2014年05月12日

●「1%が99%の富を収奪する仕組」(EJ第3787号)

 この4ヶ月間経済の問題を書いてきて感じたことがあります。
この世の中は、どんなにあがいてもある方向に強引にもって行か
れようとしているように感じるのです。
 この動きは日本だけでなく、世界中で起こっている現象です。
デフレ、構造改革、金融緩和、規制緩和・撤廃、法人税減税、所
得格差拡大、TPPなどの各種通商協定などなど──こういうこ
とは世界中でいわれていることなのです。
 昔の話ですが、次のような話を聞いたことがあります。「80
対20の原則」に関する話です。
―――――――――――――――――――――――――――――
   世の中のお金の80%は20%の富裕層が握っている
―――――――――――――――――――――――――――――
 この場合、20%の人たちとはユダヤ人であるということだっ
たと思います。ごく最近になって似たような言葉を発見したので
す。それも複数の本からです。
―――――――――――――――――――――――――――――
        1%が99%の富を収奪する
―――――――――――――――――――――――――――――
 これは「世の中のお金の99%は1%の富裕層が握っている」
ということを意味しています。収奪をする比率が大幅に上がって
います。この「1%」論争に火を点けたのは、ノーベル賞受賞経
済学者のジョセフ・スティグリッツ教授です。それは、スティグ
リッツ教授の次の論文からはじまったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      「1%の1%による1%のための」
       Of the 1%,by the 1%.for the 1%
―――――――――――――――――――――――――――――
 この恐るべき富の収奪システムと深く関係するのが、新自由主
義なのです。新自由主義には賛否両論がありますが、経済評論家
の上念司氏は、新自由主義について次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 新自由主義とは国家が強力な権力を持って一部の資本家だけが
 有利になるように市場に介入し、さまざまなルールをつくりか
 えてしまう体制のことだそうです。経済分野において、新自由
 主義は国家全体の経済厚生を犠牲にしてでも大企業に有利な参
 入規制や税金免除、補助金、労働規制緩和、労働組合活動の弱
 体化などを行い、一部の特権階級に儲けを差し出すように国家
 が介入するしくみです。
    ──上念司著『アベノミクスを阻む「7つの敵」/消費
   増税と「トンデモ経済学」を論破する』/イーストプレス
―――――――――――――――――――――――――――――
 上念司氏の定義によると、新自由主義とは、現在の安倍政権の
やろうとしていることに酷似しています。自民党は意識してそう
しているというよりも、とくに意識しないでひたすらその方向を
目指しているような気がします。
 2014年4月27日(日)に放送されたNHKスペシャルを
ご覧になったでしょうか。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ◎NHKスペシャル
 調査報告:女性たちの貧困/“新たな連鎖”の衝撃
 2014年4月27日(日)/午後9時00分〜9時49分
―――――――――――――――――――――――――――――
 母親と娘2人の家族が、母親が非正規雇用の低賃金のため、ア
パートの家賃が払えなくなり、ネットカフェで、3人別々の部屋
で暮らすようになるのです。姉は進学をあきらめ、母親と一日中
アルバイトをするのですが、3人が食べるのがやっとの生活を過
ごしているのです。
 労働規制緩和による非正規雇用の悲惨さ、いくら働いても最貧
の生活から脱出できない毎日の暮らし。今や親の貧困が子供に連
鎖しているのです。これが世界第3位の経済大国の庶民の生活な
のです。偶然この番組を見て衝撃を受けました。これが新自由主
義なるもののもたらす一面なのです。
 NHKによると、放送後番組サイトが、異例のページビューを
記録したそうです。通常8千程度のページビューが、60万を超
えたのです。そして、寄せられたのは「他人事では決してない」
という切実な声だったといいます。
 私はこの番組を見て、国民にそういう暮らしをもたらす新自由
主義なるものにメスを入れ、多くの人に知ってもらう必要がある
と考えたのです。
 そういうわけで、EJの2014年の第2のテーマを次のよう
に設定して今日から連載していくことにします。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1%を豊かにする悪魔の正体/新自由主義とは何か
     ─ どうすれば悪魔を阻止できるか ─
―――――――――――――――――――――――――――――
 たかが経済学の「考え方」ではないかという人がいます。しか
し、その「考え方」が恐ろしいのです。共産主義も1848年に
カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが著した『共産党
宣言』という国の統治の「考え方」が、1922年に共産主義の
実験国家ソビエト連邦を誕生させているのです。
 しかし、ソビエト連邦は国民経済の供給能力不足と国内の格差
拡大により、1991年末に崩壊します。その約70年もの間、
それは一部の共産官僚やノーメンクラツーラ(赤い貴族)をのぞ
く旧ソ連邦に居住する多くの市民を不幸にし、恐怖と貧困のどん
底に突き落とし苦しめたのです。たかが「共産主義」という「考
え方」がそうさせたのです。現在深刻化しつつあるウクライナ問
題もその一環であるといえます。
 新自由主義とはどのような考え方なのか。1%の富裕層とは何
者なのか──明日のEJから考えていくことにします。
               ──[新自由主義の正体/01]

≪画像および関連情報≫
 ●資本主義はなぜ自壊したか/ひまじんさろん
  ―――――――――――――――――――――――――――
  NHKニュースを観ていたら『資本主義はなぜ自壊したのか
  〜「日本」再生への提言』という中谷巌という経済学者の本
  と著者を紹介していた。「新自由主義経済学」は悪魔の思想
  だとして、歴代内閣でその「新自由主義経済学」を提言し、
  推進させてきたご本人が、真っ向から自分のこれまでの実績
  (?)を否定する本を出版した。不本意ながら入手し、彼の
  言い分を検証紹介してみよう。まず本の帯、これはこの本が
  なにを主張したいのかのキャッチフレーズのようなものだ。
  「リーマンショック、格差社会、無差別殺人、医療の崩壊、
  食品偽装。すべての元凶は「市場原理」だった」。「新自由
  主義経済学」は悪魔の思想だ!!広がる格差、止めどない環
  境破壊、迫り来る資源不足、そして金融危機―すべての元凶
  は、資本主義にあった!「構造改革」の急先鋒と言われてい
  た著者が、いま、悔恨を込めて書く警告の書。という内容は
  これまでも中谷氏や竹中平蔵氏の路線を批判してきた経済学
  者や週刊誌などがずいぶん前から主張してきた内容だ。しか
  し、その元凶の牽引車だった中谷巌がこういってしまったら
  あれほど熱狂させた小泉改革はいったいなんだったのという
  ことになる。           http://bit.ly/1kRG5NX
  ―――――――――――――――――――――――――――

ジョセフ・スティグリッツ.jpg
ジョセフ・スティグリッツ 
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2014年05月13日

●「セウォル号は新自由主義の小宇宙」(EJ第3788号)

 最近の話題からはじめたいと思います。ハン・ビョンチョルと
いう韓国人の哲学者がいます。この学者は、現在ベルリン芸術大
学に在籍し、ドイツに在住しているのですが、『疲労社会』とい
う論文を発表して、ドイツで話題になっています。
 このハン・ビョンチョル教授は、このほどのセウォル号の沈没
事故に関して次のように発言し、世界的に話題になっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 セウォル号の惨事は、新自由主義が生み出した非人間化に伴う
 惨劇である。 ──ハン・ビョンチョルベルリン芸術大学教授
―――――――――――――――――――――――――――――
 ハン・ビョンチョル氏は、この惨劇は単に韓国社会だけの問題
ではなく、新自由主義化の進む世界において、今後どこでも起こ
り得る深刻な問題であると警告を発しています。
 ハン教授は、朴槿恵大統領が乗船客を置き去りにして脱出した
船長に対し、殺人罪も検討していると発言したことについて、次
のように述べています
―――――――――――――――――――――――――――――
 すべての面で船長が単独で責任を負い、韓国の朴槿恵大統領は
 彼に殺人行為の責任があると非難したが、この不幸に対する責
 任は、現代の元経営者だった李明博前大統領の新自由主義政策
 にある。   ──ハン・ビョンチョルベルリン芸術大学教授
―――――――――――――――――――――――――――――
 ハン教授は、今回の事故が起きた原因として、次の3つを上げ
ていますが、それらはいずれも新自由主義の基本になる考え方で
あり、殺人者は新自由主義であるといっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
          1.   規制緩和
          2.国家機関民営化
          3.労働条件柔軟化
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1は「規制緩和」です。
 韓国では、船舶の生命は20年間という規制が存在していたの
です。ところが、李明博前大統領は、規制を緩和し、企業寄りの
政策を推し進めたので、2009年にそれを「30年間」に延長
したのです。
 ハン教授は、もし「20年間」という規制を守っていれば、日
本で廃船直前の「18年間」も経つ船を購入することはなかった
といっているのです。企業は利益だけを追求するので、企業寄り
の政策は、どうしても事故の危険を増大させるのです。これにつ
いてハン教授は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 費用を下げて効率的に運営するという、こうした新自由主義の
 教理は、人命と人間的な尊厳を費用として要求する。
           ──ハン教授/ http://bit.ly/1izVy0J
―――――――――――――――――――――――――――――
 第2は「国家機関民営化」です。
 ハン教授は、国家機関の民営化の弊害を指摘しているのです。
韓国では海洋事故救助業務が部分的に民営化されているのです。
企業に委託されると、効率化の名のもとにどうしても費用を削減
しようとするので、救助措置の民営化は危険であるのです。
 今回韓国の海洋警察の救助活動はすべてが後手に回り、結果と
して多くの乗船客を救助できなかったのです。すべてが民営化の
せいではないものの、救助訓練を含めすべてのことが十分ではな
かったといえます。
 第3は「労働条件柔軟化」です。
 韓国はきわめて正職員が少ないのです。それは、韓国がアジア
通貨危機に陥ってIMFの支援を受けたときに、そのIMFは新
自由主義アジェンダを苛酷に貫徹させたのです。そのさいに正職
員制度が大幅に廃止されたのです。
 現に乗船客を置き去りにして脱出した船長は1年更改の非正規
社員であり、給与も他国の船長と比較すれば大幅に安く、そうい
う人に船長としての責務を求めるのは無理があるとしています。
 そして、ハン教授は、1912年に沈没した旅客船タイタニッ
ク号の船長、エドワード・ジョン・スミスのように、最後まで船
橋に留まり、船と運命を共にした気風は、現在は韓国だけでなく
他の社会でも期待し難いと述べています。
 それは、2012年に沈没したイタリアの豪華遊覧船コスタ・
コンコルディア号の船長が我先に脱出したことも偶然ではなく、
「現代社会は皆が自分が先ず生存しようとする『生存社会』であ
る」と指摘しています。
 ハン教授は、「すべてを市場に委ねる」という発想は、「社会
を非人間的に作る」ことにつながることを指摘し、次のように警
告を発しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 社会が非人間的になると、社会は人間を疎外させる。こうした
 意味で、セウォル号は新自由主義の小宇宙と同じである。この
 ような社会では、セウォル号の船長だけでなく、まず自分自身
 の生存を考えるのは今日では典型的であり、このような公共心
 の解体が続けば、セウォル号だけでなく、われわれの社会も沈
 没するであろう。 ───ハン教授/ http://bit.ly/1izVy0J
―――――――――――――――――――――――――――――
 規制緩和、国家機関民営化(官から民へ)、労働条件柔軟化は
何も韓国だけの問題ではなく、小泉政権以来日本でも進められて
おり、安倍政権ではさらにそれを加速させようとしています。
 ところが、新自由主義といってもそれぞれ人によって解釈が違
うようで、必ずしも明確ではないのです。とくに、構造改革、市
場原理主義、新自由主義を一緒にして議論している人は少なくな
いのです。
 このあたりのことを今回のテーマは明確にさせながら進めてい
きたいと考えます。      ──[新自由主義の正体/02]

≪画像および関連情報≫
 ●「紳士の品格」──「“疲労社会”愛」
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「時代ごとにその時代の固有の病気がある」 これは、ドイ
  ツで出版された哲学エッセイ集、ハン・ビョンチョルの「疲
  労社会」の冒頭での一節だ。免疫機能が発達して、これ以上
  ウィルスに攻撃されない現代の病を、著者は疲労感と憂鬱感
  と診断している。現代は全てのことが可能な時代であり、そ
  れを経験した人々は不可能が可能ではないというスローガン
  の前で、自分でも搾取し放棄する瞬間をつかめていない。豊
  かさはこれ以上安楽な生活の前提ではなく、誰一人支配しな
  いが、人々は休むことを恐れ、新しい本能を持つようになっ
  た。そのためSBSドラマ「紳士の品格」はそんな現代人の
  病的兆候を赤裸々に表わしている作品だ。40歳を越えた4
  人の男性を通じて、彼らの成長物語を見せるというドラマの
  意図とは関係がなく、まさに作品が説得しようとするものは
  時代の疲労と世代のヒステリーだ。そんな理由でこのドラマ
  に紳士が登場しないのは、もしかしたら当然のことなのかも
  しれない。            http://bit.ly/QoSihW
  ―――――――――――――――――――――――――――

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ハン・ビョンチョルベルリン芸術大学教授
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2014年05月14日

●「ウォール街でのデモの原因は何か」(EJ第3789号)

 2011年9月15日のことです。ツイッターに次のようなツ
イートが流れたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  9月17日。ウォールストリート。テントを持ってこよう
―――――――――――――――――――――――――――――
 これだけでは何のことかわからない。そこでこのツイートに付
いているURLをクリックすると、環境問題などを扱う雑誌「ア
ドバスターズ」のブログに導かれ、そこに黒字に黄色の文字で、
「オキュパイ・ウォールストリート」の題字と次のメッセージが
表示されたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 (エジプト・カイロの)タヒール広場を再現する準備はできて
 いるかい。9月17日、テントを、キッチンを、平和的なバリ
 ケードを設けて、真の民主主義を失墜させるゴモラ(聖書の中
 の腐敗と罪の都市)である米最大の金融街ウォールストリート
 を占拠しよう。     ──「ダイヤモンド・オンライン」
                   http://bit.ly/1mL6aCf
―――――――――――――――――――――――――――――
 「オキュパイ・ウォールストリート(OWS)/ウォールスト
リートを占拠せよ」という呼びかけに呼応し、ウォール街には多
くの若者や失業者などが集まってきたのです。
 しかし、数千人規模のデモは日常茶飯事の米国において、その
デモはメディアの注目を集めるに至らなかったのです。規模も小
さく、その目的も必ずしもはっきりしなかったからです。ところ
が参加者の顔ぶれはいつものデモとは違い、組合員やヒッピー世
代は皆無であって、彼らよりずっと若い10代後半から20代前
半が中心で、これまでデモになど参加したことのない世代が中心
だったのです。
 そのような穏健なデモ中に警察が無抵抗の女性に催涙スプレー
を使ったことから、ことは大事になったのです。市内の組合や人
権団体がOWSの支持を決定し、有名映画監督のマイケル・ムー
アや女優スーザン・サランドンもデモに参加するようになったこ
とから、CNNをはじめ各メディアは報道を開始したのです。
 これに加えて、ライブビデオやツイッターで日々の活動を追う
全米各地の若者が、ロサンゼルス、ボストン、シカゴなどの金融
地区で座り込みを始め、これがあっという間に世界各国にも飛び
火したのです。その結果、約1ヶ月後の10月15日、経済格差
に反対する「オキュパイ・ワールド」として、世界82ヶ国15
00都市で、デモやイベントが開催される騒ぎに発展するに至っ
たのです。
 2007年から日本金融財政研究所長を務め、衆参の予算委員
会でも発言の機会を与えられている経済アナリストの菊池英博氏
は、このときウォール街の近くの公園に座り込みをしている若者
たちの多くから直接見を聞いているのです。彼らの意見を要約す
ると、次のようになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 金持ちはどんどん裕福になるけど、ほとんどのアメリカ人の生
 活は向上するどころか、日々、貧しくなる。リーマンの破綻で
 金融革命は失敗だったことが明らかになつたのに、政府は大手
 銀行や企業にパブリック・マネーを入れて救済した。しかし、
 経営者は責任を取らずに高給を取り続け、クビになるのは俺た
 ちだ。ひどく不公平な国だよ。われわれ99%の国民が犠牲に
 なる。オバマもどうかしている。99%を救ってくれる人がい
 ないのだ。はらわたが煮えくりかえるよ。  ──菊池英博著
             『そして、日本の富は略奪される/
   アメリカが仕掛けた新自由主義の正体』/ダイヤモンド社
―――――――――――――――――――――――――――――
 このウォール街でのデモは、2011年1月にチュニジアで始
まり、その後エジプトに波及、それからスペインに広がった抗議
運動と明らかに連動しています。そして今ではグローバルになり
米国各地の都市を覆っているのです。
 この騒ぎの発端は、12日のEJで述べたノーベル経済学賞受
賞経済学者、ジョセフ・スティグリッツ教授の論文「1%の1%
による1%のための」にあるといわれます。なぜなら、ウォール
ストリートに近い公園に集結していた若者たちは、手に手に「わ
れわれは99%だ」というプラカードを持っていた人が多かった
からです。それは、「99%の国民を救ってくれ」という悲痛な
叫びなのです。
 このジョセフ・スティグリッツ教授の論文「1%の1%による
1%のための」は、次の書籍にまとめられています。
―――――――――――――――――――――――――――――
   ジョセフ・スティグリッツ著/楡井浩一/峯村利哉訳
      『世界の99%を貧困にする経済』/徳間書店
―――――――――――――――――――――――――――――
 これについては、これから詳しく述べていきますが、「週刊ダ
イヤモンド」/2011年12月17日号では、この論文につい
て次のように解説しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 人口の1%が富の40%以上を握り、所得の20%以上を手に
 しているのである。しかも、このひと握りの人びとがこれほど
 大きな報酬を得ているのは、多くの場合、彼らが社会により多
 く貢献したからではない。それは彼らが、ズバリ言うと成功し
 た(として時には腐敗している)レントシーカー(政治によっ
 て生み出される特権的利益を追い求める人々)だからである。
 ──「ジョセフ・スティグリッツ『ウォール街占拠抗議運動を
                 招いた途方もない格差』」
      /「週刊ダイヤモンド」2011年12月17日号
                ──菊池英博著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
               ──[新自由主義の正体/03]

≪画像および関連情報≫
 ●スティグリッツ教授が暴く米億万長者の「秘密兵器」
  ―――――――――――――――――――――――――――
  2012年6月11日(ブルームバーグ):大衆主義を唱え
  るポピュリストたちの「われわれは99%を占める」という
  スローガンを打破するのは難しい。ただ、この大衆行動はこ
  れまで首尾一貫したメッセージと議題を欠いていた。これか
  らは違う。ノーベル経済学賞受賞者で米コロンビア大学教授
  のジョゼフ・スティグリッツ氏は鉄鋼の街、インディアナ州
  ゲーリーで育った。
  刺激的な新著「The Price of Inequality」 で取り上げたこ
  のテーマについて数十年にわたって研究を続けている。教授
  の結論はこうだ。米国人の1%が所得の5分の1を稼ぎ、富
  の3分の1以上を支配すると、経済成長や民主主義、上流階
  級そのものさえもが支障を来す事態となる。まさに今日の状
  況が示すように──。ジャーナリストのロバート・フランク
  氏が「リッチスタン」と呼ぶ居住者についてスティグリッツ
  教授は「富裕層は世間から隔絶されて存在しているわけでは
  ない。彼らは地位を維持し、資産から所得を生み出すために
  機能する社会を必要としている」と指摘する。米政府は不平
  等を減らすどころか30年かけてその逆の状況を助長してき
  たと教授は喝破する。市場をゆがめ、資金を社会の底辺と中
  流から上流へと移行させたのだと。この見方によれば、政府
  こそが億万長者たちにとっての秘密兵器なのである。
                   http://bit.ly/1j7SSgA
  ―――――――――――――――――――――――――――

ウォール街でのデモ/2011年9月.jpg
ウォール街でのデモ/2011年9月
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2014年05月15日

●「中谷巌多摩大学名誉学長の懺悔書」(EJ第3790号)

 中谷巌氏というマクロ経済学者がいます。多摩大学名誉学長で
あり、一橋大学名誉教授です。中谷氏といえば1993年の細川
内閣において「経済改革研究会」の委員を務め、1998年には
小渕内閣で「経済戦略会議」の議長代理を務めるなど改革派の代
表のような経済学者です。
 しかし、中谷氏は2008年12月に『資本主義はなぜ自壊し
たのか』(集英社インターナショナル)という本を上梓し、その
本で、自分がこれまでやってきた言動──米国流の新自由主義や
市場原理主義、グローバル資本主義に対する礼賛言動、構造改革
推進発言などは間違いであったと自己批判したのです。中谷氏は
この本の「まえがき」で次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 一時、日本を風靡した「改革なくして成長なし」というスロー
 ガンは、財政投融資制度にくさびを打ち込むなど、大きな成果
 を上げたが、他方、新自由主義の行き過ぎから来る日本社会の
 劣化をもたらしたように思われる。たとえば、この20年間に
 おける「貧困率」の急激な上昇は日本社会にさまざまを歪みを
 もたらした。あるいは、救急難民や異常犯罪の増加もその「負
 の効果」に入るかもしれない。「改革」は必要だが、その改革
 は人間を幸せにできなければ意味がない。人を「孤立」させる
 改革は改革の名に値しない。かつては筆者もその「改革」の一
 翼を担った経歴を持つ。その意味で本書は自戒の念を込めて書
 かれた「懺悔の書」でもある。        ──中谷巌著
     『資本主義はなぜ自壊したか「日本」再生への提言』
                 集英社インターナショナル
―――――――――――――――――――――――――――――
 中谷巌氏は、2000年を過ぎてから、訪米するたびに何か違
和感を感じていたといいます。1980年代に見られた米国とは
明らかに何か違う感じなのです。
 今から30数年前の米国は、リッチな中流階級が多数を占め、
何かしらゆったりとした、華やかにして豊かな生活が存在してい
たといえます。当時の米国の豊かさは、日本をはじめ、世界中か
ら憧れの目で見られていたのです。
 それから30年ほど経過し、米国は以前よりも経済的にはさら
に豊かになっています。しかし、とくに今でも文化の香りが残る
ヨーロッパから米国に入ると、文化の香りが消え、何かしら米国
社会の「粗雑さ」が目につくようになったというのです。
 どのような変化が起きたのでしょうか。調べてみてわかったこ
とは、米国の所得格差が驚くほど拡大したということです。その
結果、豊かな中間層が消失してしまったのです。
 中谷氏は、米国社会の中間層の消失について、次のように述べ
ています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 数字を挙げてみよう。驚くべきことに、この数十年の間に、所
 得上位1パーセントの富裕層の所得合計がアメリカ全体の所得
 に占めるシェアは8パーセントから何と倍以上の17パーセン
 ト台に急上昇した。これに伴って、アメリカ人の「平均所得」
 は毎年2パーセント以上も上がった。これだけを見れば、たし
 かにアメリカは豊かになったはずだ。だが、それはあくまでも
 平均値の話であり、最も所得の高い人から最も貧しい人を一列
 に並べた場合、ちょうど列の真ん中にいる人たち、すなわち、
 「中位の人の所得」はほとんど上がらなかった。つまり、ビル
 ・ゲイツのような、あるいはウォール街を閥歩する金融マンや
 大会社のCEOなど富裕層の急激な所得上昇がアメリカ全体の
 「平均所得」を引き上げただけであり、庶民はそのおこぼれに
 あずかれなかったということである。これがかつて世界中が憧
 れたアメリカの「豊かな中流家庭」が崩壊した真相であり、私
 がアメリカに行くたびに「何か変だ」と思わせた犯人だった。
                 ──中谷巌著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 リーマンショックの起きる直前のことですが、米最大手のゴー
ルドマンサックスの従業員に2007年度に支払われた給与総額
は、約200億ドルであり、従業員総数が約3万人であるので、
1人当たりでは、約66万ドル──当時の為替レートで計算する
と、年収7000万円になるのです。驚くべき高所得層です。
 その一方で健康保険に加入するお金がなく、病気になっても医
者にかかれない低所得の米国人は5000万人もいるのです。こ
んなことをしていれば、米国社会はメルトダウンするのではない
かと思っていた矢先、あの米系証券会社リーマン・ブラザーズが
経営破綻し、世界中の金融市場相場は大暴落したのです。
 このことは米国だけの現象ではないのです。かつて日本の最大
の特色といわれた「1億総中流社会」は今や見る影もなく、米国
で起きたことのミニチュア版ともいうべき現象が日本でも起きて
いるのです。それは、小泉政権のときから加速し、この10年ほ
どの間に、年収200万円未満の貧困層が200万人も増えて、
1000万人の大台に達しているのです。
 こういう状況を打破しようと、2009年の総選挙では、国民
は自民党を見限り、民主党に政権交代させたのですが、民主党は
信じられないような劣悪な政権運営を行い、結局何もできずにま
たしても自民党に政権を戻しています。そして、大企業だけを優
遇するアベノミクスでまたしても所得格差が拡大しようとしてい
るのです。彼らは国民の生活のことなど考えていないのです。
 5月11日に自民党は、公的年金の支給開始年齢を75歳まで
広げる案を発表し、これについて田村憲久厚労大臣は平然と次の
ように発言しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 与党から75歳まで選択制で広げるという案が出されている。
 選択制というのは1つの提案と認識している。──田村厚労相
―――――――――――――――――――――――――――――
               ──[新自由主義の正体/04]

≪画像および関連情報≫
 ●中谷巌氏の懺悔の書/松岡正剛の千夜千冊/書評
  ―――――――――――――――――――――――――――
  若くしてハーバード大学大学院でアメリカ経済学の最前線を
  学び、細川内閣と小渕内閣では経済改革の急先鋒として、規
  制撤廃を叫んでいた著者は、やがて新自由主義と市場原理主
  義の暴走に、ついに転向を決意して、反旗をひるがえすよう
  になった。なぜ中谷巌は転向したのか。なぜ資本主義はおか
  しくなったのか。この二つを自身の体験をもとにふりかえっ
  て、本書は希有の自己懺悔と告発の書になりえた。
   「今にして振り返れば、当時の私はグローバル資本主義や
  市場至上主義の価値をあまりにもナイーブに信じていた。そ
  して、日本の既得権益の構造、政・官・業の癒着構造を徹底
  的に壊し、日本経済を欧米流のグローバル・スタンダードに
  合わせることこそが、日本経済を活性化する処方箋だと信じ
  て疑わなかった」。「だが、その後におこなわれた構造改革
  とそれに伴って急速に普及した新自由主義的な思想の跋扈、
  さらにはアメリカ型の市場の原理の導入によって、ここまで
  日本の社会がアメリカの社会を追いかけるように、さまざま
  な副作用や問題を抱えることになるとは、予想ができなかっ
  た」。中谷さんは一橋大学を出たあと日産自動車に勤めてい
  たのだが、27歳のときにハーバード大学の大学院の経済学
  博士課程に飛び出していった。1969年のことだから、か
  なり早い時期にアメリカ型のエコノミストの群れに身を投じ
  たといっていい。         http://bit.ly/1mR8Oqg
  ―――――――――――――――――――――――――――

中谷巌多摩大学名誉学長.jpg
中谷 巌多摩大学名誉学長
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2014年05月16日

●「新自由主義と市場原理主義の違い」(EJ第3791号)

 「世に倦む日日」というブログがあります。ここに中谷巌氏の
懺悔書の論評が出ていますが、リベラル派政治家の元自民党幹事
長・加藤紘一氏について、興味深いことが書かれています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 加藤紘一などが典型的だが、文章の中では新自由主義が悪いと
 いう書き方をして、新自由主義を批判対象に措定する。だが、
 テレビに出演したときは、「新自由主義」とは言わずに「市場
 原理主義」と言い換える。「新自由主義」という言葉を使うの
 を慎重に避けている。「新自由主義」と「市場原理主義」は似
 ているが同じものではない。意味もニュアンスも異なる。本人
 がどこまで自覚しているかは別として、この巧妙な使い分けに
 加藤紘一の政治家としての賢さと狡さがある。
                   http://bit.ly/1sPqr9a
―――――――――――――――――――――――――――――
 加藤紘一氏については、書籍などでは「新自由主義は悪い」と
明確に批判するのに、テレビなどの討論では「市場原理主義」と
いい換えてぼかしているのです。
 このブログの著者は、典型的な新自由主義者であるといわれて
いる竹中平蔵氏についても「竹中氏はテレビなどで新自由主義者
といわれると逆ギレする」として、次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 竹中平蔵がテレビで誰かに批判される場面を見ても感づくと思
 うが、「市場原理主義」の言葉で批判されているときは、打撃
 を感じずに反駁の詭弁を滑らかに繰り出す。だが、「新自由主
 義」の言葉で直截的に責められたときは狼狽して卓袱台をひっ
 くり返す挙に出る。心理的に痛撃が効いているのである。
                   http://bit.ly/1sPqr9a
―――――――――――――――――――――――――――――
 市場原理主義と新自由主義──ともに定義が曖昧であり、とき
には同義語のように使われることが多いのです。『そして、日本
の富は略奪される/アメリカが仕掛けた新自由主義の正体』の著
者である菊池英博氏は、本の中では次のように2つを並べて表記
しているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
         新自由主義・市場原理主義
―――――――――――――――――――――――――――――
 市場原理主義とは何でしょうか。
 市場原理主義とは、市場への不要な政府の介入を排除し、市場
原理を極力活用した経済運営を行うことが国民に最大の公平と繁
栄をもたらすと信ずる思想的立場のことです。具体的には、規制
改革を行うとともに、国営事業や公営事業の民営化を図り、小さ
な政府を推進することをいうのです。
 この市場原理主義の思想を政府の経済政策や社会政策に使うの
が新自由主義であるといえます。そのように考えると、小泉政権
のやったことは、まさに新自由主義そのものであるといえます。
レーガン政権をはじめとする歴代の米国の共和党政権や、英国の
サッチャー首相が採用したことは有名です。
 経済学者の宇沢弘文氏は、小泉政権の新自由主義的政策に関し
て、次のように酷評しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 小泉政権の5年半ほどの間に、市場原理主義が「聖域なき構造
 改革」の名の下に全面的に導入され、日本は社会のすべての分
 野で格差が拡大し、殺伐とした陰惨な国になってしまった。
              ──宇沢弘文氏/ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――――
 「世に倦む日日」のブログの著者の指摘する「新自由主義者」
と名指しされたときの竹中平蔵氏の反応──狼狽して卓袱台返し
をするのは本当のことです。
 EJでこのことを取り上げたことがあります。田原総一朗氏と
竹中平蔵氏の対談です。興味があれば参照してください。
―――――――――――――――――――――――――――――
 2014年1月30日/EJ第3720号
 「竹中平蔵氏は新自由主義者か否か」 http://bit.ly/1byTwLG
―――――――――――――――――――――――――――――
 竹中氏はすり替えの名人です。問われているテーマを巧みに外
して、話題をすり替えて自分に有利な状況を作って反論するので
す。これも一種の「卓袱台返し」です。
 竹中氏は「小さな政府」に関しては、単に政府の規模を大きく
しなかったに過ぎないといい、小泉内閣は小さな政府になってい
ないじゃないかと強弁しています。規制改革については、自分は
不良債権を処理したとき、規制改革どころか「規制強化」してい
るとここでも話をすり替えています。それでいて、労働規制を大
幅に緩和し、派遣法を改正して大量の不正規雇用を生み出し、日
本の雇用制度を崩壊させたのです。
 理解できないのは、竹中氏が人材派遣業のパソナグループの取
締役会長であることを承知しながら、安倍首相が竹中氏を「産業
競争力会議」のメンバーに任命していることです。実際に竹中氏
は、またしてもアベノミクスの第3の矢として、労働規制をさら
に緩和させようとしています。竹中氏はこの問題の利害関係者で
あり、それをすることによって、パソナグループの業績に影響す
るのです。こんな人物をメンバーにしてはなりません。
 あまり知られていませんが、竹中氏は2008年に韓国政府の
アドバイザーとして顧問団に迎え入れられているのです。そのと
き李明博前大統領の物事に対応する姿勢や前向きな政策論などを
絶賛しているのです。そのせいか、今や韓国は典型的な新自由主
義国家になってしまっています。
 このままでは、日本も新自由主義国家になってしまいます。そ
れを防ぐには、国民が新自由主義がどのような思想であるか、そ
の狙いは何かについて知ることが大切なのです。
               ──[新自由主義の正体/05]

≪画像および関連情報≫
 ●竹中平蔵氏の進める構造改革の正体
  ―――――――――――――――――――――――――――
  竹中平蔵・慶大教授(63)が、今や完全復権だ。小泉構造
  改革で日本をダメにした張本人が再び権力を思うままに操り
  つつある。大宅賞ジャーナリストの佐々木実氏は、「竹中氏
  は自分の考えを政策や法律に落とし込む環境づくりが非常に
  長(た)けています」と、こう続けた。「麻生副首相らの反
  対で、『経済財政諮問会議』のメンバーにこそなれませんで
  したが、より法的権限の弱い『産業競争力会議』の民間議員
  として特区構想に邁進。国家戦略特区法を制定する段階で、
  特区諮問会議を経財諮問会議と同格である首相直轄の『重要
  政策会議』に位置づけ、自分もメンバーに収まった。産業競
  争力会議だって、いつの間にか、経財諮問会議と合同開催に
  なっています。竹中氏は安倍政権の1年余りで、自分に権限
  が集中する『器』をつくり上げたのです」。恐ろしいのは、
  昨年12月に秘密保護法のドサクサに紛れて成立した特区法
  の中身だ。諮問会議のメンバーの条件として「構造改革の推
  進による産業の国際競争力の強化に関し優れた識見を有する
  者」という一文が盛り込まれた。「つまり竹中氏のような急
  進的な構造改革派しかメンバーになれません。規制緩和の旗
  振り役がすさまじい規制を設けたのです。しかも、安倍首相
  は国会答弁で『会議の意思決定には“抵抗大臣”となり得る
  大臣は外す』とまで言い切った。政権内で再浮上した『残業
  代ゼロ制度』には厚労省も難色を示していますが、厚労相が
  抵抗すれば政府の意思決定に関与できないのである。国民の
  大勢は『ノー』でも反対派の声はことごとく無視され、ごく
  少数の急進派の意見だけがまかり通っていくのです。まさに
  『1%が99%を支配する政治装置』と言うべきです」。
                   http://bit.ly/1suqpBj
  ―――――――――――――――――――――――――――

竹中平蔵氏.jpg
竹中 平蔵氏
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2014年05月19日

●「『構造改革』と新自由主義の関係」(EJ第3792号)

 新自由主義と市場原理主義という2つの言葉が出てきました。
新自由主義者は市場原理主義者といわれることもあります。ここ
までの考察で、この2つの関係を整理しておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 新自由主義とは何か/市場原理主義の思想を政府の経済政策や
 社会政策に使うのが新自由主義である。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここでもうひとつよく出てくる言葉が「構造改革」です。社会
にある問題点があり、それが表面的な制度や事象から生ずるもの
ではなく、社会そのものの構造に起因するとき、それ自体を変え
ようとする政策的な立場を「構造改革」というのです。
 構造改革といえば、1989年7月に米国から宇野内閣に提案
された「日米構造協議」、1994年11月から米国からの「年
次改革要望書」、2001年以降に小泉内閣の唱えた「聖域なき
構造改革」が記憶に残っています。
 この「構造改革」という言葉は、もともと社会主義のなかで体
制内改革や路線をいうときの言葉だったのです。資本主義を社会
主義に変えるとき、次の2つの考え方があったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
         1.革命により達成する
         2.構造改革で実現する
―――――――――――――――――――――――――――――
 世界の共産主義運動は、ソ連型の社会主義を理想とし、その実
現は、ソ連の指示により、その国で革命によって達成するという
こととされていたのです。上記の「1」のスタイルです。
 しかし、イタリア共産党のパルミロ・トリアッティは、ソ連型
の実現手段から距離を置き、「イタリアの道のための・・」構造
改革で社会主義の実現を目指したのです。「2」がそうです。
 一党独裁の共産党が経済を管理支配するのではなく、資本主義
体制の枠内において、構造を改革して少しずつ社会主義に移行す
るという考え方であり、それはアントニオ・グラムシに近いので
す。イタリアのマルクス主義の偉大な思想家であったグラムシは
イタリア共産党の発展に貢献した先駆者でもあるのです。
 グラムシは、1922年に政権をとったファシズムの犠牲にな
り、1926年にムッソリーニによって獄に繋がれ、一生を獄中
で過ごしたのです。
 現在グラムシの思想といわれるものは、彼が獄中で書きとめた
ノートのなかのものなのです。トリアッティはグラムシについて
いたるところで次のように指摘しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 グラムシは、イタリアにおける最初の真の完全な首尾一貫した
 マルクス主義者であり、イタリアで始めてレーニンの思想と十
 月大革命の国際的意義とを把握した人であり、西欧全体の知的
 発展についての豊かな知識と我が国(イタリア)の諸条件につ
 いての深い知識とに基づいて、最近50年間に亘る西欧のマル
 クス主義理論の深化と発展に最も大きく貢献した思想家であっ
 た。                http://bit.ly/1hSDob0
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本共産党は、ソ連の革命論とは距離を置き、独自の綱領を作
成し、現在では次の「二段階革命論」を唱えています。
―――――――――――――――――――――――――――――
          1. 民主主義革命
          2.社会主義的変革
―――――――――――――――――――――――――――――
 「民主主義革命」というのは、現在の日本は高度に発達した資
本主義国でありながら、国土や軍事などの重要な部分を米国に握
られた事実上の属国になっているという現状認識に立って、独立
民主主義、平和、生活向上を求めるすべての人を結集した統一戦
線と日本共産党が国民多数の支持と国会の過半数を得て政府(民
主連合政府)をつくることです。
 日本社会党も構造改革をめぐって党内では党組織の改革運動が
盛んになり、派閥抗争が激化したのです。構造改革を唱えた中心
人物は江田三郎です。江田三郎は次の4つの「江田ビジョン」を
掲げ、漸進的な改革の積み重ねによって社会主義を実現するとい
う構造改革を提唱したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      1.米国の平均した生活水準の高さ
      2.   ソ連の徹底した生活保障
      3.    英国の議会制民主主義
      4.    日本国憲法の平和主義
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、党内抗争の結果、江田三郎は1977年に社会党を離
党し、その思想は新たに結成された社会市民連合(社民連)に引
き継がれたのです。社民連は、1994年、日本新党、新党さき
がけへの合流に伴い、解散しています。
 このように「構造改革」という言葉は、資本主義を社会主義に
変えるマルクス主義用語なのです。その言葉を保守政党であるは
ずの自民党の小泉政権がスローガンとして使ったのです。そのと
きのマニフェストにはごていねいに「構造改革はマルクス主義用
語である」と紹介されているのです。
 「構造改革」は、歴史的に見てもつねに人々の期待と支持を集
めてきたプラスシンボルだったといえます。平等で理想的な公共
福祉社会の理想郷を目指す言葉だったはずです。現在ではその言
葉が、本来目指すべき理想郷を破壊する新自由主義を目指す言葉
として使われている──これはとんでもないことです。
 もし現代の世の中が共産主義社会になるといったら、戦慄する
人は多いと思います。しかし、新自由主義社会になるといっても
誰も驚かない。「自由」という言葉が入っているからです。でも
新自由主義は共産主義よりも恐ろしい思想であるといっても過言
ではないのです。       ──[新自由主義の正体/06]

≪画像および関連情報≫
 ●小泉政権の構造改革/2001年6月
  ―――――――――――――――――――――――――――
  本誌(経済コラムマガジン)は、これまで構造改革と言う事
  柄をまともには取上げたことがない。基本的に経済政策と言
  うものは、それぞれの社会や経済の構造と言うものを前提に
  行うものと筆者が考えているからである。そして社会や経済
  の構造は、社会経済の変化や時代の流れによって、自然と変
  わっていくものと考えている。ところが世間では構造改革を
  行えば、経済も蘇るような印象を与える議論で溢れている。
  特に小泉新総理(当時)は「構造改革なくして景気回復はあ
  りえない」とまで言い切っている。したがって気が進まない
  が、本誌でも構造改革と言うものを取上げることにする。ま
  ず構造改革と言う言葉自体が曖昧であることを指摘しておき
  たい。「構造改革」と言っても、この言葉を使う人によって
  概念がそれぞれ違う。ある人は、銀行の不良債権処理が進ん
  でないから「構造改革」が遅れていると言う。一方、銀行に
  は公的資金の注入が行われ、さらに合併などによる体質強化
  がなされ、「構造改革」は進んでいると反論する人もいる。
  またある人は構造改革を規制緩和と結び付けて考えている。
  つまり規制に守られている産業を整理することが構造改革と
  思っているのである。とにかく構造改革をめぐる議論は混乱
  している。小泉政権の郵政事業の民営化、地方交付金のカッ
  ト、道路特定財源の一般歳入化なども構造改革と言われてい
  る。これらは関係者の利害が複雑にからんでいるため、これ
  まで変更が見送られていた事柄である。
                   http://bit.ly/1gyJu5D
  ―――――――――――――――――――――――――――

トリアッティ/グラムシ(イタリア共産党).jpg
トリアッティ/グラムシ(イタリア共産党)
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2014年05月20日

●「米国はケインズ政策全盛期に繁栄」(EJ第3793号)

 小泉政権時代の話です。2006年1月25日、衆院予算委員
会で、「格差が拡大しているのではないか」という野党の質問に
対して、小泉首相は「統計データから見る限り、所得再配分の効
果、高齢者世帯の増加、世帯人員の減少などを考慮すると所得格
差の拡大はないし、賃金格差も英米のような格差拡大は見られな
い」と述べ、次のように小泉節で答弁しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 格差、格差というが、人には違いがある。地域においても格差
 というか特色がある。そういう違いを認めて、できるだけ地域
 企業、個人が持っている能力を引き出していく努力が必要であ
 る。成功者をねたむ風潮とか、能力のある者の足を引っ張る風
 潮は厳に慎んでいかないと、この社会の発展はない。
       ──小泉首相(当時)  http://bit.ly/1t0Cdh0
―――――――――――――――――――――――――――――
 小泉首相得意の「人生いろいろ」的答弁です。世の中には金持
ちも貧乏人もいるので、格差が出るのは当たり前であり、それが
あったとしても、またそれが多少拡大したとしても、大した問題
ではないといっているのです。
 たまたま私はこの答弁をテレビで見ていたのです。そのときの
印象では、この首相は「格差拡大」というものに責任も感じてい
ないし、危機感を持っていないと感じたのです。
 しかし、これは大きな間違いです。小泉氏は格差拡大が国民を
不幸にすることがわかっていないようであるし、もしかすると、
現在自分が進めている政策が一部の人に富を集中せるものである
ことを自覚していないようであると感じたのです。
 中谷巌氏の本に興味あるグラフが出ています。添付ファイルを
ご覧ください。これによると、米国は次の4つに大別できます。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1.大恐慌前の「金ピカ」時代/1912〜1927
  2.      大恐慌の時代/1927〜1952
  3.民主党政権の「大圧縮期」/1952〜1980
  4.    レーガン政権以降/1981〜
―――――――――――――――――――――――――――――
 このグラフは、米国の上位1%が全所得に占める割合をあらわ
しています。大恐慌が起きる前の1927年を見ると、所得上位
1%の人の所得シェアは実に20%に達していたのです。超格差
社会、「金ピカ」時代です。第2次世界大戦以前の米国は現在よ
りもひどい超格差社会だったのです。
 なぜこのような超格差社会が生まれたのかというと、それまで
の歴代政府が経済活動をすべて市場に委ねる古典派経済学を信奉
していたからです。
 しかし、大恐慌が起きて大統領がフランクリン・ルーズベルト
に代わると、政府は自ら市場に介入し、総需要管理政策や所得再
分配政策というケインズ政策を行ったのです。これによって19
40年頃から米国の格差は急速に縮小したのです。
 そして、1950年から約30年間は、米国の格差は最も低く
なったのです。上位1%の富裕層の総所得は8%、その富裕層の
上位0.1 %の超富裕層の総所得はわずか3%にまで下がったの
です。この時代をクルーグマン教授は、「民主党政権下の大圧縮
期」と呼んでいます。
 ところが新自由主義政策をとったレーガン政権以降の米国は格
差は右肩上がりで上昇し、2005年においては上位1%の富裕
層が国の総所得の17%、その富裕層の上位0.1 %の超富裕層
にいたっては米国全体に占める所得シェアが7%にまで達してい
るのです。
 具体的な例を上げると、1970年代の米国の代表的な大企業
102社の経営トップの年俸は、その企業で働く労働者の平均年
収の約「40倍」でしたが、それが2000年には「365倍」
に拡大しているのです。
 注目すべきは、格差が最も低かった「大圧縮期」の約30年の
間に米国で行われたことです。これについてクリントン政権時代
に労働長官を務め、現在カルフォルにア大学バークレー校教授の
ロバート・ライシュ氏は、自著で次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 20世紀中ごろには、米国の産業のおよそ15パーセントが直
 接的な規制を受けていた。(中略)一連の規制は競争を抑制し
 その結果、商品やサービの消費者価格は規制前に比べて上昇し
 た。しかしながら、規制機関が公益に目を閉ざしているとする
 意見は少なかった。なぜなら規制は諸産業を安定させ、雇用を
 維持し、被規制企業が活動拠点を置く地域の経済基盤を守った
 からである。規制はまた、利益を求める企業のニーズを、安全
 で公正で信頼性の高いサービスを求める国民のニーズと調和さ
 せることをめざしていた。(中略)他の85パーセントの産業
 では規制よりも緩やかな政府介入が行われた。各業界が自主的
 に団体や委員会を組織し、それらが政府諸機関と協力して業界
 標準を定めるという方式であった。──ロバート・ライシュ著
 『暴走する資本主義』/雨宮寛/今井章子訳/東洋経済新報社
―――――――――――――――――――――――――――――
 これは、規制のない自由な国であるはずの米国とはまるで違う
状況が当時の米国にはあったことを意味しています。なかでも重
要な役割を果たしたのは労働組合の存在です。
 1955年頃には米国労働者の3分の1が労働組合に所属して
いたのです。労働組合に入っていない3分の2の労働者でも組合
員とほぼ同等の給与を受け、福利厚生を享受していたのです。こ
れは人手不足のなかで労働者を確保する必要があったからです。
 このようにして1950年代は労使の対立は影を潜め、労使協
調の経済戦略は、米国に豊かな繁栄をもたらしたのです。これが
米国に豊かな中流家庭を多く生み出したのです。なんのことはな
い。日本の戦後の繁栄期とまったく同じことがそのときの米国で
も起きていたのです。     ──[新自由主義の正体/07]

≪画像および関連情報≫
 ●所得格差は経済成長にマイナス作用の可能性/IMF
  ―――――――――――――――――――――――――――
  [ワシントン 26日 ロイター]国際通貨基金(IMF)
  は26日、内部エコノミストの研究調査報告を公表した。そ
  れによると、所得格差は経済成長鈍化や成長の持続可能性を
  低下させる恐れがある一方、所得再分配政策はある程度限定
  されている限りは経済に打撃を与えず、プラスに働く場合さ
  えもあることが判明したという。この調査報告はIMFの公
  式見解を反映したものではないが、IMFの考え方が変化し
  つつあることをあらためて示している。IMFは伝統的に各
  国に経済成長と債務削減を促してきた半面、所得格差に対し
  てははっきりと焦点を当ててこなかった。しかしラガルド専
  務理事は昨年、格差問題に取り組まずに経済の安定を達成す
  ることはできないと発言。さらに今回の報告は「成長を重視
  して格差は放置しておくのは誤りになる。倫理的に望ましく
  ないばかりかその結果もたらされる成長が低調で持続不可能
  になるかもしれないためだ」とされた。国際非政府組織(N
  GO)のオックスファムこれまでずっとIMFなどの国際機
  関は貧富の差拡大に取り組む必要があり、公的支出の少なさ
  を奨励するのをやめるべきだと主張してきた。ワシントン事
  務所代表のニコラス・モンブライアル氏は「今回の報告やラ
  ガルド専務理事の最近の発言が、IMFの姿勢変化の兆しだ
  と期待している」と語った。    http://bit.ly/1iXdH8N
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●グラフ出典/ ──中谷巌著/『資本主義はなぜ自壊したか
  「日本」再生への提言』/集英社インターナショナル

米国所得上位1%が全所得に占めるシェア.jpg
米国所得上位1%が全所得に占めるシェア
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2014年05月21日

●「米国にもあった日本独特経営方式」(EJ第3794号)

 多くの人は、米国は自由競争の国であり、自己責任の国である
と考えています。小さい政府の推進によって、年金、医療などの
福利厚生面は、最小必要限度のものしかないというのが、常識に
なっています。そういう国だからこそ世界一豊かな国になれたの
だと考える人も多いと思います。
 これに対して戦後の日本の発展は、政府による一貫としたケイ
ンズ政策の実行と、終身雇用制度、年功序列制度、企業別組合に
よる労使一体の日本独特の企業経営スタイルで築かれたものであ
ると信じられています。
 しかし、1950年〜1980年代に絞って考えてみると、そ
こには福利に重点を置く現在の米国とは違う米国が存在したこと
を知ることができます。既出のロバート・ライシュ氏は、その違
う米国の姿を次のように表現しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1950年ごろには労使の対立は影を潜めていた。賃金上昇と
 並んで福利厚生の充実も進んだためである。福利厚生は労働者
 にとって重要な要素となり、1950年には労使契約の1割が
 年金を3割が医療保険を契約内容に含んでいた。その5年後に
 は中堅規模以上の企業の45パーセントが年金を提供し、70
 パーセントが生命、損害、医療など、各保険を提供していた。
 しかも、医療保険には入院費用や出産費用も含まれていた。こ
 れらの福利厚生は労使双方にとり有益であった。なぜなら、福
 利厚生は所得に近い給付だったが、所得ほど厳しく課税されな
 かったからである。したがって、全米の納税者が実質的に企業
 の福利厚生を補助していたことになる。
                 ──ロバート・ライシュ著
 『暴走する資本主義』/雨宮寛/今井章子訳/東洋経済新報社
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本式経営といわれる終身雇用制度に関しても、その頃の米国
には存在していたのです。企業には、トップから従業員まで多く
の階層に分かれますが、その階層の下位に属する者は階層をひと
つ上がることによって給与が上がり、上層部分では職務が公的性
格を帯びるので、給与の上昇は抑えられ、その結果、所得の平準
化が進んだのです。ライシュ氏は次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 雇用も以前に比べるとずっと安定した。これは労働組合の伸張
 と、競争と革新よりスケールメリットを追求した産業の寡占的
 秩序によるものだ。1952年の調査によると、企業幹部の3
 分の2が同じ会社に20年以上勤めてきたと回答している。社
 会学者のウィリアム・H・ワイト・ジュニアは、当時ベストセ
 ラーとなった彼の著書でこのような企業幹部を「組織人」とい
 う言葉で表現しているが、彼らはブルーカラー同様、あらかじ
 め定められたコースと給与で処遇されるようになった。ワイト
 が取材した若いホワイトカラーの男性の多くは「会社に忠誠を
 尽くせば、会社も尽くしてくれる」と答えてこの見方を裏付け
 ている。ワイトは「若者は一般に、彼らと組織の関係が末永く
 続くことを期待している」と記し、相互の忠誠が重んじられる
 のは「個人の目標と組織の目標が結局は一致し、同一のものに
 なる」と考えられているからだと述べている。
           ──ロバート・ライシュ著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 それでは、年功序列制度についてはどうでしょうか。まさかそ
れはないだろうと思う人は多いと思います。しかし、これについ
ても、その頃の米国には存在していたことをライシュ氏は明かし
ています。
 同じ会社に40年ほど勤務し、65歳ぐらいに定年退職をし、
企業年金で余生を過ごすというかつての日本のサラリーマンのよ
うな会社生活が米国にもあったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 当時は年功に基づく処遇が一般的だった。ホワイトカラーの給
 与は、個人的努力よりむしろ会社への在籍年数により決められ
 た。ブルーカラーも同じで、組合の労働協約に基づき年功に応
 じて賃金が引き上げられた。この年功による報酬制度が導入さ
 れた結果、企業は生産コストを容易に予測できるようになり、
 従業員は将来の生活設計を立てやすくなった。従業員の給与は
 世帯の支出をようやくまかなえる水準から出発し、家族が増え
 るにしたがってしだいに上昇した。そのため、従業員は無理の
 ない支払い計画を立てて住宅ローンや自動車ローンを組むこと
 ができた。(中略)そして40年あまり同じ会社に勤めた後、
 65歳前後で定年退職を迎えた。退職時には金の時計やネクタ
 イピンが記念品として贈られ、その後は現役時代よりは少額だ
 が、余生を送るには十分な企業年金が支給された。
           ──ロバート・ライシュ著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 この頃米国の経済学で主流を占めていたのは、ノーベル経済学
賞受賞の経済学者、ポール・サムエルソン教授が中心となって提
唱していた「新古典派総合」の考え方であったのです。
 サムエルソン教授の経済学は、市場メカニズムを重視するマネ
タリストの立場と、政府の介入を認めるケインズ経済学を組み合
わせることにより、資本主義経済は安定的に発展を遂げるという
考え方であったのです。
 しかし、1970年代後半になる頃から、政府による市場介入
を全面的に否定する市場原理主義的な急進的学派に席巻されるよ
うになっていき、それが1980年代の、いわゆるレーガノミッ
クスの時代に入っていくのです。
 しかし、いわゆる「大圧縮期」の米国の繁栄を支えたのは新古
典派総合というよりも、総需要管理を政府の役割として重視した
ケインズ経済学とその背後にあった福祉国家建設の強い信念なの
です。この福祉国家建設の信念は、サムエルソンの師アルビン・
ハンセン教授の信念です。   ──[新自由主義の正体/08]

≪画像および関連情報≫
 ●知ってる?ロバート・ライシュを
  ―――――――――――――――――――――――――――
   知ってる?ロバート・ライシュというアメリカの経済学者
  を。知ってる? 少数の金持ちに依存する新自由主義では、
  どの中流家庭も全て貧困者に落ちてしまうこと。もう既にア
  メリカでも日本でも中流家庭の底抜けが起きていることは周
  りの生活を見ればわかるよね。賃金カットや、リストラで中
  流家庭から一度落ちてしまうと、医療でも、教育でも決して
  元の生活に戻るレベルの暮らしはできない。暮らしを切り詰
  め、少しでも安いものを買うことしか、できなくなって、経
  済は益々インフレから抜けられない。仕事も無くなり、子育
  て後の子どもたちの就職も困難になる。良い成績を取ってき
  た学生も、奨学金で700万円も借りてしまった月々の返済
  が3〜4万にもなってしまう。若者が社会で独り立ちし経済
  的に自立する最初の一歩は、月々3〜4万の負債返済からは
  じまる。独立がままならない内に結婚生活に夢も持てない。
  安倍自民党が選挙で言ってる「国防軍何てこの若者の貧困状
  態を見透かしているんだろう。きっと、月々3〜4万の奨学
  金の負債返済を免除するから、最低2〜3年は国防軍入った
  ら?」となる。「そうだな、家賃も助かるからどうせ就職口
  なかなか見つからないし、国防軍でも行くか」となる。少数
  の金持ちに依存する新自由主義とは、何故全面崩壊に向うの
  か?ニューヨークタイムズの話題『ロバート・ライシュ』の
  論文が読める。『ロバート・ライシュ』の「没落した中流階
  級の再生なしにアメリカ経済は復活しない」が読める。
                   http://bit.ly/RLXXzF
  ―――――――――――――――――――――――――――

ロバート・ライシュ氏と著書.jpg
ロバート・ライシュ氏と著書
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2014年05月22日

●「なぜマネタリストが力を得たのか」(EJ第3795号)

 1950年から約30年間、豊かさを満喫していたはずの米国
が1981年のレーガン政権の誕生を機になぜ変貌してしまった
のでしょうか。なぜ、米国民はレーガンを圧倒的に支持したので
しょうか。このあたりの歴史的経過を振り返ります。
 当時の米国の豊かさは、自由な経済活動の成果に加えて、政府
がケインズ経済政策をとったことによる果実であるといえます。
すなわち、政府が積極的に経済に関与し、適切な社会保障福利政
策や所得再分配政策を行い、労使協調をうまく実現できたことに
あります。
 1950年代からレーガン大統領まで、次の6人が大統領に名
を連ねています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 34代:ドワイト・D・アイゼンハワー(共和党) 1953
 35代:ジョン・F・ケネディ(民主党)     1961
 36代:リンドン・ジョンソン(民主党)     1963
 37代:リチャード・ニクソン(共和党)     1969
 38代:ジェラルド・R・フォード(共和党)   1974
 39代:ジミー・カーター(民主党)       1977
                   ※年号は大統領就任年
―――――――――――――――――――――――――――――
 どこの国でもそうですが、痛みの伴う政策は嫌われ、生活を豊
かにする福利政策は歓迎されます。まして議員は選挙で選ばれる
ので、どうしても有権者の歓心を買うためにそういう公約に掲げ
て選挙を戦うことになります。その結果、景気の過熱と公的部門
の拡大を招き、インフレが急進します。ケインズ政策の負の側面
が出てくるのです。
 経済政策は、インフレ時とデフレ時では異なるのです。これは
EJでは何度も強調しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 経済がデフレ下にあるとき ・・・ 財政赤字を増やすこと
 経済がインフレであるとき ・・・ 財政黒字を増やすこと
―――――――――――――――――――――――――――――
 ケネディ大統領暗殺の後を受けて大統領に就任した第36代の
リンドン・ジョンソン大統領は、議会における民主党の圧倒的優
位を背景に、偉大なる福利国家を実現させるためにと称して、社
会改革立法を次々と成立させます。
 しかし、対外的にはベトナム戦争が拡大し、戦費が増大したこ
とに加えて、高齢者医療補助制度などの福利政策の拡充によって
米国の赤字財政は深刻なものになっていったのです。それに追い
打ちをかけたのが石油ショックです。これによってインフレが激
しさを増したのです。
 こういうときは、増税などの財政黒字を増やす政策をとって過
熱した景気を冷やす必要があるのです。しかし、ジョンソン政権
はその逆をやったのです。そのために米経済は次第に冷え込んで
いくことになります。
 ここに付け込んだのは、かねてから政府のケインズ政策に不満
を抱くマネタリストと呼ばれる一派です。彼らは、ケインズ的経
済政策は景気対策には役に立たず、いたずらに公的部門を肥大さ
せ、経済のダイナミズムを喪失させるだけであるとして、「小さ
い政府」「市場原理主義」「自己責任」を訴えたのです。これが
ジョンソン政権から3代後のレーガン政権誕生につながっていく
ことになるのです。
 当時の政府の経済運営の主流は、ケインジアンだったのですが
彼らが悩んでいたのは、失業率とインフレの関係だったのです。
ケインジアンたちは次のように考えていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    インフレ率と失業率はトレードオフの関係にある
―――――――――――――――――――――――――――――
 インフレを抑えようとして増税などの景気抑制策をとると失業
率は増大します。そこで、失業率を下げようとして金利を下げ、
景気拡大政策をとると、物価問題が深刻になり、インフレが激化
するのです。一方を良くしようとすると、他方が悪くなる──こ
れがトレードオフの関係です。
 しかし、この時期にミルトン・フリードマンだけは、まったく
違う主張をしていたのです。菊池英博氏の著書から引用します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 この段階で、「インフレを抑制するには、通貨量を減らすこと
 だ」というフリードマンの意見がクローズアップされてきたの
 である。フリードマンの主張は「通貨量のコントロールでしか
 インフレを抑えることはできない。公共投資による需要喚起や
 福祉事業による需要喚起政策は無駄である」というものであり
 これがまさにマネタリズムと呼ばれる新自由主義・市場原理主
 義者の金融財政面の見解である。      ──菊池英博著
             『そして、日本の富は略奪される/
   アメリカが仕掛けた新自由主義の正体』/ダイヤモンド社
―――――――――――――――――――――――――――――
 時のFRB議長のポール・ボルカー氏は、このフリードマンの
主張を一理あると考えたのです。そして、ボルカー氏はケインジ
アン的アプローチからマネタリスト的アプローチに大転換を図っ
たのです。1979年10月のことです。これに対してケインジ
アンたちは、一斉に失業率が急増すると警告したのです。
 確かに失業率は、6%から1982年末までに10.5 %まで
跳ね上がったのですが、インフレ率の方は、1980年末の13
%から1984年の4%まで劇的に下がったのです。
 「貨幣量を減らす」という独特のアプローチによってインフレ
率を下げることに成功したこのマネタリストの実験は、ケインジ
アンたちに衝撃を与えたのです。そのため、彼らは政権中枢のエ
コノミストの座から降りるようになり、代わってマネタリストた
ちがその座に座ることになったのです。
               ──[新自由主義の正体/09]

≪画像および関連情報≫
 ●ベン!ボルカーになりなさい/クリスティーナ・ローマー
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1979年10月、当時インフレ率は年10%を超えており
  FRBによる段階的な金利引上げにも関わらず問題は解決し
  なかった。FRB議長だったポール・ボルカーはそこで金融
  政策の方法を劇的に変更した。そして今、やはり解決困難な
  失業危機が現議長ベン・バーナンキ(当時)に静かな革命の
  実行を求めている。ボルカーはどうしたか?彼は、インフレ
  はマネーサプライ成長に基づくのだからその成長を落とせば
  インフレ率は下がると論じた。彼はまた、新しい政策枠組み
  でインフレ抑制にコミットすることがバックアップとして働
  き人々のインフレ期待を打ち破るだろうと信じていた。こう
  してFRBは月次の貨幣成長率を明確にターゲットにするこ
  とを始めた。ターゲットを達成するためには金利を空前の水
  準にまで押し上げることを意味していた。失業率は10%を
  超え、ボルカー氏は非難された。高金利に抵抗する農民たち
  がトラクターに乗ってFRB本部を封鎖した。しかしこの政
  策が上手く行った。1979年に11%だったインフレ率は
  1983年には3%に落着き失業率は通常の水準に戻った。
  私の父は、化学プラントのマネージャーで、1981年の不
  況で職を失ったが、ボルカー氏をヒーロー視していた。ボル
  カーの力強い行動が低インフレと着実な産出成長の時代を先
  導した。             http://bit.ly/1sNuErX
  ―――――――――――――――――――――――――――

ポール・ボルカー氏.jpg
ポール・ボルカー氏
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2014年05月23日

●「フリードマンの思想の背景に迫る」(EJ第3796号)

 ところで市場原理主義の思想的な柱であるミルトン・フリード
マンは、どのような人なのでしょうか。彼の思想的な背景は何な
のでしょうか。
 フリードマンは1921年にニューヨークで生まれています。
両親は東欧出身のユダヤ人で、ヨーロッパにおけるユダヤ人抑圧
から逃れるために米国に渡り、劣悪な労働条件のもとで働き、生
計を立てていたのです。もちろん生活は極貧だったのです。
 フリードマンは子ども頃から新聞配達のアルバイトをして、家
計を助け、よく勉強したのです。成績は極めて優秀だったといい
ます。そのため、奨学金を得て、ニュージャージー州のラトガー
ズ大学に進学し、学士号を取得しています。
 さらにシカゴ大学で修士号を、コロンビア大学で博士号を取得
し、コロンビア大学や連邦政府で働いた後で、シカゴ大学の教授
の地位を得るのです。
 ところでフリードマンは後にケインズ的裁量政策反対の頭目と
いわれるようになるのですが、皮肉なことに就職難のなかで連邦
政府で得た仕事は、ケインズ政策の目玉ともいうべきあのニュー
ディール政策が生み出したものであったのです。そのときフリー
ドマンは一貫してケインジアンに徹していたといいます。
 その当時シカゴ大学の経済学部には、自由主義的思想を持つ次
の2人の教授がいたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
            フランク・ナイト教授
         ジェイコブ・ヴァイナー教授
―――――――――――――――――――――――――――――
 ナイトもヴァイナーも自由な競争的市場の重要性を説く英国の
古典派経済学、とくにアルフレッド・マーシャルの理論体系の信
奉者であり、後にこの2人が「シカゴ学派」と呼ばれれるように
なるのです。
 アルフレッド・マーシャルは、供給と需要の関数に対する価格
決定について厳格に取り組んだ最初の経済学者であり、その経済
思想の歴史におけるマーシャルの影響は否定し難いものがあるの
です。マーシャルは、ジョン・メイナード・ケインズの師であり
ケインズを育てたことで知られています。
 それに徹底的に反社会主義を説いたオーストリア出身の政治哲
学者であるフリードリッヒ・ハイエクもこの頃シカゴ大学に在籍
しているのです。ハイエクも徹底した自由主義論者として知られ
ています。
 とにかく当時のシカゴ大学には役者が揃っていたのです。ほと
んどがノーベル経済学賞を受賞しており、フリードマンは、彼ら
の影響を受けて、米国の経済学者ジョージ・スティグラーととも
に、シカゴ学派の第2世代と呼ばれるようになるのです。
 フリードマンの思想的背景を探る一文があります。フリードマ
ンは、1950年に来日していますが、そのときフリードマンの
案内役を務めたケインズ派の経済学者、伊藤光晴氏の著書にその
ときの思い出が語られています。フリードマンは、マルクス経済
学者長洲一二氏との対談で次のように語っています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 実は私はユダヤ人である。ユダヤ人がスターリン治下のソビエ
 トにおいてどういう待遇を受けたか、特に東欧の人間たちがど
 ういう待遇を受けたか。またヒトラー治下においてユダヤ人が
 どのような残酷な死を招いたかというようなことはいまさら申
 し上げるまでもないでしょう。私が自由な市場に委ねるのがい
 ちばんいいということを主張するところには、国家も制度も民
 族も一切力を持たない、一つのメカニズムが人間社会を結ぶと
 いうことが最も幸福であるという、ヒトラー治下の、スターリ
 ン治下のユダヤ人の血の叫びである。    ──内橋克人著
 『新版/悪夢のサイクル/ネオリベラリズム循環』/文芸春秋
―――――――――――――――――――――――――――――
 フリードマンは自身がユダヤ人であるがゆえに「自由」にこだ
わるのです。自由主義は、人間の自由であり、それは「国家から
の自由」を意味する抵抗の思想であると説くのです。
 このような考え方の下にフリードマンは、当時経済学の分野で
は圧倒的に主流であったケインズ経済学に対して、一貫して反対
の論陣を張っていくことになります。
 とくに「大恐慌は市場の失敗である」とするケインズの考え方
に対し、「それは政府(FRB)の通貨政策の失敗である」と主
張したのです。この大恐慌を巡る論争は有名であり、EJでは、
前回のテーマ(消費増税論)でも取り上げています。関連記事と
してご参照ください。
―――――――――――――――――――――――――――――
 2014年4月8日/EJ第3766号
 「大恐慌はFRBの政策ミスなのか」 http://bit.ly/1iqhJrG
―――――――――――――――――――――――――――――
 フリードマンのいう「自由」が経済に取り込まれることによっ
て、政府による所得の再分配機能についても全否定することにな
るのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 わたしは自由主義者として、もっぱら所得を再分配するための
 累進課税については、いかなる正当化の理由をも認めることが
 むずかしいと考える。これは他の人びとにあたえるために強権
 を用いてある人びとから取り上げるという明瞭な事例であり、
 したがって個人の自由と真正面から衝突するように思われる。
 ──フリードマン著『資本主義と自由』/マグロウヒル好学社
                ──内橋克人著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 累進課税を廃止する──これが当時の米国の富裕層によって歓
迎されたのはいうまでもないのです。これによってフリードマン
の経済に関する考え方は、経済が停滞しつつあった1970年代
の米国で歓迎されたのです。  ──[新自由主義の正体/10]

≪画像および関連情報≫
 ●フリードマンの「資本主義と自由」より
  ―――――――――――――――――――――――――――
  国が諸君のために何をなしうるかを問いたまうな。諸君が国
  のために何をなし得るかを問いたまえ」──ケネディー大統
  領の就任演説であまりに有名なこの一節は、ひんぱんに引用
  される。しかし出典が詮索されることはあっても、内容が論
  争の対象になることはなかった。ここに時代の風潮がよく表
  れていると言えよう。(その後、アメリカは絶望的なベトナ
  ム戦争へと深入りしてゆく)。実際にはこの一節の前半に示
  された国と国民との関係も、後半に示された国と国民との関
  係も、自由社会における自由人の理想にはほど遠い。まず前
  半の「国が諸君のために」何かをしてあげるという温情あふ
  れる言葉は、政府が保護し国民が保護される関係を連想させ
  る。このような関係は、自分のことは自分で責任をとるとい
  う自由人の考え方と相容れない。次に後半の「諸君が国のた
  めに」何かをするという部分では国家がひとつの生命体と見
  立てられており、政府が主(あるじ)で国民が僕(しもべ)
  という関係を連想させる。だが自由人にとっては国は個人の
  集合体に過ぎず、それ以上でもそれ以下でもない。受け継が
  れてきた国の文化を誇りに思いもするし、伝統を守ろうとも
  する。だが、自由人にとっては政府とは一つの道具や手段に
  ほかならず、何かを施してくれるやさしい庇護者でもなけれ
  ば、敬い仕えなければならない主人でもない。また国家の目
  標も、一人ひとりの目標の集合体としてしか認めない。自由
  人は、国が自分に何をしてくれるかを問わない。自分が国に
  何をできるかも考えない。その代わり、自分の責任を果たす
  ため、自分の目標を達成するため、そして何よりも自由を守
  るために、「自分はあるいは仲間は、政府という手段を使っ
  て何ができるか」を考える。    http://bit.ly/1hZVica
  ―――――――――――――――――――――――――――

フリードマン/スティグラー.jpg
フリードマン/スティグラー
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2014年05月26日

●「フリードマンの話を聞いてみよう」(EJ第3797号)

 ミルトン・フリードマンの主張には賛否両論があります。彼が
非常に極端な自由主義者だったからです。このところチャゲ&A
SKAの覚醒剤疑惑が連日報道されていますが、フリードマンは
麻薬についても規制すべきではないといっているのです。
 一人ひとりが自分で判断して、麻薬の楽しみと中毒になったと
きの苦しみとをはかって選択すべきだというのが、フリードマン
の考え方なのです。
 フリードマンによる1980年のベストセラーに、『選択の自
由』(日本経済新聞出版社)という書籍があります。日本のノン
フィクション作家で、保守派の論客でもある関岡英之氏は自著で
その考え方の過激さを次のように批判しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 米国では、食品、医薬品、化粧品などの安全性を事前に審査し
 ているのは食品医薬品局(FDA)たが、フリードマンは廃止
 せよと主張する。なぜかというと、食品医薬品局の規制は「有
 害で効き目のない薬の販売を防止することによって社会によい
 結果をもたらした以上に、価値のある薬の生産・販売技術の進
 歩を遅らせることによって社会に弊害をもたらしている」から
 だという。そしてフリードマンは、「われわれが自らの生命に
 関してどんな危険を冒すかは、われわれ自身の選択の自由に任
 せるべきだ」と言い切っている。これが、市場原理主義者たち
 が呪文のように唱える「消費者の選択の自由」の本質である。
 要するに「安全かどうかは自分で判断して選びなさい。結果が
 どうなろうと自己責任なのだから、役所に泣きついてもダメ。
 自分で弁護士を雇って裁判で解決しなさい」ということだ。極
 限的なまでに孤独な、荒涼たる「自己責任」の世界である。果
 たしてどのくらいの日本人が、こうした社会に耐えられるだろ
 うか。                  ──関岡英之著
 『国家の存亡/「平成の開国」が日本を滅ぼす』/PHP新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 フリードマンは、政府によるあらゆる規制は間違いであり、政
府が保険制度を構築することに反対し、「最低賃金法は雇用を阻
害する」と主張したり、公衆衛生に関しても関岡氏が指摘してい
るように、「食品や医薬品に対する安全規制は技術進歩を遅らせ
社会に弊害をもたらす」と反対しています。
 しかし、当時の経済学の主流はケインズ経済学なのです。ケイ
ンズが主張する公共政策とは、資本家や大企業がその優越的な力
によって市場を支配しようとするのを政府が規制し、不況になっ
たときは、政府が財政政策による公共事業を実施することによっ
て雇用を守り、不況の悪影響を緩和するというものです。加えて
所得格差が生じないように、累進課税を強化し、それによる社会
福祉を充実させることによって、富裕層から低所得層への富の再
配分を行うのです。
 フリードマンにとってケインズの公共政策はまさに真逆の思想
ということになります。政府による市場の規制などとんでもない
間違いであるし、財政政策はバラマキであって無駄そのものと切
り捨てています。しかし、彼の過激なまでの自由主義は、自主独
立の精神を重んじ、自由を尊ぶ米国人にフィットするものがあっ
たのです。
 このミルトン・フリードマンの思想が米国民に深く浸透したの
にはいくつか理由がありますが、そのひとつに彼自身が出演する
次のテレビ番組があったことです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   ミルトン・フリードマン
   テレビ番組『選択の自由』 Free to Choose,TV
―――――――――――――――――――――――――――――
 フリードマンがノーベル経済学賞を受賞したのは1976年で
すが、そのときテレビプロデューサーの勧めでテレビ番組を制作
することになり、1977年から開始されたのです。その番組の
タイトルが『選択の自由』だったのです。これによってフリード
マンは冠番組を持つことになり、自説の新自由主義を一般大衆に
アピールできるようになったのです。
 冒頭で紹介した『選択の自由』(日本経済新聞出版社)の書籍
は、このテレビ番組の名前からとられたものなのです。この番組
には、1980年版と1990年版があるのですが、『選択の自
由』の書籍は、1980年版に対応しており、これを再編し再録
したものが1990年版です。もちろんどちらも英語版です。
 しかし、蔵研也氏という人が、1990年版に日本語の字幕を
入れてくれています。全部で5話あるのですが、それぞれを4分
割して、ユーチューブにアップしてくれています。
 その第1話をユーチューブから集めて、URLを付けておきま
す。クリックすると、すぐ動画がスタートします。難しい経済学
の話ではなく、フリードマンが直接説明をしてくれるので、とて
もわかりやすいです。
 第1話のスタートと同時に、若き日のアーノルド・シュワルツ
ネッガー氏が登場するので、きっとびっくりすると思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
    ◎フリードマン/『選択の自由』/第1話
      1─1    http://bit.ly/1iahj88
      1─2    http://bit.ly/TAEzqD
      1─3    http://bit.ly/1vQ0Y1J
      1─4    http://bit.ly/1jJifpy
―――――――――――――――――――――――――――――
 第2話から第5話までもすべてユーチューブにアップされてい
ます。第1話を見れば、第2話〜第5話はすぐわかるようになっ
ているので、興味があればすべてを見ることができます。討論の
ところでは、ケインズ派のガルブレイスも登場します。
 フリードマンの説明はとても説得力があり、納得できることも
多くあります。何はともあれ、フリードマン自身から直接話を聞
くことは有益だと思います。  ──[新自由主義の正体/11]

≪画像および関連情報≫
 ●「選択の自由」という不幸/広島直己氏のブログ
  ―――――――――――――――――――――――――――
  アメリカに来たばかりの頃、パンの種類やドレッシングの種
  類をいちいち聞かれて辟易したのは、早口の店員に聞かれて
  いることが分からなくてドギマギしたということもあるけれ
  ど、それ以上に、そもそもどういう選択肢があるのかさっぱ
  り分かっていなかったというのもあるし、もっと言っちゃえ
  ば、そんな選択肢があるということに頭にきていたわけだ。
  ある時は、聞かれてることがよく分からずにまごまごしてい
  ると、さっさとイエスって言えよって雰囲気になってしまっ
  たので困ってイエスって答えてみたら、マヨもマスタードも
  ついてないターキーサンドイッチが出てきてびっくりしたこ
  ともあった。アメリカのメシが不味いという噂は本当だなぁ
  日本ではこんな不味いサンドイッチは存在すらできないだろ
  うなぁ、と思ったのだった。つまり、いちいち選択するのは
  面倒くさいし、選択肢が多いことは必ずしもいいとは限らな
  い。サンドイッチなんて、いちいち選びたくないし、ハムサ
  ンドって言ったら、ハムサンドが出てくればいいわけだ。昔
  はそう思っていた。しかし、選択を強要される環境にならさ
  れすぎて久しいと、逆に日本に帰ったときに「あまりにも注
  文の多すぎる客」になり果ててしまっていて、なんて不便な
  んだろうって思ったりする。ハムサンドってひとことで片付
  けられても困るっつーの。みたいな。慣れってのは怖い。
                   http://bit.ly/1jeMlLG
  ―――――――――――――――――――――――――――

フリードマンのTV番組『選択の自由』.jpg
フリードマンのTV番組『選択の自由』
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2014年05月27日

●「宇沢弘文教授の語るフリードマン」(EJ第3798号)

 ミルトン・フリードマンは、ベストセラーを連発し、ノーベル
経済学賞を受賞し、自分のテレビ番組まで持ったことによって経
済学者として大変成功を収めたのです。そのため、収入も増えて
カルフォルにアに豪邸を建てて住むようになります。
 そして、自分のテレビ番組のなかで、自分の家の前に立って次
のようなことをいっているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 米国は自由な社会であり、選択の自由があるならば、私のよう
 な人間でもこのような立派な家をつくることができる。私はひ
 とつのモデルにすぎない。みんな同じことができるのです。
                      ──内橋克人著
 『新版/悪魔のサイクル/ネオリベラリズム循環』/文春文庫
―――――――――――――――――――――――――――――
 フリードマンの考え方には多くの批判があります。昨日のEJ
でご紹介したフリードマンの動画『選択の自由』第1話は、ご覧
になったでしょうか。
 第1話「1−2」でフリードマンは、香港を例に上げてその自
由な社会を強調していましたが、それについての「1−3」の後
半から「1−4」にかけてのフリードマンとガルブレイスの激し
い論争は、まさに新自由主義とケインズ主義の論争そのものであ
り、見ごたえがあります。ぜひご覧いただきたいと思います。
 フリードマンの人物を知るエピソードをいくつかご紹介してい
きます。最初の話は大変有名であり、フリードマンのことを書い
た本には必ず出てくるのですが、これは経済学者の宇沢弘文東大
名誉教授が語ったものなのです。
 宇沢弘文氏は、若い頃スタンフォード大学のケネス・アロー教
授に対して送った論文が教授に認められ、1956年に研究助手
として渡米するチャンスを手にしたのです。そしてスタンフォー
ド大学とカリフォルニア大学バークレー校で教育研究活動を行い
1964年にシカゴ大学経済学部教授に36歳の若さで就任した
世界でも高名な経済学者です。宇沢氏は、シカゴ大学教授のとき
にフリードマンと親しく接する機会があったのです。
 シカゴ大学の経済学部の教授たちは、お昼はみんな一緒に食事
をする習慣があったそうです。ある日のランチタイムにフリード
マン教授は遅れてやってきて、席につくや興奮して次のような話
をしたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 コンチネンタル・イリノイ銀行というのがシカゴにありますが
 その日の朝、フリードマンは銀行の窓口に行ってイギリスのポ
 ンドの空売りを1万ポンドしたいと申し込んだそうです。その
 とき1ポンド=2ドル80だったのですが、それが2ドル40
 に切り下げられることがほぼ確実にわかっていて、事実その2
 週間後に切り下げられたのですが、そのとき空売りすると、巨
 大な投機の利益を得ることができるのです。しかし、その銀行
 のデスクがフリードマンに向かって答えたのは、「ノー、われ
 われは紳士(ジェントルマン)だから、そういうことはやらな
 い」ということだった。フリードマンはそれを聞いてカンカン
 になって、帰ってきて、資本主義の世界では儲かるときに儲け
 るのがジェントルマンなのだ、と真っ赤になって大演説をぶっ
 たのです。──内橋克人編、『経済学は誰のためにあるのか/
            市場原理至上主義批判』/岩波新書刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 ところで「株の空売り」とは何でしょうか。
 株の空売りとは、証券会社から株を借りて売却し、その株が値
下がりしたときに買い戻すことで利益を得る投資方法です。しか
し、株の空売りを行うには、信用取引口座が必要です。
 株の信用取引とは、口座に保有している金額の最大3倍の金額
の株式売買が出来る方法のことで、別名レバレッジとも呼ばれて
います。
 具体的な例で説明します。投資家がある会社の株が近い将来値
下がりするという情報を掴んだとします。そのとき、その会社の
株は1株1000円であったとします。その投資家は信用取引を
利用してその会社の株1万株を一時的に証券会社に借り、売った
とします。1000万円の資金が必要になりますが、そのとき投
資家の信用取引口座には400万円があったので、レバレッジに
よってその株の売買は可能なのです。
 その後予想通り、その会社の株は1株800円に下落したので
す。投資家はその株を1万株買い戻して、証券会社に返します。
手元には200万円が儲けとして残ることになります。この一連
の取引を「空売り」というのです。
 実は米国では、1934年に銀行法を改正しているのです。こ
れは、ルーズベルトのニューディール政策の第1号の改革だった
のです。なぜなら、大恐慌の原因が、とくに株式市場での人々の
投機的な取引に銀行が巨額の貸し付けを行ったことが原因でそれ
がバブルを形成したからです。改正銀行法では、次の条項が定め
られたのです。コンチネンタル・イリノイ銀行のデスクは、その
条項を忠実に守り、フリードマンの申し出を断ったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 銀行は投機という反社会的な行動、あるいは、そういうプロ
 ジェクトに貸し付けをしてはならない。   ──内橋克人著
 『新版/悪魔のサイクル/ネオリベラリズム循環』/文春文庫
―――――――――――――――――――――――――――――
 この話を聞いたフリードマンの指導者のフランク・ナイト(当
時80歳)は激怒し、門下生を集めて、フリードマンとスティグ
ラーの2人を破門したのです。その席に宇沢弘文氏も居合わせた
というのです。
 ナイトの思想は同じリベラリズムであるが、人間の尊厳を守り
自由を守ることを基本にして、経済的、社会的、政治的なシステ
ムを考えようというものであり、フリードマンたちの行為は、許
せなかったのです。      ──[新自由主義の正体/12]

≪画像および関連情報≫
 ●素晴らしい経済学者・宇沢弘文東京大学名誉教授
  ―――――――――――――――――――――――――――
  素晴らしい本に出会いました。宇沢弘文・内橋克人著「始ま
  っている未来」(岩波書店刊)です。素晴らしい経済学者が
  おられます。東京大学名誉教授の宇沢弘文先生です。宇沢弘
  文先生は今年86歳。米国滞在が長くミルトン・フリードマ
  ンがいた新自由主義の総本山シカゴ大学で経済学部教授とし
  てフリードマン理論に反対する「新古典経済理論」を研究し
  教鞭をとられていた方です。長年の研究成果に対して、19
  97年に文化勲章を受賞されています。宇沢弘文先生は日本
  人経済学者の中でノーベル賞に最も近い学者と言われていま
  すが、なぜか日本では一般的に知られていません。なぜなら
  ば先生は「日本は米国に搾取されている植民地である」と公
  然と主張されているからです。現在の日本の大苦境の原因は
  米国に強要され実行された「無駄な公共投資630兆円」で
  あると主張されているからです。日本の大手マスコミは意図
  的に先生の主張を報道しませんし経済学者は無視しているか
  らです。著書「始まっている未来」の中の「日本の植民地化
  と日米構造協議」の部分を下記に転載しますので是非お読み
  ください。現在日本が陥っている「10年ゼロ成長」「10
  年デフレ」「巨額な国家債務」「夕張の悲劇」の真の原因は
  米国が海部政権に強要した「日本経済の生産性を上げるため
  に使ってはいけない」630兆円の「無駄な公共投資」だっ
  たことが良くわかります。     http://bit.ly/1kAM36s
  ―――――――――――――――――――――――――――

宇沢弘文氏.jpg
宇沢 弘文氏
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2014年05月28日

●「なぜフリードマンは破門されたか」(EJ第3799号)

 シカゴ学派の始祖といわれるフランク・ナイトのリベラリズム
は、フリードマンやスティグラーの唱える新自由主義とは大きく
異なるのです。しかし、現在では、シカゴ学派というとフリード
マンやスティグラーと相場が決まっているのですが、彼らはナイ
トから破門されているのです。
 ナイトのリベラリズムは、教育哲学者のジョン・デューイや経
済学の歴史のなかで最も卓越した業績を残し,思想的独創性にお
いて抜きん出るといわれるソースタン・ヴェブレンがバックグラ
ンドを作っています。宇沢弘文氏の著作のなかには、『ヴェブレ
ン』(岩波書店刊)があります。
 ナイトのリベラリズムとフリードマンやスティグラーの違いに
ついて宇沢弘文氏は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 リベラリズムというのは、人間の尊厳を守り、自由を守ること
 を基本にして、経済的、社会的、政治的なシステムを考えてい
 こうという考え方なのです。ジョン・デューイはそのリベラリ
 ズムの考えに基づいてアメリカの学校教育の理念をつくる。フ
 ランク・ナイトはリベラリズムの経済学を完成させたのです。
 ところが、フリードマンやスティグラーの考え方は、人間の尊
 厳を否定して自分たちだけが儲ける自由を主張するというもの
 です。これに対してナイトは激怒したわけです。人間の尊厳と
 自由といった場合の最も大きな原則は、他の人々の自由を侵害
 してはいけないということなのに、彼らはその点を無視したか
 らです。 ──内橋克人編、『経済学は誰のためにあるのか/
            市場原理至上主義批判』/岩波新書刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 フリードマンが来日したとき、案内役を務めた伊藤光晴京都大
学名誉教授も次のようにフリードマンの主張に疑問を投げかけて
います。
―――――――――――――――――――――――――――――
 かつて会ったフリードマンは、こうした極貧の中で苦労して生
 きていくユダヤ人たち、その中で病気で死んでいった人たちに
 対して涙する人間でした。そしてそのうちのいったい何人がフ
 リードマンのように、立派な家をつくることができたでしょう
 か。彼は人に倍する能力と才能を持ち、奨学金を得てシカゴ大
 学に学び、学者として大きな業績を残しました。しかしそうし
 た成功者一人の陰に何倍もの人が脱落していったのではないで
 しょうか。                ──内橋克人著
 『新版/悪魔のサイクル/ネオリベラリズム循環』/文春文庫
―――――――――――――――――――――――――――――
 フリードマンの思想の背景を知るためのエピソードを続けるこ
とにします。1960年代の中頃のことですが、米国では人種問
題が大きな社会問題になっていたのです。フリードマンは黒人問
題について、次のように述べているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 黒人の問題は貧困の問題である。黒人労働者は景気が悪くなる
 とまず第一に解雇される。それは、差別の問題ではなく、企業
 が必要とする技能とか技術とか能力をもってないからだ。なぜ
 もっていないかというと、黒人は10代のときに、勉強するか
 遊ぶかという選択を迫られて、遊ぶことを選択した。それは結
 局その黒人の合理的な選択であって、それに対して経済学者は
 文句をつけることはできないのである。
                ──内橋克人編の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 この発言は、シカゴ大学で大学院生を集めたワークショップで
行われ、宇沢弘文氏はその場に居合わせたそうです。そのとき、
一人の黒人学生が立ち上がって、フリードマン教授に次のように
質問したそうです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    先生、私に両親を選ぶ自由があったでしょうか
                ──内橋克人編の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 さすがのフリードマンもこの質問には絶句したといいます。黒
人学生もきっとカチンときたのでしょう。
 フリードマンは、自分が奨学金で進学の機会を得たことで、教
育についてはいろいろな提言をしています。そのなかで有名なの
は「教育バウチャー(クーポン)制度」です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 上流階層の子どもは教育が選べる。ところが大方の子どもはそ
 うではない。彼らには私立学校に行く経済的な余裕、よい公立
 学校があるからといってその地域へ移住する経済的な能力がな
 い。普通の子どもや親が学校の教育内容に影響力をもち、自分
 の要望を実現するためには、学校数育という独占を打ち破り、
 競争を導入して学生や親に選ぶ権利を与えるしかない。つまり
 選択の自由が与えられなければならない。
                ──内橋克人著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 フリードマンの考え方はこうです。州や地方自治体が公立学校
に出している助成金を全部集めてすべての子どもに平等にクーポ
ンというかたちで再分配するというものです。つまり、国の力に
よって機会を平等にしたうえで、努力するかしないかは本人の努
力にまかせる──その結果について国が助ける必要などないとい
う考え方です。
 この教育バウチャー制度については、第1次安倍政権で導入を
検討したことがあり、2012年に橋下徹大阪市長も取り入れて
います。しかし、安倍内閣が導入を検討していたのは学校教育で
利用できる教育バウチャーであって、橋下市長のは学校外の教育
バウチャー制度という違いがあります。このように、部分的にフ
リードマンの提案は少しずつ各国で取り入れられているのです。
               ──[新自由主義の正体/13]

≪画像および関連情報≫
 ●橋下市長の「教育バウチャー制度」/池田信夫氏
  ―――――――――――――――――――――――――――
  大阪市の橋下徹市長が当選してから半年。全国的には君が代
  斉唱や原発再稼働の騒動ぐらいしか知られていないが、この
  半年で橋下市長のやった仕事量は普通の市長の4年分を超え
  る。大部分は大阪ローカルの細々した問題なので、東京のメ
  ディアは報道しないが、そのローカルな政策の中に彼の本質
  がある。私もきのう読売テレビの討論番組に出演して彼の話
  を聞いて、その仕事の中身が初めてわかった。特におもしろ
  いのは、塾代補助クーポンだ。これは学習塾などの料金の一
  部を市が補助するもので、9月から低所得者の多い西成区で
  先行実施され、来年度からは市全域で中学生の7割程度に月
  1万円分のクーポンを支給する予定だ。予算は34億円のさ
  さやかな事業だが、政治的には大きな意味がある。これは日
  本初の教育バウチャーなのだ。バウチャーというのは用途を
  限定した金券だが、普通の補助金と違うのは、塾ではなく親
  に支給する点である。公立学校は公費で運営されているが、
  私立学校は補助を受けるだけなので、授業料に格差が残り、
  貧しい家庭の子は私立学校に行けない。これに対して50年
  前にミルトン・フリードマンが提案したのは、公立学校に公
  費を支給しないで親に授業料をバウチャーとして補助する制
  である。             http://bit.ly/1kBqAug
  ―――――――――――――――――――――――――――

内橋克人氏.jpg
内橋 克人氏
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2014年05月29日

●「官から民への規制緩和に罠がある」(EJ第3800号)

 フリードマンの過激な思想は、それが討論されるときは正しく
ないと反論されるものの、その正しくないはずの考え方がふと気
がつくと実現してしまっているという怖さがあります。
 フリードマンの空売りの申し入れを「ジェントルマンはそんな
ことはしない」と拒否したコンチネンタル・イリノイ銀行は、そ
の後、大きく変貌してしまうのです。宇沢弘文氏はコンチネンタ
ル・イリノイ銀行のその後について次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 コンチネンタル・イリノイ銀行は、その後、変わってしまいま
 す。一種の持株会社をつくって、いろいろな活動を始めるわけ
 です。節度を失ってしまった。とくに1971年のニクソン・
 ショックのときに、東京の外国為替市場だけが2週間開いてい
 た。そのときに当時80億ドルぐらいといわれている大量のド
 ル売りがあった。それはその後の日本の金融の大きな擾乱原因
 になっていくわけですが、そのときにコンチネンタル・イリノ
 イは最も儲けたことで知られています。   ──内橋克人編
   『経済学は誰のためにあるのか/市場原理至上主義批判』
                       /岩波新書刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 金融的節度を失ったコンチネンタル・イリノイ銀行は、次々と
投機的ないかがわしい事業に手を出し、1984年に事実上倒産
してしまうのです。この倒産は2008年にワシントン・ミュー
チャルが破綻するまで、米国史上最大の銀行破綻だったのです。
 そのため、「大き過ぎて潰せない」として、当時のFRBのボ
ルカー議長の提案によって政府は同銀行を救済するのです。そし
て1994年にバンク・オブ・アメリカに買収されるまで、コン
チネンタル銀行として存続したのです。
 フリードマンの思想は、一般論としてはとんでもないことなの
ですが、企業という立場から考えると、これはかなりメリットが
ある魅力的なことなのです。そこで企業としてはその実施を政府
に働きかけることになるのです。
 「官から民への規制緩和」──このように聞くと、一見何の問
題もないように見えます。どうしてかというと、行政・官僚の手
に委ねられていた国家権力が、規制緩和によって市民の手に再分
配されると思い込むからです。
 しかし、ここに落とし穴があるのです。ここでいう「民」は市
民だけでなく、企業も入ることです。けっして市民の手に再分配
されることはないのです。これについて、内橋克人氏は次のよう
に述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 実際にはいま進もうとしている規制緩和は、行政独裁、その背
 景をなす官僚による裁量的秘密主義への訣別ではなく、かつて
 政官業の鉄のトライアングル″といわれた三者のうち、権限
 の一部が「官から業ヘシフトする」に過ぎない。つまり再配分
 される国家権力の行き着く先は市民や働く人々ではなく、大企
 業中心の民間企業だという点に特徴があると思います。その意
 味で日本型規制緩和は経団連はじめ財界主導の「企業行動完全
 自由化要求運動」なのであり、その実質は「権力の仲間回し」
 にある、と認識すべきではないか、と思います。
                ──内橋克人編の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 現在、安倍政権が進めようとしている政策は、かつての小泉政
権のスローガン「官から民(企業)へ」を具体化して実現させよ
うとしています。第1次安倍政権で実現できなかったことを多数
を得た本政権でやろうとしているのです。
 まず、大胆な金融緩和を進めることで株価を上昇させ、民間企
業を縛っている規制、例えば労働法制を緩和し、人件費を軽減さ
せることによって企業が利益を上げやすい状態にする──さらに
法人税を減税することにより、企業、それも大企業を富ませよう
としています。まさにフリードマンの新自由主義の政策そのもの
です。それも自分で意識してやっているとは思えないのです。
 首相という地位に就くと、自分の回りは政治家や上級官僚ばか
りになり、外部の人と触れる機会は、大企業の幹部クラスの人に
限られます。要するに接する人は富裕層ばかりであり、そういう
人たちの考え方に染まってしまうのです。国民のことなど、観念
的にしか考えられなくなってしまうのです。
 庶民には消費税増税を押しつけ、その一方で大企業には法人税
を減税しようとする──これは「法人優遇ではないか」と迫った
野党議員に安倍首相は次のように答弁しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 法人対個人、そういう考え方を私はとりません。多くの個人は
 会社で働き、給料を得て、暮らしを立てています。企業の収益
 が伸びて行けば雇用が増え、賃金が増えれば家計も潤う。
                       ──安倍首相
―――――――――――――――――――――――――――――
 これは「トリクルダウン」理論といって、「富める者が富めば
貧しい者にも自然に富が浸透(トリクルダウン)する」という経
済思想です。要するに「金持ちが潤えば貧乏人もそのおこぼれに
あずかれる」という考え方です。
 しかし、この考え方は間違っています。CSR(企業の社会的
責任)を放棄した企業が、労働者の生活など一顧だにしないのは
明らかだからです。むしろ、今の日本では企業を優遇すればする
ほど国民生活は反比例的に悪化し、格差は増大するのです。それ
はフリードマン的政策を採用した国の宿命なのです。
 これについては、「神州の泉」という有名ブログが安倍首相を
徹底的に批判しています。≪画像および関連情報≫欄を参照して
いただきたいと思います。
 それしてもあのレーガン米大統領や英国のサッチャー首相はな
ぜフリードマン的政策を取り上げたのでしょうか。明日のEJか
らこれについて考えます。   ──[新自由主義の正体/14]

≪画像および関連情報≫
 ●安倍トリクルダウン国政は大嘘の塊/「神州の泉」より
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1%の大資本が大多数の国民生活を犠牲にし、搾取して益々
  富み栄えることが、今、人類が直面している大問題なのであ
  る。企業が人類の生存権を食いつぶす世界など、ディストピ
  アの方向性しかないではないか。安倍首相は頭が悪すぎる。
  というか、頭の中が典型的なトリクルダウン思考にそまり、
  パープリンになっている。企業を強くすると、そのことがプ
  ロポーショナルに国民生活を充実させるという実例は、戦後
  の高度経済成長期に一過的に見られただけであり、新自由主
  義パラダイムの中で、成熟期・安定期に入った産業社会でそ
  れは決してあり得ない。もっというなら、今の日本では企業
  を優遇すればするほど国民生活は反比例的に悪化し、格差は
  増大する。それがフリードマン主義を採用する国政の定式だ
  からだ。だから、一秒でも早く安倍政権を国政から離脱させ
  るべきだ。カルト宗教盲信的にグローバル資本の大嘘理論に
  やられてしまっている安倍首相は、今やハーメルンの笛吹き
  男であり、典型的な滅びの宰相なのである。それにしても、
  小泉、菅、野田、安倍と、なぜパープリンな人物ばかりが政
  治のトップに立つのだろうか。(ウィキペディアによれば、
  「パープリン」とは、小林よしのり氏が描いた漫画、「東大
  一直線」に出てくる用語で、「(頭が)パーなのでまるで脳が
  プリン」を意味する)。      http://bit.ly/1kgzq10
  ―――――――――――――――――――――――――――

国会で答弁する安倍首相.jpg
国会で答弁する安倍首相
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2014年05月30日

●「サッチャーへのイギリス人の評価」(EJ第3801号)

 マーガレット・サッチャー元英国首相が亡くなったのは、20
13年4月8日のことです。世界中で多くの追悼記事が書かれ、
英国では、サッチャー首相に関して世論調査機関のYouGov と大
衆紙TheSun が世論調査を行っているのです。その一部をご紹介
しましょう。
―――――――――――――――――――――――――――――
 設問1「1945年以降の最も偉大な首相は誰か」
      サッチャー ・・・・・・ 28%
      チャーチル ・・・・・・ 24%
        ブレア ・・・・・・ 10%
 設問2「首相としてのサッチャーをどう評価する」
         偉大 ・・・・・・ 20%
         良い ・・・・・・ 30%
        平均的 ・・・・・・  8%
        お粗末 ・・・・・・  8%
      ひど過ぎる ・・・・・・ 25%
 設問3「サッチャーは英国をどのように変えたか」
      好転させた ・・・・・・ 48%
      悪化させた ・・・・・・ 35%
     不平等にした ・・・・・・ 49%
      平等にした ・・・・・・ 25%
 設問4「首相として実施した最悪の政策とは何か」
      人頭税導入 ・・・・・・ 44%
  鉱工業を衰退させた ・・・・・・ 37%
   公益企業の民営化 ・・・・・・ 31%
                   http://bit.ly/1hptFsU
―――――――――――――――――――――――――――――
 設問1の「1945年以降の最も偉大な首相は誰か」について
の結果はサッチャーが亡くなった直後の調査であることや、チャ
ーチル首相時代のことを知らない世代が増えていることなどを考
えると当然の結果であると思われます。
 興味深いのは設問2の「首相としてのサッチャーをどう評価す
る」の結果です。トップの「良い」の30%に続くのが「ひど過
ぎる」の25%であり、珍しい評価です。サッチャーが一方では
慕われ、他方では嫌われた宰相であったことを示しています。
 設問3の「サッチャーは英国をどのように変えたか」について
は、「好転させた」の48%と「悪化させた」の35%の差が小
さいことにより、見方によって評価が半ばしています。しかし、
「平等にした(25%)」が「不平等にした(49%)」の約半
分に過ぎないことを考えると、「不平等にした」、すなわち格差
が拡大したと考える人が多いことを裏付けています。
 設問4の「首相として実施した最悪の政策とは何か」について
は、3つとも数値が高く、サッチャー首相が断行した小さな政府
をはじめとする規制緩和、市場メカニズム重視などを柱とするフ
リードマン風の経済政策が毀誉褒貶相半ばしていることを示して
いるといえます。
 マーガレット・サッチャーの原点は、その生家の家訓にありま
す。それは「質素倹約」「自己責任・自助努力」の精神であり、
その家訓はサッチャーに色濃く受け継がれているのです。
 サッチャーはオックスフォード大学に進学しますが、化学を専
攻し、研究者の道に進んでいるのです。しかし、大学時代にフリ
ードリヒ・ハイエクの経済学に傾倒していた時期があります。こ
の頃に培われた経済学に対する思想が、首相になってからのサッ
チャリズムの源流になったものと考えられます。
 1950年に保守党から女権拡張を訴えて下院議会議員選に出
馬しますが、落選しています。その翌年結婚し、法律の勉強をは
じめ、1953年には弁護士資格を取得します。そして1959
年に念願の下院議員に初当選するのです。
 1970年にはヒース内閣で教育科学相に就任するのですが、
このとき、教育関連予算の削減に迫られたサッチャーは、それま
で学校給食で無償で出されていた牛乳の廃止を決定したのです。
このため、サッチャーは国民から「ミルク泥棒(ミルク・スナッ
チャー)」と呼ばれるようになるのです。
 1975年に保守党の党首選挙が行われ、そこでエドワード・
ヒースを破ってサッチャーは保守党党首になるのです。そして、
1979年の選挙で、「小さい政府へと政策転換する」、「規制
緩和して経済を活性化させる」などを訴えて選挙に大勝し、首相
に就任するのです。
 マーガレット・サッチャーについては、メリル・ストリーブが
演じてオスカーを取った次の映画が公開されています。
―――――――――――――――――――――――――――――
   映画『マーガレット・サッチャー〜鉄の女の涙』
  The Iron Lady/フィリダ・ロイド監督 2011年
―――――――――――――――――――――――――――――
 サッチャー首相が、どのような考え方で政権を運営したのか興
味があったのでこの映画を見に行ったのですが、私の考えていた
のとは違う手法で映画が作られていたのです。この映画は、サッ
チャーの政策や政治手法のフラッシュバックと、老いて衰えた彼
女の姿を重ね合わせてバランスをとるという珍しいアプローチで
制作されています。
 この映画の冒頭に、引退後のサッチャーがスーパーに牛乳を買
いに行き、普通サイズのボトルを買おうとしますが、値段が高い
ので、小さなサイズにするシーンがあるのです。これは、明らか
にサッチャーが「ミルク・スナッチャー」と呼ばれていたことと
無関係ではないと思います。
 これをもってこの映画は、明らかにアンチ・サッチャー派の人
たちによって制作された作品ではないかという人もいます。いず
れにしても、毀誉褒貶相半ばする英国首相サッチャーを描いた貴
重な作品であり、一見の価値はあると考えます。
               ──[新自由主義の正体/15]

≪画像および関連情報≫
 ●時代を創った女性たち――マーガレット・サッチャー
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「鉄の女」の別名を持つイギリス初の女性首相、マーガレッ
  ト・サッチャー。1925年にイギリスの中産階級家庭・ロ
  バーツ家に生まれ、市議会議員や市長経験もある父の影響を
  受けて育ちます。食料雑貨商を営む父はキリスト教の一派で
  あるメソジストの敬虔な信徒でした。ロバーツ家の家訓は、
  メソジストの教えでもある、“質素倹約・自己責任・自助努
  力”。マーガレットは後に「人間として必要なことはすべて
  父から学んだ」と語っています。マーガレットには、父から
  学んだふたつの生活信条がありました。
   1、何ごとも自分の意思で決めよ。
   2、皆のあとについていくような行動を取るな。
  この信条はマーガレットの後の政治人生における柱となりま
  す。幼いころから優秀だったマーガレットは、名門オックス
  フォード大学で化学を学び、同時期にハイエクの経済学に傾
  倒。卒業後は研究者として就職しアイスクリームなどに空気
  を混ぜる研究を行っていました。大学卒業から3年後の50
  年、保守党から下院議会議員に立候補しますが落選。51年
  にデニズ・サッチャーと結婚し、マーガレット・サッチャー
  となります。息子と娘の双子を授かったサッチャーは、家事
  をこなすかたわら法律の勉強を始め53年には弁護士資格を
  取得しますが、家族を第一に考え、勤める弁護士事務所は自
  宅から通える圏内に絞っていたそうです。その家族愛は政治
  家になってからも変わらず、家族と離れずにすむ距離の選挙
  区からしか立候補しませんでした。 http://bit.ly/1guR3ds
  ―――――――――――――――――――――――――――

マーガレット・サッチャー英国首相.jpg
マーガレット・サッチャー英国首相
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2014年06月02日

●「サッチャーが登場する以前の英国」(EJ第3802号)

 なぜ、サッチャー英国首相は、後に「サッチャリズム」と呼ば
れる改革を断行したのでしょうか。いや、なぜ、改革を断行でき
たのかというべきかもしれません。その改革を断行するためには
いくつかの条件が整う必要があるからです。
 サッチャリズムは、供給サイドを変える改革です。規制緩和を
行い、国営企業を民営化し、法人税を減税する一方で消費税の増
税を実施する改革です。これによって「潜在成長率」を押し上げ
ることを狙っています。
 しかし、供給サイドの改革は、既得権者に「痛み」を強いるの
で、政治的実現性はかなり困難になります。それをサッチャーは
11年半という戦後最長の長期にわたって首相を務めたのです。
そういう意味でサッチャーは偉大であるといえます。
 日本でこの手の改革をやると、既得権者の抵抗が強く、政策が
中途半端になり、強行すると選挙でしっぺ返しを食って、短期政
権で終わってしまうのです。
 そういう意味で小泉政権は例外で、「改革なくして成長なし」
をスローガンにして、需要サイドの政策を置き去りにして、供給
サイドの改革を5年間断行しています。しかし、11年半のサッ
チャーの改革に比べれば半分以下でしかないのです。ここにサッ
チャーの凄さがあります。
 供給サイドの改革を実行するためには、国民の「合意の形成」
が必要になります。新自由主義という言葉は、デヴィット・ハー
ヴェイという英国の地理学者が広めた言葉です。ハーヴェイは、
英国の地理学者で、マルクス主義を地理学に応用した批判的地理
学の第1人者です。ハーヴェイは、新自由主義における「合意の
形成」について自著で次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 新自由主義化はどのようにして、そして誰によって実現された
 のだろうか?1970年代のチリやアルゼンチンのように、そ
 れが急激かつ残酷、着実に進んだ国については容易に答えられ
 る。伝統的な上層階級とアメリカ政府に後押しされた軍事クー
 デターの発生、それに続いて、彼らの権力を脅かしていた労働
 運動と都市の社会運動の内部で形成されたあらゆる紐帯に対す
 る猛烈な弾圧がそれだ。だが1979年以後の、通例サッチャ
 ーとレーガンに帰せられる新自由主義革命は、民主主義的な手
 段によって達成されなければならなかった。この大規模な転換
 を引き起こすためには、選挙に勝利するための、かなり広範囲
 にわたる民衆の政治的な同意を、事前に形成することが必要で
 あった。一般にこの同意の根拠となるのが、アントニオ・グラ
 ムシのいう「常識」(それは「共通に持たれる感覚」と定義さ
 れる)である。──デヴィッド・ハーヴェイ著/監訳/渡辺治
      『新自由主義/その歴史的展開と現在』/作品社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 1960年〜1970年代の英国は「ヨーロッパの病人」と呼
ばれ、労使紛争の多さと経済成長で不振をきわめていたのです。
それを数値で示すと、次のようになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
           1970〜79年 1960〜69年
     GDP成長率    2.4 %     3.2 %
      インフレ率   12.5 %     3.5 %
 経常収支(GDP比)   ▲0.2 %     0.2 %
 財政収支(GDP比)   ▲5.0 %    ▲2.5 %
        失業率    3.3 %     1.5 %
                   ──ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――――
 第2次世界大戦後の1946年に英国で政権を取ったのは、労
働党のアトリー政権です。この政権は「ゆりかごから墓場まで」
と呼ばれる社会保障制度の実現を目指していたのです。つまり、
福祉の充実した国家を目指したのです。
 国民が原則無料で医療を受けることが出来る国民保健サービス
法や国民が老齢年金と失業保険を受け取ることが出来る国民保険
法の制定、1948年には政府が生活困窮者を扶助する国民扶助
法と政府が青少年を保護する児童法を制定したのです。
 1946年〜51年にアトリー政権は、石炭、電力、ガス、鉄
鋼、運輸などの産業を次々と国有化したのです。1951年には
保守党のチャーチルが政権を奪還し、鉄鋼や運輸などの産業を民
営化したものの、1964年に政権は再び労働党に戻り、ウイル
ソン政権は、民営化された鉄鋼や運輸などの産業を再び国有化に
戻しています。
 さらに第2次ウィルソン政権では1975年に自動車産業の国
有化を行い、1977年のキャラハン政権では、航空宇宙産業ま
で国有化してしまうのです。
 こんなことをすれば経済が停滞するのは当然です。これらの国
有化などの産業保護政策は、英国資本による国内製造業への設備
投資を減退させ、資本は海外へ流出し、技術開発に後れを取るよ
うになります。
 国有企業になったことにより、経営改善努力は行われず、製品
の品質は劣化し、国際競争力が失われていったのです。輸出が減
少し、輸入が増加して、国際収支は悪化したのです。
 止めを刺したのは1973年〜74年のオイルショックです。
これによって英国は、経済の停滞と物価の上昇が共存するスタグ
フレーションに陥ったのです。失業率は増大し、原材料費と賃金
の高騰が原因で生産性が低下し、通貨ポンドの価値は下落たので
す。しかし、通貨の価値下落にもかかわらず、国際収支が改善す
ることはなく、国民はやる気を失い、ストライキが連発するよう
になります。
 これらのストによって病院は機能せず、学校は休校になり、公
共サービスが機能不全に陥ったのです、英国民はこの時期の冬の
ことを「不満の冬」と呼んでいます。サッチャーはこういう状況
を背景に登場したです。    ──[新自由主義の正体/16]

≪画像および関連情報≫
 ●大英帝国の落日・英国病/よくわかりたい歴史
  ―――――――――――――――――――――――――――
  イーデンの辞任をうけて、外務大臣だったハロルド・マクミ
  ランが首相となります。マクミランは、イーデンの外交路線
  を引き継ぎ、欧州経済共同体(EEC)に参加を表明。これ
  を拒否されると、欧州自由貿易連合(EFTA)を発足させ
  EECを取り込んでいこうとします。しかし、国内を見れば
  英国経済はどんどん疲弊するばかりでした。福祉国家化した
  英国は、その財源として過剰な累進課税を採用し、労働意欲
  がどんどん失われていきます。そして、ダグラス・ヒューム
  を経て、ハロルド・ウィルソンが首相となります。ウィルソ
  ン政権は、アトリー以来の労働党政権です。英国の疲弊を止
  められない保守党に期待する事を止めた英国国民は、福祉国
  家をよりよく運営できると謳った労働党に政権を与えます。
  ですが、もとはと言えば労働党が敷いたレールを過剰な速度
  で走ったがために疲弊した英国経済は、ブレーキをかける事
  でしか解消できるはずもありません。そして、福祉路線にブ
  レーキをかける事で利益を失う労働組合や貧困層は、労働党
  の選挙基盤でもあります。当然、労働党に改革などできるは
  ずもなく、労働党は政権を失います。しかし、保守党にもど
  うにもできなかったが故にウィルソン政権が誕生したわけで
  すから、その政権が、保守党のエドワード・ヒースに戻った
  ところで、やはりどうにもできません。
                  http://amba.to/1oU0tj7
  ―――――――――――――――――――――――――――

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デヴィッド・ハーヴェイ
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2014年06月03日

●「サッチャーが改革の時を得た理由」(EJ第3803号)

 英国のサッチャー元首相は、数々の特殊な状況のもとで首相に
登り詰めた人といえると思います。昨日のEJで触れたように、
サッチャーが首相になる直前の英国では、経済は「英国病」と呼
ばれるほどひどい状態になっており、英国民は労働党にも保守党
にも失望していたのです。
 サッチャーは1975年に保守党の党首選に出馬するのですが
彼女は、当時の保守党党首であるエドワード・ヒースを退陣させ
るための「あて馬」だったのです。ヒースは傲慢で保守党内部で
も評判が悪かったからです。
 しかし、当時ほとんどの英国民がまさかサッチャーが首相にな
るとは考えていなかったのです。彼女は、いわゆる保守本流では
ないし、政治とは無関係の化学者であり、その出自も「グランサ
ム(英国中東部)の食品店の娘」に過ぎなかったからです。
 しかし、1979年の総選挙はいつもと様相が違っていたので
す。英語人は伝統的に選挙のときは、中道路線を選ぶ傾向がある
のですが、このときは急進派のリーダーを求めたのです。それは
あまりにも経済状況が深刻で、「なんとか世の中を変えてもらい
たい」という雰囲気が英国中に充満していたからです。
 なかでも「公共部門の組合の力を弱めろ」という中産階級の支
持者から明確な委任を受けて、サッチャーはこの選挙で過半数を
はるかに超える議席を獲得して首相に就任したのです。
 サッチャー首相がまず手をつけたのは、インフレの克服です。
そのため、サッチャーは、マネタリズムと厳格な緊縮予算を徹底
させたのです。しかし、金利を引き上げたことにより、失業率は
急増したのです。1979年〜84年の英国の平均失業率は10
%を超えたのです。しかし、逆説的ながら、これが当時の英国の
最大のがんであった組合員の減少につながったといえます。
 さらに、サッチャーは、高額所得者への極端に高い累進課税を
軽減し、実体経済の成長による税収の増加を期待したのです。な
ぜなら、当時は高額所得者までやる気を失っていたからです。し
かし、これらの政策は国民にとって不評で、サッチャー首相の支
持を大幅に減らすことになったのです。あまりにも不公平であり
サッチャーは血も涙もない人間だと罵られたのです。これによっ
て、サッチャーの再選はほぼ絶望視されるようになります。
 そのとき起きたのが「フォークランド戦争」です。この戦争は
日本の尖閣諸島への中国の侵攻になぞらえて考えることができる
ので、その経緯を簡単に述べます。
 フォークランド諸島とは南大西洋上にある英国領の諸島であり
1833年から英国が実効支配を続けて、現在に至っています。
1982年3月19日、アルゼンチン海軍艦艇がフォークランド
諸島のサウス・ジョージア島に2回にわたって寄航し、英国政府
に無断で民間人を同島に上陸させたのです。
 同諸島については、いろいろな争いがあったのですが、英国が
実効支配をしていたのです。おそらくアルゼンチンは英国の力が
衰えたことに加えて、女性の首相に何ができるかと見くびって侵
攻したものと思われます。
 しかし、サッチャーは男性顔負けの勇猛心を発揮したのです。
即日、サッチャー首相は、アルゼンチン政府に対し、民間人の強
制退去を求めたのですが、アルゼンチン政府はもちろん聞き入れ
なかったのです。
 サッチャー首相は原子力潜水艦の派遣を決定するとともに、米
国のレーガン大統領に対し、支援を要請したのです。しかし、そ
のとき、レーガン大統領はアルゼンチンに気を遣ってか、曖昧な
態度を取ったといいます。このさいサッチャー首相はレーガン大
統領に次のように訴えてレーガンを納得させたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 もし、今回のように軍事力で国境を書き換えるということを
 黙認したら、国際社会は混乱に陥る。 ──サッチャー首相
―――――――――――――――――――――――――――――
 4月2日にアルゼンチン正規軍がサウス・ジョージア島に侵攻
し占領しますが、英国海軍が応戦し、上陸して同島を奪還したの
です。しかし、アルゼンチン軍は航空攻撃で英国の艦船を撃沈す
るなど、当初は優位に戦いを進めたものの、英国軍は経験豊富な
陸軍特殊部隊による陸戦や長距離爆撃機による空爆、また同盟国
の米国やECおよびNATO諸国の支援を受けた情報戦を有利に
進め、アルゼンチンの戦力を徐々に削り、6月14日にはアルゼ
ンチン軍を正式に降伏させ、戦闘は終結したのです。
 安倍首相は、サッチャー元首相を尊敬しているといわれます。
同じような新自由主義政策をアベノミクスというかたちで実現さ
せようとしていることや、とくにサッチャーがレーガンを説得し
た言葉は、安倍首相の口癖になった次の言葉にそっくりです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       力による領土の現状変更は許さない
                 ──安倍首相
―――――――――――――――――――――――――――――
 このフォークランド戦争の勝利によってサッチャー政権は人気
を取り戻し、1983年の総選挙で勝利したのです。もし、この
戦争が起きなければ、サッチャーの再選はなかったものと思われ
ます。天はサッチャーに改革のための時を与えたのです。
 もう一つサッチャーにとって幸いだったのは、当時の野党であ
る労働党が選挙で到底勝つ見込みがないほどに左に傾いてしまっ
たことです。そのため、労働党のなかの穏健派が党を見限って離
党し、新党を結成したのです。これによって、反保守票は割れ、
その分サッチャーに有利に働くようになります。
 これは現在の日本の政治状況によく似ています。自民党が圧倒
的に強く、野党は細分化を繰り返し、さらに弱くなってしまって
いるからです。
 このようにして、サッチャー首相は、改革のためにさらに5年
の時間を手に入れたことになります。明日は、サッチャーと労組
の闘争について述べます。   ──[新自由主義の正体/17]

≪画像および関連情報≫
 ●フォークランド戦争/アルゼンチンの侵攻はバレていた
  ―――――――――――――――――――――――――――
  南大西洋・フォークランド諸島にアルゼンチンが侵略し、英
  国が奪還したフォークランド紛争の英公文書が30年ぶりに
  公開された。公開された公文書によると、「鉄の女」と呼ば
  れたサッチャー英首相でさえ、約1週間前にアルゼンチンの
  侵略を抑止する計画を英国防省から提示された際、「アルゼ
  ンチンがそんなバカげていて、愚かな挙に出るだろうか」と
  取り合わなかった。アルゼンチンの侵攻を確信したのは、X
  デー(1982年4月2日)のわずか2日前で、「そのとき
  フォークランド諸島が侵略されたら取り戻すことができるか
  どうか誰も答えることができなかった」とサッチャー首相は
  紛争後に開かれた非公開のフォークランド紛争検証委員会で
  証言していた。あのサッチャー首相も、アルゼンチンのガル
  ティエリ軍事政権がフォークランド侵攻というギャンブルに
  打って出るとは想像もしていなかったことが公文書から浮き
  彫りになっている。英国とアルゼンチンの調停役を務めた米
  国は中立性を保ち、和平交渉を進めようと、英国がフォーク
  ランド諸島を奪還するため、サウスジョージア島に上陸する
  計画を事前にアルゼンチンに伝える考えを英国に打診してい
  た。これに対し、英国は上陸計画をアルゼンチンに事前に漏
  らされたら、英軍に甚大な被害が出ると反対、結局、米国は
  黙っておくことを約束した。さらに衝撃的な事実は、英国が
  少なくない艦船や兵士の犠牲を払って、軍事的勝利をものに
  する2週間前、レーガン米大統領は深夜サッチャー首相に電
  話をかけ、「アルゼンチンを武力で撃退する前に、話し合い
  の用意があることを示すべきだ」と迫っていた。
                   http://bit.ly/1pwyyIx
  ―――――――――――――――――――――――――――

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サッチャーとレーガン
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2014年06月04日

●「サッチャーが断行した4つの政策」(EJ第3804号)

 サッチャーが登場する前の英国では、労働党が天下を取ること
が多かったので、企業の国有化が積極的に進められ、1979年
には、国有企業のみでGDPの約10%を占め、150万人を雇
用していたのです。
 もちろん労働党は企業の国有化に熱心で、保守党はそれに反対
するという対立の構図があったのですが、一部の企業を除く国有
化には、労働党と保守党の対立はあまりなかったのです。
 なぜなら、石炭やガスについては、国有化しなければ倒産しか
ねない状況にあったので、労働党の進める国有化に保守党もあま
り反対はしなかったのです。しかし、鉄鋼については例外であっ
たのです。なぜなら、鉄鋼は利益が上がっており、産業全体に大
きな影響を与える戦略産業だからです。
 しかし、労働党はその鉄鋼も国有化したので、保守党が政権を
取るとそれを再び民営化に戻すという、不毛な繰り返しを続けて
いたのです。
 サッチャー首相の実施した政策は、具体的には、次の4つに集
約されます。これらの政策をよく見ると、労働組合に守られた労
働者層の力を弱め、持ち家などある程度の資力のある中産階級を
育てようとしていることがわかります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.国有企業の民営化、非効率企業への国家援助を中止し、国
   際競争に耐えない企業は市場から退場させる。
 2.最高所得税を83%から40%に減税し、豊かな層の事業
   欲を刺激して、稼ごうとする意欲を刺激する。
 3.慣行にあぐらをかいて働かない労働組合を労働法を改正し
   て活動を制限し、労働者を解雇しやすくする。
 4.労働者に公営住宅を払下げて所有意識を持たせ、民営化す
   るさい株式をもたせ、業績に関心を持たせる。
―――――――――――――――――――――――――――――
 「1」の改革は、国有企業の民営化です。
 サッチャーは公的所有の経済セクターはすべて民営化しようと
考えたのです。国として保護したのは、防衛産業と農業だけであ
り、それまで英国の経済を支えてきた伝統的な製造業に対する配
慮は一切行わなかったのです。
 自由市場政策をとり、民営化することによって、国際競争に勝
てる企業だけが生き残ってくれればよいと考えたからです。こう
いう考え方の下で、ブリティッシュ・エアロスペース、ブリティ
ッシュ・テレコム、ブリティッシュ航空、鉄鋼、電気、ガス、石
油、炭鉱、水道、バス、鉄道、その他無数の小規模な国有企業が
民営化の嵐のなかで、次々と売り飛ばされていったのです。
 しかし、この過激な民営化により、民営化される企業は債務を
削減し、雇用も大幅に削減せざるを得なかったので、当然のこと
ながら、失業率は大幅に向上したのです。
 「2」の改革は、豊かな層への減税です。
 当時の英国の最高所得税は83%であり、それは「ゆりかごか
ら墓場まで」の福祉国家を支えるため必要であったのですが、富
裕層はそれによってやる気を失っていたといえます。
 サッチャーは税制を改正し、最高税率の83%を40%まで下
げる減税を行ったのです。これは、労働者層から激しい非難を浴
びたのですが、これによって富裕層の事業欲を刺激しようとした
のです。これに加えて、国有企業の民営化に当たり、事業を買い
取ったり、投資を促す意図もあったのです。
 「3」の改革は、労働組合力の軽減です。
 当時の最大にして最強の労働組合は、炭鉱労働組合だったので
す。既にエネルギー改革によって、輸入石炭の方が安価になって
いたにもかかわらず、自分たちはイギリス経済全体をも左右でき
る存在であると自負していたのです。
 サッチャーは、炭鉱の大合理化と閉鎖を宣言することによって
炭鉱労働組合のストライキを挑発したのです。その闘争は1年に
及んだのですが、サッチャーは勝利したのです。これによって英
国の労働運動の背骨が砕かれたのです。これについて、ディヴィ
ット・ハーヴェイは次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 炭鉱ストライキは、サッチャーの収めた大勝利の1つとして記
 憶されている。彼女はイギリス最大の労働組合に対峙し、打ち
 負かした。彼らはそれまで、自分たちはイギリス経済全体をも
 左右できると自負していた。そこが問題だった。炭鉱労働者た
 ちは、イギリスの中道的な一般の国民に対して、数十万人の炭
 鉱労働者の側につくか、それとも選挙で選ばれた政府の側につ
 くかの二者択一を迫ったからだ。全国炭鉱労組の指導者、アー
 サー・スカーギルはいっさいの妥協を拒否し、政権を打倒する
 とおおっぴらに語っていた。こうした過激な言動に、労働者階
 級の人々ですら、しぶしぶながらストライキ不支持に回ること
 になった。  ──デヴィッド・ハーヴェイ著/監訳/渡辺治
      『新自由主義/その歴史的展開と現在』/作品社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 この組合潰しともいうべきサッチャーの強硬措置によって、英
国ではわずか10年で相対的に低賃金で、他のヨーロッパ諸国に
比べて労働者が従順な国に変わったのです。サッチャーが退陣す
る時点には、ストライキ件数は以前の10分の1のレベルに落ち
込んだのです。
 「4」の改革は、労働者意識改革です。
 サッチャーは、労働者の意識を改革しようとしたのです。公営
住宅を払下げることによって持ち家を実現させ、民営化する企業
の株式を持たせることで、900万人におよぶ株主を作り出し、
企業の業績に関心を持たせるように仕向けたのです。
 その結果、サッチャーの時代の終わりまでに家屋保有者は大幅
に増加したのです。労働者階級の夢である個人不動産の所有とい
う伝統的理想を果したといえます。サッチャーは中産階級の増加
を狙っていたのです。     ──[新自由主義の正体/18]

