2018年11月28日

●「目撃者をまったく無視した事故調」(EJ第4899号)

 政府の事故調査委員会は、事故の原因を究明し、再発の防止を
はかることにあるはずです。しかし、雫石空中衝突事故のときの
事故調は、全日空機がJ11Lを逸脱して、自衛隊の訓練空域に
侵入していたことを隠蔽するために苦肉の策を講ずる役割を果た
してきたに過ぎません。これは、JAL123便墜落事件の事故
調と一緒です。
 こういうデタラメを暴いた書籍が1973年に出版されている
次の本です。『自衛隊の「犯罪」/雫石事件の真相!』の著者の
佐藤守氏は、とくに技術的な面に多く引用されています。しかし
既にこの本は絶版になっています。
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                  須藤朔/阪本太朗著
   『恐怖の空中接触事故/空の旅は安全か』(圭文社刊)
─────────────────────────────
 作者の1人である須藤朔氏は、1938年に海軍兵学校を卒業
し、マレー沖海戦やシンガポール作戦に参加しています。戦闘機
のプロです。スラバヤ沖海戦で、爆撃中に破弾し、右眼を失明し
ています。もう一人の著者、阪本太朗氏は、第13期海軍飛行予
備学生出身の元海軍中尉で、零銭や水上戦闘機など数機種を乗り
こなしている飛行機操縦のベテランです。
 この2人が注目しているのは目撃者の証言です。雫石事故の事
故調は目撃情報を完全に無視し、検討しなかっといわれます。こ
れは、JAL123便墜落事件でも同様です。もっとも123便
墜落事件の場合の目撃情報は、123便を追尾する2機のファン
トムですが、自衛隊自身が2機のファントムを認めていないので
すから、無視せざるを得なかったといえます。
 しかし、この目撃情報はたくさんあるのです。彼らの目指して
いたのは、全員死亡の「死人に口なし」です。それを青山透子氏
がこつこつと膨大な目撃情報を集めて、JAL123便墜落事件
の真相に迫っているのです。
 須藤朔氏と阪本太朗氏は、雫石事故は晴天の昼間のことであり
多くの目撃情報があるばずと考え、目撃証言を収集し、詳細な分
析チャートを作成しています。須藤朔氏と阪本太朗氏は、目撃情
報について次のように述べています。
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 この事故の場合には多数の目撃者があったが、その大部分は接
触の25秒〜30秒後に高度2万2000フィート(約6700
メートル)で、全日空機が音速の壁にぶちあたって空中分解した
ときの衝撃音を聞いてから空を見上げているから、空中分解地点
の真下にいた目撃者でも分解した破片や白煙のようなものを見た
のは、接触の約45秒以降であって、一分くらいたってから見て
いる者も多い。
 調査報告書添付のフライト・データ・レコーダー記録によると
全日空機の空中分解したときの速度は、マッハ約0・93になっ
ているが、実際にはマッハ1・0になつていて、音の壁に突き当
たって分解した可能性のほうが大きいと考えられる。
                  ──須藤朔/阪本太朗著
     『恐怖の空中接触事故/空の旅は安全か』(圭文社刊)
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 少し専門的なので解説します。目撃情報といっても高度2万2
000フィート(約6700メートル)の上空の話なのです。人
は四六時中空を見上げているわけではないので、衝突の瞬間を見
る可能性は低いです。したがって、目撃情報のほとんどは、何ら
かの衝撃音を聞いて空を見上げてのものなのです。
 しかし、次の中川幸夫氏(当時年少者)は重要です。中川氏は
たまたま野球をやっていて、一塁ベース上で何気なく空を見上げ
たとき、目撃しているのです。
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 目撃者・中川幸夫氏の証言は、「西山中学校校庭の野球グラウ
ンドの一塁ベース付近でたまたま上空を見上げた時、講堂の三角
屋根のすぐ上空に大型機を発見、つづいてその少し西側前方に見
えたキラキラ光った小さな機影と大型機とが接触し、大型機が白
い煙のようなものをふくのを見た」とかなり詳細ですが、須藤氏
は「一塁ベースが固定のものであったことと、講堂の屋根という
固定の補助目標があったことから、かなり精度の高い方位と仰角
(約50度)が得られ、判明している飛行高度とあいまって接触
の概略位置を知るのに役立った」とし、「なお、中川君はこの証
言について、全日空の調査団から面と向かって「ウソを言ってい
る」となじられ、憤慨したことがあるという」と害いています。
証言者が年少だったからとはいえ、その異常な態度は脅迫によ
る口封じ″としか考えられません。  ──佐藤守著/青林堂刊
          『自衛隊の「犯罪」/雫石事件の真相!』
─────────────────────────────
 この中川氏の目撃情報が重要なのは、一塁ベースと講堂の屋根
という2つの固定の補助目標があったことから、かなり精度の高
い方位と仰角が得られ、接触位置をほぼ正確に特定していること
にあります。それによると、「講堂の三角屋根のすぐ上空に大型
機を発見、つづいてその少し西側前方に見えたキラキラ光った小
さな機影と大型機とが接触」と証言しています。つまり、西側前
方の小さな機影(自衛隊機)に大型機(全日空機)が接触──全
日空機が自衛隊機に接触したといっているのです。これに対して
中川氏は全日空の調査団から「ウソをいうな」とクレームをつけ
られています。全日空の調査団は、少年に事実を指摘されてひる
んだのでしょう。
 須藤朔氏と阪本太朗氏は、この中川証言と落下しているさまを
撮った貴重な写真数枚などによって、自衛隊機と全日空機の接触
地点を割り出していますが、事故調の推定位置よりも、約7キロ
メートル西北西の北緯39度44・1分、東経140度52・7
分の自衛隊訓練空域内なのです。まさに決定的証拠です。
         ──[日航機123便墜落の真相/069]

≪画像および関連情報≫
 ●情報の恐ろしさ/雫石事故
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   SA341さんが航空自衛隊F86と全日空B727の衝
  突事故に関して持っておられる情報でF86がぶつけられた
  という表現は妥当では無いという書き込みをされました。
   事故当初の報道やその後の報道を情報として持っているだ
  けではいかに航空関係者とそのように思うのはごく自然なの
  かも知れません。しかし当時事故のまじかで報道に接したり
  一部裁判の内容をじかに本人から聞いたり、本当に少ない自
  衛隊擁護の出版物を見聞きしたりした立場からは、ぶつけら
  れたという表現が本当に自然と出たものです。
   一番の理由でこれは事実なのですが、数値は正確ではあり
  ませんが、B727は400ノット程度、F86Fは350
  ノット程度だったと思いますが、普通に考えれば、F86が
  B2にぶつけることは相当に困難です。
   事故後の機体の残骸から水平直線飛行中のB2の水平尾翼
  が左へ60度バンク中のF86の右主翼の付け根から1メー
  トル付近を後方からぶつかって切ったようなあたり方をした
  ことが証明されています。
   また当てられた同期のIは約3マイル離れた教官機からボ
  ギープルアップとの無線を受けて周りを見渡したときに右後
  方から接近するB2のノーズをまじかに確認し左へ避けよう
  として60度バンクくらいで後ろからぶつけられています。
  この証言は機体の残骸の調査とも整合性があります。また、
  B2ぶつかるまで全く回避操作をした形跡が無いことはフラ
  イトレコーダーの解析から証明されています。
                  https://bit.ly/2QkAJmo
  ───────────────────────────
  ●写真の出典/──佐藤守著/青林堂の前掲書より

雫石空中衝突事故/衝突直後の写真.jpg
雫石空中衝突事故/衝突直後の写真
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2018年11月29日

●「どのようにして衝突に至ったか」(EJ第4900号)

 EJは本号で「4900回」に到達しました。あと約5ヶ月で
「5000号」に到達します。1998年10月15日を第1号
としてスタートし、2018年10月15日で満20年を超えて
21年目に入っています。ここまで、続けられたのは、熱心に読
んでいただいている読者のおかげであり、厚く御礼申し上げる次
第です。今後ともよろしくお願い申し上げます。
 昭和47年(1972年)7月28日付、読売新聞に次のタイ
トルの記事が出ています。(添付ファイル参照)
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                  “ナゾの7秒”を再現
  窓に広がる訓練機/あぶない!衝突「空中衝突最終報告」
          ──1972年7月28日付、読売新聞
─────────────────────────────
 空中衝突から約1年後のことです。この時点で、全日空と防衛
庁の見解は対立しています。かなり長い記事ですが、事故調の主
張の全貌がわかるので、記事を3つに分けて、佐藤守氏のコメン
トを参照にして論評を加えることにします。まず、記事のリード
文の部分です。
─────────────────────────────
 左上方から刻々機影を大きくしてすり寄ってくる自衛隊機。少
なくとも接触7秒前に、この機影を認めた全日空機、川西三郎機
長は、何を考え、どういう行動を取ったのか。昨年7月30日の
全日空機・自衛隊機空中衝突事故の最終報告書が27日、田中首
相に提出されたが、やはり、死者の心理〃を正確にうかがい知
ることはできなかった。この七秒間のナゾ″をめぐって全日空
と防衛庁の見解は、真っ向から対立している。避けられたのか、
避け得なかったのか。真実はひとつしかない。最終報告書に盛り
込まれた全日空機フライト・レコーダー、傍受した管制交信テー
プの分析をもとに、恐怖の一瞬を再現する。
      ──1972年7月28日付/読売新聞/リード文
─────────────────────────────
 リード文の記事では、「自衛隊機は刻々機影を大きくして迫っ
てくる」と表現し、少なくとも「接触7秒前に」全日空機は、こ
の機影を認めていると書いています。つまり、全日空機が自衛隊
機の機影を視認していたことを示しています。これは事故調査報
告書にある表現です。続いて本文です。
─────────────────────────────
 晴天、視程10キロ以上。
 午後1時33分、千歳空港を飛び立った東京行き全日空58便
はジェット・ルート「J11L」に乗り、順調な飛行を続けてい
た。雲ひとつ無い晴天、視程は10キロ以上。飛びなれたコース
に何の不安も無い。が、悪夢のような一瞬は刻々と迫っていた。
接触20秒前、いったんジェット・ルートを横断した自衛隊機は
左旋回を開始していた。その時、教官機の位置は、全日空機の左
29度前方2・5キロ、訓練機は左65度前方1・4キロにあっ
た。「全日空機操縦者にとっては、訓練機は終始、注視野(固視
点を中心とする44度から50度の範囲を言う)の外にあった=
報告書から」 ──1972年7月28日付/読売新聞/本文@
─────────────────────────────
 この記事によると、全日空機は飛行報告書の通り、ジェットル
ートの「J11L」を飛行していて、そのジェットルートを自衛
隊機(訓練機)がいったん横断し、左旋回して迫ってくるように
描いています。
 このさい、教官機は左29度前方2・5キロに見えていたもの
の、訓練機は終始、「注視野」の外にあったと書いています。こ
こで、注視野というのは、医学用語で、顔を動かさず、眼球のみ
を動かして見える範囲のことです。「訓練機は注視野の外」と表
現しているので、見えていないということです。訓練機は左旋回
して全日空機の後方に回り、衝突したといいたいのでしょうか。
─────────────────────────────
 「両機グングン接近」
 全日空機の時速は約902キロ、訓練機は同802キロ。ほぼ
同一方向に飛ぶ両機の間隔はグングン縮まる。接触7秒前。訓練
機の位置は、全日空機から見て左60度前方、その間隔は僅か、
300メートルにせまった。少なくとも、この時、川西機長は左
にやや翼を傾け左旋回姿勢の訓練機を見つけた。「危ない」−−
とっさに操縦カンを握り締めた。こぶしに汗がにじむ。無意識の
うちに左人さし指で交信ボタンを押した。同時に、オート・パイ
ロットのスイッチを切ったに違いない。左第2ウインドーに映る
訓練機の機影はみるみる大きくなる。「接触数秒前までは(略)
訓練機が非定常運動をしているため、全日空機操縦者にとって、
この時点で訓練機の飛行経路を的確に予測することは、困難であ
ったと考えられる=同」   
       ──1972年7月28日付/読売新聞/本文A
─────────────────────────────
 ここで記事は重要なことを述べています。それは、全日空機の
方が、自衛隊機(戦闘機)よりも速いという事実です。そうであ
るとすると、訓練機が左旋回して全日空機の後方に回り、そのう
えで全日空機に衝突することはあり得ないことになります。追い
つかないからです。
 つまり、記事では、全日空機クルーが、訓練機を衝突7秒前か
ら視認していたということをどうしても強調したかったというこ
とになります。まさかクルー3人が食事をしていて、コックピッ
トには誰もいなかったという事実を全日空は隠したかったのでは
ないかとと思われます。もし、本当に自衛隊機を視認していたと
すれば、なぜ回避措置をとらなかったのかということが問題にな
ります。1989年の民事訴訟での控訴審判決では「視認してい
ながら回避措置をとらなかったことの理由の合理性は乏しい」と
断じています。つまり、やはり視認していなかったことが正しい
のです。     ──[日航機123便墜落の真相/070]

≪画像および関連情報≫
 ●空中衝突の別の表現/雫石空中衝突事故
  ───────────────────────────
   岩手県岩手郡雫石町付近上空で、午後2時2分頃、東京方
  向へ190度の磁針度を取って飛行していた全日空58便機
  に、岩手山付近を旋回飛行していた2機の自衛隊機がニアミ
  スした。当時は雲一つない快晴であった。雫石上空で訓練空
  域を太平洋側に変更するために教官機が左に旋回したが、教
  官機よりも16000フィート下を飛行していた訓練生は、
  教官の操縦する機体の追尾に集中していたため、操縦してい
  た自衛隊機(シリアルナンバー92−7932)が接近し、
  衝突の直前に互いに視認した。
   教官は訓練生に対して衝突回避行動を取るように命令、わ
  ずか2秒前(距離500メートル)から実行したが回避する
  には既に手遅れであった。そのうえ旅客機の進行方向に訓練
  生が回避しようとしていたため、自衛隊機に全日空機が、下
  側から追いつく形で28000フィート(約8500メート
  ル)で衝突し、自衛隊訓練生機の右主翼付け根付近に全日空
  機が水平尾翼安定板左先端付近前縁(T字尾翼のため機体の
  最も上の部分であった)を引っかけるような形で接触した。
  そのときの速度は旅客機が900キロメートル/h、自衛隊
  機が840キロメートル/hであった。
                  https://bit.ly/2Qq4cvk
  ───────────────────────────

読売新聞/昭和47年7月28日付早版.jpg
読売新聞/昭和47年7月28日付早版
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2018年11月30日

●「コックピットに操縦者はいたのか」(EJ第4901号)

 ジャンボ旅客機のパイロットという職業をわれわれ日本人は、
他の乗り物──バス、トラック、タクシー、電車、新幹線などの
運転者と一線を画し、特別なもの、よりレベルの高い者と考える
傾向があります。ともに乗客の命を預かる職業でありながら、な
ぜ、ジャンボ機のパイロットだけは特別視されるのでしょうか。
 そのイメージを見事に壊してくれたのは、昨今外国の空港で飲
酒のため相次いで逮捕されている日本人のパイロットです。日本
時間10月29日午前4時にロンドンのヒースロー空港において
日本航空の男性副操縦士が乗務直前、大量の飲酒が発覚して、ロ
ンドン警察に逮捕されています。
 このEJを書いている11月29日の新聞にも日本航空グルー
プの日本エアコミュニケーターのJAC機の機長に基準値の2倍
のアルコール値が検出され、機長が交代するニュースが出ていま
す。何でそんなに酒を飲むのでしょうか。酒でも飲まないとやっ
てられないほど、ひどい勤務環境なのでしょうか。
 それはさておき、佐藤守氏の本にこんな話が出ています。雫石
事故が起きる直前の5月の連休のことですが、ある操縦課程の候
補生が北海道に帰省した帰りに起きたことを佐藤氏に話してくれ
たそうです。その部分を引用します。
─────────────────────────────
 彼はたまたま事故機と同じ時刻で同じ経路の58便に、千歳か
ら羽田まで搭乗したのですが、制服を着用していたため、当該機
操縦者の目に留まったらしく、「何期生か?」と聞き、「俺は○
期だ」と先輩であることを明かし、飛行中の操縦室を見学させて
くれたというのです。
 そこで彼が感心したのが「自動操縦装置」で、操縦者達が操縦
輪を握ることなく「チェス」に興じているのに、飛行機はかっ
てに″水平直線飛行をしている!と感動して私に語ったのです。
 ヘルメットを被り、酸素マスクをつけ、身体を操縦席に縛り
付けられ″、右手は操縦桿、左手はスロットルレバー、足はフッ
トバーから離せない「戦闘機乗り」の玉子″には、手放しで飛
行できるオート・パイロットが、斬新で便利な装置として強く印
象に残ったのも無理はないでしょう。ところが問題はその後の彼
の報告″です。
 ちょうど強い日差しが進行方向のやや右側から差し込んでいた
ので、チェス板に反射してまぶしい。そこで操縦者の一人が、コ
ックピット内に積まれていた週刊誌などの中から新聞紙をとって
広げて窓枠にセロテープで貼り付けたというのです。太陽光線を
さえぎる臨時の「カーテン」ですが、彼は「誰も外を見ていない
のに飛行機は水平飛行をしていた」と感心していました。
                  ──佐藤守著/青林堂刊
          『自衛隊の「犯罪」/雫石事件の真相!』
─────────────────────────────
 パイロットが一番緊張から解放されるのは、航空機が一定の高
度に達し、自動操縦装置に切り換えたときといわれます。しかし
遮光のため窓に新聞紙を貼り、チェスに興じるとは「あぜん」と
しかいう言葉がないです。これは、航空機のパイロットという職
業が一般的に持っているイメージを大きく傷つけるものといわざ
るを得ないと思います。
 そうはいうものの、雫石事故当日の全日空機のクルーの忙しさ
を考えると、午後2時頃にやっと昼食ができるようになったので
すから、「3人一緒に食事しない」はずがない──佐藤守氏はこ
ういっています。こういうときにクルーは、リラックスして、世
間話なんかをするそうです。
 そのパイロットたちの昼食のとり方ですが、自動操縦とはいえ
飛行中ですので、何が起きるかわからないので、普通の感覚なら
操縦席でとるのではないかと考えられます。しかし、操縦クルー
は、そのとき一種のエコノミー症候群の状態になっているので、
自動操縦に切り換えたら、一刻も早く、ヘッドセットとシートベ
ルトを外し、リラックスしたいのです。せめて3人中1人を操縦
席に残せば、何の問題もないのです。しかし、操縦クルーが自動
操縦中にチェスをやっていたことを考えると、コックピットに誰
もいなかったことも十分考えられます。
 佐藤守氏は、ある全国紙の編集委員から聞いた話として、次の
ことを打ち明けています。
─────────────────────────────
 私が広報室長時代に某全国紙の編集委員が、「機長とスチュワ
ーデスは、圧迫死体となって発見されたのだ」と教えてくれたこ
とがありました。自動操縦に切り替えて、食事をしようとした機
長はヘッドセットとシートベルトを外して操縦室を出た。そして
機長は操縦室に隣接したコンパートメントで、スチュワーデスに
コーヒーを入れてもらっていた・・・と彼は推測するのです。
 長時間着座しているクルーは、今でいう「エコノミー症候群」
状態だったでしょうから、身体を伸ばしたくなったでしょうし、
喉を潤したかったのかもしれません・・・。そんなクルーの気持
ちは容易に想像できます。ところがその時に接触し、機体は降下
し始めマイナスGがかかり始める。お茶を入れていたスチュワー
デスは、体が浮く恐怖で機長にすがりつく・・・。そんな光景も
「ありえないことではない」でしょうが、事故調査報告書には、
接触後、操縦室内にいた機長が送信ボタンを押して「緊急事態」
を発したことになっています。
            ──佐藤守著/青林堂刊の前掲書より
─────────────────────────────
 問題なのは、全日空機が、飛行計画書にジェットルートの「J
11L」を申告し、実際は近道の「仙台VOR」を常態的に飛行
していたことです。このルートは詳しい事情はわかりませんが、
当時は航空会社が航空路として登録できないようになっていたよ
うです。VORは「超短波全方向無線標識」のことであり、占領
軍が使っていた航空路ですが、ベテランパイロットはいつもこれ
を使っていたのです。─[日航機123便墜落の真相/071]

≪画像および関連情報≫
 ●絶対に笑えない「泥酔パイロット」の恐怖
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   英ヒースロー空港で日本航空(JAL)の男性副操縦士が
  乗務直前、大量の飲酒が発覚してロンドンの警察に逮捕され
  た。各紙の報道によると、現地の裁判所に対し、副操縦士は
  罪状を認めた。判決は11月29日に下されるというが、イ
  ギリスの法律では最長2年の懲役あるいは罰金、またはその
  両方が科される可能性がある。
   乗客の命を預かるパイロットが酒臭い息を吐きながら旅客
  機を飛ばす。飲酒運航が大事故に結び付き、大勢の命が奪わ
  れたらどうする気だったのか。
   逮捕された副操縦士は日本時間10月29日午前4時に、
  ヒースロー空港を飛び立って東京に向かう便に乗務すること
  になっていた。日航の発表によると、乗務20時間前まで、
  6時間にわたって宿泊先のホテルのラウンジや自室で、赤と
  ロゼのフルボトルワイン計2本と瓶ビール(330ミリリッ
  トル)3本、缶ビール(440ミリリットル)2本を1人で
  飲んだ。ビールだけでも1・8リットルを超える。通常、男
  性の場合、ビール0・5リットル中に含まれるアルコールが
  分解されるのに4時間はかかる。朝まで酔いが残り、ロンド
  ンの警察の呼気検査で基準の10倍以上ものアルコールが検
  出されるのは当然だ。それにしてもよくそこまで飲んだもの
  である。よほどお酒が好きなのか。それとも酒でも飲まなけ
  れば、やってられないような悩みでもあったのか。いずれに
  しても自らを律しなければならないパイロットの職務をどう
  考えているのだろうか。     https://bit.ly/2DRNHBB
  ───────────────────────────

ボーイング727のコックピット.jpg
ボーイング727のコックピット
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2018年12月03日

●「8ミリフィルム/全日空証拠提出」(EJ第4902号)

 全日空機と自衛隊機はどこで衝突したのか──これに関して多
くの疑義があります。法廷においては、全日空機は保護空域内、
すなわち、ジェットルート/J11Lにあって、自衛隊機が訓練
空域を逸脱して、ジェットルートに侵入して衝突したという認定
になっています。
 ところが、東京高裁での民事裁判が接触地点をめぐって暗礁に
乗り上げていたとき、突如として全日空側は、58便の乗客の一
人が接触時まで撮影していたという8ミリフィルムを証拠として
提出してきたのです。昭和56年(1981年)10月20日の
ことです。
 この法廷を正確にいうと、全日空側が国に約43億円の損害賠
償を求めた民事訴訟の控訴審(東京高裁民事十部)の法廷です。
この8ミリフィルムについては、全日空側と防衛省側の双方が鑑
定を行っています。
─────────────────────────────
      全日空側 ・・・・・  国際航業
      防衛省側 ・・・・・ アジア航測
─────────────────────────────
 全日空が分析を依頼した国際航業は、航空測量会社の最大手で
あり、防衛省側のアジア航測は、業界2位の航空測量会社です。
これら双方の分析結果は次のようになっています。
─────────────────────────────
 ◎国際航業の分析結果
  鑑定結果によると、全日空のコースはJ11Lよりも東側
  となり、政府の調査委のコースとも違っている。青森以南
  は画面のほとんどは雲しか写っておらず、解析は不可能。
 ◎アジア航測分析結果
  航跡はJ11Lの西側であり、全日空の分析とは大きく異
  なっている。衝突地点近くまで分析できたのは、「雲の切
  れ間から2ヶ所で、田沢湖が見えた」としたためである。
─────────────────────────────
 この鑑定には、国際航業が2つの大きなミスを犯しています。
 1つは雲だと思って詳しく調べなかったことです。しかし、ア
ジア航測量は、「乗客が単なる雲を撮るはずがない」と考えて、
現像液や印画紙を変えて映像を詳細に分析した結果、雲ではなく
田沢湖だと判明したのです。
 2つは航跡図について計算式にミスがあったことです。これは
きわめてお粗末な話です。ある地図専門の大学教授が国際航業制
作の航跡図のミスを指摘し、正しい計算式で再計算してみたとこ
ろ、防衛省側が主張するコースと重なったのです。
 全日空側は多くの物証を握っており、全日空側に有利な証拠に
なれば提出するが、不利になるものは提出しないというスタンス
だったと考えられます。この8ミリフィルムは有利ということで
提出したものですが、もし田沢湖が写っていたといると、全日空
機の方が航路を逸脱したという防衛庁側を利する証拠になってし
まいます。
 そうであるとすると、全日空機に装備されていなかったとする
CVR(コックピット・ボイス・レコーダー)も実は確保してい
て、提出していなかったのではないかと疑われます。ボイスレコ
ーダーが装備されていなかったとは考えられないからです。
 なお、この8ミリフィルムに基づいてアジア航測が割り出した
コースは、防衛庁が海法鑑定に基づいて主張した「J11L」の
西12キロに沿ったコースにもほぼ一致しているのです。これに
ついて、1985年2月18日付、朝日新聞の「深層・真相」は
次のように書いています。
─────────────────────────────
 こうした動きに対し全日空側は、一転してこのフイルムの証拠
価値に懐疑的な態度を打ち出し、昨年、「高高度の上空から8ミ
リで撮影した場合、画面上の物体は、実際の位置より飛行機に近
づいて写ることが判明した」とする、新たな鑑定書を提出、攻守
ところを変えた形となった。
 全日空側は「8ミリ撮影の場合、実際の位置と画面上の見かけ
位置のズレの程度や、ズレが起きる原因については不明」としつ
つ、「この不思議な現象を防衛庁側が否定する根拠を示すなり、
突破しない限り、いくら詳細な鑑定に基づく航跡推定をしても無
意味。それに田沢湖が写っているか疑問。結局、8ミリフイルム
を利用して正しい航跡を求めるのは無理」と主張している。
 過去にも、遭難機の乗客が残した8ミリフイルムが、事故原因
や航跡解明の手がかりになったことがある。昭和41年3月、富
士山ろくで乱気流に襲われて空中分解し乗客ら124人が死んだ
英国海外航空(BOAC)機事故だ。ただこの時は、数キロ程度
の誤差が責任論争になるケースではなく、厳密な分析はされなか
った。 ──昭和60年2月18日付、朝日新聞「深層・真相」
                  ──佐藤守著/青林堂刊
          『自衛隊の「犯罪」/雫石事件の真相!』
─────────────────────────────
 この全日空の主張は、もはや支離滅裂です。自ら自信を持って
新証拠として法廷に提出した証拠を自ら撤回しようとし、証拠と
しての信用性がないというのですから、これは法廷を冒涜するこ
とになります。
 しかし、もっと不可解なのは裁判所です。8ミリフィルムに田
沢湖が写っていたことが明確になったということは、全日空機は
ジェットルートのJ11Lを逸脱し、自衛隊の訓練空域に入り込
んでいることになり、全日空機の方が自衛隊機に衝突した可能性
が高くなるからです。
 しかし、それでも裁判所は結論を変えようとせず、松島派遣隊
幹部が事故当日にこの問題の訓練空域を臨時に設定したことを問
題にしています。裁判所としては、何が何でもこの事件は自衛隊
側が悪いという結論を動かさないと何か決意のようなものを感じ
ます。      ──[日航機123便墜落の真相/072]

≪画像および関連情報≫
 ●全日空機のコース論争再燃/朝日新聞
  ───────────────────────────
   この事故をめぐる大きな争点の一つが、全日空機の航跡と
  衝突地点。政府の事故調査委貞会(山県昌夫委員長)は47
  年、全日空機は民間機が計器飛行の時に通るジェットルート
  J11Lを管制に従って飛行していた、と判断。衝突地点は
  岩手山の南南西で、同ルートの西約4キロの地点を中心とし
  て、東西1キロ、南北1・5キロの長円の中だったとした。
  J11Lから東西5海里(約九キロ)内は、航空自衛隊が編
  隊飛行の訓練を避けるよう決めており、その制限空域内で起
  きたと認定したわけだ。自衛隊側の事故機を指導していた教
  官は、「制限空域内へ入り、周囲の見張りを怠った」 とし
  て刑事裁判で有罪が確定しているが、刑事裁判での検察、民
  事裁判での全日空側の主張は、この調査結果をベースにして
  いる。
   一方、防衛庁側は、元同庁第三研究所長の海法泰治氏の鑑
  定をよりどころに、全日空機はJ11Lを西に外れたコース
  を取り、衝突地点も、J11Lから約12キロ離れた「制限
  空域外」だったと主張したが、民事、刑事を合わせ、過去4
  回の判決では、全てこの主張は退けられた。民事訴訟の控訴
  審で焦点となっているフイルムは、全日空機の右主翼付近か
  ら乗客が撮影したもので、カラーで約30分問。千歳空港の
  様子から始まり、函館市郊外、青森市の近く、十和田湖など
  が写っている。全日空側によると、事故直後に入手、政府の
  事故調査委貞会に提出したが、詳しい検討の対象とはならな
  かった。      ──佐藤守著/青林堂刊の前掲書より
  ───────────────────────────


田沢湖.jpg
田沢湖
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2018年12月04日

●「8ミリフィルムについての全経緯」(EJ第4903号)

 全日空は、58便の乗客の一人が撮影した8ミリフィルムを事
故当時から10年以上隠していたのです。佐藤守氏の本に8ミリ
フィルムについての経過が出ていますので、見やすいように若干
の整理をして次に示します。ざっと目を通してください。
─────────────────────────────
◎1971(昭和46年)・07・30
 事故発生
◎1974(昭和49年)・01・10
 国際航業者が解析結果を全日空に提出
◎1981(昭和56年)・10・20
 全日空側が、民事訴訟に8ミリフィルムを提出し、その解析結
 果「58便の飛行経路は政府事故調査報告書どおり、J11L
 沿いである」(むしろ東側である)と主張
◎1982(昭和57年)・03・10
 防衛庁、8ミリフィルムを全日空社から借用して複製
◎1982(昭和57年)・03・16
 陸上自衛隊第101測量大隊(地図作成専門部隊)に対して、
 解析を依頼
◎1982(昭和57年)・07・28
 101測量大隊の中間解析結果、飛行経路は函館→仙台VOR
 の線に沿う可能性が強まり、アジア航測社に対し、本格的な解
 析を依頼
◎1982(昭和57年)・08・02
 刑事訴訟において刑事弁護人も8ミリフィルムに関する上申書
 を提出
◎1982(昭和57年)・08・24
 101測量大隊の解析完了
◎1982(昭和57年)・11・30
 アジア航測社の解析、十和田湖上空まで完了
◎1983(昭和58年)・02・22
 防衛庁側、8ミリフィルムの解析結果、全日空機は函館→青森
 →十和田湖上の仙台VOR向けの線上を飛行。FDRとの関係
 から接触地点は訓練空域内とする、全日空機の飛行経路及び接
 触地点に関する準備書面を提出
◎1983(昭和58年)・03・22
 同上陳述
◎1983(昭和58年)・05・19
 刑事訴訟において弁護人が8ミリフィルムの上告趣意の補充書
 を提出
◎1983(昭和58年)・06・14
 民事訴訟において、8ミリフィルムのコピーを証拠として提出
◎1983(昭和58年)・09・22
 刑事裁判で最高裁が自判(隈教官に有罪判決)
◎1985(昭和60年)・01・10
 民事訴訟において、十和田湖以南、田沢湖分について、解析結
 果を準備書面で提出
◎1985(昭和60年)・02・18
 朝日新聞が「深層・真相」欄でこの論争を報じる。
                  ──佐藤守著/青林堂刊
          『自衛隊の「犯罪」/雫石事件の真相!』
─────────────────────────────
 1985年2月18日に朝日新聞は、「深層・真相」欄で8ミ
リフィルム問題を詳しく取り上げたのですが、その結論的部分が
次のように書かれています。
─────────────────────────────
 コース取りがどうであれ、防衛庁側の過失責任は免れない。最
高裁は一昨年9月、事故原因に関して、教官らの個人責任だけを
問うのではなく、事故当日に問題の訓練空域を臨時に設定した松
島派遣隊幹部のずさんさも強く指摘し、民事訴訟での防衛庁側の
立場は厳しくなったとみられている。
 このフイルムがそれをどこまでばん回する材料となりうるか。
一本の8ミリフイルムが巻き起こした「コース論争」は、防衛庁
側、全日空側のメンツの問題もからんで、まだまだ熱く続きそう
だ。  ──昭和60年2月18日付、朝日新聞「深層・真相」
─────────────────────────────
 これは、きわめて不可解です。どうして結論が、こうなるので
しょうか。8ミリフィルムに田沢湖が写っているのであれば、全
日空機がジェットコースJ11Lを西に外れ、自衛隊の訓練空域
に侵入してきていることを示しています。それを「コース取りが
どうであれ、防衛庁側の過失責任は免れない」と書いているので
す。それなら、この記事を書いた意義がなくなるではありません
か。論理が完全に矛盾しています。おそらくこの結論が書かれた
のは、上層部の指示によってそうなったものと思われます。
 そもそもこの雫石空中衝突事故は、刑事と民事を合わせると、
多くの裁判が行われていますが、その判決は相互に矛盾をきたし
ており、整合性がとれないのです。ただ、「自衛隊側が悪い」と
言うことで一貫しているのです。
 とにかく、何が何でも、どんなに矛盾をきたそうとも、ここは
自衛隊、要するに「国が悪い」ということにしないと、全日空自
体がもたないし、十分な賠償金も払えない。それは、結果として
遺族のためにもなることである──そういう論理で、一貫してい
るのです。不謹慎なことではありますが、ある記者は次のような
ことをいっています。
─────────────────────────────
 どうせ賠償金を支出するのは国民の税金だからさ。これで全て
ハッピー、防衛庁はじめ、国側で腹を痛める者は、誰もいないか
らさ。                 ──ある記者の意見
            ──佐藤守著/青林堂刊の前掲書より
─────────────────────────────
         ──[日航機123便墜落の真相/073]

≪画像および関連情報≫
 ●雫石事故機の破片保存 全日空
  ───────────────────────────
   全日空の山元峯生社長は30日、雫石町上空で全日空機と
  自衛隊機が衝突し、全日空機の乗客乗員162人が死亡した
  1971年7月の「雫石事故」の残存機体について、今後破
  棄せずに展示施設を造って、保存していく方針を明らかにし
  た。日航ジャンボ機墜落事故の残存機体は日航が保管してい
  るが、同社は事故原因とされた後部圧力隔壁以外は将来的に
  破棄する方針を固めており、日航と全日空で対応の違いが明
  確になった。
   日航機事故の遺族には保存を望む声も根強く、8月12日
  で事故から20年となるのを前に論議を呼びそうだ。雫石事
  故で回収された機体の破片や部品は現在、全日空内の倉庫に
  保管されているほか、機長の肩章や救命胴衣などが雫石町の
  「慰霊の森」にある施設に展示されている。全日空は、こう
  したものや、当時の新聞記事などを展示する施設を来年3月
  までに造り、主に社員の研修用として公開する。社員から提
  案があったという。遺族や一般への公開は今後検討する。施
  設の場所は、東京都大田区の研修センター内や、港区の本社
  内が候補として挙がっている。山元社長は「事故を風化させ
  ず、社員全体で安全に対して取り組むための展示品と考え、
  実現させたい」と話している。  https://bit.ly/2E0z1QL
  ───────────────────────────

朝日新聞「深層・真相」記事.jpg
朝日新聞「深層・真相」記事
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2018年12月05日

.●「雫石衝突事故の裁判は冤罪である」(EJ第4904号)

 雫石空中衝突事故について、佐藤守氏は、この事故の真因につ
いて、「100%全日空機側の過失である」と断定し、次の3つ
の理由を上げています。
─────────────────────────────
      1.全日空機の見張り義務違反である
      2.全日空機が航路の逸脱をしている
      3.全日空機が航空法違反をしている
─────────────────────────────
 「1」は、「全日空機の見張り義務違反」です。
 B727のクルーは明らかに見張り義務違反を行っています。
もし、見張っていれば、事故は100%回避できたはずです。問
題は、なぜ、見張り義務違反を怠ったかです。
 それは、当日3回目という過酷なフライトにあります。それに
定刻よりも53分も遅れており、操縦クルーは、地上では昼食を
とることができず、28000フィートの巡航速度に達して水平
飛行に移った後に、自動操縦装置に依存して、昼食の準備、もし
くは昼食中だったため、見張り義務に違反したものと考えられま
す。こういう過酷な勤務状況については、会社に対して乗員組合
から改善要求が出されています。
 他の情報によると、当時全日空の操縦クルーは、自動操縦装置
に切り換えた後は、チェスをしたりするなど、見張り義務につい
ての義務意識は薄かったものと考えられます。
 「2」は、「全日空機の航路の逸脱」です。
 全日空58便は、ジェットルートJ11Lを飛行するという飛
行計画書を提出しています。しかし、58便はこの区間に慣れて
いたし、その日3回目の飛行であったので、函館NDB通過後、
近道である仙台VORに針路を取り、自動操縦で漫然と飛行して
自衛隊側の訓練空域に侵入したのです。
 これに関する証拠は、航空自衛隊のBAGDEシステムに残さ
れている航跡と、接触場所の目撃情報、さらに民事裁判に提出さ
れた8ミリフィルムのアジア航測の解析結果など、たくさんあり
ます。どのように考えても全日空機は航路を逸脱しています。
 「3」は、「全日空機の航空法違反」です。
 全日空58便は、申請した航空路を恒常的に無視して別の航空
路をとるという航空法違反を繰り返していた疑いがあります。事
故当日、58便は千歳/羽田間を3往復することになっていまし
たが、朝の「千歳/羽田」と昼の「羽田/千歳」も、いずれも飛
行計画書にはJ11Lを申請していたものの、仙台VORを飛行
していたものと思われます。
 この日本の空の危険について、須藤朔/阪本太朗共著の本では
次のように書かれています。
─────────────────────────────
 昭和51年9月に、全運輸労組が発表した航空黒書『空の安全
を点検する』によって、国内航空3社のパイロットのアンケート
の結果、雫石事故の後でも、「多数の民間旅客機がルートからは
ずれ(やむを得ず、との但し書きがあったが)、防衛庁管轄の訓
練空域や試験空域へ入っていること」「ルートを変えて防衛庁管
轄空域に入る際に、機長がとるべき規定の手続きを知らないパイ
ロットが過半数あったこと」を知ったが、事故以前には、旅客機
のルート逸脱は日常茶飯事と言われていた。
                  ──須藤朔/阪本太朗著
     『恐怖の空中接触事故/空の旅は安全か』/圭文社刊
─────────────────────────────
 佐藤守氏の上記3点の指摘によって、雫石空中衝突事件は、全
面的に全日空側の過失によるものであることは明らかです。佐藤
氏は、次のように結論づけています。
─────────────────────────────
 本裁判は、政府事故調査報告書の不備と、全日空機側の100
%過失によって起きた事故であり、自衛隊操縦者に対する判決は
「無罪」が妥当であり、現状は「冤罪事件」に相当する。
 事故原因が曖昧なまま、行政罰を受けた防衛庁側関係者に対し
て国側は速やかに謝罪・補償し、その名誉を回復しなければなら
ない。なお、本事故の犠牲者に対する補償は、国ではなく、当該
事業者が支払うべきものである。また、民間航空を指導する立場
にあつた運輸省の責任も免れない。  ──佐藤守著/青林堂刊
          『自衛隊の「犯罪」/雫石事件の真相!』
─────────────────────────────
 ところがです。この衝突事故についての刑事における最終判決
は、次のように決着がついています。昭和58年(1983年)
9月22日の最高裁判決です。
─────────────────────────────
  隅太茂津一(教 官) ・・・ 禁固3年執行猶予3年
  市川良美二(訓練生) ・・・ 無罪
─────────────────────────────
 佐藤守氏の本を精読する限り、上記判決は不当そのものであり
この事件は冤罪です。裁判所はあらゆる証拠を踏みにじり、無視
し、最終的には最高裁判官の「自判」という異常な手段をもって
自ら裁判に決着をつけています。本来は、高裁に差し戻すべきと
ころを強引に裁判を終了させたのです。
 雫石空中衝突事故を調べていてわかったことですが、この事故
の14年後に起きたJAL123便事件と、強い関係があること
がわかってきました。確かに、2つの事件は、航空会社も事故の
状況も異なりますが、雫石衝突事故の幕引きが、最終的には、政
府の思い通りの結果になったことで、それが123便の決着にも
影響を与えたものと思われます。
 どちらの事故も、自衛隊出身のパイロットが機長であったこと
に共通性があります。中途半端な時期ですが、今回のテーマはあ
と2回で終了する予定です。その2回において、それについての
真相について述べることにします。
         ──[日航機123便墜落の真相/074]

≪画像および関連情報≫
 ●書評「自衛隊の犯罪 雫石事件の真相」/宮崎正弘氏
  ───────────────────────────
   雫石衝突事件の真実は「自衛隊機に全日空機が追突した」
  悪いのは全日空機だった。全日空機より速度の遅い自衛隊機
  が、追突できる筈がなく報道は非科学的で杜撰。
   若い人には記憶すらないだろうが、評者(宮崎)は、この
  「事件」のことを鮮明に覚えている。第一報は、「全日空機
  に自衛隊機がぶち当たって」、162人が犠牲になったとい
  う。世の中、自衛隊が悪いというヒステリックな大合唱が起
  こった。真実は「自衛隊機に全日空機が追突した」のだ。悪
  いのは全日空機だった。
   そもそも全日空機より速度の遅い自衛隊機が、追突できる
  筈がなく、報道は非科学的で杜撰なものだった。ところが、
  なぜ、こんな誤報がまかり通ったのだろう?
   第1は全日空側の事情。全日空が悪いとなれば倒産は免れ
  なかった。第2に「自衛隊機が悪い」と言った以上、マスコ
  ミはメンツにかけて訂正しなかった。第3は背後に政治が絡
  みつき、ようするに弁護者を持たない自衛隊が冤罪という貧
  乏くじを引かされる。後日、自衛艦「なだしお」に体当たり
  した釣船があった。しかし、これさえも自衛隊が悪いとされ
  た。救急車にぶちあって救急車が悪いとは誰も言わないだろ
  う?しかし東日本大地震で災害救助に出動した自衛隊には悪
  罵を投げかけるマスコミはなかった。問題はむしろ国防の本
  義から逸れて、いつまで自衛隊に現場の瓦礫処理までやらせ
  るのか、ということだった。結論的に言えることは「航空自
  衛隊は情報戦に脆弱である」というポイントである。
                  https://bit.ly/2rg1dYb
  ───────────────────────────

雫石空中衝突事故/場所.jpg
雫石空中衝突事故/場所
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2018年12月06日

●「雫石衝突事故の政治的背景を探る」(EJ第4905号)

