2005年11月11日

日英同盟か日露協調か(EJ1715号)

 清国をどうするか――植民地として割譲するか、主権を認めて
外交交渉をするか――この問題を巡る8ヶ国協議は各国の思惑が
からんで難航したのです。
 ドイツとフランスはあくまで植民地にして分割するべきだと主
張したのです。しかし、米国は清朝を残して「貿易の機会均等に
よる門戸開放」を主張して譲らなかったのです。
 英国はどうだったかというと、米国寄りの姿勢だったのです。
といってもドイツとフランスとは対立したくないと考えていたの
です。英国は世界中に艦隊を展開しており、それぞれの植民地で
の武力抵抗に対処するため、多忙を極めていたのです。
 もし、ドイツとフランスとコトを構えるとなると、世界中に展
開している艦隊を呼び戻す必要がある――それに英国が欲しいの
は、拠点としての港湾都市だけであり、何が何でも植民地にした
いとは思っていなかったのです。
 ところで、ロシアはどうだったのでしょうか。
 ロシアは、英・露・独・仏による清国の割譲などとんでもない
と考えていたのです。そんなことをすれば既に清国との間に締結
している有利な各種条約が宙に浮いてしまう――これでは何にも
ならない。そこで、清国を残すことを前提に、西大后と結託して
満州を占領することを考えていたのです。そのためにロシアは、
大連に2万人の軍隊を温存させていたのです。
 現にロシアはこの話し合いの隙を突いてロシア軍は、1900
年9月に瀋陽(シェンヤン)を占領してしまいます。そして10
月には鉄嶺(ティエリン)も占領するのです。
 これらの都市は、いずれも東清鉄道の鉄道敷設地であり、事実
上既にロシアのものという理屈がついているのです。しかし、こ
れらの都市を押さえられると、ロシアが朝鮮半島を侵攻するさい
の満州側の戦略上の基地になるため、日本にとっては看過できる
ことではなかったのです。
 その頃日本では、大陸強硬派の山縣有朋政権に代わって、大陸
協調派の伊藤博文による第4次内閣になっていたのです。それに
しても日本は戦争にも貢献し、会議に出ていながら、何ら重要な
発言をしていないようなのです。国際舞台への初デビューだった
ので遠慮していたのでしょうか。
 ここで英国の戦略について考えてみる必要があります。英国が
植民地政策を進める場合、総督を置いて支配するかたちをとるの
が一般的なのですが、植民地側にその総督に忠誠を誓う既存勢力
の存在が不可欠なのです。
 しかし、清国の場合、実権支配者である西大后に対抗する勢力
は皆無であり、既に西大后がロシアに押さえられていることから
植民地化は断念したのです。その代わり、朝鮮半島を巡って日本
とロシアが争っているのを利用しようとしたのです。
 英国は巨大な艦隊を持っていましたが、それらは世界中に分散
しており、英国が配置している東洋艦隊だけでロシアの極東艦隊
を制圧するのは難しいと考えていたのです。
 そこで、日本と組んで日本艦隊の力を利用すれば、ロシア極東
艦隊を牽制できると考えたのです。そこで英国にとって「日本と
組む」メリットが生まれたのです。なお、その頃の日本は自国で
軍艦を作ることができず、英国に発注していたのです。
 1900年11月8日、英国で日本の戦艦「三笠」が進水した
のです。この戦艦は全長122メートル、船幅23メートル、最
大速度18ノット、12インチ砲4門、6インチ砲14門を搭載
する当時世界最強の軍艦だったのです。
 1901年7月、駐英公使の林薫から、次の情報が本国にもた
らされます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 英国は皇帝陛下をはじめ、ソールスベリー首相以下、日英同盟
 論者が急増せり
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 しかし、時の政権の中枢はこの情報をなぜか黙殺しています。
深い考え方があっての黙殺ではなく、黄禍論が激しい中にあって
あの大英帝国が日本と同盟する意思があるとはとても考えられな
かったからなのです。
 逆にロシアの駐日公使が日本に示したとされる満韓交換論――
韓国を列国の共同保証のもとに中立化する案に伊藤博文をはじめ
山縣有朋までもが関心を示したのです。ちなみに伊藤内閣は19
01年5月に財政方針をめぐる閣内不統一によって総辞職してお
り、6月から桂太郎第1次政権になっていたのです。
 伊藤博文は、英国が本気で日本と同盟を締結しようとしている
のがわかってからも、ロシアとの交渉の考え方を捨てておらず、
桂内閣が正式に日英同盟交渉に入った後の12月にウィッテ蔵相
と日露協商交渉の名目で交渉を行っているのです。そのとき、ロ
シアは、まさか英国が日本と同盟を交渉しているとは考えていな
かったのです。
 しかし、ロシアは伊藤の提案などに聞く耳を持たずという態度
に終始したので、さすがの伊藤もロシアとの交渉の打ち切りを宣
言せざるを得なかったのです。
 ところが日本がロシアと交渉しているのを知って愕然としたの
は英国の方です。なぜなら、日露同盟ができると、英国がアジア
に築いている利権は吹き飛んでしまうからです。
 英国としては、腰を据えて時間をかけて交渉し、少しでも有利
な同盟条件にする気でいたのですが、態度を一変させ、日本の要
望を大幅に取り入れたのです。そういう意味において、伊藤博文
は、日英同盟成立に貢献したといえます。
 そして、1902年1月30日に日英同盟は成立するのです。
これを知ってロシアはあわてます。そして、満州南部の遼河以西
の地域からロシア兵を撤兵させ、続いて、盛京省と吉林省からも
撤兵を行ったのです。ロシアとしては、日本など問題にしてしま
せんが、英国が日本に加担したことを非常に警戒し、恐れていた
のです。             ・・・・ [日露戦争09]


≪画像および関連情報≫
 ・ロシアのウィッテ蔵相は伊藤の提案に前向きに対応
  ―――――――――――――――――――――――――――
  (日本の提案にしたがって、ロシアが)韓国を放棄すれば、
  われわれは日本との常なる誤解のの素を取り去り、いつも攻
  撃で脅かす敵を、同盟国とはいわないまでも、このように苦
  労して得た土地(満州のこと)を再び失わないよう、われわ
  れとの友好関係を維持しようとする隣国に変えることができ
  よう。             ――ロシア蔵相ウイッテ
    横手慎二著『日露戦争史/20世紀最初の大国間戦争』
                     中公新書1792
  ―――――――――――――――――――――――――――

1715号.jpg
posted by 平野 浩 at 22:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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