2005年11月08日

山縣有朋の主権線と利益線(EJ1712号)

 山縣有朋――この人は軍事上の観点から、早くからシベリア鉄
道脅威論を唱えていた人です。当時は、もし東アジアにおいて紛
争が起きるとすれば、それは英国とロシアの戦争であると考えら
れていたのです。
 山縣は、もし、英国とロシアがインドかアフガニスタンで衝突
する事態になれば、ロシアはシベリア鉄道を使って大兵を東アジ
アに送り込み、必ず朝鮮の侵略を始めるに違いないと考えていた
のです。そうなると日本の安全は脅かされる――これが山縣のシ
ベリア鉄道脅威論なのです。
 やがて山縣は政権を握ると、このシベリア鉄道脅威論を前提と
した軍事拡張のための予算計上を行っています。明治24年予算
では、軍事費が予算の30%近くを占めていたのですが、これに
ついて山縣首相は、1890年11月29日の第一帝国議会にお
ける一般演説で次のように説明しています。
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 軍事費が予算の30%近くを占めているのは、それが国家の独
 立と国権の伸張を図るために不可欠なものであるためである。
 国家の安全を保つためには、主権国家として他国の侵害を許さ
 ない国境としての「主権線」を守るだけでは不十分であり、そ
 の主権線の安危と相関係する区域としての「利益線」を守る必
 要がある。その利益線を維持するためには、膨大なる軍事費が
 かかるのである。              ――山縣首相
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 山縣首相は、ここでいう利益線として「わが国の利益線の焦点
は実に朝鮮にあり」と明言しています。つまり、日本の安全保障
は、朝鮮半島の安危に左右されると述べたのです。
 つまり、朝鮮の独立が脅かされ、他の帝国が朝鮮半島を占領す
る事態になると、日本の安全保障が脅かされるというのです。そ
のため、日本としては朝鮮半島の安危を注意深く監視し、すぐ手
が打てる体制をとるべきであると山縣は説いたのです。
 山縣がこういう考え方に立つに至った次の2つの歴史的事件が
あります。
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           1.対 馬事件
           2.巨文島事件
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 対馬事件とは何でしょうか。
 1861年3月のことです。ロシアの戦艦ポサドニックがいき
なり対馬に来航し、土地租借などを要求して島の一部を占領する
という事件が起こったのです。困ったのは対馬藩です。
 対馬藩老中安藤信正は英国の東インドシナ艦隊司令官ホープと
交渉した結果、ホープ司令官は英国艦隊2隻を対馬に派遣し、ロ
シア艦を退去させたのです。英国にとってもこのことは看過でき
ない事件だったからです。これが対馬事件です。
 ここで租借とは、条約によって一定年限、貸与国の主権を留保
したまま、租借国に対し、その地域における排他的な管轄権や軍
隊駐留権を認めるものですが、最終的には貸与国が領土を割譲す
るのと同じ効果を持っていたのです。
 それでは、巨文島事件とは何でしょうか。
 既に述べたように、朝鮮では宮廷が2つに分かれて主導権争い
が絶えず、それを理由にして清国がたびたび介入するという事態
が起きていたのです。その一方の勢力がロシアに接近し、ロシア
はそれを口実に朝鮮半島の取り込みを画策していたのです。
 やがてロシアは軍事教育の名のもとに教官を送り込み、その代
償として朝鮮半島の南部の小さな湾である永興湾に軍事施設を建
設しようとしていたのです。
 このことを知った英国は、アフガニスタンで英国とロシアの間
のちょっとした衝突を理由に、朝鮮半島南端沖にある巨文島を占
拠して軍港を築き、ロシアの朝鮮進出を阻止する先制行動に出た
のです。これが巨文島事件です。
 結局、このときは清国が仲裁に入って、「ロシアは朝鮮のいか
なる地域にも占領しない」ことを条件として、英国軍は撤退した
のです。ちなみに巨文島は日本の対馬のすぐ近くであり、2つの
事件とも日本に関わりがあったにもかかわらず、日本としては英
国に頼るだけで何もできなかったのです。
 山縣はこのことを受けて、日本と利害が一致する英国との同盟
を推進するとともに、利益線としての朝鮮半島を守るための軍事
拡張に全力を注ぐ政策を推進することになるのです。
 ここで、三国干渉前後のヨーロッパにおける国際関係について
述べておくことにします。
 まず、1870年のプロイセン・フランス戦争以来、ドイツと
フランスは対立していたのです。また、ヨーロッパにおける農産
物の販売をめぐって、ドイツはロシアとも対立を深めていたので
す。そのロシアはバルカン半島をめぐってオーストリアと反目、
そのオーストリアのバックにはドイツがいたのです。
 フランスはドイツとの対抗上、ロシアと軍事同盟を結んでおり
ロシアが進めるシベリア鉄道にも巨額の資金を援助しているので
す。この仏露軍事同盟は日露戦争のときも有効だったのですが、
あくまでドイツとの戦争に対する同盟であったため、フランスは
中立を保ったのです。
 このようにロシアとフランスに敵対され、苦しい立場に立たさ
れたドイツ皇帝ウィルヘルム二世は、ロシア皇帝のニコライ二世
に日本を中心とする黄色人種の台頭がヨーロッパ全体に損害をも
たらすといういわゆる「黄禍論」を説いて、関心を日本に向けさ
せようとします。この「黄禍論」が日露戦争から第2次世界大戦
まで影響することになるのです。
 その点、世界の海を支配していた英国は、東アジア海域を大陸
の列強から守るという点において、日本と利害が一致する面が少
なくなかったのです。そういうわけで、1902年に日本は日英
同盟を結ぶことになるのです。   ・・・・ [日露戦争06]


≪画像および関連情報≫
 ・山縣有朋について
  明治、大正の軍人、政治家、公爵。川島で出生。
  松下村塾で学び、奇兵隊の軍監となり、高杉晋作挙兵による
  内訌戦などに活躍。戊辰戦争では官軍の参謀として転戦。明
  治以降、陸軍卿、参議、陸軍大将、元帥へと進み、日本陸軍
  の中心的存在として長州陸軍閥を形成、政治家としては内務
  大臣となり、のち二次にわたり内閣を組織し、元老となる。
  大正11年(1922)没。享年85。

1712号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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