2003年08月05日

ゾルゲ諜報団の目的は何だったのか(EJ1163号)

 ソ連のスパイであるゾルゲが、日本で危険を冒して何を探ろう
としていたのでしょうか。
 ゾルゲという人物は、父はドイツ人で母はロシア人、そして出
生はロシアのアゼルバイジャンで、その後ドイツに移住している
のです。要するに、ドイツ人なのか、ロシア人なのか、非常に分
かりにくい人物なのです。
 結果として、国際共産主義を広げるためにゾルゲはドイツ人を
演出して実はソ連のスパイとして働いたわけで、ドイツ側は完全
に騙されたことになります。
 なぜなら、ドイツ大使館に一室を与えられてそこを活動の拠点
とし、ドイツ大使館主催のパーティーにも常時出席していたから
です。とくに当時のドイツ大使館付きの上級武官、オイゲン・オ
ットー大佐(のちに駐日ドイツ大使)との親交は非常に厚いもの
があったのです。
 ゾルゲ諜報団が日本で探っていたのは、独ソ戦に関する日本軍
の動向――これに尽きます。1939年にドイツ軍がポーランド
に侵攻したのを契機として第2次世界大戦が勃発するのですが、
その同じ年に独ソ不可侵条約が締結されています。これは、当時
対独提携を考えていた日本に衝撃を与えます。
 その後ドイツは、1940(昭和15)年5月にはオランダを
6月にはフランスを降伏させます。それは、英国まで占領しかね
ない勢いだったのです。この時点から、一時冷却化していた対独
提携論が、陸軍や外務省枢軸派に再燃し、強く反対していた海軍
も松岡洋右外相に説得されて、1940年9月27日、遂に日独
伊三国同盟がベルリンで調印されたのです。
 松岡洋右外相は、この三国同盟をそれにソ連を加えた四国同盟
に発展させようと考えていたといわれますが、その時点でドイツ
は既にソ連侵攻のハラを固めており、それを1941年に実行に
移します。独ソ戦争のはじまりです。
 ドイツ軍は破竹の勢いでソ連の首都モスクワに向けて進撃を開
始しますが、そうなると、ソ連としては、日本が参戦してくるか
どうかが最大の関心事になります。三国同盟には、その第3条に
おいて、同盟国中1国が戦争に入った場合はそれを支援すること
が定められていたからです。
 ゾルゲ諜報団の目的は、独ソ戦に日本軍の動向――北進して対
ソ戦に参戦するか、それとも南進して資源確保を計るのかを探り
出すことにあったのです。なぜなら、これによってソ連は、ドイ
ツとの戦争のやり方が違ってくるからです。
 1941年9月――御前会議によって日本軍の南進策が決定し
ますが、その情報をいち早く掴んだゾルゲは、それをモスクワに
打電します。これによって、ソ連は極東警備の備えとして配備し
ていた兵力をすべてドイツ軍にぶつけて、スターリングラードの
戦いでドイツ軍に圧勝するのです。
 しかし、スパイの任を解かれる寸前の1941年10月、ゾル
ゲ諜報団は一斉に検挙されます。その罪名は、次の4つの法律の
違反容疑でした。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       1.国防保安法違反
       2.軍機保護法違反
       3.軍用資源秘密保護法違反
       4.治安維持法違反
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そして、約3年間の獄中生活を経て1944年11月7日、奇
しくもロシア革命記念日にゾルゲと尾崎秀美は東京拘置所におい
て処刑されたのです。
 現在モスクワでは、数多くの歴史上名高い人物の像と並んで、
ゾルゲの像を見ることができます。1964年にゾルゲは「最高
ソ連英雄勲章」を授与され、正式にソ連の英雄として認められた
からです。
 しかし、ゾルゲが処刑されたのは1944年であり、20年も
あとのことです。それは、スターリンの狭量さによるものです。
ゾルゲが日本で逮捕されたことを聞いたスターリンは「そのよう
な人物は知らん」といって、その関わりを否定しています。
 スターリンは、大国のリーダーにあるまじき狭量な人物であり
猜疑心が強く、人を信用しない人物だったのです。そのため、ス
ターリンはゾルゲを二重スパイではないかと疑っていたといわれ
ます。駐日ドイツ大使館に入り込み、ドイツ人記者として活動し
ていたのですから、猜疑心の強い人間にはソ連のスパイのふりを
したドイツのスパイではないかと考えても不思議はないのです。
 しかし、ゾルゲのモスクワに対する報告は、1939年以降に
に絞っても次の10項目に上がっており、その内容は、驚くほど
正確だったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1939年 平沼内閣の成立事情を調査
        ノモンハン事件の報告
        日英会議を調査報告
        日独伊軍事同盟問題の調査
  1940年 米内内閣成立を調査
        第2次近衛内閣成立についての報告
        日独伊経済協定問題についての報告
  1941年 独軍によるソ連侵攻の報告
        日本の戦争遂行能力についての報告
        日本の南進政策の報告
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 スターリンは、当初はゾルゲの報告書を信用していなかったの
ですが、そのあまりの正確さに後年国策に役立てていたといわれ
ます。ソ連がドイツに勝てたのは、ゾルゲによる日本の南進策決
定の情報があったからです。それでいながら、スターリンはゾル
ゲを信用せず、諜報団の日本滞在経費の送金をストップしていた
といわれているのです。

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2006年03月31日

日本の英国化とは何か(EJ1806号)

 日本の経済の問題を追及していくと、必ず米国との関係という
壁に突き当たります。日本にとって米国は一番大事な同盟国であ
り、そういう観点から考えると、米国との壁が存在するのは当然
であるといえます。
 しかし、日本の巨額の財政赤字もこれから実施されようとして
いる大増税もそのウラには米国の影がちらつくのです。なぜ、こ
のような国内問題にまで米国の影響が及ぶのか――このように、
日本と米国との関係には大きな謎がたくさんあるのです。そこで
今日から、「日米経済関係の謎」というテーマでしばらく考えて
みたいと思います。
 日本は世界一巨額の財政赤字を抱える一方で、経常収支は巨額
の黒字です。それに対して米国は、財政赤字と経常収支の赤字の
「双子の赤字」を抱えているのです。それにもかかわらず、米国
の経済は好調ですし、日本は元気がありません。
 ところでここでいう「経常収支」とは、モノやサービスの経常
取引の収支のことです。つまり、日本がどのくらいモノやサービ
スを輸出し、どの程度輸入したか――その差が経常収支になりま
す。日本は輸出主導経済を目標にしてきたので、当然経常収支は
黒字になります。
 しかし、日本の場合、景気が上向いてきたことは確かですが、
相変らず税収は伸びず、財政赤字は拡大し、今後史上最大の大増
税が実施されようとしています。何かおかしい、どこかおかしく
はありませんか。
 『拒否できない日本』(文春新書刊)において、著者の関岡英
之氏はこの書の「あとがき」で次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 いまの日本はどこか異常である。自分たちの国をどうするか、
 自分の頭で自律的に考えようとする意欲を衰えさせる病がどこ
 かで深く潜行している。(一部略)アメリカがこれまで日本に
 してきたことは、一貫してアメリカ自身の国益の追及、すなわ
 ち、アメリカの選挙民や圧力団体にとっての利益の拡大、とい
 うことに尽きる。そのこと自体に、文句を言ってもはじまらな
 い。自国の納税者の利益を最大化するために智恵を絞るのはそ
 の国の当然の責務である。アメリカ政府は当たり前のことをし
 ているのに過ぎないのだ。問題は、アメリカの要求に従ってき
 た結果はどうなったのか、その利害得失を、自国の国益に照ら
 してきちんと検証するシステムが日本にないことだ。
 ――関岡英之著、『拒否できない日本』より。文春文庫376
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 最近「米国は日本を英国化しようとしている」ということがよ
くいわれます。どういう意味かわかるでしょうか。
 実はこの指摘は正しいのです。われわれの印象による英国とい
えば、とくに米国が仕掛ける戦争などで、たとえそれがどのよう
に理不尽であっても、それにいの一番に賛成し、行動を共にする
米国の仲良し国――そういうイメージがあります。米国は日本も
そのようにしたいのです。いや、それは単なる米国の願望などで
はなく、着実に日本を英国化すべく長期にわたって計画的に手を
打ってきていると考えるべきです。
 日本は現在純債権大国です。その順位は3番目です。最初に純
債権大国の地位についたのは英国です。蒸気機関を使う鉄道と汽
船――産業革命によって純債権大国になったのです。
 そのとき、英国に追いつこうと必死になっていたのは米国なの
です。そして、第一次世界大戦後に米国は、英国からその地位を
奪って純債権大国になるのです。内燃機関を使う自動車や航空機
などで世界を制覇したからです。これも新しい産業を起こしたと
いう意味で産業革命といえます。
 その米国に代わって三代目としてその名誉ある地位――純債権
大国になったのが日本なのです。しかし、日本の場合、英国や米
国のように、新しい産業を起こしていないのです。これが英国や
米国と決定的に違う点です。
 それは取引を行う通貨が、英国のときはポンド、米国のときは
ドルというように自国通貨を使っていたのに対し、日本はドルを
使って取引をしている点です。実はこの点が、日本が純債権大国
でありながら、大きく伸びることができない理由なのです。
 日本に純債権大国の名誉ある地位を奪われる――これが米国人
にとってどれほど屈辱的なことか、それはわれわれ日本人が考え
ている以上に大きいものなのです。いや、これは米国のみならず
ヨーロッパを含めた欧米人も同様に考えています。
 米国は失われた純債権大国の地位を取り戻すべく十分に練った
計画のもとに着実に手を打ってきているのですが、多くの日本人
にその意識は薄いようです。日本人は「われわれは戦争には負け
たが、経済で米国に勝利したのだ」と考えていますが、それは甘
い考え方です。負けたままになっている米国ではないのです。
 英国が純債権大国――ケインズ時代の英国のとき、米国は明ら
かに経済によって英国を潰しにかかっています。米国は英国に対
して何をしたのでしょうか――われわれはそれを詳しく知る必要
があると思うのです。
 日本はよく「米国の51番目の州」といわれます。興味深いこ
とに、あのジョン・メイナード・ケインズもかつて新聞記者に次
のようにいわれているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 新聞記者:ケインズさん。あんたは英国を、アメリカの49番
      目の州にしちゃったってもっぱらの噂です。ほんと
      うなんですか。
 ケインズ:ああ、そういう幸運には恵まれないね。
     ――谷口智彦著、――『通貨燃ゆ/円・元・ドル・ユーロ
             同時代史』より。日本経済新聞社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 当時はアラスカ、ハワイは米国の州ではなかったので、49番
目でいいのです。         ・・・[日米関係の謎01]


≪画像および関連情報≫
 ・谷口智彦氏について――『通貨燃ゆ/円・元・ドル・ユーロ
  同時代史』の著者
  ―――――――――――――――――――――――――――
  日経BP社編集委員室主任編集委員。1957年香川県生ま
  れ。1981年東京大学法学部卒業後雑誌『現代コリア』、
  株式会社東京精密を経て1985年12月〜2003年8月
  『日経ビジネス』記者、主任編集委員。この間米プリンスト
  ン大学フルブライト客座研究員、ロンドン特派員、ロンドン
  外国プレス協会会長、上海国際問題研究所客員研究員を歴任
  現在米ブルッキングズ研究所北東アジア政策研究センター・
  フェロー、ワシントン滞在中。
  ―――――――――――――――――――――――――――

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   『通貨燃ゆ』
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2006年04月03日

米国による富の収奪システム(EJ1807号)

 第2次世界大戦後に日本は荒廃のなかから世界が驚くようなス
ピードで立ち直っています。その秘密は日本が輸出立国を目指し
たからです。原料を輸入・加工して製品を輸出し、見返りに外貨
を稼ぐという経済モデルが当たったといえます。
 長期間にわたって、1ドル=360円という固定相場制をひき
しかも当時は、輸出先の先進工業国に比べて労働賃金の水準が大
幅に安かったので、割安の日本製品をまるで集中豪雨のように海
外に輸出したのです。
 国内の企業は輸出を突破口として拡大再生産を追及し、それを
可能にする設備投資を拡大化することによって高度成長を実現す
ることができたのです。
 経済成長には「外需による成長」と「内需による成長」の2つ
がありますが、日本は「外需による成長」策をとったのです。な
ぜなら、その方が成果を上げるのが早かったからです。一時は貿
易摩擦によって「内需による成長」に転換しようとした時期もあ
りましたが、内需拡大策はいずれも成功しなかったのです。その
ため、現在でも日本は極端な外需依存体質を持つ国なのです。
 結論からいうと、そこを米国に巧妙につけこまれたといえるの
です。現在の日本の苦境の原因のひとつはそこにあります。この
ことについて知るには、通貨についての知識が必要になります。
 日本と米国の取引について考えてみます。
 当たり前ですが、日本は円、米国はドルをそれぞれ国内取引で
は使用しています。問題は貿易の決済をどちらの国の通貨で行う
かにあります。
 日本と米国の場合は、その力関係によって、どうしてもドルと
いうことになってしまうのです。日本としても米国がそれを望ん
でおり、米国の意向に逆らえないということで、ドルでもいいと
判断したのです。また、ドルは基軸通貨であり、米国以外の国の
決済にも使えるので、日本としてはドルでよいと考えたのです。
 それだけではないのです。仮に米国に円での支払いを求めると
米国の輸入業者は外国為替市場でドルを売って円を買い求めるこ
とになります。そうすると、円相場が切り上がって輸出採算が悪
化してしまうのです。なぜかというと、日本はすでに輸出超過で
すから、市場には大量にドルが供給されているからです。
 したがって、日本は円高を恐れて米国に対し、円での支払いを
求めない――米国はそう読んでいるのです。そうすると、日本は
輸出代金をドルで受け取り、そのままドルを米国内に据え置くこ
とになります。
 これは、米国にとっては願ってもないことなのです。なぜかと
いうと、米国は日本から買い物をします。当然サイフの中からド
ルは出ていきますが、そのドルは米国内に据え置かれますから、
支払ったはずのお金が戻ってくるのと同じなのです。
 これは、米国内のある銀行にある米国人Aさん名義の預金が、
日本人Nさん名義の口座に変わるだけの話なのです。どちらにせ
よお金は米国内に留まっているので、米国政府としてはそれを国
内の経済のために――例えば減税などに使えるわけです。
 一方、日本の立場はどうなるでしょうか。
 決済上は米国が輸出代金としてドルを支払い、日本はそのドル
を受け取る――しかし、ドルのまま米国に据え置くので、それを
日本国内の経済活動には使えないのです。何のことはない、米国
の買い物の代金を日本が立て替えてあげることと同じです。です
から、米国は経常収支が巨額の赤字でも、いくらでも輸入できる
ことになります。
 本来はこういうことがあってはいけないので、通貨制度は「金
本位制」がとられたのです。金本位制を理解するため、自国通貨
として金そのものを使うケースについて考えます。つまり、貿易
決済はすべて金で行われると考えるのです。
 金本位制においては、金は赤字国(輸入国)から黒字国(輸出
国)へと移動します。そうすると、赤字国は通貨量そのものであ
る金を減らすことになるので、国内に出回る金――すなわち、通
貨が減少し、必然的に不景気になります。
 その結果、赤字国は経済の規模は縮小して購買力は減退し、輸
入規模も小さくなります。一方、黒字国はそれによって輸出量も
輸出による経常収支の黒字額も減少して、貿易の不均衡は調整さ
れ、均衡がとれてくることになります。
 しかし、金そのものを通貨として使うのは問題があるので、国
内には金と交換できる「金兌換紙幣」が流通したのです。外国と
の取引では、自国通貨と金兌換紙幣の交換を通じて自国通貨の価
値を間接的に金と結びつける「金為替本位制」で行われていたの
です。少なくとも米国がルールを守ってくれているまでの話であ
りますが・・・・。
 米国というより欧米というべきですが、欧米諸国はよくルール
を途中で自国に都合がよいように突然変更することをよくやりま
す。オリンピックなどのスポーツ大会で、とくに日本が今までに
ないやり方で金メタルを取ったりすると、ルールを変更してその
ワザを使えなくしてしまうのです。
 これは、古くは卓球の荻村選手のスポンジ・ラケットの禁止か
らはじまって、平泳ぎの古川選手の潜水泳法、背泳の鈴木大地選
手のバサロ泳法、最近ではフィギュアスケートの荒川静香選手の
イナバウアーの無採点など、たくさんあります。
 古川勝という平泳ぎの選手は、スタートすると折り返すまで潜
水しっぱなしの潜水泳法で何度も世界のトップに立っのですが、
それがずるいということで潜水泳法は禁止となり、古川選手は世
界から姿を消したのです。
 通貨の世界で米国は大きなルール変更を突然やっています。そ
れは、1971年のニクソン声明です。これは「ニクソン・ショ
ック」として世界中に衝撃を与えたのですが、とりわけ日本には
そのショックは大きかったのです。それ以来日本は米国の巧みな
富の収奪システムに巻き込まれ、現在でもなお、もがき苦しんで
いるのです。           ・・・[日米関係の謎02]


