2012年10月01日

●「日本の領土問題について考える」(EJ第3397号)

 日本と中国の間が日を追って緊迫しています。中国の公船が何
隻も尖閣諸島の領海周辺の海域に常時居座っていて、ときどき日
本の領海内をゆうゆうと航行する状態が続いています。当然海上
保安庁の巡視船は中国の公船と並走し、「ここは日本の領海なの
で、領海の外に出なさい」と警告を発しますが、それ以上のこと
はできないことになっています。そのため、中国の公船は、なか
なか領海から出ようとしないのです。
 中国側も並走する海上保安庁巡視船に対して、「この海域は中
国の領海であるから、海上保安庁の船は出なさい」とアナウンス
を返しています。中国もここは中国の領海であると主張し、退去
を求めてきているのです。
 日本からみれば、完全な領海侵犯ですが、中国も同じことを主
張しているので、この状態が長期的に続くと、国際社会は、日本
と中国の間には領土問題が存在すると認識するでしょう。実はそ
れが中国の狙いなのです。
 日本は、「尖閣諸島は歴史的にも、国際法上も日本固有の領土
であり、領土問題は存在しない」という立場です。同じ島でも九
州や四国に領土問題が存在しないように、尖閣諸島も同様に領土
問題は存在しないといっているわけです。
 中国はそれを崩しにかかっているのです。国際社会に領土問題
が存在することを認めさせ、なし崩し的に島を占拠し、戦争をし
ないで取れるなら、このさい取ってしまおうと考えているようで
す。実に乱暴な話ですが、中国は間違いなくそれを狙っているの
です。実際に、フィリピンが同じ目に遭っているからです。
 「ウエッジ・インフィニティ/日本をもっと、考える」サイト
の次の記事を読んでください。
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 2012年4月、スカボロー岩礁をめぐる対立が表面化した際
 中国はフィリピンのバナナ、パパイヤ、マンゴー、ココナッツ
 パイナップルの検疫を意図的に遅らせただけでなく、フィリピ
 ンへの観光も差し止めた。中国の思惑通り、フィリピン実業界
 は比政府に中国との対立を止めるよう懇願した。その後、中比
 間の緊張は緩和されたが、現在スカボロー岩礁へのフィリピン
 船の出入りは中国船がブロックしている。
          http://wedge.ismedia.jp/articles/-/2160
―――――――――――――――――――――――――――――
 尖閣諸島についても、中国は同じことをやろうとしています。
こういう事態に対して、日本はどのように対処したらよいでしょ
うか。この問題は簡単に終わりそうもなく、日本もそれなりのハ
ラをくくる必要があります。
 そこで、今日からのEJは、新テーマとして領土問題を取り上
げることにします。
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       日本の領土問題について改めて考える
        ── 尖閣・竹島・北方領土 ──
―――――――――――――――――――――――――――――
 尖閣諸島や竹島、それに北方領土はわが国固有の領土──耳に
タコができるぐらいそう聞かされています。しかし、それでは何
を根拠にそういえるのかと問われたら、答えられるでしようか。
これこれこうだから、尖閣諸島や竹島、北方領土は日本固有の領
土であるときちんと説明できるでしょうか。
 きちんと説明できる人は少ないと思います。これまで日本政府
は国際社会に対しても、日本国民に対しても、そのことについて
きちんと説明をしてきていないからです。
 ただ、固有の領土といいながら、尖閣諸島には人は住んでいな
いし、日本人は上陸すらできないのです。それに現在、竹島は韓
国に、北方領土はロシアに実効支配を許しています。それなのに
なぜ固有の領土なのでしょうか。取り返せないのでしょうか。
 このあたりのことを歴史的にも、少していねいに調べてみたい
と思い、これを今回のEJのテーマとしたのです。なぜなら、尖
閣諸島や竹島は、地図で調べると、中国や韓国が、これはわれわ
れの領土だと主張しても不思議はないほど、微妙な位置関係にあ
るからです。したがって、これが紛れもなく日本の領土であると
いう証拠というか、歴史的事実が必要です。
 尖閣諸島周辺での日本の海上保安庁の巡視船と中国の公船の諍
い──こんなことを続けていると、何かのトラブルで、戦闘行為
に発展する危険性があります。「尖閣沖海戦」は絵空事ではなく
十分あり得るのです。
 その場合、日本はどこまで戦えるのでしょうか。海上保安庁は
どの程度の実力を持っているのでしょうか。実戦経験のない海上
自衛隊は海戦でどのくらい戦えるのでしょうか。それに既に空母
まで保有している中国海軍の戦力は本当のところどの程度のもの
でしょうか。そして仮に尖閣沖海戦に突入したら、日本は、同盟
国である米国の支援は受けられるのでしょうか。
 このことについて、元防衛大学教授・孫崎亨氏は近著で将棋に
喩えて次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 将棋の盤面を考えていただければよいと思います。米国は王将
 です。この王将を守り、相手の王将をとるためにすべての戦略
 が立てられます。米国にとって日本は「歩」かも知れません。
 「桂馬」かも知れません。「銀」かも知れません。ときには、
 「飛車」だといってチヤホヤしてくれるかもしれません。それ
 は状況によって変わるのです。しかしたとえどんなコマであっ
 ても、国際政治というゲームのなかで、米国という王将を守り
 相手の王将をとるために利用されることに変わりありません。
 状況しだいでは見捨てられることもあります。王手飛車取りを
 かけられて、飛車を逃がす棋士はいないでしょう。一瞬のため
 らいもなく、飛車を見殺しにする。あたりまえの話なのです。
         ──孫崎亨著、『戦後史の正体』/創元社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
                 ── [日本の領土/01]

≪画像および関連情報≫
 ●尖閣:中国、日本の「領土問題は存在せず」に反発
  ―――――――――――――――――――――――――――
  【北京・工藤哲】沖縄県・尖閣諸島(中国名・釣魚島)につ
  いて「領土問題は存在しない」とする日本政府の公式見解に
  対し、中国が反発を強めている。中国側は9月28日、日本
  に対し領土問題を認めるよう公然と要求。日本から譲歩を引
  き出した後、問題を棚上げにすることで事態を沈静化する狙
  いとみられる。中国外務省の副報道局長は28日の定例会見
  で、「我々は日本に争いを認め、対話を通じて問題を解決す
  ることを強烈に促す」と述べた。問題解決の条件として初め
  て「日本側が争いの存在を認めること」を掲げた。同日開か
  れた中国国際問題研究所などが主催する会合でも「日本がま
  ず主権問題で争いがあることを認め、いわゆる国有化を撤回
  し、公務員を再び島に上陸させないという三つの条件が達成
  されて初めて1972年(国交正常化)、1978年(元最
  高実力者・ケ小平氏の『棚上げ』発言)の原点に戻ることが
  できる」(中国社会科学院の李薇・日本研究所長)などの意
  見が出た。副報道局長の発言は、こうした主張を公的に認め
  たものだ。    ──2012年9月29日付/毎日JP
  http://mainichi.jp/select/news/20120930k0000m030031000c.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

日本の領海に侵入した中国公船.jpg
日本の領海に侵入した中国公船>
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2012年10月02日

●「現在の日本領土はいつ決まったか」(EJ第3398号)

 「領土」というのは何でしょうか。日本人は領土について、き
わめて抽象的な概念しか持っていないように思います。どちらか
というと、領土についてあまり敏感ではないのです。
 領土とは、一国の統治権(主権)の及ぶ空間的領域のことであ
り、領水、領海、領空を含むもの──一般的に、領土はこのよう
に定義されています。「領水」というのは、海以外の水域のこと
で、「領海」と区別しています。全体を含めたものを領域──国
家と称しているのです。
 現実的に考えた場合、現在の日本の領土は、1951年(昭和
26年)に締結されたサンフランシスコ平和条約によって、国際
的に決められているのです。
 第2次世界大戦終戦時点で、日本が明治維新以降に何回かの戦
争で獲得した支配地域があったのですが、サンフランシスコ平和
条約では、それらの支配地域の領有権の放棄が求められ、日本は
それにしたがっているのです。
 したがって、現在の日本の領土とは、サンフランシスコ平和条
約で放棄を求められた以外の領域ということになります。そのと
き、放棄を求められた地域のなかに、竹島も北方領土も尖閣諸島
も入っていないのです。したがって、これらを含めてすべて日本
の領土ということになります。
 とくに尖閣諸島は、サンフランシスコ平和条約第二章第三条に
より、日本国の領土として米国に信託統治されていたのです。そ
の第三条を次に示しておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 【第三条】日本国は、北緯二九度以南の南西諸島(琉球諸島及
 び大乗諸島を含む)、嬬婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西
 之島及び火山列島を含む)並びに沖ノ鳥島及び南島島を合衆国
 を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国
 際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このよう
 な提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこ
 れらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の
 権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。
      ──山田吉彦著/『日本の国境』/新潮新書107
―――――――――――――――――――――――――――――
 それなら、文句なしに北方領土も竹島も尖閣も日本の領土じゃ
ないかと考えるかもしれないが、そうなっていないところが複雑
なのです。サンフランシスコ平和条約は、48ヵ国の代表が条約
に調印しているのですが、ソ連も韓国も中国もサンフランシスコ
平和条約の締結国ではないからです。
 もっと正確にいうと、ソ連は会議には出席しましたが、調印を
拒み、中国(中華民国)は招待されていないのです。インドは参
加を拒否しているのです。
 占領からサンフランシスコ平和条約締結までは6年間あるので
すが、その6年間は日本にとって、もっとも苦難の時代であった
のです。日本は1945年に敗戦を受け入れ、マッカーサー元帥
指揮による米軍の占領時代に入ったのです。そのときのことをN
HKの土曜ドラマで吉田茂首相を中心に描いています。10月6
日が最終回(全5回)です。
―――――――――――――――――――――――――――――
    『負けて、勝つ〜戦後を創った男・吉田茂〜』
    土曜日/21時〜/NHK土曜ドラマ──5回
―――――――――――――――――――――――――――――
 マッカーサー元帥が解任された5ヵ月後の1951年9月8日
──この日、サンフランシスコ平和条約と日米安保条約が締結さ
れています。元防衛大学教授・孫崎亨氏は、この2つの条約──
サンフランシスコ平和条約と日米安保条約の調印に関しての秘話
を自著『戦後史の正体』/創元社刊で書いています。非常に興味
深いので、ぜひご一読をお勧めします。日米関係を考えるとき、
知っておくべきことであると思います。
 さて、現在日本にとって問題になっている北方領土、竹島、尖
閣諸島の領有権が日本のものであることが決まったサンフランシ
スコ平和条約に、ソ連(ロシア)、韓国、中国が参加していない
という事実──これが紛争の原因のひとつとしてあるということ
を日本人は十分認識しておくべきです。
 そういう事情もあって、日本政府は国民にすらこれらの島の領
有権について詳しい情報を提供していないのです。そのため、日
本人にとって、自国の領土に関する認識がきわめて希薄になって
いることは由々しき問題です。明らかに、当の相手国であるロシ
ア、韓国、中国に比べて、日本人は領土や主権に関する考え方が
甘いのです。領土で紛争を繰り返していくと、戦争になるという
ことがピンときていないのです。最近の出来事でいうと、橋下大
阪市長の竹島に関する次の発言があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 (韓国の)実効支配を武力でひっくり返すのは無理です。どう
 やって(韓日)共同管理に持ち込むかという路線にかじを切ら
 なければいけない。           ──橋下大阪市長
―――――――――――――――――――――――――――――
 これについて、京都大学大学院教授の藤井聡氏は、怒りをもっ
て次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 そもそも領土問題の本質は管理や資源といった「損得の問題」
 では断じてない。それは、日本国民としての「誇りや倫理の問
 題」だ。例えて言うなら「山賊にさらわれた妻を取り戻すか否
 か」という問題が、究極的には「損得の問題」ではなく「誇り
 や倫理の問題」であることと全く同じだ。妻を山賊と共に「共
 同管理」するやからは人ではなく、畜生といっていい。まっと
 うな大局観・倫理観を主軸としながら、あらゆる戦略を取り続
 ける不屈の精神力が「政治家」に求められる資質だ。
     ──藤井聡氏/2012.9.29付、日刊ゲンダイ
―――――――――――――――――――――――――――――
                 ── [日本の領土/02]

≪画像および関連情報≫
 ●竹島に関する橋下大阪市長発言/「越えてはならぬ一線」
  ―――――――――――――――――――――――――――
  橋下大阪市長がいくら現実主義者であると称えられようが、
  言っていいことと悪いことの道理くらいは弁える分別があっ
  てしかるべきである。今回の橋下大阪市長の発言は日本人の
  一線を越えたのである。おそらく、「日本維新の会」が政権
  の一翼を担えば、国会で「無理が通れば道理が引っ込む」と
  いう悪しき風土が出来上がるだろう。ここ最近、外交では一
  線を越える出来事が数々起こっている。イスラム諸国では、
  米国で製作された映像が、イスラム教を冒涜する内容だった
  ことが明らかになり、越えてはいけない一線を越えたのであ
  る。日本では、韓国の李大統領が日本国民統合の象徴である
  天皇陛下を侮辱する発言をしたことにより、越えてはいけな
  い一線を越えたのである。中国では、日本の野田総理が胡主
  席の発言を無視して国有化したことでメンツを潰したことに
  より、越えてはいけない一線を越えたのである。これら全て
  がそれぞれの国民の尊厳を守る戦いとなっている。特に、外
  交交渉においてその国における尊厳を土足で踏みにじる行為
  を行えば、その国の国民から大変なしっぺ返しをくらうので
  ある。しかし今回、同じ日本人であるはずの橋下大阪市長が
  日本人の尊厳を踏みにじりこれまでの日本の歴史を否定する
  発言をしたのである。
     http://ameblo.jp/shimarny/entry-11362943555.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

「負けて勝つ/吉田茂を演ずる渡辺謙」.jpg
「負けて勝つ/吉田 茂を演ずる渡辺 謙」
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2012年10月03日

●「パネッタ米国防長官の無言の威嚇」(EJ第3399号)

 尖閣問題について、クリントン米国務長官も、パネッタ米国防
長官も「日米安保条約」の対象になると明言しています。それで
いて「領土紛争には米国は介入しない」ともいっているのです。
 これはちょっと考えると、矛盾しているようですが、これには
いくつかの理由があって、そういわざるを得ないのです。まず、
世界には40以上の領土問題があって、なかには米国の同盟国が
関わっているのも少なくないのです。
 したがって、世界の警察を自負する米国がいちいち首を突っ込
めないという事情があります。しかし、そうはいうものの、米国
にとって尖閣諸島が中国に占領されるようなことがあると、東シ
ナ海の覇権に関わる重大事であり、日本はもちろんのこと、米国
にとっても絶対に看過できる問題ではないのです。
 口とは裏腹の行動をしたのはパネッタ米国防長官です。パネッ
タ長官は、2012年9月17日に来日して玄葉外相と会談し、
すぐ北京を訪問、習近平国家副主席と会談を行っています。
 そのとき、習近平氏は、尖閣問題について次のように発言し、
米国の介入を暗に牽制したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本国内の一部勢力は誤りを繰り返し、(尖閣諸島の)島購
 入という茶番を演出した。     ──習近平国家副主席
―――――――――――――――――――――――――――――
 これに対し、パネッタ長官は「尖閣諸島にも日米安保条約が適
用される」と米国の立場を表明しています。しかし、21日のA
SEAN博覧会の席で、習副主席は尖閣とはいっていないものの
領有権の問題について次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 隣国との領土、領海、海洋権益の争いは、友好的な交渉を通
 じて平和的に解決する。      ──習近平国家副主席
―――――――――――――――――――――――――――――
 習副主席の発言は、明らかにトーンダウンしています。一体何
があったのでしょうか。
 実はパネッタ米国防長官は「尖閣問題は日米安保条約の対象で
ある」と発言しただけでなく、米軍に対し、ある特殊訓練を行わ
せていたのです。
 会談後の9月20日午後、沖縄県の米軍嘉手納基地に配備中の
F─22戦闘機5機が、1000ポンド(450キロ)の大型爆
弾を2発ずつ搭載して飛び立っているのです。F─22が実弾を
搭載して離陸するのは、F─22が嘉手納に到着した2007年
以降初めてのことです。
 この爆弾には「MK83ジェイダム」というGPSを使用する
精密誘導装置が後部に付けられており、目標をピンポイントで爆
撃できるのです。ステルス性に秀でたF─22に搭載すれば、1
万数千キロメートルもの超高々度すら敵部隊を隠密裏に攻撃でき
るので、尖閣有事でも威力を発揮できます。
 パネッタ長官の中国に対する強烈なサインが効いたのか、会談
後暴徒化していた北京市内の数千人のデモ参加者は、ピタリと鳴
りをひそめ、習副主席のあの発言になったのです。圧倒的な戦力
を持つ国の外交は、このようにして行われるのです。
 尖閣諸島は米国にとっても重要地域にあり、ここを本気で狙う
国に対しては、米軍として厳しく対処するというのが米国の本音
なのです。軍事評論家の岡部いさく氏は、これに関して次のよう
に述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 9月にグアム近海で行われた(島嶼防衛のための)日米太平洋
 軍の統合演習に関する海兵隊のウェブサイトには、「われわれ
 はこの地域におけるいかなる紛争にも対処する」とある。この
 地域とは「尖閣海域を含む西太平洋」のこと。米軍の備えは確
 実に進められている。尖閣を巡る動きは、新たな「ステージ」
 に進みつつある。      ──「週刊新潮」10月4日号
―――――――――――――――――――――――――――――
 昨今の竹島、尖閣をめぐるトラブルは、元来「国境」という観
念が希薄な日本人にとって非常に「良いクスリ」になったと思わ
れます。なぜ、国境という観念が希薄なのかというと、それは日
本が島国であるからです。国境には次の2つがあるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
           1.自然国境
           2.人工国境
―――――――――――――――――――――――――――――
 「自然国境」というのは、海や山などの自然環境の中でごく自
然に国境が確立されるケースをいうのです。日本は四方が海に囲
まれており、自然に国境が出来上がっているので、自然国境とい
うことになります。このような自然国境の場合は、国境というも
のをどうしても意識しなくなるのです。
 これに対して人工国境は、政治的、軍事的、経済的、歴史的に
区分けされている国境のことです。人工国境の場合は、戦争など
によって、特定の地域の国の帰属が変わることがあるのです。ノ
ンフィクション作家の保阪正康氏は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 人工国境の悲劇について、私たちは近代日本の道筋ではまった
 く体験していなかった。とにかく戦争そのものが結果的に勝利
 という形で推移することになったために、領土について、とく
 に国境についてはきわめて無頓着なままに過ごすことができた
 のであった。この人工国境と自然国境のもっとも大きな相違点
 は、国境の線引きを視覚で確かめることができるか否かという
 点にあった。視覚で確かめる人工国境の国民がもつ領土の意識
 と、視覚で確かめることのできない国民の領土観との間には、
 当然ながら発想の違いによる理解そのものの違いも生まれてく
 る。    ──保阪正康著/「歴史でたどる領土問題の真実
         /中韓露にどこまで言えるのか」/朝日新書
―――――――――――――――――――――――――――――
                 ── [日本の領土/03]

≪画像および関連情報≫
 ●F─22に実弾装備/県内で初搭載飛行
  ―――――――――――――――――――――――――――
  【嘉手納】米軍嘉手納飛行場で9月20日午後3時半ごろ、
  6ヵ月の予定で米軍嘉手納基地に配備されているステルス戦
  闘機F22Aラプター5機が千ポンド爆弾10発を搭載し離
  陸するのが確認された。19日にも爆弾を搭載し離陸するの
  が確認されている。F22が嘉手納に暫定配備された200
  7年以降、沖縄で実弾を搭載して飛行するのは初めてとみら
  れる。20日午後に搭載した実弾は1000ポンド(約45
  3キロ)爆弾MK83ジェイダム。戦闘機からの操作なしに
  目標を攻撃できる誘導爆弾の一つ。各機に2発ずつ搭載され
  て離陸し、午後5時半ごろまでに帰還した。F22は爆弾を
  機体内部に格納することから、爆弾を投下したかは、着陸時
  に目視で確認できていない。F22は低酸素症に似た症状を
  訴える操縦士が相次いだため一時運用を停止した。操縦士が
  着用するベストの不具合が主な原因とされ、改善策を施した
  として12年5月に飛行高度などを制限して運用を再開。7
  月末に嘉手納に12機が暫定配備された。
   http://blogs.yahoo.co.jp/aki_setura2003/30113818.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

パネッタ/習近平会談.jpg
パネッタ/習近平会談
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2012年10月04日

●「日本の領土について知る」(EJ第3400号)

 「狭い日本、そんなに急いでどこに行く」──かつての交通事
故防止標語です。この標語にもあるように、多くの日本人は「日
本は狭い」と考えています。しかし、それは間違いです。日本は
意外に広い国なのです。まず、東西南北で見てみると、次のよう
になります。
―――――――――――――――――――――――――――――
  東は南鳥島から西は与那国島まで3143キロメートル
  北は択捉島から南は沖ノ鳥島まで3020キロメートル
     ──山田吉彦著『日本の国境』/新潮新書107
―――――――――――――――――――――――――――――
 南北間3020キロメートルもあるので、その冬季における平
均気温の差は、摂氏30度にもなるのです。まさに亜寒帯から熱
帯までの幅広い気候分布を有しているのです。
 しかし、日本の国土ということになると、もっと領土、領海、
領水を含めて考える必要があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
  国土(領土)面積 ・・  約38万平方キロメートル
  領海面積     ・・  約43万平方キロメートル
  排他的経済水域  ・・ 約447万平方キロメートル
     ──山田吉彦著『日本の国境』/新潮新書107
―――――――――――――――――――――――――――――
 約38万平方キロメートルの広さは、世界では59番目の広さ
であり、日本の人口が1億2千万人を超えることを考えると、確
かに広いとはいえないでしょう。
 しかし、いわゆる排他的経済水域(領海を含む)というものを
考えると、日本のそれは約447万平方キロメートルもあり、世
界で6番目の広さになるのです。日本の陸地+排他的経済水域の
順位は世界9位になります。陸地を含めると、ブラジル、中国、
インドが日本の上にくるので9位です。参考までに、排他的経済
水域のベスト10を示しておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 アメリカ     ・・・・ 1135万平方キロメートル
 フランス     ・・・・ 1103万平方キロメートル
 オーストラリア  ・・・・ 1064万平方キロメートル
 ロシア      ・・・・  756万平方キロメートル
 カナダ      ・・・・  559万平方キロメートル
 日本       ・・・・  447万平方キロメートル
 ニュージーランド ・・・・  408万平方キロメートル
 イギリス     ・・・・  397万平方キロメートル
 ブラジル     ・・・・  366万平方キロメートル
 チリ       ・・・・  201万平方キロメートル
                   ──ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――――
 ところで、排他的経済水域(以下、EEZ)は、どのように決
められるのでしょうか。領海とはどう違うのでしょうか。
 ちょっと複雑な問題なので、ひとつずつていねいに考えていく
ことにします。海洋には次の2つのゾーンがあります。
―――――――――――――――――――――――――――――
    1.公海 ・・・ 自由航行が認められている
    2.領海 ・・・ 沿岸国の主権がおよぶ水域
―――――――――――――――――――――――――――――
 領海というのは、沿岸国の領土に接する水域のことで、領海内
ではその国の主権を行使することができます。この場合、沿岸国
の主権は、領海の上空と海底、さらにその海底の下にまでおよぶ
とされています。
 外国船舶がどこかの国の領海を航行するときは、その国が設定
する無害通航に関する法令(無害通航権)の遵守を求められるこ
とになります。この場合、その国の平和・秩序・安全を害さずに
通航しなければならないのです。例えば、継続的かつ迅速に航行
を行わなければならず、特別な場合以外は投錨や停船はできない
ことになっています。また、潜水船は浮上して、国旗を掲げて航
行しなければならないことになっています。
 もともと領海幅は3海里が主流だったのです。18世紀初頭に
英仏間の紛争があったのですが、中立的立場を守りたいオランダ
が、他国の軍艦が自国の3海里内に勝手に侵入することを拒絶し
たのです。これにより3海里が国際的にも認められる基準になっ
てていたのです。ちなみに3海里という距離は、当時の大砲の弾
丸が届く距離だったのです。
 海洋国家の日本は、明治維新後に近代国家の形成を目指したの
ですが、1872年(明治5年)に、太政官達によって、領海3
海里を宣言し、以後100年以上──1977年にわたって沿岸
3海里を領海としてきたのです。
 現在は沿岸12海里が領海ですが、日本近海の国際海峡を特別
海域に指定し、今でも領海幅3海里を守っています。その国際海
峡とは、宗谷海峡、津軽海峡、対馬海峡(東水道/西水道)、大
隅海峡の4つです。もし、12海里を主張すると、海峡のすべて
が領海になってしまうという他国配慮です。他の国では絶対にや
らない配慮です。日本人が主権や国益意識が希薄である証拠であ
るといえます。
 しかし、時代が経つにつれて、漁業管轄権や海底資源の調査・
採掘権などが重視されるようになり、領海について国によってさ
まざまな距離が主張されたのです。多くは12海里でしたが、な
かには、200海里まで自国の領海であると主張する国が現れて
きたのです。そこで国連が中心になり、沿岸国の権利と自由通航
の確保を両立させるための条約制定会議が行われ、1982年に
定められたのが「国連海洋法条約」なのです。
 この条約によって、沿岸国は沿岸の基線から、200海里まで
の範囲内で設定できるようになったのがEEZ──排他的経済水
域なのです。日本は、1977年に200海里漁業専管水域を設
定したのです。EEZはこのように生まれたのです。
                 ── [日本の領土/04]

≪画像および関連情報≫
 ●EEZによって中国は永久に日本に太刀打ちできない
  ―――――――――――――――――――――――――――
  中国国内のニュース記事で、ある政府機関経済研究所の研究
  者が次のように発言していました。『中国は排他的経済水域
  と領海が小さいので、このままだと中国は永久に日本に太刀
  打ちできない。中国はあらゆる面において、日本に追いつき
  追い越してアジアの盟主的地位を確立しなければならないが
  日本の広大な排他的経済水域は、今後の中国にとって超える
  ことが出来ない大きな壁となって立ちはだかることは確実で
  ある』(意訳)日本の排他的経済水域と領海面積は中国の約
  5倍となります。(中略)一方、中国の人口は日本の約10
  倍、国土面積は日本の約26倍です。日本の一人あたりの排
  他的経済水域と領海面積は、中国の約50倍もあるのです。
  これからは、海洋資源の有無が国家の命運を左右するかもし
  れない、中国の苦悩とあせりは、周辺海域で周辺国との摩擦
  を引き起こしています。
     http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n112970
  ―――――――――――――――――――――――――――

日本のEEZ.jpg
日本のEEZ
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2012年10月05日

●「楊中国外相が引用したカイロ宣言」(EJ第3401号)

 2012年9月27日、野田首相は国連で演説し、中国および
韓国との領土をめぐる争いについて、名指しこそ避けたものの、
問題は武力ではなく法にのっとって解決されるべきであると強調
して、中国や韓国を牽制しました。野田首相としては、いうべき
ことをいったというところでしょう。
 しかし、その後で演説した中国の楊外相は、次のように反論し
たのです。その後、ほとんど誰もいない国連会場で、再反論が2
回にわたり、日本と中国の間で繰り返されたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 釣魚島(尖閣)と付属する島々は、昔から中国固有の領土であ
 り、中国はこれに対して争うことのできない歴史的、法的根拠
 を持っている。1895年、日本は日清戦争末期に、これらの
 島を盗み取り、この島やその他の領土を日本に割譲するよう、
 中国政府に不平等条約の締結を強制した。第2次大戦終了後、
 「カイロ宣言」や「ポツダム宣言」などに基づき、釣魚島など
 の島は日本が占拠した他の中国領土と一緒に中国に返還された
 のである。         ──楊中国外相の国連演説より
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本があえて名指しを避けているにもかかわらず、中国はそう
いう配慮は一切なく、「日本は日清戦争末期にこれらの島を盗み
取り」という表現で、野田首相の演説に反論したのです。
 多くの日本人は、楊外相はいうに事欠いてデタラメいっている
と感じたと思います。しかし、中国が国連の場でこのようにいう
以上、何らかの歴史的事実に基づいて発言していると考えられる
のです。「カイロ宣言」や「ポツダム宣言」を持ち出しているの
で、調べてみる価値はあります。
 昨日のEJで、日本の領土は約38万平方キロメートルと述べ
ましたが、かつての日本はそのピーク時には、昭和18年(19
43年)の朝日年鑑によると、約68万1千平方キロメートルも
有していたのです。しかし、太平洋戦争終結に伴う一連の処理に
よって約38万平方キロメートルになったのです。
 つまり、日本の領土とは、日本が敗戦国であるがゆえに戦勝国
──米国を中心とする連合国の決めたことに日本がしたがった結
果、決まったことなのです。日本の領土については、次の4つの
宣言、会議、条約によって決まっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
        1.       カイロ宣言
        2.       ヤルタ会談
        3.      ボツダム宣言
        4.サンフランシスコ平和条約
―――――――――――――――――――――――――――――
 中国の楊外相は、「カイロ宣言」や「ポツダム宣言」の2つを
演説のなかで引用しています。それは、4つの宣言、会議、条約
のうち、中国が参加しているのはその2つだけだからです。
 「カイロ宣言」とは何でしょうか。
 この宣言は、1943年11月にエジプトのカイロで次の3人
が集まって、対日方針などが話し合われたといわれています。そ
してこの会議内容を確認するかたちで、出されたのが「カイロ宣
言」というわけです。
―――――――――――――――――――――――――――――
         米国/ルーズベルト大統領
         英国/  チャーチル首相
         中華民国/  蒋介石主席
―――――――――――――――――――――――――――――
 この会談に蒋介石を引っ張り出したのは、ルーズベルトだった
といわれています。そのとき蒋介石は、抗日戦に手こずっていて
日本と休戦協定・単独講和を結んで、連合国の戦線から離脱する
可能性があったのです。それに、蒋介石は英米からの支援が少な
いことに不満を持っており、米英は中国(中華民国)が日本に寝
返ることを心配していたといわれます。
 しかし、米英としては、中国にもう少し頑張って日本と戦って
もらう必要があったのです。そこで、蒋介石夫妻をカイロに招き
十分な支援の約束と台湾の返還や常任理事国入りを条件にして、
日本を無条件降伏に追い込むまで戦うことを蒋介石に約束させた
のです。
 カイロ会談では、3大国(米英中)は、自国のための利得や領
土拡張などの野心はないことを前文で述べたうえで、日本に対し
ては次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本国が一九一四年の第一次世界大戦の開始以後において奪取
 し、又は占領したる太平洋における一切の島嶼を剥奪すること
 並びに満州、台湾及び澎湖島のごとき日本国が清国より盗取し
 たる一切の地域を中華民国に返還する。また日本国は暴力及び
 食欲により略取したる他の一切の地域より駆逐されるべし。
 る。    ──保阪正康著/「歴史でたどる領土問題の真実
         /中韓露にどこまで言えるのか」/朝日新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 これを見ると、中国の楊外相が国連演説で「盗み取り」と表現
したのは、「カイロ宣言」の中に書かれている表現をそっくりそ
のまま使ったに過ぎないのです。しかし、そのことがわかる日本
人がどれだけいるでしょうか。
 日本人は、中国人よりもはるかに自国の歴史──とくに現代史
を勉強していないのです。野田首相は、カイロ宣言やポツダム宣
言という言葉は知っているでしょうが、どのような経緯でそれが
行われ、そこに何が書かれているかきっと知らないでしょう。
 しかし、このカイロ宣言──時間や日付が記されておらず、3
首脳の署名もないので、その有効性に疑問符がつけられているの
です。2008年に、時の台湾の陳水扁総統はインタビューで、
このことを指摘し、単なるプレスリリースに過ぎないと発言して
話題になったのです。(≪画像および関連情報≫参照)
                 ── [日本の領土/05]

≪画像および関連情報≫
 ●陳水扁総統:「カイロ宣言」は署名がないニセモノ
  ―――――――――――――――――――――――――――
  陳水扁総統は2008年3月13日、英国紙「フィナンシャ
  ルタイムズ」のインタビューに応じ、その内容が同紙インタ
  ーネット版に掲載された。このなかで陳総統は、4年前に中
  国の温家宝・総理が「中国が台湾の主権を有していることは
  『カイロ宣言』できわめて明確に示されている」と発言した
  ことに関して、「多くの人は『カイロ宣言』に、中国が台湾
  の主権を有することが明確に言明されていると信じている。
  過去、われわれが学生のときも、国民党政府の教育はわれわ
  れにこう教えてきた。国際社会もそのように認識していた。
  (カイロ宣言が発表された)1943年からいまに至るまで
  60年もの間、1943年に蒋介石、チャーチル、ルーズベ
  ルトの3カ国の首脳が中国は台湾の主権を確かに有している
  と決定したと多くの人々が信じて疑わなかった」と述べた。
  そのうえで、陳総統は「1943年12月1日の『カイロ宣
  言』についてはっきりしているのは、時間と日付が記されて
  おらず、蒋介石、チャーチル、ルーズベルトの3首脳のいず
  れも署名がなく、事後による追認もなく、授権もない。これ
  はそもそもコミュニケではなく、プレスリリース、声明書に
  過ぎないのだ」と指摘した。
http://www.taiwanembassy.org/ct.asp?xItem=52675&ctNode=3591&mp=202
  ―――――――――――――――――――――――――――

「カイロ宣言」.jpg
「カイロ宣言」
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2012年10月09日

●「カイロ宣言で何が要求されているか」(EJ第3402号)

 最初に、日本の領土に重要な関わりのある4つの、宣言、会談
条約が行われた年月を示しておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 カイロ宣言        ・・ 1943年11月22日
 ヤルタ会談        ・・ 1945年 2月 8日
 ボツダム宣言       ・・ 1945年 7月26日
 サンフランシスコ平和条約 ・・ 1951年 9月 8日
―――――――――――――――――――――――――――――
 カイロ宣言が行われた1943年11月22日──日本軍は、
4月に山本五十六連合艦隊司令長官がブーゲンビル島上空で戦死
するなど、米軍の攻勢に押され、劣勢に立たされていたのです。
そして、カイロ宣言の前日には、米軍によるマキン島、タラワ島
上陸作戦が敢行され、日本軍は玉砕しています。
 しかし、米軍から見ると、中国本土における日中戦の状況がい
まひとつ見えていなかったのです。そのため、ルーズベルト米大
統領は、蒋介石総統を呼び出して情報を探ろうとしたのです。そ
のカイロ宣言における日本に対する要求を整理すると、次の4つ
になります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.第一次大戦の開始以後に日本が奪取し、占領したドイツ
   領であった南洋諸島を返還する
 2.満州、台湾及び澎湖島など、日本が清国から盗取した一
   切の地域を中華民国に返還する
 3.日本が暴力及び貪欲によって略取した一切の地域から日
   本は駆逐されるべきであること
―――――――――――――――――――――――――――――
 「1」について考えてみます。
 第一次世界大戦でドイツが敗退すると、ドイツは海外植民地を
すべて失い、そのとき連合国側であった日本は、1922年、ベ
ルサイユ条約によって、赤道以北の旧ドイツ領のニューギニア地
域を委任統治することになったのです。まさに棚からボタ餅でこ
の地域を手に入れたのです。
 日本はその後、開拓のため南洋庁をパラオ諸島のコロール島に
置き、サイパン島などの島嶼を次々と開拓したのです。国際連盟
脱退後は、パラオやマリアナ諸島、トラック諸島などは海軍の停
泊地として使っていたのです。カイロ宣言での「1」は、これら
南洋諸島をすべて返還せよというものです。
 続いて「2」について考えます。
 カイロ宣言のこの「2」こそ中国が、台湾及び尖閣諸島が中国
固有の領土であると主張する拠り所なのです。確かに台湾につい
ては当時日本が領有していたので、戦争に負ければ返すのが当然
ですが、「盗取した」という表現は事実誤認です。
 台湾は、日清戦争の結果、下関条約によって、清朝(当時の中
国)から日本に割譲されたのであり、「盗取した」という表現は
穏やかではないからです。しかし、尖閣諸島については、後述す
るようにそこにはいろいろな議論があるのです。
 最後に「3」について考えます。
 「暴力及び貪欲によって略取した一切の地域」が具体的に何を
指しているのかは、はっきりしていません。ノンフィクション作
家の保阪正康氏は自著で次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 蒋介石政府がこのカイロ宣言に加わっていたためもあり、とに
 かく近代日本が中国から獲得した領土や地域はすべて中国に返
 還されるというのが、このカイロ宣言の眼目とすべき軸であっ
 た。この条文のなかで、「暴力」とか「貪欲」という表現自体
 がきわめて暖味なのだが、これは太平洋戦争後に日本が獲得し
 た地域、あるいは占領地行政を行っている地域を指していると
 いうことだろう。つまり太平洋戦争の日本の戦果そのものを根
 幹から否定することになる。        ──保阪正康著
              「歴史でたどる領土問題の真実/
          中韓露にどこまで言えるのか」/朝日新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 太平洋戦争前後の現代史を学ぶとき注意しなければならないこ
とは、中華民国と中華人民共和国(現在の中国)の違いです。太
平洋戦争の終わりまでの中国は蒋介石の率いる中華民国です。
 中華民国は、1930年代から日中戦争を挟んで「国共内戦」
を行っていたのです。国共内戦とは、中華民国政府率いる国民革
命軍と中国共産党率いる中国工農紅軍との間で行なわれていた内
戦のことです。中国工農紅軍のバックにはソ連が控えており、支
援を行っていたのに対し、中華民国に対しては米国が支援をして
いたのです。
 1937年に日中戦争(支那事変)が勃発すると、中華民国の
蒋介石総統はソ連と不可侵条約を締結し、国内の共産主義勢力と
手を結んで、国難に対処することになったのです。紅軍(共産党
軍)が国民革命軍第八路軍(八路軍)として、形式上は国民党軍
の指揮下に組み込まれ、日本と戦ったのです。
 太平洋戦争終結後も中華民国は、共産党勢力と戦闘を続けるこ
とになります。しかし、ソ連から潤沢な支援を受ける中国共産党
率いる中国人民解放軍が、米国からの支援を打ち切られた中国国
民党率いる中華民国国軍よりも優勢になり、1949年には共産
党政党による一党独裁国家である中華人民共和国が樹立したので
す。これが現在の中国です。
 そこで蒋介石総統は台湾への撤退を決意します。そして、残存
する中華民国軍の兵力や国家・個人の財産などを国家の存亡をか
けて台湾に運び出し、最終的に1949年12月に中央政府機構
も台湾に移転して台北市を臨時首都にしたのです。
 この中華民国政府の動きに対し、中華人民共和国政府は当初は
台湾への軍事的侵攻も考えたのですが、1950年に勃発した朝
鮮戦争に兵力を割かざるを得なくなったので、人民解放軍による
軍事行動はストップしたのです。これが現在の台湾なのです。
                 ── [日本の領土/06]

≪画像および関連情報≫
 ●東京の「現在」から「歴史」=「過去」を読み解く
  ―――――――――――――――――――――――――――
  基本的には、カイロ宣言にそった形で国境線が定められたと
  いえる。ただ、この講和条約において「台湾及び澎湖諸島」
  という限定された形で国境線がひかれ、沖縄については、小
  笠原諸島とともに、アメリカの信託統治のもとにおかれるこ
  とになったことに注目しておきたい。沖縄には尖閣諸島も含
  められるとされ、1972年の沖縄復帰とともに日本政府が
  実効支配するもととなった。この講和条約を交渉した講和会
  議には、当時の中華人民共和国も参加していない。また、台
  湾の中華民国も参加していない。講和条約について、日本国
  内では、米英などの資本主義諸国中心に講和条約を結ぶとい
  う単独講和論と、ソ連や中華人民共和国とも結ぶべきである
  全面講和論が対立していた。いわば、その当時の単独講和論
  の問題点が現在に引き継がれたかっこうになっている。当時
  中華人民共和国も中華民国もどのような見解をもっていたか
  ということを表明される機会もなく、いわば中国の合意ぬき
  で講和条約は結ばれ、国境線が確定されていったのである。
  そして、中華人民共和国によれば、沖縄の日本復帰が日米で
  合意された1971年に日本に対して尖閣諸島の帰属につい
  て異議申し立てをしたということになるといえる。そして、
  これは、アメリカ中心で再編成された東アジアの政治秩序へ
  の異議申し立てにもなっているといえる。
  ―――――――――――――――――――――――――――
http://tokyopastpresent.wordpress.com/2012/09/26/%E7%BF%92%E8%BF%91%E5%B9%B3%E3%81%8C%E5%B0%96%E9%96%A3%E8%AB%B8%E5%B3%B6%E9%A0%98%E6%9C%89%E3%81%AE%E6%A0%B9%E6%8B%A0%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E7%A4%BA%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%8C%E3%82%AB%E3%82%A4/

「歴史でたどる領土問題の真実」/保阪正康著.jpg
「歴史でたどる領土問題の真実」/保阪 正康著

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2012年10月10日

●「ヤルタ会談における裏議定書」(EJ第3403号)

 日本の領土決定に重要な関わりを持つ宣言、会談、条約の2つ
目は、1945年2月にクリミア半島のヤルタで行われた「ヤル
タ会談」です。
 この会談は、ルーズベルト米国大統領、チャーチル英国首相、
スターリンソビエト連邦首相による首脳会談です。会談は、2月
4日〜11日までの8日間にわたって行われ、日本の問題は5日
目、2月8日にテーマに上がっています。
 そのとき太平洋戦争の戦況はどうなっていたでしょうか。ヤル
タ会談の前年の1944年は、6月に米軍のサイパン上陸作戦が
行われ、日本軍が玉砕しています。7月には東條英機内閣が総辞
職し、小磯国昭内閣が成立。10月23日にはレイテ沖海戦で日
本海軍は敗北し、戦艦武蔵が撃沈されるなど、まさに誰の目にも
明らかに日本は敗色濃厚になっていたのです。
 実は、ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相は、1941
年8月9日に「大西洋憲章」に調印しています。この憲章は第2
次世界大戦後の世界構想の構築に関わる国として、基本的には米
英両国は領土的野心は一切ないことを世界に宣言したものです。
憲章は次の8項目から成るのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1.    合衆国と英国の領土拡大意図の否定
   2.領土変更における関係国の人民の意思の尊重
   3.      政府形態を選択する人民の権利
   4.             自由貿易の拡大
   5.             経済協力の発展
   6.      恐怖と欠乏からの自由の必要性
   7.           航海の自由の必要性
   8.  一般的安全保障のための仕組みの必要性
                ──ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――――
 この太西洋憲章については、ソ連のスターリン首相も、憲章が
発表された約1ヵ月後の9月14日に大西洋憲章について、次の
ように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ルーズベルト米大統領とチャーチル英国首相の大西洋憲章の基
 本的原則、現在の国際情勢において極めて大きな意義を有して
 いる主要な諸原則に同意することを表明する。──保阪正康著
              「歴史でたどる領土問題の真実/
          中韓露にどこまで言えるのか」/朝日新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 この大西洋憲章の第3条「政府形態を選択する人民の権利」に
ついては、ルーズベルト大統領とチャーチル首相の間で意見が一
致しなかったといわれています。
 ルーズベルト大統領は、これが世界各地で適用されるべきだと
考えていたのに対し、チャーチル首相はナチス・ドイツ占領下の
ヨーロッパに限定されるべきだと考えていたからです。英国は、
アジア・アフリカの自国の植民地にこの第3条の考え方が適用さ
れるのに反対だったのです。
 このとき、ナチス・ドイツと日本が敗戦に追い込まれることは
ほとんど確定しており、第2次世界大戦が終了するのは時間の問
題だったのです。そうなると、戦後のヨーロッパとアジアをどの
ような勢力図に置き換えるが問題になります。ヤルタ会談は、そ
の基本的な枠組みをあらかじめ決めておくための話し合いの場で
あると解釈できます。だからこそ、首脳会談としては8日間とい
う長い時間を要したのです。
 5日目の2月8日、アジア問題が取り上げられたのですが、話
し合いはもっぱらルーズベルトとスターリンの間で話し合われた
のです。そして、この3首脳は戦後の日本に関して「裏議定書」
なるものを作っているのです。その条件は、ソ連が満州国の関東
軍に対して宣戦布告し、日本を南と北から挟撃する作戦に同意す
ることだったのです。
 しかし、ときあたかも太平洋戦争は、硫黄島の戦いがはじまる
直前であって、ほとんど日本の敗戦は決定していたのです。なぜ
米国はソ連に参戦を求める必要があったのでしょうか。
 それは、絶望的な戦いに入った日本軍が特攻作戦を行うなどの
捨て身の作戦に出たことで、米軍の犠牲者が増加したことが原因
なのです。そのため、早期戦争終結を望む国内世論が高くなって
きていたからです。
 ルーズベルトから参戦を求められたソ連のスターリンは次のよ
うに答えたそうです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本は今のところとくべつにソ連に対して脅威を与えているわ
 けではない。確かにドイツに対してはソ連国民は一致して戦っ
 ているが、日本との戦闘には相応に国民を納得させる理由が必
 要である。  ──スターリン首相/保阪正康著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 ソ連は日本と不可侵条約を結んでおり、簡単には米国の誘いに
は乗れないとやんわり拒否したあと、対日戦争に参加する代償と
して、次の2つの条件を出してきたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     1.       南樺太のソ連への返還
     2.クリ―ル諸島(千島列島)の全島返還
―――――――――――――――――――――――――――――
 スターリンの交渉は実に巧みであり、ルーズベルトをうまく丸
め込んだのです。それにルーズベルトは、千島列島は日露戦争の
結果、日本の領土になったと勘違いし、この不当なソ連の申し入
れを受け入れてしまったのです。そして、これが裏議定書になっ
て、不当にもソ連は、それを言質にとって、日本がいう北方領土
(千島列島)をすべて奪い取ったのです。つまり、ソ連による北
方領土占有は、ルーズベルトの勘違いが原因なのです。北方領土
の問題には米国は関係ないと思っている人は多いですが、米国が
深くかかわっているのです。    ── [日本の領土/07]

≪画像および関連情報≫
 ●極東密約(ヤルタ協定裏議定書)とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  主に日本に関して、アメリカのルーズベルト、ソ連のスター
  リン、およびイギリスのチャーチルとの間で交わされた秘密
  協定。1944年12月14日にスターリンはアメリカの駐
  ソ大使W・アヴェレル・ハリマンに対して樺太(サハリン)
  南部や千島列島などの領有を要求しており、これに応じる形
  でルーズベルトは千島列島などをソ連に引き渡すことを条件
  に、日ソ中立条約の一方的破棄、すなわちソ連の対日参戦を
  促した。ヤルタ会談ではこれが秘密協定としてまとめられて
  いる。この協定では、ドイツ降伏後90日以内にソ連が対日
  参戦すること、モンゴルの現状を維持すること、樺太(サハ
  リン)南部をソ連に返還すること、千島列島をソ連に引き渡
  すこと、満州の港湾と鉄道におけるソ連の権益の確保などが
  取り決められた。          ──ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%AB%E3%82%BF%E4%BC%9A%E8%AB%87
  ―――――――――――――――――――――――――――

「ヤルタ会談」の英米ソ3首脳.jpg
「ヤルタ会談」の英米ソ3首脳

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2012年10月11日

●「ポツダム会談で何が決まったか」(EJ第3404号)

 1943年のカイロ宣言と1945年のヤルタ会談──盟友の
チャーチル英首相と一緒に太平洋戦争の終結とその戦後処理に意
欲的に取り組んでいた米国のルーズベルト大統領は、1944年
11月には、大統領選で共和党のトーマス・デューイ候補に勝利
し、先例のない4選を果たしています。
 ところが、ルーズベルト大統領はヤルタ会談の2ヵ月後の19
45年4月12日、脳卒中で帰らぬ人になったのです。直ちに、
副大統領のトルーマンが大統領に就任します。そして、同年7月
17日からベルリン郊外のポツダムで会談を行い、7月26日に連
合国は米国、英国、中国の合意に基づいて、大日本帝国(当時の
日本)に対し、降伏を促すポツダム宣言を発したのです。
 しかし、このポツダム会談は、今までとは違った雰囲気のなか
で行なわれたのです。それは、まず主役であったルーズベルト自
身が急逝してこの場におらず、トルーマン大統領が急遽出席した
ことがあります。主役が交代したのです。
 それにチャーチル英首相は出席していたのですが、会談の途中
で本国から総選挙に敗北したという知らせが入り、帰国してしま
い、後継のアトリー首相が急遽出席したのです。
 さらに中華民国の蒋介石主席も会談には参加していなかったの
です。米英中の合意文書ですから、出席は不可欠なのに参加せず
トルーマン大統領は蒋介石主席と電話で確認を取って、大統領自
身が、中国に代わってた署名しています。
 さらに奇妙なことは、ポツダム会談の席には、関係国でないソ
連のスターリン首相が参加していたのです。この時点でソ連は、
太平洋戦争に参戦しておらず、関係国ではないからです。
 ソ連としては、ヤルタ会談でドイツが降伏した直後に日本に宣
戦布告して戦争に参加すれば、南樺太や千島列島がすべて手に入
るというおいしい裏議定書にサインしているので、その確約を取
るために参加したものと思われます。
 しかし、トルーマン大統領はスターリン首相の参加を好ましく
思っていなかったようです。そのため、ポツダム宣言そのものの
作成に当っては、米英が主導権を持って内容を決定し、スターリ
ン首相には、まったく内容を知らせていないのです。
 さらにもうひとつ重要なことがあります。ポツダム会談中、ト
ルーマン大統領は、本国からのある秘密電報を心待ちにしていた
のですが、それが入ってきたのです。その秘密電報の内容は次の
ようなものだったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       ワレ原子爆弾爆発実験ニ成功セリ
―――――――――――――――――――――――――――――
 原爆があれば、ソ連の日本への宣戦布告などは必要がなくなり
ます。トルーマン大統領は、この秘密電報の内容をそのときまだ
会議に参加していたチャーチル首相には伝えたものの、スターリ
ン首相には伝えていないのです。
 しかし、スターリンは、途中からトルーマンの態度が一変し、
出席者を何となく威圧的に見るようになったので、「これは何か
ある」と確信し、密かに調べさせたといいます。おそらくスター
リンのことですから、米国が原爆を成功させたことを掴んだもの
と思われます。
 問題はポツダム宣言を受けた日本政府の対応です。日本政府は
ポツダム宣言を論評なしで公表し、当時の鈴木貫太郎首相は、記
者会見で「黙殺」の意を表明しています。これは、ポツダム宣言
が天皇制存続について触れていなかったからであるとといわれま
す。日本のメディアも次のように書いていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     笑止、米英蒋共同宣言、聖戦あくまで完遂
―――――――――――――――――――――――――――――
 とくに鈴木首相の「黙殺」は、ポツダム宣言拒否と連合国側に
受け取られ、8月8日に広島に原爆が投下され、9日に長崎にも
落とされたのです。ソ連はその間隙を縫って8月8日に日本に宣
戦布告しています。そして、日本はこれによって、不当にも南樺
太と千島列島全島を奪われることになるのです。
 さて、ポツダム宣言は、全部で13項目から成るのですが、日
本の領土に関して言及した項目は第8項であり、そこには次のよ
うに記述されていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 カイロ宣言の条項は履行されるべき。また、日本国の主権は本
 州、北海道、九州及び四国ならびに吾等の決定する諸小島に限
 られなければならない       ──ポツダム宣言第8項
―――――――――――――――――――――――――――――
 1945年9月2日、日本は、ポツダム宣言を受託して無条件
降伏したのです。そのため日本は、日本帝国大本営の一般命令第
一号として「千島列島ニ在ル先任指揮官並ビに各部隊ハ『ソビエ
ト』司令官ニ降伏スベシ」という命令を発したのです。
 しかし、ポツダム宣言における領土に関する記述はいかにも曖
昧であり、米軍が日本を占領統治するに当って、もっと具体的に
領土を特定する必要があったのです。そこで、次の連合軍最高司
令部訓令を出しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本の範囲に含まれる地域は、四主要島と対馬諸島、北緯30
 度以北の琉球諸島等を含む約1000の島」とし、竹島、千島
 列島、歯舞群島、色丹島等を除く
        ──連合軍最高司令部訓令(昭和21年1月)
  ──孫崎亨著/『日本の国境問題/尖閣・竹島・北方領土』
                     ちくま新書905
―――――――――――――――――――――――――――――
 これによると、日本の領土は四主要島に加えて「対馬諸島、北
緯30度以北の琉球諸島等を含む約1千の島」とさらに具体的に
なっています。しかし、ここでは竹島は除かれています。この定
義は、連合国側の単なる行政的便宜から行われたものであるに過
ぎないのです。          ── [日本の領土/08]

≪画像および関連情報≫
 ●ポツダム宣言と領土問題
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ソビエト社会主義共和国連邦(現在のロシア)については対
  日宣戦布告の8月8日にポツダム宣言への参加を表明してお
  り、これは、日ソ中立条約の廃止通告後の処理に違反してい
  る。ソビエトはポツダム宣言や降伏文書に参加したものの、
  サンフランシスコ平和条約に署名しておらず、南樺太および
  千島列島の領土権は未確定である。ソビエトは1945年9
  月3日までに歯舞諸島に至る全千島を占領し、1946年1
  月の連合軍最高司令官訓令SCAPIN第677号(指定島
  嶼部での日本政府の行政権停止訓令)直後に自国領土への編
  入宣言を行った。この時点での占領地の自国への併合は形式
  的には領土権の侵害であり、とくに北方四島については18
  58年の日露修好通商条約以来一貫した日本領土であり平和
  的に確定した国境線であったため、台湾や満州・朝鮮などと
  は異なり、カイロ宣言およびその条項を引き継ぐポツダム宣
  言に明白に違反している。一方でソビエトはヤルタ会談にお
  ける協定による正当なものとする。その後、返還を条件に個
  別の平和条約締結交渉が行われることになっていたが日ソ共
  同宣言の段階で停滞しており、2010年現在も戦争状態が
  終了したのみで平和条約の締結は実現していない。
                    ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

「ポツダム会談」の3首脳.jpg
「ポツダム会談」の3首脳
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2012年10月12日

●「ルーズベルトがソ連参戦を求めた理由」(EJ第3405号)

 ポツダム会談の直前に急逝したフランクリン・ルーズベルト米
大統領──この人はそのとき何を考えていたのでしょうか。彼が
ヤルタ会談でソ連のスターリン首相と裏議定書など結ばなければ
日本は北方領土を奪われることはなかったのです。
 第2次世界大戦は1939年9月1日、ドイツ軍がポーランド
に侵攻したことからはじまっています。そのときドイツはソ連と
独ソ不可侵条約を結んでいたのです。
 9月3日にイギリス、フランスはドイツに宣戦布告したのです
が、形勢がきわめて不利で、ドイツは、ノルウェー、ベネルクス
フランスを次々と攻略し、ダンケルクの戦いで連合国をヨーロッ
パ大陸から追い出したのです。
 一方ソ連は、ポーランドを東から侵攻し、ポーランドはドイツ
・ソ連両国により、分割・占領されたのです。さらにソ連軍は、
フィンランドにも侵攻し、領土を割譲させ、バルト三国に軍隊を
駐留させて三国を併合しています。まさにやりたい放題です。
 しかし、1940年9月27日に日独伊三国同盟が、日本、ド
イツ、イタリアの間で締結されると、ドイツはソ連に侵攻をはじ
めたのです。三国同盟では、日独伊でヨーロッパを制圧し、イギ
リスを降服に追い込んで、米国などと交渉して、停戦に持ち込む
作戦だったのです。
 そのとき米国は、世界恐慌からの脱却を図るため、ルーズベル
ト大統領がニューディール政策を展開していたのですが、必ずし
も、うまくいっているわけではなかったのです。
 ドイツ軍に追い詰められ、降伏寸前の英国のチャーチル首相は
何回もルーズベルト大統領に救援を求めたのです。つまり、米国
の戦争への参加要請です。しかし、当時の米国の世論は厭戦ムー
ドが漂っていて、とても戦争に参加できる状態ではなかったので
す。しかし、ルーズベルト自身は、米国は世界の平和を実現する
ため、先頭に立って大掃除をする覚悟はできているという思いを
こめて、次の演説を行っているのです。これは「隔離演説」とい
われ、有名です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 世界の9割の人々の平和と自由、そして安全が、すべての国際
 的な秩序と法を破壊しようとしている残り1割の人々によって
 脅かされようとしている。不幸にも世界に無秩序という疫病が
 広がっているようである。身体を蝕む疫病が広がりだした場合
 共同体は、疫病の流行から共同体の健康を守るために病人を隔
 離することを認めている。 ──フランクリン・ルーズベルト
                    ──ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、ルーズベルトとしては、参戦するもっと直接的な理由
が欲しかったのです。それは、日本からの宣戦布告です。そのた
め、ルーズベルトは、日本が宣戦布告してくるようさまざまな手
を打ったといわれています。結局、日本はその罠に嵌るかたちで
米国に宣戦布告します。1941年12月8日のことです。
 1945年になって、日独の敗戦が濃厚になった時点でも、日
本は一向に戦争をやめようとはせず、本土決戦に挑もうとしてい
たのです。本土決戦になれば、中国大陸にいる関東軍──日本軍
の大部隊が日本本土に戻ってくることを考えると、米軍側に膨大
な死傷者が出ることは必至です。ルーズベルト大統領としては、
戦死者の数をこれ以上増やすことは、早期の戦争終結を望む米国
世論の反発を招くと考えたのです。そこで、ルーズベルト大統領
は、次の2つのことを実現しようとしたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      1.中国大陸の関東軍を釘づけにする
      2.原子爆弾により戦争を終結させる
―――――――――――――――――――――――――――――
 「1」に関しては、ソ連を参戦させることによって北から日本
を攻めれば実現できるとルーズベルトは考えたのです。そのため
の代償がスターリンの望む南樺太と千島列島全島の返還です。こ
のさい、千島列島の定義が問題になるのですが、これについては
後で詳しく述べます。
 「2」は、当時米国が密かに開発を進めていた原子爆弾を完成
させ、それを投下することによって、日本を降伏させるという作
戦です。しかし、ヤルタ会談が行われた1945年2月の時点で
は、完成直前ではあったものの完成していなかったのです。
 この2つの作戦は、トルーマン大統領にも引き継がれ、トルー
マンはポツダム会談に臨んでいます。トルーマンはその回顧録で
次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 我々の軍事専門家は、日本本土に侵入すれば日本軍の大部隊を
 アジアと中国大陸に釘付けにできた場合でも、少なくとも50
 万人の米国人の死傷を見込まなければならない。したがって、
 ソ連の対日参戦は、我々にとって非常に重大なことであった。
            ──「トルーマン回顧録」/孫崎亨著
   『日本の国境問題/尖閣・竹島・北方領土』/ちくま新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 結局原子爆弾は、ポツダム会談の最中に完成し、爆発実験も成
功しているのです。米国としてはその時点でソ連に参戦してもら
わなくても戦争は終結できると考えたのですが、別の目的もあっ
て、ソ連の参戦への要請を撤回しなかったのです。その別の目的
については後述します。
 ソ連としては、たとえ米国から参戦不要の要請があっても、こ
んなおいしい話に乗らない手はないので参戦したはずです。その
証拠にソ連は、米軍が1945年8月8日に広島に原爆を投下し
た同じ日に、日本に対して宣戦布告し、満洲に攻め込んでいるの
です。そして、ソ連軍は千島列島の中に入っていない歯舞群島と
色丹島まで占領してしまったのです。これはとんでもないことで
あり、ロシアのずるさをあらわしています。日本が日露戦争で得
たのは南樺太だけであり、千島列島は入っていないのです。
                 ── [日本の領土/09]

≪画像および関連情報≫
 ●ルーズベルト大統領の急逝についての日独の反応
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ルーズベルト大統領の急逝に対して、徹底抗戦を決意するア
  ドルフ・ヒトラーは「ルーズベルトは今次の戦争を第2次世
  界大戦に拡大させた扇動者であり、さらに最大の対立者であ
  るソ連を強固にした大統領として史上最悪な戦争犯罪者とし
  て歴史に残るだろう」と声明を発した。一方、日本の鈴木貫
  太郎内閣は敵国であったにも拘らず、戦争終結を模索する立
  場であり、「今日の戦争においてアメリカが優勢であるのは
  ルーズベルト大統領の指導力が極めて優れているからです。
  その偉大な大統領を失ったアメリカ国民に、深い哀悼の意を
  送るものであります」と同盟通信社の短波放送で、ルーズベ
  ルトの死を悼む内容の声明を発表した。スターリンは、ルー
  ズベルトの死を米国のハリマン駐ソ大使から聞かされたとき
  非常な衝撃を受け、大使の手をつかんでしばらく離さなかっ
  た。猜疑心の強いスターリンは、おそらく彼は暗殺されたと
  思い込んだという。         ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

ルーズベルト/トルーマン.jpg
ルーズベルト/トルーマン
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2012年10月15日

●「ダレス国務省顧問は何をしたか」(EJ第3406号)

 太平洋戦争に破れた日本は、1945年8月14日にポツダム
宣言の受け入れを表明し、9月2日に東京湾上の米戦艦ミズーリ
艦上で調印が行われたのです。日本の敗戦が正式に決まった瞬間
です。それからサンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約が
締結されるまでの6年間、連合軍(米軍)による日本占領統治が
行われたのです。
 そのとき、活躍したのは、当時米国務省顧問を務めていたジョ
ン・フォスター・ダレスです。このダレスという人物は、日米安
全保障条約の「生みの親」といわれていますが、日本の領土問題
にも深くかかわっている人物であることを知っておく必要があり
ます。非常に強い反共産主義者であり、日本や韓国が共産主義国
になることを何よりも警戒していたのです。なお、ダレスは19
53年〜1959年まで、アイゼンハワー大統領の下の国務長官
を務めています。
 ダレスは、サンフランシスコ平和条約の調印国になることを要
望していた韓国に対し、それを拒否しています。表向きの理由は
「日本と戦争状態になかった」というものですが、本当の理由は
李承晩大統領が次の要求をしていたからです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   対馬、波浪島(現蘇岩礁)、竹島は韓国領土である
―――――――――――――――――――――――――――――
 これに対して反発した韓国の李承晩大統領は、李承晩ラインを
勝手に設定し、一方的に竹島を占領してしまったのです。サンフ
ランシスコ平和条約が発効した1952年4月28日よりも数ヵ
月前のことであり、日本が独立国家として何もできない時期に韓
国はこの暴挙を行ったのです。時のジョン・ムチオ駐韓米大使は
説得不調に終わった責任を取って辞任しています。
 また、1956年8月19日にダレスは重光葵外相とロンドン
で会談したとき、日本の対ソ和平工作を牽制し、次のように重光
外相に釘を刺しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 北方領土の沢捉島(エトロフ)と国後島(クナシリ)の領有権
 をソ連に主張すべきだ。もし、二島返還(歯舞群島/色丹島)
 で妥結などしたら、沖縄返還はないと考えてもらいたい。
      ──ジョン・フォスター・ダレス国務長官(当時)
―――――――――――――――――――――――――――――
 米軍による日本占領の6年間、ダレス国務省顧問は吉田首相と
話し合い、講和条約案について議論しています。そのなかで領土
に関しては、日本が東西冷戦の西側に立つという前提において、
領土が米国の軍事基地として機能させるという観点から、協議さ
れ議論されているのです。これについて、保阪正康氏は自著で次
のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 講和条約がつくられていくプロセスを見ていくと、国務省顧問
 のジョン・フォスター・グレスと吉田茂との間でなんども話し
 合いが行われているが、むろんダレス主導であることはまちが
 いない。吉田もまた基本的にはその方向に沿っての発言を行っ
 ている。これはどういうことかというと、吉田はダレスが企図
 している東西冷戦下の西側陣営の結束をなによりも大切にして
 いて、日本の領土がアメリカの施政権のもと軍事基地として機
 能することに反対していないということがわかるのだ。その点
 では、領土問題は戦後政治の枠組みの中で、国民感情などは無
 視される側面をもっていたともいえる。   ──保阪正康著
              「歴史でたどる領土問題の真実/
          中韓露にどこまで言えるのか」/朝日新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 サンフランシスコ講和条約(平和条約)の会場で、吉田首相は
日本の領土に対し、次の演説を行っています。とくにソ連に関し
ては強く異議を申し立てています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 第一に領土問題について奄美大島、小笠原群島、その他国連の
 統治信託に置かれる諸島の主権が日本に残されるという米・英
 全権の発言は多大の喜びをもって了承いたします。これらが一
 日も早く日本国の行政の下に戻ることを期待するものでありま
 す。千島列島、南樺太の地域は日本が侵略によって奪取したと
 いうソ連の主張には承服いたしかねます。(ここで吉田は歴史
 的経緯を述べたあと)千島列島と南樺太は日本降伏直後の19
 45五年9月2日、一方的にソ連領に収容されたものでありま
 す。また北海道の一部を構成する歯舞諸島、色丹島もソ連軍に
 占領されたままであります。  ──保阪正康著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 サンフランシスコ講和条約は、51ヶ国の出席国のうち48ヶ
国が調印しています。3ヶ国は調印していないのです。それは、
ソ連とチェコとポーランドの共産圏の3国です。このほか、中国
と韓国は招待されていないのです。
 韓国については、日本との領土問題で強い主張を行っていたの
で、米国によって参加を拒否されことは先述した通りです。中国
──中華人民共和国に関しては、米国と英国の意見が合わず、参
加が見送られています。
 中華人民共和国(現在の中国)は、当時英国は承認していたの
で、中国の参加を求めたのですが、米国は承認しておらず、参加
を認めなかったのです。
 講和会議に出席しながら調印を拒否したソ連、参加を認められ
なかった中国と韓国──結局、これら3国との間には、講和会議
から60年を経過した現在も、領土問題が解決しておらず、紛争
の種が残されたままなのです。
 領土というものは、一度でも奪われたらなかなか戻ってはこな
いのです。そういう意味からすると、沖縄が日本に戻されたのは
奇跡に近いことであり、日本はそのことを十分意識して米国との
外交交渉に当るべきであると思います。そういうことは時の経過
とともに忘れられてしまうからです。── [日本の領土/10]

≪画像および関連情報≫
 ●講和条約での領土に関する吉田首相の演説
  ―――――――――――――――――――――――――――
  千島列島及び南樺太の地域は日本が侵略によつて奪取したも
  のだとのソ連全権の主張に対しては抗議いたします。日本開
  国の 当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であ
  ることについては、帝政ロシアも何ら異議を挿さまなかつた
  のであります。ただ得撫以北の北千島諸島と樺太南部は、当
  時日露両国人の混住の地でありました。1875年5月7日
  日露両国政府は平和的な外交交渉を通じて樺太南部は露領と
  し、その代償として北千島諸島は日本領とすることに話合を
  つけたのであります。名は代償でありますが、事実は樺太南
  部を譲渡して交渉の妥結を計つたのであります。その後樺太
  南部は1905年9月5日ルーズヴェルトアメリカ合衆国大
  統領の仲介によつて結ばれたポーツマス平和条約で日本領と
  なつたのであります。千島列島及び樺太南部は、日本降伏直
  後の1945年9月20日一方的にソ連領に収容されたので
  あります。また、日本の本土たる北海道の一部を構成する色
  丹島及び歯舞諸島も終戦当時たまたま日本兵営が存在したた
  めにソ連軍に占領されたままであります。
                    ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

講和条約での吉田首相演説.jpg
講和条約での吉田首相演説
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2012年10月16日

●「北方領土はなぜロシア領なのか」(EJ第3407号)

 太平洋戦争の開戦時および敗戦時の外務大臣、東郷茂徳氏の孫
にあたる東郷和彦氏が自著で次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 (ソ連の)千島列島の占拠も、太平洋憲章とカイロ宣言にうた
 われた領土不拡大原則に背馳(はいち)していたが、さらに、
 1855年の日露通好条約の締結以来一度も日本領であること
 を疑われたことのない北方領土の占領は、日本国民の心の衝撃
 に止めを刺す形になった。         ──東郷和彦著
             『北方領土交渉秘録』/保阪正康著
         「歴史でたどる領土問題の真実」/朝日新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 若い人で、この東郷和彦氏の文章を理解できる人は少ないと思
います。なぜなら、その理解には、現代史の知識が必要ですが、
若い世代は現代史を勉強しておらず、興味を持っている人も少な
いからです。肝心の日本人がそれでは、北方領土は今後何年経っ
ても日本には戻ってはこないでしょう。
 大西洋憲章は「領土的野心は一切ない」ことを宣言したもので
米英は調印し、当時のソ連のスターリン首相も大西洋憲章に同意
することを公式に表明しています。東郷氏の「領土不拡大原則」
というのはそのことを指しています。このことは、10月10日
のEJ第3403号で書いています。
 ところが、カイロ宣言のウラでルーズベルト米大統領とソ連の
スターリン首相は裏議定書を作り、ソ連が日本に宣戦布告するこ
とを条件に南樺太と千島列島の全島をソ連に割譲すると決めて、
ソ連はそれを実行したのです。これは領土的野心そのものであり
大西洋憲章に反しています。それを東郷氏は「領土不拡大原則に
背馳」と書いたのです。
 それでは、1855年の日露通好条約の締結とは一体何でしょ
うか。これについては歴史を振り返る必要があります。
 江戸時代の話ですが、日本の北方は「蝦夷」と呼ばれており、
そこには島がたくさんあるというので、「蝦夷ヶ千島」と呼ばれ
ていたのです。これに対して18世紀以前のヨーロッパでは、カ
ムチャッカから北海道まで──千島列島に歯舞群島、色丹島、北
海道──を全部一緒にして「クリル」と呼んでいたのです。
 江戸時代には松前藩が北海道の一部に「和人地」を作り、徐々
にそれを拡大し、1800年代になると、ほぼ全域に拡大してい
るのです。その他の「蝦夷地」については、松前藩が十分な支配
下に置いていたわけではなく、独自にロシアとの交易を行ってい
た地域もあったのです。
 そういう状況を一変させたのは、1855年に締結された日露
通好条約(日露和親条約)なのです。1855年(安政元年)2
月7日に、伊豆の下田・長楽寺で、日本とロシアの間で締結され
た条約であり、「下田条約」とも呼ばれています。この条約では
千島列島における日本とロシアとの国境を択捉(エトロフ)島と
得撫島(ウルップ)の間としたのです。添付ファイルの4つの地
図のうち「A」がそれに該当します。
 このさい、樺太については国境を設定せず、これまでの慣習の
ままとすることが決まっています。樺太は日露混在の状態のまま
残すことになったのです。これによってもわかるように、択捉島
国後島、歯舞群島、色丹島は日本領であることをロシアは認めて
いるのです。
 実はこの交渉の最中にクリミア戦争が起こっているのです。フ
ランス、オスマン帝国および英国を中心とした同盟軍とロシアと
の間の戦争です。さらに安政の大地震で、ロシアの戦艦「ディア
ナ」が沈没するアクシデントもあったのですが、交渉は継続して
行われ、1855年に締結されたのです。
 その後、ロシアによる樺太開拓が熱心になり、日本人とのトラ
ブルが多発したのです。そこで、樺太をロシア領とする代わりに
それまでロシア領であった千島列島を日本領にするという交渉が
きとまったのです。これが、1875年(明治8年)のサンクト
ペデルブルグ条約です。これによって、日本とロシアの国境は、
添付ファイルの「B」になったのです。
 1905年に日露戦争が日本の勝利に終り、ポーツマス条約に
よって、樺太の南半分は日本領となっています。この条約により
サンクトペテルブルグ条約の樺太・北海道間の国境条項は失効し
ますが、千島に変更はないのです。添付ファイルの「C」がそれ
に該当します。
 そして、この状態で日本は戦争に突入し、敗戦したのです。ソ
連はヤルタ会談の裏議定書なるものを根拠に千島列島の全島に加
えて、日本の領土である択捉島、国後島、歯舞群島、色丹島まで
根こそぎ占領し、現在も実効支配を続けているのです。これが添
付ファイルの「D」です。
 問題は、日本が択捉島以南は日露戦争以前から日本領であると
しているのに対し、当時のソ連は「千島全島」という表現で、択
捉島と国後島だけではなく、北海道の一部である歯舞群島、色丹
島まで不法にも占領し、実効支配を続けているのです。千島の解
釈の違いを利用したのです。
 こうなる原因を作ったのは、ルーズベルトとトルーマンという
2人の米大統領です。彼らは北方領土に関して現在の日露──当
時の日ソの間に深刻な領土問題が残ることを予測しながら、あえ
てそうしたといわれています。
 その理由は、こうしておくと、日ソの間に領土問題があること
によって平和条約は締結されず、日本がソ連に接近できないよう
にするためです。何としても日本の共産党化を防ぐことに重点を
置いたのです。
 それにしても、ソ連はサンフランシスコ講和条約に出席しなが
ら、調印しなかったのは、ロシア外交史上最大の失敗であるとい
われています。もし、調印されていれば、日ソの間には何ら領土
問題は存在せず、現状が固定されてしまったからです。それだけ
に日本はあくまで四島返還にこだわるべきであり、二島返還で妥
協してはならないのです。     ── [日本の領土/11]

≪画像および関連情報≫
 ●露太平洋艦隊、クリル諸島を巡航/実効支配強化
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ロシア太平洋艦隊のマルトフ報道官は、2012年8月25
  日、「ロシア太平洋艦隊の艦艇編隊がこの日、ウラジオスト
  ックを出港し、クリル諸島(日本名;千島列島)を巡航する。
  途中、南クリル諸島(日本名:北方四島)の国後島、択捉島
  に停泊すると発表しました。これは、マルトフ報道官がイン
  タファクス通信に述べたものです。マルトフ報道官は、また
  「第二次世界大戦中、ソ連海軍がクリル諸島とサハリンを解
  放したこと及び、オホーツク市の設立365周年を祝うため
  今回の巡航をおこなう。巡航計画に従い、艦艇編隊は、出港
  してから東北方向に向かって航行し南クリル諸島の国後島、
  択捉島に停泊した後、北へ向かってオホーツク市に到着する
  予定だ」と述べました。
   http://japanese.cri.cn/881/2012/08/26/161s197424.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

千島の概念.jpg
千島の概念
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2012年10月17日

●「ルーズベルト大統領の勘違い」(EJ第3408号)

 日本の北方領土が現在でもロシアに実効支配されるようになっ
た原因は、フランクリン・ルーズベルト大統領の勘違いにあると
いう説があります。何を勘違いしたのでしょうか。
 当然のことですが、米国側は共産主義国の首相であるスターリ
ンを信用していなかったし、警戒していたのです。しかし、その
とき米国は、どうしてもスターリンの協力を得なければならない
理由があったのです。米国は一刻も早く日本を降伏に追い込み、
戦争を終わらせ、米国人の死傷者を最小限度に抑えることです。
とくに米国としては、日本本土決戦は避けたかったのです。
 それはソ連を戦争に参戦させることだったのです。そのために
スターリンが米国に要求した代償は、日本の北方領土だったとい
うわけです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 南樺太およびクリ―ル諸島(千島列島)全島のソ連への返還
―――――――――――――――――――――――――――――
 ルーズベルトは、南樺太およびクリ―ル諸島(千島列島)の返
還というソ連の要求は、それほど法外なものではないと思ったの
です。なぜならルーズベルトは、それらの島嶼が日露戦争によっ
て日本領になったものと勘違いしていたからです。
 そのため、表向きの日本の領土に関する記述のあるポツダム宣
言第8項に次のように書いて、あえて曖昧にしたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに吾等の決
 定する諸小島に限られなければならない
                  ──ポツダム宣言第8項
―――――――――――――――――――――――――――――
 当然のことながら、スターリンはヤルタ会談の裏議定書がある
ので、「吾等の決定する諸小島」の中には、南樺太およびクリ―
ル諸島は含まれないことを確信していたのです。そしてその通り
になったのです。
 昨日のEJで述べたように、1875年のサンクトペテルブル
グ条約によって日本は、樺太の領有権を放棄する代わりに千島列
島を獲得し、これによって千島列島は、戦争ではなく、合法的に
日本領になったのです。しかし、それをルーズベルトは日露戦争
で日本が得たものと勘違いしたのです。
 実は米国務省は、ルーズベルト大統領に北方領土に関する詳し
い経緯についてのレポートを事前に渡していたのですが、ルーズ
ベルトはそれを読んでいなかったのです。これについて、保阪正
康氏は自著で次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ルーズベルトがヤルタ会談に出席する前に、こうした問題にく
 わしい大学教授がレポートを国務省に託し、国務省のスタッフ
 もルーズベルトのもとにその文書を届けていたという。それに
 はとくに北方四島は日本が平和的に獲得したのであり、もしこ
 れを日本からとりあげるにしてもソ連の領土にするのではなく
 国際連合の信託統治下に置いたほうが好ましい、東西冷戦の時
 代にソ連領には含むべきではないとの見方で貫かれていた。ル
 ーズベルトはこのレポートにまったく目を通さずにソ連を対日
 戦線に引き込もうと、そればかりに意をそそいだ。その意味で
 は北方四島返還それ自体が、たとえアメリカの支援を頼んでロ
 シア側に強くあたろうとしてもまったく無理だというのが歴史
 的事実として存在する。          ──保阪正康著
         「歴史でたどる領土問題の真実」/朝日新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 ソ連と交渉する前に、ルーズベルト大統領が交渉に重要な影響
を与える国務省のレポートを読んでいなかったことは、大統領と
して大失敗であるといえます。しかし、ルーズベルトは日本の降
伏を見届けることなく急逝しているのです。
 とくに「北方四島は日本が平和的に獲得したのであり、もしこ
れを日本からとりあげるにしてもソ連の領土にするのではなく、
国際連合の信託統治下に置いたほうが好ましい」という意見は正
しく、これを見落としたことは米国外交の失敗であったといわざ
るを得ないのです。
 仮にルーズベルトがこのレポートを読んで、ソ連には南樺太と
択捉島と国後島以南の島嶼をのぞく千島列島をソ連に返還してい
たら、米軍は信託統治の名目で、両島に米軍基地を置くことがで
きたのです。これはソ連にとって相当大きな脅威になったことは
間違いないのです。
 米軍としては、ルーズベルト大統領がソ連へ参戦を促したこと
には、強い反発を覚えていたのです。なぜなら、3年8ヵ月もか
けて日本軍と戦い、大きな損害を負いながらやっと勝利を得た国
と、戦争の最後の一週間前に駈け込み参戦をして、自軍はほとん
ど無傷であるのに、戦利品だけは強欲に受け取ろうとするソ連に
強い反発を覚えていたのです。
 ルーズベルト大統領の急逝に伴い、大統領に就任したトルーマ
ンは、この問題にどのように対応したのでしょうか。トルーマン
はポツダム会談から登場したのですが、老獪なスターリンに翻弄
されながらも、一応すじは通しています。しかし、北方領土につ
いては、ソ連に譲り渡さざるを得なかったのです。
 1945年8月15日、日本はポツダム宣言の受託を宣言し、
降服の意思を明らかにしましたが、ソ連はその翌日から9月2日
までの19日間にいろいろなことをしてきているのです。これに
ついては、明日のEJで述べることにします。
 ここまで述べてきたように、北方4島は間違いなく日本の領土
であることは明らかです。したがって、今後たとえどんなに時間
がかかっても、日本はその領有権を主張していくべきです。その
ためには、次の時代を担う日本の若者たちが、正しい歴史認識に
立って、事態を把握する努力が求められます。具体的には現代史
を勉強し、正しい事実を知ることです。間違っても、二島返還な
どでこの問題を収めてはならないのです。
                 ── [日本の領土/12]

≪画像および関連情報≫
 ●北方4島へのソ連軍の占領の経緯
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1941年4月13日、日ソ中立条約が結ばれ、期限は5年
  間として期限終了の1年前に廃棄を通告しない場合はさらに
  5年間延長されと言うものであった。その年8月ドイツ軍の
  ポーランドへの侵攻により第2次世界大戦が勃発し、194
  5年ソ連は日ソ中立条約の廃棄を通告したが条約の規定通り
  なお1年間の有効期限(1946年4月)をも言明した。し
  かしソ連は同年2月米英両国とヤルタ協定を結び、戦争への
  参戦の代償として「樺太の南部及びこれに隣接するすべての
  島々をソ連に返還し千島列島はソ連に引き渡される」と密約
  していた。1945年8月9日、ソ連はヤルタ協定にのっと
  り対日参戦した。同年8月14日、日本がポツダム宣言を受
  諾し、無条件降伏を決めた後の18日、ソ連軍は占守島へ上
  陸、31日までに得撫島を占領し、最終的には北海道の北半
  分(釧路と留萌を結ぶラインから北)を占領することを目標
  としていたが、北海道はアメリカの強硬な反対を受け断念し
  た。しかし北方4島に米軍がいないことを確認すると、ソ連
  軍はそこに兵力を集中させ、8月28日に択捉島、9月1日
  色丹島、2日国後島、3日には歯舞諸島、5日には北方4島
  の占領を完了した。占守島を除く全ての島では日本軍はいっ
  さい抵抗せずに占領は完全に無血で行われ、さらには9月2
  日ソ連は平和条約もないまま千島列島北方4島は自国の領土
  であると宣言をしていた。一方、北方4島にすんでいた人た
  ち1万7000余名の日本人は1948年までに強制的に島
  を追われたのであった。
http://wwwi.netwave.or.jp/~mot-take/jhistd/jhist4_4_1.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

北方四島/択捉島.jpg
北方四島/択捉島

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2012年10月18日

●「19日間にソ連は何をしたか」(EJ第3409号)

 日本がポツダム宣言の受託を表明した8月15日から、東京湾
上のミズーリ号上での降伏文書に調印した9月2日までの19日
間にはいろいろなことがあったのです。
 この8月15日、トルーマン大統領は、日本降服に関する「一
般司令第1号」を発信しています。次の内容です。
―――――――――――――――――――――――――――――
  ダグラス・マッカーサーを連合国軍最高司令官に任命する
―――――――――――――――――――――――――――――
 実はこの司令が発せられる前に、ソ連のモロトフ外相は米国の
駐ソ特命全権大使、アヴェレル・ハリマンに対し、マッカーサー
元帥と一緒にソ連の極東司令官ワシレフスキー元帥も日本の占領
統治に当らせたいという申し入れを行っています。
 しかし、当時米国内はこうしたソ連の態度に怒りの声が高まっ
ていたのです。どうしてかというと、4年近い年月をかけて厳し
い戦いを行い、やっと終戦に漕ぎつけた米軍に対しソ連は、戦争
の終わる一週間前に参戦したのに、戦勝国面(づら)をするのは
けしからんという怒りです。
 ソ連のスターリン首相も、領土的な野心を持たないことを宣言
した大西洋憲章に同意しているにもかかわらず、それに反する行
動を平気でとっているのです。そういう事情もあって、ハリマン
大使はこの件についてきっぱり拒否したのです。
 そうすると、すぐソ連は厚かましくも「一般司令第1号」には
同意するものの、改めて次の2つの条件を出してきたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.クリ―ル諸島には、すべての島嶼が含まれていることを
   確認すること
 2.北海道の留萌と釧路を結ぶ線から以北をソ連軍が占領す
   ることの合意
―――――――――――――――――――――――――――――
 ソ連が北海道占領を求めた理由は何かというと、第一次世界大
戦のさい、日本軍がシベリア出兵を行ったことを上げています。
まさに厚かましさの限りですが、これにはソ連のしたたかな計算
があったのです。
 ソ連の狙いはあくまで「1」にあり、それを米国から確認をと
ることにあったのです。おそらくソ連としても──これはあくま
で私のソ連に対する好意的な解釈ですが、ソ連としては択捉・国
後両島は取れると考えていたものの、歯舞群島と色丹島まで取る
ことには若干の躊躇いがあったと思います。
 そこで、どうしても米国側の確認が欲しかったのです。そうい
うわけで、ソ連は絶対に米国が認めない「2」の条件をあえて提
示して断わらせ、「1」を獲得しようとしたのです。ソ連の狡猾
にして巧妙な外交戦術です。
 米国はこのソ連の戦略に見事に乗せられて、「2」については
きっぱり拒否したものの、「1」は基本的に同意したのです。お
そらくトルーマン大統領も、ルーズベルトと同様にソ連の要求を
細部までは検証しなかったのでしょう。これに関しては、次の説
があります。
 それは、米国側としてはソ連に対し、択捉島か国後島に米軍基
地を作りたいという提案をしたが、スターリン首相はこれに激怒
し、拒否したというものです。理解に苦しむ愚かな米国の判断で
あったと思います。
 これは日本の占領統治に関する米国の外交政策の大失敗である
と思います。やはり、トルーマン大統領は、択捉、国後両島以南
は合法的に日本領であるという米国務省のレポートを読んでいな
かったものと思われます。
 昨日のEJで述べたように、もし、トルーマン大統領がこのレ
ポートを読んできちんと対処していたら、択捉島か国後島に米軍
基地を置くことが可能になっていたと思います。東西冷戦におい
てこれが、どれほどソ連に脅威を与えるか計り知れないものがあ
るからです。
 さらにスターリン首相は、極東ソ連軍司令官に対して、2つの
命令を下していたのです。これは、ソ連の共産主義体制崩壊後に
明らかになった事実です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.米国の意向にかかわらず、極東ソ連軍はクリ―ル諸島への
   軍事作戦を行うこと
 2.関東軍将兵の捕虜を千人単位でシベリアに連れて行き、強
   制労働をさせること
―――――――――――――――――――――――――――――
 それどころではないのです。極東ソ連軍は北海道にも上陸作戦
を敢行する予定であったのです。しかし、ワシレフスキー司令官
は、自身の判断で作戦行動はとらなかったのです。なぜなら、北
海道に占領作戦を行うと、確実に米軍との戦闘になると悟ったか
らです。ソ連としては米国との戦闘は避けたかったのです。
 クリ―ル諸島の最北端に占守(しゅむしゅ)島という島があり
ます。1945年8月18日のことですが、ソ連軍は同島に攻撃
をかけたのです。大本営は、8月15日以後は日本軍に武装解除
命令を出していたのですが、同島の守備隊にはそれが徹底されて
いなかったのです。
 もともと占守島の守備隊は米軍に備えて配置されていたのです
が、いきなり攻められ、最初は相手がソ連軍とは気がつかなかっ
たといいます。これについては、2010年に作家の浅田次郎氏
が次の本を上梓して、この終戦直後の戦いについて、多くの国民
が詳しく知ることになったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  浅田次郎著/『終わらざる夏』/集英社刊/2010年
―――――――――――――――――――――――――――――
 占守島の戦いは、8月21日に日本軍の降伏により停戦が成立
し、23日に日本軍は武装解除されたのですが、双方に多くの犠
牲者を出す結果になったのです。しかし、他島の日本軍は、一切
抵抗せず、降服したのです。    ── [日本の領土/13]

≪画像および関連情報≫
 ●『終わらざる夏』の書評/姜尚中氏
  ―――――――――――――――――――――――――――
  昭和20年8月15日、天皇の「聖断」によって戦争は終わ
  り、戦後が始まった。しかし、北辺の地、千島列島の先端に
  ある国境の小さな島、占守(シュムシュ)島では、まさしく
  戦端が開かれようとしていたのだ。戦争が終わるとき、戦争
  が始まる。この大いなる矛盾が、戦う兵、死にゆく兵たちを
  巻き込んで炸裂(さくれつ)するとき、戦争の禍々(まがま
  が)しさと非情さ、そして愚かさが胸を打つ。それにしても
  なぜ彼らは無条件降伏を受け入れた国家の意思に反して戦っ
  たのか。明らかに国家に対する反逆であった。しかし彼らに
  は、反逆者としての翳りなど微塵(みじん)もない。天皇の
  ため、国家のためではなく、「ふるさと」のため、愛する者
  のために戦おうとしたからだ。物語は、この辺境の島に奇跡
  的にも温存された精鋭部隊に配属される3人の臨時召集の補
  充兵を中心に、彼らの妻や子供、母親や縁者、教師や友人た
  ちの運命を重層的に描いていく。
     http://book.asahi.com/review/TKY201008310149.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

浅田次郎著『終わらざる夏』/集英社.jpg
浅田 次郎著『終わらざる夏』/集英社
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2012年10月19日

●「北方領土/どのように占領されたか」(EJ第3410号)

 1945年8月15日のソ連軍による占守島攻撃は21日に終
り、日本軍は23日に武装解除されています。ソ連軍はさらに兵
力を集め、8月28日に北方領土の最北端の択捉島に上陸してい
ます。択捉島には1万3000人の日本軍がいたのですが、彼ら
は一切抵抗せず、ソ連軍に降伏しています。既に大本営から「降
服せよ」との命令が出ていたからです。
 ソ連の共産党史によると、9月1日にソ連軍は国後島に上陸し
ています。そして色丹島にもソ連軍は入っています。それでは、
歯舞群島にはいつ上陸しているのでしょうか。これについては共
産党史に記述はないのですが、ロシア政治の専門家である木村汎
・北海道大学名誉教授は、自著で歯舞群島への上陸は9月3日で
5日までに終わっていると記述しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 択捉、国後、色丹の3島へ上陸した後の時期となってはじめて
 ソ連最高司令部は歯舞群島も占領する決定をくだした。9月2
 日に北太平洋艦隊司令官がその旨を命令し、9月3日、ソ連部
 隊は歯舞群島を構成する島々への上陸を開始し、9月5日まで
 に全島の占領を完了した。          ──木村汎著
  「新版・日露国境交渉史/北方領土返還への道」/角川選書
   保阪正康著/「歴史でたどる領土問題の真実」/朝日新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 これによると、歯舞群島へのソ連軍の上陸は、日本が降伏文書
に調印した後なのです。そうなると、ソ連軍はポツダム宣言受託
表明後はもちろんのこと、降伏文書に調印した9月2日以降にお
いても、堂々と軍事行動を続けていたことになります。これは、
北方領土に居住していた人からの情報でも、8月28日から9月
5日の間に占領されたことを証言しているのです。しかし、ロシ
アはこの事実を認めていません。理由としては共産党史には書い
ていないの一点張りです。しかし、領土交渉のさい、問題にする
ことは可能です。
 さて、ここまで触れてこなかったことがあります。カイロ宣言
は、1943年11月22日に行われたのですが、同じ月の28
日から12月1日まで、テヘラン会議というものが行われている
のです。出席者は、ルーズベルト米大統領、チャーチル英首相、
ソ連のスターリン首相の3人です。1945年2月8日にはヤル
タで、この3人で会っています。それがヤルタ会談です。
 テヘラン会談の主なテーマは、ヨーロッパ大陸のナチス・ドイ
ツに対する第二戦線(西部戦線)を作ることであり、フランスへ
の連合軍上陸などが検討されたのですが、日本軍への対処も話し
合われています。そのとき、ルーズベルトはスターリンに対して
次のことをいっているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    米国にとってソ連の対日参戦は極めて重要である
―――――――――――――――――――――――――――――
 この時点でルーズベルト大統領は、スターリンに対し、対日参
戦を促していますが、その見返りについては具体的には言及して
いないのです。
 孫崎亨氏の本には、ヤルタ会談のとき、スターリンが対日参戦
についてルーズベルトと話し合う前に、スターリンの部屋を訪ね
たさいのグロムイコ元ソ連外相の話を彼の回想録(「グロムイコ
回想録」/読売新聞社)から紹介しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 (ヤルタ)で彼の書斎にいくとスターリンは一人でいた。彼に
 心配事があることを察知した。スターリンに英語で書かれた書
 簡が届いたところだった。彼はその書簡を私に渡し、「ルーズ
 ベルトからだ、彼との会談が始まる前に、彼が何を言ってきた
 か知りたい」と言った。私はその場でざっと翻訳した。米国は
 サハリンの半分(この時点で北半分はすでにソ連のもの)とク
 リル列島についての領有権を承認すると言ってきたのだ。スタ
 ーリンは非常に喜んだ。「米側は見返りとして次にソ連の対日
 参戦を求めてくるぞ」と言った。       ──孫崎亨著
   「日本の国境問題/尖閣・竹島・北方領土」/ちくま新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 ルーズベルトはスターリンに宛てた手紙では、対日参戦の代償
として、サハリン(樺太島)の半分──南半分と表現しており、
それは合理性のある提案といえます。というのは、そのとき日本
が領有していた南樺太は、日露戦争の結果日本領になったものだ
からです。
 カイロ宣言にもあるように、敗戦国は、戦争並びに暴力や貪欲
により略取した地域の返還を求められていますが、国際法上自国
の領土になったものは返還する必要はないのです。ところがルー
ズベルトは、それに千島全島を加えることを裏議定書で密約して
いることについては、ここまで述べてきた通りです。
 戦争を1日も早く終わらせたいと考えていたルーズベルト大統
領は、勘違いでソ連のスターリンにいくつかの重要な言質を与え
てしまったことは事実です。しかし、当時の米国は次の2つのこ
とを考えていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1.領土問題を利用し、日ソを近づけないようにする
   2.「米国は約束を反故にする国」と思われたくない
―――――――――――――――――――――――――――――
 「1」の考え方は、領土問題を利用して日ソの間にくさびを打
ち込むという発想です。ジョン・フォスター・ダレスは、択捉・
国後島をあえてソ連に取らせておいて、その返還を主張するよう
に重光外相にアドバイスしています。
 「2」の考え方は、米国は戦後ソ連と戦略核兵器などで合意す
る必要があります。そのためには、米国は、「約束を反故にする
国」とはソ連に思われたくないのです。そう思われたら、合意な
ど形成できないからです。したがって、米ソ間でヤルタ協定は生
きており、米国としては日本の北方領土については曖昧な態度を
取らざるを得なかったのです。   ── [日本の領土/14]

≪画像および関連情報≫
 ●孫崎亨著『日本の国境問題』/ちくま新書・読書メモ
  ―――――――――――――――――――――――――――
  尖閣、竹島、北方領土に関するニュースが絶えない昨今です
  が、それらの問題について、まったく無知であるのもどうか
  と思い購入した書籍。とても面白く、興味深く、同時に、非
  常にショッキングな内容でした。僕自身、これらの問題には
  無知であるがゆえに、これまでの新聞・テレビ・ネットなど
  の報道に触れても、何もかも表面上のことしか見ていなかっ
  たですし、恥ずかしながら、日本の政府が固有の領土だと言
  っている島々に対して、外国が勝手に主権領有を主張するな
  んて、ただただ「ケシカラン」と感じる程度でしたが、問題
  は、もっと深いところにあり、知らなかった歴史的事実が大
  変多い。本書では、尖閣、竹島、北方領土問題がどのような
  経緯で発生し、これまでどのような経緯や見解を元に交渉が
  なされ、今に至っているか、日米同盟がそれらに与えてきた
  影響と今後、はたしてそれらの解決に機能するのかといった
  点や、世界的な領土問題の事例などに触れつつ、最後に、解
  決するための九つの方策をまとめる形で占めています。
     http://www.enjoy-com.com/b/2011/08/post-140.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

孫崎亨著「日本の国境問題」/ちくま新書.jpg
孫崎 亨著「日本の国境問題」/ちくま新書
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2012年10月22日

●「日ソ間に領土問題を残す米国の策略」(EJ第3411号)

 日本人の多くは、北方領土は太平洋戦争の終戦のどさくさに紛
れてソ連に奪われたものと思っています。確かに歴史経緯を調べ
ると、それは事実なのですが、そこには米国が深く介在している
ことと、ソ連の周到きわまる外交戦略が展開されており、問題を
複雑にしているのです。
 ソ連の戦略とは、自国には関係のないはずのカイロ宣言をとこ
とん利用し、ヤルタ会談でルーズベルトを籠絡して、ソ連に有利
な対日参戦の代償を得る約束を取り付けたのです。
 そしてポツダム会談では、代わったばかりのトルーマン大統領
に対してソ連が日本の北方領土を手に入れる策略を実現する言質
をとっているのです。要するに、ソ連としては、後から何をいわ
れても日本に対抗できる論拠を握ったのです。
 ここで問題になるのは、千島列島の解釈をどのようにするかと
いうことなのです。ソ連はこの解釈を自国に有利なように使い分
けているのです。
 千島列島には、得撫島──ウルップ島という島があります。こ
の島は千島列島の中央に位置するのです。そのため、この得撫島
を中心に千島列島を次のように2つに分けているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       得撫島以北 ・・・・・ 北千島
       得撫島以南 ・・・・・ 南千島
―――――――――――――――――――――――――――――
 そして、ここでいう南千島に、日本の北方領土である択捉島と
国後島が入るのです。これによると、色丹島と歯舞群島は千島列
島ではないのです。
 ソ連(ロシア)は、そこに「クリ―ル列島」という独自の概念
を持ってきて、色丹島と歯舞群島を含めています。ソ連は色丹島
と歯舞群島にも占領したので、それを正当化するためです。また
ソ連は日本の千島列島の定義まで使って、南千島は当然千島列島
の中に入ると主張しているのです。
 しかし、ロシアとしては、内心では歯舞群島と色丹島まで奪取
したのは問題があったと認めているところがあって、交渉次第で
は、歯舞群島と色丹島の両島は返してもよいと思っていることは
確かです。なぜなら、どう考えても、歯舞群島と色丹島を千島列
島に含めるのには無理があるからです。でも択捉・国後両島に関
しては、ロシアは絶対に返そうとはしないでしょう。
 しかし、歴史的経緯を踏まえれば、択捉・国後両島はもともと
日本の領土であることに加えて、千島列島そのものは1875年
のサンクトペテルブルグ条約によって、樺太全島をロシア領にす
る代わりに、千島列島全島を日本領にすることになったものであ
り、日露戦争で日本が得たものではないのです。したがって、カ
イロ宣言には縛られないはずです。
 保阪正康氏は、ソ連が1945年8月28日から9月5日にか
けて、日本の北方領土を次々と占領したときのスターリンの心境
について、次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 とくに気になるのは単にソ連の歴史的行動への不信感とは別に
 歴史上の事実を追いかけていくと、実はスターリンは北方四島
 をクリル諸島そのものとはみなしていないことがわかる。その
 ことがこの8月28日から9月5日という時間の中に反映して
 いるのではないかとすぐに理解できるのだ。その後ろめたさが
 こうした史実の背後に見え隠れしているといえるだろう。とく
 に1855年の下田条約で日本が獲得した北方四島を収奪して
 いくその歴史の中に、スターリンのもつ領土獲得の歪んだ意欲
 が感じられる。              ──保阪正康著
         「歴史でたどる領土問題の真実」/朝日新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本は1945年8月15日にポツダム宣言受託を表明し、武
装を解除しています。ソ連はこれを無視して軍事行動による北方
領土収奪を行っているので、その行為は、国際法上認められない
ものです。したがって、本来日本は、北方領土だけでなく、千島
列島全島の領有を主張できるのです。
 それでいながら、サンフランシスコ平和条約において、第二条
第二章の(c)の次の条文を受け入れているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本国は千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツ
 マス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近
 接する諸島に対するすべての権利、請求権を放棄する
―――――――――――――――――――――――――――――
 この条文における千島列島の定義は曖昧であり、ソ連と日本は
それぞれ主張することができます。そうすれば日ソは永遠にこれ
を巡って争い続けることになり、日本の共産化を防ぐことができ
る──これは、ソ連封じ込め政策の構築者として有名なジョージ
・ケナンの構想であるという人がいます。マイケル・シャラー・
アリゾナ大学教授がその人であり、彼は自著で次のように述べて
いるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 千島列島に対するソ連の主張に異議を唱えることによって、米
 国政府は日本とソ連の対立をかきたてようとした。実際、すで
 に1947年にケナンとそのスタッフは領土問題を呼び起こす
 ことの利点について論議している。うまくいけば、北方領土に
 ついての争いが何年間も日ソ関係を険悪なものにするかもしれ
 ないと彼等は考えた。      ──マイケル・シャラー著
    『「日米関係」とは何だったか』/草思社刊/孫崎亨著
 「日本の国境問題/尖閣・竹島・北方領土」/ちくま新書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 米国側は日本に対し、それとなくソ連に対して領土交渉するよ
うアドバイスしています。それを受けて日本は今まで何十年にも
わたってロシアと不毛の領土交渉を重ねてきています。それはこ
れからも続いていくはずです。だからといって、歯舞群島と色丹
島の二島返還では駄目なのです。  ── [日本の領土/15]

≪画像および関連情報≫
 ●『「日米関係」とは何だったか』の批評
  ―――――――――――――――――――――――――――
  歴史とは、つくづく歴史家の主観から逃れられない物語であ
  ると思う。また、個々の歴史家の主観のみならず、国籍と国
  民意識に根付く主観からでさえ、歴史家は自由になれないの
  かもしれない。特に、二国間関係史は、それが如実に表れる
  物語である。ある国から見える二国間関係史と相手国から見
  える二国間関係史は、程度の差こそあれ、異なる様相を呈す
  る。そして、その差異は、そのまま両国における相手国の外
  交上の位置付けを反映している。実に、興味深い。M・シャ
  ラーの『日米関係とは何だったのか(サブタイトル省略)』
  は、その一つの事例を提供してくれる一冊である。主題の通
  り、本書は、戦後日米関係史を論じた文献である。本書の紹
  介へ移る前に、ここで日米両国における一般的な解釈を簡単
  に紹介しておこう。ただし、私自身、お世辞にも読書量が多
  いとは言えず、読了文献にも偏り(特に、米国側文献の読了
  量は多くない)がある。故に、ここでの説明は、あくまで私
  の理解が及ぶ範囲内であるという注釈を付しておく。
  http://blog.goo.ne.jp/tamayan81/e/20b2956fd866146379f9b108a0db2ef0
  ―――――――――――――――――――――――――――

マイケル・シャラーの本.jpg
マイケル・シャラーの本
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2012年10月23日

●「ロシア外交史上最大の失敗」(EJ第3412号)

 サンフランシスコ平和条約の第2条第2章(c)の日本の領土
に関する記述は、日本にとって最悪の内容です。とくに、これに
よって多くの利益を得るのはロシア(当時のソ連)です。
 なぜなら、ロシアは労せずして、日本領であった樺太南部、さ
らに千島列島の全島に加えて、明らかに北海道の一部である歯舞
群島と色丹島まで自国のものにできるのです。しかも、世界から
も、当の日本からも批判──ソ連は火事場泥棒のように日本の島
を不当に収奪したという批判を受けることはなくなるのです。
 しかし、それにもかかわらず、ソ連はサンフランシスコ平和条
約に出席しながら、調印しなかったのです。サンフランシスコ平
和条約は、51ヶ国が出席し、48ヶ国が調印したのですが、ソ
連とチェコとポーランドの3ヶ国は調印しなかったのです。もっ
ともチェコとポーランドはソ連の衛星国であったので、ソ連に追
随せざるを得なかったのです。
 ソ連はなぜ調印しなかったのでしょうか。それは、中国代表の
資格について米国と意見を異にしていたからです。米国は、蒋介
石の中華民国(現在の台湾)を中国代表として招待したのですが
英国やソ連と意見が合わず、とくに中華人民共和国の後ろ盾であ
るソ連としては調印するわけにはいかなかったのです。結局、中
華民国はこの会議には参加しなかったのです。
 しかし、これはソ連の外交政策の最大の失敗であったのです。
結果としてソ連のこのときの外交の失敗が、当時弱い立場にあっ
た日本を救ったのです。元外務省ロシア課長の東郷和彦氏は、こ
れについて自著で次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 当時、国際関係における日本の立ち位置は非常に弱く、四島を
 実効支配していた戦勝国ソ連の立場は、非常に強かったのであ
 る。もしもこの会合にソ連を代表して出席していたグロムイコ
 外務次官がこの条約に署名していれば、四島の帰属はどうなっ
 ただろう。ソ連は、平和条約の署名によって法的に解決すべき
 戦後処理の問題は終わったと議論することとなったであろう。
 断定はできないが、四島の帰属を回復しようとする日本の立場
 は、限りなく弱くなったにちがいない。
                ──保阪正康・東郷和彦共著
       『日本の領土問題/北方四島、竹島、尖閣諸島』
                  角川ONEテーマ21刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 確かに21世紀の現況は、サンフランシスコ平和条約締結当時
と何も変わっていません。択捉・国後・歯舞・色丹のわが国の北
方四島は、依然としてロシアに占拠されたままです。
 しかし、日本はロシアと国交回復はしましたが、平和条約は結
んでいないのです。そして依然として日本はロシアに対して、わ
が国固有の領土として四島一括返還を求めています。おそらくこ
れは今後も変わらないでしょう。それでも、これはロシアがサン
フランシスコ平和条約に調印しなかったからこそ、できることな
のです。
 サンフランシスコ平和条約に調印しないということは、日本は
その国とは条約に何も縛られないということになります。そのた
め日本は、その国と外交交渉を行い、平和条約を締結する必要が
あります。
 実際に中華民国(台湾)とは、1952年4月28日に日華平
和条約を調印しています。ソ連とは、1956年10月19日に
日ソ共同宣言を締結したものの、平和条約については北方四島の
帰属が未解決のため、締結を見送っています。なぜ、日ソ共同宣
言を締結したのかというと、日本が国連に加盟するためにはソ連
の賛成が不可欠だったからです。これにより、日本は、1956
年12月18日に国連への加盟が実現しています。
 日ソ共同宣言の締結は、簡単ではなかったのです。日本はソ連
と平和条約を締結するつもりで、1955年6月から交渉をはじ
めたのですが、締結は越年し、10月19日にやっと調印になっ
たのです。当時のソ連は、1953年のスターリンの死亡後に権
力を獲得したフルシチョフが首相を務めていたのです。
 フルシチョフは、非スターリン化、西側国との雪解け外交を展
開しつつあったのです。一方日本では、自由党と保守党の角逐の
時代から自由民主党(現在の自民党)が創設され、いわゆる55
年体制がはじまるプロセスでこの重要な外交交渉は行われたので
す。日本とソ連の全権大使を次に示しておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
      日本側 ・・・・ 松本俊一全権大使
      ソ連側 ・・・・  マリク全権大使
―――――――――――――――――――――――――――――
 そのときの日本政府の方針は、あくまで南樺太、千島列島、歯
舞群島、色丹島は、歴史的に見て日本の固有の領土であると主張
するものの、結果については柔軟に対応するというものでしたが
その返還は絶望視されていたのです。
 しかし、1955年8月5日の午餐会で、マリク全権大使は次
の発言をしたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 歯舞群島、色丹島については、日本側に引き渡す用意がある
                 ──マリクソ連全権大使
―――――――――――――――――――――――――――――
 これについて、松本俊一全権大使は、自著『モスクワにかける
虹』(ゆまに書房)において「最初は耳を疑った。ソ連がそこま
で譲歩するとは思っていなかった」と述べています。これによっ
てもわかるように、日本側はこの交渉が厳しいものになることを
予測していたのです。
 しかし、本国からの訓令により、「四島一括返還」をあくまで
求めていくことにしたのです。このバックに米国がいることにつ
いては既に述べた通りです。そのために交渉は難航し、越年して
一年以上を要し、やっと日ソ共同宣言が締結されたのです。
                 ── [日本の領土/16]

≪画像および関連情報≫
 ●日ソ交渉の逸話/「河野一郎とペーパーナイフ」
  ―――――――――――――――――――――――――――
  河野一郎農相(当時)の回想では、1956年10月18日
  の交渉中、河野はフルシチョフの大きく先端が鋭いペーパー
  ナイフを見て、刺されたらたまらないと、警戒していた。い
  たずら心もあって、レーニンの写真入りのそのペーパーナイ
  フを取ってしまおうと、フルシチョフにペーパーナイフをく
  れるよう頼んだ。フルシチョフは気前良く河野にペーパーナ
  イフをあげた。河野は会談後、鳩山に、「フルシチョフがそ
  れを振り回すからヤバクて仕方が無いから分捕った。北方領
  土の代わりに総理に進呈しましょう」と、ペーパーナイフを
  鳩山にプレゼントした。『鳩山一郎・薫日記』には、それを
  「ペーパーナイフをくれた由」と記している。河野がさらに
  翌日の会談で、昨日のは鳩山にあげたから自分用のが欲しい
  と頼むと、フルシチョフは戸棚の大量の中から1本、河野に
  あげた。それには河野も参ってしまったという。
                    ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

日ソ共同宣言/当時の新聞.jpg
日ソ共同宣言/当時の新聞
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2012年10月24日

●「四島問題の存在を認めたブレジネフ」(EJ第3413号)

 1956年10月19日の日ソ共同宣言──それから気が遠く
なるほどの長い年月にわたって日本のソ連に対する領土交渉が始
まったのです。
 最初の30年は冷戦ということもあって事態はまったく動かず
日ソ関係は悪化する一方だったのです。その後いくつかの転機は
あったものの、日本とロシアの領土交渉は56年が経過した現在
も続けられていますが、一島すら取り戻せていないのです。
 ソ連はヤルタ協定を盾に取り、引き渡しを約束された千島列島
の中には日本のいう北方四島がすべて入っていると主張して、択
捉・国後はともかくとして、歯舞・色丹両島まで千島列島の中に
含めているのです。
 これに対して日本は、ヤルタ協定は日本のあずかり知らぬとこ
ろで決められた約束に過ぎず、そんなものには日本は拘束されな
いと主張しています。さらに、ソ連の北方四島の占拠は、大西洋
憲章とカイロ宣言の原則に反しているではないか──日本はこの
ように非難をしているのです。
 大西洋憲章やカイロ宣言は、戦後処理を主導する国として、領
土不拡大を宣言しています。不当に自分の領土を増やしたりしな
いという宣言です。大西洋憲章は米国と英国は署名し、ソ連は署
名はしていないものの、同意を表明しています。しかし、そんな
ことに耳を傾けるソ連ではなかったのです。
 1960年にいわゆる「グロムイコ声明」(ソ連政府声明)と
いわれるものが出ます。これは岸信介首相が日米安保条約の改定
を行ったことによる反発です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ソビエトは、歯舞群島と色丹島の引き渡しは「両国間の友好関
 係に基づいた、本来ソビエト領である同地域の引き渡し」とし
 引き渡しに条件「外国軍隊の日本からの撤退」を付けることを
 主張する。      ──グロムイコ声明/ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――――
 この声明は、歯舞・色丹二島の返還条件として、米軍が日本か
ら撤退することを上げているのです。絶対に日本ができない条件
を突き付けたわけです。しかし、二島返還はソ連側から出してき
ています。これによってもわかるように、歯舞・色丹の二島につ
いては、ソ連としては、日本に返還すべきものという意識を少し
は持っているのです。
 1970年代に入ると、情勢は少し変化します。それはニクソ
ン米大統領とキッシンジャー補佐官の主導によるデタントです。
デタントというのは、戦争の危機にある二国間の関係が緊張緩和
に向かうことを意味しています。
 ニクソン大統領は、1971年7月15日に「中華人民共和国
を訪問する」と予告したうえで、1972年2月に電撃訪問し、
毛沢東主席と会談を行っています。1949年に共産党政府が成
立して以来、はじめての米国首脳の中国訪問になるのです。しか
し、これによって米ソの関係は一層深刻化するのです。
 日本においても田中角栄首相が中華人民共和国と国交を結んで
います。1972年9月29日のことです。さらに田中首相は、
1973年10月にソ連に乗り込み、当時のブレジネフ書記長と
会談を行い、口頭ではあるものの、ブレジネフ書記長から次の言
質をとったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   日ソ両国の戦後未解決の諸問題は、四島問題である
―――――――――――――――――――――――――――――
 このところくるくる変わる日本の首相と違って、田中角栄首相
はきちんとやるべきことをやっています。とくに外交では素晴ら
しい業績を遺しています。このときの田中/ブレジネフ会談には
次の逸話が残っています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1973年、日ソ共同声明に関する交渉の席でのエピソード。
 机をがんがん叩きながら、ブレジネフ書記長を相手に迫る田中
 が「『未解決の諸問題』に北方四島の返還問題が含まれるか」
 と尋ねると、ブレジネフは、「ヤー・ズナーユ──そう理解す
 る」と返答。しかし、曖昧さを許さない田中が、「含まれるの
 か含まれないのか、イエスかノーか、ご返事いただきたい」と
 迫ると、ブレジネフは渋々、「ダァー(イエス)」。
        ──「週刊ポスト」/2010年9月17日号
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、その後、日ソの関係は悪化の一歩を辿るのです。その
出来事を列挙すると次のようになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1976年:ソ連兵士の戦闘機ミグによる亡命事件
   1978年:日中平和友好条約締結へのソ連の反発
   1979年:ソ連軍のアフガン侵攻による対ソ制裁
―――――――――――――――――――――――――――――
 1976年9月6日、ソ連兵士ベレンコ中尉がミグ25迎撃戦
闘機で函館空港に着陸し、その後米国に亡命する事件があったの
ですが、その事件処理を巡ってソ連が日本を批判したのです。
 日本では、やすやすと防空網を突破されたことが大問題になり
緊急防衛対策として早期警戒機E─2Cが導入され、レーダー網
が一段と強化されたのです。
 1978年の日中平和友好条約締結は、ソ連にとって大ショッ
クだったのです。なぜなら、中・日・米3国に組まれたら、極東
・東アジアが東西から完全に封じ込められてしまうからです。
 そこでソ連は、窮余の策としてアフガニスタンを衛星国化しよ
うとしたのです。つまり、南に突破口を求めたわけです。しかし
アフガニスタンにはさまざまな部族が複雑に入り組んでおり、一
筋縄では共産化ができないので、一気に軍事力で攻め入って、共
産化しようとしたわけです。1979年のことです。
 これによって、日ソ関係はさらに険悪化し、北方領土の返還は
さらに遠のいてしまうことになります。ところが、1985年に
なって少し光が見えたのです。   ── [日本の領土/17]

≪画像および関連情報≫
 ●大平外相と藤原弘達氏の話/角さんの外交交渉
  ―――――――――――――――――――――――――――
  田中・ブレジネフ会談の様子をめぐって、角栄が辞任する少
  し前の頃、大平外相と藤原弘達氏との間で次のようなゴルフ
  談義のやり取りが行われているので、これを紹介する。
  大平:いや、藤原君、我々のようなインテリジェンスのある
     者には、角さんみたいなことはできんだろう。
  藤原:じゃあ、あなたはやる気はないんですか。
  大平:私は、日ソ交渉の時、角と一緒にソ連に行ったが、あ
     の時、角は、ブレジネフを相手に、机をガンガン叩き
     ながら、国交断絶寸前までいくほど、がなりたてて、
     その晩はブランデーを飲んでグーグーと寝てしまう。
     そんな角の姿を見たとき、これはわが国が生んだ大日
     本男児だと思ったもんだよ。この男にあるところまで
     やらせておいて、ピッチャー交代の時は考えなければ
     ならないが、しかし、わしなんか、とても角のあとを
     やれる器ではないよ。
  http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/gyosekico/nissokosyo.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

田中角栄首相/ブレジネフ書記長.jpg
田中 角栄首相/ブレジネフ書記長
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2012年10月25日

●「北方領土を返還させる3つの方針」(EJ第3414号)

 1978年の日中平和条約の締結以降、日本とソ連の関係は良
くない方向に向かっていったのです。日本と中国の間にも尖閣諸
島という領土問題があり、現在それが日中間の火種の原因になっ
ていますが、両国の当時の為政者の知恵によって、それを棚上げ
にすることによって、日中平和条約が締結されたのです。
 その日中平和条約をまとめた日本の外務大臣が園田直氏です。
現在たちあがれ日本の幹事長をしている園田博之氏の父親に当り
ます。そのとき、園田外相のカウンターパートであるソ連の外相
は、アンドレイ・グロムイコ外相──サンフランシスコ平和条約
のさいの外務次官であり、1957年にフルシチョフ政権の外務
大臣に就任して以来、なんと28年間にわたり、一貫して外相と
して日本との領土問題に対峙してきた人物です。
 当時は東西冷戦の時代で、米国を中心とする民主主義国で構成
される西側陣営と、ソ連を中心とする共産主義国の東側陣営が対
立しており、両陣営とも少しでも多くの国を自分の陣営に引き入
れようとしのぎを削っていたのです。
 そういうときに、日本が中国と平和条約を締結したので、ソ連
としては危機感を感じたのです。そのこともあって、1979年
にソ連はアフガニスタンに侵攻したのです。もともとアフガニス
タンはソ連が長く援助を行ってきており、ソ連寄りの政権──ア
フガニスタン人民民主党政権ができていたのですが、これに抵抗
するムジャーヒディーンと呼ばれる武装勢力が蜂起しており、そ
のバックには米国がいるといわれていたのです。
 しかし、時の米国大統領は平和主義者のカーター氏であり、彼
は米ソ対決には消極的だったといわれます。ソ連としてはそのあ
たりのことを十分計算に入れて、1979年12月24日にアフ
ガニスタンに侵攻したのです。
 このように西側陣営との対立が激しくなるにつれてソ連は「日
本との間に領土問題は存在しない」といい出したのです。日本が
尖閣諸島や竹島について発言しているあのセリフです。それに加
えてソ連は、択捉・国後両島に軍事施設を構築すると宣言するな
どして、日本を揺さぶってきたのです。しかし、当時は口でそう
いうだけで、現在のロシアのように政府関係者が両島を訪問した
りなどはしなかったのです。
 1985年になると、少し状況が変化したのです。それは、そ
の年の3月に、ミハイル・ゴルバチョフ氏がソ連の書記長に就任
したからです。ゴルバチョフ書記長は、ペレストロイカ(改革)
とグラスノスチ(情報公開)を掲げてソ連の大改革を推し進め、
それは東欧の社会主義国の民主化の契機になったのです。さらに
外交面では、40年以上続いた冷戦を就任して5年目に終結させ
軍縮を進めたのです。そういう意味で彼が1990年にノーベル
平和賞を受賞したのも当然のことであるといえます。
 ゴルバチョフ書記長になって、あのグロムイコ外相はシュヴァ
ルナゼ氏に交代したのです。日本にとって領土問題を前進させる
のチャンス到来と考えても不思議ではなかったのですが、ことは
そう簡単ではなかったのです。ゴルバチョフ書記長の大統領とし
ての来日が実現したのは6年後の1991年4月のことであり、
その間に日本の首相は、中曽根康弘氏、竹下登氏、宇野宗佑氏と
3人が代わり、海部俊樹首相の時代になっていたのです。
 このゴルバチョフ来日に向けて、日本としては北方領土四島返
還に関する3つの基本方針を立てたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.択捉・国後両島については、文書で交渉の対象であるこ
   とを認めさせる。
 2.歯舞群島と色丹島については、1956年日ソ共同宣言
   通り返還させる。
 3.上記1と2が実現した後に、択捉・国後両島についての
   実質論議に入る。
―――――――――――――――――――――――――――――
 「1」については、あの田中角栄首相とブレジネフ書記長の口
頭の約束──「日ソ両国の戦後未解決の諸問題は、北方四島問題
である」を文書化することです。これを認めさせないと交渉は前
進しないからです。
 「2」について考えます。ソ連は一貫して、歯舞・色丹両島返
還は、あくまで択捉・国後両島の放棄とパッケージであると主張
しています。そこで、これを切り崩すために「1」を認めさせた
うえで、歯舞・色丹両島の返還を求めるのです。しかし、ソ連と
しては、歯舞・色丹両島を返すときは、領土問題を終わりにする
と主張して「2」を認めないのです。
 「3」は「1」と「2」が実現された後で、行われる交渉とい
うことになります。日本としては、当然のことながら、返還を求
めることになりますが、話が「1」と「2」の段階で堂々巡りを
していて、なかなか「3」までこないのです。
 さて、これまでの領土をめぐる日露交渉で、日本は3回文書合
意しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1.海部・ゴルバチョフ声明 ・・・ 1991年
   2.       東京宣言 ・・・ 1993年
   3.   イルクーツク声明 ・・・ 2001年
―――――――――――――――――――――――――――――
 「1」については、ゴルバチョフ大統領来日時の声明であり、
これによって3つの基本方針の「1」──「択捉・国後両島につ
いては文書で交渉の対象であることを認めさせる」については、
クリアされたのです。これはこれまでの交渉経過を考えると、画
期的なことです。
 「2」は、細川首相とエリツィン大統領の間で出された声明で
あり、「3」は、2001年3月25日、イルクーツクにおける
森首相とプーチン大統領との会談で出された声明です。
 明日のEJでは、これら3つの声明について検証し、これから
の日露の領土問題解決の方向について考えます。
                 ── [日本の領土/18]

≪画像および関連情報≫
 ●ゴルバチョフ登場の背景とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ゴルバチョフの3代前の書記長レオニード・ブレジネフの政
  策は1970年代後半以降徐々に破綻をきたし、中ソ関係や
  米ソ関係のさらなる悪化を招いた。特に米ソ関係は1979
  年のアフガニスタンへの軍事介入で完全に破綻し、ソ連崩壊
  の遠因となる。こうした状況の中で1982年にブレジネフ
  が死去。その後任となったユーリ・アンドロポフは、病弱で
  あったため、1年半後の1984年に死去。さらにコンスタ
  ンチン・チェルネンコが書記長となったがチェルネンコも病
  弱であり、書記長就任の翌1985年に死去。こうした中で
  54歳だったゴルバチョフが書記長となった。ペレストロイ
  カとグラスノスチは成功したものの、経済政策は守旧派との
  対立で次第に行き詰まっていった。こうした中でボリス・エ
  リツィンが台頭してくる。しかし、エリツィンはゴルバチョ
  フが守旧派と妥協していくことに反発したため1987年に
  モスクワ市党第1書記を解任され、さらに1988年2月に
  は政治局員候補から外される。守旧派と改革派の対立の土台
  は1988年のゴルバチョフによる過去の政治批判によりで
  きあがっていた。1988年10月にはアンドレイ・グロ
  ムイコ最高幹部会議長が辞任し、ゴルバチョフが兼任する。
                    ──ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E9%80%A38%E6%9C%88%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%BF%E3%83%BC
  ―――――――――――――――――――――――――――

海部・ゴルバチョフ会談.jpg
海部・ゴルバチョフ会談
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2012年10月26日

●「一括返還から段階返還への転換」(EJ第3415号)

 1991年4月のゴルバチョフソ連大統領の来日は、歴史上は
じめてのロシアのナンバーワンの来日という、記念すべき出来事
だったといえます。そのときは、まさかその年の12月にソ連が
崩壊するとは誰も予想しなかったのです。
 海部・ゴルバチョフ会談では、昨日のEJでご紹介した「北方
領土を返還させる3つの方針」にしたがい、真剣に議論されたの
です。わが国の3つの方針を再現しておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.択捉・国後両島については、文書で交渉の対象であるこ
   とを認めさせる。
 2.歯舞群島と色丹島については、1956年日ソ共同宣言
   通り返還させる。
 3.上記1と2が実現した後に、択捉・国後両島についての
   実質論議に入る。
―――――――――――――――――――――――――――――
 「1」については、ゴルバチョフ大統領はあっさりとOKし、
四島の名前が声明に明記されたのです。日ソ交渉史上はじめての
ことであり、きわめて画期的なことだったのです。
 しかし、「2」についてはゴルバチョフ大統領は一切これを認
めず、「56年宣言」という言葉を声明に書くことを頑として拒
んだのです。「2」がクリアされなければ、もちろん「3」の議
論はありえないのです。
 それにしてもゴルバチョフは、どうして「2」に対して拒否し
たのでしょうか。
 これは後で分かったことですが、当時ゴルバチョフ大統領の国
内の政権基盤は弱体化しており、歯舞群島と色丹島の返還を決定
できる力は既になかったのです。実際に、それから4ヵ月後の8
月19日にクーデターが起こり、ゴルバチョフ大統領はクリミア
半島にある大統領の別荘に軟禁されてしまったのです。
 それは、ゴルバチョフの改革を嫌う「国家非常事態委員会」を
名乗る守旧派の起こしたクーデターだったのです。実は8月20
日にロシアのエリツィン、カザフスタンのナザルバエフとともに
ゴルバチョフ大統領は、新連邦条約に調印する予定になっていた
のです。しかし、クーデターには、大統領の側近が多数関わって
いたということもあって、ゴルバチョフ自身とソ連共産党の信頼
は、この時点で失墜してしまったのです。そしてソ連崩壊ととも
に、ロシアはエリツィンの時代になったのです。
 1951年10月に中山太郎外相がソ連を訪問して平和条約交
渉が行われたのです。そのさい日本は、今までやったことのない
大胆な提案をソ連に提示したのです。その提案とは、次のような
ものだったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 四島への日本の主権が確認されれば、実際の返還の時期、態
 様及び条件については柔軟に対応する考えである。
               ──保阪正康・東郷和彦共著
      『日本の領土問題/北方四島、竹島、尖閣諸島』
                 角川ONEテーマ21刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 この提案は、今までの「四島一括即時返還」と比べると、一見
して大幅な後退のように見えます。しかし、このままずるずると
年を重ねると、四島が返ってこないばかりか、北方四島が日本の
領土であることが日ソ双方で希薄化してしまうことを日本側は恐
れたのです。
 確かに今までの「四島をすぐ返しなさい」という要求から、四
島の帰属は認めるなら、島の管理や返還はソ連側の事情にまかせ
るというのですから、実態は何も変わらないわけです。ちょうど
戦後連合軍(米軍)の管理下に置かれた沖縄のようなポジション
に北方四島を置くという考え方です。
 当時外務省のソ連課長をしていた東郷和彦氏によると、この北
方領土に関する日本側の提案の詳細は、積極的に外部にブリーフ
しなかったのです。今までとは異なる提案なので、あくまでブラ
ックボックスに入れて先方と交渉するのが、外交交渉の常道であ
ると東郷氏は判断したと述べています。
 この中山提案以来、日本側の北方領土に関する交渉の成果は、
次の2つのいずれかになったといえます。
―――――――――――――――――――――――――――――
        1.四島一括即時返還の実現
        2.四島の主権を認めさせる
―――――――――――――――――――――――――――――
 考えてみると、1992年〜1993年という年は、ソ連が崩
壊してロシアとして再生するとき途上にあり、ロシアが経済的に
一番困っていた時期なのです。したがって、北方領土の解決はこ
の時期を逃してはならなかったのです。
 実際にこの時期の日本とロシアの関係は、外交的に一段と活発
化したのです。そのいくつかをひろってメモしておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1992年 1月:北方四島住民に対する緊急人道支援物資
          の供与(以後、何回も実施されている)
       3月:コズイレフ外相訪日
       4月:四島交流/住民の日本訪問
       5月:四島交流/日本側の初訪問
       8月:日本週間(モスクワ)
       9月:渡辺美智雄外相ロシア訪問
 1993年 1月:桜内衆院議長ロシア訪問
       7月:東京サミット(G7)
      10月:エリツィン大統領来日
―――――――――――――――――――――――――――――
 とにかく数えきれないほどあるのです。上記はほんの一部に過
ぎないほど、ロシアとの交流は活発化したのです。しかし、この
時期になぜ北方領土問題は解決しなかったのでしょうか。来週も
この問題を掘り下げます。     ── [日本の領土/19]

≪画像および関連情報≫
 ●プーチン大統領の真意を見抜け/JBプレス/2012.3
  ―――――――――――――――――――――――――――
  プーチン首相は、北方領土問題について「互いに受け入れ可
  能な妥協点を探りたい」、また「我々は、大胆に前進しなけ
  ればならない」と述べ、北方領土問題の最終解決を目指す意
  向を示した。そして、「領土問題の解決が、(日本との関係
  において)本質的なものではなく、二次的なものになるよう
  な状況を作らなければならない」と述べ、日本との経済関係
  の発展を重視する姿勢を示した。なお、氏は、2000年か
  ら2008年の大統領在任中、北方領土問題について、19
  56年の「日ソ共同宣言」が基本との考えを繰り返し、「2
  島引き渡しで最終決着」とする方針を示していた。限られた
  情報ではあるが、プーチン大統領の真意は、明らかに「2島
  返還」である。しかし、ロシアにとってはすでに解決済みの
  問題、2次的な問題であるので、早急にごたごたを解消し、
  自国にとって優先度の高い、しかし自国だけでは成し遂げら
  れない極東ロシアの経済開発を日本の力(資金と技術)を利
  して推進したいとの思惑が見え見えである。北方領土問題は
  歴史を振り返ると、ロシア(ソ連)の不凍港を求めた南下政
  策と飽くなき領土拡張政策の帰結である。
        http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/34774
  ―――――――――――――――――――――――――――

ゴルバチョフ/エリツィン大統領.jpg
ゴルバチョフ/エリツィン大統領
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2012年10月29日

●「最大のチャンスを逃した1992年」(EJ第3416号)

 1992年3月、当時のロシアのコズイレフ外相が来日したの
です。そのとき、日本の経済力は突出しており、ソ連崩壊の後遺
症によって苦しんでいたロシアとしては、日本の大型支援を何よ
りも望んでいたのです。しかし、それには領土問題を解決して、
日本とロシアの平和条約を成立させることが不可欠なのです。日
本にとって絶好のチャンスだったといえるでしょう。
 日本は、この1992年に数回にわたって、北方四島住民に対
して緊急人道支援物資の供給や65億円の人道支援資金を贈った
りしているのです。それにより、四島交流が実現するなど日本と
ロシアの関係は急速に改善されつつあったのです。
 そういうときにコズイレフ外相が来日したのです。そのとき、
コズイレフ外相は、ある提案を日本に持ってきたといわれていま
すが、その内容は現在でも明らかにされていないのです。これに
ついて、東郷和彦氏は、次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 存在しないといわれるこの提案を確認することはできないが、
 この案は、56年宣言に従い歯舞・色丹を日本に引き渡すこと
 に同意するとともに、国後・択捉についてギリギリの譲歩を含
 むもののようであった。    ──保阪正康・東郷和彦共著
       『日本の領土問題/北方四島、竹島、尖閣諸島』
                  角川ONEテーマ21刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、その提案を日本は断わっているのです。既に述べたよ
うに、日本は「四島一括即時返還」の旗は降ろしたものの、主権
については「四島一括」で取り戻すという方針を決めており、ロ
シアの提案は、四島一括主権返還ではないとして、断ったものと
思われます。
 おそらくそのときのロシアの提案は、歯舞・色丹を日本に引き
渡すと同時に、国後・択捉両島については主権は返還しないもの
の、ロシア側の何らかの譲歩、おそらく何らかのかたちでの「交
渉の継続」を匂わすものであったことは確かです。現在、日本が
いちばん求めている解決策だったのですが、日本はそれを断わっ
ています。ちなみに、当時は宮沢首相と渡辺美智雄外相の時代で
あったのですが、次の年に自民党は政権を失うことになります。
 しかし、日本は経済が好調で強気であったこと、中山提案にお
いて、「四島一括即時返還」を「四島主権の一括返還」に条件を
緩めたばかりであったこともあって断わったのでしょう。「ロシ
アは国力が弱っており、いずれ折れてくるだろう」という楽観的
な読みがそこにあったことは確かです。
 しかし、ロシアはこれに強く反発したのです。その結果、同年
9月に予定されていたエリツィン大統領の来日がキャンセルされ
たのです。もっともその後の日本とロシア間の交渉で、エリツィ
ン大統領の来日は、1993年10月に実現し、10月13日に
細川護煕首相とエリツィン大統領の会談が行われたのです。
 しかし、この会談は、海部・ゴルパチョフ会談とほとんど同じ
だったのです。北方四島が交渉の対象であるという「1」は認め
たのですが、「2」の歯舞・色丹両島の返還については、対立し
エリツィンは譲歩しなかったのです。
 エリツィンは、強硬だったのです。日本側が東京宣言に「56
年宣言」という言葉を入れてほしいと求めたのに対し、絶対に認
めなかったのです。その代わりに合意したのは、次の表現だった
のです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     日ソ間の条約が日ロ間で引き続き適用される
―――――――――――――――――――――――――――――
 これについて、首脳会談で細川護煕首相が「この表現に『56
年宣言』は含まれるか」と念を押したのに対し、エリツィンは激
怒し、それを認めなかったといいます。しかし、最後の記者会見
では、記者の質問に対し、渋々それを認めたといいます。結局、
ゴルバチョフとの会談以上の進展はなかったのです。
 東京宣言から5年間は、日ソ交渉は止まってしまったのです。
ロシアの内政問題やエリツィン大統領の健康問題があったからで
す。そして1998年4月18日にエリツィン大統領が来日し、
首脳会談が開かれたのです。場所は伊豆の川奈ホテル。そのとき
日本のトップは、橋下龍太郎首相になっていたのです。
 橋下首相は、ある秘策を胸に周到の準備をしてこの会談に臨ん
だのです。これについて、作家の上坂冬子氏はエピソードを交え
て、次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 余談だが、迎える側の日本としても合意の成功のために緊張の
 極にあったと思われる。桜の名所といわれている川奈ホテルで
 は、エリツィン訪日と桜の満開を一致させるべく、庭にドライ
 アイスを敷いて桜を維持した。初日は日ロの貿易を活発化する
 ための投資会社などを中心に、もっぱら経済問題が話し合われ
 たが、二日目は例の魚釣り(エリツィン氏は大の釣り好き)で
 ある。海釣りだから餌を撒くわけにはいかない。魚群探知機付
 きの船を用意し、エリツィンが満面に笑みをたたえる収穫があ
 った。ムードの盛り上がったところで、橋本首相は択捉島の北
 側、得撫(ウルップ)島の南側に国境線を引きたいと提案して
 いる。つまり四島を日本領とした国境で、日ソ53年間におよ
 ぶ問題の核心であった。国境がここに決まればすべては解決す
 るといっていい。エリツィンは興味深い提案だと前向きに応じ
 てきた。だが、大統領補佐官のヤストロジェムスキーが、エリ
 ツィンに耳打ちし、重要な問題だから持ち帰って検討してはど
 うかと牽制したのである。大統領補佐官のこの言葉によって、
 橋本首相はここで大きな魚を釣り落としたことになる。
     ──上坂冬子著「『北方領土』上陸記」/文藝春秋刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 エリツィンの気持は明らかに動いたのです。しかし、大統領の
スタッフは全員この提案に反対であり、二度とこの問題を持ち出
してくることはなかったのです。  ── [日本の領土/20]

≪画像および関連情報≫
 ●上坂冬子著「『北方領土』上陸記」/書評
  ―――――――――――――――――――――――――――
  上坂冬子氏の「北方領土」上陸記を読みました。私の小さい
  頃はもっと北方領土返還運動が盛んだったように思うのです
  が、最近では残念ながらあまり大きな盛り上がりを見せてい
  ません。この本は、「上陸記」とは言うものの、ビザなし渡
  航に関する記述はその一部で、北方領土全般について書かれ
  ています。この本を読んで、北方領土の歴史的な経緯から現
  在の状況まで一通りを知ることができるかと思います。恥ず
  かしながら、これまで北方領土についてはほとんど知識がな
  かったことを改めて認識させられてしまいました。やはり、
  どう歴史を解釈しても択捉島、国後島、色丹島、歯舞諸島は
  日本固有の領土だということがわかります。根室のノサップ
  岬から沖に出て1.85キロメートル先からロシア領という
  のは誰が考えてもおかしいです。昔、北方領土に住んでいた
  人たちの話を読むと、むなしい気持ちがひしひしと伝わって
  きます。幸せだった頃の写真を見ると、そこが戦後60年に
  わたり占領されていて、いまだ何ら進展がないことに不思議
  な気持ちがわいてくると思います。
      http://toba.livedoor.biz/archives/50628582.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

上坂冬子さんの本.jpg
上坂 冬子さんの本
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2012年10月30日

●「局面を変えたイルクーツク声明」(EJ第3417号)

 北方領土の最北端は択捉島です。よく「国後・択捉」と表現し
ますが、これは日本に近い順に島を数えています。EJでは、国
境線に接する択捉島を中心に、それより以南が日本領という考え
方で「択捉・国後」という表現を使っています。
 日本という国は、四方が海に囲まれている島国なので、もとも
と国境という観念が薄いのです。もし、国境を意識すれば、日本
領の最北端である択捉島と得撫島(ウルップ島)間を重視するこ
とになります。橋下龍太郎首相は、ここに国境線を引き、一定期
間、島の施政権を預けるという提案をしたのです。これが「川奈
会談」であり、戦後の沖縄と同じ扱いにしようとしたのです。
 この川奈会談について、川奈会談の事務方を務めた丹波実外務
審議官(当時)は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 川奈会談でいわゆる川奈提案を行った。この川奈提案は日本と
 してできる譲歩の最大のものであったが、同時に日本側が19
 91年以来、ソ連・ロシアに対して「北方四島の日本の主権が
 認められるのであれば、返還の時期、態様及び条件については
 柔軟に対応する」と一貫して言い続けてきたことの延長線上に
 あるというのが私たちの考え方であった。   ──丹波実著
              「日露外交秘話」/中央公論新社
                       ──孫崎亨著
   「日本の国境問題/尖閣・竹島・北方領土」/ちくま新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 川奈提案での橋下首相の提案にエリツィン大統領は、明らかに
心を動かしたのです。それは、記者会見でのエリツィン大統領の
次の言葉によくあらわれています。
―――――――――――――――――――――――――――――
   今回はリュウから追加的な、興味深い提案があった
―――――――――――――――――――――――――――――
 このときのロシアは、日本との領土問題を解決して日本と緊密
な関係を築きたいと考えていたのです。エリツィンとしては、自
分がそれを解決して、歴史上に名前を残したいと考えても不思議
ではなかったのです。
 これを見て、慌てたのは、会談に出席していたエリツィンのス
タッフです。そして、大統領補佐官のヤストロジェムスキーがエ
リツィンを説得して提案の持ち返りが決まったのです。
 1998年11月11日に橋下首相の後任の小渕首相は、ロシ
アを訪問し、川奈提案の返事を受け取りに行ったのです。これに
ついて、既出の丹波実外務審議官(当時)は、自著で次のように
述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 小渕総理の最大の目的は19年4月の川奈提案に対するロシア
 側の検討結果を受け取ることであった。12日クレムリンで会
 談され、エリツィン大統領から、川奈提案に対する回答を文書
 で手交された。この回答についての自分の考えは、率直に言え
 ば、失望を禁じ得ないものであった。     ──丹波実著
              「日露外交秘話」/中央公論新社
―――――――――――――――――――――――――――――
 そして、2000年にプーチン政権が誕生します。この大統領
は、今までとは少し違っていたのです。そのときロシアはソ連崩
壊からの混乱期を脱却し、再生しつつあったのです。これによっ
て、ロシアの人々の意識も変化を見せてきています。当時のロシ
アの人々の意識の変化を次の世論調査は明確に示しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 設問「ロシアにおける望ましい統治体制とは何か」
       民主的政権   強い指導者   分からない
 1991年   51%     39%     10%
 2002年夏  21%     70%      9%
 2005年春  28%     66%      6%
      Russia’s Weakened Democratic Embrace’PEW
                       ──孫崎亨著
   「日本の国境問題/尖閣・竹島・北方領土」/ちくま新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 これを見ると、7割近い国民が「強い指導者」を求めているこ
とが明瞭に読み取れます。プーチン大統領はそういうときに登場
したのです。
 2000年5月に大統領に就任したプーチン氏は、同年7月の
沖縄サミットに出席し、同年9月に公式来日しているのです。と
にかくやることが早い。そして、そのときの森首相との首脳会談
で、あのゴルバチョフやエリツィンでも認めなかった次のような
驚くべき発言をしているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     1956年共同宣言は有効であると考える
               ──プーチン大統領
―――――――――――――――――――――――――――――
 2001年3月25日、ロシアのシベリア地方の都市イルクー
ツクにおいて、森・プーチン会談が行われたのです。そして、次
のイルクーツク声明が出されたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.択捉・国後については「東京宣言に基づき、四島問題を解
   決することにより、平和条約を締結する」という鍵になる
   合意が再び確認される
 2.歯舞・色丹については「56年宣言が平和条約締結に関す
   る交渉プロセスの出発点を設定した基本的な法的文書であ
   る」ことが確認される   ──保阪正康・東郷和彦共著
       『日本の領土問題/北方四島、竹島、尖閣諸島』
                  角川ONEテーマ21刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 日ソ交渉の歴史上はじめて56年宣言を確認し、択捉・国後を
交渉の対象として協議する体制が整ったのです。まさに画期的な
ことといえます。         ── [日本の領土/21]

≪画像および関連情報≫
 ●プーチン大統領の譲歩/あるブログより
  ―――――――――――――――――――――――――――
  尖閣問題や自民党総裁選の陰に隠れてしまった感があります
  が、北方領土交渉が動き始めています。ニューヨークを訪問
  中の玄葉外務大臣はロシアのラブロフ外相と会談し、会談後
  12月に野田総理がロシアを訪問する際に、北方領土問題を
  含めた協議の成果を文書で交わす方向で調整していることを
  明らかにしました。プーチン大統領は大統領職に就く前から
  2001年に自民党・森総理との間で締結したイルクーツク
  声明に立ち戻ることを示唆し、北方領土交渉に前向きな姿勢
  を示していました。イルクーツク声明が採択されてから既に
  10年以上が経過しています。当然、日ロをとりまく国際状
  況も激変しています。また、プーチン大統領の権力基盤も、
  以前のように強固なものではありません。イルクーツク声明
  は日本に歯舞、色丹両島を先行して返還し、残りの国後、択
  捉両島については交渉を継続するとしたものなので、ロシア
  国内のナショナリストにとっては許されざるものです。これ
  を利用して、ロシア政権内の反プーチン勢力が巻き返してく
  る可能性もあります。
   http://ameblo.jp/gekkannippon/entry-11364565966.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

プーチン大統領.jpg
プーチン大統領

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2012年10月31日

●「小泉政権で北方領土解決方針を変更」(EJ第3418号)

 イルクーツク声明時のプーチン大統領は、日本との領土問題を
本気で解決しようとしていたと思います。なぜなら、今後ロシア
が経済的に発展していくためには、日本の協力が不可欠であると
プーチン大統領が考えているからです。
 そのためには、日ロの間に刺さった骨を抜いて、領土問題を解
決し、平和条約を締結する必要がある──プーチン大統領はこの
ように考えているのです。彼は今までのロシアのトップとは明ら
かに違うタイプの大統領であるといえます。
 この思いは、首相を経て再び大統領になった現在でも、変わっ
ていないと思います。ただ、ひとつ大きく変わったことがありま
す。それは、イルクーツク声明当時とは比べ物にならないほど、
プーチン氏の政権基盤が弱くなっていることです。足元が盤石で
はなくなってきているのです。アンチ・プーチンの勢力が拡大し
てきているわけです。
 イルクーツク声明のとき、森喜朗首相(当時)がプーチン大統
領に対し、次の問いかけをしたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 歯舞・色丹と国後・択捉について並行的に協議しようではな
 いですか                ──森喜朗首相
―――――――――――――――――――――――――――――
 これに対してプーチン大統領は「承っておきます」と答えたの
です。今までソ連やロシア側は、日本側が択捉・国後両島の話を
持ち出すと、それだけで態度を硬化し、交渉打ち切りになってし
まったのです。それから考えると、「承っておきます」といって
否定しなかったことは大きな前進なのです。
 現在、再び大統領に就任したプーチン氏は、日本との領土問題
に関して「引き分け」という言葉を使っています。そのプーチン
大統領と朝日新聞の若宮主筆の対談では、「引き分け」発言に関
して、次のようなやり取りがあったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 若宮主筆:引き分けというのなら、2島では不十分ですよ
 プーチン:お互いに外務省に対して「はじめ!」の号令をか
      けようではありませんか
―――――――――――――――――――――――――――――
 このやり取りを考えても、プーチン大統領の考え方はあまり変
わっていないようです。そういう意味ではチャンスですが、もし
失敗すると、これが最後のチャンスになる可能性もあります。
 せっかくプーチン大統領が、柔道の言葉を使って「引き分け」
や「はじめ!」といって日本側を誘っているのに、野田首相や玄
葉外相はまったく動こうとしていないのです。こんなことでは、
日本はやる気がないとロシア側に疑われても仕方がないと思いま
す。新党大地・真民主幹事長代行の浅野貴博氏の「イルクーツク
声明に立ち返るべきである」との質問に対して、玄葉外相も国会
では、次のような気のないというか、きわめて抽象的な答弁しか
していないのです。これでは、外相の熱意というものがまるで伝
わってこないのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 イルクーツク声明をはじめ、またイルクーツク声明を含め、
 すべての過去の諸合意を基に交渉を進めてまいります。
          ──2011年3月7日の玄葉外相答弁
  http://ameblo.jp/asanotakahiro/entry-11185746549.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 問題は、2001年3月25日のイルクーツク声明から10年
以上経過しているのに、北方領土問題は一歩も進展しないことに
なったのです。
 それは日本側に責任があるのです。その責任は、2001年4
月に誕生した小泉内閣にあります。最大の失敗は、小泉首相が田
中真紀子氏を外相にしたことです。この人事はいたずらに外交の
混乱を招き、外交の継続性は無視されてしまったのです。おまけ
に田中外相は中途で罷免されてしまっています。
 これによって日ロの領土交渉は完全に中断し、森首相が提案し
た歯舞・色丹と択捉・国後の併行協議は一度も行われることなく
空しく10年が経過してしまったのです。これについて、東郷和
彦氏は次のように外務省を批判しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 歴史上初めて、国後・択捉の問題をどうするかという話し合い
 のテーブルにつこうとしているロシアを前に、政局の混乱を理
 由に交渉の場から事実上消えてしまった日本側について一体ロ
 シア側はどう思ったか。ロシア人にとつてみれば、政局とは、
 スターリニズムの下での暗殺である。日本内部の政局による混
 乱は、その意味では子供の喧嘩の域をでない。そういう問題が
 ゆえに、積年主張してきた領土問題についての交渉上の立場を
 事実上放棄する日本が、今後ともに尊敬できる交渉者たりうる
 のか。            ──保阪正康・東郷和彦共著
       『日本の領土問題/北方四島、竹島、尖閣諸島』
                  角川ONEテーマ21刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 2005年のことですが、モスクワで第二次世界大戦終結60
周年の記念行事が開かれたのです。そこには、当時のブッシュ大
統領をはじめ、G8諸国の指導者のほとんどや中国の胡錦涛主席
などの旧連合軍諸国のトップが勢揃いする一方、ドイツのシュレ
ーダー首相も参列し、ロシアとドイツの歴史的な和解と親密な戦
略的関係を構築する約束が交わされたのです。
 プーチン大統領は、ドイツだけではなく、日本とも和解すべき
と考えて、小泉首相に招待状を出すと同時にその前提となる領土
問題について協議しようと呼びかけたのです。
 しかし、小泉首相はこれに応じず、一度は多忙を理由に断った
のですが、出席すべきだという内外の圧力に負けて、結局は渋々
出席しています。プーチン氏に対して小泉首相は冷たく、来日す
るというプーチン大統領に対し、小泉首相は来ても歓迎しないと
までいっているのです。      ── [日本の領土/22]

≪画像および関連情報≫
 ●北方領土解決に関する鈴木宗夫氏の外務省への質問
  ―――――――――――――――――――――――――――
  2001年3月、ロシアのイルクーツクで、森喜朗首相(当
  時)とプーチン・ロシア大統領との首脳会談が行われた際に
  歯舞、色丹、択捉、国後の四島の一括返還を求めるのではな
  く、歯舞、色丹の二島については具体的な返還時期の交渉を
  行い、残りの国後、択捉の二島については日ロ間で帰属確定
  の交渉を並行して行うという、いわゆる「2プラス2」の方
  針を決めた声明(以下、「イルクーツク声明」という。)が
  発表されたが、「イルクーツク声明」についての右の認識に
  間違いはないか。確認を求める。続いて、橋本、小渕、森内
  閣では、「イルクーツク声明」の根底にある考え方を交渉の
  基礎に、歯舞、色丹二島の返還を実現し、その上で国後、択
  捉両島の帰属の問題の解決を図る段階的な北方領土問題の解
  決を目指したという事実はあるか。また、その後の小泉政権
  では、それまでの段階的な解決を目指す路線から、歯舞、色
  丹、択捉、国後の四島の我が国への帰属の確認を求め、ロシ
  アとの交渉が停滞したという事実はあるか。外務省の認識如
  何。(最後まで読む)
  http://blog.goo.ne.jp/taraoaks624/e/3a2c3f3de8e58b1aa55ab8477c7c549
  ―――――――――――――――――――――――――――

ロシアに強硬な小泉元首相.jpg
ロシアに強硬な小泉元首相
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2012年11月01日

●「プーチン大統領を挑発した小泉元首相」(EJ第3419号)

 小泉純一郎首相とプーチン大統領──この2人の関係は非常に
複雑です。もともとは仲が良かったのですが、北方領土をめぐる
外交交渉では、完全にプーチン氏と噛み合わなかったのです。
 森首相とプーチン大統領によるイルクーツク声明によって、ロ
シアとの領土問題は一挙に進むという期待感があったのです。し
かし、森首相に代わって登場した小泉首相の時代になると、領土
交渉は暗転して元の硬直状態に戻ってしまったのです。2人の関
係を探って、その原因を追究することにします。
 2000年にロシアにプーチン政権ができると、日本では次の
年に小泉政権が誕生します。2001年4月26日のことです。
2002年6月のことですが、カナダでカナナスキス・サミット
が開催され、その席で小泉首相はプーチン大統領からある頼みご
とを受けるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 実は、2003年のサンクトペテルブルク建都300周年記念
 祭とフランスでのエビアン・サミットの日程が重なって困って
 いる。                ──プーチン大統領
―――――――――――――――――――――――――――――
 小泉首相が、当時のシラクフランス大統領と親しいことを知っ
ての依頼だったのです。シラク大統領は日本通で、歌舞伎や相撲
の大ファンでもあり、小泉首相とは仲がよかったのです。しかし
いったん決まった公式日程を変更することは困難なことです。
 それでも小泉首相はシラク大統領に会い、サミットの日程変更
を交渉したのです。その結果、シラク大統領から次の言葉を引き
出すのに成功しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 それじゃあ、フランスで開くサミットを記念行事の翌日に変更
 しよう。そうすれば、みんなそのあと直接エビアンに来ればい
 い。                  ──シラク大統領
―――――――――――――――――――――――――――――
 これに感謝したプーチン大統領は小泉氏に対し、ある秘密の会
合を打ち明けたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 感謝に堪えない。公表できないがシベリアに金正日が来るので
 何か協力できないか。         ──プーチン大統領
―――――――――――――――――――――――――――――
 そのとき、小泉首相は「金正日に会いたい」とプーチン氏に依
頼したのです。プーチン氏はその後金正日に会い、このことを伝
えています。「コイズミは信用できる。2人で話し合い、拉致問
題を解決してほしい」と。
 このプーチン大統領の仲介があったから、2002年9月の小
泉首相の北朝鮮電撃訪問と金正日総書記との会談、地村、蓮池氏
らの日本帰国につながったことは明らかです。当然、小泉首相は
プーチン大統領に感謝したはずです。日本国民も全面解決にはほ
ど遠いものの、とにかく拉致問題を動かし、拉致被害者を帰国さ
せた小泉首相の手腕に喝采し、当然のことながら、北方領土問題
の解決も期待したのです。
 このように2人の人間関係は良好だったのですが、その後はな
ぜかぎくしゃくしてしまうのです。小泉首相は、2003年1月
にロシアを訪問しています。
 しかし、そのときの北方領土交渉は、イルクーツク声明をフォ
ローし、進展させるという交渉ではなく、共同声明において、次
のことを単に確認したことにとどまったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日ロ両首脳の間で、四島の帰属の問題を解決し、平和条約を
 可能な限り早期に締結し、もって両国関係を完全に正常化す
 べきとの「決意」を確認した。     ──日ロ共同声明
―――――――――――――――――――――――――――――
 どうやら小泉首相は、北方領土交渉の対処方針をイルクーツク
声明での「二島先行方式」による他の二島の段階的合意から、四
島が日本に帰属することを確認する方式に変更しているのです。
どうして対処方針を変更したのかについては不明ですが、米国の
意向もあるのではないかと思われます。これまでの日ロの交渉は
いったい何だったのかと、ロシア側が強く反発したことはいうま
でもないことです。
 2004年に入ると、小泉首相はさらにロシアを挑発する行動
に出るのです。2004年9月2日に小泉首相は、北方領土を海
上保安庁の船から視察したのです。日本の首相であれば、当然の
行動であるといえますが、日が悪かったのです。なぜなら、20
04年9月2日は、連合国側から見ると、59年前に対日戦争の
終わった日に当り、日本が、ポツダム宣言を正式に受託した日で
あったからです。これに関して、鈴木宗男氏は次のようにいって
います。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ロシア側にすれば、対日戦争が終わった記念日に、日本の総理
 大臣が軍船で「失われた領土」を視察するというのは日本が領
 土的野心をむき出しにした挑発行為以外、なにものでもない。
 しかも、このとき、ロシアでは、北オセチア共和国で、武装テ
 ロリストによる学校占拠事件が起こっていた。ただでさえプー
 チン大統領が領土問題にナーバスになっているときに、そんな
 行動に出れば、相手をいっそう怒らせるだけだろう。このころ
 はプーチン大統領の強い指導力のもと、ソ連崩壊後の経済危機
 を乗り切り、資源の世界的な高騰を受けて、空前の繁栄を遂げ
 ていた。もはや日本の資金に頼る必要はなくなり、日本との距
 離を置きはじめていたともいえる。     ──鈴木宗男氏
        http://ayarin.iza.ne.jp/blog/entry/1274896/
―――――――――――――――――――――――――――――
 小泉首相は明らかにプーチン大統領を挑発しています。ケンカ
を売っているのです。ちょうどそういうときにプーチン大統領か
ら対ドイツ戦勝60周年記念式典への招待状が送られてきたので
す。2004年11月のことです。 ── [日本の領土/23]

≪画像および関連情報≫
 ●小泉元首相の対ロ挑発か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  小泉純一郎首相は2004年9月2日、海上保安庁の巡視船
  「えりも」で海上から北方領土を視察した。現職首相として
  は3人目の視察で、海上からの実施は初。来年初めに予定さ
  れているロシアのプーチン大統領訪日を控え、領土問題と平
  和条約締結問題に取り組む姿勢を国内外にアピールする狙い
  からだが、ロシア側は不快感を表明している。首相は同日午
  前10時半ごろ、巡視船に乗り、北海道根室市の花咲港を出
  港した。巡視船は北海道と北方領土の中間線付近を航行し、
  正午前に歯舞諸島沖を通過。午後1時すぎ、国後島との距離
  十数キロまで近づいた。首相が甲板から双眼鏡で歯舞諸島を
  視察していた時に、ロシアの監視船が巡視船の右舷前方約4
  キロまで近づき、「航行上の安全を祈る」との内容を意味す
  る旗を掲げた。首相は記者団に、「霧がかかっていた。もっ
  とよく見たかった」と語った。巡視船には茂木敏充沖縄・北
  方担当相、高橋はるみ北海道知事らが同乗した。首相は視察
  後、根室市内で元島民ら地元関係者と懇談する
            ──2004年9月3日付、毎日新聞
―――――――――――――――――――――――――――――

小泉元首相/プーチン大統領.jpg
小泉元首相/プーチン大統領
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2012年11月02日

●「惨敗に終わった小泉・プーチン会談」(EJ第3420号)

 どうして小泉首相は、ロシアのプーチン大統領を挑発したので
しょうか。
 いずれにしても、2004年9月2日(ロシアから見て対日戦
争終結記念日)に小泉首相が海上保安庁の巡視艇に乗って失われ
た領土を視察に行ったのは、けっして偶然ではないのです。小泉
首相としては、プーチン大統領に対して何らかのメッセージを送
りたかったのだと思います。
 なぜ、9月2日だったのかについては、もうひとつの要素があ
ります。それは、9月1日から3日にかけて起こった「ベスラン
学校占拠事件」です。ロシアの北オセアニア共和国ベスラン市の
ベスラン第一中学校が、チェチェン共和国の独立派を中心とする
多国籍武装集団に占拠されたのです。
 事件は悲惨な結果に終りました。7歳から18歳の少年少女と
その保護者1181人が人質になり、3日間の膠着状態に陥った
後に治安部隊との銃撃戦になり、制圧はしたものの、386人が
死亡し、700人以上が負傷するという大惨事になったのです。
 ロシアは現在でもチェチェン問題という難しい政治問題を抱え
ています。この問題はその経緯が非常に複雑であり、説明を省き
ますが、煎じつめると、それはロシアの抱える領土問題であり、
しかも武力闘争を伴っている厄介な問題なのです。
 これまでにもチェチェン武装勢力は、2002年の「モスクワ
劇場占拠事件」、2003年の「モスクワ・コンサート会場自爆
事件」、2004年の「モスクワ地下鉄爆破事件」など、いろい
ろ悲惨な事件を起こしているのです。
 小泉首相は、偶然とはいえロシアでまさにベスラン学校占拠事
件が起きたその次の日に、北方領土の視察を行っているのです。
次の年にもプーチン大統領の来日を控えているのですから、普通
なら延期するところでしょうが、小泉氏はあえてその渦中に北方
領土を視察しているのです。これは、プーチン大統領に領土問題
を強く意識させ、「こっちにも領土問題がある」というメッセー
ジを送ったのでしょう。
 小泉氏はどうしてこのような挑発をしたのでしょうか。その真
意はわかりませんが、あるブログでは、次のような興味ある分析
をしています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 小泉が一見敵に攻撃材料を与えるような行動をとって、敵が小
 泉に対して攻撃を仕掛けようとすると、敵は小泉の行動によっ
 てヒートアップした内部からの突き上げと、敵自身が実は有し
 ている小泉に対する弱みとの板ばさみになって、急激にその力
 を失ってしまう、ということである。これを私は「小泉が仕掛
 けた罠」と言っている。小泉首相の靖国神社訪問は明らかにそ
 う。外国人地方参政権付与の問題も、実はそうではないかと私
 は思っている。そして、今回の小泉首相の北方領土訪問も、小
 泉がプーチン・ロシアに対して仕掛けた罠。
 http://plaza.rakuten.co.jp/kingofartscentre/diary/200410150000/
―――――――――――――――――――――――――――――
 この小泉元首相のプーチン大統領への挑発はどうやら高くつい
たようです。プーチン大統領は、2005年11月20日にロシ
アの財界人100人を引き連れて日本にやってきたのです。小泉
政権としては再三来日を促していたのですが、3年待たされての
来日だったのです。
 しかし、このプーチン来日は何から何まで異例づくめだったの
です。プーチン氏は羽田に到着すると、直ちに日本・ロシア協会
の鳩山由紀夫会長らと会談、東シベリアから石油を運ぶパイプラ
イン建設への資金協力を求めています。鳩山氏の方も、日ソ共同
宣言50周年にあたる2006年、モスクワで行う記念事業への
ロシア政府の協力を要請していますが、両者ともに北方領土問題
には何も触れていないのです。
 プーチン氏が、鳩山由紀夫氏と真っ先に会ったのには理由があ
ります。ちなみに、1956年に締結された日ソ共同宣言のとき
の首相は鳩山一郎氏であり、由紀夫氏は孫に当ります。
 重要なポイントは、日ソ共同宣言にいたる会談で、ロシアから
の歯舞・色丹両島返還の提案に一度は乗ろうとした経緯があるこ
とです。したがって、プーチン氏は、鳩山由紀夫氏に会うことに
よって小泉首相に「あくまで二島返還が基調であって、四島返還
なんか無理だよ」というメッセージを送ったのです。2004年
9月2日の小泉首相の北方領土視察に対する「お返し」です。
 翌日の21日、同行してきたロシア財界人100人を連れ、日
本経団連主催の「日ロ経済協力フォーラム」に出席し、スピーチ
をしています。その席には、トヨタの奥田碵会長ら日本側財界人
を含め500人が出席していたのです。スピーチの内容は、東シ
ベリア石油パイプライン計画への日本の協力要請です。実にタフ
で精力的な大統領です。
 そして、その後で、小泉首相と首脳会談をしています。普通は
首脳会談の前には予定を入れないものですが、このときは、スケ
ジュールからして、完全にプーチン氏のペースになってしまって
います。外交的駆け引きでは、小泉首相はプーチン大統領に負け
てしまっています。
 会談は1時間25分にわたって行われ、その約半分は北方領土
問題に費やされましたが、このときは領土について過去の合意確
認すらなされていないのです。
 小泉首相は、四島の帰属問題解決なくして平和条約なしとのい
つもの主張を繰り返し、話は平行線に終わっています。しかも、
経済協力と信頼醸成の重要性も日本側から強調するなど、領土交
渉としてはきわめて迫力に欠けた会談になったのです。
 プーチン大統領としては、今回の来日は領土交渉よりも経済問
題が中心で、日本の企業は経済協力も技術援助も必ず乗ってくる
し、それを日本の政治家や外務省も黙認すると読んで、財界人を
100人も連れてきたのです。したがって、この領土交渉は日本
の惨敗であり、交渉を後退させてしまった感があるのです。
                 ── [日本の領土/24]

≪画像および関連情報≫
 ●2005年のプーチン来日について/鈴木宗男氏の意見
  ―――――――――――――――――――――――――――
  過去三年間、外務省は「東京宣言至上主義」という陥穽に自
  ら落ちていった。その結果、北方領土交渉は膠着状態になっ
  た。「東京宣言」(1993年)で日露両国は北方四島の帰
  属問題を解決して平和条約を締結することを約束した。過去
  3年間、小泉総理、川口順子前外相は「東京宣言に基づき四
  島の帰属問題を解決して平和条約を締結する」との言明を繰
  り返した。しかし、「四島の帰属問題の解決」と「四島の日
  本への帰属の確認」は本質的に異なる。「四島の帰属問題の
  解決」ということならば論理的には五つの場合(日4露0、
  日3露1、日2露2、日1露3、日0露4)がある。もちろ
  ん四島の日本への帰属を確認して平和条約を締結するという
  のが私の一貫した立場だが、「東京宣言」を何百回確認して
  も四島が日本に返還されることにはならない。今回、プーチ
  ン大統領が出したシグナルは、「露4、日0という形で帰属
  問題を解決すれば、無償で色丹島と歯舞群島と貸与する」と
  いう案であって、日本としては受け入れることができない。
  しかし、このような提案も「東京宣言」に違反しているとは
  いえない。外務省が「東京宣言至上主義」に陥っていること
  を逆手に取り、ロシアはこのような逆提案をつくったのだ。
  ─2005年10月10日付、朝日ヘラルド・トリビューン
  ―――――――――――――――――――――――――――

鈴木宗男氏.jpg
鈴木 宗男氏
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2012年11月05日

●「1年ごとの首相交代は国益を損なう」(EJ第3421号)

 北方領土問題の進展には、何の成果も得られなかった2005
年11月のプーチン大統領の来日から約1年後に小泉内閣は退陣
し、安倍晋三内閣が誕生します。
 安倍晋三首相(当時)がプーチン大統領にはじめて会ったのは
2007年6月6日〜8日にかけて行われたドイツのハイリゲン
ダム・サミットのときです。
 前任の小泉首相は日本の首相としては珍しく5年間にわたって
首相を務めたので、国際的にはかなり名前が通りましたが、その
あとに登場した安倍晋三首相は、当然のことながら、名前はまる
で通っていなかったのです。
 そのため、ハイリゲンダム・サミットのさい、地元ドイツの新
聞3紙が、安倍晋三首相の顔写真の代わりに、こともあろうに赤
城徳彦農林水産大臣──あのバンソウコウ大臣の写真を間違って
使ってしまったのです。G8の各国首脳も日本の総理があまりに
も代わり過ぎるので、顔を覚えられず、こういうことが起こって
しまうのです。
 しかし、2007年6月7日に行われた日ロ首脳会談は、それ
なりに評価できるものであったのです。プーチン大統領は、就任
直後から、「二島返還のみ」という挑発的な議論は引っ込めて、
「双方にとって受け入れられる」という言葉を使って領土問題解
決に意欲を示しており、安倍首相と真摯に話し合うという意思を
示したのです。
 安倍首相は、会談において、2003年に作成されている「日
ロ行動計画」を前進させるために、「ロシアの極東・東シベリア
地域における日ロ協力強化に関するイニシアチブ」(以下、イニ
シアチブ)を提案したのです。
 この「イニシアティブ」は、ロシア政府がこの地域の発展とア
ジア太平洋地域への統合に今後真剣に取り組む姿勢を示している
のに対し、日本政府としても、ロシア側の問題意識に応え、協力
が考えられる分野として次の8つを挙げ、経済分野を含め、両国
の民間同士の相互利益となる形での協力を政府としてやっていく
用意があるという意思を表明したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      1.エネルギー
      2.運輸
      3.情報通信
      4.環境
      5.安全保障
      6.保健・医療
      7.貿易投資の拡大および環境の改善
      8.地域間交流の促進
―――――――――――――――――――――――――――――
 これに対して、プーチン大統領は、「非常に魅力的で建設的な
提案である。専門家レベルで具体化させるべく関係当局に指示を
出したい」と述べています。
 しかし、その安倍首相は、サミット直後の第21回参院選挙に
おいて、連立を組む自民・公明を合わせても過半数を獲得できず
第一党から転落してしまうのです。安倍首相は改造内閣を組むも
のの、2007年9月26日に突然の退陣を発表したのです。
 ハイリゲンダム・サミットで顔写真を間違えられ、その後十分
な外交活動もできないまま、サミットから3ヵ月後に退陣したの
ですから、国際的には無名のままで終わったのです。プーチン大
統領もきっと「おや、おや」と思ったことと思います。
 安倍内閣を受け継いだのは、福田康夫内閣です。2008年7
月に北海道洞爺湖サミットが開催され、福田首相は議長を務めた
のですが、その存在感はきわめて薄かったといわれます。首脳同
士の談笑では完全に無視され、フランスのサルコジ大統領からは
首脳会談を拒否されるなど、さんざんだったといわれます。
 このサミットには、プーチン大統領と交代したメドベージェフ
大統領が初参加し、日ロ首脳会談が行われたのです。そのとき、
メドベージェフ大統領は福田首相に次のように話し、北方領土問
題の解決に意欲を示したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 北方領土問題が解決されれば、両国関係が最高水準に引き上
 げられることに疑いはない   ──メドベージェフ大統領
―――――――――――――――――――――――――――――
 この発言は、かつて冷戦時代に日本側がソ連側に述べていた発
言とそっくりであり、完全にロシア側に主導権をとられた観は否
めないといえます。プーチン大統領の時代になって、ロシアはソ
連崩壊の後遺症から脱し、経済的に余裕ができてきており、そう
いう発言が飛び出したものと思われます。
 それでもこのときは、メドベージェフ大統領は領土問題解決に
前向きだったことは確かであり、北海道洞爺湖サミットでは、日
本に親しむため、緑茶を毎日飲んでいると報道されたのです。ま
た、健康のために寿司や刺身を食べたり、村上春樹の小説『羊を
めぐる冒険』を読んでいると答えているのです。
 しかし、この約600億円もかけて開催した洞爺湖サミットの
低調ぶりに嫌気がさしたのか、2008年9月1日、21時30
分からの首相官邸での緊急会見において、福田首相は電撃的に辞
任を表明するのです。あの「あなたとは違うんです!」の迷発言
が飛び出したあの辞任会見です。
 こんなにころころ首相が変わったのでは、外交上のマイナスは
計り知れないものがあります。プーチン大統領の立場で見ると、
森、小泉、安倍と変わっているし、メドベージェフ大統領ときに
いたっては、福田、麻生、鳩山、菅、野田というように実に5人
目なのです。これでは、完全に相手になめられてしまいます。
 だからこそ、メドベージェフ大統領は北方領土に足を踏み入れ
たのです。日本に領土問題を解決する意欲も、能力もないとみた
からです。確かにこれほど首相がころころ代わると、誰と交渉し
てよいかわからないとロシアが思っても不思議はないのです。
                 ── [日本の領土/25]

≪画像および関連情報≫
 ●北海道サミットの成果なし/高橋はるみ/北海道知事
  ―――――――――――――――――――――――――――
  2008年に開催された「洞爺湖サミット」。「キャビアや
  ウニを食べつつ食料危機を考慮(インディペンデント紙)」
  と皮肉られ、「マリー・アントワネットがベルサイユ宮殿の
  窓から身を乗り出して、パンがない農民はケーキを食べれば
  いい」と言って以来、北海道のウィンザーホテルほど、指導
  者が日常生活の窮状に無神経さを示したことはなかった(ガ
  ーディアン紙)」と揶揄された。その開催費用は約600億
  円という。開催地北海道の負担が70〜80億円。当初、慎
  重姿勢だった高橋知事も、中川昭一らに押され、開催に手を
  挙げた。北海道経済連合会は、サミット開催の経済効果は、
  直接効果と開催後5年間の波及効果を合わせて約379億円
  に上ると試算した。関係者の宿泊費や飲食費などの支出によ
  る生産波及が約172億円と推計、開催中の観光客の減少な
  どによるマイナス効果の約54億円を差し引いた約118億
  円の直接効果があるとした。その結果はどうなったのか、公
  式の発表をさがしてみたが見あたらない。
     http://d.hatena.ne.jp/shuuei/20101103/1288745111
  ―――――――――――――――――――――――――――

メドページェフ大統領と福田首相.jpg
メドページェフ大統領と福田首相
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2012年11月06日

●「北方領土問題へのロシアの決断」(EJ第3422号)

 2008年9月24日、麻生太郎内閣が発足します。福田内閣
において麻生氏は外相だったので、北方領土交渉は継続して行う
ことは可能だったはずです。しかし、結果としてこの麻生内閣も
2009年の参院選で政権を失い、また1年で終わるのです。
 ところで麻生氏は、北方領土問題に対してある考え方を持って
いたのです。2008年12月13日の衆議院外務委員会で、当
時の民主党の前原誠司議員の質問に答えて、麻生外務大臣は次の
ように答弁しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 二島だ、三島だ、四島だという話になると、これは、こっちが
 勝って、こっちが負けだという話みたいになって、双方ともな
 かなか合意が得られない。したがって、半分だった場合という
 のを頭に入れておりました。現実問題を踏まえた上で双方どう
 するかというところは、十分に腹に含んだ上で交渉に当たらね
 ばならぬと思っております。       ──麻生外務大臣
―――――――――――――――――――――――――――――
 この麻生答弁がきっかけになって、「北方領土二等分論」が出
てきたのです。実はこれは麻生氏自身のアイデアではなく、公明
党の元参院議員・高野博帥氏が提案したものなのです。高野議員
は2006年4月5日、参議院決算委員会で麻生外務大臣に対し
中国とロシアが戦略的パートナーシップを結ぶため、プーチン大
統領と胡錦濤国家主席との間で国境線問題がどのように解決され
たかについて説明しています。それが面積二等分のやり方なので
す。中国はベトナムとの間でもそのやり方で国境線を画定してい
るのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1999年の世論調査ですが、国民の80%は日ロ平和条約は
 不可欠(と考え)、しかし82%の人はその阻害要因は領土問
 題だと(考えている)、2000年の場合には二島返還が34
 %、四島返還が32%、二島返還の方が少し増えている。一方
 で26%の国民は日本は領土問題に固執すべきではないという
 意見も強くなりつつある。多くの日本人は日本とロシアのパー
 トナーシップ、友好関係、これが領土問題よりも重要だという
 こういう現実があります。         ──高野博帥氏
―――――――――――――――――――――――――――――
 つまり、高野氏は、日ロ両国が原則論をぶつけあって現状を固
定したままでいるよりも、双方の利益になる解決方法を考えると
き、ロシアのプーチン大統領が中国との間で行った面積二等分は
有効な方法で、日本の国民世論を考えても実現の可能性があると
説いたのです。
 麻生首相はこの案を支持し、ロシアに提案しています。200
8年2月、麻生首相が、日本企業も出資する原油・天然ガス資源
開発事業「サハリン2」の稼働式典に、メドベージェフ大統領の
招きに応じ、日本の首相として戦後初めてサハリン(樺太)を訪
問しています。そのときの麻生・メドベージェフ会談で、この案
が話題に上っています。メドベージェフ大統領は領土問題に関し
次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 「新たな独創的で型にはまらないアプローチ」の下で作業を
 加速したい          ──メドベージェフ大統領
―――――――――――――――――――――――――――――
 この面積二等分論については、2009年5月に来日したプー
チン首相も関心を持ち、次の発言をしています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 2009年7月のイタリアのラクイラ・サミットにおける日
 ロ首脳会談では、面積二等分論も含めて、あらゆるオプショ
 ンが議論されるだろう。        ──プーチン首相
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、麻生首相は、その直後に行われた衆院選挙で大敗し、
自民党と民主党の政権交代が起きたのです。ロシアとの領土交渉
を担う政権は、またしても一年で交代してしまったのです。メド
ページェフ大統領にとって、福田、麻生両首相に続いて3人目の
首相である鳩山由紀夫首相が登場してきたのです。
 「やっていられない」──ロシア側としてはこう考えても不思
議はないのです。既出の東郷和彦氏は、ロシア側が日本との領土
交渉について2006年頃にある決断をしたのではないかとして
次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 私は、2006年、ロシアが極めて重要な戦略的な決定をした
 のではないかと思う。日本との領土問題に決着をつける。その
 ために、交渉はする。「あらゆる可能な案」を協議する。同時
 に、四島の現状を放置しない。政府として責任をもつべき、四
 島の開発と住民の福利厚生は粛々と実現していく。いわば、日
 口領土問題という馬車を、「領土交渉」という馬と「四島のロ
 シア化」という馬との二頭立てで走らせる。その意味は、もし
 も「領土交渉」の馬が動かなくなったら、もはや、その馬は、
 日口領土問題の馬車からきりはなすということである。ロシア
 側がお願いしてまで領土交渉を日本とやる筋はないし、日本が
 そのことによって怒っても、ロシアを怖れさせる手立てを日本
 はもっていないという冷徹な判断である。
                ──保阪正康・東郷和彦共著
       『日本の領土問題/北方四島、竹島、尖閣諸島』
                  角川ONEテーマ21刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 この東郷和彦氏の指摘のように、2010年に入ると、日ロ関
係には暗雲が立ち込めるのです。いやなことが次々と起こり、遂
に2010年11月にメドページェフ大統領は、国後島をはじめ
て訪れたのです。ロシアは決断したのです。「四島のロシア化を
進める」──そして、2012年に再びプーチン氏が大統領に復
帰したのです。プーチン氏は早速領土交渉を柔道に喩えて「はじ
め!」と呼び掛けています。    ── [日本の領土/26]

≪画像および関連情報≫
 ●面積等分論に反対の理由/吹浦忠正の新・徒然草
  ―――――――――――――――――――――――――――
  毎日新聞が2007年2月26日付で、北方領土の「2島+
  α」返還論の岩下明裕・北大教授が当面「沈黙」を決断した
  理由について次のような解説記事を掲載している。北方領土
  問題の議論で昨年来、今までの4島一括返還論や2島先行返
  還論とは違う「2島+α」返還論が目立っている。火付け役
  とみられるのが岩下明裕北海道大教授(ロシア外交)の『北
  方領土問題』(中公新書)だ。だが、当の岩下教授は東京・
  日本記者クラブで開いた15日の講演を最後に、北方領土関
  連の公での発言を少し控えるという。この講演を前に、岩下
  教授は「学者がすべき問題提起は十分にした。あとは実務家
  が団結して、ロシアとの交渉にあたるべきだ」と話してくれ
  た。岩下教授の考えは「フィフティ・フィフティ」論ともい
  われる。たとえば、面積最大の択捉島以外の3島を返還させ
  るなど、日露双方の国としてのメンツ、国益、地元や旧島民
  の利益などを考量した上で、「島を分け合う」政治決断で問
  題を解決するものだ。(最後まで読む)
       http://blog.canpan.info/fukiura/archive/1592
  ―――――――――――――――――――――――――――

麻生元首相/メドベージェフ元大統領.jpg
麻生元首相/メドベージェフ元大統領
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2012年11月07日

●「ロシアは一島も返還する気はない」(EJ第3423号)

 麻生氏から政権を引き継いだ鳩山由紀夫首相は、北方領土交渉
としては、何をしたのでしょうか。
 2009年11月15日に、シンガポールで鳩山元首相はメド
べージェフ大統領と会談しています。この会談で次のようなやり
取りが行われたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 鳩山首相:2島返還では、どうしても国民も我々も理解できな
      い。それを超えた独創的なアプローチがあると期待
      している。
 メ大統領:ロシア国内には厳しい見方や世論がある。冷静な議
      論が必要である。戦後の結果については、地政学的
      に見直すことはできないが、日本との関係では、別
      問題と考えている。
―――――――――――――――――――――――――――――
 鳩山首相の真意は、「2島返還プラスアルファ」での解決案を
示唆したもので、これから北方領土での会談を通じて、アルファ
部分を詰める交渉をする意図があったと思われます。
 しかし、それにしてもメドベージェフ大統領の「地政学的に見
直すことはできないが、日本との関係では別問題」という発言は
ロシアとしては驚くべき柔軟発言です。ロシアは何に期待したの
でしょうか。
 それは、会談直後のラブロフ外相の次の発言によくあらわれて
いるといえます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 平和条約締結問題について「両首脳は何ら前提条件をつけるこ
 となく解決することで合意した。日本の政権はこの数年、平和
 条約締結問題を、経済協力進展などの問題の前提条件としてき
 たが、鳩山政権にはそれがない」と述べた。さらに、会談では
 日本側から「対ロ関係を戦略的パートナーとして発展させたい
 との姿勢が感じ取れた」とも強調した。  ──ラブロフ外相
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、日本側はラブロフ外相の「合意」を確認していないの
です。どうしてラブロフ外相はこれまで踏み込んだ発言をしたの
かというと、それは、鈴木宗男衆議院議員(当時)が代表を務め
る新党大地が民主党会派に加わって与党になっていることが非常
に大きいといえるのです。
 鈴木宗男氏は、二島先行返還主義者であり、ロシア側としては
民主党が政権を取った今こそ、領土問題をロシア側有利に解決で
きるとの読みがあったものと思われます。ロシア側は鈴木宗男氏
の存在を強く意識しているのです。
 2010年4月13日、鳩山首相はワシントン市内でメドベー
ジェフ大統領と会談し、われわれ首脳同士でこの問題を解決した
いと発言し、大統領も賛意を与えているのです。したがって、こ
の時点で鳩山首相は、首相を辞任するつもりはまったくなかった
と考えられます。
 しかし、その2ヵ月後に鳩山首相は辞任していますが、それで
も同年9月にはロシアを訪問し、メドベージェフ大統領と北方領
土問題を協議しているのです。もちろんこの会談では、実質的な
進展はなかったのですが、首相を降板しても外交交渉を行ってい
たことになるのです。
 鳩山政権の後の菅政権に対しては、ロシア側としては、東郷和
彦氏のいう二頭立て馬車を走らせるタイミングと考えたものと思
われます。領土交渉の馬と四島のロシア化の馬を走らせる。日本
側から要請があればあれば、いくらでも交渉に応ずる。しかし、
その間でも四島のロシア化はやめない。そのうち、日本はあきら
めるだろう。そのときは四島のロシア化は、きっと完成している
だろう──こういう決断です。
 菅政権登場後の7月2日、ハバロフスクで開催された「極東社
会経済開発とアジア太平洋地域との経済力会議」において、メド
ベージェフ大統領出席の下に、ラブロフ外相が演説を行ったので
すが、今後この地域での協力国として、韓国、中国、インド、モ
ンゴル、ASEAN、豪州、ニュージーランド、アメリカを上げ
ながら、日本を無視したのです。そして、同年の11月に、メド
ベージェフ大統領は国後島を訪問しています。それは、菅政権と
は領土交渉はしないというメッセージだったのです。
 1955年の日ソ共同宣言から57年が経過しても、まったく
進展しない北方領土交渉。ここまで見てきたように、日本側に多
くの外交上のミスはありましたが、ソ連もロシアも当初は解決す
る意思はあったと思われます。少なくとも冷戦が終わり、プーチ
ン氏が大統領になったときまでは、何らかのかたちで解決しなけ
ればならないと考えていたことは間違いないと思います。
 しかし、現在はその意思はないと考えます。もちろん交渉は続
けるべきですが、プーチン氏もメドベージェフ氏も現在では、交
渉には応じる姿勢は見せるものの、二島はおろか一島も返す意思
はないと思います。
 それは、メドベージェフ氏による大統領時代の2010年11
月の国後島訪問と首相に戻った2012年7月の国後島訪問がそ
のメッセージなのです。プーチン大統領はメドベージェフ首相と
は違うという人は多いですが、プーチン氏とメドベージェフ氏の
意思は通じています。まして7月の訪問は、プーチン氏が大統領
に復帰した後の訪問であるだけに、ロシアとしての意思を示した
ものと考えられます。
 なぜそうなるのかというと、たとえ日本に1島も返さなくても
日本側からロシア側が困るような反撃材料は何もないと考えてい
るからです。完全に足元を見られているのです。
 この12月に野田首相がロシアを訪問しますが、実質的な成果
は何もないでしょう。期待するだけムダです。次の選挙で首相に
なれないことが確実の野田首相と交渉しても時間のムダと考えて
いるからです。しかし、領土交渉という馬が動いている限りは、
ロシアは交渉に応ずると思います。その間に北方領土のロシア化
はどんどん進められます。     ── [日本の領土/27]

≪画像および関連情報≫
 ●凪論/鳩山内閣の北方領土交渉が進展しない理由
  ―――――――――――――――――――――――――――
  (日本の主張である「四島一括返還」)それが大きく歪めら
  れたのは、鈴木宗男元衆議院議員と佐藤優元外務省職員によ
  る対露外交が原因であった。鈴木宗男元衆議院議員と佐藤優
  元外務省職員は、歯舞、色丹の二島を先行して返還させ、し
  かる後に国後、択捉の二島を返還させる段階的な返還論を唱
  え、北方領土問題において四島一括返還を唱える末次一郎氏
  らと対立した。そして、ロシア大使などが同席する場で鈴木
  宗男元衆議院議員が末次一郎氏を面罵したことについては拙
  稿においても述べてきた。ロシアは日本側の足並みの乱れを
  認識するとともに、段階的返還論においてソ連の武力侵略へ
  の批判という日本側の最大のカードを失っていく様をほくそ
  えんでいたに違いない。そして鈴木宗男元衆議院議員と佐藤
  優元外務省職員が対露外交を仕切るようになって日本側の理
  は説得力を失い、ロシアが二島を返還する見通しすら見えな
  くなっていった。その結果、北方領土周辺海域で漁民がロシ
  アに銃撃されるという事件が繰り返され、ロシア大統領が北
  方領土を訪問を計画するというような危惧すべき事態へと至
  ったのである。鈴木宗男元衆議院議員、佐藤優元外務省職員
  の対露外交の失敗はこのように日本に取り返しのつかない損
  失を与えたのである。
  http://blog.livedoor.jp/patriotism_japan/archives/51588510.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

首相降板後の鳩山元首相/メドベージェフ大統領.jpg
首相降板後の鳩山元首相/メドベージェフ大統領
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2012年11月08日

●「『引き渡し』と『返還』とは異なる」(EJ第3424号)

 当然のことですが、日本人は北方領土は必ず返って来ると信じ
ています。それは尖閣諸島や竹島の比ではないと思います。実際
にそこに住んでいた人が大勢いるし、墓地もあるからです。明ら
かに北方領土は不法占拠されているのです。
 そのため、ロシアの首脳が少しでも返還に前向きに取れる発言
をすると、それを勝手に良い方向に解釈してしまう傾向がありま
す。メディアからしてそういう傾向があります。そのため、事態
を大きく読み誤ることがあるのです。
 しかし、一度実効支配下に置かれた北方四島と竹島は57年が
経過しても依然としてそのままの状態であり、返還されていない
のです。その点沖縄は、米軍基地こそ残っていますが、きちんと
返還されたのです。返還されて当然なのですが、密約の有無など
が取り沙汰されているとはいえ、返還されたことの重さを改めて
感ずるのは私だけでしょうか。
 それにしてもロシアは実にしぶとい国です。米国とは明らかに
違います。しかし、そのなかでは、プーチン大統領だけは、歴代
のロシアの指導者と比べると、返還に前向きともとれる発言を繰
り返しています。2度目の大統領に就任した今回も、北方領土に
ついてその交渉活性化を匂わせる発言をしています。それに釣ら
れて野田首相は12月に訪ロを計画しています。
 もし、領土交渉を大きく前進させられたら、民主党の支持率回
復につながるからです。これにも鈴木宗男氏が一枚噛んでいると
いわれています。鈴木氏は現在でも野田首相の北方領土問題のア
ドバイザーを務めているのです。
 しかし、ここにきて首脳会談自体に暗雲が立ち込めているので
す。どうやら、日本の国内事情を見透かしたロシア側が日程調整
や成果文書の作成を渋っているというのです。野田内閣は、事実
上「死に体」になっており、首脳会談をしても意味がないとロシ
ア側が判断しているものと思われます。
 それに首脳会談が実現しても、プーチン大統領が本当に領土問
題を前進させようとしているのかどうかを疑わせる事態が起きて
いるのです。それは、2012年7月3日に、メドベージェフ首
相が国後島を訪問していることです。
 メドベージェフ首相は、本当は国後島ではなく、択捉島に行く
予定だったのです。しかし、天候が悪化したので、予定を変更し
2010年に一度行っている国後島を再訪したのです。つまり、
北方領土なら、どこでもよかったということになります。メドベ
ージェフ首相は、明らかに政治的に北方領土を訪問したことにな
ります。それは、自分の国内での支持を高める狙いがあると考え
られます。
 なぜ、この時期に国後島に行ったのでしょうか。それは、メド
ベ―ジェフ首相の支持層である、領土問題の前進に反対するナシ
ョナリストや軍関係者の支持を高めるためとみられます。あるい
は、プーチン大統領と組んで、領土問題前進を期待する日本国内
の期待度を下げることも考えてのことと思われます。
 いずれにしてもメドベージェフ首相がプーチン大統領の意向を
無視して北方領土を訪問するはずがないのです。したがって、そ
れはプーチン大統領の意思でもあると考えるべきです。そこで、
プーチン氏が何をいっているか、冷静に分析してみる価値がある
と思います。プーチン大統領の発言を示します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 私たちは、柔道家として、勇気ある一歩を踏み出さなくてはな
 りません。しかしそれは、勝つためであって、負けるためでは
 ありません。この状況では、奇妙に思えるかもしれませんが、
 私たちは勝利を得ようとしてはなりません。この状況では、私
 たちは受け入れ可能な妥協が必要です。何か「ヒキワケ」に類
 するものです。ソ連は、日本との長い交渉の末に、1956年
 に共同宣言に調印しました。この宣言には、2島を平和条約締
 結後に引き渡すと書かれています。つまり平和条約が意味する
 ことは、日本とソ連との間には、領土に関する他の諸要求は存
 在しないということです。そこ(56年宣言)には、2島がい
 かなる諸条件の下に引き渡されるのか、またその島がその後ど
 ちらの国の主権下に置かれるかについては書かれていません。
 これ(56年宣言)は日本の国会とソ連の最高会議で批准され
 ました。つまり、基本的にこの宣言は、法的効力を有するよう
 になったのです。           ──プーチン大統領
        ──袴田茂樹氏/「日経ビジネスオンライン」
 http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20120307/229577/?P=1
―――――――――――――――――――――――――――――
 プーチン大統領はこう考えているのです。プーチン発言の真意
は次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.歯舞/色丹2島の引き渡しに合意した日ソ共同宣言のみ
   が法的拘束力のある取り決めである
 2.平和条約締結後に歯舞/色丹を引き渡すとしてもそれは
   主権を日本に渡すことを意味しない
―――――――――――――――――――――――――――――
 これは、驚くべきことをいっています。法的拘束力のあるのは
「歯舞/色丹2島の引き渡し」だけであって、択捉・国後両島は
無関係であるというのです。
 しかも、「引き渡し」は「主権の引き渡し」を必ずしも意味し
ないといっているのです。これによると、平和条約の締結によっ
て、日ソ共同宣言にある歯舞/色丹2島が日本に引き渡されても
主権については、ロシアに残ることもあり得るといっているので
す。あくまで「引き渡し」であって、「返還」ではないというの
です。それどころではないのです。最近のロシアでは、2島を引
き渡してまで、日本と平和条約を締結する必要などないという強
硬論が浮上しているのですが、日本のメディアはわかっていても
そういうことを一切伝えようとはしていないのです。それにして
も、日本も甘く見られたものだとつくづく感じます。
                 ── [日本の領土/28]

≪画像および関連情報≫
 ●ニュースの真相/メドベージェフの国後島訪問
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ロシアのメドベージェフ首相が北方領土の国後島を訪問し、
  「一寸たりとも渡さない」と強硬な発言をしました。プーチ
  ン大統領はかつて、「引き分け」という言葉を使って領土問
  題の解決に前向きな姿勢を示し、日本側の期待も高まってい
  ただけに、今回の発言は日本に改めて揺さぶりをかけようと
  いう思惑もうかがえます。ロシア・メドベージェフ首相は、
  「ここはもともとロシアの領土なんだ。一寸たりとも渡さな
  い」メドベージェフ首相は2012年7月3日、複数の閣僚
  を引き連れて国後島を訪問し、水産加工場や病院などを視察
  しました。訪問後にはツイッターに「国後島はロシア最果て
  の地」と写真つきで投稿し、北方領土の実効支配をアピール
  しました。プーチン大統領が柔軟姿勢を見せる傍ら、強硬姿
  勢を保つ「役割分担」ではないかとの見方も出ています。ロ
  シア・ラブロフ外相/「日本の隣人は、ロシアの立場を十分
  知っている。我々は隠してもいない。平和条約問題のなかで
  説明してきたし、これからもしていく」。一方、ラブロフ外
  相は、今月にも検討されている外相会談には影響がないとの
  考えを示しています。
     http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20120706/1341535299
  ―――――――――――――――――――――――――――

プーチン大統領/メドベージェフ首相.jpg
プーチン大統領/メドベージェフ首相
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2012年11月09日

●「プーチンは領土問題を譲らない」(EJ第3425号)

 11月8日の朝のテレビで、「12月の日ロ首脳会談延期」の
報道が流れたのです。日ロ首脳会談は、今年の9月8日にロシア
のウラジオストクで野田首相はプーチン大統領と会談し、12月
にロシアを訪問したいとの意向を表明したところ、プーチン氏は
「歓迎する」と応じたもので、これを延期するというのは、ロシ
ア側が野田政権を見限ったことを意味します。
 おそらくロシアは日本国内の政治状況を調べたものと思われま
す。野田首相が野党から解散を迫られ、総選挙になれば政権に復
帰するのはほとんど困難と考えられる状況の首相と大事な会談を
して約束しても、ロシアとしては意味がないと考えても不思議は
ないのです。
 野田首相としては、日ロ交渉で何らかの成果を上げて、政権浮
揚につなげたいと考えており、少しでも成果が出れば、その勢い
で解散に打って出るつもりだったのでしょう。しかし、首脳会談
延期ということになると、野田政権はさらに追い込まれるのは確
実な情勢です。
 ロシア問題に詳しい袴田茂樹・新潟県立大学教授のレポートに
よると、プーチン大統領の本意は、「領土問題を棚上げして経済
交流を活発化させる」というものであり、北方領土に関しては次
のように述べているに過ぎないのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       外交当局間で議論させる用意がある
―――――――――――――――――――――――――――――
 つまり、ロシア側にとって領土問題は日本と交渉するさいの通
過儀礼なのであって、本気で議論する気など、さらさらないので
す。プーチン氏は日本の経済協力を得るためにポーズとして北方
領土問題の話し合いに「ハジメ」の合図を出したに過ぎない──
袴田教授はこのように述べているのです。
 さらに袴田教授は、東郷和彦氏のプーチン大統領の発言のとら
え方について、鳩山由紀夫氏ではないが、「宇宙人」のような現
実感覚を欠いていると厳しく批判しています。東郷氏の発言とは
次のとおりです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 (プーチン氏は)領土問題を解決し、経済関係を発展させ、日
 ロ関係を大きく動かしたいとの明確なシグナルをだした。もし
 これからの1年ほどの間に、日本側がこのシグナルを見落とし
 領土問題を解決することができないなら、わが国は千載一遇の
 機会を失することになる          ──東郷和彦氏
      『アジア時報』毎日新聞社/2012年6月号より
―――――――――――――――――――――――――――――
 どうも日本人は、領土問題に関しては当該国の首脳の発言に一
喜一憂し、彼らから少しでも前向きな発言が出ると、どうしても
それに過度の期待を抱いてしまうものです。しかし、東郷和彦氏
は、長期の日ロ交渉に携わった経験から、プーチン発言に一縷の
可能性を見ており、交渉の好機ととらえたのであって、過度の期
待などは抱いていないと私は思います。この点については、後で
述べることにします。
 しかし、袴田教授は、日本との領土問題に関するロシア人の考
え方は、非常に厳しいものがあることを強調しています。袴田教
授は、最近ロシア下院の国際問題委員長に就任したアレクセイ・
プシコフ氏と会い、意見交換したさいに、日本との領土問題につ
いて次のやりとりをしたことを明らかにしています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 プシコフ:(領土問題の解決は)永遠に不可能とは言わない
      が、中国的な時間の物差しで考える必要がある。
 袴田教授:1000年を1年とみるということか。
 プシコフ:そうだ。
  ──「日経ビジネスオンライン」掲載の袴田茂樹氏の論文
http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20120424/231349/?P=2
―――――――――――――――――――――――――――――
 なぜ、ロシアは日本との領土交渉に意欲を示さないのか──こ
の理由について、袴田教授は、最近日本で翻訳書が出版されたモ
スクワ・カーネギーセンター長のドミトリー・トレーニン氏の次
の意見を紹介しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ロシア側は今この問題で動くことに利益を感じていない。日本
 はいま脅威ではなく、将来も脅威とならないからだ。
 ──ドミトリー・トレーニン著、『ロシア新戦略』/作品社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 つまり、ロシアにとって日本は脅威ではないのです。したがっ
てプーチン大統領としては、領土問題を一時棚上げにして、経済
交流を活発化し、国と国の関係が、お互いに信頼し合える状態に
なったら、島の返還もありうることを示唆しています。もちろん
その中には北方四島の共同開発事業というものも含まれてくると
思われます。
 確かに領土問題が存在する国同士の関係は、けっして「信頼し
合える状態」にはならないものです。したがって、しばらく領土
のことは差しおいて、やれることから手をつけようではないかと
いうのがプーチン大統領の考え方です。
 現在、日本にとって最大の脅威は中国です。そして最大の懸念
は、中国とロシアが手を組むことです。もっと具体的にいうと、
中ロ同盟によるユーラシア大陸の席巻です。もともと中ロは、最
近のシリア情勢を見ても、連携がみられます。したがって、日本
の戦略としては、その中国とロシアの間にクサビを打ち込んでお
くことが必要になります。そのために、日本が領土問題を逆手に
とってロシアと組むことも考えられるのです。
 ロシアにとっては、日本との経済交流は十分メリットがあるの
です。だからこそ、四島を完全に実効支配していても、交渉に応
じようとしているのです。よほどのことがない限り、「領土問題
は存在しない」とはいわないのです。それはロシアにとってそれ
だけのメリットがあるからです。  ── [日本の領土/29]

≪画像および関連情報≫
 ●「12月の日ロ首脳会談延期/NHKニュース」  
  ―――――――――――――――――――――――――――
  野田総理大臣は、北方領土問題の解決に向けて、来月、ロシ
  アを訪問し、プーチン大統領と会談したいとしていましたが
  ロシア側から、日程の調整がつかないなどとして、会談の延
  期を打診され、政府は、12月の訪問を見送る方針を固めま
  した。野田総理大臣は、ことし9月にロシアのウラジオスト
  クで行ったプーチン大統領との会談で、北方領土問題の解決
  に向け、来月をめどにロシアを訪問し、改めて首脳会談を行
  うことで一致しました。これを受けて政府は、ロシア側と外
  相会談や次官級の協議を行うなどして、首脳会談の日程や議
  題などの調整を進めてきました。しかし、政府関係者により
  ますと、ロシア側から「ほかの外交日程が立て込んでおり、
  日程の調整がつかない」などとして、来月の会談の延期を打
  診されたということで、政府は、対応を検討した結果、野田
  総理大臣の来月のロシア訪問を見送る方針を固めました。ロ
  シア側は、プーチン大統領が多忙で、健康状態が必ずしも万
  全ではないなどと伝えてきているということですが、政府内
  では、ロシア側が衆議院の解散を巡る日本の政局の行方を見
  極めようとしているのではないかという見方も出ています。
                ──NHKニュース・ウェブ
  ―――――――――――――――――――――――――――

野田首相訪ロ見送り.jpg
野田首相訪ロ見送り
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2012年11月12日

●「東郷和彦氏による領土交渉3原則」(EJ第3426号)

 日本は3つの領土交渉を抱えている国です。ロシアに対しては
北方領土、中国に対しては尖閣諸島、そして韓国に対しては竹島
──この3つがあるのです。しかし、この問題に対処する外務省
には領土交渉を行うさいの基本原則がないといわれます。
 その基本原則について、東郷和彦氏は次の3原則で領土交渉を
行うべきであると提案しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1原則:領土の現状を変更しようとする国は力によって行
      動してはならない
 第2原則:実効支配している国は、相手国との話し合いには
      応じるべきである
 第3原則:両国が知恵を出して、衝突にいたらないようなメ
      カニズムを考える
                ──保阪正康・東郷和彦共著
       『日本の領土問題/北方四島、竹島、尖閣諸島』
                  角川ONEテーマ21刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本は尖閣諸島を実効支配していますが、「尖閣諸島は日本の
固有の領土であり、日中両国間には領土問題は存在しない」とし
て中国との話し合いには応じていません。
 韓国は竹島を実効支配していますが、日本の尖閣問題と同様に
「日韓両国間には領土問題は存在しない」として話し合いは拒絶
しています。日本が国際司法裁判所(ICJ)に提訴しようとし
ても、韓国は一切応じようとはしないのです。
 しかし、ロシアはどうでしょうか。ロシアは北方領土を実効支
配していますが、日本との話し合いについては、EJでここまで
述べてきたように、何回も応じてきています。つまり、ロシアは
第2原則を守っているといえます。
 確かに、例えば尖閣諸島の問題のように、いくら日本が「領土
問題はない」と強弁しても、中国も「ここはわが国の領土だ」と
主張して、毎日のように日本の領海や接続水域に公船を繰り出し
てきています。当然のことながら、日本も巡視艇を出して領海の
外に出るよう警告しています。
 しかし、尖閣諸島には灯台や港などの日本の構築物はなく、人
も住んでいないので、歴史的事情を知らない国から見ると、日本
と中国のどちらの主張が正しいのか、わからないはずです。どち
らも同じ条件だからです。
 少なくともいえることは、尖閣諸島の領有権をめぐって、日本
と中国の間には「争いがある」ことは明らかです。外国から見る
と、そのように見えます。
 しかし、日本は、相変わらず、「固有の領土であり、争いはな
い」という主張を繰り返すのみです。したがって、東郷氏の領土
交渉の3原則にしたがえば、ここは領土問題があることを認めて
話し合いをするしかないのです。
 この点について、元外務省国際情報局長である孫崎亨氏は次の
ように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 まず大切なことは、尖閣諸島は係争地であるという認識に立つ
 ことです。米国の立場を考えても、それは明らか。米国は領有
 権問題に関しては「中立だ」と言っているわけです。問題のな
 いところに「中立」というものが存在しますか?係争地である
 ことを出発点にすれば、次は日本がどうやって実効支配を続け
 ていくか。そこで「棚上げ」論です。「棚上げ」によって、日
 本は有利な立場にいられたのです。このメリットを、いま一度
 考え直すことが大事です。          ──孫崎亨氏
                『朝日朝日』10月12日号
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本の領土問題──北方領土、竹島、尖閣諸島の3つのうち、
ここまで北方領土について述べてきましたが、明日のEJから次
の領土問題である竹島問題を取り上げます。
 北方領土についてまとめておきます。どういう状況で日本は終
戦を迎えたのでしょうか。10月16日のEJ第3407号を読
んでいただきたいのですが、いわゆる北方領土の日本の領有権は
次のようになっていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    1.南樺太
    2.千島列島
    3.択捉島・国後島以南の北海道までの島嶼
―――――――――――――――――――――――――――――
 敗戦した以上、戦争によって獲得した領土は返還するのは当然
のことですが、本来それは日露戦争で獲得した「南樺太」だけな
のです。もともと樺太は日本とロシアの共同保有島でしたが、日
本はロシアとの外交交渉を通じて、樺太の領有権を放棄する条件
として、千島列島(北千島)を日本領にしたのです。
 しかし、当時のルーズベルト米大統領は、千島は日本が日露戦
争で獲得したものと勘違いして、ヤルタ会談で次の秘密協定を結
んだのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 南樺太およびクリ―ル諸島(千島列島)全島のソ連への返還
―――――――――――――――――――――――――――――
 もちろんヤルタ会談などは日本抜きで進めた協定であり、日本
はそれに縛られる必要はないのですが、ソ連は「クリ―ル諸島」
という自国の言葉と「千島全島」という日本名称を巧みに使って
拡大解釈できるように巧妙な仕掛けを施したのです。
 千島列島は北千島と南千島に分かれ、南千島には択捉・国後が
入るのです。それを「千島全島」という表現で、択捉・国後を占
拠し、クリ―ル諸島というロシアの独自の表現で、歯舞諸島と色
丹島まで占拠したのです。明らかにこれは不法占拠です。
 日本人はこの歴史的事実を踏まえたうえで、今後のロシアとの
交渉を続けて行く必要があります。明日のEJから、竹島の問題
を取り上げます。         ── [日本の領土/30]

≪画像および関連情報≫
 ●なぜアメリカは北方領土交渉を阻むのか
  ―――――――――――――――――――――――――――
  日本政府はこれまで、ロシアに対して北方領土四島の返還を
  求めてきました。歯舞・色丹の二島を先行して取り戻すか、
  四島を一括で取り戻すかの違いはあるものの、四島全てを取
  り戻すという点においては世論の同意も得ているように思い
  ます。しかし、日本の四島に対する立場は必ずしも一貫した
  ものではありません。実際、日本政府は当初、サンフランシ
  スコ平和条約において国後島と択捉島を放棄したという立場
  をとっていました。また、鳩山一郎政権において外務大臣に
  就任した重光葵も、歯舞・色丹の二島返還によってソ連と手
  を打とうとしていました。しかし、それに対してアメリカの
  ダレス国務長官が、もしソ連に譲歩して国後・択捉を諦める
  なら、沖縄に対する日本の潜在主権は保障できないと警告し
  てきたのです。いわゆる「ダレスの恫喝」です。近年の研究
  や公開された公文書から、ダレスの介入には主として二つの
  理由があったことが分かっています。一つはアメリカの沖縄
  支配を確実にすること、もう一つは日本とソ連の和解を阻止
  することです。─『サンフランシスコ平和条約の盲点』参照
   http://ameblo.jp/gekkannippon/entry-11365925926.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

東郷和彦氏.jpg
東郷 和彦氏
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2012年11月13日

●「鬱陵島と竹島の複雑な関係」(EJ第3427号)

 「竹島」というのは、どこにあるのでしょうか。
 竹島は、日本海の隠岐諸島の北西方にある「絶海の孤島」──
2島37岩礁からなる島嶼です。「竹島」は日本名ですが、韓国
では「独島(トクト)」と呼ばれています。竹島は、島根県隠岐
郡隠岐の島町に属している島ですが、現在、韓国によって実効支
配されています。
 竹島は、韓国と日本のちょうど中間にある島ですが、島根県松
江市からは約220キロ、隠岐諸島からでも160キロの距離が
あります。しかし、韓国からは215キロと日本より少し近いし
まして韓国領の鬱陵島からなら、98キロと韓国領にきわめて近
い島です。
 竹島問題を考えるとき、鬱陵島のことをよく理解する必要があ
ります。少しややこしい話ですが、この鬱陵島のことを日本では
「竹島」と呼んでいたからです。それでは、現在の竹島は何と呼
んでいたかというと、「松島」と呼んでいたのです。
 鬱陵島は、朝鮮半島から115キロの海上にあり、島の大きさ
は70キロ平方メートルです。この島は、西暦512年以来、朝
鮮の支配下にある島ですが、李氏朝鮮は、この島への渡航を禁止
していたのです。それには、次の2つの理由があったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
         1.税金逃れを防ぐこと
         2.倭寇から島民を守る
―――――――――――――――――――――――――――――
 当時の李氏朝鮮では、税金から逃れるため、鬱陵島に渡って暮
らす者がおり、この脱税者を防ぐため、法律で渡航を禁止したの
です。これが第1の理由です。
 第2の理由は倭寇から島民を守るためです。「倭寇」というの
は、13世紀から16世紀にかけて、朝鮮半島や中国大陸の沿岸
部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊のこと
であり、「海乱鬼(かいらぎ)」と呼ばれていたのです。
 これにもうひとつの事実を認識しておく必要があります。それ
は朝鮮にとって鬱陵島は遠隔地の島であり、朝鮮政府の公船でも
渡航が困難だったのです。船に問題があったからです。
 そのため、島の監視もほとんどできない状況にあったのです。
当時の朝鮮の船に比べると、江戸時代の日本の船は、はるかに進
んでいて、朝鮮よりも距離的に遠い鬱陵島に行くことができたの
です。実はこのことは尖閣諸島についてもいえることであり、果
たして当時の中国や台湾の船で尖閣沖まで漁に行けたのかどうか
疑問なのです。尖閣諸島の海域は現在でも難所だからです。この
点については改めて検証することにします。このような理由から
朝鮮政府によるこの「無人島政策」は、1438年から1881
年まで、実に443年間にわたって続けられたのです。
 17世紀の初頭のことですが、伯耆国(現・鳥取県)米子の海
運業者だった大谷甚吉が航海中に暴風に遭い、無人島になった鬱
陵島に漂着したのです。島を探検したところ誰も住んでいないの
で、新島の発見と考えて、帰国後、同志の村川市兵衛とはかって
1618年に江戸幕府(1603〜1868)から鬱陵島への渡航
許可を受けたのです。島名は「竹島」と名付けたのです。
 大谷、村川両家は、その後毎年交替で鬱陵島に渡り、アシカ猟
やアワビの採取、木材の伐採などを行い、両家の鬱陵島の経営は
実に78年間続けられたのです。この鬱陵島に渡るには、隠岐島
から「松島」という島──現在の竹島を中継地として使っていた
のです。大谷、村川両家がこの松島において、漁猟地やアシカ猟
を行っていたという記録が残っています。
 ところがあるとき、江戸幕府の許可を得た隠岐の漁師たちが密
猟にきていた朝鮮人を見つけ、日本へ連行したことがあったので
す。この事態を受けて、幕府が李氏朝鮮に抗議すると、李氏朝鮮
は、西暦512年以来、この島(鬱陵島)は朝鮮の領土だと主張
して、長期間にわたってもめたのです。
 しかし、17世紀末の徳川5代将軍綱吉は、朝鮮のいい分を認
め、日本からは島に渡航させないことを朝鮮に伝えたのです。こ
れによって、江戸時代の竹島問題は決着したのです。
 当時の日本の船舶がかなり頻繁に鬱陵島まで出かけていた事実
から、鬱陵島のはるか手前にある松島(現在の竹島)の存在には
当然気がついており、上陸をしたり、アシカ漁やアワビの採取な
どもやっていたのです。将軍綱吉の命により鬱陵島には行けなく
なったので、松島に上陸していたものと思われます。そのため、
自然にこの島を「竹島」と呼ぶようになったのです。
 1905年になって、明治政府は竹島(鬱陵島)を島根県に編
入しています。具体的には、1905年1月28日に閣議決定を
しているのです。そのさいその原文には、この島を日本の領土と
する経緯が書かれているのですが、その文中に、中井養三郎とい
う漁師がこの島に住み、島について種々の調査をしていることが
記されているのです。竹島は無人島ですが、実際にこの島に渡り
住んでいた日本人がいたことが重要な理由になっているのです。
 この中井養三郎という人物について、保阪正康氏は自著で次の
ように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 中井と称する漁業者はこの島がどのような特徴をもち、自分が
 調査したところ誰にも所有されたことがなく、それゆえに今後
 は大いに利用していきたい旨の記述も行っている。この申請書
 を読む限り、竹島は二つの特徴をもっていることがわかる。ひ
 とつは、この島は「中井養三郎という漁業者の尽力」により、
 脚光を浴びたことであり、もうひとつはこの島自体がもつ特徴
 は「中井」によって調査され、その努力で島根県に編入された
 という事実である。今にして思えば、この中井という人物の功
 績は大きいということになろうか。
       ──保阪正康著/「歴史でたどる領土問題の真実
         /中韓露にどこまで言えるのか」/朝日新書
―――――――――――――――――――――――――――――
                 ── [日本の領土/31]

≪画像および関連情報≫
 ●竹島単独提訴・韓国の対応見極め/韓国側相当嫌がっている
  ―――――――――――――――――――――――――――
  島根県・竹島の領有権をめぐる国際司法裁判所(ICJ)へ
  の単独提訴について、政府は訴状の準備作業を月内にも終え
  た上で、即日提訴はせず、韓国側の出方を見極める方針を固
  めたことが11月4日、分かった。複数の政府関係者が明ら
  かにした。単独提訴を外交カードとして準備・温存し、韓国
  政府の慎重な対応を引き出す考えだ。外務省幹部は「訴状の
  準備作業はほぼ終わったが、提訴時期は政治判断」と指摘。
  日韓外交筋は「単独提訴は重要な外交ツール。最も効果的な
  時期を狙って提訴する」と強調した。韓国大統領選を12月
  に控え、争点となるのを回避する狙いもある。また、韓国側
  が関係修復に向け積極的な動きをみせれば、来年2月の新政
  権発足以降も単独提訴を留保する可能性もあるが、政府関係
  者は「仮に李明博大統領がもう一度竹島に上陸すれば、すぐ
  さま単独提訴に踏み切るだろう」と説明した。日本政府は李
  大統領による竹島不法上陸を受け、8月にICJへの共同付
  託を提案。韓国側がこれを拒否したため、単独提訴に向けた
  準備を進めてきた。単独提訴しても韓国側の同意がなければ
  裁判は始まらないが、韓国側には拒否理由を説明する義務が
  生じる。ただ、最近は日韓関係の緊張緩和が進んでおり、外
  相会談や事務レベルの対話が進展。9月の国連総会で韓国の
  金星煥外交通商相が行った演説では、竹島や慰安婦問題への
  言及を避け、日本を名指しで批判することもなかった。
  http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121105/plc12110508330004-n1.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

竹島(韓国名/独島).jpg
竹島(韓国名/独島)
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2012年11月14日

●「日本、清国、ロシアの3国関係」(EJ第3428号)

 「竹島」は、1905年(明治38年)1月28日、島根県隠
岐島司の所管の島として閣議決定し、日本領になっています。日
本側は、その時点で竹島は持ち主のいない無主地であったとして
います。これに対して韓国側は、あくまで独島(竹島)は無主地
ではなく、韓国領であると主張しています。そのため、島根県へ
の編入は無効であるというのです。日本と韓国の主張を対比して
みることにします。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ≪日本側≫
  ・竹島は、歴史的事実に照らして、かつ国際法上も明らか
   にわが国固有の領土である
 ≪韓国側≫
  ・歴史的、地理的背景に照らしても領土所有権に関する国
   際法の通念からみても独島は韓国領土の一部であること
   に異論の余地がない
―――――――――――――――――――――――――――――
 この問題には、日清・日露戦争が深くからんでいます。この2
つの戦争の年代を示しておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
     日清戦争:1894年8月〜1895年3月
     日露戦争:1904年2月〜1905年9月
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで添付ファイルを見ていただきたいのです。この絵は、当
時の日本、清国(中国)、ロシアの関係を巧みに描いています。
日本と清国が互いに釣って捕らえようとしている魚を大国ロシア
も狙っている──そのような構図の絵です。魚をよく見ると、コ
リアと書いてあります。
 日本にとっては、当時の大国である清国とロシアがともに朝鮮
半島を狙っており、もし、朝鮮半島がどちらかの手に落ちると、
日本の安全保障上きわめて深刻な事態に陥ると考えたのです。
 実は、EJでは、「日露戦争の真実」(全50回/EJ第17
07号〜EJ第1758号)を記述しています。この連載の第2
回「EJ第1708号」で、当時の日本、清国(中国)、ロシア
の関係について書いているので、引用します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日清戦争の前の話ですが、清国は朝鮮を属国と考えており、ロ
 シアは朝鮮に対して強い野心をいだいていたのです。このよう
 な状況に対し日本は、自国の安全保障のために朝鮮半島の中立
 を望んでいたのです。そこで、日本は清国と力のバランスを図
 ろうとしたのですが、清国は日本の思うようにはならず、朝鮮
 に対し、宗主権を誇示しようとしていたのです。また、帝政ロ
 シアは、シベリアを手中におさめ、沿海州、満州をその制圧下
 に置こうとしていたのです。さらにその余勢を駆って、朝鮮を
 もその影響下に置こうと狙っていたのです。当時の日本から見
 れば、ロシアはもちろんのこと、清国も大国であり、強い危機
 感を感じていたのです。もし、朝鮮半島がこれら大国の属国に
 なると、日本は玄界灘を隔てるだけで、強力な帝国主義国家と
 対峙することになる――こういう事態だけは絶対に避けたかっ
 たのです。  ──EJ第1708号/2005年11月1日
http://electronic-journal.seesaa.net/article/8834006.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで、日清戦争がなぜ起こったかについて述べることにしま
す。清国は李氏朝鮮に対して宗主権を持っており、朝鮮を属国と
みなしていたのです。そのため、何か事が起きると、朝鮮は清国
に頼ることが多かったのです。日本としては、そういうことが繰
り返されることによって、清国が事実上朝鮮を支配する構図がで
きてしまうことを懸念して、清国との間に「天津条約」を締結す
るのです。つまり、朝鮮を中立状態に置くため、力のバランスを
取ろうとしたのです。1885年のことです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ≪天津条約≫
 朝鮮国に内乱や重大な変事があった場合、両国もしくはそのど
 ちらが派兵するという必要が起こったとき、互いに公文書を往
 復しあって十分に了解をとること。乱が治まったときは直ちに
 撤兵する
―――――――――――――――――――――――――――――
 そういうときに朝鮮で東学党が勃興したのです。東学党という
のは、「日本や欧米の列強を退けて義を行う」をスローガンとし
て掲げ、西学――キリスト教や儒教に対抗する朝鮮独自の学問を
目指す秘密結社「東学」が政治改革団体化したのです。
 1894年2月に、朝鮮全羅道で東学党のリーダーが指揮する
農民一揆が起こり、あっという間に全羅道一円に拡大し、5月末
には全羅道首府の全州に入場する事態になります。いわゆる甲午
農民戦争と呼ばれる戦争が起こったのです。
 この事態に動揺した朝鮮政府は、清国に出兵を要請します。こ
れを受けて清国は、一応「天津条約」にしたがって、日本には軍
を出すことを通告はしたものの、3000人の兵をソウル南方約
80キロの牙山まで進出させ、そのまま居座ったのです。
 日本としては、これを放置すると、朝鮮における清国と日本の
パワーバランスが変化し、朝鮮半島が清国の支配下に置かれてし
まうことになります。これに危機感を感じた日本は、多くの反対
はあったものの、1894年7月17日に朝鮮半島に出兵し、清
国との戦争に突入したのです。これが日清戦争です。
 時の外相陸奥宗光や小村寿太郎らは、清国の実情が既に「死に
体」になっていることを見破っており、戦争に反対する伊藤博文
総理を説得して開戦に踏み切っています。
 日本軍が圧倒的に強かったのか、清国軍が弱過ぎたのかわかり
ませんが、戦争はワンサイドに日本が勝ち続けのです。これには
世界が目を見張ったのです。そして、11月21日に難攻不落と
いわれていた旅順を1日で落とすと、清国側はたまらず、講和を
申し入れてきたのです。      ── [日本の領土/32]

≪画像および関連情報≫
 ●日清開戦と戦いの行方
  ―――――――――――――――――――――――――――
  漢城(ソウル)近くの豊島(ブンド)沖の海戦で日清両国が
  激突し、ここに日清戦争がスタートしました。そして8月1
  日になって日本が宣戦布告。さらに9月に清が朝鮮における
  拠点としていた平壌(ピョンヤン)を陥落、さらに黄海の海
  戦では、清ご自慢の北洋艦隊を撃ち破り、定遠を撃沈。さら
  に、旅順、威海衛を占領します(なお、旅順占領で大山巌の
  部隊が多数の非戦闘員を殺害したとして、ニューヨークワー
  ルド紙に掲載され、世界中から非難されます)。また、北洋
  艦隊の提督だった丁汝昌は服毒自殺をして亡くなっているの
  です。李鴻章も、さらには諸外国も「まさか清が負ける」と
  は思っていなかったようで、この敗戦は大きな衝撃を与えま
  した。同時に、日本には清に対する侮蔑の念も植え付けるこ
  とになります。福沢諭吉でさえ「文明と野蛮の戦い」とする
  など、これまで中国から影響を受け続けてきた潜在的な劣等
  感の裏返しが表れたと考えられます。
       http://www.uraken.net/rekishi/reki-chu31.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

1887年の風刺画.jpg
1887年の風刺画

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2012年11月15日

●「ロシアとの外交交渉の暗闘」(EJ第3429号)

 1895年4月17日に下関講和条約が締結されたのです。そ
の結果、日本が清国から得られるはずのものは、日本国民を十分
に満足させる内容だったのです。条約の要点は6つありますが、
とくに重要なものは次の2つです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1.清国は朝鮮の完全無欠なる独立を確認すること
   2.清国は、遼東半島、台湾、澎湖島を日本に割譲
―――――――――――――――――――――――――――――
 1(朝鮮半島の中立)に関しては、安全保障上日本が目指して
きたものであり、日清戦争も日露戦争も、日本はそのために戦っ
たといっても過言ではないのです。これによって、ロシアの南下
を防ぐことが可能になるからです。
 2の遼東半島の割譲についても、日本にとっては、ロシアの南
下を防ぐ狙いがあるのです。とくに陸軍は遼東半島の割譲にこだ
わり、海軍は台湾を求めたといわれています。なぜなら、ロシア
は冬でも凍らない不凍港を持っていなかったので、どうしても遼
東半島が欲しかったのです。ウラジオストック港は冬の間は凍結
してしまうので使えないからです。
 そのため、日本としては、戦略上ロシアに不凍港を与えないよ
う遼東半島の割譲を求めたのです。不凍港を手に入れない限り、
ロシアはいくらシベリア鉄道を持っていても東アジアに勢力を拡
大できないからです。
 ところが、下関条約の締結によって既得権が侵害されるとする
3国が海軍を東アジア海域に進出させ、日本に次のような勧告を
突き付けてきたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 遼東半島を日本にて所有することは常に清国の都を危うくす
 るのみならず、これと同時に朝鮮国の独立を有名無実となす
 ものにして、右はながく極東永久の平和に対し、障害を与え
 るものと認む。   ──ロシア・ドイツ・フランスの公使
―――――――――――――――――――――――――――――
 フランス、ドイツは巡洋艦を派遣してきただけですが、ロシア
は巡洋艦に加えて戦艦まで繰り出し、さらにロシア陸軍約3万が
臨戦態勢をひき、ロシアとドイツの艦隊が合同演習を実施するな
ど、日本に対する示威行為は露骨を極めたのです。勧告を受け入
れないなら攻撃するぞという脅しです。1895年4月23日の
ことであり、これを「三国干渉」と呼んでいます。
 ちょうどそのとき、日本海軍の連合艦隊は台湾付近に遠征して
おり、陸軍野戦軍のほとんどは中国大陸の戦場にいて、日本列島
はガラ空きの状態で、とても戦えるような状況ではなかったので
す。それに伊藤博文首相は非常に弱気の人物であり、加えて明治
天皇も反対だったのです。もっともロシア、ドイツ、フランスに
しても日本と本気で戦端を開くつもりなどなかったのです。
 日本政府は結果として、1895年5月4日の閣議で三国干渉
受け入れを了承し、翌日に3国の公使に通告しています。しかし
天皇の詔は、さらに5日後の5月10日に全国民に伝達されたの
ですが、国民の落胆ぶりは尋常ではなかったのです。しかし、陸
奥宗光、小村寿太郎、川上操六らは、この国民の怒りを対ロシア
戦争にうまく誘導しようとしたフシがあります。彼らはいずれロ
シアとは戦うことになるだろうと考えていたからです。
 しかし、韓国宮廷はこの三国干渉の結果を見て、日本がロシア
に屈したと考えて、王后である閔妃(ミンピ)はロシアの保護を
得て、独自勢力の温存を図ろうと画策します。強い方についた方
がトクと判断したわけです。
 これに対して駐韓日本公使の三浦梧楼陸軍中将は、韓国王の父
親を擁立してクーデターを起こし、首都・漢城(ソウル)の王宮
に日本人の浪人を乱入させ、閔妃を殺害してしまったのです。乙
未(いつみ)事変です。1895年10月8日のことです。
 ところが、妻を殺され、実父に政権を奪われたかたちの韓国王
は、身の危険を感じて、駐韓ロシア公使ウェーバーを頼ってロシ
ア公使館に逃げ込んだのです。これによって、日本とロシアの関
係は一段と険悪化します。
 この事態を重く受け止めた枢密院議員山縣有朋は、1896年
5月26日に開催されたロシア皇帝ニコライ二世の戴冠式のさい
にモスクワを訪問し、ロシアの外相ロバノフと会談を行い、朝鮮
半島をめぐる次の日露議定書を作成・調印したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1.朝鮮の財政問題に関しては日露共同で当たること
  2.朝鮮軍が組織されるまでは日露同数の軍隊を置く
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本は、ロシアに直接領土を狙われる「対馬事件」や「巨文島
事件」を経験しており、いずれロシアとは戦わざるを得なくなる
として、1895年12月に開会した帝国議会において戦後10
年計画に基づく予算が成立していたのです。1895年から10
年後というと1905年になりますが、この年にはシベリア鉄道
が完成する予定の年なのです。それまでにロシアと戦えるように
する――こういう目標が立てられたのです。そして実際に、19
04年に日本はロシアと戦争をしているのです。
 この綿密な計画の下に、10年の歳月を費やして軍備を強化し
て軍隊を育て、必勝の体制で来るべきロシアとの戦争に臨んでい
るのです。当時日本は国民皆兵で徴兵制の下で厳しく訓練を積ん
でおり、士官を含む立派な軍人が育ちつつあったのです。新田次
郎の小説『八甲田山死の彷徨』(新潮社文庫)で有名な青森歩兵
第5連隊第2大隊の悲劇も、ロシアの厳しい寒さに耐えて戦うた
めの訓練だったのです。何しろ210名中199人が凍死すると
いう痛ましい訓練を重ねてまで、兵を鍛えたのです。最初からロ
シアとの戦争を考えての訓練だったのです。
 しかし、この日本の軍備充実にロシアはほとんど関心を払って
いなかったのです。それだけ日本を完全に見下していたのです。
そのため、日本と交わした日露議定書を無視して清国と秘密協定
を結ぶなど不誠実を極めたのです。 ── [日本の領土/33]

≪画像および関連情報≫
 ●「八甲田雪中行軍遭難事件」とは
  ―――――――――――――――――――――――――――
  事件の背景には、日本陸軍が冬季訓練を緊急の課題としてい
  たことが挙げられる。日本陸軍は1894年(明治27年)
  の日清戦争で冬季寒冷地での戦いに苦戦し、そしてさらなる
  厳寒地での戦いとなる対ロシア戦を想定し、準備していた。
  こうした想定は事件から2年後の1904年(明治37年)
  に日露戦争として現実のものとなった。この演習は対ロシア
  開戦を目的としたもので、5連隊についてはロシア軍の侵攻
  で青森の海岸沿いの列車が動かなくなった際に、冬場に「青
  森〜田代〜三本木〜八戸」のルートで、ソリを用いての物資
  の輸送が可能かどうかを調査する事が主な目的であり、弘前
  第31連隊は「雪中行軍に関する服装、行軍方法等」の全般
  に亘る研究の最終段階に当たるもので、3年がかりで実行し
  てきた雪中行軍の最終決算であった。なお、両連隊は、日程
  を始め、お互いの雪中行軍の実行計画すら知らなかった。
       ──ウィキペディア「八甲田雪中行軍遭難事件」
  ―――――――――――――――――――――――――――

後藤房之助伍長の像.jpg
後藤 房之助伍長の像
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2012年11月16日

●「朝鮮半島の安定は国防の基本」(EJ第3430号)

 1896年5月に山縣有朋がロシアと結んだ日露議定書ですが
ロシアは最初からそれを守ろうという気はなく、清国と組んで、
次のような密約を結んでいたのです。この密約は、当時の駐清ロ
シア公使カシニーの名をとって、「カシニー条約」と呼ばれてい
るのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 東アジアのロシア領、清国及び朝鮮半島に日本軍が侵入して
 きた場合、露清両国はすべての陸海軍事力をもって、相互に
 援助し合い、これを殲滅する。そのさい、ロシア軍艦の活動
 を助けるため、清国は自国の港湾をことごとく開放する便宜
 を図るものとする。          ――露清密約より
―――――――――――――――――――――――――――――
 さらにロシアは日本に対する裏切り行為を続けます。ロシアの
ロバノフ外相は、今度は駐露朝鮮公使を呼びつけて、今度は朝鮮
と次の3つの密約を結んでいるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     1.韓国王はロシアにおいて保護する
     2.ロシアから軍事・経済顧問を派遣
     3.日本との有事における武力の援助
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本という国は歴史的に見ても、外交が下手な国であり、それ
は現在も続いています。外交は情報戦であることがまるでわかっ
ていないのです。ドイツなどは、カシニー条約の時点で情報を把
握していたのですが、日本はその動きに、まったく気づいていな
かったのです。
 結局日本がロシアと朝鮮の密約を知ったのは、その密約に基づ
いてロシアの軍事顧問団がソウルに到着したのを知ったときなの
です。まさにツー・レイトです。1897年7月のことです。
 そのとき韓国王は、乙未事変以来、ロシアの公使館にいたので
すが、この密約によって、ロシア公使館を出て、国名を「大韓帝
国」、さらに君主を「皇帝」とするとして、清国からの独立を宣
言したのです。ロシアという強力な後ろ盾で韓国は清国から独立
したのですから、日本にとっては最悪の事態です。なぜなら、朝
鮮半島が事実上ロシアの手に委ねられてしまったからです。
 当時ロシアを含む西欧列強にとっては、戦争の終結時が最も領
土を取りやすいので、まるで獲物を狙うハイエナのように戦況を
注視し、終わるや否や動くのです。日清戦争のときも、とくにロ
シア、ドイツ、フランスなどが戦況を注視しており、日本が連戦
連勝するのを見て、清国が内外ともに衰退しているのを見てとっ
たのです。
 清国からは収奪できるものがたくさんある。日本に一人占めさ
せてはならない──そう判断すると西欧列強は、一斉に動き出し
たのです。しかし、この時点で日本は、領土を奪うのが目的では
なく、日本の安全保障のために朝鮮半島を守ろうとしただけのこ
となのです。
 日清戦争に関してとくに露骨に行動したのは、ロシアとドイツ
です。1897年11月のこと、何の前触れもなく、ドイツの艦
隊3隻が三東半島(シャントン)に現われたのです。そして、海
兵隊600人が膠州湾に上陸し、青島(チンタオ)付近一帯を占
領してしまったのです。理由は、ドイツ人宣教師が何者かに殺害
されたというのがその根拠ですが、もちろん単なる口実です。
 このドイツの行動を見てロシアは、同じ年の12月15日、艦
隊6隻で遼東半島の旅順・大連に侵入し、旅順港をそのまま占領
してしまったのです。自分たちの欲しいところは押さえておくと
いう行動です。清国としては、頼りにしていたロシアが清国のた
めに何もしてくれないことをここで悟るのです。
 それどころではないのです。ロシアのあくどさはドイツのはる
か上を行くものだったのです。清国がドイツに三東半島の租借を
認めたことを知るとロシアは、宰相の李鴻章を呼び出し、脅しを
かけると共に巨額のワイロを贈って、清国から遼東半島の租借権
とハルピンから大連までの東清鉄道の敷設権に関するさらなる権
利を獲得したのです。
 この場合、ロシアの要求は、単に鉄道を敷設するだけでなく、
その線路敷はもとより、線路の両側や駅の周辺付属地の主権も租
借地同様にロシアに帰属する−−そういう無茶苦茶な要求を呑ま
せたのです。ロシアを頼りにしていた清国はここで大きなショッ
クを受けることになります。
 日本の北方領土はそのロシアに占拠されているのです。もちろ
ん現在のロシアと昔のロシアは違いますが、DNAは同じです。
この国は一度手に入れた領土はよほどのことがない限り手放すこ
とはない。ソ連(ロシア)としては「領土は戦争の終わる直前を
狙え」という日清戦争当時のセオリーを太平洋戦争の終結時にも
行い、日本から領土を奪っているのです。
 日本にとって朝鮮半島の安定は、一貫して国土防衛上重要であ
り、つねに強い関心を持っていなければならなかったのです。こ
の考え方を当時の日本に教えたのが、英国の名提督として名高い
キャプテン・ドレイクの次の考え方です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本は朝鮮半島と満州に足場としての港を確保し、大陸側の港
 の背中に国防線を引くべし    ――キャプテン・ドレイク
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、ドレイクのこの提言は、朝鮮半島や満州を領有すべし
とはいっていないのです。いずれにしても、昔も今も朝鮮半島情
勢は日本の国防に大きく影響しているのです。
 それから日本とロシアの間には、いろいろなことがあったので
すが、1904年2月6日、日本はロシアと国交を断絶し、2月
10日にロシアに宣戦布告したのです。そして、ロシアと交戦状
態に入った1年後の1905年2月22日に、日本政府は竹島を
島根県に編入しています。それには、どのような経緯があったの
でしょうか。韓国はそれをどのようにとらえたのでしょうか。来
週はそのことについて書きます。  ── [日本の領土/34]

≪画像および関連情報≫
 ●キャプテンドレイク/世界史小ネタ第32回
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ドレイク船長というとやり手の海賊というイメージが強いで
  すね。実在の人物で、16世紀後半、イギリスの海賊兼海軍
  司令官として活躍しました。海賊が司令官に出世した、とい
  うより、海賊と海軍にそれほど大きな違いのなかった時代の
  お話です。1580年、重装帆船に乗って、ドレイクは史上
  2番目の世界周航をやってのけました。アメリカの最南端マ
  ゼラン海峡を苦労して通過すると、そこは格好の猟場。チリ
  やペルー沿岸のスペイン植民地を襲撃して大量の銀を略奪。
  途中イギリス人としては初めて香料諸島に達し、6トンもの
  クローブ(貴重な香辛料)を手にしました。プリマス港に帰
  り着いた彼を出迎えたのはエリザベス一世。「よくぞスペイ
  ン船を襲った」と、彼に「ナイト」の称号を与えたことは有
  名な話。以来「サー・フランシス・ドレイク」と呼ばれるよ
  うになりました。ちょっと余談ですが、略奪された船や船員
  はどうなったか。積み荷が奪われた後、マストが叩き折られ
  て乗組員は海に放置されるというケースが多く、全員虐殺と
  いうことはあまりなかったようです。
        http://history.husigi.com/VHv2/koneta32.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

キャプテン・ドレイク.jpg
キャプテン・ドレイク
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2012年11月19日

●「竹島と松島の錯誤がもたらすもの」(EJ第3431号)

 そもそも「竹島」は誰が発見したのでしょうか。
 竹島の発見はフランス海軍だといわれています。1789年、
2隻の軍艦を率いて日本海を東上するフランス海軍のラ・ペルー
ズ大佐は、海上にひとつの島を発見し、第一発見者の名前をとっ
て、「ダジュレー島」と名付けたのです。さらに1797年には
英国人のブロートンが日本海でひとつの島を発見し、「アルゴノ
ート島」と命名しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
     ラ・ペルーズ ・・・・  ダジュレー島
      プロートン ・・・・ アルゴノート島
―――――――――――――――――――――――――――――
 実はこの2島は、測量した経緯度がずれており、どちらも鬱陵
島のことだったのです。実際にその後にロシア軍艦の測量によっ
て、アルゴノート島はその実在が否定されています。
 しかし、1840年にシーボルトが日本側の地理的知識を加え
て作成した「日本図」では、ダジュレー島もアルゴノート島も実
在の島として載っており、名称は次のようになっていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
        ダジュレー島 ・・・・ 松島
       アルゴノート島 ・・・・ 竹島
―――――――――――――――――――――――――――――
 問題なのは、ここでいう「松島」は鬱陵島を意味しているのに
この名称を使い、現在の「竹島」をアルゴノート島に割り当てて
いることです。「竹島」という名前は偶然一致していますが、2
つの島ととらえたのは完全に間違いです。これがその後「竹島」
について、大きな誤解を生むことになるのです。
 話は少し脇道にそれますが、このフィリップ・シーベルトです
が、いささか問題のある人物なのです。鳴滝塾の成功と最新式の
医学を長崎市民に披露して絶賛されたことで有名ですが、彼が文
政11年(1828年)にオランダに帰国するとき、日本の地理
情報を盗んだとして、出島に拘禁され、厳しい取り調べを受けて
いるのです。シーボルトは、日本地図だけではなく、弟子に命じ
て、日本地図のオランダ語版写しを製作させてもいたのです。こ
れではスパイといわれても仕方がないでしょう。
 1849年になって、フランスの捕鯨船リヤンクール号が日本
海である島を発見し、捕鯨船の名前をとって、「リアンクール列
石」と名付けたのです。なぜ、「列石」なのかというと、海上に
突き出た岩山のような形をしているからです。これが現在の「竹
島」なのです。
 これによって、日本では、この「竹島」のことをリャンコ島、
ランコ島、ヤンコ島などと呼んでいたのです。「竹島」とか「独
島」の名称は、1900年のはじめになってからいわれるように
なった名称なのです。
 明治維新によって近代国家として出発した明治政府は、外交調
査のために外務省の左田白芽を朝鮮に派遣したのです。その調査
結果は、「朝鮮国交際始末内探書」として、1870年に報告さ
れています。そこには次のように記述されていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 松島は竹島の隣島にて、松島の儀に付き、是まで掲載せし書
 留も之無く、竹島の儀に付きては、元禄度後はしばらくの間
 朝鮮より居留の為差し遺し置候・・・
              ──「朝鮮国交際始末内探書」
―――――――――――――――――――――――――――――
 複雑なのは、ここでいう「竹島」は鬱陵島のことであり、「松
島」は現在の竹島のことであることです。そうすると、鬱陵島は
もとより、その隣島である竹島も、この時点で朝鮮領であること
が報告されているのです。韓国が「独島はわが領土」と主張する
一つの根拠がこれなのです。
 さらに1876年のことですが、内務省地理寮は、地籍編纂の
ため、島根県に対して、竹島(鬱陵島)の所属について照会し、
次の返事を得ています。
―――――――――――――――――――――――――――――
       日本海内竹島外一島ヲ版図外トス
―――――――――――――――――――――――――――――
 つまり、竹島、すなわち鬱陵島と「外一島」は、朝鮮領である
と島根県は返事をしたのです。しかし、内務省はことは重大であ
ると考えて、太政官の判断を仰いだのです。これについて太政官
は1877年に次の判断を下しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 元禄五年朝鮮人が入島以来、旧政府と該国との往復の結果、
 竹島外一島の件に対して本邦は関係なしと心得るものなり
―――――――――――――――――――――――――――――
 韓国側は、これらの日本側の記述をもって竹島は韓国領である
と主張しています。問題は「竹島外一島」の表現です。ここでい
う竹島は鬱陵島のことですが、「外一島」の一島は、果たして現
在の竹島を意味するのでしょうか。
 「朝鮮国交際始末内探書」にある「松島は竹島の隣島にて」の
記述ですが、現在の竹島は、明らかに鬱陵島の隣島とはいえない
と思います。なぜなら、鬱陵島と竹島は92キロも離れているか
らです。そんなに離れている島を隣島というでしょうか。
 もうひとつ事実と違うことが書いてあります。「松島の儀に付
き、是まで掲載せし書留も之無く」とありますが、実は松島につ
いては、多くの史料があるのです。「隠州視聴合記」などに松島
(現在の竹島)についての記述があるのです。
 このことから、日本側は「外一島」の一島は、鬱陵島の北東2
キロのところにある小島「竹嶼(チョクド)」のことではないか
と考えているのです。この島については、「干山」と記されてい
る文書(「大韓地誌」)もあるのです。なお、鬱陵島の近傍には
「観音島」という島もあります。したがって、「外一島」はその
どれかを意味していると考えられます。
                 ── [日本の領土/35]

≪画像および関連情報≫
 ●「竹嶼」とはどういう島か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  有人島であり、島へ渡るには、道洞からの観光船に乗る。片
  道約20分。船は波が少しでも高くなると、出航を見合わせ
  る。島の周囲は岩から成り立つ断崖絶壁であり、砂浜などは
  ない。船が接岸した後、乗客は螺旋状の階段を上がり、島に
  入る。竹嶼は個人所有の土地であり、入場料が必要である。
  事前に権利者と交渉および前払いをしておけば、キャンプも
  可能である。島の中には、女竹(笹)が群生しており、また
  芋などの畑が広がっている。この芋をすったジュースが竹嶼
  の名物である。島の中央部西側には展望台があり、ここから
  は南は杏南や芋洞や北芋岩が見え、北は観音島、島項、臥達
  里や其の近くの断崖から流れ落ちる複数の小川が見える。展
  望台すぐ近く、北端にある階段を登っていくと、そこは森林
  が生えている小高い山となっている。 ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

鬱陵島と竹嶼.jpg
鬱陵島と竹嶼
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2012年11月20日

●「鬱陵島をめぐる日韓のせめぎ合い」(EJ第3432号)

 鬱陵島が韓国領であることは、江戸時代からわかっていて、将
軍綱吉は、日本人の鬱陵島への渡航を禁止したことは既に述べた
通りです。これによって江戸時代においては、日本人の鬱陵島へ
の渡航は止まっていたのです。
 しかし、明治時代になると、朝鮮半島へ往来する日本人が急増
し、鬱陵島に渡航する日本人も多くなったのです。当時の李氏朝
鮮は、自国民の鬱陵島への上陸を禁止していたので、どのくらい
日本人が島に来ているのか把握するのが遅れたのです。
 しかし、日本人の鬱陵島への渡航は止まらなかったのです。渡
航の目的は、ケヤキの伐採であり、島に何泊もして作業を続ける
日本人も多くいたのです。
 当時は、国の領海という概念が明確ではなく、西欧列強はいろ
いろな口実をつくって、軍艦を派遣して力で自国に有利な条約を
結ぶという砲艦外交が平然と行われていたのです。
 日本と朝鮮の間でもそういう紛争は起こっているのです。その
ひとつに「江華島事件」があります。1875年9月のこと、日
本の軍艦が海路測量の名目で朝鮮の領海を犯し、江華島の近くに
迫って漢江をさかのぼろうとしたところ、江華島砲台の守備兵が
砲撃を加えてきたのです。そのため、日本軍が砲台を攻撃して要
塞に火を放って引き上げた事件です。
 この結果、日本政府は江華島事件の賠償を要求するという名目
で、黒田清隆と井上馨を全権とする使節団を載せた軍艦を送り込
んで、1976年2月に日朝修好条規(江華島条約)を締結した
のです。その内容は、日本有利のいわゆる不平等条約であったと
いっても過言ではないのです。
 内容としては、日本が朝鮮に対して治外法権をもち、輸入関税
は無税として朝鮮の関税自主権を奪い、朝鮮の鎖国を解いてプサ
ンと元山の2港を開かせるというものだったのです。日清戦争の
前の日本のアジア進出の態度が最も露骨だった頃の朝鮮進出事件
であり、日朝修好条規は朝鮮を搾取していくための不平等条約の
典型だったといえます。
 こういうことがあると、政府がいくら禁止しても鬱陵島に渡航
する日本人は止まらなくなるものです。1881年5月のことで
すが、鬱陵島を巡察していた同島の掃討官がケヤキを伐採してい
る7名の日本人を発見し、本国に報告したのです。
 報告を受けた朝鮮政府は、日本の外務卿である井上馨宛てに抗
議文書を送ったのです。その根拠として189年前の江戸幕府の
決めた鬱陵島への渡航禁止措置を使い、厳しい処置を求める内容
の文書です。
 井上馨外務卿は、事実を調査して対応措置を取ると約束したの
ですが、鬱陵島への日本人の渡航は止まらず、島に渡る人数は増
えて、数百人に上る事態になったのです。こういう状況を受けて
1882年12月から朝鮮は鬱陵島開拓令を公布し、鬱陵島への
移住が奨励されるようになったのです。
 その後も朝鮮政府の抗議は続き、遂に日本政府は鬱陵島渡航禁
止を各地方長官に通達するとともに、1883年9月には、内務
書記官を乗せた船を鬱陵島に送り、そのとき、島内に居住してい
た254人全員を日本に連れ帰ったのです。
 1894年8月に日清戦争がはじまると、当然のことながら、
日本海軍は東シナ海にどんどん出て行くようになります。そして
ロシアの動きなどを監視するため、韓国東岸、鬱陵島に監視所を
置き、海底ケーブルを設置を進めたりしているのです。
 もともと日清戦争も日露戦争も「朝鮮半島の安定」を目指して
行われたものです。なぜなら、それが日本の国防上のかなめにな
るからです。もし、朝鮮半島に他国の侵略を目指す国ができると
それはそのまま日本にとって大きな脅威になります。
 当時その恐れがあったのが清国(中国)であり、ロシアだった
のです。ロシアは清国に近づき、朝鮮半島を狙い、いろいろなこ
とを仕掛けてきたのです。日清戦争と日露戦争が起きたのは、そ
のようにして、朝鮮半島の安定が脅かされたからです。
 現在、朝鮮半島は安定していますが、中国が自国の海洋権益を
確保するため、尖閣諸島周辺で領土侵犯を繰り返し、緊張をはら
んできています。もし、これがエスカレートして軍事紛争が起き
るような危機になると、日本としては相応の措置をとらざるを得
なくなると思います。当然のことながら、自分の国は自分で守ら
なければならないからです。
 さて、日清戦争が終り、日本と清国の間で下関条約が締結され
たことにより、朝鮮は清国から独立し、「大韓帝国」と国号を改
めたのです。しかし、そのウラでは韓国へのロシアの干渉がある
ことは既に述べた通りです。
 ところが、大韓帝国になっても日本人の鬱陵島渡航は止まらな
かったのです。そこで大韓帝国政府は、1900年5月31日に
内務官僚の兎用鼎を日本に派遣し、日本側の調査員と一緒に鬱陵
島の実態調査をやったのです。
 このときの実態調査は、「鬱陵記」という報告書にまとめられ
ていますが、1883年9月に強制的に254人を日本に連れ戻
したのにもかかわらず、調査当時、鬱陵島には144人の日本人
がいて、ケヤキの伐採を行っていたのです。このように、何回禁
止令を出しても渡航する者が後を絶たなかったのです。政府も本
気で禁止を徹底させていたとは思えないし、韓国政府の管理にも
問題があったのです。
 そこで韓国政府は、1900年10月25日に「勅令41号」
を発して、鬱陵島の管理の強化を図っています。鬱陵島を鬱陵部
に昇格させ、郡守を常駐させ、行政権の強化を図ったのです。し
かし、日露戦争の前のことであり、それが完全に徹底されること
はなかったのです。
 このように鬱陵島には、日本人が深くかかわっているのです。
それだけにこの島には、現在の竹島に関する情報が豊富にあると
考えられます。しかし、そのためのトラブルも多く、2011年
8月1日に自民党議員が鬱陵島に渡航しようとして訪韓したさい
韓国に入国を拒否されたのです。  ── [日本の領土/35]

≪画像および関連情報≫
 ●鬱陵島視察計画の自民3議員、韓国空港で入国拒否
  ―――――――――――――――――――――――――――
  韓国政府は2011年8月1日、日韓が領有権を主張する竹
  島(韓国名・独島)に近い韓国の鬱陵島訪問を計画してソウ
  ルの金浦空港に到着した自民党の国会議員3人に対し、入国
  を拒否した。韓国入管当局に入国を認められなかったのは、
  自民党の新藤義孝衆院議員、稲田朋美衆院議員、佐藤正久参
  院議員で、竹島に最も近い鬱陵島を視察する計画だった。当
  初は平沢勝栄衆院議員も参加する予定だったが、多忙を理由
  に取りやめている。新藤氏は、旧日本陸軍の栗林忠道大将の
  孫にあたる。公式ウェブサイトの動画メッセージで、韓国は
  日本の領土の一部を不法に軍事占拠していると主張し、騒乱
  を意図してはいないが、韓国国民に我々の怒りを示したいと
  語っていた。稲田氏は弁護士で、1937年の南京大虐殺に
  懐疑的な立場を示してきた。佐藤氏は元陸上自衛官で、20
  04年にイラクに派遣されている。3議員の訪問にあたって
  金浦空港では、韓国の活動家らが竹島の領有権を主張するプ
  ラカードを掲げ、3議員の写真を焼くなどして抗議した。
  http://www.afpbb.com/article/politics/2817524/7590875
  ―――――――――――――――――――――――――――

自民党議員の鬱陵島訪問反対デモ.jpg
自民党議員の鬱陵島訪問反対デモ
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2012年11月21日

●「竹島の島根県編入の背景と経緯」(EJ第3433号)

 1900年10月25日に大韓帝国の出した「勅令41号」の
第2条に次の記述があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
    鬱陵部の区域は鬱陵全島と竹島、石島を管轄する
                 ──「勅令41号」
―――――――――――――――――――――――――――――
 問題はここでいう「竹島」は何を指しているのかということで
す。「竹島」という名称は、あくまで日本側が付けたものであり
韓国の文書に「竹島」という文字が出てくるのはきわめて珍しい
ことです。それに「石島」というのは何でしょうか。これも初登
場です。
 韓国側は、ここでいう「竹島」は鬱陵島の近傍にある「竹嶼」
のことであり、「石島」は「独島」(現在の竹島)であると主張
しているのです。しかし、それを証明する文書は皆無です。
 そこで韓国側は、文字の発音からそれを証明しようとしている
のです。「石」は韓国語で「トル」、それは「トク(独)」に似
ているので、「石島=独島」であるというわけです。
 そうであるとすると、竹島(独島)は、日本が竹島を島根県に
編入した1905年以前に韓国は独島を自国領として表記してい
たことになります。そういうわけで韓国側が「独島はわが領土」
と主張する重要な根拠のひとつになっています。
 しかし、発音の近似性から「石島=独島」を主張するには、無
理があります。「勅令41号」の目的は、鬱陵島の行政管理を強
化することにあり、「鬱陵全島と竹島、石島を管轄する」は、鬱
陵島とその周辺の島を意味すると見るのが普通です。鬱陵島から
92キロ以上離れている現在の竹島を含むとするのは、拡大解釈
であると思います。
 そのように考えると、竹島は「竹嶼」、石島は「観音島」とす
るのが妥当な考え方であると思います。19日のEJに添付した
鬱陵島の写真には、竹嶼も観音島も表記されています。
 さらに日本側は、9005年に竹島を島根県に編入するさい、
念には念を入れるため、日本海軍の軍艦「新高」が鬱陵島に実態
調査に行っているのですが、そのときの記録に次の記述が残って
います。
―――――――――――――――――――――――――――――
 韓人は(現在の竹島を)独島と表記し、本邦(日本)の漁民は
 リアンクル島と呼んでいる。        ──別冊宝島編
     『竹島尖閣諸島の本/「領土問題」まるわかり』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 これによると、1904年当時の韓国では、現在の竹島を「独
島」と呼んでいたのです。したがって、「石島=独島」の主張は
説得力に欠けることになります。
 しかし、歴史的な流れのなかでこの竹島問題をとらえると、竹
島は日韓併合に向けた一連の流れのなかで、島根県に編入された
可能性が高いのです。その流れをメモしておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
     1904年 2月/日露戦争開戦
           2月/「日韓議定書」締結
           8月/第1次日韓協約締結
     1905年 2月/竹島を島根県に編入
           9月/日露戦争終結
          11月/第2次日韓協約締結
          11月/韓国総督府設置
     1907年 7月/第3次日韓協約締結
     1909年10月/伊藤博文暗殺
     1910年 8月/日韓併合
―――――――――――――――――――――――――――――
 日露戦争がはじまると、日本は「日韓議定書」を締結していま
す。この狙いは、韓国領内における日本軍の自由行動を認めさせ
ることにあったのです。しかし、この議定書締結はとても平和的
とはいえない状況で締結されているのです。
 韓国政府は、日露戦争開戦前に、局外中立を宣言しており、英
国、フランスなどの列強はこれを支持しています。しかし、日本
はこれを無視し、1904年2月に仁川に日本軍を上陸させ、そ
のままソウルに進軍し、ソウルに駐留したのです。その状況のな
かで締結されたのが「日韓議定書」です。
 さらに1904年8月には、「第1次日韓協約」が締結されて
いるのです。これは、韓国政府の財政・外交顧問に日本政府の推
薦者を入れるというものです。
 そのような状況下で2005年2月に竹島を島根県に編入して
いるのです。しかもそのことを韓国には知らせていないのです。
確かに国際法上は知らせる必要はないのですが、韓国がそのこと
を知ったのは1906年3月のことです。
 しかし、その時点では、韓国は日本に何かをいえる立場にはな
かったといえます。まして日本は、当時世界のどの国も予想して
いなかった日露戦争に勝利しており、勢いがあったからです。
 日本は日露戦争終結後の11月には、第2次日韓協約を締結し
韓国に総督府を設置しています。これにより大韓帝国の外交権は
ほぼ大日本帝国に接収されることとなり、事実上韓国は日本の保
護国になったのです。したがって、この協約は日韓保護条約とも
いわれるのです。
 1907年7月に第3次日韓協約が締結され、高級官吏の任免
権を韓国総監が掌握することや、韓国政府の官吏に日本人を登用
できることなどが定められ、これによって、朝鮮の内政は完全に
日本の管轄下に入ったといえるのです。
 そして1909年10月にそういう情勢を受けて、伊藤博文韓
国総監が、ハルビン駅で、大韓帝国の民族運動家に暗殺されたの
です。そういう暗殺もひとつの原因で、1910年8月、日韓併
合が実施されることになったのです。
 竹島の島根県編入は、そういう時代の流れのなかで、行われて
いるのです。           ── [日本の領土/36]

≪画像および関連情報≫
 ●日韓併合の背景と経緯
  ―――――――――――――――――――――――――――
  日露戦争に勝ったことで日本はロシアの朝鮮半島南下を食い
  止めることができた。明治維新以来、日本にとって最大の懸
  案であった朝鮮半島の自立と近代化がこれで進展することに
  なった。協約によって韓国統監となった伊藤博文は併合しな
  いと主張していたのだが、条約を守ろうとしない韓国を併合
  せざるを得なくなる。そして韓国人テロリストが伊藤博文を
  暗殺するというとんでもない事件が起こった。日本政府が驚
  愕し、日本人が激怒したのはもちろんのこと、韓国政府、朝
  鮮人は震え上がった。伊藤博文の暗殺を受けて、日本と韓国
  の双方から提案があり、韓国併合の話が持ち上がった。会員
  100万人といわれる韓国最大政党である「一進会」も併合
  推進派だった。慎重な日本政府は列国に打診した。欧米先進
  国の仲間入りを願っていた日本は、国際社会の反応を心配し
  たのだ。アメリカとイギリスは、このまま放っておけばさら
  に混乱すると考え、韓国併合に賛成した。その他、清国、ロ
  シア、イタリア、フランス、ドイツといった当時の主要国か
  らの反対もまったくなかった。各国の賛成を得て、また一進
  会も併合を望み、日本は韓国併合に乗り出した。日本政府は
  当時最も穏やかな併合だったイギリスのスコットランド併合
  を参考に韓国の併合を進めることにした。そして明治43年
  (1910年)に日韓併合条約が締結された。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1901-10/1910_kankoku_heigo.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

伊藤博文.jpg
伊藤 博文


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2012年11月22日

●「日本固有の領土の意味するもの」(EJ第3434号)

 竹島と尖閣諸島をめぐる日本の領土問題についての事実関係は
太平洋戦争以前と以後に分けて考える必要があります。なぜなら
日本は太平洋戦争では敗戦国になっているからです。戦争に負け
た国が戦勝国(米国を中心とする連合軍)による領土処分によっ
て、領土を取られるのはありうることだからです。
 すなわち、領土の帰属は、歴史的経緯や過去の占有状態だけで
決まるものではなく、戦争の結果の領土処分によって決まること
が多いのです。北方領土については、歴史的事実よりも終戦後の
領土処分の錯誤によってロシアに現在も占拠されている状態にあ
ります。
 竹島に関しては、ここまで太平洋戦争以前についての事実関係
を考えてきましたが、検討した結果では、次の2つのことが明ら
かになっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.竹島は1905年までどこの国にも属さない絶海の無人
   島であったことは明らかである
 2.竹島の島根県編入は日本が韓国併合化のステップの中で
   行なわれたことは否定できない
―――――――――――――――――――――――――――――
 歴史的な経緯を見る限り、竹島はどこの国にも属さない無人島
であることは明らかです。竹島の位置は韓国と日本のちょうど中
間であり、どちらともいえないのです。
 それでは、日韓どちらが先に発見したかの歴史的経緯を調べて
も、最初の発見者はフランス海軍や英国人であったりと、少なく
とも日本人でも韓国人でもないのです。
 しかし、日本の場合、中井養三郎という漁師が実際にこの竹島
に住み、島をいろいろ調査した記録が残っているので、先有権を
主張することはできると思います。史料を調べた限りでは、韓国
人がそこにしばしば渡航し、ましてや住んでいたという記録は皆
無なのです。
 日本は、2005年1月28日に竹島を島根県に編入すること
について閣議決定していますが、この決定の原文には、中井養三
郎のことが記載されているのです。しかし、これは、「日本固有
の領土」と胸を張れるほどのものではないと思います。
 問題はこの「固有の領土」という表現です。日本は尖閣諸島で
もこの表現を繰り返し使いますが、保阪正康氏はこの「固有の領
土」について次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで注意しなければならないのは、「固有の領土」という語
 である。この語は、領土間違を語るときにしばしば用いられる
 のだが、「固有の」との表現には多くの矛盾があることも事実
 だ。一般的な意味でいえば、有史以来われわれの領土だったと
 なるのだが、しかしその意味を強調していくと、たとえばこの
 島(現在の竹島)を発見したフランス船の船長の言に応じて、
 フランスが実は領有宣言していたとの文書や記録がでてきたら
 日本はそのことに反論もしていかなければならない。この伝で
 いくなら、中国の文書に出てきたらそれにいちいち反論してい
 かなければならない。           ──保阪正康著
         「歴史でたどる領土問題の真実」/朝日新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで改めて1951年に結ばれた「サンフランシスコ平和条
約」において、日本の領土はどのように規定されているかについ
て、韓国関連の部分を次に示します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島および鬱陵
 島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原および請求権を放棄
 する      ──サンフランシスコ平和条約/第二条/a
―――――――――――――――――――――――――――――
 この文章のなかには、竹島は入っていないのです。実質的に領
土を規定する第三条は次のようになっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 第三条
 日本国は、北緯二九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島
 を含む)、孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火
 山列島を含む)並びに沖ノ鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施
 政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対
 する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行
 われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島
 の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部
 及び一部を行使する権利を有するものとする。
           ──サンフランシスコ平和条約/第二条
―――――――――――――――――――――――――――――
 つまり、歴史的に見て日本が支配続けていた地域だけが、日本
国の固有の領土となったのです。別な表現でいうと、太平洋戦争
終戦時まで領有していた地域のなかで、サンフランシスコ平和条
約において「放棄すべき地域」と定められていないところが、日
本の領土ということになります。
 この考え方に立つと、領有権を放棄すべき地域のなかには、竹
島も尖閣諸島も北方領土も入っていない──すなわち、日本の領
土ということになるのです。このうち、尖閣諸島については、サ
ンフランシスコ平和条約第二章第三条により、日本国の領土とし
て、米国に信託統治されていたのです。
 本来であれば、領土問題はこれで決まりなのですが、北方領土
についてはロシア、竹島については韓国によって実効支配され、
日本の主権が行使できないでいるのです。
 問題なのは、既に述べたように、韓国、ソ連(ロシア)、中国
は、サンフランシスコ平和条約の締結国ではないことであり、そ
のため、長年にわたる領土をめぐる紛争が今日まで続いているの
です。来週から、竹島について、終戦直後からの韓国とのやり取
りについて、詳しく述べていきたいと考えています。
                 ── [日本の領土/37]

≪画像および関連情報≫
 ●「時論公論/竹島・何が問題なのか」/NHK解説委員室
  ―――――――――――――――――――――――――――
  竹島問題について、韓国政府は先週、日本が提案していた国
  際司法裁判所への共同提訴を拒否すると回答してきました。
  批判の応酬は政府間だけに留まりません。もうキムチは食べ
  ないと宣言した人、竹島まで泳ぐと言って海に飛び込んだ韓
  流スターもいました。東京の日比谷公園ほどしかない小さな
  島をめぐって、なぜこんなに熱くなるのかでしょうか。日韓
  両政府がともに「我が国固有の領土だ」と主張しているから
  には、それなりの根拠があるはずです。竹島問題がなぜこれ
  ほどこじれるのか、双方の言い分を見ていきます。(中略)
  江戸時代初期の1618年、米子の町人、大谷甚吉(おおや
  ・じんきち)が暴風雨に巻き込まれ鬱陵島にたどり着きまし
  た。以来、米子の商人達は、幕府の許可を得て鬱陵島に渡り
  アワビ採りや木材の伐採などを行いました。竹島は、鬱陵島
  に渡る途中にあり、中継地として利用されていました。これ
  をもって日本政府は、「遅くとも17世紀半ばには領有権が
  確立していた」と主張しています。一方、韓国側はもっと前
  に、自分達の島として認知していたという主張です。古い歴
  史書には、西暦512年に「于山(うさん)国」が新羅(し
  らぎ)に帰属したと書かれており、「竹島、韓国名のトクト
  (独島)は、この于山国にあった」としています。ここでは
  2つの島の存在が、問題をややこしくしています。
    http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/130346.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

保阪正康氏とその著書.jpg
保阪 正康氏とその著書
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2012年11月26日

●「竹島が韓国に占拠された経緯を探る」(EJ第3435号)

 1945年(昭和20年)に日本はポツダム宣言を受託してい
ます。そのさい、日本の領土は連合軍によって次のように定めら
れています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに吾等(連
 合軍)の決定する諸小島に限られる
―――――――――――――――――――――――――――――
 このときから、日本が1951年のサンフランシスコ平和条約
の締結によって主権が回復するまでの6年間、韓国はめまぐるし
く動いたのです。それは竹島(韓国名:独島)を韓国領にするた
めのあらゆる工作です。確かに、この間にやられてしまうと日本
としては手も足も出せないからです。
 問題は、ポツダム宣言で謳われている「連合軍の決定する諸小
島」のなかから独島を外す工作です。そのとき韓国の先頭に立っ
て動いたのは、1948年8月15日に初代韓国大統領に就任し
た李承晩です。
 李大統領は、ジョージ・ワシントン大学やハーバード大学に学
び、戦時中は米国に亡命していたので、米国とは強いパイプのあ
る大統領だったのです。
 李承晩大統領は就任すると同時に独島に次の地番をつけて韓国
に編入しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
        慶尚北道鬱陵郡南面道洞1番地
―――――――――――――――――――――――――――――
 そして、1951年7月19日に、ヤン駐米韓国大使を通じて
当時のラスク米国務次官補に次の書簡を送り、サンフランシスコ
平和条約第2条a項を次のように変更して欲しいと申し入れてい
るのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 大韓民国政府は、第2条a項の「放棄する」という語を、「朝
 鮮ならびに済州島、巨文鳥、欝陸島、独島およびパラン島を含
 む日本による朝鮮の併合前に朝鮮の一郡であった島々に対する
 すべての権利、権原および請求権を、1945年8月9日に放
 棄したことを確認する」と置き換えるよう要望する。
            ──韓国が米国政府に提出した要望書
―――――――――――――――――――――――――――――
 この韓国の主張はかなり乱暴です。その証拠に「パラン島」と
いうわけのわからない島まで返せといっていることです。パラン
島については、時のアチソン国務長官は、韓国のヤン大使に島の
位置面積などを尋ねたのですが、次のような適当な返事しか返っ
てこなかったのです。島が特定できていないのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     だいたい鬱陵島の近くで日本海にある小島
―――――――――――――――――――――――――――――
 米政府の調査や韓国政府の懸命な捜索にもかかわらず、現在に
いたっても島は発見されていません。その結果に基づき、米政府
は韓国政府に次の返事を出し、韓国の要望を拒否したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 韓国側から要望のあった件につき、合衆国政府は、遺憾ながら
 当該提案にかかる修正に賛同することができません。合衆国政
 府は、1945年8月9日の日本によるポツダム宣言受諾が同
 宣言で取り扱われた地域に対する日本の正式ないし最終的な主
 権放棄を構成するという理論を条約がとるべきだとは思いませ
 ん。独島、又は竹島ないしリアンクール岩として知られる島に
 関しては、この通常無人島である岩島は、我々の情報によれば
 朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年
 頃から日本の島根県隠岐支庁の管轄下にあります。この島は、
 かつて朝鮮によって領土主張がなされたとは思われません。
               ──ラスク米国務次官補の返書
―――――――――――――――――――――――――――――
 そして、朝鮮戦争の最中である1952年1月18日に、李承
晩大統領は、突如「隣接海洋主義」なるものを宣言したのです。
日本でいうところの李承晩ラインです。これによって、韓国政府
は一方的に日本海、東シナ海に設定した軍事境界線を引き、韓国
側に独島(竹島)を入れたのです。
 韓国はこの「隣接海洋主義」によって、独自に海洋資源の保護
を謳い、韓国付近の公海での漁業を韓国籍以外の漁船で行うこと
を武力で強制して締め出して禁止したのです。これに違反したと
された漁船(主として日本国籍、ほか中国国籍)は韓国側による
臨検・拿捕・接収の対象になり、乗組員が銃撃され、殺害される
事件まで起こっているのです。当時1国の領海は、3海里を限度
とすることは国際法上の慣行であり、この李承晩ラインは明らか
に国際法違反です。しかも卑劣なことは、この李承晩ラインが日
本の主権が回復する1952年4月28日以前に強行されている
ことです。
 1952年7月に米軍は、竹島を爆撃訓練場として使いたいと
の申し入れがあり、日本はこれを認めています。これは米国が同
島を日本領と認めている証拠です。この爆撃訓練場としての利用
は1953年3月に解除されたのです。それは、島根県知事が竹
島でのアシカ漁やアワビ、ワカメ採取を認めて欲しいという陳情
をしたことがその背景にあったのです。
 この解除が行われた5月に島根県の水産試験船「島根丸」が竹
島に行ったところ、韓国人漁夫が上陸してアワビ漁をしていたの
です。この事実を知った海上保安庁は6月17日に「竹島周辺海
域の密航密猟取り締まりの強化」を決定し、27日に巡視船を派
遣しています。そして竹島に上陸して標識を設置し、韓国人6名
に退去勧告を行っています。
 これに関して韓国は素早く反応し、周辺海域に軍艦を派遣し、
1954年には島に上陸して灯台を建設し、警備隊を常駐させる
事態に発展したのです。その間、海上保安庁の巡視船が発砲され
ることもあったのです。      ── [日本の領土/39]

≪画像および関連情報≫
 ●韓国では教えない竹島の真実/ときどき黒猫ブログ
  ―――――――――――――――――――――――――――
  竹島の領有を巡って日本と韓国が紛争をしていたことは第2
  次世界大戦以前にはありませんでした。つまり、元々日本の
  領土であると韓国も認めていたのです。それではなぜ領有権
  を主張したのでしょうか?それは、日本が敗戦し、GHQに
  統治されていた時に出された「マッカーサー・ライン」が影
  響しています。この境界線はGHQの統治の都合上設けられ
  た日本漁船の活動可能領域でしたが、韓国政府が1948年
  に誕生し、朝鮮戦争後の1951年に、米国に対して日本と
  の平和条約を締結するにあたっての要望に、マッカーサー・
  ラインの継続と韓国を戦勝国側に入れることが盛り込まれて
  いました。それまで、全く領土問題の無かった竹島を要望に
  入れたのは、マッカーサー・ラインがGHQによって設定さ
  れたからで、火事場泥棒のような浅ましい韓国政府の考えが
  ハッキリと分かります。また、中国などのように、自分達が
  戦ったわけでもないのに戦勝国に入れろというのは、厚かま
  しいにもほどがあります。
  http://azplanning.cocolog-nifty.com/neko/2010/04/post-6413.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

李承晩ライン.jpg
李承晩ライン
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2012年11月27日

●「独島など爆破してしまいたい」(EJ第3436号)

 1954年6月に韓国の警備隊が竹島を占拠したタイミングは
偶然ではなかったのです。李承晩大統領は、日本が主権を回復す
る前に李承晩ラインを引き、日本が海上戦力を持つ以前のタイミ
ングで竹島を武力で占領したのです。
 日本が海上戦力を持つ以前というのは、当時海上戦力がゼロに
等しかった日本が米国海軍から、フリゲート艦10隻を受け取る
ことになっていることを李承晩は情報を掴み、その前に駆け込み
的に竹島を占領したのです。
 そして、李承晩大統領は、李承晩ラインを超えてくる日本の漁
船は容赦なく拿捕せよという指令を発したので、非常に多くの日
本の漁船が拿捕され、多くの日本人が抑留されたのです。その数
は次のようになっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
    拿捕された日本漁船 ・・・・・  328隻
    死傷した日本人   ・・・・・   44人
    抑留された日本人  ・・・・・ 3929人
―――――――――――――――――――――――――――――
 なぜ、抑留するのかというと、その人たちを人質にして、後の
「日韓基本条約」と「日韓法的地位協定」の交渉を有利に進める
外交のやり方なのです。
 この当時の韓国のやり方は、日本が弱いときに徹底的に叩くと
いうものであり、まるで日韓併合の恨みをぶつけるかのようなと
ころがあったのです。こういう日韓の状況が1960年まで続く
のです。その間、日本は徐々に経済復興を成し遂げ、国力を取り
戻しつつあったのです。
 それに対して韓国の李政権は、政権の腐敗と失政による経済疲
弊によって危機を迎えていたのです。戦後に米国から舞い戻って
政権を握り、大統領になって李承晩ラインを引いて竹島を占領し
多く日本漁船を拿捕して日本人を抑留した李政権は、国民の支持
を失い、李承晩は再び米国に亡命したのです。
 1961年にクーデターによって政権を奪取した朴正煕(パク
・チョンヒ)陸軍少将は、「軍事革命委員会」を「国家再建最高
会議」と改称し、自ら議長になり、治安維持と経済改善のためと
して国家再建非常措置法を施行して、軍政をひいたのです。19
63年8月に朴正煕氏は軍を退役し、大統領選に出て、1963
年12月17日に第3代韓国大統領に就任したのです。
 当時日韓には国交がなかったのです。両国とも米国とは軍事同
盟を結び、反共産主義勢力であったので、早期の国交正常化が待
望されていたのです。しかし、竹島をめぐる対立があり、日韓会
談は李承晩政権下の1951年から断続的に進められていたもの
の、朴大統領になっときにはまだまとまっていなかったのです。
 この朴正煕という大統領は、親米親日の大統領として知られ、
当時最悪だった韓国経済を復活させ、日本との関係を改善させて
韓国近代化の基礎を築いた大統領として評価されています。しか
し、1979年10月26日に暗殺されてしまうのです。
 朴大統領は、満洲国の満洲軍士官学校から日本の陸軍士官学校
に留学し、終戦当時は満洲国軍中尉だったのです。ところで、い
ま韓国で、この朴正煕氏のことが話題になっているのです。
 現在、韓国で大統領選が行われていますが、日韓両国が領有権
を主張している竹島(独島)が、大統領選に思わぬ影を落として
いるのです。どうしてかというと、与党のセヌリ党の朴槿恵(パ
ク・クネ)氏が朴正煕氏の長女だからです。
 大統領選は朴槿恵氏と民主統合党の文在寅(ムン・ジュイン)
氏との一騎打ちになっています。もう一人立候補していた安哲秀
(アン・チョルス)氏が11月23日に立候補を急遽降りたので
朴対文の一騎打ちになったのです。
 選挙戦で朴氏は、文在寅陣営から、米ラスク国務長官との会談
のさいの朴正煕大統領の独島をめぐる過去の次の発言が蒸し返さ
れ、選挙は泥仕合の様相を呈しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 小さなことだとはいえ、腹が立つ問題のひとつが竹島問題。
 解決のため、島を爆破したい      ──朴正煕大統領
―――――――――――――――――――――――――――――
 それは、竹島問題がネックになって日韓交渉が進んでいなかっ
たからです。だから、あんな島さえなければ、交渉はうまく行く
のにと考えての発言と思われます。それにこの発言は、日本側が
いったことを受けてのものなのです。
 2004年に韓国政府が公開した外交文書によれは、1962
年に行われた日韓折衝において、伊関佑二郎・日本外務省アジア
局長(当時)が次のように発言しているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 竹島は無価値である。日比谷公園と同じくらいの大きさなの
 だから、爆破してしまえば問題はなくなる
          ──伊関佑二郎・日本外務省アジア局長
―――――――――――――――――――――――――――――
 朴槿恵氏の対抗馬の民主統合党の文在寅議員は、大統領選で朴
正煕氏の発言を取り上げ、日本と妥協や譲歩をしているとして、
朴槿恵議員を攻撃しており、にわかに朴正煕大統領の発言が話題
になっているのです。韓国では、親日政治家であることを印象づ
けると、選挙戦を有利に進められる風潮があるからです。
 朴正煕大統領については、石原慎太郎氏が産経新聞70周年記
念講演で、その発言を取り上げ、「日韓併合は、われわれは自分
たちで選択したんだ。日本が侵略したんじゃない。私たちの先祖
が選択したんだ」と話しています。それほど、親日の大統領だっ
たのです。石原氏の講演のその部分は、以下の≪画像および関連
情報≫で読んでいただきたいと思います。
 当時朴大統領は、韓国の経済の立て直しには、日韓条約を結び
日本から賠償金を得て経済復興に役立てる必要があるとの思いが
強く、14年に及んだ長い交渉に決着をつけたのです。1965
年6月のことです。そのとき、竹島は、どのように扱われたので
しょうか。            ── [日本の領土/40]

≪画像および関連情報≫
 ●朴正煕韓国大統領の言っていたこと/石原慎太郎氏
  ―――――――――――――――――――――――――――
  その判断(日韓併合)をある意味で冷静に評価したのは韓国
  の大統領だった朴正煕さんだ。私も何度かお目にかかった。
  あるとき、向こうの閣僚とお酒を飲んでいて、みんな日本語
  がうまい連中で、日本への不満もあるからいろいろ言い出し
  た。朴さんは雰囲気が険悪になりかけたころ「まあまあ」と
  座を制して、「しかしあのとき、われわれは自分たちで選択
  したんだ。日本が侵略したんじゃない。私たちの先祖が選択
  した。もし清国を選んでいたら、清はすぐ滅びて、もっと大
  きな混乱が朝鮮半島に起こったろう。もしロシアを選んでい
  たら、ロシアはそのあと倒れて、半島全体が共産主義国家に
  なっていた。そしたら、北も南も完全に共産化された半島に
  なっていた。日本を選んだということは、ベストとはいわな
  いけど、仕方なしに選ばざるを得なかったならば、セコンド
  ・ベストとして私は評価もしている。(拍手)いや、こんな
  ところで拍手しなくていい。朴さんが、「石原さん、大事な
  のは教育だ。このことに限ってみても、日本人は非常に冷静
  に、本国でやってるのと同じ教育をこの朝鮮でもやった。こ
  れは多とすべきだ。私がそのいい例ですよ」と言う。
  ──平成14年11月5日大阪・サンケイホール、同6日、
  東京・新高輪プリンスホテルでの講演
  http://yorozu.indosite.org/bbs_log/bbs_log04/main/21283.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

朴正煕韓国大統領.jpg
朴正煕韓国大統領
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2012年11月28日

●「日韓基本条約にない竹島の記述」(EJ第3437号)

 1965年(昭和40年)6月22日に「日韓基本条約」が締
結されたのです。合意にいたった日韓の主要な取り決め事項は次
の6点です。
―――――――――――――――――――――――――――――
      1.国交正常化
      2.李承晩ラインを撤廃/企業協定
      3.請求権・経済協力関係
      4.在日韓国人の法的地位・待遇関係
      5.文化財関係
      6.紛争処理
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここに竹島問題は入っていないのです。日本としてはそれを項
目として明記したいのですが、それでは交渉がまとまらない。韓
国としては「竹島=紛争」ではないと主張する。しかし、米国の
仲介もあって、何とか日韓条約をまとめなければならない。その
ためやむなく竹島問題を棚上げすることにしたのです。
 1960年6月22日付の朝日新聞は、時の総理大臣である佐
藤栄作首相と佐々木更三社会党委員長の、日韓基本条約について
の発言を掲載しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ≪佐藤栄作首相≫
  ・自民党は国民の大多数の支持を得ていると思う。したがっ
   て日韓問題は国民の大多数が賛成していると思うので、そ
   の点からもかなり強い態度で日韓協定の批准に臨みたい。
 ≪佐々木更三社会党委員長≫
  ・竹島帰属問題を棚上げして調印するのは日本領土を事実上
   放棄したことであり、国民感情として許せない。(中略)
   抗議集会を開くほか、同条約・協定の国会批准阻止国民運
   動をくり広げる。
     ──1960年6月22日付の朝日新聞/別冊宝島編
     『竹島尖閣諸島の本/「領土問題」まるわかり』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本の領土問題──北方領土に関しては、あくまでその返還に
意欲を燃やし、ロシアと平和条約を結ばずに現在でも領土返還に
取り組んでいます。
 しかし、竹島に関しては、それが単なる日比谷公園ほどの岩の
島であるためか、先に韓国に占領されてしまったからか、あまり
積極的ではないように見受けられるのです。明らかに北方領土へ
の対応と竹島のそれは異なっているのです。
 そのため、最大のチャンスであったはずの日韓基本条約の締結
においても竹島問題を棚上げにして条約を締結しています。明ら
かに韓国の方が条約締結のメリットがあったはずであり、日本に
有利に締結できたはずですが、日本の外交下手がここでも発揮さ
れてしまっています。
 それでは日本側が何をやったのかというと、例によって国際司
法裁判所への提訴です。日韓交渉においても、日本側はそれを求
めていますが、韓国は次の覚書を出して、それを明確に拒否して
いるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 紛争を国際司法裁判所に付託しようとする日本政府の提案は、
 司法的な装いとして虚偽の主張をしている一つの企図に過ぎな
 い。韓国は独島に対して初めから領土権を持っており、その権
 利についての確認を国際司法裁判所に求めようとすることの理
 由を認めることは出来ない。いかなる紛争もありえることがな
 いにもかかわらず、類似的な領土紛争を造作するのは日本であ
 る。    ──1954年10月28日付、韓国側覚書より
                      ──別冊宝島編
     『竹島尖閣諸島の本/「領土問題」まるわかり』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 「国際司法裁判所への提訴」は、相手国が応じないと、何もで
きないのです。それがわかっていてもやるのは、何となくアリバ
イ作りをしているように思えるのです。本気でやっているとはと
ても考えられないのです。
 2012年8月10日に韓国の李正博大統領が竹島を訪問した
ときも、外務省は玄葉外相をして「国際司法裁判所への提訴」を
宣言させ、実際提訴したものの、韓国は予想通り応じず、日本は
単独提訴とまでいっていましたが、メディアでの取り上げ方が弱
まると、こっそり中断を決め込んでいます。韓国が拒否すること
がわかっているので、アリバイづくりをやっているのです。
 国際法学者の芦田健太郎神戸大名誉教授は、日本政府のこのよ
うな抗議のやり方は、「ペーパー・プロテスト」に終っていると
いい、次のように政府の姿勢に疑問を呈しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 外交的抗議(ペーパー・プロテスト)のみでは、不法占拠に基
 づく権限の取得を阻止するには不十分である。「不法から法は
 生じない」という法格言があると同時に、「事実は法から生ず
 る」も存在する。            ──芦田健太郎著
              『日本の領土』より/中公叢書刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 2005年に韓国政府が公開した外交文書によると、1962
年11月12日に金鐘秘中央情報部長が日本の大平正芳外相と会
談したとき、韓国側は大平外相に竹島問題について第三国調停を
求めたことがわかっています。ちなみに、ここでいう第三国とは
米国のことと思われます。
 しかし、日本はこの調停案に応じず、韓国側がそれを取り下げ
た経緯があります。実はこの2ヵ月前に伊関裕二郎外務省アジア
局長が「竹島爆破」発言をしているのです。そのあたりに日本の
外務省の本音があるようです。外務省の役人にとっては、こんな
面倒な島は爆破してなくなってしまった方がよいと考えているの
でしょう。李正博大統領の竹島訪問も外務省にとってはまともに
取り組みたくない問題なのです。  ── [日本の領土/41]

≪画像および関連情報≫
 ●日韓対立、我が国は「法律戦」に徹すべし/「議論百出」
  ―――――――――――――――――――――――――――
  韓国の李明博大統領による竹島上陸に端を発する日韓対立激
  化の根底にあるのは、いうまでもなく領有権問題と歴史問題
  である。韓国側からの天皇陛下への謝罪要求や親書の受け取
  り拒否といった対応は尋常ではなく、我が国が強く反発する
  のは当然のことである。ただ、シャトル外交をこちらから停
  止するとか、韓国で開催される会議に閣僚を送らないとか、
  一見強硬策に見えるが実効性の疑わしいようなことは行なう
  べきではない。それでは、どういう基本姿勢で臨むべきかと
  いえば、「戦域」を「法律空間」に集中させること、すなわ
  ち「法律戦」に徹することである。竹島領有権をめぐっては
  国際司法裁判所(ICJ)への提訴がようやく行なわれるこ
  ととなった。周知の通り、ICJで実際に裁判が行なわれる
  ためには当事国双方の同意が必要で、韓国側が拒否している
  以上、ICJでの裁判は現実のものとはならない。しかし、
  このことの意義を過小評価すべきではない。竹島領有権問題
  をICJの場で解決するというのは、1952年に韓国側が
  「李承晩ライン」を一方的に設定して、竹島を不法占拠し始
  めて以来の、日本側の一貫した立場である。1954年9月
  には、口上書をもって竹島の領有権問題を国際司法裁判所に
  付託することを韓国側に提案したが、韓国はこの提案を直ち
  に拒否している。
http://www.gfj.jp/cgi/m-bbs/contribution_history.php?form%5Bno%5D=2126
  ―――――――――――――――――――――――――――

国際司法裁判所.jpg
国際司法裁判所
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2012年11月29日

●「韓国人には竹島憧憬主義かある」(EJ第3438号)

 2012年11月26日の日本経済新聞は、竹島問題に関する
次の記事を掲載しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本政府は、8月10日の李大統領の竹島上陸を受け、同11
 日に竹島問題をICJに提訴する方針を打ち出した。まずは韓
 国政府にICJへの共同付託を提案したが、韓国側が同月30
 日に拒否したため、単独提訴を検討する方針に切り替えた。提
 訴の準備はほぼ整ったが、「準備が整い次第提訴する」の当初
 方針を軌道修正した。    ──2012年11月26日付
        日本経済新聞「竹島問題提訴先送り」記事より
―――――――――――――――――――――――――――――
 またしても日本は「先送り」です。もし、提訴が実現すれば、
歴史的事実からいえば日本が有利です。韓国側にとって有利なポ
イントは、1952年以来60年間に及ぶ実効支配ということだ
けであると思われます。
 これに対して日本政府としては、日本が主権を回復していない
時点での不当な李承晩ライン、それを基にしての竹島の武力支配
は無効と訴えることになるでしょう。
 やはり、領土問題は実効支配している方が有利なのです。しか
し、韓国としては島取得の経緯について、いろいろ調べられたく
ないので、「領土問題はない」といっているのです。なぜなら、
韓国は訴訟に勝っても現状のままであり、もし負けてしまうと島
を日本に取られてしまうので、やりたくないわけです。
 ただ竹島問題で鮮明なのは、韓国の執念の強さに対する日本の
やる気のなさです。日本政府は李大統領に竹島を突如訪問されて
国民の手前ICJに提訴を打ち出したのですが、韓国が応じない
のは最初からわかっているし、単独提訴には限界がある。そのた
め、様子見を決め込んでいたのです。
 ここにきて日韓の政府間交流が本格再開しはじめており、日本
としては、これを理由にICJ提訴を先送りしたのです。東アジ
アの安全保障への影響を懸念した米国が関係修復に動いたからで
す。そんなときに単独提訴に踏み切れば、韓国内の反日感情が再
び高まる恐れがあります。
 とにかく竹島に関しては、日本人と韓国人では、その熱心さが
異なるのです。日本の若者の大半は竹島問題などにまるで関心は
ないし、その歴史的事実を知らない人が多いのです。今までは学
校ではそのことをきちんと教えていないからです。
 これに関して韓国は、独島のことを知らない人は皆無です。あ
る経済人の話によると、韓国人と話をしていて話が竹島のことに
及ぶと、途端に韓国人の表情が変るといいます。感情的になって
怒り出す人もいるし、席を立ってしまう人すらいるのです。「竹
島」という言葉に反応するのです。もはや論理でも歴史でもない
のです。冷静に議論できないのです。
 韓国には、「独島はわが領土」という歌があります。カラオケ
でもよく歌われるそうです。ちょうど関西で阪神タイガースの応
援歌が歌われるようにです。
 ネットで「独島はわが領土」の日本語訳を見つけたので、ご紹
介しましょう。
―――――――――――――――――――――――――――――
   鬱陵島 東南方 航路200里
   寂しい島一つ 鳥たちの故郷
   誰がどれだけ自分の領土だと言い張ろうとも
   独島はわが領土、わが領土

   慶尚北道 鬱陵部、南面島洞1番地
   東経132度 北緯37度
   平均気温12度C 降水量は1300ミリ
   独島はわが領土

   イカ、いいだこ、たら、明太 亀
   いくら 水鳥の卵、海女の待合室
   17万平方メートル、井戸一つ 噴火口
   独島はわが領土

   智証王13年(512) 島国 干山国(鬱陵島)
   世宗実録 地理志 50ページ3行目
   ハワイはアメリカ、対馬はわが地
   独島はわが領土

   露日戦争直後 主のない島だと
   嘘をつき 言い張るのは 本当に困る
   新羅の将軍 異斯夫 地下で笑う
   独島はわが領土
 http://homepage3.nifty.com/gochagocha/Giman/Takesima/ILoveDokdo.htm
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここまでくると一種の宗教です。「独島憧憬主義」と呼ぶ人も
います。韓国人は「竹島」と呼ぶだけで屈辱感を感じ、怒り出す
のです。東郷和彦氏は、竹島に対する韓国人の反応について次の
ように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 竹島そのものは全島あわせて0・23平方キロしかない小さな
 岩礁です。一番近い鬱陵島の一番高いところから天気のいい日
 にながめても、水平線の端にぽつんと見えるか見えないかとい
 う島です。普通民族や国家を象徴するものというと、富士山と
 か自由の女神とかエッフェル塔とか、誰がみても美しかったり
 雄大だったりする自然や建築物です。日本帝国主義の支配の象
 徴としての怒りの対象になるところまでは理解できるのですが
 どうしてそこまで感情的になるかは、どうしても理解しにくい
 ところがあります。      ──保阪正康・東郷和彦共著
        『日本の領土問題』/角川ONEテーマ21刊
―――――――――――――――― ── [日本の領土/42]

≪画像および関連情報≫
 ●韓国はなぜ竹島にこだわるのか/ZAKZAK
  ―――――――――――――――――――――――――――
  日本に帰化した韓国系日本人で、『韓国のナショナリズム』
  (岩波現代文庫)の著書がある、首都大学東京の鄭大均教授
  (社会人類学)は、「韓国人は幼少期から愛国を学ぶと同時
  に反日感情がすり込まれる。独島はその愛国教育のもっとも
  重要な“媒体”になっている」と説明する。現地の大学で、
  14年間、教鞭を執った経験がある鄭氏はその間、韓国政府
  の愛国教育を嫌というほど目の当たりにした。「『独島愛の
  国民運動』のような大規模キャンペーンが実施され、テレビ
  の公共広告や企業広告に連動するほか、学校教育でも活用さ
  れる。韓国では、小学生でも『独島はわれらの地』などと平
  気で口にする。韓国人にとって独島への愛を語るのは通過儀
  礼のようなもので家族、学校、社会の広い範囲で反日ナショ
  ナリズム教育が進んでいる」(鄭氏)現代自動車グループ傘
  下の「起亜自動車」が昨年、新型車「プライド」を発売した
  際、購入者向けの記念イベントとして竹島ツアーを企画した
  が、それもその表れだ。鄭氏は「韓国のテレビ番組には韓国
  料理の『世界化』ということで、ヨーロッパの街角なんかで
  地元の人に韓国料理をふるまうなどの企画があるが、そんな
  ときにも急に『独島はわれらの地』などという宣伝が現れて
  驚かされる」と振り返る。
http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20120906/plt1209061225007-n1.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

「独島はわが領土」.jpg
「独島はわが領土」
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2012年11月30日

●「竹島問題/日韓主張の論点整理」(EJ第3439号)

 竹島の論点整理をしてみることにします。EJがここまで調べ
た限りでは、竹島は1905年以前は「絶海の無人島」であった
ことは間違いないと思われます。
 もし、無人島ということになると、先有権ということが問題に
なってきます。日本は竹島を2005年に島根県に編入していま
すが、そのとき根拠としたのは、中井養三郎という漁師が、19
03年以来、竹島に移住して漁業に従事していた事実です。
 それにこの中井養三郎が、時の芳川顕正内務大臣に同島の調査
資料を添付して、占有申請を出しているのです。日本はこの事実
をもって「国際法上占領の事実あるもの」と認め、島根県に所属
すると称しても差し支えないと判断し、閣議決定したのです。
 ちなみに、近代国際法上の領土取得の要件としては、次の3つ
があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
        1.国家としての領有の意思
        2.国家の領有の意思の公示
        3. 適当な支配権力の確立
―――――――――――――――――――――――――――――
 1の「国家としての領有の意思」としては、1905年(明治
38年)1月28日に竹島の領土編入に関する閣議決定がそれに
当ります。
 2の「国家の領有の意思の公示」については、1905年(明
治38年)2月22日に島根県告示が行われており、これによっ
てクリアしています。
 3の「適当な支配権力の確立」については、1905年8月に
島根県知事が視察していることに加えて、1906年3月の県部
長などによる調査、1905年5月の官有地としての土地台帳記
載で十分であり、1940年8月の竹島の海軍財産への引き継ぎ
などの事実は継続的に支配権を確立しているといえます。
 これに対して、韓国は真っ向から反対しています。日本が独島
を島根県に編入したときは、既に日露戦争──韓国はこの戦争は
侵略戦争と考えている──をはじめていて、それから2010年
の日韓併合までの一連のプロセスのなかで、独島を島根県に編入
したと主張しているのです。
 さらに韓国は、日本が1905年に独島を島根県に編入したと
いうことは、それ以前は独島を日本の領土の一部として考えてい
なかった反証であるとし、それ以前は韓国領であったと次のよう
に強弁するのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本側の理論に従えば、独島が島根県に「正式に」編入される
 まで、それは日本のどの県にも属さない正式でない日本領土で
 あるという結論が生じるが、これは荒唐無稽な話である。これ
 と反対に、独島は、歴史上からも地理上からも分明な韓国領土
 である鬱陵島と不可分の関係を持つ、すなわち運命共同体的関
 係に置かれるのであって、無主物でなかった。したがって、島
 根県告示という日本国の一方的国内措置は、国際法的効果を発
 生しない。                ──保阪正康著
         「歴史でたどる領土問題の真実」/朝日新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 問題は、「独島は歴史上からも地理上からも分明な韓国領土で
ある鬱陵島と不可分の関係を持つ」という表現です。あくまで韓
国は一貫して次の主張をしているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
         独島は鬱陵島の属島である
―――――――――――――――――――――――――――――
 鬱陵島は間違いなく韓国領なのですが、日本は江戸時代にこの
島を「竹島」と呼び、多くの日本人が島を訪れていることは既に
述べた通りです。かつてこの島の帰属を巡って争いになり、将軍
綱吉が鬱陵島への渡航を禁じた史実がありますが、韓国はこの事
実まで持ち出して、竹島の韓国帰属を主張しているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   竹島については日本の将軍が渡航禁止令を出している
―――――――――――――――――――――――――――――
 これはまったく荒唐無稽な論法です。なぜなら、ここでいう竹
島は鬱陵島のことだからです。それに韓国のいう独島は、鬱陵島
から90キロ以上離れており、とても属島とはいえないことは明
らかです。独島は、晴れた日に、鬱陵島の一番高い場所から海上
を見て、見えるか見えない距離にある島であるからです。
 それでは、なぜ「鬱陵島の属島」と主張するのでしょうか。
 それは韓国の史料には独島を単独に取り上げたものはなく、鬱
陵島に関するものだけなのです。したがって、本当に鬱陵島の近
くにいくつかある属島を独島と主張するしかないからです。
 ところで、昨日のEJでご紹介した「独島はわが領土」に次の
一節があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
       新羅の将軍 異斯夫 地下で笑う
―――――――――――――――――――――――――――――
 異斯夫(イサブ)というのは、6世紀の新羅の将軍であり、干
山島(うざん島)を征服して、新羅に朝貢させたことで知られる
人物です。干山島は鬱陵島と独島を治める海洋国家であると韓国
は主張していますが、その真偽については改めて書くことにしま
す。ちなみに、独島には東と西に島が分かれていますが、東の島
を「独島異斯夫」、西の島を「独島安龍福」と呼ぶのです。
 安産福というのは、江戸時代に鬱陵島で漁をしていたとして、
鬱陵島で漁をしていた日本人の漁師に捕えられ、日本に連れてこ
られた漁師なのです。そのとき、日本は鬱陵島を竹島と呼び、自
国領と思っていたのですが、安産福の必死の訴えで綱吉の渡航禁
止令を引き出したことで韓国では英雄視されているのです。
 これをもって韓国は、6世紀の頃から独島は韓国領になってい
たのだと主張するのです。その真偽については、来週に明らかに
します。             ── [日本の領土/43]

≪画像および関連情報≫
 ●国際法から見る竹島問題
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ◎1905年に日本は、閣議決定によって竹島を島根に編入し
  島根県による竹島の実効支配が開始された。韓国では、この
  閣議決定及び実効支配の一連のプロセスについて「江戸時代
  からの固有の領土」と矛盾するものとして主張をしている。
  そこで、国際法上、日本の主張が矛盾といえるかどうか判例
  をベースに検証を試みたい。なお、日本が竹島の島根編入を
  「無主地の先占」と説明したことはない。
 ◎国際法では発見が領有の法的根拠(領域権原)となるとされ
  ていたが、18世紀中盤以降は発見を未成熟の権原とし合理
  的な期間内の実効支配をすることを要求するようになった。
  また、この実効支配の要求は領域権原の取得に留まるだけで
  なく、権利の維持においても、要求されるようになるのであ
  る。自国領域内の国家活動の排他的権利は、自国領内の他国
  民の保護の義務を課すのであり、この義務の履行には実効支
  配をしなければならないからである。(続きを読む)
      http://takeshima.cafe.coocan.jp/wp/?page_id=70
  ―――――――――――――――――――――――――――

竹島/女島・男島.jpg
竹島/女島・男島
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2012年12月03日

●「干山島論争/日韓主張の論点整理」(EJ第3440号)

 竹島の論点整理を続けます。韓国は、日本が独島を竹島として
1905年に島根県に編入した以前は、韓国領であったという歴
史的事実を持ってきて話の辻褄を合せようとしています。
 そこで出てきたのが「干山国」の話です。韓国によると、干山
国は、鬱陵島を本拠地とし、独島をその支配下に持つ海洋国家で
あるというのです。鬱陵島は朝鮮半島から約130キロ沖合いに
位置する直径10キロ程度の火山島です。
 新羅の建国は503年。そのとき新羅は朝鮮半島南東部に位置
する国であり、半島北部には高句麗、南西部には百済の3国があ
り、その3国がしのぎを削っていたのです。しかし、新羅は7世
紀の半ばには朝鮮半島をほぼ制圧しています。
 干山国は朝鮮半島平定の後半に征服されていますが、征服が遅
れたのは、この国が朝鮮半島と距離のある島(鬱陵島)を本拠に
していたので、後回しにされたのです。
 問題は、韓国の主張する「干山国は独島を支配していた」の根
拠は1452年の「高麗史地理志」の次の一文です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 一云、于山、武陵、本二島、相距不遠、風日清明、則可望見
                ──「高麗史地理志」より
 一説に言うには、于山と武陵は2つの島で、互いの距離は遠
 くない。空気が澄み切った日には、望み見ることができる
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで「于山」とは鬱陵島のことであり、「武陵」は独島であ
ると韓国は主張するのです。韓国としては、何としても独島を鬱
陵島の属島にしようとしていますが、それにはかなり無理があり
ます。朝鮮王朝の鬱陵島捜討官の製作した1694年の鬱陵島詳
細図(添付ファイル)によると、韓国側の主張ときわめて矛盾す
るのです。それは次の2点です。
―――――――――――――――――――――――――――――
    1.干山島は鬱陵島ではなく、その属島である
    2.干山島は朝鮮半島と鬱陵島の間に位置する
―――――――――――――――――――――――――――――
 もうひとつの証拠があります。鬱陵島には、独島(竹島)に関
する資料を展示する独島博物館があります。その博物館の屋外に
韓国の古地図を彫った石碑があるのです。この石碑には1694
年に鬱陵島捜討官が作成した鬱陵島詳細図とほぼ同じものが彫っ
てあるのです。これを「八道総図」と呼んでいます。
 これらの地図には、干山島は、いずれも鬱陵島と朝鮮半島の間
に描かれており、明らかに竹島とは違う島であることは明らかで
す。もし、干山島が韓国のいう独島であるなら、鬱陵島より東側
に描かれているべきです。これは、明らかな矛盾です。
 2011年8月の自民党の鬱陵島視察団は、そういうもろもろ
の資料を見学に行ったのです。しかし、韓国はその計画を察知す
ると、日本に対し、鬱陵島の視察をやめるよう働きかけ、それで
も自民党議員たちが韓国に到着すると、空港で足止めし、入国を
許さなかったのです。
 理由としては、視察団の安全を保証できないというものですが
外交上きわめて異例の措置であるといえます。こんなことをする
ところを見ると、鬱陵島には日本側に見られたくないものがある
のではないかと思われても仕方がないと思います。
 1452年の「高麗史地理志」では干山島は鬱陵島であるとい
い、1530年の「八道総図」や1694年の鬱陵島詳細図など
の韓国の古地図では干山島は独島であると主張するなど、韓国の
主張は論理的に受け入れられないものです。
 それでも現代の韓国の相当レベルの高い知識人でも、この論理
矛盾をすり替えて、都合のよい史料を出してきて、堂々と「独島
はわが領土」と胸を張るのです。そこで、現在、ソウル市立大学
国史学科教授の劉在貞氏の次の発言を読んでください。
―――――――――――――――――――――――――――――
 韓国は6世紀の新羅王朝時代から、独島を領土と認識していま
 した。15世紀の「世宗実録地理誌」(1454年)に「独島
 と鬱陵島は互いの距離が遠くないため、晴れた日には眺めるこ
 とができる」と記述しています。また、「新増東国興池勝覧」
 (1531年)、「東国文献備考」(1770年)、「萬機要
 覧」(1808年)、「増補文献備考」(1908年)などの
 別の官選資料にも、韓国が独島を領土と認識していた記録が残
 っています。日本側が持ち出す17世紀の文献よりも、はるか
 に古い記録に存在するのです。        ──劉在貞氏
 「新・ビジネスパーソンの必修講座/国境論」/日経ビジネス
―――――――――――――――――――――――――――――
 劉在貞氏は、韓国にとって有利な「世宗実録地理誌」(年号は
違うが「高麗史地理志」と同じ)を取り上げ、不利な史料はすべ
て隠しています。この人は国史学科の教授であり、専門家です。
学者に不可欠な客観的に事実を調べるという姿勢が、少なくとも
自国の領土問題では欠落しているように思えます。
 1452年の「世宗実録地理誌」を正しいとするならば、干山
島は鬱陵島のことになるのです。しかし、それ以後の文献や地図
を見ると、干山島は鬱陵島の属島になっているのです。劉在貞氏
はこの矛盾を頬かぶりしています。
 それに、そういう歴史的事実がどうであれ、日本は国際法上の
手続きを踏んで、1905年に無人島の竹島を島根県に編入して
いるのです。韓国は手続きに瑕疵があるといっていますが、既に
検証したように手続きに問題はないのです。
 GHQの裁定でも、日本は竹島を放棄させられることなく、日
本領として残されています。だからこそ、韓国は日本が主権を回
復していないときを狙って、武力で竹島を占領したのです。
 もちろん韓国は反論していますが、このように日韓の間には領
土問題が存在するのです。したがって、韓国は逃げないで、国際
司法裁判所で歴史的事実を含めて議論し、判断を求めるべきであ
ると思います。あのような岩島ひとつで日韓の関係を壊してはな
らないと思います。        ── [日本の領土/44]

≪画像および関連情報≫
 ●異なる2つの干山島/史料
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ここで改めて断わるまでもないが、安龍福の供述に依據した
  『東國文獻備考』の于山島と『世宗實録「地理志」』や『東
  國輿地勝覽』の于山島は、まつたく異なる島であった。その
  理由は2つある。第1の理由は、韓國側の文献に竹島が登場
  するのは日本側より約200年早いとされる左の『世宗實録
  「地理志」』であるが、それが正しくないからである。確か
  に同「地理志」には、「于山、武陵二島、在縣正東海中二島
  相去不遠、風日清明、則可望見」と于山島と武陵島(現鬱陵
  島)の名が見えている。ところが『世宗實録地理志』の原型
  となる『新撰八道地理志』(1432年成稿)が成立する前
  年に撰進された『太宗實録』には、すでに于山島の名が見え
  ているのである。そして、『世宗實録「地理志」』にはその
  『太宗實録』の記事が引用されてゐるので、于山島の記事も
  『太宗實録』を典據としたとみてよいであらう。
http://takesima24.wiki.fc2.com/wiki/%E7%95%B0%E3%81%AA%E3%82%8B%E4%BA%8C%E3%81%A4%E3%81%AE%E4%BA%8E%E5%B1%B1%E5%B3%B6?sid=0c1dc2ef5ebd809107950a27e4ca56e3
  ―――――――――――――――――――――――――――

韓国の古地図.jpg
韓国の古地図
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2012年12月04日

●「2つの島の考察/日韓主張の論点整理」(EJ第3441号)

 竹島の論点整理をさらに続けます。干山島のことが話の焦点に
なっています。韓国側が主張しているのは次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 干山島は独島(竹島)のことであり、それを記述した「高麗史
 地理志」により、1452年以来韓国の領土である。
―――――――――――――――――――――――――――――
 今回は「ヲタク」と名乗るコリアに詳しい男性の主宰する「コ
リアフリークの雑学ノート」というサイトにある「竹島メモ」を
参考にして書いていくことにします。詳細についてはそのサイト
を参照してください。
―――――――――――――――――――――――――――――
       ≪コリアフリークの雑学ノート≫
       http://www.geocities.jp/yoshi1963jp/
―――――――――――――――――――――――――――――
 韓国側は、上記の主張を裏づける地理学者や史料しか出してき
ませんが、その裏づけに疑問が生ずる史料を出している学者の一
人として、金正浩(キム・ジョンホ)という李氏朝鮮の地理学者
がいます。金正浩は、1834年に朝鮮において初めて精巧な全
国地図(大東興地図)「青邱図」を作成した人物です。
 ここには、干山島がはっきりと描かれています。添付ファイル
「A」をご覧ください。これによると、鬱陵島には6つの属島が
ありますが、その位置関係は必ずしも正確なものではないとして
います。
 そこで、これらの6つの属島を現代の鬱陵島の上に示したのが
添付ファイル「B」です。これによると、「島」の名が冠されて
いるのは「5」の干山島と「4」の観音島だけです。
 この位置にある干山島を韓国は独島であると主張していますが
位置関係から見ても無理があります。しかし、干山島を竹嶼と考
えると、辻褄が合うのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      「4」・・・ 観音島(クァヌムト)
      「5」・・・ 竹 嶼 (チュクト)
―――――――――――――――――――――――――――――
 鬱陵島の属島のなかで一番大きな島は「竹嶼」であり、観音島
はこれに続く大きさの島です。「竹嶼」は竹島(独島)よりも大
きく、存在感のある島です。
 ここまでの分析において、私自身不思議に思っていたことがあ
ります。竹島(独島)は、「西島」と「東島」という2つの島に
分かれているのですが、韓国が独島であると主張する干山島はい
ずれも1つの島として描かれており、2つに分かれていないので
す。添付ファイルCをご覧ください。
 しかし、鬱陵島のビューポイントから見ると、干山島(竹嶼)
と観音島の組み合わせで、何となく竹島(独島)のように見える
場所があるのです。添付ファイルDは、鬱陵島北端付近から見た
干山島(B)と観音島(A)です。
 もうひとつ重要なポイントがあります。それは、鬱陵島から竹
島(独島)が見えるかどうかです。結論からいうと、見えないと
思います。なぜなら、鬱陵島から竹島(独島)までは92キロも
離れており、当時の船で丸一昼夜かかる距離なのです。どんな良
い天気でも無理であると
 これらの事実から推論できることがあります。それは、李氏朝
鮮の時代に韓国人が見ていたのは、鬱陵島から見た竹嶼と観音島
ではないかということです。これらの2島は、竹島(独島)と似
たところがあり、後から竹島(独島)を鬱陵島の属島にするため
にすり替えをやったのではないかと思われます。
 当時李氏朝鮮の船──とくに漁船には問題があり、操縦技術に
も難があって、朝鮮半島から鬱陵島に渡るのですら、容易ではな
かったのです。だから、それもあって李氏朝鮮は鬱陵島に対して
「空島政策」をとったのです。そのような見えもしない、実際に
船で行くことも困難な竹島(独島)が鬱陵島の属島であるはずが
ないし、まして韓国の領土であるはずがないのです。
 これについて、私が日頃愛読している「経済コラムマガジン」
の著者は次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 悪評高い李承晩ラインであるが、これが設定されたのには、日
 本の漁船の側にも問題があった。日本の多くの漁船が韓国周辺
 (領海に入らなくとも)まで行って漁をしていたことが、李承
 晩ライン設定の大きな原因であった。戦後間もなくであっても
 日本の漁船の性能は良く、韓国の近くまで漁に出掛けていたの
 である。これに対して韓国漁船は貧弱で性能が劣り、せいぜい
 沿岸での操業しかできなかった。このような事情を背景に李承
 晩ラインが強引に設定されたのである。ところでこの韓国船の
 性能や韓国人の操船技術のレベルを考えると、遥か彼方にある
 竹島のことを韓国人が「昔から訪れていた竹島は心の故郷」と
 まで言っていることが不可解である。一方、日本人は海洋民俗
 の血を引き、昔から周辺諸国へ自由に航行していた(周辺国で
 悪名高い倭冦はその典型)。とにかく海が苦手な中国人と韓国
 人が、遥か彼方にある尖閣諸島や竹島を「我が領土」「心の故
 郷」と言っていることが不思議なのである。
    ──2012年8月27日号/「経済コラムマガジン」
             http://adpweb.com/eco/eco720.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 韓国を代表するポータルサイトのネイバーの地図上から、竹嶼
と観音島の表示が消えているそうです。この2つ島から韓国の主
張との矛盾が炙り出されるのを嫌ったのでしょうか。さらに鬱陵
島と竹島(独島)の位置が縮まり、実際よりも少し大きく表示さ
れるようになっているような感じがします。次のサイトに写真が
あるので、確認してください。
―――――――――――――――――――――――――――――
   http://www.geocities.jp/yoshi1963jp/mistery.html
―――――――――――――――― ── [日本の領土/45]

≪画像および関連情報≫
 ●『東国文献備考』の于山島/下條正男氏論文
  ―――――――――――――――――――――――――――
  それでは、竹島を韓国領とする『独島・六世紀以来韓国の領
  土』で、韓国側が「当時、于山国の領土は鬱陵島本島とその
  付属の独島などで構成され、東海に鬱陵島と独島の二島が存
  在」するとして、于山島を今日の独島とした根拠は、どこに
  あったのであろうか。その論拠となったのが、『東国文献備
  考』(1770年刊行)の分註である。そこには「輿地志に
  云う、鬱陵于山皆于山国の地。于山は倭の所謂松島なり」と
  記され、于山鳥は鬱陵島の属島とされ、日本の松島(今日の
  竹鳥)でもある、とされているからだ。だが、韓百謙が16
  15年に編述した『東国地理誌」(1640年刊行)では、
  于山島は鬱陵島のこととされ、『東国輿地勝覧』(「蔚珍県
  条」)でも一説として「于山、鬱陵本一島」とされていた。
  それが『東国文献備考』では何故、「于山は倭の所謂松島な
  り」とされ、于山島は日本の松島(現在の竹島)のこととさ
  れたのであろうか。これは『東国文献備考』の編纂過程を明
  らかにしておく必要がある。
http://take859201goole.wiki.fc2.com/wiki/%E3%80%8E%E6%9D%B1%E5%9B%BD%E6%96%87%E7%8C%AE%E5%82%99%E8%80%83%E3%80%8F%E3%81%AE%E4%BA%8E%E5%B1%B1%E5%B3%B6%E3%80%80%EF%BC%88%E7%8B%AC%E5%B3%B6%E5%91%BC%E7%A7%B0%E8%80%83%EF%BC%89?sid=c2a43f4445fa9d9da6e282097417b9de
―――――――――――――――――――――――――――――

干山島は果たして竹島か.jpg
干山島は果たして竹島か
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2012年12月05日

●「GHQは竹島をどう処分したか」(EJ第3442号)

 ここまでの考察で、1905年の竹島の島根県編入以前の歴史
において、竹島(独島)が韓国領であったことを明確に示す証拠
は何もないことが明確になったと思います。
 韓国側は「独島はわが領土」であるという前提に立って、明ら
かな韓国領である鬱陵島の属島である竹嶼と観音島に関する記述
のある歴史的事実を竹島(独島)にすり替えて主張している──
そのように考えられます。
 そうなると、終戦直後の竹島の扱いがどうなっているかです。
事実関係を追ってみたいと思います。これについては11月26
日のEJ第3435号と27日のEJ第3436号で述べていま
すが、そこで触れていない事実があるので、その経過を調べてみ
ることにします。
 日本は、1945年8月15日にポツダム宣言を受け入れ、敗
戦国になったのですが、領土処分に関しては同年12月までその
ままの状態にされたのです。
 1945年12月16日に、米英ソ3国の外相会談がモスクワ
で開催され、戦後処理問題が話し合われています。これに基づき
12月27日に朝鮮半島は、米英ソ中の4ヶ国による信託統治を
受けることが決まったのです。
 考えてみると、韓国にとってはひどい決定です。やっと日本か
らの支配を脱したと思ったのに、今度は他国の信託統治というの
ですから・・・。これによって、朝鮮半島は38度線を境に二分
され、事実上、朝鮮半島の北部は中ソ、南部は米国の軍政下に置
かれたのです。これが朝鮮戦争の遠因になるのです。
 これによって、竹島の命運は事実上米国の手に委ねられたこと
になります。1946年1月29日に連合国軍総司令部──GH
Qは、「訓令第677号」によって、竹島は日本の領土から外さ
れています。同じ年の6月22日には日本列島と朝鮮半島の間に
は「マッカーサーライン」が引かれるのですが、それによっても
竹島は韓国側になっているのです。
 その時点で韓国は、日本から独立して韓国に戻っていますが、
国が二つに分割されたので、正式にいうと2つの国としては成立
していない状態にあったのです。
 しかし、韓国では、独島が正式に韓国領として認められたので
韓国山岳会主催による学術調査団を編成し、1946年8月16
日から2週間かけて独島の調査が行われているのです。おそらく
韓国側としては、これで独島は韓国に正式に戻されたと考えたは
ずです。これは当然のことです。
 もし、事態がこのまま変っていなければ、竹島問題はそこで決
着がついていたはずです。もともと竹島は無人島であり、日本側
に占有権があったとしても、敗戦による領土処分で決着がついた
こととして、現在韓国がやっているように、後からごちゃごちゃ
蒸し返すことはなかったはずです。日本人はそういう気性を持っ
ている国民です。
 しかし、事態はそうはならなかったのです。朝鮮半島がにわか
に不安定になったからです。1948年8月15日に大韓民国政
府が誕生し、9月9日には北朝鮮に朝鮮民主主義人民共和国が樹
立されたのです。
 ところが、それから2年後に朝鮮戦争が起きるのです。孫崎亨
氏の本から引用します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1950年6月25日午前4時、38度線で北朝鮮軍の砲撃が
 開始されました。30分後には約10万の朝鮮人民軍が38度
 線を越えて韓国を攻撃しました。ソウルはあっというまに陥落
 し、準備不足の韓国はどんどん追いつめられ、半島南端の釜山
 周辺にまで追いこまれました。急遽、国連軍が編成され、10
 月20日には平壌を占拠し、5日後には中国との国境の鴨緑江
 付近まで攻めこみます。こうした状況のなか、中国が北朝鮮に
 人民義勇軍を派遣しました。両軍の攻防がつづき、1953年
 7月27日に板門店で休戟協定が調印され、38度線が国境と
 なります。                 ──孫崎亨著
      『戦後史の正体/1945〜2012』/創元社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 孫崎氏によると、なぜ北朝鮮軍が韓国に攻め込んだのかという
と、その背後にソ連の意思が働いているというのです。実は米国
の国家安全保障会議は、1949年12月に韓国から撤退するこ
とを決めており、その情報をソ連のスパイが入手し、戦争はおそ
らくスターリンが断を下したものと思われます。こういうことが
冷戦の原因になったのです。
 こういう事態が起きてくると、竹島は米国の軍事戦略上重要な
意味を持ってくるのです。それに日本側もサンフランシスコ講和
条約(1951年9月8日)の日が迫っているので、竹島の奪還
のために米国にいろいろ働きかけていたのです。その一人がシー
ボルト駐日政治顧問です。
 「竹島は日本の領土である」──シーボルト政治顧問はこのよ
うに米国務省へ提言しています。これを受けた米国務省は、講和
条約草案の竹島に関する部分を次のように書き替えたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ≪書き替え以前≫
 日本から除外される地域として済州島、竹島、鬱陵島・・・
 ≪書き替え以後≫
 日本から除外される地域として済州島、巨文島、鬱陵島 ・
―――――――――――――――――――――――――――――
 これによって、竹島は再び日本領になったのです。韓国の立場
からは絶対に納得できないでしょう。実は事実はこのようになっ
ていますが、真相は違うようです。これについては、重要なこと
なので、明日のEJで詳しくいきさつについて説明します。
 朝鮮半島の情勢は不安定になっており、対処を誤ると、米国と
対ソ連や中国との戦争に発展しかねない緊迫した情勢です。やっ
と日本に勝利した後に、米国としては、大規模な戦争など起こし
たくなかったのです。       ── [日本の領土/46]

≪画像および関連情報≫
 ●朝鮮戦争──北朝鮮による奇襲攻撃
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1950年6月25日午前4時(韓国時間)に、北緯38度
  線にて北朝鮮軍の砲撃が開始された。宣戦布告は行われなか
  った。30分後には朝鮮人民軍が暗号命令「暴風」(ポップ
  ン)を受けて、約10万の兵力が38度線を越える。また、
  東海岸道においては、ゲリラ部隊が工作船団に分乗して後方
  に上陸し、韓国軍を分断していた。このことを予測していな
  かった李承晩とアメリカを始めとする西側諸国は衝撃を受け
  た。なお北朝鮮では、当時から現在に至るまで、「韓国側が
  先制攻撃してきたものに反撃したのが開戦の理由」だと主張
  し続けているほか、中華人民共和国でも現在に至るまで「ア
  メリカ合衆国による北朝鮮への軍事進攻によって戦争が始ま
  った」と学校で教えられ、中国国家主席に就任した習近平も
  「6・25は平和を守ろうとする侵略に対立した正義のある
  戦争」であると表明している。が、この様な北朝鮮や中華人
  民共和国による主張は、ソ連崩壊後のロシア政府にさえ公式
  に否定されている。         ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

シーボルト駐日政治顧問.jpg
シーボルト駐日政治顧問
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2012年12月06日

●「竹島を日本領に戻した理由」(EJ第3443号)

 サンフランシスコ講和条約の初期の草案──1947年3月時
点のなかで、日本の領土についての記述と朝鮮放棄についてのそ
れを全文で次に示します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ≪日本領土の範囲≫
 日本の領土的範囲は、1894年1月1日現在のそれとする。
 ただし、第2条、第3条・・・に示された変更を加える。すな
 わち、その範囲は、主要島である本州、九州、四国及び北海道
 並びにすべての沖合諸小島を含む。沖合諸小島は、千島列島を
 除き、鹿児島県下の琉球諸島、孀婦岩までの伊豆諸島、瀬戸内
 海の島々、礼文、利尻、奥尻、佐渡、隠岐、対馬、壱岐及び五
 島列島を含む。
 ≪朝鮮の放棄≫
 日本はこれによって、朝鮮及び済州島、巨文島、ダジュレー島
 (鬱陵島)及びリアンクール岩(竹島)を含むすべての沖合小
 島嶼に対するすべての権利及び権原を放棄する。
    ──「日本史特殊研究レポート」/「竹島の取り扱い」
     http://www.bl.mmtr.or.jp/~k-hideya/takeshima.htm
―――――――――――――――――――――――――――――
 講和条約の草案は、米国務省内で、1949年11月までに5
回書き換えられています。上記はその最初の草案です。当時米国
務省内では、日本に関して詳しい知識を持つ者は皆無であり、そ
のために日本に派遣されている国務長官特別顧問の発言は強い影
響力を持っていたのです。
 まして、竹島(独島)は島というよりも小さい岩礁であり、そ
んな島嶼のことを国務省の役人が知るはずがなかったのです。推
測ですが、韓国系の人間による情報提供があったのではないかと
考えられます。
 それはそれとして、この第1回草案においては、竹島は韓国領
となっています。マッカーサーラインもこの考え方に基づいて設
定されたものと思われます。ところが、最終の1949年11月
の草案においては、竹島は韓国領から外されているのです。国務
省が考え方を変えたからです。
 これに関して影響力を発揮したのが、米国駐日政治顧問のウイ
リアム・シーボルトです。当時日本政府と最も接触を持つ米国人
の一人であり、実質的な初代駐日大使です。
 そのシーボルトは、1949年11月14日付の電報で、日本
担当のバターワース国務次官補に対し、「竹島」について再考を
求めたのです。これは、11月19日付の文書でも正式に伝えら
れているので、それを次に示します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 朝鮮方面で日本がかつて領有していた諸島の処分に関し、リア
 ンクール岩(竹島)が我々の提案にかかる第3条において日本
 に属するものとして明記されることを提案する。この島に対す
 る日本の領土主張は古く、正当と思われ、かつ、それを朝鮮沖
 合の島というのは困難である。また、アメリカの利害に関係の
 ある問題として、安全保障の考慮から、この島に気象及びレー
 ダー局を設置することが考えられるかもしれない。
          ──前掲「日本史特殊研究レポート」より
―――――――――――――――――――――――――――――
 この文書を見てもわかるように、竹島の日本領化は日本のため
というよりも、ソ連に対する米国の安全保障上の備えとして必要
であったのです。それは「安全保障の考慮から、この島に気象及
びレーダー局を設置する」によって明らかです。ソ連との冷戦は
既にはじまっていたのです。
 当時の米国の国家安全保障会議は、共産圏諸国との防衛ライン
を次のように設定していたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 アメリカの防衛ラインは、アリューシャン列島から日本列島、
 沖縄をへてフィリピンにいたるラインである。この防衛ライン
 を超えた場合、アメリカは武力をもって阻止する。
      ──1950年1月/アチソン国務長官/孫崎亨著
      『戦後史の正体/1945〜2012』/創元社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 ソ連のスターリンと北朝鮮の金日成が、この情報を得て米軍が
撤退しつつある南朝鮮、すなわち韓国を攻めても米軍は参戦しな
いと読んだのです。しかし、マッカーサーの考え方は違っていた
のです。「朝鮮半島を共産圏にしてはならない」という強い考え
方を持っていたのです。
 マッカーサーは、戦争前に日本の要人から、日本が朝鮮半島に
進出したのは侵略のためではなく、日本の安全保障のためである
ということを何度も聞かされていたのですが、そうは考えていな
かったのです。
 しかし、日本に来て、改めて安全保障上の問題を考えてみたと
ころ、日本という国にとって、朝鮮半島の安定が安全保障の要で
あることがよくわかったのです。しかし、北朝鮮軍が韓国に攻め
込んだという情報を聞いたとき、日本の降伏からたったの5年で
平和が破られたことにマッカーサーは衝撃を受けたといいます。
 朝鮮半島における米軍の全指揮権を国防総省から付与されると
マッカーサーは救援の英軍と一緒に北朝鮮に対し、本格的反攻に
打って出たのです。そして、成功率0・002%といわれる仁川
上陸作戦を国防総省の反対を押し切って敢行し、ソウル奪還に成
功したのです。
 しかし、国防総省の反対を押し切って作戦を遂行し、ソウルを
奪還したものの、中国人民軍の参戦を招いたとして、1951年
4月、マッカーサーは解任され、日本を離れるのです。
 これらは、すべてサンフランシスコ講和条約の前に起こってい
ることなのです。したがって、その草案づくりに改めて日本の安
全保障という観点から再考が行われ、竹島は日本領に含められる
ことになったのです。しかし、韓国側の反発は激しく、簡単には
収まらなかったのです。      ── [日本の領土/47]

≪画像および関連情報≫
 ●昭和天皇とマッカーサー連合国最高司令長官の会談
  ―――――――――――――――――――――――――――
  昭和天皇が敗戦国の国家元首としてマッカーサーが滞在する
  アメリカ大使館に出向き会談した際、マッカーサーは、会談
  の際の昭和天皇の真摯な姿勢に感銘を受ける。昭和天皇は、
  命乞いをするどころか「戦争の全責任は私にある。私は死刑
  も覚悟しており、私の命はすべて司令部に委ねる。どうか国
  民が生活に困らぬよう連合国にお願いしたい」と述べた。マ
  ッカーサーは、天皇が自らに帰すべきではない責任をも引き
  受けようとする勇気と誠実な態度に「骨の髄まで」感動し、
  「日本の最上の紳士」であると敬服した。マッカーサーは玄
  関まで出ないつもりだったが、会談が終わったときには昭和
  天皇を車まで見送り、慌てて戻ったといわれる。後にも「あ
  んな誠実な人間は見たことがない」と発言している。
                    ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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仁川上陸作戦のマッカーサー司令長官
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2012年12月07日

●「講和条約前の韓国の微妙な立場」(EJ第3444号)

 サンフランシス講和条約に対する韓国の立場は微妙なものだっ
たのです。そもそも「講和条約」というものは、戦争状態を終結
させるための条約であり、そのため「平和条約」ともいわれるの
です。しかし、韓国と日本は戦争状態になかったので、講和条約
の対象国ではないのです。
 したがって、韓国は3回にわたって草案の修正案を米国政府に
提出したのですが、米国側は韓国の要求に応じなかったのです。
一方、英国政府は独自のかたちで講和条約の草案を作成していた
のです。その竹島部分は次のようになっていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本の主権は、次の線によって囲まれた区域内にあるすべての
 島、隣接小島及び岩に対して存続する。すなわち、北緯30度
 から北西方向へおおよそ北緯33度東経128度に至り、北へ
 進んで済州島と福江島の間を通り、北東方向に向かって朝鮮と
 対馬の間を通り、引き続き同方向に、隠岐列島を南東に竹島を
 北西にみて進み、本州の海岸線を沿ってカーブし・・・
    ──「日本史特殊研究レポート」/「竹島の取り扱い」
―――――――――――――――――――――――――――――
 これによると、竹島は韓国領になっているのです。竹島は、北
緯37度15分、東経131度52分、隠岐島の北西157キロ
の海上にあるので、英国案の線引き案によると竹島は日本領にな
らないのです。
 英国は何に基づいてそのように決めたのでしょうか。一番大き
な理由は、米国の初期の草案がそうなっていたからです。それに
英国はシンガポールの陥落や捕虜の扱いを巡って日本に不満があ
り、終戦直後は、日本に対して寛容ではなかったのです。
 この相違については、1951年5月から米英両国間で協議が
行われたのです。講和条約草案の初期の頃に比べると、この時点
では、中国を巻き込んで朝鮮戦争が拡大していたこともあり、日
本の戦略的地位が一段と高まっていたのです。
 それに米国は、経度緯度で日本の領域を表示する案は、日本を
柵の中に囲い込むようなものであり、その心理的不利益を指摘し
て反対したのです。英国もこれに同意し、1951年5月16日
の講和条約最終草案で、日本から排除される地域を特定するネガ
ティブ方式で決着したのです。そこでは竹島(独島)は、該当地
域には指定されなかったのです。
 それでも韓国は独島(竹島)にこだわったのです。それはもう
ひとつ別の事情があったからです。日本は、ポツダム宣言受託と
同時にそのとき韓国で生活をしていた日本人はすべての財産を韓
国に残して、身ひとつで日本に強制帰国させられたのです。
 そのとき、問題になるのは、その財産はどうなるのかというこ
とです。韓国に残された日本および日本人の帰属財産は、韓国の
全財産の80〜90%を占めていて、もし、これが持ち出される
と韓国は破産してしまうことになるのです。これには、当時の韓
国の政治家は強い危機感を抱いていたのです。
 したがって、韓国の戦略としては、やがて行わなければならな
い日韓交渉において、韓国が少しでも有利に日本と交渉できるよ
うに、このさい取れるものは何でも取っておきたいと考えたわけ
です。やがてそれは、李承晩ラインを侵犯する漁船を拿捕し、多
くの日本人を抑留して日本に帰国させず、それすらも交渉の材料
として使うという、成り振り構わないものになったのです。
 1951年7月19日に、駐米韓国大使館のヤンユチアン大使
は、当時駐韓米国大使のアレン・ダレスと協議を行ったのです。
そのさい、ヤン大使は韓国政府の5つの要求を行っています。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1.韓国を太平洋戦争の交戦国として認めるべきである
  2.日本は韓国に対し、国内残留財産請求権を放棄する
  3.     韓国を対日講和条約の調印国とすること
  4.     韓日間の漁業水域を明確に決定すること
  5.日本は、対馬、パラン島、独島の領有権を放棄する
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで、1と3は同じことを要求しています。1が認められれ
ば、講和条約の調印国になるからです。しかし、韓国は日本と戦
争していないので、これは無理な要求です。
 2については、上記のように、韓国が当時最も恐れていたこと
です。したがってこれを何としても日本に認めさせないと韓国が
破綻してしまうことになるので、要求に入っています。
 4の漁業水域の明確化は、マッカーサーラインを日韓交渉がま
とまるまで残して欲しいと米国に要求したのです。しかし、マッ
カーサーラインは、漁業資源の乱獲を防ぐ目的で暫定的に引いた
もので、講和条約の成立とともに廃止されたのです。
 当時韓国の漁業能力は低く、日本に対抗できなかったのです。
米国にマッカーサーラインを残すよう要請したのはそういう理由
からです。しかし、米国は聞き入れなかったのです。これが韓国
が李承晩ラインを引くことにつながったのです。
 5については韓国は明らかに失敗であったと思われます。独島
(竹島)だけにすればよかったのに、対馬に加えてその存在すら
不明のパラン島(波浪島)まで返せと要求したことによって、か
えって米国の信用を失ったのです。「竹島密約」なる著書を著わ
している、ソウル生まれで、韓国にも日本にも詳しいロー・ダニ
エル氏は、これについて次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 領土争いの対象にならない「対馬」について領土権を主張する
 大統領、存在が確定できない「波浪島」の領有権を主張する韓
 国政府の準備不足と軽率な態度は、韓国の主張自体の信憑性を
 疑わせることにつながったといえる。これは、首相をはじめ、
 外務省が一体になって「理論武装」していた日本とあまりにも
 対照的な風景だった。        ──ロー・ダニエル著
                  「竹島密約」/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
                 ── [日本の領土/48]

≪画像および関連情報≫
 ●米国(連合国)はなぜ竹島を日本領としたのか
  ―――――――――――――――――――――――――――
  サンフランシスコ平和条約中では、日本が放棄する朝鮮の領
  域に竹島は文字はなかった。アメリカ側は竹島を日本の領域
  内に入れるために、この措置を行ったのは事実である。その
  方針は、自国の利害を考え、日本による領土主張を受けたシ
  ーボルトの勧告がきっかけであった。国務省政策立案者は日
  本や韓国についてそれほど知識を持っていたわけではなかっ
  たので、この出先機関からの勧告を重要視したものと思われ
  る。韓国側は竹島の条文からの除外によって、竹島が日本の
  領域と認定されることをおそれ、アメリカと交渉したが、そ
  の交渉は失敗に終わった。サンフランシスコ平和条約では竹
  島は日本領と認定されたと言える。しかし、その条約を作成
  したアメリカ側の竹島への知識は本当にあったのだろうか。
  アメリカは第3者的な立場に本当に立てたのだろうか。この
  ような疑問点が残るのも事実である。
    ──「日本史特殊研究レポート」/「竹島の取り扱い」
     http://www.bl.mmtr.or.jp/~k-hideya/takeshima.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

アレン・ダレス駐韓米大使.jpg
アレン・ダレス駐韓米大使
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2012年12月10日

●「『仮死状態』になった日韓関係」(EJ第3445号)

 12月5日に竹島に関する次の本を入手しました。私はテーマ
に関するすべての本や資料を揃えてから書くのではなく、ある程
度揃えた時点で書き出し、書きながらいろいろなところから情報
を収集して書くやり方をとっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
         ロー・ダニエル著
         『竹島密約』/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 ロー・ダニエル氏は、1954年ソウル生まれの韓国出身の政
治学者です。ソウル西江大学を卒業し、米マークエット大学で国
際政治学の博士号、米マサチューセッツ工科大学で政治経済学の
博士号を取得しています。
 1951年9月8日のサンフランシスコ講和(平和)条約調印
直後の日韓関係は最悪で、冷え込んでいたのです。この本は、そ
れから1965年6月22日の日韓基本条約締結までの15年間
に日韓の間に何が起きたのかについて詳細に書かれています。
それは、驚くべき内容です。
 同書は278ページに及ぶ大書であり、詳細にはご紹介できま
せんが、そこに何があったのかについて同書を参照しながらご紹
介していきます。
 李承晩ラインが宣言されたのは、1952年1月18日のこと
です。マッカーサーラインが撤廃されるのは、同じ年の4月25
日です。韓国は、日韓基本条約が締結されるまでの間マッカーサ
ーラインを撤廃しないで欲しいと米国に要請していたのですが、
米国は拒否していたのです。
 前回述べたように、当時の韓国の漁業能力は低く、韓国として
は何らかの防衛策を講じないと、日本漁船に太刀打ちできないと
考えて、李承晩大統領はにわかに李承晩ラインに基づく海洋主権
を主張しはじめたのです。これについて、ロー・ダニエル氏は次
のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 弱い立場の者や敗北者が冷静な判断と戦略的知恵を保つのは難
 しい。サンフランシスコ講和条約を挟んだ戦後体制作りの過程
 で外交的敗北を喫した李承晩政権は「みずからの手で正義を」
 実現しようとした。その一つのあらわれが、日本で「李承晩ラ
 イン」と呼ばれる「平和線」の設定だつた。国民に近代国家の
 意識がなく、また脆弱な政府が戦争を遂行するなかで、カリス
 マ性をもって民族主義を高揚させた李承晩という政治家がいな
 かったら、当時の韓国は国としてまとまることができなかった
 かもしれない。           ──ロー・ダニエル著
                  「竹島密約」/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 李承晩ラインの宣言後から日韓会談が2回にわたって行われた
のですが、何の成果もなかったのです。1953年に入ると、李
承晩ラインに基づく日本漁船の拿捕事件があり、竹島周辺で韓国
の守備隊が日本の海上保安庁の巡視艇に発砲する事件も起こって
日韓の関係はますます悪化したのです。そして、同年10月6日
に外務省で行なわれた第3回会談における「久保田発言」で、日
韓関係は「仮死状態」に陥ったのです。
 「久保田発言」の久保田とは、久保田貫一郎外務省参与のこと
であり、財産及び請求権委員会の委員長をしていたのです。彼は
第3次会談の日本代表なのですが、この会談で久保田参与は、次
の発言をして韓国代表を激怒させたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本が講和条約を締結する前に韓国が独立したのは不法であ
 る。日本の36年にわたる統治は、韓国にとって有益であっ
 た。         ──ロー・ダニエル著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 韓国代表団は、この発言を聞くと席を蹴って退出してしまった
のです。当時の日韓の間には、お互いに不信、不快、嫌悪の感情
が色濃くなっており、とても冷静に会談を行い、基本条約を締結
するには無理な状況だったのです。そして遂に韓国政府は、19
55年8月に、日本との人的交流を禁止する「日韓断交」に踏み
切ってきたのです。
 1957年2月25日に岸信介内閣が成立します。岸首相は日
韓はこのままではいけないと考えて、思い切った宥和策をとろう
と決断します。それには、次のエピソードがあるのです。
 1956年8月に、蒋介石中華民国総統は、日本の使節団を台
湾に招いたのです。使節団の団長は石井光次郎自民党総務会長で
あり、総勢26名が台湾を訪れています。そのとき、岸氏の懐刀
といわれる矢次一夫氏も使節団に入っていたのです。その訪問で
蒋介石総統は使節団に次のように述べたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本と韓国のあいだに、いまだ国交がないことは誠に遺憾で
 ある。われわれは日本と韓国が親しくなるよう陰ながらがん
 ばっている。              ──蒋介石総統
            ──ロー・ダニエル著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 矢次一夫氏は蒋介石総統の言葉に感銘を受け、帰国すると当時
自民党の幹事長をしていた岸氏に会って、蒋介石総統の言葉を伝
え、次のようにいったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 台湾というよその国の政府が心配しているのに、日本政府が
 知らん顔をしているのは怠慢じゃないか。 ──矢次一夫氏
            ──ロー・ダニエル著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 この言葉で岸氏は日韓関係改善に力を入れようと決意したとい
われます。まして岸氏にとっては、地元の山口県の漁民が多く李
承晩ラインにひっかかって拿捕されており、その解決を急ぐ必要
があったのです。岸氏の支持を受けた矢次一夫氏は日韓関係改善
のために動き出したのです。    ── [日本の領土/49]

≪画像および関連情報≫
 ●産経書評/「竹島密約」/草思社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――
  本書の著者、ロー・ダニエル氏は韓国人である。ソウルの生
  まれ、アメリカ、日本に留学し、現在は日本と韓国で言論活
  動をおこなっている。ロー氏は多くの日本人政治家と関係者
  の回想録や覚書を読み、存命する人たちに証言を求め、日本
  語で執筆したのが、この著書である。戦後生まれのロー氏の
  達意の文章に読者はまず驚き、40数年前に活躍した日韓両
  国の政治家の面目、その願望、メンタリティーを見事に描き
  切っていることに感嘆しよう。1965年の日本の首相は佐
  藤栄作であり、「竹島密約」を考案した日本側の政治家は河
  野一郎だった。日本では最高、最長のいざなぎ景気がはじま
  ろうという年であったが、アメリカ軍はベトナムの戦いに介
  入し、毛沢東がはじめようとしている文化大革命の全体像は
  皆目見当がつかず、インドネシアでは中国が支援する共産党
  のクーデターが瓦解しはしたものの、東アジアは不安、危険
  な状況にあった。60年に韓国大統領の李承晩が下野を迫ら
  れたあと、61年に軍事革命によって大統領となっていた朴
  正熙は、日本との関係を正常なものにして、それを国造りの
  てこにしようと望んだ。(全部読む)
          http://unkar.org/r/news4plus/1227540123
  ―――――――――――――――――――――――――――

ロー・ダニエル著「竹島密約」.jpg
ロー・ダニエル著「竹島密約」
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2012年12月11日

●「日韓2人のリーダーの相次ぐ下野」(EJ第3446号)

 李承晩大統領は、日本の歴代首相のなかで岸信介首相が親韓で
あるという情報を掴んでいたのです。問題は、いかにして岸首相
とコンタクトを取るかです。何しろ日韓は国交断絶状態なので、
それは容易なことではなかったのです。韓国も経済が疲弊してき
ており、日本との関係を修復しなければと考えていたのです。
 そこで李承晩大統領が使ったのが、李泰夏(ユテハ)という腹
心です。李泰夏氏は岸の側近矢次氏に接近します。そして矢吹氏
は李泰夏氏と韓国外務部の金東祚(キムドンジョ)政務局長を南
平台の岸邸に案内し、裏口から家に入り、岸首相と会談していま
す。金東祚政務局長は、このときの会談の模様を次のように述懐
しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 岸首相は、矢次氏の案内で、私宅前を取り囲んでいた記者たち
 を避けて裏門から入ってきた私に「故郷長州の先輩である伊藤
 博文が韓国を併合し、植民統治した過ちを深く反省し、日韓会
 談の成功に最善の努力を尽くすつもりである」と言い、「私が
 生まれた山口県の萩港は徳川幕府時代の貿易船だった朱印船が
 朝鮮半島と往来したところで、私の血にも韓国人の血が混ざっ
 ているかもしれない」とつづけた。そして、「日本国首相岸信
 介」と印刷されてある名刺を出して、「李大統領に奉呈してく
 ださい」と丁寧に言った。      ──ロー・ダニエル著
                  「竹島密約」/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 矢次氏の話によると、岸邸の正門には大勢の新聞記者が取り囲
んでいたので、裏の台所口から入ったのですが、そこにはたくさ
んの赤ん坊のおしめが干してあり、それをかき分けながら、家に
入ったと話しています。
 岸氏の娘婿は安倍晋太郎氏であり、そのとき干してあったおし
めは、現在自民党総裁の安倍晋三氏(当時2歳5ヵ月)のもので
あったのです。表に詰めている記者たちも、まさか国交断絶して
いる韓国の外交の担当者が裏口から岸邸に入って、首相と対談し
ているとは夢にも思わなかったでしょう。
 岸首相の願いは、何とかして李大統領に自分の親書を届けるこ
とにあったのですが、国交のない、しかも敵対している国のトッ
プに対してそれを実現するのは非常に困難だったのです。何しろ
日本国内は「韓国何するものぞ」という強硬意見が充満していた
からです。
 しかし、その実現に努力したのは、李大統領の腹心の李泰夏氏
だったのです。李泰夏氏は、李大統領に日本の岸総理はきわめて
親韓的で、大統領と連絡をとることを希求していることを伝え、
岸総理の側近の矢次一夫氏を大統領の賓客として招待することを
勧めたのです。
 1958年正月に李承晩大統領の書簡が岸首相宛てに届いたの
です。岸首相はその書簡を受けて、矢次氏に賓客としての訪韓を
要請します。1958年5月19日に矢次氏の訪韓は実現したの
です。その前日には日韓両国が互いに抑留者を釈放し、会談成功
の雰囲気づくりに努めたのです。その会談について、ロー・ダニ
エル氏は次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 柳と金東祚の案内で景武台の李大統領に会見した矢次は、岸首
 相の親書と「初心不可忘」と書かれた揮毫を大統領に贈呈し、
 岸の言葉を伝えた。それについて矢次は、「政府の特使じゃな
 い。岸総理の個人特使です・・・そうして行ってみると、向こ
 うは大統領の他に金東祚外務次官、柳泰夏だけが向かい合って
 座って、岸総理の手紙を大統領に直接手渡したんだ」と証言し
 ている。その場で、矢次は、「岸首相と同郷である伊藤博文が
 朝鮮を侵略し、韓国の人々を不幸にしたのは大きな過ちであり
 反省する」など、李の耳に快い話をしたと、同席した金東祚は
 回想している。     ──ロー・ダニエル著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 このようにして矢次氏は、李泰夏氏と組むことによって、コリ
アン・ロビーの中枢を占めるようになったのです。1956年の
秋から1957年の暮れまで、矢次氏は李泰夏氏と400回にわ
たって会談しているといわれます。
 このようにして、岸首相と李大統領は互いに信頼感を抱くよう
になり、その意を受けて動いた矢次一夫、田中龍夫、船田中、李
泰夏、金東祚たちが作り上げた日韓のロビーラインが努力したも
のの、日韓国交正常化は実現できなかったのです。その理由は、
日韓の2人のリーダー──岸首相と李承晩大統領が相次いで権力
の座を降りることになったからです。
 李大統領は1960年に入り、5月に予定していた選挙を3月
に前倒して実施したのです。というのは、最大の政敵が病気療養
のため、渡米しているすきを狙って、政権の延命を図ろうとした
のです。
 これに国民の怒りが爆発したのです。韓国南部の都市の馬山で
学生の暴動が起きて、デモが全国に広がったのです。1960年
の4月19日は、ソウルで市民と警察が全面対決する事態になり
多くの学生が死傷するまでにデモは拡大したのです。この事態を
見てさすがの李承晩大統領も自分の時代の終わりを悟り、下野す
ることにしたのです。
 日本では、新安保条約の調印とその批准を巡って国会が紛糾し
「安保反対」の大規模なデモが起きて、東大の学生の樺美智子さ
んが死亡するなどの事態になったので、6月15日に岸内閣は総
辞職しています。その1日前に岸首相は暴漢に襲われ、瀕死の重
傷まで負っているのです。
 しかし、6月18日深夜に新安保条約は自然成立、6月21日
に批准されたのです。岸氏はそのとき「安保改定がきちんと評価
されるには50年はかかる」という言葉を残しています。こうし
た一連の行動について、文藝評論家の福田和也氏は「本物の責任
感と国家戦略を持った戦後唯一の総理」として岸首相を高く評価
しています。           ── [日本の領土/50]

≪画像および関連情報≫
 ●脱原発の風潮は60年安保闘争に似ている
  ―――――――――――――――――――――――――――
  日本を危険な状態に陥れるものという意味で最近「TKK」
  という略語が使われる。Tは東京電力、KKは経済産業省と
  日本経団連のことだ。つまり、政官財癒着の構造について言
  っているのであり、そのTKKによってつくり上げられたの
  が原発だということになる。脱原発を主張するのは朝日新聞
  と毎日新聞である。8月6日付の朝日新聞は社説で「核との
  共存から決別へ」と題して次のように書いた。「世界各国に
  広がった原発も、同じ燃料と技術を使い危険を内包する。核
  被害の歴史と現在に向き合う日本が、核兵器廃絶を訴えるだ
  けではなく、原発の安全性を徹底検証し、将来的にゼロにし
  ていく道を模索する。それは(略)次の世代に対する私たち
  の責任である」。朝日新聞が書いているのは、原発が核の平
  和利用であるというのは間違いであり、核兵器と同様に非常
  に危険なものだ、ということである。人類を危険の淵に陥れ
  るものであるから、核兵器とも原発とも決別しよう、という
  内容である。
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20110810/280586/
  ―――――――――――――――――――――――――――

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岸信介元首相と李承晩元韓国大統領
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2012年12月12日

●「『竹島密約』と河野一郎との関係」(EJ第3447号)

 1965年5月11日付「朝鮮日報」は「韓国の中の日本人」
と題して、次のように伝えています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 昨年から自民党の実力者河野一郎国務相が、韓日交渉の裏面に
 深くかかわっていることが明らかになってきた。彼は、もとも
 と、韓日国交正常化には慎重論者として知られていた。その彼
 が積極論者に変わったことについては、いろいろなエピソード
 がある。会談妥結が確実になり始めたために、「韓国行きのバ
 ス」に乗り遅れてはならぬという打算からだという説、大野伴
 陸氏の死後、韓国側から積極的に接近していったとの説、なか
 んずく彼の出身地が金鍾珞氏夫人と同じ小田原であるからとの
 説、また韓国に進出している商社のなかでも指折りの伊藤忠商
 事と河野氏が姻戚関係にあるからという説等々。1963年に
 人知れず韓国を訪れた河野直系の中曽根康弘議員の報告が作用
 したとも言われるが、とにかく、河野氏は韓日交渉に足を踏み
 入れたのであった。         ──ロー・ダニエル著
                  「竹島密約」/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 結論からいうと、日韓国交正常化交渉において、竹島について
韓国と密約を結んだ立役者は河野一郎氏だったのです。河野一郎
氏といえば、自由民主党の党人派の代表格として権勢を誇り、そ
の政治行動は「横紙破り」と呼ばれた政治家です。前衆議院議長
の河野洋平氏の父であり、自民党の河野太郎議員の祖父にあたる
人物です。
 その河野一郎氏がどのような経緯で日韓交渉に関わり、竹島に
ついてどのような密約を結んだのでしょうか。
 それにしても、なぜ、日本側の責任者が外務大臣でも農林大臣
でもない河野一郎氏なのでしょうか。そのとき、河野氏は国務大
臣に過ぎなかったからです。その謎を解いていきます。
 まず、当時の自民党党内の派閥事情などについて述べる必要が
あります。当時の自民党には8つの派閥があり、「自民党8個師
団」といわれ、一つの党のような強固な結束力を誇っていたので
す。次表はこの8派閥の対韓スタンスを分析したものであり、当
時の駐日韓国代表部のベウイファン大使が作成したものです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     派閥名  衆議院議席数    対韓姿勢
     池田派      53     積極的
     岸 派      42  極めて積極的
     佐藤派      53     積極的
     石井派      23  極めて積極的
     大野派      32     積極的
     河野派      34      慎重
     藤山派      40      慎重
     三木派      33      慎重
      ──ロー・ダニエル著/ 「竹島密約」/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 これによると、河野一郎氏の率いる河野派は、対韓関係は「慎
重」と分析されています。河野氏は漁業企業と関係が深く、日本
の漁船を容赦なく拿捕する韓国のやり方に強い怒りをもっていた
といわれます。
 これに対して池田派をはじめとする官僚派は、米国の意向に従
順であり、日韓国交正常化には前向きだったのです。1961年
11月に来日したラスク国務長官は、時の池田総理と会談して次
のように要請しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 南ベトナムは危険な状況にあり、韓国でつまづくようなことが
 あれば、アメリカの威信にかかわる。悪化する韓国経済の立て
 直しは第一次経済開発5ヶ年計画のなりゆきにかかっている。
 わけても対日請求権は5ヶ年計画の遂行と韓国経済の再建に直
 接関係をもっている。早急に決めてほしい。それがないと、ア
 メリカの対韓援助も決まらない。    ──ラスク国務長官
               ロー・ダニエル著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 当時の韓国は、クーデターによって政権を取った朴正煕氏によ
る軍事政権であり、朴氏は親日派として知られていたのです。朴
軍事政権議長は、日本の対韓関係改善に積極的な官僚派派閥より
も、慎重姿勢を取っている党人派派閥の説得に重点を置いて、ロ
ビー活動を積極化させたのです。
 1961年11月11日の羽田空港。それは異様な光景だった
のです。午後の羽田空港に姿を見せたのは、池田首相、小坂外相
石井日韓問題懇談会会長、足立正商工会議所会頭、岸信介元首相
など政財界の大物がずらりと顔を揃えたのです。
 やがて午後4時近くになって、風采の上がらない黒い眼鏡をか
けた小柄な人物がタラップを降りてきたのです。朴正煕韓国軍事
政権議長その人です。彼はケネディ大統領に呼ばれて米国に行く
途中で日本に立ち寄ったのです。おそらくそれも米国の指示であ
ると思われます。
 日本での滞在時間は30時間。朴議長は、国賓待遇で迎えられ
たのです。そのスケジュールを見ると、11日の夜は総理官邸で
の晩餐会、12日朝はホテル・ニューオータニでの朝食会、昼は
赤坂の料亭での昼食会と続いたのです。そのすべての宴席には、
池田首相をはじめ、小坂外相、岸元首相、田中角栄、福田赳夫、
船田中、石井光次郎などのそうそうたる顔ぶれが顔を揃えていた
のです。これによって、日韓の国交正常化は米国の強く望むこと
であったことがわかります。晩餐会での朴議長の言葉です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 われわれが、過去のよろしくない歴史を暴き立てることは賢明
 なことではありません。両国は共同の理念と目標のために親善
 を図らなければなりません。  ──朴正煕韓国軍事政権議長
―――――――――――――――――――――――――――――
                 ── [日本の領土/51]

≪画像および関連情報≫
 ●朴正煕韓国大統領の人物像について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  朴正煕大統領は大統領に就任すると、日本を模範とした経済
  政策を布き、1961年には、国民1人あたりの所得が僅か
  80ドルだったという世界最貧国圏から、1979年には、
  1620ドルになるといったように、20年弱で国民所得を
  約20倍にまで跳ね上げるという「漢江の奇跡」を成し遂げ
  た功労者であり、独裁的でありながらの朴正煕大統領の私生
  活はいたって質素潔癖であり、縁故採用も嫌い、韓国大統領
  の中で極めて清廉潔白な大統領とされ、汚職も見られず、朴
  正煕大統領の死後には私有財産がほとんどなかった。また、
  自身の政治家としての潔白さを証明するため、親戚のソウル
  への立ち入りを禁じていたという。日本の陸軍士官学校を3
  位の成績で卒業(57期)し、終戦時は満州国軍中尉だった
  朴正煕大統領と対決し、職を追われたことがある趙甲濟も、
  「日本の一流の教育とアメリカの将校教育を受けた、実用的
  な指導者だった」と述べています。しかし、朴正煕大統領も
  夫人も同胞である朝鮮人によって殺されています。
      http://blogs.yahoo.co.jp/meiniacc/44832529.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

1961年当時の河野一郎氏.jpg
1961年当時の河野一郎氏
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2012年12月13日

●「朴正煕はなぜ自民党に接近したか」(EJ第3448号)

 韓国で李政権を受け継いだ張勉政権に対して軍事革命が起きた
のは、1961年5月16日のことです。実は自民党は、その年
の5月6日から13日まで韓国に視察団を派遣しており、その帰
朝報告会が16日の午前10時から尾崎行雄記念館(現憲政記念
館)で代表の野田卯一議員によって行われていたのです。
 野田卯一氏は、池田勇人、福田赳夫氏とともに、「大蔵省の3
田」と呼ばれる大物議員だったのです。野田氏によると、韓国訪
問は大成功で、野田代表はその成果を強調して40分ほど話した
ときのことです。野田氏の秘書が講演中の野田氏にメモを渡した
のです。その瞬間、野田氏の表情が一変し、「これは駄目だ。完
全に駄目だ」とつぶやいたのです。そのメモには、次のようなこ
とが書かれていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 今朝韓国でクーデター発生。未明に一団の若手軍人らが張勉
 内閣を打倒し、権力を掌握。            以上
―――――――――――――――――――――――――――――
 そのとき、小坂善太郎外務大臣には、クーデターの首謀者であ
る「朴正煕」なる軍人の情報がまったくなかったので、江崎真澄
防衛庁長官に情報把握を命じています。そのとき、防衛庁は外務
省の管轄下にあったのです。
 小坂外相の関心は「朴正煕は共産主義者か否か」であり、それ
は間もなく「共産主義者ではない」という情報が江崎長官からも
たらされたのです。これを受けて池田勇人首相は、6月19日に
訪米し、ケネディ大統領と会談しています。このときの会談はポ
トマック川に浮かべたヨットの上で行なわれたことは有名です。
首脳会談後の記者会見では次のような発言があったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 池田首相:日本にとっては、ある意味では中国問題よりも韓国
      のほうが重要だ。なんといっても、韓国は大国主命
      以来、地理的にも歴史的にも日本に近く、日本の死
      命を制する立場にある。とくに釜山が赤化した場合
      日本の治安にたいし大きな影響を及ぼすだろう。
 ケ大統領:まったく同じ意見である。アメリカとしても国交正
      常化を急ぐよう韓国に勧めるつもりだ。
       ──ロー・ダニエル著/「竹島密約」/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 そして、1961年11月11日に訪米の前に朴正煕議長は日
本を訪れたというわけです。おそらくケネディ大統領と池田首相
の根回しによるものと思われます。
 朴正煕議長の下には約10名の革命核心同士がいて、その下に
220名ほどの清廉な革新愛国メンバーが固めています。なかで
も金鍾泌という陸軍士官学校同期生を中心とする青年将校グルー
プがあり、以後朴正煕議長の腹心として縦横に活躍することにな
ります。
 特筆すべきは、金鍾泌氏を中心とする集団が陸軍情報学校で訓
練を受けた集団であり、諜報戦のプロであったことです。韓国で
は、陸軍士官学校の上位20名は情報局に配属され、ソウルの東
にある清涼里情報学校で教育を受けることになっているのです。
そういう経歴からか、後に金鍾泌氏は、韓国中央情報部(KCI
A)を創設して、その初代部長を務めています。
 朴正煕議長のこの取り巻きが情報将校たちであったという事実
は、その後の日韓交渉に大きな影響を及ぼすのです。彼らは朴正
煕議長の意を受けて、自民党に近づき、日韓国交正常化成立に向
けてさまざまな工作や活動をすることになるからです。
 今にして思えば、もし韓国で朴正煕将軍率いるクーデターが失
敗に終わり、首謀者全員が処刑されていたら、韓国はどうなって
いたでしょうか。おそらく、次の3つのことが起きていたと思い
ます。それほどこのクーデターはその後の韓国を変えたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    1.韓国の経済成長はなく、貧困国にとどまる
    2.経済に対する不満で革命が起こり赤化する
    3.現在も日本とは、国交正常化されていない
―――――――――――――――――――――――――――――
 朴正煕議長は、韓国を立て直すプランを持っており、それを部
下と共有していたのです。何よりも疲弊の極にある韓国の経済を
再生させることです。そのためには日本から金を引き出す必要が
あるのです。しかし、ただ「金を出してくれ」というやり方では
なく、ちゃんと具体的な経済再生政策を日本に示し、それに援助
してもらうというかたちで要求するという方法をとっています。
それが経済開発5ヶ年計画なのです。
 そのとき、朴正煕議長は自国の経済をどのようにとらえていた
のでしょうか。彼が秘書室長に語ったという言葉が残っているの
で、ご紹介します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 クーデターを敢行した時点で、わが国がこれだけ貧しいことを
 知らなかった。国を富ませ強くし、民を幸せにするのが政治の
 目標だと思ったのに、この国は金が全然ない。貧しいというよ
 り、皆が乞食であるというほうが正しい表現かもしれない。ま
 るで泥棒が去ったあと、いつ化け物が出てもおかしくないよう
 な殺伐たるありさまだ。          ──朴正煕議長
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本から金を引き出すためには、それを決める立場にいる与党
の有力議員が何を考えているか知る必要があります。そのため、
朴正煕議長は、自分のスタッフを使って徹底的にその情報収集を
行ったのです。
 その結果、日本が36年間にわたる韓国支配を「強制占領」と
考えておらず、賠償すべき請求権などないと考えていることがわ
かったのです。それなら、日本国民が納得できる方法で交渉する
必要があり、「経済協力」というかたちで交渉するのがよいと朴
議長は考えたのです。取引材料としては「李承晩ライン」の撤廃
を上手に使うつもりだったのです。 ── [日本の領土/52]

≪画像および関連情報≫
 ●金鍾泌氏をめぐるエピソードあれこれ
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1962年10月の大平正芳外相との会談で金鍾泌中央情報
  部長は、ICJ付託を拒否したが、米国務省外交文書集によ
  れば、金鍾泌中央情報部長は日本側に竹島問題の解決策とし
  て竹島破壊を提案していた。金鍾泌中央情報部長は、東京で
  の池田勇人総理及び大平外相との会談後、訪米。1962年
  10月29日のディーン・ラスク国務長官との会談において
  ラスク長官が「竹島は何に使われているのか」と問うたとこ
  ろ、金部長は「カモメが糞をしているだけ」と答え、竹島破
  壊案を自分が日本側に提案したと明かした。のちに韓国国内
  で「独島爆破提案説」が問題視された時には、金鍾泌自由民
  主連合総裁は「日本には絶対に独島を渡すことはできないと
  いう意思の表現だった」と弁明している。また2010年の
  朝鮮日報の取材に対して金鍾泌は「国際司法裁判所で日本の
  ものだという判決が出ても、すべてを爆破してなくしてしま
  ってでも、あなたたちの手に渡すつもりはない」と激高して
  発言したと回想しているが、これは米国務省外交文書集「東
  北アジア1961〜1963」収録関連会談記録の様子とは
  趣が異なる。          ──竹島(島根県)より
  ―――――――――――――――――――――――――――

金鍾泌氏.jpg
金鍾泌氏
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2012年12月14日

●「朴正煕議長の巧妙な対日交渉」(EJ第3449号)

 1953年10月6日に外務省で行なわれた日韓会談、ここで
飛び出したのが久保田貫一郎外務省参与の「日本の36年にわた
る韓国統治は韓国にとって有益」という発言。これによって、日
韓関係は「仮死状態」に陥ってしまったのです。
 朴正煕氏はこのことをよく覚えていたのです。今回交渉しても
きっとこれに近い発言は出てくる。そのたびに席を立っていれば
交渉は成立しない。日本側担当者の意向を慎重に探り、何として
も日韓国交正常化を達成しなければならない──朴正煕氏はこの
ように考えたのです。
 まず、朴正煕議長は、1961年7月15日、李東煥(イドン
ファン)という人物を駐日代表部の公使として日本に送り込んで
きたのです。なぜ、李東煥氏なのかというと、彼が一橋大学(当
時東京商科大学)出身だからではないかといわれています。
 当時の大平正芳官房長官、小坂善太郎外相が一橋大学の出身だ
からです。この李東煥氏の根回しによって、朴正煕議長が大物特
使として金裕澤(キムユテク)という人物を送り込むということ
がアナウンスされたのです。
 李東煥氏の根回しによって、金裕澤氏は第1次池田内閣の通産
大臣を務めた石井光次郎氏の招待というかたちをとって、同年8
月30日に来日しています。金裕澤氏は来日するや精力的に動き
池田首相をはじめ、小坂外相、佐藤通産相、大平官房長官、大野
伴睦自民党副総裁などの大物と次々と会談し、10月20日に中
断していた日韓会談の再開を取り決めたのです。そこには朴正煕
議長の韓国再生に賭ける強い思いがあったのです。
 そして、第6次日韓会談がはじまった4日後の10月24日に
朴正煕議長の腹心である金鍾泌氏と外2名が極秘裡に東京入りし
ています。表の会談の裏で金鍾泌氏のチームがそれをサポートす
る万全の体制です。他の2名とは、石正善、崔英澤の両氏で、金
鍾泌氏の陸軍士官学校の同期生で、金氏と一緒に情報将校をして
いた仲間です。彼らが担っていた役割は、次の2つです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       1.朴正煕議長の訪日を実現させる
       2.朴正煕議長の2つの密命の支援
―――――――――――――――――――――――――――――
 「1」について金鍾泌氏は、池田首相をはじめ当時の自民党の
実力者と会い、池田首相から次の発言を引き出すことに成功する
のです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 朴正煕国家再建最高会議議長が訪米するさい、日本に立ち寄
 れないか。日本は「国賓」としてお迎えする ──池田首相
―――――――――――――――――――――――――――――
 これによって、1961年11月11日の朴正煕議長の訪日が
実現したのです。池田首相はその年の6月にケネディ米大統領と
会ったさい、朴正煕議長に会うよう促されていたのです。
 「2」の朴正煕議長の2つの密命とは何でしょうか。それは次
の2つです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    1.請求権の処理と李ラインの廃止を結びつける
    2.請求権の総額を8億ドルの線で提示すること
―――――――――――――――――――――――――――――
 朴正煕議長は「請求権」という言葉について、日本側に強いア
レルギーがあることは、自民党の実力者から聞いて知っていたの
です。そこで、朴正煕議長は次の「援助」という言葉を使い、日
本側と交渉することにしたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       無償政府援助 ・・・ 3億ドル
       有償政府援助 ・・・ 3億ドル
         民間借款 ・・・ 3億ドル
       ──ロー・ダニエル著/「竹島密約」/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 当初のプランはこのように9億ドルであったのですが、8億ド
ルで提示することにしたのです。これに対して日本側は「1億ド
ル」程度しか考えておらず、そこに大きな開きがあったのです。
 そこで韓国側は8億ドルとして切り出したものの、政府援助分
の総額6億ドルは譲らないという線を決めて交渉に臨んだといわ
れます。最後は大平外相と金鍾泌氏のサシの会談で、総額6億ド
ルで決着したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       無償政府援助 ・・・ 3億ドル
       有償政府援助 ・・・ 2億ドル
         民間借款 ・・・ 1億ドル
             ──ロー・ダニエル著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 このとき、金鍾泌氏を中心とする2人が、自民党の大物と会え
るようサポートしたのは、児玉誉士夫氏であると、ロー・ダニエ
ル氏は書いています。あの政財界の黒幕といわれる児玉誉士夫氏
が一肌脱いでいるのです。このあたりに当時の韓国サイドと大野
伴睦氏や河野一郎氏とのつながりが見えてきます。
 児玉誉士夫氏は、ソウルの善隣商業高等学校出身で、韓国通で
あり、韓国に強い関心を持っていたのです。1962年3月に来
日した崔英澤氏は、外務省の井関祐二郎アジア局長にいわれて、
児玉邸を訪ねています。そこで大野伴睦氏への紹介を依頼したの
です。あるジャーナリストは、韓国側と大野伴睦氏との関係につ
いて次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1962年春頃から、金鍾泌と気脈を通じた韓国人がいろいろ
 な名目で日本を訪問し、三木、藤山、河野らと秘かに会談を重
 ねた。こうした一連の対日工作の最大の目標に選ばれたのが大
 野伴睦である。     ──ロー・ダニエル著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
                 ── [日本の領土/53]

≪画像および関連情報≫
 ●児玉誉士夫氏と韓国人脈について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  児玉誉士夫は1965年の日韓国交回復にも積極的な役割を
  果たした。国交回復が実現し、5億ドルの対日賠償資金が供
  与されると、韓国には日本企業が進出し、利権が渦巻いてい
  た。児玉誉士夫もこの頃からしばしば訪韓して朴政権要人と
  会い、日本企業やヤクザのフィクサーとして利益を得た。児
  玉だけではない。元満州国軍将校、のちに韓国大統領となる
  朴正煕とは満州人脈が形成され、岸信介、椎名悦三郎らの政
  治家や元大本営参謀で商社役員の瀬島龍三が日韓協力委員会
  まで作って、韓国利権に走った。「朝日ジャーナル」によれ
  ば、米国では、文鮮明−児玉誉士夫−笹川良一などを通ずる
  関係が、米下院国際機関小委員会(フレーザー委員会。委員
  長はドナルド・M・フレーザー民主党議員)での証言で明ら
  かになっている。統一教会も朴政権の政策に呼応したため、
  保護を受けたと言われており、岸信介は統一教会に大変賛同
  的であったことは有名である。安岡正篤も朴政権の国作りに
  共鳴している。           ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

児玉誉士夫氏.jpg
児玉 誉士夫氏
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2012年12月17日

●「大野伴睦──金鍾泌ライン消滅」(EJ第3450号)

 日韓のいわゆる「請求権」問題について当時の大平外相と話し
合い、決着をつけたのは金鍾泌氏です。1962年11月12日
──この合意は韓国民にとって「屈辱外交」として金鍾泌氏に激
しく反発したのです。このとき、金鍾泌氏の身分は星1つの「准
将」、すなわち軍人だったのです。
 本当は、金鍾泌氏は日本との大きな外交案件を成就させており
本来なら大成果なのですが、当時から韓国では、日本に妥協する
政治家に対して強い批判をする慣習が生まれていたのです。
 そこで、朴正煕議長は金鍾泌氏のすべての役職を解いて、外国
に逃がしています。1963年2月20日のことです。共和党結
党の前日のことです。
 1963年10月15日に朴正煕議長は、大統領選に当選し、
金鍾泌氏は韓国に戻されます。そして11月26日の総選挙に責
任者として選挙戦の総指揮を取ったのです。その結果、175議
席中110議席を共和党が獲得する大勝利になったのです。そし
て、12月2日に金鍾泌氏は共和党議長として、政界に復帰する
ことになったのです。
 そして金鍾泌共和党議長は、再び日韓外交を行うことになった
のですが、そのとき金鍾泌議長が決めていた対日外交の作戦とい
うものがあります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.池田首相、大平外相をはじめとする日本政府首脳と自民党
   の実力者に対し公式に表敬訪問する。
 2.表向きの接触相手は大野自民党副総裁とするが、実質的な
   交渉相手は前尾幹事長に一本化する。
 3.池田首相が決断を下せないときは、佐藤栄作、河野一郎両
   氏を利用して、首相に圧力をかける。
 4.とくに河野建設大臣とは極秘裡に会談を行うこととし、河
   野氏の面目が立つよう十分配慮する。
       ──ロー・ダニエル著/「竹島密約」/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 この金鍾泌共和党議長の対日交渉の計画書には、2つの意義が
あるとロー・ダニエル氏は指摘しています。
 第1は、この時点で「河野一郎」という名前がはじめて登場し
ている点です。本来の韓国の交渉相手は赤城農相のはずでしたが
なぜか建設相の河野一郎氏が重視されていたのです。河野氏が一
歩前に出て、大野副総裁が一歩後ろに下がった感じです。
 第2は、実質的な交渉相手を前尾繁三郎氏に一本化したことで
す。前尾氏は池田首相の信頼が厚く、大平正芳氏が所属した宏池
会の巨頭であったのです。
 金鍾泌共和党議長は、対日国交正常化のスケジュールとして、
「3月妥結/4月草案作成/5月調印」の線で大野副総裁と合意
していたのです。しかし、そのときソウルでは、とんでもないこ
とが起きていたのです。
 1964年3月9日、韓国の野党は連合して「対日屈辱外交反
対闘争委員会」を結成し、次の3つのことを求めて、大規模なデ
モが展開されていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
          1.韓日会談の中止
          2.日本の反省要求
          3.民族精神の高揚
―――――――――――――――――――――――――――――
 韓国はいつもこれなのです。全国的な運動が巻き起こり、3月
21日にはそのデモはソウルで頂点に達したのです。それは、李
承晩大統領を退陣に追い込んだときのうねりを感じさせるもので
あり、朴政権は強い危機感を抱いたのです。
 しかし、デモの先頭に立った学生たちは、正面向かって朴政権
を批判できなかったのです。朴軍事政権に強い恐れを抱いていた
からです。「まだ話し合いの余地がある」と感じた朴大統領は、
3月26日に東京で交渉中の金鍾泌共和党議長に対して帰国を命
じたのです。
 それに加えて朴大統領は学生の代表を青瓦台(大統領府)に招
き、対話の場を設けたのです。そのとき学生の代表は、大統領に
対し、次のような要求を突き付けたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 「李承晩ラインをなぜ撤廃するのか」
 「なぜ公式チャネルを使わず秘密会談をするのか」
 「国民が反対するのになぜ韓日会談を強行するのか」
 「請求金額が小さすぎるのではないか」
 「金・大平メモの詳細を公開せよ」
       ──ロー・ダニエル著/「竹島密約」/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 朴大統領は学生の質問に誠実に答えたが、学生の怒りは収まら
ず、1964年6月3日、野党の指導者が仕掛けたデモによって
約1万2千名の学生がソウル市内のあらゆる場所で警官隊と衝突
するという事態に発展したのです。「6・3事態」です。
 6月3日の午後、朴大統領は緊急閣議を開催し、非常戒厳令宣
布の検討をはじめたのです。しかし、夜になっても結論が出ず、
駐韓米国大使がヘリで大統領府を訪れ、朴大統領を説得して、午
後9時40分に戒厳令が宣布されたのです。
 この戒厳令は7月29日まで続き、多くの学生と大学教授、言
論人が逮捕されたのです。ここにいたって朴大統領は、金鍾泌共
和党議長を外すしかないと決断したのです。折しも金鍾泌共和党
議長が表向きの交渉相手としてきた大野伴睦氏は5月29日に死
去し、金氏は6月5日に共和党議長を辞任したのです。
 金鍾泌氏の辞任と、そのカウンターパートである大野伴睦氏の
死去によって、それまでの日韓ロビーである大野伴睦─金鍾泌ラ
インは消滅することになったのです。しかし、朴大統領は日本と
の国交正常化を諦めるつもりはなく、新たな日韓ロビーの構築に
取りかかるのです。「風車、風が吹くまで昼寝かな」──朴/金
の関係を読んだ歌です。      ── [日本の領土/54]

≪画像および関連情報≫
 ●李明博大統領は「6・3事態」の首謀者の一人
  ―――――――――――――――――――――――――――
  第17代大統領であるハンナラ党の李明博氏は、屈曲の多い
  大韓民国の近・現代史とともに歩んできた。多くの60代が
  そうであるように、日帝植民地時代と独立、朝鮮戦争と自由
  化軍事独裁政権と産業化、民主化と世界化に続く激動の波を
  乗り越えてきた。苦難と奇跡の歩みは「神話」とも評されて
  いる。李氏は日帝占領下、1941年に日本の大阪で生まれ
  た。貧しさのため中学入学当時から露店商などで生活費と学
  費を稼いだ。大学時代には韓日会談反対闘争(6・3事態)
  の首謀者として、西大門刑務所に6ヵ月服役した。そうした
  人生が逆転するのは、現代グループ創業者の故鄭周永名誉会
  長に出会ってからだ。
   http://coralitem.blog58.fc2.com/blog-entry-389.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

大野伴睦/前尾繁三郎.jpg
大野 伴睦/前尾 繁三郎
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2012年12月18日

●「なぜ河野一郎が必要なのか」(EJ第3451号)

 朴正煕大統領は、その腹心である金鍾泌氏を解任したあと、日
韓交渉を誰にやらせるかについてさんざん悩み抜いたすえ、満洲
軍官学校出身の丁一権(ジョンイルクオン)なる人物を国務総理
(首相)に任命して日韓交渉を行わせることを決めたのです。
 朴大統領は、一度丁一権氏に助けられているのです。それは、
5・16クーデターのときです。クーデターを成功させたとき、
朴将軍が一番懸念したのは、米国が自分をどのように受け取るか
だったのです。ワシントンとしての最大の不安材料は、朴将軍が
共産主義者ではないかということだったのです。
 ちょうどそのとき丁一権氏は、ハーバード大学研究員として米
国に滞在していたのです。直ちに朴将軍は丁一権氏に連絡を取り
その場で駐米大使に任命して、ワシントンの支持を取りつけて欲
しいと依頼したのです。丁一権氏はその任務を果たし、朴将軍の
革命は米国の支持を得ることができたのです。
 この丁一権氏は当時の韓国のエリートそのものです。朴将軍と
丁氏はともに日本の陸軍士官学校の出身であり、お互いによく知
る関係だったのです。丁一権氏の経歴について、ロー・ダニエル
氏の著書から引用します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1917年、朝鮮半島最北端の豆満江沿岸の村で生まれた丁は
 対岸の満州龍井の光明中学校を卒業し、奉天軍官学校に進学し
 た。1938年、軍官学校第5期生を優等の成績で卒業した丁
 は、その褒美として日本の陸軍士官学校への留学の機会が与え
 られた。陸軍士官学校もまた優等の成績で卒業した丁は、陸軍
 大臣から軍刀を賜った。満州からの編入優等生に授与されるも
 のだ。満軍のエリートコースだった満州高等軍事学校を経て、
 満州国軍総司令部の高級副官になり、日本の陸軍大臣から下賜
 された軍刀を佩刀した丁は、朝鮮のホープ的な存在だった。
       ──ロー・ダニエル著/「竹島密約」/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、朴大統領は、丁一権氏を金鍾泌氏ほどは信用していな
かったようです。それは、日韓交渉に関する情報も金鍾泌氏の実
兄である金鍾珞氏から丁一権氏を通さず、直接朴大統領に上げる
のを許していたことからもわかります。
 丁一権氏が日韓のパイプづくりに支援を求めたのは、嶋元謙郎
氏という読売新聞のソウル特派員だったのです。嶋元謙郎氏は単
なる新聞記者ではなく、親韓、知韓のジャーナリストであり、朴
氏をはじめとして韓国の有力者は何かというと嶋元氏を頼ったと
いわれます。そのため、嶋元氏は「日本のVIP」扱いされてお
り、大統領府にも自由に入ることができたのです。
 狙いは河野一郎氏であったのです。嶋元氏は、2年先輩の渡邊
恒雄氏(現読売グループ本社会長)を通じて、大野伴睦氏とも繋
がっていたので、その線を辿れば、河野一郎氏にも接近すること
は可能だったのです。
 しかし、嶋元氏から連絡を受けた渡邊恒雄氏の返事は否定的で
あったのです。もともと河野氏は日韓交渉に消極的であり、簡単
には話に乗ってこないと考えられたからです。
 ところが偶然に渡邊氏のところに、中川一郎代議士から連絡が
入ったのです。「韓国に行きたいのだが、国交のない国なので、
ビザの取得に便宜を図って欲しい」という依頼です。中川代議士
は、九州大学を卒業し、北海道庁開発官から官僚生活をスタート
させたのですが、1955年に大野伴睦氏が北海道開発庁長官に
なったとき、大野氏の秘書官になったのです。そして、1959
年に大野伴睦氏が自民党副総裁になると、秘書として永田町に移
り、1963年11月に衆議院議員に当選したのです。そして、
1964年6月に大野伴睦氏が亡くなるのです。そのため、大野
氏の追悼のため、個人資格で韓国に行きたいというのです。
 この中川氏の希望は嶋元氏を通じて韓国に伝えられ、韓国訪問
は実現したのです。そして、一年生議員に過ぎない中川代議士は
韓国で国賓並みの待遇を受けるのです。歓迎会では、丁一権国務
総理、中央情報部長、大統領秘書室長など、錚々たるメンバーが
顔を揃えたのです。
 彼らは口々に「河野一郎氏に日韓交渉出馬を説得して欲しい」
と中川氏に要請したのです。中川代議士はそんな重たい任務は無
理と固辞したのですが、その圧力に耐え切れず、河野一郎氏に直
接電話を入れて、韓国側の要請を伝えたのです。そのとき、河野
氏が中川氏にいったのが、次の有名な言葉です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 サルは木から落ちてもサルだが、代議士は選挙に落ちればタダ
 の人といったのは、お前のオヤジではないか。外交は票になら
 ない。早く帰って選挙に備えよ。      ──河野一郎氏
       ──ロー・ダニエル著/「竹島密約」/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 なぜ、河野一郎氏の力が必要なのでしょうか。
 それは、河野氏が強い折衝力の持ち主であることに加え、当時
河野派の人数が増えており、河野派が反対すると何も決められな
いという事情があったのです。まして、河野氏は韓国にハラを立
てており、向こうが謝ってくるまで日本として動く必要はないと
つねにいっていたのです。したがって、どうしても河野氏に日韓
交渉に出馬してもらう必要があったのです。
 このような水面下の交渉に加えて、韓国は表の外交チームを一
新したのです。それは次のメンバーです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    主席代表 ・・・・ 金東祚(キムドンジョ)
    外務長官 ・・・・ 李東元(イドンウオン)
―――――――――――――――――――――――――――――
 金東祚氏は、李承晩政権で外務部政務局長を務めた人物で李ラ
インの設定者です。もともと対日強硬論者として知られており、
思いきった人事です。李東元氏は、オックスフォード大学で国際
政治学の博士号を取得し、大統領秘書室長からの抜擢です。当時
38歳の若さです。        ── [日本の領土/55]

≪画像および関連情報≫
 ●中川一郎はなぜ政治家になったのか
  ―――――――――――――――――――――――――――
  中川が北海道に戻った時、北海道は社会党の天下であり、革
  新系の田中敏文が社会党に担がれて北海道知事に当選した。
  田中は九大の先輩にあたる。中川を可愛がっていた教授がわ
  ざわざ紹介状を書いてくれた。中川はその紹介状を持参して
  田中を訪れたが、来客が多くなかなか面会しようとしない田
  中にしびれを切らし、紹介状を焼いてしまった。昭和26年
  (1951年)、北海道開発庁が設置され、開発担当官とな
  る。昭和30年(1955年)大野伴睦北海道開発庁長官の
  秘書官を務め、大野に見出されることとなる。大野伴睦長官
  はわずか7ヶ月の在職で、自民党総務会長に転じた。後任の
  長官は、緒方竹虎。副総理との兼務であった。中川はそのま
  ま、緒方長官のもとでも秘書官を務め、吉田内閣総辞職のあ
  と開発庁の開発専門官に異動させられた。大野は昭和34年
  (1959年)、中川に「役人を辞めて俺の秘書になれ」と
  要請。父文蔵は大反対した。しかし大野に惚れ込んだ中川は
  12年間の役人生活に別れを告げ、身分の不安定な政治家秘
  書になる決意をしたが、父の文蔵は「こんな馬鹿な息子とは
  思わなかった。まあ交通事故で死んだと思って諦めるから、
  おまえの好き勝手にしろ」と突き放した。
                    ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

中川一郎氏と渡邊恒雄氏.jpg
中川 一郎氏と渡邊 恒雄氏
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2012年12月19日

●「表の交渉団と裏の交渉団」(EJ第3452号)

 領土問題を含む関係国との外交交渉は、表の交渉だけではうま
くいかないことが多いものです。日韓交渉がまさにそれであった
といえます。朴正煕大統領は、表の外交では金東祚主席代表と李
東元外務長官、裏の外交では丁一権国務総理を立て、実際には金
鍾泌氏の兄である韓一銀行常務の金鍾珞氏を使うという二面作戦
をとったのです。
 金東祚主席代表は、矢次一夫氏に接近し、当時の岸首相に会い
交渉を進めていたことは既に述べた通りです。しかし、韓国では
李承晩大統領、日本では岸首相が退陣し、そこで金東祚代表の役
割は終わっていたのです。
 しかし、不思議なことに1964年10月6日に駐日大使とし
て金東祚代表が東京に赴任した2週間後に岸系の佐藤栄作氏が首
相に就任したのです。ここで、矢次・佐藤ラインが復活していま
す。しかし、ラインのなかに河野一郎氏は入っていなかったので
す。そこで、朴正煕大統領は裏のルートを使い、河野一郎氏に接
近させたのです。
 ここで重要なのは、表の交渉団と裏の交渉団はお互いにその存
在については知っていたものの、相互に情報の交換などはなかっ
たことです。これについて、金東祚代表は裏の交渉団について強
い不信感を抱いていたようです。
 なぜ、裏の交渉団が必要だったかについて、当時NHKの記者
で、河野一郎代議士の番記者を務めた渡部亮次郎氏は次のように
述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 交渉はもちろん政府機関によっておこなわれたが、国内的にさ
 まざまな利害がからむ問題だけに真の取りまとめ役が必要とさ
 れ、池田内閣では大野伴睦がその任にあたった。その死後は河
 野一郎が無任所大臣としてこれにあたらされた。佐藤内閣でも
 引き続きその位置にとどまった。これにともない大野時代には
 中川一郎、渡遽恒雄らが、河野時代は宇野宗佑が、それぞれ実
 務を担当した。彼らはこの実績をもとに韓国通として「成長」
 していく。 ──ロー・ダニエル著/「竹島密約」/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 なぜ、金鍾珞氏が重用されたのかというと、彼が金鍾泌氏の兄
であって信頼できるということと、日本語が流暢であり、通訳な
しで日本の政治家と話ができる点にあったといえます。
 しかし、金鍾珞氏は河野一郎氏には相当手を焼いていたといわ
れます。河野氏の態度は金鍾珞氏に冷たく、取りつく島がなくて
悩んでいたといわれます。そういうとき、金鍾珞氏を食事に誘い
慰めていたのは河野派の中曽根康弘氏だったといいます。
 このように、韓国から見て難攻不落であった河野一郎氏が日韓
交渉に出馬する決意を決めたのは、1964年12月21日のこ
とです。この日、丁一権国務総理宛てに河野一郎氏の親書が送ら
れているからです。
 1964年9月頃のことですが、時の池田勇人首相は喉頭がん
を患っていたのです。当時はがんは告知しないことになっており
池田首相自身には知らされていなかったのですが、前尾繁三郎氏
と大平正芳氏には病院から病状は伝えられていたのです。
 前尾、大平両氏は、医師との相談で、9月のIMF総会での演
説のあと、築地のがんセンターに入院させることにしたのです。
池田本人には「がんではないが、最新の治療設備がそこにしかな
いから」と説明して本人の了承を得たといわれます。
 10月10日には東京オリンピックが開幕されることになって
おり、両氏は開会式には何も知らせずに元気に出席させてもらう
よう医師を説得し、オリンピック閉会式直後に退陣するよう医師
から説得してもらいたいと伝えています。がんセンターの比企能
達総長は、池田首相に次のように伝えたといわれます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 比企総長:治療1ヵ月で経過はきわめて良好です。局所の上部
      はよくなって奥が見えてきました。これで放射線治
      療は約1ヵ月間やらねばならぬことになり、副作用
      も考えられます。ここ3、4カ月は声を使うことが
      できません。治るには半年かかるでしょう。
 池田首相:死ぬ気でやったら、辞めなくてもやれるのではない
      のか?
 比企総長:とんでもない。医師として生命をかけるようなこと
      はおすすめできません。
 池田首相:誰がこの話を仕組んだのか。
 比企総長:前尾さんと大平さんです。8日にお2人に会って相
      談しました。
 池田首相:(長い沈黙の後)そうか。2人がやっているのか。
      それなら2人に任せよう。
 http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK28014_Y1A121C1000000/
―――――――――――――――――――――――――――――
 池田首相は、前尾と大平が動いていることを聞いて、すべてを
悟ったといわれます。その時点から、次の首相をめぐる自民党の
内部抗争がはじまったのです。結局、池田裁定による次期首相は
佐藤栄作氏に決まり、河野一郎氏は破れたのです。
 河野氏に対する日韓交渉に出馬して欲しいとの要請が強くなっ
たのは、河野氏が佐藤栄作氏に破れた直後だったのです。当時の
河野一郎氏は人気のある政治家であり、『女性自身』/1963
年12月23日号誌が実施した読者アンケートによると、「尊敬
する政治家」のトップに選ばれているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
          1位/  河野一郎
          2位/  池田勇人
          3位/  江田三郎
          4位/  吉田 茂
          5位/ 藤山愛一郎
―――――――――――――――――――――――――――――
                 ── [日本の領土/56]

≪画像および関連情報≫
 ●池田勇人首相のエピソード
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ・池田と会談したフランスのド・ゴール大統領が池田を「ト
  ランジスタラジオのセールスマン」と評したことは良く知ら
  れている。当時は首脳が経済について語ることが珍しかった
  ため、ド・ゴールも意外に思ったのである。しかし、今日で
  は経済について語ることが出来ない首脳など使い物にならな
  くなっているし、当のフランス大統領は、エアバス機や武器
  のトップセールスを世界中で行っている。こうした点を捉え
  八幡和郎は、池田勇人を「経済重視の首脳の先駆として、世
  界的な偉人である」としている。
  ・中曽根康弘は、2008年9月3日付の読売新聞朝刊に、
  同年9月1日に辞任会見を行った福田康夫に関する文章を寄
  稿。文中で「我々先輩の政治家から見ると、2世、3世は図
  太さがなく、根性が弱い。何となく根っこに不敵なものが欠
  けている感じがする」と述べ、その例えとして、がんで入院
  して生命力もないという段階においてぎりぎりまで耐え抜い
  て後継に佐藤栄作を指名した池田を挙げ、政治家としての最
  後までの志、執念を持つべき、と記した。
                    ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

築地がんセンターに入院する池田首相.jpg
築地がんセンターに入院する池田首相
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2012年12月20日

●「河野一郎による日韓交渉始動」(EJ第3453号)

 1964年11月下旬、河野一郎氏が池田裁定により、佐藤栄
作氏に総理の座を奪われてから2週間ほど経過したとき、金鍾珞
氏が河野氏を訪ねてきたのです。そのとき、河野氏と交わした会
話を再現します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 金鍾珞:先生は、今のままでは、絶対に天下を取れません。
 河 野:どうすればよいというのですか。
 金鍾珞:韓国首脳部、すなわち朴大統領の考えは、河野先生に
     は韓国との国交正常化をまとめ上げ、自由陣営のチャ
     ンピオンになっていただきたいというものです。
 金鍾珞:佐藤総理と相談してみましょう。
       ──ロー・ダニエル著/「竹島密約」/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 このやり取りには若干の解説がいると思います。当時河野一郎
氏は「日ソ共同宣言」を成し遂げているため、「親ソ派」のレッ
テルが貼られていたのです。金鍾珞氏はその点をとらえて、反共
主義を国是とする韓国との国交正常化も成し遂げて、「自由陣営
のチャンピオン」になってくれといっているのです。
 当時河野一郎氏は国務大臣で、実質的な副総理の扱いになって
いたのです。しかし、韓国との国交正常化をクリアするための最
大の難問である漁業権と竹島・独島において政治決着を図るため
には佐藤首相との意見の一致は不可欠な条件だったのです。
 この会談のあった数日後に、河野氏は丁一権国務総理に対して
親書を届けています。当時の河野氏の発言について嶋元謙郎氏は
次のように明かしています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 佐藤総理と相談した結果だが、日韓をオレが引き受けることに
 した。ただし、表にでれば、大騒ぎになってつぶされるから、
 あくまでも舞台裏だ。日ソ交渉をやって、つくづく分かったが
 外交の要諦は、「電光影裡に春風を斬る」だ。だらだらしない
 で速戦即決。その条件を丁総理がのむならばだ。
       ──ロー・ダニエル著/「竹島密約」/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで、当時の自民党のなかでの河野一郎氏の立ち位置につい
て知っておく必要があります。当時の自民党は、吉田、岸、池田
と続く官僚派派閥の力が強く、党人派の河野氏が首相の座を射止
めるのは容易ではなかったのです。
 しかし、突然病気で退陣することになった池田勇人首相は、河
野氏を重用していたのです。それは池田内閣での河野氏の処遇を
見れば明らかです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    第2次内閣1次改造内閣 ・・・・ 農林大臣
    第2次内閣2次改造内閣 ・・・・ 建設大臣
    第2次内閣3次改造内閣 ・・・・ 建設大臣
    第3次内閣       ・・・・ 建設大臣
    第3次内閣改造内閣   ・・・・ 国務大臣
―――――――――――――――――――――――――――――
 河野一郎氏は池田内閣を引き継ぐ佐藤内閣でも国務大臣に留任
しており、事実上の副総理格であったのです。おそらくこれは、
池田氏からの申し送りであったものと思われます。
 韓国側としては、河野氏の力で日韓国交正常化を成立させれば
総理の道が近くなるというモチベーションで、河野氏に接近した
ものと思いますが、本人はそれほど総理にはこだわっていなかっ
たといわれています。河野氏は、自分の使命というものをよく認
識しており、それを忠実に果たす真面目な実力派の政治家──こ
れが本当の河野氏のイメージなのです。
 第3次内閣改造内閣で池田首相が河野氏を無任所の国務大臣に
据えたのは、日韓国交正常化を河野氏にやらせようという意図が
あり、それを佐藤内閣に引き継いだものと思われます。
 1961年に池田首相は訪米し、ケネディ大統領に会ってある
示唆を授けられていたのです。それは次のようなものだったとい
われています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ソウルが赤化すると、日本の治安に大きな影響を及ぼすことは
 確実であり、日本は韓国の反共体制に対して、もっと重大な関
 心を払うべきである。         ──ケネディ大統領
―――――――――――――――――――――――――――――
 河野氏は、カウンターパートである丁一権国務総理のこの問題
に賭ける本気度を探っていたのです。そこで、宇野宗佑氏を密使
として韓国に送り、丁国務総理の本気度を探らせたのです。その
とき、丁国務総理は「私は生命を賭けてもやる」といったそうで
す。それを聞いた河野一郎氏は目をキラッと光らせて、こういっ
たのです。「そうか。それじゃ、やろう」と。
 実は河野氏と丁国務総理はお互いの手紙の往復だけで、一度も
会うことはなかったのです。日韓基本条約の締結は、1965年
6月22日ですが、河野氏はそれを見届けるように、同年7月8
日に亡くなっているからです。
 そういうわけで、もっぱら河野氏の意向を持って、東京とソウ
ルを往復したのは、宇野宗佑議員──自民党滋賀県選出議員/河
野派だったのです。
 なぜ、河野氏自身は動かなかったのでしょうか。それは交渉内
容が事前に漏れて、条約が不成立になることを懸念したからであ
ると思われます。何しろ当時の韓国国内の状況は、「日本との交
渉」には絶対反対であり、「屈辱外交反対」を唱えて、デモが繰
り返されていたからです。
 そのため、河野一郎氏がとった裏交渉のやり方は、外交交渉と
しては、奇想天外なやり方だったのです。そのため、表の交渉は
行き詰まったものの、裏交渉の方は着実に動き続けたのです。そ
の間、宇野宗佑議員は河野案をソウルに運び、丁国務総理の返事
を持ち返ったのです。       ── [日本の領土/57]

≪画像および関連情報≫
 ●宇野宗佑氏とは何者か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ・閣僚としての宇野には二つの見方が残っている。一つは権
  柄ずくに振る舞いながらも、みずから汗をかかなかったとい
  うものである。たとえば行政管理庁長官時代には、単にふん
  ぞり返っていたとの評判がある。その一方、リーダーシップ
  を発揮しながら、内閣の重要課題を手堅く処理していったと
  の評価もある。官僚を相手にせず、全閣僚を順次呼びつけ、
  「馬鹿にしちゃいかんぞ」と怒鳴りつけながら18の特殊法
  人を整理したというエピソードをかんがみれば、後者の見方
  の方が説得力を有する。実際、大平は宇野の手腕を讃えた」
  のである。政策研究大学院大学准教授本多雅敏氏
  ・石原慎太郎氏の評/私自身はこの人事には密かに期待した
  者の一人だった。宇野氏とは個人的にも親しく、磊落で文人
  気質のこの人物が思いがけぬ状況の所産として総裁、総理に
  なったことで、この国の政治家のイメイジが少しは変わって
  くるのではないかとも思っていた。残念なことに女性問題で
  宇野氏は苦境に立たされ短命に終わったが、もしあの政権が
  続いていたなら党の中にもある大事な変化があり得たのでは
  ないかと思っている」と述べている。 ──ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――――

宇野宗佑元首相.jpg
宇野 宗佑元首相
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2012年12月21日

●「河野一郎の独特の交渉スタイル」(EJ第3454号)

 河野一郎氏が日韓裏交渉で実施した奇想天外な交渉方法とはど
のようなものでしょうか。河野氏が丁一権国務総理に送った親書
には次のように書かれています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 閣下と私の代理者、閣下の代理者と私がすみやかにそれらを
 解決   ──ロー・ダニエル著/「竹島密約」/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 要するに、丁一権国務総理と河野一郎国務大臣は一切動かず、
それぞれの代理人が接触するという交渉スタイルであり、それに
斡旋役まで決められているのです。これらをまとめると、次のよ
うになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
       日本側責任者:   河野一郎
          代理人:   宇野宗佑
         交渉場所:  河野事務所
       韓国側責任者:丁一権国務総理
          代理人:    金鍾珞
         交渉場所:   総理公館
          斡旋役:   嶋元謙郎
―――――――――――――――――――――――――――――
 斡旋役の嶋元謙郎氏は、既に述べたように、読売新聞のソウル
特派員であり、そのバックには渡邊恒雄氏がいます。双方の代理
人にとっては嶋元氏は便利な存在です。また、嶋元氏が入ってい
たお蔭で、交渉に関する情報が記録に残されているのです。
 日韓交渉の具体的なやり方について、嶋元氏は次のように書い
ています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 双方ともタイプ用紙十枚前後に、ぎっしりタイプされた案文を
 手渡し、一つ一つについて、さらに密使が説明を加えるという
 方式であった・・・しかし、密使の役割は厳格に限定され、案
 文の説明や相手側の疑問点と反応を探るだけにとどまり、案文
 に関する交渉権や裁量権は一切、与えられなかったという。文
 字通り密使だったわけだ。
       ──ロー・ダニエル著/「竹島密約」/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 嶋元謙郎氏はこのように書いていますが、別の情報によると、
金鍾珞氏は河野氏の提案をまず朴大統領に上げ、そのうえで丁総
理に報告しています。そういう意味では、事実上は朴大統領対河
野一郎国務大臣の意見交換だったようです。どういうわけか朴大
統領は丁一権国務総理をあまり信用していなかったように思われ
ます。
 それでは、河野氏と丁総理で話し合われたことは何だったので
しょうか。大別すると次の3つです。
―――――――――――――――――――――――――――――
          1.    漁業権
          2.  竹島領有権
          3.日韓条約の内容
―――――――――――――――――――――――――――――
 これら3つのうち、領土問題に深く関係するのは1と2ですが
最初に3番目の「日韓条約の内容」について述べておきます。こ
こには、最大の難問があったのです。それは北朝鮮の問題です。
 朴政権としては、大韓民国は朝鮮半島に存在する唯一の合法政
府であり、それをちゃんと認めることが、条約締結の前提である
と主張していたのです。
 しかし、日本側は将来北朝鮮と国交正常化を行う可能性を考え
て、明確に条文上にそれを明記したくなかったのです。このよう
に書くと、なぜそんなに北朝鮮に配慮するのかと不思議に思う人
もいると思います。
 それには理由があるのです。当時日本社会党は強力な野党であ
り、その社会党は北朝鮮に同調していたので、与党の自民党とし
ては、そこに一定の配慮をせざるを得なかったのです。もちろん
拉致問題などが出て来るのはずっと後の話です。
 河野国務大臣は、韓国が日本との条約締結を急いでいることを
百も承知したうえで、非常に巧妙な提案をしたのです。1965
年6月22日に締結された「日本国と大韓民国との間の基本関係
に関する条約」(以下、日韓基本条約)の第3条は、河野氏が出
した提案を韓国側が受け入れたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 第三条 大韓民国政府は、国際連合総会決議第195号(3)
 にあきらかにしめされているとおり、朝鮮にある唯一の合法的
 政府であることが確認される。
―――――――――――――――――――――――――――――
 国際連合総会決議第195号をわかりやすくいうと、1948
年に国連は朝鮮半島全体で自由な選挙をしようとしたのですが、
当時北朝鮮を支配していたソ連がこれを拒否したのです。
 そこでやむなく南朝鮮だけの選挙を実施して、大韓民国という
政府が成立したのです。したがって、朝鮮半島全体をみて合法的
政府といえるものは、今のところ南朝鮮だけである──こういう
内容なのです。つまり、当時国連が有効に支配できた半島の南部
分については合法的政府はできたが、北部分については関知しな
いというわけです。
 韓国側は「大韓民国は朝鮮半島に存在する唯一の合法政府」で
あること明記すべきであると主張したのですが、日本側は「国際
連合総会決議第195号に示されているように」と明らかに表現
で逃げています。
 つまり、この表現ならば、韓国側と日本側で都合のよい解釈が
できるのです。その証拠に、日本は2002年9月に小泉首相が
訪朝し、北朝鮮と「日朝平壌宣言」を結んでいますが、これにつ
いて韓国は何もいってきていないのです。本来なら、これに抗議
してきても不思議ではないのです。
                 ── [日本の領土/58]

≪画像および関連情報≫
 ●教科書の執筆基準から「韓半島唯一の」という表現を削除
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「韓国は、韓半島(朝鮮半島)で国連から承認された唯一の
  合法政府。これは歴史的事実だ」中学校用歴史教科書の執筆
  基準開発委員会は2011年10月24日、教育科学技術部
  (省に相当)傘下の歴史教育課程開発推進委員会に、執筆基
  準の最終案を提出した。当初、執筆基準草案には「韓国は国
  連から、韓半島唯一の合法政府として承認された」という文
  言が含まれていたが、最終案では「韓半島唯一の」という表
  現が取り除かれた。これをめぐり、延世大学政治外交学科の
  金明燮(キム・ミョンソプ)教授(48)は24日、本紙の
  インタビューに応じ「“韓半島唯一の”という表現を削除す
  ることは望ましくない。韓国が唯一の合法政府と韓国の歴史
  教科書が教えてきたのは真実だ」と語った。金教授は『解放
  前後史の認識』に共著者として参加した政治学者で、延世大
  学統一研究所長を務めており、「韓国現代史学会」にも参加
  している。(国連決議を文章通り解釈したら、どういう意味
  になるかに対して)「長くて複雑だが、要約すると『韓国政
  府は、選挙可能な地域で唯一の合法政府であり、韓半島にそ
  うした政府は唯一』という意味だ」
     http://blogs.yahoo.co.jp/jlshan5492/6864990.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

丁一権国務総理.jpg
丁一権国務総理
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2012年12月25日

●「漁業交渉をめぐる日韓の駆け引き」(EJ第3455号)

 韓国の大統領選挙に、保守与党セヌリ党の朴槿恵氏が当選しま
したが、折しも日本では安倍総裁率いる自民党が衆院選に大勝し
安倍政権が誕生しようとしています。
 「歴史の巡り合わせ」というべきか、2人は、安倍氏の祖父が
韓国重視の姿勢をとった岸信介氏であり、朴槿恵氏は日米の関係
を重視し、日韓交渉をまとめ上げた朴正煕大統領の長女であると
いう間柄です。両国関係の改善には期待できるものがあります。
 さて、日韓交渉で最大の難関は、「竹島領有権」の問題です。
これに密接に関連するのは「日韓の漁業問題」です。まず、この
問題から考えてみることにします。
 河野一郎氏が日韓交渉を裏の交渉でまとめようとして決意し、
交渉をスタートさせた1964年、表の交渉は4月の時点で暗礁
に乗り上げ、中断していたのです。日韓会談は、朴政権の誕生に
よって1961年10月に開始されたのですが、双方の主張の隔
たりが大きく、漁業問題を扱う農相会談は、1964年4月6日
に決裂していたのです。当時の韓国の主張は次のようなものだっ
たのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    平和線(李承晩ライン)を基礎として40マイル
―――――――――――――――――――――――――――――
 はっきりいってこれは滅茶苦茶な話です。こんなことを主張し
ていれば、永遠に日韓交渉はまとまるはずがないのです。そうい
うこともあって、少しでも早く日韓交渉を結びたい朴正煕大統領
は、1963年6月の段階で、日本側が提案する次の案に同意し
ていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  李承晩ラインを撤廃し、自国の沿岸の基線から12マイル
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、このことが表沙汰になったら大変なのです。そのため
日韓交渉ではどうしても裏交渉が必要になるのです。何しろ連日
日韓交渉反対のデモが起きていたからです。中でも朴政権が恐れ
ていたのは、次のことで国民から糾弾されることです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       わずかな銭のために平和線を売る
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、国内世論を納得させるのは、容易なことではなかった
のです。韓国の農林部と国防部は、日本に譲歩するのは絶対反対
であり、あくまで平和線を守れと主張していたのです。1963
年5月10日付の外務部(外務省)の「平和線に関する広報策建
議」と題する資料には、次のように書かれていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 国内世論は、韓日の懸案事項のなかでも漁業、平和線問題には
 必ずしも同調的とは判断しがたい。この機会にとりあえず広報
 案を実行し、政府の立場にたいする国民の理解ないし支持を促
 すことが必要である。有力紙の記者を平和線海域および南海岸
 の漁村に派遣してもらい、「平和線を完壁に守ることはもとも
 と不可能で、経済的観点からみても平和線の存続は必ずしも有
 利ではない。農漁村の発展は、平和線の維持を前提とするので
 はなく、農漁村の近代化と市場開拓が前提となる」という趣旨
 の結論を書いてもらう、またはそういう結論に誘導する記事を
 数回にわたって書いてもらう。また、時機を見て、学界の著名
 人士に、平和線は国際法上、難点が多いとの趣旨の文章を発表
 してもらう。──ロー・ダニエル著/「竹島密約」/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 つまり、韓国の外務部は、平和線、すなわち李承晩ラインは広
大なる海域であり、これを守るのは事実上不可能であって、経済
的に考えても得策ではないとし、中央情報部と連携して農林部と
国防部を押し切ったのです。
 河野一郎氏が日韓裏交渉に乗り出してから、河野・T間で何が
どのように決まり、最終的に締結にいたったかを明確に示す記録
は何も残っていないのです。しかし、裏交渉が始まってから、急
速に物事が決まり出したことは確かなのです。
 1965年2月に椎名外相が韓国を訪問していますが、その時
点で日韓の漁業交渉において決定していた大枠は次の通りです。
韓国の沿岸に基線をひき、そこから12マイルを韓国の専管水域
とすること。李承晩ラインは撤廃するが、専管水域の外側から李
承晩ラインまでの海域に何らかの日韓共同規制区域を設ける──
これらのことが決定されていたのです。
 とくに解決に大きく寄与したのは、韓国の専管水域の外側から
李承晩ラインまでの海域に共同規制区域を設けるというアイデア
です。実はこの基本プランを提案したのは、そもそも平和線の提
案者である金東祚駐日大使であったのです。
 当初この水域は「共同漁労区域」と名づけられていましたが、
後に「共同漁業資源調査水域」と命名され、さらにわかりやすい
ものになったのです。この共同漁業資源調査水域の設定が、なぜ
漁業交渉の締結に大きく貢献したかについては、当時の外務長官
李東元氏の回顧録の記述を見れば明らかです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 皮肉にも、1951年に平和線を立案した金東詐が出したこの
 「共同漁業資源調査水域」のアイディアは、両国にとって最善
 の妙手であった。この調査水域は漁業交渉の妥結と同時に自動
 的に発効するが、それは両国がそれぞれ有利に解釈できる余地
 を残していた。つまりわれわれは、国民に「調査水域」と名称
 を変えただけで、平和線は存在すると説得できるし、日本は平
 和線(李承晩ライン)の名前が消えたのだから、そのようなも
 のは存在しないと釈明できる。どちらともとれる便利な策だっ
 た。    ──ロー・ダニエル著/「竹島密約」/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 交渉は終盤までもつれにもつれたものの、表の交渉に加えて裏
の交渉が功を奏し、1965年6月22日に締結されたのです。
                 ── [日本の領土/59]

≪画像および関連情報≫
 ●韓国の李承晩が日本海に一方的に引いたライン
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1952年に入ると日本の漁民らは、4月28日を指折り数
  えて待った。米サンフランシスコで日本が連合国側と第二次
  世界大戦終結のため1951年9月8日に締結した講和条約
  (戦争を終わらせるための条約。平和条約)が、その日に発効
  するからだった。日本を占領した米国のダグラス・マッカー
  サー将軍は、日本の漁民らが本土周辺の決まった線を超えて
  操業することができないようにした。「マッカーサー・ライ
  ン」と命名されたこの線は、講和条約発効と同時に廃止され
  ることになっていた。1952年1月18日。100日後に
  は日本海は日本漁民らの畑になるところだった。まさにこの
  日、海の向こうの、戦火に包まれた大韓民国の臨時首都釜山
  から、青天の霹靂のようなニュースが飛び込んできた。大韓
  民国の李承晩大統領が、「確定した国際的先例に基づき、国
  家の福祉と防御を永遠に保障しなければならない要求によっ
  て」、海岸から50〜100マイルの海上に線を引き、「隣
  接海洋に対する主権宣言」を行なったのだ。
  http://blogs.yahoo.co.jp/windows_user2011/3454194.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

李承晩ライン(平和線).jpg
李承晩ライン(平和線)
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2012年12月26日

●「河野が提案した『未解決の解決策』」(EJ第3456号)

 日韓で裏交渉が行われていることはとくに韓国内では厳秘だっ
たのです。とくに裏交渉は、それが行われているときはもちろん
のこと、それが成功に終ろうと失敗しようと、終わったあともな
かったことにしなければならないのです。
 そこで一番気を遣ったのは会う場所です。一応は国務総理公館
なのですが、河野氏のカウンターパートである丁一権国務総理が
韓国側の密使・金鍾珞氏や河野大臣の密使・宇野宗佑氏、斡旋役
の嶋元謙郎氏と会う場所はきわめて特殊なところだったのです。
 その場所は朴健碩(パクコンソク)氏の邸宅のホームバーだっ
たのです。朴健碩邸は、青瓦台(大統領府)の裏側にある城北洞
という町にあったのです。朴健碩という人物は、汎洋商船のオー
ナーで朴正煕大統領の支援者であり、丁一権国務総理の同郷の親
友でもあったのです。朴健碩氏は朴大統領が暗殺され、朴政権が
終わった後で自殺しています。
 河野─丁交渉で竹島・独島問題は、1964年暮れから交渉が
はじまったのです。この時点で日韓基本条約の主要項目について
は大筋が固まっていたのです。
 この問題はいくら時間をかけても容易にはまとまらないアジェ
ンダであり、河野大臣としては、この問題に正面から取り組むつ
もりは最初からなかったのです。当時河野氏は竹島問題について
次のようにいっていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 竹島は国交が正常化すれば、互いにあげようとしても貰わな
 いくらいの島である。          ──河野一郎氏
―――――――――――――――――――――――――――――
 1964年の後半の世界は大変なことが起こっていたのです。
10月には中国が核実験に成功し、11月22日にはケネディ大
統領が暗殺され、ジョンソン氏が大統領に就任するなど、世界は
騒然としていたのです。
 朴大統領は少し焦っていたのです。早く日韓基本条約をまとめ
るには、何とか河野大臣にソウルに来てもらう必要があると考え
て、金鍾珞氏に命じて河野氏に要請させたのです。
 しかし、河野氏は動かなかったのです。裏交渉の当事者が動け
ば交渉自体が露見するし、まとまるものもまとまらなくなる──
このように考えたのです。それに行けば必ず韓国にねだられると
もいい、頑として動かなかったのです。
 1965年1月10日、佐藤首相は訪米することになったので
す。新大統領のジョンソン氏と会うためです。その留守中の臨時
首相に河野一郎氏を任命し、次の要請を行ったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   ワシントン到着までに日韓をなんとか解決して欲しい
                     ──佐藤首相
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで「なんとか解決して欲しい」の中身は、他ならぬ「竹島
問題」だったのです。これがクリアされると、日韓交渉は大筋で
合意したといえるからです。
 佐藤首相は韓国側に対しても手を打っていたのです。1964
年11月23日に、佐藤首相は金鍾珞氏を赤坂の料亭「玉林荘」
に招き、交渉成立を要請しています。これについて、ロー・ダニ
エル氏は次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 金鍾珞が、それまでの秘密交渉のすべてを報告すると、佐藤は
 「畳に両手をつき膝を屈した姿」で、「お兄さん、全部承知し
 ました」と言ったと金は回想している。当時、金鍾珞は永田町
 や赤坂で「金鐘泌の兄」という意味で、「お兄さん」と呼ばれ
 ていた。金鍾珞から佐藤との面会の対験談を開いた嶋元による
 と、佐藤総理は(立場に相違のある金が)「河野とケンカしな
 いよう」にしてくださいと言い、「労をねぎらってくれた」と
 いう。いずれにせよ、当時45歳の銀行マンに一国の総理が膝
 を屈した光景に金鍾珞が感激したことは間違いない。
       ──ロー・ダニエル著/「竹島密約」/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 河野氏は韓国側が「独島のことは国交正常化のあとで」といっ
ていることに注目したのです。そのとき、自民党政権としては、
竹島問題は国際紛争の案件であるとして、国際司法裁判所に提訴
しようとしていたのです。
 当時、日韓双方とも条約の締結を急いでいたのです。韓国側は
経済開発5ヶ年計画の推進のために日本のカネが必要だったし、
日本としては李承晩ラインを撤廃させて漁民の生活と安全を守る
必要に迫られていたのです。
 「竹島をとるか、李ラインを撤廃するか」──漁港小田原を選
挙区とする河野一郎氏としては、何とか漁民が安心して漁ができ
るようにしてやりたかったのです。そこで河野氏は、竹島につい
て「解決せざるをもって解決したとみなす」提案をしたのです。
それは次のような提案だったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 竹島・独島問題は、解決せざるをもって、解決したとみなす。
 したがって、条約では触れない。
 (イ)両国とも自国の領土であると主張することを認め、同時
    にそれに反論することに異論はない。
 (ロ)しかし将来漁業区域を設定する場合、双方とも竹島を自
    国領として線引きし、重なった部分は共同水域とする。
 (ハ)韓国は現状を維持し、警備員の増強や施設の新設、増設
    を行わない。
 (二)この合意は以後も引き継いでいく。
       ──ロー・ダニエル著/「竹島密約」/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 要するに「棚上げ」です。これなら韓国の「独島のことは国交
正常化のあとで」という考え方に沿うものであり、日本としては
日韓基本条約を締結し、大きな懸案事項をひとつクリアすること
ができる妙案だったのです。    ── [日本の領土/60]

≪画像および関連情報≫
 ●『日韓外交「竹島・密約・次の一手」』/三宅久之氏
  ―――――――――――――――――――――――――――
  日韓基本条約交渉時に両国が合意していた、竹島(独島)の
  領有権問題を「事実上棚上げし、互いに領有権の主張を認め
  合う」という密約は、韓国でも歴代大統領に引き継がれてき
  たが、1993年大統領になった金泳三氏には引継ぎがなか
  った。理由は不明である。そこで金大統領は突然、独島の実
  質的支配体制を確立するため、接岸施設を設け、軍隊を常駐
  させ、対空兵器なども装備する要塞化を進め今日に至った。
  元NHK記者、渡部亮次郎氏は、私よりあとの世代の河野一
  郎担当だった人だが、乞われて園田直氏の秘書となり、外相
  秘書官も務めた政界事情通である。彼の著作「竹島『密約』
  のあった時代」によると、「竹島密約については韓国では、
  すでに広く知られている」という。それは韓国人ビジネスマ
  ンが中曽根元首相からその事実を聞き、韓国の雑誌「月刊中
  央」(中央日報社2007年4月号)に発表したからで、そ
  れを基に産経新聞が2007年3月20日付、「『密約』の
  存在、韓国誌が紹介」という見出しで報道している。私は、
  「月刊中央」の記事は読んでいないので、渡部氏の著作から
  引用させてもらった。さらに渡部氏は、韓国側の密約文書は
  金鐘珞氏が自宅に保管していたが、1980年5月ごろ焼却
  したとされ、文書は日本側(外務省)にしか残っていないと
  書いている。しかし政府は、この問題について鈴木宗男衆院
  議員(当時)が2007年3月、提出した質問主意書に対し
  て「合意があったとは理解していない」と回答、婉曲に否定
  している。
   http://osakacocoro.blog28.fc2.com/blog-entry-512.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

三宅久之氏.jpg
三宅 久之氏
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2012年12月27日

●「密約を知らない韓国表の交渉団」(EJ第3457号)

 河野一郎国務相による竹島の「未解決の解決案」は河野氏の密
使の宇野宗佑氏と、丁国務総理の密使である金鍾珞氏によって、
丁一権国務総理の元に届けられたのです。1965年1月11日
に一同は例の密会場所である朴健碩邸のホームバーに集まったの
です。もちろんその時点では、この河野提案は金鍾珞氏によって
朴正煕大統領にも届いていたのです。
 宇野氏は河野提案が記述された紙を出して、丁国務総理に内容
を日本語で読み上げたのです。丁氏は日本語が堪能であり、普通
の日本人と変わらず、内容は理解できたのです。
 丁国務総理はその場では意見を述べず紙を受け取り、それを朴
大統領に伝えたのです。そして2日後の1月13日、朴大統領か
ら「OK」の返事が宇野氏のもとにもたらされたのです。
 宇野、嶋元両氏は直ちに龍山の米軍基地から、河野氏に「朴大
統領裁可」の報告をしています。韓国から日本への通信手段とし
ては外務省のそれは使えないので、セキュリティが完璧の龍山の
米軍基地の通信を使うことにしていたのです。
 その報告を受けた河野氏は、そのときサンフランシスコのマー
ク・ホプキンス・ホテルに宿泊していた佐藤栄作首相に電話を入
れ、国交正常化のための地ならしが済んだことを伝えています。
1965年1月12日夜(米国時間)のことです。
 次の日には「ジョンソン・佐藤声明」が行われ、「アジアの平
和と進歩」が宣言されているのですが、そこでは中国やベトナム
の問題は取り上げられたものの、韓国についてはまったく触れら
れていないのです。紛争はないというメッセージです。
 朴大統領も1月16日の年頭教書のなかで、日韓交渉の年内妥
結を宣言しています。さらにこの問題で日韓の首脳同士が、怪し
まれずにゆっくりと話し合う機会が偶然生まれています。それは
1965年1月24日に、英国のチャーチル前首相が亡くなった
ことに関係があるのです。
 チャーチル氏の葬儀には、日本からは岸元首相、韓国からは丁
一権国務総理が参加したのですが、偶然2人の席は隣同士だった
のです。そこで、2人は葬儀のあと、ロンドンからパリに場所を
移し、当時の駐フランス大使萩原徹氏の私邸で、竹島の密約を含
む日韓正常化の問題を話し合ったのです。
 そのさい、丁国務総理からは朴正煕大統領の親書が岸元首相に
手渡されています。そして、岸元首相は帰国すると、朴大統領の
親書を渡すために官邸を訪れ、弟に当る佐藤首相にその会談の内
容を伝えています。
 この竹島密約問題について日本側は、日韓国交正常化に関わっ
ている首脳はすべて情報を共有していたのですが、韓国側は朴正
煕大統領、丁一権国務総理、金鍾珞氏以外には漏れておらず、見
事に秘密は守られたのです。したがって、韓国側は、表の外交の
主席代表で駐日大使の金東祚氏や李東元外務長官ですら、密約の
ことは知らなかったのです。
 1965年2月17日、時の椎名悦三郎外務大臣は韓国を訪問
し、20日に日韓基本条約に仮調印をしています。そのとき椎名
外務大臣は、李東元外務長官と次のやり取りをしているのですが
椎名氏は竹島密約のことを知っているのに対し、李東元外務長官
は知らなかったのです。このやり取りによると、椎名氏は李東元
氏をからかっているような感じがします。
―――――――――――――――――――――――――――――
 椎名:季長官、竹島問題はどうするつもりですか。
 李 :私は、あまり竹島、竹島というので、一度出かけてみま
    した。どうして日本のような大国が、あんなつまらない
    島をほしがるのか、私には理解できません。
 椎名:しかし、日本の漁民の主張や、外務省の歴史的な証拠書
    類を見ても、竹島は日本領土だと・・・。
 李 :それでは、話が難しくなりますよ、椎名大臣。われわれ
    のほうにも対馬が自分たちのものだという古文書があり
    ます。それを根拠にわれわれが日本に対馬を要求すれば
    日本がくれますか。それとも、この機会に竹島と対馬を
    交換しましょうか。
 椎名:わかりました。
       ──ロー・ダニエル著/「竹島密約」/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 結局、日韓基本条約は、朴正煕大統領の強い希望により、19
65年6月16日に正式調印されたのですが、そこには竹島につ
いては何も触れられていないのです。
 河野一郎氏の考え方はこうです。竹島は価値のない岩礁に過ぎ
ない。もっと正確にいうなら、日本と韓国の関係を壊してまで、
争う価値のない島ということです。なぜなら、島には、ここまで
述べてきたように日韓双方とも歴史があり、それに基づく両国の
いい分があって、いくら時間をかけて議論をしても解決できると
は思えない問題である──河野氏はこのように考えたのです。
 既にその時点では竹島には韓国の警備兵が常駐しており、武力
でならともかく平和的に奪還することはきわめて困難な状況にあ
ります。したがって、どちらも「我が国固有の領土」といい合う
のは互いに認め、漁業や資源など見過ごせない問題が出てきたと
きは、真摯に協議する。それでいいではないか、という考え方で
す。とくに将来ともに島を巡って武力による紛争を起こさないよ
うに、次の基本条約の付随協定が決められているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 両国政府は、別段の合意がある場合を除くほか、両国間の紛争
 は、まず、外交上の経路を通じて解決するものとし、これによ
 り解決できなかった場合は、両国政府が合意する手段に従い、
 調整によって解決を図るものとする。
           ──「日韓紛争解決に関する交換公文」
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPKR/19650622.TPJ.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 この竹島密約はどのようにして韓国の大統領に伝えられたので
しょうか。            ── [日本の領土/61]

≪画像および関連情報≫
 ●日本はなぜ竹島問題をICT提訴しないのか
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1965年7月30日、第四十九回臨時国会における佐藤内
  閣総理大臣所信表明演説では以下のように演説が行われてい
  る。「これら諸条約によって、両国間に国交が回復し、外交
  使節が交換され、請求権問題も最終的に解決されることはも
  ちろん、今次漁業協定によって、関係漁民諸君がながらく苦
  しんできた漁業問題も解決されるのであります。この結果、
  わが国の漁船がだ捕されたり、船員が抑留されることもなく
  漁民は安心して操業できることになりました。また、紛争の
  解決に関する交換公文によって、竹島問題について平和的解
  決の道が開かれました。竹島がわが国古来の領土であること
  は、いうまでもありません。政府は、今後とも強くその領土
  権を主張してまいります」。佐藤内閣は「紛争の解決に関す
  る交換公文によって、竹島問題について平和的解決の道が開
  かれました」と発言している。以降47年間全く平和解決の
  道は開かれていないが、この公文書から竹島の文言が外され
  ているとすれば、佐藤内閣は国民に大嘘をついていたことに
  なる。 http://www.best-worst.net/news_aefaB0l2sI.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

日韓基本条約仮調印.jpg
日韓基本条約仮調印
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2012年12月28日

●「密約における2つの喪失」(EJ第3458号)

 次のラテン語の意味がわかるでしょうか。この言葉は、国際法
を勉強した人なら、お馴染みのものだそうです。
―――――――――――――――――――――――――――――
          pacta sunt servanda
―――――――――――――――――――――――――――――
 これは「約束(条約)は守られなければならない」という意味
であり、国際法の基本原則になっています。重要なことは、それ
がたとえ密約であってもそうするべきだということです。密約も
条約であり、守るのは当然のことだからです。
 しかし、2012年8月10日、李正博大統領は日韓基本条約
締結以来はじめて竹島を訪問しているのです。この大統領の行動
は、「韓国は現状を維持し、警備員の増強や施設の新設、増設を
行わない」ということを謳っている竹島密約に反する行為である
ことは明らかです。
 問題は「密約が存在する」ことを日韓双方の首脳が知っている
必要があります。その点はどうだったのでしょうか。それには、
日韓基本条約締結後の韓国における政権の推移について知る必要
があります。
 1961年5月16日未明のクーデターによって政権を握った
朴正煕氏は、18年5ヵ月後の1979年10月26日、腹心の
中央情報部長によって暗殺されたのです。
 この暗殺の騒乱のなかで、軍隊と市民軍が交戦するという「光
州事件」が起きて軍事政権が誕生し、1993年まで軍事政権が
続くことになるのです。具体的にいうと、軍事政権は次のように
変遷したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  軍事政権      朴正煕 → 全斗煥 → 盧泰愚
 非軍事政権      金泳三 → 金大中 → 盧武鉉
―――――――――――――――――――――――――――――
 軍事政権の時代は竹島密約は誠実に実行されていたのです。密
約の存在は歴代大統領にはきちんと伝えられることが慣例化され
それが守られてきたのです。
 しかし、軍事政権後の竹島密約について、『竹島密約』(草志
社刊)の著者であるロー・ダニエル氏は、既に次の2つの喪失が
起きていることを指摘しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
          1. 「紙」の喪失
          2.「精神」の喪失
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1は「『紙』の喪失」です。
 「紙」とは、竹島密約の原本のことです。密約の原本は韓国に
あるはずです。それを懸命に探した日本人がいます。中曽根康弘
元首相です。彼は当時河野派に属し、竹島密約の事情をよく知る
一人です。
 中曽根氏はソウルの全斗煥大統領(当時)に問い合わせて紙の
存在を確かめたのですが、「そのような紙はない」という返事が
返ってきたのです。「金鍾珞に会えばわかるかもしれない」と中
曽根氏は決断し、ソウルを訪問したのです。2007年1月30
日のことです。
 当時、金鍾珞氏は87歳で健在だったのです。中曽根氏は、南
山の中腹にあるハイヤット・ホテルで金鍾珞氏に会い、密約の文
書について尋ねたのです。そのときの対話を再現します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 中曽根:その紙はどこにありますか?
 金鍾珞:私が燃やしました。
 中曽根:どうしてですか?
 金鍾珞:歴史の逆賊という烙印を押されるのを恐れたのです。
       ──ロー・ダニエル著/「竹島密約」/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 密約といえども条約である以上、紙は日本にもあるはずです。
しかし、少なくとも河野一郎氏は何も残していないのです。現在
のようにコピー機などない時代であり、簡単に写しを取れなかっ
たという事情もあることに加えて、宇野宗佑氏は生前関係者に対
して、「韓国には原本を渡している」といっていたのです。
 ロー・ダニエル氏は、宇野宗佑氏の娘婿の宇野治氏にも会い、
紙の所在を確かめていますが、そういう資料は一切ないという事
実が明らかになっています。どうやら紙はないようです。
 第2は「精神の喪失」です。
 密約のことを記述した紙は既になく、しかも長い年月が経過し
てくると、条約を守ろうとする「精神」もなくなってしまうもの
です。密約の存在は盧泰愚大統領には間違いなく伝わっています
が、軍事政権が終わり、韓国の歴史上李承晩大統領以来の文民大
統領の金泳三氏には伝わっていないと思われます。
 その証拠に、その後韓国側は少しずつ独島(竹島)に手を入れ
日本政府の再三の抗議にもかかわらず、灯台、ヘリポート、レー
ダー、船舶の接岸場、警備隊宿舎などを設置、西島には漁民施設
を建設しています。明らかに密約は守られていないのです。
 しかし、日本の外務省は竹島密約について申し送りが行われて
いることは確かです。その証拠は、毎年暮れになると、定例行事
のように、「竹島は我が国固有の領土」という公文を韓国に発信
しているからです。これは密約の「イ」で謳われているように、
主張があれば互いに主張することを認めているからです。すなわ
ち、交換公文がそうです。日本は毎年暮れになると、きちんと公
文を発信しているのです。
 韓国の外務通商部はどうやらこの公文について理解しておらず
日本の執念深さに辟易としているようです。密約の存在を知らな
い証拠です。それにしても、ロー・ダニエル氏は、どのようにし
て『竹島密約』を書いたのでしょうか。あまりにも詳細です。
 本号は2012年の最後に配信するEJになります。1年間を
通し、ご愛読に感謝します。新年は4日から配信します。来年も
よろしくお願いします。      ── [日本の領土/62]

≪画像および関連情報≫
 ●韓国外務部が竹島密約を知っていない証明
  ―――――――――――――――――――――――――――
  竹島密約の存在を韓国側が完全に知らないらしいことを証明
  する発言があります。2008年7月に竹島・独島論争が再
  燃しましたが、そのときの韓国外務通商部の幹部は次のよう
  に発言しているのです。
  ***************************
  韓国政府の独島関連措置を満遍なく注視しながら、適時に対
  応してくることがわかり鳥肌が立った。日本の外務省は毎年
  年末にアジア局の名義で「竹島は日本領土」である旨の文書
  を送ってくる。韓国で独島観光が許可されて以降(2005
  年3月)日本外務省の攻勢はさらに激しくなった。
       ──ロー・ダニエル著/「竹島密約」/草思社刊
  ***************************
  ―――――――――――――――――――――――――――

中曽根康弘元首相.jpg
中曽根 康弘元首相
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2013年01月04日

●「もし東京都が尖閣を買い取っていたら」(EJ第3459号)

 本号は本年はじめてのEJです。今年もEJをよろしくお願い
いたします。ここまで30回は「北方領土」、32回は「竹島」
について書いてきています。そして、いよいよ今日からは「尖閣
諸島」について考えていきます。
 尖閣諸島問題は、同じ領土問題でも、北方領土や竹島とは大き
く異なる面を持っています。それは、北方領土はロシアに、竹島
は韓国に実効支配されているのに対して、尖閣諸島は日本が実効
支配しているからです。
 問題は実効支配のレベルです。野田政権は、実効支配のレベル
を上げるなどという意識なしに国有化したところ、中国はレベル
を上げたとして、関係が険悪なものになってしまったのです。
 尖閣諸島の位置を確認しておきます。尖閣諸島は、東シナ海上
に浮かぶ次の8つの小さな島の総称です。
―――――――――――――――――――――――――――――
    1.魚釣島         5.南小島
    2.久場島(黄尾嶼)    6.沖ノ北岩
    3.大正島(赤尾嶼)    7.沖ノ南島
    4.北小島         8.飛騨
―――――――――――――――――――――――――――――
 尖閣諸島のなかで一番大きな島である魚釣島は、石垣島の北北
西170キロにあり、台湾からも同じ170キロと等距離に位置
しています。中国大陸からは330キロ、沖縄本島からは410
キロ離れています。距離でみると微妙な位置関係にあります。
 大方の日本人の尖閣諸島について考え方をまとめると、次のよ
うなものになると思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
 尖閣諸島は日本固有の領土である。日本は明治時代から尖閣諸
 島を正式に日本の領土としているが、長い間にわたって、それ
 に対してどこからもクレームはきていない。ところが、海洋調
 査で尖閣諸島付近の海域で相当量の石油資源が埋蔵されている
 可能性が高いということがわかったとたん、中国と台湾は尖閣
 諸島に対して、それぞれ領有権を主張しはじめている。実にけ
 しからんことである。
―――――――――――――――――――――――――――――
 どうでしょうか。この考え方は正しいでしょうか。
 結論をいうなら、それは一概に正しいとも正しくないともいえ
ないのです。ただ、既に尖閣諸島をめぐって中国と対立が続いて
いる現在、上記のような考え方ではいけないと思います。どこが
正しくどこが違っているか、詳しく検証していきます。
 ひとついえることがあります。尖閣諸島をめぐって中国との対
立を引き起こした張本人ともいえる野田佳彦前首相が、尖閣諸島
についてきちんとした考え方をもっているとは到底思えないこと
です。彼が尖閣諸島について語ることは次のことだけです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 尖閣諸島は歴史的にも国際法上も日本固有の領土であり、解決
 すべき領有権の問題は存在しない    ──野田佳彦前首相
―――――――――――――――――――――――――――――
 もっとも中国との対立を引き起こしたのは、野田前首相ではな
く、石原慎太郎前都知事(現・日本維新の会共同代表)であると
いう意見もあります。
 確かに火をつけたのは石原前都知事です。しかし、石原氏は尖
閣諸島について、野田氏とは比較にならないほど歴史などもよく
調べて熟知しており、今回の「尖閣諸島は東京都が買い取る」宣
言も戦略的に相当考えたうえでの行動だったのです。
 尖閣買い取り問題について、山田吉彦氏と石平氏の対談の一部
を以下に抜粋します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 石 :東京都が最後までやれば中国はどうにもならないです。
    中国政府が東京都を相手に喧嘩できるわけがないですか
    ら。後で政府が横車を入れてきたことで、情勢が変わっ
    てしまいました。今のお話でよくわかったのは、東京都
    の購入計画は、尖閣問題だけではなくて、中国の動きに
    対する危機感が背後にあったということです。
 山田:十分に分析できていました。中国の動きは用意周到にな
    されているんだ、と。中国は、いずれ日本が国有化する
    ことも視野に入れていました。ただ、その時期はもっと
    先になると見ていました。つまり、中国にとって唯一の
    想定外は石原慎太郎だったのです。あの発言は中国も予
    想していなかったでしょう。「尖閣を買う」というあの
    発言で、中国はかなり動揺しました。本来であれば、習
    近平体制に移行して、安定した段階で次の戦略に打って
    出ようと思っていた。そうすべきところを、日本政府が
    焦って反応してしまった。その結果、国有化の動きが表
    面化して、つられた中国もペースを上げすぎたのです。
      ──石平著『尖閣問題。真実のすべて』/海竜社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで石平氏のいう「東京都が最後までやれば中国はどうにも
ならないです」という言葉は重要です。中国という大国が一地方
自治体のやったことには対応のしようがないからです。石原氏が
米国で発言をしたとき、中国が黙っていたのはそのためです。声
明だけで黙殺しようとしたのです。したがって、東京都が最後ま
でやったら、中国はどうしようもなかったのです。
 ところが藤村官房長官(当時)が次のような余計なことをいい
反応してしまったのです。あまりにも中国のことを知らな過ぎる
対応といえます。
―――――――――――――――――――――――――――――
        国有化も視野に入れて検討する
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここまでいわれたら、中国も黙ってはいられないのです。それ
でも中国はあの段階で問題を拡大させたくなかったのです。
                 ── [日本の領土/63]

≪画像および関連情報≫
 ●野田首相演説に中国反発「自らを騙し、他人も騙している」
  ―――――――――――――――――――――――――――
  【北京=川越一】中国外務省の秦剛報道官は9月27日、野
  田佳彦首相が国連総会の一般討論演説で、沖縄県・尖閣諸島
  (中国名・釣魚島)をめぐり対立する中国などを念頭に「威
  嚇」に屈しない姿勢を示したことに対し、「自らを騙し、他
  人も騙している」などと日本政府の対応を批判する談話を発
  表した。秦報道官は「領土の帰属問題は歴史と法に従って解
  決されるべきだ」とした上で、「史実と国際法を無視して、
  公然と他国の領土主権を侵犯し、世界の反ファシズム戦争勝
  利の成果を否定している国がある」と主張した。野田首相が
  演説の中で中国や韓国の名指しを控えたことから、秦報道官
  も最低限の「礼儀」は守り、日本を直接批判することは慎ん
  だようだ。しかし談話には、「その国は戦後の世界秩序に挑
  戦し、国際法規則を隠れ蓑にしている」などとこれまで中国
  側が日本を批判する際に使ってきた言葉が連ねられた。「関
  係国は歴史を正視し、国際法を適切に順守し、他国の領土主
  権を損害する一切の行為を停止しなければならない」とする
  秦報道官の談話は、日本政府に向けた同諸島の国有化撤回要
  求に他ならない。        ──MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/world/news/120927/chn12092710150002-n1.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

石平氏による尖閣問題の論評.jpg
石平氏による尖閣問題の論評
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2013年01月07日

●「日中関係を最悪化した野田の責任」(EJ第3460号)

 石原東京都知事(当時)が「尖閣は東京都が買います」と宣言
したとき、中国は冷静だったのです。地方自治体の長がいってい
ることだし、最後の最後は日本政府が何とかするだろうと考えて
いたからです。しかし、石原知事の行動が次第にエスカレートし
遂に日本政府が国有化を宣言したとき、当時の胡錦涛国家主席は
これは何とかして止めないとまずいことになると考えたのです。
彼としては、今日本にことを起こして欲しくはなかったのです。
 胡錦涛国家主席といえば、江沢民政権のときと比べると、愛国
教育は反日的色彩が薄く、中国国民の団結を目指すものになって
おり、胡錦涛氏自身が影響力を有する「中国青年報」の報道も他
のメディアに比べて反日報道が少ないのです。つまり日本にとっ
ては優しい中国の国家主席であったといえます。
 「9月6日にAPEC首脳会合がある。そこで野田と会って話
をつける」──このように胡錦涛氏は考えたのです。しかし、日
本としては、この時期に胡錦涛氏とは会いたくない。なぜなら、
先方は必ず尖閣諸島の問題を出しているからです。したがって、
日本側としては日中首脳会談の申し入れはしなかったのです。と
ころが意外なことが起こったのです。日本のノンフィクション作
家・石川好氏の次の発言を読んでいただきたいと思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ところが突然、中国側が、胡錦涛と公式会談ができなくても、
 15分でも20分でも立ち話でいいから、と言ってきた。「立
 ち話」という言い方が時々あるわけです。日本の外務省は驚い
 たんです。胡錦涛が会いたい、立ち話でもいいということは、
 どういうことだ、国家元首でしょう。国家元首が「お願いしま
 す」ということは、お願いしたことは実行してもらうときにし
 か言わない。(中略)向こう側が会いたいといっても、こちら
 はその意思がないことがわかっている以上、会うのはおかしい
 んだけれども元首から会いたいという申し込みがあって、ノー
 とは言えない。それで会ったんですよ。胡錦涛さんは案の定、
 「これは困ります」と言う。野田さんは「それは配慮します」
 と言うと思つたら、彼は用意した紙を読みあげたわけですね。
 胡錦涛は、話が違うじゃないか、俺がここでこう言ったのに、
 そういう答えが出るはずないではないか、となった。そこから
 大騒ぎになるんです。            ──孫崎亨編
               『検証・尖閣問題』/岩波書店
―――――――――――――――――――――――――――――
 つまり、野田首相は胡錦涛氏の面子を完全に潰してしまったわ
けです。胡錦涛氏は、日本が尖閣諸島を国有化するといっている
のを即撤回させるのは無理としても、何とか少しでもいいから、
決断を延期させたかったわけです。胡錦涛氏としては時間を稼ぎ
たかったのです。そのため中国側から「立ち話」を要求したので
す。こんなことは珍しいことなのです。
 日本側としては、会う予定がなかったのに立ち話でもいいから
会いたいといってきたのです。その時点で野田首相は気がつくべ
きだったのです。これはきわめて異常なことである、と。そして
素直に胡錦涛氏の話を聞いてみて、その真意を確かめてみようと
考えるべきだったのです。一国の首相である以上、そういうハラ
があってよいはずです。
 ところが、野田首相はそんなことはまったく考えなかったよう
です。それまで外交ルートを通じて国有化の狙いを中国側に伝え
てきているが、胡錦涛氏に会う以上、間違えると困るので、野田
首相はわざわざメモを用意したのです。そして胡錦涛氏が「あれ
は困る」といってきたので、予定通りメモを読み上げたのです。
これは「あなたの話は聞かないよ」といっているのと同じであり
無礼な話です。これでは、メモを見ながら、胡錦涛国家主席と会
談した菅元首相とまるで同じではないですか。
 実際に胡錦涛氏は、野田首相に何を話したのでしょうか。確認
しておきましょう。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここのところ、中日関係は釣魚島問題で厳しい局面を迎えてい
 る。釣魚島問題に関して、中国の立場は一貫しており明確だ。
 日本がいかなる方法で釣魚島と買おうと、それは不法であり、
 (購入しても)無効である。中国は(日本が)島を購入するこ
 とに断固反対する。中国政府の領土主権を守る立場は絶対に揺
 るがない。日本は事態の重大さを十分に認識し、まちがった決
 定を絶対にしないようにしなければならない。中国と同じよう
 に日中関係の発展を守るという大局に立たねばならない。
              ──「日経ビジネスオンライン」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20120918/236932/
―――――――――――――――――――――――――――――
 胡錦涛氏の意図は明確だったのです。中国側から「立ち話」会
談を日本に要請し、野田首相に直接伝えれば、「日本が少しは事
態の重大性に気づくだろう」という期待感がわずかながら胡錦涛
氏にはあったからです。そして「中国と同じように日中関係の発
展を守るという大局に立つ」ことを守るために、今回のことは自
制して欲しいと訴えているのです。言葉のウラには「野田首相な
ら抑制的な判断をするだろう」と期待したのです。抑制的判断と
は「尖閣諸島問題棚上げ」を意味しているのです。
 しかし、野田首相は胡錦涛氏の期待を裏切ったのです。野田首
相は、そういう胡錦涛氏の言葉を当然そのようにいってくるもの
と聞き流し、自分のメモを読み上げたのです。野田首相は胡錦涛
氏のメッセージを上の空で聞き流し、無視したうえ、翌日の9月
10日には何事もなかったように「尖閣国有化」の閣議決定を宣
言し、11日には閣議決定をしているのです。
 この野田首相の決断に対して胡錦涛氏は「戦う」ことを宣言し
たのです。「日本だけは絶対許さない」。それ以後のことはすべ
ての日本人が知っているはずです。野田首相は、人の心が読めな
い未熟な宰相でした。彼は「決められる政治」という言葉に酔っ
ているところのある政治家です。彼はきっと今でも自分の考えは
間違っていないと思っているでしょう。─ [日本の領土/64]

≪画像および関連情報≫
 ●発火点は野田総理と胡錦涛の「立ち話」/遠藤誉氏
  ―――――――――――――――――――――――――――
  中国が国連に持って行った領土問題に関して、中国が引くこ
  とは、もうない。日本に見切りをつけて勝負に出た中国の決
  意は固い。「土地の国有化」ということが、「土地はすべて
  国家のものである」中国にとって、どれだけ大きな意味を持
  つか。その国際理解のなさがもたらしたツケは大きい。筆者
  自身はもちろん、尖閣諸島を国有化することによって日本政
  府が安定的に管理する方がいいと野田首相が判断したことは
  分かっている。それが中国で何を意味するのかを理解するだ
  けの読みの深さがなかったことを指しているのである。尖閣
  諸島国有化に抗議する声明を出した中国の政府機関の中に、
  もちろん国家海洋局も入っている。農業部管轄下にある「漁
  政局」も例外ではない。海洋局と漁政局がタイアップしなが
  ら、尖閣諸島の周りに押しかけてくるのは時間の問題だ。そ
  の数、一千艘とも一万艘とも言われている。休漁期間を終え
  た漁船が「漁船団」として尖閣諸島を囲んだときに、何も起
  きないという保証はない。 ──「日経ビジネスオンライン」
  ―――――――――――――――――――――――――――

胡錦涛前国家主席と野田前首相.jpg
胡錦涛前国家主席と野田前首相
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2013年01月08日

●「尖閣を巧妙に利用する中国の戦略」(EJ第3461号)

 日本と韓国の間には、犯罪人引き渡し条約があります。しかし
靖国神社に放火した後、ソウルの日本大使館に火炎瓶を投げて韓
国で服役している中国人の劉強元受刑者に対してソウル高裁は、
次の理由で劉受刑者を日本には引き渡さず、韓国政府は、高裁の
司法判断を尊重して、中国に送還する方針であるといいます。
―――――――――――――――――――――――――――――
     靖国神社への放火は政治的な犯罪にあたる
                 ──ソウル高裁
―――――――――――――――――――――――――――――
 これは中国の「愛国無罪」と同じであり、こういう犯人はそれ
をよいことにして、何回でも同じことをやると思われます。日本
と韓国の間には竹島を巡って深刻な対立があり、それが尾を引い
て韓国はこういう政治判断をしたのでしょう。愚かなことです。
こういうことをしているようでは、日本と韓国は、永久に親しく
なれないでしょう。中国を利するだけの話です。それとも韓国は
日米ではなく、中国にシフトしようとしているのでしょうか。
 領土問題は、領土問題にとどめておくべきであって、歴史問題
化してはならないのです。北方領土問題も尖閣諸島問題も今のと
ころは領土問題のままですが、竹島問題は少なくとも韓国側では
歴史問題化しており、このままでは両国の親善関係は後退せざる
を得ないと思われます。あのような小さな島のことで、お互いに
不幸なことであると思います。
 さて、ここから多くの日本人が尖閣諸島について考えているこ
とが正しいかどうかの検証に入ります。何人かの日本人に聞いた
ところ、次のように考えている人が多かったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 かつては、中国は尖閣諸島などはたいして重要な島と考えてお
 らず、日中国交回復のときや、中国が資金援助などで日本の大
 きな協力を得なければならないときは、それを棚上げにしよう
 と提案してきたくせに島周辺の海域に膨大な石油資源があると
 いうことがわかると、「これは我が国固有の領土である」と急
 に領土権を主張するようになった。
―――――――――――――――――――――――――――――
 このように考えている人は多いのですが、これは完全に事実を
間違ってとらえています。「ECAFE/国際連合アジア極東経
済委員会」のレポートが尖閣諸島海域に石油の埋蔵量があること
を発表したのは1968年のことで、1972年9月の日中国交
回復よりも前のことであるからです。中国は、尖閣諸島周辺に膨
大な石油が埋蔵されている事実を知ったうえで、日本に対し「尖
閣棚上げ」を提案してきたのです。
 それにしても1968年といえば戦争が終わってから23年が
経過しています。その間日本は、敗戦国の屈辱をバネに国民全員
の必死な努力によって、経済の高度成長により国際社会のなかに
復活してきたのです。
 中国はそんなに長い間戦勝国として尖閣諸島については何もせ
ずに放置し、石油の埋蔵が確認されると、急に領有権を主張する
なんて許せない──これが当時の日本人の偽らざる心情であった
と思われます。しかし、ここで尖閣諸島の価値を大きく高めてお
くことは中国にとって必要なことだったのです。それは当時の中
国にとって、領土問題を上回る戦略的に重要な問題の解決に使え
るからです。その重要問題とは日中国交回復の実現なのです。
 中国は、1971年12月30日の外交部声明として、次のよ
うに領土権を主張しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 釣魚島などの島嶼は、昔からの中国領土である。早くも明代に
 これら島嶼は、すでに中国の海上防衛区域の中に含まれており
 それは、琉球、つまり現在の沖縄に属するものではなくて、中
 国の台湾に付属する島惧であった。中国と琉球のこの区域にお
 ける境界線は、赤尾峡と久米島との間にある。中国台湾の漁民
 は、昔から釣魚島などの島嶼で、漁労に携わってきた。日本政
 府は、日清戦争を通じて、これら島嶼をかすめとり、更に、・
 ・・「台湾とそのすべての付属島嶼」及び膨湖列島の割譲とい
 う不平等条約に中国を調印させた。──浦野起央著『尖閣諸島
 ・琉球・中国』/東郷和彦・保阪正康共著『日本の領土問題/
 北方領土・竹島・尖閣諸島』/角川ONEテーマ21A150
―――――――――――――――――――――――――――――
 もちろんこの中国の声明に対して、日本の外務省は、次のよう
に反論しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 尖閣諸島は、1885年以降政府が沖縄県当局を通ずる等の方
 法により再三にわたり現地調査を行ない、単にこれが無人島で
 あるのみならず、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎
 重確認の上、1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨
 の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとし
 たものです。──「尖閣諸島の領有権についての基本的見解」
    外務省HPより/東郷和彦・保阪正康共著による前掲書
―――――――――――――――――――――――――――――
 日中間の意見は完全に対立しています。しかし、中国はその後
何もいってこなかったのです。日中国交正常化を控えている日本
としては、「尖閣諸島問題は日中国交正常化にとって厄介な問題
になる」と頭を抱えていたのです。
 ところがです。中国は尖閣諸島の領有権を主張しただけで、こ
の問題を日中関係の正面に出すことをやめています。そして、中
国がそれを出してきたのは、1972年の日中国交回復交渉のさ
いの周恩来・田中会談においてだったのです。それは、周恩来首
相の次の発言です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 尖閣列島の問題にふれる必要はありません。今回はそのこと
 を話したくない             ──周恩来首相
―――――――――――――――――――――――――――――
                 ―─ [日本の領土/65]

≪画像および関連情報≫
 ●周恩来とはどういう人物だったか
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1972年の国交回復で田中使節団を迎えるとき周恩来は、
  新潟出身の田中首相、香川出身の大平外相、鹿児島出身の二
  階堂官房長官のために、軍楽隊に新潟の佐渡おけさ、香川の
  金比羅船々、鹿児島のおはら節を演奏させた。田中角栄総理
  が中国を訪問する前、周恩来総理は、田中総理についていろ
  いろと調べるように部下に指示したその時「田中角栄首相に
  はいろいろ女性問題がある」と週刊誌を集めて報告した部下
  がいた。周は「中国と日本が歴史的な和解をしようとしてい
  るんだ。そんな話は何の関係もない」と叱りつけたという。
  日中国交回復のため尽力していた日中覚書貿易事務所代表で
  当時日中唯一の窓口となっていた岡崎嘉平太は周恩来の印象
  をこう語っている。「周総理と会っていると、偉い人と会っ
  て話しているような感じがしないんです。まったく、何十年
  来の友人と話しているようなそんな感じを醸す人でしたね」
  ある時、周恩来は岡崎に「歳」を尋ねた。すると、岡崎は自
  分よりも一つ年上だった。周「じゃあ、あなたが兄だ」。二
  人は兄、弟と呼び合うほどに、信頼し合うようになっていっ
  たという。             ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

周恩来首相.jpg
周恩来首相
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2013年01月09日

●「田中・周会談で話し合われたこと」(EJ第3462号)

 1971年7月のことです。キッシンジャー米国務長官が北京
を秘密裡に訪問し、ニクソン大統領が中国を訪問することを予告
したのです。そして1972年2月、実際にニクソン米大統領は
中国を電撃訪問しています。
 当時佐藤内閣の下で通産大臣をしていた田中角栄氏は、これに
カチンときたのです。それは、キッシンジャー国務大臣の提唱す
る東アジア新秩序構想において、米国は日本抜きで事を運ぼうと
していたからです。「米国の思うようにはさせない」──そのと
き田中氏は固く心に誓ったのです。
 1972年7月7日、第64代内閣総理大臣に就任した田中角
栄氏は、疾風のごとく日中国交正常化に動き出したのです。そし
て同年9月に北京を訪問し、日中国交正常化交渉に臨んで、見事
にまとめ上げたのです。総理就任からわずか3ヵ月以内でこの大
仕事を成し遂げているのです。
 田中首相の外交交渉は実に周到なものだったのです。総理就任
月の7月中に、個人的に親交のあった公明党の竹入義勝委員長を
中国に派遣して、中国の周恩来首相のハラを探らせたのです。そ
れによってわかったことは、中国も内政外交面において多くの問
題を抱えており、日本との国交正常化を望んでいたことです。
 この周恩来・竹入会談は、1972年7月28日に行われてい
ます。このとき、2人は日中国交正常化交渉において日中で話し
合うべき項目を整理しています。驚くべきことは、その会談で尖
閣諸島問題については、周恩来首相の方から次のように持ち出し
てきたことです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 尖閣諸島の問題にふれる必要はありません。竹入先生も関心が
 なかったでしょう。私もなかったが、石油の問題で歴史学者が
 問題にし、日本でも井上清さんが熱心です。この問題は重く見
 る必要はありません。 ──保阪正康著/「歴史でたどる領土
    問題の真実/中韓露にどこまで言えるのか」/朝日新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 周恩来首相のいう井上清氏というのは、京大名誉教授の歴史家
です。彼は、「釣魚諸島は明の時代から中国領であったが、日清
戦争のときに日本が盗み取った」という説を主張している学者で
す。現在も中国はこれと同じ主張を繰り返し述べています。井上
氏は中国にとって、中国の意思を代弁してくれる都合のよい日本
の歴史学者なのでしょう。
 周恩来首相と田中首相の会談は、4日連続して4回行われてい
るのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      第1回会談  1972年9月25日
      第2回会談  1972年9月26日
      第3回会談  1972年9月27日
      第4回会談  1972年9月28日
―――――――――――――――――――――――――――――
 このなかで一番時間をかけ、濃密な内容が話し合われたのは第
3回の会談だったのです。その会談のやりとりの一部を保阪正康
氏の著書をベースとして、会話形式で再現します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 周恩来:田中総理。中ソ友好同盟条約はヤルタの密約にありま
     す。対日問題もヤルタから出発している。米国は中国
     の東北地方と西北地方をソ連に任せたのです。ソ連は
     国民政府との間に、中ソ友好条約を作ったが、これは
     日本に対抗するためです。当時蒋介石はヤルタ密約を
     知らなかった。中ソ友好条約などは今やまったく機能
     していません。同盟国とはいえませんよ。ソ連と話を
     するのは容易ではありません。日本も4つの島を取り
     戻すのは大変なことだと思っています。
 田 中:いや、まったくその通り。お話はよく理解できます。
 周恩来:話は変わりますが、過去の歴史から見て、中国側では
     日本軍国主義を心配している。今後は日中がお互いに
     往来して、われわれとしても、日本の実情を見たい。
 田 中:軍国主義復活は絶対にない。軍国主義者は極めて少数
     です。戦後、衆議院で11回、地方の統一選が7回、
     参議院が9回選挙した。革命で政体を変えることは不
     可能です。また、国会の3分の2の支持なくして憲法
     改正はできません。日本人は領土の拡張がいかに損で
     あるか、よく知っています。ところで、周総理。尖閣
     諸島についてどう思うか。私のところには、いろいろ
     言ってくる人がいます。
 周恩来:尖閣諸島については、今回は話したくないのです。今
     これを話すのはよくない。石油が出るから、これが問
     題になった。石油が出なければ、台湾も米国も問題に
     はしません。 ──保阪正康著/「歴史でたどる領土
    問題の真実/中韓露にどこまで言えるのか」/朝日新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 田中首相としては、周恩来首相が尖閣諸島の問題を会談で持ち
出してこないことは、7月末の周・竹入会談でわかっていたこと
なのです。これで中国が日本との国交回復を心から望んでいるこ
とはよくわかったのです。
 しかし、石油が埋蔵されていることによって世界の注目を浴び
ているときに、国交正常化の最大の難関とされていた尖閣諸島の
問題を日本側から切り出さないのは不自然です。そこで、田中首
相は自分の方からあえて切り出して確認を求めたのです。
 周恩来首相としては、今この問題を話し合うと絶対にまとまら
ないし、石油が出るから領有権を主張したとは思われたくない。
もともと魚釣島諸島は中国固有の領土であり、このことはいずれ
日本と正式に論じたいが、今はそのときではない──周恩来氏は
このように考えて日中国交正常化を実現させたのです。
 この尖閣諸島棚上げ論は、日中平和条約締結のさいにも、もう
一度中国から持ち出されるのです。 ―─ [日本の領土/66]

≪画像および関連情報≫
 ●毛沢東―田中角栄会談を再現する/横掘克己氏
  ―――――――――――――――――――――――――――
  中国の毛沢東主席と日本の田中角栄首相が初めて握手を交わ
  したのは、40年前の、1972年9月27日の夜のことで
  あった。この歴史的な会見によって、中国と日本が長かった
  「戦争状態」を終わらせ、正式に国交を正常化することが最
  終的に確定したのである。北京・中南海の毛主席の書斎で行
  われた毛―田中会談に同席した人は、日本側は大平正芳外相
  二階堂進官房長官、中国側は周恩来総理、姫鵬飛外相、廖承
  志中日友好協会会長である。だが残念なことに、いまはみな
  この世を去ってしまった。会談の内容は、終了後、二階堂長
  官が日本の随行記者団にその模様をブリーフィングし、それ
  が翌朝の日本の新聞に載っただけで、中国側からのくわしい
  発表はなかった。はたして二階堂長官が言うように「一切、
  政治的な話は抜きだった」のだろうか。本当は何が話し合わ
  れ、どんなやりとりがあったのか。それを知る二人の生き証
  人がいる。通訳・記録係としてこの会談に同席した二人の中
  国女性だった。王效賢さんと林麗雹さんの二人である。日本
  側の事務方は参加していない。二人の記憶などをもとに「歴
  史的一夜」を再現してみた。すると、これまで伝えられてい
  なかった両国首脳の、生き生きとしたやりとりがわかってき
  た。ユーモア溢れる和やかな雰囲気の中にも、国交正常化の
  ためにはゆるがせにできない問題も、この会談で真剣に話し
  合われていたのである。(文中の肩書きはいずれも当時)
http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/30year/teji.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

竹入委員長と握手する田中角栄首相.jpg
竹入委員長と握手する田中角栄首相
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2013年01月10日

●「尖閣棚上げは中国の深謀遠慮戦略」(EJ第3463号)

 周恩来氏の「尖閣諸島棚上げ発言」についてはいろいろな意見
があります。「きわめて寛大な大人の提案だ」という意見もあれ
ば、国交正常化交渉なのであるから、「相手国との懸案事項につ
いて、きちんと決着をつけるべきだ」という意見もあります。
 しかし、当時も現在も、尖閣諸島は日本が実効支配しており、
少なくとも当時は、その帰属をめぐって日本と中国が争っている
わけではなかったのです。
 したがって、田中角栄首相としては、中国は確かにそのような
ことをいったが、聞き流したというスタンスをとったのです。し
かし、中国側にはそこに周到な計算があったのです。
 1972年当時の日本は、戦後の苦しい時期を乗り越えて、経
済的にはもちろんのこと、軍事的にも日米同盟を結んでいる日本
が中国を圧倒していたのです。一方、中国は経済の不振に喘いで
おり、軍事的にも、周恩来首相が田中首相に愚痴をこぼしたよう
に、ソ連との関係がうまくいっていなかったのです。
 したがって、中国としては、尖閣諸島の問題が国交正常化の正
式議題になることを警戒していたのです。なぜなら、もしそれを
議題にすれば、意見が対立して、国交正常化が決裂しかねないか
らです。それでは中国は持たないと考えたのです。
 かといって、中国としては尖閣諸島は軍事的にも、将来のエネ
ルギー資源確保のためにも、その領有権の主張をあきらめるつも
りはないのです。何とかして後から交渉できる余地を残しておき
たい。年月が経過して中国が軍事的に米国と拮抗し、経済的に日
本を追い抜くまで中国は時間を稼ぐ必要がある──このように中
国は考えたのです。このように考えて周恩来氏は「尖閣諸島棚上
げ発言」をしたのです。
 中国がそのように考えていたことは、国交正常化から6年後の
1978年8月の日中平和条約締結のさいにも、当時中国副首相
であるケ小平氏は「尖閣諸島棚上げ発言」をしているのです。
 しかし、その発言をする前に中国側としては必ずある行動を起
こすのです。それは、尖閣諸島問題の存在を日本国民にはっきり
と意識させることです。
 周恩来首相のときは、たまたま尖閣諸島周辺の海域での石油資
源があることが直前に話題になっていたので、それをそのまま利
用したものと思われます。
 それでは、ケ小平氏は何をしたのでしょうか。
 1978年というと、ケ小平氏は毛沢東時代と決別し、改革開
放路線に舵を切った年なのです。中国にとってもっとも日本の援
助が必要なときであったのです。ケ小平氏はそのとき非常に手の
込んだことをやっています。
 1978年4月にケ小平氏は、100隻以上の海上民兵を乗せ
た漁船を尖閣諸島周辺に送り出して、領土問題の存在をアピール
しています。そして、日中平和条約締結のために中国を訪問した
園田直外相に対して「尖閣諸島棚上げ論」を展開し、日中平和条
約の批准書交換のために、1978年10月に来日したさいに、
当時の福田首相に対して「大局を重んじよう」といって煙に巻き
尖閣諸島について有名な次の発言を行っているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 われわれの世代の人間は知恵が足りない。われわれのこの話
 し合いはまとまらないが、次の世代はわれわれよりもっと知
 恵があろう。その時は誰もが受け入れられるいい解決方法を
 見いだせるだろう。           ──保阪正康著
        『歴史でたどる領土問題の真実』/朝日新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本側はこの中国の申し入れを了としたのです。尖閣諸島を実
効支配しているのは日本であり、それに異議を唱えているのは中
国です。解決策を良い知恵が出るまで先送りしようという中国の
提案に日本側は反対する必要はないと考えて、日中平和条約は締
結され、批准書が交換されたのです。
 しかし、ここで注意しなければならないことは、日中の間に尖
閣諸島について「暗黙の合意」が成立していることです。それは
「島の現状を変えない」という暗黙の合意です。
 そして現代、ケ小平氏が主導した改革開放路線が実を結び、中
国は経済力で日本を抜き、軍事力でも米国と肩を並べつつあるの
です。今なら日本などには絶対に負けない──このように考えて
中国がひたすら待っているのは、日本が尖閣諸島の現状を大きく
変えて来ることです。そして中国にとって、そのチャンスが訪れ
たのです。それが今回の国有化です。
 中国から見ると、尖閣諸島の現状を変えないという日本との暗
黙の了解がある──このように考えています。しかし、日本のス
タンスは、尖閣諸島は日本の領土であり、中国と棚上げ密約など
結ぶ必要がないというものです。
 確かに棚上げ密約を示す文書はいっさいないので、両国は尖閣
諸島に対してどのようにでもいうことができます。しかし、それ
なら日本はなぜ尖閣諸島の実効支配のレベルをもっと上げなかっ
たのでしょうか。
 尖閣諸島の魚釣島には、日本の右翼団体「日本青年社」が小さ
な灯台を建てています。その後に日本青年社は久場島にも灯台を
作っています。海上保安庁がヘリポートを作ろうとしたこともあ
ります。しかし、その都度中国や台湾が大規模な抗議行動を起こ
すので、海上保安庁がそれらを撤去しています。こういう行動は
中国側から見ると、日本は尖閣諸島棚上げの密約を守ろうとして
いると解釈できるのです。
 ケ小平氏は来日のさい、新幹線に乗車しています。そのとき、
日本の経済と技術力に圧倒されたのです。そして、ケ小平氏は帰
国すると、「経済がほかの一切を圧倒する」という政策を打ち出
し、経済でも日本の後を追いかけ始めるのです。それから30年
以上経過して、中国は経済でも日本を抜き、新幹線も日本の技術
をベースにすでに開発し、300キロを超えるスピードで中国国
内を走っています。そういうときに日本は尖閣諸島を国有化した
のです。             ―─ [日本の領土/67]

≪画像および関連情報≫
 ●ケ小平氏の会見/日本記者クラブ/1978年10月25日
  ―――――――――――――――――――――――――――
  尖閣列島は、我々は釣魚諸島と言います。だから名前も呼び
  方も違っております。だから、確かにこの点については、双
  方に食い違った見方があります。中日国交正常化の際も、双
  方はこの問題に触れないということを約束しました。今回、
  中日平和友好条約を交渉した際もやはり同じく、この問題に
  触れないということで一致しました。中国人の知恵からして
  こういう方法しか考え出せません。というのは、その問題に
  触れますと、それははっきり言えなくなってしまいます。そ
  こで、確かに一部のものはこういう問題を借りて、中日両国
  の関係に水を差したがっております。ですから、両国政府が
  交渉するさい、この問題を避けるということが良いと思いま
  す。こういう問題は、一時棚上げにしてもかまわないと思い
  ます。10年棚上げにしてもかまいません。我々の、この世
  代の人間は知恵が足りません。この問題は話がまとまりませ
  ん。次の世代は、きっと我々よりは賢くなるでしょう。その
  ときは必ずや、お互いに皆が受け入れられる良い方法を見つ
  けることができるでしょう。今回の訪日に当たりまして、日
  本政府と日本人民に非常に温かいご歓待をいただきまして、
  大変感銘を深くしております。(最後まで読む)
       http://bea2003.iza.ne.jp/blog/entry/1854432/
  ―――――――――――――――――――――――――――

福田赳夫/ケ小平両氏.jpg
福田 赳夫/ケ小平両氏
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2013年01月11日

●「尖閣に関する中国の主張の正当性」(EJ第3464号)

 日本政府は、尖閣諸島について「わが国固有の領土」といいま
す。固有の領土というのは、「かつて外国の領土になったことの
ない領土」という意味です。佐渡島や天草諸島が日本固有の領土
であるように、尖閣諸島も日本固有の領土であるというのです。
 しかし、尖閣諸島は佐渡島や天草諸島と根本的に違うところが
あります。それは島というよりも岩礁に近く、人の定住は相当困
難な島である点です。
 中国が釣魚島などの島嶼(尖閣諸島のこと)を明の時代から中
国固有の領土であるという1971年12月30日の中国外交部
声明(1月8日のEJ第3461号で紹介)を巻末の≪画像およ
び関連情報≫に再現します。
 この声明を基にして、魚釣島などの島嶼は中国の領土であると
いう主張を次の3つの観点から検証してみることにします。
―――――――――――――――――――――――――――――
          1.清国関与の実態
          2.  先占の法理
          3.日本政府の調査
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1の観点は「清国関与の実態」です。
 中国の主張に「日本政府は、日清戦争を通じて、これら島嶼を
かすめとり」というのがあります。日清戦争は1894年7月〜
1895年3月にかけて行われた戦争です。果たしてその当時清
国は、尖閣諸島を自国の領土として、国の管理下に置いていたで
しょうか。
 中国は明の時代から魚釣島などの島嶼を支配していたといって
います。明の時代というと、日本は戦国時代であり、東シナ海で
は倭寇が出没していたといわれます。倭寇は中国や朝鮮から見る
と、日本人の海賊(野蛮人)を指していう言葉です。そのまま転
じて「日本による侵略」を意味する言葉になっています。
 中国は明の時代から、この倭寇に対する沿岸警備隊を編成して
これに対抗したことが記録に残っているといいます。やがて中国
の王朝は明から清に代わり、日本では、安土桃山、関ヶ原の戦い
を経て、徳川時代に移ってきたのです。
 その頃、中国から琉球に「冊封使」が来航しているのです。柵
封使(さくほうし)とは、ある国に冊封(称号、任命書など)を
与え、中国皇帝と君主関係を結ぶ使者のことをいうのです。
 この柵封使が琉球に来るとき、台湾から尖閣諸島を経由して琉
球列島に来ているのです。その航行の記録が当時の文書に残って
いると中国は主張しているのです。
 柵封使の記録は、1534年、1562年、1683年に残っ
ています。そのさい、琉球圏についての認識を示唆する記録があ
り、それには、琉球圏は久場島以東の琉球36島と記述されてい
るというのです。
 これは、尖閣諸島が琉球の一部ではないことを示しているので
す。いい換えると、それが中国の領土であることを示すものであ
るというのが中国の主張です。
 1556年に清国は胡宗憲を倭寇討伐総督に任命しています。
そのさい、福建省の5つの海防区域を設けていますが、そのなか
に魚釣島があるのです。また、1893年に西太后は、病気の治
療に効果のあった薬草調剤師に対して薬剤目的のために、尖閣三
島を下賜する証書を出しているといいます。
 以上の柵封使に関する尖閣諸島の記録、倭寇討伐総督の胡宗憲
が尖閣諸島を海防区域に含めている点については、確かにそうい
う記録のあるのは事実ですが、そうだからといって、尖閣諸島が
清(中国)の領土であることの証拠にはなり得ないのです。
 これらの文献における尖閣諸島の記録は、尖閣諸島を航路上の
目標として、航海日誌や旅情をたたえる漢詩のなかに書きとどめ
たもので、それが中国固有の領土であることを示すものとはいえ
ないのです。
 また、胡宗憲が尖閣諸島を倭寇討伐作戦の海防区域のなかに入
れたからといって、以前からその島嶼に中国の支配が確立してい
たとはいえず、倭寇討伐の拠点島のひとつとして設定したのに過
ぎないのです。尖閣諸島に中国人が定住していた記録はいっさい
ないからです。
 まして西大后の尖閣三島の下賜の件にいたっては、証書そのも
のの信憑性に疑いがあるとする反論が多数存在し、これをもって
中国の領土であることを証明するのは困難です。
 第2の観点は「先占の法理」です。
 尖閣諸島は歴史的に見れば、中国人も日本人も定住していない
のです。こういう島嶼は、歴史上に明確に自国の領土であること
を示す証拠がない場合、先にその島を占有し、領有を主張した国
が有利になります。これを「先占の法理」といいます。そういう
どこの国にも属していない島などを「無主の地」というのです。
これは国際法で使われる法理です。日本では、尖閣諸島を「無主
の地」として位置づけており、2010年10月5日付「赤旗」
には次のように記述されています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 尖閣諸島の存在は、古くから日本にも中国にも知られていた。
 しかし、中国の文献にも、中国の住民が歴史的に居住していた
 ことを示す記録はなく、明代や清代に中国が国家として領有を
 主張していたことを明らかにできるような記録はない。近代に
 いたるまで尖閣諸島はいずれの国の支配も及んでいない、国際
 法にいう「無主の地」であった。無主の地に1884年探検し
 たのは古賀辰四郎だった。古賀氏は翌85に同島の貸与願いを
 申請した。日本政府はその後、沖縄県などを通じてたびたび現
 地調査を行った上で、1895年閣議決定によって尖閣諸島を
 日本領に編入した。歴史的にはこの措置が尖閣諸島に対する最
 初の領有行為である。これは「無主の地」を領有する「先占」
 にあたる。  ──孫崎亨著『日本の国境問題』/ちくま新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 第3の観点は来週述べます。   ―─ [日本の領土/68]

≪画像および関連情報≫
 ●中国/1971年12月30日外交部声明
  ―――――――――――――――――――――――――――
  釣魚島などの島嶼は、昔からの中国領土である。早くも明代
  にこれら島嶼は、すでに中国の海上防衛区域の中に含まれて
  おり、それは、琉球、つまり現在の沖縄に属するものではな
  くて、中国の台湾に付属する島嶼であった。中国と琉球のこ
  の区域における境界線は、赤尾峡と久米島との間にある。中
  国台湾の漁民は、昔から釣魚島などの島嶼で、漁労に携わっ
  てきた。日本政府は、日清戦争を通じて、これら島嶼をかす
  めとり、更に、・・・「台湾とそのすべての付属島嶼」及び
  膨湖列島の割譲という不平等条約に中国を調印させた。──
  浦野起央著『尖閣諸島・琉球・中国』/東郷和彦・保阪正康
  共著『日本の領土問題/北方領土・竹島・尖閣諸島』/角川
  ONEテーマ21A150
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尖閣諸島/魚釣島.jpg
尖閣諸島/魚釣島
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2013年01月15日

●「中国の主張と井上清教授の酷似性」(EJ第3465号)

 尖閣諸島の「先占の法理」に関連した次の主張をまず読んでい
ただきたいと思います。
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 尖閣諸島のどの一つの島も一度も琉球領であったことはない。
 尖閣諸島は日本が日清戦争に勝利したさいに奪い取ったもので
 ある。第2次大戦で、日本が中国を含む連合国の対日ポツダム
 宣言を無条件に受諾して降伏した瞬間から、同宣言の領土条項
 にもとづいて、自動的に中国に返還されていなければならない
 ものである。それをいままた日本領にしようというのは、それ
 こそ日本帝国主義の再起そのものではないか。
―――――――――――――――――――――――――――――
 これはいつも中国の外交部が主張していることとまったく同じ
ですが、実は日本の歴史学者が主張しているのです。その歴史学
者とは、井上清氏という人物で、尖閣諸島の議論をするときは避
けて通れない人です。同じ尖閣諸島についての著書のある孫崎亨
氏も井上清氏の主張を重視しています。
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 井上清/1913年12月19日〜2001年11月23日
 元京都大学名誉教授。日本史専攻。明治維新や軍国主義、尖
 閣諸島、元号、部落問題に関する著作がある。
                   ──ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――――
 井上氏によると、「先占の法理」とは、アジアに対する帝国主
義の植民地支配を合法化する理論であるとして、この法理を正当
化する動きを批判しています。
 先占の法理は国際法の理論です。この先占理論を精緻化し、現
代に通じる国際法上の概念に理論構成したのは、ヴァッテルとい
う人です。ヴァッテルの功績をウィキペディアによってまとめる
と次のようになります。
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 ヴァッテルは、先占の根拠を労働に求めることによって、第1
 に、狩猟、遊牧などを営む先住民の土地を無主の地と規定し、
 これを西洋諸国民が獲得することを合法化する法理論を提供す
 るとともに、他方で、教皇の認許や単なる発見が土地獲得のた
 めの十分な権原を構成しないことを主張した。第2に、ヴァッ
 テルは、国際的先占と私的先占とを厳密に区別し、国際的先占
 とは国家を主体とする無主の地に対する現実的占有であること
 を明確にした。            ──ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで注目すべきことは、たとえある島に先住人がいても、彼
らが狩猟、遊牧などを営む遊牧人である場合は、そこを「無主の
地」とし、そこには先占の法理が働くとしている点です。要する
に植民地にしやすくしているのです。
 そうなると、日本が尖閣諸島を日本領にした経緯について検証
して見る必要があります。すなわち、第3の観点「日本政府の調
査」について考えます。
 1885年のことです。日本は尖閣諸島は「無主の地」である
と認定していたのですが、古賀辰四郎なる人物が、尖閣諸島での
活動を認めて欲しいとの要請を明治政府の行政機関に出してきた
のです。
 これを受けた内務省は外務省に対し、領有に踏み切ってよいか
照会を出したのです。これに対し外務省は「今は認められない」
との見解を出しています。その理由については次の通りです。
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 これらの島は中国の国境にも近く、清国では島名もつけている
 清国の新聞などにも、日本が台湾近くの清国の島を占領すると
 風説をながし、日本を疑っているものがいる。  ──外務省
         東郷和彦・保阪正康共著『日本の領土問題/
 北方領土・竹島・尖閣諸島』/角川ONEテーマ21A150
―――――――――――――――――――――――――――――
 そういうわけで、このときは認められなかったのです。しかし
それから10年後の1894年12月27日に内務省は再び尖閣
諸島の領有化について、次のようにを照会しているのです。これ
に対する外務省の回答を示します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 内務省:その当時(1885年)と今日では事情も違っている
     ので、領有を認めてよいか。
 外務省:本省においては別段異議これなし
          ──東郷和彦・保阪正康共著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 1885年の時点では、清国(中国)といえば大国であり、日
本としては相手の国力を実際よりも大きく考えていたのです。し
たがって、尖閣諸島を日本領にするさいに何が起きるかを十分読
めていなかったのです。そのため、外務省は「ノー」を出したの
です。それから10年後に清国と日本の間で戦争が起きると清国
は既に内部崩壊していて、そこで国力は判明したのです。そのた
め外務省は1895年のときは「OK」を出しています。
 こういう経緯で日本は、1895年1月14日に現地に標杭を
建設する旨の閣議決定をしているのです。ちなみに、日清戦争は
1984年7月に始められ、1985年3月に終っています。つ
まり、1895年1月の時点では、日本は清国との戦争に勝利す
ることはわかっていたということになります。
 こういう論拠に立てば、冒頭の井上清氏の「尖閣諸島は日本が
日清戦争に勝利したさいに奪い取ったもの」といわれても仕方が
ないといえます。
 しかし、中国の海洋権益についての著作があるグレッグ・オー
スティン氏は、「中国は主権者として行動する意図と意志があっ
たこと及びそのような権威を現実に示してきていない」とし、国
際法の観点からは、日本に理がある──すなわち、先占の法理が
認められるという見解を示しているのです。
                 ―─ [日本の領土/69]

≪画像および関連情報≫
 ●井上清教授とは何者か
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  TVで顔馴染みの中国政府・姜瑜報道官が「尖閣諸島問題」
  について意外なことを言い出した。「日本と中国がともに領
  有権を主張する尖閣諸島問題に興味のある人は、京都大学の
  井上清教授が執筆した尖閣諸島にまつわる歴史と帰属問題に
  関する書籍に目を通すよう提案した」と言うのだ。今や忘れ
  去られた存在である井上清の著作を、あの一党独裁国家の報
  道官が、「課題図書」として「推薦」してくださったとは・
  ・・。こういう高圧的な中国人の態度に対しては、日本人も
  少しは目覚めて、”激怒”する必要がありそうだ。その本と
  は、井上清著「”尖閣”列島―釣魚諸島の史的解明」(第三
  書館/1996年)※を指す。姜瑜報道官は今や絶版になっ
  た古本をamazonででも探して読めと言うのだろうか。
    ※ http://www.mahoroba.ne.jp/~tatsumi/dinoue0.html
http://blog.goo.ne.jp/torumonty_2007/e/98208347555f6d273033d4dbf6f1286c
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井上清元京都大学教授.jpg
井上 清元京都大学教授
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2013年01月16日

●「中国は尖閣を日本領と認めている」(EJ第3466号)

 後にも先にも尖閣諸島に上陸し、同島の開拓をはじめて国に申
請したのは、古賀辰四郎という日本人ただ一人です。既に述べて
いるように、尖閣諸島は日本人の政治家がよく口にする「わが国
固有の領土」ではなく、あくまで「無主の地」として先占権を主
張している立場にあるのです。
 ところで、古賀辰四郎氏とはどういう人物なのでしょうか。情
報を集めてみることにします。古賀辰四郎氏は、福岡県の農家出
身の民間人です。24歳で那覇に渡り、さまざまなビジネスで成
功し、大きな富を得ています。
 古賀氏はあるとき八重山の漁師たちから「面白い島がある」と
いう話を聞いたのです。そこで古賀氏は、その面白い島に探検に
行ったのです。そして尖閣諸島を発見し、黄尾嶼に上陸している
のです。1884年のことです。
 それから一年間、島を探検し、魚介類の採取を行い、1885
年に沖縄県令に尖閣諸島開拓を申請したのです。そのときは次の
理由で、認められなかったのです。
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        我那ノ所属タル事判明無之由
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 尖閣諸島にはアホウドリが生息し、それは卵も含めて食用とさ
れることもありますが、とくにその羽毛に価値があったのです。
古賀氏はこのアホウドリの繁殖を保護する必要性からも、何回も
「官有地拝借御願」を出しています。そして最初の申請から10
年後に明治政府より尖閣諸島の30年分の無料貸与の認可を得て
いるのです。
 この古賀辰四郎氏と尖閣諸島での活動について、別冊宝島編集
部は次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 古賀辰四郎は実際に尖閣諸島でどのような事業を行ったのか。
 現在残っている開拓に関する資料は乏しく、最初に開拓された
 のが魚釣島なのか久場島なのか、また初期の移住者も20人ほ
 どだった、という説から50名以上の大掛かりなものだったと
 いう説まで記録によってまちまちではあるが、一時期は魚釣島
 に200人以上が生活し、かなり活発な生産活動が行われてい
 たのは確かだ。30年間の無料貸与を受けた翌々年の1898
 年には、自ら調査、開拓を進めながら、さらに大阪商船の須磨
 丸を寄港させ、男女の労働者数十名を移住させている。その後
 も交代要員なども含め次々と労働者の移住を進行。1900年
 には、古賀村と通称される村を形成するまでになった。
   ──「ニッポン人なら読んでおきたい竹島尖閣諸島の本」
                     別冊宝島編集部編
―――――――――――――――――――――――――――――
 1896年に国から認可をもらってから、1918年までに古
賀家の相当の人数が、尖閣諸島に住んでいたことは確かなことな
のです。したがって、もし尖閣諸島が「無主の地」であるという
立場に立つなら、古賀家の島への定住の事実は、同島に対する日
本の先占権を相当強いものにするはずです。
 この時期にもうひとつ日本にとって有利な事実があるのです。
それは、1919年のことです。古賀辰四郎氏はその前年に亡く
なっており、息子の善次氏が家業を継ぎ、魚釣島に定住していた
のです。
 中国福建省の漁民31人が魚釣島近海で遭難したのです。これ
を古賀善次氏が発見、八重山県庁、石垣島村役場の人々にも応援
を頼んで、漁民全員を救助し、中国まで送ったのです。
 この行動に対し、中国は長崎に駐在していた中国領事に命じて
石垣村村長・豊川善佐、古賀善次両氏に感謝状を贈っているので
す。感謝状の全文は次の通りです。
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 中華民国8年冬、福建省恵安県の漁民である郭合順ら31人
 が、強風のため遭難し、日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内
 和洋島に漂着した。日本帝国八重山郡石垣村の玉代勢孫伴氏
 の熱心な救援活動により、彼らを祖国へ生還させた。救援に
 おいて仁をもっで進んで行ったことに深く敬服し、ここに本
 状をもって謝意を表す。    中華民国駐長崎領事 馮冤
                 中華民国9年5月20日
     ──石平著『尖閣問題。真実のすべて』/海竜社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで注目すべきことは、「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島
内和洋島」の部分です。これは紛れもなく尖閣諸島が日本領であ
ることを認めている記述です。日本政府が尖閣諸島に標杭を建設
したのは1895年1月、日清戦争で日本が勝利したのは同年3
月、それから24年後に中国漁民の尖閣諸島での遭難事件は起き
ているのです。そのときは、中国は尖閣諸島を日本領と認めてい
たことになります。
 もうひとつ重要な証拠があります。1953年1月8日、中国
共産党機関紙「人民日報」に「琉球諸島における人々の米国占領
反対の戦い」と題する記事が載ったのです。ここには「琉球諸島
は尖閣諸島を含む7組の島嶼からなる」と書いてあるのです。
 つまり、尖閣諸島は沖縄が有する島嶼のひとつであることを中
国共産党の機関紙である「人民日報」が書いているのです。これ
は尖閣諸島が日本領であることを意味しているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 琉球諸島は、我が国(注・・中国、以下同様)の台湾東北部お
 よび日本の九州南西部の間の海上に散在しており、尖閣諸島、
 先島諸島、大東諸島、沖縄諸島、大島諸島、トカラ諸島、大隅
 諸島の7組の島嶼からなる。それぞれが大小多くの島嶼からな
 り、合計50以上の名のある島嶼と400あまりの無名の小島
 からなり、全陸地面積は4670平方キロである。
                  ──石平著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
                 ―─ [日本の領土/70]

≪画像および関連情報≫
 ●古賀辰四郎による開拓が始まる/尖閣ライブラリ・ブログ
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  明治17(1884)年頃から尖閣諸島で漁業等に従事して
  いた沖縄県在住の民間人、古賀氏から国有地借用願が出され
  明治29(1896)年に、明治政府は、4島を30年の期
  限で古賀辰四郎に貸与することを許可した。古賀辰四郎氏は
  この政府の許可に基づいて、尖閣諸島に移民を送り、羽毛の
  採集、鰹節の製造、珊瑚の採集、牧畜、缶詰製造、憐鉱鳥糞
  の採掘等の事業を経営した。このように、明治政府が尖閣諸
  島の利用について、個人に許可を与え、許可を受けた者がこ
  れに基づいて同諸島において公然と事業活動を行うことがで
  きたという事実は、同諸島に対する日本の有効な支配を示す
  ものである。
  http://blog.goo.ne.jp/hm-library/e/7112e9a89fee3e7ea474f8fa71ee7b4c
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中国からの感謝状と古賀辰四郎氏.jpg
中国からの感謝状と古賀 辰四郎氏

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