2005年08月08日

なぜ、成吉思汗駅ができたか(EJ1650号)

 1206年に成吉思汗が即位したとき、95人の武将に千人長
を命じています。成吉思汗はこの千人長を非常に重視しており、
任命するさいには、さまざまな情報を集めて慎重に選任したとい
われています。
 もし、成吉思汗が源義経であるとすると、任命された千人長の
中には、日本人やアイヌ人の武将もいたと考えられるのです。大
陸に渡った義経の軍勢には、藤原忠衡、大河兼任率いる軍勢にア
イヌの軍勢も加わっていたからです。
 それらの千人長の集落は、現在のロシア、モンゴル、中国など
に点在していたはずです。これらの集落には、すべてがそうであ
るとは限りませんが、千人長である各武将の名前や出身地などの
名称がつけられるケースは少なくないと思われます。
 かつての北海道の開拓地にも、仙台藩がくれば伊達とか白石と
いう名前がつけられていますし、鳥取とか広島という地名もある
のです。このように、出身地の名前やとくに意味のある名称がつ
けられる可能性は高いといえます。
 現在の中国・黒龍江省の北西部に「チチハル」という都市があ
ります。そのチチハルの北西部に「成吉思汗」という名前の駅が
あるのです。これは、ロシアが東支鉄道を建設したとき、もとも
とあった名前をそのまま駅名にしたというのです。しかし、駅名
の由来などについては、中国の文献にはないそうです。
 小谷部氏は「成吉思汗」という名前がついているので、何かあ
るはずだと考えて、実際に現地を訪問しています。ロシアの案内
地図には城址があると書いてあったからです。
 しかし、現地の住民たちは「成吉思汗」という名前は一切知ら
なかったというのです。城址について尋ねると「クローの城であ
る」と答えているのです。小谷部氏はこれは「九郎判官の城」、
すなわち、義経の城ではないかと考えたのです。
 小谷部氏はこのことを本に次のように書いています。あえて原
文をご紹介します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 此地の住人に成吉思汗と云うも、更に之を知る者なく、其れは
 此処の地名なりと答う。此土地の古城址拠りたる者の武将の名
 を、何というやと、土地の長老に訊うに、クローなりと言う。
 余之を聞き、愕然として驚き、而して又た成吉思汗の都址探検
 の徒爾ならざりしを心に感謝せり。
   ――小谷部全一郎著、『成吉思汗は源義経也』、冨山房刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これに対して歴史学者の中島理一郎氏は、「小谷部氏の愚を憐
まない訳にはいかない」と前置きしたうえで、小谷部氏の聞いた
という「クロー」は部族の長を意味する「グルハン」のなまりに
過ぎないことを強調し、次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 小谷部氏が名も無い一酋長の遺跡の上に立って、その辺を成吉
 思汗の都址と思っていたなどとは、とても他には見られない図
 である。『余之を聞き、愕然として驚き、而して』その後につ
 ぐべき言葉を知らぬ。
                      ――中島利一郎
  ――森村宗冬著、『義経伝説と日本人』(平凡社新書)より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この反論を読んでどのように考えられるでしょうか。頭から相
手を馬鹿にし、加えて小谷部氏の著作のことばである『余之を聞
き、愕然として驚き、而して』と使って反論を結んでいる点は相
手に対して失礼であると考えます。彼はこれ以外にも小谷部氏に
対し、児戯に等しい妄説、珍説、粗忽屋などの言葉を使い、小谷
部氏を罵倒しているのです。
 なぜ、源義経=成吉思汗説になると、歴史学者はかくも熱くな
り、圧力をかけようとするのでしょうか。事実はひとつしかない
のです。中島氏もこのようにアタマから否定せず、小谷部氏のよ
うに実際に現地に行って事実を確かめる――この姿勢が必要であ
ると考えます。
 「源義経=成吉思汗」がウソだというのであれば、それがウソ
であるという証拠を示すべきです。状況証拠を含む証拠を何も示
さず、史書をあくまでも正しいとして、源義経=成吉思汗説をア
タマから否定して、そういう説を唱える者を社会的に抹殺するの
は間違いです。逆に状況証拠を数多く示しているのは、「源義経
=成吉思汗」肯定説の方であると思います。
 ところで「グルハン=酋長」説に関してはこういう意見もあり
ます。「グルハン」を地元民が発音すると「グラン」と聞こえる
というのです。「グラン」と「クロー」を聞き間違えることはな
いというわけです。
 問題は、それではどうしてこの地に「成吉思汗」という名前が
残っているかです。
 小谷部氏は、実際に成吉思汗駅周辺を訪れてみたことにより、
成吉思汗が成吉思汗に即位したのは、『元朝秘史』にあるように
「オノン河の源」ではなく、この成吉思汗駅のあたりではなかっ
たかという説を出しています。
 オノン河の源というのはハタ山の山頂に当たるのです。即位の
さい、成吉思汗は95人の千人長を任命していますが、その何倍
かの人間がそのときその場所に集結したことを意味します。山頂
にそれだけの人が集まれるとは思えないし、当然馬や食料の羊を
伴って行くことになるので、困難を極めるはずです。
 狼が襲ってくる危険もあるし、雨が降って雷が鳴ったとすると
馬や羊は一斉に林の中に逃げ出して探しようがなくなる――とこ
ろが、成吉思汗駅の周辺、とくにクローの城址付近には、それだ
けの人馬や羊が集まれる場所があるのです。そのため、成吉思汗
の即位の場所はここではないかと考えたのです。
 源義経=成吉思汗説をとる人は、非常によく現地踏査を重ねて
います。それに対して反対派の学者は、史書ばかりを重んじ、現
地を調べようともしていないのです。  ・・・・[義経=20]


≪画像および関連情報≫
 ・成吉思汗の即位の場所はどちらか
  ドーソンの『蒙古史』によると、「興安嶺上に麾下に従う各
  種族を呼び集め」とあるが、この場所に合うのは、成吉思汗
  駅の周辺の方である。

1650号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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