのです。そして、1994年12月に株式会社ベッコア
メ・インターネットは設立されたのです。
 当時IIJの個人向けサービスは、初期費用3万円、利用料金
は1分間30円、リムネットは初期費用8000円、利用料金1
分間10円――これに対してベッコアメは年間3万円で使い放題
というのですから、まさに革命的な料金設定です。
 尾崎氏の狙いは当たったのです。会員は続々と増え始め、19
95年3月の日本経済新聞の調査で、プロバイダ別のユーザ数ラ
ンキングで第1位を占めるまでになったのです。さらにあるパソ
コン雑誌には「最も接続トラブルの少ないプロバイダ」と評価さ
れたのです。こうして品質の面について批判したIIJ幹部への
借りを返したのです。  
        −― [インターネットの歴史 Part2/30]


≪画像および関連情報≫
 ・ベッコアメ・インターネットの現状
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  グローバルメディアオンライン(GMO)は1日、ベッコア
  メ・インターネットのISP事業とホスティング事業の営業
  を譲り受けると発表した。GMOに営業譲渡されるのは、ベ
  ッコアメ・インターネットが運営しているインターネット接
  続サービス「ベッコアメ」とホスティングサービス「スリー
  ウェブ」――具体的な譲渡日は未定だが、4月中には実施さ
  れる。国内のISPでは草分け的な存在のこれらのブランド
  が以降、GMOによって運営されていくことになる。料金等
  のサービス内容も変更はないとしている。/2004
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

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posted by 平野 浩 at 05:29| Comment(0) | TrackBack(0) | インターネットの歴史 Part2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月20日

CERNとティムとWWW(EJ2065号)

 ここまで見てきたように、インターネットは電子メールからは
じまり、WWW(ワールド・ワイド・ウェブ)の登場によって一挙
に拡大し、物凄いスピードで普及をはじめるのです。ところで、
日本で最初にホームページを製作したのは誰であり、それがいつ
できたのでしょうか――これからそのことを追求していきます。
 それには、そもそもWWWというアイデアを誰が考え出したの
かについて知る必要があります。よく知られているように、WW
Wは、スイスのジュネーブにあるCERN――セルン/欧州素粒
子物理研究所――において、ティム・バーナーズ・リーという人
物が開発したといわれています。それは、どのようにして、開発
されたのでしょうか。
 ティム・バーナーズ・リー(以下、ティム)は、1955年6
月8日に英国のロンドンで生まれています。父は数学者で、父母
ともにコンピュータのプログラムを開発するエンジニアだったの
です。そういう家庭環境で育ったティムは、オックスフォード大
学のクイーンズ・カレッジの物理学科を卒業しています。
 ティムはソフトウェア技術者として2社に勤務したのですが、
仕事が安定せず、安定した勤め先を探したのです。そしてやっと
1980年からスイスのジュネーブにあるCERNに勤めること
ができたのです。しかし、独立コンサルタントとして、半年契約
という約束であり、臨時雇いのようなものだったのです。
 CERNでティムは「エンクワイア」というプログラムを書い
ています。どういうプログラムかというと、ティムが所属するセ
クションのプロジェクトとプログラムの管理をするものであり、
誰がどこのプロジェクトにいて、どういうプログラムを書き、ど
のマシンでそれが動いているかがわかるというものです。
 しかし、ティムはこれをCERNの仕事としてではなく、仕事
のかたわら自分用として開発したのです。そのときは、誰も注目
していなかったのですが、これが後のWWWの基礎となる貴重な
プログラムとなったのです。
 「エンクワイア」はソフトウェア開発グループのコンピュータ
で動いており、ティムはそれに高度な改良を加えていき、かなり
完成度が高められていったのです。しかし、その時点でティムの
契約は満了し、CERNを離れることになったのです。
 ティムはCERNを去るに当たって、エンクワイアをシステム
管理者に使ってくださいといって渡しています。しかし、誰もそ
のプログラムに注目することなく、誰も使わなかったのです。
 ティムは英国に戻ってプリンタ用のプログラムを開発していた
のですが、もう一度CERNに戻りたいと思ったのです。別に、
CERNが能力を認めてくれるわけではなかったのですが、何と
いってもコンピュータなどの設備がよかったからです。
 そこで、CERNのフェローシップに応募したのです。それは
1984年9月にやっとかなえられます。フェローシップとはい
うものの非常勤職員に近いものであったのですが、ティムにとっ
ては満足だったのです。
 その時点でCERNは組織が大きくなっており、多種多様のコ
ンピュータがたくさん入っていたのです。当然のことながら、こ
れらの異機種コンピュータ間で、情報のやり取りや共有が必要に
なっていたのです。ティムはこれらの異機種コンピュータ間での
通信用にプログラムを書いてCERNに貢献します。
 そして、CERN内のDECのVAXミニというコンピュータ
上でエンクワイアを動くようにしたのです。やがて、ティムは、
このエンクワイアを外部と接続し、「ハイパーテキスト・ドキュ
メント・システム」を構築したいと考えて、上司のマイク・セン
ドールに提案します。
 マイクはそれに反対しなかったのですが、きちんとした提案書
をまとめるよう指示され、ティムは困ってしまいます。彼は今ま
でそのようなものを書いたことはなかったからです。
 しかし、反対されたわけではないので、システム構築に向けて
研究を進めることにしたのです。最大の難問はプロトコルに何を
採用するかということだったのです。
 ティムは当時欧州では一般的であったOSIのプロトコルでは
なく、インターネットで採用されているTCP/IPを採用した
いと考えていたのです。しかし、TCP/IPの支持者は少数派
だったのです。
 ティムにとって幸いなことに、そのときCERNにベン・シー
ガルという人物がいたのです。シーガルは1958年に英国のイ
ンペリアル・カレッジの物理数学科を卒業し、しばらく英国と米
国の原子力関係企業で働いた後、1971年にスタンフォード大
学で博士号を取得し、CERNで働くことになったのです。
 ベン・シーガルは、米国で働いていたので、TCP/IPを使
うべきであるというティムの考えに同調します。シーガルはティ
ムにとって、心強い見方となったのです。
 CERN内部では、VAX/VMSというOSとDECネット
という通信プロトコルでデータのやり取りが行われていたのです
が、ティムはシーガルにも協力してもらい、ひそかにVAX/V
MSというOSとTCP/IPを組み合わせて動くようにシステ
ムを構築したのです。
 そして、1989年3月にティムは「情報管理:1つの提案」
という提案書とその背景論文「ハイパーテキストとCERN」を
上司に提出しています。
 このなかでティムは、巨大な研究機関であるCERN内部の情
報検索のために、ハイパーテキスト技術を使って、ドキュメント
を自由にリンクできるシステムを論じています。
 しかし、ティムの上司であるマイク・センドールやその上司で
あるディビット・ウィリアムズには、ティムの提案の価値を見抜
く力はなかったのです。提案書は上司に読まれることもなく、そ
のまま上司の机の上に眠ったままだったのです。この提案こそ後
のWWWとして全世界に普及することになるのです。いつの時代
こういう上司がいるのです。
         ― [インターネットの歴史 Part2/31]

≪画像および関連情報≫
 ・ハイパーテキストとは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ハイパーテキストとは、複数の文書(テキスト)を相互に関
  連付け、結び付ける仕組みである。「テキストを超える」と
  いう意味から"hyper-"(〜を超えた) "text" (文書)と名
  付けられた。テキスト間を結びつける参照のことをハイパー
  リンクと言う。ハイパーテキストは文書を表示するユーザイ
  ンタフェースのパラダイムの1つであり、従来の文書作成方
  法の持つ、要素を組織化することについての限界(特にその
  線形性)を克服しようとするものである。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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posted by 平野 浩 at 06:40| Comment(0) | TrackBack(0) | インターネットの歴史 Part2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月23日

個人の手によって開発されたWWW(EJ第2066号)

 CERNという組織は最先端の研究機関であるのに、かなり封
建的、閉鎖的な組織であったようです。1989年3月にティム
は第1案を提出し、5月に改訂版を出したのですが、これも上層
部に無視され、なしのつぶてです。
 そういうティムにベン・シーガルは入れ知恵をします。「『新
型コンピュータ・NEXTキューブ』の購入願いをマイク出せ」
と。このマシンは、アップルを退社したスティープ・ジョブスが
開発した新型コンピュータであり、商業的には成功しなかったも
のの当時の最新機能を満載したワークステーションなのです。
 シーガルは、ティムの上司であるマイク・センドールに対して
ティムの提案しているプロジェクトは画期的なものだから、正式
に上の承認がおりなくてもなんとか進めさせてやって欲しいと根
回しをしてくれたのです。これを受けて男気のあるマイク・セン
ドールは、ティムの提案の内容は依然としてわからなかったので
すが、熱心なシーガルの勧めに乗ったのです。
 こういうわけで、ティムはNEXTキューブの購入願いを出し
て、マイク・センドールのOKをもらいます。そのときマイクは
ティムに対して、次のようにいい、非公式にプロジェクトのゴー
サインを出したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 正式に機械を手に入れたのだから、それを使って君のいう、ハ
 イパーテキストやらをプログラミングしないという手はないだ
 ろう。              ――マイク・センドール
―――――――――――――――――――――――――――――
 ティムは、とりあえず自分のプロジェクトに名前をつける必要
があったのです。こういうことはあまり得意ではなかったとみえ
て、さんざん考えたすえ「WWW」と命名したのです。このよう
にして、1990年10月から、ティムは大車輪でWWWの開発
に取り組んだのです。
 実はこれからが大変だったのです。以下、WWWが日の目を見
るまでのいきさつを脇英世氏の著作から、要約してお伝えするこ
とにします。
 ティムが最初に取り組んだのは、「WEBクライアント」の作
成です。WEBクライアントというと難しく聞こえますが、要す
るにエディタ(プログラムを書き込むワープロのようなもの)を
作ったわけです。ウインドウズに標準で付いている「メモ帳」の
ようなにものです。
 彼はWEBクライアントを普通のC言語ではなく、オブジェク
ティブC言語で書いています。どうしてかというと、オブジェク
ティブC言語が彼の使っているマシンであるNEXTキューブに
標準で付いていたからです。彼はそういう新しい言語をいとも簡
単にマスターしてしまう根っからのプログラマであったのです。
 次に、WEBクライアントに書き込む言語――HTML(ハイ
パーテキスト・マークアップ言語)を作成したのです。これは、
ホームページを作成する言語として現在あまりにも有名ですが、
開発者がティムであることを知っている人は少ないです。
 続いて、HTMLでWEBクライアントに記述されたプログラ
ム――テキストデータをハイパーテキストに変換する必要があり
ます。ハイパーテキストとは複数の文書を相互に関連付け、リン
クできる仕組みのことです。そのために後に有名になる次の2つ
の技術を考え出したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 HTTP−ハイパー・テキスト・トランスファ・プロトコル
 URL −ユニフォーム・リソース・ロケーター
―――――――――――――――――――――――――――――
 HTTPというのは、ハイパーテキストを転送することを主な
目的とするものであり、URLはインターネットにおいて提供さ
れるリソースが、どこにあるかを特定し易くする住所のような役
割をするのです。
 なお、ここでいうリソースとは(主にインターネット上の)デ
ータやサービスを指し、具体的には、ホームページや電子メール
の宛先といったものがそれに当たります。
 脇英世氏によると、ティムの理論がCERN内で無視された原
因のひとつにシステムなどのネーミングがあるというのです。例
えば「ハイパー」などは、地味で学級的な研究者であればまず使
うことのない派手なネーミングであるというのです。この点につ
いて、脇英世氏は次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 数学において、ハイパージオメトリック・シリーズ(超幾何級
 数)という用語はあり、ハイパーという形容詞が使われた実例
 はある。だが、一般的に学問の世界ではハイパーというような
 派手な形容詞を使うのを嫌う。私も最初聞いた時は、これは本
 当に学問的なものかといぶかったものだ。当初はTBL(ティ
 ムのこと)がどんな人物なのか分からなかった。10年以上の
 時間が経った今判断すると、やはり学問の世界ではアウトサイ
 ダーだった人物の作った言葉と言えるだろう。
    ――脇英世著、『インターネットを創った人たち』より
                         青土社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 こうして、ティムのWEB情報閲覧システム――WWWプログ
ラムは徐々にかたちを整えてきたのです。1991年3月、ティ
ムはCERN内部でNEXTキューブを使っている研究者に、W
WWプログラムを配付しています。しかし、CERN内部では何
ら反応はなかったのです。ティムは博士号も持たない非常勤の研
究員であり、予算も部下もない徒手空拳の身だったからです。
 しかし、これによって外部にWWWの存在がわかるようになり
ティムの評価は急上昇したのです。しかし、1991年12月に
サン・アントニオで開催されたハイパーテキスト91にティムは
WWWの論文を提出したのですが、受理されず、プレゼンさえも
できなかったのです。  
―― [インターネットの歴史 Part2/32]


≪画像および関連情報≫
 ・WWWとは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  WWWの通信プロトコルは主にHTTPが使用され、ドキュ
  メント(ウェブページ)の記述には主にHTTLなどのハイ
  パーが使用される。ハイパーテキストとは、ドキュメントに
  別のドキュメントのURIへの参照を埋め込むことで(これ
  をハイパーリンクと呼ぶ)インターネット上に散在するドキ
  ュメント同士を相互に参照可能にすることができる。分かり
  やすい例で言うと、主にマウスによるクリックなどによって
  ページ間を移動することや、別のファイルである画像をドキ
  ュメント内に表示させることなどが挙げられる。そのつなが
  り方が蜘蛛の巣を連想させることから World Wide Web ――
  (世界に広がる蜘蛛の巣)と名付けられた。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年04月24日

日本初のホームページが誕生した日(EJ第2067号)

 WWWが完全なかたちではないものの、ほぼ出来上ってきつつ
あった1992年9月30日にCERNを訪れ、ティムと会った
日本人がいます。
 森田洋平氏と渡瀬芳行氏の2人です。森田洋平氏は日本のCE
RNといわれるKEK(文部省高エネルギー加速器研究機構/当
時)の計算科学センターに勤務する研究者であり、渡瀬芳行氏は
その計算科学センター長だったのです。
 2人はフランスで開催されたコンピュータとネットワークに関
する国際会議に出席した帰りにCERNを訪問したのです。2人
はCERNでいろいろな科学者と会って話を聞いたのですが、そ
のなかにティム・バーナーズリーがいたのです。
 ティムとはCERNのカフェテリアで昼飯をとりながら話した
のですが、森田洋平氏はティムと会ったときの印象を次のように
述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 WWWならばオペレーション・システムの違いとかを気にする
 ことなく、だれでも、どこからでも、自由に情報を引き出して
 使うことができる。そうなったら、世の中が大きく変わるんだ
 よ、と。そういうようなことを非常に熱心に説明してくれまし
 た。説明というより、切々と語りかけてきたというか。聞いて
 いて、感動しました。           ――森田洋平氏
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 ティムは森田氏らに「日本でもやれよ」といって、WWWの作
り方を書いた資料をくれたのです。森田氏はその場でCERNの
端末室を使わせてもらい、資料を参考にHTMLファイルの作成
に取りかかったのです。
 このようにして、ごく簡単なひな型ができると、森田氏は世界
中の高エネルギー物理学の研究施設が直結されているHEPネッ
ト経由でKEKにログインし、KEKのコンピュータに出来たば
かりのHTMLファイルを置いたのです。そして、ティムにその
アドレスをメールで送り、CERNのリンク集のページにKEK
を加えてもらったのです。
 そのときCERNのリンク集に登録されていたWWWサーバー
は10数個であったといいます。現在ゆうに10億を超えるとい
われるホームページが当時それだけしかなかったのです。
 その中に日本のKEKが仲間入りすることになったのです。こ
れが日本最初のホームページとなるのです。1992年9月30
日――スイスのジュネーブにあるCERNで森田洋平氏によって
それは作成されたのです。
 森田氏がティムに会った日、ティムはとても元気で情熱的に話
しかけてきたといいます。しかし、ティムは1992年の初めは
非常に落ち込んでいて元気がなかったというのです。それは、W
WWを発表したにもかかわらず、予想していたような反響がほと
んどなかったからです。
 そこで、1992年6月にティムは長期のサバティカル(研究
休暇)をとり、妻と一緒に旅に出ているのです。そして、その休
暇明けの9月に森田氏らと会ったのです。そのときはとても元気
であり、何か前途に希望が持てたような表情だったといいます。
旅行中に何があったのでしょうか。
 ティムはMITのLCS――コンピュータ科学研究室を訪問し
ボストン近郊で開かれるIETF(インターネット技術タスク・
フォース)の会合に出席しています。後から考えると、このとき
MITに行ったことが、後のティム・バーナーズリーの評価を不
動のものにすることになったのです。
 旅の終りにティムは、ハイパー・テキストの開発者であるテッ
ド・ネルソンをサンフランシスコの対岸にある高級リゾート地サ
ウサリートの自宅に訪ねています。そのとき、ティムはネルソン
に「がんばってくれ」と激励されたというのです。ティムが森田
氏らに会ったとき元気であり、情熱的であったのは、これが原因
だったと考えられます。
 1992年当時のティムは、このままCERNにいてもWWW
を発展させることはできないのではないかと考えており、旅行の
とき立ち寄ったMITのLCSにウェブのコンソーシアムを立ち
上げるアイデアを持ちかけたのです。
 LCSは、ウェブ・コンソーシアムの価値を認めて、ティムを
フルタイムのスタッフ・メンバーとして雇うと提案したのです。
正式のMITのメンバーではなく、LCSのメンバーにするとい
うのです。それは、ティムには博士号がなく、目だった学問的業
績もなかったので、MITのメンバーだと審査が通らないと考え
たのです。CERNにおけるティムの地位も数年単位の不安定な
給費研究員に過ぎなかったからです。
 実は、MITとしてはティムの研究を高く買っていたのです。
そこで、CERNには十分気を遣いながら、ティムをMITに引
き取ろうとしたのです。
 MITはCERNと協力して、「W3C」を設立します。W3
Cとは、次の言葉の省略です。
―――――――――――――――――――――――――――――
      W3C World Wide Web Consortium
―――――――――――――――――――――――――――――
 MITはCERNに欧州の中心はCERN、米国の中心はMI
Tとし、当面ティムは米国に移るということでCERNからOK
をとっています。そのときCERNは新しい加速器を作ることに
なり、膨大な予算を必要としていて、ティムのやっているような
研究には予算を回せなくなったので、ティムの移籍には進んで賛
成をしたのです。かくして、ティムは事実上MITに移り、W3
Cの仕事をすることになったのですが、その後W3Cは大変な権
威を持つ大組織となっていくのです。CERNの幹部は人を見る
目がなかったのです。  
―― [インターネットの歴史 Part2/33]


≪画像および関連情報≫
 ・テッド・ネルソンについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  テッド・ネルソンは米国の社会学者であり思想家であり、情
  報工学のパイオニアである。彼は1963年に「ハイパーテ
  キスト」という用語を生み出し、1965に発表した。彼は
  また、ハイパーメディア、トランスクージョン、Virtuality
  ――電子書籍システムの概念構造、Intertwingularity ――
  知識の相互関連性、テレディルドニクスといった用語も生み
  出した。彼の仕事の主要な推進力は、コンピュータを普通の
  人々に容易にアクセス可能にすることであった。彼の座右の
  銘は以下の通りである。『ユーザーインターフェイスは、急
  いでいる初心者が10秒以内に理解できるぐらい簡単にすべ
  きだ。               ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年04月25日

アンドリーセンはWWWをどうみたか(EJ2068号)

 現在われわれが使っているインターネット――とくにWWWが
どのようにして作られたかについて追求しているのですが、いま
ひとつはっきりしないことがあります。
 それは、テッド・ネルソンのハイパー・テキストと、ティム・
バーナーズリーのWWW、マーク・アンドリーセンのネットスケ
ープ・ナビゲータの3つの関係がはっきりしないからです。この
なかで、ティム・バーナーズリーについてはテッド・ネルソンの
ことも多少からめて既に説明を終わっています。
 そこで、しばらくマーク・アンドリーセンの立場からWWWに
ついて迫ってみたいと思います。その話の中にテッド・ネルソン
の話を入れていきます。そうすることによって、現在のインター
ネットを明確に把握できると思います。
 マーク・アンドリーセンは、1971年7月にアイオワ州シー
ダーフォルーに生まれ、ウィスコンシン州の小さな田舎町ニュー
リスボンで育ったのです。父は種商のセールスパーソン、母は通
販会社ランズ・エンドの出荷係をしており、裕福な家庭とはいえ
なかったのです。
 アンドリーセンは8歳のとき、図書館でPCと解説書を借りて
BASICでプログラミングをやっているのです。PCは、コモ
ドールのPCだったといいます。しかし、1日が終わるとPCは
返還しなければならず、せっかく作ったプログラム残すことがで
きなかったのです。PCにはプリンタやフロッピーディスクが付
いていなかったからです。
 アンドリーセンは、父親にPCをせがんだのですが、家の収入
ではとうてい買えなかったのです。それでも父親は息子のために
300ドルを工面してタンディのTRS−80を買ってやったの
です。しかし、300ドルではフロッピーディスクなしの本体だ
けだったといいます。
 このように子供の頃からプログラミングに関心を示していたア
ンドリーセンは、卒業したらプログラミングで身を立てようと決
意するのです。アンドリーセンはイリノイ州アーバナ・シャンペ
インにあるイリノイ大学コンピュータ学科に入学します。この大
学には、NCSAという研究機関があることはEJ第2065号
で既に述べた通りです。
 このNCSAにおいて、アンドリーセンは、しばらくソフトウ
ェア・ビジュアライゼーション・グループに務め、三次元空間の
物体の形を作って動かすプログラミングをしていたのです。
 そのとき、アンドリーセンが使っていたワークステーションが
後に彼の事業パートナーになるジム・クラークの率いるシリコン
・グラフィックス社の製品だったのです。
 そういうある日、アンドリーセンは、はじめてWWWを見るの
です。もちろん、ティム・バーナーズリーのWWWをです。当時
インターネット自体は、幅広い分野におよぶかなり便利なツール
になっていたのですが、それを利用するのはかなり困難だったの
です。それはいくつものプロトコルが使われていたからです。
 ほとんどのプロトコルは、情報を取り出すために専用のソフト
が必要であり、さらに情報を送るためには別のソフトを必要とし
たのです。それらのソフトは、インターネットのどこかにあって
インターネットを使う場合はそのソフトのある場所を突き止め、
それをFTPというプロトコルで自分のPCに持ってくる必要が
あったのです。そういうわけで、とても素人の手に負える代物で
はなかったのです。
 さらに、インターネットソフトの大半はUNIXのシステムで
しか動かなかったのです。しかし、UNIXマシン――シリコン
・グラフィックス社のワークステーションもそうですが――きわ
めて高価なマシンであり、それを使うのは一部の専門家に限られ
ていたのです。
 しかし、それに比べるとWWWは操作も簡単であり、普及する
可能性を秘めているとアンドリーセンは思ったのです。使うに当
たっては、情報を取り出すための「ウェブ・ブラウザ」と情報送
信用の「ウェブ・サーバー」という専用ソフトが必要なだけだっ
たからです。
 しかし、アンドリーセンは、WWWには2つの問題点によって
「きわめて退屈」であると感じたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.すべてが文字で構成され、画像も音も色も出ないCUIで
   しかないこと。
 2.WWWに必要なソフトは、NEXTキューブでしか使えな
   いということ。
―――――――――――――――――――――――――――――
 CUIは、キャラクター・ユーザ・インタフェースという意味
であり、文字だけしか表示されないインターフェースのことをい
うのです。これに対してウインドウズはGUI――グラフィカル
・ユーザ・インタフェースになっています。
 当時のWWW用のソフトの多くがNEXTキューブでしか使え
なかったのは、WWWの開発者のティム・バーナーズリーが開発
に使ったコンピュータがNEXTキューブだったからです。しか
し、NEXTキューブは使っている人は少なく、使っている人は
研究者がほとんどだったのです。
 アンドリーセンは、WWWにグラフィックスを取り入れ、さま
ざまな媒体で外観を作ったら面白いと考えたのです。そのために
は、エリック・ビーナの協力を得る必要がある――アンドリーセ
ンは考えたのです。エリック・ビーナは、NCSAの正式の職員
で、非常に精密なプログラムを書く人物だったのです。
 しかし、ビーナはなかなかアンドリーセンの説得を受け入れな
かったのです。アンドリーセンは、自分の考え方をわかってもら
うためにプロトタイプまで作って説得したのです。ビーナはそう
いうアンドリーセンの真剣さを知って結局OKするのです。19
92年12月のことです。2人は直ちに新しい試みに挑戦をはじ
めたのです。  ―― [インターネットの歴史 Part2/34]


≪画像および関連情報≫
 ・ジム・クラークとSGIについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  スティーブン・スピルバーグ監督の1993年の映画「ジェ
  ラシック・パーク」を覚えているだろうか。樹液に閉じ込め
  られた蚊から、太古の恐竜の血を得て、遺伝子操作で南海の
  孤島に復活させたという恐竜をめぐる冒険譚だが、恐竜たち
  がまるで生きているように映画に出てくるのだ。もちろんぬ
  いぐるみではない。いわゆるCG、コンピュータ・グラフィ
  ックスが使われているのだ。このCGの製作にシリコン・グ
  ラフィックス社――SGI製の画像処理専用コンピュータが
  使われていた。今ではSGIのオニキス――ONYXという
  専用コンピュータが映画やアニメーション製作には不可欠に
  なっている。ハリウッドの映画産業はこのCG技術を活用す
  ることで映画の新しい時代を築くことができた。そのシリコ
  ン・グラフィックス社を興したのは、スタンフォード大学で
  コンピュータ科学を教えていたひとりの準教授だった。彼の
  名はジム・クラーク。今ではだれ一人として彼を知らぬもの
  はいない。少なくともコンピュータに何らかのかかわりがあ
  るかぎり。
  http://www.chienowa.co.jp/frame1/ijinden/Jim_Clark.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年04月26日

WWWに構造変化を与えたモザイク(EJ2069号)

 エリック・ビーナとマーク・アンドリーセン――この2人は優
秀なプログラマでしたが、それぞれタイプは異なっており、2人
が組むことによって、グラフィックスが表示できる新しいブラウ
ザ――2人で「モザイク」と命名――は一層現実味を帯びること
になったのです。
 後にエリック・ビーナは、アンドリーセンのことを次のように
いっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 プログラマは「一般に視野がせまくなりがち」であるのに対し
 アンドリーセンは「おどろくほど興味の範囲の広い」点で、ほ
 かの技術者とは違っていた。NCSAとネットスケープにとっ
 てかけがいのない存在となったのは、技術の知識があったから
 ではなく、いつも興味を持っていた技術以外の幅広い分野の物
 事を、技術の知識とむすびつけることができたからだ。
            ――ロバート・リード著/山崎洋一訳
 『インターネット激動の1000日/WWWの地平線を切り開
           くパイオニアたち』上巻 日経BP社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 アンドリーセンがアイデアを出すと、ビーナはわずかな時間で
プログラムを書き、デバッグしてプロトタイプを作る。そうする
と、アンドリーセンがそのプロトタイプの改良ポイントを出す。
そうすると、ビーナはそれを修正するというように、モザイクは
どんどん完成度を増していったのです。
 アンドリーセンはあくまで実用的観点に立って、モザイクの機
能についてアイデアを出し続けたのです。こういう存在の司令塔
がいなければ、どんなに優秀であってもプログラマ同士では、モ
ザイクを完成させることはできなかったと思われます。
 そして、1993年のはじめにモザイクは、そのウェブ・サー
バー・ソフトと共にNCSAのサーバーで公開されたのです。こ
のとき、モザイクはUNIXマシンで動いていたのです。しかし
NCSAのメンバーはそれだけで満足しなかったのです。「イン
ターネットを技術エリートだけのおもちゃにしてはならない」と
いう考え方からです。
 大学院生、ジョン・ミッテルハウザーがPC、ユーゴスラヴィ
ア人のアレックス・トーティックがMACへの移植を担当し、作
業を行っていたのです。
 モザイクのUNIXバージョンは、数週間のうちに数万人がダ
ウンロードしています。そして数ヵ月後にはそれが数十万人に拡
大したのです。実際には数十万人どころではなかったと思われる
のです。というのは、当時はダウンロードの状況を追跡するシス
テムがなかったので、本当のところは誰にもわからないというの
が真実なのです。
 モザイクの登場で人々はウェブサイト――ホームページを現実
のものとして認識するようになったといえます。やはり、文字だ
けよりも、グラフィックスが入ると外観の見栄えが圧倒的によく
なったからです。
 それに拍車をかけたのは、モザイクがPCやマックで使えるよ
うになったことです。1993年の秋のことです。これについて
上掲の書籍の著者であるロバート・リード氏は次のように述べて
います。
―――――――――――――――――――――――――――――
 PC版とマック版のモザイクがインターネットで公開されたの
 は、1993年の秋のことだった。このデビューによって、そ
 れから起きるすべての大変動の舞台装置がととのった。ティム
 ・バーナーズリーが、インターネットに誰でも操作できるイン
 ターフェースを与えた。モザイクがそこへ、人々を引きつける
 外観を与えた。さらにPCとマックへの移植で、家庭やオフィ
 スで使われる大衆向けコンピュータでもインターネットを使え
 るようになった。このときはじめて、インターネットは、大衆
 を引きつけ、誰でもアクセスできるメディアへの一歩を踏みだ
 した。        ――ロバート・リード著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 このように、モザイクはUNIXバージョンだけでなく、PC
バージョンも1993年の秋には公開されていたのです。そのと
き、マイクロソフト社は「シカゴ」の暗号名でウインドウズ95
を制作中であったのです。しかし、モザイクの出現でWWWの進
化が一挙に進み、インターネットの様相が大きく変わりつつあっ
たことをビル・ゲイツがそれをきわめて重要な技術のトレンドと
して考えていなかったことは確かなようです。
 1993年においては、インターネット接続のためのインフラ
が十分成長していたのですが、あらゆるネットワークはその独自
技術のために切り離され、LANのような内部指向のネットワー
クも、オンライン・サービス(パソコン通信)のような外部指向
のそれも、ばらばらの状態だったのです。
 当時オンライン・サービスはコンピュサーブ、プロディジー、
AOLなどの商用のサービスが最盛期を迎えており、それらの延
べ利用者は、過去2年間で50%増加し、350万人を超えてい
たのです。しかし、それは、相互にコミュニケーションを取りた
いというユーザの意思のあらわれであり、オンライン・サービス
事業がその後発展・拡大することを意味していなかったのです。
 マイクロソフト社をはじめとする多くのIT企業が、ネット上
における相互コミュニケーションを苦もなく実現してしまうイン
ターネットに重要な評価を下していなかったのです。
 モザイクが勢いづくのに時間は必要としなかったのです。それ
はまさに怒涛の進撃だったのです。ひとたび動き出すと、その勢
いは止めようがなかったのです。そういう通信の大変化が、ウイ
ンドウズ95が発売される2年も前からはじまっていたのです。
そして、それはやがて全世界を巻き込む一大ブームとなっていく
のです。それは、NCSAの若いプログラマたちの起こした革命
だったのです。 ―― [インターネットの歴史 Part2/35]


≪画像および関連情報≫
 ・「モザイク」関連のサイトから
  ―――――――――――――――――――――――――――
  マーク・アンドリーセン氏がイリノイ大学の仲間たちととも
  に『モザイク』を世に送り出してから今年で10年になる。
  モザイクは、ワールド・ワイド・ウェブ(WWW)を閲覧する
  ために作られた世界初のブラウザーソフトだ。しかし、アン
  ドリーセン氏に言わせれば、インターネットが日常生活にど
  のように定着するか、最終的な形が決まるまでには時間が必
  要で、われわれはまだその過程の半分にも到達していないと
  いう。
  ―――――――――――――――――――――――――――
  http://hotwired.goo.ne.jp/news/business/story/20030224105.html

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2007年04月27日

WWW開発者会議開催される(EJ第2070号)

 モザイクの躍進は誰の目にも明らかのことだったのです。イン
ターネットの高速バックボーンの月間トラフィック統計というも
のがあります。バックボーンというのは、複数の支線ネットワー
クを連結する幹線ネットワークのことをいいます。
 大企業のLANを例にとって説明すると、各フロアーに敷設さ
れているのが支線LAN、それらの支線LANを上下に連結する
のが幹線LANです。ビルを上下に背骨のように貫通しているの
で、バックボーンLANというのです。
 それから、トラフィックというのは、ネットワーク上を流れる
情報量――パケット量のことをいうのです。ここでいう高速バッ
クボーンの月間トラフィック統計というのは北米にある高速バッ
クボーンを流れるパケット・トラフィックをプロトコル別に把握
した統計のことです。
 モザイクが最初にリリースされる直前の1993年1月のWW
Wのトラフィックは、このバックボーンのパケット・トラフィッ
ク全体のO.OO2%、インターネットの各種プロトコルの中で
127番目の量だったのです。
 UNIX版のモザイクがリリースされて数ヶ月経過した6月に
は、O.25%の第21位、そして、9月には16位に上昇する
のです。そのときの第1位はFTP――ファイルを転送するプロ
トコルだったのですが、それも長続きせず、WWWのパケット・
トラフィックが第1位を記録するのです。
 同じ1993年の夏のこと、マサチューセッツ州ケンブリッジ
で、WWW開発者会議が開かれたのです。集まったのは24名、
場所はオライリー書店のオフィスであるといわれています。ティ
ム・バーナーズリー、ペイ・ウェイ、マーク・アンドリーセン、
エリック・ビーナ、ルー・モンチェリなどのWWW関連の開発者
が出席したのです。
 そのときの会議の模様について、ルー・モンチェリは次のよう
に伝えています。ルー・モンチェリは当時カンザス大学の学生で
「リンクス」というテキストのみのブラウザの開発者として知ら
れていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 マーク・アンドリーセンはほんとうに際立っており、他の人は
 皆、マークの周りに転がっているだけだとはっきりわかった。
 マークが話をすると、誰もが耳を傾けた。このことを意識して
 か、アンドリーセンはほかの出席者のように会議バッチにフル
 ネームと所属団体を書かず、自己紹介の必要はないとでもいう
 ように「マーク」とだけ書いていた。    ――モンチェリ
            ――ロバート・リード著/山崎洋一訳
 『インターネット激動の1000日/WWWの地平線を切り開
           くパイオニアたち』上巻 日経BP社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 この会議でアンドリーセンとティム・バーナーズリーと初対面
のはずですが、2人はあまり話をしなかったはずです。脇英世氏
の本には次のように書いてあります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ティム・バーナーズリーがびっくりしたのは、インターネット
 では饒舌であったマーク・アンドリーセンが会議の場では全く
 寡黙であり、写真も撮られたくないと拒否したことであった。
    ――脇英世著、『インターネットを創った人たち』より
                         青土社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 実のところモザイクが出てからというもの、ティムの影は非常
に薄くなっていたのです。アンドリーセンがなぜ不機嫌であった
かはわかりませんが、もっとWWWの開発者に対して敬意を表す
べきであったと思うのです。
 なぜなら、ティムがWWWの知的所有を主張せず、技術のすべ
てを公開したからこそ、アンドリーセンたちはモザイクを構築で
きたからです。いまどき不思議な話ですが、インターネットに関
わる重要な開発をした人はその全員がそれをひとりのものにしよ
うとしなかったのです。
 もし、ティムがWWWの技術情報の知的所有を主張していれば
その後のインターネットの大普及によって巨万の富を得ていたと
思われるからです。日本初のホームページの制作者である森田洋
平氏は次のようにいっているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ティムはWWWを自分ひとりのものにしようとしなかった。同
 時に、あるひとつの会社、またひとつの製品にそれが取り込ま
 れないよう、なるべくニュートラルな形で発展していくよう最
 大限の努力をした。そのおかげで世界中の人が自由にWWWを
 使えるようになったわけです。そういう意味では、ティムはW
WWの生みの親であると同時に、WWW普及の最大の功労者だと
いえま す。                 ―森田洋平氏
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 実はティムはWWWに名前を付けるとき、最初は次の名前を考
えたといわれます。
―――――――――――――――――――――――――――――
         The Information of Mine
―――――――――――――――――――――――――――――
 この頭文字を取るとTIMとなります。しかし、妻の勧めでそ
れを取りやめて、WWW――ワールド・ワイド・ウェブにしたの
です。しかし、ティムはWWWの開発者でありながら、博士号を
持っていなかったり、学問的業績がないことからその功績にふさ
わしいポジションを手に入れているとはいえないのです。逆に知
的所有権を強く主張した人の方が多くの人に知られ、尊敬を受け
ているように思うのは私だけでしょうか。世の中って不公平にで
きているのでしょうか。 
―― [インターネットの歴史 Part2/36]


≪画像および関連情報≫
 ・バックボーンについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  インターネット利用者の急速な拡大や、ブロードバンド・ア
  クセス・ネットワークの普及にともなう動画像や音楽等大容
  量コンテンツの流通量増加により、インターネット上の大幅
  なトラヒックの増加が予想され、インターネットのバックボ
  ーン回線についても対応が求められている。インターネット
  のバックボーン回線は、電気通信事業者が構築したIP網に
  より構成されている。そのため、インターネットのトラヒッ
  ク増加への対応としては、ISPによるバックボーン回線の
  高速化とIX(インターネット・エクスチェンジ)の増強を進め
  る必要がある。
  http://www.soumu.go.jp/hakusyo/tsushin/h13/html/D1113000.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年05月01日

モザイクはなぜブレイクしたのか(EJ第2071号)

 ここで、ティム・バーナーズリーのシステムの発想について述
べる必要があると思います。それは、それまでのシステムの考え
方と大きく異なっているからです。
 WWWの情報検索には、「ハイパー・テキスト」という技術が
使われています。この技術の構想は1945年頃、米カーネギー
大学のヴァネバー・ブッシュによって唱えられたものです。これ
をコンピュータ上で実現する方法を紹介したのが、テッド・ネル
ソンです。ハイパー・テキストとは、関連のある単語と文章が互
いにリンクされた文書の集合体のことです。
 このハイパー・テキストは、昨日今日使われだした技術ではな
く、PCの分野では何年も前から使われてきた技術です。アップ
ルの「ハイパーカード」にはじまり、ウインドウズのオンライン
ヘルプ、CD−ROMなどがそうです。
 しかし、ネットワークには対応していなかったのです。そのた
め、ハイパーテキストは、そのマシンの中にある内容しか利用で
きないという制約があったのです。外部からの寄稿で情報の充実
を図ったり、他の知識ベースにも接続できなかったのです。
 テッド・ネルソンは、これらの問題点を解決し、ネットワーク
上で世界中の出版物をハイパー・テキスト化する構想を次のタイ
トルで発表したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       XANADU ・・・ ザナドウ
―――――――――――――――――――――――――――――
 「ザナドウ」という名前は、コンピュータ・ゲームにも取り上
げられ、その面で有名になりましたが、肝心のテッド・ネルソン
の「ザナドウ」は、一向に実現しなかったのです。これについて
『インターネット激動の1000日』の著者、ロバート・リード
は次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ザナドウ・プロジェクトに関するすぐれた記録を書いたワイア
 ード誌のゲリー・ウルフによると、ザナドウは「人間の生活を
 まったく新しい形に変える、世界共通の大衆的なハイパー・テ
 キスト・ライブラリーになるはずだった」。ところが、実際に
 は、「30年にわたる過激なプロトタイプ開発と、深い絶望の
 物語」に終わった。
            ――ロバート・リード著/山崎洋一訳
 『インターネット激動の1000日/WWWの地平線を切り開
           くパイオニアたち』上巻 日経BP社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 テッド・ネルソンの考えるザナドウは、システム内の多数のフ
ァイルに埋め込まれた膨大なハイパーリンクのリンク先をすべて
認識して追跡するシステムだったのです。こうすることによって
ファイルが削除されたり移動したりしたときに、ハイパーリ
ンクの情報を自動的に更新できるのです。
 全体をシステムと考えると、テッド・ネルソンの考え方は当然
のことです。しかし、システムの規模が大きく拡大すると、これ
は非常に実現困難になります。まして、情報が自己増殖し、世界
中に拡大するようになると、到底不可能となります。
 これに対して、ティム・バーナーズリーのWWWの考え方は、
次の言葉で象徴されるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     うまくいかないことがあれば、仕方がない
―――――――――――――――――――――――――――――
 ある意味において、これはシステムとしていい加減な考え方で
あるといえます。しかし、これなら、続々とファイルが追加され
規模が拡大しても問題がないのです。その代わり大部分のものは
正しいリンク先にたどり着くが、たまにはたどり着かないで終わ
ることもある――これが「仕方がない」ということなのです。
 インターネットというネットワークはそういう「仕方がない」
ことが多いのです。電子メールについても、そういうところがあ
ります。それは、インターネット・メールは届かないことがある
という点です。しかし、それを前提として、届かなったことを伝
えるエラーメッセージが用意されている――そういうようなシス
テムになっているのです。
 テッド・ネルソンがザナドウで提唱したようなシステムとして
の厳密さをあきらめて、欲しいデータを探すツール――検索エン
ジンの技術的向上によってそれを補うという考え方です。実際に
現在では、グーグルのような優れた検索エンジンが登場し、WW
Wは十分機能しているといえます。
 しかし、ティム・バーナーズリーは、WWWをあくまで学者や
研究者の間で使うシステムと決めていたフシがあるのです。その
点は、アンドリーセンの考え方とは全く相容れなかったのです。
 アンドリーセンをはじめとするNCSAのメンバーは、きわめ
て実用主義的であり、人々が求めるものを作ろうとしたのです。
グラフィックスを取り入れて分かりやすく楽しいものにしようと
したのです。一枚の写真は千の言葉に勝るからです。この効果は
大きかったのです。
 その結果、WWWは結婚式のスナップから、スタートレックの
写真集、クリンゴン星人の写真からヌード写真まで――そういう
画像であふれかえるようになったのです。そのため、モザイクは
大変な評判となり、利用者は急増することになったのです。
 これに怒ったのは、ティム・バーナーズリーです。彼はアンド
リーセンに電話を入れ、「WWWに画像を入れるとは何事か」と
抗議したというのです。彼としては、学者や研究者のために作っ
たWWWがくだらない画像であふれかえるのに我慢がならなかっ
たものと思われます。
 このことが、その後に開かれたWWW開発者会議において、ア
ンドリーセンがバーナーズリーに口をきかなかった原因ではない
かといわれているのです。さらに1993年の終わりにもうひと
つの問題が起こります。 
―― [インターネットの歴史 Part2/37]


≪画像および関連情報≫
 ・プロトタイプ(英prototype)とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  プロトタイプとは、デモンストレーション目的や、新技術・
  新機構の検証、量産前での問題点の洗い出しのために設計・
  仮組み・製造された、試験機・試作回路・コンピュータプロ
  グラムのことを指す。新製品を量産に移す前など、試験用途
  として作られ、製品の設計に起因する問題や、その他の不具
  合を発見することができ、具体的な修正の検討に入ることが
  できる。こうすることにより、量産して市場に出た後で不具
  合が発覚することを防ぐことができる。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年05月02日

WWWが商用サービスを変貌させる(EJ第2072号)

 1993年の夏以降にモザイクが大普及をはじめると、イリノ
イ大学の態度が変わってきたのです。最初のうちはアンドリーセ
ンたちがNCSAで何を開発しようと、大学側はほとんど無関心
だったのですが、モザイクが人気になると急にそれを大学のもの
にしようとしたのです。
 もともとNCSAは米国スーパーコンピュータ応用センターと
いい、スーパーコンピュータの利用研究をしていたのです。その
ため年間数百万ドルの政府予算を支給されていたのですが、最近
では、スーパーコンピュータそのものをあまり使わなくなってき
ていたのです。
 そうなると、大学側は急にアンドリーセンたちが邪魔になり、
追い出しにかかったのです。大学としては開発者は別にアンドリ
ーセンでなくても誰でもできると錯覚していたのです。つまり、
アンドリーセンの天才性を見抜いていなかったのです。
 そういう雰囲気をいち早く感じ取ったアンドリーセンは、19
93年12月に大学を卒業し、まずシリコン・バレーに向かい、
マウンテン・ビューに落ち着いたのです。そして、そのマウンテ
ン・ビューにおいて、アンドリーセンはある有名な人物と運命的
な出会いをするのですが、その話をする前にWWWが当時のネッ
トワークビジネスとどういう関係にあったかについて述べておく
ことにします。
 1993年にモザイクが発表され、それが広く普及しはじめた
とき、それがネットワークの商用サービスのビジネス・モデルの
本質を壊しつつあったことに気づいた企業は少なかったのです。
 それは内部指向の閉じたネットワークであるLAN(ローカル
・エリア・ネットワーク)からはじまったのです。LANは少人
数のグループでファイルを共有したり、プリンタを共同使用した
りする必要性から始まったのですが、しだいにメールで社内のコ
ミュニケーションをとるツールに発展していったのです。その結
果、生み出されたのがグループウェアです。
 それでは外部とコミュニケーションをとるときどうしていたか
というと、それはオンラインサービス(日本のパソコン通信)し
かなかったのです。コンピュサーブ、プロディジー、AOL(ア
メリカ・オンライン)などのオンラインサービスは繁盛していた
のですが、企業内部のLANとは切り離されていたのです。しか
し、内部でLANを使っていると、やがて外部指向を求めるよう
になります。外部指向にすれば、広い世界の情報や資源を企業に
取り込むことができるからです。
 それを阻んだのはさまざまな独自技術だったのです。つまり、
企業内のLANを含めて、世界中にネットワークはすごい勢いで
増殖していたのですが、それらのネットワークは独自技術によっ
て切り離されたままであったのです。
 最盛期のオンラインサービスにしても、利用者とコンテンツが
各社ごとに分かれていることが問題だったのです。すなわち、A
OLのコンテンツがいかに充実しても、コンピュサーブやプロデ
ィジーの情報が豊かになるわけではないのです。したがって、オ
ンライン・サービスのユーザがいかに増えても、便利さが雪だる
まのようにふくらんではいかなかったのです。
 企業内のコミュニケーションで使うグループウェアの中でひと
きわ高性能だったのは「ロータス・ノーツ」です。ロータス社か
らIBMに引継がれて幅広く使われたものの最後まで今ひとつ、
パッとしなかったように思います。それは、他のグループウェア
のことを考えて作られていなかったからです。複数の製品と一緒
に使うことが困難だったからです。
 しかし、こういうクローズド性はメーカーにとっては都合の良
いことだったのです。それは、ユーザを最初に採用した製品から
離れられなくし、そのメーカーにのみ金をつぎ込ませることがで
きるからです。そして競争相手を排除させ、顧客を独占できるう
まみを享受できるからです。
 マイクロソフトのOS戦略にしても同じことがいえます。ウイ
ンドウズが登場して約12年間、マックのユーザをのぞいて人々
はウインドウズを使わざるを得ない状況に置かれたままです。も
ちろんウインドウズが、デファクト・スタンダード(事実上の標
準)の地位を獲得しているので、大きな不便さは感じないものの
目に見えないところでは矛盾を抱えたままです。
 例えば、ハードウェアのサーバーが3万円を割る価格で入手で
きるのに、ウインドウズのサーバー用OSが10万円以上するな
どの点です。
 これに対してWWWの本質は「オープン性」にあります。ロバ
ート・リードはこれについて次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 独自技術にもとずく競争に慣れた人にとって、インターネット
 はまるで宇宙空間だった。そこには金儲けのタネも企業の競争
 もない、利益を生まないオープン・プロトコルという奇妙な素
 粒子があるだけだ。
            ――ロバート・リード著/山崎洋一訳
   『インターネット激動の1000日』上巻 日経BP社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 マイクロソフトをはじめとするITメーカーは、当初利益と無
縁のインターネットのことをあまり重視していなかったのです。
WWWはオープンであり、全体を管理するシステムがない奇妙な
世界です。そういう世界で企業として利益を出していくにはどう
するか――それと正反対のことで智恵を使い過ぎているITメー
カーには発想できなかったのです。
 そのスキを衝いたのはグーグルです。WWWを使ったあらゆる
便利なシステムを無料で提供し、ITとは何も関係がない広告で
稼ぐというビジネス・モデルを構築し、現在躍進中です。WWW
のオープン性をフルに活用した戦略です。マイクロソフト社のイ
ンターネット戦略は一時成功したように見えましたが、果たして
現況はどうでしょうか。 
―― [インターネットの歴史 Part2/38]


≪画像および関連情報≫
 ・ロータス・ノーツについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  Lotus Development 社が開発したグループウェア。文書共有
  電子メール、電子掲示板などの機能をユーザが組み合わせて
  利用する。非常に高度で柔軟な検索機能を備えており、定型
  化しにくい文書などをそのままの形で保存し、分類・検索・
  並べ替えなどの操作を行なうことができる。文書だけでなく
  数値データや画像、音声など様々な形態のデータを扱うこと
  ができるため、高度な知識共有システムを実現することがで
  きる。近年では、ウェブブラウザからNotes の機能を利用で
  きるようにするなど、インターネットやイントラネットとの
  統合を積極的に推進している。Notes を利用するためには、
  企業の業務内容に応じてデータベースやプログラムを作りこ
  む必要があり、Notes を使ったシステムの開発を専門に行な
  う業者も存在する。  ――企業情報システム用語辞典より
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年05月07日

古川 亨氏が語るMSの現況(EJ第2073号)

 マイクロソフト社――というよりもビル・ゲイツが、当初イン
ターネットにあまり熱心ではなかったという話はこの連載で既に
何回もしています。この間の事情について、元米マイクロソフト
社の副社長をしていた古川亨氏の言を聞いてみましょう。
 古川亨氏は、アスキー社に勤務した8年のうち6年間はマイク
ロソフト社の仕事をし、さらにマイクロソフト社の日本法人の社
長として、それから米マイクロソフト社の副社長として19年間
計25年間もの長い間マイクロソフト社に関わるビジネスをして
きた人です。
 その古川氏は、ウインドウズ95が発売される直前のビル・ゲ
イツについて雑誌社のインタビューで次のように語っています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1994年頃のビル・ゲイツは、自由にブラウジングできる環
 境でコミュニケーションや情報共有の仕方が変わるんだといく
 ら説いても、興味を持ちませんでした。「インターネットなん
 て何の富も生まないし、ビジネスとして成功するチャンスがな
 いものに、会社として取り組んだり、ユーザが時間を使ったり
 することに何の価値も見出せない」と、頑なにいわれました。
                       ――古川亨氏
   『インターネット・マガジン/2006年5月号/終号』
                      インプレス社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、それが間違いだと気付いた瞬間のビル・ゲイツの転進
は実に早かったのですが、古川氏はそれはネイサン・ミアボルト
という社員の書いたレポートをビルが読んだことが決断のきっか
けになったと次のように述べています。古川氏でないと聞けない
話であり、少し長くなりますが、引用します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 あの頃、ネイサン・ミアボルトという突出した天才児がいたの
 ですが、その影響が大きかったです。彼は、スティーブン・ホ
 ーキングのゴースト・ライターをやっていました。ホーキング
 が宇宙物理学でノーベル賞を受賞して、同じ分野ではもうノー
 ベル賞は出ないだろうと考えて、マイクロソフトに入ってリサ
 ーチ部門を創設したという経歴があります。マルチタスクOS
 としてのウインドウズNT、トゥルータイプ・フォント、音声
 認識、カラーマネジメント、データベース、分散処理などいろ
 いろな研究分野がありますが、そのほとんどは彼が研究の起源
 となり、研究員となる人材を世界中から探し出してマイクロソ
 フトへ招聘していました。彼が会社を去る前後に、インターネ
 ットに関してこのまま放置しておくと、マイクロソフトにとっ
 て大変なことになるぞというレポートがビル・ゲイツに上がっ
 てきました。それをビル・ゲイツが吟味して、インターネット
 にコミットすべく舵を切ったというわけです。
    ――古川亨氏/上掲『インターネット・マガジン』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 確かにあのときのマイクロソフト社の方針転換は素早かったし
それが正しかったからこそ同社は業界トップの地位に君臨してい
ますが、これから先はどうなるのでしょうか。現在は、あのとき
よりもはるかに大きな変換点に立っていると思うからです。今回
もあのときのように、素早く転換できるのでしょうか。
 これに対する古川氏の答えは否定的です。彼は「マイクロソフ
トのリーダーシップは完全に失速状態」であると指摘し、その原
因は、マイクロソフトとインテルの補完関係が変質していること
であるといっています。
 今までは、ソフトウェアの立場からマイクロソフトが貢献し、
ハードウェアにおけるリーダーシップを発揮していたインテルと
緊密な補完関係にあったのです。つまり、ウィンテルがこのIT
業界を仕切っていたといえます。しかし、そのインテルとの関係
が変質しているといっているのです。
 確かに最近のインテルは、マッキントッシュのプラットフォー
ム(OS)においてもCPUを提供していますし、インテルとし
ては、ウインドウズにのみ依存しているわけではないことをこれ
みよがしに示しつつあります。
 このままいくと、IPネットワークが通信・コミュニケーショ
ンの道具としてだけでなく、放送を中継するパイプになることが
見え始めた重要な時期に、どういう提案をしてリーダーシップを
発揮するかという重責をインテルに明け渡してしまうことになる
――古川氏はこういっているわけです。
 それでは、なぜそういうことになったかについて、古川氏は次
のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 マイクロソフトは、技術の動向を捕捉しきれていないというこ
 とでしょう。世界にどういう技術が既に存在しているのかを勉
 強したり、それらを自分で使ってみるといったことをしていれ
 ば、何か学ぶことがあるはずです。インダストリーの中で望ま
 れていることに対して、マイクロソフトが何を学び、何を採択
 し、自らを創造し、それを社会に提案していくという感度が、
 鈍ってきているのではないでしょうか。
    ――古川亨氏/上掲『インターネット・マガジン』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 鳴り物入りで発売したウインドウズ・ビスタの売れ行きが今ひ
とつのようです。いかにデファクト・スタンダードであるとはい
え、ひとつのOSの閉じた世界に顧客を押し込めるということは
現在のオープンの世界にはなじまなくなってきているのではない
でしょうか。
 モザイクが登場し、それがネットスケープ・ナビゲータという
かたちになって世にあらわれたとき、マイクロソフト社はそれを
力で押さえつけて勝利しましたが、肝心のオープンの世界への対
応はできていなかったのではないかと思います。それは古川氏の
言葉によくあらわれています。
[インターネットの歴史 Part2/39]


≪画像および関連情報≫
 ・ウィンテルとは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  90年代以降のPC市場では、OSはマイクロソフトのウイ
  ンドウズ、CPUはインテルのセレロンやペンティアム系列
  の製品がデファクトスタンダードになってきた。そのため、
  PC市場のさまざまな面でこの2社は強大な影響力を保持し
  てきているため、この体制を指してしばしば「ウィンテル」
  と呼ばれる。ただし昨今では、CPUでは米AMDのアスロ
  ンなどインテル互換製品の勢力が伸ばしており、他方OSに
  においてもオープンソースのリナックスが注目され、インテ
  ルがサーバー向けCPUでリナックス・サポートを進めるな
  どしており、マイクロソフトとインテル社の関係は必ずしも
  一枚岩とは言えない。       ――IT用語辞典より
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年05月08日

クラークとアンドリーセンの出会い(EJ第2074号)

 米カルフォルニア州のマウンテン・ビュー市――今をときめく
グーグルの本社のある場所です。ここで、マーク・アンドリーセ
ンとジム・クラークは運命的な出会いをすることになります。
 ジム・クラークという人物について、ロバート・リードは次の
ように紹介しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ジム・クラークは、マウンテン・ビューの東側の埋め立て地近
 くに本社を置く野心的なハイテク企業のひとつ、シリコン・グ
 ラフィックス(SGI)の創業者で、頭が切れて行動力があり
 きわめて率直にものをいう人物だ。
            ――ロバート・リード著/山崎洋一訳
   『インターネット激動の1000日』上巻 日経BP社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 ジム・クラークは、高校を卒業すると海軍に入り、海軍の支援
と自らの努力で大学に進学しています。そして、1974年にユ
タ大学でコンピュータ科学の博士号をとったのです。
 それから何年かは、クラークはカルフォルニア大学のロサンゼ
ンルス校、続いてスタンフォード大学で助教授として教鞭をとっ
ています。専門は3Dのビジュアライゼーションとコンピュータ
・グラフィックスだったのです。当時の最先端の技術です。
 しかし、クラークは学者の生活には合わなかったとして後年次
のように語っています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 私はビジネスの尺度が好きなんだ。それは金だ。全く単純なん
 だ。金は儲けるか、儲けないかの2つに1つしかない。大学の
 尺度は学内政治だ。          ――ジム・クラーク
    ――脇英世著、『インターネットを創った人たち』より
                         青土社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 1981年にクラークは「機は熟した」として、数人の優秀な
大学院生を雇って会社を創業したのです。それがシリコン・グラ
フィックス(SGI)なのです。
 SGIは、高級品市場を支配し、企業として大成功を収めたの
です。SGIの名前を世界的に有名にしたのは映画『ジュラシッ
ク・パーク』のCGによる恐竜たちです。しかし、その頂点でク
ラークはマイクロソフトをはじめとするPC業界の動きを見て、
何かが違うと感じていたのです。自らのリーダーシップでそれま
で導いてきたSGIの高級PC戦略――ワークステーションでは
なく、今後は高機能にして小型で低価格なPCが必要ではないか
と考えはじめていたのです。
 しかし、早くから実務から退いていたクラークは、SGIの幹
部を説得してその方向に持って行くことができなかったのです。
それはSGIにとって180度転換を意味していたからです。そ
ういう経緯で、クラークはSGIを辞めて新しい事業をはじめよ
うと考えたのです。そして、何をするのかをはっきり決めないま
ま、1994年1月にSGIを辞めたのです。
 クラークが会社を辞める日、彼はSGIで最も信頼していたビ
ル・フォスという部下を部屋に呼んだのです。そして、誰か優秀
な技術者はいないかと聞いたのです。クラークが知ってる優秀な
技術者はすべてSGIに入れてしまっていたからです。
 そのときフォスの頭に浮んだのが、あのマーク・アンドリーセ
ンだったのです。直接会ったことはなかったのですが、彼がNC
SAを辞めて、マウンテン・ビューにきていることを知っていた
からです。フォスは早速アンドリーセンの電話番号とメールアド
レスを調べて、メモをクラークに渡し、優秀な技術者だから会っ
てみてはどうかと勧めたのです。
 フォスは、PCにモザイクをダウンロードして立ち上げ、ネッ
トに接続し、マウスをクラークに託したのです。クラークはこの
ときはじめてWWWを見たのです。クラークは身を乗り出し、目
を細めて画面を見つめたのです。そして「うーん、これは・・・
凄い」と唸るクラークの声を後にフォスはクラークの部屋を辞去
したのです。
 1994年2月、ジム・クラークはアンドリーセンに対して後
に有名になる次の電子メールを送るのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 マーク:
 ご存じないかもしれませんが、私はSGIの創業者で前会長で
 す。最近の報道でご覧になっているかと思いますが、私はSG
 Iを去りました。私は新しい会社を計画しています。ご一緒に
 やれる可能性を議論したいと思います。 ――ジム・クラーク
―――――――――――――――――――――――――――――
 10分後にアンドリーセンからの次の短い返事がきたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ジム:
 もちろんです。どこでお会いしましょうか?
                ――マーク・アンドリーセン
―――――――――――――――――――――――――――――
 クラークとアンドリーセンは、翌朝午前7時30分にパロアル
トのカフェ・ベローチで会ったのです。話し合いは成功で、2人
は新会社の設立で協力し合うことになったのです。
 クラークは、新事業の計画を話し合う非公式プロジェクト――
SGIのメンバーがほとんど――にアンドリーセンを参加させ、
討議を重ねています。その中には、あのフォスもいたのです。
 そのときプロジェクトのメンバーは、インターネットのもたら
す市場が尋常なものではないことはわかっていたが、「インター
ネットでは誰も金儲けできない」というそのときの常識をどのよ
うにして超えるかが話題となったのです。クラークはメンバーの
発言に熱心に耳を傾けていたといいます。そして、クラークは最
終的に決断します。「何はともあれ、WWWをやろう」と。方針
は決まったのです。   
―― [インターネットの歴史 Part2/40]


≪画像および関連情報≫
 ・映画版『ジュラシック・パーク』について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  マイケル・クライトンによる小説はスティーブン・スピルバ
  ーグにより1993年に映画化された。米国をはじめ日本な
  ど世界各地でヒットし、以降、恐竜を扱った映画の代名詞と
  も言える存在感を持つことになる。この映画で活発的な恐竜
  というイメージが一般にも急速に普及し、定着していくこと
  になる。              ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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posted by 平野 浩 at 06:21| Comment(0) | TrackBack(0) | インターネットの歴史 Part2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月09日

モザイク・コミュニケーションズ社設立(EJ第2075号)

 ビル・フォスは、非公式のプロジェクトに参加したアンドリー
センの印象を次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここの企業文化について何も知らない22、3の世慣れない子
 供で、なんとネクタイをしていた。なにを言ったらいいのかわ
 からず、じっと座っておとなしくしていた。――ビル・フォス
            ――ロバート・リード著/山崎洋一訳
   『インターネット激動の1000日』上巻 日経BP社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで面白いのは「なんとネクタイをしていた」という部分で
す。実はSGIでは、ネクタイを締めることは相手に対して失礼
になるというしきたりがあったようです。アンドリーセンはそん
なことは露知らず、偉い人に会うのだからと、わざわざネクタイ
をして出席したのです。緊張していたのでしょう。
 しかし、クラークは、モザイクについて話すアンドリーセンの
ことばに耳を傾け、「WWWをやろう」と決断したのです。正直
いって、どうすれば金を儲けられるのかわからなかったのですが
とにかく資金を出し、それから儲ける方法を考えようということ
になったのです。そして、クラークはそれがやれる技術者を集め
てくれとアンドリーセンに指示したのです。
 アンドリーセンは、NCSAの仲間に「自分とジム・クラーク
が行くから、荷物をまとめておくように」という趣旨のメールを
出したのです。NCSAの仲間は、モザイク・プロジェクトをア
ンドリーセンから引き継いだ大学の上層部に失望しており、アン
ドリーセンからのメールに大きな期待を抱いたのは当然です。
 1994年3月末に、クラークとアンドリーセンは、イリノイ
州に飛んだのです。NCSAでモザイク開発に携わった仲間のほ
とんどは、ユニバーシティ・インというホテルに集結していたの
です。クラークは、その全員と30分ずつ面接を行い、結局全員
を採用――つまり、NCSAから引き抜いたのです。
 エリック・ビーナ、ロブ・マックール、ジョン・ミッテルハウ
ザー、アレックス・トーティック、クリス・フークの5人です。
そして、カンザス大学出身でNCSAの同調者となったルー・モ
ンチェリも採用されたのです。全員条件は同じで、提示された条
件は、給与とストック・オプションと合わせると、かなり良い条
件だったといいます。
 1994年4月4日、モザイク・コミュニケーションズ・コー
ポレーションが設立されたのです。原資はクラークの400万ド
ル、クラークは会長になり、アンドリーセンは技術担当副社長に
就任します。新事業名は「モザイク・キラー」――モザイクを開
発した手法を使わず、モザイクを超える機能を持つウェブ・ブラ
ウザとウェブ・サーバーの両方を作り直すことです。会社はマウ
ンテン・ビューの中心街のカストロ街に置かれたのです。
 モザイク・コミュニケーションズが設立された翌日、世界最強
のソフトウェア会社であるマイクロソフトの経営陣が、社外の保
養地に集まり、インターネット関連事業に関する会議を開いてい
るのです。そのとき、資料として使われたのが、EJ第2073
号で述べたネイサン・ミアベルトのリポートであったと思われる
のです。しかし、その頃マイクロソフト社はインターネットに対
しては依然として懐疑的であったのです。
 開発部隊を担当する管理者は、SGIからの移籍者であったの
です。クラークからは声をかけなかったものの、クラークを慕う
SGIの社員は続々と自分の意思で移籍してきたのです。あのビ
ル・フォスも移籍組です。そうしたSGIからの移籍者の中に、
広報担当のロザンヌ・シイノがいたのです。
 その当時モザイク・コミュニケーションズの社員は20人しか
おらず、アンドリーセンとしては、フルタイムの広報担当は不要
と考えていたのですが、クラークはシイノを受け入れたのです。
そういうクラークの期待に応えて、シイノは広報面で大活躍する
ことになります。
 シイノの働きかけによって、1994年7月にフォーチューン
誌は『クールな企業25社』という特集を組み、その冒頭でモザ
イク・コミュニケーションズ社が大きく紹介されたのです。NC
SA出身者のほとんどと、ジム・クラークの写真が大きく掲載さ
れた大特集です。この記事によって無名のモザイク・コミュニケ
ーションズ社は一躍有名になったのです。
 記事が出たことによって会社の知名度が上がり、優秀な技術者
も集まりやすくなり、交渉したい重要人物にも容易に会えるよう
になる−−アンドリーセンは今さらながらクラークの経営手法に
感嘆したのです。
 実はクラークはにフォーチューン誌のような記事を待っていた
のです。彼は、どうしても、ジム・バークスデールという人物に
会う機会を狙っており、そのためには有名雑誌のこういう記事が
欲しかったのです。
 ジム・バークスデールは、タイム誌に「米国のCEOのグルー
プをまとめる少数の企業経営者のひとり」として紹介されるほど
の実力経営者であり、彼に会うにはジム・クラークといえどもそ
う簡単ではなかったのです。
 当時バークスデールは、マッコー・セルラーの社長兼最高責任
者だったのです。しかし、マッコーはAT&Tとの合併を進めて
おり、バークスデールは降りるとクラークは読んでいたのです。
クラークは、バークスデールにモザイク・コミュニケーションズ
のCEOになってもらうことを考えていたのです。
 しかし、バークスデールをCEOとして招聘しようと考えてい
たのはクラークだけではなかったのです。マイクロソフト社のビ
ル・ゲイツもバークスデールの招聘を考えており、行動を起こし
ていたからです。
 その間にも、モザイクに勝るウェブ・プラウザとウェブ・サー
バーは、驚くべきスピードで開発が進められ、公開されるところ
にきていたのです。
―― [インターネットの歴史 Part2/41]


≪画像および関連情報≫
 ・ジム・バークスデールについて/梅田望夫の評論より
  ―――――――――――――――――――――――――――
  フェデラル・エクスプレス社は、日本でいえば佐川急便やヤ
  マト運輸のような宅配業者である。フェデラル・エクスプレ
  ス社は、インターネットがこれだけ騒がれる前から、情報技
  術を駆使して、顧客が配達を依頼した荷物が現在どこまで運
  ばれているのかを瞬時に把握することのできるシステムを開
  発した。顧客はいつでも自分の荷物がどこにあるのかを問い
  合わせることができるようになった。このサービスは顧客満
  足度を高め、企業は大きく成長した。ジム・バークスデール
  は、この新サービスを構想し実現した時のCIO(情報シス
  テム部門責任者)である。ジム・バークスデールは、IT企
  業の典型的な技術志向の経営者ではない。むしろ情報技術は
  道具ととらえ顧客志向を貫くことでの成功体験を持つ希有な
  経営者といった方がいい。そのバークスデールがCEOとな
  ったことで、インターネット世代の旗手・ネットスケープは
  既存産業の莫大な売り上げの中に埋まっている本当の「ゴー
  ルド」を求めて、新しい挑戦を始めたのかもしれない。
   http://www.mochioumeda.com/archive/bpmook/960801.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年05月10日

●ブラウザの価格はどう決められたか(EJ第2076号)

 モザイク・コミュニケーションズ社の経営陣を強化するために
ジム・クラークと協力して動いていたのは、ジョン・ドーアとい
う人物です。ジョン・ドーアは、クライナー・パーキンズ・コー
フィールド&バイヤーズ(KP)という有名なベンチャー・キャ
ピタルです。ドーアとクラークは、クラークのスタンフォード時
代からの知り合いであり、きわめて親しかったのです。
 モザイク・コミュニケーションズ社のCEOとして目をつけて
いたバークスデールにクラークは、ドーアを通じて面会を申し入
れ、シアトルで会うことに成功しています。バークスデールは、
フォーチューン誌の特集を読んでおり、モザイク・コミュニケー
ションズ社には興味を持っていたといいます。
 会談は成功だったのですが、バークスデールは、マッコーとA
T&Tとの合併の決着がつくまでは、新しい事業には加われない
という返事だったのです。しかし、バークスデールの気持ちに大
きな楔を打ち込むことには成功したのです。
 その間開発の方は不眠不休で急ピッチで進行していたのです。
マック版、ウインドウズ版、UNIX版のブラウザが同時に制作
されていたのです。とくに「モザイク・キラー」と名付けていた
ように、モザイクをはるかに凌駕することに重点が置かれていた
のです。制作の様子をロバート・リードの著書からひろってみる
ことにします。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ソフトの性能を試すため、インターネット中からウェブ・ペー
 ジを呼びだし、ストップ・ウォッチで読み込むのにかかる時間
 を測った。各チーム同士で、またNCSAのモザイクと競争し
 ていたが、NCSAにははやい時点から圧勝していた。
            ――ロバート・リード著/山崎洋一訳
   『インターネット激動の1000日』上巻 日経BP社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 1994年の秋にドーアの紹介で、マイク・ホーマーがマーケ
ティング担当の副社長として入社し、早速価格設定に取り組んだ
のです。ホーマーはアップル社で9年間もマーケティングの仕事
をしてきたベテランです。
 マイク・ホーマーは、2つのサーバー製品とブラウザの価格を
次のように提案したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 基本サーバー/コミュニケーションズ・サーバー
            ・・・・・・・・・ 1500ドル
 上級サーバー/コマース・サーバー
            ・・・・・・・・・ 5000ドル
 ブラウザ       ・・・・・・・・・   39ドル
―――――――――――――――――――――――――――――
 基本サーバーと上級サーバーの違いは、上級サーバーについて
は、同社独自のセキュア・ソケット・レイヤー(SSL)技術に
よって暗号化できる点です。これによって、消費者がクレジット
カードの番号などを安全に送れるのです。
 価格設定で難しいことは、サーバー、ブラウザともにCERN
やNCSAが無料で提供していたことです。とくに難しいのは、
ブラウザの価格です。ブラウザについてアンドリーセンは、つね
日頃からマイクロソフトのOS戦略になぞらえて、次のように考
えていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 すべての製品の成功のカギは、ナビゲーター(ブラウザ)を広
 めることにあるとわかっていたからだ。それが、会社に勢いを
 つける方法だった。ナビゲーターは、事業の幅広いプラット・
 フォームになるからだ。それがマイクロソフトの教訓だ。基本
 製品が広く普及すれば、さまざまなオプションを提供し、そこ
 からさまざまな方法で利益が得られる。普及した製品自体も利
 益になるが、そこから派生した製品も利益になる。重要な教訓
 のひとつは、現在の市場シェアが将来の売り上げであり、いま
 市場シェアを獲得しなければ、将来売り上げを得られないこと
 だ。もうひとつ重要な教訓は、数を制したものが最後に勝つこ
 とだ。これは、はっきりしている。   ――アンドリーセン
            ――ロバート・リード著/山崎洋一訳
   『インターネット激動の1000日』上巻 日経BP社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 こういう考え方を持つアンドリーセンとしては、何としてもブ
ラウザは普及させて圧倒的な市場シェアを取る必要があったので
す。そのためには、競争相手が無料で提供しているのに代金をと
るのでは勝負にならない――といっても、一度無料にしてしまう
と、後から有料にできないのです。結局、マーケティング担当の
ホーマーがたどりついたのは「無料だが有料」というヘンな結論
だったのです。
 当初個人として使うときは無料だが、営利目的で使うときは有
料という案が出されたのですが、不明確な部分が多すぎるとして
結局、ブラウザについては、学生や教育者向けは無料、他のユー
ザは有料にしたのです。
 しかし、無料で使う余地を残したのです。例えば、ベーター版
(完成前のテスト版)は誰でも無料で入手できるようにし、製品
購入のケースでも90日間の試用期間を設けて、事実上無料でも
使えるようにしたのです。90日過ぎてもプロテクトをかけない
で使えるようにしたのです。しかし、企業として導入するような
場合は、もちろん有料という措置をとったのです。これが「無料
だが有料」というコンセプトです。
 このようにして、1994年10月には収益モデルは確定し、
ブラウザの最初のベータ版をWWWで公開する準備がすべて整っ
たのです。しかし、そういうモザイク・コミュニケーションズ社
に対して、イリノイ大学のNCSAとスパイグラス社が、やっか
いなことをいってきたのです。これについては、明日のEJでお
話しします。  ―― [インターネットの歴史 Part2/42]


≪画像および関連情報≫
 ・ベーター版について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ソフトウェアの開発途上版のこと。特に、製品版――無償ソ
  フトウェアの場合は正式配布版の直前段階の評価版として関
  係者や重要顧客などに配布され、性能や機能、使い勝手など
  を評価される版を言う。ベータ版は他の開発途上版と比べて
  重点的にバグ――プログラムの誤り――を解消しており、正
  式版の機能を一通り備えた完成品に近い状態だが、バグがあ
  ったりシステムに影響を与える場合があるため扱いには注意
  が必要である。また、一定期間が過ぎると使えなくなるベー
  タ版もある。             ――IT用語辞典
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年05月11日

●社名変更はどうして行なわれたか(EJ第2077号)

 モザイク・コミュニケーションズ社のブラウザの名前は「モザ
イク・ナビゲーター」に決定したのです。しかし、インターネッ
トで公開される準備が整ったまさに直前になって、イリノイ大学
から「待った」がかかったのです。
 イリノイ大学は、弁護士を立てて「モザイク・ナビゲーター」
について、次のように要求してきたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 モザイク・コミュニケーションズ社のブラウザはNCSAの知
 的所有権を侵害しており、ブラウザ1本について50セントの
 ロイヤリティの支払いを要求する。    ――イリノイ大学
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、これに対してクラークは次のように一蹴し、1994
年10月13日にナビゲーターは、インターネットで公開された
のです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 学生の頭のなかにあるもの以外、なにも大学から持ち出してい
 ない。第一、大学の目的は、学生の頭のなかに知識を詰め込む
 ことだ。               ――ジム・クラーク
            ――ロバート・リード著/山崎洋一訳
   『インターネット激動の1000日』上巻 日経BP社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 その時点でのナビゲーターの競争相手は、イリノイ大学からマ
スター・ライセンスを受けたスパイグラス社自身の開発したブラ
ウザとスパイグラス社からサブライセンスを受けたスプライ、カ
ドラリー、DEC、IBMなどの改良ブラウザぐらいのものであ
り、最初から「モザイク・キラー」を目指していたナビゲーター
の相手ではなかったのです。
 重要なのは、この時点で最大の競争相手になるはずのマイクロ
ソフト社はまだ動いていなかったのです。そのときクラークが密
かに恐れたのは、マイクロソフト社がスパイグラス社につくこと
だったのです。既にEJ第2062号で述べているように、マイ
クロソフト社は実際にスパイグラス社と交渉しているのです。
 そこで老獪なクラークは、マイクロソフト社と会ってナビゲー
ターのライセンスを買い取る意思があるかどうか打診しているの
です。もちろん売却するつもりなどなく、マイクロソフト社の意
思を探るためです。
 しかし、マイクロソフト社はごくわずかな一時払いのライセン
ス料しか払う意思がないことがわかったので、すぐ手を引いたの
です。それよりもマイクロソフト社のブラウザに対する熱意のな
さを感じたので、クラークは安心したのです。
 この間、ナビゲーターのダウンロードの勢いは物凄く、破竹の
快進撃を続けて、瞬く間に全世界のインターネット用ブラウザ市
場の85%を制してしまったのです。この事態を見てさすがのマ
イクロソフト社は目を覚ましたのです。
 スパイグラス社のダグラス・コルベス社長は、ウォール・スト
リート・ジャーナル紙に対して、次の主張をしたのです。タイト
ルは「開発はクリーン・ルームで行われなかった」というもので
あったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 クラークの技術者が新しいブラウザを開発したときにNCSA
 のコードに関する知識を完全に切り離していなかった。
             ――ロバート・リードの前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 これに対して、クラークは、コードを調べて2つのブラウザが
別のソフトであるかどうかを検証しようと提案したのですが、イ
リノイ大学もスパイグラス社も頑なに拒否したのです。
 加えて、イリノイ大学は、社名の変更とソフトをインターネッ
トでダウンロードできないようにせよと要求してきたのです。こ
れに対して、クラークは次のように返答しているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 社名は変更する。しかし、コードの開発コストを支払ったのは
 わたしだ。どうするかはわたしの勝手だ。とやかくいわれる筋
 合いはない。             ――ジム・クラーク
             ――ロバート・リードの前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 このような経緯でモザイク・コミュニケーションズ社は、ネッ
トスケープ・コミュニケーションズ社になったのです。この社名
変更は、同社にとって、商品名の関係からいってもかえって良い
結果を生んだのです。
 しかし、クラークたち経営陣にとって、イリノイ大学とスパイ
グラス社との争いは神経を疲弊させ、経営に専心できなかったこ
とは、ネットスケープ社にとって大きなマイナスだったのです。
そして、遂に1994年12月21日にイリノイ大学と合意がで
きたのです。クラークは、大学がこれまで使った訴訟費用をすべ
て持つということで手打ちをしたのです。和解金は約200万ド
ルであったというのです。
 そのときクラークは、ネットスケープの株式で支払ってもいい
と大学側に提案したのですが、大学側はあくまで現金を要求した
といいます。10ヵ月後に大学が見向きもしなかったネットスケ
ープの株式は、1700万以上に達したのです。
 結局イリノイ大学は、アンドリーセンたちが開発したモザイク
の価値を最初から最後まで何も生かせず、不名誉な訴訟の記録を
残しただけで終わってしまったのです。
 1994年12月15日、最初にネットスケープ・ナビゲータ
ーの正式版がリリースされたのです。このときはクラークとKP
のジョン・ドーアが用意した経営資金1300万ドルが100万
ドルしか残っていなかったのです。しかし、正規版の売り上げで
少しは取り返すことができたのですが、クラークとしては、その
ときは事業がその先どのように展開するのか見えていなかったの
です。     ―― [インターネットの歴史 Part2/43]


≪画像および関連情報≫
 ・ブラウザ(英語: browser)とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ブラウザとは、コンピュータ上の情報を一定の目的に沿って
  表示し閲覧に供するソフトウェア一般を指す語。ブラウザを
  利用し情報を閲覧することをブラウジング、ブラウズする、
  のように言う。原義は興味のあるものを流し読みすること、
  草食動物が植物の特定の部分を選択的に食べること。ブラウ
  ジングのことを「拾い読み調査」と言うこともある。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年05月14日

●ネットスケープ株式公開に踏み切る(EJ第2078号)

 このテーマのタイトルは、「日本におけるインターネットの歴
史」ということになっています。しかし、このところ日本の話は
ほとんど出てきていません。というより、1994年以降、イン
ターネットに関する日本の目立った話はほとんどないといってよ
いからです。そういうわけで、ネットスケープ・コミュニケーシ
ョン社のその後について書くことにします。
 クラークは、イリノイ大学の紛争を片付けると、バークスデー
ルに連絡を取り、早くCEOを引き受けて欲しいと懇願したので
す。1994年のクリスマス休暇のときの話です。そして、19
95年1月、クラークの要請を受けてバークスデールは、ネット
スケープ社の経営を引き受けることになったのです。
 バークスデールがCEOに就任すると、ナビゲータは急速な普
及をはじめたのです。かつてのモザイクのユーザーは、1994
年4月の会社設立時には約100万人でしたが、10月にモザイ
ク・ネットスケープをリリースしたときには倍増し、200万人
を超えていたのです。この200万人のユーザーは、ごく短期間
でネットケープ・ナビゲータのユーザーに変わり、次の年の夏に
は1000万人を超えていたのです。
 北米のインターネット・バックボーンの統計によると、インタ
ーネット・バックボーンのトラフィック(ネットワークを流れる
情報量)におけるWWWの順位は、クラークとアンドリーセンが
はじめて会ったときの第11位から、ベーター版ブラウザが公開
された1994年10月には第5位、そして、ナビゲータの正規
版が発売された12月には2位となり、翌年にこのバックボーン
が廃止される4月には1位になっていたのです。
 このときバックボーンのトラフィックにWWWが占めた比率は
21.4%であり、WWWのトラフィックはたったの2年間で、
20年以上も前からあったネットワークの頂点に立ったことにな
るのです。驚くべきWWWの急速な普及度といえます。
 ここでバークスデールがネットスケープのCEOになった意義
を考えてみる必要があります。そのとき、ジム・バークスデール
は53歳、一体彼はどういう経営者だったのでしょうか。
 バークスデールといえば、情報技術を駆使した斬新な手法で、
あのフェデラル・エクスプレス社を大きく成長させた実績を持つ
経営者なのです。
 フェデラル・エクスプレス社は、日本でいうと、佐川急便やヤ
マト運輸のような宅配業者ですが、バークスデールはそのフェデ
ラル・エクスプレス社のCIO(チーフ・インフォメーション・
オフィサー/情報システム部門担当役員)だったのです。
 バークスデールは、インターネットが一般的に普及する前から
そういう情報技術を駆使して、顧客が配達を依頼した荷物が現在
どこまで運ばれているかを瞬時に把握するシステムを開発し、こ
れによって同社の顧客満足度を飛躍的に向上させたのです。
 具体的にいうと、フェデラル・エクスプレス社は、ユーザー・
インターフェイス・サイトを立ち上げているのです。このサイト
は、今でいえば単なるウェブサイトに過ぎませんが、当時は非常
に珍しかったのです。
 荷物の配達をフェデラル・エクスプレス社に依頼した顧客がこ
のサイトに接続し、「航空貨物運送状番号/荷物の識別番号」を
入力すると、荷物の輸送状況と現在地の詳しい記録を受信できる
仕組みなのです。この方がフリーダイヤルで問い合わせをするよ
りもはるかに短時間で情報が得られたのです。
 つまり、バークスデールは、世界中の人々がWWWそのものに
好奇の視線を向けはじめた時点で、既にそれを経営の道具として
応用するというすぐれた才能を発揮していたのです。そういう人
物がネットスケープのCEOに就任したのですから、世界中が注
目したのは当然のことです。
 1995年の春から夏にかけて、続々と登場したWWW関連新
技術の中で、とくにWWWの普及に貢献したのは「ジャバ」と呼
ばれる技術です。これについては、その後のWWWの世界の拡大
に大きな影響を持つので、改めて述べることにします。
 1995年の夏の時点でネットスケープ社は、ナビゲータの普
及と同じペースで拡大し、成熟度を増していたのです。社員は既
に数百人に達し、ユーザは約1000万人を超え、製品の数も急
増していたのです。
 事業資金を支援しているジョン・ドーアは、クラークと話し合
い、今こそ株式公開のチャンスだいうことで意見の一致をみたの
です。ネットスケープ社と似たようなことをやっているスパイグ
ラス社が株式公開を申請していることがわかったので、今株式公
開を申請すればマーケティングの面で有利と判断したのです。
 1995年8月9日、株式公開の日、株式公開価格は28ドル
時価総額は10億ドルあまりだったのです。これは、最初の製品
を発売(1994年12月)してから、8ヶ月足らずで、設立以
来の総売上高が約1700万ドル、累積損失が約1300万ドル
の新会社としては、なかなかよい金額だったのです。
 この8月9日の朝について、ロバート・リードは次のように書
いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 6時半にニューヨークで取引開始ベルが鳴ったが、しばらくな
 にも起きなかった。10分がすぎた。30分、1時間、そして
 1時間半がすぎた。市場は活気づき、数百万の株式が取引され
 ていたが、ネットスケープ株は1株も動かなかった。なにがど
 うなっているのか、誰にもわからなかった。そしてついに8時
 をまわったとき、動いた。最初の取引は71ドルで成立した。
 株価は74.75ドルまで上がったところで、利食い売りが出
 て下落に転じた。しかし、終値の58.25ドルでも、公開価
 格から100%以上上昇したことになる。
            ――ロバート・リード著/山崎洋一訳
   『インターネット激動の1000日』上巻 日経BP社刊
―――――――    
―― [インターネットの歴史 Part2/44]


