したのです。ロシアの大物の来日です。時期が時期であり、人物
が人物です。日本から見れば、日露和解のための使者と考えても
不思議はないのです。
しかし、クロパトキン大将の訪日は事前に予定が組まれていた
のです。しかし、クロパトキンは4月末にペテルブルグを出発し
ながら、わざとゆっくりと満州、遼東半島、沿海州などを査察し
なかなか日本に近寄ろうとはしなかったのです。
クロパトキンは、ニコライ二世からの指示を待っていたのだと
いわれています。その皇帝からの指示は、クロパトキンが日本に
到着する直前に届いたのです。
皇帝からクロパトキン大将に届いた指示は次のようなものだっ
といわれています。
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1.ロシアに対して配慮を払う条件において、日本は今後極東
諸国の中で枢要の地位を占めることを強調すること。
2.日本は英国と組んで武器を振り回わしてロシアを威嚇する
ようなことをすればそれは逆効果を生むということ。
3.ロシアが極東方面でとった一連の行動は、他国のためでも
あって正当性のあるものであることを強調すること。
4.日本における諸会談では、たとえ日本から話を向けられて
も朝鮮半島についてコメントすることは控えること。
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クロパトキンとしては、なるべく戦争は避けたいと考えており
そのためには日本が最大の関心を持っている朝鮮半島の扱いにつ
いて討議したかったのですが、これを皇帝から封じられてしまっ
たので、積極的な発言ができなくなってしまったのです。
皇帝の指示はともかくとして、日本政府としては、この時期に
クロパトキンが日本に来る狙いは、日本が本当に戦争を準備して
いるかどうかを探ることにあると考えていたのです。
これに対して日本政府は、戦争の準備なんかしていないふりを
することにして、クロパトキンが会いたい人物、行きたい場所は
すべてを見せる方針でクロパトキンに接したのです。
これはクロパトキンが後日に語ったことですが、近衛師団長の
長谷川好道中将と後に第一軍を率いることになる黒木為訛臂Cヒ
はすさまじい威圧感を覚えたことから、日本はロシアとの戦争も
辞さないと考えていることを悟ったというのです。
そのため、桂太郎首相との会談において、クロパトキンは次の
ようにいったといわれます。
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私個人としてはあくまで戦争を望むものではありませんが、も
し、日本がわが帝国に挑戦してくれば、われらは300万人の
ロシア常備軍を出動させ、東京を占拠してお目にかける。
――アレクセイ・ニコライヴィッチ・クロパトキン
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クロパトキンの接待には村田淳少将が当ったのですが、村田少
将は、クロパトキンとの雑談を通して、日本はロシアとの戦争は
やりたくないと考えているが、国内には戦争も辞さずという考え
方が根強くあることを率直に伝えたといっています。
既に述べたように、クロパトキン陸相は、ウィッテ蔵相、ラム
ズドルフ外相の3人は対日妥協派として知られていますが、皇帝
の寵臣ペゾブラゾフは、アレクセーエフ海軍大将をはじめとして
極東外交に関わる次の人物をすべて押さえていたのです。驚くべ
き政治力といえます。
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レッサー駐清ロシア公使
パブロフ駐韓ロシア公使
チチャーコフ・ハルピン中将/駐屯軍司令官
マドリトフ中佐/鴨緑江木材の現地指揮官
ウォーガタル少将/駐日公使官付武官
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彼らは対日妥協派の3人の失策をつねに画策しており、極東政
策の主導権を獲ろうと皇帝に働きかけていたのです。
さて、日本側は、クロパトキンがまだ日本に滞在している6月
23日に御前会議を開いています。そして、日本としては韓国に
おける優勢地位については譲らず、満州についてはロシアに、鉄
道経営の利権のみ擁護を認めるという方針を決めています。そし
て、それをそれとなくクロパトキンにメッセージとして伝えたの
です。クロパトキンが離日したのは6月28日のことです。
日本の基本的な考え方を理解したとみられるクロパトキンは、
日本を離れるとすぐ日露和解に向けて行動を開始したのです。そ
の結果開催されたのが旅順会議です。
1903年7月1日から10日まで、ロシアは皇帝の命により
旅順において、クロパトキンをはじめとして、アレクセーエフ、
ベゾブラゾフ、北京駐在公使、東京駐在公使などの実力者を集め
てロシアの極東政策について会議を行ったのです。
この旅順会議においては、満州におけるロシアの権益と鴨緑江
の事業が中心に討議されたのですが、終始クロパトキンが主導権
をとっていたのです。
クロパトキンは、鴨緑江の事業については、日本の対露認識に
悪い影響を与えているので、事業の中身を縮小し、満州と遼東半
島の権益を守るべきであると説いたのです。これに対して、ペゾ
ブラゾフは、日本は満州も朝鮮半島も狙っているので、鴨緑江沿
岸だけ譲っても意味がないとして、正面から反対したのです。
結局、アレクセーエフがどちらにつくかに注目が集まったので
すが、このとき彼はクロパトキン側の意見に賛成したのです。な
ぜなら、アレクセーエフはかねてより遼東半島を中心とする満州
の権益を重視していたことと、この時点でベゾブラゾフに対して
不信感を抱いていたからです。しかし、ニコライ二世の考え方は
少し違っていたようです。 ・・・・・・・・ [日露戦争15]
≪画像および関連情報≫
・アレクセイ・ニコライヴィッチ・クロパトキンについて
クロパトキンは日露戦争の前年(!)、陸軍大臣として来日
している。極東視察の一環という名目だ。日本側は、儀礼的
な笑顔の奥で相当に身構えながらこれを迎えたわけだが、ご
当人はかなり物見遊山だったようで、みやげ物をごっそり買
い込んでいる。東京で純銀製花瓶、置物、指輪、かんざし、
腕輪、財布、煙草入れなど六十余点三千五百余円、京都で象
牙細工三百余円、ビロード額地、絹織物四百余円、扇子数百
本といった具合だ。彼はのち、ロシア陸軍の総大将として、
日本軍に勝利をごっそりプレゼントしてくれる。実に気前の
いい人物ではあるようだ。
――http://www.c20.jp/p/kuropa_a.html