≪画像および関連情報≫
 ・金為替本位制とは
  ―――――――――――――――――――――――――――
  古典的な金本位制の1つ。金貨本位制国または金地金本位制
  国の通貨を外貨準備として保有する国が、自国の通貨に対
  して金貨(地金)本位制国の通貨を、平価の上下のせまいは
  ばの中で決められたレートで売り買いする制度のこと。金地
  金本位制とあわせて金核本位制ともいう。
  http://www.1gaitame.com/archives/2005/09/post_455.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2006年04月04日

経常収支の黒字は国を亡ぼす(EJ1808号)

 純債権国とは何でしょうか。
 純債権国とは、正確には「債権超過国」といい、次の定義があ
ります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 純債権超過国とは、その国が諸外国に保有する資産が、諸外国
 がその国に保有する資産――つまり、その国が諸外国に負って
 いる債務を上回っている国のことである。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本は、1970年になってから対外債権が対外債務を上回る
ようになったのです。この時点で日本の産業の利益は向上し、投
資の回収が進んで、負債を返済できる企業が多くなっていったの
です。そして、1980年代に入ると、資産状態は一層改善し、
安定感を増すようになったのです。そして、1980年代の後半
に日本は米国に代って世界最大の純債権国になったのです。
 いま考えるとその頃が日本の絶頂期だったのです。それがどの
ような経過をたどって現在のような状態になったかです。日本は
何に失敗したのでしょうか。
 私が今回のテーマ「日米経済関係の謎」を取り上げてみようと
思ったのは、昨年末に次の本を読んだからです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    三国陽夫著/文春新書481
    『黒字亡国/対米黒字が日本経済を殺す』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 常識的には、「黒字」は善、「赤字」は悪です。それが「黒字
亡国」とは・・・本のタイトルを見たときの最初の印象です。な
かでも興味深かったのは、著者の三国陽夫氏がイタリアの中央銀
行総裁をしていたギッド・カルリ氏に会って、次のように警告さ
れる部分です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本は一日も早く黒字を減らしなさい。黒字は増えれば増える
 ほど、日本が手塩にかけて大切に構築してきた生産能力を、そ
 れだけ大きく破壊することになるのです。
       ――元イタリアの中央銀行総裁ギッド・カルリ氏
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「黒字を早く減らせ」という日本に対する警告は、誠に衝撃的
です。今回のテーマは、三国氏の主張をベースに日本経済の謎の
解明にメスを入れてみたいと思います。
 実はこのことに早くから気が付いていた人がいます。元首相に
して大蔵大臣を務めたこともある石橋湛山その人です。その石橋
氏が昭和4年(1929年)に『週刊東洋経済新報』に発表した
次の論文においてです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 石橋湛山著
 『金輸出解禁論史』/『週刊東洋経済新報』より/1929
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1929年といえば、第一次世界大戦当時ということになりま
すが、そのとき日本は既に経常収支の巨額の黒字を有していたの
です。この論文の概要を三国氏の本からご紹介します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 アメリカが第一次世界大戦中に金の輸出を停止している時に、
 日本が大きな黒字を計上し、同時に多額のドルの輸出代金を抱
 えた。金と切り離されて、いわば紙切れ同然となったドルの輸
 出代金を円に交換しようとすると、円の為替レートが大きく切
 り上がった。円高を嫌って多額のドルをそのまま抱えると、今
 度はデフレ効果が現われた、と。
   ――三国陽夫著『黒字亡国/対米黒字が日本経済を殺す』
                      文春新書481
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 石橋湛山といえば、第1次吉田改造内閣で大蔵大臣を務めた経
験があり、1956年12月23日に内閣総理大臣に就任したの
ですが、病に倒れ、1957年2月25日に退任しています。石
橋内閣は、総理在位65日という短い内閣だったのです。
 しかし、時の内閣総理大臣が、これだけ立派な経済論文を書く
実力を持っているのです。総理大臣であれば、その程度の能力を
持っていて当然であるとはいえ、日本には、そういう総理が今ま
であまりにも少なかったことは事実です。「経済のことは専門家
にまかせている」と平気でいう無責任な総理もいるのですから。
 石橋論文を読むと、彼は日本が対米黒字を大量に抱える危険性
に気づきはじめていたことがよくわかります。ちなみに、当時は
金本位制だったのですが、戦時中であったために米国は金の輸出
を停止しており、現在と同様にドルは金と切り離されていわば紙
切れ同然の状態だったのです。したがって、石橋論文が正しいと
すると、日本のデフレの原因は、日本が円高を嫌って大量のドル
を抱えていることであるということになります。
 輸出拡大によって経常収支の黒字が累積することがデフレの原
因であるなら、輸出を抑えて現地生産に切り替えればよい――常
識的には誰でも考えることです。実際に日本の企業――とくに輸
出産業である自動車産業などはそれを実施しています。
 しかし、その結果はどうだったのでしょうか。1985年当時
と2004年度とを比較してみましょう。
 日本全体の輸出総額は約41兆円から約58兆円に増えていま
す。自動車関連の輸出額についても約8兆円から約11兆円へと
増えており、現地生産にもかかわらず減っていないのです。その
ため、同期間の経常収支は、約4.9兆円から約18.6兆円に
膨らんでしまっています。
 その原因は、現地生産を増やせば増やすほど、日本でしか作れ
ない高性能部品を輸出せざるを得ないからです。この部品の輸出
増加が経常収支の黒字を増やしているのです。まるで、日本は蟻
地獄に落ち込んだようにひたすら輸出を増やし、大量のドルを抱
えてデフレに苦しんでいるのです。 ・・・[日米関係の謎03]


≪画像および関連情報≫
 ・石橋湛山はなぜ総理を降りたのか
  石橋湛山の病気は急性肺炎である。先日、小池百合子環境相
  が急性肺炎で入院したが、石橋の場合は真冬にも関わらず、
  積極的に有権者の話を聞くべく各地を回ったために肺炎を起
  こした上に脳梗塞の兆候がある事が判明したからである。こ
  れに関してもうひとつの理由がからむのである。石橋はかつ
  て「東洋経済新聞」において暴漢に襲われて帝国議会への出
  席が出来なくなった当時の浜口雄幸首相に対して退陣を勧告
  する社説を書いたことがあった。もし国会に出る事が出来な
  い自分が首相を続投すれば、その時の社説を読んだ読者に嘘
  をつく事になると考えたのである。

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2006年04月05日

日本は米国の通貨植民地(EJ1809号)

 宗主国と植民地――既にどちらも死語ですが、支配する国を宗
主国、支配される国を植民地と呼んだのです。宗主国は必ずしも
圧倒的な軍事力ですべてを支配したわけではなく、その経済関係
を通じて、植民地の国民にそれとわからないように、巧妙に富の
収奪を行ったのです。
 宗主国と植民地の経済関係は、宗主国が自国の生産力以上に消
費できたのに対し、植民地は逆に自国の消費を生産よりも抑え込
んで、宗主国にその余剰生産分を引き渡さなければならない仕組
みになっていたのです。
 といっても宗主国は、植民地の生産物を無償で取り上げたわけ
ではなく、あくまで商取引を通じて生産物を購入していたに過ぎ
ないのです。具体的にいうと、宗主国は植民地に対し、自国通貨
で輸入代金を支払っていただけなのです。
 英国の植民地だったインドのケースで考えてみましょう。
 インドの通貨はルピーです。インドは香辛料などの原材料を英
国に輸出しようとしたのです。英国はこれを受け入れ、インドは
英国を相手に多額の黒字を計上したのです。しかし、その輸出代
金はインドの通貨であるルピーではなく、英国の通貨であるポン
ドで決済されたのです。これがポイントです。
 当時は金本位制だったので、インドは金を要求したのです。し
かし、英国はインドを次のように説得したといわれます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 金を持っていても金利はつかないですよ。しかし、ポンドで運
 用すれば、金利がつくので有利です。    ――英国の説得
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 英国の立場からすると、ルピーの為替レートはポンドで固定さ
れているので、英国はいくら赤字を計上しても、ルピーが切り上
がることはなく、高い輸入コストを負担することを心配する必要
はなかったのです。
 英国のインドへの説得は、輸出代金をポンドで受け取らせ、そ
のポンドを英国の銀行で運用させる――その一点に絞られたので
す。英国の説得は硬軟の戦術を駆使して行われ、結果は英国の思
い通りになったのです。インドの稼いだ黒字分はポンドのまま英
国国内に貸し置かれたのです。つまり、インドは英国に資本輸出
をしたことになるのです。
 これがどのような結果を生んだのでしょうか。
 まず、英国人はインドから輸入した品物で生活を豊かにするこ
とができたのです。しかも、インドに支払ったはずのポンドは英
国の銀行にそのまま貸し置かれたままで残っているのです。した
がって、名義はインド人に変わっても英国の銀行は、そのお金を
元に貸し出しをして、国内経済を豊かにできたのです。
 しかも、英国人の預金は、いつ引き出されてしまうかわかりま
せんが、インド人の預金はその心配はなく、増える一方です。こ
の赤字によって、英国に流入するポンドは、積極的に貸し出され
赤字分に匹敵する以上に英国人の預金を生むという英国にとって
は笑いの止まらない状態になったのです。
 しかし、インドの方はどうなったのでしょうか。
 ルピー預金が黒字分に見合うポンド資産の獲得に使われたので
す。そのため、国内に流通するルピーは当然不足します。つまり
お金は回りにくくなり、やがてデフレになって国内経済は不振を
極めたのです。資本輸出によってインド国内の需要を減らしたこ
とがデフレの原因となったのです。
 しかし、そうかといって、ポンドをルピーにかえてインドに持
ちかえろうとすると、ルピーはポンドに対して切り上げられてし
まうので、それもできないのです。したがって、宗主国はますま
す富み、植民地は貧乏をかこつということになります。
 これは石橋論文が指摘していることそのものです。三国陽夫氏
は、これに関して次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 当時のインドがイギリスの通貨植民地だったなら、現在の日本
 はアメリカの通貨植民地ということになるだろう。植民地イン
 ドがポンドに支配されて黒字に見合った冨を宗主国イギリスに
 吸い上げられたと同様に、植民地日本はドルに支配されてやは
 り黒字に見合った冨を宗主国アメリカに吸い上げられていると
 いっても過言ではない。基軸通貨ドルの傘下に甘んじている日
 本の立場は、インドのそれと変わらない。中国をはじめとして
 アジア諸国も同様である。
   ――三国陽夫著『黒字亡国/対米黒字が日本経済を殺す』
                      文春新書481
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本の黒字が米国に大量に流入した結果、ドルは米国の銀行か
ら金融市場に広く行き渡り、米国経済拡大のために投資されてい
るのです。つまり、日本の黒字によって米国は膨大な赤字にもか
かわらず、大量の輸入を可能にし、米国国内の消費はとどまると
ころを知らないでいます。
 これに関連して、元米国の財務長官で現ハーバート大学長であ
るローレンス・サマーズ氏は、2004年の国債研究所での講演
において、次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 経常収支の赤字の増加が「投資」目的の資金調達なら心配は無
 用で、「消費」目的の資金調達なら心配だ。アメリカの場合は
 「消費」のための資金調達になっている。  ――三国陽夫訳
                ――三国陽夫著の上掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本の経済成長を何によって上げようと政府・日銀もいろいろ
と努力を重ねてはいますが、日本経済に一向に持続性のある力強
い改善が見られないのは、日本が米国の通貨植民地になっている
ことにある――三国氏はこのように指摘しているのです。
 日本と米国の通貨問題――これがどうなっているかについて勉
強する必要があると考えます。   ・・・[日米関係の謎04]


≪画像および関連情報≫
 ・英国の植民地について
  英国のの最初の植民地は、イングランドが中世以来入植を繰
  り返してきたアイルランドといえるだろう。その後大航海時
  の波に乗って北アメリカ大陸に植民し、ニューイングランド
  植民地が成立、さらに当初は交易を目的として東洋に渡った
  東インド会社はインドの諸勢力を巧みに操ってインドに植民
  地を広げる。七年戦争ではフランスと争い、カナダを獲得、
  インドからフランス勢力をほとんど駆逐した。
                  ――ウィキペディアより

1809号.jpg
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2006年04月06日

ドルを基軸通貨にする戦略(EJ1810号)

 「マサチューセッツアベニュー・モデル」という為替理論があ
るそうです。この為替理論はかつての米クリントン政権の第T期
において、日本に対して使われた為替理論なのです。この理論を
簡単にいうと、次のようになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  2割の円高を2年続ければ、経常収支のバランスは2割
  改善する。 ――マサチューセッツアベニュー・モデル
   ――谷口智彦著、『通貨燃ゆ/円・元・ドル・ユーロ
           の同時代史』(日本経済新聞社刊)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『通貨燃ゆ/円・元・ドル・ユーロの同時代史』『通貨燃ゆ/円・元・ドル・ユーロの同時代史』(日本経済新
聞社刊)の著者である谷口智彦氏は、上記において経済学が説明
できる部分は「れば」以降だけであり、その前の部分である「2
割の円高を2年続ける」については、国家の意思が決める――そ
のようにいっているのです。
 実際に1990年代の前半において、史上最高値の円高が現実
のものになっています。1995年夏の1ドル80円を切るあの
円高です。当時の日本は不況色を強めつつあり、円高にならなけ
ればならない状況ではなかったのです。つまり、経済学では説明
することのできない円高であったといえるのです。
 谷口氏は、この円高を「米国の強い意思」によるものであると
し、市場関係者がみなそれを前提として受け入れ、その期待を実
現するために行動したから起こしえたもの――そのようにいって
います。それは経済行為ではなく、権力行為そのものであるとい
うわけです。
 このように通貨の動向を左右するのは、市場の力ではなく、そ
の国の意思としてとらえる見方も必要であるということになりま
す。そして、このとき通貨は対日制裁のための武器として使われ
たのです。ちなみに「マサチューセッツアベニュー・モデル」は
あのポール・クルーグマン教授の考えたものなのです。
 「マサチューセッツアベニュー・モデル」が政策として実施さ
れた結果、日本の輸出企業の輸出採算は悪化したのです。そのた
め、輸出企業は東南アジア諸国や中国などに直接投資をはじめ、
製造拠点を移動させはじめたのです。まさに、クルーグマン学説
が説く通りに日本経済の構造変化がはじまったのです。
 さて、通貨を上記のような観点から考えたとき、ドルは過去2
回にわたって、米国の意思で大きく変貌しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        第1回:ブレトン・ウッズ会議
        第2回:ニクソンの歴史的決断
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このドルについての米国の2つの戦略によって、米国は覇権国
家としての基礎を築いたといえるのです。それはドルを「基軸通
貨」にする戦略であり、そのためのプランニングは、1941年
12月――日本軍による真珠湾攻撃の頃からはじめられたという
のですから驚きです。
 1941年12月14日のことです。当時の米財務長官であっ
たヘンリー・モーゲンソーが、ハリー・デクスター・ホワイト財
務省金融調査局長に対して、「連合国間安定基金」の青写真を書
くよう命じているからです。この「連合国間安定基金」は後に国
際通貨基金(IMF)になるのです。12月8日に日本との戦争
状態に突入した一週間後のことです。この事実を知るだけでも米
国という国が恐るべき国家であることがわかると思います。
 谷口氏によると、通貨というものは、強制的通用力があっては
じめて通貨になるといいます。いいかえると、それは権力があっ
てはじめて通貨になるわけです。
 ましてや「基軸通貨」ともなると、世界に受け入れられる強制
的な通用力を持つ必要があり、その力の淵源は経済学の対象とい
うより覇権分析の対象となる――谷口氏はそういっています。そ
れをまざまざと、ドラマチックに見せてくれたのが、ブレトン・
ウッズ会議だというのです。
 ブレトン・ウッズ会議では、金だけを国際通貨とする金本位制
ではなく、ドルを基軸通貨とする制度を作り、ドルを金と並ぶ国
際通貨としたのです。それは同時に、英国の覇権の終末を印象づ
ける会議であり、英国が米国に「マネー敗戦」を喫した会議でも
あるといえます。
 ところで、ブレトン・ウッズとは、どこにあるのでしょうか。
 ブレトン・ウッズは、米国北東部のニューハンプシャー州にあ
ります。ニューイングランドと呼ばれる地方の中でも、マサチュ
ーセッツ州と共に、イギリス文化、特に英国の農村地方が強く残
る場所です。ニューハンプシャーは、英国のハンプシャー地方か
ら名前をとっているのです。
 このように書くと、日露戦争終結時に、その講和条約交渉の舞
台となったあのポーツマスを思い出す人がいると思います。そう
なのです。ポーツマスもニューハンプシャー州にあるのです。
 もう一つ、覚えておくとよいことがあります。それは、ニュー
ハンプシャー州の名前が一番多くテレビから流れるのが、4年に
一度大統領選挙のときで、50州の中でも、一番最初の予備選挙
がここニューハンプシャー州で行われるからです。
 ブレトン・ウッズは、ニューハンプシャー州の東端にあり、標
高1917メートルのワシントン山のふもとに位置するホテルと
ゴルフ場以外何もないところです。
 米国が独立前の1772年、この地域を支配していたのは英国
人のジョン・ウェントワースという人で、彼によってこの地域は
当時植民地であった米国に払い下げられたのです。つまり、ここ
はもともと英国の領地だったのです。
 そのブレトン・ウッズで開かれた会議によって、英国が覇権を
失うとは歴史の皮肉というべきでしょう。通貨の歴史に影響を
与えたブレトン・ウッズ会議が開かれたのは、1944年7月の
ことです。          ・・・・・[日米関係の謎05]


≪画像および関連情報≫
 ・ブレトン・ウッズ協定とは何か
  ブレトン・ウッズ協定(Bretton Woods Agreements)とは、第
  2次大戦末期の1944年7月、米国、ニューハンプシャー
  州北部の行楽地のブレトン・ウッズで開かれた連合国通貨金
  融会議(45ヵ国参加)で締結され1945年に発効した国際
  金融機構についての協定である。国際通貨基金(IMF)、国
  際復興開発銀行(IBRD)、の設立を決定した、これらの組
  織を中心とする体制をブレトン・ウッズ体制という。この協
  定は、1930年代の世界大恐慌により各国がブロック経済
  圏をつくって世界大戦をまねいた反省によっている。
                   ――金融用語辞典より

1810号.jpg
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2006年04月07日

基軸通貨としてのドルの誕生(EJ1811号)

 ブレトン・ウッズ会議は、米国のニューハンプシャー州ブレト
ン・ウッズのワシントン山ホテルにおいて、1944年7月1日
〜22日までの22日間、文字通り連日連夜徹底的に真剣な討議
が行われたのです。
 米国は会議に先立つ3年5ヶ月前――日米開戦の一週間後から
そのための準備に着手し、構想を練りに練って会議に臨んでいる
のです。用意は周到だったのです。
 それにしても、1944年といえば、まだ対独、対日戦とも熾
烈を極めていたまさにそのさなかに、米英ら連合国側は、既に戦
争の勝利を見越して会議を開き、戦後の国際金融・経済秩序を論
じていたことになります。
 ブレトン・ウッズ会議の主役は、もちろん英国と米国ですが、
何といっても中心人物は次の2人だったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     英国:ジョイン・メイナード・ケインズ
     米国:ハリー・デクスター・ ホワイト
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 英国を代表するケインズは、この会議で米国代表のホワイトと
激しく渡り合い、結局ケインズ率いる英国は、圧倒的な国力を背
景にしたホワイトに完敗したのです。
 このとき、米国と英国の国力の差は米国が圧倒的であり、それ
に戦争でもドイツに英国は飢餓線上まで追い詰められ、国力を費
消しつくしていたのです。米国はそういう窮状にある英国から残
る力の大半を奪い取ったのです。
 その象徴ともいうべきものに、英国に対する「武器貸与法」が
あります。これは、英国首相チャーチルがドイツのUボート攻撃
から英商船を守るために、米大統領ルーズベルトに対し、50〜
60隻の駆逐艦を貸して欲しいと頼んだことがきっかけとなって
作られた法律です。
 武器貸与法は、歴史の教科書などでは米国の同盟国英国に対す
る寛大な援助策として描かれていますが、本当のところはそんな
キレイ事ではなく、このさいに英国から取れるものは取るという
米国のしたたかな計算があったのです。
 谷口氏の本によると、この法律は「1776号」という番号が
ついています。この番号はアメリカ合衆国独立・建国の年号なの
です。英国はかつての米国の宗主国であり、その宗主国を助けて
やる法律にわざわざこの番号を振るのは、それなりの思いがある
わけです。
 実際に米国は英国に対し、代償に英国領西インド諸島全部を寄
越せと迫るなどして、チャーチル英首相を激怒させているのです
が、1941年3月にこの法律が成立した後に英国はニューファ
ウンドランド島、バミューダ諸島、並びに西インド諸島における
基地使用権などを米国に譲り渡しています。さらに、米国に助け
てもらったことが、ブレトン・ウッズ会議における米国との交渉
にも大きな影を落としているのです。
 それは、会議が開催されて一週間後の1944年7月8日に米
英の間でひそかに歴史的な合意が行われたことによってもそれと
わかるのです。合意の内容は、IMF協定草案「第4条第1項」
の改正です。それは、金との兌換をドルについてのみ保証すると
いう内容です。
 それは基軸通貨がポンドからドルに変更されることを意味して
いたのです。それはその後続くことになるブレトン・ウッズ体制
の一番重要な骨格であったといえます。おそらくこれは会議が始
まる前から合意されていたものと思われます。このようにして、
ドルはこの時点で基軸通貨になったのです。
 それまで、英国が支配下に置いていたスターリング・ブロック
――自国通貨をポンドと連動させている国においては、ポンドの
信用は高く、文字通りポンドが基軸通貨だったのです。
 これに対してドルはその背後に巨額の金と対外投資能力は持っ
ていたとはいえ、ポンドの世界的信用には勝てない地域通貨に過
ぎなかったのです。それがブレトン・ウッズ会議においてはじめ
て基軸通貨として認知されたことになります。
 ところで、ブレトン・ウッズ会議の主役であるケインズとホワ
イトには、いくつかの点で共通項が多いのです。しかし、知名度
からいえば、当時も現在もケインズは著名な大経済学者であり、
この会議のメンバーは、委員会ではケインズと激しく渡り合って
もケインズに対して一定の尊敬の念を抱いていたと思われます。
 谷口氏の本にそれを示す描写があるので、ご紹介しておくこと
にします。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 7月1日に始まった会議はほぼ所期どおりの成果を収め、22
 日土曜には打ち上げの夜会が大宴会場で催された。ケインズは
 一人、遅れて会場に入った。顔には疲れがにじみ出ている。普
 段以上に緩慢な動きで主賓席に歩み寄るのを、集まった数百人
 はしわぶき一つたてずに見つめている。と、誰言うとなく一人
 また一人立ち上がり、遂に会場全体が起立しケインズが席につ
 くまで見守った。
     ――谷口智彦著、『通貨燃ゆ/円・元・ドル・ユーロ
             の同時代史』(日本経済新聞社刊)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 3週間続いた会議の期間中にケインズが目を通した書類はおよ
そ1000種類に及んだといわれます。そして、ロンドンの財務
省に出した長文の電報は100通以上になったといいます。ケイ
ンズは、文字通り体を張って祖国英国のために戦ったのです。と
くに「パックス・ブリタニカ」の光芒を最後まで絶やすまいとし
て、ケインズは全力を尽くしたのです。
 「パックス・ブリタニカ」というのは、19世紀半ばから19
世紀末にかけて、英国の覇権の下で、ヨーロッパが比較的平和で
あった時代のことをいい、古代ローマの「パックス・ロマーナ」
にならってこう呼ぶのです。  ・・・・・[日米関係の謎06]


≪画像および関連情報≫
 ・ウィンストン・チャーチルについて
  チャーチルは第2次世界大戦時の指導者として、非常に国民
  から敬愛されていた政治家であった。ビートルズなどで活躍
  したジョン・レノンのミドルネームである「ウィンストン」
  は、チャーチルのファーストネームを取ったものである。ま
  た、チャーチルは文才に優れ、『第2次世界大戦回顧録』な
  どの著作活動でも評価を受けた。2度目の首相在任中の19
  53年にはノーベル文学賞を受賞している。しかし、チャー
  チルは経済的関心を全く持たない人物であり、当時の英国に
  とっては大きなマイナスになった面がある。

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2006年04月10日

米が英に突きつけたハル・ノート(EJ1812号)

 ブレトン・ウッズ会議の結果、為替レートを安定させて自由貿
易を発展させるために、次の2つの機関が設立されたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1.国際通貨基金 ・・・・・・・・  IMF
   2.国際復興開発銀行(世銀) ・・ IBRD
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 国際通貨基金は短期的な資金を、国際復興開発銀行−−世界銀
行は長期的な資金を援助する機関です。そしてこの体制をブレト
ン・ウッズ体制というのです。ブレトン・ウッズ体制では、金だ
けを国際通貨とする金本位制から、ドルを基軸通貨とする制度を
作り、ドルを金と並ぶ国際通貨としたのです。
 1930年代から40年代にかけて、世界のほとんどの金は米
国に集中しており、米国は圧倒的な経済力を誇っていたのです。
したがって、その金をベースにして発行されたドルは、金と同等
の価値があったといえます。このブレトン・ウッズ体制のことを
「金・ドル本位制」というのです。
 ブレトン・ウッズ会議において、米国は英国に対して非常に攻
撃的であり、その要求は呵責のないものだったということについ
ては既に述べました。われわれ日本人から見ると、米英両国は仲
の良い一枚岩の国のように見えますが、当時の状況はそうではな
かったようなのです。
 谷口智彦氏は、1930年代の米英の関係を次のように表現し
ています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 現実の米英は、およそ一枚岩などではなかった。緩やかな利益
 共同体ですらなく、ワシントンとロンドンの間にくすぶってい
 たのは、一つのあからさまの敵対感情である。32年、オタワ
 会議によってつくられた体制によって、大英帝国は「情緒の帝
 国」から「通商政治同盟」へ脱皮したと言われる。以来太西洋
 の両岸をはさんで、貿易戦争、通貨切り下げ戦争は熾烈に戦わ
 れていた。
     ――谷口智彦著、『通貨燃ゆ/円・元・ドル・ユーロ
             の同時代史』(日本経済新聞社刊)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 どうしてこうなったのでしょうか。
 それは、上記のオタワ協定――1932年に英国が植民地諸国
に対して実施した「帝国特恵関税システム」が原因であったとい
えます。このシステムはカナダのオタワで行われた会議で決まっ
たのでので、「オタワ協定」と呼ばれているのです。
 1930年代というと、米国発の世界恐慌に対応するために、
世界の指導的な資本主義諸国は、自国の経済圏をブロック化し、
自国の製品の販売や原料・食糧を確保し,植民地や従属国への支
配と結合を強めたのです。英国の「帝国特恵関税システム」もそ
の一環なのです。
 米国は1930年代半ば以降になると、雇用問題を解決する方
策として、貿易の拡大に力を入れようとしたのですが、その目の
前に立ちふさがったのが、「帝国特恵関税システム」によって守
られた大英帝国のブロック経済圏だったのです。
 当時の米国の国務長官はコーデル・ハルという人物です。彼は
日本に対していわゆる「ハル・ノート」なるものを突きつけた人
物であり、これによって日本は「日米開戦やむなし」という決断
をするにいたったのです。ハル国務長官は徹底的な自由貿易主義
者として知られ、彼の指導力によって米国の「互恵通商協定法」
は実現したのです。
 米国の憲法は「通商に関する権限は議会にある」と定めている
のですが、「互恵通商協定法」では、関税に関する交渉権を期限
付きで議会から大統領に付託できるようになったのです。大統領
がこの権限を持つと、迅速に他国との通商協定が結べるようにな
ります。そして、政権が2国間や多国間で合意した通商協定につ
いて、議会は部分的な修正ができなくなり、一括して承認するか
どうかの賛否だけを審議することになるのです。
 日本が対米貿易摩擦において、何かというと米国にこの伝家の
宝刀をちらつかされ、窮地に立たされたことが何度もある、あの
通商権限です。現ブッシュ政権においてもこの権限は「トレード
・プロモーション・オーソリティ」として残っています。かつて
は「ファスト・トラック」と呼んでいた権限です。
 ところが欧州で戦争が勃発し、ナチス・ドイツによって英国は
苦戦を強いられるのです。英国の首相のチャーチルは、米国に対
し、参戦を促すとともに武器の貸与を申し出てきたのです。しか
し、このとき米国の世論は、欧州の戦争に介入することには一貫
して「ノー」の姿勢だったのです。
 英国からの武器貸与の申し入れに米国はこれを千載一遇の好機
としてとらえたのです。困窮している英国を支援する武器貸与法
によって、英国の通商に関する特権を剥奪し、英国の金とドル準
備を奪う絶好の機会であると考えたのです。
 1941年7月28日、米国から英国へ武器を貸与する協定を
結ぶにあたっての「考慮事項」に目を通したケインズは次のよう
にいったといいます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     これはハル氏の狂気じみた提案である
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 その内容は、「帝国特恵関税システム」を米国商品に関しては
無効とし、通貨の自由な切り下げを許さないとするもので、平時
であれば英国が絶対に飲めない内容だったのです。しかし、その
ときの英国はそれを受け入れないと、国が崩壊しかねない危機に
あったのです。まさに米国による英国への最後通牒であり、「ハ
ル・ノート」だったといえます。
 1942年2月23日、英国は米国の要求をほぼ受け入れ、米
英相互援助協定が成立します。この日こそ米国が英国の通商覇権
を剥奪した日として記録されるべきです。 [日米関係の謎07]


≪画像および関連情報≫
 ・コーデル・ハル(1871〜1955)について
  米国の政治家。アメリカ合衆国国務長官(在職/1933〜
  1944)。弁護士・テネシー州議会議員・裁判官を経て、
  1907年、連邦下院議員に初当選。1931年には連邦上
  院議員に当選し、1933年から、ルーズベルト大統領の下
  で、11年間にわたって国務長官を務めた。この間、同大統
  領の意を体し対日交渉において、有名な『ハル・ノート』を
  日本政府に突き付け、日本政府をして「対米開戦止むなし」
  と言う方向へと誘導した。戦時中の1943年には、「国際
  連合」(The United Nations:「連合国」と邦訳するのが正
  しい)の設立宣言をしたモスクワ三国外相会議に出席し、そ
  の実現に尽力、「国連の父」と呼ばれた。1945年、「ノ
  ーベル平和賞」を受賞。

1812号.jpg
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2006年04月11日

ケインズは何を提案したのか(EJ1813号)

 今回のテーマでは、日米の経済関係のベースとなっている仕組
みというかカラクリを解明しようと考えています。米国は「通貨
こそが覇権の基盤である」という考え方に立っている国です。し
たがって、米国がかつてドルに対して取ってきた政策を振り返る
ことによって日本の円との関係を明らかにする必要があります。
 米国がこれまでにドルに対して取った大きな政策といえば、既
に述べたように、次の2つです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       第1回:ブレトン・ウッズ会議
       第2回:ニクソンの歴史的決断
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そういうわけで、現在は「ブレトン・ウッズ会議」について述
べています。このブレトン・ウッズ会議で何が決まったかについ
ては、EJ第1812号で述べましたが、英国を代表するケイン
ズはどのような提案をしたのでしょうか。このあたりを明らかに
しておく必要があると思います。
 ケインズは、世界レベルの手形集中決済所のようなものを作ろ
うとしたのです。正式名称は清算同盟(クリアリングユニオン)
――そこで、各国通貨当局の持ち込む収支尻を相殺させようとい
うわけです。ケインズはそのさいの決済通貨として、ポンドでも
ドルでもない「バンコール」という新通貨の創設を提案している
のです。
 ケインズの工夫は、この清算同盟に加盟するに当たって出資金
の拠出は不要としたことです。どの国でも申し出によって加盟で
き、バンコール預金の口座を開くことができるとしたのです。
 これは明らかに英国の利益を考えた仕組みといえます。これな
ら米国の圧倒的な経済力は反映されないし、それは同時に英国の
退勢も影響しないからです。
 この清算同盟では、各国が収支尻を持ち込んださい、一時的な
残高不足が生じたときは、当座貸越を受けることができることが
うたわれていたのです。つまり、ケインズは世界の中央銀行のよ
うなものを考えていたのです。これは、当時の英国の利益を色濃
く反映していたといえます。
 しかし、米国を代表するホワイトは十分な準備によって英国の
出方を読み切っており、ケインズの提案には乗らなかったです。
ケインズ提案は一顧だにされず、葬り去られ、ホワイトは拠出に
基づく機関であるIMFを提案したのです。それも出資金の額は
各国の金保有高と国民所得額を基準として算定するというもので
明らかに英国にとっては不利な内容だったのです。
 ケインズは、戦前の貿易額を基礎として算定すべしと最後の抵
抗を試みたのですが、ケインズ案は無視されてしまったのです。
これによって、米国の覇権を色濃く反映するIMFは正式に決定
されたのです。
 このさい、米国はポンドの決済圏各国が有しているポンド債権
をどうするかということも考えていたのです。英国とインドのケ
ースについて考えてみましょう。
 英国はインドに対し、ポンド建て債務を負っており、インドは
英国に対し、多額のポンド建て債権を持っていたのです。これを
一時に取り立てると英国は破産してしまいます。
 IMFは、英国とインドの間に介入し、インドからポンド建て
の英国向けの債権を買い上げ、代価をドルで支払うのです。これ
によって英国は、インドに対する多額の債務から解放されること
になります。その一方で、英国はIMFに対して長期債務を追う
ことになります。
 これは表面的には英国を助けることになります。世界は米国が
英国を救済したと考えるでしょう。しかし、米国の狙いは、ポン
ドの膨大な流通量をそっくりドルに入れ替えることなのです。
 実際にインドはIMFの介入によってポンド経済圏を離脱した
のですが、そのままドルの経済圏に入っているのです。インドは
英国に対するポンド債権をIMFに買い上げてもらってドルを入
手しており、新規購買力を手にしたことになります。
 他のポンド経済圏で英国に対するポンド債権を持つ国も次々と
IMFによって債権を買い上げてもらうことによって、ドル経済
圏に入ってきます。これを続けていくと、膨大なるポンドの流通
量はドルに置き換えられてしまうことになるのです。
 『マネー敗戦』の著者である吉川元忠氏は、こうした米国のや
り方に関して次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 フランスの文化相であったアンドレ・マルローは、かつて「ア
 メリカは、自ら求めないで世界覇権を得たおそらく唯一の国で
 ある」と語ったことがある。しかし、マルローのこの認識は国
 際政治の現場を見る眼としては、いささか文学的すぎた。パク
 ス・アメリカーナの成立は、自然の成り行きというだけでなく
 マネーこそが覇権の基盤であることを認識していたアメリカの
 周到な戦略、演出によるものであった。
    ――吉川元忠著、『マネー敗戦』より。文春新書002
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このように、米国による周到なる通貨政策によってドルは基軸
通貨になったのですが、現実的な問題として、米国としてはドル
をいかに全世界にばらまくかの戦略が必要だったのです。とくに
ヨーロッパは対外決済通貨が不足しており、EPU――欧州支払
同盟という機関を作り、米国はヨーロッパ復興援助のためのマー
シャルプランを実施してこれを援助したのです。
 また、米国は国内市場の対外開放に踏み切り、自由貿易主義を
取ったのです。これによって、ドルを世界的に散布するのが狙い
だったのです。決済通貨としてドルが使われれば、当時莫大な貿
易黒字を持っていた米国にドルが吸い上げられることになるので
これを防ぐ処置として、適正規模のドルの国外への流出がなけれ
ば、マネーの国際循環システムとはいえないということで、自由
貿易に踏み切ったのです。   ・・・・・[日米関係の謎08]


≪画像および関連情報≫
 ・米倉茂著、『落日の肖像――ケインズ』イプシロン出版刊
  ――――――――――――――――――――――――――
  この本の中ではこれまでなぞであったIMF交渉の場でケ
  インズが果たした役割について詳細に書かれてある。著者
  の意見を一言でまとめるとケィンズは無能で米国のホワイ
  ト案の巧みな交渉術に騙された間抜けな学者であった。と
  いうことになる。
  http://tokumoto.blog32.fc2.com/blog-entry-240.html
  ――――――――――――――――――――――――――

1813号.jpg
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2006年04月12日

ブレトン・ウッズ会議のミステリー(EJ1814号)

 ブレトン・ウッズ会議の立役者であるケインズとホワイトには
共通項があります。それは、両方とも「ロシア」に関係があると
いうことです。
 ケインズの妻はリディア・ロポコーヴァというロシアのディア
ギレフ・バレエ団のプリマ・バレリーナなのです。チャイコフス
キーの『眠れる森の美女』であるとか、メンデルスゾーンの『真
夏の夜の夢』などのバレエにおいてプリマをつとめた名バレリー
ナだったのです。
 ケインズは大変多趣味の人であり、とくに演劇やバレーが好き
だったのです。当然バレーの公演にはよく行っていたのですが、
1921年のあるバレー団の公演で、プリマを演じたリディアを
見て交際を始めます。
 リディアは既に結婚しており、家庭も仕事も放り出してロシア
軍将校と駆け落ちした過去もあるなど多くの問題がある女性でし
たが、ケインズは法律上の問題を慎重に片づけ、1925年8月
に彼女と結婚しています。時にケインズ42歳、リディアは34
歳でした。1925年というと、革命から8年経過しています。
 しかし、結婚してからは、リディアは病気がちのケインズを献
身的に支え、結婚生活は順調だったのです。ブレトン・ウッズ会
議にもリディアは同行しているのです。
 一方、米国の代表であるハリー・デクスター・ホワイトも、リ
トアニア移民のユダヤ人の息子としてボストンに生まれているの
です。ハーバート大学で経済学博士号を取得し、同大学の講師か
ら1934年に財務省に入っています。
 ホワイトは、ニューディール政策を担当し、ヘンリー・モーゲ
ンソー財務長官に認められ、対外政策担当の首席補佐官の仕事を
するようになります。それに、彼の妻はロシア系ユダヤ人の有名
な童話作家アン・テリーなのです。
 ホワイトは、帝政ロシアを倒した共産党政権こそは理想の政体
であると考えていたフシがあります。ハーバート大学で教授にな
れず、ウィスコンシン州の小さな大学に移ったホワイトは密かに
ロシア語を学び、ソ連の中央計画経済体制(ゴスプラン)につい
て研究していたといわれます。
 このようにロシアに縁のあるケインズとホワイトの2人がブレ
トン・ウッズ会議で対決し、資本主義体制を決定したことになる
のです。しかも、ホワイトの上司のモーゲンソー財務長官も実は
ユダヤ人だったのですから、何やら因縁が感じられます。
 1946年3月、米国のジョージア州サヴァナで開催されたI
MF設立総会に出席したケインズは、その後列車でワシントンに
向かっていたとき、重症の心臓発作を起こして倒れます。何とか
帰国して静養しましたが、再び容態が悪化し、4月21日朝、イ
ングランド南部、ティルトンの別荘で息を引き取ったのです。享
年62歳でした。
 当時まだ50代の半ばであったホワイトも、ケインズが死んだ
2年後の1948年8月にやはり心臓病で亡くなっています。そ
れは議会下院の非米活動委員会で厳しい質問を浴びた直後の死と
いわれています。
 皮肉なことに、その委員会でホワイトを徹底的に質問したのが
若き日のリチャード・ニクソンだったのです。そのニクソンが、
それから23年後の1971年にホワイトの構築したブレトン・
ウッズ体制を葬り去る決断をすることになるのです。
 実はホワイトには「赤」のレッテルが貼られようとしていたの
です。当時はマッカーシズムと赤狩りが全米を覆っており、FB
Iのフーバー長官の下には多くの情報が寄せられていたのです。
 1945年に「赤色スパイの女王」といわれた米国女性エリザ
ベス・ベントレーとカナダ駐留のソ連軍情報部暗号官イゴール・
グゼンコが逮捕され、ソ連のスパイ網の存在を自供したのです。
 FBIでは、ベントレーとグゼンコの証言とNASAのソ連暗
号解読記録をすり合わせることによって、重要スパイのリストを
作成しています。その中にホワイトの名前があったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       ハリー・デクスター・ホワイト
       アルジャー・ヒス
       ラフリン・カリー
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このうち、アルジャー・ヒスは、ホワイトハウスで国際連合憲
章を起草した人物であり、ラフリン・カリーはルーズベルト大統
領の首席秘書をつとめた人物なのです。
 FBIのフーバー長官は、ホワイトハウスにトップシークレッ
ト文書扱いで2回にわたり、「政府内に巣食うソ連のスパイ」を
知らせる書簡を送っているのですが、なぜかトルーマン大統領は
フーバーの警告を無視し、ソ連のスパイであることを知りながら
ホワイトを米国のIMF代表に指名しているのです。
 ちなみに、ホワイトがソ連のスパイであったことは、1996
年に機密解除されたCIAの内部資料によっても明らかになって
います。どうして、ホワイトが逮捕されなかったのかは大きな謎
とされています。
 もうひとつ、驚愕の事実があります。1941年11月27日
――太平洋戦争開戦直前に日本側に突きつけられたいわゆる「ハ
ル・ノート」の内容はホワイトが書いたとされているのです。そ
の内容は、日本が日露戦争以降に東アジアで築いた権益のすべて
を放棄することが米国と日本が不可侵条約を結ぶ条件であるとい
うものですが、実際にハル長官が書いた内容とは大幅に異なると
いわれているのです。
 この「ハル・ノート」は、ソ連のKGBの元諜報員ピタリー・
パブロフの証言によって、「ハル・ノート」そのものがソ連で作
成され、ホワイトに託されたものであることがわかったのです。
 ホワイトの上司であるモーゲンソー財務長官はロス・チャイル
ド家系の人間であり、イルミナティに属していたといわれている
のです。           ・・・・・[日米関係の謎09]


≪画像および関連情報≫
 ・イルミナティとは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1776年、パヴァリアのインゴルシュタット大学で法律を
  教えていたアダム・ヴァイスハウプトによって創設された。
  それはメーソンの組織を参考にしているので、メーソンの分
  派と見られるが、本質的にはかなり違っている。ヴァイスハ
  ウプトは、急進的な改革思想を持ち、中庸穏健なメーソンを
  過激な政治結社に改造したのである。
  ―海野弘著、『秘密結社の世界史』より。平凡社新書315
  ―――――――――――――――――――――――――――

1814号.jpg
           『秘密結社の世界史』
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2006年04月13日

なぜ、8月15日だったのか(EJ1815号)

 米国がこれまでにドルに対して実施した大きな政策の第1――
ブレトン・ウッズ体制についての分析は前回までで終り、今回か
ら第2の「ニクソンの歴史的決断」について考えます。
 米国東部時間1971年8月15日、時の米国大統領リチャー
ド・ニクソンは、全米向けテレビ・ラジオ放送で「平和という挑
戦」と題する演説を行ったのです。後に「ニクソンショック」と
いわれることになる歴史に残る演説だったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 通貨の力は、その国の経済力に依存している。アメリカ経済は
 いまでも世界で最強である。しかし、国際的な金融投機筋がド
 ルに戦争を仕掛けている。私はドル防衛のためにドルと金、ま
 たは準備資産との交換を一時停止するよう、コナリー財務長官
 に指示した。      ――リチャード・ニクソン米大統領
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これが何を意味するかを考える前に、この演説が、なぜ、8月
15日に行われたかについて考えてみます。8月15日といえば
日本では終戦記念日、天皇陛下の玉音放送が行われた日です。ち
ょうどこの日にニクソンの演説が行われているのです。
 正確にいうと、ポツダム宣言の受諾通告と終戦の詔書の公布が
行われたのは、米国時間の8月14日(対日戦勝記念日)であっ
て、15日ではないのです。
 それなら、8月15日が選ばれたのは偶然なのかというと、必
ずしもそうではないと考えられるのです。それは、ニクソンの演
説の最後の部分に出てきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 第2次世界大戦が終わったとき、欧州そしてアジアの主な産業
 国において、経済はいずれも破壊されていました。それら国々
 を独り立ちさせ、自由を守る一助にと、米国は過去25年間に
 わたり、1430億ドルの援助を提供してきたのであります。
 われわれは正しいことをしたのでした。しかし、今日、もっぱ
 らわれわれの助力によって、彼ら諸国は活力を回復しました。
 どころかわれわれの強力な「競争相手」となるに及んだのです
 からわれわれはこの成功をもって瞑すべしです。しかし、諸国
 がいまや経済的に強力になったのである以上、時は来たのであ
 ります。彼らといえども、世界中で自由を防衛する負担の一部
 を公平に担うべきです。          (「」は平野)
                    ――ニクソン大統領
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これを読むとそれとわかるように、ニクソンはやはり日本を意
識していると思うのです。演説の中の「競争相手」とは明らかに
日本を指しています。当時日本は佐藤栄作内閣――沖縄が返還さ
れる一方で、日米繊維摩擦が熾烈を極めていたときです。
 1971年といえば日本はブレトン・ウッズ体制の下で、「1
ドル=360円」の固定相場制をひき、円安を武器に為替変動リ
スクをまったく気にすることなく、集中豪雨のように米国に車な
どを輸出していたのです。大統領の頭の中に、日本がぜんぜんな
かったとはとても考えられないのです。
 谷口智彦氏の本には、8月18日付のニューヨークタイムズが
複数の政府高官のコメントを次のように紹介しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 金・ドル交換停止が主として狙うのは日本円である。(金に対
 する交換比率をいじる形の)ドルの利下げでは、円の過小評価
 を正せないと考えたのだ。輸入課徴金は、他国が通貨切り下げ
 に踏み切らざるを得ないようにする(テコの役目を果たす)も
 のだ。            ――複数政府高官のコメント
     ――谷口智彦著、『通貨燃ゆ/円・元・ドル・ユーロ
             の同時代史』(日本経済新聞社刊)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これによってもニクソンが日本を狙い撃ちにしたのは明らかで
あるといえます。実は米国のこの政策決定はニクソンとコナリー
の間で、60日も前から決まっており、実施する時期を探ってい
たといわれます。
 1971年8月13日の金曜日の朝――ニューヨーク連邦準備
銀行外国為替課からワシントンの財務省に次の急報が飛び込んで
きたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 英国が30億ドルにのぼる手持ちドルと引き換えに金を要求
 してくる。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「もう待てない」と考えたボルカー国際担当財務次官(後のF
RB議長)の要請によって、ワシントン郊外のキャンプデービッ
トに関係者が急遽集められたのです。財務長官のコナリーは休暇
先のテキサスから呼びつけられています。このときの会議は夜を
徹しての合宿になっているのです。そしてニクソンは、土曜日に
演説原稿の草稿を練り、日曜日の15日に発表したのです。
 ニクソンの演説の最後には、次のような興味ある表現で、暗に
日本を非難していると見られる部分があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 もはや為替相場は偏りのないものでなくてはならず、諸国の競
 争条件は平等でなければならない。そういう時が訪れました。
 なにゆえ米国が、このうえもなおも、両の手のうち一方を背中
 にくくりつけながらこれら諸国と競い合わねばならない理由が
 ありましょうか。     ――リチャード・ニクソン大統領
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「両の手のうち一方を背中にくくりつけながらこれら諸国と競
い合う」――これは明らかに日本を意識して、米国の立場が日本
に比べると、いかに不利であるかを強調したものであると考える
ことができます。日本は固定相場を円安に維持して輸出を伸ばし
て外貨をため込んでいる――奇しくもこれは現在中国元に対して
いわれる批判と同じです。     ・・・[日米関係の謎10]


≪画像および関連情報≫
 ・ある為替担当者のコラム/ニクソン・ショック
  ―――――――――――――――――――――――――――
  新経済政策発表の翌日の8月16日は日曜日であった。朝刊
  でこのニュースを知り事の重大さを認識したもののどのよう
  な影響があるか見当がつかなかった。前日外国為替持高は売
  持ち(ショートポジション)を維持していたので、少なくて
  も実損は無いが、月曜日以降の外国為替市場がどうなるか不
  安であった。とりあえず当時の部長の自宅へ電話をいれた。
  「これから銀行へいきましょうか?」 部長は「今日はマー
  ケットが休みなので、銀行へ行っても何もすることが無い。
  月曜日で間に合うだろう。」という返事。この一言で精神的
  に落ち着いたので、今でも鮮明に覚えている。
  http://forexpress.com/columns/fxcm/kj04.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2006年04月14日

ニクソンショックとは何か(EJ1816号)

 ブレトン・ウッズ体制では、金と兌換できる通貨をドルに限定
し、金1オンス=35ドルと定めています。これがあるからこそ
ドルは基軸通貨になったのです。
 ところが、ニクソン大統領の宣言は、そのドルと金とのリンク
を断ち切るといっているのです。要するに、この一方的な宣言に
よって、ドルはただの紙切れになってしまったのです。これほど
重要な決定と実行が大統領の権限でなぜできたのでしょうか。こ
の決定は議会を通っていないからです。
 このときの米国の目標は、「ドルを大幅に切り下げること」に
あったのです。米国がどのようにしてそのような事態に追い込ま
れたかについては改めて述べますが、米国による一方的なドルの
切り下げは、米国民にとって深い敗北感を味合わせることになり
かねないので、再選を狙うニクソンにとっては、絶対避けなけれ
ばならないことだったのです。
 金1オンス=35ドル――ドルの金に対する交換比率を変更し
例えば「金1オンス=40ドル」のようにして、ドルを切り下げ
る方法があります。要するに、金価格を上げるわけです。
 しかし、このように金の公定価格を変更する場合は、議会によ
る法改正措置が必要になるのです。公定金価格は金準備法(19
34年制定)の定めるところなのです。しかし、このようなもの
を議会にかければ民主党の攻撃のマトになるだけです。
 また、ドルを切り下げるときは、ブレトン・ウッズ体制のさい
決定された「価値維持条項」によって、その分を埋め合わせる追
加出資を世界銀行などにする必要があります。しかし、これは予
算措置であって、当然議会の承認が不可欠です。
 しかも、そのようなものを議会にかけると、情報が世界を駆け
めぐり、世界中でドル売り、金買いの取り付け騒ぎが起こること
は確実で、秘密は厳重に守られる必要があったのです。
 為替相場の安定にかかわる諸操作については議会を関与させな
いようにする必要がある――そのような意図のもとに作られたの
が、1934年制定の「金準備法」なのです。この法律の詳細は
不明ですが、外国為替安定基金を設けてこれを財務長官の裁量下
に置き、為替相場の安定のため必要な金にまつわる操作のすべて
を財務長官の裁量に委ねる――そのような法律なのです。
 この金準備法という戦前の法律の存在により、ニクソン大統領
は金に関わる操作の権限が集中している財務長官に命ずるかたち
で議会にかけることなく、ドルと金を完全に切り離す宣言を行う
ことができたのです。
 ところで「ニクソンショック」という意味は、ニクソン米大統
領による次の2つの事件の両方を含んでいます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1.日本の頭越しのニクソン訪中による米中の和解
   2.ニクソンによるドルと金のリンクの解除の決定
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 既にその兆候はあったのです。1971年8月15日のニクソ
ン宣言のちょうど1ヶ月前の7月15日――ニクソン大統領は1
年以内に訪中し、米中和解をはかると発表したのです。この訪中
計画の発表は、米中和解で最も影響を受ける日本には事前に何も
知らされず、突然行われたのです。
 当時米国の正面の敵であるソ連でさえその日の朝の時点で米国
から伝えられ知っていたのに、同盟国である日本に連絡のあった
のは発表の直前であったというのです。
 ロジャーズ米国務長官から電話で連絡を受けた牛場駐米日本大
使は、あわてて東京へ電話して就寝中の佐藤首相を起こしたので
すが、既に遅し、そのときには欧米のメディアはニュースとして
報道した後だったというのです。何ともお粗末の限り。
 谷口智彦氏の本に、このニクソン訪中に関する面白い逸話が紹
介されています。牛場大使が国務省政治担当国務次官をしていた
ウラル・アレクシス・ジョンソンに電話をして最初にいった言葉
が次の言葉だったというのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   アレックス、「朝海の悪夢」が現実になった。
                ――牛場信彦大使
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 アレックス・ジョンソンは、沖縄返還や繊維交渉などで米国の
窓口になっていた外交官で、牛場大使とは親交が厚かった人だそ
うです。ところで「朝海の悪夢」とは何のことでしょうか。
 「朝海」というのは、昭和初期の朝海浩一郎駐米大使のことな
のです。ある日、朝海大使は米国が日本に何も告げないで対中政
策を激変させた夢を見たというのです。朝海大使はその夢のこと
を外務省の仲間に伝えたことから「朝海の悪夢」と呼ばれるよう
になったというのです。そんなことが起きるはずはないが、もし
起こったら大変なことになる――そういう心配から、外務省内部
では、「朝海の悪夢」と名付けられていたのです。
 実はさすがに米政府内にも、事前にアレックス・ジョンソンを
東京に行かせ、佐藤首相に説明させる案があったらしいのですが
当のニクソン大統領とヘンリー・キッシンジャー補佐官が反対し
て実現しなかったというのです。この2人は秘密主義なのです。
 当時日米繊維交渉が極めて難航しており、ニクソン大統領とし
ては、沖縄を返してやったのに佐藤首相は礼を欠いていると怒っ
ていたとも伝えられており、当時日米関係は必ずしも良好ではな
かったのです。
 ニクソンショック第2弾はどうだったのでしょうか。大統領の
演説が始まったのは米国東部時間8月15日午前9時――日本で
は翌日の午前10時のことですが、そのほんの少し前にロジャー
ズ国務長官が首相官邸にいた佐藤首相に電話で、「大統領の重大
発表がある。VOA(ボイス・オブ・アメリカ)を聞いてもらい
たい」という連絡があったのです。官邸では通訳を探すのに大騒
ぎとなり、全員で聞き取りにくい短波放送での発表に耳を傾けた
という話が伝わっています。    ・・・[日米関係の謎11]


≪画像および関連情報≫
 ・ニクソン訪中について
  1971年7月15日、「ニクソン大統領は1972年5月
  までの適当な時期に中華人民共和国を公式に訪問する、これ
  はアメリカと中国の間に横たわっている意見の相異と立場の
  違いを話し合うことによって、両国にとって共通の利益を見
  出して、外交関係を改善するための第一歩である」という発
  表があった。これは、アメリカにとって最も優先的な政策と
  は、アメリカの利益を損わないことだという建国以来の基本
  的な立場をアジア問題において主張したものといえる。それ
  だけにこの声明は、世界の注目をアメリカの外交とそれを受
  けて立つ中国の上に釘づけすることになったが、アメリカの
  国際政治における基本姿勢を確認させられた各国の表情は複
  雑だった。もっとも、アメリカの利益優先という合衆国の自
  己主張に対してのある程度の準備と理解があったからこそこ
  の訪中声明に対して世界各国が「一応驚きながらも歓迎であ
  る」といったきわめて常識的な反応を示したのだった。
  http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/library/unmei/08.htm

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2006年04月17日

フランスの国益を守ったド・ゴール(EJ1817号)

 米国はなぜ、ドルという基軸通貨の原点であったはずの金とド
ルとの交換を停止したのでしょうか。ニクソンの決断にいたる経
緯について考えてみます。
 第2次世界大戦を前にして、ヨーロッパ諸国は戦火に見舞われ
て、国土が混乱したのです。そのため、英国やフランスは、自国
が保有する金を緊急避難のため米国に預かってもらったのです。
米国に預けていれば安心だからです。
 こういう背景があって、世界の金は米国に集中したのです。F
RBの調査によると、1949年末現在で全世界の金の70%が
米国にあったといいます。これらの金は、ニューヨーク連銀の地
下金庫に保管されていたのです。そこには、それぞれの国の金保
管スペースが用意されていたのです。
 一方、米国が保有する自国の金は、ケンタッキー州の米国陸軍
基地フォート・ノックスの地下金庫に格納されていたのです。米
国は、このように世界中の金のほとんどが米国に集まるという状
況を利用しようと考えたのです。
 米国はドルと金との交換をするさい、いちいち金をその国に移
送するのは危険であるし、効率もよくないので、ドルと交換した
金はその国の刻印を打って、ニューヨーク連銀の各国の金保管ス
ペースに移しておくことを各国に承知させたのです。
 このやり方なら、金はフォート・ノックスの地下金庫から、ニ
ューヨーク連銀の地下金庫に移動するだけで、金そのものは米国
内に置かれたままになるわけです。米国にとってこんな都合の良
い話はないわけです。
 仮に米国が金を預かっている国と敵対関係になった場合、米国
はその金を封鎖できるからです。そうするとその国は金を他の国
との決済に使えなくなるので、絶対に米国とことを構えることは
できなくなる――そういう読みが米国にはあったのです。
 第2次世界大戦後、米国は消費、援助、軍事大国として台頭し
たのですが、朝鮮戦争が勃発したことにより、輸入が大幅に増加
します。その結果、米国からのドルの流出が流入を大幅に上回る
ようになり、金などの準備資産の減少がはじまったのです。米国
は世界経済に絶大な影響を持つ基軸通貨国ですから、その裏づけ
である金の保有額が減少することは大問題だったのです。
 これに対して、スイス、フランス、オランダ、イタリアなどの
ヨーロッパ諸国は黒字によって大量のドルを抱えるようになり、
当然のことながら、米国に対して保有するドルと金の交換を要求
したのです。こうして米国はしだいにドルと金との交換を渋るよ
うになり、少しずつ追い詰められていったのです。
 変動相場制のもとでは、輸入をするときは外国為替市場で自国
通貨を売ってドルを買い、輸入代金を支払います。輸入額が多く
なると、外国為替市場でのドルに対する自国通貨の供給が増える
ので、ドルは高くなり自国通貨は安くなります。
 これに対して、輸出業者が多額の輸出代金をドルで受け取り、
外国為替市場でドルを売却して自国通貨を買うと、ドルの供給が
増えるのでドルは安くなり、自国通貨は高くなります。つまり、
需給に合わせて為替レートが変動するのです。
 しかし、ブレトン・ウッズ体制のもとでは、為替レートの変動
をドルに対してプラス、マイナス1以内に制限しているのです。
したがって、この上限、下限に近づくと、各国の通貨当局は外国
為替市場に介入しなければならなかったのです。
 これはどこの国の為替レートも、ドルとの関係で維持されるこ
とを意味しており、真の意味の変動相場制ではなく、固定相場制
であったといえるのです。これは、ブレトン・ウッズ体制の矛盾
点のひとつであるといえます。
 米国がドルと金を簡単には交換しなくなったことに対して各国
はどのような対応をとったのでしょうか。
 注目すべきはフランスの対応です。当時のフランス大統領は、
シャルル・ド・ゴールですが、彼にはジャック・リュェフという
優れた経済顧問が付いていたのです。リュェフは、基軸通貨国で
ある米国は、赤字国としての責任を放棄していると痛烈に批判し
たのです。米国はいくら赤字になってもドルを自国に還流させる
ことによって赤字を穴埋めすることができたからです。つまり、
ドルを外貨準備として保有することは、米国の赤字を埋めてやる
ことになると批判したのです。
 そして、1965年2月、ド・ゴール大統領は有名な演説を行
い、米国の金為替本位制を強く批判し、金本位制へ戻すべきであ
ることを強調したのです。そして、通貨について米国から独立す
ることを宣言したのです。
 金為替本位制を機能させてきたのは米国の圧倒的な金の保有量
なのです。当時米国はヨーロッパ主要6ヶ国と同等の金を保有し
ており、圧倒的だったのです。しかし、その条件が満たされなく
なってきたにもかかわらず、制度だけはそのまま残っている――
そうすると、米国は何の苦労もなく、世界中から借金ができるよ
うになっているとド・ゴール大統領は米国を批判したのです。
 どこかの国の指導者と違って、ド・ゴール大統領は単に口先の
パフォーマンスで終わらなかったのです。大統領の指示でフラン
スの中央銀行は、ニューヨーク連銀に預けてある自国保有の金を
すべて引き出して、フランスに持ち帰ってしまったのです。
 そして、保有していたドルのほとんどを金に交換するよう米国
に迫ったのです。米国は、フランスのこの行為をド・ゴール大統
領の「金戦争」と呼び、強く反発したのですが、フランスは金と
の交換を強行したのです。国益を守るための当然の行動です。
 ド・ゴール大統領は、なぜ、こうするのかについて国民に時間
をかけて説明しています。場合によっては米国との戦争も覚悟し
なければならなかったからです。
 そのため大統領は約一ヶ月すべてのスケジュールをキャンセル
し、国民に通貨問題を分かり易く説明するための原稿作りに取り
組んだといわれています。こうしてド・ゴールはフランスの国益
を守ったのです。         ・・・[日米関係の謎12]


≪画像および関連情報≫
 ・ド・ゴールについて/1890〜1970
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「フランスは毅然としていなければならない。貴婦人は言い
  寄られることはあっても言い寄ったりしない」。ド・ゴール
  の外交政策の基本は、(体制は西側だが)東西いずれの陣営
  にも属さずフランス独自の「自立」と「栄光」を求める点に
  集約されている。ド・ゴールは反アメリカの姿勢から64年
  には中華人民共和国(アメリカと敵対)を承認し、同年には
  ソ連と通商条約を締結した。
  http://www.kaho.biz/degaulle/n.html#4
  ―――――――――――――――――――――――――――

1817号.jpg
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2006年04月18日

日本に二者択一を迫ったニクソン(EJ1818号)

 ドルと金との交換を渋る米国に断固たる対応をしたフランスと
きわめて対照的だったのは日本です。日本は輸出によって大量の
ドルを蓄積していたのですが、ヨーロッパ諸国と一線を画し、米
国に対して金との交換を一切要求しなかったのです。
 さらに円高を恐れて輸出代金をドルで受け取りながらそれを円
に交換せず、そのまま持ち続けたのです。米国はつねづね金との
交換を要求しない国を友好国、要求する国は非友好国という姿勢
を見せていたので、太平洋戦争の敗戦国である日本としては米国
の要求に抵抗できなかったのかも知れません。
 同じ太平洋戦争の敗戦国である旧西ドイツも、圧力を受けて、
米国との決済は金にこだわらず、国債で受け取るという悪しき前
例を作ってしまったのです。しかし、1969年にはじめてドル
に対してマルクを敢然と切り上げたのです。その時点でドルを金
に交換することがもはや困難であると判断したからです。
 ドルをそのまま長く持ち続けることは、時間が経つとそれだけ
自国の通貨を減らすことにつながり、経済活動を縮小してしまう
ことが予測できたので、当時の首相であるヘルムート・シュミッ
トは、ドルを持ち続けるという選択は、政治家としてできなかっ
たと自身の回顧録で明らかにしています。
 このような西ドイツに比べて日本の対応は、実にお粗末だった
のです。当時日本は経済的実力において、急速に米国との差を縮
めはじめており、米国としてはそれにいらだちを覚えていたとい
われています。それにニクソン大統領は佐藤首相に対して相当不
快感を持っていたようです。それは繊維交渉で米国が日本にいく
ら輸出制限を求めても応じようはしなかったことです。どうやら
これは沖縄返還の見返りになっていたという話もあるのです。
 それに1969年に西ドイツがマルクを切り上げたときに米国
は非公式に日本に対し、日本も円を切り上げるか、このさい変動
相場制に移行してはどうかと要求していたのに、日本の通貨当局
は聞く耳を持たなかったというのです。
 問題はこのとき、米国の要求に対し、日本政府の意思として反
対したのではないことです。聞く耳を持たなかったのは旧大蔵省
です。とくに国際通貨問題に関しては大蔵省が専権を発揮してお
り、外部の介入を極端に嫌っていたのです。仮に首相が命じたと
しても大蔵省は応じなかったでしょう。
 それに佐藤首相自身が国際通貨問題に通じていたとは到底思え
ないのです。『佐藤栄作日記』(朝日新聞社刊)の一節に次のよ
うな記述があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 田中敬大蔵省大臣官房総務文書課長がやってきて、土曜日に為
 替をフロート(変動相場制)するの申し出に「許す」。
                 ――『佐藤栄作日記』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 まるで何かの申請書類にハンコを押すように、こんな大事なこ
とをあっさりと決めているようにみえます。おそらく中間段階は
何も相談されておらず、事後報告のようにみえます。わかってい
ない人に相談してもムダと官僚は考えたのでしょう。
 しかし、国際通貨問題といえば「通貨主権」という言葉がある
ように国の利害を左右する大問題なのです。日本ではそういう大
問題でさえ官僚まかせなのです。当たり前の話ですが、主権にか
かわる大問題は国のトップがリーダーシップをとって決めるべき
ですが、日本ではそれができないし、できない国なのです。
 フランスのド・ゴール大統領は、早い段階で金の問題で米国に
対決姿勢を取り、一ヶ月もスケジュールを入れずに通貨問題につ
いてのフランスの立場を説明するための原稿づくりに没頭してい
るし、ニクソン大統領も重大発表をするのにさいして、大統領別
荘キャンプデービットにおいて関係者による合宿会議を開き、検
討しているのです。
 問題はなぜ当時の大蔵省は、米国からの円の切り上げに応じな
かったのでしょうか。
 それは、大蔵省は外国為替業務を取り扱う都銀に対し、円は切
り上げないと約束して、大量のドルを保有させていたからです。
この状態で米国やヨーロッパ諸国からの円の切り上げ要求を受け
入れてしまったら、都銀に多額の為替損失を負わせてしまうこと
は必至です。だから応ずることはできなかったのです。
 ニクソンが金とドルを切り離す決断を発表する前の時点で日本
に対し、非公式ながら円の切り上げを要求してきていたというこ
とは、少なくともその時点では米国は経常収支の赤字を改善する
意思を持っていたということになります。そのうえで、米国は日
本に対し、次の二者択一を迫ったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       1.外需依存の経済を運営するか
       2.消費主導の経済を運営するか
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 敗戦後の日本は廃墟にはなったものの、政府と産業と銀行が複
合体を形成し、それに目標と方向づけを行うことによって、巨大
な生産力を生み出す力を依然として保有していたのです。そのこ
とを当の米国は認識しており、なかば警戒しながらも朝鮮戦争以
来の「冷戦」という名の戦争において、利用してきたのです。
 これによって日本は世界中が驚くようなスピードで復興を遂げ
ていったのです。これはある意味で戦時経済というべきものであ
り、その流れが上記1の「外需依存の経済運営」です。日本は現
在でもこれを続けているのです。
 しかし、日本はヨーロッパ諸国のようにドルを売却し、円とし
て日本国内に持ち返るべきであったのです。そうすれば、当然円
高になりますが、それを甘受して経常収支の黒字を減らし、貿易
を均衡させる――これが「消費主導の経済運営」であり、それは
戦時経済から平和経済への切り替えになるのです。ニクソン・シ
ョックは、その二者択一を日本に対して迫ったものとみなすこと
ができるのです。         ・・・[日米関係の謎13]


