州に進出し、そのまま駐留するにはそれなりの理由が必要です。
一番よく使われた理由が「鉄道権益の保護」なのです。鉄道が破
壊され、鉄道員が殺傷されたりすると、それを理由に出兵し、清
国が鉄道破壊に対する賠償が終わるまで居座るのです。
ですから、1900年のアムール河事件は、軍需品を満載して
黒龍江(ロシア名:アムール河)を航行中のロシアの船舶に対し
て清国が砲撃してきたのですから、ロシアとしては軍隊を出すこ
れほど正当な理由はなかったのです。
しかし、このときはブラゴヴェシチェンスク在留の清国人を5
千人虐殺したということで、ロシアの暴虐性が世界中で非難のマ
トになったのです。
日本では1900年はまだ19世紀ということになるのでしょ
うが、20世紀は「虐殺の世紀」ともいわれるのです。このアム
ール河の流血は、その後のナチスのホロコースト、カンボジアの
ポル・ポト政権による虐殺などの幕開けに位置づけられる痛まし
い事件だったのです。
詩人の土井晩翠は、このアムール河の流血について「黒龍江上
の悲劇」という詩を書いて次のように歌っています。
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記せよ――西暦一千九百年、なんじの水は墓なりき、五千の生
命罪なくて、ここに幽冥の鬼となりぬ ――土井晩翠
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さらに1901年になって、旧制第一高等学校東寮の第11回
記念寮歌として作られたのが、『アムール河の流血や』です。塩
田環作詞・栗林宇一作曲です。一番だけを記述しておきますが、
添付ファイルでも紹介します。
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アムール河の流血や
凍りて恨み結びけん
20世紀の東洋は
怪雲空にはびこりつ
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『アムール河の流血や』のメロディはご存知ですか。
この歌はその後いろいろな替え歌として歌われたのですが、一
番有名なのがメーデーの歌として知られる「聞け万国の労働者」
――聞け万国の労働者 轟き渡るメーデーの 示威者に起こる足
どりと 未来を告げる鬨の声――というあの歌のメロディが『ア
ムール河の流血や』なのです。
アムール河でロシアの船舶が清国兵から発砲されると、ロシア
軍の作戦行動は瞬く間に拡大し、1900年8月にはチチハルを
占領、9月後半には満州中部の多くの都市を支配下に置きます。
さらに10月初頭には瀋陽までロシア軍は占領するのです。
ちょうどこのとき、連合軍――ロシア以外の7ヶ国は北清事変
の後始末をしていたのですが、清国側と協議するうえで、ロシア
のこの軍事行動をどう扱うべきかについて検討したのです。
ロシアとしては他の国と違って清国と長い国境で接しており、
しかも、満州で大規模な鉄道工事を行う権利を有しているので、
特別な処遇を受けるべきであると主張したのです。また、清国政
府は現在政府の体をなしておらず、治安確保のためにも軍を駐留
させざるを得ないと主張し、そのまま満州に居座ったのです。
1901年に清国は連合各国に対し、莫大なる賠償金を支払う
条件で講話は成立します。日本を含む各国は、講話が成立すると
速やかに軍隊を引き揚げたのですが、ロシアだけは軍の駐留を続
け、満州全域を占領し続けたのです。
この事態が続くと満州は事実上ロシアのものになり、日本は満
州への進出の機会が完全に閉ざされてしまうだけでなく、ロシア
が朝鮮半島に進出してくることは確実視されていたのです。
実際問題としてロシアはそのように考えていたのです。ウィッ
テはもちろん反対したのですが、その頃から極東のことに関する
限り、ウィッテの発言力は弱まっていたのです。その時点でニコ
ライ二世の判断に影響を与えていたのが、ペゾブラゾフという退
役の騎兵大尉なのです。
『坂の上の雲』にペゾブラゾフの考え方が次のように出ていま
す。ウィッテは、ペゾブラゾフこそ日露戦争の原因を作った男と
非難しています。
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満州と遼東を占領しただけで朝鮮を残しておいてはなにもなら
ない。朝鮮は日本が懸命にその勢力下に置こうとしており、将
来日本はこの半島を足がかりとして、北進の気勢を示すであろ
う。その日本の野心をあらかじめ砕くには、いちはやく朝鮮を
とってしまうほかない。 ――ペゾブラゾフ
――司馬遼太郎著、『坂の上の雲』第2巻より。文藝春秋刊
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ペゾブラゾフ――彼は巧みにニコライ二世に取り入っていたの
です。このような人物は帝国主義的膨張期にはどこの国にも必ず
いる右翼の大立者ともいうべき人です。しかし、状況判断力に優
れ、弁舌が立つことによって皇帝のお気に入りだったのです。
それにニコライ二世は、いわば歴史的虚栄家であって、歴史的
偉業になるものにはすぐ手を出す人物です。このときもペゾブラ
ゾフが提案した朝鮮に国策会社を設立する――こういう構想に飛
びついたのです。
この国策会社によって、あらゆる事業――産業、都市建設、鉄
道・港湾建設などにロシア資本を投入し、朝鮮人の心を掴んで、
他日機会を掴んで一挙に日本を朝鮮から駆逐するという構想であ
り、実際に「東亜工業会社」の名前で1901年に設立されたの
です。つまり、満州は軍が取る、朝鮮は東亜工業会社が取る――
この戦略に日本はどんどん追い詰められていくことになります。
しかし、ロシアは経済・財政的に朝鮮半島に巨額の資金を投入
することなどできなかったのです。・・・・・ [日露戦争12]
≪画像および関連情報≫
・関連話題
義和団の乱の第一報が届いた時、ロシア陸相クロパトキンは
笑みを浮かべて「満州を占領する口実ができた。満州を第二
のブハラ(1868年に征服した中央アジア)にするつもり
だ」とウィッテ蔵相に豪語し、さらに皇帝ニコライ二世は、
満州を占領後は更に朝鮮も占領することを欲しており、ロシ
アの侵略的野心は止むことはなかった。かくして北清事変後
に乗じてロシアは虎視眈々としていた満州を軍事占領、その
矛先は朝鮮に及び、極東の緊張は高まっていったのである。
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