2005年10月05日

パロアルト研究所の胴元方式(EJ1690号)

 パロアルト研究所長ペイクと同研究所システム科学研究室長の
ガニングが、ユタ大学にロバート・テイラーを訪ねたのは、19
70年の夏の頃だったのです。
 彼らはテイラーにパロアルト研究所に来てくれないかと説得し
たのですが、テイラーはパロアルト研究所がXDS(ゼロックス
・データ・システムズ)と深い協力関係があるという話を聞いて
研究所行きに難色を示したといわれます。
 というのは、テイラーは、過去にXDSの前身であるSDS社
長のパレフスキーと確執があったからです。テイラーがARPA
のIPTO部長のときの話です。
 IPTOが援助していたカルフォルニア大学バークレー校のプ
ロジェクトで、SDS社製のコンピュータ「SDS930」上で
時分割処理ができるプログラム(OS)を開発し、成功したので
す。このSDS930というコンピュータは、バッチ処理用のコ
ンピュータであり、時分割処理ができなかったのです。
 そこでテイラーは、SDS社長のパレフスキーをARPAに呼
んで、この時分割処理用のOSを載せた機種を開発してはどうか
というアドバイスをしたのです。ちなみに、そのOSはARPA
の助成による公共の成果であったので、そのOSを使うことには
お金がかからなかったのです。
 しかし、パレフスキーは頭が固く、時分割処理の価値を認めよ
うとしないので、激しい口論となり、交渉は決裂――最後はテイ
ラーが激高して、「出ていけ!」とパレフスキーを部屋の外に追
い出してしまったのです。
 その後、テイラーは時分割処理のOSを搭載したSDSのコン
ピュータを求めているクライアントをSDS側に複数並べて見せ
ることによって、SDSの次機種SDS940にそのOSは搭載
されたのです。しかし、XDSには依然としてパレフスキーが社
長として残っており、テイラーはそんな奴とは一緒にやりたくな
いと考えて、パロアルト行きを渋ったものと思われます。
 しかし、テイラーがXDSに対して不快感を抱いているという
ことを承知したうえで、ペイクはあえてテイラーにパロアルト研
究所入りを要請したのです。そこで、テイラーは、1970年9
月にパロアルト研究所のコンピュータ科学研究室に所属し、研究
者を集める仕事に就くことになったのです。しかし、テイラーの
XDS嫌いは後でいろいろな確執を生むことになります。
 さらにテイラーに関してはもうひとつ問題があったのです。そ
れは、テイラーが博士号を持っておらず、修士号も人文系のもの
であったため、ゼロックス社の社内規約上、コンピュータ科学研
究室の最高責任者に任ずることはできず、副責任者とするしかな
かったことです。
 そこでペイクは、コンピュータ科学研究室の最高責任者にBB
N社に所属していたジェローム・エルカインドを持ってくること
によって、テイラーが実質上の最高責任者として機能できるよう
に配慮したのです。エルカインドならばテイラーとうまくやって
いけると考えたからです。
 しかし、ペイクの気遣いは無用だったといえます。テイラーは
そうした組織上の必要性を自分に有利な条件に変容させる能力に
優れていたのです。それは、コンピュータ研究室にとって対外的
および社内調整などの雑務をすべてエルカインドにまかせ、自分
は副責任者として研究管理に特化することにしたからです。
 ここからテイラーの獅子奮迅の活躍が始まるのです。テイラー
がパロアルト研究所に集めてきた人材は、ARPAネットでつな
がれたコミュニティの中で、すこぶる評判の良い若手の研究者ば
かりだったのです。
 何しろ、普通の研究者であれば、苦吟しながらやっと一行を書
くような難しいプログラミングを、まるで機関銃を撃つようにタ
イピングする者が多くおり、プログラムをいかに短くエレガント
に書くかが競われていたからです。それはまさにハッカーの殿堂
そのものだったといえます。
 テイラーは、こうした若手の研究者に能力を発揮させる優れた
リーダーシップを持っていたのです。システムの若手の研究者た
ちにとってテイラーは、彼がARPAのIPTO部長をしていた
こともあって、その名は知られており、テイラーのチームに入れ
るならと、自らパロアルト研究所入りを志願する若手の研究者も
多かったのです。
 テイラーの率いるコンピュータ科学研究室の会議は、テイラー
によって「胴元方式」と名づけられ、大変有名になったのです。
ここで「胴元」とは、ゲームのルールについて宣言し、そのゲー
ムを仕切る人のことをいいます。どういう会議であったか、喜多
千草氏の本から紹介しましょう。
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 この会議では、発表者が胴元で、議事の進め方については自分
 の好きなように設定できるようになっていた。この胴元の比喩
 は活発な会議を促すためには効果的だったといえよう。なぜな
 ら、大勢のゲームの参加者は、胴元を打ち破らないかぎり儲か
 らないため、皆胴元を負かそうとするのが普通だからである。
 こうして、発表されたアイデアに対して、学問的・技術的に陳
 腐なものは容赦なく退けられ、甘い予測は痛烈に批判されると
 いった切磋琢磨が生まれた。つまり、率直なピア・レビューが
 おこなわれたのである。テイラーは、行き過ぎた攻撃や脱線に
 ついてのみ軌道修正しつつ、この合意形成の様子から、研究の
 採るべき方向性を探ることができた。
  ――喜多千草著、『起源のインターネット』より。青土社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 こうしたパロアルト研究所の開放的な風土から、現代のPCの
原型といういうべき個人用の小型コンピュータが生まれ、同時に
インターネットが育っていったといえるのです。パロアルト研究
所――それは当時、現代のIT環境につながる未来の扉だったと
いってよいと思います。   ・・・・・[インターネット30]


≪画像および関連情報≫
 ・パロアルト研究所の討議方式
  ロバート・テイラーによって開発されたパロアルト研究所の
  討議方式を継承したものと思われる討議方式が、米国のIT
  業界の会議にいくつか残っている。その1つが本シリーズの
  第1回でご紹介したIETFミーティングである。次のアド
  レスをクリックして、「江端さんのひとりごと」をぜひ一読
  していただきたい。
  ―――――――――――――――――――――――――――
      http://www.ff.iij4u.or.jp/~ebata/ietf.txt
  ―――――――――――――――――――――――――――

1690号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:47| Comment(0) | TrackBack(0) | インターネットの歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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