20世紀初頭の日本にとって、ロシアは脅威であり、ロシアの
南下は、国の命運を左右する大問題であったのです。何よりも日
本が恐れたのは、ロシアが朝鮮半島に触手を伸ばし、押さえてく
るという事態だったのです。
日露戦争直前の日本とロシアの国力は、どのくらいあったのか
調べてみることにします。
まず、国土と人口/歳入の比較です。これはまるで問題にはな
らないでしょう。
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国土 人口
日 本 37万平方KM 4600万人
ロシア 2500万平方KM 1億3000万人
歳入
日 本 2億5000万円
ロシア 20億0000万円
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続いて、軍事力の差です。これはまるで大人と子供というより
子供が巨人に挑むようなものです。
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陸軍兵力 海軍兵力
日 本 315000人 260000トン
ロシア 3500000人 800000トン
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これを見るとわかるように、当時のロシアの国力は日本の10
倍もあったのです。日本はそんな国に対して、なぜ、戦争を決意
したのでしょうか。
その原因は、直接的には、日清戦争勝利の後の三国交渉にあっ
たといえるのです。いや、もう少し深い原因を考えると、朝鮮半
島をめぐる情勢の変化にあったと考えるべきでしょう。
日清戦争の前の話ですが、清国は朝鮮を属国と考えており、ロ
シアは朝鮮に対して強い野心をいだいていたのです。このような
状況に対し日本は、自国の安全保障のために朝鮮半島の中立を望
んでいたのです。そこで、日本は清国と力のバランスを図ろうと
したのですが、清国は日本の思うようにはならず、朝鮮に対し、
宗主権を誇示しようとしていたのです。
また、帝政ロシアは、シベリアを手中におさめ、沿海州、満州
をその制圧下に置こうとしていたのです。さらにその余勢を駆っ
て、朝鮮をもその影響下に置こうと狙っていたのです。
当時の日本から見れば、ロシアはもちろんのこと、清国も大国
であり、強い危機感を感じていたのです。もし、朝鮮半島がこれ
ら大国の属国になると、日本は玄界灘を隔てるだけで、強力な帝
国主義国家と対峙することになる――こういう事態だけは絶対に
避けたかったのです。
1885年、日本は伊藤博文を全権大使として清国に送り、天
津条約を締結するのです。天津条約の要旨は次の通りです。
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≪天津条約≫
朝鮮国に内乱や重大な変事があった場合、両国もしくはそのど
ちらが派兵するという必要が起こったとき、互いに公文書を往
復しあって十分に了解をとること。乱が治まったときは直ちに
撤兵する。
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しかし、この天津条約は、一方において清国の朝鮮に対する宗
主権を黙認するかたちになり、日本の発言力は大幅に封じられる
結果を招いたのです。相変わらずの日本の外交下手の結果です。
そういう中で朝鮮では東学党が勃興したのです。東学党は「日
本や欧米の列強を退けて義を行う」をスローガンとして掲げ、西
学――キリスト教や儒教に対抗する朝鮮独自の学問を目指す秘密
結社「東学」が政治改革団体化したものといわれています。
1894年2月に、朝鮮全羅道で東学党のリーダーが指揮する
農民一揆が起こり、あっという間に全羅道一円に拡大し、5月末
には全羅道首府の全州に入場する事態になります。いわゆる甲午
農民戦争と呼ばれる戦争です。
この戦争は朝鮮南部一帯に広がったので、朝鮮政府は清国に出
兵を要請したのです。これを受けて清国政府は「天津条約」にし
たがい日本には軍を出すことを通告はしてきたものの、3000
人の兵をソウル南方約80キロの牙山まで進出させ、そのまま居
座ったのです。このまま放置すると、朝鮮半島における力関係が
清国からの一方的なものになり、日本にとってきわめて深刻な事
態になると考えられたのです。
このとき日本政府内には開戦派と慎重派があったのです。これ
に関連して明治のジャーナリストである徳富蘇峰(猪一郎)は、
自著において次のように述べています。
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日清戦争は老人が始めたのではない。若者が始めたのだ。内地
では、川上、北京では小村、それに巧く活機を捉えた所の陸奥
などが、巧みに伊藤、山縣等の大頭を操って行ったらしいと思
う。 ――『蘇峰自伝』
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これでわかるように、開戦派はときの外務大臣陸奥宗光、川上
操六、小村寿太郎たちであり、慎重派は、ときの総理大臣伊藤博
文、山縣有朋たちであったのです。
陸奥宗光たち開戦派は、当時「眠れる獅子」といわれていた清
国の実情が「死に体」であることを見破っており、ここは戦争に
よって決着をつけるべきであると考えていたのです。ただ、日清
戦争に関しては明治天皇は終始反対の姿勢を取っていたのです。
しかし、陸奥らの開戦派はそういう天皇の意向を無視して、18
94年7月17日、日清戦争を開始させたのです。朝鮮半島の不
安をなくす――これが目的だったのです。・・ [日露戦争02]
≪画像および関連情報≫
・当時の心境を読んだ明治天皇の御歌
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ゆくすえはいかになるかと暁の
ねざめねざめに世をおもふかな
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・徳富蘇峰(1863〜1957)
明治から昭和にかけて活躍したジャーナリスト、歴史家、評
論家。徳富蘆花は弟である。
