2005年08月11日

義経主従における弁慶の役割(EJ1653号)

 義経が本当に小男であったとして、何らかの方法で大男になり
すます――そんなことが可能でしょうか。
 それよりも可能性があるのは、ある大男が義経の代わりを務め
る――この方がよほど現実的な話ではないかと思います。しかし
その大男は常に義経の身近にいて、秘密の守れる信用ある人物で
なければならないのです。そういう人がいれば、身代わり説は現
実のものとなります。
 義経の場合はそういう条件に当てはまる大男がいたのです。そ
うです。武蔵坊弁慶その人です。弁慶ならば義経の身代わりは十
分務まるのです。考えてみると、京都から平泉への逃避行におい
てもつねに弁慶が主役になっていたのです。
 歌舞伎十八番『勧進帳』――義経一行は、山伏に姿を変えて安
宅の関(石川県小松市安宅町)にさしかかります。ここではあく
まで弁慶が主役で義経は強力に姿を変えています。
 関を越えようとしたその時に、関守富樫泰家に見咎められ、詮
議の問答が始まるのです。勧進帳とは寺院建立などの資金集めの
ためにその趣意をしたためたものであり、弁慶は白紙の勧進帳を
読み上げ、怪しい者ではないことを力説します。
 しかし、富樫は「お顔が似ている」と強力に疑いの目を向ける
のです。そうすると弁慶は、義経に似た貴様が憎いとして、主人
を棒で打ちすえます。そこまでして主君を守ろうとする忠義の心
に感心した富樫は、義経と知りながらも一行を解放し、関を通し
てしまうという話です。このように逃避行ではあくまでも弁慶が
主役であって、義経の出る幕はないのです。
 若干横道にそれますが、富樫が通り過ぎようとする強力を「お
顔が似ている」として引き止めたということには少し疑義がある
のです。なぜなら、富樫が義経の顔を知っているはずがないから
です。当時のことですから、まさか義経の似顔絵が関所に配られ
ていたとは思えないからです。赤穂浪士の討ち入りのときでさえ
大石内蔵助をはじめとする赤穂浪士は、吉良上野介の顔を確認す
るのに大変な苦労をしているのです。名前はよく知られていても
顔までは知らないケースが当時は圧倒的に多かったのです。
 推測ですが、平泉から蝦夷地に落ちのびるときもこの手を使っ
たものと思われます。つまり、成吉思汗は六尺豊かの弁慶がなり
すまし、義経は裏で采配を振るったのではないかと思われるので
す。そうであるとすると、「成吉思汗は容貌魁偉、身長巨大」は
何の不思議もないことになります。
 『成吉思汗伝』を書いたドルジという学者がいます。彼はその
中で、成吉思汗の死について次のように書いています。
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 成吉思汗の崩御の際には、その玉体は漸次縮小した。まことに
 奇異にたえなかったが、古今未曾有の大英雄の最後には、この
 ような奇跡も当然起こりうるとものと信じ、遺体はそのまま黄
 金の棺におさめ・・・。
    ――高木彬光著、『成吉思汗の秘密』(光文社刊)より
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 「玉体は漸次縮小」とは、裏の成吉思汗である義経が死んだと
考えれぱ、何も不思議はないのです。これについて小谷部全一郎
氏は、面白い推理をしているのです。
 小谷部氏は、成吉思汗がテムジンと名乗っていたときは弁慶が
その役を演じ、成吉思汗になってからは義経に代わったのではな
いかと考えているのです。テムジンのときは、モンゴル軍はそれ
ほど大軍ではなく、兵士と一緒に戦場に出て戦っていたので、テ
ムジンは「容貌魁偉にして身長巨大」というイメージが定着した
のです。しかし、成吉思汗になってからは、義経に代わって、あ
まり人前に姿を現すことはなくなっていたのです。そのときモン
ゴル軍は巨大化しており、そのようにしても誰も不審に思われる
ことはなかったと考えられます。
 実は成吉思汗は、次のように2回にわたって即位しているので
す。これは今まで謎とされていたのです。
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     第1次即位 ・・・ 不   明
     第2次即位 ・・・ 1206年
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 第1次即位とは、テムジンが諸部族を統一し、部族長に推され
たときをいうのです。そのとき「カン」の位を得たのです。つま
り、各部族がテムジンを長として認めたことを意味します。これ
に対して第2次即位とは、「九旒の白旗」を掲げて、全モンゴル
の王となったときをいうのです。
 『元朝秘史』は、第1次即位の年代を記していないのです。し
かし、一部史料には1189年となっています。今までの分析で
は、義経一行はその1年前に平泉を脱出していますが、第1次即
位のときのテムジンを義経と考えることには無理があります。義
経は八戸や蝦夷において、かなりゆっくりと滞在しており、時間
的に間に合わないと考えられるのです。ここで実は弁慶が問題に
なってくるのです。
 北海道の日本海沿岸に寿都という町があります。その寿都町の
寿都湾の西口に「弁慶岬」というのがあるのです。北海道の地図
で調べていただきたいと思います。強風と日本海に沈む夕日の美
しさで知られるところです。弁慶岬には3.6メートルの弁慶像
が海を向いて立っています。
 なぜ、このようなところに弁慶がいるのでしょうか。ここには
「弁慶別れの宴」という伝説が残っているのです。弁慶は二ツ森
という小高い山の頂上で、秘蔵の金の銚子と金の盃とで別離の宴
を開いています。宴が終わると、弁慶はいつかまたこの町に戻っ
てくると約束して、金の銚子と盃とを白桔梗の根元に埋めたとい
うのです。
 この伝説は何を意味するのでしょうか。ここでは弁慶が主役で
あり、義経は脇に追いやられているのです。別れていく主人公は
なぜか弁慶なのです。          ・・・・[義経23]


≪画像および関連情報≫
 ・寿都に関わる史跡・伝承
  @弁慶の相場場
  A弁慶別離の地/二ツ森
  B弁慶岬

1653号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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