2018年08月20日

●「日航123便事故は終っていない」(EJ第4831号)

 今から33年前の1985年8月12日、日航ジャンボ機12
3便(ボーイング747登録機体番号JA8119)が、羽田空
港から大阪伊丹空港に向う途中、突発的な非常事態に陥り、群馬
県多野郡上野村の山中に墜落し、乗客乗員520人が亡くなると
いう痛ましい事故が起きています。「日航ジャンボ機123便御
巣鷹山墜落事故」です。今年は、亡くなった乗客乗員520人の
33回忌に当たる年です。
 古くからのEJの読者はご存知のことですが、EJでは既に2
回にわたって、この墜落事故をテーマとして取り上げています。
次の2回です。
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  第1回:1999年05月07日/EJ第0132号〜
      1999年05月25日/EJ第0144号
           「御巣鷹山/JAL123便遭難」
  第2回:2003年02月24日/EJ第1051号〜
      2003年04月04日/EJ第1079号
          「再現/御巣鷹山飛行機事故の真相」
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 EJは基本的には「メールマガジン」です。テーマを決めて複
数回連載する独特のスタイルのメールマガジンです。1998年
10月15日を第1号としてスタートし、20年かけて、本日の
EJ第4831号まで、営業日に毎日書いてきております。
 現在、EJは同じコンテンツを毎日ブログにアップロードして
いますが、それはブログ自体が登場した2005年以降のことで
あり、上記の2回のテーマはブログには掲載されておりません。
 そこで本日のEJ第4831号より、三度このテーマに挑戦し
その真相に迫ってみようと思います。なぜなら、新事実が続々と
出てきているからです。具体的には、新事実とは、元日本航空国
際線客室乗務員で、国内線時代には、事故機のクルーと同じグル
ープで乗務していた青山透子氏による次の3冊の著作です。
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                青山透子著/河出書房新社
 『日航123便/撃墜の新事実/目撃証言から真相に迫る』
          ──2017年10月11日/第10刷
                青山透子著/河出書房新社
  『日航123便墜落/疑惑のはじまり/天空の星たちへ』
              ──2018年5月30日初版
                青山透子著/河出書房新社
         『日航123便墜落/遺物は真相を語る』
              ──2018年7月30日初版
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 これらの青山氏の本は、とてもよく売れており、2017年発
売の最初の本は、実に10刷を数えています。大ベストセラーズ
です。墜落事故発生から33年も経っているのに、なぜ、これほ
ど、関心が高いのでしょうか。
 それは、日航機123便の墜落に自衛隊が深くかかわっている
とみられるからです。このことは、1999年にEJが指摘して
います。1999年5月7日のEJ第132号で、「御巣鷹山/
JAL123便遭難」を取り上げるとき、私は次のように書き始
めています。
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 今日から取り上げるテーマは、私自身がまだ半信半疑に思っ
 ているものです。何度かEJで取り上げようと思ったのです
 が、見送ってきたテーマです。テーマの内容は「御巣鷹山/
 JAL123便遭難」です。
    ──1999年05月07日/EJ第0132号より
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 私がこの墜落事故に関心を持ったのは、よく通っている池袋の
ジュンク堂(現・丸善ジュンク堂)で、次の本を発見し、購入し
て読んだからです。
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                   池田昌昭著/文芸社
  『JAL123便墜落事故真相解明/御巣鷹山ファイル』
             ──1998年01月25日初版
                   池田昌昭著/文芸社
『JAL123便は自衛隊が撃墜した/御巣鷹山ファイル2』
              ──1998年9月10日初版
                   池田昌昭著/文芸社
  『JAL123便空白の14時間/御巣鷹山ファイル3』
              ──1999年4月10日初版
─────────────────────────────
 青山透子氏の本もそうですが、池田昌昭氏の本も3冊続けて出
版されているということは本が売れている証拠です。多くの国民
が関心を持っているということです。これらの本のなかには多く
の新事実がありますが、国土交通省運輸安全委員会は、そんなこ
とは「陰謀論」であるとして、再調査に動こうとしなかったので
す。そして32年が経過し、またしても、基本的には池田昌昭氏
の主張に近い青山透子氏の本が出版されたのです。つまり、33
年経っても真相は何も解明されていないのです。
 明日のEJから、こつこつとEJスタイルで真相を究明してい
きたいと考えています。青山透子氏の本だけでも800ページ近
いですが、全ページ、しっかりと読み込んで原因を究明したいと
考えています。本には多くの人々の貴重な証言が掲載されている
からです。この墜落事故で亡くなった人々の33回忌の弔いのた
めにも。タイトルは次のようにします。
─────────────────────────────
  新事実を手がかりに三度探る日航機123便墜落の真相
  ──なぜいつまで経っても疑惑が消えないのか──
─────────────────────────────
         ──[日航機123便墜落の真相/001]

≪画像および関連情報≫
 ●青山透子氏の本の書評/読書日記
  ───────────────────────────
   他の本を探していて、ふと目について、思わず買ってしま
  った本。8月12日が近づいたある日、大型書店で別の本を
  探していて、偶然、本書に出会った。そうだ、もうすぐあの
  日がやってくる、と、本書を手に取った。帰りの電車の中で
  読みはじめ、帰ってからもベッドの中で読み続けた。いっき
  に読み終えた。
   あの日、大事故は、僕のすぐそばをかすめていった。あの
  日の夕方、成田からニューヨークに飛ぶはずだった飛行機が
  故障で飛ばず、旅行会社からはツアーが中止になる可能性が
  あると伝えられた。もし中止なら、その日の夕方の便で大阪
  に戻ることになっていた。午後遅く、翌日の便が確保できて
  1日遅れの出発になった。空港近くのホテルに泊まった。移
  動やツアーのメンバーとの食事でホテルに入るのが遅くなっ
  た。事故のニュースを見て、慌てて自宅に連絡すると「夕方
  の便で帰るかもしれないって言ってたから、あの飛行機に乗
  ってるかもって、みんなすごく心配した。なんでもっと早く
  連絡くれなかったのよ!とこっぴどく叱られた。ひょっとし
  たら、成田から羽田に移動して日航123便に乗っていたか
  もしれない。あの事故は、僕にとっても忘れられない大きな
  出来事になっている。      https://bit.ly/2L2gh36
  ───────────────────────────

日航123便と同型機/ボーイング747.jpg
日航123便と同型機/ボーイング747
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(3) | 日航機123便墜落の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月21日

●「そのとき機内で何が起きていたか」(EJ第4832号)

 33年も前のことですから、JAL123便がどのようにして
事故発生に至ったのか忘れている人も多いと思うので、時系列的
にまとめておきます。これは、8月12日午後7時頃から、13
日過ぎまでに、メディアで伝えられた最初の情報です。
 1985年8月12日(日)の午後6時の羽田空港レポートを
見ると、好天・気温29度・南西の風8メートル、すべての離発
着機において、良好なコンディションと記録されています。この
時刻において、空港周辺に雷雲の発生や乱気流の発生は報告され
ておらず、天候による事故の予兆はまったくなかったのです。
─────────────────────────────
◎18時04分:JAL123便、18番スポットを離れる。
◎18時12分20秒:離陸。JAL123便は東京湾を横断し
 千葉県木更津の航空標識をチェック。右旋回し、機首を東南か
 ら南に向けて上昇を続け、館山にある航空標識手前で羽田と交
 信。「行ってまいります」と告げ、続けて、所沢の東京航空管
 制部の管理下に入る。機は同管制部と交信。
◎18時17分頃:「現在位置から、シーパーチへ直行したい」
 と要求。
◎18時19分頃:同管制部の許可を受ける。
◎18時24分頃:「ドーン」と大音響を発す。離陸から12分
 が経過したあたり、場所は大島と伊豆半島の中間、相模湾上で
 ある。
◎18時25分頃:大島の西20海里(約37キロ)を飛行中。
 24、000フィートから、22、000フィートに降下した
 い。大島へレーダー誘導を頼む。
◎ほぼ同時刻:「スコーク77」発信。
◎18時31分頃:東京管制部が、名古屋への着陸が可能か尋ね
 るが、羽田に帰りたいと答える。
◎18時41分頃:右側最後部ドア(R5)に異常あり、との連
 絡を日航オペレーションセンターに交信。
◎18時54分頃:「操縦不能」の通報。「自機の位置がわから
 ない」の問いに管制部は、羽田の西北83キロ、熊谷の西46
 キロと伝える。
◎18時55分頃:管制部より、羽田、横田とも緊急着陸の準備
 完了、いつでもアプローチを開始してよい、と伝えたが、応答
 なし。
◎18時56分頃:羽田、所沢両レーダーかに機影消える。
       ──角田四郎著『疑惑/JAL123便墜落事故
      /このままでは520柱は瞑れない』/早稲田出版
─────────────────────────────
 角田四郎氏は、フリーライターですが、山岳関係には詳しいも
のの、航空の専門家ではないのです。ただ、親友の恋人だった日
航のスチュワーデスがJAL123便の事故に遭遇し、亡くなっ
たことから、事故原因究明に8年かけて取り組み、前掲書をまと
めておられます。大変な労作です。
 専門用語について、説明が必要であると思います。「シーパー
チ」とは何でしょうか。
 「シーパーチ」とは「非義務・位置通過点」という意味です。
本来であれば、館山ポイントを通過することになっているが、そ
れをカットし、シーパーチに行くということはよくあることであ
り、その許可を求めたものです。これは、事故には何の関係もな
いことです。
 問題は「スコーク77」です。これは、緊急事態の発生を告げ
る信号です。これについて、角田四郎氏は次のように解説してい
ます。
─────────────────────────────
 「スコーク77」という聞きなれない言葉がある。緊急事態発
生を告げる「国際救難信号」で別名「7700」とも称されてい
る。つまり空のSOSである。これはあくまで「信号」で音声で
はない。この信号がオンにされると、周辺の全てのレーダー画面
に「E・M・G」この3文字が点滅する。あらかじめ情報入力し
てあるATCのレーダー画面には、それを発信した機名も同時に
表示される。つまり「E・M・G・JAL123」である。E・
M・Gはエマージェンシーの略号である。さらにATCではレー
ダーを監視する管制官のヘッドホンに「ピーッ」という警報音が
鳴る。このとき同一空域にある全ての航空機はATCの監督下に
置かれ、自由な航行は一切禁止されてしまう。それだけに、この
信号の使用は慎重の上にも慎重を期すことを求められている、重
大緊急事態を告げる信号である。 ──角田四郎著の前掲書より
─────────────────────────────
 このように、航空機が「スコーク77(7700)」を発信す
るのはよくよくのことなのです。しかし、気味の悪いことがあり
ます。ちょうど、1年前の2017年8月12日のことですが、
羽田空港発/伊丹空港行きのANA37便が、離陸直後の相模湾
付近で「スコーク77」を発信したのです。さいわい、羽田空港
に緊急着陸できたのですが、日付といい、行き先といい、「スコ
ーク77」を発信した場所といい、JAL123便とそっくりで
す。しかし、これはあまり知られていない出来事です。
 なお、「スコーク77」は、「7700」といいますが、連番
の信号に次のものがあります。
─────────────────────────────
       7500 ・・・ ハイジャック
       7600 ・・・  通信機故障
       7700 ・・・ 緊急事態発生
─────────────────────────────
 問題は、JAL123便は、なぜ「スコーク77」を発信した
かです。そのとき、機内では一体何が起きていたのでしょうか。
手かがりは十分あります。なぜなら、JAL123便の事故には
奇跡的に4人の生存者がいたからです。
         ──[日航機123便墜落の真相/002]

≪画像および関連情報≫
 ●速すぎる「スコーク77」
  ───────────────────────────
   長い123便の情報を集めてきて、いまだに私の中で解消
  できていない疑問が大きく二つあります。ひとつは衝撃音が
  あったときに、キャビンではベルト着用のサインが点灯して
  いたのか?それとも点灯していなかったのか?そしてもうひ
  とつ最大の疑問は「スコーク77」発令のタイミングです。
   スコーク77は、航空機における最高度の国際救難信号で
  す。スコーク77を発した航空機には無線・航路・滑走路の
  全てにおいて優先権が与えられます。もちろん自衛隊・米軍
  においても同様で、最優先で救援のための手段が検討されま
  す。周囲の航空全てに影響のある、非常に重大なステータス
  と言えます。
   それゆえ、スコーク77は簡単に発令できるものではあり
  ません。発信には、手順とチェックリストが用意されていま
  す。伝聞になりますが、手順にしたがってチェックリストを
  消化した場合、通常でも2〜3分、どんなに急いでも1分は
  かかってしまうそうです。そこで、発表されている123便
  のボイスレコーダー記録を見てみましょう。機長によるスコ
  ーク77の発令が18時24分42秒、副操縦士による復唱
  が18時24分47秒となっています。衝撃音が18時24
  分35〜36秒とされてますから、衝撃音から機長による発
  令までが7秒、副操縦士の復唱までが11秒しかかかってい
  ないことになります。もちろんこの時点では、機体はほぼ操
  縦不能の状態に陥っているのですが、クルーたちはその事実
  をまだ知りません。知っているのは衝撃音とそれに伴うGの
  変化のみ、減圧の体感もありません。チェックリストを無視
  する理由は見つかりません。この状況を、いったいどう判断
  すればいいのでしょうか。    https://bit.ly/2PhvsZs
  ───────────────────────────

JAL123便と酷似しているANA37便.jpg
JAL123便と酷似しているANA37便
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(1) | 日航機123便墜落の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月22日

●「ドドーンという衝撃音は何の音か」(EJ第4833号)

 JAL123便が羽田空港を離陸したのは18時12分のこと
ですが、それから12分後に機内には何らかの異常が発生してい
るのです。場所は、大島と伊豆半島の中間の相模湾上です。普通
飛行機はこの場所に来ると、徐々に水平飛行に移っており、それ
以前にシートベルトサインは「オフ」になっていたはずです。
 それを裏付けるのが、生存者の川上慶子さんの証言です。その
とき客室担当が、お子様向けの飛行機のおもちゃやぬいぐるみや
人形を配っており、川上さんはそれを受け取っていたからです。
時間は18時20分頃と推定されます。そのとき、シートベルト
は「オフ」になっていたはずです。また、その時間帯に通路から
窓の外を撮ったとみられる写真も遺されています。
 しかし、その数分後に、シートベルト「オン」の指示が出てい
るようなのです。青山氏の本に、その時間帯のボイスレコーダー
のやり取りが出ています。
─────────────────────────────
◎18時24分12秒:スチュワーデス「(・・・)たいとおっ
 しゃる方がいらっしゃるんですが、よろしいでしょうか。
◎18時24秒15秒:副操縦士「気を付けて」(極度の緊張状
 態を記録)
◎18時24秒16秒:航空機関士「じゃ気を付けて、お願いし
 ます」
◎18時24分17秒:副操縦士「手早く」
◎18時24分18秒:航空機関士「気を付けてください」
◎18時24分35秒:ドドーンという衝撃音。Eコンパートメ
 ントでは「パーン」という高めの音
               ──青山透子著/河出書房新社
  『日航123便/撃墜の新事実/目撃証言から真相に迫る』
─────────────────────────────
 スチュワーデスの「(・・・)」は容易に想像ができます。こ
のとき、シートベルト「オン」の指示が出ており、トイレに行こ
うとする乗客がいたので、キャプテンに客室からのインターホン
のコールで許可を求めたのです。「トイレに行きたいとおっしゃ
る方がいらっしゃるんですが・・」となります。
 しかし、異常なのは、それに対する副操縦士と航空機関士の対
応の方です。しかも、副操縦士の音声は極度の緊張状態にあった
というのです。そのとき、コックピット内では、何が起きていた
のでしょうか。
 問題は、18時24分35秒に起きた「ドドーンドン」あるい
は「パーン」という衝撃音です。これは、一体何の音だったので
しょうか。
 この衝撃音がどの程度のものであったかについて、JAL12
3便墜落事故での4人の生存者の一人である落合由美氏の発言を
青山透子氏は次のように紹介しています。
─────────────────────────────
 機体の最後尾Eコンパートメント56Cに座っていた非番の客
室乗務員の落合由美AS(アシスタント・パーサー26歳/生存
者)は、かなり大きなバーンという高めの音を聞いたと証言して
いる。ピストルを撃ったように響く音だったという。自分の席の
後ろの天井あたり(機首に向かって左側後部側面上部、最後尾ト
イレ付近の壁上部)から聞こえたように思ったが、振動は感じず
揺れもなかったと記憶している。酸素マスクが自動的に落ち、録
音されたアナウンスが自動的に「ただ今緊急降下中」と流れたが
耳は多少詰まった感じで痛くなく、それほどの急降下は体に感じ
ていなかった。一瞬白い霧が発生したが、まもなく消えた。ハッ
トラックという頭上の荷物収納扉が開くこともなく、機体の揺れ
はほとんど感じなかったため、各スチュワーデスたちは持ち場の
お客様の様子を確認し、酸素マスクをつける手伝いをしながら、
通路を歩いていたことが遺族提供の写真からもわかる。
                ──青山透子著の前掲書より
─────────────────────────────
 1985年8月15日付、朝日新聞掲載の日航発表の「落合証
言」では次のようになっています。これは、救出20時間後に重
体の落合氏を見舞った日航重役2名が、面会談をメモしたものが
ベースになっています。
─────────────────────────────
 私は56Cの座席で雑誌を読んでいた。回りの状況はいつもと
変わりなかったが、(離陸から13分後の)午後6時25分ごろ
「パーン」という音が上の方でした。そして耳が痛くなった。ド
アが飛んだかどうかはわからない。
 床下やその他で、爆発音は聞えなかった。同時にキャビン(客
室)内が真っ白になり、キャビンクルーシート(客室乗務員用座
席)の下のベントホール(差圧調整口)が開く。床は持ちあがら
なかった。ラバトリー(便所)上部の天井もはずれた。同時に酸
素マスクがドロップ。プリレコーデット・アナウンス(あらかじ
め録音された緊急放送)が流れ出した。この時ベルトサインは消
えていなかったと思う。
       ──角田四郎著『疑惑/JAL123便墜落事故
      /このままでは520柱は瞑れない』/早稲田出版
─────────────────────────────
 落合由美氏は、骨盤骨折、左上腕と前腕骨折、全身擦傷の重傷
で、多野総合病院で手術しています。日航の幹部としては、自社
の社員であり、事故の内容を知るもっとも相応しい生存者です。
そのため、救出20時間後であるにもかかわらず、かなり強引に
面会してメモをとったのですが、それを一部の記者に知られ、日
航側がやむなく公表したものです。
 この報道によって、警察、事故調査委員会の事情聴取も拒めな
くなり、30分ずつの事情聴取を病院側は許しています。なお、
落合氏は後日もっと詳細なレポートを出していますが、それにつ
いては、後日ご紹介することにします。
         ──[日航機123便墜落の真相/003]

≪画像および関連情報≫
 ●日航123便はなぜ墜落したのか(森永卓郎)
  ───────────────────────────
   ニュース番組にかかわるようになって20年以上、私の心
  のなかには、もやもやした疑問がずっとつきまとってきた。
  それは日本航空123便の墜落原因だ。1985年8月12
  日、18時12分に、大阪に向けて羽田空港を飛び立った日
  航123便は同日18時56分に御巣鷹の尾根に墜落した。
  乗客乗員524人中、520人が死亡するという、一機では
  世界最大の航空機事故となった。
   事故の原因は、その後の運輸省の調査で、機体後部の圧力
  隔壁が破損し、そのときの圧力で尾翼の一部が吹き飛んで、
  油圧装置も破壊され、そのことで機体のコントロールが不可
  能になったことだとされた。機体は、過去に伊丹空港で尻も
  ち事故を起こしており、そのときに破損した圧力隔壁をボー
  イング社が修理した際、十分な強度を持たない方法で行った
  ため、それが破損につながったとされたのだ。いまでも、こ
  の公式見解は一切変更されていない。
   しかし、この事故原因に関しては、当初から様々な疑念が
  呈されてきた。例えば、圧力隔壁が破損すれば、急減圧で機
  内に濃い霧が発生する。それは、過去の機体破損の事故で共
  通して起きている。しかし、123便では、薄い霧は発生し
  ているものの、機内が見通せなくなるほどの霧は、発生して
  いないのだ。          https://bit.ly/2w2TvlU
  ───────────────────────────

酸素マスクの下りてきたJAL123便機内.jpg
酸素マスクの下りてきたJAL123便機内
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(0) | 日航機123便墜落の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月23日

●「事故調の最終結論『隔壁破壊説』」(EJ第4834号)

 JAL123便機内での18時24分35秒の「ドドーン」と
いう衝撃音の正体は何なのでしょうか。
 その正体こそが問題なのです。JAL123便は、何かによっ
て尾翼が破壊させられたことが原因で、墜落することになったの
です。飛行機の尾翼には垂直尾翼と水平尾翼があります。そのう
ち、垂直尾翼が破壊されたのです。垂直尾翼が破壊されると、飛
行機はどうなるのでしょうか。
 これについて、あのハドソン川の奇跡を成し遂げた元USエア
ウェイズ機長、チェスリー・サレンバーガー氏は次のようにコメ
ントしています。元共同通信社記者、堀越豊裕氏による電話での
インタビューのさいの発言です。
─────────────────────────────
H:日航機事故は知っていたか。
S:もちろん知っていた。日本の運輸省航空事故調査委員会(事
  故調)の調査報告書が指摘した(修理ミスの)事実も把握し
  ている。
H:日航機は生還できたと思うか。
S:ノー。ひとたび垂直尾翼がなくなれば、飛行機は安定性を失
  う。尾翼を失い、油圧を失った機体の操縦は本当に難しい。
H:日航機は海への不時着を目指すべきだったか。
S:尾翼も油圧もない状態で、機長ら乗員が自分たちの不時着し
  たいと思った場所に向かえたかは疑問だ。われわれの場合、
  高度は低く、両エンジンの推進力が完全に消え、状況判断と
  決断のために残された時間もほとんどないという究極の状態
  だったが、それでも操縦機能は完全に残っていた。
           H=堀越豊裕氏/S=サレンバーガー氏
      ──堀越豊裕著『日航機123便墜落最後の証言』
                    平凡社新書/885
─────────────────────────────
 サレンバーガー元機長もいうように、飛行機は垂直尾翼を失っ
たら、終わりなのです。そうであるからこそ、垂直尾翼は頑丈に
作られており、ちょっとやそっとの衝撃では壊れないようにでき
ています。それを破壊したものとは何でしょうか。
 これには、内部説と外部説があります。内部で何かが爆発し、
それによって垂直尾翼が破壊されたか、飛行機の外部で、何らか
の飛行物体と衝突したかのいずれかです。
 当時の運輸省事故調査委員会(事故調)は、内部説の「隔壁破
壊説」をとっています。「隔壁破壊」とは何でしょうか。
 高々度を飛行する現代の航空機に不可欠なのは「与圧」です。
与圧とは、例えば、航空機の内部を一定の気圧に保つことをいい
ます。航空機の機内を地上と同じ一気圧にして上空を飛行するの
です。この状態は、上空の気圧に比べると、大きな圧力差が生ず
ることになります。
 地上で、風船のなかにいるようなもので、ちょっとでも穴が開
けば、なかの高圧空気は一気に外に流出します。すなわち、急減
圧が起こり、内外圧力差が一瞬で消滅するのです。これを「急減
圧」といいます。
 事故調は、何らかの原因でJAL123便の機内で急減圧が起
こり、その勢いで「後部隔壁」を壊し、垂直尾翼を破壊したと結
論づけているのです。1985年8月16日付けの東京新聞夕刊
は、次のように報道しています。
─────────────────────────────
 回収物の外板が内側から圧力を受けたように外側にめくれ上が
るようにわん曲している部分があった。このため調査関係者は客
室内の空気が、客室後部トイレ天井付近に生じた亀裂から、垂直
尾翼、テールコーン(胴体最後尾)などの非与圧部に爆発的に流
れ込み、垂直尾翼などが一瞬に膨張、圧力に耐え切れず風船が破
裂するように破壊されたとの見方を強めている。(中略)このた
め事故調査委員会など調査当局は、空気が流出したとみられる胴
体後部天井付近や後部隔壁などの破壊の跡を調べることにしてい
る。       ──1985年8月16日付、東京新聞夕刊
       ──角田四郎著『疑惑/JAL123便墜落事故
      /このままでは520柱は瞑れない』/早稲田出版
─────────────────────────────
 後日、事故調は、上記内容を事故原因として認め、「隔壁破壊
説」を公式に認めています。事故調の報告は、次のように3回に
わたって行われています。
─────────────────────────────
    ◎第1次中間報告書/1985年8月27日
    ◎第2次中間報告書/1985年9月14日
    ◎事故調最終報告書/1987年6月19日
─────────────────────────────
 実は、事故調の第1次中間報告書が出た10日後にニューヨー
ク・タイムズ紙が、同機がしりもち事故発生後に、ボーイング社
による修理ミスがあったという米国のNTSB(国家運輸安全委
員会)の見解を報道しています。それは、まるで日米で計算した
かのようなタイミングで行われているのです。これによって、日
本国内の報道は、墜落の原因は、一斉に修理ミスによる隔壁破壊
説に傾いていったのです。
 そして、1987年6月19日の事故調の最終報告書では、ボ
ーイング社が修理ミスが原因で、後部圧力隔壁に疲労亀裂が生じ
て破壊され、それに伴う急減圧が生じたことで、、垂直尾翼のな
かを突風が吹いて、尾翼を吹き飛ばしたことが墜落の原因である
と結論づけています。
 その後、多くの新事実が続々と出て、事故調に対して何回も再
調査の要請が出たにもかかわらず、事故調は一切動こうとせず、
33年後の現在に至っています。そのため、この事件は何回も何
回も蒸し返され、事故原因については、昨年以降青山透子氏の本
が出るなど、現在もくすぶり続けているのです。
         ──[日航機123便墜落の真相/004]

≪画像および関連情報≫
 ●事故調「圧力隔壁説」と食い違い(赤旗)/2000年
  ───────────────────────────
   15年前の1985年8月12日、群馬県・御巣鷹の尾根
  に墜落し、単独機としては史上最大の犠牲者520人を出し
  た日本航空123便(乗客・乗員524人)のボイスレコー
  ダー(操縦室音声記録=CVR)の記録を四日までに、本紙
  が入手しました。航空関係者らの協力で分析した結果、会話
  の内容は、運輸省航空事故調査委員会が作成した事故調査報
  告書と、事故原因の究明にかかわる重要部分で食い違いが判
  明。聞き違いと思われる個所とともに、まったく違う時間帯
  の会話を入れ替え、作為的としか考えられない部分があるな
  どの問題点が明らかになりました。
   123便のボイスレコーダーは、12日、午後6時24分
  12秒から始まり、同35秒ころ、「ド、ドーン、ドーン」
  という爆発音か破壊音があり、直後に機長が「なんか爆発し
  たぞ」「ギア(車輪)見て、ギア」と続いています。このあ
  と報告書では、不可解な解読として「エンジン?」や「オー
  ルエンジン」という機長や航空機関士の言葉が記録されてい
  ます。しかし、この不可解な言葉を本紙が入手したテープで
  複数のパイロットらが聞くと、いずれも「ボディギア(胴体
  側の車輪)」と聞こえました。事故機のボーイング747型
  機には4本の主車輪があり、左右の主翼にウイングギア、胴
  体部分に2本のボディギアがついていて油圧だけで収納され
  ます。             https://bit.ly/2MFQbHP
  ───────────────────────────

サレンバーガー元機長.jpg
サレンバーガー元機長
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(2) | 日航機123便墜落の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月24日

●「事故直後から出た『隔壁破壊説』」(EJ第4835号)

 事故調査委員会(事故調)とは何でしょうか。
 日航機事故の発生当時は、当時の運輸省に「航空事故調査委員
会」と「鉄道事故調査委員会」という常設の委員会が置かれ、そ
のほかに海難審査庁の調査部門があったのです。2008年10
月から、これらの3つが統合され、独立行政委員会として「運輸
安全委員会」が設置されています。
 日航機事故発生当時の事故調のメンバーは次の通りです。当時
委員会は、委員長のほか委員4名、任期は3年であり、2期務め
ることが慣例となっていました。
 JAL123便事故の調査は、1987年6月に最終報告書を
出すまでは、次の2つの委員会で調査が行われていたのです。
─────────────────────────────
 ◎1985年09月以前の委員会のメンバー
   委員長:八田 桂三 東大名誉教授
    委員:榎木 善臣 元運輸省航空局審議官
    委員:糸永 吉運 元アジア航空顧問
    委員:小一 原正 元運輸省航空局参事官
    委員:幸尾 冶朗 東海大教授
 ◎1985年10月以降の委員会のメンバー
   委員長:武田  峻 元航空宇宙技術研究所所長
    委員:榎木 善臣 元運輸省航空局審議官
    委員:西村  淳 日本空港動力且謦役
    委員:幸尾 冶朗 東海大教授
    委員:東   昭 東京大教授
       ──角田四郎著『疑惑/JAL123便墜落事故
      /このままでは520柱は瞑れない』/早稲田出版
─────────────────────────────
 このJAL123便墜落事故が、33年経過後の現在でもその
原因がわからないでいるのは、生のボイスレコーダーのすべてが
公開されていないことにあります。そのすべてを握っていたのは
事故調のメンバーであり、現在この事故の関連書などで書かれて
いる音声記録は、あくまで一部であって、編集されている可能性
もあります。
 JAL123便のボイスレコーダーとフライトレコーダーは、
8月14日に発見ました。ボイスレコーダーの収録時間は30分
で、午後6時30分以降のコックピット内での会話、計器の警報
音、異常音などの各種録音が収録されているはずです。
 事故調によると、レコーダーの箱の外部の損傷がひどく、なか
のテープを取り出せない状況であり、テープを再生するのは、早
くても8月16日以降になるといっているのです。
 しかし、ボイスレコーダーの音声を誰も聞いていない16日の
時点で、メディアは一斉に「隔壁破壊説」が事故原因ではないか
と報道しています。16日付の毎日新聞の朝刊は、次のように報
道しています。
─────────────────────────────
 運輸省航空事故調査委員会と群馬県警捜査本部は15日、現場
検証で、尾翼下にあるアフターバルクヘッド(隔壁)が爆風をう
けたように破損していたことを確認した。このため、隔壁が客室
内の与圧された空気に耐えられず破壊したとの見方が有力となっ
てきた。隔壁が壊れると客室内の空気が爆発的に尾翼内に噴き上
げ、内部から垂直尾翼を分解させると専門家は指摘しており、救
出されたアシスタントパーサーの証言とも一致している。隔壁が
壊れたのは1978年の尻もち事故などで金属疲労、微細な亀裂
などの劣化が進んでいたことに起因するものともみられる。
           1985年8月16日付、毎日新聞朝刊
               ──青山透子著/河出書房新社
   『日航123便墜落/疑惑のはじまり/天空の星たちへ』
─────────────────────────────
 問題はたくさんあります。とにかく、あまりにもメディアの報
道が早過ぎることです。事故後2日か3日しか経っていないのに
どういう意図かわかりませんが、事故原因を「隔壁破壊説」に決
めていて、それを中心にストーリーを組み立てようとしているよ
うに感じるのです。
 それに、新聞では「内部から垂直尾翼を分解させた」という専
門家の意見は、生存者である落合発言と一致すると極め付けてい
ますが、どの時点のどのような落合発言であるかは、はっきりし
ないのです。落合発言は、公式には3回出されています。
 第1回の発言は、救出後、20時間後に日航の役員2人が落合
氏を見舞い、いくつかの質問をして、聞き出した情報を役員がメ
モしたものです。
 そのとき、病院としては面会謝絶としていたのに、日航の役員
2人に面会を許していることを知った某社の記者が病院側に抗議
し、事故調も面会できるなら事情聴取したいと要求してきたので
病院側は一定の条件を付けて、面会を許可したのです。
 一定の条件とは、8月16日午前中に30分ずつ、質問項目を
落合氏に見せ、それに答えてもらう形式で実施されたのです。こ
れが第2回目の発言とされるものです。しかし、この無理な事情
聴取によって落合氏は発熱が続いてしまったといいます。
 第3回目の発言は『新潮45』1986年1月号に掲載された
落合氏の記事です。これはかなり長文であり、詳細を極めていま
す。しかし、この記事を読むと、第1回と第2回の発言とは食い
違う部分もあり、これについては改めて検証します。
 上記の毎日新聞の記事は、8月16日付であり、2回目の落合
発言前の記事ということになります。日航の役員が落合氏から聞
き取って、後でメモした第1回の発言に基づいているものと考え
られます。しかしかなり無理な聞き取りであり、信憑性がどこま
であるかは疑問です。それにしても、16日の時点で早くも「隔
壁破壊説」が主たる事故原因として出てきているのは、極めて異
常なことであるといえます。
         ──[日航機123便墜落の真相/005]

≪画像および関連情報≫
 ●御巣鷹の屋根へのレクイエム
  ───────────────────────────
   報告書で「どーん」と書かれた爆発音みたいな音は、オリ
  ジナルに近いと、フジテレビが主張するボイスレコーダをコ
  ピーしたテープを最新技術で分析すると3つだった!
   3つの破壊音を分析すると、まず一番目の音で圧力隔壁が
  壊れ、2番目に垂直尾翼が吹き飛び、3番目の音でAPU部
  が脱落したそうな!コクピットの音を録音したボイスレコー
  ダーに記録された一番目の破壊音には0・135秒の遅れが
  あり、操縦席のマイクに機体を伝わったのと機内の空気から
  伝わった同じ音が記録された事になってましたが、コクピッ
  トの扉はそんなに薄かったとでも!しかもジャンボ機のコク
  ピットは2階です!
   音の遅れを計算すると、中間には圧力隔壁があるんだそう
  な!あの報道での計算通りなら圧力隔壁の後ろです!機体の
  金属部の伝播から位置を導き出したとされてましたが・・・
  あれじゃ第一の破壊音を無理やり圧力隔壁にするだけの「最
  初に結論ありき」ジャン!(大苦笑)
   私の推論、最初にAPUの損傷がこの報道特番で覆された
  訳ですが、残念ながらこの説には到底納得出来ませんね!逆
  にますますドラマ化された映像を見て、最初の衝撃音が「A
  PU」だったという思いが強くなっています!最初にAPU
  が飛び散ると、次には支えを失った重い劣化ウランを操舵部
  に使う垂直尾翼が圧力隔壁で跳ね返された衝撃波で簡単に崩
  落します!圧力隔壁はいきなり高高度の低圧に直接触れるの
  で、落合さんが言ってるように、「パーン」と小さい亀裂が
  入ったと考えるべきではないのでしょうか?
                  https://bit.ly/2LkYzI0
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飛行機の後部隔壁.jpg
飛行機の後部隔壁
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(1) | 日航機123便墜落の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月27日

●「なぜ、原因は圧力隔壁破壊なのか」(EJ第4836号)

 高々度を飛行する航空機には、人のいる区域には、地上と同じ
1気圧の「与圧」が必要です。これを「与圧区域」といいます。
しかし、人が立ち入らない区域まで与圧する必要はなく、その区
域を「非与圧区域」といっています。
 その与圧区域と非与圧区域を隔てる機体設備を「圧力隔壁」と
いい、航空機の前後に設けられています。圧力隔壁は、圧力に耐
えうる頑丈さが求められますが、その外側に位置する非与圧区域
は、与圧に耐える強度を持たせる必要はないので、これによって
飛行機全体の軽量化を図ることができます。
 しかし、圧力隔壁が破れたさいに、与圧に耐えられない部分が
破壊する恐れがあるので、隔壁のうしろの構造に圧力を逃すため
の安全弁などを設ける必要があります。第1次中間報告の事故調
の見解は、何らかの原因で機内に急減圧が起こり、それによって
後部圧力隔壁が吹き飛び、垂直尾翼を壊したというものです。
 航空機の尾翼部分の構造図を添付ファイルにしてあります。後
部圧力隔壁の位置を確認してください。隔壁の上部には垂直尾翼
があり、確かに何らかの事情で機内の与圧区域に急減圧が起こり
その勢いで後部圧力隔壁が破壊された場合、それが垂直尾翼に重
大な影響を与えることは十分あり得ることです。
 しかし、その急減圧がなぜ起きたのかが、明確になっていない
のです。これについて角田四郎氏は次のように述べています。
─────────────────────────────
 客室内の与圧空気が機体のどこから流出し、減圧が起こったの
か、まだ判っていない。それどころか生存者の証言から急減圧は
なかったとする意見や、ごく小さな減圧と見る専門家も多い。仮
に事故調のいうとおり、たいへんな急減圧があったとしても、そ
れが機の操縦性を奪った事故の主因であるとなぜわかるのか。な
にか他に原因があり、その結果として急減圧に至った可能性を全
くさぐろうとしないのはなぜなのか。ともあれ、この段階で事故
調査委貞会の原因究明は、隔壁説一本に早くも絞られていく。し
かも、それに見合った発見や発表がなぜかその後矢継早に登場す
るのである。 ──角田四郎著『疑惑/JAL123便墜落事故
      /このままでは520柱は瞑れない』/早稲田出版
─────────────────────────────
 なぜ、事故調が圧力隔壁破壊説にこだわったのか──その一つ
の根拠とされるものに、JAL123便に就航したJA8119
号機の「前科」があります。それは1978年に起きています。
 1978年6月のことです。JA8119号機は、大阪国際空
港(伊丹市)に着陸するさい、仰角を大きく取り過ぎて、機体後
部を滑走路にぶつけるという事故を起こしています。明らかな操
縦ミスです。これは「しりもち事故」といわれています。
 これによって、JA8119号機は、機体後部下方を著しく損
傷し、内部の圧力隔壁の取り付けフレームなどにゆがみが生じ、
隔壁の下部が変形してしまったのです。これについては、米ボー
イング社の専門スタッフを米国から招いて、隔壁下部の取り替え
修理などを行い、運輸省の検査をパスして再び就航していたので
す。御巣鷹山の墜落事故はその7年後に起きています。
 このしりもち事故のことは、JAL123便がダッチロールし
ている時点で、既にテレビで何回も報道されており、私の記憶に
も残っています。事故調も早くから、しりもち事故で飛行機の後
部を損傷したことと、後部圧力隔壁破壊は関係があると考えてい
たことは確かです。しかし、墜落の2週間後の8月27日に行わ
れた事故調の第1回の中間報告では、後部圧力隔壁破壊がこの事
故の主因であることを公表しています。
 実はこのとき、米運輸安全委員会(NTSB)の幹部、ロン・
シュリード氏をチーフとする調査チームと、ボーイング社の調査
チームが日本にきていたのですが、日本の事故調との間がうまく
いっていなかったといわれています。このことは、元共同通信記
者の堀越豊裕氏の本に次のように出ています。
─────────────────────────────
 事故調は、どかどか乗り込んできた米国の調査チームを快く感
じていなかった。自分たちで調査をやり遂げたいという思いが強
かったのだろう。八田らは戦前、米国に勝つための航空機開発に
明け暮れ、敗戦後はしばらく一切の航空機研究の機会を米国に奪
われた。刑事捜査の対象になり得るボーイングはもとより、NT
SBについても現地入りに慎重な姿勢を崩さなかった。
      ──堀越豊裕著『日航機123便墜落最後の証言』
                    平凡社新書/885
─────────────────────────────
 堀越氏の本によると、JAL123便墜落事故が起きたとき、
米国はテロを疑い、事故調査官のジョージ・サイドレン氏を日本
に派遣したのです。しかし、テロではないことはすぐわかったの
ですが、このサイドレン事故調査官が大変横柄で、日本の事故調
とぶつかったのです。このサイドレン氏について、ロン・シュリ
ード氏は「日本人といまだに第2次世界大戦を戦っているように
見えた。困った男だった」といっています。それに事故調は、独
自に日本に乗り込んできたボーイング社の調査チームともうまく
いっていなかったといいます。
 しかし、シュリード氏の働きによって、米NTSB調査チーム
は、ボーイング社の調査チームと一緒に御巣鷹山の現場に入るこ
ができています。8月22日と24日のことです。その御巣鷹山
の現場での調査によって、シュリード氏は圧力隔壁にボーイング
社の修理ミスを発見し、そのことを日本の事故調で現場キャップ
を務める調査官の藤原洋氏に伝えています。つまり、この墜落事
故は、しりもち事故を起こしたJA8119号機を修理したさい
の修理ミスが原因であることを告げていたのです。
 しかし、この報告は、事故調の第1次中間報告では、無視され
ています。不可解なのは、なぜ、ボーイング社は、自らが不利に
なる修理ミスをあわただしく認めたのでしょうか。きわめて不自
然です。     ──[日航機123便墜落の真相/006]

≪画像および関連情報≫
 ●日航ジャンボ機墜落事故30年目の真相/2015年
  ───────────────────────────
   何気なくTVを見ていたら、日航ジャンボ機墜落事故30
  年の真相という番組がやっていた。ずいぶん昔の事で、うろ
  覚えだが、事故直後は、触れられていなかった事もあり、あ
  らためて見て、そうだったのかと知った事もありました。
   私だけの認識かもしれないが、事故直後ほかにも生存者が
  いた事などは当時あまり大きく報道されていなかったような
  気がする。それ以上に驚いたのは隔壁の継ぎ板の件である。
  当時、事故原因は隔壁の金属疲労といっていたような気がす
  るが、修理ミスと言うのは知らなかった。
   当時すでにわかっていたことなのだろうが、私が気づかな
  かっただけかもしれないが、修理ミスと言うのは、あまり大
  きく報道されていなかったような気がする。隔壁の修理指示
  書には継ぎ板は1枚もので書かれいたにもかかわらず、実際
  は継ぎ板は2枚に分かれて取り付けられており、継ぎ板とし
  ての役目を果たしておらず、強度不足になっていたことで、
  応力が集中して破壊に至った、と事故の真相を報じていた。
   しかし修理を担当した米国のボーイング社は、事故後1か
  月足らずでミスを認めたが誰が何故ミスを犯したかは明かさ
  なかった。修理の実態に呆れながらも、外務省を通して群馬
  県警がボーイング社に乗り込み捜査に乗り出したが、門前払
  いで捜査にはならなかったらしい。報道では初めて、この修
  理を担当した一人と連絡が取れインタビューをしていたが、
  その修理担当は修理ミスではない、継ぎ板は最初から2枚に
  分かれていた、通常の事だと訳されていた。
                  https://bit.ly/2OY5MAb
  ───────────────────────────

航空機尾翼部分名称.jpg
航空機尾翼部分名称
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(0) | 日航機123便墜落の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月28日

●「減圧の突風で垂直尾翼は壊れない」(EJ第4837号)

 ボーイング社は、自社にとって不利になる「隔壁の修理ミス」
の情報をなぜ進んで日本の事故調に通告したのでしょうか。
 それは、JAL123便の墜落事故が、当時世界中で使われて
いた人気機種ボーイング747特有の欠陥によるものではなく、
7年前にしりもち事故を起こした特定の機種の事故であることを
世界に発信したかったからです。
 しかし、事故調は、1985年8月27日の第1次中間報告で
は、そのことに言及しなかったのです。この修理ミスについて、
NTSB調査官のシュリード氏から説明を受けた事故調調査官の
藤原洋氏は次のように述べています。
─────────────────────────────
 たぶん修理ミスだろうとわかっていても、最終報告書でないと
書くわけにはいかない。「修理ミスがあった」なんてあの段階の
中間報告では書けない。中間報告はあくまで疲労亀裂がこうこう
あったという事実関係を書くしかない。それを読んで類推しても
らうしかない。              ──藤原洋調査官
      ──堀越豊裕著『日航機123便墜落最後の証言』
                    平凡社新書/885
─────────────────────────────
 事故調が修理ミスを取り上げないので、シュリード氏は、NT
SBのバーネット委員長に相談したところ、「ニューヨークタイ
ムズにリークしたらどうか。ただし、NTSBからの情報である
ことは伏せるよういってくれ」と命令されたといいます。そこで
シュリード氏は、ニューヨーク・タイムズの知り合いの記者に電
話し、1985年9月6日付のニューヨーク・タイムズ紙に次の
タイトルの記事が掲載されたのです。
─────────────────────────────
  日本の航空事故で手掛かり発見/7年前の事故が原因か
  ──1985年9月6日付、ニューヨーク・タイムズ紙
─────────────────────────────
 JAL123便の墜落としりもち事故とその修理ミスを関連付
ける記事です。日本の各紙は、あわてて翌日の夕刊一面で報道し
ています。以後の事故調の報告は、この修理ミスをベースとする
「圧力隔壁破壊説」一色になっていくのです。
 事故調の見解は、何らかの原因でJAL123便客室内に急減
圧が起き、客室内の与圧された空気が一気に吹き出し、後部圧力
隔壁を破壊するとともに、垂直尾翼も吹き飛ばしたという内部説
に立脚しています。
 そうであるとすると、頑丈な圧力隔壁を破壊し、垂直尾翼まで
吹き飛ばすようなもの凄いパワーの風が客室内を吹き抜けたこと
になります。立っている人が何人も吹き飛ばされるような突風で
すから、荷物なども一緒に吹き飛んだと思います。しかし、もっ
とも後部圧力隔壁の近くの「56C」の席に座っていた生存者の
落合由美氏の証言では、そんな突風など吹いていないのです。落
合氏の証言を再現します。
─────────────────────────────
 (「パーン」という)ピストルを撃ったように響く音だったと
思う。自分の席の後ろの天井あたり(機首に向かって左側後部側
面上部、最後尾トイレ付近の壁上部)から聞こえたように思った
が、振動は感じず、揺れもなかったと記憶している。酸素マスク
が自動的に落ち、録音されたアナウンスが自動的に「ただ今緊急
降下中」と流れたが、耳は多少詰まった感じで痛くなく、それほ
どの急降下は体に感じていなかった。一瞬白い霧が発生したが、
まもなく消えた。ハットラックという頭上の荷物収納扉が開くこ
ともなく、機体の揺れはほとんど感じなかったため、各スチュワ
ーデスたちは持ち場のお客様の様子を確認し、酸素マスクをつけ
る手伝いをしながら、通路を歩いていたことが遺族提供の写真か
らもわかる。         ──青山透子著/河出書房新社
  『日航123便/撃墜の新事実/目撃証言から真相に迫る』
─────────────────────────────
 この落合証言によると、何かが壊れて軽い減圧はあったものの
「振動は感じず、揺れもなかった」とし、「頭上の荷物収納扉が
開くこともなく、機体の揺れはほとんど感じなかった」といって
います。少なくとも後部圧力隔壁を吹き飛ばすような凄い突風が
客室内を吹き抜けたという状況は、落合証言からは感じとること
はできないのです。
 航空機客室内で何かが原因で急減圧が起こり、それによる突風
が起きたとしても、それが垂直尾翼を破壊する力などないと明言
する学者の証言が当時の週刊誌に載っています。次の2人の学者
のコメントです。
─────────────────────────────
◎東京大学工学部・航空構造力学/小林繁夫教授
 隔壁から噴き出た空気が垂直尾翼を壊すことなど力学的に絶対
ありえない。内と外の圧力差はせいぜい0・4気圧ぐらいだから
てっぺん(垂直尾翼)のプラスチック製おおいを飛ばすぐらいの
力しかない。(中略)隔壁が全部そっくり破壊されたのなら別だ
が、現場でみつかった隔壁の写真を見る限りかなり小規模な破壊
しか起きていないようだ。生存者も、吸い出されるような強い風
を感じていないことからすると、空気はかなりゆっくりした速度
で外へ抜けていったのではないか。
        ──『サンデー毎日』/1985年9月8日号
◎東京大学工学部・航空工学佐藤淳教授
 (前略)果してこの程度の気圧差と直進するはずの空気の流れ
を考えると、風圧が垂直尾翼を吹き飛ばしたり、また、バーンと
いう音が出るのかどうか、はなはだ疑問である。
       ──『週刊サンケイ』/1985年9月19日号
       ──角田四郎著『疑惑/JAL123便墜落事故
      /このままでは520柱は瞑れない』/早稲田出版
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         ──[日航機123便墜落の真相/007]

≪画像および関連情報≫
 ●急減圧は事故調によって創作されたもの
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   事故調は、JA8119号機の事故原因を、後部圧力隔壁
  が損壊し、引き続いて尾部胴体・垂直尾翼・操縦系統に損壊
  が生じたため、と「圧力隔壁主犯説」を採っている。しかし
  この「圧力隔壁主犯説」は事故調のオリジナル・シナリオで
  はなく、この事故を圧力隔壁の修理ミスによる特異な事例と
  して処理することを狙ったアメリカの原案によるものであっ
  た。その辺の事情について、日本経済新聞は、事故発生1年
  後の86年8月25日の朝刊で「後部圧力隔壁の破壊に続い
  て起きた垂直尾翼などの空中分解の全容が24日、明らかに
  なった。米側がコンピューター解析をもとにまとめ、事故調
  に提出したものである」と伝えている。
   事故調は、この「圧力隔壁主犯説」を採用したために、必
  然的に起きる急減圧をデッチアゲなければならなくなった。
  本章では、報告書がいうように圧力隔壁が損壊し、急減圧が
  発生した場合、当然、操縦室と客室において起こる現象と、
  相模湾の上で事故が発生したとき、実際に事故機の機内で起
  こっていたことがらを比較し、本当にJA8119号機に急
  減圧が発生していたのか、否かを、事故調査報告書をはじめ
  公表された資料をもとに検証する。報告書は、修理ミス部を
  起点として圧力隔壁が損壊したことがこの事故の発端である
  としている。          https://bit.ly/2P4YDxP
  ───────────────────────────

後部圧力隔壁の修理ミスの部分.jpg
後部圧力隔壁の修理ミスの部分
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(1) | 日航機123便墜落の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月29日

●「R5ドア崩壊説はなぜ消滅したか」(EJ第4838号)

 JAL123便の機内では、それほどひどいものではないもの
の、急減圧が起きたことは確かです。問題は、その急減圧の原因
が何かです。これに関して、「R5ドア説」というものがありま
す。それは、8月27日に発表されたボイスレコーダー筆記録の
なかにみられます。客室内のスチュワーデスかパーサーと航空機
関士との対話です。
─────────────────────────────
◎18時33分12秒
 チャイム(インターフォンの呼び出し)
 スチュワーデス:アール・・・(聞き取り不能)
 航空機関士:アールファイブ(R5)の窓ですか。はい了解し
 ました。わかりました。
◎18時34分06秒
 副操縦士:カンパニーでお願いします。
 航空機関士:はい、了解しました。
◎18時35分34秒
 航空機関士:ええとですね。いま、あのー。アールファイブの
 ドアがあのー。ブロークンしました。えー
◎18時35分53秒
 カンパニー:キャプテンのインテンションとしては、リターン
 ・トゥー・東京でしょうか?
 航空機関士:はい、なんですか?
 カンパニー:羽田に戻ってこれますか。
 航空機関士:えーっと。ちょっと待って下さい。今エマージェ
 ンシー・ディセント(緊急降下)してますので・・・
◎18時36分04秒
 航空機関士:もう少ししたら再びコンタクトします。このまま
 モニター(監視)しておいてください。
       ──角田四郎著『疑惑/JAL123便墜落事故
      /このままでは520柱は瞑れない』/早稲田出版
─────────────────────────────
 ボイスレコーダーは、コックピット内の機長、副操縦士、航空
機関士同士の会話やその他の音、客室乗務員からのインターフォ
ンでの連絡などを30分間録音します。上記の対話は、客室乗務
員が、アールファイブの窓かドアについて、航空機関士に情報を
伝えています。なお、客室乗務員は次の順番で昇進します。
─────────────────────────────
   スチュワーデス → アシスタント・パーサー →
   チーフ・パーサー
─────────────────────────────
 ボーイング747において当時の日本航空では、2階席を含め
客席内を6区画に分け、さらに左右にそれぞれ客室乗務員を配置
してサービスを行っています。「R5」というのは1階席の一番
後ろの区域の右側をあらわしています。JAL123便の客室乗
務員の配置図を添付ファイルにしています。
 上記の対話は、R5担当のスチュワーデス(大野美紀子氏が担
当)が、自分の持ち場のR5の「窓」の異常を発見し、インター
フォンでコックピットの航空機関士に連絡を入れたのではないか
と思われます。
 しかし、コックピットでは、例の「ドドーン」の衝撃音が起き
た直後であり、混乱しており、よく聞き取れなかったようです。
そのためか、航空機関士は「R5の『ドア』がブロークンして」
と機長に伝えています。「窓」と「ドア」を間違えています。そ
して、対話に入っていませんが、降下とコックピッドでの酸素マ
スクの使用を提言しています。
 この対話から推測されることは、R5の「窓」が何らかの原因
で壊れ、それによって客室内の急減圧が起きたのではないかと思
われます。
 その後の副操縦士の「カンパニーでお願いします」は、日航社
内の無線交信とつないでくれという意味です。したがって、18
時35分34秒以降の対話は日航の社内無線とのやりとりです。
この部分は、後日日航側から提供されてわかったのです。ここで
も「アールファイブの『ドア』が・・・」になっています。
 この「R5ドア破壊」について、角田四郎氏は次のように述べ
ています。
─────────────────────────────
 日航が事故機との交信で伝えた「R5ドア、ブロークン」で、
当初事故原因がこのR5ドア(最後部右側ドア)にあると思われ
たが、墜落現場からR5ドアが無キズ(窓ガラスは破損)で発見
され、落合証言でR5ドアには触れられていない(R5の異常が
あれば落合さんも気付くはず)ことに加え、13、14日には相
模湾から垂直尾翼の一部や胴体最後部の補助動力装置(APU)
の一部が回収されたことでR5ドアの原因説は否定された。
                ──角田四郎著の前掲書より
─────────────────────────────
 しかし、実際にはドアではなく、ドアの「窓」だった場合は、
落合氏が気づかなかった可能性があります。実際にドアには異常
がなく、窓は壊れていたのです。墜落の衝撃で壊れたと思われま
すが、落ちる前から壊れていたとも考えられるからです。窓の破
壊であれば、それによるある程度の急減圧は起きるし、そのレベ
ルは生存者の証言とも一致します。また、それにより、酸素マス
クも下がってきているのです。
 それでも、「R5ドアの『窓』の破壊」が、なぜ、取り上げら
れなかったかについては、内部説を主張するには、ドアならとも
かく窓の破壊では、垂直尾翼の破壊の説明ができなくなるからで
はないかと考えられます。何か内部説にとって都合の悪い情報は
意図的に外されている操作がそこに感じられます。実は生存者の
落合証言についても何らかの操作が加えられているフシが多々あ
るのです。落合氏がいってもいないことが早い段階で流布されて
いるのです。   ──[日航機123便墜落の真相/008]

≪画像および関連情報≫
 ●明石家さんまが日航機墜落事故を免れた訳
  ───────────────────────────
   1985年(昭和60年)8月12日月曜日18時56分
  東京(羽田)発大阪(伊丹)行JAL定期123便ボーイン
  グ747SR−46が群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根
  に墜落した単独機では世界最大の飛行機事故。
   当時生まれてない方でも、テレビなどでこの事故のことを
  知ってる方は多いと思います。この事故では乗員乗客524
  名が搭乗していたが墜落によりその内の520名が犠牲とな
  りました。
   犠牲者の中には歌手の坂本九さん、阪神タイガース球団社
  長中埜肇さん、元宝塚歌劇団の北原瑤子さん、ハウス食品社
  長の浦上郁夫さん、コピーライターの藤島克彦さんら数名の
  著名人や、甲子園球場で行われていた夏の高校野球を見に、
  1人で搭乗していた小学生なども含まれていました。
   そんな事故ですが実はこの事故の起きた便にさんまさんも
  搭乗する予定だったんです。当時さんまさんは人気生ラジオ
  番組「MBSヤングタウン」にレギュラー出演しており大阪
  へ生放送に行く際は以前から日本航空JAL123便を使用
  しておりました。そして、その事故当日もその123便を使
  用する予定だったそうです。が、大阪への移動の前に収録し
  ていた「オレたちひょうきん族」が予定よりも早く終了した
  ため123便をキャンセルして、ひとつ前のANA35便で
  大阪に向かったと言われています。そして、あの事故が起き
  ました。            https://bit.ly/2BNiDmR
  ───────────────────────────


 ●図出所/──青山透子著/河出書房新社/『日航123便/
  撃墜の新事実/目撃証言から真相に迫る』

JAL123便客室乗務員配置図.jpg
JAL123便客室乗務員配置図
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(2) | 日航機123便墜落の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月30日

●「墜落事故直後日航は何を求めたか」(EJ第4839号)

 JAL123便が御巣鷹山に墜落したのは1985年8月12
日のことです。18時56分30秒、羽田、所沢両レーダーから
機影が消えています。しかし、墜落現場の特定は、翌13日の5
時37分、実に10時間30分を要しています。これは、きわめ
て異例なことです。そんなに時間がかかるはずがないからです。
 JAL123便の機影が消えるまでは、レーダーは同機の位置
を把握していたはずです。しかも、同機の多くの目撃情報が、N
HKをはじめとするテレビ局などに寄せられていたのです。しか
も、特定すべき対象は、乗客乗員が500人以上乗っている大型
のジャンボ・ジェット機です。夜とはいえ、その墜落場所の特定
に、なぜ、10時間30分もの時間がかかったのでしょうか。
 生存者が発見されたのは、13日午前10時54分です。11
時30分、フジテレビが、現場から生存者救出の生中継を開始し
ています。そして、14時8分に落合由美氏と吉崎博子氏、14
時12分に吉崎美紀子氏、川上慶子氏の4人は、多野総合病院に
収容され、治療を受けています。
 実は、墜落直後から、日航の調査団とみられる集団が素早く動
き出しているのです。角田四郎氏によると、墜落現場では、警察
が現場検証に入る前に、多くの遺体がころがっている凄惨を極め
る現場に入り、何かを探しているらしく、写真を撮ったりしてい
たといいます。もちろん、許可を得てやっているのでしょうが、
一体何を探していたのでしょうか。
─────────────────────────────
 2015年8月14日、現場からのテレビ中継を見ていた私を
日航がまた驚かせたのである。墜落現場に日航の白いつなぎ服が
うようようごめいている。後の新聞で見ると遺体捜索中の自衛隊
員や機動隊員とは全く異なる行動である。機体の写真を撮ったり
のぞき込んだり。つまり機体の調査を目的に入山しているのであ
る。この時点で彼らの行動に疑問を語るコメントはマスコミには
なかったが、私は腑に落ちない思いがしてならなかった。事故が
日航の不備で起ったか否かはまだわからない。わからないのであ
るから、その可能性もある。にもかかわらず、日航は警察が現場
検証をする前に現場で何かしているなんて・・。それに私はやや
感情的にもなってこう考えていた。「日航という会社は、自分達
が死に追いやった(不可抗力であっても)乗客の屍の前であんな
ことをやるんだ」と。私のイメージの中にあった「大会社日航」
「一流企業日航」、そして「世界に名だたる日航」が、このとき
音をたてて崩れ始めるのを感じていた。
       ──角田四郎著『疑惑/JAL123便墜落事故
      /このままでは520柱は瞑れない』/早稲田出版
─────────────────────────────
 そして、生存者4人が多野総合病院に入院してから、20時間
後の15日、午前10時頃、日本航空の役員2人が、落合由美氏
を見舞っています。そのとき、落合氏は、当時まだ日航のアシス
タント・パーサーを務めており、たまたま非番中にJAL123
便に乗っていたのです。しかし、この見舞いもきわめて不自然な
のです。見舞ったという役員は次の2名です。
─────────────────────────────
           松尾 芳郎氏
           真弓 義康氏
─────────────────────────────
 この2人の役員についての情報はありませんが、松尾芳郎氏に
ついては、その後、日本航空取締役から、日本の航空機用内装品
メーカー「ジャムコ」の社長を務めていることから、技術系の役
員であることは間違いないと思われます。真弓義康氏の情報はあ
りませんが、この人も機体のことに詳しい技術系役員でしょう。
もちろん、落合氏にとっては一度も会ったことがない役員である
と思います。
 病院側としては「面会謝絶」を掲げており、家族との面会も許
していない時点です。当時病院には安否を求める家族が2000
人も詰めかけており、ごった返していたのです。そのなかでの見
舞いです。しかし、見舞いというのであれば、上司か同僚がくる
のがスジではないでしょうか。これら2人の役員は、落合氏の上
司でもなければ、職務上も何も関係のない役員であり、落合氏を
見舞うのにはまるでふさわしく人たちです。おそらく会社の都合
で、墜落の状況について、少しでも早く落合氏から、重要な情報
を聞き出したかったものと思われます。病院も日航の役員という
ことで、秘密裡に面会を許したのでしょう。
 しかもお粗末なことに、この秘密の面会がバレてしまい、日航
はメディアに対して、落合証言の一部を公開せざるを得なくなり
ます。これが8月22日のEJ第4833号でご紹介した落合証
言です。しかし、この証言について、落合氏は後日その内容を明
確に否定しています。
 日航は、無理を重ねて落合氏に会い、事故調の頭越しに「リン
ク破壊説」という名の仮説を公表します。事故の当事者が墜落の
原因を事故調とは別に公表するのは、事故調に対して失礼であり
考えられないことです。「リンク破壊説」について、角田氏は次
のように述べています。
─────────────────────────────
 日航が可能性として出した「リンク説」は、修理、点検のミス
でないことを印象づけるために流した根拠のない説として一蹴さ
れてしまった。しかし、日航はこの説を落合証言中にある「トイ
レの上の天井に穴」が開いたことと、相模湾から発見された垂直
尾翼の一部などから垂直尾翼の倒壊を知り、その双方を証明しう
る可能性の一つとして、リンク、つまり、垂直尾翼と機体胴体部
の結合金具の破壊説を唱えたのである。この結合金具も無キズで
発見され、リンク説も消滅したのである。
                ──角田四郎著の前掲書より
─────────────────────────────
         ──[日航機123便墜落の真相/009]

≪画像および関連情報≫
 ●日航機墜落事故は今のハイテク機でも起こる/杉江弘氏
  ───────────────────────────
   一般的にアメリカ人のパイロットは世界で起きた大事故に
  関心を寄せ、自分ならどうやって生還を果たすのかを考える
  習慣がある。それは子どものときから、何か問題が起こると
  親が「あなたならどうするの?」と必ず聞くような文化の上
  に成り立っているからなのかもしれない。
   一方、日本では何か事故や事件が起きても、犯人を探し出
  して罰を科すことで終わりにするという文化があり、再発防
  止ということは苦手だ。
   論理的に原因が解明されなければ、再発防止策は打ち出せ
  ないというのは一理あろう。しかし、過去に起きた航空事故
  では原因が特定できなかったり、ブラックボックスを回収で
  きても政治的な要因で公表されず、うやむやにされた事例も
  少なくない。それでも、専門家による分析によって、再発防
  止につながる教訓を見いだすことは不可能ではない。
   近年では「フライトレーダー24」というサイトを見れば
  ブラックボックスの回収以前でも、あるいはそれが発見でき
  なくても、飛行状態のかなりの部分が解析できて、再発防止
  の上での教訓を得ることもできるようになった。日航機事故
  の原因は、圧力隔壁の破損による減圧によって起きた垂直尾
  翼と油圧ラインの損傷だとする航空事故調査委員会の見解や
  機体固有のトラブル、あるいは都市伝説となった自衛隊や米
  軍による撃墜説などいろいろいわれてきた。では、真相はど
  こにあるのか。         https://bit.ly/2MTCp4u
  ───────────────────────────

JAL123便墜落事故/救出される生存者.jpg
JAL123便墜落事故/救出される生存者
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(1) | 日航機123便墜落の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月31日

●「墜落直後の日航の不可解な諸行動」(EJ第4840号)

 JAL123便が飛行トラブルに陥っているという最初の情報
を知ったとき、おそらく日本航空の幹部は真っ青になったと思い
ます。何しろ、この飛行機には乗客乗員が524人も乗っており
もし墜落すれば、まず、生存者は望めず、全員死亡という最悪の
事態になると、日本航空として経営上深刻な状況に陥ってしまう
からです。
 まして、日航としての安全対策にミスがあったとすれば、大変
なことになります。したがって、どこよりも早く情報を入手し、
事故調に調査の主導権をとられないようにすることが必要になり
ます。その結果、日航は次の2つの仮説をあえて主張し、事故調
の調査をリードしようとしたのです。
─────────────────────────────
          1.R5ドア破損説
          2. リンク破損説
─────────────────────────────
 「R5ドア破損説」は、日航がカンパニー(日航社内の無線通
信)で入手した情報であり、日航が主導権が取れる情報です。何
らかの原因で、R5ドアが破損し、機内に急減圧が起き、突風が
吹いて、後部圧力隔壁が破壊されたのではないかという説です。
 この場合、R5ドアは落合氏の座っていた「56C」の座席に
近いので、落合氏がR5ドアの破損に気がついていたかどうかを
確認する必要があります。
 「リンク破損説」のリンクとは、垂直尾翼の取り付け金具のこ
とです。この金具が衝撃によって引きちぎれ、垂直尾翼が破壊さ
れたのではないかという考え方です。これも「56C」の席に近
いので、これについても落合氏に確認する必要があります。
 2人の日航の役員が、手術をしてから20時間しか経っていな
い15日午前中に、強引に落合由美氏の病室(そのときは集中治
療室)を訪れたのは、この2つの仮説に深く関係する事実を落合
由美氏に確認したかったのです。
 しかし、落合氏は十分回復しておらず、推測ですが、肝心なこ
とはほとんど聞き出せなかったのではないかと思います。しかし
落合証言は公表されています。これは,落合氏に面会した日航の
2人の役員のメモに基づく証言──第1回の落合証言ということ
になります。これは、8月22日のEJ第4833号でご紹介し
ていますが、以下に再現します。
─────────────────────────────
 私は56Cの座席で雑誌を読んでいた。回りの状況はいつもと
変わりなかったが、(離陸から13分後の)午後6時25分ごろ
「パーン」という音が上の方でした。そして耳が痛くなった。ド
アが飛んだかどうかはわからない。
 床下やその他で、爆発音は聞えなかった。同時にキャビン(客
室)内が真っ白になり、キャビンクルーシート(客室乗務員用座
席)の下のベントホール(差圧調整口)が開く。床は持ちあがら
なかった。ラバトリー(便所)上部の天井もはずれた。同時に酸
素マスクがドロップ。プリレコーデット・アナウンス(あらかじ
め録音された緊急放送)が流れ出した。この時ベルトサインは消
えていなかったと思う。
       ──角田四郎著『疑惑/JAL123便墜落事故
      /このままでは520柱は瞑れない』/早稲田出版
─────────────────────────────
 この第1回の落合証言には、日航の仮説に都合の良いウソが混
じっています。まず、いえることは、証言が手術から20時間後
で集中治療室に入っている病人とは思えないほど、理路整然とし
ていることです。これは落合氏を見舞った役員が書いたものと考
えざるを得ないのです。
 日航が確認したかった「R5ドアの破損」については、落合氏
から、何の言及もなく、それに御巣鷹山の墜落現場から発見され
たR5ドアは、ガラスは割れていたものの、R5ドア自体には異
常がなかったことから、「R5ドアの破損」の仮説は完全に消え
ています。
 証言のなかに、「ラバトリー(便所)上部の天井もはずれた」
という表現があります。このラバトリーは落合氏の席に近く、本
当であれば、ラバトリーの天井に穴が空いたことを意味すること
になります。それなら急減圧は起こり、「リンク破損説」を立証
する証拠になるといえます。
 しかし、これについては落合氏は、後にこの証言自体を全否定
しています。角田史郎氏は、次のように述べています。
─────────────────────────────
 後に私が取材した日航のパイロットの一人は、「アレは、まっ
たくの捏造です。日航の誰がやったかも判っています。私は記事
が出た後で落合さんに聞いてみましたが、『私はあんなこと言っ
たおぼえはないわよ』と言っています」と話してくれた。
                ──角田四郎著の前掲書より
─────────────────────────────
 とくに「同時にキャビン(客室)内が真っ白になり、キャビン
クルーシート(客室乗務員用座席)の下のベントホール(差圧調
整口)が開く」の部分は、まったくの捏造であるというのです。
「キャビンクルーシート(客室乗務員用座席)の下のベントホー
ル」は、アシスタント・パーサーである落合氏は教育されておら
ず、知るはずがないのです。それにキャビンクルーシートは、落
合氏の席からは離れているし、ましてその下のベントホールがみ
えるはずがないのです。
 しかし、リンク破壊説は、ラバトリーの天井には穴が開いてい
ないという時点で否定されています。それに加えて、相模湾から
上がった垂直尾翼の一部を見ても、リンクは引きちぎれておらず
仮説として成立しないのです。実際に、その後日航側は何の発言
もしなくなりましたが、これは運輸大臣から、緘口令を敷かれた
と、当時の渡辺広報部部長はいっています。
         ──[日航機123便墜落の真相/010]

≪画像および関連情報≫
 ●御巣鷹山JAL123便の真実
  ───────────────────────────
   ここへ来て御巣鷹山JAL機墜落に関して情報がどっと流
  れ出てきています。このような国家機密の重大事案であって
  も、政権交代による権力の移行につれ、前自民党政権の最大
  の闇として、暴かれ出されて来ています。
   圧力隔壁の破損により尾翼が吹き飛び、ダッチロールしな
  がら迷走して墜落したとされているJAL機のフライトレコ
  ーダーによる交信記録を聞いてください。ただ、当然これは
  政府により捏造されていますから、真実は隠匿され録音から
  消され政府に都合よく作り変えられています。ただ、当時の
  パイロット達の悲痛な叫びが聞き取れ、思わず目頭が熱くな
  り、彼らの無念と絶望の真実を少しでも後世に伝えて行かな
  ければと思っています。この映像による交信記録によれば、
  ほぼマスコミ報道されている通りの状況推移であった事がわ
  かります。しかし多くの不自然な部分や謎の部分が判明して
  きています。
   落合由美さんは日本航空の客室乗務員。当日は非番で12
  3便に乗り合せていました。尾翼が吹き飛んだと時のパーン
  という高い乾いた大きな音は、落合さんの証言の通りですが
  実は、この音の6分前から123便の操縦席では、追尾して
  くる何者かを確認して逃れようと行動を始めているのです。
  ボイスレコーダーなどの分析記録によると、操縦クルーや乗
  客の一部がその謎の飛行物体を目撃しているようなのです。
  事故調査委員会はそういう事実も知ったうえで、あくまで圧
  力隔壁破損が垂直尾翼破壊の原因であることで、決定してし
  まっています。         https://bit.ly/2BPVAI7
  ───────────────────────────

JAL123便の失われた垂直尾翼.jpg
JAL123便の失われた垂直尾翼
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(2) | 日航機123便墜落の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月03日

●「垂直尾翼は外から破壊されている」(EJ第4841号)

 JAL123便が墜落した直接的原因は、垂直尾翼が破壊され
たことにあります。1971年7月30日に、岩手県雫石町上空
で、乗客乗員162人を乗せた千歳発羽田行き全日空ボーイング
727機に、訓練飛行中の航空自衛隊のジェット戦闘機が衝突、
全日空機は垂直尾翼を破壊され、空中分解して墜落、乗客乗員全
員が死亡するという痛ましい事故が起きています。
 自衛隊機のパイロットについては、パラシュートで脱出して無
事でしたが、このときも垂直尾翼をやられているのです。このよ
うに、垂直尾翼が破壊されると、航空機にとってはそれが致命傷
になってしまうのです。
 この事故は、すべての責任は自衛隊側にあるとして決着がつい
ていますが、実は、この雫石事故にも重大な疑惑があるのです。
それは、雫石事故とJAL123便事故には共通性があるからで
すが、これについては改めて述べます。
 問題は垂直尾翼が何によって破壊されたかです。これには、次
の2つがあります。
─────────────────────────────
     1.内部からの力で破壊 ・・・ 内部説
     2.外部からの力で破壊 ・・・ 外部説
─────────────────────────────
 ここまで「内部説」で検証してきています。事故調は内部説に
立脚し、後部圧力隔壁の破壊によって垂直尾翼が破壊されたとい
う「隔壁破壊説」を主張し、裁判などではこれで乗り切っていま
す。あくまで隔壁破壊説が原因であり、他の説については、「理
論的根拠なし」や「推論に過ぎない」として退け、とくに外部説
については問答無用で「陰謀論」と極め付けています。
 しかし、隔壁破壊説は、ここまで検討してきただけでもわかる
ように、明らかに説得力を欠いています。どう考えても、主張に
無理があります。ところが、「何かによって垂直尾翼が破壊され
た」という外部説に立つと、誰もが納得できるのです。雫石事故
の場合は、航空自衛隊のジェット戦闘機が、ニアミスによって、
全日空ボーイング727機の尾翼に接触し、垂直尾翼を破壊した
のです。これによって、後部圧力隔壁が壊れ、それが727機内
に急減圧による突風をもたらし、727機は空中分解して墜落し
たのです。
 それにしても14年前に雫石事故という垂直尾翼破壊の航空機
事故という格好のケースがあるのに、JAL123便事故のとき
に事故調はこのケースを無視しています。何が何でも外部説は考
えたくなかったものと思われます。
 これにもっとも近い説を唱えているのは、航空専門家の内藤一
郎氏です。内藤氏は、京都大学工学部航空学科を卒業し、その後
航空大学の教官をしている操縦歴40年のベテランです。その内
藤氏は、垂直尾翼破壊の原因について次のように述べています。
─────────────────────────────
 隔壁犯人説は原因と結果を取り違えていると思います。私は逆
に何かの衝撃でまず垂直尾翼がやられ、その衝撃で隔壁がやられ
たと判断しています。尾翼が隔壁破裂の衝撃波でもぎとられるな
んてありえません。
 いいですか、高度2万4千フィートの外は、0・4気圧です。
機内は0・8気圧程度でしょう。これは高度3千メートルに相当
します。そこで穴があいても、そもそも空気はどんなに速くても
音速(マッハ)以下でしか流れないもんなんです。それに0・8
が噴き出しても、一瞬のうちに圧力は0・6ぐらいに下がってし
まいますから、その衝撃はさらに弱まります。超音速の衝撃波な
んてとんでもありませんよ。(中略)
 隔壁が破れて、機体尾部に空気が充満してその圧力に耐え切れ
ずに垂直尾翼が分解したというのも、機体の尾部には空気が逃げ
出す穴(点検用ドア)がちゃんとついていますから、ありえない
ことです。  ──『週刊新潮』1985年10月10日号より
       ──角田四郎著『疑惑/JAL123便墜落事故
      /このままでは520柱は瞑れない』/早稲田出版
─────────────────────────────
 ちょうど同じ時期に、『週刊朝日』は、ボーイング社に対して
次のような電話取材を行っています。
─────────────────────────────
──日本では、後部の圧力隔壁が破壊され、そのために垂直尾翼
 が壊れたという説があるが、そちらはどうみているのですか。
ボ社:その説は、間もなく撤回されたのではないですか。
──そんなことはありません。
ボ社:(前略)私は、2、3日前にその説は、ひっ込められたと
 思っています。日航に当たってください。彼ら(日航)は、そ
 の可能性はないと見放したはずだが。
──圧力隔壁破壊説が強まってきた17日「ボーイング社の調査
 団(訪日中の)が圧力隔壁の破片を調べたが、腐蝕や金属疲労
 の証拠は発見されなかった」と否定の談話がUPI共同通信で
 流れたが、そんなに早く断定できるものですか。
ボ社:彼ら(調査団)が隔壁の破片を調べたところ、「これ(隔
 壁)は衝撃(墜落時等の)によって折れたものと判断できる」
 といっている。 ──『週刊朝日』1085年9月6日号より
                ──角田四郎著の前掲書より
─────────────────────────────
 これは明らかにおかしいです。この時点で日航は、国内向けに
は「隔壁説が有力」と思える見解を出しているのに、ボーイング
社に対しては、これを否定する見解を話しています。明らかなダ
ブルスタンダードです。
 この『週刊朝日』が出た直後の1985年9月7日、「ニュー
ヨーク・タイムズ」紙はボーイング社の「修理ミスの自白声明」
を報道したのです。しかし、この修理ミスは、JAL123便の
事故の原因とは考えられないと述べています。
         ──[日航機123便墜落の真相/011]

≪画像および関連情報≫
 ●全日空機雫石衝突事故/世界の航空事故史に残る大惨事
  ───────────────────────────
   世界の航空機事故史上に残る大惨事が起きたのは昭和46
  年7月30日午後2時すぎだった。事故を知る町民は異口同
  音にいう。「雲一つない、天気のいい、暑い日だった」
   岩手県雫石町の上空約8500メートルで、自衛隊機と札
  幌発羽田行きの全日空機が空中衝突し、旅客機の乗員7人と
  乗客155人の計162人が犠牲になった。
   自衛隊機は宮城県矢本町(現・東松島市)の航空自衛隊第
  1航空団松島派遣隊に所属するジェット戦闘機F86F。操
  縦桿(かん)を握っていたのは訓練生だった。
   教官機と2機編隊で訓練中に、全日空機と空中衝突、ボー
  イング727型機は空中分解した。自衛隊機の訓練生はパラ
  シュートで脱出した。轟音(ごうおん)は東に20キロ以上
  も離れている盛岡市の中心部にまで鳴り響いた。当初は自衛
  隊機の単独事故と思われていた。町役場近くの水田で自衛隊
  機の残骸が発見され、パラシュートで降下する訓練生の姿も
  町内で確認されていたからだ。ところが、事故から間もなく
  自衛隊機と民間旅客機が空中衝突したという衝撃的なテレビ
  ニュースが流れた。町役場の対策本部は騒然となった。町民
  の多くから、飛行機の破片らしき無数の金属片がキラキラと
  光りながら落下していたという目撃情報が寄せられた。午後
  3時すぎ、飛び込んできた町役場の南東約4キロの岩名目沢
  で「複数の遺体発見」の報に対策本部は一瞬、凍り付いた。
                  https://bit.ly/2BY2fjI
  ───────────────────────────

雫石全日空機事故.jpg
雫石全日空機事故
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2018年09月04日

●「ボイスレコーダーなぜ公開しない」(EJ第4842号)

 航空機事故の原因究明において重要な証拠物件になるのは「ブ
ラックボックス」です。ところで、「ブラックボックス」とは何
でしょうか。
─────────────────────────────
 ブラックボックス(CVFDR) =
 コックピットボイスレコーダー(CVR) + フライトデ
 ーターレコーダー(FDR)
─────────────────────────────
 2つのレコーダーのうち、フライトデーターレコーダーは、搭
載されている航空機の電子システムに送信された命令を記録する
電子機器であり、これを分析することにより、墜落直前に航空機
がどのようなフライトをしていたかがわかります。
 もうひとつのレコーダーで、通称ボイスレコーダーと呼ばれる
ものは、正しくは、コックピットボイスレコーダーといいます。
墜落直前の30分間のコックピット内の機長、副操縦士、航空機
関士の会話や物音がすべて録音されています。
 したがって、これら2つのレコーダーのことをブラックボック
スというほか、「CVFDR」と呼ぶこともあります。とくに、
ボイスレコーダーは墜落直前の肉声なので、事故原因究明のカギ
を握る重要な証拠になります。
 しかし、JAL123便墜落事故の場合、いわゆる生のボイス
レコーダーは、事故調や裁判所は聞いていますが、新聞各紙や週
刊誌、それに関連書籍などに出ているコックピット内でのやり取
りは「筆記録」なのです。つまり、事故調の誰かが「音」を「文
字」に直し、それを公開しています。
 したがって、事故調にとって、都合の悪い部分は、カットでき
ますし、表現を改ざんすることも可能です。機内の衝撃音につい
ても「ドドーン」なのか「ドーン」なのか「パーン」なのか、文
字にすると印象も変わるのです。したがって、関係者は事故調に
対して何回も生のテープの公開を求めましたが、事故調は頑なに
これを拒み、最後まで公開拒否を貫いたのです。
 しかもその筆記録についても、事故調の3回の報告のそれぞれ
において少しずつ表現が違っています。言葉のやり取り以外の音
もテープには収録されているはずですが、筆記録には書かれてい
ないのです。事故調はなぜ公開しないのでしょうか。
 この墜落事件について1988年12月1日に群馬県警は、日
本航空12名、運輸省4名、ボーイング社4名、合計20人を書
類送検しましたが、1989年、20人全員不起訴処分が決まっ
ています。それを受けて、事故調はボイスレコーダーの生テープ
を日本航空に返還しています。したがって、現在JAL123便
墜落事故のブラックボックスは、日本航空の管理下にあります。
それなら、なぜ、公開しないのでしょうか。
 しかし、今度はその日航が生テープの公開を拒んでいます。こ
れについて、一部の遺族による技術会のセミナーで、ゲストとし
て講演をしたことのある現役の日航のパイロットのN・S氏は、
123便のボイスレコーダーの生テープについて次のように述べ
ています。これは青山透子氏が要約したものです。
─────────────────────────────
 乗員側も生のボイスレコーダーの公開について事故調査委員会
に何度も要求してきたが、警察による調査中という理由で、だめ
だった。その後、不起訴が成立したので、生のデータが日航に返
却された。事故調査委貝会のほうからは、刑事事件は不起訴決定
となったため、残骸も日航に返却したし、当委員会とは関係ない
警察の捜査も関係ないので公開するしないは日航の一存です、と
言われた。そこで、会社の判断で公開できるのだから、公開して
ほしいという要請をしたところ、今度はご遺族の手前もあって公
開する訳にはいかないという返事であった。日航は過去の事故時
などは、逆に事故原因を究明するためといって、現場の乗員にボ
イスレコーダー、生のテープを聞かせている。そしてこれは何と
言っているのか、というように原因究明に役立ててきた。それと
比較しても、今回の日航123便墜落については一切聞かせよう
としない。私ども日本航空の機長、副操縦士、航空機関士、あら
ゆる乗員が一緒になつて、真の事故原因を究明しよう、この報告
書はどうも真実じゃない、とオファーをしたのだが、それでも会
社側は一切応じずに逃げている。       ──青山透子著
   『日航123便墜落/遺物は真相を語る』/河出書房新社
─────────────────────────────
 不思議な話です。事故から33年も経過しているのに、日航は
ボイスレコーダーのテープをなぜ公開しないのでしょうか。一体
何を隠そうとしているのでしょうか。テープを公開すると、事故
調の調査の正当性を否定することになるのでしょうか。それなら
今後のために、ぜひ公開していただきたいものです。
 多くの人は、ボイスレコーダーが筆記録でしか公開されていな
いという事実を知らないと思います。今後二度とこのような事故
を起こさないためにも日航は公開すべきです。これについて、青
山透子氏は、次のように述べています。
─────────────────────────────
 1985年以降に日本航空に入社した者が9割以上となつた今
あの時の凄惨な日々を実際に経験した人間はほとんどいない。今
年就任した社長も入社2年前の出来事であり、日航に入社すら決
まっていない時期である。その中で「ご遺族への真撃な対応」を
心がけることは大切であるが、その配慮がボイスレコーダーを聞
かせないということにはつながらない。亡くなった人の中には自
分たちの仲間であった15名も含まれており、自責の念から自殺
した社員がいたことも忘れてはならない。だからといって、身内
をかばうがごとくの見方をしているのではなく、万が一、違う事
故原因であったならば、520名の無念はどうなるのだろうかと
いう思いからの追跡なのである。 ──青山透子著の前掲書より
─────────────────────────────
         ──[日航機123便墜落の真相/012]

≪画像および関連情報≫
 ●謎のJAL123ボイスレコーダーは偽装されている
  ───────────────────────────
   過去の航空機事故で、離陸直後や着陸時の事故では生存者
  がいるが、飛行中からの墜落では生存者は一人もいない。生
  存者がいたということは123便は不時着したのだ。日本航
  空123便は4名の生存者が出て、生存者の証言では事故直
  後には他にも多数の生存者がいたという。
   8月12日の18時56分26秒に123便は群馬県多野
  郡上野村の高天原山の尾根に不時着。救護隊が遭難現場を発
  見したのは翌13日の4時で救出が始ったのが8時すぎ。
   1995年8月、当時123便を捜索したロッキードC−
  130輸送機に搭乗していた元在日アメリカ軍中尉は、同機
  が事故現場を特定していたこと、米軍座間基地から飛び立っ
  た救難ヘリが現場に到着していたこと、そして、日本政府が
  この救難作業を断ったことを証言している。
   この元在日アメリカ軍中尉の証言は、生存者の一人の落合
  由美さんの手記とも符合する。何故、撃墜されたか・・・・
  いろいろな説があるのですが・・・政府としては墜落事故を
  装い、誰かを殺したかったことは明白なのです。それを書き
  出すときりがないのでここでは記載しませんが・・・。
   日本航空123便の航空機事故は事故原因の矛盾点に目が
  行きがちだが、生存者がいたことや秘密の筈のボイスレコー
  ダーか意図的に公開という事実からこの事故を分析するべき
  であろう。           https://bit.ly/2wBLsgy
  ───────────────────────────

航空機のブラックボックス.jpg
航空機のブラックボックス
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(2) | 日航機123便墜落の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月05日

●「最終報告書に真実が隠されている」(EJ第4843号)

 事故調は、JAL123便の墜落事故の原因は、早い段階から
ボーイング社の修理ミスに基づく「後部圧力隔壁破損」であると
主張し、1987年6月19日提出の最終報告書でも、それを結
論としています。その後、多くの新事実が出て、再調査を求める
要望が数多く出ましたが、国土交通省の運輸安全委員会はそれに
応じないまま、33年の年月が経過しているのです。
 この墜落事故によって、JAL123便の乗客乗員520人も
の人が非業な最期を遂げているのです。しかし、この事故の関係
者である日本航空、運輸省(日本政府)、そしてボーイング社は
この事故によって、どのような責めを負ったのでしょうか。これ
について、角田四郎氏は、次のように述べています。
─────────────────────────────
 この報告書によって、ボーイング社は修理ミスという汚点を背
負った。日航にはその修理の監督責任と以降の点検不充分という
責任があり、そして運輸省にも修理時のチェックと点検時のチェ
ックに怠慢があったとされたが、いずれもその発見(亀裂等)に
は困難な面も多かったという論調が支配的だった。その結果、日
航および運輸省の責任は問われないこととなり、ボーイング社の
責任だけが残った。
 しかし、現実にはボーイング社は修理のミスは認めているもの
の、この事故が修理ミスから発したとするのは推論で証拠はない
と主張した。仮に推論通りであったとしても7年も前のミスであ
り、キズの生長を点検で発見できなかった日本側の管理責任だと
して、ミス修理を行なった技術者とその作業責任者の名前の公表
(警視庁および群馬県警に対し)を拒んだ。このことでボーイン
グ社を悪党か卑怯者呼ばわりする人もいたが、それはマトはずれ
の感もある。ボーイング社の言い分はしごく正当であり、法的に
も成立するものである。(中略)
 この説であれば、自社製ジャンボ・ジェット機全ての修理や就
航ストップという最悪のシナリオから逃げられる。修理ミスとい
うという汚名を自らかぶっても、JA8119号が持っていた固
有の古キズが原因となれば世界中の航空会社からの苦情もない。
こうした経済的損益と汚名をはかりにかけ、汚名が選ばれたので
あろうか・・。──角田四郎著『疑惑/JAL123便墜落事故
      /このままでは520柱は瞑れない』/早稲田出版
─────────────────────────────
 疑惑は何ひとつ明らかになっていないのに、この事故の関係者
は、誰ひとり罪に問われることなく、事件の幕引きが行われてい
ます。結局、JAL123便墜落事故は、不可抗力の墜落という
単なる航空機事故として片づけられているのです。こんなことで
は、亡くなった520人の無念は拭えないでしょう。
 とくに責任があるのは事故調査委員会です。事故調は、当時の
運輸大臣直轄の政府機関です。その事故調は、事故4日後から最
終報告書にいたるまで、事故原因を説得力に欠ける後部隔壁破壊
と断定し、生のボイスレコーダーですら最後まで公表していない
のです。生音声によるのボイスレコーダーではなく、筆記録での
ボイスレコーダーの公表は、これまでの航空機事故では聞いたこ
とがありません。しかし、生のボイスレコーダーは、いまだに公
開されていないのです。
 このような事故調の頑なな対応から、見えてくるものがありま
す。事故調の委員は、すべてを知っているのではないかというこ
とです。しかし、それを公表することが、立場上できないのでは
ないか。事故調としてはこのような結論しか出せないが、どうか
その報告書から真相を読み取ってほしいと訴えているのではない
かと思うのです。
 そういう観点に立って事故調の最終報告書をていねいに読むと
そこに事件の謎を解く重要なカギが見えてきます。このことは、
そもそもこの事件の疑惑を最初に訴えた『JAL123便墜落事
故真相究明』ほか3連作(文芸社刊)の著者、池田昌昭氏と角田
四郎氏の2人とも同じことを指摘しています。それは、事故調最
終報告書の次の記述の部分にあります。
─────────────────────────────
 事故機の羽田出発から、18時18分28秒までの上昇中の管
制交信記録の音声から推測した機長の精神緊張度は、9段階点の
4〜6の範囲で変動している。この緊張の程度は離陸から上昇と
いう状況下で一般的なものとみられ、この時点で機長が何らかの
異常の発生を感知していた可能性は少ないと思われる。
 事故機のCVR記録は18時24分12秒の「たいとおっしゃ
る方がいらっしやるんですが、よろしいでしょうか」という客室
乗務員による操縦室への機内通話から始まっている。この女性の
音声から計測した精神緊張度は表2のとおり9段階点の3であり
また、その落ち着いた話し振りから、勘案してこの時点で、客室
乗務員が何らかの異常を感知していたという可能性は少ないと考
えられる。この異常とも思えない客室乗務員の申し出に対応した
航空機関士と副操縦士の音声からは、精神緊張度9段階点の5〜
7という通常の飛行状況下ではやや異常とも思える精神的な高ま
りを示す値が推測された。このことから、この時点で同運航乗務
員は精神緊張度が高まるような何らかの異常の傾向を感知してい
たとも考えられる。        
(表2)「精神緊張度9段階」
 段階点(1)〜(3)
 ・正常な状況下において一般的に生じる緊張
 段階点(4)〜(6)
 ・緊急状況には至っていないが、何らかの異常発生時等にお
  いて一般的に生じる緊張
 段階点(7)〜(9)
 ・緊急状況下において生じる緊張
                 ──事故調最終報告書より
─────────────────────────────
         ──[日航機123便墜落の真相/013]

≪画像および関連情報≫
 ●JAL123便事故調最終報告書について
  ───────────────────────────
   この事故に関して「疑惑」という著書(早稲田出版)を著
  した角田四郎氏は、事故調査委員会について「事故調査委員
  会は何故、隔壁説をデッチ上げなければならなかったのであ
  ろう。私は委員や調査官個人にその理由があったとは思えな
  い。むしろ、その矛盾に気ずき、心を痛めながらも彼らに及
  んだ大きな力に抗しきれなかった姿を感じてならない」と書
  いている。
   一方、事故調査委員会の武田峻委員長は最終報告書を発表
  した後、記者会見を行い、報告書を70点の出来と自己採点
  し、「これで全てが終わたのではなく、この報告書をもとに
  さまざまな討論、検討を加えて、航空機の安全と事故の再発
  防止に役立ていただきたい。」というコメントを添えた。
   私も当初、亡くなられた人に鞭をあてたくないと思いなが
  らも、事故調査委員会に角田氏と同じように大きな力に抗し
  きれなかった姿を感じ、武田氏のコメントを言い訳と感じて
  いた。しかし、私はこの事故の原因を解明する作業を進めて
  いくうちに、武田氏のこの最後コメントは、氏が真意を語っ
  たものであるということを確信するようになった。確かに報
  告書は「圧力隔壁主犯説」を採っており、全体的にそれを補
  足する構成になっている。しかし、報告書の各論の部分には
  事実を述べている部分も多い。写真や資料などについてもそ
  のことが言える。        https://bit.ly/2wJpcBt
  ───────────────────────────

JAL123便墜落事故/御巣鷹山.jpg
JAL123便墜落事故/御巣鷹山
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2018年09月06日

●「操縦クルーが緊張したタイミング」(EJ第4844号)

 昨日のEJの最後にご紹介した事故調の最終報告書の記述には
「離陸からドーンのような音の発生直前までの精神緊張度につい
て/3・1・9項」の題名がつけられています。そのなかにある
「(表2)「精神緊張度9段階」を再現します。
─────────────────────────────
(表2)「精神緊張度9段階」
 段階点(1)〜(3)
 ・正常な状況下において一般的に生じる緊張
 段階点(4)〜(6)
 ・緊急状況には至っていないが、何らかの異常発生時等にお
  いて一般的に生じる緊張
 段階点(7)〜(9)
 ・緊急状況下において生じる緊張
                ──事故調最終報告書より
─────────────────────────────
 事故調の最終報告書では、ボイスレコーダーに収録されている
音声(機長、副操縦士、航空機関士、パーサー、スチュワーデス
など)の緊張度を測定し、9段階の数値をつけた表が掲載されて
います。これによると、コックピット内の機長や副操縦士、航空
機関士が、どの段階のどの会話で、高い緊張度を感じているかが
わかるので、事故原因の解明に役立つ貴重な分析といえます。
 その分析を以下に示します。右端の、例えば「162/2」と
いう数字は、「/」の左は音声基本周波数最大値ヘルツを表し、
右は上記の9段階の精神緊張度数値を示しています。
─────────────────────────────
 18:16:35 CAP          162/2
          Roger own navigation ah─
    16:55 CAP          168/3
          TOKYO CONTROL
          JAPAN AIR 123 passing─
    18:38 CAP          170/3
          Present position direct
          SEAPERCH─
    24:12 STW          267/3
          ・・たいとおっしゃる方が
          いらっしゃるんですが、よ
          ろしいでしょうか?
 ───────────────────────────
    24:15 COP         250/6
          気をつけて
    24:16 F/E         290/7
          じゃあ、気をつけてお願い
          します。
    24:17 COP         220/5
          手ばやく
 ──────────────────────────
    24:18 STW         300/4
          はいありがとうございます。
    24:18 F/E         210/5
          気をつけてください。
   CAP=機長、COP=副操縦士、F/N=航空機関士
   STW=スチュワーデス
                 ──池田昌昭著/文芸社刊
 『JAL123便は自衛隊が撃墜した/御巣鷹山ファイル2』
─────────────────────────────
 18時16分35秒から、24分12秒までの機長の会話は、
緊張度段階は2〜3であり、ごく普通の緊張度であって、通常の
業務をこなしているときの緊張度と同じです。
 しかし、18時24分15秒からの機内スチュワーデスと副操
縦士や航空機関士の会話のときは、とくに緊張すべき対話ではな
いにもかかわらず、コックピット内の副操縦士と航空機関士の緊
張度は、5〜7という緊急状況下において生じる緊張度になって
います。これは、そのとき、コックピット内で、何らかの原因で
高い緊張感に包まれていたことがわかります。
 仮にこのとき、飛行機外部において、何らかの危険が迫ってい
たとします。たとえば、何らかの飛翔体がJAL123便と並行
して飛んでおり、衝突の危険があるような場合です。当然のこと
ながら、コックピット内は緊張します。実際に例の「ドーン」と
いう音は、その直後の18時24分34〜36秒に起きているの
です。そして42秒に機長は「スコーク77」を宣言します。
 この最終報告書の記述によってわかったことがあります。それ
は、JAL123便墜落の原因は、いわゆる隔壁破壊説ではない
ということです。角田四郎氏は、これについて、次のように述べ
ています。
─────────────────────────────
 これまで私は、幾度か「隔壁説」に予知、予見はありえないと
述べてきた。そして、なにか異常を感知した形跡があれば、この
事故の原因は隔壁破壊とは全く異なるはずで、他の原因を求めな
ければならない。急減圧が万一あったとしても、それは「事故原
因」ではなく、「事故の結果」ということになるのだ。
       ──角田四郎著『疑惑/JAL123便墜落事故
      /このままでは520柱は瞑れない』/早稲田出版
─────────────────────────────
 つまり、事故調は、最終事故報告書において隔壁破壊主因説を
結論とする一方で、このレポートを報告書に盛り込むことによっ
て、隔壁破壊説を自ら否定していることになります。これは、事
故調がこれを手掛かりにして、真の事故原因を掴んでほしいと考
えているのではないかと思います。そういう意味でこの悲惨な事
故の原因は、まだほんの一部の事実しか解明されていないことに
なります。    ──[日航機123便墜落の真相/014]

≪画像および関連情報≫
 ●日航123便墜落事故/524人の命乞い/小田周二氏
  ───────────────────────────
   事故原因報告書の目的は墜落の事故原因を明確にすること
  であるが、事故調の事故報告書には「墜落の原因が明確に記
  載されていない」。国の公式の報告書としての資格はない。
   123便は「操縦不能で墜落した」との暗示をしているが
  事故調は「操縦に難がある」が「飛行の継続が出来た」と結
  論している。「飛行出来た」ことは旋回、上昇、降下飛行が
  出来た結果であり、操縦出来たことに相当する。この事項で
  も説明不能の矛盾である。
   日航123便は油圧操が不可になった後、機長らは「エン
  ジン出力の調整で手動操縦を行っている。然し報告書には、
  この「エンジン出力調整での操縦」についての記述がない。
  事故機は 操縦不能との暗示を仄めかすが、油圧破壊後の操
  縦性、飛行性についての調査、検証を行い記載していない。
   目撃証言、乗客の体験証言は操縦席のボイスレコーダーと
  同じ重要な証拠である。然し、事故報告書ではこの証言を一
  切無視して、調査を行い、科学的、技術的に理解出来ない疑
  惑の結論を引き出している。
   事故調の「隔壁破壊説」は、生還者、落合由美氏の証言で
  否定されるものである。垂直尾翼の破壊の原因は隔壁破壊が
  原因でなく、事実上、技術的な矛盾は明解である。多数の乗
  客を乗せた旅客機に異常事態が生じた場合、至急最寄りの飛
  行場に緊急着陸するのが鉄則である。それは多数の乗客の命
  を助ける唯一の手段なのであるからだ。
                  https://bit.ly/2MKhqBV
  ───────────────────────────

ボーイング747のコックピット内.jpg
ボーイング747のコックピット内
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2018年09月07日

●「なぜ123便は緊急降下したのか」(EJ第4845号)

 ブラックボックスには、ボイスレコーダーのほかにフライトレ
コーダー(FDR)というものがあります。事故調の最終報告書
におけるフライトレコーダーの解析について考えます。専門的な
ので、少し難しいですが、以下の4点について池田昌昭氏の本を
参照にして簡単に説明します。添付ファイルに「日本航空123
便の高度変化」をつけているので、それを見ながら以下の説明を
読んでください。
─────────────────────────────
        1.   前後方向加速度
        2.    横方向加速度
        3.     垂直加速度
        4.方向舵ぺタルの操作量
─────────────────────────────
 JAL123便に「ドーン」という衝撃音とともに異常事態が
発生したのは、18時24分36秒のことです。123便は羽田
を出発後、大島を経て下田に向うところだったのです。
 この時点の前後方向加速度は、直前に比べて、約0・047G
突出しています。当時の重量を考慮すると、約11トンの前向き
の外力が作用したものと推定され、胴体後端部の破壊がこの時刻
に生じたことが推定されます。これが1の「前後方向加速度」の
解析です。
 24分35・73秒から35・98秒の間に横方向加速度に最
初の変化がみられます。前後方向加速度突出直後の横方向加速度
のこの変動は、尾翼部の破壊が35・73秒以前に生じたことを
裏付けるものと推定されます。24分35・98秒以後、数秒間
にわたって横方向加速度に最大全振幅0・08Gを超す振動がみ
られます。これは、添付ファイルの点線(・・・)のフゴイドが
それをあらわしています。
 この時点でフライトレコーダーの記録に複数のエラーが記録さ
れています。フライトレコーダーは垂直尾翼取付部に近い胴体上
部に搭載されているので、垂直尾翼への強い衝撃を受けたことに
よるエラーと推定されます。2の「横方向加速度」の解析です。
 18時24分35・66秒までは、ほぼ定常飛行状態を示す垂
直加速度が記録されていますが、その後、36・16秒までわず
かに増加し、36・28秒には、約10・24Gに飛躍していま
す。垂直尾翼の破壊がこの時刻付近ではじまっていることを示し
ています。これが3の「垂直加速度」の解析です。
 方向舵ペダルは、18時24分35・22秒までは正常な中立
位置0度の位置にあったのですが、36・72秒までの間に、右
25度以上に急変しています。この時刻は横方向加速度に振動が
起きた時刻と一致します。方向舵ペタルは、その後、右20度〜
左15度に急変していきますが、これは、36・22秒以降は、
方向舵の制御力は失われたことを示しています。これが4の「方
向舵ぺタルの操作量」の解析です。
 これらのフライトレコーダーの解析からみても、18時24分
36秒に、外部からJAL123便の尾翼部分に、何らかの謎の
飛行体のようなものが衝突したと考えると、すべてが矛盾なく収
まるのです。この説を主張している池田昌昭氏は、自著において
次のように述べています。
─────────────────────────────
 「謎の飛行物体」が垂直尾翼に衝突したとして、その衝突の様
子を総合的に考えて見よう。たぶん「謎の飛行物体」は、速度の
速いJAL123便に向かって右側斜め上から接近し、衝突の時
点には右後方斜め上から、まず方向舵あたり、同時に垂直尾翼に
後ろからクロス衝突し、左側下方向にその「謎の飛行物体」が抜
けていった形となったのではなかったのか。さらに言えば、その
ように高速飛行中のジャンボ機に、それよりもズッと小さい「謎
の飛行物体」が、衝突するというのはそれこそ、その謎の飛行物
体が超精密誘導兵器であり、もし、最初からJAL123便の垂
直尾翼を狙っていたのなら、超精密誘導兵器であれば正確にJA
L123便の垂直尾翼の方向舵あたりに衝突することができるで
あろうと考えるのは、考え過ぎなのだろうか。
                 ──池田昌昭著/文芸社刊
 『JAL123便は自衛隊が撃墜した/御巣鷹山ファイル2』
─────────────────────────────
 添付ファイルをみると、18時33分以降にJAL123便は
急速に高度を下げているのがわかります。それは、ボイスレコー
ダーの解析で、33分41秒に航空機関士が「緊急降下」を提案
し、その直後に高度を下げていることから、操縦士の判断で高度
を下げたものであることがわかります。
 問題は、この急降下の意味です。事故調の報告では、それは急
減圧のせいであるとしていますが、角田四郎氏は、航空機操縦の
プロから聞いた意見を指摘し、それに反対しています。
─────────────────────────────
 この33分以降に行われた緊急降下の意味である。一応の措置
と述べたが、実はそれ以上に重大なのは、操縦性能の確保だった
と彼ら(操縦のプロ)は指摘する。空気密度の大きい低空でこそ
操縦機能の低下(油圧の低下による)した機体を、どうにか安定
させ、目的地羽田に飛行させることができたからである。この遅
すぎる「緊急降下」を、無理に「急減圧」による対応と見る事故
調査委員会の見解より現場のプロが解析する可能性、つまり「操
縦性の確保」ととる方が、よほど合理性に富んだ考え方ではある
まいか。   ──角田四郎著『疑惑/JAL123便墜落事故
      /このままでは520柱は瞑れない』/早稲田出版
─────────────────────────────
 このとき、JAL123便の機長は、横田基地か羽田空港に戻
ろうとし、急降下して辛うじて操縦性を確保し、ダッチロールな
がら、横田や羽田空港のすぐ近くまで、戻ってきていたのです。
信じられないほど見事な操縦で瀕死のJAL123便を操縦して
いたのです。   ──[日航機123便墜落の真相/015]

≪画像および関連情報≫
 ●JA8119離陸から異常発生まで
  ───────────────────────────
   この事故は、公式には(お役所的には)運輸省航空事故調
  査委員会(以下、「事故調」)から1987年6月19日付
  で「航空事故調査報告書」(以下、「報告書」)なるリポー
  トが出て一件落着にされてしまった。報告書では、後部圧力
  隔壁(後述)が破断し、そこから吹き出た空気で垂直尾翼と
  機体後部が脱落、機体後部にある油圧系統からオイルが漏れ
  て油圧が働かなくなり、操縦不能に陥って墜落した、という
  いわゆる「圧力隔壁説」を主張している。
   しかしまず断言しておくと、この報告書はまったくの「作
  文」である。「最初から決められていた結論」を無理矢理に
  導き出すための「言い訳」に過ぎず、都合の良いデータだけ
  を扱い、少しでも事実がバレそうなデータは軽視するか、最
  初から記載されていない。誰でも、時間をかけて丹念に読ん
  でみれば(教科書風の記述で読みにくいが)矛盾や疑問のひ
  とつやふたつは見つけられるシロモノだ。上に挙げた三人も
  (インターネット上では実名は出せない。どんな迷惑がかか
  るかわからないから。出るところに出れば、堂々と公表でき
  る)「報告書は事実に反する」と明言している。さらに、事
  故後10年を経た1995年8月27日、最初に墜落現場を
  確認した元米空軍兵士の「内部告発」(?)があり(これは
  次回以後、詳しく書く)、日本政府が故意に救援活動をしな
  かった事実がバレてしまった。  https://bit.ly/2NdXHKw
  ───────────────────────────
  ●図の出典/──角田四郎著の前掲書より

日航123便の高度変化.jpg
日航123便の高度変化
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2018年09月10日

●「外部説によるコックピットの対話」(EJ第4846号)

 1985年8月12日、JAL123便が羽田空港を離陸した
のは18時12分20秒のことです。それから12分22秒後の
18時24分42秒にJAL123便の機長は「スコーク77」
を宣言します。その間に何があったのでしようか。
 これについて、角田四郎氏は、非常に意欲的で有意義な試みを
行っています。それは、ボイスレコーダーの記録に加えて、傍証
のある「推定」と傍証のない「想像」、さらに生存者の「証言」
を加えて、JAL123便のコックピットと機内および東京進入
管制(羽田)と東京管制(所沢)のやり取りを再現したのです。
とくに何も断っていないのは、ボイスレコーダーの記録です。対
話者は、C「機長」、O「副操縦士」、F(副操縦士)、S(ス
チュワーデス)を表しています。
 JAL123便が、18時18分33秒に東京管制から、シー
パーチ直行の許可をもらった後から、「スコーク77」までのや
り取りを角田四郎氏の本から転載します。
─────────────────────────────
◎18分33秒:(東京管制)日航123便、現在位置からシー
 パーチ(非義務位置通過点)に直行することを許可する。
◎18分38秒:了解、現在位置から直行する。
 「推定」ベルトサイン、オフ。スチュワーデスは、子供客にサ
 マーキャンペーンのぬいぐるみ人形を配り始める。小川哲夫氏
 は右通路より機外を撮影。高度1500フィート。
◎22分頃:「証言」川上慶子さん、咲子ちゃん、スチュワーデ
 スから人形をもらう。落合由美さん雑誌を読む。「推定」高度
 20000フィートに達す。
◎23分頃:「想像」(O)機長!前方右45度に不明機発見。
 (C)どこだ!なんだあれ!調べて、早く。(O)はい。
◎23分頃:(C)距離は?近いの、小さいの。(O)小さいで
 すね。何でしょうあれ!(F)わかりません。
◎23分頃:(F)あー!こっちに近づいてきますよ。(C)ベ
 ルト・オン!(F)はい。(C)なんだ、あいつ!調べて。レ
 ーダー?
◎23分××秒:ピン・ポーン(音)。(S)ただいまベルトサ
 インがつきました。もう一度ベルトをして下さいませ。
 (客)すみません、トイレに急いで行きたいですが、ダメです
 か。(S)ちょっとお待ちください。
◎24分10秒:「想像」(F)はい、なんですか。(S)お客
 様でトイレに行き・・・・。(F)レーダーには映りません。
 (C)なんなの、調べて、よく見て!(O)はい。
◎24分12秒:(S)・・たいとおっしゃる方がいらっしゃる
 んですが、よろしいでしょうか。
◎24分15秒:(O)気をつけて。(F)じゃ気をつけてお願
 いします。(O)手早く。(F)気をつけてください。(S)
 はい、ありがとうございます。
 「想像」操縦室全員、緊張して前方を凝視。正体不明の小型飛
 行物体は、右10度に接近中、高度約23000フィートと日
 航機とほぼ同じ。進行方向、西南西。速度不明。ぐんぐん近く
 なる。
◎24分34秒:ドーン、ビー・ビー・ビー。
◎24分38秒:「想像」(F)だめ!やられた。
◎24分39秒:「想像」(C)なんかわかったの?なんか、あ
 たったぞ?
◎24分42秒:(C)スコーク77
       ──角田四郎著『疑惑/JAL123便墜落事故
      /このままでは520柱は瞑れない』/早稲田出版
─────────────────────────────
 ひとつのポイントは、羽田空港離陸後、どこでベルトサインが
オフになったかです。通常離陸後8分〜10分で消えるのが正常
です。ボイスレコーダー(筆記録)上では確認できないのです。
 角田氏がベルトサインオフを18分38秒頃と推定したのは、
生存者の川上慶子さん(当時12歳)の証言で、スチュワーデス
から、ぬいぐるみをもらったのが、そのぐらいの時間だったから
です。当然のことですが、スチュワーデスがサービスをはじめる
のは、ベルトサインがオフになってからです。
 このとき、川上慶子さんは、母親に妹のもらった人形の方がい
いといったところ、母親にたしなめられたといっています。その
約5分後の23分になって、ベルト・オンになっています。コッ
クピットでは、正体不明の飛翔体が123便に迫ってくるのを発
見し、ベルト・オンのサインを出しています。機長は、衝突の危
険を察知して、事前にベルト・オンを指示したのです。もし、垂
直尾翼破壊の原因が、急減圧による後部圧力隔壁破壊であるとす
るならば、機長が事前にそれに気がついて、ベルト・オンのサイ
ンは出せないはずです。したがって、事故の原因は内部説ではな
く、外部説にならざるを得ないのです。
 上記のやり取りは、いくつかの「想像」や「推定」部分を含む
とはいえ、矛盾なく、ぴったりと収まっており、外部説──謎の
飛翔体の衝突による垂直尾翼破壊説を説得力を持って裏づけるも
のです。ここに事故調が、生のボイスレコーダーを最後まで公開
せず、筆記録しか公開しなかった理由があります。おそらく音声
による生のボイスレコーダーを公開すると、そこに誰でも外部説
を裏づける決定的な証拠が収録されているからでしょう。だから
こそ、ボイスレコーダーを筆記録にしたのです。
 筆記録であれば、都合の悪い部分は自由にカットできますし、
音の高さとか、衝撃さとか、声の調子などから感じとることがで
きる緊迫感などを誤魔化すことができるからです。それに、おそ
らく事故の関係者ではない一般の人々は、ボイスレコーダーがま
だ公開されておらず、事故調の作成した筆記録に過ぎないことを
知らないと思います。その生のボイスレコーダーは、現在日航が
保管しているはずです。なぜ、公開しないのでしょうか。
         ──[日航機123便墜落の真相/016]

≪画像および関連情報≫
 ●日航機事故から29年・フジテレビ特番を見て/2014
   ──────────────────────────
   単独機の事故としては世界最悪の520人が犠牲となった
  1985年8月のJAL123便便墜落事故から29年が経
  過した(2014年の記事)。月日の流れの速さを改めて感
  じるが、私の脳裏に焼き付いたあのむごたらしい酷暑の夏の
  記憶は今なお決して薄れることはない。「御巣鷹の尾根」は
  今なお私、そして安全問題研究会の原点だ。
   ところで、今年の8月12日は、いつもの年と少しばかり
  違った。フジテレビ系列の全国放送として、特別番組「8・
  12、日航機墜落30回目の夏〜生存者が今明かす“32分
  間の闘い”ボイスレコーダーの“新たな声”」が放送された
  からだ。(中略)
   だが、同時に私は、事故というより「事件」と呼ぶほうが
  適切かもしれない「御巣鷹の真相」は、おそらくこの番組で
  も明かされることはないだろうと思っていた。なにより30
  年近い歳月は短いようで長い。当時を知る関係者も少なくな
  り、遺族ですら高齢化で険しい御巣鷹の尾根への慰霊登山を
  断念する人が毎年増え続ける現実がある。今頃になって新事
  実が飛び出すくらいなら、とっくの昔に出ていて不思議はな
  いし、圧力隔壁崩壊説に疑問を抱く人なんて、日本全国に今
  なお数万人単位で存在する。
   ミサイル撃墜説、自衛隊「無人標的機」衝突説を初めとし
  て、この間、ありとあらゆる言説が流されてきた。この事故
  のことを卒業論文のテーマにしようと考えた学生が教授に相
  談したところ「君の命が危ない。悪いことは言わないからや
  めなさい」と言われた。     https://bit.ly/2NP6obc
  ───────────────────────────

垂直尾翼がなくなったJAL123便.jpg
垂直尾翼がなくなったJAL123便
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2018年09月11日

●「123便に一体何が衝突したのか」(EJ第4847号)

 JAL123便の操縦クルーが飛行物体に気が付いたのは18
時23分頃です。そのときの高度は約20000フィート、メー
トルに直すと、約6000メートルです。そのような高度を飛ぶ
飛行物体は当然限られてきます。飛行物体に気が付いて、123
便は高度を23000フィート(約7000メートル)に上げま
すが、それでもその飛行物体は追尾してきたのです。
 この飛行物体の正体は何でしょうか。
 当時考えられるのは、海上自衛隊の「無人標的機」しかないと
いわれます。標的機というのは、ミサイルの射撃訓練をするさい
に標的として使われる飛翔体のことです。ミサイルの相手をする
のですから、航空機に接近することは十分可能です。標的機には
次の3種類があります。
─────────────────────────────
   1.高速標的機 ・・・   「ファイア・ビー」
   2.高速標的機 ・・・       「チャカ」
   3.対空標的機 ・・・「ターゲット・ドロ−ン」
─────────────────────────────
 1は「ファイア・ビー」です。
 どんな形をしているのでしょうか。
 「自衛隊装備年鑑」によると、全長7メートル、全幅3・93
メートル、全高2・05メートル、自重686・3キロ、最大速
度0・96マッハ、実用上昇限度1万7000メートル、航続時
間約60分とあります。
 何の標的として使用されるのでしょうか。
 海上自衛隊が護衛艦に装備している5インチ速射砲や、護衛艦
の艦対空ミサイル「ターター」などの標的機として使用されてい
るのです。
 どのようにして操縦されるのでしょうか。
 操縦方式は、無線コマンド・コントロールであり、回収装置は
二段パラシュート。米国ライアン社製であるが、富士重工がライ
センス生産をしています。
 2は「チャカ」です。
 ファイアビーを小型化したもので、ミサイル用の標的機として
使用されています。全長3・87メートル、全幅1・76メート
ル、全高0・71メートル、速力は時速350〜900キロメー
トル。高度150〜9000メートル、航続時間約80分。総飛
行重量182キロ。訓練支援艦「あずま」の管制システムである
陸上追尾管制装置によって飛行管理をします。米国ノースロップ
社製で、日本電気がライセンス生産。1982年11月から運用
開始しています。
 3は「ターゲット・ドロ−ン」です。
 全長3・8メートル、全幅4・03メートル、全高0・79メ
ートル、重量162キロ、航続時間90分。海上自衛隊艦艇の対
空射撃訓練用の標的機です。これは、プロペラ機であり、UHF
FM方式の電波でリモコンされて飛行する。現代でいうところの
ドローンです。
 JAL123便にぶつかった標的機は、これらの3種類のうち
のどれでしょうか。
 まず、プロペラ機の「ターゲット・ドローン」でないことは確
かです。そうすると、ジェット機に接近できる「ファイアビー」
か「チャカ」ということになります。当時、それ以外のもので、
飛行中のJAL123便に衝突できる飛翔体は考えられないので
す。しかし、なぜ、自衛隊が日本航空機を標的にしなければなら
ないのでしょうか。これに関して、池田昌昭氏は、次のように述
べています。
─────────────────────────────
 8月12日午後6時24分35秒ごろ、相模湾上空でこの無人
標的機が、JAL123便の垂直尾翼に衝突した可能性がある。
どこから発射され、何故JAL123便に衝突したのか。発射し
たものはJAL123便をレーダーで監視していたはず。リモコ
ン操縦が仮に海上でなされたとすれば、海上自衛隊のしかるべき
艦艇群は、充分にJAL123便の飛行を捕捉していて、標的機
の行方も監視していたはずである。なのに何故標的械は、JAL
123便に衝突したのか。それとも、衝突させたのか。事故なの
か。故意なのか。まさか故意ではあるまい。考えられるのは事故
である。海上からのコントロールを誤り、JAL123便に衝突
させてしまった。標的とされる標的機が逆に民間機を標的にした
のか。
 しかし、問題はこの後である。衝突の事実を隠蔽し、未だにそ
の真相が解らないというこの事実である。自衛隊の標的機が民間
機に衝突し、民間機が操縦不能に陥り、ダッチロールを繰り返し
最後は山に激突してしまったこの事実を隠蔽しようというのであ
る。自衛隊の過失を国民に知られたくない。自衛隊に国民の批判
が向けられ、さらには現機構自身に批判が噴出することを恐れて
いるのである。          ──池田昌昭著/文芸社刊
  『JAL123便は自衛隊が撃墜した/御巣鷹山ファイル』
─────────────────────────────
 もし、自衛隊が、標的機を間違ってJAL123便に衝突させ
てしまったとすると、当然自衛隊はそのことを正直に申し出るに
決まっている。「自衛隊=日本国」と同じであり、国がそんな隠
蔽をするはずがない──多くの人が考えるはずです。そして、多
くの国民がそう思うと、自衛隊標的機のJAL123便衝突事件
は陰謀論になってしまいます。
 しかし、当時と現在の国民の意識は相当違ってきていると思い
ます。昨今の財務省による公文書改ざん事件、自衛隊日報隠蔽事
件などが続々と起きているからです。さらに1971年7月に岩
手県雫石町上空で起きた自衛隊機と全日空727機との衝突事件
の真相を知ると、そういうことがあってもおかしくないと納得す
るはずです。この事件については、改めてその驚愕の真相を明ら
かにします。   ──[日航機123便墜落の真相/017]

≪画像および関連情報≫
 ●護衛艦の対空防護、陰の立て役者/高速標的機
  ───────────────────────────
   高速標的機は訓練を終えたらパラシュートを開いて海上に
  着水する。それを回収するのも訓練支援艦の仕事だが、何キ
  ロも先まで航行して探すことになり、特に複数機を飛ばした
  場合は手間がかかるという。
   船体の大きさは、くろべが基準排水量2200トン、全長
  101メートル、幅16・5メートル。てんりゅうは少しだ
  け大きくて基準排水量2450トン、長さ106メートル、
  幅16・5メートルだ。太平洋などの訓練海域まで往復する
  と何日もかかるので、艦内には寝室や食堂、風呂といった居
  住区画が備わっており、「乗り心地は悪くない」(元くろべ
  乗組員)という。最高速度はくろべの20ノットに対して、
  てんりゅうは22ノット。乗員数はくろべの約155人に対
  し、てんりゅうは省力化が進んで約140人に減っている。
   2隻はあくまで訓練用なので、有事に前線へ出ることはま
  ずない。しかし、いずれも速射砲1門を備えている。海上自
  衛隊関係者によると、高速標的機が何らかの理由で、コント
  ロールを失った場合に撃墜するための装備だという。その高
  速標的機には、いずれも無線誘導の「高速標的機BQM−3
  4AJ改」(ファイアー・ビー)と「高速無人標的機チャカ
  BQM−74E」(チャカ3)の2種類がある。
                  https://bit.ly/2wWTws8
  ───────────────────────────

ファイアビー.jpg
ファイアビー

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2018年09月12日

●「相模湾にいた護衛艦『まつゆき』」(EJ第4848号)

 JAL123便に標的機が飛来し、衝突したという仮説に立つ
場合、どこから標的機を発射したかが問題になります。それは、
事故の状況から考えて相模湾上が有力です。そのとき、相模湾上
には、就役前の試運航中の護衛艦「まつゆき」がいたのです。も
ちろん「まつゆき」は標的機を発射可能です。
 護衛艦「まつゆき」は、1986年3月19日に就役し、同日
付で、第2護衛隊群隷下に新編された第44護衛隊に、「やまゆ
き」とともに編入され、呉に配属されています。そういうわけで
1985年8月12日夕刻には、相模湾において試運航を行って
いたのです。
 それでは、試運航とはどういうことをするのでしようか。
 護衛艦「まつゆき」の主要兵器としては、76ミリ単装速射砲
短SAMシースパロー艦対空ミサイル装置、高性能機関砲、対艦
ミサイル・ハーブン装置、アスロックランチャー(艦上から空中
に発射する魚雷)、短魚雷発射管、対潜ヘリ、ソナーなどが装備
されています。
 試運航の目的は、これらの兵器のすべてが実戦で使用可能かど
うかをチェックすることにあります。その詳細について、池田昌
昭氏の本から引用します。
─────────────────────────────
 護衛艦「まつゆき」に装備されている兵器により行う訓練は、
@ミサイル発射とその誘導レーダー操作訓練、命中訓練。A敵の
飛行機、ミサイルを発見するためのレーダー訓練。敵味方識別装
置の試験。迎撃ミサイルの発射・誘導訓練。B機関砲等の射撃訓
練。C魚雷発射訓練。魚雷誘導・命中訓練。D標的機の無線操縦
訓練。E標的機使用の際のレーダー機能試験。追跡能力、他の飛
行物体識別能力。Fソナーの性能訓練。潜水艦追跡訓練。G他艦
や戦闘機との無線連絡訓練。地上部隊との連繋訓練等々が考えら
れる。              ──池田昌昭著/文芸社刊
  『JAL123便は自衛隊が撃墜した/御巣鷹山ファイル』
─────────────────────────────
 上記のDとEに標的機関係の訓練も当然含まれています。条件
はすべて整っているのです。JAL123便に自衛隊所有の飛翔
体が尾翼に衝突したなどというと、そんなことは荒唐無稽という
人が多いですが、そういうことがあったとしてもおかしくない条
件がすべて整っていたのです。
 その条件とは、衝突があったとみられる相模湾の近くに標的機
を発射できる装置が存在し、しかもそれを発射できる状況にある
ということです。それが、すべてドンピシャリ全部整っているの
というわけです。
 事故現場空域の真下の相模湾に試運航中の護衛艦「まつゆき」
がおり、標的機関係の訓練も行っていた可能性が高いのです。し
かも事故発生時には、海上に落下したJAL123便の垂直尾翼
を回収しています。偶然に発見したことになっていますが、事前
に事故を知っていたとしか思えない偶然です。
 しかし、自衛隊はこのことについて、今もって沈黙を守ってい
ます。池田昌昭氏は、この沈黙は自衛隊にとってこの衝突が弁解
の余地のないことの逆証明であるとして、次のように厳しく論評
しています。
─────────────────────────────
 海上自衛隊の標的機がJAL123便の垂直尾翼に衝突した地
点は、言われている伊豆半島直前よりさらに東側、未納入試運航
護衛艦「まつゆき」が垂直尾翼を回収した地点にほど近い空域で
ある可能性が高い。飛行高度も伊豆半島直前に達する24000
フィートには達してはおらず、15000フィートである。この
15000フィートは、自衛隊の訓練空域の訓練高度でもある。
 事故地点の相違、事故時の高度の相違は何故生じているのか。
それは、@まず、未納入護衛艦「まつゆき」から発射された標的
機が、JAL123便に衝突した可能性が非常に強いので、まず
標的機の高度をごまかすためである。公式発表の際、JAL12
3便の飛行高度を上げれば、標的機の可能性が減り、しかも民間
航空樅の航路に侵入していたという事実にも触れないでおくこと
ができるからである。
 A次に、未納入護衛艦「まつゆき」の存在自体を隠してしまう
必要性である。何故なら標的機は試運航護衛艦「まつゆき」から
試験飛行発射された可能性が強く、従って「まつゆき」自体の存
在を否定しなければ、「まつゆき」を使って行った標的機の試験
飛行に必ず行き着くからである。しかも、「まつゆき」の存在は
垂直尾翼を回収していることで、既に世間に知られてしまってい
る。あとは事故発生地点をごまかし、その真下の海上に「まつゆ
き」がいなかったことにしないと、「まつゆき」と標的械の関係
が直ぐに浮かび上がってしまうからなのである。
                 ──池田昌昭著/文芸社刊
  『JAL123便は自衛隊が撃墜した/御巣鷹山ファイル』
─────────────────────────────
 さまざまな事実や証言や状況を冷静に分析すると、JAL12
3便に、故意でないにせよ、自衛隊の何らかの飛翔体(標的機)
が衝突した事実は間違いないものと思われます。おそらく標的機
の飛行管制システムの不具合などによって、標的機のコントロー
ルがきかなくなり、JAL123便に衝突してしまったミスと考
えられます。
 問題は、この事実を自衛隊はもちろんのこと、監督官庁の運輸
省(現国土交通省)、当時の中曽根首相官邸まで、明らかに多く
の矛盾がある事故調査委員会の結論である「後部圧力隔壁破壊」
をもって強引に幕引きをしていることです。
 新しい証拠が出るたびに遺族をはじめとする関係者が何回再調
査を訴えても聞く耳をもたず、実に33年が経過してしまってい
ます。それにしても33年も経っているのに、まだこの飛行機事
故の真相究明の動きがとまらないのは、間違った結論で幕引きを
しているからです。──[日航機123便墜落の真相/018]

≪画像および関連情報≫
 ●日航123便航空機事故は国際刑事裁判の案件である
  ───────────────────────────
  1.123便の事故は、誘導ミサイルの実証実験で飛んでい
  た無人標的機とそれを追尾していた模擬ミサイルが衝突した
  ことで、航空機の制御が不能になったのが原因。
  2.123便は、自衛隊の誘導と指示で山腹への胴体着陸を
  敢行した。従って墜落ではなく不時着である。これはスコー
  ク77を、そのシステムから意味までを正確に理解すること
  で証明される。
  3.機体は大破したが、520名の乗員・乗客の中で、多数
  の生存者がいたが、救出されたのは4人だけで、あきらかに
  他殺とわかる死体もあり、殺人事件であることが明白。
  4.救出が遅れたのは政府の意図的な指示によるもので、救
  出までの空白は、事故の証拠隠滅であるのは明白。生存者の
  殺害も証拠隠滅の一環。
  5.123便事故の犯罪は、生存者の証言と元米軍パイロッ
  トの証言、そして、2000年に公開されたボイスレコーダ
  ーで十分に証明できる。
  6.証拠隠滅を指示したのは、第2次中曽根第1次改造内閣
  の首相である中曽根康弘、指示を実行したのは、防衛庁長官
  加藤紘一、米国との証拠隠滅の口裏わせをしたのは、外務大
  臣の安倍晋太郎。彼らがこの国際刑事裁判の被告だ。
  7.日本政府は、2015年、米国の公文書が公開されるの
  に合わせて、この事故の真相が明らかにならないように、被
  告本人や遺族ら関係者は、秘密特定保護法を制定した。この
  法案施行前に事件の解明と国際刑事裁判の訴追手続きをしな
  ければならない。2013年12月18日改稿。
                  https://bit.ly/2wW50Nw
  ───────────────────────────

護衛艦「まつゆき」.jpg
護衛艦「まつゆき」
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2018年09月13日

●「事故当時の山下運輸相の反応探る」(EJ第4849号)

 18時12分20秒に羽田空港を離陸したJAL123便は、
6分後の18分38秒には、早くもベルトサインはオフになり、
スチュワーデスたちは、サービスに動き出しています。そのとき
から乗客の一人である小川哲夫氏(当時41歳)は、右通路から
窓の外の写真を撮り始めています。
 ところがその5分後に「ベルト・オン」のサインが出たので、
小川氏は自席(右側最後部から三列目の2席の通路側。窓側は小
川氏の奥さん)に戻って窓の外にカメラを構えたのです。
 その直後の24分34秒に「ドドーン」という衝撃音がしたの
です。これは推測ですが、とっさに小川氏はカメラで窓の外を連
続して何枚か写真を撮ったものと思われます。その写真の一枚が
添付ファイルの写真です。
 このとき、JAL123便は上昇中だっのですが、飛行機の左
舷から水平に胴体下部に衝突したファイヤー・ビーが角度を変え
て、123便の右後方に飛んでいたとすると、この写真の説明が
つくのです。
 一見すると、この黒点は、事故現場から回収された小川哲夫氏
のカメラとみられるネガフィルムに写っていたもので、最初の時
点から話題になっていたのです。しかし、事故調は、単なるカメ
ラか窓のシミのようなものとして一顧だにしませんでした。しか
し、これはけっしてゴミでもシミでもなく、オレンジ色の飛翔体
であることが後から判明したのです。
 その証明は、元国際線パーサーの青山透子氏の著書に出ていま
す。青山透子氏は、先方からの希望で2010年11月10日に
事故当時の運輸大臣山下徳夫氏(当時91歳)に会っています。
せっかくの機会なので、本の編集者も同席して、当時のいろいろ
な写真や資料を見せて、感想を聞いたそうです。
 そのとき、「急減圧のない機内」と「窓の外の黒点」の写真を
見せて、山下氏の意見を聞いています。青山氏の本から、その部
分を引用します。
─────────────────────────────
 「これは急減圧がないように見える機内の写真(8月22日付
EJ第4833号に添付)ですが、どうですか。事故原因の急減
圧があったとは思えない風景だと思いますが、いかがですか。し
かし、事故調査委員会はこの写真を証拠としてはまったく取り上
げませんでした。次はこの窓の外を写した写真ですが、ご存知で
したか。相模湾の向こうに富士山の影が見えて、飛行機の翼の先
が写っています。おそらく窓から外の風景を写したのでしょうが
他の写真に比べて、一枚黒い点のあるものがあります。この黒い
点に見えるものですが、その前後の同じような風景写真を見てみ
ると、黒点がありません。つまり、窓のシミでもなければ、ごみ
でもないことがわかります。そこで知り合いの研究者に頼みまし
て、画像専門の解析をする研究所で拡大分析をした結果、黒点を
だんだん大きく拡大すると、オレンジ色になることがわかりまし
た。その写真がこれです」
 そういって、次の拡大写真を出した途端、ナイフとフォークを
置き、両手を広げたオーバーなポーズで、山下氏はこう言った。
 「なんだ、これは!」
 広げた手も大げさだが、目も大きくして驚いて見せたその顔は
思わず編集者と顔を見合わせて噴き出すほどのポーズだった。そ
れは、かなりわざとらしいリアクションであった。その拡大写真
を目の前に置いて「このようにオレンジ色っぼい物体です。この
高度で飛ぶ鳥でオレンジ色のものなどいません。鳥ではないとす
ると、一体何でしょうか?」と話すと、「さあ、何だろうねえ」
と、首をかしげながら画像を見ていた。
               ──青山透子著/河出書房新社
  『日航123便/撃墜の新事実/目撃証言から真相に迫る』
─────────────────────────────
 これには、そのとき山下氏はわざとらしいジェスチャーであっ
たといいます。青山氏は、「自衛隊の無人標的機とか練習用ミサ
イルとか、そういうものがオレンジ色に塗られています」とまで
踏み込んだのですが、山下氏はとくに動揺する様子もなく、むし
ろわかっていたという表情だったそうです。青山氏と編集者は、
山下氏との別れ際の次の一言が気になったといいます。
─────────────────────────────
 あのね、日本は何でもアメリカの言いなりだからね。遺族が再
調査を望むのであれば、ぜひすべきであると思う。 山下徳夫氏
                ──青山透子著の前掲書より
─────────────────────────────
 この青山透子氏の本について、どちらかというと、事故調の結
論が正しいとする説を主張する元共同通信記者の堀越豊裕氏は、
自著で、青山本について次のように述べています。
─────────────────────────────
 青山の本は慎重に断定を避けているが、墜落は圧力隔壁の破断
による事故ではなく、ミサイルや無人標的機が垂直尾翼に当たり
撃墜した可能性を示した。本にはその推定を支える目撃証言など
が盛り込まれており、事故調の報告書や米国の内部資料には出て
こない。  ──堀越豊裕著『日航機123便墜落最後の証言』
                    平凡社新書/885
─────────────────────────────
 JAL123便のミサイル型無人標的機の衝突による説を最初
に唱えたのが、池田昌昭著『JAL123便墜落事故真相解明/
御巣鷹山ファイル』(文芸社刊)です。それに角田四郎氏による
疑惑/JAL123便墜落事故/このままでは520柱は瞑れな
い』(早稲田出版)が続くのですが、動かぬ証拠とまではいえな
いもどかしさがあります。青山透子氏の本には、彼女の足で集め
た膨大な証言が満載されており、それらはいずれもミサイル型無
人標的機の衝突の正当性を裏付けています。オレンジ色の飛翔体
にはもうひとつの目撃表現があります。明日のEJで取り上げる
ことにします。  ──[日航機123便墜落の真相/019]

≪画像および関連情報≫
 ●山下徳夫元運輸大臣を偲んで/青山透子氏
  ───────────────────────────
   2014年の1月1日に、JAL123便事故当時に運輸
  大臣だった山下徳夫氏が94歳でお亡くなりになりました。
  昨日編集者からの電話で、それを知りました。実は、私の本
  をお読みになり、そのご縁で、都内にて編集者と共にお会い
  する機会がありました。その時山下氏に、私が本を出版した
  際に知り得た情報をもとに、遺族から提供された機内写真や
  窓から見える写真、研究者が拡大してくれた写真などもお見
  せして、この事故の状況について説明をしました。
   その際、ポケットからいつも持ち歩いているという、川上
  慶子ちゃんの座席ナンバーの入ったチケットの半券のコピー
  を取り出して、「飛行機に乗る際のお守り代わりなんだ」と
  おっしゃっていたのにはちょっと驚いた記憶があります。
   当時はとても複雑な気持ちでしたが、今思うと政治家とい
  えども、一人の人間であり、またお孫さん思いのおじいちゃ
  んだったと思います。編集者と共に、またお元気なうちにお
  会いしましょう、と別れたのが最後となりました。
  その後、私の本をじっくりと読んでくださって、今度は一緒
  に本を書きましょう、とか、とても良い本だ、教科書にした
  い、と感想を述べて下さったとを、編集者より聞きました。
   事故当時、山下氏は二階席担当だった私の先輩から「お孫
  さんにどうぞ」と、飛行機のプラモデルをもらい、その袋を
  持ったまま、事故の知らせを聞き、事故対策委員会へ急きょ
  向かったということでした。それは拙著にも新聞にも書いて
  あります。実際にお会いして話をして、あの時どういう気持
  ちだったのかなあと想像力を膨らませて考えてみると、自分
  が乗ってきた飛行機がそのまま墜落機になったというあまり
  の偶然に、身も心も凍る思いだったと思います。
                  https://bit.ly/2wZK0Wf
  ───────────────────────────

窓の外の謎の飛翔体.jpg
窓の外の謎の飛翔体
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2018年09月14日

●「ある女性の2つの情報の重要証言」(EJ第4850号)

 青山透子氏の本に、小林美保子さんという女性による2つの目
撃情報の証言です。小林さんは現在東京で福祉関係の仕事をして
いますが、1985年当時は、実家から静岡県藤枝市にある運輸
関係の会社に勤めており、車で通勤していたのです。事故当日の
8月12日、18時30分頃仕事が終わって会社を出たとたん、
「キャーン、キャーン」と2回にわたり、女性の金切声のような
音を聞き、空を見上げると、目の前を低く右斜めに傾きながら、
巨大なジャンボジェットが低空で飛んでいたといいます。窓が、
はっきり見えるほどの低空でしたが、飛行そのものは、安定して
いるように見えたとしています。
 このジャンボジェットは、時間と場所からみて、JAL123
便であることは間違いないと思われます。その飛行機を見た小林
さんは、飛行機の胴体にあるものを見たのです。それが一つ目の
目撃情報です。小林さんは、次のように述べています。
─────────────────────────────
 「それはですね。機体の左下のお腹です。飛行機の後ろの少し
上がり気味の部分、おしりの手前くらいでしょうか。貨物室のド
アがあるような場所、そこが、真っ赤に抜けたように見えたんで
す。一瞬火事かなと思ったけど、煙が出ている様子もない。ちょ
うど垂直尾翼のあたりがグレー色でギザギザのしっぼみたいだっ
たので、それが煙に見えたけど・・・煙なら、たなびくけど、そ
れは動かなかった。今思うと、千切れたしっぼのギザギザが煙の
ように見えたんですね」。
 真っ赤というと火事かと思いきや、そうではないという。「そ
のお腹の部分、つまり飛行機の左側のお腹の部分、4〜5メート
ルくらいになるのかなあ。貨物室ドア2枚分ぐらいの長さでしょ
うか。円筒形で真っ赤。だ円っぼい形でした。濃いオレンジ、赤
という色です。夕日を浴びて赤い、という感じでもない。夕日は
機体の背を照らしていたので、逆にお腹はうす暗く見えました。
円筒形のべったりとした赤色がお腹に貼り付いているイメージ、
言葉で伝えるのは難しいけど。絵に描くとこんな感じかなあ」。
               ──青山透子著/河出書房新社
  『日航123便/撃墜の新事実/目撃証言から真相に迫る』
─────────────────────────────
 添付ファイルは、小林さんのイメージに基づいて作成した作図
であり、本物のJAL123便ではありません。問題は「垂直尾
翼のあたりがグレー色でギザギザのしっぼみたいだった」という
表現です。これは、破壊された垂直尾翼が、ギザギザのように見
えたものと思われます。
 しかし、事故調で発表された静岡県焼津付近の高度は、249
00フィート(7470メートル)となっており、この高度では
胴体の赤マークも尾翼のギザギサも地上からは、見えないはずで
す。そのため小林証言は、ウソということにされてしまいます。
 しかし、事故調発表のこの高度には疑問があるのです。小林さ
ん以外にも、小林さんの位置に近い東名高速道路や新幹線の駅で
も低空飛行するジャンボ機が目撃されているのです。したがって
小林さんの証言は正しいと判断されます。
 それでは、JAL123便の胴体の赤いものは、一体何なので
しょうか。
 これについては、池田昌昭氏の本に重要なヒントが載っていま
す。それは、標的機は吹流しのようなものをつけて飛んでいると
いう指摘です。その吹流しもオレンジ色なのです。
─────────────────────────────
 この標的機、1回1回撃ち落としていたのでは金がいくらあっ
ても足りない。ジェット戦闘機から機関砲射撃をしたり、ミサイ
ル発射をするときの標的なのである。では何が考えられるのか。
ちょうど鯉のぼりのような「吹き流し」をつけて標的機が飛び、
それを地上か海上か空中でリモコン操作をして、その後ろに引っ
張っている「吹き流し」に、機関砲やミサイルの発射と命中にい
たる訓練をする仕掛けではないのか。この「吹き流し」を引っ張
るワイヤーも一緒に垂直尾翼にぶつかり、絡み付いた可能性があ
る。(一部略)
 さらにこの「吹き流し」は少なくとも30メートル以上は、標
的機から離さないと機関砲の弾丸があたってしまう。従って30
メートル以上はワイヤーロープで引っ張られているわけであり、
またワイヤーロープで、グライダーを引っ張ることもできる。標
的機がグライダーを引っ張り、そのグライダー目掛けて空中で機
関砲等が発射されるのである。ミサイルは熱感知システムであり
標的機のエンジンが出す排気熟をキャッチするのである。ここで
ミサイルを発射してしまえば、標的機は破壊されてしまうので、
排気熱キャッチ(ロック・オン)までである。
                 ──池田昌昭著/文芸社刊
  『JAL123便は自衛隊が撃墜した/御巣鷹山ファイル』
─────────────────────────────
 標的機がそのような「吹き流し」をつけて飛んでいるとすれば
接近すれば、その吹流しが飛行機の胴体に絡みつき、オレンジ色
の塗料をつける可能性は十分あります。これが小林美保子さんが
証言する1つ目の情報です。
 もうひとつの情報とは何でしょうか。
 それは小林さんが空を見上げていると、ジャンボジェット機の
すぐ後をファントム機2機が追いかけていったということです。
そしてなぜかホッとしたといいます。なぜなら、低空を飛行する
ジャンボジェット機をファントム機が追尾するということは、行
方不明機ではなく、その救助のために飛んでいると思ったからで
す。実は、この2機のファントム機は、自衛隊員の目撃情報もあ
り、けっして小林さんの見間違えではないのです。自衛隊の情報
では、ファントム機の飛行は、通常とは違う感じがしたといいま
す。そうであるとすると、JAL123便の墜落場所がわからな
いはずはないのです。ここに大きな疑問があります。
         ──[日航機123便墜落の真相/020]

≪画像および関連情報≫
 ●尋常ではない勇気『日航123便墜落事故の新事実』を読む
  ───────────────────────────
   青山のこの近刊で明らかにされる新事実は以下の3つ。
  1.123便のすぐ後ろを追尾しながら飛行するファントム
    機の存在
  2.123便の腹部に付着しているように赤い物体が存在し
    ていたこと
  3.現場遺体の炭化状態
  順に説明する。
   1の航空自衛隊のファントム戦闘機は、これまでの発表で
  は、123便墜落直後の午後7時10分に、墜落位置探索の
  目的で、茨城百里基地を出動となっていたものだ。それを青
  山は、このジャンボ機墜落事故への疑問を最初に書いた前著
  『天空の星たちー日航123便のあの日』(10年刊)の後
  それを読んで  告げたくなったことがあると出版元に直接
  訪ねてきてくれた読者からその目撃情報として知らされた。
  当時22歳のこの女性は静岡の藤枝に車で通勤していたが、
  6時35分に、123便が異様に低く飛んでいる姿と、それ
  のすぐ後に飛行する自衛隊ファントム2機をはっきり見たと
  証言してくれた。青山はこのファントムについての目撃証言
  をべつの2人からも得ている。前記の当時20代の女性がな
  ぜ機種特定まで明確に述べているかというと、彼女は年少時
  から自宅近隣にある航空自衛隊の基地で、毎年こどもの日に
  実施される展示やイベントによく行っており、充分な知識が
  あったからだ。         https://bit.ly/2MiiCrl
  ───────────────────────────

123便に付着する赤いもの.jpg
123便に付着する赤いもの
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2018年09月18日

●「JAL123便を追尾する戦闘機」(EJ第4851号)

 青山透子氏の本に、御巣鷹山事故のあった1985年8月12
日の夕方から夜にかけて何を見たかについてまとめた小学生と中
学生の冊子があると書いてあります。群馬県上野村立上野小学校
と中学校における子ども達の証言です。
─────────────────────────────
 1.文集『小さな目は見た』  1985年9月30日発行
          群馬県上野村立上野小学校/148名
 2.冊子『かんな川5』    1985年10月1日発行
          群馬県上野村立上野中学校/ 87名
               ──青山透子著/河出書房新社
  『日航123便/撃墜の新事実/目撃証言から真相に迫る』
─────────────────────────────
 「1」については、群馬県上野村立上野小学校の148名の小
学生による日航機墜落事故についての文集です。上野小学校の当
時の校長神田箕守氏は、この文集について、次のように書き記し
ています。
─────────────────────────────
 子ども達は多くのものを見聞し、多くのことを知りました。多
くのことを考えました。だがこの貴重な体験もそのまま放置する
ならば、やがて忘却の彼方に消え去ることは必至であります。体
験が生々しい中に、考えが新鮮な中に、それを深め、まとめてお
くことが、子ども達の長い人生に役立つことであり、尊い犠牲者
の御供養にも通ずるものと「日航機事故について」の文集を作る
ことにしました。              ──神田箕守氏
                ──青山透子著の前掲書より
─────────────────────────────
 「1」と「2」は、小学校と中学校がとくに相談して作成され
たものではなく、偶然に小学校と中学校で、子ども達による文集
が作られていたのです。注目すべきことは、作成された時期が事
故直後の証言であることです。目撃情報としては、価値があると
いうことです。
 青山透子氏は、これら2つの文集をていねいに読み、分析して
数値化しています。事故当日の12日分について、墜落の前、墜
落前後、墜落後に見たもの、聞いたものの統計です。これによる
と、当日小学校と中学校で、なんらかのものを見た子どもたちは
次の通りになります。
─────────────────────────────
        小学校 ・・・・・ 51%
        中学校 ・・・・・ 55%
─────────────────────────────
 小学校の「墜落前」の次の記録です。小学校5年生のH・H君
は、次のように述べています。
─────────────────────────────
 8月12日の夕方、6時45分ごろ南の空の方からジェット機
2機ともう1機大きい飛行機が飛んできたから、あわてて外へ出
てみた。そうしたら神社のある山の上を何回もまわっているから
おじさんと「どうしたんだんべ」といって見ていた。おじさんは
「きっとあの飛行機が降りられなくなったからガソリン減らして
いるだんべ」と言った。ぼくは「そうかなあ」と思った。それか
らまたも見ていたら、ジェット機2機は埼玉県の方に行ってしま
いました。           ──青山透子著の前掲書より
─────────────────────────────
 大きい飛行機と小さな2機のジェット機──どう考えても、J
AL123便と2機のファントム機としか考えられません。8月
14日のEJで取り上げた小林美保子さんも同じ証言をしている
のです。子どもはウソをつきませんから、見たままをいっている
と思います。
 中学校の文集でもこれと似た証言があります。大きい飛行機と
2機のジェット機の目撃──中学3年生のY・K君の作文です。
─────────────────────────────
 その日は、やたら飛行機の音がしていた。父ちゃんがおかしく
思って外に出て行って「おい、Y、飛行機が飛んでいるぞ。来て
みろ」と言ったので、行ってみた。飛行機は大きいような飛行機
と小型のジェット機が2機飛んでいた。5分以上もたっているの
に、さっきから、ぐるぐる回ってばかりいた。外にいると、蚊に
さされるので、家の中にはいった。そしてテレビを見ていたら、
「キロリン、キロリン」と音がして、なお、いっそうテレビに注
目した。ニュース速報で、大阪行き日航ジャンボジェット機12
3便が、レーダーから消えました。と書いてあった』。
                ──青山透子著の前掲書より
─────────────────────────────
 中学生の文集は、さすが小学生よりも具体的です。場所も本谷
時計山、御巣鷹山というように地名が出てくるし、そのとき、周
りにいた親戚や近所の人たちの会話も出てきます。そのなかに、
「赤い飛行機」という記述があります。中学1年生のY・K君は
次のように述べています。
─────────────────────────────
 午後7時少し前、蚕にくわを入れていたら、雷のような音がし
ました。ぼくの家の下の人は、真っ赤な飛行機を見たといいまし
た。ぼくはその時、どうして飛行機がこんな方に飛んで来たのか
と思いました。それも真っ赤な飛行機。ぼくはその時、いやなこ
とがおこらなければよいと思いました。
                ──青山透子著の前掲書より
─────────────────────────────
 このような子ども達の証言を分析すると、墜落前はJAL12
3便のうしろに2機のジェット機が追尾していたというのは、複
数の証言があり、間違いのない事実のようです。2機のジェット
機は、小林美保子さんの証言とも合わせると、ファントム機であ
ると思われます。なぜ、追尾する必要があったのでしょうか。
         ──[日航機123便墜落の真相/021]

≪画像および関連情報≫
 ●JAL123便墜落事故/真相が語られるとき
  ───────────────────────────
   早いもので、私が123便事件に疑問を抱いて7年、この
  ブログを始めてから、6年近い年月が経過しようとしていま
  す。自分のブログを読み返すと、書き始めの当初は情報量の
  少なさ、そして事実認識の甘さから、誤っている部分が多い
  ことに気がつきます。言い訳ではありませんが、このブログ
  は調査の進展と共に進化前進しています。読者の皆様におか
  れましては、管理人である私が、何をきっかけに考えを改め
  るようになったのか、表現を変えるようになったのか、その
  変化、成長過程も含めご理解いただければ幸いです。
   さて、このブログが主力テーマとして取り上げてきた12
  3便事件の真実、すなわち「あの日、日航123便に何が起
  きたのか」についてですが、調査開始から7年、100%と
  は言えないまでも、その概要についてほぼ全体像を把握する
  ことができました。
   ならば、早くそれを書けと皆様は思われるかもしれません
  が、残念ながら、その真相はあまりに深く、とても一言、二
  言でお伝えすることはできません。123便事件の真相を理
  解するには、まず読者の皆様に理解に必要な予備知識、周辺
  知識をお備えいただく必要があります。現場調査を継続し、
  当局の激しい妨害を潜り抜けてきた私ですら、7年かかった
  事件です。メディア、ネット上の限られた情報しか持ち得な
  い読者の皆様にそれをお伝えするのはかなり難しいと感じて
  います。そして、何より難しいのが、123便事件の真相は
  読者の皆様と現在でも密接に関連しており、真実のいきなり
  の全公表は、皆様の社会通念を破壊するばかりでなく、皆様
  が置かれている社会的な利害関係を崩壊させる危険があると
  も認識しています。       https://bit.ly/2CXLZ2r
  ───────────────────────────

F4−EJファントム.jpg
F4−EJファントム

posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(1) | 日航機123便墜落の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月19日

●「自衛隊が否定する追尾ファントム」(EJ第4852号)


 低空で飛行するJAL123便とみられるジャンボジェット機
の後を追尾する自衛隊の2機のファントム戦闘機──これには多
くの目撃情報があることがわかっています。この2機のファント
ムは、何の目的でJAL123便を追尾していたのでしょうか。
 実は、当時自衛隊は、次の2機種のファントムを保有していた
のです。
─────────────────────────────
            F4−EJ
            RF−4E
─────────────────────────────
 ここで知っておくべきことがあります。それは「TACAN」
(タカン)と呼ばれるものです。TACANは、電波航法の一部
で、軍用の極超短波(UHF)による方位・距離測定装置で,米
国海軍によって航空母艦への帰投用として開発されたものです。
つまり、自衛隊は、その装置の付いているファントム機を飛ばし
JAL123便の墜落場所を探ろうとしたのです。
 つまり、墜落寸前の危機にあるJAL123便を2機のファン
トム機が追っていたのは、墜落場所を早く正確に特定するためと
考えられます。確かに素早く生存者を救助するためには、墜落場
所を特定する必要があるからです。
 しかし、軍事に詳しくない一般国民には絶対にわからないこと
があります。ファントム機には当時上記の2種類があり、位置測
定の能力としては、RF−4Eがダントツに優れているというこ
とです。F4−EJでは約5キロの誤差が出てしまうからです。
生存者救助を第一に考えるのであれば、なぜ、能力の高いRF−
4Eを飛行させなかったのか疑問が残ります。
 もっとも、RF−4Eが飛ばなかったわけではないのです。R
F−4Eに飛行命令が出たのは8月13日午前5時50分のこと
です。墜落場所は既に確定しています。つまり、墜落場所を特定
するための飛行ではなく、現場の「写真撮影」が目的です。救助
や地上部隊をサポートする任務ではないのです。それなら、何の
ためにRF−4Eを飛ばしたのでしょうか。
 JAL123便の機影がレーダーから消えたのは、18時57
分です。その後ヘリを含む複数の飛行体が何機も現場上空に飛来
しています。これについて、角田四郎氏は、自著で次のように述
べています。
─────────────────────────────
 実は、米軍横田基地所属の「C130」輸送機が19時10分
に墜落現場上空から基地に一報を入れている。そのときの位置は
横田TACANから305度、34・6マイルと報告がある。後
に判明した現場から北に5キロはずれていた。
 次に例のF4−EJファントム2機が19時21分に現場上空
に到着、20分にわたる旋回で送って来たデータは、現場の南東
へ5キロずれていた。ファントムに遅れること53分、同じ百里
基地をたった救難用ヘリコプターのKV・107(バートル)が
現場上空着が20時42分、百里基地から現場までヘリでは48
分もかかるものなのだろうか。このKV・107が知らせた位置
は地図では初めて長野県側に入った現場の南西3キロ。それでも
現場からは5キロも南の川上村の扇平山を指した。この機は、高
度1650メートルまで降下したというから、落合さんが手を振
ったのはこのヘリだったかもしれない。
       ──角田四郎著『疑惑/JAL123便墜落事故
      /このままでは520柱は瞑れない』/早稲田出版
─────────────────────────────
 実はJAL123便がレーダーから消えたとき、自衛隊は次の
公式発表を行っています。
─────────────────────────────
18時59分:峯岡山基地吉田一尉、中部航空方面隊司令部防衛
 部長・大中康生一佐を通じ、松永貞昭司令官に日航機123便
 レーダー消滅を伝達。「北緯36度02分、東経138度41
 分」
19時01分:大中1佐松永空将の了解にて、スクランブル発信
 命令。空自百里F−4EJファントム戦闘機2機(第305飛
 行隊。式地豊二将ら発進)。この時間より以前、自衛隊はファ
 ントム機、ヘリ等発信させていないと発表
               ──青山透子著/河出書房新社
  『日航123便/撃墜の新事実/目撃証言から真相に迫る』
─────────────────────────────
 この自衛隊の公表は、2つの不可解なことがあります。
 不可解なことの1つは、123便のレーダーの消えた場所とさ
れる「北緯36度02分、東経138度41分」は、長野県北相
木村、御座山北斜面」の位置に当たります。これは、百里基地を
飛び立った救難用ヘリコプターの情報に基づいていますが、墜落
場所が異なっています。問題はなぜ間違えたのかです。
 これに基づいてNHKは、テレビで何回も「墜落場所は長野県
御座山」と報道しているのです。これによって、全国的に墜落場
所の誤情報が伝わってしまったのです。
 不可解なことの2つは、19時1分に自衛隊は、空自百里基地
からF−4EJファントム戦闘機2機を発進させたとし、それ以
前は、ファントム機もヘリも発進させていないといっていること
です。そうであるとすると、123便を追尾していたあのファン
トム機2機は何なのでしょうか。123便が墜落前から追尾して
いたのですから、まるで時間が異なります。
 このようなわけで、123便の墜落現場発見は大幅に遅れ、墜
落直後は、生存者の証言によると、100人以上が生きていたと
される乗客・乗員のほとんどが亡くなり、生存者は4人のみとい
うことになったのです。なぜ、救助できなかったのでしょうか。
 墜落場所を間違えたのではなく、あえて誤情報を流し、場所を
特定させなかった疑いも捨てきれないのです。
         ──[日航機123便墜落の真相/022]

≪画像および関連情報≫
 ●日航123便はなぜ墜落したのか/第76回/森永卓郎氏
  ───────────────────────────
   青山透子氏の本のなかでまず注目すべきことは、墜落直前
  の123便を2機の自衛隊のファントム機が追尾していたと
  いう複数の目撃証言だ。この証言のなかには、当時の小学生
  が事故の状況を綴った文集のなかでの証言も含まれている。
  子どもたちがうそをつくはずがない。しかし、この証言を前
  提にすれば、日本政府は、当初から墜落現場を完全に把握し
  ていたことになる。
   それでは、公式に機体を発見したとされる翌朝まで、自衛
  隊は一体何をしていたのだろうか。本書に掲載された証言に
  よると、現場にはガソリンとタールをまぜたような強い異臭
  がしていたそうだ。また、現場の遺体は、通常の事故では、
  あり得ないほど完全に炭化していたという。自衛隊を含む軍
  隊が使う火炎発射機は、ガソリンとタールを混合したゲル状
  燃料を使用している。つまり、墜落から翌朝までの間に、何
  者が証拠隠滅のために強力な燃料で焼き尽くしたのではない
  かということだ。
   消すべき証拠とは何か。青山氏の著書によると、123便
  から窓の外を撮った写真を解析すると、オレンジ色の物体が
  飛行機に向かって飛んできているという。それは地上からも
  目撃されている。青山氏は、次のような可能性を提示してい
  る。自衛隊の訓練用ミサイルなどの飛行体は、オレンジ色で
  塗られていた。何らかの理由で、その飛行体が123便の尾
  翼を破壊したため、123便は制御不能に陥ったのだ。
                  https://bit.ly/2w2TvlU
  ───────────────────────────

RF−4Eファントム.jpg
RF−4Eファントム
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(2) | 日航機123便墜落の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月20日

●「意図的に墜落現場を遠ざけている」(EJ第4853号)

 JAL123便の墜落場所はなぜ二転三転したのでしょうか。
123便の墜落現場には、ヘリを含む日米4機の飛行体が現場上
空に飛来し、位置情報を送っています。墜落現場上空に到着した
順に並べると、次の通りになります。
─────────────────────────────
 1.   C−130(横田基地) ・・・・ 19:10
 2.  F4−EJファントム2機 ・・・・ 19:21
 3.KV−107ヘリ(百里基地) ・・・・ 20:42
 4.KV−107ヘリ(入間基地) ・・・・  0:36
─────────────────────────────
 123便の墜落現場の上空に一番早く到着したのは、横田基地
所属のC−130輸送機です。19時10分に墜落現場から横田
基地に一報を入れています。操縦していたのは、アントヌッチ空
軍中尉です。このアントヌッチ空軍中尉は、後になって重要証言
をすることになります。彼は、そのまま現場上空を旋回し、ひた
すら横田基地からの「救助せよ」の指示を待ったのです。
 続いてやってきたのは、茨城県百里基地所属のF4−EJファ
ントム2機です。19時21分のことです。20分にわたる旋回
で位置情報を送っています。
 このように書くと、123便をずっと追尾してきたF4−EJ
ファントムだと誰でも思うはずです。しかし、自衛隊は、これら
2機が百里基地を発進した19時5分以前には、一機のファント
ムやヘリを発進させていないと断言。自衛隊のいうことが正しい
とすると、あの多くの目撃情報は何なのでしょうか。
 続いてやってきたのは、同じ百里基地から飛来した救難用ヘリ
KV−107です。このヘリは高度1650メートルまで降下し
て墜落現場の状況を調べています。最後にやってきたのは、墜落
現場から一番近い入間基地所属の救難用ヘリです。到着は13日
の0時36分です。墜落現場がわからなくて大騒ぎになっている
のですから、もっと早く発進すべきであったといえます。
 これらの4機は、いずれも墜落現場の位置情報を送っています
が、これについて、角田四郎氏は、自衛隊の乗客・乗員の救助の
あり方に強い疑問を呈しているのです。
─────────────────────────────
 同じ航空自衛隊でも、さらに墜落現場に近い埼玉県の入間基地
から、13日になった午前0時36分、同型ヘリKV・107が
飛んだ。今度は入間基地のTACANをとって、さらに夜間でも
はっきり上空から見える目標物を近くに求め、その距離をTAC
ANで調べる。地図上の距離とTACAN測定の誤差を出し、そ
の比で墜落現場を決めるという手の込んだことをやった。
 後に判明したのであるが、このとき出した「入間タカンから2
19度、36・3マイル」というのはドンピシャリ本当の墜落現
場を指していたのである。ここで一つ疑問なのは何故、より現場
に近い入間基地からはこんなに遅くなるまで一機も発進しなかっ
たのかということと、最初から横田、入間両TACANからの距
離を測定していれば、さらに誤差は小さかったのではないのかと
いうことである。
 13日午前1時頃には、現場が確定できていたはずのこの情報
が、またもやどこかで操作されてしまう。今度は「現場はぶどう
峠の210度、3マイル。御座山南斜面」北斜面が南斜面になり
現場から西へ7キロもはずれている。いったい何事であろうか。
実は、米軍機を含め計4機が行った計測の中に長野県御座山を指
したのは指したものは1件もないのである。
       ──角田四郎著『疑惑/JAL123便墜落事故
      /このままでは520柱は瞑れない』/早稲田出版
─────────────────────────────
 重要なことは、これら4機の墜落場所の測定は、若干の誤差は
あるものの、ほぼ正確だったということです。とくに入間基地所
属のKV−107ヘリの位置計測はドンピシャリだったのです。
したがって、4つの情報を合わせて位置が判明しないことはあり
得ないことです。まして「長野県御座山」を指したのは、一機も
なないのです。それなのに、どのような情報を入れてもNHKは
「墜落地点は御座山付近」を繰り返すのみです。明らかに、フェ
イクニュースであり、正確な墜落場所の特定を遅らせようとして
いるとしか思えないのです。
 航空自衛隊では、現場から上げられてくる情報は、航空幕僚監
部空幕運用室に送られます。運用室には、当時、副幕僚長の大村
空将以下、30〜40名の幕僚がつめて全体の指揮と調整を行っ
ていたのです。ここを通すと、どのような情報も、「長野県佐久
付近」に化けてしまうのです。そのため、メディア各社の報道は
いずれも次のようなものになってしまいます。
─────────────────────────────
 航空自衛隊からの連絡によると、123便は長野県佐久付近
 に墜落した模様である。       ──報道会社の報道
             ──角田四郎著による前掲書より
─────────────────────────────
 添付ファイルを見ていただくとわかるように、123便墜落現
場と御座山とは、県も違いますし、距離も相当離れています。し
かも、4機の日米の軍用機が測定したデータがすべて間違ってい
るはずがないのです。これは本当の墜落場所を意図的に隠そうと
したとしか思えないのです。
 さて、墜落現場に一番早く到達し、「救助せよ」の指示を待っ
て現場上空で旋回していたC−130のアントヌーチ航行士に対
して横田基地から意外な指示が届いたのです。それは、次のよう
なものでした。
─────────────────────────────
 諸君は直ちに帰還せよ。JASDF(航空自衛隊)の救難ヘ
 リがそちらに向っている。──角田四郎著による前掲書より
─────────────────────────────
         ──[日航機123便墜落の真相/023]

≪画像および関連情報≫
 ●多くの証言から浮かび上がる疑惑
  ───────────────────────────
   奇跡的に生還した川上慶子さん(当時12歳?)の証言。
  同乗していた両親が亡くなったので島根の祖母宅へ帰ったと
  きの話。「墜落したあと、ふと気が付いたら、周囲は真っ暗
  だった。あちこちでうめき声が聞こえ、私の両親もまだ生き
  ていたような気がする。しばらくすると前方から懐中電灯の
  光が近ずいてきたので助かったとおもった。そのあとまた意
  識がなくなり、次に目が覚めると明るくなっていたが救助の
  人は、誰もいなくて、周りの人たちはみんな死んでいた」。
  慶子さんから上記の話を聞いた祖母はご近所のひとに伝えた
  らしい。しかし「慶子は夢でも見たんじやろう。」で終わっ
  てしまった。
   エンジンがバラバラになりすぎている。乗客の遺体の損傷
  が激しすぎる。事故直後に、日航の技術者が現地入りしてい
  る。会社の上司の人で同窓生にJALの整備士と自衛隊の人
  がいて、この二人は事故現場に派遣されて捜索に加わってた
  そうです。最近同窓会で10年ぶりにこの2人に会って、こ
  の事故について話を触れたらしく、話の中で驚く事を言って
  おられました。現場に派遣された2人の話ではこの墜落機の
  尾翼部分に『模擬弾』が当たった跡があったらしく、尾翼が
  発見された周辺にも『米軍の模擬弾』と見られる物も一緒に
  見つかったそうです。      https://bit.ly/2QM9GxQ
  ───────────────────────────

123便墜落現場と御座山の位置関係.jpg
123便墜落現場と御座山の位置関係
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(1) | 日航機123便墜落の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月21日

●「なぜ救助ヘリは降下しなかったか」(EJ第4854号)

 墜落場所を特定し、4機がその上空に飛来しながら、救助せず
引き上げる──通常では考えられない冷酷さです。軍事評論家の
ガブリエル・中森氏はある週刊誌で次のように述べています。
─────────────────────────────
 メイ・サバイブ、シャル・サバイブ″(生きているかもしれ
ないなら、必ず生かす)──これがアメリカのレスキューのモッ
トーです。現場にたどり着き、死んでいるのを確認しないかぎり
生きていることが前提。現場に降りることが不可能だったのなら
なぜ上空を旋回しながら、ラウド・スピーカーで激励したり、ラ
イトを当ててやらなかったのか。救援に来ていることを知らせる
だけで、精神的な支援になる。それがレスキューの基本である。
                  ──ガブリエル・中森氏
            『週刊宝石』/1985年9月6日号
       ──角田四郎著『疑惑/JAL123便墜落事故
      /このままでは520柱は瞑れない』/早稲田出版
─────────────────────────────
 KV−107ヘリは救難用のヘリコプターです。そうであれば
投光機や拡声機は必ず備わっているはずです。上空から見る限り
では、確かにほとんど生存者は望めない絶望的な状況とみられる
ものの、それでも地上に降りて、死んでいるのを確認しない限り
生きているものとして最善の努力を講ずる──これが米国のレス
キューの精神ということですが、その精神は日本であっても同じ
であると思います。
 もし、空から光をあて、拡声機で「大丈夫ですか。いま降りま
すから、頑張ってください」と何回も声を掛けたら、瀕死の重傷
の人でも「これで助かった」と思うはずです。生きる望みを持つ
からです。しかし、日本のKV−107ヘリは、かなり遅く墜落
現場上空にやってきて、1650メートルまで降下しながらも、
明りを照らすことも、拡声器で励ますこともせず、現場を離れて
います。
 青山透子さんの本に次の記述があります。生存者の落合由美氏
の証言に基づいていると思われます。
─────────────────────────────
 ガーガーガーンと強い衝撃の後、様々な固形物や砂が次々と頭
にぶつかり、体が宙に投げ出された。左目は砂にまみれて目が飛
び出したように痛い。口は乾き、砂でいっぱいだ。シートベルト
が体に食い込んでお腹がちぎれそうに苦しい。
 「はあ、はあはあ」と荒い息遣いをしながら、つい先ほどまで
の身の毛もよだつ恐怖がよみがえる。「ああ、墜落したのだ。大
変な事故を起こしたのだ」
 周辺からも、はあはあと、荒い息遣いが聞こえてくる。「おか
あさん」「早くきて」「ようし、僕は頑張るぞ」そんな声も聞こ
えてくる。すると、闇の中からヘリコプターの音が、近づいてき
た。夏山特有の湿り気のあるもったりとした空気が、一瞬にして
かき乱される。バリバリバリと爆音をたてて、木々の葉を大きく
揺らしながらゴーゴー、パパバーとホバリングを始めた。辺り一
面、埃や砂、機械の臭いが舞い上がる。
 「ああ、私は生きている、これで助かる」全身の痛みをこらえ
かろうじて動くほうの右手を必死に空に向かって伸ばした。「助
けてください、私は・・ここに・・と、夢中で手を振る。「助け
て」「帰っちゃいや」「誰か来て」 そのような何人もの声をか
き消すように、ヘリコブターは、爆音と共に段々と遠くへ去って
いった。周りでは、はあはあと何人もの荒い息遣いだけが聞こえ
てきた。           ──青山透子著/河出書房新社
  『日航123便/撃墜の新事実/目撃証言から真相に迫る』
─────────────────────────────
 これは実に残酷な話です。重傷を負った生存者にとって、ヘリ
コプターが近づいてくる音は、生きる希望が持てますが、去って
いく音は絶望を感じるものです。日本の自衛隊は、生存者救出に
は、最大限の努力をするので世界的にも定評があります。
 ましてJAL123便には乗客乗員524名が乗っているので
す。自衛隊のヘリは、百里基地と入間基地から、それぞれが墜落
現場上空まで行っているのに、なぜ、危険を冒してでも、地上に
降りようとはしなかったのでしょうか。それは、これまでの自衛
隊の献身的な救助の在り方とは違う感じがします。こういうとこ
ろから、上の方から「現場には降りるな」という命令が出ていた
のではないかという噂がでてくるのです。これはけっして陰謀論
などではありません。
 これは、一番最初に墜落現場上空に到達しながら、横田基地へ
の帰還命令を受けたC−130のアントヌーチ航空士のケースと
関係があります。C−130は、墜落現場を特定すると、直ちに
横田基地の海兵隊に救助の要請をし、海兵隊のヘリは墜落現場に
向いつつあったのです。ヘリが到着するまでの時間は約1時間、
その間、C−130は、墜落機残骸の上空2000フィートで旋
回し、墜落現場までの方位を計測し、レーダーで地上から空中ま
でを探索するなど、するべきことを着々とやっていたのです。
 8時50分までに救援ヘリのライトを視認でき、ヘリは偵察の
ため、さらに下降しようとしていたのです。
 そのときです。横田基地から「ただちに帰還せよ」という命令
がきたのです。C−130の指揮官、ジョン・グリフィンは「司
令官、海兵隊は救助続行を希望しております」と伝えたものの、
「繰り返す。即刻、基地に帰還せよ。海兵隊も同様である。救助
は日本側が向かっている」と命令されたのです。
 軍においては上官の命令は絶対です。やむを得ず、救助を諦め
て、C−130は横田基地に帰還します。横田基地に帰還すると
第861戦術飛行隊副司令官、ジェエル・シルズ大佐にクルー全
員が呼ばれ、報告後、こういわれたのです。「ご苦労だった。今
回のことについてマスコミには一切他言無用である」と。これも
きわめて不自然なことです。何か大きな力が働いていることは確
かです。     ──[日航機123便墜落の真相/024]

≪画像および関連情報≫
 ●なぜ墜落地点の発見は遅れたのか?
  ───────────────────────────
   1985年8月12日18時24分、日本航空123便は
  羽田空港から離陸して大阪伊丹空港へ飛ぶ途中で突如、胴体
  後部の隔壁破壊により垂直尾翼が破損し、飛行機の操縦に必
  要な油圧装置の作動油(ハイドロ液)という液体が流れだし
  てしまい、操縦が困難な状態に陥ってしまいます。
   その直後に緊急事態を知らせる二次レーダー信号「スコー
  ク7700」を発信しつつ、関東の空の運行を管理している
  東京交通管制部(東京ACC)と交信して非常事態を知らせ
  ました。そして、18時28分には航空自衛隊も同じ二次レ
  ーダー信号「スコーク7700」を受信して、直ちに中部航
  空方面隊の中央救難調整所(ROC)が情報を集めはじめ、
  18時56分に墜落したと無線傍受から判明すると、19時
  01分には百里基地のF−4EJ戦闘機が捜索の為にスクラ
  ンブル発進しました。
   19時15分にはたまたま墜落現場付近を飛行していたア
  メリカ空軍のC−130輸送機が、19時21分には百里基
  地より離陸したF−4EJ戦闘機二機が墜落現場の火災を発
  見して、位置を報告しました。この時に位置を突き止める為
  に使われたのはTACAN(戦術航法装置)というシステム
  で、通常は飛行機が空を飛ぶときに今何処にいるかを測定す
  る為のものです。無線局から発信される信号を捉えて、飛行
  機の飛んでいる位置を割り出す事が出来ます。
                  https://bit.ly/2xhLV8H
  ───────────────────────────

C−130輸送機.jpg
C−130輸送機
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(2) | 日航機123便墜落の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月25日

●「測量するヒマがあれば降下すべし」(EJ第4855号)

 JAL123便の墜落場所が特定できたのは、8月13日、午
前5時10分ということになっています。これは、自衛隊が後に
なって発表したものです。しかし、この自衛隊の発表は、とても
信じられるものではありません。なぜなら、20日のEJで述べ
たように、12日の19時以降に日米の軍用機4機が墜落現場上
空に達しているからです。日米の軍用機と墜落現場への到着時間
を再現します。
─────────────────────────────
 1.   C−130(横田基地) ・・・・ 19:10
 2.  F4−EJファントム2機 ・・・・ 19:21
 3.KV−107ヘリ(百里基地) ・・・・ 20:42
 4.KV−107ヘリ(入間基地) ・・・・  0:36
─────────────────────────────
 このうち「2」の自衛隊F4−EJファントム2機については
墜落する前から123を追尾しており、このことは多くの目撃情
報があるのです。そして、墜落後、その現場上空を20分かけて
旋回しながら、その位置情報を基地に送っています。にもかかわ
らず、軍用機でありながら、正しい墜落場所を伝えきれていない
のです。123便ほどの大きさのジャンボジェット機が山に墜落
すれば、大火災が発生します。それは夜目に明らかであり、それ
を目撃しながら、その位置を正しく伝えられないなどということ
は考えられないことです。
 F4−EJファントム2機が現場上空から去った約1時間20
分後の20時42分には、百里基地から空自のKV−107ヘリ
が墜落現場に到着しています。百里基地というのは、茨城県小美
玉百里・与沢にある航空自衛隊の基地です。ちなみに2010年
からは、茨城空港として、民間共用飛行場になっています。
 はっきりしないのは、この空自のKV−107ヘリは、どのよ
うな情報に基づいて、正確に墜落現場を特定できたかです。情報
は、横田基地の米軍C−130からも、F4−EJファントム機
からも、もたらされているはずです。そうであるとすれば自衛隊
ともあろうものが、現場を特定できないなどということは考えら
れないことです。それに空自のKV−107ヘリは救難用です。
その救難用ヘリが現場上空に達しながらも、危険と判断して現場
を降りようとせず、現場から離脱しています。どうして、離脱し
たのでしょうか。これは、上層部から、帰還の指示があったとし
か、考えられないことです。
 ところで、8月13日の「東京新聞」朝刊は、12日に墜落現
場から帰還した百里基地のKV−107の操縦士、大森泉一尉の
インタビューを次のように掲載しています。
─────────────────────────────
 記者:現場に着いたのは
 一尉:20時42分です。
 記者:場所はすぐわかりましたか
 一尉:山の中腹に炎が10ヶ所出ていた。夜といっても、まだ
 明るさがあるので、山のりょう線がはっきり見えた。
           ──1985年8月13日付、東京新聞
─────────────────────────────
 『プレイボーイ』誌は、この件について、実にていねいに調査
して記事にしています。同誌は、米軍関係者の話として、次のよ
うに書いています。しかし、娯楽系の雑誌の情報なので、その信
用性を疑った人もいるかもしれませんが、『プレイボーイ』誌の
記事内容は非常に正確です。角田四郎氏の本から、その部分を引
用します。
─────────────────────────────
 われわれは基地(横田)のレーダーから日航機の機影が消え、
ついで、輸送機(C−130)からの第1報が入ると、ただちに
基地内にいる3人の医官、3人の医療関係者、500ポンドの医
療装備品を用意し、いつでも飛べる状態にあるヘリのわきで待機
させた。また475ABW災害対策チームは、警備官、捜索救難
チーム、火災防止スペシャルチームのコマンドスタッフによって
編成され、これまた、いつでも出動できる態勢になっていた。わ
れわれは、3日間待ったが、日本側からの出動要請は、ついにな
かった。
 私の友人に数人の横田基地軍人がいた。その中の一人は、制服
組の中尉である。このノバック中尉に当時のことを聞いたことが
ある。編成は厚木基地の軍人も動員され、30分以内にスタンバ
イ(出動準備完了)したという。厚木からは軍用ヘリ3機が人や
資材を運んだという。スタンバイ完了とともに、日本側3ヶ所に
そのむね伝えたという。『週刊宝石』85年9月13日号によれ
ば、「19時45分、横田基地救難調整センターは、自衛隊入間
基地に対し『レスキュー隊が待機中、要請あれば出動すると通告
した』とある」。
 ノバック氏は事故後に日本に着任した人だから、これは記録に
よるものらしい。ノバック氏は自衛隊に気をつかいながらも「も
しアメリカ軍なら、火を目標に飛びますね。測定は人を降ろして
からで充分です。現場は消えてなくなるわけじゃないが、人の命
は消えます」。つまり測量よりも、人員投入が先というわけであ
る。ノバック氏はさらに「われわれなら降下困難なら、そこから
一番近い降下場所を見つけて降下させ、後は上空から彼らを現場
に誘導するでしょう。基地に戻ったりしたら、笑いものになりま
す・・・」と語ってくれた。
       ──角田四郎著『疑惑/JAL123便墜落事故
      /このままでは520柱は瞑れない』/早稲田出版
─────────────────────────────
 「米軍なら、位置の測量をしているヒマに現地に降りる」──
これは、米軍から自衛隊に対する痛烈な皮肉です。その測量が正
しいならともかく大間違いなのですから、自衛隊の責任は、すこ
ぶる厳しいものにならざるを得ないのです。
         ──[日航機123便墜落の真相/025]

≪画像および関連情報≫
 ●JAL123便事故/機長の判断や捜索・発見まで
  ───────────────────────────
   墜落から約20分後の19時15分頃、米空軍C−130
  輸送機が、群馬・長野県境付近の山中に、大きな火災を発見
  と上空位置での横田タカン方位(305度)・距離(34マ
  イル)を航空自衛隊中央救難調整所に通報。19時21分ご
  ろ、航空自衛隊の百里基地を緊急発進したF−4戦闘機の2
  機も、墜落現場の火災を発見して、上空位置での横田タカン
  方位(300度)・距離(32マイル)を通報した。
   これらの航空機が通報に利用した「横田TACAN」とは
  設置された極超短波電波標識(超短波全方向式無線標識)な
  どを基準にした方位と距離から、現場の上空位置を搭載の距
  離測定装置で測定したものである。本来これらの設備や機器
  は、航空機の航法用として用いられており、この墜落現場の
  位置報告は正しい情報であった。
   墜落から約1時間後の19時54分に、救難・救助のため
  見切り発進した百里基地救難隊のKV−107ヘリコプター
  は、46分後の20時42分に現場上空に到着した。20時
  33分になって、救難調整本部(東京空港事務所長)から、
  航空自衛隊へ航空救難の要請(災害派遣要請)が行われた。
  しかし、当時のKV−107救難ヘリは両側面のバブルウィ
  ンドウ横に、救難用ライト4灯を装備して夜間の救難作業は
  可能だったが、赤外線暗視装置などの本格的な夜間救難装備
  の無いことなどを理由に、事故当夜の救難員が降下しての救
  助活動は行われなかった。    https://bit.ly/2O4AxGI
  ───────────────────────────

墜落現場に降りない救難ヘリ.jpg
墜落現場に降りない救難ヘリ
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2018年09月26日

●「なぜ、防衛庁は時間を稼いだのか」(EJ第4856号)

 ここまでの経緯を考えると、JAL123便の墜落場所につい
ては、政府当局としては、かなり早い時点で正確に把握していた
ものと思われます。なぜなら、墜落現場の上空にまで到達しなが
ら、墜落場所の特定ができないはずがないからです。それでいな
がら、場所の測定では、墜落現場と大きく外れた場所の情報を送
り続けているのです。意図的としか考えられないのです。これは
早々に救援隊が墜落現場に入って欲しくない何らかの事情が政府
当局側にあったからです。
 そういうフェイク情報の発生源は、NHKとそのバックにいる
防衛庁であると思われます。角田四郎氏は、昨日のEJで述べた
横田基地の友人のノバック中尉がいう米軍のレスキューの話に続
いて、次のように述べています。
─────────────────────────────
 私は、日米の救難隊や軍にこれほどの差があるとは思わない。
あるのは、軍というもの、あるいは国家というものの考え方の違
いだと思う。防衛庁は国をまもるイコール国民をまもる・・・と
いうことをもう少し考えてはどうか。お国のため・・・式の旧軍
意識を捨てないかぎり、国民から、冷たい視線を向け続けられる
であろう。
 NHKもこうしたミス・リードを意図した気配のリーク情報ば
かりを追い、早々に入手していた「群馬側」情報を葬り続けたの
である。これには何か理由があったのだろうか。川上村の井上証
人の場合、「NHKにいくらいっても群馬側と信じてもらえず、
最後はいやいや『群馬側に限りなく近い長野県』にされてしまっ
た」と当夜19時30分過ぎのNHKとの電話のやりとりを語っ
ている(「プレイボーイ」85年11月26日号)。ここに出て
きたニセ情報発生源は、どうやら防衛庁とNHKであることが、
はっきりした。──角田四郎著『疑惑/JAL123便墜落事故
      /このままでは520柱は瞑れない』/早稲田出版
─────────────────────────────
 問題は、なぜ、123便の墜落場所を翌日の午前5時まで隠さ
なければならなかったかです。その原因のひとつと考えられるも
のに、123便の荷物のなかに「医療用のアイソトープがある」
という事実が判明したことです。
 実は、123便は離陸直前に、日航の東京空港支店航務部と交
信をしています。そのとき、東京空港支店航務部は次のことを告
げています。これは、離陸直前にはいつもやるやり取りです。
─────────────────────────────
 はい、えー、それから123便、危険品の搭載がございます。
「RRW」と「RRY」、場所は貨物のほうからお聞き下さい。
                  https://bit.ly/2zp3ZiC
─────────────────────────────
 「RRW」と「RRY」は、航空業界で使用されているコード
で、いずれも放射性物質のことです。RRWは第1類白、RRY
は第2類黄・第3類黄と危険度別に分類されています。この事実
は、123便の墜落後の20時過ぎに、日本アイソトープ協会か
ら123便にラジオアイソトープ72個が積まれていることを警
察庁に届け出ています。ラジオアイソトープは放射能を発生する
ので、日本アイソトープ協会は、不用意に墜落現場に入るのは危
険であるという警告をしたのです。
 放射能ですから、当然リスクはあり、墜落場所立ち入りに慎重
にならざるをえませんが、そうだからといって、乗客・乗員の命
がかかっているのです。核爆弾を積んでいたわけではなく、墜落
場所を隠すほどの要因にはなり得ないし、国民にそのことを告げ
ればよいのです。放射能といっても、レスキュー隊が、ちゃんと
装備をして入れば、何も問題は起こらないからです。
 結局、123便搭載の放射性物質が救援活動に支障なしの判断
がなされたのは、緊急事態発生から10時間25分後の、翌13
日、午前4時50分だったのです。確かにそれ以降に救助隊の活
動は活発化しています。
 結局、123便の墜落現場には、12日、20時42分に百里
基地からKV−107の救難ヘリと、13日、午前0時36分に
今度は墜落現場に最も近い入間基地からもKV−107ヘリが墜
落現場上空まで行っているのですが、いずれも墜落現場には降り
ていないのです。「現場には降りてはならない」との指示があっ
たものと思われます。それに万全の準備をして、日本側の要請を
待っていた米軍横田基地の救援も拒否しています。これは、アイ
ソトープの問題だけでなく、墜落現場から何かを探して、現場か
ら持ち去る必要があったからです。
 墜落後、少しでも早い時間に救助ヘリが現場に降りていれば、
たったの4人ではなく、もっと多くの人を救えたかもしれないの
です。4人の生存者の証言によれば、墜落直後には、多くの人の
声や息遣いが聞こえたと証言しているからです。アイソトープの
件だけを理由に、墜落現場に立ち入らなかったのであれば、あま
りにも非人道的です。
 『疑惑/JAL123便墜落事故』の著者、角田四郎氏は、こ
のJAL123便墜落事故に対しての防衛庁の対応に非常に疑問
き、強い怒りを抱いています。それが次のような文章になってい
ます。政治がどう対応したのかは、詳しく述べますが、この墜落
事故のときの防衛庁長官は、加藤紘一氏です。
─────────────────────────────
 墜落現場の捜索にしても、墜落現場での救難作業にしても、あ
まりにも不可解な疑問が多過ぎはしないか。そして、その言いわ
けも陳腐である。本気で生存者の有無をつかみ救出しようとする
気があったのであろうか。へたに生きてもらっては困る事情でも
あったかのようにさえ思える一連の行動である。自衛隊というよ
り、防衛庁のほうにより深い疑惑を向けざるを得ない。
              ────角田四郎著の前掲書より
─────────────────────────────
         ──[日航機123便墜落の真相/026]

≪画像および関連情報≫
 ●遅れた救難と素早い事情聴取/墜落現場
  ───────────────────────────
   生存者発見から病院搬入までかなりの時間を要したこと当
  時の私の記録に残されている。私のメモには「11時生存者
  発見、12時仮設ヘリポートヘ、ヘリポートで1時間30分
  以上待たされ14時15分ごろやっと病院へ搬入」と記録さ
  れている。これは現地から帰って10日ほどした頃、現地の
  関係者と新聞記者、運輸省関係者からの情報で記録したもの
  であった。やっと救出された4名の重傷者をヘリポートで、
  1時間半も持たせだのはどうしてなのか?生存者は骨折ショ
  ック症状、頭部の外傷など救急治療を必要とする状態であっ
  た。翌1986年の4月25日、この事故に関する聴聞会/
  現在は意見聴取会が開かれた。その数日後、私の家の郵便受
  けに、茶色の大型の封筒が二つ折りにして無理やり突っ込ま
  れていた。封筒の3分の1ほどしか郵便受けに入らず、風が
  吹けば落ちそうな状態だった。
   差出人の名前は無かった。不審に思いながら、かなり重い
  封筒の封を聞いてみると、数十ぺージはあると思われる書類
  のコピーが入っている。それ以外は何も入っていなかった。
  内容は、あの事故の4名の生存者に対する事故調査官と思わ
  れる人のインタビューの記録であった。調査官の名前は、記
  載の無いものもあるが、防衛庁航空自衛隊の小原甲一郎医官
  が質問しているものがほとんどであった。その内容を同席し
  た運輸省の事故調査官が筆記したと思われる。
                  https://bit.ly/2zpgP0m
  ───────────────────────────

御巣鷹山事故当時の加藤防衛庁長官.jpg
御巣鷹山事故当時の加藤防衛庁長官 
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2018年09月27日

●「墜落の現場から何を搬出したのか」(EJ第4857号)

 作家の山崎豊子さんは、JAL123便墜落事故をベースとし
て、『沈まぬ太陽』(新潮社刊)という小説を書いています。こ
の作家は、入念な取材をすることで知られていますが、この作品
は、小説というよりも、ノンフィクション的な作品となっていま
す。書かれていることに作り話は少なく、驚くべきほど事実──
それも多くの人が知らない事実が書かれています。
 フォトリーディグ・インストラクターをつとめる大嶋友秀氏は
ブログで次のように書いています。
─────────────────────────────
 この物語はJAL123便の御巣鷹山の事故を下敷きにしてい
る。御巣鷹山での事故の状況が、これでもかこれでもかと続いて
いく。映画でも大きな衝撃を受けたが、実際の遺体などを見せる
わけではなかったが、小説では仔細に描きこまれ、その生き地獄
のような様をリアルに想像した。たびたび出てくる「部分遺体」
という言葉に、言葉を失くしてしまう。残された家族が、縁者の
亡骸を探すために、何人もの部分遺体と遭遇していくのは想像す
るだけで脚が震えてきてしまった。
 山崎は、その取材のことをこう語っている。「今回は取材、執
筆共に非常に忍耐と勇気のいる仕事でしたが、その許されない不
条理に立ち向かい、書き遺すことは、現代に生きる作家の使命だ
と思いました。日々、精神的不毛が深まる中で、”明日を約束す
る”心の中の沈まぬ太陽を読者の方々と共に持ち続けていきたい
というのが、作者の心からなる念いです」。
                  https://bit.ly/2xyOjb8
─────────────────────────────
 『沈まぬ太陽三/御巣鷹山篇』では、事故調査官である藤波調
査官が週刊日本の記者から、問いかけられるシーンがあります。
きわめて重要なやり取りであり、少し長いですが、一部をカット
してご紹介します。
─────────────────────────────
 「藤波調査官ですね」(中略)
 「そうですが・・・」
 「週刊日本の記者です。ちょっとお話を伺いたいのですが」
 行く手を阻むように云い、名刺をさし出した。(中略)
 「どのような話ですか」
 「実は、事故機の墜落原因について、聞き捨てならない重大な
 話を仕込みましてね、墜落の真相は、自衛隊がミサイル発射訓
 練時に使う標的機が、たまたま、飛行中の国民航空123便の
 尾翼に衝突したらしいのです。ご意見を聞かせて下さいません
 か」。記者は強引にコメントを求めた。
 「いきなりそんな突飛なことを云われても、答えようがない」
 「おや、おとぼけですか、それとも政府、防衛庁は、事故調査
 官を棚上げして、真相を隠蔽するつもりなんですかね」
 嫌味な言い方をした。
 「確たる証拠でもあるのですか」
 「事故機が、最初に緊急事態を発信したあの時刻に、海上自衛
 隊護衛艦『たかつき』が、相模湾でちょうど練習中だったんで
 すよ、現に事故の翌日、相模湾内に、尾翼の重要部分である垂
 直安定板が浮いていて、回収されたのではありませんか」
 「それだけで、標的機衝突と墜落が結びつくのですかね」
 「御巣鷹山の事故現場から、オレンジ色の物体が、早々に搬出
 されましたね。あれは『たかつき』の演習で使用された標的機
 の塗装の色と一致しますよ」
 「オレンジ色の物体?私は事故現場の隊長格として、これはと
 いう残骸は自分の眼ですべて確かめているが、そんなものは見
 ていない。ましてや搬出はあり得ない。現場の残骸はすべて群
 馬県警が証拠品として押さえてあるから、ボイス・レコーダー
 やフライトレコーダー以外は、破片の一片たりとも、まだ山か
 ら下ろしていない」
 「おかしいですね、そのオレンジ色の物体が、テレビ中継で、
 ちゃんと映っていたということですよ。見た人がいるものです
 から」
 「じゃあ、その映像を私のところへ持ってきてください。話は
 それからだ」  ──山崎豊子著『沈まぬ太陽/御巣鷹山篇』
                         新潮社刊
─────────────────────────────
 「小説だから」という人は多くいます。しかし、山崎豊子さん
は、取材のうえ、事実を書いています。いや、むしろ小説である
がゆえに書けることもあります。小説であるからこそ、真実をず
ばり書くこともできます。とくに重要で、注目すべきな部分は、
次のやり取りです。
─────────────────────────────
記者:御巣鷹山の事故現場から、オレンジ色の物体が、早々に搬
 出されましたね。あれは『たかつき』の演習で使用された標的
 機の塗装の色と一致しますよ。
藤波:オレンジ色の物体?私は事故現場の隊長格として、これは
 という残骸は、自分の眼ですべて確かめているが、そんなもの
 は見ていない。ましてや搬出はあり得ない。
─────────────────────────────
 「墜落事故現場からの搬出」というのは、事故現場から何かを
搬出する必要があり、当局はそのため、墜落現場が特定されない
よう墜落現場のフェイクニュースを流したのです。誰が、現場か
ら、何を搬出したのでしょうか。
 これに関しては、ネット上にはさまざまな情報があります。当
局はネット上で何が流れても気にしないのです。「ネットはフェ
イクニュース」で溢れており、それもフェイクニュースのひとつ
であるとして逃げることができるからです。墜落現場から、当局
は何をどのように持ち出したのかについては、明日のEJ以降で
明らかにしていきたいと考えています。
         ──[日航機123便墜落の真相/027]

≪画像および関連情報≫
 ●「沈まぬ太陽」/山崎豊子/新潮文庫/読後感想
  ───────────────────────────
   読後の感想としては、まず映画との比較になりますが、こ
  の5冊分の内容もってして初めて、ラストに恩地がアフリカ
  で見る「沈まぬ太陽」という言葉が深く読者の胸をえぐるの
  だと思いました。
   文庫本5冊分を3時間半の映画にまとめるとなると、どう
  しても色々とカットしないといけないでしょうし、それはそ
  れで仕方が無いと思いますが、映画を見た方も、そうでない
  方も、ぜひ小説を読んで欲しいと思います。映画では描きき
  れない部分の蓄積が、ラストの感動に繋がっているように思
  いました。
   次に小説そのものについてですが、山崎氏の著作について
  は、様々な文献の寄せ集めだとかパクリだとか色々言われて
  いますが、個人的にはその真偽にこだわりはなく、純粋に1
  つの作品として見て、読み応えのある素晴らしい内容だと思
  います。また、この「沈まぬ太陽」については、事実を元に
  した部分と創作が混ざっており、読者に誤認識を与えるとの
  批判がありますが、私はそれもまた良し、だと思います。
   例えば、恩地のモデルとなった人物は、実際には御巣鷹山
  事故関係の業務に就いていないとか、恩地のような清廉潔白
  な人柄ではない、とか色々ありますが、御巣鷹山事故は紛れ
  も無い事実ですし、その事故を起こした会社が存在する事も
  事実です。           http://exci.to/2N1xwSU
  ───────────────────────────

作家/山崎豊子氏png.png
作家/山崎豊子氏
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2018年09月28日

●「自衛隊は墜落直後から現場で作業」(EJ第4858号)

 昨日のEJで、山崎豊子さんの小説における事故調の藤波調査
官と週刊日本の記者との対話をご紹介しましたが、その肝心な部
分を再現します。
─────────────────────────────
◎記者:御巣鷹山の事故現場から、オレンジ色の物体が、早々に
 搬出されましたね。あれは『たかつき』の演習で使用された標
 的機の塗装の色と一致しますよ。
◎藤波調査官:オレンジ色の物体?私は事故現場の隊長格として
 これはという残骸は自分の眼ですべて確かめているが、そんな
 ものは見ていない。ましてや搬出はあり得ない。現場の残骸は
 すべて群馬県警が証拠品として押さえてあるから、ボイス・レ
 コーダーやフライトレコーダー以外は、破片の一片たりとも、
 まだ山から下ろしていない。
◎記者:おかしいですね、そのオレンジ色の物体が、テレビ中継
 で、ちゃんと映っていたということですよ。見た人がいるもの
 ですから。   ──山崎豊子著『沈まぬ太陽/御巣鷹山篇』
                         新潮社刊
─────────────────────────────
 週刊日本の記者は、藤波調査官にきわめて重大なことを尋ねて
います。「現場から『早々に』オレンジ色の物体を搬出されまし
たね」。ここで重要なのは「早々に」という言葉です。
 これに対して藤波調査官は、「搬出はあり得ない。現場の残骸
は、すべて群馬県警の管理下にあり、破片の一片たりとも、山か
ら下ろしていない」と答えています。しかし、藤波調査官のいう
のは、123便の墜落場所が公表された後のことですが、記者の
いうのは、実は現場は墜落直後に特定され、そこに大勢の自衛隊
員が入って何か作業をしており、そのとき、何かを持ち出したの
ではないかと聞いたのです。この時点では、多くの生存者がいた
のですが、このときの作業とは、乗客・乗員の救出ではなく、秘
密の指令による別の作業です。この時点で墜落場所はまだ特定さ
れていないことになっています。しかし、いくら秘密の指令とは
いえ、近くに息も絶え絶えの生存者がいるのに、それを無視して
指令された作業を続けるのは、人間のすることではないと思いま
す。そもそもこの話は本当のことなのでしょうか。
 青山貞一氏という人がいます。1986年に環境総合研究所を
設立し、代表取締役を務めていましたが、現在は同研究所の顧問
をされています。青山氏は、JAL123便墜落事故について、
実に詳細な研究分析をされている方です。ネット上には青山氏の
手になるたくさんの123便事故関係の分析があります。
 そのなかで次の「日航機墜落事故の再検証B」というレポート
には驚くべきことが書いてあります。
─────────────────────────────
 「日航機墜落事故の再検証B」青山貞一(フェースブック)
             掲載期日:2013年8月16日
           独立系メディア/E・ウェイブ・東京
                 https://bit.ly/2O68tTw
─────────────────────────────
 以下、私なりに要約してご紹介しますが、青山貞一氏のサイト
の方もお読みいただくことをお勧めします。
 1985年8月12日の夕方のことです。御巣鷹山の日航機墜
落現場近くに住むMさんは、日航機がどこに落ちたかに強い関心
をもってテレビを見ていたそうです。その時点でテレビでは、墜
落現場は長野県の北相木村付近であると報道していました。そこ
でMさんは、北相木村や、もう少し南の川上村に住む友人に電話
して様子を確かめたところ、どうもこっちではないという返事が
返ってきたので、後は墜落場所を南相木村の山間部しかないと狙
いを定め、友人2人と一緒に、山道を走れるオフロードバイクに
乗って、南相馬村に向けて出発したのです。
 墜落現場と思しき場所は、すぐにわかったそうです。なぜなら
ファントム戦闘機2機が上空を旋回していましたし、ヘリもその
付近を飛んでいました。だから、多分墜落現場はあそこだろうと
見当をつけたのです。この山は、山の持ち主の息子も知っており
よく山で遊んだ経験があったので、6〜7時間かけて、山の屋根
を目指して登ったのです。そして、着いたときは空が白みかかっ
ていたと思います。そのとき、墜落現場で見たものについて、M
さんは次のように述べています。
─────────────────────────────
 既に自衛隊員が7〜80人、いや100人位は来ていました。
それを見て、自分たちは一番乗りできなかったと思いましたね。
同時に、事故犠牲者の呻き声が谷にこだまし、響き渡っているの
がはっきりと聴こえました。全部を数えた訳ではありませんが、
声の響き方からすると少なくても4〜50人はいたと思います。
 実際に、苦しそうに声をあげている人を私も間近で何人か見て
います。自衛隊の人たちがいる以上、自分たちができることは、
負傷者のいる場所を教え、早く救助してもらうことだと思い、呻
き声のするあたりを探しては、その場所を隊員さんに伝え、早い
手当を頼んでいました。
 ただ、隊員さんの対応には不信感を覚えましたね。「下手に動
かすと危険なので、後から来る部隊が、手当することになってい
る」と言うだけで、何もしようとしない。手にした4〜50セン
チ位の丸いバッグに地面から拾った物を黙々と入れ続けている。
 ちょっとひどいなと思ったのは、斜面を登り、尾根の反対側に
出たら、向こうの谷ではヘリコプターがホバリングしているじゃ
ないですか、ヘリが来ているならさっさと救助しろよと思いまし
たね。しかも、ヘリの下では、さっき隊員さんたちが何かを入れ
ていたバックを10数個まとめ、ネットに入れて吊り上げていま
した。何度も吊り上げていたので、全部で70個くらいのバッグ
が回収されたと思います。      https://bit.ly/2O68tTw
─────────────────────────────
         ──[日航機123便墜落の真相/028]

≪画像および関連情報≫
 ●日航機123便墜落事件に姿を現した「クロカモ」
  ───────────────────────────
   日本の奥の院=国体勢力に巣くう国民を密かに武力支配す
  る非合法超法規(国の権力が及ばない)勢力=通称「クロカ
  モ」の正体を暴き出す。非合法超法規勢力=通称、「クロカ
  モ」が、日本の歴史にそれとして姿を見せたのが、あの日航
  機123便墜落撃墜事件、だった。墜落機の御巣鷹山の現場
  に、生存者救出のため、のはずの、どこよりも早く、到着し
  現れた自衛隊が、それだ。
   自衛隊のかっこうをした偽自衛隊あるいは自衛隊の非公式
  展開部隊であり、救出ではなく数十人はいた生存者のとどめ
  をさし、証言者の抹殺と、散らばった証拠物件を回収開始し
  証拠隠滅の作業を任務として現場に現れた。これが、日本に
  おける非合法超法規勢力「クロカモ」の出現が、ドキュメン
  トされた、最初のものだ。
   「123便」事件の真相は、日本人には隠蔽されている。
  真相は隠蔽されているのだと、なぜわかるのか。当日の現場
  に警察よりも早く到着した地元のひとの目撃証言と、事件を
  現在まで現場検証し続けた真相追究者による報告があるから
  である。
   ・現場には、今も放射性物質が散乱している。
   ・現場に残された日航「123便」のエンジンに不発のミ
    サイルが突き刺さっている。
   ・米軍の戦闘機とプロペラ機の、撃墜された残骸が残され
    ていた。事件後、真相を追究するものたちには、電磁波
    兵器による攻撃その他妨害弾圧や抹殺が設定される。
                  https://bit.ly/2DBf701
  ───────────────────────────

JAL123便墜落現場/御巣鷹の屋根.jpg
JAL123便墜落現場/御巣鷹の屋根
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●「自衛隊は墜落直後から現場で作業」(EJ第4858号)

 昨日のEJで、山崎豊子さんの小説における事故調の藤波調査
官と週刊日本の記者との対話をご紹介しましたが、その肝心な部
分を再現します。
─────────────────────────────
◎記者:御巣鷹山の事故現場から、オレンジ色の物体が、早々に
 搬出されましたね。あれは『たかつき』の演習で使用された標
 的機の塗装の色と一致しますよ。
◎藤波調査官:オレンジ色の物体?私は事故現場の隊長格として
 これはという残骸は自分の眼ですべて確かめているが、そんな
 ものは見ていない。ましてや搬出はあり得ない。現場の残骸は
 すべて群馬県警が証拠品として押さえてあるから、ボイス・レ
 コーダーやフライトレコーダー以外は、破片の一片たりとも、
 まだ山から下ろしていない。
◎記者:おかしいですね、そのオレンジ色の物体が、テレビ中継
 で、ちゃんと映っていたということですよ。見た人がいるもの
 ですから。   ──山崎豊子著『沈まぬ太陽/御巣鷹山篇』
                         新潮社刊
─────────────────────────────
 週刊日本の記者は、藤波調査官にきわめて重大なことを尋ねて
います。「現場から『早々に』オレンジ色の物体を搬出されまし
たね」。ここで重要なのは「早々に」という言葉です。
 これに対して藤波調査官は、「搬出はあり得ない。現場の残骸
は、すべて群馬県警の管理下にあり、破片の一片たりとも、山か
ら下ろしていない」と答えています。しかし、藤波調査官のいう
のは、123便の墜落場所が公表された後のことですが、記者の
いうのは、実は現場は墜落直後に特定され、そこに大勢の自衛隊
員が入って何か作業をしており、そのとき、何かを持ち出したの
ではないかと聞いたのです。この時点では、多くの生存者がいた
のですが、このときの作業とは、乗客・乗員の救出ではなく、秘
密の指令による別の作業です。この時点で墜落場所はまだ特定さ
れていないことになっています。しかし、いくら秘密の指令とは
いえ、近くに息も絶え絶えの生存者がいるのに、それを無視して
指令された作業を続けるのは、人間のすることではないと思いま
す。そもそもこの話は本当のことなのでしょうか。
 青山貞一氏という人がいます。1986年に環境総合研究所を
設立し、代表取締役を務めていましたが、現在は同研究所の顧問
をされています。青山氏は、JAL123便墜落事故について、
実に詳細な研究分析をされている方です。ネット上には青山氏の
手になるたくさんの123便事故関係の分析があります。
 そのなかで次の「日航機墜落事故の再検証B」というレポート
には驚くべきことが書いてあります。
─────────────────────────────
 「日航機墜落事故の再検証B」青山貞一(フェースブック)
             掲載期日:2013年8月16日
           独立系メディア/E・ウェイブ・東京
                 https://bit.ly/2O68tTw
─────────────────────────────
 以下、私なりに要約してご紹介しますが、青山貞一氏のサイト
の方もお読みいただくことをお勧めします。
 1985年8月12日の夕方のことです。御巣鷹山の日航機墜
落現場近くに住むMさんは、日航機がどこに落ちたかに強い関心
をもってテレビを見ていたそうです。その時点でテレビでは、墜
落現場は長野県の北相木村付近であると報道していました。そこ
でMさんは、北相木村や、もう少し南の川上村に住む友人に電話
して様子を確かめたところ、どうもこっちではないという返事が
返ってきたので、後は墜落場所を南相木村の山間部しかないと狙
いを定め、友人2人と一緒に、山道を走れるオフロードバイクに
乗って、南相馬村に向けて出発したのです。
 墜落現場と思しき場所は、すぐにわかったそうです。なぜなら
ファントム戦闘機2機が上空を旋回していましたし、ヘリもその
付近を飛んでいました。だから、多分墜落現場はあそこだろうと
見当をつけたのです。この山は、山の持ち主の息子も知っており
よく山で遊んだ経験があったので、6〜7時間かけて、山の屋根
を目指して登ったのです。そして、着いたときは空が白みかかっ
ていたと思います。そのとき、墜落現場で見たものについて、M
さんは次のように述べています。
─────────────────────────────
 既に自衛隊員が7〜80人、いや100人位は来ていました。
それを見て、自分たちは一番乗りできなかったと思いましたね。
同時に、事故犠牲者の呻き声が谷にこだまし、響き渡っているの
がはっきりと聴こえました。全部を数えた訳ではありませんが、
声の響き方からすると少なくても4〜50人はいたと思います。
 実際に、苦しそうに声をあげている人を私も間近で何人か見て
います。自衛隊の人たちがいる以上、自分たちができることは、
負傷者のいる場所を教え、早く救助してもらうことだと思い、呻
き声のするあたりを探しては、その場所を隊員さんに伝え、早い
手当を頼んでいました。
 ただ、隊員さんの対応には不信感を覚えましたね。「下手に動
かすと危険なので、後から来る部隊が、手当することになってい
る」と言うだけで、何もしようとしない。手にした4〜50セン
チ位の丸いバッグに地面から拾った物を黙々と入れ続けている。
 ちょっとひどいなと思ったのは、斜面を登り、尾根の反対側に
出たら、向こうの谷ではヘリコプターがホバリングしているじゃ
ないですか、ヘリが来ているならさっさと救助しろよと思いまし
たね。しかも、ヘリの下では、さっき隊員さんたちが何かを入れ
ていたバックを10数個まとめ、ネットに入れて吊り上げていま
した。何度も吊り上げていたので、全部で70個くらいのバッグ
が回収されたと思います。      https://bit.ly/2O68tTw
─────────────────────────────
         ──[日航機123便墜落の真相/028]

≪画像および関連情報≫
 ●日航機123便墜落事件に姿を現した「クロカモ」
  ───────────────────────────
   日本の奥の院=国体勢力に巣くう国民を密かに武力支配す
  る非合法超法規(国の権力が及ばない)勢力=通称「クロカ
  モ」の正体を暴き出す。非合法超法規勢力=通称、「クロカ
  モ」が、日本の歴史にそれとして姿を見せたのが、あの日航
  機123便墜落撃墜事件、だった。墜落機の御巣鷹山の現場
  に、生存者救出のため、のはずの、どこよりも早く、到着し
  現れた自衛隊が、それだ。
   自衛隊のかっこうをした偽自衛隊あるいは自衛隊の非公式
  展開部隊であり、救出ではなく数十人はいた生存者のとどめ
  をさし、証言者の抹殺と、散らばった証拠物件を回収開始し
  証拠隠滅の作業を任務として現場に現れた。これが、日本に
  おける非合法超法規勢力「クロカモ」の出現が、ドキュメン
  トされた、最初のものだ。
   「123便」事件の真相は、日本人には隠蔽されている。
  真相は隠蔽されているのだと、なぜわかるのか。当日の現場
  に警察よりも早く到着した地元のひとの目撃証言と、事件を
  現在まで現場検証し続けた真相追究者による報告があるから
  である。
   ・現場には、今も放射性物質が散乱している。
   ・現場に残された日航「123便」のエンジンに不発のミ
    サイルが突き刺さっている。
   ・米軍の戦闘機とプロペラ機の、撃墜された残骸が残され
    ていた。事件後、真相を追究するものたちには、電磁波
    兵器による攻撃その他妨害弾圧や抹殺が設定される。
                  https://bit.ly/2DBf701
  ───────────────────────────

JAL123便墜落現場/御巣鷹の屋根.jpg
JAL123便墜落現場/御巣鷹の屋根
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2018年10月01日

●「123便はミサイルで撃墜された」(EJ第4859号)

 1985年8月12日の夜に、仲間2人とオフロードバイクで
JAL123便の墜落現場に入ったMさんの証言をもっと詳しく
見ていくと、大きな疑問がいくつも出てきます。その疑問をまと
めると、次の4つになります。
─────────────────────────────
 1.墜落現場では、自衛隊とみられる70〜80人が暗視ゴー
  グルを付けて何やら現場から“破片”とみられるものを採取
  する作業をしていた。何を採取していたのか。
 2.自衛隊員とみられる一団は、当時現場には50人ほどの生
  存者が呻き声を上げて苦しんでいたにもかかわらず、救助し
  ようとはせず、破片採取に専念していたこと。
 3.墜落現場近くの上空にはヘリがホバリングしており、自衛
  隊員が採取した物質を入れたバッグを数十個単位で釣り上げ
  て運搬していた。明らかに救助ではないこと。
 4.Mさんと2人の仲間は、生存者10人ほどと話しをしてい
  るが、そのなかには、指を負傷しただけとみられる男性もお
  り、すぐ死ぬような状況でない人もいたこと。
─────────────────────────────
 疑惑はたくさんあります。まず、いえることは、墜落後の早い
時点で墜落現場に入っていたのは、本当に自衛隊員だったのかと
いう疑惑です。少なくとも同じ自衛隊であっても、何か災害が起
きたとき、現場に駆け付ける救助のための自衛隊員でないことは
確かです。これについては後から検証します。
 続いて、彼らは50人ほどの生存者を救助せず、ひたすら何を
採取していたのかです。それは、明らかに証拠隠滅行為です。も
し、123便に標的機が衝突したのであれば、それを示す証拠と
なるものを収拾したことになります。
 しかし、生存者といっても、様々であり、Mさんによると、な
かには、指を負傷しただけの人もいたようです。つまり、生き残
る人も相当出ることは十分予想されたのです。生存者が苦しんで
いるのを無視して、破片採取作業に専心する自衛隊員を見て、後
になって、生き残った人たちが自衛隊を訴えるという事態を彼ら
はなぜ想像できなかったのでしょうか。なぜなら、それはあまり
にも非人道的行為だからです。
 しかし、それは杞憂に過ぎなかったようです。なぜなら、自衛
隊員のそういう行為を目撃しているはずの人たちは、全員死亡し
ているからです。Mさんが指摘している指を負傷している生存者
も死亡していることになります。
 生存者を見殺しにしてまでして、彼らが捜していたものが何で
あるかについてのヒントが、既出の角田四郎氏の本にあります。
─────────────────────────────
 私は、8月18日の現場登山の帰り道、偶然一片のアルミ合金
製と思える金属片を拾ってしまったことを前にも述べた。その金
属片を米軍の友人になんの説明もせず、(日航機事故の件も伝え
ず)見せた。彼は航空機の整備を担当している。
 彼の答えは、私のド肝を抜いた。「たぶん」と疑問詞を付けて
慎重に、しかしはっきりとこう言った。
 「ミサイル」(This is missaile.)
 「まさか!」(Not really !)
 「たぶん、ミサイル」(Mybe missaile.)
       ──角田四郎著『疑惑/JAL123便墜落事故
      /このままでは520柱は瞑れない』/早稲田出版
─────────────────────────────
 この事実は、実に恐ろしいことを示唆しています。相模湾の上
空付近で、護衛艦「まつゆき」が発射したとみられる標的機が、
JAL123便の尾翼に命中し、尾翼が破壊されたとしても御巣
鷹山に墜落した123便の残骸のなかに、ミサイルの痕跡が残っ
ているはずがないからです。もし、123便がミサイルで攻撃さ
れない限りの話ですが・・・。
 私が感じた同じようなことを角田四郎氏は、ミサイルの記述の
後で、次のように書いています。
─────────────────────────────
 しかし、私は一方でこれは米軍友人の見立て違いだと思ってい
る。何故なら、たとえ事故が国にとって重大な損失を生むからと
いっても、現実に空を飛ぶ一自衛隊員は我々の近くにいる普通の
若者と変わるところはない。いかに上官の命令であっても一般人
が乗っている。民間航空機に向けてミサイルを発射撃墜するなど
という行為をできるわけも、するわけもないからである。私はそ
う信じたいのだ。
 他方、では一体あの墜落前の光や後をついていった流れ星のよ
うなものや私の捨得した金属片、そして最後の異常な急降下をど
う説明すればよいのか、と思い悩んでしまう。
                ──角田四郎著の前掲書より
─────────────────────────────
 自衛隊機のミサイルによる123便の撃墜説──この立場を明
確にとっているのは池田昌昭氏です。池田氏の2冊目の本のタイ
トルは、そのものズバリ『御巣鷹山ファイル2/JAL123便
は自衛隊が撃墜した』(文芸社刊)となっています。この本が刊
行されたのは、1998年9月10日のことであり、随分早くか
らこの説を主張されていることになります。
 ここで留意すべきことがあります。ここで「撃墜した」という
のは、標的機が123便の尾翼に当たったという意味ではなく、
文字通り自衛隊機が、ミサイルを発射し、123便を撃墜したと
いう意味です。
 自衛隊機が、尾翼を失って瀕死の民間機をミサイルで撃墜する
──自衛隊がこんな残酷なことをするはずがないと誰でも考えま
すが、事の経過をたどってみると、推理上はそういう結論に行き
着かざるを得ないのです。そうでなければ、墜落現場からミサイ
ルの金属片が発見されるはずがないからです。
         ──[日航機123便墜落の真相/029]

≪画像および関連情報≫
 ●日航機墜落はミサイル攻撃によるもの
  ───────────────────────────
   また、あの日航機墜落の夏がやってくる。最近、日航機墜
  落の真実を追及するブログにより、新たな情報が書かれるよ
  うになった。その中でも、「日航機墜落の真実を求めて」の
  ブログが、「自衛隊員の自殺率の嘘」と題して書かれたブロ
  グを挙げ、事故が起きた1985年の翌年1986年7月頃
  から日航機の真相を仲間や身内にばらした自衛官らは殺され
  ているようで、自分も殺されると察したある自衛官は友達に
  2枚の自殺した同僚の航空自衛官(1986年7月)の現場
  写真と決定的な証拠写真を託して、その自衛官自身も2ヵ月
  後の9月12日に自殺させられたようだというのです。
   その写真は、自殺させられたと思われる写真と倉庫にあっ
  た落ちた尾翼部分(資料AB)で、明らかにオレンジ色の物
  体とその塗料がくっついたままの状態の写真です。これは明
  らかにミサイルもしくはその標的機がぶつかったことを示す
  決定的な証拠です。
   これらの出典となった「週刊文春」の記事を探していると
  ころです。とりあえず、それを引用したブログを挙げてみま
  した。これから推測すると、ミサイル攻撃を受けて垂直尾翼
  をなくした日航機は墜落。それを隠蔽するために目撃・処理
  した自衛官だけでなく、乗客などの命も奪われた可能性もあ
  ります。つまり、ミサイルが日航機に衝突して墜落しただけ
  でなく、ミサイルが追突したとなれば、自衛隊の存在もアメ
  リカとの関係にも支障をきたすという何らかの理由で、この
  事故を隔壁の亀裂による修理ミスとして処理するために、ま
  だ生きていた乗客も放置され、現場処理にあたった自衛隊員
  も自殺させられたというショッキングな出来事となります。
                  https://bit.ly/2NayXhV
  ───────────────────────────

角田四郎氏の持ち帰った金属片.jpg
角田四郎氏の持ち帰った金属片
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(2) | 日航機123便墜落の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月02日

●「なぜ、事実を隠蔽しようとしたか」(EJ第4860号)

 相模湾上の護衛艦「まつゆき」から発射されたとみられるミサ
イルの標的機が、JAL123便の尾翼に衝突し、123便は尾
翼と油圧を失い、操縦困難に陥ります。これは操縦機能を失った
に等しいのです。そのため、尾翼は飛行機のなかでも非常に頑丈
に作られています。あの「ハドソン川の奇跡」を成し遂げた元U
Sエアウェイズの機長であるチェスリー・サレンバーガー氏は、
「ほとんど操縦不可能である」といっています。
 しかし、123便の高濱機長は、エンジンは問題がないので、
飛行機を空気抵抗の強いところまで、高度を落とし、何とかエン
ジンをコントロールして、横田飛行場か羽田空港の近くまで戻っ
てきたのです。これはまさに神業そのものといえます。連絡を受
けた横田飛行場では、万全の準備をして、123便を待ち受けて
いたのです。油圧が効かないので車輪が出ず、必然的に胴体着陸
になるので、火災に備えて、消防の準備まで整えていたのです。
 さて、以下は、『御巣鷹山ファイル2/JAL123便は自衛
隊が撃墜した』(文芸社刊)の著者、池田昌昭氏による諸資料に
基づく仮説の世界の自衛隊内部のやり取りです。少し長いですが
そのウラ側の事情がわかるので、引用します。
─────────────────────────────
・JAL123便の様子は
・右旋回中で、羽田か横田に緊急着陸するかも知れません。
・スクランブル発進は既にしていると思うが、なお、試運転護衛
 艦『まつゆき』の訓練態勢下、もしくは支援下にある自衛隊機
 に出動させ、JAL123便を追跡し、逐一JAL123便の
 様子を報告させるように。
・いや、JAL123便を誘導するように。羽田や横田に着陸さ
 れると困る。
・交信内容は
・「操縦不能」を東京航空管制部に連絡しています。
・米軍は交信内容を傍受し、把握しているか。
・そのはずです
・都合の悪い交信の時は、妨害電波を出せるか。
・出せます。
・米軍は行動しているか。
・既に付近を飛行中の米空軍C−130輸送機が横田基地に連絡
 しています。
・羽田や横田に着陸されるとまずい。
・東京航空管制部は名古屋着陸を打診したが、JAL123便は
 羽田に戻ると言っています。
・横田基地が近い。
・操縦士は横田着陸を試みるかもしれない。
・それはまずい。左へ誘導し、横田や羽田から遠ざけるように。
・極限状態にありながら、操縦士は機体を立て直し、横田への着
 陸コースに乗っています。このままいくと、うまく横田に着陸
 するかも知れません。
・横田に着陸されたら万事休すだ。民間機の横田への着陸は米軍
 の軍事上と付近民家の問題で着陸できないと言い、山岳地帯へ
 誘導するように。
・誘導の自衛隊機は何機か。
・2機です。
・自衛隊機は、JAL123便と交信するように。
・はい、そのように誘導させます。
・自衛隊機はどこから発進したか。
・浜松基地からです。
・何分ころか。
・午後6時31分に浜松基地を発進しています。
                  ──池田昌昭著/文芸社
 『御巣鷹山ファイル2/JAL123便は自衛隊が撃墜した』
─────────────────────────────
 会話の中に2機のF−4EJファントムが登場します。午後6
時31分に浜松基地を発進し、そして、自衛隊高官の指示にした
がい、JAL123便を追尾します。そしてJAL123便にス
クランブルをかけます。ちょうど123便が横田基地に最も近づ
いた18時47分の時点です。添付の123便の航跡図をご覧く
ださい。そして山岳地帯に誘導するのです。
 もし、JAL123便に対してミサイルを発射したとすれば、
この2機のF−4EJファントムということになりますが、自衛
隊は、多くの目撃情報があるにもかかわらず、この2機の存在を
否定しています。自衛隊は2機のF−4EJファントムを発進さ
せていますが、時間が約30分異なるのです。
─────────────────────────────
       ◎諸情報による推理
        18時31分/浜松基地発進
         F−4EJファントム2機
       ◎自衛隊の公式発表
        19時05分/百里基地発進
         F−4EJファントム2機
─────────────────────────────
 標的機がJAL123便の尾翼にぶつかったのは、わざとでは
なく、ミスであったと思われます。それなら、自衛隊は、その事
実を認め、謝罪すべきだったのです。しかし、真実を公開すると
おおごとになります。
 それに、当時は米ソ間で緊張が高まっており、日米はそれに備
えて、密かにミサイルの性能向上の研究開発実験をやっていたの
です。誘導ミサイルの開発です。公表すれば、そのこともバレて
しまうことになります。時の政権は、米国はレーガン政権、日本
は中曽根政権、いわゆる「ロン・ヤス」の時代です。米軍と自衛
隊の軍事的関係が緊密になろうとしてきた時期です。結局、自衛
隊というより日本政府が隠蔽に加担することになります。
         ──[日航機123便墜落の真相/030]

≪画像および関連情報≫
 ●事故ではなく、犯罪の隠蔽である
  ───────────────────────────
   日航123便航空機事故は国際刑事裁判の案件である。日
  本航空123便は、墜落したのではなく、山腹への胴体着陸
  という不時着である。過去の航空機事故で、離陸直後や着陸
  時の事故では生存者がいるが、飛行中からの墜落では生存者
  は一人もいない。生存者がいたということは、123便は不
  時着したのだ。日本航空123便は4名の生存者が出て、生
  存者の証言では事故直後には他にも多数の生存者がいたとい
  う。8月12日の18時56分26秒に123便は群馬県多
  野郡上野村の高天原山の尾根に不時着。救護隊が遭難現場を
  発見したのは翌13日の4時で、救出が始ったのが、8時す
  ぎ。1995年8月、当時123便を捜索したロッキードC
  −130輸送機に搭乗していた元在日アメリカ軍中尉は、同
  機が事故現場を特定していたこと、米軍座間基地から、飛び
  立った救難ヘリが現場に到着していたこと、そして、日本政
  府がこの救難作業を断ったことを証言している。この元在日
  アメリカ軍中尉の証言は、生存者の一人の落合由美さんの手
  記とも符合する。        https://bit.ly/2R9QvOA
  ───────────────────────────

横田基地に最も近い場所で方向転換.jpg
横田基地に最も近い場所で方向転換
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(0) | 日航機123便墜落の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月03日

●「123便墜落の原因はミサイルか」(EJ第4861号)

 ここで問題を整理しておきます。JAL123便が、なぜ御巣
鷹山の山中に墜落しなければならなかったのかについては、次の
2つの説があります。
─────────────────────────────
 1.後部圧力隔壁に疲労亀裂が生じて破壊され、それに伴う
  急減圧で垂直尾翼が破壊され、操縦不能に陥り墜落。
             ─→ 事故調査委員会の最終結論
 2.自衛隊の標的機が、誤って123便の垂直尾翼に衝突し
  機は尾翼と油圧を失い、操縦不能になって山中墜落。
             ── 書籍などによる個人の調査
─────────────────────────────
 「1」は事故調の最終結論です。すべては、これによって決着
がついています。今さら、何をいっても、この見解が変わること
はありません。1990年7月17日に公訴時効も成立していま
す。その後、遺族が新情報を基に何度再調査を依頼しても国は一
切拒否しています。
 しかし、事故調の結論には数多くの矛盾があり、33年経過し
ても、多くの人が納得していないのです。そのため、事故調の最
終調査の矛盾を暴き、独自調査を加えた書籍が数多く出版される
ようになります。これが「2」です。
 「2」に関係する書籍のうち、最も優れているものとしては、
次の3つがあります。
 1993年発刊の角田四郎著の『疑惑』(早稲田出版)、19
98年発刊の池田昌昭著の一連のJAL123便の一連のシリー
ズ、そして、現在話題を呼んでいる青山透子著の一連のシリーズ
です。青山氏は、数多くの証言を揃えている点が、他のレポート
とは違う強い説得力を持っています。これら3人のライターは、
いずれも自衛隊の標的機による123便の垂直尾翼破壊を原因と
する「2」の仮説を支持しています。
 なかでも、この事件のそもそもの原因をズバリ率直に書いてい
るのは、池田昌昭氏のシリーズです。つまり、非常に書きにくい
ことを「仮説の世界」と断りながらも率直に書いています。その
要旨は次の通りです。
─────────────────────────────
 1.海自の護衛艦「まつゆき」から発射されたとみられる標
  的機が123便の垂直尾翼に衝突し、破壊したこと。これ
  によって、123便の操縦は極めて困難になる。
 2.123便の高濱機長は、それでも超人的な操縦でエンジ
  ンをコントロールし、横田か羽田の近くまできたところで
  自衛隊機によって山への方向変更を指示される。
 3.山方向に向った123便は、エンジンの推力を失いなが
  らも高原のレタス畑に不時着する可能性があり、追尾中の
  ファントム機のミサイル発射で墜落させられる。
─────────────────────────────
 国民の命を守る自衛隊が、乗客乗員524人が乗っている民間
旅客機、それも垂直尾翼と油圧系統を破壊され、超人的なテクニ
ックで、やっと飛行している瀕死の123便を、こともあろうに
ミサイルで撃墜させることなど、あり得ないことです。
 しかし、池田昌昭氏は、それがこの事件では行われていると書
いているのです。それならば、なぜそのようなことになったのか
について、自衛隊高官とその部下の仮説会話をご覧ください。
────────────────────────────
・このままの操縦でJAL123便はどうなるか。
・多分、山に誘導すれば力尽き、山にぶつかると思います。
・現在降下中で、高原のレタス畑に不時着するかも知れません。
・不時着されるとまずい。標的機が衝突したことが明らかになっ
 てしまう。
・不時着したときの生存率は?
・多分、10%以下でしょう。
・ミサイルで撃墜したときの生存率は?
・限りなくゼロに近いでしょう。
・サハリン沖の大韓航空007便のときは、後方5キロメートル
 の戦闘機から、ミサイルが2発撃ち込まれ、撃墜され、生存者
 は無しです。
・衝突した標的機の残骸は海上に落下しているので、これの方は
 直ちに艦艇を現場海域に集結させ、回収作業に入ることにする
・JAL123便が高原に不時着されると困る。
・始末する、とどめを刺すにしても命令が出ないとできない。
・緊急である。
・JAL123便は、自力で着陸できるか。
・うまくいけば、不時着するかもしれません。
・もう既に操縦能力の60%から70%は奪われています。墜
 落必至かもしれませんが、わかりません。奇跡が起きるかも
 しれない。
・ミサイルはどこに命中するか。
・熱線追尾方式のミサイルは、ジャンボ機の4つのうちのどれ
 かのエンジンの排気口目掛けて突進します。機体は破壊され
 ます。すべて今までに研究済みのことです。浮力は失われ、
 ほどなく真っ逆様に山に激突するでしょう。
・ただミサイルの発射のタイミングが難しい。ミサイルによっ
 てではなく、JAL123便自身の迷走最終段階で山にぶつ
 かったようにしなければならない。 ──池田昌昭著/文芸社
 『御巣鷹山ファイル2/JAL123便は自衛隊が撃墜した』
─────────────────────────────
 つまり、ミサイルを発射するが、その痕跡は消し、JAL12
3便がダッチロールのすえ、力尽きて、山にぶつかったように仕
向けようとしたのです。そういえば、「ダッチロール」──この
言葉はこの事件では、何回も使われるようになります。そしにし
てもミサイルのことは、誰も想像すらしなかったでしょう。
         ──[日航機123便墜落の真相/031]

≪画像および関連情報≫
 ●今明かす私が事故直後の現場で見た事実
  ───────────────────────────
   日本航空123便墜落事故の第一報を耳にしたのは198
  5年8月12日、仕事も終わり愛車のボルボ24GLEで帰
  路に向かう途中だった。家に帰ったら1歳になったばかりの
  娘とお風呂でも入ろうかと考えていたさなか、当時としては
  まだ珍しいショルダー携帯電話が突然鳴り出し、航空機が行
  方不明であることが同僚のカメラマンから告げられた。そし
  て慌ててNHKのラジオ番組を聞くと、「羽田発伊丹行きの
  JAL123便が18時56分頃、静岡上空で消息を絶って
  いる模様――」と何度も同じ情報が繰り返されていた。
   私はその足で新潮社に向かった。ラジオでは断片的な情報
  をつないで、「長野県、群馬県境の上野村、三国峠、南相木
  村当たりの山中に落ちた、米軍機から横田基地を通じて報告
  があり、捜査を開始したもよう」と報じていた。南相木村は
  取材で何度も行っていたので、土地勘があった。そこで私の
  車を使い、私とフォーカスの記者の2人で南相木に向かうこ
  とになった。
   東京を出発したのは午後8時半、南相木村の目的地に着い
  たのは深夜0時を過ぎていた。車で村に近づくにつれ、警察
  車両や消防団が目に入ってきたが、さらに進んでいくと警察
  官に小学校の校庭に誘導された。周囲を見渡すと報道関係者
  は、私たちだけだった。車をグラウンドの片隅に付け、運動
  会用のテントが張られた対策本部を覗くと、消防団員らしき
  人たちと駐在さんがいましたが、これといった情報はない。
  夜明け前に自衛隊が動くとの情報を得て、そのあとをついて
  行くことになった。       https://bit.ly/2xObAWL
  ───────────────────────────

2機のF4−EJファントム.jpg
2機のF4−EJファントム
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2018年10月04日

●「中曽根首相はいつ事故を知ったか」(EJ第4862号)

 JAL123便墜落事件では、あってはならないことがいくつ
も起きています。真偽のほどはわからないにしても、JAL12
3便は、自衛隊の艦船から発射されたミサイル標的機によって尾
翼を破壊され、油圧系統が完全に効かなくなって、操縦不能に陥
ります。まさに墜落必至の状況です。
 しかし、同機の機長である高濱雅己氏は、機を空気抵抗の強い
低空に降下させ、4つのエンジンをうまくコントロールして、横
田飛行場か羽田空港の近くまで、戻ってきたのです。専門家にい
わせると、この高濱機長の操縦は「神業」であるといいます。
 しかし、123便の機体には、標的機がぶつかった痕跡が残っ
ており、そのまま横田か羽田に不時着させるわけにはいかないと
いう上の判断が働いて、浜松基地から発進した自衛隊のファント
ム戦闘機2機が、123便にスクランブルをかけたのです。スク
ランブルをかけられると、かけられた飛行機は、その命令にした
がわざるを得なくなります。これが国際ルールです。
 そこで123便は、御巣鷹山方面に向うことになります。2機
の戦闘機は、123便を追尾します。しかし、高濱機長はここで
も何とか飛行機を高原に不時着させようと試みるのです。一人で
も多くの乗客乗員を助けたいという一心です。
 そういうとき、123便について防衛庁で自衛隊の高官とその
部下の仮説による対話です。明らかに部下のいっていることの方
が正論です。池田昌昭氏の本から引用します。
─────────────────────────────
・奇跡が起きるかも知れない。レタス高原に不時着するかも知れ
 ない。そうすれば自衛隊は批判され、反政府連動に火がつき、
 今まで営々と築いて来た支配体制がガタガタになってしまう。
・自衛隊という組織が破壊され、強いては政府という組織が破壊
 される。国家という組織が崩壊することになる。われわれは支
 配者を守り、支配者の命令に従うだけである。支配者の命令に
 服するのがわれわれの務めである。悪法もまた、法である。
・自衛隊は国家機関の背骨であり、自衛隊は弱みを国民に見せて
 はならない。自衛隊がガタつけば今の支配者にとっても国民の
 批判が集中し、今までの特権や権益が失われる。今までやって
 きたことが無駄になる。
・相手は、民間機です。戦争用の飛行機ではない。多数の民間人
 が搭乗しています。
・だから、極秘に作戟を行うのである。
・「天網恢恢疎にして漏らさず」のことわざの通り、悪事は必ず
 露呈することなのです。
・「天知る、地知る、吾知る」のことわざの通りなのです。分か
 らなければ良いのである。
・現に標的機の訓練のことは誰も知らない。知っているのは一部
 の幹部だけである。
・そのためには、秘密裏にことを運ばなければならない。「蟻の
 一穴」のことわぎがある。情報が漏れないように、しかも情報
 をコントロールし、国民の目を真実から逸らすのである。
・自衛隊はこのようなことのために訓練をして来たのであり、自
 衛隊がやってきたこと、やっていることに国民の眠が届き、監
 視され、すべてが白日のもとに晒されることは耐え難い。
・墜落現場は、立ち入り禁止としなければならないし、墜落地点
 の特定をできるだけ遅らせることである。
                  ──池田昌昭著/文芸社
 『御巣鷹山ファイル2/JAL123便は自衛隊が撃墜した』
─────────────────────────────
 実際にこのような対話が防衛庁のなかで行われていたかどうか
はわかりませんが、事態はまさにそのように動いています。あっ
たことをなかったことにしようとしているのです。「あったこと
をなかったことにはできない」といったのは、前川喜平元文科次
官ですが、日航機墜落事件では、まさにあったことをなかったこ
とにしてしまったのです。
 12日夜から13日の日の出の前にかけて、墜落現場は早々に
判明していたのに、NHKなどのメディアを使って全然別の場所
を示唆し、その間に墜落現場に約80名の自衛隊員を現場に投入
し、生存者をほったらかしにして、ミサイルの破片と思われるも
のを全員で採取しているのです。事実の隠蔽です。
 しかし、対話にあるように、これほどの重大事の隠蔽を役人だ
けの判断でやれるはずがないのです。カギを握るのは、時の総理
大臣中曽根康弘氏と、防衛庁長官加藤紘一氏の2人です。彼らは
この事件についていつ報告を受けたのでしょうか。
 中曽根康弘首相は、1985年8月8日の夜から軽井沢の「ホ
テル鹿島の森」に滞在し、事故日の12日は、17時11分発特
急あさま22号に乗車して、19時15分に上野駅に着いていま
す。JAL123便が18時56分に墜落したときは、列車内に
いたことになります。中曽根首相は、いつ、どこで報告を受けた
のでしょうか。
 このときのことについて、中曽根氏は、ご自身の本『中曽根康
弘が語る/戦後日本外交』(2012年・新潮社)のなかで、次
のように書いています。
─────────────────────────────
 日航ジャンボ機墜落の報告が私に届いたのは、軽井沢から東京
に戻る列車の中で午後7時過ぎでした。それで8時噴から首相官
邸の執務室に入って、即時に色々な報告を受けたし、こちらから
対策の指令も出した。国民に対して政府の正式見解を出すのは、
事態の調査に遺漏のない状態で、万全を期してから発表しなくて
はいかん。それまでは、私に留めて、私が合図するまでは公式に
発表してはならんと指示しました。
               ──青山透子著/河出書房新社
  『日航123便/撃墜の新事実/目撃証言から真相に迫る』
─────────────────────────────
         ──[日航機123便墜落の真相/032]

≪画像および関連情報≫
 ●第62回 『抛っておけない疑問』
  ───────────────────────────
   21年前の御巣鷹山のクラッシュで、一番怪しいのは事故
  調(事故調査委員会)が出した結論と、それにボイスレコー
  ダーを、乗員のプライバシーを保護するという理由で、全公
  開しなかったことだ。
   事故調が出した「急減圧で圧力隔壁が破れ、その結果、垂
  直尾翼が吹き飛んで墜落した」という報告が、そのまま政府
  の公式見解となって定着している。しかし、急減圧なんか無
  かったのだ。
   今まで資料を見た限り、生き残ったスチュワデスの証言も
  あるし、それに日本航空乗員組合も、急減圧は無かったと断
  言している。急減圧が無ければ、圧力隔壁も破れないし、垂
  直尾翼が吹き飛ぶことも、四系統もある油圧システムが全部
  壊れて、その結果コントロールを失った123便が御巣鷹山
  に激突することも無かった。俺より若かった坂本九も、まだ
  元気に「上を向いて歩こう」と、唱っていただろう。日本の
  カタギは事故調査委員会なんて聞くと、実態をよく知らない
  のに、権威を信じてしまうのだから、ほとんど小学生並の頭
  だ。俺たちの先代の日本人は、最後には必ず神風が吹いて、
  アメリカ軍をやっつけてくれると、大真面目に信じて太平洋
  戦争を闘った。なんでも権力者が言ったことは、疑いもせず
  に信じることが美徳だったのだ。今でも日本人のほとんどは
  なにも疑わずに生きている。事故調は運輸省の組織だから、
  政府や日本航空、それに機体を製造したボーイング社の不利
  になる報告や結論は、出すわけがない。
                  https://bit.ly/2NhprtG
  ───────────────────────────

レーガン大統領と中曽根首相/ロンヤス時代.jpg
レーガン大統領と中曽根首相/ロンヤス時代
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2018年10月05日

●「墜落現場を避ける時の中曽根首相」(EJ第4863号)

 JAL123便が墜落したのは、8月12日、18時56分の
ことです。このとき、時の総理中曽根康弘氏は、軽井沢発17時
11分の特急あさま22号に乗車して、上野駅に向っていたので
す。上野駅到着は19時15分。これほどの大事故ですから、必
ず事故のことは首相に伝えられているはずですが、携帯電話のな
かった時代です。列車内の連絡電話を利用しているはずですが、
中曽根首相はどの時点で事故を知ったのでしょうか。
 自衛隊の公式発表によると、19時1分にファントム2機が百
里基地から飛び立ち、20分後に墜落現場上空で燃えている地上
の炎を確認しています。これが正しいとすると、中曽根首相が上
野駅に着いた時点では、123便墜落事故を知らなかったことに
なります。しかし、2012年に執筆されている『中曽根康弘が
語る/戦後日本外交』(新潮社刊)のなかでは「軽井沢から東京
に戻る列車の中で午後7時過ぎに聞いた」と書いています。とい
うことは上野駅に着く前に連絡があったということです。
 特急あさま22号は19時15分に上野駅に到着。上野駅から
はパトカー先導で官邸に向っていますが、本来なら19時30分
には着いていなければならないのですが、着いたのは19時50
分。ここに20分間の空白があります。官邸で待ち構えていた記
者たちから、123便墜落のニュースを聞き、「ほう、そうなの
か」と答えています。
 これはあくまで推測ですが、中曽根首相はもっと早い時点──
18時31分に浜松基地から2機のファントムが発進(自衛隊は
これを否定)した頃から、首相には逐次情報が伝えられていたの
ではないかと思います。
 つまり、護衛艦「まつゆき」から発射された標的機が、JAL
123便に衝突し、垂直尾翼を破壊したあたりから、乗客乗員を
救出することではなく、政府の現体制と自衛隊を守るため、この
事件をいかに隠密裏に処理するか、軍事作戦のプロフェッショナ
ルが絵図を描いて実行したと池田昌昭氏はいうのです。池田氏は
これについて次のように述べています。
─────────────────────────────
 水際立った墜落現場特定の遅れの手法。水際立った救助活動の
遅れの手法。水際立った事後の報道統制。水際立った事後の真の
事故原因究明隠蔽工作。複雑に錯綜する事態の推移の糸を束ねる
ことのできる頭脳の良さと、コンピュータのちからでは謀れない
統制力。紙の上での図上計画を実施に移し、しかも現実生起情勢
の変化に機敏に対応できる機動力と決断力。事件の風化をジッと
待つ辛抱強さ、根気強さ。これらの一連のことに何かを感じない
か。先に、先にと考えは進む。つまり、事後の手際の良さが却っ
て不自然さを感じさせるのである。危機管理の専門家の存在を予
想させる。
 本当であれば、ヘリコブタ一搭載の暗視装置等の活用で現場特
定は直ちにできていたはず。従って夜間救出もできなかったわけ
ではないはず。報道も、もっと徹底して、事故原因を究明してい
たはず。事故調ももっと深く突っ込んで事故原因を解明できたは
ず。それら一連のことがすべて一致して、先に、先になされたよ
うな感じがする。とするとすべて、先に、事前に仕組まれていた
のであろうか?
 もしこれらがシナリオ化されていたと仮定すれば、それは手慣
れた勢力の存在が予測される。そういったことに手慣れている勢
力である。軍事作戦発動プロフェショナルの存在が予想される。
周到で綿密な計画と事後統制力。その糸に操られているものも、
その操り糸にまったく気が付かないくらいの冷静な手法。ただそ
の間に潜みしものは、表に出ないで聞に潜んでいることに意義が
あるのである。表に出てしまっては、闇の意味がなくなるのであ
る。                ──池田昌昭著/文芸社
 『御巣鷹山ファイル2/JAL123便は自衛隊が撃墜した』
─────────────────────────────
 その後の中曽根首相の動静を見ると、墜落場所が自分の地元で
あるにもかかわらず、中曽根首相は墜落現場には足を運んでいな
いのです。何しろ乗客乗員520人が亡くなっているのです。日
本の首相として一刻も早く現場に行き、遺族を慰める義務があり
ます。それができないのはそこに何かがあるのです。
 墜落事故の10日後の8月22日は、「中曽根政権発足千日の
記念すべき日」だったのです。この日、中曽根首相は軽井沢にお
り、そこで次のコメントを出しています。
─────────────────────────────
 今日まで政治を遂行出来て望外の幸せである。防衛問題につい
ては、非常に慎重に手続きを尽くしてやっていきたい。新しい防
衛計画は何しろ財政が厳しいので、質的効率化を中心に計画が練
られるべきだ。文民統制を全うする手順、内容を考えて進めて行
くことが大事だ。防衛費の対国民総生産(GNP)比1%枠を撤
廃することについて維持は困難だ。出来るだけ1%以内に収める
努力は続けると申し上げてきた。──青山透子著/河出書房新社
  『日航123便/撃墜の新事実/目撃証言から真相に迫る』
─────────────────────────────
 このように、中曽根政権発足千日のコメントでも、日航機12
3便事故については、まったく触れていない。軽井沢に長くいて
さすがにゴルフは自粛したものの、テニス、水泳、読書にいそし
んでいるのに、123便の墜落現場には、足を向けようとはしな
かったのです。
 9月11日には、茨城県筑波へ科学万博の見学に自衛隊のヘリ
コプターで行っているのですが、自衛隊市ヶ谷駐屯地からわずか
19分で万博会場に着いたことで、大変ご満悦であったといいま
す。なぜ、墜落現場に足をのばそうとしないのでしょうか。
 結局、中曽根首相が墜落現場に行ったのは、事故後3ヶ月が経
過した11月4日だったのです。あまりにも遅過ぎるし、遺族に
対して失礼であると思います。彼は、やましいと考えているので
しょうか。    ──[日航機123便墜落の真相/033]

≪画像および関連情報≫
 ●日航ジャンボ機墜落事故と中曽根康弘
  ───────────────────────────
   9月12日は、1985年の日航ジャンボ機墜落事故から
  33年となった。多くの遺族らが花束や線香などを手に、墜
  落現場の御巣鷹の尾根に慰霊登山に訪れたようである。
   この尾根には『昇魂之碑』が設けられ、慰霊登山者はここ
  で手を合わせる。中には熱心な方もいられて、身近にこの事
  故の犠牲者を慰霊するためだけの専用の神棚を設けられてい
  るそうである。
   しかし、この方は遺族ではない。遺族でもないのに、専用
  の神棚を設けているのは、多分彼だけだろう。こんなに熱心
  なのに、一度も御巣鷹の尾根に慰霊に訪れたことがない。車
  で行ける『慰霊の園』も訪れたことがない。事故現場のすぐ
  隣の群馬出身で、地元にはよく帰られているのにもかかわら
  ずである。
   何かちょっと違和感を感じないだろうか?その方の名前を
  『中曽根康弘』という。この事故が発生した時の内閣総理大
  臣である。この事故の真相を知る人物である。真相を知るど
  ころか私は当事者本人だろうと思っている。事故は事故だっ
  たのだろうが、その真実を覆い隠すための工作を指示した本
  人である。その中曽根氏も今年の5月27日で100歳をむ
  かえたという。彼は、この事故についての真相を『墓場まで
  持っていく。』と語ったとされる。中々持っていけないよう
  である。しかし、焦る事はない。死んでからじっくりとこの
  事故と向き合うことになるだろう。
                  https://bit.ly/2IActGp
  ───────────────────────────

当時の中曽根康弘首相.jpg
当時の中曽根康弘首相
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2018年10月09日

●「『墓場まで持って行く』秘密とは」(EJ第4864号)

 第4次安倍改造内閣が発足しましたが、わくわく感ゼロの内閣
で、内閣発足後の支持率は低下しています。新政権発足で支持率
が下がるのは前代未聞のことです。早速閣僚の失言が相次いでい
ます。とくに柴山昌彦文科相の次の発言に、日本という国が根強
く持っている「極右思想」を感じ取ることができます。当時の中
曽根内閣もそうであったと思います。
─────────────────────────────
 現代風に解釈されたアレンジした形で使える部分は十分あり、
普遍性を持っている部分が見て取れる。同胞を大切にするとか、
国際的な協調を重んじるとかいった基本的な内容を現代的にアレ
ンジして教えていこうとする動きも検討に値する。
                    ──柴山昌彦文科相
─────────────────────────────
 これは、柴山昌彦文科相の初入閣の会見で、記者から「教育勅
語」について聞かれ、それについて答えたものです。そのとき、
「何らかの形で教育勅語を使うつもりはない」と答えればよいの
ですが、安倍内閣の閣僚では、そういうことを何となくいえない
雰囲気があるのです。そこで、本人はまったくそのことを考えて
いなくても、そういわざるを得なくなります。これも忖度です。
 柴山大臣のこの発言につき、憲法学者で、慶応義塾大学名誉教
授の小林節氏は、「教育勅語」の活用など正気の沙汰ではないと
し、あろうことか「文科大臣」が就任直後の会見で発言すること
は、にわかには信じられないとし、次のように述べています。
─────────────────────────────
 改めて指摘しておくが、教育勅語の趣旨は、後半部分に明記さ
れた「危急の時には、正義心から勇気を持って公に奉仕し、よっ
て、永遠に続く皇室の運命を助けよ」と国民に命じている点であ
る。そもそも、「勅語」という法形式自体が、国の統治権を総攬
していた天皇がその大権に基づき直接「臣民」に「下賜」する意
思表示で、当時それが憲法の付属文書のような法的拘束力を持っ
ていたことは歴史的事実である。そして、それが、第2次世界大
戦の敗北に至った軍国主義を支えたことも史実である。
 だからこそ、敗戦直後の昭和22(1947)年に教育勅語に
代わる教育基本法が制定され、翌23(1948)年に両院が勅
語の失効を確認する決議を行ったのである。
    ──2018年10月5日発行/日刊ゲンダイのコラム
             「小林節が斬る!ここがおかしい」
─────────────────────────────
 ところで、JAL123便墜落事件のときの政権、中曽根政権
というのは、どういう内閣だったのでしょうか。何となく、安倍
政権と雰囲気が似ているのです。中曽根政権は、「戦後政治の総
決算」を掲げ、安倍政権も「日本を取り戻す」という似たような
スローガンを掲げています。
 1959年に、岸内閣で科学技術庁長官として初入閣を果たし
た中曽根康弘氏は、1966年に自らの派閥を結成します。もち
ろん、自らが総理になるためのステップです。そして、1970
年には、佐藤内閣で防衛庁長官も経験しています。このように中
曽根氏は、防衛庁とは強いつながりがある政治家なのです。
 自民党のなかでは、その変わり身の早さから「風見鶏」と呼ば
れますが、その本質は、派閥・金権政治の古いタイプの政治家と
して位置づけられます。リクルート事件に関与して、一時自民党
を離党していた時期もあります。
 1982年、田中角栄の助けを得て、内閣総理大臣に就任しま
すが、時の米国大統領レーガンと、ロン・ヤスと呼び合う大物ぶ
りを披露しています。米国との関係も緊密だったのです。日航機
墜落事故について中曽根康弘氏は、次のような思わせぶりな謎の
言葉を述べています。
─────────────────────────────
    JAL123便事故の真実は墓場まで持って行く
                   ──中曽根康弘
─────────────────────────────
 このいい方は、中曽根氏は日航機墜落事件について何かを知っ
ており、それは絶対に外部に出せないものであるので、だから墓
場まで持って行く──このように解釈できます。
 ここからは、「自衛隊」についての自衛隊高官と部下の仮説に
基づく対話です。
─────────────────────────────
・自衛隊がガタつけば、国家がガタつくことになる。自衛隊は日
 本国家の主柱であり、われわれの武力が、国を守っているので
 ある。その自衛隊は、国民に弱みを見せてはならない。
・現機構を自衛隊は守っているのです。庶民は自分で自分の生活
 を守っています。
・自分の責任でミサイルを発射する。自分が責任をとれば良い。
・あなた一人の責任の問題ではない。未来永劫にわたり、天怒し
 その罪を自衛隊が追及されます。
・命令を聞けないなら、おれを撃ち倒してからにしてくれ!
・あなた一人を乗り越えてもことは解決しません。
・人間の心になってください。
・同じ人間として行動すべきです。
・ぶつけようとしてぶつけたのではないのです。国民にそのこと
 を説明して、謝罪すべきです。それが男の道です。
・軍隊は命令によって動いている。
・これは自衛隊を先頭とする国家機関が懸命になって、国民の追
 及の眼をかわすために行うことである。
                  ──池田昌昭著/文芸社
  『御巣鷹山ファイル/JAL123便は自衛隊が撃墜した』
─────────────────────────────
 この自衛隊観に近いものを何となく安倍政権は持っているので
はないかというような気がします。
         ──[日航機123便墜落の真相/034]

≪画像および関連情報≫
 ●柴山文科相「教育勅語」復活は安倍政権の総意!
  ───────────────────────────
   閣僚が“ほぼ全員ネトウヨ”である第4次安倍改造内閣だ
  が、さっそく、その極右思想が露見した。文部科学大臣に起
  用された柴山昌彦衆院議員だ。柴山文科相は、2日の就任記
  者会見で、戦前・戦中の教育勅語についてこう述べたのであ
  る。「(教育勅語を)アレンジしたかたちでですね、今のた
  とえば道徳等に使うことができる分野というのは、私は十分
  にある、という意味では普遍性を持っている部分が見て取れ
  る」。
   さらに柴山文科相は、教育勅語の使える部分として「同胞
  を大切にするとか」などを挙げ、「基本的な記載内容につい
  て現代的にアレンジして教えていこうと検討する動きがある
  と聞いており、検討に値する」などと明言した。教育行政の
  トップとなった人間が、それも就任会見で「同胞を大切に」
  と排外主義をむき出しにしながら、ここまで具体的に“教育
  勅語の復活”を唱えるとは、あまりにも露骨すぎるだろう。
   もっとも、こうした発言は唐突に飛び出したわけではい。
  これまでも下村博文元文科相や稲田朋美元防衛相、そして安
  倍首相自身が教育勅語を肯定する発言をしており、昨年3月
  31日には教育勅語を学校教育で扱うことに対して「憲法や
  教育基本法に反しないような形で教材として用いることまで
  は否定されない」との答弁書を閣議決定している。
                  https://bit.ly/2O6j41i
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小林節慶応義塾大学名誉教授.jpg
小林節慶応義塾大学名誉教授
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2018年10月10日

●「横田基地着陸を拒否した真の理由」(EJ第4865号)

 すべては、海自の護衛艦「まつゆき」から発射された標的機が
間違ってJAL123便の垂直尾翼にぶつかり、破壊したことか
らはじまったのです。垂直尾翼が破壊されると、油圧系統もほと
んどダメになるので、飛行機は操縦不能に陥ります。
 こういうことが起きたさい、国として普通の感覚であれば、何
はともあれ、123便に乗っている524人の乗客乗員をいかに
救出するかについて、あらゆる手立てを講ずるはずです。
 しかし、この墜落事件において書かれた多くのレポートを見る
限りにおいて、自衛隊は救出に全力を尽くさず、むしろ救出の邪
魔をしているようにしか見えないのです。その最大の邪魔な存在
は、自衛隊が絶対に認めていない浜松基地発進の2機のファント
ム戦闘機です。
 既に述べているように、この日航機墜落事件についてのボイス
レコーダー記録は、音声でなく、文字で公開されています。これ
ならいくらでも改ざんできますし、都合の悪い部分はカットでき
ます。生のボイスレコーダー記録は、33年経った現在でも公開
されていないのです。
 事故調最終報告書によると、事故当日の午後6時37分前は、
JAL123便は、機内で起きたトラブルの対応に追われながら
も、ACC(東京航空交通管制所)と交信し、それを傍受した日
航羽田社用無線で日航が123便を何回か呼び出しています。し
かし、37分から44分の7分間は、管制所との交信はまったく
なくなっています。ただ、その途中の40分には、ACCが唐突
に123便に対して周波数の切り換えを要求しています。
 一体何があったのでしょうか。この間の事情について、池田昌
昭氏は、次のように推測しています。
─────────────────────────────
 ところでこの37分から44分の7分間に極端に管制所とJA
L123便との交信が減っている理由はなにか。わたくしはそれ
を緊急発進した軍用機との交信、もしくは誘導指示態勢にあった
軍用機に誘導されるために、その誘導に従っていくために精一杯
だったのではないかと推測する。つまり37分から44分の間の
軍用機との交信は、意図的にボイスレコーダーから削除されてい
る可能性がないわけではない。そして46分には相模湖まで戻っ
てきているのである。そして横田基地着陸進入コースに乗り、横
田に着陸態勢にあったのである。機内では「予告なしに着陸する
場合が・・」とのスチュワーデスのアナウンスがなされていたの
である。しかも、横田基地は合計13回、JAL123便にたい
して、「横田の管制官にコンタクトを取るように」「横田滑走路
は進入スタンバイができている」ことを繰り返し、繰り返しJA
L123便に伝えている。しかしながらJAL123便便は、こ
の横田管制官の呼び掛けにたいして、まったく応答していないの
である。応答できなかったのである。 ──池田昌昭著/文芸社
 『御巣鷹山ファイル2/JAL123便は自衛隊が撃墜した』
─────────────────────────────
 池田氏の推測によると、このとき、JAL123便は横田基地
に降りる寸前だったことになります。その証拠に横田基地からは
13回もJAL123便にコンタクトを取るよう求めているので
すが、123便はそれに一切応答していないのです。
 一体何があったのでしょうか。そのとき、JAL123便は、
ほぼ完全に横田基地への着陸態勢をとり、何とか着陸できる状態
にあったのです。しかし、それを邪魔したのは、浜松基地発進の
2機のファントム戦闘機です。事故調はこの音声を消すために、
ボイスレコーダーの公開を文字でのやり取りにしたのです。音声
をカットすると、不自然になってしまうからです。
 池田昌昭氏は、JAL123便と軍用機のやり取りを次のよう
に再現しています。例の仮説形式の対話のスタイルです。
─────────────────────────────
軍用機:横田に着陸すると、機体の垂直尾翼が欠けているし、車
 輪も出ないし、機体はコントロールを失っているので、人家に
 甚大な被害が発生するから絶対に阻止する。
123:胴体着率できる。
軍用機:横田基地付近には米軍住宅もあり、また普通民家も密集
 しているので、アメリカとの問題が重大なことになる。
123:もう滑走路が見えているし、横田へのランディング・コ
 ースに完全に乗っている。
軍用機:横田への着陸は絶対阻止する。
軍用機:JAL123便は、被要撃信号「スコーク77」を発し
 ている。「スコーク77」を発した以上は必然的に要撃機の指
 示にい従わなければならない。
軍用機:そんなことは、機長が何より良く知っているはずだ。
軍用機:レフトターンするように。 ──池田昌昭著/文芸社
 『御巣鷹山ファイル3/JAL123便は自衛隊が撃墜した』
─────────────────────────────
 垂直尾翼を失って操縦機能のほとんどを失いながらも、123
便の高濱機長は、4つのエンジンをコントロールして横田基地へ
の着陸態勢に入ったのです。そして横田基地と交信しようとした
ときに、自衛隊のファントム戦闘機2機が突然現れ、スクランブ
ルをかけてきたのです。そのとき、機長としてすべてを悟った高
濱機長は、次のようにつぶやいています。時刻は午後6時46分
33秒のことです。
─────────────────────────────
 これはもうだめかもわからんね。/JAL123便高濱機長
                ──午後6時46分33秒
─────────────────────────────
 悲痛な心の叫びです。しかし、高濱機長は本心は、まだ諦めて
はいなかったのです。戦闘機の指示にしたがい、機首を御巣鷹山
の山岳部の方に向けて、今度はレタス高原への着陸することを考
えて、その場所を探したのです。
         ──[日航機123便墜落の真相/035]

≪画像および関連情報≫
 ●18時47分から55分までのボイスレコーダー記録
  ───────────────────────────
  47分:123便は千葉の木更津へレーダー誘導するよう求
   め、東京ACCは真東へ進むよう指示し、「操縦可能か」
   と質問すると、123便から「アンコントローラブル(操
   縦不能)」と返答がきた。その後、ACCは、東京アプロ
   ーチの無線周波数へ変更するよう求め、123便は了承し
   た。
  48分:無言で123便から機長の荒い呼吸音が記録されて
   いる。
  49分:JALがカンパニーラジオ(社内専用無線)で3分
   間呼び出しを行ったが、応答はなかった。
  58分:東京ACCが123便を呼び出した。123便から
   「アンコントロール」と無線が入ってくる。ACCと横田
   のRAPCONが返答、RAPCONは、横田基地が緊急
   着陸の受け入れ準備に入っていると返答。東京ACCも東
   京アプローチの無線周波数へ変更するよう求め、123便
   が了承する。
  54分:JALも呼び出しを行ったが応答はなかった。12
   3便から現在地を尋ねられ、東京ACCが羽田から55マ
   イル(100km)北西で、熊谷から25マイル(45k
   m)西と告げる。
  55分:(この時だけ「日本語にて申し上げます」と前置き
   して)東京アプローチから、羽田と横田が緊急着陸準備を
   行っており、いつでも最優先で着陸できると知らせ、航空
   機関士が「はい了解しました」と返答する。この言葉が、
   123便からの最後の交信となった。
                  https://bit.ly/2C0V60c
  ───────────────────────────

横田基地への着陸を拒んだファントム戦闘機.jpg
横田基地への着陸を拒んだファントム戦闘機
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2018年10月11日

●「123便は横田へ着陸寸前で阻止」(EJ第4866号)

 垂直尾翼を破壊されたJAL123便の高濱機長は、ダッチロ
ールとフゴイド運動を起こしていた機体を何とか立て直すことに
成功しています。
 ダッチロールとは、いわゆる飛行機の横ゆれ (ローリング) と
偏ゆれ (ヨーイング) が合成された蛇行運動を短い周期で繰り返
す状態のことです。これにフゴイドが加わるのですから、飛行機
の操縦は極めて不安定になります。フゴイドというのは、固定翼
機の運動の内、進行方向に対して縦方向に生じる動揺のことをい
うのです。
 しかし、高濱機長は、神業的操縦ではあるものの、JAL12
3便の機体をエンジン出力をコントロールして、機体操縦の70
%をマスターし、123便をほぼ安定して運行できる状態にして
いたのです。そして、その状態で、焼津市上空でUターンし、相
模湖付近まで戻ってきています。この時点で123便は、明らか
に横田基地を目指していたといえます。
 高濱機長は、一応羽田空港に戻るといっていたものの、それは
横田基地の了承を得られない場合のことであり、あくまで横田基
地へのランディング・コースに乗っていたのです。それに車輪も
出るようになったという情報もあります。
 それに横田基地からも「受け入れ可能」の情報が入ってきてい
たのです。横田基地のC130の乗員は、JAL123便の状況
を正確に把握して、その情報を横田基地に送っており、横田基地
の米軍は受け入れ可能と判断したといいます。そして、緊急医療
チーム(医科救急隊)を待機させ、JAL123便の到着を待っ
ていたのです。この医科救急隊は、負傷者輸送、緊急治療にあた
る医科輸送機C9ナイチンゲールを擁しています。
 この状況における池田昌昭氏による仮説ボイスレコーダー記録
をご紹介します。できる限り、事故調最終報告書が公表したボイ
スレコーダーの文字書きをベースとするが、そこに欠落している
とみられる部分を推理で補ったものです。だから、仮説ボイスレ
コーダーなのです。時刻は、午後6時40分22秒。なお、この
とき、JAL123便は、既に自衛隊ファントム機の追尾に気が
付いています。しかし、123便のコックピットは、それは、あ
くまで救護のための着陸誘導だと思っていたのです。
─────────────────────────────
◎午後6時40分22秒
東京管制部:こちら東京コントロール、もし受信可能であれば、
 (トランスポンダー)識別信号で応答せよ。
123便:何度も交信しているのに。東京管制部の管制官が交代
 したのか。そんなのどうでもいい。操縦の方が大事だ。
◎午後6時41分55秒
東京管制部:ACC。全航空機、JAL123便を除く仝航空機
 は、周波数134・0にて東京コントロールと交信せよ。なお
 別途指示があるので、この周波数の沈黙を維持されたい。
123便:東京管制部は、やっと、緊急指示を出している。遅す
 ぎる。
◎午後6時44分41秒
123便:フラップ下げましょうか。
 ・いや、まだ早い。もう少ししてからだ。
 ・足は降りているか。
 ・はい。午後6時39分32秒に主脚を下げました。
 ・フゴイド運動は、急激に減衰ののち、完全に消滅しました。
◎午後6時45分37秒
横田基地:こちら横田進入管制所。JAL123便、緊急周波数
 で呼んでいます。聞こえたら、横田にコンタクトを。横田基地
 は緊急着陸許可です。
123便:横田にコンタクトしましょうか。
 ・機体は水平で安定している。
 ・機内より、横田基地が近いので「がんばろう」の声がする。
◎午後6時46分06秒
123便:相模湖まで来ています。
◎午後6時46分10秒
東京管制部:こちらACC。羽田管制所にコンタクトしますか。
123便:このままでお願いします。
東京管制部:はい。了解しました。スタンバイ、お待ち下さい。
123便:スチュワーデスも非常に冷静です。客室乗務員も着陸
 の準備に入っています。
◎午後6時46分22秒
123便:横田基地の滑走路が正面眼下に見えてきた。
 ・機首下げ。
 ・行くか。
 ・はい。             ──池田昌昭著/文芸社
 『御巣鷹山ファイル3/JAL123便は自衛隊が撃墜した』
─────────────────────────────
 これによると、JAL123便は横田基地着陸寸前だったこと
がわかります。機体は傾いていないし、4つのエンジンは順調で
す。しかも、車輪も出ています。胴体着陸どころか、普通に着陸
できる可能性もあったのです。つまり、524人全員無事という
可能性も十分あったといえます。理想的なことです。それにこの
時点では、123便のコックピットの会話を聞くと、そこに少し
余裕が感じられます。
 横田飛行場123便着陸、乗客乗員全員無事。大変喜ばしいこ
とです。しかし、その結果は、政府、自衛隊にとっては、最悪で
す。標的機の衝突がバレてしまうし、証言者はたくさんいるし、
とくに自衛隊は大変なことになります。不謹慎な話ですが、自衛
隊にとっては、「JAL123便垂直尾翼破損/乗客乗員全員死
亡」──この方望ましいのです。
 しかし、JAL123便の横田飛行場着陸は、自衛隊の2機の
ファントム戦闘機によって、スクランブルされ、強制的に回避さ
せられたのです。 ──[日航機123便墜落の真相/036]

≪画像および関連情報≫
 ●いわれなき批判に反論する/佐藤守のブログ日記
  ───────────────────────────
   昭和60年8月12日に起きた、日航機墜落事故での自衛
  隊の活動に付いて、私が反論した「月曜評論」のコピーを貰
  えないか?、という依頼があった。
   コメントにもあったように、既に当事の状況を知らない世
  代が自衛隊に育っているし、依然として事故原因は「自衛隊
  の標的がぶっつかった」という“共産党作家”の影響も残っ
  ているらしい。驚いたことにコメントには「中性子爆弾説」
  などもあって、まだまだ国民はこの事故の実情を理解してい
  ないことを痛感した。
   そこで、当時私が発表した文を、1〜5までに分けてここ
  で再掲載しておきたいと思う。若き現役自衛官達にも、当時
  の状況を推察してもらいたい。
   『いわれなき批判に反論する』/JAL機墜落事故=航空
  自衛隊の捜索救難活動について・・・
      防衛庁航空幕僚本部広報室長/一等空佐 佐藤 守
   8月12日夕刻に発生したJAL機墜落事故は、520名
  もの尊い犠牲者を出す史上最大の航空事故となったが、航空
  自衛隊は、事故発生が予測されるや間髪を入れず救難活動に
  移った。それにもかかわらず、翌日奇跡的に四名の生存者が
  発見され、「他にも生存者がいる」との証言が報道されると
  今度はあたかも自衛隊側の救難活動に問題があったかのよう
  な「自衛隊批判」が沸き起こったのである。
                  https://bit.ly/2Qzg6iM
  ───────────────────────────

米軍/横田飛行場.jpg
米軍/横田飛行場
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2018年10月12日

●「横田基地の着陸を阻止した軍用機」(EJ第4867号)

 JAL123便は、本気で横田基地に緊急着陸しようとして、
その態勢に入っていたのです。横田基地も「受け入れ可能」を表
明していたからです。よくJAL123便は、山でなく、なぜ海
に出て、不時着しなかったのかといわれますが、そんなことをし
なくても、横田基地に十分着陸できたからです。
 それは、ちょうどそのとき、機内放送で、スチューワーデスが
「予告なく着陸することがあります」という放送を流していたこ
とからもわかります。この放送は、緊急着陸を意味しているから
です。それを阻んだのは、123便を追尾してきた自衛隊の2機
のファントムです。
 123便のコックピットは、自衛隊の戦闘機が追尾してきてい
ることは、わかっていたのです。それは、123便が「スコーク
77」を発信したので、救護のために追尾してきているとコック
ピットは考えていたようです。
 しかし、そうではなかったのです。自衛隊は、この浜松基地発
進の2機のファントムの存在を否定しています。しかし、この2
機の戦闘機については多くの目撃証言があり、間違いなく存在し
ているのです。自衛隊はそれに対し、否定も肯定もせず、一切発
言を控えています。
 123便が横田基地への着陸を試み、それを断念するまでの池
田昌昭氏の復元ボイスレコーダーをご覧ください。
─────────────────────────────
◎午後6時46分23秒
横田基地管制:こちら横田基地管制所。JAL123便、緊急周
 波数で呼んでいます。聞こえますか。緊急信号5423
123便:横田基地どうぞ。
 ・こちら、JAL123便。横田基地へのレーダー誘導をお願
 いします。
横田基地管制:了解
123便:高度はだいぶ降りています。
 ・もうすぐ、酸素はいらなくなります。
 ・もうすぐ、予告なしで着陸する場合があります。
 ・赤ちゃん連れの方は座席の背に頭を支えてください。赤ちゃ
  んはしっかり抱いてください。
 ・ベルトはしてますか。テーブルは戻してありますか。確認し
  てください。
 ・着陸の際は、予告なしで着陸する場合があります。
 ・地上との交信は、ちゃんとつながっております。
◎午後6時46分
航空基地司令:こちら、地上指令
 ・JAL123便の横田基地着陸は阻止せよ。
 ・理由は、民家に被害が出るからだ。
 ・それと、撃墜兵器の痕跡がJAL123便の垂直尾翼に残っ
  ているからだ。
 ・横田に着陸されると、民間機にたいする軍事攻撃が明らかに
  になる。
 ・着陸を阻止せよ。
 ・強行着陸するかも知れないので、そのときは、横から前に出
  て、体当たりするようにして着陸を阻止せよ
 ・これは絶対命令である。
 ・了解。
◎午後6時46分30秒
123便:アァー。戦闘機が前に出てきた。
 ・前を交差した。
 ・着陸を阻止するつもりだ。
 ・ミサイルを撃ち込む気か。
 ・戦闘機が右側から突っ込んで来ます。
 ・あくまでも阻止するつもりだ。
◎午後6時46分33秒
123便:これはダメかもわからんね。
 ・はい。
 ・横田基地は無理だ。
 ・はい。
 ・やはり羽田に行こう。
 ・はい。             ──池田昌昭著/文芸社
 『御巣鷹山ファイル3/JAL123便は自衛隊が撃墜した』
─────────────────────────────
 問題なのは、このなかに出てくる横田基地への着陸は絶対に阻
止せよとの航空基地司令の命令をどのようにして軍用機がJAL
123便に伝えたかということです。
 軍用機の使用電波は、原則UHFであり、民間機のそれはVH
Fです。そうであれば、軍用機から民間機への交信はできないこ
とになります。しかし、これはあくまで原則です。これについて
池田昌昭氏は次のように述べています。
─────────────────────────────
 「軍事は民事を包括する」という大前提から考えれば、軍用機
が民間機と直接交信できる手立てを保有していた、また保有して
いるとしても不思議ではない気がします。現在も原則は、軍用機
と民間棟は直接、交信できない。
 しかし、昭和60年当時を含めて、軍用機が原則、民間機と交
信できないということは、どうもないような気がします。全部で
はないが、一部の、たとえばスクランブルをかけるような戟闘機
には、民間機と交信できる装置、もしくは民間機自体の交信を傍
受できる装置を備えていないのだろうか?
                ──池田昌昭著の前掲書より
─────────────────────────────
 いずれにしても可能性が十分あった123便の横田基地着陸は
航空基地司令によって阻止されたのです。「これはダメかもわか
らんね」という、すべてを悟った高濱機長のつぶやきは誠に悲痛
の極みです。   ──[日航機123便墜落の真相/037]

≪画像および関連情報≫
 ●日航機墜落の真相が徐々に明らかになる!!
  ───────────────────────────
   JAL123便を御巣鷹山に誘導した2機の自衛隊機の存
  在はこの件に関するマスコミ報道では完全に伏せられていま
  す。しかし、この2機の自衛隊機を目撃した人物がいます。
  その人物とは、角田四郎氏といい、事故当日大月付近でキャ
  ンプをしていて目撃したというのです。
   2機の自衛隊機の目撃情報は角田氏だけですが、防衛庁側
  はこれに対して何もコメントしていません。自衛隊機がこの
  付近の空を飛んでいても別に不思議ではないからです。角田
  氏自身もあとでJAL123便の墜落を知って、自衛隊機と
  JAL123便とをはじめて結びつけたのです。
   ところで自衛隊機はどのようにして、JAL123便の進
  路を変更させたのでしょうか。
   自衛隊機は無線で直接JAL123便と交信して旋回する
  よう指示したか、あるいは、航空基地を経由しての交信によ
  り横田基地に着陸しないよう伝えたはずです。
   おそらくJAL123便の機長は、あくまで横田基地着陸
  を訴えたはずです。機長が当初「羽田に戻りたい」といった
  のは、羽田空港の方が救急医療体制が整っているからです。
   いずれにしても、まともな着陸はできないと考えていたの
  でしょう。しかし、機を完全にコントロールできないことも
  あり、この時点では、横田基地しか選択肢はなかったはずで
  す。とにかくボイスレコーダには、自衛隊機とのやりとりは
  記録されていないので、推測するしかないのですが、もしか
  したら自衛隊機の指示を拒否したことも考えられます。
                  https://bit.ly/2RDLBK5
  ───────────────────────────

高濱雅己機長.jpg
高濱雅己機長
 
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2018年10月15日

●「闇に潜みし者は一体何をやったか」(EJ第4868号)

 JAL123便の墜落事故──いや、あえて「事件」と書くこ
とにします。123便が墜落にいたる一連のプロセスにおいて、
事故として起きたことは、ミサイル標的機が123便の垂直尾翼
にぶつかり、同機の垂直尾翼を破壊したことだけです。
 しかし、事故調の最終報告書では、ボーイング社の圧力隔壁修
理ミスと金属疲労により、JAL123便が飛行中に圧力隔壁が
破壊し、それによる急減圧で噴出した空気が瞬時に垂直尾翼を吹
き飛ばしたという「圧力隔壁破壊説」を結論としています。
 ところがここまで検討してきているように、これに関する疑問
点、矛盾点は数多くありますが、事故調は主張を頑として曲げず
垂直尾翼に外部から何かが衝突したのではないかという可能性す
ら、まったく検討していないのです。
 垂直尾翼の破壊によって操縦不能になった123便は、高濱機
長による神業ともいえる操縦によって機体を立て直し、横田基地
の許可をとって、横田飛行場に着陸しようとしますが、浜松基地
から発進した2機の自衛隊戦闘機によって、横田への着陸を阻ま
れ、山の方向に誘導されます。
 ここで「自衛隊」とか「政府」とかいう言葉は、使いたくない
ので、あえて「闇に潜みし者」という表現を使います。もしやっ
ていることが真実であると、人道にもとる残酷な行為であるから
です。闇に潜みし者は、なぜ、横田への着陸を認めなかったので
しょうか。もし横田基地に降りていれば、たとえ胴体着陸であっ
ても、相当多くの生存者が出たと思われます。しかし、闇に潜み
し者にとっては、横田着陸には米軍が絡むので、何としても避け
たかったのです。
 闇に潜みし者としては、あくまで標的機が123便にぶつかっ
た痕跡を隠したかったのです。しかし、それと引き換えに520
人もの尊い命が失われています。もし、これが本当であるとする
と、闇に潜みし者は、人道に反する行為をしたことになります。
それに、何度もいうように、闇に潜みし者は、浜松基地発進の2
機のファントム戦闘機の存在を認めていないのです。しかし、こ
れには多くの目撃情報があり、動かし難い事実です。あったこと
をなかったことにしようとしているのです。
 横田基地に着陸できず、山の方向に向った123便ですが、そ
れでも高濱機長をトップとする123便のコックピットは、広大
なレタス高原への不時着を試みますが、レタス高原には人がいて
降りられず、次の不時着地点を探して、飛行を続けるのです。つ
まり、何としても山への激突は避けたかったのです。
 しかし、闇に潜みし者の狙いはあくまで「乗客乗員全員死亡」
です。死人に口なしであり、生存者はいない方が都合がよいから
であり、標的機の衝突がバレないで済むからです。ところが、1
23便はどこかに不時着しようとしている。少しでも生存者を増
やすためです。そこで闇に潜みし者が決断したのは、追尾する2
機のファントム機からのミサイル発射です。
 これについて、池田昌昭氏は「ミサイルによる強制撃墜」と題
して次のように書いています。
─────────────────────────────
 御巣鷹山付近に懸命に操縦杵を握り、不時着もしくは、なだら
かな高原への胴体不時着を決意したJAL123便操縦クルーに
とって、また乗客にとって最期のときが近づいていた。
 樹木をクッションにして、かなり水平姿勢で不時着できたかも
知れないJAL123便にとって、人為的で物理的なちからが外
部から加わって、墜落の決定的要因となった。
 それはまた墜落原因だけではなく、御巣鷹山への墜落に先立つ
おそらく1分から2分か前に、撃ち込まれたと思われる撃墜ミサ
イルの破壊力により、機体前部・中部付近の乗客は機内で粉砕さ
れた。そして私は、この撃墜ミサイルは、あるいは2発、撃ち込
まれたのではないかと想像する。いずれも、不時着寸前のJAL
123便にたいして、機体右後方から2発撃ち込まれたものと思
われる。
 エンジン出力を絞って、スピードを落とし、フラップを出して
不時着態勢にあったJAL123便の最終段階近くに、ミサイル
が機体に撃ち込まれた際の「ガーン」という衝撃音があったはず
である。それはコックピットにも聞こえたと思われる。その「ガ
ーン」という衝撃音は、ボイスレコーダーには記録されていない
のだろうか?
 ジャンボ機は、ボーイング社の軍用輸送機の発想から出発して
いる。その機体構造は頑丈であり、機体金属材質も銃弾を跳ね返
すくらいに頑丈なのかも知れない。空飛ぶ戦車とまではいかなく
とも、相当頑丈だとみてよい。    ──池田昌昭著/文芸社
 『御巣鷹山ファイル3/JAL123便は自衛隊が撃墜した』
─────────────────────────────
 多くの人が生存できる可能性の高かった横田基地への着陸を阻
んだだけでも人道にもとる行為です。それを生存者が出るのを恐
れて、満身創痍の123便に対して、ミサイルを撃ち込むという
のですから、恐ろしい話です。
 なぜ、それが疑われるかといえば、他の航空機の墜落事故の遺
体の状況もひどいものですが、123便の遺体があまりにも悲惨
の一言に尽きるからです。しかも、機体の前後、中部と、機体後
部の乗客・乗員の死傷レベルに相当大きな差があるのです。池田
昌昭氏は「人為的なミサイルなどによる機内爆発以外には考えら
れない」と述べています。
 しかし、青山透子氏の本を読むと、このこと以上に恐ろしいこ
とが書かれています。闇に潜みし者は、生存の可能性が十分あっ
た横田基地着陸を阻止しただけではなく、その後も123便を追
尾し、何回も不時着を試みようとする123便に対して、ことも
あろうに、2発のミサイルを撃ち込んで、強制墜落させたといわ
れています。青山氏の本では、それに加えて闇に潜みし者がもっ
と恐ろしいことをしていることを強く示唆しています。
         ──[日航機123便墜落の真相/038]

≪画像および関連情報≫
 ●自殺した航空自衛隊員が所持していた2枚の写真
  ───────────────────────────
   自衛隊員の自殺数は1986年には年間90人以上と81
  年から73パーセントも増加している。(一省庁のなかで1
  年間で90人。これだけの自殺者が出るのは、不自然であり
  不審であるが、報道すらされなかった。
   最初に不審な自殺者が出たのが1986年7月、2人の航
  空自衛隊パイロットだった。そしてつづいて同年9月12日
  14日と航空自衛隊員が2人自殺する。これを皮切りに謎の
  自殺数増加がはじまる)。
   そのうちの一人(9月12日死亡)が友人に預けていた2
  枚の写真があるのだが、1枚は7月に自殺した同僚2人の写
  真(a)である。
   この時の状況だが、2人は自殺をはかった直後に発見され
  自衛隊病院に運ばれ病院内で死亡ということで、司法解剖も
  検視解剖もされなかった。だが、この写真の異様さに気づく
  だろうか、身長ほどの高さで吊られているが、踏み台もなに
  もない、しかもパラシュートコードを使ったというが、この
  コードは6ミリで、00キログラム近い耐力があり、首への
  食い込みは、太いロープなどと違い血管も神経も切断する。
  それを偶然自殺直後に発見し撮影までした後、病院に搬送す
  るまで生きているとは考えづらくはないだろうか?(4人と
  も遺書は残していない)。    https://bit.ly/2QSkTw3
  ───────────────────────────

自衛隊員の持っていた2枚の写真のうちの1枚.jpg
自衛隊員の持っていた2枚の写真のうちの1枚
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2018年10月16日

●「墜落現場で火炎放射器を使う理由」(EJ第4869号)

 青山透子氏は、JAL123便の乗客乗員の遺体の異常さに注
目しています。この人の凄いところは、疑問が起きると、そのこ
とを知ると思われる人を見つけ出し、実際にその人に会って、徹
底的に聞き出すことです。青山氏の本には、そういう質問と回答
が満載されています。123便の遺体には、通常の飛行機事故の
遺体と決定的に違うものがあったからです。
 その遺体はどんな状態だったのでしょうか。
 乗員4名と乗客1名の司法解剖を担当した群馬大学医学部の古
川研教授は、123便の遺体の状況を次のように述べています。
─────────────────────────────
 機体前部の遺体には損壊や焼損が目立ち、衝撃のすさまじさと
主翼の燃料タンクの火災の影響を受け、焼損遺体の中には部位も
判然としないものがあり、通常の家屋火災現場の焼死体をもう一
度焼損したようにみえた。(略)──群馬県医師会活動記録『日
 航機事故に対する法医学の対応』/昭和61年10月1日発行
─────────────────────────────
 「通常の家屋火災現場の焼死体をもう一度焼損したようもの」
──素人の考え方では、きっとジェット燃料はそれだけ燃焼力が
強いのだろうと考えます。しかし、ジェット燃料は灯油に近いと
いわれます。灯油を頭からがぶって自殺した人の遺体を見ても炭
化するまで焼けることはないといわれています。
 青山透子氏は、事故当日の朝、早い時間に現場に足を踏み入れ
た消防団の人々の情報を基に、現場に漂っていた臭いから推定さ
れるものについて、元自衛隊関係者、軍事評論家、大学の研究者
などに質問をしています。なお、臭いについては、JAL123
便の墜落現場であることは伏せて質問しています。
─────────────────────────────
≪質問1≫
 ガソリンとタールの臭いが充満し、長時間燃える物質は何か。
 その結果、人間の体が炭のようになる状態(完全炭化)のもの
 は何か。
 ≪答え≫
 ガソリンとタールを混ぜて作ったゲル状燃料である。
≪質問2≫
 なぜそれが人間の体を炭にするのか。
 ≪答え≫
 化学薬品によってゲル状になったガソリンであるため。これが
 服や皮膚に噴射されて付着すると、そのすべてが燃え尽き、結
 果的に炭状になる。
≪質問3≫
 これはどこで手に入るのか。
 ≪答え≫
 一般にはない。軍用の武器である。その武器は、燃料タンクを
 背負い、射程距離は約33メートルで、歩兵が用いるものであ
 る。第二次世界大戦中は米軍で使用された。M1、M2の2種
 類がある。昔の武器というイメージがあるが、戦後は米軍から
 自衛隊に供与されていた。現在も陸上自衛隊の普通科に携帯放
 射器として配備されている。これはM2型火炎放射器の改良型
 である。噴射回数十回まで可能。噴射用圧縮空気タンクを連結
 している。今でも駐屯地祭でデモストレーションしている。
≪質問4≫
 それはどこにあるのか。
 ≪答え≫
 陸上自衛隊普通科歩兵、化学防護武器隊で、相馬原普通科部隊
 にもある可能性が高い。   ──青山透子著/河出書房新社
  『日航123便/撃墜の新事実/目撃証言から真相に迫る』
─────────────────────────────
 JAL123便の墜落現場には、ガソリンとタールの臭いが強
く漂っていたといいます。これは正確には「ゲル状燃料」といい
ます。ガソリンとタールを混ぜて作るのです。
 驚くべきなのは、その燃料を使うのは軍用の兵器であるという
ことです。具体的な名称は「携帯放射器」、これはM2型火炎放
射器の改良型です。そうであるとすると、123便の墜落現場で
火炎放射器が使われたことになります。なぜ、そのような兵器を
墜落現場で使う必要があったのでしょうか。
 その後、青山透子氏は、その話を元自衛官に話したところ、次
のようにアドバイスされたそうです。「話があまり核心に近づく
と、妨害や脅迫が増えてくるから、気を付けた方がよい」と。し
かし、そういう以上は、その事実こそ核心中の核心である何より
もの証拠であるといえます。この火炎放射器の話は、青山透子氏
の発見であり、まさしく新事実です。
 123便墜落現場にいち早く入った80人のほどの一団、これ
は普通の自衛隊員ではないと思います。ある特定任務を持つ特殊
部隊である可能性があります。彼らの目的は乗客乗員の救出では
なく、標的機やミサイルの衝突の痕跡を消すことと、もうひとつ
火炎放射器を使うことにあります。何に使うのかは、あえて書か
ず、推測におまかせします。これについて青山透子氏は、怒りを
もって次のように述べています。
─────────────────────────────
 万が一、このような状況を作り出した人たちがいたとすると、
恐ろしいなどということを超えて背筋が凍るような話である。も
しこの武器によって遺体が完全炭化してしまったとすると、それ
を命じた人、それに従った人たちは今どうしているのだろう。そ
の事実を闇に葬ってしまうことで、罪から逃れたと勘違いしてい
るのではないだろうか。その危険性をしっかりと認識せず、検証
することもないままだとすると、次の事故、事件につながる可能
性は非常に大きい。今こそ事故の原因を明らかにしなければなら
ない理由はそこにある。     ──青山透子著の前掲書より
─────────────────────────────
         ──[日航機123便墜落の真相/039]

≪画像および関連情報≫
 ●日航123便、墜落原因の続報/東海アマブログ
  ───────────────────────────
   青山透子氏は、1985年に墜落し、すでに33年を経て
  風化した現地の再調査を繰り返す中で、驚異的な新証拠を発
  見した。墜落現場の遺物をたくさん持ち帰り、精密検査をし
  たところ、多量のベンゼン環が発見されたのである。
   ベンゼン環は、123便ジェット燃料には決して含まれな
  いもので、これは青山氏が、最初の現地調査で、捜索隊が現
  地に到着したとき、「ガソリンとタールが混合したような激
  しい臭気に満ちていた」との証言と、遺体の炭化度の凄まじ
  さから、これは墜落時に漏洩したジェット燃料火災によるも
  のでなく、人為的に「火炎放射器」によって、遺体と現場が
  焼かれていたことの非常に明瞭な証拠である。
   また、墜落時に、米軍は墜落機を追尾して、現地を確認し
  即座に救助隊を送り込んだのだが、日本政府が、これを阻止
  し、米軍による救助を拒否し、さらに自衛隊の先遣隊が、そ
  の日のうちに現地に到着していた証拠があった。
   これらの事実について、公的資料から明らかにされている
  にもかかわらず、政府もマスコミも、まるで統制されている
  ように、一様に口をつぐんでいるのは、フクイチ事故の被曝
  障害の実態を絶対に報道しないことと同じである。この先遣
  自衛隊が、火炎放射器を使って、まだ生きていた遺体ごと現
  場を焼却し、証拠隠滅を図ったとみて間違いない物証が出て
  きたわけである。        https://bit.ly/2RL2138
  ───────────────────────────

M2火炎放射器.jpg
M2火炎放射器
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2018年10月17日

●「青山本への反論本も多く出ている」(EJ第4870号)

 JAL123便の墜落現場で火炎放射器が使われた疑いがある
──これは早い段階で墜落現場に入った複数の人たちが「ガソリ
ンとタールの臭いがした」と証言していることが根拠です。これ
は、ゲル状燃料といい、火炎放射器で使われます。これに対して
ジェット燃料「ケロシン」は、灯油の一種です。青山透子氏の本
から、その違いを以下に整理しておきます。
─────────────────────────────
◎ジェット燃料「ケロシン」
 「引火点」:37°C〜65°C
  灯油の一種。粘り気が低い液体・航空機燃料として、安全性
  が高い。
 「発火点」:残り燃料1時間半。3・3ヘクタール焼失。注ぎ
  足しなしで不可能
◎火炎放射器(陸上自衛隊普通科所有)
 「引火点」:マイナス40°C
  ガソリンとタールの混合剤。揮発性が高く、引火しやすい粘
  性、持続性あり。粘着成分が入っており、一度付着すると、
  最後まで燃え尽くす。
 「発火点」:300°C
  朝まで燃えていた証言から、燃焼持続性のある物質で、注ぎ
  足しが可能な状態であった。
               ──青山透子著/河出書房新社
          『遺物は真相を語る/日航123便墜落』
─────────────────────────────
 われわれには、巨大な金属の塊である飛行機を飛ばす「ジェッ
ト燃料」は、物凄い燃焼力を持っているのだろうという思い込み
があります。しかし、専門家によれば、ジェット燃料では、遺体
は炭化しないのです。墜落現場では、朝まで燻っていたり、燃え
ているところもあったようです。早朝、墜落現場に入った人は、
そういっています。
 しかし、123便は国内線であるので、あまり多くの燃料を積
んでいないことや、高濱機長は、何とか不時着しようとしていた
ので、燃料は相当捨てているはずです。そういう意味からも、燃
料の量はかなり少なかったはずです。そのため、遺体が炭化した
り、朝まで燃えることはないのです。
 添付ファイルは、青山透子氏の最新刊書(2018年7月)に
出ているものですが、明け方に墜落現場に入った地元消防団と警
察関係者が33年前に撮影したものです。
 実は、事故調は、遺体の状況や、それについての専門家の見解
を報告書には書いていないのです。つまり、遺体の状況に関して
何らの疑問も抱いていないことになります。これほど、遺体が炭
化している異常さを何も感じていないのです。これは、明らかに
不自然であるといえます。
 これに関して青山透子氏の調査は徹底しています。刑事事件を
主とする弁護士や裁判官、警察医といったプロの人たちに炭化し
た遺体の写真を見てもらい、専門的意見を求めています。彼女が
訪ねたそういう専門家の数は50人をゆうに超えています。
 実はこういう青山氏の主張や指摘に反論する本はたくさん出て
います。なかには、明らかに事故調寄りの主張を展開し、青山本
の内容を荒唐無稽と非難する本もあります。
 8月23日のEJ第4834号でご紹介した元共同通信社記者
堀越豊裕氏の本もそのひとつです。堀越氏は、非常に控えめでは
あるものの、一貫して事故調の見解は大筋で正しいと考えており
青山氏の考え方には否定的です。堀越豊裕氏は、青山本に対して
次のように書いています。
─────────────────────────────
 青山の本は慎重に断定を避けているが、墜落は圧力隔壁の破断
による事故でなく、ミサイルや無人標的機が垂直尾翼に当たり墜
落した可能性を示した。本にはその推定を支える目撃証言などが
盛り込まれており、事故調の報告書や米国の内部資料には出てこ
ない。主な点を挙げれば、
 @墜落前、日航機に向かう赤やオレンジ色っばい飛翔体の存在
 A航空自衛隊のF4ファントムが墜落前、日航機を追尾
 B墜落現場に火炎放射器の使用を疑わせるガソリンとタールの
  においが残っていた、などである。
 つなぎ合わせていくと、自衛隊がミサイルやそれに類する物体
を発射し、日航機に衝突、自衛隊機は日航機を追尾して状況を把
握し、ミサイルが当たった証拠を消すため最終的に火炎放射器で
現場を焼き尽くした──とも読める。
 私の考えとは違う。米国と日本で積み重ねてきた取材を基に違
うと考えるのだが、それは私の考えであり、青山には別の考えが
ある。   ──堀越豊裕著『日航機123便墜落最後の証言』
                    平凡社新書/885
─────────────────────────────
 堀越豊裕氏は、米国のボーイング社への取材を通じ、米国の視
点からこの事件を分析して本を書いています。したがって、12
3便のかつての尻もち事故のボーイング社の修理ミスが原因で、
急減圧による後部圧力隔壁の破断が起こり、それが垂直尾翼を破
壊したとする事故調の最終報告書と同じ意見です。しかし、事故
調公式見解の大きな矛盾には一切言及していないのです。
 堀越氏は、青山透子氏との意見の違いについて次のように述べ
ています。単なる見方の違いである、と。
─────────────────────────────
 人間は同じものを見ていても、どの角度からながめるかによっ
て受け止め方に違いが出ることもある。日航機事故の場合、事故
調の公式発表に加え、報道機関の独自取材も多く、関連の情報も
多い。どの情報に軸足を置くかによって、見方は変わる。
                ──堀越豊裕著の前掲書より
─────────────────────────────
         ──[日航機123便墜落の真相/040]

≪画像および関連情報≫
 ●「陰謀でもなく、日航機は撃墜されたとしか思えない」
  ───────────────────────────
   ボ―イング社の修理ミスによる圧力隔壁の亀裂、急激な空
  気の流入による尾翼破損、操縦不能で墜落。これが最も知ら
  れている520人の命を奪った大事故の原因である。全てが
  公開されなかったボイスレコ―ダ―、二転三転した事故調査
  委員会の文言・・・・・・・。事故から21年、まだ謎は解
  けていない。
   作家・安部譲二氏は日航機の客室乗務員だったという時代
  がある。単発エンジン小型機の操縦免許も持っている。その
  安部氏は1985年、日航ジャンボ機が群馬県の御巣鷹山に
  墜落した事故を、事故ではなく、事件だと確信している。
   著書、『日本怪死人列伝』(02年、扶桑社文庫)で安部
  氏は、<無残に撃墜されたのだ>と断言している。
   85年8月12日、羽田発大阪伊丹行きの日航機123便
  ボ―イング747型機が墜落して520名という航空機単独
  の事故としては史上最大の被害者を出した。飛行機事故の歴
  史に残る大事故である。
   この事故には、当時から数多くの疑問が投げ掛けられてい
  た。「墜落した日の夜中に日航のスチュワ―デスをしていた
  おばさんから電話があってね。日航のイチニイサン便が行
  方不明≠ナ大騒ぎになっている、って言うんだ」事故発生の
  時点で安部氏は首を傾げている。「だってね、あんな大きい
  飛行機がいなくなっちゃったって言う。85年でしょ。その
  頃は日本全国、軽飛行機ですら行方不明になるなんてことは
  あり得なかった」        https://bit.ly/2OZrOWO
  ───────────────────────────

朝まで燃え続ける123便墜落現場の火災.jpg
朝まで燃え続ける123便墜落現場の火災
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2018年10月18日

●「権力は都合の悪い本は陰謀論扱い」(EJ第4871号)

 青山透子氏の日航機墜落事件に関する一連の本(以下、青山本
と略記)を「妄想の世界」として陰謀論扱いにしている本が多く
出ています。確かにその内容が事故調の最終報告書と大きく異な
ることや、そのやったと思われることが、あまりにもおぞましい
というか、口にするのも憚られることなので、この事件をよく調
べていない一般読者が読むと、陰謀論になってしまうのです。
 EJでこの事件を取り上げるのは3回目ですが、その内容は基
本的には陰謀論といわれる内容に沿っています。それはあくまで
仮説レベルに止まっていたのです。しかし、青山本は、今まで仮
説にしか過ぎなかったことを、その膨大な証言によって裏付ける
ことに貢献しています。JAL123便を追尾する2機のファン
トムなどはその典型です。これは、多くの目撃証言によって裏付
けられています。
 炭化遺体についてはどうでしょうか。
 元共同通信社記者の堀越豊裕氏は、2018年の新年早々、東
京のある出版社において青山透子氏に会っています。そのとき、
堀越氏は炭化遺体の写真を見せられています。そのときの様子に
ついて堀越氏は次のように書いています。
─────────────────────────────
 「きょうはちょっと、内部情報、写真を持ってきたんですけど
たぶんそれを見たらわかっていただけるかな」と。
 青山はそう言い、手元から当時の新聞のコピーやいくつかの写
真を取り出し、テーブルに広げた。
 「どこまでが事実で、どこまでが想像なのかとか思われること
がおありだと思うんで。これ100パーセント真実なんで。それ
は申し訳ないんですけど、膨大な資料があって、引き出しを開け
ればいくらでもある」
 そう強調して示された新聞のコピーは事故から間もない時期の
ものだった。日にちが前後する複数の記事を読み比べると矛盾や
不審点があるという説明だった。ある日の新聞記事に出ていた事
象が、後日の記事では抜け落ちていたり、意味が変わったりして
いる点を指していた。
 炭化して真っ黒焦げになった遺体の一部という写真も見せてく
れた。サッカーボールぐらいの形や大きさに見え、人間の形では
ない。遺体安置所で撮影した写真とみられ、白いひつぎがたくさ
ん並んでいた。
 飛行機の燃料だけではこんなに焼けるはずがないと示す目的の
写真だったが、日航機事故では、遺体の損傷がひどかったという
のはよく知られる。
 写真の遺体は確かに真っ黒焦げだが、大量の燃料を積んだ旅客
機が山に激突して、炎上すれば、これぐらい炭化しても不思議で
ないと私には思えた。彼女はおかしいと言った。「これ、ご遺体
に見えますか。明らかに夏山で普通にケロシンで焼かれたとは全
く思えない、っていうより成分が違うんですよ」
      ──堀越豊裕著『日航機123便墜落最後の証言』
                    平凡社新書/885
─────────────────────────────
 炭化遺体を見せられて堀越氏は、「日航機事故では、遺体の損
傷がひどかったというのはよく知られているが、大量の燃料を積
んだ旅客機が山に激突して炎上すれば、これぐらい炭化しても不
思議でない」といっています。つまり、素人的な感覚から一歩も
出ていないのです。事故調の説が正しいという観点に立つと、そ
れに反する主張にいくらでも反論できるのです。
 たとえば、自衛隊が認めていないが、多くの目撃者がいる2機
のファントムによる123便の追尾や、墜落現場特定の遅れにつ
いて堀越氏は、自衛隊員の話が載っているという『上毛警友』/
1985年10月号を読んでいます。彼は青山本については、よ
く調べているといえますが、一番大事なところで、逃げている感
じがします。「お上のやっていることは間違いない」と思ってい
るのでしょうか。
─────────────────────────────
 閲覧すると、確かに「一等陸曹」の肩書きを持つ男性が実名入
りでその旨を語っていた。警察の部内誌なのだから、適当に選ん
だ人でもないのだろう。「群馬県東村の実家に帰省中、8月12
日の午後6時40分ごろ、上空を航空自衛隊のファントム2機が
低空飛行していった」と明確に書いている。東村は現在東吾妻町
になり、上野村の北方に位置する。
 日航機の取材では、意味のある話を聞ける期待がありそうかど
うかは脇に置いて、とにかく会える人にはすべて会おうという意
気込みで臨んできた。この隊員が当時20代とすれば、今は60
代になっている。会ってみるアイデアも即座に頭に浮かんだが、
連絡先を調べることすら簡単でないだろう。仮に会えたとしても
聞くべきポイントは、2機の戦闘機が日航機墜落の前に飛んでい
たか、後に飛んでいたかだけである。彼に「間違いなく6時40
分ごろでした」と言われたら、それ以上に検証するすべがない。
そう思って諦め、前橋を後にした。(中略)
 だが、日航機の捜索や調査は衆人環視の中で進められた。撃墜
や誤射といったような重大な事態を30年以上も秘しておけるも
のものなのか。         ──堀越豊裕著の前掲書より
─────────────────────────────
 日航機墜落事件では、123便を追尾する2機のファントムの
存在は、疑惑解明の重要なカギを握っています。堀越豊裕氏は、
123便を追尾する2機のファントムの目撃者の一人である自衛
隊員の手記を読み、青山本の書いていることの正しさを確かめな
がら、ヘンな理屈をつけて、その自衛隊員に会いに行こうとして
いません。もし、会って「事実は間違いない」といわれたら、こ
の事件の見方が大きく変わってしまうからです。
 それに日航機の捜索は衆人環視のもとで行われてはいないし、
33年経っても真偽が明らかにされないからこそ、いま蒸し返さ
れているのです。 ──[日航機123便墜落の真相/041]

≪画像および関連情報≫
 ●科学的常識から権力犯罪を疑う/小川洋氏
  ───────────────────────────
   さて日本において、科学的常識からしてありえない公式見
  解が出され、公的な検証が終わっている事件としては、19
  85年8月に発生した日航123便の墜落事故がある。その
  事故報告書が科学的な検証に耐えうるものだと考えるものは
  ほとんどいない。
   事故報告書では、事故機はボーイング社による修理を受け
  ていたが、その修理にミスがあったのが原因だったとする。
  羽田から大阪に向かうべく上昇していた事故機の後部隔壁に
  亀裂が入り、加圧されていた客室から垂直尾翼に向けて激し
  い空気の流出があり、垂直尾翼を破壊し、油圧系統もすべて
  使えなくなった結果、操縦不能となり墜落に至った、という
  ものである。我々は高層ビルでエレベーターに乗れば、耳の
  異常を感じる。高度一万メートルで、突然、機内から大量の
  空気が流出すれば、激しい耳の痛みを生ずるだけでなく、酸
  素不足から直ちに意識を失うはずである。しかし、生存者の
  証言や機長らの交信記録から、そのような状況が、発生しな
  かったことは明らかだ。この7月、元日本航空の乗務員だっ
  た青山透子氏による『日航123便墜落の新事実』が出版さ
  れた。副題は「目撃証言から真相に迫る」である。青山氏は
  2010年に『天空の星たちへ/日航123便/あの日の記
  憶』(マガジンランド)を上梓し、亡くなられた元同僚への
  鎮魂の文と、ジャーナリストなどによって指摘されてきた事
  故の疑問点を取り上げている。  https://bit.ly/2IYFYly
  ───────────────────────────

123便/コックピット内計器.jpg
123便/コックピット内計器
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2018年10月19日

●「御用コメンテーターの青山本批判」(EJ第4872号)

 杉江弘氏という人がいます。航空評論家でエッセイストと称し
ています。元日本航空の機長で、ジャンボジェット(B747型
機)の飛行時間で世界一の記録を更新中です。ジャンボジェット
操縦のプロです。航空機事故が起きるとよくテレビに出てきて、
解説を担当し、多くの著作があります。私も、杉江氏の本を数冊
持っています。
 しかし、杉江氏は、いわゆる青山本の内容にについては、手厳
しく、「内容は妄想」と切り捨てています。これに関して、青山
透子氏は杉江氏の本を「便乗本」であるとして、ネットで強く反
論しています。
 青山透子氏は、これに関してJAL123便の遺族からの次の
メッセージをもらったとし、遺族の了解をとって、その内容を自
身のブログに掲載しています。
─────────────────────────────
 元日航パイロット、杉江弘氏の『JAL123便墜落事故』/
宝島社/2017・12・22の本が出版されました。(買うま
でもない本で)立ち読みですが、貴方の「青山本」は妄想だと決
めつけています。パイロットは技術者でなく、運転手です。事故
調査には全くの素人で、これは日航と話をする際、出て来るパイ
ロットと議論すると直ぐに分かります。その他、「謀略説」は、
100%有り得ないとか、再発防止策が急がれるとか、全く漫談
です。しかも、事故の真実は明解に特定していません。事故原因
が分からずに再発防止とは理解不能です。目撃証言の重要性を杉
江氏、日航、事故調は無視しています。
        ──あるJAL123便墜落事故の遺族の意見
─────────────────────────────
 いろいろな分野で有名になると、メディアが注目してテレビな
どに出演を依頼したり、雑誌にインタビューが載ったりします。
日本の場合、どの政権でもそうだとはいいませんが、安倍政権の
場合は、そういう人を政府はていねいにウオッチしており、政府
側に取り込もうとします。有名人に反政府的発言をされると、政
権のダメージが大きくなるからです。
 安倍政権は、テレビのコメンテーターの発言をチェックしてお
り、問題発言をするコメンテーターは、テレビ局に指示を出して
少しずつ出演回数を減らさせ、しかるべき時期にコメンテーター
の契約を打ち切るようにしているといわれています。
 政府批判などをしなければ、航空機に関する話題が出ると、す
ぐテレビ局から出演依頼があり、露出度が高くなります。ジャー
ナリスト、作家、コメンテーター、評論家などにとっては、メデ
ィアの露出度が上がると、本も売れるし、テレビ出演のギャラも
上がるので、いいことづくめです。かくして多くの「御用コメン
テーター」が誕生することになります。
 青山透子氏は、杉江弘氏の著書に関連して、次のように反論し
ています。
─────────────────────────────
 そのご遺族は、真摯に事故原因を見つめ直そうと再調査を願う
人を陥れるために、いつも御用コメンテーターなどが出てきて、
事故調の報告を擁護して、それがすべて正しいと錯覚させると語
っていました。もう一度お伝えしますが、事故調査報告書のデー
タ表示、書いた内容そのものの信憑性を疑ったのは群馬県前橋地
検で、担当検事がそれについて遺族会の前で明言しています。そ
の結果不起訴となったのです。
 つまり、裁判にならなかったために、事故調査委員以外の人間
がブラックボックス(FDR,CVR)の中をのぞいたわけでは
ないし、正式に情報公開されていないのです。従って、彼らが書
いているものをそのまま鵜呑みにしていること、それ自体がおか
しいのでは、ということから、そのズレを、複数の目撃者から指
摘して追及したのが本著(青山透子氏の本)です。
 この御用コメンテーターが生のデータを直接見れるはずもなく
ましてや杉江氏は御巣鷹にも行っていないのでしょう。さらに、
ご遺族にインタビューしたわけでもない人間にとやかく言われる
筋合いはありません。            ──青山透子氏
                  https://bit.ly/2J5dneA
─────────────────────────────
 添付ファイルを見ればわかるように、青山本と杉江氏の本はと
てもよく似ています。つまり、青山本がベストセラーになったの
で、それに便乗しようとして、わざと表紙を似せてデザインした
ものと思われます。もっともこれは杉江氏には関係ないかもしれ
ませんが、もしかすると、杉江氏にはある筋から、青山本の反論
本を書いてくれという依頼があったとも考えられます。青山本を
多くの国民が信ずると、政府としてはきっと困るからでしょう。
事故調の最終報告書は、それほど矛盾に満ちた代物であるからで
す。陰謀論というなら、事故調報告書の方がよほどその名にふさ
わしいと思います。青山透子氏に寄せられた元日航関係者からの
声も以下にお伝えしておきます。
─────────────────────────────
 青山さんの本、感銘しました。本に書かれた事故当時の日航上
層部の動きは事実です。私もはっきり「外部犯行で米軍」と言わ
れて口留めされました。仕事をスムーズに運ぶために、最低限の
人間は知っている必要があったので、当分その後の部員にも引き
継ぎました。出所は判りませんが、今考えれば、方便に米軍とし
た方が諦めの心情から、説得と納得に収まりが良かったのでしょ
う。この事が世に出るのはもっと先と思っていました。元社員と
して自らの責任を感じます。拝
─────────────────────────────
 何とか着陸しようとする123便の邪魔をし、山の方に誘導し
たうえで、ミサイルを発射して墜落させる。さらに墜落現場では
救助するどころか、火炎放射器を使って生存者を含めて焼き尽く
す──とてもおぞましくて人間のやることではありません。
         ──[日航機123便墜落の真相/042]

≪画像および関連情報≫
 ●青山透子氏の公式ブログより
  ───────────────────────────
   ちょっと皆様とご一緒にその「なぜ」について、考えてみ
  ましょう。
  @災害派遣待機命令が発令されたが、その後出動ではなく、
   中止命令が出たのはなぜか。
  A8月12日、夜23時頃、一番先に捜索のため到着した機
   動隊員32名の案内を頼まれた地元民たちに対して、道案
   内を頼んでおきながら機動隊員から、「その場所は違う、
   こっちだ」と根拠のない主張をされた。墜落現場はスゲノ
   沢だと言うと、「いいやそこではない、中ノ沢だ、上官の
   命令だ」と強く言われた。人にものを頼んでおきながら、
   命令とはどういうことか?なぜ、地元の土地に詳しい人の
   意見をわざと無視したのか?
  Bなぜ一番先に到着した機動隊員は、わざと足が遅く、ゆっ
   くり歩くのか、おかげで、倍の時間がかかり、夜明けまで
   墜落現場にたどり着けなかった。
  C夜中、ヘリが墜落現場上空にずっとホバリングして、モノ
   の上げ下げをしていたが、何をそんなに急いで上げ下げし
   ていたのか。
  D後からの幹部の発表では、一機たりとも危なくてヘリを飛
   ばしていないというが、事故当夜、私たちが目撃した墜落
   現場上空にいた多数のヘリは、亡霊か?
  E自衛隊ヘリの合図を頼りに墜落現場まで行けると歩いたら
   結局全く違った場所に連れていかれたのはなぜか。
                   https://bit.ly/VioWnD
  ───────────────────────────

よく似ている二冊の本.jpg
よく似ている二冊の本
 
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2018年10月22日

●「日航123便に起きた6つのこと」(EJ第4873号)

 JAL123便に何が起こったのでしょうか。事故調が最終的
結論としている「後部隔壁破壊説」以外の、いわば陰謀論扱いさ
れている主張の骨子をまとめると、次の6つになります。
─────────────────────────────
 1.護衛艦「まつゆき」から発進したとみられるミサイル標
  的機が、JAL123便の垂直尾翼を破壊する。
 2.JAL123便の高濱機長は、操縦困難の飛行機をコン
  トロールし、横田基地へ緊急着陸しようとする。
 3.浜松基地から発進し、123便を追尾していた2機の戦
  闘機が横田着陸を阻止し、山の方向に誘導する。
 4.123便はなおも不時着を試みようとするので、戦闘機
  2機は123便にミサイルを発射し、撃墜する。
 5.自衛隊は墜落場所が特定されないようニセの情報を流し
  その間に特殊部隊が現場から証拠物を搬出する。
 6.自衛隊特殊部隊が現場から立ち去るさい、火炎放射器を
  使って、墜落現場を万遍なく焼き尽くしている。
─────────────────────────────
 内容は非常におぞましいものです。あり得ない、考えられない
内容です。まともに書くのも憚られます。だから「妄想の世界」
などといわれるのです。多くの情報が隠されていますから、この
事件をよく調べていない人から見ると、妄想の世界、陰謀論の世
界になってしまうのです。
 当然のことですが、政府は「事故調の結論は正しい」という立
場なので、政府としては、航空機に詳しい専門家を使って、事故
調以外の説を、あり得ない内容で、陰謀論だと喧伝させれば、事
故についての情報が少ない一般人から見れば、本当に陰謀論であ
ると信じてしまう傾向があります。
 しかし、この墜落事故で犠牲になった520人の遺族は一般人
とは違います。遺族にとっては、事故原因や時の政府の対応は大
いに不満であり、事故調の結論には疑問を持っています。とくに
何十年もかけて、多くの関係者の膨大な証言から疑問を問う青山
透子氏の本は貴重なものであり、遺族たちから大きな支持を集め
ています。なぜなら、この考え方に立つと、この事件のすべての
謎が氷解し、きちんと整合性がとれるからです。
 なぜ、頑丈な垂直尾翼が破壊されたのか。なぜ、自衛隊の戦闘
機が横田基地への着陸を邪魔したのか。2機のファントムが追尾
しているのに、なぜ、墜落現場を早く特定できなかったのか。な
ぜ、自衛隊は、この2機のファントムのことを隠すのか。なぜ、
横田基地の米軍の救助申し出を断ったのか。なぜ、墜落現場で、
遺体が炭化するほど燃えているのか。ジェット燃料ケロシンの燃
焼ではあり得ないことです。
 そして、明らかに矛盾が多い「後部隔壁破壊説」にこだわり、
なぜ、再三にわたる遺族からの再調査要請を断り続けたのか。そ
れは、もし、再調査を認めると、日本政府にとって、非常に都合
の悪い事態になるからです。だから、何が何でも事実を伏せる必
要があったといえます。おそらくこの事故は終ったことにして、
二度と再調査の話は出てこないでしょう。何しろ33年も経過し
ており、遺族も高齢化しているからです。
 当初事故調の後部隔壁破壊説には、当の日本航空の技術陣も疑
問を抱いていたのです。日本航空では、技術陣が、尻もち事故の
後遺症で飛行機の機体に穴があいて、垂直尾翼の内部に客室内の
与圧空気が吹き上げられた場合、尾翼のどの部分が壊れるかにつ
いて実験を行っています。
 その実験の結果は、当時の読売新聞夕刊の記事になって次のよ
うに発表されています。
─────────────────────────────
 日航のコンピュータ解析実験の結果を発表。機内の与圧を8・
7PSI(1インチ四方にかかる圧力の単位、事故機は8・9P
SI)とした場合、一番先に壊れるのは垂直尾翼最上部のふたで
次は垂直尾翼の中央にあるトーションボックスと尾翼の仕切りで
あることがわかった。
 しかし、相模湾から発見された垂直尾翼の前縁上部は、トーシ
ョンボックスの一部も一緒になって吹き飛ばされていた。この様
な壊れ方は、突出した与圧だけの力ではとても考えられにくく、
他に外部から別のもっと大きな力が加わらなければならない、と
いう。その力がなにかについては、日航は垂直尾翼に働くねじれ
力もあるとする一方、晴天乱気流(CAT)や突風などのような
ものがきっかけとなり、垂直尾翼に何らかの変形が生じる場合も
ある、としている。──1985年8月19日付、読売新聞夕刊
               ──青山透子著/河出書房新社
     『日航123便/疑惑のはじまり/天空の星たちに』
─────────────────────────────
 この実験結果では、垂直尾翼の内部に客室内の与圧空気が吹き
上げられた場合、最初に壊れるのは、尾翼のトーション・ボック
ス(主要構造部)の最上部(前桁ウェーブ)という結果ですが、
相模湾から発見された垂直尾翼を調べると、その部分は破壊され
ておらず、尾翼の下の部分から根こそぎ破壊されていることがわ
かったのです。
 これについて、当時の日本航空の河野宏明整備部長は「隔壁が
破壊し、垂直尾翼が下からのプレッシャーで破壊されたとは考え
にくい」ことを指摘しています。日本航空といえば、加害者の立
場ですが、事故調の結論には反対の実験結果を公表しているので
す。なお、晴天乱気流(CAT)の可能性が指摘されていますが
当日の天候は、他の飛行機も飛んでいるなかで、CATの報告は
なく、天気は安定していたのです。
 このように、垂直尾翼は、外部からの何らかの圧力なしには破
壊できないと、加害者側の実験結果は示しているのです。しかし
事故調は、こういう実験結果には何ら関心を示さず、後部隔壁破
壊説を結論としています。それなら、事故調の結論の方が陰謀論
になります。   ──[日航機123便墜落の真相/043]

≪画像および関連情報≫
 ●「日航123便 墜落の新事実」を読み終えて
  ───────────────────────────
   河出書房新社から「日航123便 墜落の新事実」が発売
  になった。著者は元日航客室乗務員の青山透子氏である。青
  山氏は日航123便事故で多くの同僚を失い、前著「天空の
  星たちへー日航123便 あの日の記憶」(マガジンランド
  2010年)で123便の事故原因に対する数々の疑問を提
  示している。
   今回は、さらに事故原因を深く掘り下げ、123便でお亡
  くなりになった乗員乗客の方々の無念さを浮き彫りにしてい
  る。事故当時の運輸省航空局事故調査委員会が公表した事故
  調査報告書と真っ向から対立する内容の書籍はこれまで数多
  く出版された。多くの書籍が、事故調査委員会が主張する後
  部圧力隔壁の破壊で急減圧が起こり垂直尾翼が破壊され、同
  時に油圧系統が破壊され操縦不能に陥り墜落したという事故
  原因の矛盾を指摘している。
   特に事故調査報告書にあるような毎分30万フィート毎秒
  の減圧が発生したならば、乗客や機内の備品が機体後部に向
  かって吹き飛ばされてもおかしくないはずである。しかし乗
  客が撮影した写真や生存者の話からは、客室内に激しい減圧
  が起きた証拠は何一つ見られず、急減圧時に行う酸素マスク
  の着用を操縦士が行なっていない。そうなると、垂直尾翼は
  外部から何かが衝突して破壊されたと考える方が、自然であ
  る。外部衝突による破壊説を元に事故原因を推定すると、さ
  まざま状況がつじつまが合うのである。
                  https://bit.ly/2R0ftPq
  ───────────────────────────

何が垂直尾翼を壊したのか.jpg
何が垂直尾翼を壊したのか
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(2) | 日航機123便墜落の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月23日

●「123便は墜落ではなく不時着だ」(EJ第4874号)

 JAL123便のコックピットは、高濱機長を中心に、最後の
最後まで不時着しようとしていたようです。もし、山に激突すれ
ば、全員死亡は避けられないからです。既にご紹介しているよう
に、池田昌昭氏の仮説による復元ボイスレコーダーの最後の部分
を少し長いですが、引用します。33年経過した現在でもボイス
レコーダーは全面公開されていないからです。
─────────────────────────────
◎午後6時54分40秒
123便:羽田も横田もOKしているが、軍用機の背後の意思は
 撃墜だ。
 ・できるだけ、スピードを落としながら、ミサイル衝撃を最小
  限度に食い止め、火を噴きながらでもよいから、山林樹木を
  クッションにして、バウンドしながら不時着しよう。
 ・右バンクとり、右旋回
◎午後6時54分55秒
123便:フラップオールね。
 ・はい。
 ・うまく不時着するぞ。
◎午後6時55分25秒
123便:頭上げろ。
◎午後6時55分35秒
123便:地上からの交信はちゃんとつながっております。
 ・えー、その他・・・
◎午後6時55分40秒
123便:「ガーン」
 ・来た。
 ・ミサイル攻撃だ。
 ・ずっと前から、狙っていた戦闘機に、右後方上からミサイル
  を撃ち込まれた。
 ・右に、真っ逆様に墜ちる。
◎午後6時55分42秒
123便:真っ逆様に墜ちていく。
 ・フラップ止めな。
 ・止めな。
◎午後6時55分45秒
 123便:あーっ
◎午後6時55分48秒
123便:あー、フラップそんなに下げたらだめだ。
 ・フラップ アップ、フラップ アップ、フラップ アップ、
  フラップ アップ
 ・はい
 ・これは地面に激突する
◎午後6時55分50秒
羽田空港管制:こちらAPC。JAL123便、位置は50マイ
 ル、訂正する。羽田の北西50マイル、オー、5マイル、羽田
 の北西50カイリ
◎午後6時55分55秒
123便:パワー、パワー
 ・フラップ
 ・上がっています。
◎午後6時56分05秒
123便:頭上げろ、頭上げろ
 ・パワー
 ・最後だ!
 ・死力を尽くして比較的峻険でないあの「山」付近に突っ込ぞ
 ・はい。
 ・後部座席乗客は、助かるかもしれない。
 ・機体最前部は激突で粉砕。機体前部・中部乗客はミサイル炸
  裂爆薬で機内で粉々。生きて二度と逢えぬが、みんな、よく
  やった。感謝する。乗客・乗員のいのちは、また必ず生まれ
  変わる。
 ・はい。
◎午後6時56分14秒
123便:GPWS(対地接近警戒装置)による警報音
 ・シンクレイト
 ・プアプア、プルアップ、プアプア、プルアップ
 ・横揺れ角は右40度ほどに回復。機首も次第に上向き回復し
  つつある。
 ・うまく不時着するぞ。
◎午後6時56分19秒
123便:プアプア、プルアップ
 ・パワーは最大までに上がり、降下が止まり、垂直加速度は、
  上向き3G
 ・もうダメだ。
◎午後6時56分23秒
123便:接触音
 ・プアプア、プルアップ
◎午後6時56分26秒
123便:激突音          ──池田昌昭著/文芸社
 『御巣鷹山ファイル3/JAL123便は自衛隊が撃墜した』
─────────────────────────────
 これでわかるように、JAL123便は、コックピットが総力
を上げて、不時着したのです。専門家によると、「山腹を駆け上
がるように着陸する胴体着陸を試みている」と分析しています。
今までの航空機事故において、墜落、激突では生存者は出ていな
いのです。不時着は、コックピットが明確に意図して試みなけれ
ば、できることではありません。池田昌昭氏による復元ボイスレ
コーダーからは、高濱機長と操縦スタッフが不時着を目指して最
後までがんばったことが十分読み取れます。
         ──[日航機123便墜落の真相/044]

≪画像および関連情報≫
 ●日本航空123便墜落事故を検証する
  ───────────────────────────
  (1)墜落ではなく不時着だった
   1985年8月の日航機123便墜落事故の真実は、墜落
  ではなく不時着したと考える方が合理的だ。なぜなら、航空
  機事故で、離陸時や着陸時の不時着による事故での生存者は
  いるが、墜落した状況で生存者がいた事例はないからだ。
   日航機123便は、山腹を駆け上がるように着陸する胴体
  着陸を試みて、絶望的な状況で多数の生存者が出た。(4人
  だけが救出)
  (2)斜面を利用しての胴体着陸だとする根拠
   墜落直前に、「あたまあげろ」「パワー。パワー」と叫び
  ながら録音は終わっています。123便は、墜落直前にエン
  ジンを全開にして機首を上げていたのでしょう。斜面と機体
  が平行になるように。つまり、山の斜面を駆け上がるように
  胴体着陸を試みていたのです。
   1. 図1のAの地点で胴体の底が接触。
   2.Bの地点で胴体後方部分が接触し、尾根をU字に削り
   3.C(写真2)の地点に右翼を下に墜落。
   4.右エンジンの爆発で胴体が折れて、
   5.写真3の方向に胴体後方から斜面をずり上がり、
   6.機首部分は、写真1の方向に斜面を上にずり上がって
  いった。おそらくBの地点で胴体が尾根と接触し、機体が右
  に傾きそのまま写真2に機体の腹から衝突したと考えられま
  す。衝突で機長が「駄目だ」と言ったのは、それまで保って
  いた水平が、Bの地点接触で、機首が少し下がり、右翼が下
  がったからだと思います。    https://bit.ly/2S3EHxE
  ───────────────────────────

123便が墜落した状況.jpg
123便が墜落した状況
 
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2018年10月24日

●「遺体はどのように分散していたか」(EJ第4875号)

 昨日のEJで指摘したように、JAL123便は御巣鷹山の斜
面を下から上へ駆け上がるように不時着したと考えられます。高
濱機長が「頭を上げろ、フラップアップ!」と叫んでいたのは、
機首が下がると山に激突してしまうからです。機首を少しでも上
げることによって、山の斜面への激突を回避しようとしていたか
らです。激突では、全員死亡が確実になってしまうからです。
 青木透子氏は、123便の遺体の分散状況をていねいに調べて
遺体の損傷別に統計をとっています。本来このような調査は政府
の事故調が責任をもって行うべきですが、事故調は遺体について
は、通り一遍の調査しかしていないのです。最初から真実を追求
しようという気持ち自体が事故調には欠けています。
 添付ファイルをご覧ください。まず、機内の客席状況を次のよ
うに、前方から4段階に分けています。
─────────────────────────────
        A ・・・ 1F: 48名
              2F: 16名
        B ・・・・・・  81名
        C ・・・・・・ 127名
        D ・・・・・・  89名
        E ・・・・・・ 144名
               ──青山透子著/河出書房新社
          『遺物は真相を語る/日航123便墜落』
─────────────────────────────
 Xの棒グラフは、座っていた席別(コンパートメント別)の遺
体の状況を示しているグラフです。遺体の状況は次の3つに分か
れています。
─────────────────────────────
          1.  完全遺体
          2.ほぼ完全遺体
          3.  離断遺体
─────────────────────────────
 これを見ると、2階席を含むA、Bでは、完全遺体は8体のみ
(5・5%)、ほぼ完全を含めても19体(13・1%)しかあ
りません。遺体の損傷度はかなり高く、85・5%が、離断遺体
(バラバラの遺体)です。機体前方は、どうしても正面から突っ
込むことになり、遺体の損傷は激しくなります。
 機体の中央のBとCについては、完全遺体60体(29%)、
完全とほぼ完全を加えると102遺体(49%)となり、機体の
前方(A、B)よりは完全遺体が多くなります。しかし、この部
分の離断遺体は114遺体で、その比率は55%とかなり高い数
字です。これは、ミサイルによる破壊が原因ではないかと考える
見方もあります。
 しかし、機体のEの乗客・乗員144名に関しては、完全遺体
は127体(88%)であり、ほぼ完全を加えたときの比率は、
93%、ほとんどが完全遺体の状況です。
 JAL123便の墜落状況について、青山透子氏は次のように
述べています。
─────────────────────────────
 飛行機は前方のAコンパートメントから激突して、ひっくり返
り、B、C、Dとそれぞれぶつ切り状態となって転がり、一番後
ろのEコンパートメントだけが、スゲノ沢方向に機体ごと背中か
らジェットコースターのように木々をなぎ倒しながら一気に滑落
していったのである。
 最も見てほしい部分は、生存者が発見された場所である。最後
部のEコンパートメントに座っていた144人は重なり合い、そ
の遺体状況はほぼ完全な遺体であったと記録されている。実はこ
こは山頂からは全く見えない場所で、沢へ滑落して深い森の木々
に囲まれている。すぐそばに第1エンジンと第2エンジンが2つ
も転がっていたにもかかわらず、さらにジェット燃料の貯蔵部分
の右主翼の一部があるにもかかわらず、燃えていないのである。
 つまり、他の遺体と異なり、「ジェット燃料で燃えた」という
ことよりも、むしろ山頂から見えないところだったので、燃えな
かったと言わざるを得ない状況である。同じように、燃料貯蔵部
分の左右の主翼を見ていくと、左主翼のところも燃えていない。
右主翼はその周辺が燃えている。 ──青山透子著の前掲書より
─────────────────────────────
 続いて、Yの棒グラフをご覧ください。これは、コンパートメ
ント別の炭化遺体と火傷の遺体の数を表しています。既に述べて
いるように、通常飛行機墜落事故で、炭化遺体はあり得ないので
す。火炎放射器でも使って燃焼させない限り、遺体が炭化するこ
とはないのです。
 グラフを見ると、突出しているのはCです。127名中62遺
体(49%)が炭化遺体になっています。さらに、2階席を含む
A、B、145人の45遺体(31%)も炭化しています。全体
としての炭化の状態について、青山透子氏は本に次のようにまと
めています。
─────────────────────────────
 亡くなった乗客のみを分析すれば身元未確認2人を除く503
人のうち、確認された炭化は116人、火傷は41人、それ以外
の遺体(不明または燃えていないもの)は346人となり、全体
の約3分の1が燃えた状態であった。
                ──青山透子著の前掲書より
─────────────────────────────
 ここで注目すべきは生存者4人のいた場所です。そこはスゲノ
沢といい、山頂からはまったく見えない場所です。つまり、墜落
現場に最初に入った自衛隊(特殊部隊?)は、夜のことであり、
スゲノ沢に滑落した飛行機の部分を見落とした可能性が十分あり
ます。だから、助かったのではないか。ここは、火災も起きては
いないのです。なお、山頂の方にも生存者がいたという情報はあ
ります。     ──[日航機123便墜落の真相/045]

≪画像および関連情報≫
 ●乗員乗客の壮絶な遺体確認作業の記録/JAL123便
  ───────────────────────────
   1985年8月に発生した日航機墜落事故を題材にしたド
  キュメンタリーである。著者の飯塚氏は、当時遺体確認作業
  の陣頭指揮をとった警察関係者である。
   飛行機が単独で起こした事故としては航空史上最悪の惨事
  となったこの墜落事故。これに関する書籍は非常に多く出版
  されている。ジャーナリストがマスコミの視点で書いた物、
  機体に起こった現象について航空工学の専門家が詳しく分析
  した本、亡くなった乗員乗客の遺族が、思いをつづった本な
  ど。しかし、遺体確認作業の詳細を綴った本はなかなか出版
  されなかった。きっと、遺族への配慮なども考慮してのこと
  だったのだろう。
   現場で回収された遺体や遺品は、全て地元の中学校の体育
  館に集められた。真夏の猛暑の中、マスコミの視線を遮るた
  めに全ての窓を閉め、暗幕を張って関係者以外の出入りが一
  切禁止となった。連日40°Cを超える体育館の中で繰り広
  げられた遺体確認作業は壮絶な物だった。亡くなった人は後
  に520名と判明したが、ほとんどの遺体は墜落の衝撃でバ
  ラバラの肉片と化し、原形をとどめた遺体はわずかだった。
  急遽、全国の歯科医に協力を要請し、カルテの提示とポータ
  ブルのレントゲン撮影機の手配が行われた。
                  https://bit.ly/2Cx7gyg
  ───────────────────────────

JAL123便墜落事故/遺体の状況.jpg
 
JAL123便墜落事故/遺体の状況
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2018年10月25日

●「墜落現場での4つの不可解な状況」(EJ第4876号)

 JAL123便の墜落現場の状況には、不可解なことが多いと
青山透子氏は指摘しています。それを4つにまとめます。
─────────────────────────────
 1.遺体は墜落現場の広範囲に広がっていたが、それらの遺体
  に沿うように大火災になっている。
 2.ディズニーランド帰りの乗客が多かったが、お土産のミッ
  キーマウスは意外に燃えていない。
 3.燃料貯蔵箇所の左右主翼から遠いところまで燃えているが
  遺体のない場所では燃えていない。
 4.生存者が発見された場所は、山頂からはまったく見えない
  場所で、火災は全然起きていない。
─────────────────────────────
 青山透子氏は著書のなかで事実しか述べていません。したがっ
て読者は、その事実から青山氏がいわんとしていることを読み取
る必要があります。
 1の「遺体に沿うように大火災になっている」というのは、遺
体に対して、墜落後火炎放射器のようなもので、火炎を吹き付け
たのではないかということです。どうしてこのようなことをする
必要があるのでしょうか。
 まして、123便の高濱機長は、最後まで不時着を試みている
ことがわかっており、事前に少しずつ燃料を減らしていることは
確実で、朝まで燃えるような大火災になどならないはずです。
 2は遺体に対して何らかの火炎を吹き付けたことの傍証になる
ものです。墜落現場では、当然燃えてもいいはずのものが燃えず
に残っているのです。
 1983年4月15日に東京ディズニーランドが開園している
ので、その2年後ということで、123便の乗客にはディズニー
ランド帰りの人が多く、墜落現場ではそのお土産のミッキーマウ
スが散乱していたといわれます。ミッキーマウスは化繊でとても
燃えやすいはずですが、燃えていないのです。遺体だけに火炎を
吹き付ければそうなります。
 3は、発火源であるはずの燃料貯蔵箇所の左右主翼のある近く
でもあまり燃えておらず、それとは逆に左右主翼からかなり離れ
ているところでも燃えているところがあるとの指摘です。いずれ
にしても、遺体のない場所は燃えていないのです。
 ちなみに、客室乗務員の制服はほとんど燃えていなかったとい
われます。服の素材は果して不燃布なのでしょうか。遺体は炭化
しているのに服は燃えていないスチュワーデスの遺体もあったと
いいます。しかし、青山透子氏は、そのような話は訓練所でも聞
いていないとして次のように述べています。
─────────────────────────────
 紺色のワンピースが燃えずに綺麗な状態で残っていたというが
よほどその印象がつよかったのだろう。「あの制服は燃えないに
違いない」と確信するほど、11名の女性客室乗務員の服装は焼
けていなかったということになる。実はその時、私は疑問を持っ
たのである。普通のニットの素材であったし、私も訓練所でもそ
ういう話は一切聞いていない。もし、そのような素材ならば、エ
マージェンシー訓練の際に必ず言われていたはずである。なぜ、
スチュワーデスの制服がいずれも綺麗な状態だったのだろうかと
私の心にその言葉がずっしりと重く残った。
               ──青山透子著/河出書房新社
          『遺物は真相を語る/日航123便墜落』
─────────────────────────────
 ここで「あの制服は燃えないに違いない」といったのは、その
とき現場で精力的に歯型の検死活動を行っていた土肥福子歯科医
師(当時木村福子)です。群馬県歯科医師で警察医である大国仁
医師の助手として検死に活躍していたのです。
 その土肥福子氏は、機長の遺体の制服について、次の疑問を呈
しています。
─────────────────────────────
 それから機長さん、あれは本当にわからなかった。どうしてな
んでしょうね。副操縦士さんとか、隣の席でもそこまでひどくな
い。機長さんは私たちのところにきたのも、服も何もなくなって
骨のこれだけしか検死箱に入ってなかったですから。制服はどこ
に行ったのでしょうね。         ──土肥福子歯科医
         ──青山透子著/河出書房新社の前掲書より
─────────────────────────────
 これは奇怪なことです。コックピット内の操縦席で、機長の隣
の席に座っていた副操縦士やすぐ後ろの席の航空機関士は、服装
や所持品で身元確認ができたのです。遺体は炭化していましたが
欠損はなかったといいます。
 しかし、機長については、肉体的原形をとどめないほどバラバ
ラになっており、遺体も顎の一部しか発見されず、制服のかけら
も燃えカスすらも発見されていないのです。これは、一体どうい
うことなのでしょうか。
 少なくともいえることは、墜落現場の遺体の状況は、飛行機が
山の斜面に激突したままの状態ではなく、その後、人為的に何か
が加えられていることは確実だということです。
 4は生存者の発見された場所です。青山透子氏によると、機内
の客席最後部(Eコンパートメント)だけが、墜落現場からかな
り離れたスゲノ沢方面に滑落し、山頂からはまったく見えない場
所であったということです。この場所は、火災が発生していない
のです。おそらく墜落場所に最初に乗り込んだ一団(自衛隊特殊
部隊といわれる)は見落したのではないかと考えられます。
 このスゲノ沢の遺体の状態は「完全遺体」が多かったことから
墜落直後は、相当の生存者がいたと思われます。そのことは生存
者の一人である落合由美氏の証言で明らかになっています。もっ
と早く自衛隊が救助活動に入っていたら、きっと多くの生存者が
出たものと思われます。
         ──[日航機123便墜落の真相/046]

≪画像および関連情報≫
 ●墜落遺体/御巣鷹山の日航機123便
  ───────────────────────────
   「何だこれは・・・」毛布の中から取りだした塊を見て、
  検視官がつぶやく。塊様のものを少しずつ伸ばしたり、土を
  落としたりしていくうちに、頭髪、胸部の皮膚、耳、鼻、乳
  首二つ、右上顎骨、下顎骨の一部、上下数本の歯が現れてき
  た。二歳くらいの幼児。顔の損傷が激しく、半分が欠損して
  いる。それなのに、かわいい腰部にはおむつがきちっとあて
  がわれている。
   五二〇人という数字も大変だが、実際に回収される遺体は
  数千体にもなっている。「目が三つある死体があるのですぐ
  来てください」中には一週間もたっていないのに白骨化して
  いるのもある。
   連日の猛暑のため、遺体に蛆が湧き、腐敗の進行も早いた
  め、数日後からの回収遺体は原形をとどめていないものが多
  く、確認作業は困難を極めた。焦点が合わないんです」写真
  担当の若い巡査が、カメラを両手でもったまま泣きべそをか
  いている。           https://bit.ly/2Pg9gSu
  ───────────────────────────
  ●画像出典/青山透子著/河出書房新社の前掲書より

遺体安置所で検死する木村福子歯科医.jpg
遺体安置所で検死する木村福子歯科医
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2018年10月26日

●「『影の軍隊』は果して存在するか」(EJ第4877号)

 JAL123便墜落事件には、33年も経っているのに、まだ
明らかになっていないことがたくさんあります。添付ファイルの
新聞を見てください。これは、1985年8月13日付、日本経
済新聞夕刊です。見出しは次のようになっています。
─────────────────────────────
                   生存者7人発見
       日航機残がい 山腹に散乱/群馬長野県境
    ──1985年8月13日付、日本経済新聞夕刊
─────────────────────────────
 8月13日といえば、JAL123便墜落事件の翌日の夕刊で
す。驚くべきことに「生存者7人」となっています。生存者は4
人のはずです。しかし、当初は「7人」だったのです。ところが
とくに何の説明もないまま「4人」になったのです。あと3人は
どこに消えたのでしょうか。
 9月28日のEJ第4858号では、事故当日の8月12日の
夜に仲間と一緒にオフロードバイクに乗って、JAL123便が
墜落した御巣鷹山の現場に入ったMさんの話を取り上げました。
 その時点では、123便の墜落場所は判明していなかったので
すが、既に現場には70〜80人の自衛隊とみられる隊員がおり
何か作業をしていたのです。それは、明らかに乗客乗員の救出で
はない作業です。そのときの様子について、まとめた部分を再現
します。
─────────────────────────────
 1.墜落現場では、自衛隊とみられる70〜80人が暗視ゴー
  グルを付けて何やら現場から“破片”とみられるものを採取
  する作業をしていた。何を採取していたのか。
 2.自衛隊員とみられる一団は、当時現場には50人ほどの生
  存者が呻き声を上げて苦しんでいたにもかかわらず、救助し
  ようとはせず、破片採取に専念していたこと。
 3.墜落現場近くの上空にはヘリがホバリングしており、自衛
  隊員が採取した物質を入れたバッグを数十個単位で釣り上げ
  て運搬していた。明らかに救助ではないこと。
 4.Mさんと2人の仲間は、生存者10人ほどと話しをしてい
  るが、そのなかには、指を負傷しただけとみられる男性もお
  り、すぐ死ぬような状況でない人もいたこと。
─────────────────────────────
 重要なことですが、このMさんの入った墜落現場は、御巣鷹山
の山頂部分の現場とみられます。少なくとも、4人の生存者が救
出されたスゲノ沢の現場ではないことは確かです。なぜかという
と、スゲノ沢は相当距離が離れており、山頂からは見えないから
です。まして夜間のことであり、見えるはずがないのです。
 そうであるとすると、完全遺体でない遺体の多かった山頂の墜
落現場にも相当数の生存者がいたことになります。実際にMさん
は生存者の何人かと話しており、生存者のいたことは確かです。
 それでは、この山頂の墜落現場に入って作業をした自衛隊とみ
られる部隊は、どのような任務を持つ部隊なのでしょうか。これ
については、池田昌昭氏が「影の軍隊」と称して、次のように記
述しています。
─────────────────────────────
 航空自衛隊からは、戦闘機や、統制機等が参加。戦闘機のスク
ランブルと、侵入機に見立てての訓練実施の可能性。統制機と航
空基地指令との連絡態勢。
 陸上自衛隊からは、ゲリラ戦専門部隊出動の可能性。グリーン
ベレー特殊部隊は、山岳地帯での行動を専門とする。その行動内
容は、すべてを含む。サバイバルは言うに及ばず、武器習熟、隠
蔽工作等々、軍事超人の出現である。
 なぜこのように、先にカムフラージュ部隊が出動したのであろ
うか。その理由は何なのか。
 理由はただ一つ。バレたときに備えての方策をあらかじめ考え
てのことだった。つまり正式部隊の展開の前に、それを一時スト
ップさせておき、その一方でカムフラージュ部隊が、都合の悪い
証拠物件をすべて回収してしまったということなのである。
 逆に言えば、このカムフラージュ部隊の動きが、JAL123
便墜落事故のすべてを知っているので、あとから出動したたとえ
ば陸上自衛隊の本隊部隊は、現場に近づくことを阻止され、すべ
ての証拠隠滅が終了してから、現場に入ったということなのであ
る。すべての隠蔽工作が終わるまでには、翌13日の午前8時ぐ
らいまで必要だった。それまでは救助部隊の投入は押し止められ
た。もちろんそのことに伴って、墜落現場特定も翌日の午前5時
ぐらいまで引き延ばされていた。   ──池田昌昭著/文芸社
          『御巣鷹山ファイル3/空白の14時間』
─────────────────────────────
 自衛隊にこのような「影の軍隊」のようなものがあるとすると
この123便墜落事件で大きな役割を果たした浜松基地から発進
したという2機のファントム戦闘機は、まさしく航空の影の軍隊
に属するのです。横田基地に着陸しようとする123便にスクラ
ンブルをかけて山岳地帯に誘導し、最終的にミサイルを発射して
撃墜するなど、大活躍をしています。自衛隊がその存在を否定す
るのは当然です。
 実は、いち早く墜落現場に入った陸上の影の軍隊は、13日の
朝になって本物の自衛隊が現場に到着してからも、現場に残って
本物の自衛隊と一緒に作業したことがわかっています。証拠の写
真もあります。本物の自衛隊は救助を行い、影の自衛隊は標的機
とミサイルの痕跡を示すものの撤去と役割は分かれていますが、
見た目は大勢の自衛隊員が救助作業をしているように見えます。
 そのとき、影の自衛隊員が子供の生存者を抱いている写真があ
ります。しかし、その後、この子供がどうなったのかについては
まったく不明です。なお、山頂の現場からは一人の生存者も出て
いないのです。子供はその後どうなったのでしょうか。
         ──[日航機123便墜落の真相/047]

≪画像および関連情報≫
 ●なぜ、7人が4人に減ったのか/123便の生存者
  ───────────────────────────
   7人であるか、8人であるかは分からない。少なくとも、
  4人以上であることは確かだ。御巣鷹の日航機123便生存
  者の可能性である。当時の日経新聞にもはっきりと一面トッ
  プに出ているではないか。その検証は、必要だ。何故、その
  ニュースが消えたか?
   消えたのではなかろう!消したのだろう。記事を消したの
  は許そう。命を消すことは許せない。3人はその後どうなっ
  たのか?徹底解明が求められる。情報の交錯なら、その事実
  を明らかにすべきだ。誤報なら、誤報の経緯を解明すべきで
  ある。それが蓉として為されていないのは、大きな疑問であ
  る。はたして正確な調査・報道があったなら、こういう事に
  はならなかったであろう。隠されたものは顕れるのである。
  しかし、調べれば調べるほど、到底、明らかに出来ない闇の
  事情が垣間見える。そう感ずるのは投稿者だけであろうか。
  しかし、真実は明かされる必要がある。その理由は簡単だ。
  まっとうな人間は、偽善に生きることを潔くしない。真理は
  真実にこそ宿る。        https://bit.ly/2SgVKfL
  ───────────────────────────

1985年8月13日/日本経済新聞夕刊.jpg
1985年8月13日/日本経済新聞夕刊
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(1) | 日航機123便墜落の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月29日

●「在日米軍が現場に投入されている」(EJ第4878号)

 1985年8月12日、JAL123便が墜落し、その墜落現
場の特定が二転三転していたときのことです。NHK速報で次の
ニュースが流れたのです。
─────────────────────────────
 ただいま長野県警から入ったニュースです。待機命令を無視し
て、現場に救助に向った自衛隊員数名が、何者かに銃撃され、死
者、負傷者数名が出ている模様です。新しい続報が入り次第お伝
えします。              ──NHKテレビ速報
─────────────────────────────
 このニュースは後に誤報として取り消されるのですが、ギョッ
とするニュースであり、しかも、NHKの報道です。それがきち
んとした説明のないままに取り消されたのです。
 われわれの頭のなかには、自衛隊は、こういう事故や災害が起
きたとき、救助に向うのが任務であるという先入観があります。
救助に向うというのに、なぜ射殺されるのか。そもそも誰が射殺
したのかと考えてしまいます。
 しかし、自衛隊の本質は、日本という国を守ること、すなわち
国防であり、軍隊なのです。昨今世界を震撼させているサウジア
ラビアのカショギ記者が、トルコのサウジアラビア領事館で殺害
された事件のように、それがサウジアラビアという国家にとって
重要不可欠なことであれば、軍隊が動いて本人を抹殺することは
あり得ることです。それに、軍隊という組織は、上官の命令には
絶対服従する組織なのです。
 最大の疑問は、JAL123便が墜落した数時間後に一番乗り
で墜落現場に入り、多くの生存者には目もくれず、何かを捜索し
それをヘリで運び出していた自衛隊とみられる70〜80人近い
一団の正体は何かということです。
 彼らは、13日以降も現場に残って、生存者救出や、遺体の処
理のために現場に入った正規の自衛隊員や消防団、群馬県警など
に交じって、何かをやっていたことは確かです。
 これは、オフバイクで12日の夜に墜落現場に入ったM氏の証
言ですが、自衛隊とみられる隊員は、それぞれ大型アーミーナイ
フを持ち、暗視スコープを装着していたといいます。
 ある国際軍事評論家B氏によると、大型アーミーナイフは当時
自衛隊の装備品ではなく、また非常に高価なので、自衛隊は採用
していなかったといいます。
 また、暗視スコープは、当時の自衛隊レンジャー部隊が使って
いたものの、少量しかなく、とても100個近い数を揃えられる
とは考えにくいのです。しかし、在日米軍であればそういう装備
は十分整っています。
 ここで出てきたのは、在日米軍が参加しているのではないかと
いうことです。しかし、添付ファイルを見るとわかるように、ど
うみても日本人です。これについて、先ほどの国際軍事評論家B
氏は、次のような驚くべき事実を指摘しています。
─────────────────────────────
・公にはされていないが、在日米軍には在日朝鮮人を集めた部隊
 が存在する。
・通常は基地のガードなどを担当するが、優秀な人物を集めて急
 遽200人位の部隊を編成するなど造作もないことだ。
・日本語もできるし、外見は日本人と区別がつかない。逆にそれ
 が狙い目である。
・ガード任務において白人が日本人を撃てば国際問題だし、日本
 人によるガードでは、相手が日本人の時に発砲できない可能性
 がある。そこで、在日の彼らが上手く利用される。このような
 処置は駐留する国の事情に合わせ当然のように行われている。
・在韓米軍内にも韓国籍だけでなく在日朝鮮人籍の人員が採用さ
 れており、彼らは朝鮮半島の緊張の中で実戦を経験している戦
 闘プロ集団だ。          https://bit.ly/2qf4si6
─────────────────────────────
 つまり、外見からは日本人と全く区別のつかない、米軍所属の
朝鮮人部隊が投入された可能性があるというのです。自衛隊では
同じ日本人として、生存者を無視して命ぜられた仕事をしたり、
生存者を何らかの方法で殺害するなどということは、なかなかで
きないことです。しかし、自衛隊の偽装をした米軍兵士であれば
それが可能というわけです。これは驚くべき指摘です。このよう
に、この事件は、日本の自衛隊と在日米軍が組んでいることは確
かです。もうひとつ、軍事評論家のB氏は、「軍夫制度」にも言
及して次のように述べています。
─────────────────────────────
 軍夫とは、辞書によると「軍隊に所属して雑役に従う人夫」と
ありますが、この軍夫の存在は先の世界大戦の敗戦とともに、日
本では死語になったと思われるかもしれません。しかし、B氏に
よると、戦後から今に至るまで、軍夫と同じ役割を担う組織が存
在し続けているとのことです。彼らは、多くの死体が出る事故現
場、放射能など有害物質の汚染が危惧される現場での危険作業な
ど、いわゆる重度の汚れ仕事を公務員に代わって行う組織なので
す。公式の軍夫制度がない以上、それに取って代わる組織は、部
落・在日・土建関係者(現場職)など、どちらかというと日本社会
で被差別的な扱いをうける人々で、なおかつ、国の重要機密に関
る可能性があることから、秘密を守れる組織、別の言い方をすれ
ば統率者の下、組織として統制することが可能な一団であること
が求められます。          https://bit.ly/2qf4si6
─────────────────────────────
 ところで、添付ファイルの下の写真の男の子とみられる子供は
明らかに生きていると思われます。自分の意思で、手で顔を隠し
ているように見えるからです。しかし、この男の子は生存者のな
かに含まれていません。どこに消えたのでしょうか。
 このように考えると、このJAL123便墜落事件は、謎ばか
りということになります。墜落現場で指揮をとっていたのは何者
なのでしょうか。 ──[日航機123便墜落の真相/048]

≪画像および関連情報≫
 ●真実の共有/フェイスブック
  ───────────────────────────
   さらに7歳〜8歳くらいの小さな男の子が13日午前「走
  り回っている」ところを自衛隊員に発見されている。報告は
  無線で直ちに流された。報道関係者もこの無線を傍受。「男
  の子発見」のニュースは流れた。フジテレビの「ニュースレ
  ポート」では、マイクを握ったフジの山口氏が『現場は惨憺
  たる状況です。まもなく、担架に乗せられた7、8歳の少年
  が運ばれてきます・・』と生中継。しかし、この「男の子」
  に関する情報が途絶。以後、まるで神隠しにでも遭ったよう
  に、その後の「7歳〜8歳くらいの小さな男の子」の消息は
  杳として知れない。       https://bit.ly/2z8FBR2
  ───────────────────────────

救助に入った自衛隊員のなかに特殊部隊がいる.jpg
救助に入った自衛隊員のなかに特殊部隊がいる
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2018年10月30日

●「墜落現場は自衛隊の支配下にある」(EJ第4879号)

 JAL123便墜落事件について書かれている本はたくさんあ
りますが、青山透子氏の本は別として、EJがここまで何回も取
り上げている本に次の優れた著作があります。
─────────────────────────────
     角田四郎著/『疑惑/JAL123便墜落事故
   /このままでは520柱は瞑れない』/早稲田出版
─────────────────────────────
 角田四郎氏はどういう人なのでしょうか。
 角田四郎氏は、サラリーマン生活を経て、フリーのプランナー
として独立していますが、ライフワークとして山岳歩行記、山岳
酪農の研究、日本古代史の研究を志し、雑誌などに投稿していま
す。つまり、登山は専門家なのです。
 角田四郎氏は、1985年8月19日に御巣鷹山の墜落現場に
行っています。墜落してから7日後のことです。それは、角田氏
の友人K氏から、「一緒に御巣鷹山に行ってくれないか」と頼ま
れたからです。どうしてかというと、K氏の恋人がJAL123
便にスチュワーデスとして乗務しており、墜落事件で、亡くなっ
ているからです。
 しかし、彼女は親には自分(K)のことはいっていないため、
日航は「乗客家族同等」の扱いをしてくれず、仮に遺体安置所の
ある藤岡に行ったとしても、遺体確認もできないし、待合所にも
入れない。もちろん、泊まるところもないそうです。だから、何
とか墜落現場に行って慰霊をしたいというのです。それは途方も
なく困難なことであることはわかっているが、角田氏なら登山の
経験が豊富であるので、何とか墜落現場に行けるのではないかと
懇願されたのです。
 実は、角田氏は、友人のK氏から、深夜に六本木のバーに呼び
出され、その話を聞かされています。角田氏は簡単には返事がで
きなかったそうです。危険だからです。しかし、角田氏はJAL
123便墜落事件について何となくもやもやした気持ちを抱いて
いたのです。釈然としなかったからです。
 角田氏は迷いに迷ったそうです。角田氏は、そのときの思いを
次のように述べています。
─────────────────────────────
 16日の朝刊に現場を訪れた乗客遺族のことが大きく報道され
ていたのも知っていた。藤岡でじっと待つこともできなくなった
両親のことである。少年を一人で日航機に乗せたそうだ。友人は
その藤岡へすら行けないのである。同情だけで危険を冒してよい
ものであろうか。警察などにより入山を拒否されるではないか。
社会的道義的に見てどうなのだろうか。それにわけもなく恐ろし
くもあった。500人以上が亡くなった所である。
 一方で友人の想いはいかばかりであろうと考えてしまう。愛す
る者を想う気持ちは御両親の思いと、どれ程の違いがあろう。比
較するべきものでもないし、できるものでもない。にもかかわら
ず、社会的にはまったく問題にされない部外者なのである。(中
略)朝、いつの間にか10時を過ぎていた。もう限界であった。
「角田さん、行ける所まででも行かない限り、この人は一生悔い
を残しますよ。生きていた人がいたのに、彼女は何故生き残れな
かったのか・・・ってね!」   ──角田四郎著の前掲書より
─────────────────────────────
 結局、角田氏は、この店主の言葉でK氏の申し出を引き受ける
ことにしたのです。しかし、登山の経験のないK氏は、途中で高
山病特有の症状に襲われ、あと5分というところで、墜落現場ま
で行くことはできなかったのです。結局、角田氏だけが墜落現場
に登り、K氏に代わって恋人の慰霊を果したのです。
 角田氏には、この決死の登山でわかったことがたくさんあると
いいます。理解できないこともいくつもあり、それが『疑惑』と
いう本の執筆につながることになるのです。それが何であるのか
について述べることは、この事件の解明にもつながるので、それ
をまとめると、次の4つになります。
─────────────────────────────
 1.角田氏と友人は、墜落事故現場に行く途中で、2人の年配
  の群馬県警機動隊員に会っている。親切に対応してくれたが
  本当に機動隊員であったかどうかは不明である。
 2.そのとき、墜落現場周辺にいた自衛隊員は、19日現在、
  13日に山に入ってから、一度も入れ替えなしでそのまま働
  き続けていることが隊員の口から判明している。
 3.隊員たちのテントには「神奈川県警機動隊」と書かれてい
  るが、ナイフのケースや水筒のヒモには「〇〇師団」と書い
  てあり、靴は軍靴であったことがわかっている。
 4.事故調最終報告書の救援活動の項目に、各協力団体が記載
  されているが、警察庁・群馬県警が協力を要請した県警のな
  かに神奈川県警の名前は入っていないのである。
─────────────────────────────
 墜落後一週間が経過しているので、いろいろな団体が墜落現場
に立ち入っています。角田氏のような一般人も入ることはできて
います。しかし、現場の支配権は、群馬県警ではなく、自衛隊が
握っているのです。角田氏は次のように述べています。
─────────────────────────────
 墜落場所。そこは戦場でもなければ自衛隊演習所でもない。群
馬県内国有林の司法権は群馬県警にあって自衛隊にはない。しか
し、この山の支配者は自衛隊であり、全てが自衛隊によって動か
され、牛耳られていたのである。U字接触点の嶺に向かう沢にも
自衛隊員が配備され、入域を押さえていたのである。墜落後6日
目の話である。1日、2日は県警の配備が遅れても理解できるが
一週間にならんとするのに立入禁止域を自衛隊が勝手に作り、勝
手に隊員を配備している。しかも、同じ自衛隊のほかの部隊です
ら、入山させていないのである。 ──角田四郎著の前掲書より
─────────────────────────────
         ──[日航機123便墜落の真相/049]

≪画像および関連情報≫
 ●JAL123便墜落事故の真相/地球情報局
  ───────────────────────────
   青山透子氏(元日航客室乗務員)ブログ:「あの事件をう
  まく隠ぺいした人は異例の昇進をし、それを追及した人は辞
  職を強要されたそうです。正直な人が辞めさせられて、ずる
  い人が残るとすると、本当にひどいですね。」
   あの日1985年(昭和60年)8月12日、JAL12
  3便に、一体何が起こったのか?事件の背景は?それを知る
  ことは、大きな目覚めになる。「我々は高度にマインドコン
  トロールされ、慣れ親しんだ現実は、全て幻想だったのだ」
  と。この世界の現実について予備知識の全く無い人が、この
  JAL123便事件の真実をいきなり知ってしまうと、一時
  的に精神のバランスを失うかもしれない。価値観はひっくり
  返り、後生大事に持っていた常識は崩壊する。コメント欄に
  は、そんな人達からのdesperate comment が山ほど寄せられ
  る。中には工作員らしき人物からの撹乱メッセージも。(彼
  らのコメントを公開することは益々混乱を招くと思われるの
  で、現在は公開を控えている。)
  今まで通り「自身の『常識』という殻の中で幸せに生きて行
  きたい」という人はここから先は読まない方が良い。ご自身
  に人生がひっくり返るような事件が起きたとき初めて、この
  JAL123便事件の真実を受け入れられるかもしれない。
  そして『自身の殻を打ち破る大きな努力』の後、本当に幸福
  な人生とは?この世界から争いが消え、真の平和を築くには
  どうすれば良いのか?その答えが見つかる。
                  https://bit.ly/2OcewBT
  ───────────────────────────

角田四郎氏.jpg
角田四郎氏
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2018年10月31日

●「墜落場所は直後から判明していた」(EJ第4880号)

 結局のところ、JAL123便の墜落現場に事故日の12日の
夜に入り込み、以来テントを張って長期間にわたり泊り込んで、
墜落現場全体を仕切っていたのは、間違いなく自衛隊であると思
われます。
 墜落現場の山頂に行く途中で気分が悪くなった角田氏の友人が
テントで休ませてもらったとき、そこにいた隊員の一人から次の
言葉を聞いています。
─────────────────────────────
 明日で一週間ですが、我々は一度も入れ替えなしですよ。13
日に山に来てからそのまま今も働いています。
      ──角田四郎著/『疑惑/JAL123便墜落事故
      /このままでは520柱は瞑れない』/早稲田出版
─────────────────────────────
 これはおかしな話です。炎天下の作業で、多くの遺体が散乱し
ている場所での重労働です。気分が悪くなる隊員も出てくると思
われます。それでも隊員を交代させないのは、何かウラがありま
す。それは、秘密の保持とも考えられます。ある秘密を守るため
には、それを知る人数は少なければ少ないほど守れるというのが
鉄則です。
 しかし、不思議なことに、角田四郎氏と友人のような一般人が
墜落現場に立ち入ろうとしても、止めるどころか、逆に現場に行
けるよう支援すらしています。うがった見方かもしれませんが、
その方が、かえって疑われないので、そうしているのではないか
と思われます。
 そのためなのでしょうか。よく見ると、全員が同じ服装ではな
く、群馬県警の服を着ていたり、テントも来ているはずのない神
奈川県警のものであったりと、全体がチグハグであると、角田氏
と友人は証言しています。
 角田四郎氏が友人と一緒に墜落現場を訪れたさい、世話になっ
たという2人の群馬県警の機動隊員の幹部も、「機」のマークの
入った群馬県警の服を着ていたといいます。だからこそ、角田氏
らは群馬県警の人であると信じたのです。しかし、現場にいた新
聞記者たちによると、彼らは墜落現場の自衛隊員に命令をしてい
るようにみえたといっています。群馬県警の幹部が自衛隊を指揮
することなどはありえないことです。
 角田四郎氏は、墜落現場に行って、JAL123便の墜落事件
には多くの不可解なものがあると感じたと述べています。墜落現
場の特定にしても、墜落現場での救難活動にしても、本気で取り
組んでいるとは思えないことが多々あります。「下手に生きてい
てもらっては困る事情」でもあったかのようにさえ思える行動な
のです。本気で生存者を救難させるつもりであれば、とったであ
ろう措置をとっていないとして、次のように述べています。
─────────────────────────────
 その疑惑はまだある。
 実は地図上で見れば一目瞭然であるが、墜落現場は群馬県であ
るが、人間が住んでいる村が近いのは断然長野県側である。車が
入る林道が近いのも同じだ。陸上自衛隊松本師団の小川隊のとっ
たルートは歩行時間2時間20分に対し、行先やルートが判って
いた上野村消防団の歩行時間は約4時間である点からも明白であ
る。この墜落現場のある高天原山(御巣鷹山ではない。長野県側
は神立山と呼ぶ)や三国山は、その東側は険しく山が深い(前山
が幾重にも連なる)が、西側は緩斜面が広がり、野辺山台地へと
続く。しかも、川上村には広大なグラウンドや畑があり、救難活
動の拠点作りに打ってつけである。それだけではない。道路も広
く野辺山や清里といった宿泊施設の多い観光地にも隣接し、中央
高速道経由で都市にも交通の便が良い。一体なぜこのルートが救
援活動に一度も使われなかったのであろうか。あまり語られてい
ないが、私は大変不可解なことの一つと思う。ヘリなら5分とか
からない村である。       ──角田四郎著の前掲書より
─────────────────────────────
 123便の墜落場所が、自衛隊(防衛庁)は最初からわかって
いたことを示す語られざる話があります。12日、つまり123
便が墜落した夜のこと。群馬県藤岡市内のある葬儀社に一本の電
話が入ったのです。かけたのは地元の警察です。
─────────────────────────────
  警 察:突然のことだけど、棺はどのくらい用意できる?
  葬儀社:500ぐらいなら、なんとか。
                ──角田四郎著の前掲書より
─────────────────────────────
 123便の遭難で騒然となっていたときのことですから、葬儀
社はピンときたのです。その葬儀社は、藤岡市内や周辺地区の組
合に相談のうえ、棺をどのくらい調達できるか調査して「500
でも1000でも大丈夫」と警察に連絡したそうです。しかし、
翌朝以降、葬儀社には何の連絡もこなかったそうです。
 この棺の見積もりをさせたのは防衛庁であると思われます。地
元警察に命じて藤岡市の業者に棺を見積もらせたのは、墜落場所
を12日夜の墜落直後から把握していたことを意味しています。
そして、この時点で全員死亡を前提にしていたようです。実際に
藤岡市には、霊柩車70台、棺は800個用意されています。ど
こが用意したのかについて「週刊新潮」が書いています。
─────────────────────────────
 東京周辺の葬儀社から800近くを用意し、藤岡市へピストン
輸送した。「800も用意したのは、遺体がバラバラなので、予
備が必要と考えたわけです。現地で注文しなかったのは、統一の
規格のものが用意出来なかったためと思います」(日航関係者)
         ──「週刊新潮」/1985年8月29日号
─────────────────────────────
 800個の棺を用意したのは、東京西部日の出町平井にある共
和木工(株)という企業です。この企業については、明日のEJ
取り上げます。  ──[日航機123便墜落の真相/050]

≪画像および関連情報≫
 ●衝撃的な光景/JAL123便墜落事件
  ───────────────────────────
   昼前、捜索に向かう陸上自衛隊第13普通科連隊(長野県
  松本駐屯地)の部隊と合流した。「これで助かった」と思っ
  た。彼らは地図も強力な無線機も備えており、ついて行けば
  現場に着けるに違いない。缶ジュースもなくなり、のども渇
  き切っていた。水ももらえるだろう。
   昼になると部隊は前進を止め、木の根元に座って、休憩と
  なった。隊員はほとんど10代と思われるような若者で、年
  長者は少なかった。若い人たちは水筒の水を飲ませてくれた
  が、食料はだめだった。部隊は非常時の出動であり、もらえ
  ないのは当然だが、腹が減っていたのでこたえた。
   前進を再開して間もなく、樹林が切れて尾根のピークのよ
  うな所に出た。ヘリの音からすると、そこから北東方向に分
  かれた尾根のどこかに墜落現場はあるようだ。岩場に近いよ
  うな場所もあり、登山経験のない2人は恐怖を感じることも
  あった。
   尾根のピークには、別ルートでやって来た複数の報道機関
  の記者がいた。安達はその中に名古屋支社時代に知り合った
  朝日新聞のS記者を見つけた。驚いて声を掛けたが、その後
  どこに行ったのか姿は見えなくなった。そこから先は下りに
  入った。原生林のような樹林が続いて薄暗く、斜面は湿って
  いてかなりの勾配がある。足元は腐植土で不安定だ。部隊か
  ら遅れないようにしなければならなかったが、慌てて腐った
  切り株に足を乗せると崩れて滑落する恐れがある。木の枝や
  幹をつかんで下らざるを得ず、手は傷だらけになった。
                  https://bit.ly/2zaPmhz
  ───────────────────────────

検死場の藤岡市民体育館.jpg
検死場の藤岡市民体育館
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2018年11月01日

●「日航機事故に政府は何をしたのか」(EJ第4881号)

 JAL123便用の800個の棺を用意したのは、東京都多摩
地域西部にある町、日の出町平井にある共和木工株式会社という
企業です。この企業は、お墓に立てる卒塔婆の生産では、実に全
国の7割を占めているし、折り畳み式棺桶では、トップクラスの
シェアを誇る日の出町のエース企業です。
 しかし、日ノ出町といえば、この場所に別荘「日の出山荘」を
持つ中曽根康弘元総理大臣を思い出します。あのレーガン元米大
統領を招いた日の出山荘です。中曽根氏は、JAL123便墜落
事件のときの総理大臣です。
 これは、あくまで推測ですが、中曽根元首相ほどの人が、自分
の別荘のある日ノ出町のエース企業と付き合いがないとは考えら
れないことです。そうであるとしたら、棺の発注が中曽根氏の意
向で、藤岡の葬儀社から共和木工株式会社に変更になったことは
十分考えられます。なぜなら、日本航空が共和木工株式会社とい
う特殊な企業を知っていたとはとうてい考えられないからです。
 そうであるとしたら、500人を超える死者が出ている最悪の
航空機事故が起きているのに見舞いにも行かず、すべて山下徳夫
運輸大臣にまかせ切りにしているくせに、棺の注文に対しては関
わっていたとなると、釈然としないものが残ってしまいます。
 対照的なのは、当時の英国のサッチャー首相の対応です。奇し
くも、同じ1985年8月22日、英国のマンチェスター空港で
ブリティッシュ・エアツアーズ28M便が、離陸直前にトラブル
が起きて炎上し、乗員・乗客55名が亡くなった事故のさい、当
時サッチャー首相は、出張先のオーストラリアからそれ以降のス
ケジュールを全部キャンセルして急遽帰国し、事故現場に直行し
ています。何という対応の違いでしょうか。
 JAL123便の墜落場所の管理を警察の司法権を超えるかた
ちで自衛隊(防衛庁)が行っていたとなると、そこには、日本国
という国家が関わってくることになります。それは、時の総理大
臣の指揮が行われたことを意味します。これほどのことをして、
時の総理大臣が何も関与していないとは、とうてい考えられない
ことです。600ページを超える中曽根氏の大著『中曽根康弘が
語る/戦後日本外交』(新潮社)によると、事故現場が二転三転
したことについては、次の記述があるのみです。
─────────────────────────────
 実際、静岡に落ちたとか、群馬に落ちたとか、情報がずいぶん
迷走していました。米軍もレーダーで監視していたから、当然事
故については知っていました。あの時は官邸から米軍に連絡はと
らなかった。しかし、恐らく防衛庁と米軍でやり取りがあったの
だろう。            ──中曽根康弘著/新潮社刊
            『中曽根康弘が語る/戦後日本外交』
─────────────────────────────
 驚くべきことに、中曽根氏は、123墜落事故のことを他人事
のようにご書いています。自分の国の旅客機が乗客乗員524人
を乗せて墜落事故を起こしたのです。本来であれは、首相として
その救難体制について、先頭に立って陣頭指揮を行う立場にある
のです。あまりにも他人事のような対応で怒りを覚えます。
 結局、直接対応に当たったのは山下徳夫運輸相です。8月12
日夜、政府は持ち回り閣議で、総理府内に運輸大臣の山下徳夫氏
を本部長とする日本航空機事故対策本部を設置し、23時に第1
回対策会議を開いています。
 実は、山下徳夫氏の場合、事故直前に福岡発東京行き366便
に偶然乗っていたのです。福岡発15時30分発〜17時00分
羽田着にです。この366便がJAL123便になるのです。
 1985年8月12日、JA8119号機は、次の5つのフラ
イトを行う予定になっていたのですが、5番目のフライトで、事
故が起きたことになります。
─────────────────────────────
  東京─札幌 503便/07時55分〜09時20分
  札幌─東京 504便/10時20分〜11時50分
  東京─福岡 363便/12時55分〜14時35分
  福岡─東京 366便/15時30分〜17時00分
  東京─大坂 123便/18時00分〜19時00分 事故
─────────────────────────────
 青山透子氏は、山下大臣の偶然の乗り合わせについて、次のよ
うに述べています。
─────────────────────────────
 事故直前に同じ飛行機による福岡発東京行き366便に偶然乗
り合わせていた。午後3時半福岡出発で午後5時羽田着のこの便
は、墜落した123便と同じ客室乗務員が乗務していた。山下氏
が座った二階席を担当したのは木原ASで、三光汽船会社更生法
申請問題で疲れ果てていた山下大臣を温かくもてなした。「お孫
さんにどうぞ」と、機内搭載のジャンボ機のおもちゃ3個を茶色
の機内用袋に入れてプレゼントした。空港から官邸に入り、その
紙袋を持ったままの山下氏は「本当に何があったんだろうね。あ
んなにやさしい気立てのよいスチュワーデスがこんな事故にあう
なんて」と、思わず涙ぐんでいた。
               ──青山透子著/河出書房新社
          『遺物は真相を語る/日航123便墜落』
─────────────────────────────
 13日に山下運輸相は、遺族の待機場所になっている群馬県藤
岡市内の小、中学校を回り、「担当大臣として責任を痛感してい
る」と陳謝の言葉を述べています。そして、自衛隊のヘリで、上
空から墜落現場の様子を視察しています。本来であれば、この役
割こそ中曽根首相が担うべきであったと思います。
 こうした動きのなかでもう一人の主役であるべき加藤紘一防衛
庁長官が登場してこないのは異常です。この事件の主役を務めた
のは、あくまでも自衛隊(防衛庁)だからです。加藤長官は墜落
直後に自衛隊のヘリで現場上空に密かに行っているという情報も
あるのです。   ──[日航機123便墜落の真相/051]

≪画像および関連情報≫
 ●過去のEJの記述を引用しているブログ
  ───────────────────────────
   もう一つ中曽根元総理の別荘における盗聴されたとされる
  発言があります。それが真実であるか否かは闇の中。その中
  の言葉に官邸からの矢の催促の撃墜命令要請に対して・・・
   「私はこんな事のために総理大臣になったわけじゃない」
  総理がみぞうの都市部墜落の大惨事を恐れて許可する条件と
  して言い出した。
  「国民に撃墜を知られないようにできるなら許可しよう」、
  目撃者が出たらどうしますかに対して「何とかしろ」「殺せ
  という意味ですか」に対して、「私をこれ以上人殺しにする
  つもりか」と怒鳴り、「何とかしろは何とかしろという意味
  だと」怒鳴っていた。<引用終わり> 以下、EJ
   JAL123便墜落事故が起こった8月12日、中曽根首
  相は身内と一緒に軽井沢で休暇を過ごしていたのです。そし
  て軽井沢駅を17時11分に発車する特急「あさま22号」
  に乗り、東京に向っています。大宮着18時52分、上野着
  は19時15分でした。この時点では首相はまだ事故を知り
  ません。18時52分といえば、JAL123便がレーダー
  から消える2分前です。
   18時24分40秒には緊急信号を発信しているのですか
  ら、大宮駅で「日航機が迷走中」という情報を首相に知らせ
  ることはできたはずですが、首相の耳には届いていなかった
  のです。上野に到着した19時15分には事故発生は確実で
  「行方不明」になっているのに、ここでも中曽根首相には報
  告されていないのです。     https://amba.to/2JponDv
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山下徳夫運輸大臣.jpg
山下徳夫運輸大臣
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2018年11月02日

●「日航社長はすべてを知っていたか」(EJ第4882号)

 JAL123便墜落事件に対する中曽根首相の対応は、明らか
に一歩引いた姿勢であるといわざるを得ません。同様にもう一人
の当事者である加藤紘一防衛庁長官も事件後ぜんぜん姿を現して
いません。国家(自衛隊)が加害者であると仮定すると、その姿
勢はとてもよく理解できます。しかし、当時墜落事故の政府の対
応を批判する報道はあまりなかったように記憶しています。まさ
か政府が加害者であるとは誰も思わないからです。
 一方、加害者側である日本航空はどういう対応をしたかについ
て考えてみます。当時日本航空は半官半民で、歴代社長はすべて
経済界か運輸省からの天下りだったのです。したがって、日本航
空も政府側ということになります。
 JAL123便の遺族に、吉備素子氏(現在74歳)という人
がいます。ご主人の吉備雅男氏(当時45歳)は、塩野義製薬次
長として出張中に事故に遭遇しています。吉備素子氏は、遺体安
置所で部分遺体となった夫の遺体と対面しています。
 9月28日から49日の法要をはじめ、一連の追悼行事が行わ
れましたが、そんな慌ただしいなか、吉備素子氏は、日航本社に
高木養根社長を訪ねています。そのいきさつについて、吉備素子
氏は次のように話しています。
─────────────────────────────
 9月頃に遺族に対して日航のほうから、身元不明の部分遺体や
炭化が著しいもの、骨粉など10月中にすべてを茶毘に付すとの
連絡があってね。検視の困難さも見ていたから、それもしかたが
ない、やむを得んなあと思っていたけど。10月4日に群馬入り
したら、血液検査を頼んでいた主人の足と思われる右大腿部の大
きなものまで、茶毘に付されていて、アッ無くなっているって驚
いたんです。事前の連絡とちがう。ひどいって、私は警察ともめ
だした。世話役が間に入って、警察と掛け合ってくれたけど、日
航は警察の検視現場に入るなと言われていたのを見てたしね。現
場責任者の日航重役の人も「僕らは何もできない」と、私らと一
緒に泣いて、泣いて・・・でも、泣いていたって、こんな状態で
10月中に全部茶毘に付すのはいかん、あんたらができんのなら
ば、直接、高木社長に会いに行きましょう、本社に行きましょう
と言って東京に行ったんです。 ──青山透子著/河出書房新社
  『日航123便/撃墜の新事実/目撃証言から真相に迫る』
─────────────────────────────
 そういうわけで吉備氏は日航の本社に乗り込み、高木養根社長
に会っています。高木社長は運輸省の出身ではなく、日航生え抜
きの社長です。それにしても、いきなり日航へ乗り込んで、よく
社長に会えたものですが、当然のことながら、日航としては遺族
には気を遣っていて、最優先に会ったものと思われます。その社
長との面接で、高木社長は意外なことを言い出したのです。
─────────────────────────────
 日航本社の社長室に通されて、高木社長と実際に会って話をす
ると、山中の墜落現場にも行っていない、黒焦げの遺体も見てい
ない、彼はまったく現場を見ていない様子だった。
 そこで「あのような状態で、遺体を茶毘に付しては520名が
浮かばれない。私と一緒に中曽根首相のところに行って直訴しま
しょう。あんたの命をかけても首相官邸に行ってください。そう
言ったんです。そしたら、急に高木さんはブルブルと震えだして
『そうしたら私は殺される』そない言うて殺されるってね。何っ
て思ったら、隣に座っていた女性的な世話役も、震え上がってい
る。なんで?と思った。一緒になってフルフルしている。本当に
怯えていた。殺されるって、命かけての意味がわからんのか、お
かしい、これはもうどうしようもない状態だった」と語る。
                ──青山透子著の前掲書より
─────────────────────────────
 日本航空はこの事件の加害者の立場です。したがって、遺体の
処理に関する一切の業務をすべて担っています。したがって、ど
の時点で遺体を荼毘に付すかの判断も日本航空が決めています。
 そもそも吉備氏が日本航空に乗り込んだ目的は、遺体をもっと
調べてから荼毘に付して欲しいということです。あきれたことに
高木社長は吉備氏に事故を起こしたことについて詫びてすらいな
いのです。それに加害者のトップが墜落現場はもちろん、遺体安
置所に運ばれてくる黒焦げの遺体をすらも目にしていない。だか
ら、吉備氏が要求していることも理解できないのです。
 この時点では、既に後部圧力隔壁の修理ミスとの報道があり、
日航だけの責任ではないということになっていたし、まして自衛
隊の標的機による尾翼への激突の事実まで社長が知っていたとす
ると、ますます「オレたちのせいではない」という気持ちが強く
なります。したがって、吉備氏に会ったとき、とっさに詫びの言
葉がでなかったのでしょうか。それにしてもお粗末なことです。
 まして、吉備氏が社長が決められないなら、一緒に中曽根首相
に会いに行こうと迫ると、「そんなことをしたら殺される」と発
言しているのです。首相に会いに行こうというと、「殺される」
とはどういうことなのでしょうか。
 123便が墜落した12日の午後10時過ぎの羽田空港での出
来事です。人だかりができて、中央に中年の紳士が乗客の遺族に
胸倉をつかまれていたのです。「はっきり言え、飛行機はどうし
たんだ。どこへ行ったのか」と問い詰められています。
 中年の紳士がそれに明確に答えられないと、「お前じゃ、ラチ
があかん。社長を出せ!」という話になったのです。そうしたら
その紳士は、真っ赤に顔を紅潮させ、次のようにいったのです。
─────────────────────────────
 うちの機は、北朝鮮のミサイルに撃ち落とされたんだ。今は
 それしかわからん!!
─────────────────────────────
 この紳士は誰かというと、後に日本航空の町田副社長だったこ
とがわかっています。ここにミサイルという言葉が出てくるのは
違和感があります。──[日航機123便墜落の真相/052]

≪画像および関連情報≫
 ●死神から間一髪逃れた「キャンセル・リスト」の後半生
  ───────────────────────────
   間一髪で事故を免れた人もいる。シャープ元副社長の佐々
  木正もその1人である。今年100歳を迎えた彼が、当時の
  記憶をたぐり寄せる。昭和60年、佐々木はシャープの副社
  長兼東京支社長の職にあった。12日は自宅のある大阪に帰
  るため当便を予約していた。
   ところが前日のこと、佐々木に「明日、会えないか」と連
  絡をしてきた人物がいた。フィリップス社の東京支社長であ
  る。「オランダ本社の社長が会いたがっているというんだ。
  フィリップスとは、(CDプレーヤーなどに不可欠な)半導
  体レーザーを共同で開発したり、液晶の生産拠点を設立しよ
  うとしたりして、関係が深かった。それで年末に、社長が来
  日して食事を共にするというのが恒例だったんだが、その年
  に限ってお盆のその日になってね。だから飛行機の予約を変
  更してもらったんです」
   日航機事故のことを知ったのは、ホテルニューオータニの
  レストランで会食しているときだった。ちょうど同じ頃、大
  阪では悲鳴があがっていた。淨子(じょうこ)夫人は、夫が
  123便をキャンセルしたことを知らされておらず、いつも
  のように、伊丹空港まで迎えに来ていたのである。そこにも
  たらされたのが事故の一報。「家内は、かなり遅くまで待っ
  ていたようだ。いったんは私が亡くなったものとあきらめた
  らしいですがね。ところが東京に残って仕事をしていること
  を誰かが伝えてくれて、安心して帰宅したようです」
                  https://bit.ly/2CVRDRp
  ───────────────────────────

日航高木養根社長.jpg
日航高木養根社長
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2018年11月05日

●「機長の制服はなぜなくなったのか」(EJ第4883号)

 青山透子氏の本では、JAL123便墜落事件についての知ら
れざる事実が明らかにされてきています。それらを一つずつご紹
介していくことにします。
 JAL123便墜落事件に対して、最高の責任者であるばずの
当時の中曽根首相と加藤紘一防衛庁長官が、いかに緊張感のない
対応をしていたかを示す出来事があります。
 1985年8月13日のことです。123便事故の翌日です。
何しろ墜落現場が特定されたのが13日の朝のことですから、日
本中が騒然となっていたときです。520人の死者が確定してい
るのです。その時点では、中曽根首相も加藤防衛庁長官も地上か
らはもちろん、ヘリコプターでの墜落現場の空中視察すらしてい
ないのです。そのとき、2人がやったことについて、青山透子氏
は次のように述べています。
─────────────────────────────
 1985年8月14日のジャパンタイムズ紙によると、事故発
生の翌日、13日に中曽根首相と加藤紘一防衛庁長官が、マンス
フィールド大使同席のもとで、米軍のクラフ米太平洋軍とティッ
シュ在日米軍司令官に会い、加藤紘一防衛庁長官からクラフ氏に
勲章を渡している。その勲章は
     The First Class Order of the Rising Sun
というものであったと記載されている。そして米空母ミッドウェ
ー艦載機の発着訓練基地の確保、自衛隊の継戦能力の充実、防衛
協力に関する首相の努力等について語り合っていたという。
 (中略)しかしながら、12日に墜落事故が起きて、今まさに
現場で遺体を収容している翌日に勲章を渡すとはどういうことな
のだろうか。このようなおめでたい話には緊急性がなく、通常は
お互いに配慮して延期することも可能なはずである。
 アントヌッチ氏の証言によると「墜落上空でいち早く駆け付け
た米海兵隊を帰還させて他言無用の支持を出した」在日米軍の最
高責任者に、墜落現場にまだ行っていない首相が、何に対して勲
章を授けて上げたのだろうか。 ──青山透子著/河出書房新社
  『日航123便/撃墜の新事実/目撃証言から真相に迫る』
─────────────────────────────
 このことからわかるように、時の中曽根首相の123便事故に
対する対応は非常に冷たいものです。この事件には、米軍も少な
からず関与しているにもかかわらず、こともあろうに勲章の授与
式をやるとは何事でしょうか。ここは、延期すべきであり、延期
しても米軍に対して失礼にあたらないはずです。
 次の事実は「高濱機長」の制服の紛失事件です。これについて
は、10月25日のEJ第4876号でも事実を指摘しています
が、機長だけ制服がなくなっている事実です。
 123便のコックピットでは、左に高濱機長、右に佐々木副操
縦士、後方には福田航空機関士が座っていたのです。比較的狭い
場所であり、本来であれば、3人とも遺体は同じような状況であ
るはずです。しかし、高濱機長の遺体だけが異常であり、制服も
なくなっています。
 次は、3人の検視番号です。番号が若いほど、早く確認された
ことを意味しています。
─────────────────────────────
        高濱機長 ・・・・ 125番
     佐々木副操縦士 ・・・・  80番
     福田航空機関士 ・・・・ 461番
─────────────────────────────
 一番早く見つかったのは佐々木副操縦士の遺体です。着衣、す
なわち制服は残っていて、それで身元確認が行われています。し
かし、遺体は炭化していたのです。福田航空機関士については、
発見は遅かったのですが、服装で身元確認が行われています。制
服は残っていたのです。遺体は副操縦士と同様炭化していたので
す。しかし、高濱機長の遺体は炭化しておらず、制服がないので
す。機長だけ制服がないのは明らかに異常です。誰かが密かに持
ち去ったとしか考えられません。
 整理してみます。狭いコックピット内の3人は同じ状況である
ので、制服については、3人とも着ているか、3人とも着ていな
いかであればわかるし、遺体の状況についても、3人とも炭化し
ていないか、3人全員が炭化していないのであれば理解できるの
です。しかし、機長だけ、制服がなく、炭化していないのです。
なぜ、機長だけ状況が異なるのでしょうか。
 横田基地への着陸を自衛隊機に阻止されて、ベテランの高濱機
長は、何が起きているか悟ったものと思われます。それについて
機長は何らかのメモを書き、制服のポケットに入れたのではない
かと疑心暗鬼になったのです。そこで、最初に現場に入った特殊
部隊が機長の制服を探し、おそらく持ち去ったのではないかと思
われます。青山氏は次のように述べています。
─────────────────────────────
 あの時、機内では墜落を悟った乗客たちはそれぞれ遺書を書い
ていた。胸ポケットに忍ばせたり、社用の封筒に書き残したり、
時刻表に書いたり、様々であった。もし、機長だけがなんらかの
事実を知り、それを書き記していたとしたらと考えてみても、必
死の操縦で機体をたてなおしていた最中に遺書のようなものを書
き残すことは不可能に近い。
 あくまでも想像の範囲だが、一つの可能性として考えられるこ
とは、機長の制服の中に「何かがある」ことを恐れた人が、墜落
後に回収したのではないだろうかということだ。つまり、副操縦
士や航空機関士とは全く関係がないが、機長だけが「知った」何
か、である。そして万が一、それが表に出ては困ると考えた人が
いるのではないだろうか、としか制服の行方がわからない理由が
思い当たらないのである。   ──青山透子著/河出書房新社
          『遺物は真相を語る/日航123便墜落』
─────────────────────────────
         ──[日航機123便墜落の真相/053]

≪画像および関連情報≫
 ●遺物から迫る123便事件/隠蔽、捏造、改ざんの連鎖
  ───────────────────────────
   「朝まで燻り、炎まで上がっている現場状況、消防団の臭
  いや目撃証言を総合的に見ていくと、遺体状況の比較を加味
  して考えれば、ケロシンではそこまでならない。ジェット燃
  料のケロシンは、不時着や突発的事態によって燃料を空中に
  捨て去ることも多いために引火点も高く、きわめて安全性が
  高い」と青山さんは書く(79頁)。123便は国内線であ
  るから、残り燃料は1時間半分だけで、上野村の住民が大き
  な飛行機がくるくる回っている状況を「燃料でも捨てている
  のではないだろうか」と語っていることから、青山さんは、
  高浜機長が不時着に備えて燃料を減らしていた可能性も否定
  できないという。そうだとすれば、なおさら燃料は減るわけ
  だし、何より、夏の山は木々の繁った湿度の高い環境で10
  時間以上も炎を出してケロシンが燃え続けるというのは説明
  がつかない、とも。山火事を経験した消防団の人たちも、乾
  燥している冬山ならまだしも、夏でここまで真っ黒に燃える
  ことに疑問をもっていたという(79〜80頁)。
   今回の本の白眉は、御巣鷹の尾根から回収された遺物の科
  学鑑定である(128〜143頁)。上野村の住民たちは、
  様々な遺物を尾根から拾い集めて大切に保存していた。それ
  を青山さんが入手して、T大学(現段階ではあえて名前を伏
  せられている)の金属化学研究機関に、学術研究の一環とし
  て分析依頼を行った。      https://bit.ly/2AJHhCh
  ───────────────────────────


日本航空機長の制服.jpg
日本航空機長の制服
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2018年11月06日

●「123墜落事件関係者は全員無罪」(EJ第4884号)

 JAL123便墜落事故関連の訴訟スケジュールを以下にまと
めてみることにします。
─────────────────────────────
◎1988年12月01日
 ・群馬県警が、日本航空12名、運輸省4名、ボーイング社4
 名の合計20名を書類送検。
◎1989年01月23日
 ・前橋地検と東京地検が合同捜査開始。東京地検が米司法省を
 通じ、ボーイング社への事情聴取を求めたが、拒否される。
◎1989年09月15日
 ・前橋地検、20名全員を不起訴にする方針を固める。
◎1989年11月22日
 ・不起訴処分決定。
◎1990年04月25日
 ・遺族は、前橋地検の不起訴を不服として、前橋検察審査会に
 審査を申し出たが、前橋検察審査会が「不起訴相当」を決定。
◎1990年07月17日
 ・この事件担当の前橋地検検事正・山口悠介氏が異例の説明会
 を実施。
◎1990年08月12日
 ・公訴時効成立。
─────────────────────────────
 ここで強調しておきたいことは、JAL123便墜落事件の関
係者は、誰ひとり罪に問われることなく、公訴時効を迎えている
ことです。520名がそれによって亡くなっているにもかかわら
ず、誰も罪に問われていないのです。
 そもそも、この「検察不起訴決定」→「不服として検察審査会
での審査申し立て」→「不起訴相当決定」──これはいつもお定
まりのコースのようになっています。とくに安倍政権になってか
らは、政治家や官僚のどんな不祥事でも、この定例コースに乗っ
て不起訴になっています。検察に大きな問題があるからです。
 しかし、JAL123便墜落事件の場合は、遺族側からの強い
要望により、1990年07月17日に担当検事である前橋地検
検事正・山口悠介氏が説明会を開いています。このような説明会
を開くこと自体が異例であるうえに、その説明内容もかなり大胆
なものだったのです。
─────────────────────────────
 私が検事正になったとたん、すでにマスコミが「検察、不起訴
か」などと報道し始めた。いったい、どうなっているのかと驚い
た。さらに捜査会議を開いたら、部下の検事はだれもこの事件は
起訴出来ないと言った。それでも私は様々な角度から捜査した。
 捜査の結果、わかったことは修理ミスかどうか相当疑わしいと
いうことだ。事故原因には色々な説がある。タイ航空機の時には
乗客の耳がキーンとしたという声があったが、今回はない。圧力
隔壁破壊がいっぺんに起きたかどうかも疑わしい。
 まず、ボーイング社が修理ミスを認めたが、この方が簡単だか
らだ。落ちた飛行機だけの原因ならいいが、全世界に飛ぶ飛行機
の欠陥となると売れ行きも悪くなり、打撃も大きくなる。そこで
いち早く修理ミスとした。事故調査委員会の報告もあいまいだ。
(膨大な書類を指して)これを見ても真の原因はわからない。事
故後の機体や遺体の写真、ボーイング社、日航、運輸省関連調書
何をみても事故の報告書でしかなく、それからは本当の原因など
は何もわからない。皆さんはわれわれが何か特別に大切なものを
持っているように思っているかもしれないが、本当に原因は不明
なのです。         ──前橋地検検事正・山口悠介氏
               ──青山透子著/河出書房新社
   「日航123便墜落/疑惑のはじまり/天空の星たちへ」
─────────────────────────────
 この山口悠介検事正は大変立派な方であると思います。事故調
の最終報告に対して疑問を呈しているからです。こういう正義感
を持っている検事は今どき珍しい。事故調のメンバーは政府が決
めており、そのメンバーの出した結論に疑問を呈することはなか
なかできないことです。
 しかし、この山口検事正の勇気ある発言を遺族は悪くとったよ
うです。遺族から見ると、政府(事故調)も日航も検察もすべて
一体と考えているからです。したがって、次のようなことをいう
遺族もあったようです。
─────────────────────────────
 何をいまさら!言い逃れか!それは、あなたたち検察が十分調
査しなかった、自分の仕事をしなかったからなのではないか。
                ──青山透子著の前掲書より
─────────────────────────────
 また、山口検事正は日本航空の対応についても「整備陣もやる
べきことをやっていなかった事実もある」という鋭い批判をして
います。それに加えて、日航関係者が一貫して取り調べに関して
非協力的であったことをその会見で明かしています。
 山口検事正によると、日航関係者を任意で呼んで調べると、質
問されたことを逐一メモにとり、それ以後呼ぶ人は、まるで判を
押したように同じ答えをするというのです。例えば、検事が答え
方に苛立って机をたたくと、「×時○分、△△氏机をたたく」と
いうようにメモに書くというのです。これについて、青山透子氏
は、次のように日航を批判しています。
─────────────────────────────
 同じ会社の社員だった者として、これは許せない態度である。
彼らは整備士という仕事に人生を懸けたプロの集団だったのでは
ないか。自ら責務をもって仕事をしていたのではないか。これが
ナショナルフラッグキャリアの看板を背負って昼夜問わず働いた
仲間のすることだろうか。    ──青山透子著の前掲書より
─────────────────────────────
         ──[日航機123便墜落の真相/054]

≪画像および関連情報≫
 ●坂本九さんの死は飛行機による事故死!
  ───────────────────────────
   2015年8月15日に日本航空123便墜落事故で、坂
  本九さんの没後30周年の追悼番組がBSにて放送されまし
  た。また坂本九の奥さんが、徹子の部屋に出演したとして、
  ニュースになりました。坂本九は飛行機事故で遺体も大変な
  状況になったということです。
   坂本九さんが亡くなられたのは、日本航空123便墜落事
  故の時。事故が発生した日は夏休みの時期であり、「お盆の
  入り(1985年8月12日)」の前日であったため、当日
  の日本航空や全日本空輸、東亜国内航空の各便には出張帰り
  のビジネスマンのほか、帰省客や観光客が多く搭乗していた
  そうです。最終便が満席で乗れない客が発生することを防ぐ
  理由もあり、最終便1本前である当便はほぼ満席の状態だ。
  このため、仕事を終えて帰宅しようとした全日空の社員も自
  社便が利用できず、数名が当便に搭乗していたと記録されて
  います。この飛行機事故では4名の生存者があったことで有
  名です。
  日本航空123便墜落事故は、1985年8月12日、東京
  (羽田)発大阪(伊丹)行同社定期123便ボーイング74
  7SR−46が、ボーイング社の不適切な修理が原因とされ
  る後部圧力隔壁の破損によって、垂直尾翼と補助動力装置が
  破損し油圧操縦システムも全喪失しました。
                  https://bit.ly/2AJU0F6
  ───────────────────────────

故坂本九氏.jpg
故坂本九氏
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2018年11月07日

●「123便墜落事故と日本航空倒産」(EJ第4885号)

 JAL123便墜落事件の最も重要な関係者の1人である加藤
紘一防衛庁長官(当時)は何をしていたのでしょうか。加藤長官
に関しては、さっぱり情報が出てこないのです。ちなみに、加藤
紘一氏は、2016年9月9日に亡くなっています。
 調べてみると、123便墜落事件から1週間後の8月20日の
閣議において、加藤長官は、自衛隊の救出活動について報告して
います。通常自衛隊の活動を閣議で報告するのは極めて珍しいこ
とです。当時墜落場所の特定の遅れに世間の批判が高まっていた
ので、それを払拭するために「自衛隊はこんなに頑張っている」
ことを示すために行ったのではないかと思います。
 加藤紘一防衛庁長官について、青山透子氏は次のようにコメン
トしています。
─────────────────────────────
 加藤紘一防衛庁長官は、この時46歳。なんと今の私よりも若
い。自分を顧みるに、この時、どれほどまでの決断が出来たので
あろうか。今でこそ御実家に放火という理不尽なことを経験され
ても、真に国民を思う政治理念を曲げない意志をお持ちのようだ
が・・・。今回の事故対応を情緒的な面から物事をとらえるので
はなく、科学的に分析して、万が一次に起きた場合にどうすべき
なのかを考えるのが政治家としての務めであるはずだ。
 なぜならば、10年後の元米空軍中尉の証言通り、はっきりと
墜落地点は分かっていたのであり、それを日本側に伝えて日本側
が今救助に向かっていると言ったのを聞いているのだから、防衛
庁長官として情報がなかったとは言えない立場である。
 それにもかかわらず、墜落現場が翌朝まで特定されず、救助が
遅れたという事実・・・。なぜ分からなかったのか。また、なぜ
分からないと言ったのか、そのことを重要視すべきであろう。
 520名の命よりも優先させた何かがあった・・・。その事実
が1995年に各新聞に報道された、米軍側からの証言で明らか
にされたのだった。      ──青山透子著/河出書房新社
   「日航123便墜落/疑惑のはじまり/天空の星たちへ」
─────────────────────────────
 青山氏の文中に出てくる「10年後の元米空軍中尉の証言」と
いうのは、9月21日のEJ第4854号でご紹介した当時横田
基地所属のアントヌーチ航空士の証言のことです。
 ところで、2010年1月19日(火)の夕刻に何が起きたか
ご存知ですか。
 この日、日本航空株式会社、日本航空インターナショナル、ジ
ャパンキャピタルの3社が、東京地方裁判所に会社更生法の適用
を申請したのです。青山透子氏は11月19日の「119」が気
になったといいます。なぜなら、それは、墜落機の個別認識記号
だからです。
─────────────────────────────
           JA8119号機
─────────────────────────────
 「JA」は日本国籍、「8」はジェット機をあらわし、次の3
桁の数字「119」が個別の番号です。個別識別番号と同じ日に
倒産とは、奇妙な偶然です。まさか、倒産するとは考えられない
大企業の倒産ですが、実は、JAL123便墜落事件の全貌が明
らかにされる可能性があったのです。それは、当時の政権が民主
党政権であったからです。おそらく中曽根康弘氏と加藤紘一氏は
肝を冷やしたのではないでしょうか。これについては、このテー
マの最後に明らかにします。
 2兆3221億円の負債総額。かつて同じ会社に籍を置いてい
た人間として、青山透子氏は、時の前原国土交通大臣の更生のや
り方について次のように疑問を呈しています。
─────────────────────────────
 前原国土交通大臣は、公共交通機関である飛行機を止めない事
ばかりを強調した。それによって、ある日突然の倒産ではなく、
事前調整型の倒産は、2月20日に株式が上場廃止となったもの
の、多額の債権放棄やマイレージ保護などの報道の中で、実際に
そこで働く人々に対して、何の危機感も持たせないまま毎日の延
長上でその日を迎えさせた。これは、これから始まる企業更生に
不可欠な従業員たちの自己洞察力と自己改革、そして現実の重さ
を認識する最大のチャンスを失ったことになる。
 人間とは所詮、お金が入ってこない(お給料が人らない)現実
や解雇、さらにロビーのシャッターが朝突然閉じることや、燃料
をストップされて飛行機が飛ばない、乗客がひとりもいないなど
を経験し、崖っぷちに立たされないとどうしても倒産という現実
を受け入れられないものだからである。
                ──青山透子著の前掲書より
─────────────────────────────
 JAL123便墜落事件の加害者である日本航空に関しては、
多くの疑問があります。墜落現場に自衛隊の特殊部隊(?)と一
緒に日本航空のスタッフが相当数入っていたとの情報は多くあり
間違いないと思います。これがもし、本当であるとすると、加害
者が警察よりも早く墜落現場に入るのは、証拠隠滅もできること
になり、絶対にあってはならないことです。
 しかし、日本航空は、この事件では、政府、自衛隊とまるで一
体です。そして、山下悠介検事正が明かしているように、検察の
捜査に関しては、徹底的に非協力であったといいます。何か大き
な秘密を背負っているように見えます。
 そして、事故調が解散した後、ほとんどの関係書類は破棄され
てしまいましたが、ボイスレコーダーやフライトレコーダーは日
本航空が現在も管理しています。遺族側の代表は、繰り返しそれ
らの公開を求めていますが、日本航空は頑なに応じようとはして
いないのです。一体何を隠そうとしているのでしょうか。
 だからこそ、日本航空が倒産したとき、ここが最大のチャンス
だったのです。民主党政権は、これらをどのように処理したので
しょうか。    ──[日航機123便墜落の真相/055]

≪画像および関連情報≫
 ●JALはなぜ破綻したのか
  ───────────────────────────
   JAL破綻の直接の引き金となったのは2008年のリー
  マン・ショックだった。しかし、そうしたショックに耐える
  ことのできない脆弱な企業体質が長年にわたって形成されて
  きたことがより大きな原因だといえよう。例えば効率の悪い
  大型機材を大量に保有せざるを得なかったこと。ここでいう
  「効率が悪い」とは、供給座席が需要に対して過剰になりが
  ちであり、安売りをしてもなお空席が生じる便が多く見られ
  ることである。ただ、これは主に、日本の航空市場の特殊性
  に起因するものである。日本では、国内線の基幹空港である
  羽田空港が非常に混雑しており、大量輸送によって需要に対
  応していかなければならない状況が続いてきた。そのため、
  大型機材での運航が推奨されてきた事情がある。しかし、多
  くの地方空港が建設されていく中で、需要の大きさも多様化
  し、必ずしも大型機が望ましいとはいえなくなってきた。
   投資の失敗も大きい。ホテルなどの関連企業を増やし、総
  合的なサービスの提供による競争力の強化を図ったが、採算
  性の見通しの甘さから、採算性を見込めないものが本業の足
  を引っ張る結果となった。また、過去における長期にわたる
  為替差損も、JALの放漫経営の象徴としてよく取り上げら
  れている。労働組合の問題もある。複数の労働組合が存在し
  ているため、複雑な労使関係だけでなく、労々関係も企業経
  営を極めて難しいものとしてきた。https://bit.ly/2DkYTad
  ───────────────────────────

前原国土交通大臣(当時).jpg
前原国土交通大臣(当時)
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2018年11月08日

●「それは自衛隊の仕組まれた計画か」(EJ第4886号)

 EJでは、自衛隊の標的機がJAL123便の尾翼に衝突した
のは、あくまでアクシデントであると考えています。しかし、青
山透子氏は、もしかすると、123便にぶつけるつもりはなくて
も、123便を一応の標的として狙ったのではないかと考えてい
るようです。これは青山透子氏の仮説です。
 青山氏がそうではないかと考える根拠は、JAL123便には
次の3つの要素が揃っていることです。
─────────────────────────────
      1.機長の制服が完全に消えている
      2.JA8119には事故歴がある
      3.機長が自衛隊出身のパイロット
─────────────────────────────
 つまり、こういうことです。護衛艦「まつゆき」では、JAL
123便を敵機と想定し、国産ミサイル開発の誘導プログラムを
使って標的機を誘導しますが、すれすれのところで衝突は避ける
よう誘導して、データを収集します。データ収集が護衛艦「まつ
ゆき」の重要任務なのです。
 しかし、万が一衝突という事態になったとき、自衛隊として、
なんらかの保険が必要である──それが上記の3つの要素に適合
する飛行機であるというわけです。青山透子さんは、これについ
て、次のように書いています。
─────────────────────────────
 修理の事故歴のある飛行機が、飛行中の夕刻から夜にかかる時
間に突発的事態が発生した。その前日の8月11日まで防衛庁発
表では、国産ミサイルの開発研究で洋上訓練を行っており、護衛
艦「まつゆき」も試験運転の最中というのは紛れもない事実であ
る。これらをつなぎ合わせて考えてみると、何が見えてくるのだ
ろうか。
 試運転中に国産ミサイル開発の誘導プログラムのデータ取りが
必要であったとすれば、何かあった場合の保険として飛行機に事
故歴のあることが絶対の必要条件であったのではないだろうか。
そして、民間出身のパイロットではなく、自衛隊出身のパイロッ
トならばもみ消せるかもしれないという点が十分条件とすれば、
両者が揃うことが必要十分条件であると言える。さらに、万が一
の場合も考えると、日中よりも夕刻から夜にかけての暗さが好都
合であった、とも考えられる。 ──青山透子著/河出書房新社
          『遺物は真相を語る/日航123便墜落』
─────────────────────────────
 この場合、過去に事故歴のある飛行機と自衛隊出身のパイロッ
トという2つの条件は絶対に揃う必要があります。しかし、パイ
ロットは変更になることがよくあります。
 日本航空の場合、JA8119に高濱機長が乗務するというス
ケジュールが決まるのは、通常は1か月前です。しかし、よほど
のことがない限り、この日の高濱機長の乗務の変更はあり得ない
のです。どうしてかというと、この日の高濱機長の乗務は、佐々
木副操縦士の機長昇格実技審査を兼ねていたからです。
 そうであるとすると、対象として選ぶ飛行機は、JA8119
(日本航空123便)しかあり得ないということになります。自
衛隊がそのような計画を本当に実施するとは常識では考えられな
いことですが、仮説としては成立します。青山透子氏は、その仮
説を立証するためにも、墜落現場にある遺物の鑑定や分析をはじ
めたと自著に書いています。
─────────────────────────────
 全体の安定性を優先する裏に、実は隠したい何かが潜んでおり
その究極の理由は、他者のためでも国益のためでもなく、自己満
足や保身である場合が多い。隠したい側の人間は、特に自覚する
ほどの小心さに支配され、あらゆるプレッシャーに耐えて組織と
の折り合いをつけて生きる術を身につけてきた人間とも言える。
そういう人は異論や違和感のあるものは受け入れ難い。おそらく
この仮説についてもそうであろう。
 もし少数者が主流となり得る方法があるとすれば、それは絶対
的証拠物の提示である。それが出てこないと多数者は異論を支持
することに安心できないのである。そこで、御巣鷹の尾根に残さ
れた遺物から、科学的方法によって推定の裏付けができないだろ
うかと考えて、その証拠物を分析することにしたのである。
                ──青山透子著の前掲書より
─────────────────────────────
 もうひとつ、青山氏の本でないとわからない関連情報がありま
す。それは1978年に大阪空港で起きた日航機のしりもち事故
を担当した検査官の自殺です。1987年3月17日付の夕刊各
紙が伝える報道は次の通りです。
─────────────────────────────
 1987年3月17日の各紙夕刊報道によれば、17日の早朝
午前五時頃、機械電子検査検定協力職員で元運輸省東京航空局羽
田駐在航空機検査長のS・Tさん(57歳)が、浴室で殺虫剤を
飲んで死んでいるのを家族が見つけた、とある。遺書もあったた
め、日航ジャンボ機墜落事故で群馬県警から事情聴取を受けたこ
とに気落ちしての自殺とみている。Tさんは、1978年に大阪
空港で起きた日航機しりもち事故当時、検査官をしていた。事実
上の飛行許可である耐空証明を出していたことから、同月10日
から群馬県警特捜本部より参考人として事情聴取を受けていた。
運輸省航空局は、大変なショックを受けている、しりもち事故担
当の検査員の年長者であり、非常にまじめでおとなしい人だった
と語っている、とある。     ──青山透子著の前掲書より
─────────────────────────────
 JAL123便墜落事件で、520人が亡くなっただけではな
く、自衛隊にも日本航空にも複数の自殺者が出ています。そう考
えると、この事件の真相を明らかにする責務が関係者全員にある
と思います。このまま幕引きはできないのです。
         ──[日航機123便墜落の真相/056]

≪画像および関連情報≫
 ●安倍首相と中曽根元首相の発言の類似性
  ───────────────────────────
   先日、あるジャーナリストと会談をした際、彼は思わず、
  「まさか自衛隊がそんなことするはずないじゃないですか」
  とおっしゃった。その根拠を尋ねるとうーんと沈黙された。
  つまり、誰でも心の中に、まさか、という思いがあって、ど
  うしてもその現状を受け入れがたいという心理が働く。私が
  ヒューマン・リソース、人的資源戦略や顧客心理の授業をし
  ていた時に、よく学生たちと一緒に考えてきた心理である。
   「まさか、そんな事は起きないと思っていた」は、重大な
  事態が何か起きてからでは、特にプロならば言い訳にはなら
  ない。一般的なニュースを見ても、例えば「いつもおとなし
  いあの人がまさか殺人者とは」、「一家で仲が良さそうだっ
  たのにまさか親子で殺し合いとは」とか・・よくある近隣関
  係者へのインタビューの会話である。まさかという「魔の棲
  む坂」を登って冷静に上から見てみると、下からでは見えて
  こない何かが見えてくるのである。
   さて今回は、第一章で重点的に読んでほしい部分を取り上
  げる。今日において防衛費が膨張し続けている中で、現在の
  安倍首相は長距離巡航ミサイルと一基約1千億円の陸上配備
  型弾道ミサイル迎撃システム「イージス・アショア」2基導
  入を検討しているそうだが、この話は実は1985年8月7
  日の中曽根康弘元総理大臣の言動と非常に似ている。日航1
  23便墜落の5日前、防衛庁(当時)は地対艦ミサイル部隊
  新設と地対空ミサイル部隊の新型パトリオットミサイルへの
  切り替えを国防会議で公式に報告した。
                  https://bit.ly/2OrFdTl
  ───────────────────────────

JA8119/JAL123便.jpg
JA8119/JAL123便
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2018年11月09日

●「上官の命令には絶対服従すべきか」(EJ第4887号)

 青山透子氏が123便墜落事件の一連の著書において、一番強
調しているのは「遺体の損傷度のひどさ」です。あまり文章にし
たくない表現ですが、青山氏の表現によると、「遺体はベンゼン
と硫黄の含まれたタール系の燃料で二度焼きされている」という
ことになります。何度も引用させていただいていますが、遺体と
遺物だけで、次の一冊の本にまとめられているのです。
─────────────────────────────
           青山透子著/河出書房新社刊
     『遺物は真相を語る/日航123便墜落』
─────────────────────────────
 この本のなかで青山氏は、今なお事件を隠蔽しようとする関係
者に対して、次のように強い怒りをぶつけています。
─────────────────────────────
 一般人が手に入るはずもない武器燃料で焼かれた可能性をどう
説明すればよいのだろうか。成分分析の結果とこれらの写真を見
比べながら、私は心の底から湧き出てくる激しい怒りを覚えた。
こういう実態を直視せずに、33年間もこれを放置し続けてきた
ことへの強い憤りと当時の関係者への怒り、そして人間性への失
望である。何も知らなかった私たちは、この事実が捻じ曲げられ
て気付かなかったことで、結果的に隠し通してきた人間の思う壷
になっていたことは否めない。
 事故だとしても「二度も焼かれる」必然性はなく、乗客のみな
らず15人の社員も焼かれた日航はこれをどう受け止めるのか。
何もせずに、このまま見て見ぬふりをするのであれば、日航も加
担したと言われても仕方があるまい。それほどまで生データの開
示をしないのであれば、逆に生のボイスレコーダーに真相が記録
されていることが明白となる。政府が隠蔽し、その指示であるか
らといって、いつまでも情報を開示できないことで大きな罪を背
負っていることを自覚しなければならないのである。
 日航123便が墜落したきっかけは過失であったかもしれない
が、その後の対応で早急な救助ができたにもかかわらず、意図的
にしなかったのは重大な不作為の犯罪である。さらにべンゼンと
硫黄の含まれたタール系の燃料を使って現場を燃やしたとなれば
少なくとも死体損壊罪ともなる。もしも殺人事件であれば、時効
は成立していない。       ──青山透子著の前掲書より
─────────────────────────────
 それが事実であるかどうかは別として、飛行機の推進力を失い
つつも、一人でも多くの生存者を出そうとして、なおかつ不時着
を試みるJAL123便に、追尾するファントム戦闘機に対して
「ミサイルを発射せよ」という命令が出されたとします。血も涙
もない命令であり、明らかに犯罪です。この場合、ファントムの
操縦者は、その命令を拒否することはできないのでしょうか。
 池田昌昭氏による「仮説による対話」に、上官からミサイル発
射の命令を出されたファントム内における上官と部下の対話の一
部を再現します。ファントム機内における上官と部下の対話です
が、部下は命令の実行に抵抗しています。
─────────────────────────────
・自衛隊は国家機関の背骨であり、自衛隊は弱みを国民に見せて
 はならない。自衛隊がガタつけば今の支配者にとっても国民の
 批判が集中し、今までの特権や権益が失われる。今までやって
 きたことが無駄になる。
・相手は、民間機です。戦争用の飛行機ではない。多数の民間人
 が搭乗しています。
・だから、極秘に作戟を行うのである。
・「天網恢恢疎にして漏らさず」のことわざの通り、悪事は必ず
 露呈することなのです。
・「天知る、地知る、吾知る」のことわざの通りなのです。分か
 らなければ良いのである。
・現に標的機の訓練のことは誰も知らない。知っているのは一部
 の幹部だけである。
・そのためには、秘密裏にことを運ばなければならない。「蟻の
 一穴」のことわぎがある。情報が漏れないように、しかも情報
 をコントロールし、国民の目を真実から逸らすのである。
             ──池田昌昭著『御巣鷹山ファイル
       /JAL123便墜落事故真相解明』/文芸社刊
─────────────────────────────
 軍隊では、上官の命令には絶対服従しなければならないことに
なっています。自衛隊では、自衛隊法第57条に次のように定め
られています。
─────────────────────────────
(上官の命令に服従する義務)
 第57条:隊員は、その職務の遂行に当っては、上官の職務上
の命令に忠実に従わなければならない。
─────────────────────────────
 しかし、ドイツでは、「軍人法」という法律の第11条に「服
従」という規定があり、次のように定められています。
─────────────────────────────
(1)兵士は上官に従わなければならない。兵士は最大限の力で
   命令を完全に良心的に、かつ遅滞なく実行しなければなら
   ない。ただし、命令が人間の尊厳を侵し、勤務目的のため
   に、与えられたものでない場合は、それに従わなくても、
   不服従とはならない。
(2)命令は、それによって、犯罪が行われるであろう場合には
   兵士は命令には従ってはならない。
   ──ドイツ「軍人法」第11条/青山透子著の前掲書より
─────────────────────────────
 どうでしょうか。自衛隊法の規定は、あまりにも簡単過ぎ、ど
のようにでも解釈ができます。こういうところから、パラハラが
生まれてくるのではないかと思います。
         ──[日航機123便墜落の真相/057]

≪画像および関連情報≫
 ●軍隊では上官の命令に絶対服従か/ヤフー知恵袋
  ───────────────────────────
  【質問】
  「兵士」は上官の命令に絶対服従ですか ?
  もしそうだとすると、自分の良心に反することも「命令」に
  よってはしなくてはならないのでしょうか、だとすればある
  意味「奴隷」に近いです。そこであらためて、最初の質問で
  す。「兵士」は上官の命令に絶対服従ですか ?
  【回答】
  ID非公開さん
  先生から聞いた話。先生は戦時中陸軍の下士官でした。ある
  日士官学校を出たての少尉と電車に乗ったところ、目の前に
  座っていた男が洋書を読んでいたそうです。上官はいきなり
  その男の首を掴んで往復ビンタをして「この戦時下に敵性国
  家の本を読みやがってー」と怒鳴ったそうです。
  ところがその本はドイツ語で、殴った相手は海軍大佐だった
  からさあ大変。次の駅でおろされて上官はボコボコに。「陸
  軍の少尉がいつから海軍の大佐より偉くなったんだ。判るま
  で立っておれ」と命令され、結局上官の上官が海軍に謝りに
  行き「陸軍ではドイツ語と英語の差が判らんらしい」とかさ
  んざん嫌みを言われ許して貰うまで立っていたそうです。上
  官は帰隊後上官からボコボコにされ、以来すっかり借りてき
  た猫みたいにおとなしくなったそうです。「上官の命令は天
  皇陛下の命令と思え」なんて言って、突っ走るのも怖いです
  よね。             https://bit.ly/2D9eloU
  ───────────────────────────

中曽根康弘元首相/加藤紘一元防衛庁長官.jpg
中曽根康弘元首相/加藤紘一元防衛庁長官
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2018年11月12日

●「任意提出のビデオを返さない警察」(EJ第4888号)

 JAL123便墜落事件に関する真相について、国(政府)は
徹底的に隠す方針です。ここで「国」というのは、政府(自民党
政権)、行政機関、日本航空が一体になった概念です。それにし
ても、国と行政機関はわかるとしても、加害者の日本航空まで完
全に政府と一体化して、真相解明を阻んでいるのは理解に苦しむ
ところです。
 現在、生のボイスレコーダーは日本航空が管理しています。事
故調査委員会は、刑事事件は不起訴決定となったため、日本航空
に返却したのです。したがって、それを公開するかどうかは、日
本航空の判断でできることになります。遺族会としては公開を求
めていますが、日本航空は、今度は機長、副操縦士、航空機関士
の遺族の手前もあるという理由で公開を拒んでいます。拒む理由
になっていません。
 公開するかしないかは一応日本航空の判断としているものの、
おそらく政府(自民党)から「絶対公開するな」という強い指示
が出ているはずです。実際に当時の運輸省は、情報公開法の施行
前に、日航123便墜落事件関連の資料をおよそ1トン分を破棄
しています。森友問題で日本の行政機関は、自分たちの都合で、
重要な文書を平気で廃棄してしまうことを知ってがくせんとした
ものですが、ここでもやっているのです。これに関して、青山透
子氏は、次のように述べています。
─────────────────────────────
 前橋地検の検事正が遺族への報告会で、「時効はないのだから
すべての資料は永久保存する」という話をしており、遺族側もそ
れを望み、将来公開してくれ、と言っている。それを無視して廃
棄した当時の運輸省の公務員としての重い責任も問わなければな
らない。つまり、誰もが聞くことができ、誰もが閲覧できるよう
にしてこそ、それが真実であると言えるのであり、本物を聞かせ
ていない、見せていない、その閉鎖的な現状からは、調査した側
にとって都合の良い部分だけ抜き取った改ざん資料と言われても
仕方がない。
 今もなお森友・加計問題同様、脈々とその「伝統的な方法」で
仕事を続けているとすれば、時の政府に迎合し、恣意的な仕事を
する国家公務員に信頼性などないと断言されるのは当然である。
それとも、政治家からの強い圧力に屈したということなのだろう
か。            ──青山透子著/河出書房新社刊
          『遺物は真相を語る/日航123便墜落』
─────────────────────────────
 青山透子氏は、JAL123便の垂直尾翼を回収した海上自衛
隊護衛艦「まつゆき」が、相模湾でどのような訓練をしていたの
か、防衛省に、ダメもとで、情報開示の法律に基づいて、行政文
書開示請求をしてみたのです。
 そうしたところ、防衛省の事務局から電話があり、次のように
いってきたそうです。
─────────────────────────────
 これに関する文書はない可能性があるので、請求されても見つ
かりませんから、請求を取り下げたらどうですか。
               ──青山透子著/河出書房新社
   「日航123便墜落/疑惑のはじまり/天空の星たちへ」
─────────────────────────────
 これもまことにヘンな話です。わざわざ電話してくるのもヘン
ですが、はじめからないと決めつけているのです。もっとも演習
内容などは国家機密であるといわれてしまえば、それまでのこと
ですが、請求者がどういう人物か知ったうえで、電話をしてきた
ものと考えられます。
 もっとひどい話があります。押田茂實氏という人がいます。D
NA型鑑定第一人者として、法医学の世界で活躍してきた人で、
123便墜落事件でも、群馬県藤岡市民体育館における遺体の確
認作業も参加し手伝っています。そのとき、学術的な研究のため
身元確認状況を撮影した8ミリフィルムとビデオを少しでも役立
てばと警察に任意提出したのです。
 ところが、その8ミリフィルムとビデオがいつまで経っても返
却されないのです。そこで押田茂實氏は、2017年5月22日
付で群馬県警警察本部長宛てに手紙を出し、すべてを返却するよ
う催促したのです。
 そうしたら、群馬県警から3人の警察官が押田氏の家にやって
きて次のようにいったというのです。
─────────────────────────────
 ビデオは、はい、あります。8ミリ3本とベータ2本ですね。
見ました。あまりに凄すぎて、お返しできない。
              ──青山透子著/河出書房新社刊
          『遺物は真相を語る/日航123便墜落』
─────────────────────────────
 任意提出された物品を警察が没収し返却しない。あり得ないこ
とです。警察としては無理は承知でそういっている感じです。返
却して、それが公開されるのを明らかに恐れているのです。これ
について、青山氏は次のように怒りをぶつけています。
─────────────────────────────
 それは33年も経って刑事事件の資料でもない上に、所有者が
明確にわかり、学術的に大学で使用する目的で撮影したものであ
る。任意提出であるにもかかわらず、何の権限があって返さない
と言えるのかと呆れてしまった。それはまるで、「警察に自分の
財布を預けてくれと言われて預けておき、あとで返却してくれと
いったら、財布の中身がお金でいつぱいで凄すぎて返せない」に
等しい強弁である。いつから日本の警察は勝手に他人のものを没
収できるようになったのか。これは明らかに業務上横領罪であっ
て、他の警察官を呼んできて、3人を逮捕してもらわなければな
らない事件である。        ──青山透子著前掲書より
─────────────────────────────
         ──[日航機123便墜落の真相/058]

≪画像および関連情報≫
 ●群馬県警と東京新聞の不思議な関係/青山透子氏
  ───────────────────────────
   群馬県警が自分たちが著作権者の捜査資料を、このタイミ
  ングで東京新聞に提供したようですが、記事にはどこから入
  手と書いていない不思議な記事です。恐らく群馬県警自ら開
  示したのでしょう。ご遺族には「実は内々で、群馬県警から
  こういう資料を入手しましてこれに対するコメントを」と東
  京新聞記者が持って行ったのでしょう。だから、コメントの
  冒頭から、群馬県警はよくやってくれたという会話に繋がっ
  たと容易に想像出来ます。
   しかしながら、この書類を前橋地検に渡していたのであれ
  ば、起訴可能だったはずだと弁護士も語っているように「予
  見可能性出来たので起訴すべきだった」というコメント通り
  起訴出来たはずです。群馬県警が今回、わざわざ出したこと
  が裏目に出たと思います。そして起訴出来なかった理由が他
  にある、と思われても仕方がありません。
   恐らく、この記事によって日航と運輸省の無責任さを前面
  に出して、過去を正当化する方向付けをしたかったのだろう
  と推定されます。さらに拙著にて、当時の河村本部長に関す
  ることや群馬県警が当時の学術ビデオを今でも返還しない、
  という、業務上横領的な発言をしたことに対する罰の悪さと
  も言えます。メンツを優先させたのか、自分たちの正当性を
  言いすぎると、逆におかしいことが明らかになるものです。
                  https://bit.ly/2QvQVhF
  ───────────────────────────

藤岡体育館に集められた遺体.jpg
藤岡体育館に集められた遺体
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2018年11月13日

●「日航機墜落事件と秘密保護法制定」(EJ第4889号)

 昨日のEJでご紹介したDNA型鑑定の第一人者である押田茂
實氏が、大学での法医学教室での講義に使うため、藤岡体育館の
遺体安置所での検視風景や身元確認状況を撮影した8ミリとビデ
オについて再度取り上げます。この事実は重要だからです。
 押田茂實氏はこれらを任意で群馬県警に提出しています。とこ
ろが、群馬県警は33年間も経過しているのに一向に返却してく
れないのです。その経過を青山透子氏の本から引用します。
─────────────────────────────
◎2017年 5月22日
  押田茂實氏が群馬県警察本部長「山本和毅」殿あてに手紙を
 出す。内容は、日航123便遺体安置所の学術用ビデオ返却の
 依頼である。
◎2017年 5月24日
  午前中、捜査一課長補佐、U氏より電話あり。今後の窓口と
 なるとの説明。若干の時間的猶予をくださいとのこと。
◎2017年 8月10日
  電話があり、折り返し午前10時08分にコールバック。8
 月23日(水)の午後1時に神楽坂法医学研究所に訪問予定と
 の連絡。
◎2017年 8月23日
  午後1時、群馬県警察本部より3名が押田氏の事務所に訪問
 してきた。警察は「お返しできない」と主張。押田氏の「文書
 で回答願いたい」について、警察は「はい」と答えて帰った。
◎2017年11月 1日
  電話連絡14時21〜26分。県警より「返却不可。書類回
 答できない」との返答。
◎2017年12月 4日
  16時40分。電話にて刑事部理事官Sと名乗る人物から、
 「例のビデオは返却できません」との返答。押田氏の「警察の
 最終結論ですか?書類でいただけませんか」との問いに対して
 「そういうことはできません。では・・」と電話を切られる。
              ──青山透子著/河出書房新社刊
          『遺物は真相を語る/日航123便墜落』
─────────────────────────────
 警察とは、とくに法令順守を一番に心がけて仕事をしなければ
ならない役所です。それなのに、任意で提出した個人の所有物を
没収して返却しないのです。どういう法律で警察にはそれが許さ
れているのでしょうか。
 そういう法律はありません。したがって、もし押田氏が法的手
段に訴えたら、群馬県警は敗訴することになります。だからこそ
そのときに不利になる文書は絶対に出さないのです。しかし、法
医学者は、警察と関係の深い仕事であり、まさか法的手段にまで
出ないと考えているフシがあります。
 このことに関係する情報がネット上にあります。以下はそのブ
ログに基づいて記述します。
 2009年に念願の政権交代を成し遂げた民主党は、自民党が
長期政権の間に国民に隠していた重大な事実を暴くことに意欲を
燃やしていたのです。
 しかし、民主党政権下で行われた日米密約に関する調査は、日
本への核持ち込み密約(1960年1月の討論記録)への評価に
見られるように、日米の合意文書そのものの存在は認めつつ「密
約ではない」として本質をゆがめ、国民をだましてきた国家的犯
罪を見逃しました。
 沖縄核密約(合意議事録)に関して民主党政権は、調査期間中
に張本人である佐藤栄作元首相の自宅から原文が発見されたにも
かかわらず、存在そのものを否定するという異様な姿勢です。し
かし、沖縄返還交渉の米側担当官であるハルペリン氏がその存在
と有効性を証言したことは重大です。
 実は民主党政権は、JAL123便墜落事件についても真相究
明に取り組んでいるのです。2010年8月、JAL123便墜
落事件の再調査を、当時国土交通大臣である前原誠司氏が中心に
なって行っています。それは、日本航空が会社更生法を申請し、
社長に京セラの稲盛和夫氏が就いたことに関係があります、稲盛
氏は前原誠司氏の支援者です。稲森氏は、JAL123便墜落事
故に政治犯罪が隠されていることに気が付き、再調査をやるよう
前原氏にアドバイスしたといわれています。
 思えば、JAL123便墜落事件の真相解明は、このときが最
大のチャンスだったといえます。なぜなら、政権が交代し、日本
航空の社長が国土交通大臣前原誠司氏の支援者、稲盛和夫氏だっ
たからです。
 しかし、どうしたことか、前原国土交通大臣は、2011年7
月に123便の事故解説書を公開し、あろうことか、事故原因は
後部圧力隔壁の損傷であると結論づけたのです。この頃はこの説
が生存者の証言などからありえないことがわかっていたにもかか
らわず、平然とこの説を主張したのです。
 この前原誠司氏の結論は、密約文書が佐藤栄作元総理の家から
発見されたにもかかわらず、明文化された密約文書は存在しない
という岡田克也氏の生煮えの結論と同じであり、国民を大いに失
望させたのです。一体何を守ろうとしたのか、それとも脅された
のか。現在の民主党の残党の政党が国民の支持を得られないのは
自民党では絶対にできなかったこれらの調査を実行して欲しいと
いう国民の期待を裏切ったからです。
 法律を冒してまでビデオを返そうとしない群馬県警のケースの
ように国家には絶対に国民に秘匿しなければならない政治犯罪が
あるということからなのか、2011年12月に野田佳彦前首相
は「秘密保護法」を策定するのです。何もかも民主党です。これ
によって野田佳彦氏率いる民主党は、これら戦後2つの政治犯罪
をいったんはパンドラの箱を空けながらも、再びそれらを闇から
闇に葬り封印したのです。これらの首謀者たちは「無所属の会」
にいます。    ──[日航機123便墜落の真相/059]

≪画像および関連情報≫
 ●日本航空123便墜落事故を検証する
  ───────────────────────────
   このように特定秘密保護法案が策定された経緯を知れば、
  この法案の弱点がわかる。そう、日本航空123便墜落事故
  の事故原因である。事故原因が後部圧力壁ではないことは、
  世界の航空関係者が知っている。事故の生存者の証言でも機
  内の圧力は下がっていないのだ。
   しかし、重要なポイントは、中曽根政権がこの事故を死人
  に口無しとばかりに、人命救助をしないばかりか生存者を殺
  害したことである。これを問題とさせないために、事故原因
  の究明に遺族や関係者の目を向けさていることに気がつかな
  かればならない。
   日航機123便墜落事故は、航空機事故というよりも、証
  拠隠滅のための殺戮という事件であり、国際刑事裁判が審査
  する事案であるのだ。日本側が主張する後部圧力壁の損壊を
  事故原因とするために、当時の中曽根政権は、外交ルートを
  通して、ボーイング社と後部圧力隔壁を事故原因とする口裏
  合わせを要請しているはずだ。この外交文書が、米国の公文
  書の公開で明らかになれば、国際刑事裁判所も動かざるをえ
  なくなるだろう。日航123便墜落事故の政治犯罪の首謀者
  である中曽根康弘は存命中である。かれは、この事件の真相
  を墓場まで持っていくと公言している。この法案を成立をほ
  くそ笑んでいるのは中曽根康弘なのだ。(中略)法案が成立
  した現在、日航123便墜落事故を調査をした者は逮捕され
  てしまう。この政治犯罪を証明するのは、特定秘密保護法が
  適用されない日本国外の日本国籍以外の人たちに託すしかな
  い。              https://bit.ly/1DMzYqT
  ───────────────────────────

佐藤栄作/非核三原則.jpg
佐藤栄作/非核三原則
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(0) | 日航機123便墜落の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月14日

●「大きな航空機事故にはウラがある」(EJ第4890号)

 8月20日から続けてきている今回のテーマは、そろそろ終了
します。EJでは、このテーマを3回にわたって取り上げました
が、基本的なことに変化はありません。ただ、青山透子氏の本に
よって、多くのことが裏付けられたといえます。そこで起きた6
つのことを再現します。
─────────────────────────────
 1.護衛艦「まつゆき」から発進したとみられるミサイル標
  的機が、JAL123便の垂直尾翼を破壊する。
 2.JAL123便の高濱機長は、操縦困難の飛行機をコン
  トロールし、横田基地へ緊急着陸しようとする。
 3.浜松基地から発進し、123便を追尾していた2機の戦
  闘機が横田着陸を阻止し、山の方向に誘導する。
 4.123便はなおも不時着を試みようとするので、戦闘機
  2機は123便にミサイルを発射し、撃墜する。
 5.自衛隊は墜落場所が特定されないようニセの情報を流し
  その間に特殊部隊が現場から証拠物を搬出する。
 6.自衛隊特殊部隊が現場から立ち去るさい、火炎放射器を
  使って、墜落現場を万遍なく焼き尽くしている。
─────────────────────────────
 この「事件」、政府はあくまで「事故」といっていますが、こ
れは「事件」です。33年経っても解決していないからです。こ
の事件で、政府関係者、日本航空関係者、自衛隊関係者は、誰ひ
とり責任をとっていません。裁判も全員不起訴で、時効が成立し
ています。しかし、520人もの人が死亡しているのです。
 ただ、事件はけっして風化していないのです。だからこそ33
年も経っているのに、青山透子氏の本をはじめとして、多くの新
事実が続々と出てきています。しかるにこの青山氏の主張を「陰
謀論」扱いし、葬り去ろうとする動きもあります。
 この事件のキーは、羽田空港に戻ろうとしたJAL123便を
追尾した2機のファントム戦闘機の存在です。自衛隊はこの事実
を完全否定しています。自衛隊は、ファントム戦闘機の発進につ
いて、次のように述べています。
─────────────────────────────
 1985年8月12日、19時01分、大中一佐、松永空将の
了解にて、スクランブル発信命令。空自百里F−4EJファント
ム戦闘機2機(第305飛行機、式地豊二将ら発進)。この時間
より以前、自衛隊はファントム機、ヘリなど発進させていない。
               ──青山透子著/河出書房新社
  『日航123便/撃墜の新事実/目撃証言から真相に迫る』
─────────────────────────────
 しかし、2機のファントムについては、青山透子氏をはじめと
して、角田四郎氏の本などでも明らかにされている多くの目撃情
報があり、否定のしようがないのです。しかも、かなりの低空で
123便の後を2機の戦闘機が追尾しているのです。まだ、夜に
なっておらず、大きな旅客機を追尾する2機の戦闘機はよく見え
たといっています。同じ情景を多くの人が目撃しているのです。
もし、それが自衛隊機ではないとしたら、どこの国の戦闘機だと
いうのでしょうか。
 しかし、自衛隊としては、この2機のファントムの存在を認め
てしまうと、「自衛隊は関わっていない」という主張がすべて崩
れてしまうので、完全否定です。
 青山透子氏は、とくに上記「6」について、あくまで客観的に
詳細極まる分析をしています。これを否定することは、本を読ん
だ人にはできないと思います。それほど詳しいし、それが正しい
ことを示す証拠はたくさんあるからです。政府事故調は、遺体に
ついては、あまり力を入れて調べておらず、青山氏の分析は、そ
れを補って余りある貴重なものです。
 この墜落事件のことを詳しく知らない人たちは、「自衛隊がそ
んなひどいことをするはずがない」といって、あたまから信じよ
うとはしません。ここでいう「自衛隊」とは、正確には国、政府
を意味します。
 護衛艦「まつゆき」から発進した標的機は偶然とはいえ、乗客
乗員524人が乗る旅客機の垂直尾翼を破壊し、操縦不能の状態
に陥れたのです。しかし、機長は4つのエンジンをコントロール
して、機首を立て直し、横田基地への緊急着陸態勢に入ったとこ
ろ、2機の自衛隊機にスクランブルをかけられ、御巣鷹山方向に
誘導されます。それでも、2機のファントムは、何とか不時着し
ようとする123便にミサイルを発射し、撃墜させたのです。そ
して、直ちに墜落現場に入ってミサイルなどの証拠品を回収し、
最後に生存者を含め、墜落現場を火炎放射器で焼き尽くしている
のです。あってはならないことですし、そんなことがあったと思
いたくはありません。しかし、墜落現場の状況、遺体の状況を詳
しく分析した結果は、それを裏付けているのです。
 この事件のすべてが明るみに出るチャンスは、昨日のEJで述
べたように、民主党が政権を奪取したときです。しかし、そのと
き、最高責任者である中曽根康弘氏と当時の防衛庁長官の加藤紘
一氏は生存しており、それが公開のネックになったのではないか
と思われます。なお、中曽根元首相は、現在も健在であり、この
事件については、「墓場まで持って行く」といっています。
 なお、自衛隊と民間航空機のからむ事件といえば「雫石事件」
があります。1971年(昭和46年)7月30日、午後2時に
発生した航空機事故です。自衛隊機と全日空の航空機の空中衝突
事件です。自衛隊機が民間航空路上で訓練していたことが原因で
乗客乗員162人を乗せた千歳発羽田行き全日空ボーイング72
7型機に自衛隊機が衝突したのです。明らかに、自衛隊側に非が
あります。自衛隊機の操縦士はパラシュートで脱出して無事でし
たが、乗客乗員162人は全員死亡したのです。
 実は、この航空事故にはウラがあります。このテーマの最後に
この「事件」について明らかにすることにします。
         ──[日航機123便墜落の真相/060]

≪画像および関連情報≫
 ●ネットで語り継がれる機長の言葉、事故の記憶
  ───────────────────────────
   コントロールを失った飛行機は、右旋回や左旋回を繰り返
  しながら不安定な飛行を続けていた。それでも機内には、懸
  命な操縦を続ける機長や副操縦士たちがいた。緊張の続く現
  場の会話の中で、やがて機長は誰にいうともなくつぶやく。
  「これはだめかも分からんね」
   1985年8月12日、日本航空123便は御巣鷹の尾根
  に墜落した。今年はそれからちょうど20年目にあたる。墜
  落による犠牲者は520人に上り、日本航空史上では最悪の
  事故だと言われている。
   年月が過ぎたとはいえ、いまウェブ上で検索すれば事故の
  情報をいくらでも収集できる。ネット上では当時の事件を報
  じる新聞画像、墜落現場の写真などが見つかる。たった4人
  の生存者のうちの1人による証言なども読むことができる。
   そんな中に、操縦席の会話を記録したとされるボイスレコ
  ーダーの音声を公開しているサイトがある。異常発生から墜
  落まで約30分の音声を短くまとめて再生したもので、ウェ
  ブでは事故機の飛行ルートも重ねて表示している。
   ボイスレコーダーの記録自体は、事故後15年を経過した
  時点で報道向けに公開された。サイト運営者はこうした音声
  ファイルをもとに、コンテンツを編集したようだ。会話内容
  は当時新聞などに掲載されたものとぴったり符号している。
                  https://bit.ly/2DeYKEk
  ───────────────────────────

全日空雫石事故.jpg
全日空雫石事故
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(2) | 日航機123便墜落の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月15日

●「雫石衝突事故の結論には意義あり」(EJ第4891号)

 自衛隊出身の機長が民間航空機を操縦し、自衛隊機と空中で衝
突する事故としては、1971年7月30日の「全日空機雫石衝
突事故」があります。このとき、乗客乗員162人が亡くなって
います。JAL123便墜落事件の14年前のことです。
 この雫石衝突事故のことをこのテーマの最後に取り上げるのは
2つの事件に共通性があるからです。まずは、雫石衝突事故とは
どんな事故であったかについては、次をご覧ください。
─────────────────────────────
 「ばんだい号」墜落から間もない(1971年/昭和46年)
7月30日、午後2時過ぎ、今度は岩手県雫石町上空で、乗員乗
客162人を乗せた千歳発羽田行き全日空ボーイング727型機
(以下、B727)に、訓練飛行中の航空自衛隊のジェット戦闘
機が衝突した。自衛隊機の操縦士はパラシュートで脱出して無事
だったが、全日空機は空中分解して乗員乗客全員が死亡し、遺体
が広範囲に飛散する大惨事となった。当時としては、世界航空機
史上最大規模の事故だった。
 原因は自衛隊機が民間航空路上で訓練をしていたことで、しか
もその危険性は十年前から行政管理庁が指摘しており、明らかな
人災であった。当然、自衛隊への批判が沸騰、自衛隊も責任を認
め、増原恵吉防衛庁長官は引責辞任した。以後、民間航空路と自
衛隊の訓練空域は分離された。尊い犠牲を払ってようやく改善が
実現したのである。乗客のうち123人は、北海道への団体観光
旅行から帰る途中の静岡県富士市の軍人遺族会の老人たちであっ
た。彼らにとっては、戦争につづき、2度も国家によって災厄を
こうむったことになる。           ──古川隆久著
  『歴史エンタテインメント=昭和戦後史(下)』/講談社刊
─────────────────────────────
 雫石衝突事故と123便事故は3つの点で共通性があります。
─────────────────────────────
 1.民間航空路上に自衛隊の飛翔体が入り込んで、民間航空
  機に衝突したこと。
 2.自衛隊機はもちろんのこと、民間航空機の機長も自衛隊
  出身の機長である。
 3.ともに世界航空機史上、最大にして最悪の大規模な航空
  機事故であること。
─────────────────────────────
 どういう状況での衝突事故かというと、自衛隊は2機のF86
F戦闘機で、1機に隅太茂津一尉教官、もう1機に訓練を受ける
市川良美二曹が搭乗していたのです。訓練空域では、基本隊形、
疎開隊形、機動隊形および単縦陣隊形の訓練と、教官機が予告な
しに左右の急旋回を繰り返すのを市川二層が等間隔で追尾する訓
練などを行っていたのです。
─────────────────────────────
      教官機 ・・・・・・ 隅太茂津一尉
      訓練機 ・・・・・・ 市川良美二曹
─────────────────────────────
 これら2機の戦闘機は、航空自衛隊第1航空団松島派遣隊の所
属であり、訓練空域は、秋田県横手市付近で、横手訓練空域の北
部をその一部に含む臨時の空域であったといわれています。
 14時02分、教官機を追って、市川二曹の訓練機が羽田に機
首を向けて飛行している全日空機に接近し、回避する間もなく訓
練機(時速840キロ)に全日空機(時速900キロ)が追いつく形
で衝突が起きたのです。
 この衝突事故については、裁判で刑事と民事で最高裁まで争わ
れ、最終的に次の判決が出ています。昭和58年(1983年)
9月22日の最高裁判決です。
─────────────────────────────
  隅太茂津一(教 官) ・・・ 禁固3年執行猶予3年
  市川良美二(訓練生) ・・・ 無罪
─────────────────────────────
 実はこの裁判は「自判」というかたちで決着がついたのです。
この裁判では、昭和50年(1975年)3月11日に、第1審
で教官は禁固4年、訓練生は2年8月の実刑判決が言い渡された
のですが、控訴審では、教官は控訴棄却、訓練生は無罪が言い渡
されています。
 しかし、最高裁では、この1、2審判決を破棄し、裁判長自ら
が「自判」し、上記の判決で決着をつけたのです。これはきわめ
て異例のことです。通常では、1、2判決を破棄し、第1審に差
し戻すのですが、差し戻してまで審理することはないという裁判
官の判断で、「自判」したのです。
 この雫石衝突事件に対して、異論を唱えている人がいます。軍
事評論家の佐藤守氏です。雫石事故の真相は、別にあるというの
です。佐藤守氏は、防衛大学航空工学科を卒業し、航空自衛隊に
入隊、戦闘機パイロットとして、総飛行時間3800時間を記録
しています。岡崎研究所の理事・研究員を務めています。
 佐藤守氏は、この雫石衝突事故について、「事実に反する」と
して次のように主張しています。
─────────────────────────────
 これは全く事実に反します。既に事故直後にはB727の左水
平尾翼が、86Fの右主翼をはば真後ろから切断したことを示す
明確な証拠が発見されていたので、B727が86Fに「追突」
したことは歴然としていたのですが、盛岡地裁の第一審でなぜか
自衛隊が有罪にされたのです。間違った事故調査によって、2人
の自衛隊パイロットが裁判にかけられましたが、追突され、パラ
シュート降下して生還した訓練生は仙台高裁で無罪が確定したも
のの、奇妙なことに離れた位置で指導していた教官が有罪になっ
たのです。              ──佐藤守著/青林堂
          『自衛隊の「犯罪」/雫石事件の真相!』
─────────────────────────────
         ──[日航機123便墜落の真相/061]

≪画像および関連情報≫
 ●実刑を主張する裁判官中村治朗の反対意見
  ───────────────────────────
   航空機の空中衝突は、瞬時にして多数の人命を奪う結果に
  つながる重大かつ悲惨な事故であり、これを防止するために
  は万全の措置と配慮が施されなければならず、殊に、具体的
  な飛行の進路及び態様の決定につき最終的な判断権を委ねら
  れた航空機の操縦者の責任は、極めて重大である。
   このような見地から本件をみると、被告人は、飛行訓練空
  域として指定された空域内に本件ジエツト・ルートJ11L
  が存在していることを漠然と意識していながらも、その位置
  を確認したうえ、衝突の危険を回避するような具体的な訓練
  飛行計画を樹てることをせず、また、絶えず自機及び追随機
  の進路と右ジエツト・ルートとの位置関係を確かめながら訓
  練飛行を実施する等の配慮を施すこともなく、漠然と右ジエ
  ット・ルートは実際のそれよりもかなり東方の盛岡市上空附
  近を通つているものと誤信したまま、漫然と本件ジエツト・
  ルート空域に進入して本件訓練飛行を実施したものであつて
  被告人のこのような不注意については、たとえこれに関連し
  て多数意見の指摘するような諸般の事情が存在することを考
  慮に入れても、なおそれ自体として責められるべき点が少な
  くない。そして現に、その結果として本件衝突事故が発生し
  162名の多数の生命が失われた。禁錮2年の実刑をもって
  臨むのが相当であると考える。  https://bit.ly/2RRoRoS
  ───────────────────────────

全日空機雫石衝突事故犠牲者慰霊碑.jpg
全日空機雫石衝突事故犠牲者慰霊碑
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(0) | 日航機123便墜落の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

●「雫石衝突事故の結論には異議あり」(EJ第4891号)

 自衛隊出身の機長が民間航空機を操縦し、自衛隊機と空中で衝
突する事故としては、1971年7月30日の「全日空機雫石衝
突事故」があります。このとき、乗客乗員162人が亡くなって
います。JAL123便墜落事件の14年前のことです。
 この雫石衝突事故のことをこのテーマの最後に取り上げるのは
2つの事件に共通性があるからです。まずは、雫石衝突事故とは
どんな事故であったかについては、次をご覧ください。
─────────────────────────────
 「ばんだい号」墜落から間もない(1971年/昭和46年)
7月30日、午後2時過ぎ、今度は岩手県雫石町上空で、乗員乗
客162人を乗せた千歳発羽田行き全日空ボーイング727型機
(以下、B727)に、訓練飛行中の航空自衛隊のジェット戦闘
機が衝突した。自衛隊機の操縦士はパラシュートで脱出して無事
だったが、全日空機は空中分解して乗員乗客全員が死亡し、遺体
が広範囲に飛散する大惨事となった。当時としては、世界航空機
史上最大規模の事故だった。
 原因は自衛隊機が民間航空路上で訓練をしていたことで、しか
もその危険性は十年前から行政管理庁が指摘しており、明らかな
人災であった。当然、自衛隊への批判が沸騰、自衛隊も責任を認
め、増原恵吉防衛庁長官は引責辞任した。以後、民間航空路と自
衛隊の訓練空域は分離された。尊い犠牲を払ってようやく改善が
実現したのである。乗客のうち123人は、北海道への団体観光
旅行から帰る途中の静岡県富士市の軍人遺族会の老人たちであっ
た。彼らにとっては、戦争につづき、2度も国家によって災厄を
こうむったことになる。           ──古川隆久著
  『歴史エンタテインメント=昭和戦後史(下)』/講談社刊
─────────────────────────────
 雫石衝突事故と123便事故は3つの点で共通性があります。
─────────────────────────────
 1.民間航空路上に自衛隊の飛翔体が入り込んで、民間航空
  機に衝突したこと。
 2.自衛隊機はもちろんのこと、民間航空機の機長も自衛隊
  出身の機長である。
 3.ともに世界航空機史上、最大にして最悪の大規模な航空
  機事故であること。
─────────────────────────────
 どういう状況での衝突事故かというと、自衛隊は2機のF86
F戦闘機で、1機に隅太茂津一尉教官、もう1機に訓練を受ける
市川良美二曹が搭乗していたのです。訓練空域では、基本隊形、
疎開隊形、機動隊形および単縦陣隊形の訓練と、教官機が予告な
しに左右の急旋回を繰り返すのを市川二層が等間隔で追尾する訓
練などを行っていたのです。
─────────────────────────────
      教官機 ・・・・・・ 隅太茂津一尉
      訓練機 ・・・・・・ 市川良美二曹
─────────────────────────────
 これら2機の戦闘機は、航空自衛隊第1航空団松島派遣隊の所
属であり、訓練空域は、秋田県横手市付近で、横手訓練空域の北
部をその一部に含む臨時の空域であったといわれています。
 14時02分、教官機を追って、市川二曹の訓練機が羽田に機
首を向けて飛行している全日空機に接近し、回避する間もなく訓
練機(時速840キロ)に全日空機(時速900キロ)が追いつく形
で衝突が起きたのです。
 この衝突事故については、裁判で刑事と民事で最高裁まで争わ
れ、最終的に次の判決が出ています。昭和58年(1983年)
9月22日の最高裁判決です。
─────────────────────────────
  隅太茂津一(教 官) ・・・ 禁固3年執行猶予3年
  市川良美二(訓練生) ・・・ 無罪
─────────────────────────────
 実はこの裁判は「自判」というかたちで決着がついたのです。
この裁判では、昭和50年(1975年)3月11日に、第1審
で教官は禁固4年、訓練生は2年8月の実刑判決が言い渡された
のですが、控訴審では、教官は控訴棄却、訓練生は無罪が言い渡
されています。
 しかし、最高裁では、この1、2審判決を破棄し、裁判長自ら
が「自判」し、上記の判決で決着をつけたのです。これはきわめ
て異例のことです。通常では、1、2判決を破棄し、第1審に差
し戻すのですが、差し戻してまで審理することはないという裁判
官の判断で、「自判」したのです。
 この雫石衝突事件に対して、異論を唱えている人がいます。軍
事評論家の佐藤守氏です。雫石事故の真相は、別にあるというの
です。佐藤守氏は、防衛大学航空工学科を卒業し、航空自衛隊に
入隊、戦闘機パイロットとして、総飛行時間3800時間を記録
しています。岡崎研究所の理事・研究員を務めています。
 佐藤守氏は、この雫石衝突事故について、「事実に反する」と
して次のように主張しています。
─────────────────────────────
 これは全く事実に反します。既に事故直後にはB727の左水
平尾翼が、86Fの右主翼をはば真後ろから切断したことを示す
明確な証拠が発見されていたので、B727が86Fに「追突」
したことは歴然としていたのですが、盛岡地裁の第一審でなぜか
自衛隊が有罪にされたのです。間違った事故調査によって、2人
の自衛隊パイロットが裁判にかけられましたが、追突され、パラ
シュート降下して生還した訓練生は仙台高裁で無罪が確定したも
のの、奇妙なことに離れた位置で指導していた教官が有罪になっ
たのです。              ──佐藤守著/青林堂
          『自衛隊の「犯罪」/雫石事件の真相!』
─────────────────────────────
         ──[日航機123便墜落の真相/061]

≪画像および関連情報≫
 ●実刑を主張する裁判官中村治朗の反対意見
  ───────────────────────────
   航空機の空中衝突は、瞬時にして多数の人命を奪う結果に
  つながる重大かつ悲惨な事故であり、これを防止するために
  は万全の措置と配慮が施されなければならず、殊に、具体的
  な飛行の進路及び態様の決定につき最終的な判断権を委ねら
  れた航空機の操縦者の責任は、極めて重大である。
   このような見地から本件をみると、被告人は、飛行訓練空
  域として指定された空域内に本件ジエツト・ルートJ11L
  が存在していることを漠然と意識していながらも、その位置
  を確認したうえ、衝突の危険を回避するような具体的な訓練
  飛行計画を樹てることをせず、また、絶えず自機及び追随機
  の進路と右ジエツト・ルートとの位置関係を確かめながら訓
  練飛行を実施する等の配慮を施すこともなく、漠然と右ジエ
  ット・ルートは実際のそれよりもかなり東方の盛岡市上空附
  近を通つているものと誤信したまま、漫然と本件ジエツト・
  ルート空域に進入して本件訓練飛行を実施したものであつて
  被告人のこのような不注意については、たとえこれに関連し
  て多数意見の指摘するような諸般の事情が存在することを考
  慮に入れても、なおそれ自体として責められるべき点が少な
  くない。そして現に、その結果として本件衝突事故が発生し
  162名の多数の生命が失われた。禁錮2年の実刑をもって
  臨むのが相当であると考える。  https://bit.ly/2RRoRoS
  ───────────────────────────

全日空機雫石衝突事故犠牲者慰霊碑.jpg
全日空機雫石衝突事故犠牲者慰霊碑
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2018年11月16日

●「なぜ、新証拠の審理をしないのか」(EJ第4892号)

 雫石空中衝突事故──この事故のことを知っている人は、民間
航空路上で訓練していた自衛隊機が、その航空路を飛行してきた
全日空58便に衝突し、自衛隊機のパイロットはパラシュートで
脱出して助かったものの、全日空機は空中分解、乗客乗員162
人は全員が死亡するという痛ましい航空機事故であると認識して
いるはずです。
 つまり、自衛隊側が一方的に悪いのです。自衛隊は責任を認め
増原恵吉防衛庁長官が引責辞任しています。その後、民間航空路
と自衛隊の訓練空域は完全に分離されたのです。当然のことが尊
い犠牲を払って実現したことになります。
 しかし、元自衛隊空将南西航空混成団司令の佐藤守氏によると
これらは全く事実に反するというのです。真相は、全日空機の方
が自衛隊の訓練空域に入り込んで来て衝突したのです。したがっ
て、執行猶予付きとはいえ、実刑になった隈一尉は無罪であり、
冤罪であると主張しています。佐藤守氏は、その理由について、
次のように述べています。
─────────────────────────────
 それは─────
 @非科学的分析を多々抱える政府事故調査報告書に基づき、
 A3次元空間における航空機の相対的な動きなどの理解能力に
欠ける裁判官が、
 B反自衛隊感情をむき出しにしたマスコミが誘導した風潮と
 C直後に明らかになったロッキード事件にまつわる政治がらみ
の圧力に押されて、無理やり判決を急いだものだからです。
 さらに付け加えるならば、全日空社が事故の補償を負担するこ
とになれば、昭和60年8月12日にB747が御巣鷹山に墜落
して、520名もの犠牲者を出した日本航空のように倒産の危機
にさらされる。これは同社に天下りしている運輸官僚達にとって
は是が非でも防がねばならない喫緊の課題でしたから政治家の力
を借りて、防衛庁(当時)航空自衛隊側の一方的な責任にさせ、
国に全額補償させて生き延びる、そんな陰謀がめぐらされた事
件≠セったといえるでしょう。         ──佐藤守著
          『自衛隊の「犯罪」/雫石事件の真相!』
                         青林堂刊
─────────────────────────────
 刑事事件としての決着については、昨日のEJでも書きました
が、詳しく書くと、次のようになります。
─────────────────────────────
  ●罪状/業務上過失致死罪/航空法違反
  ◎一審判決「盛岡地裁」/1975年 3月11日
    隈 被告 ・・・   禁固4年
    市川被告 ・・・ 禁固2年8月
  ◎二審判決「仙台高裁」/1978年 5月 9日
    隈 被告 ・・・ 控訴棄却/禁固4年
    市川被告 ・・・ 無罪
  ◎最高裁判決     /1983年 9月22日
    隈 被告 ・・・ 禁固3年/執行猶予3年
    市川被告 ・・・ 無罪
─────────────────────────────
 二審の仙台高裁の判決の後、58便の乗客が撮影したと見られ
る8ミリフィルムが証拠として提出されたのです。ところが、そ
のフィルムの分析の結果、その場所は空自が定めていた「臨時訓
練空域内」であることが判明されたのです。
 そうであるとすると、ジェット・ルートを逸脱して空自の訓練
空域に侵入したのは、全日空機ということになります。この場合
本来であれば、最高裁は二審の仙台高裁に差し戻し、そこで新証
拠を含めた審理を行うのが普通です。
 ところが、最高裁は、一審の盛岡地裁判決と二審の仙台高裁判
決を破棄し、「自判」で上記の判決を出したのです。これは何を
意味するかというと、新証拠を改めて審理しないということを意
味します。しかし、隈被告が「再審請求」をすれば、審理が行わ
れますが、隈被告は再審請求をしなかったので、刑事事件として
は、これで結審になったのです。
 はっきりしていることがあります。それは、新証拠の分析では
全日空機は、明らかに自衛隊の訓練空域に入り込んでいるという
ことです。この8ミリフィルムは、全日空側から提出されたもの
ですが、逆に全日空側を不利にする結果に終っています。
 どうやら、この航空機事故は、最初から自衛隊側の敗訴を前提
としていたものと思われます。「禁固3年/執行猶予3年」の判
決の理由について、1983年9月22日付、読売新聞夕刊は、
次のように書いています。
─────────────────────────────
 最高裁判決は、最大の争点になつた@全日空機と自衛隊機の位
置関係、A接触地点、B自衛隊機から見えたかどうか(視認可能
性)──などの事実認定については、二審判決を大筋において認
めた。そして、隈被告に教官として事故を起こした訓練機(市川
機)に対する見張り注意義務はあった、と認定した。しかし「義
務を十分果たすのは難度の高い作業だ」とし、本件事故の場合、
訓練機と全日空機の両機を見つけ、訓練機に的確な指示を与えて
事故を回避できた可能性は「ごく限られたものであつたといわざ
るを得ない」とした。
 こうした事故を避けるためには、民間機の常用ルート付近の空
域での訓練事態はできるだけ避けるべきであった、との見解を示
した。その上で判決は、隈被告に結果的に民間航空機のルートを
侵犯″した義務違反があったとしたものの、こうした空域侵犯
には訓練計画を作成した第一航空団松島派遣隊にも大きな責任が
あると指摘した。           ──佐藤守著/青林堂
          『自衛隊の「犯罪」/雫石事件の真相!』
─────────────────────────────
         ──[日航機123便墜落の真相/062]

≪画像および関連情報≫
 ●空から降った「人の雨」 雫石とウクライナ
  ───────────────────────────
   「空から人の雨が降ってきた」
   英デーリー・エクスプレス紙が報じた、7月17日発生の
  ウクライナ東部におけるマレーシア航空機ボーイング777
  撃墜の目撃者証言。昭和46(1971)年7月30日と同
  じだ、と思った。この日午後2時過ぎ、北海道・千歳を離れ
  東京・羽田を目指していた全日空ボーイング727が、航空
  自衛隊訓練機に岩手県雫石町上空で追突した。追突されたは
  ずの自衛隊機の《一方的過失》をメディアが創り出し、刑事
  裁判も3次元空間を理解できないなど、問題をはらんだ大惨
  事を取材したとき、似たような目撃証言を聴いたのだ。
   「天から人が降ってきた」
  といっても、リアルタイムの取材ではなく、事故を検証した
  産経新聞の大型長期連載《戦後史開封》を執筆するためだっ
  た。取材ノートの表紙には、《平成7年9月13日〜》とあ
  る。陸上自衛隊第二十二普通科連隊第一中隊長・S一尉以下
  130人は当日夜、宮城県多賀城市の駐屯地を出発し、雫石
  に翌日未明に到着。他の中隊とともに乗客・乗員の遺体収容
  に向け、山中に分け入った。S一尉らが見たのは、「戦場」
  だった。隊員は早々に金縛りに遭う。木という木に、おびた
  だしい数のストッキングや、下着、衣類、着物の帯が引っ掛
  かっていた。S一尉は回想した。「不謹慎だが、夏に見慣れ
  た仙台の七夕まつりの短冊のようだった」
                  https://bit.ly/2PXlFeb
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F86F戦闘機.jpg
 
F86F戦闘機
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2018年11月19日

●「航空路と訓練空域の錯綜のリスク」(EJ第4893号)

 雫石空中衝突事故の全日空側58便のクルーをご紹介しておき
ます。これらの操縦士は全員墜落死しています。
─────────────────────────────
        機長 ・・・ 川西三郎
      副操縦士 ・・・ 辻 和彦
     航空機関士 ・・・ D・M・カーペンター
─────────────────────────────
 川西機長について、操縦経歴をご紹介します。
 機長の川西三郎氏は、関西学院大経済学部卒業後、昭和30年
4月に陸上自衛隊幹部候補生学校に入校し、基本操縦課程を経て
第3、第10航空隊などで、主として小型機を操縦し、約6年間
陸自に勤務した後、昭和36年4月に退職、5ヶ月後に全日空に
入社しています。
 全日空での操縦歴は、ダグラスDC3、コンベアCV440、
フォッカーF27の機長を務めた後、B727に移り、事故直前
の昭和46年6月7日に機長資格を取っています。自衛隊時代か
らの総飛行時間は8033時間であるものの、B727について
は、242時間5分と短いのです。6月にB727の機長の資格
をとって次の月の7月の事故ですから、やはり慣れていない面が
あったことは否定できなないと思います。
 雫石空中衝突事故では、「航空路」とか「訓練空域」に関係す
る事故なので、「航空路」について知る必要があります。
─────────────────────────────
 航空路とは、航空機が飛行していく方向や飛行する高度を決め
て、安全に航行できるようにした「空の道」を指す。航路とも表
記する。航空機は、出発空港から到着空港までの間を一直線に飛
ぶのではなく、自動車や鉄道と同様に、決められたルートが存在
する。     ──ウィキペディア https://bit.ly/2FmVoBY
─────────────────────────────
 よく「民間航空路」とか「民間機専用航空路」とかいわれます
が、厳密には「航空路」ないし、「ジェット・ルート」と呼ばれ
ています。少し専門的になりますが、航空路には無線標識によっ
て、次の2つがあります。
─────────────────────────────
  1.NDB/Non-Directional (Radio) Beacon
       無指向性無線標識
  2.VOR/VHF Omnidirectional Range
    超短波全方向式無線標識
─────────────────────────────
 「1」の「NDB」というのは、主に中波を使って、航空機の
航法援助を行う無線標識です。2つの無線標識局を探知すること
により、三角測量によって現在位置を知ることができます。しか
し、NDBには誤差が大きい欠点があります。
 「2」の「VOR」というのは、VHF帯(超短波帯)を用い
る航空機用無線標識です。標識局を中心として、航空機がどの方
向にいるか知ることができます。
 現在では、より精度の高いVORを結んだ航空路が主流となっ
ており、これを「ヴィクター航空路」といいます。ヴィクター航
空路は、具体的にいうと、次のようなものです。
─────────────────────────────
 ヴィクタールートは、各VOR施設間を結ぶ通路で、中心線か
ら左右それぞれ最小7・2キロメートル、したがって全幅14・
4キロメートルを持つ通路です。VORよりも精度の落ちるND
Bを結んだ通路は、片側9キロメートル、したがって全幅18キ
ロメートルに設定されていました。これら、航空路を飛行する場
合は、その直線経路上を飛ぶのが原則ですが、上空の風などの影
響によって進路がずれた場合に備え、全幅10マイル幅をとって
対処しているのです。        ──佐藤守著/青林堂刊
          『自衛隊の「犯罪」/雫石事件の真相!』
─────────────────────────────
 佐藤守氏によると、空自の「訓練空域」はこれらの航空路を避
けたところ設定されますが、訓練の種類、たとえば、他基地への
連絡飛行や、航法訓練(クロスカントリー)などでは、当然のこ
とながら、航空路を使います。したがって、「民間航空路」のよ
うなものはなく、航空路はいわば「官民共用」なのです。
 しかし、飛行計画は事前に提出されるので、それを守っていれ
ば、空中衝突などは起こり得ないのです。問題は、民間機のジェ
ット化が当たり前になり、高度にしても、自衛隊機が使う空域に
似てきていることです。それに計器飛行と有視界飛行が同時に飛
ぶ危険性です。
 朝日新聞主催の「空中衝突危険いっぱい」という座談会で、司
会者と、渡辺正元空自総司令官、小山昌夫運輸省航空局東京空港
羽田主任管制官、関川栄一郎航空評論家とのとのやり取りに次の
ようなものがあります。
─────────────────────────────
司会:訓練空域が、空路に挟まれているのは問題ではないのか。
渡辺:航空路の”あき”はだんだん狭くなっている。関東も大坂
 も北九州周辺も、その例に漏れず、三角形の空路のスキ間を訓
 練空域に採用せざるを得なくなっている。高度も民間機がジェ
 ット化されてきている結果、航路と訓練空域が重なっている。
小山:空路と訓練空域の間に緩衝地帯を設ける必要がある。ジェ
 ット機時代になり、使用高度も2万〜3万フィートと自衛隊と
 よく似てきた。空には、道路のように、はっきりとした区分が
 あるわけではないので、自衛隊機が民間航路に入り込むおそれ
 は十分ある。
関川:計器飛行と有視界飛行が同時に飛ぶのは、航空路を横切る
 のにも無警告でいいなど現行法には不備がある。
                 ──佐藤守著の前掲書より
─────────────────────────────
         ──[日航機123便墜落の真相/063]

≪画像および関連情報≫
 ●上田晋也のニッポンの過去問/雫石空中衝突事故
  ───────────────────────────
   1971年7月30日、全日空機と航空自衛隊の戦闘機が
  岩手県雫石町上空で空中衝突しました。戦闘機を操縦してい
  た自衛隊の訓練生はパラシュートを使い脱出しましたが、全
  日空機の乗客乗員162人は全員死亡しました。衝突してし
  まった原因は自衛隊側の「ずさんな飛行訓練計画」「教官機
  の誘導ミス」「パイロットの操縦の未熟さ」の3点と考えら
  れ、自衛隊には大きな批判が寄せられました。
   一方、全日空機側には「ボイスレコーダーが装備されてい
  なかった」「訓練機を視認していたと推定されるが直前まで
  回避操作が行われなかった」などといったことも事故原因と
  して挙げられました。
   この事故により空の安全対策が急がれ、空域内を飛行する
  全ての航空機に官制を受けることを義務付ける「特別官制空
  域の拡充」「フライトレコーダーやボイスレコーダーなどの
  装置の義務化」やトランスポンダと呼ばれる「空中衝突予防
  装置の搭載」も義務付けられました。
   さらには自衛隊・米軍・民間の空路の完全分離など雫石衝
  突事故を教訓に数々の安全対策が設けられ、この事故の反省
  により空の安全は大きな進歩をとげたのでした。
                  https://bit.ly/2Bcyjhp
  ───────────────────────────

上田晋也のニッポンの過去問.jpg
上田晋也のニッポンの過去問
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2018年11月20日

●「全日空58便の30日の乗務状況」(EJ第4894号)

 繰り返しますが、雫石空中衝突事故は、自衛隊機の“暴走”と
いうことで、裁判では決着がついていますが、事実はまったく逆
です。全日空機が自衛隊の訓練空域に入り込み、自衛隊の市川機
に追突して起きたのです。これは、詳しく事実をフォローしてみ
ると、正しいことがわかります。
 もし、これが本当であるとすると、自衛隊はなぜ黙っているの
でしょうか。なぜ、抵抗しないのでしょうか。もちろん自衛隊は
反論していますが、それは弱々しいものです。そこに国の判断が
入っているからです。
 なぜ、国は全日空に配慮したのでしょうか。
 ここがポイントです。当時は、第3次佐藤改造内閣でしたが、
その翌年に田中角栄内閣が誕生し、政界を巻き込むあのロッキー
ド事件が起きています。そのとき、全日空は疑惑の中心にいたの
です。国の決定はこういう時代背景と無関係ではないのです。
 この雫石空中衝突事故の起きた日、全日空機に何があったのか
について調べてみることにします。
 昭和46年(1971年)7月30日の朝、川西機長、辻副操
縦士、カーペンター航空機関士のクルーと4人のスチュワーデス
は千歳空港にいたのです。この朝一番の便である千歳発午前8時
40分、羽田着午前10時の50便の乗務をするためです。
 この羽田行きの50便で、クルーは午前9時過ぎに、盛岡付近
上空で、自衛隊の二機編隊を目撃しています。
─────────────────────────────
 当時の乗客の話によると、辻副操縦士が飛行機の速度、高度な
どを客室にアナウンスしていた時である、突然声が途切れた。5
秒ほどしてから「左手に自衛隊機の編隊飛行が見えます」といっ
て終わった。後でスチュワーデスがこの時の模様を尋ねたところ
辻副操縦士は「自衛隊機にヒヤッとしたんだ」と答えている。
   ──足立東著『追突/雫石航空事故の真実』日本評論社
                  ──佐藤守著/青林堂刊
          『自衛隊の「犯罪」/雫石事件の真相!』
─────────────────────────────
 佐藤守氏が調べたところによると、このとき2機編隊飛行をし
ていたのは、浜松から松島派遣隊に異動してきた小野寺康充教官
と訓練生機だったのです。その小野寺教官は、訓練生機の下を通
る全日空機をみて、訓練生に注意しています。
 さて、全日空50便として羽田に到着すると、同じクルーで、
今度は羽田発57便として、午前10時50分に羽田を離陸し、
千歳に引き返すことになっています。しかし、50便の羽田到着
は午前10時であったので、時間は50分しか余裕がないことに
なります。乗客の降り乗り、機内の掃除、荷物の搬出と搬入、機
体の点検整備を50分でやることは神業です。すべてのことをき
ちんとやることが困難な時間といえます。
 操縦クルーは、その短い時間で、デイ・ブリーフィング(飛行
後の打ち合わせ)、千歳行きのための気象ブリーフィング、ディ
スパッチャー(運行担当者)との打ち合わせ、クルーの確認、機
長ブリーフィングと、トイレに行く時間もない忙しさです。
 しかし、そのときは、コックピットの防氷装置の不具合が発見
されたので、出発は39分遅れ、午前11時29分発になってし
まったのです。
 この全日空57便がいつ千歳に着いたのかについては不明なの
で推察するしかないですが、飛行計画から1時間20分の飛行時
間がかかるとして、午後12時50分になるはずです。機長の飛
行計画によると、この機は全日空58便として再び羽田に向うの
です。出発予定時刻は午後1時15分になっています。
 上記の足立東著『追突/雫石航空事故の真実』によると、午後
1時25分に駐機場から地上滑走を開始し、午後1時33分頃離
陸したことになっています。もし、千歳着が12時50分とする
と、準備には30分しか時間がなかったことになります。この時
間で必要なことをすべてやるのは不可能であり、操縦クルーやス
チュワーデスは、食事をするヒマなどなかったと思われます。
 この全日空58便が、実際にどのように羽田に向い、雫石町上
空で、自衛隊機と衝突したか、衝突までの状況を佐藤守氏の本か
ら引用します。
─────────────────────────────
 7月30日午後1時33分に、川西機長が提出した飛行計画よ
り18分、出発予定時刻の午後零時40分より53分も遅れて、
千歳空港を離陸した58便は、千歳のレーダー管制を受けつつ上
昇し、札幌管制所の管制下に移行、午後1時46分に函館NDB
を高度22000フィートで通過、そこで次の松島NDB通過予
定時刻は、午後2時11分であると通報しました。
 そして函館NDB通過後の1時50分に、高度28000フィ
ート(約8500メートル)に到達したことを札幌管制所に通報
し、この時点で機長は自動操縦に切り替え、以後計画書どおりに
「松島NDB」に向けて、高度28000フィートで南下したこ
とになっています。
 事故後に公表されたフライト・データ・レコーダー(FDR)
の記録によれば、以後、計器速度310〜318ノット(マッハ
0・79)、機首磁方位は189〜190度、垂直加速度がほぼ
1Gという水平定常飛行が、衝突時まで続き、好天に恵まれた穏
やかなフライトだったことを窺わせますが、進路維持には疑問を
抱かざるを得ません。       ──佐藤守著の前掲書より
─────────────────────────────
 これを見ると、操縦クルーは少なくとも午後1時50分までは
食事がとれなかったと思われます。このクルーの30日のフライ
トは58便で3回目であり、スチュワーデスの4人を含めて心身
ともに疲れ切っていたものと思われます。そこで高度28000
フィートに達したところで、自動操縦に切り換え、食事をとった
のではないかと推察されるのです。
         ──[日航機123便墜落の真相/064]

≪画像および関連情報≫
 ●予定便変更で生死を分けた42人と25人/朝日新聞
  ───────────────────────────
   飛行機の遅れがひどいため、たまりかねて一便予定を早め
  て命拾いした42人と「みんな一緒の飛行機で帰ろう」と一
  便遅らせて遭難した25人と──空中衝突した全日空58便
  の53分の遅れの離陸が団体客の「生」と「死」を分けた。
  日本旅行高知営業所などが募集した北海道観光旅行団に参加
  した高知県土佐市の高岡農協の42人は、運命≠フ全日空
  58便(千歳発予定午後12時40分)で東京へ向かう予定
  だった。
   ところが、この日は羽田空港上空の慢性ラッシュ″や、
  飛行機の整備などのため、千歳発の便が軒並み20分から1
  時間あまりも遅れており、58便も相当遅れる見込みになっ
  たため乗り継ぐ予定の大阪行き29便に間に合わなくなる、
  と、急ぎ一便前の82便に乗り換え、危機一髪で難をまぬか
  れた。一方、遭難した静岡県の吉原遺族会の一行125人の
  うち、100人はもともと58便に乗ることになっていたが
  25人は58便の席が取れなかったため、82便で一足先に
  東京へ向かうことにしていた。ところが、飛行機の遅れで、
  高知の団体のほか、一般客の中にも予定を変更して早い便に
  乗る人が続出して粥便の席が空いたため、「楽しい旅だから
  みんないっしょに帰ろう」と、25人はわざわざ一便遅らせ
  て、53分後に出発した58便に乗ったという。
           ──1971年7月31日付、朝日新聞
  ───────────────────────────

全日空/B727.jpg
全日空/B727
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2018年11月21日

●「58便コックピットの中での対話」(EJ第4895号)

 佐藤守氏の本にコックピットでの次の会話が出ています。これ
は元海軍パイロットの須藤朔氏と阪本太朗氏の著作に出ていたも
のです。58便が千歳を離陸してから上昇し、28000フィー
トで水平飛行に移るまでの間のコックピットの状況を推定して、
それを「再現」しています。そのときの全日空機のコックピット
内の雰囲気がわかるので、少し長いが引用します。
─────────────────────────────
 操縦席の辻副操縦士が、隣の席(左席)の機長に声を掛ける。
「キャプテン、機首方位が安定しませんね。風向の違い(高度に
よって)が大きいようです」
 川西機長がうなずく。
「うん、速度も落ち着かないね。だが、この程度では酔っ払うお
客さんはいないだろうよ。まあ、シートベルトを、もうしばらく
着けていてもらうことにしようか」
 機は函館まで、後約30マイルの地点に来ていた。
「千歳レーダー、こちら全日空58便。高度1万5000フィー
トを越えた」
 管制通信は副操縦士の仕事である。すぐに管制塔のレーダー担
当から応答がある。
「全日空58便、諒解。2万8000フィートまで上昇、その高
度を維持せよ。現在位置は函館ラジオ・ビーコンの北東30哩。
レーダー応答機の識別符号は分類2300を使え。レーダー管制
空域は終わった。管制通信電波周波数を135・9メガヘルツに
切り替えて札幌管制部と連絡を取れ」
「58便、諒解、札幌管制部と連絡する」
 ここで全日空58便は、千歳空港管制塔の管制下をはなれた。
管制交信記録によると、全日空58便は、13時46分に高度2
万2000フィートで函館上空を通過したこと、ついで約4分後
の13時50分11秒には高度2万8000フィートに達したこ
とを札幌管制部に報告している。
 58便が巡航速度に達して水平飛行に入ったのは、青森県下北
半島の西岸上空で、陸奥湾へ後12、3キロの地点だった。
 機長が副操に声をかける。
「今日は往復とも天気には恵まれたね。もう80哩(約150キ
ロ)先の岩手山が見えているよ」
 このときの機首方位は185度(真南より5度西寄り)真対気
速度は400ノットから刻々上昇しつつあった。
「これほどの視界はめったにありませんな。風は右正横からで約
40ノット(秒速約21メートル)、偏流(風下側に流される角
度)は現在約6度です」
「巡航速度になれば(偏流は)4度半から5度というところだろ
うな」と機長。
「十和田湖と岩手山の位置から見ると4、5キロ。ルートから右
にはずれているようですが・・・」
「こんなに良く見える日は、航法に気を使うことはないよ。今日
は大分おくれたから、仙台のVORで、気楽に近道と行こうじゃ
ないか」
「そうします。ところでキャプテン、おなかの方は?」
「ペコペコだよ。千歳じゃ食べている暇はないからな。“ジョー
ジ”(自動操縦装置)におまかせして昼食にしよう」
              ──須藤朔/阪本太朗著/圭文社
        『恐怖の空中接触事故=空の旅は安全か!?』
                  ──佐藤守著/青林堂刊
          『自衛隊の「犯罪」/雫石事件の真相!』
─────────────────────────────
 なぜ、このような仮想対話になってしまうのかというと、衝突
した全日空機、B727─200型機(JA8329)には、ボ
イスレコーダー装備されていなかったのです。
 「そんな馬鹿な!」と誰しも思うはずです。確かに、これはお
かしいです。この事故機であるB727─200型機(JA83
29)は、製造10日後の昭和46年3月12日に、全日空社に
納入されたばかりで、ボイスレコーダーが付いていないはずがな
いからです。
 確かに1960年代後半の航空機には、必ずボイスレコーダー
が付いているという状況ではなかったのですが、昭和41年に起
きた全日空の次の2つの飛行機事故を契機として、ボイスレコー
ダーの設置が義務付けられるようになっていたからです。
─────────────────────────────
   ◎全日空羽田沖事故/B727─100型
    1966年 2月 4日/133人全員死亡
   ◎全日空松山沖事故/YS─11機
    1966年11月13日/50人全員死亡
─────────────────────────────
 これら2つの事故の原因は不明です。ボイスレコーダー(CV
R)が装備されていなかったからです。元航空庁長官で、日本航
空に天下りしていた大庭哲夫氏は、1966年の全日空の2つの
事故があった直後からボイスレコーダーの装備の必要性を説いて
いたのです。その大庭氏は1967年に事故続きの全日空の立て
直しのために全日空の副社長に就任しています。その4年後に雫
石事故が起きているのですが、その全日空機にボイスレコーダー
が装備されていないはずがないからです。
 全日空は1966年に2回墜落事故を起こした後、1971年
7月に雫石事故を起こしたことになります。いずれも乗客乗員全
員が死亡しています。そういう意味でも雫石事故だけは、国とし
て全日空犯人説はとれなかったのでしょう。
 事故機にはボイスレコーダーは装備されていたはずですが、そ
れを公開すると、自衛隊犯人説が崩れてしまうので、装備されて
いなかったということにしたのではないかと思われます。どうし
て、こうも自衛隊犯人説にこだわるのでしょうか。
         ──[日航機123便墜落の真相/065]

≪画像および関連情報≫
 ●昼間の大空で空中衝突が起こった日/雫石空中衝突事故
  ───────────────────────────
   岩手県は雫石町の上空で自衛隊機と全日空機が空中衝突し
  た「全日空機雫石衝突事故」は、1971年(46年)のこ
  の日に発生しました。旅客機と航空自衛隊の戦闘機が飛行中
  に接触し、共に墜落。機体を損傷した旅客機は空中分解し、
  乗客155名と乗員7名の計162名の全員が亡くなるとい
  う日本の航空史上に残る大事故でした。
   その日、北海道の千歳空港発の羽田行の全日空58便(ボ
  ―イング727)は、機材の遅れにより、午後1時33分に
  離陸します。その乗客の多くは団体旅行客の静岡県富士市か
  らの一行でした。58便は函館を過ぎたあたりから、高度を
  28000フィートに上昇し、宮城県の松島上空を目指して
  自動操縦で飛行していました。航空自衛隊のF86F戦闘機
  の2機は、編隊飛行訓練のため「有視界飛行方式」による飛
  行計画で、基地を午後1時28分頃に離陸しました。離陸前
  に教官は訓練生に対して訓練空域は盛岡であることを示し、
  訓練後は松島飛行場へ向かって自動方向探知機よる着陸訓練
  を行う予定であることを伝えていました。そして、午後2時
  過ぎ、事故が発生します。当時「雫石町上空は視界は良好」
  という環境下で、下層に雲が少しある程度だったそうです。
                  https://bit.ly/2DxTH22
  ───────────────────────────

大庭哲夫元航空庁長官.jpg
大庭哲夫元航空庁長官
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2018年11月22日

●「全日空機に航空法違反の疑いあり」(EJ第4896号)

 千歳空港を出発するに当たって、58便の川西機長が、運輸省
千歳空港事務所に提出した飛行計画書には次のルートにしたがっ
て飛ぶことが明記されています。
─────────────────────────────
 13時15分千歳離陸(予定)
 J10L → 函館NDB → J11L → 大子NDB 
 → J25L → 佐倉NDB → 木更津NDB → 14
 時35分羽田着          ──佐藤守著/青林堂刊
          『自衛隊の「犯罪」/雫石事件の真相!』
─────────────────────────────
 専門的なので詳しい説明を省略しますが、「J××L」という
のは、ジェットルートといい、計器飛行で無線施設間を飛ぶ一本
のライン(直行経路)のことです。24000フィート以上で飛
ぶルールになっています。
 しかし、このように飛行計画書を出しても、少なくとも当時は
必ずしも飛行計画書通り飛ぶとは限らないのです。昨日のEJの
コックピット内における機長と副操縦士の対話を思い出していた
だきたいのです。再現します。
─────────────────────────────
機長:こんなに良く見える日は航法に気を使うことはないよ。今
 日は大分遅れたたから、仙台のVORで、気楽に近道と行こう
 じゃないか。
副操縦士:そうします。ところでキャプテン、おなかの方は?
機長:ペコペコだよ。千歳じゃ食べている暇はなかったからな。
 “ジョージ”(自動操縦装置)におまかせして、昼食にすると
 しよう。            ──佐藤守著の前掲書より
─────────────────────────────
 このやり取りで重大なのは、「今日は大分遅れたたから、仙台
のVORで気楽に近道と行こう」という部分です。飛行計画書で
は函館NBDから「J11L」というジェットルートに乗ると書
かれているのです。当然自衛隊側もそのことを知っています。そ
のため、それを避けて訓練空域が設定されています。なお当時は
函館NBDから、仙台VORルートに乗るジェットルートは開設
されておりません。なお、墜落して破壊された58便の機長側の
ルート指示機には「仙台VOR」にセットされた状態になってお
り、このルートを飛行しようとしたことは間違いないのです。
 飛行方式には、次の2つがあります。
─────────────────────────────
       1.有視界飛行方式(VFR)
       2.計 器飛行方式(IFR)
─────────────────────────────
 有視界飛行方式とは、パイロットの責任において飛行する方式
です。これに対して計器飛行方式とは、飛行コースを申請し、承
認されたコースと高度を計器に従って逸脱しないように飛行する
方式のことです。当時の飛行方式は、このVFRとIFRの両方
を使っていたのです。
 それとは別に、当時は「VMCオントップ」という飛行方式も
認められていたのです。これについて、佐藤守氏は、次のように
述べています。
─────────────────────────────
 「VMCオントップ」というのは、通常「雲上有視界飛行」と
いっていましたが、使用飛行場が計器飛行状態(IMC)である
場合、計器飛行方式による出発を予定して申請し、航路などの指
定を受け、離陸して雲上に出て、「VMC(有視界飛行状態)」
が確保できると判断される場合には、地上管制官に「VMCオン
トップ」と報告してIFRをキャンセルし、VFRで飛行するも
ので、この時点で管制官の仕事は軽減されます。
 我々もよく使用していたものですが、その条件は雲の頂上(ト
ップ)から1000フィート(約300メートル)以上離れて飛
行することが出来ること、及びVFR同様、高度をIFRの高度
と500フィート差をつけることでした。その基準を守れば、管
制指示を受けなくとも自由に飛行できるから、民間機パイロット
も重宝していたのです。しかしこれは雫石事故の後、ニアミスの
可能性があると運輸省が禁止しました。
                 ──佐藤守著の前掲書より
─────────────────────────────
 もし、飛行計画書に届けていた「J11L」というコースを飛
行せず、断りもなく、仙台VORに向けて飛行した場合、明らか
に「航空法違反」になります。しかし、当時は、こんなことは日
常茶飯事に行われていたのです。とくに全日空機は、申請した航
空路を恒常的に無視するという重大な航空法違反を繰り返す常習
犯だったといわれています。
 背景として、この全日空の運行にみられるように、操縦クルー
の過密なスケジュールがあります。既に述べているように、事故
機は1日に、千歳と羽田を3回往復しているのです。これでは食
事をするヒマすらないのです。そのため、操縦クルーは少しでも
時間を節約しようと、計画書とは異なる仙台VORを通るショー
トカットを行っていたものと思われます。したがって、千歳から
羽田に向う50便でも、羽田から千歳に戻る57便でも、おそら
く、このコースを通っていたはずです。
 そのため、再び千歳から羽田に向う58便でもこのコースを使
い、仙台VORの進路を取り、28000フィートの巡航速度に
到達して水平飛行に移った後、自動操縦装置に切り換えて、操縦
クルーは3人一緒に昼食をとったものと思われます。もし、一人
でも見張りをしていれば事故は防げたはずです。
 しかし、添付ファイルにあるように、そこは自衛隊の訓練空域
であり、「A」のところで、自衛隊機と接触したのです。時刻は
14時2分31秒。なお、事故調は衝突場所を「B」としており
時刻は14時2分39秒です。
         ──[日航機123便墜落の真相/066]

≪画像および関連情報≫
 ●計器飛行方式と有視界飛行方式
  ───────────────────────────
   計器飛行とは読んで字のごとく、各種の計器から得られる
  情報だけを頼りにして行う飛行のこと。計器によって機体の
  状態や現在位置を把握して、進むべき針路を決めたり、上昇
  ・下降したりする飛行の形態を指す。ちなみに航空法では、
  「航空機の姿勢、高度、位置および針路の測定を計器のみに
  依存して行う飛行をいう」とある(第一章「総則」の「第二
  条(定義)」以下、第16項)。
   計器飛行を行うためには、所定の訓練を受けて試験に合格
  して、計器飛行証明という名の免許を取得する必要がある。
  計器に頼って飛ぶということは、計器の読み方・使い方を正
  しく知っていなければならないということだからそうなる。
   ずいぶん昔の話だが、日本航空のパイロット訓練生が計器
  飛行の訓練を行うために、外が見えないように頭の上からバ
  イザーを被って操縦している写真を見たことがあった。上半
  分はまるごと覆われた状態で目の前の計器盤だけが見える。
  その計器盤に並んだ計器だけを頼りにしなければならない状
  態を物理的に作り出しているわけだ。ややこしいことに、計
  器飛行に加えて計器飛行方式(IFR)という言葉があって
  この両者は別物である。計器飛行方式のキモは、「事前に飛
  行計画書を提出して」「航空管制官の指示に従いながら飛行
  する」点にある。        https://bit.ly/2DxMHSV
  ───────────────────────────

58便は自衛隊機とどこで衝突したか.jpg
58便は自衛隊機とどこで衝突したか
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2018年11月26日

●「雫石事故の事故調結論に異議あり」(EJ第4897号)

 雫石空中衝突事件のときの事故調査委員会はどうなっていたの
でしょうか。当時航空事故の調査に当る機関は、政府が設置する
「政府事故調査委員会」です。しかし、このときは、事件が「自
衛隊=防衛庁」と「航空行政=運輸省」にまたがり、その問題を
「裁く=法務省」なので、総理府総務長官委嘱の委員会として設
置されています。
 しかし、総理府の役人に専門的事項を調査する能力はないので
実質的には運輸省主導で次の5人が決められています。
─────────────────────────────
     山県昌夫 ・・・・ 宇宙開発委員会委員
     荒木 浩 ・・・・     東洋大教授
     井戸 剛 ・・・・     東海大教授
     瀬川貞雄 ・・・・   日航航務本部長
     後藤安二 ・・・・  日航航務副本部長
─────────────────────────────
 この政府事故調のメンバーについて佐藤守氏は、当時航空評論
家の楢林寿一氏が上げている以下の「事故の原因が曖昧になる9
つの項目」をベースとして、次のように批判しています。楢林氏
は、元運輸省航空局技官を務める専門家です。
─────────────────────────────
   @利害関係       E無能力
   Aセクショナリズム   Fお粗末実験
   B血縁関係       G死人に口なし
   Cこじつけ論理     H調査担当者の適性不良
   D各個撃破
 この場合、瀬川、後藤の両氏は日航の航務本部長と副本部長と
いう関係だから@利害関係、Aセクショナリズム、B血縁関係に
該当するといえます。中でも瀬川氏は日航職員になる前は運輸省
航空局の参事官、いわば天下りでした。彼は事故調査も峠を越し
た翌昭和47年春に、運輸省管轄下にある航空大学校長に任命さ
れています。
 須藤氏は「ジェット・ルートJ11Lの中に、瀬川氏の航空大
学学長就任が運輸省の願望に寄与したことへの論功行貿であった
のか、逆に、同氏に「全日空機側の過失も見逃さない」とする強
い姿勢があったので、それを懐柔するためだったのか、或いは事
故調査問題とは全く無関係だったのか、その辺の真相は分からな
い」と意味深長な書き方をしていますが、JR西日本の事故調査
で事故調と会社が癒着していたことを思い出します。
 委員長の山県氏は、宇宙開発委貞、東大名誉教授、学士院会員
という輝かしい肩書きの造船工学の権威ではありましたが、航空
機、特に運用関係は全くの素人だったといっても過言ではないで
しょう。(中略)
 その他の委員に2人の大学数授が入っていますが、空中勤務を
経験しない「教授殿」に、設計や構造力学的な問題を調査しても
らうのならいざ知らず、空中での運行に関わる事故原因調査が出
来るとは私には思えません。とりわけ井戸剛・東海大教授は、事
故発生翌日、「毎日」「読売」新聞に登場して、散々自衛隊側を
罵倒したご本人です。こんな偏向した素人教授が、なぜ委員会に
入ったのか?
 事故当日中に既に4人の委員が決定していたが、31日追加さ
れて入ったのが井戸教授だということは、あまりにも出来すぎて
いて不自然ではありませんか。少なくとも彼は、楢林氏の説に照
らせば、C〜Hの全てに合致する「不適格者」ですが、裁判の過
程を見ると、@にも適合するのは明らかですから、彼が事故調査
委貞に入ったのは何らかの策謀≠セったと言われても仕方ない
でしょう。             ──佐藤守著/青林堂刊
          『自衛隊の「犯罪」/雫石事件の真相!』
─────────────────────────────
 問題は、この政府の事故調が何をしたかです。事故調は次の2
つのことを主張しているのです。
─────────────────────────────
 1.全日空機は、飛行計画書に記載されている通り、J11
  Lに沿って飛行している。
 2.全日空機は、少なくとも接触約7秒前から、86F機を
  視認していたはずである。
─────────────────────────────
 「1」に関しては、何をもってそういい切れるのか証拠がない
のです。この部分をもっと正確にいうと、58便は7月30日、
午後1時33分に予定時刻より53分遅れて千歳空港を離陸し、
千歳のレーダー管制を受けつつ上昇し、札幌管制所の管制下に移
行、午後1時46分に函館NDBを高度22000フィートで通
過、そこで次の松島NDB通過予定時刻は、午後2時11分であ
ると通報しています。さらにその4分後の午後1時50分に高度
28000フィートに到達したことを札幌管制所に報告し、水平
飛行に移った時点で自動操縦に切り換え、計画書通りに松島ND
Bに向けて南下したことになっています。
 これはあくまで報告であって、本当にそうであったかどうかは
わからないのです。そのように報告して、実際は仙台VORに向
かうことは、全日空では日常茶飯事になっていたからです。
 まして「2」に関しては、何の証拠もないのです。もし、本当
に接触約7秒前から86Fを視認していたのであれば、なぜ回避
行動をとらなかったのでしょうか。証拠がないのです。
 実際に民事訴訟の東京地裁は「接触するまでまったく視認して
いなかった」と事故調報告を完全否定しています。まさに「死人
に口なし」であり、生存者がいなければ何とでもいえるのです。
 そうすると、衝突時間は午後2時2分39秒とされているので
自動操縦に切り換えてから12分28秒後に衝突されたことにな
ります。この間、全日空クルーは食事をしていたのであり、見張
りはしていなかったと考えられます。このように事故調の結論は
かなり恣意的です。──[日航機123便墜落の真相/067]

≪画像および関連情報≫
 ●雫石事故について〜国軍の名誉とは何か〜 by朝大嫌
  ───────────────────────────
   須藤・阪本両氏の緻密な研究を「文系のバカ」の私が要約
  するのは至難の業なのだが、私にも理解出来る重要ポイント
  だけに絞って縷々、述べることとしよう。
   最初にハッキリさせておくべきことは、「ANA機の方が
  空自機(F86F戦闘機)より優速だった」ということであ
  る。空自機は、ANA機(ボーイング727−200)より
  遅かった、ということなのだ。
   世間一般の常識は「戦闘機は旅客機よりスピードが速い」
  というものだろう。その常識は一般論として正しいが、雫石
  事故の場合は断じて「否」である。
   しかも、F86Fは将来の戦闘機乗りが使う練習戦闘機と
  いうべき機種であり、事実、ANA機に背後からぶつけられ
  たF86Fを操縦していた市川二曹は、編隊飛行訓練中の訓
  練生だったのである。
   航空自衛隊の戦闘機が「無謀にも」民間航空路に侵入し、
  民間機(旅客機)と衝突して空中分解・墜落させ、罪もない
  民間人を162名も殺した、とマスゴミは狂気のように吠え
  立て、防衛庁長官(当時)を辞職に追い込んだ。科学的検証
  など皆無であり、一方的な自衛隊叩きはマスゴミの底知れぬ
  左翼偏向ぶりと反軍思想を如実に示すものだった。当時の新
  聞縮刷版を読むたび、吐き気を催す。須藤・阪本両氏の疑問
  のエッセンスは、こういうことである。
                ──「幻の憲法」サイトより
  ───────────────────────────


最悪の雫石空中衝突事故.jpg
最悪の雫石空中衝突事故
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2018年11月27日

●「なぜ、自衛隊が犯人にされたのか」(EJ第4898号)

 1971年7月30日、午後の参院運輸委員会では、同じ年の
7月3日に起きた「ばんだい」号墜落事故に関する審議が行われ
ていたのです。「ばんだい」号墜落事故とは、函館空港に着陸寸
前の東亜国内航空のYS─11が函館郊外の山地に墜落した航空
機事故のことです。
 そのとき、委員会には、航空評論家の関川栄一郎氏、楢林寿一
氏、航空安全推進連絡協議会事務局長松田更一氏などの民間の専
門家が呼ばれていたのです。そこに、雫石空中衝突事故のニュー
スが飛び込んできます。
 雫石事故のことを知った運輸委員会のある議員は、次のような
常識では考えられない発言をしています。当時航空機事故は頻発
していましたが、運輸委員会の委員にしてこの程度のレベルだっ
たのです。
─────────────────────────────
 晴天に近い天候らしいから、接触した時点で、おそらく乗客も
事故が起きたな、ということは全部分かっていると思う。だから
緊急用の落下傘が装備されていたら、何人かは脱出できたかもし
れない。全日空の飛行機に落下傘の用意が完備していたかどうか
これは後で問題になると思うが、おそらく装備されていたことは
間違いないし、もし、これが、装備されていなかったのならば大
問題だ。              ──佐藤守著/青林堂刊
          『自衛隊の「犯罪」/雫石事件の真相!』
─────────────────────────────
 雫石事故が起きたことを伝えられ、丹羽喬四郎運輸大臣は委員
会を退席しますが、丹羽大臣は、事故調査委員会が立ち上がった
ときの挨拶で次の発言をしています。
─────────────────────────────
 この事故の原因は、もうはっきりしているのだから、ぜひ結
 論を急いでもらいたい。     ──丹羽喬四郎運輸大臣
─────────────────────────────
 これから事故調査を始める事故調査委員会での運輸大臣の発言
です。まるで、「調査はするな。当方の指示に従え」といわんば
かりの発言です。運輸大臣がこういう発言をするということは、
その決定はさらに上の指示でなされていることになります。
 この発言を契機として、まだ事故の原因調査がはじまっていな
い段階から、メディアは「自衛隊の犯罪」として、自衛隊悪玉論
で紙面を飾ったのです。したがって、国民の多くは、自衛隊機が
民間航空路に侵入し、その航空路を飛行していた全日空58便に
空中衝突したものと今でも信じているはずです。
 自衛隊機か全日空機か──これについては、はっきりしていま
す。全日空機が自衛隊の設定した訓練空域に侵入し、後ろから自
衛隊機に衝突したのです。そのとき、全日空機は自動操縦状態に
なっており、コックピットには人はいなかったと考えられます。
クルーたちは遅い昼食をとっていたものと考えられます。もし、
全日空機のパイロットが見張りをしていれば、事故は絶対に起っ
ていないのです。
 それなのに、あくまで自衛隊の犯罪とするのは、当時の全日空
の経営状態が深刻だったからです。全日空は、1966年に2件
の航空機事故を起こしています。1966年2月4日の羽田沖事
故と11月13日の松山沖事故です。どちらも乗客乗員全員死亡
であり、羽田沖事故は133人、松山沖事故は50人が亡くなっ
ています。その補償だけでも大きく経営を圧迫しています。
 その全日空を建て直すため、元運輸省事務次官の若狭得冶氏が
社長に就任し、再建途上だったのです。当時航空業界は大型機時
代に入っており、全日空では、若狭社長が新機種選定委員長にな
り、調査団を米国に派遣するなど、大わらわのときに雫石衝突事
件が起きたのです。そして、この新機種選定作業があのロッキー
ド事件を引き起こすことになります。したがって、この衝突事故
の非が全日空側にあるとすると、全日空は倒産せざるを得ない状
況にあったといえます。
 これに対して正反対の論陣を張った本が、須藤朔/阪本太朗著
『恐怖の空中接触事故/空の旅は安全か』(圭文社刊)です。そ
の冒頭の記述を引用します。
─────────────────────────────
 本書は、「自衛隊の訓練機が定期旅客機にぶっつかって162
名の尊い生命を奪った」とする圧倒的な世論に疑問を持った著者
グループが、事故直後から5年有半──マスコミには忘れられ政
府機関による審査や調査或いは捜査などがすべて終わった後も、
真実を求めて独自の執拗な調査研究を積み重ね、論証だけでなく
自衛隊パイロットの無実を立証する重要な証拠と証人をさがしあ
てた、悲願達成の記録である。
 この記述の中には、政府事故調査委貝、官僚、国会議員などに
ついて、氏名を明らかにし名誉毀損とも受け取られかねないよう
な批判を加えた箇所が少なからずある。社会的に信用を失墜して
不利益をこうむる人が出る可能性のあるこのような一見アクの強
い筆法は、できるだけ避けるのが常識的であろう。
 だが、世論はあまりにも真実とはかけ離れている。政府事故調
査委員会の解析と結論、それに盛岡地裁の第一審判決には初歩的
な誤判断が多すぎた。本書で批判した人々は、どう考えてみても
被害者≠フ立場にある2人の自衛隊パイロットを、無知からで
はなかったとしたら不純な動機から殺人者″に仕立て上げよう
とした、卑劣な輩としか考えられない。
 仮に本書によって不利益をこうむる者がいたとしても、それは
その人自身が招いたものであり、ここ数年問にわたって不当な非
難と処遇に耐えてきた2人の自衛官の苦痛や不利益を考えれば、
甘受すべきではなかろうか。     ──須藤朔/阪本太朗著
     『恐怖の空中接触事故/空の旅は安全か』/圭文社刊
                 ──佐藤守著の前掲書より
─────────────────────────────
         ──[日航機123便墜落の真相/068]

≪画像および関連情報≫
 ●ロッキード事件とは何か
  ───────────────────────────
   ロッキード事件とは、戦後最大の汚職事件といわれた事件
  です。田中角栄元首相や昭和の怪物といわれた児玉誉士夫な
  ど名が事件の重要人物としてあげられることになりました。
   このロッキード事件では、未だ謎の部分も多く、丸紅、全
  日空など複雑な絡みもあり、「ロッキード事件」という名前
  は聞いたことがあるけど内容がいまいちわからん!という人
  も多いのではないでしょうか?今回は、ロッキード事件につ
  いて簡単になるべくわかりやすく説明していきますね。
   1976年2月にアメリカの航空機製造会社のロッキード
  社から日本側に30億円以上のお金が渡ったことが発覚しま
  す。当時、ロッキード社は破産寸前の状態にまで追い込まれ
  ていました。ベトナム戦争の終結などにより赤字経営が続い
  ていたんですね。そこでロッキード社としては飛行機を売り
  込みなんとかこの赤字状態から抜け出したいわけです。
   しかし、ロッキード社はアメリカの会社。日本に売り込み
  たくても橋渡ししてくれるパイプが必要なんですね。そのパ
  イプ役をしていた会社が丸紅という会社です。丸紅は「飛行
  機を売りたいなら、いっそのこと政治献金しましょう」って
  感じでロッキード社に持ちかけるんです。そしてロッキード
  社から預かった5億円を田中角栄に渡したとされています。
   実際、その後、全日空はロッキード社からトライスターと
  いう飛行機を購入しています。では、なぜ全日空はロッキー
  ド社から素直にトライスターを購入したのか?何のメリット
  があったのか?         https://bit.ly/2zq7FQK
  ───────────────────────────


全日空/若狭得治社長.jpg
全日空/若狭得治社長
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