≪画像および関連情報≫
 ・フェデラル.エクスプレス社について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  フェデラル.エクスプレス社は、航空貨物の世界トップ企業
  で、1989年に米フライングタイガーを買収して世界最大
  の航空貨物会社となりました。「安くて速いサービス」をモ
  ットーにして路線拡大しています。日本にも1984年8月
  に進出しています。フェデラル.エクスプレス社.ジャパン
  の従業員数は現在800人を越えています。成田空港では自
  社で通関可能な体制を整えてきており、1993年からは首
  都圏のほか大阪、兵庫、京都、愛知の主要都市から米国、ア
  ジア各国への翌日配達サービスを開始しています。
   http://www.gameou.com/~rendaico/nuskinco_keieiron.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年05月15日

●かすむ封建地主階級のOSの王様(EJ第2079号)

 ジェリー・ガルシアという米国のミュージシャンがいます。グ
レイトフル・デッドというロック・バンドを率い、むさ苦しい風
貌とは裏腹に、自由と愛と平和に溢れたメッセージを送り続けた
バンドであり、ヒッピー・ムーヴメントの背景の中、彼らに共感
する熱心なファンを拡大したのです。
 そのガルシアは、53歳の若さで急逝したのですが、その亡く
なった日はなんと1995年8月9日――ネットスケープ社が株
式を公開した日だったのです。
 そのことから、ガルシアの最後の言葉は、次のように伝えられ
ています。多分よくできたウソだとは思いますけど・・・。
―――――――――――――――――――――――――――――
       ネットスケープの寄り付きは?
―――――――――――――――――――――――――――――
 ちなみに「寄り付き」とは、株式市場において最初に成立する
売買のことをいうのです。この瞬間にNCSA以来の若い技術者
は大変な大金持ちになったのです。
 そのとき、ネットスケープ社は、イースト・ミドルフィールド
街501番地に移転していたのですが、街を上げて株式公開を祝
う盛大なイベントが行われたりして、ネットスケープという名の
インターネット企業――というより、そういう企業を生み出した
インターネットという世界に注目が集まったのです。
 しかし、マスコミの一部には、ネットスケープ社の時価総額は
常識外れであり、同社をして「億万長者になった子供の集まりで
ある」ときめつけるところもあったのです。確かに株式公開以来
ネットスケープ社の社内では仕事中に株価の話をする社員が多く
なり、CEOのバークスデールは、その禁止令を出さなければな
らなかったほどだったといわれます。
 一方、アンドリーセンは、金銭には無頓着であり、個人的な財
産のことはいっさい口にしなかったといいます。そんなことより
アンドリーセンの頭のレーダーは、少しずつ動き出しているマイ
クロソフト社をとらえていたのです。
 ネットスケープ社の株式公開の数週間後に以前から予定されて
いた新しいOS「ウインドウズ95」がリリースされ、同時に、
ウェブ・ブラウザ「インターネット・エクスプローラ――IE」
も公開されたのです。IEは、スパイグラス社のライセンスによ
るNCSA系のコードがベースとなっていたのです。
 そのとき、ナビゲータのプロダクト・マネージャはアレックス
・エーデルシュタインという人物ですが、彼はマイクロソフト社
に長年つとめた後、ネットスケープ社に移ってきたのです。
 エーデルシュタインは、ナビゲータとIEでは機能的にはぜん
ぜん問題にならないものの、ひとつだけ気になったことがあった
のです。それは「価格」です。そのとき、IEはいくつかのオマ
ケソフトと一緒にOSに無料で付いていたからです。
 これに対してナビゲータは一応有料のソフトであり、ウインド
ウズ95搭載のPCを購入したユーザは、ナビゲータを使うため
にはOSに付いている無料のIEを削除して、有料のナビゲータ
をインストールするという面倒ことをやる必要があったのです。
そんなことは最初から不可能であることが予想できたのです。
 その間にもネットスケープ社の売上高は順調に伸び、1995
年の第3・四半期には売上高は2000万ドルを超え、はじめて
黒字になったのです。そして、第4・四半期の売上高は4000
万ドル以上になり、ソフト業界史上、もっとも急成長を遂げた企
業として記録されることになったのです。
 この頃になると、当初の批判的、懐疑的トーンであったマスコ
ミは、ネットスケープとインターネットの優れた威力を絶賛する
トーンに変わっていったのです。そして、マーク・アンドリーセ
ンを第2のビル・ゲイツと呼び、PC業界の封建地主階級である
「OSの王様」はインターネットのはかり知れない規模のまえに
は、かすんでいくと、あからさまにマイクロソフトを皮肉る論調
の記事が多くなっていったのです。
 そのとき、アンドリーセンが確実に迫ってくるマイクロソフト
社の追撃をかわすために力を注いでいたのは、ナビゲータ2.0
だったのです。ナビゲータ2.0は1995年にベータ版、19
96年1月に正規版がリリースされたのですが、そこには驚くべ
き機能が組み込まれていたのです。それは次の2つです。
―――――――――――――――――――――――――――――
          1.プラグインAPI
          2.ジャバ/JAVA
―――――――――――――――――――――――――――――
 「プラグインAPI」とは、簡単な操作でナビゲータの機能を
拡張できるようにするためのインフラのことです。これによって
ナビゲータを使って3Dモデルを回転させたり、3Dシーンのな
かを移動したり、できるようになったのです。
 それでは、「ジャバ/JAVA」とは何でしょうか。
 JAVAは、サン・マイクロシステムズ社が大変なお金と人を
使って開発した技術であり、これによって、ウェブサイトを単な
る静止画面から動きのある画面に変化させたといえるのです。
 実はネットスケープ社は、1995年3月にナビゲータ2.0
にJAVA機能を統合することをサンと合意していたのです。し
かし、IE1.0には、プラグインAPIも、JAVAも入って
いなかったのです。
 ここにきて、巨人マイクロソフトの遅れは明確になり、ゴール
ドマン・サックスの有力なアナリストは、魅力的なインターネッ
トの戦略がないことを理由に、同社の推奨リストからマイクロソ
フト株を外したのです。そのためマイクロソフト株は売られ、時
価総額が7%――25億ドルも下落したのです。
 JAVAがどのように開発され、インターネットにどのように
組み込まれるようになったかについては知っておいても損のない
話だと思うので、明日のEJから、しばらくご紹介することにし
ます。     ―― [インターネットの歴史 Part2/45]


≪画像および関連情報≫
 ・サン・マイクロシステムズ社について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  サンの名前はStanford University Network の頭文字SUN
  から来ており、スタンフォード大学で校内のネットワーク用
  のワークステーションを独自に開発したアンディ・ベクトル
  シャイムが、スコット・マクネリ、ビノッド・コースラらと
  ともに会社を創立したのが始まり。創立に際してカルフォル
  ニア大学バークレー校でBSD・UNIXを開発していたビ
  ル・ジョイを創立メンバーに招いた。創立した1982年か
  ら数年で世界企業へと成長した。   ――ウィキぺディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年05月16日

●スコット・マクニーリの決断(EJ第2080号)

 JAVAは、サン・マイクロシステムズで赤字を垂れ流してい
たあるプロジェクトが開発していた無名のコンピュータ言語だっ
たのですが、それをネットスケープ社のナビゲータに結びつけ、
世界中で脚光を浴びるまでに育て上げた功績者として、次の4人
を上げることができます。
―――――――――――――――――――――――――――――
           キム・ポレーゼー
           アーサー・バン・オフ
           サミ・シャイオ
           ジョナサン・ペイン
―――――――――――――――――――――――――――――
 これらの4人は、1996年1月にサンから独立して、ポレー
ゼーをCEOとする「マリンバ」という会社を設立しているので
す。ポレーゼー以外の3人は、サンにおいて長くJAVAの開発
に携わってきた10数名のメンバーの主要な3人なのです。
 これに対してポレーゼーは、1995年の春以降、JAVAの
マーケティングを担当しており、それをネットスケープ社に採択
させるのに力を発揮したのです。彼女は、JAVAについて顧客
にわかりやすく説明し、相手にその素晴らしさを理解させるのに
優れた才能を持っていたのです。
 ポレーゼーは、地元のカルフォルニア州立大学バークレー校を
卒業し、さらにコンピュータを勉強するために、シアトルのワシ
ントン大学コンピュータ科学学部に入学しています。1年間勉強
して、カルフォルニアに帰り、マウンテンビューのインテリコー
プという企業に就職します。1985年のことです。
 インテリコープは、AI(人工知能)に特化した企業だったの
ですが、当時はAIの最盛期であり、財源豊かな企業をいくつも
抱えていて、会社自体は潤っていたのです。しかし、企業という
よりも、研究のための研究をしているところがあり、ポレーゼー
は自分には合わないと考えて、サンに移ったのです。
 サンにおいてポレーゼーは技術サポート部門に配属されたので
すが、マーケティング部門に空きがあると聞いたので、そちらに
移ったのです。具体的な仕事は、プロダクト・マネージャ――製
品の運命に大きな責任を持つ仕事であり、自らの創造力を発揮で
きる仕事だと感じたからです。
 そういうわけで、ポレーゼーはサンのC++開発ツールのプロ
ダクト・マネージャになったのです。C++はオブジェクト指向
の言語で、非常に注目を集めている分野だったのです。そして彼
女は、プロダクト・マネージャの仕事をしながら、自分の会社を
持ちたいと思うようになったのです。
 そのように考えはじめたときに、ポレーゼーは「オーク」――
後のJAVAに出会うのです。パトリック・ノートンからそれを
聞いたのです。ノートンに会ったのには、モンタレーで行われた
経営者会議の席上だったのです。
 経営者会議は、副社長や取締役だけしか参加できないのですが
ポレーゼーは新しい開発環境である「ヘリックス」の説明とデモ
をするため、特別に参加したのです。もともと彼女は難しい技術
の説明をやさしく明解にできる能力があったのです。
 一方、ノートンは、パロアルトの一等地であるユニバーシティ
街に本社を置くサンの子会社、ファースト・パーソンの幹部なの
です。この会社はサンから特命を受けて高度な技術開発をしてお
り、サンの社員でも上級幹部以外は何をやっているかいっさい秘
密にされていたのです。
 ポレーゼーはたまたまノートンと同じ部屋でデモをやったこと
で親しくなり、話し込むうちにノートンは経営会議でデモをした
コード名「スターセブン」について秘密を打ち明けてくれたので
す。このときポレーゼーはその印象を次のように語っています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 信じられないと思った。そこまで多機能で、小さくてまとまっ
 ていて、優雅で、単純で、マルチスレッドで、無駄がなく、堅
 牢で、安全で、OSに依存しないなんて。そんなの無理にきま
 っていると思った。
            ――ロバート・リード著/山崎洋一訳
   『インターネット激動の1000日』上巻 日経BP社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 「スターセブン」とは何でしょうか。
 これは、理想的なコンピュータ言語「オーク」によって構築さ
れる未来の住宅を制御する装置のプロトタイプモデルなのです。
「オーク」の開発が進んでいることを幹部にデモするために作っ
たものなのです。
 ことの起こりは、ノートンが当時サンのCEOであるスコット
・マクニーリに送ったメールからはじまったのです。ノートンと
マクニーリは、同じホッケーチームに属している仲間であり、知
り合いだったのです。1990年の話です。
 ノートンはマクニーリに「サンを退社する」という挨拶のメー
ルを送ったのです。マクニーリはノートンの能力を買っていたの
で、「どうしてやめるのか、サンの気に入らない点をメールに書
いて送ってくれ」と返信したのです。
 そこで、ノートンは数千語に及ぶメールをCEOに送ったので
す。マクニーリはそれを読んで幹部と協議したのです。その結果
経営陣は、ノートンのように優秀だが経営陣に不満を持つ社員を
安易にやめさせないで、研究が続けられるように支援をする制度
を作ることにしたのです。
 その結果、できたのが「グリーン・チーム」という組織です。
サンの傘下の組織なのですが、そこで何をするかは一切がまかさ
れていて、潤沢な資金が提供されるのです。ポレーゼーがノート
ンに会った当時ノートンが所属していたファースト・パーソンと
いうサンの子会社は、ここでいうグリーン・チームの発展したか
たちなのです。このファースト・パーソンが、あのJAVAを開
発したのです。 ―― [インターネットの歴史 Part2/46]


≪画像および関連情報≫
 ・スコット・マクニーリ/サン会長
  ―――――――――――――――――――――――――――
  現在の私の役割を説明したいと思います。2006年の4月
  に私はCEOから、会長となりました。1984年に就任し
  てから以来、22年もの間CEOだったことになります。今
  はスタッフミーティングやSOX法対応、社員の昇進や昇給
  といったCEOの仕事を全てジョナサンに任せ、だいぶ楽を
  させてもらっています。ジョナサンに頑張ってもらっている
  一方、私は世界中を旅して、パートナーやサプライヤー、各
  国の政府の人々にお会いしています。これは私がジョナサン
  から3つのミッションを与えられているからです。1つは、
  政府関連の仕事を拡大させること。2つめはトップ50のパ
  ートナーのビジネスを成長させること。3つめは日本との関
  係を強化させることです。したがって、今後は以前よりも多
  く来日することになると思います。
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年05月17日

●ゴスリング/オークを開発(EJ第2081号)

 サンが設置した「グリーン・チーム」のなかでとくに目立って
いたのは、ジェームス・ゴスリングという人物です。穏やかな天
才肌の人物ですが、優れた技術力を持っています。彼は高性能の
UNIX対応ウインドウ・ベース・インタフェース「ニュース」
を開発したのですが、サンはそれをうまく事業化できず、失敗に
終わっていたのです。
 ゴスリングは、サンの事業展開のまずさに対して不信感を持ち
グリーン・チームに自ら参加するといい出したのです。サンの最
高技術責任者であるエリック・シュミットは、ゴスリングを辞め
させないようグリーン・チーム入りを許したのです。
 ゴスリングとしては、コンピュータ言語の開発に意欲を燃やし
ていたのです。彼はコンピュータ言語は次の特徴を備えているべ
きであると考えていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1.コンピュータ言語は人間に分かり易いこと
   2.どのような環境でも機械語化ができること
―――――――――――――――――――――――――――――
 少し説明が必要であると思います。コンピュータ言語を使って
プログラムを書くのは人間ですから、そのプログラムのミスを発
見したり、改良したり、追加したりしやすいように人間に分かり
易い必要があります。こういう言語のことを高級言語と呼んでい
ます。これが1の条件です。
 しかし、そのプログラムのままでは、コンピュータは理解でき
ないのです。そのためその高級言語をコンピュータがわかる機械
語に変換しなければなりません。これを「コンパイルする」とい
うのですが、ゴスリングはそのプログラム「コンパイラー」作り
に意欲を持っていたのです。
 ところがこれが簡単ではないのです。コンピュータ言語のコー
ドがプロセッサ――CPUごとに違うからです。ゴスリングはこ
れを解決しようと考えたのです。
 1990年の前半において、コンピュータエンジニアは、双方
向テレビ――インタラクティブTVをはじめとして、家電製品の
使い勝手を上げることに取り組んでいたのです。あのジム・クラ
ークも、アンドリーセンと会社を設立するとき、インタラクティ
ブTVに取り組もうとしていたのです。
 家電製品には不十分ではあるもののCPUが内蔵されているの
ですが、今後それがもっと進化すると考えられていたのです。そ
のため、それを利用してすべての家電をネットワークでつなぐ技
術を開発しようとしていたのです。しかし、それは次のようにそ
う簡単なことではなかったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 (ゴスリングは)C++のコードがプロセッサごとに違う問題
 を解決しようとした。ウインドウズに使われているペンティア
 ム向けにコンパイルしたコードは、マッキントッシュのモトロ
 ーラ製チップでは動かない。マック用にコンパイルされたコー
 ドは、ブラック&デッカーのオープン・トースターでは動かな
 い。どの機械でも(電子カミソリや、電気スイッチ、掃除機な
 どでも)同じように動く高度な移植性をもったソフトウェアの
 開発をめざしているチームにとって、コードがプロセッサによ
 って違うのは、やっかいな問題だった。そこで、ゴスリングが
 この問題に挑戦した。
            ――ロバート・リード著/山崎洋一訳
   『インターネット激動の1000日』上巻 日経BP社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 結局、ゴスリングはこの難問を「仮想マシン(VM)」を開発
することによって解決してしまいます。10種類程度のOSに対
応したVMを用意することによって、どんなプログラムもVMが
コンピュータが理解できるものに変換し、どのようなマシンでも
プログラムは動くようになったのです。
 さらにゴスリングらは、この言語にユニークな機能を付け加え
たのです。それは、この言語で記述されたプログラムは、システ
ム自らの判断で、不要になったプログラムを削除する機能をもっ
ているのです。そのため、プログラマはメモリを気にしないでプ
ログラムを書くことができます。これを「ガベージ・コレクショ
ン」といいます。
 ゴスリングは、このコンピュータ言語の名前を決めるとき、た
またま目に入った窓の外の大きな樫の木にちなんで「オーク」と
名付けたのです。
 しかし、どんな凄いコンピュータ言語であっても、CEOや役
員に対しては、何らかのかたちにして見せる必要があるのです。
 1992年8月のことです。ゴスリングたちは「オーク」を利
用して、タッチスクリーンでテレビ、ビデオを集中的に操作でき
るシステムを開発し、それをノートンがスコット・マクニーリの
前でデモをしたのです。これが「スターセブン」なのです。
 このスターセブンの命名は、ゴスリングたちがいたオフィスに
おいて、外線電話がかかってきたとき「*7」のキーを押してつ
なぐことにちなんでいるのです。
 しかし、「スターセブン」のような試作品は、家電業界がその
気になって投資しない限り実現しないのです。ところが、この業
界は厳しいコスト競争をしており、コストが上がることを気にす
るのです。そのためなかなか乗ってこなかったのです。
 1993年になって、タイム・ワーナーが興味を示し、ファー
スト・パーソン(グリーン・チームの子会社化)はオークでセッ
ト・トップ・ボックスを作ってタイム・ワーナーに売り込みをか
けたのですが、コストがネックとなって、ジム・クラークが率い
ていたSGIに仕事をとられてしまったのです。
 どうも、このチームはついていないようです。しかし、彼らの
開発した驚くべき技術は、当初彼らが予想もしていなかった分野
で大きく生きることになったのです。これについては、明日お話
しすることにします。
―― [インターネットの歴史 Part2/47]


≪画像および関連情報≫
 ・ジェームス・ゴスリング氏の現況
  ―――――――――――――――――――――――――――
  米サン・マイクロシステムズのバイスプレジデント兼サン・
  フェローのジェームズ・ゴスリング氏は、現在、開発ツール
  部門のCTOという職に就いている。JAVAが普及するこ
  とによって、開発者が切実に求めているのは統合開発環境だ
  ろうIBMが開発の中心を担ったEclipse はオープンソース
  のIDEとして、開発者から圧倒的な支持を受けている。同
  社でもゴスリング氏を旗振り役にして、IDE開発に積極的
  に取り組んでいる。
   http://www.atmarkit.co.jp/news/200402/20/gosling.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年05月18日

●VM−−仮想マシンについて知る(EJ第2082号)

 ファースト・パーソン社のジェームス・ゴスリングらの開発し
た「仮想マシン――ヴァーチャル・マシン/VM」について少し
解説しておくことにします。
 仮に「ジャバ語」という外国語があったとしましょう。そのジ
ャバ語で書かれた重要なメッセージがあるとして、その内容を日
本人と米国人に伝えたいとします。
 この場合、直接日本語や英語に翻訳しないで、その前段階であ
る「共通コード」というものを翻訳するのです。そして、その共
通コードを理解する日本人通訳を日本人に、同じく共通コードを
理解する米国人通訳を米国人にあてがうと、日本人と米国人に同
じメッセージの内容が伝わります。
 さらにこのメッセージを中国人にもイタリア人にも伝えたいの
であれば、共通コードを理解する中国人通訳とイタリア人通訳を
用意すればいいのです。
 実は「オーク」――JAVAは、この考え方を使っています。
それぞれの関係を示すと次のようになります。添付ファイルの図
を見ながらごらんください。
―――――――――――――――――――――――――――――
  ジャバ語のメッセージ ・・・・ JAVAプログラム
  共通コード ・・・・・・・・・ JAVAバイトコード
  共通コードを理解する通訳 ・・ JAVA仮想マシン
  日本人、米国人など ・・・・・ コンピュータ+OS
―――――――――――――――――――――――――――――
 JAVAのプログラムは、JAVAコンパイラによって翻訳さ
れて実行可能なプログラムになるのですが、そのプログラムは、
CPUが直接理解する機械語ではないのです。「JAVAバイト
コード」と呼ばれる特殊なコード(命令)であり、それを解釈し
実行するソフト(実行環境)がJAVA仮想マシン――VMなの
です。つまり、JAVA仮想マシンは、ウインドウズやMACの
OSに対応したものがそれぞれ用意されているのです。
 難しい話はこれで終わりにして話を元に戻します。
 キム・ポレーゼーは、スターセブンのデモで知り合ったパトリ
ック・ノートンとその後も連絡を取るようになり、ノートンが属
していたファースト・パーソン社(グリーン・チームが法人化)
に興味を抱くようになったのです。そして、同社からの打診を受
けて、入社を決意したのです。1993年夏のことです。
 ファースト・パーソン社に入って気がついたことは、同社の雰
囲気は彼女が最初に入社したインテリコープに似ていたのです。
確かに有能なエンジニアが集まって、それぞれ世界を変える製品
を作ろうと日夜がんばっているのです。しかし、それは天才的頭
脳を持つ子どもたちが集まって、おもちゃ箱をひっくり返して何
かをやっている――そんな感じだったのです。
 この頃の米国のベンチャー企業について調べてみると、必ずと
いってよいほどひとつの共通点があったのです。それは双方向テ
レビ――要するに視聴者側もメッセージを発信できるインタラク
ティブ・テレビ――現代のデジタルTV――その開発を目指して
いることだったのです。ファースト・パーソン社もそれを目指し
ていたというわけです。
 ファースト・パーソン社はいくつものプロトタイプを製作し、
スタッフはそのデモのため米国中を飛び回っていたのですが、一
向に売れなかったのです。とくに同社にとってショックだったの
は、タイム・ワーナーの実験用双方向テレビのプロトタイプの受
注競争で、SGI――シリコン・グラフィクス社に負けてしまっ
たことです。今度こそという思いで臨んだ商戦で、SGIにまん
まと油あげをさらわれてしまったのです。
 ポレーゼーがファースト・パーソン社に入社したのはちょうど
その頃なのです。今になってみればわかるように、1993年の
時点で双方向テレビを目指すのは、明らかに時期早尚だったとい
えます。インターネットの方がはるかに可能性があったのです。
しかし、誰もそれに気がついていなかったのです。あのマーク・
アンドリーセンを除いてはです。
 当時ファースト・パーソン社は事業計画について大きな問題点
を抱えていたのです。それは「事業計画そのものが存在しない」
ことだったのです。ポレーゼーがそれを主張したところ、とんで
もない命令がトップから下りてきたのです。「それじゃ、君が事
業計画を作ってくれ」という命令です。
 ポレーゼーは「そんなこと、トップの仕事でしょ!私はプロダ
クト・マネージャなのよ」といいたかったのですが、いっても作
れないと思ったのです。そこで、自らトップになったつもりで事
業計画を作ることにしたのです。
 結局、彼女の作業に協力してくれたのはあのパトリック・ノー
トンだったのです。2人は基本前提を考えてみたのです。「オー
ク」の目指しているのは双方向テレビ用受信機である――これが
できると、コンテンツ、ソフト、電子商取引システムなどの開発
者が大量に双方向テレビを支援するはずという前提に立っている
のですが、肝心の双方向テレビ用受信機はどこにもないのです。
 しかし、その一方においてPCは既に存在し、開発者はPCで
動くソフト開発に全力を注いでいます。加えて、PCは商用オン
ラインサービス――日本のパソコン通信――との結びつきを深め
ようとしていたのです。
 そこまで考えたポレーゼーとノートンは、これから出現する双
方向テレビではなく、既に消費者から受け入れられているPC用
に「オーク」を開発すべきであるという結論に達したのです。
 マルチメディアCD−ROMソフトや、CD−ROMとオンラ
インを活用したアプリケーションにもオークが最適な言語である
――2人はこう考えたのです。
 しかし、ポレーゼーとノートンの提案はなかなか受け入れられ
なかったのです。彼らはPCは過去のものであり、これからは双
方向テレビの時代になるという方向性を頑固に持っていたからな
のです。    ―― [インターネットの歴史 Part2/48]


≪画像および関連情報≫
 ・『インターネット激動の1000日』の書評より
  ―――――――――――――――――――――――――――
  『シリコンバレー・アドベンチャー』の書評時にも書いたが
  日経BP社はこの種のハイテク・ビジネス書を発掘してくる
  のがうまい。インターネットにまつわる企業群の話題など各
  種報道で耳にタコができるほど聞いていたつもりだったが、
  これだけのボリュームの取材は,やはり新たな視点を与えて
  くれる。
  http://www.ritsumei.ac.jp/~hideytam/bookdoc/book3.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年05月21日

●コロラドの竜巻/ビル・ジョイの介入(EJ第2083号)

たのです。ファースト・パーソン社の進むべき道について、ネバ
ダ州タホー湖に幹部が集まって協議を行ったのです。サンの最高
技術責任者、エリック・シュミット、ジェームス・ゴスリング、
パトリック・ノートン、研究部門担当取締役ジョン・ゲージ、そ
れにサンの共同設立者のあのビル・ジョイも加わったのです。
 この会議でオークをインターネットで活用する方向は決まった
と後にゴスリングは回想しています。1994年の半ばに、パト
リック・ノートンは経営陣に加えられたのですが、それと同時に
仕事がなくなってしまったといいます。
 時間ができたノートンは、オークでブラウザを書いてみること
にしたのです。このブラウザは1994年7月にプロトタイプを
完成していますが、最小必要限度のものであり、モザイクに遠く
及ばない代物だったのです。しかし、その後ノートンが作成した
このプロトタイプを土台にして、ジョナサン・ペインがオークに
よる本格的なブラウザを完成することになるのです。
 1994年の夏になると、ファースト・パーソン社のほとんど
のスタッフは、次の2つのグループのどちらに属するか選択を迫
られたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
        1.双方向サービス・グループ
        2.オークを担当するグル−プ
―――――――――――――――――――――――――――――
 ポレーゼーは、何の選択権も与えられないまま、双方向サービ
ス・グループに入れられてしまったのです。これは彼女にとって
はショッキングなことだったのです。しかし、この会社の社員は
みんな好き勝手なことをやっており、会社の決めた組織の通りに
動いていなかったからです。
 そう思い直して、ポレーゼーはオークを担当するグル−プと行
動をともにしていたのです。そうしているうちに誰も何もいわな
くなってしまったのです。ポレーゼーとしては、オークの魅力に
とりつかれて、ファースト・パーソン社に入社したのですから、
何が何でもオークを担当するグル−プと一緒に行動したかったの
です。それにポレーゼーはマーケティングの担当ですが、肝心の
商品がないのですから、もともと仕事がないのです。
 そういうとき、サンの共同設立者であるビル・ジョイが、突然
ファースト・パーソン社に乗り込んできたのです。彼は「コロラ
ドの竜巻」という異名を持っていたのです。なぜ、そういわれる
のかというと、彼はコロラドのアスペンに住んでおり、彼がくる
と周囲の技術者たちに尋常ならざる影響を与えるので、「コロラ
ドの竜巻」と呼ばれていたのです。
 ロバート・リードは、ビル・ジョイを次のように表現していま
す。彼がなぜそう呼ばれるのかわかると思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 JAVAの主要設計者で「彼こそが仮想マシンだ」と同僚に評
 されているティム・リンドホルムはジョイについてこう語る。
 「コンピュータ・オタク(技術者)にとって、ほんとうにこわ
 い相手だ。とてつもなく金を持っているし、信じられないほど
 の力を持っているし、技術にはむちゃくちゃに強いし、犬のよ
 うに働く。創業者なのに、いつまでも他人のコード(プログラ
 ム)を徹夜でチェックする。コードを書いた当人は、朝になっ
 て、間違いを指摘した5ページにもわたる電子メールを受け取
 ることになる。間違っているといわれたら、反論できない。権
 限があるからでなく、ジョイはいつも正しいからだ。干渉され
 ずに好きなことをやりたい人間にとって、ジョイは悪夢だ。と
 てつもなく優秀だし、とてつもなく力を持っている」と。
            ――ロバート・リード著/山崎洋一訳
   『インターネット激動の1000日』上巻 日経BP社刊
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 それでは、ジョイは何の目的でファースト・パーソン社に乗り
込んできたのでしょうか。彼はかなり以前からサンの仕事から一
切手を引いていたはずだからです。
 それは、ジョイがオークに関心があったからです。ジョイは、
つねづね、「C++――/Cプラス・プラス・マイナス・マイナ
ス」というコンピュータ言語の構想を持っていたのですが、それ
がきわめてオークに似ていたからです。しかし、ジョイはオーク
について次のようにいっていたのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 オークはまだまだ未完成だ。もっと完璧にすべきだ。変更しな
 ければならない部分がこんなにある。   −−ビル・ジョイ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 しかし、説得力はあったもののジョイの基準は非常に高く、も
し、それをやればさらに5年はかかりそうだったのです。ゴスリ
ングらにいわせれば、陽のあたらない場所で何年も開発をやって
きて、そろそろ製品を出そうとしているのに、陽のあたる場所か
らいきなりやってきて直せとはどういうことだという心情です。
 会議はアスペンで2日にわたって行われたのです。出席者は、
ビル・ジョイ、パトリック・ノートン、ジェームズ・ゴスリング
ジョン・ゲージの4人だったのです。
 ジョイは、オークは保守的すぎるとして、ゴスリングに対して
大量の変更を求めたのですが、ジェームスは製品化したいと考え
て譲らなかったのです。まさにこの2日間はどなりあいに終始す
る大変な会議となり、結論は出ないで終わったのです。
 しかし、意外なことに、ビル・ジョイはあっさりと身を引いた
のです。ジョイは2日間のどなりあいを通じて、このオークを担
当するグル−プの技術の優秀性を改めて認識し、製品化を急いだ
ほうがよいと判断したからです。
 こうして、オークは製品化に向けて、最後の追い込みに入って
いったのです。ジョナサン・ペインはブラウザの制作に取り組ん
だのです。   ―― [インターネットの歴史 Part2/49]


≪画像および関連情報≫
 ・ビル・ジョイについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ビル・ジョイは、米国のコンピュータ科学/技術者。KPC
  Bパートナー。元サン・マイクロシステムズ社チーフサイエ
  ンティスト。漢字名「美流上位」を持つ親日家でもある。ビ
  ル・ジョイの法則――通信に関する法則というものがある。
  「通信網の費用比性能は1年で倍になる。通信網の性能比費
  用は1年で半分になる。」というもの。
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年05月22日

●無料でオープンの決断/オーク

 ファースト・パーソン社の社内には、Aチーム、Bチームとい
う呼称があったのです。どういうことだと聞くと、表向きはAは
「アーキテクチャ/技術」、Bは「ビジネス」というのですが、
実際はAは正選手、Bは補欠という意味だったのです。とにかく
技術者優先の世界だったのです。
 当然ポレーゼーはBチームと認識されており、技術者から見る
と補欠的存在――邪魔にならない存在程度にしか見られていなか
ったのです。しかし、オークの製品化にポレーゼーは大活躍をす
るのです。もし、ポレーゼーがいなければ、JAVAは世に出て
いなかったかも知れないのです。
 後にポレーゼーが率いるマリンバの有力幹部になるジョナサン
・ペインは、ノートンが作ったオークによるブラウザのプロトタ
イプをベースに本格的なブラウザを完成させたのです。そして、
彼は、はじめて「JAVAアプレット」と呼ばれるプログラムを
作ったのです。JAVAアプレットとは、JAVAのアプリケー
ションと考えてもらえばよいのですが、正確にいうと意味は次の
通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ネットワークを通じてWebブラウザにダウンロードされ、ブ
 ラウザのウインドウに埋め込まれて実行されるJAVAのプロ
 グラムのことである。        ――「IT用語辞典」
―――――――――――――――――――――――――――――
 それはきわめて単純なもので、画面に表示されたボックスが自
動的に赤くなるだけのものだったのです。しかし、これを出発点
として、やがてコーラの缶が何本も跳ねたり転がったりするのを
表示させる凝ったものになっていったのです。
 今から考えると、ちゃちなものに過ぎなかったのですが、19
94年当時は、WWWのサイトは静止画だけだったので、これは
驚きをもって見られたのです。動かなかったはずのものが動いた
からです。これは後に決定的な意味を持つことになります。
 マーケティング担当のポレーゼーとしては、2つの重要なこと
を決めなければならなかったのです。それは価格をどうするかと
いうことと、オークのネーミングを変更することだったのです。
 当時パトリック・ノートンは、ファースト・パーソン社を離れ
別の会社に移っており、オークを担当するメンバーは少なくなっ
ていたのですが、かえって結束力が高まったと後でポレーゼーは
話しているのです。
 オークの担当者はゴスリングをはじめとして、一貫して無料に
すべきであるという意見だったのです。つまり、オークを使って
アプリケーションを開発しても使用料はとらない。ブラウザのソ
ースコードも自由に入手できるようにし、システムの仕様書も公
開する――要するに、全面オープンにするということです。これ
なら、誰でもシステムが作れることになります。
 実はソースコードを公開することにしたのは、当時のファース
ト・パーソン社の社内事情があったのです。既に解説したように
オークには「仮想マシン/VM」の部分が重要なのですが、当時
は、サン版のUNIX/ソラリスにしか対応していなかったので
す。ウインドウズをはじめすべてのOSに対応させるにはスタッ
フの数がまるで足りなかったのです。
 そこでソースコードをオープンにすれば、社外の誰かがきっと
それを作ってくれるかも知れないと考えたのです。オープンにす
れば、セキュリティ構造も自分で調べられるので、それが安全で
あることもわかってもらえる――そういう期待もあったのです。
 しかし、ゴスリングをはじめとするスタッフ全員が密かに心に
秘めていたのは、もしかしたら、オークを会社の上層部が潰すの
ではないかという心配です。そういう場合でもオープン化を決め
ておけば、オークはいつまでも生き残ることになると考えていた
のです。精魂込めてオークを開発した技術者の願いとしてわかる
ような気がします。
 「無料」にするための根拠として、ポレーゼーはそれまでのコ
ンピュータ言語の価格の徴収について、過去のケースを調べたの
です。その結果、使用料を取るのは、「プログラミング言語を滅
ぼす確かな方法」であることがはっきりしたのです。
 一方、ゴスリングは最高技術責任者のエリック・シュミットと
話し合い、チームの考え方を理解させるため努力したのです。シ
ュミットはかねてからゴスリングの理解者であり、彼の技術力と
影響力を認めていたので、上層部にはチームの考え方を伝える必
要があると考えたのです。
 ポレーゼーをはじめとするこうした人たちの努力によって、無
料でオープンという方針は上層部によって決定されたのです。こ
れを機会にチーム全員が、ポレーゼーの力を認めるようになって
いったのです。ポレーゼーは依然として正式には双方向サービス
・グループのままであり、Bチーム――補欠的存在だったのです
が、名実ともにオークを担当するグル−プのAとして仲間から評
価される存在になっていったのです。
 1994年12月、オークははじめてサンの外に出たのです。
このときのバージョンのオークとブラウザは、まったくの未完成
のアルファ版だったので、秘密のサイトに隠され、一部の人だけ
がダウンロードを許されたのです。
 ポレーゼーとしては、広報と営業の手段として、これをしかる
べきキーマンにダウンロードさせるつもりでいたのです。そして
その意中の人の1人としてマーク・アンドリーセンを考えていた
のです。
 ゴスリングの勧めで、同じブラウン大学時代の仲間であるカー
ル・ヤコブもダウンロードしたのです。ヤコブの会社はウェブ・
サイトを出しており、テスト市場としては最適だったのです。ヤ
コブの会社「オン・ランプ」では、サイト上の道具箱に入れるも
のを探していたのですが、オークを使ってみることにしたところ
大反響が出たのです。動かないWWWが動いたのは、大きな驚き
だったのです。 ―― [インターネットの歴史 Part2/50]


≪画像および関連情報≫
 ・エリック・シュミットについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  元米パロアルト研究所のコンピュータサイエンス研究所の研
  究員で、米ベル研究所と米ザイログ社に在籍していたことも
  ある。1983年にソフトウェアマネージャーとして米サン
  ・マイクロシステムズ社に入社。JAVAの開発とインター
  ネット戦略の立案を導き、後に最高技術責任者と執行役員を
  歴任した。             ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年05月23日

●「OAK」が「Java」となった日(EJ第2085号)

 ファースト・パーソン社は、オークを正式に世に出すに当たっ
て、「オーク」という名前を変更する必要があったのです。なぜ
なら、「オーク」は既に商標登録されていたからです。もうひと
つ「ウェブランナー」という名前も候補にあったのですが、これ
も商標登録されていたのです。
 しかし、「オーク」という名前には愛着のあるスタッフも多く
いて、「オーク」は使えないとしても、OAK――オブジェクト
・アプリケーション・カーネルという長い名前の略称として残そ
うという案もあったのですが、実現は不可能だったのです。
 ポレーゼーは、名前を決める会議の司会をプロのコンサルタン
トに頼むことにしたのです。そして、会議の日、ポレーゼーは、
はじめに「ダイナミック」「ライフ」「エネルギー」の3つの言
葉をボードに書いて、コンサルタントに引き継いだのです。会議
の場には商標専門の弁護士も同席していたのです。
 一時「シルク」という名前が何人かの支持を集めたのですが、
これにはゴスリングが「歯が浮く」といって反対したのです。い
ろいろな名前が提案され、候補から消えていったのです。そして
何時間も経過した頃、誰かが「ジャバ」という名前を提案したの
です。ポレーゼーはその名前を聞いたとたん、これはいけると感
じたといいます。
 「ジャバ」という名前は躍動感があり、親しみやすく、母音が
多い――商標専門の弁護士も「ジャバ」なら大丈夫と太鼓判を押
したので、大方は「ジャバ」でまとまる雰囲気になったのですが
それでも何人かの反対者はいたのです。
 結局製品名決定会議では「ジャバ」という名前を第1候補とし
て、他のいくつかを付けて上層部に図ることになったのです。そ
の会議に同席し、後にポレーゼーが率いるマリンバの一員になる
サミ・シャイオは、このときの印象を次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 選択肢をまともな方向へもっていったのは、間違いなくキムの
 功績だ。(キムとしては)個人的には、WRLという名前を推
 していたと思う。           ――サミ・シャイオ
            ――ロバート・リード著/山崎洋一訳
   『インターネット激動の1000日』上巻 日経BP社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 サンの上層部の会議では、キムの提案通り製品名は「ジャバ」
に決まったのです。エリック・シュミットは、トップにこの名前
を決定させたのはポレーゼーの力によるものであり、自分の力は
入っていないと強調しています。
 上掲の本を読んでいて感ずるのは、サンの最高技術責任者であ
るエリック・シュミットという人物はなかなか立派な人物であっ
たと感じさせます。もともと温和な人物であるようですが、物事
を決めるさいにはけっして上司の権限を使わず、スタッフ主導に
まかせながら、サンのトップに対しては通すべきことは通す立派
なリーダーであると思います。
 「ジャバ」という名前を決めたサンの会議では、1995年5
月のサン・ワールド年次会議において、サンのインターネット戦
略を発表することが決まったのです。そのとき、JAVAが目玉
であり、主役になることは間違いなかったのです。
 こういう状況になると、サンとファースト・パーソン社がそれ
ぞれ分かれてやっているときではなく、一体となってことに当た
る必要があったのです。技術者は本気で準備と最後の追い込みに
入ったのです。今までのように、プロトタイプの開発の追い込み
と違って、「ジャバ」というサンの製品を正式にリリースするた
めの追い込みなのです。意気込みが違います。
 このような経緯でポレーゼーは、サンの広報部と一体になって
動くことになったのですが、実質的な主導権はポレーゼーが握っ
ていたのです。彼女がまず着手したのは、JAVAのテスト・サ
イトを増やすことだったのです。
 ポレーゼーの努力の結果、サービス産業の大手であるモルガン
・スタンレーとアーサー・アンダーセン、最先端のインターネッ
ト企業であるホットワイアードがテスト・サイトに加わったので
す。これらの企業はJAVAに惚れ込んでしまったといいます。
 しかし、ポレーゼーがターゲットにしていたのは、ネットスケ
ープ・コミュニケーションズ社だったのです。なかでもマーク・
アンドリーセンがJAVAをどう考えるかがとても心配だったの
です。彼女は「新聞などのスクープでマークがJAVAを知るの
だけは避けたい」と考えたのです。
 そこで、ポレーゼーは、アンドリーセンに思い切ってメールを
出して、JAVAをダウンロードしてもらい、率直に感想を聞い
たのです。アンドリーセンは直ちにJAVAをダウンロードして
「凄い!」という返信のメールをくれたのです。さらに、ポレー
ゼーと広報部のスタッフはマスコミに情報をリークすることにし
たのです。サンのしきたりでは、上層部の承認を得ることが必要
だったのですが、それを無視したわけです。
 狙いは、サンノゼ・マーキュリー・ニュース紙――マーク紙で
あったのです。マーク紙の記者との数時間の取材に応じたうえ、
アンドリーセンには必ず話を聞いてくれと念を押したのです。そ
のとき、記者はエリック・シュミットにも会見を求めて会ってい
ます。当然、シュミットにとっては寝耳に水だったのですが、彼
は快く会見に応じています。シュミットならそうしてくれるとポ
レーゼーと広報部は予想していたのです。
 翌日のマーク紙――第一面の折り目の上にあるトップ記事とし
てJAVAが掲載されたのです。タイトルは「ホットジャバが役
立つとサンが考える理由」だったのです。アンドリーセンのコメ
ントも出ています。彼は「このソフトがまったく新しいものであ
ることは間違いない。凄いものだ」とコメントしています。
 大成功だったのです。ポレーゼーはこの日のマーク紙を今でも
宝物にして持っているそうです。1995年3月23日のマーク
紙の記事です。 ―― [インターネットの歴史 Part2/51]


≪画像および関連情報≫
 ・「ホット・ジャバ」とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「ホット・ジャバ」はウェブ・ブラウザ――JAVAによる
  最初のソフトウェアである。これは、ファースト・パーソン
  社のジョナサン・ペインによって開発されたものである。な
  お、JAVAに関しては次の言葉が有名である。
   Write Once,Run Anywhere/一度書けばどこでも走る
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年05月24日

●JAVAワールド化したサン・ワールド(EJ第2086号)

 サン・マイクロシステムズにとってこの段階でしなければなら
ないことは、顧客の獲得です。ここで顧客とは、JAVAを製品
に組み込みたいと希望する企業を意味します。そういう企業に売
り込んでライセンスを供与し、ライセンス料をもらうこと――こ
れが唯一収入を確保する方法なのです。なぜなら、ほとんどのユ
ーザには無料で提供するからです。
 1995年春の時点でサンにとって一番有力な顧客は、ネット
スケープ・コミュニケーションズ社だったのです。1995年4
月の時点で最も普及しているブラウザは、ネットスケープ・ナビ
ゲータであったからです。
 シュミットをはじめとするサンの経営陣は、何度かジム・クラ
ークに会い、JAVAチーム全体を売ることも話し合っていたよ
うですが、さすがにこれが実現することはなかったのです。しか
し、サンの5月の発表会までにナビゲータにJAVAを統合する
ことについては、可能性が出てきていたのです。
 なぜなら、技術面についてはアンドリーセンはOKを出してお
り、後の交渉は条件面だけだったからです。価格は公表されませ
んでしたが、ネットスケープ社はJAVAを組み込む権利を75
万ドルで購入したとされています。これは、ネットスケープ社に
とってけっして高い買い物ではなかったはずです。サンとしては
ネットスケープ社が採用すれば、他からもライセンスの依頼がく
るはずと考えたのです。
 ポレーゼーとしては、5月のサン・ワールドでアンドリーセン
に講演をしてもらいたいと考えていたのです。アンドリーセンと
交渉を重ねた結果、彼は演壇に上がることを承知したのです。こ
れによって、当初サン・ワールドにおいて5分程度しか予定して
いなかったJAVAの発表はアンドリーセンの発表が中心になる
ため、JAVAの発表会場は中央ステージに移り、これがこの会
議の最重要イベントになったのです。
 発表は大成功だったのです。サンフランシスコのモスコーン会
議センターに詰めかけた数千人の聴衆はまるではじめてテレビを
見るような反応でデモを見たのです。本当にテレビのようにタレ
ントがページの中から手を振ったり、宙返りをしたりする――ク
ロスワード・パズルやハングマン・ゲーム、株価の動きを示す株
式ポートフォリオなど、盛りだくさんのデモンストレーションで
あったのです。
 参加者は何の関係もないブースでJAVAについて質問を連発
し、担当者を困惑させたといいます。とにかく1995年のサン
・ワールドは、JAVAワールドになってしまったのです。
 この日を境にJAVAは日陰の存在ではなく、マスコミの報道
によって世界中にその名は広がったのです。ニューズウィークや
タイムなどの大衆誌をはじめ大手のテレビ局も取材に訪れ、ポレ
ーゼーは文字通りてんてこ舞いの忙しさになったのです。
 マスコミによるJAVAについての各種報道のなかで、きわめ
てユニークな記事は、1995年8月にフォーブス誌の技術欄に
載った米国の経済学者ジョージ・ギルダーのレポートです。ちな
みにギルダーは、次の「ギルダーの法則」という通信網の法則に
よって有名です。
―――――――――――――――――――――――――――――
      通信網の帯域幅は6ヶ月で2倍になる
―――――――――――――――――――――――――――――
 ギルダーは、技術界のトレンドを読み取る鋭い分析力と予知力
を有する学者で、シリコンバレーの技術者からはつねに注目を浴
びる存在なのです。そのギルダーは、JAVAについて次のよう
に述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ジャバや同様の言語が広まれば、ソフトははじめて、ほんとう
 にオープンなものになる。マイクロソフトのOSは汎用品にな
 り、インテルのマイクロプロセッサは周辺機器になる。
                  ――ジョージ・ギルダー
            ――ロバート・リード著/山崎洋一訳
   『インターネット激動の1000日』上巻 日経BP社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 この記事が発表されると、サンの株価が上がり始めたのです。
さらにジャバに対応すると発表した企業の株価まで上昇したので
す。ブラウザ・メーカーのスパイグラス、マクロメディア、開発
ツール・メーカーのボーランドの株価は、ライセンス契約を発表
する前日より翌日の株価が跳ね上がったのです。これによって、
サンは1995年末までに、十数件のライセンス契約を獲得する
ことに成功したのです。
 1996年の前半になると、ライセンス契約は3倍以上になり
主だったブラウザメーカーのほとんどすべてが契約したことに加
えて、マイクロソフトをはじめとするOSメーカーも契約を結ん
だので、コンピュータ業界全体にJAVAが広がることは確実に
なったのです。
 それにしてもこの成功には、「ジャバ」という名前が大きく貢
献していると思われます。JAVAは一見技術用語ではないよう
に見えます。大衆受けするし、楽しい、エネルギッシュな名前で
す。ワープロ・ソフトを売り込むときに「C++を使っている」
と宣伝する人はいないが、「これにはJAVAが使われている」
ということには抵抗がないのです。
 1995年9月にナビゲータ2.0のベータ版(正式版は19
96年1月)がリリースされたのですが、UNIX版とウインド
ウズ95版でJAVAに対応していたのです。ナビゲータのプロ
ダクト・マネージャの話によると、1995年末には7800万
人のナビゲータ・ユーザがJAVAユーザになったそうです。
 そして、もはやJAVAは、ブラウザには当然プラグインされ
ているということが常識化したのです。
 しかし、既に述べたように、この時点でマイクロソフト社は反
撃に出てきます。―― [インターネットの歴史 Part2/52]


≪画像および関連情報≫
 ・ジョージ・ギルダーの関連サイトから
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1998年9月、「帯域の爆発」と題してネバダ州の避暑地
  タホー湖で開かれた「ギルダー・テレコズム会議」は異様な
  熱気に包まれていた。大きな身振りで「無限の帯域が実現し
  資本主義の黄金時代が始まる」という著者の神がかり的な預
  言に、観衆は割れるような拍手をもって応えた。
     http://www003.upp.so-net.ne.jp/ikeda/Gilder.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

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posted by 平野 浩 at 05:12| Comment(0) | TrackBack(0) | インターネットの歴史 Part2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月25日

●JAVAをマイクロソフト化する戦略(EJ第2087号)

 マイクロソフト社は反撃の宣言と同時にJAVAのライセンス
を取得したことを発表したのです。この発表は大きな反響をもた
らしたのです。多くのマスコミは「JAVAとサンの勝利」と報
じたのですが、ビジネス・ウィーク誌は「マイクロソフト/サン
に降伏」とまで書いたのです。
 しかし、結果としてサンが世界最強のソフトウェア会社にライ
センスを供与したのは失敗だったのです。といってOSで最大の
シェアを持つマイクロソフト社にライセンスを供与しないと普及
を加速できないという事情もあったことは確かです。
 マイクロソフト社としては、JAVAの標準を自社のOSに取
り込み、その機能を拡張しようとしたのです。もし、マイクロソ
フト社がこれに成功すると、そこに「マイクロソフトJAVA」
が誕生することになり、サンの「非マイクロソフトJAVA」と
対立の構図を示すことになります。
 こうなると、王者マイクロソフト社の「マイクロソフトJAV
A」が優勢になるのは避けられなくなります。その証拠にマイク
ロソフト社が反撃を宣言した同じ1995年12月に「アクティ
ブX(ActiveX)」という新技術を発表しているからです。
 「アクティブX」とは何でしょうか。なぜ、JAVAと競合す
るのでしょうか。
 「アクティブX」について詳しく説明するのは避けますが、大
まかにどういうものかについては知っておいても損はないと思う
ので、誰でもわかるようにやさしく説明します。
 アクティブXは、マイクロソフト社のウインドウズ・アプリケ
ーションで幅広く使われているOLE(オーレ)という技術をす
こしひねったものなのです。この「ひねった」という表現は、ア
クティブXのマーケティング担当者が使った表現です。
 「ワード」で作成した文書に、エクセルで作ったグラフを挿入
することができますね。後になって、グラフを新しいデータで作
り直したい場合、「ワード」の文書に貼りつけてあるグラフをダ
ブルクリックすると、自動的にグラフを作成したエクセルのワー
クシートが表示されます。このアプリケーション連携技術がOL
Eなのです。OLEは次の言葉の省略形です。
―――――――――――――――――――――――――――――
    OLE = Object Linking and Embedding
―――――――――――――――――――――――――――――
 もし、OLEがないと、新しいデータのグラフをいちいち作成
して貼り替える必要があります。アクティブXは、OLEをイン
ターネットに対応させたものなのです。アクティブXはJAVA
と同じように、ウェブサイトの開発者がページに機能コードを加
えるだけで、ウェブ・ブラウザからそれを取り出して、実行でき
ることを可能にするのです。
 このOLEの技術の根底にはCOM――コンポーネント・オブ
ジェクト・モデルというものが存在します。少し難しくなってし
まいますが、OLEは、コンテナと呼ぶ台紙上にCOMを貼り付
けたものをひとつのファイル――コンパウンド・ファイルとして
まとめて扱う技術なのです。
 もうひとつ、イメージだけでも知っていただきたものがOCX
――OLEカスタム・コントロールという概念です。これは、次
の省略形です。
―――――――――――――――――――――――――――――
      OCX = OLE Custom Control
―――――――――――――――――――――――――――――
 ちょっとわかりにくいのは、頭文字をとると、OCCになるの
に、なぜOCXなるのかということです。実はこの「?」は「そ
の他大勢」とか「その他の総称」の意味になるのです。アクティ
ブXの「?」も同様の意味です。
 ウインドウズは、次の3つの基本技術が集積されたものと考え
ることができますが、そのなかにOCXが入っています。
―――――――――――――――――――――――――――――
          1.OCX
          2.DocObject
          3.Visual Basic
―――――――――――――――――――――――――――――
 すべてのウインドウズ・アプリケーションは、一枚のメインと
なるウインドウの上にさまざまなウインドウを重ねて作られてい
ます。画面上にあらわれるものはすべてウインドウなのです。ボ
タンも文字を表示するラベルも、またウインドウをスクロールす
るスクロールバーもすべてウインドウなのです。
 これらのウインドウがそれぞれOCXなのです。OCXは各機
能ごとに存在し、それぞれがOLEのテクノロジーを利用して、
かつCOMの集まりから成り立っているのです。
 それでは、ドックオブジェクトとは何でしょうか。
 ワードで文章を作成しながら、図や絵を入れたい場合、ワード
で図を描くアプリケーションが必要になります。もし、ドックオ
ブジェクトを使用しないと、別々にアプリケーションを起動させ
文章と図をそれぞれ完成させ、別のファイルに保存したうえ、そ
れらを統合するという面倒なことをしなければなりません。
 しかし、ドックオブジェクトを使うと、文章を書くときはワー
プロ機能になり、図を描くときは図を描くアプリケーションにな
る――そしてこのときの文章と図は同じファイルに保存されるの
です。これを実現しているのがドックオブジェクトなのです。
 3つ目のビジュアルBASICというのは、ウインドウズ・プ
ログラミングのための言語です。これらのウインドウズ上のテク
ノロジーと、HTTPなどのネットワーク・プロトコルなどのサ
ポートなど、インターネット上でデータをやりとりするテクノロ
ジーを融合したもの――これがアクティブXの正体なのです。
 いずれにしてもこれを使うと、マイクロソフト独自のWWWの
世界ができるのです。ソフトウェアで圧倒的なシェアを持つ企業
の強みです。  ―― [インターネットの歴史 Part2/53]


≪画像および関連情報≫
 ・JAVAとアクティブXの基本的な違い
  ―――――――――――――――――――――――――――
  JAVAとアクティブXには根本的な違いがある。それは、
  JAVAはコンピュータ言語であるが、アクティブXは言語
  ではなく、ソフト間の通信と連携のためのインフラであると
  いうことである。したがって、アクティブXはC++という
  言語で書かれているが、JAVAで書くこともできる。これ
  は、大きな違いといえる。
  ―――――――――――――――――――――――――――

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posted by 平野 浩 at 04:47| Comment(0) | TrackBack(0) | インターネットの歴史 Part2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月28日

●JAVAを巡るサンとマイクロソフトの争い(EJ第2088号)

 既に述べているように、JAVAという言語はOSやコンピュ
ータの機種、携帯電話のなどの情報機器の種類を問わずどういう
環境でも実行されます。それは、JAVA仮想マシンと呼ばれる
JAVAの実行環境が各種OSやインターネット・エクスプロー
ラやネットスケープ・ナビゲータなどのブラウザに用意されてい
ることによって可能になっているのです。
 ところで、JAVAプログラムには次の2つがあることを知っ
ていただきたいのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1.JAVAアプリケーション ・・・ OS上で動く
  2.JAVAアプレット ・・・・ ブラウザ上で動く
―――――――――――――――――――――――――――――
 OSでダブルクリックして起動するのは、JAVAアプリケー
ションですが、これは、「ワード」や「エクセル」などのアプリ
ケーションと同じです。これに対してブラウザ上で動くのは、J
AVAアプレットと呼ばれるのです。アプレットというのは、他
のプログラムの中で動く小さなプログラムのことです。末尾のレ
ット(let) は名詞の語尾につくことばで「小さなもの」を意味し
ています。
―――――――――――――――――――――――――――――
          アプレット/Aapplet
―――――――――――――――――――――――――――――
 ブラウザでウェブサイトを開くと、文字やアニメが動いたり、
音声を発したりするサイトがありますが、それは、JAVAアプ
レットが動いているのです。
 JAVAアプレットとJAVAアプリケーションの根本的な違
いについて知っておく必要があります。それはJAVAアプレッ
トの特徴を上げることで理解できると思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
      1.ブラウザ上において実行される
      2.ファイルの読み書きができない
      3.プリンタは使うことができない
      4.他のプログラムを起動できない
      5.したがってセキュリティは万全
―――――――――――――――――――――――――――――
 JAVAに対応しているウェブサイトにアクセスすると、ペー
ジのコンテンツとしてJAVAアプレットがダウンロードされ、
ブラウザで実行されるのです。ブラウザにはJAVAアプレット
を実行するJAVA仮想マシンがあるのです。
 ついでに述べておくと、ブラウザではなく、サーバー側で実行
するJAVAプログラムのことを「サーブレット」と呼んでいる
のです。サーブレットは、ウェブサーバーと連携してJAVAプ
ログラム(JAVAバイトコード)を実行するのです。
 さて、マイクロソフト社は、サンとライセンス契約を結んだの
ですが、契約通りに履行していたのは最初のうちだけで、やがて
JAVA仮想マシンに対しては独自開発のもの――マイクロソフ
ト仮想マシンを使い、サンの提供するJAVA仮想マシンを使わ
なくなってしまったのです。
 当然サンはそれに反発し、何回も話し合いがもたれたのですが
そういう経緯からマイクロソフト社は、新しいOSのウインドウ
ズXPからはマイクロソフト仮想マシンをOSから外してしまっ
たのです。当然のことながらこの状態ではJAVAプログラムは
動かないため、動きのあるウェブサイトは静止画となり、ゲーム
が動かないなどというトラブルが続出したのです。
 つまり、マイクロソフト社としては、サンがマイクロソフト仮
想マシンについてうるさくいうので、新OSからは外し、ユーザ
にマイクロソフト仮想マシンとJAVA仮想マシンの選択権を委
ねたのです。ユーザは、マイクロソフト社かサン・マイクロシス
テムズ社のいずれかのウェブサイトから自分の好みの仮想マシン
をダウンロードすればよいというわけです。
 仮想マシンのようなプログラムは、本来ユーザにとって知らな
くてもいい性質のものであり、そういうきわめて技術性の高いも
のをユーザに選択させるのは明らかに問題があります。そのため
サンは、マイクロソフト社を相手取って、独禁法違反でサンノゼ
裁判所に訴えたのです。サンの要求内容は次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 JAVA仮想マシンをウインドウズXPとインターネット・エ
 クスプローラに組み込み、マイクロソフト仮想マシンの提供を
 中止すること  ――サン・マイクロシステムズ社の要求内容
―――――――――――――――――――――――――――――
 マイクロソフト社対ネットスケープ社のブラウザ戦争がとかく
注目されますが、そのウラにはマイクロソフト社対サン・マイク
ロシステムズ社のJAVAを巡る争いがあり、表裏一体となって
いるのです。そして、まだ決着がついていないのです。
 なお、JAVAと非常によく似たプログラミング言語で「JA
VAスクリプト」というのがあります。どちらもJAVAという
ことばを使っていますが、ぜんぜん別の言語であり、開発会社も
別ですので、区別する必要があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 Java ・・・・・・・ サン・マイクロシステムズ社開発
 JavaScript ・・・・ ネットスケープ社開発
―――――――――――――――――――――――――――――
 JAVAスクリプトは、HTMLの中に記述して、ブラウザで
実行するものであり、もともとは「LiveScript」といっていたも
のをJAVAと文法が似ているので「JavaScript」と改名したも
のであって、JAVAとはまったく違う言語です。
 さて、このテーマも本日で54回になり、そろそろ終りに近づ
いてきています。明日からは、JAVA開発の中心部隊として活
躍したキム・ポレーゼーたちによるマリンバ社設立の話をするこ
とにします。      ―― [日本のインターネット/54]


≪画像および関連情報≫
 ・スクリプト言語とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  機械語への変換作業を省略して簡単に実行できるようにした
  簡易プログラムを記述するためのプログラミング言語。スク
  リプト言語で作られたプログラムはスクリプトと呼ばれる。
  「簡易プログラミング言語」と呼ばれることもある。通常の
  プログラミング言語と同様、英単語や記号・数字の組み合わ
  せによってプログラムの設計図にあたるソースコードを記述
  するが、コンピュータが実行できる形式への変換は自動的に
  行われるため、手間をかけずに実行することができる。
                     ――IT用語辞典
  ―――――――――――――――――――――――――――

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●JAVAを巡るサンとマイクロソフトの争い(EJ第2088号)

 既に述べているように、JAVAという言語はOSやコンピュ
ータの機種、携帯電話のなどの情報機器の種類を問わずどういう
環境でも実行されます。それは、JAVA仮想マシンと呼ばれる
JAVAの実行環境が各種OSやインターネット・エクスプロー
ラやネットスケープ・ナビゲータなどのブラウザに用意されてい
ることによって可能になっているのです。
 ところで、JAVAプログラムには次の2つがあることを知っ
ていただきたいのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1.JAVAアプリケーション ・・・ OS上で動く
  2.JAVAアプレット ・・・・ ブラウザ上で動く
―――――――――――――――――――――――――――――
 OSでダブルクリックして起動するのは、JAVAアプリケー
ションですが、これは、「ワード」や「エクセル」などのアプリ
ケーションと同じです。これに対してブラウザ上で動くのは、J
AVAアプレットと呼ばれるのです。アプレットというのは、他
のプログラムの中で動く小さなプログラムのことです。末尾のレ
ット(let) は名詞の語尾につくことばで「小さなもの」を意味し
ています。
―――――――――――――――――――――――――――――
          アプレット/Aapplet
―――――――――――――――――――――――――――――
 ブラウザでウェブサイトを開くと、文字やアニメが動いたり、
音声を発したりするサイトがありますが、それは、JAVAアプ
レットが動いているのです。
 JAVAアプレットとJAVAアプリケーションの根本的な違
いについて知っておく必要があります。それはJAVAアプレッ
トの特徴を上げることで理解できると思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
      1.ブラウザ上において実行される
      2.ファイルの読み書きができない
      3.プリンタは使うことができない
      4.他のプログラムを起動できない
      5.したがってセキュリティは万全
―――――――――――――――――――――――――――――
 JAVAに対応しているウェブサイトにアクセスすると、ペー
ジのコンテンツとしてJAVAアプレットがダウンロードされ、
ブラウザで実行されるのです。ブラウザにはJAVAアプレット
を実行するJAVA仮想マシンがあるのです。
 ついでに述べておくと、ブラウザではなく、サーバー側で実行
するJAVAプログラムのことを「サーブレット」と呼んでいる
のです。サーブレットは、ウェブサーバーと連携してJAVAプ
ログラム(JAVAバイトコード)を実行するのです。
 さて、マイクロソフト社は、サンとライセンス契約を結んだの
ですが、契約通りに履行していたのは最初のうちだけで、やがて
JAVA仮想マシンに対しては独自開発のもの――マイクロソフ
ト仮想マシンを使い、サンの提供するJAVA仮想マシンを使わ
なくなってしまったのです。
 当然サンはそれに反発し、何回も話し合いがもたれたのですが
そういう経緯からマイクロソフト社は、新しいOSのウインドウ
ズXPからはマイクロソフト仮想マシンをOSから外してしまっ
たのです。当然のことながらこの状態ではJAVAプログラムは
動かないため、動きのあるウェブサイトは静止画となり、ゲーム
が動かないなどというトラブルが続出したのです。
 つまり、マイクロソフト社としては、サンがマイクロソフト仮
想マシンについてうるさくいうので、新OSからは外し、ユーザ
にマイクロソフト仮想マシンとJAVA仮想マシンの選択権を委
ねたのです。ユーザは、マイクロソフト社かサン・マイクロシス
テムズ社のいずれかのウェブサイトから自分の好みの仮想マシン
をダウンロードすればよいというわけです。
 仮想マシンのようなプログラムは、本来ユーザにとって知らな
くてもいい性質のものであり、そういうきわめて技術性の高いも
のをユーザに選択させるのは明らかに問題があります。そのため
サンは、マイクロソフト社を相手取って、独禁法違反でサンノゼ
裁判所に訴えたのです。サンの要求内容は次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 JAVA仮想マシンをウインドウズXPとインターネット・エ
 クスプローラに組み込み、マイクロソフト仮想マシンの提供を
 中止すること  ――サン・マイクロシステムズ社の要求内容
―――――――――――――――――――――――――――――
 マイクロソフト社対ネットスケープ社のブラウザ戦争がとかく
注目されますが、そのウラにはマイクロソフト社対サン・マイク
ロシステムズ社のJAVAを巡る争いがあり、表裏一体となって
いるのです。そして、まだ決着がついていないのです。
 なお、JAVAと非常によく似たプログラミング言語で「JA
VAスクリプト」というのがあります。どちらもJAVAという
ことばを使っていますが、ぜんぜん別の言語であり、開発会社も
別ですので、区別する必要があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 Java ・・・・・・・ サン・マイクロシステムズ社開発
 JavaScript ・・・・ ネットスケープ社開発
―――――――――――――――――――――――――――――
 JAVAスクリプトは、HTMLの中に記述して、ブラウザで
実行するものであり、もともとは「LiveScript」といっていたも
のをJAVAと文法が似ているので「JavaScript」と改名したも
のであって、JAVAとはまったく違う言語です。
 さて、このテーマも本日で54回になり、そろそろ終りに近づ
いてきています。明日からは、JAVA開発の中心部隊として活
躍したキム・ポレーゼーたちによるマリンバ社設立の話をするこ
とにします。      ―― [日本のインターネット/54]


≪画像および関連情報≫
 ・スクリプト言語とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  機械語への変換作業を省略して簡単に実行できるようにした
  簡易プログラムを記述するためのプログラミング言語。スク
  リプト言語で作られたプログラムはスクリプトと呼ばれる。
  「簡易プログラミング言語」と呼ばれることもある。通常の
  プログラミング言語と同様、英単語や記号・数字の組み合わ
  せによってプログラムの設計図にあたるソースコードを記述
  するが、コンピュータが実行できる形式への変換は自動的に
  行われるため、手間をかけずに実行することができる。
                     ――IT用語辞典
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年05月29日

●JAVAの新会社マリンバ誕生(EJ第2089号)

 ジョナサン・ペイン――ファースト・パーソン社でJAVAの
開発に当たり、最初にJAVAを使ったブラウザ「ホットJAV
Aブラウザ」を開発したこの技術者は、1995年2月にシアト
ルのスターウェーブ社に移籍していたのです。この企業には、あ
のパトリック・ノートンが既に移っていたのです。
 したがって、ペインは1995年5月からブレークスルーした
JAVAフィーバーを遠く離れたシアトルから傍観していたこと
になります。自分たちが手塩にかけて育てたオーク――JAVA
が今脚光を浴びているのに、自分はそれを遠くから眺めてしるし
かない――ペインは11月になるととても我慢できなくなり、現
在もサンに残っている友人であり、同僚であったアーサー・バン
・オフに電話をかけて、サンへの復帰を相談したのです。
 バン・オフはペインの復帰を喜び、サンの人事担当者に熱心に
働きかけたのですが、話がなかなかまとまらなかったのです。サ
ンとしては、数少ない優れたJAVAの開発者であるペインには
戻ってもらいたかったものの、ペインが若い平社員としては法外
な報酬を要求しため難航したのです。
 そこでペインはかねてから考えていた計画をバン・オフに打ち
明けたのです。「われわれでJAVAの会社を作らないか」――
バン・オフは賛成し、ペインの構想をサミ・シャイオに話したと
ころシャイオも賛成したのです。
 その時点では、JAVAの技術者はおそらく10人程度しかい
なかったと思われますが、そのうちの最も優秀な3人が揃ったこ
とになります。これは凄いことです。しかも彼らにはJAVAの
良い点も問題点もわかりすぎるほどわかっている――これなら鬼
に金棒といえます。
 しかし、いかに優秀な技術者――Aチームが揃っても企業は成
り立たない。マネジメントをするBチームが必要である。3人が
一致したのは、キム・ポレーゼーだったのです。ポレーゼーは、
かねてから会社を作りたいといっていたからです。
 「4人でJAVAの会社を作りたい。CEOになってくれない
か」――3人にそう打ち明けられたポレーゼーは最初はちょっと
悩んだといいます。このときのポレーゼーの心境をロバート・リ
ードは次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 サンはおもしろかったからむずかしい決断だった。好きな仕事
 をしていた。ジャバが好きだった。自分の一部といっていい。
 しかし、会社をつくるのは高校時代からの夢であり、それから
 ずいぶん長い年月がたったように感じはじめていた。また、ジ
 ャバ・チームの性格が変わっていくのはわかっていた。それま
 では、親みたいに監視する人はいなかった。
                   ――キム・ポレーゼー
            ――ロバート・リード著/山崎洋一訳
   『インターネット激動の1000日』上巻 日経BP社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 ポレーゼーは、しばらく考えたあと、サンから身を引くのは今
しかないと3人と会社設立を決断するのです。そのとき、ポレー
ゼーは、自分が自宅近くの「カフェ・マリンバ」というレストラ
ンにいることに気がついたのです。後になってこれは奇妙な偶然
であったことにポレーゼーが気がつくことになります。
 1995年のクリスマス――4人は新会社について、とくに次
の3つの点について話し合ったのです。資金と根気とエネルギー
の3つです。そして、年明け早々に実行に移すことが決まったの
です。一番重要なことは、サンと対立しないということだったの
です。亡命者ではなくサンの卒業生とみてもらうにはどうしたら
よいか――それには、サンのCEOスコット・マクニーリに打ち
明けるのがよいということが決まったのです。
 ポレーゼーとバン・オフが直接マクニーリに会い、会社設立の
話を打ち明けたのです。これに対するマクニーリの態度は、いか
にもマクニーりらしいものとポレーゼーはいっています。次の3
つを守れといい、成功を祈ると激励してくれたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       1.サンの人材を奪わないこと
       2.サンと競争してはならない
       3.サンの知的所有権を侵すな
―――――――――――――――――――――――――――――
 そして、1996年1月――キム・ポレーゼーをCEOとする
4人の会社「マリンバ」は設立されたのです。しかし、どこの企
業でもそうであるように、マリンバはレーダーにも映らないほど
の超低空飛行を続けることになります。
 4人は会社を設立すると、やるべきことについてブレーン・ス
トーミングをはじめたのです。その時点のJAVAの問題点は、
デモ的なアプリケーションばかりであって、魅力的なアプリケー
ションがなかったことです。その原因として問題点を次の3つに
まとめたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    1.JAVAの開発者が少ないこと
    2.JAVAは超低速であったこと
    3.JAVA開発ツールがないこと
―――――――――――――――――――――――――――――
 討議の結果、JAVAのアプレット構築で使う部品のライブラ
リーキットを作ろうということになったのです。いちいちプログ
ラミングすることなく、部品を組み合わせればアプレットができ
るようにしようというわけです。アイデアは良かったのです。
 マリンバ社は早速プログラマを集め、開発に当たったのですが
それが完成する直前――1996年3月にネットスケープ社が、
マリンバと同じ趣旨の開発をしているネットコードという企業を
買収したことによって事実上マリンバ社としては開発を断念せざ
るを得なかったのです。かくしてマリンバ社としての最初の仕事
は失敗に終わったのです。――[日本のインターネット/55]


≪画像および関連情報≫
 ・米マリンバ社代表講演/2005年のインターネット社会
  ―――――――――――――――――――――――――――
  インターネットは今日、かつての電話がそうであったように
  我々の生活様式に変化をもたらし始めている。現状ではイン
  ターネットを通じて様々なサービスが提供されるというより
  も、パソコンとブラウザを使ったウエブ上のネットサーフィ
  ンが主流だ。しかしながら、今後ますます、ユーザーに提供
  されるサービスは「データ・情報+ソフトウエア+インター
  ネット=サービス」という具合に定義される。
    http://www.nikkei.co.jp/award/97award/frmkouen.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

マリンバ社の4人.jpg
posted by 平野 浩 at 04:53| Comment(0) | TrackBack(0) | インターネットの歴史 Part2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月30日

●マリンバのカスタネットとは何か(EJ第2090号)

 JAVAの重要な欠陥のひとつは「継続性がない」とよくいわ
れます。ロバート・リードはそれを次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ジャバの重大な欠点のひとつは、継続性がないことだ。つまり
 アプレットは処理が終わるか、ユーザーが終了させれば、シス
 テムから消えてなくなり、ハード・ディスクには痕跡も残らな
 い。つまり、必要になるたびにアプレットを取りだしなおさな
 ければならない。また、使いおわった瞬間に消えてしまうアプ
 リケーションを取りだすためにユーザーが待っていられる時間
 には限度があるため、アプレットのサイズと機能性には当然な
 がら限界がある。
            ――ロバート・リード著/山崎洋一訳
   『インターネット激動の1000日』上巻 日経BP社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 これだけ読んだだけでは、大半の人はどういうことを意味して
いるのか、わからないと思います。わかりやすい例でいうと、ユ
―ザがウェブサイトにアクセスすると、そのサイトがJAVAに
対応していると――大半のウェブサイトはJAVAに対応――多
くのアプレットをコンテンツとして自分のPCにダウンロードし
ブラウザでそれを実行させて見ることができます。
 問題はユーザがそのサイトとの接続を切ったとき、ダウンロー
ドされたアプレットがどうなるかですが、それはあとかたなく消
滅してしまう仕組みになっているのです。EJ第2088号でも
述べたように、JAVAアプレットは、ファイルの読み書き機能
はなく、他のプログラムを起動できないうえ、サイトとの接続を
切ると消滅してしまうので、セキュリティは万全なのです。
 このようなJAVAアプレットの機能が「JAVAは継続性が
ない」といわれるゆえんです。これがJAVAの特色であると同
時にそれを製品化しようとするときの大きな欠陥となる――マリ
ンバのスタッフはこれをどう乗り越えるかを考えたのです。
 そういうとき、マリンバのスタッフが「ポイントキャスト」と
いう仕組みを見つけ出してきたのです。ポイントキャストとは、
ウェブサイトとスクリーンセーバーをプラスした仕組みと考えれ
ばわかりやすいと思います。当時としては、先進的な情報配信の
仕組みであるといえます。
 ポイントキャストを組み込んだコンピュータは、ネットにつな
がっているときは、サーバーからニュースなどの最新情報を取り
込み、接続が切られるとオフラインでため込んだ情報を繰り返し
画面に表示して流す仕組みです。
 「ポイントキャストには継続性がある」とスタッフの誰かが叫
んだのです。JAVAでそういう仕組みを作ることに成功すれば
JAVAに継続制を持たせることができる――最初の製品開発で
失敗して、意気消沈したマリンバのスタッフはJAVAの配信と
管理のためのまったく新しい仕組みを作るべく再び意欲に燃えて
取り組んだのです。
 そして、姿をあらわしたのが「カスタネット」というシステム
なのです。後に「マリンバのカスタネット」として有名になるシ
ステムなのです。現在であればほとんどの人は「カスタネット」
という名前を知りませんが、このような仕組みは当たり前になっ
ています。しかし、当時はきわめてユニークだったのです。
 カスタネットの概要を説明します。
 利用者はマリンバの「チューナー」と呼ばれるソフトをダウン
ロードします。ユーザはそのソフトを通じていろいろな情報を提
供するチャンネルを選択して情報提供を受けることになりますが
「チューナー」はユーザの購読するチャンネルを管理する役割を
するのです。
 「チューナー」には、JAVAのコンテンツとプログラム――
コードが詰め込まれているのです。ここから情報提供者が、マリ
ンバの「送信機」であるサーバーを使って、インターネットや企
業のイントラネット全体に情報を送り込む――こういう仕組み全
体が「マリンバのカスタネット」なのです。
 ポイントキャストの場合は、プッシュ型情報配信システムです
が、カスタネットはプッシュ型配信サービスだけでなく、通常の
アプリケーションのようにユーザが呼び出して、さまざまな機能
をこなすものも多く用意してあったのです。
 カスタネットの大きな特色というべきは、チャンネルの基本コ
ードが頻繁に更新されることです。それについてロバート・リー
ドは次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 チャンネルの基本コードはきわめてダイナミックで、毎日、毎
 時間、毎分でも変更できる。チャンネルの送信機から新しいコ
 ―ドが送りこまれると、更新される。更新は頻繁に行っても、
 不定期でもよい。たとえば、ニュース・チャネルでは、ほとん
 どたえまなく新しいニュースが届き、こまかい変更があるが、
 アプリケーション・タイプのチャンネルでは、ソフトのバージ
 ョンアップなどがたまに送られてくるだけかもしれない。ユー
 ザーがネットワークに接続していれば、そのとき使っているか
 どうかに関係なく、チャンネルは適宜、自動的に更新される。
 オフラインの状態でチャンネルを呼び出し、対話することもで
 きるが、コンテンツが多少古い可能性がある。
             ――ロバート・リードの前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 カスタネットは、1996年5月のサンのジャバ・ワン会議で
一部のアナリスト、マスコミ、顧客企業に対して「極秘」を条件
にして、打ち明けられています。
 マリンバは、業界の常套手段を拒否し、準備が整うまで製品を
発表しないという方針をとったのです。このジャバ・ワン会議に
おけるユニークな営業によって、製品のテストを承諾する企業は
20社以上集まったのです。マリンバとしては大きな賭けに出た
のです。        ―― [日本のインターネット/56]


≪画像および関連情報≫
 ・ポイント・キャストとは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ポイントキャスト株式会社は、インターネットを通じてパソ
  コン画面にニュースなどの最新情報を自動的に配信する「ポ
  イントキャストネットワーク日本語版」を16日より開始し
  た。92年2月に米国で開始したプッシュ型情報配信サービ
  スの日本語版だ。なお、広告収入によって運営するため、料
  金は一切無料である。なお、このテストは、このサービスは
  2000年5月になくなっている。
  ―――――――――――――――――――――――――――

ロバート・リード氏.jpg
posted by 平野 浩 at 04:37| Comment(1) | TrackBack(0) | インターネットの歴史 Part2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月31日

●サンの株価を下げたマリンバ(EJ第2091号)

 1996年5月――ジャバ・ワン会議の初日のことですが、サ
ン・マイクロシステムズ社の株価が3.25ドル(時価総額にし
て約6億ドル)も下落したのです。1996年5月といえばJA
VAを発表したサン・ワールド年次会議の1年後です。会場にい
っぱいに詰めかけたJAVA愛好者を迎えて開会式をやっている
まさにそのときに株が下落したのです。
 ウォール・ストリート・ジャーナル誌は、このサンの株価下落
をサンのJAVAチームからポレーゼーらのチームが離脱したこ
とによるものと分析したのです。
 ウォール・ストリート・ジャーナル誌は、ポレーゼーらのチー
ム離脱を離脱直後に報じているのですが、そのときは何の反響も
なかったのです。それはマリンバが1996年1月の会社創設以
来一度も公に出ることはなかったからであると思われるのです。
 マリンバのポレーゼーCEOは、ジャバ・ワンの開始に合わせ
て会場近くのホテルに部屋を取り、そこで極秘を条件として投資
家やマスコミや企業を対象として、製品のアナウンスと製品テス
トの了解を取ったのは昨日お話しした通りです。マリンバの公の
デビューは会社創設以来これが始めてであり、これによってはじ
めて優秀な技術者の離脱を知った投資家が少なくないのです。
 ポレーゼーは、マリンバの資金源としてKP――クライナー・
パーキンスを選んで交渉し、第1回の資金調達を受けています。
KPとは、あのネットスケープ社を支援したジョン・ドーアの率
いるベンチャー・キャピタルです。
 ジョン・ドーアは、マリンバの技術力もさることながら、キム
・ポレーゼーというCEOの能力を高く評価していたのです。ジ
ョン・ドーアのポレーゼー評は次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 技術的にはすぐれているのに、マーケティングでうまく狙いを
 定められずに失敗した企業を見てきた。キムは狙いをうまく定
 めているだけでなく、WWWの行く先を見越したうえでそうし
 ている。               ――ジョン・ドーア
            ――ロバート・リード著/山崎洋一訳
   『インターネット激動の1000日』上巻 日経BP社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 1996年10月7日――カスタネットの公開日です。この日
までマリンバのスタッフはカスタネットの開発で地獄の日々が続
いたといいます。KPの支援を受けたマリンバは、やっと人が雇
えるようになっていたのです。
 公開日である10月17日にはマリンバの製品のことを書いて
よいというマリンバとマスコミとの約束によって、マスコミ側も
かなり準備していたようです。この頃にはマリンバのことは相当
大きな話題となっていたのです。
 リリースの当日の朝です。ポレーゼーは早朝に地元のラジオ局
の電話取材を受けると、すぐCNNスタジオに向かい、そこで生
放送をこなしています。それからシリコン・バレーの大手大衆誌
「レッド・ヘリング誌」の写真撮影をやっています。そして、こ
こで撮影された写真は同誌の1996年12月号の表紙に載って
いるのです。
 それから、ウォール・ストリート・ジャーナル誌とニューヨー
ク・タイムス紙にマリンバとカスタネットの詳しい記事が掲載さ
れたのです。サンノゼ・マーキュリー・ニュース紙もビジネス欄
のトップ記事でマリンバを大きく扱ったのです。
 これによって、サンから独立したJAVAチームであるマリン
バの名前は一躍有名になったのです。リリースから20日間で、
カスタネットのチューナーは5万本がダウンロードされ、好調な
滑り出しをしたのです。この数は、リアルオーディオ・プレーヤ
やネットスケープ・ナビゲータの初期のダウンロードの数と変わ
らない数字なのです。
 これでJAVAとマリンバの話は終わることにします。マリン
バが順調な滑り出しをしてから約10年が経過しています。そし
て現在、マリンバがどうなっているのか、残念ながらわからなく
なっています。
 ネットで「マリンバ」と検索しても、「カスタネット」で検索
しても出てくるのは楽器の説明ばかり。「ボレーゼー」で検索し
ても、ロバート・リードの本とEJブログの記事が出てくるだけ
です。それほど、情報が少ないということです。
 既にマイクロソフトOSの全盛の時代も盛りを過ぎ、グーグル
がITをリードする情勢になっています。そういう激動の10年
の中で消えていったのでしょうか。しかし、長くITと付きあっ
ている人間にとって、キム・ポレーゼーというすぐれた女性の経
営者によるマリンバの名前は忘れられないもののひとつです。
 ロバート・リードは、『インターネット激動の1000日』の
マリンバについての記述の最後に次のように書いています。ちな
みに本書の刊行は1997年5月です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ポレーゼーは、ダンスともちろんだが仕事以外は、さまざまな
 趣味や関心事をほとんど中断せざるを得なくなっている。以前
 のように毎日の生活のなかでバランスをとることをあきらめ、
 数週間や数ヶ月のうちではなく、数年のうちに時間を追ってバ
 ランスをとっていこうと考えている。そのために、「さまざま
 な人生」を送りたいという。シリコン・バレーでジャバの仕事
 をする人生は、そのなかのひとつに過ぎない。この人生が終わ
 ることがあるとすれば、かならずつぎのなにかをはじめるだろ
 う。そのときは彼女はヨーロッパにいるかもしれない。
             ――ロバート・リードの前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 57回にわたって書いてきた「日本におけるインターネットの
歴史」は今回をもって終了させていただきこます。長い間ご愛読
を賜り、厚く御礼申し上げます。明日からは、新しいテーマを取
り上げます。  ―― [日本のインターネット/57/最終回]


≪画像および関連情報≫
 ・「日本におけるインターネットの歴史」について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  今回のテーマは「日本におけるインターネットの歴史」と題
  してはじめましたが、資料が少なく、あまり日本について書
  くことができず、整理上EJブログのタイトルは「インター
  ネットの歴史/2」とさせていただきます。「インターネッ
  トの歴史/1」と合わせて読んでいただければ幸いです。
           http://electronic-journal.seesaa.net/
 ――――――――――――――――――――――――――――

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posted by 平野 浩 at 05:07| Comment(0) | TrackBack(0) | インターネットの歴史 Part2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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