2007年10月30日

●音楽から崩れ去った人種差別(EJ第2195号)

 1951年のことです。カンザス州トピーカというところで、
オリバー・ブラウンという黒人の溶接工が、ある小さな裁判を起
こしたのです。
 それはブラウンの自宅の近くの学校が白人専用であるため、娘
をバスで遠くの黒人学校に通わせなければならなかったのですが
これは不当であるとして訴えたのです。訴えた先は、トピーカ市
教育委員会です。
 プレッシー判決から既に50年経っていましたが、もちろん簡
単には決着がつかず、最高裁までもつれたのです。プレッシー判
決の違法性を内心感じていた当時の最高裁判事たちは、いずれも
裁決には逃げ腰だったのです。なぜなら、どのように判決を下し
ても世間の大きな批判を浴びることは必至だったからです。
 ところがここにアクシデントが起きるのです。最高裁判所長官
のフレッド・ウイルソンが心臓麻痺で急死してしまったのです。
そこで当時の大統領アイゼンハワーは、新最高裁判所長官として
アール・ウォレンという人物を任命したのです。
 アール・ウォレンは、ノルウェー系の米国人で、1891年に
カルフォルニアに生まれています。家は貧しく肉体労働で稼いだ
お金でカルフォルニア大学バークレー校を卒業し、その後、共和
党左派の政治家としてカルフォルニア州知事にまで上り詰めたの
です。当時最も勢いのあるカルフォルニア州を率いる大物知事と
して政治力を発揮したのです。
 しかし、この知事時代にアール・ウォレンはある失政をしてい
るのです。彼は1943年にカルフォルニア州知事になっている
のですが、当時は第2次世界大戦中だったのです。そのとき、カ
ルフォルニアに住む10万人を超える日系人から土地や建物を奪
い、収容所に送り込む命令の書類に積極的にサインしたのです。
 やがて彼はこれがとんでもない間違いであったことに気がつく
のですが、そのことによって生涯苦しむことになります。人種差
別はやってはならない――そう思い知ったときにアイゼンハワー
大統領から最高裁判所長官を命ぜられたのです。彼はこれが自ら
犯した罪を償うために神が与えてくれた試練として受け止め、最
高裁判所長官を引き受けたのです。
 アール・ウォレンは、アイゼンハワーが軍隊とホワイトハウス
以外は知らない超エリートであったのに対し、カルフォルニアと
いう土地を治める州知事という仕事をやったことで、庶民の生活
も黒人の生活もよく実態を掴んでいたのです。
 したがって、現在係争中の裁判が明らかにトピーカ市教育委員
会が違憲であることは、アール・ウォレンはよくわかっていたの
です。しかし、50年前のプレッシー判決のようにならないよう
にするのはどうすべきかを考えたのです。
 一番重要なことは、最高裁の判事全員が違憲判決に賛成し、そ
れがアメリカ合衆国の総意であることを示すことであると考えた
のです。そうしないと、プレッシー判決の二の舞になると思った
のです。
 そこで、アール・ウォレン長官は違憲判決反対の最高裁判事に
1人ずつ説得に乗り出したのです。彼は「法律は、 『この日この
時』と無縁であってはならない」と説き、時代は確実に変わって
いるのだということを反対する判事たちに訴えたのです。
 この異例ともいえる最高裁長官による説得を受けて、自分の在
任中はことを起こしたくないと考えていた判事たちは大きく心を
動かされたのです。
 こうして、米最高裁は1954年5月17日に次の判決を下し
たのです。これがブラウン判決なのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 我々は、公共教育の場における「分離すれども平等」の原則は
 成立しないものと結論する。教育施設を分離させる別学自体が
 本質的に不平等だからである。      ――ブラウン判決
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、このブラウン判決がさらなる人種差別を助長すること
になるのです。南部出身の80%にわたる101名のアメリカ合
衆国連邦議員は、この判決を無効ならしめるあらゆる合法手段を
取るとする「南部宣言」を発表し、マッシブ・レジスタンス――
大規模な抵抗をするという意思表示までしたのです。
 南部の州議会は、人種共学を阻止する州法を次々と制定し、南
部の各地で人種統合を阻止する市民組織シティズンズ・カウンシ
ルが結成され、大規模な反対運動が巻き起こったのです。
 また、ブラウン判決が人種別教育廃止の実施時期と方法を明確
にしていないことを口実に分離教育を継続し、また、公立学校以
外の公共の場所、例えばレストランやトイレ、乗り物などの分離
を禁じていなかったことを利用してそういう分離を継続して残し
たのです。そして、どうしても黒人の入学を認めざるを得ないと
きは、州知事はその学校に閉鎖命令まで出したというのです。そ
して、そこに通っていた白人たちには私立学校に転校させている
のです。そこまでして人種共学に断固反対したのです。
 しかし、この米国南部のマッシブ・レジスタンスによっても止
められなかったものが音楽なのです。ブルース歌手でディスク・
ジョッキーのB・Bキングは次のようにいっていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 南部の白人は、もしもラジオの電波にも人種間隔をおこなうこ
 とができれば、やったと思う。
―――――――――――――――――――――――――――――
 南部の白人もメンフィスの市当局も飛び交うラジオを黙らせる
ことはできなかったのです。街のレコード店では黒人の作品を含
めてあらゆる音楽を並べたのですが、誰もそれを阻止することは
できなかったのです。メンフィスのポプラ通りのレコード店「ポ
プラ・テューンズ」には、とくにあらゆるレコードが揃っており
あの2人のフィリップスも、エルヴィスもこの店の常連だったと
いわれています。このようにして、人種差別は音楽から崩壊して
いったのです。          ――[エルヴィス/07]


≪画像および関連情報≫
 ・アール・ウォーレン元米最高裁長官について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  アール・ウォーレンは、カルフォルニア州地方検事および第
  30代カルフォルニア知事――1943年〜1953年、最
  高裁長官――1953年〜1969年まで務めた。彼の任期
  中のアメリカ合衆国では、人種差別、公民権運動、政教分離
  および警察逮捕手続き問題など様々な社会問題が憲法問題と
  して判断の対象となったが、ブラウン判決を始めとして、リ
  ベラルな判断を下すことにより20世紀後半以降のアメリカ
  の社会を法的アプローチによって根本的に変革することとな
  った。20世紀アメリカの法律家の中では最大の功労者とさ
  れる。               ――ウィキぺディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

アール・ウォレン元米最高裁長官.jpg
posted by 平野 浩 at 04:25| Comment(1) | TrackBack(0) | エルヴィス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
義理両親が、昨年春までトピカに住んでいました。
義父はアフリカン・アメリカン、義母は白人(英国人)です。
このエピソード、黒人と白人のトイレすら別だったこと、
一家揃って外出することなど出来なかったこと、
危険を感じることも多かったこと…を義母に聞かされています。
今日、黒人大統領が誕生しました。
わたしの夫と同じく、黒人と白人のハーフの大統領です。年代も一緒。
音楽から差別が崩れていった…なるほど、と思いました。
でも、ポップ・オブ・ザ・キングのマイケル・ジャクソンがあんなにも酷い扱いを受けていることが、悲しいです。

お気に入りに登録させていただきました。
また読ませていただきに、伺います。
大変参考になる記事、ありがとうございました。
Posted by ねえねえ at 2009年01月21日 11:19
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