2005年10月11日

PCの父アラン・ケイとランプソン(EJ1693号)

 ランプソンとサッカーがアラン・ケイの部屋を訪ねて「予算を
お持ちではありませんか」といったという有名な話には伏線があ
るのです。
 一般的には、アラン・ケイは子供でも使える小型コンピュータ
「ダイナブック」の講想を持っており、現在のPCの原型を考え
た人として認識されています。「PCの父」としてです。
 しかし、ランプソンも1970年代において同じようなことを
考えていたのです。しかし、ケイとランプソンでは、同じ小型コ
ンピュータでも、そのコンピュータの将来像において大きな違い
があったのです。
 1972年7月刊行の『ソフトウェア/その実践と経験』誌の
巻頭言にランプソンは次のように書いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 鉛筆を使える人なら、誰でもコンピュータが使えるような時代
 がくる。もっとも多くの人はまじめにプログラミングなどしな
 いで、なんらかのプログラムの購買層になるだろう。
                 ――バトラー・ランプソン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ランプソンはこのように述べたうえで「500ドルで買えるコ
ンピュータ――具体的にはDEC社のPDP−10程度の能力を
持つ個人向けのコンピュータを提案しているのです。
 これに対して、ケイは誰でもコンピュータを使える時代がくる
ということでは、ランプソンと同じ考え方ですが、彼の考えてい
る「ダイナブック」は、誰でもラクにプログラミングできる言語
で動かすという前提に立って、誰でも使えるプログラミング言語
の開発に力を注いでいたのです。
 1975年にマイクロソフト社を設立したビル・ゲイツも実は
アラン・ケイと似た考え方を持っていたのです。彼もあくまでや
さしいプログラミングを目指し、BASIC言語を開発したので
す。この言語は初期のPCに搭載されたのですが、言語は必ずし
もやさしくはなく、多くの挫折者を生む結果となったのです。
 しかし、ランプソンは違っていたのです。彼は非プログラマの
ためのコンピュータは、「自分でプログラムを書かない」という
前提で考えるべきであり、発想を一新すべきであると述べている
のです。喜多千草氏はランプソンのこの考え方について次のよう
に書いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 実際にランプソンは、アルト・システムでは非プログラマがコ
 ンピュータを利用するためのユーザ環境が実現できるようにア
 ルトOSを開発し、その後コンピュータ科学研究室ではワード
 プロセッサー、電子メールソフトといったアプリケーション・
 ソフトウェアを開発していったのである。
 ―――喜多千草著、『起源のインターネット』より。青土社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ランプソンからこういう考え方を聞いていたからこそ、アラン
・ケイはランプソンとサッカーに自分の予算を託して、彼らの考
え方を基にしたALTO(以下、アルト)を開発させたのです。
それにしてもランプソンは、1970年代に現代のコンピュータ
時代を的確に予見しており、驚くべきことであるといえます。
 このランプソンの考え方をベースとし、その実現に中心になっ
て取り組んだのは、チャールズ・サッカーです。サッカーは19
86年に行われたパーソナル・ワークステーションの歴史会議で
アルト・システムについて講演していますが、その開発経緯につ
いて詳しく述べています。
 サッカーは、テイラーが最初から「ディスプレイを基にした小
さなコンピュータをつなげたシステム」を求めていたとし、それ
は、1970年代初頭に半導体の飛躍的な技術的発展によってに
わかに実現性を帯びたと述べています。
 さらにサッカーはアラン・ケイがテイラーと同じように、「テ
キストとグラフィックス機能があり、計算もでき、通信機能があ
るコンピュータ」を求めていたとも述べています。
 ここで注目すべきことは、GUI(グラフィカル・ユーザ・イ
ンターフェイス)の環境を持つ小型コンピュータ複数台を何らか
の方法でつなげるネットワークの発想が出てきていることです。
そして、アルト開発の目的として分散型ネットワークを構築しよ
うとしていたフシが見られることです。
 これについてランプソンは次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 それには、ケーブルをエーテルのように使えばよい。数十台の
 アルトを使っていろいろな実験ができる。参加者の独立した実
 験もできれば、何か協同しなくてはできないことも試すことが
 できる。とくに、個別の情報を保持することができ、共有でき
 る情報については交換ができるようにコミュニケーションが図
 られるようなシステムをつくることができる。こうすれば、長
 いこと議論の的になっていた、こういうやり方と中央管理ファ
 イルというやり方のどちらがいいのか、明らかにすることがで
 きるだろう。
 ―――喜多千草著、『起源のインターネット』より。青土社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これはどうみても現在のLANのようなネットワークについて
述べています。アルトをつなげるために開発された「エーテルの
ようなネットワークケーブル」の中の「エーテル」の英語の発音
は「イーサ」であり、これが後の「イーサネット」の基になる考
え方になったのです。このイーサネットの開発者として、後にP
ARCで有名になったのがロバート・メトカフなのです。メトカ
フについては明日のEJで述べます。
 テイラー、ランプソン、サッカー、ケイ――こうした人たちの
努力によって現代のPCの原型ができていったのです。そして、
当初からそういう構想を掲げていたケイは、「PCの父」と呼ば
れるようになったのです。   ・・・・[インターネット33]


≪画像および関連情報≫
 ・アラン・ケイ氏「京都賞」を受賞/2004.6
  先端技術、基礎科学、思想・芸術の3部門それぞれに対して
  国際的に貢献した人に贈られる「京都賞」の第20回受賞者
  が決定し、先端技術部門で「パーソナルコンピュータ」の概
  念を提唱したアラン・ケイ氏が選ばれた。ケイ氏は「パーソ
  ナルコンピュータの父」と呼ばれ、現在はヒューレットパッ
  カードのシニアフェローの職にある。京都賞では、受賞者に
  対してメダルと賞金5000万円が贈られる。
 ・京都賞を決める稲盛財団は、「大型計算機が主流の時代にあ
  って、今日の「パーソナルコンピュータ」の概念とその理想
  像を提示すると共に、その実現に向けて30数年にわたり一
  貫して取り組み、開発を先導した。これにより、ケイ博士は
  コンピュータの利用分野に飛躍的な拡大を与え、今日の知的
  創作活動や社会・経済活動の基盤に大きな変革をもたらすこ
  とに多大な貢献をした」と受賞理由を述べ、その功績をたた
  えている。(PC WEBニュース/2004.6)

1693号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:49| Comment(0) | TrackBack(0) | インターネットの歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック