を命じています。成吉思汗はこの千人長を非常に重視しており、
任命するさいには、さまざまな情報を集めて慎重に選任したとい
われています。
もし、成吉思汗が源義経であるとすると、任命された千人長の
中には、日本人やアイヌ人の武将もいたと考えられるのです。大
陸に渡った義経の軍勢には、藤原忠衡、大河兼任率いる軍勢にア
イヌの軍勢も加わっていたからです。
それらの千人長の集落は、現在のロシア、モンゴル、中国など
に点在していたはずです。これらの集落には、すべてがそうであ
るとは限りませんが、千人長である各武将の名前や出身地などの
名称がつけられるケースは少なくないと思われます。
かつての北海道の開拓地にも、仙台藩がくれば伊達とか白石と
いう名前がつけられていますし、鳥取とか広島という地名もある
のです。このように、出身地の名前やとくに意味のある名称がつ
けられる可能性は高いといえます。
現在の中国・黒龍江省の北西部に「チチハル」という都市があ
ります。そのチチハルの北西部に「成吉思汗」という名前の駅が
あるのです。これは、ロシアが東支鉄道を建設したとき、もとも
とあった名前をそのまま駅名にしたというのです。しかし、駅名
の由来などについては、中国の文献にはないそうです。
小谷部氏は「成吉思汗」という名前がついているので、何かあ
るはずだと考えて、実際に現地を訪問しています。ロシアの案内
地図には城址があると書いてあったからです。
しかし、現地の住民たちは「成吉思汗」という名前は一切知ら
なかったというのです。城址について尋ねると「クローの城であ
る」と答えているのです。小谷部氏はこれは「九郎判官の城」、
すなわち、義経の城ではないかと考えたのです。
小谷部氏はこのことを本に次のように書いています。あえて原
文をご紹介します。
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此地の住人に成吉思汗と云うも、更に之を知る者なく、其れは
此処の地名なりと答う。此土地の古城址拠りたる者の武将の名
を、何というやと、土地の長老に訊うに、クローなりと言う。
余之を聞き、愕然として驚き、而して又た成吉思汗の都址探検
の徒爾ならざりしを心に感謝せり。
――小谷部全一郎著、『成吉思汗は源義経也』
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これに対して歴史学者の中島理一郎氏は、「小谷部氏の愚を憐
まない訳にはいかない」と前置きしたうえで、小谷部氏の聞いた
という「クロー」は部族の長を意味する「グルハン」のなまりに
過ぎないことを強調し、次のように述べています。
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小谷部氏が名も無い一酋長の遺跡の上に立って、その辺を成吉
思汗の都址と思っていたなどとは、とても他には見られない図
である。『余之を聞き、愕然として驚き、而して』その後につ
ぐべき言葉を知らぬ。
――中島利一郎
――森村宗冬著、『義経伝説と日本人』
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この反論を読んでどのように考えられるでしょうか。頭から相
手を馬鹿にし、加えて小谷部氏の著作のことばである『余之を聞
き、愕然として驚き、而して』と使って反論を結んでいる点は相
手に対して失礼であると考えます。彼はこれ以外にも小谷部氏に
対し、児戯に等しい妄説、珍説、粗忽屋などの言葉を使い、小谷
部氏を罵倒しているのです。
なぜ、源義経=成吉思汗説になると、歴史学者はかくも熱くな
り、圧力をかけようとするのでしょうか。事実はひとつしかない
のです。中島氏もこのようにアタマから否定せず、小谷部氏のよ
うに実際に現地に行って事実を確かめる――この姿勢が必要であ
ると考えます。
「源義経=成吉思汗」がウソだというのであれば、それがウソ
であるという証拠を示すべきです。状況証拠を含む証拠を何も示
さず、史書をあくまでも正しいとして、源義経=成吉思汗説をア
タマから否定して、そういう説を唱える者を社会的に抹殺するの
は間違いです。逆に状況証拠を数多く示しているのは、「源義経
=成吉思汗」肯定説の方であると思います。
ところで「グルハン=酋長」説に関してはこういう意見もあり
ます。「グルハン」を地元民が発音すると「グラン」と聞こえる
というのです。「グラン」と「クロー」を聞き間違えることはな
いというわけです。
問題は、それではどうしてこの地に「成吉思汗」という名前が
残っているかです。
小谷部氏は、実際に成吉思汗駅周辺を訪れてみたことにより、
成吉思汗が成吉思汗に即位したのは、『元朝秘史』にあるように
「オノン河の源」ではなく、この成吉思汗駅のあたりではなかっ
たかという説を出しています。
オノン河の源というのはハタ山の山頂に当たるのです。即位の
さい、成吉思汗は95人の千人長を任命していますが、その何倍
かの人間がそのときその場所に集結したことを意味します。山頂
にそれだけの人が集まれるとは思えないし、当然馬や食料の羊を
伴って行くことになるので、困難を極めるはずです。
狼が襲ってくる危険もあるし、雨が降って雷が鳴ったとすると
馬や羊は一斉に林の中に逃げ出して探しようがなくなる――とこ
ろが、成吉思汗駅の周辺、とくにクローの城址付近には、それだ
けの人馬や羊が集まれる場所があるのです。そのため、成吉思汗
の即位の場所はここではないかと考えたのです。
源義経=成吉思汗説をとる人は、非常によく現地踏査を重ねて
います。それに対して反対派の学者は、史書ばかりを重んじ、現
地を調べようともしていないのです。 ・・・・[義経=20]
≪画像および関連情報≫
・成吉思汗の即位の場所はどちらか
ドーソンの『蒙古史』
種族を呼び集め」とあるが、この場所に合うのは、成吉思汗
駅の周辺の方である。