≪画像および関連情報≫
 ・ヘルムート・シュミット元西独首相とピアノ
  ―――――――――――――――――――――――――――
  元首相は86歳でEU統合で尽力した人物です。彼の趣味は
  プロ並のピアノで1985年にドイツのハンブルグでオーケ
  ストラと共に4人のピアニストの1人としてコンサートを行
  なっています。元首相以外の3人はプロピアニストでした。
  このコンサートではバッハを演奏し、レコードも作っていま
  す。「フランスは毅然としていなければならない。
  http://lemonodaso.exblog.jp/2007744
  ―――――――――――――――――――――――――――

1818号.jpg
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2006年04月19日

経常赤字は米経済を加速させる(EJ1819号)

 ニクソンが日本に突きつけた二者択一――前回述べた2つの選
択肢を再現しておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.外需依存の経済を運営するか
      2.消費主導の経済を運営するか
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この2つのうち、日本は第1の「外需依存の経済運営」を選ん
でいます。これは、極力円安を維持して輸出を拡大する道であり
ドルを買い支える道でもあるのです。
 「外需依存の経済運営」を選んだ結果、日本は大量のドルを現
在保有することになったのですが、これが日本のデフレの原因で
あるといわれます。この考え方が正しいとすると、現在デフレ脱
却か否かが論議されているものの、ドルと円のこのような関係が
改善されない限り、基本的にデフレはいつまでも続いていくこと
になります。
 なぜ、日本は「円安」を求めるのでしょうか。ここで、基本的
な知識を整理しておきましょう。
 1ドル=100円のときに、日本製品の価格が、円建て価格で
100円であるとすると、ドル建てでは1ドルになります。もし
この場合、1ドル=50円の円高になると、その製品の価格は2
倍の2ドルになります。
 逆に1ドル=200円の円安になると、その製品の価格は半分
の0.5ドル(50セント)になります。このことから、日本の
輸出業者の立場に立つと、手取り額を多くするためには円安を歓
迎することになります。
 それでは米国の輸入業者の立場に立ってみましょう。同じ例で
いくと、1ドル=50円の円高になると、輸入価格は1ドルから
2ドルになります。しかし、1ドル=200円の円安になると、
1ドルから0.5ドルと50セント安く買えるようになります。
したがって、米国の輸入業者も円安を望むことになります。
 この円安・ドル高のことを米国は「強いドル」と呼ぶのです。
かつてブッシュ米大統領と小泉首相による米国での共同記者会見
でともに「強いドルを歓迎する」と宣言していましたが、日本は
生産者として米国に輸出し、米国は消費者としてそれを輸入する
――そういう国際分業関係が出来上がっているのです。
 国際分業関係というと聞こえはいいですが、日本は「作る人」
であり、米国は「使う人」なのです。もっとはっきりいうと、日
本は「労働する人」、米国は「消費する人」という関係といって
よいでしょう。そう、アリとキリギリスの関係ですね。
 本来であれば、日本が洪水のように輸出し、米国がそれを受け
入れて消費する――これを繰り返していくと、変動相場制のメカ
ニズムが働いて、円高・ドル安になるはずです。
 しかし、いくら日本が輸出を拡大してもその代金をドルで受け
取り、その大半を円に交換しないため、変動相場制の調整メカニ
ズムが働かないのです。つまり、日本は非常に不正常なことをし
て、円安・ドル高を作っていることになります。
 輸出代金をドルで受け取り、その大半を円に交換しないで米国
に貸し置くと、米国はそれを経済のために有効に使えますが、日
本経済には何らプラスの効果をもたらさないのです。
 しかし、このように輸出代金がほとんど日本国内に還流されな
いと、それは日本の金融逼迫の要因になるはずですが、それをど
のようにして防いでいるのでしょうか。
 それは日銀の金融緩和政策によって防いできたのです。日本は
銀行融資を中心とする間接金融システムをとっているので、中央
銀行の金融緩和政策は浸透しやすいのです。しかし、その効果は
1995年頃までしか有効には働かなかったのです。
 ニクソンが重大発表をした1970代から80年代にかけては
米国でも経常収支の赤字は解消しなければならないという良識的
な考え方があったのです。日本はこれに賭けていたのですが、1
995年のクリントン政権下において、投資銀行ゴールドマン・
サックスのトップからルービン氏が財務長官に就任すると、事情
が一変したのです。
 ルービン財務長官は、経常収支の赤字は経済の足をひっぱるど
ころか経済成長を加速させるアクセルになる――そう読み切って
いたのです。このときから、米国の歯止めは完全に外れてしまい
日本に対して遠慮会釈なくマネー戦争を仕掛けてきたのです。
 経常収支の赤字が膨らんで、米国がどんなにドルを乱発しても
日本は円高を恐れて必ずドルを買い支える――ルービンはこう確
信していたのです。
 このときから、米国を震源地として世界中にカネ余りの現象が
発生したのです。オカネがじゃぶじゃぶの状態です。世界中の金
利が下がり、地価や住宅価格は上昇したのです。銀行はいくらで
もカネを貸してくれるので、借金して投資をする人が増加したの
です。いわゆるバブルの現象です。
 途中で政権は現ブッシュ政権になり、財務長官もオニールに代
わりましたが、米国の基本的な路線は変化しなかったのです。そ
の間に米国経済は拡大路線を突っ走ったのです。
 こういう不正常な日米経済関係――とくに日本の円安誘導政策
に警鐘を鳴らし続けた経済人がいます。速水前日銀総裁です。速
水氏は一貫して円高論を唱えており、自著のなかで次のように述
べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「円売り」は日本が信認を失うことであり、「国売り」に
 に通じる。速水優著、『強い円強い経済』/東洋経済新報社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 円を売ってドルを買う――これは日本を売って、ドル、すなわ
ち米国を支えているに等しいことであると速水氏はいっているの
です。米国は好き勝手に消費して、そのツケを日本に回すと、日
本はそれを黙々と決済している――現在の日米関係はこういって
も過言ではないのです。      ・・・[日米関係の謎14]


≪画像および関連情報≫
 ・ロバート・ルービン(Robert Edward Rubin)について
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ロバート・ルービンは米国の銀行家、財政家。1960年、
  ハーバート大学卒業。米国投資銀行大手ゴールドマン・サッ
  クスに26年間勤務。鞘取りの天才と称される。その後、ホ
  ワイトハウスで国家経済会事務局長と財務長官として6年強
  政界に身を置く。現在は世界最大の金融グループであるシテ
  イグループの経営執行委員会会長
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

1819号.jpg
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2006年04月20日

米国は日本にツケを回している(EJ1820号)

 「米国は日本にツケを回してきている」――それはロバート・
ルービンがクリントン政権の財務長官になって以来、米国は意識
してそうしています。日本は何とかそういう不利なポジションか
ら脱出しようとしていますが、どうにもならないのです。それに
話がこみいっているので、日本人のほとんどはそれに気がついて
いないのです。
 1980年代以降になると、輸出の規模は一段と拡大し、貿易
収支の黒字が10兆円台に乗ったのです。重要なことはそれまで
赤字であった投資収益がここにきて黒字基調に転じ、それが定着
してきたことです。
 これは企業でいうと、本業の儲けである営業利益の黒字が完全
に定着するとともに借金の返済が進み、支払い金利の減少による
預金の増加とその利子の受け取りが増えるという営業外収益も黒
字化したことを意味します。企業にとっては大変良い状態である
といえます。
 しかし、その反面、経常収支の黒字を減らしにくい構造になっ
てしまったのです。この経済モデルの最大の弱点は、円高圧力な
のです。したがって、為替市場で円高・ドル安局面になると、日
本の通貨当局は円売りドル買い介入を実施することになります。
 日本は円安状態にして輸出を拡大させ、さらに輸出で稼ぎ出し
たドルを米国に投資として還流し、米国の景気の拡大に寄与して
きたのです。米国の景気が向上すると、消費が伸張するので、さ
らに輸出が伸びるというわけです。
 三国陽夫氏の本は、現在の日米の関係を非常にわかりやすい表
現で説明しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 アメリカは使用無制限のクレジットカードを手にした悪妻とい
 った役どころである。悪妻はこれ幸いとばかりに浪費意欲を刺
 激され、手当たり次第に買い物に走る。人の良いのが取り柄の
 夫を演じる日本は、その代金支払いにひたすら追われるという
 構図がそこにある。悪妻と呼ばれても、妻には妻の言い分はあ
 る。夫婦間の話し合いは十分になされており、夫が妻にクレジ
 ットカードを渡している限り、好きな買い物をするだけ、とい
 うことになる。
   ――三国陽夫著『黒字亡国/対米黒字が日本経済を殺す』
                      文春新書481
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 クレジットカードで浪費する悪妻――これが現在の米国のポジ
ションです。しかし、このようにあからさまにいわれたくないと
考える米国人もいるのです。
 前FRB議長であったグリーンスパン氏がその1人です。グリ
ーンスパンはつねづね為替レートを維持するための介入――円高
を阻止するための円売り・ドル買いは長続きしないといっている
のです。彼はドルを買うぐらいなら、自国経済の発展のために使
うべきであると何回もいっているのです。
 グリーンスパン議長は、2004年6月から金利の引き上げを
実施し、2005年11月までにフェデラル・ファンド・レート
を1%〜4%まで引き上げています。しかし、これによって米国
10年国債は上昇しなかったのです。グリーンスパン議長は、F
RBとしては引き締めをしているのであって、長期金利が下がら
ない状態は「謎」といっているのです。
 しかし、グリーンスパンはすべてがわかっていて、あえてこう
いう日米の金利差のある状態を作ったのではないかと思えるので
す。なぜなら、ゼロ金利と量的緩和下の日本の銀行は無限大に貸
出しができるからです。日本の円をコストゼロで調達し、ドル資
産(10年国債)に投資する――こういう取引を行うことによって
長期金利の上昇が抑えられるからです。
 このように、円やフランなどの相対的に金利の低い通貨で資金
調達し、金利の高い通貨で運用して利ザヤを稼ぐ手法を「キャリ
ートレード」というのです。通常金利差が拡大する局面ではキャ
リートレードは増加し、縮小する局面ではその巻き戻しが発生す
ることが多いようです。これはヘッジファンドの有力な資金・運
用手法になっています。
 グリーンスパンほどの金融のプロになると、あえてヘッジファ
ンドが動きやすい環境を作って、彼らに出動させ、自国に都合の
よい状況に誘導することぐらいやるのは簡単なことであるといえ
ます。しかし、キャリートレードの最大のリスクは、日本による
円売り・ドル安の介入なのです。
 このように考えてくると、日銀の長期にわたるゼロ金利・量的
緩和は米国にとってきわめて都合のよい環境であるといってよい
のです。米国はこれを利用してさまざまな金融政策を駆使するこ
とができるからです。
 エルナンド・デ・ソートというペルーの経済学者がいます。彼
は『資本主義の謎』という著書のなかで、発展途上国の経済の分
析をしているのですが、どこの国の経済も外需依存によってある
程度まで発展するのですが、その後は例外なくなかなか成長でき
ないで苦しむと指摘しています。その理由として「内需が拡大し
ない」ことを上げています。
 問題は、内需を拡大させるにはどうするかです。それは、個人
の所有する冨――すなわち、所有するものを資本に転化できるか
どうかにかかっているというのです。英国や米国は個人の所有す
るものが資本に転化できたので、資本主義が最も進んだ国になっ
たのです。
 内需を拡大する――これは「消費主導の経済運営」を意味しま
す。現在、米国ではそういう経済運営が行われています。しかし
日本というパートナーの献身的な協力によってです。世界第2位
の経済大国がバックにいるのですから心強いものです。
 日本は依然として「外需依存の経済運営」をしており、そこか
ら抜け出せないでいます。しかも、国民の大部分はその不合理さ
に気がついていないのです。    ・・・[日米関係の謎15]


≪画像および関連情報≫
 ・グリーン・スパンの発言
  ―――――――――――――――――――――――――――
  グリーンスパンは為替レートを維持する介入は長続きしない
  と言って、人民元はフロートせざるをえないことをほのめか
  した。そして「介入するとドル資産を多額に購入することに
  より、金融システムがスムーズに機能しなくなるから、どこ
  かで介入できなくなるだろう」と言った。
  2003.7/フィナンシャル・タイムズ紙に掲載された発
  言より。
   ――三国陽夫著『黒字亡国/対米黒字が日本経済を殺す』
                      文春新書481
  ―――――――――――――――――――――――――――

1820号.jpg
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2006年04月21日

日本は消費主導国家になれるか(EJ1821号)

 「外需依存の経済運営」――日本は戦後一貫してこれによる経
済運営をとってきています。もともと日本は明治維新以来輸出立
国の方針で国づくりをしてきており、だからこそ純債権国になれ
たといえます。つまり、これは成功体験なのです。
 人は成功体験にどうしてもしがみつくものです。したがって、
日本はこれまで輸出立国の方針を守ってきています。しかし、こ
こまで検討してきたように、この方針でやって行くことが、日本
を幸せな国に導くかどうかは疑問です。
 外需依存型の経済成長モデルはこれまで日本の経済成長を支え
るエンジンだったのですが、そのエンジンをふかし過ぎた結果生
じた排気ガス――これがデフレだったのではないでしょうか。今
までのやり方をこの先続けても米国を利するだけで、日本にとっ
て何もよいことはないようにみえます。排気ガスを出すことなく
エンジンをフル回転させる方法はないものでしょうか。
 日本にとって残された方法は、今までの外需依存の経済運営を
消費主導の経済運営の経済モデルを変更させることしかないよう
です。しかし、それは簡単にできることではないのです。
 それは、生産者の収入や利益を中心に考えるのではなく、生産
物を購入する消費者の所得を中心に考えるようにする――これが
消費主導の経済運営モデルです。要するに、今までのサプライサ
イド政策からデマンドサイドへの政策に政治・行政を大きく転換
させることです。日本は明らかに過剰設備、過剰生産なのです。
あのカール・マルクスは次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   資本主義は過剰生産から、恐慌に入り、破滅に至る
                ――カール・マルクス
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「消費主導の経済運営」――そこでは生産に代って冨の消費が
社会の目指すべき目標となるのです。そのようなことが、勤勉で
一所懸命に働く精神をDNAとして持っている日本人に果たして
できることでしょうか。
 日本人の勤勉さについてある中国人は、日本人と食事をすると
せわしないといっています。日本人は1時間程度が過ぎるとそわ
そわしてくるが、中国人は2時間ぐらいは平気ですし、半日でも
食事を楽しむことができる――したがって、日本人には浪費はで
きないというのです。確かに日本人はそういうところがあると思
います。日常も食事を楽しむという文化がないのです。
 ひとつ例を上げて考えてみることにします。
 英国と米国――今までわれわれは「欧米」とか「米英」と呼ん
で、同列に扱う傾向がありましたが、両国には大きな違いがある
と思うのです。米国が合理性を追求し、新しいものを積極的に取
り入れる国であるのに対し、英国は頑なに古き時代のものを大事
に残している国であるといえます。
 自動車を最初に開発したのは英国ですが、それを発展させ、世
界市場で制覇したのは米国です。同じ自動車なのですが、英国と
米国で車に対する基本的な考え方が違うのです。
 英国では自動車は贅沢品であり、所有者は自分で車を運転する
つもりはなく、お抱えの運転手がいることが前提だったのです。
これに対して米国では、車は自分で運転するものであり、自分の
足として使うものであるとして、何とか価格を下げようとしたの
です。その結果、大量生産によってコストの引き下げに成功し、
多くの人が車を持てるようになったのです。
 初期の自動車はフロント・グリルのところに穴が開いており、
そこにクランク棒を差し込んで、回転させてエンジンを始動させ
たのです。ですから、天気の悪い日は大変だったのです。
 しかし、米国の自動車部品メーカは、すぐにエンジンをボタン
を押して始動させるセルモーターを開発します。これで運転席か
らエンジンを始動することができるようになったのです。
 早速米国の自動車メーカは英国にセルモーターを売り込んだの
ですが、当初はまるで売れなかったそうです。なぜなら、車の所
有者は自分で運転しないため、その必要性を感じなかったという
のです。文化がまるで違っていたのです。
 日本ははじめから米国に憧れ、米国の真似をしようとしてきて
いますが、伝統ある文化を持っているという点では日本は英国に
似ているところがあるのです。そういうわけで、日本で内需を拡
大していくためには、その文化に余剰生産を消費するという方向
性があると思うのです。日本独自の文化が新しい産業の発展に結
びつく可能性は十分あるのです。
 なぜなら、相撲、寿司、アニメ、カラオケなど、日本文化には
国際性、普遍性があります。それは、相撲などにおいて、横綱を
はじめとする上位力士が外国人力士で占められるいわゆる「ウィ
ンブルドン現象」――起源国、開催国が土俵とかテニスコートな
どの「場」を提供していることを見ても明らかです。日本文化に
投資して、それに賭けてみる価値は十分にあるのです。
 中国の温家宝首相がこの2月にオーストラリアを訪問したとき
中国の外貨準備高が日本を抜いて世界一になったことを誇らしげ
に語ったというニュースが報じられています。
 現在の中国の状況は、21年前の日本と酷似しているといえま
す。中国の対米輸出は急増しており、その代金をドルで受け取り
その60〜70%を米国債で運用しているのです。こういう状況
ですから、外貨準備が増えることは当然なことなのです。今後も
ますます増えていくことは確実です。
 現在中国は「管理された変動相場制」をひいています。これは
固定相場制とほとんど変わらないのです。2005年7月21日
に中国人民銀行は、「人民元の為替レートを現行1米ドル=8.
28元から8.11元に切り上げる」と発表しましたが、米国な
どは、「実勢レートは実力よりも30〜40%過小評価されてい
る」と反発し、最低でも10〜15%の切り上げを要求している
のです。日本がかつてたどった道ですが、相手は共産党一党支配
の国です。日本と違うのです。   ・・・[日米関係の謎16]


