2005年08月12日

テムジン2回の即位の真相(EJ1654号)

 義経一行は、蝦夷地に渡ってからは、松前、函館、乙部浦を経
て、西海岸を北上し、寿都にきています。その足跡は数多く残さ
れているのです。
 義経一行は寿都にはしばらく滞在していたと考えられます。義
経を慰めるため、弁慶がアイヌの人たちと相撲をとった土俵跡が
残されているからです。今では草に覆われていますが、土俵の大
きさは幅20メートル、周囲に30センチの土盛りがされており
あたりには4本の柱の跡、弁慶が力足を踏んだ跡、わらじばきの
足跡や義経の座った物見台まであるのです。
 しかし、寿都では義経よりも弁慶が主役であって、義経は脇に
追いやられているのです。現在でも、毎年8月14〜15日には
「寿都弁慶祭り」が盛大に行われており、依然として弁慶が主役
なのです。そして、なぜか、弁慶別れの宴(儀式)が伝説として
残されているのです。
 問題は、義経一行が寿都を去るときの別れの宴であるのか、弁
慶だけが寿都を離れるさいの別れの宴であるのかがはっきりしな
いことです。この場合、何らかの使命を担って弁慶が寿都を離れ
たと考えると、弁慶の別れの宴の謎は解けるのです。
 小谷部氏は、義経一行が寿都で義経の本隊と弁慶を長とする部
隊に分かれたと考えているのです。そして、弁慶の部隊は、おそ
らく安東水軍の力を借りて、先遣隊として大陸に渡ったのではな
いか――このように推理しているのです。
 この弁慶を長とする先遣隊は、サハリン島の西北端から大陸の
アムール川河口付近に上陸し、満州女直族のワンスン、高麗チャ
ガン軍を破ってウラジオストック近郊に達したと考えられるので
す。つまり、ここまでは、弁慶軍が攻め進んできたのであり、義
経軍は後から合流したのではないかと思われるのです。
 そして、第1次即位の時期は、高麗チャガンを破った1192
年頃ではないかと考えられます。そうであるとすると、第1次即
位のときのテムジンは、弁慶であると考えても不思議はないわけ
です。これがテムジンは「容貌魁偉にして身長巨大」という説を
生んだのです。
 テムジンの軍勢は、この時点でウラジオストック近郊に達して
おり、そこで約10年間を過ごしているのです。かなり長い期間
です。義経の本隊は、この間に合流したものと考えられます。
 10年後の1202年にテムジン軍は動き出し、タタール部族
とケレイト部族の攻略を開始するのです。これらの戦いからは義
経自身が全軍の指揮をとったものと考えられます。そして、ナイ
マン王国を攻略して、1206年にオノン河上流にてクリルタイ
を開催し、成吉思汗に即位するのです。これが第2次即位と呼ば
れるのです。
 問題は、第2次即位以降の成吉思汗が義経であるとして、その
義経が前面に出て指揮をとったのか、それとも依然として弁慶を
前面に立てて、義経は裏で指揮をとったのか――そのことははっ
きりしていないのです。
 しかし、テムジンは「容貌魁偉にして身長巨大」という記述が
残っているのですが、成吉思汗が大男であるという記述はないの
です。成吉思汗が大男であるというのは、テムジンがそうであっ
たからということからきているのです。
 これに関して、興味深い絵があります。添付ファイルを見てく
ださい。中公新書『元朝秘史』(岩村忍著)に出ているものです
が、これはラシードの『集史』から転載されたものであると思わ
れます。何の絵かというと、成吉思汗が降伏させた敵将と謁見し
ている絵なのです。
 5人の人物が描かれていますが、左側に降伏した3人の敵の武
将がうなだれるように立っています。そして、右から2人目の人
物が成吉思汗なのです。絵が鮮明ではないので、はっきりわかり
ませんが、ふっくらとした顔立ちで、口ひげのようなものも見え
ます。しかし、その背丈は敵将よりも明らかに低いのです。
 写真じゃないのだからという意見もありますが、逆に絵である
からこそ、成吉思汗の大きさを強調するのが普通です。このよう
に、成吉思汗が大男であったという説もあまり根拠のあるもので
はないといえます。
 さて、もう一度寿都に話を戻します。弁慶岬には遠く海原を眺
める弁慶の銅像が立っています。この弁慶像は1988年に建て
られたものですが、弁慶は一体何を待っていたのでしょうか。
 弁慶の像の台座には「想望」という文字が刻まれています。こ
の「想望」には次の意味があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 同志を待ちわびる弁慶の心、ここに宿る。奥州を逃れた義経・
 弁慶一行は蝦夷地に渡り、この地に滞在していた。弁慶の舎弟
 ともいうべき常陸坊海尊が、義経再挙の兵を募って蝦夷に向っ
 たという情報を得た弁慶は、毎日毎日、この岬の先端に立って
 海尊の到着を待っていたが、海尊軍団の船影を見ることはでき
 なかった。そんな弁慶の姿を見ていたアイヌたちは、この岬を
 弁慶が同志を待ちわびていた岬ということから、いつしか弁慶
 岬と呼ぶようになったのである。    ――「想望」の由来
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 つまり、義経一行は援軍を待っていたのです。平泉を脱出した
義経一行には藤原忠衡の率いる軍、大河兼任率いる軍など、いろ
いろ挙兵の情報があり、常陸坊海尊の挙兵も、そのひとつである
と考えられます。
 ところでこの常陸坊海尊とは何者でしょうか。
 常陸坊海尊は、園城寺(三井寺)の僧兵で、義経の家臣のひと
りです。しかし、実在の疑われる伝説的な人物であり、その人物
像は明確ではないのです。なお、歴史学者の中には弁慶ですら実
在を疑っているほどです。常陸坊海尊は、衣川合戦当日も、近く
の山寺に参拝したまま戻らず、そのまま逃れて生き延びたとされ
ている人物です。NHKの大河ドラマては、常陸坊海尊は登場し
ていないはずです。        ・・・・・・・[義経24]


≪画像および関連情報≫
 ・サイタボウの碑
  チチハル駅と成吉思汗駅との中間にフラルジという部落があ
  る。ここに、昔、日本からやってきた僧の古碑があり、それ
  を「サイタボウの碑」と称している。「サイタボウ」は「西
  塔坊」であり、武蔵坊西塔弁慶を意味するといわれている。
         ――佐々木勝三、大町北造、横田正二/共著
   『成吉思汗は源義経/義経は生きていた』より。勁文社刊

1654号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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