して行う産業ですが、それを最初に行ったのは米国であることは
既に述べた通りです。
しかし、初期の頃は、探鉱・採掘・精製のいずれも技術レベル
が低いこともあって、原油価格はかなり大きな幅で変動していた
のです。ちなみに当時の石油は、ランプをともす灯油として使わ
れていたのです。
石油の将来性に目を向けたのは、ジョン・D・ロックフェラー
です。当時は石油業者が乱立して価格競争をやっていて、事業と
して収益が見込めない状況だったのです。
そこで、ロックフェラーはスタンダード・オイル社を設立し、
それを中心として、競争を排除するために買収や密約などのかな
り荒っぽい手法を駆使して、米国の石油産業の独占化を進めたの
です。そして独占状態を利用して価格をつり上げ、巨大な利益を
上げはじめたのです。1880年代のことです。
しかし、ロックフェラーのこういうやり方は世間の非難を浴び
司法の判断に委ねられることになったのです。そして1911年
にロックフェラーの支配するスタンダード・オイル社に対して米
最高裁は解散を命じます。その結果、スタンダード・オイル社は
34社に分割されることになったのです。
これら分割されてできた34社のうち、次の2社が頭角をあら
わし、後のエクソンとモービルになるのです。そして、1999
年には両社は合併し、エクソン・モービル社となったのです。
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ニュージャージー・スタンダード・オイル → エクソン
ニューヨーク・スタンダード・オイル → モービル
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こういう米国の石油資本に対抗する勢力もあらわれてきたので
す。ロシアのバクー油田の開発で成功を収めつつあったダイナマ
イトの発明者であるノーベルとロスチャイルド家のアルフォンス
男爵が組んで、石油会社シェルを立ち上げます。現在のロイヤル
・ダッチ・シェルの前身です。
1895年当時においては、このように米国産原油とロシア産
原油が次のように拮抗していたのです。このときはまだ中東では
原油は発見されていなかったのです。1901年になると、ロシ
アは世界の石油の半分以上を生産するようになります。
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米 国産原油 ・・・・・ 日量14.5万バレル
ロシア産原油 ・・・・・ 日量12.6万バレル
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1908年にイランで原油が発見され、中東原油も世界市場に
供給されるようになったのです。はじめたのは英国人のダーシー
であり、そのためにアングロ・ペルシャン・カンパニーを設立し
ます。これが後のBP――ブリティッシュ・ペトロリアムの前身
になるのです。
英国は第1次世界大戦のあと、かつてのドイツの影響下にあっ
た旧トルコ領のメソポタミア――現在のイラクの石油資源を独占
しようとしたのです。イラクの原油は地表に近いところで産出さ
れ、コストが安くて済むので油田として価値が高かったのです。
これに猛反発したのは米国です。
米国は第1次世界大戦のとき、連合国側の石油供給を一手に引
き受けていたので、石油埋蔵量の枯渇懸念が生じており、イラク
の石油資源には強い関心があったのです。かくして英国と米国は
イラクの石油資源を巡って10年間にわたり争ったのです。
しかし、この問題は1928年に決着します。イラク石油会社
(IPC)は、次の5社で共同経営することが決まったのです。
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1.シェル
2.BP
3.エクソン
4.モービル
5.フランス国営石油公社(CFP)
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1917年にロシア革命が起こり、シェルの有していたバクー
油田の国有化が表明されます。そのことがきっかけでシェルを中
心として国際石油資本間で争いが激化します。これが原因で、世
界的な石油販売競争が巻き起こり、石油価格は下落したのです。
この事態を懸念したシェルのデター・ディング社長は、自分の
居城であるスコットランドのアクナキャリー城にエクソンとBP
の首脳を密かに招き、世界の石油資源を地域ごとに3社で分割し
ようと秘密協定を結んだのです。これは後にアクナキャリー協定
と呼ばれるのですが、この協定の適用地域は米国とソ連を除く全
世界だったのです。
この協定には、あとになって、テキサコ、ガルフ、モービル、
アトランティックの米国4社が加わって7社となり、國際石油市
場における占有率はさらに高まることになったのです。そして、
これらの7社は「セブン・シスターズ」――7人の魔女と呼ばれ
るようになります。
1938年のことです。米国の中堅石油会社ソーカル(現在の
シェブロン)がサウジアラビアで巨大な油田を発見し、その石油
事業のためにアラムコ――後に国有化により、サウジ・アラムコ
になる――が設立されたのです。しかし、このアラムコもソーカ
ル、テキサコ、エクソン、モービルの米国企業4社によって運営
されたのです。
この当時国際的に取引される原油の価格は米国を基準に設定さ
れる「ガルフ・プラス方式」が採用されており、この方式が19
50年代まで続いていたのです。ちなみに「ガルフ」というのは
米国のメキシコ湾岸を指しているのです。
このように米国中心の国際石油資本に支配されていた産油国に
は不満が渦巻いていたのです。――― [石油危機を読む/12]
≪画像および関連情報≫
●スタンダード・オイルについて
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1870年1月10日にロックフェラーは、スタンダード・
オイル・オブ・オハイオを創設した。彼は買収によって競争
を勝ち抜き、一社による製油所の統合戦略を進めた。この行
為はアイダ・ターベルなどに批判される。1874年にチャ
ールズ・プラット・アンド・カンパニーを買収する。創立者
のチャールズ・ブラット・とヘンリー・H・ロジャーズは買
収と同時に同社に加わった。 ――ウィキペディア
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