エルヴィスは、ラスヴェガスでの仕事が成功し、仕事が非常に
忙しくなっていたのです。そのため、彼はグレースランドの邸宅
に妻のプリシラと娘を残して、長期間にわたってツァーに出るこ
とが少なくなかったのです。
南部社会の習慣として、女性は保護されるべき存在であり、自
らのキャリアを追求するべきではなく、結婚して子供を育て家を
守る――これはごく当たり前のことであり、エルヴィスはそれを
問題があるとは思っていなかったのです。それでもラスヴェガス
の公演のときは、初日と最終日は妻の参加を認めており、それは
大変寛大な措置をとっていると思っていたようです。
このように書くと、何事にもレディーファーストの国である米
国らしくないと考えるかも知れませんが、少なくとも5O年代の
米国の南部社会ではそれが当然のことだったのです。しかし、こ
れは明らかに差別であり、それがプリシラにとっては大いに不満
だったのです。
人種差別撤廃運動が盛んになるのと平行して、それまで社会的
に一人前とは認められず、無意識のうちに差別を受け入れてきた
女性が自らのポジションに疑問を持って、少しずつ声を上げ始め
ていたのです。1963年には、女性の新しい生き方を説いた次
の本が話題になり、大勢の女性に読まれています。
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ベティー・フリーダン著、『新しい女性の創造』
――結局のところ女性たちは、家庭という「居心地の良い強制
収容所」に囚われているだけなのではないか――
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それに、米国社会の混乱は収まる気配はなく、要人暗殺が繰り
返され、黒人たちによる暴動が頻発し、反戦運動がいたるところ
で起こっていたのです。
さらにそうした不穏な動きは大勢の若者が集結する野外ロック
・コンサートと一体化して盛り上がることになります。1969
年8月、ニューヨーク州のウッドストックから40マイル南西の
べセルで開催された『ウッドストック音楽祭』は、1960年代
のヒッピー文化のクライマックスともいえる祭典だったのです。
そこでは、既成社会の体制や秩序、モラルを否定して、反社会
的・脱社会的思想を持つ独自の政治的声を持つ集団が形成されつ
つあったのです。
その数実に50万人――ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジ
ョプリン、ジョー・コッカー、ジョーン・バエズ、ザ・グレイト
フル・デッド、ザ・フー、ザ・バンドなど、反戦フォークのスー
パースターやヒッピー文化を象徴する大物ロッカーやグループが
参加したのです。
彼らは昼夜ぶっとおしで演奏されるロックを聴きながら、マリ
ファナ、LSDなどのドラッグに酔いしれたのです。そしてこう
いう若者たちによる野外コンサートが各地で開かれ、それが次第
に政治的な色彩を帯びるようになっていったのです。
こうした彼らに比べると、エルヴィスはまともな体制派の音楽
家であるといえます。そのため、エルヴィスのところには何者と
も知れぬ者から脅迫状が届けられたり、舞台で暴漢に襲われると
いうことも一度ならず起こり、彼を不安にさせたのです。
エルヴィスは自分の身を守るため、自ら空手を習い、プリシラ
にも空手を習わせたのです。もっともこれがエルヴィスにとって
痛恨の極みともいうべきことに結びつくことになります。しかし
空手を習得したことで、それをラスヴェガスのショウにも取り入
れることを思いつき、これで大当たりをとっています。
さらに、かつてやっていたようにメンフィス・マフィアを復活
させ、自分の身に回りに屈強の男を配置して、自分をガードさせ
るとともに、大量の拳銃を買い込み、異常なほど警戒心をつのら
せていたのです。
こういうときにエルヴィスは突然突飛な行動を行います。それ
は、時の大統領ニクソンに対して手紙を書いて会見を申し入れた
のです。もともと政治的な行動をとらないエルヴィスなのに、一
体どういう心境だったのでしょうか。大統領宛の手紙の最初の部
分をご紹介します。
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私の名はエルヴィス・プレスリー、あなたを崇敬し、あなたの
政権に心より敬意を抱く者です。数週間前、パーム・スプリン
グスでアグニュー副大統領と話をする機会があり、その際にこ
の国の状況について私の懸念を申し述べました。ドラッグ・カ
ルチャー、ヒッピー分子、SDS――民主社会のための学生運
動、ブラック・パンサー党などですが、彼らは私を敵だとも、
彼らが呼ぶところの体制だともみなしていません。実は、私は
その体制なるものをアメリカと呼び、それを愛しています。閣
下殿、私はこの国を助けることができるし、助けたいと思って
います。 ――前田絢子著/角川選書/413
『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』より
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意味がはっきりしない点がありますが、要するに、政府の反ド
ラッグ・キャンペーンに役立ちたいとということなのです。この
手紙を読んだホワイト・ハウスの関係者は、エルヴィスとニクソ
ンの面談をアレンジし、短時間ながらニクソン大統領と直接面談
させることに成功したのです。
1970年12月30日、エルヴィスはワシントンD.C.に
行き、ニクソン大統領と会見したのです。さらにFBI長官エド
ガー・フーヴァーにも会っています。その結果、彼が手に入れた
のは、なんと「麻薬取締官のバッジ」なのです。
これによってエルヴィスは、自分はある使命を与えられた選ば
れた人間であると思い込むようになったのです。いま考えると、
この頃からエルヴィスは、かなり精神的に追い詰められていたと
いうことがいえます。ニクソン大統領との会談はエルヴィスがこ
ういう精神状態のときに行われたのです。[エルヴィス/29]
≪画像および関連情報≫
・『ウッドストック音楽祭』/1969年8月15日
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67年のモンタレー・ボップ・フェスティバル以来、アメリ
カだけでも何十という野外フェスティバルが開催されたが、
その中でも最も記憶されているのは、ニューヨークの郊外で
開催され、約30組のバンドが参加したウッドストック・フ
ェスティバルで間違いあるまい。今でも野外フェスといえば
誰しも「ウッドストック」を引き合いに出す。大がかりな野
外フェスを企画するたびに主催者側は「第二のウッドストッ
ク」とか「ウッドストックの再来」とか銘打って宣伝したが
るのも、いかにウッドストックの影響力が強かったかを物語
っている。
http://rock-cd.info/history/1969woodstock.html
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2007年11月30日
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