し)です。新木栄吉と一万田尚登から日銀を託された最初の人物
です。その後、前川春雄、三重野康、福井俊彦と続く一連の人脈
が「日銀のプリンス」と呼ばれているのです。
ここで留意しておくべきことがあります。これらのプリンスを
生み出した親に当たる新木栄吉と一万田尚登が、連合国軍最高司
令官総司令部、とりわけマッカーサー最高司令官と、きわめて親
しかったことです。既に述べたように、一万田が総司令部を訪ね
ると、いつもマッカーサー元帥の副官が入口まで出迎えるという
のですから、尋常なことではありません。
もちろんこれは、単にマッカーサー元帥個人と親しいだけでは
なく、当時の米国を仕切っていた一大勢力──ロックフェラー財
閥とつながっていたということができます。連合国軍最高司令官
総司令部が当初の日本占領計画を変更して「逆コース」を採用し
て、日本の戦後復興を支えることを決めるのに影響力を発揮した
のはロックフェラー財閥であるからです。
実際に「逆コース」を推進したのは、ロックフェラー財団の理
事であり、当時米政府の国務長官特別顧問のジョン・フォスター
・ダレスであったことは既に述べた通りです。戦後の日本はいわ
ばロックフェラー家のバックヤードのようなものであり、重要な
利権の一つになっていたのです。
ただ、ロックフェラー財閥が大蔵省ではなく、日銀の総裁の系
譜を押さえたのは、デイヴィッド・ロックフェラーの判断である
と思われます。彼はフリードリヒ・ハイエクから直接指導を受け
ており、中央銀行の信用創造の力の大きさを熟知していて、中央
銀行のトップこそ、事実上その国の「王権」を握っていることが
よく分かっていたからです。
ここで日本が赤字国債を発行できるようになった経緯について
述べておく必要があります。これも日銀の戦略のひとつであるか
らです。1960年に発足した池田内閣は、「所得倍増計画」に
よって有名ですが、その第2次池田内閣で、大蔵大臣に就任した
のはあの田中角栄です。1962年のことです。
1964年まで2ケタの高度成長を続けてきた日本経済はその
翌年には経済成長率は一転して5.8 %に落ち込んだのです。財
政収入は急減し、はじめて歳入は見通しを下回ったのです。
このとき日銀は、副総裁の佐々木直の下で、信用統制の範囲を
信託銀行、地方銀行、相互銀行にまで拡大して経済成長を引き締
めており、成長の鈍化はそれがそれが原因だったのです。
これによって一般投資家が市場から資金を引き上げたことが原
因で株式市場が暴落し、業界4位の山一證券では取り付け騒ぎが
発生する事態になったのです。しかし、当時財政法によって国債
の発行は禁じられていたのです。
そのとき、田中蔵相は日銀に乗り込み、山一證券への無制限か
つ無期限の特別融資と信用創造の増強を命じたのです。田中蔵相
は実によく勉強しており、自分が何をするべきかちゃんとわかっ
ていたので、日銀に対し的確な指示が出せたのです。
佐々木副総裁は、田中蔵相からの指示にしたがうとともに、こ
のさい、財政法を改正して、国債発行を可能にするよう提言した
ところ、田中蔵相はこれを受け入れたのです。これは日銀にとっ
て大きな勝利であるといえます。
なぜ、大勝利なのでしょうか。それは、政府支出を国債でまか
なえるようになれば、政府や政治家がいちいち日銀の信用統制に
対してうるさく要求してこなくなると思われることや、財政法で
は新規発行国債の日銀行引き受けは禁止されていたからです。し
かも、日銀の信用創造は、財政政策の効果を左右することができ
る力を持っており、財政政策を信用創造が支援することも、骨抜
きにすることも可能だったからです。
何よりも日銀にとってよいことは、これによって宿敵大蔵省の
力を削ぐことができるからです。これについてリチャード・ヴェ
ルナー氏は、次のように述べています。
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新財政法はほころびの始まりだった。大蔵省の健全財政の黄金
時代は終わった。以後、政治家は投資家や大手金融機関から借
金して財政支出をおこなうことができる。この選択肢を得た以
上、政治家は必ず実行を迫るだろう。とりわけ、日銀の信用統
制で景気が低迷したときはなおさらだ。したがって、政治家が
財政支出を増加させたいと思えば、日銀ではなく大蔵省に圧力
をかける。結局、大蔵省は膨大な国家債務の山を抱え込むこと
になる。これは、大蔵省の名声や立場にとってけっして好まし
いことではない。──リチャード・ヴェルナー著/吉田利子訳
『円の支配者/誰が日本経済を崩壊させたのか』/草思社刊
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佐々木直日銀副総裁は、田中角栄蔵相にはそうとう引き回され
ることになります。自らの日銀総裁の座が近づいたとき、田中蔵
相らの意向で、市中銀行である三菱銀行出身の宇佐美洵に総裁の
座をさらわれ、日銀自体としても、大蔵省による金融行政の脇役
に収まっていたからです。
結局、佐々木直が日銀総裁になったのは、1969年の佐藤政
権のときです。しかし、1972年には田中角栄政権になり、再
び田中に引き回されることになります。総裁在任中には、再三再
四にわたり公定歩合を引き下げ、積極財政路線を呑まされる形と
なり、狂乱物価の時代へと続いたのです。
1974年12月に佐々木直は日銀総裁を退任し、バトンを副
総裁の前川春雄に託したのです。日銀総裁は大蔵省出身の森永貞
一郎です。さらに1975年4月から、三重野が営業局長に就任
し、日銀の信用創造の体制は盤石のものになるのです。
この前川春雄、三重野康、福井俊彦の日銀のプリンスには、あ
る果すべき重要なミッションがあったのです。それは、日本経済
の構造調整を行い、経済構造の仕組みを根本から変更させること
です。 ──[新自由主義の正体/71]
≪画像および関連情報≫
●クロニクル/山一特融について
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1965(昭和40)年5月28日──この日、田中角栄蔵
相は深夜になって突然の緊急記者会見を開き、証券緊急対策
として、倒産の危機が噂されていた山一証券の危機が現実で
あることを認めた上で、同社に対して日本銀行が無制限、無
期限の特別融資を行うことを決定したと発表しました。世に
いう山一救済劇、日銀特融の幕は、こうしてあがったのでし
た。1960(昭和35)年の池田内閣の所得倍増政策の発
表で、株式市場は活況を呈し、この年初めて日経ダウ平均は
1000円を突破、大納会には1356円の高値まで、年間
で60%を越える上昇を記録し、翌61年7月に1829円
で天井を打ちます。その後は急反落で1258円まで、33
%の下落を経験、その後は高値1600円、安値1200円
の往来相場に終始するのですが、64月の東京オリンピック
の開幕が近づくと、オリンピック需要の息切れから、急激に
不況感が強まり、強気の経営拡大路線を走り、無理な投信販
売と運用の失敗から、山一証券の株価や設定投信の基準価格
が暴落、65年に入ると、山一危機が噂されるようになりま
した。田中蔵相の思いきった措置が効いたのか、証券市場の
株価は、1ヶ月半後の7月12日の安値1020円(本当に
1000円スレスレまで下げました)を底に反転し、赤字国
債の発行解禁が国会で承認される秋以降、大きく値を戻し、
1400円台を回復するまでになりました。
http://bit.ly/1sKHDPY
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田中 角栄元首相