2005年10月06日

若き天才/ランプソンと・サッカー(EJ1691号)

 ロバート・テイラーがパロアルト研究所(以下、PARC)に
移って、事実上コンピュータ科学研究室をまかされることになっ
たとき、当然のことながら、コンピュータをはじめとする数々の
研究設備を整えることが必要になったのです。最大の問題は、ど
のようなコンピュータを導入するかにあったのです。
 テイラーは、ゴールドマンやペイクからは高い評価を得ていた
ものの、ゼロックスの上層部からは博士号を持っていないという
理由だけで冷ややかに見られていたのです。とくにXDSのハレ
フスキーとは犬猿の仲であることは既に述べました。
 そのような状況において、テイラーと当時コンピュータ科学研
究室にいた研究者たちが選定したコンピュータは、DEC社のコ
ンピュータ「PDP−10」だったのです。
 このPDP−10はその設計の優秀さから全米の大学が好んで
採用しており、ソフトウェアを互いに交換するためにはPARC
も同じコンピュータを持つ必要があったのです。ところが、PA
RCがPDP−10を導入することは絶対にできない事情があっ
たのです。なぜかというと、ゼロックス社にとってDEC社はラ
イバル会社であり、敵対関係にあったからです。
 実はゼロックス社傘下のXDS社製のコンピュータは、どんど
んDEC社のPDP−10に乗り換えられており、ゼロックス社
の幹部はDEC社を最大の敵として神経を尖らせていたのです。
そのようなときにテイラーは平然とPDP−10をコンピュータ
科学研究室用のコンピュータとして申請したのです。
 当然のことながら、これにはゼロックス本社経営幹部は激高し
て直ちに却下されてしまったのです。そこでテイラーは一計を案
じます。それは、DEC社のPDP−10に限りなく近いマシン
をコンピュータ科学研究室のスタッフで作ってしまうということ
だったのです。
 実際にテイラーの研究室は、ありとあらゆる新技術を総動員し
て、PDP−10に限りなく近いが、本物より高性能なコンピュ
ータ/MAXC(マルチプル・アクセス・ゼロックス・コンピュ
ータ)を作ってしまったのです。どうしてこのようなことができ
たのでしょうか。
 それは、テイラーの研究室にコンピュータ製作のプロが大勢い
たからです。実はBCC(バークレー・コンピュータ・コーポレ
ーション)という会社が1970年11月に倒産し、そこにいた
優秀なエンジニアがテイラーの研究室に移籍してきていたからで
す。中心人物として、次の2人の研究者がいたのです。この2人
の名前は覚えておいてください。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          バトラー・ランプソン
          チャールズ・サッカー
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 BCCは、カルフォルニア大学バークレー校で、ARPAの助
成を受けて時分割処理システム(OS)を作っていたメンバーが
中心となって1968年に設立されています。しかし、経営能力
には欠けていたらしく、1970年11月に倒産してしまったの
です。ちょうど同じ年の9月にテイラーがPARCに着任してい
たので、テイラーが動いてBCCのメンバーを受け入れたという
わけです。
 ついでに述べておくと、このBCCで唯一制作したコンピュー
タがあるのです。「バークレー500」と命名されたのですが、
これもテイラーが動いて、これをARPAに買い上げさせていま
す。後にこのバークレー500はハワイ大学に貸与され、後で述
べる「ALOHAネット」を生み出すことになるのです。
 さて、バトラー・ランプソンは、当時全米の学界でも名前を知
られるほどの若手の研究者でしたが、早口で有名だったといわれ
ます。提案者が少しでも矛盾したことをいうと、機関銃のような
早口で相手をねじふせたといいます。
 チャールズ・サッカーも非常に優秀な若手研究者で、彼は相手
を論破するとき、「ふん、そんなのがうまくいくなら、ブタが空
を飛ぶよ!」というのがクセだったといわれます。しかし、その
判断は的確であり、ランプソンの盟友だったのです。
 コンピュータ科学研究室に新しい研究者を入れるとき、集団で
面接し、議論したといわれます。ここの研究者たちとどの程度議
論できるかによって採否を決めていたのです。そういう集団討議
の場では、ランプソンとサッカーは際立っており、自然に研究室
のリーダー格になっていたのです。
 テイラーの優れていたところは、研究室には中間的な階級構造
を作らず、困ったことがあればすべてテイラーに相談する仕組み
になっていたのです。テイラーはその役割を熱心に行っており、
若い研究者たちにとって、テイラーはこの組織になくてはならな
い存在として尊敬を集めていたのです。
 当時パロアルト研究所の顧問をしていたアレン・ニューウェル
がコンピュータ科学研究室でプログラミングについて講演をやっ
たことがあります。ニューウェルといえば、コンピュータ科学分
野では著名なカーネギー工科大学(後にカーネギー・メロン大学
と改称)の教授だったのです。
 しかし、講演の内容について数多くの質問や提案が飛び出し、
ニューウェルが立ち往生してしまうということがあったのです。
テイラーの研究室のメンバーは、ランプソンやサッカーのように
頭の回転が速く、はっきりとした物言いをする研究者が多く、過
去の業績や権威などにはとらわれず、否定的な意見を述べるとき
は完膚なきまでにけなすことで知られていたのです。
 テイラーの作り出したこういう自由な雰囲気に対してもゼロッ
クス社の経営幹部は眉をひそめていたといわれます。しかし、パ
ロアルト研究所が世界的名声を勝ち取れたのは、こうした若き研
究者たちの後の輝かしい業績であり、そういう優秀な研究者を集
め、のびのびと研究をさせたロバート・テイラーの力があっての
ことなのです。       ・・・・・[インターネット31]


≪画像および関連情報≫
 ・ビル・ゲイツとPDP−10
  19歳でハーバード大学を飛び出し,1975年にマイクロ
  ソフト社を設立。36歳で米国長者番付第1位の史上最年少
  記録を作ることになる天才ハッカー、ビル・ゲイツを育てた
  のはDEC社のミニコン「PDP−10」であったといわれ
  ている。
 ・PDP−10は第2世代の36ビットコンピュータであるが
  世界初の商業用タイムシェアリングシステムとして成功して
  いる。

1691号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:44| Comment(0) | TrackBack(0) | インターネットの歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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