2001年04月23日

孤高の創作家/シノーポリ指揮台で死す(EJ602号)

 20日夜のこと。ご承知のように、ドイツ・ザクセン州立のド
レスデン歌劇場管弦楽団の首席指揮者であるジュゼッペ・シノー
ポリ氏が急死というニュースが飛び込んできました。
 オペラの指揮者として、とくにヴェルディやプッチーニのオペ
ラの指揮者として、期待していただけに大変残念なことです。今
朝は、指揮者シノーポリをテーマとして取り上げます。
 シノーポリ氏は、ベルリンのベルリンドイツ・オペラでヴェル
ディ作曲の歌劇「アイーダ」を指揮中に心臓発作で倒れ、死亡し
たのです。詳しい状況を説明しましょう。
 20日の夜の演奏会は、昨年12月に死去したドイツ・オペラ
総監督ゲッツ・フリードリヒ氏を悼む、シノーポリ氏にとって約
10年ぶりのベルリン公演だったのです。
 シノーポリ氏は、歌劇「アイーダ」の第3幕の中ほどで指揮中
心臓発作に襲われて意識不明になり、指揮台で崩れ落ちたという
のです。この夜の舞台をたまたま見ていた音楽評論家・城所孝吉
氏によると、オーケストラピットでガタガタと音がして急に演奏
がストップしたそうです。
 出演者は当惑した顔で舞台の袖に引き下がり、聴衆はいったん
係員にロビーに誘導されたあとで、劇場側から公演中止が告げら
れたといいます。劇場専属の医師や観劇していた数人の医師が急
遽シノーポリ氏に蘇生術を施しましたが、そのまま息を引き取っ
てしまったそうです。享年54歳でした。
 シノーポリ氏は、1946年ヴェネチア生まれ。精神医学と人
類学の博士号を持つ幅広い教養を身につけた異色の指揮者であり
それが彼の音楽によく反映されているのです。聴衆の精神を内奥
まで震撼させるコンサート指揮者として絶大な賛辞を集め続けた
エキセントリックな存在であったといえます。
 シノーポリ氏が本格的な指揮活動に入ったのは、1975年/
29歳のことで、師マデルナ追悼に結成された「ブルーノ・マデ
ルナ・アンサンブル」を振り、現代音楽を中心に演奏活動を続け
たのです。1978年にフェニーチェ歌劇で「アイーダ」を振っ
て成功を収めたのを契機に、以後立て続けにヴェルディのオペラ
を振るのです。「マクベス」、「アッティラ」、「リゴレット」
「ルイザ・ミラー」、「シモン・ボッカネグラ」――すべてヴェ
ルディです。
 シノーポリという人は、ある意味で徹底しているのです。ヴェ
ルディをやるとなると、あらゆる作品を取り上げていこうとする
のです。しかも、録音などで最初に取り上げるのは、ヴェルディ
では、「マクベス」とか「アッティラ」とか「ナブッコ」といっ
た初期の作品、または比較的マイナーな作品から着手しているの
です。これはプッチーニのオペラでも「西部の娘」からはじめて
いることで共通しています。やはり、精神分析医としてのアプロ
ーチではないかと思います。
 要するに、あまり先入観に毒されていない作品、解剖しやすい
作品に対して、鋭くしかも奔放に、そして深く心理のメスを入れ
独特な説得力を持った作品に仕上げるのです。
 シノーポリ氏は1981年には、自作オペラ「ルー・サロメ」
を発表すると、ドイツでプッチーニの「西部の娘」を皮切りに徹
底的にプッチーニを手がけるのです。
 1983年には、コヴェント・ガーデンにおける「マノンレス
コー」、1985年には「トスカ」によってメトロポリタンデビ
ューを果たし、ちょうどその頃、ワーグナーの歌劇「タンホイザ
ー」でバイロイト音楽祭にも登場し、一方でマーラーの交響曲も
手がけるという、80年代のシノーポリ氏はまさに飛ぶ鳥を落と
す勢いだったのです。
 しかし、90年代に入るとシノポーリ氏の人気に少しかげりが
見えるようになります。それは、彼の独特な音楽観というか解釈
というか、そういうものについていけない聴衆が、目立つように
なったからでしょうか。
 例えば、プッチーニの「トスカ」とか「蝶々夫人」などの定番
オペラでも慣習的なアプローチをいっさいとらず、独特のこだわ
りを見せるのです。ある意味では聴衆に迎合せず、独自の解釈を
貫くのです。そういう解釈や演奏法をめぐってオーケストラの楽
員ともぶつかることも少なくないというのです。
 音楽評論家の宮崎滋氏は、シノーポリの独自性を次のように表
現しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『何らかの強いこだわりと頑強な拒否の姿勢がにじみ出ている
 のである。スコアへの視線、楽曲構造の解釈、内声部のとらえ
方など独自な解剖学的な分析力が働いている』。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 確かにシノーポリ氏の指揮は、そういうところがあるのは確か
であり、そのため「孤高の創作家」などと呼ばれるのですが、こ
れが成功している作品も多くあるのです。
 そのシノーポリらしさが発揮されて成功している作品のひとつ
に、ワーグナーの歌劇『タンホイザー』(全曲盤)(G POCG3496
〜8) があるのです。この作品などは、歌手陣の充実ぶりと相ま
って、かつてない戦慄が襲ってくるほどの快演といえるのです。
 しかし、そういう作品はあるものの、シノポーリ氏の慣習的ア
プローチの拒否と頑固さ、それに対して古色蒼然たるドレスデン
・シュターツカペレというオケとの相性の悪さ、そういうことも
あって、このところシノーポリ氏にとって、あまりパッとしない
数年が続いていたといえます。
 シノーポリ氏は絶頂期の1986年に初來日、大阪国際フェス
ティバルに出演、以後何回も來日して多くのCDを発表していま
す。2000年10月には、ウィーン国立歌劇場の日本公演の指
揮者としても來日しているのです。
 22日の朝日新聞の「天声人語」では、日本の東洋文化への関
心が高く、外国旅行に行くときは市場とお墓を見に行くのが趣味
と伝えています。大変貴重な指揮者を亡くしたものです。

602号.jpg
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(1) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
シノーポリのキャリア初期のプッチーニといえば、マノンレスコーがすぐに思い浮かびます。
私は、長年のシノーポリファンですが、最初にとりあたプッチーニが西部の娘とは知りませんでした。
録音や映像が残されていれば、とても嬉しいのですが。
Posted by れいにゃ at 2015年07月05日 05:13
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック