てきましたが、今回の30回で終了します。今回も梅木宗広氏の
協力により、膨大な文献を練馬・中央の両図書館から借りること
ができました。これなくしては、ここまでまとめられなかったと
思います。EJの紙面を借りて梅木氏に感謝の意を捧げます。
俗にいう「源義経生存説」を信ずる人は、次の2つにわかれる
と思うのです。
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1.義経は平泉では死んでいないが、北海道までは逃避行を続
けたことは間違いないと考えている人
2.義経は藤原氏の一部の武将と大陸に渡り、成吉思汗になり
モンゴル帝国を築いたと考えている人
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私が今まで調べた限りでは、1に関しては、その可能性は80
%程度はあると考えます。それを証明する状況証拠が豊富に存在
するからです。しかし、2に関しては、何しろ大陸の話なので、
状況証拠は限られており、そういう意味からは、その可能性とし
ては20%程度ではないかと思われます。源義経が成吉思汗であ
るという決定的な証拠もない代わりに、そうではないという証拠
もない状況だからです。
源義経生存説がはじめて登場したのは、江戸時代の中期ですが
それから昭和にかけて大きな話題となったことは、次の6回ほど
あります。
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1.江戸時代/正徳 2年(1712)
・義経は蝦夷地に脱出し、アイヌに神として崇められる
2.江戸時代/享保 2年(1717)
・蝦夷地に脱出後、金国に入り、皇帝として厚遇される
3.江戸時代/天明 3年(1783)
・義経は蝦夷地から韃靼に渡り、やがて清国を建国する
4.明治時代/明治18年(1885)
・義経は蝦夷から韃靼を経てモンゴルに入り成吉思汗に
5.大正時代/大正13年(1924)
・小谷部の『成吉思汗は源義経也』がベストセラーズに
6.昭和時代/昭和33年(1958)
・高木彬光『成吉思汗の秘密』
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歴史上の出来事が本当にあったことかどうかを調べるにはいく
つかの方法があります。
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1.外国も含む史料や歴史文献を調べて、そのように記述され
ているかどうかを確認する。
2.実際に現地を実地踏査し、その出来事に関係のある遺跡や
伝承・伝説などを調査する。
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しかし、多くの歴史学者は上記の1しかやっていないのです。
確かに実地踏査するといっても、何百年も前のことですから、調
査には限界があります。伝承・伝説にしてもそれを額面通りには
受け取れない――それはよくわかります。
そうはいっても、2を省略することは怠慢のそしりを免れない
でしょう。小谷部全一郎氏は、単に歴史書を調べるだけでなく、
平泉から北海道まで、義経一行が逃げたと思われるルートをすべ
て実地踏査し、さらに大陸まで足を伸ばして義経の足跡を探査し
たうえで、『成吉思汗は源義経也』
私は、今回のテーマを書くため、必ずしも読みやすくはない小
谷部氏の本を時間をかけて読んでみましたが、彼の示す数多い状
況証拠には説得力があり、よくぞここまで調べたものと感嘆した
しだいです。
これに対して歴史学者は、あくまで史書に基づいて得られた判
断を歴史的事実としており、実地踏査などだれもやってはいない
と思われます。それでいて、実地踏査に基づく小谷部全一郎氏の
研究に関しても、最初から「そのような事実はない」と決めてか
かり、それでいて何らの証拠も示さず、牽強付会のこじつけとし
て葬り去っているのです。
歴史学者たちはいったん確定した(と彼らが思っている)歴史
的事実に対して異見を唱える者を容赦なく弾劾します。そのすさ
まじさは、小谷部氏のケースを見れば明らかでしょう。
それを恐れてか、歴史のウソを数多く指摘しているあの井沢元
彦氏ですら、義経に関しては衣川の戦いで自決したという、ごく
一般的な説を追認しているのです。
歴史学者たちは「義経生存説」が消えない理由について、日本
人の「判官びいき」のためとしており、その考え方を基調として
あらゆる義経生存に関わる状況証拠を否定しています。
確かに義経は「悲劇の主人公」といえます。幼くして父親を殺
され、敵将に預けられて、さらに母とも引き離されて鞍馬山に送
られる――親の愛を十分に受けられないで育っています。やがて
兄頼朝と会って、平家討伐という大功績を立てるが、頼朝から一
転逆賊扱いされ、追手に追われたあげく、31歳で自害――「薄
命」を絵に描いたような生涯です。
こうなると「義経かわいそう」ということになり、判官びいき
が生まれ、「そうあって欲しい」という一念が義経生存説を生み
出したとするのです。そして、各地に残る義経の遺跡や伝説など
のすべては、こうした判官びいきから生まれたものであると学者
たちは考えているようです。
何はともあれ、義経が衣川の戦いで死亡したという確たる証拠
がないことが生存説を生む原因なのです。それにしても、歴史学
者たちはこの問題になると、なぜ、かくも感情的になってしまう
のでしょうか。
30回にわたる源義経=成吉思汗説のテーマは、これで終了し
ます。長い間のご愛読感謝します。 ・・・[義経30]
≪画像および関連情報≫
・ある推理作家の想像する義経の最後
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義経が大陸にわたったのだとしても、私は彼がジンギスカン
になったのではないだろうと思っている。あるいはジンギス
カンの軍団と戦って敗れ去ったか。あるいは平泉の滅亡を知
って、帰るべき地を失った痛手を胸にどこかでのたれ死にし
たか。いずれ悲運な最後を遂げたような気がしてならない。
−中津文彦著『義経はどこへ消えた?』
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興味深く楽しく読ませていただきました。
今回の連載を読むことができたのは、本当にラッキーでした。
私の場合、「源義経=成吉思汗」を信じている以上に事実と確信している一人ですが、悲しいことに人を説得できる資料を全く持ち合わせていないのです。私のホームページでも自分の確信を述べたものの、裏づけのない浅はかな発言に情けない思いに駆られておりました。
そんな時に出会えた記事でしたので、探し物を拾い当てたような嬉しい気持ちです。ぜひ私のホームページの「塾長日記」で連載記事を紹介させてください。
初めておとといの晩に義経=チンギスハンのこの論文を読ませていただき、非常にわくわくして
深夜の2時間を費やしました。
貴方様の文献研究と証拠をもってして、確かに義経はジンギスカンですね!
昔、そういう説を聞いたときは、ただのロマンとあこがれと判官贔屓でしょう、くらいでしたが、
そんないい加減なものではなかったです。
義経さんすごいですね。殺されそうになりながら、日本脱出して、世界征服をして、兄を見返したのですから。ちなみに、私の住む平塚は、花水川というのが近くにあり、頼朝が花見にきて、まだ桜が咲いていないので、まだ花も見ずと詠んだので、花みず川となりました。その向こうの相模川は、頼朝が落馬して落命した川なのです。
ご縁がありますね。
静御前の歌の返歌としての「なすよしもがな」
素敵です。
義経の顔と、チンギスハンの顔は、四つの絵のうち、左側の上下がにていると思います。
朝青龍やモンゴル出身の力士らにも、義経のDNAが流れているのかもしれませんね。
さらに源氏の源=元 ではないか、と思いました。
それにしても、歴史の真実はこうして封印されることが多いですね。
現代の歴史も、911の真実は封印されているし、今現在のことも、植草先生やベンジャミンさんが明白にしているのに、新聞などには封印されていて、情けない。
でもいつか真実がすべて明らかになる正直な地球の時代が来るのでしょう。
ご研究をありがとうございました。
とてもおもしろくてわくわくしました。
感謝感激です。
私のぶろぐやホームページでもご紹介させていただきたく存じますが、よろしいでしょうか。
最近の小説はほとんど読まないのですが、50年前の小説でわくわくどきどきして楽しませていただきました。やはり義経=チンギスハンですね。
50年前に不思議な導きで書いてくださった高木先生に感謝です。無敗の義経は無敗の世界の王者だったのです。かっこいい!
これから、藤沢、鎌倉、東北、北海道の史跡巡りをしたいと思っております。
ご紹介してくださいまして、ありがとうございました。
よろしくお願いいたします。