2005年08月26日

ブッシュと原子爆弾製造計画(EJ1664号)

 ヴァネヴァー・ブッシュが、いかにして科学界をまとめ、ND
RC(全米防衛研究委員会)のトップになったか――これについ
て、もう少し詳しく述べる必要があります。
 1930年代の後半のことです。ヨーロッパでは戦争の危機が
深刻の度を増していたのです。そのとき米国では、4人のスーパ
ー科学者が集まって、科学界が国の国防上の要請にどう応えるべ
きかを討議していたのです。その4人の科学者とはヴァネヴァー
・ブッシュを含む次のメンバーです。
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 カール・コンプトン ・・・・・・・・・・・ MIT学長
 ヴァネヴァー・ブッシュ ・・・・・・・・ MIT副学長
 ジェームス・コナント ・・・・・・ ハーバード大学学長
 フランク・ジュウェット ・・・・ベル電話会社研究所所長
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 ヴァネヴァー・ブッシュを含む4人組は、いずれも科学界の超
エリートだったのです。MIT学長のコンプトンは、ハイテク王
国米国を支える現在のMITの基礎を築いた人物です。ハーバー
ド大学学長のコナントは戦後、初代のドイツ大使として活躍し、
政財界に名を残し、ハーバード大学の傑出した学長として語り草
になったほどの人物です。それにベル研究所のジュウェットは、
1939年に科学アカデミー総裁として科学界のとりまとめ役と
して活躍した人物です。
 この4人組の中心人物はもちろんヴァネヴァー・ブッシュその
人です。彼らは、学者は象牙の塔に閉じこもっていては駄目であ
り、計り知れない価値を持つ科学の成果を社会の現実的な役に立
てなければならない――たとえそれが戦争のための兵器を作るた
めであっても、必要ならやらざるを得ないと彼らは考えて議論を
したのです。ブッシュはこの4人組で科学界をまとめ、何とか、
大統領にものがいえるシステムを作りたい――このように考えて
いたのです。
 1939年にブッシュはMITの副学長を辞任し、カーネギー
研究所に移籍します。カーネギー研究所は、カーネギー財団の豊
富な資金力をバックに科学振興をはかることを重要な任務として
おり、政府の科学政策に大きな影響力を与える役割を担ってきた
のです。ブッシュとしては、かねがね政治へのアプローチの必要
性を感じており、この移籍はそのための最初の一手ということが
できます。
 ワシントンにくると、ブッシュは国家航空諮問委員会の議長に
就任します。この委員会では、防空などの航空問題について、軍
人と科学者が議論し、結論をまとめて、大統領に勧告する役割を
担っているのです。
 そして、1939年の春、科学アカデミー協会は、例の4人組
のひとりであるベル研究所のフランク・ジュウェットを総裁に選
出します。もちろん、ブッシュら4人組が周到に根回しした結果
なのです。科学アカデミー協会は、科学界をとりまとめるかなめ
の組織なのです。
 軍、政府、産業界を組織化する――そのためには、肝心の科学
界をまとめる必要があるます。そこで、その布石として、科学ア
カデミー協会にジュウェットを送り込んだのです。
 1940年6月、ブッシュはハリー・ホプキンズ大統領補佐官
の斡旋によって、はじめてルーズベルト大統領に会います。会見
時間はたったの10分――この会見でNDRCの設立とブッシュ
の委員長就任が決まったのです。ブッシュによる事前の十分な根
回しによって、大統領との会見は儀式的なものになったのです。
 ブッシュはなぜNDRCの設立を訴えたのでしょうか。
 その目的のひとつに、各大学や海軍の研究所において、ばらば
らに行われていた核分裂研究を一元的に把握することがあったの
です。そして、NDRCが発足すると、ウラン諮問委員会はその
傘下に入ることになったのです。
 しかし、ブッシュがNDRCの委員長になり、核分裂研究を一
元管理するようになって、原子爆弾の開発はかえって遅れること
になります。それには難しい問題がたくさんあったからです。
 1940年4月、ドイツ軍はデンマークやノルウェーに侵攻し
第2次世界大戦が始まります。6月14日にドイツはパリを陥落
させ、フランスを手中におさめます。危機的な状況はますます深
刻化の度合いを深めていたのです。
 1941年6月にOSRD(科学研究開発庁)が設けられ、N
DRCはその下部組織になります。ブッシュはOSRDの長官に
就任し、NDRCは4人組のひとりであるハーバード大学学長の
コナントが務めることになったのです。
 もはや研究をしているときではなく、開発に重点を置く時期に
なったからです。OSRDは300を超える研究機関と契約を結
び、6000人を超える科学者を動員し、あらゆる兵器の製造に
着手したのです。ブッシュの体制整備がものをいったのです。
 しかし、当時の米国は他国の武力紛争への介入を禁ずる中立法
が制定されており、強い厭戦ムードもあったのです。しかし、軍
や政府は、このままでは済まないことを確信していたのです。
 ブッシュとしては、そういうときに備えて、少なくとも意思決
定はスムーズに行える体制だけは作っておきたいと考えて、ND
RC委員長のコナントを通して提出された計画書と予算案をOS
RDのブッシュ長官が裁可できるようにしたのです。しかし、原
子爆弾の製造に関しては、ブッシュは最後まで悩みぬくのです。
 しかし、1941年11月17日、原子爆弾製造に関する計画
書がNDRCから提出されます。ブッシュは27日にこの原爆開
発計画を大統領に提出し、原爆製造は決定されたのです。
 1941年12月8日(日本時間)、日本軍による真珠湾爆撃
によって、米国の厭戦ムードは吹き飛び、米国も戦争に突入する
ことになったのです。そして、大統領は原爆開発のための試験炉
建設を承認し、「代替燃料計画」の名前で、原爆製造の方向に大
きく舵が切られたのです。 ・・・・・・[インターネット04]


≪画像および関連情報≫
 ・1940年5月にブッシュが科学アカデミー総裁のジュウェ
  ットに送った手紙の内容
  ―――――――――――――――――――――――――――
   ひとつ、困っていることがある。それはとてつもなく重要
  なことかも知れないし、また、そうでないかもしれない。ウ
  ランの核分裂のことだ。昨年の夏は、ウランの核分裂によっ
  てつくられる原子爆弾の顛末がどうなるか知りたいと思って
  いたし、いまでもそうだ。しかし、事態は決定的に切迫して
  いる。この国でできることがあるとして、何をするべきだろ
  うか。
   もうひとつは何もしないことだ。平和時の穏当な時期だっ
  たら、私がとるのはこのやり方だ。そうでないいま、何もし
  ないということは、現在の研究の進展をあえて無視するに等
  しい。もちろん、すべてはたち消えになるかもしれない。誰
  かが、連鎖反応の障害を発見する可能性はある。しかしなが
  ら、昨年はそうしたことは起こらなかった。たち消えになる
  のをただ座して待っているわけにはいかないように思う。
  歌田明弘著、『マルチメディアの巨人/ヴァネヴァー・ブッ
  シュ/原爆・コンピュータ・UFO』より
  ―――――――――――――――――――――――――――

1664号.jpg
posted by 平野 浩 at 09:01| Comment(0) | TrackBack(0) | インターネットの歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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