2005年09月14日

ジョン・マッカーシーとTSS(EJ1677号)

 ジョン・マッカーシーは、1955年から58年まで、ダート
マス大学で助教授をしていたことがあります。当時、コンピュー
タは途方もなく高価なものであり、学者といえども触ることはも
ちろんのこと、近寄ることすら困難だったのです。
 このときMITには、IBMが寄贈した「IBM704」とい
うコンピュータがあったのですが、これはバッチ処理を目的とし
て作られたコンピュータだったのです。
 しかも、IBM704は、寄贈を受けたとはいえ、MITが独
占的に使っていたわけではないのです。MITが8時間、IBM
の事業所が8時間、ダートマス大学を含むその他東海岸の大学が
8時間というように時間を区切って使っていたのです。
 マッカーシーは考えたのです。ダートマス大学にいたのでは、
8時間をさらに他の大学と分け合うことになり、いつ順番が回っ
てくるかわかったものではない――そのためにはMITの教員に
なるのが一番良いと考えたのです。
 それからもうひとつ、IBMの連中と仲良くなる必要があると
考えたのです。そういうわけで、たまたまIBMの技術者がダー
トマス大学を訪問したときに、マッカーシーは食事と酒をおごっ
て饗応したのです。まさに目的のためには手段を選ばずです。
 その効果はすぐにあらわれたのです。IBMからIBMポーキ
プシー事業所に招待されたからです。マッカーシーはそこでコン
ピュータのプログラミングを身につけてしまいます。
 1958年に彼はこのアイデアを実行に移し、MITの助教授
になるのです。そして、同年中にLISP言語を開発し、次の論
文を発表します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   「記号表現の機能関数と機械によるその計算T」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 私は一時人工知能(AI)の研究をやっていたことがあり、こ
のLISPも少しかじったことがありますが、とても難しい言語
です。LISPのプログラムはやたらと括弧が多いので、「括弧
のお化け」といわれていたのです。
 LISPに限らず人工知能のプログラムは複雑なので、大きな
システムを構築するときは、何人ものプログラマーがプログラミ
ングやそのデバック作業――「バグ」という名のプログラムのミ
スを取り除く作業に取り組む必要があります。これに途方もない
時間がかかるのです。
 そのためには、1台の大型コンピュータを複数のプログラマー
で同時に使い、作業に取り組む環境が必要なのです。この環境こ
そタイムシェアリングなのです。もちろんコンピュータは1人1
ジョブしかできないのですが、コンピュータ側でその処理時間を
複数のユーザに振り分けて処理を行うのです。
 そうすると、コンピュータを使うユーザは、あたかも一人でコ
ンピュータを使っているような感じになれるのです。これがマッ
カーシーの考えた時分割処理――タイムシェアリング・システム
(以下、TSS)なのです。
 MITの学内でもこのマッカーシーのアイデアに共感を持つ学
者が増えて、自発的にTSSの研究がはじまったのです。その中
で、MITコンピュテーション・センターのフェルナンド・コル
バトがIBM704用に開発したCTSS――コンパチブルTS
Sは注目に値します。
 コルバトは、1961年11月にCTSSのデモをしているの
ですが、CTSSはMITコンピュテーション・センターで19
73年まで使われていたのです。
 MITの上層部もTSSの重要性は認め、1960年から長期
コンピュータ研究グループ(LRCSG)を発足させ、MITの
将来のコンピュータ資源のあり方を研究させたのです。
 LRCSGは、上下2つの委員会に分かれていたのです。上部
委員会の委員は、ほとんど古典的な理論の専門家ばかりであった
のに対して、下部委員会は、マッカーシーをはじめ、フェルナン
ド・コルバト、ジャック・デニス、ウェスリー・クラークなどの
そうそうたる専門家が結集していたのです。
 下部委員会における実権はマッカーシーが握っており、そのた
め、マッカーシー委員会と呼ばれるまでになったのですが、この
委員会の結論は、「MITは巨大なTSSを構築すべし」という
ものだったのです。
 しかし、これには莫大な資金がかかり、上部委員会では慎重論
が多数を占めたのです。そこにIBMがある提案をしてきたこと
が原因で、MITはTSSの自力開発を断念してしまうことにな
ります。そのIBMの提案とは次のようなものです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  新コンピュータIBM360の完成まで待ってもらえれ
  ば、MITに新しいコンピュータのTSSを寄付する。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 MITはこの提案に乗ってしまったのです。しかし、IBMシ
ステムの開発は大幅に遅れ、別件でMITとIBMの間で法的な
トラブルが発生し、寄付の話は白紙に戻ってしまったのです。
 1962年、このようないきさつに失望したマッカーシーは、
MITを飛び出し、西海岸のスタンフォード大学のコンピュータ
科の教授になり、独自のAI研究を推し進めることになります。
このマッカーシー――よくよく彼にはMITは縁がなかったとい
えます。なぜなら、これほどの学者でありながら、MITでは助
教授にしかなれなかったのですから。
 1962年にIPTOの部長に就任したリックライダーは、こ
のMITのTSS開発計画に資金提供を申し出るのです。しかし
IPTOの資金はあくまで軍事目的に沿ったものである必要があ
り、TSSはその目的には入っていなかったのです。しかも、T
SSの研究には巨額の資金が必要なのです。
 そこで、リックライダーは、MITに「MAC計画」というプ
ロジェクトを立ち上げさせるのです。 ・[インターネット17]


≪画像および関連情報≫
 ・IBM704について
  1959年、日本の気象庁でもIBM704を導入し、翌年
  には米国に次いで数値予報を開始。IBM704は、日本政
  府が行政用に導入した初めてのコンピュータであり、導入当
  時は大きな話題となった。ただし、その性能は今日のパーソ
  ナルコンピュータにも遠く及ばないため、当時の数値予報結
  果は現場の予報官の使用には耐えず、研究開発の段階が長く
  続いたのである。しかし、気象庁は5〜8年毎に最新のコン
  ピュータの更新を繰り返し、数値予報システムの開発・改良
  を図った。この間、気象衛星等による観測データの充実もあ
  り、数値予報の精度は格段に向上した。今日では数値予報シ
  ステムなしに予報業務を語れない。

1677号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:40| Comment(0) | TrackBack(0) | インターネットの歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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