「サハリン2」は、自分のエネルギー戦略の基本原理をやがて侵
犯する――と。しかし、そうかといって、サハリン・エナジー社
を構成する外資系3社のロイヤル・ダッチシェル、三井物産、三
菱商事を直ちに締め出すのは得策ではないと考えたのです。
なぜなら、当時のロシアには、サハリン2のプロジェクトを単
独で継続運営していくのは困難だったからです。世界一流の技術
に経営ノウハウ、販売ルートの開拓など、ロシアのガス独占企業
体ガスプロムが単独でやっていくのは容易ではなく、そんな力は
なかったのです。とくに液化天然ガス――LNGについてはガス
プロムは知識とノウハウを完全に欠いていたのです。
ここは時間を稼ぐ必要がある――その間にガスプロムが力をつ
けることが得策であるとプーチン大統領は考えたのです。最終目
的はサハリン2の株主としてガスプロムが入ることであり、しか
も英蘭日3社の株式の合計を1株でもいいからガスプロムが上回
ることである――これがプーチン大統領の狙いだったのです。問
題はどのタイミングでそれをやるかです。
クレムリンにとってその絶好の機会が訪れたのです。それは、
サハリン・エナジー社が計画の変更を理由として事業費倍増をロ
シア側に申し入れしてきたことです。実はサハリン・エナジー社
がそうせざるを得ないように仕向けたのは、プーチンサイドの仕
掛けだったのです。
なぜサハリン・エナジー社が、計画の変更をしなければならな
かったかというと、ロシア環境保護団体が「サハリン2プロジェ
クトは環境破壊を冒している」として抗議の申し入れをしてきた
からです。
具体的には、次の2つの環境破壊が深刻であるというのです。
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1.沖合い油田・天然ガス田からサハリン陸上に輸送する海底
パイプラインがコクジラの餌場を通過していること
2.河川にも影響がある。サケが産卵期に遡上してくるため、
パイプラインの建設はサケの遡上通行の妨げになる
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最大の問題は、こうした環境保護団体の抗議に対してロシア政
府が後押ししたことです。ロシア政府のその措置がいかに突然の
変身であったかについて、既出の木村汎氏は自著において次のよ
うに述べています。
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「モスクワ・ニューズ」(2006年11月3日)紙上のナタリ
ア・アリヤクリンスカヤ女史の記事は、まさにロシアにおける
環境保護団体たちのこのような反応を伝えている。環境問題に
対するロシア政府の関心の増大それ自体は結構で大歓迎する。
だがその一方、その背後事由にかんして何か胡散臭いものを感
じる。(中略)というのも、ロシア政府は、次のような実績の持
ち主だからである。「長年のあいだ環境論者たちの助けを求め
る叫びを無視して、サハリンの環境に対して致命的な損害を与
えるパイプライン建設者にフリーハンドをあたえてきた」。と
ころが今や、ロシア政府は「突如として」「コクジラについて
語り」、サハリンの「環境保護が第一」と声高に主張しはじめ
た、と。 ――木村汎著、『プーチンのエネルギー戦略』より
北星堂刊
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結局のところサハリン・エナジー社としては、コクジラの餌場
を避けてパイプラインのルートを変更したり、サケの産卵期には
工事を中止することなどのコスト上昇に加えて、中国などの急激
な経済成長に伴い、原油や鋼材をはじめ世界的に資源や資材の価
格が高騰したことによって、事業費の倍増をロシア側に伝えざる
を得なかったのです。
サハリン・エナジー社がロシア側に対して事業費倍増の申し入
れを行ったのは2005年9月のことですが、そのときシェルと
ガスプロムの間ではある取引の話が進行しており、その話がほと
んどまとまりかけていたのです。シェルとしてはガスプロムをサ
ハリン・エナジー社に何らかのかたちで参加させざるを得ないと
感じていたものと思われます。
その取引の話とは、ガスプロムに対してサハリン・エナジー社
の一部株式を交換するスワッピング取引のことです。シェルはサ
ハリン・エナジー社の株式を25プラス1%提供する代わりに、
ガスプロムが西シベリアのガス田「ザポリアルノエ・ネオコム」
プロジェクトの権益の半分を取得するというものです。この交換
契約は、2005年7月にその覚え書きの調印まで行われている
のです。
ところが、2005年9月にサハリン・エナジー社が事業費倍
増を申し入れると、ガスプロムはまるでトリックにかけられ、騙
されたように激怒し、交換取引のキャンセルを表明したのです。
今後の交渉においてロシア側を有利にするための一連の陰謀とも
とれる行為であったといえます。
ところで、これに関して、サハリン・エナジー社における日本
側の立場はどうなっていたのでしょうか。既に述べたように、日
本側としては、三井物産と三菱商事で45%の株式を握っている
のに常日頃から世界第2位のメジャーとしてのロイヤル・ダッチ
シェルの発言権に振り回され、何ら主導的立場が取れているとは
いえなかったのです。
2006年9月に入ると、突如クレムリンによるサハリン・エ
ナジー社への攻撃は一段と激しさを増してきます。サハリン・エ
ナジー社が事業費倍増をロシア側に提案してからちょうど一年後
です。なぜ、あのしぶといロシアが一年待ったかですが、それは
2006年7月にロシアがはじめて主宰した主要国――G8――
首脳会議があったからではないかと思われます。
それまでは、サハリン2はほとんど機能停止状態に陥っていた
のです。 ―― [石油危機を読む/30]
≪画像および関連情報≫
●佐藤優氏によるロシア事情
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プーチン政権が立て続けに日本に対してシグナルを送ってい
るが、アンテナが鈍くなった外務官僚にはそれがきちんと読
み取れていないようである。情報収集を強化し、日本政府か
らきちんとシグナルを打ち返さないと、近未来に政治、経済
の両面で日本の国益を毀損する事態が生じると筆者は危惧す
る。 http://web.chokugen.jp/sato/
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