しょうか。
実はこれが意外に難問なのです。現代のようにマスコミがある
わけではないので、いかに著名人といえども実際に会った人以外
は本人の容姿を知る方法はないのです。
義経はどのような容姿をしていたのか――義経は当時美人の誉
れの高い常盤御前の子供ですから、眉目秀麗の男子と勝手に決め
ていますが、実際にはどのような容姿をしていたのかを知る手段
が乏しいのです。
そこで見つけてきたのが、添付ファイルの絵画ABCです。い
ずれも源義経なのですが、イメージに合うでしようか。
一番知られているのはBの絵です。これは平泉の中尊寺にある
ものですが、正直いってこれほど義経のイメージに合わない絵も
ないと思います。この肖像画は俗に義経の「失意の肖像」といわ
れており、沈痛な表情をして肩を落として失意のどん底にいる義
経を描いています。しかし、衣川の戦いで死んでいるとすれば義
経は31歳――肖像画は50歳以上に見えます。
Aの絵は「義経参着の図」といって、黄瀬川において、義経が
平家打倒の旗揚げをした兄頼朝に初対面するときの緊張の面持ち
の場面を描いたものです。義経22歳のときの肖像とされていま
す。昭和15年の安田靫彦(ゆきひこ)氏の作品で、東京国立近
代美術館が所蔵しています。Bの「失意の肖像」に対してAの方
は「希望の肖像」といわれています。
義経に関して一般の人が描いているイメージはほとんどが「希
望の肖像」の方であると思います。安田氏によると、義経の顔は
藤原時代の毘沙門天像からヒントを得たということで、あくまで
想像の産物なのです。なお、Cの絵の作者は狩野探幽であり、江
戸時代に描かれた「義経図」です。現在、茨城県立歴史館の所蔵
になっています。
それでは、成吉思汗の方はどうでしょうか。
チンギス・カーンの肖像としてわれわれが目にする肖像といえ
ば、Dの肖像画しかありません。成吉思汗に関しては義経以上に
その容姿を伝える情報がないのです。『元朝秘史』などにも容姿
については何も説明されていないのです。
Dの肖像画は「中国歴代帝后像」に収められているものであり
想像画であって、しかも多分に中国化されています。よく見ると
クビライ像とほとんど同じであることに気がつきます。要するに
実際の容姿を伝えるものでないことは確かです。
成吉思汗の容姿について唯一伝えている本があります。バント
ルドという人の書いた『モンゴル侵入までのトルキスタン』とい
う書物です。しかし、著者のバントルド氏によると、他の文献か
らの引用であると断っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
成吉思汗は、身長は高くて体格は頑丈。ひたいが広く、ひげは
長く、人物雄壮である。なお、一般のモンゴル人は、最長のも
のでも五尺二、三寸を過ぎず、ひげは少なくて、顔すこぶる醜
なり。 ――『モンゴル侵入までのトルキスタン』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
これが正しいとすると、成吉思汗は義経とはまったく似ていな
いことになります。バントルド氏が引用した文献は南宋の趙こう
という人が書いた著作といわれています。彼は北京で成吉思汗の
軍隊と接触していますが、そのとき成吉思汗は西征に出かけてい
て本人には会っていないのです。おそらく将軍ムカリに会って、
成吉思汗のことを聞いて書いたものと思われます。
源義経は『平家物語』によると、五尺たらずの小男とされてい
るのです。義経、成吉思汗ともにその容姿は想像の産物とはいえ
決定的な違いがあるといえます。
高木彬光氏は、『成吉思汗の秘密』
津恭介の主張する義経=成吉思汗説に反論する歴史学者である井
村博士の言葉として次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
それでは絶対にこの一人二役説が成立しえないという証明をし
てみせよう。成吉思汗は容貌魁偉、身長巨大といわれている。
もちろん、むかしのことだから身長一メートル何十センチ、体
重何十キロというような正式な記録は残っていないが、一方源
義経のほうは、五尺そこそこの小男だったことが、日本の記録
に残っている。小人国に漂流したガリバーでもあるまいし、五
尺そこそこの小男では、いくら蒙古人の中にまじっても、身長
巨大とはいえないだろう。顔の人相なり、体重の変化というこ
とは当然ありうるとしても、人間の身長が30歳過ぎてから急
に伸びるということが、いったい医学的にありうるものなのか
ね。 ――高木彬光著、『成吉思汗の秘密』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
これは源義経=成吉思汗説にとっては、大変な難問と思われる
のですが、決定的なものではないのです。なぜなら、義経が小男
で、成吉思汗が大男であるからです。これが逆――すなわち、義
経が大男で、成吉思汗が小男であったら、完全にお手上げになっ
てしまうのですが、そうでないからです。
そもそも英雄といわれる人は、その容貌、外見、住居などのあ
らゆる面で人を威圧することを考えていたといわれます。ナポレ
オンは、かなり痩せていたので、服の中に綿を入れて肥満を装っ
ていたし、あのジュリアス・シーザーは禿頭であったので、たえ
ず鬘を使っており、加藤清正は実は小男であったので、つねに長
烏帽子をかぶっていたといわれます。
成吉思汗がそういう細工をしていたことは考えられるのです。
戦国時代の日本の武将でもそうですが、自分の本当の姿を側近を
除いてみだりに見せないようにしていたからです。だからこそ、
影武者が可能だったのです。本当の義経がどのような顔をしてい
たのかは義経軍にあっても、一部の側近しかわかっていないとい
うことは十分あり得るのです。 ・・・・・・[義経22]
≪画像および関連情報≫
・義経/成吉思汗の容姿を示す絵画
A ・・・ 希望の肖像/義経参着の図
B ・・・ 失意の肖像
C ・・・ 狩野探幽の義経図
D ・・・ 成吉思汗の肖像画
Bの肖像画について50歳ぐらいに見えるとありますが、当時の30代と今の30代とでは顔の特徴に違いがあった可能性もあります。また、髭の部分を隠した場合、それほど老け顔には見えませんでした。