2000年04月12日

●複雑系は知のパラダイムだ(EJ第358号)

 本日からはじまる3回のシリーズは、2000年4月12日か
ら14日にかけて記述されたものです。
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 今朝から断続的に「複雑系」の話をします。複雑系の話を複雑
に話したのでは頭が混乱しますので、可能な限り分かりやすく説
明することにします。
 田坂広志氏の著書『これから日本市場で≪ネット革命≫何が起
こるのか』(東洋経済新報社刊)をよく読むと、ネット革命は必
然的に「ナレッジマネジメントの進化」をもたらすということが
分かってくるのですが、そのナレッジマネジメントは、複雑系と
密接な関係があるのです。実は、田坂広志氏は、この複雑系の専
門家なのです。
 「複雑系」とは何でしょうか。複雑系は1995年頃からさか
んにいわれるようになり、1997年の夏頃までブームが続くの
ですが、最近では、書店で探しても複雑系の本はほとんど消えて
しまっています。しかし、これは一過性のものではなく、現在は
深く静かに潜行しているのです。複雑系を登場させたのは時代の
要請だからです。
 思えば、1995年〜1997年といえば、ウインドウズ95
のブームでPCが売れて、インターネットが流行り始めた年です
が、一方でバブルが崩壊し、長引く不況の中で誰しもが「時代が
変化している」ことを実感したはずです。そういうときに複雑系
が登場したのです。
 さて、「複雑系とは何か」という疑問に対して、「複雑系とは
新しい知のパラダイムである」という答えがあります。これに対
しては、「?」となってしまう人も多いと思います。
 まず、「パラダイム」ということばから解明しましょう。岩波
『広辞苑』では次のように定義されています。
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 「パラダイムとは、一時代の支配的な物の見方である。特に、
 科学上の問題を取り扱う前提となるべき、時代に共通の体系的
 な想定である。天動説や地動説の類」。
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 要するに、時代を支配している考え方、誰でもがそうだと信じ
ている固定観念がパラダイムなのです。したがって、「新しい知
のパラダイム」とは、固定観念を打破する革新的な考え方であり
複雑系がまさにそれを象徴するものなのです。
 「テーラー・システム」というのをご存知ですか。それは、科
学的な労働の管理方式です。フレデリック・テーラーは、旋盤工
から製鉄会社の技術長になった人ですが、彼は労働の能率化を図
って、全体の作業を細かく分割し、1つひとつの動作に還元した
のです。そして、各動作が合理的に行えるように工場内の配置を
行うとともに、各動作にかかる時間と労力を算出し、その合計を
一日の仕事量としたのです。賃金もその仕事量から計算されたわ
けです。
 テーラーは、要するに、複雑に見える現象(全体)も細かく分
けていくと、単純なシステム(部分)が入り組んで構成されてい
るに過ぎないと考えて「テーラー・システム」を考え出したので
す。この考え方は科学の世界では大成功したのです。
 物質を分子に分解し、分子を原子に分解し、原子を素粒子に分
解し、素粒子を6種類のクォークに分解することで、物理学は自
然の根源的な仕組みを明らかにできたのです。
 われわれは「分析」という手法を使いますが、「分析」とは、
対象を研究しやすいサイズの小さい部分に分割し、それぞれの部
分の性質を詳しく調べることによって、対象の全体的性質を理解
する手法のことです。そして、これまでこの手法は、宇宙、地球
自然、社会、市場、企業などの概略の姿を知るうえでは大変に有
効に機能したのです。
 しかし、ここにきてこの「分析」の方法には限界が見え始めた
のです。その限界とは、田坂氏によると「対象を分割するたびに
大切な何かが失われる」ことだというのです。とくに、対象が生
物の場合、全体を部分に分割していくと、全体が見えなくなって
しまうのです。それに最近では、経営をはじめ、さまざまなもの
が生物化しつつあり、従来の分析という手法では、解明できなく
なりつつあるのです。
 複雑系の法則のひとつに、「複雑化すると新しい性質を獲得す
る」というのがあります。もしこの法則が正しいとすると、分析
という手法は無力化するのです。
 物理学と違って生物の場合は、「細胞」が集まると「組織」、
「組織」が集まると「器官」、「器官」が集まると「臓器」にな
ります。そのそれぞれが上位のものは下位のものとは異なった性
質を持っているわけです。これが「複雑化すると新しい性質を獲
得する」という意味なのです。したがって、下位のものの性質を
いくら調べても、それをもって上位の性質を論ずることは出来な
いのです。つまり、対象が生物の場合は、分析という手法は使え
ないことになります。
 別の例をあげましょう。どうも身体の具合がわるいので、病院
に行って診断してもらったとします。さまざまな検査をしたので
すが、異常は発見できなかったとします。しかし、具合はやはり
良くないのです。こういうことはよくあることですね。これは、
慢性症に見られる現象です。
 この慢性症の対極にあるのが感染症です。感染症の場合、分析
をして小さな要素を分けていくと、最終的には病原菌という原因
に突き当たるのです。この場合は、原因である病原菌を取り除く
と、劇的に治ってしまいます。
 しかし、慢性症には病原菌を探して取り除くという方法は適用
できません。ゆっくりと休養を取ったり、食事や生活習慣を変え
るといった対応が必要になります。つまり、慢性症を総体として
受け止める必要があるのです。
 これは、病気の原因になる要素を取り除き、人間が生来持って
いる自然治癒力、または自己治癒力を高めるようにするという治
療法です。この考え方こそ複雑系の考え方そのものなのです。こ
の考え方を経営であるとか、システムであるとか、ネットワーク
にあてはめるとそこに全く違った世界が見えてくるのです。
                 −−[複雑系の話/01]
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2000年04月13日

●部分と全体との関係を解明(EJ第359号)

 「複雑化すると新しい性質を獲得する」ということについて、
昨日お話ししました。今朝はこの話をもう少し発展させることに
しましょう。
 このことに関して「水の三態」という例がよく使われます。水
は温度を高く変化させ、摂氏100度以上になると、「水蒸気」
という新しい性質を獲得します。つまり、気体になるわけです。
逆に温度を下げて摂氏零度以下になると、今度は「氷」という固
体の性質を示すことになります。つまり、水は温度を変化させる
ことによって「液体」「気体」「個体」という三つの性質を有す
るわけです。このことを考え合わせても、「複雑化すると新しい
性質を獲得する」ということはいえると思います。
 社会現象においても同じことがいえます。人間一人ひとりの個
人は、それぞれ理性的な性質を持っていても、数百人から数千人
も集まると、「群集心理」という全く別の性質を示すことがあり
ます。
 これまでの近代科学では、「要素還元主義」といって、研究の
対象を細かい要素に還元し、それぞれの要素を詳しく「分析」し
たあとで、これらを「総合」することによって、対象の全体像を
理解するという方法をとってきたのです。
 しかし、これらの科学が研究の対象とする宇宙、地球、自然、
社会、市場、企業は、いずれも「複雑化すると新しい性質を獲得
する」という特性を持っているため、要素に分割したとたんに、
獲得された新しい性質が失われてしまうので、分割する前の全体
像を正確に認識できなくなってしまうのです。このことは今まで
金科玉条とされてきた近代科学の要素還元主義の限界を示すもの
に他ならないのです。
 かなり大雑把にいってしまうと、今までの要素還元主義は、世
界というものを巨大な機械とみなす「機械的世界観」に立ってい
たということができます。しかし、現代では、逆にその研究対象
を“機械”ではなく、むしろ“生物”とみなして考える傾向が強
くなってきたといえるのです。
 それらを象徴的にあらわすものとして、かつて大きなブームと
なった「たまごっち」があります。「たまごっち」は人工物です
が、生物により近いおもちゃであるといえます。
液晶画面の中でたまごを孵し、生まれた子供を育てていくとい
うゲームですが、持ち主が寝ている間も成長を続け、予想のつか
ない動きをするのです。ちゃんと餌をやらないと死んでしまうし
つまり、何が起こるか分からない、どういう結果が生ずるかわか
らないという「生物タイプ」のゲームなのです。
 研究対象を“生物”とみなして考えるという傾向は、人工生命
の研究に結びついてきます。この研究は米国ニューメキシコ州に
あるサンタフェ研究所においておこなわれています。この研究に
おいて、興味あるシミュレーションがあるので、ご紹介します。
 その研究とは、クレイグ・レイノルズによっておこなわれたも
のであり、「鳥の群れの研究」と名付けられています。鳥は教え
たわけでもないのに、なぜあのように整然と群れて飛ぶことがで
きるのかを解明しようというわけです。
 結論を先にいうと、一羽一羽の鳥に次の3つの行動規則を与え
ておくだけで、これらの鳥はまるで集団としての意思があるかの
ように一定の秩序を持った群れを形成しているのです。
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  1.近くの鳥が数多くいる方向に向かって飛ぶこと。
  2.近くにいる鳥達と飛行の速さと方向を合わせる。
  3.近くの鳥や物体に近づき過ぎたら、離れること。
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 このように、個が一定の規則に基づいて自発的に行動するだけ
で、全体が一定の秩序を形成するという特性を「創発性」と呼ん
でいるのです。
 先ほど、要素還元主義において「分析」という手法が限界に達
しているということをお話ししましたが、そもそもものごとを設
計、組立、制御、管理という手法でコントロールしようという発
想は、意識するしないにかかわらず、その対象を“機械”として
考えている証拠です。難しいことばで恐縮ですが、これを「機械
的世界観」と名付けています。これが従来の発想です。
 これに対して、これからは「生命的世界観」にもとづいて発想
するべきであるとして、複雑系が生まれたのです。この考え方に
もとづいて「創発性」という考え方が生じてきます。田坂広志氏
によると、「創発は、ボトムアップ的なプロセスとトップダウン
的なプロセスが同時に生ずる双方向的なものである」と述べてお
られます。
 このことは、自然界を例にとって考えるとわかりやすいと思い
ます。この地球には、個々の生物が集まって生態系を形成してい
ますね。ここで、個々の生物は「部分」であり生態系は「全体」
とあるということができます。
 生態系は当然ですが、個々の生物に大きな影響を与えています
が、逆に個々の生物も生態系に影響を与えているのです。これが
「全体が部分に影響を与えるとともに、部分も全体に対して影響
を与える双方向なもの」という意味です。これは、地球の上に誕
生した生物が、数十億年かけて地球そのものの環境を生物の生存
に適したものに変えていったという「地球生命圏ガイア」の理論
により理解することができます。
 これは、地球という生命圏(全体)と個々の生物(部分)が、
お互いに影響を与えながら変化し、進化していったことを意味し
ています。これを「共進化」というのです。
 「創発性」と「共進化」。難しいことばが続々と出てきました
が、このことを理解していないと、現在生じつつある新しい市場
「エレクトロニック・コマース」の本質を理解できないのです。
この市場は、従来の市場に比べて複雑系としての性質を色濃く有
しており、その市場で成立する経済法則や市場原理は、これまで
の経済学のテキストを塗り替えるものになることは、間違いない
からです。            −−[複雑系の話/02]
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2000年04月14日

●経済学で説明できない現実(EJ第360号)

 個々の消費者が、それぞれの欲望にしたがって、一定の規則の
下に自発的に行動するだけで市場は、秩序立った安定と均衡に達
するというのは、有名なアダムスミスの「見えざる神の手」とし
て論じた市場の原理です。
 田坂広志氏は、このアダムスミスの市場論は、ある意味におい
ては、部分である「消費者」と全体である「市場」の持つ「創発
性」を論じたものであると指摘しています。しかし、アダムスミ
スの市場論は、いずれ必ず「市場は均衡する」としているのに対
して、複雑系の立場は、現状はともかくとして、未来は必ずそう
なるとは限らないとしている点が違います。
 これと似ているのが「収穫逓減の法則」です。どのような経済
活動も努力を続けていくと、いずれ収穫は頭打ちになるというの
が収穫逓減の法則です。大学の経済学の授業ではそう教えられた
ものです。しかし、実際問題として生産量が上がっていくと、現
場での学習が進み、仕事が効率的になってくるので、収穫はさら
にアップし、収穫逓減とはならないのです。
 確かに農業や工業化の時代には、収穫逓減の法則は該当したで
しょうが、情報産業やサービス産業になると収穫は逓増するケー
スが多いのです。マイクロソフト社の急成長などは、収穫逓増そ
のものであり、古典的な収穫逓減の法則では、現実を説明できな
くなってきているのです。
 現在のキーボードの文字配列は、かつてのタイプライターの文
字配列と同じです。私も学生時代に英文タイプライターを使って
いましたが、早く打とうとするとキーのバーがからまって困った
ものです。そこで、タイプライターのメーカは必要以上に早く打
てないようキー配列を打ちにくく配列したのです。この打ちにく
くしたキー配列をわれわれはPCで使っているわけです。しかし
キーボードは一度使い慣れてしまうと、その配列がたとえ不便で
あっても、使い続けるものなのです。これを「実行による学習」
といっています。キーボードの配列はその後打ちやすい配列がい
ろいろ工夫されましたが、それらが採用されることはなく現在に
至っています。良いものが売れるとは限らないのです。
 埼玉大学の西山賢一教授は、一度ある道具を選んでしまうと、
次に道具を選ぶときも、最初に選んだものによって影響を受ける
といっておられます。これを「経路依存性」といいます。
 現在PCの世界は、ウインドウズとマッキントッシュの2派が
あり、ウインドウズがこの市場を制しています。しかし、最初に
購入した機種がマッキントッシュであればそれを使い続け、ウイ
ンドウズに切り換える人は少ないはずです。同様に、最初にウイ
ンドウズを使った人は、同様にその後もウインドウズを使い続け
るはずです。これは「経路依存性」があるからです。
 しかし、マイクロソフト社のOSが市場の大半を制し、デファ
クト・スタンダードになっている以上、この市場で勝負する限り
マイクロソフト社には勝てないことになります。これを「ロック
イン」と呼びます。市場にカギをかけるという意味ですね。
 ウインドウズとマッキントッシュの比率は、日本では8対2で
あり、最初に使うPCとしてウインドウズをOSに持つPCを選
ぶ人は多くなります。
 そして、ウインドウズを使い続けると、実行による学習が働き
次に購入する機種もウインドウズになるというように、ウインド
ウズにシフトしていくのです。したがって、この同じ市場で戦う
限り、マイクロソフト社の牙城を崩すのは困難です。
つまり、マイクロソフト社の立場からいえば、市場にロックイ
ンすることに成功し、収穫逓増を積み重ねているのです。こうい
う現象を従来の経済学では説明できなくなっているのです。
 競合企業にとっては、いわば手詰まりの状況になるわけですが
こういう状況を打破する戦略がないわけではないのです。このこ
とについて考えてみましょう。
 現在のPCは、OSという基本ソフトを使うことが前提となっ
ています。どのユーザもOSを通じてアプリケーションソフトを
使っているのです。これは一種の市場ルールといえます。そして
そのOSはマイクロソフト社製のウインドウズがデファクト・ス
タンダードになっているのです。
 この市場ルールで戦う限りマイクロソフト社に勝つことは困難
です。今さらウインドウズに代わるOSを出しても採択されない
でしょう。市場がロックインされているからです。しかし、同じ
市場ルールで戦えば負けますが、その市場ルールそのものを変え
てしまえば話は別です。これは「インターオペラビリティ」とい
う新しい戦略なのです。
 インターオペラビリティ戦略とは、異なる技術標準の間でも、
それらを相互に接続し、運用できる技術システムのことです。こ
の戦略の具体的な例がインターネットなのです。確かにインター
ネットであれば、いかなるOSが搭載されているコンピュータ同
士でも、相互に接続して使うことができます。ウインドウズ98
であろうが、マックOSであろうが、UNIXであろうが、OS
を問わずに利用できるのです。
 この新しい市場ルールで無敵のマイクロソフト社と対抗し、司
法闘争に持ち込み、マイクロソフト社を敗訴に追い込んだのは、
あのジム・クラークの率いるネットスケープ・コミュニケーショ
ンズ社なのです。
 現在の市場はきわめて複雑化しており、従来の経済学やマーケ
ティングでは説明しきれない現象が多くなっています。しかし、
複雑系というフィルターを通して考えていくと、いろいろなこと
が解けてくるものです。複雑系は一度はまってしまうと抜けられ
ないよとある人からいわれましたが、どうやらその通りになりそ
うな心境です。          −−[複雑系の話/03]
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2000年06月14日

●ビートルズはドラッグの伝導者?(EJ第400号)

 今日のテーマはビートルズです。これを皮切りに断続的ではあ
りますが、ロックの話をしようと思います。これは少しというか
かなり怖い話になると思います。
 さて、みなさんは、ロックの元祖的存在は誰だとお思いになり
ますか。実は、ロックの起源については諸説があり、はっきりし
ていないのです。
 ロック音楽が音楽市場で日の目を見たのは1950年代とされ
ており、この説が正しいとすると、その元祖は、エルヴィス・プ
レスリーということになります。そうです。あのロックン・ロー
ルがロックの元祖的存在なのです。
 プレスリーの名前を世界的に広めたのは、当時の米国の超人気
番組「エド・サリバン・ショー」への出演なのです。プレスリー
以前のロックは、ジャズ、黒人霊歌、カントリー・ウェスタン、
リズム・アンド・ブルースなど既成の音楽の混合物のようなもの
であり、典型的な演奏スタイルというものはなかったのです。
 エルヴィス・プレスリー、ビル・ヘイリーによって火のついた
ロックン・ロールは、その後、リトル・リチャード、ビル・ハー
レ、チャック・ベリーという強烈なロックン・ローラーを生むこ
とになります。
 そして、1963年になると、英国でビートルズが登場し、そ
の後すぐにローリング・ストーンが現れます。この両者は、ロッ
クの2大バンドとして君臨します。そして、やがてアニマルズが
頭角を現して三番手につけるのです。
 さて、本来「ロック」という言葉は、「ロックン・ロール」を
略した言葉なのですが、ビートルズにより代表されるロックとプ
レスリーによって代表されるロックン・ロールとは、次第に音楽
的に内容が変化して行ったのです。
 ごく大まかにいってしまうと、ロックン・ロールはビートルズ
が登場する1964年以前のものであり、ロックはビートルズ以
降のものを指すことになります。
 そして、ロックは、次のようなさまざまな音楽形式を持つ音楽
として確立していくことになるのです。
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  1.ハード・ロック  7.クラシカル・ハード・ロック
  2.ヘビーメタル   8.スラッシュ・メタル
  3.パンク・ロック  9.スピード・メタル
  4.デス・ロック  10.ブラック・メタル
  5.神秘ロック   11.グランジ・ロック
  6.デス・メタル
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 ロックの元祖ビートルズも、1964年2月にエド・サリバン
・ショーに出演したのですが、日曜夜のゴールデン・アワーの時
間帯で94%という驚異的な視聴率を獲得したのです。世界は、
これをキッカケにして、空前絶後のビートルズ・ブームに突入し
ていくのです。
 この時代の米国は社会的混迷期に当り、ケネディ大統領、キン
グ牧師の暗殺事件をはじめそれにベトナム戦争の泥沼化が加わり
従来の価値観を崩壊させる泥沼の時代になっていったのです。
 そして、ベトナム敗退、経済不況、失業者の増大と続くなかで
その時代を担っていたのは、ヒッピーを中心とした若者でしたが
彼らは、マリファナ、LSD、麻薬などと結びつき、サイケデリ
ック革命なども起こったのです。
 そういう若者のあいだに芽生えた感覚主義は、実存主義、コミ
ューン思想、社会主義、神秘主義などに受け継がれ、その中でと
くに神秘主義は根強く浸透していくことになります。心霊術、超
能力、超心理学、東洋神秘思想、宇宙との交信術、占星術、魔術
古代宗教など多岐にわたり、それがひとつの宗教のようなかたち
になっていったのです。ビートルズが登場したのは、そうした時
代の変動期のはじまりであり、“毒”を含んだ新しい時代の幕開
けだったのです。
 こうした時代を背景として、ロック・ミュージックは、自らの
アイデンティティを求めて強烈な自己主張を行い、それは精神の
広がりもたらすドラック(幻覚剤)と結びついていくのです。
 ロック・フェスティバルというと、一見宗教的なシンボルやコ
スチューム、荒々しく陶酔を誘う強いビートと旋律、ドラックの
使用、狂乱的なダンスがつきもの・・。これは、参加者にひとと
きの精神の解放、浄化作用をもたらす効果があったといえます。
 興味のある話があります。プロテスタントのある宣教師は、ク
リスチャンに改宗した原住民たちにロックを聞かせてみたところ
「これは悪霊を呼び出す音楽である」といったといいます。彼ら
は、以前、自分たちが暗闇の悪魔的霊界と接触するときに使った
サイキックな刺激と同じものをロック・ミュージックの中に感じ
取ったというのです。
 さて、1960年代後半のドラックといえばLSDです。これ
を世界中の若者たちに奨励し、それを浸透させる推進力になった
のはビートルズであるという説があります。
 「そんな、馬鹿な!」という人がいるかも知れませんが、ビー
トルズの曲の歌詞をていねいに読むと、それを否定できなくなり
ます。ほとんどの人は、歌詞なんて聞いていないし、注目してい
ないと思います。今日は、予告編になってしまいました。
              −− 「ビートルズの話題/01」

BEATLES.jpg
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2000年06月15日

●トゥモロー・ネバー・ノウズ(EJ第401号)

 ロックの話をはじめています。その1回目の、ビートルズはL
SDの奨励をしていると書きました。ビートルズはある意味では
ドラッグ文化の予言者であり、ドラッグ賛美のアーティストなの
です。それはビートルズの曲の歌詞に色濃くあらわれています。
例をあげてみましょう。
 ビートルズの「トゥモロー・ネバー・ノウズ」という曲を知っ
ていますか。
 この歌の前半には、次のような歌詞があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「肩の力を抜いて無心になり、気持ちを鎮めてごらん
 それは死ではない それは死ではない
 何も考えず 虚無に身をまかせてごらん それは輝いている
 内なるものも意味がおのずと見えてくるかも知れない
 それは確かな存在 確かな存在」
 (「ビートルズ全詩集」内田久美子訳)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この曲は、LSDの感覚的な世界を歌ったもので、巧妙に精神
世界を歌っているように作られていますが、実はドラッグを啓蒙
した曲なのです。
 この曲の歌詞は、ティモシー・リアリー著の『チベットの死者
の書』から取られています。この本は、LSDを服用することに
よって精神的に啓蒙されることを説いたハンドブックなのです。
 この本の著者であるティモシー・リアリーは、LSDなどのド
ラッグを精神拡張の物質として信奉しており、これによってバッ
ドトリップしないためには、ここを暗唱しなさいと説いている部
分が本の中にあるのですが、その部分が「トゥモロー・ネバー・
ノウズ」の歌詞として使われているのです。ですから、明らかに
この歌は、ドラッグを奨励している歌であるといってよいと思い
ます。
 この本には、なぜドラッグを使うのかが書かれています。それ
は、物質第一の世の中から超越した価値観を得ることであるとい
うのです。つまり、時間というものが機械的にどんどん経過して
いくという物理的な考え方から逃れ、西欧的なゲーム、すなわち
お金というものの不遜さからも逃れ、安定的な精神的領域を得た
いという価値観です。
 ジョン・レノンは、自らが追い求めていた超越の幸福感をこの
曲で音色に出すことに成功しています。そこにいたるまで、彼が
どれだけドラッグによってバッドトリップを経験したか、それは
誰にも分かりませんが、彼がドラッグの常習者であったことは、
明らかなのです。
 この歌は、音的な色とイメージをコラージュするために非常に
手のこんだことをしています。それは、テープを操作することで
ギター・ソロを逆回転させているのです。これは、時間の流れを
逆回転させて、ただよう流れの中にいる自分を表現しているのだ
そうです。そして、ジョンの歌い方は感情を排して、原始的なサ
ウンドを目指しています。
 それは、超越の境地に聴き手を導こうとしているように思われ
ます。ドラッグ体験者でないとわかりませんが、この超越の境地
は、ドラッグ服用初期の曖昧模糊とした恍惚感をあらわしている
と思われます。そして、もうひとつの現実として、ジョンは次の
ような世界を歌っているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「愛こそすべて、愛こそすべての人々
 それが目覚め、目覚め
 無知と憎しみが死者をいたむこともある
 それが信ずること、信じること
 でも、夢の色に耳をすましてごらん
 それは生きることじゃない、生きることじゃない
 それともゲームの本質を最後までとことんプレイしてごらん
 何かがはじまる最後まで
 はじまりの最後まで」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 とにかく一風変わった曲なのですが、一度聴いて見ていただき
たいと思います。現在、ビートルズの曲は、全曲CD化されてお
り、CDショップで求めることができます。
 さて、ビートルズはそうではありませんが、一般的にロックと
いうと、その衣装・風体は実に異常であり異様です。これは何に
通じるかというと、サタン、つまりサタニズムに通じるのです。
そして、このサタニズムとドラッグは、昔から密接に結びついて
いるのです。
 マヤ文明では、ペヨーテなどの幻覚剤を使って、生け贄を捧げ
る宗教的儀式を行っていたのです。また、古代の神官たちは、ド
クニンジン、ヒヨス、アヘン、ベラドンナなどの麻薬の恍惚感の
うちに霊との交信を行って“神託”を述べ、ときとして身体を傷
つけたりしています。
 ロックのコンサートは、この神官の儀式に非常に似ているとこ
ろがあるのです。ですから、これとドラッグが結びつき、そこに
悪霊が入り込んできても少しも不思議はないのです。
 聖書には「魔術」ということばがよく出てきます。これは、原
典のギリシャ語では「フェルマキア」。英語の「ファーマシイ」
「薬局」の語源はこれなのです。つまり「魔術」とはドラッグを
意味し、魔術とドラッグは同意語であり、つねに表裏一体の関係
にあるのです。ですから、ロックがドラッグと結びつき、それが
サタニズムと関連を深めても何ら不思議はないのです。
 今朝は「トゥモロー・ネバー・ノウズ」の解説みたいになって
しまいましたが、これなどは序の口に過ぎません。ビートルズの
名曲といわれるポール・マッカートニの「ヘイ、ジュード」も、
ドラッグに関係があるといわれているのです。これは、ポールと
ジョンの2人で歌われています。明日は、「ヘイ、ジュード」を
取り上げることにします。  −− [ビートルズの話題/02]

iDk.jpg
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2000年06月16日

●『ヘイ、ジュード』の謎を解く(EJ第402号)

 昔の話ですが、私のチームにジャニスというハワイ大学出身の
女性スタッフがおりました。日系の米国人ですが、カラオケに行
くと必ず歌ったのが「ヘイ、ジュード」だったのです。私は、そ
れまでビートルズにはあまり関心がなかったのですが、そのジャ
ニスの「ヘイ、ジュード」がキッカケになり、ビートルズを聴く
ようになりました。
 ちなみに、このジャニスは中高年のオジサンに人気があって、
彼女がハワイに帰るさいオジサン主催の送別会を開いたことを今
でも懐かしく思い出します。
 さて、改めていうまでもなく、「ヘイ、ジュード」はポール・
マッカートニーの作品であり、1966年のシングル・レコード
のナンバー・ワンとなった大ヒット曲です。
 この曲にはいくつかの謎があります。昨日お話しした「トゥモ
ロー・ネヴァー・ノウズ」はドラッグを賞賛していることは確か
なのですが、「ヘイ、ジュード」については、どちらともいえな
いとする評論家が多いようです。
 まず、「ジュード」とは何でしょうか。
 「ジュード」とは英語読みですが、ラテン語に直すと「ユダ」
になります。ウィルソン・ブライアン・キイ教授の著書『メディ
ア・レイプ』によると、この歌の「ジュード」は、間違いなくキ
リストを裏切った、あのユダであるといっています。この件につ
いては、同教授の専門である「サブリミナル理論」とともに号を
改めて取り上げる予定です。
 つまり、ここでいう「ジュード」とは、中毒になるまでは友達
のフリをし、中毒者になってから初めて裏切られたことがわかる
ヘロイン(ドラッグ)を象徴していると主張する研究家がいるの
です。何はともあれ、歌詞を見ていきましょう。
 この歌の前半の歌詞は次のようになっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「ジュード!そんなにくよくよするなよ
 悲しい歌でも気分ひとつで明るくもなるさ
 あの娘をきみの心の中に受け入れるんだ
 そうすれば、また楽しい日々がやってくる

 ジュード!尻ごみしていちゃダメさ
 あの娘を手に入れられるのはきみだけだぜ
 あの娘をその腕で抱きしめるだけでいい
 その瞬間から、きみの世界は明るくなる」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これだけを見ると、何かで落ち込んでいる男を親友が励まして
いる歌にとれます。ビートルズの評論家によると、この曲はジョ
ン・レノンが前妻シンシアと離婚が決まった頃の作品であり、時
期的にポールがジョンを励ますための歌ととることができます。
 そうすると、ジュードはジョンのことであり、歌の中で歌われ
ている「娘」とは、オノ・ヨーコのことになります。しかし、そ
うとらないで、ここでいう「娘」はヘロインのことであると主張
する研究家がいるのです。確かに、そのことを頭において歌詞を
読んで見ると、そのようにも取れるのです。
 歌詞の「あの娘をその腕で抱きしめるだけでいい」という部分
は、次の英語になっていますが、何となく注射器を肌に刺すとい
うという雰囲気があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  The minute you let her under your skin.
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 とくにこの歌の後半部分には、意味のとりにくい次のフレーズ
が出てくるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  A.So let out and let it in.
  B.You are waiting for someone to perform with.
  C.The movement you need is on your shoulder.
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 Aについては、「それを外に出して、それを中に入れる」とい
う意味もドラッグを連想させるといえるし、Bは「君は相手役を
探しているのさ」と訳してありますが、「パフォーム」は麻薬の
「トリップ」と同意義という説もあります。そうすると、「一緒
にパフォームしてくれる人を待っている」というぜんぜん違う意
味になってしまいます。
 何よりも意味不明なのはCです。訳では、「君に必要な行動は
きみの肩にかかっている」となっているのですが、かなり苦しい
訳であるといってよいと思います。
 実は、このCのフレーズについては、ポールの著書に次の記述
があるので、ご紹介しましょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『ジョンとヨーコに(「ヘイ、ジュード」を)聞かせたのを覚
 えている。で、ぼくは「この歌詞はいずれちゃんとするつもり
 だけどね」っていったんだ。「The movement you need is on
 your shoulder.」(「君に必要な行動はきみの肩にかかってい
 る」)というところがあって、ジョンは「そこ最高だよ!」っ
 ていうんだ。で、ぼくは「おかしいよ、ぜんぜん意味が通じな
 いもの」っていったんだ。そしたら彼は「そんなことない。通
 じるよ。最高だ」ってね』。(ポール・マッカートニー著『ポ
 ール・マッカートニー/ヒズ・オウン・ワーズ』P23)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ポール本人が書いているのですから、これが本当だとは思いま
すが、これは「注射を刺す場所(肩)」のことをいっているとい
う説があるのです。いまこのようにいうと、いかにも異様ですが
ビートルズにまつわるいろいろな話を総合すると、いちがいに否
定できなくなってしまうのです。
 EJの読者の中には、語学の達人が多くおられるのですが、ど
のように訳されますか。   −− [ビートルズの話題/03]

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2000年06月19日

●ロック音楽は何を狙っているか(EJ第403号)

 私は、CDショップにはかなり足しげく行く方です。そのたび
に感ずることは、ロック音楽のCDの多さです。とくにHMVに
行くとそれを感じます。何しろ全体のスペースの3分の2はロッ
ク音楽のCDで占められているからです。まるで、音楽がロック
に占領されてしまうような感じさえします。
 さて、前回は、ビートルズの「ヘイ、ジュード」とLSDの関
わりについて述べましたが、ビートルズには、もうひとつLSD
とはっきりと関わっている曲があります。それは、「ルーシー・
イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイヤモンド」という曲です。
 この曲は、LSDを服用して、幻覚のうちにジョンが作曲した
ものとされています。「イエロー・サブマリン」が大人も歌える
子供の歌であるのに対し、この歌は子供のことを歌った大人の歌
であるといえます。とにかくこの歌は、題名それ自体の中にLS
Dという文字が隠されているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
・ ・ ・
  LUCY IN THE SKY WITH DIAMOND
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ビートルズでは、全員がドラッグを使っていたそうですが、と
くにジョン・レノンが多く使っており、生き延びるために不可欠
だったとの証言もあります。このように、1960年代後半、ド
ラッグはビートルズが先導役となって、ロックの世界に浸透し、
ヒッピー運動とともに若者の間に広がっていったのです。
 ここで、EJがいまなぜロックの話を取り上げているのかにつ
いて少しお話ししておく必要があると思います。途中から、EJ
をお読みになっている方には何のことやら、さっぱり分からない
と思うからです。
 EJでは、今年の2月頃に、あのノストラダムスの預言のフォ
ローをやったことがあります。恐怖の大王が降ってくるはずの、
1999年7月が何事もなく過ぎて、現在では、あの預言は結局
的中しなかったとされているのですが、実はそうではなく、別の
意味で的中していて、世の中は文字通りの破局に向かって目下進
行中であるということを明らかにしました。実は、その進行中の
重要な仕掛けの中にロック音楽が組み込まれているのです。いず
れも、若者を対象としたもので、ひとつはゲームマシン、そして
もうひとつがロック音楽というわけです。
 事実について述べましょう。ノストラダムスのいう1999年
7月のことですが、7月23日から3日間にわたって、ニューヨ
ーク郊外のウッドストックで、ロック・フェスティバルが行われ
ているのです。このウッドストックは、あのロックフェラーの所
有地であるとのことです。
 大会のタイトルは、「ウッドストック99/ワン・ワールド」
というのです。注目すべきは、この「ONE WORLD」 ということば
です。これは「世界政府」という意味であり、場所がフリーメイ
ソンにゆかりのロックフェラーの所有地であるところから、この
「ONE WORLD」は、 フリーメイソンの目標である「世界政府の設
立」という意味にとれるのです。
 ウッドストック・フェスティバルといえば、30年前にも同じ
場所で行われているのです。これは、ロック史上に燦然と輝くコ
ンサートとなり、自由と解放という名のもとに、ロック界にサタ
ニズム(悪魔主義)が定着したイベントになったといわれている
のです。この大会では、ドラッグがハード・ロックのリズムの中
で謳歌され、3日3晩、40万人の人々がこの饗宴に参加したと
いわれています。
 この7月23日から3日間行われた「ウッドストック99/ワ
ン・ワールド」を皮切りに、この種のロック・フェスティバルは
世界中で行われることになっており、もちろん日本でもそれは行
われています。1999年8月7日〜8日の2日間、富士急ハイ
ランドで開催された「フジ・ロック・フェスティバル99」がそ
れです。このときは、米国からゲストとして、マリリン・マンソ
ンが出演しているのです。このマリリン・マンソンについても号
を改めて取り上げる必要があります。
 こういうロック・フェスティバルでは、何が行われているので
しょうか。それは、とても音楽のコンサートとは思えないほど異
常なものです。
 ロックは、心臓の鼓動の持つ自然なリズムと全く逆のリズムを
とるため、聴く者の内蔵を打ち、繰り返しの反復によって脳にそ
れが叩き込まれるのです。
 人間が苦痛を感ずる音量は約100デジベルからであるといわ
れます。ロックコンサートにおけるエレキギターの音は約190
デジベルもあるので、苦痛に感ずるほどうるさい音なのです。
 絶えず激しく律動するビートは、高いボリュームで長時間続け
られると、いつしか催眠術的な効果が生じてきます。どうしてか
というと、神経組織が高音で繰り返し襲われるので、通常の聴覚
がマヒしてしまうからです。そうすると、超越瞑想のようになっ
て、音楽が醸し出すイメージと歌詞のメッセージに対する深い被
暗示性が生まれてくるのです。
 こういう状態になると、音楽という催眠術がかかりやすくなる
ので、それによって人を操ることは簡単にできます。ビートはた
だの騒音ではなく、精神を虜にするリズムとなり、観客は心身と
もに魅了し、ロボットになるまでそのリズムで操作することがで
きるのです。
 この状態になると、人々は音楽の持つメッセージとイメージを
まともに受け入れてしまいます。その場に、目もくらむようなレ
ーザー光線やスクリーンに映し出されるデモーニッシュな映像が
あれば、乾いた土が水をまたたく間に吸収するように心の中にし
み込んでしまうのです。
 ここにサタニズムが入り込んでくるのです。ロック・ミュージ
シャンのあの異様な服装や行動は、こういうことと無関係ではあ
りません。ロック・グループの中には、公然とサタン礼拝を打ち
出しているものもあるのです。
              −−[ビートルズの話題/04]

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2000年06月26日

●再びヘイ・ジュードについて(EJ第408号)

 EJ402号(6月16日)について何本かご意見が寄せられ
ています。402号では、ビートルズの「ヘイ・ジュード」につ
いてお話ししたのですが、さすがビートルズについてはファンが
多く、EJ402号で示した解釈について異論が出たのです。
 ご指摘の内容は、そもそも「ヘイ・ジュード」という曲は、ジ
ョン・レノンと彼の前妻であるシンシアとの間に生まれたジュリ
アン・レノンを励ますためにポール・マッカートニーが作った曲
ではないかというものです。「ジュード」という名前は、ジュリ
アンのことであるというのです。
 ティム・ライリー著/岡山徹訳『ビートルズ全曲解説』による
と、次のように書いてあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『もともとこの曲は、ジョンとシンシアの間に生まれたジュリ
アン・レノンをある日、ポールが車で家に送るときに、彼をは
げますために即興でつくった歌だった。ジョン夫妻は離婚が決
 まり、急に宙ぶらりんになった子供にたいして、ポールの思い
 やりは向けられている。歌詞が完成しないままで、彼はこの歌
 をもち込んでジョンに聞かせている』。(ティム・ライリー著
 /岡山徹訳『ビートルズ全曲解説』P282)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この本の著者であるティム・ライリーは、1960年に生まれ
たピアニストであり作曲家ですが、現在はボストンのFM局WB
URで音楽の解説者として活躍中です。
 とくに、その著書『ビートルズ全曲解説』は419ページに及
ぶ大著であり、ひとつずつの曲の解説は実に懇切であり、その曲
が誕生するいきさつについても詳細です。とくに「ヘイ・ジュー
ド」については、5ページ半を割いて詳しく解説しています。
 ですから、「ヘイ・ジュード」の生まれたいきさつも本当のこ
とだと思います。しかし、歌詞の内容は子供のジュリアンを励ま
す内容とは考えられないのです。
 しかし、ビートルズ評論家の説とはぜんぜん別の角度からこの
曲を取り上げているのは、ウィルソン・ブライアン・キイという
教授なのです。キイ教授は、サブリミナル(潜在意識)研究の第
一人者であり、次の2つの本で独特のサブリミナルの研究成果を
発表しているのです。題名が強烈なのでご存知の方もおられるの
ではないかと思います。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  『メディア・セックス』
   ・W・B・キイ著、植島啓司訳 リブロボート刊
  『メディア・レイプ』
   ・W・B・キイ著、鈴木晶・入江良平訳 リブロボート刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 キイ教授は、『メディア・セックス』において、「サブリミナ
ル・ロック」という章を設けて、ポピュラー音楽に仕掛けられて
いるサブリミナル・テクニックについて解説しています。サブリ
ミナル・メッセージは、比較的に単純な歌詞や音楽上のイリュー
ジョンの中に隠されているとしています。
 キイ教授は、ビートルズについては、本来の歌詞の裏に別の意
味が隠されているとして、次のように述べているのです。EJ4
02号で私が述べた説は、このキイ教授の説なのです。質問もあ
りましたので、少し長くなりますが、本から引用します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『「レボルーション」は政治を題材により、ジョン・レノンに
 よって歌われた。――彼はビートルズの中で象徴的な父親の役
 割を演じていた。そして、母親役がポール・マッカートニーで
 「ヘイ・ジュード」を歌い、苦悩からの逃避をドラッグという
 形で示し、スピリチュアルな支えとなった。
 「ジュード」の2つの意味が、やはり象徴的に隠されている。
 つまり、ジュードは、見せかけの友情のもとで、キリストを裏
 切ったユダを指示しているのだ。たしかにヘロインは、後に使
 用者を裏切って中毒にさせるまでは友達と思えるものである。
 第二の可能性は、道徳的に乱れた社会で偽善的に生きるキリス
 ト教徒たちに警告を発した使徒ジュードである。マッカートニ
 ーの心を惹く声は「彼女をきみの心の中に入れなさい」と歌う
 が「彼女」とはドラッグを意味し、「心」とはドラッグを血液
 中に循環させるポンプを指している――そうすれば、「きみは
 もっとうまくやれるだろう」』。(『メディア・セックス』W
 ・B・キイ著、植島啓司訳 P198、リブロボート刊)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この歌をポールがジョンに聞かせたとき、ジョンは「あ、これ
はぼくのことだろ」といったという記録があります。ポールはそ
れに対して「いやあ、ぼく自身のことだよ」といったそうです。
しかし、歌詞から判断すればこれはジョンを指していると考えら
れます。
 ジョンがヨーコにのめり込み、シンシアと離婚した時期に、ち
ょうどポールも長年付き合っていた恋人で女優のジェーン・アッ
シャーと別れているのです。したがって、ポールは「ぼくのこと
さ」と反論するのもわかるのですが・・・。
 さて、「ジュード」は英語読みですが、これをラテン語読みに
すると「ユダ」になることは事実です。しかし、いくらなんでも
これはキイ教授の深読み過ぎでしょう。キイ教授のいいたいこと
は、ビートルズは、世界中のティーンエイジャーたちの間に幻覚
を引き起こすドラッグを広めたということです。つまり、ドラッ
グの使用をポピュラーソングを通じて大衆に訴えるというという
ことをやったのは、ビートルズをもってはじめとするとキイ教授
はいうのです。
 ついでながら、キイ教授は、ポール・サイモンとアート・ガー
ファンクルの名作「明日にかける橋」についても、そういうサブ
リミナル・テクニックが使われているといっていますが、これに
ついては、号を改めて取り上げることにします。
             −− [続ビートルズの話題/01]

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2000年06月27日

●バックワード・マスキングとは何か(EJ第409号)

 アイレスター・クロウリーという人をご存知でしょうか。クロ
ウリーは、19世紀末から今世紀にかけて活躍した高名な黒魔術
師です。彼は、魔術的秘密結社「黄金の夜明け」団の後継者に選
出されたのですが、そこから離反し、独自に「銀の星」という結
社を作って、ありとあらゆる邪悪な黒ミサや黒魔術を行ったとさ
れています。
 作家のサマセット・モームは、クロウリーをモデルにした小説
『魔術師』の中で彼のことを次のように記述しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『ウソつきで、みっともないほど大言壮語する男だったが、奇
妙なのは、そのように豪語していたことを本当にやってのける
こともあった、という点である』。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 クロウリーは、多くの魔術書を書き残しており、現在の黒魔術
に大きな影響を与えています。これらの魔術書の中に「バックワ
ード」(ことばの逆回し)ということが書いてあるのです。
 クロウリーは、ひとびとに逆法則の実践を勧めたのです。反対
に歩き、話し、考え、読むことを教育と称して盛んにやらせたの
です。そして、未来を見るためには、レコードを逆回転させて聞
くよう勧めています。なぜ、そんな馬鹿なことをするのかといわ
ずにしばらく読んでいただきたいのです。クロウリーは魔術書に
次のように書いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ・もし悪魔の力を欲しければバックワードを聞け!
  ・その者にバックワードの書き方を学ばせよ!
  ・フォノグラフ、レコードを逆回転で聞かせよ!
  ・その者に逆さまに話すことを実践させよ!
  ・その者に逆さまに読むことを実践させよ!
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 実はロック・ミュージシャンたちは、このクロウリーの魔術書
の影響を受けて実践している者が多いのです。マイケル・ジャク
ソンなどもそれに影響されて、舞台上で若者に後歩きして歩くよ
う勧めています。中でもそれを最も熱心にやっていたのが、あの
ビートルズなのです。
 そんな馬鹿なというなかれ、「サージェント・ペパーズ・ロン
リー・ハーツ・クラブ・バンド」のアルバムのジャケットの裏表
紙にはわざわざクロウリーの顔を出しているほどなのです。この
アルバムには多くの人が写っているのですが、左上から2番目に
クロウリーの顔が出ています。ビートルズの中でも、とくにジョ
ン・レノンはクロウリーの魔術とオカルトに魅かれ、本棚にはそ
の著書をずらりと並べていたほどであるといいます。
 さて、バックワードの話に戻りましょう。これは正確にいうと
バックワード・マスキングというのです。これをサブリミナル・
テクニックとして、ビートルズはレコードの宣伝・広告に活用し
ています。それが、当時全世界のビートルズ・ファンに衝撃を与
えたポール・マッカートニー死亡説なのです。
 「ポールが死んだらしい」という噂が全世界に広まったことが
あります。確かに、当時ポールは人前に姿を現していなかったの
で、新聞もポールの生死を問う見出しを掲げたものです。
 「マジカル・ミステリー・ツァー」というEPに収録されてい
る「ストロベリー・フィールズ・フォー・エバー」という曲の最
後の部分に聞き取りにくい部分があります。何といっているか分
からないのですが、注意深く再生して見ると「俺はポールを埋葬
した」とつぶやいているのです。
 1969年に出た「アビー・ロード」とLPのジャケットは少
し変わっています。そこには、イギリスのアビー・ロードの横断
歩道を歩いているビートルズの4人の写真が写っているのですが
なぜか、ポール・マッカートニーだけが裸足なのです。
 バックの風景の左側にフォルクスワーゲンが写っています。そ
のナンバープレートをよく見ると、「28IF」とあります。ナ
ンバープレートまでは読み取れないと思いますが、添付ファイル
にジャケットの写真をつけておきます。
 このナンバープレート「28IF」は、「もし、ポールが生き
ていれば28歳だった」という意味なのです。さらに、この「ア
ビーロード」の曲の中には、意味不明の音が入っているのですが
この部分を逆回ししてみると、次のような地の底から響いてくる
ような弱々しい声が聞こえてくるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「Let me out、Let me out、Let me out…」
 「出してくれ!出してくれ!出してくれ!」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
と墓の底から叫んでいるような声が聞こえるのです。
 また、「ホワイト・アルバム」のアルバムに入っている「レボ
リューションNo.9」では、 えんえんと「ナンバーナイン、ナン
バーナイン・・・・」という気味のわるい声で繰り返している部
分があります。実は、ここにバックワード・マスキングが使われ
ているのです。
 この部分を逆回転して聞いてみると、地の底から噴き出すよう
な声で次のようにいっているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 Turn me on,dead man,turn me on,dead man…
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは「死人を生き返らせてくれ!」といっているのです。ま
た、同じ「ホワイト・アルバム」の中の「アイム・ソー・タイア
ード」の中にも同じような部分があるのですが、省略します。
 これは、噂が噂を呼んで、大変な話題となり、ビートルズのア
ルバムはめちゃくちゃに売れたのです。問題は、これがアルバム
を売るためのテクニックではなく、自分たちが予言者であること
を誇示していることです。実際に、ビートルズは当時のサタニス
トやオカルティストに一目置かれていたことは事実なのです。
             −− [続ビートルズの話題/02]

