硬姿勢を一転させ、清国側が要求した無条件休戦を受け入れるこ
ととし、1895年4月17日に下関講和条約が締結されたので
す。条約の要点は次の6つです。
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1.清国は朝鮮の完全無欠なる独立を確認すること
2.清国は、遼東半島、台湾、澎湖島を日本に割譲
3.清国は日本軍事賠償として2億両を支払うこと
(2億両――邦貨約3億1000万円)
4.清国と欧州各国間の条約ベースの新条約を締結
5.重慶、蘇州、杭州などの開市・開港を実施する
6.威海衡占領の費用は清国負担/条約履行の担保
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この結果に国民は歓喜します。条約の内容としては、要点の1
と2によって、ほぼ日本の要求する内容になっていたからです。
実は、遼東半島を日本に割譲することを要求に盛り込むべきかど
うか、日本の全権団はかなり迷ったのです。しかし、その要求を
外したら、国内で暴動が起きかねない情勢だったので、あえて遼
東半島の領有を主張したのです。
伊藤博文や陸奥宗光がそのようなことを考えたのは、日本が清
国と戦争をして間に東アジアにおける国際情勢は大きく変わりつ
つあったからです。日清戦争が始まる前の東アジア海域にいたの
は、最新型戦艦センチュリオンを旗艦とする英国の中国艦隊だけ
だったのですが、日清戦争の結果いかんでは既得権益が侵害され
かねないとの思惑から、各国海軍がこの海域に乗り出してきてい
たのです。
ロシアは太平洋艦隊の戦艦と巡洋艦を、フランス、ドイツ、米
国、イタリアは巡洋艦を派遣して日清両国のどちらが勝つか監視
をはじめたのです。まるで、獲物を見張るハイエナのようです。
果たせるかな、日清講和条約調印から6日後、ロシア、ドイツ
フランスの公使が遼東半島を清国に返還することを勧告する文書
をそれぞれ提出してきます。この中でロシアの公使からの勧告は
次のような内容でした。ドイツもフランスもほぼ同趣旨です。
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遼東半島を日本にて所有することは常に清国の都を危うくす
るのみならず、これと同時に朝鮮国の独立を有名無実となす
ものにして、右はながく極東永久の平和に対し、障害を与え
るものと認む。 ――ロシア公使からの文書
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これが「三国干渉」です。要するに、遼東半島を日本が領有す
ると、そこが清国と韓国に対する日本の勢力拡張の拠点になるこ
とを警戒したための勧告なのです。
この三国干渉は単なる勧告というようなものではなく、日本に
対する完全な脅しだったのです。ロシア、ドイツ、フランスは既
に戦艦や巡洋艦を東アジア海域に派遣しており、ロシア陸軍約3
万が臨戦態勢をひき、ロシアとドイツの艦隊が合同演習をするな
ど、日本に対する示威行為は露骨を極めたのです。「勧告を受け
入れないときは日本を攻めるぞ」という脅しです。
しかもその時、日本の海軍艦隊主力は台湾海峡付近に遠征して
おり、陸軍野戦軍のほとんどはいまだ中国大陸の戦場にあって、
日本国内はガラ空きの状態だったのです。しかし、三国とも本当
は日本と本気で戦端を開く気はなかったのです。
もともと伊藤博文と陸奥宗光は、日本が遼東半島を領有するの
は無理と考えていたようです。しかし、海軍は台湾、陸軍は遼東
半島の割譲を強く求めていたのです。それに、伊藤博文という人
はかなり弱気の人であり、明治天皇も最初から領土の割譲を求め
ることに反対であったため、早々に三国交渉を受け入れることに
してしまったのです。
日本政府は、1895年5月4日の閣議で三国干渉受け入れを
了承し、翌日に三国の公使に通告しています。しかし、天皇の詔
は、さらに5日後の5月10日に全国民に伝達されたのです。
国民の怒り、落胆ぶりは大変なものだったのです。それは、ア
ジアの大国である清国に快勝し、天にも昇る勢いであった日本国
民に冷水を浴びせた格好になったからです。
日清戦争の推進派である陸奥宗光、小村寿太郎、川上操六らは
この国民の怒りを対ロシア戦争にうまく誘導しようとしたフシが
あるのです。そして、次のスローガンを生み出されるのです。
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臥薪嘗胆(がしんしょうたん)
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「臥薪嘗胆」とは、中国の春秋時代、呉王夫差(ふさ)が越王
勾銭(こうせん)を討って父の仇を報じるために薪(たきぎ)の
上に寝て、さらには勾銭が呉を討って恥をすすぐために苦い肝を
嘗めて復讐心を固めたという故事から、仇をはらすために長期間
にわたって苦心、苦労を重ねて自分を励ますことをいうのです。
ところが、「臥薪嘗胆」のスローガンのもと、「ロシア何する
ものぞ」という風潮が生まれつつあった1895年10月8日―
―朝鮮でとんでもない事件が起きるのです。閔妃(ミンピ)殺害
クーデター(乙未[いつみ]事変)です。
日清戦争で日本が勝利したことにより、朝鮮半島は清国の属国
になることは阻止されたのですが、韓国宮廷は三国交渉によって
日本がロシアに屈したとみて、王后である閔妃(ミンピ)はロシ
アの保護を得て、独自勢力の温存を図ろうとしたのです。
これに対して駐韓日本公使の三浦梧楼陸軍中将は、韓国王の父
親を擁立してクーデターを起こし、首都・漢城(ソウル)の王宮
に日本人の浪人を乱入させ、閔妃を殺害してしまったのです。
ところが、妻を殺され、実父に政権を奪われたかたちの韓国王
は、身の危険を感じて駐韓ロシア公使ウェーバーを頼ってロシア
公使館に逃げ込んでしまったのです。もちろん、このクーデター
は日本政府承知のうえです。 ・・・・ [日露戦争04]
≪画像および関連情報≫
・乙未事変について/1895年10月8日
閔妃は、日本が後ろ盾につく大院君(韓国王の父)と長く対
立していたが、日清戦争後の三国干渉で復活すると,ロシア
の勢力をひきいれて反日親露政策を取る。これに対抗して公
使三浦梧楼は,大院君をかつぎ,日本浪人と朝鮮軍の訓練隊
を宮中に乱入させ,閔妃を殺させた。三浦は朝鮮軍内部にお
ける訓練隊と侍衛隊との衝突事件のように装ったが、真相を
隠せなかった。日本政府は三浦や浪人を本国に召還し,形式
的な裁判を行ったが,三浦らは証拠不十分で無罪となる。
