2005年08月16日

義経=清朝先祖説というものがある(EJ1656号)

 「源義経=清朝先祖説」というのがあります。「源義経=成吉
思汗説」を述べるに当って、これに言及しないわけにはいかない
と思います。しかし、これは妄説中の妄説といわれるもので、歴
史論争としては既に「そのようなことはありえない」として決着
のついていることだそうです。
 そこで、コトの真偽は読者のご判断に委ねるとして、あえてご
紹介することにします。
 源義経=清朝先祖説は、もちろん、源義経=成吉思汗説をベー
スにしていわれるようになったものであり、源義経=成吉思汗説
の発展系といえます。
 『清国総録』という本があります。英国の公使をしていたデビ
スという人が書いた本です。この本に次のようなことが書いてあ
るのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 成吉思汗の孫、忽必烈(フビライ)の子孫は、明朝のために放
 逐されて、蒙古の故地及び満州にのがれ、長の娘と婚して、諸
 公子を産んだ。彼らは朔地に割拠して勢威をふるい、後に大挙
 して明朝を滅ぼし、国を清と号した。清帝を成吉思汗の孫、忽
 必烈の後裔とするのは、けだし、このためである。
              ――デビス著、『清国総録』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 清国の建国については諸説があり、成吉思汗の誕生や蒙古の建
国と同様に伝説的なヴェールに閉ざされているのです。しかし、
英国の公使までやった人物がそうデタラメを書くとはとても思え
ないのです。
 清国というのは、1616年から1912年まで中国を支配し
た最後の統一王朝であり、満州に存在していた海西女真族(満州
民族)の部族、愛新覚羅氏が作った王朝です。
 1616年、ヌルハチ(太祖)が女真族(満州族)を統一し、
満州に「後金」を立てたのです。そして、1636年に「清」と
改めています。1644年には明の滅亡をきっかけに中国に侵入
し、都を北京とし、支配民族の満州人の八旗軍を中心に、15年
で全土を統一しています。第4代の康熙(こうき)帝から、第6
代の乾隆(けんりゅう)帝までは全盛をきわめています。
 清朝では、人口が急増し、商工業が盛んになって全国が1つの
市場になり、銀の流通が広がったのです。皇帝が学者を優遇する
政策をとり、『康熙字典』をはじめとする多くの書物の編纂が行
われ、絢爛たる文化を誇った王朝なのです。
 中でも『古今図書集成』一万巻は有名であり、中国最大の類書
(百科事典)といわれました。源義経=清朝先祖説はこの書物と
深い関係があるのです。
 さて、天明3年(1783年)に成立したという『国学忘貝』
という本があります。編者は森長見という人です。この書物の中
に次の驚くべき記述があるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 清王朝の編纂による『古今図書集成』一万巻中に『図書輯勘』
 一三○巻がある。清国皇帝は自身で序文を記し、『朕は源義経
 の末裔である。義経が清和源氏の流れをくむため、清和天皇の
 名をとって国号を≪清≫とした』と述べている。私は或る儒者
 の書物を見てこのことを知った。
              ――森長見編、『国学忘貝』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 自分は源義経の末裔であり、そのため「清」という国名は清和
源氏の「清」をとったものであるということを皇帝自身の筆で書
いているとすれば大変なことです。
 確かに、かつて北京の宮殿に「和」という字がついたものが多
いということがあったのです。大和殿、保和殿、中和殿、雍和宮
協和門などです。清朝時代には、日本のことを「和」と呼んでい
たのです。
 そのため中華民国が誕生したとき、袁世凱大総統はその名前を
書きかえるのに苦労したと伝えられています。大和殿は承運殿、
保和殿は建極殿、中和殿は体元殿、協和門は経文門というように
です。なぜ、袁世凱大総統は、ここまで「和」を外すことにこだ
わったのでしょうか。
 歴史学者たちは当然『図書輯勘』の存在を疑ったのです。『古
今図書集成』自体は、日本に八代将軍・吉宗の時代に絵図160
巻のみがきて、宝歴13年(1763年)に全巻がきているはず
なのです。時の老中・田沼意次は書物奉行に諮問したうえで、紅
葉山文庫に収蔵したとされています。
 何人かの歴史学者は、紅葉山文庫所蔵の『古今図書集成』の閲
覧を申し出たのですが、なかなか許可にならなかったのです。そ
の中にあって、閲覧の許可が出たのが桂川中良という人です。彼
の兄が医師・蘭学者にして幕府の医学館教授をしていたことがも
のをいったのです。
 桂川中良は、『古今図書集成』のすべてを閲覧したのです。し
かし、肝心の皇帝の序が出ているという『図書輯勘』はなかった
というのです。総目録にもなかったそうです。そこで、桂川中良
は『図書輯勘』は存在しない書物と決めてしまい、次のように述
べているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 考えてみれば『古今図書集成』という貴重な書物を見たうえに
 真実を知ったことこそ大きな幸福である。義経=清朝先祖説は
 『国学忘貝』に限らず、広く世に喧伝されているが、同好の士
 よ。義経と清朝のことに関しては、永久に懸念を絶つべきであ
 る。                    ――桂川中良
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 桂川中良は、このことばによって、義経は衣川の戦いで自害し
ており、清朝先祖説を含む義経=成吉思汗説などは妄説に過ぎな
いと断定したのです。しかし、最近になって、『図書輯勘』はや
はりあるという説も出てきているのです。  ・・・[義経26]


≪画像および関連情報≫
 ・『古今図書集成』
  中国、清代に編纂された中国最大の百科事典。1万巻からなり
  1725年に完成。のち銅版印刷で60余部が印刷された。図
  は、1884年に上海で重版されたものである。

1656号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:58| Comment(1) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
図書輯勘録は内閣文庫に写本があると聞き及んでいます。さて…
Posted by 谷川つとむ at 2012年03月23日 15:34
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