ABBEY ROAD.jpg
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2000年06月28日

●ロックに潜むサブリミナル(EJ第410号)

 このところ「サブリミナル」の話をしていますが、そもそもサ
ブリミナルとは、意識と潜在意識の境界線の領域を意味するので
す。たとえば、夜寝るとき私たちはいつ眠ったか覚えていません
ね。そのあいまいな境界線を「識閾(しきいき)」と呼び、サブ
リミナルとは、その「識閾下」のことをいうのです。
 サブリミナルというと必ず出てくる有名な話があります。米国
のニュージャージー州の映画館の話です。その映画館ではそのと
き「ピクニック」という映画を上映していました。あのウイリア
ム・ホールデンが主演をした名画です。
 映画は1秒間に24コマ動くのですが、5秒ごとに「ポップコ
ーンを食べよう」と「コカコーラを飲もう」という文字のスライ
ドをはさんでこの映画を見せたのです。もちろんこれらの文字の
スライドは人間の目には見えず、ただ「ピクニック」のシーンが展
開されていくだけなのですが、無意識下ではそのスライドを読み
取っているのです。
 この映画は6週間上映され、45000人の観客が見たのだそ
うですが、その間ポップコーンが58%、コカコーラが18%の
売上増になったというのです。映画の間中無意識下に「ポップコ
ーンを食べよう」と「コカコーラを飲もう」と働きかけられた結
果、本当にポップコーンを食べ、コカコーラを飲みたくなった人
が大勢いるということになります。
 これは視覚によるサブリミナル効果ですが、いまEJで問題に
しているのは、聴覚によるサブリミナルです。聴覚のサブリミナ
ル技術のことを「サイコ・アコースティック」といいます。
 ホラー映画というのはかなりどぎつい細工をしているといわれ
ます。映画「エクソシスト」では、殺される豚の叫び声を音楽に
挿入し、そのサブリミナル技術によって人々を恐怖に陥れている
といわれます。ホラー映画を音声を消して映像だけで見てごらん
なさい。ぜんぜん怖くないのです。音がいかに人々を恐怖に陥れ
るかの証明といえます。
 このサイコ・アコースティックは生理反応にも敏感です。ある
科学実験では、「気をつけろ!大変だ!」というパニックした声
を1万4000キロヘルツに変調して人間に聞かせたのです。1
万4000キロヘルツといえば、聞こえる音は「キーン」という
響きだけで内容は聞き取れないのです。
 ところが、この音を人間に聞かせると、人が驚いたときに反応
するGSR(皮膚電流)の数値が高くなるのです。聞こえるのは
「キーン」という音だけですが、識閾下ではその意味をちゃんと
読み取っているのです。
 これを発展させたものが「サブリミナル・マスキング」です。
これは、ある音を他の音の音量や周波数を調節することによって
覆い隠してしまうことをいいます。あるデパートでこれを使って
万引きを防止することを目的とした実験をやりました。
 まず、「私は正直です。不正なことはしません」とか「盗みは
不正な行為です。私は絶対にいたしません」といったメッセージ
を録音します。これを音量や周波数を調節してBGMの中にマス
キングします。つまり、ちょっと聞いた感じでは普通のBGMな
のですが、サブリミナルに働きかけるメッセージが巧みにマスキ
ングされているのです。
 これを9ヶ月間にわたって実験した米国東海岸のデパート6店
舗では、万引きと窃盗が37.5%減少し、約1億円以上の損失
を防ぐことができたというのです。これは、サブリミナル・マス
キングがよい方に使われた例です。
 ロック音楽には、サブリミナル・マスキングがよくない目的で
使われているといわれているのです。ロック音楽の音が異常に高
いのは、このサブリミナル・マスキングをやっているせいである
という説もあります。昨日のEJでお話したバックワードという
のは、高度なサブリミナル・マスキングなのです。
 「ドッグ・イズ・ナタス」という歌詞があったとします。何の
意味かわかりませんが、これが何回も繰り返されるとします。そ
うすると、意味不明のままその歌詞を覚えてしまうことになりま
す。これを英語で書いてみましょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     DOG IS NATAS.  →  SATAN IS GOD.
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「ドッグ・イズ・ナタス」は、逆回転すると「サタンは神であ
る」という意味になります。これがバックワード・マスキングで
す。これが一般に知られるようになったのは、1982年のこと
です。CBSニュースでキャスターのダン・ラザーが「ロック・
スターたちは、レコードや歌の中に、逆さに潜在的にサタンの情
報を伝えることによって、彼らのメッセージを広め、サタンを崇
拝している」として、テレビでそれを実験して見せてからです。
 実は、そのときダン・ラザーは、例の DOG IS NATAS. を紹介
したのです。これは、ジム・ダンデイ・マングルムが「電灯がア
ルカンサスにやってきたとき」という曲の中で、しゃっくりのよ
うな声を立てて「ナタス、ナタス」と歌うのです。そして「ヘカ
テ」と呼びかけます。このヘカテは、地上と冥府を支配する女神
サタンのことです。これらのワードを逆回転すると「サタン、サ
タンよ、彼は神である」となるのです。
 それでは、サタニストはなぜバックワードという手法を使うの
でしょうか。それは、彼らは昔から神を冒とくする方法として、
逆十字架、逆キリスト像など、すべてを逆さまにする方法をとっ
てきたからです。冒とくと同時に反対にして地に向けることで、
「地獄を向く」とか「動物の本能に近づく」という意味を持たせ
神聖なるものを逆方向に置き換えるのです。そうして、キリスト
教の常識を覆そうとするのです。
 ロック音楽によって若者たちのマインドを麻痺させ、本人の知
らない間に巧妙に悪魔崇拝にもっていき、気がついたときは魂を
抜き取られ悪魔の奴隷になっている。これは、もしかしたら、現
在多発している17歳の犯罪と関係があるかも知れません。彼ら
は悪魔に魂を抜き取られているとしか思えないからです。
            −− [続ビートルズの話題/03]
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2000年06月29日

●ハードロックとヘビー・メタル(EJ第411号)

 今朝は次の展開のために、ロックの知識を少し覚えていただき
たいと思います。年配の人には「関係ない」といわれてしまうか
も知れませんが、知っておいて損はないと思います。
 最初に覚えていただきたいのが「リフ」ということばです。例
えば、ロック好きの若者は次のように「リフ」ということばを使
います。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  『リフがダセえと曲がパアなんだよな』
  『リフ自体はわるくないけど、サウンドがねぇ』
  『〜のリフは最高にイカしてるよな。イントロが流れると
  ブルっちまうぜ』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「リフ」というのは、イントロやエンディングなどに繰り返し
あらわれる印象的なフレーズ・パータンのことです。要するに、
クラシックやジャズのテーマに該当するものがシンプルなロック
の場合、リフと考えてよいでしょう。
 ロック・バンドにとって、このリフは重要であり、リフづくり
のうまいバンドは人気が高く、カッコイイのです。キンクス、ス
トーンズ、ツェッペリン、パープル――これらのグループはリフ
づくりが巧みであり、歴史に残る名リフも数多く生み出している
のです。リフのポイントは「シンプルなカッコよさ」なのです。
 1960年代後半に英国を中心にあらわれた特徴のあるサウン
ドを持つロック・グループがあります。クリーム、ディープ・パ
ープル、レッド・ツェッペリン、ブラック・サパス、ユーライア
・ヒープなどがそうです。
 これらのグループは、ヘヴィなリフの反復と、曲の中間に登場
する、やや長めのギター・ソロを特徴とする形式を持っているの
ですが、これらのグループが演奏するロックのことを「ハード・
ロック」というのです。実は、サタンとの関わりが深いのは、こ
のハード・ロックのグループになのです。
 1969年2月にレッド・ツェッペリンというグループが衝撃
的にデビューします。このグループはハード・ロックですが、そ
の作品の中に「天国への階段」というロック史上不朽の名作とい
われる曲があるのです。
 この曲は実はいわくのある曲で、その中には邪悪なメッセージ
が隠されていますし、バックワード・マスキングも施されている
のです。これについてはいずれ詳しく述べます。
 このレッド・ツェッペリンがデビューした同じ年の8月に、ニ
ューヨーク郊外のウッドストックで、40万人が集まって3日間
にわたり、ロック・フェスティバルが行われたことは前にも述べ
ましたね。この頃からロック・グループはサタンとの関わりを深
めていくことになります。
 1970年2月13日の金曜日に、同じくハード・ロックのブ
ラック・サパスというグループがデビューし、アルバム「黒い安
息日」を発表して、魔術を曲の中に打ち出してきたのです。これ
と同時期に、ブラック・ウイドウズというグループが「サクリフ
ァイス」(生贄)というアルバムを発表したのですが、この頃に
はドラッグと黒魔術は強く合体し、ハード・ロックの世界に定着
していったのです。このブラック・サパスとブラック・ウイドウ
ズはともに黒魔術を曲の中に取り入れたのですが、前者は精神的
なものとして取り入れたのに対し、後者はイメージカラー的な演
出面で黒魔術を活用したのです。
 このようにして、ハードロックの世界に悪魔主義は完全に入り
込み、その精神を受け継ぐディープ・パープル、イーグルス、ジ
ューダス・プリースト、シン・リジィ、スコーピオンズといった
グループが次々と誕生してきたのです。
 この1970年代を過ぎて1980年代に入ると、ハード・ロ
ックは、ヘビー・メタルに移行していきます。しかし、その間の
一時期に「パンク・ロック」というのが流行します。
 パンク・ロックというのは、体制に反発する音楽イデオロギー
のことをいうのですが、伝統の崩壊、秩序の破壊、既成社会への
反抗の叫びをヒステリックに主張し、日常の欲求不満をすべて音
楽にぶつけたものをいうのです。
 セックス・ピストルズ、クラッシュ、ダムド、チェルシーなど
は、パンク・ロックグループですが、彼らはきわめて異常な風体
をしていたのです。世紀末風のファッション、鋲つきの皮ジャン
にチェーン、髪は逆立てて極彩色に染め、死人のような青ざめた
マスカラの隈どりといえば、ピンとくると思います。
 しかし、彼らに決定的に欠けていたのは演奏力であり、長時間
のコンサートには耐えられなかったのです。時代の異端児として
は注目されたものの、演奏レベルの低さに人気は長続きせず、当
然の帰結として、出現の瞬発力と同じスピードで姿を消してしま
うのです。しかし、あの奇妙な風体だけは、若干姿を変えて次の
ヘビー・メタルに受け継がれることになります。
 さて、ヘビー・メタルとは何でしょうか。
 ヘビー・メタルとは、そのサウンドを表現するものです。どう
いうことかというと、ギター・コードの激しく鳴り響く音がデト
ロイトの自動車工場で、鋼鉄から車の部品をプレスする流れ作業
場の、耳をつんざくような騒音と似ているところから、そう命名
されたのです。
 その特徴はといえば、研ぎすまされた粗野でストレートな表現
力、他の追随を許さぬスピード感にあるといえます。そして、当
然のことながら、より悪魔主義と一体になっていきます。
 アイアン・メディアン(鉄の少女)というグループは、悪魔の
数字といわれる666を前面に打ち出した曲「獣を野に放て、6
66、ナンバー・オブ・ビースト」という曲を演奏し、悪魔主義
運動を起こし、ヘビー・メタルの先頭に立ちます。
 そして、ヴェノム、サタン、デーモン、ウィッチファンド、エ
ンジェルウィツチなどのバンドが誕生するのです。まるで、地下
教団的な秘密組織みたいですね。こういうヘビー・メタルのファ
ンの56%は17歳以下の青少年なのです。
            −− [続ビートルズの話題/04]

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2001年04月17日

夢を実現させるDVDオーディオサウンド(EJ598号)

 今朝は、テーマとしてDVDオーディオを取り上げます。とこ
ろで、DVDオーディオって何だかご存知でしょうか。
 DVD−ROMはかなりポピュラーになりましたが、最近は、
DVDビデオ、DVD−RAMというのも出てきています。それ
に加えて、DVDオーディオ(DVD−A)です。ぼんやりして
いると何もわからなくなってしまいます。
 私は、昭和34年頃からLPの収集をはじめました。当時まだ
ステレオが出ておらずすべてモノラル。それでもLPの価格は1
枚約2800円もしたのです。そのときの私の月給は約1万円。
購入するのはまさに“命がけ”だったのです。
 そのLPがCDに移行して相当な期間が経過していますが、次
の本命としてDVD−Aが登場してきたのです。もっともDVD
−Aが発表されたのは、1999年のことであり、ユーザはさん
ざん待たされたことになります。
 何しろCDを制作するマスターテープのクォリティをほとんど
そのまま再現できるという規格ですから、演奏家や製作者の権利
をどう守るかについて相当論議があったものと思われます。
 ところで、CDにもいくつか発展の歴史があるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.MPEG−1圧縮ビデオCD
  2.CD−I(インタラクティブ)
  3.CD−G(グラフィクス)
  4.SACD
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「MPEG−1圧縮ビデオCD」というのは、映像付きカラオ
ケ用のCDです。「CD−I」は対話型のCD、「CD−G」は
静止画像のCDです。いずれも音質はいまひとつです。
 「SACD」は一口にいうと、現行のCDと互換性を持つ層を
保ちながら、別の層で記憶容量、再生周波数を向上した次世代デ
ジタル・オーディオ・フォーマットの規格です。輸入版のCDの
中には、1枚のディスクで普通のCDとSACDを2層にしたも
のがあります。もちろん音はSACDの方が圧倒的に良いのです
が、プレーヤは別に用意する必要があります。
 さて、DVD−AはCDとどう違うのでしょうか。
 まず、容量の圧倒的な違いがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    CD ・・・・・ 650MB
    DVD−A ・・ 4.7GB
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 メガ(M)は100万、ギガ(G)は10億の単位です。しか
もこれを二層化することができるので、その場合は8.5GBに
なるのです。問題は、DVD−Aが、この圧倒的な容量をどのよ
うに使うかによって、次の3つの活用の方向があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.2チャンネル・ステレオとしての高音質化の実現
  2.マルチ・6チャンネルでのサラウンド再生の実現
  3.超圧倒的な長時間の記録/再生を可能にすること
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 少し専門的になりますが、1の「高音質化」について説明しま
しょう。PCで扱う情報の最小単位は「ビット」ですが、音質を
あらわす単位も「ビット」なのです。PCで音声を扱うために、
パルス符号変調(PCM)という方法が用いられています。
 これは、アナログ音声を時間軸でスライスし、その単位時間の
信号強度をビット化するのです。1秒をいくつにスライスするか
をあらわしたものを「サンプリング」といい、周波数であらわす
ことになっています。これを「サンプリング周波数」というので
すが、その単位時間当たりの信号をビット化することを量子化と
いい、このときのビット数を「量子化ビット数」というのです。
 少し難しいですが、サンプリング周波数と量子化ビット数は高
いほど音質は良くなるということを知っておくと、何かと便利で
す。現行CDとDVD音声チャンネル、それにDVD−Aを比較
しておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
           サンプリング周波数 量子化ビット数
 CD          44.1KHz   16ビット
 DVD音声チャンネル  96.0KHz   24ビット
 DVD−A      196.0KHz   24ビット
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これを見ると、DVD−Aがいかに音質が良いかわかっていた
だけると思います。昔のLPは良いアンプで聞くと、ノイズはあ
るものの何ともいえないやわらかい響きがあったのです。しかし
CDは、音は良いのですが、硬質なサウンドになっています。そ
れは、CDが使える情報量に限界があり、一部の音をカットして
あるのが原因です。それがDVD−Aでは余裕のあるやわらかい
サウンドが実現しているのです。
 DVD−Aの圧倒的な情報量を生かして本格的な6チャンネル
・サラウンドを実現するというのが2ですが、スペースの関係上
サラウンドは別の機会にご紹介します。
 3は、音質はCDレベルでもいいとした場合、その大容量を利
用して、ベートーヴェンの交響曲全集を1枚のディスクに収録す
るなどの長時間記録・再生が可能になります。マーラーの交響曲
全集も第1番から第9番、それに第10番のアダージョの部分ま
で700分ほどの長さを二層化したディスク1枚で収めることも
可能です。
 しかし、DVD−Aのプレーヤはかなり高いです。テクニクス
DVD−A10は入門機ですが15万円、東芝のSD−9200
は22万円、CD−Rの再生が可能というのが特徴です。これら
はいずれもDVDビデオの再生も可能です。音楽ディスクの方は
4000円を少し切る程度になりそうです。ちなみにCDプレー
ヤも発売当時は20万円近くしたのです。

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2001年04月23日

孤高の創作家/シノーポリ指揮台で死す(EJ602号)

 20日夜のこと。ご承知のように、ドイツ・ザクセン州立のド
レスデン歌劇場管弦楽団の首席指揮者であるジュゼッペ・シノー
ポリ氏が急死というニュースが飛び込んできました。
 オペラの指揮者として、とくにヴェルディやプッチーニのオペ
ラの指揮者として、期待していただけに大変残念なことです。今
朝は、指揮者シノーポリをテーマとして取り上げます。
 シノーポリ氏は、ベルリンのベルリンドイツ・オペラでヴェル
ディ作曲の歌劇「アイーダ」を指揮中に心臓発作で倒れ、死亡し
たのです。詳しい状況を説明しましょう。
 20日の夜の演奏会は、昨年12月に死去したドイツ・オペラ
総監督ゲッツ・フリードリヒ氏を悼む、シノーポリ氏にとって約
10年ぶりのベルリン公演だったのです。
 シノーポリ氏は、歌劇「アイーダ」の第3幕の中ほどで指揮中
心臓発作に襲われて意識不明になり、指揮台で崩れ落ちたという
のです。この夜の舞台をたまたま見ていた音楽評論家・城所孝吉
氏によると、オーケストラピットでガタガタと音がして急に演奏
がストップしたそうです。
 出演者は当惑した顔で舞台の袖に引き下がり、聴衆はいったん
係員にロビーに誘導されたあとで、劇場側から公演中止が告げら
れたといいます。劇場専属の医師や観劇していた数人の医師が急
遽シノーポリ氏に蘇生術を施しましたが、そのまま息を引き取っ
てしまったそうです。享年54歳でした。
 シノーポリ氏は、1946年ヴェネチア生まれ。精神医学と人
類学の博士号を持つ幅広い教養を身につけた異色の指揮者であり
それが彼の音楽によく反映されているのです。聴衆の精神を内奥
まで震撼させるコンサート指揮者として絶大な賛辞を集め続けた
エキセントリックな存在であったといえます。
 シノーポリ氏が本格的な指揮活動に入ったのは、1975年/
29歳のことで、師マデルナ追悼に結成された「ブルーノ・マデ
ルナ・アンサンブル」を振り、現代音楽を中心に演奏活動を続け
たのです。1978年にフェニーチェ歌劇で「アイーダ」を振っ
て成功を収めたのを契機に、以後立て続けにヴェルディのオペラ
を振るのです。「マクベス」、「アッティラ」、「リゴレット」
「ルイザ・ミラー」、「シモン・ボッカネグラ」――すべてヴェ
ルディです。
 シノーポリという人は、ある意味で徹底しているのです。ヴェ
ルディをやるとなると、あらゆる作品を取り上げていこうとする
のです。しかも、録音などで最初に取り上げるのは、ヴェルディ
では、「マクベス」とか「アッティラ」とか「ナブッコ」といっ
た初期の作品、または比較的マイナーな作品から着手しているの
です。これはプッチーニのオペラでも「西部の娘」からはじめて
いることで共通しています。やはり、精神分析医としてのアプロ
ーチではないかと思います。
 要するに、あまり先入観に毒されていない作品、解剖しやすい
作品に対して、鋭くしかも奔放に、そして深く心理のメスを入れ
独特な説得力を持った作品に仕上げるのです。
 シノーポリ氏は1981年には、自作オペラ「ルー・サロメ」
を発表すると、ドイツでプッチーニの「西部の娘」を皮切りに徹
底的にプッチーニを手がけるのです。
 1983年には、コヴェント・ガーデンにおける「マノンレス
コー」、1985年には「トスカ」によってメトロポリタンデビ
ューを果たし、ちょうどその頃、ワーグナーの歌劇「タンホイザ
ー」でバイロイト音楽祭にも登場し、一方でマーラーの交響曲も
手がけるという、80年代のシノーポリ氏はまさに飛ぶ鳥を落と
す勢いだったのです。
 しかし、90年代に入るとシノポーリ氏の人気に少しかげりが
見えるようになります。それは、彼の独特な音楽観というか解釈
というか、そういうものについていけない聴衆が、目立つように
なったからでしょうか。
 例えば、プッチーニの「トスカ」とか「蝶々夫人」などの定番
オペラでも慣習的なアプローチをいっさいとらず、独特のこだわ
りを見せるのです。ある意味では聴衆に迎合せず、独自の解釈を
貫くのです。そういう解釈や演奏法をめぐってオーケストラの楽
員ともぶつかることも少なくないというのです。
 音楽評論家の宮崎滋氏は、シノーポリの独自性を次のように表
現しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『何らかの強いこだわりと頑強な拒否の姿勢がにじみ出ている
 のである。スコアへの視線、楽曲構造の解釈、内声部のとらえ
方など独自な解剖学的な分析力が働いている』。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 確かにシノーポリ氏の指揮は、そういうところがあるのは確か
であり、そのため「孤高の創作家」などと呼ばれるのですが、こ
れが成功している作品も多くあるのです。
 そのシノーポリらしさが発揮されて成功している作品のひとつ
に、ワーグナーの歌劇『タンホイザー』(全曲盤)(G POCG3496
〜8) があるのです。この作品などは、歌手陣の充実ぶりと相ま
って、かつてない戦慄が襲ってくるほどの快演といえるのです。
 しかし、そういう作品はあるものの、シノポーリ氏の慣習的ア
プローチの拒否と頑固さ、それに対して古色蒼然たるドレスデン
・シュターツカペレというオケとの相性の悪さ、そういうことも
あって、このところシノーポリ氏にとって、あまりパッとしない
数年が続いていたといえます。
 シノーポリ氏は絶頂期の1986年に初來日、大阪国際フェス
ティバルに出演、以後何回も來日して多くのCDを発表していま
す。2000年10月には、ウィーン国立歌劇場の日本公演の指
揮者としても來日しているのです。
 22日の朝日新聞の「天声人語」では、日本の東洋文化への関
心が高く、外国旅行に行くときは市場とお墓を見に行くのが趣味
と伝えています。大変貴重な指揮者を亡くしたものです。

602号.jpg
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2001年04月27日

謎のロシア人が語る39年前の真実(EJ606号)

 昨年の12月25日のEJ525号からEJ528号まで4回
にわたり、映画『13デイズ』について書きました。このほどロ
シアでは、5月に『13デイズ』を一般公開しますが、それに先
立って米カーネギー財団による試写会がモスクワで行われ、旧ソ
連軍関係者などが招待されたといいます。
 これに関連して「AERA」4.30〜5.7日号は、「ソ連
の13デイズ」という特集を組んでいます。お読みになった人も
いるでしょうが、大変興味深いので、2回にわたってこれをテー
マとして取り上げることにします。
 映画の中でこういうシーンがありました。米国とソ連の間で核
戦争の緊張が高まる中で、ソ連からの裏ルートを通して、フルシ
チョフの提案なるものがケネディのところに届けられます。ソ連
の有名なスパイの1人といわれるフォーミンという男からの情報
です。ソ連の時間稼ぎではないかという意見もあったのですが、
大統領の意を受けてケネディ家と親しいABCテレビの記者、ジ
ョン・スカーリが交渉役となります。
 1962年10月26日、米国の海上封鎖から5日目のこの日
スカーリは、フォーミンとあるレストランで会い、両国の運命を
決める交渉をするのです。このレストランは、ワシントンに現在
もある「オクシデンタル」という店です。この店の壁には金属の
プレートが飾ってあり、次のように書かれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『キューバ危機の緊迫した時期に、謎のロシア人「ミスター
 X」がキューバからミサイル撤去の提案書をABCテレビの
 記者ジョン・スカーリに手渡した。この会合が、核戦争の脅
 威の解消に貢献した』。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この謎のロシア人「ミスターX」はフォーミンのことですが、
フォーミンは通称で、当時ワシントンのソ連大使館に駐在してい
た国家保安委員会(KGB)諜報員、アレクサンドル・フェクリ
ソフ氏のことです。肩書きは駐米ソ連大使、ドブルイニン氏の顧
問だったのです。フェクリソフ氏は現在も健在で、モスクワのア
パートに住んでいますが、スカーリ記者は1995年に死去して
います。(添付ファイルはフェクリソフ氏の近影)
 フェクリソフ氏によると、スカーリ記者と10月26日にオク
シデンタルで会ったのは事実であり、自分の方から招待したもの
であるといっているのです。そのときワシントンでは、パニック
が起きつつあり、核戦争を恐れた多くの米国人が街を出て内陸部
に移動しつつあったそうです。
 オクシデンタルでのスカーリとの話で、フェクリソフ氏は核戦
争は「互いに恐怖」があり、やりたくない。そのためには何らか
の妥協が双方に必要であるというのがクレムリンの意向だという
ことをスカーリ記者に伝えたのです。
 この話は、スカーリ記者からラスク国務長官に伝えられ、ケネ
ディ大統領の耳に入ります。そして米政府は実に素早く行動を起
こしたのです。フェクリソフ氏がクレムリンに会合の内容を伝え
る報告書を書き終える前に、ドブルイニン大使の補佐官がやって
きて「スカーリが緊急に会いたがっている」と伝えてきたという
のです。そのときのスカーリ記者は、「上の責任者」の代理とし
て来ているといったそうです。
 これが正しいとすると、映画『13デイズ』と異なります。映
画では、ラストにドブルイニン大使とロバート・ケネディが会う
のですが、実際はフェクリソフ氏とスカーリ記者が会っているか
らです。提案は、次の3つです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ●ソ連は武装解除し、キューバからミサイル基地を撤去する。
 ●アメリカは海上封鎖を解除する。
 ●アメリカはキューバには、侵攻しないことを公に宣言する。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここでフェクリソフ氏は「上の責任者」とは誰か特定して欲し
いとスカーリ記者に聞いたそうです。このシーンは映画でもドブ
ルイニン大使とロバート・ケネディの間でかわされました。フェ
クリソフ氏はこういったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『彼は一語一語はっきりといいました。「ジョン・フィッツ
 ジェラルド・ケネディ」』と。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 それでは、映画ではこの最後の会談をなぜドブルイニン大使と
ロバート・ケネディにしたのでしょうか。
 それは、その方がわかりやすいからです。少し正確にいうと、
あのときケネディとフルシチョフは、電報(テレックス)で私信
をやりとりしていたのです。このことを映画ではほとんど描いて
はいません。10月26日の午前、フルシチョフは、ケネディに
私信の電報を打ちます。それが上記の提案内容なのです。
 ケネディはそのフルシチョフの私信を受け取って迷っていると
きに、フェクリソフ氏がスカーリ記者と会うのです。そこで語ら
れた内容はフルシチョフの私信と同じだったので、フルシチョフ
が本心からそう考えていると判断して、受け入れることを決断す
るのです。しかし、映画の場合、ソ連のスパイと新聞記者が会っ
て国家の一大事を決める背景を説明すると冗長になってしまうの
で、大使と大統領の弟という設定にしたのだと思います。
 フイリップ・ブレナー・アメリカン大学教授は、映画『13デ
イズ』の間違いとして、キューバにミサイル基地だけでなく、戦
術核兵器もあることをあたかも熟知していたように描かれている
点を指摘しています。
 当時米国側でこのことを知っている人は、実は誰もいなかった
からです。キューバには、広島型の核兵器が162発もあったの
ですが、それを察知できなかったのです。マクナマラ元国防長官
はあとでこのことを知って、ワナワナと膝が震わしているのをブ
レナー教授は目撃しているのです。

606号.jpg
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2001年05月01日

ソ連から見たキューバ危機(EJ607号)

 今朝も『13デイズ』の話です。EJ606号でお伝えした事
実に一部間違いがありましたので、もう少し正確に当時の状況を
お伝えします。
 フォーミンこと、フェクリソフ氏が、1962年10月26日
にスカーリ記者と2回会ったのは事実です。スカーリ記者が2度
目にフェクリソフ氏に会って米国側の提案を伝え、それは直ちに
クレムリンに打電されたはずなのですが、なかなか返事がこない
ので、米国側はイライラします。
 そして、10月27日になって、フェクリソフ氏はスカーリ記
者にまた呼び出されるのです。フェクリソフ氏によると、米国側
は、ソ連はキューバのミサイル基地が完成するまで時間稼ぎをし
ているのではないかと疑心暗鬼になっていたといっています。
 そのことに関連して、ロバート・ケネディ司法長官はその日、
駐米ソ連大使ドブルイニン氏に2回も会っています。確かにロバ
ート・ケネディVSドブルイニン会談はあったのですが、映画の
ような内容ではなかったのです。米国側の提案を伝える提案は、
スカーリ記者とフェクリソフ氏の間で行われたのです。
 それでは、なぜロバート・ケネディ司法長官は2度もドブルイ
ニン大使に会ったのかというと、27日に米軍のU2偵察機がソ
連側に撃墜された件についてであろうと思われます。27日にロ
バートは夜になってもう一度駐米ソ連大使館を訪問し、大統領顧
問ゲオルギー・ボルシャコフに会っています。深夜になっても、
クレムリンからの返事は来ず、米国側は「ソ連に騙されたかな」
と本気で考えたといわれます。米国側がこの時点で一番心配した
のは、フルシチョフ大統領の失脚だったのです。
 米国のU2偵察機を撃墜したのはキューバに赴任していたソ連
のゲルチェノフ少佐の部隊のミサイルで、午前10時21分に撃
墜は行われたのです。
すぐクレムリンに撃墜の件を報告したところ、モスクワからの
反応は10時55分に国務大臣から直接電話があり、「われわれ
は急ぎ過ぎた」といっていたそうです。したがって、このときク
レムリンでは、既に平和的手段による危機解決策が準備されてい
たようなのです。そして、その返事がきたのは、28日早朝のモ
スクワ放送だったのです。
 それでは、そもそもソ連はどういう目的でキューバにミサイル
基地を設置しようとしたのでしょうか。なぜこのような疑問をす
るのかというと、ソ連とキューバは、あまりにも距離が離れてい
るからなのです。
 当時弾道核ミサイルの分野では、ソ連は米国に1対17相当の
遅れをとっていたのです。そればかりか、トルコに配備された米
ミサイル「ジュピター」は、ソ連の中枢部に10分以内に到達す
るのに対し、ソ連のミサイルが米国に到達するには、少なくとも
30分はかかったのです。
 しかし、キューバに核ミサイル基地を作ると、米国本土には、
やはり10分以内に到達するのです。したがって、フルシチョフ
としては、どうしてもキューバにミサイル基地を築きたかったの
です。問題は、キューバにどのようにしてミサイルを持ち込むか
ということです。
 まず、カモフラージュが必要ということで、北方で大規模な軍
事演習をやると発表し、昼間には衆目の中でスキー板と防寒具を
大量に船に積み込んだりしたのです。
 巡航ミサイル「ソプカ」師団のミハイル・クジバノフ元司令官
によると、6月18日黒海の港を出港した時点では、船がどこに
向かうのか知らされていなかったといいます。出港前に受け取っ
たのは、白い封筒だけだったのです。
 その封筒には「中立海域到達後開封のこと」と書いてあり、そ
の海域に出たので空けてみると、別な封筒が入っており、そこに
は「地中海で開封のこと」とあったそうです。さらに次の封筒に
は「太平洋で開封のこと」とあり、太平洋に出てはじめて行き先
がキューバであることがわかったというのです。
 そのときキューバに設置されたのは、中距離核ミサイル「R1
2」です。その設置の任務を担ったのは、中距離核ミサイル連隊
のチーフ・エンジニア、アナトーリ・ブルロフ氏です。R12ミ
サイルは、長さ22メートル、総重量42トンの巨大な物体であ
り、牽引車の長さは約12メートルで、これにさらに5メートル
の牽引システムがつくという巨大なものです。
 アナトーリ・ブルロフ氏によると、10月26日以降なら、2
時間30分もあれば、ミサイルシステムを点検し、ミサイルを発
射台に引き出して弾頭を取り付け、垂直位置にマウントしてチャ
ージし、標的に照準を合わせる用意は出来たといっています。ま
さに間一髪であったといえます。
 このようにソ連側の情報を集めてみると、キューバ危機を克服
できたのは、両国首脳の努力はあるものの、きわめて運が良かっ
たとしかいい得ないのです。1992年に開かれたキューバ危機
に関する会議に出席したマクナマラ元国防長官は、当時キューバ
には広島型の原爆と同程度の破壊力を持つ核兵器が162発あっ
たとロシア側に聞かされて、ワナワナと膝を震わせていたという
話は有名です。30年経ってはじめて知った事実なのです。
 ところで、ケネディ大統領は、キューバにミサイル基地がある
ということが分かった時点では、戦争やむなしと考えたといわれ
ます。それは、映画での大統領の次の台詞にあらわれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 Well,if there are alternative that makes sense __and I`m
not saying that there are__then we need them and we need
them fast.
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「もし他に選択肢があれば、といってもボクはあるとは思わな
いけどね、でもあれば早急に検討する必要がある」と。この「そ
んな解決策があるとは思わないけどね」という大統領のことばは
事態の深刻さを如実に物語っていると思います。

607号.jpg
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2001年05月02日

日本は80年代のソ連と同じである(EJ608号)

 4月26日のニュースステーション(テレビ朝日)を、ご覧に
なったでしょうか。
 当日はゲストとして、デイビット・アッシャー氏が登場したの
です。アッシャー氏は、アメリカン・エンタープライズ公共政策
研究所(AEI)/アジア研究プログラム担当部長という長い肩
書きを持っています。
 その日アッシャー氏は、久米キャスターの質問に答えるかたち
で、巧みな日本語を駆使して次のようにいったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『日本の経済の状態は、80年代のロシア、つまり、ソ連に似
ています。小泉首相はゴルバチョフなんですよ』。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 私はこのことばを聞いて何か背筋が寒くなったのです。日本は
ソ連と同じ運命をたどるのではないかと思ったからです。アッシ
ャー氏は、ゴルバチョフのペレストロイカを「非常に薄っぺらな
政策」をこきおろしており、小泉政権がよほどの覚悟で構造改革
に取り組まないとソ連と同じ運命をたどるといっているのです。
 そもそもこのデイビット・アッシャーなる人物は、何者なので
しょうか。
 アッシャー氏が現在属するAEIは日本ではあまり知られてい
ない組織ですが、元会長がチェイニー副大統領、グレン・ハバー
ドCEA委員長(大統領経済諮問委員会)、オニール財務長官、
リンゼー経済担当大統領補佐官など、ブッシュ政権を支える経済
閣僚の大半がAEIの出身なのです。したがって、アッシャー氏
の意見はブッシュ政権の意見といっても過言ではないのです。
 デイビット・アッシャー氏は、ちょうど3年前に『悲劇は起こ
りつつあるかもしれない』(ダイヤモンド社刊)という著書の中
で、日本には「5つのD」が問題であると指摘しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 第1のD ・・・ Debit     ・・・ 負債
 第2のD ・・・ Default    ・・・ 債務不履行
 第3のD ・・・ Deflation   ・・・ デフレ
 第4のD ・・・ Demography   ・・・ 少子化・高齢化
 第5のD ・・・ Deregulation ・・・ 規制緩和
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 アッシャー氏は、本の中でこれら5つのDに同時に対処する必
要があると述べているのですが、日本の経済戦略会議もこれと同
趣旨の提言を政府に対して行っています。
 しかし、日本政府はこの3年間ほとんど何もやらず、問題を先
送りしてしまっているのです。そのため日本はこの3年間で世界
でも例を見ないほど大きな負債を抱えてしまったのです。その間
に日本政府がやったことは、名目GDPだけを増大させる景気刺
激策を打ち続けただけといえます。
 80年代のソ連となぜ似ているかについてアッシャー氏は、構
造改革が急務であるのにそれを先送りしているうちに、経済その
ものが非常に成熟度を増してきてしまったといっていますが、こ
れは現在の日本経済の状況とそっくりだというのです。
 それに加えて、ソ連の指導者たちは基本的な問題を先送りし、
ペレストロイカやグラスノスチを進めようとしたのですが、これ
は非常に薄っぺらな弱い政策だったのです。もし、根本的な改革
をすると、指導者たちは自らの地位に居座ることができなくなっ
てしまうので、あえて先送りを図ったのです。こういうソ連の状
況は、この10年間の日本とコワイぐらい似ているとアッシャー
氏はいっているのです。
 アッシャー氏は、日本人はよく「仕方がない」といいますが、
簡単にあきらめないで欲しいと警告しています。「仕方がある」
政策をなぜとらないのでしょうか。
 日本は、自動車業界や半導体業界などでの生産性は非常に素晴
らしいのに、国家政策という意味での日本の生産性は、近代の歴
史の中でも最も低いのです。国の富をこんなに無駄使いする国も
珍しい――とまでいっているのです。
 アッシャー氏は、日本はアグレッシブな国家政策を行うべきで
あるといいます。米国は、経済危機のとき、通信においては国民
の利益を考えて、AT&Tを解体したり、航空業界でも大幅な規
制緩和を進めるなど打てる手をすべて打っています。危機がくる
のを待っていないで、アグレッシブにやらないと駄目なのです。
国の富を取り崩して危機に当たる――それ以外に選択肢はないと
アッシャー氏は警告します。
 アッシャー氏は、現在の日本の経済の状態について、次のよう
な非常に不気味な表現をしています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『今の日本の状態は、いってみれば“幸福な衰退”で、たとえ
 ば、温泉につかって日本酒をちびちび飲みながら、自分で手首
 を切るようなものです。どんどん血が流れて、お湯の中に美し
 い赤い模様を描くのを「ああ、いいな。きれいだな」と思って
 楽しんである。崩壊が起こるのを待っているような気がするの
 です』。(週刊「ダイヤモンド」4.28/5.5合併号)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 また、アッシャー氏は、「日本の経済状態はダリの絵のようで
ある」といっています。日本の戦略は形式主義的であり、それに
実質成長と名目成長に大きな差があるなど、日本の経済状況は超
現実的になっているとアッシャー氏はいいます。そのまま問題を
先送りしていると、経済が良くなると思っている――彼はこれを
シュールリアリズム、超現実主義といっているのです。
 アッシャー氏のいうように、日本が「仕方がない」とあきらめ
てしまうのは無責任です。米国は日本に対して大きな債務があり
債権国の日本が揺らぐと債務国の米国に大きな影響を与え、世界
中の経済がおかしくなってしまうからです。
 まさにいいたい放題ですが、アッシャー氏の警告は的を射てい
ます。日本人よりも日本のことを心配してくれています。

608号.jpg
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2001年05月07日

車内での携帯電話使用の是非(EJ609号)

 社団法人/倫理研究所が発行している『職場の教養』(200
1年5月号)という小冊子に次の話が出ています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『石川県に住むOさんがバスに乗ったときのことです。バスが
 発車するとすぐに、隣の席の若い女性から「すみませんが、携
 帯電話をかけてもよろしいでしょうか」と尋ねられました。
  Oさんが「どうぞ」とこたえると、彼女は小さい声で、話し
 始めました。そしてわずかな時間、二言三言話した後「すみま
 せんでした」とあいさつして携帯電話をバッグの中にしまった
 のでした。彼女の態度に感心したOさん、「あなたのような礼
 儀正しい人は初めてです」と声をかけ、晴れやかな気持ちでバ
 スを降りたそうです』。(5月2日のテーマ「携帯電話」)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 現在では、電車やバスの車内で携帯電話を使うことはマナー違
反ということになっています。そうであるとすると、Oさんに誉
められた若い女性の場合、Oさんに断ったとはいえ、バスの車内
で携帯電話を使うこと自体はマナー違反となります。それも、外
部からかかってきた電話に断って出たのではなく、自分でかけた
のですから、なぜバスを降りてから電話できなかったかといえな
くもありません。
 最近車内での携帯電話禁止のアナウンスは、その内容がかなり
きつくなっています。私が利用している西武池袋線では、およそ
次のようにアナウンスしています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『車内での携帯電話のご利用は、他のお客様のご迷惑になりま
 すので、電源スイッチをお切りくださいますようお願いいたし
 ます。携帯電話は電車を降りてから、ご利用ください』。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このアナウンスによって車内で携帯電話を使って電話をかける
人は減少したと思います。車内で電話をかけている人はかかって
きた電話に出る人がほとんどであり、自らかけるケースはかなり
減ったと思います。それなりの抑止力にはなっているのです。
 しかし、携帯電話を使ってメールを送受信したり、ウェブサイ
トにつないだりすることはどうなのでしょうか。一切ことばを発
しないのですから、他のお客の迷惑にはならないと思います。
 西武線では「電源スイッチを切れ」といっていますが、それは
かかってくる電話をシャットアウトしたいという意図からだと思
います。しかし、「電源を切れ」といっても誰も切らないし、私
も切りません。ビジネスでかかってくる電話もあるからです。
 車内で携帯電話を禁止する目的は、「車内では声高に話をしな
い」ということに尽きると思います。よく車内にグループで乗り
込んできた一団が、騒がしく話していることがありますが、そう
いうことをそのままにしておいて携帯電話だけを使用禁止しても
問題は解決しないと思うのです。
 着信音をバイブレータに切り替えたり、車内からかけることは
極力自粛し、かかってきた電話には小さい声で「いま車内だから
降りたらかけ直します」といって切るということを守れば、それ
でよいと思うのです。
 2〜3年前に大阪に行ったとき、JRで次のアナウンスを聞い
たのを覚えています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『車内での携帯電話のご利用は控えめにお願いします』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 私はこのアナウンスを非常に好ましいと感じたのです。東京の
JRでは聞かないアナウンスだったし、実態に合っていると考え
たからです。しかし、現在このアナウンスは大阪でもやっていな
いと思います。
 しかし、別な観点から車内での携帯電話の利用をやめるべきで
あると指摘もあります。それは「電磁波」の問題です。携帯電話
を使うと電磁波が出て、ペースメーカなどの医療機器に影響を与
えるというものです。
 これで思い出されるのは、飛行機に乗ったときに行われる次の
アナウンスです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『機内での携帯電話のご利用は、航空計器に影響を与えること
 がございますので、ご利用をお控えくださいますようお願い申
 し上げます』。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このアナウンスに関しては、乗客は素直に電源スイッチを切る
人が多いはずです。それによって「航空計器に異常が生じて、飛
行機が墜落しては困る」からです。
 しかし、携帯電話の電磁波の問題は今のところ影響はなさそう
です。といっても現時点では有害であるという証明もできない代
わりに、無害であるという証明もない状態なのです。少なくとも
ペースメーカなどには異常を与えないようです。
 ただ、これは携帯電話を車内で使う、使わないという問題では
なく、携帯電話そのものが人体に危険であるかどうかの問題なの
です。
 電磁波というのは、電気と磁気の波のことであり、電気の流れ
るところには必ず電磁波が発生します。携帯電話が危険といわれ
る根拠は、携帯電話が電磁波の中でもマイクロ波という電子レン
ジと同じ領域の電波を出したり受けたりするように作られている
ことにあります。
 しかも、携帯電話は直接耳に当てて使うものであり、脳や眼が
影響を受けやすいのです。耳は、その至近距離に眼や脳があるの
でもし害があるとすると極めて危険ということになります。
 もっともあらゆる電気製品はすべて電磁波を出しますが、携帯
電話は電子レンジと同じに200ミリガウスというマイクロ波を
出すことがわかっています。この電磁波は、危険であるかどうか
検証する必要があります。明日のEJでは、この電磁波について
研究してみたいと思います。
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2001年05月08日

電磁波は人体にとって危険か(EJ610号)

 今朝は「電磁波」の話です。電磁波は、携帯電話だけでなく、
PCをはじめあらゆる電気製品から出ています。もし、影響があ
るとしたら、大変なことになります。しかし、いらざる心配をす
る前に「電磁波とは何か」について基礎を知っておくことは意義
があると思います。
 電磁波を英語で表現すると次のようになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     電磁波=Electromagnetic wave ⇒ EMW
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 電磁波は、電気と磁気の波です。電気の流れるところ、電波の
飛び交うところには、必ず電磁波が発生します。これをもう少し
正確にいうと、電気が流れると、電場と磁場がつくられ、これら
2つの周期的変化が波動となって伝わるのが電磁波なのです。
 一般的に電波といわれているものも、光といわれているものも
すべて電磁波であり、その違いは波長が異なるだけです。ここで
覚えておくべき原則は「周波数は波長に反比例する」というもの
です。周波数は、波長が1秒間に振動する回数のことであり、ヘ
ルツという単位であらわします。
 「周波数は波長に反比例する」のですから、波長が短い電磁波
ほど周波数は高くなります。そして、もっとも高い周波数のこと
を「X線」「ガンマ線」と呼ぶのです。電磁波を波長の長い方、
つまり周波数の低い方から並べると、次のようになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1.電波           4.紫外線
   2.赤外線          5.X線
   3.可視光線         6.ガンマ線
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 電磁波の中で唯一人間の目で見えるのが可視光線、つまり光で
す。それ以外の電磁波は見ることはできないのです。電磁波の強
さは、磁場の強さと電場の強さの2つに分けてあらわします。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ●磁場単位 ・・・ ミリガウス ・・・・・ mG
 ●電場単位 ・・・ ボルト/メートル ・・ V/m
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 電磁波が人体に影響を与えると考えられているのは、磁場の強
さです。しかし、どこまでが大丈夫でどこからが危険かについて
は、国によってまちまちであり、明確な基準というものがまだな
いのです。
 主要な電気機器の電磁波の発生量を示しておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1.電子レンジ ・・・・・・ 200mG
   2.携帯電話 ・・・・・・・ 200mG
   3.掃除機 ・・・・・・・・ 200mG
   4.PC ・・・・・・・・・ 100mG
   5.電気コタツ ・・・・・・ 100mG
   6.ヘヤドライヤー ・・・・  70mG
   7.炊飯器 ・・・・・・・・  40mG
   8.洗濯機 ・・・・・・・・  30mG
   9.冷蔵庫 ・・・・・・・・  20mG
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この数値を見せられると、少しコワイという気持になりますが
世界各国において、これ以上は危険という基準は次のように大き
く異なるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   スウェーデン ・・・・・・・・   2.5mG
   オーストラリア ・・・・・・・  1000mG
   イタリア ・・・・・・・・・・  1000mG
   ロシア ・・・・・・・・・・・  1800mG
   アメリカ ・・・・・・・・・・ 10000mG
   イギリス ・・・・・・・・・・ 20000mG
   ドイツ ・・・・・・・・・・・ 50000mG
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この数字の意味は、ここに示されている電磁波を常時浴びると
いう意味であり、ときどき浴びる程度では何も心配はいらないの
です。例えば、高圧送電線の近くに家があり、常時高い電磁波を
浴びている場合などがそれに該当します。ところで日本はどうな
のでしょうか。日本の数字は発見できませんでした。
 それにしても各国の数字はまちまちです。スウェ−デンでは、
2〜3ミリガウス(mG)を超える電磁波を浴びる場所に幼稚園
保育園、学校を作ってはならないという国としての規制があるの
に対し、ドイツでは、50000ミリガウス以下なら大丈夫とし
ており、そこに大きな差があります。
 これは要するに危険とされる水準がまだ明確になっていないこ
とを意味しています。しかし、携帯電話の場合、極超短波といわ
れるマイクロ波(マイクロウェーブ)を眼や脳に近い耳に当てて
使うという点が少し心配です。
 電子レンジの原理は、マイクロ波が食品を貫通し、内部に含ま
れる水の分子を振動させて発熱させるというところにあります。
携帯電話は電子レンジと同じマイクロ波を微弱とはいえ耳に当て
て使うので、それが脳の細胞水を振動させて加熱現象を起こすの
ではないかという意見もあります。また、ホット・スポットと呼
ばれる熱集中点が脳の中にできて、そこが局所的に加熱されて細
胞を変性させる恐れがあるという説もあります。
 しかし、電子レンジが500から600ワットと高出力である
のに対し、携帯電話の出力は最大でも800ミリワットであり、
実に600倍以上の開きがあるのですから無害と考える方が妥当
なのです。それにしても、若い人のように長時間携帯電話で話を
したりするのはやめた方がよいと思います。
 PCのディスプレイからの電磁波の漏洩は、前後左右上下の全
方位から行われることに留意してPCを置く職場のレイアウトを
考えることも必要であると思います。
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2001年05月14日

ユビキタス化が実現したインターネット(EJ614号)

 最近「ユビキタス」ということばが流行っています。ある証券
会社は4月から「ユビキタス・コンピューティング・ファンド」
という名前の投資信託を売り出しています。「ユビキタス」は、
インターネット社会の将来を形容することばなのですが、今朝は
この「ユビキタス」をテーマとして取り上げます。
 語源からいくと、ユビキタスは「遍在」を意味するラテン語な
のです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      ユビキタス=ubiquitous ⇒ 遍在
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「遍在」ということばの意味は、「同時にいたるところにあま
ねく存在する」ということです。これは「いつでも、どこでも、
だれとでも」ネットワークでつながることを意味します。さきほ
どの新しい投資信託は、ユビキタス・コンピューティングを実現
する企業の株式に重点投資するファンドのことなのです。
 「ユビキタス」というばが登場したのは、最近のことではなく
15年くらい前のことです。それは、米国でインターネットを民
間に開放するときからいわれ出したことばです。簡単にいってし
まうと、インターネットを普及させることによって、いつでも、
どこでも、だれとでも使えるようにしたい――ユビキタスとは、
そういう意味なのです。
 しかし、これには異説があります。はじめはユビキタスではな
く「エーテル」ということばがあったのです。「エーテル」とは
中世の概念であり、天空にはエーテルという仮想的な物質で満た
されていて、だれでもそれを使えると考えられていたのです。
 この「エーテル」は、英語読みで「イーサ(ether)」 となり
ますが、LANの方式である「イーサネット」は、このことばに
由来するのです。イーサネットは、ユビキタスと同じ意味がこめ
られていたのです。
 インターネットの民間開放に当たって米国政府としては、それ
を全世界にまで広げようとは考えていなかったようなのです。む
しろこのさい、米国がネットワークを全部囲い込んでしまおうと
いう考え方に立っていたのです。
 しかし、インターネット開放に携わった研究者や技術者たちは
ネットワークはエーテルと同じで、世界の人々がそれを等しく使
えるようにすべきであると主張して、米国政府の考え方には反対
したのです。そのときからユビキタスということばを使うように
なったといわれます。
 そういう意味でユビキタスは反米国主義であり、それはあわせ
て反IBM主義でもあったのです。当時のコンピュータ業界は、
IBMの独壇場であり、そのIBMの得意とするネットワークの
構築法は、中心にホストという大型コンピュータを置き、そこに
サーバを置いて多くのクライアントをつなぐ方法です。
 しかし、この方法ではユビキタスは実現できないのです。その
ためネットワークそのものがコンピュータであるという発想に基
づき、コンピュータとコンピュータを並列的につないで、くもの
巣型の構造にしたのです。
 そこには、ホストもクライアントもなく、上下関係は一切ない
のです。したがって、通行料もなくなり、政府や大企業が独占す
ることもできない。すべての個人が対等な関係で、だれでもが安
いコストで、世界のどこからでも、それを利用できる、理想的な
ネットワーク、インターネットが完成したのです。研究者や技術
者が目指したユビキタスが本当に実現したのです。
 ところで、この「ユビキタス」をもじって「オヤユビキタス」
ということばが一部で使われるようになっています。いうまでも
なく、「iモード」をはじめとするメールの送受信のできる携帯
電話のことです。
 携帯電話と公衆電話は、ユビキタスと密接な関係があります。
最近公衆電話が目に見えて減ってきています。NTTが公衆電話
を普及させるときに考えたのが、いつでも、どこでも電話できる
環境です。
 もともと、あるマシンを普及させようとするには、次の2つの
方法があるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 第1の方法 → 至るところに設置する → ユビキタス方式
 第2の方法 → つねにそれを持ち歩く → モバイル 方式
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 第1の方法は、それをいたるところに設置して、いつでもどこ
でも使えるようにする方法であり、これはユビキタス方式に該当
するといえます。公衆電話は、この考え方に立って全国各地のい
たるところに設置されたのです。確かに、どこにでもあれば、い
つでも、どこでも電話をかけることは可能になります。
 これに対して第2の方法は、それを持ち歩く方法です。つまり
モバイル方式であり、電話の例でいえば携帯電話に該当します。
電話機が手のひらに入るほど小さくなり、しかも軽くなると、ど
こへでも持ち歩けるようになり、携帯電話機を持っていれば、い
つでも、どこでも電話をかけることができるわけです。
 つまり、いたるところにそれを置く方式でも、持ち歩く方法で
もユビキタスは実現できるのです。しかし、第2の方法の場合、
携帯電話を持つ人が圧倒的に増えることです。現在「iモード」
の加入者は2200万人、他のキャリアを含めると3500万人
を突破しているのです。これは、日本人の4人に1人以上が持っ
ている計算になります。
 これだけあると、まさに、いつでも、どこでも、だれとでも電
話できるわけで、携帯電話がユビキタスを実現しつつあるといえ
ます。その一方で同じ目的を目指した公衆電話が姿を消しつつあ
るのですから、誠に印象的なことです。
 メールの送受信ができる携帯電話は、携帯本体だけで、それこ
そ親指の操作だけで、インターネットに接続できるという点で、
もっともユビキタス的であるといえます。さらに、それは、ウェ
アラブルへと進化しつつあるのです。

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2001年05月15日

ディスプレイが変わる/LED編(EJ615号)

 『怒りのブレイクスルー』(中村修二著、集英社刊)という本
をご存知ですか。サブタイトルに「常識に背を向けたとき『青い
光』が見えてきた」と書いてあります。
 これは、20世紀中には開発困難といわれた「青色発光ダイオ
ード」を開発した中村修二博士の書いた本です。この本は今年の
4月に発刊されたのですが、とてもよく売れているそうです。中
村修二博士は、現在、カルフォルニア大学、サンタバーバラ校の
教授ですが、ノーベル賞に一番近い男といわれている人です。
 今朝から、これに関連してディスプレイの先端技術をテーマに
取り上げたいと思います。
 私は現在、EIZOのL350という15型TFT液晶ディス
プレイを使っています。購入したのは3年前のことですが、その
とき店員から、「TFT液晶は、画像の一部が欠ける『ドット欠
け』という現象が起こることがありますが、それは故障として返
品はできませんがよろしいですか」といわれたのです。
 幸いにして私のディスプレイはきれいに表示されていますが、
TFT液晶はディスプレイの面積が大きくなると、この「ドット
欠け」の現象がよく起こったのです。
 しかし、最近ではさすがにそういうことはなく、あの高かった
TFT液晶ディスプレイもかなり値が下がってきています。とこ
ろが、皮肉なことに最近では、次世代のディスプレイの技術が目
白押しなのです。だから、値が下がったともいえます。
 そこで、ディスプレイの先端技術を整理しておきましょう。フ
ラットパネル・ディスプレイの世界では、素子が自ら光るものと
そうでないものにわけられます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   発 光 型 ・・・・・ PDP、LED、有機EL
   非発光型 ・・・・・ TET(LCD/透過型)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 PDP、LED、LCDなどといわれても?!となってしまう
と思うので、説明していきましょう。これを理解することによっ
て、今後ディスプレイがどうなっていくかがわかるのです。
 発光型というのは、ディスプレイを構成する素子が少量の電気
を流すと光るものをいいます。それでは、LCD、すなわちTF
Tはどうかというと、非発光型になります。非発光型には透過型
と反射型がありますが、TFTは透過型に属します。
 発光型と非発光型では、ディスプレイとしてどこが違ってくる
のかというと、非発光型ではバックライトが必要なのです。バッ
クライトは画面が真っ黒な状態でも点灯しており、電力を消費し
ているのです。もっとも電力そのものはわずかなものですが、バ
ッテリーを使うノートPCやPDAでは、電源が使えない外での
使用時間に大きな影響を与えます。
 発光型のPDPとは、「プラズマディスプレイ」のことです。
50インチの大型ディスプレイがすでに商品化されており、画面
は明るく鮮明ですが、消費電力がブラウン管型の2倍以上かかる
などの問題点があります。
 続いてLEDは、「発光ダイオード」です。よく駅前などに、
100インチ以上の大型テレビがありますね。あれは、発光ダイ
オードで作られているそうです。発光ダイオードは消費電力が少
ないので壁面テレビにはうってつけなのです。しかし、その色彩
は今ひとつ冴えません。鮮明な色を出すには、赤、緑、青が必要
なのですが、本物の青が使われていないからです。
 発光ダイオードは、赤、黄、緑についてはかなり前から開発さ
れていたのですが、青だけはさまざまな困難性があってどうして
も開発できなかったのです。その青を開発したのが、冒頭の中村
博士なのです。しかし、中村博士は、「この国はどこかがおかし
い」と日本に失望して、米国に行ってしまったのです。
 発光ダイオードはもっと身近なものに使われています。電気製
品の動作表示ランプや携帯電話の光るアンテナがそうです。こん
なところにも発光ダイオードは使われているのです。
 もうひとつ、信号機があります。現在の日本の信号機は青、黄
(橙)、赤のガラスを後ろから電球で色を出しています。ところ
が、これは、ニュースステーションで知ったことですが、欧米の
信号機は発光ダイオードに変わりつつあるそうです。なぜかとい
うと、色が鮮明であることと、長持ちすること、低消費電力であ
るからです。
 それでは、なぜ、日本では発光ダイオードにならないのかとい
うと、警察が一枚かんでいるというのです。信号機のメンテナン
スは警察の所管ですが、信号機の電球の取り替えは1信号機当た
り3万円の手当てが出るということで、発光ダイオードに取り替
えることを拒否しているとのことです。まったくふざけた話であ
ると思います。
 ディスプレイの話ではありませんが、もう少し発光ダイオード
の話をします。青色発光ダイオードが開発されると、その技術を
応用して「青色レーザー」の開発が可能になります。
 現行のCDは、レーザーでCDから情報を読み取るのですが、
ここで使われているレーザーは赤色レーザーなのです。つまり、
赤色レーザーがLPのときの針の役割をするのです。この赤色レ
ーザーを青色レーザーにすると、何が起こるのでしょうか。
 青色レーザーは赤色レーザーに比べて波長が半分程度短く、こ
れは針がそれだけ細いことを意味します。したがって、赤色レー
ザーを青色レーザーに変えると、CDからより多くの情報が読み
取れることになり、結果としてCDの容量が増加します。また、
CDからより多くの情報が読み取れるということは、音質にも影
響を与えることになります。もちろん音はよくなるはずです。
 そして、最後は有機ELです。ELとは、エレクトロルミネッ
センスのことですが、これがいま大変注目されているのです。こ
の有機ELを使った13型ディスプレイが今年の2月にソニーか
ら発表されているのです。さすが、ソニー、13型とは立派なこ
とです。有機ELについては、明日のEJで説明します。

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2001年05月16日

ディスプレイが変わる/有機EL編(EJ616号)

 5月8日のEJ610号で電磁波の話をしましたが、昨日の朝
日新聞の朝刊に重要情報が出ていましたのでお知らせします。総
務庁の調査によると、携帯電話端末から出て体内に吸収される電
磁波総量は、アンテナを伸ばした場合とそうでない場合とでは、
大きく異なることがわかったのです。
 安全性の指針とされる電磁波吸収量の基準は、体重1キロに対
し2ワットの出力までとされているのですが、アンテナを収納し
た場合は最大で1.86ワットを記録した端末も、アンテナを伸
ばすと半分以下の0.85ワットまで減少したといいます。
 アンテナを伸ばすと電磁波が周辺に拡散するためであり、端末
によっても異なりますが、平均すると70%近くは拡散するとい
う結果が得られたのです。携帯電話で話をするときは、アンテナ
を必ず伸ばしていただきたいと思います。
 さて、今朝は有機ELについてお話しします。その前に発光型
のPDP、LED、ELの正式名称を記しておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      PDP  Plasma Display Panel
      LED  Light Emitting Diode
      EL   Electoro Luminescence
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 液晶は画像の応答速度が「ミリ秒」の単位です。これでは動画
は目に残像が残ります。遅いから、画像を引きずる感じがあるの
です。その点有機ELは、「マイクロ秒」の単位ですから、残像
はまったくないのです。
 有機ELは、ガラス基板の上に、透明な電極と有機キャリア輸
送層、有機発光層、それに金属電極を置いたものです。ガラスの
厚さは0.7ミリ、挟み込む有機輸送層や発光層などは全部合わ
せても1ミクロンにもならないのです。
 しかも、TFT液晶のように、後ろにバックライトを抱える必
要がないので、とても薄いのです。電源は電池1つで駆動できる
ほど低電圧で、高輝度、高速応答が得られます。視野角は160
度と広いので、見る向きには影響されず、しかも電磁波も出さな
いというのですから、環境にやさしい技術といえます。
 ついこの間まで有機ELディスプレイは実験レベルで、画面サ
イズも10インチまでという限界があったのです。というのは、
画面を大型化すると輝度にばらつきが出てしまうのです。そのた
め携帯電話やPDAなどの小型ディスプレイに使うことを前提と
して研究されていたのです。
 ところが、2001年2月7日、ソニーはディスプレイデバイ
スに関する技術説明会を開催し、現時点では世界最大となる13
型のフルカラー有機ELディスプレイを披露したのです。ソニー
は有機ELに関する難点をどうやって克服したのでしょうか。
 資料には、克服した理由が詳しく説明してあるのですが、非常
に難しく完全には理解できません。簡単にいってしまうと、低温
ポリシリコンという液晶と有機ELを組み合わせて、有機ELを
バックライトのように使う方法でフルカラーを実現しているもの
と思われます。その方法を低温ポリシリコンTFTアクティブマ
トリックス方式というのだそうです。
 ソニーの開発した13型フルカラー有機ELディスプレイのス
ペックを示しておきましょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  画面サイズ    13型(264×198ミリ)
  解像度      800×600ピクセル(SVGA)
  画素ピッチ    0.33×0.33ミリ
  輝度       300カンデラ以上
  コントラスト比  200:1
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 パイオニアでは、有機ELのガラス基板に換えてプラスティッ
ク基板の開発に成功しています。こうすると、軽い、割れない、
曲げられるディスプレイになるのです。曲げても画像表現に影響
はなく、ディスプレイのかたちの自由度が増します。そのうち、
巻紙のようなディスプレイが登場するかも知れません。使うとき
には、くるくると広げて使い、終ったら掛け軸のように巻いてし
まうというディスプレイです。これは、決して夢物語ではなく、
基板にガラスの代わりにポリマーフィルムを使えば十分実現可能
なのです。
 ところで、有機ELの「有機」とは、炭素化合物の総称です。
無機材料を使った無機ELというのもありますが、無機ELは発
光効率が悪く、しかもフルカラーという要件を満たすのは困難で
あるところから、マルチメディア時代のディスプレイの素材とし
ての実用性に乏しかったのです。
 しかし、有機ELディスプレイは、有機物に電流を流すため材
料劣化が早く、素子の寿命が短いことがかつての問題点だったの
です。しかし、これには改良と改善が行われ、素子の寿命は実用
レベルの1万時間を越えて、現在では、3万〜5万時間と大幅に
伸びているのです。
 13型のフルカラー有機ELディスプレイを開発したソニーで
も目下の課題は、「低消費電力の実現と有機ELの寿命を延ばす
こと」であるといいます。やはり素子の寿命を伸ばすことがポイ
ントのようです。
 ソニーは「有機ELディスプレイはポストCRTになる」とい
っています。CRTとはブラウン管型のディスプレイのことです
が、有機ELはブラウン管に近い特性があるのです。応答速度が
速く、動画表示もなめらかであるからです。
 現在ブラウン管や液晶が使われている家庭用テレビにも有機E
Lは使われ、究極の壁掛けテレビになる可能性があります。そう
いう意味で有機ELは、データ放送を受信するのに最適なブロー
バンド時代のデバイスであるといえます。
 こういう先端技術の話は難しいけれども夢があります。中村博
士の本はぜひお読みになるとよいと思います。

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2001年05月29日

『2001年宇宙の旅』講義/モノリス(EJ625号)

 先日書店で「『2001年宇宙の旅』講義」(巽孝之著、平凡
社新書092)という新刊書を見つけて読んでみました。「20
01年宇宙の旅」とは、1968年に公開された映画です。私は
この映画を何回も見ましたが、そのとき2001年は、はるか先
のことだと思われたものです。
 しかし、今年は2001年です。あれから33年が経過したの
です。民間人の宇宙旅行も1人ではありますが、本当に今年実現
しています。そういうこともあってこの本が発刊されたのだと思
います。この映画の謎を解くためにも・・・。
 実は、「2001年宇宙の旅」という映画の話題は、あの20
00年問題と関連させて、EJで取り上げたことがあるのです。
1999年3月15日のEJ98号においてです。
 ところで、皆さんは「2001年宇宙の旅」をご覧になったで
しょうか。もし、ご覧になっていないとすれば、ぜひ見ていただ
きたいと思います。6月10日(日)午後7時20分から、NH
K衛星第2テレビで放映されます。DVDでもLDでもビデオで
も出ています。見る価値はあると思います。
 この映画の原作者は、イギリスのSFの大家、アーサー・C・
クラーク、映画監督は、米国映画の巨匠、スタンリー・キューブ
リックです。この映画には謎が多いのです。単に映画を見ただけ
では、たとえ何回見たとしても、意味はわからないはずです。ま
ず、最初に映画を見て、続いてクラークの小説も読み、そして考
える――そうでないと理解できないと思います。
 この映画の謎を解くかぎは、映画中何回もあらわれる「モノリ
ス」について知ることです。モノリスとは、高さ3メートル、幅
1.5メートルの漆黒に輝く長方形の石板です。映画では、この
モノリスについては一切何の説明がないまま映画の主要な場面に
おいてモノリスは何回も登場するのです。
 映画「2001年宇宙の旅」は、地球上にホモ・サピエンスが
登場する前の太陽系において、神ならぬ地球外知性体が3種類の
モノリスを設置したのです。第1のモノリスは地球に、第2のモ
ノリスは月に、そして第3のモノリスは木星の衛星軌道上に置か
れたのです。なぜ、そんなことをしたのか。そもそもモノリスと
は何であり、何を目的とするものなのでしょうか。
 モノリスは人間の知恵を増加させる一種の教育装置のようなも
のと考えられます。これに触れると、知恵が増して利口になると
いう設定です。映画の最初の部分で地上にそびえるモノリスの周
りに人類の祖先である類人猿が集まり、中にはモノリスに手に触
れるものもいるシーンがあります。
 やがて、類人猿同士の争いが始まるのですが、手に骨を持ちそ
れを武器として使う猿が現れ、他の猿を征服してしまいます。そ
の猿がモノリスに触れた猿なのです。つまり、モノリスに触れる
と、知恵がつき一段と賢くなるのです。類人猿に知恵を与え人類
を進化させるのが地球上に置かれたモノリスの役割なのです。
 それらの類人猿が骨を空高く放り上げると、その骨は一瞬にし
て宇宙船に変わります。このシーンは実に美しく最初に見た感動
を今でも覚えています。このあたりから、映画は題名にふさわし
く宇宙の旅らしくなります。
 なぜ、いきなり宇宙船なのかというと、それが人類の叡智の産
物とみなしているからなのだと思います。地球上に置かれたモノ
リスによって知恵を獲得した人類は、やがて叡智を集めて宇宙船
を作りだします。そして、行くところは最も身近な月というわけ
です。地球外知性体は、人類は必ずそうすると予測して第2のモ
ノリスを月に埋めておいたのです。
 人類が月面のモノリスを発掘すると、それに太陽光線が当り、
木星へと信号が送られます。そして宇宙船はその光の信号を辿っ
て木星に向けて発進するのです。例の地球外知性体は人類が進化
すれば宇宙船を作って必ず月にきて、それからさらに高度な木星
探査宇宙船ディスカバリーを作り木星に向うと考えてえてモノリ
スを置いたのです。
 その宇宙船ディスカバリーには、HAL9000という名前の
スーパーコンピュータが搭載され、宇宙船全体を取り仕切るので
す。実は、このHAL(ハル)という名前は次の意味が隠されて
いるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         HI・・・AB・・・LM
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 つまり、HALを構成する最初の文字HはIの前、AはBの前
であり、LはMの前ということになります。つまり、いずれも、
IBMの前にあるという意味で「HAL」なのです。IBMを超
えるコンピュータという意味なのです。
 この宇宙船のコンピュータHALとボウマン艦長をはじめとす
る乗務員との間にはいろいろな葛藤があるのですが、それはさて
おき、HALは発狂して宇宙船を暴走させます。
 HALの管理から脱してディスカバリー操縦の主導権をとった
ボウマン艦長は、木星軌道上に置かれた第3のモノリスと遭遇し
ます。この第3のモノリスによってディスカバリーは、物凄いス
ピードで、未知の空間、時空間を超える扉に当るスター・ゲート
に呼びこまれてしまうのです。
 そして、そこで艦長のボウマンは、まったく生気のない、影ひ
とつない、美しいロココ風の部屋に導かれるのです。そこで、ボ
ウマンは急速に歳を取り、死ぬ間際にモノリスに出会い、胎児に
戻ってしまいます。
 このシーンは何を意味しているのでしょうか。きわめて異様な
光景なのです。こういう考え方もあります。地球外知性体は最も
優秀な人類のあらゆるデータが欲しかったのです。
 そこで、モノリスを使ってその最も優秀な人類、映画ではボウ
マン艦長をスター・ゲートに導き、時間を逆戻しして彼を胎児に
まで戻したのです。そして、その最も優秀な人類のデータをモノ
リスに収集したのです。このテーマは明日も続けます。

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2001年05月30日

『2001年宇宙の旅』/「火の鳥」との関連(EJ626号)

 今朝も「2001年宇宙の旅」の話です。
 宇宙船ディスカバリー号には、HAL9000というスーパー
コンピュータが搭載されています。HALは、人間的な会話、視
覚、判断などをし、誤りは冒さない超人工知能的コンピュータで
あり、宇宙船やミッション全体を完全に制御しています。
 HALは、次の“ロボット3原則”というものを守らされてい
るのです。“ロボット3原則”とは、SF作家アシモフがロボッ
トなどの作品で提唱しているものです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 第1原則:人間を傷つけてはいけない。または、傷つくのを見
逃してはならない。
 第2原則:上記の第1原則に反しない限り、人間の命令には従
うこと。
 第3原則:第1原則と第2原則に反しない限り、自分の身を守
ること。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 さらにHALは地球を出るとき、ひとつの指令を与えられてい
るのです。それは「月面で発見されることになるモノリスについ
ては乗員に知らせてはならない」という内容です。これはロボッ
トの3原則と矛盾し、それが原因でHALは発狂してしまうこと
になります。
 少し横道にそれますが、ロボットというと、私が子供のとき読
んだある漫画を思い出します。手塚治虫原作の「メトロポリス
という作品です。これは、ミッチイという名のロボットの物話で
あり、内容は非常に感動的です。「鉄腕アトム」より前のロボッ
トを主人公にした名作です。最近この「メトロポリス」が映画と
して再現されるという話です。
 手塚治虫の作品といえば、「2001年宇宙の旅」の、とくに
その後半の展開が、「火の鳥/宇宙編」と酷似しているのです。
火の鳥/宇宙編」は、疾空するロケットの中での不可解な殺人
事件、宇宙漂流、不思議な惑星への漂着、そして永遠の処罰など
あまりにもよく似ているのです。「2001年宇宙の旅」の公開
は1968年、「火の鳥/宇宙編」が描かれたのは1969年で
すから、手塚の方が影響されたということも考えられます。
 「火の鳥/宇宙編」は、生命を蔑ろにするという許されざる罪
を犯した男が、罰として火の鳥に永遠の命を与えられ、流刑星に
閉じ込められてしまうのです。考えてみると、永遠の命が与えら
れるということは、もっとも厳しい刑罰といえます。
 「2001年宇宙の旅」を「火の鳥/宇宙編」をベースに解釈
すると、ボウマン艦長は宇宙船ディスカバリーの中で2つの殺人
を犯し、生命を蔑ろにしたということで神はそれを許さず、最後
はロココ調の監獄に収監して、永遠の命を与えられます。
 ボウマン艦長はどんどん歳をとって老衰で亡くなる瞬間、胎児
として生まれ変わり、そしてどんどん歳をとる――これを永遠に
繰り返すのです。
 ところで、宇宙船の中での2つの殺人事件とは何でしょうか。
それは、副艦長のフランク・プールの殺害とそれから突然狂い出
して人間に対して攻撃的になったHAL9000の殺害です。ロ
ボットの殺害というのはおかしいですが、HALは人間的感情も
あり、人間そのものなのです。
 この殺人事件の黒幕がボウマン艦長であるかどうかは、ぜひこ
の映画をもう一度見て、ディブ・ボウマン艦長、副艦長フランク
・プール、それにHAL9000の3者の会話をよく聞いていた
だくと興味深いことがわかります。
 しかし、昨日のEJで書いたようなぜんぜん別のとらえ方もあ
るのです。この映画の真の意図は映画を見る観客自身があれこれ
考えるところに楽しさがあるのです。
 ロココ調の部屋に現れたモノリスは、サイバースペース型のコ
ンピュータであり、最も優秀な人間とされたボウマン艦長の生体
情報を吸収し、それを何回も再生させることができるのです。で
すから、ボウマンが胎児からこれ以上はないというほど朽ち果て
た老人になって消滅すると、モノリスがボウマンの生体データを
再生して胎児を生み出すというわけです。
 それから、この映画の音楽のことにも触れておく必要があると
思います。この映画の中で流れる音楽は、2曲のクラシック曲で
す。1つは、リヒャルト・シュトラウスの「ツァストストラはか
く語りき」であり、もうひとつはヨハン・シュトラウスの「美し
き青きドナウ」です。なぜか両方とも“シュトラウス”であるこ
とも面白いですね。まさか偶然の一致というわけではないと思い
ます。キューブリックのことですから・・・。
 「ツァストストラはかく語りき」は、映画の冒頭に類人猿が骨
を武器として持つシーンで流れます。この曲は同名のニィーチェ
の著書に基づいて作曲されているのですが、この書というのが、
相対論について書かれているのです。
 これに対して「美しき青きドナウ」は、宇宙船ディスカバリー
が宇宙を漂うシーンで流れます。「ツァストストラ・・」の動と
「美しき青き・・」の静――これは二元論ですね。キューブリッ
クという監督はこの二元論を手法としてよく使うのです。
 そろそろ紙面が終わりに近づいてきたので繰り返します。この
映画を見ていない人はもちろんのこと、見た人についても、6月
10日(日)の午後7時20分からNHK衛星第二放送を録画し
ていただきたいと思います。その上でぜひ、アーサー・クラーク
の同名の小説を読むべきです。それは大変興味深いです。これは
考える映画なのです。
 音楽でひとつ付け加えておきます。映画の中でモノリスが登場
するたびに流れるテーマらしい曲は、ハンガリーの作曲家、ジェ
ルジ・リゲティの「レクイエム」だそうです。そういう意味では
モノリスは“死”をイメージしているのです。
 DVDがごく身近な存在になって映画が復活しそうです。また
60歳以上の人は映画が安く見られるので大いに見るべきです。

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 『2001年宇宙の旅』講義
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2001年05月31日

日本は第四の国難に直面している(EJ627号)

 前野徹氏という人の書いた『第四の国難/日本崩壊の地鳴りが
聞こえる』(扶桑社刊)という本が話題となっています。
 前野徹氏は、1960年に東急グループ総帥の五島昇氏にスカ
ウトされ、東京急行電鉄の秘書課長としてマスコミなどの対外折
衝の担当者として活躍された人です。1981年から東急エージ
ェンシーの社長として同社を業界13位から電通、博報堂に次ぐ
業界3位にまで躍進させた辣腕の経営者としても有名です。
 前野氏によると、現在日本は「第四の国難」に遭遇していると
いいます。このことについて、前野氏は、2000年になってか
ら、何冊かの本で何回も訴えているのですが、事態が悪くなるば
かりなので、上記の本を上梓したといっているのです。
 それでは、第一〜第三の国難とは何でしょうか。
 日本にとって国家存亡の危機といえば、第一に蒙古襲来があげ
られます。ちょうど現在、NHKの大河ドラマで「北条時宗」を
やっているのでピンとくると思いますが、あのときは、日本国に
とって大変な危機だったのです。
 当初NHKとしては、21世紀を迎えた大河ドラマであったの
で、もっと明るい希望に満ちたテーマを考えていたようです。し
かし、世相を考えて急遽蒙古襲来と北条時宗の時代にテーマを変
更したというのです。
 日本が迎えた第二の国難とは、明治維新です。今から148年
前の黒船来航から1870年代にいたる時期が明治維新です。ペ
リー提督率いる米国の東インド艦隊の黒船4隻が浦賀沖に姿をあ
らわしたのは、1853年6月3日のことで、開国を迫るペリー
に江戸幕府は騒然となったのです。
 「太平の眠りをさます上喜撰、たった四はいで夜も寝られず」
という狂歌によってわかるように当時の人は恐れおののいたので
す。とにかく大砲を積んだ蒸気船など見たことはなかったのです
から、上へ下への大騒ぎとなったのも当然のことです。
 しかし、日本は血を流さずにこの国難を乗り切り、近代国家へ
と変貌を遂げたのです。明治維新は、情熱と理想に燃える若者た
ちがわが身を顧みず、日本の将来を憂い、決起して実現したので
すが、当時既得権益を握っていた武士や公家が若者たちの意気と
情熱に応えたという点が注目されます。
 士農工商という階級社会にあって、特権階級であった武士が国
の将来のために己の権益を捨てて体制を倒し、革命を成功に導い
たのです。これは、欧米の常識では考えられないことなのです。
 世界の革命は、圧政から逃れるため、やむにやまれず民衆が立
ち上がるという構図なのですが、日本の場合は、特権階級が自ら
改革をやったという点で、世界の例をみないといえます。
 第三の国難は、1945年の敗戦です。米軍の無差別空襲によ
り日本は焦土と化し、9月には占領軍が上陸して日本の主権は奪
われ、GHQの支配下に置かれたのです。
 前野氏にいわせると、昭和20年から26年までの7年間、米
国に占領されていた間に日本はまったく別の国に作り替えられて
しまったというのです。日本の伝統的な文化は一切棚上げされ、
日本が立派な国として突出しないように日本の土台は完全に組み
替えられてしまったのです。
 しかし、戦後経済の重鎮といわれる人たちは、国の基本は米国
にまかせ、経済に集中してその建て直しを図ったのです。その結
果、日本の経済は驚異的な復興を遂げ、第三の国難も見事に乗り
切ることができたのです。
 しかし、その後遺症はひどかったのです。日本の伝統と歴史、
文化、精神を重んずる人たちと、そういうことに頓着しない人た
ちに分かれてしまったのです。そのため、いまだ日本の基礎は、
米軍の占領時代と何も変わらず、経済も政治も占領政治の余韻を
引きずり、米国に完全に依存しているのです。
 先人たちの血のにじむ努力により、第三の国難は克服できたも
のの、国富んで現代人は精神を忘れ、第四の国難を招くことにな
るのです。そしてこの第四の国難が今までの3つの国難の中でも
最も深刻でかつ複雑なのです。
 つまり、蒙古襲来よりも、明治維新よりも、敗戦よりも、第四
の国難を乗り切るのは難しいといえるのです。何よりも、問題な
のが現在自分の国である日本が未曾有の国難に見舞われていると
いう事実を国民の多くが認識していないことです。
 蒙古襲来の危機に対処した北条時宗の場合を考えてみよう。当
時の蒙古(元)は、現在の中国、ロシア、西アジアにまたがる広
大な領土を持つ強国なのです。まともに戦って勝てる相手ではな
いのです。日本に送りつけてきた元の国書は日本を見下した無礼
きわまりないものであり、しかも「うまくいかない場合は武力を
用いる」と脅しまでかけてきているのです。このような要求は受
け入れられるはずのものではありません。
 しかし、今の日本だったら受け入れてしまうのではないでしょ
うか。現在も集団的自衛権をめぐる論議が迷走していますが、現
代の日本人は「国の主権を守る」ということに必ずしも熱心では
ないように見えます。
 前回の衆議院選挙で自民党を破って当選した民主党のある女性
議員は、テレビ番組で軍備は絶対してはならないと発言し、司会
の田原総一郎氏に「それでは敵が日本を攻めてきたら日本はどう
するのか」と詰め寄られると、「仕方がないから降伏する」と平
然と答え、何ら恥ずるところがなかったのです。このような議員
は論外としてもそういう議員を選出した国民も大いにおかしいと
私は考えます。
 蒙古襲来に備えて北条時宗は、さんざん悩んだすえ、博多湾岸
に石塁を築き、防御を固めるなど、考えられるあらゆる手を打っ
た上で蒙古を迎え討ったのです。決して台風だけで日本が救われ
たのではないのです。
 何よりも強調すべきは、当時の日本人の自分の国を守ろうとい
う気概なのです。朝廷と幕府は協力し、執権北条時宗を中心に団
結してことに当たったから活路が開けたのです。

627号.jpg
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2001年06月01日

日本の観光は世界第32位である(EJ628号)

 前野氏の本を素直に読むと、現在の日本は本当に変な国だと思
います。しかし、前野氏の本は、彼が本当に読んで欲しい人は読
まないか、たとえ読んだとしてもその考え方に絶対に納得しない
し、賛同しようとしないでしょう。そこまで日本は、落ちてしま
っているといえると思います。以下、私は客観的な事実だけを書
きますので、現在の日本がまともな国かどうか判断していただ
きたいと思います。
 2000年3月のことですが、東京都・国立市第二小学校の卒
業式で、式場での国旗掲揚を主張する校長に教員が反対し、やむ
なく校長が校舎の屋上に国旗を立てたところ、これに反発した教
員7人、生徒30人が校長を2時間にわたってつるし上げ、校長
に土下座させたという事件がありました。
 東京大学の藤岡信勝教授が調査したところ、国立では「日の丸
の赤は血の色、白は戦争犠牲者の骨の色」と教えていたことが判
明したのです。生徒たちは「日の丸は日本が悪いことをした侵略
の旗だから掲げてはいけない」といっていたそうです。これは、
日本の歴史観を意図的に歪める教育の“成果”です。
 ある日本の歴史教科書には次のように書いてあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『・・インドシナは、南方に送られた日本軍兵士の食料の基地
にされたため、日本軍に大量の米を奪われたうえ、冷害などの
災害が重なり、多くの人が餓死しました。マレー半島では、中
 国系の住民が抗日的とみなされ、多くの人たちが弾圧・処刑さ
 れました。インドネシアでは、石油などの資源を奪われたほか
 労務者として強制労働に従事させられた人が多くいました』。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これが日本の教科書なのです。まさに自虐史観といえます。と
ころが、強制労働させられ、過酷な植民地支配にさらされたはず
のマレーシアの教科書には次のように書いてあるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『・・日本の占領が(欧米の)植民地主義に支配されていた民
 族に自信を植え付けた・・・私たちは、強い意思と精神で日本
 がイギリス植民地主義のおごりをたたきつぶすのに成功したこ
 とを認めた。日本占領は、また敵に攻撃された自国を守るのに
 他人に頼っているだけではいけないことを私たちに教えてくれ
 たのである。』。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 前野氏は、日本には「反日日本人」がおり、それを育てる教師
がいると指摘しています。国家に反逆するのが当たり前で、悪で
ある国は何が何でも潰さなければ・・という価値観で30年ほど
前に全共闘による学生運動が盛り上がったのです。
 その反日日本人が今は親の世代なのです。彼らが子供たちに国
を大切にしろ、公のルールは守れと教えるでしょうか。
 マレーシアといえばマハティール首相が1992年10月14
日に香港で開かれた「ヨーロッパ・東アジア経済フォーラム」に
おいて行った有名な演説があります。この演説の全文は所有して
いますが、そのほんの一部をご紹介しましょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『日本の存在しない世界を想像してみたらよい。もし日本なか
 りせば、ヨーロッパとアメリカが世界の工業国を支配していた
 だろう。欧米が基準と価格を決め、欧米だけにしか作れない製
 品を買うために、世界中の国はその価格を押し付けられていた
 だろう。(中略)
  日本と日本のサクセスストーリーがなければ、東アジア諸国
 は模範にするべきものがなかっただろう。ヨーロッパが開発・
 完成させた産業分野では、自分たちは太刀打ちできないと信じ
 続けただろう』。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この演説の途中で欧米代表は、席を蹴って退席してしまったと
いうのです。1992年といえば、ジャパン・バッシングの最盛
期だったのですが、これほど日本を正当に評価し、援護してくれ
る一国の元首はいなかったのです。ところが、日本政府は、この
マハティール演説に対して何も反応しなかったし、日本のマスコ
ミはそういう演説があったことすら報道していないのです。
 本当に新聞はなぜ報道しないのでしょう。どうでもいいような
ニュースは報道するのにこのような大事なことを報道しない――
明らかに偏向しています。
 マハティール首相は、西を向くな、ルック・イースト、アジア
で成功した日本に学ぶべしというポリシーを持っている人です。
しかし、そのマハティール首相も最近の日本には批判的です。
 「日本は、西洋と同じことをするために「ルックウエスト」を
試みている。日本が自らの流儀で築いてきた多くの物事を破壊し
ている。そのために日本は非力な状態に陥った」と日本を批判し
ているのです。
 マハティール首相は、北米のNAFTA、欧州のEUに対抗す
るために、一貫してアジアの経済的な団結を唱えており、現在も
東アジア経済会議(EAEC)をアジア各国で提唱しています。
 しかし、米国はこれに猛反対、マハティールの政敵・アンワル
を支持するなどして猛烈にマハティールつぶしを行っています。
当時日本の河野洋平外相、橋本龍太郎通産相は米国にすりより、
マハティールつぶしに荷担するという始末です。
 前野氏は、民主党の鳩山由紀夫氏、管直人氏、自民党の加藤紘
一氏らもかつての全共闘自世代の国会議員であり、侵略と反日を
学び、贖罪を国際主義であると心底信じている政治家であるとい
っています。
 現在、日本の国際競争力は情けないほど低下しています。その
ひとつは観光で、トップはフランス、アメリカ、スペインがベス
ト3ですが、日本は世界第32位というのをご存知ですか。チュ
ニジア、南アフリカよりも下なのです。日本はそれほど魅力のな
い国になっていることを認識すべきです。つまり、外国からの旅
行者が減っているわけです。

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2001年06月04日

縦軸派文化人と横軸派文化人(EJ629号)

 「2001年宇宙の旅」については多くの方からご意見が寄せ
られました。その中で映画評論家(?)――とくにこの映画には
うるさい近藤剛氏が貴重な情報を寄せてくれましたので、ご紹介
したいと思います。
 EJ626で「2001年宇宙の旅」のストーリーが、手塚治
虫原作の「火の鳥/宇宙編」によく似ていると述べました。「2
001年〜」の公開は1968年、「火の鳥」は1969年の作
品ですから、制作年代から見て手塚治虫が影響を受けたのではな
いかということを書きました。
 近藤氏によると、手塚の方が明らかに影響を受けているという
のです。その理由は、手塚とキューブリックとは接触があったか
らです。キューブリックは当時「鉄腕アトム」が「アトラス・ボ
ーイ」として海外で放映されていたのを見て感動し、手塚に「2
001年の宇宙の旅」の美術デザインの依頼をしてきたという事
実があるのです。
 手塚はこの申し出に興味を示したそうですが、契約条件の中に
「ロンドンに1年間滞在する」という項目があったため、結局は
断ったのです。このやりとりがあったので、手塚は、「2001
年〜」の試写会に招かれこの映画を見ているのです。「火の鳥/
宇宙編」が創作されたのはそのあとのことです。
 ところで、手塚治虫の50年前の大作「メトロポリス」が映画
化され、5月26日から全国東宝洋画系の劇場で上演中です。日
本が誇るトップクリエーターである脚本の大友克洋と監督のりん
たろうです。一見の価値があると思います。
 さて、今朝も前野氏の本から書きます。前野氏は、本の冒頭で
今年の2月に起こった「野呂田芳成衆院予算委員長舌禍事件」を
取り上げています。「舌禍」と断じたのは大新聞です。
 何が「舌禍」なのかに知っていただくために野呂田氏の発言を
ご紹介します。野呂田氏は先の戦争を「大東亜戦争」と呼称した
うえで次のように発言したのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『米国が石油などを封鎖したから、日本はやむをえず南方で資
源確保に乗り出していった。いわばそれは米国側の策にはまっ
てしまったのが本当だろうと、多くの歴史家が言っている。・
 ・・大東亜戦争で植民地主義が終り、日本のおかげで独立でき
 たという国の首脳もたくさんいるが、それは別としても、戦で
 負けてしまったのは、政策の誤りであって、日本の文化、歴史
 伝統が悪いと反省してしまったのは、本当に大きな誤りだ』。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 野呂田議員の地元秋田でのこの発言を大新聞は一斉に取り上げ
彼に「戦争を助長する危険な思想家」というレッテルを貼り、そ
の発言を封じ込めてしまったのです。
 しかし、「大東亜戦争」のどこが悪いのでしょうか。日本の教
科書は、日本政府が「大東亜共栄圏」という美名のもとに侵略を
やったと決め付けていますが、事実と大きく異なります。そして
このことばを何よりも嫌がるのは米国なのです。そこで米国は、
日本が命名した「大東亜戦争」ということばを「太平洋戦争」に
置き換えたのです。いわゆる東京裁判を米国など戦勝国を有利に
導くために・・・・・。
 野呂田発言にもあるように、日本は大東亜戦争があくまで東ア
ジアの諸国を白色人種の支配から開放するという大義に基づくた
めの戦争と位置づけているのに対し、米国は先の戦争をそうとら
れるのは都合が悪かったので、太平洋が舞台の戦争であることを
強調したのです。
 このようにいうと、若い人から「それはおかしい」といわれそ
うですが、そういう疑問をもつ人はぜひ小林よしのり氏の「戦争
論」を読んでいただきたい。前野氏はその小林よしのり氏を「縦
軸派文化人」と称しており、その勇気を高く評価しています。
 この「縦軸派」に対して、歴史を平面的に見て、現状に右往左
往する左翼マスコミ、進歩的知識人のことを前野氏は「横軸派」
といっています。小林よしのり氏は、その反日左翼勢力から猛烈
な迫害を受けているのです。
 大東亜戦争によって東アジアの国々が欧米の植民地支配から独
立できたことを感謝している例は、マレーシアのマハティール氏
だけではなく、インドにも見ることができます。
 昭和天皇が崩御された13前のことです。日本では3日間喪に
服しましたね。しかし、インドでは全国民が一週間喪に服して、
昭和天皇の死を悼んだのです。日本よりも長いのですから驚きで
す。「我々を西欧の植民地支配から救ってくれた偉大なる指導者
の死」として、国民葬として喪に服したのです。日本がインドに
供与しているODA(政府開発援助)は、中国へのそれに比べれ
ば、50分の1にも満たない額なのです。
 しかし、日本のマスコミはこのことを一行も報道していないの
です。ですから、われわれが知っているわけがないのです。日本
のマスコミは本当におかしいと思います。それでいて、野呂田発
言にはヒステリックに反応し、危険な政治家であるというレッテ
ルを貼り、野党もこれに同調して衆院予算委員会で解任決議案ま
で提出したのです。愚かしいことだと思います。
 野呂田議員は昭和4年(1929年)生まれの戦争を経験して
いる世代です。前野氏によると、彼はタカ派の議員ではなく、ハ
ト派に属する良識派の議員として知られている人であり、戦争を
助長する危険な政治家などではないといっています。
 国難のときは国民がひとつに団結してことに当たるべきですが
国民の中に反対行動をとる人がいるのではまとまりません。蒙古
襲来のとき、とくに2回目の弘安の役は4400隻、14万人に
及ぶ元の軍勢が博多湾に集結したのです。しかし、幕府が博多湾
岸に築いた石塁のため上陸できず、しかも日本軍は、夜になると
船に乗って敵船に乗り付け、果敢に攻撃を仕掛けて元軍を苦しめ
たのです。そこに台風が再び吹いたのです。しかし、今の日本は
国難に対処する姿勢が欠如しているように感じます。

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2001年06月06日

日米開戦に秘められた謎を解く(EJ631号)

 EJ629号で、前野徹氏によると日本の知識人や文化人には
縦軸派と横軸派があることをご紹介しました。そして、今の世の
中には縦軸派の人が必要であることも・・・
 前野氏のあげる縦軸派は、政治家元老の中曽根康弘氏をはじめ
漫画家の小林よしのり氏、東京大学教授の藤岡信勝氏、電気通信
大学教授の西尾幹二氏、評論家の西部邁氏、それにジャーナリス
トの櫻井よし子氏の名前が並びます。とくに櫻井氏に対して前野
氏は次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『櫻井よし子さんも、私が期待する縦軸派文化人のひとりであ
 る。彼女が「週刊新潮」などで連載している「日本の危機」、
 「迷走日本の原点」といった一連のシリーズは、毎回、確かな
 目標で貫かれており、櫻井さんのジャーナリストとしての見識
 の高さを感じさせる』。(『第四の国難』より。扶桑社刊)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 前野氏が推奨する『迷走日本の原点』(櫻井よし子著、新潮社
刊)は、大変な名著です。この本は、「週刊新潮」に連載された
シリーズに櫻井氏が大幅に加筆訂正してこの4月に刊行されたば
かりの新刊書です。
 その櫻井氏の本の第2章に「アメリカの陰謀」というタイトル
で書かれた部分があります。櫻井氏は、ここで、ロバート・ステ
ィネットによる『欺瞞の日』(Day of Deceit) という本を紹介
しています。この本には「FDRと真珠湾の真実」という副題が
ついているのです。
 この本は、2000年の春に出版されているのですが、この本
によると、日本の真珠湾攻撃は、あらゆる電報や暗号がすべて米
側で傍受・解読され、日本軍が真珠湾に来ることをすべて知りな
がら、当時の米国大統領フランクリン・ルーズベルトはあえて日
本の攻撃を黙認して受け入れたという衝撃的事実が書かれている
のです。つまり、当時の米国は、何としても日本に戦争を仕掛け
させたかったのです。
 この本は膨大な資料からその米国の陰謀を証明しているという
のです。本来であれば、当時の日本が国際的にどういう状態にあ
ったかについて書くべきですが、それを書くと長くなるので、こ
こでは「大東亜戦争(太平洋戦争)」が米の陰謀によるものとい
う事実についてのみ取り上げます。
 前野氏も『第四の国難』の中で、この件について次のように述
べているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『恐らく日本が真珠湾を間もなく攻撃すると聞いて、ルーズベ
 ルトは飛び上がって喜んだに違いない。開戦の大義名分が立つ
 上、「騙し討ちも辞さない卑怯な日本民族」と戦うのだとなれ
 ば、国民も奮い立つ。ルーズベルトにとって真珠湾攻撃は一石
 二鳥のありがたい贈り物となった。日本はまんまとルーズベル
 トの罠にはまってしまったのだ』。(前野徹)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このフランクリン・ルーズベルトという男は、人種差別主義者
で、根っからの反日感情の持ち主だったのです。実は彼の前の大
統領もルーズベルトという名前であり、セオドア・ルーズベルト
といいます。日本と戦争したフランクリン・ルーズベルトは、セ
オドアの甥に当るのです。日本に戦争を仕掛けさせ日本を打倒す
ることをいい出したのは、セオドアが大統領のときからであり、
フランクリンはそれを受け継いだのです。
 『欺瞞の日』によると、当時米国には「対日開戦促進計画」と
いうものがあり、いかにすれば日本を刺激し、憤らせ、退路をふ
さぎ、打つ手を失わせ、対米英蘭不信感を深めさせ、遂には国際
社会のそしりを受けるような開戦に追い込むことができるかを8
段階にわたる戦略として構築しているのです。
 例えば、第1段階としては「英国が太平洋地域、特にシンガポ
ールに保有する軍事基地を米国も使用できるよう英国政府と調整
すること」とありますが、戦前の日本においてこんなことをされ
れば、日本は米国の意図を疑うはずです。
 第2段階は「オランダが保有するインドネシアにおける基地の
米軍による使用と米軍への物資の供給についてオランダ政府と調
整する」とあります。これをされれば、日本としては米国に対し
て猜疑心と敵愾心を燃やすにきまっています。
第3段階は、「中国大陸の蒋介石政権に全ての可能な援助を与
える」とあります。中国大陸に歩を進めた日本は、蒋介石政権を
相手に日支事変に突入し、蒋介石と泥沼の戦いをやっていたので
す。その蒋介石を米国が支援するということになれば、日本とし
てはもう戦争しかないということになります。
 このようにして日本に猜疑心を抱かせ敵愾心をあおり、日本を
追い詰めていったのです。そして、第8段階で「日本との貿易を
すべて禁止し、日本を封鎖する」ということに至るのです。日本
としては、何としても米国との戦いだけはやりたくなかったので
あらゆる外交努力を重ねたのですが、一歩一歩戦争に追い込まれ
たのです。
 先にお伝えした野呂田芳成議員も「米国が石油などを封鎖した
から、日本はやむをえず南方で資源確保に乗り出していった。い
わばそれは米国の罠にはまってしまったのが本当だろうと、多く
の歴史家がいっている」と述べており、ここにも「米国の罠」と
いうことばを使っているのです。
 ところが、1993年8月5日に首相に就任した細川元首相は
「先の戦争をどう認識しているか」という記者の質問に対して、
「私自身は侵略戦争であった。間違った戦争であった」と述べて
います。首相に就任すると記者は必ずといってよいほどこういう
質問や靖国神社参拝のことを聞くのですが、これは要するに踏絵
を踏ませるわけです。しかし、細川氏は国会における所信方針演
説の中で「日本は侵略国」という趣旨の発言をしており、一国の
首相としてまことに思慮のない発言といえます。

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2001年06月07日

ヒットしている映画『パール・ハーバー』(EJ632号)

 現在、映画『パール・ハーバー』が全米で公開され、多くの観
客を動員しているというニュースが入っています。6日(水)発
売の「ニューズウィーク」日本版の表紙は、この映画の主演俳優
であるベン・アフレックとケイト・べッキンセールの写真で大き
く飾られています。「ニューズウィーク」としてこの映画の特集
記事を組んでいるのですが、タイトルは次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『パール・ハーバー/「真珠湾」を娯楽にしたハリウッド』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 昨日のEJ631号で真珠湾攻撃のことを取り上げたので、今
朝もこの話題を続けたいと思います。
 この映画の監督は、「アルマゲドン」の監督であるマイケル・
ベイ氏――大物監督による超大作なのですが、この映画は企画段
階から予算やキャスティングをめぐって大もめにもめて、やっと
完成したといういわく付きの作品なのです。
 というのは、ウォルト・ディズニー社のマイケル・アイズナー
会長が予算を出し渋り、なかなかOKを出さなかったからです。
決定は、ウォルト・ディズニー社の戦略計画委員会にかけられ、
予算の額をめぐって何回も会議が行われたのです。
 当初の予算は2億800万ドル、それがどんどん下げられ、遂
に1億4500万ドルになった時点で、キーマンであるディズニ
ー・スタジオのジョー・ロス会長がやめて新会社を設立するとい
う騒ぎになったのです。これに怒ったアイズナー会長は『パール
・ハーバー』の制作にストップをかけ、一時この映画は沈没寸前
というところまでいったのです。
 しかし、何とか映画を完成させたいベイ監督をはじめ、制作の
ジェリー・ブラッカイマー、主演のベン・アフレックまでがギャ
ラの減額に同意して、総制作費1億3500万ドルに500万ド
ルまでは追加の余地ありという条件で決定されたのです。もし、
これをオーバーしたときは、ブラッカイマーとベイ監督が自腹を
切るという厳しい条件です。
 現在映画は全米で公開中ですが、その出足はなかなか好調のよ
うです。すでに2週間で1億1930万ドルの興行収入を上げて
いるからです。赤字を免れるだけでも4億ドルの興行収入は必要
であるということですが、この調子ならクリアできるのではない
かと思われます。日本では7月14日に公開される予定です。
 さて、この映画の制作に当って昨日のEJで述べたルーズベル
ト陰謀説も検討されたそうですが、結局は無視することに決まっ
たのです。この映画は基本的には娯楽映画であり、ラブ・ストー
リーになっているのですが、時代考証については、とくに正確に
行われているようなのです。
 歴史家のドリス・カーンズ・グットウインは、「ルーズベルト
陰謀説などは『あり得ない』」と一蹴します。その理由として、
海軍を心から愛していたフランクリン・ルーズベルトが、350
0人もの兵員と大切な艦船を見殺しにするとは思えないというこ
とをあげています。
 この点については確かに私もそう思いました。攻めてくるとい
う情報がわかっているのに、事前に何らの防御策も取らず、むざ
むざとサンドバックのようにやられるのを、いかに国益のためと
はいえ、人間として黙ってみていられるでしょうか。
 しかし、疑問はたくさんあります。なぜなら、そのとき真珠湾
には、「アリゾナ」をはじめとする戦艦はいずれも第一次大戦当
時の年代物の戦艦ばかりであり、新鋭艦や空母など、そのあとの
戦争の展開に米軍にとって不可欠になる艦艇は、一隻もいなかっ
たのです。これはきわめて不自然なことです。
 「ニューズウィーク」では、「あの日、私は真珠湾にいた」と
いう特集を組み、いろいろな人に取材しているのですが、その1
人であるジェームス・ワイヤー氏は次のように言っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『連中(日本軍のこと)のやったことは絶対に許せなかった。
 でも、ふと思った。アメリカ政府は事情を知っていたはずだ。
 どうして5分前にでも、10分前にでも連絡してくれなかった
 んだ?』。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ワイヤー氏のようにごく普通の米国国民でも、米国政府が日本
のやっていることは、ほとんど把握して知っていると信じている
のですから、日本軍が真珠湾に来襲する情報だけ把握できなかっ
たとは思えないのです。
 そこで、考えられることは、ルーズベルトが日本をなめ切って
いて、奇襲を受けても、あれほどひどい打撃を受けるとは予想し
ていなかったのではないでしょうか。ただし、新鋭艦や空母は、
一応湾の外に出して安全策をとったわけです。しかし、当時の日
本軍、とくに海軍は最強であり、それも十二分に訓練を重ねて組
織的に攻撃をかけてきたのです。ルーズベルトは、そのあたりが
見抜けなかったことはいえると思います。
 もし、日米開戦という事態になった場合、日本軍が必ずハワイ
を攻撃してくるということは、軍事関係者であれば十分予測でき
たという別な事情もあります。というのは、日露戦争で日本がロ
シアに勝利したあと、「日米もし戦わば・・」という「日米未来
戦記」が日米で流行したことがあるのです。
 その「日米未来戦記」の中で一番売れたのが、バイウォーター
という人の著作である『太平洋の軍事力』と『太平洋戦争』であ
るといわれます。もちろん日本語にも翻訳され、日本の作家や軍
事関係者たちに大きな影響を与えたといわれます。
 この本に書かれていることは、実際に起こった日米戦争と驚く
ほど似ているのです。このことを私は『リメンバー』(ウィリア
ム・ホーナン著、徳間書店刊)によって知ったのですが、著者の
ホーナン氏は元ニューズウィークの記者です。この本は日米とも
に軍事関係者に多く読まれており、ルーズベルトが知らないとい
うことはあり得ないのです。

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2001年06月08日

真珠湾攻撃と米軍の報復空襲(EJ633号)

 日米開戦のことに触れたので、今朝も同じテーマを続けます。
 日本軍が真珠湾を空襲するという情報がワシントンにもたらさ
れたとき、ワシントンはもちろん直ちにハワイの艦隊司令官に電
報を打っています。しかし、この電報は、不運とお役所仕事の怠
慢とが重なって、ハワイの艦隊司令官のハズバンド・キメル大将
に届いたのは、真珠湾攻撃がはじまってから、何と5時間もあと
だったのです。
 それにしても当時は急を知らせる連絡は電報だったのですね。
キューバ危機のときのケネディとフルシチョフとの連絡はテレッ
クスでした。それにしても電話はどうしたのでしょうか。いずれ
にせよ、ハワイは何もわからないまま、いきなり日本軍に攻撃さ
れたことは確かです。今なら、メールですぐ急を知らせることが
できますね。改めてインターネットの便利さというか、凄さがわ
かります。
 それでは、米軍のレーダーはどうだったのでしょうか。当時す
でにレーダーは配備されていて、使えたはずなのにどうして機能
しなかったのでしょうか。
 確かに米軍のレーダーはオアフ島に大挙して飛来する日本軍の
戦闘機(353機)の機影をちゃんととらえていたのですが、レ
ーダーを読むことに慣れていなかった当直士官のカーミット・タ
イラーは、その機影を本土からやってきた味方の戦闘機と間違え
てしまったというのです。このタイラー氏は現在88歳で健在だ
そうです。
 ルーズーベルト大統領は、真珠湾攻撃の直後、ホワイトハウス
の書斎でその知らせを受けたそうです。エレノア夫人によると、
その一瞬大統領は凍りつき、氷山のようになったといいます。
 しかし、当時の米国は、インターネットのような通信システム
がなかったので、米国内ではさまざまな誤情報が流れて騒然とな
ったといわれます。「日本軍がワイキキビーチに上陸している」
とか「日本軍がサンフランシステコを侵略中」とかいうウワサが
流れたといわれます。日本軍が米国の西海岸に上陸して、中部の
シカゴに攻め込む可能性があるとみていた人は多いようです。
 映画には、こういうシーンがあるそうです。
 車椅子に座ったフランクリン・ルーズベルト大統領が海軍幹部
に対して「即刻日本に報復せよ」と命じます。「それは不可能で
す」と答えると、大統領は必死の形相で力を振り絞って車椅子か
ら立ち上がってこういうのです。「この私に向かって『不可能』
などということばを使うな!」と。フランクリン・ルーズベルト
大統領は脚が不自由であり、車椅子の生活を送っていたのです。
 実は大統領の命じた報復は実際に行われています。真珠湾攻撃
のあった翌年の1942年4月18日、12時30分のことです
が、米軍によるはじめての東京空襲が行われたのです。
 ジミー・ドゥーリトル中佐率いるB25戦闘機の一隊16機が
太平洋上の空母から飛び立って東京を空襲したのです。
 作家の伊藤整氏は、当日の日記にこう書いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『初めての本当の空襲であるが、晴れて明るい日のこととて、
 のん気である。あの飛行機が敵機というのだそうだが、ふだん
 の日本の飛行機を見るのと変らない気持。今まで受け身でばか
 りいたアメリカ人も初めて少しは仕事らしいことをしたと、ほ
 めてやりたい位の気持ちである。昼間の東京に入って来るなど
 なかなかやるわい、といかにも冒険好きなアメリカ青年の顔が
 目に浮かぶやうだ』。(伊藤整著、『太平洋戦争日記』新潮社
 刊、1983年105ページ)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、ドゥーリトル隊は装備を最低限にし、帰還するための
燃料を十分に積んでいなかったので、空襲を終えたあとは中国に
不時着せざるを得なかったようです。それでも、日本にとってこ
の空襲はかなりショックだったのです。日本の当局としては、本
土が空襲を受けることは絶対にないと明言していたからです。
 そして、これ以上空襲されることを防ぐために、日本は中部太
平洋のミッドウェー島の制圧にかかるのですが、暗号を解読され
ていた日本の連合艦隊はここで大敗し、貴重な空母を失ってしま
うことになります。1942年6月のことです。
 ところで日本の教科書は、真珠湾攻撃をどのように教えている
のでしょうか。
 現在、中学校の歴史教科書には7社のものが採用されているの
ですが、いずれも真珠湾攻撃を「奇襲」と位置づけています。し
かし、今年の4月に文部科学省の検定に合格した「新しい歴史教
科書をつくる会」の教科書には、次のように奇襲であっことは述
べられていないのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『日本の海軍機動部隊が、ハワイの真珠湾に停泊する米太平洋
 艦隊を空襲した。艦は次々に沈没し、飛行機も片っ端から炎上
 して大戦果をあげた』。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、これはどのように考えても「奇襲」です。奇襲は奇襲
とありのままを表現すべきです。実は、開戦の最後通牒は日本政
府としては、キチンと所定の手続きを踏んで攻撃をする前に行っ
ているのに、当時の野村駐米大使は、それを85分間手渡すのが
遅れてしまったのです。
 現在、外務省の体質が厳しく問われていますが、当時からダメ
だったのです。他国でしたら、こういう国の名誉や国益を損ねる
ことをやった人は銃殺ですが、日本の場合はお咎めなしで、むし
ろ出世しているのですから、あきれてしまいます。外務省の堕落
はいまはじまったことではないのです。
 実は日本が開戦に踏み切った経緯については、いろいろな疑問
があるので、これについては一度EJで取り上げます。「ハル・
ノート」をつきつけられたのが1941年11月26日。翌日に
は政府は交渉打ち切りを決意し、その11日後の12月8日、午
前3時過ぎに日本はハワイを攻撃しているのです。
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2001年06月09日

ルーズベルトの陰謀は裏付けられている(EJ634号)

 先週で真珠湾攻撃の話は終りにしようと思ったのですが、『文
藝春秋』7月号の「真珠湾の決着/今、歴史が変わる」という特
集を読んだところ、いくつか発見があったので、今朝もこのテー
マを取り上げます。
 『文藝春秋』7月号では、EJ631号で取り上げたロバート
・スティネット著『真珠湾の真実/ルーズベルト欺瞞の日々』を
取り上げています。そして、これについて、作家の西木正明氏と
京都大学教授中西輝政氏とが対談をしているのです。
 まず、フランクリン・ルーズベルト大統領が当時置かれていた
政治的状況を理解する必要があります。1939年9月に、ヨー
ロッパで始まった第2次世界大戦は、当初ドイツは圧倒的に優勢
でした。1940年6月にはフランスが降伏、9月にはロンドン
への空爆がはじまっていたのです。
 英仏は米国の友邦国、本来なら米国も参戦して友邦国を助ける
べき立場です。とくに英国は助けたいとルーズベルト大統領は考
えていたのです。しかし、当時の米国国内は、参戦反対派が多数
を占めていたのです。
 伝統的に米国はヨーロッパ大陸への不干渉主義を貫いてきた国
です。それに加えて第1次世界大戦でのヨーロッパの惨状を国民
は知っており、国内には厭戦気分がみなぎっていたのです。そん
なときに大統領が、外国の戦争の戦場に国内の若者を送り出すな
どといったら、大変なことになります。
 そこでルーズベルトは考えたのです。外国の戦争なら無理だが
自国の戦争なら話は別です。当時深刻な外交問題の争いのあった
日本を追い込んで戦争に駆り立て、「卑怯な騙し討ち」を演出し
て一気に参戦にもっていくというシナリオを描いたというのが、
スティネットの指摘なのです。
 それなら、なぜ日本軍が真珠湾に来襲することをルーズベルト
が事前に知ったかですが、スティネットは暗号の解読によって日
本軍の意図はすべて筒抜けであったと述べています。
 日本海軍機動部隊としても、無線を打てば米国にすべてわかっ
てしまうということを知っていて、厳重な無線封止を行ったとさ
れています。しかし、スティネットは、実はこれが守られていな
かったことを暴露しているのです。
 真珠湾攻撃を担当した日本海軍機動部隊の南雲艦隊は、11月
26日、エトロフ島のヒトカップ湾を出港し、ハワイに向けて出
発しています。スティネットは、11月15日から12月6日の
間に、米海軍監視局が傍受した日本海軍暗号電報129件を分析
し、南雲艦隊が無線封止をやっていなかったことを本の中で暴い
ているのです。
 この電報129件中、南雲中将の発した電報は60件で、11
月26日のヒトカップ湾出港に当っても、第四航空艦隊司令長官
や潜水艦隊の司令長官と入念な無線交信を行っていたことをちゃ
んと把握しているのです。
 このように、米軍およびルーズベルト大統領は、これら129
件の暗号電報の解読によって日本海軍機動部隊がハワイに向けて
集結中であることをちゃんと掴んでいたことになります。
 また、米軍は日本のスパイの動きも逐一把握していたのです。
森村正の名前で1941年3月にハワイの情報収集に派遣された
吉川海軍少尉は、ハワイに行った行動をすべて監視され、彼が日
本宛に打った暗号電報を解読して、その時点で「日本がハワイに
関心を持っている」ことを既に読み取られているのです。
 それに当時のジョセフ・グルー駐日米国大使もどうも日本が、
真珠湾を攻撃する意図があることに気が付き、本国に機密電報を
打っているのです。この時期は1941年1月であり、山本五十
六連合艦隊司令長官が真珠湾攻撃を決めた直後のことです。
 これだけの情報を得ているにもかかわらず、この時期にハワイ
の太平洋艦隊を指揮する任務についたハズバンド・E・キンメル
司令長官には、日本海軍機動部隊がハワイ攻撃を仕掛ける情報が
あることを何も教えていないのです。
 しかし、周囲の様子から「ハワイが危ない」と感じたキンメル
司令官は日本の来襲に備えて演習を行っているのです。日本軍が
ハワイを攻撃する2週間前のことです。ところが、不可解なこと
に、演習の途中にワシントンから「演習中止」の緊急の命令を受
けてやむなく中止しています。
 ちなみに、2000年10月、米国の下院決議で、真珠湾攻撃
の責任をとらされたキンメル太平洋艦隊司令長官の名誉が回復さ
れています。ハワイ敗戦の原因は、ワシントン上層部が日本軍の
動きに関する情報を伝えていなかったことを国として認めたこと
になります。これもルーズベルト陰謀説を裏付ける事実です。
 『文藝春秋』では、作家の西木正明氏がスティネットにインタ
ビューしたときの話を紹介しています。西木氏は、ルーズベルト
が陰謀を企てたと仮定しても、真珠湾の被害は大き過ぎるのでは
ないかとスティネットに疑問を呈しています。そして、なぜ、ハ
ワイの司令官に知らせなかったのかということも・・・。
 スティネットは次のように答えたというのです。
 世論を動かすには、それだけの被害が必要であるというもので
す。真珠湾以前でも太平洋で米国の船が何回もドイツの潜水艦に
沈められていたのですが、米国民は戦争を求めなかったのです。
少々の被害では国民は動かないと考えたのです。もっともルーズ
ベルトは日本を甘くみていたことは確かですが・・・。
 なぜ、ハワイの司令官に知らせなかったかというと、それはマ
スコミの問題であるといっています。当時ハワイのマスコミは、
軍関係の情報を熱心に収集しており、そこで不自然な避難行動を
とれば、それが日本側に知られることを恐れたのです。それでも
真珠湾攻撃の直前にワシントンからキンメル司令官に命令がきて
空母エンタプライズとレキシントンを含む近代的な戦艦21隻は
真珠湾を離れているのです。
 日本の真珠湾攻撃から実に60年、ここにきて一挙にすべてが
明らかになりそうです。映画『パール・ハーバー』の上映がキッ
カケですが、この映画は凡作のようです。

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2001年06月12日

不良債権に関する糸瀬教授の主張(EJ635号)

 糸瀬茂さんというエコノミストをご存知ですか。現在宮城大学
事業構想学部教授です。彼は、土曜日の午前8時、第4チャンネ
ルの「ウェークアップ」のレギュラー・コメンテータをはじめ、
多くのテレビ番組に出演し、分かりやすくユニークな金融理論を
展開する47歳の気鋭のエコノミストとして有名です。
 この糸瀬氏は食道がんを患っており、進行期は第4期の末期状
態にあるのです。しかし、彼は最後まで提言を続けたいとし、病
気を公表して、ついこの間まで宮城大学でのゼミを続け、テレビ
番組に出ていたのです。限界量を超えるモルヒネを打ってです。
 6月9日の「ウェークアップ」は糸瀬さんを特集して、かなり
長時間にわたるインタビューを放映していました。病室でもPC
を持ち込み、雑誌の原稿を書く糸瀬さんの姿がありました。おそ
らくそのとき書いていたと思われるのが、『文藝春秋』7月号に
掲載されています。『宰相小泉純一郎の誤算/「塩川・竹中・柳
沢」経済閣僚に覚悟を問う』というタイトルです。
 私は、親友3人を糸瀬氏と同じ病気で失っており、とても他人
事とは思えません。糸瀬氏自身のことばですが、自分のがんはも
はや打つ手はないとのことで、あえて延命治療はせず、気力の続
く限り提言を続けたいそうです。本当に腹の据わった立派な生き
方であり、敬服する次第です。今日から何回かにわたって、糸瀬
氏の主張を取り上げてみたいと思います。
 糸瀬氏は、小泉内閣が不良債権問題を処理し、構造改革を成し
遂げられるかどうかは、経済閣僚たちの力量にかかっているとし
たうえで、「柳沢金融相の危機意識に大きな危惧を抱いている」
と述べています。
 柳沢氏は内外から「ミスター・ハードランディング」といわれ
ています。それは、金融再生委員会の初代委員長として、当時、
実質的債務超過状態にあった長銀と日債銀を、同委員会の設立根
拠法「金融再生法」に基づいて、国有化させ、民間への売却を果
たすという荒療治を成し遂げたからです。
 そういう柳沢氏であるから、不良債権処理もきちんとやってく
れるであろうという期待がかかっているのです。しかし、糸瀬氏
は、問題銀行の整理・再編と不良債権処理とは分けて考えるべき
であり、柳沢氏は不良債権処理には全く手をつけていないといっ
ているのです。
 どういうことか説明しましょう。金融再生法というのは、例え
ば問題銀行を国有化という緊急避難措置を取り、その国有化の期
間中に、国有化銀行が保有するに適さない資産(不良債権)を切
り離し、健全な銀行にして民間に売却するのがそのねらいなので
す。しかし、柳沢氏は、長銀についてはこの大事な作業に手をつ
けていないのです。
 具体的にいうと、長銀が抱えていた「国有化銀行が保有するに
適さない資産」に、あの「そごう」、「熊谷組」向け債権があっ
たのです。しかし、柳沢氏はこれらの問題債権を「国有銀行が保
有するに適した債権」に区分してしまったのです。
 柳沢氏のやるべきことは、こういう問題債権を切り離すことに
力を発揮すべきだったのですが、彼は何もしないで金融再生委員
長の椅子に鎮座していただけなのです。これでは、ミスター・ハ
ードランディングどころか、ミスター・ネバーランディングでは
ないかと糸瀬氏は怒りをぶつけます。
 こんな問題債権を抱える銀行を誰が買うでしょうか。これが、
あの評判の悪い「瑕疵担保責任条項」を生み、国民から集中砲火
を浴びることになるのです。このような金融相に小泉内閣の公約
である不良債権処理ができるのでしょうか。
 これまで公表されていた不良債権は81兆円です。ところが、
不良債権は150兆円であるという説もあるのです。この150
兆円という数字は、民主党の求めに対して金融庁から返ってきた
数字なのです。81兆円が150兆円に増えているのです。
 不良債権の分類について少し研究してみる必要があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 T分類 非分類債権
 U分類 その回収について通常の度合いを超える危険を含む
     と認められる債権
 V分類 最終の回収または価値について重大な懸念が存在す
     る債権
 W分類 回収不能または無価値と判定される債権
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 U、V、Wについては誰の目で見ても不良債権そのものである
ことはわかりますが、81兆円というのはこれらの合計額なので
す。これらを「分類債権」といいます。
 それでは、Tはどういう意味でしょうか。
 Tは、U、V、Wに分類されない債権という意味で「非分類債
権」と呼んでいます。それなら、正常債権なのかというとけっし
てそうではないのです。非分類債権というのは、優良な担保・保
証はあるが、元本返済もしくは利息支払いが延滞しているなど、
何らかの問題のある債権を意味しているのです。
 金融庁は今まで非分類債権は不良債権ではないとして、不良債
権の中に入れておらず、その金額も公表しなかったのです。とこ
ろがここにきて「不良債権は150兆円」という数字を出してき
たのです。これは、明らかに分類債権と非分類債権の合計額とい
うことになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  分類債権81兆円+非分類債権69兆円=150兆円
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 つまり、非分類債権は約70兆円ということになります。しか
し、どう考えても非分類債権は不良債権です。銀行と約束した支
払いが滞っているからです。糸瀬氏は、非分類債権は銀行に正常
な期間収益をもたらさない不稼動債権であり、明らかに不良債権
として処理すべきであると強調しているのです。これこそ常識的
な考え方であると思います。明日もこのテーマを続けます。

635号.jpg
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2001年06月13日

糸瀬教授の身体をかけた提言を聞け!(EJ636号)

 9日の「ウェークアップ」における糸瀬氏へのインタビューで
糸瀬氏はこういっています。第一勧業銀行の銀行マンとして社会
人をスタートしたが、中途退社してソロモンブラザーズ・アジア
証券に転進しました。銀行をやめた理由は、明らかに債務超過で
ある企業に付き合いが長いというだけの理由で、無定見に貸し続
ける銀行の体質にアイソが尽きたからです。
 「債務超過なのになぜ貸すのか」と上司に聞くと、「君は貸す
のに不安がないという趣旨の審査書類を書けばいいんだ」といわ
れ、それが退職のキッカケとなったのです。銀行マンとしての良
心が許さなかったからです。
 昨日の続きです。銀行では、債権分類を行う前に債務者の「経
営実態」に応じた次のような分類手続きが行われるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.正常先   ・・・ 業況良好、財務内容は健全
  2.要注意先  ・・・ 貸し出し条件に問題がある
  3.破綻懸念先 ・・・ 現状経営難/破綻恐れあり
  4.実質破綻先 ・・・ 深刻な経営難/再建が困難
  5.破綻先   ・・・ 法的経営破綻の事実が発生
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この分類手続きのあと、債権分類を行うのです。しかし、糸瀬
氏によると、外資系のアナリストたちは、たとえこれら要注意先
破綻懸念先、実質懸念先、破綻先に区分された債権であっても、
「優良な担保や保証」がある場合は銀行は分類債権ではなく非分
類債権に区分しているのではないかと疑っているそうです。
 確かにそういう傾向はあるのです。銀行としては、不良債権を
少なく見せようとするので、そうなってしまうのです。たとえ破
綻しても、優良な担保や保証が付いているので、回収可能として
分類債権(U、V、W)に入れず、非分類債権(T)に入れてし
まう傾向があるといえます。まさに典型的な問題の先送り体質と
いえると思います。
 さて、不良債権を直接償却するには、そのための引当金を積ん
だうえ、バランスシートから外していくことになります。ところ
が、糸瀬氏によると不良債権150兆円のうち引当金を積んでい
ない額は40兆円もあるというのです。この額を現在の日本の銀
行の実力で償却するには、どのくらいの資金と期間がかかるので
しょうか。
 2000年9月期における銀行の自己資本は、全銀行ベースで
36兆円、大手16行ベースでは23兆円です。しかし、これか
ら既に投入されている公的資金などを差し引いたネットの自己資
本、すなわち銀行が自力で調達した自己資本は20兆円、大手行
ベースで10兆円しかないのです。そして、全国の銀行が稼いで
ある業務純益はせいぜい年間5兆円程度でしかないのです。
 自己資本には手をつけることはできないので、業務純益を全部
使って償却を進めるとすれば、単純計算で8年もかかることにな
るのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     不良債権40兆円÷業務純益5兆円=8年
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかも、金融ビックバンの進むなか、これからの銀行経営は一
段と厳しさを増すのは必至の情勢です。そんな中にあって日本の
銀行は、果たして今まで通りの業務純益を稼ぐことができるので
しょうか。もしできないとすれば、8年以上かかってしまうこと
になります。これでは日本経済は瀕死の状態になります。
 ところが、最近になって不良債権の最終処理には次の3つの方
法があるということが盛んにいわれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    1.民事再生法の適用などの法的整理
    2.不良債権の流通市場における売却
    3.債権放棄
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これら3つで不可解なのは3の「債権放棄」です。確かに1と
2は、不良債権がそっくり銀行のバランスシートから消えるので
最終処理といえますが、「債権放棄」はなぜ最終処理になるので
しょうか。
 債権放棄というのは、このままの状態では貸出先企業の再建は
困難であるという認識に立って、再建計画の提出と引き換えに借
金の一部を棒引きにし、残額については長い期間をかけて返済し
てもらうというものです。
 これがいかに実現性の乏しいものであるかは、過去2〜3年の
間に、数百億〜数千億単位の債権放棄を受けた大手ゼネコンの現
況を見れば明らかなことであり、不良債権の先送り以外の何物で
もないのです。糸瀬氏は、最終処理という美名のもとで行われる
債権放棄とは、小渕・森政権が行ってきた国家規模の自民党の先
送り政策そのものであると警告しているのです。
 糸瀬氏は、病気の喩えを使って次のように述べています。糸瀬
氏自身の身体の現況を考えたとき、この表現は強いインパクトが
あります。

 『病状はさらに悪化して普通の鎮痛剤では効かなくなった。そ
 れでも外科手術には合併症などの危険が伴うので、もう暫くの
 間(夏の参院選まで)様子を見ることとしたい。そこで、取り
 あえず今後は、強力な麻薬であるモルヒネを使った対症療法に
 移行する』。

 これは、医師(政治家)が患者(国民)に病状を説明しないで
勝手に治療につながらない処方を行っているのと同じです。彼ら
がここまで続けてきた先送りは、日本という国家を生死にかかわ
る状態に追い込んでしまっている――と糸瀬氏は警告します。
 そして「われわれには、橋本元総理が犯した同じ誤りを繰り返
すだけの時間は与えられていない。私は自分の病気と同様に日本
の行く末にもまだ希望を捨てていない」としめくくっています。


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2001年06月18日

ゲームソフトを証券化する/新しい金融技術(EJ639号)

 今週から最近とみに話題になっている「証券化」について何回
か取り上げて研究してみたいと思います。
 17日の午前9時から12チャンネルで「証券化時代で誰でも
投資家」という番組をやっていましたが、ご覧になりましたか。
最近はこの「証券化」ということばが大流行です。ところで「証
券化」とは一体何でしょうか。
 「証券化」について知る前に、企業における資金の調達方法に
ついて知っておく必要があります。企業の資金の調達方法には、
次の2つがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 間接金融 ・・ 銀行など金融機関から資金の融資を受ける
 直接金融 ・・ 銀行を通さず資本市場から資金を調達する
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 銀行から資金を調達することがなぜ「間接」なのかというと、
銀行は預金者から集めたお金を企業に融資するのですから、企業
と預金者との関係は「間接」ということになります。
 間接金融にしても直接金融にしても現在と将来を結ぶお金の取
引ですから、そこには必ずリスクというものが発生します。問題
は、そのリスクを誰がかぶるのか、いい替えると誰がリスクテイ
カーになるかです。すなわち、間接金融では銀行が、直接金融で
は投資家がリスクテイカーになるのですが、この違いが間接金融
と直接金融の違いということができます。
 それでは、世界の趨勢はどうなっているのでしょうか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      間接金融  直接金融  うち株式    債権
 日 本 62.4% 37.6% 27.5% 10.1%
 米 国 15.6% 84.4% 70.9% 13.5%
 英 国 14.0% 86.0%  ―――    ―――
 ドイツ 71.3% 28.7% 27.1%  1.6%
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この数値は、主要国の非金融法人、つまり、銀行・証券会社な
どの金融機関を除く全法人を対象としています。これによると、
日本とドイツが間接金融中心、米国、英国は直接金融中心である
ことが一目でわかります。
 ドイツは日本以上に間接金融中心ですが、ドイツは銀行が強い
ので間接金融がまだ可能なのです。しかし、日本やアジアのよう
な銀行の弱い国では、いつまでも銀行の金融仲介機能だけに頼る
ことはできないのです。
 したがって、ドイツの行き方はむしろ特殊であって、世界の趨
勢は資本市場を通した直接金融のウエイトがますます高まるのは
必至の情勢なのです。現在「証券化」が注目される最大の理由は
それが金融の直接金融化に最も適した技術だからです。
 昨年の話ですが、マネックス証券はコナミ株式会社、みずほ証
券と組んで、「ゲームファンド/ときめきメモリアル」を開発し
て話題になりましたが、これは、これからの証券化のサンプルで
あるといえます。
 ところで「ときめきメモリアル」とは何だかご存知ですか。若
い人は誰でも知っていますが、簡単に説明しておきます。
 「ときめきメモリアル」は、1994年にPCエンジン版とし
て発売された人気ゲームソフトのことです。高校生活3年間が舞
台となり、プレイヤーの行動によって多様に変化するストーリー
展開と、プレイヤーが自らを磨いて、告白を受けるという斬新な
ゲーム性がユーザを獲得し、「恋愛シュミュレーション」という
新しいジャンルを確立したゲームソフトなのです。
 1995年10月の初回出荷以来、53万本が販売されたので
す。プレイステーション版「ときめきメモリアル2」は1999
年11月の初回出荷後、最初の6ヶ月間で38万本を売るという
記録を樹立したのです。
 「ゲームファンド/ときめきメモリアル」は、ゲームソフト制
作上で生ずるキャッシュフローを小口証券化し、一般投資家にネ
ットで購入してもらうことによって資金調達を図るという新しい
ファンド(投資信託)なのです。ゲームソフト会社は、ゲームが
完成する前にその制作資金を調達できるのですから、こんなよい
ことはないし、投資する側も確実にソフトを入手できることに加
えて、その投資額によってさまざまな恩典が受けられるだけでな
く、たくさん売れれば償還利益も得られるというなかなかよい内
容なのです。一口1万円ですから、誰でも投資可能です。
 マネックス証券によると、この試みで7億7000万円の資金
が集められたそうです。これこそまさに証券化による直接金融の
典型的なサンプルといえます。マネックス証券の松本社長による
と、このファンドのペイラインは10万〜20万の出荷というこ
とですから、「ときメモ」の今までの実績からいえば、何も問題
ない数字といえます。
 ここで「証券化」の原点に戻って考えてみましょう。証券化に
は2つの流れがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 企業金融の証券化 ・・・ コーポレイト・ファイナンス
 資産金融の証券化 ・・・ アセット  ・ファイナンス
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 企業金融の証券化は、自社で各種の証券を発行することによっ
て、資金調達することを意味します。社債やCP(コマーシャル
・ペーパー)などの発行が、その代表になります。
 資産金融の証券化は、企業などが保有する資産を他の資産と区
別し、その資産を裏づけにした証券を発行して資金調達をするこ
とを意味するのです。
 これらは、直接金融という点では同じですが、投資家から見る
と、全く違う種類の証券化なのです。どのように違うのかという
と、企業金融の証券化は、証券を発行する企業の価値が高いか低
いかによって証券の価値判断がなされますが、資産金融の証券化
は、発行する企業の価値は評価されず、証券化の対象になる資産
の価値そのものが証券の価値を決めるのです。


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2001年06月19日

診療報酬債権を証券化する(EJ640号)

 今朝も「証券化」の話です。6月15日付の日本経済新聞には
「診療報酬債権を証券化/三井・住友海上と日生提携」という記
事が出ていました。
 三井海上火災保険と住友海上火災保険の2社は10月に合併す
ることになっていますが、今回日本生命保険と組んで、病院が健
康保険組合などの医療保険に対して有している「診療報酬債権」
の証券化事業で提携すると発表したのです。
 そういえば、日本生命と三井・住友火災海上保険は、2000
年秋に、サービスや商品の相互供給を行う提携を発表していまし
たが、これがその第一弾というわけです。
 この最新のニュースを手がかりとして「証券化」の問題を考え
ていきましょう。少しずつ、ワンステップずつやれば、けっして
難しくありませんから・・・。
 資産には、証券化しやすい資産と証券化しにくい資産とがあり
ます。一般論としてですが、証券化しやすい資産と証券化しにく
い資産を上げてみることにします。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 証券化しやすい資産      証券化とにくい資産
  @住宅ローン         @商業不動産担保ローン
  Aリース債権         A商業不動産の所有権
  Bクレジットカード債権    B不良債権
  C自動車ローン債権      C更地
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「証券化しやすい資産」と「証券化しにくい資産」の差は何で
しょうか。それは「キャッシュフローが読みやすい」か「キャッ
シュフローが読みにくい」かの違いです。すなわち、「証券化し
やすい資産」はキャッシュフローが読みやすく、「証券化しにく
い資産」はキャッシュフローが読みにくいのです。
 それでは、「キャッシュフロー」とは一体何でしょうか。
 「キャッシュ」とは、現金のことですが、キャッシュフローに
おける「キャッシュ」は現金だけではなく、「現金および現金同
等物」ということになります。「現金同等物」とは、現金ではな
いが、容易に換金可能で、現金にほぼ等しいものという意味にな
ります。
 「容易に換金可能」ということを具体的にいうと、取得日から
満期日または償還日までの期間が3ヶ月以内ということになって
います。これが判定基準というわけです。
 「キャッシュ」は次のように整理することができます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ●現   金
   1.手元現 金
           2−1 普通預金
   2.要求払預金 2−2 当座預金
           2−3 通知預金
  ●現金同等物
   1.定期預金
   2.譲渡性預金
   3.CP/コマーシャルペーパー
   4.売戻し条件付現先
   5.公社債投資信託
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 さて、キャッシュフローとは、以上のような現金および現金同
等物の増減のことをいうのです。表現を代えると、「お金の支払
い(出)と受け取り(入)のことであり、資産金融でいうところ
のキャッシュフローとは、「実質的総収入から営業経費を差し引
いた残余のマネー」ということになるのです。
 さて、新聞報道の「診療報酬債権」とは何でしょうか。
 病院は患者の治療に要した費用を診療報酬として企業の健康保
険組合や国民健康保険に請求する権利を有しています。これが、
「診療報酬債権」です。これによって、病院は経営をしているの
ですから、その請求権は病院にとって資産といえます。
 診療報酬は、通常請求して現金を受け取るまでには1〜2ヶ月
かかるのですが、現金になることが明確であるので、この債権は
キャッシュフローが確実にあるといえます。ですから、証券化し
やすい資産といえます。
 そういうわけで、この病院の請求権を住友・三井海上保険が設
立した特定目的会社(SPC)が買い取って、証券のかたちにし
て、機関投資家などに販売するというのです。病院にとってのメ
リットは、すぐ現金になること、それに証券化に伴う手数料も銀
行に借り入れするよりも安く済むということです。
 証券化をさらに理解するため、「住宅ローン」について考えて
みましょう。「住宅ローン」なら誰でもビンとくるからです。
 日本の銀行は、住宅ローンを組むとき「変動金利」で貸したが
ります。なぜかというと、低い固定金利で貸して途中で金利が上
昇するリスクを負いたくないからです。それは、住宅ローンが、
20〜30年という長期のローンだからです。
 ところが米国では、住宅ローンを低い固定金利で借りることが
できます。いや、固定金利で借りるのは当たり前なのです。米国
で変動金利で住宅ローンを組む人は、よほど信用状態に問題があ
る人に限られているのです。
 どうして日本と米国の銀行でこういう差が出るかというと、日
本の銀行は、ローン債権を完済されるまで持っているのに対し、
米国の銀行は途中で証券化してしまうからです。つまり、証券化
という金融技術を持つか持たないかの差なのです。
 米国の銀行の場合、途中で政府系の金融機関が住宅ローン債権
を買い上げてくれるので、低い固定金利で住宅ローンを組んでも
大丈夫なのです。その政府系の専門金融機関は、民間銀行の住宅
ローン債権を買い取り、それに政府の保証を付けて証券化するの
です。これは「公的MBS」と呼ばれる金融商品ですが、国の保
証付きですから、国債並みの信用力のある金融商品といえます。

640号.jpg
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2001年06月20日

証券化のメリットを整理する(EJ641号)

 今朝は「証券化」のまとめをやります。「証券化」の話は今日
で終わりです。
 最近よく本社ビルを売却する話がニュースとなります。東京三
菱銀行も本社ビルを売却しましたね。東京三菱銀行は、政府から
の公的資金受け入れに反対して、本社ビルを売却すると宣言した
のです。その他、中央区銀座の日産自動車本社、港区虎ノ門のジ
ャパンエナジー本社、渋谷区渋谷の東邦生命本社ビルなどが売却
されています。
 ところで「本社ビルを証券化する」という表現もよく新聞で見
かけるのですが、どう違うのでしょうか。
 結論からいうと、日本では「本社ビルを証券化する」とは「本
社ビルを売却する」ことと同意義なのです。いまだに本社ビルを
売却することは恥ずかしいことだと思っており、それを単に「証
券化する」といっただけなのです。
 といっても、「本社ビルを証券化する」には、次の4つの段階
の手続きがいるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.オリジネータ(資産の原保有者)が本社ビルを信託銀行
に不動産管理処分信託をする。
 2.信託銀行がオリジネータに信託受益権を交付する。
 3.オリジネータは信託受益権を特定目的会社(SPC)に
   譲渡(売却)する。
 4.SPCは信託受益権を裏づけに社債を発行し、資金調達
   をする。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは本社ビルを売却することと何も変わらないのです。しか
し、ほとんどのオリジネータは、将来本社ビルを買い戻す権利、
オプションをつけるのが通常のようです。
 本社ビルを売却することは経営の戦略のひとつであり、別に恥
ずかしいことではないのです。それでは、本社ビルを売却すると
どういうメリットがあるのでしょうか。
 本社ビルを売却することの最大のメリットは、多額の資産をバ
ランスシートから落とせることにあります。これによって、RO
A(純資産利益率)、ROE(株主資本利益率)という経営指標
が大幅に改善されるのです。
 このように資産をバランスシートから落とすことを「オフバラ
ンス」といいますが、これは真正な売買でなければ認められない
ことになっています。証券化は何の資本関係もないSPCに譲渡
するので、「真正な売買」と認められています。
 ここで「証券化する」メリットを整理しておきましょう。証券
化をオリジネートする側からのメリットをあげると次の4つにな
ります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     1.リスクを合理的に回避できる
     2.低コストで資金調達ができる
     3.オフバランス効果が得られる
     4.資金調達方法を多様化できる
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 証券化のメリットの第1は、資産を持ち続けることのリスクを
他者に移転させることによって、そのリスクを回避できることで
す。例えば、固定金利で住宅ローンを貸している金融機関は、つ
ねに金利上昇のリスクを負っていますが、証券化によってそれを
他者に移転すればリスクを回避できます。
 証券化のメリットの第2は、低コストで資金調達ができること
があげられます。どのような優れた商品を持っていても企業の信
用力がないと、銀行はなかなか融資をしてくれません。しかし、
証券化対象資産の信用力を使って、自らの信用力よりも高い証券
を発行することによって、より低コストで資金調達を行うことが
できます。
 証券化のメリットの第3は、オフバランス効果があがることで
す。具体的には、ROA、ROEの改善ですが、金融機関にとっ
てはBIS基準をクリアすることが求められており、経営指標の
改善は、より企業価値を高めることにつながります。
 証券化のメリットの第4は、証券化という金融技術を使うこと
によって、従来の銀行借り入れや社債発行という資金調達以外の
方法で資金調達が図れるメリットがあります。
 以上の4つは、オリジネータから見た証券化のメリットですが
投資家によって証券化はどういうメリットがあるかを考えてみる
と、次の3つになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     1.商品特性が明確であること
     2.ポートフォリオの分散効果
     3.高格付けと高利回りがある
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 証券化による商品が出回ることは、投資家にとって投資対象に
なる商品の選択機会が増大すること――これが最大のメリットと
いえます。それを具体的にいうと、次の3つになるのです。
 第1のメリットは、証券化商品は投資家にとって通常の商品に
比べて特性が明確になっていることです。というのは、商品化の
過程で多くの専門家が関与することによって、資産の内容や価値
それにリスクの測定が容易になることです。
 第2のメリットは、ポートフォリオの分散効果があるというこ
とです。一つの借り主に対するローンに投資するのに比べて、住
宅ローンの証券化商品のように、多数のローンがプールされた商
品に投資する方が、投資家のリスクを分散できます。
 第3のメリットは、証券化商品への投資は、比較的高格付けの
商品に対して行うことができます。利回りについても通常の公社
債に比べて証券化商品として組成されたものは、高利回りのもの
が多いので投資家にとっては投資しやすいといえます。
 現在流行している証券化という金融技術――興味をもっていた
だけたでしょうか。

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2001年06月21日

燃料電池でマイエレキ時代が到来する(EJ642号)

 6月15日と16日の日本経済新聞に次の2つの注目すべき記
事が出ています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 6/15:「燃料電池バストヨタが試作/来秋にも東京都と
営業実験」
 6/16:「燃料電池使い生ごみ発電/富士電機/月末、神
      戸に完成予定」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ところで「燃料電池」とは一体何でしょうか。実はこれはかな
り古い技術なのです。燃料電池を簡単にいってしまうと、次のよ
うになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『天然ガスなどから抽出した水素を、空気中の酸素と電気化学
 的に反応させることによって電気を取り出すシステム』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 6月15日の日経の記事によると、トヨタ自動車は「燃料電池
バスの試走車を開発し、公道での運用実験を行い、2002年秋
から都内のバス路線で営業運行する予定というのです。
 しかし、既に燃料電池自動車については、1997年12月に
ダイムラー・ベンツが「燃料電池自動車を2004年に4万台、
2007年に10万台生産する」と発表しています。
 この発表は全世界の自動車メーカに大衝撃を与えたのです。と
いうのは、ベンツには、バラード社製の高性能燃料電池が使われ
ていたからです。この発表を機に、世界中の自動車メーカが提携
を求めてバラード社に殺到したといわれます。そして、1999
年4月20日に、「カルフォルニア燃料電池パートナーシップ」
が結成されることになるのです。
 燃料電池の歴史を調べてみると、これに関する象徴的な出来事
がすべて「9」の年に起こっていることがわかります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1839年:ウィリアム・グローヴ卿が初めて燃料電池の発
       電メカニズムを発見
 1889年:ルートヴィッヒ・モンドが初めて「フュエル・
       セル」という言葉を使って実用化を試みる
 1959年:フランシス・ベーコンが初めて燃料電池の実用
       化に成功
 1969年:アポロ11号が燃料電池を積んで人類最初の月
       面着陸を成功させる
 1999年:バラード社を中心に「カルフォルニア燃料電池
       パートナーシップ」が結成
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 燃料電池には、次の5つのタイプがあります。このあとの話の
展開のためにご紹介しておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.高分子膜 型燃料電池
  2.リン酸  型燃料電池
  3.アルカリ 型燃料電池
  4.セラミック型燃料電池
  5.溶融炭酸塩型燃料電池
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このなかで現在話題を集めているのは「高分子膜型燃料電池」
であり、カナダのバラード社によって、これまでにない低コスト
で開発されたものです。
 ごく簡単に原理を説明しましょう。
内部には、真ん中に薄い膜があります。これを電解質膜といい、
物質を電気的にプラスとマイナスに分解する性質があります。こ
の膜をはさんで、陰極(アノード)と陽極(カソード)が配置さ
れています。
 これら2つの電極は、氷砂糖や繊維のように内部が隙間だらけ
の構造をしていて、この多孔質の物質がガスを通すのです。膜側
の表面には薄く触媒が塗ってありますが、現在までほとんどの燃
料電池では、触媒として白金か白金の合金が使われています。し
かし、白金は高価であってこれが燃料電池のコストを引き上げて
しまうのです。基本的な構造はこれだけです。
 発電するには、陰極の内部に水素ガスを送り込みます。水素ガ
スは、電解質膜と触媒の作用によって陽子と電子が分離して、陽
子だけが+の陽イオンとして電解質の膜を通り抜け、陽極に向っ
ていきます。
 一方、陽子が去ってしまうと、取り残されたマイナスの電子は
電極につないである電線のなかを走ってやはり陽極に向って行く
のです。このようにして電線のなかを電子が走ると電流が流れる
ことになります。ですから、そこにテレビつなげば、テレビが映
るのです。
 そのうえで陽極に空気が送り込まれます。空気には、約20%
酸素が含まれています。酸素は多孔質の陽極に吸収され、それが
電位を生じるため、電線を通ってきた電子を取り込んでマイナス
の酸素イオンに変化するのです。この酸素イオンが膜を通ってき
た水素の陽子と結合して水が生まれます。
 酸素と水素が結合して水になると、電子の持つエネルギーは、
熱として放出され、水は100度の熱湯になります。この熱湯は
もちろん飲料水として使えるわけです。
 ここで重要なことは、この装置の内部では、水素と空気により
「電気が流れ」、「熱を出し」ながら「水(100度の熱湯)が
できる」ことです。一般家庭では、台所やバスルームで使うお湯
のために給湯器を設置しますが、その給湯器に支払うお金で、つ
いでに家中の電気がついてしまうのです。
 燃料電池によって、「マイエレキの時代」が実現することにな
ります。しかも、燃料電池であると、窒素酸化物や硫黄酸化物の
ような有害物質はまったく排出されないのです。したがって、ゼ
ロミッションと呼ばれます。燃料電池はまさに究極のクリーン・
エネルギーであるといえます。

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2001年06月22日

燃料電池はどのように開発されたか(EJ643号)

 今朝も「燃料電池」の話です。「燃料電池」の原語の研究から
やりましょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     燃料電池=fuel cell/フュエル・セル
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「フュエル」は燃料だけを意味することばではなく、エネルギ
ーを生み出す材料を意味しており、「セル」は小さな箱をあらわ
すことばです。つまり、「フュエル・セル」は「エネルギーを生
み出す小箱」という意味になります。このことから、「フュエル
・セル」は好きなときに電気を生み出せる「発電機」というべき
であって、少なくとも「電池」という表現は正しくなく、誤訳と
いうべきではないかと思います。
 燃料電池の原理を発見したのは、英国のウィリアム・グローヴ
です。1839年、グローヴが28歳のときです。ある日、彼は
大学で、2枚の白金電極の間に硫酸と水を配置し、水を電気分解
していたのです。
 それぞれの電極に筒をかぶせて水素と酸素を回収しようとした
わけです。電気分解が終ったあと、グローヴはガスを閉じ込めた
その2本の筒を何気なく電極の上から押し下げたのです。
 そのとき回路に電流が流れていることにグローヴは気が付きま
した。何回繰り返してもやっても同じ結果になります。ガスの状
態をよく観察すると、ガスが電極に吸収されているように見えま
す。そしてついに、電極に吸収されるガスの値に比例して電流が
流れる現象を発見したのです。
 グローヴは、電気分解を行い、次にガスの吸収によって電気を
流す、そして再び電気分解する、という作業を何回も繰り返して
みたのです。その結果、電気分解と発電が可逆的に起こることに
気がついたのです。グローヴはこれを利用してアーク灯をつけて
みたところ見事に点灯させることができたそうです。
 これこそ人間が人工的な電気化学反応によって発電に成功した
瞬間といえます。グローヴはこれを「ガス電池」という名前で特
許を取得しています。
 グローヴの発明が、動力用の発電機として実用化されなかった
のは、その当時すでに動力としては、蒸気機関が世に出ていたか
らです。そして、100年近くが経過して、ケンブリッジ大学の
フランシス・ベーコンがグローヴの発明を利用して燃料電池の実
用化の道を拓いたのです。
 彼は、水素と酸素を用いる回路によって、1932年に燃料電
池を完成し、1959年に実際に溶接機を動かす5キロワットの
燃料電池を実用化しています。これは「ベーコン電池」と名付け
られ、のちの燃料電池の発達に大きく貢献することになります。
なお、これは「アルカリ型燃料電池」とも呼ばれます。
 この電池には次の4つの特色があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        1.電極の寿命が長いこと
        2.長時間運転できること
        3.電気出力が大きいこと
        4.新物質を燃料にできる
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これら4つの特色を備えるベーコン電池の技術をベースにして
ブラット&ホイットニー社は、1962年に月探査を目的とした
アポロ宇宙飛行計画用として、燃料電池第1号(アルカリ型燃料
電池)をNASAに納入することに成功します。
 1964年にGEも高分子膜を使う最初の燃料電池(高分子膜
型燃料電池)をNASAに納入し、ジェミニ飛行計画などに使わ
れましたが、故障が多くアポロ11号には結局ブラット&ホイッ
トニー社のアルカリ型燃料電池が採用されたのです。
 直径21.6センチの多孔質ニッケル電極と水酸化カリウム電
解質の水性ペーストを使用したこの燃料電池は、最大出力2.3
キロワットで、同じ体積でバッテリーの数倍のエネルギーを発生
する能力を発揮して、月探査に貢献したのです。
 宇宙を飛ぶアポロでは、燃料電池が生み出す水を乗員が飲料水
として用い、夢の装置として米国で大きく話題になったといわれ
ます。しかし、1969年当時にすでにこのレベルに達していた
燃料電池がその後発達が停頓してしまったのはなぜでしょうか。
 それは、ベトナム戦争で米国の威信が地に堕ち、アポロ11号
による月探査の成功も米国内ではあまり高い評価が得られなかっ
たことによるのです。
 ところで、フランシス・ベーコンは1984年にはすでに80
歳になっていましたが、貴金属商のジョンソン・マッセイに燃料
電池コンサルタントとして迎えられたのです。貴金属商と燃料電
池――ヘンな組み合わせだと思いませんか。
 その秘密は燃料電池に使う白金触媒にあります。ベーコンをコ
ンサルタントに迎えて、ジョンソン・マッセイは早くも80年代
半ばにおいて燃料電池用の白金触媒で全世界を支配する道を見つ
けていたのです。
 ベーコンがジョンソン・マッセイにコンサルタントに迎えられ
たのとほぼ同時期に、バラード・パワー・システムズ社がカナダ
国防省の委嘱を受けて、燃料電池開発をスタートさせます。カナ
ダ海軍の「音のしない」潜水艦用の燃料電池を開発するプロジェ
クトに参加したのです。
 そして同社は燃料電池によって“バラード・ブーム”を作り出
し、ダイムラー・ベンツと提携して、燃料電池の先駆的開発社と
しての地位を築くにいたるのです。
 バラード社は、常識を破る低コストで高分子膜型(固体高分子
電解質膜<PEM>)の燃料電池を開発して、燃料電池の世界的
リーダーとなりますが、同社は「エネルギー業界のインテル」を
目指して発展中です。
 ところが、ノース・ウェスト・パワー・システムズという会社
がバラードの前に立ちはだかります。続きは来週です。

643号.jpg
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2001年06月25日

燃料電池を支える先行3社とは(EJ644号)

 PCの発達もそうですが、世界的な革命は米国のワシントン州
の一帯を中心として起こっているようです。ワシントン州といえ
ば、あのマイクロソフト社があります。マイクロソフト社と燃料
電池との関係についてはあとで述べるとして、なぜワシントン州
が中心であるかについてお話しします。
 燃料電池の雄であるバラード・パワー・システムズ社はカナダ
のバンクーバーに本拠を構えています。バンクーバーは、ワシン
トン州のシアトルから車で3〜4時間くらいで国境を越えて行け
る距離なのです。私も行ったことがあります。
 このバラード社に対抗しようとしているノース・ウェスト・パ
ワー・システムズ社は(のちにアイダテックと社名変更)、19
96年にワシントン州の南に隣接するオレゴン州ベンドに設立さ
れたのです。
 さらにワシントン州の地元にアヴィスタ社という会社がありま
す。この会社は「ワシントン水力発電」を社名としていた電力会
社なのですが、ビル・ゲイツが個人所有の投資会社を通してアヴ
ィスタ株を5%購入したのです。2000年1月のことです。
 このニュースがウォール街に流れると、アヴィスタ社の株価が
16ドルから一時は60ドルまで上がったといわれます。それに
しても、マイクロソフトは、この会社に対して何を評価したので
しょうか。
 アヴィスタ社は、もともとワシントン州、アイダホ州、オレゴ
ン州からカルフォルニア州にいたるまで、太平洋岸を中心に電力
と天然ガスを提供してきたのです。この会社の開発する燃料電池
は、PCの操作中に燃料が切れても、絶対にPCがダウンしない
メカニズムを持っているのです。
 アヴィスタ社は特許のカートリッジを使って燃料電池が作動し
ている時には、常に自動メンテナンスが行われ、性能に悪影響を
与える湿度と温度をモニターするシステムによって各部の作動状
況がチェックされ、異常が発生する前に修復回路が作動するメカ
ニズムになっているのです。この場合、たとえ燃料電池が故障し
てもPC本体には影響せず、カートリッジの交換だけで済むとい
う利便性を持っています。
 アヴィスタ社はもともと携帯電話用の超小型燃料電池の開発を
手がけており、ポータブル型に強く、何らかの機器に燃料電池を
内蔵するのは得意わざなのです。
 もっと重要なことがあります。エレクトロニクス機器を初めと
するほとんどの電気製品には直流が使われています。しかし、そ
れらの電気製品は交流のコンセントから電源をとるのです。その
ため内部に変換機を装備し、交流を直流に変換しているのです。
 しかし、燃料電池はすでにお話ししたように、水素電極から酸
素電極に向って一方向に流れる直流なので、燃料電池が電気製品
に内蔵されると、変換による電気のロスがなくなり、エネルギー
効率が抜群によくなるのです。
 しかも、燃料電池が生み出す直流は従来の電力会社のものに比
べて電圧がきわめて安定しており、PCをはじめとするエレクト
ロニクス機器にとって最適なのです。ビル・ゲイツがアヴィスタ
社に目をつけたのはこの点なのです。彼は、「アヴィスタ社の無
停電タイプの燃料電池は、PCなどのエレクトロニクス製品用と
して、ここ数年以内にトップに踊り出る」と予測をしています。
 それでは、冒頭で取り上げたノース・ウェスト・パワー・シス
テムズ社について述べてみたいと思います。バラード社が車の燃
料電池に力を入れ、アヴィスタ社がエレクトロニクス製品内蔵型
で成功しつつあるのに対して、ノースウエスト社は家庭用の燃料
電池に力を入れたのです。
 ノースウエスト社は、1996年オレゴン州のベンドにノース
ウエスト・パワー・システムズという米国北西部の位置を社名に
した会社を設立したのです。会社といってもガレージに機材を持
ち込む典型的なガレージカンパニーだったのです。
 その中心人物はアラン・グッケンハイムで、彼を中心として2
人の仲間――化学エンジニアのデヴィッド・エドランドとウィリ
アム・プレッジャーが集まって燃料電池に取り組むことになった
のです。彼らは、すぐ近くの国境を越えたバンクーバーでバラー
ド・パワー・システムズが燃料電池で成功をおさめるのを見てい
て、それに刺激されたのです。
 資本を出して社長になったグッケンハイムは、2人のエンジニ
アと一緒にどうすればバラード社を抜けるかということを考えた
というのです。これまた凄い話です。当時バラード社は大発展し
ており、それはできたばかりの3人の会社が「どうしたらソニー
に勝てるか」を議論するようなものだからです。
 バラード社は水素を使って電気を生み出していたのですが、彼
らは、これがひとつのポイントになると考えたのです。当時、燃
料電池に使える水素はどこでも製造されていたのですが、とても
高コストだったのです。
 何とか低コストで水素が作れないかいろいろ実験してみたので
すが、水素分子だけを透過する金属膜が高価で使えず、そうかと
いって安い膜を使うと、今度は不純物が混ざってしまい、意図し
たような成果があがらなかったのです。
 しかし、彼らはそこで発想を転換したのです。それは、不純物
が含まれる質の悪い水素を使って、それに純度を高める化学反応
を加えることはできないかと考えたのです。それは見事に成功し
て、彼らはどこにでもある当たり前の技術を使って革命的な水素
発生装置を手にすることができたのです。そして、家庭で使うの
に十分な5キロワットの電気を生み出す画期的な燃料電池を製作
することに成功したのです。会社を設立してからわずか3年後の
ことです。
 ノースウエスト社は、これによって家庭用燃料電池のレースで
トップに並ぶ1社として踊り出たのです。同社は2000年2月
に新潟市・三条市にあるコロナ社と技術提携し、日本における燃
料電池の開発をスタートさせています。燃料電池の開発競争は今
や過熱しつつあるのです。
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2001年06月26日

燃料電池は生物の営みそのものである(EJ645号)

 今朝も燃料電池の話です。こういう考え方があります、人間や
動物は、水に含まれる水素と酸素を飲み込み、有機物の栄養分を
食べ、空気中の酸素を呼吸し、炭酸ガスと水分を吐き出しながら
体内にエネルギーを生み出します。
 一方、燃料電池は、水素と酸素から電気を生み出す装置です。
この装置は、燃料と呼ばれる物質と空気を吸い込んで改質器(あ
とで説明)で炭酸ガスを、燃料電池部分で水と熱を吐き出すので
す。ここで燃料と呼ばれるのは、有機物か水素のことです。燃料
電池を人の肉体に見立てると、燃料は人の体内に吸収される栄養
素の役割を果たしていると考えられます。
 燃料電池の開発では、高分子膜(PEM)のコストと寿命が大
きなかべになっています。そのPEMという膜は、食塩の電気分
解用として使われてきた製品です。食塩は人体の血液で最も重要
な部分なのです。
 人間の血管は非常に薄い膜でできています。心臓と肺の作用に
よって、血液と酸素を得る血管は、すぐれた性能のごく薄い膜に
よってできています。この膜の中を血液が循環しながら、栄養分
を全身に運ぶところに燃料電池で使われる高分子膜と共通点があ
るのです。人間のからだはうまく使えば、100年は持つのです
から、適時ケアを行えば、燃料電池の高分子膜もそれと同じ寿命
を持たせることは不可能ではないといえます。
 ところで、人間の場合、空気を呼吸する肺は、酸素を取り込ん
で、二酸化炭素を排出しますね。これによって、体内で酸化分解
が行われ、体にエネルギーを供給します。燃料電池でこの作業を
行うのが、前出の改質器と呼ばれる装置です。燃料から水素を取
り出したあと、二酸化炭素を排出する機能を持っています。
 どうでしょう。燃料電池はあまりにも人体の働きと酷似してい
ると思いませんか。燃料電池のことを「フュエル・セル」といい
ますが、「セル」ということばは人間の細胞を意味するのです。
バラード社は、こういう方向からアプローチした結果、優れた高
分子膜を開発することができたのです。
 バラード社は、カナダ海軍の「音のしない潜水艦」のプロジェ
クトに参加して、燃料電池を使う潜水艦の研究を行っています。
そういう潜水艦が完成しているのかどうかは軍事機密のためわか
りませんが、潜水艦といえば、2000年8月に、ロシアの原子
力潜水艦クルスクの事故を思い出します。クルスクは、ムルマン
スク沖のバレンツ海で沈没し、救助できないまま全員死亡すると
いう痛ましい結果に終っています。
 潜水艦に原子力を使うのは、それから動力としての電気エネル
ギーを得るためですが、原子力の場合、燃料自体が少量のウラン
で済むという利点があるのです。
 しかし、動力を燃料電池でやった場合はどうでしょうか。電気
はもちろんのこと、真水も温水も同時に得られて、しかも騒音が
一切ない――潜水艦には理想的なのです。
 問題は燃料補給をどうするかです。それは何らの方法により海
中で水素が得られればよいのです。魚が海中に長時間潜っていら
れるのは、海中の微生物や小魚を食べているからです。このよう
なバイオマス(生物体)を海中で効率的に捕獲し、そこから水素
を製造できないものでしょうか。それなら、潜水艦はいつまでも
潜っていることができるはずです。
 「バイオマス」とは、エネルギー源または化学・工業原料とし
て利用される生物体のことであり、そのような生物体から得られ
るエネルギーを「バイオマス・エネルギー」というのです。バラ
ード社は、廃水処理プラントの分解ガスを使って作動する燃料電
池を開発した実績を持っており、バイオマス関連技術については
相当深いノウハウを持っているといわれています。
 われわれはエネルギー問題については、詳しい情報を得ている
とはいえない状況にあります。原発が必要である理由は電力会社
から何度も聞かされていますが、実は原発は旧式の火力発電と同
様のレベルであり、かなり効率の悪い発電システムなのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
             電力      捨てられる熱
 原子力・旧式火力   33%         67%
 新型火力       40%         60%
 コンバインサイクル  50%         50%
 マイクロガスタービン 80%         20%
 燃料電池       80%         20%
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これを見ると、使う量の2倍のエネルギーが排熱として捨てら
れているのです。排熱を利用しようにも、発電所と消費者が遠く
離れてしまっているので、発電所で発生する熱は無駄になってし
まうのです。
 しかし、燃料電池とガスタービン(改めてEJで取り上げる予
定)は、電気を使う場所で発電するので、排熱の大部分を効果的
に使えるのです。具体的にいうと、電力で照明、動力、エレクト
ロニクス機器を動かし、排熱で冷暖房と給湯を行うことができる
のです。少なくとも家庭では、冷暖房用のエアコンと、バスルー
ムとキッチンの給湯設備がいらなくなってしまうのです。こうい
うエネルギーの使い方を「コジェネ」といいます。
 原子力などを使う従来の方法では、必要なエネルギー100を
確保するには303の燃料が必要になりますが、コジェネシステ
ムによって、発生したエネルギーの80%が使えれば、必要とす
る燃料は125で済む計算になります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   従来の方法    100=303×0.33
   コジェネシステム 100=125×0.80
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 125÷303=41%となりますが、燃料電池を使うことに
よって、従来の40%の燃料で同じ量のエネルギーを得ることが
できることになります。しかも、燃料電池で得られるエネルギー
は、クリーンな無公害エネルギーであり、危険はないのです。

posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2001年06月27日

マイクロガスタービンと原子力発電(EJ646号)

 今朝は、燃料電池に関連して「ガスタービン」についてお話し
します。ガスの話は、EJの読者に専門家がおられるので、あま
り気が進まないのですが、間違っていることがあればご指摘いた
だきたいと思います。
 1991年1月に始まった湾岸戦争では、「砂漠の嵐作戦」と
名付けられたわりには地上戦闘はほとんどなく、もっぱらミサイ
ルによるピンポイント攻撃が中心でした。しかし、どんなにエレ
クトロニクスが発達しても戦争というものは、やはり地上戦、海
上戦なのです。人間が人間に直接戦闘行為をとるのが戦争なので
す。それでは、米、英、仏を主力部隊とする多国籍軍は、なぜ、
地上戦闘をあえて避けようとしたのでしょうか。
 それは、多国籍軍が「あること」を恐れたからです。その「あ
ること」とは、砂漠での戦闘です。その砂漠での戦闘において多
国籍軍は、戦車の燃料補給に不安を抱えていたからです。
 戦車の燃料補給にはガスタービンが使われますが、当時のガス
タービンでは、戦車のあとから燃料補給タンク車を従える必要が
あったのです。そうでなければ、砂漠の中を長距離走行すること
はできなかったのです。
 しかし、この場合、タンク車が攻撃されると、たちまち燃料が
大爆発を起こし、戦車が立ち往生してしまうことになります。こ
れでは、戦車部隊が全滅してしまうこともあり得るのです。この
事態を多国籍軍側は恐れたのです。
 幸いにしてイラク軍が弱かったため、湾岸戦争は多国籍軍の一
方的な勝利に終わりましたが、米国国防総省は本気でこの燃料補
給問題の解決に乗り出したのです。何とかガスタービンを小型化
して燃料を食わない高性能な動力を開発し、それを戦車の中に収
められないものか――日夜研究が続けられたのです。
 もっとも戦闘機などのほとんどの軍用機は、ガスタービンと同
じ原理の高性能ガス噴射エンジンを使っていたので、これを応用
すればよかったのです。湾岸戦争の翌年の1992年から次々と
小型ガスタービンが開発され、発表されます。その中心にいた企
業がアライドシグナル社だったのです。
 ちょうど1991年末にソ連が崩壊して冷戦が消滅し、軍事用
技術を民事用に転用しようという試みがはじまっていたのです。
アライドシグナル社は、1996年には、同社開発のマイクロガ
スタービンがフォードとルノーのハイブリット自動車用エンジン
としてテストされ、それが成功して75キロワットの超小型発電
機「ターボジェネレータ・パラロン75」という画期的な商品の
生み出しに成功したのです。
 ちょうどそのときダイムラー・ベンツが燃料電池車の量産を宣
言した時期と重なるのですが、それはガソリンエンジンの存続を
賭けた死ぬか生きるかのサバイバル競争そのものといえます。
 しかし、この「ターボジェネレータ・パラロン75」は大きな
波紋を呼び、ヨーロッパ原子力産業の中心的存在であったフラン
ス電力が、アライドシグナル社の発電部門の子会社であるアライ
ドシグナル・パワー・システムズ社とヨーロッパと北アフリカで
マイクロガスタービンの市場を開拓する契約に調印したのです。
 それはまさにフランスの原発と再処理からの撤退を意味する出
来事といえます。今まで世界の原発を持つ国は、フランスをモデ
ルとし、目標にしてきたからです。日本などもそうです。確かに
フランスは発電量の80%を原発でまかない、その電力の半分以
上をヨーロッパ各国に売って自国の産業を維持してきたのです。
 しかし、アライドシグナル社の発電用マイクロガスタービンを
テストしたフランス電力は、その驚異的な性能と本体価格5万ド
ルという価格に仰天し、これが相手では、性能面、コスト面で原
発ではとうてい太刀打ちできないことを知って、契約に踏み切っ
たというわけです。
そうしないと、フランス電力は現在手にしている電力利権を失
いかねないからです。これを守るには、他社よりも早くアライド
シグナル社の新エネルギーを、ヨーロッパに販売するしか手がな
かったといえます。
 このアライドシグナル社は、1999年はじめには日本にも総
代理店を置いています。そして、1999年5月には、東京ガス
とマイクロガスタービンの実用テストを行う契約を結んでいるの
です。東京ガスはガス会社ですから、アライドシグナル社の発電
機の性能をもっと高める数多くの技術やノウハウを持っているは
ずです。
 しかし、東京電力もフランス電力が契約したわずか3ヶ月後に
アライドシグナル社とキャプストーン社の両方からマイクロガス
タービンを購入して実験を開始しているのです。大口電力の自由
化がスタートする2000年3月直前のことです。キャプストー
ン社というのは、アライドシグナル社からスピンアウトした企業
であり、今やアライドシグナル社のライバル企業なのです。
 そして、同年9月、日本の原子力産業史上最悪の臨界事故が東
海村で発生します。これは、原発とその再処理からの撤退を一層
加速させる要因になったといえます。「原発は安全」、「原発は
安い」といってきたことがすべて覆されてしまうあまりにも悲惨
な大事故でした。
 2000年6月には、アライドシグナル社は、150億ドルで
ハネウェル社を買収し、買収した企業名をとって「ハネウェル・
インターナショナル」、マイクロガスタービン開発部門の子会社
は「ハネウェル・パワー・システムズ」と名前を変更し再出発を
しているのです。ハネウェルの名前の方が世界に知られているの
で、そういう処置をとったのです。
 燃料電池とマイクロガスタービンという発電装置が従来型の発
電システムを揺さぶっています。実は、この問題が、地球温暖化
論議と密接に関係するのです。なぜ、米国はこの問題に対して冷
淡なのか。その原因について少し掘り下げて考えてみる必要があ
りそうです。バラード社はカナダですが、アイダテック社にして
も、アヴィスタ社にしても、ハネウェル・インターナショナルに
しても、すべて米国の企業なのですから・・・。
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2001年06月28日

CO2は冤罪ではないのか(EJ647号)

 燃料電池とマイクロガスタービン――これらは、ご紹介してき
たように、米国主導で急ピッチで開発が進められていますが、こ
れらはクリーンエネルギー化という観点から見て、地球の環境保
全問題に大きな影響を与えようとしています。
 その一方で米国のブッシュ政権は、地球温暖化防止のための京
都議定書からの離脱を表明しています。世界のCO2総排出量の
22.6%を占める米国が京都議定書に参加しないとすれば、2
002年の議定書発効は絵に描いた餅に終わる可能性が出てきて
います。
 しかし、米国はなぜこの問題に冷淡なのでしょうか。米国は、
気象衛星や観測気球を駆使して、人類の中で最も精密な気象情報
を持っているはずです。それらの情報をベースにして米国の気象
学者たちは、二酸化炭素(CO2)による地球の温暖化論議自体
に非常に疑問を持っているのです。
 そこで、米国の立場に立って、この問題を検証してみたいと思
います。それが燃料電池やマイクロガスタービンと深いかかわり
があるからです。なお、これは環境問題に詳しい作家、広瀬隆氏
の所説に基づいていることをお断りしておきます。
 炭素を含んだ物質、すなわち、薪、木炭、石油、ガス、ガソリ
ンなどは酸素と結合して燃え上がり、二酸化炭素(CO2)を出
します。二酸化炭素はこのような燃焼に伴う排出物であり、燃や
すものによっては有毒ガスを発生するものもあるので、二酸化炭
素の排出量を減らすべきであるということについては、米国は同
意しているのです。
 しかし、そのCO2が地球温暖化の原因になるという説に対し
ては、極めて懐疑的というか、説を真っ向から否定している気象
学者も多いのです。彼らは、燃料電池やマイクロガスタービンの
ような新エネルギー技術こそ急務としています。なぜなら、それ
らの新エネルギー技術が、窒素酸化物や硫黄酸化物などの有毒ガ
スを減らし、排熱を減らすからであり、それこそ生命体にとり、
重要なことと考えているからです。彼らが有害とみなしているも
のの中には、CO2は入っていないのです。
 数字について検証してみましょう。問題となっている大気中の
CO2の濃度は、体積比で百万分の1を示すppmvの単位で測
定されてきています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1960年 ・・・・・ 315ppmv
      1995年 ・・・・・ 360ppmv
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 環境保護論者の書物によると、「地球上のCO2が3%を超え
れば人間は窒息する」と書いてあります。ここで1%とは、10
000ppmvであり、3%に達するまでには、どのくらいCO
2が増えることになるかを計算してみます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 30000ppmv−360ppmv=29640ppmv
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 29640ppmvに達するのにどのくらいかかるのかについ
て知るには、1960年から1995年までの35年間で45p
pmv増えたことがわかっているので、その増加率を出して計算
すればよいことになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  45ppmv÷35年=1.285ppmv
  29640ppmv÷1.285ppmv=23066年
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 単純計算ですが、CO2が3%に達するには、23000年を
要する計算になるのです。今から23000年後といえば、人類
が存在しているかどうかわからないほど先の話です。それなのに
何をあわてているのかというわけです。
 ここで大切なのは「物を燃焼させたときの排熱が問題ではなく
CO2が元凶だとされていること」です。しかし、EJ645で
述べたように、原子力発電は67%の熱が排熱として捨てられて
いますが、この無駄に捨てられる熱量こそ重大な自然破壊を引き
起こしているのです。
 原子力発電所が捨てる巨大な排熱は、河川か海の水を使って冷
やされています。そのために海藻などを絶滅させ、それを食べて
生きている貝類をも死滅させます。
 さらに温暖水は水中に拡散せず、熱の固まりとなって大陸棚の
ような浅瀬を浮遊するので、その温度変化によってため稚魚が殺
されるため、沿岸漁業が衰退する一因にもなっているのです。
 問題は、CO2ではなく、工場と発電所と自動車の巨大排熱を
いかにしてゼロにするかなのです。そうであるとしたら、そのひ
とつの答として米国は、燃料電池とマイクロガスタービンを開発
しているのです。これこそ今求められている緊急の対策ではない
かといっているわけです。
 CO2による地球温暖化が正しいとすれば、地球全体が温暖化
されていることが証明されなければならないわけですが、これに
は大きなクエッションマークがつきます。
 ひとつの例をあげます。それは東京における真夏日と熱帯夜の
統計です。日本では次の2つの指標があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   ●最高気温が30度以上に上がる ・・ 「真夏日」
   ●最低気温25度より下がらない ・・ 「熱帯夜」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 真夏日は暑さの指標であり、熱帯夜は冷えない指標です。地球
全体が高温になると、最近の東京は昔よりも真夏日が多いはずで
す。ところが真夏日が過去最高を記録したのは1994年の66
日ですが、実はその33年前の1961年にも同じ66日が記録
され、1950年の65日がそれに続いているのです。
 このように調べていくと、真夏日が最も多かった年代は199
0年代ではなく、1960〜70年代にかけてなのです。昔も結
構暑かったわけです。地球温暖化は本当のことなのでしょうか。
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2001年06月29日

電気と熱を両方利用できるエネルギー(EJ648号)

 28日の読売新聞夕刊の第1面に、次のような記事が出ていま
したが、気がつかれたでしょうか。今朝の読売新聞朝刊にも「京
都議定書」の問題が出ています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   「温室効果」を共同研究/日米首脳会議で一致へ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本としては、米国の京都議定書からの離脱という事態に対し
て、引き続き米国を説得するために、米国から要請のあった共同
研究「グローバル・アジェンダ」を行うことに基本合意したとい
う内容の記事です。
 重要なのは、米国側から共同研究を持ちかけている点です。昨
日のEJでも述べたように、米国は地球温暖化論議の根拠に疑問
を抱いており、日本に研究を持ちかけてそれを明らかにしようし
ているのです。京都議定書に問題があることは、「ニューズウィ
ーク」7月4日号の、ロバート・サミュエルソンのレポート「京
都議定書は偽善だらけだ」を読んでも明らかです。
 そもそもCO2が悪玉にされたのは、1992年にブラジルの
リオデジャネイロで開催された地球サミットにおいて、地球温暖
化防止条約が締結されてからなのです。
 同会議の議長を務めたブラジル環境長官ゴルデンベルグなる人
物は同国トップの原子物理学者であり、この会議以後において世
界中の原子力産業がCO2による地球の温暖化説を引き合いに出
し、原子力推進論を展開するようになったのです。そこには、C
O2を悪玉にして原子力を守るという陰謀があるようです。
 しかし、原子力によってエネルギーを得るのは、チェルノブイ
リ事故や東海村臨界事故などによっても明らかであるように、き
わめて危険であり、より一層の自然破壊につながる恐れがありま
す。そういう事故が繰り返され、多くの人が原子力の危険性が分
かってくると、今まで以上の原発反対の渦が巻き起こることを恐
れる向きがあることは確かなのです。CO2悪玉説はそういうと
ころから出てきたのではないかと考えられます。
 夏になにると省エネが叫ばれますが、かつて「真夏の高校野球
のときに、エアコンをがんがんきかせて、ビールを飲みながらテ
レビを見る。そのときに電力の消費がピークに達する」というこ
とを繰り返し聞かされたことがあります。そういうとき原発の電
気がなければ電力不足が起こり、停電してしまうという原発の重
要性を訴えるストーリーです。
 この話、ちょっと聞くと「そうかな」と思ってしまうところが
あるのですが、実は正しくないのです。2000年8月25日に
1995年8月25日に記録したピーク消費電力1億7113万
キロワットを上回り、過去最高が記録されています。
 このときもエアコンの需要増加が指摘されたのですが、少なく
とも高校野球の決勝戦とは関係ないのです。高校野球の2000
年の夏は智辯和歌山高校が優勝したのですが、その日は8月21
日であり、1995年の帝京高校が優勝したときも、消費電力が
ピークに達した日とずれているのです。
 それでは、冷蔵庫、電灯、テレビ、PCまでを含めたすべての
家庭のエネルギー消費の中で、冷房エネルギー消費量が占める比
率はどのくらいでしょうか。
 広瀬隆氏は多くの人にこの質問をしていますが、20%〜30
%という答えが一番多かったといいます。しかし、住環境研究所
の統計によると、家庭用の冷房はわずか2%なのです。同統計に
よる家庭のエネルギーは次のように使われているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     照明・動力など ・・・・・ 35%
     給湯 ・・・・・・・・・・ 35%
     暖房 ・・・・・・・・・・ 28%
     冷房 ・・・・・・・・・・  2%
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 考えてみれば、夏は7〜9月の3ヶ月で、1年の4分の1に過
ぎないのです。さらに夏の猛暑の日数は、年間合計で多い年でも
20日(5%)程度でしかないのです。こういう事実を考慮する
と、家庭の冷房電力が年間の2%というのは別に不思議なことで
はないのです。
 ですから、「真夏の高校野球のときにエアコンがんがん・・」
というアッピールは、電力会社による国民に対するおどしという
ことになります。それでは、犯人はだれなのでしょうか。
 それは、工場、オフィス、学校、病院、公共施設など電気を大
量に消費する仕事場(ビル)なのです。これらの仕事場は商店を
含めて、日本の電力の70%を消費するのです。したがって、こ
れらの仕事場の省エネルギーは非常に重要です。
 ところが、この分野の電力消費の責任者は、大量に電力を消費
してくれると儲かる電力会社、「環境にやさしいオール電化」を
標榜し、省エネルギーを考えない設計施工をしているビルの建築
業者と設計者、それに自治体の都市計画担当者なのです。
 米国などは新築ビルにおいてはマイクロガスタービンを使い、
その排熱を吸収式冷却法によってビル冷房に利用するという方法
をとっていますが、これはビルの省エネルギーに大きく貢献する
のです。日本では、今まで電気の消費量だけを問題にしてきまし
たが、マイクロガスタービンや燃料電池のように、電気と熱を両
方利用できるエネルギー源が登場してきている現在では、すべて
のエネルギー形態をいかに効率的にできるかについて知恵を絞る
必要があるのです。
 7回にわたって、燃料電池やマイクロガスタービンを中心にエ
ネルギー問題について考えてきましたが、このテーマはひとまず
本日で終わりです。来週からは新しいテーマを取り上げます。
 参考文献は何冊かありますが、何といっても広瀬隆氏の390
ページに及ぶ大作、『燃料電池が世界を変える/エネルギー革命
最前線』(NHK出版/添付ファイル)が参考になりました。大
変なエネルギーで書かれた本です。

648号.jpg
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2001年07月02日

日本を代表するエコノミストを格付けする(EJ649号)

 EJ635と636の2回にわたって取り上げた宮城大学教授
(金融論)糸瀬茂氏が30日に逝去されたそうです。末期の食道
がんであるにもかかわらず、ゼミナールのために東京と仙台を往
復し、最後までテレビの報道番組にコメンテータとして活躍した
気鋭のエコノミストでした。心からお悔やみ申し上げます。
 さて、エコノミストといえば、最近テレビには多くの人が登場
しますね。私は、ここ何年かにわたってテレビの番組で彼らの意
見には耳を傾けてきましたし、本や雑誌などに出ている記事も読
んできましたが、いっていることにかなり一貫性のないエコノミ
ストも大勢います。
 そう思っていたところ『文藝春秋』7月号で東谷暁氏がそうし
たエコノミストたちの格付けをやっているのを知りました。東谷
氏といえば、金融論に強いジャーナリストで多くの優れた著書が
あります。今朝はこの記事をベースにして、それに私なりの評価
を加えてみたいと思います。
 評価の対象となったテーマは次の4つです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.不良債権の処理
  2.景気動向・対策
  3.ゼロ金利政策論
  4.IT革命論評価
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、これらのテーマはいずれも進行中であり、完全にはケ
リがついていないものばかりです。したがって、評価に当っては
「論理に一貫性があるかどうか」に重点が置かれています。一定
の時期を通じて話していることをチェックし、論理に一貫性があ
るかどうかが採点の基準になっています。点数化は、発言に対し
て論理的な整合性が高いかどうかで、次の5段階で採点が行われ
ているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    「納得できる」 ・・・・・・・・・ +2
    「まず納得できる」 ・・・・・・・ +1
    「まったく納得できない」 ・・・・ −2
    「やや納得できない」 ・・・・・・ −1
    「どっちつかず」 ・・・・・・・・  0
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 総合点でのベスト10をご紹介しましょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
            格付け   総合点数
   1.池尾 和人   A   +1.22
   2.嶋中 雄二   A   +1.17
   3.木村  剛   A   +1.09
   4.深尾 光洋   A   +1.00
   5.岩田規久男   A   +0.90
   6.武者 陵司   A   +0.82
   7.フェルドマン  B   +0.67
   8.吉冨  勝   B   +0.67
   9.高橋 乗宣   B   +0.60
  10.植草 一秀   C   +0.50
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「格付け」については、東谷氏はムーディーズ型の評価をして
いるのですが、少し分かりにくいので、私がそれをABCランク
に直してあります。格付けがA、B、Cであれば、エコノミスト
として一流であると評価してよいと思います。
 竹中平蔵氏をはじめテレビにはなぜか慶応義塾大学の先生がよ
く登場しますが、トップはやはり慶大教授の池尾和人氏でした。
池尾教授の主張は一貫しています。早くから不良債権の処理が喫
緊の問題であることを指摘し、その後一貫して政府の処理策の不
徹底さを厳しく批判してきているのです。
 1999年3月、大手15行に対する資本注入が行われた直後
にも「今回注入される『資本』については強く返済が求められて
おり、返済が義務づけられているという点では、今回注入される
公的資金は『負債』という性格のものに近い。債務超過かも知れ
ない銀行にさらに債務を負わせて何が解決するのか」という疑問
を投げかけています。
 池尾氏と同様に不良債権処理の不徹底さを指摘してきたエコノ
ミストとして、元日銀行員の木村剛氏とやはり慶大教授の深尾光
洋氏がいます。両氏ともにその著作では一貫性のある分かりやす
い解説を行っています。
 このベスト10で少し意外だったのは、野村総研・上席エコノ
ミストの植草一秀氏の10位です。一貫性といえば、どのような
時点でも、この人ほど徹底して財政出動の必要性を説いた人はい
ないからです。10位に甘んじた理由は、財政出動の中身がよく
変わる点が減点の対象になっているようです。
 採点されたエコノミストには有名人が多く含まれています。参
考までに有名な7人の順位をご紹介しておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
            格付け   総合点数
  13.R・ クー   E   +0.22
  14.高橋  進   E   +0.18
  15.伊藤 元重   F   +0.15
  16.竹中 平蔵   G    0.00
  21.榊原 英資   J   −0.31
  22.斎藤精一郎   K   −0.36
  24.中谷  厳   L   −0.42
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 順位についてはコメントしませんが、私はほぼ正しい評価では
ないかと思っています。とくに榊原英資氏、中谷巌氏に対しては
相応の評価であると思います。彼らは、IT革命論に関して驚く
ほど主張が首尾一貫していないのです。そのときそのときの情勢
に合わせて意見を述べているだけという感じです。
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2001年07月03日

ITのとらえ方で判断を誤ったエコノミスト(EJ650号)

 昨日の続きです。小泉内閣の目玉閣僚の一人である竹中平蔵経
済財政担当相の評点がなぜ第16位になってしまったかについて
その理由を述べる必要があると思います。
 最近になって竹中大臣に対する批判が多く出るようになってい
ます。東谷暁氏によるエコノミスト格付けもその一環かも知れま
せん。竹中氏は現在40歳、数あるエコノミストの中からの抜擢
であり、やっかみ半分のいろいろな雑音が聞こえてくるのは多少
はやむをえないと思いますが、東谷氏によって主張が首尾一貫し
ないと指摘されているのは問題があります。
 竹中氏の採点の詳細を見ると、「景気動向・対策」が−1点、
「IT革命論評価」が−2点なのです。景気動向に関してはベス
ト10に入っているエコノミストたちの評価は、全員+1であっ
てさすがと思わせますが、これはさておき、竹中大臣のIT革命
に関する発言はかなり大きなゆれがあるのです。
 1997年当時、竹中氏は、新時代到来と騒ぐ米国のニューエ
コノミー論に対して次のように批判していたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『「新時代論」という楽観論が注目されるのは、80年代のア
メリカ経済に対する悲観論の反動・・・アメリカ経済に対する
 ポジティブ・フィードバックが永遠に続くと考えるのは誤りで
 ある』。(「エコノミスト」1997.9.16号)
 『従来とまったく異なった新しい次元、「ニューエコノミー」
 の時代を迎えたと考えるのは早計である』。(「ボイス」19
 98.10月号)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この主張はなかなか冷静に現実を見ており、竹中氏がこの主張
のままであったとしたら、間違いなくベスト10入りしていたは
ずなのです。しかし、2000年に入ってから竹中氏は、まるで
人が変わったようにIT論者に変貌してしまいます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『IT革命の成果が現れだし、神風のように日本経済活性化の
 チャンスが訪れた。IT革命はいわば国民運動として展開され
 る必要がある』。(2000年9月2日付産経新聞)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 確かに竹中氏は、森前総理と一緒に「IT国民運動」を主張し
ていたことは確かなのです。しかし、ITの現実はどうかという
と、米国の第一四半期生産性伸び率はマイナス0.1%(5月8
日米国発表)に急落して、ITによる生産性の継続上昇という説
も葬られているのです。そして、日本のITバブルが崩壊し、米
国でも90%のネット企業が破綻してしまっています。
 何のことはない。竹中氏が当初いっていたことが正しかったの
です。竹中氏は経済財政諮問会議のメンバーになって政治に足を
踏み入れることによって、従来の考え方を変節させてしまったの
ではないかと思われます。その点、ベスト第6位のドイツ証券武
者陵司株式調査部長は、冷静な分析により、ブーム最盛期の頃か
らITブーム崩壊の時期を的中させているのです。
 竹中氏だけではなく、ITの問題では従来の主張なり諸説を大
きく変節させた学者が少なくないのです。東谷氏が指摘している
のは、多摩大学教授の中谷巌氏です。
 中谷氏は米国の「ニューエコノミー」を「eエコノミー」と命
名し、「情報革命の本質は、取引コストが激減することである」
(「潮」2000年1月号)と分析、「問屋、小売店、代理店な
どの販売中間業者の多くは不要になってくる」(「週刊読売」2
000年1月23日号)と断言しているのです。
 東谷氏は、中谷氏が商社向けの本『IT革命と商社の未来像』
の編著者になっていることの矛盾を衝いています。なぜなら、商
社こそ中間業者そのものであるからです。しかも、同書の中で中
谷氏は「中抜きは簡単には起こらない」と今まで主張してきたこ
とを否定する趣旨のことを平気で書いています。これでは節操が
ないといわれても仕方がないと思います。
 エコノミストではありませんが、中谷氏と並んでITの推進論
者の1人、野口悠紀雄東京大学教授も変節論者の1人であると私
は思います。
 1995年にウインドウズ95が発売され、PCが一挙に普及
してブームになったとき、ウインドウズを批判し、素人ユーザに
対してワードよりもエディタの利用を勧め、インターネットなど
役に立たないとこき下したのです。
 しかし、その後インターネットが大幅に普及すると、手のひら
を返したように主張を改め、PCやインターネットの伝導師気取
りで多くの著作を出しています。「本を売るためだったら何でも
する人なんだな」という印象です。『超整理法』では感心したの
ですが、その後の言動を見ていると、ITを都合よく自分に取り
入れたなという感じで尊敬できません。
 東谷氏は、元大蔵省財務官、現慶応義塾大学教授の榊原英資氏
にもホコ先を向けているのです。榊原氏について私は、EJ19
9〜204号にわたって大批判を繰り広げたことがあるのです。
彼の大蔵省財務官としての力量に疑問を抱いたからです。
 東谷氏は、榊原氏がそのときときの状況に合わせて主張を変え
ていることを細かく厳しく指摘しています。榊原氏は「情報革命
が進んで米国は生産性が上がった」と論じ、「これにより従来の
経済学や経済分析はほとんど役に立たないことが現実の世界で起
こっている」とIT革命の経済上におけるインパクトを印象づけ
ようとしています。
 ところがITバブルが崩壊すると主張を一気にトーンダウンさ
せ、2001年3月号の「中央公論」では、「米国ではITで経
済界に楽観論が繁茂している」としたうえ、「単なるテクノロジ
信仰を革命と取り違えている」と米国の軽挙妄動を批判している
のです。彼はそういう人なのです。
 このようにエコノミストにはいろいろな人がいるのです。私は
毎日こういうエコノミストの話を非常によく聞いていますので、
東谷氏の評価は間違っていないと思います。

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2001年07月04日

●構造改革しても景気は回復せず(EJ第651号)

 現在、最新のEJでは「日本経済回復の謎」を連載中です。そ
こで、休日データも関連する経済問題−−「円の支配者日銀」を
取り上げます。このテーマは、2001年7月4日から27日ま
で、17回にわたって連載されたものです。
 「構造改革なくして景気回復なし」――いわずと知れた小泉内
閣のスローガンです。これが参議院選挙用のスローガンであるな
ら問題はないのです。しかし、小泉首相が本気でこれを考えてい
るとしたら困ったことになります。
 このスローガンの意味は、ちょっと考えると、「構造改革をす
れば景気が回復する」というように解釈できますが、そういう意
味でないと思います。「構造改革をしなければ日本経済がだめに
なる」ことは確かですが、そうしたからといって別に景気が回復
するわけではないのです。
「ニュースステーション」のコメンテータとして著名な森永卓
郎氏はこういっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『「構造改革なくして景気回復なし」という議論には致命的な
論理矛盾がある。構造改革というのは、生産性を上げて供給力
 を増やす政策だ。しかしいまの不況は、供給力が少ないから成
 長できないのではなく、需要が少ないから成長できないのであ
 る。だから、構造改革をいくら進めても、景気回復はできない
 のだ』。(森永卓郎著、『日銀不況』より)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 小泉首相とブッシュ大統領による日米首脳会談でブッシュ大統
領は、「日本の不良債権問題を憂慮している。小泉首相の積極的
な取り組みを期待したい。米国としてもこの問題を解決するため
にあらゆるサポートをしていきたい」と表明しましたが、それは
米国にとって当然のことといえます。
 というのは、日本の金融機関がバタバタ潰れると、それらの金
融機関がかかえている膨大な米国債が投げ売りされることになり
ます。そうすると、米国債は暴落し、米国の金融機関は深刻な影
響を受けることになるのです。そのため、米国としては不良債権
の早期処理を強く日本に求めるわけです。
 日本経済の問題を考えるとき、このあたりの理解がとても大切
なのです。「失われた10年」といわれる1990年代の日本経
済の低成長の原因は、構造改革ではなく需要の不足が引き起こし
たものなのです。したがって、この問題を解決しないで景気が回
復するはずがないのです。
 日本の現在直面している課題は、デフレ、それも資産デフレで
あり、倒産であり、失業なのです。これは、景気の悪化によって
引き起こされる現象です。それは、基本的には日本経済に大きな
デフレ・ギャップが存在していることを意味しているのです。ど
ういうことかというと、経済全体の総需要が総供給より小さいこ
とを意味しているのです。
 ですから、とにもかくにも総需要を増やす政策を実行すること
が急務なのです。ところが日本は構造改革をやろうとし、米国も
それを求めているのですが、先に述べたように、構造改革は経済
のムダをなくし、総供給を拡大する政策なのです。
 総需要の拡大が求められているのに、総供給を拡大する政策を
実施したら、一体どうなるでしょうか。デフレギャップがさらに
広がってしまうことは明らかではありませんか。
それでは、なぜ総需要が増えないのでしょうか。
 その原因はデフレにあります。それでは、なぜ、デフレになっ
てしまったのでしょうか。それは、金融政策に原因があります。
金融当局が政策に失敗してデフレになってしまったのか、それと
も誰かが意識してそういう政策をとったのかです。
 「意識してデフレ政策をとるはずがない」という反論もあると
思いますが、あながち否定はできないのです。どのように考えて
も日本の金融当局はあまりにも愚かな金融政策を長い間にわたっ
て取り続けているからです。
 リチャード・A・ウェルナーという人が書いて、このほど邦訳
の出た『円の支配者/誰が日本経済を崩壊させたのか』(吉田利
子訳、草思社刊)という382ページにおよぶ大著があります。
これによると、日銀はあえて明確な意図をもってそういう政策を
とり続けたと書かれています。
 そういうわけで、これらの資料を駆使してEJでは、断続的に
その真相に迫ってみたいと思います。
 2000年4月、森前政権が発足した当時、株価は2万円を超
えていました。それからというもの株価は下落する一方で、20
01年3月には一時1万143円まで売り込まれたのです。1万
円割れ寸前まで行ったのです。
 そして、3月19日、日銀の量的緩和策の発表、小泉政権の誕
生などで一時小康状態を保っていましたが、ここにきて再び株価
は下げています。
 12チャンルのWBSに登場するエコノミストの一人であるモ
ルガン・スタンレー・ディーン・ウィッター証券のロバート・フ
ェルドマン氏は、かなり早い時期から2000年8月が景気の山
であることを指摘していました。
 フェルドマン氏は、例のエコノミストベスト10の第7位にラ
ンクされる優秀なエコノミストです。そうであるとすると、日本
経済は去年の8月から景気後退局面に入り、それから1年近くに
なろうとしていることになります。
 問題は日銀の発表です。日銀の発表はその間次のようになって
いるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 2001年2月  「景気は緩やかな回復を続けている」
 2001年3月  「景気は足踏み状態」
 2001年4月  「景気は調整局面」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 現在、日本経済は企業部門を中心に調整局面に入っていますが
なぜ日銀は8ヶ月も不況を認めようとしなかったのでしょうか。
               −−[円の支配者日銀/01]

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2001年07月05日

●日銀はなぜ資金供給を絞り込んだのか(EJ第652号)

 株価が2万円を超えていた2000年4月頃のことですが、日
銀の速水総裁は、ゼロ金利解除の時期を慎重に窺っていました。
そして、ゼロ金利解除のXデーを7月17日とひそかに決めてい
たのです。ちなみに、ゼロ金利政策を開始したのは1999年2
月のことです。
 速水総裁としては、1998年4月から施行された新日銀法に
よって日銀として念願の強い独立性を手に入れたあとの最初の大
きな金融政策がゼロ金利政策であっただけに、その解除も日銀主
導で行いたいと考えていたのです。
 新日銀法が施行される1998年3月までは、日銀総裁は大蔵
大臣が罷免できる権限を有しており、日銀の権限は限定されたも
のだったのです。そのため、グリーン・スパンFRB議長が機動
的・弾力的な金融政策を行っている米国や、強い権限を行使でき
る欧州の中央銀行に、日銀としては長くから憧れを抱いており、
独立を勝ち取ることは日銀の悲願だったのです。
 日銀法改正は、1997年に橋本首相の行政改革の一環として
提案されています。当時日銀副総裁であった福井俊彦氏がマスコ
ミや政治家に働きかけ、新日銀法によって、「金融政策の決定が
より迅速かつ柔軟になり、金融市場の信頼を高めることにも役立
つ」とさかんに主張したのです。
 福井氏のいうことが本当であったかどうかは後から詳しく論評
するとして、速水総裁が、迅速、柔軟、機動性にこだわったこと
は確かだと思います。しかし、速水総裁が最良のタイミングとし
て狙っていた7月14日のXデーは実現しなかったのです。そご
うが破綻してしまったからです。
 しかし、日銀は8月11日にゼロ金利解除を断行します。何が
何でもやらなければ・・・という速水総裁の決断からです。しか
し、8月は7月に比べてさまざまな経済指標が悪化し、経済環境
が最悪のときにゼロ金利解除を断行したのです。しかも、今から
考えれば、7〜9月期のGDPは前期比マイナス0.6%という
大幅なマイナス成長だったのですから、経済に対して猛烈な逆噴
射をかけたことになるのです。大蔵省としては必死になって止め
に入ったのですが、速水総裁はこれを断行してしまうのです。
 このときマスコミの反応は日銀に好意的であったといえます。
当時大蔵省が悪者にされていましたから、日銀はよく自らの意思
を貫いたと賞賛されたのです。このとき中原伸之審議委員、植田
和男審議委員は反対したと伝えられています。これについては、
昨年の8月8日のEJ438〜441で詳しく伝えています。
 しかし、皮肉なことに日銀がゼロ金利を解除した8月から景気
は減速し、調整局面に入っていったのです。日銀もそのことに気
がついてはいたのですが、強引にゼロ金利を解除したこともあり
それを素直に表明できなかったのです。
 ところで、いわゆるオーバーナイト金利を0.25%上げたこ
とがなぜ大問題なのでしょうか。当時の新聞紙上では、その程度
の利上げで企業収益に大きな影響が出るところは市場から退場す
べしという勇ましい意見まで出たのです。
 これに対して森永卓郎氏は、あるシンクタンクの試算を紹介し
ています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『中長期的な成長径路、消費者物価1%の目標インフレ率、需
給ギャップ等を勘案したテイラー・ルールに基づいて試算する
 と、適正コールレートはマイナス4%にも達するという。つま
 りいまのコールレートはかりにゼロでも極端に高過ぎるのであ
 る。もちろんコールレートをマイナスにすることはできないが
 金利を引き上げる政策は明らかに誤っていたのだ』。(森永卓
 郎著『日銀不況』より。東洋経済新報社刊)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このようにゼロ金利解除は企業に大きな負担をもたらす結果と
なったのですが、もっと大きな問題は、このゼロ金利解除を実現
するために日銀が資金を絞ってしまったことなのです。
 市場に流通している現金――これを「流通現金」というのです
が、これと日銀当座預金の残高の合計を「マネタリーベース」と
いいます。このマネタリーベースは日銀が完全にコントロールで
きる資金なのです。
 このマネタリーベースは1999年12月以降、いわゆる20
00年問題に備えるためもあって対前年比で2ケタ増が続いてい
るのですが、2000年5月以降、低下しはじめ、12月には前
年同月比マイナス1.1%、さらに2001年1月にはマイナス
5.6%と大幅な資金供給量の減少となったのです。
 これをどのように考えるべきでしょうか。森永卓郎氏は、たっ
た0.25%のコールレートを守るために資金供給をマイナスに
なるまで絞り込まなければならなかったのは、それだけ実体経済
が悪化していたと考えるべきであるといっています。
 これだけ資金供給を絞れば当然株価に影響を与えます。日銀が
資金供給を絞り始めた2000年5月の時点では株価は2万円ぐ
らいの高値だったのですが、それからみるみるうちに株価は下落
をはじめ、2000年の年末にはバブル崩壊後の最安値となり、
2001年3月中旬には日経平均株価が1万2000円を割り込
む深刻な事態となったのです。
 それでも日銀は「景気は足踏み状態」と不況を認めようとしま
せんでしたが、遂に金融引締めを断念し、3月19日に金融緩和
に踏み切るのです。何とちくはぐな対応ではありませんか。
 そもそも2000年の春にわずかに出かかった景気回復の芽は
小渕政権が100兆円もの公的資金をはたいてやっと手にしたも
のだったのですが、速水総裁は日銀の権威や面子を守るために、
それを台無しにしてしまったことになります。
 3月19日の日銀の決定にはいろいろな疑問があります。それ
は今までと180度違う決定内容であったこと、それにそれは、
日銀審議委員の中原伸之氏の年来の意見をそのまま取り入れたも
のだったからです。クーデターが起こったのではないかという意
見すらあるほどなのです。
               −−[円の支配者日銀/02]
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2001年07月08日

●日銀はなぜ金利を量に変更したか(EJ第653号)

 2001年3月19日、日銀は次のことを決めています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.金融市場調節の主たる操作目標をコールレートから日本銀
   行当座預金残高に変更する。
 2.新しい金融市場調節方式を消費者物価指数の前年比上昇率
   が安定的にゼロ%以上となるまで継続する。
 3.必要と判断される場合は長期国債の買い入れを増額する。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この内容は、1年以上前から中原伸之日銀審議委員が何度も提
案し、そのつど否決されてきたものです。とにかく日銀首脳は量
的緩和に関して強い抵抗感を持っているのです。
 日銀のこの決定を報道機関は「実質的なゼロ金利の復活」と表
現して報道したのですが、これは日銀の意に沿った報道姿勢とい
えます。しかし、ゼロ金利復活と量的緩和とは基本的に異なるも
のであり、似て非なるものなのです。
 そもそも市場にお金の量を増やす――すなわち、マネーサプラ
イを増やすには、次の2つの方法があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.金利ターゲッティング
   オーバーナイト・レートのようなコール・レートを手段と
   してそれを低めに誘導する方法である。
 2.マネタリーベース・ターゲッティング
   マネーサプライの基礎となるマネタリーベースを増やす方
   法である。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 昨日も述べましたが、マネタリーベースとは、市場に流通して
いる現金と、日銀当座預金の残高の合計のことをいいます。日銀
はマネタリーベースをコントロールできるのです。
 これら2つの方法のうち、日銀が伝統的に採用してきた金融調
節手段は「金利ターゲッティング」なのです。しかし、中原日銀
審議委員の主張は「マネタリーベース・ターゲッティング」であ
り、今まで一度として採用されることがなかったのに、今回は採
用されたことになります。
 日銀は、「金利」に注目する政策とマネーサプライとか、マネ
タリー・ベースのように「量」に注目する政策との間には本質的
な違いはないことをしきりにアピールしています。
 日本銀行のホームページに、「わかりやすい金融経済」という
コーナーがあるのですが、そこにそういう趣旨の説明が行われて
いるので、読んでみていただきたいと思います。

http://www.boj.or.jp/

 日銀はこの論法で、金融の量的緩和の要請が強くなるとゼロ金
利政策のような金利ターゲッティング政策を取り、マネタリーベ
ース・ターゲッティングは決して取ろうとはしなかったのに今回
それをとったのは、3月19日の金融政策決定会合では何かクー
デターのようなことがあったのではないかと考えられるのです。
 EJで何回かにわたって説明しますが、現在の日本経済を救う
には金融の量的緩和しかないのです。しかし、日銀はこの期に及
んでもそれをなるべくやりたくないと考えており、その結果、政
策が小出しになって効果が上がらないことが考えられます。
 しかし、日銀が強い独立性を持っている現在では、政府といえ
ども日銀に強制してやらせることはできないのです。つまり、金
融政策は完全に日銀の手の内にあるのです。
 少し、ややこしい話になりますが、ゼロ金利政策と量的緩和政
策の違いを説明しましょう。
 日銀がオーバーナイト・レートをほぼゼロに設定すると、銀行
の日銀当座預金(準備預金といいます)に対する需要は増加しま
す。そこで日銀はこの需要の増加に応じて、準備預金というマネ
タリーベースの供給を増大させます。
 この準備預金をどんどん増やしていくと、やがてオーバーナイ
ト・レートはほぼゼロになります。したがって、オーバーナイト
・レートをゼロに誘導する方法をとっても、マネタリーベースの
供給を増やす方法をとっても、ゼロ金利とマネタリーベースの間
には1対1の関係があり、いずれの方法をとってもマネタリーベ
ースの供給量には変わりはないことになります。
 しかし、オーバーナイト・レートがゼロになってしまうと、そ
こに限界が生じてしまうのです。銀行はゼロ金利によって十分な
準備預金を保有することが可能になり、日銀がそれ以上お金を供
給してマネタリーベースを増やしても、そのお金は仲介業者であ
る短資会社に積み上げられ、銀行には届かないのです。短資会社
というのは、コール市場において、資金の余っている金融機関と
それが不足している金融機関とを仲介して需給を一致させる仕事
をする会社のことです。しかし、短資会社の日銀当座預金はマネ
タリーベースには含まれないので、マネタリーベースの増加はこ
こで行き詰まってしまうことになります。
 オーバーナイト・レートをゼロ以下、つまりマイナスにしない
限り、マネタリーベースをそれ以上増やすことはできなくなりま
す。また、銀行がその資金を貸し出しや証券投資のために使わな
い限り――そういうことが実際に起こっている――マネーサプラ
イの増加につながらないのです。
 このようにゼロ金利政策は、マネーサプライを増やす手段とし
ては限界があるのですが、この限界を打破するには、中原日銀審
議委員のいうように金利ターゲッティングを捨てて、マネタリー
ベース・ターゲッティングに切り替えるしかないのです。
 その具体的な手段としては、第1に短期国債現先買いオペを実
施し、状況を見て長期国債買い切りオペを実施することです。こ
れが何を意味するかについては次回に説明しますが、3月19日
の日銀の発表には、「長期国債の買い切りオペ」をやるといって
いるのですから、今までの日銀とは明らかに違います。
               −−[円の支配者日銀/03]

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2001年07月09日

●短期金融市場はどういう市場か(EJ第654号)

 日銀の問題を考えるとき、短期金融市場(以下、コール市場)
についての理解が必要になります。EJでは何度かやっています
が、今朝はこれをもう少し詳しく説明することにします。
 コール市場とは、金融機関の間で資金を融通し合う市場のこと
です。コール市場の「コール」という言葉は、呼べば直ちに戻っ
てくる資金(money at call )という意味で、ごく短期の資金を
意味しているのです。
 1997年11月17日に北海道拓殖銀行が、26日には徳陽
シティ銀行が破綻したのですが、直後に取り付け騒ぎが起こって
います。実は、その破綻の前にコール市場というプロの市場で取
り引き停止が起こっていたのです。コール市場で破綻両行は企業
としての信用を失い、資金繰りがつかなくなり、それが破綻の直
接の原因となったのです。
 それでは、コール市場と日銀はどういう関係にあるのでしょう
か。これを明らかにする必要があります。
 銀行は日銀に当座預金口座(日銀当座預金)を持っています。
日本の銀行は、銀行の銀行である日銀の当座預金に「準備預金」
というかたちで、一定のお金を預けることを義務付けられている
のです。これを準備預金制度といいます。
 準備預金は、銀行の預金量の割合に応じて決められています。
準備預金に金利はつかないので、各銀行は決められている額ぎり
ぎりしか積みません。毎月16日から翌月15日までの平均残高
でいくらというかたちなので、平均的に積むのか、最初はあまり
積まずあとからたくさん積むのか、あるいはその逆で行くのかは
銀行にまかされています。もし、所要額に達しないと「過怠金」
を納めさせられることになっています。
 われわれが銀行から預金を取り崩して現金を引き出すと、その
銀行は日銀当座預金から準備預金を引き落として対処します。年
末には多くの預金が引き出されるので、銀行は多額の現金を用意
する必要があります。
 日銀の地下の大金庫から各銀行に向けて紙幣が大量に運び出さ
れるのですが、これにより各銀行の準備預金は減少します。一定
の準備預金を積むことを義務づけられている銀行にとっては「資
金不足」の要因になります。
 さて、個人や企業が銀行預金を取り崩して税金を政府に納めれ
ば、銀行の準備預金は減少し、その代わり政府が日銀に預けてい
る預金が増加します。逆に政府が公共事業費などを民間に支払え
ば、政府預金が減少して、準備預金は増加します。
 経済全体の資金の過不足は、このように民間と銀行との現金の
やりとりと、税金の支払いによって変化するのです。こういう資
金の過不足は個々の銀行によって違いがあり、銀行同士での頻繁
な資金の融通が必要になります。この資金繰りを毎日行っている
のがコール市場なのです。
 このコール市場の金融コントロールを行うのは日銀です。市場
の資金過不足の状況を把握し、市場に資金を供給したり、回収し
たりするのです。この行動を「金融調節」といいます。法人税な
どの納付期限やボーナスの支給などの季節的要因による資金量の
変動を最小限にコントロールのも金融調節です。
 市場関係者が注目しているのは日銀の金利政策です。日銀は資
金供給を意図的に絞ったり、緩めたりして、政策意図を市場に伝
えます。日銀が短期金利を高くしようと思えば、資金供給の量を
絞り、銀行が準備預金を積み立てるペースを遅らせます。そうす
ると、銀行の資金繰りは苦しくなり、コール市場の需給は逼迫し
金利は上昇します。
 この金融調節で日銀が直接の誘導対象としているのは、翌日物
の「無担保コールレート」(オーバーナイトレート)です。この
金利を調節することによって銀行の貸出しを増減させることがで
きるのです。
 日銀による金融調節には、公定歩合での「日銀貸し出し」とい
う手段もあります。この「銀行貸し出し」は、銀行が金融市場か
ら調達するコールレートよりも公定歩合が低いときは銀行として
うまみがあったのです。例えば、公定歩合がコールレートよりも
1%低いとき、1000億円の貸し出しを受けると、年間10億
円儲かるのです。これは銀行の収益支援となります。
 日銀はそういう意味で銀行の生殺与奪の力を握っており、日銀
に協力的でない銀行は「日銀貸し出し」が受けられなかったり、
「日銀貸し出し」を引き上げられたり、準備預金が積み立て不足
のときに貸してくれなかったり、いろいろいじわるをされること
があるそうです。こういうぎりぎりの嫌がらせのことを日銀内で
は「焼き鳥」と呼んでいるのです。「東海銀行を焼き鳥にする」
などというのです。こういうところが日銀の不正の温床となって
いるのです。また、日銀と短資会社との癒着も取り沙汰されてい
ますが、これにについては明日お話しします。
 さて、北海道拓殖銀行破綻のさいの日銀の行動をチェックして
みます。1997年11月15日が土曜日であったこともあり、
14日の金曜日が日銀への準備預金の積み上げ最終日に当ってい
たのです。ところが拓銀は資金の調達はできず、100億円を超
す積み不足が生じていました。普通ならコール市場で金融機関か
ら融通できるのですが、すでにこの時点でコー市場において拓銀
向けに資金を出す金融機関はなくなっていたのです。
 しかし、日銀は14日の時点で拓銀が実質上債務超過にあるこ
とが分かっていたので、日銀は何もせず、翌15日に拓銀経営陣
は自力再建を断念するのです。拓銀が破綻を発表したのは17日
のことです。拓銀はすでにコール市場において破綻を宣告されて
いたのです。         −−[円の支配者日銀/04]
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2001年07月10日

●短資会社は日銀の天下り業界(EJ第655号)

 先週のEJで日銀の隠語「焼き鳥」についてお話ししましたが
実際に行われた「焼き鳥」の例をひとつご紹介しましょう。
 1995年12月のことです。かねてから三和銀行は、他行が
準備預金の積み立てが終り、コールレートが下がった頃を見計ら
って資金調達を繰り返していることについて他行から「金融村の
秩序を乱す」とクレームがきているので、日銀は三和銀行を「焼
き鳥」にしたことがあるのです。
 さんざんいじわるをして「日銀貸し出し」をしたのですが、貸
し出しにさいして担保の積み増しという制裁を課したのです。三
和側は、制裁の早期解除を目指して接待を繰り返し、その見返り
として何とか早期解除を認めてもらったそうです。
 1991年、東海銀行の不祥事にからんで日銀OBの幹部が処
分されたのを不満に思った日銀が、東海銀行に対する「日銀貸し
出し」を1000億円程度回収した例もあるのです。旧大蔵省と
いい、日銀といい、外務省といい、この国は本当におかしくなっ
ていると思います。
 コール市場における資金の貸し手と借り手は、短資会社によっ
て結びつけられます。つまり、資金を借りたい銀行と貸したい銀
行を結びつける仲介の働きをする会社が短資会社です。短資会社
は、どの都市銀行にどけだけカネを配分するかの事実上の決定権
を握ります。
 それでは、短資会社というのはどういう会社でしょうか。
 短資会社は、国内で6社しかないのです。コール市場は東京、
大阪、名古屋の3ヶ所あります。とっても別に証券取引所のよう
な場所があるわけではなく、電話によって取引が行われる、いわ
ゆるテレフォン・マーケットです。
 短資会社の名前と場所、それにランクは次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     ≪東 京≫      ランク
      東京 短資      上位
      日本 短資      中位
      山根 短資      中位
     ≪大 阪≫
      上田 短資      上位
      八木 短資      下位
     ≪名古屋≫
      名古屋短資      下位
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 長い間、国内6社独占でやってきたのですが、1993年に日
英合弁の外国為替ブローカー、ハトリ・マーシャルが参入して国
内独占に風穴が空いたのです。
 東京短資と上田短資は上位短資とランクされていますが、儲け
過ぎているという批判があります。上位短資は、会社の規模から
すると、異常に大きな内部留保を積み、みかけの利益をわざと小
さく操作しているという批判があります。
 この国内6社すべてに代表権を持つ役員に日銀OBがいるので
す。日銀は平取締役まで含めれば、1社2、3人もOBを送り込
んでおり、短資業界は日銀の天下り業界と化しているのです。
 これら6社がどのくらいの営業収益(手数料収入)を上げてい
るか、なるべく近い決算月で比較してみます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
         営業収益            決算月
  東京 短資  260億3700万円  1996.11
  日本 短資  212億1400万円  1996. 9
  山根 短資  267億3100万円  1996. 5
  上田 短資  219億1300万円  1997. 2
  名古屋短資   74億2500万円  1997. 1
  八木 短資  106億2300万円  1996.10
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これら6社の資本金がいずれも1億〜3億円であることを考え
ると、莫大な利益を上げていることがわかると思います。コール
市場の手数料は固定されていて、弱小短資が赤字にならない程度
に設定されているのです。
 日銀の短資会社に対する保護措置は目に余るものがあります。
 信用金庫関係者の話によると、愛知県の信用金庫は名古屋のコ
ール市場にしか資金を出せないのであるといいます。弱小の名古
屋短資を助けるための措置です。それでいて、静岡県の信用金庫
は、東京のコール市場に資金を出せるのです。
 また、1997年11月に日銀は「債券貸借オペ」という新方
式のオペレーションを導入するさい、対象として30の金融機関
を選定したのですが、多くの都市銀行が選定から外れているのに
短資会社は6社とも全部対象になっているのです。債券貸借オペ
の実績のある都市銀行から不満が強まり、基準の公開が求められ
ていますが、日銀は基準を公表していないのです。
 短資会社幹部が日銀幹部の接待をすることは日常茶飯事となっ
ており、その狙いは日銀の金融調節の情報の入手にあるとされて
います。収賄容疑で逮捕された吉沢容疑者の容疑事実の中にも接
待の見返りとして、「日本銀行の金融調節、他の市中銀行の動向
に関する機密情報の漏洩」が上げられていますが、金融市場の公
正さを守る日銀にとって考えられない不祥事といえます。
 大蔵省の金融行政は護送船団方式として批判されましたが、日
銀も自分の庭先で似たようなことをやっているのです。外からよ
く見えない分、大蔵省よりも日銀の方がタチが悪いといえると思
います。その日銀が独立性を手にして、日本の金融政策は日銀が
握っているのです。      −−[円の支配者日銀/05]
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2001年07月11日

●2つのMが日本経済をおかしくさせた(EJ第656号)

 2001年3月になって内閣府は「緩やかなデフレ」と初めて
認定しましたが、デフレは昨日今日なったのではなく、1990
年代全部がデフレであったといえます。というのは、最も包括的
な物価動向を示すといわれるGDPデフレータは、1994年〜
2000年度まで、消費税の引き上げのあった1997年をのぞ
いてすべてマイナスであるからです。
 問題はなぜデフレになったかです。そこで、とくに「失われた
10年」といわれる1990年代に大蔵省や日銀が行った金融政
策を中心に見ていきたいと思います。
 1985年9月――ニューヨークのプラザホテルで開催された
先進5ヶ国蔵相・中央銀行総裁会議(G5)で、米国は「強いド
ル」路線を放棄して、ドル高是正のための協調介入に同意すると
提案し、各国、とくに日本はこれに同意したのです。これが「プ
ラザ合意」ですが、今考えると、この「プラザ合意」からすべて
がはじまっていたといえると思います。
 1985年――米国は膨大な貿易赤字で苦しんでいたのです。
これを解決するには、米国の輸出を増やして輸入を減らす必要が
あるわけですが、そのためには「ドル安」にすることが必須の条
件になります。
 これを実現するにはどうすればよいかというと、日銀が外国為
替市場で持っている大量のドルを円に替えればよいのです。そう
すれば市場に大量のドルがあふれるのでドルの価値は下がり、ド
ル安になります。しかし、それに応じて円の価値は逆に上がるこ
とになります。つまり、「円高/ドル安」に向かうことになるわ
けです。
 プラザ合意直前の円は、1ドル=240円だったのですが、わ
ずか2ヶ月で円は200円を割り、翌1986年7月には1ドル
150円という急激な円高となってしまったのです。
 この1986年7月に宮沢喜一氏は大蔵大臣に就任するのです
が、大臣になるやいなや宮沢氏は次々と大胆な金融政策を打ち出
したのです。まず、急激過ぎる円高を是正するため、強力なドル
買い介入を行うとともに、11月には公定歩合を0.5%下げて
3.0%とし、1987年2月にはさらに公定歩合を2.5%ま
で下げてしまったのです。
 金融政策は日銀の専管事項のはずですが、このときは事実上の
決定権限は大蔵省が握っていたのです。この宮沢蔵相の打った金
融緩和策は劇的な効果をもたらし、景気は1986年11月を底
に一転回復に向かうことになったのです。
 宮沢蔵相はさらにこれに加えて1987年5月には6兆円を超
える「緊急経済対策」を決定し、それに上乗せしたのです。景気
が回復しかけているときに大きな財政政策を打ったのですから、
景気が過熱するに決まっています。しかも、公定歩合の方は2.
5%に据え置いたままであったので、やがてバブルが発生してく
ることになります。
 そのとき日銀は何を考えていたかです。時の日銀総裁は三重野
康氏です。三重野総裁は何とか金融を引き締めたいとチャンスを
窺っていたのです。そこに地価暴騰という現象が出たのを機に日
銀は2.5%に据え置かれていた公定歩合を3.25%に引き上
げたのです。1989年5月のことです。
 三重野総裁はその後何かに取りつかれたように1年ほど間に公
定歩合を引き上げ、1990年8月には公定歩合は6.0%に達
したのです。
 さらに日銀は1990年4月まで2ケタ増だったマネタリーベ
ース――すなわち、流通現金と日銀当座預金の残高の合計のこと
ですが、これを対前年同月の伸び率を1991年2月の2.7%
まで一貫して絞っていき、さらに1991年11月から1992
年10月までの1年にわたり、資金供給量を前年同月比マイナス
に引き締めたのです。
 このあと実証していきますが、歴代日銀首脳はひどいインフレ
恐怖症であり、何かというとすぐ金融を引き締めるのです。何が
そんなに心配なのでしょうか。当時一般物価は別に上昇してはい
ないし、むしろ1990年3月に実施された不動産関連融資総合
規制と、いわゆる3業種規制で地価が下がりはじめており、むし
ろ経済はデフレ基調にあったのです。景気は明らかに減速しつつ
あったのです。ちなみに3業種とは、ノンバンク、不動産、建設
業のことをいいます。
 積極的な金融緩和策のやり過ぎで景気を過熱させた宮澤蔵相と
徹底的な引き締め策の三重野日銀総裁――この2つMが日本経済
を根底からおかしくさせてしまったのです。このようにして失わ
れた1990年代がはじまることになります。
 1991年7月に景気後退がだれの目にも明らかになると日銀
はやっと公定歩合を6.00%から5.50%に引き下げます。
しかし、明らかにタイミングが遅れていたのです。しかも、マネ
ーサプライを増加させる手を何も打っていないのです。
 1992年の経済状況において金融緩和が必要だったというこ
とは誰の目にも明らかで、当時故金丸信自民党副総裁までが金融
緩和を叫んでいたのです。それから、上智大学の岩田規久男教授
(現学習院大学)をはじめとする優れたエコノミストたちも日銀
は手形や国債の買いオペによって積極的にマネーサプライを増や
すべしという主張を展開していたのですが、日銀は聞く耳をもた
なかったのです。
 日本経済は、1992年には2四半期にわたりマイナス成長と
なり、株価は1万4000円台に落ち込み、マネーサプライの伸
び率は戦後初のマイナスになっていたにも関わらず、日銀は危機
の認識が遅れていたのです。
 なぜ、日銀は金融を引き締めようとするのでしょうか。それは
インフレに対する強い恐れとデフレに関する知識が不足している
ためです。だから「デフレを愛する日銀」などと揶揄されるので
す。むしろすべてが分かっていて、あえてデフレに誘導している
のではないかとさえ考えてしまいます。デフレになると何か日銀
にとってよいことがあるのでしょうか。
               −−[円の支配者日銀/06]

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2001年07月12日

●3つの強者はデフレを愛する(EJ第657号)

 手違いがあって、途中で11回分(EJ657号〜EJ667
号)が脱落していることに気がつきました。そこで、本日からそ
の分を連載します。間違いのありましたことをお詫びします。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 デフレになると、誰がトクをするか考えてみます。森永卓郎氏
によると、次の3つの強者がトクをするというのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.第1の強者/日銀とそれに結託する富裕層
  2.第2の強者/経営者
  3.第3の強者/構造改革派エコノミスト
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 第1の強者は「日銀とそれに結託する富裕層」です。
 1万円札の原価は17円だそうです。それが1万円として流通
するのです。それは皆が1万円だと思っているからこそ、市場で
は1万円として流通しているわけです。
 デフレになると、何もしなくてもその1万円の価値が上昇する
のです。逆にインフレになると、1万円の価値は下がってしまい
ます。紙幣はいわば日銀の製品ですから、その紙幣の価値が上が
るのがいいのか、下がるのがいいのかといったら、上がるのがい
いに決まっていますね。
日銀が金融引締めをするのは紙幣の価値を下げないというより
上げたいと考えているからではないかと思われます。日銀のこう
した対応につけこんだのが現代の強者――能力の高い人、既得権
益に守られて所得を確保できた人なのです。そういう人たちは、
下がり続けるモノ、株式、不動産などを買い占めてますます強者
になっていきます。彼らにとって、デフレは大歓迎といえると思
います。
 第2の強者は「経営者」です。
デフレで失業率が高まれば、経営者はいろいろな面において強く
なります。賃金引下げ、労働強化、リストラなど、やりたい放題
何でもできますね。今まで解雇権の乱用を厳しく戒めてきた日本
の労働市場で「希望退職」という名の首切りを自由にできるよう
になっているのもデフレのおかげといえないでしょうか。
 第3の強者は「構造改革派のエコノミスト」です。
 構造改革派のエコノミストといってもピンとこない向きもある
と思うので、実名をひとり出しましょう。竹中平蔵経済財政担当
相はまさにその筆頭といえるでしょう。
 彼らはグローバルな競争に勝ち抜くためには経済の構造改革は
不可欠であり、その中で多少のデフレ圧力が起こるのはやむを得
ないという考え方に立ってデフレを正当化しています。経済がこ
ういう状況でなければ、竹中氏が大臣になることはまずなかった
と思われます。
 また、構造改革派のエコノミストたちの巧妙なことは、デフレ
で国民を不安な状況に陥れると同時にIT革命というバブルを作
り出して、それに乗るかたちで自己の資産を増やしていることで
す。そのこと自体は別に悪いことをしている訳ではありませんが
そういうことができるからこそ強者といえます。構造改革派のエ
コノミストたちはまさにこの世の春でしょう。
 さて、米国でも1990年代のはじめには日本と同様に大きな
金融システム上の困難、不良債権による銀行のバランスシート問
題をかかえていたのです。
その米国を救ったのは日本の日銀に当るFRBの議長であるグリ
ーンスパン氏のとった金融政策であるといってよいでしょう。グ
リーンスパン議長は、1992年〜93年にかけて大胆な金融緩
和政策を行い、銀行のバランスシートを回復させると同時に金利
低下やドル安による景気回復を実現させたのです。
 そのグリーンスパン氏も昨今の米国のバブル・マーケットの崩
壊によって、その評価は大幅にダウンしています。それは、19
97年〜2000年までの4年間、資産バブル(インフレといっ
てもよい)を放置してきたからです。
 ある情報によれば、グリーンスパン氏は、クリントン前大統領
とゴア前副大統領から、大統領選の行われる2000年まで何と
か高値の株式市場と低失業率をサポートしてくれと頼んでおり、
グリーンスパン氏はそれを受け入れたのではないかといわれてい
るのです。
 そして、グリーンスパン氏はこの4年間にわたるバブルの放置
を正当化するため「ニューエコノミー論」なる理論を持ち出して
説明してきたのです。その是非については、いずれEJで取り上
げますが、とにかくこのグリーンスパンなる人物、調べれば調べ
るほど凄い人であると思います。
 テレビによく映るグリーンスパン氏というと、道路を歩いてく
る映像やビルに小走りに駆け込む映像が多いですが、FRB本部
議長室でPCを操作するグリーンスパン氏の写真を添付ファイル
でご紹介しましょう。これは大変珍しい写真です。
 彼は30分ごとにPCで米国債、ダウ平均株価、外国為替、原
油、金など、金融市場の状態を示すデータのチェックをしている
ということです。わが速水日銀総裁はどうなのでしょう。速水総
裁はPCを使えるのでしょうか。
 基本的には、現在の日本の経済を回復させるためには、グリー
ンスパン氏が1992年〜93年にかけてとった金融緩和策をと
るしかないと思われます。要するに金融緩和策、具体的にいえば
円安誘導と日銀国債引き受けしかないといえます。
 しかし、それをやる前提として日銀がインフレを調整できると
いうことが必要になります。しかし、日銀はかねがねそれはでき
ないといっています。確かに物価を上げて、それを一定の水準で
止めるということはやさしいことではありません。しかし、それ
をやるのが中央銀行の役割のはずです。そんなことはできないと
する日銀は能力がないといっているのと同じです。
 構造改革派のエコノミストたちは、金融緩和は「モルヒネ」に
過ぎないといっていますが、量的緩和こそ構造改革を前進させる
のです。というのは、量的緩和が進むとデフレが止まりますが、
逆に金利が上昇します。そうすると、金利が払えない企業が淘汰
されます。デフレが止まれば担保が減額しないので、銀行は追い
貸しせず、担保を処分して資金を回収できるのです。
               −−[円の支配者日銀/13]

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2001年07月13日

●2〜3%のインフレで日本経済は再生する?(EJ第658号)

 日銀がゼロ金利政策をはじめたのは、1999年2月のことで
す。そのとき速水日銀総裁は次のようにいっているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『デフレ懸念の払拭が展望できるような情勢になるまで、ゼロ
 金利政策を継続する』。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この発言の問題点は、経済の現状には「デフレ懸念がある」こ
とを認めている点です。しかし、この時点で政府はもとより、日
銀でもデフレであることを公式には表明していないのです。
 そういう状況において、「デフレ懸念」ということばは非常に
微妙なニュアンスを帯びています。そういうものがあるともいえ
るし、ないともいえないというあいまいな表現です。
 そして、2000年8月11日に日銀はゼロ金利政策を解除し
たのですが、多くのエコノミストたちは、解除の時期は少なくと
も「デフレ懸念の払拭が展望できる情勢ではない」として日銀の
判断を批判しています。
 日銀としては、ゼロ金利解除時期を当初2000年7月17日
に予定していたのですが、そごうの破綻が起こってゼロ金利解除
を見送ってしまったのです。
 このとき多くの金利トレーダーたちは、「当面ゼロ金利解除な
し」として安心して夏休みに入ってしまったといいます。そごう
破綻の影響は決して小さくはないですが、たかが一企業の問題で
国の金利政策が影響されるはずはないと考えて「当面解除なし」
と考えたわけです。当然の判断であると思います。
 それをいきなり8月11日にゼロ金利を解除したのですから、
金利トレーダーたちは大混乱です。彼らは、「7月解除間違いな
し」と読んで金利高に賭けたら裏切られ、8月は「低金利持続」
と判断したら今度は解除ですから、大損をする羽目になったので
す。日銀の判断は常識的ではないということです。
 そして日銀は、おそらく不本意ながら2001年3月19日に
量的緩和策をとることを表明します。いや、表明せざるを得なか
ったというべきでしょう。しかも、今回の目標は「物価がマイナ
スからプラスに転ずるまで」というものであり、相当長期にわた
ることも考えられます。物価がそう簡単にプラスになるはずがな
いのです。そのため、相当長期にわたって20兆、30兆という
巨額な資金の投入が不可欠になってきます。それを日銀はキチン
とやれるのでしょうか。
 森永卓郎氏をはじめとする多くのエコノミストは日銀の適切な
量的緩和による解決策を示唆しています。概略を述べると次のよ
うになります。
 日銀が本気で量的緩和に取り組むと、物価は上昇に転ずるはず
です。そしてその後から金利が上昇していけば、今までデフレの
障害であったいろいろな事象がよい方向に回転をはじめ、日本経
済を安定成長軌道に乗せることは理論的には可能です。
 デフレが止まって地価の下落が止まれば、銀行は中小企業にも
融資を復活するはずです。そして、地価の下落が止まれば、銀行
の不良債権の増加は抑えられることになります。さらに金利が上
昇することによって、長年低金利で苦しめられてきた生保各社も
逆ざやを解消することができるようになります。
 いいことずくめですが、これがうまく行くかどうかは日銀が本
気になって量的緩和に取り組むかどうかにかかっています。日銀
は、今まで決してやらなかった長期国債の買い切りオペを行わざ
るを得ませんが、おそらく日銀はおそるおそる小出しにやる可能
性が高いと思います。しかし、このやり方では、デフレはさらに
継続し、深刻な事態になってしまいます。
 この日銀の姿勢は、量的緩和策に転じてからのマネタリーベー
スの動きを見ることによって判断できます。しかし、3月のマネ
タリーべースは前年同月比1.2%のプラス、4月のマネタリー
ベースは前年同月比1.4%のプラスですから、何も変化はない
と判断できます。
 しかも日銀が4月26日に発表した「経済・物価の将来展望と
リスク評価」を見ると、2001年度の消費者物価の見通しは、
マイナス1.0%〜マイナス0.3%なのです。つまり、物価が
プラスになるまで量的緩和を続けるといいながら、2001年度
中は無理であるという結論を早くも出していて、完全に腰が引け
てしまっているのです。これを見れば、日銀が本気で量的緩和に
取り組む姿勢は今のところ皆無といえるのです。
 7月12日と13日の両日、金融政策決定会合が開かれます。
この決定会合に財務省の代表が出席し、「一段の金融緩和が望ま
しい」という政府の意向を伝えるはずですが、日銀としては現在
の景気情勢は「3月19日に金融の量的緩和策を決めた時点での
想定範囲内」というのんびりした見解を持っているのです。しか
し、株価が1万2000円割れ寸前まで売り込まれているだけに
日銀としてはきちんとした対応をする必要があります。
 木村剛氏という優秀なエコノミストがおります。木村氏は足元
のデフレよりもインフレの方がはるかに怖いといっています。木
村氏は日本経済について、過剰流動性が発生しているといってい
ます。マネーサプライで見ると、名目GDPの120〜130%
に達しており、バブル期の110%を上回っています。つまり、
バブル期よりもお金が余っているというのです。
 しかし、このお金は銀行融資を通じて経済活動の拡大に向わず
滞留しているというのです。現在、銀行貸出しは前年比マイナス
4%で推移していて、減少傾向が続いているからです。お金自体
は余っているのですから、何かのキッカケで動き出し、急激な勢
いで物価を押し上げる力となるというのです。そして、インフレ
が襲ってくるというのです。彼は、構造改革派エコノミストです
が、その所説は一理ありEJで改めて取り上げるつもりです。
               −−[円の支配者日銀/14]
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2001年07月16日

●マネタリーベースとマネーサプライの違い(EJ第659号)

 現在、日本を襲っている深刻な不況――これを克服するカギを
握るのは日本の中央銀行、日銀であると思います。しかし、われ
われは、あまりにも日銀のことについて知りません。そこでEJ
では、日本の本当の伏魔殿である日銀にメスを入れております。
もう少しお付き合い願います。大事な情報がこのあと出ます。
 「マネタリーベース」と「マネーサプライ」ということばを一
緒に使ってきておりますが、その違いを明らかにしておく必要が
あります。これら2つはかなり紛らわしいことばだからです。
 マネタリーベースとは、何度も述べたように、市場に流通して
いる現金(流通現金)と日銀当座預金の合計をいいます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     流通現金+日銀当座預金=マネタリーベース
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これに対して「マネーサプライ」とは、市中銀行を除く公衆に
よって保有されている現金通貨と預金通貨の合計量のことをいう
のです。金融機関が除かれているのがポイントです。なお、日本
の場合はこれに譲渡性定期預金(CD)を加えるのが慣行となっ
ています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    マネーサプライ=現金通貨+預金通貨+CD
    ただし、金融機関をのぞく
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 もう少し覚えておくべきことがあります。というのは、この定
義では「預金通貨」の範囲が明確ではないのです。そこで、次の
次の記号を意味を知っておく必要があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       M1=現金通貨+要求払預金
       M2=M1+定期性預金
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 要求払預金というのは、要求によって支払われる当座預金、普
通預金、通知預金などのことです。経済雑誌などでマネーサプラ
イについて述べるときは「M2+CDによれば・・」というよう
に表現するのはこういう意味があるのです。
 それでは、郵便貯金はどこに属するのでしょうか。
 郵便貯金は、M1同様の高い流動性を持っていますが、M2に
は含められていないのです。それは、郵便貯金までは日銀のコン
トロールが及ばないからです。そこで、別途M3というものを設
けたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       M3=M2+郵便貯金など
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、銀行預金から郵便貯金へのシフトが起こると、M2は
減少するのにM3は伸びるという事態が起きるので、金融状態に
対する判断をするさいに混乱が生ずる恐れがあります。
 さて、日銀は現在不況を克服するため現在量的緩和策をとって
います。その目標は当座預金残高5兆円に置いていますが、この
目標はほとんど達成されているはずです。しかし、この12日、
13日に開かれた日銀政策決定会合で決まったことは、日銀のホ
ームページによると次の内容であり、何も変化はないのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.日本銀行当座預金残高が5兆円程度となるよう金融市場調
   節を行う。
 2.なお、資金需要が急激に増大するなど金融市場が不安定化
   する恐れがある場合は、上記目標にもかかわらず、一層潤
   沢な資金供給を行う。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかも、日銀は量的緩和をやる前には、ゼロ金利政策もとって
おり、日銀としては前例がないほど超金利緩和政策を続けてきて
いるのです。そのため資金はもうジャブジャブに市場に溢れてい
るはずなのです。しかし、お金が余っているのは短期金融市場の
中だけであり、資産市場にはお金は回っていないのです。
 マネタリーベースで見ると、1990年代半ば以降増加ペース
が高まっています。今年の5月時点の平均残高は約67兆円です
が、この数字はバブルの最盛期に比べて1.7倍も増加している
のです。マネタリーベースは増えていることは確かです。
 しかし、マネーサプライはどうかというと、前年比2〜3%程
度で推移しており、あまり伸びていないといえます。そうすると
コール市場ではお金が余っているけれども、それが貸し出しなど
で資産市場に出回っていないということになります。
 しかし、金融機関としては、日銀当座預金に置いていても利子
はつかないので、何かに投資しているはずです。実はその資金は
国債市場に向けられているのです。銀行をはじめとする金融機関
は潤沢な資金を企業や個人への貸し出しに使わず、ひたすら国債
を購入しているのです。
 1997年末から2000年末にかけて預金取扱機関が保有す
る国債残高は36%増えており、保険・年金基金については49
%も増えているのです。財政赤字が深刻にもかかわらず、この債
券市場への資金流入が長期金利を歴史的低水準にとどめていると
いうわけです。
 このことから分かるように、資金が不足しているのではなくて
資金が循環していないことが問題なのです。ですから、日銀にい
くら一段の金融緩和を望んでも滞留する資金が増えるだけのこと
であり、問題の解決にはならないのです。
 それでは、どのようにしたら資金は循環するのでしょうか。
 資金を投資機会に結び付ける手段としての施策がいま求められ
ているのです。その前提となるのが構造改革です。
 経済アナリストの木村剛氏は、日本経済を水道管に例えて、不
純物で水道管が詰まっているときには蛇口をいくらいっぱい開い
ても効果が乏しいといっています。まずは水道管(=日本経済)
から、不純物(=不良債権)を取り除くことが肝要であるという
わけです。          −−[円の支配者日銀/15]
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2001年07月17日

