2005年09月08日

ワールウインド計画と北米防空システム(EJ1673号)

 空軍の後ろ盾のある新設の心理音響学研究所というと、いかに
も立派な研究施設のように聞こえますが、実は間借りしたビルの
地下1Fにあったのです。そして、そのビルというのは、ビクト
リア様式とゴシック様式を混ぜたような前時代的なメモリアル・
ホールの建物であり、とくに地下1Fはダンジョン(地下牢)と
いわれる狭く薄暗い環境であったといいます。
 このダンジョンでリックライダーは、ひたすら軍事研究に打ち
込んだのです。例えば、高度1万メートルを飛行する重爆撃機B
−17やB−24の機内での搭乗員の会話の受ける影響の研究な
どがそうです。
 リックライダーは、心理音響学研究所でのこうした研究のかた
わら、ハーバード大学の講師をしたり、当時MITで行われてい
た「潜水艦の探知の研究」や「防空研究所の設立研究」などの軍
事研究にも積極的に関わっていたのです。
 MITの防空研究所の設立計画――この計画は1951年8月
にMITリンカーン研究所として実るのですが、これに関しては
少しその背景について述べる必要があると思います。
 そもそも防空研究のはじまるきっかけは、1949年8月にソ
連が原爆開発に成功したことによるのです。北極を越えてソ連の
爆撃機が核攻撃を加えてきたらどうするか――この危険性をいち
早く米空軍に指摘したのは、空軍の科学顧問を務めるMITのジ
ョージ・バレー教授だったのです。このバレー教授こそ第2次世
界大戦中に爆撃用のレーダー照準器を開発した人なのです。
 空軍はただちに防空システム技術委員会を作り、バレー教授を
を委員長に任命します。最初に委員会は、ソ連の長距離爆撃機の
北米侵入阻止率を試算したところ、わずか10%という結果が出
たのです。ほとんど阻止不能という結論です。
 そこで委員会は、北米防空システムを実現するために防空研究
所の設立を提案し、それを受けて空軍は、MITに防空研究所を
設けることを決定します。この設立をめぐってMIT内にいろい
ろ反対意見が出たのですが、1951年にMITリンカーン研究
所は設立されることになるのです。
 それまでMITにおいて軍事研究に深く関わっていたリックラ
イダーは、1950年にMIT音響研究室に移籍し、1951年
にリンカーン研究所ができると同研究所の研究員になります。そ
して、防空指揮統制システムのレーダー画面にどのような情報を
表示させるかという研究に没頭することになります。
 さて、バレー委員会はもうひとつ重要な提案をしています。北
米防空システムを実現するにはコンピュータが必要であるとして
「ワールウインド・コンピュータ」を推薦したことです。ところ
で、この「ワールウインド・コンピュータ」とは何でしょうか。
 第2次世界大戦後、MITはバレー教授の率いるレーダーの分
野ではほとんど独走していたのですが、デジタル・コンピュータ
の分野では大きく遅れていたのです。
 その一番の原因はヴァネヴァー・ブッシュの存在です。彼はア
ナログ・コンピュータにこだわっており、デジタル・コンピュー
タにはまるで意を払わなかったのです。
 しかし、MITにとって救世主がいたのです。その救世主とは
MITのサーボ機構研究所にいたジェイ・フォレスターという人
物です。ジェイ・フォレスターは1918年の生まれであり、ク
ロード・シャノンよりも2歳年下であったのです。
 1944年12月、MITサーボ機構研究所は海軍とフライト
・シミュレータの委託研究を契約するのですが、この研究がフォ
レスターに回ってきたのです。これは、アナログ・コンピュータ
を使うことを前提にしたシステムです。
 しかし、研究を進めるうちにフォレスターは、リアルタイムで
動作するフライト・シミュレータを作るにはアナログ・コンピュ
ータでは無理であるという結論に達したのです。1946年1月
フォレスターは海軍にデジタル・コンピュータの採用を提案し、
3月に正式に承認されるのです。そして、この計画は「ワールウ
インド計画」と呼ばれるようになったのです。この「ワールウイ
ンド」には次の意味があります。
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         Whirlwind ―― つむじ風
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 しかし、「ワールウインド計画」は途方もなくお金がかかった
のです。当初の見積もりでは2年間で87万5000ドルだった
のですが、1946年3月のスタート時点では190万ドルに増
加し、次の年の1947年には300万ドルに膨れ上がるという
具合です。しかも、それから15年間の費用見積もりは実に10
億ドルというのですから、発注者の海軍は唖然としたのです。
 これがいかに凄い数字であるかは、ペンシルヴァニア大学開発
のENIACが60万ドルしかかかっていないことを知れば十分
でしょう。
 海軍はこの金額を聞いてすっかりやる気をなくし、フォン・ノ
イマンが開発を進めるIASコンピュータに乗り換えようとしま
す。しかし、このときワールウインド・コンピュータは、ほぼ完
成していたのです。
 それは当時としては驚くべきほど高速であり、しかも、このコ
ンピュータの最大の特色は、対話型ディスプレイを持つ画期的な
ものであったことです。当時のコンピュータには対話型ディスプ
レイを持つのはなく、かくしてMITはデジタル・コンピュータ
においても確固たる地位を築くことになるのです。
 バレー委員会の推薦のお陰で「ワールウインド計画」は存続が
決まります。1950年6月25日の朝鮮戦争の勃発もこの計画
の追い風となります。この計画は、MITサーボ機構研究所から
独立し、MITデジタル・コンピュータ研究所に昇格します。
 このワールウインド計画の対話型コンピュータは、ヒューマン
・インタフェースに関心を持つリックライダーに大きな影響を与
えることになるのです。  ・・・・・・[インターネット13]


≪画像および関連情報≫
 ・ワールウインド・コンピュータの概要
  ―――――――――――――――――――――――――――
  3300本のストレージ管、8900個のクリスタル・ダイ
  オードを使い、巨大な二階建ての建物に収容されていた。建
  物の地下に大きな電源ユニットがあり、一階にストレージと
  通信ユニット、二階には中央処理装置とコンソール、CRT
  (ディスプレイ)が並んでいた。屋根には空調がついていて
  コンピュータの吐き出す膨大な熱を逃がしていたという。い
  わば建物全体がコンピュータの巨大な筐体であった。
   ―――脇英世著、『インターネットを創った人たち』より
                         青土社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

1673号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:49| Comment(0) | TrackBack(0) | インターネットの歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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