エルヴィスを見出し、エルヴィスを世界的なエンタティナーに
育てた人物であるサム・フィリップスとはどういう人物だったの
でしょうか。
サム・フィリップスは、アラバマ州北部のフローレンスの大き
な農場主の8人兄弟の末子として生まれたのです。彼にとって幸
せだったのは、そういう環境から幼いときから、その農場で働く
黒人労働者の歌声を聴きながら育っているという点です。
とくにその農場で働く下男のサイラス・ペインという盲目の黒
人からいつもブルースを聴かされていたので、ブースの虜になっ
てしまっていたのです。このような経験から彼は音楽を聴く確か
な耳を育てていたのです。
幼いときから弁護士になることを目標にしていたのですが、高
校生のとき父親が亡くなると、弁護士になる夢をあきらめ、それ
まで通っていたハイスクールも中退してしまうのです。
たまたま高校のときマーチング・バンドのリーダーをしていた
関係から、音楽に関する職業に就きたいと考えて、放送局に入社
し、アナウンサーや放送エンジニアとして働き出したのです。
故郷から南に6マイルのマッスル・ショールズの町の放送局の
雑用係を振り出しに、アラバマ州ディケイターのWHSLを経て
テネシー州ナッシュヴィルのWLACというラジオ局で経験を積
んだあと、1946年の夏、23歳のときに妻と2人の息子を一
緒にメンフィスのラジオ局WLECに移ってきたのです。
メンフィスのWLECでのサムの主な仕事は、ダウンタウンの
中心にあるピーボディ・ホテルの最上階のスカイウェイから毎日
夕方に放送する「トレジャリー・バンド・スタンド」という生番
組を演出することだったのです。要するにビックバンドのライブ
演奏の演出を担当したわけです。
しかし、そのフルバンドによるスウィングジャズの演奏は実に
つまらないものだったのです。何よりも意外性がないこと、予定
調和的なアレンジ、生ぬるいけだるいムード、パンチが効かない
演奏、刺激的な興奮や衝撃などは、どこを探してもなかったので
す。こんな音楽じゃダメだな――サムはいつもそう思っていたの
です。サムには時代が変化しようとする鼓動がはっきりと聞こえ
ていたのです。
1950年1月、彼は中南部にいる優れた黒人ミュージシャン
たちのユニークで素晴らしい音楽を多くの人に聴かせたいと考え
て、自分のスタジオを開設したのです。これがここまで何度も登
場したサン・レコード・スタジオなのです。
サムは優れた黒人音楽家を見つけてきては自分のスタジオに連
れてきて録音させ、見込みのあるものは、シカゴのチェス・レー
ベルやウェスト・コーストに本拠を持つRPMレコードなどに音
源貸し出して紹介する仕事をはじめたのです。サムの良い音楽を
探し当る耳は確かであり、これが結構良い商売になったのです。
そうするかたわら自分の歌を含めて何でも録音して音源を残し
ておきたい人のために、そういう音源を録音してアセテート・レ
コードを作るサービス――メンフィス・レコーディング・サービ
スをスタジオを利用してはじめたのです。エルヴィスはこのサー
ビスを利用してサムと知り合ったというわけです。
これらの仕事は放送局の仕事をやりながらでもできたのですが
サムは1951年6月にWLECを辞めて独立したのです。サム
にそれを決意させたのは、彼が黒人と付き合っていることに不快
感を持つ者が放送局に多くいて、サムに対して露骨ないやがらせ
をするようになったからなのです。何しろこの局には黒人と握手
をする者がいるので、不潔な臭いがするというようなことをしつ
こくいわれたのです。
もうひとりのフィリップス――デューイ・フィリップスについ
ても述べておくことにします。デューイはテネシー州のアダムズ
ヴィルで生まれ、成人してからメンフィスに出てきてパン屋の店
員などをしていたのですが、そのうちラジオの虜になり、ディス
ク・ジョッキーになろうと決心するのです。
1949年にWHBQ局のラジオ・ショー「レッド・ホット・
アンド・ブルー」に自分を売り込んだところ、首尾よく採用され
たのです。彼にもサムと同様に時代の鼓動が聞こえており、新し
い音に反応する本能的な嗅覚を持っていたのです。
デューイは伝統的な音楽区分を無視し、自分が最高だと思う音
楽をどんどん番組で流したのです。そこには白人も黒人もなかっ
たのです。そのため、デューイの番組は、黒人ファンも多く、な
かなか評判が良かったのです。
なにしろ当時のメンフィスでは、警察が白人と黒人の分離に目
を光らせていたのですが、夜になるとデューイは自分の番組でそ
れを混ぜ合わせるのに忙しかったのです。デューイについてはこ
んな話が伝説のように伝わっています。
あるとき、デューイは自分の番組の視聴率を知りたいと思った
のです。そこで、番組でこう呼びかけたのです。
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この番組を聴いていただいている皆さんにお願いします。本日
夜10時に車のクラクションを鳴らしてくれませんか。
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夜10時になると町は突然のクラクションの騒音で大騒ぎとな
り、警察まで出動する騒ぎになったのです。それでも鳴り止まな
いので、デューイが番組でストップをかけたところ、クラクショ
ンはピタリと収まったといいます。人騒がせな話ですが、デュー
イの人気がいかに凄いものだったかがこれでわかると思います。
もちろん、高校生のエルヴィスも毎晩9時になると、デューイの
番組にダイヤルを合わせていたのです。
考えてみると、エルヴィスの音楽をこれら2人のフィリップス
が見出すのは必然的であったといえます。なぜなら、エルヴィス
とサムとデューイ――この3人が同じメンフィスという町にいて
ともに新しい音楽を必死に模索していたからです。メンフィスに
はそういう音楽的土壌があったのです。―[エルヴィス/05]
≪画像および関連情報≫
・関連サイト/BEATS21より
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テネシー州メンフィスはミシシッピ河によって発展した港町
で、黒人のブルースやゴスペルから、白人のカントリー(ヒ
ルビリー)に至るまで南部音楽文化の一大「集積地」の一つ
でもあった。しかしサム・フィリップスがこのレコーディン
グ・スタジオを造る前まで、近隣には同様の施設はなく、そ
の結果、黒人・白人を問わず何がしかの大志をいだくミュー
ジシャンはこぞってサンと接触を持った。小さなレコーディ
ング・ハウスから、高純度の優れたポップ・ミュージックが
次々と生まれ出たのは、50年代の深南部――ディープ・サ
ウスという黄金時代を背景にしながら、フィリップスがその
時代の胎動に鋭く反応したからだった。
http://www.beats21.com/ar/A01112003.html
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2007年10月26日
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