2005年11月02日

連戦連勝のもたらしたものは何か(EJ1709号)

 日清戦争開戦――開戦後日本軍はトントン拍子に勝ち続けたの
です。宣戦布告前の7月25日、連合艦隊第一遊撃隊による豊島
沖海戦の勝利、同じく陸軍は成歓と牙山へ侵攻、清国軍を平壌に
逃走させています。その平壌も9月16日には陥落しています。
まさに向うところ敵なしです。
 そして9月17日には、黄海において清国が誇る北洋水帥の主
力艦隊――「経遠」「致遠」「超勇」などを次々と撃沈し、制海
権を握ります。これによって、日本軍は陸兵を遼東半島に直接輸
送し、11月21日に旅順口をたった1日の戦闘で陥落させると
いう快挙を成し遂げるのです。
 旅順口は難攻不落の堅陣と世界中に知られており、フランスの
名将クールペー海軍中将は次のようにいっていたのです。
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 (旅順口は)50隻以上の艦隊と10万の陸軍精兵をもって
 しても、なお攻略に半年を費やさねば落ちまい
                 ――クールペー海軍中将
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 日本軍が圧倒的に強かったのか、それとも清国軍があまりにも
弱かったのか――たったの1日で旅順口は陥落したのです。清国
軍死者4500人、負傷者無数、捕虜600人、それでいて日本
軍人死傷者280人名という圧倒的な勝利だったのです。
 旅順が落とされると、清国は外交ルート(北京および東京にお
ける米国代表者経由)を通して講話を提唱してきたのです。これ
に対して陸奥外相は、2つの条件をつけて高圧的にこれに返答し
ているのです。
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   1.清国政府が誠実に和睦を講う意思表明をする
   2.正当な資格を有する全権委員を任命すること
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 こうする間も日本軍はいささかも攻撃を緩めず、台湾西方の澎
湖島を占領してしまうのです。
 ここで、日清戦争がはじまってからの日本国内の様子について
知っておく必要があります。開戦したのが盛夏の7月後半であり
通常であれば、夏休みということもあって、海水浴であるとか避
暑地に出かける人も多い季節です。しかし、戦争が始まると、そ
ういうレジャーを楽しんでいた人は一斉に引き上げ、観光地は閑
散としてしまったのです。
 どうしてかというと、当時の日本人にとって清国と戦うという
ことは大変なことだったのです。なぜなら、はじめての外国との
戦争であり、まして清国は広大な領土を持つ大国であったからで
す。一般国民にとっては、清国の内部が既に崩壊していたなどと
いうことは知るよしもなく、文字通り国運を賭けての大戦争だっ
たわけで、レジャーなど楽しむ状況ではなかったのです。
 また、家屋の新築や修繕、庭の手入れなど、当面急ぐ必要のな
いものは自粛する傾向が強まり、大工、左官、植木屋などが一斉
に失職し、社会経済は大打撃を蒙ったのです。
 こういう時勢にもてはやされたのが「軍夫」になることだった
のです。当時の日雇労働者や人力車夫の日当が20〜30銭のと
きに軍夫になると、1円50銭が支給されたからです。既に国民
皆兵制は施行されていましたが、何しろ急に開戦したために、兵
士は一人でも多く必要であり、志願兵を集めたのです。
 当然のことですが、国民全員が戦況に強い関心を向けたため、
新聞が飛ぶように売れたのです。何しろ、テレビもラジオもない
時代ですから、情報を知るのは新聞のみ――一日一回の新聞を国
民全員が首を長くして待ったのです。ちなみに、当時は夕刊とい
うものもなかったのです。
 日清戦争がはじまってもうひとつ変わったことがあります。そ
れは、明治維新以来くすぶり続けていた反政府運動がピタリと収
まったことです。国内でゴチャゴチャやっているときではない。
何しろ敵はアジア最大の国――清国だからです。
 ところがです。開戦してみると、連戦連勝です。国民が歓喜し
ないはずがないのです。この気持はよくわかります。しかし、半
分崩壊していた清国に連戦連勝してもそれは当たり前のことだっ
たのですが、そういう情報がない国民は、本当の強敵と戦って勝
利したと考えたのは当然です。
 こういうところから、日本国民の間に、次のような困った風潮
が生まれてきたのです。当時の日本政府も逆にそれを利用しよう
としたフシがあります。
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 1.日清戦争は「未開な支那」を覚醒させる義戦である
 2.野蛮な清国や朝鮮を文明国日本が懲罰し、教育する
 3.日本は神の国であり、日本軍は神の軍隊であること
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 しかし、日本政府と軍部は、長い期間をかけて清国に打撃を与
えることによって朝鮮半島の利権を独占するための計画を着実に
実行してきたのです。したがって、政府は連戦連勝に心を奪われ
ることなく、冷静に作戦を進め、有利な条件で講話を結ぼうとし
ていたのです。
 清国との講和会議は、清国から李鴻章を全権大臣とする50名
が来朝し、下関市の春帆楼で開催されています。日本の全権大臣
は伊藤博文、陸奥宗光――1895年3月20日のことです。
 この時点でも日本は攻撃の手を緩めず、大陸に侵攻を続けてい
たのです。そこで清国側は休戦を求めてきたのですが、日本側は
これを拒否して強気の交渉をしようとしたのです。清国が望んで
の講話交渉ですから、当然のことです。
 しかし、ここに困った事態が発生するのです。それは、全権大
臣の李鴻章が講和会議会場である春帆楼を出て宿舎に戻ろうとし
たとき狙撃されたのです。李鴻章は左眼窩下に弾丸が当ったもの
の、生命には別状はなかったのですが、これには日本政府は強い
ショックを受けることになるのです。・・・・ [日露戦争03]


≪画像および関連情報≫
 ・陸奥宗光外務大臣
  明治時代の政治家、外交官であり、「カミソリ大臣」と呼ば
  れ、外務大臣として、不平等条約の改正に辣腕を振るったの
  である。日清戦争当時の外相

1709号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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