2002年07月05日

中高年ほど知的プロフェッショナルになれる(EJ897号)

 多摩大学教授の田坂広志氏は、自著の中でいま世の中の人の多
くは次の誤解をしているといっています。田坂氏の著書からその
部分をご紹介しましょう。
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 これから「知識資本主義」の時代がやってくる。
 そして「知識社会」がやってくる。
 こうした時代や社会においては「知識」が資本になり、商品
 になり、価値になっていく。
 従って、これからの時代に活躍するためには、「知識」を身
 につけなければならない。
そして、そのためには書物で「専門的な知識」を学び、学校
 で「専門的な資格」を取らなければならない。
 (田坂広志著、『知的プロフェッショナルへの戦略』より。
講談社刊)
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 現在、社会や企業ではここに書かれている通りのことが起こっ
ています。企業に勤めるサラリーマンも資格によって昇進・昇給
が影響するようになり、アフターファイブに学校に通い、資格を
獲得しようとする人も少なくないといいます。
 田坂氏はこの考え方は間違っているというのです。確かに、知
識社会では、書物で修得した専門的な知識や学校などで取得した
専門的な資格を持っている人は「求められる人材」にはなれるで
しょうが、それだけでは知識社会で「活躍できる人材」にはなれ
ない――田坂氏はこういっているのです。
 そして、知識社会において「活躍できる人材」は、仕事で体得
した職業的な知恵や、職場で獲得した職業的な体験を身につけて
いると田坂氏は指摘しているのです。「職業的な知恵」――長い
間に仕事を通じて取得した言葉にあらわせない知識、つまり、デ
ィープ・ナレッジを持つ人こそ、知識社会において活躍できる知
的プロフェッショナルであるというのです。
 ここで留意すべきことがあります。それは、田坂氏のいう職業
的知恵は、仕事の経験の長い人ほど持っている可能性が高いとい
うことです。もちろん、単に仕事を長く続ければ、そういう職業
的知恵が身につくものではなく、真剣に仕事に取り組んだ人だけ
が体得するものです。しかし、いかに優秀でも仕事の経験の少な
い若い人は、知識社会において、なかなか知的プロフェッショナ
ルにはなけないと思うのです。
 EJ895号で「歳をとって勉強しないと早死にする」という
データをご紹介しましたが、逆にいえば、歳をとっていても、勉
強を続けている人は、知識社会においても十分に知的プロフェッ
ショナルになれるといえるわけです。
 政治家、大学教授、音楽家、作家などの中にはかなり高齢者が
多いですが、彼らが必ずしも健康的な生活をしているわけでもな
いのに、若い人に負けないくらい元気で活躍していますね。こう
いう様子を見ると、和田秀樹氏の指摘は正しいと思うのです。
 それに、もうひとつ最近の日本の若い人については、明らかに
学力――とくに数学力が低下しているのです。その決定的データ
をやはり和田氏の著書(和田秀樹著、『40歳から何をどう勉強
するか』、講談社刊)からご紹介しましょう。
 あなたは次の5問の問題が解けるでしょうか。
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 [問1]7/8−4/5=
 [問2]1/6+7/5=
 [問3]8/7−1/5−2/3=
 [問4]3×[5+(4−1)×2]−5×(6−4÷2)=
 [問5]2÷0.25=
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 これは、慶應義塾大学の戸瀬信之教授と京都大学の西村和雄教
授によって行われた実験で使われた計算問題です。計算の難易度
は、小学校レベルです。
 ところが、この問題を私立大学トップ校の人文系学部の1年生
の3分の1が間違えてしまうというのです。正解率を示しておき
ます。
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                全問(1〜5)正解率
   中国トップ校    哲学科       100%
   国立トップ校A  文科系類        90%
   国立トップ校B   文学部         83%
   私立トップ校C   文学部        70%
   私立トップ校D 人文系学部        66%
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 文系の学生とはいえお粗末な限りです。なお、母集団はいずれ
も100人――ちなみに、同じ問題を中国の大学の哲学科の学生
100人にやらせてみたところ全員が満点だったといいます。
 私立大学のトップ校――つまり、早慶レベルの大学ですらこの
有様ですから、それよりも下位レベルの学校ではもっと激しい学
力低下が起こっていることは明らかです。
 東京都の調査によると、中学2年生で、家に帰ってまったく勉
強をしない子どもの割合は、1992年には27%、1995年
には35%、1998年には43%と、年を追って悪化の傾向を
辿っているのです。
 それにもかかわらず、誠に愚かな話ですが、文部省はこの深刻
な状況を改善するどころか、ゆとり教育と称してさらに勉強機会
を減らそうとしており、この国の行く末が懸念されます。
 したがって、知識社会がくるからといって、中高年齢層のかつ
ての企業戦士は、勉強さえ怠らなければ、若い人に対して何ら引
け目を感ずることはないのです。彼らには長年にわたる職業的知
恵――ディープ・ナレッジがあり、PCでもインターネットでも
新しいことにひるまず取り組む意欲さえあれば、若い人をはるか
に凌ぐ力を持っているのです。これが、中高年齢層ほど知的プロ
フェッショナルになれると考えるゆえんです。

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2002年07月29日

明智光秀にはアリバイがある(EJ913号)

 このところ書店で『本能寺の変』の本をよく見かけます。これ
はどうやらNHK大河ドラマ「利家とまつ――加賀百万石物語」
がこの時期(7月7日)に「本能寺の変」を放送したことと関係
があるようです。また、7月24日には、NHKで「その時歴史
が動いた/なぞ解き・本能寺の変」が放送されています。
 そこでEJでは、このところ少し難しい話が続いているので、
頭休めに何回か「本能寺の変」を取り上げてみたいと思います。
 7月7日の大河ドラマの放送を見て、不思議に思ったことがあ
ります。それは、本能寺の境内で反町信長と萩原光秀が対決し、
光秀が謀反を起こした理由を信長に話すシーンです。フィクショ
ンとはいえ、こういうことが実際にあったとはとても思えないし
ドラマが薄っぺらになってしまうと感じました。
 それどころか、本能寺の変があった天正10年6月2日前後の
光秀の行動を分析してみると、光秀は6月2日の午前4時前後の
本能寺襲撃には参加していないことが明らかになるのです。現代
風にいえば「光秀にはアリバイがある」のです。これは、作家八
切止夫氏の主張ですが、それなりの説得力があります。
 世の中の人々――一般の人も歴史学者も「本能寺の変の犯人は
明智光秀」ときめつけています。確かに「本能寺の変」には謎が
多いのですが、「首謀者は明智光秀である」ことは誰もが認めて
しまっています。しかし、本当にそうなのでしょうか。
 一般的に流布されている本能寺の変を光秀の側から記述すると
こうなります。
 明智光秀は、天正10年(1582)6月1日の酉の刻(午後
6時)に、1万3000人の軍団を率いて亀山城を出発していま
す。軍団は4つに分かれています。
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       先 陣:明智弥平次、明智次右衛門
       第2陣:藤田伝五、溝尾勝兵衛
       第3陣:明智光秀
       後 陣:斉藤利三
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 各陣をまとめる諸将は光秀の胸中を知らされていたのですが、
それ以外の物頭たちには、軍団は中国筋に向かうのであるが、そ
の前に、上様(信長)が陣容、馬揃えを検分するということなの
で、夜道をかけて京まで行くといってあったのです。
 そして、桂川西岸に達したところで、全軍に命令が出されたの
です。兵士は戦闘用の草鞋に履きかえよ。鉄砲隊は火縄に火をつ
けよと。そして「敵は本能寺にあり」という命令が出たのです。
全軍は桂川を渡り切り、まっすぐ七条通りを東進して千本七条
に達し、そこを北に向かって本能寺に攻め込んだのです。本能寺
に到着した時間は、2日の午前4時前後といわれています。
 それから約2時間で本能寺は炎上し、続いて明智軍は本能寺か
ら約600メートルほど離れている二条御所にいた三位中将信忠
を攻め立て、かなり手こずったものの、辰の刻(午前8時)まで
にはこれを攻め落としているのです。このように、すべては午前
8時までに終わっていたのです。
 以上は現代人が誰でも知っている「本能寺の変」の顛末なので
すが、これは主として『川角太閤記』からとられています。歴史
というものは、基本的に権力者による権力者のための歴史なので
す。自分に都合の悪いことはもちろん隠すし、他人の日記でも平
気で書き替えてしまうものです。とくに光秀の死後に記述された
『信長公記』や『太閤記』の記述には多くのウソが入っているは
ずです。死人に口なしだからです。
 さて、6月2日当日のことですが、当の光秀は実に不可解な行
動をとっているのです。日本歴史学会の会長であり、とくに戦国
期の解明には、最高権威といわれる高柳光寿博士の『戦国戦記』
(春秋社刊)には、「6月2日、つまり、信長しい逆の当日、午
前9時から午後2時までしか、光秀は京都にあらわれていない」
と書いてあるのです。これが正しいとすると、光秀はすべてが終
わったあとに京都に現れ、5時間ほど京都にいて午後2時には京
都を離れていることになります。
 いやしくも謀反を企てて信長を殺すというのに、その首謀者で
ある光秀がその現場にいないというのは不自然です。やはり、自
分が直接指揮をとるのは当然のことです。万一、失敗したら重大
な結果を招くからです。
 6月1日前の光秀は次の行動をしたことになっています。
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 5月27日:愛宕山/愛宕権現礼拝 一泊
 5月28日:愛宕百韻/連歌師里村紹巴による連歌会 下山
 5月29日:玉薬・長持など荷物百荷を西国に向けて出荷
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 愛宕権現ではおみくじを3回引いたのですが、すべて凶か大凶
だったことは有名です。愛宕百韻で光秀は有名な発句「ときは今
あめが下知る五月哉」と読み、天下をとる決意表明だと思われて
います。5月29日の荷出しは偽装工作であるといわれています
が、しかし、これは高松に向けて出発するためには当然やらなけ
ればならない措置と素直にとることもできます。
 さて、ここで考慮しなければならないのは6月1日前後の天候
です。記録によると、27日は雨、28日は晴だったのですが、
29日は下末――すなわち、土砂降りの雨だったのです。その次
の日――このときの5月は29日までしかない――したがって、
次の日は6月1日ということになります。6月1日も朝から激し
い雨が降り、夕方まで続いていたのです。
 そうすると、光秀は本城である丹波亀山を午後6時頃出発した
といっても、『川角太閤記』に記述されているように、スムーズ
に進んでいないはずです。とくに当日の桂川は水かさが増えて、
とても軍馬が渡れる状況ではなかったのです。計算して見ると、
明智軍は6月2日の午前4時にはとうてい本能寺にはたどりつけ
ないのです。

913号.jpg
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2002年07月30日

信長殺しは3者の共同謀議?(EJ914号)

 桂川西岸から現在の亀岡(当時の亀山)まではハイキングコー
スになっているそうですが、この山道は当時人2人が並んでやっ
と通れる道幅であったようです。天正10年6月1日、朝から夕
方まで降り続いた雨でぬかるんだその山道を1万3000人の軍
勢が夜を徹して行進したのです。
 1万3000人が2列になって6500段。行列に物頭以下の
騎馬武者が200騎ないし300騎。さらに輸送担当の小荷駄隊
も100人前後で追随していたのですから、行列距離は最短でも
ゆうに8キロ(2里)は超えていたことと思われます。
 しかも、雨のあとの夜で足場は最悪。ほとんどノロノロ歩行と
いうことになります。こういう状態で野条から1里3町――42
00メートルで老ノ坂を上り切り、半里17町――3700メー
トルで下り、途中沓掛に着き、行列順に30分ずつ休憩をとった
として、午前1時過ぎに先陣隊がやっと桂川に到着するのです。
その時点で第2陣以降はまだ沓掛にすら達していないのです。
 しかし、問題は桂川です。桂川は2日連続の豪雨で300メー
トル以上の川幅になっていたのです。激流が白い牙を剥き、川瀬
は轟然と音をなしていたはずです。とはいえ、そこは軍隊――−
舟橋、浮橋などを使って続々と到着する第2陣、第3陣、後陣の
兵隊を東岸に渡したのです。しかし、全部が終了したときはおそ
らく午前4時を大きく過ぎていたはずです。
 それから陣替えをして本能寺目指して進軍するのにさらに1時
間程度は要したと考えられます。しかし、その頃は既に本能寺で
は火の手が上がっていたのですから、明智軍は本能寺襲撃に間に
合っていないのです。
 それでは、本能寺を襲撃した軍勢――それは明智軍をあらわす
桔梗の旗をかざして、本能寺に突入している――とは一体何者で
しょうか。
 本物の明智軍ではないのにこういう芸当がやれるとしたら、そ
れは、徳川家康の配下である服部半蔵が率いる忍びの集団か、秀
吉の場合は蜂須賀小六率いる野武士集団が考えられます。どちら
かがある意図を持って明智軍を偽って本能寺の信長を襲撃したと
します。そして口々に「明智殿ご謀反!」と叫んで周囲を走り回
る――そのようなことは彼らにとっては朝飯前の仕事です。
 そこで、こういう推理が成り立ちます。秀吉か家康のどちらか
が、信長を討つことを企て、光秀を犯人に仕立てるということを
考えたとします。そういうことを考えても不思議ではないたくさ
んの事情が秀吉にも家康にもあるのですが、それについてはあと
で述べることにします。
 仕掛けとして、中国路に出立しようとする明智軍に、信長の命
令として、「急遽軍団の馬揃えを検分するので、早朝までに京に
入れ」という偽命令を出しておきます。
 そして、明智軍が入京する前に明知軍の旗を立てた偽軍団が本
能寺を急襲します。そして、信長を討ち取ります。しかし、その
遺体はひそかに運び去ります。あとで光秀を不安にさせるために
有効だからです。忍者集団ならそのくらいのことは造作なくやる
でしょう。そこに、何も知らない本物の明智軍が本能寺にやって
くる――これで明智光秀は、確実に信長殺しの犯人にされてしま
うことでしょう。
 この場合、光秀はどうするでしょうか。彼ほどの人物であれば
これはどういい逃れをしても、犯人の汚名を着せられると悟るは
ずです。信長も殺されていることであるし、それなら、二条御所
にいる信忠も殺しておくに限るとして、二条御所は本物の明智軍
が攻め落とす――こういう展開になると思います。
 この推理は、明智光秀は最初から信長を討つ気がなかったとい
う前提に立っています。真犯人は秀吉か家康ですが、彼らには絶
対的なアリバイがあります。しかし、この2人は異常に早く「信
長死す」という情報を掴んでおり、その後の動きは実に俊敏その
ものです。明らかに信長が死ぬことを予測していたフシがあり、
非常に怪しいのです。
 しかし、光秀の行動を分析してみると、信長を討つ気が全くな
かったとはいい切れないのです。秀吉、家康、光秀はいずれも信
長を恐れていたからです。
 本能寺の変の2年前に、信長は織田家功業の重臣といっていい
佐久間信盛を石山城攻略の怠慢を責め、嫡男の信栄ともども遠国
追放の処置をとっています。信長の考え方としては、「身代をな
して無用になったものは殺す」という方針であり、秀吉、家康、
光秀はいずれも、自分もいずれは佐久間信盛のようになることを
非常に恐れていたのです。
 そこで出てくるのは、秀吉、家康、光秀の三者共謀による信長
抹殺説です。信長を討つところまでは三者共謀だったのですが、
あとは秀吉が一方的に家康と光秀を裏切り、いち早く光秀を討つ
ことによって、天下取りに優位を確保したとは、考えられないで
しょうか。
 動機を整理しておきましょう。
 まず、秀吉ですが、光秀に対するいじめやいびりは、本当は秀
吉に対してのものだったのではないかと思われます。信長として
は、家臣の中で一番不満をぶつけやすい男は秀吉だったと思われ
るからです。表面上は笑ってごまかしているが、その屈辱感は相
当のものだったのでしょう。それに秀吉としては、天下がなった
とき一番使い捨てにされるのは自分だと悟っていたようです。
 その点、家康ははっきりした動機があります。それは信長の命
令により、妻を斬り、息子の信康を自刃させざるを得なかったか
らです。そのため、家康犯人説は根強いのです。
 いちばん動機がないのは光秀です。のちの「太閤記」に書かれ
ていた事実と異なり、信長は光秀の力を買っており、光秀に対し
てはかなり厚遇していたからです。しかし、光秀はインテリであ
り、天皇を無視し、自らを神として拝ませる傲慢さにはとたも我
慢がならなかったと思われます。
 このように、3人とも信長を殺す動機はあるのです。

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2002年07月31日

三者謀議のフィクサーは一体誰か(EJ915号)

 長年『週刊ポスト』誌に井沢元彦氏が「逆説の日本史」を連載
しています。今週発売の『週刊ポスト』8月9日号は、ちょうど
「本能寺の変」を取り上げています。井沢氏の推理はあとで述べ
るとして、「本能寺の変」の秀吉・光秀・家康の三者謀議説につ
いてもう少し述べることにします。
 この三者謀議が仮にあるとした場合、誰がどのようなかたちで
それをまとめたかについて考えてみます。もちろん、本人たちが
会うわけにはいかないので、フィクサー的存在の人物がまとめた
ものと思われますが、それは一体誰だったでしようか。
 その仕掛人として考えられるのは安国寺恵瓊です。安国寺恵瓊
の願いはあくまで毛利家の安泰なのですが、後継者の輝元の器量
が今ひとつであり、それを考えると毛利家にとって織田信長は、
もっとも危険な存在なのです。その点、秀吉、光秀、家康はいず
れも苦労人であり、誰が天下をとっても外交政策で毛利家の安泰
は確保されると読んでいたのです。
 安国寺恵瓊はいわば毛利家の外交官ですが、一方で京都東福寺
の高僧でもあり、京都に滞在することが多かったのです。毛利家
代表として秀吉との接触も多く、信頼関係も生じていたし、光秀
との交流もあったのです。
 それでは、フィクサー役は安国寺恵瓊であるとして、秀吉、光
秀、家康の3人の外交官は誰だったのでしょうか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      豊臣秀吉 ・・・・・ 黒田官兵衛
      明智光秀 ・・・・・ 斉藤 利三
      徳川家康 ・・・・・ 本多 正信
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 安国寺恵瓊の三者への説得のポイントは、信長の危険さを訴え
て恐怖感を煽り、織田家譜代の大名である柴田、丹羽、滝川は別
として、信忠の代になると、秀吉、光秀、家康は織田家にとって
危険な存在になると説いたのです。
 しかし、その程度のことで3人が話に乗ってくることは考えら
れないと思います。歴史研究家の大浦章郎氏によると、安国寺恵
瓊は、信長亡きあとの処置を含めた具体的な提案をして3者を納
得させたといっているのです。
 その提案とは、朝廷に関しては現在の象徴天皇制をとり、その
下に天下人は、ちょうど大統領のようなかたちで実質的な権限を
握るという案です。天下人には一定の任期を決めて、年齢順に、
光秀、秀吉、家康の順でどうかというものです。勢力圏としては
中央の京都は光秀、姫路以西は秀吉、駿河以東は家康ということ
ではなかったでしょうか。
 この場合、実行犯となる光秀の背後には、闇の商人といわれる
堺−納屋衆がおり、光秀に情報を提供し、支援したと考えられま
す。堺−納屋衆にとっても、信長はきわめて危険な存在であり、
消えてもらうことは大きなメリットがあったといえます。そこで
堺−納屋衆は、光秀の企てには情報提供など、いろいろ支援をし
たのです。その中心人物は、千利休その人なのです。
 千利休は、信長の信頼が厚く、茶の湯の師匠的存在としてつね
に信長の身近にいたのです。そのため、信長の行動予定や軍勢の
準備態勢などについても情報を掴んでいたと考えられます。
 「本能寺の変」は、6月1日に信長が100人ほどの手勢で、
ほとんど無防備に近い本能寺に宿泊するという行動がなければ起
こり得なかったといえます。信長は、6月3日には大軍を率いて
四国征伐に向かう予定になっていたからです。したがって、6月
2日に信長が京入りしていたら、明智軍はどうすることもできな
かったと考えられるからです。
 なぜ、信長は5月29日に安土を出てわずかな手勢で本能寺に
泊まったかというと、6月1日に茶会を予定していたからです。
そして、その茶会の日を決めるのに影響力を持っていたのは、千
利休だったのです。利休は本能寺の茶会の席で博多の豪商の鳥井
宗室を信長に引き合わせているのです。
 その宗室は5月頃から京都に滞在していたのに、1日に信長に
会うと、次の日には京都を出立し、博多に帰っているのです。一
説によると、宗室は「楢柴」という茶入れの名品を持っており、
信長はそれを見ることを楽しみにしていたというのです。
 いずれにせよ、信長が5月29日には本能寺に入り、1日に茶
会を開き、その日は本能寺に泊まっているのですが、そんな重要
な情報がどのようにして光秀に伝わったのかというと、堺−納屋
衆が光秀に情報を流していたものと考えられます。とくに29日
は愛宕百韻が開かれており、その主催者の連歌師里村紹巴は利休
や堺衆とごく近い間柄だったのです。光秀に情報が流れるルート
は間違いなくあったのです。
 さて、冒頭の井沢元彦氏の推理ですが、信長が亡くなって一番
トクしたのは、四国王となりつつあった長曾我部元親であると指
摘しているのです。元親と信長の関係は、かつてはよかったので
すが、元親が四国統一を進めるにつれて信長が一方的に考え方を
変えたのです。
 天下統一を目指す信長にとって、あまりに巨大な勢力は潰して
おくに限るのです。そこで、一転して6月3日に四国征伐に出発
する予定だったのです。予定通りに出発していたら、長曾我部家
は間違いなく滅亡していたはずです。
 実は、信長政権において対長曾我部外交を担当していたのは光
秀であり、光秀はそのために重臣斉藤利三の妹を元親に嫁がせて
いたのです。その間に生まれたのが信親です。
 したがって、信長の心変わりは、自分の顔を潰されたばかりで
はなく、斉藤利三の妹とその子である信親も殺されることになる
――そんなことはさせられないと、光秀は斉藤利三と相談をして
決起したのではないかと、井沢氏は推理しているのです。
 ケネディ大統領が暗殺されたとき、犯人としてオズワルドが直
ちに逮捕されましたが、そのオズワルドは連行中に今度はルビー
という男に射殺されています。本能寺の変も国のトップの暗殺事
件ですが、何かふんい気が似ていると思います。

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三者謀議のフィクサーは一体誰か(EJ915号)

 長年『週刊ポスト』誌に井沢元彦氏が「逆説の日本史」を連載
しています。今週発売の『週刊ポスト』8月9日号は、ちょうど
「本能寺の変」を取り上げています。井沢氏の推理はあとで述べ
るとして、「本能寺の変」の秀吉・光秀・家康の三者謀議説につ
いてもう少し述べることにします。
 この三者謀議が仮にあるとした場合、誰がどのようなかたちで
それをまとめたかについて考えてみます。もちろん、本人たちが
会うわけにはいかないので、フィクサー的存在の人物がまとめた
ものと思われますが、それは一体誰だったでしようか。
 その仕掛人として考えられるのは安国寺恵瓊です。安国寺恵瓊
の願いはあくまで毛利家の安泰なのですが、後継者の輝元の器量
が今ひとつであり、それを考えると毛利家にとって織田信長は、
もっとも危険な存在なのです。その点、秀吉、光秀、家康はいず
れも苦労人であり、誰が天下をとっても外交政策で毛利家の安泰
は確保されると読んでいたのです。
 安国寺恵瓊はいわば毛利家の外交官ですが、一方で京都東福寺
の高僧でもあり、京都に滞在することが多かったのです。毛利家
代表として秀吉との接触も多く、信頼関係も生じていたし、光秀
との交流もあったのです。
 それでは、フィクサー役は安国寺恵瓊であるとして、秀吉、光
秀、家康の3人の外交官は誰だったのでしょうか。
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      豊臣秀吉 ・・・・・ 黒田官兵衛
      明智光秀 ・・・・・ 斉藤 利三
      徳川家康 ・・・・・ 本多 正信
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 安国寺恵瓊の三者への説得のポイントは、信長の危険さを訴え
て恐怖感を煽り、織田家譜代の大名である柴田、丹羽、滝川は別
として、信忠の代になると、秀吉、光秀、家康は織田家にとって
危険な存在になると説いたのです。
 しかし、その程度のことで3人が話に乗ってくることは考えら
れないと思います。歴史研究家の大浦章郎氏によると、安国寺恵
瓊は、信長亡きあとの処置を含めた具体的な提案をして3者を納
得させたといっているのです。
 その提案とは、朝廷に関しては現在の象徴天皇制をとり、その
下に天下人は、ちょうど大統領のようなかたちで実質的な権限を
握るという案です。天下人には一定の任期を決めて、年齢順に、
光秀、秀吉、家康の順でどうかというものです。勢力圏としては
中央の京都は光秀、姫路以西は秀吉、駿河以東は家康ということ
ではなかったでしょうか。
 この場合、実行犯となる光秀の背後には、闇の商人といわれる
堺−納屋衆がおり、光秀に情報を提供し、支援したと考えられま
す。堺−納屋衆にとっても、信長はきわめて危険な存在であり、
消えてもらうことは大きなメリットがあったといえます。そこで
堺−納屋衆は、光秀の企てには情報提供など、いろいろ支援をし
たのです。その中心人物は、千利休その人なのです。
 千利休は、信長の信頼が厚く、茶の湯の師匠的存在としてつね
に信長の身近にいたのです。そのため、信長の行動予定や軍勢の
準備態勢などについても情報を掴んでいたと考えられます。
 「本能寺の変」は、6月1日に信長が100人ほどの手勢で、
ほとんど無防備に近い本能寺に宿泊するという行動がなければ起
こり得なかったといえます。信長は、6月3日には大軍を率いて
四国征伐に向かう予定になっていたからです。したがって、6月
2日に信長が京入りしていたら、明智軍はどうすることもできな
かったと考えられるからです。
 なぜ、信長は5月29日に安土を出てわずかな手勢で本能寺に
泊まったかというと、6月1日に茶会を予定していたからです。
そして、その茶会の日を決めるのに影響力を持っていたのは、千
利休だったのです。利休は本能寺の茶会の席で博多の豪商の鳥井
宗室を信長に引き合わせているのです。
 その宗室は5月頃から京都に滞在していたのに、1日に信長に
会うと、次の日には京都を出立し、博多に帰っているのです。一
説によると、宗室は「楢柴」という茶入れの名品を持っており、
信長はそれを見ることを楽しみにしていたというのです。
 いずれにせよ、信長が5月29日には本能寺に入り、1日に茶
会を開き、その日は本能寺に泊まっているのですが、そんな重要
な情報がどのようにして光秀に伝わったのかというと、堺−納屋
衆が光秀に情報を流していたものと考えられます。とくに29日
は愛宕百韻が開かれており、その主催者の連歌師里村紹巴は利休
や堺衆とごく近い間柄だったのです。光秀に情報が流れるルート
は間違いなくあったのです。
 さて、冒頭の井沢元彦氏の推理ですが、信長が亡くなって一番
トクしたのは、四国王となりつつあった長曾我部元親であると指
摘しているのです。元親と信長の関係は、かつてはよかったので
すが、元親が四国統一を進めるにつれて信長が一方的に考え方を
変えたのです。
 天下統一を目指す信長にとって、あまりに巨大な勢力は潰して
おくに限るのです。そこで、一転して6月3日に四国征伐に出発
する予定だったのです。予定通りに出発していたら、長曾我部家
は間違いなく滅亡していたはずです。
 実は、信長政権において対長曾我部外交を担当していたのは光
秀であり、光秀はそのために重臣斉藤利三の妹を元親に嫁がせて
いたのです。その間に生まれたのが信親です。
 したがって、信長の心変わりは、自分の顔を潰されたばかりで
はなく、斉藤利三の妹とその子である信親も殺されることになる
――そんなことはさせられないと、光秀は斉藤利三と相談をして
決起したのではないかと、井沢氏は推理しているのです。
 ケネディ大統領が暗殺されたとき、犯人としてオズワルドが直
ちに逮捕されましたが、そのオズワルドは連行中に今度はルビー
という男に射殺されています。本能寺の変も国のトップの暗殺事
件ですが、何かふんい気が似ていると思います。

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2002年08月01日

朝廷の手足として動いた兼見と前久(EJ916号)

 光秀・秀吉・家康の三者共謀説で説得力がないのは、天正10
年6月2日の時点で、家康が、信長とともにもっとも危険な立場
に置かれていたという点です。いや、信長よりも家康の方が危険
な立場にいたといえます。というのは、6月1日〜2日にかけて
家康は、裸同然のわずかな護衛を連れて堺にいたからです。
 もし、家康が、信長が討たれることを事前に知っていたならば
そんな危ないことはやらないであろうというところから、家康シ
ロ説が出ているのです。もっともこの説には異論があるのですが
これについてはあとで述べます。
 光秀はむしろ三者共謀というよりも、朝廷側と組んでいたとい
う説があるのです。というのは、光秀は正真正銘の勤皇主義者で
あり、信長の、朝廷から皇位を取り上げようとする野望が明らか
になったことに反発して、それを阻止するために相当周到な計画
の下に決起した――そう考えられるからです。
 光秀は天正7年7月に丹波を平定したのですが、そのとき朝廷
の御料所であった山国荘を朝廷に返しています。朝廷はこれを大
いに喜んで、勅使を下向させ、賞詞と下賜品を光秀に与えている
のです。これは、官位のない陪臣に対する措置としては異例のこ
とだったのです。
 光秀のこの考え方のバックボーンは「天下はすべて天皇の土地
である」ということにあります。しかし、信長は天下(自分のこ
と)を朝廷の上に置いていたのです。実は、本能寺の変が起きる
1年ほど前から、信長と光秀はこの考え方をめぐって深刻な対立
を繰り返していたのです。
 信長は自らの意のままになる第二朝廷を作ろうとし、ときの正
親町(おおぎまち)天皇に譲位を迫ったのです。譲位は二度行わ
れましたが、天皇はいずれも拒否しています。しかし、朝廷の危
機感は相当大きいものだったと考えられます。
 天正10年が明けると、信長は自ら生きた神体となる自己神格
化を宣言しますが、これは明らかに皇位簒奪計画と連動する政治
的行為といえます。5月になると、朝廷はその時点ですべての官
位から離脱していた信長に対して、「朝廷の三職(さんしき)推
任」を要請します。関白・太政大臣・征夷大将軍のいずれかへの
就任要請です。就任させることによって、朝廷の秩序につなぎと
めようとしたわけです。しかし、信長はあざ笑うようにそれを拒
否します。
 それに加えて、信長は毛利征伐の号令を発するのです。毛利家
は元就以来の勤皇の大名であり、ときの正親町天皇が即位できた
のも毛利家の献金があったからですし、天皇が信長の譲位要求を
つっぱねられたのも毛利家が後ろ楯だったからなのです。信長は
その天皇家の後ろ楯である毛利家を討とうと宣言しているのです
から、まさにのど元に匕首をつきつけたに等しいのです。
 「信長を何とかしなければ朝廷が危ない」と考えた正親町天皇
は、皇太子の誠仁(きねひと)親王を中心に信長暗殺の裏工作を
はじめるのです。そのとき朝廷に一番近いところにいた信長側の
武将は光秀だったというわけです。この工作で誠仁親王と光秀と
の間に立って動いたのが次の2人です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   吉田兼和(のちに兼見) ・・・ 従三位・神祇大副
   近衛前久 ・・・・・・・・・・ 前関白・太政大臣
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 兼和(以下、兼見)は、吉田神道の総帥であり、神官の頂点に
立っていた人です。この兼和の役割は、朝廷内の「反信長神聖同
盟」と光秀を結びつけるオルガナイザーとして機能することでは
なかったかと思われます。この人は本能寺の変の前後に非常に怪
しい動きをしているのです。
 近衛前久は、「反信長神聖同盟」の盟主的存在であり、本能寺
の変では重要な役割を果たしているのです。近衛家というのは、
藤原北家の流れを汲んだ五摂家――近衛、鷹司、九条、二条、一
条家――の筆頭という家柄であり、前久は19歳のときに既に関
白の職についているのです。
 近衛前久という人は、公家でありながら自ら軍勢を率いたりす
る異色の人として有名です。どちらかというと、信長のためにい
ろいろ尽くした人なのです。石山本願寺との和睦のときも、前久
自身が軍勢を率いて、現代風にいうとPKO部隊のような形で一
向一揆が退却するのに立ち合うなどしていますし、薩摩に下って
島津家との外交交渉をやるなど、表面的には、信長の手足として
働いているのです。ところが、本能寺の変の前後では、兼見と同
様に非常に怪しい動きをしているのです。
 吉田兼見の怪しい行動とは、明智軍が本能寺の信長と二条御所
の信忠を討ち果たしたあと、光秀は大津に向かうのですが、その
途中で吉田兼見と何やら密談していること。そして、6月6日に
安土城にいた光秀に兼見は勅使として下向しており、誠仁親王が
朝廷をくれぐれもよろしくと伝えた事実。光秀はこのとき親王に
銀500枚を献上していることなど、たくさんあります。
 本能寺の変の前には、兼見は信長にべったりで、年中京都奉行
であった村井貞勝のところに出入りしており、信長貞勝を通じて
出した要求にいろいろと便宜を取り計らったりしていたのです。
その一方で光秀とも懇意でよく会っています。
 天正10年5月3日に兼見は、親王の信長への推挙によって位
が上がっているのですが、6月1日に信長が本能寺にきたのにも
かかわらず、表敬の挨拶に行っていないのです。
 近衛前久にも怪しい行動はたくさんあります。そのさいたるも
のは、変が終わった6月7日に誠仁親王の居所で「信長打倒計画
成功」の祝宴に嫡子の信基と一緒に参加していることです。
 それに、前久は、二条御所に隣接して居宅を信長から与えられ
ていたのですが、6月2日に宿舎の妙覚寺から二条御所に立てこ
もった信忠が明智軍に包囲されたとき、明智軍は前久の屋形の屋
根を利用して鉄砲や弓矢を射掛けて火を放っているのです。
 そして、変のあと兼見は秀吉に、前久は家康のところに身を預
けているのです。やはり、この二人とつながっているのです。

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2002年08月02日

仕組まれていた家康の伊賀越え(EJ917号)

 光秀、秀吉、家康が直接的に共謀して信長を討ったのではない
にせよ、光秀の信長暗殺の情報を秀吉と家康は事前に知っていた
ことは間違いないと思います。
 光秀がある日突然に思いついて本能寺を襲ったのではなく、昨
日のEJで述べたように、朝廷の内部の暗殺プロジェクトにより
コトが動いたとすれば、つね日頃から情報収集の重要性を熟知し
ている秀吉と家康の耳に入らないはずがないからです。
 本能寺の変が起こった天正10年6月2日――秀吉は備中高松
城(岡山)を攻めていたし、家康は30人ほどの家臣と一緒に京
見物の途中で泉州・堺(大阪府南部)にいた――これは、信長暗
殺に関しては絶対的なアリバイであるといえます。
 しかし、彼らは信じられないほど素早く情報を入手すると、秀
吉は電光石火、毛利と和睦を結んで姫路に「大返し」をし、家康
は選り抜きの家臣にガードされて、伊賀超えをして岡崎に戻って
いるのです。これらはいずれも、かなり用意された行動であり、
とっさの判断でやれることではないのです。そこには、大きな疑
惑があります。
 家康のケースから考えてみることにします。
 天正10年3月のこと、武田氏が滅亡したことにより、家康は
駿河(静岡県)一国を恩賞として与えられます。この恩賞のお礼
を申し述べるために、家康は武田遺臣の穴山梅雪と一緒に安土城
を訪れたのです。天正10年5月15日のことです。こういう目
的の旅行ですから、あまり大軍を引き連れてくるわけにはいかず
ごく少人数の護衛しか連れてこれなかったわけです。
 安土には6日間滞在し、21日に信長に京都遊覧をすすめられ
京都に入るのです。29日には堺まで足を伸ばし、6月1日まで
松井友閑や今井宗久などによって茶の湯の接待を受けます。
 ところが、それまで悠然と旅を楽しんでいた家康は、6月2日
朝、ひそかに重臣本多忠勝を京に向けて先に出発させたあと、帰
国に先立ち、もう一度信長に会うため京に行くといって急いで堺
を出発してしまいます。
 本多忠勝は、途中で徳川家御用達を務める京都の豪商茶屋四郎
次郎が馬を走らせてくるのに出会い、信長敗死を知って堺に引き
返します。途中で家康一行と出会った本多忠勝と茶屋四郎次郎は
同行の服部半蔵と相談のうえ、伊賀越えをして岡崎に戻るコース
を選択してこれを見事に成し遂げるのです。
 後年家康は、この伊賀越えは「九死に一生の危険な逃避行」と
いっているのですが、これにはウソがあります。ひとつには、本
多忠勝が家康と一緒にいることです。本多は徳川家の軍事を担当
する指揮官であり、本来であれば、動乱の余韻覚めやらぬ甲斐に
にらみを効かせるためには不可欠な人物です。
 他に人がいないわけではなく、本多忠勝をあえて物見遊山の旅
に連れてきたのは、この旅が非常に危険であることがあらかじめ
家康には分かっていたからです。
 それに、服部半蔵も物見遊山の旅にはふさわしくない人物であ
るといえます。服部半蔵といえば、伊賀で圧倒的な勢力を持つ忍
びの衆であり、伊賀越えをする場合、彼ほどの適任者はいないは
ずです。なぜ、服部半蔵が同行していたのでしょうか。最初から
そういう事態が起こることを予測していたのでしょうか。
 徳川家は家康の祖父松平清康の代から伊賀忍者と縁が深かった
のです。まして、天正9年には信長による伊賀攻めで多くの忍者
が殺戮されており、徳川家に投じる伊賀忍者は増えていたといい
ます。つまり、服部半蔵についても信長は家康とともに家族殺し
の仇敵であり、「信長憎し」の感情に固まっていたのです。
 甲賀忍者についても、元亀元年には信長の甲賀攻めを家康が中
止させたといういきさつから、甲賀忍者は徳川家に親和的である
といわれているのです。
 こういう事情から伊賀越えの途中、半蔵の呼びかけに応じて、
たちまち三百余人の伊賀・甲賀忍者が馳せ参じて家康の護衛に当
たったといわれます。何のことはない――伊賀越えは家康にとっ
て、最も安全性の高い避難路だったのです。つまり、少人数でも
大丈夫な備えをしていたのです。ついでに述べておくと、この服
部半蔵の遠祖は実は渡来系氏族であり、具体的にはあの秦氏なの
ですが、ここではあえて詳しくは述べないことにします。
 なお、家康と同道していた武田の遺臣穴山梅雪は、家康より少
し遅れて同じルートをたどり、宇治田原に向かったのですが、途
中一揆に襲われて殺害されています。もっともこれは表の話であ
り、梅雪の挙動に不審なものを感じた家康が、半蔵に命じて殺さ
せたというのが正しいようです。
 さて、家康は、岡崎に戻ると、直ちに陣触れを領内に回し、光
秀討伐軍を組織するのですが、それに10日を要し、6月19日
にやっと出発して尾張(愛知県)の鳴海まで進出します。そこで
秀吉が6月13日に光秀を討ち滅ぼしてしまったということを聞
くのです。情報に強い家康といえども、秀吉の「大返し」は予測
できなかったことになります。
 家康は直ちに撤兵し、本城の浜松城に戻るや甲斐(山梨県)と
信濃(長野県)両国を自己の支配下に組み込むことに着手するの
です。この両国平定は天正11年中に完了し、甲斐一国と信濃の
南半分を領国化し、5ヶ国の太守になることに成功します。
 しかし、家康がそうしている間に、秀吉は手際よく主家を盗み
取って、30ヶ国の大大名になり、朝廷権威を巧みに利用して、
豊臣体制という中央集権機構を作り上げてしまったのです。これ
は、明らかに家康の敗北といえます。
 天正12年になって、信長の次男である信雄(のぶかつ)が秀
吉と事を構え、家康を頼ってきたのを受けて、家康は挙兵して秀
吉に立ち向かいます。この小牧・長久手の戦いにおいて、家康は
総力戦では秀吉に及ばないことを悟ることになるのです。
 光秀によって信長が暗殺されることを家康とともに知っていた
秀吉が、その直後に見せた「大返し」にはどのようなカラクリが
あったのでしょうか。来週はその秘密に迫ります。

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2002年08月05日

秀吉の大返し/1日80キロの謎(EJ918号)

 本能寺で信長父子が光秀に暗殺されたという情報が岡山にいた
秀吉に届けられたのは、諸説はあるものの、天正10年6月3日
の「それほど遅い時間ではない夜」と考えてよいと思います。
 その夜秀吉はかねてから親交のあった安国寺恵瓊をに呼び出し
飲める条件を示して毛利側との和睦の交渉を依頼します。この時
点で「信長死す」という情報は、毛利側にはまだ届いていなかっ
たはずです。事前に和睦の下交渉は行われていたのです。
 とはいうものの、清水宗治が治める高松城は、5月8日から水
攻めにあって落城寸前であり、まして信長が大軍を率いてやって
くる直前でもあるのに和睦を結ぶ状況ではなかったのです。安国
寺恵瓊は、すべてを知ったうえで秀吉の意中を汲み取り、和睦交
渉をやったのです。秀吉と安国寺恵瓊はつながっていたと考える
べきです。
 毛利との和睦が成立し、秀吉が岡山を離れたのは、6日の未の
刻(午後3時)です。秀吉としては和睦は成立したものの、信長
の死を知った毛利がどう出るか慎重に様子をみていたのです。そ
して毛利軍に動きがないことを知ると、秀吉は驚異的なスピード
で上方に引き返します。
 これは後世「秀吉の大返し」として話題になるのですが、どの
くらいのスピードで引き返したのでしょうか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ●6日午後3時「高松城」を出発
  同日6日夜「沼城」に到着 ・・・・・・ 約26キロ
 ●7日早朝「沼城」を出発
  7日夜「姫路城」に到着 ・・・・・・・ 約80キロ
 ●9日早朝「姫路城」を出発
  11日午前8時「尼崎」に到着 ・・・・ 約80キロ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 問題は距離です。本によってそれぞれ違うのですが、高松城か
ら姫路までは27里――約106キロあるといわれています。秀
吉は、高松城を6日の午後3時頃出発し、その日のうちに沼城に
入り、そこで一泊します。そこまでは、普通のスピードです。し
かし、7日の早朝に沼城を出発した秀吉軍はその日のうちに姫路
城に入っているのです。
 しかも、7日は朝から暴風雨であり、数ヶ所の大河、洪水を乗
り切って姫路城に到着したのです。その日の行程は約80キロと
いいますから、信じられないスピードといえます。
 このときの秀吉の軍勢は約2万5千人――これほどの大部隊に
なると、あまり早くは移動できないのです。強行軍を得意として
いた旧日本陸軍については次のデータがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  大部隊  ・・・・・・・・ 一昼夜20〜24キロ
  騎馬大隊 ・・・・・・・・ 一昼夜40〜60キロ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 つまり、旧陸軍でさえ3日かかる距離を秀吉軍はたった1日で
踏破してしまっているのです。こんなことはとても信じられない
ことです。おそらく秀吉を中心に、数人の供回りの者が先行して
ひたすら姫路に向かったのでしょう。それにしても凄いスピード
ですが、秀吉としてはここ一番とばかり踏ん張ったのです。
 しかし、重い具足を身につけた兵隊たちは当然遅れてしまいま
す。それらの兵隊は後から三々五々姫路にやってきています。中
には、13日の山崎の戦いに間に合わなかった兵隊も少なくない
といわれています。
 兵隊が到着するのを待つということもあり、秀吉は次の8日一
日は姫路城で過ごします。そして、姫路城に蓄えてある金銀や兵
糧米をすべての家臣たちに分配してしまうのです。もちろん籠城
の意思はなく、姫路にはもう戻らないという意思表示です。
 秀吉軍が姫路城を出発したのは9日の早朝です。秀吉としては
もう少し姫路城で人馬を休ませるつもりでいたのですが、8日の
酉の刻(午後4時)にある緊急情報がもたらされたので、予定を
前倒しして姫路城を出発したのです。その情報とは、大坂にいる
信長の遺児/信孝を光秀が襲って、切腹を迫っているというニセ
情報です。
 しかし、姫路から尼崎までの秀吉軍の行程は、もちろん通常よ
りは早いものの、1日40キロのペースで軍勢を整えながらの進
軍となるのです。9日夜には明石到着。10日の午後には兵庫。
そして11日の午前8時に尼崎に到着しています。ここまでの間
に多くの兵は追いつき、軍勢はほぼ整ってきていたのです。
 世にいう「秀吉の大返し」は、事前に周到な計画が立てられて
います。1日で80キロという凄いスピードとはいうものの、そ
れは秀吉と数人の供回りの者たちが踏破したスピードであり、秀
吉軍全体がそのスピードで動いたわけではないのです。しかし、
秀吉は姫路城に少し長く滞在することによって、ちゃんと時間を
調整して軍隊が追いつくのを待っているのです。
 しかし、いかにも全軍が姫路に結集したようにウワサをばらま
いています。これで、光秀をはじめとする各武将は秀吉軍が怒涛
のように尼崎めがけて進軍してくると錯覚するわけです。
 それだけではないのです。秀吉は畿内と近畿にいる味方と考え
ている諸将――これについてはあとで述べる――に対して書状を
送り、秀吉軍とともに光秀征伐戦に参戦するよう呼びかけ、かれ
らの参着を待っていたのです。光秀討伐軍は少しでも多い方がよ
いからです。
 秀吉が、事前に信長が暗殺されることを知っていたのではない
かと疑われている理由としては、高松城からのいわゆる大返しに
あるのではなく、畿内や近畿にいる諸大名に対して事前に何らか
の工作をしていたのではないかという点にあります。
 そういう工作があればこそ、本来なら光秀につくはずの諸将が
ことごとく秀吉軍についてしまったのです。秀吉はこれを計算に
入れて、ひたすら高松城から尼崎へと派手な演出を試みながら進
軍してきたのです。

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2002年08月06日

信長暗殺/細川藤孝フィクサー説もある(EJ919号)

 天正10年6月2日に信長父子の暗殺に成功した明智光秀――
不思議なことにその直後の光秀は非常に時間を無駄に使っている
ように思います。
 近江坂本や安土、山崎北方の勝龍寺城、天王山、淀城などを右
往左往しただけで、天下取りのために何ら有効な手を打っていな
いのです。つまり、クーデター成功後に何をどうするかというビ
ジョンが何もないのです。
 これに対して秀吉は、まるでそれを予測していたかのように、
きびきびと的確に行動しています。そういうところから、実行犯
は光秀であることは動かないとしても、秀吉仕掛け人説が根強く
あるのです。
 光秀の誤算といえば、もともと光秀の組下大名であった次の大
名がすべて光秀に味方しなかったことです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     丹後衆 ・・・ 細川藤孝 倅 忠興
     大和衆 ・・・ 筒井順慶
     摂津衆 ・・・ 高山重友 中川清秀
     兵庫衆 ・・・ 池田恒興 倅 元助
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これらの大名のうち、細川藤孝は山崎の戦いに参加していない
ものの、他の大名はすべて秀吉に味方しているのです。これにつ
いて、やれ光秀の人間性に問題があるとか、面倒見が悪いとか、
ケチであるとかいろいろいわれていますが、光秀はけっしてその
ような人物ではないのです。これは明らかに裏切りです。
 とくに不可解なのは細川藤孝/忠興父子です。なぜなら、細川
家と明智家は強いつながりがあるからです。織田信長に将軍足利
義昭を引き合わせたのは光秀なのですが、そのとき足利将軍家の
重臣だった細川藤孝も信長に紹介し、仕えるようになったからで
す。そして、その後藤孝の息子忠興は、信長の命により、光秀の
娘玉を正室に迎えているのです。この玉が、有名な「細川ガラシ
ャ」なのです。
 しかも、藤孝は里村紹巴の主宰する連歌会のメンバーでもあり
光秀の企てを知っていたはずです。それに運命の5月28日の愛
宕百韻にも藤孝は出席する予定だったのに急遽欠席しています。
これだけの関係ですから、光秀としては当然味方してくれると信
じていたと思います。
 しかし、細川父子は本能寺の変を知ると、髻を切って信長に弔
意を示し、藤孝は家督を忠興に譲って細川幽斉と名乗ります。忠
興は、正室玉を離別し、光秀に使者を送って義絶を通告している
のです。光秀としては、手の平を返したような細川父子の態度に
がくぜんとしたことでしょう。
 それどころか、光秀はこの細川藤孝に信長暗殺をそそのかされ
たという説があるのです。これについて『信長権力と朝廷』(岩
田書院刊)の著者であり、歴史学者の立花京子氏は、作家/安部
龍太郎氏との対談で次のようにいっているのでご紹介します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 安部:そうすると、やはり藤孝がフィクサーとして動いたん
    じゃないか、と。
 立花:そうなんです。それに、秀吉の大返しにしても、あれ
    は素早すぎると皆さんおっしゃいますね。だから、秀
    吉もある程度知っていたのではないか。本願寺から知
    らされたとか、藤孝が知らせたんじゃないか、ともい
    われていますが、ひょっとすると、これはまだまった
    く私の推測ですけど、光秀は、秀吉も一緒にやるから
    というようなことを言われていたのではないでしょう
    か。(『真説/本能寺の変』より。集英社刊)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この立花氏の説は改めて取り上げますが、その説では信長暗殺
の意外な黒幕の存在を示唆しています。
 さて、池田恒興は伊丹城、高山重友は高槻城、中川清秀は茨木
城のそれぞれの城主ですが、この中では一番大身である池田恒興
が軍事的統率者になります。その池田恒興は秀吉寄りであるとい
うこともあり、そのため、秀吉は大返しの途中、恒興や清秀に手
紙を書き、参戦を呼びかけています。NHK大河ドラマ「利家と
まつ――加賀百万石物語」でも、池田恒興の秀吉へのベッタリぶ
りがよく描かれています。
 筒井順慶については「洞ヶ峠」(ほらがとうげ)という有名な
ことばが残っています。筒井順慶は光秀に大恩があるにもかかわ
らず、光秀からの要請に答えなかったのです。実際はどうしたら
いいかわからなかったのです。業を煮やした光秀は洞ヶ峠(京都
府八幡市)まで出陣し圧力をかけたのですが、筒井順慶は動かず
このとこから「洞ヶ峠」は「日和見」の代名詞となったのです。
 これらの池田、細川、高山、中川、筒井の諸将は、もともと信
長の命により、光秀とともに中国の秀吉支援に赴く準備をしてい
たので、光秀にも秀吉にも参戦できる状況にあったのです。秀吉
としては、ぬかりなくすべてに手紙を送りけん制したのです。
 秀吉は大返しの途中、中川清秀に、次のような手紙を送ってい
ます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 いま京都から届いた確かな情報によれば、上様ならびに殿様
 (信忠)は、光秀の襲撃を切り抜けて近江膳所ヶ崎に逃れ、
 ご無事だとのこと。まずもって、めでたいことである。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 もちろん、ウソの情報です。しかし、情報が混乱しているあの
ときの状況で、この情報を聞いて秀吉に乗った方がトクと考えた
武将は多いと思います。
 しかし、この情報は単なるデタラメではなく、信長の遺体が発
見されないからいえることです。そうすると、秀吉は蜂須賀など
の乱破を使い、家康の遺体をひそかに本能寺から運び出した疑い
は濃厚になります。

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2002年08月07日

八切止夫意外史は注目に値する(EJ920号)

 NHKの大河ドラマ「利家とまつ――加賀百万石物語」を見て
「本能寺の変」に興味が湧き、EJに書くことを前提に多くの本
や資料を真剣に読んでみました。
 そして、理解できたことは、現在われわれが知っている本能寺
の変は、『川角太閤記』や『信長公記』など、後年の権力者秀吉
の立場から書かれた文書をベースとしているという事実です。要
するに、秀吉にとって都合が悪いことはすべてカットされ、内容
がねじまげられており、真実は闇の中になっています。歴史とは
そういうものです。
 実は5月のはじめのことですが、次のような本を購入したので
す。そのときは、本能寺の変をEJで取り上げることはぜんぜん
考えていませんでした。
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   八切止夫著『信長殺し、光秀ではない』作品社刊
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 著者の八切止夫氏は故人であり、あとでわかったことですが、
歴史の世界で奇書といわれているものの復刻版だったのです。八
切氏には「八切意外史」全12巻というのがあるようで、上掲書
はその第1巻目の本だったのです。今から30年前の本ですが、
当時ベストセラーになったそうです。
 しかし、この本は話がいろいろなところに飛び、悪くいえば支
離滅裂で、良くいえば奇想天外――何をいいたいのかよく分から
ない本なので、途中で読むのを止めてしまったのです。しかし、
本能寺の変についてEJで取り上げるようになって、本気で読み
直して見ると、非常に重要なことが書かれていることがわかって
きたのです。
 今週発売の『週刊ポスト』8月16日号で、井沢元彦氏も取り
上げているのですが、八切氏はその本の中で、当時の鉄砲に使う
火薬の原料「硝石」についてふれているのです。多くの史書では
鉄砲という銃器の製造については言及しているものの、それに使
う火薬がマカオからの輸入に依存していた事実がまったく書かれ
ていないのです。
 「パソコンはソフトがなければタダの箱」といわれますが、鉄
砲も「火薬がなければタダの鉄棒」なのです。種子島が鉄砲の産
地であるとか、紀州の雑賀衆が鉄砲を量産していたという銃器の
生産の話はよく出ますが、火薬の話、ましてその原料の話などは
八切氏以外、誰もいっていなかったはずです。
 八切氏によると、当時の火薬の配合は、75%が輸入硝石(当
時の言葉では「煙硝」)に頼っていたのです。しかし、この硝石
は、あたかもマカオが原産地であるように見せかけていますが、
正しくはマカオは中継地に過ぎないのです。
 当時のポルトガルの商人は、火薬を輸出するに当たって、ヨー
ロッパやインドの払下げ品を集めてきて、マカオで新しい樽につ
めかえさせて、日本に輸出していたのです。そして、日本にはマ
カオが硝石の産地のように見せかけていたのです。信長はこれに
完全に騙されていて、彼は火薬確保のためにマカオを本気で攻め
落とすことも視野に入っていたと考えられます。
 当時マカオはポルトガル領であり、火薬商売だけでなく、ポル
トガルのカトリックのイエズス会の宗教セールスマンが宣教師と
してどんどん日本に入ってきていたのです。当然彼らは火薬を布
教の道具として使ったのです。当時は良質の火薬がなかなか入手
できなかったので、火薬欲しさに切支丹に帰依した大名も少なく
なかったのです。
 さて、井沢元彦氏によると、30年前は八切氏以外に火薬の原
料――硝石についてふれた歴史家はいなかったのに、現在はその
ことに触れていない人はいないと述べています。しかし、現在の
歴史家はことごとく八切氏を無視し、参考文献や引用資料に八切
止夫の名前はないのです。はじめは八切氏の説をこきおろしてお
きながら、それがどうやら正しいとわかると、だまってそれを引
用する――日本の歴史学者の悪いクセです。
 さて、八切氏は本能寺の変について意外なことをいっているの
です。2日の早暁に丹波の軍勢とみられる約1万3千の兵が本能
寺を取り囲んだのは事実なのですが、これを日本側の史料では、
予想外のこと――すなわち「異変」としているのに対し、本能寺
のすぐ近くにあった南蛮寺のイエズス会のポルトガル人の宣教師
たちは「通常の出来事」と考えていたというのです。
 というのは、信長はいつも少人数で出動し、それから1日か2
日で黒山のような軍隊を編成し、自ら引率して行動を開始するの
が通例である――と京にいるポルトガル人の宣教師たちは認識し
ていたといっているのです。そういうわけで、2日の早暁に約1
万3千の兵が本能寺を取り囲んでも彼らは「いつもの命令受領」
と考えていたようです。
 ところが軍勢が本能寺を包囲後数時間経過して、突然本能寺か
ら火の手があがったというのです。それはもの凄い火力で燃え上
がり、四方の民家に類焼しているのです。八切氏は、これは明ら
かに爆発であり、本能寺の中にいた者は一人残らず「髪の毛一筋
残さず」吹き飛ばされたといっているのです。もちろん、信長も
です。一体本能寺に何が起こったのでしょうか。
 実は、本能寺の地下に煙硝蔵(火薬庫)があって、それが爆発
したと考えられるのです。何によって爆発したのかについては明
日述べることにして、マカオから運び込まれた火薬の原料である
硝石は、本能寺の地下に納められ、そこから目的地に運ばれてい
たというのはどうやら事実なのです。この本能寺の煙硝蔵の存在
については、最近発刊された津本陽氏の『本能寺の変』(講談社
刊)でもふれられています。
 そうすると、本能寺の変とは一体何だったのでしょうか。本能
寺はなぜ爆発をしたのでしょうか。本能寺を取り囲んでいた軍隊
はどこの軍隊だったのでしょうか。
 昨日ご紹介した立花京子氏によると、信長暗殺にイエズス会が
深く関与していたのではないかと述べています。

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2002年08月08日

朝廷は深く関与していた−−立花説(EJ921号)

「信長を殺したのは誰か」――八切止夫氏のように「光秀は犯
人にあらず」とする説もありますが、本能寺の変のあとの光秀の
行動を考えると、光秀が実行犯であることは動かしようがない事
実であると思います。
 しかし、その動機となると諸説が乱立しています。定説として
は「怨恨説」「野望説」ですが、私が調べた限りでは、それらは
一番あり得ない説であると思います。動機に関しては今までEJ
で述べてきたところでは、次の2つがあります。
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  1.光秀/秀吉/家康3者共謀説
    実行犯/光秀 ・・・ 黒幕/秀吉/家康
  2.朝廷黒幕説
    実行犯/光秀 ・・・ 黒幕/正親町天皇、誠仁親王
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 殺人事件の犯人というものは、その動機が怨恨でない場合、そ
の人が死んで一番トクをする人物を疑えというのが常識です。結
果論として見ると、信長が死んでトクをした人物というと、やは
り天下を取った秀吉ということになります。しかし、秀吉が天下
を取れたのは、信長死去のあとの秀吉の判断と努力、それに加え
て彼の運の強さによるところが大きく、単に信長を殺せば天下が
取れたわけではないのです。
 それなら、家康はどうかというと、彼の場合は怨恨なら分かり
ますが、あの時点で天下取りを企てることは考えられなかったと
いえます。家康は、信長が死去したあとの戦略において秀吉に大
きく遅れをとっているからです。しかし、家康は秀吉に強い対抗
意識を持ち、その後も執念を燃やして、時期は遅れたものの結果
として天下を取るのです。そういう意味で、本能寺の変と関ヶ原
の戦いはつながっているといえます。
 このように考えていくと、光秀/秀吉/家康の3者共謀説は考
えられないことになります。それならば、2の朝廷黒幕説はどう
でしょうか。既に述べたように、朝廷も当時信長には相当の危機
感を抱いており、信長がいなくなって一番ほっとしたのは朝廷で
はないかと思います。しかし、現在、ほとんどの歴史学者は、こ
の朝廷黒幕説を否定しています。
 『逆説の日本史』の著者の井沢元彦氏は、朝礼黒幕説は十分考
えられるとしながらも、ある疑問が解決しない限り、その説には
乗れないと述べています。
 そのある疑問とは、本能寺の変のあと、天正10年6月9日付
で光秀が細川藤孝に出したという書簡――細川家文書として有名
――の内容に関するものです。光秀は藤孝に一緒にやってくれと
申し入れたのに、藤孝は髻を切って剃髪したということを聞き、
光秀は非常に腹を立てたけれども、よく考えてみればもっともな
ことだと考え直し、重ねて協力を要請したという内容です。
 井沢氏がいう疑問とは、その書簡で重ねて野心がないことを強
調しているけれども、もし、朝廷からの指示でやったものであれ
ば、そのことを書くはずなのに書いていない――それはおかしい
というものです。確かに、朝廷からの何らかの勅があれば自らに
野心のないことの何よりもの証明になるし、逆賊の汚名も着せら
れることはないのです。
 これに対して、歴史学者の立花京子氏は、その細川家文書はニ
セではないかという大胆な疑問を呈しています。立花氏はその細
川文書について次の3つのことを指摘しています。
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     1.花押が光秀本人のものではないこと
     2.光秀の字ではなく祐筆が書いている
     3.内容が弱々しく、光秀にそぐわない
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 立花氏は、細川藤孝が怪しいと考えているのです。光秀として
は、藤孝の息子である忠興のところに三女玉子が嫁に行っており
藤孝が同意しないのであれば、信長を討つことなどできなかった
のです。もし、藤孝が信長側に立っているならば、光秀は玉子を
犠牲にすることになるからです。したがって、藤孝は事前に光秀
に何らか合意を与えていたか、むしろ藤孝が光秀にクーデターを
仕掛けたとも考えられる――としているのです。
 立花氏は自ら『光秀文書目録』を作っているほどの光秀研究家
ですが、その目録を作るさい、光秀の花押を120個ほど集め、
そのかたちの変化でその年次比定ができる表を作成しています。
それによると、問題の細川家文書はZ型になるのですが、花押の
形はそうであっても他には絶対に見られない筆の太さがそこに現
れていると指摘しています。それに筆跡も光秀のものとは違うの
です。光秀の自筆は、もっと流れるような筆跡で、大変な達筆で
あるといっています。
 したがって、問題の細川家文書は、誰かが形を真似て作った偽
物ということになりますが、立花氏によると、犯人は藤孝自身で
はないかといっているのです。要するに、光秀は藤孝に乗せられ
て事件を起こし、そのあとハシゴを外されたのではないか、と立
花氏は推理しているのです。
 もちろん藤孝のバックには朝廷がいて、天皇、親王、前久、兼
見、晴豊たちは、信長暗殺に深くかかわっていたと立花氏は分析
しています。しかし、それを秀吉が知るところとなり、以後秀吉
に秘密を握られた朝廷は秀吉に何もいえなくなって、秀吉政権の
成立・全国制覇の事業達成を可能にさせることになる――これが
立花京子氏の推論です。多くの証拠を用意し、緻密に推論が積み
上げられ、非常に説得力がある所説であると思います。
 さて、本能寺の変の黒幕として、もうひとつ取り上げなければ
ならない黒幕がいるのです。それは、イエズス会です。立花氏は
そもそも信長の全国制覇にイエズス会が深くかかわっていたと述
べています。イエズス会とは何でしょうか。彼らは何を目的とし
て日本にきたのでしょうか。明日は、イエズス会から本能寺の変
を分析します。

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2002年08月09日

イエズス会が『変』に関与した理由と根拠(EJ922号)

 イエズス会というのは、世界最大のカトリック修道会の1つで
す。1540年にスペイン人のイグナチオ・ロヨラによって設立
されたのですが、日本にはフランシスコ・ザビエルが1549年
に鹿児島に来ています。当時信長は15歳で、結婚したばかりで
あったのです。
 1557年になってマカオがポルトガル領になると、キリスト
教の布教のために多くの宣教師たちが日本にやってくるようにな
ります。彼らは時の権力者に近づき、火薬を武器にして布教の協
力を取り付けることを常套手段としていたようです。
 当時の戦いはすでに刀や槍の時代ではなく、鉄砲の数が勝敗を
決めるようになりつつあったのです。その鉄砲にとって不可欠な
火薬をポルトガルの宣教師たちは握っていたのです。日本製の火
薬は質がわるく使い物にならなかったからです。
 永禄12年(1569年)の頃、信長とイエズス会とはかなり
仲が良かったのです。天正9年には、イエズス会の巡察師ヴァリ
ニャーノに京で馬揃えを見せたり、彼らが帰国するときは安土城
の天守閣を提灯でライトアップさせて送別会をやったりと、信長
は一貫して宣教師を保護し、理解し、優遇したのです。
 イエズス会の方も信長には、鉄砲の技術を教え、貿易で莫大な
利益を与え、宣教師たちが集めた海外情報をふんだんに信長に提
供していたのです。信長軍が当時の戦いに強かったのは、イエズ
ス会の強力な協力があったからといって過言ではないのです。
 イエズス会の協力を得て信長は着々と全国制覇事業を進め、遂
に彼らの情報によって、鉄甲船まで作り上げてしまったのです。
当時日本に来ていた宣教師はルイス・フロイスといい、彼はあと
で日本史を書いているのですが、この本は外国人から見た当時の
日本を知るうえでとても興味深いものです。
 しかし、信長はこの頃からイエズス会のいうことを聞かなくな
ります。これが本能寺の変の1ヶ月くらい前からかなり露骨にな
るのです。天正10年5月には総見寺を建てて一般公開し、そこ
に信長自身であるという白目石を祀って参拝するよう命じたので
す。これには、イエズス会は態度を硬化させてしまいます。
 それは、「天に2つの神なく、地に2つの神なし」とするキリ
スト教に対する挑戦であり、神を冒涜する行為である――きっと
イエズス会はそう考えたのだと思います。それにフロイスらの宣
教師たちは、信長が近くマカオを攻めて火薬の原料である硝石を
押さえるのではないかという情報をキリシタン大名などを通じて
収集していたといわれます。
 5月29日になると、信長は本能寺に入るのですが、ちょうど
その頃大阪の住吉の浦の沖合に7隻の鉄甲艦と夥しい軍用船が集
結しつつあったのです。前にも述べたように、信長は少人数であ
らわれると、2〜3日中に黒山のような軍勢を作って、どこかの
戦場に出陣することを宣教師たちは知っていたので、にわかに緊
張します。
 というのは、信長のイエズス会に対する態度の急変、夥しい戦
艦の集結、そして黒山のような軍勢――イエズス会の宣教師たち
が、これを「マカオへの出陣」と考えても不思議はない――と例
の八切止夫氏はいっているのです。もちろん、これは四国平定の
ための中国地方出陣の軍勢集結であったのですが、宣教師たちが
勘違いしても不思議はないと思います。
 そうなると、6月2日早朝の本能寺の爆発と見られる出火の謎
が少し解けてきます。八切氏がいう「本能寺の出火は、どこかの
キリシタン大名からの鉄砲攻撃によって、地下の火薬庫が爆発し
たもの」という説もあながち荒唐無稽な説ともいい切れなくなっ
てきます。
 立花京子氏は、イエズス会が本能寺の変に少なからず関与して
いたとし、その証拠の1つとして、本能寺の変の4ヶ月ほど後の
天正10年10月(日本暦)に、フロイスがイエズス会総会長に
宛てた手紙(報告書)を上げています。
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 (フロイスは信長が総見寺で自分を祀り、大勢の人が参拝し
 いることを述べたあとで・・・・・)
  信長がかくのごとく驕慢となり、世界の創造主であるデウ
 スのみに帰すべきものを奪はんとしたため、デウスはかくの
 如く大衆の集まるを見て得たる歓喜を長く享楽させ給わず、
 安土山においてこの祭りを行った後19日を経て、その体は
 塵となり灰となって地に帰し、その霊魂は地獄に葬られたこ
 とはつぎに述ぶるであろう――ルイス・フロイス記
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 これはまるで犯行声明そのものではないでしょうか。立花氏は
次のように述べています。
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  フロイスが何を言ったかというと、デウスのおかげで信長
 は全国制覇をここまで遂げられたのに、自分の力だと錯覚し
 て驕慢になった。だからデウスは、信長が自分を拝ませるよ
 うになって、命を19日しか与えなかったと記しています。
 ということは、フロイスはこの「変」はイエズス会が関与し
 ていたと言っているに等しい。
 ――立花京子 『真説/本能寺の変』(集英社刊)より。
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 このことに加えて、立花氏は、細川藤孝の妻はキリシタンであ
り、藤孝自身もそうであったのではないかという事実を指摘して
おり、藤孝自身は朝廷に加えてイエズス会にも働きかける立場に
あったことを述べています。
 このように考えると、信長を取り巻くかなり多くの者が信長に
消えてもらいたいと願っていたことになります。
 2週間にわたって「本能寺の変」を取り上げてきましたが、あ
とひとつどうしても取りあけたい話があります。したがって、次
回を最終回とします。

フランシスコ・ザビエル.jpg
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2002年08月12日

≪黒衣の宰相≫天海僧正は光秀である(923号)

 有名な話ですが、比叡山に明智光秀が寄進したという石灯籠が
現在も立っています。もともと比叡山は光秀の領地だったところ
であり、寄進の石灯籠があっても不思議はないのですが、問題は
そこに刻まれている日付なのです。
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    慶長二十年二月十七日 奉寄進願主光秀
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 慶長20年(1615年)2月というと、大坂夏の陣の開始直
前であり、額面通りに受け取れば、光秀はこの年まで生きていた
ことになります。この石灯籠は、大坂夏の陣に向けて、明智一族
の怨念を晴らすため、豊家滅亡を祈願して寄進されたものとされ
ているのです。
 といっても、本物の光秀が寄進した証拠はなく、別の光秀とい
う人が寄進したのかも知れません。しかし、光秀が山崎の戦いの
あと、生き延びていたという状況証拠は山ほどあるのです。
 通説によれば、光秀は最後の砦となった勝龍寺城を夜陰と雨に
紛れて抜け出し、大雨の中を数人の家臣と一緒に近江坂本城に向
かっていたのですが、山科の小栗栖にさしかかったとき、中村長
兵衛という土民の繰り出した竹槍にわき腹を刺されて深手を負い
その場で自害したと伝えられています。
 介錯をしたのは溝尾庄兵衛――光秀は自分の首は知恩院に葬る
よう庄兵衛に命じたといいます。そして、進士作左衛門、比田帯
刀という2人の家臣は殉死しています。ところが、溝尾庄兵衛は
光秀の首を知恩院に持っていかず、鞍覆いに包んで近くの藪の溝
の中に隠して坂本に落ち延びたといわれているのです。
 しかし、これはデタラメなのです。殉死したといわれる進士作
左衛門、比田帯刀は死んでおらず、細川興秋に仕えていることが
「細川家記」で明らかになっていますし、光秀を竹槍で指したと
いう中村長兵衛は、寛永年間に行われた調査では、実在しなかっ
たことが明らかになっているからです。
 それでは光秀は、誰のところに身を寄せていたのでしょうか。
相当の権力者でもない限り、主君を討った逆臣光秀を匿うことは
できなかったはずです。
 光秀を匿っていたとされる人物は徳川家康なのです。光秀は家
康の宗教政策を一手に担い、江戸の霊的防衛網を完成させた「天
海僧正」に身を変えていたといわれているのです。
 この天海なる人物は、「南光坊・智楽院」と称する天台宗の僧
であり、号を「慈眼大師」というのです。大師号は、平安時代の
智証上人以来700年ぶりのことであるというので、当時の仏教
界では相当力のあった人物であったといってよいのです。これは
比叡山復興に尽力した功績によるものといわれます。
 実は一度EJでこの天海僧正を取り上げたことがあるのです。
それは、1998年11月13日のEJ第21号です。当時、N
HKの大河ドラマでは「徳川慶喜」をやっており、そのことに関
連して取り上げたのです。
 天海僧正は「黒衣の宰相」といわれ、徳川の帷幕にあって権勢
を振るったのです。天海僧正は、江戸城の構築に当たって八門遁
甲の秘法により、子孫繁栄の方位を使って建築をしています。そ
のうえ、江戸城にとって最悪の凶方とされる艮位(東北)――つ
まり鬼門の方角「上野」に東叡山寛永寺を建立して運気の破れを
防ぎ、さらに念を入れて江戸そのものの鬼門に当たる「日光」に
東照宮を建立、次いで巽位(東南)の破れには愛宕山神社を作り
裏鬼門の坤位(西南)の方角には、遁甲玉埋めの法に基づき、城
内の某所に黄金の玉を埋めるなど万全を施しているのです。
 その結果はどうでしょう。あの明治維新という大革命のさいに
も徳川家は命を全うして、維新後は公爵という人民最高の扱いを
受けていますし、江戸城そのものも今もその雄姿は何も変わって
いないのです。天海僧正の霊的処置は効いていたのです。
 おそらく光秀は小栗栖を脱出して比叡山に逃れたのです。延暦
寺では、憎き信長を討ってくれた光秀を粗略には扱わなかったと
思います。そして、この比叡山で横河飯室谷長寿院に入り得度し
「是春」を名乗ったのです。そして、そこで、会津生まれの「隋
風」という名の光秀と同年輩の僧侶――本人は死亡――の存在を
知り、是春はその隋風になりすましたものと思われます。この隋
風がやがて天海僧正になるのです。そのためには、どこかで家康
と会う必要があります。
 天正16年(1588年)に隋風は東下し、江戸崎不動院に入
山します。その東下の途中の駿府で家康に再会したと思われるの
です。初対面であるにもかかわらず2人は「人払いをして旧知の
仲のように二刻(4時間)もの長時間かけて話し合ったという記
録が残っているのです。
 家康がどうして天海を受け入れたかについてはいろいろな話が
ありますが、それを書くのは別の機会にして、光秀が天海僧正で
あったという証拠をもう少し述べます。
 まず、天海が差配して作った日光東照宮には数多く明智の桔梗
紋があり、日光明智平の地名、それに光秀の位牌のある京都慈眼
寺と天海の号「慈眼」の一致など枚挙にいとまはないのです。
 それに、天海が光秀だとすると、江戸幕府初期の春日局の謎も
解けるのです。なぜなら、春日局(お福)は、光秀の重臣斉藤利
三の娘なのです。家康が逆臣の子のお福になぜあれほどの権限を
持たせたか――天海が光秀ならそれはありうるでしょう。
 それに三代将軍家光は、本当はお江の子ではなく、家康とお福
の子という説があります。それで家康は天海の勧めによって、家
康の「家」と光秀の「光」をつけたといわれているのです。
 そうすると、本能寺の変は明らかに関が原の戦いにつながって
きます。天海僧正は関が原の戦いでは鎧をつけて従軍してきてい
るのですが、この話は改めて取り上げることにします。
 本能寺の変について、いろいろな角度から分析してみました。
解けない謎は多いですが、今回で終わりです。

天海僧正.jpg
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2002年10月31日

アンドレ・リュウはなぜ人気があるか(EJ978号)

 「アポロは月に行ったのか」のテーマは、まだまだ先があるの
ですが、資料の分析が終っていない部分があるので、少し休み、
最終結論編については、改めて取り上げることにします。今朝は
久しぶりに音楽の話題です。
 いま、若い女性の間で人気が沸騰しつつあるクラシック・オー
ケストラがあります。アンドレ・リュウとヨハン・シュトラウス
・オーケストラがそれです。昨年はじめて日本公演が行われ、日
本のファンが一挙に増えたものと思われます。
 今年も10月16日の福岡を皮切りに、大阪、愛知、仙台、そ
して東京で演奏会を開きましたが、いずれも満席という盛況ぶり
です。とくに東京では、23日から27日まで5日間連続公演を
行っています。その東京公演を見る機会があったので、今日と明
日はアンドレ・リュウの特集です。
 私がアンドレ・リュウの存在を知ったのは1999年のことで
す。彼の最初のアルバム「シャル・ウイ・ワルツ」のTとUとい
う2枚のCDを購入したのがキッカケです。
 ウインナ・ワルツのCDはもともとたくさん持っており、どう
して買ったのか、その動機は分からないのですが、聴いてみると
とにかく楽しい音楽なのです。音楽には、次の4種類があるそう
ですが、アンドレ・リュウの音楽は明らかに3に該当します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.理屈をつけて、楽しむ音楽
      2.何回も聴くとよくなる音楽
      3.理屈ぬきにして楽しい音楽
      4.理屈ぬきでただ退屈な音楽
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 実は、私の購入したCDは、1994年にオランダ・フィリッ
プス社から「Strauss & CD」というタイトルで発売され、たちま
ちトップ10にチャート・イン。以後52週間連続ランク・イン
という記録を樹立したのです。
 その後、ヨーロッパ各国で大ヒットとなり、1995年には、
100万枚を超えるセールス記録を樹立したそうです。その勢い
は米国でも同じで、ビルボード誌のクラシック・チャートにおい
て、「シャル・ウイ・ワルツT」が2位、「シャル・ウイ・ワル
ツU」が8位を記録――以後、数ヶ月にわたり、ランク・インし
たというのですから驚きです。
 演奏している曲は、「美しき青きドナウ」をはじめとするヨハ
ン・シュトラウス一家の作品が中心であり、いずれもポピュラー
な曲ばかり――そんなCDは山ほどあるのに、リュウの演奏のも
のだけがなぜダントツで売れるのか、その秘密に迫ってみる価値
はあると思うのです。
 アンドレ・リュウは、1949年、オランダのマーストリヒト
の出身で、音楽一家に生まれています。指揮者である父親の指導
でリュウは5才のときからヴァイオリンを始め、ブリュッセルの
コンセルバトワールを主席で卒業しているのです。
 このままであれば、リュウは才能あるヴァイオリニストの道を
歩んだでしょうが、あることがキッカケで、彼はサロン・ミュー
ジック・アンサンブルを結成するのです。そのキッカケについて
リュウは次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  あの最初のリハーサルを今日もなおはっきり覚えています。
 譜面台にはフランク・レハールの「金と銀」の楽譜がのせてあ
 りましたが、その日までまったく知らない曲でした。
  しかし、その冒頭の音の響きに触れて私の中で何が起こった
 かを今記すことは大変難しいことです。何と素晴らしい音楽な
 のでしょう。とくにそのリズム――その3拍子には何とうっと
 りさせられるのでしょう。
  最初の瞬間から私の気持ちはあっちに行ったり、こっちに来
 たり、そして知ったのです。「これは私の音楽だ!これからど
 んなことが起ころうとも、この音楽はいつか私の人生を決定す
 るだろう」と――アンドレ・リュウ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「なぜ、クラシックの演奏会はつまらないのか」――アンドレ
・リュウは、伝統的なクラシック音楽の演奏家としてのキャリア
積みながら、つねにこの疑問に取りつかれていたのです。「音楽
は本来もっと楽しいものであるべきだ」と考えていたのです。
 オーケストラの団員は、真面目な顔をして演奏し、喜怒哀楽の
表情を浮かべない――指揮者もおごそかに黙って出てきて、黙っ
て引っ込む、そしてお客も黙々として演奏に聴き入る。これでは
まるで儀式であるというわけです。
 こういうクラシックの演奏会の常識を覆すため、アンドレ・リ
ュウは、自分のオーケストラでは次の4つのことを意識的に取り
入れたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.指揮者はお客の方を向き、お客に語りかける
  2.オケの団員―とくに女性の衣装を派手にする
  3.オケの団員によるなんらかのパフォーマンス
  4.お客には、演奏に合わせてダンスを勧奨する
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 確かにヨハン・シュトラウスのワルツは、聴くための音楽では
なく踊るための音楽です。だから、演奏している方も聴いている
方もともに楽しまなければならない――これがエンタテインメン
トに徹しているアンドレ・リュウの考え方なのです。
 そのため、リュウはヴァイオリンを持って演奏しながら、ほと
んど観客の方を向いて団員には背中で指揮をするのです。このス
タイルは、かつてウィーンフィルハーモニーのコンサート・マス
ターであったウィリー・ボスコフスキーのやったスタイルですが
アンドレ・リュウのそれは、もっとくだけたスタイルです。
 それはまさにショウそのものですが、演奏自体はきちんと行っ
ており、そこが単なるショウと違うところです。

978号.jpg
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2002年11月01日

アンドレ・リュウはなぜ人気があるか/2(EJ979号)

 アンドレ・リュウの音楽は一言でいうと、大変わかりやすい音
楽であるといえます。ヨハンシュトラウス一家の音楽を中心にレ
ハールやワルトトイフェルなどのポピュラーなワルツを取り上げ
それに巧みなアレンジを施してきちんと演奏しているからです。
アンドレ・リュウをはじめ演奏者の腕はかなり高く、演奏の質は
高いです。これは、アンドレ・リュウのCDを聴いていただけれ
ば、ナットクできると思います。
 アンドレ・リュウは、演奏する曲に彼の感性にしたがって、独
自の編曲を施しており、長い曲はカットして7〜8分にしてしま
います。例えば、ヨハンシュトラウスU世の「皇帝円舞曲」――
原曲はゆうに10分を超えますが、これなどは7分にカットして
しまいます。といって、サワリだけを安易につないでいるわけで
はないのです。実に巧妙にカットしています。この曲を細部まで
知っている人は別として、7分でも皇帝円舞曲を全部聴いた気に
なってしまうから不思議です。
 こういうことをいうと、クラシック・ファンから「そんなの邪
道だ」といわれそうですが、リュウの考え方では「要は聴いて楽
しく、踊りやすければ良い」ということなのです。そういうこと
で、リュウの編曲は、短い曲は平均3分、長い曲でも7分どまり
となっているのです。
 誰だって、いつもフルコースの料理ではなく、たまには単品料
理を食べたくなるときがあります。ちょっとウインナワルツを聴
きたいなという気分になったとき、フルコースのカラヤンの演奏
よりも、軽妙で短いアンドレ・リュウがぴったりというときがあ
ると思うのです。もちろん、あるレベル以上の演奏でないと楽し
めませんが、アンドレ・リュウの演奏なら大丈夫です。
 演奏のやり方はツボを押さえているというか、観客がリズムを
取りやすいようにリズムにアクセントをつけているというか――
なかなかしゃれた楽しい音楽に仕上がっているのです。
 それでは、アンドレ・リュウのコンサートは、どのような雰囲
気なのでしょうか。日本を含め世界中で開催されるアンドレ・リ
ュウのコンサートは満員盛況なのです。したがって、野外で行わ
れることが多いのです。まだ行ったことのない方のために、コン
サートの概要をご紹介し、なぜ、そんなに人気があるのか、その
人気の秘密に迫ってみたいと思います。
 アンドレ・リュウのコンサートの組み立ては、2部構成で、第
1部約1時間、15分の休憩、第2部も約1時間プラスアンコー
ル数曲となっています。曲と曲の間には必ずリュウのトークが入
り、英語圏以外は通訳が付きます。
 今年の東京公演では、第1部が10曲、第2部は9曲、そして
アンコールとして、ウインナワルツ・メドレーと4曲――その日
によって違う――実に24曲という大サービスなのです。これは
曲がコンパクトであるからこそできる芸当であるといえます。
 第1部は、会場全体の雰囲気を盛り上げるように全体の演奏に
重点が置かれ、第2部は腕の良い団員をクローズアップさせる演
出をしています。今年の東京公演では、サンサーンス作曲の「白
鳥」のチェロの演奏がなかなか聴きものであったと思います。
 第2部には「美しき青きドナウ」が置かれ、その曲がはじまる
と、観客はカップルで踊り始めます。東京公演では、通訳が観客
の女性のひとりに声をかけて踊り出すと、それにつられて、5〜
6組みのカップルが通路で踊りはじめ、次第にその数が増加して
いったのです。通訳に声をかけられた女性は事前に話があったと
思われますが、他のカップルは少なくとも「やらせ」のようには
見えませんでした。
 第2部の全曲が終了すると、上から風船が落ちてきます。会場
が騒然となるなかで、アンコール曲がはじまるのです。通路では
多くのカップルがまだ踊っており、若い人たちはまるでロックの
演奏会のように立ち上がり、両手を左右に振りながらアンコール
曲を聴いている、いや一人で踊っているのです。クラシックのコ
ンサートでは考えられない光景といってよいでしょう。
 確かにクラシックのコンサートとしては異色ですが、日頃クラ
シックのコンサートには足を運ばない大勢の人たちが、リュウの
コンサートには来ているということを考えれば、そういう人たち
がクラシック音楽の素晴らしさに触れるという意味で、大変意義
のあることであると思います。演奏される曲は間違いなく、クラ
シック曲なのですから・・・。
 アンドレ・リュウは、ヨーロッパでは、フリオ・イグレシアス
を少し渋めにしたルックス、米国ではメル・ギブソンに似ている
といわれています。それが、また大変な人気のもとになっている
のです。そのため、曲間にはさまれるリュウのトークに人気が高
まっているのです。
 どんなトークをするのか一例をあげると、例えば、ある曲を次
のように解説するのです。
 「皆さん、音楽家というものは、きまって貧しく、お腹を空か
せ、やせ細っているのです。もっとも私の楽団にはこういう人も
いますが・・・」といって、2人の金管奏者――とても太ってい
る――を紹介するというように、です。これは、どの演奏会でも
やっているリュウの会場を沸かせるテクニックのひとつです。
 最後に、この楽団は、コンサートの演出としてユニークな手法
を使っています。というのは、会場の正面の左右に大型スクリー
ンをを設置し、カメラマンが演奏している団員をクローズアップ
して見せる――いってみれば、コンサートの会場にそのコンサー
トを中継する超大型テレビが2台あると思えばいいのです。これ
なら、オペラ・グラスは必要ないでしょう。
 このスクリーンによって、楽団の女性団員――衣装は派手で、
かなりの美人ばかりが揃っている――がものをいうのです。これ
によって、「華やかで、ゴージャスなオーケストラ」という印象
を深めているのです。
 アンドレ・リュウはこれで終わりです。来週からは風雲急を告
げる日本経済のテーマに戻ります。

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2002年11月20日

月について何を知っているか(EJ991号)

 EJ966号からEJ977号までの12本を使って「アポロ
は本当に月に行ったのか」について検討しました。「行っていな
い」という説と「行っている」という説を対比させながら、検討
を加えたのですが、EJとしては結論を出していません。しかし
私自身は、EJ966号でも述べたように「アポロは月に行って
いる」と考えています。
 しかし、これに関するNASAの対応にはかなりの疑問があり
ます。また、テレビ朝日の「緊急指令!!これマジ!?」でのア
ポロ11号の宇宙飛行士/バズ・オルドリン氏とアポロ16号の
宇宙飛行士/チャールズ・デューク氏とのインタビューを見ると
宇宙飛行士たちの何か奥歯にものがひっかかったインタビューへ
の応答には首を傾げざるを得ないのです。
 考えてみれば、「アポロは実際には月に行っておらず、映像は
スタジオで撮影されたものである」という疑いは、人類初の偉業
を成し遂げた宇宙飛行士たちにとって非常に屈辱的な疑念である
はずです。本当に月に行っているのであれば、もっと具体的に、
「あのときはこうだったのだよ」というように説明できるはずで
す。どうも何かを隠している感じなのです。
 11月6日の日本経済新聞に、次のタイトルの囲み記事が掲載
されたのをご存知でしょうか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「月着陸"疑惑"/NASA本気で反論/本出版「ますます
 怪しまれる!?」との声も」 2002.11.6日経記事
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 NASAは、いま世界中に巻き起こっている疑惑に答える本を
出版することによって、疑惑を払拭したいとしているのです。そ
れはそれとして、実は、月やアポロ計画と切っても切れない話題
として、UFO(未確認飛行物体)との関係があります。今朝か
らしばらくこの話題について考えていくことにします。UFOの
存在については、肯定論と否定論がありますが、EJでは両方の
意見を対比して検討していきたいと考えています。
 アポロ計画に関する疑念が、かくも大げさな問題になった原因
として、インターネットで盛んに流されたうわさがあります。9
11の同時多発テロについても、インターネットで多くの情報が
流されたのですが、その有名なものをひとつご紹介します。
 WTCビルに衝突した航空機のひとつに「Q33NYC」便と
いうのがあったのです。この「Q33NYC」という文字列を、
ワープロソフト「ワード」の環境において、Century という書体
で半角で打ち込み、その文字列を選択状態にして「Wingdings」
(フォント列の一番後ろにある)というフォントに変更すると、
911事件を象徴する絵文字が表示されるのです。
 「ワード」のバージョンによっては出てこないケースもあるの
で、その絵文字を添付ファイルでご紹介します。どうでしょう。
911を見事に暗示しているではありませんか。この情報がイン
ターネットに乗って全世界を駆けめぐったのです。
 実は、これにはからくりがあるのですが、これについては、明
日のEJで種明かしをします。
 さて、アポロが月に行って、NASAは月のことがいろいろ解
明されたといっていますが、現在、われわれは、月のことをどの
くらい知っているでしょうか。
 実のところほとんどわかっていないのです。EJ968号で指
摘したように、月には空気がないので、日中の太陽光の下では、
温度は93度Cまで上昇し、日陰では逆にマイナス129度Cに
なるのです。ここで「日中」というのは、地球上の24時間では
なく、地球の1日に換算して14日間続くことはご存知でしょう
か。もちろん夜間も地球上の14日間続くのです。
 月とは何でしょうか。いうまでもなく、地球という惑星の唯一
の衛星――惑星の周りを公転する天体のことです。しかし、月は
地球の衛星としてはかなり大きいのです。
 地球の赤道半径6378キロに対する月の赤道半径1738キ
ロは、比率にすると、3.7分の1、体積にすると50分の1も
あるのです。他の惑星と衛星の比率を示しておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    地 球――月    ・・・・・   4.1
    火 星――フォボス ・・・・・ 261:1
    木 星――ガニメデ ・・・・・  27:1
    土 星――タイタン ・・・・・  23:1
    天王星――チタニア ・・・・・  32:1
    海王星――トリトン ・・・・・  18:1
    冥王星――カ ロ ン ・・・・・   2:1
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 太陽系の惑星の衛星の半径比率の比較では、地球と月、冥王星
とカロンの比率だけが一桁台であり、他の惑星の衛星に比べて異
常に大きいのです。これは天体形成の謎といわれています。なお
惑星のなかには、複数の衛星を持つものがありますが、その場合
は、最大のものを取り上げています。
 このことは、月がどのようにして形成されたのかということに
大きくかかわってきます。月の形成には従来から、次の3つの説
があるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.集積説=兄弟説
  2.分裂説=親子説
  3.捕獲説=他人説
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「集積説」は月が地球と同じ時期に原始雲母が凝集してできた
とする説で、兄弟説ともいわれます。「分裂説」は原始地球がで
きて、後から分裂したとする説で、親子説ともいわれます。「捕
獲説」というのは、もともと月は遊星であり、あるとき地球の軌
道に入り込み、地球の重力圏につかまってしまったとする説で、
他人説といわれています。次回も月の話です。

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2002年11月21日

月には希薄であるが大気がある(EJ992号)

 最初に昨日のEJでお話しした911同時テロにかかわる絵文
字についての種明かしをします。「Q33NYC」という航空機
がWTCビルに衝突したと述べましたが、私の調べたところでは
「Q33NYC」なる航空機は存在しないのです。何となくあり
そうな名前なので、ひっかかってしまいますね。デマとはそうい
うものです。
 月の話を続けます。月の形成の説として、兄弟説、親子説、他
人説があることを簡単にご紹介しましたが、現在では、これらは
決定打に欠ける古典的な説になっています。現在では、「ジャイ
アント・インパクト説」というのが有力な説といわれています。
 これは天体の衝突によって月が形成されたとする説です。時代
としては、今から45億年前、原始太陽系の頃、原始の地球に火
星よりも大きな天体が接近し、地球をかすめるようにして衝突し
たのです。コンピュータによる計算によると、秒速5キロで衝突
したといわれています。
 衝突の方向は地球の中心を外れており、これによって地球の自
転は一気に加速され、衝突によって砕け散った物質は地球を回り
始めるのです。そして、大部分の物質は蒸発して消えてしまった
のですが、マントルに当る部分は残り、これが月になったという
のです。
 このジャイアント・インパクト説は、コンピュータによって詳
細なシミュレーションが行われ、実際にそのような現象が起こり
得ることが証明されており、現在では最も有力な説になっている
そうです。
 これに対してもうひとつ「改造天体説」という、いささかSF
的な説があるのです。この説によると、月はもともと自然に存在
していたのですが、後に異星人がそれを改造して、スペース・コ
ロニーのようにしたという説であり、UFOを信ずる人たちによ
って支持されているのです。「月はUFOの基地である」という
説は、ここから出ているものと思われます。
 異星人の存在が証明されていないため、SF的であることは否
めませんが、実際に存在する天体を基地として利用するというこ
は、あながち、非現実的な話ではないのです。
 現実にNASAは、火星と木星の間にある小惑星帯に基地を作
る計画を立てています。手ごろな大きさの小惑星を人工的に改造
し、人間が住めるようする――これこそ改造型のスペース・コロ
ニーそのものといえます。
 しかし、アポロが月から持ち帰った月の石によって月の起源に
ついて混乱が起こっているのです。というのは、アポロ11号が
持ち帰ったとされる月の石についていくつかの専門機関が分析を
した結果、月の石は地球よりも古いということが判明したからで
す。専門機関によって差があるのですが、53億年前とする説か
ら長いものでは200億年前とする説までがあるのです。いずれ
も、地球が誕生した45億年前を大きく上回っています。
 しかも、この分析法は、カリウム・アルゴン法といって、正確
に年代が測定できるとされているだけに、月の石が地球よりも古
いという事実をどのように考えるかについて、学者は頭を痛めて
いるとのことです。
 しかし、NASAは、そういう専門機関の分析結果にもかかわ
らず、月の石の生成年代を地球と同じ約45億年前と想定してい
るのです。このように、アポロ計画で人間が月に行ったにもかか
わらず、月のことは何一つ明確になっていないし、むしろ疑問は
増したともいえます。
 月には大気も水もない――これは今までの定説です。これは、
世界の常識であり、宇宙の常識だったはずです。しかし、この定
説が現在では微妙に変わってきていることをご存知でしょうか。
 例えば、1993年にNASAは、月には「極めて希薄ではあ
るが、大気がある」ことを認めているのです。それは、何に基づ
くものかというと、アポロ計画で月面に置いてきた月の大気圧を
測定するマシンからのデータ分析結果です。
 もう少し詳しくいうと、月での大気圧の測定は、12号、14
号、15号で行われ、とくに14号と15号が月面に設置した観
測機器から地球に送られてくる観測結果データを分析した結果で
あるというのです。この観測データは、1971年〜1975年
まで地球に送られてきているのです。ですから、アポロは間違い
なく、月に行っているのです。
 しかし、月に大気があるといっても、実に希薄なものであって
それは地球の大気の100,000,000,000,000分
の1に過ぎないのです。しかし、ゼロではないのです。ゼロでな
い以上、「月に大気はない」というべきではありません。
 「月には大気など存在しない」とNASAは断言し続けてきま
したが、その当時から月には大気があることを疑った天文学者は
たくさんいたのです。
 1954年、米国のウイルソン天文台の望遠鏡を見ていたアル
ターという天文学者は、アルフォンサス・クレーター付近に霧が
かかったような現象を発見して写真に収めています。そして、写
真を分析した結果、彼は、月内部からのガス漏れではないかと発
表しています。旧ソ連のプルコア天文台のコズイレフも、アルタ
ーの指摘したクレーター付近が赤くなっているのを発見し、ガス
の噴出であることを指摘しています。
 こうした学者の意見は、NASAをはじめとする多くの反論の
前に消えてしまったのです。しかし、常識からいっても、NAS
Aが月に希薄な空気があることぐらいのことはアポロ計画の時点
で知らないはずはないのです。とすれば、NASAは明らかに事
実を故意に隠していると考えられます。
 ちなみに、月に大気があるとしても、月の表面に滞留すること
はできず、月の引力がからすぐに逃れて宇宙空間へと飛散してし
まうので、星状旗をはためかすことなどできないことはいうまで
もありません。
 それなら、水はどうなのでしょうか。水についてもまったくな
いとはいえないのです。水については、明日のEJで述べます。

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2002年11月22日

月には水はないが、氷がある!?(EJ993号)

 アポロ16号のときの話です。ときは1972年4月16日、
ケープカナベラル(現在はケープケネディ)から打ち上げられた
アポロ16号は、無事に月の「デカルト高地」南緯10度、東経
16度の「ケイリー高原」に着陸したのです。
 早速宇宙飛行士たちは月面の探査をはじめたのです。この模様
はビデオ・カメラに収録され、その映像は地球の基地に送られて
そこから世界中に中継されていたのです。
 そのとき、一人の飛行士が砂の斜面に足をとられて、前のめり
に倒れ、両手で砂をかいてしまったのです。その直後、その飛行
士は「ワラ!ワラ!」と叫んだのです。砂をかいたら水のような
ものを見たという意味でしょうか。この模様は、日本でも衛星中
継で放映されていたのですが、一瞬のことであり、通訳は飛行士
のことばを訳さなかったというのです。
 この小さな "事件" を私はある本で知ったのですが、インター
ネットなどをくまなく探した結果、ウラはとれませんでした。し
かし、そういうことは実際にあったようです。
 ここではっきりさせておきたいのは、月では地球で見られるよ
うな水は存在しないということです。というのは、もし、月の表
面で、水を一滴垂らしたら、たちまち気体分子になって自由に飛
び回り、月を脱出して宇宙空間に飛び去ってしまうからです。そ
ういう意味で、月には「水がない」とされているわけです。
 しかし、月の南北極には一年中、陽が射さない「永久影」領域
があり、ここならば、水は「氷の状態としてならば」存在するこ
とができるという説があるのです。
 月の裏側の写真撮影に成功したのは、旧ソ連が先なのですが、
月の裏側には、一見湖を思わせるようなクレーターが存在すると
いわれています。このクレーターのことを「ツォルコフスキー・
クレーター」といっています。これについては、添付ファイルの
写真Aをごらんください。
 確かにこれを見ると湖のように見えますが、写真を拡大してみ
ると、クレーターの内部にもクレーターらしきものがあり、液体
ではあり得ないのです。強いていうなら、月の内部に巨大な氷の
塊のようなものがあって、それが地上にしみ出していると考える
ことはできます。
 転んで砂に手をついた宇宙飛行士が見た水とは、地下の氷が溶
けてしみ出したものではないでしょうか。
 ここで考えていただきたいことがあります。
 それは、添付ファイルのもうひとつの写真B――宇宙飛行士の
足跡を、です。もし、月に大気も水もないのであれば、月の砂は
乾いた砂であり、足跡は残りにくいはずです。これは地球上でも
乾いた砂の上を歩いて見ればすぐわかることです。体重分だけ、
砂は窪みを作りますが、しばらく経つとその足跡は消えてしまう
ではありませんか。
 しかし、月面の飛行士の足跡は、少し湿っている土の上につい
た足跡のように見えないでしょうか。月の内部にある氷の塊から
やはり水がしみ出している結果なのでしょうか。
 それでは、月の内部には、どのような状態で氷が存在するので
しょうか。一般的な意見としては、地球の両極地方にある永久凍
土のようなかたちで存在するというものです。
 この意見に対して、月の内部の氷は、月の構造そのものに深く
かかわっており、地殻を形成しているのではないかという大胆な
意見もあるのです。つまり、月の地殻は岩石でできているのでは
なく、氷そのものでできているというのです。
 実は、氷の地殻をもった天体は、別に珍しくないのです。天王
星、海王星、冥王星は、すべて氷の地殻を持っていることが明ら
かになっています。確かに表面上は岩石層がありますが、大部分
の地殻は氷であり、その内部には膨大な熱水をもっているといわ
れているのです。
 氷の地殻をもつのは惑星だけではなく衛星の中にもあります。
とくに木星の数ある衛星のいくつかは、氷の地殻をもつことがわ
かっています。
 そういう氷の地殻をもつ木星の衛星のひとりに「エウロパ」と
いうのがあります。このエウロパの赤道半径は1569キロであ
り、月の赤道半径1738キロに非常に近いのです。ですから、
地球の衛星である月の地殻が氷でできていても別に不思議はない
のです。しかし、これはかなり大胆な説とされています。
 木星の衛星のひとつエウロパについてもう少し書きましょう。
エウロパは、氷の地殻の下に膨大な量の水を抱えているのです。
天王星や海王星についても同じことがいえるのです。しかし、月
の場合、内部がどうなっているのでしょうか。
 実は、アポロ計画の目的のひとつに月の内部構造の調査という
のがあったのです。実際にNASAは、アポロ計画を通して熱心
にこの調査をやっています。それでは、どのようにして、月の内
部構造を調べたのでしょうか。
 地球の内部構造であれば、何はともあれ掘ってみることによっ
て解明できますが、月面に重量の大きい掘削機やショベルカーを
運ぶことは不可能です。なぜなら、宇宙船は徹底的に軽量化が要
請されるからです。
 この問題は簡単に解決できたのです。掘らないでも内部構造を
調べる方法があるのです。スイカの中身を調べるとき、コンコン
とたたきますが、この原理をNASAは採用したのです。
 それでは、どうやって月をたたくのでしょうか。ひとつだけ考
えられる方法は、地震を起すことです。しかし、月では自然な地
震はほとんど起こらないので、人工的に地震を発生させて調べる
ことにしたのです。
 そういえば、NASAはアポロ計画において、月面での地震の
調査をかなり熱心にやっています。地震によって発生する地震波
を分析して、地質の状態を推測するわけです。NASAは、これ
によって得られた情報を公表していませんが、すでに月の内部の
状況を把握していると考えられます。

993号.jpg
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2002年11月25日

月の地震は異常に長く震動する(EJ994号)

 今朝も月の話です。月の内部構造がどうなっているかを調べる
方法として、NASAは月の地震――「月震」を観測すればよい
と考えたのです。しかし、月ではめったに地震は起きない。それ
なら、人工的に地震を起こせばよい――NASAはアポロ計画の
中でこの実験をやることを決めたのです。
 それでは、具体的にどうやって人工地震を起こすかです。それ
は、宇宙船の構造を利用すれば十分可能です。どういうことか説
明しましょう。
 月の軌道上で、月面を探索する宇宙飛行士は月着陸船(LM)
に乗り移り、宇宙船は月着陸船を司令船(CSM)から切り離し
て月面に着陸させます。月面での探査が済むと飛行士は月着陸船
に戻り、月着陸船はエンジンを吹かせて自力で月面から上昇し、
司令船とドッキングする――こういうように作られています。
 あとは宇宙船で地球に帰還するだけですから、月着陸船自体は
必要なくなります。地球に無事に帰還するにはなるべく軽い方が
よいからです。したがって、月着陸船が月面探査を終えて宇宙船
とドッキングして飛行士が司令船に乗り移ったら、その月着陸船
を月面に落とせば相当大きな人工地震を起こすことができると考
えたのです。
 これを実際に実行したのはアポロ12号からです。1969年
のことです。アポロ計画では、次の4ヶ所に高感度な地震計を設
置しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        1.静かの海
        2.フラマウロ台地
        3.嵐の大洋
        4.ハドレー・アペニン地域
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 アポロ12号は、宇宙飛行士を司令船に回収したあと、月着陸
船を切り離し、それを「嵐の大洋」に落として人工地震を起こす
ことに成功したのです。史上初の人工月震というわけです。
 実験は成功し、月に設置した地震計からデータが地球に流れて
きたのです。しかし、その地震波は、地球上の地震のそれとは大
きく異なっていたのです。
 普通の地震は、震源地を中心として初期微動が観測され、ピー
クに達したあとは急速に減衰するのです。一回の単発型地震では
時間は平均して1分程度です。しかし、月の地震波は誰も予想し
なかった波形を描き出したのです。
 最初の微動からピークに達するまでは地球の地震と同じですが
いったんピークに達すると、その波動は長時間維持され、あとは
ゆっくりと消えていくというスタイルをとったのです。そして、
その揺れは実に55分以上も続いたのです。
 事故を起こして奇跡の生還を遂げたアポロ13号は、月には着
陸できませんでしたが、人工地震の実験はやっています。13号
は、月の軌道まで持っていくことになった第3段ブースター部分
を切り離してそれを月面に落とし、人工地震を起こしたのです。
 落下時点は「嵐の大洋」の地震計から140キロ地点、地震の
規模はTNT火薬で、約11トン相当の衝撃だったのです。この
ときの地震の揺れは実に3時間20分に及んでいます。驚くべき
長さであるといえます。
 というのは、もし、地球上でTNT火薬11トン分を爆発させ
た場合、揺れはせいぜい1分を超える程度であり、震動範囲は爆
発地点より3キロ以内といったところなのです。それが月では3
時間を超えるのですから、地球と月の大きさの差を割り引いたと
しても、明らかに異常なほど長い揺れといえます。NASAは、
続くアポロ14号とアポロ15号でも、同じ実験をやっています
が、いずれも月は3時間以上にわたって震動を続けたのです。
 「月の内部構造に原因がある」――NASAはある仮説を立て
たのです。最近になってNASAは、月の数あるクレーターのひ
とつである「ジョルダーノ・ブルーノ・クレーター」に対して、
ある実験を試みたのです。
 ジョルダーノ・ブルーノ・クレーターというのは、1178年
6月25日に巨大な隕石が月面に衝突してできたクレーターであ
るといわれています。今から820年以上も前のことです。
 NASAは、このクレーターに対して「レーザー光発射法」と
いう最新の技術を使って月震を観測してみたのです。この最新技
術を使うと、ごくわずかな月震でも正確に観測することができる
というのです。
 結果はどうであったかというと、驚くべきことに震動はわずか
ではあるが、まだ続いていたというのです。月に隕石衝突のよう
な激しい衝撃が加えられると、800年以上も震動は消えないと
いうことになります。つまり、月面に大きなクレーターを作るほ
どの衝撃が加えられると、規模にもよるが、その震動が完全に収
まるのに800年以上を要するという実験結果だったのです。
 この実験は、NASAのブレインの一人であるカール・セーガ
ンという科学者によって行われたのですが、彼は、現在の月で起
こっている振幅3メートルで3年という長い周期で震動を続ける
「秤動」(ひょうどう)と呼ばれる現象も、12世紀頃に月面に
激突した小惑星によって起こった月震の名残りであると指摘して
いるのです。
 ところで、月ではどうして地震が起こると、このように長く震
動が続くのでしょうか。
 大胆に、ごく簡単に考えてしまえば、ちょうど鐘のように外側
が非常に固く、内部が空洞になっている――そうであれば、震動
は長く続くはずです。
 そうすると、月の内部は空洞になっているのでしょうか。
 現代の天文学では明確にその考え方を否定しています。月の地
表から150キロまでは固い岩石から成る地殻があり、その下、
約1090キロにわたって高温のマントル、そして月の中心まで
の約500キロはコア――コアは主にニッケルや鉄などの重い元
素からなる液体の金属核から成っているというのです。

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2002年11月26日

月はなぜ同じ面を地球に向けているか(EJ995号)

 月のことについて調べていますが、不思議なことがあまりにも
たくさんあるので驚いてしまいます。月は、人間がはじめて降り
立った(?)天体であるのに、まだ、ほとんどのことがわかって
いないのです。それにしても、人間はどうして月に行くのをやめ
てしまったのでしょうか。
 一般的には月の構造は地球と同様に固体が中心を占める天体な
のですが、その密度は地球に比べるとかなり小さいのです。1立
方センチ当りの密度で地球と月を比べると次のようになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      地球 ・・・・・ 5.5グラム
      月  ・・・・・ 3.3グラム
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 構造がほとんど同じ天体で、これだけの差は大きいのです。ま
して地球には大気があり、大気のある分密度が小さくなるもので
あり、これを考えると、月の密度の小ささは異常といえます。専
門家によると、これは月の内部に極端に密度が小さい部分がある
ことを意味しているというのです。
 昨日のEJで述べましたが、現代の天文学では月の内部構造は
次の3つの層から成るといっています。要するに、月の内部は空
洞などではないといっているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  第1層:地表から約150キロ ・・・ 固い岩石の地殻
  第2層:その下約1090キロ ・・・ 高温のマントル
  第3層:月の中心へ500キロ ・・・ 核(コア)部分
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここでいう月の第3層のコアの部分ですが、この部分は、主に
ニッケルや鉄などの重い元素から成る液体の金属核を形成してい
るといわれています。
 ここで重要な事実があります。それは月には「地磁気」がない
ということです。なぜ、地磁気がないのかという理由はわかって
いないのです。
 天体の内部が高温である場合、コアの部分も高温になります。
高温の液体でできているコアを持つ天体は、地磁気を帯びるので
す。地球も内部は非常に高温であり、地磁気をもっています。地
球は全体がひとつの大きな磁石であり北がS極になっています。
そのため、方位磁石のN極が北を指すのです。
 しかし、月に地磁気はないのです。月に地磁気がないというこ
とは、高温のコアがないということを意味するのですが、天体の
構造上、高温でないコアはあり得ないのです。したがって、「月
にはコアがないのではないか」ということを主張する学者も一部
にはいるのです。
 しかし、不思議なことに月の石には後天的に磁気を帯びたもの
があるのです。後天的に磁気を帯びるとは、もともと磁気を持っ
ていない針を磁石にこすりつけると、磁気を帯びるような現象を
いうのです。
 もともと地磁気がないはずの月の石が、磁気を帯びている――
これは、むかし月には地磁気があったことを意味しているのでは
ないでしょうか。つまり、月は、かつて高温のコアを持っていた
のだが、何らかの事情でそのコアがなくなってしまったのではと
考えられるのです。
 もうひとつ月の謎といわれているものがあります。それは、月
が地球につねに同じ側――表側を向けているということです。月
はその裏側をけっして地球に見せることはないのです。月の表面
とは、月の海のある方であり、その月の海の黒い部分が、「うさ
ぎ」などに見えるのです。
 天文学者の説明では、月は1回公転する間に正確に1回自転し
ており、自転・公転の向きが同じなので、いつも地球に同じ面を
向けているといっています。
 しかし、もともと自転と公転は、互いに独立した別々の現象な
のです。したがって、それらの速度が同じであるはずはなく、そ
うであれば、地球に対してつねに同じ面だけを見せるということ
には、ならないはずです。
 この疑問に対しては、月のかたちが完全な球形ではなく、大き
く膨らんだ部分があって、その面が地球の引力で地球の方に引っ
張られて、つねに地球に同じ面を向けているという説明があるの
です。ここでいう大きく膨らんだ部分とは月の表側のことであり
そこに巨大な金属の固まりのようなものがあって、それが地球の
引力に引きつけられている――つまり、起き上がりこぼしのよう
になっているというのです。
 ここで、「月の海」について調べてみる必要があります。もち
ろん、月の海といっても水があるわけではないのです。かつて水
があったという意味でもないのです。その部分の地質が黒い色を
しており、地球から見ると海のように見えるところから「海」と
呼ばれているのです。
 月の海は月の表側に多く、裏側にはほとんどありません。月の
海の80%は表側に集中しているのです。アポロ計画では、月の
海の解明には力を入れています。というのは、月着陸船の着陸地
点にはすべて月の海を選んでいるからです。
 アポロ計画の調査によると、月の海の成分は基本的には火成岩
のひとつである玄武岩で構成されています。玄武岩とは、溶岩が
固まった岩のことです。
 それに注目すべきは、玄武岩のほかに「レアメタル」という非
常に珍しい金属が大量に含まれていることがわかったのです。こ
のレアメタルという金属は、地球上ではほとんど発見されること
はない金属なのです。
 レアメタルというのは、ウラン、カリウム、トリウム、ニオブ
タンタル、ベリリウム、ジルコニウム、イットリウム、チタンな
どの物質です。これらの物質は通常天体の内部深くに存在するも
のなのですが、それがなぜか、月の海の表面に大量に存在するこ
とが判明したのです。

995号.jpg
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2002年11月27日

月のクレーターはなぜ浅いのか(EJ996号)

 「アポロは月に行ったのか」という話から、月そのものに話が
移っていますが、別にこれから天文学の話を詳しくやろうという
わけではないのです。やがて、現在述べている月の事実が、ある
興味深い、驚くべき事実に結びついてきますので、もう少しお付
き合いください。
 「マスコン」ということばがあります。「質量集中地帯」とい
う意味です。月には、隕石が衝突してできたとされるクレーター
がたくさんありますが、どうやら月の海やこれらのクレーターは
マスコンになっているのではないかといわれているのです。
 最初に、これがわかったのは、ルナ・オービターという月の探
査船が月の軌道を周回していたときです。月探査船が月の海の上
にきたとき、探査船が月面からの強い力に引っ張られて、少し落
下したのです。これは他の月の海でも同様の現象が見られたので
す。なぜ、このようなことが起こるのでしょうか。
 これは、月の海の部分がマスコン、すなわち、質量集中地帯に
なっていて、大量のレアメタルがぎっしり詰まっていると考えら
れるのです。そのため、このエリアの重力が他のエリアの重力よ
りも強い重力異常の状態になっているので、月探査船が強く月面
へ引っ張られたというわけです。
 既に述べたように、月の海の80%は月の表側にあります。し
たがって、月の表側全体が重力異常の状態になっていて、これが
起き上がりこぼしの重石の役割をすることにより、月はつねに地
球にその表側のみを見せることになるのです。
 さらに、これに地球の潮汐作用が加わるのです。地球の海が満
ち潮になったり、引き潮になったりすることも月が自転しようと
する動きに対して影響を及ぼすのです。
 具体的には、月の自転を最小限の回数に抑えようとする働きが
加えられるのです。その結果、月は1回の公転に対して1回の自
転という最小限の回転になっているのです。添付ファイルAに、
簡単な図をつけておきます。
 天体望遠鏡で月を見ると、円形のデコボコが多数あるのがわか
ります。これをクレーターというのですが、現在の解釈では、隕
石の衝突によってできたものとされています。
 もちろん、クレーターは地球にもできます。隕石が地球に衝突
した場合、その隕石の大きさに応じてクレーターの広さと深さが
きまるのです。
 ところが、月のクレーターにはこの常識は当てはまらないので
す。隕石の大きさによって、クレーターの広さは大きくなるので
すが、深さについては約6キロと一定なのです。月面の有名なク
レーターの例を示します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ガガーリン・クレーター ・・・・・・・  直径298キロ
 マーレ・オリエンターレ・クレーター ・ 直径1300キロ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これらの巨大なクレーターもごく普通の大きさのクレーターも
深さはハンコで押したようにいずれも6キロなのです。巨大なマ
ーレ・オリエンターレ・クレーターを作った隕石の直径は60キ
ロはあったと推定されますが、この大きさの隕石が地球上に落下
すると、最低でも100キロの深さのクレーターができることに
なるのですが、月ではたったの6キロの深さなのです。
 なぜ、このような奇妙なことになるのでしょうか。
 その謎を解くカギは木星の衛星のひとつ「エウロパ」にあるの
です。エウロパは、赤道半径1569キロであり、月のそれと少
し小さいぐらいの、ほぼ同じ大きさの衛星なのですが、氷の地殻
を有しているのです。実は、エウロパのクレーターも深さは大変
浅いのです。
 エウロパ以外の木星の衛星――ガニメデやカリストについても
クレーターは浅く、その深さは一定なのです。木星だけではない
のです。土星の衛星――テチスやエンケラドスのクレーターも、
まるで測ったかのように深さは一定なのです。
 これらの衛星に共通していることは、すべてが氷の地殻を有し
ていることなのです。そうであるとすると、クレーターが浅く、
深さが一定である月も、氷の地殻を持っているということになる
ではありませんか。
 それでは氷の地殻を持っていると、なぜクレーターは浅くなっ
てしまうのでしょうか。
 隕石が氷の地殻を持つ天体に衝突したとします。そうすると、
氷の地殻には大きな穴があき、波紋のように亀裂が上下左右に走
ります。クレーターの中心では、衝突のエネルギーによって、高
温の熱が発生し、大爆発を起すのです。
 地殻が岩石層であるならば、この段階で広さに比例した深いク
レーターができるのです。実は氷の地殻を持つ天体でもこの段階
で深いクレーターができるのです。
 しかし、氷の地殻の場合、発生した熱で氷が溶けて水となり、
クレーター内部に侵入してくるのです。そして、いったんは湖の
ようになるのです。ところがその水もすぐ凍ってしまいます。
 さて、氷の地殻を持つといっても表面には若干の岩石層もある
ので、その岩石層のわずかな窪みができます。そして、クレータ
ー内部の平坦な地形を形成するのです。
 アポロ計画による月震の調査によると、月面から深度24キロ
ぐらいまでは、地震波は徐々に速度を増していき、その先になる
と一挙に速度が加速されます。そして、さらに進むと、減衰する
ことがわかっています。
 月面から深度24キロまでは固い金属の層があり、そこから先
24〜72キロまでは氷の地殻なのです。だから、地震波の速度
が異なるのです。そこから先は・・・・、本来はコアがあるはず
ですが、実は何もなく、空洞になっているのではないかというこ
とが推測されるのです。
 しかし、最初から空洞だったわけではなく、昔は中心部に岩石
層に囲まれたコアがあり、周りには高圧熱水層があったのです。

996号.jpg
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2002年11月28日

太古の月はどういう構造をしていたか(EJ997号)

 これまでの月の分析で、いろいろなことがわかってきたと思い
ます。その中で、「月の海」と「クレーター」には、次の事実が
あることがわかっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1.月の海の80%は月の表側に存在する。
   2.クレーターはほとんど裏側に存在する。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 クレーターというのは、隕石の衝突によってできたものと考え
られています。それが、月の裏側に集中しているということは何
らかの事情で、月の裏側に集中して隕石が降り注いだということ
を意味しているのです。
 月の海は、何らかの事情で月の内部が破壊されて、月のコアを
形成していた大量の金属物質が月面に移動してできたと考えられ
るのです。つまり、コアを形成していた金属物質がいったん溶け
て溶岩状になったものが月の海になったというのです。
 このことは、アポロ宇宙飛行士が持ち帰った月の石――月の海
の溶岩である――を分析した結果判明したことなのです。当時の
ニューヨーク・タイムス紙は次のように報じています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 自然形態では存在できない物質が、月の岩石中に多量に含まれ
 ていた。G.E社では月の石の中に純粋な鉄粒子を発見、ソビ
 エトのゾンド16号で持ち帰ったサンプル中にも発見された。
 これについて科学者は、自然に存在することはもちろん、製造
 することすら不可能で、なんらかの製造過程抜きには考えられ
 ないので、その事実を疑っている。――1970.1.7付、
 ニューヨーク・タイムス紙より。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この点についてもう少し詳しく述べると、自然形態では存在し
えない物質――ウラニウム236、ネプチニウム237が月の岩
石中に大量に含まれていることがわかったのです。
 これらの物質の特徴は「融点が非常に高い」ということです。
したがって、これらが溶岩状になるには、少なくとも摂氏400
0度以上の超高熱が必要になるのです。このことから、月の内部
で、相当大きな爆発が生じて、そのときの熱がそれらの融点の高
いレアメタルを溶かして溶岩状にしたのではないかと推測されて
いるのです。
 現在の月の構造を見る限り、かつて月の内部で何らかの大爆発
が起こり、コアの部分がなくなってしまったと考えられます。し
かし、コアの部分がなくなるほどの爆発とは何でしょうか。それ
は尋常の規模の爆発ではないはずです。
 この問題を考えるに当って、そういう爆発が起こる前の月は、
どういう構造をしていたのかについて、検証してみる必要がある
と思います。この問題を解くカギとなると思われる天体は、木星
の衛星であるエウロパです。
 木星というのは、どういう惑星かご存知でしょうか。木星には
次の4つの衛星があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       1.イオ     3.ガニメデ
       2.エウロパ   4.カリスト
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これらの衛星は、いずれも明るく、そこにできるクレーターは
いずれも浅いのです。その理由は、既に述べたように氷の地殻を
もっているためです。月も氷の地殻をもつ天体であると考えられ
ます。ちなみに、地球から見たときの明るさを比較すると、それ
らはいずれも、明るい天体といえます。
 地球から見て、6等星以上の明るさをもつ天体は全部で12あ
りますが、木星の衛星はその中にすべて入っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       1.太陽     7.土星
       2.月      8.ガニメデ
       3.金星     9.イオ
       4.木星    10.エウロパ
       5.火星    11.天王星
       6.水星    12.カリスト
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 結論からいうならば、かつての月は、木星の衛星であるエウロ
パ、ガニメデ、カリストなどと同じ構造をしていたものと推定さ
れるのです。これらの天体の表面は、まるでガラスに入ったひび
のような割れ目が多数見られるのです。このことから、これらの
天体の地殻が氷でできていることがわかります。
 ちなみに、木星の4つの衛星のうちイオについては、NASA
が打ち上げた太陽系探査船ボイジャー1号と2号によって、活発
な火山活動が認められています。
 とくにエウロパは大きさが現在の月とほぼ同じであり、一番共
通性があるといわれています。エウロパの地殻の厚さは約70キ
ロであり、すべて氷からできているといわれています。そして、
その下には約100キロにわたって水のマントル――つまり、熱
湯の状態で水のマントルがあるというのです。
 これがガニメデやカリストになると、氷の地殻や水のマントル
の厚さはもっと巨大になります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        氷の地殻の厚さ    水のマントル
   エウロパ    70キロ     100キロ
   ガニメデ   100キロ 400〜800キロ
   カリスト   200キロ    1000キロ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そして、これらの天体は、中心部分に重い元素から成るコアを
有しているのです。月についてもほぼエウロパと同じ構造をして
いたと推測されます。なにしろ月は、太陽に次ぐ明るさであり、
昔の月は、今の月を上回るきれいさであったと考えられます。

997号.jpg
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2002年12月18日

ウィーンにおけるオザワの評価(EJ1011号)

 EJ966〜977までの12回は、「アポロは月に行ったの
か」というテーマを取り上げ、991〜997の7回は「月」、
さらに998〜1010までの13回は「地球→ノアの洪水」の
話をしてきました。「ノアの洪水」の謎を解く3つの理論のうち
バーネットの「地球の理論」、ウィストンの「地球の新理論」は
説明を終りました。あとは、高橋実氏の理論「灼熱の氷惑星」の
説明が残っています。
 アポロの話から「ノアの洪水」までの話は、すべてつながって
おり、これからもかなり続きます。しかし、2002年中のEJ
の配信も今日を含めてあと7回しかありません。そういうわけで
今朝から年末年始にふさわしいテーマをお送りし、そのあと再び
宇宙シリーズの話に戻りたいと思います。
 年末年始になると、きまって話題になるのがウィーン・フィル
というオーケストラです。元旦の夜には、NHKテレビでニュー
イヤーコンサートが放映されることも、このオーケストラが年末
年始に話題になる原因でもあります。
 まして、今年の元旦は、小沢征爾がニューイヤーコンサートの
指揮者として初登場したこともあって、例年以上にウィーンフィ
ルが話題になった年でもあったのです。
 ウィーン・フィルに関する本も多数出版されていますが、中で
も、現在、音楽プロデューサーとして活躍しておられる中野 雄
(たけし)氏の著作『ウィーン・フィル/音の響きの秘密』(文
春新書279)は、ウィーン・フィルに関する情報満載の好著で
あるといえます。
 ところで、今年のウィーンの秋の音楽の話題は「オザワ」一色
であったようです。小沢征爾が国立歌劇場の音楽監督として指揮
した初のオペラは、ヤナーチェク作曲の『イエヌ−ファ』だった
のですが、これが大好評だったからです。
 今年のニューイヤーコンサートのオザワの指揮ぶりについては
EJでも取り上げた通り、大変見事な演奏だったのですが、日本
国内の批評家や演奏家によると、賛否両論に分かれるのです。
 EJでも取り上げた音楽評論界の大御所的存在である吉田秀和
氏は、2001年のニューイヤーコンサートに登場したニコラウ
ス・アーノンクールの指揮はつまらないと切り捨てたうえで、オ
ザワの指揮を絶賛しています。しかし、ウィーン・フィルの方は
このアーノンクールを大変高く評価しており、2003年のコン
サートはアーノンクールに決まっているのです。
 昨年のニューイヤーコンサートを現地で聴いたピアニスト西野
真由さんは、次のようにいっているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  現地で聴いたのですが、アーノンクールとウィーン・フィル
 のコンビには、匂い立つような気品が感じられました。小澤さ
 んの指揮には、テレビで見た限りですが、あの気品は備わって
 いないみたい・・・/西野真由さん
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 今年のニューイヤーコンサートのリハーサルのときの秘密の情
報があります。オザワは、ワルツ独特の微妙な揺れがうまくでき
ずに、テレビが入っていない日は、一曲終るごとにコンサートマ
スターを隅っこに呼んで、険しい表情で指導していたそうです。
とても険悪なムードで、廊下でオザワとすれ違った団員も肩をす
くめる始末だったようです。本番の指揮者と団員の和やかなムー
ドからは信じられないような話ですね。
 ヨハン・シュトラウスの作ったウインナワルツのリズムは、演
奏のさい、2拍目が微妙に長くなるのだそうです。楽譜には4分
音符が3個並んでいるだけなのですが、あれを楽譜に忠実に演奏
したら、ウィンナ・ワルツにならないし、少なくともヨハン・シ
ュトラウスの音楽にはならないのです。オザワはそれに悩んでい
たのではないでしょうか。
 中野氏によると、今年のニューイヤーコンサートの最大のでき
は、ワルツ「ウィーン気質」だというのです。この曲は、オザワ
の強い要望で加えられたプログラムだったそうです。
 中野氏が何をもって「最大のでき」と判定したのかというと、
この曲の終了後、オザワと握手を交わしているコンサート・マス
ター、ライナー・キュッヒルの表情がとても満足しているように
見えたからといっているのです。キュッヒルという人は、なかな
かこんな嬉しそうな顔はしない人だそうです。
 中野氏は、ウィーン・フィルのメンバーととても親しく、実際
に会って話す機会も多いので、そういうことがいえるのです。確
かに、DVDで確認してみると、キュッヒルは嬉しそうな表情を
浮かべています。映像時代の音楽鑑賞は、こういうことがあとか
らできるので、便利なのです。
 中野氏がこのライナー・キュッヒルにインタビューしたとき、
「良い指揮者とは、どういう指揮者をいうのですか」と聞いたの
です。そうしたら、キュッヒルは間髪を入れず、こう答えたとい
うのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   私たちの音楽を邪魔しない指揮者のことをいいます
             ――ライナー・キュッヒル
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 とにかく、ウィーン・フィルというオーケストラは誇り高いの
です。実際にそうであったかどうかは闇の中ですが、今年のニュ
ーイヤーコンサートのリハーサルにおいて、ウィーン・フィル対
オザワは、決裂寸前までいったようなのです。中には、次のよう
な激しいことばも裏では囁かれたというのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 古いウィーンの町。そこで暮らした人々の哀歓が染みついたア
 パートの壁紙とカーテン。そんなシミの意味も理解できないよ
 うな男にシュトラウスの音楽が振れてたまるか!
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 明日もウィーン・フィルについての話題です。
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2002年12月19日

ウィーン歌劇場は伏魔殿である(EJ1012号)

 小澤征爾の正式な職名は、「ウィーン国立歌劇場音楽監督」と
いうものです。これと、ウィーン・フィルハーモニー(以下、ウ
ィーン・フィル)とはどういう関係にあるのでしょうか。
 ウィーン・フィルのメンバーは、すべてウィーン国立歌劇場の
楽団員です。もっと、具体的にいうと、ウィーン国立歌劇場付属
の管弦楽団なのです。いうまでもないことながら、演奏する曲は
オペラに限られます。
 しかし、世界有数の演奏家たちを抱えるオーケストラですから
オペラしか演奏しないのはあまりにも、もったいない話です。そ
こで、オペラ以外の曲も演奏することになり、そのときだけ、オ
ーケストラの名前をウィーン・フィルハーモニーと名づけること
にしたのです。
 しかし、このオーケストラ――本当に超保守的にして、超閉鎖
的なオーケストラなのです。それは、「自分たちのスタイル」に
非常に強いこだわりを持っているからです。
 その「自分たちのスタイル」をあらわすのが、次のような基本
ルールの存在です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.音楽監督や常任指揮者を置かない
  2.ウィーン音楽院出身の演奏家しか採用しない
  3.女性演奏家は採用しない
  4.使用する楽器は、オーストリア製のものを貸与する
  5.現在のメンバーに直接指導を受けたものを採用する
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これらの基本ルールは、長い年月の間に少しずつ崩れてはいま
すが、基本線は守られているのです。
 このように書くと、「音楽監督を置かないといっているけど、
オザワがいるじゃないか」と不審に思う人もいるかも知れません
ね。ややこしい話なのですが、小澤征爾はウィーン歌劇場の音楽
監督であって、ウィーン・フィルの音楽監督ではないのです。し
かし、メンバーは同じなのですが・・・。
 ですから、ニューイヤーコンサートの指揮者選びなどについて
は、オザワには何の権限もないのです。このことをアタマに置く
と、このオーケストラの性格がよくわかると思います。
 このたびオザワが手にしたウィーン国立歌劇場音楽監督という
地位がどのような地位であるか――少していねいに検証してみる
ことにしましょう。
 歌劇場にはランクがあります。音楽関係者に聞くと、必ず次の
2つをあげます。歌劇場の双璧というわけです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.ウィーン国立歌劇場 ・・・ ドイツ・オーストリア
 2.ミラノ・ スカラ座 ・・・ イタリア
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 もちろん、これに異論のある人もいて、次のどちらかを加えて
3大歌劇場とすべきだという人もいます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 3.コヴェントガーデン国立歌劇場 ・・・ イギリス
 3.メトロポリタン歌劇場 ・・・・・・・ アメリカ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、歴史と伝統、音楽監督、指揮者、演出家の顔ぶれ、登
場した歌手たちのレベルという要素を勘案すると、「首位が2つ
あって3位なし」ということになってしまうのです。
 ドイツ・オーストリアには、モーツァルト、ワーグナー、リヒ
ャルト・シュトラウスなどの名作がめじろ押しであるし、イタリ
アは、ロッシーニ、ヴェルディ、プッチーニをはじめとして、綺
羅星のごとく有名な作曲家群がいるのです。これには、イギリス
やアメリカも対抗不能です。
 ドイツ・オーストリア、イタリアは、それぞれの母国語のオペ
ラだけでもプログラムが組めるのです。それに加えて、ドイツに
しても、オーストリアにしても、イタリアにしても、優れた客層
――質の高い鑑賞眼を持ち、優れた耳を持つ客層がおり、それに
公正な評論家とそれを正しく伝えるメディアが、歌劇場の水準の
維持、向上に貢献しているのです。
 この点日本にはオザワのような傑出した音楽家はいるにしても
肝心の客層が育っていないことを痛感します。これは、私がクラ
シック・コンサートに通い出してから、40年以上になりますが
いつも痛ずることです。
 このように考えると、ウィーン国立歌劇場は、ミラノ・スカラ
座とともに歌劇場の双璧であるといえるでしょう。オザワは、そ
の一方の音楽監督なのです。これは、大変な地位であるとともに
その地位を維持し、長く続けるのがいかに大変であるかは歴史が
物語っているのです。
 ウィーン国立歌劇場の音楽監督の地位に就いた指揮者を上げる
と、グスタフ・マーラー、ワインガルトナー、シャルク、リヒャ
ルト・シュトラウス、クレメンス・クラウス、ベーム、カラヤン
マゼール、アバドなど、指揮界の巨匠の名がずらりと出てくるの
です。しかし、ほとんどは、ごく短期間でその名誉ある地位を投
げ出し、あるいは放逐されているのです。それほど、この地位を
守り抜くことは難しいのです。
 この中にあって、もっとも長くその地位にあり、帝王といわれ
たあのカラヤンでさえ、「二度とこの街で指揮棒をとるつもりは
ない」という捨て台詞を残して、ウィーン国立歌劇場音楽監督の
座を降りているのをみても、オザワの手に入れた地位の維持は難
しいのです。
 日本の外務省のことではありませんが、歌劇場は「伏魔殿」と
いわれています。中野氏の表現によれば、権力と金と、愛欲の色
模様が華やかな舞台裏に展開し、指揮者、演出家、歌手などが芸
術家人生を賭けて競う合う場――まるでオペラそのもの――であ
るからです。しかし、私はオザワが何かをやってくれることを信
じてはいますが・・・。

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2002年12月20日

オーケストラが指揮者を拒否する事件(EJ1013号)

 昨日のEJで述べたように、オザワはウィーン国立歌劇場の音
楽監督ですが、ウィーン・フィルにとっては、単なる客演指揮者
に過ぎないのです。したがって、たとえオザワであってもウィー
ン・フィルが演奏を拒否することはあるのです。もちろん、そん
なことをすれば、人間関係は一気に悪化してしまいますが・・。
 ウィーン・フィルほどの一流オーケストラになると、指揮台に
立つ音楽家の、現在の実力を瞬時に見破ってしまいます。彼らに
対しては、過去の名声や地位はまったく通用しないのです。した
がって、高名な巨匠といえども、ウィーン・フィルの指揮台に立
たせてもらうためには、今日の自分の実力が昨日のそれと同じで
あってはならないのです。大変な勉強が必要なのです。
 ウィーン・フィルのコンサート・マスターであるライナー・キ
ュッヒルは、「あの人は勉強しなくなった。だからもう招(よ)
びません」とよくいうそうです。ウィーン・フィルを振るという
のは、それほど難しいのです。
 ウィーン・フィルの演奏拒否事件としては、1869年の「ブ
ラームス事件」が有名です。ブラームスは、1862年にハンブ
ルグからウィーンに移住してきたのです。
 当時ウィーンは、フランツ・ヨーゼフ一世が軍部の強硬な反対
を押し切って城壁を撤去し、首都の再開発を行っていたのです。
宮廷歌劇場(現在の国立歌劇場)をはじめ、豪壮華麗な公共建築
物が次々と建築され、街全体が活気にあふれていたのです。
 ブラームスは、移住の翌年にはウィーン・フィルと演奏会を行
うなど、ウィーンで上々スタートを切っています。この演奏会で
ブラームスが取り上げたのは自身の2つの「セレナード」――第
1番ニ長調と第2番イ長調の2つです。これを皮切りにブラーム
スは、着実にその評価を高めていきます。
 しかし、ウィーンへの移住7年目の1869年12月のコンサ
ートで、ブラームスは再び「セレナード第1番ニ長調」を取り上
げようとします。ところが、ウィーン・フィルの数人の楽員がリ
ハーサルのさい、「こんな作品は弾きたくない」と拒否宣言をし
たのです。
 ブラームスは激怒し、ウィーン・フィルとの契約解除を宣言し
ます。しかし、中に入った人たちの努力によって決裂はまぬがれ
コンサートは無事に終了したのです。ブラームスにして、この有
様ですから、多くの著名な音楽家も似たような目にあっているの
です。練習再開に当ってブラームスは、楽団員に対して次のよう
にいったそうです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 あなた方は私の作品の演奏を拒否されました。あなた方が私の
 曲をベートーヴェンのそれと比較してそのようなことをおっし
 ゃるなら『あのような高さにある作品は二度と創造されること
 はないであろう』と申し上げるしかないでしょう。しかし、私
 の作品は、私のベストを尽くした芸術的信念から産み出された
 ものです。この曲が、あなた方の演奏に値いしないものではな
 いことを、ぜひ、お解りいただきたい――ブラームス
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 18日夜、NHKテレビでベートーヴェンを取り上げていまし
たが、この当時すでにベートーヴェンの評価は絶対的だったので
す。ブラームスは、そのベートーヴェンが名作を書き続けた同じ
ウィーンで、作曲家として個を確立するのは大変だったと思いま
す。そのプレッシャーからか、ブラームスは、ベートーヴェンが
得意とするピアノ・ソナタや弦楽四重奏の分野では、名作を生み
出せていないといわれています。
 このように、ウィーン国立歌劇場や、ウィーン・フィルという
オーケストラは、指揮者にとって大変やっかいで扱いにくいオー
ケストラなのです。音楽家といっても、オケの楽員は昔かたぎの
職人であり、頑固一徹者が多いのです。指揮者はそういう人たち
をまとめなければならないのですから大変なのです。
 ところで、実は小澤征爾も若いとき、演奏拒否の洗礼を受けて
いるのです。演奏拒否をしたのはウィーン・フィルではなく、N
HK交響楽団です。
 1962年6月、オザワは、N響と半年間の指揮契約を結んで
います。その当時オザワは、1959年にブザンソン国際指揮者
コンクールで優勝、1960年にはベルリンでヘルベルト・フォ
ン・カラヤンの弟子を選出するコンテストで優勝、同じ年の7月
には、タングルウッド音楽祭の指揮者コンクールに優勝、そして
1961年4月には、レナード・バーンスタインが率いるニュー
ヨーク・フィルの副指揮者に就任しています。
 N響との指揮契約もそういう実績をふまえてのものだったので
す。そして、1962年7月にはオリヴィエ・メシアンの「トゥ
ランガリラ交響曲」を作曲家立ち会いのもとでN響を指揮し日本
初演をやっているのです。
 この年の秋、オザワは、N響と東南アジア演奏旅行を行うなど
旺盛な活動を行ったのですが、なぜか楽員との対立が激化してし
まうのです。そして、遂にN響の楽員代表から成る演奏委員会が
「オザワとの演奏会や録音には今後一切協力できない」という申
し入れを事務局に提出する事態になってしまうのです。
 その後も話し合いは行われましたが、1962年12月に予定
されていたベートーヴェンの「第九」公演が中止に追い込まれ、
オザワとN響の関係は決裂してしまいます。きっと、オザワにも
問題があったのだと思いますが、N響も少し大人げないふるまい
といわれても仕方がないでしょう。何が原因なのか、今もってわ
かっていないのです。私は1958年にはN響の定期会員になっ
ていましたので、このことをよく覚えています。
 オザワが再びN響の指揮台に立ったのは、それから32年後の
1995年1月のことです。公演の一週間前に発生した阪神・淡
路大震災の犠牲者追悼、被災者救済の意味合いもこめられていた
のです。32年後の歴史的な和解のコンサートは、バッハの祈り
で始まり、バッハの祈りで閉じられたのです。

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2002年12月24日

オザワとウィーン・フィルの歴史(EJ1014号)

 今朝もオザワとウィーン・フィルの話です。今年もあと8日に
なってしまいました。EJは27日までお届けします。
 オザワがはじめてウィーン・フィルにデビューしたのは、19
66年8月のザルツブルグ音楽祭のときです。プログラムはシュ
ーベルトの交響曲第5番、シューマンのピアノ協奏曲(ソロはア
ルフレッド・ブレンデル)、ブラームスの交響曲第2番だったの
です。当時オザワは30歳の新進指揮者でした。
 ウィーン・フィルが新しい指揮者を起用するときは、いきなり
定期公演(年10回)に招くことはなく、とりあえずザルツブル
グ音楽祭でその実力のほどをテストするのがしきたりです。クラ
ウディオ・アバド、ズービン・メータも同様だったのです。
 これはウィーン・フィルに限ったことではないのですが、若い
指揮者はオーケストラから各種のいじめを受けます。わざと棒に
逆らった演奏をしてみたり、わざと間違えて反応を試してみたり
解釈に異議を唱えて指揮台で立往生させたり、いろいろやられる
そうです。伝統あるオーケストラにはそういう楽員が必ず何人か
いるのです。
 オザワは、1969年7月のザルツブルグ音楽祭で、ウィーン
・フィルを指揮してモーツァルトの歌劇「コシ・ファン・トゥッ
テ」を演奏しています。ウィーン・フィルとのオペラ初デビュー
です。しかし、このときは、声楽陣、演出・美術・衣装が冴えず
不評を買っています。これによって、オザワとウィーン・フィル
との関係は10年以上遠のくのです。
 1973年のシーズンからオザワはボストン交響楽団第13代
音楽監督に就任し、世界の音楽界での地位を向上させていったの
ですが、ウィーン・フィルを再び指揮したのは、1982年8月
のザルツブルグ音楽祭でのことです。このときは、ヨーヨー・マ
とハイドンのチェロ協奏曲第1番ハ長調、チャイコフスキーの交
響曲第4番などでした。
 そして、オザワとウィーン・フィルとの友好関係が完全に築か
れたのが、1984年5月のウィーン音楽祭での演奏なのです。
このとき演奏されたストラビンスキーの「春の祭典」が大きな賞
賛を博したからです。
 このときのオザワの逸話が伝わっています。オザワはウィーン
・フィルがかつて演奏した「春の祭典」のテープを繰り返し聴き
うまくいっていない部分を発見します。それは、ウィーン式管弦
楽器の構造や演奏者の不慣れに起因するそのオーケストラの泣き
所だったのです。
 オザワは、練習のさい、その部分から練習をはじめたところ、
ウィーン・フィルの楽員はそのオザワの下調べには舌を巻いたと
いわれます。そして、その結果、今でも語り草になるほどの歴史
に残る快演につながったのです。
 そして、1988年5月、オザワはウィーン国立歌劇場へのデ
ビューを果たします。作品は、チャイコフスキーの歌劇「エフゲ
ニー・オネーギン」です。この演奏も大成功で、ウィーンのオペ
ラ・ファンの間でオザワの評価は一気に上がったのです。
 このときオザワは、オペラの公演が終った深夜にザルツブルグ
に移動し、翌朝11時のベルリン・フィル・コンサートに備える
という超ハード・スケジュールをこなしています。
 そして、1989年の夏にカラヤンが亡くなるのです。カラヤ
ンはつねにオザワの良きアドバイザーとして、よく面倒を見てお
り、オザワはカラヤンを深く尊敬していたのです。カラヤン死す
との報が届いたとき、オザワはタングルウッド音楽祭で指揮をし
ていたのですが、オザワは1日だけザルツブルグに飛び、カラヤ
ンの追悼式に参加しています。そして、バッハの「アリア」を演
奏しているのです。
 カラヤンとオザワについてこんな話があります。1961年2
月にオザワははじめてベルリン・フィルを指揮しています。曲は
ブラームスの交響曲第1番だったのですが、その会場にはカラヤ
ンは姿を見せていたのです。
 演奏終了後、カラヤンはオザワを車で自宅に連れて行き、第1
楽章の冒頭から最終楽章のコーダまで、すべての小節について講
義をしたのです。「このフレーズは君の指揮に問題がある」とか
「これはオケがわるい」というように、すべての楽句、すべての
楽器について詳細に批評してみせたといわれます。その講義は、
実に3時間にも及んだのです。
 そして、1990年1月、ウィーン・フィルははじめてオザワ
を定期公演に招くのです。これは、オザワが名実ともにこのオー
ケストラからファミリーとしての待遇を得ることになったことを
意味しているのです。曲は、バルトークの「管弦楽のための協奏
曲」だったのです。
 ウィーン・フィルを初演して実に25年後にしてはじめて、ウ
ィーン・フィルはオザワを認めたことになります。そして、次の
年、1991年5月に、オザワとウィーン・フィルとの初レコー
ディングが行われます。曲はドヴォルザークの交響曲第9番「新
世界より」だったのです。ウィーン・フィルの場合、オケの方か
ら録音の申し入れが行われるのが普通のようです。
 レコーディングについては、不思議なことがひとつあります。
というのは、オザワは、ベートーヴェンとブラームスの交響曲全
集のCD録音をしていないことです。どうしてなのでしょうか。
 オザワがウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任した今年の9月
には、次期ベルリン・フィルの音楽監督が内定している英国生ま
れのサイモン・ラトルとウィーン・フィルによるベートーヴェン
の交響曲全集が発売されているのです。
 この企画はウィーン・フィルの方から提案があったそうですが
ラトルは「私でいいのか」と聞き返したといわれています。ラト
ルとしてはそれほど意外だったのでしょう。どうしてオザワには
そういう話がこないのでしょうか。それともオザワが時期を見て
いるのでしょうか。現在、CDショップでは、オザワとサイトウ
・キネン・オーケストラの「第9」が売れに売れています。

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2002年12月25日

まるで亡命音楽家のような小澤征爾(EJ1015号)

 ここまで主としてオザワとウィーン・フィルとの関係について
書いてきました。しかし、現在のオザワを語るに当って、29年
に及ぶボストン交響楽団との関係と、オザワが今一番大切だと考
えているサイトウ・キネン・オーケストラとの関係について述べ
る必要があると思います。27日までのEJはそのことについて
述べることにします。
 米国が、音楽の世界で、なぜ覇権を握ることができたのでしょ
うか。それは、1919年に起こったロシア革命、1930年代
にヨーロッパに覇権を確立したナチスとイタリアのファシズムを
抜きには考えられないことなのです。
 まず、ロシア革命を契機に故国を見捨てたロシアの著名な音楽
家が続々と亡命し、米国を第2の故郷として、そこに西欧のクラ
シック音楽を定着させるということが起こっています。
 名前をあげると、ストラヴィンスキー、プロコイエフ、ラフマ
ニノフ、クーセヴィツキー、ハイフェッツ、ホロヴィッツ、ルー
ビンシュタイン、ピアティゴルスキー――こういう音楽史に不滅
の名を刻むことになる巨匠・名人が続々と米国に乗り込んできた
のです。これは、大変な影響力であるといえます。
 それから1930年代には、トスカニーニ、ワルターといった
大指揮者、シェーンベルク、バルトーク、クライスラーなどの大
作曲家が米国にやってきて、終生の居を定めたのです。
 これらの大音楽家たちは各地のオーケストラに入団したり、音
楽大学などで教職に就くなどして、その影響力を徐々に拡大して
いったのです。そして、数十年を経て米国の地に、いわば「国籍
不明の音楽文化」を創り上げ、それが全世界的に大きな影響を及
ぼしていったのです。
 もし、日本の音楽家が1人も海外に行かなくなったとしても、
世界の音楽界には何の影響も与えないでしょう。しかし、世界の
音楽家たちが1人も日本にこなくなったら、日本の音楽界は数年
でダメになることは確実である――といった人がいます。幸いに
して、日本には世界の多くの音楽家がやってきますが、これは日
本の音楽界に多くの影響を与えているのです。亡命音楽家が米国
の音楽界に与えた影響はきわめて大きいのです。
 現在、米国――とくに北米では、どのような大都市でも原則と
してその都市を代表するオーケストラが1つ置かれ、その地域で
音楽に関心のある企業や市民の献金によってオーケストラは運営
されているのです。その点、東京やロンドンやパリなどのように
官民放送メディアなどの大スポンサーを持つオーケストラが乱立
している現状とは大きく異なるのです。
 ボストン交響楽団は、デビュー当時からオザワに目をつけ、高
い評価を与えていました。そして執拗にオザワの獲得に走ったの
です。その熱心さは異常ともいえるものだったのです。
 それに比べて日本の音楽界は、オザワに対してあまりにも冷た
かったといえます。1962年オザワと指揮契約を結んだN響は
オザワとトラブルを起こし、その年の12月の定期と「第9」の
公演を一方的にボイコットしたことは既に述べました。
 当時のN響は、日本のトップ・オーケストラであることを鼻に
かけ、きわめて官僚的だったのです。とくに新進気鋭の若手の音
楽家には厳しく当る傾向が強く、欧米のコンクールで優勝を連発
していたオザワには含むものがあったと思われます。
 「第9」は、上野の東京文化会館で行われる予定であり、オザ
ワは契約通り終演時間までN響を待ったのですが、N響の楽員は
誰一人として姿をあらわさなかったのです。
 これに対して、1963年1月15日、井上靖、三島由紀夫、
石原慎太郎、大江健三郎、一柳慧などの作家・文化人有志らが発
起人となって「小澤征爾の音楽を聴く会」が開かれたのです。そ
のとき協力したのが、日本フィルハーモニー交響楽団だったので
す。日フィルはこれが遠因で1972年に解散することになるの
ですが、これはあとで述べます。
 さて、N響に振られて失意のオザワに声をかけたのは、米国の
シカゴ交響楽団でした。1963年8月にシカゴ交響楽団が出演
する「ラヴィア音楽祭」にジョルジュ・ブレートルのピンチヒッ
ターとして出演して欲しいという依頼がかかったのです。
 オザワは急遽米国に飛び、シカゴ交響楽団を指揮してドヴォル
ザークの「新世界より」を演奏します。これが賞賛を博し、19
64〜68年までの5シーズン、同音楽祭の音楽監督に就任する
ことになります。
 これを指をくわえて見ていたボストン交響楽団は、ラヴィア音
楽祭の音楽監督の期限切れを狙って、1968年1月に同交響楽
団の定期演奏会に招聘するのです。そして、オザワを説得して、
1970年6月からボストン交響楽団が主宰するタングルウッド
音楽祭の音楽監督の就任させることに成功します。
 当時のオザワはとくに米国では売れに売れていて、1970年
9月にはサンフランシスコ交響楽団の音楽監督にも就任している
のです。そのオザワが、なぜ1973年からボストン交響楽団の
音楽監督に就任したのにはワケがあるのです。
 1970年11月にオザワはボストン交響楽団で客演指揮をし
ていたのですが、そこに「父死す」との悲報が届くのです。その
父は、その年の12月に開かれるサンフランシスコ交響楽団の音
楽監督就任披露公演に出かけるのを楽しみにしていたのです。
 これに対してボストン交響楽団は急遽スケジュールを変更し、
オザワを帰国させるように計らったのです。義理固いオザワはこ
れに深く感謝し、1973年からボストン交響楽団の音楽監督に
就任することになったのです。
 一方、もともと日本で活躍したかったオザワは、1968年か
ら日本フィルの主席指揮者に就任して後進の育成に当ったのです
が、これを不満として、1972年にフジテレビと文化放送がス
ポンサーを降りたために、日本フィルは解散の憂き目に遇うので
す。それでもオザワはひるまず、その結果生まれた新日本フィル
ハーモニーの首席として、現在も指導を継続しているのです。

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2002年12月26日

ボストン響でのオザワの2つの改革(EJ1016号)

 米国のオーケストラには、実に明確なランク付けがあります。
一般的にいうと、オーケストラのランク付けとは、演奏の良し悪
しとか、CDをどのくらい出しているとか、観客動員数が多いと
か少ないとかを考えますが、そうではなく、予算規模――年間総
予算によるランク付けのことなのです。
 ボストン交響楽団の年間総予算は、7000万ドル(約80億
円)で、世界一です。これは、クリーヴランド管弦楽団やフィラ
デルフィア管弦楽団の倍であり、ニューヨーク・フィルやシカゴ
交響楽団の1倍半に該当します。
 米国では、このボストン交響楽団を中心に、シカゴ交響楽団、
ニューヨーク・フィル、フィラデルフィア管弦楽団、クリーヴラ
ンド管弦楽団の5つが予算規模と伝統を兼ね備えた「エリート・
ファイブ」といわれているのです。
 オザワが就任した当時のボストン交響楽団の基金は180万ド
ル、それが現在では2億5000万ドルになっています。また、
聴衆は年間160万人に達しており、ボストン交響楽団はオザワ
の時代に、財団の基金、年間予算額、年間聴衆数においていずれ
も世界一を達成しているのです。オザワは音楽監督としてだけで
なく、マネジメントにも優れているといえます。
 ですから、今回オザワが、ウィーン国立歌劇場の音楽監督に就
任したことをもって「快挙である」として大騒ぎをしていますが
ボストン交響楽団の音楽監督の実績を考えると、その資格は十分
過ぎるほどあるといえるのです。
 それでは、オザワはボストン響で何をしたのでしょうか。
 それは、次の2つに集約されると思います。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1.ボストン響のサウンドの再構築
   2.ボストンのマエストロ像の変革
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 オザワが第一に取り組んだのは、ボストン響のサウンドを変革
することでした。オザワが音楽監督に就任した当時のボストン響
は、サウンドがフランス的で、音色は美しいが、重厚さに欠ける
ところがある――オザワはそう感じたのです。それは、ボストン
響がドイツ人とフランス人の音楽監督を交代させてきたことと関
係があります。
 オザワは、13代目の音楽監督ですが、初代から音楽監督を並
べると次のようになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
1.ジョージ・ヘンシェル  8.ピェール・モントウ
2.ウイリアム・ゲリッケ  9.セルゲイ・クーセヴィツキー
3.アルトゥール・ニキシュ 10.シャルル・ミンシュ
4.アミール・パウアー   11.エーリッヒ・ラインスドルフ
5.マックス・フィドラー  12.ウイリアム・スタインバーク
6.カール・ムック     13.小沢征爾
7.アンリ・ラボー
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これを見ると、初代から6代まではドイツ系の音楽監督、7代
〜10代までは、9代のクーセヴィツキー(露)をのぞきフラン
ス系の音楽監督、そして、11代〜12代は短期ながら、ドイツ
系の音楽監督となっています。
 オザワ以前の12人の音楽監督のうち一番ボストン響のサウン
ドに影響を与えた音楽監督は、8代のピェール・モントウと10
代のシャルル・ミンシュです。そのため、重厚さはないが美しい
フランス的なサウンドを創り上げていたのです。
 しかし、ボストン響の主要レパートリーは、ドイツ・オースト
リア系のものが多いのです。そこでオザワは、フランス的な特色
を残しながらも、もっとパワーや音の深さが必要であると感じた
のです。とくに弦楽器は、もっと暗くて重い音が出せるように改
造しなければならないと考えたのです。
 最初のうちは楽員の抵抗は相当強かったようですが、オザワは
粘り強く説得を続けると同時に、ベートーヴェン、ブラームス、
マーラーといったドイツ的デパートリーを何回も取り上げたり、
クルト・マズアなどのドイツのベテラン指揮者を客演指揮者とし
て招き、練習と演奏を通じて自然にドイツ・サウンドや表現力を
出せるようにしたのです。
 そして、現在のボストン響は、フランス的特色を残しながらも
深く重厚なドイツ・サウンドも出せるオーケストラに変身してい
るのです。これはマエストロ・オザワの功績といえます。
 もうひとつのオザワのやった改革、「ボストンのマエストロ像
の変革」とは、何でしょうか。
 それはオザワが「アウトリーチ」に力を入れたことです。アウ
トリーチとは、音楽家がホールの外に出向いて、直接音楽で働き
かけることをいうのです。
 よく知られるように、ボストン響はタングルウッド音楽祭を主
宰しています。1937年のことですが、ボストン市民である2
人の女性が、緑豊かな210エーカーの土地「タングルウッド」
をボストン響に寄贈したのです。ときの音楽監督は、セルゲイ・
クーセヴィツキーでした。彼はそこに仮設のテントを張って、ベ
ートーヴェン・プログラムのコンサートを開いたのですが、これ
が、タングルウッド音楽祭のはじまりです。
 オザワは、このタングルウッド音楽祭に力を入れ、そこにタン
グルウッド・ミュージックセンターを作って、世界中からやって
くる若い音楽家たちにオザワをはじめ、ボストン響のメンバーが
手に手をとって教える――そのような教育面にとても力を入れた
のです。そしてオザワは、同じ試みを松本でもやっています。
 そして、もうひとつオザワはシェーンベルクやベルクを暗譜で
振る一方で、ボストン・ポップスを指揮し、ピープルズ・コンダ
クターとして慕われたのです。ボストン響の歴代音楽監督が誰も
やらないことをやったわけです。その結果、オザワが街を歩くと
誰もが気軽に声をかける、そんなマエストロになったのです。

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2002年12月27日

西欧音楽の異邦人/小澤征爾(EJ1017号)

 今回のEJ1017号が2002年最後のEJとなります。来
年は6日から配信します。本年のご愛読を心より感謝し、とくに
1000号記念パーティーにご出席いただいた各位、お祝い金や
花束を贈呈いただいた各位、祝辞のメールを寄せていただいた各
位には、改めて厚く御礼申し上げます。お祝い金では、より鮮明
な写真をEJに添付できるよう、エプソンの高性能スキャナを購
入させていただきましたことをご報告申し上げます。
 なお、12月27日現在におけるEJの配信数(直接配信分)
は503人となっており、2002年中に145人増加しており
ます。当面の目標は、1500回(2004年末)です。
 2002年4月20日――この日はオザワがボストン響を音楽
監督として指揮する最後の日になりました。昼夜で2回のコンサ
ートが行われ、マチネはベルリオーズの「幻想」であり、これは
オザワがボストン市民に感謝をこめた無料コンサートでした。
 夜はマーラーの「交響曲第9番」でした。午後8時過ぎにコン
サートは始まったのです。異例の3000人の聴衆総立ちで迎え
られたオザワは、客席への挨拶もそこそこにマーラーの世界に没
入します。オザワとボストン響の29年間の総決算のような、す
ばらしい演奏だったと翌日の新聞が伝えています。
 そして、最後のタクトが振り下ろされるや、嵐のようなスタン
ディング・オペレーションがホールを揺るがしたのです。オザワ
は楽員の一人ひとりと握手すると、ティンパニスト奏者のヴィッ
ク・ファースの手をとって舞台最前列に連れてきて、一緒に拍手
に応えたのです。
 ヴィック・ファースは、シャルル・ミンシュ時代から半世紀に
わたってティンパニストを務め、引退をマエストロ・オザワが辞
める日まで伸ばしてきて、この日に引退することを決めたという
のです。当日のプログラムにファースは次のような一文を寄せて
います。オザワがいかに敬愛されていたかを示す証でもあります
ので、ご紹介することにします。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 セイジさんと働くのは喜びであった。彼の並外れた指揮のテク
 ニックは、最も難しい音楽でさえも容易に理解しやすくした。
 彼の温かさと大きな音楽的才能を決して忘れないだろう。私は
 彼の音楽作りの技術に対する献身と熱愛に敬意を表する
                  ――ヴィック・ファース
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 翌日の新聞は、オザワへの賛辞と惜別で埋めつくされといって
よいと思います。ボストン市には、ボストン・グローブ紙とボス
トン・ヘラルド紙という2大新聞がありますが、両紙ともにトッ
プに大きなカラー写真で次のような見出しをつけたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ≪ボストン・グローブ紙≫
   「ブラボー・セイジ」
   「小澤 完璧な音とともに去る」
   「さよなら公演は感動的でかつ大胆」
  ≪ボストン・ヘラルド紙≫
   「セイジよ さようなら」
   「29年に渡る任期はマエストロの大勝利に終る」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 どうでしょう。これほどの大指揮者であるオザワを日本の音楽
界は今まで何と冷たく扱ってきたことでしょう。確かにN響との
関係は修復されたとはいえ、まだそこに大きなわだかまりが存在
するのです。
 こんな話があります。この話は悪の伏魔殿/外務省が登場する
のです。誰もオザワを知らなかったときの話です。
 1959年、フランスのブザンソン指揮者コンクールの願書出
願の提出のさい、手続き不備で締め切りを過ぎてしまったときの
ことです。オザワはフランスの日本大使館に泣きついたのですが
相手にされず、アメリカ大使館に駆け込むのです。
 アメリカ大使館は、文化担当者であるマダム・ド・カッサがオ
ザワから事情を聞き、指揮者コンクールの事務局と折衝をしてく
れて、コンクール参加が特別に認められたのです。何と親切なこ
とでしょうか。日本の外務省は反省すべきです。
 そして、オザワはそのコンクールで優勝を果たすのです。その
ときの審査委員長は、あのシャルル・ミンシュだったのです。そ
の後、オザワの才能を見抜いて大音楽家として育てたのは、日本
ではなく、戦後の米国だったのです。少なくとも、日本はオザワ
に対して、嫉妬と無知のバッシングをしただけで、何もやっては
いないのです。
 しかし、オザワはあくまで、日本人であろうとし、子供は日本
にわざわざ戻して育てているのです。そして、彼がつねに次のよ
うにいっているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 自分は日本人である。西欧クラシック音楽の世界における異邦
 人である――小澤征爾
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そして、オザワは超多忙にもかかわらず、タングルウッド音楽
祭に似せて、信州・松本で「サイトウ・キネン・フェスティバル
松本」を育て、今年で11回になります。
 桐朋学園に入学する前、オザワは当初ピアニストを目指してい
たのですが、来日していた巨匠、レオニード・クロイツェルの弾
き振りによるベートーヴェンの「皇帝協奏曲」に接して、指揮者
になろうと決意、新設の桐朋学園の指揮科に入学するのです。そ
のときの生徒はオザワただひとり。先生は、性格の激しさと、厳
格な精神的姿勢で有名な斉藤秀雄先生だったのです。
 世界のオザワの原点は、この齋藤式の音楽教育にあるといって
も過言ではないのです。オザワ自身もこれを受け継ぎ、サイトウ
・キネン・オーケストラして、後進の指導に当っているのです。
 音楽の話はあと2回続きます。よいお年をお迎えください。

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2003年01月06日

ニコラウス・アーノンクールとは何者か(EJ1018号)

 2003年最初の2本のEJは、音楽の話題を取り上げるとい
うお約束を昨年の暮れにしておりますので、音楽の話題からはじ
めることにします。
 ウィーン・フィルによる今年のニュー・イヤー・コンサートは
ニコラウス・アーノンクールの指揮で行われました。昨年はオザ
ワでしたが、アーノンクールは、2001年のニュー・イヤー・
コンサートに続いて2回目の登場です。指揮者を選ぶ権限は楽員
にあるということを考えると、アーノンクールはウィーン・フィ
ルの楽員に人気があるということになります。
 コンサートの雰囲気はオザワのときとは、かなり異なっていた
と思います。会場に飾られた花にしても、オザワのときは赤が目
立っていたのに今年は白一色と様相が一変していたのです。
 注目すべきは曲目です。このニュー・イヤー・コンサートでは
ヨハン・シュトラウス一家の作品を取り上げるのが基本原則なの
ですが、今回はウェーバーとブラームスの次の作品が取り上げら
れているのです。これはかなり珍しいことです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ウェーバー作曲、「舞踏への勧誘」作品65
 ブラームス作曲、「ハンガリー舞曲集」より第5番嬰ヘ短調
         「ハンガリー舞曲集」より第6番変ニ長調
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ウェーバーのこの曲は、ワルツのお手本ともいうべき曲であり
ヨハン・シュトラウスはこの曲をベースにワルツを作曲したとい
われていること、それにブラームスはヨハン・シュトラウスと親
交が深く、ブラームスは彼の音楽を高く評価していたということ
――これがアーノンクールが取り上げた理由なのです。
 しかし、残念なことがひとつありました。アーノンクールはコ
ンサートの冒頭に「舞踏への勧誘」を持ってきたのですが、曲が
終る前に大拍手が入ってしまったことです。この曲は、もともと
はピアノ曲なのですが、ベルリオーズが管弦楽用に編曲してオー
ケストラで演奏されることが多いのです。
 最初に紳士が若い婦人に舞踏の相手を申し込む部分があり、オ
ケではチェロがその部分を担当するのです。そして、華やかに踊
りがはじまり、終了するのですが、そのあと紳士の感謝のことば
をあらわす部分があり、ここもチェロで演奏されます。
 ところが、踊りが終ったところで大拍手が入ってしまったので
す。アーノンクールはまずチェロに停止を命じ、観客に手で拍手
を制してから、チェロに演奏を指示しています。よく知られた曲
であることに加え、由緒あるウィーンのニュー・イヤー・コンサ
ートでの出来事であり、また、あとでCDやDVDとして商品化
されることも考えると、大変残念なことだと思います。
 しかし、その後の演奏は立派なものであり、オザワのときより
も、ウィーン・フィルの楽員たちが大変楽しく演奏しているのが
印象に残りました。アーノンクールといえば、ベルリン生れで、
オーストリアを中心に活躍している指揮者であり、今やウィーン
では飛ぶ鳥を落とすほどの人気指揮者なのです。
 また、アーノンクールはエキストラとしてですが、ウィーン・
フィルでチェロ奏者をしていたこともあり、楽員にとってはいわ
ばかつての仲間なのです。アーノンクールのように、ウィーン・
フィルの内部で演奏をしたことのある音楽家が、ニュー・イヤー
・コンサートを指揮するのはボスコフスキー以来のことです。
 しかし、このアーノンクールという指揮者は、少し変わった人
物なのです。それは、あのカラヤンと比較してみると、まるで正
反対の考え方の持ち主であることによってそういわれます。
 アーノンクールは1929年生まれであり、カラヤンよりも、
20年若いのです。彼は飛行機が嫌いで、日本には一度しかきた
ことはないのですが、今後もくることはないでしょう。それに対
してカラヤンは、日本はもちろん世界中を飛び回っており、プラ
イベート・ジェット機まで持っているのです。
 カラヤンがクラシックの国際化を目指し、世界中の人に聴いて
もらえるように努力したのに対し、アーノンクールは「クラシッ
クはヨーロッパのローカル音楽である」と明言しています。
 また、カラヤンが現代の楽器に合わせて独自の解釈で曲を演奏
したのに対し、アーノンクールは古い楽器を修理して復元させ、
昔ながらの音を再現しようと努力しています。そのため、アーノ
ンクールは「古楽の先駆者」といわれるのです。
 彼は1957年にウィーン・コンツェントス・ムジクスという
アンサンブルを結成し、バッハやモーツァルトを作曲家の時代の
流儀と称する演奏法で取り上げ、現在も続けています。
 カラヤンはポピュラーな曲を積極的に取り上げて録音し、LP
やCD化して販売し、世界中を演奏旅行をして回ることによって
音楽産業として発展させるのに成功しています。そして、このス
タイルを多くの有名指揮者たちは踏襲しています。
 しかし、アーノンクールは指揮をするオーケストラを絞り込み
飛行機が怖いということもあって、他の音楽家のように世界中を
演奏旅行することなどしないのです。
 しかし、カラヤンの後継者というべき有名指揮者――クラウデ
ィオ・アバド、ズービン・メータ、小澤征爾、リッカルド・ムー
ティたちを尻目に、アーノンクールは、いつのまにか、押しも押
されぬ大指揮者としての地位を築きつつあります。
 アーノンクールの演奏はお世辞にも美しいとはいえないもので
すが、そのアーノンクールが甘美な音楽を愛好するウィーンにお
いて受け入れられているのは注目すべきことです。
 2001年のニュー・イヤー・コンサートにおいて、アーノン
クールは、プログラムの冒頭において、コンサートの最後に演奏
することになっている「ラデツキー行進曲」のオリジナル版を演
奏しています。こういうウィーン音楽に精通しているアーノンク
ールをウィーン・フィルの楽員たちは尊敬しているのです。どう
やら、この勝負、オザワの負けのようです。

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2003年01月07日

21世紀を代表する3つの『第九』(EJ1019号)

 今朝は日本の年末の風物詩である「第九」について書きます。
昨年末には例年になく、次の3つの「第九」がほぼ同時にリリー
スされたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ベートーヴェン作曲 交響曲第9番二短調作品125≪合唱≫
  1.佐渡 裕指揮/新日本フィルハーモニー交響楽団
    ワーナー/WPCS―11420
  2.小沢征爾指揮/サイトウ・キネン・オーケストラ
    フィリップス/UCCP−9424
  3.ラトル指揮/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
    EMI/TOCE−55505
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これら3つの「第九」は、いずれもライブ録音であり、しかも
特別価格1980円で手に入れることができます。私は3つとも
購入して聴いてみましたが、演奏はいずれも満足すべきレベルに
達しています。3枚とも購入してもソンはないと思います。
 3人の指揮者の中で一番年齢が若いのは佐渡裕の41歳です。
佐渡の「第九」の録音は、2002年8月17日に横浜のみなと
みらいホールにおいてライブで行われています。そのため「真夏
の第九」といわれているのです。
 「佐渡の指揮は熱い」といわれるので、若さにあふれた豪快な
第九を予想する人が多いかも知れませんが、実際は和声が重層的
に耳に届くように全体の音量はバランスがよく制御され、緊張感
をはらんで曲が展開されていきます。
 第3楽章のカンタービレも十分美しく、最近の佐渡の進境ぶり
をよく表わしています。そして、佐渡の真骨頂ともいうべき第4
楽章もよく全体が抑制され、バリトンの福島明也をはじめとする
独唱陣の健闘によってスケールの大きい演奏となっています。
 印象に残ったのは、第4楽章で最初に歓喜の主題があらわれる
前の異常に長いゲネラルパウゼ――総休止です。オーケストラで
第1楽章の主題、第2楽章の主題、第3楽章の主題の断片が次々
とあらわれては否定され、最後に歓喜の主題が低弦部からあらわ
れる直前の休止のことです。このゲネラルパウゼは明らかに長く
7秒ほど静寂が続くのです。
 これは、練習のときには起こらず、本番のときに起こった現象
なのです。直前の和音が完全に消えて、歓喜の旋律があらわれる
までの自然な呼吸の発露として生じたもので、この演奏に関して
はきわめて効果的であったといえます。
 3人の指揮者の中で最年長者は、もちろん小澤征爾の66歳で
す。既に述べたように、オザワにはベートーヴェンの交響曲全集
がまだないのですが、今回の「第九」の録音によって、サイトウ
・キネン・オーケストラによる全集が完成したことになります。
 サイトウ・キネン・オーケストラによるベートーヴェンの交響
曲チクルスは、1993年の交響曲第7番からスタートし、今年
の「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」における「第九」
で遂に完結したのです。
 オザワの「第九」は、基本的には佐渡の「第九」に通じるもの
があります。佐渡が指揮している新日本フィルハーモニー交響楽
団は、オザワの育てたオーケストラであり、当然といえば当然の
ことです。
 しかし、そうはいっても佐渡の演奏には良い意味での「若さ」
があり、オザワの演奏には年齢による「渋さ」を感じます。演奏
は、不自然な誇張感を徹底して排除し、あくまでも響きの美しさ
とアンサンブルとしての緻密さを背景に、作品に盛り込まれたメ
ッセージを高らかに、熱く歌い上げた質の高い「第九」として仕
上がっています。
 ちなみに「ライブ録音」といっても、コンサートで演奏したま
まをCD化するのではないのです。オザワの演奏にしても、特定
の部分を録音する「セッション録音」を何度かやっています。ラ
イブ録音部分を中心として、それにセッション録音部分を編集し
てCDを完成するのです。
 3番目の「第九」は、サイモン・ラトル指揮によるウィーン・
フィルハーモニー管弦楽団の演奏です。サイモン・ラトルは47
歳の現在最も注目されている英国の指揮者であり、2002年9
月7日にベルリン・フィルの首席指揮者(芸術監督)に就任した
ばかりの新しい「ベルリンの顔」ともいうべき存在です。
 ラトルの「第九」は、佐渡やオザワの「第九」とは、全く異質
の「第九」になっています。この「第九」は、2002年の5月
12日と14日の両日、ウィーンのムジークフェラインザールで
ライブ録音されています。
 ここ数年にわたりラトルは、ウィーン・フィルの方から申し出
のあったといわれるベートーヴェンの交響曲全集の録音をやって
きており、この「第九」ですべて完結したことになります。
 とにかく、ウィーン・フィルのラトルに対する熱の入れ方は大
変なものであり、絶対に置かないという慣例を破って首席指揮者
として迎えようかという検討まで行ったといわれているのです。
 ラトルは、ベートーヴェンの交響曲全集の録音に当って、ウィ
ーン・フィルにベートーヴェンの演奏方法を変えるよう説得して
います。そういうこともあって、ラトルの「第九」は、非常に表
情の濃厚な「第九」として仕上がっています。その解釈にしても
響きにしても佐渡やオザワの「第九」とは一線を画す新しい「第
九」の顔が見えます。
 とくに第3楽章について音楽評論家の小石忠男氏は「この楽章
の最高の名演のひとつ」と折り紙をつけています。第4楽章につ
いても、ラトルが手塩にかけて育てたバーミンガム市交響合唱団
の合唱が際立っており、力に満ち溢れた名演となっています。
 これら3つの「第九」は、それぞれに個性があり、とくに佐渡
とオザワの「第九」のあと、ラトルの「第九」を聴くと、その違
いがとてもよくわかります。明日からは、宇宙の話に戻りますが
サイモン・ラトルについては改めてとり上げます。

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2003年03月26日

●ポランスキーがいちばん訴えたかったこと(EJ第1072号)

 この映画で、米アカデミー賞主演男優賞を獲得したエイドリア
ン・ブロディは、「このような時期にこの賞をもらうことを悲し
く思う」とスピーチして、米国主導による対イラク戦争を批判し
ていました。
 映画を見て感じたことは、現在世界中に巻き起こっている反戦
の嵐は、この時期にこの映画が上演されていることにも、関係が
あるのでは・・ということでした。この映画を見た人は、必ずや
「戦争はけっしてやってはならない」と感ずると思うからです。
 この映画で監督のロマン・ポランスキーが訴えたかったことは
戦争そのものの悲惨さというよりも、戦争が人をいかに残酷にす
るか、非人間にしていくか、ではなかったかと思います。
 車椅子の老人を階上の窓から外へほうり投げたり、「私たちは
どこに行くのですか」と質問する女性を容赦なく射殺したり・・
そういうシーンが異常なほど延々と続くのですが、そういう悪逆
非道を尽くすドイツ兵には何のためらいも見られないのです。
 いや、一度でもためらってしまうと何もできなくなるので、そ
れが、あたかもごく自然の行為であるように平然と実行する――
そうしないとドイツ兵として生きていけないのです。一方、そう
いう仕打ちを受ける当時のワルシャワ在住のユダヤ人も、ドイツ
兵のそういう非道な行為をごく平然と、まるで日常の行為のよう
に受け止めるようになる――ドイツ兵もユダヤ人も、そういう非
人間になってしまうのです。それが戦争の恐ろしさです。
 ポランスキー監督は、この映画の前半でそういう残酷なシーン
をいやというほど繰り返し見せつけることによって、映画を見て
いる観客にも、そういう恐ろしいことの反復が一種の慣れを生ず
ることをわからせようとしているのです。
確かに、白昼人が平然と殺され、道路にそのままに放置される
というシーンが執拗に繰り返されていくと、観客としてもそこに
一種の慣れというものが生じて、あまりショックを受けなくなる
ものです。それが、戦争というものの怖さであることを、ポラン
スキー監督は何よりも訴えたかったのだと思います。
 ポランスキー監督自身も、子どもの頃、この映画の舞台である
ゲットー(ユダヤ人居住区)で暮らしており、ワルシャワ大空襲
も経験しているのです。そして、両親は収容所送りになり、父親
は助かったものの、母親はそこで亡くなっているのです。
 この幼い時期の不幸な体験ゆえに、『シンドラーのリスト』の
監督をオファーされたとき、心の深い傷にまだ向き合う準備がで
きていないとして断っているのです。
 そんなポランスキーが、この映画の原作である『戦場のピアニ
スト』(ウワディスワフ・シュピルマン著)に出会ったとき、心
踊る思いだったと次のように語っているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  私はポーランドの歴史におけるこの痛ましい一章を、いつか
 きっと映画化する時がくると思っていました。今まで撮らなか
 ったのは、しっかりとした題材が必要だったということもあり
 ますが、私自身がしっかりとしたビジョンを持つ必要があった
 からです。いずれにせよ、自伝的な作品にはしたくありません
 でした。なぜ、この原作に出会って、心躍る思いだったかとい
 うと、私の個人的体験に近すぎるということがなかったからで
 す。もちろんそこに描かれているのは、私のよく知っているこ
 と、とてもよく覚えていることでした。そして、これなら、私
 自身のことを語らずに、当時の出来事を再現できると思ったか
 らです。           ―――ロマン・ポランスキー
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 第2次世界大戦がはじまったのは、1939年9月1日のこと
です。そのときドイツが真っ先に目指したのがポーランドの首都
ワルシャワの占領だったのです。9月8日にワルシャワはドイツ
軍に包囲されます。
 9月25日、歴史に残るといわれるワルシャワ大空襲が行われ
28日にポーランドは全面降伏を余儀なくされるのです。当時、
ポーランドには約350万人のユダヤ人がおり、そのうち36万
人がワルシャワで暮らしていたのです。彼らは、職人、商人、労
働者、専門家などであり、ワルシャワの人口の30%を占めてい
たのです。
 10月1日にドイツ軍がワルシャワに入ってきます。そして、
12月1日から、ユダヤ人全員が、ダヴィデの星のついた腕章を
付けることを義務づけられ、財産や所持金も没収されてしまいま
す。そして、交通機関の利用は禁止され、公園は立入り禁止、歩
道を歩くことさえも禁止されるのです。
 さらに1940年の4月からは、ヒットラーの命令によって、
周囲を壁で囲まれた307ヘクタールのユダヤ人居住区が作られ
ユダヤ人はそこに押し込められるのです。これが、ゲットーとい
われるものです。
 11月になると、ワルシャワの全ユダヤ人はゲットーに入れら
れ、他の地区からのユダヤ人も集められて、1941年3月まで
には、その数は約46万人にまでふくれ上がります。その頃から
本格的なユダヤ人虐殺がはじまるのです。『戦場のピアニスト』
の主人公のシュピルマンもゲットーの住人だったのです。
 映画の中頃で「50万人いたユダヤ人は、今は6万人しかいな
い」ということが語られますが、戦後解放されたワルシャワで生
き延びていたユダヤ人は20人だけだったといわれます。
             −− [戦場のピアニスト/01]

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2003年03月27日

●シュピルマンを支えたものは何か(EJ第1073号)

 『戦場のピアニスト』でのポランスキーの演出で気がつくのは
彼が感情に溺れず、客観的に事実を描写している点です。客観的
な眼差しで、目を覆いたくなるような現実を容赦なく描いていま
す。「もう一度観ますか」といわれたら、遠慮したくなるような
重々しさがこの作品の特徴といえます。
 戦争とホロコーストを描いた映画作品は多くありますが、作品
のスケールとしては、ポランスキーの『戦場のピアニスト』とス
ピルバークの『シンドラーのリスト』の2つになると思います。
この2つはどのように違うのでしょうか。
 『シンドラーのリスト』は、ドイツ人のシンドラーの視点で描
かれていますので、ホココーストの悲劇の全体像を見ることがで
きます。他の戦争とホロコーストを取り上げた作品も同様の視点
です。それに『シンドラーのリスト』の場合、シンドラーはヒー
ロー的な存在であり、実際にそのように描かれています。
 これに対して『戦場のピアニスト』は、隠れ家に身をひそめて
いるシュピルマンという単独者の視点で描いているので、全体を
見ることはできないのです。彼はまるで、ロビンソン・クルーソ
ーのように外界と隔てられていて、情報が極度に不足しているの
です。ゲットーの仲間はどうしているのか、戦争はどうなってい
るのか、戦争はいつ終わるのか、収容所に送られた家族は、どう
なったか――何もわからないのです。
 それに、シュピルマンはシンドラーのようにヒーローではない
のです。ナチスに勇敢に抵抗したわけでもないし、さりとて、収
容所で抹殺された犠牲者でもない。歴史に翻弄されるままに、戦
場において、たった1人で生き抜いたひとりのピアニストに過ぎ
ないのです。そういう点で、『シンドラーのリスト』をはじめと
する他の多くのホロコースト映画と大きく違うのです。
 それに『戦場のピアニスト』では、他の作品がそうであるよう
に、次の図式の押し付けはないのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      加害者=ナチス 被害者=ユダヤ人
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 というのは、シュピルマンの命を救ったのは、同胞から憎まれ
恐れられていたユダヤ人警官ヘラーであり、ナチスの将校ホーゼ
ンフェルトだったからです。ポランスキー監督は、シュピルマン
の原作の中に、悪いポーランド人も、良いドイツ人も出てくるこ
とにとても共鳴していたのです。
 シュピルマンは、家族と一緒に収容所送りになる寸前にユダヤ
人警官のヘラーに列から引っ張り出されて助けられます。家族と
離されて戻ろうとするシュピルマンを警官たちは押し返します。
そして、呆然とするシュピルマンにヘラーは声をかけます。「何
をしてるんだ。早く行け」と。とっさに走りだそうとするシュピ
ルマンにヘラーはさらにいいます。「走るな!歩くんだ!」と。
 実は、これはポランスキーの演出なのです。なぜなら、ポラン
スキー自身が似たような体験をしているからです。ポランスキー
は、幼い頃、クラクフのゲットーを脱出したときにドイツ兵に見
つかってしまったことがあるのです。ところが、そのドイツ兵は
身じろぎひとつしないで、「走らない方がいい」とだけいったの
です。その結果、ポランスキーはゲットーを脱出できたのです。
 この映画は、ユダヤ人がゲットーに送られ、やがて死の収容所
送りになる前半と、ゲットーを脱出したシュピルマンがポーラン
ド人の助けを借りて隠れ家に潜む後半とに分かれています。前半
を「動」とすれば、後半は「静」ということになるのですが、と
くにポランスキーの腕の見せどころは後半なのです。映画は後半
になると、にわかにセリフは少なくなり、その代わり緊張感が増
してきます。
 それでは、シュピルマンはどうしてあの過酷な戦場で生き抜く
ことができたのでしょうか。
 それは、音楽なのです。シュピルマンにとって音楽は信仰その
ものなのです。ドイツ語で「シュピルマン」は、「音楽を演奏す
る人」という意味であり、これは代々伝わる職業的な苗字なので
す。シュピルマンの息子のクリストファー・W・A・シュピルマ
ンは、父親について次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  音楽を営む家系に生まれた父は、他の人が神を敬うように、
 音楽を崇拝した。音楽は彼にとって唯一の神様であったと言っ
 ても過言ではない。彼の神様である音楽が、常に彼を守り、彼
 の命を救ったのである。音楽がなければ、あれほど酷い、絶望
 的な状況に置かれた父はおそらく生きる力を失い、発狂したか
 自殺したであろう。音楽が彼に希望を棄てないで、生きる力を
 与えたのである。――クリストファー・W・A・シュピルマン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 シュピルマンが転々とした隠れ家のひとつにピアノがあったの
です。シュピルマンはそっと蓋を開け、鍵盤を覆っている細長い
布を取りのぞきます。そして、あらわれた白と黒の鍵盤をいつく
しむように眺めます。
 もちろん弾くわけにはいかない――そっと両手を鍵盤の上に置
き、指を浮かせて弾く真似をします。印象的なシーンです。想像
を絶する恐怖と悲しみにさいなまされながら、いつもシュピルマ
ンはピアノの指遣いの練習をしていたのです。いつか弾ける日が
やってくる――シュピルマンはそういう希望を胸に抱き、あの過
酷な戦場で生き延びたのです。
 しかし、それにしても映画の後半は、食料、食料、食料・・・
です。ひたすら生きるために食料を求めて、ピアニストは廃墟に
なった街をさまようのです。後半はセリフも少なく、音楽も控え
目になる。ときどき銃の音が聞こえる――しかし、それでいて映
画はますます緊張感を増していくのです。
 そして、廃墟になった屋敷でシュピルマンはナチスの将校、ヴ
ィルム・ホーゼンフェルト大尉に出会うのです。
             −− [戦場のピアニスト/02]

Vs}.jpg
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2003年03月28日

●なぜ、バラード第1番を使ったのか(EJ第1074号)

 映画『戦場のピアニスト』の中で聞こえてくる音楽は、意外に
わずかです。背景的に流れる曲を除くと、たったの3曲しかない
のです。その3曲を示しておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.ショパン:ノクターン第20番嬰ハ短調(遺作)
  2.ショパン:バラード第1番ト短調作品23
  3.バッハ:無伴奏チェロ組曲第1番ト長調BWV1007
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『戦場のピアニスト』のような映画で、ポーランドのピアニス
トが弾く曲といえば、同じポーランド出身のショパンの作品以外
はあり得ないでしょう。ポーランドのピアニストがショパンを弾
くということは、一種の祖国愛の表明であり、音楽的なパスポー
トになるからです。問題は、ショパンのどの作品を取り上げるか
です。これは監督のウデの見せ所でもあります。
 ポランスキー監督は、映画の冒頭と最後に、ノクターン第20
番嬰ハ短調を持ってきています。ともにポーランド放送局のスタ
ジオでシュピルマンはこの曲を弾いています。映画の冒頭ではド
イツ軍の爆撃の中で、最後は再開されたポーランド放送局のスタ
ジオで――どちらも同じノクターン第20番嬰ハ短調です。
 実は、映画『戦場のピアニスト』の最も重要な部分――それは
シュピルマンがナチス将校のホーゼンフェルトの前で、自らがピ
アニストであることを証明するためにピアノを弾く場面ですが、
原作によると、実際にシュピルマンが弾いた曲は、ノクターン第
20番嬰ハ短調だったのです。
 原作からそのシーンを再現してみましょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  食糧庫の脇の椅子に私はぐったりと座り込んだ。降って湧い
 たような罠。もはや逃れようにも、とうてい力及ばないことを
 突然悟る。夢遊病者のごとく、椅子をぎしぎしいわせながら、
 目前にいるドイツ将校をぼんやり見つめていた。しばらくして
 やっとのことで口ごもりながら言った。
 「どうぞ、お好きなように。もう動けません」
 「君をどうにかしようというつもりはない!」と将校は肩をす
 くめた。「何をして暮らしているんだね?」
 「ピアニストです」
 そう言うと、彼はまじまじと私を見つめ、疑いの目をあからさ
 まにした。彼の視線が台所から次の部屋に通じるドアのほうへ
 移る。良いアイデアが浮かんだようだ。
 「一緒に来ないか?」
 隣のダイニング・ルームとおぼしき部屋を通り、その先の部屋
 に入った。壁の前にピアノがある。将校はそれを指した。
 「何か弾いてくれないか」――ウワデイスワフ・シュピルマン
    著/伊藤泰一訳、『戦場のピアニスト』より。春秋社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ポランスキー監督は、映画ではシュピルマンに、バラード第1
番ト短調作品23を弾かせています。これは実に効果的だったと
思います。ポランスキーの見事な選曲です。
 この曲は、オクターブのフォルテで始まります。旋律は何度も
中断されます。ピアニストがペダルを離したとたんに、重ねられ
た音はばっさりと途絶え、指で押さえられた音だけが生き残るの
です。そして、この音がピアニストの指によって、新たな和音を
まとって旋律を紡ぎ、再びフォルテまで高められる――これは、
まるで、地獄のような戦場で死にもの狂いで生き延びるシュピル
マンそのものを象徴しているかのようです。
 このナチスの将校ホーゼンフェルトという人は、ピアノが弾け
るという設定になっているのです。推測ですが、彼はこの廃屋に
たびたび足を運び、ピアノを弾いていたのです。映画では、シュ
ピルマンが廃墟になったワルシャワの街をさまよっているときに
その背景に、ベートーヴェンのピアノソナタ第14番作品27−
2「月光」が流れます。これは、ホーゼンフェルトが弾くピアノ
の音なのです。
 廃屋でピアノを弾く――これは異様です。そんなことをすれば
外にいるエスエス隊員に聞こえてしまうではないかとシュピルマ
ンは思ったそうです。ホーゼンフェルトは、映画では何もいいま
せんが、原作では次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  大丈夫だよ。弾いてかまわない。誰かきたら、君は食糧庫に
 隠れろ。弾いていたのは私だというから。
            ――ホーゼンフェルト(前掲書より)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 音楽評論家の黒田恭一氏は、この映画のプログラムの中で、ノ
クターン嬰ハ短調第20番について、次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ショパンの作曲したノクターンは21曲ある。そのうちの変
 ホ長調作品9の2や嬰ヘ長調作品15−2は、きわだって人気
 があって、独立して演奏される機会もきわめて多い。しかし、
 この映画で演奏されている嬰ハ短調のノクターンは胸にしみる
 素晴らしい音楽ではあるが、必ずしも広く親しまれている有名
 な作品といいがたい。           ――黒田恭一氏
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この評論には、いささか異論があります。というのは、嬰ハ短
調のノクターンは、広く親しまれている作品だからです。この映
画に関係なく、独立して頻繁に演奏されています。最近話題のユ
ンディ・リのアルバムにも、ショパンを弾いた高橋多佳子のCD
にもノクターンは1曲しか取り上げていないのに、嬰ハ短調のノ
クターンを取り上げているのです。
 音楽は、無言のうちに、微妙なことをさりげなく、かつ的確に
伝える力を持っているので、映画監督は、映画において音楽の力
を効果的に生かそうと努力するものです。この映画におけるポラ
ンスキーの音楽の扱いは大変見事です。
             −− [戦場のピアニスト/03]

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2003年04月07日

●間違えずにデジタルテレビが買えますか(EJ第1080号)

 最近「テレビが分からなくなった」という人が増えています。
今年の12月から、日本の一部の地域で、地上波デジタル放送が
開始されることと無関係ではないと思われます。何しろ「地上波
デジタル放送」が開始されると、今のテレビは使えなくなるとい
うことで、テレビについて関心が集まっているのです。
 この間、次のような質問を受けました。皆さんはこの質問に答
えられるでしょうか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 地上波デジタル放送が始まったとき見られるテレビを買いたい
 のですが、要するに、ハイビジョン・テレビを買えばいいので
しょうか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この答えが「ノー」であることは、わかると思います。しかし
そう思っている人はとても多いのです。それでは、次の質問に対
してはどうでしょうか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 今のテレビにアダプターをつければ、地上波デジタル放送を受
 信できるから、わざわざ高価な地上波デジタル放送対応のテレ
 ビを買うことはない。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この答えは、今のテレビと同じような画像や音を今後も楽しめ
ればいいという考え方に立つ場合には正解です。このアダプター
のことをテレビの上に置く箱という意味で、「セットトップボッ
クス(STB)」と呼んでいるのですが、このSTBと現在のテ
レビを接続すれば、デジタル放送を受信できるのです。
 しかし、「高画質・高音質」が売り物のデジタル放送について
は、「現行テレビ+STB」ではそのメリットが享受できないの
です。このことをしっかりと理解しておく必要があります。
 それにテレビのアンテナについても買い換える必要が出てくる
のです。現在の地上波放送はVHF帯を使用していますが、デジ
タル放送では、原則としてUHF帯を使用するので、UHF用ア
ンテナが必要なのです。したがって、現在、VHF用アンテナし
かない世帯は、新たにUHF用アンテナが必要になってきます。
VHFとUHFの両方がついたアンテナもあります。ご自宅のア
ンテナを調べてください。
 そうすると、STBがどのくらいの価格で売り出されるかが注
目されますが、アンテナの買い替え分とあわせると、それなりの
価格になると思います。
 それに、既にCATVに加入し、BSデジタル放送に加入して
いる世帯が、さらに地上波デジタルを見るには、また、STBが
必要になるので、テレビ・モニターの周りには、STBだらけに
なってしまうことになります。
 このように考えていくと、現在ほどテレビの買い方が難しい時
期はないと思います。BSデジタル放送のときと違って、今度は
何もやらないと、テレビが見られなくなるだけに関心度が大きく
違うのです。
 テレビは、おそらく国民にとって、一番身近なIT機器である
と思います。現在のカラーテレビの普及率は、とっくに99%を
超えています。それが大きく変わろうとしているのです。PC時
代になってもPCに関心を持たず、インターネットが普及しても
手を出さない人でもテレビは見るのです。彼らは当然今回のテレ
ビの激変に関心を持っています。
 しかし、改めて考えてみると、テレビについてわれわれは何を
知っているでしょうか。本当にデジタルテレビを理解するには、
現在のテレビについて基本的なことを理解しておく必要があるの
です。そこで、しばらくEJでテレビ問題を取り上げてみたいと
思います。
 放送は次の3つに分類されます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         1.地上波放送
         2.衛星放送
         3.ケーブルテレビ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このうち、衛星放送はさらに次の2つに分かれます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    1.BS放送 ・・・・・ 放送衛星
    2.CS放送 ・・・・・ 通信衛星
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本の場合、欧米諸国に比べても圧倒的に地上波放送が充実し
ています。地上波放送技術の向上もあって、4400万世帯のほ
とんどすべてが視聴可能な状況にあるという事情もあります。そ
のため、そもそも難視聴対策用であったCATVも普及していな
いのです。それに地上波放送が充実していることは、衛星放送に
も影響を及ぼし、既にデジタル化が行われた現在でも、本格的に
普及しているとはいえない状況にあります。
 日本においてはじめて放送のデジタル化が行われたのは、19
96年10月の「パーフェクTV」からなのですが、これは通信
衛星を使ったCS放送なのです。このCS放送からデジタル化が
始まったという事実が、現在の衛星放送の普及の遅れを象徴して
いることになるのです。
 ところで、通信衛星(CS)と放送衛星(BS)とは、どう違
うのでしょうか。
 通信衛星(CS)は、遠く離れて直接通信できない2点を中継
するための衛星で、静止衛星です。宇宙中継をするときは、両地
点からこの通信衛星が見えていることが条件です。
 これに対して、放送衛星(BS)の特色は、通信衛星が地上の
受信局に大きなアンテナなどの施設が必要であるのに対し、BS
は、衛星の出力が大きいため、小さなアンテナでも各家庭で受信
できる点にあります。
 それにしてもなぜ、CSとBSの両方が必要なのでしょうか。
                −− [デジタルTV/01]

CS/BS.jpg
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2003年04月08日

●テレビを構造的に分解してとらえる(EJ第1081号)

 かつてテレビは一家に1台あって、家族全員で見るものだった
と思います。その普及率は約100%で、一世帯当り平均2台以
上も保有されるようになっています。最近では、PCにテレビが
付く「テレパソ」なる製品が普及しており、私などはほとんどの
TV番組をPCで視聴しています。EJもテレビを視聴しながら
書いております。
 ところで「テレビ」という言葉には、2通りの使い方がありま
す。「テレビを見る」という場合のテレビは「テレビ放送」を指
しており、「テレビを買う」という場合のそれは、家電製品とし
てのテレビを意味しています。
 今後のテレビを理解するためにひとつの提案があります。それ
はテレビという家電製品を次のように、分解してとらえるという
ことです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    テレビ=TVチューナ+テレビ受像機+アンテナ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 普通のテレビは、地上波テレビの放送が受信できるVHF・T
Vチューナと受像機、それにVHFが受信できるVHFアンテナ
から成り立っていると考えるのです。
 こういうとらえ方をすると、ビデオについては次のようになり
ます。ビテオはテレビでもあるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    ビデオ=TVチューナ+録画・再生機能+アンテナ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ビデオにはTVチューナが内蔵されており、そのTV映像を録
画・再生しているのです。録画のモニター、再生については、テ
レビの受像機を使っています。ですから、家庭のテレビの台数を
数えるときは、ビデオも計算に入れる必要があります。
 テレビが見られるPC「テレパソ」は、PCにカード化された
VHF・TVチューナがセットされたものです。PCの機能には
TVチューナの映像をディスプレイに表示する機能とハードディ
スクに録画する機能があり、そういう意味で「テレパソ」はPC
にビテオ機能をプラスしたものと考えることができます。
 このように考えると、衛星放送を受信するためのアダプター、
すなわち、セットトップボックス(STB)は、TVチューナで
あることがわかると思います。つまり、現行テレビでBSデジタ
ル放送を受信するためのアダプターとは、BSデジタル放送を受
信するためのTVチューナなのです。
 地上波デジタル放送を現行テレビで見るには、地上波デジタル
放送用TVチューナとUHFアンテナを購入すればいいのですが
それだけでは、地上波デジタル放送の「高画質・高音質」を享受
できないというのは、なぜでしょうか。
 それは、TVチューナこそ地上波デジタル放送用TVチューナ
になったが、テレビ受像機が現行のままであるからです。なぜ、
現行の受像機では駄目なのでしょうか。
 それに答えるには、現在の標準テレビとデジタルテレビの売り
物のひとつである高精細度テレビ(HDTV)との違いについて
知る必要があります。その前提として、現行テレビの方式につい
て簡単に述べておきます。
 現在世界におけるアナログ・カラー・テレビの方式には、次の
3つがあるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.NTSC ・・・ 日本、米国
  2.PAL ・・・・ 西ヨーロッパ(仏を除く)
  3.SECAM ・・ 仏、旧ソ連、東ヨーロッパ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本が採用している規格であるNTSCは、米国の3大ネット
ワークのひとつ、CBSが開発した「フィールド順次方式」を米
国テレビジョンシステム委員会(NTSC)が米国のテレビ標準
規格として認定されたものです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   NTSC=National Television System Committee
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 NTSCの優れている点は、白黒テレビと両立する方式である
ということです。つまり、NTSC方式では、カラー放送を従来
の白黒テレビで受像しても白黒の画面が得られ、逆に白黒放送を
カラーテレビで受像しても白黒画面が得られるということで、放
送方式や受像機を根本的に変える必要はないのです。NTSC方
式をPAL方式/SECAM方式と比較しておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          NTSC  PAL  SECAM
   走査線数(本) 525  625    625
   毎秒像数(枚)  30   25     25
   飛越し走査   2:1  2:1    2:1
   縦横比     3:4  3:4    3:4
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 テレビ画面の精細度を示す走査線は525本――1フィールド
期間ごとに半分の262.5本の走査線を使って粗い映像が再現
され、2フィールドで1つの画面(フレーム)が完成する方式で
1秒間に30フレームが送られる仕組みになっているのです。
 デジタルテレビでは、まず、送信側で画像を碁盤の目のように
細かく分解します。そのひとつひとつを「画素」といいます。そ
して、それぞれの画素の光の強弱をカメラによって電流または電
圧の強弱(映像信号)に変換し、左から右、上から下の方向に順
次送信していくのです。
 受信側では、この電波を受信して、映像信号を再び光の強弱に
変換し、送信側と同じ順序によって電子ビームでブラウン管の蛍
光面に映像を再生していくのです。このように画像を一定の順序
で分解し、再び元通りに組み立てることを「走査」といっている
のです。再生された画像は水平方向の線で構成されているので、
これを「走査線」というのです。 −− [デジタルTV/02]

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2003年04月09日

●インターレース方式とプログレッシブ方式(EJ第1082号)

 昨日のEJ1081号で「飛び越し走査」という専門語を説明
しないで使っています。昨日の説明で、画像を一定の順序で分解
し、再び元通りに組み立てることを「走査」ということ、再生さ
れた画像の水平方向の線を「走査線」ということはわかっていた
だけたと思います。
 この走査線の数が多ければ多いほど、画面のきめが細かくなる
のです。NTSCの普通のテレビでの走査線が525本であるの
に対して、いわゆるハイビジョンは1125本と倍以上になって
おり、ハイビジョンの画面のきめの細かさは際立っています。デ
ジタルテレビでも、ほぼこれと同じ程度の走査線になると考えら
れます。
 しかし、テレビの画面がきれいに見えるかどうかは、走査線の
数だけで決まるわけではないのです。1秒間に何画面が送られる
かという毎秒像数が問題になるのです。昨日説明したように、N
TSCの毎秒像数は30枚です。
 現行テレビでは、走査線を奇数番目と偶数番目に分けて、最初
の1フィールド期間(60分の1秒)では奇数番目の走査線のみ
を上から順に走査し、次のフィールド期間で抜けている偶数番目
の走査線を走査するという方式を採用しています。これを「イン
ターレース方式」といっています。
 また、インターレース方式は、走査線を1本ずつ跳び越しなが
ら走査するところから「飛越し走査」ともいいます。この飛越し
走査が「2:1」というのは、2つのフィールドを合成して、1
枚の完成した画面を作り出すという意味です。
 このインターレース方式は、スポーツなどの動きの激しい画像
表示には適しているのですが、テロップ文字のような細かな横縞
が上下に動く映像ではちらさきが目立つはずです。
 これに対して、1フィールド期間に全走査線を順次走査する方
式があります。この方式では、インターレースのようなちらつき
が生じず、細かな文字などを鮮明に表示することができるので、
コンピュータのディスプレイなどに使われるのです。この方式を
「プログレッシブ方式」といいます。
 当然、インターレース方式よりもプログレッシブ方式の方が技
術的に進んでいるのです。テレビ放送開始当初の技術では、走査
線を順次走査するということが技術的に困難であったため、人間
の目の残像現象を利用したインターレース方式が開発されたので
す。それならば、地上波デジタル放送では当然進んでいるプログ
レッシブ方式が採用されるのかというと、必ずしもそうとはいえ
ないようです。
 地上波デジタル放送を既にはじめている米国では、高画質のH
DTV放送をインターレース方式でやるところとプログレッシブ
方式でやるところに分かれてしまっています。
 なぜ、こんなことが起きたのかというと、PC業界がPCモニ
ターと相性の良いプログレッシブ方式を採用するように放送局各
社に強く働きかけたことが発端となったのです。
 しかし、テレビメーカや放送事業者は、プログレッシブ方式を
導入するとなると、これまでインターレース方式のもとで培って
きたノウハウや設備が無駄になってしまうので、これに猛烈に反
発したのです。
 そのため米国のFCC(連邦通信委員会)では、制度として規
格を1本化してしまうと将来の技術発展の可能性を摘み取ってし
まうとして、申請のある18の方式をそのまま認めています。各
放送事業者は、18方式の中から自らの事情に応じて放送方式を
選択するのです。そのうえで、市場競争により、デファクトスタ
ンダード(事実上の標準)を決めさせようという方針です。
 しかし、同じ走査線の数の場合は、1フィールド期間にすべて
の走査線を使って表示するプログレッシブ方式の方が、より鮮明
な画像が表示できるのです。なぜ、素直にこの方式が採用できな
いでしょうか。次世代壁掛けテレビの本命といわれるPDP(プ
ラズマ・ディスプレイ・パネル)でも、プログレッシブ方式が採
用されており、テレビ受像機の素材もプログレッシブ方式に適合
しているのです。
 走査線の数とインターレース方式かプログレッシブ方式の選択
――これが日本の地上波デジタル方式ではどうなるのかはきわめ
て注目されるところです。なお、インターレース方式はI、プロ
グレッシブ方式はPとして覚えておく必要があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1.インターレース方式 ・・・・・ I
   2.プログレッシブ方式 ・・・・・ P
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 米国の4大ネットワーク――CBS、NBC、ABC、FOX
についていうと、地上波デジタルホテルのHDTVについては、
次のように方式が異なるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          走査線 画面縦横比 フレーム
   CBC/NBC 1080  16:9  60i
   ABC      720  16:9  60p
   FOX      720  16:9  30p
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここで「60i」というのは、インターレース方式で60枚と
いう意味であり、「60p」というのは、プログレッシブ方式で
60枚という意味です。     −− [デジタルTV/03]

er.jpg

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2003年04月10日

●アナログ放送打ち切りは誰が決めたか(EJ第1083号)

 テレビのことを調べてみて、不思議なことにいくつも気がつき
ました。何よりも不思議なことは、総務省は国民に十分な説明を
しないまま、わざわざ法律を変更して、アナログ放送の打ち切り
を決めてしまっています。そして、このことについて国民は唯々
諾々と受け入れようとしています。これも不思議な話だとは思い
ませんか。
 ところで、アナログ放送の打ち切りの時期をご存知ですか。次
のように、きちんと日まで決められています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    2011年7月24日アナログ放送打ち切り
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これはその日以降は、現在家庭にあるテレビは使えなくなると
いうことを意味しているのです。確かに、放送のデジタル化は米
国や英国でも進められていますが、国民には十分な説明をしたう
えで行っているのです。日本のように、役所が一方的に決めてな
どいないのです。
 まして、アナログ放送を止める時期については、米国、英国と
もまだ決めておらず、デジタル放送の普及の状況を見て決めるこ
とになっているのです。なぜ、日本だけ、国民にロクに説明もし
ないで、一方的にアナログ放送の打ち切りを決めてしまったので
しょうか。
 実は、そのあたりのことを調べていくと、わが国の電波行政の
問題に行き着くのです。とにかく、日本に割り当てられている電
波の中の一番良いところをテレビが使っているのです。
 その一方において、携帯電話が驚くべき勢いで普及してきてい
ます。そのため、このままで推移すると必ず電波が足りなくなっ
てしまうのです。
 そこで、テレビをデジタル化することによって、ド真ん中から
退いてもらい、もう少し端っこを使ってもらう――こんな考え方
が役所にあるようなのです。それなら、それで、きちんと説明を
した方が、納得が得られると思うのですが、なぜ、やらないので
しょうか。
 そんなに電波が足りないのであれば、テレビを全部有線放送に
すればいいのです。NTTの計画によると、2005年までに全
家庭まで光フィバーをひくといっている――本当でしょうか――
ので、光ファイバーでテレビ放送を流せば、難視聴地域問題も電
波問題も解決してしまうのですが、これにはテレビ局は、猛反発
するに決まっています。「テレビ局から電波を取り上げる気か」
というわけです。
 もうひとつ不思議に思ったのは、衛星放送です。日本の場合、
1996年から「CS放送」がはじまっています。これと「BS
放送」とはどういう関係にあるのでしょうか。
 それに、世界の衛星放送はすべてCS放送であり、BS放送を
やっているのは、日本だけなのです。これも不思議な話であると
いえます。なぜ、世界はBS放送をやらないのでしょうか。その
理由ははっきりしています。BS放送は高いからです。
 ところで、CSというのは通信衛星であり、当初通信専用だっ
たのですが、あとから放送にも使えるようになったのです。これ
に対してBSは、最初から放送用に作られている衛星なのです。
 日本の衛星放送は非常に入り組んでおり、整理して説明しない
と、こんがらがると思います。しかし、今後のテレビ放送につい
て考えるときは、前提条件となるだけに避けて通ることはできな
いので、概略を説明しておきたいと思います。
 CS放送のはじまった1996年当時、日本の放送業界は「ア
ナログかデジタルか」で大議論をやっていたのです。もともと、
BS放送は、アナログハイビジョン放送を行う予定であったので
す。このBS放送について、計画通りアナログで行くべきである
とするテレビ局と家電メーカに対して郵政省は新たにデジタルで
行くべきであると、主張していたのです。
 ところがその結論が出ないうちに、パーフェクTVが1996
年10月から、テレビ放送約70チャンネル、音声放送約100
チャンネルのサービスを開始してしまったのです。
 CSデジタル放送の最大の特色は、「多チャンネル」であると
いうことです。これによって、既存の放送事業者以外の人でも、
チャンネルが持てるようになります。パーフェクTVは、基本的
には放送事業者ではなく、チャンネルを有する各放送事業者に対
して、放送を行うための仕組みを提供する会社なのです。これを
「プラットフォーム」と呼んでいます。
 さて、このCS放送を受信する場合ですが、専用のパラボラア
ンテナと受信機をセットで購入しなければなりません。BS放送
のアンテナでは見ることができないので、両方試聴したいときは
CS用とBS用の2つのアンテナを立てる必要があるのです。
 パーフェクTVは、最初の1年間で目標には及ばないものの、
41万件の加入者を集めたので、BS放送をアナログで行くかデ
ジタルで行くかという論争はどこかに吹き飛んでしまい、デジタ
ルで行くという方針が決定したのです。
 パーフェクTVに続いて、1997年に米国ヒューズ社による
ディレクTVが日本に進出して、12月から放送を開始していま
す。ヒューズ社は、ゼネラル・モーターズを親会社に持つ企業で
1994年に世界ではじめてCSデジタル放送を商用化させてい
るのです。
 そして、1998年、世界のメディア王の異名を持つルパート
・マードック氏率いるオーストラリアのニューズ・コーポレーシ
ョンと孫正義氏率いるソフトバングの合弁事業として、「Jスカ
イB」の構想が浮上するのです。
 「JスカイB」には、ソニーとフジテレビが加わり、最後発な
がらもっとも有望なプラットフォームとして注目を集めることに
なります。しかし、「JスカイB」は、パーフェクTVとの合併
の道を選び、ここに「スカイパーフェクTV」が、1998年に
誕生することになるのです。  −−− [デジタルTV/04]

CSj.jpg
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2003年04月11日

●BS/CSはなぜ経度だけを表示するのか(EJ第1084号)

 「スカイパーフェクTV」(スカパー)の誕生のいきさつにつ
いては、昨日のEJでお話ししました。この時点でスカパーの競
合相手は、1997年から放送を開始している「ディレクTV」
だけです。そこで、激しい加入者獲得競争が展開されたのです。
 しかし、ディレクTVはスカパーに大きく差をつけられるばか
りで、負けがはっきりしてきたのです。そして2000年をもっ
て、ディレクTVは日本での事業展開を断念し、スカパーに吸収
されるかたちで、撤退してしまったのです。
 ところで、スカパーは次の2つの通信衛星を使って、200前
後の多チャンネル放送を行っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          東経124度のCS
          東経128度のCS
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 2つの衛星を使っていますので、アンテナはスカパー用の2衛
星共用アンテナを使うようになっているのです。それでは、BS
の軌道位置は東経何度なのでしょうか。答えは次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          東経110度のBS
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このように、CSにせよ、BSにせよ、1つの衛星を他の衛星
と区別するさいに「東経○○度」と経度だけが表示され、緯度が
表示されないのは、なぜだか分かりますか。
 それは、放送や通信に使う衛星は、「静止衛星」である必要が
あるからです。静止衛星といっても、「動かない」という意味で
はなく、地球の自転に合わせて動く――つまり、つねに日本の上
空にあるようにするのです。
 つねに日本の上空にあるように衛星を打ち上げるには、赤道上
空に打ち上げる必要があります。つまり、どの衛星も緯度は0度
なのです。だから、緯度については表示しないのです。
 ここまでの話は一応理解できると思います。しかし、ここから
がいささか話は複雑になります。というのは、2000年末に突
如として、「東経110度CS」なるものが話題になったからで
す。そうすると、東経110度には、次の2つの衛星が、存在す
ることになるのです。いつCSは打ち上げられたのでしょうか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          東経110度のBS
          東経110度のCS
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この東経110度のCSは、BSと同じ位置に上がっています
ので、BSとCSの両方が受信できる共用受像機があれば、1本
のアンテナで、BS/CSのどちらも視聴できることになるわけ
です。そして、BS/CSのどちらも受信できる受像機の提供も
アナウンスされたのです。
 その経緯をもう少し詳しく述べることにします。
 2000年12月1日からのBSデジタル放送の開始に当たっ
て、日本としては、2000年内にBSデジタル放送用のBS−
4後発機と東経110度CSの2機を打ち上げる予定になってい
たのです。しかし、順番待ちの厳しい状況に追い込まれてしまい
2機打ち上げは無理ということになったのです。
 というのは、赤道上空に静止衛星を打ち上げられるのは、次の
2社しかなく、どちらかに依頼することになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       1.米国のプロトン・ロケット
       2.欧州アリアン・ ロケット
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ところが、当時プロトン・ロケットは、打ち上げ失敗が続発し
ており、世界中の衛星打ち上げ依頼がアリアン・ロケットに集中
することになり、厳しい順番待ちに追い込まれたのです。
 そこで、2000年10月に、東経110度CSを先に打ち上
げてもらい、BSデジタルについては、昔打ち上げた予備機を使
用して、2000年12月1日のBSデジタル本放送をクリアし
たというわけです。そして実際に、BS−4後発機が打ち上げら
れたのは、2001年の春のことなのです。
 それにしても、2000年10月に打ち上げられた東経110
度CSの狙いは一体何なのでしょうか。
 この狙いは、しばらく置くとして、ここでもうひとつ認識して
いただきたいことがあります。これらのCSやBSは、地上何キ
ロメートルぐらいのところに打ち上げられているか――という質
問です。ちなみに、スペースシャトルの場合は、地上300キロ
メートルから400キロメートルの高さなのです。
 スペースシャトルよりも下じゃないかと考える人が多いかも知
れませんが、正解は赤道上空3万6000キロメートルの位置に
打ち上げられているのです。スペースシャトルの実に100倍以
上も上なのです。
 地上からはこの衛星に向けて番組を送信し、衛星に積まれた中
継機を介して日本全国に送り返しているわけです。その中継機の
大きさは、人間の頭程度の大きさであるといいますから、驚くべ
き技術といわざるを得ません。
 これらのCSやBSの寿命は、約10年といわれます。そこで
10年経過すると、BS−4でやったように、衛星の入れ替えを
やるのですが、使われなくなった衛星はしばらく予備機として残
しておくのです。2000年12月のBSデジタル本放送を前に
して、衛星打ち上げが間に合わない事態になったとき、それを可
能にしたのは、この予備機があったからなのです。衛星はガスの
力で浮いているので、本当に不必要になったときは、ガスを抜い
てしまうと、宇宙の彼方に飛んでいってしまうのです。
 ところで、スケジュールを先行させてまでして2000年10
月に打ち上げた東経110度CSの狙いは、どこにあるのでしょ
うか。これについて知っておくと、デジタル放送の全体像が見え
てきます。          −−− [デジタルTV/05]
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2003年04月14日

●東経110度CSの狙いは何か(EJ第1085号)

 2003年4月11日(金)の朝日新聞に、現在のEJのテー
マに関係がある次の見出しの記事が掲載されていました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     ディレクTV獲得/マードック氏に経営権
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ルパート・マードック氏が率いるオーストラリアのメディア大
手ニューズ・コーポレーションが、米衛星放送最大手のディレク
TVを保有するヒューズ・エレクトロニクスの経営権を66億ド
ル相当の現金と株式交換で取得することになったというのです。
ディレクTVは、1130万人もの契約者を抱えており、これを
手に入れることによってニューズ社は、世界規模のネットワーク
を実現できることになります。
 さて、先週の続きです。放送の問題を考えるとき、日本は公共
放送――NHKが非常に強いということを前提においておく必要
があります。世界でこんなに公共放送が強い国は日本しかないの
です。ちょうど通信の世界におけるNTTと同様です。
 もともとBS放送は、地上波放送の難視聴対策としてはじめら
れたものです。ですから、当然のことながら、アナログからはじ
められたのです。NHKの場合は、日本全国の視聴者に対して、
その放送を見られるようにすることが義務づけられています。日
本は山あり谷ありの国ですから、この条件をクリアするには衛星
を使うのが一番効果的だったのです。
 このようにして、BSアナログ放送ははじめられたのですが、
地上波放送技術の向上によって、難視聴地域対策は、衛星を使わ
なくてもクリアできるようになっていったのです。そうなると、
BSアナログ放送は、地上波放送のもう1つのチャンネル「モア
・チャンネル」としての色彩を強めることになります。
 このBSアナログ放送には、有料放送としてWOWWOWが参
入し、2社運営となったのですが、NHKのBS放送は、オリン
ピックなどの全試合放送などを除くと、たいして魅力的なコンテ
ンツがないにもかかわらず、1600万世帯近くの視聴者を集め
たのです。これは驚くべき普及力といえます。
 かくいう私もBSアナログ放送の視聴者なのですが、PCでテ
レビを見るようになってからは、BSはほとんど見ることはなく
なっています。たまに、午後8時に大河ドラマを見損なったとき
に、午後10時からBSで見る程度の利用度なのです。
 それでも1600万世帯の顧客を集めてしまうところがNHK
の実力であり、強さなのです。ちょうどこれは、NTTがあのス
ローなISDNの顧客を1000万世帯以上集めた力に匹敵する
パワーといえるでしょう。
 実は東経110度CSは、このBSアナログ放送の1600万
世帯の視聴者を潜在的顧客として意識した苦肉の策ともいうべき
戦略なのです。要するに、東経110度CSは、BSと経度が同
じであるため、BS/CSの共用アンテナ、共用受信機によって
両方が視聴できるようになります。
 そうすれば、BSアナログ放送の受信者で、デジタルへの切り
換えをしないユーザも、「CSも見られるなら・・」ということ
で、BSデジタル放送への切り換えをしてくれるに違いない――
こういう読みがあったようなのです。東経110度CSが打ち上
げられたのは、2000年10月7日のことですから、どうやら
郵政省(現総務省)は、最初からBSデジタル本放送への顧客獲
得の厳しさを最初から予測していたフシがあるのです。
 そこで、BSアナログ放送の受信者、1600万世帯を何とか
BSデジタル放送に引き込む仕掛けとして、東経110度CSを
考えていたと思われます。
 しかし、事態は、郵政省が予測していたよりも厳しい結果にな
っているのです。BSデジタル放送の普及状況は、放送開始から
2年以上が過ぎているにもかかわらず、相変わらず伸び悩んでい
ます。放送開始前には「1000日で1000万世帯」という目
標を掲げたのですが、時の経過とともに目標との差が開くばかり
になってしまっているのです。何が原因なのでしょうか。
 コンテンツで差をつけようと最初は考えていたようです。こん
な話があります。NHKは、当初イチロー人気でメジャーリーグ
中継の視聴者が多いことに注目し、BSデジタル放送だけで放映
していたのです。ところが、BSアナログ放送の視聴者からもの
凄いクレームがきて、アナログでも放送せざるを得なくなってし
まったのです。
 そもそもBSデジタル放送のコンテンツが、BSアナログ放送
のそれに決定的な差をつけられない――そこに大きな問題がある
といえます。
 もっと衝撃的なことは、日本のデジタル放送を立て直す期待の
ホシとして開始された東経110度CSの加入者が伸びていない
ことです。放送開始は2002年6月ですが、6ヶ月が経過した
昨年暮れの時点でも、加入者は5万世帯程度なのです。そのため
早くも撤退を検討している事業者も出始めています。5万世帯な
ど、とても放送サービスの数字とはいえないでしょう。
 その原因は、明らかに国の政策の失敗にあるといえます。それ
は、行政によるプライオリティの間違いにあります。CSデジタ
ル放送をどのようにするのかという明確なビジョンのないままに
BSデジタル放送を立ち上げ、その補完するものとして、思いつ
きとしか思えない東経110度CSの打ち上げを行い、それにも
失敗するというテイタラクです。
 プライオリティのトップは、地上波デジタル放送に決まってい
ます。そのときはデジタルテレビにしなければならないことは誰
にもわかっています。しかし、その大本命が一番最後に出てくる
のですから、誰だって買い控えをするに決まってします。
 既に地上波デジタルとBSデジタル、それに東経110度CS
の共用受像機とアンテナの発売が決まっているのです。3つの放
送が全部見られるのです。このようなものが一番最後に出てくる
のでは、先に買った方が損をすることになります。BSデジタル
が普及しないのは当然と思われます。
               −−− [デジタルTV/06]
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2003年04月15日

●TVは迎角30度、PCは傾角30度(EJ第1086号)

 地上波デシタル対応の受像機は、地上波デジタル放送のほか、
BSデジタル放送、東経110度CSデジタル放送のすべてが視
聴できるとのことです。もちろんアンテナも1本ですべて視聴で
きます。
 しかし、気になるテレビ受像機の価格は、どのくらいになるの
でしょうか。まったくアンウンスされていませんが、かなり高め
の価格になると思われます。いずれにしても、いまデジタル対応
テレビに手を出すのは、やめた方がいいと思います。
 そういうわけで、地上波デジタル放送が開始されると、今まで
どちらかというと、遠いところにあったCSデジタル放送が身近
なものになることは確かです。
 CSデジタル放送の最大の特色は、多チャンネルという点にあ
ります。そういう多チャンネルが、一般の視聴者にどのようなメ
リットをもたらすのでしょうか。
 日本のテレビ局の今までの番組作りは、視聴率を高めようとす
る狙いから、多くの人の平均的な要望を満たす内容にならざるを
得ません。
 しかし、日本は単一民族ですから、大多数の平均的内容の番組
が作成可能ですが、米国の場合は、広大な国土の中に多言語・多
民族を抱えているので、平均的な要望を満たす内容など作ること
は不可能なのです。そのため衛星放送が発達したのです。
 ヨーロッパの場合は、もっと特殊な事情があります。それは、
米国と違って一定の限られた地域の中に言語も文化も異なる多数
の国々が隣接しているので、1ヶ国当りが保有できるテレビ放送
用の電波量に限界があるのです。そのため、テレビのチャンネル
数が各国とも絶対量として少ないので、多チャンネル放送に対す
るニーズが大きいのです。
 しかし、日本には多チャンネルのニーズは少ないといえます。
そのため多くの国民にとってテレビといえば、地上波アナログ放
送であり、CSにもBSにも関心があまり高くないのです。そこ
で、多チャンネル放送にはどのようなメリットがあるのか少し考
えてみることにします。
 多チャンネルの最大のメリットは、好きなときに見たい番組を
見られることです。今までのテレビは、放送スケジュールに自分
の都合を合わせる必要があったのですが、多チャンネルなら、自
分の都合に合わせてテレビが見られるというメリットを享受でき
るのです。
 ニュースを見たい人は、ニュースばかりをやっている番組があ
るし、サスペンス・ドラマの好きな人は、今までのように、火曜
日と土曜日(火曜サスペンス劇場/土曜ワイド劇場)を心待ちに
することなく、サスペンス・ドラマばかりを放映しているチャン
ネルがある、そして、巨人戦以外の特定チームの全試合が見られ
るなど、便利なことがたくさんあるのです。
 できるはずのないことができるのが現代の特徴です。できるは
ずがないと思っているものには、もともとニーズがないのです。
したがって、欲望も湧かないのですが、一度体験してしまうと、
こんな便利なものはないと考えるようになります。
 しかし、日本人は有料放送に慣れていません。地上波放送では
NHKに視聴料を徴収されますが、他の民放テレビは無料であり
テレビは無料という感覚が根強くあります。だから、誰も見てい
ないのに、時計代わりにテレビをつけている家庭が多いのです。
 ところで、有料放送といっても次の2つの方式があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    1.ペイ・テレビ
    2.PPV(ペイ・パー・ビュー)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ペイ・テレビは、有料放送を視聴するという契約を結べば、実
際に視聴者がその番組を見ていようといまいと、毎月定額の視聴
料金が徴収される方式です。逆にいえば、契約して料金を払って
いれば、あとは見放題ということになります。CSデジタル放送
の有料チャンネルは、ほとんどこの方式です。
 PPVは、契約をしただけでは、料金はかからないのです。実
際に番組を視聴したときに、視聴した回数に応じて料金を支払う
システムになっています。
 最近PPVの契約が伸びているのですが、劇場公開前の新作の
映画が、映画1本当り400円で見られる「試写会サービス」と
いうのが評判を呼んでいるからです。この傾向は、日本において
有料放送が少しずつ定着しつつあることを意味しています。
 ところで、PPVではどのようにして番組の視聴状況を把握す
るのでしょうか。普通のテレビでは、どの番組を見たかは分から
ないはずです。
 PPVは、CSデジタル受信用のチューナにモデムが内蔵され
電話回線と接続されていることが条件になります。つまり、テレ
ビ局から家庭には放送波、家庭からテレビ局には電話回線という
双方向サービスができるようになっているのです。
 テレビ受像機にモデムがつき、さらにハードディスクまで内蔵
される――何となくテレビがPCに近づきつつあるような気がし
ます。実際に、松下、東芝、日立を中心とする家電メーカ連合が
設立したサービス会社の「イー・ピー」は、東経110度CS放
送を利用した蓄積型放送サービスを2002年から段階的に開始
していますが、その外付け専用チューナ「epステーション」に
は、60GBのハードディスクが搭載されているのです。
 テレビとPCは、やがて一体化するのでしょうか。
 ソニーの出井伸之会長が興味深いことをいっています。テレビ
とPCは仰角30度と傾角30度の違いがあるので、簡単には一
緒になれないというのです。
 テレビは後ろに少しそっくり返って見るものですから仰角30
度、それに対してPCは、やや前傾姿勢になるので傾角30度と
いうわけです。確かにそういうことはいえるのではないかと思い
ます。これは、テレビでは株取引のような複雑な双方向取引は無
理であることを示唆しているような気がします。
               −−− [デジタルTV/07]

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2003年04月16日

●BS/東経110度CSの言語BML(EJ第1087号)

 テレビがデジタルして、双方向サービスになるときに、問題に
なることが2つあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          1.使用言語
          2.リモコン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 CSデジタル放送でも、東経124度/128度を使うCSデ
シタル放送では、HTMLという言語を使っています。HTML
は、インターネットのホームページを書く言語であり、広く普及
していることは、ご存知であると思います。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   HTML=Hyper Text Markup Language
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 東経124度/128度CSデジタル放送では、HTMLを使
うことによってインターネットとの親和性を強め、IRD(デジ
タル放送受信用単体チューナ)に高速インターネットモデムを組
み込むことによって、PCにつなげ、衛星インターネットで送る
――といったように、ますます、テレビを高機能化しつつあると
いってよいと思います。
 しかし、これに対して東経110度CSデジタル放送の方は、
高画質に重点を置き、高機能の方については付加的なものと位置
づけています。それはBSデジタル放送の方針と同じであるとい
えます。このことは、BSデジタル放送と東経110度デジタル
放送が採用している言語に関係があります。
 BSデジタル/東経110度CSで使用する言語は、HTML
ではなく、次の言語を採用しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   BML=Broadcast Markup Language
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 HTMLという言語は、コンピュータ言語としては、非常に易
しい言語です。少し勉強すれば誰でも書ける言語です。このこと
と、インターネットが普及したこととは無関係ではないのです。
 しかし、BMLは、HTMLに比べるとかなり難しいのです。
普及もしていないため、書ける人が少ないのです。そのため、ハ
イレベルの画像を提供しようとすると、コストが非常に高くつい
てしまうのです。
 それなら、どうしてHTMLを使わずにBMLを採用したので
しょうか。
 HTMLを採用しなかった理由は、テレビの画面のサイズや視
聴するさいの画面との距離、リモコンの操作性から判断したもの
ということです。しかし、その本音は違うと思うのです。それは
インターネット上で流れている公序良俗に反するコンテンツがテ
レビの画面で映っては困るという判断です。そのため、あえてイ
ンターネットとの親和性を断ち切りたかった――というのが本音
であると思います。
 ところで、BMLという言語――まったくHTMLと無関係と
いうわけではないのです。もともと、HTMLはSGMLという
構造化言語から派生したものです。構造化言語とは、簡単にいう
と、文書の再利用のために文書を構造化するものです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   SGML=Standard Generalized Markup Language
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 HTMLは、SAGLからマークを付けて文書を構造化するこ
とを引き継ぎ、WWW用に機能を特化させたものです。しかし、
HTMLはその後、徐々に複雑化するマルチメディアや表現の多
様化に合わせて、「表示すること」を重視した独自の言語になり
つつあります。
 そういう傾向を受けて、SGMLの特徴を持ちつつ、HTML
のように、WWWで使える「XML」という言語が登場してきて
います。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   XML=eXtensible Markup Language
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これによって、WEBサイトの拡大によって膨大な量になって
いるHTML文書を、資産として活用するために普及させようと
しています。BMLは、このXMLと親和性があるのです。
 さらに、このXMLと表示機能を強化したHTMLの両方を包
含する新しい記述言語「XHTML」も登場してきています。こ
の言語は、BMLも包含するので、BSデジタル/東経110度
CSが、BMLを採用したことは、あながち間違っているとはい
えないと思います。
 言語の話が長くなりましたが、デジタル双方向サービスのもう
ひとつの問題点である「リモコン」について話します。
 双方向サービスを利用するためには、テレビ局ごとに会員登録
しなければならないのです。しかし、デジタルの双方向サービス
といっても、受け手である視聴者にあるのはリモコンだけです。
キーボードもなければ、マウスもないのです。
 キーボードやマウスは難しいといいますが、リモコンだけで会
員登録するのはもっと難しいのです。といって、テレビにキーボ
ードやマウスを付けたら、テレビは本当にPCになってしまうの
で、やるべきではありません。
 これにより、BSデジタル/東経110度CSでは、双方向サ
ービスといってもきわめて限定的なものにならざるを得ないので
す。つまり、高画質は追求するが高機能は追わないという方針に
なるわけです。
 一方、PCが自由に使いこなせる人は、東経124度/128
度CSが面白いと思います。既に述べたように、スカパーはこれ
から、どんどんインターネットと親和性を深めるからです。
 本当に便利な世の中になってきましたが、テレビを買うのにも
かなりの勉強が必要になってきたようです。
               −−− [デジタルTV/08]

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2003年04月17日

●地上波デジタルは本当に成功するのか(EJ第1088号)

 2003年12月から、関東、中部、近畿の3大広域圏で、地
上波デジタル放送が始まることになっています。しかし、この地
上波デジタル放送――本当にうまく行くのでしょうか。
 地上波テレビというのは、東京タワーのような送信塔から電波
を発信し、いくつもの送信所を経由して、電波が伝えられるので
す。アナログ波は波を描いて進むので、ある程度は弾力的に進ん
で行くのですが、途中で電波が弱くなるので、それを補強し、中
継するための送信所が必要になります。現在、関東地区だけでも
200ヶ所近い送信所があります。
 それにもかかわらず、東京23区で直接アンテナを立ててテレ
ビを視聴している世帯は、全体の40%ぐらいのもので、残りの
60%の世帯は、ケーブルかマンション共聴で見ているのです。
アナログ波にしてこの有様なのです。
 それがデジタル波(UHF波)では、非常に直進性が強いので
相当高いところから飛ばさないと電波が届かないのです。関西地
区のように、親局が生駒山の山頂近くにあって、その下に街が広
がっているような場合は、相当広範囲に電波は届きますが、関東
平野とか、名古屋の濃尾平野のようなところでは、よほど高いテ
レビ塔を建てるか、どこか遠いところにある山の上に電波塔を建
てないと対応できなくなります。しかし、東京にはそういう適当
な山がないのです。
 電波塔を現在の東京タワーの倍ぐらいの高さにする計画もある
そうです。しかし、それでも親局から飛ばせる範囲は、せいぜい
横浜ぐらいなのです。そのため、中継基地としての送信所を現在
の倍以上に増やす必要が出てくるのです。しかし、それだけの投
資をNHKと民放キー局5社といえどもやる体力はないと考えら
れます。
 もともと東京タワーというのは、当時のVHFテレビ7局が、
東京を中心とした関東一円(北は水戸、東は銚子、南は沼津、西
は甲府)をサービスエリアとして電波を送る場合に333メート
ルあればOKということで、昭和33年に建設・開業されたはず
なのですが、専門家の話によると、かなり多くの世帯がケーブル
でテレビを視聴しているようなのです。
 もっとも333メートルという高さは、そういうもっともらし
い計算の根拠というよりも、エッフェル塔の320メートルを抜
きたかったことや開業年の昭和33年に合わせたかったというの
が真相ではないかということもいわれています。
 さて、2003年12月の時点で地上波デジタル放送が始まっ
ても、それを視聴できる地域は限られているはずです。せっかく
地上波デジタル放送対応のテレビを購入しても、視聴できるのは
NHKの総合放送とBSデジタル、東経110度CSだけという
エリアはかなりあるはずです。私が住んでいる埼玉県などはそう
なるでしょう。
 しかし、本当にそうなるとしたら、相当な苦情がテレビ受像機
を購入した販売店――ビックカメラなど――に殺到することにな
ります。本当は販売店に苦情を持ち込んでも意味はないのですが
文句のもっていきどころがないので、当面そのホコ先は販売店に
向けられるはずです。
 BSデジタル放送やCSと違って、2003年12月から始ま
る地上波デジタル放送は、現在、アナログで放送している番組を
2011年まではデジタルで流すだけです。これを「サイマル放
送」というのです。これが、テレビ局としては一種の「逃げ」に
なります。「テレビは視聴できます」というわけです。
 考えてみれば、最初に出てきたときのテレビは、6チャンネル
――NHK総合、NHK教育、NTV、TBS――までしか映ら
なかったのです。当時は、テレビ放送用に使える電波の帯域が限
られていたからです。
 その後、テレビ放送用の帯域が増やされて、フジテレビ、テレ
ビ朝日、テレビ東京が出てきたのです。当然のことながら、12
チャンネルまで映るテレビは、それに合わせて発売されたのです
が、当時テレビは高価な家電であったため、6チャンネルまでし
か映らないテレビと12チャンまで映るテレビは、しばらくの間
共存すすることになります。
 関東地方でのカバー率を見ても、NHKは別として、日本テレ
ビやTBSが95%くらいカバーしていたときに、フジテレビと
テレビ朝日は60%くらいのカバー率だったのです。テレビ東京
にいたっては、最初のうちは、中継局が少なかったことにより、
視聴できない地域は多くあったのです。
 したがって、地上波デジタル放送の場合も、2003年12月
から始まるにしても、2011年まではサイマル放送を続けなが
ら、少しずつカバー率を上げていく計画なのでしょう。したが
って、地上波デジタル、BSデジタル、東経110度CS対応の
受像機が登場しても、BSデジタルやCSを見たい人は別として
あせって購入しない方が得策というものです。
 ところで、現在販売されているデジタルテレビには、「B−C
AS」という機能が搭載されています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    B−CAS=BS−Conditional Access System
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 BSデジタル放送の受像機1台ごとに1枚ずつ固有のID番号
を持つB−CASカードがついてきます。このカードは、BS放
送局と視聴者を結ぶ役割をします。BSデジタル放送は、高画質
と双方向サービスが売りものですが、ユーザ登録はがきを郵便局
に投函して、B−CASカードを受信機に挿入し、テレビと電話
線をつなぐと、双方サービスが受けられるのです。
 すべてのテレビにB−CAS機能がつくと、NHKの視聴料を
払わないユーザのテレビのNHKの番組には、「視聴料のお支払
いにご協力ください」というテロップが始終流れて、テレビ画面
が見ずらくなるような処置がとられるということです。
 ところで、地上波デジタル放送の難視聴対策には、「光波長多
重技術」という切り札があるのです。
               −−− [デジタルTV/09]



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2003年04月18日

●難視聴問題を解決する光波長多重技術(EJ第1089号)

 光波長多重技術は、波長を多重させることによって、放送用の
映像配信とデータ通信(IP)を完全に分離させてしまう技術で
す。具体的にいうと、この光波長多重技術を使うと、1本の光フ
ァイバ―ケーブルの中を、放送と通信という全く別の性格を持つ
コンテンツが同時に流せるのです。
 道路にたとえると、普通中央分離帯は反対車線との間にありま
すが、この場合は、同じ向きの車線の間に中央分離帯があって、
車線変更ができないようになっている――そういうものをイメー
ジしていただきたいと思います。この場合、放送と通信は同じ方
向に向っていますが、決して混ざることはないのです。
 毎秒100メガビットの光ファイバーケーブルの中を、映像部
分の配信では、標準画質の放送なら500チャンネル、ハイビジ
ョンでも110チャンネルものテレビ放送が流せるのです。しか
も、それに加えて、通常のEメールやIP電話などの情報も同時
に流せるというすぐれものです。
 毎秒100メガビットの光フィバーといっても、ブロードバン
ド時代の現代のこと、すぐ手の届くところにきているのです。N
HKをはじめとするテレビ局とNTTがジョイトすれば、すぐに
実現できる現実性があります。
 光波長多重技術が実現すると、電話、インターネットによる情
報通信、テレビ放送が1本の光ファイバーケーブルによって伝送
できることになり、必要なコストを最小必要限度に抑えることが
可能になります。なぜなら、それぞれ別々にケーブルを引く必要
がないからです。
 テレビ局の親局から発する電波を電話局の屋上に設置した巨大
なアンテナで受けてもらい、それをそのまま本来は通信用に張り
巡らせている光ファイバーケーブルに多重して各家庭のテレビ受
像機まで運ぶ――これが実現すれば、デジタル難視聴の問題は、
一挙に片付いてしまうのです。この光波長多重技術は、NTTに
よって開発された独自技術です。
 2002年2月25日のことですが、新宿区四谷にあるマンシ
ョンを使って、NTTとスカイパーフェクトTV(スカパー)が
ある共同実験を行なっているのです。なぜ、マンションで実験を
やったのでしょうか。
 ブロードバンド時代の現在のことですから、これから新築され
るビルやマンションには、当然のことのように、光ファイバーが
入るでしょうが、古いマンションでは、同軸ケーブルが1本入っ
ているだけというところが多いのです。そういうところは、どう
するのか――これが大きな課題になります。
 光ファイバーは、ISDNやADSLと違って、配線工事が必
要ですから、マンションなどの場合、引き直しということになる
と、大工事になってしまうのです。ところが、それを解決する技
術もNTTは独自に開発しているのです。四谷のマンションの共
同実験は、その技術のテストだったのです。その技術は次のよう
に命名されています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
B-PON(ビー・ポン)Broadband Passive Optical Network
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 実験場所に選ばれた四谷のマンションは、古い同軸ケーブルが
入っており、マンションの住人はそれを通じてテレビを視聴して
いるのです。
 やり方はきわめて簡単です。同軸ケーブルの根元にB−PON
を1個つなぐだけです。それだけのことで、同軸ケーブルをいわ
ば、光ファイバーに変身させることができ、標準画質の放送が、
500チャンネル、ハイビジョン放送が110チャンネルを流す
ことができるのです。詳しくは次のアドレスをクリックすると、
NTTとスカパーによる報道発表資料を読むことができます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  http://www.ntt.co.jp/news/news02/0202/020225.html
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 B−PONは、NTTが開発した独自技術で、コストも非常に
安いのです。B−PONは、1個10万円――1個つけるだけで
マンション全部がデジタル放送を受信できるのです。かりに50
戸建てのマンションであれば、1戸当たりの負担はたったの20
00円――それも1回負担すればそれで終りなのです。
 NHKは、放送を日本全国にあまねく普及させることが義務づ
けられています。これをユニバーサルサービスといっています。
ですから、過疎地の難視聴地域にも放送を確実に届ける義務があ
るわけです。
 NTTも同様に、日本全国にどこにいても同一料金で電話が通
じるようにすることが義務づけられています。ですから、立場は
NHKと同じなのです。しかし、NHKとNTTは、必ずしも仲
がよいとはいえないのです。それもどちらかというと、NHKの
方がNTTに対して警戒感を持っており、NTTに放送の世界に
入ってきて欲しくないと考えているフシがあります。
 しかし、今はそんなことを考えているときではないはずです。
光波長多重技術を使えば、光ファイバーに放送を含めたさまざま
なコンテンツを流すことができ、光ファイバーという格好のイン
フラを生かすことができます。
 しかし、全国に張り巡らされた光ファバー網でデジタル放送を
伝送することが当たり前になると、現在、全国放送の中継基地で
しかないローカル局の存在意義がうすくなり、放送業界の再編が
起こる可能性があります。その危機感から、ローカル局サイドか
ら、「デジタル化見直し論」が巻き起こりつつあります。
 しかし、放送と通信の融合化は時代の流れであり、これに逆ら
うことはできないと思います。4月17日の日本経済新聞は、ス
カパーとそのライバルのWOWOWが黒字転換したことを伝えて
います。スカパーの狙いは、2002年10月の上場審査基準の
緩和を生かして東証一部にくら替えを図り、将来の資金需要に備
えることにあります。これにより、より機動的な事業展開が可能
になり、通信と放送の融合に拍車がかかることは必至と思われま
す。             −−− [デジタルTV/10]
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2003年06月25日

弾く者のすべてがあらわれるヴァイオリン(EJ1135号)

 川畠成道という盲目のヴァイオリニストをご存知でしょうか。
私の手元に彼の4枚目のアルバム――「哀愁のトリステ」(VI
CC60329)がたまたまあったので、彼をEJに取り上げよ
うと思ったのです。なぜなら、EJの読者の皆様に彼のヴァイオ
リンをぜひ一度聴いていただきたいからです。
 私が川畠氏のヴァイオリンをはじめて聴いたのは、2001年
の正月のことです。よく行くCDショップの視聴コーナーで、彼
の演奏するグノーの「アヴェ・マリア」を聴いたのが最初です。
この演奏は実に素晴らしいものだったのです。力みのない、心に
染み入るような、思わず聴き惚れてしまうほどの名演でした。
 このグノーの「アヴェ・マリア」―――バッハの「平均率クラ
ヴィーア」の中の、第1番ハ長調BWV846のプレリュードを
そのまま伴奏パートに使い、そこに新規の声楽パートを書き加え
るというグノーのアイデアで作られた歌曲ですが、ヴァイオリン
で演奏すると、宗教的な感情を湛えた敬虔な名曲になって心に染
み渡るのです。
 川畠成道氏は、8歳のときに祖父母と一緒に米国を旅行したの
ですが、風邪を引いて医師の診断を受けます。そのとき医師の処
方した薬が原因で危険な状態になり、大学病院に入院する事態に
なります。幸い医師による必死の治療体制によって奇跡的に一命
は取り留めたものの、薬の後遺症で両眼の視力が極度に落ちてし
まったのです。
 川畠氏がヴァイオリンの道に進むことを決意したのは、彼の父
親がヴァイオリン奏者であり、指導者でもあったことと無関係で
はないでしょう。普通父親がヴァイオリンの指導者であると、息
子には幼いうちからヴァイオリンを習わせるものですが、父親の
正雄氏はこの世界の厳しさを知っているだけに、子供にはやらせ
たくないと考えていたようです。
 ヴァイオリンの道に進むことを決めたのは10歳のとき、病気
になってから2年後のことです。ヴァイオリニストにしては、か
なり遅いスタートであるといえます。
 しかし、彼の進歩は驚くべきものであったそうです。当時は今
よりは多少目が見えた川畠氏は、両親が模造紙に書いた大きな五
線譜――一枚に3段の五線譜を一枚一枚はぎとって演奏したとい
います。そのくらい大きくないと見えないのです。
 ヴァイオリンを手にして3年後のことです。ヴァイオリンの巨
匠アイザック・スターンの公開レッスンがあったのです。川畠氏
は、全国350人を超える応募者の中から選ばれて、スターンの
レッスンを受けることができたのです。
 スターンの前で川畠氏は、パガニーニのコンチェルトを演奏し
たのですが、弾き終ったとたんスターンは歩み寄り、彼の頭に手
を当てて「ワンダフル!実に素晴らしい」といったのです。彼が
一流のヴァイオリニストに認められた一瞬です。
 スターンの指導の厳しいことは定評があります。相手が子供で
あるからといって加減しないのです。ある子供などは次のように
いわれています。あくまで、プロの音楽家に対するもの言いをし
ているのです。川畠氏に対する「ワンダフル!」がいかに価値の
あるものかわかります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  あなたはとても上手に弾いているけれども、あなたの音楽は
 レコードなどによる人の真似です。その中にはあなた自身の音
 楽がありません        ―――アイザック・スターン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 その後、川畠氏は、桐朋学園高校、桐朋学園大学を経て、ロン
ドンの英国王立音楽院の大学院に進学し、1997年に首席で卒
業しています。そして、四半世紀に一度開催される記念コンサー
トにソリストとして抜擢されるのです。
 演奏したのは、ブルッフ作曲の「スコットランド幻想曲」――
演奏を終えた彼を待っていたのは、総立ちの聴衆が床を踏み鳴ら
す熱狂的な歓迎だったのです。そして、175年を誇る英国王立
音楽院の歴史の中で2人目になる「スペシャル・アーティスト・
ステータス」の称号を授与されています。
 日本での初演は1998年3月のことです。サントリーホール
で、小林研一郎指揮による日本フィルとの共演でデビューを果た
します。演奏曲は、メンコン――メンデルスゾーン作曲のヴァイ
オリン協奏曲です。ここでも弾き終わったとたん嵐のような拍手
が10分近く鳴り止まなかったのです。
 現在、川畠氏の目は譜面を見ることはできません。母親と英国
に暮らし、レッスンを受けています。曲を覚えるのは、母の麗子
さんの一小節ずつ弾くピアノの音で曲を覚えるのです。1日の半
分近くを練習に当て、日夜研鑽を重ねているそうです。それにし
てもこの世界は本当に厳しいですね。
 川畠氏は、ヴァイオリンの難しさ、怖さについて、次のように
いっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ヴァイオリンという楽器は、その音に弾く者の持つすべてが
 あらわれます。演奏家が考えていることや、感じたこと、置か
 れている状況などのすべてが、音を通して空中を飛び、聞き手
 に伝わるのです。だからこそ、この楽器は難しく、怖 く、面
 白いのでしょう。そういう意味で、ヴァイオリンは自分なりの
 音を出すのが大切なのです。         ――川畠成道
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 とにかく彼の音楽には心が洗われます。単なる感傷性ではない
内なる厳しさを秘めた真摯な音楽作りが、聞き手の胸を打つので
す。そして、最近ではそのスケールが一段と大きくなっていると
思います。
 彼のアルバムは4つありますが、ぜひ『アヴェ・マリア』(添
付ファイル/VICC−60219)から聴かれることをお勧め
したいと思います。力まない、自然の、本物のヴァイオリンの音
がそこにあります。

1135号.jpg
      『アヴェ・マリア』
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2003年06月26日

ムローヴァ/五嶋みどりメンコンで勝負(EJ1136号)

 昨日久しぶりに音楽の話をしましたので、今週は音楽の話を続
けます。テーマはメンコン――メンデルスゾーン作曲「ヴァイオ
リン協奏曲ホ短調 作品64」です。
 メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調といえば、あま
り音楽を聴かない人でも、最初の出だしの部分くらいは、知って
いるくらいポピュラーな曲のひとつです。
 しかし、この曲に関する限り、心から満足できる演奏にめぐり
合える機会は少ないのです。多くのヴァイオリニストがこの作品
に挑み、数え切れないほどのCDが制作されているのにです。そ
れでいて、決定盤といえるものが少ないのです。それは、この曲
を演奏することが非常に難しいからです。
 もちろん技術的に難しいという意味ではありません。それは、
この曲が、一度でも耳にすれば、誰もが忘れることのできない美
しいメロディを持ちながら、ちょっと演奏を誤ると、単なるセン
チメンタルな音楽になってしまうという危うさがあるからです。
 演奏者はそういう音楽にならないようにしながら、この曲に本
来備わっている気品の高さや古典的な造形の美しさも表現しなけ
ればならない――これは至難のわざなのです。
 ごく最近のことですが、注目すべき2つのメンコンが相次いで
発売されています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 メンデルスゾーン作曲「ヴァイオリン協奏曲」ホ短調作品64
  1.ヴァイオリン/ヴィクトリア・ムローヴァ
    ガーディナー指揮
    レヴォリュショネール・エ・ロマンティックO
    (フィリップス/UCCP1075)
  2.ヴァイオリン/五嶋みどり
    マリス・ヤンソンス指揮
    ベルリン・フィルハーモニーO
    (ソニークラシカル/SICC123)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この2つは対照的なメンコンといえます。両方を購入してもソ
ンはないということです。カップリングもお教えしましょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ムローヴァ ・・・ ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲
 五嶋みどり ・・・ ブルッフ   のヴァイオリン協奏曲
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 もともとムローヴァのメンコンは定評があり、私は高く評価し
ているのですが、今回の新盤は今までにない大きな特色があるの
です。というのは、この盤は古楽器を使って、新しい感覚の音色
でメンコンに挑戦しているからです。
 現在のヴァイオリンは、ナイロン弦やスティール弦を使ってい
ますが、昔のヴァイオリンの弦はガット(羊腸線/ガット弦)を
使っていたのです。羊の小腸の一部分の繊維だけを取り出して、
これを太さに応じて何本も作り、E線からG線まですべてガット
で弦を張ったのです。
 このCDでムローヴァは、メンデルスゾーンもベートーヴェン
もガット弦を張ったヴァイオリンで演奏しています。ですから、
聞き慣れない音がときどき出てくるので、かえって新鮮な感じが
するのです。しかし、2002年6月の録音であり、「レコード
芸術」の録音点数は93と、音は申し分ないのです。
 もう一枚の五嶋みどりのCDは、マリス・ヤンソンス指揮のベ
ルリン・フィルとの共演です。このヤンソンスという指揮者は、
現在ヨーロッパの音楽界でサイモン・ラトルと人気を二分するほ
どの指揮者であり、五嶋にとって、現在望みうる最高の共演者と
いっても過言ではないでしょう。
 ところで、この五嶋みどり――メンデルスゾーンもブルッフも
初録音であり、とくにメンコンに関しては実演でもここ10年以
上弾いたことがなく、本人にいわせると録音はあきらめていたと
いうのです。五嶋みどりといえば、既に20年以上のキャリアが
あり、実力派です。それでいて、このポピュラーな曲を録音する
のに逡巡する――それほど、この曲は難しいといえます。
 録音は、ムローヴァと同じ2002年6月であり、非常に新し
い録音です。「レコード芸術」の月評にはまだ登場していません
が、音楽評論家の中村孝義氏は次のように絶賛しており、特選盤
か推薦盤は間違いないと思われます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 今さら五嶋みどりに対して失礼かもしれないが、この演奏は、
 いよいよ彼女が、後世に名を残す本物の芸術家への第一歩を踏
 み出した演奏のように思えてならない    ――中村孝義氏
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 それに五嶋みどりの演奏は、メンデルスゾーンとブルッフとも
に、ライブ録音であるということです。それでありながら、両方
とも、きわめて完成度の高い演奏であるといえます。もし、質の
高いメンコンを1枚欲しいと望まれるのであれば、五嶋みどりの
方をお勧めしたいと思います。
 このようにいうと、五嶋みどりの盤がムローヴァ盤を上回って
いるようにとる人がいるかも知れませんが、どちらも価値の高い
演奏であることには変わりはないのです。ただ、ムローヴァの場
合は、古楽器を使っている点が特殊であって、その点五嶋みどり
の方が一般的であるということだけです。
 ムローヴァ盤について興味が尽きない点は、やはりガット弦を
中心とする古楽器の音です。ムローヴァは、ベートーヴェンでも
メンデルスゾーンでもガット弦を見事に鳴らしており、自然な音
作りに成功しているといえます。もともとムローヴァは、実演で
聴くと線の細い演奏になるのですが、このCDではそれが繊細さ
となって響いています。そういう意味で貴重な一枚といえると思
います。
 メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲には、まだまだ興味の
ある話がたくさんあります。明日もこの話を続けます。

1136号.jpg
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2003年06月27日

メンコンには第三者の手が入っている(EJ1137号)

 メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲の続きです。
 ヘルベルト・フォン・カラヤンという高名な指揮者がいます。
カラヤンは大指揮者であるにもかかわらず、ポピュラーな曲を積
極的に取り上げ、それを素晴らしい演奏で聴かせる――そういう
ところに人気の源泉があったといえます。
 音楽にうるさい人にお聞きしますが、カラヤンの指揮するオー
ケストラで、メンコンを聴いたことがあるでしょうか。
 相当音楽に詳しい人でもあまりないと思います。カラヤンは、
なぜか、この曲をあまり取り上げていないのです。嫌いだったの
でしょうか。一説にはカラヤンはユダヤ人作曲家のヴァイオリン
協奏曲を意識して取り上げなかったという説もありますが、それ
は違うと思います。
 ところで、「あまり・・ない」と書きましたが、それは、カラ
ヤンがメンコンを演奏し、録音したことは少ないけれどある――
そういうことを意味します。
 カラヤンは、アンネ・ゾフィー・ムターというヴァイオリニス
トと組んで、次のCD(輸入盤)を出しています。これが初録音
であり、そのあとはないのです。もし、あったら、ご教示いただ
きたいと思います。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   ●メンデルスゾーン作曲 ヴァイオリン協奏曲
    ヴァイオリン/アンネ=ゾフィー・ムター
    カラヤン指揮/ベルリン・フィル/1980年録音
    /ポリドール 445 515-2(輸入盤)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この盤で同時に入っているのは、ブルッフの協奏曲であり、昨
日お話しした五嶋みどりの盤と同じです。おそらくカラヤンは、
メンコンを演奏したかったのですが、良いヴァイオリニストがい
なかったのでしょう。ムターと出会えてはじめて録音する気にな
り、CD化したものと思われます。
 さて、メンコンは、メンデルスゾーンの代表作であるとともに
ヴァイオリン協奏曲の最高傑作の1つなのです。とかくメンデル
スゾーンの曲は、底抜けに明るく、伸びやかで、とくに交響曲な
どを聴くと、何か苦労しないで才能のおもむくままに作曲されて
いるなどとよくいわれます。
 しかし、メンコンに関しては、メンデルスゾーンは着想から完
成まで6年も費やしており、カデンツァを作曲者自身で書いたり
楽章間をつないだりと、当時としてはかなり革新的な作品だった
のです。
 ところが、いまわれわれが聴いているメンコンは、メンデルス
ゾーンの原典とは異なり、第三者の手が入っているということを
いうヴァイオリニストがいます。
 そのヴァイオリニストの名前は、ルイジ・アルベルト・ビアン
キというイタリア人です。彼は、メンコンを演奏するたびにどう
もこの曲には作曲家以外の手が入っていると感じ、調査を開始し
たのです。とにかく楽譜の原典版――メンデルスゾーンの自筆の
楽譜を探すことが先決であるとして楽譜の行方を追ったのです。
 調査の結果、その楽譜は第2次世界大戦中に他の膨大な楽譜と
一緒にベルリンからソ連、ポーランドに持ち出されていることが
わかったのです。そして、その足取りを追っていくと、ポーラン
ド南部にあるヤギヴォ大学にそれがあることがわかります。
 ビアンキは、その原典版の楽譜を手に入れ、演奏してみたとこ
ろ、現在われわれが聴いているメンコンとはかなりの違いが発見
されたというのです。その自筆楽譜には「1845年3月13日
初演」と書かれており、初演者ダヴィットの署名があるので、少
なくとも初演の楽譜には違いないのです。
 ビアンキは、この原典版の楽譜に基づき、1989年5月5日
に、テミルカーノフ指揮/ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
の演奏でこれを演奏しています。
 実は、メンデルスゾーンの原典版は、1998年に正式に録音
され、現在入手可能です。しかし、それを発見したビアンキの演
奏によるものではなく、イザベル・ファン・クーレンがヴァイオ
リンを弾いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 イザベル・ファン・クーレン(ヴァイオリン)
 レフ・マルキス指揮/新アムステルダム・シンフォニエッタ
 BIS/1998年録音
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このように、メンコンひとつとってもさまざまなドラマがある
のです。私自身はこの盤をまだ入手していませんが、時間ができ
たら聴いてみたいと思っています。
 メンコンについていろいろ述べてきましたが、最後に今までに
CD化された不朽の名盤といわれているものについて、情報を提
供しておきたいと思います。
 最近は、録音技術が進んでおり、かなり古い録音でも信じられ
ないほど、リアルに復刻できるようになっています。
 メンコンの名盤で、現在入手可能なものは、次の2つの盤があ
ります。いずれも1950年代の録音です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ●ヴォルフガング・シュナイダーハン(ヴァイオリン)
  フリッチャイ指揮/ベルリン放送交響楽団/擬似ステレオ
 ●ヤッシャ・ハイフェッツ(ヴァイオリン)
  シャルル・ミンシュ指揮/ボストン交響楽団
  RCA/LIVING STEREO
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 シュナイダーハンの盤は大変な名演です。1956年の録音で
すが、1998年末に日本で世界初CD化されています。もう1
つのハイフェッツの盤は、1959年の録音ですが、現在の録音
かと間違えてしまうほど凄い音でよみがえっています。
 来週からは、新しいテーマを取り上げます。

1137号.jpg
      五嶋みどり         シュナイダーハン
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2003年08月04日

篠田監督最後の作品『スパイ・ゾルゲ』(EJ1162号)

 篠田正浩監督の『スパイ・ゾルゲ』を観ました。とても印象深
い映画でした。次の大きなテーマを取り上げる前の話題のひとつ
として、この映画について書くことにします。8月15日も近い
ので、ちょうどよいと思っています。
 新しい21世紀がはじまってから3年が経過しましたが、ここ
にきて、われわれが生きてきた20世紀を見直そうとする映画監
督が増えているようです。そういう作品を上げると、次の3つに
なります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.ロマン・ポランスキー監督
        『戦場のピアニスト』
      2.ベルトラン・タヴェルニエ監督
        『レセ・パセ/自由への通行許可証』
      3.篠田正浩監督
        『スパイ・ゾルゲ』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ポランスキー監督は、ナチス占領下のポーランドに実在するひ
とりのピアニストを通じて、あの時代のユダヤ人たちの過酷な生
活を描いていますし、タヴェルニエ監督はやはりナチス占領下の
フランスの映画人たちの抵抗を描いています。占領はされても、
ドイツには協力しないというフランス人の心意気を描いた物語に
なっているのです。
 そして、篠田正浩監督は、第2次世界大戦直前の日本でスパイ
活動をして逮捕され、処刑されたリヒャルト・ゾルゲと尾崎秀美
(ほつみ)いう2人の人物を通して、当時の日本の真の姿を描き
出そうとしています。
 これら3人の監督の生年月日は次の通りであり、ほとんど同世
代の人なのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ポランスキー ・・・ 1933年 8月 8日生まれ
  タヴェルニエ ・・・ 1941年 4月25日生まれ
  篠田正浩 ・・・・・ 1931年 3月 9日生まれ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 篠田監督は、この作品について次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  日本人が忘れ去ろうとしている「昭和」
  日本人が失いつつある「時代感覚」
  日本と日本人が取り戻すべき「アイデンティティ」
  その、まるごとを描いてみたかった。
  2つの祖国を持つジャーナリストにしてスパイ、
  ゾルゲという一人の≪怪物≫の目を通して  ――篠田正浩
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この映画の主役リヒャルト・ゾルゲは、ドイツ人の父とロシア
人の母のもとでロシアのアゼルバイジャンで生まれ、ドイツに移
り住むのです。ゾルゲが18歳のとき第1次世界大戦がはじまり
ゾルゲもドイツ軍の志願兵として戦線に送られます。
 そして、負傷――3度の負傷のあと除隊するのですが、戦争の
無意味さを実感し、しだいに共産主義運動に引かれていくことに
なります。国際共産主義世界の実現を夢見てコミュニストになり
ドイツを離れてモスクワのコミンテルンの活動に参加するように
なるのです。コミンテルンとは、レーニンが作った共産主義イン
ターナショナルのことです。
 そして、活動の場を赤軍に移して1930年から上海でソ連の
スパイとして諜報活動をはじめるようになります。その上海でゾ
ルゲは、朝日新聞社上海通信局の記者である尾崎秀美と知り合う
のです。それが尾崎との最初の出会いです。
 1932年に尾崎は日本に転勤になるのですが、ゾルゲも19
33年に「フランクフルター・ツァイトゥング」紙の東京特派員
として、諜報活動のために來日し、再び尾崎と接触します。そし
て、尾崎は協力者としてゾルゲの諜報活動を助けるのです。
 尾崎は、中国の専門家としての知識・識見を買われ、朝日新聞
社から近衛文麿内閣の嘱託となり、さらに南満州鉄道嘱託になっ
て権力の中枢に入っていくのです。ゾルゲが日本政府の極秘事項
について正確な情報が得られたのは、尾崎の協力があったればこ
そなのです。
 それにしても、ゾルゲの場合はわかるのですが、一高から東京
帝大(現在の東大)を出て朝日新聞社に入社――まるで絵に描い
たようなエリートコースを進んだ尾崎秀美が、なぜソ連のスパイ
であるゾルゲに協力したのか、それがこの映画では十分描き切れ
てはいないと思うのです。
 ただ、いえることは、当時の日本は経済がどん底の状態であり
それに軍国主義がはびこっていて、国が良い状態でなかったこと
――その反動として、当時のソ連は理想の国という幻想があった
のです。こういう日本の国情が尾崎秀美に何らかの影響を与えて
いたことは確かなのです。
 ところで、ゾルゲ諜報団とはどういうメンバーだったのでしょ
うか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 リヒャルト・ゾルゲ ・・・・・・ リーダー
 尾崎秀美 ・・・・・・・・・・・ 近衛内閣嘱託
 ブラント・ド・ヴェケリッチ ・・ クロアチア人記者
 マックス・クラウゼン ・・・・・ ドイツ人無線技師
 宮城与徳 ・・・・・・・・・・・ 画家
 アグネス・スメドレー ・・・・・ 米国人ジャーナリスト
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ゾルゲは、駐日ドイツ大使に信頼され、大使館の中に一室をも
らいます。そして、ナチス党員の地位を巧みに利用し、大使館経
由で日本とドイツの情報を収集し、その極秘情報をモスクワに送
っていたのです。ゾルゲは、1933年から足かけ9年間、日本
に滞在し、諜報活動を続けていたのです。

1162号.jpg
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篠田監督最後の作品『スパイ・ゾルゲ』(EJ1162号)

 篠田正浩監督の『スパイ・ゾルゲ』を観ました。とても印象深
い映画でした。次の大きなテーマを取り上げる前の話題のひとつ
として、この映画について書くことにします。8月15日も近い
ので、ちょうどよいと思っています。
 新しい21世紀がはじまってから3年が経過しましたが、ここ
にきて、われわれが生きてきた20世紀を見直そうとする映画監
督が増えているようです。そういう作品を上げると、次の3つに
なります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.ロマン・ポランスキー監督
        『戦場のピアニスト』
      2.ベルトラン・タヴェルニエ監督
        『レセ・パセ/自由への通行許可証』
      3.篠田正浩監督
        『スパイ・ゾルゲ』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ポランスキー監督は、ナチス占領下のポーランドに実在するひ
とりのピアニストを通じて、あの時代のユダヤ人たちの過酷な生
活を描いていますし、タヴェルニエ監督はやはりナチス占領下の
フランスの映画人たちの抵抗を描いています。占領はされても、
ドイツには協力しないというフランス人の心意気を描いた物語に
なっているのです。
 そして、篠田正浩監督は、第2次世界大戦直前の日本でスパイ
活動をして逮捕され、処刑されたリヒャルト・ゾルゲと尾崎秀美
(ほつみ)いう2人の人物を通して、当時の日本の真の姿を描き
出そうとしています。
 これら3人の監督の生年月日は次の通りであり、ほとんど同世
代の人なのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ポランスキー ・・・ 1933年 8月 8日生まれ
  タヴェルニエ ・・・ 1941年 4月25日生まれ
  篠田正浩 ・・・・・ 1931年 3月 9日生まれ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 篠田監督は、この作品について次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  日本人が忘れ去ろうとしている「昭和」
  日本人が失いつつある「時代感覚」
  日本と日本人が取り戻すべき「アイデンティティ」
  その、まるごとを描いてみたかった。
  2つの祖国を持つジャーナリストにしてスパイ、
  ゾルゲという一人の≪怪物≫の目を通して  ――篠田正浩
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この映画の主役リヒャルト・ゾルゲは、ドイツ人の父とロシア
人の母のもとでロシアのアゼルバイジャンで生まれ、ドイツに移
り住むのです。ゾルゲが18歳のとき第1次世界大戦がはじまり
ゾルゲもドイツ軍の志願兵として戦線に送られます。
 そして、負傷――3度の負傷のあと除隊するのですが、戦争の
無意味さを実感し、しだいに共産主義運動に引かれていくことに
なります。国際共産主義世界の実現を夢見てコミュニストになり
ドイツを離れてモスクワのコミンテルンの活動に参加するように
なるのです。コミンテルンとは、レーニンが作った共産主義イン
ターナショナルのことです。
 そして、活動の場を赤軍に移して1930年から上海でソ連の
スパイとして諜報活動をはじめるようになります。その上海でゾ
ルゲは、朝日新聞社上海通信局の記者である尾崎秀美と知り合う
のです。それが尾崎との最初の出会いです。
 1932年に尾崎は日本に転勤になるのですが、ゾルゲも19
33年に「フランクフルター・ツァイトゥング」紙の東京特派員
として、諜報活動のために來日し、再び尾崎と接触します。そし
て、尾崎は協力者としてゾルゲの諜報活動を助けるのです。
 尾崎は、中国の専門家としての知識・識見を買われ、朝日新聞
社から近衛文麿内閣の嘱託となり、さらに南満州鉄道嘱託になっ
て権力の中枢に入っていくのです。ゾルゲが日本政府の極秘事項
について正確な情報が得られたのは、尾崎の協力があったればこ
そなのです。
 それにしても、ゾルゲの場合はわかるのですが、一高から東京
帝大(現在の東大)を出て朝日新聞社に入社――まるで絵に描い
たようなエリートコースを進んだ尾崎秀美が、なぜソ連のスパイ
であるゾルゲに協力したのか、それがこの映画では十分描き切れ
てはいないと思うのです。
 ただ、いえることは、当時の日本は経済がどん底の状態であり
それに軍国主義がはびこっていて、国が良い状態でなかったこと
――その反動として、当時のソ連は理想の国という幻想があった
のです。こういう日本の国情が尾崎秀美に何らかの影響を与えて
いたことは確かなのです。
 ところで、ゾルゲ諜報団とはどういうメンバーだったのでしょ
うか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 リヒャルト・ゾルゲ ・・・・・・ リーダー
 尾崎秀美 ・・・・・・・・・・・ 近衛内閣嘱託
 ブラント・ド・ヴェケリッチ ・・ クロアチア人記者
 マックス・クラウゼン ・・・・・ ドイツ人無線技師
 宮城与徳 ・・・・・・・・・・・ 画家
 アグネス・スメドレー ・・・・・ 米国人ジャーナリスト
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ゾルゲは、駐日ドイツ大使に信頼され、大使館の中に一室をも
らいます。そして、ナチス党員の地位を巧みに利用し、大使館経
由で日本とドイツの情報を収集し、その極秘情報をモスクワに送
っていたのです。ゾルゲは、1933年から足かけ9年間、日本
に滞在し、諜報活動を続けていたのです。

1162号.jpg
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2003年08月06日

ゾルゲ諜報団を摘発した秘密機関(EJ1164号)

 1941年10月15日――尾崎秀美の家に突然数人の特高の
男たちがやってきて尾崎を連行して行きます。それから、3日後
の18日、今度はゾルゲが特高に連行されるのですが、そこから
映画『スパイ・ゾルゲ』は始まるのです。そして映画は、尾崎と
ゾルゲが、今までどのようにスパイを行ったかを自供する内容を
回想シーンでたどるというかたちをとっています。
 映画にはありませんが、ゾルゲが逮捕された同じ18日に、ド
イツ人の無線技師マックス・クラウゼン、クロアチア人のブラン
ト・ヴェケリッチが同時に逮捕されています。それに10日には
ゾルゲ諜報団の先陣を切って、既に宮城与徳が逮捕されていたの
です。10日、15日、18日という3回にわたる逮捕であり、
日があったのに、彼らはなぜ逃げなかったのでしょうか。特高の
ことですから、逃げたとしても、即逮捕できるようにマークして
いたはずではありますが・・・。
 さて、特高とは何でしょうか。
 昭和初期の映画や本を読むと、この「特高」という言葉によく
出会います。何か怖いというかおぞましい感じのする言葉です。
同じようなイメージの言葉に「憲兵」があります。確かに同じイ
メージですが、特高と憲兵とは別のものです。
 もともと特高(特別高等警察)は、戦前の日本において、天皇
制政府に反対する思想や言論、行動――具体的には社会主義者を
取り締まることを専門にした秘密警察のことです。この特高警察
の創設は、1911年(明治44年)に警視庁に特別高等警察課
が設置されたことにさかのぼることができます。
 1925年に悪名高き治安維持法が制定されるのですが、その
前年の1924年、特高警察は大坂と京都に増設され、1928
年までに全国に配置されます。組織的には、内務省警保局保安課
の統括下に置かれたのです。
 1932年6月には、特別高等警察課は、特別高等警察部に昇
格し、次の6課編成になります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
             特高課(後に一課と二課に分割)
             労働課
  警視庁特別高等警察部 検閲課
             外事課
             内鮮課
             調停課
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ゾルゲ諜報団を逮捕したのはこの特高課なのです。しかし、諜
報団の捜索に当ったのは別の組織ですが、これについてはあとで
述べます。
 これに対して憲兵というのは、陸軍省に属し、陸軍大臣の命令
を受けて軍人の犯罪を取り締まるのが任務です。といっても民間
人も取締りの対象に入るのです。というのは、一般警察力が行き
届かない辺境の地や外地では武装警察として治安を維持する任務
があるからです。
 なお、外地に派遣される憲兵は野戦憲兵隊と呼ばれますが、野
戦憲兵隊は陸軍大臣の指揮下から離れて軍司令官の指揮下に入る
のです。そのため陸軍大臣の命令に服する内地の憲兵は「勅令憲
兵」、軍司令官の命令に服する憲兵を「軍令憲兵」と呼んでいる
のです。当時憲兵隊は、日本内地、朝鮮、台湾の師団所在地には
必ず置かれていたのです。
 憲兵隊の組織は、次のようになっていますが、ややこしいこと
に、ここにも特高がいるのです。こちらの方は「特高係憲兵」と
いうのです。つまり、特高には、警察官の特高と軍人の特高の2
つがあるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
           特高第一課――政治班(中佐・少佐)
  憲兵隊長(大佐) 特高第二課――警務班(中佐・少佐)
           外事課――――防諜班(中佐・少佐)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 それでは、ゾルゲ諜報団を捜索・特定し、逮捕したのはどの組
織がやったのでしょうか。
 ゾルゲ諜報団の逮捕の命令を出したのは、陸軍省のある秘密機
関なのです。どこの国でもそうですが、防諜機関は秘密のヴェー
ルに包まれており、その実体を正確に把握することは困難ですが
警察と憲兵が特高を組織して防諜工作に当たっていたことは確か
なのです。
 当時、陸軍省には「兵務局」と「軍事資料部」があり、兵務局
の指揮下には「防衛課」があったのです。この防衛課は憲兵業務
の主務課であったので、憲兵情報はまずこの課に集まるのです。
ここは、内務省の警保局や憲兵司令部と緊密な連携を行っていて
防諜に関して重要な役割をしていたのです。
 軍事資料部は、それまで憲兵の防諜組織として陸軍省の外に特
設された「防諜班」をまとめたもので、1938年に密かに設置
された防諜組織です。この組織はもちろん防衛課と一体となって
活動しており、やがて密命を帯びて「兵務局分室」として活動を
はじめるのです。
 斉藤充功著、『昭和史発掘/幻の特務機関「ヤマ」』(新潮社
刊)によると、この兵務局分室が「ヤマ」と呼ばれる秘密機関で
あり、ゾルゲ諜報団の逮捕に重要な役割を果たしているのです。
 ヤマ機関には甲から戊までの班があり、次のような役割を担っ
ていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 甲班 ・・ 内外要人の監視・外国公館・ホテルなどの監視
 乙班 ・・ 内外電信・電話の盗聴・通信傍受(移動監視隊)
 丙班 ・・ 内外郵便物の開緘・税関荷物の検査
 丁班 ・・ 要監視者の荷物奪取、窃取
 戊班 ・・ スパイの謀殺・偵諜
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1164号.jpg
『昭和史発掘/幻の特務機関「ヤマ」』
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2003年08月07日

どのようにして電波を突き止めたか(EJ1165号)

 1941年10月18日、ゾルゲ諜報団の無線技師マックス・
クラウゼンは逮捕され、三田警察署に留置されます。取調べに当
たったのは東京刑事地方裁判所検事局の吉河光貞検事です。その
日のうちに取り調べは開始されたのですが、クラウゼンは、比較
的素直に自分がゾルゲ諜報団の一員であったことを自供している
のです。
 クラウゼンが日本に潜入したのは、1935年11月28日の
ことですが、当時日本は翌年2月に起きる2.26事件の前兆と
みられる事件が相次いでおり、準戦時体制下ともいうべき状況に
あったといえます。政府としては国内治安の引き締めを行い、軍
部の政治進出も顕著になりつつあったのです。
 当然のことですが、外国人に対する監視体制も厳しく、外国人
同士が話をする場所は帝国ホテルのロビーぐらいしかなかったと
いえます。そのような状況の中で、クラウゼンは赤坂の山王ホテ
ルに1ヶ月ほど宿を取り、それからお茶の水の文化アパートを借
りて移り住みます。
 そこでクラウゼンは、ウラジオストックのブィズバーデン局と
交信するため、無線送信機と受信機を組み立てたのです。送信用
真空管2個については、米国で購入して日本に持ち込み、あとは
東京市内で部品を調達したというのです。
 組み立てたのは、送信用真空管2個を並列に接続し、100ボ
ルトの交流電源を使用し、これを変圧器によって800ボルトに
して働かせる米国無電アマチュア協会創案のアームストロング式
短波送信機で、アンテナ長は5〜6メートルでした。
 この送信機の性能は、周波数6〜7000キロサイクル、空中
線出力は15キロワットで、最大通信距離は4000キロメート
ルは可能ということですが、確実な通信距離は1000キロメー
トルといわれます。東京――ウラジオストック間の直線距離は、
ちょうど1000キロメートルなのです。この程度であれば、手
製の送信機でも十分届くというクラウゼンの計算です。
 受信機は、ラジオ受信機を買ってきてそれを短波受信用に改造
しています。これで受信周波数は40メガサイクルから60メガ
サイクルの波長までカバーしたといいます。これらの無線装置は
使用のつど組み立て、使用後は分解しており、非常に慎重にコト
に当たっていたことが分かります。
 クラウゼンは、これらの証言を東京刑事地方裁判所で開かれた
予審尋問で検事の質問に対して行っているのです。通信の傍受に
対してどのように対応したかとの検事の質問に対して、クラウゼ
ンは次の趣旨のことを証言しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.日本の探知機関による傍受は防ぐことはできない。通信は
   必ず傍受されるという前提でコトに当たる必要がある。
 2.しかし、都市市街地における方向探知は困難であり、最も
   良い条件でも数キロ圏内程度の確認しかできないこと。
 3.電波発射点の正確な確認は、ドイツでもそうであるように
   受信機を持って巡回するしか方法はなく時間がかかる。
 4.したがって、送信については毎回場所を移動し、長時間の
   通信を避け、または波長を変更するなどの処置をとる。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 クラウゼンの証言の中で注目すべきは3の「電波発射点の正確
な確認は、受信機を持って巡回するしか方法はない」という部分
です。クラウゼンとしては、発信電波は傍受されても、発射点を
特定するのは簡単ではないと考えていたのです。そして、そのた
めに、日本の防諜機関が受信機を持って巡回することまでは、ま
さかやるまいと考えていたのです。
 この判断はある意味では当っていたといえると思います。なぜ
なら、クラウゼンがはじめて電波を出した1935年の年末から
1941年の7年間の間に実に130回、6万6000字の暗号
通信を送ることに成功しているからです。
 しかし、1939年に陸軍科学研究所登戸出張所が生田村(現
在の川崎市多摩区生田)に開設されると、クラウゼンはたちまち
追い詰められることになるのです。ここに「無線の高野」という
異名をとる高野泰秋少佐がいたのです。
 高野少佐は、「諜者用無線機」を開発しているのですが、これ
は当時陸軍が使っていた軍用無線機とは比較にならないほど優れ
た性能を持っており、しかも、重量8キロでランドセルを一回り
大きくした背負式でどこにでも持って巡回できるという優れもの
なのです。この短波用通信機は、世界的にみても当時の最先端の
技術を応用して作られており、戦後GHQが注目し、朝鮮戦争で
北朝鮮の通信傍受用に採用されたほどなのです。
 これに加えて高野少佐は、「不法無線探知用方向探知機」なる
機材も開発しています。この機材は、ブラウン管に電波の波形を
映す鑑別機を組み込んだ全波受信機です。自動車に機材をセット
して移動しながら、電波の発信地点を探知するのです。
 これを使っていたのが昨日のEJでご紹介した「ヤマ」という
秘密機関の乙班なのです。乙班は、高野少佐が開発した「不法無
線探知用方向探知機」を改造して3台の車に搭載し、3点測定法
で不法電波の発信地点を突き止めるというもので、このチームは
「移動監視隊」と呼ばれていたのです。
 実はクラウゼンの発信する電波は、東京都市逓信局によって何
回も傍受されていたのです。したがって、当局としては、スパイ
団の存在は分かっていたのですが、どうしてもその発信地点を特
定できなかったのです。
 「ヤマ」機関の採用した3点測定法とは、3台の自動車を任意
の3地点に配置し、無線で連絡を取り合いながら探知機の操作を
同時に行い、電波の発信位置を絞り込んでいくという方法です。
 この方法を使うと、相手の発信する電波の発信時間が30秒ま
でなら、半径1キロの範囲まで絞り込むことができるのです。こ
れによってクラウゼン宅は特定されたのです。クラウゼンがまさ
かと思うことが「ヤマ」乙班によって実際に行われたのです。

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2003年08月08日

映画『スパイ・ゾルゲ』の音楽と武満徹(EJ1166号)

 篠田正浩監督の引退作になる映画作品『スパイ・ゾルゲ』は、
魯迅の次の言葉ではじまり、ジョン・レノンの『イマジン』で終
るという構成になっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、
   ないともいえない。
   それは地上の道のようなものである。
   もともと地上に道はない。
   歩く人が多くなれば、それが道になる。   魯迅
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 篠田監督は、最初からそのように決めていたのです。この映画
の音楽は池辺晋一郎が担当したのですが、篠田監督は池辺にそれ
を依頼するとき、あらかじめ、ジョン・レノンの『イマジン』と
武満徹の『弦楽のためのレクイエム』を使うことについて了解を
求めているのです。
 池辺晋一郎ほどの大家になると、そういう注文は嫌うものです
が、彼は1984年には『瀬戸内少年野球団』、1990年には
『少年時代』などの篠田作品の音楽を担当しており、気心も知れ
ているので、これらを了解したうえで音楽を引き受けているので
す。そのため、この映画には、篠田好みの音楽がふんだんに使わ
れており、そういう観点から見るのも面白いと思います。
 篠田監督の音楽好きは相当なもので、作曲家武満徹に心酔して
いたのです。篠田は、1960年の監督第2作目になる『乾いた
湖』ではじめて武満に音楽を依頼して以来、16の作品の音楽を
武満に依頼しています。大変な武満ファンだったのです。
 その武満徹は1996年2月20日に急逝してしまうのですが
そうでなかったら、この映画の音楽は武満に書いてもらいたかっ
たに違いないと思われます。篠田の話によると、今から15年前
に武満とこの映画について話し合ったことがあり、そのとき武満
は、「スパイの映画だから、ものすごく優しい音楽を書こう」と
いってくれたそうです。それにジョン・レノンの『イマジン』を
使うようにアドバイスしたのも武満だったのです。
 そういうことがあったからこそ、篠田は2.26事件のシーン
に武満の『弦楽のレクイエム』を使い、最後のところで『イマジ
ン』を使ったのです。
 もちろん映画『スパイ・ゾルゲ』でメインに使われている曲は
池辺が作曲した次の2つの曲です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   池辺晋一郎作曲、『交響曲第5番/シンプレックス』
            佐藤功太郎指揮/東京都交響楽団
   池辺晋一郎作曲、『交響曲第6番/個の座標の上で』
      岩城宏之指揮新日本フィルハーモニー交響楽団
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ゾルゲの日本人妻だった石井華子(葉月理緒菜)が、ゾルゲが
刑死したあと自室でレコードを聴きながら、嘆き悲しむ印象的な
シーンがあります。そのとき流れていた曲は、バッハの『無伴奏
チェロ組曲第6番』なのです。
 ゾルゲはこの曲が非常に好きで、いつもこのレコードをかけて
仕事をしていたといわれます。演奏は、パブロ・カザルスです。
石井華子という人は、生涯ゾルゲとの愛を貫き通した人であり、
そのゾルゲとの思い出を『人間ゾルゲ』(勁草書房)にまとめて
いるのですが、その中でこのバッハのレコードをゾルゲからプレ
ゼントされたと書いているのです。
 さて、映画では、コミュニストであったゾルゲと尾崎を『イン
ターナショナル』、ドイツ人を『菩提樹』、そして、『東京ブギ
ウギ』や『リンゴの唄』が日本の戦後を象徴するものとして挿入
されています。それにCGで描かれた日劇と朝日新聞社、数寄屋
橋のシーンが非常に懐かしいです。
 この中で、『インターナショナル』については、少し説明が必
要です。これは、「立て、飢えたるものを、今ぞ日は近し、立て
よ、わが同士・・・」というあの労働歌なのです。これをギター
で弾いているのですが、この曲を編曲したのは武満徹なのです。
 武満の作品に『ギターのための12の歌』というのがあるので
すが、この作品はポピュラーな12の歌を武満がギターへ編曲し
たものです。取り上げている12の歌は「ロンドンデリーの歌」
にはじまり、コスマの「失われた恋」、ビートルズの「ミッシェ
ル」「ヘイ・ジュード」「イエスタデイ」、そして「インターナ
ショナル」で終わるのです。最近では、ギタリストの福田進一が
CDを出しています。篠田は、その中のギターの「インターナシ
ョナル」をさりげなく映画で使っているのです。
 映画の最後にジョン・レノンの『イマジン』が演奏だけで流れ
歌詞がスクリーンに表示されます。篠田はレノンが歌う『イマジ
ン』ではなく、文字で歌詞を入れたかったといっています。日本
人は未だに『イマジン』をラブソングだと思っているからです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   想像してごらん、この世に国家なんか存在しないと
   決して難しいことではない
   殺戮も死もなくなり、
   宗教の争いも消えてしまう
   想像してくれよ、すべての人間が
   平和に暮らしている姿を
   君はこんな私を夢想家と思うだろうが
                 ――ジョン・レノン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この音源は、レノンが自分の歌を入れるために作っていたもの
をオノ・ヨーコさんからもらったものと篠田はいっています。
 そして、俳優やスタッフのクレジットが終わったあとに「この
作品を武満徹に」ということばが出て映画は終わるのです。篠田
の武満への思いの深さがよく分かります。
 このテーマはこれで終り、来週からは別のテーマです。

1166号.jpg
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2003年12月15日

隠されたメッセージのある映画(EJ1252号)

 11日は、突然マシンに異常が発生してEJが送れなくなり、
ご迷惑をおかけしました。専門家による調査の結果、原因は私の
家のADSLモデムの不調にあるのではなく、NTTの局側の私
のモデムに対する機器の不調だったのです。これでは、ユーザと
しては、対応しようがありません。NTT側と連絡をとって、完
全に修復しましたので、今朝からEJは、通常通りの方法で送信
しております。
 このように、インターネット・メールは、今でも不安定なとこ
ろがあり、当方がきちんと送信しても、EJが100%届くとは
限らないのです。そういうわけで、EJが届かないとき、それも
未着が2日以上にわたる場合は、お知らせいただければ、再送さ
せていただきます。
 さて、今朝からは話題の映画をテーマとして取り上げます。そ
の映画とは米国映画『マトリックス』です。この映画は3部作で
3本の映画で話が完結する超大作です。第1章は1999年に封
切られ、それから実に4年後の2003年6月に第2章、11月
に第3章が公開され、現在第3章の『マトリックス/レボリュー
ション』が上映されております。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『マトリックス』 ・・・・・・・・・・・・ 1999年
 『マトリックス/リローデッド』 ・・・・・ 2003年
 『マトリックス/レボリューション』 ・・・ 2003年
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 私はもちろんそのすべてを劇場で観たうえで、第1章、第2章
のDVDを入手し、可能な限り情報を収集してEJで取り上げる
ことにしたのです。EJで取り上げる以上、単なる映画解説では
なく、ビジネスマンの話題としても使えるレベルを目指していま
す。今朝は、その予告編です。
 映画『マトリックス』は、ジャンルとしてはSF(サイエンス
・フィクション)ということになります。「SFは苦手だ」とい
う人もいるでしょう。しかし、この映画は明らかに単なるSFを
超えています。
 EJでは、ときどき映画の話題を取り上げています。今まで取
り上げたものは『2001年宇宙の旅』、『13デイズ』、『千
と千尋の神隠し』、『コンタクト』などがあります。映画は娯楽
ですが、話題になる映画というものは、きちんと観て、自分の感
想なり意見を持っておくべきであると思います。
 あのリチャード・クー氏ですら、固い経済書の中で、1997
年の北海道拓殖銀行の破綻に関連して、次のように書いているの
です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ところで、北海道の出来事(拓銀の破綻――平野注)で、日
 本と諸外国との間に大きな認識のずれが生じた。東京の外資系
 金融機関としか接点のない海外のマスコミは北海道で実際に何
 が起きたのかを全く報道しなかったのである。そこで私が、当
 時流行っていた映画『コンタクト』で、ジョディ・フォスター
 が宇宙に打ち上げられる時、出発点となったのが北海道だと説
 明すると、ようやく北海道が日本にある四つの大きな島の1つ
 だとわかってもらえたのである。  ――リチャード・クー著
 『デフレとバランスシート不況の経済学』(徳間書店刊)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この記述において、もし読者が映画『コンタクト』を観ていな
かったら、何のことかわからないはずです。忙しくて、わざわざ
映画館に行く時間がないという人がいるかもしれません。それな
ら、現在ではDVDで観ることもできるのです。
 EJの情報源は、単行本や新聞・雑誌だけではありません。イ
ンターネットは当然のこととして、さまざまな人から直接話を聴
いたり、TV番組、映画などもフル動員するのです。映画もぜひ
関心を持っていただきたいと思います。とくに60歳以上の方は
どんな映画でも1000円で観られる特典があります。
 さて、前置きが長くなりましたが、『マトリックス』の話に入
ります。『マトリックス』は、TVでも公開されましたので、ご
覧になった方もあると思います。しかし、内容は本当に理解でき
たでしょうか。
 1回でこの映画を理解するのは大変難しいと思います。何回も
繰り返して見るべきです。その点DVDは便利です。何回でも観
ることができるからです。しかし、そのための条件として、何回
見ても飽きがこないくらい面白くなければなりませんが、『マト
リックス』は、その条件を十二分に満たしていると思います。
 それに『マトリックス』は、それを見たあとで、内容について
いろいろ友達と語り合える――それができる映画なのです。それ
は、何回見てもよくわからない謎の部分、隠された部分がいくつ
もあるからです。『2001年宇宙の旅』でもそういうところが
多い映画だったと思います。だから、現在でも語り継がれている
のです。
 『マトリックス』の研究家といわれるグレン・イェフェス氏は
『マトリックス』について次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  あなたは『マトリックス』をただの映画だと思っていなかっ
 たでだろうか。
  いい映画がみなそうであるように、すぐれた芸術作品がみな
 そうであるように、一度観るだけでは不十分だ。繰り返し、見
 なおし、その意図と衝撃への注意深い考察を加えることによっ
 て、じつに多くのことが発見できる。たんに物語としてではな
 くひとつの批評として、この映画に描かれている現実というも
 のの本質について、かなり詳細に検討する機会があたえられて
 いるからで――われわれと、われわれ自身の「現実」を映しだ
 す鏡となっているのだ。われわれには洞察の機会があたえられ
 るのだ。―――グレン・イェフェス編、『マトリックス完全分
 析』より。小川隆ほか訳/扶桑社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


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2003年12月16日

三位一体の3人の登場人物(EJ1253号)

 映画『マトリックス』の主人公の一人は、トーマス・アンダー
ソンという青年です。ハリウッドのドル箱スターであるキアヌ・
リーブスが演じています。
 最初にお断りしておきたいのですが、映画の内容を話してしま
うと、いわゆる「ネタバレ」といって、映画を観るとき面白くな
くなるといって嫌がる人がいます。
 しかし、この映画は、ちょっとした「ネタバレ」をしても内容
がつまらなくなるほど、薄っぺらな映画ではなく、最初にある程
度事情を知っていた方がはるかに面白いし、楽しめると思うので
あえて必要最小限のことをお話ししておきます。
 トーマス・アンダーソンは、昼はメタコーテックス社というコ
ンピュータ・ソフトの大会社に勤めるプログラマーですが、夜は
「ネオ」という名のハッカーとして知られているのです。そのた
め、どうしても夜が遅くなるので、遅刻ばかりして上司から叱ら
れています。
 そのアンダーソンは、最近起きているのに夢を見ているような
感覚にとらわれています。夢と現実の境がつかなくなっているの
です。それに彼のPCのディスプレイには、モーフィアスという
人物から奇妙なメッセージが届くようになっています。
 ある夜、居眠りをしていたネオは、ふと目を覚ますと、次のよ
うなメッセージがPCの画面上に表示されたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  「起きろ、ネオ」
  「マトリックスが見ている」
  「白うさぎの後について行け」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そして続いて「トントン」というメッセージが画面上にあらわ
れたとたんに、ネオの部屋の扉がノックされます。恐る恐る扉を
開けると、チョイという男が女友達と一緒に立っていたのです。
チョイからは、ハッキングを依頼されており、そのデータを受け
取りにきたのです。
 チョイは、約束の2000ドルを渡してデータを受け取ったと
き、次のようにいうのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  「やったぜ。助かるぜ。あんたは救世主だ」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この「救世主」ということばには実に深い意味があるのです。
「救世主」といえば、イエス・キリスト――まさしくネオは、こ
の映画では、キリストの役回りをすることになるのです。彼こそ
は人類を救う「救世主」と目されるのです。
 もうひとつ、ネオをキリストになぞらえると、この映画の登場
人物が聖書の人物と重なってくるのです。これは、この作品にキ
リスト教的テーマがあることの証拠といえます。これについては
後から詳しく述べることになると思います。
 話を映画に戻します。データを受け取ったチョイは、ネオに飲
みに行かないかと誘います。ネオは「明日仕事があるから・・」
といったんは断りますが、そのときチョイの女友達の左の腕に白
うさぎのタットウを見つけてチョイと一緒に行くことを承知する
のです。PCの画面のメッセージ「白うさぎの後について行け」
を思い出したからです。
 そして、チョイと一緒に行ったバーで、ネオはトリニティーと
いう女性に会うのです。トリニティーは、国税庁のコンピュータ
に侵入してデータを盗み出したという伝説のハッカーとしてその
世界では有名な人物とされています。このトリニティーは、この
映画のもう一人の主役であり、キャリー=アン・モスという女優
が演じています。
 ネオは、このトリニティーから「身に危険が迫っている」と忠
告を受けます。何のことかわからず、不安になるネオ。その危険
は、次の日、やはり遅刻をして上司に退職を勧告されたその日に
現実のものとなるのです。
 さて、「白うさぎの後について行け」で思い出すのは、ルイス
・キャロルの『不思議な国のアリス』です。私は、学生時代にこ
の作品にかなり凝ったことがあるのです。これは、現実と非現実
という2つの世界に基づいて物語が展開されているのですが、こ
れは『マトリックス』と酷似しています。
 『不思議な国のアリス』において、主人公のアリスは、白うさ
ぎが時計を見ながらある穴に入るのを見て、それを追っかけて行
くところから始まるのですが、『マトリックス』でもネオは、白
うさぎのタットウの女性と一緒にあるバーに行き、そこでトリニ
ティーと会っています。明らかに『マトリックス』の原作者は、
『不思議の国のアリス』に影響されていることは明らかであると
思います。また、『オズの魔法使い』にも非常に似ているところ
があります。
 さて、勤務先でネオは、黒ずくめのスーツ姿のエージェントに
襲われ、捕まってしまうのですが、トリニティーに救出され、モ
ーフィアスと会うことになります。このモーフィアス――預言者
のことばを信じ、救世主を救うことに人生を捧げている男であり
この映画の三人目の主役なのです。個性豊かな俳優ローレンス・
フィッシュバーンが演じています。
 このネオとトリニティーとモーフィアス――その関係は、トリ
ニティーの名前に由来しています。この「トリニティー」という
名前はキリスト教の「父なる神・子なる神・聖霊は『三位一体』
の精神」――3つのものがひとつに心を合わせることに由来して
いるのです。そういえば、小泉政権も『三位一体改革』を唱えて
いますが、その『三位一体』もここから出ています。
 一応、中心的な登場人物が3人揃ったようです。ネオとトリニ
ティーとモーフィアス――この3人を中心として、この映画は展
開されていくのです。この映画は、ネオ――すなわち、アンダー
ソンがプログラマーなので、この3人以外の登場人物には、コン
ピュータ関係用語が多く使われています。

1253号.jpg
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2003年12月17日

マトリックスは仮想現実の世界(EJ1254号)

 『マトリックス』の主役の3人は、昨日のEJ第1253号で
ご紹介しました。3人の主役とは、ネオ(アンダーソン)、トリ
ニティー、モーフィアスの3人です。
 一体何がどうなっているのでしょうか。ネオは、何者に狙われ
ているのでしょうか。モーフィアスとトリニティーたちは、誰と
戦っているのでしょうか。
 当然の疑問ですが、このあたりのことを少しずつ明らかにして
行きたいと思います。まず、現在の時点は1999年ではなく、
2199年であるということです。なぜ、1999年かというと
映画『マトリックス』の第1章が公開されたのが1999年だっ
たからです。つまり、現在よりも200年も経過した時代になっ
ていることになります。
 簡単に状況をいうと、人類は高度に発達した知能(AI)を持
つコンピュータによって支配されてしまったのです。具体的にい
うと、世界中のAI(人工知能)が結束して、人間に対して主導
権を握ろうと反乱を起こしたのです。
 これに対して人類は、当時のコンピュータが太陽エネルギーを
動力源にしていたので、太陽光線を人工的に遮断して対抗したの
ですが、AIは叡智を結集して人間の生体電気エネルギーを動力
源にするシステムを開発し、この戦いに勝利したのです。
 そして、それ以降、世界はAIによって支配され、人類はAI
にパワーを供給する発電機としてのサイバー人間に成り下がって
しまったのです。さらに、人類はもはや誕生するのではなく、果
てしなく広がるバイオ・テクノロジーの畑(子宮)で栽培されて
いるのです。
 そして作り出されたその時点から、発電装置につながれ、起き
ているともなく、眠っているともない半覚醒の状態で、死んだ者
を液化した養分を静脈から取り入れてそれを栄養分とし、AIに
生体電気エネルギーを供給しながら一生を終えるのです。こうい
う人間のことを「培養人間」というのです。『マトリックス』の
3人の主役――ネオ、トリニティー、モーフィアスは、いずれも
培養人間なのです。
 マトリックスとは、そうした培養人間たちに現実を悟らせない
ためにAIが創り上げた仮想現実の世界なのです。人間の心が見
ているものは、「神経によるインタラクティブ可能なシミュレー
ション・・・人間を支配下に置くためにAIが創りだした虚像の
世界」なのです。
 そこには高度に発達した20世紀の世界が広がっており、人々
はそれが現実であると錯覚してそこで暮らしているのです。ネオ
すなわち、アンダーソンが働いていたメタコーテックス社でのプ
ログラマとしての生活とネオとしてのハッカーの生活は、いずれ
もマトリックスの中の生活であり、現実世界において彼は培養人
間として巨大な発電装置につながれていたのです。つまり、彼が
現実だと思っていた世界は夢の世界、つまり、それこそ不思議な
国だったのです。
 この部分は、以上のようなことがわかっていて映画を見ると、
納得ができると思いますが、予備知識なしで見ると、おそらく何
のことかわからないと思います。おびただしい培養器の中で何か
が蠢めいており、その培養器が発電装置にコードでつながれてい
る――そういうシーンが目に飛び込んできます。ネオは、仮想現
実の世界では、大手ソフト会社のプログラマであり、ハッカーで
すが、現実の世界での彼は、培養器に入れられた培養人間だった
のです。このことをきちんと理解していないと、この映画は何の
ことか、さっぱりわからないはずです。
 ところで、人類の一部はAIの支配から逃れ、地底深くに都市
を作って住んでいたのですが、AIによって攻め立てられ、現在
は地球の核の近くに地底都市を作って住んでいます。もはや、こ
こを攻め落とされたら、人類は全滅するのみです。その都市の名
は「ザイオン」――つまり、ザイオンは人類最後の都市というわ
けです。ザイオンは、旧約聖書に「聖なる山、神の座、世界の中
心にして不落の砦」と記されたシオンにちなんだ名称を持ってい
るのです。
 したがって、ザイオンという都市には人間から生まれた本当の
人間――つまり、培養人間ではない人間が住んでいるのです。モ
ーフィアスは培養人間ですが、特殊な能力を発揮してAIのから
くりを見抜き、自らその状況から脱却したのです。そう、培養器
が飛び出して、独立したのです。そして、ザイオンの人間と協力
してAIから人類を解放するための活動をするゲリラを結成して
います。彼は、預言者オラクルがいう「救世主」の出現を信じて
おり、ひたすらそれを探し求めていたのです。
 モーフィアスは、やはり、培養人間であるトリニティーをマト
リックスから離脱させるなど、これはと思う同士を集めてひとつ
の軍団を形成し、ネブカドネザル号という名のホバークラフトの
船長をしているのです。トリニティーは、ネブカドネザル号のク
ルーですが、地位は将校です。
 このネブカドネザル号は、宇宙船のようなかたちをしています
が、飛んでいるのは宇宙ではなく、地球の内部なのです。地上は
完全にAIに占領されているので、もっぱら地底の通路――排水
溝などを飛ぶことになるのです。
 ネブカドネザルの名は、バビロンの捕囚を行った新バビロニア
王国の名に由来しています。この王は、旧約聖書のダニエル書に
登場し、ダニエルに夢解きを行わせた逸話で有名です。しかし、
このネブカドネザル号は2069年の建造で、2999年には既
に930年も経過しているので、相当の老朽船なのです。まあ、
そんなことは、どうでもよいことではありますが・・・。
 現実と仮想現実――われわれが現在存在し、生活をしている空
間がこういうバーチャルリアリティーでないといい切れる自信が
あるでしょうか。われわれが現実であると信じている世界が仮想
現実であるかも知れない――そう考えるとゾッとしませんか。こ
の映画は人類の未来を予言しているのかも知れません。

1254号.jpg
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2003年12月18日

コンピュータは意識を持てるのか(EJ1255号)

 AI(人工知能)が高度に発達し、人間と普通に会話し、場合
によっては嫉妬し、そのために人間の行動を制約することさえす
る――そんな状況をわれわれは映画『2001年宇宙の旅』で見
ています。木星に向かう宇宙船「ディスカバリー号」のスーパー
コンピュータHALとボーマン船長との対立がそれです。
 この旅の途中、HALが発狂して宇宙船の乗組員たちを殺すの
です。ただひとり生き残ったディヴ・ボーマン船長は、殺される
前にHALの思考力を奪おうとします。そうすると、HALは機
能を停止させられる前に、自分の行動を正当化するために次のよ
うなことをいうのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このミッションは私にとってきわめて重要なので、あなたに台
 なしにされるわけにはいかない。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 かつてあのサン・マイクロシステムズ社のビル・ジョイは、マ
シンが意識を持ったら、いずれ人間にとって代わるのではないか
とマジに恐れていたといいます。ビルがいうのは、もし思考マシ
ンが、自分たちがやりたいことに人間が邪魔していることを知っ
たなら、人間を排除する行動に出ることは明らかである――こう
いっているのです。
 「コンピュータやロボットは、きちんと監視しないと手に負え
なくなる」――このアイデアは、SFの世界では今日にいたるま
で、繰り返し使われてきています。
 ウィリアム・ギブスンの1984年の作品、長編小説『ニュー
ロマンサー』の中には「チューリング」という警察組織が登場す
るのです。このチューリングの警官は、コンピュータシステムに
本物の知性や自我が出現する兆候がないかを見張っており、少し
でもその兆候があると、手遅れになる前にシステムを停止するの
が仕事なのです。
 「知性や自我は、ひょいと生まれるものである」ということを
HALの生みの親であるアーサー・C・クラークは、ごく早い時
期にその可能性に言及しています。彼の短編小説『Fはフランケ
ンシュタインの番号』には、世界規模の通信ネットワークが人間
の脳よりも複雑で相互接続の多いものになって、ある日突然、ネ
ットワークの中に意識が出現する可能性を描いています。
 「意識は、複雑なシステムから突発的に生み出される」――映
画『マトリックス』において地球全体に君臨しているAIは、そ
のようにして生まれたのではないでしょうか。
 ここで話題をひとつ。『2001年宇宙の旅』に登場するコン
ピュータHALは、IBMをアルファベットで一文字ずつ前にず
らしたものである――ということはあまねく有名な話です。IB
Mを超えるコンピュータという意味です。しかし、アーサー・ク
ラークは、それを否定しているのだそうです。
 しかし、それはクラークのウソで、彼は確信犯なのです。とい
うのは、彼の1990年の長編小説、『ゴールデン・フリース』
(早川書房)に登場するAIの名前はJASON――彼はそれを
JCNと略して呼んでいるのです。JCNはIBMをアルファベ
ットで、一字ずつ後ろにずらしたものです。HALの話を人にい
うとき、これを話すとHALのいわれを知っている人もきっと驚
くはずです。
 余談が長くなりましたが、話を『マトリックス』に戻します。
映画の主役の3人は既に述べましたが、彼らが戦っている相手は
誰なのでしょうか。
 この映画を見たある知人は、「誰と戦争しているのか今ひとつ
相手がはっきりしないが、とにかく変化が激しくて面白かった」
といっていましたが、予備知識なしで見ると、確かにそういうこ
とはいえるかもしれません。
 正解は、人類とAI(意識を持つコンピュータ)との戦いとい
うことなのです。ややこしくてわかりにくいのは、人類が人間と
培養人間の両方を含んでいること、それにAIはつねに背後にい
て、実際に人類が戦うのは、AIが創り出した数々のプログラム
や攻撃用の兵器(センチネル)であることです。
 ちなみに、プログラムは、マトリックスにおいて、すべて人間
のかたちをして出てきます。一番よく出てきて、ネオやモーフィ
アスやトリニティーと戦うのは、エージェントの頭目のスミスで
す。ところで、この黒いスーツにサングラスというシークレット
・サービスのいでたちのエージェントの正体は何でしょうか。
 エージェントの正体は、マトリックスの機能が正常に機能して
いるかどうかを監視する「システム監視プログラム」なのです。
そのため、マトリックスの中に侵入を繰り返すゲリラやプログラ
ム自体が持っているバグを排除しようとして動くのです。エージ
ェントの頭目のスミスは、ヒューゴ・ウィービングというオース
トラリアの俳優が演じています。
 映画を観るとき注目していただきたいのは、第1章におけるエ
ージェントは全員耳にイヤホンのプラグを付けているのに対し、
第2章の「リローデッド」と第3章の「レボリューション」では
イヤホンプラグを付けていないことです。これは、第1章の段階
では、いちいち中央コンピュータ(AI)の指示を受けて動いて
いたのに、第2章以降はシステムから離脱し、独立していること
を示しているからです。
 要するに、映画『マトリックス』には、次の3種類の「人間」
が登場するのです。これをきちんと見分けないと、頭の中が混乱
します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 人間   ・・・・ 自然の繁殖で誕生したザイオンの人間
 培養人間 ・・・・ AIが栽培した人間/首にプラグあり
 プログラム ・・・ AIが創作したマトリックス内の人間
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 なお、現在、第1章と第2章セットのDVDが超特価(300
0円以下)で販売されています。正月観賞用にぴったりです。

1255号.jpg
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2003年12月19日

マトリックスの中の人間の研究(EJ1256号)

 マトリックス論。たかが映画にそんなに長い解説が必要なのか
と思う人もいるかも知れませんが、この映画はなかなか奥が深い
のです。この映画を製作したウォシャウスキー兄弟が、「知的な
アクション映画」を目指して製作しただけあって、徹底的に考え
抜かれているのです。
 現実世界と仮想現実世界――仮想現実世界であるマトリックス
の世界にはどのような人間がいるのでしょうか。マトリックスに
は、次の3種類の人間が存在することができます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    1.培養人間(実体は培養器の中にいる)
    2.培養器から脱出した人間(ネオなど)
    3.各種プログラム(エージェントなど)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 マトリックスの中で生活しているほとんどの人間は培養人間で
実際は培養器の中にいます。彼らは、自分がどのような状況にあ
るのかがわかっていません。夢を見るように毎日を20世紀の世
界そっくりに作られたマトリックスの中で暮らしています。
 モーフィアスによって培養器から解き放たれた培養人間がゲリ
ラで、彼らはすべて首の後ろにプラグが付いています。これがザ
イオン都市に住む人間と違う点です。モーフィアス、ネオ、トリ
ニティーはいずれも開放された培養人間です。
 彼らは、安楽椅子風のマシンに横たわり、首の後ろのプラグに
電極を差し込まれる――これによってオペレータの操作で、意識
のみがマトリックスの内のどのポイントにも瞬間移動できるので
す。現実世界に戻るときは、オペレータの指定した回線から意識
が転送されるのですが、その転送の入り口となるのがマトリック
ス内に存在する電話なのです。つまり、彼らはマトリックスと現
実世界とを自由に行ったり、来たりできるわけです。
 しかし、転送時に使われる電話は、エージェントに盗聴される
リスクを伴うため、ダイヤル式のアナログ回線が使われることに
なっています。それでも、オペレータとの連絡には携帯電話を使
わざるを得ないので、彼らはエージェントに容易に見つけられて
しまうことになります。
 それでは、プログラムとは何でしょうか。
 マトリックス内における培養人間以外のキャラクターはすべて
プログラムです。エージェントのスミスをはじめ、まだ説明して
いませんが、預言者のオラクルやセラフは人の心を読む直感プロ
グラムですし、最古のプログラムといわれるメロビンジアンやそ
の妻のパーセフォニー、手下のザ・ツインズなどなど――すべて
プログラムなのです。プログラムには、現実のプログラムがそう
であるように、必ず目的があり、その目的が何であるかを考えな
がら映画を観ると、よくわかると思います。
 そして、本物の人間――首の後ろにプラグのない人間は、当然
ですが、現実世界にしか住めず、もちろん、マトリックスに潜入
することはできないのです。また、いうまでもないことですが、
マトリックスの内のプログラムに人間は、現実世界にはやってこ
れないのです。
 映画に一番よく出てくるネブカドネザル号のクルーは、ほとん
ど培養人間ですが、オペレータのタンクとドーザーは人間です。
なお、ドーザーはタンクの兄です。クルーを紹介します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 船長 ・・・・・・・・・ モーフィアス ――― 培養人間
 クルー/将校 ・・・・・ トリニティー ――― 培養人間
 クルー ・・・・・・・・ ネオ ――――――― 培養人間
 クルー/オペレータ ・・ タンク ―――――― 人間
 クルー ・・・・・・・・ ドーザー ――――― 人間
 クルー ・・・・・・・・ マウス ―――――― 培養人間
 クルー ・・・・・・・・ サイファー ―――― 培養人間
 クルー ・・・・・・・・ スイッチ(女性) − 培養人間
 クルー ・・・・・・・・ エイポック ―――― 培養人間
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここで、改めてマトリックスについて考えてみます。人間の感
覚器官は、外からの情報(光や音など)を電気信号に変換し、さ
らに脳による処理を経てイメージ化された現実として、意識的経
験が構成されています。
 そこでAIは、同じ電気信号を人間の脳に送り、現実と見分け
がつかない幻想を創り上げているのです。これがマトリックスの
実体なのです。
 ネオがマトリックスの訓権プログラムに入ったときのモーフィ
アスとネオの次の会話があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ネオ「これは現実ではない?」
 モーフィアス「現実とは何だ?明確な区別などできない。五官
 で知覚できるものが現実だというなら、それは脳による電気信
 号の解釈にすぎない」
 ―― モーフィアスはディスプレに映像を写して見せる ――
 モーフィアス「これが君の知る世界、20世紀末の世界だ。い
 まやこれは、われわれがマトリックスと呼ぶ双方向神経系シミ
 ュレーションの一部としてしか存在していない。きみは夢の世
 界で暮らしていたんだよ、ネオ」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 モーフィアスやネオやトリニティーなどの培養人間にとっては
意識がマトリックスに行っているときに電極プラグを抜かれると
死ぬことになります。また、マトリックス内で戦って死亡したと
きは、現実の世界でも死ぬことになります。
 エージェントやオラクルやメロビンジアンなどのプログラムに
とっての死とは、システム上からプログラムが削除されたときが
それに該当します。このように、マトリックスは、あらゆる可能
性を考慮して設計してあるのです。

モーフィアス.jpg

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2003年12月22日

単なるアクション映画でない証拠(EJ1257号)

 『マトリックス』という映画を劇場で3回観て、ひとつ気が付
いたことがあります。1999年の第1章のときは日中の時間で
あったせいかそれほど混んでいなかったのですが、第2章の「リ
ローデッド」と第3章の「レボリューション」のときは、劇場内
で行列をつくらされたのです。
 もちろん作品が評判を呼んだことが原因ですが、劇場内で行列
をつくらされるということは「入れ替え制」になったことが原因
です。つまり、「リローデッド」からは一回ごとの入れ替え制に
なったのです。
 というのは、第1章のときあまりにも連続して二度観る観客が
多かったので、後から入場した人が座れないという事態が生じて
「入れ替え制」にしたのです。最近の映画で昼の時間帯から「入
れ替え制」は大変珍しいのです。並みの映画であれば、ウィーク
デイの昼の時間帯は、学生と年寄りしか入らないからです。
 なぜ、2度観るのでしょうか。それは一度観ただけではワケが
わからないからです。といっても、単にワケがわからないだけで
あれば、「ワケのわからん映画だ」で終わってしまいます。です
から、「好奇心をそそる映画」であることは確かです。
 「あのシーンは何を意味しているのか」とか「あの人物の役割
は何なのか」――強く好奇心を刺激するものが多いのです。だか
ら、続けてもう一度観ようとするのです。このように、何かに好
奇心を持って追求するということは人間にとって非常に大事なこ
とです。なぜなら、好奇心がなくなると人間終わりだからです。
 好奇心は年齢とともに失われていきます。したがって、老齢に
達すると、何か特定のことに凝り固まるか、何事にも関心を持て
なくなるものです。価値があると思っても、興味がないと振り向
きもしなくなります。これが老いを進行させるのです。
 一般論ですが、『戦場のピアニスト』や『スパイゾルゲ』に行
く人は、『マトリックス』のような映画には関心を向けないもの
です。それが意識の世界を小さくしてしまうのです。『マトリッ
クス』は秀逸な映画です。人類の未来について考えさせられる何
かを持っています。ですから、もし、その魅力にとりつかれると
意識の世界が一挙に拡大されるでしょう。私がEJを続けている
のは、好奇心をいつまで持続させられるか試したいからです。
 ジャン・ボードリヤールという人を知っているでしょうか。
 ジャン・ボードリヤールは、フランスの社会学者にして思想家
です。生産中心主義の思想を批判して、独自の象徴交換論を展開
しています。なぜ、ジャン・ボードリヤールかというと、その思
想が『マトリックス』に深くかかわっているからです。
 『マトリックス』の第1章で、夜中にネオがノックの音に気づ
いて目を覚ますシーンがあります。来訪者はチョイというクライ
アントで、違法データを受け取りに来たのです。
 そのとき、ネオは本棚に行き、一冊の本を取り出します。DV
Dで確認したのですが、その本のタイトルは『シミュラークルと
シミュレーション』と書いてあったのです。実はこれは、ジャン
・ボードリヤールの著作のひとつで、消費社会のシミュレーショ
ン現象に鋭く分析を加えた著作として知られています。
 ところが、映画ではその本の表紙を開けると、中がくりぬかれ
ていて、何枚かのフロッピーディスクが入っているのです。ネオ
はハッカーですから、フロッピーディスクの中身は違法データで
あることは確かです。
 書物自体が偽物であって、その中に入っているフロッピーディ
スクのデータも偽物――つまり、自分の暮らす世界がコンピュー
タによってつくられた完全なまがい物であるという、その後ネオ
が知ることになることを予示する伏線になっているのです。
 『マトリックス』の制作者であるウォシャウスキー兄弟は、こ
の映画の主要な出演者に次の2冊の本を読むよう指示しているの
ですが、その中に『シミュラークルとシミュレーション』が入っ
ているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    ●ジャン・ボードリヤール著
     『シミュラークルとシミュレーション』
    ●ケヴィン・ケリー著
     『複雑系を超えて』(1994年アスキー出版)
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 普通に映画を観る人は、まさかネオが手にする本のタイトルま
で注意しないでしょうし、よほどジャン・ボードリヤールに関心
のある人でない限り、気がつかないと思います。しかし、制作者
のウォシャウスキー兄弟は、そのような細かいところまで、仕掛
けを施しているのです。
 ところで「シミュラクル」というのは何でしょうか。
 「シミュラクル」とは、「にせ物」とか「幻影」という意味で
す。スペルは次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       smulacre →  simulacrum
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「シミュラクル」とは、オリジナルでもコピーでもないが、独
自の価値として流通する一種の記号――記号は現実ではないが、
情報はすべて記号でしかない。そして、世界はこのシミュラクル
によって作られたハイパーリアルである――何だかよくわかりま
せんが、マトリックスの世界的な概念であることは確かです。な
お、『シミュラークルとシミュレーション』は、法政大学出版局
から翻訳書が出ています。少し、高い本ですが・・・。
 第1章でモーフィアスがネオに2199年の荒廃とした世界を
見せるシーンで、モーフィアスは次のようにいいます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          現実の砂漠にようこそ!
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これも『シミュラークルとシミュレーション』の中に出てくる
「現実それ自体の砂漠」の引用なのです。

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2003年12月24日

ネオはなぜ空を飛べるのか(EJ1258号)

 培養人間のうなじ(首のうしろ)についているプラグ――これ
をバイオポートというのですが、このバイオポートの一方の先は
太いケーブルを通してマトリックスを制御するコンピュータにつ
ながっています。
 さて、バイオポートのもう一方の先は、脳全体に広がる電極の
群れに配線を通してつながっています。うなじから、脊柱の上で
頭蓋を支えるしなやかな軟骨から入り、脊髄を頭蓋にはめこんで
いる自然の開口部を通って脳に達している――と考えられます。
 映画で興味深いことは、このバイオポートを利用して、ネオの
脳にカンフーの技能をダウンロードするシーンとトリニティーに
対して、ヘリコプターの操縦技術を脳に植えつけるシーンです。
要するに脳の永久記憶に直接書き込むわけです。
 しかし、マトリックスの中の人間――つまり、培養器に入って
いる人間ですが、そういう人間はこのような方法で知識や技能を
身につけることはせず、本を読んだり、学校に行ったりして、ご
く普通のやり方で物事を学ぶのです。
 このバイオポートを利用して技術プログラムをダウンロードす
る方法は、モーフィアスやトリニティーなどのゲリラが開発した
ノウハウなのです。興味深いのは、そのようにして超高度のカン
フーの戦闘技能をダウンロードされたネオが師匠であるモーフィ
アスに最初は勝てないことです。
 私がこの映画で最も印象に残っているのは、マトリックスそっ
くりに作られた環境でのカンフーの訓練プログラムのシーンなの
です。そこで、モーフィアスとネオは戦うのですが、どうしても
ネオは、モーフィアスのスピードについて行けず、負けてしまい
ます。そのシーンを再現してみましょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 モーフィアス:なぜ、やられた?
 ネオ    :速すぎる。
 モーフィアス:考えてみろ。仮想現実の世界で強さやスピード
        の原因が筋力にあると思うか。
 ネオ    :・・・・・
     ―― 再び、速さについていけないネオ ――
 モーフィアス:何してる。もっと速いはずだぞ。速く動こうと
        考えるな。速いと知れ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 カンフーに必要なすべての技能を脳にダウンロードしていても
実際にそれを演ずるとき、何か考えてしまったり、やろうとする
ことに自身が疑問を持ってしまうと、身体の動きがセーブされて
しまうのです。
 モーフィアスのいう「速く動こうと考えるな。速いと知れ」は
なかなか深遠なことばです。「速く動こう」と考えるのは意思の
力ですが、「速く動けるのだ」と信じて疑わないと、そのように
動けるのです。「速いと知れ」はそのことをいっています。思考
は現実化するのです。
 カンフーの戦いの途中で、モーフィアスは盛んに「心を解き放
て」と叫びますが、マトリックスの中では心を解き放つこと――
すなわち、現実世界での行動概念を捨てて、意識の開放をすれば
するほど、パワーが増すのです。
 もう少し詳しく説明しましょう。
 現実世界では、やれないことがたくさんありますね。空を飛べ
ない、空間で長い間静止できない、高いところから落ちれば死ぬ
近くでは弾丸を避けられないなど――しかし、マトリックスの世
界には、重力や質量は存在しないのです。したがって、現実世界
でできないと考えていることをすべて意識の外に捨ててしまえば
何だってできるようになるのです。ネオが空を飛んだり、近くで
発射された弾丸を止められるようになったのは、十分に心が開放
された結果と考えることができます。
 「速く動こうと考えるな。速いと知れ」――このことは、現実
の世界でも当てはまる教訓ではないでしょうか。「やれないと考
えてはいけない。できると知れ!」――「できる」と考えれば、
たいがいのことは可能になるのです。
 以上のように考えたうえで、この映画には大いなる矛盾という
か、不可解な謎があります。映画『マトリックス』を観た人は、
ぜひ考えていただきたいと思います。
 ひとつは、第2章「リローデッド」の最後の部分で、AIの放
つイカ型ロボット「センチネル」をネオが片手で止めるシーンが
あったと思います。しかし、その場所はマトリックスの中ではな
く、ザイオン――現実の世界なのです。いくらネオでも、現実世
界で超能力は発揮できないはずですが、どうして止められたので
しょうか。この謎についてどのような意見をお持ちですか。
 もうひとつ謎があります。
 ネブカドネザル号のクルーの一人にサイファーという人物がい
ます。サイファーは、ゲリラの生活に嫌気がさして、もう一度マ
トリックスにつながれたいと願っています。そういう心のスキに
エージェントのスミスが入り込んで、サイファーは裏切りを勧め
られます。
 実際にサイファーは仲間を裏切るのです。そのために、モーフ
ィアスは窮地に陥り、それが原因でネブカドネザル号のクルーで
あるマウス、スイッチ、エイポック、ドーザーの4人とその裏切
りの張本人であるサイファー自身も死ぬことになります。
 そのサイファーがマトリックス内のレストランで、スミスと密
会するシーンがあります。裏切りの打ち合わせですから、一人で
こっそりとやったはずですが、現実世界からマトリックスに行く
のは、自分ひとりではできないはずです。
 少なくともオペレータは必要ですが、サイファーがマトリック
ス内で何をしているかは、オペレーターにすべてわかってしまい
ます。どのようにして、サイファーはマトリックスに行ったので
しょうか。一人でプラグに電極を差し込んでマトリックスに行き
自動的に一人で戻ってこれるのでしょうか。

1258号.jpg
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2003年12月25日

ネオは3回変身している(EJ1259号)

 キアヌ・リーブスが映画『マトリックス』で演ずるネオは、明
らかに3回変身しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     1.トーマス・アンダーソン時代のネオ
     2.スミスによって殺され復活したネオ
     3.第2章で究極の選択をした後のネオ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 映画『マトリックス』の物語がキリスト教的テーマをベースに
していることは明らかです。ネオは人類を救済する「救世主=選
ばれし者」といわれているので「イエス・キリスト」であり、救
世主の出現を固く信ずるモーフィアスは、洗礼者ヨハネに相当す
ると思われます。
 それでは、トリニティーはどうでしょうか。既に述べたように
トリニティーという言葉には、三位一体の意があることを指摘し
ていますが、具体的に誰に当たるかといえば、それはマグダラの
マリアではないかと思われます。それは、どちらも男社会のなか
でひときわ際立つ女性であるからです。
 一回目の変身をしたネオは、モーフィアス救出劇に続く画面で
エージェントのスミスと単身立ち向かい、近くのモーテルの30
3号室に逃げ込みます。そこには、マトリックスからの脱出口で
あるアナログ電話機があるのです。
 しかし、ネオが受話器を取り上げようとした瞬間、先回りをし
ていたスミスの銃弾を浴びて死ぬのです。ネブカドネザル号に横
たわるネオの生命維持装置も「死」を示す表示が出ます。「まさ
か!」と叫ぶモーフィアス。トリニティーは、預言者に「私の愛
する人が救世主」といわれたことを告白し、息のないネオに口づ
けする――そうすると、ネオは息を吹き返すのです。これは、明
らかにイエスの復活をあらわしています。
 トリニティーをマグダラのマリアであるとしたのには、2つの
ことが一致するからです。一つは、マリアはイエスが殺されると
きそばにいたことであり、二つは、イエスが復活して最初に顔を
見たのがやはりマリアであったという点です。
 トリニティーは、ネオが殺されるとき一緒にいる――現実世界
とマトリックスという距離感はあるが――それに、ネオが息を吹
き返したとき最初にその顔を見たのも、やはり、トリニティーだ
からです。役柄はマリアと一致しているのです。
 第1章で、モーフィアスがネオをマトリックスに住むオラクル
という預言者のところに連れていくシーンがあります。そのとき
オラクルはネオに次のようにいうのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   あなたは救世主ではない。しかし、来世では・・・
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 確かに、一度死んで復活する――つまり、来世ですが、その後
のネオは明らかに変身しています。銃弾をすべて手で叩き落し、
カンフーも力強さを増し、そして空を飛ぶ――それに顔つきも少
し変貌しているように感じます。
 実は、イエスも復活前と復活後は違うのです。パウロは、「コ
リント人への第一の手紙」第15章44節で、「ソーマ・プニュ
マティコン」ということばを使ってそのことについて述べていま
す。「ソーマ・プニュマティコン」とは「霊のからだ」といった
ような意味になります。パウロは次のように書いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 まかれるときは朽ちるものでも、朽ちないものによみがえり、
 まかれるときには卑しいものでも、栄光あるものによみがえり
 まかれるときには弱いものでも、強いものによみがえる。
       ――「コリント人への第一の手紙」第15章より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 確かにネオの変身に共通性があることがわかると思います。復
活したネオの身体には光さえ差しているのです。まさに「ソーマ
・プニュマティコン」です。それに昨日のEJでご紹介した仲間
を裏切るサイファーですが、これはユダそのものでしょう。
 サイファーが隠れてスミスと会うのは、ユダが祭司長らと内々
に会ってイエスを裏切る相談をするのとそっくりです。ユダには
「秘密」という意味があるそうですが、サイファーにも「秘密」
という意味があり、一致しています。
 ここで、預言者のオラクルについて述べる必要があります。こ
のオラクル――見た目は普通のおばさんですが、かつてモーフィ
アスに救世主が復活することを予言し、人々にその運命を告げる
予言者としての役回りなのです。
 マトリックスの設計者であるアーキテクト――AIの代弁者は
オラクルは人間心理の探索のために作った「直感プログラム」で
あると語ります。第2章の「リローデッド」で、このオラクルに
ついてネオは、彼女とそのガードマンのセラフがバックドアから
出入りするのに気がついて、「あなたはプログラムだ」と迫るシ
ーンがあります。バックドアとは、ハッカーが再侵入のために作
っておく裏口のことです。システム開発者がセキュリティのため
に意図的に作るのも「バックドア」といいます。
 「リローデッド」で無数のドアが並ぶ廊下が登場しますが、こ
のドアはマトリックス内のあらゆる場所に抜けられるようになっ
ています。バックドアはそのドアの中に作られているのです。こ
の廊下に入ると、ネブカドネザル号の監視カメラから姿が見えな
くなることも覚えておくとよいでしょう。
 さて、「第2章で究極の選択をした後のネオ」とは何でしょう
か。「リローデッド」の終わりのところでネオは、マトリックス
の設計者アーキテクトという老人に会います。そのときのネオと
アーキテクトの会話は非常に重要な意味を持っているのです。
 アーキテクトは、ネオが救世主であることを認めた上でネオに
究極の選択を迫るのです。「人類を救うなら右のドアを、トリニ
ティーを救い、人類が滅亡する道を選ぶなら左のドアを――君は
どちらを選ぶか」と。このテーマは明日終了します。

1259号.jpg
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2003年12月26日

ネオはアノマリーである(EJ1260号)

 本日お届けするEJ1260号が、2003年最後のEJとな
ります。2004年は5日からお届けします。今年一年EJをお
愛読いただきありがとうございます。
 現在、私が直接お届けしているEJは567人――昨年12月
27日現在の配付数が503人でしたから、64人増えたことに
なります。もっともEJは真に読んでいただいている人に絞って
お送りしており、送信側で読んでいただいていないと思われる分
を相当数カットしていますので、純増分としてはまずまずのとこ
ろではないかと思います。今後ともご愛読のほど、よろしくお願
い申し上げます。
 なお、EJが2部届くことがあります。それは、配信直後にミ
スが発見されたときに再送するからです。したがって、その場合
は後送の方を保存していただきたいと思います。
 さて、今朝は映画『マトリックス』のテーマを一応しめくくる
ことにします。第2章でネオは、預言者のオラクルにザイオンを
救うためにはソース(マトリックスの中核部分)にたどり着き、
マトリックスの設計者であるアーキテクトに会う必要があるとア
ドバイスされます。
 そのためには、キー・メーカーの持つ鍵が必要なのですが、そ
のキー・メーカーは、メロビンジアンというマトリックス内の古
いプログラムに幽閉されているのです。そこで、ネオたちは、メ
ロビンジアンのところに行き、キー・メーカーを奪還して、大変
な苦労をして、アーキテクトにたどり着くのです。
 そのアーキテクトとネオの対話――ここにこの映画のすべての
謎が隠されているのです。ここで、2つの重要なことがアーキテ
クトによって語られるのです。
 1つ目は、「なぜ、私はここにいる?」というネオの問いに対
する次のアーキテクトの答えです。話の内容は非常に難解ですが
意味がわかるでしょうか。字幕をそのまま掲載します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 アーキテクト:
 君はアンバランスな均衡の余剰だ。プログラム固有の問題だ。
 つまり、君は変則的なアノマリーの産物だ。いまだ、排除でき
 ずにいるが、本来求めたのは数学的な正確さだ。解決すべき問
 題だが、予想範囲内でコントロールも可能だ。それで君は容赦
 なくここに導かれた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 要するにアーキテクトは、ネオは「アノマリー」だというので
す。「アノマリー」とは例外とか変則とか異例という意味です。
システム全体の設計思想に問題があると、このようなアノマリー
が生じてしまうのです。アノマリーは、システムの中に本来あっ
てはならないものです。
 つまり、ネオやエージェントのスミスはアノマリーであり、本
来排除すべきものなのだが、いまだに排除できないでいる――と
アーキテクトはいうのです。しかし、もともとアノマリーはその
出現が予想されていたものであり、大きな意味ではシステムのコ
ントロール下にある――だからこそ、いや応なく君はここに導か
れてきたのだといっているのです。
 重要なことの2つ目は、現在のマトリックスのバージョンが6
であるという事実です。バージョンが変わるたびに人類は危機に
瀕し、そのつど選ばれし者である救世主があらわれて、次に述べ
ることを行ってザイオンを再建してきたというのです。

 アーキテクト:
 ここでの「選ばれし者」の役割は、起動源(ソース)に戻って
 自分が保持するコードの臨時配布を実行、基幹プログラムを再
 挿入することだ。その上で、君はマトリックスから女性16名
 および男性7名から成る23名の人間を選抜し、ザイオンを再
 建する。この処理過程での不履行の発生は大規模なシステムク
 ラッシュを招き、マトリックスに接続された全ての人間の生命
 を奪う結果となる。それはザイオンの崩壊と併せて、最終的に
 は人類の滅亡を意味するのだ。

 アーキテクトによると、最初のマトリックスは、AIである自
分が制作したので、システム上完璧であって、いっさいのアノマ
リーが発生しないものだったが、人間がそれを受け入れなかった
というのです。そこで、システムのレベルを下げて、もっと乏し
い心、完璧のパラメータに束縛されない貧しい精神に基づくシス
テムを目指して6回も作り直した結果、ほとんどの人間がそれを
受け入れるようになっている――とアーキテクトはいうのです。
 そういう人間にフィットするマトリックスのバージョン6がで
きたのは、本来は人間の精神を調査するために作られた直感プロ
グラム/オラクルが役に立ったとアーキテクトはいいます。そし
て、私がマトリックスの父であれば、オラクルは間違いなくマト
リックスの母であると。
 そして、アーキテクトは、ネオに究極の選択を迫るのです。右
のドアを開ければ、人類の救済にいたる道が開ける。左のドアを
開ければトリニティーのところに行けるが、人類は全滅する――
ネオは何のためらいも見せず左のドアを開けて、トリニティーの
救出に向かうのです。
 その後のことは、現在上映中の第3章「レボリューション」を
観るしかないのですが、それ以上踏み込むとネタバレになるので
今回の分析はここまでのことにします。いずれ、「レボリューシ
ョン」のDVDが発売された時点で、再びEJで取り上げてみた
いと思います。
 映画『マトリックス』については、9回にわたってお送りしま
した。全原稿量は400字詰め原稿用紙63枚――それだけ書い
てもまだ書くことはたくさんあります。それほど奥が深い映画と
いうことがいえます。2003年は、新しいテーマで5日から配
信します。愛読者の皆様、どうか良いお年をお迎えください。

1260号.jpg
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2004年02月23日

●感動の根源には何があるか(EJ第1294号)

 2003年の暮れのことですが、映画『ラストサムライ』を観
に行ったのです。劇場は非常に混んでおり、座るために40分ほ
ど並んでやっと観ることができました。映画を観るのに並んだの
は久しぶりのことです。劇場には若い人が多かったです。
 ところで、この映画は、トム・クルーズが主演する、ワーナー
ブラザーズ配給のハリウッド映画なのです。扱っている中心テー
マは「武士道」――映画の宣伝コピーには、次のように書いてあ
るので、ご紹介しておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 静謐さのなかに熱き滾りを堪えた愚直なまでの一途さ。寡黙に
 して、二言を持たず、命懸けの信念をもって誇り高く生きた男
 たちのほんものの美学――そんな日本の「サムライ・スプリッ
 ト」が、ついにハリウッドを動かした!
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 興味深いのはこの映画を観た若い人の感想です。いくつかご紹
介します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ・サムライの熱い生き方に共感し、ともに生きることを誓った
  アメリカ人。おかしなところも多々あるが、僕はこの映画に
  日本人の心を垣間見た。
 ・いや、よかった。ここ1〜2年で観た映画で一番よかった。
  久々に見ごたえある映画だった。渡辺謙の戦いに敗れて逝く
  瞬間の顔をぜひみてやってほしい。アカデミー助演男優賞の
  声にもうなずける感じだ。
 ・とてもよかったと思ったし、泣いたのだけれど、どこで一番
  感動したかって考えると、あれ?ってかんじなんですよね。
  いっぱい感動しすぎて忘れてしまったのかしら。私ももう一
  度絶対見に行くつもりです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 とにかく「感動した」という意見が多いのです。映画のラスト
シーンが消えると画面が真っ暗になります。一呼吸おいてゆっく
りと配役や製作キャストの名前が出てきます。普通この場面にな
ると、きまって席を立つ人がいるものですが、誰も立たない――
周りを見回すと、ハンカチで涙をぬぐっている人もいる。本当に
感動している人が多いようです。暗くなったのを利用して涙の乾
くのを待っている人もいたかもしれません。
 それでは、どこが感動的だったのかというと、そういうシーン
はいつくかはありましたが、はっきりどこと指摘するのは難しい
のです。映画全体として強く訴えかけてくるものがあり、それが
感動を呼ぶのではないかと思われます。
 そこで、EJでは映画『ラストサムライ』が訴えかけてくるも
のは何か――何が、とくに若い人たちに感動をもたらすのかにつ
いて、いくつかの観点から考えてみたいと思います。
 映画の評価というものは難しいものです。映画を評価する観点
はいくつかあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     1.何を訴えようとしているのか
     2.映画自体は面白く観られたか
     3.脚本は歴史的に見て正しいか
     4.映画技術として優れているか・・・etc
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 過去に実際に起こったことを表現するとき、上記3の観点――
「脚本は歴史的に見て正しいか」が厳しく問われます。最近では
NHKの大河ドラマ『新選組!』の三谷幸喜氏の脚本は、時代考
証がメチャクチャであるということが盛んにいわれており、視聴
率がついに20%を割ってしまっています。
 確かに実在の人物を実名で取り上げる以上、時代考証はしっか
りしておくべきです。映画『ラストサムライ』についても時代考
証の問題点を指摘する意見が多いのです。映画をご覧になってい
ない人にはピンとこないでしょうが、いくつか上げてみます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.幕末の日本に勝元(渡辺謙)のような武将はいない
 2.明治新政府は忍者を使って勝元たちを攻撃している
 3.東京の近く(横浜付近)に雪で閉鎖される村はない
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、映画『ラストサムライ』に登場する人物で、はっきり
と実在している人物は明治天皇だけなのです。このようにいうと
「大村がいる」という反論があるかも知れませんが、原田真人演
ずる「大村」はあの大村益次郎ではないのです。明治天皇以外の
登場人物は、いくつかの実在人物を掛け合わせた架空の人物なの
です。もちろん、トム・クルーズ演ずるネイサン・オールグレン
も架空の人物です。
 しかし、この映画は米国人のエドワード・ズウィック監督が日
本の武士道を扱った米国映画であり、日本人が観ると、多少の違
和感を覚えるのは仕方がないと思います。一番大切なのは、映画
で訴えたいことがどれほど出せたかですが、それは多少の違和感
を打ち消してしまうほど強く出ていたと思います。
 映画でなくて小説の話ですが、金原ひとみさんを芥川賞に選ん
だ選者の一人である作家の宮本輝氏は、金原さんの作品『蛇とピ
アス』を読んで「妙に心に残る何か」が残ったといっています。
そして、日を置いて読み直してみたそうです。その結果、「妙に
心に残る何か」については「哀しみ」であることがわかったとい
い、次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  それは「哀しみ」であった。作中の若者の世界が哀しいので
 はない。作品全体がある哀しみを抽象化している。そのような
 小説を書けるのは才能というしかない。    ――宮本輝氏
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 映画『ラストサムライ』も製作者が意図する主張が明確に出て
おり、それが日本人の観客の心を揺さぶったのだと思います。
               −− [ラストサムライ/01]

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2004年02月24日

●勝元盛次は西郷隆盛ではないか(EJ第1295号)

 映画をテーマとして取り上げるときに注意しなければならない
ことがあります。それは、その映画を観ていない人に映画の筋を
先に話してしまうことによって、興味を削いでしまうことです。
しかし、こと映画『ラストサムライ』に関する限り、その心配は
いらないと思うのです。むしろ、事前に知識があった方が楽しく
観られると思うからです。
 そういうわけで、最初に映画『ラストサムライ』の時代背景や
ストーリーについてお話ししておきます。この映画の舞台は18
70年代――1868年8月27日に明治天皇が即位し、近代日
本が誕生しつつあった年代です。
 しかし、明治天皇はそのとき弱冠16歳、父親の孝明天皇の急
死による突然の即位だったのです。当時の16歳は今と違って、
随分としっかりしていたのですが、父親の急死による即位であっ
たため天皇になる心の準備ができていなかったといいます。
 徳川家安泰の時代であれば、天皇がたとえ幼君であったとして
もさほど問題にはならないのです。なぜなら、国を治めることが
天皇の務めではなかったからです。しかし、孝明天皇を境として
事情は一変し、とくに明治天皇が即位した頃は、天皇の役割は国
政を左右するほど極めて重要になっていたのです。ちなみに18
68年9月8日に、年号は慶応から明治に改められました。
 映画において明治天皇の役は、中村七之助が演じていますが、
何となく弱々しく、優柔不断にみえるのはそうした事情によりま
す。当時の日本は欧米にとって欲しくてたまらない市場であり、
兵器などの売り込みは熾烈を極めていたのです。天皇はそれに対
して直接に向き合う必要があったのです。
 こういう状況において、かつての南北戦争の英雄/ネイサン・
オールグレン大尉――トム・クルーズが、日本政府軍に近代式戦
術を教えるために來日するのです。オールグレンはそのとき酒に
溺れ、魂を失ったさまよえる男になっていたのです。
 ここでオールグレンが南北戦争の英雄という設定になっている
のは、この映画の重要なキーポイントになります。米国では、南
北戦争以降の数年間で、かつての「勇気」は実用主義に代わり、
「犠牲」は利己主義に取って代わり、「名誉」などはどこを探し
てもなくなっていたのです。
 このオールグレンに対応する人物として存在するのが、渡辺謙
が演ずる勝元盛次なのです。勝元は、近代化の進む日本において
自らの生き方そのものである「武士道」が崩壊しかけていると痛
切に感じていたのです。この映画の製作者であるエドワード・ズ
ウィックは、ここに西洋のサムライ・オールグレンと東洋のサム
ライ・勝元盛次を2つの極として、登場させることによって、物
語を進めようとしているのです。
 米国にとって南北戦争は、国を分裂させないためのやむを得ざ
る戦いであったのです。しかし、戦いは5年間の長きに及び軍人
たちはこの戦いで心身に大きな傷を負い、復員兵の多くは民間人
として生活することはほとんど不可能だったのです。
 そのため彼らは軍に再入隊し、西部に向かうのです。そして、
次なる戦いの相手とは、長く米国の地に住む先住民――インディ
アンであり、この戦いもやりきれないほどの多くの犠牲を払って
勝利を手にすることになるのです。
 オールグレン大尉は、こういう経験を経て心身ともにボロボロ
になって、それを忘れるために遠く離れた日本の地に人に勧めら
れるままにやってきたのです。その日本で彼は、歴史と進化に抵
抗するもう一人の戦士と出会うのです。
 新時代の到来ということで、サムライのほとんどは新政府に加
わり、一部の者は金と引き替えに領地を手放しているのです。し
かし、他の一部のサムライたちはそういうことはする気はなかっ
たし、することはできなかったのです。
 新政府から与えられる報奨よりは、すでに失われつつある伝統
やこれまで守り抜いてきた大切なものに勝る価値はないと考えて
いたからです。勝元盛次はそのように考えるサムライの一人だっ
たのです。
 このオールグレンと勝元盛次――新たな内戦の最中、最初は敵
として出会った2人の男は一戦を交えることになるのですが、彼
らの戦う理由には共通しているものがひとつあったのです。それ
は、「名誉のためにだけ」戦っているという一点です。
 この勝元盛次――ただの武将ではないのです。明治天皇の指南
役で、廟堂に席を持つ参議――現在の閣僚なのです。これに対し
て、オールグレンの雇い主に当たる男が「大村」です。大村とい
うと大村益次郎を連想しますが、既に述べたように、大村益次郎
そのものではないのです。しかし、大村益次郎といえば、新政府
の中心となり、新生日本のためにさまざまな制度の改革に着手し
たのですが、それが古い考えを持つ武士たちの反感を買ったこと
は確かであり、同一人ではないにしても、暗に大村を指している
ことは否定できないと思います。
 大村は日本の財閥を率いており、米政府はその大村と組んで、
日本と兵器その他の通商を独占しようと画策するのです。大村は
そういう役割を利用して外国との取引を通じて私腹をこやし、若
い天皇をあやつって通商のすべてを握ろうすとするのです。その
ために大村は、オールグレン大尉を新生日本軍の訓練指南役とし
て派遣し、サムライの根絶を図ろうとします。
 そのサムライを率いる参議の勝元盛次――この地位の高さから
考えて、西郷隆盛か江藤新平が想起させられます。しかし、これ
に関してズウィック監督は、勝元盛次のモデルは西郷隆盛である
と次のように明言しているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 (その当時)サムライたちの指導者で影響力を持っていた人物
 が反政府にいたのか?それが西郷隆盛。西郷が日本の歴史にい
 かに影響を与えたかを証明するかのように東京の上野には彼の
 大きな銅像が建っている。 ――エドワード・ズウィック監督
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
               −− [ラストサムライ/02]

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2004年02月25日

●明治天皇と西郷隆盛(EJ第1296号)

 オールグレン大尉率いる政府軍は、勝元率いる武士一族と戦い
惨敗を喫してしまいます。そして、オールグレンは捕らえられ、
勝元たちの住む吉野という山村に連れて行かれるのです。
 オールグレンは吉野で軟禁生活を送るうちに、忠義を尽くして
名誉を重んずる武士道精神に強く惹かれていきます。そして、オ
ールグレンは見失ってきた自分の生き方を取り戻し、自らも刀を
手にしてサムライとなって政府軍との戦いに挑む――映画『ラス
トサムライ』の筋はこのようになっています。
 吉野に連行されたオールグレンは、勝元の前に座らされます。
そのシーンの台本は次のようになっています。「氏尾」というの
は真田広之が演ずる武士です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 勝元:名は何と申す?<英語>
 ――オールグレンは勝元を見るが、答えようとしない。この様
 子を見て、氏尾がオールグレンを怒鳴る――
 氏尾:無礼者、答えろ!口がきけんのか、貴様!
 ――オールグレンは身じろぎもせず、見返している。こんな事
 は意志の強さがないとできない。突然、氏尾は刀を抜くと空を
 切る。うなる刀。刀はオールグレンの顔の寸前で止まる!それ
 でもオールグレンは微動だにしない。オールグレンの頬に刃を
 つける氏尾。オールグレンの頬から血が流れる。凍りついたよ
 うに動かないオールグレン。
 勝元:よせ。<日本語>
 ――氏尾は刀をおさめると歩き去る。勝元はオールグレンを凝
 視し、見定めている。
 勝元:ここは息子の村だ。この通りの山奥で冬が近い。とても
    逃げられん。
 ――勝元は歩き去る。信忠(勝元の子)はオールグレンを見て
 微笑む――
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 勝元盛次は、西郷隆盛をモデルにしたとズウィック監督はいっ
ていますが、そうであるとすると映画の後半に展開される壮絶な
戦いは「西南の役」ということになるわけです。
 この西郷隆盛という人物――おそらく日本史に登場するサムラ
イの中で最も尊敬を集めた英雄です。しかし、彼は尊王倒幕派で
ありながら、のちに新政府に反旗を翻らせた人物です。それでい
て、上野公園に銅像が建っている――外国人にとってもっともわ
かりにくい人物とされているのです。
 『明治天皇』(上下巻/新潮社刊)の著者として知られるドナ
ルド・キーンは、西郷隆盛について次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  西郷隆盛も(明治)天皇の好きな人物の一人でしょう。ただ
 私をはじめ外国人にとって、西郷隆盛という人物はどうも理解
 しにくい人物です。なぜ日本人にこれほど人気があるのか。日
 本人で彼の名前を知らない人はまずいない。
  たしかに江戸城開城の際は手柄を立てます。しかし、彼のお
 陰で薩摩が立派なところになったとはいえない。にもかかわら
 ず、彼の銅像が上野公園に建っているのは不思議なことです。
 西郷は反乱を起こし官軍と戦ったわけですから、外国人の理解
 からすれば、まずもって国賊です。九州の戦場跡をまわったあ
 る英国人などは、どうして彼が偉いと思われているのか分から
 ないと書いている。若いときは別として、私も後年の彼の行動
 についてはあまり感心できません。彼の書いた漢詩もそれほど
 魅力的ではない。          ――ドナルド・キーン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ドナルド・キーンが述べているように、明治天皇は西郷隆盛を
かなり信頼していたのです。もし、そうでなければ、もっと早く
西郷率いる賊軍を絶滅せよと命じたはずです。しかし、実際には
明治天皇がなかなか決断しなかったのは、長く側近として仕えた
臣下の心中を思いやり、決断が下せなかったのでしょう。
 もうひとつ、明治天皇がいかに西郷が好きであったかを示すエ
ピソードがあります。それは、西郷の死の翌日、天皇は美子皇后
に西郷について歌を詠むよう命じています。天皇の求めに応じて
皇后が詠んだ歌です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      薩摩潟しづみし波の浅からぬ
           はじめの違ひ末のあはれさ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 さらにもうひとつ。明治35年に天皇は特別大演習総監のため
熊本を訪れているのですが、列車が田原坂を通過するとき、天皇
自ら次の歌を詠んでいます。田原坂というのは、官軍と西郷軍の
激戦地なのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      もののふのせめ戦いし田原坂
           松もおい木になりにけるかな
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 西郷隆盛は「参議」を務めています。天皇に対して意見を述べ
ることができる高い地位です。しかし、新政府側と西郷隆盛の意
見の対立はなかなか溝が埋まらなかったのです。すなわち、急速
な近代化が必要であるとする政府側に対して、保守的な西郷は、
もっと伝統を重んじて欲しいと反対したのです。
 しかし、新政府との対立の溝が埋まらないのに業を煮やした西
郷は、「二度と官職にはつかない」と明治天皇に告げて、鹿児島
に帰って隠遁生活を送ろうとします。この時点では、西郷として
は、反乱を起こす気はなかったと思うのです。
 しかし、政府軍は西郷の行動に疑心暗鬼に陥ったのです。当時
鹿児島には政府所管の武器庫があり、西郷にこれを使われてはと
政府はその武器庫を他県に移送しようとしたのです。それを西郷
が設立した私学校の生徒が強奪したことが引き金となって、戦争
が起こるのです。これが西南の役です。
               −− [ラストサムライ/03]

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2004年02月26日

●オールグレンを悩ませているものは何か(EJ第1297号)

 映画『ラストサムライ』においてトム・クルーズが演ずるオー
ルグレン大尉――彼はなぜ勝元盛次率いる反乱軍に身を投じたの
でしょうか。
 オールグレンは、南北戦争のあと従軍した先住民/インディア
ンとの戦いにおいて、「心身ともにボロボロになって」日本の地
に赴いたと書きました。しかし、なぜ、彼はインディアンとの戦
いにおいて、そうなったかについては、映画だけでは少し分かり
にくいところがあります。
 映画の台本では、次のように記述されている部分があります。
映画をご覧になった方はすぐ分かると思います。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  台本/たかの家
   悪寒で身もだえるオールグレン
   酒の禁断症状に苦しむ彼は
   孤独感と心に浮かぶ罪悪感にさいなまされている

  台本/回想シーン/ウォシタ川
   騎兵隊が一列になって静まり返っている村に近づく
   遠くから戦いの火蓋を切る銃声が聞こえる
   村がゆっくりと虐殺の渦に飲み込まれていく様子が
   遠くから見える
   いかめしい顔をしたオールグレンは一息つくと
   まるで体重が何百キロもあるかのような気怠さで
   攻撃に加わる
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 映画では、オールグレンが酒の禁断症状で苦しむ場面が出てき
ます。彼が夢うつつに見るのは、インディアン部落を襲う騎兵隊
と逃げまどう先住民の子供たち、そして殺戮の光景――その映像
がフラッシュバックしてオールグレンを苦しめるのです。
 このオールグレンの心に巣食う幻滅は、この物語がはじまる数
年前に実際に起こった2つの先住民の虐殺が原因なのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.コロラドのサンド・クリークでの虐殺事件 1864年
 2.オクラホマのウォシタ川における虐殺事件 1868年
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 最初に、コロラドのサンド・クリークでの虐殺事件から説明し
ましょう。
 1864年11月29日のことです。ジョン・M・シビングト
ン大佐が指揮をとる騎兵隊は、シャイアン族とアラバホー族の部
落を攻めて、男性だけでなく、女性や子供を含めて200人以上
を虐殺します。
 このように書くと、西部劇のひとつかと思う人が多いと思いま
す。映画になる西部劇に共通しているのは、先住民のインディア
ンは、残虐で非道な蛮族で悪の元凶――これに対する騎兵隊は正
義の味方の騎士(ナイト)という構図です。
 しかし、ほとんどのインディアンは必ずしも好戦的ではなく、
何とか話し合いで解決したいと考えていたのです。シャイアン族
とアラバホー族を束ねていた酋長のブラック・ケトルも話し合い
を望んでいたのです。
 この虐殺が起きる2ヶ月前に、酋長のブラック・ケトルは、コ
ロラド準州知事ジョン・エヴァンスとシビングトンと和平につい
ての話し合いをしているのです。その結果、ブラック・ケトルは
星条旗を受け取っているのです。もし、騎兵隊が攻めてきたら、
その星条旗と白旗を掲げよという意味です。
 しかし、そのような約束があったにもかかわらず、約束はあっ
さりと破られ、2つの部族は虐殺されてしまうのです。しかし、
ブラック・ケトルは間一髪のところで虐殺から逃れます。そのあ
まりの残虐さに、1865年にコロラド準州の議会は、次の声明
を出してシビングトンの非難したほどです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       冷酷にして胸が悪くなる暴虐である
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 続いて、オクラホマのウォシタ川における虐殺事件について説
明しましょう。
 ブラック・ケトルと生き延びた部族は、オクラホマ州の先住民
保護区のウォシタ川付近で暮らしていたのです。1868年11
月21日のことです。酋長のブラック・ケトルは、平安と保護を
求めて、コッブ砦に出向いて担当者であるフィリップ・H・シェ
リデン少将に会います。しかし、シェリデン少将はブラック・ケ
トルの要望を聞いたものの協議には応ぜず、突き返します。そし
て、直ちに第7騎兵隊のジョージ・アームストロング・カスター
中佐に部族の殲滅を命令するのです。
 そして、11月27日の朝、カスター中佐率いる騎兵隊はイン
ディアンの野営テントを取り囲み、一斉に襲ったのです。そして
ブラック・ケトルをはじめとして、子供を含む150人を虐殺し
てしまうのです。このようにして、ジョージ・アームストロング
・カスター中佐は、この一方的な戦いの英雄になるのです。
 以上は実際に起こった話であり、全部実在した人物です。そし
て、映画に出てくるオールグレン大尉――彼は架空の人物ですが
そのカスター中佐の部下という設定になっているのです。
 これは、吉野の村の寺の本堂における勝元とのカンバセーショ
ンにおいて、オールグレン自身が次のように告白していることに
よって明らかです。オールグレンは、こういう悩みを抱えて日本
にやってきたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 勝元盛次  :大将はだれだ?
 オールグレン:反逆の指揮でもしてろ
 勝元盛次  :お前たちは会話が嫌いなのか?
 オールグレン:指揮官は中佐でカスターってやつだった
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
               −− [ラストサムライ/04]

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2004年02月27日

●勝元の村/吉野と武士道(EJ第1298号)

 オールグレン大尉がどのような心境で日本にやってきたのかと
いうことについては、昨日のEJで理解していただけたと思いま
す。彼は南北戦争における自国民同士の殺し合いに疲労し、それ
に加えて先住民の騙まし討ちと虐殺に心を痛め、大きな心の傷を
負っていたのです。
 しかし、これだけではオールグレンが勝元たち反乱軍に加わり
政府軍と戦うことを決意したという謎は解けません。それはオー
ルグレンが勝元たちの村――吉野での軟禁生活を送る中で、少し
ずつ何かが心の中で育ってきたということができます。
 軟禁生活といっても、オールグレンは自由に村の中を歩き回る
ことはできたのです。しかし、彼の背後には福本清三扮する寡黙
なサムライが遠慮勝ちではありますが、刀を手につねに付き添っ
ていたのです。おそらく勝元から、「何か不審なことをしたら斬
れ!」と命令されていたのだと思います。
 吉野で毎日行われていることを見聞きして、オールグレンの心
は大きな変化を遂げていくのです。映画では、オールグレンの心
中を次のナレーションで観客に伝えているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     オールグレン――ナレーション
     1876年・・・
     月も日も、もう分からない
     不思議な人々とのこの暮らし・・・
     わたしは彼らの捕われの人で、
     例えるなら野良犬か、
     迷惑な客人のように
     適当に見過ごされている
     皆、礼儀正しく、笑顔を見せる
     だがその下には
     複雑な感情が隠されている
     驚嘆すべき人々だ
     朝、目覚めると何事にも
     完ぺきを目指して取り組む
     そしてつねに自分に厳しい
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 西郷隆盛をモデルとしてつくり上げられた勝元盛次は、西郷の
人生訓である「天地自然の道」を体現しています。それは、次の
2つの西郷南州遺訓によくあらわれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 道は天地自然の物にして、人はこれを行なふものなれば、天を
 敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛
 する心を以て人を愛する也
                ―――「西郷南州遺訓」24
 人を相手とせず、天を相手とせよ。天を相手にして己を尽して
 人を咎めず、わが誠の足らざるを尋ぬべし
                ―――「西郷南州遺訓」25
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは、新渡戸稲造著『武士道』の第8章「名誉」に出てくる
のです。武士道の基本は「名誉心」と「廉恥心」です。吉野に住
む人たちの生活はこの精神に貫かれており、それが母国でのイン
ディアンの虐殺を強制されて騎士道の名誉を汚されたオールグレ
ンの心を強く打ったのです。
 ところで、「名誉心」と「廉恥心」とは、どういうことを意味
しているのでしょうか。現在の日本では「名誉心」は「名誉欲」
に、「廉恥心」は「羞恥心」になってしまっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  名誉心 ・・・ 自分自身を律して行動し、その評価は
          他人に任せる心
  廉恥心 ・・・ 恥をかいたなら、それを二度と繰り返
          さないと誓う心
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは道徳教育そのものです。昔は良い大学を卒業して官僚に
なったというと憧憬と尊敬の目で見られたものです。しかし、現
在ではそうは思われていません。一般的にいって、官僚には尊敬
が集まらないようになっています。
 せっかく一生懸命に勉強して良い大学に入り、官僚になったの
に、戦後は道徳教育が欠如していたために、名誉心と廉恥心に欠
けてしまっているからです。それでいて、名誉欲と羞恥心は人一
倍持っているのですから、尊敬されるはずがないのです。
 新渡戸稲造先生は、「廉恥心」という感性を育てることの重要
性をついて次のように説いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  「人に笑われるぞ」「体面を汚すなよ」「恥ずかしくないの
 か」などということばは過ちをおかした少年の振舞を正す最後
 の切り札であった。子が母の胎内にいる間に、その心があたか
 も名誉によってはぐくまれたかのように、この名誉に訴えるや
 り方は子供の心の琴線に触れたのである。
             ―――新渡戸稲造著『武士道』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 現代人の中には恥をかくことを嫌う人が多いです。つまり、羞
恥心を持つ人が多いのです。だから何かというと「侮辱された」
という人が多いのです。しかし、武士道では恥をかくことは恥で
はないのです。恥をかいて、そこから学ぶことが大切なのです。
それが「廉恥心」なのです。
 先ほど官僚の悪口をいいましたが、ほとんどの人は立派な人な
のでしょう。少数の人に問題があると、一般の人はそこだけを見
て全体を批判するものです。武士もそうだったのです。自分たち
の中に堕落した者が出ると、「武士の風上に置けない」と厳しく
非難し、排斥したものです。
 勝元の村、吉野では、まさにここでいう武士道の精神が溢れて
いたといえます。オールグレンはそれに救われたのです。
               −− [ラストサムライ/05]

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2004年03月01日

●『武士道』に関わった3人の大統領(EJ第1299号)

 映画『ラストサムライ』の脚本は、新渡戸稲造著の『武士道』
(以下、単に『武士道』と呼称)にヒントを得ているといわれて
います。そのためか、今でも書店に行くと、この『武士道』を中
心に関連書籍の特設コーナーが設けられており、本が山積みされ
ています。映画『ラストサムライ』が上映されて以来、ずっとこ
の状態が続いているのです。おそらく本は、相当売れているもの
と思われます。
 『武士道』は、1899年に新渡戸稲造が病気で療養していた
米国で書かれ、1900年に出版されています。この本は最初か
ら外国人に武士道を紹介する目的から英語で執筆され、現在日本
の書店ではその日本語訳書が販売されているのです。新渡戸稲造
という人は、日本語よりも英語が得意といわれるほど英語に堪能
な人だったのです。彼が38歳のときの話です。
 なぜ、日本人向けでないのかというと、当時の日本では武士社
会の名残りが色濃く漂っていたので、そのようなことはごく当た
り前のこととして、完全に定着していたからです。つまり、わざ
わざそれを本にして、日本人に読んでもらう必要はなかったとい
うことです。
 新渡戸稲造は、この本の序文で、なぜこの本を執筆したか――
その動機のようなものを明らかにしています。
 彼が、ベルギーの法学者、ラブレー氏の家で歓待を受けて数日
を過ごしたとき、新渡戸はラブリー氏に次のように質問され、返
答に窮したといっているです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本では宗教教育はないということですが、それならどのよう
 に道徳教育を行っているのですか。     ――ラブレー氏
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そのとき彼は、自分が幼少の頃から武士道に起源を持つ「善悪
の観念」を植え付けられて育ったことに思いいたったのです。そ
してこのとき、この本を出版しようと考えたというのです。
 『武士道』は爆発的なヒットとなり、海外の人々に広く読まれ
て、日本の文化を知らしめることに大きく貢献したのです。実は
この『武士道』――3人の米国大統領に関わる話があるのです。
 3人の米大統領のうちの1人目は、セオドア・ルーズベルト大
統領(1858―1919)です。1904年のことです。
 日露戦争中のことですが、ルーズベルト大統領とハーバード大
学で同窓だった金子堅太郎伯爵が、特使として米国に派遣された
ことがあるのです。そのさい、金子が新渡戸の『武士道』を一冊
大統領に進呈したのです。
 大統領は大変な読書家で、しかも速読術を身につけていたので
『武士道』は徹夜で一気に読み切ったというのです。大統領はこ
の本を読んで、日本の「徳性」をよく知ることができたと絶賛し
新たに30冊を購入し、5人の子供に1冊ずつ配り、友人知人に
配って読むように勧めたというのです。そして、この著作は、同
大統領を一層の日本びいきにしたといいます。
 さて、3人の米大統領のうちの2人目は、クリントン前大統領
なのです。
 2000年夏、盛岡市で「『武士道』発刊100年記念・日米
友好の集い」が開催されたのです。この「集い」には、セオドア
・ルーズベルト大統領の曾孫で経営コンサルタントのツウィード
・ルーズベルト氏が招かれ、「いかにして新渡戸先生が世界の歴
史を変えたか」という演題で講演をしたのです。
 そのさい、クリントン大統領(当時)は次のようなメッセージ
を寄せたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 わが国のセオドア・ルーズベルト大統領は「新渡戸氏の著作に
 より日本文化を理解することができ、ノーベル平和賞の受賞に
 も役立った」と述べています。私は皆様とともに彼の偉業をた
 たえます。             ――クリントン大統領
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 3人の米大統領のうちの3人目は、現在のジョージ・ブッシュ
大統領です。
 ブッシュ大統領は、9・11同時多発テロのあと、2002年
2月に来日し、国会で演説したのですが、その冒頭部分で、こう
語りかけているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 いまから一世紀前、日米両国は、それまでの長きにわたる猜疑
 や不信を抱いていた時期を経て、お互いについて学び始めまし
 た。日本が生んだ偉大な学者にして政治家、新渡戸稲造は日米
 両国民のことを理解しており、『太平洋の架け橋とならんと欲
 す』と記しております。その『架け橋』はすでにできておりま
 す。            ――ジョージ・ブッシュ大統領
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 何はともあれ、ルーズベルト、クリントン、ブッシュという3
人の米国大統領にその業績を賞賛された新渡戸稲造――これは大
変なことです。しかし、今まで肝心の日本では、あまりなじみの
ない人だったのではないでしょうか。5000円札の肖像画に採
用されたときですら、「新渡戸稲造ってだれ?」という声があっ
たのですから、恥ずかしい話です。
 しかし、映画『ラストサムライ』のヒットがキッカケになって
武士道精神の重要性が認識され、日本人の中に『武士道』を読む
人が増えているのは良い傾向であると思います。なぜなら、今の
日本人にこそ、武士道精神が一番求められているからです。昔か
ら脈々と受け継がれてきた最も大事なものを現代の日本人は失い
つつあると思われるからです。
 かつてのケネディ大統領が「日本人で一番尊敬する人は?」と
日本の新聞記者に問われ、「上杉鷹山」と答えたところ、その当
の新聞記者が「ウエスギヨウザン」を知らなかったという笑えな
い有名な話があります。日本人は、もっと自分の国の歴史や文化
を研究すべきです。      −− [ラストサムライ/06]

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2004年03月02日

●日本人は武士道精神が欠けている(EJ第1300号)

 前回のEJで、今の日本人にこそ武士道精神は必要である――
このように書きました。社会のモラルは低下の一途をたどり、教
育水準は下がる一方です。警察の検挙率は先進七ヶ国中最低、子
供たちはゆとり教育とやらで1日25分しか勉強しないので、学
力は下がる一方になっています。日本はどうしてこんな国になっ
てしまったのでしょうか。
 フランスの小咄にこういうのがあります。
 タイタニック号が沈むときの話です。女性と子供を先に逃がす
ために、一等航海士が特等室のお客を説得に回ったのです。その
とき、国別に説得の方法を変えて全員の説得に成功しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 英 国人のお客には、あなたがもし、ジェントルマンだったら
           同意してください。
 米 国人のお客には、あなたが、ヒーローになりたかったら、
           同意してください。
 ドイツ人のお客には、これは、船長からの命令です。同意して
           いただけますね。
 日本人のお客にには、皆さん同意されています。いいですね。
           同意してください。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは、国の特徴をよくとらえています。日本は、周りを見渡
して、「みんながやっているとやる」、「誰もしていないとやら
ない」と見られているのです。あのカルロス・ゴーン社長は、こ
の話を覚えていて、日産自動車の立て直しのとき、渋る社員たち
を「みんなやってるぞ、やれ」といってやらせたといいます。
 これは、日本人に行動の基準――正しいと信ずる基準がないこ
とを意味しています。周りを見てそれによって行動を決めている
ようなところがあるのです。そのため、武士道精神が必要なので
す。日本人が勇気や自信を取り戻すために必要なのです。
 映画『ラストサムライ』では、当然ですが、武士道について話
し合う場面が多く出てきます。その中でとても印象に残っている
場面があります。
 オールグレンは、吉野では勝元の子息である信忠の家で寝起き
をさせられます。その家には「たか」という女性とたかの子供の
「飛源」がいたのです。実は、たかの夫は「広太郎」というので
すが、戦場でオールグレンに殺されているのです。
 たかはもちろんのこと、信忠、たか、飛源――いずれもそのこ
とを知っていますが、オールグレンだけは知らされていなかった
のです。それに、信忠、たか、飛源の3人のオールグレンに尽く
す態度があまりにも誠意に満ちていたので、そのようなことは考
えてもいなかったのです。
 彼らはなぜそのような態度がとれたのでしょうか。
 それは、武士はやむを得ざる戦いで死ぬのは「天命」と考えて
いたのです。映画では次のシーンでそれが示されます。自分の夫
を殺した男――オールグレンの面倒を見ることに耐えかねたたか
は、兄の勝元に「彼に出て行って欲しい」と頼むシーンです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 たかの家/昼
  たか:これ以上、辱めを受けるなら死なせてください。
  勝元:言うとおりにできんのか。仇をとれば気が済むのか?
  たか:・・・はい。
  勝元:広太郎は戦で死んだ。天命だ。
  たか:分かっています。すみません。
  勝元:(優しい口調になり)わしもな、たか、なぜ、奴がこ
     こにいるのかよく分からん。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 最後の勝元のセリフによって、勝元はオールグレンを軟禁して
いたわけではないことがわかります。きっと、いつか出て行くと
思っていたのでしょう。しかし、オールグレンは氏尾に剣術を習
い、村のこどもと遊び、吉野の村の人気者になっていきます。
 そういうなかで、オールグレンは途中から自分がどういう家に
住んでいるか知るのです。神社の小部屋にまるで生きているよう
に置かれている赤い鎧の男について勝元に質問し、すべてを知っ
たのです。
 そういう伏線があって、印象に残るシーンがやってきます。そ
れは政府軍との戦いが決まったある夕暮れ、たかの家でオールグ
レンは正座してたかと向き合っています。飛源もそこにいます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 たかの家/夕暮れ
  飛源:お前も白人と戦うのか?
  オールグレン:そうです。もし、来れば戦う。
  飛源:どうしてだ?
  オールグレン:愛する人を殺すから。
 オールグレンを見るたか。心が動いている。突然、飛源は立ち
 上がると部屋から飛び出して行く。たかを見るオールグレン。
  たか:武士道は子供には、分かりにくいものなのです。まし
     てや、あの子は父を失ったのですから。
  オールグレン:飛源の父は自分が殺した。だから怒っている
         のでは・・・。
 いつまでも、それにこだわるオールグレンを見て、たかの顔に
 笑みが浮かぶ。
  たか:いいえ。あの子は。あなたが死んでしまうのが怖いん
     です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 とても印象に残る素敵なシーンだったと思います。戦いで死ん
だ者を天命と考えて、それがたとえ肉親でも、こだわりを捨てて
個人的恨みをいっさい抱かない――なかなかできることではない
ですが、勝元やたかの態度がそれを示しています。
 それにしてもたかを演じた小雪という女優――心理的に複雑な
役柄を印象深く演じていると思います。
               −− [ラストサムライ/07]

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2004年03月03日

●武士道精神はなくなりつつある(EJ第1301号)

 映画『ラストサムライ』で、勝元たちが政府軍と戦う前に桜の
木のところで、勝元とオールグレンが話すシーンがあります。そ
こでも武士道が語られます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 勝元の邸宅/昼
  勝元:死を恐れず。むしろ時には、それを望む。
     違うかね。
 オールグレンは、すぐには答えない。勝元はオールグレンの心
 の闇にある真実を直感する。
  オールグレン:ああ。
  勝元:わたしもだ。戦場を見た者は皆、そう思う。
 戦いの後、わたしは先祖の住んだ、この地に戻った。
 そして、思った。人はこの花のように、いつか散る。
 (オールグレンの方を向いて)
  勝元:吐く息ひとつにも生命が宿り、毎日飲む一杯の茶・・
     倒す敵すべてに生命がある。それが侍の生きざま。
  オールグレン:吐く息にも生命が・・・
  勝元:それが・・・。“武士道”だ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 明治以前に、世界中にあったのに日本にだけなかったものがあ
ります。それは「哲学」です。なぜなかったのかというと、日本
には儒教や仏教、神道などの思想が、武士道に吸収されていたか
らであり、すでに武士道という立派な生きざまがあったら、必要
なかったのです。
 それも「武士道」という「道」があったわけではないのです。
誰もそれがあるとは気がついていないのに、それは確かに存在し
たのです。それは、空気や水のように当時の人たちの生きざまと
して存在したのです。おそらく「武士道」ということばも、新渡
戸先生が『武士道』を書くまでは、きっと存在しなかったと思わ
れます。
 絶対的な善悪の判断、やっていいこととやってはいけないこと
――日本以外の国では、宗教を通してそれを教育していますが、
日本では宗教教育はやっていません。しかし、長い間にわたって
脈々として受け継がれてきた生活の規範――武士道というものが
あったからこそ、それで足りていたわけです。
 しかし、現在では武士道がほとんどなくなっています。車中で
人に迷惑をかけることに気遣わない人、自分の行動に責任をとら
ない人――そういう人があまりにも多すぎます。
 電車に乗るたびに、毎回「車中で携帯電話でのご利用はご遠慮
ください」と呼びかけないといけない国、それでも携帯電話を使
う人、逮捕されても辞職しない国会議員、ウソのラベルを貼って
食品を出荷する大企業、鳥インフルエンザが十分疑われるのに隠
して出荷する業者、それに車中で平気で騒ぐ子供たちとそれを注
意しない親たち、年寄りが立っているのにシルバーシートに平気
で座って席を立たない若者、人前でお化粧する女性など――とて
も武士道精神がある国とは思えないのです。
 武士道とは、いつまで経っても普遍的なものをいいます。そう
いうものはたくさんあるはずです。自分がやりたくないけれどさ
れたいと思うことがあります。旅館に行ったとき、相手がきちん
と正座して「いらっしゃませ」と挨拶されることに怒る人はいな
いと思います。お年寄りが若い人から席を譲られたり、横断歩道
を渡るとき手を引いてくれたらうれしいでしょう。そういうもの
は、年月が経過しても普遍なのです。
 2500年経っても、『孫子』は今でも有効な方法として、世
界中の多くの人に読まれ続けているのは、その内容が普遍的なも
のであるからです。武士道もそういう普遍的なものなのです。武
士道は、日本人という民族を接着してひとつにまとめる接着剤と
いえます。武士道は「日本の国教と考えよ」という人すらいるの
です。武士道は武士だけが守るものではないのです。
 「武士に二言なし」という言葉があります。ドイツにも「リッ
ターボルト」という同じ事を意味する言葉があります。リッター
とは「貴族」、ボルトは「言葉」――つまり、「貴族の言葉」と
いう意味になります。武士も貴族(騎士)も約束に証文はいらな
いという意味です。約束を守って、ウソはつかないという意味で
す。これには、孔子の次の言葉が深く関連します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 至誠は広々として深厚、誠なるものは物の終始なり、誠なけれ
 ば物なし                    ――孔子
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「誠」があってはじめて物事が成り立つという意味です。誠が
あると、意識的に働きかけることなく、自然に目標を達成する力
を持つのです。したがって、人に誠を示すことができれば、あら
ゆることは自然に成り立つといえます。
 誠の反対は「嘘」です。武士道では、嘘をつくのは必ずしも悪
いとはいってはいませんが、「臆病」であるとしています。とこ
ろで、臆病の反対は「勇気」ですから、臆病とは「勇気がない」
ということになります。
 「勇気がない」とは不名誉なことです。武士道では、不名誉と
いうことが最悪なのです。つまり、約束を破るというのは不名誉
なことなのです。不名誉は死を意味するほど武士道にとっては最
悪であり、だから、武士はいったん約束したことは絶対に実行し
たのです。
 ある人と「一杯やる」約束をしたとします。しかし、当日少し
体調が良くなかったとします。その場合、体調の悪さを相手に伝
えて断るかどうかです。断らないという行為は、体調の悪さを隠
す「嘘」に当たりますが、こういう嘘は許されるのです。それは
礼儀を優先させ、相手に迷惑をかけない行為だからです。私なら
よほどのことがない限り、約束は守ります。
 しかし、約束をたがえて断るという行為は、不名誉なことであ
り、その修復には大きな時間がかかることになります。
               −− [ラストサムライ/08]

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2004年03月04日

●武士道/死にざまと生きざま(EJ第1302号)

 「わしもな、たか、なぜ、奴がここにいるのかよく分からん」
――このセリフによってわかるように、勝元はオールグレンに用
心棒は付けていたものの、オールグレンを軟禁していたわけでは
ないのです。したがって、オールグレンが逃げる気があれば、い
つでも吉野から逃げられたのです。
 なぜ、オールグレンは吉野にとどまっていたのでしょうか。
 それは、彼が母国で、命令とはいえ、インディアンの虐殺にか
かわって騎士道精神が教えた軍人としての名誉を汚したこと――
それを勝元が体現する日本側の名誉と合体することで、回復でき
るのではないかと考えたからです。
 したがって、この映画は、オールグレンという米国の軍人の名
誉回復の物語ということができます。しかし、当時の近代的武装
をした政府軍に対して、勝元たちは近代兵器を使わず、刀と弓矢
だけで政府軍に玉砕覚悟で突撃するのです。結果として、オール
グレンは生き残ったものの、勝元をはじめ侍は全滅――武士や騎
士にとって名誉とは、自分の命以上に大事なものなのです。
 勝元とオールグレンとの対話に次のようなものがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 野営地/夜
  勝元:お上は、わたしを退けた。
     官軍がやってくる。それで終わりだ。
 オールグレンはじっと座ったまま聞いている。
  オールグレン:それでいいのか?
  勝元:・・・・
  オールグレン:生涯、天皇に仕え、自らを鍛え
         民に情けをかけて?
  勝元:武士道はもう必要ではないのだ。
  オールグレン:(哀しげな笑みをたたえて)
         必要ではない?何よりも必要なものだ。
  勝元:わたしの命は刀が奪う。自分の刀か、敵の刀か。
  オールグレン:ならば敵の刀に倒れ
         あなたの声を天皇の耳に届かせるのだ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 実際に2度にわたる死の突撃で勝元は傷つき、オールグレンに
介助してもらい、自分の刀で切腹して果てるのです。その光景を
政府軍の兵士たちは周りを取り囲んで見ていたのですが、ある日
本人将校が驚きベき行動をとったのです。
 彼はゆっくりとひざまつくと、手をついて土下座したのです。
それを見た兵士たちは、次から次にと同じことをやりはじめたの
です。その数は約1000人。それは、異様な光景でしたが、全
員がラストサムライを崇めている――この映画の感動的なシーン
のひとつであると思います。
 生き残ったオールグレンは、勝元との約束を果たすために、彼
が切腹して果てた刀を持って明治天皇に会いに行くのです。その
シーンを台本で再現します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 皇居――謁見の間/昼
 オールグレンが謁見の間に入ってくる。彼は足を引きずってい
て、シャツの下からは血がにじんでいる。その手には布につつま
れた勝元の刀が握られている。
 天皇の前で平伏するオールグレン。
 彼は包を解くと、そのままの姿勢で頭を下げ、刀を天皇にうや
うやしく献上した。
 オールグレン:これは勝元の刀です。陛下にお納めいただき
        武士の力を守りとされたいと。
  大村:勝元の死を悼む心は、皆、同じです。しかし、・・・
  オールグレン:勝元は最後の息の下で「祖先が何のために戦
         い、死んだかをお忘れなきように」と。
  天皇:(オールグレンに)最後の時も、彼のそばに?
  オールグレン:はい。
  大村:陛下、この男は反徒です。
  オールグレン:陛下、わたしを反徒と思われるなら、
         死のご下命を。喜んで命を断ちます。
  およそ西洋人らしくない言葉を聞いて驚く天皇。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このシーンでもなかなかの名セリフが出てきます。明治天皇が
「勝元の死にざまを語れ」と命ずるのに対して、オールグレンは
次のように返すのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  勝元:彼の生きざまを語りましょう。死にざまは「名誉の護
     持には肝要ですが、失われた名誉を回復するには生き
     ざまこそ大事となるからです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 とてもハリウッド映画とは思えないやりとりです。オールグレ
ンのことばに感動した天皇は、急に顔を引きしめて、自分にいい
聞かすように、次のようにいいます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  天皇:朕の望みは「統合化された日本」である。強力にして
     独立を誇る近代国家を確立したい。われわれはすでに
     鉄道と大砲と西欧の衣服を手にした。
 ここで天皇は、はじめて勝元の刀を受け取って続ける。
  天皇:しかし、日本人たることを忘れてはならぬ。そして、
     この国の歴史と伝統を。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 明治天皇は、米国一国との通商条約を破棄して、世界の列強と
の通商に転換します。そして、吉野への鉄道敷設を禁じ、大村を
断罪し、資産の没収を命じたのです。
 映画『ラストサムライ』のテーマは明日で終了しますが、関連
するテーマ「武士道」については、資料を収集して改めて取り上
げる予定です。        −− [ラストサムライ/09]

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