2007年12月17日

●対抗心が強い権威主義者/ニュートン(EJ第2228号)

 アイザック・ニュートン――私たちはニュートンについてどの
くらいのことを知っているでしょうか。
 庭でぼんやりとリンゴの木を見ていたら、リンゴが落ちてきた
ことから引力についてのインスピレーションが湧き、万有引力の
発見をした英国の科学者にして偉人――このぐらいのイメージし
かないのではないでしょうか。
 そこで「ニュートンの予言」の内容に入る前に、ニュートンが
どういう人物だったのかについてご紹介したいと思います。彼は
かなり対抗心の強い人物であったといわれます。
 ニュートンについて、科学者として現在定まっている評価は、
次のようなものであり、評価は妥当であると思われます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 アイザック・ニュートンは、自然科学(物理・数学)史上空前
 の大天才である。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ニュートン以前でニュートンに匹敵するのは、アルキメデスぐ
らいなものであり、ニュートン以後にはニュートンに匹敵する科
学者は出ていないといってよいと思います。それほどの大天才で
あることは確かなのです。
 しかし、その人格はどうであったかというと、かなり自己中心
で対抗意識が強く、猜疑心の強い性格の権威主義者であったとい
われているのです。それは、次の3人の科学者との先取権争いに
よくあらわれていると思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
     1.ロバート・フック
     2.ゴットフリート・ライプニッツ
     3.ジョン・フラムスティード
―――――――――――――――――――――――――――――
 今回は、ロバート・フックとの争いについて述べます。
 ロバート・フックは英国の物理学者で生物学者であり、科学の
さまざまな分野で活躍した人です。彼はどのようなことでニュー
トンと対立したのでしょうか。
 1669年〜1672年にかけて、ニュートンは光に関しての
理論を講義録としてまとめています。そのかたわら、反射望遠鏡
を自ら開発したのです。
 この反射望遠鏡はとても評判になり、これがきっかけとなって
1672年にロンドン王立協会の会員に選出されることになった
のです。そこで、ニュートンは自分の光学に関する理論を王立協
会で発表しようとしたのです。
 しかし、ニュートンの論文を読んだロバート・フックは、ここ
に書かれていることは既に『顕微鏡観察誌』で自分が発表済みの
ことであり、目新しいものは何もないと発表に反対したのです。
ロバート・フックは王立協会の創立者の一人であり、初代事務局
長でもあったので、ニュートンの発表は中止になったのです。
 この一件があってから、ニュートンはそれ以後の学会での発表
には非常に慎重になったのです。彼はその頃既に万有引力の法則
を発見していたのですが、その発表の時期をその後慎重に探るこ
とになります。
 よく知られているように、天動説を覆して地動説を唱えたのは
ニコラウス・コペルニクスです。これは「コペルニクス的転換」
といわれるように、当時としては驚天動地のことだったのです。
 しかし、ひとつだけコペルニクスは大きな間違いを冒していた
のです。その間違いとは、惑星が円軌道を描いて運行するという
点です。
 これを修正したのは、ヨハネス・ケプラーなのです。ケプラー
は、惑星の運動を歪んだ円、もしくは楕円であるとしたのです。
もし、惑星の運動を楕円とすると、他の観測結果とも一致するこ
とが証明され、後に「ケプラーの法則」と名付けられたのです。
 ただ、そのときケプラーは「太陽と惑星の間に磁力のような力
が存在する」ことを確認していたのですが、その正体が何である
かはわかっていなかったのです。
 「距離の2乗に反比例する力によって、惑星は太陽に引かれて
いる」――これはケプラーの法則によって導かれる結論です。こ
の力の正体を突き止めたのはアイザック・ニュートンです。ニュ
ートンはその力を「リンゴが落ちる力と同じである」とし、万有
引力と名付けたのです。しかし、この内容にもロバート・フック
は自分が先であるといい出してニュートンを怒らせます。
 ハレー彗星で有名なエドモンド・ハレーは、ニュートンよりも
14歳も若いのですが、ニュートンをしばしば訪ねて指導を受け
ていたのです。ハレーは、ロバート・フックとの対応でいら立つ
ニュートンをなだめ、資金を提供するからニュートンに万有引力
の法則を論文にまとめるよう働きかけたのです。
 そのようにして完成したのが、『自然的哲学の数学的諸原理』
――「プリンピキア」なのです。「プリンピキア」は1687年
に刊行されたのです。
 その後もロバート・フックは、ニュートンに対し、いろいろ反
対を唱えていたのですが、1703年に死亡してしまい、フック
との先取権争いはニュートンが勝ったのです。そして、フックの
死亡した年にニュートンは王立協会の会長に就任するのです。
 ニュートンが王立協会の会長になり、1705年に爵位を受け
て、サー・アイザック・ニュートンになると、彼は死ぬまでその
地位に居座り続けたのです。ニュートンは権威主義者であり、彼
が会長になると、王立協会には自由な雰囲気がなくなってしまっ
たといわれているのです。
 何もかも規則づくめで堅苦しいものになり、協会の細部の決定
――例えば引越しのことまで、ニュートンは会長として自分の意
見を通したのです。ニュートンは最後まで自分の業績にケチをつ
けたフックの決めた規則をすべて変更するということまでやった
のです。ニュートンの死後、協会長になったハンス・スローンは
その規則を全廃しています。 −−[ニュートンの予言/06]


≪画像および関連情報≫
 ・ロバート・フック(1635〜1703)
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ロバート・フックは、イギリスの物理学者、生物学者。オッ
  クスフォード大学に学び、ロバート・ボイルの助手となる。
  科学の様々な分野で活躍した。オックスフォード大学の科学
  者たちは、王政が復古した1660年、ロンドンに移り王立
  協会を作る。フックもこれに参加し、1662年に実験係と
  なる。               ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

ロバート・フック.jpg
posted by 平野 浩 at 04:27| Comment(0) | TrackBack(0) | ニュートンの予言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/73224496
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック