2005年08月05日

コオンゴアとムカリの正体に迫る(EJ1649号)

 コオンゴアの話です。コオンゴアはテムジンの命の恩人です。
ムカリはそのコオンゴアの第3子です。この事実から何かを連想
しないでしょうか。
 そうです。奥州の藤原氏です。源義経の命の恩人といえば、藤
原秀衡しかいないと思うのです。鞍馬山に押し込められていた遮
那王――義経の亡命を受け入れ、父代わりに育てたのは秀衡その
人であったからです。
 そして、義経が頼朝に追われ、奥州に逃げ込んできたとき、そ
れを温かく迎え入れたのも秀衡なのです。もちろん、戦国時代の
ことですから、単なる親切心だけではなく、秀衡なりの緻密な計
算があってのことですが、義経から見れば、秀衡は命の恩人その
ものといえます。
 義経主従が平泉に到着したとき、秀衡は義経を丁重に出迎えて
いるのですが、そのときの模様を『義経記』を基にして描くと次
のようになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「このように零落したわが身を、かくまで丁重にお出迎えいた
 だき、御礼の言葉もございません」。このように義経がいうと
 秀衡は次のように答えている。
 「なんの、なんの。わしは判官殿を主君とも息子とも思ってお
 ります。この秀衡の目の黒いうちは、判官殿に指一本触れさせ
 るものではありません」        ――『義経記』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この時点において、秀衡は平氏を滅ぼした源氏が京都に上がっ
て朝廷に戦勝報告をし、しかるべき官位を得て政治を動かしてい
くに違いないと見ていたのです。つまり、源氏は平氏にとって代
わり、平氏と同じようなことをやると考えていたのです。
 そうであればあわてることはないと秀衡は考えたのです。豊富
な経済力にものをいわせて、朝廷と公家をコントロールして、奥
州の主張を遠隔操作すればよい――それは平氏のときに秀衡自身
がやってきており、成功させてきているからです。
 しかし、その時点で秀衡は頼朝の本心が読めなかったのです。
頼朝は平家を倒しても一向に京都に上る気配を見せず、最初に手
をつけたことは、守護・地頭の全国への配備だったのです。そし
て、義経追討と称して各地で司法警察権と兵糧米の徴収権を行使
したのです。それでいて、本気で義経を捕まえようとしない――
何かおかしいと秀衡は考えたのです。
 つまり、頼朝は武士の支配する新しい世の中を作ろうとしてい
たのです。これに秀衡は気がつかなかったのです。これは知略家
である秀衡としては、千慮の一失というべきでしょう。
 しかし、その時点で頼朝の勢力は東国から北陸の一部ぐらいま
でしか、確かなものになっていなかったのです。そういうときに
義経が尾羽打ち枯らして飛び込んできたのです。
 頼朝の意図を理解した秀衡は、遅まきながら朝廷と連携して頼
朝の勢力が畿内・西国に伸びるのを防ぎ、鎌倉幕府内部にも手を
突っ込むことを考えていたと思われるのです。そのために、名将
義経は使える――秀衡はそう考えていたからこそ、義経を迎え入
れたのです。
 しかし、その肝心の秀衡が不治の病いにかかってしまったので
す。「もはやこれまで」と考えた秀衡は、かねてから、金の運搬
ルートとして確保してあった北方ルートを義経と泰衡に教え、一
族の一部を義経とともに平泉から落ちのびさせ、時期を伺う作戦
に切り換えたのではないかと思われます。
 おそらく当時未開の地であった蝦夷地まで落ちのびることがで
きれば何とかなる――そう考えていたと思います。いくら秀衡で
も、義経一行が大陸に渡って成吉思汗になるとまでは考えていな
かったはずです。
 さて、その秀衡には、長男の国衡、次男の泰衡、三男の忠衡と
いう3人の子供がいるのです。なぜ、泰衡に家督を継がせたかと
いうと、国衡は側室の子であることと、国衡は義経とそりが合わ
なかったからではないかと思います。
 しかし、泰衡は間違いなく父の言いつけを守ると秀衡は信じて
家督を継がせ、すべての計画を義経と泰衡に伝えて、それを忠実
に実行させたのです。
 このように考えると、コオンゴアは秀衡ではないかと思われる
のです。もし、コオンゴアを秀衡と考えると、その第3子は忠衡
ということになります。つまり、ムカリは藤原忠衡ということに
なります。「朕はムカリのお陰で帝位につくことができた」とい
う言葉の意味は、ムカリ=藤原忠衡と考えると、理解できると思
います。
 既に述べているように、忠衡は約100騎を従えて義経につい
て海を渡っていると思われる記録が残っています。そして、義経
一行が落ちのびるまでの時間稼ぎをかねてからの計画にしたがっ
て泰衡は忠実に果たしたのです。
 既に述べたように、藤原家の子孫が、郎従河田次郎に殺され、
頼朝によってさらし首にされた泰衡の首級を忠衡の首と偽って首
桶に収め、平泉金色堂に安置されている秀衡の棺の近くに置いた
のは、父の言いつけを守って立派にその務めを果たした泰衡をね
ぎらってのことと思われます。そして、この藤原家の秘密は、実
に800年以上もの間、守りぬかれたのです。
 国王となったムカリは、金を攻略している最中の1223年に
54歳で亡くなっています。一方、成吉思汗はその4年後の12
27年に66歳で死亡しているのです。そうすると、ムカリが亡
くなったとき成吉思汗は62歳であり、ムカリは成吉思汗よりも
8歳年下ということになります。ところが、これは義経と忠衡の
年齢差と一致するのです。これは、驚くべきことです。
 実はオナン河のクリルタイでムカリとともに1万戸をまかされ
たボオルチェも義経と共に大陸に渡った日本の武将という説もあ
るのですが、こちらは例証に乏しく、追求が困難であるので、あ
きらめることにします。      ・・・・・・・[義経19]

≪画像および関連情報≫
 ・作家・高橋克彦氏のインタビューより
  泰衡という人物が、これまで言われるように凡庸ではなかっ
  たと思われるようになったのは、義経北行伝説からです。こ
  の北行伝説にリアリティが出ると、はっきりしてくるのは、
  泰衡が義経を殺していないという事実なのです。そうなると
  殺していない義経のために、なぜ泰衡は殺したような言動を
  したかが問題となってくるのです。――『歴史読本/奥州藤
           原氏と源平争乱』1994年3月号より

1649号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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