2005年11月10日

日本の出番を作った義和団事件(EJ1714号)

 清国が日清戦争で日本に完敗したのを見て、西欧列強は清国が
内外ともに衰退しているのを見てとったのです。しかし、清国か
らは収奪できるものはまだたくさんある――西欧列強は一斉に動
き出したのです。
 1897年11月、何の前触れもなく、ドイツの艦隊3隻が三
東半島(シャントン)に現われ、海兵隊600人を膠州湾に上陸
させ、青島(チンタオ)付近一帯を占領してしまいます。ドイツ
人宣教師が何者かに殺害されたというのがその根拠です。
 このドイツの行動を見てロシアは、同じ年の12月15日、艦
隊6隻で遼東半島の旅順・大連に侵入し、旅順港をそのまま占領
してしまったのです。自分たちの欲しいところは押さえておくと
いう行動です。ロシアを頼りにしていた清国は大きなショックを
受けたのです。
 1898年3月になって、ドイツは清国から正式に膠州湾を租
借することに成功します。あわせて、青島から済南(チーナン)
までの膠州鉄道の敷設権も獲得し、事実上三東半島全域を支配下
に置いたのです。これは、カシニー条約の存在を掴んだドイツが
清国を脅して勝ち取った成果といわれます。
 しかし、ロシアのあくどさはドイツのはるか上を行くものだっ
たのです。清国がドイツに三東半島の租借を認めたことを知ると
ロシアは宰相の李鴻章を呼び出し、脅しをかけると共に巨額のワ
イロを贈って、清国から遼東半島の租借権とハルピンから大連ま
での東清鉄道の敷設権に関するさらなる権利を獲得したのです。
 ロシアの要求は、単に鉄道を敷設するだけでなく、その線路敷
はもとより、線路の両側や駅の周辺付属地の主権も租借地同様に
ロシアに帰属する−−そういう要求を呑ませたのです。
 ドイツやロシアがやれば、英国もフランスも黙ってはいないの
です。英国は三東半島北部の威海衛を租借し、フランスは、ラオ
スやベトナムに近い広州湾を租借するといった具合です。まるで
獲物にたかるハイエナのように、清国から取れるだけ取ろうとい
うわけです。その間、日本はひたすら軍事力の強化――軍隊に磨
きをかけていたのです。
 こういう西欧列強のあまりの非道ぶりを見せつけられた清国の
人々は、いわゆる排外運動――興清滅洋をスローガンとして立ち
上がったのです。1898年4月のことです。
 運動の核となったのは、三東省の貧しい人々の間に広がった宗
教勢力だったのです。彼らは「義和団」と称し、キリスト教に代
表される西欧文明の広がりこそ、庶民の生活を苦しめる災厄の根
源だと説いたのです。
 義和団は、たちまちのうちに三東省、河北省、河南省、山西省
へと勢力を拡大し、1900年6月には20万人を超える勢力と
なって北京に入り、各国公使館を包囲し、日本とドイツの外交官
を殺害する事態になります。
 当初清朝内部では義和団の動きを傍観していましたが、その勢
いが大きくなってくると、清国政府もそれと一体となって行動す
るようになります。事態は戦争の様相を呈してきたのです。
 こうした事態を受けて、英国、ドイツ、ロシア、米国、フラン
ス、イタリア、オーストリア、それに日本の8ヶ国は連合軍を編
成することを決定します。これに対して清国は8ヶ国に宣戦布告
をして戦争――北清事変がはじまったのです。
 しかし、8ヶ国がどのくらいの数の軍隊を出すかという段階に
なってもめたのです。英国はボーア人国家と泥沼の戦争をかかえ
ていたし、米国はフィリピンの独立戦争の鎮圧に躍起となってい
たので、多くの軍隊は出せない状況だったのです。しかし、ドイ
ツ、フランス、イタリアでは本国が遠すぎて、派兵することは困
難だったのです。
 結局大軍が出せるのは、ロシアと日本だけだったのですが、ロ
シアが大軍を出すのは他の国が反対したのです。下手をするとロ
シアに満州全域を取られかねないからです。そこで、期待された
のが日本なのです。そこで、日本は1万人を派兵します。
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    1.イギリス    ・・・  3000人
    2.アメリカ    ・・・  2000人
    3.フランス    ・・・   800人
    4.ドイツ     ・・・   200人
    5.オーストリア  ・・・    58人
    6.イタリア    ・・・    53人
    7.ロシア     ・・・  4000人
    8.日本      ・・・ 10000人
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 このように連合軍は約2万人の軍隊を編成し、軍艦47隻で天
津を攻略したのです。そして、連合軍を先導するかたちの日本軍
は通州を急襲して清国軍を蹴散らし、英国軍は北京に入り、外国
人居留区を開放します。
 この戦争では参加国の軍隊による略奪や清国人に対する虐殺・
暴行・狼藉がとくにひどかったといいます。そのため皇帝を幽閉
して清国軍の指揮を執っていた西大后は、報復を恐れて皇帝を連
れ出して西安に逃亡してしまいます。
 これに対して、米軍と日本軍はよく軍律を守って行動し、きわ
めてマナーが良かったのです。とくに日本軍は指揮官の下に一糸
乱れずに行動し、存分の活躍をし、西欧列強各国を驚かせたとい
います。ここに日本は、はじめて「極東の憲兵」としてその存在
を認められたのです。
 総大将である西大后が逃げてしまったので、8ヶ国は今後の対
応を協議します。西大后を追って西安を攻撃し、清国を分割して
植民地にするか、あくまで清国政府を認めて外交の相手とし、紛
争の終結処理を行うか――協議は各国の思惑がからんで、紛糾し
ます。一番ずるいことを考えていたのはロシアなのです。ロシア
は、旅順に2万人の兵力を温存しており、西大后を支援する振り
をして満州の占領を考えていたのです。・・・ [日露戦争08]


≪画像および関連情報≫
 ・「義和団」とは何か
  義和団の興りは、清の中期に三東省に生まれた義和拳という
  宗教的秘密結社であり、白蓮教の流れを汲んでいた。信者ら
  は拳法の修練によって身体を鍛え上げ、呪文を唱えれば刀や
  鉄砲でも身体が傷つかないと信じていた。また、各集団ごと
  に民間小説のヒーローである諸葛孔明(『三国志演義』)や
  孫悟空(「西遊記」)などを神として祭るなど、その信仰も
  極めて土俗的なものであった。
             ――ウィキペディア「義和団」より

1714号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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