ずしも乗り気でなかったにもかかわらず、フランスとドイツに働
きかけ、遼東半島の返還を日本に要求したのです。
これは日本の「強さ」に着眼した戦略なのです。つまり、日清
戦争における日本の勝利は、清国が弱かったのではなく、日本が
強かったためであると考えていたのです。だからこそ、もし、日
本に遼東半島を与えると、満州とモンゴルへの日本の膨張の端緒
となり、やがてロシアを脅かす勢力となる――ウィッテはこのよ
うに分析していたのです。
司馬遼太郎は『坂の上の雲』
ように述べています。
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ウィッテは大蔵大臣であったが、閣僚中の実力者として外交
問題に強い発言権をもっていた。このウィッテの終始かわらな
かった考え方は、極東においてはなるべく日本との衝突を避け
るというところにあった。要するに日露戦争を回避するという
ことであり、こういう考え方は、この時期のロシアの大官にお
いてはきわめてめずらしい。
むろん、ウィッテは平和主義者ではない。修道院的平和主義
者が、この時代の本来血なまぐさい大国の大官がつとまるはず
がない。(中略) (彼は)「日本との戦争はロシアになんの
利益ももたらさないばかりか、害のみである」という考え方を
とっている。
――司馬遼太郎著『坂の上の雲』第2巻
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既に述べたように、ロシアはドイツとフランスを巻き込んで三
国干渉で遼東半島を日本から清国に返還させています。1895
年5月のことです。これによって清国はロシアに感謝し、満州を
横切る鉄道の敷設権をロシアに与えています。相手に感謝させて
一番欲しいものを得る――ここまではウィッテの巧妙な戦略がも
のをいったのです。
しかし、1897年12月にロシアは遼東半島を占領してしま
います。ドイツが清国から膠州湾を租借したというそれだけの理
由からです。これを決める御前会議においてウィッテは、これに
猛烈に反対します。1897年11月のことです。
『坂の上の雲』
おきます。御前会議でのウィッテの発言です。
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それは清国への背信行為ではないか。露清条約(カシニー条
約のこと)はどうなるのか。(中略)
シナはロシアを疑惑する。それによってわが国の極東発展に
大いなる障害をまねくであろう。眼前の一片の土地のほしさに
百年の国益をうしなってはならぬ。
――司馬遼太郎著、『坂の上の雲』第2巻
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この御前会議においてウィッテは、清国の現状維持を図り、友
好関係を維持することが、ロシアの国益になることを説いている
のです。そして、満州において権益を拡大しようとすることは国
際的に反発を招くので、すべきではないとニコライ二世に忠告し
たのです。また、同席していた海軍提督も旅順は海軍基地として
立地上問題があるとして遼東半島の占領に反対したのです。
しかし、ニコライ二世は、満州において権益を拡大したいとい
う膨張主義にとらわれており、聞く耳を持たなかったのです。外
務大臣ムラヴィヨフは、ニコライ二世がつね日頃から、いつも自
信満々に振る舞う態度の大きいウィッテに不快感を抱いているこ
とを知っていたので、その席ではニコライ二世を支持して旅順の
獲得を提案しているのです。まさに「偉大なるイエスマン」その
ものです。
このような経過で、ロシアによる遼東半島の占領は、ニコライ
二世が了承して実行されたのです。しかし、これによって、ロシ
アは当事国である清国はもとより、日本までを敵にまわしてしま
うことになります。
日本から見ると、これによってロシアは旅順に軍港と要塞を築
き、東清鉄道(ハルピン〜大連間)を建設するとともに、ロシア
がすでに朝鮮半島において獲得していた地位を強化し拡大してく
るように思えたのです。これを一番心配していたのは山縣です。
しかし、ロシアはこのとき、乏しい財源の中から多大なる資金
を捻出して軍港建設費や鉄道敷設費をまかなわざるを得ず、とて
も朝鮮半島までは手がまわらなかったのです。そこで、駐韓ロシ
ア公使のパヴロフは、日韓共同支配を強化する協定の締結を提案
してきたのです。ロシアとしては、この協定以外に日本の朝鮮半
島に対する独占支配を抑える方法はなかったからです。
このあと義和団事件が起こります。ロシアは連合軍に4000
人しか兵を出しませんでしたが、旅順に2万人の兵を温存してい
たのです。結果的にこの兵が満州に出て行くことになるのです。
一方の日本も、西欧列強の要請により、1万人の兵を満州に出
しています。実は2万人出せる状況にあったのですが、それを嫌
うロシアに配慮して1万人に削減したのです。それでは、ロシア
は何を理由にして満州に兵を出したかです。
ロシアとしては、いくらでも理由はあったのです。1900年
6月頃から、東清鉄道の建設でロシア人に不満を持っていた住民
は建設中の鉄道の破壊やロシア人の退去を要求するデモを起こし
ています。そして、この動きの背後には清朝や省レベルでの支配
層が加担していたことがわかっていたのです。
さらに不幸な出来事が起こります。1900年7月15日――
アムール河でロシアの汽船が突然清国兵の発砲を受けたのです。
さらにこれは、アムール河の岸辺の街ブラゴヴェンチェンスクに
対して、対岸の清国領から砲撃が加わるという事態に発展するの
です。ロシア軍はすぐに反撃を開始し、ブラゴヴェンチェンスク
で多数の清国人を殺害したのです。 ・・・・ [日露戦争11]
≪画像および関連情報≫
・アムール河の流血
北清事変最中である明治33年6月1日、清国兵がロシア領
ブラゴエシチェンスクを襲撃したことに端を発して、ロシア
は同地の清国人を捕縛の上、老若男女5000人あまりを黒
竜江(アムール河)にて虐殺した。この惨劇は清国人のみな
らず多くの日本人に義憤を巻き起こし、ロシアの非人道的行
為を糾弾する声が高まった。さらにロシアは東清鉄道の防衛
を口実にして大軍を送り込み、満州全土を占領した。ついで
明治33年11月、極東総督アレキシーフは清国に迫りロシ
アに有利な密約を結び、さらに翌明治34年には列国の反対
にもかかわらず第2の露清条約を結ぼうとしたが、これは、
日英両国の反対によってロシアは要求を撤回するにいたった
のである。
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