≪画像および関連情報≫
 ・温首相/外貨準備高8536億ドルと発表/世界トップ
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1日からオーストラリアを訪問している温家宝・首相は3日
  「平和発展の道を歩み世界平和と繁栄を促進する」というテ
  ーマで演説を行い、2006年2月末時点での中国の外貨準
  備高が8536億ドルだったことを発表した。中国は日本を
  抜き世界トップに立った。4日付で上海証券報が伝えた。日
  本の財務省は3月7日付で、2月末における日本の外貨準備
  高が1月末よりも16億800万ドル減少して、8500億
  5800万ドルになったと発表している。ただし専門家は、
  「外貨準備高の増加は様々なメリットがあるが、中国政府は
  人民元レートの形成メカニズムを改善し、外貨準備高の規模
  を適切なレベルに抑え、管理を強化するべきだ」との見方を
  示している。(編集担当:田村まどか)
               ――中国情報局/NEWSより
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2006年04月24日

中国の人民元を見る3つの視点(EJ1822号)

 4月20日――米国を訪問中の中国の胡錦涛国家主席はホワイ
トハウスにブッシュ大統領を訪問し、約3時間にわたって会談を
行っています。
 この会談について、22日の日本経済新聞に次のような記事が
出ています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ブッシュ大統領は今回の会談で、中国が輸出主導型から内需主
 導型の経済成長に移行し、米国製品の購入を拡大するよう求め
 ており、胡主席も中国の経済構造改革を推進する方針だ。
                 (ワシントン=小竹洋之)
       ――2006年4月22日付、日本経済新聞より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 考えてみると、このブッシュ大統領の中国に対する要求は、か
つて日本が米国からさんざんいわれてきたことであり、今でもい
われていることと同じです。つまり、経済関係では、中国は日本
と同じ道を歩んでいるようにみえます。
 胡錦涛主席の述べた中国の経済構造改革――これは内需拡大を
進め、さらなる人民元の為替制度改革を実施するという意味であ
ると米国は受け取っています。中国は2005年7月、人民元の
対ドルレートを2%切り上げていますが、2005年度の対中貿
易の赤字は2000億ドルを突破し、3年で倍増しているのに、
人民元は1%ほど上昇しただけであり、米国の不満は高まってい
るのです。
 しかし、中国は80年代に日本が米国の要求する円高を受け入
れ、日本の産業界に大きなダメージを与えたにもかかわらず、そ
れが対米貿易赤字減らしに大きく貢献しなかった経緯をよく研究
しているのです。そのため胡錦涛主席は人民元改革に関しては、
「人民元相場の安定を維持する」と繰り返し述べるだけで、大き
く一歩を踏み出そうとはしなかったのです。なかなか中国はした
たかな国です。
 今回のEJのテーマは「日米経済関係の謎」ですが、今後の人
民元の動きは、日米両国の経済関係に重要な影響を及ぼしてくる
ことは確実なので、関心を寄せる必要があります。
 日経BP社編集委員である谷口智彦氏は、中国元について考え
るとき、次の3つの数字で考えるとよいといっています。とても
興味深いのでご紹介しましょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
           1. 5年
           2.10年
           3.3億人
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 第1の数字は「5年」です。
 第1の数字の「5年」とは、具体的にいうと、2003年から
2008年までの5年です。2003年は、人民元の自由化を促
す国際的な外圧が中国に加わった年です。そして、2008年は
オリンピックの年――つまり、中国がオリンピックを開催するま
での5年間です。
 谷口氏は、もしオリンピックまでに中国が人民元を自由化しな
いと大きな混乱が起こることを指摘しています。世界中の人がオ
リンピックのために中国を訪れますが、人民元が現状のままでは
中国は世界中の中国への旅行者を敵に回し兼ねないからです。
 人民元の現状は、外人観光客は使い残しの人民元を自国に持ち
帰ることはできないのです。そのため、出国するときは人民元を
自国通貨に両替することになります。そのさい、外貨から人民元
に両替したさいの伝票現物を示すことが要求され、それがないと
両替に応じてもらえないのです。
 したがって、もし、中国の現在の規制のままオリンピックを開
催すると、出国のさいの両替に多くの時間がかかることになり、
北京国際空港の出国ロビーは両替を求める旅行者の長蛇の列がで
きることになって、中国の国際的評判を落とし兼ねないのです。
 したがって、谷口氏は2008年までに、少なくとも非居住者
――つまり、外国人保有の人民元を自由化することに踏み切るは
ずであるというのです。
 第2数字は「10年」です。
 中国が「社会主義市場経済」を正式に取り上げたのは1993
年9月に開かれた第14期中国共産党大会です。それから、10
年とちょっとが経過しているだけです。すなわち、中国は古い国
でありますが、国際的な経済秩序に参入してわずかに10年ちょ
っとしか経っていないのです。
 つまり、現在の中国は、「急に身体が大きくなった10代の若
者」であると考えるべきなのです。その中国が百戦錬磨の米国と
今後も経済を巡る交渉を続けていくことになるわけですが、そう
いう意味で通貨の問題について慎重な姿勢を見せるのは当然のこ
とであると考えるべきなのです。
 第3の数字は「3億人」です。
 3億人――これは今後10年程度の間に農村から都市に流入す
ることが見込まれる労働人口のことです。3億人という数字には
諸説があり、2億人から5億人とかなり幅があるのですが、仮に
2億人と少なめに考えても、米国の全労働人口に匹敵してしまう
数なのです。
 中国政府にとって問題とは、これら3億人の雇用を新たに都市
において作らなければならないことです。これが成功するか否か
――これは中国政権の命運を左右する難問です。
 中国政府としては、このために輸出競争力を維持する現状の為
替制度や通貨制度を可能な限り、引き伸ばそうとするはずである
と谷口氏はいっています。今回の訪米で胡錦涛主席が、人民元の
改革に関して、急激な変化は受け入れず、マイペースで改革を続
行するという表現に留めたのは、ここでいう3億人の雇用創出と
いう難問の解決があるからです。5年/10年/3億人――人民
元を見る視点です。        ・・・[日米関係の謎17]


≪画像および関連情報≫
 ・東京オリンピックにかける日本国の思い
  ―――――――――――――――――――――――――――
  各国選手団をプラカードで先導したのが防衛大学校生で、フ
  ァンファーレを奏でたのは陸上自衛隊音楽隊、蒼穹に五輪を
  描いたのは航空自衛隊浜松基地所属ブルーインパルスF86
  はジェット戦闘機で、五輪旗を入場させたのが海上自衛隊員
  という開会式は、東京五輪が1964年の日本において持っ
  た意味を見事に暗喩していた。それが内外に向け屈辱の歴史
  を埋葬し、当代の達成を慶賀する一大デモンストレーション
  であったのなら、2008年北京オリンピックが中国にとっ
  て持つ意味もまったく同様であろう。
     ――谷口智彦著、『通貨燃ゆ/円・元・ドル・ユーロ
             の同時代史』(日本経済新聞社刊)
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2006年04月25日

戦後のドイツに学ぶ必要がある(EJ1823号)

 日米経済関係の謎をテーマにして述べてきましたが、そのから
くりは見えてきたと思います。このままの状態では日本は米国の
植民地と同じであり、米国を利するばかりで日本にとって、日本
国民にとって良いことはあまりないと考えられます。
 それでは日本はどうすればいいのでしょうか。
 ひとつのヒントはドイツにある――三国陽夫氏は、日本と同じ
敗戦国であるドイツのたどった道が参考になるといっています。
ドイツはフランスと連携を組んで、ヨーロッパ統一通貨ユーロを
誕生させています。しかし、ドイツとフランスは仲が悪く、こと
あるごとに対立してきた国なのです。
 ドイツとフランスは、それぞれの政治、行政、社会において大
きな相違点があります。とくにフランスは、戦勝国としてドイツ
に対して優位な立場に立ち、ド・ゴール大統領にいたっては、ド
イツと対等の立場に置かれることを極端に嫌っていたのです。フ
ランスが核武装をしたのも、ドイツとの違いを鮮明にしたかった
というのが動機であるといわれます。
 そのような両国がなぜ手を組んだのでしょうか。それは、ニク
ソン・ショックがきっかけだったのです。
 ニクソン・ショック直後に、米国とヨーロッパ諸国との間で激
しいやりとりが行われたのです。そして、ワシントンのホテルで
10ヶ国蔵相・中央銀行総裁会議が開かれたのです。時の米財務
長官はコナリー――彼は前テキサス州知事で、ジョン・F・ケネ
ディの命を奪った凶弾を浴びたあのコナリーその人です。コナリ
ー財務長官は、非常に攻撃的な男で、黒字国に対してひたすら通
貨の「切り上げ」を迫ったのです。
 自国通貨を「切り下げる」ことと、貿易相手国の通貨を「切り
上げる」ことの経済的意味は同じですが、切り上げを迫ることは
攻撃を意味するのです。コナリー財務長官はそれをやる役者とし
ては適任だったのです。そのとき、コナリー財務長官は次のよう
に警告を発しているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ドルは米国の通貨だが、ドルを持つことによって生ずる問題に
 ついて米国は感知しない。      ――コナリー財務長官
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 つまり、自国通貨の切り上げを避けたい目的でドルを持ち、そ
れによって生ずる責任の不都合を後から文句をいわないでくれと
いっているのです。
 これに対してとくにドイツとフランスは、米国は貿易収支の不
均衡を是正する赤字国責任を果たす義務があるとして「米国こそ
ドルを切り下げるべきである」と猛烈に反発したのです。このワ
シントンでの会議は、一応「スミソニアン協定」という名の下に
合意につながってドル為替本位制がスタートしたのです。
 しかし、この会議においてドイツはドルを垂れ流す米国と距離
を置くことを決断し、同じ思惑を持っていたフランスと手を組む
ことになったのです。
 米国のコナリー長官の警告について、三国陽夫氏は面白いたと
えをひいています。三国氏は、米国の警告はタバコの箱に書いて
ある健康に対する警告「たばこの吸い過ぎはあなたの健康を害す
ることがあります」と同じものといっています。
 たばこを買う人は、危険は百も承知で買っており、そのような
警告でたばこをやめるとはない――こう考えていた米国でしたが
スミソニアン会議でのコナリー長官の発言を聞いて、ヨーロッパ
諸国は米国のドル圏とは一線を画すユーロ圏を生み出すきっかけ
になったのです。
 ドイツは第1次、第2次の2回の世界大戦に敗れたことにより
国情は乱れ、国民は疲弊の極に達していたのです。戦後ドイツは
複数の国に占領されたことから、かえって特定の国に縛られず、
組みたい相手を自由に選択できたのです。その点日本は米国一国
に占領されたことによって、米国と組む以外に選択肢はなかった
といえます。
 ドイツはフランスと手を組み、二人三脚で米国に対抗する体制
をコツコツと築いていき、自主路線の基盤を得ることになったの
です。これに対して日本は、国としてまとまって行動することが
できなかったのです。それは、独特の縦割り行政の中で、官僚機
構がそれぞれの省庁ごとに米国と個別交渉しようとし、国として
機能していなかったのです。
 一体どういうことでしょうか。三国氏の本に次のような信じら
れない話が出ています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 以前、アメリカの政府高官から聞いた話である。日本とあるテ
 ーマについて交渉していると、そのテーマに関わりのある省が
 それぞれの意向で交渉にやってくる。それらが統一されていれ
 ばいいが、バラバラのときがあり、日本という国としての意向
 がつかめず、困惑したということだった。
   ――三国陽夫著『黒字亡国/対米黒字が日本経済を殺す』
                      文春新書481
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本はそれぞれの省庁が主権を行使する「省庁連邦国」のよう
になっているという人がいます。例えば、歳出削減などを各省庁
で協議する場合、同じ国の省庁でありながらそれは国際間の外交
交渉のようになってしまうというのです。これでは、とても国と
はいえないわけで、これこそ構造改革をするべきです。
 ドイツがそうであるように、日本は近隣国家――アジア諸国と
の関係に目を向けるべきです。そして、アジア諸国のために本当
の意味で、日本として何ができるかを真剣に考えるべきです。
 たとえば、1997年のアジア通貨危機の直後に新宮澤構想と
して提案された「アジア通貨基金構想」のようなものをもう一度
提案すべきです。この提案は当時財務官であった榊原英資氏が考
案したものといわれていますが、中国と米国によって葬り去られ
ています。外交力が弱かったからです。 ・[日米関係の謎18]


≪画像および関連情報≫
 ・アジア通貨基金(AMF)について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  アジア通貨危機の再発を防ぐため1997年9月に日本政府
  によって提唱された。日本政府は、アジア各国で資金を拠出
  しあって、アジア諸国が通貨危機に陥れば、支援する機構と
  して設立を呼びかけ、積極的に資金を提供する用意があると
  提案したが、アジア通貨基金(AMF)といわれる。しかし
  IMFや米国の反対で実現しなかったのである。2000年
  5月にASEAN諸国と日中韓が締結に合意した通貨スワッ
  プ協定はAMFに近い機能を持っているといわれています。
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2006年04月26日

日本は有利なポジションを生かせ(EJ1824号)

 日本と米国の経済関係――これは明らかに異常といってよいと
いえます。そのことについて、多くの国民はその事実を正確には
知らないと思います。
 今回のEJのテーマは、昨年暮れに私が三国陽夫氏の著書を見
つけて読んだことがきっかけになって取り上げたのですが、約7
年前にも吉川元忠氏が同じ趣旨の本を同じ文春新書から出版され
ベストセラーになっているのです。そして、EJではそれを2回
にわたって取り上げています。EJの発足は、1998年10月
15日ですから、スタートしてまもなくのことです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     1998.12.24/EJ0048号
     1998.12.25/EJ0049号
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 三国陽夫氏と吉川元忠氏の本を改めてご紹介しておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  吉川元忠著 『マネー敗戦』/文春新書002
  三国陽夫著 『黒字亡国/対米黒字が日本経済を殺す』
                   /文春新書481
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この2冊の本――読み返してみると大変面白いのです。以下、
2冊の本を比較しながら話を進めることにします。
 日本もドイツも米国への輸出をテコにして経済復興を遂げた点
では一致しています。むしろ経常収支の黒字化についてはドイツ
の方が日本よりも早かったのです。そして、ドイツは1980年
代には、日本とともに多額の純債権国だったのです。
 しかし、1990年の東西ドイツ統一によって、状況が一変し
ています。旧東ドイツの経済停滞の影響をモロに受けて、ドイツ
の経常収支は約26億ドルの赤字に転落してしまうのです。19
91年のことです。それが黒字に戻ったのは、2000年になっ
てからです。10年もかかっているのです。
 しかし、ドイツは1969年にはドルに対してマルクを引き上
げるという一大決断をしています。この時点からドイツは米国と
距離を置きはじめたのです。
 ドイツがドルを買い支えることを少しずつやめていったことは
当然米国の経済に大きな影響を与えていきます。その点について
吉川元忠氏の本では、プリンストン大学教授ロバート・ギルビン
の次のコメントを取り上げています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 レーガン政権は、経済と防衛に関わる政策を2つながら成功さ
 せるために日本からの資金を利用したが、対照的にドイツとの
 関係で、経済政策さえ思うにまかせなかったのが、1979年
 のカーター政権であった。ドルを支えることに非協力的になっ
 たドイツのせいで、アメリカは、金融引き締め策を選択せざる
 を得なくなった。FRBが通貨供給量を減らし、これがカータ
 ー政権下の景気後退を招き、レーガン政権の誕生を助けた。ア
 メリカが外圧によって国内経済政策を変更した戦後はじめての
 ケースである。この政策転換は、経済の分野におけるアメリカ
 の覇権の終焉を意味していた。そしてこれ以降、アメリカは日
 本によるファイナンスを必要とするようになったのである。
      ――吉川元忠著 『マネー敗戦』/文春新書002
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 つまり、当初ドルを中心になって支えていたのは、ドイツと日
本だったのですが、ドイツが引くことによって、当時の米カータ
ー政権に甚大なるダメージを与えているのです。そして、その結
果として誕生したレーガン政権以降は、日本が中心なって米国を
支えてきているのです。
 マルクス経済学的にいうと、当時の日本は資本主義の成熟段階
に達していて、消費の停滞と資本の余剰に悩まされていた――す
なわち、国内では製品が売れず、資本の投下先がなくなっていた
ということになります。マルクス経済学では、これを資本主義の
宿命であるといっているのです。
 しかし、これは完全な誤りであり、ギルビンは、当時の自民党
政権が貯蓄の余剰を国民生活の向上に使わなかったに過ぎないと
いっているのです。そして、ギルビンは次のようにコメントを続
けています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 (日本)政府がそのために必要な国内の改革を急がなかったか
 ら、日本資本主義は資本の余剰分をふり向ける「植民地」を必
 要とするようになった。日本はこの余剰資本のはけ口をレーガ
 ノミックスを実験中のアメリカに見出した。新たな日本の「共
 栄圏」は、太平洋をまたいでレーガンのアメリカをその地と決
 めたのである。
      ――吉川元忠著 『マネー敗戦』/文春新書002
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ギルビン教授の分析は非常にわかりやすく、日本がなぜ現在の
ような経済関係を米国と結ぶに至ったのかということがよくわか
ります。とくに興味深いのは、「日本資本主義は資本の余剰分を
ふり向ける『植民地』を必要とするようになった」という部分で
す。これを読んで私は、「日本は米国のマネーの植民地にされて
いる」という受身のとらえ方の他に、「日本は米国をマネーの植
民地にしている」という主体的な考え方もあると感じたのです。
 現在、米国のドルを支えているのは、日本と中国なのです。こ
れは見方を変えると、米国の命運は日本と中国が握っているとい
えるのです。日本はこの「有利なポジション」を政治に有効に生
かすことは可能なはずです。
 しかし、米国が一番気にしているのは日本ではなく、中国なの
です。日本はコントロールが効くが、中国は米国の思うようには
ならないからです。          ・[日米関係の謎19]


≪画像および関連情報≫
 ・吉川元忠著、『マネー敗戦』/文春新書002
  ―――――――――――――――――――――――――――
  これは読んだ方がよい。題は「マネー」の敗戦ではあるが、
  日本はアメリカに戦争に負けただけではなく、マネー戦略に
  も負けている。負けている、というのではない、どちらかと
  いえば、負けることが有るべき姿である、あるいはアメリカ
  に貢献することが正しいことであると、日本の為政者は思っ
  ているようなのだ。売国奴、といえるかもしれない。なぜ、
  日本人は、アメリカには怒らないのだろうか。
  http://comrade.at.webry.info/200504/article_15.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2006年04月27日

日本発ドル高を演出したジャパン・マネー(EJ1825号)

 どうして、日本は米国のドルを買い支え、経済的にひたすら米
国に奉仕する国になってしまったのでしょうか。それには、レー
ガン政権の誕生当時のことを知る必要があります。
 1979年の夏のことです。FRB議長に就任したポール・ボ
ルカー議長は、3度にわたる公定歩合の引き上げにより、金融引
き締め政策をとっています。表向きの理由はインフレを抑制する
ためです。これによって、2桁の公定歩合と20%にも及ぶ市中
金利が出現することになります。
 レーガン政権が誕生したのは1981年です。レーガン政権は
悪の帝国ソ連を打倒する「強いアメリカ」を標榜し、同時に「強
いドル」も目標に掲げたのです。
 レーガン政権は、前カーター政権のドルの暴落を目の当たりに
見ており、通貨政策には相当慎重な配慮をもって臨んでいるので
す。ところで、レーガン政権の経済政策は「レーガノミックス」
といわれますが、これは次の2つの言葉をミックスした造語なの
です。「経済」と言葉が入っているように、その経済政策には特
色があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     Reagan + economics = Reaganomics
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 レーガンの経済政策は、減税による供給面からの経済刺激を主
張する「供給の経済学/サプライサイド経済学」に基づいている
のです。つまり、レーガン政権とは、「小さい政府」と「市場万
能」を謳い、「供給の経済学」を信奉する政権であるということ
ができます。
 レーガン政権は、1983年頃から公約である大型減税を行う
と、目に見えて消費は拡大し、輸入は激増して、景気は回復基調
に乗ったのです。しかし、小さい政府の目指す歳出削減は思うよ
うにいかず、好況による自然増収も想定よりも伸びなかったので
す。それに、輸出の伸びもいまひとつだったのです。その結果と
して、財政赤字と経常赤字は目立って拡大し、以後双子の赤字と
いわれるようになるのです。
 レーガン政権の副大統領を務めたジョージ・ブッシュ――現大
統領の父――は、就任前はレーガノミックスを「減税によって税
収を増やそうなどという経済政策は、「ブードー教のおまじない
のようなもの/呪術経済政策」と痛烈に批判していたほどだった
のです。
 ところで、レーガンが大統領に就任した時点におけるドル相場
は、1ドル=200円程度であったのですが、1984年には、
ドルは何と250円以上にまで切り上がり、文字通りの「強いド
ル」は実現しつつあったのです。
 一体これはどういうことなのでしょうか。
 日米間に貿易収支の不均衡があり、米国が巨大な貿易赤字を抱
えている場合、ドルは円に対して切り下がり、結果として日本へ
の輸出は伸び、輸入は減少するはずなのです。
 しかし、実際はそうなっていないのです。実は、1979年に
FRBが作り出した大きな対米金利差に誘われて、日本の機関投
資家がジャパン・マネーを投入してきたのです。これについて、
吉川元忠氏が次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 80年代に入って、ジャパン・マネーが米国国債の大規模な取
 得に乗り出した結果、新たに形成された日米間のマネー関係は
 基本的に貿易関係の裏返しともいえるものであった。外国民間
 人によるアメリカ国債保有は、81〜85年間に620億ドル
 も純増したが、これは西ドイツが手を引いている以上、実質的
 に日本の投資によるものと考えられる。他方、この期間の日本
 の経常黒字は、5年間の累計が約1200億ドルに及ぶ。つま
 り日本は経営黒字の約半分を、長期国債取得の形で安定的にア
 メリカに還流させていたことになる。
        吉川元忠著 『マネー敗戦』/文春新書002
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 つまり、レーガン政権前期のドル高は、米国の好況を反映した
ものではなく、日本発のドル高だったのです。ジャパン・マネー
が集中的にドル買いに走った結果のドル高だったのですが、米国
側はその事実に気がついていなかったのです。
 経済の活況化によって、米国経済のファンダメンタルズが改善
され、通貨の対外価値が強化された結果のドル高であると思い込
んでいたのです。米国のこの思い違いが、米国の経常赤字を急拡
大させてしまう原因となったのです。
 添付ファイルのグラフを見てください。
 これは、ブッシュ現政権(第1期)とほぼ重なる4年間におい
て、非居住者(外国人)の持つ米国長短国債がどれほど増えたか
を日本、中国、英国別にあらわしたものです。
 これによると、日本は非居住者保有分の米長短国債の40%を
保有しているのですが、今後中国の保有分も増加する可能性があ
り、一般的に「アジアの中央銀行がドルを支えている」といわれ
るのもまんざら的外れではないのです。
 米国の対中貿易赤字は6年連続で国別の最大を記録しており、
2005年には赤字全体の4分の1を超える2016億ドルに達
しています。かかる対中貿易赤字の拡大は、中国の出方によって
はドルの急落や長期金利高騰の引き金になる恐れもあるのです。
 また、保有する米国債なども、中国は日本と違って国益に合わ
なければ、遠慮なく売ってくる恐れもあります。中国は、日本と
違って実に厄介な国だからです。だからこそ、米国は中国と首脳
会談を開いて中国に対し、「ステークホルダー」としての役割を
果たすことを強く求めたのです。
 このようにして80年代のレーガンの米国は、マネーパワーが
弱体化し、経常収支は83年から赤字幅は急拡大するのです。そ
のためこれを埋めるための海外からの投資が盛んに行われ、米国
は資本の純輸入国になったのです。 ・・・[日米関係の謎20]


≪画像および関連情報≫
 ・レーガノミクスの光と影/稲田義久氏
  ―――――――――――――――――――――――――――
  戦後のアメリカ経済の推移を見ると、この時期は多くの点で
  最低のパフォーマンスの時期といえるでしょう。アメリカの
  世界におけるプレゼンスは1970年代には次第に低下しま
  したが、80年代に入っても、地盤低下は止まりませんでし
  た。この傾向を反転させようと試みたのがレーガン大統領の
  経済政策(レーガノミクス)でしたが、これは当初の意図に反
  してあまり成功しませんでした。1970年代から80年代
  にかけて、高インフレと高失業――したがって、高まる悲惨
  度指数、労働生産性上昇率の鈍化などに苦しみ、マクロ経済
  のパフォーマンスは地に落ちます。
  http://kccn.konan-u.ac.jp/keizai/america/04/frame.html
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ・図(グラフ)の出所
      谷口智彦著、『通貨燃ゆ/円・元・ドル・ユーロの
              同時代史』(日本経済新聞社刊)

1825号.jpg
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2006年04月28日

『アジア通貨バスケット体制』を目指せ(EJ1826号)

 1997年〜1999年にかけて金融危機がアジアを襲ったと
きのことです。既に述べたように、日本は「アジア通貨基金(A
MF)」構想を打ち出しています。国際通貨基金(IMF)――
世界銀行で足りないところを補完する機関として機能させること
が狙いの制度だったのです。安全網を二重にしておこうという当
時の財務官榊原英資氏の優れた構想でした。
 即座に反対に動いたのは、江沢民体制の北京です。日本がアジ
アの主導権を取ろうとしている。そんなことを許してはならない
というわけです。それに加えて米国も生理的に反発したというの
です。米中が反対ではひとたまりもないでしょう。それこそあっ
という間に葬り去られてしまったのです。
 谷口智彦氏の本に書いてあることですが、上海国際問題研究所
において日本研究チームを率いている呉寄南氏があとで次のよう
に潰してしまったことを悔やんだといわれています。
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 潰すべきでないプランを短慮によって潰してしまった。もった
 いないことをしてしまった。         ――呉寄南氏
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 円の国際化――日本ではよくこういう表現を使いますが、その
意味は曖昧です。霞ヶ関流の婉曲表現ですが、要するに「円圏」
――ドルを排除した経済圏ということです。アジアにおいて日本
はこれを目指すべきですが、米国や中国がそれを許すとはとても
思えないのです。
 これに関して、プリンストン大学のロバート・ギルビン教授は
覇権安定論に立って、次のようにいっています。
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 基軸通貨のような国際公共財を提供することができるのは覇権
 国であり、覇権国のみである。   ――ロバート・ギルビン
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 覇権安定論は「戦争を必要とする」ということです。歴史を振
り返ってみても、今まで基軸通貨といわれるものは英国のポンド
と米国のドルしかなく、いずれも時の覇権国です。どうしても強
制執行力がいる――というのが覇権安定論の考え方です。
 しかし、日本の貿易力と資金力は世界に比類のないものです。
アジアではもちろんのこと、米国と十分肩を並べるところまでき
ている――したがって、歴史には前例はないけれども、経済力を
もって基軸通貨をつくり、広めることは決して不可能ではないと
谷口智彦氏はいいます。
 そして、谷口氏は野村総合研究所の香港生まれのエコノミスト
関志雄氏の次の主張を紹介しています。
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 アジア諸国の景気は米国景気以上に、日本の景気と連動性を強
 めつつある。各国とも、自国通貨の対円レートを安定させるこ
 とに利益を見出すだろう。それは、円を各国が保有しようとす
 る動機を増すはずである。          ――関志雄氏
    ――谷口智彦著、『通貨燃ゆ/円・元・ドル・ユーロの
              同時代史』(日本経済新聞社刊)
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 もともと「円の国際化」への動きは、90年代以前においては
非常に盛んだったのですが、90年代に入ると、少し事情が違っ
てきたのです。北朝鮮核開発の脅威に対応するための日米軍事同
盟の強化や中国が経済大国として台頭してきたからです。それに
加えて、いわゆる「失われた10年」といわれるように、肝心の
日本自身の経済力が凋落しつつあったことです。
 しかし、円の国際化への努力は続けられているのです。日本の
金融機関が非居住者(外国人)向けに円建て口座を用意し、円建
ての融資、預金の引き受けを盛んに行っているのがその証左とい
えます。
 添付ファイルのグラフは、日銀が公開している統計をもとに、
1990年3月から四半期ごとに2004年6月までについて、
日本にある銀行が非居住者向けに実施した融資のうちの円建ての
比率(債権)と、引き受けた預金のうちの円建ての比率(債務)
の両方をあらわしたものです。
 グラフを見ると、安定しているように見えますが、残高(ドル
換算)でみると、債権の絶対額は増えているものの、預金は明ら
かに減少しています。
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          1990年3月    2004年6月
  債権(融資)  8294億ドル  1兆3961億ドル
  債務(預金)  8608億ドル    5853億ドル
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 専門家の分析によると、これは明らかに円の国際化は失敗に終
わっているというのです。本当の意味で融資が増えていれば、そ
の資金が最終的に戻ってくる場となる預金がもっと増えていなけ
ればならないからです。
 しかし、長期的に見れば、この先ドルが大きく減価してくるこ
とは避けられない情勢です。そうであるとすると、中国がドルに
対して事実上の固定制をひいている以上、アジアにおける為替リ
スクは日本円だけが負うことになり兼ねないのです。
 そうなると、再び「1ドル=70円」という水準の円高になる
可能性が高いのです。そこで提唱されているのは「アジア通貨バ
スケット構想」であり、機は熟していえると思います。
 しかし、現在の日本はとくに東アジアにおいてあまりにも多く
の問題を抱えています。通貨を動かすのは市場の諸力であるかも
知れませんが、「アジア通貨バスケット」のような通貨体制を作
るのは政治の力であり、権力なのです。
 3月31日からスタートした「日米経済関係の謎」は、今回を
もって終了します。来週からは新しいテーマに入りますが、この
ところ経済のテーマが続いたので、もう少し肩の凝らないテーマ
を取上げる予定です。       ・・・[日米関係の謎20]


≪画像および関連情報≫
 ・アジア共通通貨単位(ACU)/近藤健彦氏
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  アジア共通通貨単位とは、各国通貨間に共通の一種の物差し
  であり、通貨制度の議論で「ニュメレール」と呼ばれる尺度
  である。ドル、円、人民元を主体とするアジア通貨の分量を
  固定したバスケットからなる通貨単位ACUをこしらえれば
  市場の要請にしたがってACU建てで経営情報を開示する企
  業が現われるだろう。またACU建て債券が発行されるなど
  して、いつかはユーロのように、現実に流通する通貨へと成
  長していく。              ――近藤健彦氏
     ――谷口智彦著、『通貨燃ゆ/円・元・ドル・ユーロ
             の同時代史』(日本経済新聞社刊)
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1826号.jpg
posted by 平野 浩 at 06:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 日米経済関係の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする