2005年11月28日

内戦型の軍隊を外征型に転換(EJ1725号)

 モルトケについてもう少しお話ししたいと思います。モルトケ
の作戦というのはとにかく大作戦であって、その実行に当って味
方の意見が割れていては絶対に成功はおぼつかないのです。
 しかし、当時宰相のビスマルク、軍事大臣のローン――モルト
ケはこの2人とは何かと意見が合わなかったのです。そこでモル
トケが考え出したのが、帷幕上奏権の確立なのです。
 モルトケは、国王に意見具申を行い、国王の一声でモルトケ主
導の作戦に異論をはさませないようにしたのです。これが帷幕上
奏権の確立です。国王はモルトケを信頼しており、それを認めた
のです。これによって、モルトケは思うままに作戦を遂行できた
のです。これもプロシア軍の強さの秘密です。
 このモルトケとあまり仲がよくなかったビスマルクもクラウゼ
ヴィッツの教えを守る優れた政治家であったのです。彼は186
6年5月のオーストリアとの戦争において、モルトケ戦法で次々
とオーストリア軍を打ち破り、ウィーンに進撃したのですが、首
都ウィーンより60キロのニコルスブルグで兵を止め、オースト
リアに、無割譲、無賠償、即時講和を働きかけたのです。
 ビスマルクにはドイツ統一という政治目標があり、それに伴う
フランスとの一戦を考慮したうえでの提案であったのです。ビス
マルクとしては、あくまで政治の目的を果たすための戦争であり
その政治目的達成のための提案だったのですが、国王をはじめ、
全プロシア軍の将兵はビスマルクを批判したのです。彼らには、
あくまで戦争続行、完全勝利しかなかったからです。
 ビスマルクはこのために一時は自殺を考えるまで思い詰めるの
ですが、最終的に所期の目標を遂げたのです。そういう意味にお
いて、プロシアには宰相のビスマルクと稀代の戦略家モルトケが
いたからこそ、プロシア軍は圧倒的に強かったといえます。
 このモルトケの戦法――分散前進・包囲集中攻撃に惚れ込んだ
のは山縣有朋です。彼は当時の桂太郎からモルトケ戦法を聞いて
これを採用することに決め、川上操六に対清戦争の準備を進めさ
せたのです。山縣はそれまで内戦用の軍編成・用兵をモルトケ戦
法を取り入れて、外征用の軍編成・運用に切り換えようとしたの
です。
 日本の軍備を内戦用の軍編成から外征型に切り換える――これ
に反対した人は多かったのです。たとえロシアが南下してきても
水際で迎え撃てばよいと考える人はたくさんいたのです。
 しかし、既に述べたように山縣は国境としての主権線を守るだ
けでは不十分であり、主権線の安否に影響する利益線を確保する
必要があるという考え方を持っていたのです。そして、日本の利
益線としては朝鮮半島がそれに当るとしていたのです。結果とし
てこの考え方が日本の大陸進出につながったのです。
 国防に関するこれら二つの論議は、現在の憲法下における防衛
論議と似たところがあります。軍備はあくまで日本を攻めてきた
とき、水際で食い止めればよいとして、航続距離の長い戦闘機な
どは認められていないのです。
 また、敵陣に反撃を加える火力にしてもあくまで水際まで攻め
てきたときのことを想定して、ミサイルなどは認められていない
――しかも、あくまで相手が攻撃をしてくるまでは、こちらから
攻撃はできない――そういう装備しか、日本の自衛隊は持ってい
ないのです。ミサイル時代の現代戦では、そういう発想がいかに
ナンセンスであるか明らかです。
 本当に国土防衛に徹するなら、ミサイルはもちろんのこと、敵
陣に反撃を加えるに足る能力を持つ航空機や艦艇、場合によって
は、航空母艦も必要です。しかし、日本からは絶対に他国を侵略
しないようにすればよいのです。他国だって、下手に攻撃を加え
ると、厳しい反撃がくることがわかっていれば、それが抑止力に
なって攻撃を仕掛けることはしないはずです。
 さて、外征型への改革を急いでいた山縣有朋以下の軍部主流派
は、プロシア陸軍に即効性のある戦術の伝授を求めたのです。明
治16(1883)年に陸軍のスタッフが渡欧したとき、ドイツ
の陸軍大臣シュレンドルフ中将に対して、陸軍大学校教官の派遣
を要請したのです。
 シュレンドルフはモルトケに対して日本の要請を伝え、フォン
・デル・ゴルツ参謀大尉ではどうかと伺いを立てたのです。この
ときモルトケは、熟慮のすえシュレンドルフが推薦するゴルツで
はなく、ヤコブ・メッケルを選んでいます。
 モルトケは、日本が即効性のある戦術の伝授を望んでいること
をよく知っていて、メッケルを選んだのです。メッケルは戦略よ
りも戦術に優れたものを持っていたからです。しかし、後にゴル
ツこそモルトケの正当な後継者とみなされるようになるのです。
 明治18(1885)年、メッケルは日本の陸軍大学校に教官
として着任します。メッケルは、最初の授業で、次のようにいっ
たといわれます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 私にプロシア陸軍の1個連隊があれば、全日本陸軍を殲滅して
 みせるであろう。              ――メッケル
   ――加来耕三著、『真説/日露戦争』より。出版芸術社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このとき、学生としてメッケルの話を聞いた学生は、ついこの
間まで尊王攘夷をやっていた国の士族の子弟10人であり、後に
日本陸軍を代表する俊秀が揃っていたのです。彼らは主としてフ
ランス式の軍事教練に通じていたのです。
 彼らはメッケルの話を聞くや、ふざけるな、そんな馬鹿にこと
があるかと血相を変えたといいます。
 メッケルは少しも騒がず、「それでは、諸君の使っている『操
典』――軍隊運動の基礎教練を基に検討してみよう」と話し、講
義をはじめたのです。
 メッケルが話しはじめて約1時間ほど経つと、学生たちの顔面
は蒼白となり、真剣にメッケルの話に耳を傾けるようになったと
いうのです。          ・・・・・ [日露戦争19]


≪画像および関連情報≫
 ・ヤコブ・メッケルと陸軍大学校
  次のサイトに詳細な「陸軍大学校の沿革」がある。参照され
  たい。メッケル少佐のことも出てくる。

  http://imperialarmy.hp.infoseek.co.jp/kangun/school/rikudai.html

 ・川上操六――近代日本人の肖像より
  http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/61.html?c=0

1725号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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