●日本の命運を握る数人のプリンス(EJ第660号)

 現在の日本経済の不況は意図的に作り出され、わざと長引かさ
れているといったらあなたは信用しますか。そんな馬鹿な――と
一応は思いますが、残念ながらこれは事実のようです。それでは
誰がそんなことをしたのでしょうか。
 それは、政府でも大蔵省(現財務省)でもなく、日本の中央銀
行である日本銀行であり、しかも、その日銀の、ごく少数のプリ
ンスたちがやったことなのです。
 こうはっきりといい切るのは、リチャード・A・ヴェルナー氏
です。現在、話題を呼んでいる『円の支配者/誰が日本経済を崩
壊させたのか』(吉田利子訳/草思社刊)の著者がリチャード・
ヴェルナー氏です。
 なぜ外国人が日銀の内幕を知っているのかという疑問を持つ人
が多いと思いますが、ヴェルナー氏は10年前、日銀の客員研究
員として日銀に在籍し、バブル期の日本経済の研究を続けていた
ことがある人なのです。また、この本は、外国人でないと絶対に
書けない本であるといわれており、日銀の知られざる秘密に迫る
ものとして貴重な本といえます。
 EJでは、しばらく同書に基づいてその驚くべき事実をご紹介
していきたいと思います。一番の焦点は、誰がバブルを生み出し
誰がそれを潰したかにあるのです。このことが現在の深刻な日本
経済の現状につながってくるからです。
 よく知られるように、日銀の総裁は日銀出身者と大蔵省出身者
が交替で就任することになっています。一般論ですが、日銀出身
の総裁は金融引締め政策寄りで財政による景気刺激策を望み、大
蔵省出身の総裁は財政政策を引き締めて金融政策を緩和したがる
傾向があります。
 そのため、日銀出身者と大蔵省出身者が交互に総裁を務めるこ
の人事システムは、ちょっと考えるとどちらにも偏らない政策を
実施するうえで理想的であるようにみえますが、実は決してそう
ではないのです。
 大蔵省出身の総裁は、日銀にとって重要な意思決定、すなわち
信用創造量にかかわる決定からは一貫して排除されていたといっ
てよいのです。通常大蔵省出身の総裁のときは日銀出身者が副総
裁となり、総裁が日銀路線を逸脱しないようにコントロールして
いるのです。
 それに加えて、日銀以外の総裁を迎えるときは、総裁を補佐す
る職に日銀幹部が一人つくのです。この補佐役についてある日経
記者は、次のように書いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『「副総裁以上のキーマン」が総裁秘書役。内外どこに行くに
 も総裁にぴったり寄り添って行動し、総裁に関する諸事万端を
 さばく「黒子」でもある。・・日銀は否定するが、総裁が日銀
 路線から逸脱しないように「監視」する役割を担っている』。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このように日銀出身者以外の総裁は、ほとんど力を発揮できな
いシステムになっているのです。日本は、敗戦から2001年の
春まで首相は26人に変わっています。しかし、日本の本当の支
配者は6人しかいないのです。
 その6人の支配者とは、日銀出身の日銀総裁を務めていた次の
6人です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1.新木栄吉        4.前川春雄 ◎
   2.一万田尚登       5.三重野康 ◎
   3.佐々木直 ◎      6.福井俊彦
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 さらに過去50年間では5人、1962年〜1994年のとく
に大事な時期に国家の操縦桿を握っていたのは、佐々木直、前川
春雄、三重野康の3人なのです。
 政治家は選挙によって選ばれますが、日銀総裁はどのようにし
て選ばれるのでしょうか。少なくとも国民は一切それに関与する
ことはないのです。
 日銀出身者の総裁に関しては、必ず副総裁になっていることが
条件となります。その副総裁は理事から選ばれますが、日銀出身
の理事は6人しかいないのです。大学を卒業して日銀に入行する
人は毎年約60人といいますから、そのうち1人が理事になれる
ことになります。確実に総裁になれる副総裁になるのはそれこそ
大変な確率ということになれます。
 このように考えると、厳しい競争があってそれに勝ち抜かなけ
ればならないのであるから、それなりの人物が選ばれると考えて
しまいますが、日銀に限ってはそうではないのです。
 日銀トップの選抜手続きは、独裁者が後継者を選ぶのに似てい
ます。支配者は自分に忠実で目標も目的も同じくする人物にしか
権力を渡したがらないものです。
 つまり、後継者を選ぶにあたって最優先される規準は、自分へ
の忠誠度と目標を同じくするかどうかであって、必ずしも能力で
はないのです。こういう選抜方法では、かなり前から後継者は決
められており、どうしても前任者の政策を踏襲するかたちになっ
てしまうことになります。こういう人たちに日本という国家の命
運が託されてしまうのですから問題です。
 さて、バブルを作り出したのは、大蔵省出身の澄田智総裁であ
り、それを強引に潰したのは、次の総裁である三重野康総裁であ
ると一般的にいわれています。しかし、これは事実とかなり異な
る話なのです。
 澄田総裁は表向きは日銀総裁ではあったのですが、重要な決定
は三重野副総裁中心にことごとく決められており、お飾り的な存
在に過ぎなかったといわれます。
 いや澄田総裁に限らず、やはり大蔵省出身の松下康雄総裁のと
きも日銀幹部は総裁に重要な情報を流さず、政府の政策とは逆の
ことをやって、1ドル80円という事態を招いたのは記憶に新し
いことといえます。      −−[円の支配者日銀/16]

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2001年07月18日

●すべては日銀と大蔵省との暗闘にある(EJ第661号)

 大蔵省出身の日銀総裁と、日銀出身の副総裁を中心とする日銀
スタッフとの関係は、まさに現在の各省庁の大臣と事務次官を筆
頭とする事務方官僚との関係に酷似しています。そのため大蔵省
出身の日銀総裁はほとんど仕事をさせてもらえなかったといって
も過言ではないのです。
 とにかく大蔵省と日銀は、非常に長い間にわたって激しい勢力
争いを繰り広げてきたのです。その暗闘は敗戦直後からはじまっ
ています。『円の支配者』の著者、ヴェルナー氏は、現在、日本
を苦しめている10年デフレは、日銀が大蔵省を貶めるために意
図的に作り出したものであり、その陰謀は半ば成功しつつあると
いえるのです。
 国民のほとんどは、かかるデフレ不況を作り出した犯人を日銀
ではなく大蔵省であると思っており、その結果として大蔵省はそ
の名称を奪われ、解体の危機にあります。日銀は不況を利用して
大蔵省に勝利したのです。そういう意味で、現在の日本の不況は
「日銀不況」といってよいのです。エコノミストの森永卓郎氏は
このタイトルで本を書いておられます。
 さて、日銀は1998年4月から新しい日本銀行法によって念
願の独立性を手に入れ、金利政策や公開市場操作など、すべての
中央銀行の政策を、総裁と2人の副総裁、そして6人の審議委員
から構成される政策委員会で決定できるようになったのです。
 この決定にはたとえ政府といえども異議を唱えることはできず
こと金融政策については、日銀は政府よりも強い権力を手に入れ
ることができたのです。現在の速水総裁の弱々しい自信のない様
子を見ているとだまされますが、金融政策は完全に日銀の手に握
られてしまっているのです。
 今まで日銀は何をしてきたのか、そして現在日銀は何を考えて
いるのか、日銀がどう動けばデフレは解消するのかについて知る
ために、一番重要な時期、すなわち1962年〜1994年にお
ける日銀出身の日銀総裁、佐々木直、前川春雄、三重野康の3氏
について少し知っておく必要があると思います。なお、総裁など
については敬称を略させていただきます。
 佐々木直は、1962年4月から1964年12月まで副総裁
を務め、1969年12月から総裁に就任しています。佐々木に
目をつけ、後継者として選んだのは一万田尚登と戦後初の日銀総
裁である新木栄吉の2人です。
 マッカーサー司令部は、当時の日銀の幹部であった新木と一万
田を戦時経済体制の指導者として任命し、何かと援助を与えたの
です。米国の占領体制が続いている間はGHQの力は強く、日銀
総裁や蔵相などの重要ポストの人事には露骨に干渉したのです。
そのため新木栄吉は1945年8月に日銀副総裁、2ヵ月後には
総裁になります。しかし、次の年の6月に公職追放となり、19
51年まで蟄居を余儀なくされます。
 この新木に代わって日銀総裁に就任したのは一万田尚登です。
彼は優れた仕事をしてのちに「法王」と呼ばれるようになるので
すが、新木も一万田もともに生え抜きの日銀マンです。
 公職追放令が解けた新木は駐米大使に任命されます。これはき
わめて異例な人事であり、GHQの力が働いたのは明らかです。
セントラルバンカーを駐米大使にし、日銀総裁の一万田と連携を
とらせてワシントンとのコミュニケーションの円滑化を図るとい
う米国の高等戦略です。
 一方、一万田は、誰に資金を与えて誰に与えないかを決める彼
の絶対的な指令は、戦後の日本経済を容赦なく動かし、日本経済
を復活の軌道に乗せるという重要な仕事を果たしたのです。この
ように戦後経済の主導権は、大蔵省よりも日銀が握っていたこと
になります。
 しかも、1954年になると駐米大使の新木栄吉は日本に戻っ
て再び日銀総裁になり、一万田尚登はなんと蔵相に任命されるの
です。日銀の出身者が蔵相に就任したのは一万田をのぞいて他に
はいないのです。
 一万田蔵相は、このチャンスを利用して日銀法を改正し、日銀
を大蔵省から独立させようとするのですが、このクーデターは、
失敗に終ります。大蔵省はこのクーデター頓挫から反撃に転じ、
日銀は政治レベルで優位性を一時失うことになります。
 そして、逆に日銀の独走に歯止めをかけるため、大蔵省と交互
に日銀総裁を出すことを提案し日銀に承知させるのです。このあ
たりから、大蔵省と日銀の暗闘ははじまることになります。
 クーデターには失敗しましたが、大蔵省と日銀で交互に総裁を
出すというシステムによって、新木や一万田は自らの意思で後継
者を選ぶことができるようになります。そして、この二人によっ
て選ばれたのが佐々木直なのです。どうして選ばれたかというと
佐々木が新木や一万田に非常に忠実だったからです。
 一万田は、当時まだ若手の日銀マンであった佐々木直を後継者
として選んだことを日銀内に伝えたのです。これによって、佐々
木は、将来日銀総裁になるというお墨付きを得た「プリンス」と
いわれるようになります。日銀においては早くから次の「プリン
ス」が決まっているようなのです。
 新木と一万田は戦時中から佐々木直に目をつけており、戦後総
務部企画部長や人事部長の要職に置き、営業局長を長くやらせま
す。この役職は一万田流のいろいろなノウハウを知るうえで重要
なポストだったのです。
 佐々木は1969年12月から日銀総裁になるのですが、彼の
やり方は一万田流の容赦のないやり方であったそうです。規則上
は全理事が金融政策について自由に発言ができることになってい
ますが、佐々木総裁にまともに発言できる理事は一人もいなかっ
たといわれています。
 一万田は佐々木の次のプリンスも決めていて、それが前川春雄
なのです。そういうわけで佐々木総裁が自分の意思で選んだプリ
ンスが三重野康というわけです。佐々木が人事部長をしていたと
き目にとまったのが三重野康であったといわれます。
               −−[円の支配者日銀/17]

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2001年07月19日

●日銀の『窓口指導』とは何か(EJ第662号)

 佐々木直、前川春雄、三重野康――これら3人のプリンスの関
係をもう少し調べてみる必要があります。佐々木が人事部長をし
ていたときのことです。一人の目立った学生と面接したのです。
それが三重野康だったのです。彼は野心家で上方志向があり、第
一志望は大蔵省で、日銀は第二志望だったのです。
 佐々木は本能的にこの男を大蔵省にやってはならないと考えて
三重野を説得し、日銀に入社させます。そしてほどなく、自分の
はじめてのプリンスにすることを決意し、計画的に重要なポスト
を歴任させていったのです。
 1958年から60年まで三重野はニューヨーク日銀駐在事務
所の勤務を命じられます。そのときのニューヨーク事務所長が前
川春雄だったのです。一万田が蔵相をしていた時代のことです。
佐々木、前川、三重野はこうように繋がっており、そのバックに
は一万田蔵相がいたのです。
 さて、日銀の政策について研究するさい「窓口指導」というも
のについて知っておく必要があります。この「窓口指導」こそ一
万田が作り出した銀行の信用統制の方法であり、1991年7月
にそれが突如廃止されるまで、この信用統制システムを佐々木、
前川、三重野らが引き継いでいくことになるのです。
 1950年代のはじめには経済は2桁の成長をしており、融資
の申し込みは莫大になっていたのです。1946年6月から19
54年6月までの8年間、一万田は日銀総裁として、さらに19
57年7月から1958年6月までは蔵相として金融界に絶大な
権力を振るったのです。
 その銀行信用の統制システムとは、日銀総裁が融資総額の伸び
率を決定し、それから営業局長と2人で増加分を各銀行に融資割
り当てをして配分するのです。このときの営業局長は、もちろん
佐々木直です。
 そのさい銀行は大口の借り手の氏名にいたるので細かい融資計
画を毎月日銀に提出するよう求められていたのです。営業局は、
信用配分計画(どの銀行にいくら出すかを決める計画書)を作り
銀行の融資計画と調整をして銀行に伝えるのです。その融資の配
分額を聞くために銀行首脳が日銀に行くと、文字通り日銀のカウ
ンター、つまり窓口で融資割り当て額を告げられたので、誰がい
うともなく「窓口指導」というようになったのです。
 これは銀行間の過当競争を防ぐために一万田が考案した銀行の
競争を制限するシステムだったのです。このように、銀行の命運
を握る信用統制の権限を一手に握っていたのは、一万田と佐々木
だったのです。佐々木は、1951年4月から54年9月まで元
締めである営業局長を務めていたのです。
 しかも、1962年4月から佐々木は副総裁になり、1969
年からは総裁に就任、以後5年間総裁として君臨するのです。つ
まり、佐々木は実に12年間にわたって、日本経済の操縦桿をに
ぎっていたことになるのです。
 しかし、戦後一万田総裁を中心に信用配分を行う日銀の権力の
阻止に動いたのは大蔵省です。戦時中大蔵省は軍部と企画院に報
告義務を負い、さらに内務省によってその持てる力を大きく制約
されていました。
 ところが戦後軍は消滅し、内務省は解体、企画院は経済企画庁
という下位官庁になり、そこに権力の大きな空間がぽっかりと空
いたのです。大蔵省はそこにたちまち割り込み、徴税、関税、国
際金融、金融機関の監督、財務政策、金融政策を司るという政府
機関の中で最大の官庁になっていったのです。
 当時、日銀はその大蔵省に属する政府機関であり、大蔵省には
頭が上がらなかったのです。占領軍は1949年に日銀法を改正
したのですが、金融政策は依然として大蔵省の手の内にあったの
です。しかし、一万田総裁は日銀ために巧妙な策をめぐらして日
銀に何とか金利のコントロールと市場資金量の調節機能を取り込
むために活躍します。
 一万田総裁は大蔵省に金利の裁量権を委ねることを持ちかける
と、大蔵省はそれに飛びついてきたのです。しかし、大蔵省が金
利コントロールの政策について教えを乞うと、一万田とその部下
は専門用語を多用して素人にわかる代物ではないことを印象づけ
ることに成功するのです。
 そして、一万田総裁は世間に対して次のようにPRを行い、金
利と市場資金量の調節機能の権限を握ることに成功します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『中央銀行にゆだねるべきことは、何といっても公定歩合の問
 題である。これは日本銀行にまかせ、政治的な介入があっては
 ならないと思う。また、準備預金制度についての、これは市場
 資金量の調節操作であり、技術的なことが多いので、日本銀行
 にまかせる方がよいと思われる』。
 (ヴェルナー著、『円の支配者』P114より。草思社刊)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 さて、ここでひとつクイズを出します。どこの国の話は当てて
いただきたいのです。
 この国はまじりけのない資本主義が特徴。この国では企業が外
部資金を調達する主たる場は株式市場なのです。株主は非常に強
力で、高い配当を要求します。そのために経営者は短期的利益を
求める傾向があります。
 経営役員の多くは社内から選ばれず、外部の者が任命されるの
が通例です。強烈な企業買収戦のために経営者はいつ企業買収の
攻撃を受けるかわからないので不安です。もし、業績を上げなけ
れば、即座に地位を追われる可能性があるのです。
 この国の労働市場では採用・解雇が頻繁に行われ、従業員の転
職率も高いのです。所得と富の格差は巨大です。貯蓄率は低く、
消費が80%と国内総生産の最大部分を占めています。
 政府の規制は少ないし、官僚が経済に直接的な影響力を行使す
ることは少ないのです。政策課題については激しい論争があり、
国民は政治に強い関心を持っているのです。
 さて、この国はどこの国でしょうか。
               −−[円の支配者日銀/18]
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2001年07月23日

●戦前の日本と戦後の日本は別の国(EJ第663号)

 EJ662号ではクイズを出しました。何人かの方から回答を
いただきました。米国という答えが多かったですが、中には正解
の方もありました。
 答えは「1920年代の日本」です。当時の日本は、自由放任
の経済システムを有し、純粋な自由市場資本主義の国だったので
す。企業は必要に応じて中途採用を行い、必要がないと判断した
ときは容易に解雇したのです。従業員の方もより良い職場があれ
ば躊躇なく辞め、条件の良い職場に移ったので、転職率は198
0年代の日本に比べて3倍以上になっています。
 それに1920年代には本物の資本家がいたのです。個人や一
族が企業の株式の相当部分を保有していたのです。どの株式でも
個人株主が大半を占めたのです。1990年代初期の個人株主の
比率は15%以下であり、対照的です。
 また、大企業の取締役の大多数は社外重役であり、いずれも株
主から送り込まれた人たちです。これに対して、1990年代は
大企業の取締役の90%以上が社内の企業経営陣から選ばれてい
ることはご承知の通りです。
 1920年代において株主の力が強かったのは、企業が資金の
半分以上を株式市場で調達していたからです。この時代の株主は
高い配当を要求し、企業は利潤のできるだけ多くを配当として支
払わなければならなかったのです。
 貯蓄率についてはどうでしょうか。現在の国内総生産に占める
消費の割合は現在は60%以下ですが、1920年代には80%
であり、現在の米国とそっくりです。所得の中で貯蓄に回される
割合は現状は20%ですが、1920年代は5%に過ぎなかった
のです。
 このように戦前の1920年代の日本と1990年代の日本と
は、まるで別の国のように変わってしまっているのです。どうし
てこのように変わってしまったのでしょうか。
 その理由ははっきりしています。それは「戦争があったから」
です。戦争によって日本は戦時経済に移行することになり、19
20年代の経済体制とは大きく変わらざるを得なかったのです。
それに1920年代が深刻なデフレ経済であったことも当時の経
済体制を変えようという方向に力が働いたことは確かです。
 また、1929年の株価大暴落が起こって世界中の経済が混乱
し、失業者が街にあふれるという事態が発生し、資本主義体制と
いうものに対する疑問が出てきたのもこの頃なのです。政府があ
まり介入できない自由市場資本主義が果たしてうまくやっていけ
るのかという疑念が起こっていたのです。当時、ソ連は大恐慌の
影響をほとんど受けず、失業者も出ていなかったのです。
 さて、一般的な認識では、日本の戦前の体制はおかしかったが
戦争に負けて日本は新しい民主主義国家に生まれ変わったという
とことになっています。
 しかし、よく調べてみると、それは違うようなのです。それは
戦時経済体制と、戦後に占領軍主導でとられた体制を調べてみる
とわかるのです。そこには、ある意図によって、戦後体制を19
20年代のような自由市場資本主義にはあえて戻さず、むしろ戦
時中にとられていた体制を民主主義の旗の下に、巧妙に維持する
政策がとられていたといえるのです。
 どうしてそんなことができたかというと、戦時経済体制を作り
上げたエリート官僚たちが、戦後も引き続き指導的な地位に留ま
り、首相にまで就任するなど日本をコントロールしたからです。
日銀もその中で重要な役割を果たしているのです。
 1938年4月、国家総動員法案が議会に提出され、多くの反
対を押し切って成立します。この法律は国中のあらゆる物資の動
員を許すというものであり、具体的な内容は政令で定めるという
事実上白紙委任状に等しいものだったのです。
 この時期国を動かしていたのは軍部ですが、その手足となって
動いていたのはエリート官僚たちです。国家総動員法によって彼
らは何でもできる権限を手に入れたのです。1940年にこれら
日本の官僚は、新金融体制、新財政政策新労働体制という3つの
柱から成る新経済体制を宣言します。
 全体の調整機能は1937年に設立された企画院が握ることに
なったのですが、この企画院はいわば軍事経済の参謀本部の役割
を果たしたのです。
 この新経済体制の狙いは、簡単にいうと、個人が貯蓄し、企業
は利益を再投資する経済機構を作ることにあったのです。そして
そのためのインセンティブを与えることもその狙いなのです。
 株主の目標は利潤を多く得ることです。株主が一番関心を持つ
のが高い配当であるとすると、企業が再投資する資金はなくなり
経済成長は遅れることになります。この論理から株主は成長にと
って邪魔な存在であるということになります。
 一方、経営者は企業内部で出世すると威信が高まり、企業の資
源に対して大きな権限をふるうことができます。株主と労働者の
目的は経済成長には結びつかないものの、経営者の目標は経済成
長を促進する国家の目的と一致するのです。
 要するに、株主と労働者の力を奪い、経営者の力を強めてやれ
ば、経済成長を促進できる−−1930年代の為政者はそのよう
考えたわけです。しかし、労働者の力を収奪しすぎると、その不
満が共産主義に結びつく恐れがあり、むしろ労働者に企業内部の
事柄に対する発言力を強めるようにし、会社家族主義のイデオロ
ギーを植え付けるべきであるというように考えたのです。
 結局、成長に一番の障害になるのは株主であり、大企業が優勢
に立つ経済では、資本家なしの資本主義が一番ベストであるとい
う結論に達したのです。
 戦前の為政者たちは、これをひとつずつ実行に移します。経営
者の地位は引き上げられ、株主の権限は縮小されます。企業は株
主の所有物ではなく、そこで働く者の共同体であるということに
なり、配当の伸びに制約が加えられるようになったのです。
 このようにして、1920年代の経済体制から、現在の日本に
近い体制が作り上げられていったのです。
               −−[円の支配者日銀/19]
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2001年07月24日

●小泉改革は戦時体制の改革となる(EJ第664号)

 1937年に中国での紛争が激化して戦争が始まり、もっと大
きな戦争も眼前に迫っているときのことです。何としても日本経
済を急成長させる必要がある、成長を促進するために成長率を可
能な限り高め、あらゆる資源を総動員して失業というムダをなく
す必要がある――そのための理論構築をしたのは、軍部と大量失
業時代に入省した革新官僚であり、彼らが一体となって日本の構
造改革が進められたのです。
 そのためにまずやるべきことは、当時強大な権限を有していた
株主の力を奪うことだったのです。1943年10月に会社法が
改正され、新しい軍需会社法が成立したのです。これにより企業
経営における株主の影響力は消滅してしまうことになります。
株主配当は厳しく抑えられ、利潤の大半は再投資と経営者の報
酬、従業員の給与、それに生産性向上に対して与えられる褒賞に
分配されることになったのです。
 このシステムによって経営者と従業員の報酬が増えたのですが
国家非常時にあまり多額の報酬を受け取るのはまずいため、勤続
年数に対応して報酬を受け取るシステムをとり入れたのです。こ
れが年功給の始まりなのです。その他、企業福祉制度としての健
康保険制度、労働者年金保険制度などもこの時期にできているの
です。
そして、企業を管轄する官庁としての商工省は企画院と合併し
て軍需省が誕生します。これにより株の大半を政府が持つ国策会
社が、1937年の27社から1941年には154社に増加す
ることになります。
 その結果、軍需産業が繁栄し、個人が消費する商品やサービス
は著しく減少します。そこでこの段階で貯蓄が奨励され、全国貯
蓄奨励運動が開始されたのです。このようにして消費が巧妙に抑
えられ、家計部門の富は企業部門へと移されていったのです。
 この1937年から1945年までの構造改革によってほとん
どの企業は、利益ではなく、成長を目指す半官の事業に変貌して
しまうことになります。
 それに政治の面で軍部と官僚は政治家が口出しをすることを排
除するため、1940年に政党は廃止され、ほとんどの政治家は
ひとつの政党に統合されてしまうのです。この政党が大政翼賛会
です。この年に戦時動員に対応するため、隣組制度ができている
のですが、戦後もこれらの制度はかたちを変えて存続することに
なるのです。
 先般来の田中外相と外務省のトラブルで判明したように、日本
の省庁の実質的運営は政治家ではなく官僚がやっているのです。
これは外務省に限らずどの省庁でも同じであり、そういう基礎は
戦前においてすでに出来上がっていたということができます。
 この1937年から1945年にいたる国家の構造改革は、ほ
とんどそのままのかたちで戦後の日本経済を支えることになるの
です。奇跡といわれた戦後日本の復興は戦前にその基礎が築かれ
ていたことになります。
 しかし、この経済システムの真の立案者は誰なのでしょうか。
このシステムは驚くほど一貫しており、論理的に整合性があり、
無駄が一切ないのです。しかも、信じられないほど短期間で作り
上げられている――どうしてそんなことができたのでしょうか。
 しかも、この改革プランの立案者たちは、当時すでに日本の傘
下にあった満州でこの経済システムの実験をやっているのです。
そのうえで日本にその制度を導入し、さらに戦後いくつかの変更
を加えて戦後経済体制として定着させたのです。
 このように、戦後の経済システムや社会システム、政治システ
ムが戦前に出来上がっていたとすれば、米国の占領政策とは一体
何だったのでしょうか。
米国の占領政策とは、日本を民主化し、非軍事化し、規制を緩
和し、自由化するという点にあったはずです。確かに、占領軍司
令部はこの目標を達成するため、国家総動員法などの戦時下の法
律や規則を廃止し、軍部および戦時団体は消滅。軍需省、内務省
は1945年に廃止されています。
 また、GHQは3つの大改革――@財閥解体、A農地改革、B
労働の民主化を掲げて、戦時経済体制はほぼ完全に解体したよう
に見えたのです。しかし、1952年4月に米国による日本の占
領が終了したとき、当初占領軍に課せられていた目標とは正反対
の体制が日本に出来上がっていたのです。
 どうしてそのようなことになったのでしょうか。それを遂行す
る過程で米国側の事情が大きく変化したのです。それはソ連との
冷戦の激化によって、米国は日本を共産主義に対する確かな橋頭
堡とするため、日本経済を急速に成長させる必要に迫られていた
からです。そこで米国の対日政策は急転換したのです。
 そのときワシントンと日本側の官僚との間で何らかのやりとり
があったと思うのです。その結果、1930年代の体制で行くの
が一番良いという結論に達したのではないか。これに合わせて日
本の占領政策は、ドイツに対するよりもはるかに緩やかな占領政
策がとられることになったのです。
 占領軍はドイツでは直接支配をしましたが、日本では間接支配
――つまり、官僚を通しての支配を行ったのです。それらの官僚
は、戦時経済体制を構築した官僚たちと同じであり、戦時中は彼
らの権限を法的に保証していた国家総動員法などの法律がなくな
ったとはいえ、占領軍のバックアップを受けて、むしろ彼らの権
限は強化されたということがいえるのです。それにかつて彼らを
けん制していた軍部と内務省がなくなっていることもそれを後押
ししたといえます。
 小泉首相は「構造改革」を唱えて参院選を戦っていますが、そ
の改革は戦時経済体制、社会システム、政治システムの改革とい
うことになるのですが、彼は本当にこういうことが分かっていて
やっているのでしょうか。
 自由民主党はいくつかの政党が統合され、1955年に誕生し
ています。いわゆる55年体制は、官僚支配を前提とする翼賛会
そのものであるとはいえないでしょうか。
               −−[円の支配者日銀/20]
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2001年07月25日

●戦時経済体制の企画立案者は誰か(EJ第665号)

 橋本内閣における省庁再編は、名称こそ変わったものの実態は
何も変っていませんが、戦後の占領軍司令部による戦時体制の解
体もまさにそれだったのです。
 例えば、軍需省は、通商産業省と経済企画庁に分割されただけ
であり、その実態は戦時中と何も変わっていないのです。また、
戦時中全部門の業種団体を傘下に置いていた中央統制会は経団連
になるなど、戦時中の団体もほとんど名前を変えて復活している
のです。日本生産性本部、全国銀行協会などみなそうです。
 省庁や団体だけではないのです。戦時法令も名前を変えてほと
んど残っています。とくに金融関係の法令は無傷なのです。19
37年の臨時資金調整法、1940年の銀行等資金運用令、19
42年の日本銀行法もそのままです。
 1949年に制定された外国為替・外国貿易管理法は、193
2年の資本逃避防止法と内容はほとんど同じです。しかも、この
外国為替・外国貿易管理法と日本銀行法は、1998年まで改正
されることなく効力を発揮していたのです。
 省庁、法律だけでなく、それに加えて戦時経済を企画・運営し
てきた指導者や官僚は、ほとんど同じ地位を維持して生き残って
います。とくに戦時経済の立案者である指導者や官僚はほとんど
追放になることはなく、たとえなってもすぐ解除されて元の地位
に戻っており、中には首相にまで登りつめた者もいるのです。も
ちろん、占領軍司令部の配慮によるものです。両者の利害が一致
したからです。
 実は戦後の重要な経済および政治指導者の多くは、戦時中のエ
リート官僚であり、“満州閥”といわれる人たちだったのです。
その代表的な一人が岸信介です。今の若い人に満州といってもピ
ンとこないと思いますが、満州は当時日本が統治しており、そこ
には陸軍の主力が駐在していたのです。
 岸信介は満州を支配していたエリートの一人であり、軍需省の
トップ官僚だったのです。戦時経済システムの重要な立案者の一
人であるとともに戦後日本経済の立案者の中心的存在なのです。
岸は戦争中商工大臣を務めましたが、戦後は首相になり、そのあ
とでやはり首相になる弟の佐藤栄作とともに1972年まで、あ
わせて10年も首相の座を独占したのです。この岸、佐藤によっ
て日本政治の保守本流が築かれ、それが田中角栄に受け継がれて
いくことになります。
 戦時中岸信介と同じ経済相を務めていたドイツのアルベルト・
シュペーアがベルリンのシュパンダウ刑務所に投獄されていたそ
の時期に岸は首相になっていたのですから、米国占領軍がドイツ
に厳しく日本に甘かったことがわかると思います。それは、共産
主義の進出を食い止めるために米国としては日本の経済復興を急
ぐ必要があったからです。
 戦時経済体制の立案者のエリート官僚の中に、もう一人誰でも
知っている有名な人物がいます。中曽根康弘です。彼は内務省出
身の官僚であり、若くしてこのプロジェクトに参加しています。
岸にしても中曽根にしても若い頃からその優秀性は音に聞こえて
いたといいます。
 つまり、戦前に構築された戦時経済システムは、戦後に米国の
意向を受けて戦後経済体制として復活し、諸外国の自由市場シス
テムを徹底的に打ち負かし、奇跡の経済成長を成し遂げることに
結びつくのです。そして、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と
呼ばれ、米国に次ぐ経済大国の地位を占めるようになるのです。
 そしてこの体制を自民党という翼賛政党で、1993年までの
40年にわたって守り切ってきたのです。表面上はいくつかの野
党も存在し、批判勢力に発散の場所を与えていますので、民主主
義のように見えますが、その実態はかなり違うのです。
 しかし、この無敵の経済発展プランも50年を経過して制度疲
労を起こしつつあります。あれほど優秀だった官僚も平時では質
が下落してきています。小泉首相のいう「構造改革」はこの体制
を壊すことを意味しているはずですが、自民党の中にいて本当に
やれるのでしょうか。それに本当の改革は日銀という巨大な伏魔
殿を変革しなければならないのです。これについては少しずつ明
らかにしていきたいと思います。しかし、これがどんなに大変な
ことであるか、本当に小泉首相はわかっているのでしょうか。
 戦時の経済官僚が戦後においてもっとも力を入れて取り組んだ
のは、1920年代のように市場から資金を集める直接金融を復
活させないで、銀行融資による間接金融を常態化させることだっ
たのです。
 戦時中でもそうでしたが、その理由は株主よりも企業の経営者
の力を強くしたかったからです。直接金融では株主を強くしてし
まうことになり、これでは急速な経済成長は望めないからです。
 銀行融資であれば、その融資の使い方は銀行が監視し、その銀
行を中央銀行である日銀が監視する体制がとれるのです。しかし
その銀行にしても企業であるので、銀行の所有者(オーナー)と
銀行の経営者は厳しく分離されたのです。
 株についても他の銀行と相互に持ち合う方式を勧め、株主が強
くならないよう慎重な手が打たれたのです。日本企業に多い株の
持ち合いはこうした理由により多くなっているのです。
 そして銀行経営者には、利潤よりも成長に関心を持たせるよう
モチベートして、銀行を貸し出し競争に走らせたのです。これが
バブル期の信じられない貸し出しに結びつき、大量の不良債権を
かかえる結果になるのです。
 経済官僚が銀行融資を選んだもうひとつの理由は、資金調達が
迅速に行えることです。とくに戦争中には、優先企業に迅速に大
量の資金を調達しなければならないのですが、銀行融資は市場調
達よりも迅速さでは勝っているわけです。
 EJ664号で戦時中国策会社が多数作られたことをお話しし
ましたが、それらの国策会社は生産目標を達成させるための資金
を大蔵省によって割り当てられた特定の銀行から受け取るように
なっていたのです。これがメインバンクの始まりであり、戦後も
この制度は踏襲されるのです。 −−[円の支配者日銀/21]
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2001年07月26日

●前川レポートは何を狙っているか(EJ第666号)

 戦時経済体制は戦後の経済復興に驚くべき力を発揮したことは
確かです。しかし、その体制のまま50年以上も続ければ、制度
疲労を起こすことはわかっていることです。
 そのような日本を変えようとしたあるレポートがあります。そ
のレポートは「前川レポート」と呼ばれています。日銀のプリン
スの1人、前川春雄が1986年に発表したレポートです。
 このレポートは、日本の経済構造の改革を訴えています。製造
業からサービス業へ、輸出主導型から内需主導型に、大幅な規制
緩和と自由化へと構造を変えるべきであると訴えています。要す
るに、戦時経済システムを構造改革して、米国流の自由市場経済
にするべきであると主張しているのです。
 しかし、この前川レポートは真剣に受けとめられなかったので
す。当時日本経済は好調であり、政治家やエコノミストの多くは
そんな構造改革をする必要はないと考えていたからです。それに
戦時経済システムの既得権者や大蔵省などの特権を握った者が、
そんな改革に賛成するはずもなかったからです。
 現在の日本経済の真の性格が戦時経済システムであることは一
般にはあまり知られておらず、ましてそれを公表した人は、少な
くとも1997年までは一人としていなかったのです。
 しかし、それを最初に口にした2人の大蔵官僚がいます。大蔵
官僚といっても、当時大蔵省を離れて学者をしていた榊原英資氏
と野口悠紀雄氏です。彼らは「中央公論」の1997年8月号に
おいて『大蔵省・日銀王朝の分析』というレポートの中ではっき
りとそのことにふれています。
 彼らは、日本経済の特質を「戦時総力戦経済体制」といい切り
次のように述べて、根本的な構造改革が必要であることを訴えて
いるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『われわれの観点に立てば、いままさに戦時総力体制が終焉し
つつあるのであり、真の戦後処理が今後の課題でなければなら
 ない』。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 彼らのうち榊原英資氏はのちに大蔵省に復帰し、1997年に
財務官にまでのぼりつめ、現在は慶応義塾大学教授です。野口氏
は以来一貫して学者の世界にとどまっており、文筆活動に力を入
れています。
 前川レポートも基本的には同じことをいっているのですが、榊
原・野口両氏の発言からほぼ10年が経過した1986年の時点
でも、政治家や大蔵省、エコノミストは無関心だったのです。そ
こで、日銀のプリンスたちは、ある目標を立てて戦時経済システ
ムを壊す計画を実行に移したのです。
 前川レポートを彼らは「10年計画」と呼んでいたのですが、
ヴェルナー氏によると、その目標はちょうど12年後に達成され
たといっているのです。
 1986年からスタートして12年後というのですから、19
98年にすべての目標は達成されたということになります。そう
いえば、1998年には日本銀行法が改正されています。198
6年から1998年までというと、バブルの5年間と不況の7年
間ということになりますが、この12年間に日銀は一体何をした
のでしょうか。
 前川レポートの実現の前提として彼らが掲げた目標とは次の3
つです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.日本の消費者にお金を使う楽しさを堪能させること
 2.対外投資の波を送り出したこと/海外への工場移設
 3.銀行バブルは必ず破裂し、不況になるとの学習効果
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 確かに1998年以降の状況を見れば、あらゆるもののシステ
ムに変化の波が生じています。不況の深刻化によって企業は労働
者の解雇を余儀なくされ、失業率が上昇し、伝統的な終身雇用も
年功制度も崩壊しています。
 かつての日本の商法はドイツをモデルとして作られていたので
すが、政府は法制度を米国のモデルにならって改革しようとして
います。会社法の改正、企業の会計基準の改正など相次ぐ改正に
より、前川レポートで述べられている改革が結局のところ実現し
つつあるのです。
 日銀は、戦時経済体制を変革するために、意図的にバブルを創
り出し、それを急激に潰して日本経済を不況に誘導し、その結果
として前川レポートで唱える改革が実現しつつある――リチャー
ド・ヴェルナー氏はこういっているのです。
 バブルを意図的に創り出したり、それを潰したりする――そん
なことを日銀といえどもできるのかという疑問を持つ人も多いと
思います。それは、日銀が紙幣を印刷すれば可能なのです。
 添付ファイルを見ていただきたいと思います。これは名目GD
Pと日銀の信用創造量との関連を示すグラフです。信用創造量と
いうのは、日銀が紙幣を印刷して信用を創り出すことを意味して
います。
 これを見ると、日銀が信用創造量を増やすと、すぐそのあとか
ら名目GDPが追っかけていることが歴然としています。名目G
DPは日銀の信用創造量の動きと比例しています。
 日銀は1986年以降の1980年代に相当大量の信用創造、
つまり紙幣を印刷していますが、1990年に入るとその逆の急
激な信用破壊をやり、名目GDPも急降下させています。名目G
DPは、日銀の信用創造量と完全にリンクしているのです。
               −− [円の支配者日銀/22]

UUU.jpg
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2001年07月27日

●日銀は不況を創り出している?(EJ第667号)

 かつての日銀の法王、一万田尚登はその体験から後輩たちに次
のようにいっていたといわれます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  『日銀は鎮守の森のように静かで目立たないほうがいい』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは逆にいうと、日銀の権力がいかに大きいかということを
示していると思います。「力のある者は決してそれを誇示しては
ならない」というのが一万田尚登の教訓だったのです。
 日銀とかつての大蔵省といえば、どうみても大蔵省の方が権力
があるように見えます。法的にいえば、日本経済は明らかに大蔵
省がコントロールしていたのです。
 国税庁と税務署を通じて税を、主計局を通じて国家予算を、理
財局を通じて債券発行を、国家金融局を通じて外国為替への介入
と国際的な資本の流れを、税関を通じて輸出入を、証券局と証券
取引委員会を通じて証券取引を、銀行局を通じて銀行部門を支配
しているのです。このように書いてみると大蔵省が、いかに凄い
権力を持っていたかということがわかると思います。
 大蔵省に比べると日銀などは完全な黒子に見えます。日銀は金
融政策を実施できますが、大蔵省は法律によって日銀を監督する
権限を与えられていたのです。しかし、それは日銀が独立性を勝
ち取った1998年までの話ですが・・・。
 それに日銀総裁をはじめとする日銀関係者は、かの一万田教訓
を守っていているせいか、あまり人前には出てきません。速水総
裁などはときどきテレビに出てきますが、印象としては何となく
弱々しい感じです。しかし、それはあくまでポーズであり、肝心
なところは総裁は絶対に妥協していないのです。
 日銀のプリンスたちとしては、この強大な権力を持った大蔵省
を何とかしたいと心の中では考えていたと思うのです。日銀はそ
のため意図的にバブルを創り出し、それを潰して不況を長期化さ
せた疑いが濃厚なのです。そういう状況になって一番困るのは大
蔵省だからです。
 大蔵省にとって不況はその存立基盤を脅かすのです。不況は法
人税や所得税、消費税の減少を招きますし、失業給付や社会保障
給付も増大するからです。それに不況が長引けば政治家が政府に
総合景気対策費の支出を要求してくるに決まっています。
 入ってくるものが減少して出ていくものが多くなれば、予算は
赤字になります。赤字は国債発行で賄うことになりますが、これ
も大蔵省の責任になってしまいます。だから、大蔵省は不況を嫌
うのです。日銀はこれを狙って長期不況を創り出したのではない
かという推理です。
 ここで疑問が出てきます。法的に大蔵省に監督されているはず
の日銀が長期不況を創り出すことができるのでしょうか。
 結論からいうと、それは可能なのです。しかし、これを説明す
るにはいくつかの前提的な知識が必要です。そういうわけで、こ
れについては、少し間を置いてご説明することにします。来週か
らは少しの間別のテーマを取り上げます。
 しかし、日銀がどのようなことをしているのかということは、
少し触れておきましょう。1992年〜1994年まで政府は4
回にわたって45兆円という総合経済対策費を投入しています。
1990年度後半には一連の景気対策としてさらに60兆円以上
が使われています。とんでもない巨額な資金投入です。
 しかし、景気は回復しなかったのです。なぜでしょうか。
 それは、財政支出が国債発行でまかなわれたからです。国債を
発行すれば民間部門から資金を吸い上げることになるからです。
そういうときこそ日銀は信用創造拡大をやるべきなのです。要す
るに、通貨を印刷してマネーサプライを増やすことです。
 そのとき日銀が何をやったかは、昨日のEJ666号に添付し
たグラフを見ればわかります。このグラフは名目GDPと日銀の
信用創造量(日銀が紙幣を印刷した量)の関連を示すものです。
 1980年代に日銀は信用創造量を大量に増やしているのがわ
かります。これはバブルの時期ですから、バブルのときにせっせ
と通貨の量を増やしてバブルを過熱させる結果となっています。
 しかし、1990年代に入ると日銀は一挙に信用創造量を減少
させています。それも急転直下です。そして政府が総合経済対策
費を投入しはじめた1992年にはほとんどゼロになり、199
5年にはマイナスの領域に入っています。これは、日銀が購買力
を経済から引き上げたことを意味します。
 本来であれば、信用創造量を増加させなければならないときに
逆のことをやっているのですから、せっかくの総合経済対策費、
45兆円が効くはずがないのです。1995年5月から1997
年のはじめまで信用創造量は少し増大に転じますが、その年の後
半にはまた減少しています。要するに、日銀は1990年代を通
じて積極的に通貨を印刷しようとしていないのです。
 大蔵省はなかなか不況から抜け出すことができないため、円安
政策をとろうとします。その場合、大蔵省は額を指定してドルを
買えと日銀に命令します。日銀はその命令にしたがって素直にド
ル買いを行うのです。
 この場合、大蔵省としては日銀がドルや米国債を買うのに必要
となる円を印刷すると思っています。市場から大量のドルを買い
円が市場に増えれば当然円の価値が下がるからです。
 しかし、日銀は国債その他の債券を国内投資家に売り、その代
金で外国為替市場介入を行ったのです。つまり、通貨を印刷しな
いで円を国内経済から吸い上げたのです。これでは、ドルが減っ
ても円が少なくなりますから、円安にはならないのです。
 「通貨を印刷する」というと、すぐインフレになるとわれわれ
は考えます。しかし、今の日本の経済状態では少しぐらい通貨を
印刷してもインフレなどにはならないのです。インフレになるぞ
というのは、日銀がそれをしないための断り文句なのです。明ら
かに日銀は不況を創り出しているといえます。
               −− [円の支配者日銀/23]
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2001年08月01日

大学入試を廃止せよ/教育の構造改革(EJ670号)

 最近、中村修二氏の本を夢中で読んでいます。中村修二氏は、
青色発光ダイオードの発明発見で世界中にその名を知られるカル
フォルニア大学サンタバーバラ校の教授です。
 毎週日曜日朝のフジテレビの番組に『報道2001』というの
があります。7月29日のこの番組に中村教授が米国からテレビ
出演したのです。テーマは「奇跡を起こした男がアメリカから一
発逆転の秘策提言」となっていました。ご覧になった方もあると
思います。
 中村教授は、日本再生の条件で一番ネックになるのは「大学受
験」であり、これを廃止すべきであるといっています。日本の大
学受験は「超難関ウルトラクイズ」そのものであり、完全丸暗記
の詰め込み勉強が不可欠です。そんなもの将来に何の役にも立た
ない代物だというのです。
 このウルトラクイズに合格するために、最も夢が多く、頭が柔
軟な中学校から高校までの貴重な期間を無駄に過ごしてしまって
いるというのです。このままでは世界に負けてしまうと・・・。
 そして、目指す大学に合格するとそれで目標を果たしたという
気持ちになって、大学時代はバイトをやったり、適当に遊んで卒
業し、安定を求めるために今度はひたすら大企業に入ろうとしま
す。つまり、「大学受験」を中心とする日本の教育システムは、
大量のサラリーマンを創り出しているに過ぎない――と中村教授
は強調するのです。
 それでは、中村教授のいうように、大学入試を全廃すると何が
起こるのでしょうか。
 大学入試をなくせば、当然行きたい大学に誰でも入学すること
ができます。仮に無制限、無条件で入学できるとします。最初の
何年かは有名大学の有名学部ばかりに学生が殺到するはずです。
教室に入れず、外にあぶれてしまう学生も出るはずです。
 校舎の中で座って講義を受けたければ、朝早く行って並ぶなり
して、努力しないといけないのです。それが嫌ならやめればいい
のです。もっと空いている大学に行く学生もいるでしょう。この
ようにして何年か経つと、おそらく入学人数の極端な偏りはなく
なっていくはずです。
 誰でも自由に大学に入ることができる代わり、進級試験、卒業
試験は非常に難しくするのです。したがって、合格し、卒業する
には、相当真剣に勉強しなければならないことになります。なお
卒業試験は毎年行われ、希望すれば学年に関係なく誰でも受けら
れますが、落第すると即退学させられます。その代わり一年生で
も合格すれば卒業することができます。当然、試験問題はそれに
ふさわしい内容である必要があります。
 このような大学ができると、現在のように「入ること」を目的
にしている学習システムは壊れます。大学入試を目的とする学習
塾や予備校のようなものはなくなるでしょう。例えば、東大に行
くのが目的ではなくて、東大で「何を勉強するか、いかに卒業す
るか」が目的となります。
 それに大学入試がなくなると、いい大学に入るために、いい高
校へ、いい中学へ、いい小学校に、しまいに有名幼稚園入試のた
めに塾に入れるというようなイタチごっこも消滅します。
 このように大学入試がなくなると、学校の授業内容が充実する
はずです。大学も魅力的な講座を開いたり、学問の内容や実績を
高めていく努力をしなければ、どんどん学生から見放されてしま
います。
 中村教授によると、米国の大学では教授と学生は対等であり、
上下関係はないそうです。学生は学部を選べるので、自分が関心
のあるテーマを解決してくれる教授の話を聞きにくるのです。で
すから、それは真剣に受講します。授業中に寝たり、私語をする
学生なんかいないといいます。
 そして、教授の話が分かりにくかったり、説明が不十分の場合
は、たちまち学生の非難の対象になります。それに、もし、正当
な理由がないのに休講にしたりすると、日本の学生なら喜びます
が、米国では訴訟の対象にすらなってしまいます。だから、教授
は大変であり、それは大変な準備をして授業に臨むそうです。
 現在、中村教授は週に2回の授業ですが、この準備はかなりき
ついそうです。しかし、中村教授の講座は大変評判がよく、大勢
の学生が話を聞きにくるそうです。もっともカルフォルニア大学
の場合、平均点で上位12.5%以内に入っている学生でないと
入学資格が与えられないとのことですが・・・。
 さて、先ほど日本の学生は安定を求めて大企業に入ろうとする
と述べましたが、その大企業は、大きく様変わりしています。あ
の松下電器産業ですらも終身雇用制度を廃止したように、「企業
家族主義」は崩壊しつつあります。
 例をあげましょう。1998年に米国のシテイグループと資本
提携をした日興証券は、見る間にドライな会社に変貌してしまい
ました。年功序列賃金を廃止し、総合職の職員の年俸は一律36
0万円と決められ、その代わり年収の0〜4倍の範囲で会社への
貢献度に応じてボーナスがつくシステムです。この計算によると
会社への貢献度が低いと最低年棒は360万円、貢献度が高いと
き年棒は1800万円になるという計算になります。
 最近日興証券は、土曜と日曜を利用する経費自己負担の研修会
をはじめましたが、満員の盛況であるといいます。研修所までの
交通費もすべて自弁です。自分に必要なスキルは自己負担で身に
つけよということです。大企業は変わりつつあるのです。
 しかし、日本では中村教授の主張する「入学は易しく、卒業は
難しい」という大学制度は実現しそうもありません。教育改革と
いうことがよくいわれますが、その改革で考えられていることは
学校のクラスの人数を半分にし、週休2日制にし、さらには教科
書の内容を簡単にする――こんなことでは日本がダメになってし
まいます。日本をよくするためには、小泉政権が掲げる政治や経
済の構造改革だけでなく、教育も構造改革が必要なのです。これ
が基本だと思います。

670号.jpg
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2001年08月02日

光通信分野でノーベル賞がとれない理由(EJ671号)

 中村修二教授といえば、現在最もノーベル賞に近い学者といわ
れています。しかし、このノーベル賞ですが、必ずしも公平なも
のではなく極めて政治的な一面があるのです。
 白川英樹教授が2000年のノーベル化学賞を受賞しましたが
白川教授の導電性プラスチックの研究は、20年も前にすでに有
名で、当時「ノーベル賞候補」として新聞や雑誌に何度も取り上
げられたことがあるのです。
 しかし、一向にお呼びがかからず、世界も本人も忘れてしまっ
た頃になっての突然の受賞です。しかも、白川教授の受賞は3人
の共同受賞であり、他の2人の米国人学者を受賞させるべく米国
政府が強く働きかけた結果といわれています。
 白川教授らが受賞した「導電性プラスチック」とはどういうも
のかというと、静電気を帯びないフィルムや電磁波を防ぐスクリ
ーンなのです。携帯電話や小型テレビのディスプレイなどの電子
機器に普及したことが評価されての受賞とのことですが、非常に
実用的な製品につながる基礎技術の受賞は珍しいのです。
 ノーベル賞は今年で創設100年になるのですが、日本人受賞
者の数は9人で非常に少ないのです。それは、日本がノーベル賞
の受賞理由をきちんと調べて異議があれば申し立てるということ
をやらないことにも一因があるとされています。なぜなら、ノー
ベル賞を受賞してもおかしくない日本人の優れた発明発見が数多
くあるからです。
 白川英樹教授はノーベル化学賞ですが、そのとき同時に3人の
学者がノーベル物理学賞を受賞しているのです。これらの学者の
受賞理由に着目してみる必要があります。3人の受賞者の名前と
その受賞理由は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.ロシア/ヨッフェ物理工学研究所アルフェロフ博士
   高速エレクトロニクスや光エレクロトニクスで使われる
   半導体ヘテロ構造の開発
 2.米カルフォルニア大学サンタバーバラ校/クレーマー博士
   1と同じ
 3.米テキサスインスツルメンツ社/キルビー博士
   集積回路の考案
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここで注目すべきは1と2のテーマなのです。実はこの分野に
は日本人科学者が大変な貢献をしているからです。
 受賞理由である「光エレクトロニクスのヘテロ構造」について
簡単に説明しておきましょう。
 「光エレクトロニクス」というのは何でしょうか。
 これからのブロードバンド時代の通信の主要な部分を担うのが
「光ファイバー」です。そこに信号を伝えるのが半導体レーザー
です。半導体レーザーの光は、何の補強装置もなしで透明な光フ
ァイバーの中を約1万キロも伝わっていくのです。これは、日本
から米国までの距離に匹敵します。このような光が主役となって
いる電子技術を「光エレクトロニクス」というのです。
 続いて「ヘテロ構造」とは何でしょうか。
 光を出すのは半導体レーザーですが、これは「ダブルヘテロ構
造」という仕組みで作られているのです。詳しくは添付ファイル
を見ていただきたいのですが、これはちょうどサンドイッチみた
いな格好をしているのです。
 真ん中の部分に光を出す部分があって、その両側に光を閉じ込
める性質の「クラッド層」という部分があります。クラッド層に
は「p型」と「n型」の2つがあります。サンドイッチに喩えて
光を出す部分がハムで、クラッド層を仮に卵としましょう。
 ところが、この“ハムと卵”の両側にまたクラッド層があるの
です。つまり、これはパンに該当します。真ん中のハムの両側に
卵を挟み、それをパンで挟んだサンドイッチといったらよいでし
ょうか。ハムと卵とパン――それぞれ別のものですが、それらが
うまくつながっているというのが「ヘテロ構造」なのです。
 「ヘテロ」というのは「異種の」という意味であり、「ヘテロ
結合」と呼ばれています。このヘテロ接合が二重になっています
から「ダブルヘテロ結合」というのです。このヘテロ接合を最初
にレーザーで実現したのがアルフェロフ博士、それを考えたのが
クレーマー博士だったのです。
 なぜ、この説明をしたのかというと、この光通信の分野では日
本人科学者が大変な貢献をしているにもかかわらず、この分野で
ノーベル賞をもらっている日本人はひとりもいないからです。こ
れは次の理由でおかしなことです。
 そもそも半導体レーザーの提案は、西沢潤一博士です。西沢博
士の特許が世界で一番早いのです。
 さらに、クレーマー博士のヘテロ接合の着想を最初に実現した
のは、洲崎渉博士の「ヘテロ発光ダイオード」なのです。アルフ
ェロフ博士は、室温状態で半導体レーザーをはじめて発振させま
したが、数ヶ月遅れで当時ベル研究所にいてのちにNECに移籍
した林巌博士も成功させています。それまでは、素子を冷却して
発振していたのです。
 この他に、自動車のブレーキランプに水平に一列に並んでいる
のがありますが、これは明るい発光ダイオード(LED)なので
す。この発光ダイオードの三原色のすべてが日本人科学者の発明
によるものなのです。
 赤と緑は西沢潤一博士、そして青が中村修二博士なのです。そ
れなのになぜノーベル賞がゼロなのでしょうか。
 ノーベル賞を出した方の論理はこうです。こんなに明るいLE
Dができたのは「ヘテロ接合」の考え方があったからであり、そ
れを考えたアルフェロフ、クレーマー博士の貢献を多としたとい
うことです。
 しかし、「ヘテロ接合」だけで明るいLEDができたわけでは
ないのです。それ以外にいろいろな発明が組み合わさってはじめ
て明るい発光ダイオードが生まれたのです。

671号.jpg
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2001年08月03日

青色LED開発の意義は白色LED(EJ672号)

 西沢潤一氏――現在岩手県立大学長であり、世界的な半導体研
究者で工学博士。高輝度な赤色、緑色発光ダイオードの開発者と
して知られる。75歳。ノーベル賞未受賞。
 中村修二氏――現カルフォルニア大学サンタバーバラ校教授。
1993年に高輝度青色LED、1999年に紫色レーザ−を発
明発見。工学博士。47歳。ノーベル賞未受賞。
 中村修二氏は現在最もノーベル賞に近い男といわれています。
しかし、本当に受賞できるのかというと、いくつか心配なことが
あります。それは、西沢氏や中村氏のやっている研究が物理学と
化学の中間領域のテーマだからです。いわゆる学際分野のテーマ
ということになります。
 ノーベル賞の候補者は、それぞれの分野の学者が推薦するので
す。物理学賞であれば物理学者、化学賞であれば化学者が推薦す
ることになります。こういう場合、学際的テーマは両方の分野か
ら推薦されないことがあり得るのです。推薦者自身が物理のテー
マなのか、化学のテーマなのか分からないケースもあります。
 物理学者は化学のテーマだと思い、化学学者は物理のテーマだ
と思っているということはあり得ます。米国では、半導体の材料
やプロセスの研究は、米国電気化学協会で発表されることが多い
ということです。化学者はもっと勉強していただく必要があると
思います。中村氏の青色発光ダイオードは1993年に発明発見
されているのに8年後の現在、未だに未受賞だからです。
 さて、発光ダイオード(LED)とは何でしょうか。
 まず、ことばから解明しましょう。LEDというのは、次のこ
とばの略です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        LED=Light emitting diode
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 発光ダイオードは、光を出す最もシンプルな固体の素子です。
「ダイ」というのは「2つの」という意味、「オード」というの
は「電極」のことで、「2つの電極」という意味です。2つの電
極とは次の2つです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  p型半導体 ・・・ プラスの電荷が電流を運ぶ半導体
  n型半導体 ・・・ マイナス電荷が電流を運ぶ半導体
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 pの方にプラスの電極、nの方にマイナスの電極をつなぐと光
を出すので「発光ダイオード」といわれています。「半導体レー
ザー」というのは別名「レーザーダイオード」といわれており、
構造は発光ダイオードと同じなのですが、性能が違うのです。2
つの端子の間で共振が起こり、そのため指向性の高いビーム状の
光が生まれるのです。
 中村修二博士はなぜ青色LEDの研究に取り組もうとしたので
しょうか。
 赤、橙、黄、緑、青、藍、紫――これは虹の7色です。この7
色のうち、青色、藍色、紫色がLEDではどうしても再現できな
かったのです。中村氏が青色LEDの開発に取り組んだのは19
89年のことですが、その時点では既に赤外、赤色、黄色、黄緑
色をLEDで発光させることが可能になっていました。
 LEDで一番波長の長いものは赤外線LEDです。以下、赤色
黄色、黄緑色の順になります。色が青色や紫外線になると、さら
に波長が短くなります。波長が短くなると光の特性で明るくでき
ないのです。当時、炭化珪素という化学物半導体を利用した青色
LEDは開発されていたのですが、その光はとても実用にならな
い暗い青色だったのです。
 中村氏は「明るい青色/高輝度青色LED」を作らなければ、
LEDの実用化はできないと考えて、高輝度青色LEDに取り組
むことを決意したのです。高輝度青色LEDが開発できれば、あ
らゆる色を発光させることができるからです。
 PCのモニター表示に使われるRGB――光の3原色は、レッ
ド、グリーン、ブルーです。これに対して印刷などで使われるC
MY(シアン、マゼンタ、イエロー)とは異なります。印刷など
の3原色が足し算で黒に近づくのに対して、光の3原色は引き算
であり、RGBの3色を同時に発光させると白色になるのです。
 つまり、高輝度青色LEDができると、白色LEDも開発可能
になるのです。そうすると、LEDを一般照明として使うことが
できることになります。
 これにより、大変な省エネが実現できるのです。それは、電気
が直接光に代わるため電気効率が良くなり、電力消費は現在の半
分以下にすることができます。それに熱に変換する過程で素材を
損なわないため、LEDの寿命は半永久的なのです。LEDは化
合物半導体といういわゆる「石」ですから、耐久性がよく屋外な
どの過酷な環境でも使えるのです。さらに、蛍光灯や電球のよう
にガラスを使う必要がないので、割れて破片をまき散らす危険も
ありません。いいことずくめです。
 5月15日のEJ615号でも述べましたが、青色半導体レー
ザーを使えば、CD、LD、DVDのメディアの容量を飛躍的に
拡大できます。現在は赤色半導体レーザーが使われていますが、
赤色は波長が長いのに対し青色は短いので、多くの情報を書き込
めるのです。
 だからこそ中村氏は高輝度青色LEDを開発しようと考えたの
です。しかし、人と同じことをやっても目的は達成できないので
人と逆のことをやろうと思ったのです。まず、LEDを作る素材
がポイントだと中村氏は考えたのです。
 それまでLEDを作るには、きわめて毒性の高い素材を使って
いたのです。ガリウム砒素、ガリウム燐、アルミニウム燐などで
す。そのため、砒素や燐は産業廃棄物として処理するにはコスト
がかるのです。
 中村氏が使ったのは「窒化ガリウム」です。窒化ガリウムには
毒性はないのです。それに耐久性があって、1万時間程度であっ
た半導体の寿命を約10倍に延ばすこともできるのです。


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2001年08月06日

常識を覆した逆転の発想(673号)

 われわれは「発明」と「発見」ということばを厳密に定義せず
に使っています。「発明発見」というようにひとつの言葉にして
使うときもあります。しかし、「発明」と「発見」は明らかに違
う言葉です。
 「発明」というのは、原理がわかっているものを組み合わせて
何らかの実用的な製品を作ることをいいます。そういう意味では
「発明」は実用的であり、企業における研究ではどうしても「発
明」が多くなります。
 これに対して「発見」というのは、まったく未知である現象な
り概念を調べてその実体を見つけ出すことをいいます。そういう
意味で「発見」は基礎的であり、学問の原点ということができる
と思います。ノーベル賞は「発見」に対して贈られるのです。
 それでは、高輝度発光ダイオードはどうなのかというと、これ
は「発見」であるということができると思います。それは、常識
を完全に打破しているからです。中村修二氏による青色LEDの
開発の経過を知れば知るほど、常識破りの「発見」だったことが
よくわかるからです。
 青色LEDを開発するには、その素材としては2つ、方法とし
ても2つしかないことは世界中の研究者がわかっていたのです。
その素材と方法とは次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ≪素材≫          ≪方法≫
   1.セレン化亜鉛      1.MBE
   2.窒化ガリウム      2.MOCVD
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 素材については、「炭化珪素」を使った青色LEDはすでに開
発されていましたが、その青色は非常に暗く、実用化にほど遠い
ものだったのです。方法についての説明は内容があまりにも専門
的になるので説明は省きますが、中村氏はMOCVD(有機金属
化学気相成長法)を採用したのです。中村氏はMOCVDの研究
を目的として米国に留学しているのです。
 問題はLEDを青く光らせるチップの材料に何を使うかです。
「セレン化亜鉛」を使うか「窒化ガリウム」を使うかの選択は、
その当時では、99対1で圧倒的にセレン化亜鉛を選ぶのが常識
だったのです。
 LEDに使われるチップを作るには、基盤の上に物質の結晶薄
膜を生成させなければならないのです。それも均一な結晶を生成
させる必要があるのです。そのためには、基盤とその物質の原子
間隔の違いが少なく、でこぼこや穴のないきれいな結晶格子を生
成しなければならないのです。それに、原子間隔の違いは、0.
01%以下が理想とされていたのです。
 セレン化亜鉛を素材として使うと、それと原子間隔が完全に同
じという物質があるのです。それは「ガリウム砒素」です。この
ガリウム砒素を基盤として使うと、セレン化亜鉛のきれいな結晶
薄膜を作ることができます。
 ところが窒化ガリウムの場合は、基盤に使えそうな原子間隔を
持つ物質がないのです。もっとも適していると思われるものは、
次の2つがありますが、その原子間隔の違いは大きいのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.シリコン・カーバイト ・・ 原子間隔の違い 5%
 2.サファイア ・・・・・・・ 原子間隔の違い15%
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 原子間隔の違いは0.01%以下というのですから、5%であ
るとか、15%というのは論外です。こういうものを基盤として
使っても、できる結晶薄膜はでこぼこで穴だらけの代物ができて
しまうのです。この穴のことを「結晶欠陥」というのです。LE
Dや半導体レーザーでは「結晶欠陥が1センチ×1センチ角の1
平方センチメートルあたり、1000個(10の3乗)以下でな
ければ発光しない」といわれているのです。
 ガリウム砒素を基盤に使ってセレン化亜鉛の結晶薄膜を作る場
合、結晶欠陥を1000個以下に抑えることができるのです。し
かし、シリコン・カーバイトを基盤に使って窒化ガリウムの結晶
薄膜を作った場合、結晶欠陥は何と100億個になってしまうの
です。つまり、10の10乗個の結晶欠陥が出るのです。
 こういう状況ですから、青色LEDを開発するなら素材はセレ
ン化亜鉛を使うのが常識だったのです。しかし、中村氏はその常
識に従わず、あえて窒化ガリウムを採用したのです。その理由は
次のようなものだったのです。
 まず、セレン化亜鉛を使う方法は、当時世界の多くの技術者が
取り組んでいましたが、誰一人として成功していなかったことで
す。中村氏は、それには何か問題があるに違いないと考えたので
す。また、仮にそれで成功したとしても技術的にはすぐ追いつか
れ、大資本の企業には太刀打ちできないと考えたのです。当時中
村氏は徳島県阿南市にある日亜化学という中小企業に勤めており
大企業の圧力の凄さを感じていたのです。大手企業と同じやり方
で青色LEDの製品化に成功しても日亜化学という名前では勝負
にならないことをよく知っていたのです。
 何としても競合他社が実現できない独自のやり方で作り上げる
には、誰もやっていない方法でやるしかない――中村氏はこのよ
うに考えて、窒化ガリウムを採用したのです。窒化ガリウムに可
能性があると考えて採用したのではないのです。誰もやっていな
いというところに賭けたといってよいと思います。こういう考え
方を逆転の発想というのだと思います。
 中村氏は、米国に留学したときに市販のMOCVDを発注して
日亜化学送ってもらい、サファイアを基盤として窒化ガリウムの
結晶薄膜づくりに取り組んだのですが、ことごとく失敗します。
そしてMOCVDという装置の欠陥に気がつきます。そしてMO
CVDの改良に取り組みます。そして、ツーフローMOCVDと
いう独自の装置を開発して遂に青色LEDの開発に成功します。
しかし、あまりにも暗い青色しか出なかったのです。


673号.jpg
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2001年08月07日

真の価値がわからない日本の学界(EJ674号)

 青色の光は出たが弱くて暗い青色です。この程度の色ならセレ
ン化亜鉛を使ったもので既に出ています。したがって、この青色
をもっと鮮やかな青色にするにはどうするか――これが大きな課
題となります。中村氏の研究はそこに絞られたのです。
 結晶品質を測る「ホール測定器」という器械があるそうです。
この器械に結集薄膜を入れて「ホール移動度」という数値を測る
のですが、当時の世界最高値は90でした。90以上の結晶薄膜
ができれば、世界初の技術ということになります。しかし、LE
Dの場合、このホール移動度が100や200になっても結晶欠
陥はかなり多く、発光するかどうかわからないのです。
 中村氏は、まず、ホール移動度90という壁をクリアすること
に成功します。窒化ガリウムの結晶薄膜のホール移動度を200
にすることができたのです。これによって、世界一きれいな窒化
ガリウムの結晶薄膜ができたことになります。
 しかし、その世界最高の結晶薄膜で発光させた青色はあまりに
も弱々しく暗い青色だったのです。それでも炭化珪素で作られた
青色LEDよりも1.5倍も明るかったのです。問題はどのぐら
いの時間、光り続けていられるかです。
 実はこの光は1000時間もの長い間光り続けたのです。この
時点で論文嫌いの中村氏もそのことを論文に書いて学会に送った
そうです。そのとき「米国3M社がセレン化亜鉛を使って初の青
色レーザ発振に成功」というニュースが飛び込んできたのです。
 そのとき中村氏は「負けた」と思ったそうです。しかし、この
ニュースが正確でなかったことを中村氏はあとで知ることになり
ます。青色レーザは光ったのですが、寿命が数秒単位しかないと
いうことがニュースには欠落していたのです。日本の新聞によく
ある不完全報道だったのです。
 このニュースと同時に米国の学会から中村氏に講演要請が届き
ます。窒化ガリウム国際会議がセントルイスで開かれるので、出
席して講演して欲しいという要請です。中村氏が書いた論文が評
価された結果なのです。
 この頃には中村氏の日亜化学における立場はきわめてよくない
状況だったようです。中村氏に青色LEDの研究を許可してくれ
た社長はすでに第一線を引き、中村氏を支援してくれる人はいな
くなってしまっていました。
 一番問題なのは、日亜化学の人たちの中に半導体のわかる人は
社長以下一人もいなかったことです。しかし、これが逆に中村氏
にとって幸いしたのです。もし、窒化ガリウムで青色LEDを作
ろうとしていることが会社にわかってしまうと、それが世の常識
に反していることだけに、即座に中止命令が出ただろうと中村氏
はいっているのです。
 最後に鮮やかに青く輝くLEDを目にした時点ですら、日亜化
学の人たちは、それがどのように素晴らしい発見であるか最後の
最後まで分からなかったといいます。なお、この青色LED開発
によって中村氏はやっと開発課長に昇進するのです。
 しかし、窒化ガリウムの国際会議は盛り上がったそうです。と
くに中村氏の話がその寿命が1000時間を越えていることに及
ぶと息を呑むような聴衆のふんい気が伝わってきて、その直後全
員が立ち上がって拍手、スタンディング・オペレーションをして
くれたといいます。
 結局のところ中村氏は窒化ガリウムでは明るい青色が出ないと
いう結論に達し、窒化インジウムガリウムの結晶薄膜を作ること
にしたのです。窒化インジウムガリウムは、窒化ガリウムとイン
ジウムを加えるとできる物質です。インジウムも半導体の材料と
してはよく使われています。
 しかし、実用に耐える品質の窒化インジウムガリウムの結晶薄
膜は世界中の誰もが開発に成功していなかったのです。しかし、
ここまでの開発をほとんど独力でやり遂げた中村氏にとっては、
それは不可能ではなかったのです。やがて実際に光る窒化インジ
ウムガリウムの結晶薄膜を作るのに中村氏は成功したのです。
 そしてこの結晶薄膜を使って、N型半導体とP型半導体でサン
ドイッチにするというダブルへテロ構造のLEDチップを作るこ
とに成功します。ダブルヘテロ構造については、EJ671号で
解説しましたね。
 そして、それぞれを微調整して遂に高輝度青色LEDが完成し
たのです。1993年のはじめのことです。輝度は約1カンデラ
であり、青紫色に光ったPNホモ接合のLEDの約60倍、炭化
珪素の約100倍の明るさだったのです。
 続いて中村氏は、青色半導体レーザの研究開発に取り組むので
す。原理的にはLEDと半導体レーザーは同じですが、レーザー
の方は、鏡面を使うなどして光の方向性をより強くする必要があ
ります。しかし、中村氏は1年ほどで青色半導体レーザーの発振
を成功させるのです。窒化ガリウムなどの結晶薄膜を数十層にし
波長410ナノメートルの青色半導体レーザーを室温でパルス発
振させたのです。世界一短い波長の半導体レーザーが誕生したこ
とになります。
 しかし、耐久性に問題があったので改良しているうちにソニー
がセレン化亜鉛を使って波長515ナノメートルの青緑色のレー
ザーを開発します。ところがその寿命は数時間というレベルだっ
たのです。1997年5月のことです。
 中村氏は同じ年の10月に青色半導体レーザーを温度50度の
条件で1000時間連続して発振させることに成功したのです。
もし、温度20度の条件ではその寿命は10000時間以上とな
り、どこでもレーザーを発振させることができるようになったと
いえます。
 2000年になって中村氏は日亜化学をやめてカルフォルニア
大学の教授になります。新聞は頭脳流出と騒ぎましたが、中村氏
を勧誘した日本の企業も大学もなかったといいます。それどころ
か、中村氏が何回も論文を提出したのに、学界は内容も読まずに
ボツにしていたといいます。日本の企業も学界も本当に価値ある
ものがわかっていませんね。この話題はこれで終りです。


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2001年08月08日

A級戦犯はどうして合祀されたか( EJ675号)

 小泉総理の靖国神社公式参拝発言が、8月15日が近づくにつ
れて、大きな問題となってきています。8月4日未明の「朝まで
テレビ」は靖国神社公式参拝問題を取り上げましたが、そこでは
白熱した大議論が展開されたのです。8月15日を来週に控えて
いますので、少しこの問題を取り上げてみようと思います。
 昭和60年8月15日――時の内閣総理大臣中曽根康弘氏は靖
国神社に参拝し、公人としての肩書きを明記して記帳簿に署名し
たのです。
 中曽根氏は、昭和60年が戦後40年の記念すべき年であるこ
とをふまえて、昭和59年7月から1年かけて「閣僚の靖国神社
参拝問題に関する懇談会」を設けて検討させてきた内容に基づき
「内閣総理大臣としての資格で」と内閣官房長官談話で明言させ
たうえで公式参拝をやったのです。なお、中曽根氏は昭和58年
春から60年夏までの3年間に10回も靖国神社を参拝している
のですが、昭和60年の8月15日だけはどうしても特別な意味
を持たせたかったのです。
 中曽根康弘氏は『正論』9月号で、この公式参拝について次の
ようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『やはり私は大東亜戦争に行ったということです。弟も戦死し
 ている。戦友、あるいは部下がずい分戦死している。それで内
 閣総理大臣として一回は公式参拝で英霊にお礼をいわなくては
 いけないと考えていました。
  それまでの総理大臣は公式参拝ということをいわなかった。
 そういう意識が足りなかった。それでちょうど終戦40周年に
 当る昭和60年8月15日を1つの機に正式に参拝して、死ん
 だ英霊に対して「ご苦労さまでした。改めてお礼を言います。
 安らかにお眠りください。平和国家を築きます」ということに
 したのです』。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 歴代総理は吉田茂以下、岸信介、池田勇人、佐藤栄作、田中角
栄も靖国神社に参拝していますが、いずれも4月、10月の例大
祭に際しての参拝であり終戦記念日ではないのです。
 ところが、昭和50年8月15日、歴代総理としては初めて三
木武夫総理が終戦記念日に参拝したのです。しかし、このとき新
聞記者の質問に答えて「内閣総理大臣としてではなく、三木個人
としての私的参拝」といったのです。
 この三木総理以下、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸はいずれも
「私人」か資格を明言しないで参拝を重ねて中曽根氏の昭和60
年の参拝にいたるのです。この間、中国は一切何もいってきてい
ないのです。
 ところが、中曽根総理の公式参拝に対しては、中国政府から不
快感の表明が行われたのです。中国政府のこのクレームは内政干
渉そのものですが、当時これを煽った反政府的不満分子がおり、
それに中国政府が乗るというかたちで問題化したのです。
 中国政府が、日本国の総理が靖国神社に公式参拝することに異
を唱える理由は、靖国神社に「A級戦犯」が祀られているという
点にあります。中国としては、さきの戦争は一部の戦争犯罪人が
引き起こしたもので、日本国民はむしろ被害者であるとして賠償
請求権を放棄したにもかかわらず、その戦争犯罪人が合祀されて
いる靖国神社に国の代表たるべき総理大臣が公式参拝するのはけ
しからんというわけです。
 この主張はちょっと考えると筋が通っているように思えます。
しかし、そうであるなら「A級戦犯」が靖国神社に合祀されたと
きになぜクレームをつけてこなかったのでしょうか。A級戦犯の
合祀が実現されたのは昭和53年秋、福田赳夫内閣のときなので
すが、中国からは何もいってきてはいないのです。
 それから7年も経過した昭和60年になって突如として「戦犯
合祀はけしからん」といってきたわけです。これは少しピントが
外れていると思います。
 つまり、中国は外交カードとしてこれを利用しているのです。
中国政府としては、あの戦争はあくまで侵略戦争であり、日本は
加害者、中国は被害者というスタンスを維持していたいのです。
だからこそ、日本の歴史教科書に異常にクレームを入れてくるわ
けです。それは中国の国益になるからです。
 なぜかというと、このスタンスにより経済援助をはじめとして
日本と中国の両国関係のあらゆる局面で中国側に有利に働くから
であり、日本はその戦術に乗せられてしまっているのです。総理
の靖国参拝についてもこれに強いクレームをつけておくと、やは
り中国には有利に働くと考えているのです。
 ここで、現在靖国神社に合祀されている「A級戦犯」について
考えてみる必要があります。A級戦犯とは戦争犯罪裁判によって
死刑に処せられた人、獄死した人の霊をいうのですが、これらの
人々は講和条約の成立以前に旧敵国の手によって生命を奪われた
り、獄死した人たちであり、国内的には犯罪者ではないのです。
彼らは何ら国内法を犯していないからです。
 確かに通常の戦死とは違いますが、日本では「法務死」と呼び
靖国神社では「殉難死」と称しているのです。したがって、殉難
死の人たちは戦死者と同等にみなされ、恩給法による遺族扶助料
の受給が認められているのです。
 このように、殉難死の人たちを戦没者として扱うことについて
は、国会の本会議・厚生委員会の諸会議を経て、しかも全会一致
で決議された結論なのです。したがって、そういう殉難死の人た
ちを靖国神社に祀ろうという動きが生じたとしても何ら不思議な
ことではないといえます。
 こういう一連の動きを中国政府が知らないはずはないのです。
しかし、そのときは中国政府は何もいってきていないのです。そ
うであるとすると、昭和60年になって中国が突如「合祀反対」
をいってくるのは不可解であり、一種のいいがかりといってよい
と思うのです。

675号.jpg
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2001年08月09日

靖国神社はどういう性格の神社か(EJ676号)

 「戦争に行って戦死したら靖国神社に祀られる」ということは
子供の頃よく聞かされたものです。しかし、戦後になって、靖国
神社はほとんど表面に出ることはなく、意図的に隠された存在に
なっています。ですから、戦後生まれの人は靖国神社がどういう
性格の神社であるのか知らない人が多いと思います。
 「靖国神社」のことを歌った歌は戦前にはたくさんあります。
中でも有名なのは「九段の母」です。この歌は、昭和14年に塩
まさるという歌手が歌って大ヒットになったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 上野駅から 九段まで    空を衝くよな 大鳥居
 勝手知らない 焦れったさ   こんな立派な おやしろに
 杖を頼りに 1日がかり    神と祀られ 勿体なさよ
 せがれきたぞや 逢いにきた  母は泣けます 嬉しさに
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 戦後では、島倉千代子の「東京だョおっかさん」があります。
昭和32年のヒット曲です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      やさしかった 兄さんが
      田舎の話を 聞きたいと
      桜の下で さぞかし待つだろ おっかさん 
      あれが あれが 九段坂
      逢ったら泣くでしょ 兄さんも
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 戦前戦後を通じ、九段といえば靖国神社であり、靖国神社とい
えば九段だったのですが、今は九段といえば武道館ということに
なります。しかし、行ってみればわかるように靖国神社は日本人
にとって、その広大な占有面積のみならず、精神面において大き
な存在なのです。
 靖国神社は明治2年(1869年)に建てられ、この神社の祭
神は、国のために命を捧げた246万6000余柱の戦没者なの
です。古くは、戊辰(ぼしん)戦争で戦死した薩摩、長州、水戸
の藩士ら3588柱であり、そして先の大戦における200万を
超える戦没者なのです。
 便宜上、太平洋戦争の終りから21世紀を迎えた平成の現在ま
でを「現代日本」、明治維新から太平洋戦争までを「近代日本」
と呼ぶことにしましょう。そうすると、近代日本はおよそ80年
になるのですが、戦争に明け暮れた80年といえると思います。
 「靖国」とは「国を安んじる」という意味であり、これは「国
を守る」ことにつながるのです。戦前、国を守るとは「国のため
に死ぬ」ことであり、それは「天皇のために死ぬ」ことを意味し
ていたのです。
 そんなことは「狂気の沙汰」であるという人がいるかもしれま
せん。きっと国家によってマインドコントロールされていたんだ
という意見もあるでしょう。しかし、それは今の価値観だからい
えることであり、その当時はそれが常識だったのです。いや、お
かしいとは感じていても、そうせざるを得なかったし、そういう
ご時世だったのです。
 また、当時の世界情勢のなかで急激な近代化を図らざるを得な
かった日本の苦渋の選択ともいえると思います。したがって、そ
ういう意味で「国を守る」ために死んでいった多くの人たちのこ
とをわれわれは忘れてはいけないし、そういう人たちを祀る神社
があっても一向にかまわないと思うのです。
 少し歴史を振り返ってみましょう。1868年、明治改元前の
ことです。有栖川宮熾仁親王を東征大提督とする新政府軍は、朝
敵・徳川慶喜征伐のため「錦の御旗」を掲げて東に攻め上ったの
です。そして、西郷隆盛と勝海舟の会談によって江戸城が無血開
城した直後に、有栖川宮熾仁親王は東征軍の隊長宛てに「東海道
先鋒総督府達」という文書を送達します。
 その文書には、「戦場で討ち死にした者の氏名を詳しく書いて
報告せよ。それらの戦死者の魂を招いて慰霊する『招魂祭』を行
う」と書いてあったのです。ここに幕末の国難にさいして、攘夷
派(外国を打ち払う)、開国派を問わず、朝廷の権力奪還のため
に働いて死んだ者(戦死、自刃、刑死、暗殺など)はすべてその
魂を祀るという朝廷の考え方を知ることができます。この考え方
が靖国神社へと発展したのです。
 とくに上野に立てこもった旧幕府軍・彰義隊との交戦において
この達しは大きな効力を発揮して、彰義隊はわずか5日で壊滅し
てしまいます。要するに、朝敵征伐を目的とする官軍として戦っ
た者はたとえ戦死しても名誉の死であるということを将兵に知ら
しめたのです。それは大変な士気高揚につながったのです。
 ちなみにこの彰義隊壊滅作戦の指揮をとったのが大村益次郎で
あり、彼の銅像は現在でも靖国神社の第一鳥居と第二鳥居の中間
に軍神としてにらみをきかせているのです。左手に双眼鏡を持ち
軍羽織を着た大村像は北東を向いて立っていますが、北東は上野
に当たるのです。
 1868年7月、江戸は「東京」となり、同9月に「明治」と
改元するのです。そして、明治2年(1869年)6月28日の
夕刻、仮設の社殿で清祓の儀が始まり、深夜丑の刻(午前2時)
に戊辰戦争の戦没者3588人の招魂式が行われたのです。
 明けて29日、明治天皇の勅命を受けた軍務知官事・仁和寺宮
嘉彰親王が祝詞を奏上して、東京招魂社が創立されたのです。こ
れが靖国神社の前身です。
 それからいろいろな騒乱が起こるのですが、明治12年、18
79年に東京招魂社は「別格官幣社」となり、名称を靖国神社と
改称します。別格官幣社とは、天皇の忠臣を祀る神社という意味
です。
 ちなみに「官幣社」とは、皇室の祖神あるいは、建国に功績が
あった神や天皇、そして国家に功労のあった神を祀る神社のこと
をいうのです。伊勢神宮などは官幣社です。また、国土開発や地
方開発に功労のある神を祀る神社を国幣社というのです。

676号.jpg
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2001年08月10日

中国は”連合国”に入っていない(EJ677号)

 首相の靖国神社への公式参拝はなぜ問題なのでしょうか。次の
2つのポイントから考えてみましょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.中国をはじめ近隣諸国に迷惑をかけるか。
 2.それが憲法上合憲であるか違憲であるか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 まず、EJ677号では、第1の問題について考えます。
 近隣諸国といっても現在のところ中国が突出して反対を表明し
ています。かりそめにも一国の首相に対し「やめなさい」と命令
する権利など、どこにあるのでしょうか。
 感情的にならずに、日中平和条約とサンフランシスコ平和条約
の2つの面から検討してみたいと思います。
 日中平和条約の第一条および第三条には次のように相互の内政
不干渉を規定した条文があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 第一条:両締結国は、主権および領土保全の相互尊重、相互不
     可侵、内政に関する相互の不干渉・・・の基礎の上に
     恒久的な平和友好条約を発展させるものとする。
 第三条:・・・平等および互恵並びに内政に対する相互不干渉
     の原則に従い・・・。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 平和条約という以上、「内政に関する相互不干渉」は当たり前
のことです。主権国家である日本が先の戦争の戦没者が祀ってあ
る神社にその国の代表者である内閣総理大臣が公式に参拝するこ
と――これは内政である――がなぜ問題なのでしょうか。まして
「やめなさい」などという命令を日本が中国の外相から受けるい
われはないのです。内閣は「それは内政干渉であり、日中平和条
約第1条に抵触している」と抗議すれば済むことです。
 普通の戦没者ではなく、A級戦犯が合祀されているからという
ことに対しても、A級戦犯といえども国内では犯罪者ではなく、
A級戦犯として処刑されたり、獄死したりして罪をつぐなってい
る人たちであり、その人たちを戦没者として合祀することに外国
からクレームをつけられるいわれはないのです。したがって、中
国の干渉は明らかに甘受すべからざる内政干渉であります。
 続いて、サンフランシスコ平和条約について検討してみたいと
思います。少し長いですが、平和条約第25条をご紹介します。
一部漢字を現代的に修正してあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『この条約の適用上、連合国とは、日本国と戦争していた国ま
 たは以前に第23条に列記する国の領域の一部をなしていたも
 のをいう。ただし、各場合に当該国がこの条約に署名し、かつ
 これを批准したことを条件とする。
  第21条の規定を留保して、この条約は、ここに定義された
 連合国の一国でないいずれの国に対しても、いかなる権利、権
 限または利益も与えるものではない。また日本国のいかなる権
 利、権限または利益も、この条約のいかなる規定によっても前
 記の通り定義された連合国の一国でない国のために減損され、
 または害されるものとみなしてはならない』。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この条文の中の第23条は、この条約に署名し、批准する国の
名を列記した項なのですが、その列記された連合国の中には、中
華民国(台湾)も中華人民共和国(中国)も入っていないのをご
存知でしょうか。
 当時両国は代表権問題で紛争を生じたために、サンフランシス
コ平和会議に代表を送ることができず、会議に参加していないし
もちろん条約に署名も批准もしていないのです。
 しかし、「第21条の規定を留保して」とあるように、戦争中
に生じた損害に対する賠償請求権は保有しますが、戦犯裁判被告
に関わる問題で、日本政府に自らの立場からとやかくいう権利を
持っていないのです。
 この25条の条文をよく読んでいただくとわかると思いますが
この条文の書き方は、将来日本と中国との間にコトあることを予
想し、日本が不当な内政干渉を受けなくて済むように配慮されて
いるといったらいい過ぎでしょうか。
 しかし、このことを日本の政治家はちゃんと理解しているので
しょうか。とくに外務大臣はわかっているのでしょうか。
 もちろん中国外務省はこのことを百も承知しています。したが
って、靖国問題については、A級戦犯が合祀されるまでは公式に
は何もいってきていないのです。A級戦犯の合祀の問題は、EJ
678号で取り上げますが、中国はこの情報を入手するとさかん
に日本に非難の攻勢をかけてきているのです。
 中曽根康弘氏が総理大臣として靖国神社に公式参拝をした昭和
60年8月15日に中国の「人民日報」は、「東條英機を含む千
人以上の犯罪人を祀っている靖国神社」という表現で不快感を表
明しています。
 しかし、9月20日になると、今度は中国外務省談話として、
「A級戦犯も祀る靖国神社への公式参拝はわが国の立場を考えて
行事は慎重にして欲しい」というように、「A級戦犯」にマトを
絞ってきたのです。
 この中国の抗議を受けて10月28日に政府与党首脳会議の席
上、当時の金丸幹事長は「なぜ、A級戦犯が祀られているのか」
とあたかもそれを知らなかったとする発言をしているのです。
 そののち自民党の二階堂副総裁は、新たに着任した章駐日大使
に対して「A級戦犯の合祀は知らなかった」と明言して大使に謝
罪しているのです。なんというお粗末な話でしょうか。
 11月4日になって当時の桜内外務大臣は、中国の呉学謙外相
と会談し、「靖国神社へのA級戦犯合祀は、戦犯を認めたサンフ
ランシスコ平和条約の第11条から見て問題がある」と発言して
いるのです。何という無定見にして無知な発言でしょうか。外務
省は、このときすでに腐っていたのです。

677号.jpg
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2001年08月13日

首相の靖国公式参拝は合憲である(EJ678号)

 このところの靖国報道は本当に凄いですね。こういう中で同じ
テーマでEJを書くのは大変です。しかし、今週は、このテーマ
で通したいと思います。
 EJの若い読者の何人かから「A級」とは何かという質問がき
ていますので、このことから今朝のEJを始めたいと思います。
テレビなどではこういう説明はしていないのです。
 戦争犯罪人の分類の中で、捕虜虐待、非戦闘員への暴行虐殺な
どの国際法に違反したとされる者のうち、直接手を下した者をC
級、監督・命令権者としての行為の責任を負わされた者をB級と
呼んだのです。それではA級とはどういう人たちのことをいうの
でしょうか。
 極東国際軍事裁判所の起訴状によると、次の3項目に該当する
者がA級としています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.通例の国際法の条規違反
  2.平和に対する罪
  3.人道に対する罪
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これら3項目のうち1については、C級、B級と同じ国際法の
通例の意味での条規違反なのですが、2と3については国際法に
は記載されていないのです。およそ裁判において人を裁くには法
的根拠が必要ですがそれがないのです。そういう意味で極東国際
軍事裁判は、昔からいう「法なくして罪なく法なくして刑なし」
という罪刑法定主義の大原則に違背している疑いがあるのです。
 さて、A級として実際に被告として訴追を受けたのは、当初は
28名、途中死亡の2人と免訴の1人を除いて25名の高官・軍
人が有罪の判決の宣告を受けたのです。
 しかし、最終的には、絞首刑になった東條、板垣、土肥井、松
井、木村、武藤、廣田の7人と未決拘留中に死亡した松岡、永野
の2人、受刑中に死亡した白鳥、東郷、小磯、平沼、梅津の5人
の計14人をA級といっており、現在靖国神社にはこれら14人
のA級戦犯が合祀されているのです。
 続いて、EJ677号の2つ目の問題である「内閣総理大臣の
靖国神社参拝は憲法上合憲であるか違憲であるか」について考え
てみたいと思います。
 現在、靖国神社は宗教法人です。これは米国占領軍によるポツ
ダム政令によって強制的にそうさせられたのです。その後靖国神
社を宗教法人の枠から外して国の神社とする靖国神社法案が5回
も国会に提出されたのですが、成立せず廃案となっています。
 そうなると、一宗教法人たる靖国神社に国が関わると憲法でい
うところの政教分離の原則に抵触してしまう恐れがあります。憲
法の該当条文は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 第20条  国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教
   3項  活動もしてはならない。
 第89条  公金その他の公の財産は、宗教上の組織もしくは
       団体の使用、便宜もしくは維持のため・・・これ
       を支出し、またその利用に供してはならない。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 内閣総理大臣の靖国神社参拝が、これら憲法の該当条文に触れ
るかどうかですが、これについては既に結論が出ているのです。
これについては、昭和52年7月の最高裁の判決があり、合憲と
いうことになっているのです。
 それなのに、私人として参拝するとか、神職のお祓いを受けな
いとか、二礼二拍手一礼などの神道の儀式をやらないとかいうの
はいわゆる小細工というべきものです。
 内閣総理大臣の職にあるものが靖国神社を参拝すれば、個人で
あろうと公人であろうと、総理大臣が参拝したことには代わりは
ないのです。また、参拝する以上その方法はその神社の儀式に従
うべきであって、参拝の方法を変更するのは神社に対して失礼な
行為というべきでしょう。
 昭和41年1月のことです。津市体育館の地鎮祭において公金
支出があり、これが憲法第20条3項と第89条に違反するとし
て3月に共産党市議から訴訟が起こされ、2年をかけて争った結
果、昭和42年3月に原告敗訴の判決が出たのです。
 判決理由は、地鎮祭は宗教的行事というよりも習俗的行事であ
り、その行事において神職への謝礼と供物料を市の公金から支出
したとしても別段憲法違反ではないというものです。
 原告側はこれを不服として、名古屋高裁に控訴して昭和46年
5月に控訴審判決が出ます。結果は地裁の判決を全面的に覆すも
のであり、原告側の全面勝訴となったのです。
 もちろん被告側はこれを不満として最高裁に上告します。この
裁判は政教問題に関心のある人たちの間で大きな話題となり、最
高裁の判決がどうなるかを固唾を飲んで見守ったのです。
 最高裁判決は昭和52年7月に出たのですが、結果は二審判決
を覆しての原告側全面敗訴となったのです。津市の公金支出は合
憲ということになったのです。このとき最高裁判決で示されたの
が、「目的効果基準」というものです。
 「目的効果基準」というのは、その行為がその宗教(靖国神社
の場合は神道)をもっと普及させようとし、または他の宗教的活
動を妨害しようとする効果を実際に上げる可能性がある場合は違
憲だというわけです。
 ですから、内閣総理大臣が靖国神社を戦没者の慰霊に訪れて参
拝する行為が神道の普及につながったり、他の宗教的活動の妨害
にならない限り違憲ではないのです。中曽根康弘氏はこのことを
知りながら、あえて慎重を期して神道の作法を一切やらなかった
のですが、これが靖国神社側の反発を買ってしまうことになりま
す。これについては改めて述べます。
 このように、内閣総理大臣の靖国神社公式参拝は少なくても憲
法上は違憲ではなく合憲なのです。近隣諸国への配慮に関しては
明日述べることにします。
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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