2005年09月28日

パケットの開発者デイビス(EJ1685号)

 昨日のEJで、ARPAネットにまつわる2つの俗説について
述べましたが、今日は2つ目の問題について考えてみます。
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 2.パケット交換システムは、ARPAネットではじめて開
   発された通信技術である。
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 ARPAネットは、確かにパケット交換システムを採用した最
初の通信システムですが、果たしてこのパケット交換システムは
核戦争を避けるために開発されたものなのでしょうか――検証し
てみることにします。
 問題は、パケット交換システムは誰が開発した通信技術かとい
うことです。
 一般的には、次の図式が既に出来上っており、パケット交換シ
ステムの開発者はポール・バランだと思われているのです。
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    ARPAネット=パケット交換=ポール・バラン
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 しかし、少なくとも「パケット交換」という言葉はポール・バ
ランが発明したものではないのです。バラン自身は「分散通信」
という言葉を使っていたからです。それでは「パケット交換」は
誰が開発したのでしょうか。
 「パケット交換」という言葉を使ったのは、英国人のドナルド
・デイビスという人です。デイビスは1924年に英国のウェー
ルズで生まれていますが、小さい頃から神童とか天才といわれて
いたそうです。成績は抜群であり、いくつもの大学から奨学金提
供の申し出があったといわれます。
 1954年にデイビスは奨学金を受けてMITに留学します。
ちょうどその頃米国では、タイムシェアリングが熱狂的に流行し
ていたのです。デイビスは見学できるタイムシェアリングを見て
回ったのですが、米国と英国の違いに気が付いたのです。
 一つは、英国はコンピュータを実務に使うことが一般的であっ
たのに、米国ではOSに興味の中心があり、コンピュータを実務
に使うことには関心がなかったように思えたことです。
 二つは、英国でもタイムシェアリングは盛んだったのですが、
英国と米国には次の違いがあったことです。
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    英国 ・・・ マルチ・プログラミング中心
    米国 ・・・ マルチ・ユーザー   中心
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 つまり、米国の場合は大勢のユーザーが同時に使うことに重点
が置かれていたのに対し、英国のそれはユーザーは少なくてもよ
いが、複数のプログラムが動かせるかどうかに、多大の関心が集
まっていたということです。
 デイビスが41歳になった1965年――ちょうどあのスタン
リー・キューブリックが『2001年宇宙の旅』を撮影していた
同じ年ですが、デイビスはあることから、情報を小さな単位にし
て送れば、インタラクティブな通信システムが可能になることに
思いいたったのです。
 1966年6月、デイビスはこのアイデアを理論としてまとめ
『デジタル通信ネットワークの提案』という論文を書いているの
ですが、その中に次の一節があります。
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 ユーザーはメッセージをシステムが運んで欲しい情報の単位と
 思っているが、ネットワークは自身の必要のために、チャンネ
 ルの容量割当ての際にユーザーのメッセージをより小さな単位
 に分割することがある。この伝送用のより小さな単位のことを
 われわれは『パケット』と呼ぼう。
                  ――ドナルド・デイビス
   ―――脇英世著、『インターネットを創った人たち』より
                         青土社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 実はこれとほぼ同時期にポール・バランも情報を小さな単位に
分けるアイデアを理論化していたのです。デイビスの理論もバラ
ンのそれも次のような構成になっていたのです。
 ネットワークは分散型にし、ある点から別の点へデータを送る
とき、はじめから経路を決めておくのではなく、状況に応じて経
路が選択できるようにする――そして、データはパケットという
単位で細かく分割して送り出し、目的地にたどりついたとき、順
番に再構成するというものです。
 このように、デイビスとバランの考え方は驚くほどよく似てお
り、パケットの長さも同じ128バイトだったのです。違ってい
たのはその目的だったのです。バランの場合は、核戦争下の戦略
指揮統制システムの開発であるのに対して、デイビスは単に新し
い通信ネットワークの開発だったという点です。
 もうひとつ大きく違ったのは、国営電話会社の対応です。既に
述べているように、米国のAT&Tがバランに対し、「通信はア
ナログでやるもの」と決めつけて反対したのに対し、英国のブリ
ティッシュ・テレコムはデイビスに対して好意的であり、実験の
ための資金まで提供しているのです。まさに度量の違いというべ
きでしょう。これにより、英国は小規模ではあるが、パケット交
換ネットワークが構築されていくことになるのです。
 それでは、ARPAはどのようにしてパケット交換システムを
取り入れたのでしょうか。
 ラリー・ロバーツは、バランとデイビスの研究については知ら
ないといっており、ARPAネットには彼らの研究成果を参考に
していないといっていますが、これは明らかにウソなのです。
 なぜかというと、デイビスが国防総省を訪問したとき、ロバー
ツの机の上にデイビスの『デジタル通信ネットワークの提案』が
ボロボロになった状態で置いてあったのをデイビス自身が見てい
るからです。        ・・・・・[インターネット25]


≪画像および関連情報≫
 ・インターネットとARPAネット
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  現在のインターネットのルーツは、1960年代後半の国防
  総省のARPAの資金援助で開発されたネットワーク、AR
  PAネットまでさかのぼることができる。ARPAネットは
  主要な大学と契約企業の研究者間のデータ交換を行うために
  これらの機関のコンピュータを結んだものである。
  ――浜野保樹著、『極端に短いインターネットの歴史』より
                         晶文社刊
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

1685号.jpg
『極端に短いインターネットの歴史』
posted by 平野 浩 at 08:45| Comment(1) | TrackBack(0) | インターネットの歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
喜多千草『インターネット思想史』によると、パケット交換について、ロバーツは初めはデイヴィースの影響を認めていたが、現在では記憶の混乱が起こり始め、他の影響を持ち出している。そのため、この問題は泥沼状態になっているという。
私の理解では他の影響とは、Kleinrockと思う。ロバーツ1986のThe ARPANET & Computer Networksでは(http://www.packet.cc/files/arpanet-computernet.htmlで見られる)、デイヴィースの影響は認めているが、Kleinrockについては、パケット交換の実装に至る過程に関しては触れず1970年以後の著作に触れているのみである。ところが、ロバーツの2001年著作権マークがあるhttp://www.packet.cc/internet.htmlのインターネット年代記では、1961年のKleinrockのパケット交換理論がロバーツにパケットのインターネットへの利用可能性を確信させたと始まる。もっとも1986の文章でもデイヴィースとの関係の記述は用心深いものがあり、2001の年代記では彼の寄与が極小化されたというところか。
Posted by 古稀散人 at 2006年02月08日 20:07
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