≪画像および関連情報≫
 ●イギリス炭坑ストライキ敗北の歴史的意義
  ―――――――――――――――――――――――――――
  イギリスにおいて労働組合衰退の画期と考えられるのが、ス
  トライキ派と反ストライキ派で暴力抗争となり死者も出した
  1984〜85年全国炭坑労働組合(NUM)ストライキの
  決定的敗北である。社会史的にいうとベルリンの壁の崩壊や
  ソ連の崩壊よりも大きな事件だと私は思うのでその意義を検
  討し、長期シリーズで取り上げることとしたい。このストラ
  イキは、1984年3月6日イアン・マクレガー石炭庁総裁
  が1984年中に174抗のうち採算のとれない20抗を閉
  鎖し約2万人の合理化計画案を公表したことが発端であり、
  戦闘的なアーサー・スカーギル委員長のお膝元であるヨーク
  シャ−も不採算で閉鎖の対象となっていた。ストは全国的な
  組合員によるストライキ批准投票──ストに突入すべきか否
  かの郵便による無記名秘密投票もなく、アーサー・スカーギ
  ル全国炭坑労働組合(NUM)委員長のストライキ指令で始
  まったもので違法だった。1984年法で役員承知の違法ス
  トライキは罰金が課せられ、拒否すると法廷侮辱罪により組
  合財産が没収されることとなっていた。一方ノッティンガム
  シャーやレスターシャーの炭坑労働者は炭層の厚い優良炭坑
  だったため、ストライキに反対だった。スカーギルは民主的
  なストライキ批准投票を行おうとする炭坑、反対派の拠点と
  なっている炭坑には、ハエのように移動する遊撃ピケ隊を送
  り込んで脅す得意の戦術をとった──フライングピケットと
  言う。              http://bit.ly/1ol2Rhr
  ―――――――――――――――――――――――――――

サッチャー元英国首相.png
サッチャー元英国首相
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2014年06月05日

●「サッチャーとウインブルドン現象」(EJ第3805号)

 サッチャーが首相に就任したときの英国の経済状況の深刻さを
考えれば、多少の荒療治は必要であったと思います。しかし、聖
域なき自由化の名の下に、英国の伝統的な製造業を壊滅状況に追
い込んでしまったことは、サッチャー以後の英国の経済的発展に
大きな傷跡を残したことは否めないのです。
 英国の製造業生産は、1988年になってやっと1973の水
準を超えたに過ぎないほどサッチャーの改革で縮小したのです。
先進国で16年前と製造業の生産量が変わらない国は英国以外に
はないのです。この英国の製造業の壊滅について、デヴィット・
ハーヴェイは次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 サッチャーは、イギリスを国際競争と外国からの投資にさらす
 ことで組合の力をさらに弱体化させた。国際競争は1980年
 代に多くの伝統的なイギリス産業を破壊した──シェフイール
 ドの鉄鋼業、グラスゴーの造船、これらは数年以内にほぼ消え
 去り、それにともない、組合勢力の大部分も消え去った。サッ
 チャーは自国のイギリス国有自動車産業を強力な組合や強力な
 労働者主義的伝統とともに効果的に破壊した。その代わりに、
 ヨーロッパへの進出を望む日本の自動車企業にイギリスを海外
 拠点として差し出した。日本の自動車工場は郊外に建設され、
 日本型の労使慣行に従いそうな非組合員の労働者が雇われた。
        ──デヴィッド・ハーヴェイ著/監訳/渡辺治
      『新自由主義/その歴史的展開と現在』/作品社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 サッチャーは外資を呼び込むために必要なことはすべて行って
います。そのために一番重要なことは労働組合の力を弱めること
だったのです。組合が弱体化しないと、外国資本が英国に入って
こないからです。なお、以下の記述は、ネット上に「サッチャー
の政策」というタイトルでアップされている岩崎新哉氏の論文を
参考にさせていただいています。
 この組合潰しの結果、1971年〜1991年の20年間で、
英国の製造業の国内シェアは次のように激減したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
            1791年  1991年
     工作機メーカー  70%    40%
     靴        69%    30%
     衣服       79%    56%
     洗濯機      82%    49%
     ──岩崎新哉著「サッチャーの政策」より
              http://bit.ly/1gXuP43
―――――――――――――――――――――――――――――
 サッチャーの英国が、それこそ岩盤規制を打ち崩して外資の受
け入れの体制を整備した結果、英国をヨーロッパ進出の基地にし
たい日本をはじめとする多国籍企業が、続々と英国に進出したの
です。その結果どうなったかというと、外国企業は英国の製造業
の25%、資本支出の30%、輸出の40%を占め、乗用車やテ
レビやバイク、半導体などにいたっては、100%外国企業が占
有することになったのです。
 これを「ウィンブルドン現象」というのです。語源はテニスの
ウィンブルドン選手権です。伝統あるこの選手権では世界中から
参加者が集まるため、強豪が競い、開催地の英国の選手が勝ち上
がれなくなってしまい、このところ外国人の選手ばかりが優勝し
ていたのです。だが、2013年に変化が起きています。
 市場経済において自由競争が進んだため、市場そのものは隆盛
を続ける一方で、本来その場にいて「地元の利を得られるはずの
者」が敗北したりして退出し、あるいは買収されてしまう──ま
さにサッチャー時代の英国がそうであり、このような現象をウィ
ンブルドン現象と呼んでいるのです。
 サッチャーが改革を加速させたのは1984年からです。既に
述べたように、最初の4年間のサッチャー政権の評判は最悪で、
83年の選挙では再選は無理と考えられていたからです。だが、
フォークランド戦争が起き、サッチャー政権がアルゼンチンに勝
利したことによってサッチャーに「風」が吹き始めたのです。
 余談ですが、日本ではこの戦争を「フォークランド紛争」と呼
んでいますが、英語圏では「戦争」といっているのです。紛争と
いうと、小さな島をめぐる争いというレベルをイメージしますが
実際にそこで行われたことは戦争そのものです。英国の軍艦も沈
められているのです。そのためEJでは「フォークランド戦争」
と表記しています。
 サッチャーはいわゆる「民営化」を進めたのですが、民営化に
は次の3つがあります。
―――――――――――――――――――――――――――――
          1.非国有化
          2. 自由化
          3. 請負制
―――――――――――――――――――――――――――――
 「非国有化」というのは、これまで政府が保有してきた資産や
株式を売却することです。「自由化」とは、これまで国有企業に
限定されていた部門に私企業の参入を認め、競争させるこをいい
ます。「請負制」とは、本来国がやるべき公共的サービス部門を
民間企業に請け負わせるものをいうのです。
 サッチャーが実施したのは「非国有化」なのです。「自由化」
については、バス、郵便、通信について行っただけであり、「請
負制」は、ナショナル・ヘルス・サービスのみで、清掃、給食、
洗濯が実施されています。
 これらの公約は、1979年の選挙ではあまり強調されておら
ず、国民としては「騙された」と感じた人も少なくはなかったと
思われます。しかし、フォークランド戦争で勝ったサッチャー政
権は英国を救うという意味で国民から信任が与えられたかたちに
なったのです。        ──[新自由主義の正体/19]

≪画像および関連情報≫
 ●ウィンブルドン現象は終わりか/2013年英国選手優勝!
  ―――――――――――――――――――――――――――
  2013年7月7日行われたテニスのウィンブルドン選手権
  男子シングルス決勝で、昨年準優勝で第2シードのアンディ
  ・マリー(英国)が第1シードのノバク・ジョコビッチ(セ
  ルビア)を6−4、7−5、6−4で破り、初優勝した。国
  史上唯一にして最高の選手はフレッド・ペリーであろう。ペ
  リーは1930年代にウィンブルドン3連覇を含めグランド
  スラム8大会で優勝。全てのグランドスラムで優勝を経験す
  るいわゆる生涯グランドスラムの史上初の達成者。1936
  年のフレッド・ペリー(英)が優勝して以来、76年間その
  優勝を外国人選手に譲っている。地元の選手がさっぱり勝て
  なくなった自国のテニス大会になぞらえて、「ウィンブルド
  ン現象」という経済用語まで生まれた。「日本出身力士」の
  優勝といえば、平成18年初場所の大関栃東まで遡らなくて
  はならない。日本人の横綱昇進に至っては、若乃花以来15
  年以上も途絶えている。市場経済において自由競争が進んだ
  ため、市場そのものは隆盛を続ける一方で、元々その場にい
  て「本来は地元の利を得られるはずの者」が敗れ、退出する
  あるいは買収されること。しかし、終わりを迎えた・・!?
  昨年の同大会で英国人選手アンディ・マリーが見せた活躍ぶ
  りをみると別の用語を考え出さなければならないだろう。
                   http://bit.ly/1krFaVi
  ―――――――――――――――――――――――――――

英国アンディ・マリー選手.jpg
英国アンディ・マリー選手
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2014年06月06日

●「労働党の牙城であるGLCの廃止」(EJ第3806号)

 1983年の総選挙で勝利したサッチャー首相は、自信を持っ
て国有企業の売却を始めたのです。その結果、その売却代金は、
1983年当時の約5億ポンドから、1987年には50億ポン
ドに倍増しているのです。
 サッチャーの民営化は「非国有化」──これまで政府が保有し
てきた資産や株式を売却すること──が中心であり、それには次
の3つの狙いがあったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.民営化によって企業に効率的運営を求め、新規企業を参入
   させて競争を拡大し、自由な企業活動を行わせる。
 2.民営化によって労働組合の力を低下させることに加え、従
   業員を株主にし、大衆参加の資本主義を行わせる。
 3.民営化によって政府収入の増大と国有企業などの補助金を
   なくし、自助を提唱して福祉費の削減を実現する。
―――――――――――――――――――――――――――――
 これ以外にもうひとつ大きな問題があったのです。それは、地
方自治体の労働組合と一体になった抵抗闘争との戦いです。サッ
チャーは、これまで中央政府が自治体に対して給付していた補助
金を容赦なく削減したのです。
 これに抵抗していくつかの自治体は「財産税」を引き上げて抵
抗してきたのです。「財産税」というのは、日本の固定資産税の
ように、所有しているだけで一定の利益を生む資産──主として
不動産にかけられる税金です。これは、英国の地方自治体の中心
的な財源のひとつになっています。
 これに対してサッチャーは、財産税を引き上げる権限を自治体
から剥奪したのです。そして、自治体財政の改革を行うことを前
提にして、「人頭税」を1990年に導入したのです。人頭税は
納税能力に関係なく、すべての国民1人につき、一定額を課す税
金であり、きわめて評判の悪いものだったのです。
 さすがにこの人頭税の導入は評判は悪く、サッチャー退陣の引
き金を引くことになります。そして、サッチャーは、1990年
11月22日に辞任したのですが、人頭税は1993年に廃止さ
れています。
 実は、サッチャーは、地方自治体の改革に関して、もうひとつ
大ナタを振るっているのです。それは、大ロンドン市議会の廃止
です。これについては、少し説明が必要です。
 「大ロンドン」という言葉があります。これとロンドン市とは
どう違うのでしょうか。
 「大ロンドン」とは、グレーター・ロンドンを訳したもので、
日本人の感覚でいうロンドン市のことです。グレーター・ロンド
ンはそれを含む次の2つの特別区の総称なのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1.            シティ・オブ・ロンドン
   2.シティ・オブ・ウェストミンスター+31の特別区
―――――――――――――――――――――――――――――
 このグレーター・ロンドンは地方自治体であり、議会があるの
です。1965年に設立され、「グレーター・ロンドン・カウン
シル/GLC(大ロンドン市議会)」と呼ばれています。
 1965年以前は、ロンドン市議会があって、その管轄地域は
ロンドンの中心部だけだったのです。この市議会は伝統的に労働
党が圧倒的に強かったのです。1950年代に保守党は、ロンド
ン全体を管轄する案を提案し、1957年に検討委員会が設立さ
れています。
 そして1960年に52のロンドン行政区を設立し、市議会を
公共交通、道路、住宅供給、地域再生に限定する自治体を作る案
が検討され、最終的に行政区を32にすることが決定されたので
す。このようにして、1965年に「グレーター・ロンドン・カ
ウンシル(大ロンドン市議会)」が設立されたのです。
 つまり、ロンドンには32の自治体があり、その上にGLCが
あるという二層構造になっているのです。したがって、GLCは
東京都庁のような存在ではないのです。それにしてもこれは明ら
かに二重行政そのものです。
 当時GLCは労働党が支配しており、そのリーダーのケン・リ
ビングトンは、節約を迫るサッチャー政権を無視し、地下鉄やバ
ス運賃の大幅値下げをし、その財源として地方税を引き上げて対
応したのです。
 これに対してサッチャー首相は、いうことを聞かない労働党の
ケン・リビングトンに激怒し、「英国がこんな厳しいときに、二
層制の自治体を維持する必要はもはやない」と宣言したのです。
しかし、労働党は、いかにサッチャーでもGLCは廃止できない
だろうと、たかをくくっていたのです。
 しかし、サッチャーはGLCの廃止を公約に掲げて1987年
の総選挙を戦い、3度目の勝利を勝ち取ると、GLCを他の6つ
の大都市圏の県庁とともに廃止したのです。自治体を廃止してし
まうのですから、英国の首相は凄い権限の持ち主です。
 日本では、日本国憲法第8章で「地方自治」について規定され
ており、憲法を改正しない限り、首相の権限では自治体を廃止で
きないのです。しかし、英国は慣習法の国であって、憲法がない
ので、サッチャーがやったように、それを公約に掲げて選挙を戦
い、勝利すれば自治体の廃止をすることができるのです。英国の
首相の権限恐るべしです。
 それから10年後の1997年、労働党のトニー・ブレアがG
LCに代わる「大ロンドン庁(GLA)」を公約に掲げて選挙に
勝利し、18年ぶりに労働党は政権の座に返り咲いたのです。ブ
レア首相は住民投票を行い、72%の賛成を得て、2000年に
大ロンドン庁(GLA)を発足させています。
 しかし、GLCが2万人以上の職員を抱えていたのに対し、G
LAは500人程度の職員しかいないそうです。なお、旧GLC
の庁舎は、現在は水族館になっているそうです。
               ──[新自由主義の正体/20]

≪画像および関連情報≫
 ●グレーター・ロンドン・オーソリティ/GLA
  ―――――――――――――――――――――――――――
  それにしても21000人体制のGLCをいったん無くして
  しまう英国には度肝を抜かれます(いい加減なだけ?)。現
  在、日本では市町村合併を進め、将来的には県庁をなくして
  権限を市町村に移し、広域地方政府(四国州庁)を樹立する
  といった構想もあがっています。その際、ロンドン自治体の
  変遷は参考になるかもしれませんが、なかなか日本ではうま
  くいかないかもしれません。日本は英国と違い終身雇用制な
  ので県職員のいったん解雇、市町村役場又は州政府への移行
  はスムーズにいかないでしょうし、労働組合も猛烈に反発す
  るでしょう。英国にきて日本的雇用慣行のすばらしさを実感
  していますが、このような体制変革をする際には障害になり
  ます。明治維新・敗戦のような革命的事変が起こらないと地
  方レベルでも劇的な変化を起こしにくいと思います。一方、
  英国人は職場を移り変わっていくのが普通なので、体制変革
  の機動性にマッチしています。また、もう一つの現象として
  イングランドの都市部では一層制自治体への移行が進みまし
  たが、田舎の地域を中心に激しい中央政府への抵抗が起こり
  一層制自治体が受け入れられず二層制自治体がそのまま存続
  しています。高知のような小規模市町村が多くある地域では
  行政効率上現在よりもさらに極端な市町村合併をしないと一
  層制は不向きかもしれません。   http://bit.ly/1oRhJYL
  ―――――――――――――――――――――――――――

GLA庁舎.jpg
GLA庁舎
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2014年06月09日

●「シティ・オブ・ロンドンの大改革」(EJ第3807号)

 サッチャーの新自由主義的改革でもうひとつ忘れてはならない
ものがあります。それは、グローバル金融の中心地であるシティ
・オブ・ロンドンの改革──ザ・ビック・バンです。
 地理的にいうと、シティはテムズ川左岸のウォータールー橋と
ロンドン橋を東西の両端とする約2キロ平方メートルの地区で、
別名スクエアマイルとも呼ばれているのです。
 2008年のデータですが、シティは、国際的な株式取引の半
分、店頭デリバティブ取引の45%、ユーロ債取引の70%、国
際通貨取引の35%、国際的な新規株式公開の55%を占めてい
るのです。こんな猫の額のような小さな街がグローバル金融のハ
ブとして君臨しているのです。
 しかし、このシティの隆盛はサッチャーによるビック・バンの
おかげなのです。サッチャーは政権基盤が安定するまで、2期目
に入るまで慎重に改革に着手するのを待ったのです。サッチャー
が改革に着手する直前の1985年のロンドン証券取引所の売買
高は、ニューヨークの13分の1、東京の5分の1にまで落ち込
むという惨憺たる状況だったのです。
 このようにロンドン証券取引所の競争力を下げていた原因は、
次の3つの古色蒼然たる制度です。
―――――――――――――――――――――――――――――
          1. 固定手数料
          2.単一資格制度
          3.  出資規制
―――――――――――――――――――――――――――――
 原因の「1」は「固定手数料」です。
 ロンドン証券取引所は、最低手数料を業者間で固定しており、
さらに高率の印紙税を取引ごとに課していたのです。そのため取
引コストが高くなり、競争力を失っていたのです。米国では19
75年に株式委託手数料が自由化され、それによって金融機関の
再編機運が盛り上がっていたのですが、英国では固定手数料のま
まだったのです。
 原因の「2」は「単一資格制度」です。
 証券売買に従事する取引所会員には、次の2つの資格が必要に
なりますが、英国ではその兼業が認められていなかったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     1.委託販売業務 ・・・ ブローカー
     2.自己売買業務 ・・・  ジョバー
―――――――――――――――――――――――――――――
 「委託販売業務」とは、投資家から注文を受けて委託売買を行
う業務で、これを行う者は「ブローカー」と呼ばれます。これに
対して「自己売買業務」とは、ブローカーに対して値付けを行う
自己売買の業務で、これを行う者は「ジョバー」というのです。
これら2つの業務を合わせて有しているのが証券会社です。
 しかし、英国では、1908年以来、ブローカーとジョバーの
職能を分離する単一資格制度をとってきたのです。つまり、英国
では、当時の米国や日本で1つの証券会社が行っていた業務に垣
根が設けられていたのです。これが単一資格制度です。
 原因の「3」は「出資規制」です。
 「出資規制」とは、取引所会員への外部資本の参加に制限を設
ける制度のことです。外国金融機関などからの新規参入も実質的
に制限されていたのです。つまり、既存の取引業者(既得権者)
が手厚く保護されていたのです。
 その結果、当時のロンドン証券取引所では、少数業者による独
占取引によって価格競争力が失われたり、過小資本の取引所会員
が温存されていたのです。
 サッチャーは、ロンドン証券取引所とその会員によるカルテル
的慣行を解体する必要があると考えたのです。例えば、英国債取
引の取次ぎに従事する会員は7社に限られ、しかもこのうちの2
社で90%の取引を独占しており、こうしたカルテルの存在が、
政府の国債発行コストを高止まりさせていたわけです。
 1986年にサッチャーが満を持して断行したビック・バンは
次の3つの改革です。
―――――――――――――――――――――――――――――
      1.固定手数料と単一資格制度の廃止
      2.証券取引所会員への出資規制撤廃
      3.新制度と新システム導入で近代化
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1は「固定手数料と単一資格制度の廃止」です。
 単一資格制の廃止によってブローカーとジョバーの垣根がなく
なり、非効率性を生み出していた原因が取り除かれたのです。さ
らに、株式や債券の最低手数料制は撤廃され、完全自由化された
ことにより、競争原理が導入され、平均手数料に印紙税コストを
含む総取引コストは1.8 %から1.0 %に低下したのです。
 第2は「証券取引所会員への出資規制撤廃」です。
 この出資規制の撤廃によって、外資系や他業態の金融機関が既
存の取引所会員への資本参加というかたちで証券業務に参加する
ことができるようになったのです。
 その結果、株式取引のジョバー大手全13社とブローカー大手
20社中19社があっという間に国内外の金融機関によって吸収
合併され、それまで伝統的に棲み分けがなされていた証券業と銀
行業の垣根は崩れ去ってしまったのです。
 第3は「新制度と新システム導入で近代化」です。
 マーケットメーカー制が導入され、マーケットメーカーが値付
けと取引の執行ができるようになり、大口取引の流動性が増加し
たのです。それに加えて、近代的なコンピュータシステムが導入
され、ロンドン市場が先進的な機関投資家のニーズに対応できる
ようになったのです。
 サッチャーとしては、シティが発展できれば、プレーヤーが国
内勢でも外国勢でも一向に気にしないという考え方で、シティの
改革を成功させたのです。   ──[新自由主義の正体/21]

≪画像および関連情報≫
 ●水鏡先生の世の中絵巻物/サッチャー登場
  ―――――――――――――――――――――――――――
  水鏡先生:サッチャーが行った金融部門の規制改革は、別名
  「金融ビックバン」と呼ばれ、その後世界の金融市場のグロ
  ーバル化に拍車をかけたんじゃよ。国際金融市場としてロン
  ドンのシティは有名だが、サッチャーが登場するまで足元の
  英国国内金融市場は金融業界内での競争を制限する慣行があ
  り、古い体質を持っていたんじゃ。その結果、英国企業の株
  式が古い体質を持つ英国から離れ、米国市場で流通するとい
  う事態に陥り、国際金融市場であるシティを持つ英国政府は
  大きな危機感を抱いたんだ。そこで、サッチャーの第2期政
  権時の1986年10月にシティの証券市場の大改革、ビッ
  クバンがスタートさせたんだよ。
  弟子 A:ビックバンとは、宇宙の創設期、星が誕生する状
  態のことを云うんじゃなかったですか?宇宙が創設された時
  期はいろいろな物質が飛び交い、衝突し、混ざり合っていた
  ということですよね。それらの物質が徐々に冷えてきて、そ
  して光を出し始める、すなわち星が誕生するというというお
  話しですよね。「金融ビックバン」といわれるのはサッチャ
  ーさんが行ったシティの規制緩和で、古い体質で守られてい
  た英国の金融機関に対して外国の資本が参加し、両者が衝突
  し、混ざり合って制度改革が進展したということで、宇宙の
  星の誕生過程に例えられたのでしょうね。
                   http://bit.ly/1ouj31U
  ―――――――――――――――――――――――――――

シティ・オブ・ロンドン.jpg
シティ・オブ・ロンドン
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2014年06月10日

●「レーガン元大統領の政治キャリア」(EJ第3808号)

 6回にわたって、マーガレット・サッチャー元英国首相の英国
改革について述べてきましたが、そのサッチャーよりも1年遅れ
て米国大統領に就任したのが、ロナルド・レーガンです。
 ロナルド・レーガンというと、米国の高名な映画俳優としての
イメージが強く、政治や経済のことがどれほどわかる人物なのか
について疑問を持つ人も多いと思います。しかし、彼の米国の改
革は「レーガノミックス」の名前とともに残っており、経済改革
の代名詞になっているのです。「アベノミクス」もこれから採ら
れています。
 レーガンは徹底的な反共主義者です。当初レーガンはフランク
リン・ルーズベルトと彼のニューディール政策を支持し、リベラ
ル派としてキャリアをはじめたのですが、後に保守主義者に転向
しています。
 レーガンは映画俳優組合委員長(SAG)を務めたことがあり
ますが、そのとき、上院議員のジョセフ・マッカーシーやリチャ
ード・ニクソンらのいわゆる「ハリウッドの赤狩り」にも協力し
ています。これほどまでに彼は徹底的な反共主義者なのです。
 この反共主義の姿勢が買われたのか、レーガンは政府と取引が
多いGEの「ゼネラル・エレクトニック・シアター」の司会を任
されるようになるのです。約8年間にわたって、レーガンはこの
仕事を続けますが、それによってレーガンの顔や名前はもちろん
のこと、その思想や考え方などを全米中に知らしめるのに大いに
役立ったのです。
 1964年の大統領選挙では、レーガンは「小さな政府」を唱
えるバリー・ゴールドウォーター上院議員を熱烈に支持し、その
後、その立場からテネシー川流域開発公社に反対したのです。し
かし、それが原因でレーガンは「ゼネラル・エレクトニック・シ
アター」の司会を外されてしまうのです。なぜなら、GEは、テ
ネシー川流域開発公社にタービンを納めていたからです。
 このことがきっかけになってレーガンは、政治家の道を目指す
ことを決意し、カルフォルニア州知事選に出馬し、1967年1
月にカルフォルニア州知事に就任します。このカルフォルニア州
知事時代の政策にレーガンの自由主義者としての特色がよくあら
われているのです。例えば、次のような逸話があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 州議会を「バイクに乗る際、ヘルメットの着用を義務付ける」
 という法案が通過した際、レーガンは州知事権限でこれを取り
 消した。その理由は「バイクに乗る者は、バイクに乗るという
 行為がどれだけ危険かわかって乗っているはずだ。ならば、ヘ
 ルメットの着用などということは個人に任せるべきであって、
 それに州政府が関与する必要はない」というものだった。ちな
 みに、カリフォルニア州では1992年にヘルメット着用が義
 務化されている。また、当時激戦を極めていたベトナム戦争に
 関して「ベトナムを焼き払って駐車場にすればいい」と発言し
 て批判を浴びたこともある。      ──ウィキペディア
                   http://bit.ly/1tVa4X3
―――――――――――――――――――――――――――――
 この逸話を知ると、レーガンが大統領として新自由主義的政策
を採用した理由がよくわかると思います。FRB議長や経済顧問
などの専門家の進言でそういう政策を採用したのではなく、自分
の意思でそれを実施しているのです。
 それにレーガンは、カルフォルニア州知事に就任したときから
大統領を狙っていたと思われます。その証拠にレーガンは、3回
大統領選に挑戦しているのです。一度の挑戦で大統領選に勝利し
たのではないのです。しかし、このことを知っている人は案外少
ないのではないでしょうか。レーガンほどの知名度がある人気俳
優であり、人気知事であれば何回も挑戦しているとは考えにくい
からです。
 最初の挑戦は1968年です。共和党の指名を受けるべく出馬
したのですが、同じカルフォルニア州を地元とするニクソン副大
統領に予備選の段階で敗れたのです。
 2回目の挑戦は1976年です。このときは現職のフォード大
統領と接戦を演じたのですが、夏の全国共和党大会の代議員選挙
で、次の結果で惜敗しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
    フォード/1187票 レーガン/1070票
―――――――――――――――――――――――――――――
 3回目の挑戦は1980年です。相手は民主党の現職大統領の
ジミー・カーターです。レーガンはこの3度目の挑戦でカーター
大統領を破り、第40代大統領に就任したのです。多くのマスコ
ミは、このレーガンの勝利を、カーター政権下で起きたイランア
メリカ大使館人質事件へのカーター大統領の優柔不断さを批判す
るものであると報道しています。確かにこのとき、民主党員まで
もが現職のカーター大統領を見限って大勢の人がレーガンに投票
し、圧勝したのです。ちなみにレーガンの運の強さは、イランの
アメリカ大使館人質事件で人質となった大使館員らが、444日
間ぶりに解放されたのがレーガンが大統領に就任したその日だっ
たことでも示されています。
 しかし、レーガンは、大統領に就任した同じ年の3月30日に
ジョン・ヒンクリーなる人物にピストルで暗殺されそうになった
のです。レーガンは左胸部に被弾したのですが、ジョージ・ワシ
ントン大学病院で緊急手術を受け、一命を取り止めています。重
傷を負っていたにもかかわらず、レーガンの意識ははっきりして
おり、自らの胸から弾丸を取り除く手術の前には執刀外科医に対
し、「あなた方がみな共和党だといいんだがね」とジョークを飛
ばす余裕さえ見せたといいます。このときの様子は事件後公表さ
れ、「危機の際にもユーモアを忘れない」という、指導者のある
べき姿を体現したものとして称賛の対象になったのです。なお、
暗殺は政治的なものではなく、犯人はカーターのときから大統領
暗殺を計画していたのです。  ──[新自由主義の正体/22]

≪画像および関連情報≫
 ●レーガン大統領と日本の修身/小池松次氏
  ―――――――――――――――――――――――――――
  レーガン大統領は就任すると直ちに道徳教育の復興に乗り出
  しました。当時のアメリカの青・少年の風紀は最悪で、暴力
  や麻薬の蔓延で荒廃の極に達していました。その原因は皮肉
  なことに、最高裁判所が「生徒規則や学校規則で生徒の自由
  を束縛してはならない」と決めたことでした。自由奔放で、
  やりたい放題で、規律や道徳教育不在では、まともな人物は
  育ちません。学校教育は成り立ちません。「アメリカは滅ぼ
  される」とレーガン政権は真剣に対策を検討しました。では
  一体、誰がアメリカを滅ぼすのでしょうか。敵軍ではありま
  せん。それは不良集団と化したアメリカの青少年達でした。
  その道徳教育改革のメンバーの一人が文部長官(日本の文部
  大臣に該当)を務めたW・ベネット氏です。彼は退任直後、
  レーガン政権の道徳教育の担当者としての知識を「The Book
   of Virtues」 (道徳読本)という名の本にして出版しまし
  た。1993年(平成5年)のことです。この830頁もあ
  る大著が「第二の聖書」と言われるほど毎年ベストセラーに
  なったそうです。「そうです」とは当時筆者は「道徳読本」
  の存在を全く知らなかったからです。一方、日本では、昭和
  45年5月(1970年)に筆者が「これが修身だ」という
  本を出版しました。内容は明治37年から昭和20年(19
  04〜1945年)までの修身と国語の国定教科書の中から
  現代でも立派に通用する話を92篇選び出し、それを22の
  徳目に配分したものです。     http://bit.ly/1tVnDWt
  ―――――――――――――――――――――――――――

ロナルド・レーガン元米国大統領.jpg
ロナルド・レーガン元米国大統領
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2014年06月11日

●「レーガンの掲げた4つの経済政策」(EJ第3809号)

 レーガンが大統領に就任した1981年の米国経済は大恐慌以
来の最悪の経済混乱期──スタグフレーションの状態にあったの
です。インフレ率は12%、失業率は7.5 %であり、レーガン
としてはこのスタグフレーションの回復が急務だったのです。
 ところで、スタグフレーションとは何でしょうか。
 スタグフレーションは、次の2つの言葉の合成語であり、経済
活動の停滞(不況)と物価の持続的な上昇が共存する状態のこと
をいうのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  stagflation(スタグフレーション)=
  stagnation(停滞)プラスinflation(インフレーション)
―――――――――――――――――――――――――――――
 レーガンは、イランのアメリカ大使館人質事件もあったことか
ら、どうしても「強いアメリカ」の再建を図りたかったのです。
そのためには経済を回復させる必要があり、就任直後の1981
年2月18日に議会で、「経済再建プログラム」を発表したので
す。この経済再建プログラムには、次の4つの柱があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
      1.     財政支出の大幅削減
      2.            減税
      3.          規制緩和
      4.マネーサプライのコントロール
―――――――――――――――――――――――――――――
 レーガンは「1」の「財政支出の大幅削減」を打ち出し、小さ
な政府を実現しようとしたのですが、その一方で、「強いアメリ
カ」を作るために軍事費を増強させているのです。これでは、小
さい政府にはならず、大きい政府の継続です。
 レーガンは大統領選で「強いアメリカ」を訴えるとともに所得
補償制度など、さまざまな公約を掲げて勝利しているのです。も
し、その公約を実現しようとすると、連邦予算の60%が必要で
あり、それに加えて発行国債の利払費が10%必要であったので
計算上は、残りのすべての支出項目を30%に納めなければなら
なかったのです。
 このような連邦予算の状況では、軍事費を増強させることなど
ほとんど不可能であり、経済という面から考えれば、軍事費こそ
削減すべき対象であったのです。しかし、レーガンはそれを強行
したのです。その結果、福祉予算は大幅に削減されることになっ
たのです。これは、これまでの福祉国家への流れと決別すること
を意味していたのです。
 「2」の「減税」は、レーガノミックスの特徴的な政策になり
ます。この減税は供給サイドを強化するために必要であるという
ことから断行されたのです。
 カーター政権までは、個人所得税率は「14%〜70%」であ
り、法人税の最高税率は46%であったのです。レーガンは毎年
10%ずつ3年で30%の税率引き下げを行うと宣言し、最高税
率の70%を50%に引き下げ、「10%〜50%」にしている
のです。1985年からの第2期政権では最高税率を28%まで
下げています。
 法人税の最高税率は、カーター政権では46%でしたが、それ
を34%に引き下げ、さらに減価償却期間の短縮化などで、企業
に対しては、実質的には大幅な減税を実施しているのです。
 「3」の規制緩和に関しては、カーター政権が熱心に取り組ん
でおり、レーガン政権では、その実施件数においてカーター政権
のそれを下回っており、レーガン政権の規制緩和の実績は不十分
なものに終わっているのです。
 米国経済に対する連邦規制は、保健、安全、環境、エネルギー
などの多方面にわたっており、年々増加する傾向にあったといい
ます。規制の増加とともに規制機関が増加し、その運営コストは
馬鹿にならないものになっていたのです。
 これらの規制強化は、インフレの増大と生産性の上昇鈍化を引
き起こしており、大幅なコスト削減と自由化の促進を図るために
諸規制の見直しが急務になっていたのです。
 「4」の「マネーサプライのコントロール」についてレーガン
政権は、はじめてマネタリズムを採用しています。ニクソン政権
からカーター政権までは、マネーサプライは上昇を続け、インフ
レは進行し、ドルは下落を続けたのです。
 レーガン政権では、インフレの抑制と総需要の伸びの安定化を
図るため、政策としてマネーサプライのコントロールに取り組ん
だのです。実際にこれを担ったのは、当時のヴォルカーFRB議
長ですが、結果として1887年に過去20年間で最低のインフ
レ率を記録してインフレ抑制には成功しています。しかし、マネ
ーサプライのコントロールには失敗しているのです。
 このヴォルカー議長とレーガン大統領について、若田部昌澄早
稲田大学政治経済学部教授は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 当時の米大統領ロナルド・レーガンはヴォルカーに対してまっ
 たくといってよいほど具体的な経済政策を指示しなかったとい
 う。だが、ヴォルカーによる大インフレの鎮圧(ヴォルカー・
 ディスインフレーション)は失業率の急騰を招き,1981〜
 83年には10%台でこう着した。レーガンの支持率は急落し
 (1981年5月の65%から1983年1月には35%に)
 議会および政権内部ではヴォルカーへの不満が高まっていた。
 それにもかかわらず、レーガンはヴォルカー支持を変えなかっ
 た。その理由として、ロバート・サミュエルソン(コラムニス
 ト)は,レーガンが「ミルトン・フリードマンのような人物に
 影響をうけ、インフレは貨幣的現象であることを理解していた
 から」だという。     ──若田部昌澄著「歴史としての
       ミルトンフリードマン」 http://bit.ly/1kc20fb
―――――――――――――――――――――――――――――
               ──[新自由主義の正体/23]

≪画像および関連情報≫
 ●レーガン規制緩和の実態/経済コラムマガジン
  ―――――――――――――――――――――――――――
  筆者は、時々経済に関するセミナーに参加することがある。
  20人から30人くらいの人々が集まり、まず講師の話があ
  り(稀には筆者も講師の立場に立つことがある)、その後参
  加者も意見を述べるといったパターンである。ところでこの
  ようなセミナーの参加者の中にテーマに関係なく、必ず「日
  本経済の再生には、規制緩和が必要である」「徹底した規制
  緩和を行なう」と立上がって発言する者がいる。まるで秘密
  結社の一員みたいな人たちである。だいたいは、若くエリー
  ト然としたサラリーマンである。彼等は自信たっぷりに自己
  の主張を行なう。ただ主張は「規制緩和」と「徹底した規制
  緩和」の二種類しかない。具体的な規制緩和の内容とか、規
  制緩和によってどの程度の経済成長が見込めるといった具体
  的な話は一切しない。筆者が参加した何ヶ月前のセミナーで
  も、典型的な金融関係のエリートサラリーマンが突然立上が
  り、「私はレーガン大統領の規制緩和政策によって、米国経
  済が再生するのをこの眼ではっきり見てきた。日本経済が再
  生するには、徹底した規制緩和が必要である。」と主張して
  いた。しかし例のごとくレーガンの規制緩和の具体的な話は
  全くしない。日本についても何の規制緩和が必要なのか一切
  言わない。しかし彼等にとって残念であるが、現実はレーガ
  ンの経済政策、つまりレーガノミックスは完全に失敗したと
  いうのが当時の世間の定着した評価である。
                   http://bit.ly/1ntD6MM
  ―――――――――――――――――――――――――――

ポール・ヴォルカー元FRB議長.jpg
ポール・ヴォルカー元FRB議長
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2014年06月12日

●「減税するとなぜ税収が増えるのか」(EJ第3810号)

 ロナルド・レーガンの経済政策は、明らかにミルトン・フリー
ドマンが主張する政策を下敷きにしています。ところでレーガン
とフリードマンはどこで出会ったのでしょうか。
 その接点は明確ではないのですが、レーガンにスカウトされた
という説もあります。昨日のEJでご紹介した若田部昌澄教授は
次のように2人の関係を指摘しています。再現します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ロバート・サミュエルソン(コラムニスト)は,レーガンが、
 「ミルトン・フリードマンのような人物に影響をうけ、インフ
 レは貨幣的現象であることを理解していたから」だという。
              ──若田部昌澄著「歴史としての
       ミルトンフリードマン」 http://bit.ly/1kc20fb
―――――――――――――――――――――――――――――
 アーノルド・シュワルツネッガー元カルフォルニア州知事は既
に述べているように、フリードマンの信奉者であり、カルフォル
ニア州知事の先輩であるレーガンも、もしかしたら、知事時代に
会っていたのかもしれません。
 なお、レーガンは、大統領時代の1988年にフリードマンに
アメリカ国家科学賞と大統領自由勲章を授与しています。実は、
中曽根内閣も1986年に勳一等瑞宝章を授与しているのです。
レーガン元大統領と中曽根元首相は、「ロン/ヤス関係」で知ら
れるように仲が良く、その経済政策でも共通する面があったので
すが、2人ともフリードマンの政策について、強い関心をもって
いたことがこれでわかります。
 さて、レーガンが大統領就任直後に発表した「経済再建プログ
ラム」は、その発表直後から賛否両論があったのです。ここに、
その経済政策の実効性について、ミルトン・フリードマン教授と
ポール・サミュエルソン教授の論争があるのでご紹介することに
します。フリードマンは「F」、サミュエルソンは「S」と表記
しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ◎「経済再建プログラム」の評価は?
  F:連邦支出削滅の詳細かつ包括的計画を高く評価する。
  S:福祉国家を求める流れに訣別する試みで、1920年代
    の不平等の復活でインフレ問題は解決できない。
 ◎財政の均衡化は可能か?
  F:提案されているのは税収のカットではなく、税率の引き
    下げであり、これは、税収の伸びを鈍化させるだけであ
    る。歳出はより低いペースの伸びである。規制緩和や安
    定的な通貨供給により経済が活発化し、財政にプラスに
    働く。
  S:「税率は引き下げるが、歳出は削減しなくてよい」とい
    うラッファーはインチキである。非国防関係支出の大幅
    カットにより、予算収支をバランスさせても、次に景気
    後退をもたらすだけだ。
 ◎連邦支出の削減は公正か?
  F:貧しい人々の利益を考慮している。
  S:とても公正とは言えない。
 ◎減税は公正か?
  F:減税効果は広く行き渡る。公正の判断は客観的なもので
    ない。
  S:中流階層底辺以下の人々にとって公正でない。保守派に
    とってはレーガン大統領は救世主であり、政策の実効性
    に肯定的であるが、リベラル派にとってはレーガン大統
    領の再建計画は福祉国家の建設を放棄する危険な計画で
    あり、その政策の実効性に懐疑的である。
      ──「ニューズウィーク」/1981年3月2日号
―――――――――――――――――――――――――――――
 上記のサミュエルソン教授が発言している「ラッファーはイン
チキである」の「ラッファー」とはラッファー曲線のことです。
ラッファー曲線は、供給サイド経済学の基本になるものです。
 アーサー・ラッファーという経済学者がいたのです。1980
年代にラッファーは次のように主張したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      税率を下げれば、政府の税収が増える
           ──アーサー・ラッファー
―――――――――――――――――――――――――――――
 「税率を上げれば・・」の間違いではないかと一瞬考えてしま
いますね。そういう疑問を発する人に対して、ラッファーは添付
ファイルのような簡単な図を描いたのです。
 横軸に「税収」、縦軸に「税率」を取ります。税率がゼロのと
きは無税ですから、税収はゼロです。曲線はA点を通ります。税
率が100%になると、課税所得はすべて税金で取られるので働
く人はいなくなります。企業も国外に脱出するので、税収はゼロ
です。そうすると、曲線はB点を通ることになります。このAと
Bを通る楕円曲線を「ラッファー曲線」というのです。
 ラッファー曲線の黄色い領域は、税率を上げて行くと税収が上
がる領域です。しかし、ブルーの領域に入ると税率を上げると逆
に税収が減ってしまうのです。
 したがって、もし国の状態がブルーの領域にあると判断したと
きは、税率を下げた方がかえって税収は増えるのです。レーガン
は、需要を喚起するよりは供給力を強めて経済成長を達成しよう
という「サプライサイド経済学」の考え方を採用したのです。国
の状態が、まさにブルーの領域にあると判断したからです。
 しかし、サミュエルソンはこれを「インチキ」とこきおろして
います。富裕層に対する減税によって税収が増えるためには、減
税分を上回る社会全体の所得増加がなければならないのです。レ
ーガンは、法人税の減税と所得税の累進税率を下げましたが、か
えって税収が減り、それでも軍事費を増やしたので、大幅な財政
赤字を招いたのです。     ──[新自由主義の正体/24]

≪画像および関連情報≫
 ●「アメリカ経済50年史」より/あるブログより
  ―――――――――――――――――――――――――――
  元映画俳優という経歴を持つレーガンであるが、飛行機が苦
  手で、汽車に乗ることが多く、その汽車の中でハイエクの著
  書などを通読していたという。アリゾナ州の上院議員のバリ
  ー・ゴールドウォーターと出会うと意気投合、ゴールドウォ
  ーターの政治観と自分の政治観は全く同じだと感じるように
  なる。ゴールドウォーターの背後には「マネタリズム」のフ
  リードマンがおり、後にフリードマンはレーガンによってス
  カウトされ、レーガンに登用される。ゴールドウォーターは
  どんな政治観であったかというと、「私は政府の合理化や効
  率化に殆んど関心がない。私は政府の規模を縮小するつもり
  だ」というハイエク的な新自由主義思想で、後に【レーガノ
  ミクス】と呼ばれるものの原型であったとされる。元俳優で
  あるレーガンは「選択の時」と題されたテレビ演説が大好評
  を博して、一躍、人気政治家になり、そのまま大統領まで登
  り詰めた。(レーガンはゴールドウォーターから妬まれたら
  しく、共和党内で確執を起こしている。)効率性を重視した
  サプライサイド経済学は反ケインズ的で、公共支出による需
  要主導ではなく、民の活用を意味しており、具体的には、そ
  れが規制緩和と法人税減税であった。また、レーガンはグリ
  ーンスパンを社会福祉改革委員長に回し、ポール・ヴォルカ
  ーをFRB議長に据えて、金融引き締めも行なった。
                   http://bit.ly/UpJGKT
  ―――――――――――――――――――――――――――

ラッファー曲線.jpg
ラッファー曲線

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2014年06月13日

●「レーガノミックスは成功したのか」(EJ第3811号)

 ロナルド・レーガンが大統領になる前に、米国にとって衝撃的
な大きなニュースが2つ起こっています。それはイラン革命によ
る第2次オイルショックとソ連のアフガニスタンへの侵攻です。
とくにソ連のアフガニスタンへの侵攻は、米国の国際的地位と威
信の低下を世界に印象づけたのです。
 ソ連のアフガニスタンへの侵攻は、米国がイランのアメリカ大
使館人質事件の処理に忙殺されているスキを狙って、ソ連が中東
産油地帯を睨む地域に進出したのです。これは、80年代の新冷
戦の引き金になったのです。
 これを背景にして、レーガンは「強い米国の再生」を掲げて大
統領に就任したのです。これを実現するには、当時不振をきわめ
ていた米国経済を何としても復活させる必要があったのです。問
題は、レーガンが経済を再生させる理論として、なぜ、サプライ
サイド重視の経済学──新自由主義的政策を選んだかです。
 それは、ケインズ政策を徹底的に否定することだったのです。
なぜなら、米国の国際的な威信を低下させた原因が、米国政府が
これまでやってきたケインズ政策にあると考えたからです。これ
について、北村洋基慶応義塾大学教授は、自著で米国の国際競争
力低下の原因について、次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 こうした理論が登場して、政策の基調となるにいたった背景に
 は、アメリカの政治的・経済的・軍事的な力の低下があるが、
 その原因を@ケインズ主義的な大きな政府が、重税による企業
 の自助努力を妨げ、また政府依存の経営体質をもたらし、国際
 競争力の低下を招いた。国民も政府の福祉に頼り,働く意欲が
 低下した。Aインフレの進行が国際競争力の低下を招いた。B
 大きな政府が財政危機を招いたなど、ケインズ主義の失敗に求
 めたことである。そして、政府の政策は市場にまかせることが
 できない公共分野に限定すること。その場合何よりも重視しな
 ければならない任務は安全保障・国防にあり、とくに対ソ連軍
 事優位の再構築に集中することであるという反共イデオロギ−
 を前面に押し出したことである。      ──北村洋基著
            「岐路に立つ日本経済」/大月書店刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 それでは、レーガンの経済政策は成功したのでしょうか。
 レーガンと共和党の代表を競い、レーガン政権の副大統領を務
めたブッシュ(父ブッシュ)は、レーガンの経済政策を批判して
的外れの理論であるとして次のように揶揄したといわれます。
―――――――――――――――――――――――――――――
    レーガンの経済政策は、ブードゥー経済学である
―――――――――――――――――――――――――――――
 結論からいうと、レーガンの政策は米国の国際競争力の回復と
いう観点からは、所期の目的とは逆の結果になってしまったので
す。レーガンは、反ケインズ主義に立って、小さな政府による自
助努力と民間の活力強化のために、所得税と法人税の減税、規制
緩和、福祉などの切り下げによる歳出カットを推進しようとした
のですが、減税は先行したものの、歳出カットは議会の猛烈な抵
抗にあって思うように進まず、その一方で軍事費が増大したこと
により、財政赤字が急速に拡大したのです。
 しかし、確実に進展したものがあります。それは、米国の軍事
力の近代化です。レーガンは次の「核兵器体系の3つの近代化」
に取り組んだのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.    多弾頭個別誘導大陸間弾道ミサイルの近代化
 2.    核爆弾を多数搭載可能な戦略爆撃機の近代化
 3.      SLBMのための原子力潜水艦の近代化
―――――――――――――――――――――――――――――
 これに加えて、戦略核爆弾搭載の中距離ミサイル「パーシング
U」をヨーロッパに配備するとともに、巡航ミサイルの配備など
電子技術を活用した超精密兵器の開発を進めたのです。
 とりわけ世界にショックを与えたのはスターウォーズとも呼ば
れたSDI構想です。SDI構想は、宇宙に軍事基地を建設し、
敵のミサイルを撃墜するシステムを構築して、核戦争に生き残る
可能性を追求するものです。軍事面での「強いアメリカ」につい
ては、このようにして実現したのです。
 その結果、何が起きたのかというと、「小さい政府」を推進し
たはずなのに、次のように結果として「大きな政府」そのものに
なってしまったことです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      ◎GDPに占める政府支出の割合
      1980年 ・・・・・ 21.7 %
      1985年 ・・・・・ 22.8 %
      1990年 ・・・・・ 21.8 %
―――――――――――――――――――――――――――――
 この所期の目的と大きく外れてしまったレーガンの政策が、な
ぜ「レーガノミックス」として後世に残ることになったのかとい
うと、レーガン大統領時代の1982年末から景気が回復したこ
とにあります。とくに、レーガンの2期目の4年間(1985〜
1989年)は景気拡大が持続したのです。
 どうして景気が拡大したかについては来週のEJで詳しく分析
しますが、それは当初目標としたものとは、違うメカニズムが働
いた結果であるといえます。しかし、景気が回復すると、現在の
日本の安倍政権でもみられるように、時の政権にとっては追い風
になるのです。
 このように当初の狙いとは別の結果になったものの、結果オー
ライでレーガン政権の新自由主義的政策は成功とされ、「レーガ
ノミックス」として経済改革の象徴になったのです。
 ところで、レーガノミックスとサッチャリズムのどちらが新自
由主義的政策に近いかと問われれば、それはサッチャリズムの方
であるということがいえます。 ──[新自由主義の正体/25]

≪画像および関連情報≫
 ●レーガノミックスの功罪/木村証券のコラム
  ―――――――――――――――――――――――――――
  軍拡と減税を柱としたレーガノミックス(レーガン大統領が
  推進した経済政策)は、米国経済の復権に多大な貢献をした
  として高く評価されているが、レーガン大統領が就任する前
  年の1980年に「米個人消費支出(1兆7573億ドル)
  ÷同可処分所得(3兆8573億ドル)は45.6 %」であっ
  た。これが、同大統領の最終年となる88年には66.0 %
  まで上昇し、その後も一貫して同比率は上昇を続けることに
  なった。サプライサイド経済の促進を唱えたレーガノミック
  スは、当初の目的に反して供給力の強化よりも「過剰消費を
  定着」させる結果をもたらしたといえる。レーガン氏は、常
  に前向きで楽観的であり、典型的な米国人気質ともいえるが
  基軸通貨国である特権を最大限に活用したレーガノミックス
  の成功体験は新たな矛盾を生み出している。03年6月にF
  Fレートを1%まで引き下げたFRBの超金融緩和政策は、
  住宅ブームを促進し、『値上がりした住宅』からホームエク
  イティローンなどを活用した個人借り入れの急増を誘発する
  ことになる。今年5〜6月には前述の可処分所得に対する個
  人消費支出の割合は112%という驚くべき数値になってい
  るのである。           http://bit.ly/1q2T5Vh
  ―――――――――――――――――――――――――――

国民に政策を説明するレーガン大統領.jpg
国民に政策を説明するレーガン大統領
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2014年06月16日

●「ボルカー氏と黒田日銀総裁の違い」(EJ第3812号)

 レーガンが大統領時代に実施した一連の新自由主義的な経済政
策は、必ずしも成功しているとは思えないのに、「レーガノミッ
クス」として現代でも取り上げられるのはなぜでしょうか。
 まず、レーガンが登場する前の70年代の米国の経済状況につ
いて知る必要があります。70年代というと、ニクソン、フォー
ド、カーター大統領の時代です。
 当時の米国は、物価の上昇と経済の低成長が同時に発生するス
タグフレーションに苦しめられていたのです。そのスタグフレー
ションの原因のひとつにベトナム戦争のドロ沼化があります。
 この戦争は、1960年12月からはじまっているのですが、
もともとは南北ベトナムの統一戦争であったものが、資本主義国
家の代表である米国と共産主義国家の代表のソ連との代理戦争の
様相を呈して長期化したのです。この戦争でソ連は表面に出てく
ることはなかったものの、軍事物資の支援や軍事顧問団の派遣を
行ったのに対し、米国はケネディ政権とジョンソン政権で大規模
な米軍を派遣し、それに加えて、東南アジア条約機構の主要構成
国も派兵し、本格的な戦争になったのです。しかし、戦況は一向
に改善せず、ドロ沼にはまってしまったのです。
 70年代に入ってニクソン大統領は、1973年のパリ協定に
基づいて米軍を撤退させ、1975年4月のサイゴン陥落によっ
てベトナム戦争は終結したのです。事実上の米国の敗北です。こ
の戦争の後遺症で米国経済は落ち込み、その後、フォード政権、
カーター政権でも経済は低調のままであったのです。
 添付ファイルを見てください。このグラフは、1970年代か
ら1980年代の米国の株価と消費者物価指数、長期金利の推移
をあらわしています。なお、株価と消費者物価指数は1970年
1月を100としたグラフになっています。
 これを見ると、レーガンが登場するまで株価は10年以上にわ
たって低迷し、消費者物価指数は2倍に跳ね上がっています。ス
タグフレーションは明白であり、インフレ率も上昇していたので
す。それにインフレ率が上がれば下がるはずの失業率も高止まり
していたのです。しかし、グラフに注目すると、レーガン政権の
後半から株価は急上昇しています。大統領就任時の約3倍にまで
跳ね上がっています。
 日本の安倍政権の場合もそうですが、株価が上がると、経済が
良くなってくると実感するものです。米国民もレーガンの経済政
策が功を奏しつつあるなと感じたと思います。
 しかし、レーガン政権が安倍政権と違うのは、デフレではなく
インフレを克服することです。そのためには金利を上げる必要が
あります。そうすれば、景気に水を差し、株価が下落する恐れも
十分あったのです。これが当時のFRB議長のポール・ボルカー
氏の任務だったのです。レーガンはボルカー議長を信頼し、金融
政策については一切口を出さなかったからです。
 しかし、相当思い切ったことをやらないと、インフレ率を下げ
るのは困難だったのです。内橋克人氏は、ボルカー議長について
次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1979年10月にアメリカの中央銀行FRB議長ポール・ボ
 ルカーは、ケインジアン的アプローチからマネタリスト的なア
 ローチに政策を大転換します。貨幣供給量を減らし、利子率の
 急上昇を許し、失業率を高めてでもインフレをおさえこもうと
 しました。このマネタリスト的な実験は劇的な効果を発揮した
 ようにみえました。インフレ率は、1980年末の22パーセ
 ントから1984年の4パーセントまで劇的に下がります。
                      ──内橋克人著
 『新版/悪魔のサイクル/ネオリベラリズム循環』/文春文庫
―――――――――――――――――――――――――――――
 インフレを抑制するには、金利を上げればよいのです。しかし
利上げを行えば、議会から激しい突き上げがくることはわかって
いたのです。それに失業率も上がります。しかし、やらなければ
ならない。ボルカー議長は一計を案じたのです。
 当時の米国の経済界では、ミルトン・フリードマンの学説が話
題になっていたので、ボルカーは、政策金利の利上げを前面に出
さないで、次のように宣言したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 政策金利のコントロールではなく、マネーサプライのコント
 ロールを政策目標とする。     ──ホール・ボルカー
―――――――――――――――――――――――――――――
 ちょっと考えると、ボルカー議長がフリードマンの政策を採用
したようにみえますが、実はそうではなく、レトリックとして使
っただけなのです。その証拠に実際には矢継ぎ早に利上げを強行
して、猛烈な金融引き締め政策を断行したのです。何しろ10%
程度であった政策金利を一挙に20%まで引き上げたのですから
金融市場は大混乱に陥ったのです。信用収縮が起き、実質GDP
はマイナスとなり、長期金利は一時16%近くまで上昇したので
す。(添付ファイル参照)失業率も10%を超え、レーガン大統
領の支持率は次のように急降下したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     ≪レーガン大統領の支持率≫
      1981年5月 ・・・・・ 65%
      1983年1月 ・・・・・ 35%
―――――――――――――――――――――――――――――
 もちろん株価も下がったものの、1982年になると、インフ
レは徐々に収まってきて、株価も上昇を始めたのです。この19
79年のボルカー議長のインフレ退治と、現在の日本の黒田日銀
総裁の異次元緩和はよく比較されるのですが、それは本質的に異
なるものです。ボルカー議長は「目先の景気後退には目を瞑って
通貨の価値を守り抜いた」のに対し、黒田総裁は「目先の景気の
ために、日銀自ら通貨の価値を下げた」からです。大きな違いで
あると思います。       ──[新自由主義の正体/26]

≪画像および関連情報≫
 ●ボルカー議長によるインフレ退治/バーナンキ氏
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ポール・ボルカー氏は(1979年8月に)米連邦準備理事
  会(FRB)の議長に就任してから数ヶ月で、インフレ問題
  に対処するには強硬な政策が必要だとの判断に至りました。
  そして同年10月、ボルカー氏と米連邦公開市場委員会(F
  OMC)は、金融政策の運営方法を従来から一変させたので
  す。ここでどんな手法が用いられ、どう機能したか詳細に説
  明する必要はありません。基本的に、これによりFRBが金
  利を大幅に引き下げることが可能になったということを理解
  しておけば十分です。周知のように、金利を引き上げれば経
  済は減速し、インフレ圧力は弱まります。ボルカー議長が言
  ったように「インフレ・サイクルを断ち切るには、信頼する
  に足る断固たる金融政策を取らねばなりません」(スライド
  の写真下のカコミ)。ボルカー議長が政策を発動してから数
  年でインフレ率は急落しました。1980〜83年の間にイ
  ンフレ率は約12〜13%から3%程度にまで低下したので
  す。インフレ率がかなり急速に下がり、70年末の問題を解
  消したという点では、つまり「インフレ封じ込め」という目
  的からすると、80年代の政策は大成功でした。しかし、何
  事も“タダ”というわけにはいきません。ボルカー氏の政策
  の1つは、金利を急速に引き上げることでした。81〜82
  年当時、私は大学院を出たばかりで家を買うことを検討して
  いました。はっきり覚えていませんが、30年物住宅ローン
  の金利が18.5 %だと言われたのです。
                  http://nkbp.jp/1jP6N5V
  ―――――――――――――――――――――――――――

70〜80年代におけるインフレ状況.jpg
70〜80年代におけるインフレ状況 
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2014年06月17日

●「レーガノミックスの成果とは何か」(EJ第3813号)

 レーガンが目指したのは、供給側を強くする「サプライサイド
経済学」です。新自由主義はこの経済学を前提にしています。
 マクロの経済活動は、「総需要」と「総供給」の均衡によって
決まるのですが、サプライサイド経済学では、その総供給サイド
に着目するのです。次の「1」がサプライサイド経済学の考え方
ということになります。なお、ここで「右側にシフトする」とい
うのは総供給ないし総需要を強化するという意味です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.所与条件一定の下で、総供給曲線を右側にシフトさせる
   と、国民所得が増加し、物価水準が低下する。
 2.所与条件一定の下で、総需要曲線を右側にシフトさせる
   と、国民所得は増加し、物価水準が上昇する。
        ──ウィキペディア http://bit.ly/1oZvqTZ
―――――――――――――――――――――――――――――
 サプライサイド経済学の狙いは、企業を縛っている規制を出来
る限り撤廃して、企業に自由競争をさせることによって、供給能
力を高めようとするものです。
 現在の安倍政権が進めている改革も、規制──とくに労働規制
を撤廃し、法人税を下げて企業活動を活性化させようとしている
ので、サプライサイド経済学に立脚しているといえます。
 しかし、冒頭に述べたように、新自由主義やそれに基づく規制
改革、グローバリズムは、インフレを前提としている改革なので
すが、日本はデフレ下にあります。したがってこれは、かなりお
かしなことをやっていることになります。
 それでは、サプライサイド──企業側を強くして供給力を強化
しても、需要側である国民にはどういうメリットがあるのでしょ
うか。それは次の2つで説明されるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
          1.  セイの法則
          2.トリクルダウン
―――――――――――――――――――――――――――――
 「1」の「セイの法則」は、EJでは何度も説明しているよう
に、「供給はそれ自身の需要を創造する」という考え方です。こ
れは、要するにものは作りさえすれば、売れるということを意味
しています。
 しかし、「セイの法則」が働かない局面はたくさんあります。
この場合は、供給量は需要の水準によって制約を受けるので、政
府が人為的に需要を追加してやる必要があるのです。やはり裁量
的な政府の追加支出は必要なのです。
 「2」の「トリクルダウン」は、「富める者が富めば、貧しい
者にも自然に富が浸透する」とする経済思想です。これについて
神野直彦東京大学名誉教授は、トリクルダウン理論は有効ではな
いとして、次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 トリクルダウン理論が有効となるには「富はいずれ使用するた
 めに所有される」「富を使用することによって充足される欲求
 には限界がある」という2つの前提が成立しなければならない
 が、現代では富は権力を得る目的で所有されているので、この
 理論は有効ではない。     ──神野直彦東京大学名誉教
―――――――――――――――――――――――――――――
 以上のことを前提にして、レーガノミックスで何が行われたか
について考えてみます。本来レーガノミックスの目指したものは
需要の増大に供給能力が追いつかないという事態を改善するため
に、供給能力を高めることによって需給ギャップを解消しようと
したはずです。しかし、結果は逆に需要を膨大させ、需給ギャッ
プをかえって広げてしまっているのです。
 その原因は何でしょうか。原因は2つあります。
 1つは、軍事費と財政赤字を賄うために膨大な国債を増発した
ことです。そしてインフレを退治するために、通貨供給を抑制し
金利を引き上げたことです。これに対してレーガンの時代に推進
された金融自由化によって、高金利を求めて海外からドル買いが
殺到したのです。その結果、経常収支の赤字を資本収支の黒字で
埋める構造が定着したのです。
 本来であれば経常収支が大幅な赤字であることに加えて法人税
を減税したのですから、ドルは下落するはずですが、ドル高と高
金利は維持されたのです。その結果、米国企業の海外直接投資と
多国籍化を一層促進して、国内における供給力の強化には結びつ
いていないのです。
 2つは、大幅減税によって消費が拡大したことです。1983
年からの景気の回復はこの減税効果が大きかったのです。しかし
高金利とドル高は米国経済に打撃を与えて、1982年には実質
経済成長率はマイナス1.9 %になったのです。それでも、ボル
カーFRB議長による高金利政策、インフレ退治は維持されたの
です。そのため、レーガン大統領の支持率は1983年には32
%に落ち込んだのです。
 一方ドル高によって海外からの輸入は激増し、貿易収支は年々
増加の一途を辿ったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    ≪年々増大する貿易赤字≫
     1980年 ・・・・・  255億ドル
     1984年 ・・・・・ 1000億ドル
     1985年 ・・・・・ 1222億ドル
     1986年 ・・・・・ 1451億ドル
     1987年 ・・・・・ 1596億ドル
―――――――――――――――――――――――――――――
 レーガノミックスはサプライサイド経済学といいながら、軍事
費の増大や、大減税による莫大なる財政支出によって景気回復が
もたらされたともいえるのです。これではケインズ経済学そのも
のです。そして、レーガン政権末期にはどうにもならない状況に
いたるのです。        ──[新自由主義の正体/27]

≪画像および関連情報≫
 ●「トリクルダウン春闘」とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  2014年3月16日の東京新聞朝刊「時代を読む」欄に浜
  矩子さんが「あなたの春闘、何春闘?」との一文を書かれて
  いた。「『官制春闘』というネーミングは悪くないが、むし
  ろ『強権春闘』、さらに言えば『恫喝春闘』、『劇場春闘』
  だ」と冒頭述べられ、浜さんとしては、政府は「トリクルダ
  ウン春闘」と名付けるかもしれない、と指摘した。久しく、
  ネーミングすることもも忘れ去られた「春闘」だが、それな
  りに理解できる。「トリクルダウン」とは、滴のように落ち
  る現象であり、政府は大手企業にベア実施させれば、消費拡
  大、景気回復、デフレ脱却になるとのシナリオを描いたが、
  浜さんは以下の通り一喝した(要約)。
   第一に、トリクルはダウンしない。その行き先はダウンで
  はなく、ラウンドだ。富は富める者から富める者へとグルグ
  ル回るメリーゴーラウンドだ。回転木馬に参加している人々
  は富むが、その外に排除されているいる人々にとっては、何
  も変わらない。決してトリクルはおきない。大手企業の正社
  員たちが、ベア・バブルに打ち興じたところで、そのおかげ
  で、誰がどこでどれだけ潤うというのか。浮かれ消費が多少
  盛り上がっても、その恩恵はどこにどうトリクルダウンする
  のか。回転木馬の速度が上がるだけの話だ。トリクルダウン
  効果を強く主張した英のサッチャー政権下においても、米の
  レーガン政権下においても、経済格差は拡大した。第二に、
  そもそもトリクルダウンという言い方がいけない。何とも、
  けち臭くて、差別的だ。いかにも、おこぼれちょうだいのイ
  メージである。下々の者たちは、上の方からチョロチョロと
  たれ落ちてくる水の一滴・二滴にすがって生きていけ、それ
  を干天の慈雨だと心得よ。これを政策というのか。政策は、
  水路なきところに水路をつくるためにある。放っておけば、
  トリクルダウンを待つほかはない世界に、トリクルダウンを
  当てにしないで済む状況を醸成する。それが政策の役割だ。
                   http://bit.ly/1mUnMWy
  ―――――――――――――――――――――――――――

浜矩子氏.jpg
浜 矩子氏
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2014年06月18日

●「レーガンの経済政策と双子の赤字」(EJ第3814号)

 レーガンの経済政策には、いくつかの矛盾を含んでいます。こ
のことから、レーガンは自分がやろうとしていることがあまりよ
くわかっていなかったのではないかと思われます。
 どうしてレーガンは「減税政策」をとったのでしょうか。これ
については、次の事実がわかっています。
 1974年12月のことです。ワシントンのあるレストランで
南カルフォルニア大学のアーサー・ラッファー教授とウォールス
トリートジャーナルの論説委員たちが会合を持っていたのです。
その席にジャック・ケンプ下院議員(共和党)もいたのです。
 話のなかでラッファー教授は、レストランのナプキンに税率と
税収の関係を示す、後にラッファー曲線といわれるようになる曲
線を描いて説明したのです。
 ラッファー曲線については、6月12日付、EJ第3810号
http://bit.ly/1hPuG3q) で説明していますが、ラッファー教
授は次のように主張したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  現在の米国の税率は税収が最大化される税率よりも高い
             ──アーサー・ラッファー教授
―――――――――――――――――――――――――――――
 ケンプ議員はラッファー教授の話を聞いて「なるほど」と思っ
たのです。「減税すれば税収が増えて財政再建ができる」──こ
れは面白いアイデアであると思ったのです。
 ケンプ下院議員は、アメフトの選手からの転身ですが、政治の
世界には関心があったのです。また、カルフォルニア州の出身で
あるので、1966年のカルフォルニア州知事選のさい、レーガ
ン候補を支援し、当選に協力しているのです。レーガンとは意気
投合し、オフ・シーズンにはレーガンの事務所で働いていたこと
もあるのです。そして1971年に下院議員になり、1989年
まで、9期18年にわたって下院議員を務めたのです。
 さて、ケンプ議員はラッファー教授のアイデアを実現させるた
め、ウイリアム・ロス上院議員と共同で、1977年9月に「ケ
ンプ・ロス法案」を提出しています。連邦個人所得税の減税を行
う法案です。そして、もちろんこのアイデアは、カルフォルニア
州知事時代のレーガンにも伝えられていることはいうまでもない
ことです。
 そして、1981年にレーガンが大統領になったとき、「ケン
プ・ロス法案」は、「経済回復税制法」として、1981年8月
13日にレーガン大統領が署名して成立しているのです。
 このようにレーガンは経済のことなど、よくわかっていなかっ
たのですが、ケンプ議員のようなアドバイザーが多く彼を取り囲
んでおり、進言しているのです。ミルトン・フリードマンもその
一人であったと思われます。
 また、インフレ退治に関しても同様で、これはボルカーFRB
議長に丸投げしていたものと思われます。レーガン自身が何より
実現を期したのは、軍備を強化して、「強いアメリカをつくる」
ことだったのです。
 しかし、レーガンの実施した大減税は、ラッファー曲線理論の
ようにうまくいかず、税収は増えるどころか激減したのです。そ
れに強い米国をつくるための巨額の軍事費による膨大な財政支出
によって米国は莫大な財政赤字を抱えることになるのです。
 ボルカーFRB議長はインフレを克服するため、高金利政策を
とり、マネーサプライの伸びを抑制してドル高政策をとったこと
から、米国の製造業はたまらず国内の拠点を縮小し、海外移転を
増やしたため、完成品の輸入が激増したのです。
 さらに財政赤字をファイナンスするため、外国からの資本が流
入し、ドル高がもたらされ、貿易赤字も拡大したのです。つまり
レーガン大統領が実施した一連の経済政策によって、財政赤字と
貿易赤字が並存する「双子の赤字」の状態になってしまったので
す。この双子の赤字は、1998年のクリントン政権時に財政赤
字は黒字に転じ、一時的に修復されたものの、次のブッシュ政権
で再び財政赤字になって、現在も脱却できていないのです。
 なお、皮肉なことに、同じ新自由主義的改革を実施した英国も
現在は双子の赤字の状態にあります。両国ともかつての資本輸出
国であり、成熟した工業国であったのにこの有様なのです。しか
し、米国は基軸通貨国であり、双子の赤字があっても、問題なく
やっていけるのです。
 もっと重要なことがあります。米国は第1次世界大戦が始まっ
た1914年に対外純債権国になり、第2次世界大戦後も世界の
覇者として君臨していたのです。だが、レーガン政権の1985
年に71年ぶりに対外純債務国に転落してしまい、現在も脱却で
きていないのです。
 ちなみに日本は、2011年末で、対外純資産が253兆円と
なり、21年連続で世界最大の対外純債権国なのです。中国は、
138兆円で2位ですが、日本は大きく引き離しており、ダント
ツの1位の座を占めています。英国は約24兆円、米国にいたっ
ては、約201兆円の赤字になっています。
 このように考えていくと、レーガンが実施したレーガノミック
スは明らかに経済政策としては失敗だったといえます。しかし、
現在でも新自由主義的経済政策──小さい政府、規制緩和、法人
税減税、市場主義などのお手本として、導入する国が増えている
のはおかしな話です。日本もそうした国のひとつなのです。
 その結果、富裕層・大企業を優遇し、弱者を切り捨て、自己責
任などの新自由主義の精神面は現在の米国には根付いており、国
民には大きな所得格差が生じています。日本も少しずつそういう
傾向が出てきています。
 レーガン政権の第2期目の1985年になると、米国経済はど
うにもこうにもならない状況に追い込まれてきたのです。それは
一貫してドル高政策をとってきた米国にとって当然の結果なので
す。対外純債務が累積し、ドルが暴落しかねない恐れが出てきた
からです。          ──[新自由主義の正体/28]

≪画像および関連情報≫
 ●米国の双子の赤字について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  米国経済の基礎的指標を語る際、しばしば話題に上るのが連
  邦政府の財政赤字並びに貿易赤字(ないしは経常赤字=後で
  定義します)です。この二つの赤字を総称して、「双子の赤
  字」と呼びます。米国の財政赤字と聞くと、すぐに1980
  年代のレーガン政権の施政を思い浮かべる読者が多いかと思
  いますが、そもそも米国が、財政赤字を容認するきっかけと
  なったのは、1960年代のジョン・F・ケネディ大統領の
  時代に遡ります。ケネディは「不況のときこそ積極的な財政
  の出動で景気を刺激すべきだ」とする、所謂、ケインジアン
  的な政策を主唱します。しかし保守的な議会の反対に遭い、
  ケネディは自分の主張を通すことは出来ませんでした。とこ
  ろがケネディが暗殺されると副大統領から繰り上がったリン
  ドン・ジョンソン大統領は「ケネディの遺志を尊重しようで
  はないか!」というキャンペーンを張ります。暗殺されたケ
  ネディに同情した議会はこれを受け一転して拡大的予算を通
  過させたのです。最初はこのケインジアン的財政政策は上手
  く機能しますが、70年代になると米国はインフレに悩まさ
  れ始めます。下の連邦政府の財政収支(対GDP比)のグラ
  フを見ると、1970年頃までは米国の財政赤字は大体、G
  DPの1〜2%程度の範囲内に収まっていたことがわかりま
  す。レーガンが大統領に就任した1980年に先駆けて、す
  でに1974年頃から赤字幅が拡大していることにも注目し
  て下さい。            http://bit.ly/1i0putg
  ―――――――――――――――――――――――――――

ジャック・ケンプ下院議員.jpg
ジャック・ケンプ下院議員
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2014年06月19日

●「プラザ合意は日本が合意形成貢献」(EJ第3815号)

 1985年のことです。当時日米の貿易摩擦は相当ひどい状態
になっていたのです。そこで時の中曽根首相は、竹下登蔵相に対
し、日米貿易摩擦問題を解決するために円・ドル調整を含めた総
合対策を検討するよう指示したのです。
 この中曽根内閣は、田中角栄元首相率いる田中派が協力してで
きた内閣で、「田中曽根内閣」と揶揄されており、次期首相は竹
下蔵相とほとんど決まっていたのです。そこで竹下蔵相は、この
仕事を自分の名前を上げる絶好の機会ととらえたのです。
 レーガン政権第1期目の財務長官はドナルド・リーガン、大統
領ロナルド・レーガンとそっくりなので、ややこしいのですが、
名前だけでなく性格も考え方もよく似ていたのです。したがって
この2人に米国をまかせておくと、イケイケ・ドンドンになって
しまうので、レーガン政権第2期の財務長官には弁護士出身で実
務家のジェームス・ベーカーが選ばれたのです。
 ベーカー財務長官は、議会で燃え上がる保護主義の火を消す狙
いで、1985年2月から3月にかけて、ドル高・欧州通貨安を
是正するため、主として西ドイツと協調して、総額100億ドル
の協調介入を行ったのです。その結果、当時「1ドル=3.4 マ
ルク」(対円1ドル=260円)という高値をつけていたドルは
3月以降、ゆるやかに下降をはじめたのです。ベーカー長官とし
ては、ドル高を是正せずにこのまま推移すると、対外債務が累積
して、ドルが暴落する恐れがあると感じていたのです。
 このことを竹下蔵相はよく見ていたのです。1985年6月に
東京で開催されたG10──主要10ヶ国蔵相・中央銀行総裁会
議の機会を利用して、竹下蔵相はベーカー長官と会談を行ってい
ます。その席で竹下蔵相は自分の方から、日米の協調介入による
ドル高是正を打診したのです。いわばこれは、米国に対して助け
舟を出したかたちになります。
 そのとき、ベーカー長官は、単に日本に積極的な内需拡大を求
めると述べるにとどめましたが、この会談を契機としてベーカー
・竹下チャネルによる日米間の政策協調に関する交渉が水面下で
急速に具体化していったのです。
 このドル高是正のための政策パッケージ──為替市場介入、財
政政策、金融政策などの総合対策づくりには、西ドイツ、イギリ
ス、フランスの蔵相を巻き込んだ主要5力国(G5)の蔵相ベー
スの国際的政策協調へと拡大していったのです。
 実は、この協議は、ベーカー財務長官を中心に日本、西ドイツ
イギリス、フランスの蔵相たちとの間でひそかに話が進められ、
中央銀行総裁ですら協議から外されていたのです。おそらくそれ
はベーカー長官の方針であったと思われます。そして、9月中旬
に米国で開くG5で最終決定することにまとまったのです。
 ベーカー長官はこの件をボルカーFRB議長には一切相談して
いないし、イギリス、フランスも中央銀行総裁に情報を伝えてい
ないのです。日本もこの方針にしたがっています。これはきわめ
て異例のことです。
 当時ボルカー議長は、レーガン政権下のホワイトハウスから煙
たがられており、政権の政策とFRBのそれは必ずしも整合性が
とれていたとはいえないのです。レーガンは事実上金融政策のこ
とはボルカー議長に丸投げしていたのです。
 日本銀行の澄田総裁が、大蔵省の大場智満財務官から、プラザ
ホテルで開催予定のG5会議において、各国が為替市場での協調
介入実施を決定する方針であるとの説明を受けたのは、会議4日
前のことであったといわれます。
 1985年9月22日(日曜日)、ニューヨークのプラザホテ
ルの「ホワイト&ゴールドの間」において、G5の蔵相・中央銀
行総裁会議が開催されたのです。日本からは、竹下蔵相、大場財
務官、そして澄田総裁が出席しています。
 この会議の模様について、日本銀行エコノミストの黒田晃生氏
が、ウェブサイト上の論文で、次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 午前11時半から約5時間に亘って開催された会議では、蔵相
 代理レベルで予め準備された共同声明文についての最終的な詰
 めが行われ、保護主義に抵抗するためには「ファンダメンタル
 ズの現状および今後の変化を照らして、主要非ドル通貨の対ド
 ルでのある程度の一層の秩序ある上昇が望ましい」こと、そし
 て、「G5各国は、これを促進するよう密接に協調する用意が
 ある」ことを共同声明として発表することで合意した。また、
 ドル高を是正するための為替市場介入戦略についての討議が行
 われ、ドルを近い将来において10〜12%下方調整すべく各
 国が協調介入を実施すること。介入期間・規模は6週間程度の
 電撃作戦で180億ドルを目途とすること、介入資金の分担を
 アメリカ・日本各30%、西ドイツ25%、フランス10%、
 イギリス5%とすることなどで合意した。会議の席上、竹下大
 蔵大臣は、ドル高是正のための協調介入に一貫して積極的な姿
 勢を示し、「1ドル=200円の円高をも容認する」と自発的
 に発言して、会議での合意形成に貢献した。 ──黒田晃生著
 「日本銀行の金融政策(1984年〜1989年)/プラザ合
       意と『バブル』の生成」 http://bit.ly/UGRaJF
―――――――――――――――――――――――――――――
 この通貨調整会議のことを「プラザ合意」と呼んでいるのです
が、この会議の主導権を取ったのは竹下登蔵相(当時)であり、
当時円/ドル相場は「1ドル=260円」であったのですが、こ
こから急速なドル安/円高がはじまったのです。
 しかし、これほどまでに日本が米国に協力しているのに、プラ
ザ合意の翌日にレーガン大統領は、後に悪名が高くなる「通商法
301条」という国内法を振りかざし、一方的に不公平取引国を
特定し、それに制裁を科す方針を打ち出したのです。米国の貿易
赤字の3分まの1は日本であったので、そのターゲットは間違い
なく日本を狙い撃ちにした政策だったといえます。レーガンは自
由主義者だったのに、です。  ──[新自由主義の正体/29]

≪画像および関連情報≫
 ●1985年/プラザ合意/法学館憲法研究所
  ―――――――――――――――――――――――――――
  20世紀末の日本経済は80年代後半のバブル経済と、90
  年代のその崩壊による「失われた10年」で彩られます。そ
  の端緒となったのが85年の「プラザ合意」だと言われてい
  ます。「プラザ合意」は、85年9月、ニューヨークのプラ
  ザホテルで開かれたG5でなされました。為替市場は、アメ
  リカ経済の相対的な弱化を受けて73年から変動相場制に移
  行しましたが、80年代のドル高は、アメリカにとっては好
  ましくないものでした。78年には1ドル176円も記録し
  ましたが、85年には263円にまで上っています。そこで
  同年、レーガン政権の強力な要望により、ドル安=円高・マ
  ルク高の方向に各国政府が協調介入する旨を取り決めたこの
  合意がなされました。その背景を見ます。73年と78年の
  2度に渡るオイルショックは、エネルギー資源のほとんどを
  海外に依存する日本経済にとっては、とりわけ大きな打撃要
  因となりました。しかし、日本は、リストラクチャリングと
  呼ばれる企業の再構築を実行し、省エネ努力、半導体などの
  技術開発で乗り切りました。しかし、そのために国家財政の
  赤字を拡大し、以後の日本は財政再建に乗り出さざるを得な
  くなっていました(第二臨調の設置)。一方アメリカも、財
  政赤字を拡大させていました。軍産複合体となっていたアメ
  リカは、ソ連等に対抗するための軍事支出を増大します。そ
  のうえ、所得税の大減税と投資減税で税収減となりました。
                   http://bit.ly/1jvNQGp
  ―――――――――――――――――――――――――――

ニューヨーク・プラザホテル.jpg
ニューヨーク・プラザホテル
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2014年06月20日

●「レーガン政権はベクテル社の傀儡」(EJ第3816号)

 今日のEJは、本題とは若干外れますが、レーガン政権の正体
について述べることにします。
 EJでは、10年以上前のことですが、2003年にレーガン
政権の正体について書いたことがあるのです。このときのEJは
ブログに掲載していないので、次のテーマでリライトして取り上
げようと考えています。
 2003年6月17日付のEJ第1129号において私は、レ
ーガン政権について次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 元ハリウッド俳優でカルフォルニア州知事のロナルド・レーガ
 ン(共和党)――彼は「強いアメリカ」の復活をかかげて登場
 し、1980年の大統領選で現職のカーター大統領(民主党)
 を破ってホワイトハウス入りを果たしています。しかし、なぜ
 レーガンなのでしょうか。レーガン大統領は米国のフーバー研
 究所のスタッフが作り出した大統領であるといわれます。彼は
 タカ派で、右翼で、古き良き時代の保守派のイメージを持つ人
 物像を演じる格好の役者として、メイクアップされた作られた
 大統領なのです。このような好ましいイメージを作り出してお
 いて、そのキャラクターの中に自らの意図を注入して中身をす
 り替える――これを「寄生する」というのですが、これが、当
 時の米国を牛耳る勢力――国際ビジネスマンの常套手段なので
 す。当然傀儡の大統領には腕利きのスタッフが送り込まれるこ
 とになります。        ──2003年6月17日付
    EJ第1129号「レーガン政権はベクテル社の傀儡」
―――――――――――――――――――――――――――――
 ところで、ベクテル社とは何でしょうか。
 レーガン政権の時点で、年間売上高は4兆円を軽く超えており
文字通り世界最大の巨大企業です。IBMとAT&Tを合わせた
よりも大きいのです。それなのに社名がほとんど知られていない
のは、株式を公開していないからです。
 もっとわかりやすくいうならば、ベクテル社は、戦争で破壊さ
れたものを再建することで儲けている会社なのです。例えば、湾
岸戦争後のクゥエート復興を受注したのもベクテル社なのです。
政府に対して強い影響力を持っており、場合によってはある国に
戦争を仕掛けさせ、その復興事業を受注して儲けるという「死の
商人」のような仕事をしているブラック企業です。あの沖縄名護
基地の浮体工法を提案しているのもべクテル社なのです。
 第1期レーガン政権の国務長官はアレクサンダー・ヘイグです
が、就任早々外交問題をめぐってレーガン大統領と意見が合わず
1982年6月に辞任しているのです。そのときヘイグに代わっ
て国務長官に就任したのは、ジョージ・プラッツ・シュルツとい
う人物です。
 シュルツは、ニクソン政権下で労働長官、行政予算局長官、財
務長官を歴任しており、手堅い実務派の政治家であったので、レ
ーガンは、シュルツに最初から国務長官就任を要請していたので
すが、シュルツに断られていたのです。
 もう一人レーガン政権の閣僚にキャスパー・ワインバーカーな
る人物がいます。彼は国防長官です。実は、この2人はベクテル
社の社長(シュルツ)と副社長(ワインバーカー)であり、レー
ガンの選挙戦を仕切った中心人物です。
 さらに、ベクテル社の関係者でレーガン政権に参加した人物が
2人いるのです。エネルギー省副長官のケネス・デービス──ベ
クテル社の原子力施設建設担当副社長と大統領特使のフィリップ
・ハビブ──ベクテル社のコンサルタントです。したがって、レ
ーガン政権には閣僚クラスにベクテル社の人間が4人も入ってい
ることになります。明らかに異常なことであるといえます。
 もうひとつ、レーガン第2期政権の前後に次の2つの大きな航
空機撃墜・墜落事件が起きているのですが、これとレーガン政権
が無関係ではないことです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  大韓航空撃墜事件 ・・・・・ 1983年 9月 1日
 日航機墜落事故事件 ・・・・・ 1985年 8月12日
―――――――――――――――――――――――――――――
 ネットを見ると、レーガン政権とこれら2つの航空機墜落事故
との関係を匂わせる記事が散見されます。この詳細については、
次のテーマで詳しく述べるつもりですが、あらかじめ概要を述べ
ておきます。
 大韓航空撃墜事件は、レーガン政権の異常とも思えるソ連脅威
論が複雑に絡んだ事件です。単なる大韓航空機サイドのミスによ
る航路逸脱ではなく、ソ連の脅威と非情さを全世界に知らしめる
ための米国サイドの策略であるといえます。
 それでは何のためにレーガン政権はそのようなことをやったの
でしょうか。
 それは、「戦略防衛構想」(スターウォーズ計画/SDI)の
ための予算獲得にあったと思われるのです。この仕事をメインに
請け負ったのは、もちろんベクテル社です。もっともこの研究が
後のイージス艦の開発に結びつくことになります。
 計画の内容は、衛星軌道上にミサイル衛星やレーザー衛星、早
期警戒衛星などを配備、それらと地上の迎撃システムが連携して
敵の大陸間弾道弾を各飛翔段階で迎撃・撃墜し、米国本土への被
害を最小限に留めることを目的にした軍事計画です。
 それでは、日航機墜落事故事件はどうしてレーガン政権と関係
があるのでしょうか。
 これについては、レーガン政権と日本の中曽根政権に深くかか
わっています。この墜落事故は、単なる事故ではないことについ
ては、EJでは2度にわたって取り上げており、大きな反響を呼
んだものです。しかし、ブログには掲載したことはありません。
したがって、次のテーマでさらに新しい情報を加えて、大韓航空
撃墜事件と一緒にもう一度検証してみようと考えています。
               ──[新自由主義の正体/30]

≪画像および関連情報≫
 ●大韓航空機撃墜から30年/戦闘機元操縦士語る
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1983年9月1日未明、ロシア極東サハリン沖上空で大韓
  航空機が旧ソ連軍戦闘機に撃墜され乗客乗員269人全員が
  死亡した事件から30年。撃墜した戦闘機の元操縦士が共同
  通信の取材にこのほど応じ「軍人としての命令を果たしただ
  けだ。ただ、別のやり方もあったのかもしれない」と事件の
  重荷を背負ってきた人生を振り返った。元操縦士は、ロシア
  南部アドイゲヤ共和国の首都マイコプに住むゲンナジー・オ
  シポビッチ元中佐(69)。76年から、サハリンでスホイ
  15戦闘機の操縦士として服務。予定航路を逸脱したニュー
  ヨーク発ソウル行き大韓機ボーイング747がサハリン上空
  を飛行した際、極東各地から緊急発進した戦闘機10機のう
  ち1機を操縦していた。当時38歳。元中佐によると、防空
  軍の上官から交信で受ける命令に基づいて行動した。計4回
  の警告射撃後も大韓機は針路を変えず「撃墜せよ」の命令が
  下った。大韓機の右側約5キロの地点から2発のミサイルを
  発射。「尾翼付近に命中し、炎上するのを目撃した」。帰還
  した基地で同僚に祝福された。「撃墜後は、怖い夢をよく見
  た」。事件後に軍の面談調査を受けた後、異動となり、事件
  10日後にはマイコプに着任した。元中佐は知らなかったが
  領空侵犯機の撃墜を正当化するソ連政府と、民間機撃墜の非
  人道性を批判する米国などの非難の応酬が始まっていた。
                   http://bit.ly/SVF8Ky
  ―――――――――――――――――――――――――――

大韓航空007便.jpg
大韓航空007便
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2014年06月23日

●「『世界を救う三銃士』とはだれか」(EJ第3817号)

 レーガン政権の第2期目から米国の株価は上昇しています。こ
れは、軍事費の増加により、財政赤字が増大したので、FRBは
それをファイナンスするため、金融緩和をしたからです。
 大手企業は、余剰資金を使って株安の企業を買収し、株式ブー
ムを巻き起こし、株式市場は「軍需バブル」の様相を呈してきた
のです。とにかく市場で株高を演じること──実体経済の低迷を
隠すために株式ブームを引き起こす必要があったのです。
 ちょうどその時期、1987年8月にレーガンは、経済アナリ
ストで、コンサルタント会社を経営していたアラン・グリーンス
パンをFRB議長に指名したのです。グリーンスパンは以来20
06年1月に退任するまでの19年間、FRB議長を務めること
になるのです。
 1987年10月19日、「ブラックマンデー」と呼ばれる株
価大暴落があったのです。グリーンスパンがFRB議長に就任し
た2ヶ月後のことです。まるでグリーンスパンFRB議長の手腕
を試すかのような出来事です。
 ところで、この株価暴落が、なぜ「ブラックマンデー」と呼ば
れるのでしょうか。1929年のときは「ブラックサースデー」
と呼ばれたのですが、そのときよりも株式の下落率が大きかった
からです。つまり、過去最大の下げであったのです。
 ダウ30種平均の終値は前週末よりも508ドル下がり、その
下落率は「22.6 %」と、1929年の「12.6 %」を10
ポイントも上回ったのです。
 原因は、米国の貿易収支の赤字幅が予想以上に膨らんでいたこ
とと、1985年のプラザ合意以後のドル安打開のために金利が
引き上げられるとの観測が広がっていたからです。
 このとき、グリースパンは次のような短い声明を発し、即時に
積極的な金融政策をとって信用不安を防ぎ、その後の景気後退に
さいして金融緩和策で対応したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    FRBは流動性を提供する準備ができている
           ──アラン・グリーンスパン
―――――――――――――――――――――――――――――
 ブラックマンデーから5週間後にウォール・ストリート・ジャ
ーナル紙は、「新しい議長は試験に合格した」という記事を載せ
ましたが、プリンストン大学教授のアラン・ブラインダー元FR
B副議長は、グリーンスパン議長のことを「マネタリー・ケイン
ジアン」と揶揄したのです。これに関連して、グリーンスパン議
長について、菊池英博氏は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 本来、グリーンスパンはマネタリストであるから、「市場には
 介入すべきではない」という判断をするのではないかと懸念さ
 れていた。しかし、実際には市場に介入して市場の崩壊を救っ
 たことで評価を高めたのである。これこそ「政府・中央銀行は
 市場に介入すべきではない」「投機などありえない。放置すれ
 ば、均衡点に達する」というフリードマンの主張から見れば、
 まったく反対の市場介入を実施したのである。ここに、彼らの
 まやかしがある。             ──菊池英博著
             『そして、日本の富は略奪される/
   アメリカが仕掛けた新自由主義の正体』/ダイヤモンド社
―――――――――――――――――――――――――――――
 ミルトン・フリードマンの思想をベースにして、米国が後にス
ティグリッツ教授のいう「世界の99%を貧困にする経済」をつ
くり出すには、何代かの米国政権が必要であったのです。
 レーガン政権にはじまって、ブッシュ(父)政権、クリントン
政権、ブッシュ(子)政権の4つの政権を経てそういう経済が出
来上がってきているのです。
 そういう経済をつくるさい、米大統領の下で、中心になって働
いた人物の一人がアラン・グリーンスパンであり、後の財務長官
であるロバート・ルービンとローレンス・サマーズなのです。こ
の3人は当時「世界を救う三銃士」といわれていたのです。
 レーガンの後を受けて大統領に就任したブッシュ(父)政権は
レーガノミックスによってできた双子の赤字の債務国としての負
担を軽減させようとして、選挙では公約していなかったのに、増
税と歳出削減を中心とする緊縮財政をとったのです。これによっ
て、5000億ドルの増収を見込んだのです。
 しかし、何らの景気振興策をとらずに実施したため、景気が減
速し、経済はデフレ傾向になり、増収どころか、減収になってし
まったのです。本当のデフレにならなかったのは、巨額の軍事費
支出によって経済が軍事バブルの状態になっていたからです。
 こういうとき、国の為政者のやることは、外交面で成果を見出
すことです。その成果が1989年12月のソ連との冷戦の終結
宣言です。ブッシュ(父)大統領は、地中海のマルタ島で、ソ連
のミハイル・ゴルバチョフ共産党書記長と会談し、冷戦の終結を
宣言したのです。
 このブッシュ(父)を大統領選で破ったのは、ビル・クリント
ンなのです。クリントン陣営は、ブッシュ(父)政権が財政再建
に失敗して経済を停滞させた失敗を追及し、経済の立て直しを宣
言して、対イラク湾岸戦争の勝者ブッシュ(父)政権を破ったの
です。そして、1993年1月にビル・クリントンは大統領に就
任したのです。12年ぶりの民主党政権です。
 クリントン大統領は、「アメリカ変革のビジョン」として次の
2つを上げ、経済の立て直しに取り組んだのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1.官民ともに支出を消費から投資に向け雇用を増大する
  2.政府本体の消費項目を削減し、公平な税制を導入する
―――――――――――――――――――――――――――――
 このとき、クリントン大統領が経済の立て直しに何をしたかは
とても重要です。これを支えたのは、例の「世界を救う三銃士」
だったのです。        ──[新自由主義の正体/31]

≪画像および関連情報≫
 ●全力で事態を悪化させるグリーンスパン──クルーグマン
  ―――――――――――――――――――――――――――
  『ワシントンポスト』のコラムニスト、スティーブン・パー
  ルスタインがアラン・グリーンスパンの新著を読んでこんな
  ことを発見してる。この前FRB議長は、彼の在任中におき
  たひどい事態のあらゆることになんら責任がないと思ってい
  る――しかも、金融危機への解決策に彼がもちだしてるのが
  案の定、政府を小さくすることだ。パールスタイン氏が言及
  していないけれど、ぼくが重要だと考えていることがある。
  それは、グリーンスパン氏が議長を退いてから残している見
  事な実績だ――あらゆることについて間違い、しかもそこか
  らなんにも学んでいないという実績だ。とりわけ、「アメリ
  カは今日にでもギリシャみたいになるぞ」とグリーンスパン
  氏が警告し、インフレと金利急騰がまだ起きていないのは、
  「残念なこと」だと発言してから、かれこれ3年以上にもな
  る。要点はこれだ――グリーンスパン氏はたんにダメ経済学
  者なばかりか、ダメな人でもあって、自分の在職中と退任後
  におかした過ちの責任を受け入れるのを拒絶している。それ
  にも関わらず、彼はまだ引っ込まずに、最善を尽くして世界
  をいっそうダメにしようと励んでいる。
                   http://bit.ly/1pnVNRK
  ―――――――――――――――――――――――――――

アラン・グリーンスパン元FRB議長.jpg
アラン・グリーンスパン元FRB議長
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2014年06月24日

●「クリントン大統領は何をやったか」(EJ第3818号)

 クリントン政権にとっての急務は、それまで軍事予算と軍事バ
ブルで国内経済を成長させてきた米国をどのようにして方向転換
させるかということにあったです。
 ちょうど時代は、製造業中心の経済からITと金融業が中心の
経済に移りつつあったのです。そこでクリントン大統領は、これ
まで軍事費に投入していた予算の多くを道路交通網整備や地域開
発、職業教育、学校教育施設の拡充などの国内の公共投資に使い
内需を拡大しようとしたのです。この政策は、ブッシュ(父)政
権の経済政策の失敗で、デフレ気味になっていた米国経済を立て
直す景気回復策になったのです。
 それと同時に株式市場では、当時立ち上がりつつあったIT企
業に対し、可能な限り政府支援を行うとともに、軍需バブルなら
ぬ「ITバブル」を演出して、そこへの民間投資を喚起しようと
したのです。
 これを見るとわかるように、クリントン政権は、レーガン時代
のサプライサイド経済学とは決別し、明らかにケインズ学派の需
要喚起政策をとっています。そのため、クリントンはネオコンか
ら「社会主義者」と罵られたのです。
 菊池英博氏は、このときクリントンの実施した政策は、デフレ
基調の経済を成長路線に戻すよいサンプルになるとして、次のよ
うに述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 クリントン政策の特徴は、「デフレ傾向の経済を回復させるに
 は、政府が率先して投資をし、有効需要を喚起することが必要
 である」という基本認識を持ち、政府投資の増加に見合うよう
 に金融を緩和していったことであった。クリントンの財政支出
 の内容を見ると、政府支出を政府投資と公共投資に集中させて
 おり、デフレ経済を成長路線に戻す格好の実例である。
     ──菊池英博著/『そして、日本の富は略奪される/
   アメリカが仕掛けた新自由主義の正体』/ダイヤモンド社
―――――――――――――――――――――――――――――
 添付ファイルを見てください。これは過去20年間の米国の財
政支出の推移をあらわしており、クリントン政権、ブッシュ政権
のそれぞれ1〜2期目、オバマ政権の1期目の財政支出の推移が
よくわかります。菊池英博氏の著書からの引用です。
 クリントンは、その1期目においては、債務国でありながら、
あえて財政赤字を増加させ、公共投資を実施して景気回復に重点
を置いています。つまり、景気対策を重視し、それによって税収
の増加を図る政策をとったのです。つまり、クリントン政権は、
次の経済政策の基本に基づいて政策を実施しているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 経済がデフレ下にあるとき ・・・ 財政赤字を増やすこと
 経済がインフレであるとき ・・・ 財政黒字を増やすこと
―――――――――――――――――――――――――――――
 これによって税収は徐々に増加し、5年後の1998年には遂
に財政収支が黒字になったのです。クリントンは黒字化に成功し
ても財政支出をその後も年3%増加させ、その増加分を政府投資
に支出しています。日本では、景気が少しでも回復すると、緊縮
財政を行い、景気回復を何回も潰してきた過去があります。
 かくしてクリントン政権8年目には、財政黒字は2362億ド
ルになり、8年間で5265億ドルの財政収支の改善に成功して
いるのです。
 このクリントンの経済政策の成功は、米国を再び福祉型資本主
義に戻そうとする意図が感じられます。いうまでもなくこれは新
自由主義とは真逆の考え方です。それでは、クリントン政権は、
レーガン政権の打ち出した新自由主義とは決別することを決めた
のでしょうか。
 そうではないのです。クリントン大統領は、対外的──とくに
日本を含む東アジア諸国に対して、厳しい新自由主義政策をとっ
たのです。なかでも日本に対しては、毎年のように「年次改革要
望書」なるものを突き付けて構造改革を迫り、米国に有利になる
ように日本を変えることを迫ったのです。
 このためのプランを作成したのが、ロバート・ルービンとロー
レンス・サマーズのコンビです。つまり、クリントンは国内では
福祉型資本主義で国を富ませる一方で、基軸通貨国である地位を
利用して、対外的には新自由主義を積極的に推進し、世界の富を
収奪しようと企む二面性のある政治家なのです。
 クリントン政権の初代の財務長官はロイド・ベンツェンです。
しかし、経済政策を実際に立案し、推進したのは、ルービンとサ
マーズの2人なのです
 ロバート・ルービンは、1960年にハーバード大学経済学部
を最優等成績で卒業し、その後他の大学でも学び、1966年に
ゴールドマン・サックスに入社しています。ゴールドマン・サッ
クスではたちまち実績を上げて出世し、1990年に同社の共同
代表に就任しているのです。
 ローレンス・サマーズは、16歳でマサチューセッツ工科大学
に入学して経済学部を卒業し、ハーバード大学で博士号を取得し
ています。そして1983年には、28歳の若さでハーバード大
学教授に就任しています。最年少教授の誕生です。
 サマーズは、1982年から2年間、レーガン政権の大統領経
済諮問委員会のスタッフを務め、レーガノミックスを推進したの
です。クリントン政権では財務次官に就任し、1995年にルー
ビンが財務長官に就任すると、財務副長官に移り、1999年7
月にルービンが辞任すると、財務長官に就任したのです。
 ここで留意しておくべきことは、ルービンは米国を代表する投
資銀行であるゴールドマン・サックスの代表者であり、サマーズ
は新自由主義の経済学者であるとともにクリントン政権の財務長
官であることです。それにFRB議長のグリーンスパンを加えた
3人が、その後の世界経済を動かしていくことになるのです。
               ──[新自由主義の正体/32]

≪画像および関連情報≫
 ●クリントン政権期のアメリカ経済/二村宮国氏
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1990年代のアメリカ経済は、アメリカ史上最長の景気拡
  大、株価上昇を記録し、失業率もインフレ率も低下する“繁
  栄の90年代”を実現した。ジャーナリズムは、この繁栄の
  下のアメリカ経済を「ニューエコノミー」と名付けた。この
  言葉は、ベトナム戦争以降の長い経済・社会の停滞・低迷を
  脱し、自信を取り戻した人々の心に刻み込まれ、90年代ア
  メリカを象徴するキーワードとなった。その背景には、IT
  (情報技術)革命に代表される技術革新や金融・投資、貿易
  面でのグローバリゼーションなどの進展によりアメリカ経済
  の体質が変わり、「強いアメリカ経済」が復活したという認
  識がある。同時にそれはITに裏打ちされた国際経済におけ
  るアメリカの優位は21世紀になっても揺るがないという自
  信を示す言葉ともいえるだろう。多分に政治的思惑が含まれ
  ていると思われるが、クリントン政権、また、政権と緊密に
  協力して金融政策のカジ取りを進めた米連邦準備制度理事会
  (FRB)のアラン・グリーンスパン議長もこの言葉を認知
  した。だが、こうした議論にはアメリカ国内にも、また、海
  外諸国にも批判がある。2001年1月、米国ルイジアナ州
  ニューオーリンズで開催されたアメリカ経済学会では「ニュ
  ーエコノミー」論をめぐり擁護派と批判派が厳しい論争を繰
  り広げた。            http://bit.ly/1rlk2Bn
  ―――――――――――――――――――――――――――

過去20年間のアメリカの財政支出の推移.jpg
過去20年間のアメリカの財政支出の推移
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2014年06月25日

●「ワシントンコンセンサスとは何か」(EJ第3819号)

 レーガンから政権を引き継いだブッシュ(父)大統領は、経済
政策では失敗したものの、外交手腕を発揮して、ソ連との間で冷
戦の終結を宣言する功績を上げています。これは米国にとって、
眼前の大きな敵が消滅したことを意味します。
 そこで米国としては、その後の世界戦略を練る必要があったの
です。米国政府とIMFと世界銀行は、これが米国流の新自由主
義を世界に広げる絶好のチャンスと考えたのです。
 IMFや世界銀行が、経済破綻に陥った国家に救済融資するさ
い、必要な経済改革とは何かを定めたものを米財務省、IMF、
世界銀行の間で検討し、コンセンサスの得られたものをワシント
ンにあるシンクタンクの国際経済研究所から発表させているので
す。発表者はジョン・ウィリアムソンという研究員の名前になっ
ていますが、項目としては次の10項目があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
      1.財政赤字の是正
      2.補助金カットなど財政支出の変更
      3.税制改革
      4.金利の自由化
      5.競争力ある為替レート
      6.貿易の自由化
      7.直接投資の受け入れ促進
      8.国営企業の民営化
      9.規制緩和
     10.所有権法の確立
―――――――――――――――――――――――――――――
 これら10項目を見るとわかるように、いずれも新自由主義的
考え方に基づいています。そしてこれらは、財務省、IMF、世
界銀行の間でコンセンサスが得られているという意味で、「ワシ
ントンコンセンサス」というのです。
 実は、この国際経済研究所に1989年から客員研究員として
在籍していたのが竹中平蔵氏なのです。竹中平蔵氏の役割は、い
わゆる「内側から鍵を開ける人物」として、その後小泉内閣にお
いて活躍することになります。日本の国益ではなく、米国の国益
を守る人間としての活躍です。
 竹中平蔵氏は、ローレンス・サマーズ氏とも知己があり、完全
に米国側の人間といわれています。現在の安倍政権でも、産業競
争力強化会議の委員として、成長力戦略の案出と一応オブラート
に包んではいるものの、主として労働諸法制の規制緩和に強い影
響力を発揮しつつあります。
 国際経済研究所の創設者は、ピーター・G・ピーターソンとい
う人物ですが、彼はニクソン政権の商務長官、リーマンブラザー
ズのCEO、ニューヨーク連邦準備銀行理事長などを歴任してい
る金融界の大物です。
 国際経済研究所の当時の所長は、フレッド・バーグステインと
いい、クリントンの有力ブレーンなのです。彼は日米包括シナリ
オを書いた人物で、竹中平蔵氏を使い、米国に資金を貢がせる担
当として、教育したといわれています。経済分野で日本を縦横に
操ったトップクラスの人物なのです。
 クリントン政権のとくに東アジアに関する対外政策について、
菊池英博氏は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 クリントン政権では、ワシントン・コンセンサスの理念と戦術
 を駆使して、東アジアの主要国に金融資本市場の自由化を迫り
 相手国が準備不十分でも金融市場を利用して取引を活性化させ
 ていった。東アジア諸国は、冷戦中、民主主義陣営につき、ア
 メリカを中心とする軍事力で共産主義の侵入を防衛してきた。
 その結果、東アジアの国内には官民の富が蓄積し、アメリカは
 その富を収奪する戦略を考えてきたのである。
     ──菊池英博著/『そして、日本の富は略奪される/
   アメリカが仕掛けた新自由主義の正体』/ダイヤモンド社
―――――――――――――――――――――――――――――
 クリントン政権では、日本を含む東アジア諸国に対し、かなり
強引な手法でワシントンコンセンサスを飲ませる卑劣極まりない
戦略を展開したのです。その基本的な手順は次の3つです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.東アジア諸国の行政機構に「シカゴボーイズ」を送り込
   み、内側からの説得で、米国の思う方向に向かわせる。
 2.APEC(アジア太平洋経済協力)の場を利用して、国
   別に金融資本市場の自由化と規制緩和を求め説得する。
 3.東アジアに通貨危機を起こさせ、それらの国がIMFに
   支援を求めると、ワシントンコンセンサスを飲ませる。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで「シカゴボーイズ」というのは、新自由主義の思想を各
国に伝播する役割を持つ人物です。米国は、ターゲットとする諸
国に密かにシカゴボーイズを送り込んでいますが、米国人とは限
らず、その国の人間を教育してシカゴボーイズに仕立てることも
あるのです。ミルトン・フリードマンがシカゴ大学の教授であっ
たことからその名で呼ばれています。現在の安倍政権にも多くの
シカゴボーイズが入り込んでおり、日本もかなり新自由主義に染
まりつつあります。
 また、1997年のアジア通貨危機が米国が仕掛けたものとは
断定できませんが、その原因が、タイ・バーツの急落をきっかけ
に、ヘッジファンドなど欧米の投機筋が一斉にアジア諸国から短
期資金を引き揚げたことが直接的な引き金になって起きており、
米国が意図的に起こそうと思えばできるのです。
 何よりもその結果、アジアの多くの国がIMFの援助を受けた
ことにより、米国が望むワシンンコンセンサスに従わざるを得な
くなったことで、米国の利益に繋がっているのです。韓国などは
その被害国のひとつであると思います。明日のEJでは、米国の
手口について考えます。    ──[新自由主義の正体/33]

≪画像および関連情報≫
 ●日本繰り対策班/きなこのブログ
  ―――――――――――――――――――――――――――
  世界帝国アメリカの尖兵として属国日本の政・官・財・学・
  マスコミを、思うがままに動かしてきた「日本操り対策班=
  ジャパン・ハンドラーズ」。ロバート・ゼーリックは、麻生
  政権で財務・金融大臣だった国士の中川昭一を、篠原尚之財
  務官と財務省国際局長だった玉木林太郎と、その愛人の読売
  新聞経済部の越前谷知子を使い、ワインに薬物を入れてフラ
  フラ(朦朧)会見をさせ失脚させた。ロバート・ゼーリック
  は竹中平蔵を操った一人でもある。小泉純一郎より竹中のほ
  うがアメリカから直接指令を受けていた。ブッシュ前政権で
  は国務副長官になろうとしていたが、中国でハニー・トラッ
  プ(女性問題)に引っかって、国務副長官を辞めた。ところ
  がその後、不思議なことに世界銀行の総裁になった。ゼーリ
  ックもまた、“皇帝”デイビッド・ロックフェラーの直臣の
  ひとりだからだ。竹中平蔵の育ての親だったのは、ピーター
  ソン国際経済研究所(IIE)というシンクタンクの所長で
  あるフレッド・バーグステンだ。バーグステンが竹中にずっ
  と目をかけてアメリカに資金を貢がせる係として教育した。
  (それを見抜いた植草一秀氏を、竹中は手鏡痴漢事件で陥れ
  た)バーグステンは1985年の「プラザ合意」(先進国為
  替密約)の下書きを書いた張本人でもある。
                  http://amba.to/1pqEgZf
  ―――――――――――――――

菊池英博氏の著書.jpg
菊池 英博氏の著書
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2014年06月26日

●「アジア通貨危機でのIMFの対応」(EJ第3820号)

 アジア通貨危機とは、1997年7月からタイを中心に始まっ
たアジア通貨の急激な通貨下落現象のことです。これによりタイ
インドネシア、韓国は、経済に大きなダメージを受け、IMFの
管理下に入ったのです。
 1997年7月2日のことです。タイの通貨バーツがたった一
晩で、25%急落したのです。原因は、それまでタイに大量に流
入していたヘッジファンドをはじめとする投機資本が一斉に流出
したことです。
 ヘッジファンドたちは、タイで一体何をやったのかについてご
紹介することにします。それが彼らの仕事であるといえばそれま
でですが、それは実に情け容赦ないものだったのです。
 まず、タイの銀行で「240億バーツ」の融資を受けます。そ
のときの相場は「1ドル=24バーツ」だったのです。それをド
ルに換えて10億ドルの現金を手に入れます。
 続いてヘッジファンドは相場を操作して、「1ドル=40バー
ツ」まで「ドル高/バーツ安」を仕掛けます。時期を見て一斉に
バーツを売り浴びせれば、タイ政府は買い支えられず、バーツは
確実に安くなるからです。
 そして「1ドル=40バーツ」になると、6億ドルをバーツに
換えて240億バーツをつくり、銀行に返済するのです。これで
ヘッジファンドの手元には4億ドルの現金が残ります。自己資本
ゼロで、たったの一週間で4億ドルですから、大儲けです。
 こういうことをさんざん繰り返して、タイミングを見て一斉に
投機資本を流出させるのです。タイではこの年GDPの7.9 %
に相当する額が流入から流出に逆転したのです。これは明らかに
周到に計画的に行われたもので、バックに時のクリントン政権の
財務省とFRBとIMFの影があるのです。
 この影響は、マレーシア、韓国、フィリピン、インドネシアへ
と拡大したのです。失業率はタイで3倍、韓国で4倍、インドネ
シアでは10倍に跳ね上がったのです。
 それらの国ではGDPは多く落ち込んだのです。1998年に
は、タイで10.8 %、韓国で6.7 %、インドネシアでは実に
13.1 %下落したのです。これによって貧困層は拡大し、韓国
の都市部では3倍、インドネシアでは2倍になったのです。
 本来こういう危機のためにIMFが存在するのです。しかし、
彼らのやったことは、危機を終息させるどころか拡大させている
のです。それも意図的にやっています。まさに「ハゲ鷹」です。
 IMFは、先進各国からの援助金も含めて1000億ドル──
12兆円を用意したのです。そしてこれを救済資金として提供し
危機に瀕した国々の為替相場を維持させようとしたのですが、こ
れに失敗したのです。
 それに援助資金の多くは、強制的に欧米の銀行への返済に回さ
れたので、その国への支援になどならなかったのです。しかも、
IMFは融資に際して例のワシントンコンセンサスを前提に、さ
まざまな細かな条件を付けたのです。
 IMFは、物価上昇率、成長率、失業率など100項目以上の
条件を設定し、しかもそれぞれに達成期限を設けているのです。
そのなかには、金融危機に何ら関係ないものも含まれていたので
す。例えばインドネシアについては、政府が社会保障として実施
している食糧と貧困層が調理に使うパラフィン油への補助金の廃
止を要求しています。まさに血も涙もないえげつない要求をIM
Fは平然と融資の条件にしているのです。
 このとき、ノーベル経済学賞受賞のコロンビア大学のジョセフ
・E・スティグリッツ教授は、世界銀行のチーフ・エコノミスト
をしていたのですが、それがどういう結果を生むか十分わかって
いながら、IMFが金利を上げるよう条件を付けたことを問題視
しています。
 確かに外国資本の流入のためには金利の引き上げは、政策とし
ては間違っていないのですが、それも程度問題です。IMFの要
求はなんと25%以上引き上げよといったのです。
 アジア諸国の企業の多くは、自己資本の充実よりも銀行融資に
大きく依存しており、金利、それも25%以上というベラボーな
金利になれば商売にならず、倒産するしかなかったのです。
 こんな無茶苦茶な要求に対してもアジア諸国は融資を受けるた
めにはIMFの要求を受け入れざるを得なかったのです。その結
果、インドネシアでは、75%の企業が経営難に陥り、タイにお
いては、銀行融資の50%が焦げ付いたのです。もはや、いくら
高金利でも、貸付先がいつ倒産するかわからない状態では、海外
資本が流入するはずはないのです。
 また、IMFは、アジア諸国の金融機関の脆弱な体質を問題視
し、自己資本比率の基準を直ちに満たすよう要求し、それができ
ない銀行の閉鎖を求めたのです。銀行としては、これを達成する
には、次の3つの方法しかなかったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       1.株主から新しい資本を集める
       2.融資条件を厳しくし貸さない
       3.貸付先企業に返済を要求する
―――――――――――――――――――――――――――――
 このようなことが金融危機に陥った国の銀行にすぐにできるこ
とではないのです。とくにインドネシアではこれによって16の
銀行が閉鎖され、預金者たちはパニックに陥り、一斉に国営銀行
に預金を移したので、民間銀行は次々に潰れたのです。
 インドネシアの場合は、これで終わらなかったのです。数万人
の国民が暴徒化し、多数の商店、銀行が襲撃され、放火され、大
火災になったのです。スティグリッツ教授は、IMFにそんなこ
とをすれば「どんな悲劇が起こるかわからない」と警告した通り
のことがインドネシアで起きてしまったのです。これに関しても
IMFは反省するどころか、平然としていたといいます。これが
クリントン政権の「世界を救う三銃士」が国外でやった新自由主
義化の悲惨な一例なのです。  ──[新自由主義の正体/34]

≪画像および関連情報≫
 ●ショック・ドクトリン/アジア通貨危機の場合
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ショック・ドクトリン(ナオミ・クライン著)の下巻に19
  97〜98にかけて起きたアジア通貨危機のケースが詳述さ
  れています。そのなかから、韓国の場合を中心として要点的
  に述べてみます。1997年のアジア通貨危機は、アジアか
  ら投機的短期資金がどっと逃げ出したことからはじまった。
  ウォール街の有力投資アナリストたちはこの危機を、アジア
  市場を保護している古い規制をすべて取り払うチャンスだと
  捉えたのである。その急先鋒モルガン・スタンレーのストラ
  ジスト、ペロスキーは、「危機がこのまま悪化すれば外資は
  すべて流出し、アジア企業は廃業に追い込まれるか、欧米の
  企業に身売りするしかないだろう」と述べている。モルガン
  ・スタンレーにしてみれば、どっちに転んでもうまい話であ
  る。FRBのグリーンスパン議長も公然と同じような見解を
  口にした。アジア経済危機を「わが国のような市場システム
  にたいする合意に向けた画期的な出来事」だと表現し、「今
  回の危機はアジア諸国に、いまだ多く残る政府主導型経済シ
  ステムの撤廃を促進するだろう」と述べた。IMFのカムド
  シュ理事も、似たような見解を示した。「今回の危機はアジ
  アにいまだ残る古い殻を脱ぎ捨てて新たに生まれ変わるチャ
  ンス」だと語った。IMFは危機発生の原因に一切目を向け
  ることなく、弱みに付け込んで、危機に陥った国が援助を請
  うよう仕掛けたのである。     http://bit.ly/1p9nwda
  ―――――――――――――――――――――――――――

ワシントンコンセンサスの設計者.jpg
ワシントンコンセンサスの設計者
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2014年06月27日

●「マレーシアは金融危機に独自対応」(EJ第3821号)

 アジア通貨危機で韓国、インドネシア、タイのようにIMFの
援助を受けず、独自のやり方で危機を脱出した国があります。そ
れはマハティール首相率いるマレーシアです。
 マレーシアでは危機以前は「1ドル=2.5 リンギット」だっ
たのですが、1998年2月には「1ドル=4.2 リンギット」
まで通貨は暴落したのです。
 マハティール首相は、「1ドル=3.8 リンギット」に固定す
ることで通貨の安定を図る一方、財政支出を拡大し、金利の引き
下げを断行して景気刺激策を行ったのです。
 これは、IMFの支援を受けた国とは真逆のやり方ですが、こ
れこそが正しい経済政策なのです。IMFは、支援を求めた国の
経済をワシントンコンセンサスであえて破壊させ、その国を新自
由主義化しようとしたからです。
 それだけではないのです。外国資本の引き上げを12ヶ月間凍
結したのです。IMFのエコノミストたちは、そんなことをした
ら、外国からの投資は激減し、株価が下落して大変なことになる
として猛反対をしたのです。そして次のようにいってマレーシア
を批判したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  マレーシアは根本的な問題に対する対処を先送りしている
―――――――――――――――――――――――――――――
 これに対して、スティグリッツ世界銀行チーフエコノミストは
直接的な取引規制よりも、国外に流出する資本に税をかける「出
国税方式」への転換を提案したのです。税金ならば段階的に規制
を調節できるからです。
 マレーシアはこれを受け入れ、出国税方式を採用しています。
この規制によって投機資本の攻撃から通貨リンギットを守り、金
利は低く抑えたので、企業倒産をごく少数に抑えることに成功し
たのです。そして1年後に危機を終息させ、約束通り出国税を撤
廃しています。
 実は、このアジア通貨危機に対し、1997年8月のG7で日
本は、こういう通貨危機のさいのバックエンド対策として、「ア
ジア通貨基金構想」(AMF)を非公式ながら、打ち出したので
す。これは、参加国の拠出で資金をプールし国際的な通貨基金を
設立することで、外貨不足に陥った国を支援するなど流動性を確
保しようとするものです。そして、日本はこのために1000億
ドルを用意することを発表したのです。
 このとき、各国の説得に動いたのは、当時の榊原英資大蔵省財
務官と現日銀総裁の黒田東彦氏です。これに対して、IMFのカ
ムドシュ専務理事は一応賛意を示し、韓国、ASEAN諸国の賛
同は得られたのですが、慌てたのは米国です。
 クリントン政権は、「日本にそんな勝手なことはさせない」と
ばかり、猛烈に潰しに出たのです。そんなものができれば、ワシ
ントンコンセンサスが無意味化するし、日本が東アジア地域で勢
力を拡大することを懸念したのです。
 早速一度は賛意を示したIMFのカムドシュ専務理事は一転反
対に転じ、米国は中国と一緒になって、「IMFとの重複や規律
の緩みの懸念」を主張し、潰されてしまったのです。これについ
て、スティグリッツ教授は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本が、IMFの行動に強く不賛成の意を示していたのは広く
 知られるところだった。私は何度も日本の上級官僚と会談して
 いたが、彼らはそこでIMFの政策にたいする疑念を表明して
 いた。それは私自身の疑念とほとんど同じだった。(一部略)
 アジア通貨基金のぶちこわしはいまでもアジアで恨まれており
 多くの役人が怒りをこめて私にその話をしたものだ。危機の3
 年後、東アジア諸国はついに結集してアジア通貨基金にかわる
 ものをつくりはじめた。今度はひそかに、もっと穏健なかたち
 で制度づくりがなされ、名称もあまり害のないように、創設が
 決まった場所であるタイ北部の都市の名をとって「チェンマイ
 ・イニシアティブ」と名づけられた。
                   http://bit.ly/1pGmzGZ
―――――――――――――――――――――――――――――
 このように見て行くと、米クリントン政権が、東アジア諸国、
とくに日本に対して、いかに冷たい政権であったかがわかると思
います。クリントンは、レーガン政権、ブッシュ(父)政権に続
く新自由主義に基づく経済政策で米国の経済を体直したのではな
く、ケインズ主義的政策を採用しているのです。しかし、新自由
主義の思想や政策を戦略的に対外的に拡大し、多くの国を不幸に
陥れているということができます。
 しかし、クリントン政権も経済政策で大きなミスを犯している
のです。それは、1999年に「新銀行法」──グラム・リーチ
・ブライリー法を成立させたことです。
 「新銀行法」は、銀行業と証券業を制度的に分離したグラス・
スティーガル法(1933年成立)を廃止して、持ち株会社の下
に銀行業と証券業がぶらさがる金融会社組織を作ることを許すも
のです。これは、新自由主義に基づいた法律といえます。
 しかし、この法律制定後の2008年9月に、リーマンショッ
クが起きることになるのです。
 クリントン大統領は、歴代の米国の大統領のなかでは一番の親
中国の大統領といわれています。同盟国の日本に対しては、円高
を強力に推し進め、「スーパー301」に基づく市場開放を要求
しておきながら、中国に対しては中国の強い要望を受け入れ、そ
れまで「1ドル=5.72 人民元」であった外国為替相場を一挙
に60%も切り下げて、「1ドル=8.72 人民元」にすること
を承認しています。
 クリントンは、日本の経済力を弱め、何とか二流国家に落して
やろうと考えていたのです。そのために中国の輸出競争力を強化
しようとして、中国に便宜を図ったのです。同盟国に対する配慮
などゼロです。        ──[新自由主義の正体/35]

≪画像および関連情報≫
 ●クリントン政権の犯罪的反日政策の真相
  ―――――――――――――――――――――――――――
  クリントン政権はその誕生時から中国工作機関から政治工作
  資金を大量に秘密裏に得、在米中国人団体の選挙協力などに
  より現職ブッシュを破って大統領になることが出来た。そし
  て中国工作機関はその見かえりとして徹底的な反日政治工作
  をクリントン政権に行わせた。中国工作機関は例えばクリン
  トン民主党政権への選挙工作資金提供のためインドネシア華
  僑財閥リッポー財閥経由多額の資金を注入しそのバーターと
  して反日親中国の経済外交政策の実施を働きかけたと言われ
  ている。この事実は国際情勢を知るものは誰でも知っている
  有名な事実だが、日本のマスコミはこの事実を完全に隠蔽し
  ており、中国とクリントン政権の腐敗した関係を一切報道し
  ていない。尚、この事実は藤井厳喜氏の著作”アメリカ株急
  落日本株急騰する日(日新報道)”でも書かれているので興
  味のある人はこの本を読まれると良い。米国民主党への中国
  共産党の工作は継続しており、先のブッシュ・ゴア大統領選
  挙の際にもゴア民主党陣営に多額の選挙工作資金が中国から
  色々なルートで流されたと言われている。中国の在米工作拠
  点は、在米中国人ロビー団体の客家百人委員会等が有名であ
  る。米国のテレビ番組でも報道されて有名になったが、在米
  中国人の仏教団体からの寄付金を経由して中国からの工作資
  金が流れたといわれている。    http://bit.ly/T4dhaV
  ―――――――――――――――――――――――――――

マレーシア/マハティール元首相.jpg
マレーシア/マハティール元首相
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2014年06月30日

●「戦時総力戦経済体制とは一体何か」(EJ第3822号)

 日本の新自由主義化は、欧米とは約10年遅れてはじまってい
ます。英国のサッチャー改革やレーガン改革の時期の日本の政権
は、1982年誕生の中曽根政権です。
 中曽根政権は「戦後政治の総決算」を唱え、行政改革を強く推
進した内閣として知られています。そのため、日本の新自由主義
化のはじまりは、中曽根行革からであるという学者がいますが、
そうではないのです。というのは、当時の日本は、どうしても構
造改革をやらざるを得ないような状況に陥っていなかったからで
す。そのため、中曽根行革は、「新自由主義の早熟な先取り的試
み」として位置づけられるのです。
 レーガン政権発足の時点で経済が突出して好調であった先進国
は、日本と西ドイツであったのです。とくに日本は、1970年
のニクソン・ショックによる円高でも輸出は好調で、その後のオ
イルショックも乗り越え、経済は絶好調であったのです。
 レーガン大統領は、日米の経済協議を踏み込んで議論したいと
「日米構造協議」の開催を提案してきたのです。中曽根首相はこ
れを受け入れ、日米両国に「日米円ドル委員会」が設置されたの
です。米国の狙いは、日本の金融資本市場の開放と自由化によっ
て、経済・金融面で日本をコントロールすることです。1983
年のことです。
 また、レーガン政権は、日本と西ドイツに、金融緩和と内需拡
大を迫ったのです。このとき、西ドイツはインフレを懸念し実施
を渋ったのですが、中曽根首相はそれを前向きに受け止め、日本
の内需拡大の政策に関する報告書を米国に提出したのです。これ
が世にいう「前川レポート」です。
 当時の自民党は田中派に牛耳られており、田中曽根首相ともい
われていたのです。そういう意味で、中曽根首相はいわゆる政権
基盤が強くなかったのです。こういうとき戦後日本の首相が必ず
やることは、米国との関係を良くすることです。中曽根首相とし
ては、レーガン大統領と親密になることが、長期政権の道を拓く
と真剣に考えたのです。
 そこで、中曽根首相は、元日銀総裁の前川春雄氏を座長とする
諮問会議をつくり、米国の意向を組んだ次の報告書を作成させた
のです。このとき、日銀副総裁だった三重野康氏と営業局長だっ
た福井俊彦氏も執筆に参加しています。彼らはいずれも後に日銀
総裁になっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
  「国際協調のための経済調整研究会報告書」
  ≪報告書の骨子≫
   1.市場原理主義をベースとして内需拡大策をとる
   2.金融・資本市場を自由化し、円の国際化を進展
―――――――――――――――――――――――――――――
 1986年、中曽根首相は訪米し、レーガン大統領に会ってい
ます。「前川レポート」の趣旨を説明し、米国の意向に従うこと
を約束するためです。土産を持って参勤交代的に訪米し、恭順の
意を示したのです。そのおかげもあってか、レーガン大統領と中
曽根首相の仲は「ロン・ヤス関係」と呼ばれ、その良好さは評判
になったものです。
 前川レポートは、日本の経済構造の改革を訴えているのです。
製造業からサービス業へ、輸出主導型から内需主導型に、大幅な
規制緩和と自由化へと構造を変えるべきであると訴えています。
要するに、戦時経済システムを構造改革して、米国流の自由市場
経済にするべきであると主張しているのです。これは、後の小泉
改革と酷似しています。つまり、本当の意味の日本の新自由主義
化は小泉内閣のときからはじまっているのです。
 さて、ここで日本人は考えるべきことがあります。多くの日本
人は、戦後の日本の急速な復興は、米国のもたらした民主主義に
よるものと考えていると思います。しかし、それは違うのです。
それは、次の名称で呼ばれています。
―――――――――――――――――――――――――――――
          戦時総力戦経済体制
―――――――――――――――――――――――――――――
 この「戦時総力戦経済体制」は、対外的には「日本型経済シス
テム」と呼ばれる日本独特のシステムです。このシステムが戦後
の日本を急速に経済回復させ、日本を世界第2位の経済大国(当
時)に押し上げたのです。
 それでは、「戦時総力戦経済体制」とは何でしようか。
 これには少し説明が必要です。それに当時の大蔵省と日銀の暗
闘もこれに複雑に絡んできます。しかし、それを知ると、日本が
なぜ「失われた20年」ともいわれるデフレ不況に陥ったのかと
いう真相が見えてきます。実はEJでは、17回にわたって、こ
のテーマを一度取り上げているのですが、これはブログに掲載し
ていないので、新しい観点からリライトするつもりです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 2001年7月 4日付/EJ第651号〜
        2001年7月27日付/EJ第667号
―――――――――――――――――――――――――――――
 今になって考えると、「前川レポート」は「戦時総力戦経済体
制」を変える提言であったと考えられるのです。しかし、それを
実施することは、日銀がその体制の最大の既得権益機関のひとつ
である大蔵省に勝利することを意味していたのです。この問題に
は、日銀と大蔵省の暗闘がからんでいると述べたのは、そういう
理由によるのです。
 この「戦時総力戦経済体制」という言葉は、表立って使われる
ことはなかったのですが、奇しくも2人の大蔵官僚によって、明
らかにされたのです。2人の大蔵官僚とは、野口悠紀雄氏と榊原
英資氏のことですが、これについては、明日のEJで述べること
にします。なお、野口悠紀雄氏は1964年に大蔵省に入庁して
おり、大蔵官僚出身の学者なのです。榊原英資氏は大蔵省で財務
官まで出世しています。    ──[新自由主義の正体/36]

≪画像および関連情報≫
 ●「前川リポート」について/小宮隆太郎氏
  ―――――――――――――――――――――――――――
  東大医学部教授だった沖中重雄氏は1963年の最終講義で
  自分の「誤診率」は14.3 %だったと率直に語った。私自
  身の誤診率はどれほどだろうか。経済問題に関する発言での
  成績で言えば「クンロク大関」より少しましな九勝三敗三分
  けぐらいか。「引き分け」は、私も相手も「自分が勝った」
  と考えているケースである。86年の「国際協調のための経
  済構造調整研究会報告書」(前川リポート)は私の批判の相
  手方がまだ自分たちは正しかったと思っているので「引き分
  け」に入る。例えば加藤寛氏は「私の履歴書」で前川リポー
  トを「空想画」と批判した私に対して「批判者のように経済
  学の世界に閉じこもって、どうして政策論がでてくるのかが
  分からない」と反論している。金森久雄氏も同欄で「これが
  その後のバブル経済のもとになったという批判もある。恐ら
  くそれは正しくない」と書いた。私は日本の黒字を減らすた
  めの放漫な金融政策や、日米構造協議で政府が対外公約した
  「公共投資430兆円」がバブル経済の背景になっていると
  思う。私に言わせれば「前川リポート」は中曽根康弘首相が
  訪米してレーガン大統領に会うときに、「恭順の意」を表す
  ためにアメリカ側が気に入るようなことを書いて持っていっ
  たという感じである。同リポートに対して、C・ヤイター米
  通商代表は「首相が訪問国の喜びそうな報告を発表するのは
  日本のいつものやり方だが、危険なゲームだ」と批判した。
  書いてある中身も経済学的な批判に堪えない間違ったことば
  かりだ。             http://bit.ly/1qkzSPp
  ―――――――――――――――――――――――――――

前川春雄元日銀総裁.jpg
前川 春雄元日銀総裁
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2014年07月01日

●「戦時経済体制が支えた日本の復興」(EJ第3823号)

 「戦時総力戦経済体制」という言葉は、一橋大学経済学部教授
の野口悠紀雄氏が、当時大蔵省を離れて学者をしていた榊原英資
氏と共著で書いた次の論文のなかで、使われています。
―――――――――――――――――――――――――――――
              野口悠紀雄/榊原英資共著
  「大蔵省・日銀王朝の分析―総力戦経済体制の終焉」
         『中央公論』/1997年8月号所載
―――――――――――――――――――――――――――――
 榊原・野口両氏は、この共著論文で、日本の経済体制の核心部
分として「大蔵省・日銀王朝の支配」を指摘し、この「王朝の支
配」に反対を唱えたのです。この大蔵省・日銀主導の「日本的シ
ステム」の廃止を主張した若き野口氏らの発言は、一部の論者に
好意的に評価されたのです。
 官僚主導経済として、日本の「構造」問題を指摘する野口氏ら
の手法は、前川レポートなどの政策提言、開発主義的な主張を展
開した村上泰亮元東大教授の「反古典の政治経済学」(中央公論
社/1992年)などに代表される強力な「同伴者」を得て、今
日では政府や論壇の中で一大勢力をもつまでになっています。
 また野口氏は、同じ意味のことを「1940年体制」という表
現を使っており、同名の著書も上梓しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
           野口悠紀雄著/東洋経済新報社
    「『新版』1940年体制/さらば戦時体制」
―――――――――――――――――――――――――――――
 「1940年体制」というのは、日本的な企業、経営、労使関
係、官民関係、金融制度など日本経済の特徴とされる様々な要素
が、1940年頃に戦時体制の一環として導入されたとする概念
であり、戦後も高度経済成長の原動力となるなど、きわめて有効
に機能したのです。戦後の日本の復興を支えたのは、この概念だ
というのです。
 唐突ですが、ここで問題です。次の国はどこの国でしょうか。
―――――――――――――――――――――――――――――
  この国はまじりけのない資本主義が特徴。この国では企業が
 外部資金を調達する主たる場は株式市場なのです。株主は非常
 に強力で、高い配当を要求します。そのために経営者は短期的
 利益を求める傾向があります。
  経営役員の多くは社内から選ばれず、外部の者が任命される
 のが通例です。強烈な企業買収戦のために経営者はいつ企業買
 収の攻撃を受けるかわからないので不安です。もし、業績を上
 げなければ、即座に地位を追われる可能性があるのです。
  この国の労働市場では採用・解雇が頻繁に行われ、従業員の
 転職率も高いのです。所得と富の格差は巨大です。貯蓄率は低
 く、消費が80%と国内総生産の最大部分を占めています。政
 府の規制は少ないし、官僚が経済に直接的な影響力を行使する
 ことは少ないのです。政策課題については激しい論争があり、
 国民は政治に強い関心を持っているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 実は、このクイズは2001年7月19日付のEJ第662号
で、私が出したものであり、再現です。当時熱心な何人か読者か
ら回答をいただいたのですが、正解者はゼロだったのです。
 「米国」という答えが多かったのですが、正解は「1920年
代の日本」なのです。1920年は大正9年です。当時の日本は
実は自由放任の経済システムを有し、純粋な自由市場資本主義の
国だったのです。企業は必要に応じて中途採用を行い、必要がな
いと判断したときは容易に解雇したのです。従業員の方も、より
良い職場があれば躊躇なく辞め、条件の良い職場に移ったので、
転職率は1980年代の日本に比べて3倍以上になっています。
 それに1920年代には本物の資本家がいたのです。個人や一
族が企業の株式の相当部分を保有していたのです。どの株式でも
個人株主が大半を占めたのです。1990年代初期の個人株主の
比率は15%以下であり、対照的です。
 驚くべきことはまだあります。大企業の取締役の大多数は社外
重役であり、いずれも株主から送り込まれた人たちです。これに
対して、1990年代は大企業の取締役の90%以上が社内の企
業経営陣から選ばれていることはご承知の通りです。
 1920年代において株主の力が強かったのは、企業が資金の
半分以上を株式市場で調達していたからです。この時代の株主は
高い配当を要求し、企業は利潤のできるだけ多くを配当として支
払わなければならなかったのです。
 どうでしょうか。信じられるでしょうか。当時の日本と現在の
日本は、なぜかくも変貌してしまったのでしょうか。
 その理由ははっきりしています。それは「戦争があったから」
なのです。戦争によって日本は戦時経済に移行することになり、
1920年代の経済体制とは大きく変わらざるを得なかったので
す。それに、1920年代が深刻なデフレ経済であったことも、
当時の経済体制を変えようという方向に強い力が働いたことも事
実なのです。
 そして1929年に米国で大恐慌が起こり、世界中の経済が混
乱し、失業者が街にあふれるという事態が発生。これによって、
資本主義体制に疑問が出てきたのも、ちょうどこの頃なのです。
政府があまり介入できない自由市場資本主義が、果たしてうまく
やっていけるのかという疑念が起こっていたのです。当時、ソ連
は大恐慌の影響をほとんど受けず、失業者も出ていなかったから
です。資本主義に対する疑問が起きていたということも経済体制
の変わる前兆だったといえます。
 野口氏のいう「1940年」という年は昭和15年。実は、東
京オリンピックが開催されることになっていたのです。ところが
日中戦争の影響などで日本はオリンピックを返上しています。そ
して、1941年には太平洋戦争が勃発するのです。まさに「戦
時総力戦経済体制」です。   ──[新自由主義の正体/37]

≪画像および関連情報≫
 ●「1940年体制/さらば戦時体制」/書評
  ―――――――――――――――――――――――――――
  とても面白かった。この本が指摘することは、通常、我々は
  戦後改革や民主化がその後の日本の繁栄を準備し、経済復興
  と高度経済成長の基となったと教えられているし、考えてい
  る。しかし、そうした面ももちろんあるものの、日本型経済
  システムの多くは、実は1940年前後につくられている。
  つまり1940年前後の戦時経済・国家総動員体制期につく
  られたシステムこそが、戦後から今に至る日本の本当の生み
  の親で我々にとって本質的な意味を持っているということで
  ある。日本型経営システムと呼ばれている、終身雇用・年功
  序列・従業員中心主義、さらに企業別労働組合。公団・公庫
  といった官僚の天下り先の機関。現在の源泉徴収制度や、所
  得税中心・直接税中心の税体系。地方交付税や補助金。それ
  らは皆この1940年前後につくられた。1930年頃まで
  はかなり自主財源を持ち強い権限のあった地方自治体は、完
  全に中央集権的な政府の統制のもとに組み込まれた。直接金
  融ではない、間接金融を中心としたシステムもこの時期の産
  物。食糧管理法、借地借家法も。敗戦によっても40年体制
  は、特に大蔵省などの経済官僚、および金融体制は、無傷で
  連続して存在した。以上のことが、この本の前半では明晰に
  説き明かされ、読んでいて目からウロコだった。戦後、40
  年体制において、人為的低金利政策と金融鎖国が行われ、そ
  の結果として重工業化が進められた。
                   http://bit.ly/1mplTQR
  ―――――――――――――――――――――――――――

野口悠紀雄著「1940年体制」.jpg
野口 悠紀雄著「1940年体制」
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2014年07月02日

●戦時経済体制で作られた新生日本(EJ第3824号)

 日本は第2次世界大戦の敗戦によって生まれ変わったと多くの
人は思っています。新憲法が制定され、公職追放が行われ、財閥
解体、農地改革、労働立法などの戦後改革によって、日本は奇跡
の戦後復興を遂げたと多くの人が思っています。そのなかにはも
ちろん経済の改革も含まれています。
 そういう意味で、日本人の多くは、「新生日本の誕生日は終戦
時であり、その親は戦後改革である」と考えていると思います。
しかし、それは違うようです。戦後改革に関しては戦時中の体制
の継続であると思われるからです。
 これに関して『1940年体制』の著者の野口悠紀雄氏は、同
書で次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、もし、われわれの出生が別の時であり、われわれの親
 が、別人であるとすればどうであろう?われわれは、「戦時期
 は忌まわしい「暗い谷間の時代」であり、民族の記憶から一掃
 すべきものである」と教えられてきた。満州事変の直前まで日
 本は近代化への道を歩んできたが、それ以降の軍部ファシズム
 の台頭によって、日本の歴史は正常なコースから逸脱したと。
 しかし、もし、その時期が現在の日本にとって本質的意味があ
 るものだとすれば、どうであろう?もし、戦時期の制度こそが
 われわれの本当の親であるとすれば?
             ──野口悠紀雄著/東洋経済新報社
        「『新版』1940年体制/さらば戦時体制」
―――――――――――――――――――――――――――――
 それは、戦時経済体制と戦後に占領軍主導でとられた体制を調
べてみるとわかるのです。そこには、ある意図によって、戦後体
制を1920年代のような自由市場資本主義にはあえて戻さず、
むしろ戦時中にとられていた体制を民主主義の旗の下に、巧妙に
維持する政策がとられていたといえるからです。
 どうしてそんなことができたかというと、戦時経済体制を作り
上げたエリート官僚たちが、戦後も引き続き指導的な地位に留ま
り、後には首相にまで就任するなど日本をコントロールしたから
です。日銀もその中で重要な役割を果たしているのです。このこ
とは後で詳しく説明します。
 1938年4月、国家総動員法案が議会に提出され、多くの反
対を押し切って成立します。この法律は国中のあらゆる物資の動
員を許すというものであり、具体的な内容は政令で定めるという
事実上白紙委任状に等しいものだったのです。
 この時期国を動かしていたのは軍部ですが、軍人は経済に疎い
ので、経済・財政新体制の運営はエリート官僚たちの手に委ねら
れたのです。国家総動員法によって彼らは、何でもできる権限を
手に入れたことになります。
 1940年にこれら日本の官僚は、次の3つの柱から成る新経
済体制を宣言したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
           1.新金融体制
           2.新財政政策
           3.新労働体制
―――――――――――――――――――――――――――――
 これら3つ全体の調整機能は、1937年に設立された企画院
が握ることになったのですが、この企画院はいわば軍事経済の参
謀本部の役割を果たしたのです。
 この新経済体制の狙いは、簡単にいうと、個人が貯蓄し、企業
は利益を再投資する経済機構を作ることにあったのです。そして
そのためのインセンティブを与えることもその狙いなのです。
 株主の目標は利潤を多く得ることです。株主が一番関心を持つ
のが高い配当であるとすると、企業が再投資する資金はなくなり
経済成長は遅れることになります。この論理から、株主は成長に
とっていちばん邪魔な存在であるということになります。
 一方、経営者は企業内部で出世すると威信が高まり、企業の資
源に対して大きな権限をふるうことができます。株主と労働者の
目的は経済成長には結びつかないものの、経営者の目標は経済成
長を促進する国家の目的と一致するのです。
 要するに、株主と労働者の力を奪い、経営者の力を強めてやれ
ば経済成長を促進できる――1930年代の為政者はそのように
考えたわけです。しかし、労働者の力を収奪しすぎると、その不
満が共産主義に結びつく恐れがあり、むしろ労働者に企業内部の
事柄に対する発言力を強めるようにし、会社家族主義のイデオロ
ギーを植え付けるべきであるというように考えたのです。
 結局、成長に一番の障害になるのは株主ということになり、大
企業が優勢に立つ経済では、資本家なしの資本主義が一番ベスト
であるという結論に達したのです。
 戦前の為政者たちは、これをひとつずつ実行に移します。経営
者の地位は引き上げられ、株主の権限は縮小されます。企業は株
主の所有物ではなく、そこで働く者の共同体であるということに
なり、配当の伸びに制約が加えられるようになったのです。
 このようにして、1920年代の経済体制から、現在の日本に
近い体制──「日本型経済システム」が作り上げられていったの
です。問題はそれが終戦後も変更されることなく継続され、日本
の戦後復興に貢献したことです。これらの諸改革について、野口
悠紀雄氏は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 戦時経済体制については1940年前後に集中してなされた。
 この時期は日本が太平洋戦争に突入する直前であり、総力戦を
 戦うためにさまざまな準備が必要だったのである。そこで、こ
 の時期に形成された経済体制を「1940年体制」と呼ぶこと
 が出来よう。それらが、現在に至るまで日本経済の基本的な仕
 組みを形成している。    ──野口悠紀雄著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
               ──[新自由主義の正体/38]

≪画像および関連情報≫
 ●野口悠紀雄著『1940年体制』の書評/その2
  ―――――――――――――――――――――――――――
  『これは歴史認識を持つために重要な書物であり、読まねば
  ならぬ』とずっと思っていたが、やっと時間を作って熟読し
  た。内容は重いが、歴史の面白さをこれほど強く感じたこと
  はない。今の日本を作ったのは、戦中に総力戦遂行のために
  強権発動で整備されたシステムであり、その意味で日本は戦
  時体制が終わっていない、というのが本書の主張であり、非
  常に説得力があり同感できるものだった。一般的に、終戦に
  よって大きな断絶があり、占領軍による戦後改革こそが今日
  の日本を形作る原型となった、との考えが一般的だが、本質
  的な断絶は、戦前と戦中の間にあったというのだ。なかでも
  重要なのは1940年の税制改正で、戦費調達のために導入
  された給与所得の源泉徴収制度、そして地方への補助金・交
  付税による支配体制だった。GHQは金融改革、官僚改革を
  やらなかったのである。有権者意識を奪う巧妙な手段として
  普段なにげなく徴集方法に不満を持っていた源泉徴集制度の
  起源が戦中にあったとは全く知らなかった。戦争に勝つため
  のシステムは、経済に勝つためのシステムにもなり得た。こ
  の歴史の皮肉が何とも興味深い。また、経済成長を終えた今
  の日本が抱えている様々な弊害も、この勝つためのシステム
  (=供給者優位のシステム)に根を持ったものであり、それ
  が受益者にとって様々な不都合を生んでいるのだということ
  を、どれだけの人が認識しているだろうか。
                   http://bit.ly/1x82wDP
  ―――――――――――――――――――――――――――

野口悠紀雄氏.jpg
野口 悠紀雄氏
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2014年07月03日

●「戦時改革プランの設計者は岸信介」(EJ第3825号)

 戦時総力戦経済体制の話を続けます。なお、歴史上の人物につ
いては敬称を省略させていただきます。
 1930年代後半の日本──1937年に中国との戦争が激化
し、その4年後の1941年に太平洋戦争が勃発します。こうい
う非常時の経済をどうするか──それは国家総動員をしてでも、
経済成長を促進する必要があったのです。
 その理論武装をしたのは、軍部と大量失業時代に入省した若き
革新官僚たちだったのです。彼らは軍部と一体になって、日本の
構造改革に取り組んだのです。これによって構築されたのが「戦
時総力戦経済体制」なのです。
 まず、必要なことは、当時強大な権限を有していた株主の力を
奪うことです。この目的のために、1943年10月に会社法が
改正され、「軍需会社法」が成立したのです。これによって、企
業経営における株主の影響力は消滅したといえます。
 株主配当は厳しく抑えられ、利潤の大半は再投資と経営者の報
酬、従業員の給与、それに生産性向上に対して与えられる褒賞に
分配されることになったからです。
 このシステムによって経営者と従業員の報酬が当然増えること
になりますが、国家非常時にあまり多額の報酬を受け取るのはま
ずいため、勤続年数に応じて報酬を受け取るシステムを導入した
のです。これが年功給の始まりです。その他、企業福祉制度とし
ての健康保険制度、労働者年金保険制度なども、すべてこの時期
にできているのです。
 そして、企業を管轄する官庁としての商工省は企画院と合併し
軍需省が誕生します。これによって、株の大半を政府が持つ国策
会社が1937年の27社から1941年には154社に増加す
ることになったのです。
 その結果、軍需産業が繁栄し、個人が消費する商品やサービス
は著しく減少します。そこでこの段階で貯蓄が奨励され、全国貯
蓄奨励運動が開始されたのです。このようにして消費が巧妙に抑
えられ、家計部門の富は企業部門へと移されていったのです。
 この1937年から1945年までの構造改革によってほとん
どの企業は、利益ではなく、成長を目指す半官の事業に変貌して
しまうことになります。
 政治家に対しても手を打つ必要があったのです。政治の面にお
いて軍部と官僚は、政治家が口出しをすることを排除するため、
1940年に政党を廃止し、ほとんどの政治家はひとつの政党に
統合されたのです。この政党が大政翼賛会です。
 大政翼賛会が政党であるかどうかは議論があるところですが、
第2次近衛文麿内閣は、「基本国策要綱」を閣議決定し、「国防
国家体制」樹立の方針を確立したのです。1940年7月26日
のことです。これによって全政党が解散し、同年10月12日に
大政翼賛会が結成されたのです。
 ところで、この経済システムの真の立案者は一体誰なのでしょ
うか。このシステムは驚くほど一貫しており、論理的に整合性が
あり、無駄が一切ないのです。しかも、信じられないほど短期間
で作り上げられているのです。どうして、そんなことができたの
でしょうか。
 それはこの改革プランが、既に満州において実験済みであった
からです。「満州」といっても、若い人はピンとこないでしょう
が、満州は現在の中国東北部のことであり、当時日本が統治して
いたのです。ここには、陸軍の主力と戦時中のエリート官僚の多
くが駐留していたのです。そのエリート官僚の代表的な一人が岸
信介なのです。現在の安倍首相の祖父にあたります。
 岸信介は、満州を支配していたエリートの一人であり、軍需省
のトップ官僚だったのです。戦時経済システムの重要な立案者の
一人であるとともに、戦後日本経済の立案者の中心的存在である
といえます。
 岸は戦争中商工大臣を務めましたが、戦後は首相になり、その
あとで、やはり首相になる弟の佐藤栄作とともに、1972年ま
であわせて10年間も首相の座を独占したのです。この岸/佐藤
によって日本政治の保守本流が築かれ、それが田中角栄に受け継
がれていくことになります。
 戦時経済体制の立案者のエリート官僚の中に、もう一人忘れて
はならない人物がいます。中曽根康弘元首相です。彼は内務省出
身の官僚であり、若くしてこのプロジェクトに参加しています。
岸にしても中曽根にしても、若い頃からその優秀性は音に聞こえ
ていたのです。
 さて、問題は戦後なのです。GHQは次の3つの大改革を掲げ
て日本に乗り込んできたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
           1.財閥解体
           2.農地改革
           3.労働改革
―――――――――――――――――――――――――――――
 これによって、戦時経済体制はほぼ完全に解体したように見え
たものです。しかし、1952年4月に米国による日本の占領が
終了したとき、当初占領軍に課せられていた目標とは正反対の体
制が日本に出来上がっていたのです。野口悠紀雄氏は、この戦前
との連続性について次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 実際、政府機構における戦前との連続性は、驚くべきものであ
 る。消滅したのは軍部だけであり、内務省以外の官庁は、殆ど
 そのままの形で残った。大蔵省を始めとする経済官庁は、公務
 員制度改革によって部分的修正は受けたものの、ほぼ戦前と同
 様の組織を維持した。人事の年次序列においてでぇ、戦前から
 の完全な連続性が維持された。      ──野口悠紀雄著
 「『新版』1940年体制/さらば戦時体制」東洋経済新報社
―――――――――――――――――――――――――――――
               ──[新自由主義の正体/39]

≪画像および関連情報≫
 ●岸信介と安倍晋三はこれだけ違う/田中良紹氏
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「憲法改正」を堂々と議論することをせず、解釈改憲という
  「憲法の骨抜き」を画策する安倍総理に対し、安保条約の改
  訂で対米自立を追求した祖父の岸信介元総理との相似性を指
  摘する声が聞かれる。政治を右とか左とかで考える単純な人
  間にはそう見えるのかもしれないが、私には、「岸信介」と
  「安倍晋三」はまるで異なる次元の政治家に見える。と言う
  か、「岸信介」は政治家だが「安倍晋三」は政治家ごっこを
  しているだけに見える。「政治はアートである。サイエンス
  に非ず」と伊藤博文に手紙を書いたのは、海援隊で坂本龍馬
  の腹心を務め、明治政府では外務大臣となって「カミソリ」
  と綽名された陸奥宗光である。冷戦の時代が転換する激動の
  時期に日米の政治を比較して見てきた私にその言葉は絶妙の
  響きを持って聞こえる。政治には理屈では表現できない、手
  触りでしか分からない部分があり、単純思考で読み解くのは
  難しいのである。安倍総理から政治の「奥」を感ずることは
  全くないが、「昭和の妖怪」と呼ばれた岸元総理には「奥」
  を感ずるところが多い。80年代に政治記者として二度ほど
  お目にかかったことがあるが、何とも言えない不思議な魅力
  を感じた。オーラル・ヒストリー『岸信介証言録』(毎日新
  聞社)を読むと、その不思議な魅力がどこから生まれたかが
  分かる。             http://bit.ly/1iRx5G7
  ―――――――――――――――――――――――――――

岸信介元首相.jpg
岸 信介元首相

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2014年07月04日

●「昭和の妖怪岸信介は何をしたのか」(EJ第3826号)

 「日本の官僚は優秀である」とよくいわれます。それは一般論
としていわれることもありますが、本当は、戦前の大不況期に入
省したエリート官僚のことを指していう言葉なのです。そのリー
ダー的存在は、間違いなく岸信介であり、岸を取り巻く何人かの
革新官僚を指しているのです。
 岸信介の名前は、元首相でもあり、現安倍首相の祖父でもある
ので、一定の年齢以上の人は知っているはずですが、彼の戦時中
の活躍について知っている人はあまりいないと思います。
 岸は、1920年7月に東京帝国大学法学部法律学科(独法)
を卒業し、学者の道を勧められましたが、官界を選んでいます。
それも学業優秀でありながら大蔵省には入庁せず、二流官庁とい
われていた農商務省に入庁したのです。これは当時岸を知る関係
者にとって謎といわれています。
 当時世界では、第1次世界大戦からの過剰生産が原因で、戦後
不況が起きていたのです。そのとき日本は好景気だったのですが
戦後になってヨーロッパ列強が市場に復帰すると、日本は輸出が
一転して不振となり、余剰生産物が大量に発生し、株価が半分以
下に下落してしまったのです。このとき、銀行の取り付け騒ぎも
起きています。
 こういう背景を受けて、岸は日本経済を何とかしたいと考えて
大蔵省ではなく、農商務省に入省したのではないかと思われるの
です。岸が関心を持っていたのは、計画経済・統制経済です。時
代がそれを要求していたからです。1920年代の日本経済の状
況を次にまとめておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1920年代は「慢性不況」と称されるほどの長期不況が支配
 し、大戦期の花形産業であった鉱山、造船、商事がいずれも停
 滞して、一部の大企業は破綻し、重化学工業も欧米製品が再び
 流入して苦境に立たされることとなった。1920年代の「慢
 性不況」は、大戦景気と戦争直後のバブル経済的なブームのあ
 とにきた反動によるものと把握できる。 ──ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――――
 1925年に農商務省が商工省と農林省に分割されると、岸は
商工省に配属されたのです。1936年10月に満州国・国務院
実業部総務司長に就任し、満州に渡っています。
 1937年7月に産業部次長、1939年3月に総務庁次長と
岸は順調に出世しています。満州では「産業開発5ヶ年計画」が
既に作られていましたが、それを大蔵省出身で、当時国務院総務
長官を歴任し、経済財政政策を統轄した星野直樹と一緒に計画に
手を入れ、実施して成功させているのです。これが「戦時総力戦
経済体制」の原型になるのです。
 このとき満州を仕切っていたのは関東軍司令部です。岸は満州
に赴任するや、関東軍司令部に顔を出し、時の参謀長の板垣征四
郎中将に、満州国の経済、産業のことはわれわれ官僚にまかせて
欲しいと申し入れているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 私は別に日本の役所を食いつめてきたわけではないのです。私
 が見るに、関東軍が満州国の治安を維持するのに重大な責務が
 あることは分かる。しかし経済、産業の問題はわれわれ役人が
 分担してやるべきだと思うから、軍人はそういうことに携わら
 ないでもらいたい。それゆえ少なくとも経済、産業のことは私
 に任せてもらいたいのだ。         ──岩見隆夫著
       『昭和の革命家/岸信介』/人物文庫・学陽書房
―――――――――――――――――――――――――――――
 着任の挨拶としては、凄い発言です。当時泣く子も黙るといわ
れ、満州国の実権を握っていた満州国のボスの板垣にこれだけの
ことをいえたところに岸の凄さがあったのです。しかし、岸は関
東軍との関係は飲み会などを通じて良好に保ち、すべてを相談し
ながらやったので、何のトラブルも起こさなかったのです。当時
岸は満州の経済と産業を握っていた鮎川義介や松岡洋右を通じて
潤沢な軍資金を得ていたからできたことなのです。
 こういう付き合いを通じて、岸は、当時憲兵隊司令官の東條英
機をはじめ、日産コンツェルンの総帥の鮎川義介、椎名悦三郎、
大平正芳、伊東正義、十河信二らの知己を得て、軍・財・官界に
跨る広範な人脈を築き上げるのです。そして、満州国の5人の大
物「弐キ参スケ」の一人に数えられるようになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ◎ 弐キ ・・・ 東條英機、星野直樹
 ◎参スケ ・・・ 鮎川義介、岸信介、松岡洋右(ようスケ)
―――――――――――――――――――――――――――――
 かし、岸が満州にいたのは、たったの3年だったのです。帰国
後、岸は、1941年に東条内閣の商工次官、商工省が軍需省に
再編されると、国務大臣・軍需次官(軍需大臣は東條英機兼務)
のポストに就いたのです。
 このように岸はまさに戦時日本の寵児であったのです。そんな
岸を米国が戦争犯罪人リストに入れないはずがないのです。実際
に岸は、1945年9月15日、連合国軍に連行されたのです。
しかし、不思議なことに、1948年12月23日、A級戦犯の
うち東條英機元首相以下、7人が処刑されたにもかかわらず、翌
24日に岸は不起訴で釈放されているのです。
 なぜ岸信介は起訴されなかったのでしょうか。
 それはいまもって謎とされています。いくつかの説があります
が、岸がサイパン決戦をめぐって東條と激突し、辞任要求も突っ
ぱねたので、東條内閣は閣内不一致で総辞職に追い込まれたので
す。岸は、その後、郷里の山口県に帰ってからも、東條派の憲兵
に見張られながら、防長尊攘同志会という組織を作り、倒閣運動
を続けていたのです。米国はこのことを評価し、岸を不起訴にし
後に岸を戦後日本の復興に利用することを考えていたものと思わ
れます。米国は、岸信介の優秀さとその経験を高く評価していた
ことになります。       ──[新自由主義の正体/40]

≪画像および関連情報≫
 ●「岸信介と小沢一郎」/岩見隆夫著より
  ―――――――――――――――――――――――――――
  岸も、戦前、戦中、戦後にわたる言動を追ってみると、エピ
  キュリアン的な振る舞いといい、人を切り捨てるようなカミ
  ソリ発言といい、岸が心酔した幕末の志士、高杉晋作と二重
  写しになることがあった。岸は、維新回天の推進力になった
  長州で生まれ育ち、長州的バーバリズムを愛し、国家改造の
  野望を常に抱いて実践しようとした最後の長州政治家であっ
  た。岸よりも約半世紀(正確には46年)おくれて生まれて
  きた小沢(一郎)は、育った環境も時代も違うが、「明治維
  新への憧憬」という一点で岸と交わる。もし岸が存命なら、
  96歳を数えることになるが、「平成の妖怪」の気配もみせ
  てきた小沢と、そのグループの『日本改造計画』(小沢の著
  書名)に声援を送ったのではなかろうか。剛腕といえば、日
  米安保改定をあの怒涛のような反対の嵐のなかで手がけた岸
  は、評価はともあれ歴代首相のなかで剛腕のうちに入る。戦
  後の政治リーダーたちは、ほとんど調整型で占められている
  が、岸と小沢は例外的に信念型であり、最近の小沢のロから
  は、「百万人といえども我ゆかん」などと、古風なセリフま
  で洩れるのである。岸の再来のような印象もある小沢の変革
  運動が、長期的にみて日本の幸せにつながるかどうかは、な
  んともいいがたい。だが、明治維新が避けがたい開国への時
  代的要請を背景としていたように、平成のいまが「第二の開
  国」を強く求めていることは間違いない。
                ──岩見隆夫著の前掲書より
  ―――――――――――――――――――――――――――

岩見隆夫氏の本/「岸信介」.jpg
岩見隆夫氏の本/「岸信介」
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2014年07月07日

●「日本の官僚制度はなぜ残ったのか」(EJ第3827号)

 戦前の日本社会における主要な構成要素を上げると、次の3つ
になります。
―――――――――――――――――――――――――――――
            1.軍 部
            2.財 閥
            3.官僚制
―――――――――――――――――――――――――――――
 このうち「軍部」の解体はもちろんのこと、財閥も解体された
のですが、官僚制──とくに経済官僚については、ほとんど手つ
かずに残ったのです。これは、戦後改革における大きな謎といわ
れています。
 しかし、当時「官庁中の官庁」といわれ、地方行政・警察・土
木・衛生などの国内行政を担っていた内務省は、強引ともいえる
解体が行われ、1947年12月31日に消滅したのです。
 日本の官僚組織は、終戦が決まるや、自らの生き残り策を練り
占領軍に対して巧妙に立ちまわったのです。その典型は軍需省で
す。終戦当時の軍需省次官は椎名悦三郎ですが、その前任者は岸
信介です。
 椎名は、終戦の10日後に、一晩のうちに軍需省を解体し、商
工省を復活させているのです。おそらく、岸信介のアドバイスが
あったものと思われます。軍需省の文官たちは、占領軍による免
職や逮捕を免れるため、あらかじめ、商工省出身者と軍人を区別
して準備していたのです。その結果、商工省はほとんど無傷で存
続できています。
 それでは、内務省はどうして徹底的に解体されてしまったので
しょうか。
 これについて、野口悠紀雄氏の本に、当時の内務省文書課長で
あった萩田保氏の証言が掲載されています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 われわれ自身、八つ裂きにされようとは夢にも思っていなかっ
 た。これほどまでに解体された理由は二つある。ひとつは、内
 務官僚の中に英語の達者な人間がいなかったこと。内政ばかり
 考えていたから、英語など必要ないという風潮が内務省の中に
 あって、これが大蔵省のようにうまく立ち回れなかった最大の
 理由だ。第二は、内部の不統一だ。建設省の前身の土木局の連
 中は、とにかく内務省から独立して省になることを願っていた
 し、警察庁の前身の警保局は、自分のところの「特高」がどう
 なるかと足下ばかり見ていた。これではズタズタにされてもあ
 たり前だった。             ──野口悠紀雄著
 「『新版』1940年体制/さらば戦時体制」東洋経済新報社
―――――――――――――――――――――――――――――
 戦前の日本の官僚制がほとんど無傷で残ったのには、次の理由
があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
     1.占領軍が間接統治方式をとったこと
     2.占領軍の改革プランが不十分なこと
     3.日本についての研究が不十分なこと
     4.日本の官僚側の準備がよかったこと
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1の理由は「占領軍が間接統治方式をとったこと」です。
 日本にとって何よりも幸運だったことは、進駐した占領軍が日
本政府を介して間接統治方式をとったことです。ドイツの場合は
ナチスに憎悪を抱くユダヤ人のグループの影響力によって中央政
府の解体が行われ、国土の分割占領が行われています。しかし、
日本を戦略上の重要な拠点と考えていた米国は、あまり過激な統
治をするつもりは最初からなかったのです。
 第2の理由は「占領軍の改革プランが不十分なこと」です。
 日本占領の目的は、武装を解除し、日本が再び米国を脅かす存
在にならないようにすることにあり、旧体制の破壊も、資本主義
体制そのものの変革を目的としていなかったのです。したがって
日本の経済システムはそのまま残されたのです。
 第3の理由は「日本についての研究が不十分なこと」です。
 第2次世界大戦が突然終わったので、米国は日本についての研
究が不十分なまま占領することになり、日本改革の具体的なプラ
ンを作る時間的余裕がなかったし、そのための人員も大幅に不足
していたのです。とくに日本の官僚制度に関しては、十分な知識
がなく、官僚制の処遇や処置については皆目見当がつかない状態
だったのです。
 第4の理由は「日本の官僚側の準備がよかったこと」です。
 こういう占領軍側に対して、日本の官僚側の対応は非常に迅速
で、的確なものであったのです。焦点になったのは「国家公務員
法」の改革です。日本側は改革案をGHQに提出したのですが、
ブレイン・フーバーを団長とする顧問団は、職階制の確立と人事
院の新設、公務員の労働権の制限などを取りまとめ、時の片山内
閣に、無修正で数週間以内に立法化せよと命令して、フーバーは
米国に一時帰国したのです。1947年6月のことです。
 ここからが日本の官僚のうでの見せ所です。このフーバー勧告
を換骨奪胎し、日本化してしまったのです。こういう作業は日本
の官僚の得意とするところです。この報告は、同年7月31日に
GHQに提出され、了承されています。このフーバーのいない間
の作業は、「鬼の居ぬ間の洗濯」といわれています。
 こういう経緯で、「国家公務員法」が1947年10月に成立
しているのです。かくして、日本の官僚制の存続は決まり、官僚
は「天皇の官僚」から「国民の公僕」へと姿を変えたものの、実
質的にほとんど戦前のまま生き残ったのです。そして、現在に至
るまで日本では官僚主導による政治統治が行われているのです。
 ちなみにフーバーはこの経緯に納得せず、マッカーサー書簡と
いうかたちで巻き返し、主として労働権の制限などを含む改正案
が1948年11月に可決されています。これは「回れ右」改正
といわれています。      ──[新自由主義の正体/41]

≪画像および関連情報≫
 ●国家公務員法附則第9条の試験と人事院の改廃/坂本勝氏
  ―――――――――――――――――――――――――――
  戦後、日本の官僚制はさまざまな改革を迫られ、その改革の
  評価は、戦前と戦後の制度が「連続する」か「連続しない」
  かという基準などで論議されてきた。官吏制度から公務員制
  度への転換過程で注目すべきは、現行公務員制度に戦前の官
  吏制度との「連続性」が認められるという点である。国家公
  務員の「幹部職」への任用状況を見ると、依然として東大出
  身者・法律職・事務系の優位といったバイアスが戦前の高文
  試験の場合と同様に認められ、また、戦前からの早期退職の
  慣行に基づく上級公務員の天下り人事も、官の優位現象を示
  すものとして存続している。しかも、この官優位の象徴とし
  て戦後廃止された叙位叙勲制度も昭和38年の池田内閣の下
  で復活し、内閣府賞勲局(戦前は内務省賞勲局)を中心にし
  た官の基準による叙勲者の内示システムが現在まで存続して
  いる。こうした戦前と戦後の官僚人事システムの「連続性」
  は、現行公務員制度の「幹部職」人事が固定化し、入口選別
  以外の者を排除する閉鎖的な人事システムが存続しているこ
  とを示唆している。その意味で、戦後改革の過程で、人事院
  が高級官僚の適格審査を兼ねて一般国民をも対象に実施した
  課長級以上の公開競争試験(「S−1」試験)は、官職の特
  権性を除去し、官職を広く国民に開放するための初めての試
  みとして評価できる。       http://bit.ly/1qx8493
  ―――――――――――――――――――――――――――

商工省時代の椎名悦三郎氏.jpg
商工省時代の椎名 悦三郎氏
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2014年07月08日

●「GHQの占領政策変更と高度成長」(EJ第3828号)

 米国による対日占領政策が変化したのは、1947年頃からで
あり、1948年までに決定的に転換したのです。それは中国情
勢の変化をはじめとする冷戦の激化が背景にあります。
 マッカーサー日本占領軍司令官は、1947年の史上最大とい
われた「2・1スト計画」を強権的に潰し、日本共産党に対して
対決姿勢を一段と強めたのです。その時点から、米国は占領政策
を見直し、アジア随一の工業力を持つ日本を共産主義からの防波
堤として活用すべきであり、そのためには、日本の経済復興に力
を貸すべきである──このように考えたのです。これは「逆コー
ス」と呼ばれています。1951年の対日講和条約締結までの出
来事について、野口悠紀雄氏は次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 49年総選挙で民主自由党が圧倒的勝利を収め、保守党政権の
 支配が始まった。50年には、朝鮮戦争が勃発し、GHQは、
 レッドパージを行った。そして、警察予備隊が設置された。そ
 れに伴い、自治体警察が廃止された。名称は都道府県警察であ
 るが、実態は「旧警察法」以前の制度に逆戻りした。他方では
 朝鮮戦争による特需景気によって、日本経済の復興が加速され
 た。1951年対日講和条約が結ばれ、52年その発効により
 独立が回復された。52年4月、公職追放の7万人を対象とし
 た第一次追放解除が行われた。こうして、占領期は終わり、高
 度成長の時代に移る。          ──野口悠紀雄著
 「『新版』1940年体制/さらば戦時体制」東洋経済新報社
―――――――――――――――――――――――――――――
 実は、マッカーサーによるこの日本占領政策の変更で日本は助
かったのです。どうしてかというと、日本の金融機関が「過度経
済力集中排除法」の適用を免れたからです。
 1947年には、この過度経済力集中排除法が公布され、独占
的支配力のある企業は、分割されることになっていたからです。
このなかには金融機関も含まれており、当時の主力行、帝国、三
菱、安田、住友の4行も分割の対象にされていたのです。
 しかし、米国の占領政策の変更により、銀行業は指定から外さ
れたのです。ただ、帝国銀行は、新帝国銀行と第一銀行に分離さ
れ、五大財閥銀行については、行名が変更されましたが、その影
響は軽微なものにとどまったのです。
 これは、その後の日本の経済の発展に大きく影響したのです。
そのときの日本の経済システムは「間接金融」をとっており、こ
れによって銀行が、日本における金融仲介機能を支配することが
できたからです。もし、主力銀行が分割されていれば、日本の高
度成長はなかったかもしれないほど重要な問題だったのです。
 ここで日銀のことについてもふれておく必要があります。日銀
の話から再び「前川レポート」に戻っていきます。戦後初の日銀
総裁は、1945年10月に就任した新木栄吉です。しかし、新
木総裁は、1946年6月に公職追放になり、1951年まで蟄
居を余儀なくされるのです。
 その新木栄吉に代わって日銀総裁に就任したのは、一万田尚登
なのです。この一万田総裁は、日銀総裁として優れた仕事をして
後に「法王」と呼ばれるようになる人ですが、新木も一万田も生
え抜きの日銀マンです。
 マッカーサー指令部は、この新木と一万田の能力をよく知って
おり、何かと面倒をみたのです。米国の占領体制が続いている間
はGHQの力は強く、日銀総裁や蔵相などの重要ポストの人事に
はGHQは露骨に干渉したのです。米国としては、この2人を押
さえて日本の金融行政に影響を与えようとしたのです。逆に新木
と一万田は、そういうGHQの力を逆に利用して、日銀の悲願で
ある「独立性」を勝ち取ろうとしたのです。
 GHQは、この2人を使って巧妙な人事を展開します。公職追
放令が解けた新木を駐米大使に任命したのです。これはきわめて
異例な人事であり、GHQの力が働いたのは明らかです。セント
ラルバンカーを駐米大使にし、日銀総裁の一万田と連携をとらせ
てワシントンとのコミュニケーションの円滑化を図る──きわめ
て高度な米国の戦略です。
 一方、一万田は、誰に資金を与えて誰に与えないかを決める絶
対的な権限を駆使して戦後の日本経済を容赦なく動かし、日本経
済を復活の軌道に乗せるという重要な仕事を果たしたのです。こ
のように戦後経済の主導権は、大蔵省よりも日銀が握っていたと
いうことができます。
 しかも、1954年になると駐米大使の新木栄吉は日本に戻っ
て再び日銀総裁になり、一万田尚登はなんと蔵相に任命されるの
です。日銀の出身者が蔵相に就任したのは一万田をのぞいて他に
はいないのです。これは、おそらく新木と一万田が米国の力を借
りて実現した人事と思われます。
 当時の日銀法によると、日銀は事実上大蔵省の監督下にあった
のです。日銀の業務の大半にわたって、大蔵大臣が指示を行える
ようになっていたからです。一万田蔵相は、このチャンスを利用
して日銀法を改正し、日銀を大蔵省から独立させようとしたので
す。これは一種のクーデターといえます。
 しかし、このクーデターは失敗に終ります。大蔵省はこのクー
デター頓挫から反撃に転じ、日銀は政治レベルで優位性を一時失
うことになるのです。大蔵省は、逆に日銀の独走に歯止めをかけ
るため、大蔵省と交互に日銀総裁を出すことを提案し、日銀に承
知させます。このあたりから、大蔵省と日銀の暗闘ははじまるこ
とになります。
 クーデターには失敗しましたが、大蔵省と日銀で交互に総裁を
出すというシステムによって、新木や一万田は自らの意思で後継
者を選ぶことができるようになります。そして、この二人によっ
て選ばれたのが佐々木直なのです。どうして選ばれたかというと
佐々木が新木や一万田に非常に忠実だったからです。このように
して、佐々木直、前川春雄、三重野康という日銀のプリンスが生
まれるのです。        ──[新自由主義の正体/42]

≪画像および関連情報≫
 ●経済人列伝/一万田尚登
  ―――――――――――――――――――――――――――
  一万田尚登は1946年(昭和21年)から1954年(昭
  和54年)まで、8年と7ヶ月日本銀行総裁を務め、(注)
  占領軍司令官マッカサ−元帥からも吉田茂首相からも信頼さ
  れ、占領下という非常時の日本の経済特に金融面での政策を
  担当し、経済界の法王と呼ばれた人物です。一万田の人生の
  意義のほとんどはこの時期にあります。この列伝では、主と
  して占領下日本の経済政策を概観しつつ、一万田の施策を検
  討してみましょう。(注)日銀総裁としての就任期間は最長
  です。一万田尚登は1893年(明治26年)大分県野津村
  今畑(現野津町)に生まれました。生家は庄屋クラスの豪農
  ですが、生活はそう豊かではなかったようです。中学校を卒
  業して、本人は師範学校に行って、郷里で学校の先生をした
  かったのですが、周囲に勧めで熊本第五高等学校に入り、そ
  こから東京帝国大学法学部に入ります。学生時代は「わき目
  もふらず勉強」がモット−だったと言われています。中学校
  時代に後に社会大衆党を作った麻生久と出会い、無産主義運
  動の影響を受けたようです。事実一万田の施策には社会主義
  的な傾向があります。1918年日銀入社、5年間ベルリン
  に留学し、帰国して京都支店長になります。このとき総裁の
  京都宿舎の用意が気に入られず、左遷されて検査役になりま
  す。閑職ですが腐らず、検査の対象から落ち度を見つけるの
  ではなく、長所を発見すべく努力して、再び認められます。
  考査局長などを経て1942年理事になり、名古屋そして大
  阪支店長を勤務、やがて終戦になります。
                   http://bit.ly/1qI4Yk1
  ―――――――――――――――――――――――――――

新木/一万田元日銀総裁.jpg
新木/一万田元日銀総裁
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2014年07月09日

●「日銀独立性をめぐる大蔵との暗闘」(EJ第3829号)

 戦後の時点で経済金融関係において主導権を握ったのは、大蔵
省ではなく、日銀であったことは昨日のEJで述べた通りです。
ここで、どうして大蔵省が主導権を取れなかったのかについて述
べておきます。
 大蔵省は戦時中はその権限を大きく規制されていたのです。軍
部と企画院に報告義務を負い、それに加えて内務省によって権限
を大きく制約されていたからです。
 ところが戦後になると、軍部と内務省は解体され、企画院は経
済企画庁という下位官庁になり、そこに大きな権力の空洞がポッ
カリと空いたのです。
 このような事態を大蔵省が見逃すはずがないのです。素早くそ
れに割り込み、徴税、関税、国際金融、金融機関の監督、財務政
策、金融政策を取り込んだのです。そうしているうちに、日銀は
GHQの協力を得て大蔵省に先行したのです。
 このとき日銀は何とかして大蔵省のコントロール下から脱した
いと考えていたのです。日銀が求めていたのは、金利のコントロ
ールと市場資金量の調節機能については何とか日銀独自の判断で
行いたいと考えていたのです。これについて、当時の一万田日銀
総裁は、次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 中央銀行にゆだねるべきことは、何といっても公定歩合の問題
 である。これは日本銀行にまかせ、政治的な介入があってはな
 らないと思う。また、準備預金制度についての、これは市場資
 金量の調節機能であり、技術的なことが多いので、日本銀行に
 まかせるのがよいと思われる。     ──一万田日銀総裁
         ──リチャード・ヴェルナー著/吉田利子訳
  『円の支配者/誰が日本経済を崩壊させたのか』/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 新木栄吉日銀総裁と一万田尚登蔵相による日銀クーデターの失
敗によって、大蔵省は日銀にある提案を突き付けたのです。それ
は、総裁と副総裁を大蔵省と日銀が交互に行うたすきがけ人事の
実施です。要するに日銀総裁を日銀と大蔵省の交互でやろうとい
う提案です。
 これは、よく考えると日銀にとってメリットのある提案でもあ
り、日銀は受け入れたのです。それでは、日銀にとってどういう
メリットがあるのでしょうか。
 1つのメリットは、日銀総裁が意中の人物を総裁として選べる
ようになったことです。もっとも日銀総裁は議会承認が必要です
が、政権が安定していれば、その意中の人物を総裁にすることは
十分可能になったといえます。今までは、日銀が候補者を出して
も大蔵省の承認が必要だったのです。
 もう1つのメリットは、たとえ大蔵省出身の日銀総裁でも事務
方は日銀が握っているので、総裁の意思決定をある程度コントロ
ールできるという思惑です。現在の各省庁の「大臣と事務次官」
の関係と同じです。
 ところで、日銀総裁になるのはどういう人なのでしょうか。
 はっきりしていることは、日銀総裁は副総裁から選ばれること
になっていることです。したがって、日銀総裁になるのは副総裁
になる必要があります。
 その副総裁になるには、日銀からなる場合は日銀理事になる必
要があります。しかし、日銀理事は6人と決まっています。大学
を卒業して日銀に入る人は約60人であり、そこから理事が選ば
れるのです。したがって、理事になり、副総裁になるには相当の
競争を勝ち抜かなければならないことになります。
 しかし、大蔵省とのたすきがけ人事が行われるようになって、
総裁になるにはさらに難しくなったのです。なぜなら、日銀出身
の総裁から認められることが不可欠になったからです。いわゆる
総裁によってプリンスと指名される必要があるからです。そのた
めには、総裁に対して忠実であることが求められます。このよう
に、必ずしも能力で選ばれるわけではないのです。
 佐々木直が選ばれたのは、新木、一万田両日銀総裁に忠誠を尽
くしたからです。その佐々木に関するある逸話が、リチャード・
ヴェルナーによる『円の支配者』で紹介されています。
 佐々木が人事部長をしていたときのことです。一人の目立った
学生と面接したのです。それが三重野康だったのです。彼は野心
家で上方志向があり、第一志望は大蔵省で、日銀は第二志望だっ
たのです。
 佐々木は本能的にこの男を大蔵省にやってはならないと考えて
三重野を説得し、日銀に入社させます。そしてほどなく、自分の
はじめてのプリンスにすることを決意し、計画的に重要なポスト
を歴任させていったのです。
 1958年から60年まで三重野はニューヨーク日銀駐在事務
所の勤務を命じられます。そのときのニューヨーク事務所長が前
川春雄だったのです。一万田が蔵相をしていた時代のことです。
佐々木、前川、三重野はこうように繋がっており、そのバックに
は一万田蔵相がいたのです。このようにして、三重野はプリンス
とされ、やがて日銀総裁になるのです。
 このような人事をやっていると、日銀マンはどうしても組織防
衛に腐心するようになるのです。戦後の日銀出身の総裁の悲願は
日銀の独立性を勝ち取ることにあり、長年にわたって周到な計画
によってそれを達成したのです。1998年4月のことです。
 佐々木直の時代から計画され、6人目の日銀総裁である速水優
のときに日銀法は改正されたのです。その6人の総裁は次の通り
です。大蔵省出身は「O」、日銀出身は「N」です。
―――――――――――――――――――――――――――――
  23代:森永貞一郎/O   24代:前川 春雄/N
  25代:澄田  智/O   26代:三重野 康/N
  27代:松下 康雄/O   28代:速水  優/N
―――――――――――――――――――――――――――――
               ──[新自由主義の正体/43]

≪画像および関連情報≫
 ●改正日銀法に書かれていない「独立性」の意味
  ―――――――――――――――――――――――――――
  日銀法の第三条には、「日本銀行の通貨及び金融の調節にお
  ける自主性は、尊重されなければならない」とある。第四条
  には、「日本銀行は、その行う通貨及び金融の調節が経済政
  策の一環をなすものであることを踏まえ、それが政府の経済
  政策の基本方針と整合的なものとなるよう、常に政府と連絡
  を密にし、十分な意思疎通を図らなければならない。」とあ
  る。これについて、日銀による解説がありそれを確認してみ
  たい。平成10年4月の日銀法改正の最大の眼目は、中央銀
  行としての「独立性」を法制度としても明確にすることでし
  たとある。「過去の各国の歴史を見ても、中央銀行の金融政
  策にはインフレ的な経済運営を求める圧力がかかりやすいこ
  とが示されています。物価の安定が確保されなければ、経済
  全体が機能不全に陥ることにも繋がりかねません。こうした
  事態を避けるためには、金融政策運営を、政府から独立した
  中央銀行という組織の中立的・専門的な判断に任せることが
  適当であるとの考えが、グローバルにみても支配的になって
  きています。新日銀法において、独立性確保がはかられてい
  るのは、こうした考えによるものです。」日銀法にはどこに
  も「独立性」という言葉は見当たらない。第三条にある自主
  性は、つまり独立性を意味していると言うことになろう。E
  CBなどでは「ECB及び各国中央銀行は、本条約及びES
  CB・ECB法により授与された権限の行使、任務の遂行に
  あたり、EU諸機関及び各国政府その他いかなる機関からも
  指示を仰いだり、指示を受けたりしてはならない」とある。
                   http://bit.ly/1j5Oakv
  ―――――――――――――――――――――――――――

佐々木直元日銀総裁.jpg
佐々木 直元日銀総裁
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2014年07月10日

●「たすきがけ人事はなぜ失敗したか」(EJ第3830号)

 大蔵省が日銀に提案した大蔵省と日銀で交互に日銀総裁と副総
裁を出す「たすきがけ人事」は、日銀出身の総裁に自分の好みの
人物を次の総裁にする「プリンス選び」を可能にし、人事を不透
明にする悪弊を生んだのです。
 そのプリンス選びによって日銀総裁に選ばれた日銀出身の総裁
は、佐々木直、前川春雄、三重野康の3人です。この3人は日本
にとって本当に重要な時期であった1962年〜1994年に日
本経済の操縦桿を握っていたといえます。
 1980年代のバブルは、一般的には、第25代の大蔵省出身
の澄田智総裁が作り出し、それを強引に潰したのは、第26代の
三重野康総裁である──このようにいわれていますが、事実とか
なり違うようです。
 澄田は表向きは日銀総裁だったのですが、まさにお飾り的総裁
であったのです。重要な決定はすべて三重野副総裁が決めており
澄田に仕事をさせなかったのです。したがって、バブルを生み、
それを強引に潰して日本をデフレに陥れた責任は、日銀の三重野
にあるといっても過言ではないのです。これは、日銀総裁の失政
というよりも、ある意図をもって行われたのです。
 澄田に限らず、第27代の大蔵省出身の松下康雄総裁のときも
日銀幹部は松下に重要な情報を入れず、そのため松下は政府とは
逆のことをやって、「1ドル/80円」という深刻な円高を招い
てしまったのです。
 しかも、松下は1998年に発覚した大蔵省接待汚職事件──
いわゆるノーパン・シャブシャブ事件の責任をとって辞任したの
で、当時副総裁だった福井俊彦も一緒に辞任しています。そのた
め、第28代の日銀出身の速水優が総裁に就任しています。
 この大蔵省接待汚職事件の不祥事で、大蔵省は自粛せざるを得
なくなり、本来は第29代の日銀総裁は大蔵省出身者の番であっ
たのですが、松下の巻き添えを食って辞任した日銀出身の福井俊
彦がなっています。このあたりから、たすきがけ人事そのものが
うまく機能しなくなるのです。偶然とはいえ、日銀の戦略が成功
したといえます。
 要するに、日銀サイドとしては、大蔵省出身の総裁なんて何も
できないお飾り的存在にならざるを得ないということを大蔵省に
知らしめたかったのです。日銀が事務方全般を握っているので、
総裁を生かすも殺すも意のままだったのです。ちなみにこの不祥
事事件の起きた1998年4月から日銀法が改正され、日銀は念
願の独立性を勝ち取ったのです。
 唯一たすきがけ人事がうまく行ったのは、この人事の最初に当
たる大蔵省のドンといわれる森永貞一郎総裁と前川春雄副総裁の
コンビです。この2人の10年間は、高度成長から安定成長への
転換という困難な時期であったのですが、その困難な仕事をやり
遂げています。
 戦後の混乱期を巧みに利用し、GHQにもとりいって、日銀の
権力を固め、佐々木、前川、三重野の3人を起用して、日銀が独
立性を勝ち取れるよう導いたのは、一万田尚登元日銀総裁・蔵相
です。一万田は日銀マンにつねに次のようにいっていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   日銀は鎮守の森のように静かで目立たないほうがいい
               ──一万田尚登元日銀総裁
―――――――――――――――――――――――――――――
 この言葉は、逆に日銀の力がいかに強大であるかを示している
といえます。何でもできる凄い力を持っていることを世間には知
られないようにせよといっているのです。歴代の日銀総裁のテレ
ビでの映像を見ると、現在の黒田東彦総裁は別として、いかにも
弱々しく、力がなさそうに見えるのは一万田総裁の遺訓を守って
いるのかもしれません。
 一万田が、なぜ日本の金融界で「法王」と呼ばれるようになっ
たかについては、その銀行の統制方式にあったのです。それは、
「窓口指導」と呼ばれたのですが、これについて既出のリチャー
ド・ヴェルナー氏は次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1950年代のはじめには経済は2桁の成長をしており、融
 資の申し込みは、莫大になっていた。1946年6月から19
 54年6月までの8年間、一万田は日銀総裁として、さらに、
 1957年7月から1958年6月までは蔵相として金融界に
 絶大な権力を振るった。
  その銀行信用の統制システムとは、日銀総裁が融資総額の伸
 び率を決定し、それから営業局長と2人で増加分を各銀行に融
 資割り当てをして配分する。このときの営業局長は、もちろん
 佐々木直である。その際、銀行は、大口の借り手の氏名にいた
 るまで細かい融資計画を毎月日銀に提出するよう求められてい
 た。営業局は、信用配分計画(どの銀行にいくら出すかを決め
 る計画書)を作り銀行の融資計画と調整をして銀行に伝える。
 その融資の配分額を聞くために銀行首脳が日銀に行くと、文字
 通り日銀のカウンター、つまり窓口で融資割り当て額を告げら
 れたので、誰がいうともなく「窓口指導」というようになった
 のである。   ──リチャード・ヴェルナー著/吉田利子訳
  『円の支配者/誰が日本経済を崩壊させたのか』/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、この「窓口指導」は、やがて時代は低成長経済となり
企業の資金調達方法が変化したため、銀行借入れの相対的減少や
オーバーローンの解消などに伴い、その効果は薄くなり、さらに
は金融機関の自由競争を妨げ、資金配分の効率性を下げるとして
1991年1月から廃止されたのです。
 ところで、日本経済のバブルはどのように発生し、潰れたので
しょうか。これには、日銀が深く関与しているのです。それは、
レーガン政権の1983年の日米円ドル委員会の設置と、あの前
川レポートに関係するのです。これについては、明日のEJでお
話しします。         ──[新自由主義の正体/44]

≪画像および関連情報≫
 ●「国会議員は不勉強である」/一万田元日銀総裁答弁
  ―――――――――――――――――――――――――――
  佐多忠隆君:日本銀行は依然としてこれを金融で調整する方
  策をお採りになつていると思うのですが、その後六月に至り
  まして私達に言わせればむしろ突如として金融政策を変更に
  なったように考えるのですが、こういうふうに突如と変更さ
  れたのじやないか。これが若し突如とされたならば、どうい
  う理由によってそういうふうに突如に変更をなされたのか。
  一萬田尚登君:実は私は安本時代から佐多君が非常な勉強家
  であるということを承知いたしております。(笑声)その佐
  多さんから今のような御質問を受けることは私は非常に意外
  に思う。こういうことを言うのは悪いのですが、それは突如
  とおっしやる。突如というようなことは絶体にない。それは
  今日国際情勢が如何に激しく日々変化しつつあるかというこ
  とを御勉強なさつておれば、日一日或る意味において政策が
  変っても、決してこれを不思議に思うことはないのでありま
  す。それ程かように違うのです。二十四年度はああいう政策
  二十五年度はそういうふうに行くべきでないということは、
  私は勉強が少し足りないと思う。むしろ日本銀行は遅過ぎた
  のではないかというふうに考えて行くのが当然じやないか、
  私はそう考えております。
  佐多忠隆君:日銀総裁から不勉強を指摘されまして誠に恐縮
  なんですが、併し私が突如と申しますのは、私はしっかりし
  た数字を以てお話しておるので、四月、五月には少くともそ
  ういう方向でなかったかと私は数字的に説明ができると思い
  ますが、これらの点になりますと見解の相違でございますか
  ら・・・。(以下、省略)     http://bit.ly/1lS9jtb
  ―――――――――――――――――――――――――――

三重野康元日銀総裁.jpg
三重野 康元日銀総裁
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2014年07月11日

●「日本銀行創設とロスチャイルド家」(EJ第3831号)

 日銀と大蔵省の「たすきがけ人事」で、大蔵省出身の日銀総裁
が力を発揮できなかったのは、金利政策はともかくとして、通貨
供給量の設定と制御については、まったく蚊帳の外に置かれてし
まったからです。本当の意味で景気を左右するのは通貨供給量で
あって、これにタッチできないとすれば、日銀総裁としての仕事
はできないのです。
 それでは、それは誰がやっていたのでしょうか。
 それは日銀生え抜きの副総裁と営業局長が、「窓口指導」とい
うシステムでやっていたのです。「窓口指導」は、昨日のEJで
述べましたが、日銀総裁──大蔵省出身の総裁の場合は副総裁が
融資総額の伸び率を決定し、それから副総裁と営業局長と2人で
増加分を各銀行に融資割り当てをして配分することです。具体的
には新木や一万田がプリンスとして選んだ腹心の佐々木直、前川
春雄、三重野康の3人がやっていたのです。
 米レーガン政権が1983年に「日米円ドル委員会」の設置を
要求してきたときの日銀総裁は、前川春雄だったのです。米国は
これによって、日本の金融資本市場の開放と自由化および金利の
自由化を求めてきたのです。
 時の中曽根首相は、こうした米国の要求にどのように対処すべ
きかを1984年12月末に日銀総裁を退任していた前川春雄に
まとめさせたのです。そのときの日銀総裁は、大蔵省出身の澄田
智なのですが、中曽根首相は前任者の前川に報告書を作らせたの
です。1985年4月のことです。
 そのとき日銀としては、いわゆる1940年体制による戦後経
済体制が限界にきていることを認識しており、この米国からのガ
イアツを利用して、日本を構造改革するときであるとして、前川
は報告書をまとめたのです。これが「前川レポート」です。
 具体的にどのようにするかというと、通貨供給量を制御して意
図的にバブルを起こし、それを一挙に潰すというもので、10年
で構造改革を成し遂げる計画になっていたのです。実際にそれを
やったのは、三重野康なのです。
 三重野は、澄田総裁時代の副総裁と自身が総裁時代の10年間
で、その計画を実行に移したのです。そして、日本を今までの量
的拡大から質的改善、すなわち生産性の向上で構造改革を実施し
国際マーケットに生き残ろうという計画です。つまり、日本に長
期デフレをもたらしたのは、他ならぬ日銀なのです。そのため、
このデフレによる景気後退を「日銀不況」と呼ぶのです。
 改めて考えてみるまでもなく、通貨供給量の設定と制御ができ
るというのは、大変な権力なのです。それに加えて、日銀は19
98年からは、政策に関して政府から干渉されない独立性を手に
入れています。まさに「鬼に金棒」です。だから、一万田元日銀
総裁は、「日銀マンは鎮守の森のように静かにせよ」と戒めたの
です。そんな凄い権力を持っている存在だということを知られな
いようにせよというわけです。
 ところで、日銀は誰が創設したのでしょうか。これに答えられ
る人は少ないと思います。
 松方正義が正解です。明治期の日本において、内閣総理大臣を
2度、大蔵大臣を7回務めた人物であり、晩年は元老内大臣とし
て、政局に関与し、大きな影響力を残した政治家であり、財政指
導者なのです。
 松方正義に関して、次の逸話があります。松方は、1877年
に渡欧し、1878年3月から12月まで第3共和制下のフラン
スのパリに滞在したのです。そのときフランス蔵相のレオン・セ
イから次の3つのアドバイスを受けているのです。レオン・セイ
は、あの「セイの法則」で有名なフランスの経済学者、ジャン=
バティスト・セイの孫です。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1.日本が発券を独占する中央銀行を持つべきである
  2.フランス銀行やイングランド銀行は参考にならぬ
  3.最新のベルギー国立銀行を例として精査するべし
―――――――――――――――――――――――――――――
 帰国した松下正義は、1881年(明治14年)に「日本帝国
中央銀行」説立案を含む政策案である「財政議」を政府に提出し
たのです。
 その直後、明治14年の政変で大隈重信が参議を免職されると
参議兼大蔵卿として復帰し、日本に中央銀行である日本銀行を創
設したのです。
 実は松下はフランス滞在時にレオン・セイの紹介である人物と
会っています。それは、フランスのアルフォンス・ロスチャイル
ドであるといわれています。アルフォンスはロスチャイルド家の
4代目当主です。
 とにかく明治時代から戦争終結までには、日本の上層部は隠さ
なければならないことはたくさんあるようです。この間の歴史と
いえば、日本人は、なぜか、司馬遼太郎の歴史小説にはじまる小
説のレベルでしか知らない人が多いのです。
 とくに明治の終わりから大正時代のことを知っている日本人は
少ないのです。これはある意図の下にそうなっているとも考えら
れます。小説であれば、事実をいくらでも美化できますし、平気
でウソも書けるのです。
 学校での歴史の教育は、古代史からはじまるので、時間的に現
代史までは教えきれないのです。しかし、いちばんリアルなのは
現代史であり、そこに力を入れないのは、何らかの意図が働いて
いるのではないかと思います。
 日銀を設立した松下正義は、ロスチャイルドのカウンターパー
トになっており、以後の日銀総裁は、覇権国とのカウンターパー
トの関係を持っている人物ばかりなのです。松下正義は日銀総裁
はやっていませんが、高橋是清、井上準之助、池田成彬、渋沢栄
一、新木栄吉、一万田尚登、前川春雄と続く日銀総裁人脈は、す
べてひとつのつながりがあるのです。
               ──[新自由主義の正体/45]

≪画像および関連情報≫
 ●日銀創設/ユダヤの謀略16
  ―――――――――――――――――――――――――――
  松方正義首相が政府紙幣を今の紙幣(日銀紙幣)に変えさせ
  ロスチャイルドの日本支配を許した!大隈の後を襲って大蔵
  卿となったのは薩摩藩出身の松方正義である。1885年に
  内閣制度が創設されるまでは、大蔵卿こそが最高位のポスト
  だった。松方が中央銀行案を推進するのは、明治10年に渡
  欧してフランス蔵相レオン・セーに会ってからである。ネイ
  サン亡き後のロスチャイルド家の世襲権はパリ分家に移り、
  ジェームズ・ロスチャイルドがロスチャイルド家を統括する
  第三代当主とされ、その後を息子のアルフォンス・ド・ロス
  チャイルドが継いで第四代当主となっていた。このアルフォ
  ンス・ド・ロスチャイルドの「使用人」ともいえるのが、前
  出のフランス蔵相レオン・セーなのである。レオン・セーは
  ロスチャイルド家の「使用人」であり「番頭」なのである。
  ゆえに、レオン・セーの示唆によって日本に中央銀行を設立
  した松方正義は、フランスのロスチャイルド家に見込まれて
  日本に中央銀行設立案をたずさえて帰国し、権力の中枢につ
  いた人物であることが分かるのである。日銀の役割は、不換
  紙幣、つまり、政府紙幣および国立銀行紙幣の償却である。
  「償却」とはふつう会計の帳簿から消すことであるが、この
  ときの「しょうきゃく」は政府紙幣および国立銀行紙幣を本
  当に「償却」した。経済学的には紙幣を償却すればマネーサ
  プライの減少となり、市中に出回るお金が減り、すなわち、
  不景気となるのは当然のことである。これが世にいう「松方
  デフレ」である。        http://amba.to/1jrFQvX
  ―――――――――――――――――――――――――――

日銀創設者/松下正義.jpg
日銀創設者/松下 正義
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2014年07月14日

●「国立銀行と私立銀行はどう違うか」(EJ第3832号)

 ここで明治初期の権力争いについて、知っておくべきことがあ
ります。1871(明治4)年のことですが、「岩倉使節団」が
北米と欧州に派遣されたのです。この使節団には、維新政府の要
職である右大臣・岩倉具視、参議・木戸孝允、大蔵卿・大久保利
道、工部大輔・伊藤博文なども含まれていたのです。
 しかし、実際は失敗の連続だったのです。無謀な条約改正交渉
の失敗や英国では怪しげな銀行に騙されて大金を失う始末だった
といいます。
 ところが、留守を預かった参議・大隈重信は、財政改革に取り
組み、なかなか良い仕事をしていたのです。大隈重信の下でそれ
に携わったのは、次の4人です。
―――――――――――――――――――――――――――――
         大蔵大輔・井上  馨
         大蔵少丞・渋沢 栄一
          租税正・陸奥 宗光
         租税権正・松方 正義
―――――――――――――――――――――――――――――
 維新の三傑といえば、西郷隆盛、木戸孝允、大久保利道ですが
大久保利道以外は、日本の国づくりにあまり貢献しているとはい
えないのです。その大久保も1878(明治11)年に他界する
と、佐賀県出身の大隈重信がトップリーダーになったのです。
 大隈は、1870年から参議になり、1873年には大蔵卿に
なっています。この大隈の指導のもとに日本最初の銀行「東京第
一国立銀行」が設立されています。これは、米国のファースト・
ナショナル・バンクをそっくり真似をしたのです。例えば、ファ
ースト(第一)ナショナル(国立)バンク(銀行)というように
名前もそっくりです。そして、3年間で百五十三銀行が設立され
そこで許可が停止されたのです。一方で、豪商や旧両替商が私立
銀行を設立しています。三井、三菱、住友銀行はこの時期に設立
されているのです。
 国立銀行が私立銀行と異なる最大の特色は、「紙幣発行権」を
持っていることです。当時は、政府が発行していた太政官札や民
部省札が流通していたのですが、それらの紙幣を集め、大蔵省に
引き渡すと公債が発行され、国立銀行は、その分の銀行紙幣を印
刷できたのです。
 もうひとつ大隈重信によって「横浜正金銀行」が設立されてい
ます。1879年のことです。なぜ「横浜」かというと、横浜市
中区に本店を置いたことでそう呼ばれるのです。
 この銀行は、当時死蔵されていた正貨(正金/ゴールド)を市
中に動員して銀行紙幣と兌換を可能にし、不換紙幣を償却するこ
とが目的の銀行です。これは、大隈重信と福沢諭吉の間で煮詰め
られ、福沢門下生の小泉信吉によって具体化されたのです。
 しかし、当時日本にはゴールドが絶対的に不足していたことや
その他の事情によって、この大隈/福沢案は実現させることがで
きなかったのです。その結果、横浜正金銀行は、輸出企業のため
の国際決済を行う金融機関に姿を変えたのです。つまり、外国為
替専門銀行です。これを実現させたのは、松方正義の腹心である
前田正名です。
 横浜正金銀行は、1946年にGHQの指示で解体され、東京
銀行に生まれ変わっています。現在の三菱「東京」UFJ銀行の
母体行のひとつです。
 横浜正金銀行は、日銀が創設されると、日銀の海外出先機関と
しての機能を果たすことになり、日銀の兄弟銀行として機能する
のです。そのため、横浜正金銀行の頭取を務めると、その後は日
銀総裁になるという人事ルートが慣行化していたのです。高橋是
清、井上準之助は、このコースで日銀総裁になっています。
 大隈重信主導の権力構造は、明治14年の政変で大隈が失脚す
ると、薩摩・長州出身者が主導権を握り、薩長藩閥政治の体制が
確立するのです。この体制によって出世したのは、薩摩藩出身の
松方正義です。松方は参議になり、大隈に代わって大蔵卿になっ
たのです。松方はここで温めていた「日本帝国中央銀行」構想を
実現するのです。
 松方がフランスに行ったのは1877(明治10)年のことで
す。そこで、フランスのレオン・セイ蔵相に会い、中央銀行設立
についてアドバイスを受けたことは、前号で述べましたが、問題
は松方はなぜフランスに行ったかです。
 もともと幕末には、フランスが徳川幕府を支援しており、薩摩
・長州藩には英国がついていたのです。第15代将軍徳川慶喜の
弟である水戸藩最後の藩主・徳川昭武はフランスに留学している
のです。そのとき、会計係として渋沢栄一が随行しています。
 徳川昭武はナポレオン3世と謁見し、フランスの王家であるボ
ナパルト家を訪問しています。当時フランスでは、将軍家を王家
としてみなしており、徳川家を王家として扱ったのです。ところ
でナポレオンは「反ロスチャイルド体制」であったのです。
 しかし、1970年にフランスは、普仏戦争によってビスマル
ク宰相に敗れ、ナポレオン3世は退位して、第三共和制の時代に
なっていたのです。松方正義がフランスに行ったのは、1877
年ですから、皇帝不在のフランスに行ったことになります。
 皇帝のいない国で影響力があるのは、大富豪です。それがパリ
の大富豪・ロスチャイルド家であったのです。当時のフランスは
実質上ロスチャイルド家が支配する共和国であったのです。
 レオン・セイはロスチャイルド家の使用人であり、いわば番頭
的存在です。松方正義は、番頭のレオン・セイのアドバイスを受
け入れた時点で、ロスチャイルド家に見込まれたことを意味して
いるのです。
 帰国した松方正義は、日本帝国中央銀行を設立した後で、明治
天皇に働きかけて、レオン・セイに旭日勲一等が贈られるように
便宜を図っていますが、これによって当時の日本の権力者とロス
チャイルド家の結びつきが深まったことを意味しています。
               ──[新自由主義の正体/46]

≪画像および関連情報≫
 ●「明治14年の政変」とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1879(明治12)年4月御前議事式・公文上奏式を定めて
  御前会議の形式や詔勅裁可の手続きが整えられました。次い
  で、陸海軍卿は大元帥である天皇が陸海軍を統帥し、観兵式
  や大演習に親臨するなど、軍事に精励することを上申しまし
  た。6月三条・岩倉両大臣は、天皇はいかにあるべきかを総
  括的に述べた意見書を奏上しました。その内容は天皇と政府
  は一体であること、天皇は参議・諸省卿を信頼して直接政務
  を聞き、指示を与え、不満な点を指摘ほしいということでし
  た。前アメリカ合衆国大統領のグラント将軍が世界周遊の旅
  の途中に日本を訪れました。1879年7月4日の最初の天
  皇との謁見は形式的なものでした。8月10日天皇とグラン
  トの会談が行われました。国会開設問題については、にわか
  に国会を開くことは危険で、漸進的に国民を教育することが
  必要であるとグラントは述べました。外債は国家にとって最
  も避けなければならない事柄だとしました。また、琉球問題
  については日本が多少譲歩し、台湾事件以来日本に抱いてい
  る清国の不満を和らげるのが得策とグラントは述べました。
  1880(明治13)年3月、内閣日則が定められました。朝
  9時に大臣・参議以下が出勤し、10時から天皇臨席の下に
  大臣・参議が要務を奏上し、火・金曜に各省卿が担当を陳述
  し、大体正午に到るというのが定例でした。
                   http://bit.ly/W65qw8
  ―――――――――――――――――――――――――――

大隈重信.jpg
大隈 重信
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2014年07月15日

●「高橋是清とロスチャイルド系人脈」(EJ第3833号)

 中央銀行とは何か──これは私が昔から興味を持っているテー
マです。はっきりしていることは、中央銀行は多くの人がいだい
ているイメージとは、かなり異なる金融機関であるということで
す。中央銀行については、リチャード・ヴェルナーの『円の支配
者』(草思社)が有名であり、この本を中心に2001年にEJ
を書いたことがあります。
 最近現在のテーマを書いているときに、日銀について書かれた
興味深い本を発見したのです。銀行、とくに中央銀行の設立にま
つわる人物などについては、次の本を参照にしています。
―――――――――――――――――――――――――――――
                 吉田祐二著
       『日銀/円の王権』/学習研究社
          2009年9月15日初版
―――――――――――――――――――――――――――――
 著者の吉田祐二氏は、貨幣経済論および政治思想、近代企業経
営史などの研究者ですが、吉田氏はこの本において、日本の近代
史を「日本銀行」を軸にして読み解こうとしています。それに当
たって、著者は次の2つの仮説を立てています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.経済は中央銀行によってコントロールされており、中央
   銀行の支配者が本当の権力者である
 2.日本は世界の覇権国の属国であり、世界の覇権国からの
   さまざまな指示を受けて動いている
―――――――――――――――――――――――――――――
 荒唐無稽な陰謀論めいた仮説のように思えますが、本を通して
読んでみると、いちいち納得できることばかりです。以下、吉田
祐二氏の本を参照にしながら、話を進めます。
 明治後期の日本の政界の最大の権力者といえば、初代の総理で
あり、紙幣にも印刷された伊藤博文が頭に浮かびますが、実は松
方正義の方がはるかに格は上なのです。それは日銀を創設したこ
とと無関係ではないのです。つまり、松方は「円の王権」を握っ
ていたからです。
 それに松方は日銀を創設するや、53行あった国立銀行から貨
幣発行権を取り上げて日銀にその機能を集中させ、それまでの国
立銀行をすべて私立銀行に改編させているのです。大変な権力で
あるといえます。松方は日銀総裁はやっていませんが、創設者と
いうことで「円の王権」を握っていたのです。
 松方正義の後継者は、高橋是清と井上準之助です。松方正義は
ロスチャイルド家との関係が深く、それを引き継いだのは高橋是
清です。高橋は日本におけるロスチャイルド家のカウンターパー
トになったといえます。
 高橋は職を転々として農商務省に入庁したときに前田正名と出
会い、その縁で日銀に入行することになります。前田正名は松方
の腹心です。その後は、横浜正金銀行頭取から日銀副総裁、そし
て日銀総裁になっています。1911年のことです。
 これだけのことであれば、高橋は単なる能吏のレベルを出るも
のではなかったのですが、彼は日露戦争の準備である外債募集の
仕事で成果を上げています。高橋が日銀副総裁をしていたときの
ことです。外債募集とは、戦費調達のために、日本国債を外国に
買ってもらうことです。
 しかし、当時の日本は評判が悪く、日本自体の存在も知られて
いなかったので、簡単に買い手がつくはずがなかったのです。し
かも時の日本政府は、高橋に年内に1000万ポンドを募集する
よう要請していたのです。
 高橋はロンドンに行き、銀行家と間で500万ポンドの公債を
発行する内約はできたものの、残りの500万ポンドが調達でき
ずにいたのです。しかし、高橋はある人の紹介で、ジェイコブ・
ヘンリー・シフなる人物に出会うのです。シフは、ニューヨーク
のクーン・ローブ商会の首席代表者で、残りの500万ポンドを
引き受けてくれたのです。クーン・ローブ商会は、ロスチャイル
ド家の米国の出店だったのです。このようにして高橋は国際的な
人脈を築いていったのです。
 高橋是清自身はロスチャイルドを深く敬愛していたようで、そ
れは彼の『随想録』において、ロスチャイルドについて触れてい
るところが多くあるのでそれがわかります。高橋が敬愛していた
安田財閥の祖・安田善次郎の葬式においても、高橋は追悼の挨拶
で次のように述べています。少し長いがご紹介します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 およそ新たに起こす仕事には相当危険の伴わざるものはないの
 であります。私はかつて倫敦の「ロード、ロスチャイルド」か
 ら聴かされた事がありまして、安田翁にもその話をした事があ
 るのです。ロスチャイルド卿の言わるるに、自分は世間から金
 持ちと見られ、かつ金を儲ける者と見られておる。しかして自
 分でもまたその通りであると思っておる。さて金持ちとなると
 なかなか人の知らない苦労もあり、また世の中のために尽くす
 べき義務もある。いずれの国家でも大切なものは国民の生活で
 ある。そして国民の生活に最も大切なものは産業である。しか
 るに産業の事たるや、仕事の創設には、失敗という危険が伴う
 ておるものである。そしてその危険は普通の人の負担し難きも
 のである。しかるに金持ちはその収得する利益の中、多少消え
 失せても差し支えない程の余裕がある。すなわちこの余裕の資
 力をもって、まず新たな製造事業なり、鉱山の試掘なりをして
 幸いに目的が達せられたなら、ここに始めて株式組織を作るな
 りして、一般の人々に利益を分かつのである。もし目的がはず
 れた時は、金持ちが損失するのみで、世間の人々に迷惑はかけ
 ないのである。これが自分の如き金持ちが、世のため尽くす義
 務と心得ておるということでありました。  ──吉田祐二著
             『日銀/円の王権』/学習研究社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
               ──[新自由主義の正体/47]

≪画像および関連情報≫
 ●高橋是清翁顕彰シンポジウムでの岩田紀久男氏の挨拶
  ―――――――――――――――――――――――――――
  日本銀行の岩田でございます。このような場でご挨拶をさせ
  て頂く機会を頂き、まことにありがとうございます。また、
  平素から山口県の皆さまには、下関支店をはじめ日本銀行の
  業務全般に関し、大変お世話になっております。この場をお
  借りして厚く御礼申し上げます。本日は、高橋是清翁の顕彰
  シンポジウムということでお招きにあずかりました。わが国
  の金融・財政政策は、長年続いたデフレからの脱却に向けて
  大きな転換点を迎えております。こうしたタイミングで、時
  代背景こそ大きく違うとはいえ、同じような政策課題に立ち
  向かった偉大な先人を振り返るイベントが開催されることは
  大変時宜にかなったことであると感じております。ご存じの
  とおり、高橋是清という人は、大河ドラマの主人公にしても
  良いのではないかと思えるほど、実に波乱万丈な生涯を送っ
  た方です。とりわけ、少年時代に留学先の米国でだまされて
  身売りされてしまったり、ペルーでの鉱山開発事業で詐欺に
  あって無一文で帰国したりと、その前半生は、自由奔放なが
  らかなり浮き沈みの激しいものであったと聞いております。
  壮年期以降の高橋是清は、日本銀行総裁、大蔵大臣、内閣総
  理大臣などを歴任し、偉大な功績を残されるわけですが、そ
  うした銀行家・財政家としての道を歩み始めた場所が30代
  の終わりに初代西部支店長として赴任した、この下関の地で
  ありました。下関には、わが国の長い歴史を通じて数々の事
  跡が残っていますが、高橋是清という傑物を育んだという点
  でも、わが国の経済史を考えるうえで重要な場所であるとい
  えると思います。         http://bit.ly/1qvztq3
  ―――――――――――――――――――――――――――

吉田祐二著「日銀/円の王権」.jpg
吉田祐二著「日銀/円の王権」
posted by 平野 浩 at 03:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 新自由主義の正体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月16日

●「井上準之助とモルガン商会の関係」(EJ第3834号)

 松方正義のもう一人の後継者は井上準之助です。高橋是清が欧
州のロスチャイルド家および米国のクーン・ローブ商会のカウン
ターパートならば、次世代の井上準之助はモルガン商会のカウン
ターパートであるといえるのです。
 19世紀末から20世紀初頭にかけて、クーン・ローブ商会と
モルガン商会は、金融資本の世界で激しい競争を繰り広げたので
すが、1907年10月の米国での金融恐慌を契機に、クーン・
ローブ商会は力を失っていくのです。
 1909年に中国に対する第1回の借款団を結成したときのこ
とです。クーン・ローブ社はこれまで独壇場だった外債引き受け
の役割をあっさりとモルガン商会に引き渡してしまったのです。
このようにして、当時の覇権国であった英国から、米国へ覇権が
移って行く過程で、モルガン商会が優位に立ったのです。
 井上準之助は日銀の生え抜きであり、高橋是清の下で、順調に
キャリアを積み重ねて、1919(大正8)年に日銀総裁に就任
しています。日銀生え抜きで初めて日銀総裁になった人物です。
その次の年の1920年に、中国に対する日米英仏の新四国借款
をまとめたときに、モルガン商会のトマス・ラモントに会ってい
ます。井上とラモントの付き合いはここからはじまったのです。
このときは既に米国の金融資本の支配的な地位をモルガン商会が
占めており、井上はモルガン商会のカウンターパートになってい
くのです。
 井上準之助とトマス・ラモントは、お互いに相手を高く評価し
ていたことがいろいろな文献によってわかります。NHK取材班
のまとめた『金融小国ニッポンの悲劇』(角川文庫)には、ラモ
ントが井上をどのように見ていたかがわかります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 彼(井上)はリアルマンだ。日本において提携すべき最後の人
 物だ。井上はノーマン(イングランド銀行総裁)やストロング
 (ニューヨーク連邦準備銀行総裁)やわれわれと同じ金融語で
 を話す。私は彼が正しい線からはずれたのを見たことがない。
 私は彼のいうことを信ずる。        ──吉田祐二著
             『日銀/円の王権』/学習研究社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 これに対して、井上準之助がラモントをどのように見ていたの
かを知る記述もあります。『井上準之助論叢5/伝記』に、19
27年にラモントが投資の責任者として来日したとき、彼の来日
目的について井上は次のように語っています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 先立って米国モルガン商会のラモント氏がやって来たが、あれ
 は噂のような外債のためでもなんでもない。まったく自身で財
 界の様子を見に来たのだよ。あの人が帰る時に「日本は今、最
 重要な時期に立っている。この際は十分な整理が必要である。
 不徹底な整理は再び恐慌を来たさんとも限らぬ。日本も大正9
 年に一切の整理をなすべきであった。米国などは徹底的の整理
 を、あの際に断固としてやってしまったのだが、日本は今まで
 遅れていた訳だ。本年四月のような(引用者註:1927年の
 金融恐慌のこと)実際教育はまったく千載一遇の事であるから
 この際根本的の整理をするように」とくれぐれも俺に忠告して
 くれたが、全く同感だな。それで俺も日本将来のため徹底的に
 やるつもりだから、世間でも目前の事ばかりにとらわれず、百
 年の将来を見て整理をするように努めてもらいたい。どうも日
 本人は少時の辛抱が出来んで、やりそこなう傾向がある。
                ──吉田祐二著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 1920年代になると、第1次世界大戦で崩壊した国際金本位
制に各国は復帰しつつあったのです。1929年7月に立憲民政
党の浜口雄幸内閣で井上準之助は蔵相へ就任し、金本位制への移
行を決断するのです。
 問題は、復帰するさい、旧平価(1917年8月まで金本位制
に参加していたときの平価で円高)で復帰すべきか、新平価(当
時の情勢に合わせた平価で円安)で復帰すべきか論争が起きてい
たのです。金本位制下の平価は、基準貨幣の金含有率をもとに各
国貨幣との比較で決まるのです。
 このとき、井上蔵相は旧平価にこだわったために、実勢以上の
高い円レートを設定したのです。旧平価は1929年時点よりも
相当の円高であり、そのため、日本の銀行の貸出量を減らし、金
融を引き締めざるを得なかったのです。そうなると、経済に回る
るおカネは少なくなり、必然的にデフレ不況になります。これが
世にいう「井上デフレ」です。
 そのため民政党内閣は窮地に陥り、浜口首相は11月に右翼に
よって東京駅で襲撃されるのですが、一命を取り留めています。
しかし、1931年4月に浜口首相は辞職し、若槻礼次郎が首相
に就任します。井上は蔵相に留任しますが、12月に閣内不一致
で若槻内閣は総辞職に追い込まれるのです。
 代わって政権に就いたのは犬養毅内閣です。犬養首相は高橋是
清を蔵相に任命します。高橋にとって5度目の蔵相就任です。そ
のうえで犬養首相は解散総選挙を実施し、政友会が議会の多数を
占めることになったのです。
 高橋是清は蔵相に就任すると、最初の閣議で金輸出再禁止を決
定し、金本位制から再離脱します。つまり、井上準之助とは正反
対の経済政策、すなわち、インフレ政策を導入したのです。
 1932年2月9日、井上準之助は選挙への応援演説に向かう
途中の道で、暴漢によって暗殺されてしまいます。そして、高橋
是清も1936年2月26日、226事件で青年将校に暗殺され
てしまうことになるのです。
 この井上、高橋の暗殺によって、ロスチャイルド、モルガン商
会の関係が断絶することになります。これは、松方、高橋、井上
と続いた日銀の系譜に方向転換を迫ることになるのです。
               ──[新自由主義の正体/48]

≪画像および関連情報≫
 ●『高橋是清と井上準之助』/鈴木隆著について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  第一次大戦中、日本は世界中に市場を獲得した。第一次大戦
  後もこれを確保し続けたい。そのためには輸出品のコストを
  安く、賃金や物価を低く抑えなくてはならない。指導者たち
  が、国民を導くスローガンは、なによりも国民生活は節約を
  財界は整理を、財政は縮小しようということだった。大正、
  昭和の国論、浜口雄幸、井上準之助の節約論の基である。井
  上準之助は「財政、金融の引き締めを続け、金利や円を高く
  維持して、金本位制を守る必要がある」と主張している。つ
  まりは、現在必要なのはデフレ政策だといっている。これに
  対し、高橋是清は「財政を拡張し、金利を下げ、財政金融を
  緩やかに運営して、円を安くすることこそ大切で、金本位制
  は二の次だ」とインフレ政策を主張している。昭和四年(1
  929)七月二日に民政党の浜口雄幸内閣が誕生した。井上
  準之助は大蔵大臣に就任する。最初に日本が金本位制を取り
  入れたのは、松方正義内閣で、明治三十年(1897)であ
  る。大正三年(1914)、第一次世界大戦が始まったとき
  ヨーロッパ諸国は金の輸出を禁止して、金本位制から脱落し
  た。日本も大正六年(1917)、金の輸出を禁止し、金本
  位制から脱落した。昭和四年(1929)七月九日、浜口内
  閣は施政方針の声明書を発表し公式に金解禁の断行を宣言し
  た。実行の障害になるのは、金の流出の恐れである。金解禁
  金の輸出入は自由にするが、金は流出させない。貿易黒字を
  確保し、為替レート、金利を高い水準に維持する。そのため
  には、財政の緊縮が必須、非募債主義をとり、公債の発行は
  せず、減税をする。公債も出さずに、税金も減らすことは、
  国の財政を縮めるしかない。    http://bit.ly/1ybApEp
  ―――――――――――――――――――――――――――

井上準之助元日銀総裁.jpg
井上 準之助元日銀総裁
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2014年07月17日

●「中央銀行に君臨する者が王である」(EJ第3835号)

 吉田祐二氏によると、現代社会は明らかに金融を中心に動いて
おり、その金融を支配できるのは、銀行の銀行たる中央銀行であ
るというのです。それでは、国において本当の意味で実質的な権
力を持っているのは誰か──これについて、吉田氏は次のように
答えています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 それならば本当に実力を持った人物とは誰か?
 その間いに答えるため、逆に「権力を持つ者とはどのような者
 か」と考えてみよう。それは、お金あるいは経済を支配できる
 者のことであろう。これまで、筆者は「経済を支配できる者と
 は、銀行とくに中央銀行である」と論じてきた。中央銀行こそ
 は、マネーの量を調節し、一国の景気を良くも、悪くもできる
 機関である。したがって、中央銀行に君臨する者こそ、本当の
 実力者なのである。            ──吉田祐二著
             『日銀/円の王権』/学習研究社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 一国の正当的な権力者は、政府の首長である総理大臣というこ
とになりますが、総理大臣が実質的な権力を持っているわけでは
ないのです。上記の吉田氏のいう「中央銀行に君臨する者こそ本
当の実力者なのである」に注目すべきです。
 中央銀行に君臨できる者とは誰でしょうか。
 それは日本でいえば日銀総裁です。それは真の「王権」といえ
ます。ここまで、日銀が創設された明治期から昭和期までの王権
の系譜をたどりつつありますが、そのもうひとつ上には、その王
を支配する存在があるのです。それは、覇権国の実力者であり、
各国の中央銀行の総裁は、その実力者のカウンターパートである
ことが求められるのです。
 ここまで述べてきたことでいえば、松方正義や高橋是清はロス
チャイルドやクーン・ローブのカウンターパートであったし、井
上準之助は、モルガン商会のそれであったのです。この世界を支
配しているのは限られた一部の富豪なのです。吉田氏は彼らのこ
とを「皇帝」と呼んでいます。彼らは、深く各国の中央銀行に関
わり、巨額の利益を手にしているのです。
 「そんなのは陰謀史観である」という人もいるでしょうが、戦
前、戦後の金融の歴史をていねいにたどってみると、そう簡単に
は否定できなくなります。世の中とはそういうものであるという
ことがわかってきます。
 その世界の覇権国の実力者の間にも激しい争いがあって、時代
とともに実力者が変遷することは、ここまで見てきたことでわか
ると思います。これについて、吉田祐二氏は、本当の歴史のとら
え方について、次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本国内だけの歴史を考えていては本当のことは分からない。
 ゆえに、世界覇権国におけるマネーの実力者が誰なのかを把握
 し、それによって日本におけるカウンターパートは誰なのかを
 それぞれ考察することによって、本当の歴史の姿がわれわれの
 前に現われてくるのである。このような視点によって日本の近
 代史を眺めたものは、これまでほとんどないのではないか。
                ──吉田祐二著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 高橋是清と井上準之助のことについて、もう少し述べることに
します。2人の経済政策が正反対だからです。それは金本位制を
めぐっての意見の対立であったのです。
 井上が蔵相のとき、日本は金本位制から離脱していたのです。
日本が金本位制を取り入れたのは1897年の松方内閣のときで
すが、1914年に第1次世界大戦がはじまると、欧州諸国は金
の輸出を禁止し、金本位制から離脱したのです。どの国も非常時
には金を貯め込もうとするからです。日本も1917年に金本位
制から離脱しています。
 しかし、井上準之助は、金本位制への復帰を何とか実現させよ
うと考えていたのです。したがって、井上は浜口内閣の蔵相にな
るとその実施を決断します。1929年のことです。これについ
ては、昨日のEJで述べた通りです。
 井上の背中を押したのは国民だったのです。井上は、日本には
徹底した構造改革が必要であると考えており、国民もこれを熱狂
的に支持していたからです。ちょうど小泉構造改革のさいの日本
と同じような雰囲気だったのです。井上は今でいう新自由主義的
政策を取ろうとしたのです。
 しかし、当時の日本は金の保有量が乏しく、金本位制に戻せば
かなり貨幣量を抑制しなければならなくなります。まして平価設
定の関係で円高にしたので、当然経済はデフレになります。井上
はそれをよしとしたのです。なぜなら、井上は生産性の低い企業
をなくすためにもそれが必要であると考えたからです。
 ところが井上が実際に構造改革路線を押し進めると、失業率は
10%を超えるようになり、デフレが極度に深刻化したのです。
ちょうどそのとき米国の金融大恐慌が起こり、井上の経済政策は
日本経済に致命的なダメージを与えていったわけです。さすがに
国民も、このデフレには我慢ができなくなり、政策転換を求める
声が広がったのです。
 政権交代が起こり、蔵相に復帰した高橋是清は、直ちに金本位
制を停止し、大胆な積極財政への転換を図るとともに、これに必
要となる資金を日銀引き受けの国債発行でまかなう方針に切り替
えたのです。現在の黒田日銀総裁と同じような政策ですが、当時
は大蔵省が日銀をコントロールできたのです。
 この高橋の政策は現在では「ケインズ政策」と呼ばれますが、
高橋がこの政策を実施したのは、1932年のことであり、その
ときは「ケインズ政策」などなかったのです。ケインズが「雇用
・利子および貨幣の一般理論」を発表したのは、1936年のこ
とであり、そのように考えると、高橋是清が蔵相としていかに優
れていたかがわかります。   ──[新自由主義の正体/49]

≪画像および関連情報≫
 ●「今こそ高橋是清から学べ!」/朝香豊氏
  ―――――――――――――――――――――――――――
  高橋是清が行ってきたことを、ここで一度まとめてみましょ
  う。高橋は、まず@半値になるほどの大幅な円安を容認しま
  した。そしてAすさまじいレベルでの国債の買いオペも行い
  ました。しかしそれではまだデフレからは脱却できませんで
  した。もっと強烈な手を打つ必要を感じた高橋は、B財政を
  思い切って拡大することを追加決定し、Cこの資金を国債で
  賄う方針を立て、そしてDこれを日銀に直接引き受けさせる
  という大胆な方針を示したのです。そして、Eこうした思い
  切った手段を次々に実施していくことが、国民や企業の心理
  面でも大きな効果を上げ、デフレ脱却の実現につながったわ
  けです。高橋是清から私たちは何を学べるでしょうか。実は
  高橋が大蔵大臣として登場する前の10年間は、不況が続い
  た10年間でした。戦前版の「失われた10年」と言ってよ
  いようなものでした。この失われた10年は、第一世界大戦
  の大戦景気の反動から不況に転落したことから始まったもの
  です。そこに追撃を食らわせたのが関東大震災です。多くの
  工場・商店が崩壊し、企業間での貸し借りの決済がつかなく
  なりました。こうした不良債権の存在が経済の重しとなると
  いうことがその後もずっと後を引いたと考えて下さい。そし
  てそんな時に「こんな長期低迷を抜け出すには構造改革しか
  ない!」という感じで井上準之助が登場し、とにかく現状か
  ら脱却したいと思う国民から熱狂的な支持を受けたのです。
  小泉構造改革の頃と、本当によく似ていますね。
                  http://amba.to/1kZ2pTu
  ―――――――――――――――――――――――――――

高橋是清元大蔵大臣.jpg
高橋 是清元大蔵大臣
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2014年07月18日

●「池田成彬とロックフェラーの関係」(EJ第3836号)

 井上準之助と高橋是清が相次いで暗殺された後の日本の金融の
担い手は池田茂彬という人物です。高橋と井上が日銀を中心とす
る正統の王権の継承者であるのに対して、池田成彬は三井財閥で
実権を握っていた傍流であるといえます。しかし、池田成彬も日
銀総裁と蔵相を経験しているのです。
 池田の名前は「成彬(しげあき)」ですが、「せいひん」とも
読めます。池田は三井財閥の番頭として、財閥の富を増やすため
に辣腕を振るいましたが、自分が私腹をこやすことは一切やらな
かったといわれており、自ら「せいひん/清貧」と自分の名前を
呼んでいたといいます。
 池田成彬は、当時の予備校に当たる英学塾進文学舎で学び、慶
応義塾別科に入学しています。英学舎では小説家の坪内逍遥や高
橋是清などが講師を務めていたといいます。
 池田は別科を卒業すると、24歳のときに理財科(後の経済学
部)に入学し、理財科の代表としてハーバード大学に留学してい
ます。当時いわゆる「洋行帰り」は多くいたのですが、ハーバー
ド大学のような名門大学をきちんと卒業する人材は非常に少ない
なかで、池田は5年後に卒業して帰国しています。
 池田は、マサチューセッツ工科大学を卒業して、東京帝国大学
(東京大学)の助教授を経て三井社に引き抜かれ、重役になった
団琢磨の要請で、三井銀行に入社するのです。そして、三井財閥
の基礎を作った中上川彦次郎の娘と結婚しています。
 中上川彦次郎は福沢諭吉の甥で、彼が慶応義塾から募った人材
には、当時の日本の一流企業のトップを務めた凄い人材が揃って
いたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    藤原銀次郎 ・・・・・ 王子製紙
    藤山 雷太 ・・・・・ 芝浦製作所(東芝)
    武藤 山治 ・・・・・ 鐘紡
    小林 一三 ・・・・・ 阪急グループ
    松永安左衛門 ・・・・ 電力の鬼
―――――――――――――――――――――――――――――
 池田成彬は三井銀行で順調に出世するのですが、その評判を一
挙に落したのは、「池田のドル買い」と呼ばれる事件です。それ
は1930年に当時の井上準之助蔵相が実施した金本位制への復
帰です。このとき井上は、実勢が「100円=38ドル」であっ
たののに、日本が金本位制を採用した1897年当時の「100
円=50ドル」平価に戻して金本位制に復帰したのです。
 これを見た池田成彬は、この平価は無理が祟って長続きはせず
38ドルレベルに戻ると判断したのです。それなら、円が高いう
ちに売って、ドルを買うべきと考えて実行したのです。もちろん
三井銀行だけではなく、財閥系の銀行・企業はこの円売り、ドル
買いに狂奔したのです。これは当然世間から大きな非難を浴びた
のですが、その主犯格が三井財閥であり、主導者が池田成彬であ
ると見られていたのです。
 これによって円は売り浴びせられ、ドルは高騰したのです。も
ちろん日本政府は防御したのですが、防ぎ切れず、これによって
旧平価での金解禁は破綻したのです。
 この「ドル買い」事件によって池田のところへは脅迫状まがい
の手紙が届くようになったのですが、事件に関して池田は沈黙を
守ったままであったのです。しかし、後に刊行された池田の「回
顧録」によると、当時三井は円金利が下がっていたので、金利の
高い英国のポンドに投資しており、そのために円を売ってドルを
購入したといっているのです。ポンドを購入するにはドルが必要
であったからです。
 しかし、これは本当ではないと思われます。当時「時事新報」
が報道した記事によると、ドルを買っていたのは次の銀行や企業
だったからです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  ナショナル・シティ銀行 ・・・・ 2億7300万円
         住友銀行 ・・・・   6400万円
         三井銀行 ・・・・   5600万円
         三菱銀行 ・・・・   5300万円
       香港上海銀行 ・・・・   4000万円
       三井物産会社 ・・・・   4000万円
         朝鮮銀行 ・・・・   3400万円
       三井信託会社 ・・・・   1300万円
          その他 ・・・・ 1億8700万円
                      ──吉田祐二著
             『日銀/円の王権』/学習研究社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 巨額のドル買いをしていたのはナショナル・シティ銀行ですが
この銀行はロックフェラー系財閥銀行なのです。それに日本が金
本位制に復帰する直前の1929年に、ロックフェラー財団やカ
ーネギー平和財団が主宰する「太平洋問題調査会」が京都で開催
されており、ロックフェラー3世自らが来日していたのです。
 この会議と日本の金本位制復帰が何らかの関係があるのではな
いかといわれているのです。当時英米では、財政を緊縮にして軍
縮をはかるという動きがあり、平和実現を謳う太平洋問題調査会
において日本に対して金本位制復帰を迫る何らかのプレッシャー
があったとも考えられるのです。
 このように考えると、ナショナル・シティ銀行のドル買いは、
あらかじめ仕組まれていたものといえます。池田は欧米の事情に
通じており、この頃すでにロックフェラー財団の人物との交流を
深めていたのです。
 なお、池田成彬は、井上準之助が日銀の支店長時代から良好な
付き合いをしており、井上は欧米事情に詳しい池田の意見をよく
聞いていたといいます。金本位制に復帰するタイミングについて
も井上は池田に相談していたことが、池田の「回顧録」に残って
いるのです。         ──[新自由主義の正体/50]

≪画像および関連情報≫
 ●池田成彬と自助の精神/ギッコンガッタン
  ―――――――――――――――――――――――――――
  慶應義塾がまだ出来たばかりの頃、池田成彬という学生がい
  ました。ある宣教師が、「奨学金をつけてあげるから」と米
  国ハーバード大学への留学をすすめました。喜んで行ってみ
  ると、いきなり「支給する奨学金は無い。まず一年間勉強し
  て良い成績をとってからだ」というので、池田は途端に苦学
  生になってしまいました。学生食堂で、友人達が食事をして
  いるのに給仕をしたり、先生のために、図書館へ行って本を
  取って来たり、スクールボーイとしての毎日を送っていまし
  た。帰国する金もなく、貧乏のどん底生活をしていると、見
  るに見かねて、援助をしようというアメリカ人が現れたので
  す。けれど池田は、飛びつきませんでした。明治時代の日本
  人は、根性があったのです。池田「なぜ、自分に金をくれる
  のか」、アメリカ人「貧乏で見ていられないからだ」、池田
  「それでは困る。頭が良いからだ、と言ってくれ」、アメリ
  カ人「それはまだ分らない。一年たって試験の成績を見なく
  ては言えない」。池田は「貧乏が理由で他人から金をもらっ
  ては物乞いになる。自分は、米沢藩の家老の息子で、もとは
  といえば武士である」と、奨学金を断り、結局、日本へ帰っ
  てきました。福沢諭吉塾長にその旨を報告すると、福沢は、
  「それでは慶應で奨学金を出すからここの卒業生になりなさ
  い」と笑って言ってくれました。池田成彬は、卒業後、三井
  銀行に入って常務になり、やがて三井合名という持ち株会社
  の理事になり、昭和12年には日銀総裁、13年には大蔵大
  臣にも成ったのですから男です。その根性と気位の高さと頭
  の良さは、伊達ではなかったのです。
                   http://amba.to/UdamO3
  ―――――――――――――――――――――――――――

池田成彬元日銀総裁 .jpg
池田 成彬元日銀総裁
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2014年07月22日

●「モルガン潰し図るルーズヴェルト」(EJ第3837号)

 これまでの話の流れを簡単にまとめて先に進みます。世界の覇
権国の金融を支配する者がその国の実質的な王であり、いち早く
その王のカウンターパートになった者がその国の実質的な王にな
る──吉田祐二氏はそう考えています。
 かつての世界の覇権国は英国だったのです。その英国で金融を
支配し隠然たる力を誇示していたのは、ロスチャイルド家です。
日本では、松方正義がロスチャイルド家のカウンターパートにな
り、日本の中央銀行である日銀を創設したのです。
 しかし、日露戦争が避けられない事態になって、高橋是清が戦
費の調達の任を負い、ロスチャイルド家に頼ったのですが、ロス
チャイルド家からは色よい返事がもらえなかったのです。しかし
それを引き受けてくれたのが、クーン・ローブ商会を率いていた
ジェイコブ・ヘンリー・シフなのです。
 クーン・ローブ商会は、1850年代にアブラハム・クーンと
ソロモン・ローブの姓を組み合わせてクーン・ローブ商会を設立
したのですが、その後、事業で手を組むと同時に、クーン家の娘
イーダとローブ家のモリスが結婚して一族となったのです。
 その娘であるテレサと結婚したのが、ジェイコブ・ヘンリー・
シフです。シフはロスチャイルド家と親密な関係にあり、一緒に
事業をしていたので、クーン・ローブ商会はロスチャイルドの米
国の出先機関といわれていたのです。
 19世紀の終わりから20世紀初頭にかけて、クーン・ローブ
商会は、鉄道を中心に、鉄鋼、生命保険(エクイタブル生命)、
銀行(ナショナル・シテイ銀行)などで企業集団を作り、モルガ
ン商会と並んで権勢を振るったのです。このクーン・ローブ商会
のカウンターパートになったのは高橋是清です。
 クーン・ローブ商会は、1900年にドイツ公債を引き受け、
1904年に高橋の要請にしたがって日本国債を引き受けた頃が
絶頂であり、モルガン商会を完全に抑える存在になったのです。
しかし、ここからモルガン商会が反撃に出るのです。
 モルガン商会は、クーン・ローブ商会と同じような事業をして
いたのです。ジョン・ピアモント・モルガンは、1895年に会
社をモルガン商会として改組し、15の鉄道事業会社を買収し、
再編成したのです。その鉄道資産は合計85億ドルに達し、19
98年の時価で7310億ドル(88兆円)になり、今日のヘッ
ジファンドでさえ足元にもおよばない資産を築いたのです。
 1892年には、発明王エジソンを籠絡してGEを設立し、電
気事業を再編しています。1901年にはカーネギーの鉄鋼会社
を買収し、USスチール社を設立、鉄鋼業を再編しています。さ
らに1907年には、全米の電話を独占するAT&Tを買収し、
1920年に死の商人デュポンと組んでGMを支配しています。
 さらにモルガン商会は、米国の第1国法銀行であるファースト
・ナショナル銀行およびミューチュアル生命を中心にシンジケー
トを組んでいたのです。その後モルガン商会は、クーン・ローブ
商会の支配下にあったエクイタブル生命とニューヨーク生命も傘
下に収めて金融資本を支配下に置いたのです。
 時代は、当時の覇権国であった英国から米国へと覇権が移って
いく過程にあり、それにしたがい、モルガン商会がクーン・ロー
ブ商会を圧倒して、米国の金融資本の支配的な地位を握るように
なったのです。
 そのJ・P・モルガンが1913年に亡くなり、長男のジャッ
ク・モルガンが事業を引き継いだのですが、父ほどの能力はなく
モルガン財閥の実際の采配はモルガン家の大番頭であるトマス・
ラモントが握るようになるのです。このラモントとの知遇を得た
のが井上準之助であり、モルガン商会のカウンターパートになっ
たというわけです。
 その圧倒的なモルガン商会による金融支配を解体させようとし
たのは、1933年に発足したフランクリン・ルーズヴェルト政
権です。実はこの政権を密かにバックアップしていたのは、ロッ
クフェラー財閥なのです。
 世界恐慌直後の政権であり、不況からの脱出がこの政権の最大
の目標だったことはいうまでもないことです。そこで、フランク
リン・ルーズヴェルトは大統領に就任するや、いきなり、銀行を
1週間強制的に閉鎖したのです。
 本来であれば、これは国家による金融統制政策であり、暗いイ
メージになるところですが、これは「バンクホリデイ」と呼ばれ
マイナスのイメージがあまり起きなかったのです。ルーズヴェル
トという政治家はこの手のイメージ戦略に長けていたのです。
 続いて、ルーズヴェルトは金本位制の停止を宣言します。第1
次世界大戦で米国は一時金本位制から離脱していましたが、19
19年に復帰しています。ルーズヴェルトは再び離脱を決意した
のです。新大統領によるこれらの一連の措置は、モルガン商会に
よって青天の霹靂だったのですが、その時点では、ルーズヴェル
トの意図を十分見抜けなかったのです。
 続いてルーズヴェルトの打った手は、「グラス・スティーガル
法/1933年銀行法」の制定です。これは、商業銀行と投資銀
行の業務を分離させる法律であり、カーター・グラス上院議員と
ヘンリー・スティーガル上院議員という2人の議員によって提出
された法案です。
 これは、ロックフェラーによる当時米国の金融資本を支配して
いたモルガン商会への攻撃であることは明らかです。それにして
も、大統領就任直後の銀行の1週間閉鎖、金本位制の停止、グラ
ス・スティーガル法の制定は、事前に相当準備されていたものと
考えられます。
 その作戦の指揮を取ったのは、ロックフェラー2世であると考
えられます。ということは、ルーズヴェルト大統領はロックフェ
ラー2世による傀儡政権である可能性が濃厚なのですが、ルーズ
ヴェルトの伝記などの資料をいくら調べても、それを裏付けるも
のは何も出てこないのです。しかし、意外なところでつながって
いたのです。         ──[新自由主義の正体/51]

≪画像および関連情報≫
 ●J・P・モルガン/井口基成公式ブログより
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「政治の世界では、何事も偶然に起こるということはない。
  もし何かが起こったならば、それは前もって、そうなるよう
  に謀られていたのだ」──フランクリン・D・ルーズベルト
  第32代米国大統領
  みなさんこんにちは。さて、以下は「エイプリルフール」の
  ネタだと思って欲しい。「タイタニックとJ・P・モルガン
  とFRB」の怪しい関係についてである。「タイタニック」
  や「タイタニック号の最後」などというと、欧米のアングロ
  サクソン人特有の悲劇の中の美談というものの典型になって
  しまう。しかし、これほど陰謀の渦巻いた事件はないのであ
  る。まず一番の怪しいところは、その「タイタニック号」の
  所有者は、かの悪名高い、ジョン・P・モルガン(モルガン
  銀行の創始者)であったということである。もちろん、いわ
  ゆる偽ユダヤ人である。次に怪しいのがテスラのスポンサー
  であったこと。そして、最終的にテスラの研究所を焼き払い
  テスラをお払い箱にしたこと。最後に怪しいのが、このモル
  ガンが「連邦準備制度/FRB」という民間会社の設立に一
  番の重要人物であったこと。要するに、後に第1次世界大戦
  (1914年〜1918年)を起こさせ、それによるアメリ
  カの負債を、アメリカを工業化させることによって、永遠に
  イギリスに利子を支払わせ続ける仕組みを作ったということ
  である。             http://bit.ly/1jI99tV
  ―――――――――――――――――――――――――――

ジョン・ピアモント・モルガン.jpg
ジョン・ピアモント・モルガン
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2014年07月23日

●「ニュー・ディールの意味するもの」(EJ第3838号)

 ルーズヴェルト米大統領といえば「ニューディール政策」が有
名ですが、「ニューディール」とは何でしょうか。
 これはトランプの配り直しを意味しています。ポーカーなどで
カードをディーラーが配ることをいうのです。これから転じて、
「新しい取り引き」を意味している──このように吉田祐二氏は
いっています。ルーズヴェルトとロックフェラーによる「取り引
き」を意味しているというのです。
 ルーズヴェルトの金融改革政策は、ロックフェラーによるモル
ガン商会への攻撃であることは、オーストリア学派に属する経済
学者であるマレー・ロスバードは『アメリカ貨幣銀行史』(未邦
訳)のなかで、次のように明確に書いています。モルガンの旗艦
商業銀行のチェース・ナショナル銀行を、ロックフェラーが乗っ
取ったいきさつです。吉田祐二氏の翻訳で紹介します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ルーズヴェルトのニュー・ディール期における決定的な局面は
 残念ながら長らく歴史家から無視されてきた。ニュー・ディー
 ルとは、モルガンを引きずり下ろすために対抗する金融グルー
 プの連合体による「打倒モルガン支配」を企図したものであっ
 た。その連合体とは、ロックフェラー家、新興のハリマン家、
 リーマン・ブラザーズやゴールドマン・サックスといったユダ
 ヤ人投資銀行家、マイノリティであるアイルランド人カソリッ
 クの野心家ジョセフ・ケネディ、カリフォルニア州のバンク・
 オブ・アメリカのイタリア系のジャンニーニ、ユタ州の銀行=
 建築コングロマリットの頭であるモルモンのマリナー・エック
 ルズ、カルフォルニアのベクテル社、そしてロックフェラーの
 スタンダード石油カリフォルニアである。この金融革命の先触
 れとも言うべきは、ロックフェラーによるモルガンの旗艦商業
 銀行であるチェース・ナショナル銀行の乗っ取りの成功であっ
 た。1929年以来、ネルソン・オールドリッチ上院議員の息
 子でJ・D・ロックフェラー二世の義弟であるウインスラブ・
 W・オールドリッチは、ロックフェラー家が支配するエクイタ
 ブル・トラスト・カンパニーをチエース銀行に合併させ、銀行
 内部での権力闘争の未にモルガンのチェースCEOであるアル
 バート・ウィギンを追い出して、取って代わった。それ以来、
 チェース銀行はロックフェラー金融帝国の実質的な総司令部と
 なったのだ。               ──吉田祐二著
             『日銀/円の王権』/学習研究社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 ルーズヴェルト大統領によるモルガン商会への攻撃で、最もイ
ンパクトがあったのは、1934年に行われた連邦準備の機構改
正です。そのことを知るには、1913年に戻って考える必要が
あります。
 米国に中央銀行が設立されたのは、実は日本よりもはるかに遅
い1913年なのです。日本の中央銀行である日本銀行(日銀)
は、1882年6月に日本銀行条例が公布され、1882年10
月10日に開業しています。
 実は米国で1913年までに2回にわたって、中央銀行設立の
動きはあったのですが、いずれも州政府の強い反対で、失敗に終
わっているのです。
 1回は1791年です。この年に「第1合衆国銀行」が設立さ
れたのですが、既に州立銀行を設立していた州政府によって反対
され、解散しています。2回は1816年です。この年に「第2
合衆国銀行」が20%の政府出資によって合衆国政府の銀行とし
て設立されたのですが、やはり州政府の反対によって解散してい
るのです。米国は連邦制を採用しているので、東部と西部、北部
と南部で地域的な強い対立があり、金融を合衆国としてまとめる
のは困難だったのです。それまでは、個々の銀行などが、米国債
や金準備を使って紙幣を発行していたのです。
 しかし、19世紀から20世紀にかけて何回も恐慌が発生し、
銀行や企業の倒産が相次いだことによって、金融システムの安定
化が求められ、中央銀行の設立の機運が少しずつ盛り上がってき
たのです。そして1913年に連邦準備制度が設立されるのです
が、そのいきさつについて、ウィキペディアは次のように書いて
います。秘密会議を開き、多くの議員の休暇の隙をついて成立さ
せているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1910年11月22日、ジョージア州沿岸のジキル島にJ・
 P・モルガンが所有する「ジキル島クラブ」で、秘密会議が開
 かれ、FRB設立について計画が討議された。J・P・モルガ
 ンやポール・ウォーバーグ、ジョン・ロックフェラーの後ろ盾
 の下に、1913年に、ウッドロウ・ウィルソン大統領が、ロ
 バート・オーウェンとカーター・グラスの提出したオーウェン
 ・グラス法に署名し、同年多くの上院議員が休暇で不在の隙を
 突いて12月23日にワシントンD.C.に駐在する連邦準備制
 度理事会と12地区に分割された連邦準備銀行により構成され
 る連邦準備制度が成立した。「準備」とは預金準備のことを意
 味する。    ──ウィキペディア http://bit.ly/1kHBdsM
―――――――――――――――――――――――――――――
 ウィキペディアの記述でもわかるように、ニューヨーク連邦銀
行をはじめとする12の地区の連邦銀行は、1913年に設立さ
れたときは、かなりモルガン色の強い組織だったのです。秘密会
議が、モルガン家所有の「ジキル島クラブ」で行われていること
から考えても、J・P・モルガンの強いリーダーシップで行われ
たことは確かです。
 しかし、恐慌を避けるために設立されたはずの連邦準備制度は
1929年にこれまでに最大の大恐慌を迎えてしまうことになる
のです。これによって、州政府に配慮した地方分権型の制度では
なく、中央集権的な金融政策の運営が必要であるとの認識に立っ
て1934年の機構改正が行われたのです。それはモルガン支配
の終焉を意味したのです。   ──[新自由主義の正体/52]

≪画像および関連情報≫
 ●外国資本が所有する米国中央銀行/FRB
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ドルを発行しているのは、米国の中央銀行である米国連邦準
  備制度理事会(FRB)です。この米国連邦準備制度理事会
  とは、いかなる組織なのでしょう?政治的理由によって連邦
  議会図書館を解雇された唯一の職員であるといわれるユース
  タス・マリンズの著書『民間が所有する中央銀行』/秀麗社
  に詳細が描かれていますので、要約してご紹介いたします。
  連邦準備制度理事会の理事は合衆国大統領によって任命され
  ますが、理事会の実際の業務の管理は、理事と協議しつつ連
  邦諮問評議会 が行います。連邦諮問評議会 は1914年1
  月7日に開かれた連邦準備制の組織委員会で選定された12
  の特権的都市の「金融地区」連邦準備銀行の役員によって選
  出されますが、『連邦準備法』に基づき一般には公表されて
  いません。全米12の地区連邦準備銀行は「金利を設定し、
  公開市場操作を指揮することによって米国通貨の日々の供給
  と価格をコントロール」することができます。12ある地区
  連邦準備銀行の中で最大の銀行が、『ニューヨーク連邦準備
  銀行』です。米国の金融政策である金利や通貨の数量と価値
  および債権の販売は、実質的には『ニューヨーク連邦準備銀
  行』が決定しています。     http://amba.to/1jMcKax
  ―――――――――――――――――――――――――――

連邦準備制度理事会のあるエクルズ・ビル.jpg
連邦準備制度理事会のあるエクルズ・ビル
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2014年07月24日

●「ルーズヴェルトとロックフェラー」(EJ第3839号)

 連邦準備制度は、1913年から1934年までは12の連邦
準備銀行それぞれが独立性を保ち、なかでもニューヨーク連邦準
備銀行が最大の権限を握っていたのです。この銀行はモルガン家
の所有物だったのです。
 ルーズヴェルト大統領が仕掛けた1934年の連邦準備制度の
改革について、吉田祐二氏はロン・チャーナウの『モルガン家』
より、次の引用をしています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 モルガン財閥に対し、最も手のこんだ攻撃をかけてきたのは、
 連邦準備制度の改正を求めた人々だろう。1934年、ユタ州
 の青年実業家のマリナー・スタッダード・エクルズが、ルーズ
 ヴェルト政権に、連邦準備法の改正を勧めた。改正の趣旨は、
 ウォール街銀行家の影響力を連邦準備制度から一掃するため、
 ニューヨーク連銀の持つカを取り上げてそれをワシントンの連
 邦準備局に移すというものだった。(中略)成立した同法に基
 づいて、全国十二の地区に置かれている連邦準備銀行は、従来
 の独立権限の大部分を奪われ、七名の理事から成るワシントン
 の連邦準備制度理事会に実権を握られた。この改正で、二つの
 点で連邦準備制度の新たな独立性が強調された。一つは、財務
 長官が理事の地位から外されたことで、もう一つは、それまで
 財務省内にあった連邦準備制度が独立の建物を得たことだ。
                      ──吉田祐二著
             『日銀/円の王権』/学習研究社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 これが現在の連邦準備制度の体制なのです。12の連銀から取
り上げた金融政策の権限を7人が握ることになったのです。金融
政策の地方分権から中央集権への移行です。メンバーは議長・副
議長を含めた7人で、任期は14年。FRB議長については大統
領の指名と上院における承認というプロセスを経たうえで、7人
のメンバーの中から選出されるという体制です。
 こういう体制になると、連邦準備銀行を支配していたモルガン
財閥は力を失い、ワシントンの連邦準備制度理事会に実権を握ら
れることになるのです。この連邦準備制度改革を主導したのは、
ルーズヴェルト大統領ですが、それをバックアップしたのはロッ
クフェラー財閥なのです。
 それでは、ルーズヴェルトとロックフェラー財閥とはどのよう
に結びついていたのかというと、どのような資料を調べても直接
的なつながりを示すものは何もないのです。ただ、ルーズヴェル
トとロックフェラーは、マッケンジー・キングなる人物を通じて
間接的につながっているのです。
 マッケンジー・キングは、カナダの首相を1921年から19
48年まで約30年にわたって、断続的であるが務めたカナダの
支配者といわれる人物です。このマッケンジー・キングは、19
11年から17年にかけて、ロックフェラー家に「居候」をして
いたことがあるのです。
 マッケンジーは、とくにジョン・D・ロックフェラー2世と親
しく、2世の息子のデイヴィッド・ロックフェラーの『回顧録』
にも、マッケンジーに関する次の記述があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 長年のあいだ、わたしはウイリアム・ライアン・マッケンジー
 ・キングに心酔していた。ラドローのストライキの直後にいっ
 しょに働いたことがきっかけで、父の親友になった人物だ。キ
 ング氏はのちにカナダ自由党の重鎮となり、1935年には三
 度目となる首相の座に就いた。ニューヨークに来るとよく両親
 のもとに滞在し、シールハーバーを訪れたこともある。いつも
 温かく親しみやすい態度で接してくれるので、言葉を交わすと
 気持ちが落ち着いた。     ──吉田祐二著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで「ラドローのストライキ」とは1914年にロックフェ
ラーの傘下の炭鉱で起こったストライキのことで、それを強引に
潰そうとしたロックフェラー家と炭鉱労働者の間の紛争で多くの
死者が出たのです。この事件は、世間では「ラドローの虐殺」と
呼ばれ、ロックフェラー家の評判は地に落ちたのです。このとき
の問題解決に尽力したのがマッケンジーなのです。
 それでは、マッケンジーとルーズヴェルトはどうつながってい
たのでしようか。
 吉田祐二氏は、アメリカの通史を書いたサムエル・モリソンの
『アメリカの歴史5』より、次の記述を引用しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 マッケンジー・キングは、1935年4月に再度カナダ首相に
 なり、さらに二度の総選挙と第二次世界大戦を通じて、13年
 間首相の職にあった。穏やかで内気な態度の絶対独身主義者で
 弁舌は決してさわやかでなく、指導者の属性といってはほとん
 ど備わっていない、この短身でずんぐりした男は、それでも、
 すぐれて鋭敏な政治家だった。(中略)キングがアメリカで職
 にあったあいだにお互いに知り合ったマケンジー・キングとフ
 ランクリン・D・ルーズヴェルトは、いまでは、個人的に親し
 い友人同士になった。(中略)1938年8月、オンタリオ州
 のキングストンにおいて、ローズヴェルト大統領は、「もしカ
 ナダの国土の統治が他の国に脅かされることがあれば、アメリ
 カ合衆国国民は黙っていないだろう」と約束した。
                ──吉田祐二著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 吉田氏は上記の記述のなかで「キングがアメリカで職にあった
あいだに」に注目すべきであるといっています。この期間は19
11年から17年であり、マッケンジーがロックフェラー家に居
候をしていた時期です。この事実からこの時期にロックフェラー
家とルーズヴェルトの接触は間違いなくあったものと考えられる
のです。ニュー・ディールとは、ロックフェラーとルーズヴェル
トの新しい契約なのです。   ──[新自由主義の正体/53]

≪画像および関連情報≫
 ●「ラドローの虐殺」とは何か/ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1913年9月、コロラド州ラドローの鉱夫たちがストライ
  キを呼びかけた。しかし彼らの親会社は、ロックフェラー家
  がオーナーである、当時最も規模の大きい鉱山会社だった。
  1914年4月20日、警備員たちがストライキをしていた
  鉱夫たちやその家族の住むテントを襲撃し、26人の死者が
  出る。ストライキ中、バークマンは鉱夫たちの支持を得て、
  ニューヨークでデモを行った。5月と6月には他のアナキス
  トたちとともにジョン・ロックフェラー・ジュニアへの複数
  の抗議デモを主導した。抗議活動はしだいにニューヨーク中
  心地からロックフェラー家のお膝元であるテリータウンへと
  広がる一方で、相当な数のアナキストが暴行を受け、逮捕・
  監禁された。テリータウンで示された警察の強硬な姿勢は、
  フェラー・センターに集うアナキストたちによる爆破計画へ
  とつながった。7月、バークマンの仲間3人がダイナマイト
  を調達し、やはり彼に同調していたルイーズ・バーガーの住
  むアパートに投げ込んだ。彼らによれば、バークマンが指導
  的な立場にあり、グループ内で最も年長であり経験もあった
  という。後にバークマンは計画への関与を否定している。7
  月4日9時、ルイーズがエマ・ゴールドマンの事務所に出か
  けた。その15分後、大爆発が起こる。爆弾が爆発し、ルイ
  ーズの住む6階立てのアパートが震え、3階から先は大破し
  た。ダイナマイトを仕掛けた3人は全員死亡し、もう1人の
  女性が亡くなった。彼女は明らかにこの事件の共謀者ではな
  かった。バークマンは、亡くなった人間の葬儀を手配してい
  る。               http://bit.ly/1yNTs7X
  ―――――――――――――――――――――――――――

マッケンジー・キングカナダ元首相.jpg
マッケンジー・キングカナダ元首相
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2014年07月25日

●「池田成彬とオーエン・D・ヤング」(EJ第3840号)

 ここまで見てきたように、世界覇権国の金融資本の支配者は、
ロスチャイルド商会、クーン・ローブ商会、モルガン商会、そし
てロックフェラー財閥へと変遷してきています。それぞれのカウ
ンターパートとして、ロスチャイルドは松方正義、クーン・ロー
ブは高橋是清、モルガンは井上準之助がなっていますが、ロック
フェラーのカウンターパートは誰なのでしょうか。
 それは池田成彬です。池田は、オーウェン・D・ヤングのカウ
ンターパートなのです。オーウェン・D・ヤングとは何者なので
しょうか。
 オーエン・D・ヤングとは、米国の財政家であり、経営者であ
り、外交官です。1919年にGE、ゼネラル・エレクトリック
から分離するかたちで、RCAを創立し、1929年まで会長を
務め、さらに1922年から1939年までゼネラル・エレクト
リックの会長を務めた人物です。
 外交官としては、第一次世界大戦終結後、ドイツ賠償委員会に
参加し、ヴェルサイユ条約に基づくドイツの賠償返済を円滑に進
めるべく1924年にドーズ案をまとめるのに尽力しています。
その後、1929年に同委員会の議長になり、さらに賠償額を減
額したヤング案を成立させたのです。
 その功績は高く評価され、同年に「タイム」誌のマン・オブ・
ザ・イヤーに選ばれています。そして、翌1930年にはドイツ
の賠償金支払いを統括する国際決済銀行を設立しています。なお
ヤングは1942年から1945年までGEの会長を再び務めて
います。GEとは切っても切れない関係にあったのです。
 池田成彬は、オーウェン・D・ヤングに1922年に会ったこ
とを『財界回顧録』で次のように書いています。吉田祐二氏の本
から引用します。(一部省略一部編集)
―――――――――――――――――――――――――――――
 ヤング・プランで有名なあのオーエン・ヤングという人、私が
 あの人に会ったのはパリーでヤング・プランの会議のときに一
 二遍でした。しかしそのとき、深くは話さなかった。ところが
 ニューヨークにいってG・E(ジェネラル・エレクトリック)
 社長のスゥオープに逢うと(彼が社長でヤングは会長)スゥオ
 ープは私に「あなたとヤングとゆっくり話をして貰いたい。自
 分の別荘へ(日曜だったと思うが)きてくれ。ほかの人は呼ば
 ないから、二人だけでゆっくり話してくれ」という触れ込みで
 す。私はベルリン、ロンドン、パリー、ニューヨーク、主なる
 ところを渡り歩き、政治家には会わないが、銀行家や企業家や
 実業家の人たちに多く会っておる。この数多い中で偉いと思っ
 たのはヤングですね。どこが偉いかといわれると困るが・・。
 この人は身体も大きく、いうことがはっきりしており、何とな
 く信頼できるような心持ちがしました。不思議なひとです。人
 をひきつけるようなところがあった。芝浦の関係で日本にもき
 たことがあります。            ──吉田祐二著
             『日銀/円の王権』/学習研究社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、GEといえばモルガン系の企業です。それがどうして
ロックフェラーに結びつくのでしょうか。
 実はオーエン・ヤングは、GEの会長でありながら、1928
年〜1939年まで、ロックフェラーの財団理事を務めていたの
です。つまり、両天秤をかけていたのです。当時の日本は、井上
準之助をはじめモルガン家からの情報に依存していたのですが、
池田成彬はロックフェラーとのコネクションをつくり、先行した
情報を持っていたことになります。
 オーエン・ヤングがGEやRCAで経営者として手腕を振るっ
たように、池田成彬も三井銀行をベースに銀行家として地位を築
くとともに、日本の政治にも影響力を発揮したのです。池田はロ
スチャイルドやロックフェラーの財閥人と付き合うようになって
学んだことが多くあるといっています。そのなかで三井に在籍中
に力を入れたのは、慈善事業です。1933年には「財団法人三
井報恩会」を設立し、慈善事業を推進しています。「財閥は悪い
ところを見せてはいけない」ことを学んだからです。
 池田は三井を定年で離れたあとで、短い期間ですが、日銀総裁
と大蔵大臣をやっています。日銀総裁在任期間中は「参与理事制
度」を新設し、財界からの代表者が日銀で議決権を持って発言で
きる仕組みを作っています。今でいう社外取締制度です。
 その池田を尊敬していたのは吉田茂元首相です。終戦直後に吉
田は、池田を占領軍との交渉窓口である連絡事務局の長官に就任
させようとしたのですが、池田に戦犯容疑がかかっていたため、
実現しなかったのです。
 しかし、吉田は何かと池田に相談していたことが、いろいろな
書籍からわかっています。今村武雄著『池田成彬伝』には、吉田
に関する次の記述が残っています。ちなみに、吉田の大磯の自宅
は有名ですが、池田も大磯に自宅を持っていたのです。これを読
むと、吉田が池田をいかに尊敬し、信頼していたかがよくわかる
と思います。吉田茂の述懐です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 週末は、かならず大磯にくるという原則を立てまして、この原
 則は、厳守いたしておったのであります。したがって、一週間
 に一度はかならず暇があれば大磯にきておったのであります。
 その往復のたびごとにここ(池田邸)へ出て、池田さんから、
 おみくじを引くことにいたしておったのです。(中略)池田大
 明神のおみくじを引いたうちには、人事の問題がずいぶんたく
 さんあり、この人はどうだろう、あの人はどうだろう、これに
 対して、池田さんはなんら私心がなく、ごく遠慮のない批判を
 して下すって、そのおかげでもって、私も非常に迷うところな
 く、決定することができたのであります。
                ──吉田祐二著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
               ──[新自由主義の正体/54]

≪画像および関連情報≫
 ●池田成彬という男にみる、つまるところ自分次第の理。
  ―――――――――――――――――――――――――――
  (池田成彬は)、吉田茂の経済政策指南役を務めた後、昭和
  25年(1950年)、享年83歳で没・・・という人なの
  ですが、没後、半世紀以上経つ今となっては、なかなか、知
  る人もいないでしょうか。この池田成彬ですが、実は、彼は
  ときの三井の大実力者にして、福澤諭吉の甥、中上川彦次郎
  三井銀行専務理事の長女を妻に迎えています。そう聞けば、
  普通、「なんだ、大実力者の娘婿だから、トントン拍子に出
  世したのか・・・」などと考えがちですが、実は、池田が中
  上川の娘を嫁に迎えた時点では、中上川はすでに失脚寸前で
  あったらしく、つまり、打算で考えれば女婿になることは最
  悪の選択肢だったわけですね。実際、中上川はその結婚から
  間もなく失脚し、失意のうちに病死しており・・・。こうな
  ると、バック・アップどころか、池田は、「あの中上川の娘
  婿」という色メガネの元で、日々の勤務しなければならなか
  ったわけです。そして、新たな三井銀行の専務理事には、大
  蔵省から三井に迎えられた早川という人物が就任し、これで
  誰の目にも、「不遇を囲う・・・」と思われていたところ、
  いつの時代でも、結局、誰よりも業務に精通し、誰よりも気
  骨のある人物というものは、なかなか、ないがしろに出来難
  いもののようで、池田は失脚するどころか、気が付けば、逆
  に「池田専務、早川部長」と揶揄される状態になっていたと
  か・・・。            http://bit.ly/1kL9Xto
  ―――――――――――――――――――――――――――

オーエン・D・ヤング.jpg
オーエン・D・ヤング
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2014年07月28日

●「渋沢栄一とロックフェラーの関係」(EJ第3841号)

 太平洋戦争を経験している日本人は「戦前」と「戦後」を分け
て考える傾向があります。このように分けてしまうと、「戦前」
と「戦後」は断絶しているように感じるものですが、実は、「戦
前」と「戦後」は連続しているのです。
 とくに実質的な「王」である日銀総裁の人脈は、戦前・戦後を
通じて完全につながっているのです。ここまで、松方正義、高橋
是清、井上準之助、池田成彬について書いてきましたが、これら
の4人は、覇権国の財閥──ロスチャイルド、クーン・ローブ、
モルガン、ロックフェラーと密接な繋がりを持っているのです。
これが戦後の、とくにプリンスといわれた日銀総裁たちにどのよ
うにつながっていくのかについて書いていきます。
 池田成彬がいかに戦前、戦中、そして戦後の経済や政治に影響
力を持っていたかについて書きましたが、終戦時の日銀総裁は、
池田が指名した渋沢敬三だったのです。渋沢敬三は、あの渋沢栄
一の孫なのです。なぜ、長男でなくて孫なのか──これには理由
があるのです。
 渋沢栄一は徳川慶喜が将軍になったのに伴い幕臣となり、慶喜
の弟の徳川昭武に随行してパリ万博を視察したことは既に述べて
います。役職は「後勘定格陸軍付調役」です。なお、渋沢がフラ
ンスに滞在中に役職は「外国奉行支配調役」になり、語学修得の
必要性を感じた渋沢は、シーボルトの長男でパリ視察団の通訳を
務めたアレクサンダーについて帰国後も語学を勉強し、マスター
しています。
 その後慶喜から暇をもらい、フランスで学んだ株式会社制度を
実施するため、商法会所を設立します。1869年1月のことで
す。しかし、大隈重信に説得され、同年10月に大蔵省に入省す
ることになるのです。そして、大蔵官僚として、第一国立銀行の
設立などを指導する仕事を行っています。
 しかし、予算編成をめぐって大久保利道や大隈重信と対立し、
1873年に大蔵省を退官しています。そのとき、渋沢と一緒に
退官したのが、井上馨です。
 大蔵省を退官した渋沢栄一は、大蔵省時代に指導していた第一
国立銀行の頭取に就任します。この第一国立銀行は、その後第一
銀行、第一勧業銀行を経て、現在のみずほ銀行になるのです。
 以後渋沢は、一貫して実業界に身を置き、七十七国立銀行をは
じめ多くの地方銀行の設立に関与し、また多種多様の企業の設立
にも携わり、その数は500社を超えるといわれています。その
ごく一部を上げると、次のように有名企業がズラリです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     1.東京瓦斯
     2.東京海上火災保険
     3.王子製紙(現王子製紙・日本製紙)
     4.田園都市(現東京急行電鉄)
     5.秩父セメント(現太平洋セメント)
     6.帝国ホテル
     7.秩父鉄道
     8.京阪電気鉄道
     9.東京証券取引所
    10.キリンビール
    11.サッポロビール
    12.東洋紡績など
―――――――――――――――――――――――――――――
 渋沢栄一は歴史上の人物として小説などの題材になっています
が、還暦を過ぎてから4回も訪米していることは、あまり知られ
ていないのです。今と違ってそのときは、日本から米国へは汽船
で2週間の旅であり、旅費もサラリーマンの平均給与が、20円
〜30円程度のときに約1000円もかかったのです。
 第1回の訪米は1902年であり、時の米大統領セオドア・ル
ーズヴェルトに会っています。最後の訪米は1921年であり、
そのとき渋沢は81歳であったといいます。
 1909年に渋沢は「渡米実業団」を組んで渡米しています。
注目すべきは、そのとき渋沢が「石油王」といわれたジョン・D
・ロックフェラー一世に会い、親しく懇談していることです。オ
ハイオ州クリーブランド市の商工会議所主催の晩餐会においてで
す。東京商工会議所編「渋沢栄一/日本を創った実業人」(講談
社)では、そのときの様子を次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ロックフェラー一世は一風変わった人物で、かつて晩さん会な
 ど社交の場に出席したことがなかった。それまでの25年間に
 宴席に出たのはただ一回。竹馬の友マッキンレー大統領が殺さ
 れて、同市で記念祭がおこなわれた際に顔を出したきりであっ
 た。だから案内人は「今日は皆さんに感謝してもらわなければ
 ならない」とつけ加えるのを忘れなかった。会場に着くと大珍
 客は接待委員に交じって皺くちゃの梅干顔で一行を迎え、渋沢
 と食卓をともにし、通訳を通じて歓談した。二人の歓談の内容
 は経済や経営のことではなく、もっぱら社会慈善事業や学校教
 育について話し合った。(中略)二人の席から遠くにいあわせ
 た人々、とくに米国人は二人が何を熱心に話し合っているのか
 と不思議そうに眺めていたそうである。世間ぎらいで通ってい
 たロックフェラーが珍しく出席したのは、おそらく渋沢が日本
 での大実業家であると同時に大慈善家であることも聞いていて
 会って話したい気になったのに違いない。  ──吉田祐二著
             『日銀/円の王権』/学習研究社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 吉田祐二氏は、ロックフェラー一世に会った日本人は渋沢栄一
しかいないのではないかといっています。渋沢の影響力は、一線
を退いた1920年頃から衰え始め、やがて渋沢よりも30歳も
若い世代──池田準之助、池田成彬、団琢磨、串田万蔵、藤山雷
太、郷誠之助などに移って行ったのです。
               ──[新自由主義の正体/55]

≪画像および関連情報≫
 ●資本主義と儒学―渋沢栄一『論語と算盤』/田中修氏
  ―――――――――――――――――――――――――――
  大蔵省勤務時代の渋沢には次のようなエピソードがある。あ
  る日の夕方、神田猿楽町の彼の自宅に西郷隆盛参議がふいに
  尋ねてきた。用件は、相馬藩の興国安民法の処置についてで
  あった。興国安民法とは、二宮尊徳が相馬藩に招聘された時
  に作った財政・産業政策で、相馬藩繁栄の礎となったもので
  ある。井上馨や渋沢が財政改革を行うに当たり、この興国安
  民法の廃止が議論に上がっていた。これを聞きつけた相馬藩
  では、藩の消長に関わる由々しき一大事ということで、富田
  久助・志賀直道2名を上京させ、西郷参議に興国安民法を廃
  止せぬよう陳情した。西郷はそれを容認したが、大久保利通
  ・大隈重信・井上馨に話しても相手にされそうにないので、
  渋沢を説き伏せようと考えたのである。西郷は渋沢に対して
  以上の次第を述べ、せっかくの良法を廃絶させるのも惜しい
  のでこの法の立ち行くよう尽力してもらいたいと要請した。
  しかし渋沢が法の内容を尋ねたところ、西郷は「それは一向
  に承知しない」という。そこで渋沢は、興国安民法について
  事前に十分調べていたので、概略を説明した。二宮尊徳は相
  馬藩に招聘されるや否や、まず同藩の過去180年間におけ
  る詳細な歳入各年統計を作成し、これを歳入額の多寡により
  60年ずつの3グループに分類した。その中位グループ60
  年の平均歳入を同藩の歳入基準としたのである。次にこの各
  年統計を歳入額の多寡により90年ずつの2グループに分類
  し、うち額の少ない90年のグループの平均歳入額を藩の歳
  出基準とし、毎年の歳出はこれを上回らないこととさせた。
                   http://bit.ly/1pOSiUu
  ―――――――――――――――――――――――――――

渋沢栄一翁.jpg
渋沢 栄一翁
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2014年07月29日

●「祖父の懇請を受け入れた渋沢敬三」(EJ第3842号)

 渋沢栄一には篤二という長男がいたのですが、篤二は栄一の巨
大な影に押しつぶされるように遊蕩の世界に溺れ、ついには渋沢
家から廃嫡処分を受けるという悲劇的人生を送っています。
 そのため、渋沢栄一は篤二の長男、つまり孫の敬三を跡取りに
しようとしたのです。しかし、敬三は学者の世界に進み、動物学
や民俗学の研究をする夢を持っていたのです。
 そういう19歳の敬三に対し、75歳の栄一は羽織袴の正装で
頭を畳にすりつけんばかりにして次のように懇請したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   どうか私のいうこと聞いてくれ、この通りお頼みする
                       渋沢栄一
―――――――――――――――――――――――――――――
 後で敬三の語ったところによると、強制するわけではなく、た
だただ孫に頭を下げて頼む祖父を見て、とても断れる状況ではな
かったと述懐しています。敬三の長男である雅英の著作『父・渋
沢敬三』にはそのときのことが次のように書かれています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 栄一は強圧しなかった。しかし、誠心誠意若い孫に懇請した。
 「とても悲しかったよ。悲しくてしょうがなかった」と、父は
 言った。自分の一番好きな道、もっとも生甲斐とあこがれを感
 ずる道に行くことができないのが淋しかった。今の世の中なら
 父の立場も違っていただろう。また、もし篤二が健在で、父が
 普通の意味での三代目だったら、自分の希望を通していたかも
 しれない。「命令されたり、動物学はいかんと言われたりした
 ら僕も反撥したかもしれない。おじいさんはただ頭を下げて頼
 むと言うのだ。七十いくつの老人で、しかもあれだけの人に頼
 むと言われるとどうにも抵抗のしようがなかった」。
                      ──吉田祐二著
             『日銀/円の王権』/学習研究社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 銀行家としての渋沢敬三は、大学卒業後に横浜正金銀行に入行
します。ロンドン支店で3年間を過ごし、30歳のときに第一銀
行に入行しています。
 このとき敬三としては、第一銀行に骨を埋めるつもりでいたの
です。既に敬三は取締役として昭和2年の恐慌や金解禁の荒波を
乗り切り、銀行家としてのキャリアを重ねていたからです。しか
し、そうはいかなかったのです。当時枢密顧問官の池田成彬が隠
然たる力を持ち、画策したからです。
 1942(昭和17)年に敬三は池田に請われて、日銀の副総
裁になります。そのときの日銀総裁は結城豊太郎であり、既に7
年間も総裁の地位にあったのです。
 戦時中の日銀総裁というのは、戦費調達のために赤字国債を無
制限に引き受けるしかなく、日銀総裁として力量を振るうことな
ど、ほとんどできなかったのです。終戦1年前の1944(昭和
19)年に敬三は日銀総裁になるのです。というより、無理やり
させられたというべきだったでしょう。敬三はそのときの心境を
終戦後のテレビのインタビューで次のように語っています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 あの時は賀屋(引用者注・・興宣)大蔵大臣から、是非日銀総
 裁になれと──丁度、山内静吾って方が副総裁で、胃かいよう
 で余命もう幾許もないというので、白羽の矢が立ったんですが
 ──その裏を私はよく存じませんでしたけれども、池田成彬さ
 んがね、どうも進めたらしいんですね、大分前から池田さんは
 目を付けて、私をいろんなものに仕様とした、私、皆お断りし
 ていた、これも完然にお断りしたんです。──そうした所が、
 どうも済みませんでね、それで、とうとう、東条さん──当時
 の総理ですね──やって来いっていいましてね、仕方がないか
 ら行きましたよ──その前の晩に皆と相談して行く事に決めた
 んです──それもサーベルをガチャガチャさせて──まア、強
 姦ですね、あれは・・・。 ──『渋沢敬三先生景仰録』より
                      ──吉田祐二著
             『日銀/円の王権』/学習研究社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 そして、終戦後の1945(昭和20)年9月、敬三は幣原内
閣の大蔵大臣に就任するのです。そして、その翌年に連合国最高
司令官、マッカーサー将軍の命による預金封鎖──旧円を新円へ
の切り替えなどの終戦処理を敬三は大蔵大臣として事態の収拾に
当たったのです。
 渋沢敬三が次の日銀総裁に指名したのが、新木栄吉です。実は
敬三は自身の日銀総裁の就任に当たり、池田にひとつ条件をつけ
ているのですが、それが新木栄吉の日銀副総裁の就任なのです。
敬三と新木は旧知の仲であり、当時新木は日銀の代表として南京
の経済顧問をしていたのですが、それを呼び戻して副総裁に就任
させたのです。
 そして敬三は、自分が幣原内閣の大蔵大臣になるときに新木を
日銀総裁に引き上げています。このようにして、新木栄吉は戦後
初の日銀総裁になるのです。
 ここで話は、2014年7月8日のEJ第3828号に戻るの
です。新木は就任後7ヶ月で追放になりますが、1952(昭和
27)年に駐米大使に就任しています。これはあらかじめ決めら
れていた路線なのです。新木の後任の一万田日銀総裁と新木駐米
大使──米国はこれによって日本をコントロールしようと考えて
いたからです。            http://bit.ly/1msV1Uu
 実は、新木栄吉が追放開けに駐米大使になったのには、ロック
フェラー3世の後押しもあったとされています。敬三の『新木栄
吉氏の思い出』によると、ロックフェラー3世は、新木の大使着
任の前に着任日を本人に直接問い合わせ、ニューヨークで歓迎会
を開いています。このことは、新木はロックフェラーをはじめ、
ニューヨークの財界でいかに信望が厚かったかを示すものである
といえます。         ──[新自由主義の正体/56]

≪画像および関連情報≫
 ●「新木栄吉氏の思い出」/渋沢敬三談話集より
  ―――――――――――――――――――――――――――
  時たまたまロックフェラー三世が日本に来ておられて、その
  こと(新木が駐米大使になること)を聞かれまして非常に喜
  ばれ、そうしてすぐ石川県の小松へロックフェラー三世が自
  ら電報を打ちまして、まだアグレマン(引用者註−大使や公
  使を派遣するに当たって事前に接受国に求める同意)も来て
  いないとき、「あなたが大使になって来られたらニューヨー
  クの財界はあげて大歓迎をする。ついてはあなたの日取りを
  今からいただきたい」と言って、確か六月十七日だったと思
  いますが、ニューヨークの財界こぞって大歓迎会を開くとい
  う日取りが決まりました。これは空前の珍しいことでござい
  まして、まだ大使の本当の任命もない先に、ニューヨークの
  財界がこぞって新木大使の歓迎会を──ワシントンで開くな
  らわかっているのですが──ニューヨークで新木さんの歓迎
  会を開くということになりましたことは、いかに新木さんが
  ニューヨーク時代から、またその後ずっとニューヨークの財
  界の方々に信望を得ておられたかという証左だと思うのでご
  ざいます。         ──『渋澤敬三著作集』より
                      ──吉田祐二著
             『日銀/円の王権』/学習研究社刊
  追記:新木栄吉は、1922年〜26年、1935年〜37
  年に日銀のニューヨーク駐在として勤めている。
  ―――――――――――――――――――――――――――

渋沢敬三元日銀総裁.jpg
渋沢 敬三元日銀総裁
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2014年07月30日

●「米国による日本支配の系統を探る」(EJ第3843号)

 日本を占領した連合国軍最高司令官総司令本部のスタッフのな
かには、急進的な左翼思想を持つ者も多くいて、このさい日本を
二度と米国に脅威を与えない国にしようとしたのです。しかし、
連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは、極東情勢の変化
もあり、日本を反共の防波堤にしようとしたのです。この政策を
「逆コース」と呼ぶのです。
 マッカーサーの命を受け、この逆コース政策を推進したのが国
務長官特別顧問のジョン・フォスター・ダレスという人物です。
このダレスは、1935年から1952年にわたってロックフェ
ラー財団の理事を務めており、ロックフェラー家の法律顧問をし
ていたのです。なお、ダレスは、アイゼンハワー政権では国務長
官に就任しています。戦後の日本は、ロックフェラー家の利権の
ひとつであり、日本に対し強い影響力を持っていたのです。
 ロックフェラー3世は米国のソフト戦略の一環を担っていたの
です。それは、大学、研究機関、官庁、司法機関、農業と開発協
力、英語教育、医療・福祉、文化団体の多岐にわたるのです。そ
れに対しロックフェラー財団が助成金を提供するのですが、その
額は当時の日本のGDPの1%以上だったといわれています。
 その具体的なものの一つが「国際文化会館」の創設です。日米
の財界人の交流を目的としたもので、ロックフェラー財団が密か
に選定した日本人のメンバーによって、プランニングが進められ
たといいます。メンバーとしては、英語が堪能で、多くの機関に
顔が効く人物が選ばれているのです。国際文化会館の場合は、次
の8人が選定されています。
―――――――――――――――――――――――――――――
     1.樺山 愛輔     5.松本 重治
     2.渋沢 敬三     6.藤山愛一郎
     3.高木 八尺     7.一万田尚登
     4.前田 多門     8.坂西 志保
―――――――――――――――――――――――――――――
 このうち、単に英語が堪能というだけでなく、戦前から日米関
係を重視し、民主主義や自由という米国の価値観を共有し、フィ
ランソロピー(慈善活動)に直接かかわった人物としては、松本
重治と坂西志保がいます。とくに松本重治は、ロックフェラー3
世の親友として知られています。
 また、樺山愛輔は、海軍大臣・樺山資紀の長男で、米国および
ドイツに留学。戦後は枢密顧問官に就任しています。高木八尺は
新渡戸稲造、内村鑑三の弟子で、松本重治らと日本アメリカ協会
の創設に尽力しています。
 前田多門は内務省から閣僚になった人物で、後にソニーになる
東京通信工業の初代社長を務めています。藤山愛一郎は藤山雷太
の長男で、財界の中心人物になり、後に政治に転じ、岸内閣で外
務大臣を務めています。
 金融界からは、渋沢啓三と一万田尚登の2人がいます。渋沢敬
三については詳しく述べましたが、一万田尚登は日銀総裁と大蔵
大臣を務め、日銀の独立性を勝ち取ろうとした人物です。
 いずれにせよこれらの人脈は、ロックフェラー財団と深い関係
を持っているのです。当初の方針に反し、日本を工業国として再
生させる「逆コース」を成功させるため、「文化交流」の名の下
に日本の知識階層を親米派にする狙いがあったのです。米国の日
本支配の系統には次の2つがあるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      1.日本銀行の総裁の系統を押さえる
      2.日本の財界の中枢を親米派にする
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1の系統は「日本銀行の総裁の系統を押さえる」ことです。
 これは、中央銀行のトップがその国の実質的な「王」であるか
らであり、それを押さえることによって、その国を実質的に属国
にできるのです。これは、これまで見てきたように、戦前から一
貫して続いてきているのです。
 具体的には、新木栄吉、一万田尚登と引き継がれ、佐々木直、
前川春雄、三重野康、福井俊彦と続く「円のプリンス」の人脈を
押さえることによって、日本を実質的に支配するのです。
 第2の系統は「日本の財界の中枢を親米派にする」ことです。
 ロックフェラー3世ととくに親しかった松本重治は、松本の母
方の祖父が松本正義であり、「王」の系譜につながる人物のひと
りなのです。
 山本正は、ロックフェラー3世の没後、財閥当主になった3世
の弟のデイヴィッド・ロックフェラーと親しく、「日本国際交流
センター」を主宰し、日米財界人の交流を促進させた人物として
知られています。山本正は、渋沢栄一につらなる人物であり、渋
沢家4代目の当主である渋沢雅英と姻戚関係にあります。
 このように、人脈についても戦前からの系譜が戦後に綿々とつ
ながってきています。一万田尚登は1946年に日銀総裁になっ
ていますが、最初の渡米のさい、ニューヨーク日銀事務所を開設
し、井上準之助の長男を所員として採用しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1回目の渡米の前に、一万田は山田精一氏を渡米させて国際
 通貨基金(IMF)加入の可能性を打診させると共にGHQ方
 面に働きかけて、早い機会に、ニューヨ一クに日銀の事務所を
 設ける計画を進めた。ようやく話がまとまり、外事関係の理事
 加納百里氏に松本重雄氏がついて渡米し、1950年10月、
 ウォールストリートに近いチェース・ナショナル銀行26階に
 日本銀行の事務所が開設された。松本重雄氏がニューヨーク駐
 在の参事として初代の所長となり、その下に井上準之助元総裁
 の長男で若手のホープ井上四郎氏が勤務した。──井上素彦著
         『「非常時の男」一万田尚登の決断力』より
     ──吉田祐二著/『日銀/円の王権』/学習研究社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
               ──[新自由主義の正体/57]

≪画像および関連情報≫
 ●「ペンペン草を生やしてみせる」/一万田尚登日銀総裁
  ―――――――――――――――――――――――――――
  川崎製鉄の社長西山弥太郎が1950(昭和25)年、「千
  葉に製鉄所を造る」と発表したとき、当時の日本銀行総裁、
  一万田尚登が「川崎製鉄が千葉工場建設を強行するならば、
  ペンペン草を生やしてみせる」と言ったと伝えられている。
  川崎製鉄は企業再建整備法に基づく整備計画により、川崎重
  工業(株)の製鉄部門を分離独立し「川崎製鉄株式会社」とし
  て資本金5億円で設立された。初代社長に西山弥太郎就任。
  これが1950年8月。就任3ヶ月後の1950年11月、
  西山は通産省に請願書を提出。千葉に総工費163億円規模
  の銑鉄一貫工場建設の計画が示されていた。東京湾の一角を
  埋め立てての工場建設という思い切った計画も大胆ならば、
  当時の川崎製鉄の資本金は5億円でしかなかった。それだけ
  の資本金の会社が、建設費の半分の80億円を国からの融資
  (見返り資金)に求めるものであったから、当時の産業界の大
  きな話題になった。西山は政府の財政資金に頼るため、当時
  の日銀総裁一万田尚登に話を持っていく。一万田は「あまり
  にも計画は大きすぎる。とても無理な計画だ」と言って話に
  乗らない。一万田は第三者に千葉製鉄所のことを聞かれて、
  露骨にイヤな顔をして、「いま日本で大製鉄所は成り立たな
  い。アメリカは技術が格段にすぐれ、鉄鉱石も原料炭もすべ
  て安い。日本が遠くから運んで来ても失敗するに決まってい
  る。製鉄所の屋根にペンペン草が生えても知らないよ」と言
  った。この発言が増幅されて、「一万田はペンペン草を生や
  してみせると言った」と伝えられた。
                   http://bit.ly/1rWorvu
  ―――――――――――――――――――――――――――

山本正氏.jpg
山本 正氏
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2014年07月31日

●「D・ロックフェラーとシカゴ学派」(EJ第3844号)

 レーガン政権が日本に対し構造協議を呼び掛けてきたのは19
83年のことです。中曽根政権がこれに応じ、「日米円ドル委員
会」ができています。時の日銀総裁は前川春雄です。しかし、前
川は1984年12月に、大蔵省出身の澄田智に総裁を交代して
います。このときは、日銀総裁と副総裁は、まだ大蔵省とのたす
きがけ人事をやっていたのです。
 1985年10月に中曽根首相は、次の研究会を設置して、前
川春雄を座長に任命し、レポートの取りまとめを命じています。
レーガン大統領の要請に応えるためです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      国際協調のための経済構造調整研究会
                座長/前川春雄
―――――――――――――――――――――――――――――
 それから約5ヶ月、この中曽根首相の諮問機関は19回の会議
を重ねて、1986年4月7日に中曽根首相に勧告を提出してい
ます。これが「前川レポート」です。このレポートの狙いについ
て、リチャード・A・ヴェルナーは次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 前川レポートは、その序文で結論を記している。「今や我が国
 は、従来の経済政策及び国民生活のあり方を歴史的に転換させ
 るべき時期を迎えている。かかる転換なくして、我が国の発展
 はありえない」。レポートが掲げる中期的な国家政策目標は、
 「経常収支不均衡を国際的に調和のとれるよう着実に縮小させ
 ること」であり、「この目標実現の決意を・・・表明すべきで
 ある」としている。「経常収支の大幅黒字は、基本的には、我
 が国経済の輸出指向等経済構造」に由来すると、レポートは認
 識していた。したがって、「我が国の構造調整という画期的な
 施策を実施し、国際協調型経済構造への変革を図ることが急務
 である。    ──リチャード・ヴェルナー著/吉田利子訳
  『円の支配者/誰が日本経済を崩壊させたのか』/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 前川レポートは、米国からの要望がもとになっていますが、具
体的には、当時のロックフェラーの当主で、チェース・マンハッ
タン銀行会長のデイヴィット・ロックフェラーが主宰する「日米
欧三極委員会」という会議体から出されているのです。
 この「日米欧三極委員会」は、一民間の委員会に過ぎませんが
実は世界経済にとって重要なことの指令をこの委員会が出してい
ることが多いのです。このようにいうと、陰謀めいた秘密の機関
のようにいわれますが、現在でもこの委員会は三極委員会として
現存しており、頻繁に会合が開かれています。
 日米欧三極委員会は、デイヴィット・ロックフェラーとズビグ
ニュー・ブレジンスキーによって、1973年に創設されていま
す。ブレジンスキーは、アメリカ在住の政治学者、元コロンビア
大学教授で、カーター政権時の国家安全保障問題担当大統領補佐
官を務めたことで知られています。現オバマ政権でも外交顧問を
務めており、現在80歳以上の高齢ですが、健在です。
 日米欧三極委員会の目的は、ニューワールドオーダー(新世界
秩序/NWO)を作ることにあるといわれています。新世界秩序
などといわれると少し引いてしまいますが、「世界統一経済秩序
を作る」といい換えるとピンとくると思います。
 ここでいう「世界統一経済秩序」とは、「1%が99%の富を
収奪する経済体制」のことなのです。これなら、世界一の富豪と
いわれるデイヴィッド・ロックフェラーが熱心に取り組んでいる
ことが納得できると思います。
 そこで、デイヴィッド・ロックフェラーがどういう人物であり
これまでどういう教育を受けてきた人であるかについて調べてみ
たのです。
 デイヴィッド・ロックフェラーは、20世紀後半の世界経済に
最も大きな影響を与えた一人といわれています。というと、歴史
上の人物のようですが、デイヴィッドは本稿執筆時点では健在な
のです。しかし、1915年生まれですから、単純計算では99
歳になるはずです。
 デイヴィッド・ロックフェラーがどのような教育を受けた人で
あるかについては、吉田祐二氏の本に次のように出ています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 当然というべきか、この財閥当主が受けた教育は当時最高の教
 育であった。『ロックフェラー回顧録』によれば、デイヴイッ
 ド・ロックフェラーは1936年にフェビアン社会主義につい
 ての学位論文によりハーバード大を卒業している。卒業後1年
 間大学に残り、そこで、オーストリア人の経済学者ジョゼフ・
 シュンペーターから指導を受けている。その後イギリスに渡り
 LSEと略称されるロンドン大学社会科学部へ通い、のちに、
 ノーベル経済学賞を受賞することになる、フリードリヒ・フォ
 ン・ハイエクから指導を受けている。さらにアメリカへ戻り、
 1940年にシカゴ大学にて経済学博士号を取得している。こ
 のときの指導教官はフランク・ナイトである。ハイエクやシュ
 ンペーターが、銀行の本質である信用創造について論じている
 ことは前に説明したとおりだが、両者とも銀行の貸し出す「信
 用」について思索を深めてきた学者である。デイヴィッド・ロ
 ックフェラーが銀行の本質である「信用創造」機能について熟
 知しているのは確かであろう。20世紀最大の銀行家が受けた
 訓練はまさに銀行の本質をついたものであった。
     ──吉田祐二著/『日銀/円の王権』/学習研究社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 重要なことは、D・ロックフェラーがロンドン大学でハイエク
の指導を受けており、その後シカゴ大学でフランク・ナイトの指
導の下に経済学博士号を取得していることです。ちなみにナイト
はミルトン・フリードマンの教官でもあるのです。つまり、D・
ロックフェラーと新自由主義とは、深い関係があることがわかり
ます。            ──[新自由主義の正体/58]

≪画像および関連情報≫
 ●安倍首相を牽制するブレジンスキー
  ―――――――――――――――――――――――――――
  カーター、クリントン時代の大統領補佐官であったズビグニ
  ュー・ブレジンスキーは、オバマの外交顧問格であり、今日
  でもオバマ大統領に強い影響力を持っている。というより、
  オバマをピックアップし外交戦略を教育し、デビッド・ロッ
  クフェラーに「いいのがいますよ」と具申もうし上げ、大統
  領に引き上げた。ブレジンスキーは、米政界唯一の戦略家と
  言われ、どんな思想へでも平気で移動する。カーター時代に
  ソ連にアフガン侵攻をやらせる罠を仕掛け、ソ連を疲弊させ
  冷戦構造を終わらせたのは、俺だと、ベルリンの壁崩壊後に
  そう言っていた。この対ソ連のアフガン戦争のとき、ブレジ
  ンスキーは、CIA、モサドと共同し、アルカイダの原型と
  ビン・ラディンを育成した。2013年2月のオバマ安倍初
  会談(2013年2月23日)を前にして、ブレジンスキーは
  2月13日ニューヨーク・タイムズ紙に、「大国、しかし覇
  権国でない(Giants, but Not Hegemons)」というタイトル
  で次のような寄稿をしていた。『今日、多くの人が、米中と
  いう2大大国化は紛争に進むのを避けられないのでないかと
  懸念している。しかし、ポスト・覇権国時代(米国)で、世
  界の支配をめぐり戦争が起こるとは、信じていない。危険は
  (米中)両国関係ではなく、アジア諸国が20世紀の欧州諸
  国の紛争のような状況に引き込まれることである。アジアに
  は、韓国・北朝鮮、日中、中印、印パ等で、資源、領土、権
  力をめぐり潜在的発火点がある。これらの地がナショナリス
  チックな熱情を刺激したりしつづければ、制御が不可能な事
  態になりかねない」。       http://bit.ly/1Ax3vQS
  ―――――――――――――――――――――――――――

スビグニュー・ブレジンスキー.jpg
スビグニュー・ブレジンスキー
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2014年08月01日

●「世界経済を変える3つの国際会議」(EJ第3845号)

 三極委員会についてさらに述べることにします。米国の政治思
想や対日戦略に詳しい中田安彦氏──副島国家戦略研究所(SN
SI)研究員は、三極委員会について、ブログで次のように書い
ています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 私が知る限り、この会合(三極委員会)についていちはやく記
 事にしたのは、あのジャーナリストの田原総一朗氏で、『日本
 のパワーエリート』(光文社・カッパ)である。この本のなか
 では当時若手ジャーナリストだった田原氏は、「世界を動かす
 経済マフィアの組織」として、この三極委員会を取り上げてい
 る。時は大平内閣の時代、現在のTPP(環太平洋経済連携協
 定)のひな形とも言われる「環太平洋経済構想」が打ち出され
 オイルショック後の新しい世界秩序に日本が主体的に関与して
 いくべきという声も上がっていた時代だ。田原氏は、三極委員
 会(当時は日米欧委員会と呼ばれていた)と並び、「ビルダー
 バーグ会議」を経済・金融マフィアの集う2大会合と呼んでい
 る。今ではこれに、スイスで開催される「世界経済フォーラム
 (ダヴォス会議)」を加えてもいいだろう。世界のパワーエリ
 ートたちは、ダヴォス会議、三極委員会、ビルダーバーグ会議
 と3つの会合を日米欧のいずれかの都市にあるホテルや避暑地
 で繰り返し、「世界経営」のブレインストーミングを行なって
 きた。これが1945年から2000年くらいまでの世界の動
 きをある程度実質的に決めていたと言っていい。
                   http://bit.ly/1nSYVIi
―――――――――――――――――――――――――――――
 中田安彦氏は、世界を動かす経済マフィア会議として3つを上
げていますが、その創設が歴史的に古い順に並べると、ビルダー
バーグ会議(1954年)、ダヴォス会議/世界経済フォーラム
(1971年)、三極委員会(1973年)の順になります。
 D・ロックフェラーは日本をビルダーバーグ会議に参加させよ
うとしたのですが、戦争のわだかまわりがあって欧州側が難色を
示したので、D・ロックフェラーが、欧州の有志と日本の政財界
を抱き込んで新しく始めたのが三極委員会なのです。D・ロック
フェラーは、終戦直後から、日本抜きの世界戦略は意味がないと
考えていたのです。凄い慧眼です。これがヒントになって、19
75年に先進国サミットが開始され、ビルダーバーグ会議は後に
EU(欧州共同体)をつくり出すことになります。
 三極委員会の日本での事務局は、日本国際交流センター(JC
IE)であり、ここを三極委員会の理事長として仕切っていたの
が山本正です。彼の役割は人材の発掘です。英語が堪能で、強い
影響力を持つ人材を数多く発掘しています。
 全貌は把握できていませんが、宮沢喜一氏をはじめ、明石康、
小和田恒、緒方貞子、田中均、川口順子などの各氏、全般的に外
務省系の人材が圧倒的に多いようです。これは小和田恒氏の影響
と思われます。
 ところで、直近の三極委員会は日本で開催されています。19
12年4月21日と22日の2日間、ホテルオークラ別館で開催
されているのです。民主党の野田政権のときです。マスコミは意
識しているのか、この会議についてあまり報道しないのです。
 このときは、古川元久国家戦略担当大臣(当時)と林芳正自民
党参議院議員(当時)が日本の政治について論議するセッション
に参加しています。司会は、ジェラルド・カーティス・コロンビ
ア大学教授です。なお、会議は非公開であり、その内容は一切わ
かりません。ちなみに、このときの参加者は総勢120人です。
 カーティス教授といえば、あの小泉進次郎政務官がコロンビア
大学に留学したさいの指導教官がカーティス教授なのです。将来
日本において大きな影響力を発揮すると思われる人材には、この
ように早くから囲い込んでいるのです。
 三極委員会は、米国の大統領選には非常に強い力を発揮するの
です。その典型は第39代大統領ジミー・カーターが出馬した大
統領選挙です。カーターは出馬のさいは全くの無名であり、当選
は到底おぼつかなかったのですが、ブレジンスキーとD・ロック
フェラーによって三極委員会のメンバーに推挙されたとたん、
またたく間に逆転して大統領選に勝利したのです。
 しかし、その結果、カーター政権の閣僚には、D・ロックフェ
ラー関係者や三極委員会のメンバーらが多数入ったのです。具体
的には12人の閣僚と19人の補佐官が入っています。これでは
大統領は自分の思うようには何もできないことになります。
 もうひとつの例が現オバマ政権です。第1期目の大統領選挙で
オバマ氏はツイッターなどSNSを駆使して当選したとされてい
ますが、それは表向きのことであって、オバマ陣営にはビルダー
バーク会議の米国メンバーがバックアップして当選させているの
です。さらにオバマ氏は、コロンビア大学時代にブレジンスキー
の指導を受けており、選挙の遊説中にもブレジンスキーの姿がよ
く見られたといわれています。そのため、オバマ大統領は、「ビ
ルダーバーク・プレジデント」と呼ばれているのです。
 添付ファイルをご覧ください。三極委員会のロゴマークです。
何と「3本の矢」なのです。日本、米国、欧州のそれぞれをあら
わしているのです。しかし、その矢印を3つ横に並べてみると、
「666」があらわれます。安倍政権の3本の矢はここからきて
いるのでしょうか。
 「666」は、新約聖書の最後に登場する「ヨハネの黙示録」
に関係のある数字です。三極委員会があたかも陰謀機関のように
いわれる原因はここにあるのです。
 「黙示録」は恐怖に満ちた内容が記述されているため、長い間
「異端の書」として扱われてきたのです。ローマ・カトリック教
会が正典として認めたのは2世紀中頃ですが、それ以後も「偽預
言書」といわれ、なかなか完全には受け入れられなかったようで
す。しかし、三極委員会は「世界を変える」パワーのある機関で
あることは確かです。     ──[新自由主義の正体/59]

≪画像および関連情報≫
 ●安倍首相とブレジンスキー
  ―――――――――――――――――――――――――――
  アメリカの支配層を一枚岩だと考えてはならない。ひとりの
  独裁者を頂点に、その下にピラミッド状の支配システムがで
  きあがっているという単純な構造ではなく、いくつかの勢力
  が対立、ある場合には協力しながら圧倒的多数の庶民を支配
  しているのが実態だろう。支配層内部の戦いが激化すれば相
  対的に庶民の力が強まるため、利害の調整機関もあるが、そ
  れで対立をなくすことはできない。安倍晋三首相たちが、リ
  チャード・チェイニーの一派とつながっている可能性が強い
  ことはすでに書いたが、では、小泉純一郎はどうだろうか?
  首相時代、小泉がウォール街の意向に沿う政策を打ち出して
  日本を破壊へと導いたことは間違いない。興味深いのはその
  息子、進次郎の経歴だ。2004年に関東学院大学を卒業し
  2006年にコロンビア大学大学院で修士課程を修了、すぐ
  にCSISの非常勤研究員になっている。ところでCSIS
  はCIAと関係の深いシンクタンク。このシンクタンクが、
  1996年に設置した「日米21世紀委員会」は2年後、日
  本の進むべき方向を報告書としてまとめている。それによる
  と、(1)小さく権力が集中しない政府(巨大資本に権力が集
  中する国)、(2)均一タイプの税金導入(累進課税を否定
  消費税の依存度を高めることになる)、そして(3)教育の
  全面的な規制緩和と自由化(公教育の破壊)だ。
                   http://bit.ly/1qpNKnH
  ―――――――――――――――――――――――――――

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日米欧三極委員会
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2014年08月04日

●「『新世界秩序』とロックフェラー」(EJ第3846号)

 三極委員会は、とかく陰謀論的なものとしてとらえられます。
ところで、陰謀論とは何でしょうか。英国のジャーナリスト、デ
イヴィッド・アーノロビッチは「偶然、あるいは意図せずして起
こった可能性の高い出来事を、計画的な働きかけのせいにするこ
と」と定義しています。
 先日、田中聡氏による『陰謀論の正体!』という本を読んだの
ですが、そこに陰謀論の定義に関して、次のような記述があった
のでご紹介します。「新世界秩序」が出てきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 今日でも、共産主義者についての陰謀論は健在である。ただし
 多くの場合、ユダヤ陰謀論や新世界秩序の陰謀論の一環として
 の位置づけを持っており、世界権力の側(手先のようなもので
 あれ)にあるとみなされている。古くからある説なのだが、今
 ではこのような背景なしでは大きな脅威とみなされず、陰謀論
 としての条件を満たせない。         ──田中聡著
          『陰謀論の正体!』/幻冬舎新書/347
―――――――――――――――――――――――――――――
 当のD・ロックフェラーは、陰謀論うんぬんに対してどう思っ
ているのでしょうか。『回想録』/2003年にそれに関する次
の記述があります。彼はそれを肯定的にとらえています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 人々の中には、私たち一族がアメリカの国益に反して暗躍して
 いる秘密の陰謀団の一味であると信じている者もいたし、私の
 家族と私を指して「世界主義者」と呼んだり、他の世界の有力
 者と結託して、共同謀議をたくらみ、世界を政治的、経済的に
 統合して「ワンワールド政府」を作ろうとしていると考えてい
 る者さえいた。そのように彼らが批判するのであれば、私も甘
 んじてその追及に対して「有罪」であると認めよう。それどこ
 ろか、私はそのように言われることを誇りに思っている。
  ──デイヴィッド・ロックフェラー http://bit.ly/1xHwVHB
―――――――――――――――――――――――――――――
 少し話は脱線しますが、「666」が出てきたので、頭休めに
面白い話をご紹介することにします。聖書についてはEJで何度
も取り上げていますが、不思議な話がたくさんあるのです。
 「666」は、新約聖書「ヨハネの黙示録」第13章第18節
に次のように登場します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧し
 い者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手
 かその額かに、刻印を受けさせた。また、その刻印、すなわち
 あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれ
 も、買うことも、売ることもできないようにした。ここに知恵
 が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その
 数字とは、人間をさすものである。そしてその数字は666で
 ある。      ──「ヨハネの黙示録」第13章第18節
―――――――――――――――――――――――――――――
 これは、どう考えても、現在では実現している指紋認証などの
生体認証のことをいっています。いうまでもないことながら、こ
の技術はコンピュータの高度な発達によって実現したものです。
それにしても、どうしてキリストの時代にこのようなことが書け
たのでしょうか。
 ものを買うお金にも「666」は密接に関係します。身近な例
を上げると、日本で使われている硬貨がそうです。硬貨は6種類
ありますが、それぞれの金額を足してみてください。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1円+5円+10円+50円+100円+500円
   =666円
―――――――――――――――――――――――――――――
 続いて、アルファベットの「A」に6を設定し、以下6を足し
た数字を当てはめます。Aは6、Bは12、Cは18・・という
ようにです。結果の数字列は次のようになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
  A ──   6 J ──  60 S ── 114
  B ──  12 K ──  66 T ── 120
  C ──  18 L ──  72 U ── 126
  D ──  24 M ──  78 V ── 132
  E ──  30 N ──  84 W ── 138
  F ──  36 O ──  90 X ── 144
  G ──  42 P ──  96 Y ── 150
  H ──  48 Q ── 102 Z ── 156
  I ──  54 R ── 108
―――――――――――――――――――――――――――――
 この数値を「COMPUTER」にそれぞれ当てはめて、総計
を出すと「666」になるのです。「ヨハネの黙示録」第13章
第18節に書かれていることは、コンピュータと不可欠な関係が
あるのです。硬貨の場合は偶然の一致ということもありますが、
これはかなり手がこんでいます。
―――――――――――――――――――――――――――――
          C ・・・  18
          O ・・・  90
          M ・・・  78
          P ・・・  96
          U ・・・ 126
          T ・・・ 120
          E ・・・  30
          R ・・・ 108
          ―――――――――
             総計 666
―――――――――――――――――――――――――――――
               ──[新自由主義の正体/60]

≪画像および関連情報≫
 ●獣の数字「666」の正体/「いつも一緒」ブログより
  ―――――――――――――――――――――――――――
  これまで人類は,この怪獣や666の正体に対して,いかなる
  アプローチをかけてきたのだろうか。ニュートンの極秘文書
  に触れる前の予備知識として少し見てみよう。(ニュートン
  の極秘文書の著者:中見利男)
  ニュートンが発見した「人類滅亡の法則」とは?「万有引力
  の法則」で知られるアイザック・ニュートンが、聖書に刻ま
  れた秘密の解読を試みた膨大な文書。それが、教会の追求を
  逃れるため220年間もの間封印されていた。この秘密文書
  には超機密事項が含まれた極秘文書が存在した!そこには、
  666と「最後の審判」に関するタブーが記されていたので
  ある。そして今、解き明かされる驚天動地の「最後の審判」
  と666の正体!ここに我々の常識がくつがえされる・・・
  怪獣たちの正体といくつかの仮説研究者によれば、赤い龍は
  ローマの象徴であるという。というのも、ローマ皇帝トラヤ
  ヌスはこれをローマ軍旗として棹の先に付けることを命じて
  おり、主に小隊に使用されたという。従って「赤い龍」とは
  キリスト教を迫害するローマとローマ軍の象徴であった。赤
  い龍の七つの頭とは、七つの丘や七人のローマ皇帝を指す。
  一般にはカエサル、アウグストウス、ティベリウス、カリグ
  ラ、クラウディヌス、ネロ、ガルバとされる。
                   http://bit.ly/1ka8qSE
  ―――――――――――――――――――――――――――

デイヴィッド・ロックフェラー.jpg
デイヴィッド・ロックフェラー
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2014年08月05日

●「高度経済成長中における日米関係」(EJ第3847号)

 「前川レポート」は、戦時経済体制を廃止し、日本経済の米国
型経済への転換を提言したものです。なぜそのような提言をした
かというと、それは直接的には米国──レーガン政権から要求さ
れたからです。そのバックには、日米欧三極委員会の存在があり
ます。政権を裏からコントロールしていたのです。
 ここで日本の1970年代と1980年代の経済の状況を頭に
入れておく必要があります。ところで、日本が高度経済成長を成
し遂げた時期というのは1954(昭和29)年12月から19
73(昭和48)年11月までの19年間なのですが、次の3期
に分けることができます。
―――――――――――――――――――――――――――――
  ◎高度経済成長第1期 ・・ 設備投資主導型
      1954年12月〜1961年12月
  ◎高度経済成長転型期/ ・・・・・ 転換期
      1962年 1月〜1965年10月
  ◎高度経済成長第2期 ・ 輸出/財政主導型
      1965年11月〜1973年11月
―――――――――――――――――――――――――――――
 連合国総司令部が日本の占領統治を開始したとき、戦争で壊滅
状態に陥ったとはいえ、日本は工業国として相当の生産能力を有
していたのです。米国はそれを内心恐れたものの、その生産能力
を共産圏の防波堤として活用することを決めたのです。
 日本にとって幸いだったのは1950年の朝鮮戦争特需です。
これによって生産設備はフル回転し、1953年には第2次世界
大戦前の水準に回復していたのです。終戦後約10年で戦前の水
準に回復し、それから高度経済成長が始まるのです。
 しかし、1964年から1965年にかけて経済は急速に縮小
し、事態は一変したのです。1964年には日本特殊鋼(現大同
特殊鋼)が、1965年には山陽特殊製鋼が倒産し、さらに大手
証券会社が軒並み赤字に陥ったのです。
 日本政府はこれに対処するため、1965年5月には、山一證
券へ日銀特融が行われ、7月には、はじめて赤字国債を発行する
事態となったのですが、何とか昭和恐慌の再来を防ぎ、高度経済
成長を維持し、1970年代に入るのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1959年、経済の実質成長率は17パーセントで、インフレ
 はそこそこに抑えられていた。1960年、指導的なエコノミ
 ストは、10年で日本の国民所得は倍になりうると驚くべき主
 張をおこなつた。大蔵省出身のエコノミスト下村治は、同じ期
 間に日本の国内総生産は3倍まではいかなくても2.5 倍に拡
 大できるだろうと言った。結局のところ、1960年から70
 年までに、日本の国内総生産は71兆6千億円から188兆3
 千億円へと2.6 倍に成長した。1970年、日本はドイツを
 抜き、敗戦の廃墟のなかから出発して世界第2位の経済力を達
 成したのである。──リチャード・ヴェルナー著/吉田利子訳
  『円の支配者/誰が日本経済を崩壊させたのか』/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 これは、日本の総動員戦時経済体制の米国に対する勝利といえ
ます。しかし、この日本の躍進は、世界──とくに米国との間に
多くの摩擦を生み出すことになったのです。日本は製造業製品の
輸入には高い関税をかける一方で、とことん輸出を最大化する戦
略をとっていたからです。
 その結果、米国の対日貿易赤字は1967年には4億ドルだっ
たものが1968年は12億ドル、1969年には16億ドルに
拡大したのです。とくに繊維に関する米国との二国間交渉は、個
別の関税や輸入割り当てをめぐって泥沼化したのです。
 繊維産業に続いて日本の自動車産業や家電製品がシェアを伸ば
してきたのです。米国や欧州の多くのメーカーは、日本が過度の
ダンピングをしていると批判しましたが、日本の場合は個々の企
業によるダンピングではなく、戦時経済体制というシステムとし
てのダンピング──ソーシャル・ダンピングだったのです。それ
は採算を度外視しても、容赦なくシェアを増やし、競合企業を駆
逐するまで続けるというものです。
 実はこのとき日米の間では貿易摩擦が原因で関係が深刻化して
いたのです。米国から見ると、繊維交渉でいくら日本に輸出制限
を頼んでも──それが、沖縄返還の見返りだったにもかかわらず
──応じようとしないし、当時の西ドイツのように、マルクの対
ドル切り上げをやったように、水面下で交渉しても応じようとし
ないとして、米国は日本に相当アタマにきていたのです。
 そうこうしているうちに起きたのが「ニクソン・ショック」で
す。フランスは米国がドルを印刷して欧州企業を買収しているこ
とに気づき、フランスに流れ込んだドルをできるだけ集めて米国
に持ち込み、金との交換を申し入れたからです。これは、「フラ
ンスによる『フォート・ノックスの襲撃』」として有名です。
 これに仰天したのは日本です。解決策は、変動相場制に移行す
るしかないからです。ヨーロッパ諸国は、ニクソン・ショックの
直後に為替市場を閉鎖しましたが、日本は市場を開け続けたので
す。それは、銀行に保有させたドルを政府が外貨準備を急増させ
て引き取る時間が必要だったからです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本は仰天した。日銀と大蔵省は対ドル固定レートを廃止する
 まで、さらに10日待った。その間に、日銀は必死で弱い円を
 維持しょうと努力した。そのために紙幣を大量に印刷し、この
 円を使って、外貨市場でアメリカ・ドルを買い込んだ。外貨準
 備は8月のひと月で50億ドルも急増した。それから円が上昇
 したので、1971年12月には、スミソニアン会議で1ドル
 308円と決められた。
         ──リチャード・ヴェルナー著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
               ──[新自由主義の正体/61]

≪画像および関連情報≫
 ●フォートノックスに保管されている金塊はニセモノ!
  ―――――――――――――――――――――――――――
  アメリカのフォートノックスというところにはアメリカ政府
  の大量の金塊が保管されていました。過去形にして申し上げ
  たのは、この金塊が、事もあろうにタングステンに金メッキ
  を施したニセモノである、という事実が最近いろんなサイト
  で暴露されているからです。実は私も数年前からこの事実を
  聞かされていました。俄かには信じられない話ですが、何分
  にも膨大な金塊の量ですからそれがすべてニセモノだと言わ
  れてもわれわれ素人には解りようがありません。一個とか二
  個の金塊なら調べようもあるでしょうが、私の聞いた話では
  フォートノックスに保管してあるすべての金塊がタングステ
  ンに金メッキを施したニセモノだというのです。これは何を
  示しているのでしょうか。マスメディアはまったく報じては
  いません。それはそうでしょう。アメリカの金塊がほとんど
  ニセモノだと言ったら世の中、というか地球はひっくり返り
  ます。仮に真実であっても口が裂けても偽物だとは言わない
  でしょう。ですが、こうアチコチからニセモノだという情報
  が出てくれば、一応は調べて見る必要がある、というもので
  す。しかし、調べても、真実は決して明らかにはされないで
  しょう。金は今では金兌換に意味はないと言っても、資産、
  つまり世界中で動いているカネの裏付けにもされうるものだ
  からです。            http://bit.ly/1nd1vTI
  ―――――――――――――――――――――――――――

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ニクソン元米大統領
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2014年08月06日

●「ジャパンマネーが世界にあふれる」(EJ第3848号)

 昨日のEJで、ニクソン・ショックによって日本は変動相場制
に変更した経緯について述べましたが、日本という国は、こうい
う国にとっての重大事にさいして政治がほとんど機能していない
のです。つまり、政治家や国民の監視の及ばない官僚の世界で物
事が決められているのです。官僚主導は現在でもそうですが、当
時はもっとひどかったのです。
 当時の佐藤栄作首相の『佐藤栄作日記』には、次のようなこと
が書かれています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 田中敬大蔵大臣官房総務文書課長がやってきて、土曜日に為替
 をフロート(変動相場制)にする」との申し出に「許す」とあ
 る。どうも事後報告を受けただけで、自ら判断したようにはみ
 えない。しかも「ドルの平衡買いが十一億ドルになったという
 ことで・・・閣議なしとすると万事好都合」とある。
           ──『佐藤栄作日記』/朝日新聞社より
   ──三国陽夫著『黒字亡国/対米黒字が日本経済を殺す』
                      文春新書481
―――――――――――――――――――――――――――――
 これを読むと、これほどの重大事が首相へは事後報告で済まさ
れ、閣議にもかけられていないことがわかります。当時の米国と
しては、輸出制限の要請も円の切り上げ要求も前向きに対応しな
い日本に対し、ニクソン・ショックを機に重要な二者択一を迫っ
たのです。これについて、元経済同友会副代表の三国陽夫氏は自
著で次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ニクソン大統領はニクソン・ショックを通じて日本に二者択一
 を迫った。すなわち生産力増大のシステムを変えるか、あるい
 はそれを変えずにアメリカが回したつけを払うか、要するにド
 ルを買い支え続けるかである。日本にすれば、国として二つの
 選択肢が与えられたことになる。ニクソン大統領は、日本がド
 ルを買い支える選択をすることに賭けたのだった。
   ──三国陽夫著『黒字亡国/対米黒字が日本経済を殺す』
                      文春新書481
―――――――――――――――――――――――――――――
 これについては、2004年に「日米関係の謎」として、EJ
で取り上げています。         http://bit.ly/1oic3B7
 さて、1980年代の日本はどうだったでしょうか。これにつ
いてリチャード・ヴェルナー氏は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1980年代。先進国における金融の規制緩和と、資本市場の
 自由化の時代である。銀行と証券業に対する規制は緩められ、
 金融部門のカルテルは崩れ、金融機関は厳しい競争にさらされ
 た。ほとんどの先進国は資本の移動に対する制約を撤廃した。
 資本の国際的な移動が激しくなるにつれて、一瞬のうちに莫大
 な資金が国と国、そして種々の金融資産のあいだを移動した。
 (中略)日本の長期資本の流れは、1980年には20億ドル
 以上の入超だったのに、81年には、資本輸出額がほぼ100
 億ドルになった。ところがそれから4年間に日本の資本はなん
 とほぼ7倍も増加し、85年には650億ドルという歴史的な
 額に達した。しかも、つぎの2年で1320億ドルとさらに倍
 増する。87年には、この劇的な資本の潮流は1370億ドル
 と記録を更新し、翌年も1310億ドルの資本が流れ出ていっ
 た。87年、長期資本の純輸出額は、記録的な経常収支黒字の
 さらに2倍近くになっていた。この金融の「津波」は70年代
 のOPECのそれさえ簡単に凌駕した。──リチャード・ヴェ
                   ルナー著/吉田利子訳
  『円の支配者/誰が日本経済を崩壊させたのか』/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 このようにジャパンマネーは怒涛のように世界中を襲い、全世
界の金融資産と不動産を買い漁ったのです。米国産業界の記念碑
ともいうべきロックフェラー・センターやコロンビア映画、世界
一美しいといわれるカルフォルニア州のペブル・ビーチ・ゴルフ
場などが日本人の手に落ちたのもこのときのことです。
 これは欧米人にとって、日本は戦争に負けたので、経済的に占
領の仕返しをしようとしてやっていると思わせるのに十分な行為
だったといえます。欧米の経営学のグルたちは、強い危機感を感
じ、日本流の経営テクニックをチェックせよと、全世界の産業界
の指導者に呼びかけたほどだったのです。
 1980年から1990年までの日本による純対外直接投資の
額は、次のようになっているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      ≪日本の対外直接投資≫
      1980年 ・・・・  20億ドル
      1985年 ・・・・  60億ドル
      1986年 ・・・・ 140億ドル
      1988年 ・・・・ 340億ドル
      1989年 ・・・・ 450億ドル
      1990年 ・・・・ 460億ドル
―――――――――――――――――――――――――――――
 問題は日本がなぜこんなことができたかです。1970年は日
本の資本の流れは教科書通りです。日本の貿易あるいは経常収支
の黒字額に資本の流れが見合っていたからです。つまり、純輸出
で得たマネーを外国に投資していたことが数字から読み取れたの
です。しかし、1980年代に入ると、長期資本の輸出は経常収
支をはるかに超える規模になっており、次のことがいえます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1980年代の日本は、輸出で得た金で買える、はるかそれ
 以上の資産を外国で買っていたことになる。
―――――――――――――――――――――――――――――
               ──[新自由主義の正体/62]

≪画像および関連情報≫
 ●三国陽夫著『黒字亡国/対米黒字が日本経済を殺す』から
  ―――――――――――――――――――――――――――
  第2次オイルショックの影響が薄れると、経常収支の黒字は
  大きく増えはじめ、黒字を維持するために資本輸出が行われ
  てきた。輸出業者が受け取ったドルを円に交換せず、銀行な
  どの金融機関が肩代わりする。ドルのままアメリカに貸し置
  く、すなわち、資本輸出を続けた。これでどうなるのか。あ
  るイギリスのバンカーにこのことについて訊ねると、さらり
  と言ってのけた。「日本からアメリカへの資本輸出には、2
  つの効果がある。一つは購買力の移転、もう一つはベースマ
  ネー(日銀券と日銀当座預金の合計額を指し、銀行の信用創
  造の基礎、つまりベースとなる通貨)の輸出だ。」とりあえ
  ず、日銀の与信によって日本は失ったベースマネーが回復す
  る。アメリカでは、日本に支払ったカネがそっくり戻り、本
  来失うべきベースマネーが回復する。日本とアメリカではベ
  ースマネーが二重になりアメリカでは過剰流動性が発生し、
  カネがあふれる。経常収支の黒字がデフレの原因というのな
  ら、黒字が拡大しはじめた1980年代からデフレ現象がみ
  られなかったのはなぜか、という疑問が残る。・・・皮肉な
  ことに資本輸出を続けるためには「無駄」な公共投資は不可
  欠だった。国債の大量発行によって財政支出が行われ、じゃ
  ぶじゃぶになった資金の一部が受注から完成の過程で複数の
  建設業者の預金口座に振り込まれる。当面使われることのな
  い預金が増えれば、ドルは支えられる。しかし、国債は価格
  の暴落が危ぶまれるほど膨らみ、バブルの様相を呈したので
  ある。              http://bit.ly/1seUI26
  ―――――――――――――――――――――――――――

三国陽夫著『黒字亡国』.jpg
三国陽夫著『黒字亡国』
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2014年08月07日

●「日本の高度経済成長には謎がある」(EJ第3849号)

 高度経済成長のさなかに企業に入社し、会社生活を送った人は
自分が渦中にいたのでそれと気がつかないと思いますが、日本の
高度経済成長にはエコノミストにも理解できないことが多くある
のです。リチャード・ヴェルナー氏の分析を参照にして、その謎
を解いていきます。
 1980年代の日本の怒涛のような対外投資の現象について、
世界のエコノミストたちは理解に苦しんでいたのです。一般的に
考えられたことは「資本規制の撤廃」です。確かにこの時期には
外為法が改正され、80年代を通じて法的規制は徐々に緩和され
ていたからです。しかし、実際には日本の大手の機関投資家は、
外国投資の限度をはるかに下回る投資しかしていないのです。
 もうひとつの考え方として、日本の貯蓄率の高さが原因である
という説があります。しかし、なぜこの時期に日本の貯蓄率がこ
んなに高いのかという点を究明できていないのです。
 不思議なことは対外投資だけではないのです。1980年代後
半の地価と株価は次のような異常な上昇を示しているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      1985年1月〜1989年12月
        ◎地価 ・・・・・ 240%
        ◎株価 ・・・・・ 245%
―――――――――――――――――――――――――――――
 地価は、GDPの伸びと歩調を合わせるものであり、GDPに
対する地価の比率は「1」前後になるのが普通なのです。ちなみ
に、1989年の米国のこの比率は「0.7」 と低かったのです
が、日本は「5.2」 なのです。あきらかに異常な数値であると
いえます。
 1980年代に海外に溢れ出たジャパンマネーは、対外投資に
だけ使われたわけではなく、その多くは企業の設備投資に投入さ
れています。企業の多くは本社の新築や各地の工場の建設、贅沢
な社宅や保養施設などが次々に建設されたのです。このようにし
て、1985年から1989年までに303兆円の資本投資が行
われています。これに伴い、企業も社員を増やしたので、労働市
場は逼迫し、人手不足が心配されるような事態になったのです。
 それでいて、これほどの高成長と労働市場の逼迫にもかかわら
ず、消費者物価指数によるインフレ率は、驚くべきほど低位にと
どまっていたのです。これには多くの経済に携わる人たちが絶賛
したのです。当時諸外国が長期的失業とインフレに悩まされてい
ただけに、その驚きが大きかったのです。
 さらに奇妙なことは、1990年代に入ると、あの怒涛のよう
な日本の対外投資は、まるで潮が引くようにあらゆる分野から消
えてしまったのです。リチャード・ヴェルナー氏は、この現象に
ついて次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本の対外投資に関する経済モデルは、対外投資が急増した時
 期に焦点をあてたが、この現象を説明できなかった。このモデ
 ルは、1990年代の出来事の説明となるとさらに惨めなこと
 になる。1991年、日本の経常収支黒字は900億ドルに達
 して、さらに記録を書き換えたが、純長期投資の輸出はとつぜ
 んにかき消えてしまった。日本の長期資本は10年あまりでは
 じめて400億ドルの入超になった。日本の投資家が売り越し
 た外国証券は記録的な額になった。1991年もこの状態が引
 き続き、日本の対外資産売買は売りが買いを上回った。製造業
 者から銀行、不動産会社まで、ジャパン・マネーはあらゆる戦
 線からとつぜん引き上げていった。
         ──リチャード・ヴェルナー著/吉田利子訳
  『円の支配者/誰が日本経済を崩壊させたのか』/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 1990年代に入ると事態は一変したのです。資産価値は下落
し、1990年1月から1994年12月までに株価も地価も半
値になったのです。バブルは崩壊し、1930年代以来の最大の
不況が日本を襲ったのです。
 これまで日本の経済パフォーマンスを称賛し、日本型経営スタ
イル──メインバンクによる企業監督、家族主義の企業システム
などの日本の特性を推奨していたエコノミストたちは、それらは
身びいきや腐敗や透明性の欠如以外の何ものでもないと手のひら
を返して批判するようになり、日本には構造改革が必要であると
いう主張に変わったのです。
 これについて、リチャード・ヴェルナー氏は、まったく違う考
え方を持っていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1980年代のバブルも、1990年代の不況も、日本の構造
 に原因があったわけではない。伝統的な理論で日本の資産価値
 を説明できなかったのは、信用創造の役割を無視していたから
 だ。信用創造プロセスを理解していれば、状況はしろうとにも
 わかったはずだ。──リチャード・ヴェルナー著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで注目すべき言葉は「信用創造」です。「信用創造」とは
何でしょうか。ごく簡単な例で説明します。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1.A銀行はX社から1000円の預金を預かる
   2.A銀行は預金から900円をY社に貸し出し
   3.Y社はZ社に対して900円の支払いをする
   4.Z社は受け取った900円をB銀行に預ける
―――――――――――――――――――――――――――――
 この場合、預金の総額は「1900円」になります。もともと
1000円しかなかった貨幣が1900円に増えています。これ
は、Y社が900円の債務を負い、その返済を約束することで、
900円分の「信用貨幣」が発生したことを意味しています。こ
れを「信用創造」と呼ぶのです。日本のバブルはこのメカニズム
から発生したのです。     ──[新自由主義の正体/63]

≪画像および関連情報≫
 ●「日本銀行のヒミツ」/リチャード・ヴェルナー幻の書
  ―――――――――――――――――――――――――――
  日本の金融システムは、アメリカなどに比べると、銀行を介
  した間接金融のウェートが大きい。戦後の経済発展も、間接
  金融によって支えられてきたといっていい。それが数年前か
  ら、日本の金融システムを直接金融にシフトさせようとする
  動きがある。企業は主に証券市場から資金調達すればいいと
  考える人たちがいるのだ。しかし、間接金融と直接金融は、
  そう簡単に入れ替えられるものではない。ふたつのシステム
  が経済に果たす役割には、根本的な違いがあり、それぞれに
  役目がある。直接金融では、投資家(企業や個人)がマーケ
  ットを通して企業に資金を提供する。つまり、おカネをAか
  らBへ移動させるだけで、総量がふえるわけではないので、
  経済成長にはつながらない。一方の間接金融は、市場に銀行
  を通じて資金が移動するだけと考えられがちだ。だがそこで
  は銀行が持つ特殊な機能が発揮され、無視できない影響を経
  済に与えることができる。「信用創造」と呼ばれる機能だ。
  主流の経済理論では、民間銀行は「金融仲介機能」として扱
  われている。ところが、実際の銀行は、まったく別の役割も
  果たしている。自分の帳簿の上で、無からおカネをつくるこ
  とができるのだ。         http://bit.ly/1qFVqm7
  ―――――――――――――――――――――――――――

リチャード・ヴェルナー.jpg
リチャード・ヴェルナー
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2014年08月08日

●「信用創造メカニズムについて知る」(EJ第3850号)

 「信用創造」とは何でしょうか。
 「信用」を「マネー」と同義語であると考えてみます。マネー
──おカネというと、ほとんどの人は日銀券、つまり紙幣を思い
浮かべます。ところで日本のGDPは約500兆円です。しかし
日銀券(紙幣)は全部合わせても約70兆円しかないのです。つ
まり、GDPの約7分の1でしかないわけです。その差額430
兆円はどこにあるのでしょうか。
 それは紙幣の状態で存在しておらず、銀行の帳簿のなかの数字
として存在しているのです。このおカネは民間の普通の銀行が輪
転機を使わずに増やしたものです。この実体のない、得体のしれ
ないおカネのことを「信用貨幣」、単に「信用」というのです。
英語でいえば、「クレジット・マネー」ということになります。
 7日のEJに掲載した「信用創造」のメカニズムをもう一度再
現します。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1.A銀行はX社から1000円の預金を預かる
   2.A銀行は預金から900円をY社に貸し出し
   3.Y社はZ社に対して900円の支払いをする
   4.Z社は受け取った900円をB銀行に預ける
―――――――――――――――――――――――――――――
 この結果、預金の総額は1900円になります。もとはX社の
1000円ですから、900円増えたことになります。Y社がA
銀行に対する債務として、返済することを約束したからです。つ
まり、信用が900円創造されたことになります。
 これに「準備預金制度」を入れて、中央銀行をからめて説明す
ると、次のようになります。「準備預金制度」というのは、「準
備預金制度に関する法律」(1957年制定)に基づいて、金融
機関に対して、保有する預金の一定割合以上の金額を一定期間の
間に日本銀行の当座預金に預け入れることを義務づける制度のこ
とです。この場合、準備率を10%とします。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.中央銀行がA銀行に100万円の資金を供給する。
 2.A銀行はこの資金をX社に融資し、X社がB銀行に保有し
   ている預金口座に振り込む。
 3.B銀行が預かる預金が100万円となり、B銀行は、この
   10%にあたる10万円を日銀の当座預金に預け入れる。
 4.B銀行は残りの90万円をY社に融資し、Y社がC銀行に
   保有している預金口座に振り込む。
 5.C銀行が預かる預金が90万円となり、C銀行はこの10
   %にあたる9万円を日銀の当座預金に預け入れる。
 6.C銀行は残りの81万円をZ社に融資し、Z社がD銀行に
   保有している預金口座に振り込む。
 7.D銀行が預かる預金が81万円となり、D銀行はこの10
   %にあたる8.1 万円を日銀の当座預金に預け入れる。
 8.D銀行は・・・・
         ──ウィキペディア http://bit.ly/ULYWBn
―――――――――――――――――――――――――――――
 この後どうなるのかというと、A銀行、B銀行、C銀行、D銀
行・・・という銀行の預かっている預金額の合計は、中央銀行が
が供給した資金100万円の「1/0.1」 、つまり10倍にな
ります。もし、準備率が1%であれば「1/0.01」 100倍
になるのです。つまり、中央銀行はこの準備率を操作することに
よって、市中に流通する資金量を調節することができるのです。
これを「準備率操作」といいます。
 中央銀行と一般の市中銀行の違いは、輪転機を回して日銀券を
印刷できるかできないかの違いとして一般的にはとらえられてい
ますが、一般の市中銀行も輪転機こそないものの、融資という手
段によって「信用貨幣」を創造しているのです。
 実は、銀行の「信用」を重視する理論は、ジョン・メイナード
・ケインズの『雇用、利子および貨幣の一般理論』が登場する前
は、経済学の主流であったのです。とくに、ドイツのオーストリ
ア学派の経済学者たちは長年にわたって「信用」量の変動による
景気循環を理論を構築していたのです。
 ヨーゼフ・アロイス・シュンペーター、ルードヴィヒ・フォン
・ミーゼス、フリードリヒ・フォン・ハイエクなどの著名な経済
学者は、いずれも信用論をベースとして経済学を構築しており、
20世紀の初めまでは、経済学の主流であったのです。
 なかでも重要なのは、オーストリアの経済学者のフリードリヒ
・ハイエクです。ハイエクの経済学が、あのマーガレット・サッ
チャー元英国首相に影響を与えたことは既に書きましたが、ハイ
エクはウィーンでキャリアを積み重ね、後に米国に移住してシカ
ゴ大学において、ミルトン・フリードマンによるシカゴ学派にも
影響を与えているのです。
 それが、いわゆるケインズ革命によって、一挙にパラダイム変
換が起きたのです。もっと正確にいうと、「信用」の分析から財
政政策の議論へのパラダイム変換です。つまり、ケインズによっ
て景気の循環は「信用理論」だけでなく、「期待の形成」や「利
子率」によっても説明されるようになり、いわゆるオーストリア
学派による貨幣的景気循環論は、経済学の主流から外れることに
なるのです。
 これについて吉田祐二氏は、次のような非常に興味ある指摘を
しています。これは、リチャード・ヴェルナーも同じ考え方であ
ると思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
 「ケインズ革命」とは、ひょっとしたら銀行家たちの「信用創
 造」のカラクリに煙幕を張る意図があったとみるのは考え過ぎ
 であろうか。               ──吉田祐二著
             『日銀/円の王権』/学習研究社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
               ──[新自由主義の正体/64]

≪画像および関連情報≫
 ●フリードリヒ・ハイエクとジョン・メイナード・ケインズ
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ハイエクとケインズのやり取りは有名である。ただし経済政
  策の違いによる論争以前に、「理性主義」批判の項で触れた
  ようにハイエクは理性主義者ほどではないにしても新自由主
  義者としての我の強い価値観を持っていたことから、財政出
  動という政治観からも伺えるように慈悲深く温和な性格のケ
  インズとはそもそもそりが合わなかった。このためハイエク
  の不機嫌な意見はケインズによって寛容に受け止められ自説
  に反映させられてしまうといった構図が長く続いたようであ
  る。こうした事情をハイエクも薄々把握していたようで、ケ
  インズが亡くなった時に、ハイエクはケインズの妻であるリ
  ディア夫人に「偉大なご主人のために私は計り知れない賞賛
  をうることができました。もし彼がいなかったら、世界中は
  もっと貧乏だったでしょう」と賛辞を送っている。しかし、
  その後「私はうぬぼれすぎていた。私は2人の論争するエコ
  ノミストのうちの一人だと自分自身思っていた。しかし、今
  では彼は亡くなって聖人となってしまった。私は、『隷従へ
  の道』を出版したので、状況が完全に変わってしまった。そ
  して私は自分の名声を大きく損なってしまった」と述べてい
  る。               http://bit.ly/1ueiZof
  ―――――――――――――――――――――――――――

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ハイエクとケインズ
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2014年08月11日

●「『非対称情報の経済学』とは何か」(EJ第3851号)

 銀行の「信用創造」を重視する経済学を提唱したのは。オース
トリア学派の経済学者たちですが、なかでも代表的な経済学者の
一人がフリードリヒ・ハイエクです。ハイエクは、1970年代
から1980年代にかけて、米国の経済学界を支配した経済学者
の一人であるといってよいと思います。
 ハイエクの初期の論文のなかから、信用創造について言及して
いる部分を抜き出してみます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ◎貨幣量の増加をもたらす三つの方法の中で最も重要なのは
  現在の観点から見て銀行による信用創造である。
 ◎恐慌の発生には、銀行が信用量の拡大を止めるだけで十分
  である。そうすれば遅かれ早かれ、恐慌は発生する。
  ──「貨幣理論と景気循環」(フリードリヒ・ハイエク)
    ──吉田祐二著/『日銀/円の王権』/学習研究社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 企業家の行う不断のイノベーション(革新)が経済を変動させ
るという理論を構築し、経済成長の創案者でもあるオーストリア
学派の経済学者、ヨーゼフ・アロイス・シュンペーターも、その
企業家の革新には銀行の信用創造の裏打ちが必要であるとして、
次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 銀行家は単に購買力という商品の仲介商人なのではなく、ま
 たこれを第一義とするのではなく、なによりもこの商品の生
 産者である。彼は新結合の遂行を可能にし、いわば国民経済
 の名において新結合を遂行する全権能を与える。
         ──ヨーゼフ・アロイス・シュンペーター
                  http://bit.ly/1flzTrW
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、この当時主流であった信用創造を重視する経済学は、
ケインズの登場によって、理論的枠組のパラダイム変換が起こり
すっかり廃れてしまったのです。その一方において、その方が都
合の良いと考える向きもあったのです。その向きとは何かについ
ては、この段階では伏せておきます。
 21世紀になると、ノーベル賞受賞経済学者のジョセフ・E・
スティグリッツ教授は、新しい経済学を発表したのです。それは
次の著書において論じられています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 J.E.スティグリッツ/B.C.グリーンワールド/内藤純一訳
  『新しい金融論──信用と情報の経済学』/東京大学出版会
―――――――――――――――――――――――――――――
 この論文のなかに「非対称情報の経済学」というものが論じら
れているのです。この論文による経済分析の発展に対する貢献で
ジョセフ・E・スティグリッツ教授は、他の2人の米国の経済学
者とともにノーベル経済学賞が与えられたのです。
 「非対称情報の経済学」については、次の本でやさしく解説さ
れています。著者の藪下史郎早稲田大学教授は、スティグリッツ
教授の直弟子です。
―――――――――――――――――――――――――――――
                 藪下史郎著/光文社新書
  『非対称情報の経済学―スティグリッツと新しい経済学』
―――――――――――――――――――――――――――――
 非対称情報の経済学とは何でしょうか。
 市場では「売り手」と「買い手」が対峙しますが、一般には売
り手がほぼ一方的に情報を保有しており、買い手は十分の情報を
保有できないため、ここに大きな格差が生まれます。
 中古車市場を例にとります。中古車市場では、買い手は欠陥の
ない車か、ある車かの情報を持っておらず、すべての情報が売り
手に握られています。このように、売り手のみが欠点を知り、買
い手の側は欠点を知る術がない格差のある環境を「情報の非対称
性」というのです。これについての定義をまとめておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 情報の非対称性は、経済取引における主体者間(例えば企業と
 消費者)に存在する情報格差を指す言葉である。主体者間に情
 報格差が存在する場合、効率的な経済取引が阻害され、社会的
 損失を生み出す可能性が存在する。   ──ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――――
 スティグリッツ教授は、金融の世界にも「情報の非対称性」が
存在することを『新しい金融論──信用と情報の経済学』で指摘
しています。それは、銀行と企業の間にあるとしています。
 銀行と企業の間での信用の市場は、経済学で説くところの「需
要と供給の一致」の当てはまらない市場であるというのです。そ
こは、貸し手が絶対的に有利で、借り手が絶対的に不利な市場で
あって、非対称情報が支配する市場なのです。
 銀行は企業が資金を借りにきたとき、貸すかどうかを一方的に
決めることができます。つまり、銀行は貸したいとき、貸したい
相手に、貸したい額を貸す一方的な市場です。銀行はそういう市
場を支配しているのです。この情報の非対称の市場は、銀行と企
業の間だけではなく、中央銀行と銀行との関係に見ることができ
ます。日銀は、民間銀行に対して絶対的な権力を持っているので
す。しかし、その本当の力は世間には隠されているといえます。
 かつての一万田日銀総裁は、「日銀は鎮守の森のように静かで
目立たぬほうがよい」と部下に教えていたということは既に述べ
ましたが、それは、日銀が凄い力を持っていることを決して世間
には悟られてはならないという教えです。しかし、やらなければ
ならないときはそれを使うという意思を秘めています。
 そういう意味から、戦後に一万田日銀総裁が実施した「窓口指
導」というものをもう一度ていねいに調べ直してみる必要があり
ます。そうすることによって、あのジャパンマネーの大奔流と突
然の終息の謎を解くことができるからです。
               ──[新自由主義の正体/65]

≪画像および関連情報≫
 ●【噴水台】「情報の格差」(中央日報)
  ―――――――――――――――――――――――――――
  中古車を購入しようとする際、不安を感じることがある。ひ
  ょっとして事故車ではないだろうか、あるいは水害時に浸水
  した車ではないか・・・。車主やディーラーはこのことをよ
  く知っているだろうが、率直に教えてくれるかは疑わしい。
  そのため、だまされて買わされるのではないかと気になって
  仕方がないのだ。このように、売り手は商品の質について詳
  しく知っている反面、買い手はそうでないケースがままある
  のだ。経済学ではこれを「非対称情報市場」という。米国の
  ジョセフ・スティグリッツ、ジョージ・アカロフ、マイケル
  ・スペンスの3人は、これに関する研究を集大成し、01年
  にノーベル経済学賞を共同受賞した。彼らは、情報の不均衡
  とこれに伴う市場のわい曲を鋭く指摘した。「市場は完全な
  情報を有している」という既存の経済理論の前提条件から脱
  却したのだ。この研究で、アカロフは中古車市場を例にとっ
  ている。彼は、商品の価格が下がれば需要が増えるのが普通
  だが、中古車の場合はこれと異なると考えた。中古車の価格
  が下がれば、それだけ品質も低いものと消費者が不安に思う
  ため、逆に需要が減るという。さらにこれがひどくなると市
  場自体が成り立たないこともあるとした。供給と需要のそれ
  ぞれが持つ情報が、大きく異なるために生じる現象だ。
  ―――――――――――――――――――――――――――

「非対称情報の経済学」.jpg
「非対称情報の経済学」
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2014年08月12日

●「一万田元日銀総裁の戦後処理戦略」(EJ第3852号)

 戦前の日本において官僚は、明治維新以来一貫して「天皇の官
僚」であり、軍部とともに絶対的な権力を持っていたのです。敗
戦によって軍部は解体され、天皇は象徴天皇になりましたが、官
僚体制はほぼ戦前のまま残ったのです。
 連合国最高司令長官ダグラス・マッカーサーは最初から日本は
間接支配することを決めており、国の支配権は官僚の手に委ねら
れたのです。政治家はいたのですが、事実上はすべてを官僚が仕
切っていたのです。
 しかし、官僚を中心とする日本の支配層は、表面上は民主主義
国家を装うために、1955年にいくつかの政党が合併して「自
由民主党」をつくり、一党君臨体制が長く続いたのです。これは
「五五年体制」と呼ばれています。この五五年体制は官僚国家に
民主主義的な体裁を整えさせる格好の隠れ蓑になったのです。リ
チャード・ヴェルナー氏はこの体制を「官僚支配翼賛会」と呼ん
でいます。
 自民党政権は、その後ほぼ40年間続いたのですが、1993
年に小沢一郎氏が主導する細川連立政権に政権交代し、1998
年に政権復帰したものの、2009年にまたしても小沢氏の主導
する民主党によって二度目の野党に転落したのです。
 ところが、政権交代しても官僚体制を解体できず、2012年
末にまたしても自民党政権に戻っています。しかるに官僚体制は
ほぼ戦前のまま残っています。しかも、この二度にわたる政権交
代によって日本は本当の民主主義国家なのだということを世界に
誤認させることに役立っているのです。
 一万田尚登が占領軍の承認を得て日銀総裁になったのは、19
46年のことです。年齢が53歳という当時としては、若手の日
銀総裁の誕生です。なぜ一万田が選ばれたかというと、彼がハイ
パーインフレーションへの対応策を勉強していたからです。
 一万田尚登は、1924年から26年までベルリンに派遣され
ドイツの中央銀行であるライヒスバンクのヒャルマール・シャハ
ト総裁に信用統制政策を学んでいるのです。一万田が訪れた当時
のドイツは、第1次世界大戦の敗戦を受けてハイパーインフレー
ションが進行し、それをようやく克服した時期であったのです。
『一万田尚登伝記・回想録』にそれに関する記述があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 僕は通貨の適正量というものをあらかじめ決めておくことが戦
 後のインフレーション時代にはとりわけ必要だと思っていた。
 金本位制度なら銀行券発行は自然に調節されるが、管理通貨の
 もとではあらかじめ一定の限度を設けておかないといけない。
 ただ、適正量・限度を決めるのはなかなか難しいけれども、ラ
 イヒスバンクのシャハト総裁は、「銀行券はある一定の発行量
 以上は総裁の職を賭けても発行しない、金庫に鍵をかけて中央
 銀行からお札を出さないことが、悪性インフレーショシを止め
 る妙薬だ」と言っていた。
        ──『一万田尚登伝記・回想録』/徳間書店刊
     ──吉田祐二著/『日銀/円の王権』/学習研究社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 一万田はシャハト総裁のドイツの戦後処理を実際に見ることが
できたのです。地獄のようなハイパーインフレーションがみるみ
るシャハト総裁率いる中央銀行・ライヒスバンクによって処理さ
れている現場を体験したのです。それが約20年後の日本で役に
立ったのです。
 敗戦直後の日本の状況は惨憺たる状態だったのです。これにつ
いて、リチャード・ヴェルナー氏は次のようにまとめています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 戦争が終わったとき、銀行の貸出帳簿は、惨憺たるありさまに
 なっていた。戦争末期の絶望的な日々に、銀行はさらに軍需産
 業への融資を強化するよう命じられていた。非生産的な目的の
 ための敵資は結局不良債権になる。戦いに負けたばかりの国の
 戦費融資は最悪の不良債権になる。銀行のほかの主要な資産は
 「大東亜戦争国庫債券」その他の戦時国債だった。これらの国
 債はその後闇市で記念品として叩き売られるしかなかった。銀
 行の大半の資産は無価値だったが、負債は依然として残ったの
 である。個人預金者の貯蓄である。資産は負債よりも少なく、
 銀行システム全体が事実上破綻していた。しかも、民間銀行は
 財閥解体への動きによってさらに打撃を受けた。貸出など考え
 られなかったし、現実にできる状況ではなかった。だが銀行の
 信用創造がなければ、充分な通貨が流通しない。したがって、
 経済は行き詰まって、深刻な不況に陥った。
         ──リチャード・ヴェルナー著/吉田利子訳
  『円の支配者/誰が日本経済を崩壊させたのか』/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本の場合、終戦直後の経済は惨憺たる状態に陥り、インフレ
になったのですが、第1次大戦後のドイツのようにはならなかっ
たのです。それは一万田日銀総裁の政策の実行が水際立っており
思いのほか早く経済を再生させることができたのです。
 一万田総裁は、何よりも経済を浮揚させることが必要であると
考えたのです。そのために次の2つの戦略をとったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.一般銀行は膨大な不良債権をかかえて麻痺状態にあった
   ので、日銀が一般銀行の代わりをする。
 2.一般銀行に融資ビジネスを再開させるため、日銀は紙幣
   を刷って、戦時国債を高値で買い取る。
―――――――――――――――――――――――――――――
 超不況からの脱出は、銀行を生きかえらせることです。そのた
め一万田は、日銀が一般銀行の代役を務めて企業から融資を受け
付け、借り入れが認められた企業には手形を発行させ、銀行を通
じて日銀がそれを新円で買い取ると同時に、一般銀行から無価値
の戦時国債を高値で買い取ることにより、銀行を生きかえらせた
のです。           ──[新自由主義の正体/66]

≪画像および関連情報≫
 ●自民党結党と55年体制確立/ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1950年代当時、革新政党である日本社会党も社会党左派
  と社会党右派に分裂していたが、1955年(昭和30年)
  になって再統一で合意したことから、保守勢力にも統一した
  保守政党が急務という声が高まり、保守合同が実現した。自
  由党と日本民主党は両党の公認だけで当時の定数(467)
  を上回る534人が立候補しており、両党の共倒れを避ける
  ことも目的の一つだった。政治学者の北岡伸一によると、政
  党発足当初は吉田派・反吉田派、党人派・官僚派、戦前派・
  戦後派など複雑な派閥対立要素が絡んでいたため、保守合同
  の立役者となった三木武吉は「10年も一党体制を維持でき
  ればマシな方だろう」という程度の認識だったという。自由
  民主党の派閥は結党時は8派閥、「八個師団」と称された。
  結党から最初の総選挙となった1958年(昭和33年)の
  第28回総選挙で、自民党は追加公認を併せ298議席を獲
  得(定数467)。社会党は同じく167議席で、両党で議
  席の99%以上を占めた。こうして、自民優位の二大政党制
  (社会党は自民党の半分程度であることから「一と二分の一
  政党制」とも呼ばれた)である、55年体制が成立した。
                   http://bit.ly/1ktQzpU
  ―――――――――――――――――――――――――――

ヒャルマール・シャハト総裁.jpg
ヒャルマール・シャハト総裁
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2014年08月13日

●「『窓口指導』と日本経済復活の謎」(EJ第3853号)

 終戦直後に日銀がやった措置について再現します。一万田日銀
総裁が終戦後にやったことは、一にも二にも銀行を建て直すこと
です。中央銀行ですから当然のことではありますが、終戦直後で
あり、銀行システム全体が事実上破綻状態になっていたのです。
 そのとき銀行は資産がほとんど無価値になり、個人預金者の貯
蓄という負債が残り、それに紙切れ同然の戦時国債が山をなして
いたのです。さらに財閥が解体されたことで、銀行は大打撃を受
けており、貸し出しなどできる状態ではなかったのです。
 一万田総裁は、それらの戦時国債を高値で買い取ったのです。
通貨を印刷できる日銀は不良債権を心配することはないので、そ
れを思い切ってやったのです。しかし、条件はつけたのです。銀
行にリストラや合併を命令したのです。これには民間銀行は、い
いなりになるしか助かる道はなかったのです。
 一方企業に関しては、日銀は銀行の代わりをしたのです。企業
に融資を日銀営業局に申し込むようにさせたのです。当時日銀の
営業局長は佐々木直であり、融資の決裁はここがしたのです。融
資を認められた企業は手形を発行して銀行に申し込むと、日銀は
新円を印刷してそれを買い取ったのです。これによって銀行業務
は少しずつ回復していったのです。
 このように銀行が息を吹きかえすと、一万田総裁は、営業局長
の佐々木と相談して、次の基準にしたがい、産業別に慎重に資金
配分を決定したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ◎優先度「A」
  ・石炭、鉄鋼、造船、電力、鉄道、工作機械、輸送業などの
   輸出関連産業
 ◎優先度「B」
  ・A以外のほとんどの製造業と小売業、農業、教育、それに
   ケース・バイ・ケースで建設業
 ◎優先度「C」
  ・不動産業、デパート、ホテル レストラン、証券業、出版
   業、アルコール飲料など
―――――――――――――――――――――――――――――
 これによって、一万田日銀総裁は「王」になったのです。どの
プロジェクトを認め、どれを断るか、一万田総裁の一存ですべて
が決まるからです。産業界の指導者は、一万田総裁とその部下た
ちの顔色を伺うようになっていったのです。
 いったん決まったら、苦情の申し立ては一切できず、黙って従
うしかなかったのです。まさに「ツルの一声」であり、一万田総
裁は「法王」と呼ばれるようになったのです。一万田は占領軍の
信頼を得ており、まさに鬼に金棒だったのです。
 後年、一万田総裁は「日銀マンは能力を隠せ」と部下に教えて
いますが、このときは権限をフルに使って、一万田と佐々木の2
人の判断ですべてを仕切ったのです。これによって日本経済は2
桁の成長をはじめたのです。
 この一万田と佐々木の実施した融資の割当枠の決定方式のこと
を「窓口指導」というのですが、リチャード・ヴェルナー氏は、
自著で次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1950年代はじめには、経済は2桁成長しており、融資の申
 し込みは莫大になっていた。営業局による銀行信用の配分シス
 テムが最終的なかたちをとったのは、この時期だった。総裁は
 まず融資総額の伸び率を決め、それから腹心の部下である佐々
 木直営業局長と2人で増加分を各銀行に融資割り当てとして配
 分する。銀行は大口の借り手の名前にいたるまで細かい融資計
 画を毎月日銀に提出するよう求められていた。東京の銀行は日
 本橋の日銀本店に、その他の銀行は33の日銀の支店に報告を
 おこなった。つぎに日銀は、信用配分計画に合うように融資計
 画を「調整」する。日銀に赴いた銀行幹部は、文字どおり日銀
 のカウンター(窓口)で融資割当枠を告げられたので、この手
 続きは「窓口指導」という名で知られるようになった。企業と
 同じで日本の銀行も市場シェアの拡大を追求する経営者によっ
 て運営されている。そこで、放置しておけば銀行間の市場シェ
 ア争いが過熱し、商品、つまり銀行融資の行き過ぎたダンピン
 グが起こっただろう。それを窓口指導が解決した。これは、競
 争を制限する典型的な産業力ルテルだったからだ。
         ──リチャード・ヴェルナー著/吉田利子訳
  『円の支配者/誰が日本経済を崩壊させたのか』/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 この日銀の「暴走」を苦々しく思っていたのは、他ならぬ大蔵
省です。大蔵省は何とか日銀の力を押さえようとして、戦時中の
1942年に日銀法を改正し、それまで民間株式会社だった日銀
を大蔵省に属する政府機関に変えたのです。
 しかし、終戦後占領軍はさらに日銀法を大きく改正しようとし
たのです。一万田総裁は占領軍司令部に、戦後の経済再生には日
銀の力は必要であるとして説得を重ねたのです。占領軍司令部は
一万田総裁を信用しており、日銀法の改正は最小必要限度のもの
にとどまったのです。
 日銀法は、占領軍によって1949年に改正されましたが、日
銀の政策をチェックする政策委員会の新設が決められただけに終
わったのです。しかも、一万田は占領軍当局を説得して、政策委
員会は日銀内部に置き、日銀総裁がコントロールできるようにし
たのです。そのため政策委員会は、お飾りの委員会になり、日銀
はその後も大幅な独立性を維持できるようになったのです。
 一万田総裁のバックには誰がいたのでしょうか。それは、マッ
カーサー連合軍最高司令長官だったのです。一万田が電話をかけ
てマッカーサー司令長官に会いに行くと、副官が総司令部の玄関
までわざわざ出迎えてくれるほど信用されていたというのです。
これでは、たとえ大蔵省といえども一万田には何もいえなかった
わけです。          ──[新自由主義の正体/67]

≪画像および関連情報≫
 ●日経「春秋」/2013年4月5日付
  ―――――――――――――――――――――――――――
  土地の守り神をまつった社を取り囲むようにして、木々がう
  っそうと生い茂る。日本は各地に鎮守の森が残っている。終
  戦の翌年に日銀総裁に就任した一万田尚登氏も、その静かで
  落ち着いた様子にひかれた一人だ。「日銀は鎮守の森のよう
  にありたい」と言っていた。
  ▼戦後のインフレを抑え込み、産業復興の資金手当てにも力
  を入れたのが一万田氏だ。GHQ(連合国軍総司令部)から
  一目置かれ、権勢をふるい、言動を経営者は注視した。ただ
  本人は「日銀が注目されるのは経済が悪いときだ。目立たな
  いのが一番」と考えていたという。それで「鎮守の森」にな
  ぞらえてみたのだろう。
  ▼黒田東彦新総裁が率いる日銀が本格的に動きだした。世の
  中に出回るお金を増やし、企業や家庭が借りやすくする金融
  緩和では新しい手法を打ち出し、市場は大きく反応した。デ
  フレ脱却へ向けて日銀が打つ手は各国の経済に影響を与え、
  黒田氏の発言には世界の耳目が集まる。「静かに目立たず」
  とは、とてもいかない。
  ▼植物生態学者、宮脇昭氏の著書「鎮守の森」によれば、古
  くからその土地に根を張ってきた木々は災害に強く、地震や
  台風でも倒れない。日銀が頼りにされるのも、今が苦境脱出
  への正念場だからだろう。企業がもうける力をもっとつけて
  日銀が「鎮守の森」のように、後ろでどっしり構えていれば
  いい日はいつ来るか。       http://bit.ly/1staSGF
  ―――――――――――――――――――――――――――

マッカーサー元帥.jpg
マッカーサー元帥
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2014年08月14日

●「10年間ずつ日銀を支配した6人」(EJ第3854号)

 「通貨の量を増減させる」、つまり通貨の量をコントロールで
きれば、景気を左右させることができます。通常ここでいう通貨
の量とは、「マネーサプライ」といいますが、日本では「マネー
ストック」といっています。
 ところが、日本の中央銀行である日銀がコントロールできるの
はマネーストックではなく、「マネタリーベース」なのです。こ
れは、「ベースマネー」とか「ハイパワードマネー」ともいわれ
ています。マネタリーベースには、銀行が日銀に預ける日銀当座
預金も含まれるので、日銀がマネタリーベースをいくら増やして
もマネーストックが増えるとは限らないのです。このことはEJ
でも何回も述べてきています。その点が難しいのです。つまり、
日銀はマネーストックはコントロールできないのです。
 しかし、日銀が銀行と面接し、マネタリーベースとして出す資
金全額を日銀が指定する産業に融資することを銀行が必ず実行す
るとしたら、どうなるでしょうか。この場合は、日銀は、マネー
ストックをコントロールできるのです。日銀の「窓口指導」はこ
れをやったわけです。
 しかし、終戦直後は廃墟からの復興という需要があり、日銀に
よる資金の割り当てが適切であったので、信用創造による通貨は
生産活動に効率的に注ぎ込まれ、それが経済を成長させましたが
バブルは発生しなかったのです。
 結論からいうと、この窓口指導は一万田尚登が日銀総裁に就任
した1946年から1991年6月まで、必要に応じて密かに続
けられていたのです。しかし、日銀からは、何度も窓口指導の廃
止がアナウンスされているのです。
 とくに1964年に日本がOECDに加盟してからは、経済に
対する直接的な統制を緩和し、市場指向的経済システムを採用す
るよう国際社会から強く求められていたので、疑いをかけられな
いために、あえて窓口指導の廃止を公式にアナウンスせざるを得
なかったのです。
 しかし、窓口指導は、非公式な法律的根拠のないマネーのコン
トロール手段であり、日銀の6人の総裁の指導の下に、1991
年まで秘密裏に実施されたのです。それが奇跡といわれる戦後の
日本の経済成長に深く関係しているのです。
 日銀の6人の総裁というのは、ここまで何度も出てきている次
の6人です。
―――――――――――――――――――――――――――――
      1.新木 栄吉   4.前川 春雄
      2.一万田尚登   5.三重野 康
      3.佐々木 直   6.福井 俊彦
―――――――――――――――――――――――――――――
 1945年〜1994年までの約50年間で6人なのです。そ
の間の日銀総裁の数はもっと多いのですが、これらの6人はいず
れも日銀生え抜きの日銀総裁なのです。日銀生え抜き以外の総裁
──ほとんどは大蔵省出身ですが、彼らをつんぼ桟敷に置いた状
態で、窓口指導は秘密裏に行われていたのです。
 彼らは、一万田元総裁から窓口指導のノウハウを受け継いでお
り、それぞれ10年間にわたって、日銀を支配してきたのです。
問題はどうして10年間もコントロールできたかという点です。
1980年代を例にとると、次のようになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
             総裁   副総裁   営業局長
 79年12月    前川春雄   澄田智   三重野康
 84年12月     澄田智  三重野康   福井俊彦
 89年12月    三重野康   吉本宏   福井俊彦
―――――――――――――――――――――――――――――
 日銀総裁と副総裁の任期は5年なのです。澄田智は大蔵省出身
ですが、副総裁を5年勤めてから総裁を5年やっています。三重
野康も同様に副総裁と合わせて総裁を10年やっています。
 窓口指導をするには融資のノウハウを持っている必要がありま
すが、それは副総裁と営業局長が実務を取り仕切るのです。営業
局長はたすきがけ人事の対象外であり、すべて日銀生え抜きのス
タッフが就任します。しかし、大蔵省出身の副総裁のときは総裁
と営業局長が窓口指導を行うのです。なお、上記の吉本宏副総裁
は、大蔵省出身です。
 要するに、大蔵省出身の総裁や副総裁には、窓口指導の実務は
一切触れさせないし、報告すらしないのです。したがって、窓口
指導はすべて日銀生え抜きの総裁と副総裁、それに営業局長によ
り行われたのです。大蔵省出身の総裁と副総裁は完全にお飾りで
あったのです。
 日銀総裁・副総裁のたすきがけ人事は、日銀生え抜きの佐々木
直総裁の後に大蔵省出身の森永貞一郎が就任したときにはじまっ
たのです。このときは、日銀は法律上は大蔵大臣の指揮を受ける
立場にあり、たすきがけ人事は仕方がなかったのです。その代わ
り、大蔵省出身の日銀総裁のときは、日銀生え抜きの副総裁や営
業局長は、絶対に統治させなかったのです。まさに大蔵省出身の
日銀総裁は、「君臨すれども統治せず」の状態に置かれていたと
いってよいのです。
 この大蔵省出身の日銀総裁について、リチャード・ヴェルナー
氏は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 大蔵省出身の人物が日銀総裁に任命されているときは、総裁は
 重要なコントロール・メカニズム、すなわち信用創造量の決定
 から排除されるということだ。信用創造量は部下の日銀スタッ
 フが決定し、総裁への報告はなかった。世論は日銀の真の統治
 者について誤解させられてきたのである。
         ──リチャード・ヴェルナー著/吉田利子訳
  『円の支配者/誰が日本経済を崩壊させたのか』/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
               ──[新自由主義の正体/68]

≪画像および関連情報≫
 ●日本人が知らない恐るべき事実/福井総裁と日銀について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  石井:福井さんが総裁就任を受諾するとは思わなかった。福
  井さんには副総裁だった98年当時、日銀接待汚職事件の責
  任を問われて松下総裁とともに辞任したという経緯がある。
  その時、福井さんは全然責任を感じておらず、次は自分の番
  だと総裁就任に意欲を示していたが、自民党長老の一喝でや
  むなく辞任した。もちろん責任を自覚していないのは福井さ
  ん本人だけで、自殺者を出した上に100人以上の処分者を
  出したのだから、副総裁という内部管理者のトップとしての
  彼の責任は非常に重い。福井さんが日銀を去る時に口にした
  「世の中に迷い出る」「私は日銀に帰らない」という言葉は
  今でも記憶に新しい。それからわずか5年で、日銀に帰って
  くるとは驚きだ。
  ヴェルナー:今から30年以上も前に、日銀の内部の偉い人
  たちが集まって、2000年あたりの総裁は福井俊彦にしよ
  うと決めていたからだ。こうした計画が実は1960年代の
  終わりからあった。それ以来、福井さんはずっと日銀のプリ
  ンスと呼ばれていた。総裁の選び方は、どう考えてもおかし
  い。若いうちに、たとえば32〜33歳で65歳から70歳
  の時期の総裁を決めるのはどう考えても能力主義ではない。
  同期や同世代の人たちに「おれが総裁だから、君たちはどん
  なにがんばっても総裁になれない」という逆インセンティブ
  を与えてしまう。こんなやり方は、どう考えてもやはりおか
  しい。              http://bit.ly/1pojhJ7
  ―――――――――――――――――――――――――――

澄田智元日銀総裁.jpg
澄田 智元日銀総裁
  
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2014年08月15日

●「窓口指導はどのように行われたか」(EJ第3855号)

 日銀は「窓口指導」というツールを1960年代の半ばから海
外に対し、意図的に隠し始めていたのです。とくに米国から直接
的な金融統制について強い批判があったからです。
 ここに1973年の海外向けの日銀の金融政策の説明がありま
す。これを見と、日銀は正統的な中央銀行のルールにしたがって
いることを強調しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 窓口指導は、その性格上、市中金利、公開市場操作、預金準備
 という正統的な金融政策の補完的なツールである。これはどち
 らかというと、金融抑制に使われている。(中略)また、道徳
 的説得というかたちであり、金融機関の側の協力が前提である
 ことを強調しておかなければならない。
             ──Bank of Japan(1973)/海外版
―――――――――――――――――――――――――――――
 日銀はあらゆる関連印刷物を通して、徐々に金利を主役に押し
上げ、中央銀行の金融政策は、公定歩合とコールレートを操作し
て行われることを強調しはじめていたのです。しかし、これはあ
くまで建前であり、本音は「窓口指導隠し」なのです。
 それに加えて日銀は「適切な水準のマネーサプライの重要性」
を強調しはじめたのです。そして、1978年に公式にマネーサ
プライの目標値を導入したのです。リチャード・ヴェルナー氏は
これについて次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 マネーサプライの目標値を導入したほとんどの国は達成に失敗
 している。イングランド銀行はさまざまな目標値を設定したが
 うまくいかず、結局80年代半ばには完全にあきらめてしまっ
 た。ところが、日本銀行は大成功した。きわめて正確に通貨目
 標値を達成し、全世界のマネタリストを賛嘆させたのだ。ミル
 トン・フリードマンのような国際的なマネタリストは、狂喜し
 た。日銀は彼らの信念の生きた証に見えたのだ。当時、日銀の
 スタッフはセントラル・バンカーの国際会議で鼻高々だった。
 だが、もちろん、彼らの小さな秘密は、彼らの政策はマネタリ
 ズムと何の関係もないということだった。窓口指導を通じて信
 用創造を正確にコントロールする副産物として、M2+CDの
 ような預金量の目標値も達成されたのである。
         ──リチャード・ヴェルナー著/吉田利子訳
  『円の支配者/誰が日本経済を崩壊させたのか』/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 この日銀の努力、いや陰謀(?)によって、1980年代のは
じめには、多くのエコノミスト、評論家、官僚たちが、窓口指導
による信用統制の果たす重要性を忘れてしまったのです。日銀の
「窓口指導隠し」が成功したわけです。
 ところで、リチャード・ヴェルナー氏は、1967年生まれの
ドイツ人の経済学者です。オックスフォード大学大学院博士課程
を経て、東京大学大学院で経済学を専攻しています。
 その後ドイツ銀行証券会社(1989年)、野村総合研究所経
済調査部(1990年)、日本開発銀行設備投資研究所(199
1年)で研究員として実績を積んでいます。日本開発銀行では、
1990年創設の初の「下村フェロー」になっています。
 91年〜93年まで、オックスフォード大学の経済統計研究所
の研究員として日本銀行金融研究所および大蔵省財政金融研究所
で研究を重ねています。ちょうど、日本の高度成長の頂点から崩
壊までの時期に日本にいて、多くの日銀職員、日銀営業局の職員
それに民間銀行の日銀担当の銀行員に直撃取材を試みるなどイン
タビューを重ねており、そのうえで2001年5月に『円の支配
者』(草思社)を上梓しているのです。
 窓口指導の実態はどのようなものだったのでしょうか。ヴェル
ナー氏は、インタビューした関係者の発言を基にして次のように
それを明らかにしています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1980年代の信用統制は非常に効果的だった。日銀職員によ
 れば、銀行は設定された枠を超えることはけっしてなかった。
 そんなことがあれば、即座に罰がくだったからだ。「もし銀行
 が上限を超えたら、次の回の枠が引き下げられる。しかし、そ
 のようなことは実際には聞いたことがない。起こらなかったか
 らである。窓口指導はきわめて厳格に遵守された」(日銀職員
 5)。もっと重大な驚くべき出来事は、1980年代に、銀行
 は割り当てられた貸出枠を絶対に使い残さなかったことだ(日
 銀担2)。「銀行はつねに貸出枠上限まで貸した。割当枠は、
 銀行によって完全に費消されるものと想定されていた。もし、
 それを下回ったら、われわれの割当枠は競争相手にくらべて減
 らされてしまう。だから完全に使い切ったのだ。それは、食べ
 ないといけないお弁当のようなものだ」(日銀担2)。日銀は
 窓口指導の枠を上回ったときだけでなく、下回ったときにも同
 じ罰を与えた。銀行が2四半期以上、割り当てられた貸出増額
 分を消化しない場合にも、その後の貸出枠が減額された。
         ──リチャード・ヴェルナー著/吉田利子訳
  『円の支配者/誰が日本経済を崩壊させたのか』/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 1980年代の窓口指導では、日銀に割り当てられた貸し出し
枠は大きすぎると感ずる銀行は多かったのです。1985年以降
になると、「もっと使いなさい」と日銀に迫られることも多く、
不動産などの非生産的投資が急増することになったのです。
 それでも使い残しは絶対にできなかったと銀行担当者は発言し
ています。もし、使い残すと、同じような枠を受けているライバ
ル銀行に負けるのではないかと悩み、割当金額の消化のために、
必死になって企業を回って、借りてほしいと説得したものだと告
白しているのです。これなら、日銀が、各銀行に割り当てたマネ
タリーベースは、全額マネーストックになるということがわかり
ます。            ──[新自由主義の正体/69]

≪画像および関連情報≫
 ●リチャード・ヴェルナー/『円の支配者』書評
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「日銀が日本をデフレから脱却をさせることや、景気回復に
  非協力的だ」という見方は、外国人機関投資家の間ではここ
  何年か「定説」になっている。大切なカンどころで必ず政策
  を間違えるという意味だ。ところがこの本はそのデフレ発生
  のバブルの創出まで、実は日銀生え抜きの一握りのプリンス
  たちが権力奪取と日本の構造改革を狙った仕掛け」という。
  1980年代の前川レポートなどがその戦略の根幹にあり、
  省名まで失った大蔵官僚と大量失業を出した国民が犠牲者で
  ある。このショッキングな本の筆者ヴェルナー氏は私は11
  年前、日債銀顧問のときに知り合った。日銀による金融の量
  的供給や株式市場の動向をかなり高い精度で予測するという
  分析で、当り屋ストラテジストとして有名だった。そのころ
  から同氏は、今回出版された本の内容の相当な部分を主張し
  ていた、と記憶する。その後日銀内部からの取材を元にリア
  リテイを加えて持論を一冊にまとめたもの。ところで内容だ
  が、面白いことはメチャ面白い。前川、佐々木、三重野、速
  水、そしていずれ就任するといわれている福井俊彦氏の名ま
  で入れてマフィアのコーザ・ノストラみたいな人達で日本を
  支配しようとしているという「証拠」が続々と書き込まれて
  いる。とくに日銀が、「低金利で十分に景気刺激を行ってき
  た」と主張しているが、それはインチキ。中小企業は資金不
  足に苦しんでいる」と通貨需要が起きないのでなく、日銀が
  阻害しているのだ、と追求するあたりは迫力がある。
                   http://bit.ly/1sAw5P5
  ―――――――――――――――――――――――――――

『円の支配者』の著者/ヴェルナー氏.jpg
『円の支配者』の著者/ヴェルナー氏
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2014年08月18日

●「名を捨てて実を取った日銀の勝利」(EJ第3856号)

 一万田元日銀総裁の時代から日銀が一貫して求めてきたのは、
日銀の独立です。なぜなら、当時日銀は大蔵大臣の指揮下にあっ
たからです。大蔵大臣は、日銀の監督権を握り、その命令に反し
た総裁を解任できたのです。
 一万田尚登は、日銀総裁のあと大蔵大臣になっていますが、こ
のとき、一万田蔵相は日銀法改正のための調査委員会を立ち上げ
ているのです。一万田としては、乾坤一擲の勝負に出たのです。
1956年のことです。
 学者、銀行家、評論家に加えて、大蔵省と日銀の代表45人か
ら成る委員会です。しかし、1956年12月に首相が交代し、
閣僚は一新され、池田隼人が蔵相に就任したのです。これによっ
て、日銀法改正はほとんど絶望的になったのです。
 しかし、その次の年の1957年、景気の過熱によって、国際
収支が悪化し、経済が危機的状況に陥ったのです。事態の処理に
焦った政府は、危機対応のため、一万田を蔵相に急遽復帰させた
のです。日銀としてはこれによって、再び日銀法改正の期待が膨
らんだのです。
 政府の金融制度調査会の意見の大勢は、選挙の洗礼を受けてい
ない日銀に独立権限を与えるのはもってのほかであるという意見
が多かったので、日銀は頑なにそれを主張する方針を変更したの
です。そして、日銀に金融政策実施に対して裁量の余地を認め、
日銀の政策目標を政府の政策の維持と経済成長の維持から、物価
安定維持に変更すべきであると主張したのです。
 政策目標を変更させることに成功すればそれは事実上の独立を
意味することになると考えたからです。なぜなら、政府や大蔵省
の政策が気に入らなければ、「それは物価安定の維持に反する」
として拒否できるからです。
 これについて調査会は、日銀の金融政策実施について裁量の余
地を認め、大蔵省の権限はその日銀の決定を延期できることにと
どめるとともに、物価安定維持を日銀政策の主要目標にすること
を勧告したのです。日銀にとっては、願ってもない内容であった
といえます。当然のことながら、銀行協会と経団連は、この勧告
に賛成したのです。
 しかし、ことはそう簡単にはいかなかったのです。大蔵省派は
日銀の意図を見抜き、この勧告に待ったをかけたのです。これに
ついては、リチャード・ヴェルナーの本から引用します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 元通産官僚のアライ・シンジや高度成長論者で大蔵省出身の下
 村治、それに戦時経済体制を評価してきた高橋亀吉ら経済評論
 家は、勧告に強硬に反対した。彼らは信用統制システムが戦時
 経済体制成功の核心で、同時にインフレなき高度成長の鍵でも
 あると見ていた。彼らに言わせればこれほど強力で重要なツー
 ルを政府以外の者の手に渡すわけにはいかなかった。政府は独
 自の課題を追求するかもしれない中央銀行に依存せずに、高度
 成長政策と金融安定政策を実行できなければならない、と彼ら
 は考えていた。千年前の中国の宋王朝の皇帝たちと同じく、彼
 らにとっても、通貨の創造と配分をコントロールできる政府だ
 けがほんとうの支配者であることは明白だった。
         ──リチャード・ヴェルナー著/吉田利子訳
  『円の支配者/誰が日本経済を崩壊させたのか』/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 この日銀の主張に反対するグループの働きかけが功を奏し、第
2次岸内閣で一万田蔵相は再任されず、佐藤栄作が蔵相に就任し
たのです。事実上の更迭です。司令塔を失った金融制度調査会は
結論を一つに絞れなくなり、次のようにA案とB案の両論併記に
なったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ≪A案≫
  ・金融政策に関する最終的な意思決定権は大蔵省に委ねる
 ≪B案≫
  ・日銀の独立は認めるが、蔵相は日銀の決定を延期できる
―――――――――――――――――――――――――――――
 蔵相に就任した佐藤蔵相は、両論併記では日銀法改正はできな
いとして、日銀法は改正しないことを決定したのです。一応大蔵
省派の勝利です。1960年4月のことです。
 佐藤蔵相の本当のハラは、大蔵省として何らかのかたちで、民
間部門の銀行融資の配分に影響力を行使したいと考えていたので
す。したがって、もし日銀に独立を与えてしまうとそれができな
くなると考えてそれに反対したのです。当時は大蔵省、日銀、銀
行出身者をメンバーとする金融機関資金審議会というものがあっ
て、大蔵省はそれに関わりを持つ仕組みがあったからです。
 しかし、これは大蔵省の誤算だったのです。なぜかというと、
1963年に日本のOECD加盟に向けた自由化政策の一環とし
て、金融緊急措置令が廃止されたからです。この措置令の廃止は
大蔵省が民間への融資配分システムへの関与ができなくなること
を意味していたのです。
 1968年には、金融機関資金審議会も廃止されると、大蔵省
は金融政策の技術的関与を日銀にまかせてしまい、その後は信用
の配分などについて、大蔵省はほとんど影響力を持たなくなって
しまったのです。
 日銀総裁と副総裁のたすきがけ人事は、1974年12月に大
蔵省出身の森永貞一郎総裁の就任からはじまったのですが、その
ときは、副総裁は日銀の前川春雄であり、営業局長は三重野康で
あったので、信用配分などの決定や窓口指導の実務は、総裁に相
談・報告することなく、自由にやることができたのです。
 このたすきがけ人事によって、日銀は総裁が未来の総裁を選ぶ
ことが容易にできるようになり、いわゆる一連の「日銀のプリン
ス」が生まれることになります。このようにして日銀は難敵の大
蔵省に勝利し、既にこの時期に日銀は、事実上の「円の王権」を
握りつつあったのです。    ──[新自由主義の正体/70]

≪画像および関連情報≫
 ●下村治とは何者か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  下村治という名は専門のエコノミストなら必ず知っている名
  前です。1960年岸内閣退陣の後を受けて成立した、池田
  内閣は積極的に日本経済の成長を促進する政策を打ち出しま
  す。この所得倍増政策に理論的な根拠を提示したエコノミス
  トが下村治です。1960年からの10年間、日本経済は年
  間成長率10%を連続して超え、欧米の水準にまで達し、こ
  の成長は世紀の奇蹟と言われました。1968年日本はGD
  P総額で西ドイツを抜き世界第2位の地位を獲得します。池
  田内閣の成長政策を、なんでも反対の野党の社会党はおろか
  専門の経済学者でさえ、歓迎して向かえたわけではありませ
  ん。下村は最低の成長率を9%、事実はそれ以上と予測しま
  したが、他の学者の想定はせいぜい7%というようなもので
  した。以下下村がよって立つ論拠と考え方を整理して提示し
  てみようと思います。下村は、設備投資が成長の基本変数、
  であると考えます。この考えは常識でしょう。そして彼が依
  拠するのはあくまで客観的な数字です。(注1)特に大切な
  数値は限界需給比率です。需給比率は、次のように定義され
  ます。「限界需給比率=GDPの増加/民間設備投資の純増
  額」です。若干説明しますと、輸入はその国の経済活動にほ
  ぼ比例します。景気がよくなり生活が楽に派手になると、贅
  沢もしたくなり、海外からの輸入は増えます。より多く消費
  するのですから、外国製品も欲しいし、内需増加は原材料の
  輸入を促進します。また民間の設備投資が貧弱では輸出はで
  きません。理論的には投資ゼロなら輸出もゼロのはずです。
  ですからこの定義は合理的です。  http://bit.ly/1yDJ1lx
  ―――――――――――――――――――――――――――

下村治氏.jpg
下村 治氏
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