2008年05月21日

●なぜ山下太郎は石油に手を出したか(EJタ第2329号)

 ドバイ産の重質油から良質のガソリンを精製する技術において
日本が優れているのは事実です。しかし、それはこれまでの日本
の石油戦略の失敗によってもたらされたものなのです。
 吉川元忠氏のベストセラーに『マネー敗戦』(文春新書)とい
う本があります。世界最大の債権国(日本)が経済危機に陥り、
その債権国に膨大な債務を負う世界最大の債務国(米国)が長期
にわたる好景気を持続する――これは明らかに日本の米国に対す
るマネー戦略の失敗であり、「第2の敗戦」である――吉川氏は
このように主張したのです。
 しかし、敗戦はマネーだけではないのです。戦後の日本は石油
戦略に関してもことごとく失敗し、「石油敗戦」というべき大失
敗をやっているのです。
 前回、アラビア石油による日の丸油田について述べましたが、
これは国策でも何でもなく、山下太郎という希代の事業家による
渾身の挑戦だったのです。
 戦後の日本には石油やエネルギーにおいて、戦略らしきものは
何もなかったのです。和光大学経済経営学部教授の岩間剛一氏に
よると、強いて戦略というべきものを上げるなら「徹底したアメ
リカ追従」だけだったというのです。
 しかし、この「徹底したアメリカ追従」はそれなりの効果を日
本にもたらしたのです。それは1バレル当たり3ドルに固定され
た安価な石油の安定供給が確保されたからです。
 三井物産や三菱商事などの日本の大手商社は、進んで欧米系メ
ジャーの下請けとして働くことに注力し、メジャーを敵に回すこ
とになるリスクの多い石油の自主開発などには手を出さなかった
のです。これが「徹底したアメリカ追従」です。
 こういう時期に石油の自主開発に着目したのが山下太郎氏なの
です。しかし、山下氏は石油に関しては知識もノウハウもなく、
まさに徒手空拳で石油の自主開発にチャレンジしたのです。それ
では山下氏はなぜ石油の開発に手を出したのでしょうか。
 それについて答えるには、当時の中東の情勢について知る必要
があります。当時中東はスエズ運河の国有化の問題をめぐって、
エジプトと英国が対立していたのです。さらにそれに加えて、イ
スラエル問題などによって、中東諸国と欧米の関係は険悪なもの
になりつつあったのです。
 山下太郎氏はこういう状況を見逃さなかったのです。というの
は、それまで中東諸国は油田の権益を欧米系のメジャーにしか与
えていなかったのですが、欧米との関係が険悪化するにつれて、
もし、希望するところがあればメジャー以外にも油田の権益を与
えてもいいと考えはじめていたからです。
 1957年〜58年にかけて山下氏は、サウジアラビアとクゥ
ェート両国の分割地帯から油田の採掘権を取得して、アラビア石
油を設立したのです。これは国策ではなく、まさしく山下氏が事
業としてこれを行ったのです。
 1960年にアラビア石油はカフジ油田を発見し、政財界から
資金を集めて油田の開発をはじめたのです。このようにして、戦
後初めての日の丸油田が誕生したのです。
 しかし、日本政府はアラビア石油の成功を一事業家によるビジ
ネスとしか考えなかったのです。そして、あくまで米国追従のメ
ジャー頼りのエネルギー戦略を続けていたのです。
 しかし、1970年代に入って、2度の石油危機が起きると、
政府の態度は一変します。日本は石油の99.7%を輸入し、そ
のうち、77.5%を中東に依存していたのですが、通常在庫の
20日分しか備蓄していなかったので、国内的に大パニックが起
こったのです。その結果、エネルギー政策に関する政府の無策が
明らかになり、国民の怒りを買ったのです。
 これに懲りて旧通産省は石油公団を設立します。そして、油田
開発プロジェクトに対して必要な資金の70%を融資し、なおか
つ返済は、開発に成功して生産に移行してからという好条件を付
けて、民間企業に石油開発を促したのです。
 その結果、日の丸油田開発は活性化し、1985年には原油輸
入量に占める自主開発原油の割合は、10.7%とはじめて10
%を突破したのです。
 しかし、OPECによる価格支配が始まり、世界的な石油の需
要が縮小したことや、世界各地で有望な油田が次々と発見された
ことなどによって、石油の価格は暴落したのです。
 さらに、1983年からニューヨーク・マーカンタイル取引所
で原油先物市場が設立され、石油は市場で価格が決まる市況商品
になっていくのですが、そういう動きに、日本はついていくこと
ができなかったのです。
 マーケットが価格を決めるようになると、当然のことながら、
需要と供給が価格に反映することになります。1980年代後半
に原油は供給過剰になっており、市場では1バレル当たり10ド
ルという値しかつかなかったのです。そして、この安値が、以後
20年も続くことになるのです。
 皮肉なことにこの価格なら、日本のような石油輸入国にとって
は願ってもない状況になったのです。しかし、そのとき日本は自
主開発油田に戦略の舵を切っていたのです。石油が安値であると
いうことはドル安ということであり、ドル安は円高を意味するの
です。したがって、高値で買った油田採掘権の借金は円高で4倍
に膨れ上がり、一方の原油は4分の1にダウンしたのです。
 こうなると、日の丸油田の価値は円高でみると20分の1に大
暴落し、石油開発会社がどんなに経営努力をしても採算割れは必
至になったのです。また、石油公団は、カナダ北極沖の「北海石
油」にも1217憶円もの資金を注ぎ込み、開発に失敗するなど
不良債権は雪だるまのように増えていったのです。
 出資・融資総額約2兆円――一方で原油価格は安値安定して輸
入には絶好のチャンス――こういう状況において日本は大きな間
違った判断を下すことになります。これについては、明日のEJ
で述べます。         ―― [石油危機を読む/40]


≪画像および関連情報≫
 ●石坂泰三と山下太郎の逸話
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  ある時、山下は「財界総理」といわれた経団連の石坂泰三会
  長会長を訪れ、この開発の重要性を切々と訴え、理解はして
  もらったものの、資金協力については「俺にはそんな金はな
  い」と拒否され、しばらく両者に沈黙の時間が経過した。粘
  る山下に、石坂は重い口を開いて、「ところで一体どのくら
  いの金が必要なのかね」。「100億円の保証です」と山下
  が答えると、石坂は表情を変えて「100億円?そんな金額
  は俺には縁がないから・・・夢物語には協力するよ」。「本
  当に100億円の保証をお願いできるのですか?有難うござ
  います」。ここから山下太郎の獅子奮迅の働きが始まる。
       http://blog.canpan.info/sasakawa/archive/1200
  ―――――――――――――――――――――――――――

山下太郎氏.jpg
posted by 平野 浩 at 04:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 石油危機を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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