2014年08月19日

●「田中角栄に引き回された佐々木直」(EJ第3857号)

 「日銀のプリンス」といわれる最初の人物は、佐々木直(ただ
し)です。新木栄吉と一万田尚登から日銀を託された最初の人物
です。その後、前川春雄、三重野康、福井俊彦と続く一連の人脈
が「日銀のプリンス」と呼ばれているのです。
 ここで留意しておくべきことがあります。これらのプリンスを
生み出した親に当たる新木栄吉と一万田尚登が、連合国軍最高司
令官総司令部、とりわけマッカーサー最高司令官と、きわめて親
しかったことです。既に述べたように、一万田が総司令部を訪ね
ると、いつもマッカーサー元帥の副官が入口まで出迎えるという
のですから、尋常なことではありません。
 もちろんこれは、単にマッカーサー元帥個人と親しいだけでは
なく、当時の米国を仕切っていた一大勢力──ロックフェラー財
閥とつながっていたということができます。連合国軍最高司令官
総司令部が当初の日本占領計画を変更して「逆コース」を採用し
て、日本の戦後復興を支えることを決めるのに影響力を発揮した
のはロックフェラー財閥であるからです。
 実際に「逆コース」を推進したのは、ロックフェラー財団の理
事であり、当時米政府の国務長官特別顧問のジョン・フォスター
・ダレスであったことは既に述べた通りです。戦後の日本はいわ
ばロックフェラー家のバックヤードのようなものであり、重要な
利権の一つになっていたのです。
 ただ、ロックフェラー財閥が大蔵省ではなく、日銀の総裁の系
譜を押さえたのは、デイヴィッド・ロックフェラーの判断である
と思われます。彼はフリードリヒ・ハイエクから直接指導を受け
ており、中央銀行の信用創造の力の大きさを熟知していて、中央
銀行のトップこそ、事実上その国の「王権」を握っていることが
よく分かっていたからです。
 ここで日本が赤字国債を発行できるようになった経緯について
述べておく必要があります。これも日銀の戦略のひとつであるか
らです。1960年に発足した池田内閣は、「所得倍増計画」に
よって有名ですが、その第2次池田内閣で、大蔵大臣に就任した
のはあの田中角栄です。1962年のことです。
 1964年まで2ケタの高度成長を続けてきた日本経済はその
翌年には経済成長率は一転して5.8 %に落ち込んだのです。財
政収入は急減し、はじめて歳入は見通しを下回ったのです。
 このとき日銀は、副総裁の佐々木直の下で、信用統制の範囲を
信託銀行、地方銀行、相互銀行にまで拡大して経済成長を引き締
めており、成長の鈍化はそれがそれが原因だったのです。
 これによって一般投資家が市場から資金を引き上げたことが原
因で株式市場が暴落し、業界4位の山一證券では取り付け騒ぎが
発生する事態になったのです。しかし、当時財政法によって国債
の発行は禁じられていたのです。
 そのとき、田中蔵相は日銀に乗り込み、山一證券への無制限か
つ無期限の特別融資と信用創造の増強を命じたのです。田中蔵相
は実によく勉強しており、自分が何をするべきかちゃんとわかっ
ていたので、日銀に対し的確な指示が出せたのです。
 佐々木副総裁は、田中蔵相からの指示にしたがうとともに、こ
のさい、財政法を改正して、国債発行を可能にするよう提言した
ところ、田中蔵相はこれを受け入れたのです。これは日銀にとっ
て大きな勝利であるといえます。
 なぜ、大勝利なのでしょうか。それは、政府支出を国債でまか
なえるようになれば、政府や政治家がいちいち日銀の信用統制に
対してうるさく要求してこなくなると思われることや、財政法で
は新規発行国債の日銀行引き受けは禁止されていたからです。し
かも、日銀の信用創造は、財政政策の効果を左右することができ
る力を持っており、財政政策を信用創造が支援することも、骨抜
きにすることも可能だったからです。
 何よりも日銀にとってよいことは、これによって宿敵大蔵省の
力を削ぐことができるからです。これについてリチャード・ヴェ
ルナー氏は、次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 新財政法はほころびの始まりだった。大蔵省の健全財政の黄金
 時代は終わった。以後、政治家は投資家や大手金融機関から借
 金して財政支出をおこなうことができる。この選択肢を得た以
 上、政治家は必ず実行を迫るだろう。とりわけ、日銀の信用統
 制で景気が低迷したときはなおさらだ。したがって、政治家が
 財政支出を増加させたいと思えば、日銀ではなく大蔵省に圧力
 をかける。結局、大蔵省は膨大な国家債務の山を抱え込むこと
 になる。これは、大蔵省の名声や立場にとってけっして好まし
 いことではない。──リチャード・ヴェルナー著/吉田利子訳
  『円の支配者/誰が日本経済を崩壊させたのか』/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 佐々木直日銀副総裁は、田中角栄蔵相にはそうとう引き回され
ることになります。自らの日銀総裁の座が近づいたとき、田中蔵
相らの意向で、市中銀行である三菱銀行出身の宇佐美洵に総裁の
座をさらわれ、日銀自体としても、大蔵省による金融行政の脇役
に収まっていたからです。
 結局、佐々木直が日銀総裁になったのは、1969年の佐藤政
権のときです。しかし、1972年には田中角栄政権になり、再
び田中に引き回されることになります。総裁在任中には、再三再
四にわたり公定歩合を引き下げ、積極財政路線を呑まされる形と
なり、狂乱物価の時代へと続いたのです。
 1974年12月に佐々木直は日銀総裁を退任し、バトンを副
総裁の前川春雄に託したのです。日銀総裁は大蔵省出身の森永貞
一郎です。さらに1975年4月から、三重野が営業局長に就任
し、日銀の信用創造の体制は盤石のものになるのです。
 この前川春雄、三重野康、福井俊彦の日銀のプリンスには、あ
る果すべき重要なミッションがあったのです。それは、日本経済
の構造調整を行い、経済構造の仕組みを根本から変更させること
です。            ──[新自由主義の正体/71]

≪画像および関連情報≫
 ●クロニクル/山一特融について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1965(昭和40)年5月28日──この日、田中角栄蔵
  相は深夜になって突然の緊急記者会見を開き、証券緊急対策
  として、倒産の危機が噂されていた山一証券の危機が現実で
  あることを認めた上で、同社に対して日本銀行が無制限、無
  期限の特別融資を行うことを決定したと発表しました。世に
  いう山一救済劇、日銀特融の幕は、こうしてあがったのでし
  た。1960(昭和35)年の池田内閣の所得倍増政策の発
  表で、株式市場は活況を呈し、この年初めて日経ダウ平均は
  1000円を突破、大納会には1356円の高値まで、年間
  で60%を越える上昇を記録し、翌61年7月に1829円
  で天井を打ちます。その後は急反落で1258円まで、33
  %の下落を経験、その後は高値1600円、安値1200円
  の往来相場に終始するのですが、64月の東京オリンピック
  の開幕が近づくと、オリンピック需要の息切れから、急激に
  不況感が強まり、強気の経営拡大路線を走り、無理な投信販
  売と運用の失敗から、山一証券の株価や設定投信の基準価格
  が暴落、65年に入ると、山一危機が噂されるようになりま
  した。田中蔵相の思いきった措置が効いたのか、証券市場の
  株価は、1ヶ月半後の7月12日の安値1020円(本当に
  1000円スレスレまで下げました)を底に反転し、赤字国
  債の発行解禁が国会で承認される秋以降、大きく値を戻し、
  1400円台を回復するまでになりました。
                   http://bit.ly/1sKHDPY
  ―――――――――――――――――――――――――――

田中角栄元首相.jpg
田中 角栄元首相
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2014年08月20日

●「バブルの生成とそれを潰した犯人」(EJ第3858号)

 日本の対外投資によるジャパンマネーの氾濫が、明らかに異常
な数値を示したのが1980年代後半です。既に述べたように、
1985年1月から1989年12月までの地価は240%、株
価は245%という異常な上昇値を示しています。
 銀行というものは、いくら多くの融資の申し込みがあっても慎
重に審査し、その大部分は断るのが通常です。しかし、1986
年から87年にかけては、銀行の融資姿勢は一段とゆるくなった
といえます。銀行の融資担当者は、地価を所与の変数と考えて、
その地価をもとにして貸し出しを増やしたのです。その頃の資金
需要は、企業も個人も土地の値上げを見込んで、不動産の購入資
金が多くなっていたのです。
 しかし、どの銀行も同じように、購入した土地を担保にする方
法で融資したので、地価はどんどん上昇したのです。こういう経
済現象を「合成の誤謬」といいます。「合成の誤謬」とは、個人
や個々の企業がミクロの視点で合理的な行動──正しいと思う行
動をとった結果、社会全体では意図しない、よくない結果が生じ
ることをいうのです。
 銀行の融資担当者は、まさか自分たちの貸し出し判断が地価を
押し上げているとは考えず、地価の伸び率をベースに貸し出しを
増やしていったので、地価が暴騰してしまったのです。
 それでも1987年までは銀行は融資を求めてくる顧客を対象
に融資に応じていたのですが、それ以降になると、銀行の方が積
極的に顧客を追いかけるようになったのです。それまで取引のな
い大手都市銀行の支店長が中小企業を訪ねてきて、「金を借りて
くれ」と懇願するような光景が多く見られたのです。
 このとき各銀行は、日銀に申し渡されたノルマをこなすために
必死になっていたのです。それは素人目にも明らかに異常な光景
であったといえます。これについて、リチャード・ヴェルナー氏
は次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 銀行が貸出額を増やすのに夢中になっても、必ずしも生産的な
 信用創造は増加しない。経済のファンダメンタルによって、つ
 まり生産要素(土地、労働、資本、技術)のインプットとその
 質的な利用法(生産性)によって決まるからだ。だが、銀行は
 非生産的な信用創造ならいくらでもできる。借り手にキャピタ
 ル・ゲインが獲得できるといううまい見通しを与えればいい。
 これは担保融資を中心にすれば可能だ。土地や株式などの資産
 を根拠に信用創出と配分がおこなわれる部分だ。融資を担保の
 評価額いっぱいに上げることで、銀行は儲かりそうだと思う多
 くの借り手を獲得した。借り手がこの種の担保物件を購入すれ
 ばするほど価格は上昇し、借り手のキャピタル・ゲインが増え
 て、投資は利益を生むことになる。
         ──リチャード・ヴェルナー著/吉田利子訳
  『円の支配者/誰が日本経済を崩壊させたのか』/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 これは、日銀が窓口指導を通じて、大量の資金を銀行に流して
いたこと意味します。その間の事情を探るために、1979年〜
89年までの日銀総裁、副総裁、営業局長を再現します。
―――――――――――――――――――――――――――――
             総裁   副総裁   営業局長
 79年12月    前川春雄   澄田智   三重野康
 84年12月     澄田智  三重野康   福井俊彦
 89年12月    三重野康   吉本宏   福井俊彦
―――――――――――――――――――――――――――――
 1985年当時の日銀総裁は大蔵省出身の澄田智ですが、信用
創造の実務を仕切るのは、副総裁の三重野康と営業局長の福井俊
彦です。この2人は明らかに窓口指導を通じて、銀行に大量の資
金を流し、いつものやり方で、貸し出しの実績を上げるよう指示
していたものと思われます。
 この2人のプリンスは、そうすればバブルになることを百も承
知のうえでそれをやったと思われます。つまり、意図的にバブル
を生成させようとしたのです。そして、1988年から89年に
なると、窓口指導の貸出枠を一気に引き締めたのです。
 そうすれば、やがてバブルは破裂し、深刻な不況が襲うことは
わかっていたのです。これについて澄田日銀総裁は完全につんぼ
桟敷に置かれていて、何も知らなかったものと思われます。しか
し、世間には、バブルを生みだしたのは澄田日銀総裁であると強
く印象づけられることになったのです。
 1989年12月に三重野康は日銀総裁に就任しますが、彼は
就任の挨拶において、バブル時代の日銀の政策を批判し、自分は
異なる政策を実施することを示唆したのです。マスコミは澄田の
遺産であるバブルの収拾に動く三重野を指して「平成の鬼平」と
持ち上げたのです。自分でバブルを膨らませるだけ膨らませ、自
らそれを潰し、責任は前任者の澄田総裁に負わせたうえで、自分
はその後始末に尽力するというポーズを世間に示す──それは確
信犯そのものです。こういう三重野康について、ヴェルナー氏は
次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 三重野は素早く過去の政策から身を引き離し、何の関係もない
 かのようによそおった。三重野の演技は上出来だった。しかも
 彼は早くからアリバイを用意していた。1986年、三重野と
 福井の窓口指導でバブルが形成されはじめていたころすでに、
 三重野副総裁は国会証言で、「金あまり」間題について懸念し
 ていると述べている。ほんとうに懸念していたのなら、なぜ彼
 は窓口指導で銀行にあれほど高い貸出枠を設定したのか?19
 89年7月には、彼は国会予算委貞会で「引き続き金融緩の基
 調は維持していく」と述べている。
         ──リチャード・ヴェルナー著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
               ──[新自由主義の正体/72]

≪画像および関連情報≫
 ●「バブル崩壊」/ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――
  バブル崩壊という現象は単に景気循環における景気後退とい
  う面だけでなく、急激な信用収縮、土地や株の高値を維持し
  てきた投機意欲の急激な減退、そして、政策の錯誤が絡んで
  いる。バブル経済時代に土地を担保に行われた融資は、地価
  の下落によって担保価値が融資額を下回る担保割れの状態に
  陥った。また、各事業会社の収益は未曾有の不景気で大きく
  低下した。こうして銀行が大量に抱え込むことになった不良
  債権は銀行の経営を悪化させ、大きなツケとして1990年
  代に残された。「バブル」は日本語の「泡」にあたるが、バ
  ブル崩壊は泡が弾けるようにあるとき一瞬にして起きた現象
  ではない。各種指標ではある瞬間に最大値を取り、理論上、
  そこでバブル崩壊が始まったわけであるが、開始から数年間
  をかけて徐々に生じた過渡的現象である。現象の進行は地域
  や指標の取り方によっても異なり、例えばマンションの平均
  分譲価格を見ても、東京と大阪ではピークに約一年の差があ
  る。東京でバブルの崩壊が発生し始めた時、大阪ではまだバ
  ブルが続いていた、とも言える。また公示価格では、北海道
  東北、四国、九州など1993年頃まで地価が高騰していた
  地方都市もある。         http://bit.ly/1sLmAwp
  ―――――――――――――――――――――――――――

日本の実質GDP成長率の推移.jpg
日本の実質GDP成長率の推移
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2014年08月21日

●「福井俊彦氏とゴールドマンの関係」(EJ第3859号)

 日銀のプリンス──佐々木直、前川春雄、三重野康、福井俊彦
の4人はリレーで、実質30年間も日本経済を仕切ってきたので
す。つまり、この30年間、この4人の誰かが、総裁、副総裁、
営業局長のどれかをやっていたことになるのです。
 この4人のうち福井俊彦については、思わぬことで予定が狂っ
たのです。それは、1998年に起きた日銀職員の接待汚職容疑
で福井俊彦が辞職したからです。しかし、2003年には何事も
なかったように日銀に戻り、総裁に就任しているのです。
 辞職後の5年間に福井が何をしていたかを知る人は少ないと思
います。彼は、米国の投資会社ゴールドマン・サックスの顧問を
務めていたのです。これによって、日銀のプリンスがいかに米国
と密接につながっているかがわかると思います。
 日銀総裁になってからも、福井は2006年にもインサイダー
疑惑で起訴された投資会社村上ファンドとの関係が問題になり、
国会でも取り上げられましたが、辞任にいたることはなかったの
です。それでいながら、フランスからはレジオン・ドヌール勲章
をもらい、英国の経済紙エコノミストで、世界で「もっとも優れ
た中央銀行総裁」という高い評価を得ているのです。
 米国にとっても、日銀にとっても、福井俊彦という日銀プリン
スは、きわめて大事な存在だったのです。三重野と一緒にバフル
を生成させ、それを潰して日本を不況にさせ、しかもそれを長期
化させる重要な役割を担っていたからです。したがって何があっ
ても彼を日銀に戻す必要があったのです。
 福井俊彦は、日本経済についてどのように考えていたのでしょ
うか。1987年7月、三重野総裁の下で営業局長をやっていた
福井俊彦は、日本経済新聞の記者にインタビューを受けているの
です。そのとき、福井は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 記者:長期金利の上昇を見越して借り入れを急ぐ動きがあるが
    貸し出しの蛇口を細くするつもりはないですか。
 福井:金融緩和を一貫して続けるわけだから、貸出の量的規制
    は自己矛盾に陥ることになります。だから量的規制をす
    るつもりはない。経済の構造調整をかなりの期間かけて
    やっていきながら、国際的な不均衡を是正していく。金
    融政策はそれを支えることになるわけですから、なるべ
    く長く、金融緩和を続けていく責任があるのです。そう
    すると金融機関の貸出が伸びるのは当然・・・。
         ──リチャード・ヴェルナー著/吉田利子訳
  『円の支配者/誰が日本経済を崩壊させたのか』/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 1987年7月というと、日銀が蛇口を全開していた時期であ
り、日本経済新聞の記者はそれをとらえて質問しています。注目
すべきは、福井が「経済の構造調整をかなりの期間かけてやって
いきながら、国際的な不均衡を是正していく」という部分です。
要するに、今やっていること──貸し出し枠を拡大させているこ
とは、将来の日本経済の構造改革と国際的不均衡の是正のために
必要だと本音を語っているからです。やはり、日銀のプリンスは
日本の構造改革を目指していたのです。
 日本がその構造改革に本格的に取り組んだのは、小泉政権のと
きです。そのとき、小泉首相は、経済学者竹中平蔵氏をブレーン
にして、郵政民営化を推進させたのです。その郵政民営化を進め
るなかで、竹中氏は、日本郵政グループの持株会社である日本郵
政株式会社のトップに元三井住友銀行頭取の西川善文氏を就任さ
せたのです。問題はなぜ西川善文氏なのかです。
 吉田祐二氏は、この西川、竹中両氏とゴールドマン・サックス
との関係について次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 冤罪により起訴された植草一秀のインターネットブログ『知ら
 れざる真実』(2009年5月23日付)には、「2002年
 12月11日の密会」として、西川善文と竹中平蔵、そして、
 アメリカ最大の投資銀行ゴールドマン・サックスのCEOヘン
 リー・ポールソン(当時、2006年から2009年までアメ
 リカ財務長官)が会っていたことを指摘している。住友銀行と
 ゴールドマン・サックスの緑は深く、1980年代には住友が
 ゴールドマンに出資している。1999年(平成11)にゴー
 ルドマンが株式上場を果たしたときに慎重に決定された株式売
 却先のひとつが住友銀行であったことを見てもそれが分かる。
 そのゴールドマンに世話になった、もうひとり重要な人物がい
 る。接待汚職問題で1998年に日本銀行を辞職した、福井俊
 彦(当時副総裁)である。福井は浪人中にゴールドマン・サッ
 クスの顧問を務め、2003年に日本銀行総裁として復帰し、
 郵政民営化を陰からバックアップした。(中略)つまり、中心
 にいるのが、日本銀行の福井であり、その意を受けて民間銀行
 をまとめているのが西川であり、外国銀行との折衝役、および
 政府とのパイプをつなげていたのが竹中である。
     ──吉田祐二著/『日銀/円の王権』/学習研究社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 このように、米国にゆうちょ銀行を事実上売り渡す恐るべき陰
謀が進められつつあったのです。「2002年12月11日の密
会」についての詳細は、次の植草一秀氏のブログを参照してくだ
さい。興味深い事実が明かされています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ◎2009年5月23日付「植草一秀の『知られざる真実』
       「西川善文日本郵政社長続投論を覆う黒い霧」
                  http://bit.ly/1iwBVId
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、この恐るべき陰謀は、その直後に行われた衆院選にお
いて、小沢一郎氏率いる民主党が自民党を破り、政権交代を成し
遂げたことによって間一髪救われたのです。
               ──[新自由主義の正体/73]

≪画像および関連情報≫
 ●福井俊彦「打ち出の小槌はない」より
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ◎インフレターゲットや国債の日銀引き受けなど、政府と日
  銀との関係について新聞紙面でいろいろな記事が目に着くよ
  うになった。私は、政治的な議論に直接関与する立場にはな
  いが、通貨に対する信認、それと裏腹の関係にある国家に対
  する信認に絡む問題であるだけに、人々の間で真剣な議論が
  なされ、十分慎重に検討が進められることを願っている。
  ◎歴史的に振り返ってみると、自給自足、物々交換の時代を
  経て、人類の生活の知恵として通貨が生み出された。そして
  通貨が人々から信用される基礎も、当初の素材価値(貴金属
  その他)から、発行者に対する信頼度へと次第に移行して来
  ている。その究極の姿が現在の金兌換保証なき紙幣(一片の
  紙切れ)である。
  ◎この紙切れが人々から信用されるためには幾つもの条件を
  満たす必要があるが、その中で最も重要な条件は何かと問わ
  れれば、第一に、通貨の総量が経済の実態に即して適切に調
  節されていること、第二に、通貨発行主体の財務が健全であ
  ること、の二点を挙げることが出来るように思う。
  ◎更に進んで、政府が中央銀行に対して国債の直接引き受け
  を求めると、どういうことになるか。中央銀行が国債を市場
  から買い入れる場合には、その国債は一旦市場で発行されて
  いるので、その限りでは一応市場の篩にかかっている。しか
  し、中央銀行引き受けで発行される場合には、市場外の発行
  となるため市場の評価とは無関係に発行される。その行き着
  くところ、もし中央銀行が政府の申し出通りに国債を引き受
  けなければならないとすると、それは政府自身による通貨の
  発行と実質的には同じこととなり、財政規律が最も失われ易
  いケースとなってしまう。そして中央銀行は、自律性はおろ
  か存在価値そのものに疑念を抱かせることとなろう。
                   http://bit.ly/1yM6EbC
  ―――――――――――――――――――――――――――

福井俊彦氏.jpg
福井 俊彦氏
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2014年08月22日

●「日銀は実質的に円の支配者である」(EJ第3860号)

 もし日銀が市中に流通する通貨量を本当にコントロールできる
のであれば、インフレにならないよう通貨の総量を調節しながら
景気を左右することができます。好景気にすることも不況にする
ことも意のままということになります。
 しかし、コトはそれほど簡単ではないのです。不況になると日
銀は金利を下げ、それに加えて金融機関の保有する債券や手形を
買って銀行の日銀当座預金に資金を供給する「買いオペ」を行い
ます。これを「マネタリーベース」ということは、今まで何度も
述べています。
 しかし、いくら日銀がマネタリーベースを増やしても、銀行が
その資金を使って貸し出しを増やさなければ、市中に流通する通
貨量──マネーストック(マネーサプライ)は増えないのです。
 しかし、日銀のマネタリーベースの量がそのままマネーストッ
クとして市中に流通するとしたらどうでしょうか。
 それができれば、日銀は間違いなく「円の支配者」になること
ができます。それを可能にしたのが、戦後、一万田日銀総裁から
はじまり、新木、佐々木、前川、三重野、福井のリレーによって
行われてきた「窓口指導」なのです。
 日銀が増加させる通貨の総量を決め、各銀行ごとに貸し出し枠
を設定し、銀行にそれをノルマとして達成させるのが、「窓口指
導」であり、それによってマネタリーベースをそのままマネース
トックとして市中に流すことを可能にさせたのです。
 それができたのは、戦時総力戦経済体制が戦後もずっと続いて
いたからです。景気対策というと、日本の場合、誰もが政府や大
蔵省のやることに注目し、日銀にはあまり目を向けなかったので
日銀は何でもやることができたのです。
 もし、それができるとすれば、中央銀行は、吉田祐二氏のいう
ように、国の実質的な「王権」を握っているということができま
す。吉田祐二氏の著作『日銀/円の王権』の冒頭には次のように
書かれています。
―――――――――――――――――――――――――――――
  「一国の経済をいかようにでも左右できるのは銀行である」
 「好景気も不景気も銀行が作り出す」(中略)もし日銀がわざ
 と失策″を行なえば、景気を人為的に悪化させることができ
 る、とも考えられないか。有効な不況政策をあえて実行せず、
 景気の悪化が予測される政策を選ぶとする。そうすれば、景気
 はますます落ち込んでいく・・・。何を馬鹿なことを、と多く
 の人は疑問の声をあげるかもしれない。それは当然だろう。何
 を好きこのんで、自国の経済を故意に悪化させる必要があるの
 かと。日本銀行は国家(=日本)のために存在する機関である
 から、そんなことをするはずがないと。法律的にもそんなこと
 はありえないではないかと。(中略)だが、そうした反論をす
 る人であっても、日銀が強大な権力を持っていることだけは、
 同意せざるをえないはずだ。意図的に失策を実行するかどうか
 は別にしても、景気を大きく左右することが可能であることは
 はっきりしている。結論をはっきり言おう。実際に日銀は失
 策″を実行してきたのだ。バブルをあえて発生させ、好景気を
 創り出し、さらにはバブルを突然崩壊させた。「失われた10
 年」「格差社会」「勝ち組・負け組」・・・。現在の日本の不
 況(2009年当時)は、日銀が一貫して計画どおりに進めた
 結果にすぎない。             ──吉田祐二著
             『日銀/円の王権』/学習研究社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、これまで日銀の存在感はけっして高くないのです。そ
れは、わざと死んだふりをしてきたのです。日銀は、大蔵省の傘
下にあり、大蔵大臣の指示を受けてその政策を実行する機関であ
ることを装ってきたのです。一万田元日銀総裁の日銀マンに対す
る戒めである「鎮守の森」を守ってきたわけです。
 日銀法の第1条と第2条を戦後と1997年の改正日銀法(現
行の日銀法)を比較すると、改正日銀法は「物価の安定」が入っ
たことによって、日銀の目的がぼかされているように感じます。
――――――――――――――――――――――――――――
 ≪戦後の日銀法≫
 第一条:日本銀行ハ国家経済総カノ適切ナル発揮ヲ図ル為国家
     ノ政策二即シ通貨ノ調節、金融ノ調整及信用制度ノ保
     持育成二任ズルヲ以テ目的トス
 第二条:日本銀行ハ専ラ国家目的ノ達成ヲ使命トシテ運営セラ
     ルベシ
 ≪1997年改正の日銀法≫
 第一条:日本銀行は、我が国の中央銀行として、銀行券を発行
     するとともに、通貨及び金融の調節を行うことを目的
     とする。
 第二条:日本銀行は、通貨及び金融の調節を行うに当たっては
     物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展
     に資することをもって、その理念とする。
―――――――――――――――――――――――――――――
 戦後の日銀の伝家の宝刀である「窓口指導」について日銀は、
1980年代に何回も「廃止」を宣言しています。1982年1
月に窓口指導の廃止を宣言したうえで、貸し出しの伸びを各銀行
に割り当てるのではなく、各銀行の貸出計画を尊重するといって
います。これはそれまではそうしてこなかったという意味です。
 1984年、日銀はまたしても窓口指導の完全廃止を宣言して
います。2年前に廃止を宣言しながら、またしても廃止の宣言を
するということは、82年の廃止宣言はウソだったことになりま
す。1988年に日銀は「82年以降窓口指導は行っていない」
とわざわざ強調しています。
 リチャード・ヴェルナー氏は、日銀側と銀行側の両方をていね
いに取材して、それがウソであることを明言しています。少なく
とも窓口指導は1991年6月までは、継続して行われていたこ
とは確かです。        ──[新自由主義の正体/74]

≪画像および関連情報≫
 ●日銀による「窓口指導」の実態/リチャード・ヴェルナー氏
  ―――――――――――――――――――――――――――
  銀行の関係者がそろって、窓口指導は1980年代も中断な
  く、少なくとも1991年6月までおこなわれていた、と述
  べている。形式も1980年代以前とまったく同じだった。
  日銀が経済全体に対する銀行貸出総額の伸び率を決定し、そ
  れを若い日銀職員が表計算ソフトで計算して、それぞれの業
  態の銀行(都市銀行、信託銀行、地方銀行など)に分割し、
  さらに、それを各銀行(富士銀行、三和銀行など)に配分す
  る。これらの貸出増加額の割り当ては、四半期ごとに全国の
  銀行に通知される。四半期ごとの割り当てはさらに月あたり
  の増額に分割されて、日銀に監視される。「四半期末が近づ
  くと、それまでに銀行がどの程度貸出を増やしたかが次第に
  明らかとなる。だから、たとえば3月末のような四半期末に
  なると、銀行の担当者がやってきて、こちら日銀側の担当者
  に、上限を超えそうだから貸出枠を高くしてほしいといった
  話をすることになる。あるいは、日銀側が『貸出を減らすよ
  うに』と言うかもしれない。こうして、四半期末が近づくと
  ここでは盛んに話し合いがおこなわれる。彼らは報告の提出
  に来る。われわれがそれを求めるからだ。われわれは毎月、
  彼らに貸出増加額を尋ねる。もし彼らが上限を超えてしまっ
  たようなら、『少し抑えるように』と指示する」。
         ──リチャード・ヴェルナー著/吉田利子訳
  『円の支配者/誰が日本経済を崩壊させたのか』/草思社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

日本銀行本店.jpg
日本銀行本店
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2014年08月25日

●「長期不況を体験させ意識を変える」(EJ第3861号)

 もともと日本が戦時経済体制を維持することを決めたのは米国
の意向なのです。しかし、1980年代のはじめに米国は大きな
方針変更をしたのです。それは、日本が予想以上に米国の恐るべ
き敵になることがはっきりしたからです。
 これに対して米国はいろいろな手を打っています。おそらく米
国からの要請をいちばん早く受け止めたのは、日銀であったと思
われます。日本政府に対しては、1981年に大統領に就任した
レーガンが当時の中曽根首相に対して公式に日米構造協議を呼び
掛けてきています。
 中曽根首相がレーガン大統領からの要請を受けて、日銀総裁を
代わったばかりの前川春雄に日本の構造改革計画書(前川レポー
ト)を策定させたというより、むしろ前川自身がその必要性を感
じて策定した日本改造プランというべきです。そしてこのレポー
トづくりに、三重野と福井は積極的に参画しているのです。
 そのとき、米国は日本の大手銀行の海外進出を非常に警戒して
いたのです。日本は、金利の低い円資金を武器に大規模な融資を
展開しはじめていたからです。
 これに対して欧米諸国は、これを抑えようとして、必死に対策
を考えたのです。そして、日本の大手銀行の自己資本が欧米の銀
行よりも低いことに気がつきます。欧米の銀行の自己資本が10
%程度あったときに日本の大手銀行は6%程度しかなかったから
です。その結果、次のような経緯で、1988年7月に「バーゼ
ル・アコード」という合意に達したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 欧米各国の金融首脳が、スイスのバーゼルにある国際決済銀行
 (BIS)に集まり、日本からは大蔵省(現財務省)首脳が参
 加して検討した結果、1988年7月に、バーゼル・アコード
 と呼ばれる合意に達した。正式の名称は、「自己資本測定と自
 己資本比率の国際的統一化」であり、通称「BIS規制」と呼
 ばれている。バーゼル・アコード自体は、法的拘束力のないガ
 イドラインに過ぎない。しかし、主要国はこの合意を国内的に
 実施する法的措置をとっている。      ──菊池英博著
             『そして、日本の富は略奪される/
   アメリカが仕掛けた新自由主義の正体』/ダイヤモンド社
―――――――――――――――――――――――――――――
 この文章を読むと、主役は大蔵省のように思えますが、これに
も前川春雄と三重野康が深くかかわっていたのです。BIS規制
は三重野が総裁のときにはじまっているのです。
 前川レポートは、当時の日銀では「日本改造10年計画」と呼
ばれていたのです。1986年から1996年の10年間の計画
という意味です。
 1980年代といえば、日本経済の絶頂期です。日本型システ
ムが世界中で話題になっていたときです。そんなときに国民の生
活を根本から変えろと要求する米国に国民は反対するに決まって
いると日銀のプリンスたちは考えたのです。
 そこで日銀のプリンスたちは、10年かけてバブルを発生させ
それを潰すことによって、日本国民に長い不況を経験させること
が必要だと考えたのです。そうすれば、構造改革が進みやすくな
ると。このようにして、日本の長期不況は、日銀によって慎重に
仕掛けられたのです。これについて、リチャード・ヴェルナー氏
は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 プリンスたちは10年計画の目標の達成度合いに応じて、不況
 の長さを決めた。主たる目標のすべてが達成されたところで、
 不況を終わらせる。厳密に言えば、10年計画は1996年で
 終了する予定だった。たしかに、野心的な目標のいくつかは実
 現した。経済構造は劇的な変化を遂げた。サービス部門は97
 年には国民総生産の61パーセントを占めた。この数字は87
 年に前川が決めた目標値を上回っていた。長期不況によって、
 変革を求めるコンセンサスができあがった。1986年なら、
 産業界、政界、官界の指導者のほとんど、そして一般サラリー
 マンや主婦も、国家を変革して国民の暮らしを変えろというア
 メリカの要求を拒否しただろう。だが1996年には、古いシ
 ステムはもはや機能しない、日本はシステムを変えなければな
 らないという思いが、おおぜいの意志決定者に、広く深くしみ
 わたっていた。日銀法を改正して中央銀行を政府、大蔵省、そ
 の他いかなる民主的機関からも独立させろという議論をプリン
 スたちがぶちあげたのはこの時であった。
         ──リチャード・ヴェルナー著/吉田利子訳
  『円の支配者/誰が日本経済を崩壊させたのか』/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 このとき、日銀のプリンスたちは、ひそかに次の2つのことを
目標にしていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1.大蔵省の権威と評判を地に落し泥にまみれさせる
  2.大蔵省から独立する日銀法改正を実現させること
―――――――――――――――――――――――――――――
 日銀法改正法案は、議会で議論は行われていたのですが、大蔵
省を中心に、日銀法改正に反対する声も強くなりつつあったので
す。そこで1997年から景気回復の手を打つ予定をさらに伸ば
したのです。そこに大蔵省接待汚職事件が起きるのです。
 これによって、官僚7人が逮捕・起訴されたのですが、そのな
かに日銀職員が1人いたことによって、時の三塚大蔵大臣、松下
康雄日銀総裁、さらに副総裁をしていた福井俊彦も引責辞任する
ことになったのです。
 これによって日銀の目標の「1」は達成されたものの、福井の
辞任は大きな誤算だったのです。目標の「2」は、1997年夏
に衆参両院は日銀法改正を可決し、1998年から実施されたの
です。日銀は景気回復に動かなかったのですが、消費税を増税し
た大蔵省が非難されたのです。 ──[新自由主義の正体/75]

≪画像および関連情報≫
 ●鎌田慧の現代を斬る/大蔵省スキャンダル
  ―――――――――――――――――――――――――――
  大蔵省のスキャンダルは、金融検査部・金融証券検査官室長
  ・宮川宏一、同部管理課課長補佐・谷内敏美の逮捕後、おな
  じノンキャリア組の銀行局総務課・大月洋一氏の自殺へと展
  開した。このままノンキャリア組のスキャンダルだけで決着
  させるのか、さらには大蔵省がどういった形で分割されるの
  かが今後の焦点となっている。この事件で大きな問題となっ
  たのは、銀行を監督するはずの検査官が、接待のみかえりと
  して検査日程を銀行側に伝えていたことだ。このような大蔵
  省の腐敗ぶりは、まさしく悪代官と悪徳商人の関係である。
  官と民との歪んだ構図が、ここにある。だが、これだけ根深
  い腐敗を摘発されても、大蔵官僚たちには罪の意識のかけら
  もない。それが証拠に、先日放映されたNHKのスタジオ番
  組では西村吉正前銀行局長が驚くべき発言をしている。「接
  待というから、なにか快楽的なイメージになるのであって、
  会食というべきです。銀行側との会食は必要でしょう」。こ
  のようなことを白昼堂々テレビで語るほど、大蔵官僚は「会
  食漬け」になっている。彼らの会食とは芸者つきの高級料亭
  であり、風俗営業店での飲み食いである。しかもそのあとに
  は、高給クラブや接待ゴルフが待っている。庶民のワリカン
  などの会食ではない。会う用事があるなら、支払いを折半に
  したらどうだ。          http://bit.ly/1p03DP4
  ―――――――――――――――――――――――――――

日銀のプリンス/三重野康元日銀総裁.jpg
日銀のプリンス/三重野康元日銀総裁
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2014年08月26日

●「1999年経済回復の本当の理由」(EJ第3862号)

 日銀のプリンスたちは、「日本改造10年計画」(前川レポー
ト)については1996年までに終わらせ、1997年から景気
を回復させる政策を取ろうと考えていたのです。
 しかし、1996年の時点では「金融ビッグバン」は取り沙汰
されてはいましたが、まだ改革の機運が十分に生まれているとは
いえなかったのです。そのため、日銀は計画を変更し、再び信用
創造を引き締めているのです。これでは、世の中は不況一色に染
まるはずです。
 ところが、1997年に橋本内閣は消費税の増税を行い、財政
政策も引き締めています。金融政策と財政政策がともに引き締め
政策をとれば、不況は一段と深刻になるに決まっています。多く
の人はそれを消費税増税のせいであると思ったのです。そのため
政府と大蔵省に強い非難が向けられたのです。
 1987年になると「金融ビッグバン」が始まり、日銀にとっ
て待望の改正日銀法が施行されたので、日銀は10年計画──結
局12年間を要したものの、日銀は長期不況からの脱却を図ろう
としたのです。
 1998年は日本経済は不況の真っ只中にあったのです。ほと
んどの経済指標は国内需要がさらに低下することを示していたし
失業率は戦後最高に跳ね上がったのです。長期信用銀行と日本債
券信用銀行が閉鎖され、人々はショックを受けていたし、一流企
業でも人員整理が相次いだのです。
 長期国債の利回りは0.7 %と世界最低水準を記録し、日経平
均は、バブル崩壊後の最低記録である1万3000円を割り込み
円は「1ドル=147円」の円安で取引されていたのです。奇跡
の経済大国としてもてはやされた日本経済の面影は、もはやどこ
にもなかったのです。
 消費税増税の影響は深刻であり、景気低迷や失業率の悪化が響
いて、1998年7月の参院選で自民党は惨敗し、橋本内閣は総
辞職したのです。そして、1998年7月30日に小渕内閣が発
足します。
 小渕内閣は、経済再生を掲げて、緊急経済対策24兆円を発表
し、補正予算を成立させ、5.4 %増という20年ぶりの伸びの
高い1999年度予算を組むなど、政府としてこれ以上ない大判
振る舞いをやって、経済回復に努めたのです。
 経済が回復したのは、小渕政権の実施した一連の経済対策が功
を奏した結果であると誰もがそう考えています。これは、小渕首
相の命を受けて、大蔵省が組んだ経済政策です。それは間違いで
はないのですが、経済政策は、日銀による信用創造という側面か
らも見る必要があります。リチャード・ヴェルナー氏は小渕内閣
の経済再生政策には何も触れず、次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 大半の人々の予想に反して、日本経済は1999年度に回復し
 た。予測のためには、通貨の価格ではなく量に、正確に言えば
 信用創造の量に着目しなければいけない。銀行が麻痺している
 場合、経済予測に必要なのは、中央銀行がどれだけのお金を創
 造したかを見ることだ。1998年3月31日、日本銀行は劇
 的な政策転換を実施した。とつぜんすべての印刷機のスイッチ
 が入り、この四半世紀で最高のスピードで通貨を創造しはじめ
 たのである。あらたに創造された通貨は国債やCP購入を通じ
 て経済に注入された。翌4月1日、新日銀法が施行され、日本
 銀行は1992年以来はじめて独立を果たした。プリンスたち
 の大きな目的が達成されたのだ。だが日銀が発表するいわゆる
 マネーサプライ指標を見ても、信用創造量の劇的増加の事実は
 すぐにはわからない。中央銀行は、自分たちが何をしているか
 を吹聴したがらないものだ。彼らは大量の金融データを発表す
 るが、信用創造の給量に関するデータを強調したりはしない。
         ──リチャード・ヴェルナー著/吉田利子訳
  『円の支配者/誰が日本経済を崩壊させたのか』/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 日銀の信用創造の量はどのようにすればわかるのでしょうか。
リチャード・ヴェルナー氏は、銀行への貸出、金融市場操作、長
期債券市場操作、外為市場介入、オペの不胎化などの取引をすべ
て足し合わせればよいといっています。ヴェルナー氏自身がこれ
に基づいて計算した1984年から2000年までのグラフ──
「日銀の先行リクイティティ指数グラフ」を添付ファイルにして
おきます。
 これを見ると、あれほど、信用創造を増やしたはずの1985
年以降よりも、はるかに多い量の信用創造を1998年にやって
いることがわかります。
 問題は銀行の貸出データです。日銀のデータによると、銀行の
貸出データは、1999年と2000年のほとんどを通じて、約
5%減少していたのです。
 しかし、このとき大蔵省は、銀行の信用創造の重要性を意識し
て、次の3つの政策を追加しています。これは大正解です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.融資保証制度を金融安定化資金として拡充強化し、銀行
   の貸出を促進させる
 2.公的資金注入と引き換えに銀行に対して中小企業貸出目
   標の達成を要請する
 3.大蔵省は予算要求の8兆円の財政支出を国債でなく、銀
   行借入れをしている
―――――――――――――――――――――――――――――
 これらは、いずれも銀行の貸出促進を図る政策であり、貸し渋
りを防ぐ政策として有効です。したがって、金融再生委員会は、
日銀の領域を侵してこの政策を実施したのです。
 戦後1991年まで日銀は「窓口指導」によって、マネタリー
ベースをマネーストックとして市中に流通させてきたのですが、
2000年以降は「窓口指導」を廃止しているので、その手が使
えなくなっています。  ──── [新自由主義の正体/76]

≪画像および関連情報≫
 ●富国有徳小渕恵三氏対巧言令色野田佳彦氏/植草一秀氏
  ―――――――――――――――――――――――――――
  自民党の小渕優子議員が衆議院本会議で代表質問に立ち、野
  田佳彦氏と小渕恵三氏との間には、天と地の違いがあると述
  べた。小渕恵三元首相は小渕優子議員の実父にあたるから、
  身内のことをへりくだる風習のある日本では、小渕議員の発
  言が顰蹙を買う可能性はあるだろう。しかし、その点を離れ
  て考えれば、小渕議員の指摘は正鵠を射ていると思われる。
  小渕元首相は小渕政権が目指す方向について、「富国有徳」
  との言葉を掲げた。いまの日本に欠けている最大のものは、
  徳のあるリーダーであると思う。本当に徳のある人物が、政
  治の最前線から排除されていること。これが、現代日本の最
  大の不幸である。政治家に求められる第一の資質は、無私の
  精神である。無私であり、高い徳を有していること。これが
  指導者に求められる最大の資質である。知識、見識、学識も
  必要だが、知識と学識については、別の人間が補完すること
  ができる。リーダーが何から何まで知っている必要はない。
  あらゆる情報を入手できる体制を整えることができ、そのな
  かで正しい判断を下すことのできる見識が求められている。
  問題は、何を持って正しい判断とするのか、ということであ
  る。企業の経営者であるなら、企業の発展を誘導できるかど
  うかが問われるだろう。もちろん顧客、社会、従業員といっ
  た企業の利害関係者を尊重したうえでの話ではあるが、企業
  経営者は企業の発展を目指すことが求められるだろう。
                   http://bit.ly/1pPEonU
  ―――――――――――――――――――――――――――

日銀の先行リクイティティ指数グラフ.jpg
日銀の先行リクイティティ指数グラフ
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2014年08月27日

●「信用創造の達人/グリーンスパン」(EJ第3863号)

 ここまで書いてきて不思議に思うことがあります。それは、銀
行が創り出す「信用創造」というものを銀行業に携わる人たちが
なぜか隠したがるように見えることです。積極的には口にしたく
ないという感じなのです。
 しかし、「信用創造」は、別に隠されているわけではなく、経
済学の教科書にも載っている事柄なのです。ウィキペディアを参
照すると、次のように出ています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 信用創造とは、銀行の貸出によってマネーサプライ(通貨供給
 量)が増加すること。あるいは、金融機関のおこなう「決済機
 能の提供」と「金融の仲介機能」が作用して信用貨幣が増加す
 る機能を指す。銀行が貨幣経済において果たしている重要な機
 能のひとつである。          ──ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――――
 これをさらっと読んですぐ理解できる人は少ないはずです。何
となくきわめて平易なことをわざと難しく論じているように見え
るからです。あえてわかりにくくしているようです。
 ここまで何度も取り上げてきたリチャード・ヴェルナー氏によ
る経済論は、明らかに「信用創造」にベースを置いて書かれてい
ます。ヴェルナー氏の理論によると、日本のバブル生成とその崩
壊、そして「失われた20年の大不況」は、一般に論じられてい
るものとは明らかに異なります。
 だから、面白いし、よくわかるので、彼の代表作『円の支配者
/誰が日本経済を崩壊させたのか』(草思社)はベストセラーに
なったのです。しかし、この本の帯に次のように書かれていたせ
いか、「日銀陰謀論」のたぐいの怪しげな本のように思われてし
まったことは確かです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 バブルの創出も崩壊も日銀の『日本改造10年計画』の中に
 組み込まれていた。       ──『円の支配者』の帯
―――――――――――――――――――――――――――――
 ヴェルナー氏は、『円の支配者』の最終章である第19章で、
アラン・グリーンスパン氏のことを書いています。グリーンスパ
ン氏は、1967年に発表した『金と経済的自由』という論文の
なかで、中央銀行に行き過ぎた権力が集中することに反対し、金
本位制度について、次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 金と経済的自由とは不可分である。金本位制という制度下でな
 ければ、インフレーションという名の略奪から我々の資産を守
 ることはできない。我々の財産を守るには金が欠かせないので
 ある。このことをしっかり理解していれば、政治家達が金本位
 制に反感を抱いている理由が容易に理解できるだろう。
    ──アラン・グリーンスパン論文/『金と経済的自由』
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、グリーンスパン氏は1987年にFRB議長になると
60年代の自分の研究を封印したのです。そして「信用創造」と
いう言葉すら、なるべく使わないように心がけるようになってい
ます。そして、クリントン政権末期の1999年には、グラム・
リーチ・ブライダリー法の成立に協力しています。これは、20
08年の世界を揺るがした米国の不況に深く関係しているので、
明日のEJで述べます。
 1997年のことです。ヴェルナー氏は、ある香港の夕食会で
グリーンスパン氏と偶然同席したのです。よい機会だと思ったの
でヴェルナー氏は、グリーンスパン氏に挨拶し、自分の論文のこ
とについて聞いてみたのです。そうしたら、意外な反応があった
というのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 彼から返ってきた答えは、いまも記憶に生々しい。「ああ、信
 用創造についての論文だね、日本の。二度読んだよ。『エコノ
 ミスト』の記事も、論文そのものも」。言葉を失ったのはこっ
 ちだった。この多忙で強大な権力をもった人物が、4年もたつ
 のにわたしの名前から論文まで細かく覚えているなんて、信じ
 られなかった。何と言うべきかわからなくてわたしは尋ねた。
 「それで、どうお思いになりましたか?」すると彼は「覚えて
 ないね」と答えて歩き去ってしまった。あとには、きょとんと
 したエコノミストが残されたというわけだ。
         ──リチャード・ヴェルナー著/吉田利子訳
  『円の支配者/誰が日本経済を崩壊させたのか』/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 グリーンスパン氏は、「信用創造」について強い関心があった
からこそ、ヴェルナー氏の論文を真剣に読んだのです。しかし、
それについては、話し合いたくなかったのでしょう。同じような
目に遭ったのは、ヴェルナー氏が日銀を訪れ、幹部と会ったとき
のことです。彼らは、ヴェルナー氏の本について、質問せず、反
論せず、事実についての議論すらいっさいしなかったというので
す。要するに冷たく突き放されたというわけです。彼はセントラ
ル・バンカーたちから嫌われていたのです。
 銀行の「信用創造」は、どうやら銀行家にとってはタブーであ
り、みだりに口にすべき言葉ではないようです。現代の中央銀行
券は、複式簿記のルール上、発行者である中央銀行の貸借対照表
の負債勘定(貸方)に記載されます。
 一般的には「借」は債務であり、「貸」は資産を連想しますが
簿記の世界では逆なのです。借方には「資産」あるいは「債権」
を、貸方には「負債」あるいは「債務」を記入するのです。
 しかし、負債といってもこのお金には価値の裏付けになる資産
はなく、中央銀行にとっては返済不要の負債なのです。学者のな
かには、中央銀行券を「銀行券の保有者からの一方的な贈与」と
呼ぶ人もいるのです。そして、複式簿記は信用創造を巧妙に隠す
ための仕組みであるともいわれているのです。
            ──── [新自由主義の正体/77]

≪画像および関連情報≫
 ●グリーン・スパン『波乱の時代/わが半生とFRB』書評
  ―――――――――――――――――――――――――――
  20年に渡ってFRB(連邦準備制度:アメリカの日銀)の
  議長を務め、その手腕から魔法のステッキに喩えられたグリ
  ーンスパンの回顧録。単行本から積読を片付けようとしたら
  えらい本を手にとってしまった。上下巻あるけれど、回顧録
  としては上巻で完結している。下巻は丸々、世界の未来を分
  析する内容らしい。アラン・グリーンスパンは東欧から移民
  したユダヤ人の家庭に生まれ、早々に両親は離婚したものの
  証券マンだった父親の影響か金融関係に、足を踏み入れてい
  く。ニューヨーク大学商業金融学部は、当時は名門とはいえ
  なかったが、教授が顕職についたことで政財界の人間と交流
  できた。朝鮮戦争前後に業界のベテランと組んでコンサルタ
  ント会社を設立し、在庫調整や景況判断を提供しつつ様々な
  業界の知識を吸収していく。最初に政治にかかわったのは、
  ニクソンの選挙スタッフとしてで、同大統領のアクの強さに
  ドン引きしたものの、後継のフォード大統領に請われて経済
  諮問委員会の委員長を務める。保守主義の立場からもフォー
  ド政権の政策に共鳴し、以来、熱心な共和党員となる。FR
  B議長となったのは共和党のレーガン政権で、早々にブラッ
  クマンデー(1987年)に直面したが、柔軟に利下げに転
  じて乗り切る。クリントン政権ではレーガン政権下で膨らん
  だ財政赤字の削減を求め、冷戦終結による経済のグローバル
  化、情報技術の発達による生産性の向上から経済成長、低い
  失業率とインフレへ導く。     http://bit.ly/YLD4rY
  ―――――――――――――――――――――――――――

グリーンスパン氏の本.jpg
グリーンスパン氏の本
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2014年08月28日

●「08年世界金融危機の本当の原因」(EJ第3864号)

 「不況」とは何でしょうか。
 ジョセフ・スティグリッツ教授の定義によると、不況とは「G
DPが下落すること」であるとしています。きわめてわかりやす
い定義であると思います。さらに正確にいうと不況とは、GDP
が2四半期以上連続して下落することです。
 日本のバブルとその崩壊が日銀の仕掛けたものであるとすれば
2008年の米国発の世界的金融危機もFRBが何らかのかたち
で絡んでいるのではないかと勘繰りたくなります。
 2008年の世界的金融危機の原因は何でしょうか。
 誰でも原因はサブプライムローンであると考えます。サブプラ
イムローンは、通常の住宅ローンの審査には通らないような信用
度の低い人向けのローンです。
 問題は、これらのローン債権が証券化され、世界各国の投資家
に販売されたことです。それが爆発的に売れたのは、当時米国の
住宅価格が上昇していたことを背景に、格付け企業がこれらの証
券に高い評価を与えていたことです。
 しかし、このサブプライムローン自体は表面に見える「現象」
であって、真の原因ではないのです。問題は、銀行がこのような
ローンを売り出したことにあるのです。そんなことをすればどん
な結末を迎えるかについても、最初からわかっていた人がいると
思われます。
 2006年にグリーンスパンFRB議長は、ベン・バーナンキ
氏に議長を譲っていますが、この2人のFRB議長は、それがわ
かっていたはずです。バーナンキ氏は「デフレ・ファイター」と
して知られる不況や恐慌の専門家です。したがって、バーナンキ
氏がFRB議長になったということは、米国が不況になったとき
の備えと考えることができます。そして、その2年後に実際に米
国は不況に突入しているのです。話が出来すぎています。
 それでは、米国において、バブルはなぜ起こり、崩壊したので
しょうか。
 それは、銀行と証券を分離する「グラス・スティーガル法」が
廃止され、「金融サービス近代化法」(グラム・リーチ・ブライ
リー法)が制定されたことにあります。これによって、銀行が証
券会社の業務へ、証券会社が銀行の業務に相互参入することがで
きるようになったのです。
 グラス・スティーガル法については、EJ第3837号で述べ
たように、ロックフェラー財閥が金融を基盤にしていたライバル
のモルガン財閥の勢いを削ごうとして、1933年にルーズヴェ
ルト政権に制定させた法律なのです。
 これによって、金融帝国モルガン商会は、普通銀行のモルガン
銀行と証券を扱うモルガン・スタンレー社に分離させられること
になったのです。これによって、モルガン商会は、大きな打撃を
被ったのです。            http://bit.ly/1zYsXhH
 ところが米クリントン政権は、政権末期の1999年にこのグ
ラス・スティーガル法を廃止して、グラム・リーチ・ブライリー
法を成立させています。
 なぜ、そのようなことをしたのかというと、この10年来続い
ている米国の景気を持続的に成長させたかったからであると思わ
れます。しかしそれはバフルであり、この法律を制定させた仕掛
け人たちは、いずれ崩壊することは、はじめからわかっていたの
です。それを承知でこの法律を成立させたことになります。
 多くの人は、この期の米国の景気拡大の原因は、IT革命の成
果であり、規制改革の推進であり、財政収支の改善であり、金融
政策の適切な運営であるとしていますが、それはすべて表向きの
理由であって、グラム・リーチ・ブライリー法制定を機に、銀行
が「信用創造」を増やしたことが好景気の原因なのです。
 グラム・リーチ・ブライリー法制定に関して、ノンフィクショ
ン・ライターの広瀬隆氏は、自著で次のように批判しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 (グラム・リーチ・ブライリー法制定によって)、全米に満ち
 あふれるすべての金が、商業銀行を経由して、ウォール街の投
 資業界に流れこむ準備ができました。そればかりでなく、商業
 銀行が投資業界に進出してきたため、この巨大なマンモス資本
 に対抗するため、証券会社もまた自らヘッジファンドとなって
 ハイリスク〜ハイリターンの最も危険な道になだれこんでゆき
 ました。こうなると、銀行界と証券界の利益争奪戦になります
 から、それまで敬遠していた配当率の高いハイリスク〜ハイリ
 ターンのヘッジファンドのような投機業界さえもバンカーにと
 って、ライバルを倒すための魅力的な投資先に見えたのも当然
 です。金融界は、業界をあげて投機屋へと化けてゆきました。
 おそろしく危険なメカニズムが国家ぐるみで動き出したわけで
 す。     ──広瀬隆著/『資本主義崩壊の首謀者たち』
                   集英社新書/489A
     ──吉田祐二著/『日銀/円の王権』/学習研究社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 銀行と証券会社はともに金融機関ですが、両者には重大な違い
があるのです。銀行については、ここまで見てきたように少しの
マネーを「信用創造」によって膨らますことができるのに対して
証券会社はそれができないのです。
 証券会社は、証券を金融市場で売ったり買ったりしますが、そ
こではマネーの量が増えることはなく、総計でプラスマイナスゼ
ロになるのです。つまり、誰かの儲けは必ず誰かの損失になるよ
うになっているのです。
 この2つの機関が一緒になると、どうなるでしょうか。銀行が
「信用創造」で創り出す、本来生産的に使われるべきマネーが、
ハイリスクハイリターンの高い投機に使われてしまうことになり
かねないのです。グラム・リーチ・ブライリー法は、それを可能
にする法律なのです。そのようにして米国では2000年以降、
バブル景気が実際に創り出され、2008年に崩壊したのです。
            ──── [新自由主義の正体/78]

≪画像および関連情報≫
 ●グラム=リーチ=ブライリー法と金融統/坂本正氏
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1999年11月12日に成立したグラム=リーチ=ブライ
  リー法はグラス=スティーガル法の66年ぶりの撤廃と報じ
  られたが,これはグラス=スティーガル法20条と32条お
  よびこれに関連する1956年銀行持株会社法の当該条項を
  撤廃することで,銀行・証券・保険の相互参入を可能にする
  ものであり,その狙いはアメリカ金融サービス産業の国際競
  争力の強化であった。従来,証券業界はこのようなグラス=
  スティーガル法の改正には反対であったが,銀行持株会社に
  よる証券業務への実質的な進出が顕著なため保険会社ととも
  に,持株会社による相互参入を支持する側へと方向を転換し
  た。また、1998年秋に認可されたシティコープとトラベ
  ラーズの合併は実態先行の金融統合の進展を示すものであっ
  た。その中で上院の金融サービス現代化法と下院の金融サー
  ビス法の審議過程の争点となったのは,持株会社による金融
  業務拡大を主張するFRBと、国法銀行およびその直接子会
  社による金融業務拡大を主張するOCC・財務省との対立で
  あった。しかし、妥協の結果、銀行は金融持株会社の子会社
  を通じて証券業務に進出できるだけでなく、地域における中
  小の国法銀行も直接にレベニュー債の引受けが認可され,ま
  た直接子会社を通じてレベニュー債の引受け認可と保険引受
  けと不動産開発およびマーチャント・バンキングを除く金融
  業務が認可された。このように監督当局の対立=競争が商業
  銀行の証券業務の進出を多角的に許容することになったこと
  に注目したい。          http://bit.ly/1okhXSD
  ―――――――――――――――――――――――――――

ベン・バーナンキ前FRB議長.jpg
ベン・バーナンキ前FRB議長
posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 新自由主義の正体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月29日

●「中央銀行は財閥に支配されている」(EJ第3865号)

 グラム・リーチ・ブライリー法が可決されたのは、クリントン
政権の末期のことです。1980年頃から銀行業界は、グラス・
スティーガル法の廃止を強く求めていたのです。クリントン大統
領としても規制緩和を進めようとしていたので、銀行業界の規制
緩和の要求を無視するわけにはいかなかったのです。
 この法律の成立について、クリントン大統領がどのように思っ
ていたかを知る情報があります。2010年4月にクリントン元
大統領は、ABCニュースのジェイク・タッパー記者の質問に対
して、商業銀行および投資銀行業務の規制緩和について2人の歴
代財務長官──ロバート・ルービンとローレンス・サマーズの双
方からアドバイスを受け入れたと話したうえで、次のように述べ
ています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 金融派生商品において、そう、私はそれらが間違っていたと
 思う。そして私自身もそれをするのは間違っていたと思う。
                ──クリントン元米大統領
―――――――――――――――――――――――――――――
 この法案が成立した1999年当時のFRB議長はアラン・グ
リーンスパン氏、財務長官はロバート・ルービン氏、財務副長官
は、ローレンス・サマーズ氏です。サマーズ氏はその後、ルービ
ン氏から財務長官を受け継いでいますが、実質的にこの法案を決
めたのは、この3人です。
 グリーンスパン氏の自叙伝『波乱の時代』には、この法案を決
めた日のことが書かれています。グリーンスパンFRB議長は、
サマーズ財務長官と、この法案をどうするか話し合い、成立させ
ることにした経緯を次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1999年の秋、わたしは財務長官に昇進したサマーズととも
 に、財務省とFRBの縄張り争いを解決しなければならなかっ
 た。問題の発端は議会がアメリカの金融業界を規定する法律を
 全面的に改定しようとしたことにある。銀行、保険、証券、不
 動産などが対象だった。何年にもわたって準備されてきた金融
 サービス近代化法によって、大恐慌の時代に制定され、銀行、
 証券、保険の分離を定めたグラス・ステイーガル法をついに廃
 止することになったのである。(中略)たまたま、10月14
 日は週に1回の朝食会でサマーズに合う日にあたっていた。そ
 のとき、顔を見合わせて、これは2人で解決するしかないと確
 認した。その日の午後、わたしはサマーズのオフィスに行き、
 ドアを閉めて話し合った。(中略)1時間か2時間のうちに、
 われわれはそれぞれの取り分を決めることができた。財務省と
 FRBはひとつの法案に合意し、その日のうちに議会に送って
 可決された。金融近代化法は経済法の歴史のなかでひとつの節
 目になったとみられている。わたしにとってもこの法律は忘れ
 られないものであり、誰にも注目されていないものの、政策決
 定の栄光の瞬間として、少しは注目されてもいいのではないか
 と思う。   ──グリーンスパン著/山岡洋一・高遠裕子訳
        『波乱の時代』上巻より/日本経済新聞出版社
     ──吉田祐二著/『日銀/円の王権』/学習研究社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本の1980年代のバブル景気は、プラザ合意による円高を
契機に銀行が信用創造を増やしたことによって発生しています。
同様に、2000年代の米国のバブル景気は、銀行と証券会社の
垣根がなくなったことが契機になって、銀行が信用創造を増やし
たことが原因で起きているのです。
 このように大きな景気や不況が起こるウラには、必ず中央銀行
の存在があります。国の経済の実権を握ることは、実質的に国の
「王権」を握ることに等しいのです。したがって、中央銀行のウ
ラには、世界有数の財閥の存在があります。世界を動かしている
真の王は、彼らなのです。
 したがって、巨大な銀行は絶対に潰れず、何かあると必ず救済
されます。これには有名な言葉があります。この言葉は、グラム
・リーチ・ブライリー法と密接に関係しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
    大き過ぎて潰せない/Too Big Too Fail policy.
―――――――――――――――――――――――――――――
 ところで、日本の日銀も米国のFRBも、政府機関ではなく、
株主のいる民間の株式会社であることをご存知でしょうか。問題
は、なぜ株式会社なのかです。株式会社である以上、中央銀行は
理屈上は公的機関ではなく、株主の私的な利益目的に奉仕する私
的機関ということになります。
 日銀の場合は、株の55%は財務省(日本国家)で、39%は
個人、残りの部分は金融機関や公共団体であるといいます。しか
し、個人投資家の名前は公表されていないのです。
 FRBの場合も詳細はわかりませんが、連邦準備銀行のなかで
最大のニューヨーク連邦銀行の1914年時点での主要株主は、
ナショナル・シティバンク、ナショナル・バンク・オブ・コマー
ス、ファースト・ナショナルバンク、チェース・ナショナルバン
ク、マリーン・ミッドランド・バンクなどであり、これらの銀行
の株式を持つ者は、ヨーロッパのロスチャイルド家、ラザール・
フレール、ゴールドマン・サックス、ロックフェラー、モルガン
なのです。世界の支配層がずらりです。
 これらの財閥は、実質的な国の「王権」を有している中央銀行
を掌握していれば、世界を支配できると考えているのです。日銀
の株主のなかにも確実に入り込んでいると思われます。
 5月12日から「新自由主義の正体」をテーマにして書いてき
ましたが、今回で終了します。途中から中央銀行をターゲットと
したところから、テーマとは若干外れたところもありましたが、
所期の目的は果たせたと思っています。長い間のご愛読を感謝し
ます。9月1日からは、今回とも関係のある新しいテーマを取り
上げます。   ──── [新自由主義の正体/79/最終回]

≪画像および関連情報≫
 ●「基本のキ、日銀株主の話」ひとのごと、ぶつぶつ
  ―――――――――――――――――――――――――――
  いよいよ、崩壊をし始めたらしい世界の金融システムですが
  私はずっとこの金融システムが諸悪の根源であり、詐欺シス
  テムであると言ってきたのですから、喜ばしいことです。そ
  の詐欺システムの中軸を支えてきた基軸通貨ドルがその価値
  を失う日も近いと踏んでいます。一枚1兆ドルのプラチナコ
  インを2枚、アメリカ政府が発行してFRBに渡すとか、本
  気なのかジョークなのか分かりませんが、そこまでアメリカ
  経済は追い詰められているのです。国家予算の何十倍かの利
  息を払わなくてはならないとなれば、背に腹は変えられませ
  んから、正義を振り回してでも(憲法を正しく解釈して)こ
  の苦難を乗り越えようとするでしょう。FRBは解体され、
  政府が紙幣を発行するようになるでしょう。宗主国がそうな
  れば、当然日本も見習って、追随するでしょうから、日銀も
  終わりです。日銀なんて無くても全然困りません。今でも、
  500円以下のコインは政府が発行しているのですから、お
  札だって政府が発行すればすむことです。世の中で何が一番
  儲かるビジネスかといえば、ただの紙をお札として印刷して
  国民に貸し出す商売です。真似したくても独占事業ですから
  同じようなお札を印刷すれば、偽札作りとして捕まります。
  国営事業かといえばそうではありません。株式会社でジャス
  ダックに上場していますから欲しければ、株券だって買える
  ようです。問題なのは、その株式会社日銀の株主構成です。
  55%は政府が保有していることになっていますが、残りの
  45%のうち、39%は誰が持っているのか公表されていま
  せん。              http://bit.ly/1mHC2CX
  ―――――――――――――――――――――――――――

ルービンとサマーズ.jpg
ルービンとサマーズ
posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 新自由主義の正体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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