2005年11月07日

シベリア鉄道と東アジア国際情勢(EJ1711号)

 三国干渉――ロシアは英国にも声をかけたのです。しかし、英
国は、ロシアの南下政策に対する抵抗勢力である日本と敵対する
ことは好まず、断っています。当時世界の制海権は英国が握って
おり、東太平洋と地中海、インド洋などヨーロッパからアジアに
至る海上交通路は英国海軍の手中にあったのです。
 したがって、ヨーロッパ諸国におけるアジア政策は、英国の出
方によって左右されたのです。しかし、ロシアには陸路で東アジ
アに至るシベリア鉄道があり、1901年にバイカル湖の区間を
除いて完成しています。
 ユーラシア大陸を横断するシベリア鉄道は、モスクワとウラジ
オストック間を7泊8日で結んでいますが、これを使うとロシア
は英国に関係なく大勢の兵士を東アジアに短時間で動員できるこ
とになります。ちなみに軍港の「ウラジオストック」という言葉
は、ロシア語で「東方を征服せよ」という意味なのです。
 このようにシベリア鉄道は英国が中国においてそれまで保って
きた通商的権益や外交的優位性を覆すだけではなく、ウラジオス
トックから香港に至る制海権をロシアに取られる可能性を示して
いたのです。したがって、シベリア鉄道の建設は、英国の東アジ
アにおける覇権を脅かすだけではなく、国境を接する中国や朝鮮
さらに日本にとっても直接的で大きな脅威であるといえます。
 しかし、それならなぜロシアは遼東半島や朝鮮半島に触手を伸
ばしてきたのでしょうか。
 それは、冬でも凍らない不凍港が欲しいからです。ウラジオス
トックは冬の間は凍ってしまい、使えないからです。不凍港を手
に入れない限りロシアはいくらシベリア鉄道を持っていても東ア
ジアに勢力を拡大できないのです。
 何としてもロシアに不凍港を与えてはならない――日本政府の
この思いがあの非合法のクーデター――乙未事変を引き起こして
しまったのです。絵に描いたような外交下手の典型です。これを
修復するため、枢密院議員山縣有朋は、1896年5月26日に
開催されたロシア皇帝ニコライ二世の戴冠式のさいにモスクワに
渡り、ロシアの外相ロバノフと会談を行ったのです。そして朝鮮
半島をめぐる日露議定書を作成・調印したのです。
 議定書の内容は次のようなものだったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.朝鮮の財政問題に関しては日露共同で当たること
  2.朝鮮軍が組織されるまでは日露同数の軍隊を置く
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ロシアはしたたかな外交を繰り広げる国ですが、それから考え
ると、乙未事変のあとの日本としてはまずまずの外交成果であっ
たと考えられます。
 しかし、ロシアとしてはその裏でしたたかに計算をしていたの
です。それは次の2つのことです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.満州経由でウラジオストックに鉄道を敷く権利を確保
 2.ハルピンから旅順・大連に南下する鉄道の敷設権確保
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日清戦争終了時点におけるシベリア鉄道は、チタからウラジオ
ストック間は完成しておらず、当初はロシアと清の国境に沿って
敷設される予定だったのです。しかし、日本に遼東半島を返還さ
せた見返りとして、ロシアは清国から満州経由でウラジオストッ
クまで鉄道を敷く権利を得たのです。
 さらに、同時にロシアはハルピンから遼東半島に至る区間の鉄
道敷設権をも得ているのです。これで、ロシアは待望の不凍港を
手にすることができる可能性を得たことになります。そのために
は、日本の関心を朝鮮半島に向けさせておく必要があり、ロシア
としては日本に一歩引いてみせたわけです。
 実際に日露戦争が始まる1904年9月までに上記の「東清鉄
道」2本を含むシベリア鉄道全線が開通しているのです。日本が
日露戦争を急いだ背景にこのシベリア鉄道問題があったことは確
かであるといえます。
 しかし、三国干渉によって日本が遼東半島をあっさりと返還し
たことで、ロシアは「日本は強く出ればどんどん下がる国」と考
えるようになったといいます。
 ロシアが当時いかに日本を馬鹿にしていたかを示す有名なエピ
ソードがあります。ドイツのダルムシュタットに保養のため滞在
していたニコライ二世に、同盟国ドイツのウィルヘルム二世皇帝
が、日本がロシアの強硬なやり方に腹を立て、戦争を準備してい
るとの情報があると伝えたとき、ニコライ二世は次のように答え
たというのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 それはあり得ない。なぜならば、朕は戦を望んでいない。した
 がって、開戦の懸念などない。      ――ニコライ二世
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは、戦争というものはロシアが一方的にそれを望んだとき
にのみ起きるのであって、非力な小国である日本がそれを仕掛け
てくることなど100%あり得ない――こういっているのです。
この姿勢は今も何も変わっていないし、そのような国がいったん
獲った北方領土をかつての日本のように、あっさりと返すことな
ど考えられないことなのです。
 ところで、このニコライ二世は日本に対してある恨みを持って
いたのです。1891年のことです。この年の5月にシベリア鉄
道の起工式がウラジオストックで行われたのですが、そのさい、
24歳のニコライ二世が日本にやってきたのです。
 皇太子が琵琶湖を見物し、大津を通過しようとしたとき、沿道
を警備していた巡査・津田三蔵によって日本刀で切りつけられ、
負傷するというとんでもない事件が起こったのです。ロシアが怒
って日本に攻めてくるのではないか――日本の国民の間ではこの
ときから、いつかロシアとは戦争になることを覚悟する雰囲気が
醸成されていったのです。     ・・・・ [日露戦争05]


≪画像および関連情報≫
 ・大津事件
  シベリア鉄道の式典に出席するため、ニコライは艦隊を率い
  てウラジオストックに向かう途中、日本を訪問した。いまだ
  小国であった日本は政府を挙げてニコライの訪日を接待し、
  京都では季節外れの大文字焼きまで行われた。そして、5月
  11日、琵琶湖からの帰り道、大津を通過中に警備の津田三
  蔵巡査が突然斬かかりニコライを負傷させた。津田は逃げる
  ニコライになおも斬りかかろうとしたが、随伴していた人力
  車夫向畑治三郎に両足を引き倒され、同じく車夫の北賀市市
  太郎に自身の落としたサーベルで斬りつけられた後、警備中
  の巡査に取り押さえられた。ニコライは右側頭部に9センチ
  近くの負傷を負ったが、命に別状はなかつた。後日明治天皇
  自らが神戸港ののロシア軍艦を訪問するとした際に、「拉致
  されてしまう」という重臣達の反対を振り切って療養中のニ
  コライを見舞った。(ウィキペティア「大津事件」より)

1711号.jpg
        (上図をクリックすると拡大します)
posted by 平野 浩 at 08:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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