2005年08月18日

清朝と満州国の関係を探る(EJ1658号)

 清朝を建てた愛新覚羅氏は文化政策――文教の保護政策に大変
力を入れたのです。宮廷に多くの学者を集め、多くの書物を編纂
させています。出版が発達していない封建時代において、一般大
衆にあまりかかわりのない歴史的な記録の集成に力を入れるには
そういう政策が必要であったのです。
 その政策は代々の清朝の皇帝たちにきちんと受け継がれ、歴史
書の編纂は継続されていったのです。既出の『図書輯勘録』30
巻はその中のひとつなのです。この『図書輯勘録』に六代皇帝で
ある乾隆帝の序文があり、そこに皇帝自身が「朕の姓は源、義経
の裔なり」と書いているという言い伝えについては、既に述べた
通りです。
 この『図書輯勘録』という書物は、発見されなかったという事
実をもって、「そんなことはありえない妄説」とされてしまって
います。しかし、この書物は清国にとって秘録であり、門外不出
の文献なのです。
 乾隆帝の子孫の皇族や臣下たちによって、自分たちの大清帝国
の愛新覚羅氏の祖先が、微々たる東方の小国、日本の一武将の裔
などということを広く知られたくはなかったのは当然です。した
がって、それは北京の秘庫に深く収められ、専門の史官によって
厳重にかん口令をしかれたに決まっているのです。
 したがって、簡単に発見されるものではなく、見つからないか
らといって、そういう書物はなかったということにはならないと
思います。清朝の建国者である愛新覚羅家と日本とはいろいろな
つながりがあり、源義経=成吉思汗説とも深いかかわりがあると
いうことができます。
 このことに関連して、愛新覚羅溥儀という人物について少し述
べる必要があります。愛新覚羅溥儀は、ベルナルド・ベルトリッ
チ監督の映画『ラストエンペラー』の主人公その人です。彼は、
戦時中に日本の建設した「傀儡国家」である満州国の皇帝として
国家(中国)に反逆し、中国人民を抑圧したと言う理由で、19
50年に「戦犯」として、中国共産党によって撫順刑務所へ送ら
れています。そこで溥儀は「思想再教育」を受け、1959年に
「特赦」によって出所しています。
 しかし、溥儀が「満州国の皇帝として、国家(中国)に反逆し
中国人民を抑圧した」というのは事実でしょうか。
 結論からいうと、愛新覚羅溥儀は満州人として、日本の協力は
得たものの、自らの故郷である満州に独立国を建てただけのこと
であり、中国には関係がないのです。ここにも満州人も漢民族も
すべて中国にしてしまう中国の戦略があります。
 愛新覚羅溥儀は宣統帝といって、清朝最後の皇帝であることは
事実です。1911年の辛亥革命は大きく広がり、1912年1
月1日に孫文が臨時大総統に就任して、「中華民国」が成立した
のです。その後、袁世凱が清朝と中華民国との仲介をし、宣統帝
・溥儀の「退位」を引き出したのです。しかし、この「退位」は
「条件つき」だったのです。その条件の概要は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1.宣統帝・溥儀は退位後も皇帝の称号は廃止しない
   2.大清皇帝は年金として毎年400万両を受領する
   3.大清皇帝は紫禁城内にそのまま居住し、後日移動
   4.大清皇帝の宗廟・陵は永久に奉祀し、慎重に保護
   5.先帝光緒帝の陵の工事は予定通り続行させること
   6.紫禁城内の各職員は従来通りそのまま使用できる
   7.大清皇帝の私有財産は中華民国が特別に保護する
   8.禁衛軍(皇帝守備軍)は中華民国に下に置かれる
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これによると、宣統帝・溥儀は、退位後も皇帝の称号を名乗る
ことが許され、紫禁城に住むことができ、高額の年金を与えられ
て、側近の職員もそのままという生活を保障されています。溥儀
としては、この協定と引き換えに退位をしたのです。1912年
2月20日、中華民国と清朝との間に「退位協定」が締結され、
宣統帝・溥儀は退位して、清朝は滅亡したのです。
 しかし、袁世凱は大統領に就任すると、1914年に大総統令
を出して、一方的にこの協定を破棄してしまうのです。そして、
溥儀を一国民に格下げし、紫禁城から追い出してしまうのです。
 溥儀は天津租界の日本公使館に保護されたのですが、中華民国
政府は紫禁城から清皇室の財産をことごとく没収し、さらに西太
后をはじめとする清朝歴代諸皇帝の御陵まで軍兵を差し向けて、
副葬品などを掠奪したのです。これは、明らかに契約違反以外の
何ものでもなく、これによって、中華民国は清朝から禅譲された
政権の正当性を自らの意思で放棄したことになるのです。
 その後、1934年に溥儀は、日本軍の力を借りて父祖発祥の
地である満州国の皇帝の地位につくのです。「退位協定」が破ら
れているので、清朝はそのまま残っていると考えれば、満州国は
後清朝というべき性格を持つといえます。
 満州国は古来より一度たりとも中国人によって征服されたこと
はないのです。しかし、満州国皇帝の溥儀は、国家に反逆し、中
国人民の抑圧などで罰せられているのです。これは明らかに冤罪
ということになります。
 もし、中華民国政府が「退位協定」を守っていたら、日本は満
州国など建国しなかったでしょうし、溥儀もその皇帝に就任する
こともなかったのです。
 満州は、日本の北方領土と同じようなものなのです。終戦のど
さくさにまぎれて併合され、中国東北部に改称されています。か
つての満州は歴史のかなたに埋没されつつあるのです。
 源義経=成吉思汗説について書くさいに、「満州」のことが多
く出てくるので、取り上げてみたのです。なぜなら、満州は年月
の経過とともに人々から忘れられ、単なる中国の東北地区になり
つつあるのです。
 このように愛新覚羅家と日本とは、密接なつながりがあるので
す。それは源義経とも密接に関係があるのです。・ [義経28]


≪画像および関連情報≫
 ・満州について
  満州はさして古い地域名ではなく、この地域が清の支配民族
  マンジュ(漢字で「満州」)の居住地域であったことから、
  西欧語で「マンチュリア」と呼ばれるようになり、漢字圏で
  もこれに対応させて、「満州」と呼ぶようになったものであ
  る。中華人民共和国では過去の満州国の記憶を嫌い、地域名
  称としての「満州」はほとんど使われることはなく、抽象的
  な「中国東北地区」が使われる。民族名としての「満州族」
  すら使わせず、「満族」と呼称している。――出典: フリー
  百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

1658号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:52| Comment(1) | TrackBack(1) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
私も本当に同感です。
せめて日本の様な国を築いて、頂きたかった・・
残念でなりません!
因みに、私個人の意見で申し訳ないのですが、
清朝の皇帝達は気骨がある上、努力前進なので大好きな満州人です!
今日は嬉しい時間を頂き、有難うございました!
又、楽しみにしています!
Posted by 水野 悦子 at 2013年05月28日 22:01
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