 雫石空中墜落事故の政治的背景について考えてみます。事故発
生当時の内閣は佐藤内閣です。佐藤内閣は1964年以来の長期
政権であり、沖縄返還協定調印後に、佐藤首相が引退するのでは
ないかという観測が政界に高まっていて、その後継者争いが激し
くなっていたのです。いわゆる「角福戦争」です。
 1972年7月5日の自民党総裁選挙では、次の2人が次期総
理総裁を目指して出馬し、激突したのです。この前年7月の第3
次佐藤改造内閣発足からの1年間の政権争奪紛争のことを「角福
戦争」と呼んでいます。雫石衝突事故は、まさにその第3次佐藤
改造内閣発足直後の7月30日に起きているのです。
─────────────────────────────
           田中角栄通産大臣
           福田赳夫外務大臣
─────────────────────────────
 この自民党総裁選挙では、田中角栄氏が勝利し、第64代内閣
総理大臣に任命されています。この角福戦争の背景について、古
川隆久氏は次のように書いています。
─────────────────────────────
 佐藤政権で幹事長などをつとめた田中は、高等小学校卒と学歴
こそないが、土建業や土地転売など、違法すれすれの方法まで使
って築いた財力で政界に進出し、議員立法などの手法で精力的に
国土開発政策を推進して実績を積んだ。田中はたたき上げの党人
派だった。又、金力と絶妙の人心掌握で、自民党の政治家はもと
より、エリート官僚たちをも次第に手なずけて政策立案の相談相
手とした。「コンピューター付きブルドーザー」とも呼ばれたゆ
えんである。ただし、資金調達方法では早くから数々の疑惑が取
りざたされていた。
 田中は佐藤派に属していたが、佐藤が、田中を後継者と認めな
かったので、昭和47年5月に佐藤派を分裂させて田中派を結成
し、総裁選に出馬した。手堅い性格の佐藤には、猪突猛進型で金
に関する疑惑のうわさが絶えない田中が危なっかしく見えたよう
だ。佐藤は後継に大蔵官僚出身の福田剋夫を推した。しかし、佐
藤の党内への影響力は前年から既に失われており、田中は豊富な
資金力に物をいわせて、7月5日の自民党総裁選で福田を破って
当選、6日に総理に就任した。   ──古川隆久著/講談社刊
          『昭和戦後史(下)/崩壊する経済大国』
                  ──佐藤守著/青林堂刊
          『自衛隊の「犯罪」/雫石事件の真相!』
─────────────────────────────
 この角福戦争に深く絡んでいるのが「ロッキード事件」です。
 雫石事故が発生し、その直後から自衛隊犯人説が浮上し、まる
でそれにタイミングを合わせるように、事件直後の2日後の8月
2日、増原防衛庁長官が辞任しています。後任には、西村直己氏
が起用されましたが、それにしても何と早い辞任でしょうか。
 1971年8月4日の衆議院運輸・交通安全対策委員会におい
て佐藤首相は、和田耕作民社党議員の「警察庁の調べによると、
自衛隊機の無謀な訓練が原因といわれている」との質問に次のよ
うに答弁しています。
─────────────────────────────
 政府の責任においてお詫びする。議論するつもりはない。訓練
計画そのものは度外れたものではない。民間機も所定の時間通り
に飛んだのなら、事故に遭わなかった。計器飛行でも前方を注視
しなければならん。            ──佐藤栄作首相
            ──佐藤守著/青林堂刊の前掲書より
─────────────────────────────
 重要なのは、佐藤首相が「民間機にも問題がある」と言及して
いることです。これによって、事故直後には自衛隊犯人説が強く
前面に出たものの、自衛隊側の反論もあり、全日空機の落ち度を
指摘する声も、強くなっていたのです。
 この事態を重く見たのは田中角栄氏(当時:通産大臣)である
と佐藤守氏はいうのです。あくまで仮定の話として、次のように
述べています。
─────────────────────────────
 ここで民航機側の失態が判明し、運輸大臣も「辞職」する事態
になっていたら、佐藤内閣は、防衛、運輸の2大臣を失い総辞職
です。そうなれば、後継総理は自動的≠ノ福田氏になる。準備
不足の田中氏は焦ったに違いありません。なんとしてでも運輸大
臣の「辞職」だけは防ぎ、佐藤内閣総辞職の事態を防ぐためにこ
の事件は「自衛隊側の一方的なミス」にして、何とかこの窮地を
切り抜けねばならぬと考えたとしてもおかしくはないでしょう。
 そこで、当時通産大臣だった田中氏が、丹羽運輸大臣を呼び、
「犯人は自衛隊」として処理するように指示したとは考えられな
いでしょうか?     ──佐藤守著/青林堂刊の前掲書より
─────────────────────────────
 事実を調べて行くと全日空機の過失は明らかです。しかし、そ
れを真逆の自衛隊機の過失であることにして、裁判を含め、その
考えを押し通すには、相当の強い権力を持つ人物の力が必要にな
ります。その人物を佐藤守氏は、当時の田中角栄通産大臣てはな
いかといっているのです。
 さらにこの考え方を押し通すには、防衛庁に対して強い発言力
を持つ人物も必要になります。既に事件直後に増原防衛庁長官は
辞任しています。就任したばかりの西村防衛庁長官にそんなこと
はできないでしょう。そうすると、増原長官の前の防衛庁長官で
はないかということになります。
 その防衛庁長官が中曽根康弘氏なのです。中曽根氏はただの防
衛庁長官ではないのです。それまで1959年には科学技術庁長
官を務め、1967年には運輸大臣を経験している実力派の防衛
庁長官です。日本の防衛装備計画について、一家言を持つ人物で
す。当時次の時代の総理大臣候補として、注目を集めていた人物
なのです。    ──[日航機123便墜落の真相/075]

≪画像および関連情報≫
 ●中曽根康弘氏はどのような大臣だったか
  ───────────────────────────
   運輸大臣時代は成田空港問題にかかわり、1968年4月
  6日に友納武人千葉県知事とともに新東京国際空港公団と条
  件賛成派の「用地売り渡しに関する覚書」取り交わしに立ち
  会っている。「札束を積めば農家なんてすぐ土地を売る」と
  反対派の訴えに耳を貸さない政治家が多い中、同年8月9日
  には、自宅にアポなしで訪れた戸村一作ら反対同盟と面会し
  ている。
   防衛庁長官時代には、1970年に防衛庁の事務方で権勢
  を振るっていた海原治が国防会議事務局長として新聞記者と
  の懇談会で防衛計画について批判したことが、3月7日の衆
  議院予算委員会で取り上げられた際に、中曽根は防衛庁長官
  として「事務屋なので政策論を述べる地位ではない。事務局
  長というのは庶務課長、極端にいえば文書を集め、文書を発
  送するお茶汲みに過ぎない」と発言し、海原も出席していた
  議場を騒然とさせた。三島事件を批判する声明を防衛庁長官
  として出したが、三島に近い一部保守系団体や民族派勢力、
  右翼団体などから強く批判された(中曽根は自著の中で「三
  島と親しいように思われていたが深い付き合いがあったわけ
  ではない」と釈明している)。1972年の殖産住宅事件で
  は、株取得で証人喚問される。翌年に脱税容疑で逮捕された
  殖産住宅相互の東郷民安社長は旧制静岡高校時代からの友人
  であったため、親友も見殺しにすると囁かれた。こうして要
  職を経験する中で、いわゆる「三角大福中」の一角として、
  ポスト佐藤の一人とみなされるようになっていった。
          ウィキペディア https://bit.ly/2hxQd6W
  ───────────────────────────

防衛庁長官当時の中曽根康弘氏.png
防衛庁長官当時の中曽根康弘氏
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2018年12月07日

●「2つの事件に関わる中曽根康弘氏」(EJ第4906号)

 中曽根康弘氏の輝かしい経歴と主要な航空機事故を組み合わせ
てみます。
─────────────────────────────
  ◎1966年02月04日/全日空羽田沖事故
  ◎1966年11月13日/全日空松山沖事故
  ★1967年/第2次佐藤改造内閣で運輸大臣
  ★1970年/第3次佐藤内閣で防衛庁長官
  ◎1971年07月30日/雫石空中衝突事故
  △1971年08月15日/ニクソンショック
  ★1982年11月/内閣総理大臣就任
  ◎1985年08月12日/日本航空123便墜落事故
  △1985年09月22日/プラザ合意
       ◎航空機事故/★中曽根氏の人事/△その他
─────────────────────────────
 一見すると、航空機事故と中曽根氏の人事は何の関係もないよ
うに見えます。しかし、中曽根氏は、1966年の全日空の2つ
の航空機事故が起きた後の1967年に運輸大臣に就任している
のです。当時航空機事故は運輸大臣の管轄事項です。当然のこと
ですが、大臣として事故が再発しないよう方策を実施する必要が
あります。これによって中曽根氏には、航空機事故処理の経験が
あることになります。
 そして、それから3年後の1970年、中曽根氏は防衛庁長官
に就任します。運輸大臣を経験したうえでの防衛庁長官です。し
かし、長官をやったのは、1970年1月14日から1971年
7月5日までの約1年半でした。なぜなら、中曽根氏は、第3次
佐藤改造内閣で自民党総務会長に就任し、増原恵吉氏が新しい防
衛庁長官に就任したからです。
 それから、約40日後に雫石空中衝突事故が起きるのです。こ
れを受けて、増原防衛庁長官は直ちに辞任します。もし、中曽根
氏が防衛庁長官を続けていたとしたら、中曽根氏自身が辞任しな
ければならないところです。そういう意味で中曽根氏は、非常に
運がいい人であるということがいえます。
 増原防衛庁長官の辞任によって、西村直己氏が防衛庁長官にな
りますが、ここではっきりしていることがあります。前任の増原
恵吉氏は防衛官僚ではあるものの、着任早々であり、西村直己氏
は警察官僚であり、2人とも長官としての仕事はほとんどしてお
らず、自衛隊の指揮・命令において、力の発揮のしようがないと
いうことです。そうなると、1年半の経験を持つ中曽根氏が、雫
石事故の処理に何らかの関与をしても不思議ではないのです。
 それから14年後に起きた日本航空123便墜落事故のときは
中曽根氏は首相の座にあったのです。時の防衛庁長官は、加藤紘
一氏です。1984年11月の就任ですから、就任から9ヶ月後
に事故が起きたことになります。
 このとき、中曽根氏が自衛隊がらみの雫石空中衝突事故の処理
をした経験を持っていたとするならば、当然加藤防衛庁長官とは
緊密に連絡を取り、何らかの指示をしたものと考えられます。日
本はこのとき、プラザ合意を行い、円高を容認するという決断を
しており、日本経済にとって正念場を迎えていて、中曽根政権に
とってきわめて重要な局面にあったことは確かです。
 これと日本航空123便の処理とはけっして無関係ではないと
思います。そのため、123便事故発生後からの中曽根首相の動
静は、遺族や関係者から見ると、その行動が「冷たい」と感ずる
ほど、極力この事件に直接かかわらないようにしているようにみ
えます。そして最近では123便墜落事故については「墓場まで
持って行く」と漏らしているといわれます。確証こそないものの
いずれにせよ、この事故の処理に中曽根首相が深く関与していた
ことは確かです。
 青山透子氏は、大学の授業の一環として、この123便事故を
取り上げています。図書館で昔の新聞記事を読んで事件の概要を
知り、事件を構成している複数の項目のなかからテーマを選び、
自分自身の言葉で感想を書かせています。
 そのなかから、「首相の一日」と題するテーマを選んだ群馬県
出身の学生Jの意見を要約してご紹介します。
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 ここは有名な別荘地、軽井沢です。ゼミ合宿をした人も多いで
しょう。事故当日、そしてその後も私たちの町や村がもっともつ
らくて大変だった時に、本当ならば一番先に駆け付けるべき人が
ここでテニスをして、プールで泳いでいると新聞に書いてありま
した。それは、この時の総理大臣、中曽根康弘氏でした。
 皆さんは注目して見なかったかもしれませんが、新開の一面の
裏に、ほらここに小さく、どの新聞にも「首相の一日」というの
があります。他の新聞では「首相の動静」「首相日々」などとい
うコーナーで、その日の前日、首相が会った人や移動などの動き
が書いてあります。うちらの地元新聞の上毛新聞では、なんせこ
の人の地元選挙区なので、親しみを込めて「中曽根さんの一日」
というコーナーです。
 私は事故前後の首相の動きと、その後いつ事故現場に行ったの
か調べてみました。結局中曽根さんが来たのは、事故から3ヶ月
後の11月4日でした。遅くなつた理由は「群馬県警から警備が
大変だから後にしてくれと言われた」というものでした。そんな
理由ってありますか?茶番劇を見るようだと言って地元のみんな
は、息子の選挙が近くなったから、仕方なく来たのだろうって冷
ややかに言っていました。   ──青山透子著/河出書房新社
   「日航123便墜落/疑惑のはじまり/天空の星たちへ」
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 2018年8月20日から書き始めた今回のテーマは、本日で
終了します。雫石衝突事故と日本航空123便事故は、中曽根康
弘氏という人物でつながっていると私は思います。長きにわたり
ご愛読を賜りましたことを御礼申し上げます。
     ──[日航機123便墜落の真相/076/最終回]

≪画像および関連情報≫
 ●青山透子先生が学生たちに与えた課題
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   航空業界事情について、航空関連の新聞の切り抜きをもと
  にしたいくつもの講義の中、早速私は学生たちに新たなレポ
  ート課題を出した。
   @1985年の日航123便事故当時の新聞を図書館で調
  べて事実関係や事故の詳細を知り、自分の言葉で要旨をまと
  めること。
   A多くの記事の中で一番心に残った記事を選び、それに対
  する感想および自分の意見。さらにこれから航空業界で働き
  たいと思っている自分が就職した場合、航空会社はどうある
  べきか、どういう意識の中で働くことが重要かということを
  書く。新聞記事のコピーを添付して自分の言葉で書くこと。
  事故を知る身近な人たちへのインタビューが出来ればそれも
  加えること。インターネット上の文章をコピーすることは絶
  対不可で、自分で図書館へ通って調べること。
   以上を伝えた時、どよめきが起きたことを覚えている。1
  985年は学生にとって自分が生まれたばかりの頃で、遠い
  昔の話である。その時起きた大事故について書かれた記事は
  膨大であり、それをすべて調べるとは大変な作業だというの
  が単純な理由だ。特に、まったく新聞を読まない、読む癖の
  ついていない学生がこのところ増えている現実を見ると、ど
  うも新聞言葉が読み難いらしく、馴染まない子が多い。日本
  語の乱れというよりも、あの細かい字でびっしり書かれた文
  字にアレルギー的反応が出るようである。
         ──青山透子著/河出書房新社の前掲書より
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中曽根康弘元首相.jpg
中曽根康弘元首相
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(0) | 日航機123便墜落の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする